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森田理論の「純な心」というのは、直感というものをすごく大事にする。直感の反対は「かくあるべし」である。森田理論では「かくあるべし」を前面に押し出しで生活をしていると、事実と理想のギャップに苦しみ、神経症の発症の原因になると言っている。ですから、生き方としては、 「かくあるべし」をできるだけ小さくして、直観を重視した事実本位、物事本位の生活態度の養成が重要となる。直感というものを粗末に扱っていると最初の直感はどんどん感度が薄まっていく。そういう性質がある。それは、風呂で最初に湯船に入る時、とても熱く感じることがある。そこのところを少し我慢して湯船に入ると次第に体が順応して熱さを感じなくなるものだ。それどころか、最初熱いと思っていたのに、次第に適温よりは冷たく感じることさえある。お湯を足さないととても寒くて湯船から出られなくなることもある。またプールに入る時、最初はとても水が冷たく感じることがある。ところが、我慢して入り、しばらく水泳を続けていると、あんなに冷たく感じていた水がとても心地よく感じられる。これらは身体の方が環境に順応してきた結果です。体のほうが自然に変化に対応してきたのである。それではここで、最初に感じた熱さや冷たさはどうなったのであろうか。身体が環境に順応したした結果、最初の直感は忘却の彼方へと忘れ去られてしまったのである。変化に対応してきたという面ではよいのであるが、直感をスルーしてきたというのは問題ではないだろうか。こうしたケースでは問題にならないかもしれないが、森田理論を学習してきたものからすると、直観を無視するということは大変問題であると思う。こんな話がある。カエルが鍋の中に飛び込み、次第に水が暖かくなり、温泉気分を満喫しているうちに、知らぬ間に茹で上がって、命を落としてしまったというのである。カエルは、鍋の水がが温まってきて、ちょっと熱いなと感じた瞬間はあったはずである。その感じを重視して鍋から飛び出せば助かったはずだ。ところが、その直観という感情を無視した。直感を無視して、惰性に流されてしまった結果、自分の命を落としてしまうという最悪の結果を招いてしまったのである。直観を無視すると神経症に陥ってしまうこともあるというのが森田の立場である。森田先生はことさらこの直感を大事にされている。例えばこんな話がある。酒について言えば、自分が酒が好きか嫌いかという感じから出発するとよい。酒が嫌いな人は、人に酒をすすめるとき、 「どうしてこんなものが飲めるのだろう」と言う気持ちでつぐと、無理がいかないで、酒好きもうまく飲まれる。 「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いと言う事を離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ、追いかけ酒をつぐので、酒好きもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりということができる。 (森田正馬全集第5巻696頁より引用)確かに自分は飲まないで、次から次へつごうとする人は親切の押し売りをしているようにも見えてしまう。直感を軽視する人は、一般的には観念で考えたこと重視する人である。観念で考えた事は、事実、現実、実態からかけ離れてギャップを生じる。これが神経症に陥る原因となるのである。それを回避するためには、最初に感じた感情、第一に感じた感情、直感を宝物のように取り扱うようになるとよい。直観を宝物として丁寧に取り扱い、いつもそこから出発することである。「純な心」というと大変難しい事のように感じるが、 「かくあるべし」を少なくして、最初に感じた感情を重視する生活態度を身につけるということである。我々人間は「かくあるべし」を全くなくすることはできない。しかし立ち止まって振り返ってみることができる。つまり人間は失敗に学んで反省できる動物なのである。そういうことができる能力を身につけることが森田理論学習によって可能となるのである。
2017.02.16
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以前テレビで、聾唖者同士の夫婦のドキュメントをやっていた。まったく耳が聞こえない。それで手話を一生懸命勉強している。聾唖学校に入り、そこで知り合った可愛い女性が奥さんだ。奥さんも手話でしか話せない。「どうして自分はこんなに不幸なの?どうしてこんなに酷い目にあわなきゃいけないの? 」と、やはり、散々悩んだと奥さんは言う。 「でも、それでも、人は生きていけるんだ」とも言われる。その夫婦に待望の女の子が生まれたときに、アナウンサーが、 「この子は耳が聞こえるかどうか、気にならなかったですか」と言うような質問をした。赤ちゃんの面倒は二人で見ているのだが、泣き声自体を聞いてミルクを飲ませたり、オシメを取り替えてやったりすることはできない。赤ちゃんが泣くと、その音をとらえてピカピカ光る装置があり、それを見て世話をするのだ。そこまで不自由しながら、立派に自分の子供を育てている。先のアナウンサーの質問に対して、私は、この夫婦は「耳が聞こえる子が生まれて、とても嬉しい」と答えると思っていた。ところが、ご主人は、 「聞こえなければ聞こえなくてもいい、健康であればそれでいいと思った。もちろん、聞こえたら聞こえたで良いことだし、聞こえなければ聞こえないで、それもまた良いことだ」と淡々と答えていたのである。(不安な心と上手に付き合う本 大原健士郎 、 PHP 188ページより引用)この聾唖者の夫婦は自分たちの過酷な運命に対して愚痴を言ったり、投げやりになってしまうという態度が見られない。一般の人から見ると世をはかなんでしまいかねない過酷な運命である。でもこの人たちは、自分の運命を呪うことがなく、耳が聞こえないという事実を素直に受け入れている。そこにしっかりと足をついて、自分たちの出来る事に精一杯取り組んでいこうとしている。神経症で苦しんでいるような人は、人から自分の容姿の弱点、欠点を他人から指摘されると、それを真に受けてしまって、人前に出ること躊躇してしまう。例えば、背が低い、太っている、ハゲている、ホクロがある、ダサい、根暗であるなどと言われると、立ち直れないほどの心の痛手を受けてしまう。また、そのことが予期不安となり、憂鬱な気分になり、イライラしてくる。次第に目の前の勉強や仕事に取り組むことができなくなり、逃避的生活に甘んじてしまう。また、そういう人は、他人が自分をどう取り扱ったのかという事はとても神経が過敏であるが、自分は他人をいかに傷つけているかということについては、とても鈍感になってくる。それは注意や意識が常に内向的になっており、自己中心に偏っているからである。そのことで、ますます人間関係がぎくしゃくしてしまう。自己保身が強くなってくると、他人を受容し、共感するという思いやりの心は、ほとんど湧いてこないという点を自覚する必要がある。さらに、他人の言動に一喜一憂している人は、 「かくあるべし」の強い人でもある。他人の思惑が常に気になるという傾向と完全主義、完璧主義が結び付くと目の前の仕事や勉強などには手も足も出なくなってしまう。こういう人こそ、森田理論学習をしてほしいものだ。森田理論では自分の神経質性格、容姿、弱点や欠点、ミスや失敗などについて、自分自身を非難したり否定することは戒めている。そもそも神経質性格は、マイナス面だけではなく、外交的な性格の人にはないプラスの面が多い。この世は自己内省力のある神経質性格の人がいないと、リスク管理が脆弱になり、うまく回らなくなる。容易に将来を見誤って、取り返しのつかない事態に追い込まれないとも限らないのである。また、容姿が見劣りすることが必ずしも悪いとは言えない。一見非の打ちどころのないイケメンや美人の人が、それゆえに過酷な運命に翻弄されて人生につまずいている例はたくさん見てきた。容姿が見劣りするために自分の想いが実現できないと思っているが、却って無謀な行動の抑止力となっていることを忘れてはならない。また、有頂天になることもなく、他人の痛みも思いやることができるのである。弱点や欠点は一面的に見て、劣等感に苦しむのではなく、そのものが持っている逆の面からも見て、正当に評価することが大切である。ミスや失敗については、その経験を数多く持てば持つほど、次の展開が有利になることがある。それはミスや失敗を自分を否定したり批判したりするのではなく、問題解決や目標達成のための貴重な教訓として活用することが大切となる。ミスや失敗のない状態での成功や目標達成は、将来思わぬ落とし穴が待っている場合が多い。以上述べてきたことは、事実、現実、実態がいかに自分の考えていることとかけ離れていようとも、そこにしっかりと足をつき、そこを土台として生きていくことである。そういうことができるようになるということは、森田理論学習によって1つの能力を獲得したことになる。「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生活態度を身に付けたことになる。人生を意味のあるものとして、あるいは味わいのある人生を送るためには、この能力を獲得することが、きわめて重要であると考えます。
2017.02.15
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平成29年1月23日のプロフェッショナルは「色彩復元絵師」の荒木かおりさんだった。現在は京都の清水寺の400年前の獅子の彫刻の絵付けの復元に挑んでおられる。最初は表面の顔料をはがし、下地の色を見つけることから始められていた。でも、詳しいことは分からない。次は大学の研究室と組んで科学調査を行っておられた。顕微鏡で拡大して、下地の色を調べるのである。さらに蛍光エックス線装置で詳しく調べていた。この検査でかなり詳しいことがわかる。その結果、赤、青、黄が複雑に組み合わさており、混迷を極めているばかりで、見通しが立たないでいた。なかなか打開策が見つからない。壁にぶち当たり、獅子の復元は暗礁に乗り上げたかのように思えた。そんなとき、幕府お抱えの狩野派の絵師が二条城、清水寺、岩清水八幡宮、高野山金剛峰寺の絵画や装飾を手がけていたことがわかった。狩野派の絵師は1626年に二条城、 1631年清水寺、 1634年岩清水八幡宮、 1641年高野山金剛峰寺の仕事に携わっていたのである。 一連の流れの中で清水寺の獅子の彫刻の絵付けをしていたのである。荒木さんは、視点を変えて二条城、岩清水八幡宮、高野山金剛峰寺を調べ上げた。そこにヒントがあるとみたのである。その中でも荒木さんが注目したのは、高野山金剛峰寺の獅子の絵画だった。そこに描かれた獅子の姿は、今修復を手がけている清水寺の獅子に姿形がそっくりだった。ここの獅子は色彩が鮮やかに今に残っていた。荒木さんはピンときたようである。今まで自分が調査して掴んでいた事と不明な点が、高野山金剛峰寺にあった獅子の絵画と重なりあったのであった。清水寺は幕府お抱えの絵師狩野派が二条城を始め、有名な神社仏閣の絵画の制作の一環で取り組んだものであるということが分かったのである。事実をつかむということは、目の前にあるそのものだけを見ていても分からないことがある。でもその周囲に、真実の事実を見極めるヒントが隠されていたのである。目の付け所が違うようだ。この話は森田理論学習において大変参考になる話である。森田理論は事実本位の生き方を大変重視している。そのためには事実をよく観察して真実をつかむことが大変重要になる。一般的に、私たちは事実をよく観察するということが不十分である。事実を見ても、見れども見えずというケースはよくある。また先入観や決めつけによってすぐに事実を類推してしまう。その結果、事実とは全く違ったもの事実と誤認してしまう。森田先生は事実をつかむにあたって自ら足を運んで自分の目で確かめることを心がけておられた。事実をつかむには自ら現地に赴き、自分の目で見る。自分の耳で聞く。自分の鼻で匂う。自分の舌で味わう。自分の手で触ってみる。私たちは五感を働かさないで、ちょっと見ただけで全体を類推し、勝手に判断してしまう。それは事実を見たことにはならないのだが事実を間違いないと決めつけてしまうのは大変問題である。荒木かおりさんは400年前の狩野派の絵師が、異論を挟まないだけの忠実な復元に精魂を傾けておられた。事実に基づかない、復元は、製作者の意図に反することであり全く意味がないと言われていた。これは森田理論学習をして事実本位に生きていこうとする我々こそ見習わなければならないことである。その態度が「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きていく原点になると思われる。
2017.02.09
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玄侑宗久さんの人の話をよく聴くというお話です。他人の話を聴くとき、すぐに言い返したり、話し終わる前に「分かった」と言ってみたりすることはありませんか。あるいは「要するに」「まとめると」「結論を言いなさい」「何を言いたいんだ」「君の言いたいことはこうゆうことなんだろう」「時間がないんだ」「君の話を聞いているといつもイライラする」などということはありませんか。これはもう聴きません、聴きたくありませんというメッセージを発信しているのです。「誰々さんも同じことを言っていた」「そんなことみんな知ってるよ」「いつも同じことをいうのね」こんなことを言われると、相手は急に話す気持ちがなくなります。あと無視するというのもそうですね。こうした態度では、人は寂しさとか、怒りさえ感じるようになります。すると人はだんだん予防するようになる。「結局」とか、「どうせ」とか、「やっぱり」とかいう言葉を頻繁に使うようになります。何事も 言うべきことは なかりけり 問わで答うる松風の音松風の音を聞くようなつもりで、とにかく素直に聴いてみることが大事です。その際大切なことがあります。玄侑さんいわく。別に自分のヴィジョンを捨てることはないですよ。ただ、それは保留して、一旦相手の認識に沿ってみてみる。自分の気持ち、意志はしっかりと持っていて構わない。むしろ持っていなければならないということだと思います。他人の思惑ばかり考えている人には耳の痛い言葉です。また、相手の話を聴くときは、五臓六腑すべてが相手の話に耳を傾けている。顔を背けたり、姿勢が横を向いたりしていては、本当に相手の話を聴いているということにはならない。心しておきたい言葉です。私は集談会に参加した時に他の参加者がしゃべられたことはメモしています。以前やっていたことで効果があったことがあります。それは参加者を「あいうえお」順にインデックスをつけて該当のところにあらかじめ名前を書いておくのです。これをすると重複する発言は記入しなくてよくなります。また新しい発言内容などはどんどん蓄積されてきます。だからある程度のスペースをとっておく必要があります。これだけで相手のことがより深く分かるようになります。それを家に帰ってから、気になったことことなどを整理して、次回の集談会での対応を考えてみるのです。あるいはもっとこんなことを聴いてみたい内容を整理してみるのです。普通は見逃してしまうような小さなことを関心を持っていてくれるということは、相手にとっても大変うれしいものだと思うのです。相手の話をよく聴くというのは、奥が深いことなのです。それから自己紹介で相手の話をよく聴こうと思うと、自分の番なったら何を話そうかと考えていると、相手の話は上の空になってしまいます。私は初心者が一人でもいるときは、その人に対して自分が神経症でどん底の状態であった時のことを話します。それはあらかじめ原稿にして用意しています。それを説明するだけです。初心者がいないときは、そういう話はしません。主としてこの1カ月の間に、森田理論を生活の中に活かしたことや生活の中での最近困っている話などをします。これは、集談会の当日の午前中に日記を見て話す内容を整理しています。これを怠るとソワソワして、他の参加者の話を真剣に聴こうという気にならないような気がします。
2017.01.31
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森田理論では治り方に3種類あるという。1、 症状に振り回されながらも普通の生活ができるようになること。2、 「かくあるべし」という考え方が少なくなり、「かくある」という事実に基づいて生活できるようになること。3、 事実や出来事を是非善悪で価値判断しなくなり、あるがままに受け入れていくようになること。3番目は難しい事ですが良寛さんは次のように言われています。(良寛全詩集266ページより)人はえてして、自分に似た考えのものは、間違っているのも正しいとし、自分と異なる考えのものは、正しくとも間違いだとする。正しいか正しくないかの判断を、はじめから自分の中に置いているが、仏道とはそのようなものではない。自分の考えだけで仏道を理解しようとするのは、船の竿で深い海の底を測るようなもので、ただその場かぎりの愚かなことだと思うのだ。(草堂集88ページより)そもそも人々がこの世にいる様子は、ちょうど草木の長さがふぞろいのようなものである。それぞれ一方的な見方に執着し、よいとかよくないとどこへ行っても議論している。自分の見方に似ているのは、よくなくても正しいとし、自分の見方と違うものは、よくても正しくないときめつける。ただ、自分のよいとし正しいとする点を、他の人はよくないとしていることにどうして気づかないのだろうか。よいとかよくないという判断は、はじめから自分自身においているが、真理の道はもともとそのようなものではない。(良寛全詩集181ページより)人はそれぞれ、その場だけの自分の考えにこだわり、どこへ行っても互いに正しいとか正しくないときめつける。正しいのは自分の立場から正しいと判断するだけであり、正しくないのは自分が正しくないと判断することだけになっている。ただこのように、自分の主張だけを通してゆくと、どうして客観的な是非の基準というものが得られようか。
2017.01.05
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プロ野球の選手の契約更改がほぼ終わった。リーグ優勝を果たした広島カープもすべての契約更改が終わった。今年は一億円以上の選手が続々と誕生した。主力組はオフをどのように過ごしているのか。シーズン中に傷んだ体のケアをして、ゴルフや家族サービスをしてゆっくりと過ごすのかと思っていたがそうではないようだ。秋季キャンプが終わった今は自主トレ、筋トレを続けている。1月は気の合う仲間と合同自主トレが始まる。鈴木誠也選手は昨シーズンに続き、ソフトバンクの内川選手と自主トレーニングをするという。新井選手、石原選手、堂林選手などは鹿児島県で炎の中での護摩行をするという。のんびりしていると自分のポジションはいつ誰に奪われるか分からない。選手達はみんな熾烈なサバイバル競争の中で戦っている。有望な新人が毎年5人、6人と新加入してくる。外国人の補強もある。本人がいなくても替わりはいくらでもいる。見ている方はその方が楽しいのだが、選手にしてみるとたまったものではないようだ。先日テレビを見ていると体や技術を磨く以上に今年の反省とデーター分析に力を入れているという。特に主力組はそちらのほうが来期戦っていく上で重要になる。今年の他チームの試合はすべてビデオにとってある。今は編集も自在にできる。そういう映像編集の専門家もいる。他チームの一人の選手を集中してあらゆる角度から分析できる。これを活用してまず戦う相手を観察し尽くすのだそうだ。バッターの場合は他チームのピッチャーの分析を徹底的に行う。数多くのビデオをみて傾向やクセをつかむのである。どんな球種を投げるか。カウントごとにどんな球を投げるか。投球動作にクセはないか。コントロールはどうか。スピードはどうか、変化球の切れはどうか。ピンチに動揺する選手かどうか。牽制球にクセはないかどうか。バント処理はうまいか。投げた後の守備はどうか。次にはキャッチヤーのリードの傾向も徹底して分析する。キャッチヤーのリードに偏りはないか。カウントごとに傾向は現れていないか。バッテリーの呼吸は合っているか。これらを一人でやるのは心もとないという。これを何人かのコーチや選手が一緒になって気づいたことを出し合うのである。チーム一丸となって分析するのだ。今年の成績が良くてもその延長線上でよい成績が残せるほどプロは甘くない。相手も徹底的に分析してくるのだ。研究を怠れば、肝心なところでボロが出てしまう。バッターは3割打てれば一流と言われている。3回に1回か、4回に1回ヒットが打てればプロの世界で飯を食っていける。簡単にできそうだがプロはそんなに甘くない。ではどうするか。バッターとしてはストレートを予測して、ストレートが来た時に一発で仕留められるバッティング技術を向上させる。スライダーを予測したら、それも一発で仕留められる技術の向上。その上で少しでも戦いを有利に進めようと思えば、相手ピッチャーのクセを読み、相手の投球の傾向を読んで、少しでも自分を有利にして勝負の場に立つことである。次にピッチャーの場合はどうか。相手チームの1軍レベルの選手を徹底的に分析する必要がある。一人ひとりどんな特徴があるのか。初球から振ってくるバッターか、初球は見逃す傾向が強いバッターか。ピンチに燃えるバッターか。ホームランバッターかアベレージバッターか。バントはうまいかどうか。球種にヤマを張るバッターか。それともコースにヤマを張っているバッターか。ストレートに強いか、変化球に強いか。弱点は何か。低めが強い選手か、高めが強い選手か。これもコーチや何人かのピッチャーが集まって相手バッターを分析するのである。そこまでしても、3人の打者に対戦すれば1本のヒットを打たれる確率があるのがピッチャーという仕事である。ヒットは打たれても、次の打者と冷静に勝負できるかどうかが問われているのである。もし仮に、自分たちが相手の分析を怠り、相手が自分たちのことを丸裸にして分析していると勝負の前にすでに負けているようなものだ。少なくとも対等の状況ではない。筋力や技術の向上ももちろん大切である。でもそれだけではプロの選手とは言い難い。相手の傾向や弱点を把握して、迷いをふっ切って勝負に向かわないと明日の身分は保障されていないと思ったほうがよい。森田理論では事実を先入観や決めつけをしないで、よく観察することを勧めている。そういう意味では、プロ野球の世界で森田の考えが実践されているのである。天性の能力を持って力まかせの野球選手よりは、多少非力でも戦う相手をよく観察して、相手選手に対応できる能力のある人が、長らくプロ野球の世界で飯を食っていけるのかもしれない。
2016.12.31
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「純な心」の初一念とは、自分の身の回りに起きた出来事に対して、「シマッタ」「残念」「ショック」「悲しい」等と感じることである。あるいは他人の身の周りに起きた出来事に対して、「かわいそう」「心配だ」等と感じることである。自分や他人の目の前に起きた出来事に対して最初に湧き起ってくる感情である。これらに対しては、その気持ちを周りの人に、私メッセージとして公言してもよいと説明してきた。初二念に基づく言動は、自分自身に対しても、周りの人に対してもトラブルを発生させる。そういう時は、初一念を思い出して、そこを出発点にして行動するように説明してきた。それでは次のような感情の場合はどう考えたらよいのだろうか。月曜日の朝になって会社に行く気分にならない。会社に行っても仕事をするのが嫌で仕方がない。仕事をさぼりたい気持ちになった。あるいは学校に行って勉強する気にならない。食事を作ったり、掃除をしたりするのが面倒だ。これらは自然発生的に湧き起こってきた感情であり、初一念の感情のように思える。しかしこれは初一念ではないと思う。その証拠に、この気持ちをもとにした言動は、行動を停滞させて、自己嫌悪に陥ってしまう。どこが違うのだろうか。この点明らかにしておく必要があると思う。初一念は身の周りに起きた出来事や事実に基づいて発生する感情である。それに対して会社を休みたいなどというのは、出来事や事実に基づかないで、観念的にふと湧き起こった感情です。観念的な欲望や不安なのである。人間は元々生き生きと課題や目標に向かって挑戦してみたいという気持ちを持っている。しかし同時に、だれでも「休みたい、楽をしたい、人が見ていなければさぼりたい」という気持ちも持ち合わせている。つまり苦労をしないで、楽をして生活を楽しみたいと思っているのである。これらは気分本位、衝動的、本能的欲望のような気がする。幼児や衝動的欲望の制御機能が壊れてしまっている人が陥りやすい行動である。気分本位で衝動的な行動は、後で後悔し、他人には多大な迷惑をかけてしまう。森田では気分本位の行動を諫めている。この二つの感情は区別して考える必要があるのではないでしょうか。それでは、観念的な衝動や不安の感情をどう取り扱ったらよいのでしょうか。会社を休みたい、あの人とはうまが合わない、浴びるほど酒を飲みたい、腹いっぱい美味しいものを食べたい等という感情はどう扱ったらよいのでしょうか。これらは事実を見て感じた初一念と同じように取り扱ってはならないと思う。事実に基づかない気分本位の感情は精神拮抗作用を活用して調和を図ることが大切である。たとえば会社を休みたいと思ったとたんに、休んだら解雇されるかもしれない。給料をもらえなかったら家族の生活を守ることができない。このような反対の感情が対になって湧き起る。2つの気持ちがせめぎ合いをして、折り合いをつけていくのである。そうすることで適切な行動へと向かっていく。あの人とはうまが合わないと思っても、愛想笑いや挨拶ぐらいはしておこうという気持ちが湧き起ってくる。浴びるほど酒を飲みたい、腹いっぱい美味しいものを食べたいと思っても生活習慣病が気になり適度に調整するようになっている。つまり人間にはある感情が湧き起ってくると、必ずそれとは反対の感情が湧き起ってくるようになっている。この二つを対立させて調和を取っていくのが重要です。同じような感情に見えても、その中身は全く違っている。対処の仕方が変わってくるのである。森田理論では「純な心」の体得はとても大事であるが、事実に基づかない衝動的な欲望や気分本位の感情とを混同してはならないのである。
2016.11.26
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私たちは12月のクリスマスの頃にはイチゴがのったケーキを食べる。多くの人は、イチゴは年中いつでもできるものだと思っているのではなかろうか。実際は違う。普通の露地栽培のイチゴは4月の終わりから5月にかけてが旬の食べ物である。12月、本来イチゴができない時にイチゴが実をつけるためには、人間がイチゴの生育をコントロールしているのだ。イチゴが実をつけるためには日照時間が短く、寒い冬を経験することが必要である。そのために炎天下の夏にどんなことをしているのか。苗を高冷地に持って行って、さらに冷蔵庫のようものを使って冬を体験させている。当然日光を遮って育てている。さらに日照時間もコントロールしている。炎天下の真夏の時期に真冬を演出しているのである。その苗を秋になると平地に降ろして、ビニールハウスの中に入れて重油を焚いて、春さきのポカポカ陽気を作りだしている。日照時間が長くなったように操作するのである。そして時期外れの花芽の分化を進めるのである。さらに受粉のためにミツバチの箱を持ち込んでいる。このようにして12月の時期にイチゴが食用として出回っているのだ。自然の摂理を無視して、自然をコントロールすればこんなことは朝飯前なのである。これで一粒のイチゴが高値で取引されて、作っている人に十分な利益がもたらされ、消費者が喜んでくれれば万々歳ではないかという考えなのである。そう言えば夏野菜であるトマト、キュウリ、ナス、ピーマンなどはスーパーに行けば1年中出回っている。自然の摂理に従えば、冬の寒い時期に夏野菜のサラダは食卓に並ぶことは考えられない。これらも重油を焚いてビニールハウスのなかで育てられている。採算が合うという理由で許容されているのである。しかし食べられたとしても栄養はあるのだろうか。人間の身体のバイオリズムは合っているのだろうか。それどころか、夏の暑い最中にミカンを見かけることがある。温室みかんである。寒い最中にスイカを見かけることがある。温室スイカである。こうまでして季節外の野菜を食べる必要があるのだろうか。今や野菜の生理を知り尽くした人間は、野菜を意のままに作ることができるようになったのである。そして自然をコントロールし、自然を征服したかのような錯覚に陥っているのである。本来、冬期は白菜、大根、ニンジン、ゴボウ、レンコン、サトイモ、ネギ、水菜、ホウレンソウ、小松菜などの野菜が旬の野菜である。つまり鍋料理や煮物野菜に適した野菜たちが旬を迎えているのである。それが身体の生理作用にも合っているのだと思う。冬に冬野菜を食べると体が心から温まる。夏に夏野菜が体を冷やして暑苦しさが抑えられる。冬に夏野菜のサラダを食べてなんの身体のためになるのであろうか。今の時代は食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ食べることが優先されている。なんという人間のおごり高ぶった態度であることか。これは森田理論で考えるとゆゆしき問題である。なにしろ森田理論では自然現象は人間が思い通りにコントロールできるものではないといっているのだ。自然現象は受け入れて、自然に服従する生き方を提唱しているのだ。野菜作りの話は、まさに森田の考え方に反している。これらは人間が自然を自由自在に操ろうとしていることではないのだろうか。罪悪感や後ろめたさが一切湧いてこないというのは問題なのではないか。それらはやがて容易に精神世界にも及んでくる。不安や恐怖、違和感、不快感などを、人間はいつでもいくらでもコントロールできると勘違いするようになる。それらを簡単になくして、スッキリとできると思ってしまうのである。そういう誤った考え方が神経症を作りだす原因となっているのではないか。感情を含めた自然現象は、基本的には我々人間の自由は効かない。もっと謙虚になって自然現象を受け入れる。自然に服従して生きていくという気持ちにはなれないのであろうか。残念な気持ちでいっぱいだ。
2016.11.23
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犬が腹をみせて寝転がることがあります。骨格で覆われていない腹部やのどは動物にとっての弱点です。それなのに他の犬の前や飼い主の前で腹を上に向けて寝っ転がるというのはどういう意味があるのでしょうか。ネットで調べたところ、いろんなケースがあるようです。1、「背中がかゆい」、「暑い! 」、「リラックスしている」、「眠い」などという時に腹を見せることがあります。これらは他の犬や人間に対して何かメッセージを伝えようとしているわけではありません。リラックスした結果として自然と仰向けになっているようです。この場合、あまり意味はありません。2、「服従の腹見せ」とは、劣位にある犬が優位にある犬に対して「降参です!」という意思を伝え、怒りの矛先を納めてもらうときに見せる行動です。儀礼的な行動が発達しているオオカミにおいて特に顕著で、典型的な体勢は仰向けに横たわり、耳を平らにし、背中を丸め、尻尾を後ろ足の間に巻き込み、動きを止め、視線を避けるというものです。この場合は命の危険を回避するために、無条件降伏を選んでいるのです。これも生き延びていくための一つの道です。3、「防御的腹見せ」とは相手の攻撃をかわすために取る防御姿勢のことです。相手を油断させて、要領よく逃げようとしているのです。4、「攻撃的腹見せ」とは噛み付く直前に取る攻撃態勢のことです。相手を油断させて、隙を見て攻撃を仕掛けようとしているのです。5、「遊びの腹見せ」とは、遊びに興じている犬たちの間で観察されるそうです。リラックスして無心になって遊んでいる状態です。6、「誘発的腹見せ」とは「もっと遊ぼうよ!」と相手を誘うときに見せる行動のことです。7、「おねだりの腹見せ」とは人間との共同生活の中で学習した結果としての行動です。例えば、仰向けで眠っている時に飼い主がやってきておなかをなでてくれたとします。そのときの気持ち良い感覚と「腹見せ」という行動を結びつけて覚えた犬は、なでて欲しくなった時、自発的にお腹を見せるようになります。(ブログ「子犬の部屋」より引用)普通は犬が弱点をあからさまにするのは、服従の姿勢を相手に示して攻撃を受けないようにしているのだと言われています。ところが実際にはそうではない場合も多々あるようです。判断を誤ると、対処を間違えるというケースが出てくると思います。たとえば、服従の態度を示しているのに、近づけて無理矢理一緒に遊ばせようとすると、相手の犬に攻撃を仕掛けられて思わぬケガを負わせてしまうということにもなりかねません。ひとつに決めつけるのではなく、今現在の状況や犬の特徴を見て正しく判断することが大切になります。森田では決めつけるのはやめて、もっとよく観察をしなさいと言われます。事実を無視して先入観で決めつけてしまうということは、特に注意したいものです。
2016.10.30
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神経症から解放されようと思うならば、「物事を事実に即して具体的に話す」という態度が欠かせない。もし仮に「事実取り扱い主任者」という資格があるとすると、これは初級資格ともいえるものである。事実本位の生活はここから始まる。まずはここのところを物にして次に進みたいものである。三重野悌次郎さんは、1995年2月号の発見誌に次のように書かれている。これは簡単なようで結構難しい。われわれは自分の見聞きしたことを、あるがままに見て、あるがままに話していると信じている。だが事実は決してそうではない。たとえば「私はいつも失敗する」という人に、「では最近の失敗がいつ、どのようなことであったか」と聞くと、たいていすぐに思い出せない。事実は、何日か何ヶ月か前に一度仕事上の失敗があった。その前にもいつか失敗をしている。ということであって、その後は仕事の失敗も家庭の失敗もない。その日も車を運転して途中事故もなく、集談会に出席している。でも本人は「私はいつも失敗をする」と信じ込んでいて、そういうのである。これは、一例であるが、このようなことはよくある。一般に「いつも」とか、「みんな」とか、「絶対に」とか言う時は、ちょっと立ち止まって「果たしてそうか」と自問する必要がある。私の妻はこの「みんな」の名人であった。「みんなそう言っている」と言うのが口癖であった。そこでだれが言ったのかと聞くと、親戚の女の人が一人言っただけで、それに自分も賛成だと、それが「みんな言っている」ことになるのである。このようにわれわれは、自分では事実を話しているつもりでも結果的には、嘘を言っていることが多い。森田先生は、具体的に話すことをおりにふれ話している。たとえば電車道を横断する子どもに「注意せよ」とか、「気をつけよ」とか言わずに、「静かに歩み、決して走ってはならない」と具体的に指示した。子どもは「注意せよ」「気をつけよ」と言われても、なにを注意し気をつけたらよいかわからない。具体的に話すことは、われわれが常に心がけるべきことである。神経質者は一般に内省的、理知的なため抽象的な言葉を使いがちである。また自己防衛が強いために、赤裸々な自分を見られることを嫌がり、抽象的な言い方をする傾向がある。森田先生は、自分の「症状」を具体的に話せるようになれば、神経症はよくなると言っておられる。そのためには、まずは事実をよく観察する習慣をつけることが大切である。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。事実の観察の見本のような話ですね。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察していると違いが見えてくるということです。その特徴を話していけば、自然に具体的で生々しいものとして相手に伝わります。
2016.10.29
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五木寛之氏は社会的にみると約25年単位で躁の時代と鬱の時代が繰返されているという。つまり50年の中で鬱の時代が約25年、躁の時代が約25年あると言われる。これによると日本は太平洋戦争に負けるまではいけ行けドンドンの躁の時代だった。それまでは国威発揚の躁の時代だった。国民全体が浮足立っていた。ところが1945年日本は太平洋戦争に負けました。突然躁の時代が終わりを告げた。途端に国民総うつ状態になった。食うや食わずの生活に耐えて将来に希望を持って生きていくしかなかった。努力のかいがあって、1970年ごろから目覚ましい経済発展を遂げて躁の時代に転換した。毎年ベースアップはあるし、賞与もこんなにもらっていいのだろうかというぐらい出ていた。経済発展に酔いしれて、また国民総躁状態になった。その後バブルがはじけたのが1990年。またしても日本社会は鬱の時代に転換した。マンションを買ってもどんどん値下がりする。株式投資をすれば大損をする。この時代は失われた10年とも、20年とも言われる時代である。山一証券や北海道拓殖銀行も破綻していった。就職口がない。正規社員が減り、契約社員が増えて食いつないでいくのがやっとという時代になった。精神科は予約が取れないほど繁盛していた。資産デフレの時代はやることなすことが裏目に出る。その間約25年と仮定すると2015年が鬱の時代の底ということになる。これから2040年にかけては、右肩上がりの躁の時代に転換してくると言われる。はたしてどうなるか。ところで鬱の時代は重苦しい。すべての面で沈滞ムードになるが、そういう大きな時代の波の中に、日本人のすべての人が放りこまれているのである。一人だけ抜け出すということはほぼ不可能だ。その中でも、ネガティブで悲観的な考え方をとりやすい神経質性格を持っている人は、益々鬱病を発症しやすいということになる。こういう鬱の時代を我々はどういう心構えで生きていけばよいのだろうか。五木氏は「鬱の時代には、鬱で生きる」という主張をされている。つまり鬱の時代は苦しいからと言って逆らわない。鬱の波に乗って生きてゆけばよいと言われている。どっぷりと鬱の中に入り込んで、鬱を味わって生きていくということだ。そもそも鬱という字は、第一義には、「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」を言うらしい。ただ、エネルギーと生命力に溢れているにもかかわらず、時代閉塞の中でそのエネルギーと生命力が発揮できない状態にあるのだ。普通なんとなくモヤモヤしてくる、「気のふさぐこと」ことを鬱と言うがこれは第二義的な意味なんです。だから鬱になる人というのは、無気力な人はならない。鬱は森田でいう生の欲望の強い人がかかりやすいのだと言われている。特に完全主義、完璧主義、目標達成主義、コントロール欲求の強い人、「かくあるべし」の強い人は鬱にかかりやすい。森田理論では、そういう生き方は現実と理想のギャップに苦しみ神経症を発症する原因になると言っている。だから鬱の時代は、好むと好まざるにかかわらず、憂うつな気持ちを抱えたままに生活をするということが基本になる。それを払拭してスッキリしようと悪あがきをしてはならない。そういう時代を受け入れて、不安な時代を味わい、噛みしめながら生きていくということになる。日常の平凡な生活の中に小さな楽しみや喜びを見つけ出していくような生活が時代にマッチしているような気がする。そして肝心なことは、森田理論でいうところの事実本位・物事本位の生活を心がけることが鬱の時代の生き方になると思う。(鬱の力 五木寛之 香山リカ 幻冬舎新書 28ページ引用)
2016.10.22
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諸富祥彦氏は「人生を半分あきらめて生きる」(幻冬舎新書)という本の中で、「脱同一化」について説明されている。これは一言でいえば、自分を否定する気持ちをただそのまま、認めて、眺めるということだそうだ。この方法は、元々、仏教の瞑想法、特にベトナム禅のマインドフルネス瞑想から生まれたものだといわれている。自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれ、すべて「ただ、そのまま、認めて、眺める」姿勢を持ち続けることで、どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法です。たとえば、「こんな私じゃ、だめ」「こんな私は、嫌い」という思いが湧いてきたら、「そうなんだね。わかったよ」とただそのまま、認めて、眺める。そう言われて、「こんな嫌な自分のことを認めるなんて、できない」という気持ちが湧いてきたら、その気持ちも、「そうなんだね。わかったよ」と、ただそのまま認めて眺める。こうやって、どんな自分が出てきても、「ただそのまま、認めて、眺める」のをたびたびひたすら繰返していると、このような落ち込む気持ちと、それを眺めている自分とは別であること(脱同一化)、それを眺めている自分こそ自分であり、落ち込んだ気持ちはどれほど強烈であれ、それは自分のごく一部にすぎないことがジワーッと自覚されてきます。すると、自分の気持ちと自分自身の間に自ずと「距離」(空間・スペース)が生まれてくるのです。これは腹立ち、イライラ、不安、恐怖、違和感、不快感などの感情の対応法の一つとして考えられたものだと思う。そういうイヤな感情を客観的に見て、距離を置いて眺めるということでしょうか。森田理論ではそれらは自然現象である。自然現象は人間の意思の自由は効かない。自然現象はそのままに受け入れる。好むと好まざるにかかわらずそれしか対応方法はないといいます。そんなことをしたら、押しつぶされることになるのではないかという強烈な不安が襲ってきます。それに対しては、すべての自然現象には必ず流れと動きがある。じっと留まっていればそれらに押しつぶされてしまうでしょう。でも動きと流れがあれば、次第に薄まってゆき、無意識の領域に押しやられてしまう。そのことは、たとえば方丈記で鴨長明が見事に説明している。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」客観視するというのは観念では理解できますが、実行は難しいのではないでしょうか。不安や不快感などに対しては、やりくりだけはしないという強い意志を持って、時間が経過するのを待つ。というのがよいのかなと思います。その間やるべきことはいくらでもあるわけですから、不安や不快感を抱えたまま、それらに取り組んでいく。という森田理論はスッキリと納得ができるように思います。
2016.10.13
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広島カープのスカウトに苑田聡彦という人がいる。この方は黒田博樹、金本知憲、江藤智、大竹寛選手などを入団させている。苑田さんの選手の発掘方法が変わっている。数字はアテにならないことが多いという。「代表的なのは野手でよく話題にされる高校通算本塁打数。公式戦が行なわれるような規格の球場で強豪校としか練習試合をしなかった、桑田(真澄)&清原(和博)のKKコンビがいたころのPL学園ならまだ参考になったが、今は両翼70メートルしかないような狭いグラウンドで週に4~5試合もして、本数が増えているだけの選手もいる。」「今は監督同席じゃないと高校生と話すらできないが、昔は気軽に自宅を訪れることができた。そこでお母さんやお婆ちゃんと話せば、その選手がどんな性格かわかった。特にプロの世界で真面目に努力できるかどうか。不真面目だと周りにも悪影響が出る。それに大事なのは母と祖母の運動神経が良いかどうか。あくまで個人的な経験則だけれど、子供の運動能力は男系よりも女系の影響が強いように思う」苑田スカウトは他球団があまり注目はしていない、めだたない選手で、プロ入り後に大きく育ってくれる選手に焦点を絞って発掘をしていたのだ。発掘した選手が指名できて、さらに入団してくれて、思惑通り活躍してくれることはスカウト冥利に尽きる。その中で、男子の場合は父親の運動能力の有無に注目するのかと思いきや、母親、祖母の運動神経や性格を重視して調査しているというのに驚いた。我々とは目の付け所が違う。よく女の子は能力面等で父親、祖父に似る。男の子は母親、祖母の血を引くといわれることがある。特に野球選手の場合はその傾向が若干強いのだろうか。野球選手の場合は入団したころが一番力を発揮して、そこから伸びない選手もいる。片や、入団したときは並みの選手だったのにもかかわらず、努力でレギュラーの座をつかみ取り、40歳近くまで1軍に定着する選手もいる。そういう選手を見抜いていくスカウトは素晴らしい観察力を持っているのではないのと思う。カープは親会社を持たない唯一のプロ野球球団であり潤沢な資金を持たない。そのために大型新人で他球団と競合するような選手を獲得することができなかった。特に選手に逆指名権が与えられていたとき、ほしい選手はほとんど他球団にさらわれていた。また巨人等のようにフリーエージェントで大金をかけて獲得した選手は全くいない。それどころか、金本、新井、川口、江藤、大竹、黒田、前田等有名選手は慰留に失敗して放出せざるを得なかったのである。この傾向は今後も続いていくだろうと思う。黒田選手が15億円の大リーグのオファーを断ってカープに復帰したのはきわめて珍しい例外である。それだけに、高卒4年目でヒマワリのように大きく花開いた鈴木誠也選手のような選手を真の当たりすることはうれしいかぎりである。この投稿はNEUSポストセブン ネット記事引用しました。
2016.09.27
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腹を立てたり、怒りまくったりすることはよくある。嶋津良智さんは、イライラや怒りの芽を摘み取る7つの対応方法を提案されている。1、 価値観のメガネをかけかえる。2、 相手のよい部分に焦点を当てる3、 第一の感情を探す4、 相談相手に小さな不満を聞いてもらう5、 目の前の景色を変える6、 尊敬している人を演じる7、 魔法の呪文を持つこれを森田理論で考えてみた。1についてですが、「かくあるべし」的思考をしていると腹が立つことが多い。たとえば日本では電車やバスを待つときはきちんと並んでいる。ところが外国では並ばない。電車やバスが到着すると後ろの方から我先にと乗り込んで来る。電車やバスはきちんと並んで早い者から順番どおりに乗るべきであると考えているとすると当然腹が立つのである。現実を否定して理想に近づけるべきだと考えている限り、腹が立ったりイライラすることは次から次へといくらでも出てくる。森田理論学習で「かくあるべし」を少なくする方法を身につけることが役に立つと思う。3ですが、森田では「純な心」を思い出して、発言したり行動することを勧めている。「純な心」は分かりやすくいえば、第一に感じた感情、最初に感じたこと、直感等のことです。このことを初一念とも言っています。普通初一念に引き続いて、初二念、初三念が出てきます。それらは「かくあるべし」を含む感情です。基本的には無視することです。腹が立つことは、自分が相手にこうしてもらいたい、こうすべきであるという「かくあるべし」から解離しているから出てくるものです。「純な心」を生活に応用できるようになると、事実をあるがままに認めていくことができるようになりますので、腹が立ったりイライラすることは極端に少なくなってくるものと思われます。少なくとも相手や自分を責める言動は控えられるようになります。4番目ですが、小さな怒りも貯め込むと大きな怒りに膨れ上がってきます。ストレスは小分けにしてそのつど吐き出すのがよいようです。愚痴を聞いてくれる人がいると助かります。いない人は、一人で怒りを吐き出すのも効果があります。私の場合は日記に書いて発散しています。文章にしているうちに高ぶっていた怒りが落ち着いてくるのが不思議です。(起こらない技術2 嶋津良智 フォレスト出版参照)
2016.09.12
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森田理論学習をしていると「他人と比較をしてはならない」という話をよく聞く。もっともなような気もするが、私はこの意見には、半分は同調しているが、残り半分は反対している。というのは、比べてみないと今現在自分がどんな状態にあるのかはっきりとは分からない。そのよい例は海外旅行だ。日本人と外国人の生活の違いがとてもよく分かる。日本だけで生活していると、井の中の蛙状態で客観的に見ることができない。比べないから自分の今の状態が分からない。そうなると今の生活を見直したり、改善の糸口が見つからない。私はシンガポールとハワイに行ったことがある。シンガポールは1年中日本の夏の暑さが続く。街中はなんともいえない甘酸っぱい香水のにおいがした。四季はない。またチューインガムを道路に吐き捨てただけで逮捕されるという。だから街中はきれいだ。雑草が生えているところはない。水はマレーシアからすべて輸入している。食料もすべて輸入である。だから国としては金融、最先端科学技術、観光で成り立っている。国民所得はアジアでナンバーワンである。高層ビル群が林立している。家にはどこの家にもメイドがいる。家事、育児などはインドネシアから来たメイドが行っている。また食事は家で作るよりも屋台で食べたほうが安いそうである。日本とは違うことが多かった。ハワイはホノルルのあるオアフ島とマウイ島に行った。何かにつけてスケールの大きさと陽気な人々に驚いた。飛行機からパールハーバーが見えたときはどきっとした。マウイ島の海ではクジラが乱舞していた。ポリネシア文化センターでの火を使った踊りには驚いた。マウイ島のハレアカラ火山の山頂(3055M)までバスで一気に上ったのは肝を冷やした。潜水艦での海中探索は初めての経験だった。海はとてもきれいで熱帯魚が乱舞している。日本人では太っているといってもせいぜい100キロぐらいだが、ハワイの人の太り方は尋常ではない。力いっぱい太っているという感じだった。あくせく働いている人は少なく、生活を楽しんで暮らしている感じがした。これらは海外旅行をして始めて気がついたことだ。比較して自分を客観的に自覚することは将来につながることが多いと思う。ただ比較することは弊害もある。比較は一般的には、他人の長所や強みと自分の短所や弱みを比べている。そして劣等感に打ちひしがれて、自己嫌悪や自己否定をしている。あるいは他人の短所や弱みと自分の長所や強みを比較して優越感に浸っている。優越感に浸る人は、自己内省の得意な神経質者にはあまりいないのではなかろうか。比較することの弊害は、比較して違いが分かると、それがどちらがよいとか悪いとか優劣をつけて価値判断をすることだ。比較を欠点や弱点の発見のための手段として使っているのである。シビアな視点で価値評価をしているのである。それはやる気や意欲をなくして、自己否定につながる。森田理論を思い出してほしい。森田は徹底的に事実に柔順であろうとする。そのためには現地に行って自分で確かめる必要があるという。先入観で決めつけてしまうことを嫌う。そして相手に伝えるときはその事実を具体的に生々しく伝えることを基本とする。ここまでで止めておくと問題はない。その先いい悪い、正しい間違いという価値判断を下すことはご法度なのである。価値判断という物差しは、時代の変化によって、その時の状況によって容易に変化するものである。そんなあいまいなものさしで絶対的な価値の判定をすることはお勧めできないのである。結論を言うと、どんどん他人と比較して自分との違いを見つける。肝心なことは事実を事実として認めて受け入れることだ。よい悪いと価値判断をしてはならないのだ。そうすれば自己否定に陥ることなく、今現在の自分から出発して将来に明るい展望が描けるのではなかろうか。
2016.08.20
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浄土真宗大谷派の学者で安田理深氏がおられる。無位無官の在野の学徒に終始されたが、戦後来日したキリスト教神学者のティリッヒと対談し、ティリッヒを深く感銘させたことが知られている。その安田理深氏邸が、1973年4月隣家からのもらい火で全焼した。ご自分の蔵書、研究論文、ノートなどがすべて燃えてしまった。安田氏は隣人を恨みました。自分の大事なものを「焼かれた」と考えて、仕返しをしてやりたいと思ったそうです。だが彼は仏教徒です。仏教徒が復讐を考えるなんてよくない。隣家の人を赦そうと思いました。彼は、蔵書、研究論文、ノートは、自分で「焼いた」のだと思おうとしました。しかし、どんなにしても、そういうふうには思えません。あれは「焼かれた」のではなく、自分で「焼いた」のだ、といくら自分に言い聞かせても、それは事実とは違いますから無理があります。彼は悶々とした日々を送っていました。ところが、ある日、安田氏はふと思いました。あれは、ただ、「焼けた」のだ。「焼かれた」のでもなく「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」のだ。そう思うことで彼の心は鎮まってきたという。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 176ページより引用)このエピソードは森田理論と関係があります。「焼いた」というのは、自分の本当の気持ちを偽ってごまかそうとしています。そしてなんともやりきれない不快な感情をなくしたり軽減させようとしています。事実を無視して観念で心の平穏を得ようとしていますので、事態は一向に好転しないで、むしろ悪くなってしまいます。こう言うのは心理学では、合理化といいます。「焼かれた」というのは、他に責任を転嫁して、どう責任をとってくれるのだと相手を追い詰めるやり方です。この心理は蔵書、研究論文、ノートが焼けたのはもはやどうでもよい。それよりもどれだけ損害賠償を請求できるだろうか。できるだけふっかけて、なんなら弁護士を立ててひと財産を作ってやろう。等という風に展開してくる。森田理論では、これは「純な心」ではないといいます。「純な心」を思い出してみることを勧めています。「おしいことをした。残念だ」という初一念を思い出してみることです。その気持ちを味わってみることです。その次に隣人をうらめしく思う気持ちが出てきますが、それは初二念、初三念といわれるものですから、この際無視することです。ポイントは初一念を思い出して、初一念から出発することです。そうすると、焼けてしまった蔵書、研究論文、ノートに気持ちが向いていますから、どうすれば今後の研究に被害を最小限にとどめることができるだろうかと考えられるようになります。その過程で、自分の研究成果を振り返ってみることになり、もう一段階高いステップに昇れることだってあり得ます。「焼けた」というのは事実そのものを見て、それが悪いとかいいとかの価値判断をしない。事実を受け入れ、事実に素直に従うというものです。その事実は心に大きな痛手を与えていますが、時間が経てば少しずつ薄まっていくものです。何よりも心の葛藤がなくなりますので一番安楽な道を歩んでいることになります。
2016.08.04
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事実について玉野井幹雄さんの話です。昔武士が茶会に招待されたとき、茶室に入るのに刀を持っていては失礼になると思い、刀を持たずに入ったところ、師匠から「武士たるものが刀を肌身から放すとはなにごとか」といって叱られたそうです。そこで次に参加する時には、刀を持って入ったところ、同じ師匠から今度は「茶室に刀を持って入るとはなにごとか」といって叱られたというのです。もし普通の人は、このように以前と違う対応をとられると混乱をきたし、動揺すると思います。また首尾一貫しないその場、その場の対応に対して腹立たしく思うでしょう。その師匠の品格を疑うと思います。その武士は、何の言い訳もせずに、師匠のいうとおりにしたということです。この武士は過去の言動に関係づけないで、目の前の事実に従ったということです。玉野井さん曰く。師匠の過去の言動は過去の事実であって、現在の事実ではありません。森田先生の事実に従えというのは今現在の事実に従えということです。過去の事実よりも現在の事実に焦点を当てているのです。(いかにして神経症を克服するか 自費出版 玉野井幹雄 238ページより引用)森田の「事実唯真」から見ると、まさに素晴らしい対応であると思います。銀河系宇宙を見ても、惑星はたえず猛スピードで動き回っています。その変化を止めるということは存在そのものが崩壊してしまうということです。ですから私たちのできることは、その時の変化に合わせて、変化に対応していくだけということになります。この話は、私たちがつい口に出している「事実に素直に従う」という態度の養成は、よほど真剣に取り組まないと自分のものにはならないということだと思います。目の前に現れた事実は、どんなに理不尽で受け入れがたい物であっても、基本的には従わざるを得ないのです。とかく私たちはその事実がよいとか悪いとか、正しいとか間違いであるとか評価をします。是非善悪の価値評価は自分を苦しめる側面を持っているということは、十分に認識しておく必要があると思います。朝令暮改という言葉があります。相続税の法律や道路交通法等の法律は、今まで通用していた法律などが変更されて、全く異質のものに作り替えられます。この場合基本的には是非善悪の価値評価をするのではなく、現在の法律に従うということだと思います。節税のために、私は昔の相続税法に従って申告納付をしたいといっても、そんな主張を聞いてくれる税務署はありません。心理学にダブルバインドという言葉があります。たとえば母親が小さな子どもに、「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」といいました。ところが少し経ってから「うっとうしいからお母さんにベタベタ付きまとわないで」と反対のようなことをいうことです。一事が万事、こういうふうに大人から育てられると、子どもはどちらの言葉を信じてよいかわからなくなるからダメだという考え方です。ところがこれは、交通量の激しい道路では「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」というのは当然の事です。公園等で遊んでいる時は、「ベタベタ付きまとわないで自由に遊んでみなさいよ」と言うことも理解できます。ようするに、この場合もその時その時の状況に合わせて、適切に対応するということが基本ではないでしょうか。こんな笑い話があります。一学期の終業式の時、ある高校の校長先生が、全校生徒の前で、「この夏休みは受験生にとってとても大事な時です。テレビなど見る暇はない。勉強に専念するように。」といいました。夏休みが終わって二学期の始業式の時、「君たちはあの横浜高校の松坂の熱闘を見たか。ピンチにも果敢に真っ向勝負を挑んでいたではないか。あの気迫に学んで受験戦争を乗り切ろう。」といいました。あまりのちぐはぐな言動に生徒から笑い声が起きたということです。これも先の例と同じで、今現在の事実に従うのが森田だと思います。我々は過去の経験をもとに是非善悪の価値判断をして、現在に対応しています。それが「かくあるべし」を作り上げ、自ら窮地に追い込んでしまっている原因になっています。それだけ今の事実・状態・現状に素直になって生きていくということは、生半可な気持ちではできないということです。
2016.07.09
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1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分に関東大地震が発生した。震源は相模湾でマグニチュードは7.9、その3分後7.2、5分後7.3の地震がたて続けに発生している。最大震度は7であった。未曾有の大地震であった。死者・行方不明者105385人、倒壊家屋128256戸、焼失家屋212353戸という記録が残っている。その後東京は大混乱に陥った。森田先生はその時の様子を詳細に記述されている。それは森田全集第7巻の309ページから342ページにある。なおこの内容の一部は「生の欲望」の188ページから196ページまで抜粋が載っている。この中で、根も葉もない流言飛語がどのようにして発生し、人びとを不安や恐怖に陥れ、誤った行動に駆り立てていったのか分析されている。事実を重視される森田先生ならではの分析であり、その内容はまさに圧巻である。流言飛語とは、事実と相違したうわさ、または針ほどのことを棒ぐらいに誇張したうわさが人から人へと伝わることを言う。流言飛語とは、群衆の間に偶発的に、または自然発生的におこるもので、わざとうわさを立てるような計画的なものとは違う。関東大震災では、外国人の襲来があるというものが主なものであった。横浜あたりから発生し、1日か2日で東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬などに拡がった。その内容は、外国人が大挙して襲来し、一部のものと共謀し、爆弾を仕掛け、火をつける。井戸に毒薬を投げ込み、略奪、殺人など、あらゆる悪事を働いているというものだった。流言飛語は、同じ境遇にある群衆が、ある事変に当面して感情が興奮し、精神不安になっている時には、何かちょっとしたことがあってもそれをひどく感じ、あるいは、まったく根も葉もないことまで感情的にそれを受け入れて、実際にあるかのように感じるものである。たとえば、恐怖心に支配されてビクビクしているものが枯れすすきを幽霊と見、人を殺してそのたたりを恐れているものがその亡霊に襲われているようなものである。流言飛語は群集の気分と意向に合致したものだけが広まる。それは群集一般が、同じようなことを期待し、渇望しているからである。このような流言飛語は、老人や物知り、警察官や役人など、権威のあるものから出るほど、群集に対する暗示性がつよく、多くの人が言い伝えるようになって、ますます一般の人を信じさせるようになるものである。人間は恐怖の感情にとらわれている時には、いっそう危険なことがおこるかもしれないという想像から、事実無根のうわさでもほんとらしいと思い込むようになるのである。外国人の襲来も、それだけにとらわれて、その他の危険たとえば火災の発生などを防ぐだけの余裕がなくなり、空前の大災害を引き起こすこととなったのである。流言飛語は病気のようなものである。社会が病的になってる時には、いつとはなしに流言が起こり、動乱が発生するようになるといわれている。
2016.05.19
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103歳の墨絵画家に篠田桃紅さんという方がおられる。この方はいまだ認知症とは程遠く頭脳明晰な方である。その方は43歳の時にニューヨークに2年ほど住んでいた。ニューヨークには400以上のギャラリーがあるが、その中に10ほど一流ギャラリーというものがある。篠田さんはその中の一つバーサ・シェファーズ・ギャラリーで偶然に作品展をやる機会を得た。そこで絶大な評価を得たのだ。当時、ジョン・キャナディという、ニューヨーク・タイムズ紙きっての、大変な美術批評家がいた。キャナディに否定的なことを書かれたら絵は一枚も売れないと、畏れられていた。その人の絵画を見る時の態度は徹底していたそうだ。キャナディの信条として、アーティストには決して会わない。書きたいことを書きたいから。アーティストに会うと、何となく情も移るだろうし、先入観が判断を鈍らせる。だから作品だけを見て批評する。もちろんその背景には、豊かな見識、広い視野、審美眼を持ち合せている。篠田さんは、キャナディ氏にあるパーティで偶然会った。気兼ねなく話をしていたら、キャナディ氏は、作品にタイトルがないほうがいいという。タイトルがあると、想像の範囲が狭められて見るということになる。自分は絵からいろんな想像力が湧くから、タイトルで自分の想像を限定されたくないのだ。キャナディ氏はタイトルはあっても見ないようにしているそうだ。このキャナディ氏の態度は森田理論学習をしているものからすると衝撃である。キャナディ氏は400もあるギャラリーのすべてを回っているわけではない。一流と言われている10のギャラリーを主に回って作品の批評をしているのだ。それはこれらのギャラリーのオーナーは一流の作品を選ぶ高度な審美眼を持っているからだ。その上でキャナディ氏は先入観を排して、自分の鋭い感性を頼りに作品を見て批評していく。人間関係、縁故関係に影響されることはない。作品がすべてで、作品だけで判断する。我々も森田理論を本当に自分のものにしようと思ったら、先入観や決めつけを排して事実そのものに向きあう姿勢を欠かすことはできない。事実を土台にして生活できるようになることを森田では目指している。キャナディ氏の心情はとても共感できる。(百歳の力 篠田桃紅 集英社新書参照)
2016.04.18
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子どもにとってショックな事実を隠したり、向き合うことを避けていると大人になって大きな問題となります。トラウマ、解離障害という問題です。例えば居間で夫婦げんかがあり、怒った母親が皿を投げた。それがガラス戸にあたって、ガラスと皿が割れて大きな音がした。父親も怒って家を出て、その時バタンと大きな音で玄関のドアを閉めた。子ども部屋にいた幼い娘が両親の怒鳴り声やガチャン、バタンという音を聞けばショックです。子どもは不安になり居間を覗きに行きます。この時家族機能が健全であれば、不安そうな子どもは母親に抱きとめられます。次に何があったか母親から説明があります。翌朝、娘が食堂に行くと父親はすでに食卓についていました。娘は父親からも昨夜の説明を聞かされます。父と母が仲よくしていたので、娘はすっかり安心します。そして「昨夜のようなこともあるのだな、あってもそれで自分の世界が壊れてしまうわけではないのだな」ということを感じとります。ショックと癒しをとおして、娘はひとつの体験を積み重ねたのです。これはこの夫婦けんかが、子どもの頭の中にストーリーとしてきちんと整理して記憶されているということになります。するとあとであんなことがあったなとストーリーとして思いだすことができます。ところが次のような家族もあります。娘が居間をのぞいてみると、母親は後片付けをしていますが何の説明もありません。娘は茫然と立ちすくんでいましたが、しばらくすると「もうパパは帰ってこない」という自分なりの解釈をして部屋に戻ります。彼女は「頭が真っ白」で「何も感じない」という感情鈍麻の中に閉じ込められます。翌朝食堂に行くと、父と母は食卓に座っていましたがお互いに無言です。娘の不安は癒されず、「そのことは語ってはならない」という父母のとり決めたルールだけが娘の意識を支配します。やがてこの記憶は回想不能になります。このことは娘の生活歴の一部が欠損したことになります。でも娘を脅かしたショックは体の記憶として残っています。記憶が断片的で身体の違和感のみが強烈な印象として分離されて記憶されているのです。するとこの娘は大人になって、人びとの怒鳴り声やガチャン、バタンという大きな音を聞くたびに「頭が真っ白」になるのです。このような家庭ではこのようなことが繰り返されていると推測されます。すると、これらのトラウマに伴う不安、恐怖、怒りなどが感情鈍麻によって消去されたり、回想不能の体験として人格に統合されない状態になります。このことを慢性ショック、解離性障害、離人症、離人感等といいます。これらはもともと嫌な事実に正直に向き合わずに、あいまいなままで放置してきたことが問題です。事実はストーリーとして整理されて落ち着かせないと、分断されてその時の心身のパニック状態だけが記憶として残されることになります。森田理論では事実をよく観察するということを勧めていますが、事実を軽視すると、このように子どもの心の健全な成長に悪影響を起こすということに留意する必要がありそうです。これらのトラウマは癒されなければなりません。そのためには各自の子ども時代のトラウマとショックに立ち戻って、当時の事実とそれに伴う情緒を回想するという作業が必要になります。それにはそうした苦しい作業が可能であるような「安全な場」「安全な人間関係」が必要となります。一般的にはカウンセラーですが、それ以外にはセルフ・ヘルプグループが考えられます。(アダルトチルドレンと家族 斎藤学 学陽書房参照)
2016.04.15
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山崎房一さんの詩です。「自分の最大の敵は自分」自分にとって一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです自分にとって自分は自分の安住地でなくてはなりませんこんな詩もあります。自分を大切にする人は人を大切にします自分を粗末にする人は人を粗末にします自分を愛する人は人を愛することができます自分が嫌いな人は人にグチばかりこぼします自分を好きな人は自分を伸ばします(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 70、77ページより引用)森田理論の真髄に迫る詩だと思います。的確に表現されています。自分を好きになる人は現状の自分を拒否、無視、抑圧、否定、批判などしなくなります。あるがままの自分で十分だと思っています。自分の持っているものを活かして生きています。決してないものねだりはしません。自分の夢や希望をしっかりと持っている人です。そういう人は他人をも拒否、無視、抑圧、否定、批判などしなくなります。他人を「かくあるべし」でコントロールしようとしなくなります。あるがままの他人で十分だと思っています。他人と意見が異なる時は、お互いに話あって解決しようとします。他人も自分の持っているものを見つけて、それを最大限に活かしてほしいと思っています。不安や不快な感情に対しては取り除いたり、逃避することはしない人です。そういうものは自然現象だからやり過ごすことしかできないと思っている人です。不安や不快な感情に振り回されることがありません。感情と行動は切り離して考えることができる人です。その時、その場にふさわしい行動がきちんととれる人です。地震や台風などの自然災害や生命の危機、経済変動などにはあらかじめ十分な備えをしている人です。それ以上の自分の手に負えない災害や運命、変動については、潔く受け入れることのできる人です。これらを一言でいうと、「自然に服従して、境遇に柔順」ということです。事実を出来るだけ詳細に見つめることに専念し、「かくあるべし」で決めつけることが無く、是非善悪の価値判断をしない人です。事実本位、事実回帰の道を着実に歩んでいる人です。そういう人は「人生の達人」だと思います。
2016.04.10
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最近テレビCMで目立つものに美容整形の宣伝がある。一重瞼を二重瞼に変える。顎の骨を削る。鼻の形を変えて高くする。シワを取り除く。体毛の除去。バストアップを図る。等など。この手のCMはまだ他にもある。太った体型を短期間でやせさせるエクササイズや健康機器。健康食品等など。禿げた頭をカモフラージュする植毛やかつら。こちらは2社が争奪戦を演じている。毎日毎日これらの宣伝がテレビで放映されている。刺激をかきたたせているのである。この風潮は如何なものだろうか。これらは今のありのままのあなたでは、社会には決して受け入れられませんよと指摘しているように見える。現在の自分の容姿を全否定して、見栄えのよい自分に作り変えないと生きてゆけないのだとメディアを使って思想教育をしているようなものである。せめて人並みの容姿に作り変えましょうよ。それがあなたを幸せに導く道です。それをCMでこれでもかこれでもかとあおっているのである。人が振り返ってくれるような自分に変身出来れば、その時点で初めて自信を持って積極的に行動できるはずだ。そういう幻想をふりまいているのではないでしょうか。これは神経症に陥るパターンとよく似ている。神経症の場合は自分の抱えた不安に取りつかれる。なんとか取り払わないと気になって仕方がない。そして取り除こうとやりくりを始めるのである。でもその不安はとれないばかりか、どんどん増悪していく。そして最後に蟻地獄の底に落ち込み、自分の力では抜け出ることはできなくなる。これらは根本的にやり方が間違っているのである。美容整形にしても、最初はちょっと気になる程度だったのだと思う。少し他人とは違うようだ。ところがそこにばかり注意を向けているうちに、引き返すことのできないどつぼにはまってしまったのだ。そして儲けの餌食にさせられてしまったのだ。どこで歯車がくるってしまったのか。神経症にしろ、整形にしろ、問題なのは現実、現状、事実の全否定にある。事実を端から否定して「かくあるべし」で自分を追い込んでいるのである。自分という一人の人間の中に二人の自分がいて、片方の自分が現実の自分をよい悪い、正しい間違いだといって価値判断していじめているのである。本来は同じ自分なのだから、折り合いをつけて、自分を最大の味方にしてしまえばよさそうなのにそうはなっていない。美容整形でいったん変身できても、体質が変わっていないので、また別の生きづらさが必ず発生するようになるだろうと思う。さらにその人が神経質性格を持っているとすると、まさしく神経症を発症することは容易に想像できる。美容整形で多額のお金を使うよりも、ありのままの自分を受け入れるという姿勢が先にこないとならない。自分に折り合いがつけられれば、自分のありのままをさらけ出すことができるようになる。なにも隠すことがなくなる。すると葛藤がなくなるので、生きづらさが解消される。そうなると初めて生活することが楽しくなるのである。
2016.04.04
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森田理論学習では、事実をよく観察して、できるだけ具体的に話すことを勧められます。そのことで、参考になる話を、再度投稿します。5歳ぐらいの子供が新聞紙に水が滲みたとき、こんなふうに表現しました。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた。」もう一つ紹介します。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、しろ。これは小学生の横山あやちゃんが、4年生のときに自宅で飼っていた13匹の蚕につけた名前です。おとなが見ればどれも同じ虫に見える蚕でも、あやちゃんは13匹の個性的な顔と生活を、見事につかんで成長を記録した。1匹ずつ、わずかに違う顔の特徴も、ノートにきれいにスケッチしている。(状況が人を動かす 藤田英夫 毎日新聞社 209、218ページより引用)私たち大人は、この子どもたちのように観察や表現ができているでしょうか。私はできていません。いつの間にかそのようなささいなことに興味を持つことはなくなりました。でも森田理論学習をしていて、いま改めて思います。私たちは誰でも生きづらさを解消して、味わいのある意味のある生き方をしたいと思っている。そのためには、森田理論学習で「生の欲望の発揮」と「事実本位の生き方」を身につけることが大きなポイントとなると学んできました。この中で、事実本位の態度を身につけるためには、事実をよく観察して、具体的、詳細に話したり、書くことが出発点になるのではないでしょうか。そういう意味では、この子どもたちは私たちの先生のような存在です。この子どもたちは私たちに次のように問いかけているような気がします。あなたは事実を掴もうと努力していますか。あなたは事実を抽象的ではなく、具体的に話していますか。あなたは事実を捻じ曲げるようなことはありませんか。あなたは事実をごまかそうとしてはいませんか。あなたは都合の悪い事実を隠そうとしてはいませんか。あなたは嫌な事実からすぐに逃げてはいませんか。あなたの事実認識は偏ってはいませんか。あなたは事実をいつも両面観でみていますか。あなたは現実や事実を「かくあるべし」で批判、否定、拒否してはいませんか。あなたは事実を自分のものさしでよい悪い等と価値判定して批判、否定、拒否していませんか。あなたは「純な心」「私メッセージ」を対人関係に活用していますか。もしそうでなかったとすると、あなたは対人関係で苦労し、生きづらさを抱えながら日々生きているのではありませんか。
2016.04.01
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事実本位、事実回帰への障害物となっているものはなにか。1、 我々は問題だらけの生々しい状況を、よく見ることができないということである。ありありというよりも観念的、あますところだけではなく一部、それを持ってその全体を察してしまい、分かったとなってしまうからである。こうなるともう、見れども見えずになってしまう。自分の都合で状況を見てしまうことである。人間は本能的に自分の持っているイメージに合わせて対象を見ようとする。つまり、自分のイメージに合わないものごとを、意識的に、あるいは無意識のうちに無視したり、切り捨てたりする。2、 問題から「遠ざかろう」とすることである。人間は誰でも、困る問題を見たり、聞いたり、抱えるのは嫌だ。「見ざる、言わざる、聞かざる」になっている。3、 問題を「消そう」とすることである。現れている現象は氷山の一角、その下にはそれらを生み出す原因ががっちりと根を下していることを察知しつつも、とりあえずは「臭いものには蓋をする」という、「もぐら叩き」に走ってしまうことだ。問題や課題は「人間力」を引き出し、また改革や改善のための願ってもない宝なのだ。にもかかわらず、その宝を消すことに懸命になってしまうわけだ。4、 都合の悪い問題を「隠す」ことである。問題点や課題、ミスや失敗、弱点や欠点は人に見つからないように巧妙にカモフラージュされて化粧されてしまう。5、 世の中には何よりも、問題を表ざたにしない方が丸く収まるという文化が根付いている。老化した組織は語るに及ばず、成熟した組織は多かれ少なかれこれにはまり込んでいる。このような中でいつの間にか、人びとは状況に対して盲目になっていく。さらに、いつの間にか嘘つきになっていく。ありのままでは、上部や周囲に受け入れられにくく、仕事がすすみにくいという意識があるからだ。ここでいう嘘つきとは、問題だと思われる部分を目立たないように、あるいは当たり障りのないように拵らえて他に伝えようと努めるから、結果として偽ったことになってしまうということである。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン参照及び引用)こうしてみると事実をそのままに見ることはとても難しいということである。放っておくと、すぐに先入観で決めつけてしまう。偏った見方をしてしまう。さらに、人間は事実から意識的に目をそらしてしまうという習性を持っているということである。そして「かくあるべし」で自分や他人をコントロールしようとする。あるいは、すぐに是非善悪の価値判断をしてしまう。そして、否定的、ネガティブなものに振り回されてしまう。このことを森田理論学習によって十分に理解し、事実からかけ離れた場合は、すぐに事実回帰へ立ち戻る習慣作りをする必要があると思う。
2016.03.23
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小学生の「月刊教材」の中にこんなことが書いてある。鉢仕立ての朝顔の絵がカラーで描かれており、細い支柱が中心に立っていて、そこに朝顔の蔓が時計回りに巻き付いている。この絵の中に間違いがあるので、本物と比べて答えなさいというものだ。そういいながら、次のページに答えが載っている。それによると正解は、次の3つであるという。1、 蔓の巻きかたが反対2、 花は下から咲いてくるので花の下に蕾があることはない3、 一株の朝顔に違う色の花は咲かない。藤田英夫さんが実際に調べてみた。確かに蔓の巻き方はその通りだった。花の色については、淡いピンクとほとんど白といえる花が咲いていた。花の咲く順序も違っていた。咲いている花の根元よりに蕾があった。数日するとそのつぼみが見事に咲いた。教材に書いてあるということと事実が違うということはどういう意味があるのだろうか。藤田さんは、これが問題として出題された場合、自分の目で見た観察は間違いと判定されてしまうことが問題だといわれる。敷衍して言うと、観察などはしなくてもよい。正解を次のページにのせているので、それを覚えればよいのだということになる。自分の目で見て、手に触れて実感したもの、それこそは、その子にとって忘れることのできないもの、かけがいのないものである。自分が確かだと掴んだそのような事実が否定されてしまうことは、やがては自分自身への否定につながっていくことになりはしないか。私も同感です。過去の経験で分かったつもりになり、念のために再度確かめることを怠る。先入観と決めつけで事実を確かめるということを怠ることがいかに間違っているか。私たちは「かくあるべし」で事実を否定して自分の考えを優先したり、事実を是非善悪で価値判定してはならないということを何度も学習してきました。この朝顔の話は、このことに真っ向から反対の立場をとっています。この場合には答えを載せずに、生徒たちに自分たちが観察した結果をそれぞれ発表してもらう。蔓の巻き方はどちら向きでしたか。花は単色でしたか。蕾は上の方だけにありましたか。などと聞いてゆけばいろんな観察結果が出てくるのではないでしょうか。森田理論学習では事実に勝るものはないといいます。事実に服従して、事実を受け入れていくことは森田理論学習の最大のテーマです。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン参照)
2016.03.21
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1988年プロ野球で1065の盗塁を達成した福本豊さんという人がいた。歴代盗塁王の2位は広瀬さんで596盗塁である。それから見ると断トツの成績である。全盛期には盗塁成功率は85%を超えていたそうだ。塁に出るとほとんど走って盗塁を成功させてしまう。シングルヒットがすぐに2塁打にされてしまうようなものだ。得点圏にランナーを背負うのだから、ピッチャーにしてみれば脅威だ。特にキッチャーのブロックが禁止された今年のルールではなおさらだ。福本さんは特別足が速かったのだろうか。ある程度は早かったが、それよりも足の速い選手は他にもいた。ロッテに在籍していた飯島秀雄さんである。飯島選手は100m10秒1の日本記録を持っていた選手だった。そのため代走専門の選手として入団した。結果はどうだったのか。飯島さんは1969年から1971年の3年間で117回代走起用され、通算盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5という成績に終わった。19.6%の成功率にしかならなかった。足の速い人、同じくらいの人は他にもたくさんいたのにどうして福本選手が断トツの成績を収めることができたのか。これはひとえにピッチャーの投球フォームの観察と研究にあった。つまり福本選手が、対象をよく観察や研究をして、その癖や特徴をとらえていたということである。たとえば、あるピッチャーは、打者への投球と牽制球を投げようとする場合では、軸足の踵の高さが2センチ変わる。また別のピッチャーは、グローブの角度が約20度変わるというようにわずかな違いをはっきりと分かっていた。これはピッチャー自身も分からないことである。誰でもがまねのできない観察と研究力のたまものである。一旦癖や特徴を掴むと、リードを大きくとれる。迷いなくスタートを切れる。素早く帰塁できる。相手ピッチャーに合わせて、臨機応変自由自在に変化に対応できたのだ。また思い切った行動は相手ピッチャーには相当な圧力になる。ピッチャーはバッターに集中できなくなり、投球が単調になる。コントロールがつかなくなる。ヒットやフォアボールが増えてくる確率が格段に高まるのだ。事実飯島選手が代走に送られると、ロッテの選手の打率は4割台に跳ね上がっていたという。飯島選手を塁に置いた時の通算チーム打率は.424、出塁率.494(151打数64安打、8本塁打、四死球20)という記録が残っている。これは森田理論学習をしている我々にとても参考になる。私たちは先入観で分かったつもりになり、観察を怠りがちである。自分では事実を確かめようとしないで、人から聞いた話を鵜呑みにしてしまう。それらを基礎にして、対策を立てる。あるいは「かくあるべし」で自分や相手をコントロールしようとする。事実本位、物事本位、事実回帰への道は、まず対象を詳しく観察することである。そのことに徹する態度が出発点となるのではないでしょうか。
2016.03.14
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広島県安芸郡府中町の府中緑ケ丘中の男子生徒が自殺した事件は、テレビや新聞で連日取り上げられて大きな社会問題に発展してきた。この事件の発端となった万引き事件はどのようなものだったのか。2013年10月6日午後、1年生2人が万引きをしたとコンビニエンスストアから学校に電話があり、部活動で校内にいたA教諭が対応した。他の教諭と一緒に店舗へ駆けつけて確認。生徒は保護者とともに謝罪した。店は警察への被害申告は行わなかった。翌7日に、A教諭は生徒指導部のB教諭と担任のC教諭に口頭で報告した。B教諭はパソコンへ入力して生徒指導推進委員会資料を作成した。その際、B教諭は誤って今回自殺した男子生徒の名前を入力した。プリントアウトした資料の誤りは、翌8日の委員会で参加した教員の指摘で修正した。しかし永久保存のパソコン上の元データは、修正されずそのまま放置された。その後、この中学では、これまで志望校への推薦・専願基準を、「3年生になってから触法行為がないこと」としていたのを大きく変更した。今年度は「1・2年時も含めて、3年間触法行為がないこと」と厳しい基準にしたのだ。これは3年生の担任だけで決定している。1年時からの触法行為を含むことになったため、担任のD教諭は推薦・専願を希望している生徒の調査をした。そして11月12日になって、2013、14年度の生徒指導推進委員会の会議資料の記録に、この男子生徒の万引きの記載があることを知った。担任のD教諭は、すぐにこの生徒に廊下で万引きの記載の件を伝えた。そして志望校への推薦・専願の取り扱いはできないと伝えた。面談にあたっては、「その事実は間違いないのか」ということは確認していない。万引きをしたことは、先入観で間違いないと決めつけていたのである。さらに、落ち着いた場所や時間を確保して面談したりするなど、生徒の本意を引き出す配慮は全くしていない。個人面談は、他の生徒に話の内容が漏れてしまうかもしれないという廊下で立って行ったという。生徒は、普通は自分がやってもいない万引きのことを問題にしているのだから、異議を申し立てるはずである。異議を申し立てなかったのは、先生に対する信頼感のなさ、面談場所や一方的な決めつけが大きく影響していたのだろう。男子生徒は家で「どうせ言っても先生は何も聞いてくれない」という思いを語っている。なんともやりきれない言葉である。この中学では、問題行動を抑え込み、学校を落ち着かせることを最優先に考えていた。規律維持を求めるあまり、押さえつける指導になっていた。過ちを犯した生徒や反抗的な生徒を排除するような指導になっていたのではないかと、今になって反省しているという。(朝日新聞デジタルより抜粋して要旨を引用)この問題は軽々しく論じることはできない。でもこれは、私の住んでいる学区内での出来事なのだ。隣近所この話で持ちきりである。生徒を教育する先生が、生徒と対立的な関係になっていて、はたしてまともな教育ができるのだろうか。さらに言えば、もっと事実を大切に取り扱ってほしかったと思う。まず、パソコンに最初に入力したB教諭である。なぜ無関係な生徒の名前を平然と打ち込めるのだろうか。その後のチェックや確認はどうなっていたのか。次にパソコンのデータの修正である。間違っていたデータが分かった時点ですぐに修正しないといけない。あとでと思っているとすぐに忘れることがある。間違って打ち込んだ名前を修正しないことがどんな意味を持つのかということが、B教諭を始め、生徒指導推進委員会に参加した先生すべて分かっていないのではないか。志望校への推薦・専願基準を変更する前に、データの修正をしなければならないのではないか。こんなことでは、落胆して自殺した生徒は浮かばれない。事件発覚後も、学校から報道各社に配られた配布資料には、自殺した生徒の名前が実名で記載されており、報道陣から指摘されてはじめて不手際に気がつくというありさまであった。担任のD教諭は、この生徒は優秀であったと認めている。それならなぜ「万引きの事実は間違いないことなのか」と聞くことができなかったのだろうか。自分で事実を確かめないで、なぜ間違ったデータを安易に先入観と決めつけでもって断定してしまうのだろうか。そういう事実軽視の指導体質を持っているということが、そもそも生徒指導に向いていないのではないか。それも他の生徒にこれ見よがしに、平気で廊下で面談することの良心の呵責は全く起こらなかったのか。このD先生は現在病気療養中であるというが、生徒の味方になる、事実を再度確認するという態度があれば、こんな悲しい結末を招くことは無かったのではないか。今日は府中緑ケ丘中学校の卒業式である。全国放送の報道各社、地元テレビ局各社、新聞社、文科省役人、県や町教育委員会などに取り囲まれての卒業式はとても重苦しいだろう。先生も悲痛であるが、生徒はもっと痛手を受けて卒業式に臨む。
2016.03.12
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会社員のAさんが、最近、上司の態度にいらだっている。直接のきっかけは、仕事で注意されたことだ。ささいなミスなのに、みんなの前で言われたので、ちょっとショックだった。以来、自分にばかり厳しい目を向けられているように感じ、また何か言われるのではないかと身構えるようになった。以前は優しくて頼りになる上司と思っていたのだが、新人の女性が入ってきた頃から、その人にばかり親切にしているようだ。自分のほうを見るときには、難しい顔をして、めんどくさそうにする。必要ないので早く辞めてほしいのか。「私に辞めてほしいのなら、はっはり言ってください」と、よほど言ってやりたいと思う。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 176ページより引用)上司のちょっとした言動をきっかけにして、どんどん上司に対する不信感が増悪している。また一つのことで自分の人格を全否定されたように受け取り、自分には能力もないし、全く取り柄のないダメ人だというふうに決めつけて自己否定してしまう。これは精神交互作用で神経症に陥る過程によく似ている。我々神経質者はこのような些細な出来事を、すぐに会社を辞めたいというように飛躍させてしまう。辞めるか残るかどちらがいいのか。さらに進むと、生きるか死ぬかというような自分の一生を左右する問題にすり替えてしまう。これは上司に仕事で注意された中身を無視していることが、苦しみを拡大させていると思う。どんなことで注意されたのか。入力ミスをしたのか。接客態度が悪かったのか。納期を忘れて仕事に手をつけていなかったのか。言葉遣いが悪かったのか。仕事の優先順位が悪かったのか。等々。この話のなかには、注意された内容については全く触れられていない。つまり内容を無視して、観念の世界で自分の不快感を払拭しようとしているのだ。これはインフルエンザのワクチンの注射をするときに、その効果を考えずに、注射の痛みを問題にして、注射することから逃げているようなものだ。誰でも人から非難されたり、否定されると不機嫌になったり、落ち込んだりする。その不快感を取り除かないと永遠にその苦しみは続いていくかのように錯覚してしまう。だからそういうネガティブな感情は早急に取り去ろうとするのだ。事実はどんなに腹立たしい感情でも、時間がたてば希薄化し、ついには消えてしまう。不快な感情はそのままにして、上司に叱られた内容に注目した場合はどうだろうか。叱られたという言う場合は上司に何らなの理由がある。その理由を考えてみる。この上司は昔は優しくて頼りになると思っていたというのだから、人格的に問題があるとは考えづらい。すると自分の仕事のやり方に何らかの問題があったと考えるのが妥当ではなかろうか。不快感を横において、叱られたという仕事内容に注意を向けていると、仕事の取り組み方の中に、気づきや発見があるはずである。それをもとにして、自分の仕事のやり方を改善していけば、どんどん進歩していく。つまりこの話は目の付けどころをどこに持ってくるかということである。不快な感情が自然に湧いてきたというのも事実。第三者から見て自分の仕事ぶりに何らかの問題があったというのも事実である。どうにもならない不快感はそのままにして流していく。これが得策である。仕事内容は、将来二度と失敗やミスをしないように改善策を考えていく。そうすると先につながる。こういう態度が必要なのではないでしょうか。
2016.03.08
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30代の会社員Nさんが、プロジェクトのチームリーダーに抜擢された。仕事が深夜にまで及ぶこともしばしばだが、張り切っていた。だが、自分より年配のAさんがあまり協力的でなく、やりにくい。どうやら自分の仕事の進め方にも不満があるようだが、どう話をすればいいのかわからない。Aさんに対してストレスを感じるようになってきた。そんな矢先、週末にチームの何人かで飲みに行ったことを知った。自分には声がかかっていなかったのでショックを受けた。チームのために頑張っていたのに、みんなは仲間とさえ思ってくれていないのか。それから、何となく会社に行くのが、気が重くなった。自分のやり方に、Aさん以外の人も不満をもっているのだろうと考えてしまう。みんなの目つきや顔色が気になって、おどおどしてしまう。同僚の不満げな顔を見ると、仕事を振るのを遠慮してしまい、自分で抱え込んでいるうちに、Nさんはとうとう会社に行けなくなってしまった。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 180ページより引用)Nさんは、神経質性格者かどうかはわからないが、神経症に陥る典型的なパターンである。まずは事実を確かめないで、自分勝手に事実を真実だと悲観的に決めつけている。さらにその決めつけによって自分をリーダ―としての資質に欠けるダメ人間だと自己嫌悪している。そして精神交互作用によってどんどん不安が増悪している。最後には会社に出社できなくなっている。プロジェクトの達成のための予定、計画、説明、役割分担、同意の取り付け、議論、実行等のことは蚊帳の外になっている。意識が内向化して、物事本位の態度からはかけ離れている。こうなればリーダ―としての職責を果たすことはできない。ここでは事実をしっかりと掴むこと、生の欲望から目を離さないということがポイントであると思う。この本によると事実は全く違っていた。Aさんには末期がんで闘病中の妻がいて、実際、まもなく亡くなってしまうことになる。彼が協力的でないように見えたのは、そのことに気をとられていたためだった。その事実が分かれば、NさんはAさんをいたわってあげることが必要だったのだ。他の同僚たちも、Nさんに特別不満があったわけではない。飲み会に誘わなかったのも忙しそうだったからで、他意はなったようだ。メンバーに仕事を依頼することができずに、自分一人で抱えていたのが仇となったのである。つまりNさんは一人相撲をとって、いらだっていたのである。森田理論では事実を実際に自分の目で確かめること。確かな裏付けのあるものだけをよりどころとすること。その事実を是非善悪の価値判断することなく受け入れることが重要であるという。その上で、気分はいかに苦しかろうとも、自分に与えられた仕事に専念していくこと。どうにもならないときは、上司や同僚に相談してみることが必要だったのではなかろうか。つまり生の欲望の発揮から目をそらしてはならないのである。
2016.03.03
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森田正馬全集5巻433ページより引用です。森田先生の言葉です。「親鸞上人が、偉くなったのは、自分が愚鈍であり悪人であると、悟ってからの事です。赤面恐怖の人でも、自分は、身勝手・わがままであり、人に思いやりがないとか言うことを自覚するようになったら、心機一転して、たちまちに治るのである。親鸞は9歳で仏門に入り、叡山で勉強し、随分煩悶に悩まされたが、29歳の時、法然上人の説教を聞いて、たちまちに悟る事ができた。それまでは、恐らくは、道徳恐怖・読書恐怖・伍道恐怖等の強迫観念に悩んだものと思われる。それが「自分は悪人である」と自覚し、一切を弥陀にまかせると往生して、初めて強迫観念が治ったものに違いないのであります。」親鸞上人は29歳までは強迫観念に悩んでおられたのである。我々の仲間である。親鸞上人の代表的な言葉に「悪人正機説」「他力本願」「自然法爾」があります。これらは難しく解釈すればいくらでも難しくなるのでしょうが、森田理論学習を続けている私たちがすればピンとくるものがあります。これらは我々からすればほとんど同じことを言われておられるように思う。親鸞上人が強迫観念でのたうち回られておられた頃は、「かくあるべし」が強く、理想主義者、完全主義者であったと思うのです。ところが実際には妻を持ちたいという欲望もあったし、肉を食べたいという欲望もあった。でも自分は阿弥陀様に仕える身であるからそのような欲望をもってはならないとご自分を厳しく律しようとされていた。しかし欲望を抑圧しようとすればするほど、欲望が強くなっていった。理想と現実のギャップで罪悪感に苦しめられていた。そのときに法然上人に出会われた。法然上人は難しい事はわからなくてもよい。ただ念仏を唱えて、すべてを阿弥陀様におすがりすれば、だれでも極楽浄土にいくことができると説かれた。法然上人は自力救済の道ではなく、他力救済の道を説かれていたのである。これは他人に依存して生きていくことを言っているのではない。不可能なことを、なんとかしようと行動をするはやめましょう。こうしなけば、ああしなければと自分を叱咤激励して、自分を追い込むのをやめましょうということを言っているのだと思う。どうにもならないことは、受け入れましょうと言われているのです。この点森田理論ではどのように言っているのか。森田では、自分という一人の人間の中に二人の自分がいるという。一人は「かくあるべし」をもち、現実の自分や他人、あるいは自然に湧きあがってくる感情等を、常にいい、悪いと価値判定して批判したり、否定している自分。もう一人は、批判の目にさらされながら苦悩を抱えてのたうち回りながらなんとか命をつないで生きている現実の自分。相反する二人の自分が対立しながら生きているのでなかなかうまくゆかない。森田理論は、どんなに物足りなくても、現実の自分を中心にして生きていかなくてはならないという。そのためには、森田理論学習を深めて、頑強な「かくあるべし」的思考を緩めていく必要があるという。ゆきつ戻りつしながらでも、事実本位、事実回帰の態度をもち続けること。つまり自然に服従して、境遇に柔順なれと教えてくれているのです。
2016.03.01
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私たちはオールオアナッシング的な考え方に陥りやすい。敵か味方か、善か悪か、成功か失敗か、0か100か、白か黒かの極端な決めつけをしてしまう。中間、灰色、中庸という考え方がない。少しはまし、ベストではないがベターであるという考え方ができない。他人から「そのやり方はよくない」と言われると、すぐにあきらめて何もしない。味方だと思っていた人が、自分と違う意見を言うとすぐに裏切られたと思う。100%完璧にできないと、自己嫌悪、自己否定してしまう。自分に一つでも弱みや欠点があると、自分は人間として失格だ。生きる意味が持てないと言って嘆き悲しむ。自分自身が許せないのである。他人の容姿や行動に対しても、一つでも人より劣っているところを見つけると、その人の全人格を否定してしまう。うつ病患者でも、「少し良くなったみたいですね」と言われると、「全然駄目です」とよくなっていることを認めようとしない。森田の言う両面観で見れば、両極端に針が振れることはめったにないことである。普通は短所があれば長所がある。失敗だと思っても成功の足がかりが見つかることもある。資格試験でも100%正解できないと合格できないのかというとそんなことはない。だいたい国家試験などはおおむね60%以上が合格圏と言われている。全部を完全に理解しようとすると精神的苦痛を強いられる。難しいところは全く分からなくても、必要最低限の知識を身につけることで目的は達成される。殺人事件を起こすような人もすべての人格に問題あって、全否定すべき人間かというと必ずしもそうとは言えない。その証拠に母親や故郷の懐かしい人から、子どもの頃の思い出話を聞くと、つい涙を流すというではないか。交通事故でも自分は過失が0だと言い張っても、保険会社同士の話し合いではたいていは双方に過失があったと判定される。事故が起きたということは一方的に相手が悪いということはまれなのである。私の参加している集談会に「ほどほど道」を生活信条にしておられる住職さんがおられる。神経症で苦しみ、最後にたどりついた境地が「ほどほど道」であったというのが興味深い。いかに中間、灰色、中庸、少しはまし、ベストではないがベターであるという考え方が大切かということである。なぜそのような偏った考え方をするのか。それは事実を無視した観念優先の生き方になっているからである。極端な観念中心主義に陥っているのである。自分の思い通りにならないこと、理想に達していないことがあると、すぐに悲観的、ネガティブ、否定的な気持ちに陥る。イライラして憂うつになる。するとすべてのことに投げやりになる。もうどうなってもかまわないと思うようになる。手をつけない。努力しようとしない。元々ある豊かな感情が湧きおこらなくなり、気づきや発見の機会がなくなり、やる気や意欲、モチュベーションを高めることがなくなってしまう。事実唯真、事実中心、事実服従、事実重視、事実本位の考え方をしっかりと身につけて生活できるようになると、煩悶がなくなる。味わい深い人生を送ることができるようになる。
2016.02.23
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高垣忠一郎氏は共感な他者に支えられて自己信頼感は育つのだといわれる。「お母さんみて、みて、夕日がきれいだね」と感動する子どものそばで、母親が「ほんとにきれいだね」と受け止め、共感してくれる。「お父さん痛いよう」と泣く子のそばで、父親が「そうか、痛いか、よしよし」とその痛みを認め、受け入れてくれる。そんな経験の繰り返しの中で、子どもは自分がそのように感動し、感じてもよいのだと安心し、それを自分の「感動」として、あるいは「痛み」として肯定し受け入れることができるようになります。自分に共感し、受け入れてくれる他者がいると分かったとき、子どもはそのような自分をそれでよしと受け入れ、信頼できるようになります。そのような子どもの心には、「それでいいのだよ」と頷いてくれる他者が、しっかりと住んでいます。その心に住みついた「共感的な他者」に依拠して、子どもは「自分が自分であって大丈夫なのだと「自己を愛し信頼する心」を育てていくことになるのです。ところが、自分の感じたこと、感動したことに共感してもらえず、それを受け入れてもらえない子どもは「自分が自分であってよいのだ」という「自己信頼感」を育むことができません。「お母さん、あのお洋服きれいねえ、私あれが好きよ」「へえ、お母さんあんなのちっともきれいだと思わないのに。おまえはあんなのが好きなのかね」「お父さん、あの犬恐ろしいよう」「なぜあんな小さな犬が恐ろしいのだ。おまえは臆病者か」親からこのような対応をし続けられた子どもは、自分がそれを「好き」と感じ、「怖い」と感じることを、いけないことであるかのように感じ、罪悪感すら持ち始めます。そのうち親が好きだと感じそうなことを、好きだと感じないといけないような気がしてきます。あげくに、親が好きだと感じそうなことを先取りして、「お母さん、あの花きれいだね」と言いはじめます。そうすると親は満足して「そうだね」と肯定してくれる。いつの間にか、親の感情が自分の感情とすりかわります。こうして自分の感情を見失っていくのです。親の感じ方、価値観を押し付け、子どもの感じ方に共鳴し、それを認めてやることのできない親は、こうして子どもの感情を奪っていくことになるのです。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 35ページより引用)子どもの感じ方が、どんなに親の価値観、感じ方と合わなくても、「あなたはそう感じているのね」と認めてあげることが必要なのだと思います。そうしないと、子どもは大人になって自分の感情を素直に受け入れられなくなるのです。子どもがどんなことを感じ、どんなことに興味を持つかは子どもの自由です。その感情を認めて、承認してあげることは大切なことです。不安や恐怖の感情を素直に受け入れられるようになると、それらを目の敵にして悪戦苦闘して神経症に陥ることは無くなるだろうと思われます。子どもがどんなに親の思い通りにならなくても、基本的にはどんな行動をとるかは子どもの自由です。子どもから目を離さないようにすることは大切ですが、出来るだけ「かくあるべし」を押し付けないようにして子どもの自由にさせるべきだと思います。そのように親から承認されることで、子どもの自己受容の力はついてくるのだと思います。森田の事実本位、事実唯真、事実承認の考え方は、まず子育てに活かしてゆく必要があるのではないでしょうか。
2016.02.15
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杉本良明さんはこんな話をされている。1、 各人の意欲や幸福の源泉は自分を承認(肯定)できることである。2、 他人を承認すると、承認された人は自分の承認を強化する。(承認の移転)したがって、承認された人は意欲を増すとともに、幸福を感じる。3、 その結果、承認された人は承認してくれた相手に承認を返すとともに、第三者にも承認を分かち与える。(承認の波及)非常に興味深い話である。森田理論で考えてみたい。まず1。自己肯定、自己受容、自己承認、できないと意欲もでてこなければ、幸福にもなれない。全くその通りです。そうでないと神経症に陥る大きな原因になります。自己嫌悪、自己否定している人は、自分という一人の人間の中に二人の自分を抱えている状態であると思う。つまり強力な「かくあるべし」を持っています。その「かくあるべし」で、現実、現状、事実を否定しまくっている。誰でも自分の存在、やることなすことにケチをつけられて平然としていることはできません。「かくあるべし」を少なくすることが出来れば、現実の自分を非難したり否定することは少なくなります。「かくあるべし」は多くの人が知らず知らずに身につけています。ですからいろんな場面で、「かくあるべし」が顔を出す自分を否定することはありません。「かくあるべし」を身に付けた自分を否定することは、自分が苦しくなるばかりです。そういう時は、「ちょっと待てよ。変な方向に向かっているぞ」という歯止めがかかればよいのです。そして反省できるということが、事実本位への道に踏み出すことができる第一歩です。第2.その態度を他人にも拡張するということです。他人にも「かくあるべし」を押し付けない。他人の現実、現状、事実を「あるがまま」に承認していくということです。相手の理不尽とも思える言動。相手の容姿、性格、態度等を価値判断しないで、事実だけを見つめていくということです。批判、叱責、拒否、無視、抑圧、否定することがないので、人間関係が好転してきます。他人は、自分が承認、肯定してあげることによって、自分自身を肯定できるようになるのです。ここが大切なところです。第3.そういう人間関係を構築していくと自分の周りには、事実を「あるがまま」に承認していく人が増えてきます。第三者にも承認を分かち与えるという承認の波及現象が生まれてきます。そういう人間集団に思いをはせてみてください。自分や相手を尊重して、受容と共感に満ちた温かい人間関係の中に身をおくことができると思います。その出発点は自己承認、自己肯定から始まります。(人間関係にうんざりしたときに読む本 杉本良明 日本実業出版社参照)
2016.02.11
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どの本を見ても人と比較することはよくないと書いてある。私はこの考え方は問題だと思う。いかにも常識的である。私は大いに比較しましょうという立場です。比較というのは3つあります。人と比較する。昔と今を比較する。頭で考えた事と現実を比較している。比較することで得られることはなにか。比較するとちがいや特徴がよく分かります。例えば外国に旅行すると日本と海外の国との違いがよく分かります。違いが分かるということは自分への自覚が深まることだと思います。自覚が深まると次につながります。それなのに比較することがなぜ悪いのでしょうか。それは価値判断をして劣っているもの、現実、事実を否定するようになるからだと思います。人と比較する場合、人のよいところと自分の欠けている部分を比較して自己嫌悪します。昔のよかった状態と現在のよくない状況を比較して嘆くようになります。理想、完全、完璧な状態から現実をみて自己否定、他者否定するようになります。ですから比較することはとても大切であるが、その先是非善悪の価値判断をすることはとても問題があるということではないでしょうか。そもそもこの是非善悪の価値判断というのは、いい加減なものです。いつでもすぐに覆ることがあります。例えばポストイット、ピールアップテープを考えてみてください。一般常識ではあんな粘着力の弱いテープはなんの役にも立たない。つまらぬ物、ダメな物、失敗作として価値判断したとしたらそんなものが商品として世の中に出ることはありません。でも現実は一般的な価値判断を覆し圧倒的な存在感を見せつけています。つまり欠点と思われるようなものにも、使う場所によっては、強力粘着テープにひけをとらない強みや良さがあるのです。デルというパソコン販売会社があります。部品やパソコン製作の工場を持ちません。また大手電機メーカーのように販売チャネルを確立していません。一昔前でしたら商売になりません。ところがデルはそれを強みとしてとらえていたのです。部品調達や組み立てを世界中の工場にアウトソーシングし、インターネットを通じて格安の価格で提供することに成功したのです。価格面では圧倒的優位にあるので、世界中の人に支持されています。ですから、比較は大いにする。そして自分の特徴、違いをよく自覚する。でもそれから先、安易に是非善悪の価値判断をしないということを肝に銘じてゆきたいと思います。
2016.01.29
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現在マンションの管理人の仕事をしている。もう6年目になる。また管理人17名の取りまとめをしている。年3回のブロック会議、懇親会の実施、地区長会議への出席、管理人の苦情相談、仕事の進め方相談、会社からの連絡等を行っている。よく電話やFAXが入ってくる。先日こんな苦情の電話があった。その方は昨年7月から管理人の仕事を始めた人だ。勤務時間は1日4時間。週3日の勤務の方である。その方の内容はこうである。管理会社の担当営業マンを入社以来見たことがない。自分がいないときに来ているが実際に顔を見たことがない。またマンションを点検して不具合箇所を報告しても返事がない。現在樋が詰まって雨漏りがしている。電話やFAXしても反応がないのでイライラする。ついけんか腰で話をするものだから、人間関係が悪化している。もう辞めたいという。この話が本当だとするともう7カ月も管理会社の営業マンはその管理人と会っていないことになる。管理人と会わないときめ細かい管理はできない。管理人は毎日勤務棟を巡回しており、居住者に接している。多くの情報を持っているのである。これを活用して、きめ細かいサービスを提供すればその営業マンは管理組合から信頼されるようになる。逆に信頼を損なうと、管理委託契約は1年更新なので管理を打ち切られてしまうのである。一方営業マンにも言い分がある。営業マンは一人15棟ぐらいの管理棟を持っている。その管理棟が広範囲に割り当てられている。しかも営業車が少なくフットワークよく動くことができない。毎月の理事会の実施、報告、年一回の総会の資料作り、報告等事務処理に追われている。その他不具合箇所の修繕、大規模修理工事、さまざまな居住者からのクレーム対応に追われている。とてもきめ細かい対応はむずかしい状況にある。以上の点を踏まえて、私はその人に森田理論を応用して次のようにアドバイスした。Kさんは現在、担当営業マンをとても許すことはできないと考えておられる。その根拠は、営業マンは、「1カ月に1回は担当している棟を巡回して管理人と面会すべきである」という考え方が強いからではないか。そういう「かくあるべし」で担当営業マンを見ていると、ふつふつと怒りが湧いてくる。どうして営業マンとしてなすべきことができないのか。営業マン失格ではないのか。そうゆう営業のもとでまじめに仕事をしてゆくことはばかばかしい。私は次のように聞いてみた。営業が回ってこないことで、Kさんにどういう不都合が発生しているのか。かえって巡回がないので自由気ままに仕事ができるのではないか。Kさんは、もっともっと、そういう現状を見つめてみることに専念したらどうか。「かくあるべし」を振り回して、担当営業マンを追い込み、自分もストレスを増悪させてなんのメリットがあるのか。事実を見つめていると、どうして担当営業マンが巡回をしないのか。この営業マンが担当している他の棟はどうなっているのか。自然に情報を集めるようになる。試しに電話をしてみると、確かに巡回はそれほど行われていなかった。ところがその過程で貴重な情報が寄せられた。管理組合の理事さんや居住者からのクレームについてはすぐに対応しているということだった。そこから考えられることは、樋の詰まりの問題を管理組合の理事さんや居住者に伝えて、その方からクレームとして管理会社に電話してもらうのだ。すると今までの経過からするとその営業マンはすぐに対応するはずだ。事実を見つめることに専念し、それ以上のことに手を出さないことはこんなよいことが起きるのだ。また自分で窮地に陥った時は、蟻地獄に落ちたようなものである。もがけばもがくほど悪循環に陥る。そんな時は謙虚になって第三者のアドバイスを受けるようにしたらどうか。Kさんは、一応は納得したが、また電話がかかってきて、今度その営業マンと事務の責任者を交えて対決をすることにしたという。残念ながら、あまりよい展開にはならないような気がしている。
2016.01.26
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森田理論で大事なことと問われれば次の2点は外すことはできない。一つは「生の欲望の発揮」である。もう一つは「事実唯真」である。今日は「事実唯真」について考えてみたい。これは森田理論学習に取り組んでいる人以外は理解しづらい言葉である。これを別の言葉にいい直すとすれば、「事実本位」である。「自然に服従する」というのも同じ意味である。「事実本位」になれば「物事本位」にもなれる。これに対して反対の態度は、「理知本位」、あるいは「気分本位」である。ではどういう態度が実現できると「事実本位・物事本位」になれるのか。その判定の基準となるチェック項目をあげてみたい。1、 事実を軽視していないか。事実を掴もうと努力しているか。2、 事実は抽象的ではなく、具体的に話しているか。3、 事実を捻じ曲げていないか。ごまかそうとしていないか。4、 都合の悪い事実を隠そうとしていないか。嫌な事実から逃げていないか。5、 事実認識が偏っていないか。事実を両面観でみているか。6、 現実や事実を「かくあるべし」で批判、否定、拒否していないか。7、 事実を自分のものさしでよい悪い等と価値判定して批判、否定、拒否していないか。8、 「純な心」「私メッセージ」を対人関係に活用しているか。これらを湧き起ってきた感情に対しても、自分自身に対しても、他人に対しても、自然現象等に対しても貫徹できているかどうか。一つ一つの出来ごと、生活場面で、はい、いいえで自己内省してみてください。「純な心」「私メッセージ」の活用法が分からない方は、その理解から始めてください。このブログで何回も説明しています。その際キーワード検索されるとすぐに該当ページが見つかると思います。チェック項目を手掛かりにして、配偶者、子供、両親に対してどのように対応しているのか調べてみましょう。自己否定、他者に対して怒り、腹立ち、叱責、批判、拒否、否定、言い訳、支配欲求の強い人は、「事実本位・物事本位」の態度からかけ離れていることが予想されます。まずはそうした傾向があるのかないのか自覚することが大切です。もしそういう傾向が強く、人間関係でストレスを感じていれば少し緩めてゆく必要があります。森田理論学習に取り組んでいる人は、「事実本位・物事本位」の生活態度を多少なりとも体得していくことが必須となります。従来のように、「不安を抱えたまま、なすべきをなす」だけでは神経症の克服は不十分だと思います。その大きな原因は「事実本位・物事本位」の生活態度を会得しているかどうかということです。
2016.01.24
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森田では事実つかむ努力をしなさいと言われます。それから先、いい悪い、正しい間違い、役に立つ役に立たない、幸福不幸等という価値判断をしないほうがよい。価値判断をするということは、よくないこと、悪いこと、間違っていることをしている人を見ると、否定したり、批判したりするようになります。事実を無視して何でもすぐに価値判断する人は神経症に陥りやすくなります。今日は価値批判の成り立ち、特徴を見てみましょう。この是非善悪の価値判断というのは、自分のモノサシを使って行います。自分のモノサシはそもそも何でしょうか。・モノサシは、個人の主義、主張、思想、信念、好み、クセ、とらわれ、思い込み、勘違いなど自分の価値基準です。家庭環境や親からのしつけ、教育、個人的体験、周りの影響などによってモノサシがたくさん作られます。・そしてその物差しとは、人によって、時代によって、場合によっていくらでも変わります。文明が進めば進むほど、社会が複雑になればなるほど、数が増え、モノサシの基準が時によって変わり、状況によって変わり人によって変わります。法律、ルール、マナー、常識などもモノサシです。社会の秩序を維持するためには必要なものです。しかし、これらは都合によって時代とともに変化してゆきます。・自分のモノサシと人のモノサシは一致しません。・モノサシの不一致によって、怒りや悩み、利害の対立、トラブル、争いが起こるのです。特に宗教の対立などはその最たるものです。・モノサシが丈夫なほど怒りが強くなり、悩みが深くなり、対立が激しくなります。・モノサシがやわらかければ、「まあ、いいじゃないか」と冷静になり、話し合える可能性が生まれ、解決できる可能性が生まれます。・双方のモノサシがやわらかであるならば、解決はもっと簡単になります。怒りは、「自分が正しい」という思い込み(ものさし)から生まれます。戦いは、正義感や怒り(モノサシ)から生まれます。悩みは、本音と建前(モノサシ)の違いから生まれます。トラブルは、双方の正義感(モノサシ)から生まれます。幸不幸は、価値観(モノサシ)からうまれます。自信喪失、自己嫌悪、コンプレックスはとらわれ(モノサシ)から生まれます。嫉妬は、執着(モノサシ)から生まれます。すべての不幸はモノサシから生まれる。以上の視点から、是非善悪の価値判断をして相手を批判しそうになった時は、少し間をおいてみることが必要です。そして事実関係をさらに把握して、その背景に思いをはせるという態度がとても重要になると思います。(非対立の生き方 高木善之 ビジネス社より引用61から63ページ)
2016.01.14
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心理学では「ピグマリオン効果」が知られています。これはある実験で、先生に「クラスの生徒の中でこの子は、本人が気がついていないかもしれないが、IQが非常に高い子なのです」と知らせます。実はそれはウソで、普通の子なのです。ウソの情報を先生に教えて、そうして、1学期、2学期の間過ごします。そうすると不思議なことにIQが高いとされた子どもの学力が本当に上がるのです。なぜかというと、先生が「IQが高い子なんだ」ということを思いこんでいるからです。もちろん先生としてはIQが高いかどうかにかかわらず、すべての生徒を公平に扱っているつもりです。しかし、「IQが高い子だ」という先入観を持っているので、気がつかないうちに、他の子よりも少しだけ手をかけるのです。そうするとその子は、「先生が手をかけてくれたので、ちょっとがんばろうかな」と思って頑張るわけです。そのことによって、先生は「ああ、この子は本当に頭がいいのだ」と思い込みを強くするわけです。それでますます手をかけるようになります。こんなふうにして、本当に成績が上がっていきます。先生が持っている先入観、思い込みによって、先生の行動が変わり、その影響を受けて相手が変わり、それで自分の思いがさらに強くなるのです。マイナスの思いこみ、否定的でネガティブな思い込みを持っていると、人間関係が悪化してくることがあります。例えば、新しく赴任してきた管理職が前管理職から引き継ぎを受けます。部下についての人事評価もあります。自分に何かにつけて反発して、営業成績もノルマ以下の営業マンについて、「彼はやる気が全くない。仕事に対する熱意のない最低ランクの営業マンです」といったとします。新管理者が前管理者は彼のことをそう思っていたのか。でも事実を確かめてみないといけないなと思ってくれると救いがあります。逆に新管理職がそれをまともにとってしまうと、彼は浮かばれません。昇進の道は断たれて、相互に悪影響を与えあって対立関係に陥ってしまいます。神経質者は事実をよく見ないで、先入観や思い込みで悲観的、否定的に考えることが多いように思います。そう考えたときには、その根拠となる事実はあるのか。間違いのない事実なのかと実際に確かめてみることが必要となります。(アドラー実践講義幸せに生きる 向後千春 技術評論社 82ページより引用)
2016.01.08
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先日車を運転していた時のこと。前の車の人が信号待ちで止まっていた時に、中央分離帯の植え木の中に空き缶を投げ捨てていました。植え木の中を見ると空き缶がいっぱいありました。その他弁当のカラのようなものもあります。たまにタバコの吸いかけのようなものを、まだ火がついているのに車外に投げる人もいます。私の勤務しているマンションでも、タバコのぽい投げをする人がいる。解放廊下には塩ビのシートが張ってある。ポイ捨て場所は黒く変色している。直すことはできない。張り替えしかない。また壁に火のついたタバコを押しつけて消している人もいる。大規模修繕工事が終わったばかりなのにすぐに汚くなってしまう。またある人は、駐車場の死角になっているところに、弁当ガラ、飲物の空き缶、汚物等を巻き散らかしている人もいる。監視カメラにすべて録画されているのが分かっていても何食わぬ顔でやってしまうのである。先日のテレビ報道では、テレビ、冷蔵庫、クーラーなどはリサイクル料がかかり、大型ごみでは市役所が持って行ってくれないので山奥に持っていって捨てる人が後を絶たない。そう言えば富士山の世界遺産への登録が遅れたのも、ゴミの多さであったという。ヒマラヤでは世界各地の登山家の残していったゴミの山であるとも聞く。どうしてそんなことを無神経にできるのか。自分さえよければ、道路、マンション、山が汚れても平気なのか。親はどういう教育をしていたのか。親の顔が見てみたい気がする。これをどう考えていったらよいのだろうか。ポイ捨てをしても罪悪感が全く起こらないという人は、もうどうすることもできないのかもしれない。その人たちはポイ捨てによってゴミが片付いて自分たちがスッキリすれば、他の人に不快な思いをしてもなんとも感じない感性しか持ち合わせていないのである。一方その人たちのせいで、なんともいえない不快な気持ちになる私たちの方はどうか。その人たちのふるまいを決して許すことはできないと思っている。見つけると処罰しなければ気が収まらないと考えている。これを森田理論で考えてみたい。ポイ捨てする人とそれを苦々しく思っている人は価値観が全く違うのだと思う。ポイ捨てする人は、ゴミは我々が支払っている税金で業者が清掃すれはいいではないか。そんな小さいことで目くじらを立てるな。神経質で嫌味な奴だなと思っている。我々はしかるべき時に分別収集して出せば、税金も無駄にならないし、第一清潔で気持ちいいじゃないかと思っている。相方が全く反対の気持ちを持っているのである。こういう場合、まずポイ捨てする人には、環境破壊の現実を教える必要があると思う。次に、ポイ捨ての事実をよく見ることだ。そして、ゴミ箱、灰皿を設置する。あるいは喫煙場所も設置する。自動販売機のそばに空き缶回収箱を設置する。それでもポイ捨てする人はいるだろう。その場合は、その事実を認めるしかない。そして自分が片付ける。今でも年に2回は自治会主催のゴミ拾いの集まりがある。事実を認めると、相手を非難して対立関係になることは少なくなる。事実を処理する方に気持ちが向いていく。どんなに理不尽で、腹だたしいことであっても、価値判断しないで事実をよく観察して、事実を認めていくという態度が事態を好転させる。
2015.12.30
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盲目の津軽三味線の名人に高橋竹山(1910-97)さんがいた。北島三郎の「風雪ながれ旅」のモデルになった人だ。この方は若いころは生きるために「門付け」を行っていた。津軽の家々を回り玄関先で三味線演奏をしてなにがしかの施しをもらって生活していた。寒い雪の中を歩き、石を投げられたり、三味線を壊されたり、施しをもらえなかったりと苦労の連続でした。とくに戦争中が一番苦しかった。高橋竹山さん曰く。「目が見えなくて戦争にも行けん、役にも立たん、ゴク潰し、非国民と言われ、ひどい仕打ちを受けた」そうです。それでも、へこたれずに精進を重ねて演奏技術を磨いてこられたのでしょう。これこそ森田でいう「生の欲望の発揮」だと思います。50歳を過ぎてようやく認められるようになり全国のステージに立つことができるようになりました。さまざまな賞もいただきました。さらにフランスやアメリカ等で海外公演も行いました。厳しい評論で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずしてなんであろう」と最高の賛辞を贈ったそうだ。晩年は自分の人生などについて吶々と語りながらの演奏スタイルをとった。その中でこんな話をされた。「あの頃、誠に苦しい体験をしました・・・・叩かれ、蹴られ、石を投げられ、三味線を壊されました・・・・何も悪いことをしていない自分に、なぜそこまで・・・・つらかった、苦しかった、悲しかった・・・・でもその人たちに申し上げたい・・・・許してください」私はこの「許してください」という言葉に衝撃を受けた。普通なら、あんな理不尽な仕打ちは決して忘れることはできません。今でも憎み続けていますというのではなかろうか。また自分だけが病気で目が見えなくなった。どうして自分だけがこんな運命にもてあそばれなければならないのか。運命を呪ったとしても不思議ではありません。百歩譲ったとしても、「もうその人たちのことを恨んではいません・・・・そのおかげで今があるのですから・・・・きれいさっぱり忘れて許してあげたいと思います」というのが普通だと思います。それを聴衆に向かって「自分を許してほしい」と頭を下げられた。許してくださいというのは、自分が相手に何か悪いことをして罪悪を感じている。懺悔の気持ちを感じて膝まづいて心の底から詫びているのである。私はここに高橋竹山さんの、人間としての素晴らしさを感じます。森田理論で考える私の解釈はこうだ。高橋さんは、長らく自分は被害者という気持ちがなかなかとれなかったのだろうと思う。そして自分に対して理不尽な言動を繰り返す人たちは加害者である。つまり他人といつも対立関係にあったのだ。それは相手の言動を悪いことをしていると価値判断していたということだ。運命に対しても、過酷な運命に翻弄された自分は被害者だという意識だったのだろう。それを途中で気がつかれたのだろう。盲目というのも事実。人から理不尽な扱いを受けているのも事実。事実はそのままに認めるしかない。それを自分はいいか悪い、正しいか間違い、幸福か不幸というように価値判定をしている。事実をそのまま認めて事実そのものになりきって生きてゆけばいいのではないか。価値判断をしてしまうと相手に腹を立てたり、憎んだりする。また自己嫌悪、自己否定で苦しみや葛藤を作りだし、生きる意欲が無くなってしまう。価値判断は自分勝手な思いこみ、勘違い、とらわれ、錯覚、執着がもとになっている。他人には他人なりの思い、考え方があって当然だ。自分の思いや考え方とは全く違う。それが対立していてはけんかになるばかりである。価値判断を止めて事実だけを認めて生きてゆこう。どんな過酷な運命でも、どんな理不尽な言動でもそこを出発点にして少しでも上を目指して生きていくことにしよう。実際に高橋さんは人の魂を揺さぶる演奏を披露されている。「自分を許してほしい」というのは、今まで是非善悪の価値判断をして自分や他人に反発ばかりしていた。もう二度と価値判断をすることはいたしませんという強い決意の表れだったのではないでしょうか。この考え方は神経症が治るという点から見ると第3段階目にあたります。森田先生の言う大学卒業程度にあたります。この段階に到達することはとても難しい。竹山さんが理解して実践されていたということが驚嘆にあたいするのである。
2015.12.24
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お医者さんがガンを告知するかどうかは大変気を使われるそうだ。直接告知すると患者さんがショックを受けて生きる気力を無くしてしまうからである。現在は大分医療も進歩してきて、そうでもなくなってきたが、以前は、末期がんはガンの告知はすべきでないという医者が多かったようだ。しかし、自分の症状がガンということを知らないで亡くなるということは弊害が多い。告知をしないということは、森田理論でいえば事実と向き合わないで、事実を隠蔽するということである。自分の症状の本態が分からなければ、ああでもない、こうでもないと考えて疑心暗鬼になってしまう。そして痛みだけが強くなってくるので不安感がどんどん膨らんでいく。そして患者同士の会話の中で自分はガンだと分かると、医師や家族に対する不信感が芽生えてくる。反発するようになる。体の不調の原因がガンであるという事実が分かるとメリットが多い。伊丹仁朗医師によると、第一に、自分の意志で納得できる治療法を選択できる。第二に治療、闘病に全力投入できること。第三に家族、友人と隠し事なく心を通わせて闘病できることだと言われる。実生活の利益としては、生きているあいだにぜひしたいことを実行するチャンスを逃がさずにすむし、もしもの場合にそなえて遺書を書くなど、現実的な対処ができるという。Nさんはガンと知らないうちはタバコを吸っていた。妻はガンということができないから、タバコは免疫力を低下させると分かっていても、タバコをとめることができなかった。告知をしないことはこのような不利益もあるのだ。ガンという事実を突きつけられれば、いったんはまさか自分がガンになるなんてと思う。次にショックを受けて悲嘆にくれる。どうして自分がこんな目に合わなければならないのかと思う。そういう感情を十分に味わっていると次にどうするかという段階に移行することができる。心が落ち着いて自分のなすべきことがはっきりしてくる。事実に向きあわないと、そういうプロセスを踏まないので、意気消沈し、破れかぶれになって、ガンの進行を早めてしまうのである。ただ告知にあたっては十分な配慮が必要だと伊丹医師は言われる。医師にとって大事なのは患者が希望を失わないように援助することである。患者本人がガンに対する精神的抵抗力を身につけたうえでガンと知ることが大切だと言われているのだ。つまり機械的に告知をするのではなく患者を見て、患者への配慮も欠かせないと言われている。例えばあなたはガンですと言わずに、「ここに腫瘍のようなものがある」「現在の医療では決め手となる治療法がない」という言い方をすることもある。こんな煮え切らないいい方でも、患者さんにとっては単純明快で歯切れがよいという場合もあるということです。これは森田でいえば白か黒ではなく、グレーゾーンの告知ということだろうか。(モンブランに立つ 平尾彩子 リヨン社 108ページ引用)
2015.12.18
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不快な感情はいろいろある。イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、恐ろしいなどなど。これらに対して、しみじみとその感情を味わっている事はあるだろうか。神経症に陥っている人は、とらわれを取り去ろうと格闘したり、逃げたりすることが多いのではなかろうか。水島広子氏によると、イヤな感情は十分に味わうことをしないと、いつまでもつきまとわれて、抜け出すことが困難になるという。イヤな感情は、最初は否認しますが、どうにもならない感情は絶望に変わります。ところがイヤな感情にきちんと向き合わないで、ごまかしたり逃げたりしていると、十分に絶望の時期を経過していない。そして絶望を乗り越えることができなくなってしまう。これが大問題だと言われているのです。私たちが不安にとらわれて神経症に陥ってしまうのは、イヤな感情に対する向き合い方に問題があるのかもしれません。Aさんは結婚を約束していた人をバイク事故で亡くした。彼の父親から連絡があったが、ショックのあまり自室にこもりきりになり、顔を見に行くこともできなかった。お通夜、葬儀に参列できなかった。その後やっと1カ月過ぎて普段の生活に戻ったが、半年経っても気持ちが晴れることはなかった。それどころか、食事がとれなくなり、明け方目覚めては彼のことばかり考える。不眠に悩まされ、受診した病院でうつと診断された。水島氏は、彼女が、彼の死に直面するための儀式をすべて避けてしまったことが問題だと言われています。お通夜やお葬式というのは、形式的なようでいて、案外重要な儀式です。そこに行けば、嫌でも相手が亡くなったという現実に直面するからです。また、親しい人同士でともに悲しみ合う場としても重要です。「お葬式に行ったところで彼が生き返るわけでもない」と、儀式を避けていると、悲哀のプロセスが「否認」のところで止まりかねません。Aさんは、彼との思い出のものをすべて避けて暮らしていました。これも同じように問題です。彼との思い出の場所を見ては、「ああ、彼はいなくなってしまったんだ」ということを改めて認識する。彼にもらったものを見ては「ああ、彼がこういうものをくれることはもうないんだ」ということを改めて認識する。そして、思い出の品を整理して処分したり、別の場所に位置づけたりする作業を通して、少しずつ現実に直面していくのです。。これらは、心の中での小さなお葬式の積み重ねということができるでしょう。悲哀のプロセスを「否認」から「絶望」へと進めていくためには、不可欠の儀式です。この時期、悲しいのは当たり前だとして、むしろ積極的に悲しみに直面していくことが大切です。そうすることで、悲しみという感情から抜け出すことが可能となるのです。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社 56ページより引用)
2015.12.07
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アドラー心理学では人間の行動にはいつも目的があって、人間はその目的に向かっていくと考えているのです。これは、今現在の行動は、過去とは一切関係が無くて、これから先どうするか、どうしたいかという、その人の将来の欲求、希望、目的とだけ関係があるということです。つまり、自分がある感情に基づいて行動をしたら、心の中に、ある欲望や目的があって、その欲望や目的を達成するために、感情を作りだして使っているんだというように考えるのです。感情は欲望や目的を達成するための手段になっているというのです。森田では感情は自然現象でどうすることもできないものだと言います。でも、もし相手を自分の思い通りにしたいという欲望や目的がなかったとしたら、怒りの感情は発生しないようになっているというのが不思議です。このように、アドラーは、怒り、恨みというような感情は、自分の目的を達成するために利用しているのだと考えているのです。例えば、子どもが朝なかなか起きてこなくて、お母さんがイライラして、感情的に叱っちゃいけないと思っていても、やっぱり叱っちゃた。でも、あれは感情がそうなったんだからしょうがないわと思っちゃう。私は本当はいい人で、その時だけたまたま感情的になっちゃった。だから私のせいではなくて、感情のせいだと考える。これは違うんです。本当は子どもを思うがままにコントロールしたいんです。子どもをコントロールする時に感情的になると、相手を威圧できるし、また自分自身に「今は感情的になっているから、何をしても許されるんだ」って言い訳ができるでしょう。そのために感情を作りだすわけです。だから、感情というのはある目的のために作り出される手段にすぎない。よくよく考えれば感情を使わなくてもいいんだけれども、ごまかしのために、われわれは感情を作りだす。だからそこのところを、われわれ自身がきちんと見抜いていれば、人間関係をこわすような破壊的な感情は出てこない。子どもを叱る時、この子を思えばこそということがあります。部下を叱る上司も同じです。これは違います。子どもが気にくわないから、部下が気にくわないから叱っているんです。自分の好みに合わせたい、相手を自分の好きなように支配したい、自分の好む相手に変身させたいから。でも、あからさまにそう言うと道徳的に体裁悪いじゃない。でも心の奥底には、私は私の好みどおりの子どもにしたい、好みどおりの亭主に改造したい、お姑さんを全く私の思うとおりに動かしたいと思っているんです。でも現実には自分の思うように相手をコントロールできないでしょ。相手を自分の思うように動かすことはできないでしょ。ほとんどの場合そうです。相手は一人一人自分とは違った意思を持つ人間なのですから。仕方なく自分の指示、命令に従ったとしても、心の中で反抗しているのです。すると人間関係がぎくしゃくしてきます。森田でいう「思想の矛盾」に陥ってしまっているのです。自分の考えと相手の考え方にどうすることもできない解離がある。だからイライラして悩む。そしてうつ状態で苦しむということになるわけです。最近自己主張の大切さをよく耳にします。アサーション訓練などがそうである。でも根本的に相手に対して、支配欲求、コントロール欲求が強く、いつも前面に出ていては、アサーション訓練は相手と対立を深めるだけになってしまう。ただ単に相手とのコミュニケーションのテクニックを磨いたとしても、相手と支配、被支配関係の態度ではうまくゆかない。このことはまずもって自覚しておくことが大切だと思う。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 74ページ参照)
2015.12.03
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どこの会社でも指示命令系統がはっきりしています。取締役会での会社の方針は、社長、部長、課長、係長、主任、社員へと伝達されます。そして全体が一丸となって目標達成のため頑張ります。ではここで質問です。社長は社員と比べて偉い人なんでしょうか。一般社員は上司と比べて人間的に劣っているのでしょうか。私はそうは思いません。そう考える人は、仕事での役割分担と個人の人格を一緒にしているのだと思います。管理職になるような人は目標設定能力のある人です。またそれを実現するために創意工夫の出来る人です。さらにリーダーシップがとれる人です。人を束ねて、一つの方向に向かって誘導していく力あります。一方そんな能力が全くない人もいます。目標設定能力もない。対人折衝能力もない。でもコツコツと努力して自分に与えられた仕事だけならきちんと成果を出すことができる人もいます。会社ではそういう人も欠かすことはできません。また人間関係が希薄な専門職や研究職としてだったら力が出し切れる人もいます。これはどういうことでしょう。人それぞれに能力や力量が違うということを意味しています。人それぞれ違いがある。個性を持っているということです。でもそれぞれの人が持っている独自の存在価値に上下があるということではありません。これはオーケストラの指揮者にも言えることです。全体を束ねて指揮をしていくのが得意な人もいます。そうではなくてバイオリンの演奏技術で勝負していく人もいます。指揮は上手だが、演奏技術のそれほどでもないという人もいるのです。プロ野球でも現役の時目立った成績は残していないのに監督として素晴らしい仕事をする人。現役の時は選手として素晴らしい成績を残した人が、監督としては成果を上げることができない人。これも人それぞれに異なった素晴らしい存在価値は持っているということです。どちらが人格的に優れている、劣っている、あるいは良いとか悪いとかの評価とは関係がありません。ここでよく間違えるのは、管理職、指揮者、監督が偉い。人格的にすぐれているとみなすことです。これは組織として目的を達成するための役割分担にすぎないのです。会社の役職者が平社員と比べて人格的にすぐれているということではありません。この点をしっかりと押さえてほしいものです。この点をしっかりと理解していると、人間関係の持ち方が変わってきます。相手を自分の思いのままに動かそうとしなくなります。これを誤解すると上司が地位や権力を利用して部下に罵声を浴びせることがあります。世にいうところのパワーハラスメントです。これは越権行為です。直接的でなくても、心の中でいつも他人をコントロールしようと思っていると、何かの拍子に必ず言動に出てきます。これらは上司が部下を見下して、自分の思い通りに動かそうとしているのです。役割の分担を人間の価値の上下と取り間違えてはならないと思います。人間が他の人間を支配したり、被支配に追い込まれると腹が立ったり、怒りが出てきたりします。これをタテの人間関係といいます。アドラーが言うように人間関係はヨコの関係を基本にしないといけません。ヨコの人間関係は信頼、尊敬、評価、協力、共感、寛容、平等という言葉がよく似合います。そこでは勝ったとか負けたとか、優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとかの人格評価とは無縁な世界だと思います。人間の生きる苦しみの多くは、相手を自分の思い通りに動かしたいということからきているのではないでしょうか。会社、家庭、学校等の人間関係でタテの人間関係を中心にしていると自分も他人も不幸になります。タテの生き方をやめて、ヨコの生き方に意識的にくり組むと葛藤がなくなりますのでとても楽になると思われます。
2015.11.25
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野田俊作さんの本にこんな話があった。夫が夜遅く帰ってきます。妻は腹を立てました。「あなた、今ごろまで一体何をしてたのよ」と怒りました。この妻の怒りの感情の目的は、夫を脅かして早く帰宅させることが目的です。でも遅くなって怒られた夫は妻のことが嫌いになるかもしれません。夫婦仲は険悪になります。こんな些細なことがチリと積もれば修復不可能となりかねません。お互いに離婚を考えるようになるかもしれません。こんな時は、野田さんは次のようにアドバイスしました。私メッセージを使って、「私はあなたが遅くなると寂しいので、早く帰ってもらえないかしら。あなたが早く帰ってきてくれると本当にうれしいんだけど」すると妻は、「そんなこと金輪際言えません。腹が立って仕方がないんですから」と言われたというのです。これは妻が自分の思うように夫を操りたいという気持ちが前面に出ているからだと思います。夫を自分の言いなりにできると思っているのです。つまり常に戦闘状態にあるのです。自分の思い通りに夫を動かしたいという気持ちが強いと、夫がその通りに行動してくれないと腹が立ちます。怒りを無くそうと思えば、夫といえども自分の自由にはならない。だから早く帰ってきてほしいという自分の希望は伝えるけれども、どう行動するかは相手に任せるしかない。時には自分の思い通りになることもあるが、半分以上は自分の思いとは反対の行動をとられる。するとがっかりする。ショックを受けることもあります。反対にそれは自分の希望を伝えて、その後の行動は相手の自主性に任せるしない。自分には命令や強迫で相手を操作する権限はない。と思っていれば腹は立ちません。そもそも夫婦関係はどちらが上でどちらが下というようなものではないのではないでしょうか。そういう方は夫婦の人間関係以外のところでも、対人関係が勝ったか負けたか、屈辱を受けたか、屈辱を与えたか、自分がよいか悪いか、優れているか劣っているかという価値判断をしているのです。力関係が自分の方が強ければ、相手を自分に従属させようとします。反対に自分の方が弱いと、陰で相手を批判したり、足を引っ張ったり、距離をとるようになります。これは縦の人間関係にとらわれているのです。相手と自分を常に価値判断のまな板に載せて闘っているのです。縦の人間関係にとらわれると勝ち負けにとらわれて、いつも対立するようになります。そして怒りや怯えがつきまといます。こういう人は人間関係を改善するには、横の関係を意識するようになるといいのです。縦は勝ち負け、支配被支配の関係になりますが、横の関係はお互いに存在価値を認め、協力的な関係、信頼関係の構築が基本になります。相手との関係を良好にするためには何が必要なのか。どう行動すればお互いの関係がよりよくなるのかと考えることです。将来的によりよい人間関係に発展するように努力することです。その過程では自分の考えを自由に述べてもいいのです。論争することはよいのです。でも自分の考えを一方的に相手に押し付けるのではなく、相手の言い分もよく聞かなくてはなりません。相手を尊重し、相手を信頼し、相手の身になって考えることが必要です。そして譲り合い、協力しあってよりよい人間関係を作り上げていく。多くの食い違いを突き合わせて、折り合う接地点を見つけるように努力する。森田でいうと「かくあるべし」的思考から、事実本位の態度に転換することを意味します。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.11.19
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神経症で苦しんでいる時は、話が抽象的になる。さらにみんなに知られたくない都合の悪い話は隠してしまうのでますます分からなくなる。話が抽象的になる人は問題のある事実をよく見ていない。意識的に事実から顔をそむけて見ないようにしたり、隠蔽しようとする。自分の目で事実を確かめもしないで、人が言っていたことを真に受けて先入観や思い込みで事実をねつ造してしまう。事実を観察しないですぐに分かったつもりになって、性急に価値判断をしてしまう。その間違った妄想のもとで行動してしまう。その妄想は論理的に飛躍しており、マイナス思考、ネガティブ思考に偏っている傾向がある。私たちはこのように事実をあまりにも安易な態度で取り扱っているのである。出発点からしてすでに大いに間違っているのである。そういう事実軽視の生活態度が神経症に陥る原因となっているのである。神経症に陥らなくても、葛藤や苦悩を産み、他人との軋轢を生じさせている。事実にこだわる。事実こそが神様であるという視点立たないと、その先どんどん間違った方向に進んでしまう。最後には迷路にはまり取り返しのつかないことになる。自分の目の前に現れる不安、恐怖、不快な感情から目をそむけてはならない。よく観察しないといけない。問題になる事態をよく把握する。事実をありのままに認める。事実を受け入れる。決して安易に事実を捻じ曲げてはいけない。自分の都合のよいように捻じ曲げて解釈してもいけない。事実はお金を扱うのと同じように丁寧に取り扱わないといけない。事実はありのままに見ることである。すると葛藤や苦悩のない生活ができるようになります。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察しているとそれぞれの違いが見えてくるということです。森田先生も常識にはとらわれない人でした。常識は自分の目で観察して、自分の足で確かめるという態度を崩されることはありませんでした。事実を確かめるということ。事実を具体的、赤裸々に話すということ。これらは面倒なことです。でも神経症から解放されるためには必要不可欠なことです。
2015.11.12
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心理学者の内藤誼人氏がこんな話をされている。カナダにあるトロント大学のマクセラ・キャンベル氏によると「自分の外見が気に入らない」と思っている人のうち41%は、「好きな人にもあえて近づかないようにする」という行動をとる。自分の外見が気に入っている人は、好きな人がいれば、自分から挨拶をしたり声をかけたりする。ところが、自分の外見が気に入らない人は、せっかく好きな人に出会っても、自分から声をかけることをせず、むしろその場から逃げてしまうわけである。おそらくは「恥ずかしい」という気持ちが先に立ってしまうからであろう。(心の誘導術 内藤誼人 廣済堂出版212ページより引用)この傾向は日本人に多いのではなかろうか。ここでいう外見とはイケメンとか、美人ということだろう。顔立ちがよい。背が高い。太っていない。ハゲていない。自分の容姿のことを言っているのだろう。そういう人はますます磨きをかける。メイクにしても、服装にしても、持ち物にしてもそれなりに気を配っている。髪を整えたり、服にアイロンをかけたり、靴はピカピカに磨いている。それが心のゆとりや自信につながり、対人関係にも前向きで積極的になれるのである。ところが容姿に全く自信が持てない。またそんなことは人間の価値とは全く関係ないと思っている人は、どちらかというと無関心になる。手入れが行き届かない。それが自分自身への信頼感を少しずつ失わせて、劣等感が強く出てくる。どうせ自分は誰からも相手にされるはずがないと決めつけてしまうのである。自分で自分のことが好きになれないのに、他人が自分のことを好きになるはずはないと思っているのである。この問題をどう考えてゆけばよいのだろう。自分の身体に愛着を持ったり、自分の身の回りの持ち物を大切に取り扱うことは大事である。生まれつき容姿に恵まれていない人もいる。重い障害を持って生まれてくる人もいる。みんな平等というわけにはいかない。100%完璧な人間という人はいない。不平等だけれども、今現在の自分の状況を見極めて、その状態を受け入れて、精一杯磨きをかけることは誰でもできる。私は以前にも投稿したことがあるが、この世での自分の身体は神様からの預かりものであるという考え方に立っている。死んで魂が身体から離脱する時、身体から、欠点や弱みを抱えた身体をよくいたわり、支えてくださいました。感謝しても感謝してもつくせません。またいつか生まれ変わってペアを組んで新たな課題に挑戦しましょう。そう言ってもらえるように誠心誠意努力することが重要なのではないかと考えています。
2015.10.27
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事実を受け入れる。事実に服従するためのキャッチフレーズとなる言葉があります。「これでいいのだ」「これでちょうどいいのだ」という言葉です。「これでいいのだ」というのは赤塚不二夫の天才バカボンの口癖です。この2つの言葉を自分や他人に不平不満を感じたときに、何も考えずに口ずさんでみるのです。人前で恥ずかしかったら心の中で口ずさんでみるのです。すると不思議なことが起こります。だから魔法の言葉なのです。例えば仕事でミスや失敗をして上司に叱責されました。あるいはノルマが達成できずに叱責されて改善を求められました。対人恐怖の人はその言葉に否定的に鋭く反応してしまいます。上司に怯えまくり、さらに自分を否定してしまいます。その後は上司の言動にビクビクして、仕事どころではなくなります。反面ミスや失敗したことは蚊帳の外になってしまいます。どこまでも自分の中に湧き起ってきた、不快な感情に振り回されているのです。そんな時「これでいいのだ」と口ずさんでみるのです。あるいは心の中で呟いてみるのです。この言葉は現実を肯定する言葉です。どんなに腹が立っても、理不尽な現実にやるせない現実であっても、一旦その現実を受け入れましょうという起爆剤になるのです。すると不快な気持ちを引きずったり、自分を否定したりすることが少なくなります。しだいに自分の引き起こしたミスや失敗の内容の方に意識が向いてゆきます。これはこの言葉によって事実を受け入れていくということであり、物事本位になることでもあります。また、両親、配偶者、子ども、友人、親戚、隣近所の人からの言動で、不平不満が湧き起ってくることがあります。あるいは自分の理想水準からあまりにも劣っていると思うことがあります。すると、相手を非難したり、叱責したり、腹をたてたりします。そんな時は、「これでちょうどいいのだ」と口ずさんでみるのです。反発の感情がでてきたときに、何も考えず自動的にこの言葉を発してみるのです。この言葉は、自分の容姿、性格、素質、能力、持ち物、運命についても言えます。理想の自分と現実の自分を比較して、現実の自分を否定しているのです。森田でいう思想の矛盾に陥っているのです。そんな時はないものねだりをしないで、今現在の状況を認めるのです。この2つの言葉は、自分や他者の存在価値を認めて、そこからさまざまなことを考えていく出発点とすることができるのです。不安や不快な感情に対してなかなか受け入れることができないという方は、この二つの言葉をキャッチフレーズにして取り組んで見られたらどうでしょうか。
2015.10.13
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対人恐怖の人はイヤな対人場面が予想される場合、すぐに逃避します。私の場合、訪問営業をしていた時は、人が恐ろしくて仕方がなかったのです。いつも仕事をさぼっていました。それが悪いことだというのは重々承知しています。逃げた瞬間は少しだけ楽になります。逃げるのはよいのですが、そのあと暇を持て余すようになります。どうして時間をつぶそうかと考えます。そんなことをしていると、何と自分は情けない奴なんだと自分で自分を責めてしまいます。そして夕方になって事務所に戻るのが恐怖になります。ノルマの半分ぐらいで帰ると上司から叱責され、同僚からは冷ややかな目で見られる。針のむしろに座ったようななんともやりきれない心境に追い込まれるのです。これではうつ病や胃潰瘍を発症したのも無理はなかったと思います。さて、ここで逃げることは本当にダメなのかを考えてみたいと思います。私は今では必ずしもそのようには考えません。逃げたから命が助かった。大事に至らずに事なきを得たということは誰でも経験していると思います。例えば韓国でのセオール号の沈没事故ではすぐに海に飛び込んで逃げた人が助かった。東日本大震災ではすぐに高台に避難した人が助かった。プロ野球を見に行って、ファールボールが飛んできて逃げきれなかった人がけがをしたことがあります。右往左往しているうちによけきれなかったのです。ボールをよく見て30センチでも逃げていればケガをしなくて済んだのです。交差点を渡っている時、前方不注意の自動車が人をはねることがあります。こういう時は、歩行者も注意して危ないと思った瞬間すぐに逃げないといけません。逃げてこその物だねです。それなのに私たちは「逃げる」という言葉によいイメージがありません。ネガティブだ。男らしくない。負け犬だ。恥ずかしい。消極的だ。やる気がない。暗い。じり貧だ。困難な状況に立ち向かわないで、安易に逃避、回避している人を見るとこちらまで落ち込んでくる。そんな人とは付き合いたくない。でもよく考えてみてください。他人から指示、命令、脅迫されて逃げているのではないのですよ。自分自らが判断して逃げているのです。逃げないで立ち向かっていく方法もあったのです。そこをあえて逃げる方法を選択したのです。それは何か意味があるのではないか。それは一時的にではあっても自分の身体、心の平穏や安全を確保しようとしたのです。それのどこが悪いというのでしょう。自分を守ろうとすることのどこが問題なのでしょう。結論をいうと問題が大ありです。逃げてはいけないという価値判断を自分自身に押し付けていることが問題なのです。自分の「ここは逃げたい」「逃げるべきだ」という自然な感情や判断を批判していることが問題なのです。もし、自分の行動を非難しないで行動の事実だけを見つめることができたらいかがでしょうか。そこには是非善悪の価値判断がありません。自分の中にいる二人の自分はいがみ合うことがありません。完全にいたわりあい、励まし合う関係にあります。すると自分の中での心の葛藤は生まれません。そこには逃げたという事実があるだけです。そのあとの結果は別です。逃げてよかった場合もあれば、逃げてさらに苦しさが増してきた。時には精神を病むということもあるわけです。そういう場合は結果を謙虚に反省して、苦しくても逃げるとさらに苦しみは増悪していく。だから気持ちはスッキリしないけれども、墜落しないように超低空飛行で仕事にしがみついていこうか。ここで言いたいことは、「逃げることは悪いことだ」と勝手に判断してはダメだということです。「逃げたい」と思うことはよいも悪いもない。内なる自然な私たちの感情なのです。私は今自分の身体と心の安全を確保するために、逃げたいと思っているのだなと認めることです。自然な感情を素直に認めてあげる。それでいいのです。これが自分に対する礼儀というものです。感情はどんなに醜く卑猥であると思えるものであっても、最優遇待遇でもてなしてあげることです。感情には意思の自由はないのです。
2015.06.29
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ソニー生命で抜群の営業成績をたたき出している人がおられる。林正孝さんである。おもに法人営業をされているようである。林さんが言われるには売る保険商品はみんな同じである。決め手は林さんから買いたいと思わせる何かを持っていないとうまくはいかないという。そのヒントを横浜のラーメン屋で見つけた。そのラーメン屋はもちろん味がよい。でも味のよいラーメン屋はそこら中にある。横浜のラーメン屋の特徴は弟子たちへの厳しい教育。怒鳴る、手を出すのは当たり前。オーナーには息子がいたが、息子まで逃げ出すほどの厳しい社員教育。さらに客にも厳しい。効率よく回転させるために、客が半分入ったら半分は出される仕組みにしている。早く食べないといけない。しかも愛想が悪い。行儀の悪いお客にはお湯をかけたりする。それでも人気がある。それは、列に並んでいる間、店の外で弟子たちが練習している風景を眺めて楽しむことにあった。どういうことかというと、客が並んでいる横で、汗を流しながら弟子たちが必死にタオルで麺上げの練習をしているのだ。本人たちは真剣なのだが、まるで曲芸のようで、見ている方としては楽しい。林さんはこれにヒントを得た。まず基本に絶対的な営業力と知識を習得しておく。でもそれだけではダメだ。その上でお客様は他の営業マンとの違いを求めてくる。お客様を自分のファンにしてしまうことが大切だ。そのためには2つある。1、 自分に有益な情報をもたらせてくれる人間2、 経営の話ができ、耳の痛いことも正直に言ってくれる人間そのために経営の基礎を学んでいる。韓非子や孔子の考え方を知らないと経営者との会話は弾まないという。会社の重大な局面では自分に相談が持ち込まれることがあるという。さらに差別化された情報を届けるためにしょっちゅう世界中を飛び回っている。たとえばベトナム経済が活発で株高の時はベトナムに飛んだ。実体験するためである。でもベトナムで株は買わなかった。なぜかというと、開いても期待する株は買えなかった。ベトナムは外国人投資家の購入比率が決まっており、株価が上昇する株はすでに抑えられている。これらは目で見てきたからこそ分かることである。インターネットで検索しただけでは差別化できる情報にはならないのである。アラスカにも飛んだ。オーロラを見るためである。でも見れなかったという人が多い。それは夜10時から出発して約2時間で帰ってくるツアーからだ。2時間でオーロラが出る確率はとても少ない。ではどうするか。ツアーに参加した人が30分ずつ手分けをして零下25度の中で見張りをするのだ。だれかオーロラが出たと言ったらみんなで見に行く。これはビジネスで活かせる考えだと言われる。ロシアで戦闘機ミグに乗って成層圏に行ったり、対テロ特殊部隊に体験入隊もされた。そのほかいろいろと実際に現地に出向いて自分の肌で感じた情報を得ておられる。その情報が会社の経営とどう関係しているかまで考えて話をしておられる。我々はとてもそこまでのことはできないが、実際に体験したり、実験したりして真実を掴むという態度は林さんから学びたいものだ。自分の頭で考えたことを、事実のように思ったり、事実そのものとして扱うと神経症に陥ってしまうのは森田理論学習で学んだ通りである。(1年の目標を20分で達成する仕事術 林正孝 大和書房より引用)
2015.06.13
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