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この日の最後に「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」を訪ねた。浦賀コミュニティセンター分館((愛称)浦賀文化センター)は、昭和57年(1982)4月1日に設立された文化施設で、浦賀地域の郷土資料館としての役割を担っている施設。建物の延面積は、504.23平方メートル。この施設は、展示室と3つの学習室(一般用貸室)から構成されます。まず、展示室には、浦賀奉行所関係の模型、中島三郎助関係の資料、鳳凰丸・咸臨丸・ペリー艦隊の船舶の模型等の展示がなされていた。地元の郷土史家等が特別展示等を企画するときもあるとのこと。横須賀市浦賀7丁目2−1。この場所はかつて、旧浦賀ドックの迎賓館であった「表倶楽部」の跡地だとのこと。正面玄関を見る。玄関には顔抜きパネルが。渋沢栄一(右)と勝海舟(左)。横須賀の鏝絵・辰巳忠志氏の作品が並んでいた。上段に「親子龍」、下段右から「花鳥風月」、「龍虎」、「降り竜」。「親子龍」。「花鳥風月」。「龍虎」。「降り竜」。「柿たわわ」。「浦賀の鏝絵めぐり左官職人が、壁などの仕上げに鏝で漆喰を塗り上げて作った彫刻風の絵を鏝絵(こてえ)といいます。江戸時代末期の左官職人入江長八(伊豆の長八)によって作られたのが鏝絵の起源だといわれています。長八に始まった鏝絵は、その弟子達や多くの左官載人によって全国へ広まっていきました。江戸時代より、浦賀には豪商の屋敵や土蔵が立ち並び漆喰を塗る職人が多くいました。明治期に入ると浦賀でも石川善吉らの手によって盛んに鏝絵作りが行われるようになりました。現在に残る鏝絵から、当時の浦賀の繁栄を偲ぶことができます。」「西叶神社」👈️リンク「東福寺」👈️リンク「常福寺」👈️リンク「川間町内会館」👈️リンク「八雲神社」👈️リンク「東耀稲荷」👈️リンク「法憧寺」👈️リンク「大六天神社」👈️リンク2階に郷土資料館があった。「浦賀周辺地図」。階段を上りながら浦賀地区の祭りの展示パネルを見る。「榊神社大禄天祭札 [ 5月/中旬土・日]川間の鎮守。土曜日には例祭式、神楽が奉納され、日曜日は神輿・山車が神社参拝後に町内を巡行する。また、木遣りの伝承保存に努めており、祭礼はもとより多くの祝い事で唄われている。」東叶神社例大祭[9月/第2土・日]東浦賀の総鎮守。各町内の山車彫刻が見事。東浦賀には、御座船があり、明治の頃には、海上を渡御したそうだ。彫り物が施された船に提灯が灯されてその明かりが水面に映り、お船唄が流れ皆うっとりと聞き入ったそうだ。西叶神社と同日に行われ、西東の浦賀の町が祭り一色となる。西叶神社例大祭[9月/第2土・日]西浦賀の総鎮守。例大祭には、「拝殿神楽祭」の年と三年に一度の「御神幸祭(大祭り)」の年がある。厳かに神事が執り行われた後に、町内神輿が一堂に会する様は壮観である。為朝神社祭礼[6月/第2土・日]浜町の鎮守。祭礼では「虎踊り」が奉納され、境内に設置された特設舞台で、唐子の踊りや親子虎の大胆な舞が演じられる。奉行所が下田から移された時に一緒に伝えられたといわれている。県の重要無形民俗文化財に指定されている。八雲神社の例大祭[ 6月/第2土・日]東浦賀の鎮守である八雲神社で行われる祭りで、「猩々坊(しょうじょぼう)」という大きな人形を乗せた山車が練り歩くのが特徴。この猩々坊は、疱瘡除けや不老不死の力があるといわれている。【仮面神楽「とっぴきぴー踊り」】お囃子のリズムに合わせて身振り手振りで情景を滑稽に表現する無言劇で、磯の香、土の匂いのしみ込んだ素朴な芸能です。文化文政の頃から、脇方の里人により須賀神社に拳納されてきたものです。【お浜降り】神社神興が白装束の白丁に担がれ静かに海へ入ってゆきます。その後、鴨居全域の神興が次々と海へ入り、禊をします。「浦賀文化 最新号鳳凰丸の建造①ー建造掛の人選こぼれ話ー嘉永六年(一八五三年)六月にペリー艦隊の軍艦による江戸への接近を目の当たりにして強い危機感を覚えた幕府は江戸の防備を充実させるべく同年九月十五日、これまで禁止していた大船の建造を解禁した。これをきっかけに浦賀で日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造されることになるのだが、浦賀泰行所内ではこれに先駆けて建造の準備を進めており、九月七日には軍艦建造掛が選出されていた。メンバーは、与カからは香山栄左衛門、田中信吾、中島三郎助、佐々倉桐太郎の四名、同心からは斎藤太郎助、中田佳太夫、田中半右衛門、春山弁蔵、岩田平作、田中来助の六名だった。その翌月、浅野勇之助、大久保釭之助を加えたメンバーが老中阿部正弘から正式に「御軍艦并晨風丸形御船其外附属之品御製造御用掛」に任命され、この船の建造は幕府の正式な事業となった。ただこの時、与力の田中信吾だけは「御軍艦并晨風丸御船御打建御申請中身廻」、つまり軍艦建造中の見廻り役にされたとある。田中信吾は中島三郎助の父である中島清司とも名を連ねて異国船の対応に尽力してきた与力だったが、彼がこのような役回りとなったのは事情があったらしい。ペリー来航当時の浦賀奉行戸田氏栄が同職江戸詰の井戸弘道に宛てた私信「南浦書信」の十一月二日付けの書翰の中で次のように記している。「田信(田中信吾)は御普請掛りさしゆるし、其他は緩々保養可致旨相達し、よくよく利解仕候、当春以以来の事なから、亜船にて長ロ出勤いたし候事ニて、前日之引込は水ニ成候故、御暇申渡も余り早過候故、何分不都合、夫ら之処再々応組頭江申渡置候、」これによると田中はかねてより「引込」すなわち引退を考えていたらしい。しかし「亜船」(ペリー艦隊)への対があって引退は流れてしまった。それもあって「御普請掛」、つまり軍建造掛を「さしゆるし」たという。引退を考えていた田中自身は建造掛になることに難色を示したが、この役ならと了承したのだろうか、見廻りという役に就いている。理由はわからないが少なくとも戸田としては田中に引退されると困るタイミングだったのだろう。田中のことはしばらく戸田を悩ませたらしくこの後も「南浦書信」に話題が出てくる。十一月十二日付けの書翰では田中について「魯船之沙汰承り、一日も早く引込度趣ニて、御暇伺書さし出し申候、」とある。この時にはロシア船ディアナ号が下田での地震により大破したため、その修理場所などについて対応を協議していた時で、そんな状況で田中が一日も早く引退したいと伺書を差し出してきたという。支配組頭や香山栄左衛門もいろいろと説得したが、一日も早く引退したいと聞かず、戸田も「不忠至極」とは思うが今まで引き留めていることでもあるのでどうしたらよいものかと途方に暮れている。また、田中は与力の中でも地方掛であったようで、同日の書翰で戸田は引退については、是非のないこととしながらも「跡地方の申すものニ甚だ差支、申候、」と田中がやめた後の地方掛に支障があるとしている。理由としては、地方掛は本来の地方行政に関する業務だけでなく諸々の見積や普請の担当なども兼ねるため業務が多岐にわたり、人数を減らすことができない状況にあった。支配組頭が業務を引き受けてくれれば良いがこちらも頼りにならず、後任にできる人物もいないため「是ニは困り申し候」と困惑している。その後も「南浦書信」を見ると、田中のことで戸田は井戸に相談をしていたようではあるが、詳しいことはわからない。ただ田中は嘉永七年正月のペリー再来航前には引退していたのか、御褒美の記録や以後の鳳凰丸関係の記録にも田中信吾の名前は出てこない。「浦賀奉行所跡の発掘調査(その五)幕末から明治時代以降の浦賀奉行所跡慶応四年(一八六八年)閏四月に浦賀奉行所は廃止されました。その跡地は海軍用地・用地・民有地と変遷し、昭和一六年(一九四一年)~ニ〇年(一九四五年)頃には浦賀ドックの工員宿舎が建てられ、昭和四一年(一九六六年)からは浦賀重工業株式会社、後に住友重機槭工業株式会社浦賀工場の社宅になります。平成ニ九年(二〇一七年)年一二月にその跡地が横須賀市に寄贈されて現在に至っています。図1は、それらの建物の配置図です。浦賀ドック工員宿舎の建物は、米軍撮影の航空写真に解体中の姿が朧げに残されているだけで詳細な記録は確認できません。構造は不明ですが、発見された基礎跡などから、幅約10・8m、長さ約36・5 mの建物六棟とL字状の建物が浦賀役所跡地全面に配置されていたことが判明しました。建物は厚さ5cm前後のコンクリート土台の上に赤煉瓦やアス煉瓦(石炭ガラと消石灰が原料)を積んだ基礎の上に建てられた木造建築であったと思われます。黒枠で囲った南西部の調査区を詳細に表したのが図2の平面図になります。安政二年(一八五五年)の増改築時に新たに掘られた素掘りの西堀の一部と塀跡の柱穴列などが確認され、その東側からは浦賀ドック工員宿舎のレンガ積基礎と常滑焼土管の排水管、住友重機槭工株式会社浦賀工場社宅の鉄筋コンクリート製の基礎などが並んで確認されました。(写真1)幕末期から平成時代に至る浦賀奉行所とその跡地の履歴が窺える調査箇所です。次回からは各時代の主な出土物について紹介していきます。「Dockcafe4大正六年(一九一七年)、逓信省官療であった今岡純一郎が浦賀船渠山下亀三郎社長に抜擢されて専務となった。今岡は、その五年後、七代目社長に就任する。当時、船舶業界は低迷期であり、浦賀船渠の経営もまた厳しい状況であった。そのような中にあっても、経費削減や勤務改革、陸上の機槭製造等を兼営するなどして工場能力を維持した。また、帝大造船科卒だった今岡の知識を活かし船の性能を向上させるなどの構造改革にも着手、多くの新技術の開発を成功させる。その結果、浦賀ドックの代名詞ともいえる駆遂艦や青函連絡船の建造の更なる受注に繋がっていった。そんな折、大正十ニ年九月、関東大震災が襲来、浦賀船渠は壊滅的被害を受ける。重ねて工場内からの出火と近隣からの延焼で工場の大部分を失う。社長自ら復興に向けて従業員に理解と協力を求める掲示を行っている。今岡の手腕と尽力により、浦賀船渠は再び活気を取り戻し、造船所としての地位を確立した。しかし、その栄光の時を待たずして、今岡は昭和九年、六十歳の現職のときにこの世を去った。」浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)にあった中島三郎助招魂碑の拓本。「浦賀船渠 昭和34年4月10日(金曜日)」「浦賀船渠 昭34年4月発行この社報は戦後昭和28年から浦賀船渠(浦賀ドック)で発刊され、ドックで作った船の情報や人事、社内で行われたイベントなどを伝えておりました。この展示している第7 3号は当時スーパータンカーと呼ばれたサイズのパトリア号の進水式の様子を伝えています。パトリアは浦質ドックでも大口の受注だったことが紙面からうかがえます。」そして2階の展示室入口前右側にあった「上の台遺跡考古資料」。横須賀市鴨居二丁目。市立上の台中学校の敷地が鴨居上の台遺跡。昭和五十一年二月、市内の埋蔵文化財分布調査中に発見された遺跡。本遺跡は縄文時代早期・中期、弥生時代中期 から古墳時代前期、および奈良時代の各時代・時期にわたって居住、利用された場所である。 本遺跡は台地上に広く占地し、その範囲は約八千平方㍍程度と思われる。本遺跡の主体は弥生時代から古墳時代前期にかけての集落址であり、 住居址総数は百を超える。この集落址は、三浦半島東岸において最大規模のものと思われ、かつ保存状態は良好であったとのこと。 出土された土器のかけらは五万六千個以上、整理箱に四百四十箱。堅穴住居址は百四十一軒も発掘された。 縄文時代の遺物としては土器が三千五百七十八点、石器が四十七点も出土した。 縄文式土器の場合、かけらを集めて復元できるものはなかった、という。 土器は、①縄文と撚(より)糸文②押型文③無文④沈線文や貝殻文⑤貝殻条痕文⑥中期以降のもの、の六つに分けて整理された。 また、土器の底の部分が五十七点も。特徴は丸底のものは撚糸文系、乳房状の尖(せん)底は条痕文、厚みが変わらずにとがるものは、沈線文や貝殻文など。石器で縄文時代のものと思われるのは四十七点。内訳は礫器十点、刃部磨製礫斧二点、石鏃十五点、石槍一点、削り器五点、加工痕のある剥片十点、その他。上の台遺跡の発掘調査は、昭和52年10月から翌年9月まで行われた。出土された土器片は5万6千個以上、住居址は141軒。写真は、見事に日の目をみた住居址。柱の穴がはっきり見える。そして「浦賀奉行所」を模した展示室の入口。浦賀奉行所与力・中島三郎助が迎えてくれた。廻船問屋・宮井家「萬清」の当時の生活用品と。「ここに展示されている陶器類は、宮井家に伝わっているものの一部であり、時代は天明期(1781)より明治期までのものである。当家は、元禄5年(1692)、紀州 宮原の地より東浦賀に移住した「宮与」こと宮原屋 宮井与右衛門の分家として、寛延2年(1749)西浦賀 紺屋町へ独立した萬屋 宮井清左衛門家であり、代々清左衛門を世襲し「萬清」の屋号で知られ、昭和の初期まで米・酒・塩の問屋として持船3艘を動かし、関西から東北地方まで手広く商売を営んでいた。家紋は左三巴で、商標は井桁である。」廻船問屋 宮井家(萬清) 所蔵品物。まずは「中島三郎助」の展示コーナー。中島三郎助が活躍していたころに見られた浦賀奉行所の様子、奉行所のある町に根ざす文化にもスポットを当てていた。この展示では、奉行所の役人であると同時に、俳句活動などを通じて文人としてもその名が知られていた中島三郎助の一面にも触れることができた。さらに、浦賀奉行所で作成された文書や中島三郎助の遺書など、貴重な資料の展示により、改めて奉行所のまち・浦賀を知ることが出来たのであった。浦賀奉行所の役人(与力)としてペリーの来航時に黒船に乗り込み、折衝に当たった中島三郎助。「中島三郎助の生涯(略年表)」そして彼の持っていた短刀が展示されていた。中島三郎助の生涯は、日本に近代化の嵐が吹き荒れる激動の時代に、その真っ只中を幕府の役人(与力)として、また一人の武士として忠実に生き抜いた49年間でした。幕末の文政4年(1821年)に浦賀奉行所の与力・中島清司の次男として生まれた三郎助は、14歳で奉行所に出仕します。その後、アメリカ船モリソン号砲撃事件(天保8年(1837年))、アメリカ人ビッドルの来航(弘化3年(1846年))、さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航を目の当たりにして、日本でも大型軍艦を持つことの必要性を説きました。そして、軍艦造船にあたり委員の一人として活躍、翌年の5月には着工以来わずか8カ月という短期間で、日本人の手による最初の洋式軍艦「鳳凰丸」の誕生となります。この後、三郎助は長崎海軍伝習所の第1回生として派遣され、勝海舟や榎本武揚らとともに造船・操船技術を習得し、近代造船学の指導的な立場になりました。一方、三郎助は父の教育を受け、幼少の頃から和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧においては俳人・木鶏の名をほしいままにし、江戸にまでその名が知られていました。福沢諭吉が残した『福翁自伝』にも浦賀の立派な武士として書き記されています。慶応4年(1868年)に明治新政府が樹立されると、榎本武揚らとともに函館に向かい、旧幕府勢力を中心とした政府の樹立を目指します。しかし、翌年の5月に二人の息子恒太郎、英次郎とともに新政府軍の砲弾に倒れ、49年の生涯を閉じました。その後、明治24年(1891年)に、中島三郎助を追慕する人々の手により浦賀港を見渡す愛宕山公園に中島君招魂碑が建てられました。中島三郎助を近代造船の父と慕い、彼の業績を偲ぶ人々の手により造船所の建設が提案され、浦賀は日本を代表する造船の町として新たなスタートを切ることになります。さらに「中島三郎助」の展示コーナーを進む。浦賀奉行所与力の紋付き袴が。「与力中島三郎助中島三郎助は文政4年(1821)浦賀拳行所筆頭与力、中島清司の次男として浦賀に生れた。天保6年14歳の時、与カ見習として奉行所に出仕し父と同じ道を歩むこととなった。嘉永6年(1853)、ペリーの率いる黒船が浦賀に来航した際、三郎助は応接掛として、折衝の任に当たり、黒船に乗船し艦内を調べて回るなど、このことが三郎助の生涯に大きな影響を与えることとなった。嘉永7年(1854)、幕府が日本最初の洋式軍繿「鳳凰丸」を浦賀で建造するに当り、その建造主任となり、安政2年(1855)には勝海舟、榎本武揚らと共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学んだのちに浦賀港において、咸臨丸を修理するなど、造船、操船の第一人者として活躍しました。慶応4年(1868)幕府が大政を拳還するに及び榎本武揚と共に江戸を脱出、函館五稜郭に籠城し二子恒太郎(22才)、英次郎(19才)共々官軍と戦い、戦死しました。時に明治2年( 1869 ) 5月16日、49歳でした。三郎助はまた文人として和漢の学に造詣が深く、ことに、”俳人木鶏″として国事混乱の世にあって折にふれ俳諧に想いを託し、遺詠の数々が当時の彼の心情や交際範囲の広さを余すところなく今に伝えております。」「中島家累代系譜」中島 三郎助(なかじま さぶろうすけ)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府 小十人格軍艦役、のち蝦夷共和国 箱館奉行並。諱は永胤。【与力中島三郎助の活躍と生涯浦賀で代表的な有名人物といえば、浦賀奉行所与力の中島三郎助を挙げることができます。彼は、応接掛与力として、ペリー来航の際、最初に「黒船」に乗り、折衝にあたるなどの敏腕ぶりを見せました。その後、日本初の洋式・鳳凰丸の建造に従事し、さらに長崎海軍伝習所で航海術を学び、幕府海軍の軍艦役に取り立てられています。一方、和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧において、「木鶏」の俳号は江戸にまでその名を知られていました。明治維新の戊辰戦争では、榎本武揚の率いる脱走艦隊に乗って箱館戦争を戦いました。その最後の決戦において、ニ人の子息を含む浦賀関係者十数人とともに千代ヶ岡陣地で戦い、命を失った。その死闘は永く世に伝えられる。】「中島君招魂碑外務大臣海軍中将従二位勲一等子爵 榎本武揚 篆額箱館戦争前(1868年)の榎本武揚(1836-1908)の写真。函館戦争で中島三郎助と共に戦い、その意思を継いで浦賀造船所(浦賀船渠株式会社)の設立に尽力したとされる。「中島永胤君招魂碑の「発起者」の碑碑文は、江戸時代後期の浦賀歌壇のリーダーでもあった西野前知が書いています。「中島永胤君招魂の碑建てんことおもひ立ちしは明治ニ十三年九月にして成功をとげしは同ニ十四年七月なり(後略)」に始まり、浦賀港を見下ろせる愛宕山に、石をすえ土をならし、花木を植え、東屋を造り、道を整備するなどなど、公園を建設する様子と招魂碑の趣旨が、発起者36名の名前と共に記されています。愛宕山公園(浦賀園)は、浦賀の人々に敬慕されていた中島三郎助の事跡を、後世に伝える招魂碑を建立するために整備され、明治24年(1891年)に開園した、横須賀市で最も古い公園です。所在地 愛宕山公園大きさ 176 cm x 130 cm x 11 cm建立年 明治24年(1891)」。「奉行所与力の服装」「幕臣中嶌三郎助👈️リンク明治年古函館ニ於テ戦死兄弟三名倶ニ死ス◯忠勇比類無シト言傳フ」1853(嘉永6)年の黒船来航時、浦賀奉行所与力の中島三郎助はペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人です。中島は、大砲などの装備を探るため、ちょこまかと動きまわるのでペリー側の記録には「大胆で出しゃばりしつこく詮索好き」と残されています。しかし、その行動は、西洋型軍艦鳳凰丸の建造に大いに役立ちました。その後、勝海舟・榎本武揚らとともに長崎の海軍伝習所へ派遣され、江戸に戻ってからは海軍操練所教授方として後輩の指導にあたり、海国日本の造船・操船の第一人者となりました。戊辰戦争で函館五稜郭にて新政府軍を迎え撃ちますが武運尽き、ふたりの子供ともども壮絶な死を遂げました。「横須賀市浦賀地域と函館市中島町との姉妹地域関係に関する盟約書幕末の英才・中嶌三郎助翁は近代国家を誕生させる荒波の中に、その生涯を捧げ、功績は日増しに高くなってきています。生誕の地、横須賀浦賀地域を中心に活動を続ける「中島三郎助研究会」、「中島三郎助と遊ぶ会」と戦没の地函館市中島町会は、ともに中島三郎助翁が、黒船来航の折に最初の交渉役として果たした役割やその後近代日本の幕開けにふさわしい造船技術者として果たした役割やその後近代日本の幕開けにふさわしい造船技術者として、また開運設立の先覚者として残した数々の功績を顕彰し、さらに多くの市民の方に理解を深める活動をしてきました。この二つの地域の趣旨を同じくする会が、地域の諸団体の協力のもと交流を深め・・・・・・・・・偉業を顕彰、理解の輪を各分野に広め、発展させることを盟約し姉妹の会として活動をいたします。 平成8年7月20日以下略」「本日、御地において中島三郎助父子墓前祭が開催されるにあたり、一言ごあいさつ申しあげます。昨年は当町主催によります、中島三郎助碑前祭に浦賀より東林寺参詣団様始め多数のご列席を賜り厚くお礼申し上げます。その折、横須賀市長様よりご丁重なるメッセージ、並びに東林寺ご住職様よりお心のこもった和歌を頂戴し感謝に胸震えております。本年も、本日同時刻、中島町の中島三郎助父子最期の地碑前において慰霊祭を執り行っております。このように三郎助父子の生誕地と戦没地に於いて同時に慰霊の行事が行われることに深い感慨を覚えます。浦賀が生んだ最高のテクノクラート、有能な幕臣、中島は数多の業績を残し、幕末の動乱には主家報恩の殉節を貫き榎本などとともに函館に赴き歴戦を重ねましたが、明治二年五月一六日ここ千代が岡陣屋において父子共々壮絶な最期を遂げました。激しい敵の攻撃に投降兵や逃亡兵の多い中、浦賀出身の者で固めた中島隊の部下には、遁れたものなかったとききます。いかに平生の恩遇が深かったか偲ばれます。この激戦を最後に幕末維新の動乱も終局を収め、近代日本の幕開けとなりますが、もし三郎助存命であれば必ず新政府軍の重鎮、或いは造船界の嚆矢として、近代国家建設の大役に従事されたことと思えば、その死惜しみてあまりあります。函館市は昭和六年、新町名制定のとき、三郎助の遺徳を讃え、その最期の地を中島町と命名致しました。東林寺ご住職のご来函の折り、十首の和歌を詠じられましたが、そのうち一首に丈夫の 赤き血潮の 溢れ染む 中島町の 弥榮にこそと歌われ、私共にお励ましのお言葉を賜りました。このことを肝に銘じ、私達町民は御地において大切に大切に尊敬、敬愛されている中島三郎助の名に恥じぬように街の伸展に意を注いで行く所存で御座います。終わりに、硝煙砲火の中、古武士の骨を焚き了わり、義に殉じて北の果てに放華せし御魂よ靖かれとお祈りし、三郎助永胤の辞世の歌を詠唱してメッセージと致します。空蝉の かりの衣を ぬぎ捨てて 名をや残さん 千代ヶ岡辺に 平成五年五月十五日 函館市中島町 町会長 船山圭右」短刀。相模國廣光 長六尺・・・。大田戴陽老人・・・・・「大田戴陽老人追悼文軸大田戴陽老人は蜀山先生の嫡孫にして、無為の天資をつぎ、滑稽洒落の雅情を専とし、夙に官袴を脱し、ひとり風月の閑静を愛したまふこと既に幾春秋か。ことし弥生の花のうつろふ頃よりやまふの床につかれけるが、五月四日といふ日、終に残花の芳香を百草にうつして、はかなくも彼の岸に赴かれしそ、親戚のなけきはいふへくもあらされど、郷里の人、誰かなけき惜まさらんや。さみたれや ほのかに西の 月あかり」「中島三郎助函館よりの手紙」。「中島三郎助函館よりの手紙慶応4年8月に江戸を脱出した一行がさまざまな事態に当面しながら、本州最後の地、宮古へ到着したのが10月12日でした。この地から三郎助が妻すずにあてた近況報告の手紙です。この手紙からも最終目的地、蝦夷へ出発するにあたっての困難ではあるが新開地を求めた三郎助の覚悟の程がよく表われています。一筆申進候 追々寒気相増候得とも、いよいよ御替りなふ御くらしと目出度そんじ候、次に此かた一同無事に而、当節は南部宮古と申所に罷在申候両三日之内にハゑぞと申へ参り候つもり、是は定而寒気つよくと心配いたし候、乍然、八月初旬持病相おこり候のみに而、丈夫ニ御座候まゝ、先達而恒太郎其方へ参り、御めもじいたし候由、いさゐ承り、大安心いたし候、美加保丸ハなん船いたし候よし、平田其外 乗組之者 如何哉とあんじ申候一、越後辺之いくさニ而、小笠原甫三郎の忰、新太郎 高林磯次郎等うち死いたし候よし、和田 伝兵衛ハ無事ニ而回天丸ニ居り申候、一、子供一同無事とそんじ候、与曽八も定而丈夫に成長とそんじ候一、江戸へよきたより有之候ニ付、御母上様江書状差上申候、御安心可被下候、一、我等並恒太郎、英二郎等、万々一うち死いたし候へハ、浦賀之寺へ墓御立可被下候 右の通り御頼申候、先は幸便ニまかせ、早々めでたく かしく 三郎助時雨月十六日おすゝ殿尚々時かふ御いとひ可被成候、お順始一同へよろしく御申伝可被下候 以上」一筆申し上げます。日増しに寒くなってきましたが、お変りなくお過ごしこととお喜び申し上げます。私たち一同は無事で、今は南部の宮古というところに来ています。ニ、三日のうちには蝦夷という土地に行くつもりです。そこは、とても寒いところと心配しています。しかし、八月上旬に持病が起きた以外は健康に過ごしています。先日恒太郎がそちらへ行き、お目に掛かったとのこと、くわしく聞いてとても安心しました。美加保丸が難船したとのこと、平田そのほかの乗組員はどうしたのかと案じています。一 越後の戦いで、小笠原甫三郎のせがれ新太郎、高林磯次郎らが討ち死にしたとのこと。 和田伝兵衛は無事で回天丸にいます。一 子どもたちは無事と思います。与曾八も丈夫に成長していることと思います。一 江戸へはよい知らせがありますので、母上に手紙を出しました。ご安心ください。一 私、恒太郎、英次郎らが、万が一討死した時には、浦賀の寺に墓を建ててください。このような状況ですから、どこで討死あるいは戦いの中で死去した旨、墓に刻んでください。まずは幸便にまかせて 三郎助時雨月(十月)十六日お寿々どのなお、時節柄お大事にしてください。お順はじめ一同にもよろしくお伝えください。「中島三郎助 遺言状榎本武揚が朝廷に上奏した願いが脚下され官軍による討伐を予想した三郎助が家炭へあてた遺書です。文面からわずか二歳の与曽八に短刀を贈り、家族へ決別の辞を述べ、また後段では、終生徳川家に忠勤を励む幕臣の姿をみることができます。」。「中島三郎助 遺言状」。「この短刀を与曾八への形見として贈ります。私は長いこと病弱で若死にしてしまうだろうと思っていましたが、はからずも四十九年の歳月を生きながらえたことは幸いと思っています。このたびの決戦では、潔く討死する覚悟をしています。与曾八が成長したのち、私のわずかな志を継いで、徳川家のこのうえもなく大きなご恩を忘れずに長い間忠勤してくれるよう頼みます。 明治ニ年三月三日 中島三郎助 永胤なお、御母上様、積年の恩恵に報えずにお先に遠い旅路に赴くこと、恐れ入ります。ということをよろしく申し上げてください。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.08
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「乗誓寺」を後にして、次の目的地の「八雲神社」に向かう。東浦賀1丁目17の路地を北に向かって進むと、「八雲神社」への石段が現れた、石段の途中、左手にあった「手水舎」。石段の途中から浦賀湾沿いに建つ「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」を振り返る。築年月(築年数) 1994年6月 (築30年)建物構造 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)建物階数 地上22階総戸数 314戸右手にあったのが「東浦賀1丁目町内会館」。さらに石段を上る。石段の上に「八雲神社」の拝殿が姿を見せた。祭神は須佐男命。この社は江戸時代の建物で、当時は、大谷山満宝院八雲堂という修験の寺であったと。明治以降、神社に変わりましたが、建物はそのままで、屋根に宝珠が乗る、寺院型式の御堂建築なのであった。拝殿の向拝には、漆喰で造られている「漆喰鏝絵(しっくいこてえ)」という、見事な龍が取り付けられていた。ズームして。「向背の龍」と呼ばれるこの作品は、木彫り彫刻?と見紛う、見事な出来栄えで、全国的にも珍しい存在であると。龍頭を中心に据え、全身を丸彫に造形、ガラス玉の玉眼を嵌入する。くねる龍身はしなやかで、均整がとれているが、彩色はかなり剥落し頭部の破損部分も目立つ。「伊豆の長八」とともに、漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時、明治35年(1902)の作品。背面左端に銘文があり、「明治三十五年/左善作/四十八才」とあった。作者の「左善」とは、左官の善吉の略で、浦賀の左官職人石川善吉のことである。明治35年(1902年)48歳の時の作品であることが分かるのであった。尚、漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されていたのであった。「八雲神社祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう・厄除け人形)が出ます。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「猩々坊」👈️リンク。行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば、まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。赤く長い髪が特徴的で、衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は、想像上の動物で猿に似ているとされ、人の顔と足を持ち、人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛とされ、酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は、大きな頭と顔、黒々とした髪・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが、猩々とは共通点があまり感じられない。江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり、疱瘡神は赤色を苦手とし、「赤が病魔を払う」という俗信から、東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化、赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々、赤を基調としたお守りや風習が存在するが、八雲神社の猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり、猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に造られた。ところが何故か、明治33年(1900)以降の祭礼においては、町内引き回しが行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が、神社に保存されていた猩々坊の色を塗り直したり、髭をつけたりして修復、平成7年(1995)見事復活を果たし、現在に至っているようで大変喜ばしいことだ とネットから。「御宝珠」。寺から神社に変わった当時、屋根に乗っていた御宝珠。現在のものは、その後作り替えられた金属製であると。近づいて。「当町守護八雲神社御祭神 須佐男命此の社は江戸時代の建物です。当時は大谷山満宝院八雲堂と申して真言宗修験のお寺でした。明治初期に神社になりまして其の当時屋根に乗りし御宝珠です。東浦賀 一丁目町内会」つぎに訪ねたのが「津守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目14。「津守稲荷」と。石鳥居の先に拝殿。手水舎。拝殿。ご祭神は、社名からの推定になりますが、食物や穀物の神様で、五穀豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。宇迦之御魂命とも表記され、稲荷神と同一です。創建は江戸時代中期の文政9年と。詳しい創建の経緯などは不明ですが、津守の「津」は港を意味するもので、港を守るお稲荷様として創建されたと考えられます。誰の手によりどのように創建されたかなどは、残念ながらわからない。拝殿の彫刻が目を惹いた。右側には龍、左側には神様でしょうか。木鼻(右)、下の方の両端には亀もいた。木鼻(左)、下の方の両端には亀もいた。拝殿の内陣。ズームして。拝殿に向かって右手には、「青面金剛塔」と書かれた小さな庚申塔があった。ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)の花。咲き始めは紫色だった花は少しずつ白っぽくなり,1本の木に紫と白の2色の花が咲いているように見えます。一つの花の花期は短いのですが,次々に咲き続けるので長く2色の花を楽しむことができるのだ。観音崎通りを京急浦賀駅方向に向かって歩く。横須賀市東浦賀1丁目12−17附近。右手奥に神社の石鳥居が見えた。石鳥居の先の石段の上に朱の社殿が。正面から。「船守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目11。お狐様(右)。お狐様(左)。「船守稲荷神社」の社殿。東浦賀1に鎮座する船守稲荷神社の縁起は不明とのことだが、境内に天明5年(1785年)銘の手水鉢が奉納されて残っている。船守稲荷神社の創建は、奉行所が下田から浦賀へ移された享保5年(1720年)以降で、稲荷信仰が江戸で大流行する江戸時代後期であろう。船守は文字どおり船を守る稲荷社で、港を守る津守稲荷神社とともに港町浦賀にふさわしい名前の稲荷社。手水鉢が船守稲荷神社氏子中による奉納ならば、船守稲荷神社は天明5年(1785年)以前の創建となろう。しかし、船の前に津があるのが普通である。津守稲荷神社は文政9年(1826年)に創建されているので、船守稲荷神社の創建が津守稲荷神社の創建よりもはるかに古いことはあるまい。一方、浦賀のもう一つの稲荷社である福寿稲荷の創建も弘化4年(1847年)にまで下がるから、船守稲荷神社の創建も19世紀にまで下がる可能性もある。しかし、西叶神社の摂社である船守稲荷神社の創建が元文4年(1737年)であることから、これ以前の創建である可能性が大であろう 鳥居は朱塗りではないが社殿は朱塗りである。内部に本殿が安置されているから、おそらくは覆い屋であろう とネットから。。内部に本殿が安置されていた。そしてさらに観音崎通りを進むと、右手奥、住宅と駐車場の間の奥の山裾に赤煉瓦作りの小さなトンネル風の建造物が。「水のトンネル明治三十三年(一九〇〇)に操業を開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の二葉二丁目にあった溜め池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口です。この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要としそのために造られたものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」横須賀市のサイトに詳しい説明があった。『明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、 現在の二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。 現在は使用されていません。 旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を整備しました。 明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、 昭和に入って作成された図面に残されています。 この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、 このために整備されたものと考えられます。 この工場で初めて開発された、浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、 昭和6年(1931年)に建造された貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、 タービンの開発と導水坑の整備は更に溯ることとなるのでしょう。 当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として利用されたそうです』と。「浦賀式3連成レシプロ並びに排気タービン連動汽機」そして「観音崎通り」を「浦賀駅前」交差点まで戻り、「浦賀通り」・県道208号線を南に進む。目的地は「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵👈️リンク黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」の絵を4月16日(火)以来久しぶりに見る。ズームして。「浦賀丘入口」交差点より、「ポップサーカス横須賀公演」が行われている浦賀ドック内の特設大テントを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.07
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次に訪ねたのが県道209号線・観音崎通りの向かいにあった「浄土真宗 東教山乗誓寺(じょうせいじ)」。横須賀市東浦賀1丁目20−10。寺号標石「浄土真宗 東教山 乗誓寺」。「浄誓寺 寺域案内 江戸豪商墓地他案内図」。「掲示板」には、「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」が。「乗誓寺 曽我兄弟 由緒乗誓寺の開基は、了源(曽我十郎の子、河津三郎信之)。この了源は、藤原鎌足を祖とし、第十八代の末裔で、父は曽我十郎祐成、母は大磯の虎御前である。鎌倉時代、源実朝に仕え。多くの武功により恩賞として相模国平塚の地を賜り、親鸞聖人が関東教化の折、その教えに帰依し出家、了源と称し、鎌倉時代(安貞元年 一ニニ七年)平塚に阿弥陀寺を建立、親彎聖人真筆十字名号を本尊とした。この本尊は親鸞聖人の直弟子であった真仏(京都本山・仏光寺)に下附された貴重な本尊で浄誓寺に現存する。その後、室時時代(寛正六年、一四六五年)、近江(滋賀)に土一揆の争いが起こり、比叡山衆徒により大谷本願寺が破却され、越中、越前、加賀、山科、摂津、紀伊などで一向一揆が勃発した。この為に当寺の相模(平塚)の阿弥陀寺の住職空浄は、碩学(有名な学者)の誉高かったため、比叡山の衆徒に攻め入られるとの報を聞き、本尊を奉じ、平塚を逃れ、室町時代(文明元年 一四六九年)に浦賀の地に移った。その当時の浦賀は、人家もまばらてあっが、一向一揆て共に戦った全国の人々が住職・空浄を慕って浦賀の地を訪れ、特に紀州・鷺森本願寺などの門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し、江戸時代には賑わ町となった。その後、寛永十四年( 一六三七年)に西本願寺第十三代良如上人は、一向一揆て活躍したその当時の住職・空浄の功績をたたえ、この浦賀の地を訪れ、「阿弥陀寺」を改め、「東京山 乗誓寺」とう寺号を授kけた。さらに、江戸時代後期の浦賀は、浦賀奉行所をはじめ、黒船ペリー来航、咸臨丸のアメリカ渡航等、全国的に有名な地となり各地から人々が訪れた。江戸の文化を伝えたのは、乗誓寺が中心となり、政冶、経済、教育、芸術等、多くの著名人を招き、浦賀の人々の学問所として貢献した。当時の乗誓寺は、十間四面の本堂、山門、庫裡、郷学校舎、宝物殿、茶室、鐘楼堂、奥の院(阿弥陀仏)山頂水屋、日本庭園等が寺域内に存在した。尚、浄誓寺の住職は世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫である。」境内の石段・スロープを上って行った。正面に巨大な本堂が現れた。右手には石碑や案内板が。「横須賀市指定重要文化財絹本著色阿弥陀如来像」案内板。「絹本著色阿弥陀如来像」。「横須賀市指定重要文化財 絹本著色阿弥陀如来像 平成十六年一月二十六日指定本画像は浄土真宗形式の阿弥陀如来画像で方便法身尊像と通称されるものです。画面は少々損耗していますが、像容に大きな改変の形跡は無く、はぼ当初の姿を伝えています。肉身には金泥を塗り、面貎、手足の輸郭を細線で丁寧に描き、その画技は秀逸です。また、衣の線や文様に銀泥を用いているのは本画像の特色で落ち着いた趣に仕上がっています。画風から室町時代初期の制作と推測され、浄土真宗形式による阿弥陀如来画像の早い時期の作例として注目されるとともに、横須賀市域に遺るところの少ない中世絵画としても貴重です。 横須賀市教育委員会」上:「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」と下:東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺」「東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺当山の開基は、平塚入道了源なり。了源は、藤原鎌足十八代の裔、曽我兄弟十郎祐成の子。母は大磯の虎御前なり。河津三郎信之と称す。信之は、源実朝に仕えて、武功多く恩賞として平塚の庄を賜り、積年の仇敵に感ずるところありて、親鸞聖人の教えを受けて出家し、了源と名乗り、安貞元年(西暦一二二七年)平塚に一宇を建て、阿弥陀寺と称し、親鸞聖人真筆の十字尊号を以って本尊とす。歴代相続後、文明元年(西暦一四六九年)比叡山の京都西本願寺の破却を知り、当時住職の空浄は平塚をのがれ、当地東浦賀に一宇を建て、阿弥陀寺の本尊を移す。元和元年(西暦一六一五年)空覚代に再興す。寛永十四年(西暦一六三七年)良如上人御巡教の折、東教山乗誓寺と賜る。大正十二年、関東大震災により、大本堂、庫裏、鐘楼堂等倒壊しも、昭和五十年本堂を再建、同五十九年庫裏、鐘楼堂を建之す。今や、ここに堂宇漸く整うに至り之を建て報恩感謝とす。尚 当時の歴代住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫なり。 昭和六十三年 春 東教山 阿弥陀院 乗誓寺相模国 阿弥陀寺開祖平塚入道了源より 第二十四代 浦賀乗誓寺より 第十七世住職 曽我宗允 乗誓寺 寺宝」ここにも、掲示板内と同じ「乗誓寺 曽我兄弟 由緒 乗誓寺第二十七代住職 曽我宗光」が。「東教山 乗誓寺 浄土宗本願寺派 本山 京都西本願寺曽我兄弟 ゆかりの寺」「曽我兄弟・虎御前の墓~箱根」をネットから。「乗誓寺の歴史と主な宝物」。「親鸞聖人御絵伝(桃山、江戸時代)」をネットから。「一向一揆、蓮悟書状(室町時代)」。「曽我兄弟仇討八百年記念銅像」。「曽我兄弟 十郎 五郎」像。「相模国 阿弥陀寺 曽我兄弟 十郎の子 僧:了源」「曽我兄弟仇討八百年記念銅像再建安元ニ年(一一七六年十月)工藤祐経が、伊東祐親に対し、所領争いの恨みから、伊豆、伊藤南方の山麓で待ち伏せし、弓矢を射った。その矢は、河津三郎(伊藤祐靖)に当たり、兄弟の父は亡くなった。その後、母は、相模国曽我の庄(小田原市)の曽我祐信と再婚し、幼い兄弟は、曽我の庄で成長し、元服して、兄は曽我十郎祐成、第は曽我五郎時致と名のった。そして、建久四年(一一九三年五月ニ十八日)に源頼朝により、富士野で巻狩りか催されることとなり、この報を知った兄十郎(二十ニ才)、弟五郎(ニ十才)は、父の仇討ちの好機とし、臺雨の闇夜を利とし、工藤祐経を襲い、父の仇討ちの本懐を遂げた。この仇討ちは「曽我物語」として有名である。尚、乗誓寺の代々の住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我十郎の子孫である。 平成ニ十七年七月十三日 孟蘭盆会建立 銅像像再建願主 乗誓寺第二十五代住職 曽我宗光 由緒銘板寄贈者 当山 総代 木村鎮男殿 為、先祖代々供養」「本願寺と乗誓寺(鎌倉、戦国、江戸時代)●鎌倉時代(浄土真宗本願寺)開祖親鸞聖人(元仁元年一ニニ四年)開宗は、関東地方布教のため相模(平塚)に滞在していた時に曽我兄弟兄十郎の子がその教えに帰依し親鸞の弟子となり僧了源と名乗った。平塚に阿弥陀寺を創建し、初代住職となり後に浦賀に移り乗誓寺となる。親鸞聖人五老僧の一人である。●室町戦国時代は蓮如上人(㐧八代)の「一向一揆」の時代となり本願寺勢力が全国的に拡大し支配者(武士)と平民(農工商)との争いが続き「下剋上」といわれる「土一揆」(寛政六年、一四六五年)の乱となった。この争いは近江、琵琶湖で地主の比叡山(天台宗)と借地人(本願寺門徒)民衆との争いとなり、比叡山の衆徒により京都大谷本願寺がニ度にわたり破却され京都では「応仁の乱(応仁元年一四六七年)で騒然となり」◯◯◯◯「文明の乱(文明六年、一四七四年)の始まりは越前の守護大名富樫一族の争いから本願寺がその乱に巻き込まれたが、幸いに勝利した。その後長尾、畠山(能登)の戦いと続き、当時の「一向一揆」の頭領は本願寺の蓮悟(蓮如の子)(石川県金沢本泉寺住職)によって戦いの火蓋が切られた。その檄文「蓮悟書状(永正三年一五〇六年)が乗誓寺に送られて来た。この蓮悟の重要文書は乗誓寺に現存している。さらに「一向一揆」の戦いは、越前の吉崎御坊から京都郊外山科本願寺へ、さらに攝津大阪石山本願寺(現在の大阪城)へ。この決戦は織田信長との戦いで本願寺は苦戦し籠城したが敗北し◯◯◯援護を受け紀州和歌山の鷺森の本願寺を構えた。その後図らずも京都本能寺にて明智光秀の謀反により織田信長はあっけなく滅びた。次に天下を取った豊臣秀吉の時代には京都に本願寺の領地を与え西本願寺は現在に至っている。この激動の「一向一揆」時代を共に戦った本願寺㐧八代蓮如上人と平塚阿弥陀寺㐧八代空浄(学者)は京を逃れ空浄は平塚にも攻撃の手が伸びるとの報を聞き急遽浦賀に避難した。そして浦賀乗誓寺の初代となり現在に至っている。浦賀に移ってからは(文明元年、一四六九年)現在十八代平塚阿弥陀寺からは、二十七代曽我兄弟十郎の子了源から代々世襲制によって脈々と継承されている歴史がある。空浄が浦賀に移ってから数年後蓮如上人が浦賀を訪れ(文明七年、一四七五年)共に厳しい時代を無事生き伸び会えたことに感涙したと伝わっている。この時に境内に植樹された銀杏(イチョー)が、現在大樹となっている記念すべき銀杏の木である。(樹齢五百八十年)●江戸時代には徳川の天下となり平穏な全国統治によって、庶民の文化が栄えた江戸の文化は浦賀に伝わり紀州の鷺森本願寺の門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し豪商の町となった、三浦半島一の豪商宮井一族(宮与)を始めほとんどの豪商が乗誓寺の門徒となり墓地、墓石を見てもその財力を知ることが出来る江戸の文化は乗誓寺を中心として伝えられ多くの文化人を招き文化交流の場となった。また当時の浦賀港は物流の中心として栄え、西岸から見た写真には乗誓寺の本堂が威風堂々と聳え庫裡、鐘楼堂が写っている。この賑わいの町浦賀に西本願寺㐧十三代、良如上人が訪れている。」「日本庭園 鷺吟の庭当寺の「鷺吟の庭」は中国李白の詩「魚躍青池満鷺吟緑樹低」から名付けられた。・・・・・・・・・・・・・・・鷺の鳴き声という意味があるとのこと。山々に囲まれた自然豊かな庭園には日々・・・白、青サギ、クマゲラ、キツツキや種々の野鳥や、タヌキ、リスなど、動物達が訪れる自然に満ちた風情ある名園である。」観音像であろうか、台石に山号・東教山が刻まれた石仏が安置されていた。再び「乗誓寺 寺域案内 江戸豪商墓所他案内図」。そして次に訪ねたのが「宮井与右衛門の墓所」。「江戸時代の豪商墓所屋号、宮与(本家)宮井與右衛門※宮井家一族の墓所は外塀周辺にあり」と。「宮井与右衛門(宮原屋) 出身地 紀伊国有田郡滝川原村(宮原)江戸時代から明治期にかけて、「宮与」の名で浦賀屈指の干鰯問屋であった。紀州宮原から浦賀への出店がいつであったかは詳らかではないが、十八世紀半ばにはすでに浦賀を代表する問屋となっており、多くの義援金により東浦賀村の年寄役に就任した。与右衛門は代々の通り名であり、明治三十一年には四代目町長に就任し、町政にも貢献した。」「宮井家(宮与)墓所法名図」。墓所入口から、右:三代 中央:初代 左:二代の墓石と。三代当主 宮井教遵初代当主 宮井教念二代当主 宮井教誓五代当主 宮井教淳六代当主 宮井教意手代の墓。この石仏は?そして「本堂」の前に。本堂正面。本堂の内陣。本尊阿弥陀如来像 をネットから。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」。銀杏の大木の根本に石碑が二基。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」碑。「本願寺第八代蓮如上人五百回遠忌記念蓮如上人は、中世(文明年中・一四六九年)の歴史に残る、北陸一向一揆の時代に西本願寺門主となり北陸に領主に対し民衆抑圧をいさめ、争いなきよう導かれたがやむなく戦乱となる。その後・上人は幾多の労苦を重ねながら、諸国をめぐり、門信徒の教化につとめ、本願寺の中興の祖といわれている。この蓮如上人は、この浦賀の地にもご巡教にこられこの銀杏(いちょう)(樹齢約五百年)の木をお手植された記念すべき木である。 平成十年(一九九八年)遠忌記念 平成八年四月二十五日建之 寄贈者 ・・・・・・・」本堂のわきを通り、階段を登っていくと「鐘楼堂」があった。鐘楼堂の建立は梵鐘とともに昭和五十九年、京都の嵐山の近くで製作された。下からズームして。梵鐘。重量は五百貫(約二千トン)で、鐘の周囲には百八の乳頭と呼はれる突起が付いている。この乳頭の数は、人問には百八の悩みがあり、鐘を打っことにより煩悩が消え去るということに因むものといわれているのだ。境内の新緑のモミジ葉を見上げて。陽光が差し込み、新緑の葉が輝いていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.06
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「専福寺」を後にして進むと、右手にあったのが「横須賀新町郵便局」。横須賀市東浦賀2丁目6−12。東浦賀5丁目と10丁目の境の道を北に向かう。100mほど進むと、右手に朱の鳥居の神社があった。鳥居の扁額には「東耀稲荷大明神(とうよういなりだいみょうじん)」と。「横須賀市指定市民文化資産」案内板。「東耀稲荷」案内板。「東耀稲荷創建は天明ニ年(一七八二年)で、食保命(うけもちのかみ)をお祀りしています。東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったといわれています。さほど大きくありませんが、欄間や格天井などには見事な彫刻が施されています。屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦がのり、干鰯(ほしか)で栄えた東浦賀の繁栄ぶりを今に偲ばせてくれます。また、この稲荷は、火防(ひぶせ)の神としても崇拝されています。合祀されている須賀神社は、新町の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔、悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者がでたため、里人が、当社(祭神、素盞鳴尊すさのおのみこと)を勧請し、病気をしずめたと伝えられています。」案内板にあった拝殿の内部の格子天井の龍の写真。参道の石段を上って行った。そして正面に「拝殿」。お狐様(右)。お狐様(左)。拝殿正面に掛けられた扁額には合祀された須賀神社の名が。「内陣」を格子の隙間から。拝殿の内陣の左側:獅子の子落とし父がおそろしく深い谷に子を蹴り落とす。子獅子は一度は登ってくるが、また突き落とされると、折からの嵐に爪が立てられず、木陰でしばし休んでしまう。子がなかなか登ってこないのは怖気づいたのだろうか、育てた甲斐がなかったのかと危ぶむ父。深い谷間を覗くと、水面にその影が映り…、親と子がそれぞれの存在に気付く。父の姿を見るや子は勇み立ち、高い岩をものともせず一気に駆け上がっていく。拝殿の内陣の左側内陣の欄間の彫刻。黄石公と張良漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会い、兵法を伝授してもらう約束をする。夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行くと、老翁は既に来ており、「人に物を教えて貰おうというのに、先生より遅く来るとは何事だ」と咎め、また五日後に来いと言い去っていく。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義を伝授しました。張良黄石公。内陣の格子天井には一面に龍の姿が。拝殿の頭貫:2匹の狐ズームして。木鼻(右):獅子。木鼻(左):獅子。そして拝殿の欄間彫刻をカメラで追う。拝殿の右面に3枚、左面に3枚、裏面に1枚が嵌め込まれていた。奥から龍。鳥。鳥。左面:ミミズクであろうか。鳥。再び龍。裏面にも龍が。屋根に鎮座する恵比寿様。もとは『鳳鳳」『狐2匹』の饅絵が存在したが、屋根を修理した際、饅絵を修復できる技術者がなく、現在は白い漆喰塗りとなったのだと。下記2枚の写真はネットから。石川善吉・橋尾親子の作と言われているが・・・そして次に隣りにあった「顕正寺」を訪ねた。浦賀の町では、この「顕正寺」と西浦賀の太子寺が日蓮宗の寺とのこと。天正元年(1573)に僧・顕正坊日実大徳が顕正庵を結んだことによって開かれたと。横須賀市東浦賀2丁目1−1。「東耀山 顕正寺」。題目碑「南無妙法蓮華経」と「中根東里先生墓」。中根東里は江戸時代中期の陽明学者。東里は、伊豆下田の生まれで、若くして僧侶になりますが還俗(僧をやめる)し、当時の一流学者である荻生徂徠や室鳩巣に師事します。しかし、あきたらず、独学で陽明学を学び、栃木県の佐野で塾を開いていました。年をとるにつれ、母が晩年を過ごし、唯一の身寄りである姉(浦賀奉行所与力の妻)がいる浦賀の地を故郷のように思い、ここで70余年の生涯を閉じました と。「盥漱(かんそう)」と刻まれた手水場。「顕正寺天正元年( 一五七三)に顕正妨日実大徳が庵を結んだのが創建と仏えられる日蓮宗のお寺てす。本堂の右上手には中根東里の墓があります。東里は江戸時代中期の陽明学者で、晩年、浦賀へ移住しました。近くには明冶時代に歌会始めに招かれた浦賀の代表的な歌人の西野前知(さきとも)の墓があります。本堂の裏手には直木賞作家の山口瞳、咸臨丸副艦長の春山弁蔵、浦賀奉行所与力で後に横須賀造船所の技師として活躍した岡田井蔵(せいぞう)らの墓もあります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「中根東里の墓」の写真。「南無日蓮大菩薩」碑。十三重塔か?参道右手には多くの墓石が並んでいた。「我此土安穏 天人常充満 南無妙法蓮華経萬霊養」と刻まれた「無縁諸霊位供養塔」。「我がこの土は安穏にして、天人は常に充満せり」と。上段には、大名笠と呼ばれる大きな笠をかぶったような墓石が並んでいた。正面に本堂。「庚申塚」。青面金剛像庚申塔、猿田彦大神(明治41年(1908年)銘)、「庚申塚」と刻まれた石碑等が並んでいた。青面金剛像庚申塔(天宝12年(1841年)銘)。「故海軍大尉香山君碑」浦賀奉行と称して、ペリー艦隊との交渉にあたり、アメリカ側から高く評価されたと伝えられる香山栄左衛門の長男である香山永隆さんの顕彰碑。旧幕府の軍艦役であったが、その才能から維新後の明治3年朝廷に召しだされ、翌年海軍大尉に昇進した。香山留次郎氏(子息ではないだろうか)によって明治13年8月建立された。「故海軍大尉香山君碑 故海軍大尉香山君舊幕府相州浦賀港與力諱永孝之子母岡田氏天保十一年生于浦賀嘉永六年 米國来逼乞貿易幕府令厳海防以備不虞君受命戌同港明神﨑砲臺後幕議決和親海防觧厳安政二年 蘭人厭軍艦於此君受命與麾下之士數人往長﨑受海軍術于蘭人□學成東歸幕府以為軍艦役實為 皇國海軍術之權輿明治元年徳川幕府奉還大政于朝庭徒封于駿遠参君決志歸農卜居于都之北方 巣鴨以謀其終明治三年朝庭召為海軍術教授其四年累進至正七位海軍大尉□茲十三年二月廿九日 病没于官君諱永隆為人沈静而有才思事親至孝善書畫配萩原氏生五男四女銘曰 事親至孝 於後有餘 勤業為國 海軍權輿 明治十三年八月 清水徳馨撰并書 井亀泉鐫」碑裏面:「香山留次郎建之」歴史を感じさせる墓石が並ぶ。境内の掲示板には様々な案内所が貼り付けられていた。「山口瞳」👈️リンク「山口瞳」墓。「岡田井蔵咸臨丸の偉業に参加した士官市内東浦賀にある東耀山顕正寺の墓地に、忘れ去られたように一基の墓石がひっそりと立っています。その表に「岡田井蔵 妻◯子」と刻まれていて、この墓の主が万延元年(1860)わが国の軍艦として初の太平洋横断を成しとげた咸臨丸の壮拳に、乗組士官として参加した浦賀奉行組与力・岡田増太郎の弟岡田井蔵であることがわかります。さいわいその経歴は、田口乾三(中島三郎助の女婿・内閣書記官長)が墓石に記した500余の文字によって、およそのことを知ることができます。岡田井蔵は天保8年(1837)1月20日、幕臣岡田定十郎の4男として誕生しました。早くに父母を失い、兄増太郎の庇護をうけ、天保14年兄が浦賀奉行組与力となったとき浦賀に移り,16歳で幕府学問所である昌平黌に入学して漢字を修めています。安政3年(1856)、幕府から選ばれて第2回海軍伝習生として長崎に赴き、オランダ人から機関学の実際について学んでいます。同6年正月、修学を終えて勝麟太郎らとともに朝陽丸で江戸に帰り、幕府が江戸に新設した海軍操練所の教授方手伝出役として、幕府海軍の人材養成に当たるのです。安政7年(万延元年・1860)正月、遣米使節の随行艦咸臨丸に業前の者として選ばれ、機関方の青年士官として乗艦、連日の荒天に苦闘しながらも無事難航を切りぬけ、サンフランシスコに到着、大歓迎をうけます。滞在の日々は文明国アメリカの風物に接し、新鮮な驚きと感動の連続だったようで、井蔵自身も教会を訪れ、オルガンの妙なる音に耳を傾けたといわれます。帰途は平穏で同年5月5日、浦賀港に碇をおろし、歴史的航海の大任の果たします。同年12月には幕府より恩賞があり、井蔵にも銀20枚と時服2、さらに銀20枚が贈られました。帰朝後は再び海軍操練所に出仕しましたが、文久年間には朝陽丸の機関長として伊豆、小笠原諸島の調査・開拓に従事。さらに将軍家茂の海路上洛の折には、その警護にも赴いていたようです。明治元年(1868)1月、軍艦蒸気役一等を仰せつけられ、このころ市内の深田村に居在していたことがわかります。維新後は横須賀製鉄所の出仕。『横須賀海軍船廠史』によれば、明治4年(1871)には「造船少師 月給40両」と見えています。翌年には主船少師で製図掛主任となり、軍艦盤城、海門などの諸艦建造に尽力し、同9年には主船中師となります。のち海軍3等師と改称され、やがて海軍1等師に昇進し、同17年には製図掛機関部主任と見えています。井蔵は非常に図工にすぐれていることを以てその名を知られたといわれていますが、横須賀製鉄所(造船所)の創業期に一貫として製図部門の責任者の地位にあり、その実力を以て大いに海軍造船界に貢献しましたが、惜しまれて同22年(1889)に退職しました。のち同37年(1904)7月28日、横浜市青木町で死去、菩提寺である前述の東浦賀・顕正寺に葬られました。享年68歳でした。岡田井蔵は近代日本の幕開けの地浦賀から出て、幕府海軍の創立に身を投じ、咸臨丸の偉業に参加、さらには海軍造船界で活躍するなど、近代化を目指すわが国海軍のあけぼのに参画した海の先駆者であったのです。 (上杉 孝良)」岡田井蔵の墓の写真をネットから。「春山弁蔵近代造船に貢献した男明治元年(1868)8月、榎本武揚に率いられた8隻の幕府軍艦が艦隊を組み、あくまでも官軍に抵抗し、蝦夷に新天地を求めようとする榎本らの野望に、同調した者たちを乗せて、江戸湾を出港しました。この中の1隻、咸臨丸の副隊長として、造船の近代化に大きな足跡を残した浦賀奉行所・同心春山弁蔵が乗り込んでいました。しかし、出港3日目、江戸湾を出た所で、艦隊は台風に遭遇しました。咸臨丸は一番大きなマストを切り倒して、転覆を免れたものの、走行不能に状態になり、伊豆下田に漂着。その後、船体修理のために清水港へと向かいました。この清水港が春山弁蔵の53年の生涯の終えんの地となりました。文倉平次郎著の『幕末軍艦咸臨丸』によれば、清水港に入った咸臨丸は修理のために大小の銃砲、器機等は陸揚げし、兵士は留守番をする数名を残しただけでした。こうした状況の中に、官軍の軍艦・富士山丸、飛龍丸、武蔵丸が清水港に入り、咸臨丸をめがけて大砲を発射しました。すでに航行能力も失っていた咸臨丸の留守を守っていた春山らは、甲板に上がり白旗を打ち振りましたが、なおも攻撃が続き、ついには咸臨丸船上の戦いとなり、ここで壮烈な戦死を遂げました。この戦い後、咸臨丸は拿捕(だほ)され、幕府軍の戦死者はことごとく海へ投げ捨てられました。こうした情景を見ていた清水次郎長は、海から遺体を引き上げ、手厚く埋葬し、壮士墓を立てたことはよく知られています。春山戦死の報は、勝海舟をはじめ中島三郎助など近代造船に携わった人々に大きな衝撃を与えました。春山弁蔵は、文化14年(1817)に生まれ、18歳になった天保6年(1835)に奉行所に出仕し、同心として定廻りや封印役などの職務についています。春山がいつごろから、船(造船)に関心を示すようになったのかわかりませんが、弘化3年(1846)閏5月、浦賀沖に来航したビットルが率いるアメリカ軍艦の姿を見たことがひとつの転機と考えられます。これは、春山だけが転機になったのではなく、浦賀奉行所の江戸湾防備の方針が、台場中心的なものから協力軍艦の必要性に変わっていく過程でありました。この方針は、蒼隼丸という船を建造することで第一歩が示され、ペリー来航後、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造で幕府も認めることになりました。蒼隼丸の建造は史料も少なく、春山がどの程度かかわったのかはっきりしませんが、鳳凰丸建造の時には、船体構造に関する知識を身につけ、そのレベルはペリーを驚かすほどになっていました。さらに春山の勉学に拍車をかけたのは、安政2年(1855)8月、長崎に開設された海軍伝習所の伝習生に推せんされ、本格的な造船学を学ぶことによってでした。長崎での伝習期間は、1年半でしたが、春山は期間が過ぎても長崎を去ろうとはしませんでした。それは、彼の性格からくるものなのでしょうか。また西洋の新しく刺激的な学問の魅力からなのでしょうか。ともかく、人の倍の期間も長崎に滞在して、造船学を学んできました。3年ぶりに浦賀へ帰ってくると、すぐに江戸に新設された海軍操練所の教授方として出役し、身につけたばかりの学問を次の世代に教え、指導する立場になりました。この間に、太平洋横断のために浦賀でドック入りした咸臨丸の修理を浦賀奉行所のスタッフとともに行っています。万延元年(1860)12月、幕府から海軍操練所のメンバーに純国産の蒸気船建造の依頼がありました。このプロジェクトの主任格は小野友三郎、船体の構造設計を春山、蒸気機関は肥田浜五郎が担当しました。慶応2年(1866)に完成したこの船は「千代田形」と呼ばれ、長さ九尺六寸(29m)あまりの小さな船でしたが、国産軍艦として、日本の近代造船史に新たな1ページを飾ることとなりました。 (山本 詔一)」春山弁蔵之墓 春山鉱平之墓。「西野前知浦賀が生んだ明治の歌人江戸時代の後期から明治にかけて浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードしたのが西野前知です。彼の代表する和歌は、 北の海に とるやひろめのいやひろく 国もさかゆる きみが御代かなで、前知が明治23年(1890)の御歌会始に詠進して、預選の栄に浴したときものです。家は代々回船問屋前知は、文政5年(1822)2月に生まれました。若いころの名を豊治郎といい、後に市郎左衛門。また、通称は佐六で、名を前知と言いました。家は代々市郎左衛門を名乗る回船問屋でした。前知は、ペリーが来航する直前の嘉永6年(1853)5月に前年亡くなった父の後を継ぎ、8代目の市郎左衛門として、浦賀奉行に認可されました。ここでいう回船問屋とは、浦賀奉行所の足軽役として、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査をする「船改め」の業務を担当していた人々です。西野家は下田奉行所時代からこの仕事をし、奉行所の移転に伴って下田から浦賀へ移住してきました。このような人々を総称して「下田問屋」といい63軒ありました。門下は女性や商人など前知は、文久3年(1863)、40代になったばかりで下田問屋の年寄り役となり、さらに三方問屋(下田、東西浦賀の回船問屋105軒)の行司(事務を担当し世話をする役職)にもなりました。明治維新後は、請われて新政府の浦賀役所に出仕し、ここでも官と民の太いパイプ役として活躍しました。このように前知は、実生活でも大きな業績を残していますが、隠居した明治10年代からは、本格的な歌詠み三昧の毎日となります。そして、浦賀を中心として女性や商人、知識階層の人々に和歌を浸透させていきました。自らも進んで東都の歌人たちと交流を持ち、視野を広めていったのです。前知と栄えた浦賀歌壇明治23年には、友人であった中島三郎助の23回忌追悼文を著しました。これを機に、西浦賀の愛宕山に三郎助の招魂碑が建立されることになり、その趣意の文章が石碑として残されています。前知は、同27年10月に、72才でその生涯を閉じ東浦賀の顕正寺で静かに眠りについています。その墓石には、自らの手で書かれた「西野前知」と並んで、「田中勝子」と夫婦を別姓で表す当時の風潮を取り入れるなど、新しい考えの持ち主でもありました。浦賀歌壇は、前知の出現で栄え、彼の死とともに消滅していったと言っても過言ではありません。 (山本 詔一)」「顕正寺」の「本堂」は鉄筋コンクリート製。近づいて。扁額「顕正寺」。本堂向かって右側にあった「地蔵堂」。お地蔵さまが3体。そして「顕正寺」を後にし、「観音崎通り」に出ると」「顕正寺 (中野東里の墓)」案内板が見えた。旧浦賀町章も描かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.05
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次に訪ねたのが「東林寺」の隣りにあった「専福寺」。1504年僧久悦が創建。俳人の小林一茶が恋人の「寿」の菩提を弔うために、何度かここを訪れていると。ちなみに恋人の「寿」のお墓は、関東大震災により山崩れで見つからなくなった と。横須賀市東浦賀2丁目10−6。「永昌山 専福寺」掲示板。石段下にあった「一葉観音(いちようかんのん)」。道元禅師が仏法を求め中国に渡られ、修行を終え、帰路の船旅での出来事です。大変な嵐に遭遇され、危うく命を落すところでしたが、一心に観音経を念誦されると、蓮華の花びらに乗った観音菩薩が現れ、風雨が静まり助けられた。順風満帆な旅を約束し、交通の安全さらには水難から身を守ってくださる観音様として今も深く信仰されていると伝えられています と。お顔をズームして。龍の吐水口(とすいこう)からは清水が。本殿に向かって石段を上って行った。石碑が並ぶ。寺号標石「浄土宗 専福寺」。 「呑龍上人宝前」碑。呑龍上人といえば、「太田(群馬県)の呑龍さん」の名で親しまれ、病弱な子供の立派な成長を願うお参りが絶えなかったといわれます。しかし、専福寺とのつながりはよくわかっていません。「宝前」とは、 神仏をまつった所の前を尊んでいう語 と。石段を上った場所にも石仏が2体。「地蔵堂」。「地蔵尊」と。お地蔵様は2体。こちらの堂は?子育地蔵尊。「子育地蔵尊??」「専福寺」の「本堂」。永昌山戒寿院専福寺・浄土宗鎮西派。扁額「専福寺」。「専福寺永正元年(一五〇四)僧久悦が創建の浄土宗のお寺です。本寺の阿弥陀三尊像は高村光太郎の祖で江戸時代の仏師・高村東雲の作です。文化三年(一八〇六)ごろ俳人小林一茶が初恋の人の菩提を弔うために何度か訪れたといわれます。墓地には東叶神社の芭蕉碑を建立した俳人福井貞斎とその娘・福の墓があり、浦賀の俳人達にはゆかりの深いお寺です。本堂の脇には浦賀町長を務めた廻船屋川津屋太田又四郎や浦賀畸人伝にその名をとどめる桐ヶ谷善兵衛等の墓もあります。 浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ掲示より」「阿弥陀三尊(高村東雲作)」。「動物供養塔」。「洗心念佛」と台座に刻まれた石仏。石仏に近づいて。「水かけ観音」。「水かけ観音さま観音さまに水を流して浄めると病も心の汚れも流されて守られ清く美しい姿になります 住職」「一茶の句碑」。一茶の初恋の人の墓地があって、一茶は少なくとも1回、文化3年(1806、一茶44才)6月に墓参りに専福寺を訪ねています。なお、市内佐島にも同名のお寺があります と。『遠き想い出のひと寿女の碑夕立の 祈らぬ里に かゝるなり 一茶』六月一日金谷から船に乗り浦賀に渡りその人の祥月命日の六月ニ日に墓参するためだ 一日晴 浦賀ニ渡ル 白毛黒クナル薬クルミヲスリツブシテ 涼風も けふ一日の 御不二哉 二日晴 夜雨 夕立の 祈らぬ里に かかるなり 三日晴 東浦賀州崎町専福寺ヘ参ル 香誉夏月明寿信女 天明二[年]六月二日没 文化三年一茶旅日記より」「小林一茶の初恋の人"寿(ひさ)”のお墓は山際にあったと言われていますが・・・一茶の合掌する姿が目に浮かんでまいります。 住職」「無縁塚」。多くの石仏が並んでいた。裏山の擁壁の下に墓地が拡がっていた。「永代供養塔」。「聖観音立像」か?正面から。ズームして。台座には「永遠の郷」と。「永代供養塔」と。本堂の脇には、浦賀町時代に町長となった回船問屋川津屋の太田又四郎の墓碑があった。「寺務所」。「寺務所」の玄関。見事な彫刻。再び境内入口を見る。大きな石碑が二基。「陸軍工兵一等兵 勲八等功七級 二木本松蔵碑」。「橋本越之碑」石仏(左は延宝5年(1677年)銘、右は元文2年(1737年)銘)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.04
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「東林寺」の「本堂」内をガラス越しに。ズームして。本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されていた。さらに。実はこの阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになるのだ と。「延命地蔵尊」。こちらはネットから。こちらの「延命地蔵尊」の仏師等は不明だが、本尊阿弥陀如来坐像の腹籠仏として納められた三尊仏と同時代のものと考えられるとのこと。「天水桶」前の「仁王像」(左)。「天水桶」前の「仁王像」(右)。「永代供養の塋(つか)」と。「浦賀山 雲上殿」とも。「忠魂碑」碑正面:「忠魂碑 陸軍大将正二位勲一等功二級侯爵 大山巌書」と。この碑は元々、愛宕園(愛宕山公園)に日清戦争の戦病死者の忠魂のために明治30年3月に建立されたものである。関東大震災により碑は倒壊したが、昭和初期(御大典記念として昭和3,4年頃と推測)に高坂小学校校庭に移された。戦後の混乱で引き倒され放置されていたのを、昭和24年3月に井上亀之助が小学校裏山に立て直したが、その際、碑の両側に昭和になってからの戦没者も併せ慰霊するために昭和事変英霊の碑を建立した。その後、昭和38年10月15日に、現在地に移された。建立当初に合わせ建てられていた建設発起人の碑は、現在は忠魂碑の裏にある。なお、忠魂碑左手には、碑の再建に尽力した井上亀之助顕彰の碑が建てられている と。「忠魂碑」の両側には昭和事変英霊の碑、背面に重なるように「忠魂碑建設発起人碑」があった。卒塔婆には「十夜回向一会為旧浦賀地区出身の諸英霊位追善菩提 当山・・」と。六地蔵。墓地を散策する。墓地の外壁には天女が描かれていた。左の墓石には「南無阿弥陀佛 中興 練誉上人」と。ズームして。劣化が進んでいたが。こちらには、蓮の花が。ここには、無縫塔の墓石が並んでいた。ズームして。相輪の部分が、花を重ねたが如くの宝篋印塔の墓石。「延命地蔵塔」。再び「本堂」、「水子地蔵尊」を振り返る。墓地入口付近には、浦賀奉行所与力であった中島三郎助親子の墓があった。三郎助は明治維新の際、あくまで幕臣としての意志を貫き、函館千代ヶ岱台場で父子ともども戦死した。時に49歳。しかし、浦賀に残した足跡は、まことに大きいものがあるのだ。俳人としても有名で、俳号を「木鶏」といいます。いまは父子共々、浦賀港を一望するこの高台に眠っている。毎年5月に、ここで三郎助の墓前祭が執り行われているとのこと。右側に墓石が二基。手前が「中島三郎助墓」。1821(文政4)年、相模国浦賀奉行所与力中島家生まれ。1849(嘉永2)年、浦賀奉行与力となり、アメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカ側使者の応対を勤めた。1855(安政2)年、長崎海軍伝習所の第一期生となり造船学・機関学・航海術などを修め、築地軍艦操練所教授方出役に任命された。その後、与力の職を長男恒太郎に譲ったが、戊辰戦争勃発後に、榎本武揚らと蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地仮政権で箱館奉行並・砲兵頭並を務め、千代ヶ岡陣屋守備隊長として奮戦した。新政府軍の攻撃にも陣屋で抵抗したが、6月25日(旧5月16日)に、長男恒太郎・次男英次郎・腹心柴田伸助らと共に戦死した。享年49歳。左隣には次男「中島英次郎墓」中島三郎助の次男。房次郎ともいう。父と兄恒太郎とともに箱館戦争に参戦し、千代ケ岡陣屋の守備隊に就いた。1869(明治2)年6月25日(旧5月16日)、新政府軍の攻撃に対して奮戦したものの、父や兄とともに壮烈な戦死を遂げた。享年19歳。「中島三郎助」親子の写真をネットから。正面に「中村家累代之墓」。「本堂」の右・南側にあったのが「寺務所・庫裡」であっただろうか。白壁が美しかった。廻り込んで。玄関右手にも、南無阿弥陀佛碑と石仏。白壁、竹垣、新緑そして紅葉とのコラブ。新緑と紅葉をズームして。本堂の屋根には「卍」が。そもそも「卍」は、サンスクリット語で「スヴァスティカ」と呼ばれ、吉祥の印として、「幸せ」や「めでたい」という意味があります。また仏教ではこの卍紋様は仏様を象徴する印の一つとされています。寺院の建物をよく見ると色々なところに卍紋様が彫刻されているのはこのためです。地図記号に卍が用いられているのは、仏様がいる場所を示す意味を込めてこの記号が使われたということです。また、この卍が右に回っている事も重要なポイントです。仏教では「右」をとても尊重して考えています。ちなみに仏様の髪の毛なども全て右回りに巻いています。その反対に左に巻いてあるものはつむじ曲がりといい、あまり良い意味で使われていないのです とネットから。坂を下り、「東林寺」そして「三浦稲荷社」の境内を振り返る。こちらが「三浦稲荷社」の参道。参道石段下の石仏。右は元禄7年(1694年)銘。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.03
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次に訪ねたのが「三浦稲荷社」。横須賀市東浦賀2-10-13。「三浦稲荷社」への参道の石段の手前にあったのが隣にあった「浄土宗 浦賀山 東林寺」の掲示板。「三浦稲荷社」は東林寺の境内に鎮座する稲荷社のようであった。「南無阿弥陀佛」と刻まれた六字念仏塔の碑。「深本、雷電、三浦稲荷社南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔祐天寺六世祐全(ゆうぜん)上人による名号(みょうごう)石塔で、江戸屋半五郎によって建立されました。名号の掘りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがわれます。半五郎は浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて開放してやりました。自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(しんぽん・深心(しんしん))となり仏門に帰依しました。「浦賀事績考」によれば東林寺境内の稲荷前では文化六年(一八〇九)、当時の花形力士の雷電為右衛門(らいでんためえもん)の相撲興業が行われたと記されています。三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂(うかのみたま)で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」深本が寄進した西叶神社手洗石と雷電(相撲博物館)。「浦賀事跡考」によれば、東林寺境内の稲荷前では文化6年(1809)、当時の花形力士の電電為右衛門の相撲興行が行われたと記されていると。三浦稲荷社の稲荷神は、倉稲魂で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神。浦賀駅の近く、住友重機械工業㈱の浦賀工場の壁にあった、浦賀中学校の生徒による絵画を想い出したのであった。「三浦稲荷社」の左側には寺号標石「浦賀山立像院東林寺」。「三浦稲荷社」の石鳥居。社殿に向かって進む。社殿前の参道は駐車場にもなっているようでで、広々としていた。手水鉢。社殿の見事な彫刻。よく見ると、正面には一匹のお狐様のお姿が。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「三浦稲荷社」。内陣。「正一位三浦稲荷大明神」。社殿を斜めから。社殿前から石鳥居方向を振り返って。隣りにあったのが、「東方寺」の巨大な石灯籠。鹿の姿が。ズームして。そして「東林寺」の本堂に向かって石段を上って行った。参道石段脇の「延命地蔵願王尊」。三浦三十八地蔵尊霊場35番札所の御前立地蔵。小さな石仏も奉納されていた。「念佛衆生 攝取不捨」と刻まれた石碑も。仏がこの世の衆生しゅじょう、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界に救い上げること。▽「摂取」はその慈悲心で衆生を仏の世界に救うこと。 「不捨」は仏がどのような生き物をも見捨ててしまうことはないということ と。「光明徧照 十万世界」と。大意は、「(阿弥陀仏の体から放たれる)光はあまねく十方世界を照らし、仏を念ずる衆生を救いとって見捨てることがない」と。浄土三部経の一つ『観無量寿経』に「一々光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨(一つ一つの光明があまねく十方の世界を照らして、念仏する衆生を捨てられることがない)」と出ていて、浄土宗では普段のお勤めの時に、その文句が唱えられているとのこと。左側にあった歌碑。三浦三十八地蔵尊霊場35番札所の御詠歌か?「慈悲のうみ ちりひの船を 浮かべつつ いく世よまでも 救ふとうとき」参道石段横の御堂。シャッターには??が描かれていた。本堂の前にあった観音像の絵。龍に乗った観音様の姿か?「徳川家康遺訓人の一生は重荷おもにを負をひて遠き 道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望のぞみおこらば困こん窮きゅうしたる時を思ひ出いだすべし 堪忍かんにんは無事ぶじ長久ちょうきゅうの基もとい いかりは敵とおもへ 勝事かつことばかり知しりてまくる事をしらざれば害がい其その身みにいたる おのれを責せめて人をせむるな 及ばざるは過すぎたるよりまされり」こちらにも別の絵が。観音様か?近づいて。本堂と向かい合うように石碑が。「井上亀之助顕彰の碑」卒塔婆には「旧浦賀町出身戦死病没諸英霊位追善菩提井上亀之助(井上祐一)」と。碑正面:「井上亀之助氏顕彰碑およそ、人の真価は事ある時に顕われる。意志の人、勇気の人、義侠の人、それは故井上亀之助氏その人である。戦後進駐軍の占領政策は厳しく教育の場から忠魂碑をも奪った。しかし、これを顧みる余裕すらなかった当時の世情こそあわれという外はなかった。放置された忠魂碑、これを見るに忍びず井上氏は私財を投してこれを弁天社に移した。さらに参詣者の便をはかり再びこの境内に移して英霊を守り通したのである。今は亡き井上氏しかし氏の義挙は生きている。いや、いつまでも不滅であろう。われわれは祈る。英霊永えに安らかなれと。昭和三十八年十月十五日 建設委員會建立」左手の石仏には、延宝8年(1680年)の銘が。こちらに水子地蔵尊が。「水子地蔵尊」。お顔をズームして。「本堂」。寺誌によれば、開山は唱阿上人。しかし、『新編相模国風土記稿』には、「いにしえは今の寺院を分ち唱へて二ケ寺なりしを大永三年(1523)僧良道合わせ一寺とす、故に此僧を開山と称す」とあると。本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されていた。実は、この阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになるとのこと。更にこの脇に、もう一体阿弥陀仏が安置されていると。この仏像は「善光寺式阿弥陀仏」といわれ、長野県善光寺の本尊を模して造られたもので、室町時代初期の作風をよく顕しているということで、市指定の文化財になっています。本尊の阿弥陀仏と善光寺式の阿弥陀仏を見比べると、阿弥陀仏の作風の変遷が見られます と。また、鎌倉時代の作といわれる市指定の重要文化財「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が保存されている と。近づいて斜めから。正面から。蟇股の装飾。木鼻(右)。木鼻(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.02
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ここ、明神山一帯は浦賀城址と云われている。小田原北条早雲が三浦一帯を領した頃、房総半島・里見水軍の度々の攻撃に備え、浦賀水道に面し港のある明神山に三崎城の支城として、16世紀後半(天正~慶長初期)に3代北条氏康(2代氏綱の嫡男)が水軍を配置した浦賀城を築城した と。先には現・住友重機械工業(株)の「浦賀船渠(株)殉職員慰霊塔」があった。近づいて。「為浦賀船渠株式會社殉職貟」住友重機械工業株式会社の前身である浦賀船渠(ドック)により大正9年に、この明神山々頂に建立されたものである。会社関係で先の大戦又不慮の事故等により亡くなられた308柱の御霊をおまつりしている。毎年10月には会社幹部の方々、ご遺族代表、地元関係者参列の下、慰霊祭が執り行われているとのこと。「浦賀船渠㈱」の社章であろうか?URAGA DOCKか?そして「浦賀船渠(株)殉職員慰霊塔」の裏、山頂の南端からは「浦賀水道」の絶景が拡がっていた。「浦賀城址戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。水軍の根城として山頂には空掘など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂が見られます。この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されたウバメガシ分布の北限とされています。嘉永六年( 一八五三)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。下の絵は安藤広重の武相名所の旅絵日記の五六景の一枚です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」広重の旅絵日記よりそして前方の眼下に見えたのが先日訪ねた「浦賀燈明堂跡」が見えた。上の安藤広重の広重の旅絵日記からすると◯あたりが、黒船の一隻・プリマス号が停泊していた場所か?ズームして。慶安元年(一六四八)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治五年(一八七二)までその役割を果たしたのだと。写真右の双子の山は「富山(とみさん)349.5m」である。「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山。富山(とみさん)は、房総丘陵の山の一つである。2つの峰からなる双耳峰で、標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。写真中央が「鋸山 標高329m」。「浦賀城から見た房総」。「浦賀城イメージ図」をネットから。浦賀城について「南郭」から「奥の院」方向を見る。明神山の上には土塁や帯曲輪らしきものもあったが、勝海舟関連の社や石碑などでかなりその地形は改変されているように思えたのであった。そして頂上から産霊坂(むすびざか)の石段を下る。拝殿の右の社殿近くにあった石碑には???石灯籠??「東叶神社」の「社務所」。「浦賀城」の御城印。そして「東叶神社」を後にして、来た道を引き返す。「横須賀古道散歩」案内図。「横須賀古道散歩「横須賀古道散歩」は横須賀市内を通っていたと伝えられる古代の東海道や中世の鎌倉道近世の浦賀道を古刹や古い地名をたよりにたずねる散歩道です。コースはしょうぶ園から衣笠駅付近を経て京急大津駅までの「古東海道ゆかり散歩」と京急大津駅から浦賀駅前を経て一方は東叶神社へ、一方は燈明堂へいたる「浦賀道ゆかり散歩」の2コースです。」そして次の目的地の「法憧寺(ほうどうじ)」に向かって東浦賀2丁目の住宅街を進む。右に折れ、前方の石段の上・東浦賀の海を見下ろす高台にある「法憧寺」に向かう。石段を上って行った。墓地が見えたが、隣の家は住職のご自宅なのであろうか?南側の墓地を見る。多くの石仏のお姿が。「無縁塔」と。そして「法憧寺」の「本堂」が浦賀湾に向かって建っていた。円城山宝珠院法幢寺・浄土宗鎮西派の寺。横須賀市東浦賀2丁目16−20。「法幢寺明応2年(1493)に、大本山鎌倉光明寺第八世の観誉祐崇上人によって開かれたお寺です。上人は浄土宗でお十夜法要を始めた人です。本堂には、恵信僧都(942~1017:往生要集を著し浄土教の基礎を築いた)の作といわれる、阿弥陀三尊像が安置されていおり、像の高さは約1mあります。薬師如来は、眷属(付き従うもの)の十二神将とともに本堂に安置されています。山号の円城山は、永正15年(1518)三浦一族を破り、この地を領した後北条氏が房州の里見氏に対する備えとして築いた浦賀城の一廓であったことを物語るものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「十二神将」。向拝の見事な龍の彫刻。ズームして。木鼻(右)。木鼻(左)。本堂にはこの一帯が浦賀城一廓だったことを物語る山号の扁額「圓城山」。軒下の小壁には岩田辰之助・徳太郎兄弟が大正15年(1926)に手掛けた魔除けの神獣をテーマにした合作鏝絵「牡丹に唐獅子」が遺されていた。鏝絵「牡丹に唐獅子」(右)。牡丹に岩上の一対の唐獅子が鞠と紐に戯れる図柄を、二間の壁面にわたり連続画的にレリーフ状に表現している。唐獅子頭に玉眼(ガラス玉)を嵌入。中央下段に銘文があり、「奉納/大正十五年/九月廿八日/岩田徳太郎/岩田辰之助」とある白漆喰仕上げ、一部彩色。ズームして。唐獅子頭に玉眼(ガラス玉)を嵌入。鏝絵「牡丹に唐獅子」(左)。ズームして。墓石には「故陸軍兵長桐ヶ谷信雄之墓」と。墓地の奥には多くの墓石が並ぶ。正面に立派な墓石が。「鍋洲累世之墓」と。ズームして。墓地の高台から浦賀湾を望む。「愛宕山公園」と浦賀湾に停泊する砂・砂利運搬船を見る。移動してズームして。奥にあった墓石は歴代住職の墓地であっただろうか。歴代鈴木家の墓。「鈴木累世墓」と。「南無阿弥陀佛」碑。これも無縁塔か?錫杖を持つ石仏。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.01
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東浦賀にあった「東叶神社」の散策を続ける。石段を上り終えると狛犬(右)が迎えてくれた。狛犬(左)。「東叶神社」の「拝殿」。近づいて。「本坪鈴」が2本。正月の初詣時は2本の長い列が出来るのであろう。扁額「叶神社」。「拝殿」の右側にあった「社」の名は?近づいたが何もなく。拝殿と直接繋がっていたが。叶神社の学業成就祈願の「絵馬」。菅原道真公か?「諸願成就」は「叶」と。「開運招福」は「昇り龍」。「拝殿」前から浦賀湾を振り返る。対岸には「西叶神社」があるのだ。「拝殿」の左側から標高約50mの裏山・明神山の石段を登って行った。右側にあったのが「神輿庫」。大きな神輿が納められていた。「恵仁志坂(えにしざか)」道標。古来より東叶神社には、二つの坂があり縁結びにご利益があるとされている と。叶神社の拝殿から奥の院に登る階段で、夫々名前がついていた。恵仁志坂(えにしざか):拝殿脇から中段までの坂産霊坂 (むすびざか):中段より頂上に向かう坂恵仁志坂(えにしざか)の石段を上る。朱の社は「湊稲荷社」。内陣を見る。「社叢林この林は長い間保護されてきた・・・・・・・・このあたりはタブノキやシロダモなどの多いイノデータブ群集と呼ばれる常緑広葉樹の林となっており、県指定の天然記念物です。」「風致保安林 設置 昭和五十三年度 神奈川県知事」と。石段の途中、左側にあったのが「芭蕉句碑」。「拝殿前から恵仁志坂を登ると、すぐ左手の樹蔭に浦賀港を見下ろすように自然石の碑が立っている。碑面の上部には篆額「正風宗師之碑」が刻まれ、建立者福井貞斎の筆で、「丹(に)よ起(き)丹よ起と帆はし良(ら)寒き入江哉(かな)」の句が彫られている。この句「にょきにょきと帆柱寒き入江かな」は元禄9年(1696)版の『反古集』(遊林編)に芭蕉の吟として載せられているものである。若き日の芭蕉(松尾桃青)が、郷里伊賀上野の天満宮に『貝おほひ』(句集)を奉納して江戸に下ったのは、寛文12年(1672)のこと。そして江戸深川にある門弟杉山杉風の生簀の番小屋に居を移したのは延宝8年(1680)、その翌年ある門弟から芭蕉一株を贈られてから、その居を「芭蕉庵」と呼び、門人たちは芭蕉翁と尊んで呼ぶようになった。その芭蕉が『野ざらし紀行』(『甲子吟行』)で知られる故郷への旅に出たのは貞享元年(1684)、それ以後は「片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず・・・」と自ら記している通り、『鹿島紀行』・『芳野紀行』・『更科紀行』の旅から『奥の細道』の旅へと、じっとしていられなかった詩人の心情が汲みとられるような流浪の生活が続けられている。これらの点から総合すると、芭蕉が浦賀に来て例の句を吟じたのは、彼が江戸に下った寛文12年(1672)から、故郷への旅に出た貞享元年(1684)までの間ではなかろうか。この碑が東岸の叶神社の境内に建てられたのは、天保14年(1843)冬のことで、浮世絵版画家初代安藤広重が浦賀を訪れて風景版画「日本湊尽」シリーズの「相州浦賀」の雪景色を、やはり東の叶神社の境内から描いたのと、ほぼ同じ頃と思われる。この碑の建立を記念して「四時富士句合」がおこなはれ、富士に寄せた句が最後に寄せられている。祖翁の碑をいとなみて不二晴れよ 翁まつりの茶振舞 企 貞斎涼しやや 水にすはらぬふじの影 校合 梅薫《注》梅薫とは、建立者・俳人福井貞斎の娘である。碑の篆額に刻まれた「正風」とは、安永・天明の頃(1772~1789)の俳壇で呼ばれた語で、芭蕉一門の俳風、即ち「蕉風」のことである。また「宗師」とは、第一位の師匠のことだから「正風宗師」とは当然芭蕉を指したものと思われる。「富士句合」の最後に「祖翁」とあるのも、やはり芭蕉のことであろう。ただし、一説によれば「にょきにょき」の句は、北村湖春(北村季吟(寛永元年(1624)~宝永2年(1705))の子)の作ともいわれるが、その辺の考証は定かでない。北村季吟は江戸前期の古典学者で、和歌・俳句を良くし、若い頃の芭蕉は季吟の門に俳諧を学んだことがある。なお、この「にょきにょき」の碑の建立者であり、かつ俳人でもあった福井貞斎(寛政3年(1791)~明治3年(1870))は竹弄舎と号し、仙台の産であるという。その墓は東浦賀専福寺にある。」とネットから。さらに急な石段を上って行った。人の姿はほとんどなかった。石段を上ると、さらに石段の姿が。ここから先が「産霊坂(むすびざか)」。「勝海舟断食の碑万延元年(一八六〇)、日本で初めて太平洋横断を成しとげた咸臨丸の艦長格・勝海舟は、航海前に、東叶神社の井戸で水垢離をした後、 裏山の山頂で断食をしたと伝えられています。過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり、船玉明神を祀る叶神社に、航海の安全を切実な思いで祈願したと思われます。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「咸臨丸(鈴木勇次郎画)」。「産霊坂(むすびざか)修築記念碑此の坂を産霊坂と言ふ 七百有餘年前の築造にして遠き昔を偲ばしむるものありしが豪雨のため崩壊して遂に参拝の道を失ふに至れり依りて氏子相議り浦賀船渠株式會社を始め敬神諸家の賛同を得て大正拾年七月三日修築の工を起し同年拾月二日工全く成れり」頂上に向かう坂道・産霊坂(むすびざか)の石段を休み休み上って行った。苔むした石垣も美しかった。石段下の右手にあったのが「産霊坂(むすびざか)」道標。そして漸く標高約50mの裏山・明神山の山頂に到着。まずは「神明社」。小さな社殿に近づいて。祭神は天照大御神。そして緑に塗られた石碑は「勝海舟断食之跡昭和五十三年五月吉日 横須賀市長 横山和夫」と。「勝海舟断食之跡万延元年(1860)、時の幕府は日米修好通商条約批准交換のため米国軍艦ポーハタン号随行船としての咸臨丸の 船将に任命された勝海舟は壮挙に先立ち当社を訪れ太平洋横断公開の一路平安について叶神社の加護を記念し併せて事故の精神的肉体的荷重等の克服を謀るため社内にある井戸水で 潔斎水垢離を済ませ修行用の法衣に心身を整へ千古鬱蒼とした樹林に囲まれた輿の院の社前のこの場所を選んで座禅を組み断食修行を行ったのである。 叶神社」そしてこちらが「東照宮」。「東照宮」に近づいて。「奉獻御寶前」と刻まれた石碑。「神や仏の御前に奉納する」の意と。そして「本殿(奥の院)」近づいて勝海舟は、咸臨丸ての渡米前に、ここ本殿(奥の院)が祀られている東叶神社の裏山て断食修行をしたと伝えられている。太平洋横断とアメリカ視察を、命がけで臨もうとした海舟の決意が伝わるエピソード!!。現在、海舟が断食修行したとされる場所には、昭和期に建てられた記念碑が残っていた。また、東叶神社には、勝海舟が断食修行の際に使用されたとされる井戸が残る他、修行の際に着用した法衣が保存されているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.31
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「湘南港北緑地広場」にあった「弁財天と世界女性群像噴水池」でしばしの休憩。ベンチに座り、持って来たバナナを食べた後は、再び靴と長ズボンに変身する。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。この鳥の名は?ムクドリに似ているが!?水浴び中。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を>潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」噴水池の中央に「辯財天」。西洋:ギリシアの古代女性像。現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった「エドワード・S・モース記念碑」。大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験所を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」そして海が割れたトンボロを再び。仮設階段に向かって長い行列が。「湘南港灯台」方向に歩いて「片瀬東浜」海岸を見る。ほぼ完全開通した「トンボロ」。私も再び仮設階段を下り、トンボロの道へ再び。完全に砂浜になった「海が割れた道」を「片瀬東浜」海岸に向かって進む。ワンちゃんもトンボロの見物か、海を見つめて。最後まで残っていた水面もほぼ消えて。時間は12:22。この場所には観光客の足跡が確認できた。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」方向を見る。この日の最大干潮が間近の相模湾。最後の海面跡を歩き振り返って。大きく砂浜の拡がった「片瀬東浜海岸」が前方に。再び最後の海面の痕跡近くまで延びた列を振り返って。別の場所から。開通した「トンボロ」の中央分離帯の如くに、人の列もカーブして。海が最後に割れた場所を。12:25。直射日光があれば、もっと乾く速度が速いのか?海が最後に割れた場所をうろうろと。赤い帆のウインドサーファーが仲良く。大きく潮の引いた岩場で遊ぶ家族連れの姿も増えて。これもウインドサーフィン、それともヨットであっただろうか。「片瀬東浜海岸」そして腰越港方向を見る。往路の時よりも人の数は減っていた。歩いて来た、江の島の海が割れた・トンボロを振り返って。時間は12:40過ぎ、この日の干潮のピークの時間。少しズームして。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。この日の如く、「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。普段は、赤線------の上部が海面、青線------がトンボロとなっているのであろう。国道134号沿いの「片瀬東浜海岸」。夏には海水浴客で賑わう海岸。帰路は江ノ電で帰ることとし、「すばな(洲鼻)通り」を進む。和菓子屋「玉屋本店」。明治45年創業、江ノ電開通と共に湘南の地で100年以上にわたる伝統を紡いできた羊かん専門店。そして「江ノ電 江ノ島駅」に到着。駅入口にあった「小鳥付車止め「ピコリーノ」👈️リンク」は着飾って。「江ノ電 江ノ島駅」👈️リンク。「江ノ島(えのしま)」と。「江ノ電路線図」。路線距離(営業キロ):10.0 km軌間:1,067 mm 駅数:15駅(起終点駅含む。その他信号場1) 和田塚・由比ヶ浜・極楽寺・稲村ヶ崎・鎌倉高校前・湘南海岸公園・鵠沼・柳小路・石上の 9駅が終日無人駅。 切符は乗務員が回収するか、備え付けの集札箱に入れるようになっている。 繁忙期には旅客が集中する無人駅にも駅員や警備員が配置される。自動改札機は鎌倉、長谷、 江ノ島、鵠沼(一部)、藤沢の5駅に設置されており、その他の駅のすべての出入口には ICカード簡易改札機が完備されている。複線区間:なし(全線単線)電化区間:全線(直流600 V)腰越 - 江ノ島間の一般道路との併用軌道。そしてホーム横の待合室内に設置されている303形電車先頭部。そして藤沢駅行きの電車に乗り込む。「鵠沼駅」手前で「境川」を渡る。そして藤沢駅から小田急線で帰宅したのであった。そしてこのブログを書きながら、北海道の函館も陸繋砂州(トンボロ)の上に発達した街であることを思い出したのであった。「函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、「トンボロ」、日本語では「陸繋砂州(りくけいさす)」と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることを「トンボロ現象」といいます。」と再び。そしてこちらは、フランスのサン・マロ湾上に浮かぶ小島・「モンサンミッシェル」👈️リンク。潮の干満の差が最も激しい所として知られ潮の満ち引きの差は15m以上と。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.05.30
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「海が割れる」直前の砂浜を半ズボン、ゴムサンダルで渡る。「海が割れる」直前の海面を撮す。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」の顕になったコンクリート橋脚、基礎を見る。「片瀬東浜」の波打ち際を振り返る。「片瀬東浜」の高層マンション群。一番右に見えたのが「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」1996年2月に竣工した「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」は、事業主が株式会社西洋環境開発、および施工が株式会社竹中工務店により建設されました。「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」は全ての住戸が湘南の海を一望できる南東向きに配置され総戸数は64戸で、間取りは57.47㎡~90.28㎡の2LDK~3LDKとDINKSやファミリー向けのプランニングであるとネットから。上層部の部屋のベランダからの「トンボロ」も絶景なのであろう。「海が割れる」直前の海面をゴムサンダルで歩き渡り振り返る。推進は数cmで上下している。「トンボロ」の産まれる直前の瞬間を歩いたのであった。多くのズック姿の観光客が、潮の引くのを待っていたのであった。待ちきれず、大胆に歩く方もチラホラと。 私と同様に、裸足、ゴムサンダルで渡る人も増えて来た。小さな子供もヨチヨチ歩きで。父親がその後を追う。浅瀬をSUPで楽しむ人の姿を。SUP(スタンドアップパドルボード)とは、大きなサーフボードの上に立ち、オール(パドル)を使って海や川を漕ぎ進む、ハワイ発祥のウォータースポーツです。 日本でも、ここ数年愛好者が増加してきています。 ボードの上に立って漕ぐと、海や川の上を散歩しているように感じられ、周辺の森や山・水中の自然を楽しむこともできます と。再び「片瀬東浜」海岸を振り返る。海面も残り少なくなり、小波(さざなみ)状態に。ズックでかかと歩きをする方々。多くの小型ヨットを三浦半島を背景に。「ヤドカリ」が安全な場所を求めて急ぎ足で移動中。江の島島内の「江の島サムエル・コッキング苑」内に立つ「江の島シーキャンドル」の頂部をズームして。ここから、「トンボロ」を楽しむ人?の姿も。「湘南港北緑地広場」下の岩場も潮が引いて姿を表していた。そして、何故かこの時間に仮設階段が補修?中であった。時間は11:05過ぎ。「◆仮設階段設置日時(予定)」この日は、10:00頃から~であり、1時間以上経っていたが。何か問題が発生し、応急修理中か?10m以上離れた右側の岸には、輪っか付きのロープが下がっており、階段の再?開通を待ち切れない人々がロープを利用して岸壁を上っていた。上から腕を掴んで引き上げる人の姿も。多くの観光客が開通を待っていた。パイプ階段の凹凸部を養生し、工事も最終段階に。そして漸く階段の開通。まずは下りから。階段の幅が小さく、片側交互通行せざるを得ないのであった。そして今か今かと待つ上りの観光客の姿。クレームを付ける方もなく、これぞ我が日本の光景。そして漸く上りの開通。時間は11:20過ぎ。その後ろに長蛇の列が。海の道が出来ない、江の島の付け根の海岸を見る。ゆっくりと、一歩一歩下る子供の姿も。下りに観光客も増えて来た。私も長蛇の列に並び、この階段を漸く上ることが出来たのであった。「湘南港北緑地広場」前にあった案内板。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることトンボロができます。 解説・写真提供:新江ノ島水族館・なぎさの体験学習館」。「トンボロ」発生時の写真。「相州江之嶋辯財天開帳参拝群衆之図 歌川廣重」制作年代:嘉永4年(1851)サイズ:37.0cm×75.0cm(大判3枚続)解説江の島の弁財天は、技芸の神として信仰を集めた。特に音曲の世界では講中を組んで江戸から参詣することが多く、六年に一度の開帳の時は、多数の参詣人で賑わったといわれる。ここでも江の島参詣に向かう四組の女講中を揃いの日傘で描き分けている。画面では、江戸長唄の杵屋、清元節、常磐津節などの人々である江の島北緑地広場において、「デジタル版 トンボロ記念証」を発行していた。其の「QRコード」をカメラで。「デジタル版 トンボロ記念証」日日も「令和六年五月二十六日」と。「湘南港北緑地広場」前から「海が割れた・トンボロ」を見る。時間は11:55。「海が割れた・トンボロ」が姿を現し始めた。残るは水溜りのみか?長蛇の列が相変わらず。この時も50m以上あっただろうか!?「海の道」がほぼ開通したので、手前の列はなくなっていた。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫年に数日だけ干潮の関係で珍島から芽島まで約2.8㎞の道が現れるのだ。この珍しい海道は、国家名勝第9号に指定されていて、多くの観光客が集まる大イベントになっていると。『珍島物語』には「朝鮮半島の南北分断によって離れ離れになった家族の願いが込められている」という意味もあるのだろう。この歌には、そうして離れ離れになった母と娘の物語が綴られているのだろう。そう考えると、1番で綴られた再会への願いがしっかり相手に伝わっていること、そして相手もまた同じように再会を切望していることがよくわかるのだ。誰の人生にも訪れる、大切な人との出会いや別れ。「あなた」との再会を切に願う歌詞には、きっと多くの人が共感できるのでは。ふたたびの愛や、永遠の愛。これらの強力な愛を抱く『珍島物語』の主人公、ひいては再会を願う全ての「わたし」に海割れの道が開けることを願っているのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.29
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「東渡船場」で「愛宕丸」から下船して、乗船した浮き桟橋(西渡船場)を振り返る。「東渡船場」の入口にも「浦賀の渡し」と。入口の左側には石柱と案内板が。「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」ここ、神奈川県横須賀市の「浦賀の渡し」付近にある旅館・徳田屋跡の石碑。幕末の思想家・吉田松陰と佐久間象山が徳田屋で面会を行なった歴史的事実があるとのことで「吉田松陰・佐久間象山 相会処(徳田屋跡)」と石碑に刻まれていた。「徳田屋徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です創業は明らかではありませんが、寛政の改革を行った松平定信が相模・伊豆の沿岸を視察した折に宿泊したという記録からすると、1700年代の終わり頃 には存在したことがわかります。しかし、正式に旅宿(御用御宿)となったのは文化8年(1811)3月のことであり、これが浦賀の旅館の始まりです。ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月には黒船を見聞するために吉田松陰が二度目の宿泊をして、ここで佐久間象山と会っています。これより前の、安政2年(1855)には、木戸孝允(桂小五郎)が浦賀奉行所・ 与力中島三郎助に造船技術の教授を得るために来訪した折に泊まっています。数多くの武士や文化人が徳田屋に宿泊し、ここから日本を見、世界を見て時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したことを考えると、徳田屋の果たした役割は大きかったことが分かります.その徳田屋はこの東浦賀の地にありましたが、大正12年(1923)の関東大震災の際に倒壊して姿を消しました。 横須賀市文化スポーツ観光部」「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」はこの建物のあった場所に。この建物は震災後に建てられた建物のようであった。ネットからの下記の写真には、上記建物の前に石碑と案内板があったようだ。「東渡船場」を振り返って、乗って来た「愛宕丸」を見る。「東渡船場」入口近くに置かれていたこの象と女性像のモニュメントは??「東渡船場」近くにあった「ELMAR URAGA TERRACE CAFE」が客呼び用に置いたものか。次の目的地の「東叶神社」に向かって南に進む。左にあったのが「洲崎町内会館」。横須賀市東浦賀2丁目11−20。「州崎 (地名の由来)東浦賀町2丁目のこのあたりを洲崎といいます。その地形からわかるとおり、浦賀湾にふっくらと張り出した洲の先頭部ということに由来します。洲崎の山の手には 江戸時代の初期に三浦按針(ウイリアム・アダムス)の屋敷があり、按針が勧請した社があったと記録されていますが、その場所は分かっていません。この近くの東叶神社の裏山は、戦国時代の1556年、三浦半島が房総の里見軍に攻められたため、北条氏康が築城したといわれる浦賀城があった所です。この城は、後北条氏時代の三浦半島水軍の根城でした。山頂は平坦で、東京湾と対岸の房総半島が一望できます。浦賀奉行所与力・中島三郎助と子の墓が東林寺にあります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探検くらぶ」その先右手にあったのが「新井町内会」と書かれた建物。横須賀市東浦賀 2-20-1。この倉庫は?民家のものか?そして正面に「東叶神社」の境内が現れた。「現在地」はここ。「浦賀湾」方向に廻り込むと「叶神社」案内板が。「叶神社祭神 應神天皇(誉田別命)由緒 養和元年(一一八一)辛丑年八月十五日京都高雄山神護寺僧文覚祈願奉勅命石清水八幡宮ヲ 勧請ス 夫ヨリ文治二年丙午年源頼朝公一事創業ノ際願意成就ノ意ニ基キ叶大明神ト尊称シ奉ル 叶神社 祭事 一月一日 歳旦祭(さいたんさい) 二月節分 節分祭(せつぶんさい) 二月十七日 春祭(祈念祭) 六月三十日 大祓式(おおはらえしき) 七月十八日 身代り弁天例祭 九月十五日 例大祭 十一月二十二日 秋祭(新嘗祭) 十二月三十一日 大祓式 東 叶神社々務所」参道正面入口。社号標石「叶神社」。「日西墨比貿易港之碑」「日西墨比貿易港之碑👈️リンクMonument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga慶長3年(1598)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するため、スペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した。そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した。江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた。この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である。浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し、幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している。三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目であり、その3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された。元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで、浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。2019年4月吉日 建碑発起人 浦賀湊を世界文化遺産にする会撰 文 日本海事史学会 鈴木かほる建碑賛同人 東叶神社氏子会寄付者一同(裏面に記載)施 工 石平石材店 <注>裏面」右手に「手水場」。その脇にあった「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選東叶神社祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代の天皇)です。この神社は、養和元年(1181)8月15日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。神社の裏山を明神山と呼び、標高は約50メートルです。後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。」手水鉢には「灌洗(かんせん)」の文字が。「灌洗(かんせん)」とは「そそぎ洗うこと」。龍の吐水口(とすいこう)をズーム。そして「力石」が二つ。境内右手、水手舎の傍らに久助・十吉等、当時の怪力の名が刻まれた楕円形(40~60㎝)の力石が奉納されていた。「神奈川県指定天然記念物叶神社の社叢林 昭和五十一年十二月十七日 東浦賀町二丁目五十九番一他浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社林は、標高53mの山頂まで見事な常緑広葉樹林で被われている。山頂部付近はスダジイ・マテバシイ林で占められ、一方斜面部はタブノキ林で被われている。高木層は、樹高20~22mのタブノキが優先しており、亜高木層はモチノキ、シロダモ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、イヌビワが生育している。低木層には、トベラ、アオキ、ヤツデ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。林床に出現する植物の種数も多く、キヅ夕、テイカカズラ、ビナンカズラ、ヤブラン、キチジョウソウ、ツワブキ、イノデ、ベニシダ、オオバノイノモトソウなどが生育している。神奈川県はもとより、関東地方でも珍しく自然度が高く安定した郷上林を形成している。三浦半島沿岸部に残された数少ない自然林として学術的な価値も高く、天然記念物として指定されたものである。また、叶神社の裏山一帯は、浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。 令和三年九月 横須賀市教育委員会」境内の巨大なご神木・銀杏も新緑に輝いていた。石段の上に拝殿の姿が。「おみくじかけ」。おみくじを「結ぶ」のでは、神様とのご縁を「結ぶ」為であると。神様とのご縁を結ぶ事によって、物事を良い方向に導いて頂く、という事。もちろん、何事も自らの努力が大切ではありますが、それに加え神様とのご縁があれば、それは更に良い方へと向かって行くことになるのだと。「神社参拝の基本作法」案内板。「源頼朝が大願成就したパワースポット叶神社(東)御祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)御利益 心願成就「頼朝に始る武家政権の歴史を支えた神社」養和元年(1181)京都神護寺の僧文覚が源家の再興を発願し、石清水八幡宮を当地に勧請され、もし源氏の再興実現せし折は、永く祭祀を絶たざるべしと祈念したところに始まるとされている。その後、文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられている。社殿に昇る石段の両脇に植えられている蘇鉄はこの時に頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。境内に祀られている「身代わり弁財天」は種々の難事の身代わりになると言われており、幅広く多くの方々の信仰を集めている。また、幕未に勝海舟が明神山に籠もって断食修行をした際に使用した井戸が今も境内に残っている。」「叶神社案内略図」。①拝殿 ⑨産霊坂修築記念碑 ②厳島神社(身代り弁天) ⑩勝海舟断食跡③勝海舟禊の井戸 ⑪本殿(奥の院)④不動尊石刻碑 ⑫東照宮⑤神輿庫 ⑬神明社 ⑥湊稲荷社 ⑭住友重機殉職者慰震塔⑦芭蕉句碑 ⑮産震坂(むすびざか)道標⑧惠仁志坂(えにしざか)道標」「縁結び守り「勝海舟 縁の「勝守」御朱印等の案内が窓に貼られていた。」「耀真山永勝不動尊(ようしんざんえいしようふどうそん)の由来明治維新前には、神仏習合といって、叶神社は別当耀真山神寺(べっとうようしんぎんえいじんじ)として古儀真言寐醍醐寺派三宝院に属し、横浜の金沢から三浦半島 全域において、本山格の寺格をもった修験道の寺院を兼ね、歴代の宮司は、同時に真言宗の大僧都、真言修験の大先達を兼ねていました。叶神社には、不動尊が現在もお祀(まつ)りされており、このお不動様の像は嘗ての真言修験の寺院、耀真山永神寺のご本尊とも伝えられています。こちらのお不動様の石彫を通して、耀真山永神寺のご本尊、即ち耀真山永勝不動尊をお参りして頂けます。」拝殿前の石段の右には石仏が安置されていた。不動明王であろうか。段脇右を奥に進むと、鳥居があって、その奥には洞穴があった。「身代り弁天御神徳御祭神 厳島媛命 例祭日 七月十八日東浦賀の産土神である叶神社の境内社として、神秘な岩窟内に祀られる厳島神社はもともと海上交通の安全と戦の勝運を司る神として尊崇されており誠に霊験あらたかであります。 古よりこの弁天様を信仰された人々が海上の遭難や交通事故、はたまた難病などあらゆる不慮の事態に直面し、身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代わりとなられ災禍からお守り下さったという例には枚挙に暇がありません。 この様な御神徳が三浦半島を始め近郷近在の方々の篤い信仰をあつめております。弁天様を信仰なされて限りなき御神徳を享受されんことを祈念いたします 叶神社々務所」岩窟内に、厳島媛命がお祀りされ、不慮の事態に直面し身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代わりとなられ、災禍からお守り下さる と。扁額「叶神社 辯天社」岩窟内陣。身代わり弁天の横には、また別の手水石そして龍の吐水口(とすいこう)からか聖水が。「勝海舟 断食修行の折使用の井戸この流水は、右奥にある「勝海舟断食修行の折使用の井戸」から汲み上げている水です。比叡山延暦寺の高僧よりご託宣が伝えられ、この流水を硬貨に掛け流し常に身に着けることにより、弁天様のお力も相俟って、開運と金運のご利益が得られるとされております。流水を掛け流した硬貨を納めるお守り袋を社務所にて五百円で頒布致しておりますので、ご利用下さい。」勝海舟 断食修行の折使用の井戸。近づいて。「勝海舟 断食修行の折使用の井戸」と。拝殿への石段を上ると、途中踊り場の右側にあった「蘇鉄」。蘇鉄は、源頼朝公が緑深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。同じく左側にあった「蘇鉄」。「この蘇鉄は源頼朝公 源家再興の折 伊豆より移植奉納されたものである」と。さらに拝殿への石段を見上げて。この日は5月3日(憲法記念日)の祝日、日の丸が掲げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.27
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「千代ヶ崎砲台跡」の見学を終え、徒歩にて急な坂を下り、「川間隧道」先の交差点に向かって進む。前方に浦賀湾の入口にあるマリーナ・鴨居大室港方向を見る。「特別養護老人ホーム 太陽の家 二番館」の入口が左手に。そして「川間隧道」先のT字路交差点に到着し、ここを浦賀駅方面に向かってこの日も右折する。「シティマリーナヴェラシス(旧川間ドック)」を見下ろす。その先、左手にあったのが「住宅型有料老人ホームハビタスカーマ」。遊歩道には巨大なヤシの並木があった。これも「カナリーヤシ」であろうか?アフリカ西海岸、カナリア諸島原産なのでこの名がある。宮崎県の公式ページによると、病害虫に強く長寿なことから、不死鳥(フェニックス)の名前が付けられたとされるとウィキペディアより。幹径40cm以上になっていた。幹には葉痕が波状の模様になって残っているのであった。5m近く弓状にしなる長い葉を見上げて。旧浦賀ドックをズームして。豪華なプレジャーボートが並んでいた。路面に映り込む不死鳥(フェニックス)の葉の影も美しかった。「特別養護老人ホーム 太陽の家 二番館」の建物を振り返って。「Velasis 浦賀 2番館」。SRC造、地上14階建て、総戸数112戸、2001年5月築の高層マンション。横須賀市西浦賀4丁目11−2前庭にあった錨のモニュメント。さらに不死鳥(フェニックス)の並木の遊歩道を進む。そして「船番所跡」前に到着。浦賀湾の先には、この後に訪ねた「東叶神社」の姿が確認できた。「陸軍桟橋」には多くの釣人の姿が。「船番所跡浦賀奉行所の出先機関で、享保六年から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方(さんぽう)問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」」「船番所の模型(浦賀郷土資料館)」。左手の道路沿いにあったのが「よこすか浦賀病院」。旧住友重機械健康保険組合 浦賀病院。1897年(明治30年)に設立された「浦賀船渠」の浦賀工場診療所として大正元年8月1日開設 。昭和19年6月1日 浦賀造船所病院と改称、昭和30年4月4日 浦賀船渠(うらがせんきょ)病院として開設。この日も多くの砂・砂利運搬船が停泊していた。手前に砂、砂利運搬船「三十一勝丸 上天草」。石材・砂運搬船「第十八新幸丸 兵庫県姫路」。石灰石他運搬船「第十八住吉丸 壱岐」。砂・砂利運搬船「第十五大福丸 徳島県徳島市」。砂・砂利運搬船「第二十五郎丸 熊本県 宇城市」。そして「西渡船場(浦賀の渡し)」の待合室に到着。「東渡船場」に停泊中の「愛宕丸」が動き出した。「乗船料」案内板。「【乗船料】料金は船内でお支払いください。・大人 400円(横須賀市民200円)・小・中学生 200円(横須賀市民100円)・未就学者 大人1名につき1名まで無料・ワンデイパス大人 600円・ワンデイパス小・中学生 300円・自転車および大きな荷物 50円渡船場渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」 には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。この航路は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、シンボルの一つです。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ」「ご乗船の方はこのボタンを押して下さい ➡️ ●」そして1名の客を乗せた「愛宕丸」がこちらに向かって来た。船頭の半被には「うらがの渡し」の文字が。この日はこどもの日で日の丸の旗2本が。そしてFRP製浮き桟橋の「西渡船場」に到着。浮き桟橋(西とせんじょう)の平・断面図。そして年配の御夫婦と自転車の若者そして私の4名が乗船して、船は渡船場を離れた。私は片道分の400円を船頭に手渡す。チケット等はなし。往復利用する方は、往復分を乗船時に払い、復路用のカードをもらうシステム。自転車は50円を支払っていた。浦賀湾入口方向、そして房総半島を見る。年配の御夫婦。先程見た砂・砂利運搬船を海から見る。房総半島・富山、鋸山の姿が見えた。左手、浦賀ドックの右側には巨大テントが。大型テントで全国を巡業する本格サーカス・エンターテイメント「ポップサーカス」を誘致し、4月27日(土曜日)から6月23日(日曜日)までの期間、浦賀ドックにて「横須賀公演」が開催されているのであった。そして観音崎通り沿いに建つ住友重機械工業㈱浦賀造船所の旧工場の姿をズームして。その先に建つのが「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。巨大テントと浦賀造船所を見る。そして3分で「東渡船場」に到着し下船。徒歩30分を渡し船で3分で。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.26
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「第二掩蔽部」前の露店空間から隧道入口のアーチ状レンガ積みをズームする。そして「第一弾薬庫」への通路を左側に見る。「第一弾薬庫」への通路・交通路(下記)を案内され進む。この附近の見取り図。第四掩蔽部と第一砲側弾薬庫の間に狭い通路があります。見取図から「点灯室」であっただろう。そして階段前、右側奥にあったのが「第一弾薬庫」。部屋の奥は床と天井にそれぞれ2ヶ所に穴が開いていた。近づいて。地下弾薬庫で保管される砲弾は、揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて砲座に運ばれていたと。揚弾井は多くの砲台に残っていますが、1つの弾薬庫に2つあるのはここ千代ヶ崎砲台だけであると。床の穴は砲弾の転倒防止用の穴か。砲弾はこの揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて砲座に運ばれると。「第一弾薬庫」の入口側の壁に3つの小窓が並んでいた。これはランプを置く点燈窓であると。弾火薬庫として使われた部屋の中に火を持ち込まないように、この通路側から点燈窓にランプを置いていたと。さらに、当時はランプが倒れて部屋の中に落ちないようにガラス窓がはめ込まれていたのではないかと。別の角度から。現在はLEDライトが。そして見学者の女性は突然「キャー」と。久しぶりに見る「ゲジゲジ虫」であった。子供の頃ゲジゲジ虫は益虫であると聞いたが。以下のような生き物を食べてくれると。ゴキブリ、クモ、蚊ハエ、ダニ等々をたべてくれると。そして「第一弾薬庫」を後にして、さらに石段を上り、「第一砲座」への「高塁道」を目指す。両側の柵の所が揚弾井の上部であった。「高塁道」から先程の「揚弾井(ようだんせい、天井の穴)」を見下ろす。「第一弾薬庫」の床の穴も見えた。右手、高塁道の先には「第一砲座」の入口が見えた。天井に鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。高塁道の煉瓦の壁にも鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。ここにはレールが壁に沿って設置されており、そのレール上を揚弾井から引き上げた砲弾を転がし「第一砲座」へと移動させたのだと。以下はネットからの転載です「さて、地下弾薬庫からどのように引き揚げて砲座に運んでいたのでしょう?おそらくチェーンブロックのような機器で揚弾井から砲弾を引き揚げて、高塁道に設置された運搬用レールに乗せて砲座に運んでいたのではないかと推測します。史料を見ると「鶴頸揚弾機」や「鏈鎖揚弾機」と言った揚弾機があったようですが、いずれにせよ明治期は電力ではなく人力での操作でした。揚弾の構造を示す史料/書籍がないので想像の域を出ませんが、僅かな史料と遺構の状況を踏まえて、こんな感じだったかなとイラストを描いてみました。あくまで想像なので細かいツッコミはなしで(笑)揚弾井の上に設置されたのは鏈鎖揚弾機で、把手を回せばチェーンが揚弾井を昇降できるようになっています。地下の弾薬庫に下ろしたチェーンのフックに弾提鏈に掛けた砲弾を吊るして引き揚げ、台車に下ろして高塁道側の運搬用レールにスライドさせ、レールの上をゴロゴロ転がして砲座に運んでいた、、、と想像して描きました。つまり揚弾井上部の鉄製のレール(枠?)は歯車(滑車)を設置した跡、高塁道の壁に残る凹みは運搬用レールの設置跡と言うわけです。運搬用レールって正式名称が分からないけど、工場で製品を載せて次の工程に運ぶ時とか、空港の保安検査場で荷物載せて探知機通す時のあんな感じのヤツね(^^;」高塁道の出口から「第一砲座」を見る。運搬用レールから降ろされた砲弾は、おそらく送弾車に載せ替えられて砲座の即用弾薬置場(弾室)に置かれたと。石段上から。1つの砲座に、2門の榴弾砲、砲座は3か所。砲床内径は5.92mであると。砲床には多くの基礎石が並べられていた。此処に設置されていた「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」をネット👈️リンク から。「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」は、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲。旧称は二十八珊砲。主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍したのだ。「第一砲座28cm榴弾砲を据え付けた場所です。地k上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。」砲座の即用弾薬置場(弾室)の横壁から高塁道脇に一直線状に穴が空き、出口の光が確認できた。「伝声管(でんせいかん)」と呼ばれる通話装置であると。直径の小さい管の中では音波は平面波のような状態で伝搬し減衰が少なくなるという原理を利用したと。障害物のない場所での音波の伝搬は距離の2乗に比例して減衰するが、細い管の中を伝搬する場合は音波が拡散しないため減衰を大幅に抑えることができる。このため、伝声管を用いると、障害物のない場所で会話するよりもはるかに遠い場所に音声を伝えることができるのだと。砲座は土塁から堀り込まれた露天になっていて、ここからは外部、つまり目標を捉えることができない。砲台の南北にあった観測所から伝声管を通じて方位・仰角など指示が伝えられ、それに合わせて発砲する仕組みとなっていたのだと。榴弾砲は大きく放物線を描いて艦船の甲板を貫いて弾薬庫や機関等を重要な部分ほ破壊する目的で運用された。残念ながら、現在その観測所の地上施設を確認することはできないのであった。砲座の反対側から、砲座の即用弾薬置場(弾室)と第二砲座に繋がる高塁道を見る。砲弾を立て掛けて置くスペースであったと。「第一砲座」を後にして高塁道を下りて最初の塁道に戻る。そして次は砲座を上から見たのであった。「第三砲座」を見る。振り返ると、「千代ケ崎砲台跡」の受付事務所・展示室が見えた。防衛大学校方向を見る。富士山も姿を表した。「第二砲座」を見る。「第一砲座」を見る。「第1砲座」横から「浦賀水道」を見る。中央の双子の山は「富山(とみさん)349.5m」であると。「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山。富山(とみさん)は、房総丘陵の山の一つである。2つの峰からなる双耳峰で、標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。展望台からは東京湾を一望できます。天気がよければ雄大な富士山が姿を見せることも。「千代ヶ崎砲台の立地千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。」「案内板」の写真をズームして。「要塞建設期(明治時代)に建設された東京湾要塞を構成する放題の配置」。浦賀水道を再び。写真中央が「鋸山 標高329m」。鋸山は、千葉県富津市と鋸南町の境にある標高329mの山で、伊予ヶ岳や鹿野山などとともに千葉県を代表する山のひとつ。良質石材の産地として江戸時代から盛んに採石が行われたことで露出した山肌の岩が鋸の歯のように見えることから、この名前で呼ばれるようになった。大展望の山頂部までロープウェイが運行され観光の山のイメージがあるが、照葉樹の緑濃い森やかつての石切場を整備した道など、歩いてこそ楽しめるポイントがある。また、山中には行基が開創した日本寺や風食洞窟に鎮座する千五百羅漢、高さ約30m・日本最大の大仏像などの史跡もこの山の魅力だ。アクセスもしやすく、登り下りともにJR内房線の駅(浜金谷駅、保田駅)となる。「第二砲座」を振り返る。砂利運搬船であろうか?そして「千代ケ崎砲台跡」の見学を終え、受付事務所・展示室まで戻る。「千代ヶ崎砲台跡 利用案内」。「千代ヶ崎砲台とは千代ヶ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。千代ヶ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床が2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。28cm榴弾砲28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫など艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。」榴弾砲砲台と近接防御砲台。砲座と地下施設千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い胸墻(きょうしょう)が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。砲台の建設千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋め戻し、残土で浅谷の埋め立や土塁などを造成する大規模な土木工事が行われました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。28cm榴弾砲の発射の様子(砲台名不明)。28cm榴弾砲に砲弾を装填する様子(米ヶ浜砲台)。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧軍施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の重事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記憧を未来に語リ継ぎ平和について考えるきっかけとなるのではないでしょうか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があります。いずれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」千代ヶ崎砲台跡 平成30年。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧市施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の軍事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記情を未来に語り継ぎ、平和について考えるきっかけとなるのではないでしようか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があリます。いすれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」上:海上自衛隊千代ヶ崎送信所時代下:猿島砲台跡「千代ケ崎砲台跡」のスケッチ。「掩蔽部(えんぺいぶ)、弾薬庫、砲座周辺」の模型。28糎榴弾砲 1/35スケール。千代ヶ崎砲台の歴史。「国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、明治25年(1892)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した、東京湾要塞を構成する砲台のひとつです。千代ヶ崎砲台は、建設当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。現在は、横須賀市が管理団体として史跡の公開・活用と維持管理を行っています。」「千代ヶ崎砲台の構造「千代ヶ崎砲台の各施設」。集水と排水の仕組み千代ヶ崎砲台の水の流れには、砲台内部て雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外へ排出する排水系統の2系統がありました。集水系統は、用水など生活用水を確保する貯水所への導水ンステムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、塁道には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています、ろ過下水溝で簡易ろ過された用水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいにろ過されて貯水池に溜められ、生活用水として利用される仕組みになっています。排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設などから出る汚水を砲台の外へ排出する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設されていました。」地下室に使われた建築資材千代ヶ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫など諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また、柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために物水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設された煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。一般公開に先立ち実施した砲台構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥が約75cm、天井を支える側壁が約1.5mの厚さで、コンクリート造のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ヶ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牟な構造物であることが分かりました。」「28糎(センチ)榴弾砲👈️リンク 砲弾模型 原寸」。左:「小菅集治監製」の焼過煉瓦と右:千代ヶ崎砲台跡出土煉瓦にはそれぞれ刻印が。「タウンニュース」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.25
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この日も急な坂道を息を切らせながら上って行ったのであった。そして「国史跡 東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡」案内板に再会。「文化財説明板」。「国指定史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。」「東京湾要塞とは日本で初めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一砲台・第ニ砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年( 1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要基」と定め、東京湾要塞と呼称しました。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。」日本遺産千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミューシアム」のサテライト施設でもあります。千代ヶ崎砲台の構造千代ヶ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門すっ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。利用場の注意等・公開日 土・日・祝(ただし、12月29日~ 1月3日は除く)・公開時間 9時30分~ 16時30分( 3月~9月) 9時30分~ 15時30分( 10月~ 2月)・史跡内は足元が悪いところがありますので、ご注意ください。・公開工リア以外の場所は、危険なため立ち入りを禁じます。・史跡は国民共有の財産です。構造物を傷つけることや、地面の掘削をすることは禁じます。・地下施設の内部は、市教育委員会認定ガイドと同伴のツアーのみ見学でき、許可のない 立ち入りは禁じます。」そしてこの日は、「立入禁止」札やロープもなく。「柵門」砲台の出入り口。榴弾砲砲台の北東に位置し、凝灰岩に切石を用いた石積み擁壁の壁面には門扉の金具の一部が残されています。」建設当時からの石造りの切通を進む。正面にあったのが「土塁」その手前に「掘井戸」。「防御施設。柵門の内側を囲み、柵門の正面には高さ約5mの土塁と掘井戸があります。この中央土塁の両側を回り込むと榴弾砲砲台の塁道に連絡しています。」井戸は煉瓦で造られているとのこと。その煉瓦の表面に、監獄煉瓦として名高い小菅集治監で造られた桜の花の刻印があるのだと。バスを降りた「燈明堂入口」からのバスの時刻表がご親切に。丁度、ボランティアによるツアーガイドがパネル展示・説明室で始まったばかりだったので、グループに入れていただいた。30代の御夫婦2組と私の総計5名。「日本の要塞と東京湾要塞日本の要塞周囲を海に囲まれた日本にとって、古くよリ外国からの防御は海岸線を守備することでした。江戸時代後期以降になると外国船が日本近海に頻繁に出現するようになり、徳川幕府は江戸湾海防政策の一つとして台場の建設を行いました。幕府を倒した明治政府は西洋の列強からの脅威に備え、台場建設に代えて西洋の築城技術と建築資材を導入して重要な地を守備する沿岸砲台建設に着手しました。砲台建設とともに探照灯や弾薬庫など必要施設の整備、設置する海岸砲の選定、砲兵部隊の編成などが進められました。明治28年(1895年)には「要塞司令部条例」が公布され、その第一条において「永久ノ防御工事ヲ以テ守備スル地ヲ要塞ト称シ各要塞ニハ其地名ヲ冠シ某要塞ト称ス」と「要塞」の定義が示されました。日本の要塞建設は、おおむね明治時代に相当する「要塞建設期」、大正時代から昭和時代前期にかけての「要塞整理期」、日中戦争前後から終戦までの「臨時要塞建設期」の3時期に分けられます。明治13年(1880年)の観音崎砲台の建設着工から、昭和16年(1941年)に一部施設の竣工をみた宗谷要塞まで、22の要塞と5つの臨時要塞が建設されました。東京湾要塞東京湾要塞は日本で最初に建設された要塞で、明治10年代に着工された唯一の要塞です。首都東京と横須賀軍港の防御を目的に、要塞整理期に除籍された砲台も含め、昭和13年(1938年)に竣工した花立砲台まで32の砲台が築かれました。まだ航空機がなかった明治時代には、外国の侵入手段は艦船たけが想定されました。要塞建設期の東京湾要塞は、明治10年代に東京湾内湾が最も狭くなる富津岬ー観音崎間を防御線とした砲台群、明治20年代前半に横須賀軍港を守備する砲台群、明治20年代後半には清国との緊張が高まる中で富津岬一観音崎間を補強する堡塁と新たな砲台が築かれました。大正時代に入ると、日露戦争前後の火砲の性能向上、第1次世界大戦での航空機の出現に伴い、それまでの砲台が旧式化したために要塞整理期に入りました。その結果、東京湾の防御線は富津岬ー観音崎間から洲崎一剱崎間、東京湾内湾から外湾に南下・拡大しました。また、大正12年(1923年)に発生した関東大震災によって東京湾要塞を構成する各砲台に大きな被災が生じたこととあわせて、大正時代から昭和時代前期にかけては砲台の除籍と新しい砲台の建設が進められました。多額の国費を投し建設された東京湾要は、日清・日露など対外戦争に応して守備に就きましたが、想定された東京湾での交戦状態に陥ったことはなく、昭和20年(1945年) 8月の終戦後に連合国軍による武装解除を受けてその役目を終えました。」東京湾要塞を構成する砲台の配置。「千代ヶ崎砲台」の立体模型。近づいて。段ボール紙を重ねて製作しているのであった。移動して。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧軍施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の軍事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記憶を未来に語り継ぎ平和について考えるきっかけとなるのではないでしょうか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があります。いずれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」「史跡東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡」の上空からの写真を頂いたパンフレットから。「千代ヶ崎砲台の各施設」をパンフレットから。①~⑩説明。まだまだ、「史跡東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡」の様々な案内板が掲示されていたが、現場のガイドに向かったので、その後を追う。まずは「地下施設」に向かう。砲台の建設時に掘削により発生した土砂は積み上げられ「土塁」が作られたと。「塁道(るいどう)砲台内の各施設を連絡する交通路。路面はコンクリートで舗装されています。幅員約4mの露天空間と隧道が繰り返され、地下施設の出入り口が接続しています。」凝灰質礫岩の擁壁。土塁南側の東西阪路の合流地点から眺めた露天塁道。右側の壁に沿って路面に延びる白い敷石は雨水の水路、左側は汚水の流路であると。左側にあったのが「第三砲座」への入口。右手にろ過池(奥)と沈殿池(手前)。右側に「第二貯水所」沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。千代ヶ崎砲台ては、砲台内部て雨水を集水、ろ過して、飲用水なとの生活用水として利用していた。雨水はまず、塁道の南北2ヵ所に設けられた貯水所に、塁道に埋設されたろ過下水溝て集水される。その後、沈殿池とろ過池て浄水されて、貯水池に貯められ、生活用水として利用されたと。井戸の様になっているのは水汲み口なのであろう。近づいて。ガイドの持つ懐中電灯の灯りが「貯水池」の水面に映り込む。貯水所のレンガ積みの壁を見る。イギリス積みになっていた。トンネルではあからさまに色の違うレンガが並んでいるのが見て取れた。右側のこげ茶色のレンガは「焼過煉瓦(やきすぎれんが)」と呼ばれるレンガで、通常のレンガよりも、さらに高温で焼いたレンガで、撥水性が高く、雨を弾く割合が優れていると。「焼過煉瓦(やきすぎれんが)」が生産される理由は、通常の赤レンガよりも強度を高くできるため、建築物の雨の当たる場所やコーナーでの仕上げに使うためであると。ただこのレンガはコストが高い為、風雨にさらされる事が少ない個所では普通のレンガが使われているのが見て取れるのであった。そしてレンガの積み方ですが、各段ごとに長いレンガが続く段と短いレンガが続く段が交互に繰り返されているのが見て取れた。これはイギリス積みと呼ばれる積み方で、丈夫な事、使うレンガが少なくて済むといった特徴があるのだと。ここのレンガは、小菅刑務所で囚人に焼かせたレンガだとか。ガイドが東京湾要塞を構成する砲台の配置を説明してくれた。「明治時代の要塞火砲」要塞火砲の種類 火砲は、その用途によっていくつかの種類に分けられ、弾道も異なっている。●加農砲(かのんほう):弾丸を高い初速で発射する火砲で貫徹力が高い。●榴弾砲(りゅうだんほう):遮蔽物の上を山なりの弾道で飛び越え射撃する。●臼砲(きゅうほう):榴弾砲よりもさらに大きな発射角度で射撃する。●速射砲(そくしゃほう):装填、発射が迅速、より低い弾道で発射する。●隠顕砲(いんけんほう):防護壁の内側に隠れ、射撃の際に砲身が持ち上がる。「加農砲(かのんほう)」の演習発射の瞬間の写真。そして左側にあったのが「第三棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。訓練時や戦時の兵員の待避所・宿舎、または倉庫。塁道に面して出入口と採光窓、網戸を付けた通気口が、奥壁には地上への排気筒が設置されている。そして「第二砲座」への塁道を進む。左手前に「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。第二と第三砲座のための塁道から地上・土塁への石段。手摺はなかったのであろうか?ここも「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」の内部。「第二掩蔽部(えんぺいぶ)」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.24
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「夫婦橋」を後にして、「平作川」沿い、国道134号の遊歩道を海に向かって進む。左岸には釣り船の乗り場・浮桟橋が並んでいた。左手には先程訪ねた「自衛隊久比里官舎」が見えた。右手の国道134号沿いには大きな建築物が。「横須賀市立横須賀総合高等学校」と。川沿いのフエンスには様々な船の姿が。そして左手には頑丈そうな橋が。「御稜威橋(みいつばし)」。御稜威は御厳と書くこともあり、「厳」を敬っていう語であるとのこと。天皇や神などの威光のことで、「御稜威、津々浦々に及ぶ」等の使い方をするとネットから。下を流れる川は「平作川」。橋の向こう側にはゲートがあり、その先は「陸上自衛隊久里浜駐屯地」。守衛隊員も常駐しており、もちろん駐屯地内に入ることはできなかった。横から見ると主桁には錆びが一面に。しかし正面から見たら頑丈そうな橋。「御稜威橋(みいつばし)」に少し入り込んで、「平作川」の上流を望む。この交差点の名称は「久里浜駐屯地前」。入口の門柱には「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」と。次の目的地の「千代ケ崎砲台跡」近くまでは徒歩で30分前後かかるので、ここ「自衛隊前」からバスを利用することを事前に計画済み。ネットで調べておいたバスの時間を再確認。「土曜・日祝」の9:23発。「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」の建物を振り返る。この花?の名は?黄色い部分が花?それとも葉?メキシコマンネングサ!?こちらは黄色いポピー。歩いて来た「夫婦橋」手前の道路標識を見る。「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」正門を再びズームして。久里浜駐屯地は昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設された。その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く自衛隊最古の駐屯地。駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。令和6年3月に「システム通信・サイバー学校」に改編し現在に至るとのこと。そして9:23発の定刻到着のバスに乗車。「JERA 横須賀火力発電所」をバスの車窓から。「開国橋」からズームして。途中、「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」の手前を右折して進むと、左手にあったのが「久里浜少年院」と刻まれた案内碑。左側の建物は久里浜少年院の官舎のようだ。ロータリーを引き返して、右手に「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」を見る。そして「川間隧道」が前方に。トンネル入り口には、横須賀市の木“オオシマザクラ”の絵が施されていた。「川間隧道」を通過。完成 1996年(平成8年) 隣接する「長瀬隧道」と交代。全長 304m 幅 10m 高さ 8.6m。そして「燈明堂入口」でバスを降りる。「現在位置」はここ。バス停手前のT字路を「燈明堂」方向に向かって進む。4月16日(火)以来、半月ぶりの道路を歩く。「燈明堂 千代ヶ崎砲台跡」案内板。ここを右に曲がると「長瀬隧道」へと。4月16日(火)は「長瀬隧道」を通過し、この場所に下って来たのだ。そして燈明堂、千代ヶ崎砲台跡の分かれ道を右折して千代ヶ崎砲台跡に向かう。「千代ヶ崎灯台跡 駐車場」案内板。入場は9時30分から16時まで とこの日は見学可能日であることを確認。この日も急な坂道を上って行った。振り返ると、眼下には「シティマリーナヴェラシス(旧川間ドック)」と高層マンション・ヴェラシス浦賀3番館が見えた。そして駐車場には多くの車が駐車していたので、この日は見学可能日であることを再確認出来たのであった。そして350m、高低差43mの急な坂道を10分弱で上り切り、「千代ヶ崎砲台跡」の入口に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.23
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次に訪ねたのが100m程の場所にあった「宗円寺(そうえんじ)」。横須賀市久比里1丁目20−1。寺の手前にあった民家の庭の白の「カラー」の花。南アフリカ原産。 日本には江戸末期にオランダから渡来したと。 メガホン状のところがワイシャツの襟(Collar)の部分に似ているので「カラー」となった。また、その形が、修道女の襟(カラー)を連想させるところからつけられた、とも。1528年(享録元年)、臼井惣左衛門により開山。浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来。境内には庚申塔の他、石造文化財としては珍しい両面地蔵が見られる。本堂では、阿弥陀如来三尊像の他、釈迦の涅槃図を鑑賞することができる。80歳で亡くなった釈迦を囲み、この世の全ての人間から動物までが嘆き悲しむ様子が描かれ、天上には釈迦の生母・摩耶夫人が迎えに来ている と。珍しい?白い涎掛けの石仏が並ぶ。六地蔵を正面から。中央の石仏は阿弥陀如来像であろうか?寺号標石「浄土宗 宗円寺」。眞宝山 慶西院 宗円寺。石柱門には「度生圓通」と。度生:衆生を救うこと。圓通:仏教の言葉で、仏菩薩のさとりはあまねく行き渡り、自在に作用するという意味。「庚申塔」が並ぶ。青面金剛像。六手合掌型。右手で三叉戟と矢を持ち左手で弓と輪を持つ。「正徳貳壬辰歳(1712) 相州三浦郡久比里村」と刻まれていた。建ち並ぶ庚申塔から少し離れたところに建つ、1基の庚申塔。これは、1733年(享保18年)に建てられた庚申塔。ちょうど享保の大飢饉の翌年に建てられているので、飢饉によって亡くなった人のための供養の意味もあるのかもしれません。この時すでに、この地の地名には「久比里村」とあります。地名の由来はわかりませんが、久比里という地名はかなり昔から使われていたようです。御影石の両面に浮き彫りされた10体の両面地蔵尊。近づいて。はてさて面妖な、どちらが表で、どちらが裏か。両面地蔵尊越しに眺めた本堂。鎌倉権五郎景政が片目で彫ったと伝えられる両面地蔵。鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、平景政とも称し、平安時代後期の武将。後三年の役では源義家に従軍して、右目を射抜かれながらも奮戦したと。どの両面地蔵も風化が進んでいた。「失明した武将が刻んだ両面地蔵尊奥州後三年の役において英雄の鎌倉権五郎景政も人問の極限の哀しみを神仏に託しては自らを慰め世の中の盲人を救うために、来世の光明を願って一念発起、盲目の身にもめげず両面地蔵を手探りで彫り上げたと伝えられ、眼病平癒の対象とされている。」ここにも石仏が。「南無阿弥陀佛」と刻まれた石塔。入母屋造瓦葺の本堂扁額「真寳山」。内陣。本堂前の天水桶。ここにも六地蔵?墓地を望む。「飯岡助五郎親分の父の墓」。「飯岡助五郎親分の父の墓「宝純院得譽義専称願居士」講談や浪曲にも出てきた下総の国(千葉県飯岡)の大親分助五郎は、三浦半島で生まれ、この久比里の土地こそ助五郎の父が居住していた所」「宝純院得譽義専称願居士」と。無縁塔。再び本堂を見る。無縁塔がここにも。「享保十二丁未天(1727)十一月二日」と。「文政元寅年(1818)」と刻まれた墓石。歴史を感じさせる墓石が並ぶ。そして「宗円寺」を後にして「夫婦橋」に向かって引き返す。「夫婦橋」手前の路地を左に曲がり、「平作川」に沿って歩く。釣船チャーター「山下丸」の駐車場には一面に黒い海藻が天日干しされていた。ヒジキであろうか。こちらはワカメの日干しであろうか。近づいて。その先にあったのが「自衛隊久比里官舎」。海側には「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」があるのだ。地上4階建ての官舎が10棟以上並んでいた。ドーム型アンテナ。久里浜駐屯地は昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設されました。その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く自衛隊最古の駐屯地 。駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。令和6年3月に「システム通信・サイバー学校」に改編し現在に至る。とネットから。「ここは、自衛隊官舎地区です。自衛隊関係者以外の立ち入り及び車両の駐車をお断りしております。陸上自衛隊通信学校長」「夫婦橋」に引き返すと、ここにも昆布が。養殖昆布であろうか、辺りに磯の香りが広がっていたのであった。「久里浜地区周辺案内」マップ。「現在地」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.22
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そして次に訪ねたのが「若宮神社」。石鳥居の前には大きな井戸?非常水槽があった。横須賀市久比里1丁目4−11。1531年(享録4年)、臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。祭神は仁徳天皇。1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。正面に石製の一の鳥居。扁額「若宮神社」。社号標石「若宮神社」と朱色で。一対の「御神燈」。<境内の巨大な御神木・銀杏。緑の新葉が美しく。右側には石碑が2基。「御社殿再建記念昭和五十八年五月二十日の深夜 先人達が永年蓄財して建立した総欅造りの御神殿を不審火により消失しました。火中御神体を救出して 西叶神社に無事遷し奉りました これを励みとした氏子並びに崇敬者の早期再建の願いに応えて 町内外の有志 七百余名の浄財と神具備品及び屋根銅板の奉納を受けて 昭和六十年六月竣工七月六日遷座 翌七日神社本庁より献幣使が参向し竣工奉祝大祭を斎行しました 僅か二年の短期間で再建が叶ったことは 当神社の御神威と崇敬〇〇〇の総力の賜ものです。神輿二基及び参道などの工事を実施し 更に篤志の方々より鳥居二基の奉納を受けて再建事業を完了し茲に碑を建て記念します。昭和六十二年一月吉日 若宮神社 宮司感見武 再建委員会 藤田○書」「記念 社殿改築鎮守若宮神社御祭神は、仁徳天皇に座します 享楽四年千葉之介常胤の後裔臼井宗左衛門尉なるもの、鎌倉より源家の旧縁により、鶴岡若宮明神を奉載してこの地に移住し当社を建立以て氏神となし崇敬奉祀す。爾来、氏子の崇敬益々厚く常に社宇の廃頽を憂い、之が改築を成し、現に慶長十六年及寛永六年正保二年の御造営の棟札をするす。殊に一回社殿は明和七年の建造に係り、その荒廃甚だしく、氏子一同之を恐耀し大正四年村社に列格の際、改築の議起こり、爾来資金を蓄積し、今日に至り、機漸く熟し、茲に全く社殿の改築とともに境内整理の完成を告ぐ。依て之を永遠不朽に傳へんとて此の碑を建つ。 昭和十年八月 社掌 感見彦治謹誌」この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものと。「この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり」。左手にあったのが「神輿殿」。内部には大きな「神輿」👈️リンク が鎮座。右にはやや小さい神輿。神輿パレードの際の「若宮神社」の神輿の写真をネットから。手水舎。背後には自治会の施設か?石段の上には二の鳥居、さらに石段の先に拝殿。二の鳥居。狛犬(右)。廻り込んで。狛犬(左)。廻り込んで。石段の上に拝殿。鳥居の柱の一部と割れ目の判る扁額。「宝暦七年三月に建立されたこの鳥居は二百三十年の歳月で風化し且つ柱が折損して崩壊の虞れがあったので御社殿再建を記念しこれを建て替えて旧社号額および柱の一部を此処に移し保存します。昭和六十一年十月吉日 鳥居奉納者一同」先代の扁額「若宮神社」。拝殿の左側にあったこの建物は蔵であっただろうか??拝殿に近づいて。拝殿の折れ戸(折戸)は開いていた。拝殿の扁額も「若宮神社」。内陣。祭神 仁徳天皇 ( にんとくてんのう ) 天照大神 ( あまてらすおおみかみ ) 大物主命 ( おおものぬしのみこと )創建 1531年(享録4年)例祭 7/24,25ズームして。拝殿の右手にあった境内社の「八雲神社」。扁額「八雲神社」。社殿。砲弾。若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座している。柵石に、「征露紀念」と「明治三十九年二月 氏子中」と刻まれていることから、日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたものであろう。砲弾の高さは役80cm、直径は28cmである。台座は、レンガ造モルタル張りである。調査当時は、碑は傾き、周辺も荒廃した状態であったが、最近きちんと整備された。なお、境内には、他にも旅順港口閉塞船に積まれていた石が記念碑の台座に使われている と。右側には多くの石祠が並んでいた。正面から。狐様の姿も。いろいろな場所から集められたものか?「若宮神社」の「本殿」を横から。春日造の本殿。春日大社に代表される春日造は、出雲大社に代表される大社造と同様に、切妻造・妻入ですが、屋根が曲線を描いて反り、正面に片流れの庇(向拝)を付しているのが特徴。再び御神木の大銀杏とその陰。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.21
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この日は5月3日(金・祝日)、前回訪ねる事が出来なかった、西浦賀にある「千代ケ崎砲台跡」そして「ポンポン船」に乗り「東浦賀」に渡り、「東浦賀」の名所旧跡を巡ることとする。早朝6:40過ぎに自宅を出発し小田急線、横浜市営地下鉄を利用して京急「上大岡駅」へ。そして特急「京急久里浜」行きに乗り「京急久里浜」駅に向かう。前回、「ペリー上陸記念碑」から引き返す際に、訪ねたかった場所があったが、時間的に無理と判断し、次回に訪ねようと考えていたからである。そして8時前に「京急久里浜」駅に到着。「京急久里浜」駅の改札口を振り返って。東口に出て、「平作川」に向かって散策開始。右手奥にあったのが「はろーど久里浜」商店街。そして「平作川」に沿った国道134号に出る。「国道134号」は、起点の横須賀市から、三浦半島や湘南地方を海岸線に沿って通行し、国道1号との接点である、終点の中郡大磯町に至る路線で、神奈川県の海岸線を東西方向に結んでいる一般国道。「国道134号」の起点が、横須賀市内の東京湾沿いの横須賀市三春町二丁目の国道16号であることを初めて知ったのであった。横須賀南警察署(旧浦賀警察署)久里浜交番が右手に。そして「国道134号」が「県道210号線」、「県道211号線」と交差する「夫婦(めおと)橋」交差点。なぜ「国道134号」に「線」を付けないのでしょうか?国道の路線名や起終点、経由地を規定した「一般国道の路線を指定する政令」において、各国道の路線名は「〇号」と、「線」が付けられていません。したがって国道においては、「国道1号」などと「線」を付けない表現が正しいことを以前に知ったのであった。複雑な道路標識をズームして。この交差点で直角に曲がる国道134号、そして県道210号線、県道211号線の表示が。県道210号線は夫婦橋で平作川を渡ると国道134号・神奈川県道211号久里浜港久里浜停車場線と合流、両道路との重複区間となり、平作川右岸を進んで終点・JR久里浜駅に至る。県道211号線の起点では神奈川県道212号久里浜港線から分岐し、暫く海岸沿いに北東へ向かったのち開国橋付近から平作川に沿って北西へ進む。夫婦橋では国道134号・神奈川県道210号浦賀港久里浜停車場線と合流し、両道路との重複区間となってJR久里浜駅前へと至る。「国道134号」には面白い道路名「尻こすり坂通り」と。1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」という標識が掲げられている。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまうことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km とネットから。さすがに、歩行者の尻こすりではなく荷車の尻こすりであるようだ。横断歩道を渡ると前方・夫婦橋のたもとに高さ2.1mの笠塔婆型の石塔が立っていた。「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」。内川新田開発記念碑は砂村新左衛門政次が、万治3年(1660年)から8年を費やして完成した内川新田開発工事の記念碑である。「横須賀市指定史蹟内川新田開発記念碑昭和四十三年五月十日指定この石碑は砂村新左衛門政次が、万治三年(一六六〇)より寛文七年までの八か年をついやして苦心のすえに完成した内川新田開発工事の記念碑である。碑文によれば、内川入海の新田工事は、労苦の積み重ねで、ことに水門建設は難事業であったことが知られ、完成にさいし、神仏の加護に感謝する思いがしるされている。この新田開発によって当初は三百六十石余りの生産高が得られ、さらに数年後に二百二十五石の増加があったという。本市内における最大の新田工事であり、また久里浜の発展過程を知る貴重な史跡である。砂村新左衛門は当時、土木事業の数少ない指導者で、江戸の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの新田開発にその手腕を発揮した。寛文七年十二月十五日に歿し、その墓は当地の正業寺(しょうごうじ)にある。 平成八年一月 横須賀市教育委員会」碑の表面、中央に「南無阿弥陀佛」、右に「霊巌寺」へ 左に「大誉(花押)」とあった。碑文は次の通り。「相州三浦内入海新田並八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破損八ケ年致 苦労尽工夫時依蒙仏神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現当二世安楽也 寛文七丁未年三月吉日 砂村新左衛門尉政次 敬白」 。 右側には夏、紅色の花が咲くキョウチクトウの花が刻まれていた。「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」の近くにあったのが「久里浜の歴史を知ろう(夫婦橋の由来)久里浜は江戸時代まで森崎や公郷(くごう)、池田、衣笠近くまである大きな入り江で上げ潮になると海水が奥まで入る温地帯で葦が一面に生えていました。この湿地帯に1660年頃砂村新左衛門という人が、内川新田と呼ばれる新しい川畑をつくりました。しかし、中央を流れる川はいくども洪水をおこし、そのたび田畑は荒らされ作物は収穫できませんでした。この洪水を防ぐため上手にたくさんの松の木を植えたり、橋を作ったりしましたが何回も上手は崩され橋は流されました。しかし、たくさんの困難な状況を乗り越えて、作物が収穫できる新田が完成しました。また、川の中央に中州を作り海水が新田に入らないように掛戸(かけど)という水門を作り、その上を人が行き来できる2つの橋を架けました。この橋は2つの橋であることから夫婦橋と呼ばれるようになりましたが、関東大震災で中州は壊れ現在のようにひとの橋になりました。中州には水門が完成したことを記念する碑がありましたが、現在の場所に移築されました。また、当時の夫婦橋は現在の人道橋の近くにありました。私たちは、多くの人々の労苦がしみ込んだ夫婦橋の由来を忘れてはなりません。 令和3年(2021年3月) 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」関東大震災前の中州のある「夫婦橋」の姿。大正時代絵葉書より(絵葉書提供 久保木実様)1825年ごろの記録によると、一つの橋の長さは約30m、幅は2.4mであった。材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていたとのこと。「かながわの橋100選」と。現在の「夫婦橋」を見る。「夫婦橋」は、3径間連続変断面鉄筋コンクリート道路橋で、昭和29年に建設された。橋長33mで、河口の久里浜港にも近く、浦賀港と久里浜、三浦市方面とを結ぶ要路にある橋。親柱の上に照明灯が。「国道134号」の横断歩道を渡る。「夫婦橋」。その先にあったのが「夫婦橋風景」と書かれた案内柱。「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選 夫婦橋風景」。「夫婦橋夫婦橋には300年以上の歴史があります。新夫婦橋をいつまでも大切に使ってください。この橋はいつ頃からかかっているのでしょうか。橋の歴史は、およそ330年前(1667年)の内川新田開発工事までさかのぼります。この工事で造られた、海水の逆流を訪ぐ水門が夫婦橋の始まりです。当時はどのような橋でしたか。昔は中央に中洲があり、ニつの橋が夫婦のように仲良く架かっていました(現在の人道橋あたり)。また、1825年頃の記録によると、ひとつの橋の長さは約30m、幅は24mほどでした。材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。夫婦橋の「人柱伝説」とはどのような話ですか。昔の夫婦橋(水門)は、平作川の洪水で幾度も流されていました。そこで貧しい人夫の美しい娘が「神の怒りを鎮めるため」犠牲となって、橋の下に埋められました。その後、夫婦橋は大雨が降り続いても流されなくなったという悲しいお語です。実話はどうかはわかりませんが、昔から多くの人々が、平作川を治め、夫婦橋を守るために大変苦労してきた様子を伺うことができます。旧夫婦橋は「かながわの橋100選」に選ばれました。神奈川県では、県民の皆さんに神奈川を見つめ直し、郷土への関心をより深めて頂くため、昭和51年度から「かながわ50選・100選シリーズ」を始めました。平成2年度には、第15回目として「橋」をテーマに選定を行い、「地域のシンボルとして住民に親しまれ、歴史的にも由緒ある橋」としてこの夫婦橋が選ばれました。新しい夫婦橋のデザインはどのようにして決められましたか。道路計画並びに河川改修計画の実施による架替えにあたり、専門家を交えた委員会を設置し、周囲の景観との調和や、橋が持つ歴史性に考慮したデザインを検討しました。 (夫婦橋景観検討委員会)また、地域の皆様に親しまれ、末長く大切にされう橋であるように、地元の代表の方々より、様々な意見を頂きました。 (夫婦橋整備実施連絡協議会を設置)何をイメージしていますか。親柱や橋詰めの松は、名前の通り仲むつまじく寄リ添う夫婦の姿をイメージしています。全体は和風で統一し、まるみと親柱の照明灯の色は暖かみのあるものを選びました。親柱の文字は地元の小学生が書きました。橋の四隅にある親柱には、橋名と河川名を横須賀市立久里浜と明浜小学校児童の皆さんに、心を込めて書いて頂きました。橋名 「夫婦橋」竣工 平成8年3月工期 平成3年度~平成7年度橋長 L=37.0m幅員 W=18.0m(車道10.5m、歩道5.0m+2.5m)橋梁形式(上部構造)1等橋(TLー20)単純鋼床版箱桁橋 (下部構造)逆T式橋台(直接基礎)施工者 神奈川県横須賀土木事務所」我が上記写真では解読不明のため、下記写真をネットから。「明治40年頃 久里浜夫婦橋附近の追想 石渡勇画より」とネットから。「夫婦橋の人柱(ひとばしら)の伝説内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が出はじめました。その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いてくれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音になり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ)ぐみました。それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨がふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。 (田辺悟著「三浦半島の伝説」より」歩行者専用の人道橋を上流側に見る。昔の「夫婦橋」は現在の位置から約100m上流のこの人道橋の位置にあったと。下を流れる「平作川」の下流側を見る。現在の夫婦橋。夫婦橋を渡る。再び久里浜海岸方向を。久里浜市「消火栓マンホール蓋」黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と 赤いはしご車を描き、下部は青地に消火栓の文字。蓋全面に滑り止めの模様が入っていて、デザインも滑らないようにブツブツで 描かれています。民家の庭の「チロリアンランプ」。近づいて。別名 「浮釣木(うきつりぼく)」 、「アブチロン」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.20
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「関東大震災慰霊塔」の前にあった横須賀市の雨水マンホールのカラー蓋。「2020年浦賀奉行所開設300周年」記念の雨水マンホール蓋。その先にあったのが「浦賀の渡し」。「浦賀の渡し」。浦賀の渡船(うらがのわたしぶね)とは、神奈川県横須賀市浦賀で運行されている渡し船。浦賀の町で古くから運航しており、ポンポン船の愛称で親しまれている。現在は繊維強化プラスチックによる装飾で御座船風に仕立てられた愛宕丸(あたごまる、全長9.5メートル、総トン数4.8トン、1998年就航)による運用だが、それ以前は普通の動力船であった。水上区間であるが横須賀市の市道2073号線を構成。東渡船場(東浦賀賀2-19-10先)と西渡船場(西浦賀賀1-2-19先)を3分で結ぶ。横須賀市唯一の市営交通事業であるあったが、2022年(令和4年)4月に民間に事業譲渡され、市の事業としては役目を終えたのだと。待合室。ここが「西渡船場」。「東渡船場」に停泊中の「愛宕丸」をズームして。「乗船料」案内。「【乗船料】料金は船内でお支払いください。・大人 400円(横須賀市民200円)・小・中学生 200円(横須賀市民100円)・未就学者 大人1名につき1名まで無料・ワンデイパス大人 600円・ワンデイパス小・中学生 300円・自転車および大きな荷物 50円渡船場渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」 には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。この航路は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、シンボルの一つです。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ」「ご乗船の方はこのボタンを押して下さい ➡️ ●」と。この時は、対岸の東渡船場に渡し船「愛宕丸」が停泊していたのであった。「渡し船 就航中」と。渡し船の乗船は次回とし、さらに入江に向かって進む。左手に見えたのが「西叶神社」の一の鳥居、二の鳥居、社殿が見えた。遊歩道は赤レンガと灰色レンガが全面に敷かれ、波の模様に。再び約10km先の房総半島の山々を。そして前方に日本最古のレンガ造りドック・「浦賀ドック」の「ドックゲート」が現れた。そして対岸の「渡船」が動き出したことに気がついた。「ポンポン船」の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段であると。この渡し舟は、浦賀に奉行所が設置されて間もない享保10年(1725年)ごろから記録に登場しているとのこと。現在も時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれるのだ。「ポンポン船」の愛称で親しまれている「愛宕丸」。ズームして。お客さんは1名のみ。そして日本最古のレンガ造りドック・「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」に近づいて。ドック内の船を外洋に出す時は、この中が空洞の「ドックゲート」が海側に倒れ込み、空洞内部に海水を入れ込みながらドック底部で水平となるのだと。浦賀ドックの敷地内には大型テントが建設中であった。ネットで調べてみると、「2024年4月27日(土)~6月23日(日)の期間、横須賀市の浦賀ドックにて、「ポップサーカス」👈️リンク が開催されます!」と。「POP circus WORLD TOP PERFORMERS」と。再び横須賀市雨水マンホール蓋。「観音崎灯台」、「黒船」を背景に「ペリー提督」を描いた雨水用の蓋。こちらは市の花ハマユウと中央に市章。 下部に「車道」と「あめ」の文字が。「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選浦賀造船所浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技 術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しましたこの浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千隻にのぼります。現在もなお技術革新の騎手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。」浦賀駅前通り商店街歩道に埋め込まれた「咸臨丸」パネル。「歌川広重「千繪の海 相州浦賀」初版1833年 天保4年」。葛飾北斎が浦賀の風景を描いた「相州浦賀」である。遠方の海面や空は藍色でありながら、前景は大胆に濃墨で潰され、拭きぼかしが用いられていて水面の微妙な色の変化がつけられるなど、夜も白みはじめた海浜の雰囲気が上手に表出されている「千絵の海」は、葛飾北斎(1760~1849)が天保4(1833)年頃に発表した10枚揃物で、関東地方を中心とした海や川での漁労風景を描いたものです。「総州銚子」「総州登戸」「総州利根川」「相州浦賀」「甲州火振」「絹川はちふせ」「宮戸川長縄」「五島鯨突」「蚊針流」「待チ網」から成る。中央に描かれているのが、燈明堂と思われる。美しい青い海を背景に、小さいながらも存在感は抜群だ。版画寸法:縦185 x 横265mmこの水路は?昔は浦賀湾に流れ込む小川があったのであろう。旧浦賀警察署向かい 御菓子司 太平堂の隣にあったのが浦賀町「道路元標」。裏側には「神奈川県」って書いてあるらしい。「1919年(大正8年)の旧道路法で、市町村に1基ずつ設置することとされていました。1922年(大正11年)、形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、1万2000以上あった市町村の自治体中心部に設置され始めました。設置場所は府県知事が指定し、ほとんどは市町村役場の前か主要道路の交叉点に設置されました。浦賀の場合、浦賀町役場のすぐ近くってコトでしょう。大正時代に設置された道路元標の大きさは、縦横25cm、高さ約63cmの直方体で、頂部が弧を描くように丸く削られ、材質は花崗岩が多いです。地方によって若干の差異があり、コンクリート製作もあります。「○○村道路元標」、「○○町道路元標」のように市町村名を刻み、背面に設置年が彫られている場合ことが多いです。1952年(昭和27年)施行の新たな道路法によって、新しく設置されることがなくなり、無用のものとなったため開発工事に合わせて撤去されることが多くなりました。」とネットから。横須賀市浦賀4丁目5−1。裏側には「神奈川県」と。そして「久里浜駅」行きの京急バス。次回はこれも利用しようと。そして浦賀駅の少し手前の場所に、小さな案内看板が建っていた。「屯営跡の碑」👈️リンク と記されている看板を再び。明治8年(1875年)に、この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、明治18年(1885年)に「浦賀屯営」と改称され、多くの水兵を送り出した場所です。この碑は住友重機械の敷地内にあって、残念ながら見学できなかったが、浦賀という街が近代日本とともに歩んできた街という印象を、さらに強くしたのであった。「浦賀屯営」と「屯営跡の碑」と。そしてこの日の朝に見た「浦賀歴史絵図」を再び。そして京急・浦賀駅に到着。京急・上大岡駅で下車し、駅ビル内で腹ごしらえ。そして横浜市営地下鉄、小田急線を利用して帰宅したのであった。この日の京急・浦賀駅からの散策ルートmap。この日の歩数は30,000歩超えであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.05.19
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「燈明堂」を後にして、都市計画道路「 浦賀野比線」に向かって引き返す。左に曲がると、先ほど通った「長瀬隧道」への道であるがここを直進。「浦賀野比線」との交差点まで戻ると、正面の擁壁には様々な壁画が描かれていた。セーリングヨットの陰刻絵画。先ほど訪ねた「ペリー公園」、「燈明堂」案内表示。再び「旧川間ドック」を眼下に見る。全長136.7m、幅16.4m、深さ9.7m。ゲートが取り外されているので海水が入って、プレジャーボートが係留されていた。この「川間ドック」👈️リンクは明治31年に日本で初めてつくられたレンガドックだが、設計・築造したのは、横須賀製鉄所で学んだ恒川柳作や大倉粂馬、山崎鉉次郎ら。日本人による初のレンガドックである。「川間ドック」の写真をネットから。ドックの形は、先頭部分が丸くなっていて浦賀ドックとほぼ同じだが、煉瓦の積み方が少し異なる。こちらはイギリス積みによく似たオランダ積みである。長手だけの段と小口だけの段を交互に積むのはイギリス積みと同じだが、長手段の端で七五(レンガの長手方向の長さを3/4にしたもの)を用るのがオランダ流である。そして道路は浦賀湾の海岸に出る。対岸が東浦賀地区。右手にあったのが「浦賀港引揚記念の碑」。横須賀市西浦賀1丁目11−2。「浦賀港引揚記念の碑昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。 横須賀市」前方に「陸軍桟橋」。対岸に見えたのが「叶神社 (東叶神社)」。四阿で一時休憩。左手の道路沿いにあったのが「よこすか浦賀病院」。旧住友重機械健康保険組合 浦賀病院。1897年(明治30年)に設立された「浦賀船渠」の浦賀工場診療所として大正元年8月1日開設 。昭和19年6月1日 浦賀造船所病院と改称、昭和30年4月4日 浦賀船渠(うらがせんきょ)病院として開設。「陸軍桟橋」案内図。この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものてある。太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋てある。また、この場所は、享保6年( 1721 )に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査か行なわれた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定をはかるために行なわれ、港町・涌賀の繁栄にもつながった。※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。L字形の桟橋。案内図に近づいてL字の「陸軍桟橋」を。停泊中の砂、砂利運搬船の姿も。「第三十一勝丸」と。L字柄の桟橋の曲がり角から四阿、ウッドデッキを振り返る。再び、対岸・東浦賀の街並みを。左に振って。「船番所跡」案内板。18世紀に入るころから国内では生活物資の生産が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸に出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。その船番所があったのがこの場所です。 浦賀観光協会」「異国船を取り巻く船番所の警備船」。ネットから。「船番所跡浦賀奉行所の出先機関で、享保六年から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方(さんぽう)問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「船番所の模型(浦賀郷土資料館)」。「三十一勝丸 上天草」を再び。手前はタグボート、その横のオレンジ色の船は「東京湾スイムピクニック(船をチャーターしてクルージング形式)」のチャーター船とのこと。ここ浦賀港から船で出航し、対岸の千葉県へ渡り、館山〜富浦〜岩井の沖合をクルージングしながら絶好のポイントでオーシャンスイム、オーシャンスイムを楽しんだらまた船に乗り次のポイントへ、だ〜れもいないポイントでたっぷりとオーシャンスイムを堪能できるのだとネットから。「砂・砂利運搬船」の「第十八住吉丸 壱岐」。こちらも「砂・砂利運搬船」の「第十五大福丸 徳島県徳島市」。カナメモチの生垣とツツジに囲まれた遊歩道を歩く。「現在位置」はここ。横須賀市西浦賀1丁目15。「横須賀市南消防署浦賀出張所」の先にあった石碑。「大正十二年九月一日 関東大震災慰霊塔」。「関東大震災の慰霊塔大正十二年(一九二三)九月一日十一時五十八分、関東地方に大地震が発生しました。昼食時と重なって東京や横浜では大火災となり多くの人命と家屋が失われました。ここ浦賀でも崖崩れや火災などにより大きな被害を受けました。特に西浦賀では、愛宕山が崩れ、通行中の七人が生き埋めとなり、浦賀町だけでも二百二人の生命が失われました。戦後、この塔は震災と海難の犠牲者慰霊のため再建され、毎年八月上旬の浦賀みなと祭りで慰霊祭が行われています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「浦賀の被害状況」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.18
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「ペリー記念館」、「ペリー公園」を後にして、「ペリーロード」まで戻る。遊歩道の巨大なヤシの木。「カナリーヤシ」であろうか?アフリカ西海岸、カナリア諸島原産なのでこの名がある。宮崎県の公式ページによると、病害虫に強く長寿なことから、不死鳥(フェニックス)の名前が付けられたとされるとウィキペディアより。その奥が久里浜海岸。巨大なヤシの木に近づいて。存在感があり、南国イメージがあふれる代表的なヤシ。先ほど歩いて来た「ペリーロード」を浦賀方面に戻る。「開国橋」交差点。「開国橋」。再び下を流れる「平作川」上流を望む。次の目的地の「千代ケ崎砲台跡」に向かってひたすら引き返す。前方に「川間隧道」の久里浜側の入口を再び見る。「川間隧道」を左に見ながら旧道を進むと前方に「長瀬隧道」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m「長瀬隧道」の久里浜側入口左にあった地蔵様。なんだか太目のおばさんに見えたのであった。下には「交通安全」と記されていた。この場所で過去に交通事故が発生したのであろうか?「長瀬隧道」を通過し、「千代ケ崎砲台跡」方面の道路と交差するT字路まで戻る。後に訪ねた「浦賀燈明堂」案内板が左手に。「浦賀燈明堂灯台の先柤というべき施設で、慶安元年(1648年)幕府の命により建てられました。菜種油を灯火の原料とし遠くまで照らすことで浦賀港に入ってくる船の安全を守りました。明治2年(1869年)日本初の洋式灯台である観音崎灯台が建設されたことによって燈明堂は役割を終え、建設から約220年過ぎた明治5年(1872年)に廃止となりました。現在は、残った石垣の上に当時の外觀が復元されております。」「燈明堂跡」まで約600mと。「千代ケ崎砲台跡」はここを右手に進み、坂道をひたすら上って行った。「千代ケ崎砲台跡駐車場」案内板。「土日祝のみ」、「閉場」の文字があったが、この時点では気が付かなかった。急な坂道を息を切らせながら上って行った。「国史蹟 東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡」案内板があった。そして前方には「関係者以外 立入禁止」札がロープにぶら下がっていたのであった。スマホで調べてみると『国史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡は土曜日・日曜日・祝日に公開を行っております。』と。この日は、4月16日(火)の平日であったのだ。事前調査不足を痛感!!次回のチャレンジを誓って「文化財説明板」の写真を撮影。「国指定史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。」「東京湾要塞とは日本で初めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一砲台・第ニ砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年( 1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。」日本遺産千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミューシアム」のサテライト施設でもあります。千代ヶ崎砲台の構造千代ヶ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門すっ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。利用場の注意等・公開日 土・日・祝(ただし、12月29日~ 1月3日は除く)・公開時間 9時30分~ 16時30分( 3月~9月) 9時30分~ 15時30分( 10月~ 2月)・史跡内は足元が悪いところがありますので、ご注意ください。・公開工リア以外の場所は、危険なため立ち入りを禁じます。・史跡は国民共有の財産です。構造物を傷つけることや、地面の掘削をすることは禁じます。・地下施設の内部は、市教育委員会認定ガイドと同伴のツアーのみ見学でき、許可のない 立ち入りは禁じます。再チャレンジを期し、引き返す。下り坂から浦賀湾入口の「横須賀市鴨居2丁目」の住宅街を見る。さらに下ると、眼下に「川間ドック跡」が見えた。白い高層マンションは「ヴェラシス浦賀1番館~3番館」。突き当りを右に折れ、「燈明堂200M」に向かって進む。右側には公衆トイレも設置されていた。そして「横須賀市指定史跡 燈明堂跡」に到着。横須賀市西浦賀6丁目。左手奥には石柱、石碑が。「名号碑(題目供養塔 )」 天保11(1840)年7 月建立 。角柱、高さ台座を含め約4m。前面:南無妙法蓮華経右側面:「一切業障海」「皆従妄想生」左側面:「衆罪如霜露」「恵日能削除」 (海のように広がっている悟りの邪魔になるすべての悪行は、皆正しくない考えから生まれる。 多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、霜や露を 消し去るように、仏の知恵はすべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、その 生物が犯した全ての罪を消滅する。)と。裏面:干辰天保十一歳次庚子七月中浣八鳥願主 東耀山 日鳴(花押) 法界平等・・・松崎屋與兵衛台座前面:「海上安全」 廻り込んで正面から。「千代岬瘞骨(えいこつ)志碑」。浦賀奉行浅野中務少輔長祚(ながよし)が嘉永二(一八四九)年二月に建立した碑。「千代岬台場建設中に出土した人骨を供養したもので、弘治二年(ー五五六)十月に房州から攻め入った里見氏と小田原北条氏との合戦の戦死者と推測される」と記されていますが、この付近で合戦があったとする記録はなく、確たる資料も見当たらないと。 そしてこちらは「地蔵菩薩像」燈明堂付近はかつて浦賀奉行所の処刑場だったといわれ、首切場とも呼ばれた。地蔵菩薩像は、死者を供養するために建立された、物流の拠点として栄えた浦賀の回船問屋などが海難者を供養するために建てたというニつの説があるとのこと。天保11(1840)年10 月建立丸彫、像高さ 71 ㎝、基壇高さ 142 ㎝基壇前面:種種重罪三逆消滅 自他平等即身成佛(観音経秘鍵偈・観音経の秘密の奥義、経などの 中に韻文の形で仏の徳を賛嘆し教理を述べたもの)基壇右側面:天保十一庚子年十月 東福寺祥麟(花押)基壇左側・背面に発願元、願主、世話人など 90 名程の名がある。「燈明堂とその周辺慶安元年(一六四八)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治五年(一八七二)までその役割を果たしました。燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ外国船に備えました。平根山台場は天保八年(一八三七)日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。ここから海岸線沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ヶ崎台場がつくられました。燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「幕末期の燈明堂周辺の絵図」。南側の海岸線を見る。ズームして。「浦賀水道」越しに房総半島の山々を見る。上総湊~浜金谷方向を望む。「燈明堂」に向かって狭い遊歩道を進む。「燈明堂にようこそ」燈明堂跡及び周辺地域 昭和43年2月10日指定燈明堂は慶安元年(1648年)から明治5年(1872年)まで、浦賀に出入りする船の安全を守った燈台です。この史跡を郷土の宝として、また歴史の学習や憩いの場として活用し、私たちの子孫に受け継いでいくために、次のことを守ってください。・・・以下 略・・・この史跡は、燈明堂跡とその周辺の土地を指定しています。指定地内には、築造当時から残る石垣とその上に復元した燈明堂のほかに、3基の石碑が建立しています。①地蔵菩薩像供養塔 天保11年(1840年)建立 死者を供養する碑で、台石左側面から裏面には世話人願主名が記されています。②題目塔 天保11年(1840年)建立 大きく「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑です。③千代岬瘞骨(えいこつ)志碑 嘉永2年(1849年)建立 碑文には千代ヶ崎台場の工事中に出土した人骨を埋葬したこと、その他に北条氏と里見氏の 合戦による戦死者ではないかと推測していることが記されています。 横須賀市教育委員会」「燈明堂」位置図。浦賀湾越しに東浦賀2丁目方向の街並みを望む。その右側には「かもめ団地」。そして「燈明堂」。横須賀市西浦賀6丁目46番地。「横須賀市指定史跡燈明堂跡(浦賀燈明堂) 昭和43年2月10日指定」復元なった浦賀燈明堂の建つ、この場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂跡地である。燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕史石川文左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台にして、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に、金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に、灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に、浦賀奉行に所管替えとなり明治になり、神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは、徳川幕府が賄っていたが、同四年から、東浦賀の干鰯問屋が、一切を負担するようになった。明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって、1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で、極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある、大きな石で、高さ約1.8m、幅3.6m、四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。燈明堂跡は、大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の粋を結集して、当時の姿そのままに復元された。 (起工 昭和63年10月、竣工 平成元年3月) 横須賀市教育委員会」上記の本文では、この燈明堂は“灯心百筋と菜種油一升"と記載されていたのですが、本来は干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油が正しいのだとのネット情報もあったが・・。「燈明堂復元北西立面図」。□3m☓高さ7.321m と。燈明堂の先には岩場が拡がっていた。岩場上から松の樹に囲まれた「燈明堂」を見上げて。岩場を移動して「燈明堂」を振り返る。ズームして。山から突き出たこの構造物は?神奈川県立観音崎公園の「戦没船員の碑」の先端が見えたのであっただろうか?浦賀水道を巨大な貨物船が航行。RORO船 「 第三はる丸 」 ( 大王海運 )か。RORO船👈️リンク のROROとは「Roll on Roll off」の略で、直訳すると「乗せて降ろす」を意味します。RORO船は今、2024年に懸念されている物流問題の対策として、注目されている存在なのだ。「RORO船」と小型船が行き交う。再び岩場越しに「かもめ団地」をズームして。千葉県君津市にある日本製鉄㈱の東日本製鉄所をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.05.17
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「ペリーのおいたちマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1794年4月10日、ロード・アイランド州ニューポートで生まれました。活発な少年時代を過ごし、わずか15歳で、海軍士官候補生となりました。20歳の時、ジェーン・スライデル( Jane Slidell)と結婚し、暖かい家庭と子供たらに恵まれました。日本遠征から帰国して数年後、1858年3月4日、ニューヨークで亡くなりました。63歳。」「ペリー着用のモール、ボタンと指輪の複製」。「ペリーの生い立ち」コーナー。「ペリーが生まれ育った家」マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督は、1794年にロードアイランド州ニューポートで海軍軍人の三男に生まれた。「ペリーが娘イザベルにあてた手紙(1843年9月6日)」「日本へ来る10年前、船上で書いた娘イザべルあての手紙には、やさしさあふれるペリーの慈父ぶりか読み取れます。家族への愛と、仕事に対する謹厳さか対照的です。」ロードアイランド州ニューポートにあるペリーの生家。ペリーが家族に送った手紙。娘に細やかにあれこれ書いて送っている。喧嘩するんじゃないよ、と。ここに描かれているのはまさしく一人の父親としてのペリー。子供は10人いるが、ペリーより早くなくなってしまった子供が3人もいる。父親としての悲しみはいかほどのものだっただろうか。「セント・ビンセント岬沖のサラトガ号艦上にて 1843年9月6日わが愛する娘イザベルよ。今日、わたしは、おまえのお姉さんのキャロラインへ短い手紙を書いた。同時に、イザベルおまえにも手紙を書いてあげたくなったよ。この手紙が届いたなら、二人ともすぐにお父さんに返事を出しておくれ。お願いするよ。お兄さんのウィリアムが、いつもやっているように、手紙を出すチャンスがある時にそなえて、おまえも日記のようなものを作っておくとよい。なぜかといえは、おまえはいつもお母さんの手伝いで忙しいとおもう。たぶん、手紙を書く時間があまりないだろうから。また、お母さんや叔母さんたちの言いつけをよく守り、一生懸命に勉強しなさい。おまえは、お母さんといっしよに庭の手人れをし、果樹の植えかえを手伝いなさい。それからもうひとつ、庭に植えてあるマテ茶やブドウの木の手入れをやってくれているでしょうね。ウィリアムとともに、イザベルと家族全員に心をこめてこの手紙を送る。わたしの最愛の娘に幸せあらしめ給え。 おまえの愛する父 M.C.ペリー追伸、キャロラインが寄宿学校から帰ったなら、おまえは、かんしきゃくを起こして、けんかなどしてはいけない。姉さんが気持らよく過ごせるようにしてあげなさい。おまえたち二人が、お父さんと兄さん、そして、甥のオリバーや寄宿している姉妹たちのために、毎日お祈りすることを忘れないで欲しい。」「ペリー提督の子供達」。来航から開国に至るまでの変遷を床に描いた、子ども向けの「すごろく」が床面に。映像展示「ペリー上陸の日を描いた絵図」。「米国国書受領之図」〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉ペリーの久里浜上陸を南側から描いた絵図。絵図の上側には浦賀も描かれている。「日本側が描いたペリーたち」。映像展示の横にペリー胸像。近づいて。「特派大使・東インド艦隊司令長官マシュー・カーブレイス・ペリー 1794~1868」「ペリーを支えた部下たちペリーは、すぐれた指導者でした。しかし、遠征の艦隊と乗組員2,000名を動かすためには、有能な部下が必要でした。旗繿の艦長F.ブキャナンやH. A.アダムス参謀長は、事前交渉の役目以外に、ペリー上陸時の警備をしました。さらに、S. W.ウィリアムズ、A. L. C.ポートマンは、大事な通訳をこなしました。これらの人々の努力の結晶が、日本の開国を早めたのです。」下部は「ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物」。「日本人の見たペリー瓦版のなかには、ペリーたちを想像で描いたものもありました。これらの瓦版は、浦賀や久里浜から遠く離れた村の人々にまで読まれました。」近づいて。さらに。「企画展示 開國百年記念祭」「企画展示 開國百年記念祭ーペリー来航がつなぐ久里浜と日米友好の歴史ー1953年、ペリー来航から100年になるこの年、横須賀市・アメリカ海軍は盛大な記念式典を行いました。展示物は当時の様子を写した写真、作られた記念品等となります。多くの市民、米軍関係者が参加し、当時の熱狂ぶりが伝わります。開国百年記念祭は当時の劇作家「永田衡吉」を構成・監督とし、人気演劇学者であった「河竹登志夫」らを演出に迎え、執り行われました。当時の首相であった吉田茂が構想を練ったとも伝えられています。1953年(昭和28年) 7月26日、来航・上陸などを再現した劇や、国旗掲揚などの記念式典、周辺のパレードなどが盛大に行われました。劇の出演者は、外国人役は米軍の関係者、日木人役は役所の人間が出演したと言われています。(記念祭内容)記念碑正面から砂浜と海上を使い、号砲・花火、狼煙(当時の連絡を再現)、国書受渡しの劇、国旗掲揚の式典、ミンストレルショー(ペリー来航時に披露された出し物)の再現、市民が参加して黒船音頭などが行われました。」「開國百年記念祭」の様子。「ペリー来航開国百年 記念館建設協賛シール」1953年の記念祭で記念館協賛のため作られた。「日米百年祭」記念絵皿。「開国百年記念祭発行パンフレット 1953年アメリカ政府発行」。三浦半島のジオラマ地図もあった。このペリー公園・ぺリー記念碑があった。近づいて。左手に「剣崎」その先に「城ヶ島」。「戸田伊豆守の胸像」、「すごろく」を振り返って。「横濱開港新聞 創刊号 嘉永7(1584)年3月3日」「資料集『記念碑の知識』記念碑の除幕式です●記念碑建設委員会アメリカ退役海軍少将ビィアズリーの演説を受けて、政治家の金子堅太郎、星亨、山口熊野、菅原傳、東京府知事、帝国大学総長を歴任した渡辺洪基、外交官の長崎省吾、機浜商業会議所(後の横浜商工会議所)会頭の大谷嘉兵衛、銀座で日本を代表する煙草商の、江添商店・江添廉三、電話技術をアメリカから持ち帰った電気技術の加藤木重教、日本郵船の副社長もつとめた伊藤米次郎、など10人が米友協会から選出され、「記念碑建設委員会」が組織されました。そして、明治33年(1900年)12月5日にはビィアズリー氏をはじめ、設立委員が久里浜を訪れペリー上陸地の見分を行い、久里浜字大濱に「嘉永六年米国水師提督被留理氏上陸地記念碑」と題した木標(六寸角)を立てました。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の筆によるものです。除第式は明治34年(1901年) 7月14日、べリーの上陸と同じ日に行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、個人として榎本武揚や徳川家達、アメリカからビィアズリーやべリーの孫にあたるロジャーズ少将等、総数約1,000人で、久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど、盛大な式となりました。●記念碑の基礎知識記念碑の大きさは高さ4.5メートル、幅2.4メートル、重さは11.4トンに及びます。素材は仙台産の花崗(かこう)岩で、碑の台石は、相州産:根府(ねぶ)川石となっています。刻まれている文は伊藤博又の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれています。碑又を彫刻しを石工は、横浜の横溝豊吉氏。碑の字画は鮮明で、伊藤の筆勢をよく表し、特に、裏面の英文は除幕式に参列したアメリカ人からも称賛されました。また、碑文には「紀念碑」と表記されていますが、本文中では「記」の文字で統一しています。*広辞苑で、記念は「紀念」とも書く、と説明されています。」●引き倒された記念碑日米親善の象徴となった上陸記念碑ですが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦以降、アメリカに関係するもを性のものと憎まれ、記念碑にも矛先ガ向けられました。昭和19年(1944年)こは横須質市の翼賛壮年団を中心として、碑を粉砕して道路に敷こうという運動が起きました。これには軍人である鎮守府長官も『記念碑には罪はない!』と、とりあわなかったそうですが、ついに県知事の許可と受けて、昭和20年(1945)2月8日、碑は大綱を掛けられ引き倒されました。そのあとには「護国精神振起之碑」の木柱がたてられました。これは、評論家の徳富蘇峰の筆によるもので、後に石碑に代える予定でした。ところが半年後の8月15日に終戦となり状況は一転し、粉砕されずに残っていた碑は11月に復元されました。以後、この碑の前で毎年7月に横須賀市がペリーの上陸を記念する式典を開催しています。」●現在のペリー上陸記念碑昭和62年(1987年)5月1日に、市制80周年を記念して、ペリー記念館が開館しました。寄贈された黒船の模型や、上陸にまつわる貴重な資料が展示されています。」そして「ペリー記念館」を後にして、「ペリー公園」の西角に向かう。そこにあったのが「ぺるり上陸の地」碑。そして「ペリー上陸記念碑」の後ろ姿を再び。時間は13時。「久里浜~金谷フェリーのりば」案内板。「横須賀くりはま花の国」ポスター。「ポピー&ネモフィラまつり」ポスター。2024.4.6~5.26にて「横須賀くりはま花の国」にて開催中と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.16
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2階展示もあるので、階段で上がる。その途中にも所狭しと、貴重な資料が展示されていた。「ペリー記念館 掲示板」さまざまな「よこすか海軍カレー」が並んでいた。階段の壁に掲載された久里浜を写した写真を追う。「久里濱の風光」久里浜海岸と住吉神社。久里浜沖のアシカ島灯台。ペリー上陸記念碑とペリー一行の上陸の光景。ペリー提督の肖像とアメリカ本国から乗ってきたミシシッピー号。日本にやってきたペリー提督は、江戸幕府に沢山の土産を持って来た。ペリー提督から献上された汽車模型の図。「米利堅人饗応之図(複製)」。米利堅人饗応之図中の幕府へ献上した蒸気機関車模型の図。本物の蒸気機関車の1 / 4サイズで、動く蒸気機関車としては日本で初めて走った蒸気機関車として知られている。ミシシッピ号。「THE NAVAL AND MAIL STEAMERS OF THE UNITED STATES(複製)1955年ペリーを乗せて来航したミシシッピ号」。「黒船がやってきた!日本は.江戸幕府の支配のもとに、長い太平の世を過ごしていました。外国から見ると、それは「鎖国」でした。しかし、18世紀末から日本近海には、諸外国の船がたびたびやって来るようになりました。かれらは、通商と国交の開始を求めました。当時、世界は、大きく変わろうとしていました。欧米諸国は、アジアに工業原料を求め、そして、自国で生産された商品を売り込もうとしていました。」「ペリー立像の図」「アメリカの貿易と日本」「東洋へ進出するアメリカ独立して百年にもならない若いアメリカは、ヨーロッパに比べて、アジアの進出に出遅れていました。1818年、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を伸ばしたアメリカは、蒸気船を利用すれば、20日間で中国大陸へ到達することが可能になりました。太平洋を越えて、中国の茶と生糸を輸入し、ボストンなどで生産された綿製品を輸出する仕組みができたのです。日本は、アメリカと中国を結ぶ中間に位置していました。ペリーに代表されるアメリカの開国要求の目的は、ここにありました。」「瓦版と庶民の目ペリーに直接会えない庶民は、想像をたくましくしてアメリカ人を描きました。まったく間違いの描写もありますか、よく見ると、正しい地理の知識も含まれています。」黒船来航を伝える当時の瓦版.吉田松陰は1854年、ペリーが再来航したときに、海岸にあった漁船で旗艦に漕ぎ寄せて乗船した。そこでアメリカへの渡航を請願するものの、拒否されて願いはかなわず、下田奉行所に自首して投獄されたのであった。ペリー来訪の絵。横浜にて応接の図幕府からペリー一行への贈答品が記されている。横浜での交渉場面を描く。中央でひざまずく人物がペリー提督。向かい合わせで描かれた武士像は、幡や陣幕の紋は力の象徴であった源為朝を連想させ、武士にひざまずくペリーの姿は、日本の武威に従う異国という対外認識を示している。世界六大州ノ内北あめりか州ハ日本の東に当りて海上五千里ヨと云開闢より千八百五十四年独立建国して七十七年に相成日本嘉永六年六月合衆国の王「ふりしてんとくの命を請けて官差大臣提督まつちうせへるりと云書簡を持相州浦賀表へ渡来す又御願筋の義ニ付同七年正月十七日浦賀表へ来る同廿二日対顔ニおよふ左之一机 一料紙硯一花入 一火鉢 広蓋 一置物一吸物椀六百人前 一羽二重二十疋一紋縮緬五疋 一板メ縮緬五疋一大根 八百本 一にんじん五百本一ねき 七十把 一菜四百把一蜜柑 七箱 一鶉五十羽一玉子 千 一上菓子六箱一鶏 三百羽 一米二百俵但し五斗入使節へ一羽二重五疋 一板メ三疋一紋縮緬二疋船将九人へ一羽二重三疋ツ 一板メ二疋ツツ通弁官へ一板メ三疋ツツ●下方民之悦一右之品々二月二十二日於浦賀表天下大平之御代而是被下●「あめりかことば和解の写」。「戸田氏栄(とだ うじよし)胸像」、その前の床の「すごろく」を見る。戸田氏栄(とだ うじよし)胸像。戸田氏栄(とだ うじよし、寛政11年(1799年) - 安政5年8月21日(1858年9月27日))は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は従五位下・伊豆守。知行は500石。浦賀奉行としてマシュー・ペリー来航時の折衝役となった。大垣戸田家の分家、深坂戸田家6代当主である。「使節応接役・浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ・いずみのかみ・うじよし 1799~1858)」今にも言葉を発しそうな顔!!「ペリーの久里浜上陸」絵図。「ペリーの久里浜上陸1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、江戸幕府は、大統領フィルモアの親書を受け取るため、久里浜にペリーを迎える応接所を建てました。」「ペリーが会見場に臨む様子 画:尾形月山」。「1853年7月14日ペリー上陸直前に描いた絵巻物」。「アメリカ人久里浜上陸の図」。「ペリーの外交術ペリーの日本に対する態度は、以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは、全く違っていました。特派大使として、交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒否したのです。確固たる態度と自信。それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。ペリーは、無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を直ちに要求しませんでした。しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠りませんでした。」「横浜応接所に決定翌年2月(永7年1月)、ペリーは、再び江戸湾に現れました。予定されていた浦賀の応接所を横浜に変更させました。そして、ここで日米和親条約か結ばれました。」「1854年横浜沖に停泊する艦隊を描いた絵巻物」「1854年当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物」。艦隊移動の様子ペリー初時の浦賀奉行所と幕府の対応嘉永6年( 1853年)6月3日(7月8日) ペリー艦隊4隻浦賀沖来航、与カ中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に 乗り込み交渉6月4日(7月9日) 与カ中昌三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与カ番山栄左衛門が交渉6月6日(7月11日)ミシシッピー号江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う、番山栄左衛門が 抗議し引き返す。同日、江戸城大広間にて大評定が開かれ国書受領が決定される。6月7日(7月12日) 香山栄左衛門、久里浜てのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える6月9日(7月14日) ペリー久里浜に上陸、国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理6月10日(7月15日) ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まて侵入6月11日(7月16日) ペリー艦隊、小柴沖停泊6月12日(7月17日) ペリー艦隊 帰帆 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.15
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そして「ペリー記念館」を訪ねた。「ペリー記念館」では、ペリー来航に関する歴史的資料や模型などが展示され、当時の絵巻物や瓦版などから、人々の驚きや動揺を知ることができるのであった。記念館は、ペリー来航という歴史的事実や、その意義を将来にわたって伝えてい行くのだと。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内。「入館案内■開館時間 9:00~16:30■休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合 翌日)」■入場無料」館内入口右にあった「ペリー提督像」。近づいて。「ペリー上陸の地~久里浜 黒船来航170周年」ポスター。ペリー率いる黒船艦隊が初めて浦賀沖に来航したのは1853年7月8日。昨年は黒船来航170周年であった。 横須賀市久里浜にはペリー上陸記念碑や記念館、開国橋など黒船に関連した建造物等が多く存在し、また久里浜港 はみなとオアシス“ペリー久里浜”として国土交通省に認定されている。 さらには古くから黒船初来航のまちとして、毎年 7 月に“久里浜ペリー祭”も盛大に行われている。 この度、黒船フェリーを令和5年11月22日から運航することにより、横須賀を“黒船初来航の地”として広く周知し、横須賀市・地元観光協 会・地元商店街とともに観光活性化を図ったとのこと。 千葉・金谷を定期運航する「しらはま丸(3,351トン・旅客定員 680 名)」の船体を、黒船(サスケハナ号) に模したラッピング施工を行ったと。ユニークなラッピング!!船体の左右舷 黒船サスケハナ号の`蒸気外輪`を模写 …横須賀 久里浜⇔南房総 金谷/東京湾フェリー/(しらはま丸) と館内受付。受付で館内撮影可を確認。受付には入館者用の名簿が置いてあり、日付と名前を書くだけなので、すみやかに記入を済ませた。展示品配置図。横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。ペリー来航と開国の歴史を広く伝えるため、当時の様子が分かる貴重な資料などを展示していた。そして展示コーナーへ顔出しパネル「ペリー上陸の地 久里浜」。ホールの奥には、当時の黒船来航を再現したジオラマ模型が展示されていた。模型でも威圧感が伝わって来たのであった。「ペリーと黒船(ジオラマ)」。「1853年にやって来た4隻の黒船●蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン 全長 257フィート 2,450トン 大砲6門●蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー 全長 225フィート 1,692トン 大砲12門●帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー 全長 147フィート 989トン 大砲4門●帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター 全長 150フィート 882トン 大砲4門」移動してジオラマを見下ろす角度で。反対側から。中央に後に訪ねた「燈明堂」、右に「浦賀奉行所跡」、左奥に「久里浜湾」。「蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン中佐、乗組員 300名 全長 257フィート(78.33m) 重量 2,450トン 、大砲6門」「蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー中佐、乗組員数 268名 全長 225フィート(68.58m) 重量 1,692トン 、大砲12門」「帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー中佐、乗組員 210名 全長 147フィート(44.81m) 重量 989トン 、大砲4門」「帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター中佐、乗組員数 210名 全長 150フィート(45.72m) 重量 882トン 、大砲4門ペリー来航の歴史案内。「鎖国後の日本1603年(慶長8年) 江戸幕府を開く 1639年(寛永16年) 鎖国が完成する 1853年(嘉永6年) ペリー艦隊 浦賀に来航 1854年(安政元年) 日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ1856年(安政3年) ハリス下田に着任 1858年(安政5年) 各国と通商条約を結ぶ1860年(安政7年) 勝海舟 咸臨丸で太平洋横断1868年(明治元年) 明治維新(江戸を東京とする)1894年(明治27年) 日清戦争がおこる1901年(明治34年) ペリー来航記念碑完成1904年(明治37年) 日露戦争がおこる1914年(大正3年) 第一次世界大戦( ~ 1918年)1931年(昭和6年) 満州事変がおこる1937年(昭和12年) 日中戦争がおこる1941年(昭和16年) 太平洋戦争がおこる( ~ 1945年)1956年(昭和31年) 日本が国際連合に加盟するペリー艦隊 来航略年譜1852年(嘉永5年) 11月24日 アメリカ ノーフォークを出航1853年(嘉永6年) 5月23日 中国・香港を出航 7月2日 沖縄・那覇を出航 7月8日 浦賀沖に到着 7月14日 久里浜に上陸(国書を渡す) 7月17日 江戸湾を退去(香港へ)1854年(嘉永7年一安政元年) 1月14日 香港を出航 2月13日 横浜・小柴沖に来航 3月8日 横浜村に上陸 3月31日 神奈川条約締結 4月14日 伊豆・下田港開港(ペリー寄港) 5月17日 北海道・函館港開港(ペリー寄港) 6月28日 日本を退去 香港へ 香港集結後 各船 単独帰国 9月11日 ペリー提督 蒸気船ヒンドウスタンにて 単身帰国(疲れと持病<リウマチ>の悪化の為)」神奈川条約 下田条約の違い神奈川条約1854年(嘉永7年)神奈川・横浜に於いて日米和親条約(神奈川条約)が締結 下田と箱館(現函館)の開港が決まるペリー率いる黒船が続々と下田に入港し了仙寺はアメリカ使節の接待所 兼徳川幕府川との交渉場所となった第二条伊豆田の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し.箱館は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。ただし、提供すべさ物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする.下田条約1856年(安政2年)伊豆下田・了仙寺に於いて日米和親条約付録(下田条約)が締結されアメリカ人の日本に於ける規則というものが出来た日本で初めて外国人が自由に町中を歩けた 日米の異文化交流の歴史は下田から始まった2年後下田に初代アメリカ駐日領事ハリスが来て日米の付さ合いの歴史が始まったアメリカ人の移動可能範囲は下田より7里 函館より5里四方に限り武家・町家に立ち入る事を禁ず アメリカ人に対する暫定的な体息所として了仙寺、玉泉寺に置き米人墓所は玉泉寺に置くアメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず」「ペリー来航に関係した人々戸田伊豆守 氏栄(奉行) (1799 ~ 1858 ) 美濃(岐阜県)駿府町奉行 日光奉行を経て1847年(弘化4年) 2月 浦質奉行になる幕府の旗本 禄高5000石ペリー来航時 ペリー提督よりアメリカ大統領フィルモアの国書受け取る井戸石見守 弘道 (奉行) (? ~ 1855)生い立ち はっきりした記録なし幕府・大目付海防掛けを経て1853年(嘉永6年) 4月 浦賀事行になる禄高 3005石 ペリー来航時 在府浦賀奉行として江戸に居た浦賀に帰り戸田伊豆守の補佐として接見した中島三郎助(与カ) (1821 ~ 1869)浦賀の役宅で生まれる海防に関心か強く洋式砲術の評価が高い 軍艦(蒼隼丸)を建造 大砲を乗せるペリー来航時 通訳堀達之助と最初にサスケバナに乗り込み交渉の立役者にな「外国との付き合いはなく外国船は長崎(出島)へ行くよう」「長崎なら外交交渉が出る」事をペリー提督に伝えた」香山栄左衛門(与カ) (1821 ~ 1877) 遠州・新宮生まれ|15歳で浦賀奉行所与カ 香山堅兵衛の養子になる中島と義兄第(妻同士が姉妹)ペリー来航時中島の紹介によりニセ浦賀奉行として交渉にあたるペリー側の信頼が高く54年横浜の交渉にも参加する堀達之助(通訳) (1823 ~ 1894) 長崎オランダ通詞家の5男1848年漂着した捕鯨船員「マクドナルド」から日本で初めて「英語」を学んだペリー来航時中島三郎助がサスケハナを訪れた時 通訳として同行語学の評価が高く54年日米和親条約の和解(和訳)にもあたる」ペリー来航までの外国艦隊の主な来航1792年(寬政4年) ロシア使節ラクスマン 根室へ寄港 1796年(寬政8年) イギリス人・プロートン 室蘭に寄港1804年(文化元年) ロシア使節レザノフ 長崎へ寄港1808年(文化5年) イギリス船フェートン号事件(長崎にオランダ船に偽装し入港) 1818年(文政元年) イギリス船プラザース号 浦賀に来航1822年(文政5年) イギリス捕鯨船サラセン号 浦賀に来航1825年(文政8年) 幕府異国船打ち払い令を出す1837年(天保8年) アメリカ船モリソン号 浦賀に来航(砲撃により退去させる)1842年(天保13年) 幕府 異国船打ら払い令を緩和→天保の薪水給与令に改める1844年(弘化元年) オランダ軍艦マンハッタン号 長崎へ(国王・開国勧告)1845年(弘化2年) アメリカ捕鯨船マンハッタン号 浦賀に来航1846年(弘化3年) アメリカ、ビットル提督(軍艦2隻 ) 野比沖1849年(嘉永2年) イギリスマリナー号 浦賀に来航1852年(嘉永5年) ロシア船 下田に来航1853年(嘉永6年) アメリカ、ぺリー提督 黒船艦隊4隻 浦賀に来航」「ペリー上陸記念碑 建立から現在(平成23年)」1900年(明治33年)10月 艦隊に乗り組んでいたビアズリー退役海軍少将来訪 11月 ビアズリー氏 米友協会の招待を受けスピーチを行う。 満場の会員に感銘を与える 久里浜建碑の件 満場一致で決定1901年(明治34年) 6月 米友協会代表 金子堅太郎氏2万円の建築基準を集める 7月6日 記念碑完成 記念碑概要 記念碑 材料 仙台産花崗岩 高さ 15尺(4.5m) 幅 8尺(2.4m) 厚さ ー尺2寸(0.4m) 重量 10屯余り 貴台 材料 根府川石 高さ 18尺(5.4m) 幅 11尺(3.3m) 厚さ 5尺(1.5m) 重量 6屯余り 総高 33尺(10m) 費用5000円 文字 北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑 書 大勲位侯爵 伊藤博文 石工 横浜 日ノ出町 横溝豊吉 ※ 再建後の現在は総高8.68m ※」ペリー提督の写真。「マシュー・カルブレイス・ペリーアメリカ海軍の軍人、江戸時代末期に開国を迫るため4隻の艦隊を率いて日本に現れた。」「1901年(明治34年)、米供協会の手によって、開国ゆかりの地にペリー上陸記念碑が建てられました。ペリーの果たした役割と人物像を紹介するために、この記念館がつくられました。」「泰平のねむりをさますじょうきせん(上喜撰 お茶の銘柄) たった4杯で夜も寝られず作者 老中 松平下総守」「ビッドル提督 来航1846年5月27日野比海岸数キロ沖に停泊インド隊切令長官ビッドル提督コロンバス(軍艦)ビンセンス(軍艦)来航の目的政府の公的使節として日本政府との通商を求める幕府はビットル提督の申し人れを拒否6月7日艦隊は野比沖を離れるビッドル艦隊は武器 乗員とも桁外れの大船だった幕府は鎖国政策の一環(大船建造禁止)を廃止*ビッドル提督来航1846年5月27日 (ペリー提督来航の7年前)*ペリー提督来航1853年7月8日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.14
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そして、「ペリー公園」に到着。「ペリー公園」はペリーの上陸を記念して作られた歴史公園で、園内にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館などがあり、歴史的資料やジオラマなどを展⽰していたのであった。⽇本の歴史公園100選にも選ばれている、ペリーの久⾥浜上陸を記念して作られた歴史公園。園内にはペリー記念館、ペリー上陸記念碑および記念碑広場、児童広場があり、約250本の松の緑の向こうに久⾥浜の海と⻘い空が広がる⾒事な景観も魅⼒。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内板。入館無料、開館9:00~16:30。休館日 年末年始、月曜日(祝日の場合、翌日)「ペリー公園」内に入ると、正面に巨大な「ペリー上陸記念碑」が迎えてくれた。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 ペリー上陸記念碑」「ペリー上陸記念碑物語」案内板。「ペリー上陸記念碑物語長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。参考 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており 碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」「ペリ-公園」案内図。ズームして。「ペリー上陸記念碑」に近づいて。記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 と。手前に「錨のモニュメント」が。石碑には「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」と。1901年の建造、と。「大勲位矦爵伊藤博文文書」の文字が。ペリーは「伯理」と漢字表記されていた。これは伊藤博文の筆によるもの。1900年伊藤博文が名誉会長を務める米友協会(アメリカに留学経験や居住経験のある日本の人士が結成した交流組織)の式典で、退役海軍少将レスター・ビアズリーが「ペリーが上陸した久里浜の地に記念するモノが何もないのはいかがなものか」と苦言を呈した。ビアズリーはペリーとともに少尉候補生として久里浜に上陸した人物で、47年ぶりに久里浜を訪れていた。日本側からすれば「黒船が勝手にやって来てしょうがないから開国してやっただけなのに・・・」というのが本音だったのかも知れませんが、米友協会が中心になって記念碑建造に奔走し8か月で完成にこぎ着けた。除幕式典は、当時の桂首相や閣僚ら日米の関係者約1000人が参列する壮大なものとなった。もちろんビアズリーも参列した。ちなみに太平洋戦争中1945年2月には、「国辱的記念物」だとして記念碑が引き倒されるという受難に遭った。記念碑を当時のアメリカ大統領ルーズベルトに例え、「ルーズベルトの首を叩き落してやったぜ」と書いた猛々しい新聞もあったと。日本軍部はもともと「いや記念碑に罪ない」と取り合わなかったそうですが、戦局の悪化する中で愛国心溢れた民衆の声を聞き入れたパフォーマンスに頼らざるを得なくなったようです。もはや末期症状ですが・・・。戦後すぐの46年初には、アメリカ占領軍に見つかったらマズイということで、そそくさと復旧されました)とネットから。台座には「MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODOREPERRY U.S.N.MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM」と英文で。「ペリー来航図アメリカ海軍東インド艦隊4隻を率いるペリーは、大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港した。」「1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。」と。大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港。「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」の裏面には「嘉永6年6月9日上陸 明治34年7月14日建之THIS MONUMENTCOMMEMORATESThe First ArrivalOFCOMMODORE PERRY,AMBASSADOR FROM THEUNITED STATES OF AMERICAWHO LANDED AT THIS PLACEJULY 14,1853ERECTED JULY 14.1901.BYAMERICA’S FRIEND ASSOCIATION」と。「この記念碑は1853年7月14日、アメリカ合衆国大使のコモドール・ペリー提督がこの場所に初上陸したことを記念して建設する1901年7月14日 AMERICA'S FRIEND ASSOCIATION」アメリカから寄贈された?錨のモニュメントであろうか。「「泰平のねむりをさます・・・」の歌碑」。「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」。「じょうきせんの碑江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。この驚きを端的に表現したのが、この落首である。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。 平成ニ年七月 横須賀市」「ペリー公園」碑。記念碑の手前に立つ石碑。1935年に「伯理記念碑保存会」という組織によって建造されたもの と。「北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ継ギ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトトナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス昭和十年二月ニ日神奈川縣廳内 伯理記念碑保存會」「KANEKO PINETHIS TREE PLANTEDBYVISCOUNT KANEKOJULY 14TH 1901かねこ松米友協会会長子爵金子堅太郎氏手植松明治34年7月14日」「RODERS PINETHIS TREE PLANTEDBYREAR ADMIRAL RODERSJULY 14TH 1901ろぢあーす松 米海軍少将 ろぢあーす氏 手植松 明治三十四年七月十四日」「文化財説明板」。「文化財説明板横須賀市指定重要有形文化財(歴史資料)ペリー上陸記念碑 1基この記念碑は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー提督(Matthew Calbraith Perry)が久里浜に上陸してから48年後の明治34年(1901年) 7月14日、米友協会(会長金子堅太郎)により建立された。総高は5.25m。碑前面「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」は初代内閣総理大臣伊藤博文(同会名誉会員)の筆による。建立の経緯は、明治33年(1900年) 11月こ開かれた米友協会式典で、ペリーとともに久里浜に上陸した退役海軍少将ビアズリーが、上陸の地に日米両国最初の接点を示す光景が無いことを語り聴衆に感銘を与えたことに始まる。早速、米友協会は記念碑建立を計画し、明治憲法起草に関わった法律家で政界にも影響力の大きい金子が尽力して国内だけでなくアメリカからも建設費用を募り、わずか8ヶ月で記念碑落成式を迎えることができた。こうして建立された記念碑によりペリー上陸の意義は伝えられていったが、太平洋戦争中には敵国を讃えているとして引き倒されたことがある。しかし、終戦後の昭和20年(1945年) 11月に復元され現在に至っている。この「ペリー上陸記念碑」は、日本の近代の幕開けを象徴すると同時に日米両国の国際関係の歩みを示す貴重な歴史資料である。平成19年3月12日指定横須賀市教育委員会 平成19年10月設置」「ハイネ画 ペリー久里浜上陸図」「ペリー上陸記念碑」を斜め裏から「ペリ-記念館」を背景に。そして「ペリ-記念館」に向かって進む。左側にあったのが「ペリーの出生地の記念石」。ペリーの出身地アメリカのロードアイランド州ニューポート市から友好の印として贈られた石。「Presented on 14 JulyDedication of Commodore Perry Museumby RADM James D.Cossey Commander U.S Naval ForcesJapan and Honorable Patrlck Kirby,Mayor of Newport昭和62年7月14日 寄贈ペリー准将博物館への献石在日米海軍司令官 ジェームス-D.ユッシー少将及びニューポート市長 パトリックカービー氏 これを贈る」「Commemorative Rock From Newport,Rhode Island,USABirthplace of Commodore Matthew C.PerryマシューC.ペリー准将の出生地である米国ロードアイランド州ニューポート市からの記念石」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.13
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さらに「久里浜」方向に海岸線を進む。左手にあったのが「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」。横須賀市長瀬3-4-1。鎌倉市を含めた横浜市、横須賀市、逗子市の4都市がここ横須賀市長瀬の横須賀市消防総合訓練センターで、中高層建物火災を想定した合同訓練が行われているとのこと。エピローグを迎えた桜並木の下を歩く。花びらが歩道上に舞い散って。左手にあったのが「国土交通省 国土技術政策総合研究所 横須賀庁舎」。国総研の横須賀庁舎においては、沿岸海洋、港湾、空港分野の研究開発を実施ししています。国総研で得られた研究成果は、港湾、空港等に関する政策の企画・立案や事業の実施を通じて広く社会や国民の皆様に還元されます と。「国土交通省 国土技術政策総合研究所 港湾空港技術研究所」。港湾空港技術研究所は、国土交通省所管の国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所を構成する研究所である。港湾及び空港の整備等に関する調査、研究及び技術の開発を行っているとウィキペディアより。海岸沿いまで進むと、左手湾の先に「JERA 横須賀火力発電所」が見えた。横須賀市久里浜9丁目2−1。JERAは、東京電力ホールディングス傘下の東京電力フュエル&パワー(東電FP)と、中部電力とが50%ずつ出資し、燃料の上流開発・調達・トレーディング・輸送から、火力発電所の建設・運営までを手掛けるエネルギー企業である。JERAという社名は、Japan(日本)の頭文字、energy(エネルギー)の頭文字にera(時代)という語を組み合わせたものであり、「日本のエネルギーを新しい時代へ(Japan's Energy fora new eRA)」という意味が込められている。2023年6月30日に新1号機が、同年12月22日に新2号機が営業運転を開始した。新1号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(Ultra Super Critical) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2019年8月[8] 営業運転開始:2023年6月30日[10]新2号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(USC) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2020年4月 営業運転開始:2023年12月22日遠く房総半島の山々の姿が。海岸沿いには多くの岩場が顔を覗かせていた。そして大きな橋を渡る。下を流れる川は「平作川(ひらさくがわ)」。「平作川」。「平作川」の河口。「平作川」の上流を見る。延長は7.07kmとあり、そんなに長くはない河川である。平作川源流のひとつは大楠山〈これも三浦半島最高峰〉の東山麓、山林中にあり、また河川法上(?)の平作川本流源流は住宅地域の斜面からの湧水だったりするのだと。ほかにもいくつか支流が集まって中流部からは衣笠、久里浜などの市街地、住宅地を通り久里浜開国橋で河口、東京湾浦賀水道に出るのだと。橋の名は「開国橋」。橋名の由来はマシュー・ペリーによる黒船来航の際この橋の近くから上陸したためと言われている。久里浜港の埠頭には真っ赤な船「あかつき」が停泊中。「あかつき」が2018年8月、東京湾口で自力航行不能となったバハマ船籍の超巨大タンカー(VLCC)の救難/救出活動を行い、台風による被害の拡大を未然に防ぎ「日本海事新聞」で紹介されました。 サウジアラビアで原油を満載し東京湾に向けて航行しておりましたVLCC(載貨重量298,000㌧、全長333m、全幅60m)が、2018年8月に東京湾口でエンジン故障が発生し、自力航行不能に陥りました。おりしも大型の台風13号が関東に接近する中、サルベージ会社からの緊急要請に「(株)オフショア・オペレーション(以下OOC)」が応え、国内最大150㌧(ABS認定)の牽引力を誇る「あかつき」を急遽派遣し、第3管区海上保安本部の指示により遠州灘まで「あかつき」一隻で曳航し台風を回避、大規模災害を未然に防ぎました。その後、東京湾にて無事に原油を荷揚げし、中国舟山の修繕ヤードまで約一ヶ月間に渡る曳航を行いました とネットから。 「開国橋」を渡り終え、再び「平作川」の上流を振り返る。前方に見えたのが「久里浜海岸」。「ペリー通り」案内板。「ペリー通り」案内図。水色------の線が「ペリー通り」。ペリーが上陸した久里浜の海沿いの通りがペリー通りと呼ばれている。港前のペリー公園にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館がある。ペリー(1794~1858)米国海軍軍人。嘉永6年(1853)日本に開国を求め軍艦4隻を率いて浦賀に来航。翌年再来航し、日米和親条約を締結した。なお下田にはペリーロードがある。「ペリー公園」まで320m、「東京湾フェリーターミナル」まで1100mと。黒船 花火 うちわ 神輿が描かれたボード。目的は?そして東京湾フェリー「かなや丸」。久里浜港~金谷港11.5kmを40分で結ぶ連絡船。総トン数 3,580t全長 79.0m航海速力時速 約24km(13ノット)旅客定員 680名車両積載台数 バスのみ最大12台/乗用車のみ最大105台/オートバイ24台海岸線・「ペリー通り」の遊歩道を進むj。東京湾フェリー「かなや丸」が東京湾浦賀水道から金谷港に向かって出航。右手に「黒船食堂」。昔ながらの海の家のような食堂で、ラーメン、丼もの、定食がいろいろあるようであった。左手には「東京海洋大学」練習船「海鷹丸」。東京海洋大学海洋科学部が保有する練習船・海洋調査船である。2000年に就航した4代目。総トン数 1,886 トン(国内) 3,391 トン(国際)載貨重量 1434トン全長 93.00m垂線間長 83.00m型幅 14.90 m型深さ 6.25 m(上甲板) 8.90 m(船楼甲板)満載喫水 5.95m主機関 ニイガタ6MG41HX形[1] 立形単動4サイクルトランクピストン形直接噴射式 ディーゼル機関1基推進器 4翼ハイスキュー可変ピッチプロペラ1基出力 4,489 kW(連続最大)航海速力 17.4ノット航続距離 12,900浬搭載人員 107名(職員47名、学生60名) とウィキペディアより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.12
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久里浜方向への道を「旧川間ドック」に向かって進む。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」。VELASISは、Vela (帆/スペイン語)とOasis(楽園/英語)からなる造語で『帆の楽園』という意味。皆様にやすらぎとくつろぎの場所としてご利用いただき豊かなマリンライフに少しでもお役に立てればとの願いを込めての命名したと。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」入口。川間ドック(住友重機械工業川間工場)は、当時、東京石川島造船所の取締役会長たった渋沢栄一の提案により1895年(明治28年)から建設が開始されたレンガ積みドライドックです。横須賀製鉄所(横須賀造船所)で技術を学んた恒川柳作が設計を担当し、東京石川島造船所浦賀分工場として1898年(明治31年)から営業を開始した。近隣の浦賀船渠とのダンビンクによって両社は経営を悪化させることとなり、1902年(明治35年)には浦賀船渠に買収されて、浦賀船渠の川間分工場となり、浦賀船渠1号トックの通称「浦賀ドック」に対して、「川間ドック」と呼ばれるようになった。1984年(昭和59年)に工場が閉鎖された後は、跡地はマリーナ施設として再開発されて現在の「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」となったのだ。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」配置図。入口にあった錨のモニュメント。右手奥に事務棟。正面に(株)HSマリン。ボート・ヨット用品、艤装品、マリンアクセサリー全般を扱う会社であると。椰子の葉の影を。右手にあったのが介護老人保健施設「ソレイユカーマ」。横須賀市西浦賀5丁目32−2。そして眼下に「川間ドック」。川間ドックは世界に4か所しかない(諸説あり)とされるレンガ積みドライドックの一つで、国内では同じ浦賀工リアにある浦賀ドックと川間ドックだけしかなく、貴重な近代化遺産です。現在はシティ・マリーナ・ウェラシスの一部として利用されていて、クルーザーの係留やダイビングの体験などに利用されています。ドックのゲートは撤去されていて、常に海水が満たされた状態のため、レンガ積みドライトックとして内側を見ることはてきません。そのため、レンガ積みドライドックの内側壁面の全体像を見たり底に降りることができるのは、日本国内では浦賀ドックだけです。」常に海水が満たされている川間ドック。ゲートの外はそのままヨットハーバーにつながっているのであった。移動して。介護老人保健施設「ソレイユカーマ」を振り返る。道路の擁壁にはヨットやカモメ、ハマナス、灯台の姿が、ここを右折して久里浜方面に進む。自販機には案内地図が描かれていた。「ようこそ、横須賀へ」。そして前方に「長瀬隧道」が現れた。少し西側にある川間隧道の旧道である。隧道入口脇には多数の石仏が置かれていて、道の歴史を感じられたのであった。「長瀬隧道 横須賀市」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m入り口には複数の庚申塔がまとめて置いてあった。横須賀市西浦賀5丁目33。一面六臂青面金剛立像。隣のこちらも一面六臂青面金剛立像。これも一面六臂青面金剛立像。手は六本で、本手は合掌か。その奥にも石碑が所狭しと並んでいた。延長 52mの「長瀬隧道」を歩く。「長瀬隧道」では女性の幽霊・少女の幽霊・老婆の幽霊が目撃されているため心霊スポットと呼ばれているとネットには。「長瀬隧道」を出て少し歩くと、右手桜が描かれた「川間隧道」の出口が。「現在地」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.11
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海岸通りから1本山側の道を「鎮西八郎為朝神社」に向かって南下する。横須賀市雨水マンホール蓋。幕末に浦賀に来航したペリー提督と黒船をデザインし、市内の雨水及び合流のマンホール蓋に使用しています。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した1853年、当時の人々は大きな船体を見て大変驚きました。4隻の船をお茶の銘柄に掛けて「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」と風刺したほどです。この黒船の来航後、日本は長い鎖国から開国へと向かうこととなります。現在横須賀市では、ペリー来航や開国を記念した多くのイベントが行われています。幕末を混乱の渦に巻き込んだ一大事。その主役のペリーも、黒船も、現在では開国のシンボルとして市民から親しまれています。と「日本マンホール蓋学会」のHPから。そして「鎮西八郎為朝神社」前に到着。横須賀市西浦賀4丁目3−7。「為朝神社」の案内表示は破れて。これであろうか!? ネットから。「為朝神社(ためともじんじゃ)祭神 源為朝公御神徳 疱瘡除け 航海安全例祭 六月第ニ土曜日 宵宮祭 (奉納舞 虎踊り)日曜日 神輿渡御」「為朝神社」は浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っている。「浜町 (地名の由来)西浦賀4丁目のこの辺り(為朝神社)を浜町と言います。文字通り、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことから付いた名称です。浜町は元は広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移った時に一緒に移ってきた下田の廻船問屋の人々が演じたものと言われています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」靖国鳥居の前には、台石に町内安全と刻まれた安政3年(1856)建立の「秋葉山常夜燈」が。灯籠の火袋に力強い為朝の顔と笹竜胆(ささりんどう)が。石鳥居越しに「為朝神社」の拝殿を見る。祭神は源為朝。 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守になっている。寛政12年(1800)頃、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置したのがはじまりだといわれます。そして功が多く、鎮西八郎為朝の像であったといいます。創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。為朝は、その強弓を恐れられ腕の筋を切られて大島に流され、流人生活の果て、許されることなく没しました。古来より、悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に災いを転じて福をもたらすと考えられてきました。後世に疫神として、疱瘡神とし、当時人々に恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力でなおしてもらおうと期待していたのです。 この地に伝えられている「虎踊り」は、伊豆下田から伝えられたもので、 県の無形文化財に指定されています。 毎年6月、為朝神社祭礼が行われますとネットから。右手にトタン屋根の「手水場」。「県指定重要無形民族文化財国選択無形民俗文化財横須賀の虎踊所在地 横須買市浦賀四丁目(浜町)指定年月日 昭和五十一年(一九七六)十月十九日選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれています。近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎狩りの場面を取り人れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台を自由にふるまい数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、見えを切ります。虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、大唐人は成人男子が演じます。 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された「横須賀の虎踊」は、 浦賀と野比の虎踊が対象です。 令和四年(二〇二二年) 横須賀市教育委員会」「虎踊👈️リンク の概要」虎の着ぐるみを用いた舞に、歌舞伎や唐人踊りを採り入れた民俗芸能。虎は親子2体で、虎の頭は本邦880社の神符を貼って作られ、親虎には青年、子虎には子どもが2人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動く。踊りは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、和藤内(男児)唐子(女児)、太唐人(成人男子)たちによって踊られる。海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、虎の出現で子供が退散して虎が舞台上を自由に振舞い、それを和藤内が神符で押さえてみえを切り終わる。別のネットには虎踊👈️リンクは、獅子舞のように虎の頭をかぶった虎が暴れるように踊る踊りです。浦賀の虎踊は、享保5(1720)年に伊豆下田の奉行所を浦賀に移した時、共に移り住んだ町人によって伝えられたといわれます。昭和51年10月に県指定重要無形民俗文化財に指定され、平成16年2月には野比中村の虎踊と共に国の「記録等の作成を講ずべき無形民俗文化財」に選択されました。踊りは、近松門左衛門作の国性爺合戦の主人公、和藤内の虎狩りを題材とします。和藤内は男児が演じ、女児による「唐子踊り」の後に、大小二頭の虎が登場します。大虎は成人男子、小虎は未成人男子が扮し、笛、三味線、太鼓、鉦に合わせて「一本杉」「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸が披露されます。やがて、和藤内が叶明神の木札をかかげ、虎を退治して幕となります と。(※パンフレットより)「親子の虎」。「和藤内(男児)」と虎。狛犬(右)。狛犬(左)。昭和30年(1955)造立の一対の「天水桶」には源氏の代表紋である笹竜胆(ささりんどう)が。拝殿頭貫の見事な彫刻。この物語は?ズームして。扁額「鎮西八郎 為朝神社」。木鼻は横向きの獅子。内陣。「為朝神社」の入母屋造りの拝殿を斜め左から。拝殿後方に本殿鞘堂の姿が。神輿庫であっただろうか?ここにも見事な彫刻が。「虎踊」の舞台建設用の足場パイプであろうか?「為朝神社」の拝殿の屋根にも社紋「笹竜胆」が。その先にも神社の石鳥居が見えた。「花稲荷神社」。横須賀市西浦賀4丁目。石鳥居の扁額「花稲荷」。真っ赤に塗られた社殿。扁額「詩庫三◯祠?」内陣。浦賀地区には稲荷神社が多いのであった。お狐様(右)。お狐様(左)。石祠。そして次に訪ねたのが石段の上にあった、これも「仲稲荷」。「正一位 仲稲荷神社例祭 二月初午例祭日 二月十一日御神徳 商売繁盛」急な石段を上る。こちらも真っ赤な社殿。お狐様(右)。お狐様(左)。ここにも石祠。鳥居は塩ビ製。社殿の内陣。ここにも沢山のお狐様が。社殿前から石段を見下ろして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.10
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「壽光院」を後にして、「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の角まで戻る。案内柱の下には、狭い水路と2段積みの石垣も確認できた。正面に「横須賀風物百選 浦賀奉行所跡」碑。右に向かって歩き「浦賀奉行所 跡地公園」入口に廻り込む。「浦賀奉行所跡」の看板の横には、大きな案内板が設置されていた。「浦賀奉行所跡【市民文化遺産 令和3年(2021)1月25日指定】」案内板。「横須賀市では、文化財等には指定されていないが、市民生活に密着し、広く親しまれ、将来も大切に保存する必要のあるものを市民文化資産として指定しています」 と。「浦賀奉行所とは享保5年(1720) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が開設されました。浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ということになった。」と記されています。しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから100年以上経過しているため、これが移転の本当の理由とは思えません。江戸幕府が開かれて100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、全国各地から江戸へさまざまな物資が入ってくるようになりました。その98 %以上が船で運搬されており、江戸の物価の安定を図るために江戸での在庫量を把握する必要に迫られていたため、検査をほぼ完ぺきにできる場所を探した結果、すでに湊として整備されていた浦賀が選ばれたのです。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。この「船改め」は「廻船問屋」と呼ばれた105軒の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品11品目については、3カ月ごとに集計された数字が江戸町奉行へ報告されました。その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行っていました。浦賀奉行所が開設されて100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。嘉永6年(1853) 6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818) 5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることになりました。ペリー浦賀来航後の安政6年(1859) 6月、神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は移されましたが、浦賀奉行所は、慶応4年(1868)閏4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、「船改め」の業務だけは、明治5年(1872) 3月まで続けられました。浦賀奉行所の業務は、長官である奉行( 1、2人)・与カ(部課長クラス)が10騎~ 18騎(馬に乗ることが許されたので)・同心(係長クラス) 50人~ 100人で行っていました。与カ・同心はほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅(官舎)が建ち並び、ここに暮らしていました。」「浦賀奉行所跡地全景(発掘調査)」。「浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティーセンター分館所蔵)」。「石橋と掘割浦賀奉行所の表門の前の掘割(お堀)に架けられていた石橋が、役宅の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないような配慮がされていたためです。町家(商家)から役宅に入るところがカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。掘割は江戸時代後期の改装にともない、表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれて出来ています。焚出所浦賀奉行所内に併設されていましたが、この焚出所だけは浦賀奉行所の表門を通らす出入りすることが許されていた建物です。異国船が来航するようになると奉行所から番船(警備船)が出て、異国船周辺で警備にあたりました。この番船を動かすのは、浦賀周辺の村の漁師の役目でした。奉行所の役人とともに異国船が退去するまで、漁師と奉行所の役人へご飯の炊きだしをする場所が焚出所、炊きだしは浦賀の町人に与えられた仕事でした。その時に使用したかまど跡が令和元年(2019年)の発児調査で出土しました。平成30年(2018)~令和元年(2019)の発掘調査から浦賀奉行所の間取り図面は、19世紀に入るころから幕末期にかけて数点残っており、奉行所の建物がどのように変わっていったのか知ることができます。今回の発掘調査もこれらの間取り図面に基づいて行われた結果、奉行所の業務の一つである裁判が行われた「お白州に白い砂が敷かれている層が見つかりました。また、奉行所の屋根が瓦ぶきであったことを示す軒丸瓦をはじめ、瓦の破片が多数発掘されました。その他にも礎石や古銭や陶器類など、生活を支えていた道具類が見つかっています。江戸時代に江戸という大きな町を支える役割をした、浦賀奉行所の存在が実感できる現場がここにあります。」「浦賀奉行所絵図」をネットから。現在、「陸軍桟橋」と呼ばれる場所に、「船番所」が開設されていたという(今は、解説板が設置されるのみ)。「船番所」とは浦賀奉行所の出先機関で、江戸湾に出入りする船舶のすべてを検査した現場であった。さらに周辺道路を北に進む。「浦賀奉行所跡」を海・東側から見る。左上には先ほど訪ねた「大六天神社」の石鳥居が見えた。奉行所は東西86m、南北75mほどの大きさで、現在でも周囲を囲んでいた堀の跡の石垣と伊豆石の石橋が残っていた。そして、この「浦賀奉行所跡」には、2017~8年までは住友重機械工業(株)のコンクリート造りの社宅があったとのこと。ビックリ!!ネット👈️リンク で調べて見ました。当時の社宅の写真がありました。1号棟~3号棟まであったようです。どの様な経緯でこの場所に社宅が建ったのでしょうか?「黒船に最初に乗り込んだ男 中島三郎助浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)、ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を建造しました。三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏(もっけい)」と称し、人々から敬慕されていました。明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ヶ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。享年49歳、父子の墓は東林寺。函館中島村に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」中央に「中島三郎助」、右に恒太郎(長男)、左に英次郎(次男)。「中に入ってあそんでよいです。 自転車・バイク 進入禁止」と。ズームして。「浦賀奉行所 跡地公園」。「石橋(浦賀奉行所跡)浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に、町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。お堀は江戸時代後期の改装にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「石橋の内側(横須賀市教育委員会提供)」。これは、石垣の石それとも石橋の石であったのか?「浦賀奉行所跡」を囲むように、住宅が所狭しと。「浦賀奉行所跡」を後にして、海に向かって進む。「川間町内会 屋台格納庫」。川間町内会の屋台格納庫から出された山車をネットから。その先にあったのが「川間町内会館」。「川間町内会館」の1階入口。「川間 (地名の由来)西浦賀五丁目から六丁目にかけてのこのあたりを川間と言います。「川間」は、一般には、名の示す通り川と川の間にある土地とされています。この地域については、現在の平作川周辺が埋め立てられていなかったころの、昔の大きな平作川と、浦賀湾が現在の田中の方までずっと入江になって川のように見えた、その両者の間の地であることに由来すると言われています。この川間の少し奥まった山際の地に、江戸時代の中頃から明治になるまで約150年間、浦賀奉行所がありました。奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代の創建である榊神社大禄天があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」切妻壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。「松竹梅に鶴亀」玄関上妻壁に松の大木の左右に鶴亀を配し、さらに梅・竹を添えた目出度い図柄で、レリーフ状に表す彩色作品。左隅に「石梅作」の銘があり、石川梅尾の作であることが分かる。昭和34年(1959年)に会館新築の際、町内繁昌を祝って作られたものと。中央をズームして。「松竹梅」。亀(右)。鶴(左)。「石梅作」と。「石梅」とは石川梅尾の略である。昭和34(1959)年の会館竣工時に、地元・川間の左官職人石川梅尾(1908-1988年)が制作したと。梅尾は鏝絵名人と称された「三浦の善吉」こと石川善吉(1855-1945年)の13番目の末っ子として生まれ、善吉について修業したのだと。2階の切妻壁にも見事な「鏝絵(こてえ)」が。「鳳凰」二階切妻壁に鳳凰が双翼を大きく広げて飛翔する姿形を、立体的要素を強調した勇健な造形で壁面一杯に作り出している。白漆喰仕上げ。この左下にも梅文の銘があり、「石梅作」である。そして次の目的地の「上町稲荷」に向かった。途中、崖崩れの現場が。ブルーシートで覆われ道路沿いには30個以上の土嚢が置かれていたが復旧工事が行われている様子はなかった。道路の反対側には、現在でも居住されている?民家があった。坂の途中から、西浦賀5丁目の住宅街を見る。振り返って、崖崩れ現場を。この後に、道に迷ったが、なんとか引き返して、「上町稲荷」の入口に辿り着いた。石段の上に朱の鳥居が現れた。扁額「上町稲荷」。狐様(右)。狐様(左)。そして鳥居の下から「上町稲荷」の社殿を。近づいて。境内の「疱瘡守護妙正道祖神? 弘化四・・」と刻まれた石碑。社殿間から朱の鳥居を振り返って。そして石段を下り次の目的地の「鎮西八郎為朝神社」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.09
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そして再び南西に進むと右にあったのが「壽光院」。神奈川県横須賀市15。「寿光院常福寺の隠居所としての境外仏堂です。墓地には、「三命地蔵」が祀られています。これは江戸時代後期に、弁天丸の水主(かこ・水夫)の三人が遊ぶ金欲しさから、船の命ともいうべき網や綱を売ってしまいました。三人は死刑に処せられる前、大変後悔し、罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも直します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。咸臨丸の副館長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力・浜口英幹の墓もあります。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」境内の三命地蔵。「本堂」への参道の両側には墓石が並ぶ。右手にあったのが「地蔵堂」。二体の仏様が。一体の地蔵菩薩坐像が祀られており、立膝姿の地蔵菩薩坐像は今まで数多くの石仏を見た中でも珍しい物であり、その脇にはいつの物かわからないが青銅製の子育て地蔵が一緒に祀られているのであった。このうち、この石造の地蔵菩薩坐像こそが不思議な伝説を今に伝える「寿光院の首切り地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩なのである と。立膝姿の地蔵菩薩坐像。青銅製の子育て地蔵。正面に「南無阿弥陀佛」碑。正面に本堂。墓地の中の参道の先に宝形造瓦葺の本堂が。掲示板には「常福寺佛堂壽光院」と。本堂内陣を見る。中央に御本尊:阿弥陀如来。ズームして。本堂内陣の左側:観音菩薩。ズームして。本堂内陣の右側。右脇侍の勢至菩薩は確認できなかったが様々な位牌が並んでいた。ズームして。墓地の奥に足を延ばした。これが「地蔵堂」。「三命地蔵」別名「首切り地蔵」。石の地蔵さんと墓石が祀られていた。時は元治元年(1864年)、江戸時代も終わりに近づいた第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の頃である。伊豆からやって来た弁天丸という舟が浦賀の港に着いたとき、この舟には松五郎、岩吉、忠蔵という三人の男が乗り組んでいた。この男たちは普段からあまり金回りの良い方ではないのに遊ぶのが大好きで、この時も船主には黙って錨の綱を持ち出しては売り払い、その金を遊びに使ってしまったのである。これに怒った船主は、この三人を盗人として浦賀奉行所に訴え、たちまち浦賀奉行所の厳しい取調べが始まるや否や、この三人は自らの犯した罪をあっさりと白状したのである。所詮、盗んだものはただの縄。お咎めも大した事はなかろうと高をくくっていた三人であったが、船にとっての錨の綱は命綱にひとしい物、その命綱を奪うのは命を奪うのと同罪であるとして、この三人は死罪を申し付けられてしまったのである。驚いた三人は慌てて命乞いをするがその甲斐もなく、浦賀燈明堂の首切り場へと引っ立てられて首を刎ねられた。元治元年(1864年)3月21日の事である。この際、この三人は再び故郷の伊豆の地を踏む事がかなわないことを大いに嘆き悲しみながらも、「もし、我らをこの浦賀の地でねんごろに葬ってくれるのであれば、首から上の病は何でも治してやろう」と言い残して首を刎ねられたという事である。船主であった「師崎屋」(もろさきや)は、この三人の願いを聞いてやり、寿光院に地蔵堂を作って「三命」と名付けお地蔵さんを彫り安置し手厚く葬ると、この地蔵菩薩は首から上の病は何でも治してくれるとの評判を呼び、頭痛、耳や鼻や虫歯などに悩む里人が参詣する姿が後をたたなかったという。やがて医療も科学も発達して、それらの治療はすっかり近代医学の担うところとなっていったが、今なおこの首切り地蔵堂には真新しい花と線香が供えられ、錫杖にかけられた千羽鶴が今なお絶えることのない信仰を如実にあらわしているのである とネットから。多くの墓石の中心に石仏が。阿弥陀如来像であっただろうか?無縁萬霊供養塔 と。地蔵堂の裏手にあった「美都(みつ)姫之墓」。美都姫は文化七年(1810)、幕府の命令で沿岸防備のために浦賀に来た会津藩士の家族。身分の高い人といわれ、浦賀で亡くなった。 数メートル後方に実家の墓があるため、この地に埋葬されたとのこと。「小林 旧會津藩士 小林栄三郎 明治十九年五月十四日 母 みつ 享年七十一」と。「美都姫之墓」横にあった三基の無縁仏。様々な墓石が。墓地から本堂を見る。そして「壽光院」を後にして、来た道を引き返し「浦賀奉行所 跡地公園」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.08
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「浦賀奉行所 跡地公園」を訪ねる前に、その西側奥にある「大六天神社」と「寿光院」を訪ねることとする。「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の道を南に進むと「(大)六天神社」への案内板があった。右折すると、正面に石鳥居が姿を表した。参道を西に進む。「大六天榊神社川間(西浦賀町5丁目)の鎮守で、主祭神は面足彦命(おもたりひこのみこと・猿田彦神)です。この神社の正式名称は「榊神社大禄天神」といい、当初は川間奥にある通称・お伊勢山(伊勢参りの講があったのでそう呼ばれた)の中腹にありました。明治の頃にお伊勢山の入口に移され、昭和の初めに現在地に移されました。大禄天は、語呂が第六天(多化自在天・たげじざいてん)に通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。道の分かれる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。祭日は5月中旬の土・日曜日です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「川間の山車」の写真。石段を上る。社号標石「榊神社大禄天」。横須賀市長であった横山和夫氏が書いたもののようであった。「手水舎」。正面に社殿。横須賀市西浦賀5丁目14−10。狛犬(右)。創建年代不詳の狛犬、玉取り・子取りであった。 スリムで長い体長で、残念なことに全体をコンクリートで修正されているようであった。狛犬(左)。社殿に近づいて。川間の鎮守で、江戸時代に創建された「榊神社大禄天」。主祭神は猿田彦神で、神社の正式名称は「榊神社大禄天神」ですが、通称で「大六天神社」と称しているとのこと。見事な向拝の龍の彫刻。雲海は赤く染まっていた。ズームして。扁額「榊神社大六天 伊勢山神明社」と。内陣。社殿の右隣にあった建物。祭用倉庫であろうか?稲荷神社が合祀されていた。社殿に近づいて。手前の狛狐(右)。手前の狛狐(左)。社殿前の狛狐(右)。右は頭の一部が欠けていて、左右共に耳がありません。社殿前の狛狐(左)。顔が朽ちて鼻づら部分が落ちてしまっていた。首も折れて補修されたのであろうか。内陣。「榊神社大禄天神」を振り返って。境内には多くのタンポポの花が。そして大六天神社正面左右壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。右側は「昇り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「昇り龍」。左側は「降り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「降り龍」。そして社殿前から「浦賀奉行所 跡地公園」を望む。一番左の高層マンションが芸能人・窪塚洋介が2007年にジャンプ?した所。そして「浦賀奉行所 跡地公園」を囲む道まで戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.07
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そして「愛宕山公園入口」に到着。明治24年(1891年)に開園した横須賀市内最古の公園。当時は「浦賀園」と呼ばれ、入口上部には「浦賀園」と書かれた額・プレートが残っていた。額・プレート「浦賀園」をズームして。明治24年当時のものなのであろうか?「愛宕山公園入口」案内柱。その先に石段が始まっていた。石段の横には案内板が。「愛宕山公園明治二十四年(一八九一年)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され、篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」上り始めてすぐのカーブの場所にあったのが「寳船稲荷社」。狛狐(右)。狛狐(左)。さらに石段を上って進み、「寳船稲荷社」を振り返る。石段の踊場から見た浦賀港。途中に左への分岐あり、これが「浦賀愛宕山導灯」へと続く道。1分ほど坂道を上って行くと「浦賀愛宕山導灯(後灯)」に到着。この導灯は2003(平成15)年3月12日付けの三管区水路通報第10号によれば平成15年4月1日に「住友重機愛宕山導灯」から名称が変更されたもので、灯台表には「白塔形」と。そして引き返して、さらに石段を上って行った。再び「浦賀港」の入口部方向を見る。湾を出たところが浦賀水道で、その沖に見えているのは房総半島。広場の入口の所にあった3基?の石碑。中央の石碑の碑文は最初の「中島永胤君招魂乃碑」だけしか読めず。明治24年(1891年)7月。」「中島永胤」は「中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)」のこと。江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府浦賀奉行所与力、のち蝦夷共和国箱館奉行並。この碑は、稲井石(宮城県石巻市産)を使用し、高さ176cm、幅76cm、碑文は西野前知、筆を執ったのは賜硯堂の主・成瀬温によるものてす。流麗なひらがなの文には、『中島永胤君招魂の碑を建てようと思い立ったの明治二十三年九月、翌年七月に建てた。事績を後世に伝えるために、浦賀港を見下ろする絶景の場所に建てようと、草を刈り、枝を払い、土をならし、石を据え、花の木や常葉木を植え、町民は勿論、愛宕山に来る人々に安房・上総の海山を望む四方の眺望が素晴らしい山頂への道を整備し、休憩所を造り、ここに来る人たちが三郎助の慰霊や遊びに利用することを願ってやまない。』と招魂碑建設の趣旨と経緯が記されているのだ とネットから。「発起者」の文字があり「発起者の碑」👈️リンク とも。三郎助と深いかかわりのあった人(碑に刻まれた三十六人)が賛同するならば、と町の人々も賛同しました。記録によると、浦賀町発起人二十八名(内十八名は碑に名が刻まれています)、同町賛成員七十三人が名を連ね、さらに愛宕山公園整備寄付人名簿に九十六の人と法人の名・寄付の内容が記されています。多くの町の人達が建設にかかわっていることがわかります。近隣の町の人も含め町民こぞって協力して公園を造り、招魂碑を建てたのです。現在も町の人々が公園の清掃なと維持管理を行っています とネットから。 この碑は解読不能。その先にあったのが「咸臨丸出港の碑」。「市制施行七十周年記念横須賀風物百選咸臨丸出港の碑嘉永六年(一八五三)六月三日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。七年後の安政七年(一八六〇)、幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンヘ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十有余名の日本入乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。一月十三日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員十一名を乗せ、十六日の夕刻、浦貿に人港しました。それから二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、一月十九日午後三時三十分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、三十九日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに人港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(ー八六〇)五月五日でした。この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸人港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。なおここ愛宕山公園は、明治二十六年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。」裏面には「咸臨丸乗組員氏名」👈️リンク が刻まれていた。広場の巨木は「イヌマキ」。「イヌマキマツやスギに比べると、広い葉ですが同じ針葉樹です。じゅくした実の下についた紫紅色の花托は多肉質で甘味があり食べられます。潮風に強いので、海岸近くの人家やみかん畑などの防風林として多く植えられます」先ほど訪ねた「東福寺」が北方向に見えた。さらに急な石段を上って行った。ここにも「中島三郎助」案内板が。「中島三郎助明治二年(一八六九)五月、、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向いにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があリ五稜郭で共に闘った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。中島三郎助略年表文政四年(1821) 浦賀奉行所与カ・中島清司の次男として誕生、母は浦賀奉行所与カ・ 樋田仲右衛門の娘天保六年(1835) 浦賀奉行所与力見習勤として出仕嘉永六年(1853) ペリー来航 応接掛として乗船嘉永七年(1854) 鳳凰丸竣工慶応四年(1868) 開陽丸て江戸脱出明治ニ年(1869) 千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去 横須賀市」「開園当時の愛宕山と家並み」。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭」案内板。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭令和3年(2021年)1月25日中島三郎助と遊ぶ会中島三郎助の生涯中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。文政4年(1821年)1月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与カ見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすべて免許皆伝となっている。この砲術の腕前は、天保8年(1837年) 6月に浦賀沖へ来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功で、浦賀奉行・太田資統から太刀を拝領した。また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚をしている。嘉永2年(1849年) 6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失し、その責任から謹慎処分を受けた。嘉永6年(1853年) 6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉をした。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べおり、カの差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。幕府も軍の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9カ月というスピードで翌年5月に完成させている。こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。また、和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。戊辰戦争が始まると榎本武揚らともに北海道に渡り新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、箱館五稜郭近く1869年5月15日恒太郎・英次郎ともに戦死した。明治23年(1890年) 5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意志を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。」そして「与謝野夫妻の文学碑」もあった。『黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛』 『春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸(さやけ)く 晶子』 冷たい春風の吹く岡の上から浦賀の町を見下ろしたとき、 黒々とまるで鞘のような 造船所が見えたのを歌にしたと。碑に刻まれた寛の歌は、 『与謝野寛遺稿集』の「空即是色」に、晶子の歌は「白桜集」の「色即是空」に収められているとのこと。「与謝野夫妻の文学碑 碑の歌は、昭和十年三月三日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んたものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月二十六日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。寛は、明治六年二月二十六日京都市左京区の願成寺に与謝野礼巌の四男として、晶子(本名・志よう)は同十一年十二月七日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。明治二十五年上京して落合直文の門下に入った寛は、三十二年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年四月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。一方、寛の歌に深く心うたれた晶子は、新詩社社友となって「明星」二号に短歌を発表、以後毎号同誌に投稿する。晶子が、明治三十三年八月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会いであった。やがて恋愛の進展に伴い、三十四年六月晶子が上京、この秋正式に結婚した。同年八月に出版された晶子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。二人は、明治三十年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。代表作として、寛に「東西南北」、「天地玄黄」、「紫」、「鴉と雨」、晶子に「みだれ髪」、「小扇」、「舞姫」、「白桜集」がある。 横須賀市」「浦賀港入口」、遠く房総半島を見る。ズームして。「グリーンウォッチング ヨコスカ 浦賀コース」グリーンウォッチングヨコスカ事業は横山和夫市長の時代に行われ、1987(昭和62)年に最初の11コースが選定されました。そののち1989・1993年に追加のコースができ、計3冊のブックレットにその詳細が残っています とネットから。ここにも石碑が。「中島君招魂碑」と。「横須賀市指定市民文化遺産 中島三郎助招魂碑明治ニ十四年、彼を追暮する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。」裏側には・・・・???そして「愛宕山公園」を後にして、南側に進み久里浜台/南浦賀の住宅街に向かう山の中の車道を下る。山の斜面に張り付いて立っている西浦5丁目の住宅街。南浦賀に入ると左手にあったのが「伏見金守稲荷大明神」。横須賀市南浦賀11。朱の鳥居の扁額「金守稲荷大明神」。内陣には「御幣」が。御幣とは、神様への捧げ物、お供え物を意味します。御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持ちます。御幣の用途は2通りあります。①神主がふる際のお祓い棒として 周囲の穢れを取り除く目的で使用されます。②ご神体として 神社の奥に祀られ、神棚や台所、お手洗いに飾り家内安全を祈るため使用する地域もありますと ネットから。スマホのナビに従いひたすら細い下り坂を進む。そして前方に現れたのが「浦賀奉行所 跡地公園」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.06
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「常福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」手前を左に入り南に進む。左の狭いコンクリートスロープを上っていくと石鳥居があった。その先の、獣道の如き山道をゆっくりと一歩一歩上っていった。途中石段の如き道もあった。そして5分ほどで「旧浦島稲荷」の社殿にようやく辿り着いた。眼下には「常福寺」の南側の墓地が見えた。社殿の内部は七福神の石造が確認できたが、それ以外は何もなかった。遷座先は不明。引き返して、慎重に獣道を下り、県道210号線・「浦賀通り」に向かって進む。ブロック壁の中に石碑が。「椿地蔵大菩薩」と。県道210号線・「浦賀通り」沿いにあったのが「浦賀の蔵」。「浦賀の蔵浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」その先、県道210号線・「浦賀通り」の奥にあったのが小さな「吉岡稲荷大明神」。この神社は、縁結びや商売繁盛などのご利益があると。横須賀市西浦賀2丁目13。社殿を正面から。扁額「吉岡稲荷大明神」。「浦賀通り」を北東方向に進む。その先、右手にあったのが、新装なった「蔵」の如き建物が。横須賀市西浦賀2丁目13−11。ここにも海鼠壁の上に「鏝絵(こてえ)」が。白波をズームして。その先、狭い路地を右に入ってみると、「愛宕山公園」への近道のようであったがこの先は通行止めのバリケードが設置されていた。さらに進むと路地・西浦賀1丁目の角にあったのが「浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)」。「廻船問屋跡賀で「廻船問屋」とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人たちの指示で、荷改めをしていた下田と東西浦賀の105軒の問屋のことを言います。また、米穀・酒類・塩等の問屋を営みながら、自己の廻船を所有して瀬戸内海より東北地方までの広範囲にわたって商いをしていた商人たちのことも廻船問屋と言います。そして、その主な者は一番組水揚商人となり、蛇畠町、紺屋町、宮下町等に店舗を構え、多くの蔵が海岸に建ち並び、一大問屋街をなしていました。幕末の頃、彼らの所持する廻船は、東西浦賀で約60艘を数え、宮井家もそうした問屋の最も古い一軒でありました。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。そして右折して「愛宕山公園入口」に向かって進む。「紺屋町(地名の由来)西浦賀一丁目のこのあたりを紺屋町といいます。日本では、昔から衣服の染色には紺色がよく使われてきました。明治の中頃に、西叶神社の宮司・感見宗之助が編集したと推定されている「浦賀中興雑記」によれば、小川善五郎という人がこの地で紺屋(染色業) を始めたことに、この町名は由来するとあります。この付近には、咸臨丸出航の碑や中島三郎助招魂碑などがある桜の名所・愛宕山公園があります。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.05
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「東福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」の北側の住宅街の道を西に進む。この後訪ねた「常福寺」への参道案内板。「この橋は浦賀奉行の交代の際渡ったと云われる石橋です。」と。この「石橋」であろうか?西浦賀2丁目10 と。右手に「田中町町内会 老人生きがいの家」と。「田中(地名の由来)西浦賀2丁目のこの辺り(田中町内会館)を田中と言います。この地域の「田中」は、「干鰯田(ほしかだ)の中」を意味します。その昔、人家は常福寺の参道から高坂側にしかなく、常福寺の参道から海側は干潟になっていました。その後、東浦賀の干鰯問屋の力で埋め立てられ、鰯の干し場になったと言います。ここにも干鰯問屋の隆盛を見ることができます。この付近には東福寺、常福寺があります。」田中町内会館の現在の住所は横須賀市西浦賀2丁目3番16号と。その先左に石祠が現れた。道路側から見る。横須賀市西浦賀2丁目9−7。反対側から。前方正面に「田中町内会 防災倉庫」。その先に「日月院」と書かれた案内板が見えた。「浦賀不動 日月院 宝海龍王堂」と。その先にあったのが「正一位稲荷大明神」と書かれた朱の幟旗とその先に鳥居。「花水稲荷」の朱の鳥居とその先に石の社。扁額「花水稲荷」👈️リンク。正面に「石の社」。このお稲荷さんの所在地は西浦賀2丁目4番地付近の裏手の里山の土手にあり、こんもりとした竹藪の中にひっそりと居をかまえていました。すぐそばには横須賀市立高坂小学校があり、この学校の駐車場 入口の門の前を10mほど坂を上った山道の右脇に細い獣道のような道に入るところが この稲荷神社への入口です。今から40数年ほど前に移転してきて、元の場所からは 10mほど下がったところにあります、移転の理由は宅地造成によるもので余儀なく移転を迫られまして、 移転と同時にお社も新しく再建されました と。近づいて。021年11月・花水稲荷神社は一部改装工事が行われ、社殿前に屋根と本坪鈴が飾られ、幟旗も 宝海龍王堂前に移転したのだ と。御神体は桐の箱に納められているとのこと。「宝海龍王堂」の前にあった「浦賀不動 日月院」。大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の若さで亡くなってしまいました。その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。「浦賀不動 日月院」。「日月院(旧不動院)のこと大正十三年五月、坂口法道師が諸願成就、殊には目疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行、水行修行、托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四歳の若さで亡くなってしまいました。その後何代か人が変わり昭和四十三年大黒天の不思議なお導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称名を「日月院」と改めました。日月院の正式名称は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。大祭 正月 五月 九月 二十八日 大護摩修行 午後二時毎月二十八日 護摩修行 午後二時御安置佛本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩 弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩 法浄院二世住職 田中誠道本山 法浄院 東京都大田区大森南別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目」この石仏は?この石仏は?「不動明王」?本堂。扁額「日月不動明王」。境内にあった金属製の社に入った石仏。「船玉大明神」と。「船玉大明神」碑。船玉(船霊)は船の守護神で、 多くの 場合、和船の帆柱の受材である筒(つつ) の下部に小穴をあけ、納物として雛・賽(サ イコロ)・五穀・銭などが封入されます。 この封入の儀礼は、 萩藩の御座船(藩 主が乗り込む船)建造の記録等では 「筒 居(つつすえ)」 と記されており、 造船儀 礼中で最も重要な行事とされていました と。そして来た道を引き返し、石祠の角を右折して浦賀通りに向かう。浦賀通りに出て左折して横断歩道を渡った場所にあったのが「常福寺」。横須賀市西浦賀2丁目16−1。「浄土宗 常福寺」。参道を石段に向かって進む。寺号標石「浄土宗 放光山 延壽院 常福寺」。「常福寺文明年間(一四六九~八六)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式をおこないました。庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつです。当寺には虫歯によく効くという「珊誉女(さんよめ)」の位牌、狩野常信が描いた「地獄極楽之図」があります。墓地には、奉行与力・合原家、佐々倉家の墓碑や遊女屋をやめて遊女を解放し、後に僧深本(しんぽん)となる江戸屋半五郎の墓があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「珊誉女(さんよめ)」の位牌まだ歯科医などいなかった頃、虫歯で苦しんで亡くなった女性(さんよめ)の碑で、「珊誉女(さんよめ)」の遺言で自分が死んだあとお参りしてくれたら、虫歯の苦しみから救ってあげると言い残し亡くなったので、その後虫歯に苦しむ人の信仰を集めたと。「良樹院殿珊誉昌栄大褌定尼尊霊位 寛永十一年八月八日」と記されている珊女は、備後福山城主の息女。生前、常に歯痛に悩まされていて、死に直面した折に「この病に罹るもの我に祈らば効験を得ん」と遺言を残したのだと。「築山泉水庭」。石段手前左側にあった庚申塔群。「西国・坂東・秩父 三浦 百番観音 四国八十八」の文字は確認できたが。三猿庚申塔。見ざる、聞かざる、言わざるの三猿。庚申(こうしん=かのえさる)の申(さる)にちなんで庚申塔に彫刻されることが多く、この庚申塔でも向って右から見ざる、聞かざる、言わざるの順に三猿が彫刻されていた。右は文字庚申塔であろうか?中央は、名工飯嶋吉六の作品であると。隅丸角柱に剣人、槍、法檢、弓矢を持つ青面金剛、筋肉隆々で卑屈さが少しもない鬼、三猿はちょっと珍しい体育座り。向かって右側面に「天保九戊戌(1839)八月吉日」、左側面に「石工鶴見橋飯嶋吉六」の銘があるとのこと。トキワマンサクの花が咲く石段を上って行った。シャガの花も。多くの石仏に囲まれた石塔。「奉納萬靈塔」と。二段式の六地蔵。そして正面に「本堂」。明応2年(1493年)に草創された寺で、浄土宗に属し、放光山延寿院常福寺と号されています。文化7年1月浦賀奉行、御預所、支配所、御役知村村、寺社格式書上、附寺社奉行問合書のなかに「寺席之儀は永聖席ニ而、於群中類門無之、諸山別寺格ニ御座候」伝々と記されており、寺格も寺席も高く、開創以来法灯連綿として五百有余年の歴史を重ねて現在に至っている由緒ある寺。御本尊 阿弥陀如来三浦薬師霊場8番札所三浦不動霊場7番札所三浦三十八地蔵尊霊場34番札所本堂の扁額「放光山」。「常福寺」の「本堂内陣」を見る。ご本尊の阿弥陀如来が見えたのであった。「常福寺 本堂内 脇厨子」。「横須賀市指定重要有形文化財(建造物)常福寺本堂内脇厨子 二基所有者 常福寺平成十九年三月十二日指定本堂背面庇の両脇間に一基ずつ、計二基安置されており、正面に向かって右側を右脇厨子、左側を左脇厨子と呼称する。本尊の安置が目的でないため脇厨子である。この両脇厨子は各々須弥壇上にのる正面一間・側面一間幅のまぼ同形式で、禅宗様式を踏襲したものだが、造立年は左右の脇厨子で若干の年代差が考えられる。右脇厨子が室町時代末期の様式で古く、市内最古の厨子であり、左脇厨子は少し下って近世初期の造立と考えられる。脇厨子を納める常福寺の現本堂は元々藤沢の龍ロ寺本堂として中世末に建築され、その後鎌倉の本覚寺に移築、そして大正十一年(一九二二年)、旧本堂が火災で消失していた常福寺へと移築が繰り返されたものである。脇厨子二基は、本堂の内陣として建築当初から安置されていた可能性も高く、市内最古の本堂内建造物として貴重なものである。横須賀市教育委員会 平成十九年十月設置」「三浦三十八地蔵尊霊場 三十四番 放光山 常福寺文明年間(1469~1486)に、鎌倉光明寺の圓蓮社教譽上人により開創。爾来、浦賀のお念仏道場として、親しまれている。地蔵尊札所としては、これまで第32番子育地蔵尊、第34番延命地蔵尊二カ所の札所であったが、第34番として、子育地蔵尊、延命地蔵尊の二尊を祀る札所となったのだ と。寺務所、庫裡を見る。次に、本堂の左にあった墓地を歩く。「入一法句」と書かれた卒塔婆が並ぶ。表に「南無阿弥陀仏」、うらに「入一法句」と記されていることが多いと。すべての功徳はこの中におさめられているということで、仏への便りである卒塔婆を真心をこめて捧げるという、ちょうど手紙の「敬具」にあたるようなものである とネットから。一段高い竹林の前にも墓石が並ぶ。屋根付きの墓石が並び歴史を感じさせるのであった。 さらに墓地内を巡る。前方右側にあったのが「大乗妙典六十六部供養」碑。「妙典六十六部」とは、法華経を66部写経し、日本全国(66ヶ国)を巡る修行のことであると。正面から。願主、江戸屋半五良と刻まれていた。江戸屋半五良は、洗濯屋(遊廓)の主人であったが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、仏門に入り、修行僧として全国を行脚したのだと ネットから。江戸屋半五良の墓。「大誉果向深本法子」の法名が刻まれていた。半五良は、修行僧として全国を行脚の折、紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名を授かった と。大きな宝篋印塔墓。そして、石段横の「トキワマンサク(常磐万作)」の花を楽しみながら、「常福寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・>
2024.05.04
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次に向かったのが西叶神社の裏手の高台にある「東福寺」。三浦観音第13番、三浦地蔵尊第33番札所になっている寺。右手にあったのは、先程訪ねた「西叶神社」の「社務所」、これを裏側から見る。「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる石門柱(右)。「三浦観世音第拾三番 三浦地蔵尊第三十三番 霊場」の表札が掛かる石門柱(左)。山門に向かって石段を上る。「三浦 観世音第拾三番 地蔵尊第三十三番 霊場」と「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる山門。「山門禁葷酒」石柱。右側には花海棠(ハナカイドウ)の花が咲く。近づいて。ハナカイドウは、バラ科リンゴ属の耐寒性落葉高木。別名はカイドウ、スイシカイドウ、ナンキンカイドウなど。春に淡紅色の花を咲かせる花木として、各地で植栽される。「東福寺江戸幕府から御朱印地ニ石をたまわり、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式ある曹祠宗のお寺てす。本堂には、江戸中期を代表する画家酒井抱一の描く大きな亀の絵馬があります。境内の中段にある観音堂には「海難除けの観音様」が安置されています。この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけになった時、船頭らが観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったという伝説があります。本寺は三浦三十三観音の十三番札所になっています。 浦賀行政セター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「酒井抱一の絵馬」。さらに石段を上る。右手にあったのが蔵造りの御堂・「荼枳尼天堂(だきにてんどう)」。見事な彫刻を追う。木鼻(右)。木鼻(左)。鯉の彫刻。これも鯉の彫刻。「吒枳尼天」という名は梵語のダーキニー(Ḍākinī)の音訳で「荼枳尼」とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。起源であるインドのダーキニーは裸身で虚空を駆け人肉を食べる魔女だが、日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表されると。扁額「荼枳尼天」。左手のピンク色に塗られた建物は「大悲閣(観音堂)」昭和46年(1971年)にコンクリート製で建立。正面から。向拝の龍の彫刻。扁額「大悲閣」。内陣。江戸初期 廻船業淡路屋治兵衛の船が 浦賀へ向かう途中で時化に遭い沈みそうになったとき、船頭達が日頃信仰する観音様に祈ったところ舳先にお姿が現われ救われたことに感謝して、観音像を祀ったとか。「海難除けの観音さま」として、信仰を集めていると。三浦観世音第13番御札所右手にあったのが「地蔵堂」。地蔵堂内には2組の六地蔵が並んでいた。さらに「本堂」に向かう石段が現れた。「庚申塚」碑。さらに石段を上る。そして正面に「本堂」。「本堂」に近づいて。格式、威厳、風格がある立派な本堂。ほ~っと思わず息を呑むのであった。この寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になったとの事。歴代浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたとか。扁額「東福禅寺」。本堂の外壁に描かれた8枚の「鏝絵(こてえ)」を追う。制作者は岩田辰之助氏。 昭和7年37才の力作。「唐獅子」。「飛天」。「鶴」。「亀」。「象に乗った普賢菩薩」。「龍」。「臼井君碑」。近づいて。「寺務所」。境内には多くの巨大な石塔。石碑が並ぶ。「宝篋印塔」。「墓誌」。「直井謹三郎碑」と。「直井謹弌郎碑」多くの墓石が浦賀湾を見つめていた。「大悲閣」の屋根には相輪(そうりん)が。浦賀湾そして房総半島の山々を見る。「山門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.03
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境内のソテツの木と狛犬を見る。龍の絵と「叶」の文字の絵馬。「老山福壽稲荷社」享保11年(1726)2月勧請。旧西浦賀村宮下店住民。御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。横須賀市 西浦賀1-1-13。「正一位 老山福壽稲荷社」。内陣。神輿が奉納されていた。その隣にも、小さな社・「武雄神社」があった。弘化元年(1844)5月勧請。旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。その前にあったのが「大廟参拝記念」と刻まれた石柱。石段脇の石柱には、中央に「金毘羅大権現」、右に「秋葉大権現」、左に「老山 福寿稲荷大権現」と刻まれていた。石段の途中、左には石碑と石仏が。石碑にズームしたが判読不可。本殿を見る。石鳥居の先にも境内社があった。横須賀市西浦賀1丁目1−13。1つの小社の中に4柱の境内社がお祀りされていた。右から「淡島神社」。享保9年(1724)安産・医薬の神として勧請。御祭神は、大名持命、少名彦命。左隣に「大鷲神社」。元鎮守と称し、「叶神社」創立前に勧請されたと言われている。御祭神は、日本武尊、弟橘比売命、天之日鷲翔命。左隣に「三峰神社」。明和7年(1639)旧浦賀町商人諸廻船海上安全の為に勧請。御祭神は、伊邪那伎命、伊邪那美命、日本武尊。一番左に「船守稲荷神社」。元文4年(1739)浦賀港に出入りする船の航海安全を祈念して勘定された。御祭神は、宇迦御魂命。 池と石鳥居の姿が眼下に。更に奥に、本殿の横には真新しい石の鳥居があって、扁額には「福寿辯財天」と。扁額「福寿辯財天」。「福寿辯財天 文政六年(一八二三) 創建」鳥居の奥には、池があり、その奥の擁壁の下に穴祠があり、そこに弁天様がお祀りされているようであった。穴祠をズームして。句碑であっただろうか?池には鯉が。再び拝殿前に戻り、見事に枝を伐採されたイチョウの老木を見る。イチョウの老木を見上げて。一段下がった場所にあった「社務所」前から「西叶神社」の拝殿・本殿を見上げる。「社務所」。「社務所」の白壁にも見事な彫刻が。社務所玄関欄間壁の「鏝絵(こてえ)」。左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフを鏝絵と呼び、江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されています。干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています とネットから。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。左側には水瓶を割る子。右側には割れた水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しています。ふっくらした丸い顔、いきいきとした漆喰細工は、名人「三浦の善吉」の装飾壁の傑作です と。珍しい色彩のアジサイ・紫陽花の花が既に開花。近づいて。碇もあった。「奉納 碇海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納」「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑」。「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑明治天皇 明治十四年五月一八日観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑です文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳です」その奥の一段上がった場所にあった石碑群。庚申塔群。神職の先祖代々の墓・「感見家之墓」と。叶神社の神主が1868年の神仏分離前に僧侶だった感応院から「感」を使用したと伝える と。再び本殿前脇から「社務所」を見ながら、「西叶神社」を後にして次の目的地の「東福寺」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.02
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そして次に訪ねたのが「叶神社(西叶神社)」。再び海岸沿いを走る県道208号線・「浦賀通り」に出て「一の鳥居」越しに「叶神社(西叶神社)」の拝殿を望む。「郷社 叶神社」と。「叶神社」は神奈川県横須賀市浦賀地区にある神社。浦賀港を挟んで2社ある。 勧請した石清水八幡宮と同様、共に、誉田別尊など八幡神を祭神とする。叶神社:通称「西叶神社」:横須賀市西浦賀1丁目1−13 叶神社:通称「東叶神社」:横須賀市東浦賀2丁目21−25 「一の鳥居」を潜り「ニの鳥居」に向かって進む。そして再び「浦賀道」まで戻り、「西叶神社」前に。養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建した。その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてた。養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになった とのこと。「ニの鳥居」の扁額「叶神社(かのうじんじゃ)」。「叶」は口と十で構成されている。 漢字は本当によく考えて作られていて、口で十回言えば、願いは叶う、という意味である と。「四月二十ハ日 午後三時 執行境内社 金刀比羅神社 例祭当、金刀比羅神社は、享保十一年(西暦一七ニ六年・約ニ百七十年程前)旧西浦賀村住民が浦賀港と出入る諸船舶の航海安全、海上安全を祈って、おまつりいたしました。以来、金刀比羅大神は浦賀の港を見守ってまいりました。」「手水舎」。「漱盤」と刻まれた手水鉢(ちょうずばち)が堂々と。「漱」とは「うがい水(すすぎ)」を意味し、口をすすぐこと。身を清めること。「盤」は「たらい」のこと。浦賀の遊廊の主人で、後に家屋敷や財産すべてを投げ出し、抱えていた遊女を解放し、自らは出家した江戸屋半五郎(えどやはんごろう)が寛政元年(1789)に寄進したもの と。手水舎には、亀、鳥、龍の刻まれていた。龍の裏に『彫刻師 熊谷源太郎九代 新井松雲作 新井武作 熊谷市筑波一丁目六十番地』とあるのだと。「源頼朝が大願成就したパワースポット 叶神社(西)御祭神 八幡大神御利益 祈願成就養和元年(1181)に神護寺(京都・高尾)の文覚上人が石清水八轎宮の八轎大神を勧請し創建された。文覚上人は源頼朝に平家追討と源氏再興を強く奨め、源氏ゆかりの神社である石清水八幡宮の神に源氏再興の願いが叶えられた暁には良き場所を求めて未永くお和りすることを誓った。その願いが叶えられたため、文覚は約東通り石清水八幡宮の神を勧請し、のちに「叶神社」と名付けられるに至った。このような由緒から大願成就を求めて参詣する人が後を絶たない。現在の社殿は天保13年に再建されたもので、後藤利兵衛義光による彫刻がふんだんに施された権現造り。本殿と弊殿は総檜造りで、再建の経費は約三千両ともいわれる。」「昭和五十ニ年市制施行七十周年記念横須賀風物百選西叶神社叶神社は養和元年(一一八一)文覚上人(もんがくしょうにん)が京都の石清水八幡宮を勧請して造られました。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参籠し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し末永く祭祀することを誓いました。そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治ニ年(一一八六)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになりました。現在の社殿は天保十三年に再建されたもので、本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の花鳥草木の彫刻はすべて極彩色となって居り、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しと云う華麗な装飾がなされている。拝殿は花烏草木の透し彫リのある格天井となっており七十四面ほどある。社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。このように、当時の最高に近い建築の技術の枠と彫刻の美を備えた社殿造営の工事費は、三千両と云う莫大な金額であったと云われ現在、叶神社の彫刻は横須賀市市民文化資産に指定されています。東西叶神社について元禄五年(一六九ニ)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区分の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として、叶神社の神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が、分霊祭祀となった。」「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」MAPをズームして。「・・・」碑。表面左の半分ほどが剥離?して文字が判読できなかったのであった。「村社 叶神社」碑。時代により郷社であった時と村社であった時があったのだろう。歴史を感じさせる「銅燈籠」(右)。石段上り口の天保4年(1833)鋳造・一対の銅製燈籠には、台石に新地町、基礎部分には江戸屋久三郎・亀屋新吉・玉泉屋佐吉等、浦賀の遊郭連中等の寄進者名が刻まれている。歴史を感じさせる「銅燈籠」(左)。「拝殿」に向かって石段を上って行った。正面に彫刻が見事な「拝殿」。「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。拝殿前に堂々と並ぶ狛犬は、左右とも口を開けているように見えた。東叶神社の狛犬の口は、いずれも閉じているように見えることから、東西の叶神社で一対となっているとの説もあると。石段の上に隠れるように。立ち上がって、柱の陰からこちらを窺うようなそぶりの、かわいい狛犬の姿も。近づいて。こちらにも。拝殿前から二の鳥居方向を振り返る。「地立碑」。「紀念碑」「相州浦賀町鎮守叶神社は安徳天皇養和元年僧文覺の岩清水八幡宮を勧請して建て奉りたる御社なり尋いで文覺虚空山感應院を開き真言宗古義派の僧を住職として代代御社の別當たらしめたり尓来綿綿相傳はりて明治維新に及べり明治の初神佛混淆の禁令出でぬ別當玉應其命を奉じ復飾して氏を感見と称し名を信明と改めぬ創祀以来代を替ふること七十代年を経ること六百八十八年なり是に於て感應院の號?は自ら廢れたり信明は通称を真次郎と云ひ足柄下郡下中村字小舟の人志澤兵右衛門の次子なり年七才にして真言密宗の教に入り法號を玉應と称し苦學勤行年を累ねて學徳並び称せらるるに至れり資性温厚志操清廉にして信念いと厚く徳望日に加はり初め推されて平塚驛八幡宮の別當鶴峰山等覺院の住職となれり後老を幽静の境に養ふこと数年をりから感應院住職の缺くるに際し里人景慕の心を致して止まずよりて遂に状に應じて文久元年其第七十代の別當となりぬかくて幾干もなく彼の復飾改名等の事ありて神職に補せられければ悠悠世を送りて命を楽しみ明治二年十月十一日溘焉として永眠せり享年六十有三感應院の塋域に葬りぬ終身娶らず浦賀町字川間長島市郎右衛門の長子宗之助を養ひて嗣とせり宗之助其後を承けて神社に仕え明治八年十月初めて祠掌に補せられて今に至れり客歳勅令を以て幣饌供進の制定まるや御社も亦其榮典に與り神徳愈髙く我が感見家の基礎も亦漸く定まりぬ思ふに彼の神佛混淆の禁令は創祀以来未曾有の變革にして其間に處せし真明の勞は大方の事にはあらざりけんかし己れ宗之助不肖の身ながらも其後を受けて職を過たず幸ひ今日に到れるものは元より大神の御恩頼にはあれど一には信明の餘光にぞあるべきここに其事どもを永く忘れじ後の世にも朽ちせじと兴?碑を立ててかくはしるしぬ明治四拾壹年拾月弐拾壹日鎮守叶神社第七十一代社掌」「拝殿」の唐破風を見上げて。見事な拝殿の彫刻。社は、天保13年(1842)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品とのこと。利兵衛は文化12年(1815)安房国千倉の生まれで、江戸の後藤三次郎の門に学び、神社社殿の彫刻や山車、みこしを多く手掛けた。拝殿の格天井(ごうてんじょう)の花鳥の彫刻には、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているのだと。中央をズームして。右側をズームして。左側をズームして。拝殿の格天井を見上げて。移動して。横に廻り込んで。「横須賀市指定市民文化資産西叶神社社殿彫刻現在の社殿が天保十三年(一ハ四ニ)に再建された時に施された彫刻で、虹梁、欄間、拝殿天井など総数ニ百三十を超す。作者は安房国の影工、後藤利兵衛である。」扁額「叶大明神」。内陣をネットから。絵馬掛け所。「叶」と。「昭洞香山君碑」「昭洞香山君碑昭洞香山栄左衛門永孝👈️リンク は嘉永六年六月三日アメリカ水師提督ぺリーが浦賀に来航の折、浦賀奉行所の与力で、奉行の代理として同与カ中島三郎助と共に米艦に赴き、応待・談判に当った人である。香山栄左衛門の子息・香山永隆が父をたたえて、明治十三年ニ月建立。香山栄左衛門が家運隆昌を祈念して額縁第入大型絵馬を当社拝殿内に奉納されたものが現存している。絵馬の裏面に姓名・家運隆昌が書かれている。」「江戸 藤堂良道謹撰并書」碑。近づいて。「江戸 藤堂良道謹撰并書東西浦賀・・・・・・・・・文政八年歳在乙酉九月朢日」拝殿を斜めから。本殿を見る。本殿にも見事な彫刻が。立派な「社務所」を見下ろす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.01
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さらに県道208号線「浦賀通り」を南に進むと、左手・旧住友重機械工業・浦賀工場の西門の横に「屯営(とんえい)跡の碑」案内板が置かれていた。幕末、築地新町(現在の住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための石炭囲置場となりました。明治8年この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、その後「東海水兵分営」、15年には「水兵練習所」となり、18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった者があたったため「屯営は生きた士官の捨てどころ」といわれ、嫌われていました。現在、住友重機械工業の船台の下に「屯営跡」の碑が建っています と。横須賀市浦賀3丁目2−26。「屯営跡の碑築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年(一八七二)、「海軍浦賀屯集所」が設置されました。その後、「東海水兵分営」、同十五年には「水平練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。その事績を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われています。」「浦賀屯営跡」碑の写真をネットから。 この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)海軍大将が書いた。 裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって書かれた碑文がある。 碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込めるため、海中に沈めた石の残り。 同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、といわれている。 屯営は、八年に「浦賀水兵屯集所」と改称。 十年に逸見村、今の横須賀駅裏側に東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。 その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、十八年に、再び浦賀屯営となった。 「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない期間は、定員外となり”屯営入り”した。 『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。 この海兵団については、「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする時に、 旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている とネットから。記念碑は造船所敷地内だという。道路の反対側にあったのが「大衆帰本塚の碑」。横須賀市浦賀3丁目3−13。「大衆帰本塚」と。石碑の下部。「大衆帰本塚の碑」。大衆帰本塚の碑は、元治元年(一八六四)九月に建てられました。篆額は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹あたりに建てられていましたが、平成9年の造成工事により現在の場所に移りました。「この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。中島三郎助永胤大畑春国篆元治元年甲子秋九月」と刻まれているのだと。『碑文の概要』この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。しかし、ここにも湊の賑わいから家並みが押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰塚を設けることを決めた。この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるためにも石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんと心強くまじめな心であろうか。このように言うのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤である。その隣にあったのが「横須賀南警察署 浦賀地区交番」。令和5年4月1日から浦賀警察署は横須賀南警察署に名称が変更となったのだと。横須賀市浦賀5丁目1−1。「旧浦賀警察所」の建物は閉鎖され、正面の窓には木製板が貼られていた。「浦賀通り」案内板。「浦賀丘入口」交差点の奥に「浦賀造船所跡・浦賀ドック」が見えた。「浦賀丘入口」交差点手前のT字路の交差点を右に入ると。前方の丘の斜面に神社の姿が。ズームして。この先の石段を上り神社の鳥居へと。石鳥居が2基。ニの鳥居の扁額「荒巻稲荷」。横須賀市浦賀6丁目1。「荒牧稲荷神社」の社殿。 本坪鈴(ほんつぼすず)とその奥に彫刻。内陣には狐様そして立派な「社(やしろ)」が。「江戸時代後期に作られたとみられる小型の社(やしろ)がこのほど、五十年ぶりに持ち主である横須賀市浦賀町の荒巻町内会(長谷川文次会長)の手に戻った。これまで詳しい調査が行われていなかった社には豪華な彫刻が残っていたほか、製作直後に書かれたとみられる「嘉永五年」(一八五ニ年)と記された文書も見つかった。専門家らも「当時の浦賀を知る貴重な資料」と太鼓判を押しており、同町内会は「歴史ある浦賀の街の宝物が見つかった」と喜んでいる。ケヤキで作られた社は高さ約一・ニメートル。約百五十年前の江戸時代後期に作られたとみられ、当時の社殿の建築様式を忠実に再現している。側面には鶴に乗った仙人などを表現したと思われる豪華な彫刻も。屋根などの一部に補修された跡があるが、ほとんどが当時のままで現存している。「嘉永五年」と記された文書は京都伏見区の稲荷神社から贈られたもので、社が江戸時代末期に作られたことを裏付けている。戦後の混乱期に町内会から保管の依頼を受けた近くの太子寺の境内で五十年間にわたって奉られていたが、町内会側が存在を忘れ、”日の目”を見ることはなかった。長谷川会長らがニ月に太子寺から社の返還を受け、現在は同町内会が大切に保管している。市生涯学習課は、市民文化資産に指定されている東耀(よう)稲荷(同市東浦賀町)などの彫刻に匹敵すると評価。彫刻に詳しい市文化財専門審議会委員の上杉孝善さんも「豪華な作りは、商人の町として繁栄した当時の浦賀をしのぶ貴重な資料だ」と話す。町内会では「夢の広がる宝物。できれは一般公開をして、街の活性化につなげたい」と話している と2004年(平成16年)3月25日(木)の神奈川新聞の記事も展示されていた。「社」の写真。そして次に訪ねたのが「浦賀丘入口」交差点を右に入った場所にあった「太子寺」。「太子寺」には先程の荒巻稲荷神社の社が50年以上置かれていたのであった。「日蓮宗 太子寺」。横須賀市浦賀6丁目3−6。正面の建物は一般住宅の様な外装であった。正面には掲示板と案内板が。「今月の聖語人身は持(たも)ちがたし草の上の露日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』」=心が肝心=ハダカデバネズミは老化現象が見られない、不思議な生き物です。これこそ多くの人が望む「不老長寿」!?…かと思いますが、老化しないだけで、やがて寿命やケガで死んでしまいます。彼らの身も、私たちと同じで「草の上の朝露のように持ちがたし」なのです。私たちは健康管理に努め、検査や人間ドックなどに通「いのち」を長らえようとします。でも肝心なのは、「人身(身体)」とその使い方を左右する「心のあり方」がセットであるということです。憎しみ奪い合うか、それとも敬い譲り合うかで、世の中はまったく違ってきてしまいます。でもわかっていても自分だけの利益を考えてしまう。やられたら仕返しをする。心のあり方次第で、ささいなことが大きな争いになったりもします。まず自分自身が敬う心を持った人身を目指しましょう。◎日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』法華経・日蓮聖人の教えを熱心に信仰する四条金吾に宛てたお手紙。人間社会の中で、組織の中で、どのような心構えで行動したらよいかを崇峻天皇の故事をあげ、細やかに指南します。建治2年(1277)聖寿56歳」「太子寺太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ荒巻の太子堂として定着しました。本堂には背中に元徳三年(一三三一)と刻まれた聖徳太子の僧形の幼年像が祀られています。この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。太子は仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。ものづくりの神様としても知られ職人達の信仰をあつめています。浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ」本堂。扁額「聖徳皇太子」。墓地を見る。本堂の裏にあった稲荷神社。「妙法三田壽九稲荷大明神」と。「安楽喜墓」と。石仏。そして「浦賀通り」まで引き返す。正面に「mamaの広場 浦賀店」。先日訪ねた「浦賀ドック」👈️リンク 内の「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。「横須賀市下水道 浦賀ポンプ場」。汚水を汚水処理場まで送る施設。基本的に汚水は自然流下って言って、高低差で流れるようになっています。ですがそうなると、汚水処理場は一番低い場所に造らなくてはならず!!。従ってポンプの圧力によって汚水を送水しているのだ。右手に「浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館)」案内板。白色のツツジ。近づいて。ピンクのツツジの垣根。「浦賀ドック」越しに「西浦賀」方向を見る。そして「浦賀コミュニティーセンター分館」案内板。「浦賀コミュニティーセンター分館」。この日は訪ねなかった展示室をネットから。再び「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。バス停留所「ドック前」。「浦賀通り」から1本山側の道・「浦賀道」に入る。右側にあったのが「横須賀浦賀郵便局」。横須賀市浦賀7丁目13−16。そして再び海岸線を走る県道208号線・「浦賀通り」に戻る。先日歩いた「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」の上部の連絡歩廊を見る。移動後にズームして。浦賀湾の対岸の「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。「浦賀湾」の先に房総半島の山々の姿が。再び元の山側の道・「浦賀道」に戻る。右手前方に案内板が見えた。「浦賀道浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。江戸幕府寛政十二年(一八〇〇)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至ります。東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き一三峠など相当な難路でした。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたといいます。幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ」。「浦賀道見取絵図」。江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4~5,000人の人口があったのだろう。「浦賀奉行所 開設300周年浦賀奉行所は2020年に開設300周年を迎えた」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.30
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この日は4月16日(火)、2024年2月末に『浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐり YOKOSUKAクルージングツアー』👈️リンクに元同僚2人と参加し、その後にブログにアップしたが、ブログを書きながらネットで調べて見ると、訪ねてみたい場所がまだまだ多くあったので、この日に再び横須賀市浦賀に向かったのであった。小田急線、横浜市営地下鉄、京浜急行線を利用して浦賀駅に到着し散策開始。浦賀駅(うらがえき)は、神奈川県横須賀市浦賀一丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。1930年(昭和5年)4月1日 - 開業。1957年(昭和32年) - 駅舎を築堤上(現在地)に移転。「現在地」はここ。近づいて。神奈川県道208号線・「浦賀通り」の「浦賀駅前」交差点に出る。「浦賀駅前」交差点。横断歩道を渡ると、正面に観光案内用の絵画が並んでいた。「黒船来航 開国のまち・浦賀ペリーが率いる4隻の第船が来航し、泰平の眠りから目ざめた日本は、近代国家建設へ向かうとともに国際社会へのデビューを飾った。浦賀地域はその第一幕の舞台である。」「1853年 浦賀に黒船来航」。2014年に横須賀市立浦賀中学校(同市浦賀3丁目)の美術部が4カ月かけて描いた「黒船来航図」であると。「浦賀・鴨居地域運営協議会」から依頼を受けたもので、縦1.5m、横4m。1853年にペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航した際の模様を描き、アクリル樹脂絵の具で彩色した。1、2年生を中心に、2014年11月から2015年3月にかけて制作。迫力のある船体に加え、波、雲や煙の描写でも趣向を凝らした。作品から少し離れた左側には、黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵が既に掲げられており、激動の歴史の流れに思いをはせることができる一角となっている とネットから。黒船サスケバナ 👈️リンク : SUSQUEHANNA 3本マスト木造外車フリゲート 76.20m長ミシシッピー👈️リンク :MISSISSIPPI 3本マスト木造外車フリゲート 67.06m長プリマス👈️リンク : PLYMOUTH 3本マスト木造帆送スルーブ 44.96m長サラトガ 👈️リンク : SARATOGA 3本マスト木造帆送スルーブ 44.63m長黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵。「徳田屋」。 「徳田屋 鴨居中学校。東浦賀て始めて幕府の許可をえて正式に旅館を営業した家で、浦賀を訪れた武士や文化人が泊まったと記録されている。特にペリー来航の時には、佐久間象山と吉田松陰らがこれからの日本のことを熱く語った場所である。浦賀国際文化村推進協議会」「小林一茶と専福寺」 「小林一茶と専福寺👈️リンク 上の台中学校。江戸時代の俳人・小林一茶が残した日記の文化3年(1806)6月1日の記事に、東浦賀専福寺に基参に訪れたことが記されている。墓参は一茶が20数年前浦賀の地で出会った初恋の人へのものであった。その人はどんな人だったのでしようか。境内にその句碑がある。浦賀国際文化村推進協議会」「雷電為右衛門」。「雷電為右衛門👈️リンク 浦賀中学校。江戸時代から明治時代にかけて、三浦半島は相樸が盛んなところであった。とくに浦賀には、江戸大相撲の力士が度々訪れた記録がある。なかでも文化6年(1809) 6月には、江戸大相撲でも無敵を誇った雷電為右衛門が来て、東浦賀の東林寺境内て興行をしている。」そして「浦賀駅」を振り返る。「浦賀通り」を「浦賀ドック」方向に向かって進む。その先、浦賀駅から久里浜に向かう道の左側と観音崎に向かう道の右側に歴史の町浦賀を表わした十二枚の絵・「浦賀歴史絵図」がかけられていた。浦賀国際文化村推進協議会が平成十二年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として作成、展示したものと。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」。「ペリーとサスケハナ号」。「ペリーとサスケハナ号 浦賀小歴史絵委員会嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下四隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち。日本の近代はここに始まった。浦賀国際文化村推進協議会」「中島三郎丸と鳳凰丸」「中島三郎助と鳳凰丸 中島三郎助と遊ぶ会ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与カ・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(一八五四)五月、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸は浦賀の地て誕生した。浦賀国際文化村推進協議会」「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸」。「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸 上の台中日米修好通商条約批准交換の使節のお供として、安政七年(一八六〇)一月、勝海舟を艦長にした咸臨丸は浦賀を出港した。福沢諭吉は軍艦奉行木村正毅の従者として乗り組んだ。日本人の手に よる最初の太平洋横断の航海であった。浦賀国際文化村推進協議会」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック 鴨居中学校。日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。 浦賀国際文化村推進協議会」「ヴェルニーと観音埼灯台」。 「ヴェルニーと観音埼灯台 浦賀中学校明治ニ年(一八六九)一月一日、日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。開国後の条約で定められた船舶の航行安全を図るためのものであった。灯台建設には、横須賀製鉄所(後の造船所)の所長であり、技術者のヴェルニーの力によることが大きい。浦賀国際文化村推進協議会」「虎踊り」。「虎踊り 浦賀中学校美術部享保 五年(一七ニ〇)伊豆下田から奉行所が浦賀へ 移転してきた。この時下田奉行所で足軽役として廻船の船改めをしていた下田の問屋も浦賀へ移転してきた。この下田の問屋が伝えたのが「虎踊り」であった。これに当時江戸で流行していた近松門左衛門の「国姓爺合戦」 のストーリーを取り入れ、和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて浦賀風の 「虎踊り」が完成した。現在は六月中旬の西浦賀四丁目(浜町)にある為朝神社の祭礼の折に演じられる県の無形文化財である。 浦賀国際文化村推進協議会」「干鰯問屋」。「干鰯問屋 浦賀小学校2001年度卒業生干鰯(ほしか)とは、鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、畑、特に綿作りの肥料としては最適なものであった。浦賀の干鰯問屋は東浦賀のみにあり、江戸時代の初期には十五軒であったが、寛永十九年(一六四ニ)に三十軒の問屋株が成立し、大変な繁盛ぶりであった。元禄五年(一六九ニ)からは灯明堂の維持管理と年間ニ〇〇両の運上金を収めるようになった。町の浮き沈みはすべてこの干鰯と関係があるほど東浦賀は干鰯一色であった。浦賀国際文化村推進協議会」「浦賀港とスペイン商館」。「浦賀港とスペイン商館 鴨居中学校徳川家康は江戸に入ると、対外貿易積極策を展開し、江戸に近い浦賀を貿易港とした。貿易の相手にはイスパニアを希望しており、フィリピンに使いを出している。この要望を受け入れて慶長十一年(一六〇六)と十三年(一六〇八)にイスパニア船が入港した。これらを契機にして浦賀には修道院や商館が建てられ、金銀島探検の任務をもったビスカイノらも浦賀に滞在した。しかし、浦賀の貿易港構想はこれ以上に発展することなく、家康の死去とともに消滅した。 浦賀国際文化村推進協議会」 ・・・つづく・・・
2024.04.29
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「塚山公園」の事務所・公衆トイレに立ち寄る。「塚山公園 整備・管理計画(案) ダイジェスト版」と。く塚山公園がめざす姿>◯隣接する「安針塚」と連携し、歴史や文化資源を保全し、活用する場を供するとともに、 その伝承や情報の発信を図る。◯東京湾や富士山など、高台からの景観の保全を図る。◯サクラや安針塚を中心としたイベント開催などを通じて、地域コミュニティの場を提供する。「塚山公園平面図」。北消防署「火災予防標識」設置図 と。「事務所」前からソメイヨシノとミツバツツジのコラボを楽しむ。ズームして。「お手洗い案内」の上には、可愛いリスの像が。再び「さくら谷」を見る。花畑にも様々な花々が。「見晴台」案内柱。「見晴台」からの東京湾方向の眺望を楽しむ。再び「猿島」を見る。さくら越しに右手:横須賀海軍施設 (アメリカ海軍横須賀基地)そして東京湾を。横須賀海軍施設のロナルド・レーガン停泊池そして6号ドックを見る。原子力空母・ロナルド・レーガン (USS Ronald Reagan, CVN-76) 。アメリカ海軍の航空母艦。ニミッツ級航空母艦の第9番艦である。艦名は第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンに因み、存命中の人名がつけられた3番目の空母でもあった。アメリカの空母で唯一海外を母港としている。「塚山公園」の「さくら谷」を見ながら「塚山公園」を後にしたのであった。いたるところに案内柱が設置され、判りやすいのであった。「本町山中有料道路」の「旧料金所」を左眼下に見る。「本町山中有料道路」は2022(令和4)年3月21日から無料開放となり、神奈川県の管理となったとのこと。「横浜ランドマークタワー」方向をズームして。料亭の如き建物前の駐車場には多くの車が。次に「西逸見吉倉隧道」を訪ねた。このトンネルは『防災トンネル』として、普段は車での進入はできないとのこと。「西逸見吉倉隧道」と。横須賀の地形の特徴でもあります“谷戸”。(丘陵と丘陵にはさまれて幾条もの谷が走る。この谷あいのこと。)災害時にはこの地形が災いし、孤立する危険が。これを防ぐため横須賀市は防災トンネルを造ったとのこと。1985年昭和60年完成 全長 260m 幅 4.5mとのこと。壁面はパネルで覆われていた。そして引き返して、再び横須賀港沖に停泊する空母型護衛艦・いずも??を見る。ズームして。「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。入所定員 155人<87.6人> ※<>内の数値は都道府県平均 入所者の平均年齢 85.4歳入所者の男女別人数 男性:34人 女性:119人 とネットから。この付近の桜はエピローグへと。先ほど覗いた「謎の巨大遺構」を再び。「たうら 観光マップ」。「横須賀市全体案内図」。「周辺案内図」。京急「安針塚駅」にあった自販機。コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社は、2023年7月21日、訪日観光客向けに多言語での情報提供に対応した「おもてなし自販機」をリニューアルし、展開を開始したのだと。自動販売機デザインイメージ「歌舞伎」。今回のリニューアルでは、15種類以上のQRコード決済が利用可能となるサービス「QR de決済」機能(※)を追加し、決済手段を拡充します。また、訪日観光客の目に留まりやすいよう、ラッピングデザインを一新しました。デザインはコークレッドを基調とし、設置場所に応じた自動販売機を選べるよう日本文化を象徴する4種類のラッピングを提供します。さらに将来的には、オプションとしてWi-Fi機能の搭載も予定しています とネットから。自動販売機デザインイメージ「舞子」そして京浜急行で「上大岡駅」へ、横浜市営地下鉄を利用して湘南台駅に。そして小田急線を利用して17時過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.04.28
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そしてようやく「三浦安針墓(安針塚)」への石段下に到着。「按針塚」案内柱。「国指定史跡三浦按針墓所在地 横須賀市西逸見町三丁目五十七番地指定面積 一三五ニm2指定年月日 大正十ニ年(一九ニ三年)三月七日三浦安針は、本名ウィリアム・アダムス👈️リンク という英国人でオランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、、慶長五年(一六〇〇年)安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石を与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆伊東で西洋帆船を建造しました。安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。ニ基の宝筺印塔は、凝灰岩製の右塔が安針、安山岩製の左塔が妻・ゆきのものです。 平成二十年(ニ〇〇八年)三月を五日 横須賀教育委員会」宝篋印塔の各部の名称。三浦安針墓(安針塚)への石段前から再びピンクの「ミツバツツジ」をズームして。石段下から見上げて。「ウ井リアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂」と刻まれた石碑。「史跡の永久保存1.私達は、ウィリアムアダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、 西歴1966年(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。2.毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。 日英両国民の友好の証しとして、この史跡を大切にしてください。 横須賀市西逸見町 県立塚山公園保存会」さらに石段を上って行った。振り返って。ズームして。「安鍼塚碑「三浦按針墓」の手前にある石碑は大正7年(1918年)に建てられたもので、ウィリアム・アダムスの事績と墓が整備されるに至った経緯が刻まれています。アダムスは元和6年(1620年)に亡くなり、この地に墓が建てられますが、墓はその後、荒廃していたようです。明治5年(1872年)に横浜の英国人商人のウォルターズが、横浜在住の英国人向け新聞「ザ・ファー・イースト」に紹介したことで、その存在が知られるようになりました。その後、逸見の有力者であった鈴木福松(後の第2代横須賀市長)らが整備を行い、さらに日露戦争中の明治38年(1905年)には広く寄付を募り、その寄付金をもとに整備が行われ、この石碑が建立されました。」「石碑全文はこちら」とQRコードが。「安鍼塚碑正二位大勲位侯爵井上馨篆額塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕蘭舩航東洋遭颶風漂蕩五年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江戸賜邸今日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成稱意又為砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱曰吾漂來此國暖飽至今皆徳川将軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙滿比丘宅阯猶在村中香火院曰浄土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇納爾海軍大将井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王英國亜札爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貮萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰 嗟安針氏 海外漂寓 有効國家 報以恩遇 義不忠恩 生死仰慕 永護江都 東面其墓 従三位勲二等文學博士三島毅撰 従六位勲五等髙島張輔書 井龜泉刻字」現代語訳塚に葬られているのは、イギリスのケント州ジリンガム出身で安針の名で知られるウィリアム・アダムスである。慶長三年(一五九八年)にオランダ船に乗り、東洋への航海中台風に遭い、五年間の漂流の後、豊後(現在の大分県)の海岸に達した。この時、大阪にいた徳川家康に召し出され、江戸に屋敷を与えられた。日本橋区(現在の東京都中央区)按針町がこれである。家康は通訳あるいは顧問として按針を取りたてた。西洋式の船の造船を命じ、安針はその意をかなえた。また、砲術、地理、数学等の師範、或いは外国との貿易に大変な功績があったので、相模(現在の神奈川県)の逸見に二百五十石の領地を与えられた。元和六年(一六二〇年)四月十四日に病没した。その際、「私はこの国に流れ着き今や大変に恵まれた生活をしている。これはみな徳川将軍の恩である。私を逸見山の嶺の東向きにした墓に葬ってほしい。そうして死後も江戸を望みこの都を永久に保護するものである」との遺言があった。戒名は寿量満院現瑞居士。妻の馬籠氏との間の二人の子供は夭逝し、寛永十一年(一六三四年)七月十六日妻もまた病没し、ここに合葬した。戒名は海華王院妙満比丘。屋敷は現在も逸見にある安針の菩提寺である浄土寺で、所縁の品が伝わる。明治三十八年、墓が訪れる人もなく荒廃していることを歎いた神奈川県知事の周布公平(すふ こうへい)が整備をした。イギリス公使マクドナルド、海軍大将井上(良馨)男爵、イギリス人商人ジェームス・ウォルタらの募金により修繕をした。有栖川威仁親王、イギリスのアーサー・コンノート親王の保護令旨により紳士、富豪やイギリス人らから二万円の寄付が集まり、これをもとに墓の拡張や修繕、花や木の植栽、墓守を置くなどの整備が行われ、塚山と名付けられた。また、これらの事業を後世に伝えるためこの石碑を建立した。※注:碑文を現代語に訳したものであり、必ずしも歴史的事実を表したものではありません。三浦安針墓(安針塚)。供養塔の脇には大きなタブの木(クスノキ科常緑高木)があり、周囲はフェンスで囲われていた。近づいて。三浦按針が亡くなったのは長崎県の平戸であるが、いろいろな出来事があり墓の所在は定かではないとのこと。そのため、ここは本来の墓ではなく供養塔であるが、大正12年(1923年)に三浦按針墓として国指定史跡となったとのこと。右の宝篋印塔がウィリアムアダムス・三浦安針👈️リンク の供養塔。按針とはパイロット=水先案内の意。磁針を見、天体を測定して船の航海をつかさどった者 と。左の宝篋印塔が妻・ゆきの供養塔。慶長7年(1602)に馬込勘解由の娘とされる、お雪(マリア)という女性と結婚し2人の子供が誕生したと。しかし、日本に漂着する前、既に結婚していたとのこと。ウィリアム・アダムスはメアリー・ハインと結婚して娘・デリヴァレンスと息子・ジョンが誕生していたと。多忙であったウィリアム・アダムスは家にいないことが多かったと。しかし彼は家康に気に入られて武士となった後も一度も帰国しなかったとのこと。一対の供養塔を左側から。再び「安鍼塚碑」を振り返って。石段を降りた所にあった石柱。「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ大正十二年三月内務大臣指定」と刻まれていた。「大正十三年六月建設」。「富士見台」に向かったが、写真を見ると通行止めではなく、駐車禁止案内であったことに気がついたのであった。「大楠山(石畳道)」案内。大楠山山頂より富士山と金時山(左端、富士山直下は矢倉岳)の写真をネットから。正面にも案内板が。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 三浦按針夫妻墓墓石は、江戸期の宝篋印塔で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。三浦按針は本名をウイリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の航海長として1598年に東洋に向かいました。慶長五年(1600)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。徳川家康は三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによります。この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョゼフとスザンナの一男一女をもうけました。家康の亡きあとは不遇となり、元和6年(1620)5月16日に江戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年57歳でした。この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家のご厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。毎年4月8日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。」ここからも富士山の姿が見えるのであろうか?別のルートで「富士見台」に向かって見た。ここが「富士見台」であったが・・・。「富士見台」から引き返して、ここも別のルートで「三浦安針墓(安針塚)」へ再び。今度は「三浦安針墓(安針塚)」を先ほどとは反対側から。そして石段の上から桜をこれでもかと見下ろす。「中央広場 見晴台」へ。見晴台側の斜面にあった「かながわの景勝50選 塚山公園」碑。東屋風の建物が。「ミツバツツジ」の林を見下ろす。前方には「さくら祭」の舞台があった。何度もみたいピンクに輝く「ミツバツツジ」の花を。ズームして。名残り惜しさに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.27
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「三浦安針墓(安針塚)」を目指して「塚山公園」内に入る。「塚山公園」の最高部は標高133m。見晴台からは横須賀港や横浜、房総半島の山々などが見渡せたのであった。公園の奥には「按針塚」と呼ばれる碑があった。国指定史跡のこの碑は、三浦按針ことイギリス人ウイリアム・アダムスと、その妻の墓。三浦按針は砲術や造船術、航海術などを日本に伝え、徳川家康の外交顧問としても活躍した人物。 案内柱には「さくら谷」と。「塚山公園」案内図。ピンクの場所が「さくら谷」。「港の見える丘」に向かって。正面に「管理事務所」。左下の「さくら谷」の満開の桜を楽しみながら進む。「県立塚山公園のさくら」案内板。ソメイヨシノをはじめとしてヤマザクラ・オオシマザクラなど数種類の桜、約1,000本が春に開花する と。この日は4月5日(土)、「第77回塚山公園さくら祭」が開催されていた。「按針塚」に向かってさらに進む。「県立 塚山公園」碑。公園案内がここにも。現在地はここ。「港の見える丘」の「展望デッキ」に向かって進む。「港の見える丘」の「展望デッキ」からの光景案内。遠く房総半島の山々、その手前に「猿島(さるしま)」その右手に「メルキュールホテル」「ザタワー横須賀中央(38階)」が写真右に。さらにカメラを右に追うと防衛大学校のある小原台方向が。再び眼下の「さくら谷」を。西側の「十三峠」方向を見る。「十三峠」は横須賀市の北西部、長浦町の谷戸の最奥部に位置するが、峠を越える道は尾根筋を通り、西の田浦(田浦町二丁目)の谷戸と東の逸見(西逸見町三丁目)の谷戸とを結ぶ。元の浦賀道であり、明治から大正にかけては国道に指定され、程ヶ谷(保土ヶ谷)と浦賀、また明治以降は横浜と横須賀とを結ぶ幹線道路であった。しかし、田浦・逸見の両谷戸から尾根筋への登り坂が極めて急峻であったことから、荷車等の通行は困難であった。そのため、1928年(昭和3年)に田浦-逸見間の海岸沿いにトンネルで通り抜ける道路(現在の国道16号)が開通すると幹線道路の地位を完全に失った とウィキペディアより。「十三峠給水塔」をズームして。UFOのような水色の構造物は配水タンクのようだ。残念ながら富士山の姿は雲に隠れてしまっていた。その手前に長浦町段々畑が。段々畑をズームして。桜並木の下を「展望デッキ」を目指す。「展望デッキ」に到着。「田浦港」方向を見下ろす。「田浦港」の沖合に停泊する「護衛艦」を再び。「田浦港」方向案内図。何故か気になる巨大クレーンを目一杯ズームして。再び桜を追う。そして美しいピンクの花・「ミツバツツジ」葉は3枚輪生することから、「ミツバツツジ(三葉躑躅)」の名に由来になっているのだ。今朝の我が家のツツジの花、葉です。「ミツバツツジ(三葉躑躅)」との葉の違いが解かるのです。葉は枝先に集まって互生し、大形の狭長楕円形で両端はとがる。革質で光沢のない明るい緑色。ふちは全縁で、両面に毛があるのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.25
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京浜急行「横須賀中央」駅から乗車し、次の目的地の「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)」を訪ねるために、「安針塚」駅で下車。(国による史跡指定は「安針」の字で受けている)とのこと。「安針塚」駅にあった「三浦按針 菩提寺 浄土真宗 浄土寺」👈️リンク 案内ポスター。三浦按針は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、ウィリアムアダムスの乗るリーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。家康は米や俸給を与えて帰国を慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、」助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。家康は、アダムスの功績に対し、ここ横須賀・逸見(へみ)に250石の領地を与え、三浦按針という青い目のサムライが誕生したのであった。サムライの称号を得た最初の外国人だったのだ。 [按針塚]ウィリアム・アダムス👈️リンク は1620 (元和6 )年に長崎県平戸で亡くなると、外国人墓地に埋葬されたが、息子ジョセフは父の遺言にしたがって、横須賀にその墓標を建てた。アダムスの持念仏が安置されている横須賀浄土寺では、1840 (天保11)年の江戸時代末期までアダムスの法要が営まれていたようで、江戸屋敷があった日本橋按針町の人々が寄進した打敷(ご本尊の前机にかける敷物)が残っている。(神奈川県立塚山公園国指定史蹟)「安針塚駅」を出て三浦安針墓(安針塚)を目指して歩き始めた。横須賀市長浦町3丁目の住宅街を南に向かって進む。山を切り崩して作った道なのであろう。三浦半島では、このような起伏に富んだ土地に住宅地が広がっているのであった。横須賀市の汚水マンホール蓋。市章の周りに横須賀市の木・オオシマザクラの花と「おすい」の文字。更にその周囲を「YOKOSUKA」の文字と小さな オオシマザクラの花で囲む。坂の途中、左手にあったのが「真宗大谷派 長願寺」。横須賀市長浦町3丁目19掲示板には「暗闇の中でこそ 星が見える」と。石段を上ると正面に本堂が現れた。「長願寺」は田谷山・浄土真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来像。創建については不明だが、新編相模国風土記稿に「不入斗村、西来寺末」とあり、西来寺の隠居寺となっていたようだ。享保元年(1716)に亡くなった春誓が中興開山といわれる と。「田谷山長願寺 再興之詩抑々当山ハ、室町時代ニ不人斗西来寺住持・頓乗師、小田原北条氏ニヨリテ法難ヲ受ケ、長浦ノ里某門徒ノ家(後ノ長願寺)ニ隠レ住ム。コレ即チ当山ノ濫觴ナリ。其ノ後頓乗師、西来寺ノ寺蹟ヲ回復ス。爾来当山ハ西来寺ノ地中トナル。故ニ、頓秉師ヲ当山開基ト為ス。昭和ニ至リ、住憎高崎文城師、西来寺ヨリ当山ヲ独立、長願寺独立第一世トナリ、ココニ当山ハ真宗大谷派宗門ノ一寺トナレリ。然レドモ、寺ノ基盤微弱ニシテ、寺内荒廃ス。独立第ニ世・高橋一蔵師、寺門ノ運営ニ苦シミ、本堂再建ノ志アレドモ、昭和六十一年一月、中路ニ遠ク逝ク。当山減亡ノ危機、ココニ極マル。ココニ至リテ、時ノ浄栄寺住持・蒲範雄師、速カニ寺務ヲ相続シ、浄栄寺ト兼務ス。浄栄寺法嗣・蒲信一、当山ノ寺務ヲ掌握、直チニ総代・世話人ヲ結集シテ、当山再興事業ニ着手ス。佛紀ニ五三七(平成六)年十一月ニ十日、本堂・常照庵(門徒会館)・庫裡ヲ落成シ、当山再典事業円成ス。其レョリ遡ルコトニ年余、熊ホ県天草光蓮寺ノ衆徒・海法龍師ヲ法嗣ニ迎へ、ココニ範蒲雄師ヲ当山中興第一世トシ、海法龍師ヲ第ニ世ト為スモノナリ。佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月、海師法燈ヲ継承シ畢ンヌ。当山再興事業ニ就テハ、別ニ記録ヲ具フ(長願寺再典物語之也)。当山再興ニ尽力セシ人々・・・略・・・当山ハ幾多ノ門徒・有志ノ念ヨリ再興サレシ真宗弘通ノ道場、如来ノ仏法領ナリ。何人モ私スルコト能ハズ。後世ノ同朋、ユメユメ如来ノ洪思ト、先人ノ労苦ラ忘ルルコト莫レ。 佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月四日 浄栄寺佳持 釋信惠(蒲 信一)」。扁額「長願寺」。本堂の「殿鐘」。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になるのだ。「常照庵」は門徒会館 と。本堂裏の墓地。歴史を感じさせる石仏の姿も。枯山水風の庭。さらに南に進むと「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」の駐車場の先の山裾にあったバリケードで閉ざされた「大きな穴」。Google MAPには「謎の巨大遺構」と。横須賀市長浦町3丁目。穴の中を覗き込む。側面は岩肌が、天井はコンクリートで粗仕上げが?その先は行き止まり?戦時中の海軍の地下工場、地下倉庫の施設跡か?何の目的で作られた施設なのか?ご存じの方が居たら是非教えて頂きたく。「安針台地区 地区計画区域」案内図。低層住宅、中高層住宅、住宅商業複合、公共公益施設と地区計画が出来ているようであった。そして「謎の巨大遺構」の西側にはユニークな公園・「長浦3丁目第二公園」があった。背中の大きな「帆」が特徴の、アメリカで発見された哺乳類の祖先「盤竜類・ディメトロドン」の姿に圧倒されたのであった。「ディメトロドン」は系統的には哺乳類を含む単弓類の原始的な動物で、恐竜ではありませんとネットには。実物大なのであろうか?FRP製?のようであったが。「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」。その先、雑草の生い茂る山裾の細い石段の先にあった「長浦稲荷社」。横須賀市長浦町3丁目24−24中央に小さな石祠。そして「三浦安針墓(安針塚)」に向かって引き返す。「横須賀市の雨水マンホール蓋」。デザインは市の花「ハマユウ」。高層マンション群を見ながら坂道を上って行った。横須賀市安針台16付近。ピンクの「シャクナゲ(石楠花、石南花)」の花。近づいて。ピンク、赤、白、黄など変化に富んだ花色と、大きく豪華な花房は、ほかの植物を圧倒する美しさなのであった。左手奥の高台にあったのが「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。高層マンションがさらに建設中であった。「コモンヒルズ安針台 Ⅰ番館・Ⅱ番館・Ⅲ番館」。京急「按針塚駅」から6~700mの高台にあるマンション群。そして「安針台第2公園」への石段を上る。公園入口では、小鳥の像のついた車止め・「ピコリーノ」が迎えてくれた。可愛い小鳥に近づいて。ベンチでしばしの水分補給。オオシマザクラ?近づいて。ショートカットをしようと、さらに石段を上って行き振り返って。先日訪ねた横須賀本港を見る。護衛艦の姿が。 ・・・つづく・・・
2024.04.24
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横断歩道を渡りながら、次に訪ねた「清雲寺入口」案内柱を見る。横須賀市大矢部5丁目7~8の境の住宅街の狭い道を進む。バス通りから坂道を登って行くように向かった。グルッとした形状が昔からある旧道っぽい雰囲気。『横須賀こども風土記』(以下風土記)にこの辺りを「クリヤマ」と云うと。「クリヤマのクリとは住職やその家族の居間を意味する庫裏のことでしょう」とあったので、現在の清雲寺は往時の庫裏部分に建てられているようであった。「横須賀風物百選 清雲寺滝見観音像」と。横須賀市が市制施行70周年(1977年)を記念して「横須賀風物百選」を制定したと。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像」案内板。下部には「清雲禅寺」と。近づいて。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像 一躯(く)神奈川県横須賀市大矢部五ー九ーニ〇 清雲寺本体像高 六一・八センチメートル平歳一〇年(一九九八年)六月三〇日指定この観音菩薩坐像は、その形状形態から南宋時代に中国の江南地方で製作されたものと考えられます。材質は中国産の桜材とみられ、体部は像内に空間ができるように正面材と背面材を貼り合わせ、底板(亡失)をはめる箱組式の構造です。頭部は一材であり、瞳はガラス様の玉が裏からはめられています。地髮、肩上の垂髮および胸飾は練物が貼り付けられています。表面はかつて、漆塗りで全身が淡紅色の地色で被われ、衣部は顔料や金により文様が施されていたと思われますが、現在ではほとんど剥落しています。この像は右ひざを立て左ひざを垂下させたくつろいだ姿勢、面長で鼻梁が細い顔だちなど、妖婉さを漂わせる印象があります。このような像は中国では、五代頃より盛んに作られました。それらは景物や付属品等により水月観音、楊柳観音等と呼ばれます。この像も、滝見観音と呼ばれ親しまれています。また、その作風の特色や技法などが京都泉涌寺の観音菩薩坐像(楊貴妃観音)と同一であり、両者の関係が彫刻上の興味に留まらず歴吏的な関孫が想像されます。この像がこの地にもたらされたのは、その製作年代から三浦氏が領主であった時代で、三浦氏が減亡した宝治元年(一ニ四七年)以前と考えられます。一三世紀後半から鎌倉を中心とする周辺で製作された像に、宋彫刻の影響が見られるのは、この像がもたらされた時代背景によるものと思われます。この観音菩薩坐像は、東国に宋文化を伝え芽生えさせたことを語る代表的作例の一つです (南宋時代 一一ニ七~一ニ七九年) 平歳一一年(一九九九年)一〇月 横須賀市教育委員会」「三界萬霊(さんがいばんれい)」の慰霊碑(左)と「唐佛瀧見観世音菩薩」碑(右)。山門に向かって進む。「清雲寺」案内図。ズームして。掲示板には「よわねをはくな くよくよするな なきごとをいうな うしろをむくな坂村真民「七宇のうた」より」「木像 毘沙門天立像所在地 横須賀市大矢部五丁目九番ニ十号所有者 宗教法人清雲寺指定年月 昭和三五年(一九六〇年)五月十七日この毘沙門天像は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保の乱(建保元年、通称和田合戦)の折、和田義盛の為に敵の矢を受けとめたと言われ、矢請の毘沙門天と呼ばれている。像高七〇・七cmの寄木造りで、彩色玉眼入り。邪鬼の上に立ち、腰をやや左に張ってひねり、右手に宝桙、左手に五輪塔を捧げる通形の立像である。兜を別に作り頭上にかぶせ、鎧の止め金の銅板細工で戴金模様が伺われる鎌倉中期以前の優作の一体である。鬼底部及び台座の墨書銘から補修されたことがわかる。〔鬼底部銘〕 相 大矢部村大富山清雲前住 可心 再興 貞享二ニ年(貞享四年=一六八七年のこと)卯九月吉日〔台座銘〕 相 鎌倉扇之谷村ニ而 仏師 後藤左近重房 (花押) 貞享四卯ノ年八月出来為後年之書置者也平成ニ十一年(二〇〇九年)三月十五日 横須賀市教育委員会」「木像 毘沙門天立像」。「木像観音菩薩坐像現在、滝見観音と呼称されている像で、中国南宋で造られ、入宋僧や日宋貿易を担った商人らによって日本に伝わり、三浦の地には13世紀頃にもたらされたと考えられる。江戸時代には末寺円通寺(廃絶)の本尊として祀られていたが、清雲寺に移されて現在に至る。首をかしげ、面長でロ角をやや上げ微笑する表情は、生身の人間のような印象を受ける。瞳にはガラス玉を嵌める点が珍しい。岩座に坐り左足をのばし右足を立て、左手を岩座に置き、右膝に手を添える特徴的な姿は遊戯坐(ゆげざ)とも呼ばれ、日本の仏像とは異なる異国風の雰囲気がある。」「木像観音菩薩坐像」。「山門」を潜る。切妻造銅板葺で小さな袖塀を設けた山門は四脚門。山門を通して眺めた緑に包まれた境内が。正面に本堂。山門脇の覆屋に鎮座する「六地蔵尊像」。赤い帽子と刺繍が施された涎掛けがいい。「六地蔵尊像」の周囲には多くの卒塔婆が奉納されていた。「三浦為継の逸話二代目為継は後三年合戦で、源義家の陣営に加わって戦った。その際、16歳の鎌倉権五郎景正(鎌倉の権五郎社の祭神となった人物)が敵矢を右目に受けたが、矢を抜くこともなくその敵を射殺。帰陣して仰向けに倒れ込んだ影正を見た為継は、急き駆けつけ、矢を引き抜くため沓を履いたまま彼の顔を踏みつけて矢を引っ張った。これに景正は激怒。「弓を射られて死ぬのは望むところだが、なぜ生きながらにして顔を踏まれなければならないのだ!」と怒鳴りつけたのだ。為継も、非礼を詫びて膝をかがめ彼の顔を抑えて矢を引き抜いた。」本堂前、右側の石仏群。近づいて。微笑む石仏、舟形光背の地蔵尊像、右手に錫杖、左手に赤子を抱く。子安地蔵尊像?大きな頭部の錫杖を持つ地蔵尊像も。正面に本堂を見る。平安時代後期の長治元年(1104)、三代衣笠城主の三浦義継(三浦氏三代目)が父為継(二代目)の供養のために天台宗として創建した。桓武天皇の末裔である三浦氏の祖は武将・三浦為通で、康平六年(1063)、平安後期の武将で東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家より三浦の地を賜り、三浦を名乗って衣笠城を築いた。清雲寺には、頼朝挙兵に尽力した三浦義明以前の三浦氏三代にわたる当主が埋葬されている。創建時の本尊は毘沙門天立像だったが、三浦為継が建立した円通寺(廃寺)の本尊だった瀧見観音菩薩像が、昭和初期頃に復興された清雲寺に移されて本尊に。 瀧見観音菩薩像は中国からの渡来仏、膝を立てた珍しい坐相で、南宋時代(1127~1279)の造立とされる。国の重要文化財に指定されている と。本尊の両脇には、鎌倉時代前期に運慶・快慶率いる慶派により建像された「毘沙門天立像」(県指定重要文化財)と、室町時代の「地蔵菩薩像」(市指定重要文化財)も安置されており、それぞれの時代の仏様が清雲寺に眠る数多くの御霊をお守りしているとのこと。扁額「圓通閣」。屋根には三浦氏の家紋「丸に三つ引紋」が。「三浦一族 ゆかりの地を巡る」案内板。「家の継承 ~先祖を祀るのはなぜか家を「継ぎ・伝え・興す」、これが中世の日本の人々の考え方の一つである。当時、末法思想と呼ばれる終未思想が流行したが、人々は自分の代で終わるとは考えていなかった。その彼らが最後に求めたものは極楽浄土への往生である。その管理をするのが、菩提寺だった。菩提寺は家の財産として、代々家長から家長へと継がれていく「渡り領」に含まれた。また、家族を持たながった女性、家族を失った女性を保護するのも菩提寺の役目であった。極楽への往生を願う人々は菩提寺を大切に守った。時には兄弟の中から出家し、僧侶となり家族を供養することも求められた。」境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠。頭上に11面をいただく千手観音菩薩像。「横須賀市指定史跡伝三浦為継とその一党の廟所昭和四十八年(一九七三年)一月十日指定清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏ニ代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(一九三九年)に円通寺(廃寺=大矢部ニ丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。為通は関東平氏の流れをくみ、康平六年(一〇六三年)に源義家より三浦の地を賜り、衣笠城を築いた武将である。なお、「石造板碑文永八年在銘」および三浦九十三駒墓と伝えられる石塔群も同時に移された。横須賀市指定重要文化財石造板碑 文永八年在銘平成ニ十四年(二〇一二年)二月二十七日指定板碑とは石製塔婆のことで、この板碑は、もとは円通寺裏山、三浦氏の墳墓と伝えられるやぐら群の最上部のやぐらの傍らにあった。現在は右記の廟所の手前、切石を積んだ石室に納められている。埼玉県秩父産緑泥片岩製の武蔵型板碑で、現存地上高一三六・五cmを測る。主尊の梵字は阿弥陀種子キリークで、中央に「文永八年五月十四日左衛門小尉平盛信」、その下に次の願文を五行で刻んでいる。「右志者先考\聖霊當十三\年遠忌為成\佛得道造立/供養如件敬白」平(佐原)盛信が、亡き父(佐原光盛)の霊の十三回忌にあたり、成広し仏道の悟りを開くように板碑を造立し供養したことを記す。平成ニ十四年十ニ月 横須賀市教育委員会」本堂の脇を通って伝三浦為継とその一党の廟所に向かう。本堂右手に立ち、笠と中台に三浦氏の家紋が彫られた7基の石燈籠。「鎌倉殿の13人 三浦一族ゆかりの地 横須賀市」と書かれた幟。本堂裏の三浦氏三代の墓の五輪塔。近づいて。中央が初代為通、両側が二代為継と三代義継とのこと。三基の五輪塔の左右には、不揃いの五輪塔が並ぶが、三浦氏に従った三浦九十三騎の墓と伝えられ、文永八年銘の板碑も残されている。これらも円通寺から移されたものである。文永八年銘の板碑。ズームしたが・・。「祖~三代目の墓清雲寺の三浦一族の廟所には、三浦氏初代為通、二代為継、三代義継の墓とされる中世に遡る五輪塔が安置される。かつては、開祖である二代為継のものとされる中央の一回り大きな五輪塔のみだったが、1939年に近在の三浦一族の墓所であった圓通寺のやぐら群から、初代為通と三代義継の五輪塔とされるものが移され、三代三基が並び建つこととなった。ただし左右のどちらが、初代為通、三代義継かは判然としない。また、圓通寺跡のやぐら群からは、この他にも三浦九十三騎と伝えられる多数の五輪塔が移され、三代の五輪塔を取り囲むように左右に安置される。五輪塔は本来仏舎利塔であったが、中世には墓塔として広まった。」そして引き返して再び三浦氏の家紋の入った石灯籠7基を見る。境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠も再び。本堂に向かって左側に建つ庫裡を見る。「東国花の寺 百ヶ寺秋の七草 第一番 女郎花(おみなえし)の寺 清雲寺」と。東国花の寺は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、平成13年3月に発会したと。再び赤い帽子とよだれかけの六地蔵尊を。山門前から本堂を振り返る。蓮華座に立ち宝珠と錫杖を持つ地蔵尊像と自然石の庚申塔「青面金剛王」(造立年不明)。そしてこの日の訪問場所を全て訪ねた後は、バス通りまで戻り解散場所の「衣笠城址バス停」に向かって進む。地中、右手に先程訪ねた「満昌寺」を見る。そして「衣笠城址バス停」で解散し、私は横須賀駅行きのバスに乗り、途中、京浜急行線に乗り換えられる「横須賀中央駅」でバスを降りたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.23
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「満昌寺」を後にして次に訪ねたのが「近殿(ちかた)神社」。「近殿神社」は、三浦氏の祖とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる、三浦義村を御祭神として祀る神社。三浦一族の本拠地であった衣笠城やその支城の大矢部城があった場所のすぐ近くに鎮座しているのであった。神社の御祭神と言えば神話に出てくる神様と思われるかもしれませんが、こちらの神社のように先祖を祀る神社もあるのです。このような神社を「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」と呼ぶのだ と。近殿神社の読み方は「ちかどの」「ちかた」「ちかど」と色々あるそうです。横須賀市大矢部1丁目9−3。社号標石「近殿神社」。石鳥居越しに「近殿神社」の拝殿を見る。現在の鳥居は昭和43年に奉納されたものと。「手水舎」。手水鉢には「洗心」と刻まれていた。境内にあった「町内会館」。「三浦氏の実力三浦為通の父親は桓武天皇の流れを汲む平忠通。前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられたことから、「三浦」の苗字を名乗るようになり、義村、義澄もその流れを汲む。三浦は日本書紀に「御浦」、万葉集に「御宇良崎」と記されており、古くから「みうら」と呼ばれていたことがわかる。相模湾と房総半島を結ぶ海上交通の要衝でもあるこの地を本拠とした一族は海上交通を握る水軍を発展させた。源頼朝も北条氏も三浦氏に一目置いていた。」「由緒神社名 近殿神社鎮座地 神奈川県横須賀市え矢部一丁目九番三号祭神 三浦義村公御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明ー義澄ー義村ー奉村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の他に、同大矢部山下834番地に祭神速玉乃男命(はやたまのおのみこと)を祀る熊野社、同大矢部山下722番地に天照天神を祀る皇大神社及び素戔鳴命(すさのおのみこと、別名、午頭天王)を祀る八雲神社とその境内社である本花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社及び金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る金之比羅神社、更に同大矢部綾子畑250番地に日本武尊を祀る貴船神社、そして同大矢部綾子畑239番地に八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社と数々の神社がありましたが、大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀されてしまいました。しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の当境内地に遷宮し、昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日宗教法人近殿神社の設立登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営されています。社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建しましたが、老朽化して去る昭和51年(976年)8月22日に改築造営して今日に至っております。 平成14年(2002年)9月 三浦大介義明公八百年幣実行委員会」 説明員の山本さんが、三浦家の家系図を出し、上記を説明して下しました。三浦氏の「家系図」を再び。狛犬(右)。この社殿前の狛犬は岡崎型。昭和52年奉納とのこと。「狛犬」(左)。正面から「社殿」を見る。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山本耕史さんが演じられた三浦義村を祀った神社。「社殿」に順番にお参り。内陣。義村の木像(坐高35cm)は下の写真の黒い祠の中に鎮座されていたのだろうか?社殿に向かって右側の奥には山頂神社、金刀比羅神社、貴船神社、八雲神社、熊野社、浅間神社、皇大神社の石宮が境内に祀られていた。石祠群の前には歴史を感じさせる狛犬の姿が。「石宮の由緒こ々に鎮座する八つの石宮は大矢部にあった神社で、その由来については石段下右側の由緒書をごらん下さい。石宮の図山頂神社 貴船神社熊野社 皇大神社金刀比羅神社 八雲神社浅間神社 近殿神社の境内社」それぞれ、山頂神社は八街比古命(やちまたひこのみこと)、貴船神社は日本武尊命(やまとたけるのみこと)、熊野社は速玉之男命(はやたまのおのみこと)、皇大神社は天照大神(あまてらすおおみかみ)金刀比羅神社は金山彦命(かなやまひこのみこと)、八雲神社は素戔嗚命(すさのおのみこと)、浅間神社は木花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、が祀られているのだ と。どの石宮がどの神社のものか??案内板はなく、数も合わない!?歌川国芳 作「宇治川先陣」。「宇治川先陣」(うじがわせんじん)を描いたのは、「歌川国芳」(うたがわくによし)。歌川国貞、歌川広重と共に、歌川派の三巨匠と言われた人物で、武者絵が得意でした。 本合戦浮世絵は、平安時代の軍記物語「平家物語」に登場する「宇治川の戦い」がモチーフ。1184年(寿永3年)、「源頼朝」(みなもとのよりとも)は叔父である「木曽(源)義仲」(きそ[みなもと]よしなか)を討つことを決意します。そのとき、活躍したのが、3人の武将。画面左の「畠山庄司重忠」(はたけやましょうじしげただ)は、実は宇治川に先陣(せんじん:いちばん乗り)をしたのですが、渡河の途中で馬を射られて徒歩となり、同じく馬を射られた「大串重親」(おおぐししげちか)を助けるはめに。次に表れたのが、画面右側の「梶原源太景季」(かじわらげんたかげすえ)。しかし、画面中央の「佐々木四郎高綱」(ささきしろうたかつな)は、頼朝からいちばんの名馬「生唼」(いけづき)を拝領していたため、何としても1番乗りになりたいと、景季に馬の帯が緩んでいると知謀を働いて出し抜き、ついに先陣を切るのです。猛者揃いで英知にあふれた頼朝軍の様子を伝える、見事な1枚です とネットから。名馬「池月」の姿の写真。「源頼朝に献上された名馬である。頼朝の所有する代表的な名馬に生食と磨墨(するすみ、cf. 磨墨塚)の二頭がおり、梶原景季は頼朝に日頃から欲しいと思っていた生食を所望したところ、頼朝は磨墨ならばと同馬を与えた。ところが、後日、頼朝は生食を簡単に佐々木高綱に与えてしまった。のちに宇治川の戦いでは生食を駆る高綱が、磨墨を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。」とウィキペディアより。この地・大矢部の歴史に関する様々な本や写真集が紹介されていた。境内にあった「薬王寺旧跡」まで140mとの案内板。中央に四角い穴の開いた礎石があった。「「浅間神社」幟旗(のぼりはた)の礎石についてここに展示の礎石は、「浅間神社」の登山口に設置されていた幟旗(大矢部では幟と呼んでいた)の礎石で、お祭りのときなどには中心の四角い穴に丸太を立て、丸太に幟を通して高く掲げたものです。浅間神社登山口の左右にありましたが、展示の礎石は浅間神社に向かって右側に設置されていたもので、左側は失われました。大矢部の各神社にはこのような幟の礎石が数多くあったと思われますが、開発などにより失われ、ここに移した浅間神社のものが最後の一基と考えられます、大矢部の貴重な歴史遺産として後世に伝えたい遣産のひとつです。 註・・・浅間神社は、大矢部村民が「センゲン山」と呼んでいた山の項上にありましたが、 現在は横~横道路内になっています、昔は大矢部村の総鎮守社でしたが、享和年間 (1801~1803)に総鎮守社を浅間神社から近殿神社に替えた事が大矢部の古い文書に 書かれています。浅間神社の幟は比較的小さいものだったようですが、大幟と呼はれた幟は並外れて大きく、立てるのに苦労したと聞いています、礎石も当然並外れて大きいものだったと考えられます。 以上 平成ニ十一年三月吉日」そして崖下の横須賀市大矢部1丁目の道を「薬王寺跡」に向けて歩いて行った。その先、左側にあったのが「薬王寺旧跡 三浦義澄公👈️リンク 墳墓」。「横須賀市指定史跡 薬王寺旧跡 所在地 横須賀市大矢部一丁目二一六 所有者 満昌寺薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212年)、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父杉本義宗や叔父三浦義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年(1876年)頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。これら石塔群は、当地出上の元応2年(1320年)銘の双式板碑(市指定重要文化財・満昌寺蔵)とともに薬王寺の歴史を裏付ける貴重な存在である。 令和4年(2022年)七月 横須賀市教育委員会」そして、石塔群のうち中央の、凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。本尊の薬師像は満昌寺に移され義澄の五輪塔だけが残されているのであった。さらに近づいて。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれているのであった。「改修記念碑維時 昭和五十六年十月二十五日三浦荒治郎義澄公墳墓施主三浦大介義明公八百年祭実行委員会」三浦義澄の墓の脇には、複数の石仏や石塔などが残されていた。多くの古そうな五輪塔も脇に。「三浦荒次郎義澄之墓」?と刻まれた石碑。その横にあった木製の小祠。内陣。「薬王寺旧跡」の先の路地を広い道へ向うと右から別の道がY字に交わる角に、上部を伐採された大木の根本に大きな石があり、この辺に薬王寺の山門があったとのこと。寺の大きさが伺い知れるのであった。薬王寺山門の「駒繋ぎ石(こまつなぎいし)」。各武将がこのお寺にお参りする時、馬の手綱を繋いだとされる石とのこと。土地の人は「こまどめの石」ともいっているとのこと。手綱をつないだところに磨り減った跡が見えた。近づいて。小さな碑には「薬王寺山門駒繋石」の文字が刻まれていた。手前にも石碑が。横須賀市大矢部二丁目地内の現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」敷地内に円通寺が 所在していた。天保十年(1839 年)にお堂が村民に売り払われ、廃寺となったため、詳細な場所は特定できていないと。 中世以前の宗派は不明ですが、江戸時代後期には臨済宗円覚寺末の清雲寺の末寺となっていたようだ。本尊は現在「清雲寺」にある国指定重要文化財の「木造観音菩薩坐像(通称「滝見観音」)」であったとされている と。 「円通寺と深谷やぐら三浦一族のやぐら群を残す貴重な谷円通寺と深谷やぐら初代三浦為通開基と伝わる円通寺の跡地。為通、為継、義継の供養塔が祀られていたという。谷の山肌には「やぐら(鎌倉時代中期に作られたお基)」が掘られ、三浦一族の墓所とされていたと思われる。しかし、江戸時代に廃寺になり、五輪塔などの石塔や、本尊であった観音菩薩像(滝見観音)は清雲寺に移された。その後は、軍の弾薬庫として接収された。そのため開発を免れ、当時の地形を残す三浦一族の貴重な遺跡です。」と頂いた資料から。 出典 新編鎌倉誌ここが「円通寺跡」。緑の場所が現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」横須賀市大矢部2丁目。そしてさらに進むと広い大きな道路に出た。衣笠IC方向に歩を進めると、道路の反対側・横断歩道の先には、次に訪ねた寺・「清雲寺」の入口案内柱があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.22
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「満昌寺」の「御霊神社宝物殿」の見学を終えて、「御霊神社宝物殿」の裏・北側にあった「三浦義明廟所(三浦義明の墓)」を訪ねた。「義明公墓」と書かれた案内板。ここにも「三浦義明坐像」案内板があった。「満昌寺の鎮守御霊明神社のご神体として祀られる三浦義明像。巾子冠をかぶり、袍と指貫を着けた東帯姿の等身の像である。首柄に1194年の墨書銘があるが、近世に書き加えられたものらしい。江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』や松平定信が全国の宝物を調査させた『集古十種』にも図が掲載され、当時すでに著名な像だったことがわかる。中世の武士の肖像彫刻は、烏帽子をかぶり強装束を着けたものが多いが、本像は衣冠束帯の姿であらわされる点が珍しい。鎌倉幕府の草創の立役者として神像に近い意識で造られたのかもしれない。」「三浦義明坐像」。「三浦水軍」案内板。「三浦半島を本拠地とする三浦氏は、三浦半島の丘陵地帯を馬で自在に駆け回る馬術と、東京湾・相模湾で船戦のできる水軍の両方に習熟しており、騎馬武者と水軍を兼ねた家として発展した。治承・寿永の内乱の最後の合戦となる壇ノ浦合戦(1185年)で、三浦水軍は源義経率いる追討使の第一陣を務めた。『平家物語』には、平氏の水軍と三浦水軍の違いが書かれている。遠くの的に正確に当てるのは、平氏の方が優れていたようだ。瀬戸内海の戦いを見ても、遠矢は必要な技術だったのであろう。一方、三浦水軍は、接近戦になると正確な弓を射ており、駒馬武者の弓術に近いものがある。和田義盛も、軍船の弓戦では勝ち目がないと判断し、小舟で接近し、相手を正確に射落とす戦い方をした。」この石碑には「嗚呼○烈三浦大介公之○域」「義明の最期衣笠城は、三浦一族の本拠地としてくられた大きな山城である。衣笠城に籠ると決めた時点で、義明は戦に勝てないと判断した。一族の者が「籠城するのは怒田(ぬた)城がよい」と進言したのに対し、自分の命を頼朝に対して高く評価させることを考え、三浦氏の本拠地の衣笠城を死舞台に選んだ。それ故、後を託す者には、ほどほどの段階で脱出を命じている。畠山重忠も、衣笠城を攻め落としたことで名誉を回復したと満足し、引き上げていった。」「伝三浦義明公墓」。市指定史跡指定年月日:昭和48年(1973年)1月10日三浦義明は、治承4年(1180年)源頼朝の旗上げに呼応し平氏側と合戦したが、8月27日に衣笠城で討ち死したといわれる。墓域周囲の土塀は、寛延2年(1749年)に三浦志摩守等三浦同族の修理により、中に義明の墓といわれる宝篋印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑の三基が並び置かれている。五輪塔は、総高70cmの凝灰岩製で鎌倉末期の型式をとる。水輪上部には納骨穴が穿たれ、空風輪は後補である。宝篋印塔は、総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製で、鎌倉末期~室町期の型式をとる。九輪と基台は後補である。四面に金剛界四佛種子を彫る。新編相模国風土記稿に「五輪塔一基社の背後にあり、大介の首塚と言う。是を奥院と称す。」とあって、義明墓を五輪塔としているが、五輪塔が宝篋印塔にかわったのは誤記が不明である。現在では宝篋印塔を義明、五輪塔を義明の妻、それぞれの供養塔と考えるのが一般的である。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。移動して。「市指定史蹟 伝 三浦義明廟所(墓) 満昌寺」。「全国から集まる子孫の思いとは減亡したかに見える三浦一族だが、支流の佐原氏によって血脈は受け継がれ、全国にその子孫が暮らしている。義明の生き様は子孫の誇りとするところであり、今も命日には各地から子孫が集まり、義明の御霊を慰めると共に感謝を捧げている。彼らの大半は義明に恥じぬような生き方をしたいと望み、その思いを次の世代へと継承している。」中央の総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製の宝篋印塔。宝篋印塔が三浦義明の供養塔と考えられていると。総高70cmの凝灰岩製の五輪塔は、三浦義明の妻の供養塔と考えられていると。一方で鎌倉の材木座に頼朝が義明を弔うために建立したと伝わる来迎寺👈️リンクがある。義明の墓と伝わる五輪塔が安置されているのであった。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。再びズームして。瓦や板などで葺いた築地塀に似ていたが。築地塀の先にあった石祠。再び「御霊神社宝物殿」を斜めから。入口には一対の石灯籠。反対側から。そして急な石段を下り引き返す。再び33体の羅漢像が並ぶ「羅漢さんの道」から。「宝物殿」入口から「羅漢さんの道」を振り返る。「満昌寺 掲示板令和六年四月ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しけれ 花にも人にも別れあり西行法師四月八日十時~十三時 灌佛会」と。意味・・心をこめ眺めていると、すっかり桜の花に親しんできたので、いざ花が散る頃と なって別れねばならないことはまことに悲しいことだ。墓地の中へ。墓地を見上げて。「満昌寺 墓地管理規程」。駆逐艦 峯雲(みねぐも)慰霊碑。昭和13年4月30日の竣工以降、数々の戦闘に参加したが、昭和18年3月5日コロンバンガラ島クラ湾夜戦にて奮戦むなしく沈没した駆逐艦「峯雲」を慰霊する碑。平成7年3月5日、衣笠満昌寺に建立された。鮮やかな赤御影石の主碑の両翼に黒御影の碑が組み合わされたモダンな碑である。主碑高201.5cm、幅49cm、厚さ15.5cm。翼碑高107cm、幅84.5cm。(刻字)中央碑文:「駆逐艦 峯雲 大東亜戦争に於て 祖国のためと信じ 純粋な心で戦い 多くの若い命を捧げて 平和の願いをこめた思を 慰霊碑に永く残す。 平成七年三月五日 駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建」右碑文:「駆逐艦峯雲戦歴昭和十三年四月三十日 大阪藤永田造船所に於て竣工第四十一駆逐隊編成第三予備艦昭和十四年十一月十五日 第九駆逐隊編成横須賀警備兼練習駆逐艦昭和十五年十一月十五日 第二艦隊第四水雷戦隊編成昭和十六年十二月八日 大東亜戦争参加昭和十六年十二月十日 ルソン島ビガン急襲上陸作戦昭和十六年十二月二十二日 ルソン島リンガエン上陸作戦昭和十七年一月十二日 ボルネオ島タラカン攻略作戦昭和十七年一月二十五日 ボルネオ島パリクパパン攻略作戦昭和十七年二月十日 ボルネオ島マカッサル攻略作戦昭和十七年二月十九日 ジャワ島攻略作戦昭和十七年二月二十七日 スラバヤ沖海戦昭和十七年三月三十一日 クリスマス島攻略作戦昭和十七年六月五日 ミットウエー海戦昭和十七年六月十四日 北方部隊編成アリューシャン対戦掃蕩作戦昭和十七年七月十三日 紀州沖対戦掃蕩作戦昭和十七年八月十三日 ソロモン群島ガダルカナル島挺身輸送作戦に依り外南洋部隊 編成昭和十七年十月二日 ガダルカナル島カミンボ輸送作戦昭和十七年十月四日 ガダルカナル島タサワロング輸送作戦昭和十八年三月五日 ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦 三隻駆逐艦三隻と交戦轟沈戦死者二百八名」左碑文:「駆逐艦峯雲戦死者名簿碑 峯雲戦死者 各県別」の後に、戦死者全員の氏名が刻まれていた。墓地から満昌寺西門方向に引き返す。本堂前から「書院」方向に向かって歩く。左に「書院」、正面に「玄関」右側に「庫裡」があった。「玄関」には拝観・御朱印受付 と。書院前の枯山水の庭。書院前の枯山水の庭。「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」。「書院」の屏風に書かれた文字は「無闕」と師匠から。「無闕」とは欠けたところのないこと。また、そのさま。この日は訪ねなかった「素心庭」の紅葉の写真をネットから。同じく蓬莱庭も。居眠り小僧。肩にネズミが載っていた。この子のいねむりは怠惰からくるものか? それとも一生懸命に木魚を叩いて経を読む練習の疲れから来たものか? その他見る人の人生観により見方が違ってくるのだ とそして「満昌寺」👈️リンク を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.21
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「春の皿には苦味を盛れ」という言葉があります。これは春には苦いものを食べるのがカラダに良いとする、古くからの言い伝え。栄養学などなかった昔から、日本には食べるもので健康を養う「食養生」という考え方があったと。そのなかで特に大切にされていたのが、『旬の食材を食べる』ということ。自然のリズムに合わせて育まれる旬の食材には生命力がみなぎっており、食べることでそのエネルギーをカラダの中に取り込むことができると考えられてきたのだ。また、日本には豊かな四季があり、冬にはカラダを温める食材が旬を迎え、反対に夏にはカラダを冷やす食材が旬を迎える。自然界は、その季節に応じて人間のカラダに必要なものを旬の恵みとして与えてくれている。だからこそ自然に感謝しながら、その恵みをおいしくいただこうというのです。まずは、我が菜園の隅に芽を出した「明日葉(あしたば)」。名前の由来は、きょう収穫してもあすになると早くも新しい葉を出すという生命力の強さから。古くから食用にされてきており、青汁の原料としても有名。「明日葉(あしたば)」は、日本原産で、房総半島や伊豆諸島、三浦半島、伊豆半島、および紀伊半島などに自生。温暖な気候を好むため、生産量が一番多いのは、伊豆諸島で、東京都ということになる。生産量のおよそ90%を伊豆諸島が占めているのだ と。この日は天ぷらで楽しんだ。カラっと揚げたての、「明日葉(あしたば)」の天ぷらは、香りがよくて最高!!そしてこちらは、実家の竹藪の生えていた「蕗の薹(ふきのとう)」。「蕗の薹(ふきのとう)」の「とう」は「薹」と言う難しい漢字。歳をとって初々しさがなくなった感じを表すのに「トウがたつ」と言う言い回しがあるがその「とう」と。花軸や花茎のこと。「蕗の薹(ふきのとう)」は育ってしまうと固くなって食用にならなくなるんだそうで、育ちすぎて実や芽の食べ頃を過ぎたさま、これを「薹が立つ」と表現したのだと。これも天ぷらで。自然のものは香りが高く、ほろ苦さの中に甘味を感じられるのであった。そしてこれも実家の竹藪からの「筍(たけのこ)」。「筍といえばこれ!」といえるほどの、日本国内で最もポピュラーな孟宗竹(モウソウチク)の筍。鉄ノミを駆使して4本を掘って来ました。既に1mほどまで成長したものも。この日は「スナップエンドウとたけのこの煮物」で楽しみました。そしてサラダも我が農園の収穫物で。ただし、トマトは近所の農家から頂いたものです。そして我が菜園の、遅咲きの桜を愛でて。品種名は「楊貴妃」と。東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種。昔、奈良にあった名木といわれ、花色も優れた豊満な八重桜ということから、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けたといわれます。古くから知られていた品種らしく「花壇綱目」(1681)、「怡顔斎桜品」(1758)などにもその名がみられるとのこと。2タイプの同名異品種があり、当会では江戸と類似しているタイプを楊貴妃(江戸系)としています と「日本花の会」のページから。ズームして。さらに。サトザクラの仲間で、花色は淡紅色、八重咲きで花弁の先端に細かい切れ込みが入るのが特徴。花が密につくので、木がピンクの花に覆われ、たいへん美しいのだ。 ・・・おわり・・・
2024.04.20
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さらに「満昌寺」の境内の散策を続けた。境内にあった「流泉しだれもみじ 平成二十七年・・」と。泉泉(りゅうせん)は画期的な枝垂れもみし。埼玉県にてイロハモミシの実生から生まれた品種です。春は黄緑色、夏は濃い緑色、秋は橙色になります。根際から枝垂れて枝が下に伸びますのて、鉢植えにして棚や石の上など、高い場所においてください。優雅な枝振りと美しい葉色がお楽しみいたたけます。また、支柱を立てて枝を上向きに誘引し、枝垂れさせたい高さに達したところから支柱無しで枝を伸ばすと、支柱部分はまっすぐ伸びたまま枝が固まり、好みの高さての枝垂れ樹形となります と。そして正面にあったのが「源頼朝公お手植えつつじ」。「源頼朝公お手植えつつじ一一九四年、当山が創建され、源頼朝公は三浦義明の菩提を弔う為に「つつじ」をお手植えされたものである。永い年月により、いつの頃かこの木の枝先に頭を人れると「頭痛持ちが治る」と言い伝えられている。 満昌寺」樹齢800年と言われるツツジに近づいて。「頼朝のお手植えのツツジ本堂前のツツジの大株は、1197年、満昌寺創建の際に、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うためにお手植えされたものである。永い月日が経ち、いつの頃からか、この木の枝先に頭を入れると「頭痛持ちが治る」「頭が良くなる」と言い伝えられている。義明が逝って14年たった後のことであったが、頼朝は伊豆の挙兵のおりに老体をなげうち、幕府開闢の礎になった無二の忠臣義明の霊に一字を献じたかったのであろう。」「杜鵑花(とけんか)」碑。「杜鵑花」とは中国語で「ツツジの花」の意とのこと。「頼朝のお手植えのツツジ」の開花時の写真をネットから。椿・卜伴(ボクハン)に似ていたが。数寄屋や加茂本阿弥などと並んで古典椿の代表的な品種。江戸時代から命名されており別名は月光(がっこう)。蕊が白い花弁状に変化し唐子咲になり中央に切れ込みの入った花弁が二重から三重に開く非常に個性的な姿のツバキ。初めて見る椿であろうか?「九重石塔」。「地蔵堂」。ズームして。扁額「地蔵堂」。内陣の三浦地蔵尊。「本堂西「竹庭」」「亀甲竹、金明孟宗竹と山もみじ、苔を中心とした庭」と。そして「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」に向かって進む。「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」にある様々な文化財の案内板が設置されていた。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝の挙兵と関東武士団平安未期に起きた「保元の乱」や「平治の乱」をきっかけに、源頼朝の家河内源氏が没落し、最大の武家になった平氏は政権を握った。清盛は1167年には太政大臣にまで登りつめる。平家一門は栄準を極め、全盛期を迎える。朝延内部にはこの状況に危機感や不満を抱く者も少なくなく、やがて以仁王が平氏討代の令旨を発するⅢ80年)。坂東では、以仁下の残党を捕らえるために相模国に戻るよう命じられた大庭景親と源頼朝の戦いが始まった。伊に流されていた頼朝も北条政了・の父親・北条時政をはしめとする東国武上を従え挙。石橋山の合戦が起きる。」「国指定重要文化財木造 三浦義明坐像 一躯 平成五年一月二十日指定木造三浦義明像は、満昌寺の境内にある御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家にしたがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(一八〇年)頼朝の平家追討の旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。像は玉眼入り寄木造り、像高は八十一・四cm。両手先および両足先などは差し込み、彩色はほとんど剥落している。頭頂に冠をのせ、右に笏を持って安坐し、腰には太刀を佩く。長い顎ひげをはやした面部は、気迫のこもった老将の表情をたくみに表出する。特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技はこの像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代後期と推定されており、武人俗体彫刻として類例まれな等身大のこの像は、極めて貴重な存在であり、歿後、祖霊として祀られ神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。 平成二十ニ年(ニ〇一〇年)三月一日 横須賀市教育委員会」「横須賀市指定史跡 伝三浦義明廟所 昭和四八年一月一〇日指定三浦義明は、治承四(一一八〇)年源頼朝の旗揚げに呼応し平氏と合戦し、八月ニ七日に衣笠城で討死したといわれています。満昌寺境内、御霊明神社裏手の瓦塀で囲まれているところが、三浦義明の廟所と伝えられています。廟所には宝筺印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれています。廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したものです。三浦氏の墓域は五輪塔を中心としたものが多いのですが、伝三浦義明廟所では宝筺印塔が義明、五輪塔が義明の妻の供養塔と考えられています。横須賀市指定重要文化財石造双式板碑 元應ニ年庚申ニ月日在銘平成十三年一月ニ五日指定満昌寺には、伝三浦義明廟所内に立っ観音種子板碑のほかに、ニ基の碑が残されています。ニ基の板碑はそれぞれ何弥陀三尊種子、釈迦三尊種子が刻まれています。ニ基とも刻まれた年号は「元應ニ(一三ニ〇)年庚申ニ月日」であり、形も似ていることから、ニ基で一対の双式板碑であると考えられます。この双式板碑は薬王寺旧跡のやぐらにあったものですが、薬王寺が廃寺となったため、今は御霊明神社内に納められています。完全な形の板碑としては、市内最古のものです。 横須賀市教育委会」「昭和十七年八月 御靈神社 御屋根石陷修繕」。「忠○義烈」碑。「御霊神社宝物殿」に向けて急な石段を上って行った。石段の左側の「羅漢さんの庭」を楽しみながら石段を一歩一歩。羅漢さんの庭義明公廟所に至る上中下三斜面に羅漢像を安置した。三十三体の羅漢さんは釈迦の教えを受け覚者として、満昌寺の墓苑を守ってくれる。まわりに季節の茶花、草花を植栽した。皆さまに慈しんでもらえたら幸いです京都曽根造園作庭 平成ニ十六年ニ月完成羅漢さんとはお釈迦さまの弟子たちが修行するとき師を尊敬崇拝する姿を形にした像である。十六羅漢が元であるがいろいろと変化して多いものは五百羅漢がある。像の容相は様々で参拝者の皆さまと似た顔があるかもしれません。像の容相は様々。「石橋山から衣笠城合戦へ頼朝は本拠地の相模国に向かう際、伊豆の石橋山で大庭景親と合戦になった。三浦一族が大雨で増水した酒匂川を渡ることが出来ない事を知った大庭景親は、合流する前に頼朝と決着を付けようと考え、雨の中進軍し疲労する頼朝勢を夜襲で猛攻し勝利した。頼朝の敗北を知った三浦一族はやむを得ず三浦の地へ引き返す途中、鎌倉・由比ヶ浜で頼朝追討に味方した畠山重忠の軍勢と鉢合わせた。三浦氏と畠山氏は親戚である。形ばかりの合戦をして離れようと打ち合わせている最中に、和田義盛の弟の義茂が攻撃を始めてしまい、後に引けない合戦となってしまう。この状況を見た三浦義明は、畠山氏と戦いになることを覚悟した。」様々な羅漢さんの姿を見ながら、知人に似ている羅漢さんを探しながら・・・。立像、坐像が迎えてくれたのであった。そして正面に「御霊神社宝物殿」が姿を現した。「三浦義明公宝物殿」と。「御霊大明神」。「三浦義明坐像」が中央に「三浦義明坐像」。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝と共に戦う義明の決心」三浦氏と頼朝の関係は源平合戦の約100年前にまで遡る。東北地方で「後三年の役」といわれる内乱が起きた際、源頼朝の先祖にあたる源義家が鎮圧に向かった。その時、二浦為継も参戦。大いに戦果を上げたが、朝廷は私の合戦と認定して恩賞を出さなかった。その後、源氏は衰退して分裂したので、三浦義明は婿に迎えた源義朝に協力することにした。義明が頼朝挙兵の話を聞いて喜び、一族を挙げて応援したのも、義朝・頼朝二代にわたる主君と考えたからである。「源頼朝公木像」。「源頼朝公木像 満昌寺蔵この木像は鎌倉鶴ケ岡八幡宮寺の供僧浄国院賢立から出たらしい木像の台下に「之亀之庚午十二月吉日」と記されているので、その制作年代もほぼその時代と考えられる。したがって浄国院賢立から出たとすれば模彫であろうか。頼朝公と伝えられている数少ない木像である。「衣笠城址から出土した遺物大正八年十二月衣笠城址、物見岩の下部から経筒、白磁の合子と人物型の水滴瓶、そして刀子等が写実的に描かれている。現在は、東京上野公園内の国立東京博物館に寄贈されている。」「伝三浦義明所持の刀 満昌寺蔵三浦義明が所持していた刀であると言い伝えられている。藤原時代から室町時代終わり頃までの刀身を古刀といって刀のそりが目立って強く刀身の形に鎬をもった鎬造りで、刀の銘を切るのに右側によせるのが普通だとされている。」「伝三浦義明着用鎖帷子 満昌寺蔵この鎖帷子は満昌寺境内の御霊社の傍らをほった時に出土したものであるので、これは三浦義明が着用したと言い伝えている。鉄製の鎖をいろいろな形でつなぎこれを短衣(木綿、筒袖の襦袢)に縫いつけて甲冑・鎧の下に着るものである。」「三浦義明肖像画 満昌寺蔵」。三浦義明の肖像を描いたものの中では珍しい版画に彩色したものである。そしてその肖像画の上に書かれた讃(功をほめたたえた文)は八十九才で戦死しその後十七回忌に供養されたのでその合計を百六才としている。源家再興に捧げた忠誠のあかしともいえよう。「衣笠城址古図 満昌寺蔵」。「大正八年十二月衣笠城址ヨリ発掘シタル古器物」。「く後三浦② 追加資料>三浦長門守と志摩守新井城落城時に、三浦道寸義同の2男、時綱は、長男義意の妻の実家を頼り、安房に逃れ、里貝時綱を名のる。ここから、三浦氏の後裔としての里見氏が始まり、後の紀州三浦家につながるとされるが、実証的な資料に乏しく、諸説多く、定説になりきれていないようである。一方、宝治合戦で滅亡したはずの三浦一族(佐原氏の一部を除く)も、三浦家の存続を期して落ち延びたとの説があり、三浦家村の後裔が、美作勝山城主として蘇っている。そして、それぞれの末裔が、共に江戸時代に満昌寺の復興に、また、新井城の一部に道寸親子の慰霊碑を整備している。そこで、歴史的事実・考証とは別に、三浦一族の歴史にロマンを与えるという意味で、これらの流れを紹介しては如何と者え、以下の参者資料を追加します.く三浦長門守と家康の寵愛を得たお万>1.新井城の戦い敗れた三浦氏であるが、道寸の三男、或いは、義意の長男正綱は、房総に渡り、 正木時綱を名乗り、正木氏としての地位を築いていく。2.正木氏の嫡系は、時綱-時忠-時通-頼忠-為春へと続く。3.正木氏と、里見氏との関係は複雑で、内部抗争が絶えず、正木時忠は、里見氏との抗争で、 北条氏の支援を得るため、二男頼忠を北条に人質として小田原に送る。このため、頼忠は、 十三歳からニ十六歳まで、(北条の)人質として小田原にいた。このため、岡本氏の女との間に 三男ー女をもうけた。長男、直連は早世したので、次の為春が後に家を嗣ぐこととなった。4.為春の妹は名を万といい、父、正木頼忠が安房に帰った時、母(岡本氏)と共に小田原に残った。 母は、北条氏政の家臣、陰山長門守氏広に再嫁したので、万は連れ子のような形で景山氏広に 養育された.5.徳川家康に、お万が寵せられた時、蔭山氏と称せられているのはこのためである。紀伊頼宣、 水戸頼房は陰山氏(万)の子であり、この縁で、兄、正木為春は和歌山、紀甲頼宣に仕え、 紀伊家の家老を務めることになった。後に性を三浦に復し、長門守に任ぜられた.6.為春から後は、為時-為隆-為泰-為修-為積と続き、いすれも三浦長門守と称して、紀伊 家中に重きをなした.為積は寛政十年(1798)先祖の廟に参詣のため満昌寺にきており、背後の 御霊神社に石灯籠を献上している。明治になって男爵を授けられた三浦英太部は、為積の 曽孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志摩守」の項を要約)☆為春の弟 康長は、正木左近と名乗り幕臣旗本に、子孫は千石の上級旗本となる(大塩).く三浦(正木)志摩守は、三浦義村-家村-義行の末裔>1.宝治合戦の時、三涌泰村の党が揃って自害した。ところが、泰村の弟、駿河四朗式部大夫 家村は宝治合戦のとき行方知れず」とか、「宝治の乱、逃れ去りて漂白の後、三河国に居ずに とか言われる。」2.寛政重修諸家譜では、「宝治元年六月五日、一族みな自殺の時に臨みて、泰村名族の一時 に亡むことを憂い、密かに家村に命して後裔をたもつべしとなり、家村遺訓によりて其所を遁 れさ」ったと記されている。しかし、家村の子、三浦式部三郎が、泰村とともに自害している そこで、系図では、三浦式部三郎の弟、三浦式部四郎義行の子孫が、後の三浦氏につながる こととなる。3.系図上、義行から数えて九代目の孫に三浦五左衛門正重があり、それが土井小左衛門利昌の 女を娶り、甚太郎正次を生んだという。徳川秀忠の老中として有名な土井頭利勝は、この 正次の母の兄・叔父に当たる。 徳川家光に仕えた正次は、三浦を土井に改めたが、10年後、元和9年(1623)には再び三浦姓に 復し、従五位下志摩守に叙せられている。はじめは、下総国矢作鄕で七百八十石余の采地を 有するのみであったが、度々の加恩で、最後は上野、下野等においてニ万五千石を鎖するに いたる。もって、将軍家の信任の厚かったことがわかる。4.その間、寛永10年(1633)、松平伊豆守信綱、阿部か後守忠秋、堀田加賀守正盛、阿部対 馬守重次、太田備中守資宗とともに、六人衆と称せられ、老中と共に、後の若年寄と同様の 職務に当たった。三浦志摩守正次は、寛永18年まで、8年間この職にあった. 正次の子安次は、弟 共次に五千石を分知して遺領ニ万石を領し、安次の子、明敬は、日向国 延岡城に移り、三千石を加えてニ万三千石を領した。後、再び延岡から三河国刈屋城に 移されている。5.明敬の子は明喬、その後、明喬の弟義理が嗣ぐ。 義理は刈屋から同国西尾城に移されている。 満昌寺背後の御霊神社を修補したのは、この志摩守義理が中心となっている。6.明喬の三男、明次(あきつぐ)は義理の跡を嗣ぎ、美作国勝山城に移され、そこに新城を 築いている。 (もっとも、以上の転封はあっても、三浦氏はほとんど江戸結めで、任地には、時たましか 赴いていない)。7.義理のニ男矩次(のりつく)が明次のあとを嗣ぎ、明次のニ男前次(さきつく・ちかつぐ)が 矩次のあとを嗣く、というように、三浦氏の家系と血脈とは相互に絡まっている。なお、三浦 前次は、前述の三浦為積(三浦長門守)と共に、御霊神社に石灯龍を献納している。明治の子爵、 三浦基次は、家系上、前次九代の孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志守」の頃を要約) ☆志摩守は、1代~ 3代、5代、8代が名乗り、4代毘次(てるつぐ)は、主計頭(かずへのかみ) 7代、9代、10代は、備後守を名乗っている。 ☆勝山藩は、明治2年(1869年)真島藩(ましまはん)と改称。明治4年(1871年)廃藩置県により 真島県となり、後に岡山県に編入された。 ☆三浦道寸、義意の碑の建立は、碑文から、天明12年(1782)と分かっているが、三浦長門守、 正木志摩守としか刻字されていない。 ☆正木志摩守の正木姓が、どのようにして用いられるようになったかは、現在の手持ち資料で は不明です。そして反対側の展示物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.20
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「衣笠城跡」を後にして「太田原街道入口」交差点まで戻り、次の訪問地の「満昌寺」に向かって神奈川県道26号線・横須賀三崎線を北西に向かって進む。「衣笠城跡」の追手口跡方向を振り返る。「衣笠城址前」交差点は、「横浜横須賀道路」の「衣笠IC」の入口。さらに進むと、前方に見えて来たのが「住吉隧道」。久しぶりのオレンジ色のナトリウムランプのトンネル。トンネル内のオレンジ色の照明には、主に低圧ナトリウムランプが使用されていた。1960年代から普及したこのランプは、ガラス管にナトリウムの蒸気を封入したもので、放電によってオレンジ色の光を発する。オレンジ色を選択したのは、トンネル内に漂っている排ガスや塵、細かいゴミなどの影響を受けにくく、光が通りやすいためだ。続いて1995(平成7)年から使われるようになった高圧型ナトリウムランプは、低圧型から明るさを向上させ、耐用期間を約3年まで延ばした。トンネル内照明のオレンジ色から白色への変化は、排ガス規制によって煙の量が減ることでトンネル内の見通しが良くなったことに加え、効率の良いLED光源が開発されたことで、自然に見える白いランプが採用されるようになったのだ と。片側2車線のトンネルの歩道を進む。「住吉隧道」銘板。昭和59年(1984)2月長さは95.0mと。観音崎、久里浜方面は直進と。「衣笠インター入口」交差点の手前の案内標識。「衣笠インター入口」交差点とあるが、ここからは「横浜横須賀道路」には何故か入れないのでは?再び地下通路を利用して、「三崎街道」を渡る。地下通路。そして再び地上の歩道へ出て「満昌寺」に向かって進む。「満昌寺西参道」と刻まれた石碑が左側に姿を現した。「満昌寺」の墓地を見る。「永代供養塔」の釈迦如来立像?の姿が見えた。この濃いピンクに花は「アカバナ(ベニバナ)トキワマンサク」。花は細いリボンのような4枚の花弁があり、春の開花期には枝先に集まるように咲くため株全体が花に覆われ、遠くからでもその美しさが楽しめるのだ。そして「満昌寺」に到着し山門を見る。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。そののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至る。「本尊華厳釈迦像(市重文)」をはじめ、「三浦義明坐像(国重文)」や「天岸慧広坐像(市重文)」どが祀られており、枯山水庭園「蓬莱庭」には、茶室「如是庵」「竹静庵」がある。横須賀市大矢部1丁目5−10。寺号標石「臨済宗 建長寺派 満昌寺」。「国指定重要文化財 三浦義明坐像」碑。「満昌寺」絵図。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。「鐘楼」。「梵鐘」。「義明山満昌禅寺」と刻まれていた。太平洋戦争時の金属供出により享保17年鋳造の梵鐘が失われたため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(享保17年鋳造、供出後、昭和46年7月再鋳)梵鐘刻字「義明山満昌禅寺再鋳鐘銘並序勅修百丈清規曰大鐘暁撃則破長夜警睡眠暮撃則覚昏衢疏冥昧 雖然今次大東亜戦争勃発國家擾々之間當山三百年來所懸梵鐘被徴集而境域闕法器現住宗禅和尚常懐再懸誓願到テ今四半世紀也于茲機縁漸熟担信徒喜捨浄財效再鋳之誠仍來請銘乃為之曰朝夕聞鐘謝衆恩 至心瞑目弔七魂 專祈願祖先冥福 兼念枝々葉々繁昭和四十六年辛亥年七月十三日建長素堂謹撰併書」所在:満昌寺(横須賀市)」とネットから。満昌寺では、3月11日に毎年『鎮魂の鐘』を行っている。読経の前後、お集まりいただいた方々に東日本大震災で亡くなられた故人を想い、鎮魂の想いを込めて鐘を撞いていただいたのだと。13年が経ちましたが故人への想いを胸にこれからも満昌寺では、毎年行っていくとのこと。茅葺風銅板葺の重厚な「山門」の彫刻を見る。「横須賀市指定重要文化財木造天岸慧広(てんがんえこう)坐像 一躯天岸慧広は満昌寺の中興開山で、鎌倉円覚寺第一座、また鎌倉報国寺の開山であった名僧で、建武ニ年(一三三五年)に没した。玉眼入り寄木造り、像高は七十六cm。その姿は曲碌に安座し、両袖と裳裾を垂下する全身像である。頭面部の個性的な風貌を実写的にとらえており、没後間もないころに制作されたものであろう。昭和四十四年(一九六九年)八月十一日指定木造宝冠釈迦如来坐像 一躯本像は満昌寺本尊で、玉眼入り寄木造り、像高三十六・六cmの坐像である。髪を高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただき、禅定印を結ぶ。目鼻立ちの輪郭があざやかな面部は張りを失わず、体躯は量感がある。着衣はひだがやや太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北町時代(十四世紀後半)の作品。 昭和五十七年(一九八二年)四月二十六日指定」「木造天岸慧広坐像」。「木造宝冠釈迦如来坐像」。「満昌寺襖絵 十六面満昌寺本堂の襖絵で計十六面ある。各面縦百七十八・五cm、横百二十七・cmを測る。本堂内陣左右に四面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間側に松虎図と山水図が配される。雲龍図と山水図は水墨による作。松虎図は水墨を基調としつつ、虎にのみ彩色が施されている。絵師は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の斎藤海信。特に雲龍図の気宇雄大な表現は秀逸で、市内にある襖絵の代表例である。 平成二十年(二〇〇八年)三月十日指定」満昌寺襖絵(上から雲龍図八面、松虎図四面、山水図四面)。「義明山 満昌寺の由来當寺は、建久五年(一一九四年)九月、源頼朝の意志に基づき三浦大介義明、追善の為創建されたと伝えられる。創建時の宗派は未詳ではあるが、鎌倉時代末期に佛乗禅師天岸慧広(中興開山)が入寺し、臨済宗に改め建長寺末寺とした。本堂内に本尊 華厳釈迦如来像(市重文)、開山佛乗禅師天岸慧広坐像(市重文)、御霊神社内に三浦大介義明坐像(国重文)をまつる。また、御霊神社の背後に三浦犬介義明の首塚という廟所があり、奥の院と称し、鎌倉時代末期の五輪塔、宝篋印塔、板碑一基がある(市史跡)。當寺裏の矢部山に鎌倉時代末期につくられた阿弥陀来迎図などの磨崖仏(市重文)もある。 平成九年十一月」 茅葺風銅板葺の重厚な山門の直ぐ左手には「庚申塔群」が。14基の庚申塔と1基の石仏が基壇上に整然と並んでいた。 庚申塔は笠付型6基、駒型6基、光背型1基、柱状型1基で、最も古いものは江戸時代寛文13年(1673)に造立された笠付型青面金剛庚申塔、新しいものは明治16年(1883)造立の駒型文字庚申塔「庚申 申子 塔」である。最も興味を引くのは、文化5年(1808)造立の青面金剛庚申塔で、胡坐を組んだ邪鬼が右腕を立て、肘と頭で青面金剛を支えながら踏ん張っている姿の庚申塔だ。一番大きい上記写真中央の「石碑(貞享4年(1687年)銘)」庚申塔(元禄6年(1693年)銘)。「満昌寺」案内図。満昌寺は、平安時代末期の三浦一族の当主で、源頼朝の挙兵に協力した三物義明の廟所である。『吾妻鏡』1194年9月29日条には、矢部郷内に源頼朝の指示により、三浦義明を供養するための一堂を建立することがあり、これが満昌寺とされる。境内の宝物殿はかつての御霊社で、ここには中世に遡る(さかのぼる)三浦義明坐像が安置される。また一説に御霊社は、三浦義明の孫である和田義盛が建立したという。御霊社の背面には、三浦義明とその妻の墓とされる宝篋印塔と五輪塔も祀られる。満昌寺は後に鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した天岸慧広が中興し、現在は臨済宗建長寺派となる。本堂には天岸慧広坐像や室町時代の宝冠釈迦坐像が安置されている。付近の近殿神社には義村が祀られ、その先の薬王寺旧跡には義澄の墓所がある。」「満昌寺 境内図」。分かりやすい境内配置図。「三浦一族ゆかりの地を巡る 満昌寺」。「木造三浦義明坐像「三浦義明とは」義明は三浦庄司義継の嫡男。三浦大介を通称として、相模国府で影響力を誇示した。三浦介の称号は、名誉の称号として、三浦氏本家に世襲された。義明は一族団結のもとに、周辺豪族との姻戚関係を築き、房総の各地にもその勢力を拡大し、三浦一族発展の基盤をかためた。1180年源頼朝の挙兵で、衣笠城は河越重頼・畠山重忠ほか平氏勢に囲まれた。ときに三浦大介義明89歳「老命を武衛(頼朝のこと)に投げうって子孫の勲功に募らん」と、義澄ら一族を頼朝のもとに赴かせ、ひとり源家再興に殉じた。」「木造三浦義明坐像」。山門を入って左手に立つ「三界萬霊等」と千手観音菩薩石像。そしてその右隣に、寄棟造りの覆屋に鎮座する六地蔵尊像。赤い涎掛けをした「六地蔵尊像」。「三界萬霊等」と「千手観音菩薩石像」。「山門」を潜り再び「鐘楼」を振り返る。そして正面に寄棟造りで均衡のとれた「本堂」。繰り返しになるが、鎌倉時代の建久五年(1194)、源頼朝が源氏再興の捨石となった忠臣・三浦大助義明を追善するために創建したと伝わる。 三浦義明は、治承四年(1180)に平氏勢の攻撃を受け、衣笠城にて89歳で戦死。 創建時の宗派は不詳だが、鎌倉時代末期に佛乗禅師・天岸慧広が中興開山となり、臨済宗に改め建長寺末寺とした。江戸時代宝永二年(1705)に火災に遭って堂宇が焼失したが、寛延二年(1749)に仏心禅師が再建し、山号を雲龍山から義明山に改めたと伝える。 臨済宗建長寺派で、本尊は禅定印を結ぶ木造宝冠釈迦如来坐像で南北朝時代の作。本堂の裏山に、三浦義明の孫和田義盛が建暦2年(1212)に境内鎮護のために建てた御霊神社があり、三浦大介義明坐像を祀る。 御霊神社の後方に義明の首塚といわれる三浦義明廟所(奥之院と称す)があり、瓦塀で囲まれた廟所に、義明と妻の供養塔とされる宝篋印塔と五輪塔が鎮座。左手に露盤宝珠を乗せた宝形造りの地蔵堂、本堂右手に玄関と庫裡が建つ。 庫裡前には小さな庭があり、雪見燈籠とみられる石燈籠と、軸部に浅く四方仏を刻んだ石造り九重層塔が佇む。本堂裏山の中腹には、満昌寺を守護する御霊神社が建ち、三浦義明像を安置している。 そして、御霊神社の後方に「義明の首塚」といわれる三浦義明廟所がある。以前鐘楼が建っていた場所には、年配者の参詣に配慮してなのか東屋が設けられていた。「本堂」に近づいて。白壁の中心には、花頭窓が。「本堂」の扁額「雲龍殿」。現住職・永井宗寛氏が本堂の内陣に案内して下さり、説明をして下さいました。満昌寺襖絵(まんしょうじふすまえ)指定年月日:平成20年(2008年)3月10日満昌寺本堂の襖絵で、松虎図4面・雲龍図8面・山水図4面の計16面があり、本堂内陣左右に4面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間に松虎図と山水図が配される。紙本墨画(松虎図のみ一部著色)で、各面縦178.5cm、横127.3cmを測る。幕末から明治時代にかけての狩野派の絵師である斎藤海信の作で、市内の代表的な襖絵である。「雲龍図8面」この日は「雲龍図4面」が展示されていた。ズームして。「松虎図4面」。左側をズームして。右側をズームして。再び「木造三浦義明坐像」。外に出て「本堂」の屋根を見上げる。見事な鬼瓦には三浦氏の家紋・「丸に三つ引き」。再び本堂の花頭窓を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.19
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