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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次にもう一つの詳細な「案内板」へ。左側は「七堂伽藍跡から出土した遺物七堂伽藍跡からは、多くの遺物が出土しています。写真は古墳時代前期から平安時代までの土器類の一部をまとめたものです。古代では、土器のほか瓦や金属製品なども出土していますが、その中には、寺院の存在をうかがわせる仏教関係の多くの遺物をみることができます。土器 灯明皿土器の口縁部や内側に煤痕がみられるもので、灯明皿として使用されていたものです。灯明皿はまとまって出土する場合があり、万灯会などの仏教行事が行われていたことがわかります。土器 墨書土器土器に文字などが墨書されているもので、写真資料は「生」という文字が読めます。当時この地域で力があった壬生氏との関係も考えることもできるかもしれません。軒丸瓦屋根の軒先に使用される瓦で蓮花の花の文様がみられます。相模国分寺(海老名市)や相模国府域(平塚市)より出土している瓦にも、同じ文様がみられることから、その関係が注目されます。写真、上から土器 灯明皿土器 墨書土器軒丸瓦仏鉢 須恵器と呼ばれる窯で焼かれた土器で、形は僧侶が修行に使用する 托鉢と同様な形をしています。 高さ11.9cm、口径15cm。鉄製釘 釘の断面形は現在のような丸ではなく四角をしています。 推定講堂の周辺からややまとまって出土しており、建物に使用された 釘であることを窺わせます。壁材 廃棄土坑からまとまって出土していたもので、熱を受けています。 火災にあった建物の壁材である可能性が高いと思われます。ニ彩陶器当時の焼物としては高級なニ彩陶器が出土しています。 薬壺(やっこ)(上段左側) 薬壺の蓋でつまみを有しています。 径5.1cm。 壺(上段右側) 小型瓶のロ縁部です。 残存高は1.3cm。 火舎香炉(下段) 仏具に関連するもので、三足と思われますが、右側は火を受けて 足が欠損しています。 左側高さ4.85cm。右側3.9cm。鋼製品七堂軏跡からは出土例が少ない鋼製品も出土しています。 銅匙(上段) 長さ15.9cmで、一部が欠けています。銅成分の調査から、国内の材料ではない ことが明らかになっており、朝鮮半島から持ち込まれた可能性があります。 都との関わりを考えることのできる資料です。 軸端(下段左側) 経典などの巻物がずれないように軸の両端に密着するもので、神奈川県では 初めての資料です。最大径1.85cm、長さ3.1cm 懸仏(下段右側) 円板につけられる十一面観音菩薩。時期は古代末から中世初頭と考えられます。 この場所で信仰が継続ていた可能性が高いのです。高さ3.1cm。」「発掘で明らかになった七堂伽藍跡」中央左側案内。整地層寺院を建立する際に地形を平坦にする造成工事が行われた跡が、整地層などから確認できました。土層観察によると寺院の北側を中心に広くみられることから、北側が低い地形であったことがわかりました。推定講堂 掘立柱建物(四面廂(ひさし))伽藍域内中央西寄りには、規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間で、各辺に廂のある建物が建っていたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。また、数回の建て替えが行われており、掘立柱建物から、礎石建ち建物に変遷しています。廃棄土坑土坑は穴のことで、大量の焼土とともに火を受けた瓦や土器などがまとまって埋まっていました。なかには火を受けた壁材と思われる塊もあり、火災にあった建物の瓦礫を捨てたものと思われ、火災が起きた可能性を示しています。区画遺構(掘立柱塀)西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期の掘立柱塀が構築されていたと思われ、不整ですが方形にお寺が区画されていたことが明らかになりました。中央右側の案内。瓦集中遺構割れた瓦が大量にまとまって出土している遺構で、範囲は東西約5.6m南北約7 .7mを測ります。この瓦は建物の基礎を固めるために二次利用されたと思われ、伽藍区間の北東外側に位置していますが、寺院に伴う施設と思われます。区画遺構(築地塀)伽藍域を示す北東部分では並行する溝の跡が確認されています。土を版築して構築された築地塀にともなう溝と考えられます。再建期のものと考えられ、一辺78mの正方形に区画されていたことがわかりました。推定金堂 基壇建物南北15.8m東西1 8.8mの範囲で地盤改良された遺構(堀込地業)が確認されました。これは地盤を硬く固め、瓦葺きなど重量のある建物を建てるためのもので、仏像を安置する重要な建物である金堂であったと考えられます。確認された礎石径約70 cm厚さ約30 cmの大きな石が検出されましたが、上部が概ね平らに加工してあることから柱を置く礎石と思われます。関連する礎石は発見できす建物の向きや規模ははっきりしていません。周りには礎石を据え付ける為の人頭大の石が置かれていました。右側の案内「七堂伽藍跡と下寺尾官衙遺跡群」。遺跡配置。「七堂伽藍」とはお寺を示す言葉で、この場所には今から約1300年前の古代(飛鳥・奈良時代)にお寺が建っていました。地元では長い間、古いお寺があったと言われていましたが、1978年に行われた発掘調査で、古代寺院の存在が明らかになりました。本遺跡は七堂伽藍跡という名で知られていますが、所存する地名から「下寺尾廃寺」とも呼んでいます。七堂伽藍跡の周辺には茅ヶ崎市の西方遺跡や北B遺跡、寒川町の大曲五反田遺跡や岡田南河内遺跡など同じ古代の遺跡が確認されており、これらは関連する遺跡であることから全体を下寺尾官衙遺跡群として捉えています。官衙とは役所のことで、西方遺跡では相模国高座郡の役所(高座郡家)が発見されています。この役所を中心に役所である七堂伽藍跡や船着き場(川津)、さらに祭祀が行われた跡など関連する場所が見つかっています。こうしたことから下寺尾官衙遺跡群は、古代における地方の官衙遺跡を知る上で重要な遺跡であると評価され、2015年3月10日付けで国の史跡に指定されました。下寺尾官衙遺跡群が所在るす位置は地理的にみて当時の陸路や海路などを交通の要所てあったことが窺えます。まに、立地する地形は、西に向かって延びる標高約13mの平垣な台地と、台地南側を流れる駒寄川との間に形成された砂州や凹地の低地で、高座郡家のある西方遺跡は台地に七堂伽藍跡や川津は低地にあたり、当時の景観も復原することも可能です。「下寺尾遺跡群略年表」。今から約1300年前のもので、官衙 (かんが) とは役所のこと。当時は律令国家と呼ばれる、天皇を中心とした政治がおこなわれていた時代で、国家を国―郡―里 という形で統治していた。全国は約66か所の国に分かれており、現在の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部にあたる。地方の国には都から役人が派遣されるとともに地方を統治する役所である国府が置かれ、その下の郡には郡衙(郡家)と呼ばれる役所が設けられていた。相模国には 8 郡が存在しており、現在の茅ヶ崎市は高座(たかくら)郡に該当していることから、下寺尾で発見された官衙遺跡は、相模国高座郡の郡役所の跡であることが明らかになったとのこと。発掘調査完了後は、遺跡保護の為に完全に埋め戻され、雑草が生い茂っていたが。その先にはJR相模線の線路が。「発掘調査現場の様子現在の地表面より深さ50cmの位置から、寺院の区画や関連遺跡が発見されています。」。この場所の下の様子なのであろう。遺跡の奥まで歩いて案内板の設置されている方向を振り返る。「推定講堂規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間の建物で、各辺に廂(ひさし)が設けられていたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。また、数回の建て替えが行われており、掘立住建物から礎石建ち建物に変遷しています。」建物跡には「カラーコーン」が置かれていたのであったが、風で?倒れて。タンポポの綿毛が一面に旅立ちの準備を。近寄って。JR相模線、R相模線の「小出川橋梁」方面を見る。そして発掘時の生の現場を見たかったと思いながら「下寺尾官衙遺跡群」を後にしたのであった。菜の花越しに小出川に架かるJR相模線の「小出川橋梁」を見る。歴史を感じさせる橋で随分重厚な感じがあったのだが、曲線が優美ななかなか美しい橋。そして正面に「小出川」が見えた。「小出川の架かる「寺尾橋」が見えて来た。「寺尾橋」とその先に寒川町岡田の住宅街が。「小出川」。橋名板「寺尾橋」。多くの橋名板での、記載事項の設置位置は次のようになっている。道路起点側から見て左側に「漢字表記の橋名」道路起点側から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地物名」道路終点側から見て左側に「竣工年月」道路終点側から見て右側に「ひらがな表記の橋名」 【https://blue.ap.teacup.com/feeling/img/1379837828.gif】より日曜日の為か、車の数は少なく。「小出川」の上流を見る。そして引き返して坂道を上って行くと左側に小さな丘があった。案内板があった。「西片貝塚貝塚の時代 : 縄文時代前期( 6 ~ 7 0 0 0年前頃)立地 : 相模野台地南西端の平坦部北側海抜約12m所在地 : 茅ヶ崎市下寺尾601付近貝の種類 : ヤマトシジミ(主体)、チョウセンハマグリ、 カキ、サザ工など伴出遺物 : 縄文土器(関山式、黒浜式を主に上坊式を含む) 石器(石鏃、打製石斧、削器など)この時期は、地球温暖化による海面上昇で、眼下まで海が寄せていました。小出川、駒寄川の河口には海水と淡水が混ざリ合うラグーン(潟湖)が形成されてヤマトシジミが生息していました。縄文時代前期頃の人々の活動やその頃の自然環境を知ることができる貴重な遺跡です。」「下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落下寺尾官衙遺跡群は、相模野台地南西端のこの地に7世紀終わり頃に営まれた高座郡衙(郡の役所)と南側の低位部に存在した古代寺院(七堂伽藍跡)、及び小出川に築かれた津(船着き場)、河川を利用した祭祀場などからなる古代の公的機関を包括しています。弥生時代環濠集落は、空堀(巾3m深さ2m程度)で囲まれたムラで、関東では最大級の規模といわれていま。(弥生時代中期: 2 0 0 0年前) 」「西片貝塚」跡を廻り込んで見る。左手に見えたのが「茅ヶ崎北陵高校」のグランドであろうか。ここは「大岡越前通り」。「神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校」の旧正門。私が中学1年生であった1963年に設置開校された。当時の高等学校の略称は北陵(ほくりょう)。徳田章(元NHKアナウンサー)、野口聡(宇宙飛行士)の出身校である。旧正門から北陵高校旧跡地を見る。校舎の老朽化に伴い、校庭を活用した建て替えを計画したが、2002年に地中から古代の役所「郡衙(ぐんが)」の跡が見つかったため一時断念。2013年に、遺跡を傷つけないよう、校舎の基礎上に木造校舎を建てる計画を打ち出したが、地元市議会や考古学の専門家が「歴史的資産の公開・活用を無視している」などと反対し、中止に追い込まれた。一方、生徒は2006年から約200メートル先の民有地に建設されたプレハブの仮設校舎で授業を受けて、未だに新たな用地が未決のまま現在にまで至っているとのこと。現在の旧茅ケ崎北陵高校跡地には、体育館(写真奥)とグラウンドだけが残る。校舎は14年に解体され、現在は木の柵(体育館手前)で囲われているのであった。「大岡越前通り」を東に進むと、道路脇の大木が道路側を深く伐採されて。大型車の為に道路上部が円形に刈り込まれていた。茅ヶ崎北陵高校のグランドは旧グランドも使用されていたのであった。そして次に訪ねたのが「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」。正面の多目的ホールを見る。「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」と。「管理棟」であっただろうか?そしてこちらが正門。こちらにも「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」と。正門から多目的ホールを見る。一面に墓地が拡がる。総面積/区画数:55,304m² / 8,129区画とのこと。なんと□230m以上の広さ。反対側にも。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.10
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次更に「茅ヶ崎北陵高校」の東側の道を進んで行くと、正面角に石碑が立っているのが見えた。石碑、案内板を正面から。近づいて。「七堂伽藍跡」と。更に。「下寺尾寺院跡(伝、七堂伽藍跡)茅ヶ崎市下寺尾字西方このあたりは昔から七堂伽藍跡と呼ばれており、周辺からは古い布目瓦や土器が出土し、建物を支える礎石も多数発見されています。「上正寺略縁起」によると、昔この地に、「海円院」という寺院があって寿永・文治の頃(一一八ニ~一一九〇)兵火によって焼け落ちたと記されています。昭和五十三年七月に茅ヶ崎市史編さん事業の一環として行われた確認調査の結果、瓦の破片、灯明皿として使われた多量の土師器などが出土して、このあたりが古代寺院の跡であることが明らかになりました。平成十二年度から開始された詳細確認調査では、寺院の主体である伽藍域を囲む大型柱穴列などの区画遺構が発見されたことから、一辺約八十メートルに及ぶと推定される方形区画の伽藍域を中心に、七世紀の終わり頃に創建された寺院であることがわかってきました。また、この伽藍域の中では、丁寧に版築した「掘り込み地業」と呼ばれる土地造成遺構が確認され、この部分に礎石建ちの主要な建物があったことが明らかになっています。また、こうした調査によって、銅匙、軸端、墨書土器、香炉など寺院に関連する建物も出土しています。なお、石碑の土台石は当時の礎石を利用しています。」「七堂伽藍跡碑について本碑は、昭和32年(1957)12月15日に七堂伽藍遺跡保存会によって建立されました。保存会には、石碑建立の発起人142名、特別賛助員19名、寄付等に協力された45の市内の商店や会社などが参加していました。碑文には、七堂加藍跡の歴史的説明に加え、建立の趣意が次のように刻まれています。「今回我等が建碑の趣意は是等の貴重な資料の保存と今後研究家の訪れるのを待っ為に他ならない」七堂伽藍跡は、下寺尾官衙遺跡群の一部(下寺尾廃寺)として、平成27年(2015) 3月10日付けで国史跡に指定されその中心部が保存されています。今回建碑60周年を記念し、遺跡保存の足跡を後世に継承するため説明板を設置しました。石碑仕様石質 新小松石 産地 根府川規格 高さ325cm 幅44cm 厚さ24cm揮毫 内山岩太郎(神奈川県知事)碑文 撰文 鶴田栄太郎 書 佐々木孝之製作 石工 殿代忠義」建碑式の記念写真 昭和32年(1957)12月15日下寺尾の「人物」&「民話」紹介。「下寺尾の都市資源紹介「人物」 鶴田栄太郎氏( 1888 ~ 1968 下寺尾遺跡群の一画にある「七堂伽藍跡の碑」建立の中心となったのが、鶴田栄太郎氏です.彼は茅ヶ崎生まれの郷土史研究家で、一生を茅ヶ崎の史跡発掘、研究、紹介活動に尽くしました。伝説の七堂伽藍については、本当なのかどうかや時代者証などで多くの議論があり、結論は将来の『研究』にゆだねられました.彼は、この「七堂伽藍」研究を機に、西久保宝生寺の阿弥陀三尊像の発見、東海道ー里塚は、懐島の碑など数々の句碑の建立、大岡祭の開催など茅ヶ崎の文化財保護活動をはじめ、郷土史小冊子「あしかび叢書」を創刊し、郷土史雑誌「武相文化」などにも積極的に投稿し、茅ヶ崎の史跡・文化財を積極的に紹介し読けました。1968年10月20日、講演を終えた後、「これで今日の講座を終わります」と言い終えるや、隣の人に倒れかかり絶命したと言ういきさつは、終生の研究者を象徴しています.近年「古代寺院( 七堂伽藍跡)」の存在が証明され、国の史跡になるにあたり、草むす「碑」のそばに立ら、大いに喜んでおられることでしよう。こんなに素晴らしい宝を探究し伝えてくださった鶴田栄太郎氏に、茅ヶ崎市民として深く感謝いたします。(増田・富水)」「下寺尾の都市資源紹介「民話」 民話 【七堂伽藍】昔、下寺尾に大きな寺がありましたが、火事で焼けて今はありません.この火事は住職の尼さんの比丘尼が、南港の漁師の苦情に耐えかねて寺を焼いたというお話です.今からハ百年ほど昔、現在の茅ヶ崎北陵高校の南の所に、海円院というお寺がありました。大きな規模ですので近在の人々は七堂伽藍とも呼んでいました。比丘尼は、30歳そこそこで、美しく聡明で気立てがよく、近郷の村人にたいへん慕われていました。比丘尼は空腹で倒れていた乞食の助三の看護をして、寺にしばらく住ませていました。お寺の灯明の灯りのせいで魚が取れないという漁師の苦情に思い悩む比丘尼に、助三は心を痛め、本堂を焼いて姿を消しました。海円院の火歩の後、南湖の海ではもとどおり豊漁が続くようになりました.身代わりになって役人に捕らえられた比丘尼は、詮議を受け、処刑されたとのことです.「茅ヶ崎の民話劇 第一集」編集 茅ヶ崎民話の会(要約 川合)」 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/155/vol12.pdf】よりそして更に下寺尾の住宅街を進む。前方にJR相模線の線路が現れた。「下寺尾官衙遺跡群」の上空からの写真を「Google Map」から。右側に「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校旧校舎」、左下に斜めにJR相模線は走る場所。そして前方に「下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡」が現れた。「史蹟 下寺尾官衙(かんが)遺跡群」案内板。ここは相模国・高座郡家のあった場所。郡家(高座郡家)・郡寺(下寺尾廃寺)、関連施設の川津(船着場)・祭祀場などが発掘調査で明らかになっている。相模国では2例目とのこと。寒川駅を過ぎ茅ヶ崎駅方面に向かうと左手に『下寺尾官衙遺跡群」の大きな看板が設置されていてこの文字だけはJR相模線に向いているので車窓からも確認できるのであった。以前から気になっていたが、今回初めて訪ねたのであった。案内板が2基、それぞれ詳細に書かれていた。「史蹟 下寺尾官衙遺跡群」案内板が手前に設置されていた。「発見された下寺尾官衙遺跡群は、今から約1300年前のもので、官衙(かんが)とは役所のこと。当時は律令国家と呼ばれる、天皇を中心とした政治がおこなわれていた時代で、国家を国―郡―里という形で統治してい ました。全国は約66か所の国に分かれており、現在の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部にあたります。 地方の国には都から役人が派遣されるとともに地方を統治する役所である国府が置かれ、その下の郡には郡衙(郡家)と呼ばれる役所が設けられていました。相模国には8郡が存在しており、現在の茅ヶ崎市は高座(たかくら)郡に該当していることから、下寺尾で発見さ れた官衙遺跡は、相模国高座郡の郡役所の跡であることが明らかになりました。」「相模国の八郡現在の神奈川県は、古代においては相模国と武蔵国の一部に該当していました。このうち相模国は、さらに8郡に分けられていました。」相模国には、足柄上(あしがらのかみ)郡、 足柄下(あしがらのしも)郡、余綾(よろぎ) 郡、大住(おおすみ)郡、愛甲(あゆかわ)郡、 高座(たかくら)郡、御浦(みうら)郡、鎌倉 (かまくら)郡の8郡があり、この中でも高座 郡はその位置や大きさなどから相模国の中心的な郡であったと推定されます。 ここ下寺尾は、郡の役所(郡衙)としては、古い 段階に造営されたと考えられます。「史蹟 下寺尾官衙遺跡群下寺尾官衙遺跡群は茅ヶ崎市下寺尾に所在する西方遺跡と七堂伽藍跡を中心に、香川北遺跡や隣接する寒川町の大曲五反田遺跡、岡田南河内遺跡を含めた複数の遺蹟からなるもので、今から約1300年前に古代相模国高座郡に設置された官衙(役所)を中心とした遺跡群です。本遺跡は比較的限定された範囲に郡家(ぐんけ・高座郡家)や郡寺(下寺尾廃寺)さらには関連する施設(川津)と祭祀場などが発掘調査によって明らかになっており、地方における官衙遺跡の全体像や変遷、立地を知る上で重要であると評価され、平成27年(2015)3月10日に国の史跡に指定されました。」「下寺尾官衙遺跡群周辺の景観推定復元図(平成20 (2008)年作成)(田尾誠敏:構成霜出彩野:画)」下寺尾廃寺(七堂伽藍)全域遺構配置図。「下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)」案内「下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)下寺尾廃寺では昔から古瓦などが発見されており、昭和32年(1957)には142名の有志が中心となり遺跡の調査と保存を願い「七堂伽藍跡」の石碑が建立されています。昭和53年に行われた確認調査で伽藍域の範囲、主要建物の内容、年代などが明らかになりました。寺院の年代は創建期が7世紀末から8世紀前半、再建期が8世紀後半、改修期が9世紀第2四半期から中ころ、そして寺院廃絶期は9世紀後半と考えられています。さらに10世紀後半から11世紀代にも仏堂が建てられていたと考えられます。」掘込み地業模式図。金堂発見された金堂は丁寧に版築された掘込地業を伴う基壇建物で、周辺からは瓦が多数出土しており瓦葺きであったと思われます。掘込地業とは重量のある建物を建てる部分を掘り下げ、新たに土や粘土などで突き固め堅牢な地盤として安定させる工法のことです。礎石建物(金堂)の掘込み地業(西から)。講堂講堂と考えられる建物は柱が3間×7間の規模を有する大型掘立柱建物で、東西方向に建てられています。この建物には各面に廂が付いており格調の高い建物であることが窺えます。建物は再建期においてもその場所を引き継ぎながら建替えられたと思われます。大型立建物復元図(上)大型堀立柱建物(北から)(下)伽藍域寺院の伽藍域については、大型柱穴列や区画溝によって規模や時期が確認されています。創建期には掘立柱塀によって区画され、不整の方形に囲まれた形であることが、また再建期には築地塀によって一辺78mの正方形に区画されていたと考えられます。区画遺構復元図(築地塀)(上)区画溝と土器集中遺構(北から)(下)区画遺構復元図(掘立柱塀)(上)大型柱穴列(掘立柱塀) (北から)(下)案内板 中央部。「川津と祭祀場小出川河川改修に伴う調査で、川津(船着き場)が発見されました。近くには掘立柱建物が複数並立して建っており、役所に関連する物資の荷揚げや積み出しのための一時保管施設であったと考えられます。時期は8世紀後半から9世紀中ごろと考えられています.また川津が発見された付近からは、人面墨書土器や、皇朝銭、斎串などが出土しており、この場所で水辺の祭祀が行われていたことが明らかになっています。官衙周辺で行われていた穢れなどを祓う神祇祭祀がここでも行われていたと考えられます。」小出川河川改修関連遺跡の河道跡と祭祀関連遺物(「小出川Ⅱ・Ⅲ」より転載一部改変)河道跡と川津(北から) (「小出川Ⅲ」より転載)案内板 右部高座(高倉)郡家郡庁、正倉、館、厨など郡家を構成する建物が明らかになっています。郡家の範囲は区画を示す溝状遺構が発見されており、東西約270mの規模を有していた時期があったと思われます。また、郡家の年代については中心となる郡庁の遺構状況からⅠ期が7世紀末から8世紀中葉、Ⅱ期が8世紀中葉から9世紀前半と考えられています。なお、郡家は台地に配置されており往時は遠くから郡家の存在を知ることができたと思われます。正倉正倉は納められた税を保管していた倉庫で、郡庁北側約100m地点で、東西方向に総柱の高床構造を持つ掘立柱建物が4棟以上並んで建っていました。また、南側には並行して東西方向に2間×12間以上の長い建物があったことも明らかになっています。郡庁郡家の中心となる郡庁は政務や儀式が行われた場所で、規模は東西約66mを測り、中央に位置する正殿は建物の四面に廂(ひさし)が付いていた格調の高いものでした。当初は正殿の北側に後殿、東と西側に脇殿が配置されていましたが、後に塀で区画する形に変化しています。祭祀場みずき地区の区画整理事業に伴う調査では、発見された旧河道から木環、墨書土器、皇朝銭、銅鈴、櫛、さらには漆紙文書などが出土しています。川津付近で発見された祭祀場と比べるとやや仏教的要素が見受けられる内容の祭祀が行われていたことが窺えます。」雑草の生える遺跡の中に防草用?&遺跡保護用シートが貼られた帯状の一角があった。「寺院の伽藍域を区画する遺構寺院西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期のものと想定される堀立柱塀が構築されていたことが明らかになりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.09
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は4月17日(日)、3回目の「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」にJR相模線の「香川駅」からスタートする。線路に沿って進み、踏切を渡らずに反対方向へ。香川 浄心寺前の「双体道祖神 」その横に五輪塔部位の積み重ねが。茅ヶ崎市香川5-9-23 「双体神祇道祖神」に近づいて。この日の最初に訪ねたのが歴史のある日蓮宗寺院「浄心寺(じょうしんじ)」。神奈川県茅ヶ崎市香川5丁目8−1 。「浄心寺」は通称「七面さん」と呼ばれている と。「開運 七面大明神」碑。七面天女は、法華経行者の守護神・鬼子母神(きしもじん)の子どもにあたる十羅刹女(じゅうらせつにょ)の一人であるとも、八大龍王の孫娘の一人にあたる龍神だともいわれている。高座の説法に参席していた見知らぬ美しい女性に向かって、日蓮上人が「本体をあらわしなさい」と言うと、「私は釈尊の使命を受けて大法守護のため派遣された七面天女です。これより七面山に住んでお力になりましょう。」と答え、龍の姿になって飛び去って行ったということです。以後、七面天女を末法の鎮守としてお祀りしたと伝えられ、七面山敬慎院としてその霊験をあらたかにしているのだ と。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板。「熊沢山 浄心寺」は、文禄4年(1596年)に浄心院日敬上人により開山された日蓮宗の寺院で、通称「七面さん」と呼ばれている。そして香川村の熊沢氏によって開基 と。「熊澤酒造」と関連のある人物なのであろうか。元々寺・寺院は仏教における修行の場であり、俗世から切り離れた世界だったため、山の中に寺院を作ることが多かったので、山を切り開くということで「開山」というようになった。開山は初代住職で、開基は寺院の創始にあたって経済的支援を行った人、スポンサーとなった人のことであるようだ。ただし、宗祖を特に「開山」と呼ぶ宗派もある。浄土真宗では、宗祖とされる親鸞を「開山」(「御開山」)とも呼ぶことから、末寺の創始者を「開基」と呼んで区別する。曹洞宗では、道元を「開山禅師」と呼んでいる。「浄心寺」の入口門。「熊沢山(くまざわさん)」。 「浄心寺」。「本堂」。入口門とは向きが異なる「本堂」。左手にあった石塔。「南無妙法蓮華経 高祖 日蓮大菩薩」と。三橋勘重郎の「供養塔」。名主で農地整備などに尽力したが、飢饉の折に領主に直訴して処刑されたのだと。勘重郎については、この供養碑のほかは記録も無く、詳細は不明とのことである。香川の古老の伝承ということになっている。それによると、勘重郎は、寛政二年(1790)ごろの名主であった。当時の香川は、本間忠左衛門季賢の知行地で、石高は三四七石二斗六升であった。年貢は米で納めることになっていた。ここ香川は開村以来水利のきかない土地で雨がなければ収穫皆無もあり、無残な生活に陥った。この頃は、毎年不作が続き、名主の勘重郎は年貢の軽減を奉行所に嘆願したが、聞き届けられず、単身江戸に赴き、強訴に及んだ。その結果、願いは通ったが、強訴は御法度。勘重郎は、財産没収、死罪になった。寛政五年三月(1793)村中総施主という異例の供養を行い、石塔を建ててねんごろに慰霊の式をあげたのが、今に残る供養塔の由来とされている。旱天に一滴の雨さえない天水場の嘆きはその後も続き、昭和六年(1931)でさえ未曾有の旱魃に襲われ、田が割れて植え付け不能となったため、やむなくまずい外米何百俵かを部落で一括購入して凌いだことさえあったといわれている。供養塔正面には「俗名三橋勘重郎妙法実相院寿仙日量霊 村中世話人惣施主十二月二十九日」と。右側面には「寛政五癸丑 村澤山十八世日啓代奉誦久遠偈十八万巻為菩薩 三月朔日 村講中面々祈祷」 左側面には「本間氏 為先祖御菩提 御武運長久」の文字が刻まれていた。こちらにも題目碑。「南無妙法蓮華経 日蓮」碑。石祠。「本堂」を正面から。「常香炉」。「伏見稲荷大社」と。「浄心寺」を後にし、茅ヶ崎市香川5丁目に住宅街を北に向かう。正面に橋が現れた。川の名は「駒寄川」。橋の名は「中通橋」。上流側を見る。下流側を見る。前方の橋の先で「小出川」に合流する。そしてJR相模線の踏切を渡る。「下寺尾第一踏切」と。JR相模線の電車が通過。その先にあったのが「駒寄川右岸調整池」。この日は調整池には水はなく。調整池とは開発に伴って失われた保水機能を補うため、雨水を一時的に貯めて河川への雨水の流出量を調節することにより洪水被害の発生を防止する施設。そしてこちらが「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」の現在の校舎。「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」。1963年に設置された。高等学校の略称は北陵(ほくりょう)。私が中学2年生の時に開校したのであった。これは仮設校舎であるようだが・・・・。理由は、明日に。更に東に進むと左手の高い場所にあった「稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾343。石段を上り鳥居の前から「社殿」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.08
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「八雲神社」の「拝殿」前から境内を見る。左手に「神輿殿」、「手水舎」を見る。右手に「神楽殿」、その先には満開の桜が。満開の桜を見上げて。石鳥居の前の石段を下り正面右側にあった石碑。「なんご(古”)の(能) 茶屋の(乃) 江戸屋では(者)十七を(越)そろえて おめ(女)しを も(毛)らせる」と。クルリ棒による麦打ち作業に唄われていた南湖「麦打ち唄」👈リンク の一節であるようだ。茅ヶ崎にも昔は麦畑がたくさんありました。初夏の頃、収穫期になるとあちらこちらから脱穀のための麦を打っクルリの音とこの唄が聞かれました。刈り取った麦を、よく干してムシロに広げ、クルリで打って粒を落とします。その作業は重労働で、疲れをまぎらし、皆の調子を整えるのに歌われました。『歌詞』南湖の浜にや名所がある 波元には平島沖にゃ姥島南湖ではやる魚売り キスやキス なまキス サメのかまぼこ南湖の茶屋の江戸屋では 十七を揃えておめしをもらせるお前の声を聞きたさに 七つ八つ山越えてここまでも鎌倉殿はよい男 作り木にかんなかけた如くよ上記の解読・出典については茅ヶ崎にお住まいの我が高校時代の学友が執念で調査・解析!!ありがとうございました。そして「萬(よろず) 鐵五郎」案内板「萬 鐵五郎(一八八五 ~ 一九ニ七)萬鐵五郎は明治十八年に岩手県東和賀郡に生まれた。油彩画・水彩画・水墨画(南画)・版画に多数の作品を残した。大正八年、東京から此の地に移り住んで、南湖の海辺や柳島の風景などを描き、また文章の中にも所々に当地が出てくる。昭和二年五月一日茅ヶ崎4275番地(南湖4の5)の自宅において死去した。享年四十一才五か月。彼の芸術は日本近代洋画史上に大きな足跡を残した。南湖・柳島の地名も萬の筆によってより広く、また永く知らしめられることとなった」「八雲神社」前にあった地図、上部が東、右側が相模湾方向。北側から「八雲神社」の境内を見ながらJR茅ヶ崎駅方向に進む。ここが前回訪れた「六道の辻」。東方向を見る。北方向を見る。「サザン通り」に向かって進むと右手奥にあったのが「日本基督教団茅ヶ崎恵泉教会」。茅ヶ崎には様々な宗派の教会があるのだった。「「茅ヶ崎恵泉教会」は、1951(昭和26)年に設立された、日本キリスト教団に属するプロテスタント教会です。しかし、茅ヶ崎におけるキリスト教の歴史は、1899(明治32)年に開設された、結核サナトリウム「南湖院」でのキリスト教礼拝と日曜学校から始まります。その後、「南湖院」の関係者らを中心として、1921(大正6)年に、平塚美普教会の指導の下に、信徒団体「恵泉会」の集会と日曜学校も始められました。それらの活動が母体となって、茅ヶ崎美普教会(後に茅ヶ崎教会と改称)が生まれ、その茅ヶ崎教会から分離独立する形で、茅ヶ崎恵泉教会が設立されたのです。70年の歴史を持つ恵泉幼稚園も、かつてはこの茅ヶ崎恵泉教会の場所にあり、教会もその建物を使わせていただいておりました。1970年に現在の会堂が完成し、1979年には教育館が与えられ、現在の姿が整えられました。また1988年には、この教会の特徴の一つであるパイプオルガンが設置されました。」とHPより。掲示板。隣にあった建物が「日本基督教団茅ヶ崎教会牧師館」であっただろうか。さらに「サザン通り」に向かって進む。前回はシャッターが降りていた「茅ヶ崎サザン神社」に立ち寄る。商店街の事務所だった場所を、2008年茅ヶ崎サザンビーチで結成30周年を記念したサザンオールスターズのライブにあわせ、神社へと姿を変えたのだと。今では茅ヶ崎を代表する観光名所のひとつとなっている と。神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11−13。入口に形どられた朱の鳥居の扁額には「サザン神社」と。サーフボードには「茅ヶ崎 サザン神社」と。「茅ヶ崎サザンC」のモニュメントと「烏帽子岩」の姿も描かれていた。内部には狛犬と社殿が写真にて。壁には大きな「寄せ書きコーナー」が。反対側にも。サザンオールスターズの歌・「神の島遙か国」👈リンク。「御祈祷メニュー」(右)。「御祈祷メニュー」(左)。サーフボードには「サザンSt」と。StはStreetのことであろう。「茅ヶ崎サザン神社」を後にしてJR茅ヶ崎駅に向かって進む。そしてJR茅ヶ崎駅南口に到着。1899(明治32)年頃の茅ヶ崎駅。1887(明治20)年、官営鉄道(現・JR東海道本線)の「横浜駅」(現「桜木町駅」)から「国府津駅」間が開業し、湘南地方へと延びた。当時、駅は「東海道」の旧宿場ごとに設けられる方針だったことから、「茅ヶ崎駅」は設置されなかった。その後、茅ヶ崎・鶴嶺両村を中心に近接村の賛同も得ながら開設運動が行われ、1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業した。開業当日には多くの人が集まり、神楽、相撲、手踊り、花火などが催されたという。当時、新橋からの所要時間は約2時間。開業当初の頃の一日平均乗者数は、150~200人程度であった と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p02.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.07
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「八雲神社」。〒253-0061 神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目4−29。狛犬(右)。角度を変えて。足下に、見上げる子供?の狛犬の姿が。狛犬(左)。石鳥居を潜った先正面に「拝殿」。左手に「神楽殿」。「松苗植樹記念之碑」大戦末期、連合軍の本土上陸に備えた陣地構築の用材として、八雲神社の松が伐採されてしまった。戦後、復元のために地域の協力によって植樹を行ったことを記念して、昭和54年3月に建立された。碑碑高126㎝、幅63㎝、厚さ11㎝、台石25㎝。碑正面:「松苗植樹記念之碑(篆書)時ハ昭和十九年大東亜戦争モ決戦 ノ時ヲ迎ヘテ敵ノ本土上陸ヲ阻止 スルタメ日本軍ハ湘南ノ海岸線ニ 陣地ヲ作ル用材トシテ八雲神社ノ 松モ古木数本ヲ残シテ伐採サレ終 戦後ハ神社トシテノ荘厳サヲ失イ 見ルニ忍ビズ中町同志会員ガ発起 シ区民多数ノ協力ヲ得テ昭和二十五年四月二十九日会員ノ奉仕ニヨ リ目的ヲ達成セリ」裏面:「発起人(中町同志会員)尾高長吉 青木武重 青木義治 池田重太郎 飯島元義 飯田梅吉 岡崎正則 鈴木仙太郎 鈴木長五郎 鈴木冨士松 鈴木孫丈 竹ノ内金太郎 永島大次 林梅吉 三橋卯之助 三橋武重 山本菊司 米山芳男昭和五十四年三月吉日建之 松涛書」幕末の嘉永4年(1851年)銘のあった「双体神祇道祖神」。「〆金神・風神」この石碑は?「南湖麦打唄記念碑」と。下部には朱書きの文字が。「拝殿」を斜めに。境内の南側に建つ「戦没者慰霊碑」。中町区の戦没者58柱(日清戦争1柱、日露戦争1柱、大東亜戦争56柱)を合祀する慰霊碑。昭和37年3月15日に同地区民らによって建立された。裏面に建立由来及び戦没者氏名、享年、戦没年月日が刻されている。碑碑高259㎝、幅106㎝、厚さ19㎝、台石48㎝、基壇70㎝。「戦没者慰霊碑」に近づいて。碑正面:「戦歿者慰霊碑 八十□ 重郎書」碑裏面:「日清・日露及大東亜戦争に應召され幾多の困苦の末不幸戦歿された方ゝに対し其の靈を永久にお慰めし平和な国を建設することを誓って中町区民の総意によりこの碑を建立しました 昭和三十七年三月十五日 中町区・・・日清日露戦争、大東亜戦争での戦没者の名前、年齢、歿日が数多く刻まれていた・・・ 松濤鈴木冨士松 謹書 四ツ角 富田石材店刻」「石鳥居」と桜を振り返る。「神輿殿」。ネットより「八雲神社」の神輿を。 【http://www.scn-net.ne.jp/~mickun-7/konjyaku/yakumo/yakumonomikosi.htm】より正面に「拝殿」。石灯籠(右)。台座がユニーク、地震等で倒れないのであろうか、心配。石灯籠(左)。右手に「手水舎」そして両脇に「奉納碑」。右側の「奉納碑」2基。左側の「奉納碑」2基。「拝殿」を再び。「南湖中町八雲神社とも呼ばれていると。現在は市内中島の日枝神社の兼務神社である。創建年代は不詳。口碑によれば、郷土が拓けてより、郷民が産土神として奉祀したものだという。御祭神は素盞嗚尊。江戸時代前期の正保・慶安年間(1644年-1652年)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されると、宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願したという。また、大山阿夫利神社詣の人々は、当社で遠く大山を望んで遙拝することが多かったために、当社境内を石尊山と称したという。江戸時代中期の宝暦12年(1762年)、当地が幕府の天領となり、また附近に砲術場もあって、幕府要人も来往の度に当社に参拝したという。江戸時代後期の天保2年(1831年)、当時の名主である茶屋町の重田八郎左衛門により社殿が再建された。明治に入り、社殿は改築されたが、明治24年(1891年)12月、火災により焼失。翌明治25年(1892年)には本殿を、明治37年(1904年)7月には拝殿が再建された。大正12年(1923年)9月の関東大震災では、本殿を残して倒壊。昭和5年(1930年)から3ヶ年計画により、昭和8年(1933年)3月、完全に復興した。昭和19年(1944年)、太平洋戦争の際、米軍の本土上陸を阻止するため、湘南海岸線に築く陣地の用材として、当社の古木が使用された。境内の古木は数本を残して伐採されたという。現在は、松苗植樹記念の碑がある。また、平成13年(2001年)7月、屋根が修復された。」とのネット情報。「注連縄」の後ろにあった「扁額」には「八雲社」と。唐破風下・唐破風懸魚の彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)の見事な彫刻。「素戔嗚尊(すさのおのみこと)のオロチ退治」の場面と。「素戔嗚尊」の後ろにいるのは「奇し稲田(くしいなだ)姫」。オロチに呑まれるところを「素戔嗚尊」に助けられたと。木鼻(右)。木鼻(左)。拝殿の扉にも見事な鳥の彫刻が。精緻なキジ?の彫刻なのであろうか?右側。左側。拝殿の扁額「八雲大神」。脇障子(右)。脇障子(左)。旗竿が邪魔!!海老虹梁(右)の龍の彫刻。海老虹梁(左)。「八雲神社の由来 祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建年代は不詳なるも、口碑によれば郷土が開けてより、郷民が土産神として奉祀せるに始まり正保(1644~1648) 慶安(1648~1652)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されるや宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願する者多く、特に大山阿夫利神社詣の人々は、遠く大山を望んで遙拝するを常とせり故に境内を石尊山と称した。宝暦十二年(1762)、当地が幕府の天領となるや、又、附近に砲術場もあって幕府要路の人々も来往の都度当社に参拝するを常とせり。社殿建立の記録は天保二年(1831)、当時の名主茶屋町の重田八郎左衛門により再建され明治十四年一月これを改築、明治二十四年十二月火災により焼失。翌二十五年本殿を、三十七年七月拝殿を完成した。大正十二年九月一日の関東大震災には本殿を残し倒壊。昭和五年より三ヶ年計画にて、昭和八年三月完全に復興した。平成十三年(2001)七月、屋根を修復する。この由緒ある当社は、南郷地方の総鎮守として古来より郷民の尊崇をあつめ、今日の荘厳をみるに至る」屋根をズームして。「本殿」を右側に廻り込んで。南湖の最も歴史のある神社で、南湖全体の氏神だったが、明治に入り、地域が大きくなると、南湖は茶屋町・鳥井戸・上町・中町・下町の5つの町内に分かれた。当社はそのうち、「なか」と呼ばれる中町の氏神になっている。他の地区にも現在はそれぞれの氏神が祀られている。・茶屋町…茶屋町大神宮・鳥井戸…御霊神社・上町……金刀比羅神社・中町……当社・下町……住吉神社」とのネット情報。本殿を左側から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.06
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「茅ヶ崎公園野球場」の前の「高砂通り」を北に進むと左手にあったのが「茅ヶ崎公園体験学習センターうみかぜテラス」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目3。茅ヶ崎公園内に建設されたこのうみかぜテラスは、青少年の自立心育成、高齢者・障害者の健康やいきがいづくりをテーマに、野球場や庭球場などの周辺施設と連携しながら、あらゆる世代が交流できる施設を目指している。延床面積3296・42平方メートルの地下1階、地上2階で、海抜7〜8mの地点にあり、津波一時退避場所としての役割も兼ね備える。また、太陽光をふんだんに取り入れられるよう大きな窓が配置され、明るく開放的なイメージに仕上がっている。地下は、世代を超え多様な体験学習を実施できる多目的室、ピアノや音響設備を備えたスタジオ、調理室などを設置。半地下から1階は、素足で遊べる育児向けの集会室や新オリーブ広場などを配置。2階は、和室などのほか、屋外にはまかぜ菜園や子どもたちが遊べる広場などが整備されている。」とネットから。5月28日(土)に開催予定の「姥島(烏帽子岩)自然観察会」の案内。「えぼし岩に上陸して、観察会をします。」「うみかぜテラスで育てた朝顔(NAOKO☆アサガオ)の種を配布します。宇宙朝顔について平成22年(2010年)に宇宙飛行上の山崎直子さんと一緒に約9か月間宇宙に滞在したのが「NAOKO☆アサガオ)です。今回皆さんへお配りするのは、1階花花壇とオリーブ広場東側花壇で育てた「NAOKO☆アサガオ」の8代目の種です。昨年は7代目の種を市民のさんへお配りし、朝顔の成長を記録していただくための『私の朝顔自慢』も一緒にお渡ししました。44作品がうみかぜテラスに届きました。一部を紹介します。」「今回は「NA〇K〇☆アサガオ」(宇宙朝顔)を全部で400袋用意しました。1袋には20粒ほどの種が入っています。宇宙へ思いをはせながら、個人で、こ家族で朝顔づくりに挑戦してみてはいかがでしようか。開花を楽しんたり、「緑のカーテン」を作ったり、地球環境問題についても是非考えてみてくたさい。「NA〇K〇☆アサガオ」は開花の時期が遅いのが特徴です。また、発芽や開花がない種があるかもしれません。こ容赦くたさい。」「宇宙朝顔の種を配布中です。」「体験学習センターうみかぜテラス」各階案内図。「体験学習センターうみかぜテラス」の建物を入口から見る。隣にあったのが「恵泉幼稚園」。 神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目1−19。「恵泉幼稚園」の北側の路地を進むと、見事に手入れの行き届いた民家の庭のイトスギ(糸杉)?の樹。「恵泉幼稚園」の北側の駐車場後ろの擁壁には様々なモザイク画?の動物壁画が。前方の舟に向かって進む動物たち。旧約聖書・「ノアの箱舟」👈リンク に乗り込む動物の姿が。「ノアの箱舟」をズーム。「恵泉幼稚園」の園舎を見上げる。屋根には「風見鶏」の姿が。そして次に訪ねたのが「茅ヶ崎市文化資料館」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目2−18。自然、歴史、民俗といった文化財や茅ヶ崎を語るに欠かせない郷土資料の保護・保存の必要性が叫ばれ昭和46 ( 1971 )年7月1日に開館した。各種資料の記録・収集・保管、さまざまなワークショップや展覧会等の教育・普及活動を展開。しかし茅ヶ崎市歴史文化交流館への移転準備のため、令和3年3月末をもって休館した と。「茅ヶ崎市文化資料館」入口にあったのが「西行法師の歌碑」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目5−60。「西行の歌碑文治ニ年(一一八九)年八月十五日、源頼朝が参詣のために鶴岡八幡宮の鳥居に近づくと、老僧が一人たたずんでいました。その老僧は西行であり、頼朝は彼を招いて武芸や歌道について話を聞いたとされています。西行. (元永一年(一一一八)年~建久一(一一九〇)年)は、東国の武将藤原秀郷(田原藤太)を祖先にもち、朝廷に仕える武者でしたが、ニ十三歳の時、妻子も官位も捨てて出家、真言宗の僧となり、全国を旅しながら自然と仏道に心を寄せ、多くの歌を残しました。『新古今集』の代表的歌人で、歌集に『山家集』があります。西行が頼朝とまみえた時は六十九歳で、この歌は、茅ヶ畸を通りすがりながら、人の世の寂しさを詠んだ歌といわれています。芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に牡鹿鳴くなりこの歌碑は、鶴嶺八幡社の鳥居の古材を用いたものです。以前、国道一三四号のバスロータリーにありましたが、道路改修の際に、折損し、取り除かれました。」途中から折れた歌碑。国道一三四号にあった頃の歌碑(一九六〇年代)。MOA美術館蔵の西行像。 【http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/saigyou/syukke3.htm】よりそしてその先の空き地にあった八重桜も満開手前。この空き地には以前は福祉会館が建っていたが、今後マンションが建設されるようであった。神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目2−42。ズームして。更に。中海岸2丁目の住宅街を西に進む。このあたりの桜の花は頑張っていた。そして次の目的地の「茅ヶ崎館」の案内板が現れた。「茅ヶ崎館」が正面に。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目8−5。「茅ヶ崎館」入口右側には巨石岩が。「登録有形文化財第14-0148-0151号この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」と。「茅ヶ崎館」の創業は1899年(明治32年)。茅ヶ崎の別荘地・保養地としての歩みを具体的に示す存在であり、湘南にかつては多く存在した海浜旅館としての様相を良く残す。小津安二郎監督、新藤兼人監督ら松竹の黄金期を支えた監督や脚本家の定宿としても知られ、現在も映画人の利用が多い。旅館としての宿泊・予約制の飲食サービスほか、映画上映会やコンサート、かるた会などのイベントも行っている とウィキペディアより。廻り込んで。小津監督が定宿にしていた「二番」の部屋をネットから。机も、実際に使っていたものと同じ。コップの跡まで残っている と。 【https://entrie.net/amy/210611/】より唐傘天井の浴室は明治時代から残っているもの。床には関東大震災時にできた亀裂が生々しく残る と。 【https://entrie.net/amy/210611/】よりそして「サザン通り」を渡り中海岸4丁目の住宅街を北に進む。民家の庭では、ピンクのサクラと白のハナミズキが競演・共演中。そして「日本キリスト教団 茅ヶ崎教会」に到着。神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目2−18。「日本基督教団 茅ヶ崎教会」。掲示板。「今月の御言葉御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある ローマ書十章八節」「茅ヶ崎教会は、日本基督教団所属のプロテスタント・キリスト教会です。1927年に創立し、以来、茅ヶ崎の地で伝道活動を続けています。当教会は、教会員の手により建てられた会堂が特徴のひとつです。これからも、説教と聖礼典に基づく主日礼拝を大切にしながら、主イエスの愛を実践する教会として、地域への宣教に取組んでまいります。」とHPより。窓のステンドグラスをズームして。そして「鉄砲道」に向かって「美濃部の坂」を進む。神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目2。「鉄砲道を中海岸自治会館から西へ50m程進むと、南方への坂道があります。近くに美濃部達吉・亮吉の居宅があったことから「美濃部の坂」と呼ばれています。達吉は明治〜昭和時代の憲法学者です。大正デモクラシーといわれる時代背景の下で明治憲法の解釈論争が起こり「天皇機関説」を唱えました。議会から非難を浴び、貴族院議員などの要職を辞職しました。達吉の子・亮吉は経済学者で、1967年に東京都知事となりました。軽妙な語り口と「美濃部スマイル」で知られています。達吉・亮吉や家族が過ごした居宅は今はなく、住宅地となりました。」とネットから。そして再び「鉄砲道」に出る。「神奈川県営水道」のマンホール蓋。中央に県の花:ヤマユリ,県の木:イチョウの葉,県の鳥:カモメ をデザイン。蓋全体が青く塗られていた。「鉄砲道」を横断し直進する。桜の花をここでもズームして。次の目的地の「八雲神社」に向かって中海岸4丁目の住宅街を西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.05
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「茅ヶ崎海岸」の西側にあった「八大龍王神」前から「茅ヶ崎港」方面を見る。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」が見えた。右手のカルバートは封鎖されていたが、以前は川が流れ込んでいたのであろうか?そして前方に人気のモニュメント「茅ヶ崎サザンC」が姿を現した。「サザンビーチモニュメント「茅ヶ崎サザンC」。このモニュメントは、ニ人で円の側に立っと円が結ばれ完結する、「縁(円)結びの輪」であると同時に貧困や民族対立、環境汚染や交通禍等、人々が抱える様々な問題に、いたわリや譲リ合う心を思い出し、不完全な円(縁)を完成させ、幸せな暮らしを形づくる、「思いやリの輪」をイメージしています。平成14年3月3日竣工」「茅ヶ崎サザンC」から望む「烏帽子岩」。Cの中央に「烏帽子岩」(えぼしいわ)が写っているが、ちょーっと小さく見えない!?この場所より烏帽子岩まで約1.5km。左手には「江の島」の姿が「烏帽子岩」より大きく見えた。「烏帽子岩」をこの場所からズームして。さらに。「烏帽子岩烏帽子岩は、自然と人間が共存するまち、湘南茅ヶ崎のシンボルです。茅ヶ崎の海岸から約1.2kmの沖合に、大小30ほどの岩が集まる岩礁群(がんしょうぐん)があります。岩礁の一つである姥島(うばしま)の中央に、烏帽子岩はひときわ高くそびえています。頂上は海抜約15mあり、本市の海岸のどこからでも、その姿を目にする事ができます。烏帽子岩と呼ばれるようになったのは、その姿が昔の公家などが被った烏帽子(えぼし)に似ているからです。太平洋戦争後の一時期、米軍が射撃訓練の標的にしましたが、射撃訓練を中止させるために多くの市民の働きかけがありました。姥島の付近は、昔から豊かな漁場として知られ、今も海釣りの場所として有名です。烏帽子岩は四季折々の姿で、茅ヶ崎の海岸を訪れる人々をいつも暖かく迎えています。」Cの上部にはソーラーパネルが。夜間に照明等で光るのであろうか?チタン製で、直径は3.5mだと。Cのリングには「CHIGASAKI SOUTHERN BEACH」と。モニュメント「茅ヶ崎サザンC」を洗浄するボランティアの方々の姿。チタン製のCリングを水洗いされていたのであった。ご苦労さまです!!「ヘッドランド(Tバー)」越しに「江の島」の姿をズームして。沖合の岩場が。この時間は干潮に向けての時間だったのであろうか。そして再び国道134号に戻り「野球場前」交差点まで戻る。交差点を左折して「茅ヶ崎公園」を訪ねた。「園内マップ」。5.56ヘクタールもの広大な土地の中に、野球場、テニスコート、体験学習施設等があった。最初に、野球場南側のレフトスタンドの海側斜面にある「国木田独歩追憶碑」と手前の「日時計」を訪ねた。日時計には「この標識はこの地点における地球上の科学的な位置を示しており、なお太陽の見かけの運行により時刻を知る水平式日時計盤である。緯度経度は日本国経緯度原点(東京麻布旧天文台子午環の中心)において天文測量により決定した値から、三角測量によって逐次算出した国家三角点を用いて球場内に導き、天文方位角測量を行い、位置標の値を算出した。標高は東京湾の平均海水面(永年にわたり測定した干満潮位の中等値)から起算した水準原点に基いて測った国家三角点を用いて間接水準測量を行い盤面上の高さを決定した。」そして「独歩追悼碑」。「国木田独歩と茅ヶ崎国木田独歩(明治四年~四十一年 一八七一~一九〇八)は、詩人・小説家で、『武蔵野』や『鎌倉夫人』はその代表作として知られている。胸を病んで、湯河原などに転地療養を続けた。東洋一の結核療養所といわれた南湖院への入院(明治四十一年ニ月四日)とその死(同年六月二十三日)は、「茅ヶ崎」と「南湖院」が広く全国に名を知られるきっかけとなった。友人の真山青果が海浜旅館・茅ケ崎館に滞在し、「独歩氏の近状を報ずる書」を『読売新聞』に連載して、多くの人が読んだからである。入院の時はすでに筆を執る気力もなく、口述筆記の『病床録』を残すのみであった。田山花袋『東京の三十年』などの文学作品に独歩の死の前後のようすは詳しい。この碑は、齋藤昌三らの発案で昭和三十五年(一九六〇)六月に建てられた。平成二十年六月には、没後百年を記念しての献花式や記念講演会が盛大に開催された。なお、碑の「独歩」の署名は、自筆を拡大したものである。」「独歩追憶碑渚永劫の海に落ちてゆく世世代代の人の流れが、僕の前に横はって居る。独歩」と独歩の顔の線刻とともに記されていた。石碑の裏には「副碑」「本碑の蒙額は牧野英一博士で像は三橋兄弟治画伯、感想文は独歩終焉直前の作「渚」の一節にして碑石は故人にゆかりの湯河原産を、彼町役場より当市に寄贈されたるものにて成る。」レフトスタンドの外から「野球場」を見る。子供たちの野球の試合が行われていた。この後にバッターがライトオーバーのヒットを打ち、ランニングホームランになったのであった。そして見えて来たのが「平和の礎(いしずえ)」の後ろ姿。「平和の礎」を正面から。F R P製の天蓋の中に、直径2m、御影石の球体の「平和の礎」が置かれていた。台石正面には「戦没者慰霊之碑 建立 茅ヶ崎市 平成20年2月」と。「平和の礎」案内板。「平和の礎われわれ茅ヶ崎市民は、今日の平和の礎となられた戦没者の方々の冥福を祈り、この碑が世界の恒久平和の確立に寄与し、平和の尊さが後生に継承することを 願い、記念碑「平和の礎」を建立した。平和の礎の中心の球体は、戦没者の方々の追悼と地球の恒久平和への祈りを表し、世界5大陸を表した五角形の台座に鎮座しました。天蓋は、高さ及び直径が約5メートルの楕円形で、球体を包み込む天空を意味し、礎に込められた追悼と平和の願いが地球全体に広がる思いを込めています。周辺は、バリアフリー化を考慮しながら、公園と一体化し、植栽をするなど市民の憩いの場として相応しいものとしました。あわせて、茅ヶ崎市が宣言する平和都市宣言及び核兵器廃絶平和都市の碑も設置し、戦没者への慰霊とともに平和の尊さを後生に伝えるため、ここに「平和の礎」を建立しました。 平和の礎は、老朽化した平和慰霊塔を建て替えるため、関係団体のご参加をいただき、「茅ヶ 崎市平和慰霊塔建て替え検討会議」を設置し、検討した結果、円や曲線を用いた形状で、現在の場所にこれまでより低層で、塩害に強い材質を用いて建て替えを行い、環境や美観にも配慮しています。」「天蓋:高さ 約4.8m :中心付近径 約4.8m :素材 F R P製 球体:直径 2. O m :素材 黒御影石 台座:五角形 1辺約1 m :素材 御影石 」「ここは戦没者の御霊が祀られています遺族の方々の意思を尊重し、使用には事故のないように十分注意してください。なお、事故等があった場合は、一切責任を負いません。」と。「慰霊塔の記憶」。「平和慰霊塔の碑茅ケ崎市民は明治以来幾たびかの戦争において、祖国の興隆を信じて参戦され尊い生命を捧げられた犠牲者のみ霊を慰め、そのご冥福を祈るためここ茅ヶ崎市公園に市民の浄財と市費をもつてこの塔を建立した。われわれはこの塔を前に永遠の世界平和と、郷土の発展に一層努力することを誓います。」「平和慰霊塔」。「平和慰霊塔の記憶」案内板。「平和慰霊塔の記憶茅ケ崎市民は明治以来幾たびかの戦争において祖国の興隆を信じて参戦され、尊い生命を捧げられた犠牲者の御霊を慰め、そのご冥福を祈るためここ茅ヶ崎市公園に市民の浄財と市費をもつてこの塔を建立した。旧平和慰霊塔は、昭和39年9月に茅ケ崎市遺族互助会から「明治、大正、昭和の各戦争で戦没された御霊に尊敬と感謝の意を込めて追悼するために建立し、永く御霊を顕彰したい」という陳情書が提出され採択となり、市はこれを受け、建立場所を茅ヶ崎公園内に決定し、戦没された御霊を慰めるため昭和42年3月に建立されました。約19メートルの高さにそびえ立つこの塔には、世界平和実現と明治以来の戦没犠牲者の冥福を祈る思いがこめられ、塔の台座には、当時の野村宜市長、深川六郎助役による碑文が刻み込まれ、那智石を敷き詰めた塔の周辺の表面には、太平洋諸島の島々が円形でかたどられていました。平成19年に立て替えによって取り壊しが実施されるまでの約40年間、戦没者の方々の慰霊する場、集いができる場、次代に平和の尊さを伝える場として一役担った施設となっていました。」以前の、高さ19mの「平和慰霊塔」の姿。「慰霊塔の記憶」横から「平和の礎」その後ろの「花の丘」を見る。「野球場」の横には4面のテニスコートもあった。「えぼし号」。茅ヶ崎市が2002年(平成14年)5月25日から神奈川中央交通(茅ヶ崎営業所)に委託して運行しているコミュニティバスの愛称。運行開始当初の車両であるオムニノーバ・マルチライダーは2011年に運用を離脱しているが、そのうち1台は2012年3月21日からここ茅ヶ崎公園に遊具として展示中であった。「しおさい広場」内の遊具場。帆船の形の遊具も。そして「茅ヶ崎公園野球場」。「茅ヶ崎公園野球場」の正面入口を見る。1950年代にプロ野球が開催されたことがあるのだと。近年は、日本女子ソフトボールリーグで使われることがあると。この石柱には何かが刻まれていたのだろうか?再び「茅ケ崎公園 園内マップ」。「茅ケ崎公園」案内ボード。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.04
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鉄砲道」の「松が丘交差点」から「ラチエン通り」の南・海岸方向を見る。小和田村と茅ヶ崎村の郷境には、明治期頃までは、明確な道はなかった。現在は「国道1号」沿いにある「TOTO」(旧「東洋陶器」)の東側あたりから「烏帽子岩」に向かって、通りが真っ直ぐに延びている。この通り沿いにドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエンが住んでいたことから、通りは「ラチエン通り」と呼ばれているのだ。「鉄砲道」の「東海岸北五丁目」交差点を通過。「東海岸南2丁目」を歩く。「鉄砲道」案内板。「JR東海道線と海岸道路(国道134号)との間を東西に貫く道を、一般に「鉄砲道」と呼んでいる。江戸幕府は1728(享保13)年、火砲(かほう)(大筒(おおづつ))の操作や射撃の訓練を目的に南湖から藤沢の片瀬に至る海岸線に鉄砲場を設けた。現在は、国道134号沿いにある柳島記念館に鉄砲場の複製図が展示してある。鉄砲道と呼び伝える道筋は、異説もあるが、柳島河岸(浜見平団地の西南の隅)から旧南湖院の北側を通り、南湖下町の住吉神社から六道の辻を中海岸自治会館前に抜けて、東海岸北から平和学園に至る道筋のことである。現在、鉄砲道の東海岸北五丁目交差点から松が丘交差点の南側には、旧道の一部が残っているところがある。この道を「鉄砲道」と呼ぶいわれは、伊豆の韮山で造った鉄砲を柳島湊(やなぎしまみなと)に荷揚げして、鉄砲場まで運んだからといわれていますが、証拠となる文献などは見つかっていない。鉄砲場の中を縫っていた道という意味からそう呼ばれたと解する方がよいと思われる。」そして「鉄砲道」が「雄三通り」と交わる「雄三通り中央」交差点に到着。茅ヶ崎駅から海に向かう道は「雄三通り」という。2001年(平成13年)愛称名の公募により多数の中から選ばれた。以前は「上原謙通り」といった。上原謙は加山雄三の父親で全国でも珍しい通り名の世代交代と云う事になる。この通り沿いの海に近い所に上原謙の旧居があった事からの命名であった。現在、旧居の建物は既に無くマンションに変わっていた。昭和初年に駅の南側、現在の東海岸南の砂丘一帯は『高砂(たかすな)分譲地』として販売されていた。昭和10年過ぎて上原謙がNo.9区画を購入し、自宅を建て住んでいた。加山雄三の生育地である。赤が「雄三通り」、緑が「ラチエン通り」。横断歩道の先に「雄三通り」モニュメントがあった。歌手・加山雄三は幼少期から茅ヶ崎市で過ごし、2010年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞。湘南サウンドを代表する音楽活動など、様々な場面で茅ヶ崎の名を全国に広められた。また、茅ヶ崎市立東海岸小学校の校歌を作曲されるなど地元への貢献も高く、JR茅ケ崎駅から海に向かってまっすぐ伸びる通りは「雄三通り」と呼ばれ市民から愛されている。2020年にデビュー60周年を迎えたことを記念して、「雄三通り」沿いの東海岸商店会ではこのモニュメントを製作した と。「雄三通り」モニュメント。「海その愛👈リンク作詞 岩谷時子作曲 弾厚作海よ俺の海よ大きなその愛よ男の想いをその胸に抱きとめてあしたの希望(のぞみ)を俺たちにくれるのだ」まち歩きマップ。相模湾が左側、この場所から10min以内の徒歩で円形内を訪ねることが出来ると。海までも10min強で辿り着けることを確認したのであった。「雄三通り」を海岸に向けて進む。現在地を左に入り、「氷室椿庭園」に向かう。ここは「氷室椿庭園」の南出入口。入口案内板。ここが正式な入口であったが開園時間の9:00前であった。「茅ヶ崎市 氷室椿庭園この庭園は、平成3年に氷室捷爾さん・花子さんご夫妻のご遺族の方から寄贈されました。夫妻は、植物、特にツバキを好まれ、多くの品種を生み出しました。園内では千本を超えるツバキを育成中です。貴重な庭園を大切にしましょう。 ・楼蘭花(ろうらんか)【氷室種】 ・氷室雪月花(ひむろせつげっか) 千重の唐子咲き 一重咲き 極小輪、桃色 中輪、白や淡桃色地に紅色の絞り ・川 霧(かわぎり)【氷室種】 ・黒 椿(くろつばき) 半八重の平開咲き 八重の抱 ~ 平開咲き 中輪、白色 中輪、黒紅色」この日の開園時間は午前9時~。入口から「氷室椿庭園」内を見る。花が白色の大島桜であろうか・そしてフェンス越しに椿の花をカメラで追ったのであった。そして「氷室椿庭園」を後にして、その先にあったのが「ほし潮香公園」。ベンチでしばし休憩し水分補給する。再び「雄三通り」に向かって東海岸南3丁目の住宅街を進む。ここが加山雄三氏の父の「上原謙邸跡」であったが、現在は「東急ドエルシーサイドコート茅ヶ崎東海岸南」というマンションに姿を変えていた。路地に入り込んで「案内板」等を探したが見つからなかった。そして「東海岸南1丁目」交差点まで戻りここを左折し海岸に向かう。国道134号の「茅ヶ崎駅南口入口」交差点が前方に。「茅ヶ崎市東海岸南 N-37」案内板。そして横断歩道を渡り「茅ヶ崎海岸」に向かって進む。「江の島」と「ヘッドランド(Tバー)」を見る。「江の島」をズームして。「ヘッドランド(Tバー)」をズーム」して。多くの釣り人の姿が確認できた。「烏帽子岩」をズームして。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」を見る。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」をズームして。「平島」の岩場も見えた。「湘南海岸・砂浜のみち片瀬橋を経て江の島へ 8.1km 茅ヶ崎漁港へ 0.9kmここは東海岸(茅ヶ崎駅入口)」茅ヶ崎漁港の方向に歩く。前方に朱の鳥居が姿を現した。「八大龍王神」👈リンク。「八大龍王神」碑。裏面には明治三十九年九月建立 と刻まれていた。小さな木造仏のお姿も。御札には「船玉大明神御◯」と。藤沢市大鋸に「船玉神社」👈リンク があったがその御札であろうか?乗船海上守護の祈願のために勧請されたと推定され、鎌倉幕府3代将軍源実朝が入宋のための船の材木を切り出した場所であるとされているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.03
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次国道134号「小和田浜公園東側」交差点を渡り海岸に向かって進む。海岸に出た場所が「浜須賀」と「汐見台」の境界近くで現在の「サザンビーチちがさき」の最も東側の場所。遠くに「江の島」の姿が確認できた。この先約500mで藤沢市の「辻堂海岸」。「江の島」をズームして。更に「江の島シーキャンドル」を。そして「姥島(烏帽子岩)」。ズームして。そして「浜須賀」海岸を見る。1953(昭和28)年の浜須賀の海岸の写真。「太平洋戦争」後、「茅ヶ崎海岸」の旧「日本海軍」施設は、「連合国軍」(のち「米軍」)に接収された。「烏帽子岩」を含む沖合一帯も含まれ、「チガサキ・ビーチ」と名付けられた。特に「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」跡地の約103万㎡(「東京ドーム」約22個分)の広大な敷地では、上陸、砲撃、爆発物の処理などの訓練が行われた。下記写真は1953(昭和28)年に撮影された、「米陸軍第1騎兵師団」の上陸演習風景。右奥にはうっすらと「江の島」が見える。演習は、騒音などで住民に多大な影響を及ぼし、戦車の砲撃訓練では「烏帽子岩」に照準が合わせられ、先端が吹き飛ばされた。「チガサキ・ビーチ」は1959(昭和34)年に日本に返還された。演習場を迂回していた「国道134号」(旧「湘南遊歩道」)は、翌1960(昭和35)年に海岸沿い部分が開通した。現在、演習場の跡地は「神奈川県立辻堂海浜公園」をはじめ「UR(都市再生機構)」の「辻堂団地」「湘南工科大学」「松下政経塾」などになっている。「湘南海岸サイクリングロード ランニングコース」を「ヘッドランド(Tバー)」に向かって進む。「湘南海岸サイクリングロードコースマップ」。【コースデータ】・距離:5.8km 鵠沼海浜公園の起点~茅ヶ崎サザンCまで・距離表示の有無:時々出現・道幅/道の状態(アスファルト、砂など):アスファルト ※風の強い日は砂に覆われていることも・・・・高低差:15m ※ほぼ平坦・信号の有無:無・トイレの有無:有・給水箇所:スタートとゴール地点には自販機があるが、道中は無。辻堂海浜公園などに コースアウトすれば有り。・ランステなど着替え/シャワー施設の有無:スタート地点付近の鵠沼スケートパーク内、 ゴール地点の茅ヶ崎サザンビーチで有料シャワー有り・ランナーの多さ:休日はランナー、自転車は多いが混雑は無・車の往来:無・夜の走りやすさ(明るい、暗い):暗い・駅からのアクセス:鵠沼海岸駅徒歩15分・景色の良さ:良好「津波避難情報」。現在地は海抜5.8mと。「湘南海岸サイクリングロード」の車止め?の反射板が取り付けられている石も「烏帽子岩」の形で。「S-29 茅ヶ崎市浜須賀柳島4.7km← →鵠沼海岸3.0km」「S-29 」の意味は? S:SOUTHか?竹造りの防砂垣をすり抜けて多くの砂がランニングロードにあったが、係の方に隅に片付けられていた。そして右側奥の防砂林の中に朱の鳥居があった。朱の鳥居の扁額は「八大龍王」。「八大龍王」碑。裏側には「元治元(1864年)甲子卯月吉日 再建」とあった。再び「烏帽子岩」を見る。神奈川県茅ヶ崎市9 相模湾 と。再び「サザンビーチちがさき」の「浜須賀海岸」&「江の島」を見る。海岸で投釣りをする御夫婦の姿を。「ヘッドランドビーチ」から「ヘッドランド(Tバー)」越しに「茅ヶ崎港」方向を見る。「明治後期のヘッドランドビーチ」「相模湾」では鎌倉時代から地引網漁が行われていた。明治後期、小和田村には10軒の網元がいたという。明治期から大正期にかけて、浜が忙しいときは漁に出て、漁がなければ畑を耕すという半漁半農だった。中海岸にある「カネサ網重政商店」は1887(明治20)年創業の老舗で、「相模湾」で専業漁業地引網元として漁師を営むかたわら、加工業も行っている。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p07.html?id=a03】より「ヘッドランド(Tバー)」をズームして。茅ヶ崎「ヘッドランド(Tバー)」は砂浜と石積の堤防からなる釣り場。ヘッドランドは砂浜の浸食を防ぐための人口の岬で、T字型になっているので「Tバー」とも呼ばれている。「現在の湘南の海は、マリンレジャーや海水浴客が多く、かつての地引網漁の風景から大きく変わっている。1950年代、駐留する米兵が、日本にサーフィンを持ち込んだといわれる。1960年代後半には、雑誌『平凡パンチ』にサーフィンの記事が掲載され話題を呼び、茅ヶ崎・辻堂近辺のショップも紹介されるようになった。また、1970年代後半には雑誌『POPEYE』などでも湘南エリアのサーファーやサーフショップが特集され、特に湘南がサーフィンの地として脚光を浴びることになった。湘南の海岸は東京からアクセスしやすいこともあり、多くのサーファーたちが訪れるようになっている。」手前には波を待つサーファーの姿が。烏帽子岩を最大ズームで。釣り人の姿が左側に。そして海岸を離れて国道134号「菱沼海岸」交差点に出る。交差点の向かいの前方に高級マンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」の建物が。4380万円(3LDK)と。LDKは約19帖、全居室6帖以上の広さの南向き3LDK住戸。南北の両面バルコニーにつき通風良好。リゾート感あふれる白壁のマンションであると。「茅ヶ崎菱沼海岸 N-31」。「菱沼海岸」交差点を渡り、高級マンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」を左に見ながら進む。実はこの「パシフィックガーデン茅ヶ崎」の建つ場所には、昔は「パシフィックホテル茅ヶ崎」があったのだ。1965年(昭和40年)湘南海岸・国道134号線沿いに、俳優の上原謙、加山雄三、小桜葉子(本名:岩倉具子)の弟岩倉具憲らが共同オーナーとなって建設・開業されたホテルである。当時の「パシフィックホテル茅ヶ崎」。残念ながら、1970年運営会社株式会社パシフィックジャパンが倒産。ホテルは売却され、その後、休業・再開を繰り返すも1988年完全に廃業となった。廃墟と化した建物も1998年に取り壊され、1999年跡地にはリゾートマンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」が建設されたのであった。国道134号線 湘南海岸に異様とも見える、ひときわ高くそびえたっていた姿が懐かしいのであるが。 【https://ameblo.jp/sayojikan/entry-12177868827.html】よりそして茅ヶ崎市東海岸南6丁目6の住宅街を北に進む。道路沿いの左手に「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」案内板があった。「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」案内がその先にもあった。左に折れ「茅ヶ崎市開高健記念館」に向かって進む。正面に門柱と両開きの白い門扉が。「茅ヶ崎市 開高健記念館」。この時まで「かいこうたけし」ではなく「かいこうけん」と思っていたのであった。(1930-1989)大阪市生れ。大阪市立大卒。1958(昭和33)年、「裸の王様」で芥川賞を受賞して以来、「日本三文オペラ」「流亡記」など、次々に話題作を発表。1960年代になってからは、しばしばヴェトナムの戦場に赴く。その経験は「輝ける闇」「夏の闇」などに色濃く影を落としている。1978年、「玉、砕ける」で川端康成賞、1981年、一連のルポルタージュ文学により菊池寛賞、1986年、自伝的長編「耳の物語」で日本文学大賞を受けるなど、受賞多数。『開高健全集』全22巻(新潮社刊)。「臨時休館」と。表札には「開高健 牧羊子」と。牧羊子は大阪府生まれ。奈良女子師範学校物理化学科(現、奈良女子大学)卒業。教師を経て戦後、壽屋(現・サントリー)に勤務。同人誌「えんぴつ」で7歳年下の開高健と知り合い、1951年に結婚。開高の壽屋入社と入れ違いに退社し創作活動に入る。娘はエッセイストの開高道子。詩のほか料理に関するエッセイが多かった。2000年1月19日、夫、娘に先立たれて一人住まいをしていた茅ケ崎の自宅で持病の悪化のためにひとり倒れて亡くなっているのが発見された。検死の結果、病死で死後数日と見られた。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある と。茅ケ崎市開高健記念館リーフレット(表面)。■開高健略年譜1930 (昭和5)年 12月30日、大阪市天王寺区東平野町に生まれる。1948 (昭和23)年 旧制大阪高等学校文科甲類に入学。1949 (昭和24)年 学制改革により、大阪市立大学法文学部法学科に人学。1950 (昭和25)年 処女作「印象生活」を「市大文芸」に発表。 同人誌「えんびつ」に加入。1951 (昭和26)年 「あかでみあ めらんこりあ」を「えんびつ」解散記念とし て刊行。1952 (昭和27)年 住吉区杉本町の牧羊子の家へ移る。長女道子生。1954 (昭和29)年 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。 1957 (昭和32)年 「バニック」を「新日本文学」に発表。一躍新人作家として 注目される。1958 (昭和33)年 「裸の王様」で第38回芥川賞を受賞。寿屋を退職。嘱託となる。 杉区矢頭町に自宅をかまえる。1959(昭和34)年 「日本三文オペラ」を文藝春秋新社より刊行。1960(昭和35)年 中国訪問日本文学代表団の一員として中国を訪問。 「ロビンソンの末裔」を中央公論社より刊行。1961 (昭和36)年 「過去と末来の国々」を岩波書店より刊行。 アイヒマン裁判の傍聴にイスラエルに赴く。1964(昭和39)年 「ずばり東京」を朝日新聞社より、「見た揺れた笑われた」 を筑摩書房より刊行。 朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムへ出発。1965 (昭和40)年 戦地取材中、ベトコンに包囲されるが、死地を脱出。 「ベトナム戦記」を朝日新聞社より刊行。1968 (昭和43)年 「輝ける闇」を新潮社より刊行、毎日出版文化賞を受賞。1969 (昭和44)年 ビアフラ・中東戦争を視察。1971 (昭和46)年 「フィッシュ・オン」を朝日新聞社より刊行。1972 (昭和47)年 「夏の闇」を新潮社より刊行、文部大臣賞を打診されたが辞退。1974 (昭和49)年 茅ヶ崎市東海岸南に仕事場を完成し、移り住む。1978 (昭和53)年 「ロマネ・コンティ・一九三五年」を文藝舂秋より、「オーパ!」を 集英社より刊行。芥川賞選考委員に加わる。1979 (昭和54)年 「最後の晩餐」を文春秋より刊行。 「玉、砕ける」で川端康成文学賞を受賞。 南北アメリカ大陸縦断旅行。1981 (昭和56)年 「もっと遠く!」、「もっと広く」を朝日新聞社より刊行。 ー連のルポルタージュ文学により菊池寛賞を受賞。1983 (晒和58)年 「オーバ、オーバ!!」を集英社より刊行。1986 (昭和61)年 「耳の物語」を新潮社より刊行、翌年、日本文学大賞を受賞。1989 (昭和64・平成元)年 「珠玉」第三部を脱稿、翌年文藝春秋より刊行。 12月9日、食道潰瘍に肺炎を併発し逝く。 北鎌倉・円覚寺松嶺院に眠る。」茅ケ崎市開高健記念館リーフレット(裏面)。「ふつう私は小説家として暮している。ここ五年ほどは湘南海岸の茅ヶ崎市である。海岸から三百メートルか四百メートルほどのところでひっそりと起居している。月曜日と木曜日の夕方になると二キロ離れたところにある水泳教室へ行くために外出するが、それ以外はほとんど家にたれこめたきりである。」(「国境の南」から)作家開高健は1974 (昭和49 )年に茅ヶ崎市東海岸南のこの地に移り住み、亡くなるまでここを拠点に活動を展開されました。その業績や人となりにふれていただくことを目的に邸宅を開高健記念館として開設。書斎は往時のままに、展示コーナーでは、期間をさだめてテーマを設定し、原稿や愛用の品々を展示してまいります。これらを通じて、たぐい稀なその足跡を多くの方々にたどっていただけるなら幸いです。」隣にあったのが「茅ヶ崎 ゆかりの人物館」案内板。「ラチエン通り沿いの、海を望む小さな丘に、「ひと」と「まち」をつなぐ新しい文化交流の拠点として、平成27年2月に誕生した「茅ヶ崎ゆかりの人物館」。茅ヶ崎の新しいまちづくりに貢献するために、ひとを結び、賑わいを創る次世代型のミュージアムとして市民と共に成長していきます。」と。丘の上に在る「茅ヶ崎 ゆかりの人物館」。「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」入館案内。「茅ヶ崎ゆかりの人物館」をネットから。 【https://www.shonan-navi.net/shop/shop.shtml?s=4790】より再び「茅ヶ崎市開高健記念館」👈リンク を見る。庭先には「朝露の一滴にも天と地が映っている 開高健」と。「この石のことを思い出すたびに月下に輝く白い宮殿と巨大な鐘の沈んだ深い淵という光景を思い出す。(略)エンドウ豆ほどの石から宮殿を喚起するのは誇大妄想に近いけれど、最初の一瞥の魔力にとらえられているのだし、朝露の一滴にも天と地が映っているのだという託宣からすれば荒唐とは感じられない。(「珠玉」文藝春秋刊 147頁)スマホの案内に従い次の目的地の「恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル」に向かって茅ヶ崎市東海岸6丁目の住宅街を進む。民家の庭の桜を楽しむ。そして「恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル」に到着。神奈川県茅ヶ崎市東海岸南6丁目1−20。「キリスト教は初めてという方には、キリスト教の団体はとても分かりにくいと思います。日本で良く知られているのは、カトリック、プロテスタント、正教会(ギリシャ正教・ロシア正教など)の3つだと思います。私たちはプロテスタントの教会です。プロテスタントにはたくさんの団体があり、その中で「保守バプテスト同盟」という団体に所属しています。所属教会は東北地方に多く、約60教会が加盟しています。さらに、湘南グレースチャペルは、「恵泉キリスト教会」という教会の1つのチャペルです。恵泉キリスト教会はもともと1つの教会でしたが、教会員の転勤や被災地支援などがきっかけで新しい教会を作り、現在は11のチャペルがあります。山形県米沢市にある恵泉キリスト教会米沢チャペルに通っていた教会員が転勤で茅ケ崎市に戻ることになり、自宅で教会を始めることにしました。牧師がいない教会でしたので、恵泉キリスト教会の他のチャペルの牧師が毎週応援に来てくださっていました。最初は自宅のリビングで集会をしていましたが、手狭になり、現在の会堂を増築しました。その後、家と教会を切り離したため、現在の民家のような会堂が残っています。2010年に牧師を迎えて現在に至ります。」とHPより。茅ヶ崎市東海岸南5丁目2にあった樹々に囲まれた巨大な屋敷の山門が左手に。住居を樹々の隙間から見上げる。そして前方に「鉄砲道」が見えて来た。「鉄砲道」との合流地点の角にあったのが「佐々木氏追悼記念碑(佐々木卯之助)」。写真は「東海岸北五丁目交差点」で、ここまで歩いて来た右の道が旧「鉄砲道」、左が現在の「鉄砲道」。この分岐点に「佐々木氏追悼記念碑」(写真中央付近)が建てられていた。佐々木伝左衛門の子として生まれた卯之助は、1824(文政7年)、29歳の時に江戸幕府の相州炮術調練所の責任者として、幕府大筒役となった。当時茅ヶ崎の海岸は幕府による天領とされていて、鉄炮方役人の銃術鍛錬の場として茅ヶ崎柳島村から藤沢の片瀬までの広域に調練場が設置されていた。赴任中に、いわゆる佐々木卯之助事件が発生する。時は天保(1833~1839)。大筒役を命ぜられた卯之助であったが、世は大飢饉に見舞われ、民は食料に困窮し、餓死者が発生。天保の大飢饉に発展した。この茅ヶ崎の民の惨状を目の当たりにし、卯之助は相州炮術調練場の敷地(茅ヶ崎市南湖の周辺)の一部を開放、耕作することを事実上黙認。卯之助の計らいは、茅ヶ崎の民から大変感謝された。しかし、のちの検地により、この耕作が発覚し卯之助は長男の菊次郎と共に、伊豆の離島青ヶ島へ遠島の判決を受けた。1868(明治元年)に赦免となるが、明治9年、82歳で青ヶ島で死去する。死後、初代茅ヶ崎村長の発起人により、感謝を表し茅ヶ崎市東海岸五丁目に追悼の碑を建立。また、半農半漁だった茅ヶ崎市南湖の人たちは、鉄砲場内の耕作の恩恵に感謝し、南湖地区中町八雲神社境内に記念碑を建てた。墓標は当初青ヶ島にあったが、のちに海前寺(茅ヶ崎市本村四丁目)に移されている。茅ヶ崎には鉄砲道と呼ばれる通りがあり、この相州炮術調練場まで、伊豆の韮山反射炉で作られた鉄砲が運ばれる道であったという説がある。「佐々木氏追悼記念碑」茅ヶ崎の農民は、卯之助への感謝を忘れることはなく、1898(明治31)年、初代茅ヶ崎村長が発起人となり「佐々木氏追悼記念碑」を建立した。「佐々木卯之助追悼記念碑のいわれ茅ヶ崎一帯の海浜は享保十三年以来幕府の鉄砲場となっており、区域内への村民の立入りや耕作などは禁じられていた。佐々木卯之助が大筒役(鉄砲方役人)になったのは文政七年のことで、そのころ南湖では田畑が少なく農民はこの地の耕作を願っていた。それを察した佐々木氏は上司に内密で耕作を許可し、農民はこの情けある計らいに心から感謝していた。しかし、この事が発覚するに至り天保六年その罪で佐々木氏は八丈島を経て青ヶ島へ遠島となりその後赦免となったが、かの地で一生を終えた。時移り明治三十一年、茅ヶ崎村村長、伊藤里之助が発起人となり村の恩人・佐々木氏を追悼してこの碑を建立した。初め南湖六道の辻に建てられたが逝たびか場所が変わり末永くこの地に収めることになった」裏面には「昭和五十六年五月五日 佐々木卯之助記念碑移設委員会 東海岸自治体」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.02
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は4月9日(土)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の2回目に向かう。自宅を6:15に出発し地元の小田急線の駅に向かう。駅の桜の花はこの日も未だ頑張ってくれていたのである。ズームして。JR藤沢駅で東海道線に乗り換え、この日もJR辻堂駅で下車。改札口をでた場所には辻堂駅駅員の心遣いが。JR辻堂駅の改札口を見る。南口に出る。「第72回 藤沢 市展」ポスター。この日の最初の目的地の「日本基督教団 茅ヶ崎平和教会」までは徒歩にて25min以上かかるので神奈中バス「茅ヶ崎駅南口行き」を利用した。バスの車窓から辻堂駅駅舎を見る。「美住町」バス停で下車すると目の前にあったのが「日本基督教団 茅ヶ崎平和教会」。神奈川県茅ヶ崎市出口町4−71。「茅ヶ崎平和教会は1948年に設立された、日本基督教団に所属するプロテスタントのキリスト教会です。教会の名前が「平和」であることが、私たちの教会の特色です。平和学園の学校の中で生まれたので、平和教会という名前になりました。心の平和はもちろん、世界の平和、すべての人と、造られたものとの平和を、私たちはいつも祈り求めています」とHPより。「掲示板」。十字架を見上げて。「桜道」を西に向かって進む。「桜道」は「JR茅ヶ崎駅南口」前から東に進む「浜竹通り」の「浜竹二丁目」交差点までのJR東海道線に沿った南側の道。「桜道」案内板。この先、茅ヶ崎に向かって進むと「桜道」とほぼ直角に交差する「ラチエン通り」がある。国道1号沿いのTOTO(株)茅ヶ崎工場から、134号までの約2.14kmの直線道路が「ラチエン通り」。通り名はルドルフ・ラチエン(1881〜1947年)にちなんでいる。ラチエンはドイツ生まれ、1902年(明治35年)に来日、都内で貿易商を営み、茅ヶ崎に15,000坪を保有、その中に建てた別荘を終生の住居とした。親日家だったラチエンは、別荘の前の道(現在のラチエン通り)に120本の桜を植えたそうで、当時は「桜道」と呼ばれたと。昔の「桜道」が「ラチエン通り」と名前が変わったのでこの道を「桜道」と呼んだのであろうか。「桜道」と「ラチエン通り」。そして「ひばりが丘」交差点を左折して進む。右側にあったのが「茅ヶ崎聖契キリスト教会」。神奈川県茅ヶ崎市ひばりが丘7−23。「茅ヶ崎聖契キリスト教会は、キリスト教プロテスタントの教会で、1957年6月、アメリカ人宣教師リンストローム、クリスターセン教師によって始まりました。「しかし、ついには上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる」(旧約聖書イザヤ書32章15節)というビジョンを掲げ、聖書のみことばに立ち、一人一人の賜物が生かされ、組み合わされて主の使命を果たす教会を目指しています。現在、教会員は80名です。1998年秋からは赤羽根チャペルでの伝道が始まりました。」とHPより。掲示板。住所から「ひばりが丘チャペル」と呼ばれているのであろう。スマホのGoogleマップの案内に従い、未舗装の小径を進んで行った。茅ヶ崎市美住町12の住宅街を東に向かって進む。左手に姿を現したのが「アトンメントのフランシスコ女子修道会」。「会名の「アトンメント」(atonement)は新約聖書の「ローマ人への手紙」5章11節からとられ、一般には「和解」と訳されているが「あがない」という意味も持ち、語源的には「at-one-ment」で「一致」という意味にも解釈できる。このことに生涯を捧げる決意をしたワトソン神父は、自身の敬愛するアッシジのフランチェスコに倣うべく、フランシスコ会の会則を取り入れた。元々、高教会(ハイチャーチ:カトリックに近い立場)の神学を信奉していたワトソン神父は、聖公会とカトリック教会との一致を願って活動を始めたが、当時の聖公会では受け入れられず、活動の場も段々と狭められていった。ついにワトソン神父はカトリックに帰属することを決意し、同時期に創設された女子修道会(アトンメントのフランシスコ女子修道会)とともに1909年10月にカトリック教会に受け入れられ、それぞれカトリックの修道会として再出発した。会名の通り「全てが一つになるように」をモットーとして「神と人」、「人と人」の和解と一致を目指し、エキュメニズム、宣教、福祉など様々な活動を展開している。」とネットから転記したが、私にはついて行けない内容なのであるが・・・外装のレンガ積みが印象的な教会ではあったが。イエスを抱くマリア像であろうか。こちらはワトソン神父像か?この花の名は?ハゴロモジャスミンに似ているが?その先にあったのが「セブンスデー・アドベンチスト教団茅ケ崎キリスト教会」。神奈川県茅ヶ崎市平和町1−12。「セブンスデー・アドベンチスト教会(以下アドベンチスト教会と略す)は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。アドベンチスト教会は、聖書に示されている神の愛による救いを全人類に伝え、その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して実践しようとしています。アドベンチスト教会の名称の由来ですが、「セブンスデー」とは、「第7日」の意味で、これは週の第7日である聖書の安息日を聖日として守る教会であることを表しています。また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。そのほかにも、アドベンチスト教会を特徴づけるいくつかの教えがあります。その教えは多くの点において、プロテスタント諸教会と共通しています。当初数十人の集まりでしかなかったアドベンチスト教会は、その後世界中に広がり、過去30年間では、10年毎に倍増する成長を逐げ、信徒数2000万人を越えました。アドベンチスト教会は、現在209の国々で活動しており、福音宣教活動に加え、発展途上国において支援活動を行っているADRA(アドラ・ジャパン)の働きによっても人々によく知られています。」とこれもHPより。「美住町」と「平和町」の境界の道を進む。「美住町」交差点を右折して「学園通り」を進むと左手フェンスの奥に歴史を感じさせる門柱のみが残っていたが。その先にあったのが「社会福祉法人 児童養護施設 白十字会林間学校」。神奈川県茅ヶ崎市富士見町4−54。「「社団法人 白十字会」(現「社会福祉法人 白十字会」)は、結核予防を目的に1911(明治44)年に設立された。設立者の一人、林止(とどむ)医師は、1903(明治36)年から2年間、「南湖院」の副長を務めた人物でもあった。「白十字会」が「白十字会林間学校」を設立するにあたっては、林医師の進言もあり、茅ヶ崎が療養に適した地として建設地に選ばれ、1917(大正6)年に開校、林医師は校医を務めた。「白十字会林間学校」は、国内初となる医療と教育を備えた虚弱児のための寄宿制私立小学校で、設立時の児童数は8名であったが、1939(昭和14)年には120名を超えるまでになった。」と。「昭和戦前期」の「白十字會林間學校」の姿。戦後、児童福祉と教育の機能が分離され、現在は児童養護施設の「白十字会林間学校」と、学校法人の「平和学園」が隣接して存続している。「平和学園」は1946(昭和21)年に設立され、初代理事長は賀川豊彦が務めた(理事としては1926(大正15)年より関わっていた)。現在「平和学園」は、この地で「平和学園幼稚園」「平和学園小学校」「アレセイア湘南中学校」「アレセイア湘南高等学校」を運営している と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p06.html】より湘南海岸に向かって「学園通り」を進む。左手にあったのが「平和学園小学校」。戦後、児童福祉と教育の機能が分離され、現在は児童養護施設の「白十字会林間学校」(写真)と学校法人の「平和学園」が隣接して存続している。「平和学園」は1946(昭和21)年に設立され、初代理事長は「賀川豊彦」👈リンクが務めた(理事としては1926(大正15)年より関わっていた)現在「平和学園」は、この地で「平和学園幼稚園」「平和学園小学校」「アレセイア湘南中学校」「アレセイア湘南高等学校」を運営している。「平和学園前」交差点から「鉄砲道」に架かる「アレセイア湘南中学校」~「平和学園小学校」の間の連絡橋を見る。連絡橋の先。右側に「アレセイア湘南中学校」、「アレセイア湘南高等学校」の正門があった。「平和学園前」交差点を右に曲がり、250mほど「鉄砲道」を西に進むと右手「茅ヶ崎警察署 平和町交番」の手前の「平和町第一公園」の隅にあったのが「団十郎山の碑」。「団十郎山のいわれ歌舞伎界で名優といわれた「九代目市川団十郎」👈リンク は、この地に別莊を構えていました。明治ニ十九年、ここに土地を求め、建物を孤㮤庵(こしょうあん)と名付けました。土地は、約一万九千八百平方メートルといわれています。地元では、今ても団十郎山と呼んで親しんでいます。」JR茅ケ崎駅北口を出て、すぐの通路部分に茅ケ崎にゆかりのある著名人の手形が並んでいたが、そのうちの一人が歌舞伎役者の12代目市川團十郎であったが、その理由が理解できたのであった。そして再び「平和学園前」交差点まで戻り右折して「緑が浜小学校前」交差点を通過。右手に防砂林が現れた。この場所が「小和田浜公園」の東側。西側には茅ヶ崎市営の「浜須賀水泳プール」がある。「N-24 茅ヶ崎市浜須賀」表示板。この表示板の意味は?さらに「N-24」のNの表示は何を意味しているのであろうか?この後に同様に「S-〇〇」もあった。そしてN&Sが路地の入口の左右に連番で。N:NORTH S:SOUTH であり、国道134号を境にしているような気もするが、設置の目的が知りたい。茅ヶ崎にお住まいの方に、ご教示願いたいのである。そして茅ヶ崎にお住まいの我が高校の学友が茅ヶ崎市役所、藤沢土木事務所に問い合わせてくださいました。防砂林の維持管理番号であり、N、Sは国道134号N:北側、S:南側を示すのだと。番号は管理区画ごとに付けられていて、1番の藤沢市鵠沼から大磯まであるとのこと。スッキリしました!!。学友のSさん、お手数をおかけいたしました。左手に国道134号「浜須賀 立体歩道橋」を見る。正月の「東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路では、この「浜須賀 立体歩道橋」の下を走り海岸線から離れ戸塚茅ヶ崎線で藤沢の遊行寺坂に向かって走っていくのである。「浜須賀 立体歩道橋」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.01
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次中海岸にあった「八大龍王神」を後にして、次に訪ねたのが同じく中海岸にあった「中海岸神社」。中海岸4丁目にあった「中海岸自治会館」の隣にあった小さな神社。神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目1。社号標石「中海岸神社」。「由緒御祭神 天照皇太神 寒川大明神天照皇太神 明治四十年南湖松田好生氏別荘飛地に鎮座 昭和二十五年小島栄三郎氏が継承昭和三十四年中海岸自治会の願いによりこの地に変遷寒川大明神 初代自治会長望月菊太郎らによる勧請昭和三十七年十月二十ニ日御神殿に合妃奉る。以上行事一、元旦祭 元旦一、氏子祭 六月一、濱降祭 七月一、例大祭 十月一、七五三 十一月」正面に「社殿」。近づいて。扁額「中海岸神社」。石積みの台座の上に社殿が鎮座。見事な彫刻で覆われた「中海岸神社」👈リンク の「社殿」。そして「サザン通り」に向かって進む。左手にあったのが「茅ヶ崎サザン神社」。この日は残念ながらシャッターが閉じていた。「神社が閉まっている時でも楽しめるように、「シャッターアート」👈リンクを [Ryu]さんに描いていただきました。烏帽子岩をモチーフにした、思わず微笑んでしまうアート」とネットより。この日は閉まっていたので、次回に再TRYすることにし、次の目的地に。右に曲がり「サザン通り」に出ると「サザン通り まち歩きマップ」があった。「サザン通り」はサザンオールスターズのボーカル・桑田佳祐の出身地であることから1999年に命名。現在地。「サザン通り」を進む。左手に割烹旅館「阿部浅別館」。そして正面に「図書館」の文字が現れた。奥に進むと「美術館搬入口」があった。「美術館入口」に向かって進む。左手に「高砂(たかすな)緑地」の入口。「高砂緑地の歴史この地は高砂緑地(たかすなりょくち)といいます。その名前の由来は、かってこの付近に砂山があって「高砂」と呼ばれていたこと、この地は小字が「上高砂下」であることによります。明治30年代に、この地の一画に、新派劇の俳優で当時有名だった川上音二郎・貞奴夫妻が別荘を設けました。市内の小和田に別荘を設けた九代目市川団十郎を慕ってのことと伝えられています。今も緑地の中にある石の井戸枠が音ニ郎の別荘にゆかりのものといわれています。大正8年(1919)、音ニ郎の別荘地だった所を含めて、付近一帯を実業家 原安三郎が別荘とするために購人し、松籟荘と名づけました。原は昭和6年(1931)、敷地内に新しく主屋を建て、翌7年に廻遊式の日本庭園やその他の建物をつくりました。主屋は本造2建、延床面積347.43m2の南ヨーロッパ風建物でした。主屋の設計にあたったのは石井義弘ですが、原の個性が随所に見られたといもれています。松籟荘は、戦後しばらく占領軍に接収され、そのとき主屋は一部を改造されたりしましたが、後に貴重な近代洋風建築物として、またすぐれた別荘建築として高く評価されました。茅ヶ崎市は、松籟莊を、昭和59年( 1984)に購人し、同年高砂緑地として公開しました。主屋は老朽化のため取り壊されました。また、平成3年(1991)、茅ヶ崎市は緑地の一画に茶室を建て松籟庵と名づけ開放しています。」「松籟庵」への入口門。「春の野点」案内のポスター。野点(のだて)とは、屋外で茶または抹茶をいれて楽しむ茶会のこと。特に茶道において戸外で茶を点てる(たてる)ことをこのように呼ぶが、茶道など日本古来の様式にしたがっている場合には一律にこのように呼ばれ、屋内での茶道では重視される細かい作法が簡略化された気安い催しの場合もあるのだと。日本庭園内にあった「三重塔」。奈良薬師寺の三重塔を模した十分の一サイズの小塔。裳階が有るので五重塔にも見えたが。近づいて。大きな石灯籠。造園に際して原安三郎氏と親交のあった政財界の人々から贈られたものといわれ、姿・大きさの異なるたたずまいが庭園に興趣を添えていたのであった。日本庭園には池も。そして日本庭園の一角に建てられた茶室・書院が「松籟庵(しょうらいあん)」。高砂緑地の一帯は、オッペケペー節で一世を風靡した人気新劇俳優の川上音二郎・貞奴夫妻が明治35年頃に住まいを構え、「萬松園」と名付けた。緑地の中に今も残る石の井戸枠は、川上別荘のものと伝えられている。大正時代になると、財界で活躍した原安三郎氏(元日本火薬株式会社会長)の別荘「松籟荘(しょうらいそう)」となり、南欧風の洋館や日本庭園を持つ、茅ヶ崎でも有数の別荘地として知られるようになった。昭和59年、敷地を茅ヶ崎市が購入し、往時の別荘地の景観を良く残す緑地公園として市民に広く公開されるようになった。南側から茶室・書院・「松籟庵」を見る。「茶室・書院・「松籟庵(しょうらいあん)」の見取り図。 【https://www.chigasaki-shouraian.jp/chashitsu/】より平成元年、岩田孝八氏(スーパーマーケットチェーン「長崎屋」の創設者)の母上が亡くなられた折りに、「生前の70年間、茅ヶ崎市にお世話になったお礼に、末永く茅ヶ崎に残る有形物を」と1億円を市に寄贈されたことをきっかけに建設することとなり、あわせて日本庭園の整備も行い、平成3年の文化の日に開館した。建物は、茶室と書院を渡り廊下で結ぶつくりで、茶室は京都にある裏千家の代表的な茶室である「又隠(ゆういん)」(国指定重要文化財)を、書院は表千家不審菴の「松風楼」を写しており、茶事を行うことができる本格的な施設。西側にある玄関方向に廻り込んで。日本庭園は、旧原別荘(松籟荘)時代に作られた庭園をそのまま生かしている。廻遊式の純日本庭園で、泉池・築山・石橋・梅林などが配され、築山の頂きには、庭園の周囲に広がる松林とも巧みに調和が図られ、見事な景観を作り出していた。梅の老木も今年の花を終わらせて、静かに佇んでいた。松林の中に木道が設置されていた。木道を歩く。「高砂緑地」にある「平塚らいてうの碑」。彼女も一時期茅ヶ崎に住んでいたと。「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」 大正時代になると、さまさまな職業に女性が進出したが、職唱ての女性の地位は低く、男性本位の社会は変わらなかった。そんな中、自己を主張して自立を宣言する女性たちが現れる。平塚らいてう(らいちょう)は、19 1 1生、2 5歳の時に青鞜(せいとう)社を設立し、女性による女性の為の文芸誌「青鞜」を創刊。創刊号の巻頭の辞には、この言葉があったと。「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような芦白い顔の月である」と。青鞜には「女性よ、目覚めよ」の呼びかけに共唱した若い女性たちが次々に加わり、女性解放運動をリードした。1 9 1 9生、市川房枝らと新婦人協会を結成し、女性の政治活動の自由を要求していった。第ニ次世男大戦後は、婦人運動に加えて、反戦・平和運動にも参加し、1 9 7 1生に8 5歳で亡くなるまて、情力的に活動を続けた と。「平塚らいてう 一八八六~一九七一東京に生まれ日本女子大学に学ぶ。一九一一年の青鞜創刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は日本女性初の人間宣言として後世に伝わる。大正期に新婦人協会をおこし、女性に禁じられていた政治への一歩をひらく。第二次世界大戦後も女性解放 世界平和の初心を貫く生涯の伴侶奥村博史と南湖の地でめぐりあい茅ヶ崎を「愛のふるさと」と偲んだ らいてう を想いこの碑を建立す」そして「高砂緑地」内にあった「茅ヶ崎美術館」へ。丘の上にたつ、「茅ヶ崎美術館」の建物は、茅ヶ崎らしさを感じさせる松を抜ける潮風、明るい太陽、軽やかに浮揚するイメージをもとに造られ、とびたつ鳥の翼のような屋根が特徴的である。緑地に面したエントランスホールは、松の豊かな緑とたくさんの光がはいるようにひらかれ、そこではときに音楽家たちによるミニコンサートを聴くことができるとのこと。地階から地上2階までの3層構造の建物は、必要に応じて自然光を取り込めるよう随所に仕掛けがなされ、明るく開放的な空間となっている。しかし、この日は「休館日」であった。「高砂緑地」の散策を続ける。松林の中には四阿(あずまや)も。詩人「八木重吉」の碑。「蟲(むし)蟲が鳴いてるいま ないておかなければもう駄目だというふうに鳴いてるしぜんと涙がさそわれる」「東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)に生まれる。神奈川県師範学校予科(現在の横浜国立大学)を経て東京高等師範学校の英語科を卒業。英語教員を長年務めた。この神奈川県師範学校在学時より教会へ通いだすようになり、1919年、駒込基督会において、富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1922年、島田とみと結婚後、詩作に精力的に打ち込み、1923年はじめから6月にかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであった。1925(大正14年)刊行詩集としては初となる「秋の瞳」を刊行。雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し、結核と診断される。茅ヶ崎において「東洋一」のサナトリウムと称せられた南湖院での療養生活に入り、そのため転居した茅ヶ崎の十間坂に居を構えて、第二集「貧しき信徒」を制作したものの、出版物を見る事なく、翌年29歳で死去した。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は2,000を超える。現在、茅ヶ崎市美術館前の高砂緑地には、蟲という題の詩が石に刻まれ、彼をしのんでいる。」とネットから。「八木重吉 一八九八~一九ニ七八木重吉は明治三十一年東京府南多摩郡堺村(現町田市相原町)に生まれ神奈川県師範学校東京高等師範学校を卒業後兵庫県御影師範學校千葉県東葛飾中学校(現東京葛飾高等学校)」で教師をした。結核を患い茅ヶ崎の南湖院に入院の後、町内の十間坂(現茅ヶ崎市共恵)で自宅療養し昭和ニ年十月二十六日、二十九歳で生涯を閉じた茅ヶ崎に療養中、次のことばが「ノオト」に記されていた。あの浪の音は、いいなあ 浜へいきたいなあ詩人八木重吉は氏の生涯に三千有余の詩を遺したと言われている。生前刊行した詩集に『秋の瞳』がある。この記念碑の「蟲」は『貧しき信徒』に収められている。」「赤とんぼ 作曲の街晴朗な湘南茅ヶ崎の大氣 南湖の居にて 山田耕筰記」碑。「山田耕筰作曲 赤とんぼの碑山田耕筰は、大正15 (1926)年に当時の茅ヶ崎町南湖に移り住んだ。昭和2 (1927)年1月29日には、のちに日本の歌百選にも選ばれた童謡「赤とんぽ」を作曲した。その他にも、ここ茅ヶ崎の地で「この道」「あわて床屋」「砂山」など数々の名曲を作曲し「童謡百曲集」を刊行した。そのあとがきには、「晴朗な湘南茅ヶ崎の大気」「松翠香る茅ヶ崎の砂丘」と記している。まさに"茅ヶ崎の穏やかな自然砂丘にたわむれる愛児らと心ゆくまで過ごした家族愛あふれる豊かな時”が作曲意欲の源となったのである。明治・大正・昭和にかけて西洋音楽の創始者・開拓者として、日本の音楽文化発展に絶大な功績を残し「日本音楽の父」と讃えられた。昭和31 (1956)年には、音楽家として初めて文化勲章を受章した。」「「石碑の赤とんぼの大きなお目々」あなたの好きな歌「日本一」に選ばれている『赤とんぽ』は茅ヶ崎で生まれた名曲です。平和の世が続くように石碑の裏の水引『赤とんぼのお目々』に『なでると幸せになる』という思いをこめました。三世代 交流の歌 情緒を豊かにするこの歌にあなたの幸せを願い、あなたの愛に感謝をこめて童謡「赤とんぼ」を大切にいたします。赤とんぼ 曲 山田耕筰 詩 三木露風1.夕やけ 小やけの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か2.山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか」「川上音二郎別荘の井戸枠」。「川上音二郎別荘の井戸枠明治30年代、この地の一画に、新派劇の俳優で、当時有名だった川上音ニ郎・貞奴夫妻が別荘を設けした。高砂緑地内の井戸枠は音ニ郎の別荘ゆかりのものと言われています。【井戸枠の概要】幅84cmx奥行84cm x高さ54cm石質:花崗岩」「川上音二郎・貞奴邸跡の記念碑」。アルミ?でできた「川上」の文字を、アクリル板で挟み、台座に対して斜めに建てるという、斬新なデザイン。「川上音二郎・貞奴」の姿が埋め込まれていた。「2011年9月10日 建立川上音ニ郎没後100年・川貞奴生誕140年記念事業実行委員会」そして「高砂通り」にあった「茅ヶ崎美術館」案内板。「ふしぎなせかい」開催中と。「茅ヶ崎市美術館の収蔵品の中から、一目で非現実的、ふしぎと思える作品や、普通のようでもよく見るとふしぎな作品などを選んで展示。果てしなく広がる風景、変わった描き方や変わった人物たちなど、絵画の「ふしぎなせかい」を通じて、作者、そして見る者の想像力という「ふしぎ」に改めて触れよう。」とネットから。原良介(by a forest) 2012。「美術館・松籟庵」高砂緑地マップ。入口の門柱には「松籟荘」の表札が確認できた。反対側には「茅ヶ崎東海岸一の三」と。高砂通りを引き返し再び「高砂緑地」入口を見る。「高砂緑地」の北側隣にあったのが「茅ヶ崎市立図書館」。その先左手奥にあったのが「カトリック茅ヶ崎教会」。「カトリック茅ヶ崎教会戦場ーそこでは、自然が慈悲深く地上の傷を癒していますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。神よ、私の祈りを聞き、世界にあなたの「永遠の平和」を与えてください。ヨハネ・バウロⅡ世」と。そしてJR茅ヶ崎駅に到着。「茅ヶ崎駅南口」。そしてJR東海道線、小田急線で地元の駅に到着。地元の駅の通路からこの日の夕日を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.30
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「御霊神社」隣・北側にある「浄土宗 西運寺」に西側から廻り込んで訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9−34。正面に「山門」が現れた。寺号標石「浄土宗 御霊山 西運寺」。「山門」。扁額「御霊山」。「本堂」に向かって左側に無縁仏・「千体地蔵尊」があり、圧巻な光景。この「千体地蔵尊」の背後を、時々東海道線の電車が通って行ったのであった。その手前に「六地蔵」。「南無阿弥陀佛」碑。「本堂」。正式名称は御霊山 浄祥院 西運寺。扁額「西運寺」。見事な龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。「本堂」前左側に「南無妙法蓮華経 南湖力丸霊」碑。墓地なのであろうか?「南湖力丸(なんごりきまる)」は、有名な歌舞伎演題「白浪五人男」の一人・茅ヶ崎南湖(なんご)の出身の泥棒で、江戸時代では、石川五右衛門・鼠小僧と並ぶ3大義賊なのだとか。処刑されたのち、地元の人が供養のため供養塔を建てたと伝わっているのだと。南郷力丸の口上で場面は最後の「「稲瀬川勢揃いの場」👈リンク(5:34~) のものを以下に記す。「さてどん尻に控えしは 磯風荒れえ小ゆるぎの 磯馴の松の曲がりなり 人となったる浜育ち仁義の道も白川の 夜舟に乗り込む舟盗人 波にきらめく稲妻の 白刃で脅す人殺し 背負って立たれぬ罪科は その身に重き虎ガ石 悪事千里というからは どうで終めえは木の空と 覚悟はかねて鴫立ち沢 然し哀りゃあ身に知らぬ 念仏嫌れえな南郷力丸」。『現代語訳』「さーて、最後に登場するのは、強い潮風で曲がった松の木のように、性根が曲がった人間として浜で育った俺だ。ヤクザ稼業に身を染めて、夜中に船盗人を働き、刀で脅して人殺しもしてきたがその罪の重さは計り知れないぜ。悪事の噂は千里に伝わると言うからには、どうせ最後は磔(はりつけ)になるさと覚悟は決めている。でも哀れに思って念仏なんか唱えんじゃねえぞ、それが南郷力丸だ。」と要は南郷は今でいう湘南の漁師あがりの盗人ということですが、この口上から二点ほど。小ゆるぎの浜、虎が石、鴫立つ沢はいずれも大磯にあってそれぞれ有名な故事にちなんだ旧跡を織り込んだものであると。そして台詞の最期「念仏嫌れえの南郷力丸」だがいわゆる「南無阿弥陀仏は嫌い」ということで宗旨違いを連想します。その通り西雲寺の彼の供養塔には「南無妙法蓮華経」と刻まれているのであった。隣に「地蔵菩薩」。左手にあった「観音堂」。扁額「観音堂」。湘南茅ヶ崎西運寺絵馬「ふれ愛観音」。再び無縁仏・「千体地蔵尊」を見る。「本堂」の右手にあった「如実苑」。「本堂入口」の案内板があった。「本堂」を斜めから。「観音堂」を再び。JR東海道線を越えた直ぐ近くにあったのが「金剛院」👈リンク であったがこの寺は以前に訪ねたのでこの日はパスし次に訪ねたのが「金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)」。神奈川県茅ヶ崎市南湖3丁目4−40。社号標石「金刀比羅神社」。「拝殿」が正面に。石段の横に「震災記念碑」。創建年代や由緒は不詳。御祭神は金刀比羅大権現。例祭は4月10日に近い日曜日。当地では、茶屋町に近い法林山金剛院に、明治6年(1872年)、茅ヶ崎村最初の小学校である琢章(たくしょう)学舎が開校した。明治22年(1889年)には茅ヶ崎村役場が開かれた。明治31年(1898年)、東海道本線の茅ヶ崎駅ができた。こうして南湖は、茶屋町・鳥井戸・上町・中町・下町の5つの町内に分かれ、当社は上町の氏神で、「かみ」と呼ばれている と。「慰霊の碑」。慰霊之碑の裏面には、「建碑の趣旨」が。「日露及び大東亜戦争に於て応召され、幾多困苦の末、不幸にも戦歿された方々に対し、その尊い霊をお慰めし、永劫に忘れることなく、平和な玉を建設することを誓い上町区民の総意によりこの碑を建立しました。」と。この石碑には??「震災記念碑」。「金刀比羅神社」の南側にあったのが「稲荷神社」。神奈川県茅ケ崎市南湖3-4-6。そして次に訪ねたのが、材木屋の建物の裏手にあった「赤とんぼ作曲の地」案内板。この材木屋は、かつて耕筰の楽器を置くための倉庫があった場所とのこと。下の左側支柱には、「原文考案 山田耕嗣」の文字もあった。この解説板設立にあたっては、耕筰の息子である山田耕嗣氏が協力されたようであった。神奈川県茅ヶ崎市南湖3丁目17。「童謡 赤とんぼ 作曲の地童謡 「赤とんぼ」は昭和ニ年一月二十九日この地で作曲されました。「赤とんぼ」山田耕筰 作曲三木露風 作詞作曲家山田耕筰は1926年(大正15年) 40才の時東京より家族と共にこの地に移り住みました。トラック3台分の楽器はこの奥の大工とんの特設小屋こ保管されました。晴朗な南茅ヶ崎の大気その晴朗な大気と愛児らの素純。それこそは私の胸底に徒らなる氷き眠りを強いられていた「歌」に朗かな暁の光を点じたのであります。(昭和ニ年四月三日南湖の居にて(耕筰)手記より」わずか数ヶ月の間に「赤とんば」「この道」「砂砂」「すかんぽの咲く頃」「あわて床屋」等童謡百曲を作曲しました。」「この道 山田耕筰/作曲 北原白秋/作詞」👈リンク「耕筰の手記より抜粋私は今、此の曲集を祖国の父と母に姉と妹にそして愛するコドモに贈る昭和ニ年四月三日 茅ヶ崎南湖の居にて 耕作」(「此の曲集」とは、北原白秋や野口雨情、三木露風らの詩に耕筰が曲をつけて昭和2年4月に出版した『童謡百曲集』のこと。)手記にある家は、この奥の2階屋の位置にありました」。この場所辺りに山田耕筰の家があったのだろうか?それともこの畑の場所に?そして次に訪ねたのが「六道の辻」。神奈川県茅ヶ崎市3。もともとこの辻は、「八雲神社」から東へ延びる「旧鉄砲道」(赤線)と、南湖の船着場から北に進み、東海道へ出る道(青線)の交わったところで、四つ辻であった。そこへ東洋一のサナトリウム南湖院(なんこいん)の開設者. 高田畊安が新たな道(黃線)を、第1象限と第3象限に斜めに貫くようにつくり、現在のような六叉路となり、後年、「六道の辻」とよばれるようになったとのこと。現在「六道の辻」は、道幅は拡張されることなく、信号もない状態で、昔のままに残っていた。反対側から。写真に見える道は高田畊安が新たに作った道。そして再び「茅ヶ崎漁港」まで戻る。「八大龍王」碑。手前には「八大龍王神」と刻まれた小さな石碑も。裏面には???西浜海岸に面した駐車場が、2021年9月27日に市営駐車場としてオープン。昨年の夏は、砂浜にある駐車スペースは無料で、停める場所も適当…というアバウトなスペースであったが。ここ西浜海岸は、浜降祭の時には、勇壮な御神輿が集う場所でもある!!茅ヶ崎西浜海岸(サザンビーチちがさき西側)のウッドデッキ。この日の富士山の姿。茅ヶ崎漁港を見る。江ノ島方面にカメラを向けて。「茅ヶ崎漁港」碑。本魚港は、茅ヶ崎市が昭和ニ六年農林省告示第三六九号を以って第一種漁港の指定を受け 同年国の第一次長期漁港整備計画に基づいて、漁港整備事業に着手した。以後六ヶ年の歳月を経て、南防波堤ニ〇五メートルが完成したが、諸般の事情により中断し、昭和四七年全組合員協議のうえ漁業の振興、発展のため、漁港の整備が急務であることを確認し、その後水産庁、県の支援を得て昭和五ニ年に第六次長期漁港整備計画が認可され、第七次整備計画を経て、西防波堤三四七メートル、東防波堤三四八メートル、昭和六ニ年度に内防波堤を完成した。更に第八次整備計画において、平成元年度に荷揚岸壁、船揚場等の完成をみるに至り、漁船が係留できることと相成った。実に永い歳月に亘り、艱難辛苦を乗り越えた努力の結果であった。ここに漁民が先人の偉業から受ける前途の多幸を祝福すると共に、輝かしい業績を永く後世に伝えるため、由来を刻み記して残す。」江の島をズームして。更に「江の島シーキャンドル」を。直線距離で6km程度はあるのだろう。「江の島岩屋」への「岩屋橋」も確認できた。そして姥島(うばじま)(烏帽子岩(えぼしいわ))。茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。えぼし岩の地層は古く、1,200万年前と調査により判明していると。地層は砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものが波で形が削られて、現在の形になったといわれている。昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていた。しかし、戦後に米軍の射撃訓練の標的となり、先端部分は消失した。その際に町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されたのだと。ヘッドランド(Tバー)をズームして。そして再び国道134号に向かって進む。茅ヶ崎イシラス 「釜豪」。茅ヶ崎唯一のさかな市場で2018年4月に閉鎖となった茅ヶ崎丸大魚市場で20年以上働いていた方・石田さんがオープンした直売所「釜豪 茅ヶ崎イシラス」。こちらは「つり船 沖右ェ門丸」。店頭の人物は?神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目を北に進む。サザン通りをJR茅ヶ崎駅方面に進むと右手にあったのが「八大龍王神」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目8−30大きな木製の社名額には「八大龍王神」と。入口右側には貼り紙が。「奉賛崇敬者各位拝啓、皆様に於かれましては益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。此の度、八大龍王神神輿を修理することになりました。修理期間は令和三年七月吉日より令和四年六月吉日予定となりましたので、今後共御奉賛賜ります様宜しくお願い申し上げます。」入口の「八大龍王神」碑。神輿が鎮座していた場所には祭壇が納められていた。「八大龍王神」の提灯も並んでいた。「八大龍王神神輿」の写真をネットより。【https://ja-jp.facebook.com/401342893347932/photos/pcb.2206696092812594/2206695502812653/?type=3&theater】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.29
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「日本基督教団茅ヶ崎南湖教会」前を通過し、茅ヶ崎市南湖6丁目を北東に進んでいくと「住吉児童公園」があり、その中、左手にあったのが住吉神社の大きな鳥居の横に、一回り小振りの鳥居があり「八大龍王神」と。神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目5。石段の上に「石祠」があった。近づいて。八大龍王は海上の災難や豊漁・豊作の神であると。市内には「八大龍王神 茅ヶ崎の民話」が残されていると。そしてその横には「住𠮷神社」の石鳥居があった。神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目5−1。石鳥居の扁額も「住𠮷神社」。下の長い「𠮷」(土のしたに口)であり「吉」(士のしたに口)ではない。ネットで調べてみると「旧字の「吉」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「𠮷」👈リンク (土のしたに口)は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。」と。社号標石「住𠮷神社」。境内は「住吉児童公園」になっていた。公園の花壇にはパンジーや葉牡丹が植えられていた。境内には「下町自治会館」も。「住𠮷神社」の「拝殿」前には春休み中の子供たちの姿が。「住𠮷神社 由緒御祭神 底筒男命 ( そこづつおのみこと ) 中筒男命 ( なかづつおのみこと ) 表筒男命 ( うわづつおのみこと ) 言伝えによれば、大永年間(1525年頃)村人は疫病や災難から子供を守るため鬼子母神を祀り 十羅刹女堂と称し無病息災・安全祈念をしていた。 明治初年に信徒総代の石黒政五郎氏等が相計り摂津国官幣大社住吉大社より御分霊を奉載して 齋祀したのが当社の起源。 当社は漁業地である旧茅ヶ崎村西南湖下の鎮守として崇拝が厚かったと伝えられていた。 現在の社殿は、昭和三年に改築され今日に至っている。御祭儀 一月一日 元旦祭(初詣) 一月第二日曜日 道祖神祭・済度(だんご焼) 三月三日 例大祭 七月海の日 浜降祭 十一月 七五三詣 十二月大晦日 除夜祭 毎月一日・十五日 月次祭鎮座地 神奈川県茅ケ崎市南湖5丁目4186の1番地」「拝殿」御利益:大漁満足、交通安全、無病息災、家内安全、地域安全。現在の社殿は昭和3年(1928)に改築され、今日に至っているとのこと。「拝殿」の向拝の見事な彫刻。唐破風下の彫刻。扁額「住𠮷神社」。「脇障子」には馬に乗った武士の姿の彫刻が。右側。左側。「住𠮷児童公園」の西側にあった「稲荷神社」。「双体神祇道祖神」。「現在地」案内地図。「正一位 川端稲荷神社」の一の鳥居。扁額「正一位 川端稲荷神社」。二の鳥居とその先に「社殿」。「社殿」。住吉神社の真向かいくらいのところにあった「南湖稲荷社」。狛狐。「南湖稲荷社」。この「南湖稲荷社」前の道は「鉄砲道」と呼ばれている道。「南湖二丁目」の住宅街を北に向かって進む。次に訪ねたのが「御霊神社」。神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9−10。社号標石「御霊神社」。御霊神社の創建年は不詳だが、隣接する御霊山西運寺にあった毘沙門堂が幾多の変遷を経て御霊神社となったのだという。伝説によると、西運寺の毘沙門堂は、大庭景義が先祖の鎌倉権五郎景政を祀ったのが始まりで、源頼朝の前に亡霊となって現れた源義経が合祀されたのだとか。「御霊神社の由緒御祭神 鎌倉権五郎平景政御祭神 九郎判官 源義経御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨震を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。御霊神社の創健年代は不詳であるが、古くより御霊山山運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御靈神社になったものである。言い伝えによれば、冶承年間(一一七七年~一一ハニ年)にこの地方一帯を冶めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。建久九年 (一一九八年)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。現社屋は昭和四年再健したものである。」手前に「西行桜」の若木。「西行桜」『ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行』・西行法師の辞世の歌として特に有名な歌です。・西行法師はこよなく桜を愛した歌人でありました。・この御霊神社の桜の木を「西行桜」と命名致します。・・・以下略・・・「拝殿」の扁額「御靈神社」。「鎌倉権五郎影正公は平安後期の豪族的武士、鎌倉・湘南地帯を開拓した領主。ここ御霊神社は鎌倉権五郎影正公と源義経をお祀りしております。祭神影正公は桓武天皇(五〇代)の末裔、平氏の一門でした。「奥州後三年記」(南北朝時代に書かれた絵巻物)に見られますがそのあらましは次の通りです。影正公十六歳にして源義家に従い奥州後三年の役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、敵方の鳥海三郎に右の眼に矢を射こまれました。然し彼はひるまずその矢を抜かずして答えの矢を放ち相手を倒しました。そして味方の陣に帰り兜を脱ぎ「影正手負いたり」と大声して倒れました。そこで味方の陣の剛の者、三浦の平太為次という武士が影正の眼に刺さった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)を履いたまま影正の面部に足をかけました。すると影正は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。土足をもって面部を踏むとは何事」と刀をかまえてその無能を叱咤した。為次は驚いてその無礼を謝り膝を持ってその矢を抜いた。人々はこれを見聞きし影正の巧名いよいよ高しと。こうしたことから影正の巧名は鎌倉武士の誇りとあがめられ御霊神社の祭神として崇められようになりました。長治年間(一一〇四年~一一〇五年)相模国高座郡鵠沼郷の所領に浮浪人を招いて開発し一一一六年(永久四年)の頃伊勢神宮に寄進し大庭御厨として利権しました。」「大庭景義はなぜ自分の祖先の鎌倉権五郎景政を鳥井戸の御霊神社に祀ったのか?」ます考えられることは、鎌倉時代には既に現在の社の場所に毘沙門天のお堂があり、近郊では広く知られていたと思われる。当時、毘沙門天は武人たちの信仰が篤かった。毘沙門天は武神として武土一般に信仰されており、このことは北条時政や和田義盛に、いずれも仏師・運慶が造立した毘沙門天があったことで明らかである。・北の国、越後の上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」を旗印とした・和田義盛は、誇り高い鎌倉武土で源頼朝から御家人を統括する侍所の長官に任じられ、強い権力を 得た。北条時政が奈良の運慶に阿弥陀三尊像の彫刻を頼んだと聞くや、義盛も競うように依頼した。これか現在の浄楽寺(横須賀市)※1にある阿弥陀如来坐像、観音菩薩、勢至菩薩、不動明王、毘沙門天の立像で、いすれも力強い群像である。大庭景義は袒先の鎌倉権五郎景正をここに祀ったのは、毘沙門天のお堂だからと思われる。そして、西連寺が室町時代末期にこの毘沙門堂の北側に創建され、北側である理由は毘沙門天(多聞天)※2は北方を守る北方守護の神として信仰され、戦勝祈願や現生利益を求めて人気か高い守護神であったためである。西運寺の本尊ー阿弥陀如来を守護する役目であると思われる※1浄楽寺(横須賀市)ー住宅街にある小さな寺だが、和田義盛が創立した寺であり、本尊の阿弥陀三尊像及び脇侍仏毘沙門天、不動明王の両立像は運慶の作で、国の重要文化財に指定されている。※2毘沙門天一四天王(持国天・広目天・増長天・多聞天)のうち北方を守る多聞天は特に独立して単独で祀られることがあり、その場合は多聞天の梵名から「毘沙門天」という」「祭神 源九郎判官義経」の文字が額に入って。「祭神 鎌倉権五郎景正」の文字が額に入って。「鎌倉殿の13人」ポスター。「拝殿」を正面から。「鎌倉時代の幕開けと茅ヶ崎ゆかりの地(1/2)」👈リンク。見やすいものをネットから。「鎌倉時代の幕開けと茅ヶ崎ゆかりの地(2/2)」👈リンク。境内の「稲荷社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「柳島海岸」交差点を過ぎ「大貫釣具店」の先に小さな石仏が三体納められた小さな祠・「柳島海岸の地蔵」があった。そしてその先、松林の中に様々な石碑が立っていた。まずは「湘南道路之碑」。「湘南遊歩道路複工記念式湘南大橋の柳島海岸側に建てられた湘南路の碑。前列左からニ人目が、湘南開発期成同盟会長として、道路速成運動をくり広げた元茅ヶ崎町長新田信。茅ヶ崎市所蔵」 【https://www.ys-park.jp/process/2016/07/25/710/】よりその先にあったのが「善行者之碑」。裏面の碑文には「内藤亀太郎表彰碑文君は資性剛直にして寸蒙も不正を許さず、終始之を生活の真情としていました。偶々市内県有林の保護を命じられるや、終戦来頻発する盗伐監視に挺身して、海岸の美観を保ち国土の保全に努力し昭和23年3月1日、27年5月、2回に亘って知事の表彰を受けま した。誠に徳のいたしたるもので、ここに碑を建てて君の功績 を後世までたたえるものであり ます。 昭和28年3月31日 前懸會議長 添田良信 書」とあった。「湘南道路の碑昭和の初期、神奈川県は湘南海岸一帯を観光地・住宅地として開発するために、今の藤沢市の片瀬から大磯町までの海岸に「湘南遊歩道路」を造る計画を立てました。その頃日本は不況の時代で、この工事には失業者対策としての意味もありました。工事は昭和6年から始まり十年にはほぼ完成し、この道路に湘南の発展が期待されていたことが碑文から伝わってきます。相州砲術場と柳島湊跡の碑江戸時代、柳島の河口に湊があり、四百石船を駆使して江戸や伊豆へと往来する廻船業が営まれていたこと。その東側海岸部には「地頭林」があって、徳川幕府はここを西端として(藤沢市)片瀬村にいたる範囲に海陸両用の砲術調練場(鉄砲場)を設置していたことを後世に伝えるために、昭和44年地元有志によってこの碑は建てられました。碑文からは、熱心な郷土愛が読みとれます。善行者之碑湘南遊歩道の両脇には、飛び砂を防ぐために松の木が植えられていましたが、この砂防保安林は強い海風を直接受けるため常に監視をしておく必要がありました。柳島の内藤亀太郎さんは、この保安林の監視をしていました。終戦直後、いろいろな物資が不足した時、燃料にするために保安林の松がよく盗まれました。彼はこの時、とくに熱心に保安林を守りぬいたことによって、当時の県知事から二度も表彰を受けました。この碑は、彼の努力をたたえて建てられたものです。」朱の鳥居の先に石祠があった。扁額「八大龍王」。「八大龍王神」の石祠。最奥にあったのが「相州砲術場竝柳島湊跡の碑」。「相州砲術場竝柳島湊跡之碑」。「ここ柳島は湘央海岸に位置し風光明媚の地なり 東方江の島三浦房總西半島の高山遠近に眺望し西方遠く富嶽を望みつつ雨降丹沢足柄箱根を連ぬる山塊蜿々起伏して天城山系を連ね其海上延びるところ真鶴岬となる 南は蒼海渺泡として天に流れるたりに大島を浮かべ 陸に接するところは優雅な弧を描いて湘南州砂帯を形成する そのほぼ中央を縦断し相模野を東西に両半して南流する相模川がある 落ち口の東は往時の柳島湊で西河口須賀と相対し相模中部の海港として四百石を盛る廻漕船等七艘を常備し東は江戸西は伊豆地方に船脚を伸ばしたその東に地頭林が現存するこれは世に云う砲術場の西極点西百町場の名残りである 相模砲術場は亨保十三年徳川幕府が海陸両様の調練場として設置し 初め鎌倉郡片瀬駒立山上に下げ矢場を江の島海上に◯打矢場を定め 天明六年打小屋を高座郡辻堂引地川岸に移したが調練場の規模は駒立山より柳島地頭まで幅員約一粁帯状の海岸一帯を包合した 幕府はその隣村に鉄砲場見廻役を課して常時監視させ随時ここに大筒役以下七卒派遣して砲術調練を行わせた これは常時の海岸警備を有事国防に備えたものである 江戸時代鎖国の間は僅かに長崎出島を通して海外先進文化に接したにすぎなかったが 蘭学から学び得た西洋科学は 和蘭医学と砲術に表現された その砲術調練が行われたこの地点にわが国科学史の上に永久記念さるべきものである 然るに現今社会の急激な変様はその史蹟を殆んど潰滅せしめ僅かに鉄砲道の名稱と柳島地頭林に旧貌を留むるにすぎない この時に當り茅ヶ崎市有志相語りて碑を立てこれを後世に傳え遺さんとする まことに意義ある企図として稱讃さるべきである この前に佇むもの右建碑の趣旨を銘記されんことを希んでやまない昭和四十四年四月 文学博士 服部◯道 撰」松林から出て少し戻り、海岸に向かって進んで行った。「しおさいの森案内図」。「湘南海岸砂防林」。砂防ネットが続く。「湘南海岸は、たくさんの人で賑わう海岸の一つですが、都市化に伴い侵食が進んでいます。その対策として、侵食が進む箇所に士砂を投入する養浜を実施するために、相模ダムなどから土砂を運搬し、柳島海岸で一時的に保管しております。この場所を利用されている方々には、大変御迷惑をおかけいたしますかがご協力をお願い申し上げます。」そして「相模湾」が現れた。茅ヶ崎西浜海岸の先端にある白き「茅ヶ崎港南防波堤灯台」の先に「江の島」の姿が。そして「烏帽子岩(姥島)」をズームして。東側の「茅ヶ崎海岸」方向を望む。海岸から国道134号に出て歩道橋を渡り江の島方向を見る。平塚方向を見る。茅ヶ崎市柳島海岸の住宅地内を北に向かって進む。そして「柳島嚴島神社」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸13−40。「柳島嚴島神社」の社殿。御祭神:市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと )例祭 :4月5日。扁額「嚴島大神」。「柳島自治会 柳島海岸集会所」。こちらは「境内社」の「半僧坊」と。鳥居の扁額「半僧坊」。「半僧坊」の社殿。中央に「板駒型庚申塔」が。 延享4年(1747)4月28日 日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿 正面右側「延享四丁庚天」 〃左側「四月廿八日」左に「猿田彦大神」碑。右に「川崎大明神」。正面に「川崎大明神 白龍大明神 青龍大明神」の文字と蛇のような龍が彫られていた。龍は想像上の動物で蛇が年功を経て龍となり雲を呼んで天に昇るといわれる。海、池、沼などに棲み雨を降らせる霊力をもつもので雨乞いに全国各地で龍神として祀られることが多い。この石塔右面には明治三十一年四月廿七日午前三時ノ出現とある。左面には「触光柔軟 弥陀佛二千玉」、裏には、「八大龍王」と。「八大龍王」とは仏法を守る八体の龍王のことで、海上の守護神・漁業の神として漁業関係者に祀られているとのこと。石祠。石祠内の石仏。「道祖神」碑。道の奥にあった小さな社。神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18。「柳島嚴島神社」から戻ると民家の庭のユキヤナギが。「柳島自治会 柳島海岸集会所」を表側から。再び国道134号に向かって防砂林の中を戻る。国道134号に戻り再び江の島方向に進む。右手の国道脇にあったのが「南湖の地蔵」。神奈川県茅ヶ崎市南湖7丁目。「西浜中学校前」交差点を左折する。右手にあったのが「茅ヶ崎市立西浜中学校」。神奈川県茅ヶ崎市南湖6丁目15−3。茅ヶ崎市南湖6丁目周辺の「住居表示街区案内図」。この後に訪ねた「茅ヶ崎 太陽の郷」の建物であったか?神奈川県営水道のマンホール蓋。中央に県の花:ヤマユリが 県の木:イチョウ そして県の鳥:カモメをデザイン。「茅ヶ崎 太陽の郷」は広域避難場所になっているようであった。「太陽の郷」は、明治32年に創設され、東洋一と謳われたサナトリウム「南湖院」(明治32年~昭和20年)の跡地に建てられた住宅型有料老人ホーム。温暖な気候に恵まれた湘南茅ヶ崎の海辺近く、約30,000㎡の緑豊かな広大な敷地に昭和54年1月(1979年)に、創設されたとのこと。「太陽の郷」入口に到着。「太陽の郷」の敷地の中に入って行った。建物の裏の温室の如き建物はプールのようであった。そして目的の「南湖院」が前方に。名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った設立者の高田畊安(こうあん)によって「ナンコイン」と称されたのだと。「南湖院」はかつて東洋一のサナトリウム(結核療養施設)と謳われていたのであったと。「南湖院 第一病舎」と。「国登録有形文化財(建造物) 旧南湖院第一病舎明治三十ニ(一八九九)年、医師・高田畊安(こうあん)によって設立された結核療養所「南湖院」。母の名を冠して竹子室と命名された第一病舎から始まり、最盛期には約五万坪の敷地の中に十四の病舎や測候所などが点在し、「東洋一のサナトリウム」と謳われました。最初の入院患者の勝海舟夫人や国木田独歩、八木重吉らが療養するなど、多くの著名人が療養や見舞いに訪れています。その後、昭和ニ十(一九四五)年、米軍の茅ヶ崎海岸上陸を想定した日本海軍の接収により、南湖院は、結核療養所としての歴史に幕を閉ざすこととなりました。翌年、米軍に接収されキャンプ・チガサキとなり、接収解除後は海水浴客のキャンプ場などとして利用されながら今日まで受け継がれてきました。第一病舎の建物は、採光通風に配慮されており、北面に切妻屋根の玄関、西面に階段室が設けられています。明治建築らしい下見板張(したみいたばり)塗装仕上げで、縦長の上下窓と三角ペディメント、胴蛇腹がアクセントとなり、風格ある外観を構成しています。療養地として著名な湘南に残る貴重な建物で、平成三十(ニ〇一八)年三月ニ十七日、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。」銘板「登録有形文化財 第14-0256号この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」と。縦長の上下窓と2階の三角ペディメントが美しい「旧南湖院第一病舎」👈リンクの建物であった。入院患者には、国木田独歩(1908年)、八木重吉(1926年)らの文学者も多く、見舞いの文人を交えた文学交流が展開された場としても南湖院は有名であったと。「旧南湖院第一病舎」👈リンク 前から南側を望む。広大な敷地に驚いたのであった。「「太平洋戦争」がはじまると物資が不足し、「南湖院」でも十分な治療や療養ができなくなっていった。戦後は米軍に接収され、療養所としての使命を終えた。現在跡地には、高齢者の集合住宅「太陽の郷」、「茅ヶ崎市立西浜中学校」、「神奈川県立茅ヶ崎西浜高等学校」などが建っている。この写真の奥には唯一昔の姿を残す「旧南湖院第一病舎」(国登録有形文化財)がある。」とネットより。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p02.html】よりそして更に北に進みむと「日本基督教団茅ヶ崎南湖教会」があった。茅ヶ崎教会(中海岸4丁目。1927年創立)の開拓伝道によって1993年に建てられたプロテスタント教会。この教会が立つ南湖の地は、かつて明治、大正、昭和にかけて東洋一の結核療養所と云われた「南湖院」がありキリスト教信仰に立った医療をなされたことから、この地が茅ヶ崎のキリスト教発祥の地との思いを深くし、ここに教会を建てたいとの祈りによってできた教会である と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.27
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市中島にあった「日枝神社」を後にして、相模湾に向かって南下する。「新湘南バイパス」の手前下にある「中島中学校前」交差点を通過する。「新湘南バイパス」の下を歩く。「小出川」に架かる「宮ノ下橋(みやのしたばし)」を渡る。「宮ノ下橋(みやのしたばし)」。「宮」とは「柳島八幡宮」のことであろうか。「宮ノ下橋」から「新湘南バイパス」の「湘南ベルブリッジ」を右手前方に見る。「宮ノ下橋」を渡り直ぐに「小出川」沿いの道へ右折し「湘南ベルブリッジ」のアーチ下まで進む。アーチの上部に取り付けられた4本のケーブルで「湘南ベルブリッジ」橋桁(はしげた)が吊り下げられ、アーチの下部も橋桁と繋(つな)がっている不思議な構造。ニール・ローゼ橋の一種と言うらしい。ちなみに、新湘南バイパスは藤沢ICと茅ヶ崎海岸を結ぶ有料道路で、国道1号のバイパスとしての機能を持っているのだ。また、藤沢ICと茅ヶ崎JCTの間は圏央道(首都圏中央自動車連絡道)の一部になっている。将来は大磯まで延伸して西湘バイパスと接続する計画があるようだ。写真は北側から撮影した「湘南ベルブリッジ」。しかし、このアーチが「湘南ベルブリッジ」の構造上、MUSTなのであろうか?ランドマークとしての機能の為に設置?更に南下していくと上方に「茅ヶ崎海岸料金所」。いつもここを通過すると平日100円、休祭日80円が徴収されるのだ。既にこの場所は「柳島スポーツ公園」内であるようだ。「柳島スポーツ公園」内のジョギングコース上をランナーに配慮しながら歩く。ゴムチップウレタンの足に優しいジョギングコース。公園コース(833m)・競技場コース(630m)とのこと。前方に見えてきたのが「陸上競技場」のメインスタンド。料金所の下のRC支柱には比較的新しいと思える黒い円筒状のものが設置されていた。別の場所をズームして。耐震補強工事なのであろうか?巨大な防振ゴムのようにも見えたのだが。人工芝のフィールドでは子供たちのサッカーの練習が行われていた。「陸上競技場」のメインスタンドを見る。「柳島スポーツ公園総合競技場 案内図」。日本陸上競技連盟公認の陸上競技場である。敷地面積: 約23,300㎡ 400mトラック(8レーン)全天候型舗装フィールド:人工芝(サッカーやラグビーなどが可能)夜間照明: ありメインスタンドの下を歩く。右手にあったのが「青木稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市柳島1300−番地。競技場建設に際し移設されたのであろうか?「クラブハウス棟」を見る。「コミュニティ広場」に「ふわふわドーム」があり、子供たちが楽しんでいた。エアートランポリン。エアートランポリンは、内部に送り込んだ空気圧を利用して跳躍力・浮遊感を得られる器具。主に幼児体育や体操競技・チアリーディングにおいてアクロバットの練習やバランス感覚を鍛えるために使用されているのだ。硬い部分がないため、安全に楽しむことができるので幼稚園や放課後デイサービス、障害者施設でも利用できると。ズームして。競技場のメインスタンドを振り返る。「クラブハウス棟」への階段を上ると、右手下にはテニスコートが。テニスコートは4面あり約2,800㎡で観客席も設置されていた。サーフェス:砂入り人工芝夜間照明: あり「クラブハウス棟」の正面。「鍼灸整骨院 湘南ベルマーレ茅ヶ崎コンディショニングセンター」との表示。「柳島スポーツ公園」入口を振り返る。「柳島スポーツ公園のご案内」。「鉄砲道」案内板。1728(享保13)年、江戸幕府は片瀬村(藤沢市)から柳島村までの海岸一帯に鉄砲場を設置した。以後21年間は毎年演習が行われ、明治維新頃まで百十年間も存続した。南湖の六道の辻から富士見町の平和学園付近まで東西に貫く道を「鉄砲道」と呼び、その道筋は、鉄砲場に沿うものだったといわれている。また、始点はここ柳島からという説もあると。更にネットには「江戸幕府は1728(享保13)年、火砲(かほう)(大筒(おおづつ))の操作や射撃の訓練を目的に南湖から藤沢の片瀬に至る海岸線に鉄砲場を設けました。現在は、国道134号沿いにある柳島記念館に鉄砲場の複製図が展示してあります。鉄砲道と呼び伝える道筋は、異説もありますが、柳島河岸(浜見平団地の西南の隅)から旧南湖院の北側を通り、南湖下町の住吉神社から六道の辻を中海岸自治会館前に抜けて、東海岸北から平和学園に至る道筋のことです。現在、鉄砲道の東海岸北五丁目交差点から松が丘交差点の南側には、旧道の一部が残っているところがあります。この道を「鉄砲道」と呼ぶいわれは、伊豆の韮山で造った鉄砲を柳島湊(やなぎしまみなと)に荷揚げして、鉄砲場まで運んだからといわれていますが、証拠となる文献などは見つかっていません。鉄砲場の中を縫っていた道という意味から、そう呼ばれたと解する方がよいと思われます。」と。上側の赤い実線が現在の「鉄砲道」である。国道134号「柳島」交差点に架かる歩道橋を渡る。階段途中から「柳島スポーツ公園」を望む。全景写真をネットから。 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/shisetsu_info/s_sports/1028429.html】より「新湘南バイパス」の「湘南ベルブリッジ」を望む。国道134号の相模川方面、この先の相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」が見えた。「神奈川県下水道公社 柳島水再生センター」の建物が見えた。右手に「湘南しおさい公園」。国道134号沿いには「道の駅 予定地」との表示板が。令和4年3月オープンに向けてスタートしたが、新型コロナウイルスの影響もあり令和7年7月のオープンへと延期されたようだ。国道134号に沿って江ノ島方面に進むと右手には「柳島しおさい公園」入口があった。中に入っていくと 「柳島水再生センター」の工事業者の表示板が並んでいた。そしてその先は関係者以外は進入禁止となっていた。その先には工事業者の仮説ハウスが並んでいた。左前方に「HOTEL PACIFIC」。ここは加山雄三の「パシフィックホテル茅ヶ崎」とは全く無関係の❤ホテルのようであった。「清流を 未来にのこそう 水の星」と神奈川県下水道公社の横断幕が。「神奈川県 流域下水道整備事務所」。「小さい手 大きい手 地球をむすぶ 平和の輪」と。「神奈川県流域下水道整備事務所公益財団法人 神奈川県下水道公社(柳島水再生センター) 」の案内板。「柳島記念館」。「柳島記念館」横断幕。「柳島海岸」交差点を左折して「柳島通り」に入りしばし北に進むと左手にあったのが「柳島雨水ポンプ場」。ここ柳島地区は西に相模川を臨み、北及び北西に沿って小出川が流れ、海岸寄りには松尾川を抱える地勢 である。標高も低いことから大雨の際にはいち早く流域の雨水を排出することが求められる。 「柳島ポンプ場」はそのような大雨の災害を未然に防ぐ施設として昭和 41 年に稼働し、平成 19 年の増設 を経て、現在排水ポンプ 5 台、1,200t/分の能力を持ち、市内では今宿ポンプ場と並ぶ大きさである。 神奈川県茅ヶ崎市柳島1282−1。「柳島雨水ポンプ場」内には「柳島閘門(こうもん)」と刻まれた石碑があった。現在「柳島雨水ポンプ場」がある場所に柳島閘門がありました。閘門は普段は扉を開けて上流からの水を流し、増水時は自動的に扉を閉ざして逆流を防ぐ役割を果たしていました。昔、柳島は低湿地のためいつも水害に悩まされいたので、水害から守るために昭和2年( 1927 )湘東耕地整理組合が堤防を築くとともに、閘門が設けられました。閘門は、昭和50年に近代設備のポンプ場が完成して廃止されましたが、有志の手によってポンプ場の道路沿いに記念碑が建てられたのだと。「柳島閘門(こうもん)と柳橋柳島は、相模川・小出川・千ノ川の最下流に位置し、昔から水害と塩害を受けてきました。水害を防ぐために、昭和二年(1927)、湘東耕地整理組合は堤防と同時に柳島閘門という施設を創りました。平時には扉を開き川水を流し、相模川の増水時には自動的に扉を閉じて逆流を防ぎました。これにより、柳島の田畑への被害は少なくなり、人々は安心して暮らすことができるようになりました。昭和五十年(1975)三月、柳島ポンプ場が完成し、柳島閘門は不用になりました。「柳島閘門」の文字は、大正時代の萩園出身で衆議院議員山宮藤吉氏の書です。柳橋は、松尾川に架けられていた橋で今はありません。この場所から東へ百メートルの位置にあり、柳島本村と海岸を結ぶ唯一の大切な橋でした。「柳橋」の文字は青木林蔵氏(明治十九年生まれ)の書です。柳島閘門と柳橋を後世に伝えようと、有志がそれらの一部をここに残すことにしました。昭和五十四年十一月吉日 柳島自治会 茅ヶ崎郷土会 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館」 現在の「柳島雨水ポンプ場」を見る。「柳島海岸」交差点まで戻る。歩道橋の階段下にあった「関東ふれあいの道」案内板。「関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道てす。沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里をみなおしてみませんか。湘南海岸・砂浜のみちこのみちは、県内1 7コースのうちの6番目です。ここから砂浜沿いのサイクリングロ一ドを江の島に向かって東に進みます。途中茅ヶ崎漁港沖の平島や東海岸沖では烏帽子岩(姥島)を見ることができます。鵠沼橋(引地川)でサイクリングロードが終わり、国道134号線の歩道を歩きます。鵠沼橋を渡るとすぐに聶耳記念碑が建っています。湘南海岸公園、新江ノ島水族館を過きると片瀬橋(境川)が見え、手前を左に曲がると終点片瀬江ノ島駅てす。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.26
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「旧相模川橋脚」を後にして、更に相模川方面に向かって進む。「今宿」交差点を右折して進むと路地の角にあった「小祠」。神奈川県茅ヶ崎市今宿534−1。逆に国道1号を渡り、東海道線近くまで200mほど歩くとあったのがこれも「稲荷社」。「二ツ谷の稲荷」と呼ばれていると。「稲荷社」の社殿。国道1号に戻り平塚方面に進むと右手にあったの以前に訪ねた「上国寺」👈リンク。神奈川県茅ヶ崎市今宿488。更に進むと、同じく以前訪ねた「信隆寺」👈リンク が「産業道路入口」交差点手前の右手にあった。「産業道路入口」交差点を直進する。更に進むと、道路右側に小さな祠があった。神奈川県茅ヶ崎市中島1090.「茅ヶ崎中島 銅葺屋根 男女双体道祖神」と。更にその先にも小さな祠が。神奈川県茅ヶ崎市中島「茅ヶ崎 中島 赤屋根の祠 男女双体道祖神と道祖神」。そしてその先の「新田入口」交差点まで進み、横断歩道を渡り引き換えして右折すると前方にガードが現れた。煉瓦の橋台の上に橋桁が架かり、そこを走る東海道本線の線路が馬入川橋梁に続いていたのであった。下をくぐる道路がいまだ現役で使われ続けているのであった。高さ制限2.0m、幅もその程度しかなかった。車のすれ違いはおろか、歩行者と自動車のすれ違いさえ難しそうなのであった。JR東海道線の「中島川ガード」。手前のコンクリート桁は昭和40年(1965年)。両側に迫る煉瓦積みは明治20年(1887年)に単線で開業した際の橋台、その次の「トンネル」の中には明治33年に複線化した際の橋台の遺構だと思われる煉瓦が見えるのであった。途中、一段低くなった線路下部分は強度アップのためコンクリート補強をしたのであろうか?レンガ積みは明治20年(1887年)に単線で開業した際の橋台、その次の「トンネル」の中には明治33年に複線化した際の橋台の遺構だと思われるレンガが見える。このレンガ部分の横壁は車の通行確保のために一枚分は両側とも全体に削られていた。そしてかつてはこの間に短い鉄橋が置かれていたのでしょう。現在、上部の鉄橋部分はなくなっていた。カメラの向きを縦にしてハツリ部分を。レンガ積みのトンネルは終わり、空が見えてその先に再びコンクリート製の短いトンネルが。一番南側のこの上部の線路は東海道本線の下り本線である。「お願い自動車等が衝突したのを見た方は、至急ご連絡下さい」と。先程と同じ内容のパネルであるが。前方のコンクリート桁は昭和40年(1965年)に設けられたもの。。南側に出て振り返る。下り線ガードの奥に煉瓦橋台が見えるのであった。自転車以外の車両は7時~9時の間は国道1号からの一方通行であると。そして次に訪ねたのが「八坂神社」。神奈川県茅ヶ崎市中島1133-8付近。「社殿」。「八坂神社」は日枝神社の裏手にあり、神社役員は両社を兼ねている。『風土記稿』に「山王社 村の鎮守なり、大住郡馬入村連光寺持」とある。別当寺を他村の寺院がつとめているのは珍しい事例であるようだ。祭神は大山咋命(現在の日吉大社東本宮の祭神)。近江から来て中島を領地した山岡景長が慶安2年(1649)に祭ったと地元に伝えられているが、景長はすでに文禄4年(1593)に亡くなっているので、伝承に混乱があるようだ。なお、八坂神社は『風土記稿』にも明治時代の地誌類にも記録されていないのだと。拝殿に掲げられている「山王」の扁額には領主景忠(元禄11年:1698)の名前がある。「社殿」正面。扁額は「山王」。「八坂神社」の隣にあったのが「茅ヶ崎市消防団10分団」神奈川県茅ヶ崎市中島1134。その斜め前にあったのが「忠霊塔」。裏面には「日清日露及び大東亞戦役等に際し戦歿せられたる諸勇士の英魂を永遠に慰霊せんが為黨部落民の総意に依り茲に忠靈塔を建立し其の偉烈を仰ぎ後世に傳えんとす。昭和三十ニ年九月二十三日 中島部落」と。戦死及び戦没者28人の氏名が刻まれています。その内訳は、日清戦争1人、日露戦争3人、支那事変1人、大東亜戦争21人、平塚空襲による死者2人です。空襲死亡者2名を除く戦死者の年齢は、20歳1人、22歳1人、23歳1人、25歳4人、26歳2人、27歳5人、28歳4人、29歳1人、32歳3人、35歳1人、36歳1人、37歳1人、年齢不明1人です。故国を離れた中国、旧満州、フィリピン、ビルマなどでの戦死です。また、昭和20年7月17日の平塚空襲による死者は布川浅次郎、根岸ツルさんです。次に訪ねたのが直ぐ近くにあった「浄林寺」。神奈川県茅ヶ崎市中島1052。「常林寺本堂新築記念碑」。「掲示板」には「善き行いに善き心よいことをすれば、心が美しくなります。そしてその心こそ次のよいことの原動力になるのです。」と。「本堂」浄土宗の寺。本尊:阿弥陀如来『風土記稿』中島村の項に「浄林寺 故詠山山王院と号す、浄土宗(大住郡須賀村海宝寺末)天正四年(1576)城蓮社厳誉起立本尊阿弥陀を安ず」とあります。院号を「山王院」とするのは、鎮守の日枝神社(江戸時代は山王社)が隣にあるからだと。「浄林寺は須賀の海宝寺の隠居寺だった。海宝寺の檀家は3千軒と言われる。浄林寺が明治時代に海宝寺から独立するとき、中島在住の8軒の旧家が海宝寺檀家を離れ浄林寺檀家になった。」と。「本堂」前に「勢至丸像」。近づいて。「此の尊像は浄土宗を開宗された法然上人の幼少の頃の勢至丸像です。長承ニ年四月七日生誕にて昭和五十七年降誕八百五十年生地は美作国久米南修稲岡庄、現在の岡山県久米郡南町(岡山駅より津山線誕生寺駅)でその屋敷跡は誕生寺 父は豪族漆間時国母は泰氏の出であり法然上人の没年は釈尊と同じく八十歳です。叔父観覚得業の菩提寺に九歳の時に行かれた十五歳で比叡山にて修行剃授戒され、法然上人の御墓は浄土宗総本山知恩院本堂横の山◯◯◯◯◯あります。」法然上人は歴代天皇より大師號を七つも贈られました。」「水子地蔵尊」。「本堂」に近づいて。扁額「故詠山」。内陣には御本尊の「阿弥陀如来」。ズームして。永代供養墓であろうか。「倶会一処」と刻まれていたが。墓地を望む。「歴代上人之墓」。そして「浄林寺」の前にあったのが「日枝神社(ひえじんじゃ)」。神奈川県茅ヶ崎市中島1134。石鳥居を潜り拝殿に向かう。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「拝殿」。日枝神社は、神奈川県茅ヶ崎市中島にある神社。中島日枝神社とも。安土桃山時代の天正19年(1591年)、山岡景忠が近江国(滋賀県)から関東に来て旗本となり、中島村を与えられた。当社地近辺には景忠の陣屋があったと伝えられている。中島の鬼門除として、おそらく日吉大社から大山咋命を勧進し、山王社として創立された。以来中島の鎮守として崇敬され、五穀豊饒と家内安全が祈願されてきたという。境内には、樹齢200年あまりタブノキがある。当社の例祭は7月第3日曜日。当社は毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。境内には他に、明治18年(1885年)銘のある駒型文字道祖神や、大山不動尊を祀っている。なお当社は、市内南湖の八雲神社・金刀比羅神社・住吉神社・御霊神社などを兼務している。【ご利益】五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、地域安全。見事な龍の彫刻。扁額は「日枝神社」。「鐘楼」。鐘楼には「山王大権現」と。庚申塔群。「六臂青面金剛像」。あまりメリハリのない彫りで、腰の左右に小さな文字で紀年銘が、その下に薄く二鶏がある。享保八年十一月吉日の江戸中期の建立にしてはやや迫力に欠ける石仏であった。「神輿蔵」。「拝殿」の後ろに「本殿」を見る。御神木の樹齢200年あまりのタブノキ。「道祖神」の祠。「道祖神」碑が内部に鎮座。道路に面した場所にあったのが「不動堂」。「大山不動尊」。「日枝神社」を進み更に南に進む。ビ二トンでは何が栽培されているのであろうか?茅ヶ崎市の下水マンホール蓋を再び。烏帽子岩とカモメをデザイン。烏帽子岩は平安時代の貴族がかぶっていた烏帽子に似ているところから この名で呼ばれている。「ちがさき おすいT-14」の表記。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.25
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして前方に「新湘南バイパス」の高架橋が姿を現した。左手に折れると満開の桜が迎えてくれた。「国指定史跡 旧相模川橋脚」案内塔。その上には「神奈川県衛生研究所」、現在は新型コロナウイルスのPCR検査等を実施している機関なのである、近づいて。その下にも「国指定史跡 旧相模川橋脚」と書かれた石碑が。近づいて。少し奥にあったのが「耕地整理記念碑 神奈川縣知事 松村光磨書」 と。小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されていた。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。碑の裏には、「大正十四年十二月二日着工 昭和十五年十一月十日竣工 高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合」と。「史跡 旧相模川橋脚」碑と「天然記念物 旧相模川橋脚」碑。そして、最初に「国指定史跡 旧相模川橋脚」案内板を訪ねた。「国指定史跡 旧相模川橋脚1、指定と保存整備■ 指定内容 所在地 神奈川県茅ケ崎市下町屋一丁目 (旧地名 神奈川県高座郡茅ヶ崎町大字下町屋字中河原) 指定等種別 ・・省略・・ 指定地域 ・・省略・・ 指定地の面積 1,879.53 ㎡ 監理団体指定 茅ヶ崎市(平成19年1月17日文化庁指定)■ 指定理由(1)指定基準 史蹟名勝天然記念物保存法第一條ニ依ル 追加指定基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年 文化財保護委員告示第2号)史跡の部六による。(2)説 明 小出川ニ沿ヒタル水田中ニ存ス大正十二年九月及翌十三年一月ノ两度 ノ地震ニ依リ地上ニ露出セルモノニシテソノ數七本アリソノ後地下ニ 隠ルゝモノ尚三本ヲ發見セリ蓋シ鎌倉時代ニ於ケル相模川橋脚ノ脚柱ナラン 追加指定説明 関東大震災(大正12年)の液状化現象によって水田から出現した中世前半代の 橋脚跡。発掘調査によって、建設当時の護岸を目的としたと考えられる 土留め遺構の一部や、指定当時(大正1 5年)の保存工事跡が指定地外で確認 されたため、これらの部分を追加指定する。■ その他文化遺産としての特色 ・地震により、遺跡が判明したことや関東大震災の様子を物語る記念物として 珍しい事例です。 ・出現後の早い段階から地元が文化財保護に取り組んできた歩みを残す貴重な 遺跡です。■ 橋脚の保存と整備の方法 出現より約80年が経過した橋脚の一部に傷みが観察されたことから、 発掘調査や関連調査の結果を基に、以下の方法で2 0 0 1 (平成1 3 )年度から 2007(平成19)年度まで保存整備を行いました。 1 .橋脚(橋杭)の保存については、個別にコンクリート製の保護ピットを 設置し、その中に橋脚の湿潤状態を保っため充填材として荒木田土を入れ 密閉しています。 2 .地震によって出現した状態を正確に再現すために精巧なレプリカ(模型)を 製作し、平面位置、角度、長さなどを実物同様に設置(実物はレプリカの 真下に保存)しました。 3 .レプリカを取り囲む保存池の形は、発掘調査の結果を基に大正期に整備 された初期保存池の形を復元しました。■ 源頼朝が渡った橋の跡 当遺跡は、沼田頼輔により建久9 ( 1 1 9 8 )年源頼朝の家臣稲毛重成が 亡き妻の供養のために架けた橋と考証されています。鎌倉幕府の歴史書 「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと、帰途落馬し、その後 まもなく亡くなったことなどが記録されています。旧相模川橋脚はこうした 歴史をもった遺跡であると考えられています。」「出現時の様子」。「整備前の様子」。「保存地精査の様子」「保存方法の概念図」。見えているのはレプリカで、本物の橋杭はその下の保護ピットの中で大切に保存されているようであった。「案内図」。2、発掘調査の成果2-1 橋脚について■ 橋の大きさと川の流れ 橋脚(橋杭)の本数は、調査によって10本であることが確認されました。これらは南北方向 4列、東西方向3列に規則的に配置されています。橋全体の規模を推定すると、橋幅約9m、 長さ40m以上の橋がおよそ南北方向に架けられていたことが推測でき、流路は東西方向で あったと思われます。■ 橋脚(橋杭)の詳細 橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので3m65cmで した。この中には、上部が、ほぞ穴状に加工されているものもあり、この部分に梁などが組 まれていたことが窺えます。さらに、下部になるほど細くなり先端は面取りされて尖ってい ます。なお、樹種はすべて檜と同定されています。「全体(橋杭5)」。「上橋(橋杭10)」。「先端(橋杭5)」。2-2 中世土留遺構について■ 角柱と厚板の検出 橋脚の北側で発見されたもので、角柱6本と厚板2枚、それに礫(れき)で構築されています。 東西方向に約13mを測りますが、さらに調査区外に伸びており全容は明らかでありません。 角柱は断面が長方形のものと変形六面体のものがあります。また、厚板は厚さ約10cm、幅 約1m、長さは西側が7m20cm以上、東側が5m10cm以上の大きさの一枚板です。■ 川の護岸などを目的 この遺構は、位置や検出状況などから、橋脚との関連性が極めて高いものと判断でき、 川の護岸などを目的とした遺構と考えられます。また、使用されている部材は、船板 や建築材などを転用した可能性があります。2-3 近現代における整備遺構■ 保存池と護岸遺構 本史跡は、指定後に整備された池で保存されてきましたが、調査において当時の池の 護岸遺構が確認されました。杭と板を合わした土留めと幅約1m90cm、高さ50cmの 土盛りによる堤が明らかになり、当時水田だったこの場所にていねいに保存池を作っ たことが明らかになりました。 ■ 地域に守られてきた遺跡 下町屋の青年団を中心に、橋脚の保護のために防腐剤を塗ったことが伝えられてい ます。さらに、1965(昭和40)年頃には隣接地を所有した武藤工業が中心となって 保存池の改修が行われています。 本史跡はこのように地域の人に守られながら今日まで保存されてきました。調査で は、こうした先人の行った保護の足跡を確認することができました。2-4 その他の成果■ 中世土杭墓群 今回の調査では、橋杭や土留め遺構が埋まっている地層よりも上の層で土杭墓が10 基発見されました。土杭墓からは、人骨のほか副葬品と思われる古銭や土器が出土 しました。こうした資料から16世紀代に葬られたものであることがわかり、この時 期には当地が墓地であったことが明らかになりました。■ 古代遺物の出土 調査区の砂礫層からは、土師器、須恵器など古代の遺物が出土し、なかには古代の 瓦も見られました。これらの多くは、角が擦れて、丸みを帯びており上流から流さ れてきたものと思われます。これらの資料は、付近に古代遺跡が存在していること を明らかにするものです。■ 地震痕跡の確認 橋脚は、1923(大正12)年におきた関東大震災の液状化現象によって出現したもの です。調査では地下深くから砂や礫が噴き上げられた場所が数ヶ所確認され、地震 の痕跡がそのまま残っていることを明らかにしました。この写真は4月3日(日)に再び立ち寄った時の写真。立体地形図と地面には地図が。以下は3月24日(木)の写真。「相模川」周辺の地図が陶板にて立体模型として。上が相模湾への河口方向。現在地がここ。関東大震災前の相模川河口の絵図であると。橋脚の位置は、現在流れている相模川の流路から東側へ約2.5キロメートルの位置にある。この橋が確認されたことにより、中世における相模川は現在よりかなり東方を流れていて、氾濫や地震による流路の変遷を経て現位置へ移動したものと推定されている。下に震災前の相模川、小出川、千の川の状況を示した。震災で土地が隆起し、北東(右上)から相模川へ流入する千の川は河口を失って大きな沼地(現在の浜見平団地の所)を作った。柳島村は161反歩もの新たな耕作地を得、幕末より続いた藤間温泉の湧泉量は激減した。このように大地震が発生するたびに、相模川はその流路を変えてきた。しかし、この橋脚が作られた当時の流路の全体は明確でなく、この橋が相模川の本流・支流とどのような関係にあったかは研究段階である と「相模川流路の検証」👈リンク より。「史跡 旧相模川橋脚関東大震災で出現した鎌倉時代の橋脚ロ地震で太い柱が水田に出現1 1923( 大正12) 年関東大震災と翌年に起きた余震で、当時水田だったこの場所から太い柱が 出現しました.。ロ鎌倉時代に架けられた橋の跡 出現後まもなく歴史学者の沼田頼輔により、『吾妻鑑』(鎌倉幕府の記録書)などから鎌倉時代に 相模川に架けられた橋の遺構(橋脚)と考証されました。ロ貴重な遺跡として史跡に指定 1926 (大正15)年10月20日に国の史跡に指定されました.また、2001 (平成13 )年からの整備に 伴い実施した発掘調査で関連する土留め遺構が発見され2007 (平成19 )年2月6日に追加指定 されました。ロこの史跡の主な特色 1 .中世の橋遺構は全国に例が少なく大変貴重である。 2 .地震で地中の遺跡が出現したまれな例である。 3 .地震の時の様子をそのまま目にすることができる。 4 .大正時代からの文化財保護の足跡が残っている。 ※中世=鎌倉時代から安士桃山時代「地震後の状況」。「仮指定時の橋脚」。「出現した橋脚の概要ロ発握調査の結果 調査によって確認された橋脚は、全部で10本です。 平面位置から東西方向の3本が対となり、南北方向に4列規則的に配置されていました。ロ橋の方向と川の流れ こうした配置から、橋はおおよそ南北方向に架けられていたと考えられます。 また、川の流れは東西方向に流れていたと推測できます。ロ橋脚の形 調査によって、確認された橋脚の断面は丸く、下はだんだん細くなり先端は尖っていました。 こうしたことから、橋杭として単独で設置されていたことがわかりました。ロ橋の大きさ 橋の規模は、橋脚の間などから、橋は約9m、長さは40m以上の立派なものであったと 推測されます。ロ橋の全体の形 鎌倉時代の橋が残っている例はありませんので、残念ながら全体の形は明らかではありません。 しかしながら、当時の様子を示す絵画資料などから類推することは可能です。」「確認調査時の橋脚(2001年)」「指定される橋の方向と川の流れ」。「橋脚と地震ロ地震と液状化現象で出現した橋脚 橋脚は、関東大震災で出現したものですが、これは、地震による地盤の液状化によって地中から 浮かび上がったものです。ロ液状化とは 液状化とは、砂混じりの地盤が、地震の揺れによって液体のように動いてしまう現象です。 つまり、地上にある重いものは液体化した土の中に沈み、地中(地盤)に埋まっている橋脚の ようなものは地表に浮かび上がります。ロ液状化を裏付ける証拠(下写真) 保存整備に伴う発掘調査では、液状化による噴砂や噴礫(地中の砂などが地上に噴出すること) の 痕跡が確認されており、液状化が起こったことをより明確に裏付けました。ロ液状化想定図(下図) 本地域のような旧河道や埋め立てされた土地は液状化が起こりやすい地域とされています。 現在、こうした液状化が想定される地域については防災のためにマップが作られ一般に公開 されています。※1991 (平成3 )年「神奈川防災マップ」による」「液状化によって橋脚の周りに吹き出した砂」。「液状化想定図」。「史跡の周辺地形と位置地形について(左の立体模型)ロ周辺の地形 この近辺は、茅ヶ崎市南部の低地にあたりますが低地をさらに砂州・砂丘地形や自然堤防地形、 後背湿地、旧河道などに分けられます。 明治時代に作成された迅速図 (地図)をもとに周辺の地形の様子を示したものが上の模型です。 ※地形が見やすいように、模型の水平と垂直の比率を変えています。ロ鎌倉時代の相模川の流れは? この模型を見ると、明治時代には大きく蛇行して流れていた相模川を観察することができ、ここが 昔は河道であったことがわかります。こうしたことから、鎌倉時代にも相模川の一部が現在よりも 東側のこの付近を流れていたことが推測できます。」位置について(足もとの地図)ロ本史跡の位置 本地点は神奈川県南部の相模湾に面した茅ヶ崎市にあたり、県北部から流れる相模川の下流 東側になります。相模湾から北に約1.8km、現在の相模川より東に約1.2kmにあたります。 足もとの 現在位置(旧相模川橋脚)を探してみて下さい。ロ鎌倉幕府(当時の日本の政治の中心地)との関係 橋が架けられた鎌倉時代、茅ヶ崎は相模国(現在の神奈川県)に属し、政治の中心地であった 鎌倉から西に約15kmの距離にありました。鎌倉からのびる道の一つにあり、幕府との関係が 強かったことが窺えます。」「推定される中世の古道」。「旧相模川橋脚」の指定史跡範囲を望む。そして見学通路に嵌め込まれていた説明板をカメラで追う。□橋脚出現状態の再現□大正期保存池rの復元写真をズームして。それぞれの説明文は重複するので省略。それぞれの説明文は重複するので省略。「保存池」の周囲を廻り込んで。沼田頼輔氏の『湘南古橋行』の石碑。『長留天地間 神奈川県知事津田文吾書』と刻まれた「漢詩」が下に刻まれていた。。沼田頼輔・尋常高等茅ヶ崎小学校(現・茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校)校長でもあった人物の作品であるようだ。「漢詩」。「湘江古橋行湘江滾滾百里奔 建久九年十二月 三郎曽娶執権女 夫人偶見ニ豎犯披緘驚愕怱喪色 鉄蹄戞戞向関在 夫人未死息庵庵 薙髪帰仏祈冥福橋成幾百会僧侶 滄桑萬變河道徙 我来偶見名橋址 昭和太皇一駐駕帰心如箭奈無翰 千里山川三日還 三郎看護太殿勤 建寺拾財修善根供養荘厳開法筵 長橋埋没不留痕 始驚結構宏且堅 従是都人頻来觀橋梁◯設自前古 架之者誰◯三郎 琴◯在堂好相合 三郎子役在上國巨頭将軍本姻戚 爾後呼◯三日◯ 天命◯常◯蘭◯ ◯欲◯度及君類将軍臨視◯諸◯ ◯亥九震禍◯劇 ◯◯◯◯状宮府 湘南新加一名跡以下・・・・時間のある時に・・・」「沼田頼輔詩」と。「水越咲七書」と。横を流れる現在の「小出川」。「新湘南バイパス」の高架橋と国道1号「下町屋橋」。そして4月3日(日)に平塚からの帰路に再び立ち寄ったのであった。この日の「桜雨」・「花散らしの雨」の下での光景を。花筏(はないかだ)の如き光景が拡がっていた。花筏とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のこと。その花びらの動く様子を筏(いかだ)に見立てた言葉といわれいるのだ。この言葉・花筏は、なんとも日本らしい、そして美しい響きを持っている。耳にしただけでも情景が浮かんでくるかのような、日本語の素晴らしい言葉といえるのではと。与謝蕪村の俳句『ちりつみて、筏も花の、梢かな』を想い出しながら、帰路についたのであった。ブログを書きながら、大いに学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.24
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤間家住宅主屋」を後にして、再び「柳島八幡宮」の横を通過し東海道線の線路に向かって柳島1丁目-2の住宅街を進む。JR東海道線の「松尾踏切」を渡る。東京駅から60K675Mと。そして「千ノ川」に架かる橋を渡る。橋の名は表示がなかった。下流側には「新湘南バイパス」が見えた。その手前は小出川への合流地点。その先には富士山が見えるはずであったが・・・・。上流側を見る。先程渡った国道1号近くの「石原橋」が遠くに見えた。そして国道1号まで出て、「下町屋」交差点を左折して、平塚方面に進む。そして50mほど進むと左手にあったのが「神明神社」。神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6−19。「神明大神鎖座地 茅ヶ埼市下町屋一丁目六番一九号(旧三九ニ番地)祭神 天照大神 大山咋命例祭日 十月一日由緒沿革往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(921〜1005)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大庭平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460〜1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。」「下町屋 神明神社」碑。「晴(清)明井戸」碑。裏面には「当地の古老が伝えるところによると神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(九ニ一~一〇〇五)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出した。名付けて「晴(清)明井戸」と称す。」と。「拝殿」に向かって進む。「拝殿」。御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、 大山咋命(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)。境内左手には「道祖神」と「厄神大権現」碑。「厄神大権現」碑。苔むした石碑も道祖神であっただろうか。こちらは社の中に鎮座。「神明神社」を後にして更に国道1号を西に進むと100mほどの左にあったのが「でかまん菓子舗」。 神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6−5。昭和26年より看板メニューである「名物でかまん」が誕生。現在、でかまんを始め和菓子や洋菓子など20種類近くの商品があると。一番大きな「でかまん」は、たて32cm☓よこ22cm で3500円/個 であると。そして更に進むと次に訪ねた「旧相模川橋脚」案内板が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「民俗資料館 旧藤間家住宅」の北側に建つ建物を訪ねた。手前には懐かしい井戸、手押し井戸ポンプがあった。今でも汲み上げ可能のようであった。主屋との間に裏に出られる通路が設けられていたが、ここは立入禁止と。内部に様々な歴史豊かな書類、絵画等が展示されいた。藤間柳庵「太平年表録」(一篇~七篇)。藤間柳庵「太平年表録」「太平年表録」は、ペリーが来航する嘉永六年(1853)に始まって、徳川幕府が崩壊して間もない明治五年(1872)の間に生起した政治、外交、社会の出来事について、柳庵が入手した情報資料、あるいは柳庵自身が執筆した文章を、年代順に書き記したものである。その内容は、①ペリー来航の情報を筆頭とする対外関係の記事、②国内各地の社会や政治の動き伝える外部からの情報、③社会の動きとともに自然現象とそれに伴う人間社会の被害を有様の記事、④柳庵が柳島村に近接する東海道沿道あるいは近くの藤沢宿に係る記事⑤柳庵が名主を務める柳島村を知行する旗本・戸田氏についての記事に分類することができる。語り尽くされたかに見える幕末期も、柳庵の目を通して活写されるとき、黒船のいる浦賀の◯港直後の横浜のざわめき、安政地震直後の江戸の見聞、持ち〇〇丸の異国船との遭遇、藤沢の遊行寺でのハリス目撃、等々幕末の歴史的場面が一層新鮮味を帯びて甦る。「太平年表録」の特徴は魅力である。● 各編の主な内容 一編 ペリー来航の実見記 二編 ペリー再来日、アメリカ使節ハリス関連の記録 三編 安政三年十二月のハリス応接記録の続きに始まって、文久元年五月までの記録 四編 文久元年十二月に和宮が江戸へ下る情報から、元治元年に天狗党活動までの記録「⑨藤間家が所有した400石船藤間家は江戸時代以前から帆船を所有して物資を輸送する回船問屋であったと考えられます。航海の安全を願った掛け軸に描かれた「観音丸」と「不動丸」の絵です。船窓に人の姿が見え、舳先には4本爪の錨が掛けられています。」「観音丸」と「不動丸」の絵。「観音丸(かんのんまる)」。「観音丸この絵図の船員の身長を1.6mとすると、船の大きさは長さ21m強、帆の高さは15m程度であったことが考えられます。船体の後半部には船窓(開ノロ)から覗く人の姿も見られます。400石船であれば大きさでは112立米、重さでは60トンの荷物を運ぶことが出来たと思われます。江戸時代後半。」「不動丸(ふどうまる)観音丸の弟船として嘉永2年(1849)に建造されました。柳島湊を出てまもなくペリーの黒船群に遭遇し湊へ逃げ帰ったことが柳庵により記されています(太平年表録)。」錨の写真。こちらにも様々な展示物が。「藤間柳庵が所有した400石船江戸時代に名主をつとめた藤間家は、幕末の柳庵の時代には「観音丸」「不動丸」という帆船を所有して江戸や伊豆などと行き来して回船商を営んでいました。回船商とは船を使った運送業であり、その大きさは絵の中の船員とみられる人から知ることができますが、400石積ともいわれ、現在では 112立米(縦・横・高さ1mの箱112個)の大きさの荷を運んでいたと思われます。年貢や相模川上流から集積した木材などを江戸に送り、江戸の物資をいち早く相模地域にもたらしました。馬入川(相模川)の河口を利用した、柳島湊を拠点にして、東西の物資や文化が入り交じるにぎやかな光景が思い浮かばれます。」「新造船乃記扇面図」。「新造船乃記扇面図嘉永2年(1849)に新造された不動丸を記念し、柳庵の筆により祝いの言葉を絵付で記しています。これを団(うちわ)にして得意先に配ったと言われています。」「明治15年作成の地図(陸軍による迅速図)」。相模川が、大きく東・茅ヶ崎方面に蛇行して相模湾に流れ込んでいるのであった。「明治15年作成の地図(陸軍による迅速図)相模川(馬入川)の当時の河口の様子がわかります。江戸時代の柳島湊は、ゆるやかな流れのある入江を利用していました。」「海濵眺望図江戸時代の終わり頃の馬入川河口」。江戸時代終わり頃。馬入川の渡船場(新編相模国風土記稿)平塚側より茅ヶ方面を望んた図。手前の馬入村には茶屋や宿屋が並んでいる。渡船の永主は柳島村など近麟村民がつとめた。 【https://www.ys-park.jp/process/2016/07/25/710/】より「民俗資料館 旧藤間家住宅」を北側から見る。和室の畳の上には絨毯が敷かれていた。主屋の北東側にあった建物は?外壁には「旧藤間家住宅」の屋敷内で見られる、植物や花の写真が紹介されていた。「ヒマラヤユキノシタ」。南側に廻り込んで。洋と和の調和が見える主屋の南面を見る。「居間」には火鉢を嵌め込んだテーブルが。「みどころ②庭から住宅を観察 ・・みどころ・・〇 従来の和の住宅に洋室(応接間)と玄関(ホール)が増改築されている。〇 そのほかは和の造りとなっており、八畳と六畳間には1間幅の縁側があり、屋根が幅の広い ヒサシまで一体的に作られている。〇 座敷は高い天井と部屋の仕切り壁に欄間(らんま)を施している。〇 八畳間の東壁には床の間と違い棚が設えられている。〇 八畳間の北壁上段には柳庵の著作物、中段には書の師であった秦星池(はたせいち)の篆書(て んしょ)の額、右側には柳庵作成の竹の聯(れん)4点。〇 六畳間には絵文字版画とその版木(左)を展示しています。村人思いの柳庵が天保の飢饉や安 政の大地震で不安がる村人のために、江戸で流行していた「宝尽くし」のデザインで文字化 し、自ら作成して配布しました。」「「西村伊作」が設計した家国登録有形文化財 藤間家住宅主屋この屋敷の主屋は、大正から昭和時代にかけて日本住宅の洋風化をリードした建築家「西村伊作」(事務所)が手掛けた住宅です。昭和7年に玄関や洋室が増改築されて以来、台所の一部改築やアルミサッシの導入などの他は、寄贈された平成29年までの90年近く、ほとんど建設時のままに住まわれてきました。昭和の初め頃の柳島村では、このような洋風建築はとても珍しいものであり、多くの村人たちを驚かせ、大いなる関心を集めていたと考えられます。江戸時代から柳島村の名主を務めながら、本業の廻船商という仕事をとおして新しい文化を目の当たりにしてきた藤間家らしく、昭和になっても新たな時代の先駆けとなっていたことをうかがい知ることができます。大正12年の関東大震災直後に新築された住宅に花嫁を迎えた先々代の善一郎氏は、東京に勤めるなかで「西村伊作」という建築家を知り、当時はやりつつあった洋風住宅の設計を依頼したと考えられます。大工は西村伊作の設計住宅を手掛けた経験を持つ、地元柳島村の石井金寿さんであったことも忘れることができません。」「祝家運」額(柳庵作)。能得名/亀者財/物帰之/家必大/富柳庵居士祝家運而書/(能く名亀を得る者は、財物之に帰して、家必ず大いに富まん 柳庵居士、家運を祝して書す)時年五十有八/安政戊午 稔仲冬吉日」「秦星池(柳庵の師)筆 篆書」。芙蓉不 及美人 妝水殿 風来珠翠香卻 恨含情 月待君 王壬牛冬日 星池馨篆」『芙蓉も及ばず 美人の妝(よそお)い水殿(みずどの) 風来たって珠翠香(しゅすいかんば)し 卻(かえ)って恨む情を含んで 月に君王を待つを』(君王に見捨てられた妃の悲しみ 唐の王昌の詩「西宮秋怨」の一節)「家訓」額(柳庵作)。人は ただ寝ても 起きても 火のもとと 子孫のすゑを こころかく べし右の絵文字は「家内安全火乃用心」と書かれているのだと。「家内安全火乃用心柳島村の名主であった藤間柳庵が考案して版木を作り、刷って村人に配ったとされています。八字とも宝尽くしを象った絵文字で書かれています。柳庵がどのような意図でこれを作ったかの記録はありませんが、茅ヶ崎の郷土史家でもあった斉藤昌三氏はこう言っておられました。「江戸末期の安政頃は地震とか火災とかの天災地変がよく続いたもので、この相模地方は飢饉もあり、人々の暮らしは安穏ではなかった。そのような村人を案じて考え出されたものが、宝ものを絵文字にして平易な日常の戒めを書くことだった」と。またこう言ってくださる方もいます。「これを柱や床の間に飾った村の人達は、一時的にせよ、宝ものが家に入ってきたような明るく前向きな気持になることが出来たのではないか。そしてこれは名主であり、同時に、江戸文化に接してそれを楽しんでいた文人柳庵だからこそ出来たものと思われる」と。」彫られた8文字は、「家」が蓑(みの)、「内」が女性の顔、「安」がかぶりがさ、「全」が金の袋(財布)、「火」が分銅、「乃」が宝の鍵、「用」が小づち、「心」が宝珠をそれぞれ象っているという。」六畳間の奥にも柳庵が作成、配布した「家内安全火乃用心」の絵文字版画が。奥の八畳と六畳間は縁側付き。そして「九畳間」。左には「階段箪笥」が。「階段箪笥据え置き型の階段であり、下部は引き出しや戸棚に仕上げられています。江戸時代に建てられた3階建の土蔵に設置されていた可能性があります。」③9畳間と縁側(えんがわ)・・みどころ・・◯板壁は横板を重ね、細長い縦板で押さえる昔ながらの日本 住宅の壁「押縁(簓子(ささらこ)下見板張り」となっています。(洋間と玄関回りは 「イギリス下見板張り」)◯玄関から続く中廊下が縁側となリます。縁側のガラス戸もゆがみや傷などのあるなっかしい ガラスが使われています。◯9畳間と縁側は縦額障子て仕切られています。◯階段箪笥 据え置き型の階段て移動ができる。引き出しと戸棚の天板が踏み段となります。 箱階段ともいいます。「〇 浮世絵版画 この家に保管されていた439枚221点(3枚組のものを1点として)の一部です。江戸時代末 (1840~1850前後)に活躍した歌川広重や豊国をはじめとする歌川一門の作品です。 柳庵のコレクション。 ● 縁側の右上にある2点は広重の作「小倉擬 百人一首」 ● 縁側左上の右側は「江の島遠見」左側は「大磯(馬入川渡し)」 ● 9畳間奥の3枚組4点 (左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」 1846~1849年 (左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」 1862年 (右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」 1844~46年 (右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」 1862年 ● 9畳間左 四代目歌川豊国「里見八犬傳狗草子之内芳流閣上圖」 1854年」9畳間奥の浮世絵3枚組4点(左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」。(左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」。(右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」。(右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」。縁側の右上にある2点は広重作「小倉擬百人一首」の「ほ 1846年」、「な 1847年」。右は「小倉擬百人一首後徳大寺左大臣ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる画 歌川広重」右は「小倉擬百人一首藤原清輔朝臣ながらへば また此のごろや 志のばれん うしと見し世ぞ 今は恋しき画 歌川広重」藤間柳庵揮毫「陸亀蒙”鄴宮"詩碑」の拓本か?縁側左上の浮世絵。右側は、歌川貞虎「江ノ島遠見」1846~1849年。左側は、三代目歌川豊国「大磯(馬入川渡し)」(作画年不詳)。「納屋(物置)」。「納屋(物置)この建物は、大正12年(1923年) 9月1日お昼ごろに発生した関東大震災て倒壊した旧家屋の木材を使用して造られた仮設住宅と考えられます。その後、現主屋が新築され、納屋として現在まで使われてきたと考えられます。」様々な品物が保管されていた。懐かしい籐製の乳母車もあった。みどころ④「堀抜井戸(噴上井)」。「堀抜井戸(噴上井)と藤間温泉江戸時代の終わり頃、柳島村の名主を務めていた藤間柳庵(善五郎)は、幼い頃から書道や学問に親しみ豊富な知識を持つ人でした。その中で、地中深くにある水脈に達すればその水圧で水が吹き上がることを知っていました。掘り抜いた木の筒を継ぎ足しながら掘り下げる方法で一年七ヶ月かけて深さ二十間(約36m)に達すると人の身長をはるかに超える高さまで水が噴上がりました。明治時代初めに描かれた図には、この井戸から南側の敷地端に「水車、槝場(粉挽き場)」があることから、いかに水量があったかを想像することができます。柳庵翁は、さらに有り余る水を有効利用しようと屋敷の南東端に湯屋をつくり村人に風呂の提供をはじめました。後の藤間温泉のはじまりです。その後近くでも同じ掘抜井戸で大南温泉(山口屋)が誕生し、年貢事務を行う幕府の役人の宿舎にも利用されました。柳庵翁は所有する四百石船を使い、熱海や湯河原の温泉水を買い付けて柳島に運び、柳島の井戸水に混ぜて泉質を高めていました。また明治時代中頃には藤間家の東方で藪下温泉も開設し、村の人だけではなく海遊びや川遊びなどの行楽者たちの憩いの場ともなり大いににぎわいました。しかし大正十二年の関東大震災の影響により水量が減少するようになり、また第二次世界大戦の開始などにより廃業していったようです。」「堀抜井戸(噴上井)」に近づいて。南側の庭には赤松の枯木が。そして「旧藤間家住宅」から南100m程の共同墓地の角に関東大震災の犠牲者を供養する「観音像」が建っていた。神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目8−31。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.22
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「柳島八幡宮」を後にして、次の目的地の「藤間家住宅主屋」に向かって柳島6丁目の住宅街を南下して行った。民家の門の下にあった、小さい胡蝶蘭のような美しい紫の花。帰宅してネットで調べてみると「ハーデンベルギア」か。葉の付け根から花茎を出し、数十輪の小さな花を穂状に咲かせていた。別名コマチフジは小さな藤のように見えるので呼ばれるのだ と。そして5分ほどで「藤間家住宅主屋」前に到着したが・・・「閉館」と。「お知らせ民俗資料館旧藤間家住宅の開館時間について令和3年1 1月5日より、本館の開館時間を下記のとおり、本来の時間にさせていにたきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。なお、開館日は今までどおり金曜日と土曜日(令和3年度は12月31日と1月1日は休館)です。開館時間・・・9 : OO ~ 1 6 : 0 0」と。この日は残念ながら、木曜日なのであった。「茅ヶ崎市指定史跡 藤間家(近世商家)屋敷跡藤間家は代々柳島村の名主を勤めた家柄であり、近世(江戸時代)では廻船業を営む商家として、所有する四百石船を駆使し、江戸を主体に広範な商いを行いました。敷地の南縁と西縁に現存する石垣をはじめ、新たに発見された土蔵跡などの近世遺構が敷地内にそのまま包含されていることが発掘調査で判明しました。また幕末の文人名主として高く評価され「かながわの百人」にも選ばれた藤間柳庵翁(善五郎)をはじめとする代々の御当主が残した数多くの民俗資料や書画などからも、市内では他にない近世商家の歴史状況を窺うことができる貴重な遺跡です。鎌倉時代の二階堂氏文書(1271年)に初めて「柳島」の地名が見えるものの、これまでほとんど知られていなかった海岸地域の歴史を明らかにする糸口にもなる遺跡であることから、近世商家の痕跡を埋蔵している当屋敷地を保護・調査し後世に伝えていくために、茅ヶ崎市は平成二十五年三月、史跡として文化財指定(第37号)しました。」「旧藤間家の主屋は昭和7年の建築で、建物は敷地の中央に建ち東面を洋風に設えています。洋間を玄関南脇のみに配していますが、北脇の和室を含む東側立面全体を下見板張りの洋風意匠で統一させています。その他は、簓子(きさらこ)下見板張りとして和・洋の意匠を対比的に採用しています。内部は中廊下の前後に居室を並べています。日本の建築に洋風文化を取り込むなど大正・昭和を代表する建築家でもあった西村伊作の作風の一端を示す近代住宅です。建築当初の姿をほぼそのまま残す数少ない建物であることから、平成27年3月26日に国の登録有形文化財に登録されました。」「民俗資料館 旧藤間家住宅」案内板。開館日 金曜日と土曜日(12月27日 ~ 1月4日は休館)時 間 9:30~15:30(令和3年11月から)災害時で臨時休館する場合もあります。見 学 庭の自然および縁側から主屋をご覧ください(室内は一般公開していません) (主屋の玄関前にパンフレット等を置いています)」この日は、「旧藤間家の主屋」前の庭をズームして、この場所を後にしたのであった。そして、この日は4月1日(金)、平塚に仕事の用事があり車で出かけ、その帰路に再び立ち寄ったのであった。この日は「表門」から。「民俗資料館 旧藤間家住宅」案内板。「民俗資料館 旧藤間家住宅◯国登録有形文化財の藤間家住宅主屋 昭和7年に建設された和と洋が調和した住宅であり、日本の住宅の洋風化に力を注いだ建築家・ 西村伊作の作風を今に残す貴重な建物です。◯茅ヶ崎指定史跡の藤間家(近世商家)屋敷跡 「かながわの百人」にも選ばれた(文人名主)藤間柳庵が残した数々の書籍や文書、回船商家と して使用された船上の道具類など様々な民体資料が残されているほか、屋敷を囲う石垣や 新発見の土蔵跡など屋敷地には江戸時代から現代までの藤間家の歴史が埋もれています。◯藤間家が育んだ庭の自然・・・樹・草ゃ鳥類、昆虫などが鑑賞できます。」「今、咲いています!」。庭に入って行った。左手にあった太い樹木。地面の近くには名札が。「ニッケイ」と。ニッケイ(肉桂)は、クスノキ科ニッケイ属の1種の常緑高木である。 ニッキ、ニッケとも呼ばれる。 かつては、中国南部・台湾原産とされていたが、自生種の存在も確認されている。 日本へは享保年間 (1716–1736) に中国から輸入され、盛んに栽培された と。私も、子供の頃、このニッキの根を洗ってしゃぶった記憶もあるが。玄関を中心とした主屋の東面が現れた。玄関前にあった「家訓碑」。「家訓柳庵居士歳五十有七為令誦子孫書於石上身代は預りものと こゝろえて 冨やすより先 へらさぬかよし旹安政四丁巳稔夏六月上浣之吉」「クロマツ」越しに玄関を見る。「現在、室内は一般公開していません民俗資料館「旧藤間家住宅」は、寄附いただいた約3900 m2の敷地とその中に建つ主屋などの建物や、残された各種歴史資料、多彩な庭の樹木・草花から構成されています。また、建物内には江戸時代からのさまざまな民俗資料や古文書などが多く残されており、本年度はそれらの整理作業を進めているため、室内の一般公開はしておりません。庭の自然を楽しみながら、外観とガラス戸越しに室内をご覧ください。今後は文化資料館事業の一環として、室内や資料の見学を含めたイベントを計画しておりますので、そのような機会にご参加いただければ幸いです。広報等によりご案内いたしますので、皆様方のご参加よろしくお願いいたします。」と。「民俗資料館 「旧藤間家住宅」」案内板。「民族資料館旧藤間家住宅の見学(みどころ①~⑨他」(左)と「みどころ位置図」(右)。「みどころ位置図」に近づいて。みどころ①「①国登録有形文化財 藤間家住宅主屋大正12(1923 )年9月の関東大震災の後に新築された日本住宅に昭和7年に洋風の応接室と玄関が増改築されたものです。従来の和の住いに現在につながる西洋化を推進した建築家西村伊作(事務所)の設計により柳島の大工石井金寿さんが建てました。幸いにも戦火をまぬがれたため、90年ほどを経た現在もほぼ変わらぬ姿を残しています。和と洋がうまく調和した近代住宅として、国内でも数少ない現存建物であることから、平成27年3月26日に市内2番目の国登録有形文化財に登録されました。◯玄関のポーチ・・独立した屋根であり雨どいが一体化したおしやれな造りとなっている。◯当時では画期的なダイアガラスの引き戸◯玄関両脇に見える出窓(南隣の洋間の出窓は2重窓)昭和7年頃の柳島では初めて見る西洋的な装いだったと考えられます。」「登録有形文化財」プレート。「登録有形文化財 第14-0192号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」 と。茅ヶ崎市では1番目 「茅ヶ崎館」👈リンク、2番目がここ「藤間家住宅主屋」、3番目 「南湖院」👈リンク、4番目 「氷室家」👈リンクの4つの建物。玄関の引き戸の隙間から「上がり框(あがりかまち)」を見る。玄関先の右手にあった枯れてしまった「キャラボク」と。みどころ⑥ 「藤間柳庵 生誕・終焉の地」の碑。「藤間柳庵 生誕・終焉の地」。みどころ⑥「藤間柳庵 生誕・終焉の地」の碑。藤間雄蔵氏 文、石井抱旦氏 書「激動の幕末維新期四十年に亘り柳島村名主役を勤めて村政に尽力し 柳島湊に拠る廻船業で近郷の経済発展に貢献し また学問に志して多くの詩文句歌 記録を書き留め 時の世相を活写して後世に遺した藤間善五郎(柳庵)は享和元年(一八〇一)ここに生まれ明治十六年(一八八三)ここに没した 昭和五十五年(一九八〇)神奈川県は県にゆかりのある歴史上の人物「かながわの百人」うちに 藤間柳庵を選んだ 柳庵の墓碑は柳島の善福寺にあり顕彰碑が柳島の鎮守八幡宮境内に建てられている。平成二十年(ニ〇〇八) 藤間雄蔵文 石井忠書」みどころ⑦「藤間柳庵揮毫「陸亀蒙”鄴宮"詩碑」」「花飛蝶駭不愁人 水殿雲廊別置春 暁日覯粧千騎女 白桜桃下紫綸巾 藤恒覚午睡而書於柳庵 時年五十有七」と刻まれている と。『花飛び 蝶駭けども人を 愁えしめず水殿 雲廊 別に春を置く暁日 覯粧す 千騎のの女白桜桃下紫綸巾藤恒午睡より覚めて柳庵に書す・時に年五十有七』【花びらは散り飛び、蝶はおどろき、春は過ぎ行こうとしているが一向に愁いを感じない。水辺の宮殿、雲のたなびく回廊には、この世のものとは思えぬ春の華やかさが漂う。暁の中美しく化粧した女官千人が白い桜桃の花の下、紫色の頭巾をつけて集う】「キャラボク」を別の角度から。「地域の名木「藤間家のキャラボク」を偲んでキャラボクは、もともと山形県の鳥海山から鳥取県の大山にかけての日本側の山々に点々と自然分布がみとめられるといわれていますが、横に広がって小枝を多数出す特徴から庭園樹として用いられることが多い樹木です。藤間家のキャラボクは、樹高は5m、幹は7本に分かれ、枝は地面を這うように10m四方に広がり、緑豊かな見事な樹容を見せていました。海岸に近く暖かい土地にこれほど成長した例が少ないことから、昭和59年(1984年)に「かながわの名木100選」に選ばれ、61年には市の天然記念物に指定されました。選定当時でも樹齢は100年を越すものといわれ、名木というにふさわしい趣を感じさせていました。(「『かながわの名木100選』1987年神奈川県教育委員会」より一部抜粋、写真も同紙より転載)。そうした、人々に親しまれた古木ですが、近年、環境の変化により樹勢が衰えはじめ、根回りの養生などの努力も追いつかず、残念ながら枯死するにいたりました。そして平成28年(2016年)に市の天然記念物指定を解除することになりました。藤間家では、現状のままで残されるお考えであることから、ここに選定当時の緑豊かな樹姿をとどめ、これからも市内散策のスポットとして活用させていただきたいと考えています。」この場所は「⑧土蔵跡」「⑧土蔵跡2間3間3階建て土蔵の土台となった石垣が発掘調査で明らかになりました。本来は3段組の石垣の土台のうえに立つ3階建の土蔵だったと考えられます。3階部分は「柳庵」という名の書斎でもあり、物見やぐら、火の見やぐらのような役割をもっていた可能性があります。」みどころ⑧「史跡藤間家 近世土蔵跡の発見」案内板。「史跡藤間家 近世土蔵跡の発見〇 確認調査への経緯 庭木の手入れをしているときに、地中から石垣のような石の並びが見つかったというご 連絡をいただいたことから、市教育委員会(社会教育課)が現地確認を行い、改めて正式 な確認調査を実施したものです。〇 調査期間 平成23年7月12日 ~ 7月15日〇 調査区の設定と方法 ご当主が発見した4個の石垣部分を精査し、明らかに地中に遺構が広がって存在すること を確認しました。その際にご当主が示された藤間家に伝わる古文書(家相図)に見える土蔵 跡の可能性が考えられました。これをTP1(テストピット1)として、想定される建物の 四隅を図のとおりTP4まで調査区を設定し、手掘りにより発掘調査を行いました。〇 調査の概要 今回の四か所の調査では、予想していた建物基礎の四隅が明瞭に現れ、南北約4.8m、東 西約6.7mの規模に石組みを施した何らかの建物の基礎の存在が明らかになりました。 ・・・・・後略〇 調査の成果 今回発見された基礎周りを石組みにしたこの建物跡は、藤間家に伝えられている明治五年 の家相図に記された土蔵に合致することが考えられました。家相図では旧宅の北側端に「 二間三間三階建」の「土蔵」が組み込まれた配置となっており、今回の調査結果は、その 家相図に記された当時の屋敷配置を証明するとともに、石組みの基礎は江戸時代では極め て珍しい三階建て建物ゆえに強固な基礎固めをおこなっていたことを物語っているといえ ます。〇 調査から見えてきた当時の景観 江戸時代の終り頃に二間三間三階建ての白壁の土蔵を抱えた大きな廻船問屋の職場兼住宅 がたたずんでいた景観が浮かび上がってきます。 現在、藤間家の西側及び南側に存在している石垣は地表下にも従米のままの石垣が残されて おり、それらの石垣の大きさや加工状況が本「上蔵」の石組みのものと同様であり、これら の石が同一時期にもたらされ、同じ石工により築造されたことが考えられます。これらの 石は、江戸時代未期に柳島の名主として活躍し、昭和五十六年に「かながわの百人」にも 選ばれた藤間柳庵翁が江戸から運んだことが伝えられており、石垣も本「土蔵」も柳庵翁の 手によるものと考えられます。藤間家はこの地域でも小高い場所に屋敷を構えていますが、 そこに立つ三階建ての建物は当時にあっては圧倒的な高さを誇るものであり、数々の書や 世相の記録を残した博識の柳庵翁は、村内を見渡せるこの高殿を書斎としても利用していた ことが想い描かれます。 本「土蔵」は、明治5年以降に建て替えられた可能性もありますが、大正十二年の 関東大震災の時に土蔵が音を立て崩れたという話を付近の古老が伝え聞いています。 それが本「土蔵」のことかわかりません(他に2棟有)が、遅くともこの時を最後に 本「土蔵」は整理され、埋められたと考えざるを得ません。その後、本「土蔵」跡の 中央にキャラボクが植えられ、さらに昭和の初めには、本「土蔵」の位置をわずかに 避ける形で洋館をもつ現住宅が完成したと考えることができます。」「土蔵」の土台となった石垣の下段が現存していた。「土蔵」跡の中央に元”かながわの銘木100選”、元”茅ヶ崎市指定天然記念物”のキャラボクの可哀そうな姿が。調査地点案内図。詳細平断面図。「正一(位)稲荷(しよういちいなり)」。「正一(位)稲荷明治8年の新宅普請図の中に「両社稲荷」と記されており、古くからこのお稲荷さんを祀っていたようです。先々代の善一郎さんがこの場所に移してレンガで再建したと考えられます。中には「昭和7年」と記された板がありましたのて、その頃に再建された可能性があります。両社稲荷神社は東京の日本橋本町にあり、江戸時代から商人や町人の「家内安全、商売繁盛」の神様として信仰されてきました。また稲を象徴する農耕の神様としても大切にされていたことがうかがえます。藤間家では「正一稲荷」として伝わっています。」内陣には「お狐様」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.21
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「善福寺」を後にして次に訪ねたのが「柳島八幡宮」。神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目3−10。柳島八幡宮は柳嶋八幡宮とも書かれていると。現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂けると。創立年代や由緒は不詳。御祭神は誉田別命。例祭は7月14日とされているが、これは浜降祭(はまおりさい)が7月15日開催されるがその前日。当社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭に参加する一社である。正面に石鳥居には、「大正拾五年九月吉日」、「復興新建氏子中」と刻まれ、信仰復興による鳥居であることが分かるのだ。扁額は「八幡宮」。「柳島八幡宮 境内図」。「八幡宮復興記念碑」。神社は関東大震災で倒壊したあと、氏子の協力で一旦倒壊前の姿に再建されたが、昭和20年7月の平塚空襲の際に再度全社有に帰した。戦後再び氏子らの努力で、拝殿、神楽殿、神輿などが再建され、その際の記念碑であるとのこと。左手に「手水舎」。そして「拝殿」。祭神:「品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけのみこと)。 別名は「応神天皇(おうじんてんのう)」。第15代天皇、皇祖神や武神(弓矢神)。 ※[八幡神]農耕神、海の神御利益:出世開運、武運長久 他右手に「道祖神」などの石碑群。「鐘楼」。「鐘楼」には「八幡宮」の文字が。「参集所」。「柳島八幡宮現在の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)てある。・文政五年(一八ニニ年) 鳥居が造られる。(鳥居の年銘による)・天保十ニ年(一八四一年) 『新編相模国風土記稿』に「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ) 鎮守なリとある。 (十羅刹女どは、鬼子母神と共に法華経の信仰者を擁護する十人の鬼神女のこと)・嘉永元年(一八四八年) 柳島の鎮守の社殿建築を、鎌倉郡村岡郷高谷村(現在の藤沢市内)の大工文蔵が総工費ニ十九両で 受け、同年十一月十五日に竣工する。(藤間家資料による)・大正十ニ年(一九ニ三年)九月一日 関東大震災のため鳥居を含め全壊する。・大正十五年(一九ニ六年) 当時の区長の片野荘太郎は神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決める。 大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡愛川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿に 竣工する。・昭和ニ十年(一九四五年)七月十六日 太平洋戦争の平塚空襲の際に、全焼する。・昭和ニ十四年(一九四九年) 千葉県行徳(現在の市川市内)の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調する。・昭和三十ニ年(一九五七年)十一月ニ十三日 氏子をはじめ多くの方々からの寄付を得て、社殿を建立する。 大工は石井幸三郎・府川篤、木彫師は江口裕康。・昭和五十年(一九七五年)五月四日 本殿を再建する。大工は石井幸三郎・府川篤、鳶職は、山口道雄。 現在に至る。」「拝殿」。昭和五十年(一九七五年)五月四日に再建された と。見事な彫刻。中央は神功皇后、左は応神天皇を抱く武(建)内宿禰の姿であると。三韓征伐と共に神功皇后に欠かせないのが、武内宿禰の存在。この二人は常にペアで彫られて(描かれて)いるが、これがなんとも不思議な関係。皇后は仲哀天皇の妃ですから、いくら早世したとはいえ仲哀帝と並んで描かれるのが本来の姿。しかし、そういう彫刻、絵図は見たことがないのである。何故??この彫刻は横浜住の江口裕康之の作品であると。唐破風の下の懸魚の彫刻も。飛龍であろうか。「本殿」の扁額「八幡宮」。「本殿」を見る。「拝殿」横の「庚申塔群」。「庚申塔庚申塔は、庚申信仰をともにする人たちによって建られた石仏の一つてす。昔、庚申の日の夜は、人々は集まって眠らないで過ごしました。この夜に眠ると悪いことがあると信じられていたのてす。このような信仰を持つ人々はその後、自分たちの死後の安楽を願って庚申塔を建てるようになりました。庚申塔は現在、市内に百基近く見つかっています。ここには三基ありますが、一番大きな塔は江戸時代初期の万治三年(一六六〇年)に作られたもので、市内ては八番目に古く重要なものてす。どれにも「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が彫ってあリます。また、その一つには六本の腕を持った青面金剛も見られます。」一番右の大きな塔は江戸時代初期の万治三年(一六六〇年)に作られたもの。市内ては八番目に古く重要なもの。「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が。その左は六本の腕を持った「青面金剛像」。下部には「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が。「庚申供養塔」。これにも「見ざる(猿) 」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が「石祠」。凹みには何があったのだろうか?「道了大薩埵」と刻まれた石碑。「道了大薩埵」は神奈川県南足柄市にある曹洞宗最乗寺の守護神。開山である了庵慧明の弟子で、怪力をもってその開創を助け、のちに当寺を守護することを誓って天狗となり、白狐(びゃっこ)に乗って飛び去ったという。後世、広く信仰を集める。道了権現 と。丸石で出来た多くの石碑が並ぶ。「本殿」の裏には巨木がニ本。奥の巨木に近寄る。「子宝の木」と。「黄金」に彩られたものは「金精さま」と。「この金精さまは縁結び、子孫繁栄、長生不老、五穀豊穣、町内安全お願いして建立されたものです。」「茅ヶ崎「タウンニュース」2011年1月21日号には古くから子孫繁栄や五穀豊穣の霊験があるとされる金精様の木像が柳島八幡宮(柳島2─3─10)に奉納された。贈ったのは同八幡宮境内の清掃活動を行っている柳島長命会のメンバーなど地域の有志7人。製作したのはメンバーの山口次縕(つぐお)さん。昨年11月頃に話が持ち上がり、山口さん宅で育ったヒメシャラの木を使って1週間ほどで完成させた。」と。「金精さま建立(入魂)の由来について一、動機柳島長命会は月の第一土曜日に柳島八幡宮の境内を清掃している。その折に、境内の大樹の穴の形状から子宝の話が生まれた。神代から男と女の結びつきが世の摂理である、そのことが金精様を一緒に祀る動機となった。ニ、祈願の目的を明確にした事(一)、縁結び・子孫繁栄現代の世相はとかく縁が薄い社会になりつつある、また.草食系男性の出現の世相ときく。経済・社会情勢等から少子時代でもある。かってのようにもっと社会の結びつきを深め、子宝に恵まれてこそ社会の弊栄につながると確信している。ー日本の将来人口減少が問題になりつつあるー(ニ)、長生不老高齢社会に突入して、世相は暗くこの先幸福な生活が得られるか不安である。ただ漫然と歳をとるだけでは長寿ではない「心身ともに健康でいたい。最後はピンピンコロリが人生終焉の願いである。(三)、五穀豊穣・町内安全農作物だけでなく、総てが豊かな世の中、それが願いある。ただ、物が豊かでも心が貧しくては淋しく、暗い社会である。地域全体が安らぎの場となり、明るく楽しい集落を願うものである。三、正論で行くことが大切金精さまのようなシンボルは、とかく、エロチック、ポルノとか卑猥としてプラックユーモアの世界で扱われる。一つ間違えると誤解や不真面目から像のいたずら等が起きる事が懸念される。このような見方や考え方を質すために祈願の目的を明確にした。皆さんのご理解とご協力をお願いしたい。四、祈願者柳島長命会の有志等代表・青木昭三、小川 勝、亀井常男、外浜山吉藤間一正、山口松男、山口次縕金精さまは、柳島八幡宮へフクロウ像寄進の関係もあり山口次縕(柳萌)が作成した。五、宮司祈願の目的を了解、賛意を得た。東北、北関東、伊豆、中京地区等には金精神が祀られている、平和で豊かな世の中を願って建立は是とする。神奈川県下では初めてと思う。平成ニ十三年元旦建立、入魂。」「神輿殿」👈リンク。御神木の「スダジイ」。「折れた鳥居の残骸で作られたモニュメント」。近づいて。左の柱には「文政五年午四月十五日建之」の文字が確認できた。氏子の総意で建設されたもので、関東大震災で倒壊したまさにその鳥居である。「折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十ニ年九月一日(一九ニ三年)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数一六一戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは三戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内ては数少ない貴重なものの一つです。」境内左手に「柳島自治会館」。正面から、奥に「神輿殿」。「藤間柳庵之碑」👈リンク。藤間柳庵(とうまりゅうあん)はここ柳島村の名主を務めた藤間家13代当主の藤間柳庵。家業の廻船業の傍ら、文人として幕末の社会情勢を細かに記録し、多くの著作を残している人物。1853年にペリー率いる東インド艦隊が入港すると、その3日後には浦賀に行き、丘の上から望遠鏡で黒船を見て、人々が不安で逃げ惑う様子を記していると。「拝殿」、「鐘楼」を望む。「神輿殿」、「拝殿」、「鐘楼」を正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.20
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「左富士通り」を南下して行くと右手にあったのが「モリタ宮田工業 茅ヶ崎工場」。消化器等消火設備メーカーの「モリタ宮田工業 茅ヶ崎工場」ではスプリンクラー設備と同等以上の性能を持ち、病院、福祉施設、マンション等、様々な施設で導入されている「パッケージ型自動消火設備スプリネックス」や、安全な食品原料の配合で作られた住宅用消火器「キッチンアイ」などを主に製造している と。またマザー工場として技術製品開発、品質センターの機能も有しているとのこと。JR東海道線の「鳥井戸ガード」を潜って進む。「浜見平北口」交差点を右折する。そして訪ねたのが「松尾神明神社」。神奈川県茅ヶ崎市松尾3−24。社号標石「松尾神明神社」。石鳥居を潜ると正面に「松尾神明神社」の「拝殿」が。茅ヶ崎市浜之郷に鎮座する「鶴嶺八幡社」の兼務社の一つである。扁額「神明神社」。内陣。「本殿」を見る。祭神:天照大神例祭:7月16日(金)(昨年)隣りにあったのが「飯綱神社」。内陣。「松尾神明神社」境内の隅にあった「厄神大神」、「道祖神」、「庚申塔」の石碑群。「大震災記念碑」。「大正十二年九月一日関東ノ地ヲ襲ヒタル大地震ハ嚝古無比ノ惨事ニシテ就中黨部落ハ被害激甚ヲ極メ一時ハ阿鼻叫喚ノ巷ト化シ鬼哭愁々将ニ世ノ終焉ヲ告クルノ思ヒアリシモ幸ニ神明ノ加護ト𢸁郷一致ノ努力トニ因リ克ク災後ノ復興ニ善處シ今ヤ社殿ノ再築ヲ竣リ特ニ青年ハ参道敷石ヲ奉献シテ民心崇敬ノ中軸ヲ確立セリ仍テ茲ニ碑ヲ建設シ永ヘニ追憶反省ノ規準タラシム云爾」裏面には全部て38名の名が刻まれてまれていたが、そのうち9名は内藤姓,他は企て青木姓であった。倒壊した神社の再建記念碑であることが分かった。「永へニ追憶反省ノ反省ノ規準タラシム」いいうくだりに、二度とこのような惨事を繰り返さぬようにとの願いが込められているように感じられたのであった。前の道路から「松尾自治会館」、「神明神社」を振り返る。「松尾神明神社」のい裏にあったのが「松尾山 善性寺」「松尾山 善性寺」を後にして南に向かって進む。右手にあったのが「青和保育園」。そして次に訪ねた「善福寺」の角の路地にあった石仏。石仏の台座には「救世」の文字が。台座側面右には「地蔵菩薩以大慈悲、若閔名號不陥闇黒」と。台座側面左には「文久元年 霜月 導師 善福寺金海 昭和卅七年神無月修復 小川巧二 藤間由五郎」 と。裏面には「濱洲神社 明治二十二年三月吉日」とあるが、これは東京・大森の浜川神社のことであろう と。ここが「善福寺」の脇門(南門)。神奈川県茅ヶ崎市柳島1丁目3−28。「高野山 真言宗」と。「柳島山 善福寺」と。「柳島山 善福寺」の「山門」に廻り込む。斜めから。入口には太鼓橋が。寺号標石「高野山真言宗 善福寺」。「子育地蔵尊」と刻まれた石碑。仏の姿が線刻で。「山門」前の仁王像(阿形像)。「山門」前の仁王像(吽形像)。「柳島山 善福寺(りゅうどうざんぜんぷくじ) 御本尊 阿弥陀如来 宗 派 高野山真言宗 総本山 高野山金剛峯寺 宗 祖 弘法大師(空海)御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現する ために、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしている 社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務めで あり喜びです。」「山門」越しに「本堂」を見る。「山門」を潜って「本堂」を見る。「山門」を潜った左側に「大師堂」があり、2体の大師像が安置されていた。右側の碑の後ろ側には「四国八十八ヶ所霊場順拝記念」碑、「生かせいのち同行二人」碑。手前二基には「南無大師遍照金剛」と。 向かって右側のやや身幅が狭い方が第38番の善福寺大師像で、かなり風化が進 み傷みが激しい。左が第39番の大師像。台石は花崗岩製の真新しいものに取り替えられており、特に銘などは彫られていないようであった。 扁額「大子堂」。「柳島山善福寺復興記念」碑。大正十二年九月一日関東乃地大に震ひ當地方最も劇甚を極む柳島の地民家全部殆ど倒壊し死傷数名黨山の本堂庫裡亦其数に漏れず災後壇信徒相議して其復興を企図し昭和六年八月三日落成供養法會を執行し其梗概を石に勤(いそ)して以て不朽に傳ふと云爾」「本堂」と手前に「常香炉」。本堂の扁額は「善福寺」。「脇門」左手にあった「六地蔵」。「観音菩薩像」お顔をズームして。鎮座する左から、千手観世音菩薩:子年生まれの御守本尊、 虚空蔵菩薩:丑・年生まれの御守本尊、文珠菩薩:卯年生まれの御守本尊、 普賢菩薩:辰・巳年生まれの御守本尊、勢至菩薩:牛年生まれの御守本尊、 大日如来:未・申年生まれの御守本尊、不動明王:酉年生まれの御守本尊、 阿弥陀如来:戌・亥年生まれの御守本尊、角度を変えて。「手水舎」。「戦歿者之碑」。柳島地区の太平洋戦争戦没者の慰霊碑。56柱が合祀されている。昭和25年3月に有志らによって建立された。裏面に5段にわたって戦没者名が刻字されているが、戦没年から見て、最下段の行は追刻であり、また最初の3柱は太平洋戦争の開戦前の戦没である。碑高239㎝、幅90㎝、厚さ13㎝、台石40㎝、基壇75㎝。碑正面:「第二次世界戰 戰歿者之碑 前神奈川縣會議長 深田良信謹書」。碑裏面・・・多くの戦歿者の名前、戦歿日が刻まれていた・・・維時昭和廿五年三月彼岸建之 發起人 柳島有志善福寺住職十八世 少僧正井上壽山代上古澤 石一刻」。「十三重塔」と「弘法大師修行像」。「十三重塔」をズームして。「寺務所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「厳島神社」を後にして石畳の道を「国道1号」の「十間坂」交差点に向かって進む。「十間坂」交差点で「国道1号」に合流しここを横断して「梅田通り」を進む。「十間坂」という地名の由来は「西の方に向かってゆるやかな登り坂になっているから」とか、「右に富士山や箱根、左に鎌倉や江ノ島やら、十景が綺麗に見えたから」等諸説もあったりと、本当のところは分かっていないと。次の五差路を左折し茅ヶ崎市十間坂3丁目と4丁目の境の道を南西に向かって進む。突然、右手に巨大な墓地が拡がっていた。近くにあった「円蔵寺」👈リンク の墓地ではなさそうだったが。その先、右手にあった「神明宮」に立ち寄った。神奈川県茅ヶ崎市十間坂3丁目9−47。社号標石「神明宮」。「石鳥居」を潜り境内を進む。正面に「神明宮(しんめいぐう)」の社殿。神明宮は、現在は第六天神社の兼務社である。創立年代、由緒は不詳。境内には、江戸時代前期の明暦4年(1658年)の銘のある庚申塔があり、県の文化財に指定されている。御祭神は天照大神。例祭は9月15日。元日には元旦祭が、11月23日には新嘗祭がある。当社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。「社殿」の手前、左側にあったのが「庚申塔」が鎮座する覆殿。「庚申塔」が二基。向かって左側の庚申塔には青面金剛像が彫られた庚申塔としては初期(明暦四年造立・今から約365年前)のもので貴重なものだと。右側の庚申塔の主尊も四臂の青面金剛。宝輪や弓を持ち合掌する青面金剛像。三猿はそれぞれが気ままな格好をしている。造立年は不詳 と。「神明宮の庚申塔庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この左の塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、明暦四年(一六五八)の年号がみえる。四臂(うで)でニ猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚ニ、寒川一、藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。」そして再び旧東海道・国道1号に出て相模川の方向に進む。右手にあったのが「第六天神社」。「第六天神社」の「拝殿」。この神社は2019年の「旧東海道を歩く」で訪ねた神社。「第六天神社👈リンク の「拝殿」に近づいて。「南湖入口」交差点を通過。左側には歴史を感じさせる民家があったが、現在は空き家のようであったが。これが旧「田村呉服店」なのだろうか?1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業し、大正期には製糸工場「純水館」が駅前に開設され、ここ茶屋町にあった旅館や料理店なども駅前へ移転。賑わいは「南湖の茶屋町」から、駅北口より延びる通り(のちの「エメロード」)へ移っていった。「田村呉服店」は、現在「田村屋」として、駅に近い新栄町で営業を続けている と。「1927(昭和2)年当時のこの場所の写真」。「東海道」の「藤沢宿」と「平塚宿」の間には、休息する場所として立場が複数あった。その中でも「南湖立場」は比較的規模が大きく、現在の地名にも残る茶屋町として栄えた。茶屋だけでなく旅籠もあり、その後も商店が開業するなど、このあたりの商業の中心地となった。写真は1927(昭和2)年に撮影されたもので、写真左に「田村呉服店」の看板が見える。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/index.html】よりそして次に「茶屋町大神宮」を訪ねたのであったが。住所は「神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目7−7 4-2 ダイアパレス茅ヶ崎南湖」と。ネットで調べてみると。このマンションの中に、「茶屋町大神宮」が鎮座しているようであった。もちろん、入口はオートロックであり中には入れなかった。ネットから「茶屋町大神宮」を。 【https://www.sagami-yashiro.net/2014/04/blog-post_3999.html】より「神輿」も。 【https://www.sagami-yashiro.net/2014/04/blog-post_3999.html】よりそして前方に見えて来たのが国道1号・「鳥井戸橋」。青色の大きな欄干。「千の川(せんのかわ)」に架かる「鳥井戸橋」から上流を見る。「鳥井戸橋」を渡ると、右手には先日訪ねた「鶴嶺八幡宮」👈リンクの大きな朱の「大鳥居」が。社号標石「鶴嶺八幡宮」。旧東海道(現国道1号)が大きく右にカーブし、道路左側、川の真っ直ぐ先に富士山が見えた。 橋のたもとには、「南湖の左富士の碑」も建てられていた。「南湖の左富士之碑」。「とりいどばし」。「南湖の左富士の由来浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。」歌川広重「五十三次名所図会 七 藤沢 南期の松原左リ不二」「関東の富士見100景富士山の見えるまちづくリ地点名 茅ヶ畸市からの富士」と書かれたプレート。「鳥井戸橋」から「左富士通り」に架かる「石原橋」を見る。「鳥井戸橋」を引き返す。この日の「南湖の左富士」。富士山頂の白い雪は見えたが、春霞の影響か?以前に同じ場所から撮った写真。「昭和戦前期」の「鳥井戸橋」の姿であると。「鳥井戸橋」とともに撮影された「左富士」。橋の下に流れる川は「千ノ川」。大正期までは蛇行していたが、流路が改修され、「富士山」は「鳥井戸橋」の下流方向に見える。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/index.html】より「南湖の左富士之碑」前から「鳥井戸橋」交差点を振り返る。「南湖の左富士之碑」前から「鶴嶺八幡宮 大鳥居」を振り返る。「石原橋」を渡る。石原橋の欄干にも、「南期の松原左リ不二」の絵のモチーフが。右が「鳥井戸橋」、左が「石原橋」。いずれも「千の川」に架かる橋。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次新栄町の商店街の道からJR東海道線方向に右折し、次の路地を右(西)に折れると直ぐ右側に「嚴島神社」があった。神奈川県茅ヶ崎市新栄町2−14。神社前の駐車場の隅にあった「嚴島神社」の看板。中央に朱で神紋「波に三つ鱗」が。江島神社の神紋も同じ図柄ではなかろうか。駐車場には、先代の石鳥居の一部であろうか、置かれていた。柱の部分には「氏子」の文字が刻まれていた。「嚴島神社」の鳥居。社号標石「嚴島神社」。「嚴島神社玉垣完成記念碑」。「由緒御祭神 市杵島姫命 (イチキシマヒメノミコト) 田心姫命 ( タゴリヒメノミコト) 湍津姫命 (タギツヒメノミコト) 記紀に示すが如く天照大神の御子神にましまし、天孫降臨に先立ち「天孫を助け奉りて天孫に いつかれよ」との神勅を奉じて 北九州と朝鮮半島を結ぶ海上要路の福岡県宗像に奉鎮され 別の名を「道主貴」(ミチヌシノムチ)「宗像三柱神」と称し、皇室守護・国家鎮護・国民道の 祖神として朝野を上げて厚い尊崇を受けました。 安芸の宮島嚴島神社を始めとして 全国六十余の神社にて奉斎されております。御神徳 皇室守護・国家鎮護はもとより海外国内の交通安全守護家運隆昌 商売繁盛 音楽芸能の神として 神威が迎がれております。御祭儀 一月一日 歳旦祭 七月海の日 浜降祭 十四日 どんど祭 十一月 七五三詣 五月五日 例大祭 十ニ月大晦日 大祓 六月晦日 大祓 除夜祭 毎月五日 月次祭諸際儀 初宮詣を始め商売繁盛 諸祈願の社頭祈願祭、地鎮祭を始め出張諸祭については、ご予約 下さればご奉仕致します お冏い合わせは〇四六七ー八ニーニ三八四(宮司本務社)まで」「明治百年 植樹造園記念碑」。鳥居の扁額「嚴島神社」。美しい色合いの注連縄が。真中が太く両端に向かって細くなる「鼓胴型しめ縄」。そして「藁垂(わらたれ)」が3本。「手水舎」。「神輿殿」であろうか。「嚴島神社」の「神輿」をネットから。 【http://blog.livedoor.jp/ryoujinkai/archives/50550916.html】より「拝殿」。御祭神は福岡県にある宗像大社という荘厳な神社に祀られている三姉妹の神様 市杵島姫命 (イチキシマヒメノミコト) 田心姫命 ( タゴリヒメノミコト) 湍津姫命 (タギツヒメノミコト)三女神のうち、市杵島姫命は弁財天とは同一とされているため、芸能上達のご利益もあるのだと。神社庁の神社詳細「厳島神社」によると、創立年代不詳。郷民の守護神として奉祀せられたとの伝承されており昭和初期まで現在の新栄町七番地内にて祀られていたがその後に茅ケ崎駅前に遷し祀られた。現在地には、駅前広場拡張に伴い昭和二十三年に二基の鳥居と松の木一本、柳一本と共に奉遷せられた。本殿は昭和九年建築、拝殿は昭和四十八年建設。末社の石神弁天社は当神社の沿革を担う社の一つ。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。扁額「嚴島神社」。宗像大社名誉宮司 久保輝雄敬書 と。「拝殿」正面。拝殿の御賽銭箱にも神紋「波に三つ鱗」が。「拝殿建設碑」。「拝殿」の右側にあったのが「境内社 石神弁天社」。石の祠が鎮座されているのであった。「石神弁天社由緒この祠は、葦の密生する湿地であった所へ、明治中期に着工された茅ヶ崎駅開設用地に、人知れず弁天様と呼ばれ祀られておりました。工事開始とともに移転を余儀なくされた祠は、移転を繰返し周辺に祀られておりました明治三十一年六月十五日茅ヶ崎駅が開設とともに周辺には、人家商家の進出が始り、その人々により人心の安寧と商売繁盛、地域の発展が 祈願され、報恩の祭りも賑やかに行なわれておりました。昭和初期になり、旧新町(現新栄町・元町。共恵・幸町)の発展に大きな力を尽した旧新町下一丁目の水澤家に勧請され、手厚く祀られて おりました。昭和六十年四月十九日に南北自由通路を含めた駅舎駅ビルの完成開店により、茅ヶ崎市の玄関口が一新したことを機会として、駅周辺の 発展を守り導き下さった弁天様を、古来より鎮座なされた地の字名に因んで石神弁天社と尊称することとし、広大無辺な加護を、多くの 氏子崇敬者にお頒ちくださるよう祈念し昭和六十年五月四日大安吉日を以て此の地に勧請いたしました。」「拝殿」の左側にあったのが「妙音弁財天像」。池の手前には「御賽銭入」が。お賽銭をいれると、水琴鈴のような心地よい響きの音が響くのであった。近づいて。琵琶持つお姿にちなみ妙音弁財天と名付けられ、音楽芸能の導きの御神として御神徳を広めている と。八角形の池の中には龍の姿が。「妙音弁財天像建立記念碑弁天さまとして 土地の人々に親しまれ その願いごとを受けてこられた 厳島神社は 古く西石神(現新栄町)に弁天社として建立せられ 大正七年に駅前に奉還され 更に昭和二十三年現在地に移られた後 本殿の修復 拝殿 その他の建立をみましたが 弁天さまに縁りのある池も改修に迫られたので 此度青銅製弁財天裸像を中央に安置申上げ 周囲に八角形の池をお造りすることになりました弁財天は 別称弁天さま 妙音弁財天 美音弁財天ともいわれ昔から 家内安全 幸運 財宝を招き 音楽を始め 技芸上達の功徳を持つ水の神として 其の霊験があらたかなので 広く世に知られています。よって御神徳の御加護により氏子の皆様の安泰を祈願し 昭和五拾六年五月拾弐日 時の役員参集のもとに弁財天裸像建立奉告祭を行い 同年拾壱月参日 入魂除幕の式典を行いました」。「妙音弁財天像」越しに「本殿」を見る。「裸弁天」弁才天はインド・ガンジス河から発したが、日本に入り在来の神と習合し、変化に富む姿態をもち、その役割も音楽、弁舌、学芸の神、水の功徳など多様である。この裸弁天もそのひとつであろう。年代は不明。こちらが「脇門」の石鳥居。その先には「拝殿」が見えた。「社務所」であっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「本村 八王子神社」を後にして、北に向かって進むと前方に大きな樹の聳える古そうな民家があった。道路に沿って歴史を感じさせる門と蔵の如き建物があった。ここ本村地区の歴史ある名家なのであろう。巨木を見上げる。樫の木であろうか?名家の前には一面の畑が。名家の畑であろうか。畑の角には「生産緑地地区」と書かれた石柱があった。次に訪ねたのが「厄一王子社(やくいちおうじしゃ)」神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1132。「厄一王子社」と書かれた木柱。「厄一王子社」の社殿。御祭神:疫神(えやみのかみ)、本来は疫病の神だが、神名に「〜やみ」とあることから 疫病を抑える神という意味の可能性もある と。創立年代は不詳。当社は、茅ヶ崎市十間坂に鎮座する第六天神社の兼務社の一つとなっている とのこと。JR北茅ヶ崎駅に向かって西に進む。白モクレンの花が青空に映えていた。右手に大きな墓地を見ながら進む。「水澤家」と刻まれた大きな墓があった。中央には「南無大師遍照金剛」と。「忠烈 故海軍航空兵曹長 勲七等功六級 菅野平吉墓」。ここは以前訪ねた「円蔵寺」👈リンク の墓地であるようだ。そしてJR相模線の「北茅ヶ崎踏切」を「北茅ヶ崎駅」を見ながら渡る。踏切を渡り右に折れると正面にあったのがJR相模線の「北茅ケ崎駅」。駅前には東邦チタニウムの本社工場があった。「北茅ヶ崎駅」周辺の工場と引込み線。1964(昭和39)年の写真である と。国鉄(現・JR)相模線「日東駅」(のち「北茅ヶ崎駅」)からは、戦前・戦中期より周辺の工場に向けて引込み線が延びていた。画像は1964(昭和39)年撮影の空中写真を加工したもので、赤い線が引込み線。この頃は「東邦チタニウム」(「日東製作所 茅ヶ崎工場」跡地)、「東洋カーボン」(現「東海カーボン」)、「電源開発」、「トピー工業」などへ引込み線が延びていた とのこと。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p04.html】より「相模鉄道沿線案内 昭和初期」「1921(大正10)年、「相模鉄道」(現・JR相模線)は茅ヶ崎~寒川間を開通させた。砂利輸送を中心とし、開業当初は資金繰りが苦しかったが、1923(大正12)年の「関東大震災」のあとは、復興のため砂利需要が高まった。1926(大正15)年4月には倉見まで、同年7月には厚木まで路線が延長され、1931(昭和6)年には茅ヶ崎~橋本間の全線が開通した。図は昭和初期、鳥瞰図絵師・金子常光(つねみつ)により描かれた『相模鉄道沿線案内』のうち、茅ヶ崎付近。「相模鉄道」の本社は「茅ヶ崎駅」の北側に置かれていた。」過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(枝線)(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線👈リンク、寒川支線)も描かれている。この地図では「四宮」駅があるが四宮駅は新明和工業(田端)の西側付近(土手のあたり)にあったらしい。終戦前に相模線が国有化された時に廃線となり、今は何の痕跡もない。この四宮駅と寒川駅との中間には「東河原駅」が加わり、のちに「西寒川駅」等と改称されて80年代まで使われた と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p03.html】「北茅ヶ崎駅」の横にあったのが「三嶋社」。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎3丁目3。石鳥居の先に朱の鳥居が4基並ぶ。朱の鳥居の脇に鎮座する狛犬。さらに、その狛犬の奥に、小さな狛犬が!残念ながら1体しかなく、しかも、さらに小さいのであった。内陣。駅前にあった「帰宅困難者用案内板」。近くの一時滞在施設である「茅ヶ崎市男女共同参画推進センター」、「勤労市民会館」、「湘南ステーションビル(ラスカ茅ヶ崎)」が青色で示されていた。そしてJR相模線に沿って南に向かう。右手にあったのが「野天湯元 湯快爽快 ちがさき」。茅ヶ崎の天然温泉。毎日通える日帰り温泉。JR東海道線茅ヶ崎駅北口よりの無料シャトルバスが停まっていた。ここが、茅ヶ崎に住む旅友が時々利用されている日帰り温泉なのであろう。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎3丁目2−75。茅ヶ崎行きのJR相模線が通過。「一里塚北通り」を進むと左手に見えて来たのが「セリア イオンスタイル湘南茅ヶ崎店」。そして国道1号・「一里塚」交差点に出ると前方にあったのが以前に訪ねた「茅ヶ崎一里塚」👈リンク。神奈川県茅ヶ崎市6。更に進み「茅ヶ崎駅前」交差点の地下道を渡る。右手奥に見えたのが「茅ヶ崎市役所」の建物。手前はこれも以前訪ねた「旧寛永寺石灯籠 四基」👈リンク があるのだった。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目1。「新栄町」交差点を左に折れて東海道線方向に進むと右手にあったのが「地獄の担担麺 天竜茅ヶ崎駅前店」👈リンク。大きく描かれた死神の姿が印象的な店。その先、右手にあったのが「正一位左近稲荷大明神」。神奈川県茅ヶ崎市新栄町7−27。朱の鳥居が二基。「正一位左近稲荷大明神 縁起稲荷信仰は、和銅四年(七一一年)如月(ニ月)初午の日に、稲荷大神が伏見の稲荷山に御鎮座になったことにはじまります。当左近稲荷大明神は、茅ヶ崎駅開設に伴い、この地域の人々の流入がはじまり、商業を営む方々などにより、商売繁盛・五穀豊穣・学業成就など諸願成就の神として祀られました。左近稲荷講中では、毎年初午に合わせ、講中の代表者が、京都の伏見稲荷大社に詣で、祈祷を承け新しい神符を頂き、御社に納め奉り、講中のみならず、多くの市民の方々が利益を授かリますよう、ご奉仕に努めております。」「社殿」。内陣。「正一位左近稲荷大明神」からJR茅ヶ崎駅方面に50mほど行った場所にあったのが「湘南信用金庫茅ヶ崎営業部別館」。ここが、昔は「相模鉄道 本社」の建物があった場所 と。ちなみに、「相模鉄道」は1943(昭和18)年に「神中鉄道」(横浜~海老名間)を吸収合併したが、翌年、茅ヶ崎~橋本間が国有化されてしまったため、「相模鉄道」は横浜~海老名間の路線を運行する私鉄として存続となり、現在に至っている と。神奈川県茅ヶ崎市新栄町10−4。そしてもどり、「新栄町」の商店街通りを進み次の目的地の「厳島神社」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「本村のタブノキ」を後にして、その先にあった「本村 八王子神社」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13−40。石鳥居の扁額「八王子神社」。「手水舎」。「手水舎」には龍が二体。「八王子神社 御沿革祭神 天照大神と須佐之男命の誓約の基に生まれた五柱の男神と三柱の女神 天之忍穂耳命(あめのおしほみみ) 天之菩卑能命(あめのほひのみこと) 活津日子根命( いくつひこねのみこと ) 天津日子根命(あまつひこねのみこと) 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと) 田心姫命(たきりびめのみこと) 市杵島比売命 ( いちきしまひめのみこと ) 湍津姫命(たきつひめのみこと)神徳 家内安全 身體壮健 交通安全 武運長久等の郷土開拓の守護神で、往古は郷民の崇拝の 外、旅人の道中安全祈願のため賑わったと傳えられている。沿革 創立年代は不詳なれど、社領民に郷民が祖先の墳墓を築き、その霊を社に記して八王子権現 として敬神榮祖の誠を表したものと思われます。 当神社を中心とする一帯を本村と称するは茅ヶ崎發祥の本源を立証するものであります。 鎌倉幕府開府後は、武士の武運長久を祈る者多く、元弘参年(一三三三)五月拾八日、 新田義貞鎌倉討入の際、当神社に祈請し、神火を拝げて兵勢を挙げ北条氏を滅し、依って 建武貳年(一三三五)上洛の途次社参し、社殿を改修し、奉齋の誠を捧げております。 天保拾壹年(一八四〇)子歳秋八月、拝殿幣殿が再興されております。 明治維新の際は、八王子権現を八王子神社と改稱し、圓蔵寺の別当を務め、明治四拾年 (一九〇七年)四月指定村社に列格されました。 現在の社殿は関東大震災後、氏子の方々の浄財奉納に依って、昭和貳年(一九ニ七)四月、 再建されたものです。」まずは境内の右奥にあった「本村天満宮」、「護国社」を訪ねた。こちらは「八王子神社」への東側からの入口。そして「本村 天満宮」の木製鳥居を潜る。「本村 天満宮」と書かれた木製の碑。「天満宮」の対の「御神牛」(向かって右側)。無実の罪で太宰府に左遷されることになった道真。太宰府に向かう途中、刺客(笠原宿禰など)に襲われた。このままでは命が危ない!…と、その瞬間、どこからか一匹の牛が飛び出してきて道真を救ったのだ。実はこの牛は道真が京都で可愛がっていた牛。左遷決定後、どこかに逃げてしまっていたのだが、大ピンチに再び登場したんだとか。道真は涙を流して喜び、太宰府に連れて行ったと。道真が亡くなったのは、延喜3年(903)2月25日。丑の日!!そして道真の遺骸は牛車によって運ばれるのだが、牛はある場所で突然足を止め、その場に座り込んでしまった。さまざまな手を打ったが、牛はまったく動かず。さては道真公はココでゆっくりと休まれたいのだと弟子は考え、そこを墓地に定めたのだと。その場所は「安楽寺」。今は名前を変えて「太宰府天満宮」となっているのだ と。お顔に近づいて。「天満宮」の対の「御神牛」(向かって左側)。お顔に近づいて。神紋「丸に梅鉢」が描かれた天満宮の提灯が両脇に。「本村天満宮由緒御祭神 菅原道真公菅原道真は(八四五~九〇三)平安初期の公卿、文人。文章家としての基礎を築いた祖父以来の菅家を名實ともに建立した人物。東風吹かば 匂ひいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ八七四年 従五位下となり、文人としては異例の榮達をした。八七七年文章博士となり、八八六年には国守として讃岐に赴任し、八九〇年平安京に歸任した。宇多天皇の命により六國史を編集し、八九九年には右大臣になり、九〇一年従二位に昇進直後太宰権帥に就任、九〇三年太宰府で薨去す。菅原の祖神をたどると、天之菩卑能命にたどりつく。又、命は武蔵國造り祖とも傳えられる。八王子神社境内に、南湖分校(茅ヶ崎小學校)を設立し(明治十三年から明治ニ十五年)本村地区児童の初等科の教育にあてた。」別の場所にも「本村 天満宮 由緒御祭神 菅原大神(菅原道真公)御神徳 學業向上 受験合格への導きの神創立年代不詳なれど、古老の記憶する限り、古きより當神社境内に末社として祀られていました。近年に至り、社殿老朽化しつつある状態であり、此の度、氏子岸芳雄氏・伊藤岩治氏の赤誠な御芳志により再建されたものです。菅原道真公平安時代の最も優れた學者として、詩歌に優れ、政治家として重要な地位につかれた方です。神輿シンヨ・ミコシと呼ばれ、文字通り神の乗る輿のことで、神の移動に用いられたものです。御輿とも書かれます神輿の中には、神體が納められており、あくまでも來臨した神が氏子圏を渡御するのが目的です。これに對して賽銭を投げ供えたり、手を合わせ拝む人があるのはその為です。※神輿、淘綾群山西村、杉橋英之助製作 明治貳拾貳年(一八八九)五月五日」神輿再興記(年代不詳)。夫祭祀皇大御國大本而・本村古来之神輿殿壊・・村内同心協力・・募財テ神輿再興セン事ヲ欲ス。神恩ニ報ヒ名ヲ子孫ニ傳ヘム事ヲ希望ス・・※この記事から推察するに、現在の神輿は三代目となる。禊祭から浜降祭建久貳年(一一九一)、今から八百年も昔の話。鶴嶺八幡社の参道先で「禊祭」が祖先の手によって厳かに行われていた。「南無八幡大菩薩」の信仰は、茅ヶ崎に多くの氏子や信者を集め、鎌倉時代、江戸時代の昔から郷土の信仰の中心であった。明治の時代を迎え、鶴嶺八幡社の禊祭と寒川神社神輿の御體詣りが、明治九年(一八七六)合同で行う事とし、合同祭典の儀式が行われた。それ以降、この祭典を浜下(はまおり)の行事であることから、浜降祭(はまおりさい)と決め、七月拾五日とした。昭和参拾六年(一九六一)県無形民族資料に指定。昭和五拾貳年(一九七七)県選擇無形民族文化財に指定。昭和五拾参年(一九七八)県無形民族文化財に指定※平成拾八年 浜降祭実行委員会で七月第参月曜日と決める。特殊神事官國弊社特殊神事調、大正拾参年(一九ニ四)によれば、寒川神社を中心とした浜降祭の様な特殊神事が、その神事を列挙してみると、①神の降臨出現を中心とする神事②斎祀を・・③禊祭を・・④供物・舗設を・・⑤渡御に関する・・⑥卜占⑦農耕・・⑧採取・・⑨火に⑩疫病除け・・⑪競技・・⑫藝能※この「神事」に「複数神社の連合を中心とした神事」を加える。神事の基礎・市史・茅ヶ崎の昔話より」「浜降祭」👈リンク の光景をネットより。今年は是非この「浜降祭」👈リンク に行ってみたいが、開催は??次に隣に鎮座する「護國社」を訪ねた。「本村護国社」と書かれた木製の碑。神紋「澪標(みおつくし)」が描かれた護国社の提灯が両脇に。澪標とは浅瀬に乗り上げないように水中に立てた航路をしめす木製の杭。平安時代の『類聚国史(るいじゅうこくし)』に「浪速江始めて澪標を立つ」とある。読みが「身を尽くす」に通じることから、恋歌などで愛情表現として用いられた。家紋としては、主君への忠義の意味から尚武(武道・軍事などを大切なものと考える)的な家紋である と。「護國社八王子神社氏子内より日清、日露、大東亞戰争にあたり、護國のために導き人命を捧げられた方々の御尊名は、護國の神として八王子神社に相談して祀られ、九月一日の例大祭には、合わせて感謝と慰霊の祭儀をご奉仕してまいりましたがここに、「本村護國社」を創建し、相殿として祀られている方々の御霊をお還しいただき、より一層丁重に祭儀を嚴修し、感謝と慰靈の誠を捧げることと致しました。」「社務所」。「社務所」前から「八王子神社」の「拝殿」、「鐘楼」を見る。「八王子神社」の「拝殿」。唐破風下の懸魚には鶴に乗った翁像が。ズームして。その上には「三つ巴紋」が。向拝には男女像や大蛇(オロチ)などの見事な彫刻が施されていた。ズームして。素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを退治している場面。作者は「昭和丁卯(ひのとう)作」・「佐藤光重」であると。境内社の「八坂神社」を訪ねた。御神木「公孫樹」。「垂乳根の大銀杏」と呼ばれ、子孫繁栄の願の神木として崇拝されています と。「力石」が弐個。「力石昔、何年頃から行われるように成ったかは不詳なれど、祭禮など氏子の若者達が集まった際、この石を持ち上げて己の力量を競い合った事から、誰云うと無くこの弐個の石を力石と名付けた。」「本殿」を見る。「神輿庫」。「八坂神社」の鳥居を見上げる。扁額「八坂神社」。「八坂神社」の「社殿」。「本村 八坂神社御由緒御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)御神徳 五穀豊穣 招福 疫病除く創立年月不詳須佐之男命 人間の罪穢れや悲しみ喜び生死といった自然界人間界の避け難い運命を一身に負いながらそれを良い方向に導く為苦労をなさった弟神様で祇園さま・氷川さま・熊野さまとも呼ばれました。」先代の「本堂」の瓦であろうか。扁額「八坂神社」。見事な龍の彫刻(右側)。見事な龍の彫刻(左側)。「八坂神社」の「社殿」の横の石碑群。様々な形状の石碑が並んでいた。そして「鐘楼」。場所を変えて「鐘楼」を見る。「鎮守 八王子神社 鋳師 京都 岩澤徹誠黨八王子神社には、元禄拾五年(一七〇ニ)壬午八月、伊藤奥左ェ門外七拾一名奉献の名鐘が在し、その名音は日々の生活に活気を與え勇気を鼓舞し、朝夕氏子に親しまれしも、大東亜戦争中供出の犠牲となり、貴き姿を消す。爾来、名鐘の音を慕う聲絶えず、遂に神社役員及び志を同じくする氏子等相謀り、浄財の奉賽を得て之を再興す。鐘音永久に氏子の幸福と平和を護るものなり」隣には「正一位 稲荷大明神」が。「正一位 稲荷大明神」碑。「社殿」。ここにも多くの石碑が鎮座していた。石碑群案内書。「為庚申供養 二世菩提也 寛文4(1664)」。「為庚申供養 二世安楽也 延宝8(1680)」。「廻国供養塔 文化4(1807)」。「庚申塔 寛文7(1667)」。「道祖神 安永5(1776)」。「関東大震災により倒壊した「八王子神社大鳥居」が境内の地面に保管されていた。「関東大震災により倒壊した八王子神社大鳥居大地震が起きた大正十二年九月一日は、当神社の例大祭で招待者役員等多数の方々が参列し盛大に式典が斎行された。式終了直後(午前十一時五八分)突然マグニチュード七・九と云う大地震が襲った。当地域は震源地内の為、殆どの建物等は全壊した。当社の社殿工作物等もことごとく倒壊した。境内はお祭りの為参拝者で大賑わいであったにも拘らず、幸いに一人の犠牲者も無く誠に奇跡であった。これは、八王子大神の加護によるものであると云われ、この鳥居も我々の身をかばい倒壊したのではないかと言い伝えられています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次国道1号の歩道脇には花壇が整備されパンジーが植えられていた。様々な色のパンジーの花が。日本橋まで(から)56Km地点を通過。そして右奥の駐車所の片隅にあったのが「坂下稲荷神社」。神奈川県茅ヶ崎市小和田1丁目1−63。朱の鳥居には「正一位」と。小さな社殿であったが。内陣には狐様が鎮座。「坂下稲荷新築記念碑 平成十年五月吉日建之」と。そして更に進むと、右手前方に「茅ヶ崎警察署 小和田交番」があった。その先には、以前旅友と立ち寄った「丸亀製麺茅ヶ崎」店。「丸亀製麺茅ヶ崎」店の先を右に入った場所にあったのが「稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目17。朱の鳥居が2基。「石灯籠」。小さな朱の稲荷社殿。50m程先にも神社があった。「茶屋町稲荷大明神」。神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目15−1。ここには石碑が三基並んでいた。右から「道祖神」碑、「御嶽山大権現」碑。「御嶽山信仰の歴史は、遠く平安・鎌倉・室町時代に興った民間信仰と山岳信仰が結びつき、御嶽山も最初は修験道の場として独自の山岳信仰として栄えるようになったといわれています。そして徐々に厳しい修行を重ねた道者といわれる人々が集団で登拝することが風習となりました。そんな中、1784年(天明4年)に尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、続いて1794年(寛政6年)には武蔵國の行者・普寛によって王滝口が一般民衆に開放され、これを機に木曽周辺で留まっていた御嶽信仰が全国的な信仰へと広がっていきました。」とネットから。左は庚申塔・6臂の「青面金剛立像」であろうか。「茶屋町稲荷大明神」の石造りの社殿。隣には社に入った石仏が。近づいて。そしてその南側にあったのが大きな石碑。「陸軍歩兵上等兵勲八等須田磯吉之墓」と。「須田家之墓」。この地区の名家の墓地なのであろう。「須田家之墓」を振り返って。再び国道1号を下って行った。左手にあったのが「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡」案内板。「徳川家康 は、慶長六年(1601)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。」「東海道分間延絵図」。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図である と。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。「東海道分間絵図の現代語訳」。小和田村から浜之郷村の間の地図。右側の曲がりの頂点近くに「ぼたもちちゃ屋」の文字が。「東海道細目分間之図元禄三年(一六九〇年)に浮世絵師菱川師宣が描いた東海道図のうち当市域の一部、小和田村から浜之郷村の間です。東海道沿いに、牡丹餅茶屋、一里塚、南湖立場の茶屋、鶴嶺八幡社などが描かれています。海には姥島が見えます。元禄時代には、牡丹餅、南湖の両立場が成立していることがわかります。」更に進むと道路の両脇に松並木が。鋭く曲がった松の樹。何代目に当たるのだろうか。茅ヶ崎に住む旅友邸を訪ねる時によく立ち寄るコンビニが右手に。この日は「茅ヶ崎高校前」交差点を右に曲がらず直進する。その先にあったのが「東海道の松並木」案内板。『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」と。「東海道の松並木茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう」と。更に進み「市立病院入口」交差点を右折すると左側に「海前寺」👈リンク があったがここも以前訪ねているので、この日は訪ねずに更に国道1号を進むと「本村」交差点に辿り着いたのであった。そして「本村」交差点を右折した先にあったのが「本村のタブノキ」神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目19−28。横断歩道を渡りタブノキの下に。「本村のタブノキ市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木で、樹齢約450年と言われている。市街地では珍しく自然の形で大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に、ずっと変わらない姿で在り続け、緑のある沿道の景観を創り出している。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第4号」この街路樹のピンクの花は?花桃であっただろうか?「本村のタブノキ」の後ろの路地を西に向かって進む。右手にあったのがこの付近の名家の立派な門。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.14
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そして旧東海道の北側にあったのが『高野山 真言宗 山王山 観音院 廣徳寺』。本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)。山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、院号は御本尊の千手観音からこの名が付いたと。脇門から境内を見る。そして境内を歩き、「山門」前に出る。「高野山 真言宗 廣徳寺」と。石碑もあった。「山門」前の「掃除小僧」。反対側には「居眠り小僧」。「山王山 観音院 廣徳寺御本尊 千手千眼観世音菩薩宗派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗祖 弘法大師 宝亀五年(七七四)六月十五日香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現 するために、生かせ いのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動 は、弘法大師の 共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共に している社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は、未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥の院に入定留身 されています。 同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの努めで あり、喜びです」「六地蔵」。境内の桜は満開に。近づいて。「陸軍歩兵 新倉八五郎碑」。「本堂」はRC製。「本堂」前の石仏。御本尊は「千手千眼観世音菩薩」、一般的に「千手観音」と呼ばれる仏様。「本堂」の扁額は「山王山 観音院 廣徳寺」。「本堂」前の石仏は折れて足のみとなっていたが・・・・。この石仏は、以前訪ねた時の写真を見てみると「弘法大師修行像」であった。「四国八十八ヶ所お砂踏み弘法大師とゆかりの深い四国八十八ヶ所霊場は、その巡礼をとくに遍路と呼んでいる。八十八ヶ所の札所は四国四県をグルッと巡るように配置されていて第一番から二十三番までの徳島県(阿波)の霊場を、「発心の道場」第二十四番から三十九番の高知県(土佐)の霊場を「修行の道場」第四十番から六十五番の愛媛県(伊予)の霊場を「菩提の道場」第六十六番から八十八番の香川県(讃岐)の霊場を「涅槃の道場」といい仏道修行の段階をたどるようになっている。この札所を第一番から、八十八番まで順に巡るのを「順打ち」といい反対に八十八番から一番まで逆に巡るのを「逆打ち」という。逆打ちをするのはほとんどが深刻な人生問題抱える逆境に喘ぐ人々だといわれるが、これをなしとげた(結願)ときの御利益はひときわ大きいと信じられている。四国遍路では同行二人が強くとなえられている。弘法大師は入定したのであった普通の人間のように死んだのではない。だからいつまでも四国遍路を修行のために巡りつづけているのである。いつどこで大師に会えるかもしれない。またたとえ一人で遍路をしていてもいつも大師はその人と一緒に遍路をしている。大師と同行二人なのである。遍路は大師と同じ時空に住んでいるのである。各国の下に四国のお砂が収められています。順に巡ってお参り下さい。以前は「本堂」右側にあった石仏はこの日は左側に移されていた。境内から寺務所を見る。次の目的地の「本行寺」に向かって国道1号を横断し、更に南下する。道路からは以前訪ねた「千手院」👈リンク の「本堂」を見る。「千手院」境内の稲荷明神(左)と閻魔十王堂(右)を見る。この「千手院」も高野山真言宗の寺なのであった。そして「本行寺」の脇門前に到着したが、この門は閉まっていた。「日蓮宗 本行寺」碑。「本堂」を脇門からズームして。「本行寺」の正門に向かって進むと前方にあったのが「新田踏切」。手前を右折し。JR東海道線の線路沿いを茅ヶ崎駅方向に進む。そして「本行寺」の正門前に到着。神奈川県茅ヶ崎市代官町3−29。太い枯樹が立っており「本行寺」と。このピンクの花は?「ヒマラヤユキノシタ」に似ているが。RC製の「本堂」を見る。石段を上り「本堂」正面に。開基金子妙松法尼が日蓮聖人滝口法難の膝元、腰越の地に、昭和十三年、本行結社を創立したことに始まる。その後、法尼の教化によって信徒の数多くを数えるに至り、昭和二十七年 宗教法人法に基づき、法尼の師 日華上人を開山に仰ぎ、本行教会を設立した。昭和三十二年、法尼の後継者として 智穏上人が第二世を承継、布教の実を上げた。昭和三十八年に腰越の現本堂建設に着工、翌三十九年十一月本堂落慶とともに「本行寺」と寺号を公称するに至る。昭和四十二年 茅ヶ崎市小和田伍仁原の地に、藤原氏五武将の供養塚を再興するとともに霊園を開設、昭和四十六年に拡張、昭和五十一年には、五仁原守護神八大竜王を勧請した。昭和五十六年 日蓮聖人七百遠忌報恩事業として、霊園の再拡張と会館を設置、同六十三年十月伍仁原新本堂建築に着工、平成元年七月上棟式、同二年四月新本堂落慶を迎えるに至る。内陣。ズームして。「日蓮上人像」。「本堂」前から墓地を望む。石段を下ると、墓地の奥に大きな石碑があった。手前には「慈母観世音菩薩」像が。「八大龍王」碑。別の場所から。石碑の下には池が有り、寄進者名碑が囲んでいた。裏側には「昭和五十一年三月十三日大祭 本行寺 檀信徒一同 第三世 日光代」と。これは無縁供養塚であっただろうか。「無縁法界万霊位」碑。立派な「五輪塔」。「相模之国五仁原城主」と刻まれていた。昭和四十二年 この茅ヶ崎市小和田伍仁原の地に、藤原氏五武将の供養塚を再興したのだと。藤原氏五武将「藤原時政」、「藤原吉政」、「藤原則政」、「藤原定政」、「藤原忠政」の文字も刻まれていた。この場所に伍仁原(五仁原)城があったのだろうか。詳細を知りたいが!!この先、平塚方面の「学園通り」に「伍仁原踏切」があったのだが。「本堂」を墓地前から見て、「本行寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.13
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次の目的地の「熊野神社」を訪ねる為に進むが、途中「上正寺」👈リンクがあったが、この寺は2019年の「旧東海道を歩く」で訪ねているのでこの日はパスした。そして「熊野神社(小和田)」に到着。神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66。左側に、「小和田 総鎮守 熊野神社」の石柱が建つ朱に塗られた「鐘楼」が右手に。鐘楼には「熊野神社」の文字が。左手にあった大きな石碑。「大震災碑」と。「大震災碑元代議士 勲四等 山宮藤吉篆額神奈川縣町村長会長、新田信撰文大正十二年ノ秋九月朔日午前十一時五十八分倏惚トシテ関東ノ野ヲ襲ヒタル大地震ハ無數ノ屋舎ヲ倒シ多大ノ人命ヲ毀傷シタルノミナラズ之ニ次グニ劫火ヲ以テシ猛火ノ凶焔天ヲ焦シ燎原ノ火勢ハニ日ニ夜ニシテ殆ンド帝都ヲ廢墟トナシ帝國ノ関門タル横濱ヲ挙ゲテ灰燼ト化シ其ノ災害ノ及ブ所東京神奈川千葉埼玉静岡山梨茨城一府六縣ノ廣キニ亘リ許多ノ財寶ト生霊トハ須臾ニシテ鳥有ニ歸セリ加之此間交通機関杜絶シタルガ為メニ流言蜚語盛ンニ傅ハリ人心洶洶トシテ倍々其惨害ヲ大ナラシム殊ニ湘南ノ地ハ震源地帯ナリシヲ以テ淒愴ノ状最モ甚シク全地域ニ亘ル焼失並ニ倒潰家屋六十九萬四千餘戸ノ内本縣内ノ被害數實ニニ十三萬七千餘戸本町三千三百八十四戸本區熊野神社外三百戸内金潰百ニ十五戸半潰百七十五戸ニシテ其惨憺タル筆舌ノ能ク盡スベキニアラズ又死傷者ノ総数十五萬七千餘人ノ内本縣ニ於ケル死傷者五萬千餘人本町二百七十三人本區十四人内死者七人傷者七人ニシテ酸鼻ノ極人ヲシテ面ヲ背ケシムルノミ是レ蓋シ有史以来ノ大禍難ニシテ國運ノ伸暢ハ為ニー頓挫ヲ来シタルノ観アリ然レドモ災民ハ當時全國ヲ始メ遠ク欧米各国ヨリ寄セラレタル同情裡ニアリテ復興の志燃ユルガ如ク翌十三年一月十五日ニ於ケル再度ノ強震ニモ屈スル處ナク奮励努カ遂ニ帝都ヲ始メトシ震災前ニ數倍スル美観ト設備トヲ施シテ復興ノ計漸ク就ナル固ヨリ不測ノ天變地妖ハ人力ノ如何トモスルベキ所ニ非ズト雖モ災禍ノ範囲ヲ縮挟シ救済ノ道ヲシテ遺算ナカラシムルハ人事ノ敢テ能クスル所ナリ茲ニ本区復興ノ計全ク就ルニ際シ即千鑑戎ヲ末代ニ胎シ遺範ヲ後毘ニ垂レ以テ来者ノ指針ニ供セン為メ區民相圖リテ碑ヲ建ツ云爾昭和五年八月一日室政吉書辻堂 高野宏哉刻」右側の池の中にあったのが「厳島神社」。太鼓橋の先に「厳島神社」の社殿。「小和田道祖神」と。「道祖神」碑。「双体道祖神」であろう。 男神と女神がしっかりと肩を抱き合い、手を握って。石鳥居に掛かる扁額は「熊野神社」。参道の先に拝殿が見えた。「庚申塔」群。「熊野神社社務所」。「手水舎」その後ろに「神輿殿」。「神楽殿」。「熊野神社」の西門。境内から見る。正面に「拝殿」。口の中が真っ赤な狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「拝殿」。創立は不明であるが、元禄元年(1688)再建の古棟札があると。諸説には「熊野信仰」が広まった平安末期とも伝わると。相洲大庭荘小和田村鎮守と記されているので、大庭荘の管轄だったので大庭氏が活躍していた時代からあったと推測される。弘化4(1847)年、明治17(1884)年、大正13(1924)年に再築の棟札及び熊野三社権現社号の古札がある。ご利益は、海上守護、魚漁、交通安全、殖産、興業、厄難除、家内安全等とされている。なお、摂社、姥母神社は、安産の神、病気平癒の神と尊ばれて来た。唐破風懸魚の見事な彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)にも見事な龍の彫刻がおかれていた。右側の袖の彫刻。左側の袖の彫刻。拝殿の扁額、「熊野神社」。正面にはガラス戸が。御祭神:熊野久須毘命 ( くまのくすびのみこと ) 熊野夫須美命 ( くまのふすみのみこと ) 速玉男命( はやたまおのみこと ) 家津御子命( けつみこのみこと )。祭礼:1月2日 歳旦祭(さいたんさい)<年賀祭 (ねんがさい)>1月15日 豊漁祭(ほうりょうさい)7月海の日 浜降祭(はまおりさい)8月1日 例祭(れいさい)<神幸祭 (しんこうさい)>8月1日 例祭(れいさい)<宵宮祭 (よいみやさい)>8月2日 例祭(れいさい)<例大祭 (れいたいさい)>12月30日 大祓(おおはらえ)「神輿殿」。「浜降祭」に参加する「神輿」👈リンク。「靖國之碑」。同地区における明治28年から昭和21年にかけての戦没者130柱を合祀した慰霊碑。地元有志によって、昭和25年8月15日に建立された。碑高255㎝、幅119㎝、厚さ17㎝、台石60㎝。碑正面:「靖國之碑 靖國神社宮司筑波藤麿」碑裏面:「戰歿合祀者(篆額)・・・数多くの戦没者の命日と名前が刻まれていた・・・昭和廿五年八月十五日戦没者記念碑建立発起人一同」拝殿の左側にあったのが「豊受稲荷社」。その手前に石碑が三基。右:「日〇神社」、「天照皇大神」、「〇〇神社」中央:「不◯大明王」、「富士淺間神社」、「石尊大權現」左:「國狭土尊」、「國常立尊」、「豊斟淳尊」「拝殿」からの出入口。「白虎神門」と。西方を守護する白虎。「豊受稲荷社」を正面から。社殿に近づいて。内陣。「豊受稲荷社」前から「本殿」を見る。社殿左奥には「木曽御嶽信仰の三神」の石碑が。右から八海山大頭羅神王(八海山大神)・御嶽大神・三笠山刀利天。・八海山大頭羅神王(八海山大神)は越後の八海山の神様。・御嶽大神は長野県と岐阜県にまたがる御嶽山の神様。・三笠山刀利天は群馬県上野にある「三笠山」の神様。平安~鎌倉~室町時代を経て山岳信仰と民間信仰が結びつき、江戸時代に全国に広まっていったとのこと。「辨才天・堅牢地神(けんろうじしん)」碑。「農村では「地神信仰」がありました。名称を「地神講(じしんこう)」といいます。春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を社日(しゃにち)といい、この日に大地を守護(しゅご)する土地の神様を祭る地神講が行われます。春の地神講は作物の育成を祈り、秋の地神講は収穫のお礼詣りをするものです。地神講は、床の間に堅牢地神(けんろうじしん)(地天)と弁財天(べんざいてん)(弁天)の掛け軸をかけ、煮しめと白飯を供えてお祭りをしました。この日は、土地を掘り起こしてはいけないとされているため、農家にとっては休日となりました。<堅牢地神(けんろうじしん)>仏教における天部の神の1柱で大地を司る、大地を擬人化した神様です。通常は女神ですが密教では男神と一対とされています。十二天の一である地天と同一視する考え方もあります。なお、地天は元はバラモン教の女神プリティヴィーでしたが、後に仏教に取り入れられました。」とネットより。拝殿に向かって右側にあったのが「姥母(うば)神社」。姥母神社は、安産の神、病気平癒の神と。近づいて。扁額「奉納 姥母神社」。姥母神社に社殿に貼られていた「茅ヶ崎の轍(わだち)」。第18回「小和田」 協力/茅ヶ崎市文化資料館江戸時代、小和田村と菱沼村は入り組んでいました。大山道に近いあたりが菱沼村、東海道(国道1号)の両側から海までが小和田村だったようです。鎮守の熊野神社の境内に祀られている姥神社と尾根明神社は、市内の他の地域では見られない祭神です。拝殿右側に、石に彫刻された髪の長い姥神が祀られています。子どもが風邪をひいたとき、お茶を供えて治してくれるよう祈ったといいます。尾根明神は、拝殿左側の石碑にその名があります。『皇国地誌』に元は姥島にあったが風波で何度も壊されるので、元禄の頃(1688~1703)「ツト田」(菱沼3丁目の辺り)に移したとあります。また、『風土記稿』に「海浜に砲術場あり」とあります。江戸幕府が鉄砲の演習をした場所です。その範囲は現在の藤沢市片瀬、鵠沼、辻堂の各村と市内小和田村から茅ヶ崎村の海岸砂丘にまたがる広いものでした。『茅ヶ崎市史』には設立の享保13年(1728)以後21年間は毎年、江戸後期は不規則に演習が続けられたとあります。明治になると鉄砲場に代わり、辻堂、小和田の海岸が横須賀海浜団演習地となり、終戦までは頻繁に訓練が行われ、戦後は米軍の演習が行われました。」と。 こちらにも「拝殿」からの出入口が。「青龍神門」と。東方を守護する青龍。姥母神社の左側にも三基の石碑が。「姥母神社」「八雲神社」「八大龍王」と。歌碑と句碑が。「相模なる 小和田が浦の 姥島は 誰をまつやら ひとり寝をする」。京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだ歌で、因みに姥島とは烏帽子(えぼし)岩のことで、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mの島である。「姥ヶ島 尉の姿 耀くはかり 春の潮」。尉は能楽の翁のこと。郷土の俳人、新田濤哉は姥ヶ島を見て高砂の翁の姿を想い、この句を詠んだのだと。「姥母神社」側から「本殿」を見る。「手水舎」と「神輿殿」を見る。「拝殿」前から石鳥居方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「高山神社」を後にして、JR東海道線に向かって進む。「浜竹踏切」。東京駅から55K659M、茅ヶ崎市本宿町8。上り3本、下り1本を待ち、漸く踏切が開いたのであった。「浜竹踏切」を渡り、北にひたすら進むと、右手にあったのが「金森稲荷神社」神奈川県茅ヶ崎市本宿町4。「金森神社」碑。裏面には「明治丗一年十二月」と刻まれていた。歴史を感じさせる狛犬(阿形像)。歴史を感じさせる狛犬(吽形像)。「金森稲荷神社」の「社殿」。社殿正面には小さな鳥居と狐様・白狐がそれぞれ対で。そして次に訪ねたのが赤松通り沿いにあった「赤松稲荷神社」。神奈川県茅ヶ崎市赤松町3−1。綺麗に塗り替えられた「赤松稲荷神社」の「社殿」。おさいせん箱には「小和田東部稲成神社」の文字が。狛狐(阿形像)。狛狐(吽形像)。内陣には石祠が鎮座。赤松通りを進み、国道1号の「東小和田」交差点を左折する。路地を右に入ると、左手には畑が広がっていた。その中にポツンと小さな社があった。以前は、この場所に神社仏閣があったのだろうか?その奥にも、少し大きい稲荷社があった。雨水マンホール蓋と同じ「烏帽子岩」、「太陽」、「小舟」と「カモメ」をデザインした「汚水マンホール蓋」烏帽子岩は平安時代の貴族がかぶっていた烏帽子に似ているところから この名で呼ばれている。「ちがさき おすいT-14」の表記。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の2回目の3月24日(木)。JR辻堂駅で下車し、茅ヶ崎市に向かって歩き出す。辻堂駅南口に出る。ここ辻堂駅の開設は明治20年(1887)、横浜~国府津間を東海道線が開通した。大正3年(1914)には辻堂にも駅を開設させたいと「辻堂停車場期成同盟会」が設立され、鉄道院に請願書を提出した。新駅開設の理由はおおよそ3点で ①藤沢~茅ヶ崎間が長く、住民にとって不便。 ②辻堂一帯が雑穀、甘藷の生産地で移出量が多く、また、工業地としての将来性がある。 ③海岸海軍演習場への兵員、物資輸送に不便。というものであった。その結果、停車場敷地2,498坪と建設資金2,483円を地元住民が提供したこともあり、大正5年(1916)12月1日に辻堂駅が開業した。辻堂駅南口に立つ「辻堂駅開設記念碑」には、今もその時の歴史事情が刻まれている。「辻堂駅開設記念碑」1872年に新橋-桜木町間で開通した鉄道は1887年7月に国府津まで延長された。 辻堂駅は国府津迄延長された26年後の1913年に先ず、信号所が設置された。 しかしながら、客扱いをするまでにあと3年待たねばならなかった。信号所が開設された翌年に地元に停車場設置期成同盟会が発足し、駅設置運動が始まった。 1916年12月に用地と建設資金を地元が負担して駅が開業した。表面にはひたすら漢字が・・・・。「辻堂駅開設記念碑」👈リンク。碑文の文意は下記であると上記リンクから『相模の地は西北に山を負い、箱根・足柄・丹沢・雨降(大山)がうねうねと長く連なっており、東南は直接、太平洋に臨み一大湾曲をしている。 その沿岸、三浦半島から鎌倉郡江の島に至るを東部と、高座郡・中郡を中部と、足柄下郡を西部としている。そして、東部は屏風のように折れ曲がり、西部もまたその一半は岬や磯が入り混じっている。ただ中部のみは其の高座といわれるように、後方、はるかに富士山が晴れ渡った大空に控え、前面の近くには伊豆七島を太平洋の波の向こうに見える。 白砂青松、風光明媚にして気候は避暑にも寒さを凌ぐのにもよい。 湘南で一番景色が良いというべき所が辻堂である。 この地は東海道線の線路に沿って藤沢と茅ヶ崎の間にあって、鉄道院では未だ駅を設けるには至っていない。この地方の人達は大変に残念がり、ここにおいて資金を出し、土地を提供して鉄道院に請願をし遂にそれを受け入れて貰う事と成った。大正五年(1916年)十二月一日停車場が竣工・開通して辻堂駅と云う名前になった。今後はこの地方が繁栄して行くのを待つだけである。ここに資金提供者の名を碑の裏に列記し、併せて由来を記録する。』裏面には建設資金を提供された地元の方々の名前、寄付額が刻まれていた。「辻堂駅開設記念碑の由来この記念碑は、大正五年十二月一日辻堂駅開駅を記念しその歴史的意義を後世に伝えるため、辻堂停車場設置期成同盟会が建立した。辻堂駅の開設は全国でも類のない地元請願駅で駅舎用地と建設資金を地元有志が提供し、当時の鉄道院総裁に強力な設置運動を展開した結果実現した。開駅八十周年記念にあたり地元の要望により再建整備を行った。 平成八年十一月吉日 藤沢市」スマホのナビに従い、藤沢市「辻堂青少年会館」の前の道を進み突き当りを左折。次の路地を右に曲がると、左手前方に「案内板」が。「源 頼朝公 落馬地」案内板。「源 頼朝公 落馬地藤沢市辻堂ニ丁目十七ー一建久九年(一一九八)戌午十二月二十七日将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の、頼朝公が鎌倉の館へ帰途、 八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時、突然落馬する難に遭遇する。落馬地は京・鎌倉往還(三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前)「保暦間記」に「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿 相模川の 橋供養源氏・義広、義経、行家己下の人々の怨霊現じて、将軍の目を見合せり」と記され、八的ヶ原とは辻堂の地を指している。源平物語り関係の書物には、将軍頼朝公は怨霊が目に現じて、落馬したと記述されているが果たして真相は。 頼朝公だけしか知る人はいない。今を去ること八〇九年前、この地にて頼朝公は落馬し、意識喪失し急遽鎌倉の館に護送された。その後も昏睡状態が続き、 一月十日頃には一時回復し、京都の九条兼実宛「今年必ズ、シズカニノボリ他ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万一事存ノ外ニ候」 と書状を認めた後に再発し、建久十年己未(一一九九)一月十三日 薨去 享年五十三歳 郷土史家 大石静雄(文責)平成十九年丁亥(二〇〇七)十二月二十七日 設置 辻堂駅前町内会」私は市内住人であるが、この場所が源頼朝の落馬の地であることはこの日に初めて知ったのであった。しかし源頼朝の「落馬地」と「死因」には「様々な説」👈リンクがあるのだと。前回訪ねた、「鶴嶺八幡宮」の参道入口近くにあった「弁慶塚」の案内板には、「頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。」とあったがその真相は如何に。確かに辻堂には鎌倉往還・鎌倉街道が通っていたのだが。「真相は頼朝のみぞ知る」のであるが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのように描かれるのであろうか。「初多良公園」の桜は僅かに開花を始めていた。ズームして。桜の下には可憐なスイセンの花が。茅ヶ崎市との境にある住宅街を南に進む。通勤の為に駅に向かう人の姿も少なく。時間は7時直前であったが。そして茅ヶ崎市に入り、茅ヶ崎市の雨水マンホール蓋にカメラを向けた。烏帽子岩とカモメをデザイン。烏帽子岩は戦前はもっと尖った形状をしていたのだが、戦後アメリカ軍の演習用の標的とされたため、先端が欠けてしまったのだそうだが真実なのであろうか。そして「日本キリスト教会茅ヶ崎東教会」が右手に。茅ヶ崎東教会は、日本キリスト教会という教派に属している。この教派は日本に最初に建てられたプロテスタント教会(日本基督公会1872年・明治5年建設=現在の横浜海岸教会)であるとのこと。神奈川県茅ヶ崎市浜竹3丁目5−58十字架をズームして。3月27日(日)に「主日礼拝」が行われると。説教「まことに彼はわれわれの病を負い(ニ)」と。「草は枯れ 花はしぼむが わたしたちの 神の言葉は とこしえに立つ」と。自然界にあるもの、また人間界にあるものは、すべて移り変わります。しかし、神のことばは永遠に変わることがありません と。「今月の聖句自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。」「 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」と。民家の庭のユキヤナギ(雪柳)の白き花。「浜竹通り」に出る。住宅街の中にあった「大八木」家の大きな墓地。そして「高山稲荷」に到着。神奈川県茅ヶ崎市浜竹2丁目9。石鳥居の扁額「高山稲荷」。石造りの社殿。近寄って。祭神:稲荷社。御利益:商売繁盛、五穀豊穣 他。「安曇野型双体道祖神」。平成二(1990)年 。左手に「駒型文字道祖神」碑。文政十一(1828)年。境内の河津桜も葉桜に。JR東海道線線路に向かって北に進む。先程の墓地のあった家であろうか。立派な門と自然石を積み上げた石塀が続いていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.10
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鶴嶺八幡宮」を後にして、その北側にあった「龍前院(りゅうぜんいん)」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市浜之郷425。参道入口にあった「懐嶋山」石碑。この先「私道に付き車両通り抜け厳禁」と。「龍前院」石碑。寺号標石「正録 護國禪寺 龍前院」。古くは法相宗の寺であり、古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊から、曹洞宗寺院へとなった。また、正録護国禅寺と号したと伝えられていると。参道右手にあった「六地蔵」にはマスクはなし。近づいて。更に「本堂」に向かって私道を進む。「曹洞宗 懐嶋山(かいとうざん)」碑。近づいて。右手に「庚申塔」群。中央&右側の三体。中央に青面金剛像。四または六臂(二臂や八臂のものもあるという)で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。邪鬼を踏むものも見受けられる。左側。中央の「見ざる言わざる聞かざる」の三猿像を彫った庚申塔は、茅ヶ崎市内にある猿を彫り出した8基(明暦~寛文期)の中で最も古い年号・明暦3(1657)年をもつ(市指定重要文化財)。人の延命招福を願って造られた と。「龍前院の庚申塔整然として並ぶこれらの石造物の多くは江戸時代に造られたものであり、長くこの地域の人々の心の支えになってきました。このうち中央にある石塔は、三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)を彫った庚申塔としては初期のもので、人の延命招福を願って造られました。市内で八基見つかっている同様な形の庚申塔の中ではこの塔が最も古いもので、明暦三年(一六五七)の年号が刻まれています。また基部には造立者十人の名が刻まれています。初期三猿像の庚申塔として貴重なものであるため、市の重要文化財に指定されました。」寺務所の入口右には巨大な石灯籠があった。「本堂」の手前の右手の「梵鐘」は、浜之郷村の領主だった山岡景忠が弟の早死をいたみ鋳造させたもの と。「元禄七年」(1694年)の銘があり、茅ヶ崎市内最古のもの。老朽化のため「梵鐘」は角材で支えられ近寄れないようになっていた。ネット越しの「梵鐘」。「龍前院の梵鐘昭和六十ニ年四月十七日茅ヶ椅市重要文化財指定この鐘は江戸時代に浜之郷村の領主であった山岡氏の五代目景忠が、弟の早死をいたみその供養のために再鋳させたものである。元禄七年(一六九四)の銘がある。第ニ次大戦中の供出もまぬがれて、現在市内最古のもので、江戸期の典型的な梵鐘の姿を伝えている。総高 一一五センチ 鐘身 八四、八センチ口径 六ニ、ニセンチ 撞座高 一九センチ乳五段五列百個 銘文陰刻 下帯に唐草文鋳物師 荻野邑 木村清兵衛正重」ここにも石仏がニ体。「錫杖」と「宝珠」を持つ地蔵菩薩像であろうか。「本堂」を正面から。龍前院の開創は古く、約800年前・行基菩薩にまで遡ることができる。行基作の薬師如来・十二神将像、三井寺より遷座された阿弥陀如来像を祀り、また、鶴嶺八幡宮の宿坊の一つでもあり、多くの人びとの信仰を集めてきた。今では、残念ながらそれらの仏像は明治の大火で失われましたが、市重要文化財である五輪塔、庚申塚、市内最古の梵鐘をもつ、由緒ある曹洞宗寺院である。扁額「懐嶋山」。内陣をズームして。「阿弥陀如来像」。「本堂」の屋根を見る。「龍」の文字の瓦。曹洞宗の久我竜胆(永平寺派)の宗紋も。二基の石碑。「馬頭観世音」碑(左)。「四国五拾七番伊豫國八幡寺写?・」と刻まれた石碑(右)。「本堂」右奥の墓地を見る。掲示板。「正見私たちの温かい「ことば」や「行い」が苦しんでいる方がたを支えますコロナ禍にあって、この苦境に立ち向かう人に敬意を表します。他方で羅漢者の方々や医療従事者とそのご家族などに対する誤解と偏見、差別事象や風評被害が引き起こされています。科学的根拠のない不正確な情報、迷信に振り回されることなく、冷静に生活を行っていくことが第一に求められています。私たちにとって今できる、大切なことはウィルスに留まらず不安と差別の感染予防なのです。「正見」とはお釈迦様が説かれた八正道の教えの中にある言葉です。八王道が説く8つの大切な教えは, それぞれに個別なものではなく、相互に密接に関係しあいながら、統合され仏教者の正しい生き方を示しています。なかでも、正しい信仰を持っための「正見」は仏教者として思考や行動の基準となるものです。」「新型コロナウイルスによるあらたな差別をなくすために私たちは誓願します。不安に駆られて「他」をきずつけることのないようお互いを慈しみあえる社会にすることを請願します」永代供養墓「龍光苑」。小さな「大師堂」が「本堂」の裏側に建っていた。これは「お大師(弘法大師)様」で、相模国準四国八十八ヶ所霊場第57番 浜之郷 八幡宮社頭 伊予栄福寺写と伝えられる石仏 であると。ブロック塀の下には小さな五輪塔が見事な数で並んでいた。墓地に並ぶ10基の五輪塔は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて造られたものと考えられている(市指定重要文化財) と。「五輪塔」を正面から。「龍前院の五輪塔十基昭和六十二年四月十七日五輸塔は供養塔の一つで、密教の影響によって起こったといわれ、下から地・水・火・風・空の五輪から成っている。これは、宇宙はこの五つの要素からできているという仏教思想に基づいている。これら十基の塔は形態などからみると、全部が同時に造られたのではなく、鎌倉時代後期から南北朝時代初期(十四世紀前半)にかけて順次造られたものと考えられる。このような比較的大型の五輪塔が十基もまとまってある例は県内でも珍しく、大きさは市内では最大のものであることから、中世にこの地域を治めた有力な武家の累代の供養塔と考えることができる。」「五輪塔と卒塔婆」。五輪は、それぞれ古代インドの宇宙観にもとづき、人が死ねば、この世のすべてを構成すると考えられている五大要素(地・水・火・風・空)に還元されるという意味で、これによって死者を供養するという考えの象徴です。後世になって、五輪塔を木の板で模したものが、卒塔婆(ソトバ)です。卒塔婆とは、遺骨を埋葬するときや年忌法要などのときに、お墓の後ろにたてる細長い板のことです。卒塔婆は、古代インドの梵語である「ストゥーパ(仏舎利塔)」の音を漢字に置き換えたもの。卒塔婆を略して塔婆(トウバ)や板塔婆とも呼びます。日本では卒塔婆というと、長さ1~2mほどの「板塔婆」を指します。先端を塔の形にし、上の方には、仏教の宇宙観を表す五大要素、空・風・火・水・地をシンボル化した宝珠・半円・三角・円・方を刻み込んでいます。隣りにあったのが「龍前院開基 山岡家」の墓處。「當山開基山岡家墓處初代景長は三河国浜松城に於いて家康に仕え天正十九年来地三百石を賜り高座郡懐嶋を知行す。」山岡家墓地には多くの墓石が並んでいた。幕末までの山岡家一族の墓がおかれ、現在もその末裔とは交誼があるのだと。「龍前院開基 山岡家について山岡家の出自は大伴氏であり、大納言伴善男を始祖とする。室町時代の永享年中に美作守景廣が栗太郡勢多邑一帯を支配し、山田岡に勢多城を築城し「田」の一字を省いて山岡と称した。龍前院開基山岡家は、近江国勢多城主・山岡美作守景の次男、長門守景民を祖とし、その甥には本能寺の変において、勢多唐橋の攻防で知られる山岡景隆がいる。景民の孫・景長は浜松城において徳川家康に仕え、天正十九年に中島之郷・懐嶋之郷を併せて三百石を知行し、中島に陣屋を構えた。後、鶴嶺八幡宮より僧坊をうけて、もとよりあった薬師堂とあわせて堂宇を再興し、龍前院開基となる。(景長院殿宝菴浄珍居士)また、六代・景信は龍前院中興開基となった。(當院中興開基要法院殿固峯永堅大居士)その子、七代・景忠は早世した弟の供養の為、元禄七年に梵鐘を改鋳し、現在では茅ヶ崎市内最古の梵鐘として、市重要文化財となっている。山岡家は代々大檀越として龍前院を護持してきた。当院は山岡家の葬地であり、慕末までの墓所が祀られており、その交誼は現在まで続いている。(十八代当主・智博氏) 平成ニ十七年 吉日 三十五世大鱗浩正記す懐嶋山龍前院開基山岡氏略系図 「寛政重修諸家譜」よりその隣りにあったのが「當寺開山歴住諸位」の墓。「當寺開山歴住諸位大和尚寶塔」。龍前院の歴代住職は次の通りであるとネットから。開山楞 山周厳-暁堂元(玄)龍-松谷宗雪-聖庵泉祝-来久天撮-寛嶺周廓-愚渓如頑-異中通同-福山智厳-柏峰伝茂-地天元泰-哲宗友賢-定谷恵龍-義雲大耕- 源本明-宝州恵鏡-大悲恵聖-棹岸蘆舟-臥龍万橋-泰雲秀山-天仙安長-円山大規-金華倶胝-大龍賢道-敞連賢弘-万応大潤-放牛困剴- 参要禅-愚渓天 禅-転回玲珠-大信活道-活明良運-天雄寛龍-瑞巌喜芳-大鱗浩正(現住)左手にあったのが歴代住職等の墓であろう。「墓地」から「本堂」を見る。そして「龍前院」を後にして、「鶴嶺八幡宮」の参道を戻る。途中の桜の花を楽しむ。ズームして。車に戻り、「鶴嶺八幡宮」の一の鳥居に向かって走る。参道脇に建つ石碑には、「弁慶塚」と刻まれていた。「弁慶塚」は参道から東に入った駐車場の奥の北側の、入口には案内板もなくやや判りにくい場所にあった。所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1近づいて。「弁慶塚」碑。「弁慶塚の由来武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年(1198)十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年(1199)一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。」上記の説明によれば、この「弁慶塚」は、義経一行の霊を慰めるために里人が立てたということになのであろう。この理由は?。もしもここで頼朝が倒れて亡くなったとすれば、「頼朝供養の碑」等を立てて、供養してもよいはず。それが何故義経一行・弁慶なのか。何かよっぽど、怖ろしいことが、その日に起こったのであろうか。そして、頼朝が落馬した真の場所は何処なのであろうか?JR辻堂駅南口近くにも「頼朝公 落馬地」の案内板のみがあったが。 「弁慶塚」がここにある理由についてもっと知りたいのであるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.09
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鶴嶺八幡宮」の散策を続ける。右手にあったのが「手水舎」。この日は竹や柄杓の姿はなく、「花手水(はなちょうず)」に変身。「花手水」新型コロナウイルス感染防止のため、口や手を清める手水舎の使用を制限する寺社が増える中、参拝者に少しでも和んでもらおうと、代わりに季節の草花などを飾り付けた「花手水」が全国的に広がりを見せているのであった。「大イチョウ」を「拝殿」の横から振り返る。ここは「かわらけ投げ」の「厄割石祈願所」になっていた。「かわらけに息を吹きかけ、ケガレをうつし、厄割石に投げ、割れるとよい。]と。「かわらけ投げ」の的と成る「厄割石」。「かわらけ投げ」、「夫婦楠」案内板。「「割れなかった!」としても決してかわらけを拾いに中に入らないで下さい。たくさんの方が祈願して投げ人れ粉々になったかわらけには様々な思いが込められています。その人たちの思いを踏みにじる行為にもなり、また自分自身に厄を取り込んでしまう事にもなります。」昔の手水桶には「竹すだれ」で覆いがされていた、いやここは「水に溶けるおみくじ」場でありおみくじを良く読んだ後に、「竹すだれ」の覆いをめくって水の中に入れ溶かすようであった。この手水桶は神仏混交時代の名残で、享保年間(1716~1735)に奉納されたもので、卍の印がついていた。一般に八幡宮は仏教との結びつきが強く、当宮においても火災等で焼失してしまったが、五重塔や仏殿があったと伝えられている。「昇殿祈祷」、「合格祈願」案内。「絵馬掛」は「密」状態。権現造りの「拝殿」(正面)。「鶴嶺八幡宮御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀)鎮座地 神奈川県茅ケ崎市浜之郷四六ニ番地 (電話〇四六七-八ニ-六七ニ五)例祭日 九月一五日御由緒相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進し、また建久年間(1190~1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、懐島権守平景能をして社殿の修復を命じた。弘安四年(1281)には蒙古軍退散を祈り、その後、永禄・元亀年間(1558~1573)に兵火に罹り堂宇・古記録等を焼失した。古くは、本社の別当に十二坊があったが各々村々に離散し廃坊となった。正保年間(1644~1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相計り社殿を再建した。また参道を整備し松を植えた。慶安二年(1649)八月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。明治維新の神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。明治六年村社に、昭和九年九月六日に郷社に列格。 相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上ケ原とぞ。 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。 「花の梢一木一木に神さびたり をる人や砥上ケ原の八幡山神のもるてふ花の盛りは。」 東国紀行(天文十三年・一五四四)室町時代より」「権現造り」の「拝殿」に更に近づいて。「権現造り」とは、平入りの拝殿と本殿が「石の間」と呼ばれる石畳の渡り廊下部分で繋がれ、3つの建物が1棟で接続されている特殊な神社建築様式。見事な彫刻をカメラで追う。「鬼瓦」そして唐破風の下の二羽の「鶴」の透かし彫り。「虹梁」上の彫刻の姿の物語は??中央に右手を挙げて左手で弓を持つ武将の姿、その横で座って乳飲み子を抱く武人、その横に鎧姿で立つ武人が3人、その後ろにも3人余りの人物が確認できるのであった。神功皇后が、武(建)内宿禰と共に新羅の國を攻めた時の場面であるとのこと。彫工は相模国藤沢住人「一元安信」であると裏面に書かれていた。「木鼻(右)」。「木鼻(左)」。「拝殿」の正面にはガラス戸が。ここにも「御朱印」案内が。「本殿」方向に進む。「御神木 槇」。歴史的風格を感じさせてくれるのであった。「御神木 槇 齢一千余年康平年間(1058~1065)源頼義公 戦勝祈願 前九年役 ノタメ一樹ヲ手植セシモノト云ウ 平成十三年四月再建」再び「大イチョウ」、「かわらけ投げ」所を振り返る。「本殿」の横の正面にあったのが「鶴嶺稲荷神社」。「石鳥居」。石鳥居の扁額も「鶴嶺稲荷神社」。「鶴嶺稲荷神社◇御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)◇御利益 商売繁盛・家内安全 社運隆昌・金運向上 「衣・食・住」の人間生活全般を守護し生きる力を再生してくださいます」「鶴嶺稲荷神社」の社殿。両脇に「鶴嶺稲荷大明神」の幟が並ぶ。近づいて。天気の良い時は、二匹の白い狐が社の周りを周り戯れているとの話も。「夫婦楠」。「良縁成就 夫婦楠(めおとくす)二本の楠の間をくぐり、本殿に向かって参拝します。私も二本の楠の間をくぐったのであったが、・・・・????」。「みちびきの木」。「みちびきの木(道引きの木)「私があなたを癒し、よい方向へみちびくから悩みや不安をそっと囁いて」」この木の種類は?そして「鉾宮神社(ほこのみやじんじゃ)」。鳥居の扁額「鉾宮神社」。「社殿」。珍しい?黄金の社殿。近づいて。内陣。「鉾宮神社◇御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと) 金刀比羅命(ことひらのみこと)◇御利益 厄除・疫病退散 開運・縁結び」「本堂」横に「淡嶋神社」の幟が並ぶ。「座敷わらしの遊ぶ場所」。「座敷わらしの遊ぶ場所座敷「わらこ」は人の心を癒す為に子供の姿で現れました。「あなたが本来の純粋な自分に立ち返って、人生をもっと楽しみ、幸せや豊かさを感じられるように私が案内します」と。」「座敷わらし」の案内。拝殿の傍らで戯れていると語り継がれている可愛らしい童。見た者には幸運が訪れると言われ私たちが、子供のような清い心に立ち返り、幸せで笑顔溢れる日常を送るお手伝いをしてくれることでしょう。「神輿殿」。茅ヶ崎地区の総鎮守である鶴嶺八幡宮の神輿は、浜降祭に参加する神輿の中で最も古く伝統のある神輿で、文化3年(1806)に半原の宮大工 柏木右兵衛安則によって製作されたといわれている と。 【https://igumi.net/blog/tsurumine_mikoshi/】より「茅ヶ崎海岸浜降祭。夏の到来を告げる歴史あるお祭り。夜明けとともに茅ヶ崎市と寒川町にある各神社の神輿40基あまりが浜に集合し、「どっこい、どっこい」という相州神輿独特の掛け声とともに乱舞し、激しく練り合い、海に入ると。 【https://trip.pref.kanagawa.jp/ja/destination/chigasaki-hamaori-festival/812】。「淡嶋神社」。淡嶋神社の前に「がん封じ」祈願石。淡嶋神社に参拝してから霊石「癌封じ石」と体の悪い箇所を「祓え給へ、清め給へ」と3回唱えながら交互にさすると、病を癒す力が増すと云われている。淡嶋神社御祭神 淡嶋神 少彦名命例 祭 三月三日神 事 針供養 二月八日・十二月八日 人形供養 随時由緒沿革淡嶋神社は鶴嶺八幡宮の末社として鎮座し、御祭神淡嶋神は伊弉諾命・伊弉那美命の御子神であられ、淡嶋信仰として往古より女人の守護神として崇敬篤い。又、少彦名命は太古草創の時に際し大国主神と共に国土を経営し、民生を教導し、医薬禁厭の事を司り給う。寛政元年十一月浜之郷宮ノ前に造営ありたるものを安政六年三月官令により当所に遷座す。明治十年三月、大正元年十月、近くは、昭和五十一年七月それぞれ奉修再興の棟札がその沿革を伝えている。(社前にて)厄除・縁結・子授・安産・学問・芸術・裁縫の上達をはじめ病気・事故などの生命の安全・生活の平穏無事を祈願されたい。又、針供養・人形供養の社としても名高い。淡嶋神社の前に「がん封じ」の石。ガン封じの祈願石社前右手の石はガンを始め難病を癒す霊石と云われ、多くの人に信仰されている。石と体の悪い所を交互にさすり「祓え給え、清め給へ」と三回念じる。此の石の兄弟石が神明大神(市内 円蔵2282番地)に祀られており、両方の石をさする事により病を癒す力が増すと云われている。扁額「湘南 淡嶋神社」。社殿に向かって左側に使い古した針を供養する「針塚」があった。役目を終えた針の供養に毎年2月8日と12月8日に針供養祭を行っている と。「鶴嶺八幡宮」の「拝殿」、「本殿」を振り返る。「御守」案内。「神楽殿」の雨戸に貼ってあった「鎌倉殿の13人」のポスター。同じく「厄除 疫病退散」神楽歌「千早ぶる 荒ぶるものを払わんと 出で立ちませる 神ぞ貴き」と。境内から「鶴嶺八幡宮」を再び振り返って。「鶴嶺八幡宮」前にあった「浜之郷自治会館」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.08
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンクを完了し、今回の『茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る』への挑戦をスタートしたのであった。この日は3月6日(日)、仕事の打ち合せで平塚まで行った帰りに、国道134号から鉄砲道を進み、浜見平交番前交差点を左折して左富士通りを進み「千の川」に架かる「石原橋」を渡ると正面に「鶴嶺八幡宮」の大きな朱の鳥居が現れたので久しぶりに立ち寄ることにした。鳥居の下に「鶴嶺八幡宮」碑が立っていた。「鳥井戸橋交差点」にある朱の一の鳥居を潜って進む。「鳥井戸橋交差点」には、南湘の左富士の石碑があった。安藤広重の浮世絵にも描かれた、茅ヶ崎の名所の一つ。約750mあると言う松並木の参道を進む。右手にあったのが「鶴嶺参道歴史ひろば」。「鶴嶺参道歴史ひろば鶴嶺八幡宮は、その創建が平安時代未期にさかのぼると云われる古社です。その後は幾度にもわたる戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代になって、僧朝恵が領主山岡氏の援助を得て再興を果たし、三代将家光から社領七石の御朱印を受けた記念に、南大門馬場の左右に松を植えました。これが現在に残る松並木の参道です。この辺りは、古墳時代後期(1400年前頃)から村の営みが始まり、奈良・平安時代にかけて発展したことが発掘調査でわかっていますが、鎌倉時代になると「懐島」という地名が記録に現れ、鎌倉幕府とのゆかりが強い地域であることが知られています。この鶴嶺八幡宮参道は市の史跡に、松並木は市の天然記念物に指定され、地域の中で保護されてきましたが、参道の整備にあわせてこの歴史ひろばが設けられました。貴重な歴史景観が間近なこの広場で、地域の移り変わりを偲んでみませんか。」「茅ヶ崎市指定史跡・天然記念物 鶴嶺八幡宮参道及び松並木」案内板。鶴嶺八幡宮、平安末期の創建と伝えられており本市でも由緒のある神社の一つです。本殿から南に延びる参道の両脇には松並木が続いています。神社の縁起では天正18年(1590)の小田原城落城の後、社領は武家の所領となって荒れ果ててしまったとされますが、江戸時代になり別当寺常光院の僧、朝恵が再興を志し、領主山岡市の援助で正保年間(1644~48)に本社の拝殿が再興されたとされます。そして、慶安2年(1649)に幕府から社領を認める朱印を得たことから朝恵はこれを記念して参道420間(約764m)の両脇に松を植樹したとされています。茅ヶ崎市では、参道及び松並木を後世に継承していくために、昭和44年8月15日に市の文化財(史跡と天然記念物)に指定し保存しています。」「絵図に描かれた参道この絵図は、江戸時代末期の万廷元年(1860)に皇女和宮が降嫁する際に備えて描かれた山岡家所蔵の絵図の一部で、当時の参道と松並木の様子を見ることができます。絵図には、神社本殿より東海道まで長くのびている約764mの参道と両脇に松が整然と立ち並んでいる姿を確認することができます。このほか、本殿前の横参道や参道両脇にある池および反り橋の様子も見ることができます。また、東海道と接するところには大鳥居があり、付近に弁慶塚の存在も確認することができます。」八幡宮から東海道までを「八丁松並木」と呼んだと。茅ヶ崎市史跡・天然記念物の参道で、神々しい松林の壮大な歴史の道であると。1649年、将軍徳川家光公から朱印地の寄贈を受けた記念として、別当寺常光院の朝恵上人が表参道と横参道に松を植え参道を整備たものだと。正面に二の石鳥居が見えて来た。「鶴嶺八幡宮前」交差点を右折して「Fuji鶴嶺店」の駐車場に車を駐めさせて頂き散策スタート。入口右側には社号標石「郷社 鶴嶺八幡宮」が。中央に「太鼓橋」。「太鼓橋」その先の「二の石鳥居」を正面から。左の朱の手摺の橋が現在の渡れる橋。反対側から「太鼓橋」を。「二の鳥居」前の「狛犬」(阿形像)。「二の鳥居」前の「狛犬」(吽形像)。「二の石鳥居」。左手にあったのが「鳥居再建 昭和三十四年一月十日」と刻まれた石碑。さらに参道を歩いて進む。松並木の下に石灯籠が並ぶ参道。右手には開花を始めた桜の木が1本。この参道の両側は、雨が降ると、水がたまる「神池」であったが、この日は水は全く無かった。「神池」は富士五湖を模したとも言われているのだと。左手の奥にあったのが「天照皇大神宮」。神池に水があれば、島の如き場所に立っている「天照皇大神宮」。「天照皇大神宮御祭神 天照大神」。反対側、右手奥にあったのが「懐嶋弁財天(ふところじまべんざいてん)」。「懐嶋弁財天御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」参道の先に「拝殿」の姿が見えて来た。左手にあったのが「道祖神」碑。双体道祖神碑であった。「記念碑」「記念碑東海道(国道一号線)より御社頭まで「八丁松並木」と古来より呼ばれ、四季を通じて色変えぬ松のみどり。浜降祭には先駆神社として先頭(露払い)に立ち他の神輿を導く名誉ある役目を果し、宮立ちには文化三年建立の「八幡さま」神輿の雄姿が提灯の灯に映し出され幽玄の世界が繰り広げられるのもこの参道である。「八幡さま」固有の基本形態をなす表参道、馬場道(流鏑馬)とも呼ばれる横参道、源平池の神域。これらの遺産を守り伝えられた先人への畏敬の念あれば、この遺産を更なる次の世代へと引き継ぐことが現世を生きる私たちの責務と思う。ここに平成の大事業として敬神尊祖の思い篤き有志の浄財をもって灯籠を建立する。」左手に石碑が並ぶ。「歌碑・句碑「ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎」「今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵 芳女」」。芳女は鴫立庵初の女性庵主であると。「朝恵上人の碑」「寛文九己酉天 為法・・・・恵佛」と。「女護が石」。「一念は岩をも通す」という、たとえがありますが、この石神(奇石)も古くから信仰されております。願い事を念じながら石の肌をさすり、自分の身体をなでると病等は平癒し、願い事は成就すると伝えられています。今では女性の守護神として信仰されています。」「授かり石」「朝恵上人と参道 松並木八幡宮別当常光院住職、朝恵上人は、慶安ニ年(1649年)三代将軍家光より、御料として、七石の御朱印を拝領した記念に地頭山岡景信と相計り、まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人てある。その偉業を賛え後世に語りつぐために、ここに上人の碑を祀る。ながながと 参道に列並む 松のみどリり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女女護ケ石女性の守護神として、信仰されていた石神です。からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、からだの部分もなでる。」掲示板。右手に「鐘楼」。「梵鐘」には「鶴嶺八幡宮」の文字が。なぎ(梛)の木越しに鐘楼を見る。「なぎ(梛)の木(聖なる木 愛の木)◇穏やかな人生、平和、調和 凪・和ぐに通じることから、人生という航海を平穏無事に送ることができます。◇縁結び 神様や人との御縁が続きます。◇災難除け 苦難をなぎ倒し、幸せを呼びよせます。」「コインでつなぐ 平和の鐘 募金活動のお願い」「朱印帳」案内。左手に「おみくじ掛け」「北斎桜」。「鶴嶺八幡宮と北斎&北斎桜英国より里帰りした希少な北斎桜を境内に植樹北斎の描いた日本の美しい森羅万象の姿に魅了され、欧米にジャポニスム旋風が湧き上がっていた20世紀初頭、英国人コーリング・イングラムは日本から様々な桜を輸入し、英国ケント州ベネンドンにある邸宅、ザ・グランジに、桜の庭園を造園しました。彼はその中にまだ学術名の無い桜を見つけ、自らが尊敬をする葛飾北斎に因んで”Hokusai”(ホクサイ)と命名しました。日本は千年以上の月日をかけて多種多様の桜を育ててきましたが、明治以降の近代化の流れのなかで、染井吉野一色に姿を変えていきました。イングラム氏は日本に存在していた様々な桜の絶減を危惧し、数多くの古来の桜を救いました。北斎桜もその一つと言われています。今回の鶴嶺八幡宮に植樹された北斎桜は、イングラム邸の北斎桜を起源とし、世界遺産英国「キュー王立植物園」から、日本花の会を経てこの鶴嶺八幡宮の地に里帰りをしたとても稀少な桜です。日本では数カ所でしかその存在が確認されていません。世界で一番人気のある日本の絵画”神奈川沖浪裏”を描いた葛飾北斎。神奈川の自然と歴史をこよなく愛し、ここ鶴嶺の地を流れる千ノ川をも描いています。北斎桜もまたこの鶴嶺の地で一期一会を彩り続けることでしょう。」「北斎桜」をネットから。 【https://plaza.rakuten.co.jp/ozin0523/diary/202004120001/】より「御祈祷 御朱印 受付所」。近寄って。様々な種類の御朱印がいただけるようであった。「木花咲耶姫のステッカー」の案内。御朱印をいただきました。反対側には「神楽殿」。「拝殿」を見る。正面に「鶴嶺八幡のイチョウ」。「神奈川県指定天然記念物 鶴嶺八幡宮大銀杏」碑。近づいて。「県指定天然記念物 昭和37年10月2日指定「鶴嶺八幡のイチョウ」 和名:イチョウ(イチョウ科)多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29メートル、胸高周囲:9.0メートル、樹齢:約1000年(伝承)イチョウは中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中世代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。」「鶴岡八幡宮の大イチョウ 昭和三十七年十月二日 神奈川県天然記念物指定 平成二十二年三月二十六日 茅ヶ崎市指定景観重要樹木第一号 (指定名称 鶴嶺八幡のイチョウ) 根廻り 八・五メートル 目通り 九メートル 樹 高 二十九メートルこのイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが四・五本くっついて成長を続け、現在の幹を形づくったものとみられている。きわめて珍しい大木である。なお、次のような伝承がある。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれている。昭和五十九年、「かながわの名木100選」に選ばれている。」 ・・・つづく・・・
2022.04.07
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