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この日は11月17日(木)、大腸ポリープの切除手術(1泊2日)の予約の為に、藤沢市民病院に行く。手術日は12月23日(金)と決定し、帰路に。藤沢市民病院の隣り・「御殿辺(ごてんべ)公園」に立ち寄る。源義経が祭神として祀られていることで有名な白旗神社の隣に広がる「御殿辺公園」。藤沢市藤沢2丁目5。銀杏の黄葉見物が目的であったが、まだ1週間以上早いようであった。以下の4枚の写真は、昨年そして数年前に訪ねた時の写真です。そしてこの日の「御殿辺公園」の遊具場を見る。この野鳥は、尾が長いそして白い顔に目を通る細い黒線からハクセキレイであっただろう。この日の銀杏並木。この銀杏の上部は黄葉が始まっていたが。公園の白旗神社側の欅の木の紅葉は進んでいた。そして白旗川の堤防の手摺には、白旗川と書かれた、彫刻プレートが。義経の兜と花菖蒲が描かれていた。隣には藤沢市の鳥「かわせみ」の姿も。公園を振り返る。藤沢市の「フジロード」案内板。「フジロード」は、藤沢市の花「フジ」に対する市民の愛着を深め、市の名所づくりの一環として誕生した、市立公園を含むフジのあるポイントを巡って花を楽しむことができる散歩ルートである。「フジロード」には、引地川沿いに大庭城址などの歴史をたどりながらフジを観賞する「引地川・フジ史跡ロード」と、境川沿いに藤沢市役所などのフジを観賞する「境川・フジ水辺ロード」の2ルートがある。「白旗川」を渡る。「白旗川」。「人道橋」と。「白旗川」に沿って「白旗神社」に向かって進む。手前に「白旗神社」の「御典橋」とその奥に「鳥居」。「御典橋(みのりばし)」。「白旗神社」の御祭神は「寒川比古命」、「源義経公」。全国に80社ほどある白旗神社、その中でも義経公をお祀りしているのはここを含めわずかに8社(ほとんどは頼朝公)。有名なところでは「鶴岡八幡宮」の境内にある「白旗神社」👈リンク。鎌倉の「白旗神社」は頼朝公・実朝公をお祀りしているのである。ここの「白旗神社」が創建された年は不明。相模国一の宮の寒川比古命を勧請してかつては寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)岩手平泉の衣川館で義経公は31歳の若さで自害。義経公と弁慶の首級は鎌倉腰越の地で和田義盛・梶原景時により首実検(くびじっけん・本人かどうか確認すること)が行われた。その時の様子を見ていた地元の民が、「死んでもまた腰越の地で留め置かれるのか」と身の上を哀れんだといいます。首実検された後義経公と弁慶の首級(しゅきゅう)は無惨にも海に打ち捨てられました…。不思議なことに首級は金色の亀の背に乗って川を上り現在の白旗神社のあたりまで流れ着きました 。里の者が首を見つけ驚いていると側にいた少年が突如として次のように話し始めました「我は、源義経なり。薄命にして讒者(梶原景時)の毒舌にかかり身は奥州高舘の露と消えるのみならず首さえ捨てられ怨魂やるかたなし。汝等、よきに弔(とむら)いてくれよ。」と。里人たちは敬い畏れ首をきれいに洗い清め塚に埋葬したと伝えられています と。首実検が行われた6月13日を由緒日として毎年「源義経公鎮霊祭」が行われます。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。鳥居と黄色く色づいた銀杏の木を斜めから。社号標石「白旗神社」。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだと。「大御神灯」。慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。参道の左側の石庭の「みそぎ川」の奥には石祠があった。ズームして。「白旗辨財天」と。「みそぎ川」の清水はここから湧き出していた。「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」近づいて。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。大きな薙刀(なぎなた)を持つ武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。顔をズームして。反対側から。「白旗神社」の「拝殿」が鎮座する小山を見る。東海道からここ「白旗神社」の方を見ると、この北側の山が亀の甲羅に、「白旗神社」が頭の部分に見えたことから『亀形山・かめがたやま』と呼ばれ地域の方々に親しまれて来たのだと。欅の黄葉をズームして。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。「手水舎」の見事な彫刻。新しく置かれた縁の深い亀の姿が。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。スリムな狛犬(右)。こんなに小顔なのも珍しいのでは。一角の狛犬(左)。山岳信仰の石碑群。「御大典記念 永代御供米三俵」と刻まれた石碑。「八海山大神」碑。八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮として知られていたが、江戸時代後期に、木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。「御嶽大神」碑。昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。「三笠山大神」碑。御嶽山の前山である三笠山は王滝口独特の霊場で、その山容が御笠をふせて形からその名が付けられており、道中安全、交通安全の御神徳がある と。この石祠は?参道の石段を上り、「拝殿」に向かう。石灯籠、石段の先に「拝殿」が姿を表す。 ・・・つづく・・・
2022.11.22
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石段を上り「本堂」の手前に。本堂手前左手にあったのが『浄行菩薩』。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。横顔を。反対側から。本堂前から「山門」方向を見下ろして。中央の参道には多くの人の姿が。本堂奥の「五重の塔」を見る。ズームして。本堂の中では「プラスアンサンブル 福腹富(ぷっぷくぷう」の金管3重奏のライブ演奏が行われていた。残念ながら、本堂内は撮影禁止。「本堂」に近寄って。龍ロ寺本堂ライプ・法要スケジュール。「日蓮大聖人像」。ズームして。左手には数珠と立正安国論の巻物を持っていた。三日月も雲間から姿を現した。「鐘楼」。四角和紙灯籠・「瀧の口 竹灯籠」。「大書院」前の高台から「山門」近くを見下ろす。「山門」を横から。境内を見下ろす。「妙見堂」前。そして「龍口会館」。玄関には五重塔が。「藤沢市消防団」も待機中。「江ノ島駅入口」交差点の角にあった「海産物 魚料理 舟善」。学生時代に、この場所にあった運送会社で夏休み中のアルバイトをしたのであった。交差点の反対側にあったのが湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ島電鉄の「江ノ島駅」手前の踏切。駅前の車止めのオブジェ。8羽の小鳥たちには服が着せられていた。左側の4羽。右側の4羽。最初は江ノ島駅売店に勤務していた方が作って着させてくれたそうで、これまでに1000着以上の服を作ってくれている と。「江ノ電 江ノ島駅」。改札口。「江ノ電開業 120th」。江ノ島電鉄は1902年9月1日に、いずれも藤沢市の藤沢駅から現在の江ノ島駅にあたる片瀬駅の間で開通し、今年の9月1日で開業120周年を迎えたとのこと。江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマが。石井彰英氏より寄贈された「ジオラマ」。このジオラマは、平成10年11月11日に江ノ島電鉄社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現を手伝った縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんの友人であった石井彰英氏から寄贈されたたもの と。残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士として今も活躍中。江ノ島駅、龍口寺廻りをズーム。別の角度から。七里ヶ浜の駅・鎌倉高校前駅の姿も。人物も詳細に配置されたジオラマ。「ぼくの小さなパラダイス昭和40年頃、両親・祖父母と何度も来た江の島。海で泳ぎあじさいの花を見た懐かしい情景をジオラマにしたくなり、当地を何度も取材しながら制作に費やした期間は約2年。静寂の中の極楽寺駅、明るい学生さんが乗り降りする鎌倉高校前駅、子ども達の笑顔がまぶしい江の島海岸、皆さんを乗せて元気に走る江ノ電。私の前に広がる風景は、当時の頃と何ら変化はありませんでした。皆様にこのジオラマを楽しんで頂けましたら、制作者としてはこれほど嬉しい事はございません。 2008年11月吉日 石井彰英氏より寄贈されました。」藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。「祝 江ノ島電鉄 鉄道開業120周年」と。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。名車303形の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの と。「貴賓室の扉」。「貴賓室の扉について明治3 5年の開業(藤沢一片瀬間の3 .42 k m )当時、全4両の車両のうち、半数の2両には、一般の3等席に加えて1等席が設けてありました。当時から、葉山の御用邸をはじめ鵠沼の秩父宮邸など、近隣には多くの高貴な方のお住まいがあったため、江ノ電(当時は江之島電気鉄道)は1等という特別列車を用意したのです。記録によると、1等と3等の合造車はこの扉を仕切りとして車内を3つに分け、個室を確保したようです。大正2年4月8日の『横浜貿易新報』によれば、大正2年4月6日に伏見宮博仁王ほか3殿下が、この特別仕立ての列車で片瀬(現江ノ島)ー長谷間を移動されたという記録が残っています。」江ノ島駅に鎌倉方面のホーム。そして藤沢駅行きに乗り、江ノ島電鉄・藤沢駅から小田急線に乗り換えて帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.01
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「沖縄本島一周の旅へ」を約1ヶ月に渡ってアップ中ですが、一旦中断、寄り道して近況をアップさせて頂きます。一昨日の夕方に、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山・「龍口寺」で開かれる「龍の口竹灯籠」を訪ねて来ました。2009年(平成21年)まで行われてきた「灯籠流し」に代わって、2010年(平成22年)より龍口寺の境内で行われている「竹灯籠」。毎年8月上旬に行われていましたが、2022年(令和4年)から10月に変更となったようです。仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約3000基が並べられるのだ。夕刻になるとロウソクに火が灯され、幻想的な世界が演出されるのであった。自宅を4時過ぎに出て江ノ島電鉄の藤沢駅に到着。改札を入ると正面に花時計とその上に江の島とその奥に富士山の夕景写真が。ホーム入口に設置されていたディスプレイには、【10月15日(土)~11月6日(日)】の日程で開催されている「湘南Candle2022」の案内が流れていた。10秒間隔?で次々に幻想的な空間映像が。改札口方向を見る。上記ディスプレイは「⬆出口」の下に。ホームの巨大ディスプレイには湘南海岸、富士山の夕景が。出発時間になっても、電車は入線してこなかった。混雑の影響で5分程度の遅れで運転していると。そして漸く入線。そして江ノ電 片瀬江ノ島で下車し、龍口寺に向かい国道467号に出る。「龍口寺竹灯籠」の幟が道路脇に並んでいた。「龍口寺」手前の「龍口明神社(元宮)」は既に撤去され立ち入り禁止になっていた。昭和53年(1978年)に、西鎌倉の住宅地内に「移転」👈リンク した。現在も旧境内の鳥居などはここ藤沢の龍口寺に残っているのである。そして「龍口寺」の山門に到着。「龍口寺」の本尊は大曼荼羅、創建は延元年(1336~1340)。日蓮の弟子日法上人が日蓮聖人像を安置したのが始まりとするなどの諸説がある。鎌倉時代後期、日蓮は『立正安国論』を示し、法華経を唱えることによる国家安泰を説いた。この活動に不安を覚えた幕府は、日蓮を龍の口にて処刑しようとするが、この時、江の島の方から大きな玉のような「ひかりもの」が処刑場に飛んできて、斬首役人はおののきひれ伏したと伝えられている。もともとこの処刑に異論を唱えるものも多く、処刑は中止となり日蓮は佐渡へ流されるが、やがて鎌倉に戻って来た。現在も日蓮が入られていた土牢が残っているほか、境内には神奈川建築物百選に選定されている五重塔もある。また、2021年(令和3年)10月1日に、本堂1棟・山門1基・五重塔1基を藤沢市指定重要文化財(建造物)に指定されている。「山門」の手前右側には、竹灯籠の一般申込みのテントがあった。竹灯籠1基1,000円でご供養、祈願を行えると。暗くなるまで暫し、仁王門横で待機。そして、体温検査を実施し、境内へ。竹灯籠の供養、祈願受付。「寂光山 龍口寺 境内図」。「仁王門」を潜る。「山門」を正面から。扁額「龍口寺」。「第十二回 龍の口竹灯籠」ポスター。「三〇〇〇基の灯籠」が彩る幻想的な秋の夜」と。開催時間は午後五時から午後八時まで と。そして境内に並べられている「龍の口竹灯籠」👈リンク をカメラで追ったのであった。太い孟宗竹を短く鋭角的に切ったものの中で蝋燭に灯が揺らいでいた。竹に多くの穴をあけて灯りを燈す「灯り」が人気ですが、こちらは素朴な「竹灯り」。ロウソクの光が描き出す、幻想的な秋の宵。一つ一つ人力で蝋燭の灯りを点したのであろうか?「竹灯り」👈リンク をカメラで追う。半纏姿の係員を後ろから。「妙見堂」前の竹灯籠。「山門」を振り返る。幽幻の灯りを楽しむ多くの人々の姿が。お化けの如くに見えたが。 ・・・つづく・・・
2022.10.31
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昨日・5月1日(日)に保土ケ谷の友人宅を訪ねました。途中湘南台で横浜市営地下鉄に乗り換える際に「湘南台駅地下広場」を通過しました。この場所は、広い空間になっており、時折イベントなどが行われるなどしていますが、普段はやや薄暗く、ただ広いだけという状態。その空間がもったいないということで立ち上がったのが、「湘南台アートスクエアプロジェクト」。この日は一面真っ赤な壁画が展示されていました。壁画は幅25m。湘南台在住の画家・廣田雷風さんが「郷土に捧げる讃歌」をテーマに描いたとのこと。ネットで調べてみると、廣田氏は、国内外で壁画の実績を持つ画家で高校の3年先輩の作品であるようだ。1日に16万人が利用する、湘南地域北の玄関口・湘南台駅。人々の心の拠り所となるような、わくわくする空間・心豊かになる空間を創り出したい と。正面に廻り込んで壁画の左側を。正面に廻り込んで壁画の右側を。左側から作品を追う。ピアノの鍵盤が最下部全面に描かれ、その上を長靴が動き回り音楽をかなでる、様々な楽器も一緒に合奏。大きな樹も音楽に合わせて葉(バイオリン、ビオラ、チェロ)を揺らす。自転車も鍵盤の上を疾走する。鮮やかな赤の空に浮かぶ白い雲の中からトランペットを奏でる女の子の姿も。中央には大きなピアノ。その周囲で様々な楽器が音を奏でながら踊っている。白い雲の上には、多くの幟を立て祭りの山車を囲む懐かしき時代の人々の姿が。近づいて。鍵盤の上を走る馬に乗り、その祭りの様子を見上げる子供の姿。そして様々な楽器が、色とりどりの世界を奏でて、心地よい音が楽譜から溢れ出て来ているのであった。湘南台駅を利用された際には、しばし足を止めて壁画から溢れ出る音楽を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ・・・FINE・・・
2022.05.02
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私の住む地域の「どんど焼き」が本日1月10日(月)8:00から近くの公園で行われました。コロナ・オミクロン禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料少々、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。昨日の新年会に来た長男も娘(我が孫)を連れて参加しました。遠くから団子を焼く孫。火勢も落ち着いて団子を火の近くに。様々な大きさ、形の団子が。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2022.01.10
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「天嶽院」の参道を「山門」に向かって紅葉のトンネルを進む。時間は14:00前、陽光が参道に射し込んで。「山門」前には、多くのカメラマンの姿が。「山門」手前の紅葉は今がピーク。「山門」下から歩いて来た「参道」を振り返る。再び「山門」前の仁王門を見る。「山門」を再び。そして県道312号線・田谷藤沢線に向かって「六地蔵尊像」が。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいた。「温顔和楽」と刻まれた石碑も。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵・らくらく地蔵・ほかほか地蔵 と名前が刻まれていた。この巨大な地蔵様も色違いの巨大マスクをしていたら面白いとも・・・。「六地蔵尊」前から「山門」方向を見る。「駐車場」の先には「聖観世音菩薩立像」が。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を挿した水瓶を持つ。「鐘楼」に向かって進む。ドウダンツツジの紅葉もエピローグへ。「鐘楼」への道の左手のこの石碑は??「鐘楼」。「庫裡」の横には「六地蔵」が。切妻造本瓦葺と入母屋造本瓦葺で裳腰付きの建物が並ぶ「庫裡」。「六地蔵」。「鐘楼」の奥には参道の紅葉が。そして駐車場の車に戻り高台にある「墓地」に。整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。順にズームして。その横に「○地蔵」が。赤子を見つめる優しいお顔。二体を一緒に。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」👈リンク地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。「境内・霊園案内図」境内の周囲に大きな霊園が囲んでいることが判ったのであった。村岡の街並みの先に箱根・二子山の姿が。曹洞禅師の寺であるが、「南無妙法蓮華経」の文字が塔婆、石碑に。「墓地移転改葬の碑藤沢市立村岡小学校北東の隣接地藤沢市弥勒寺参百五拾五番地面積四百貮拾九平方米の通稱向田山墓地は周辺の開発に伴ない児童数の急増による校地の拡張校舎の増改築等の為移転の止むなきに至る依って墓地供用者一同は先祖代々の霊及び無縁の霊に崇敬供養の誠を捧げ此虎に改葬する。」椿の木には花が咲いて。青空に映えて。南東の方向を墓地の隅から見る。左前方には「湘南ヘルスイノベーションパーク」の建物が見えた。「湘南ヘルスイノベーションパーク (湘南アイパーク) 」は、2018年4月、武田薬品工業(株)が湘南研究所を開放することにより設立された、企業発のサイエンスパーク。製薬企業のみならず、次世代医療、AI、ベンチャーキャピタル、行政など、幅広い業種や規模の産官学が結集し、エコシステムを形成することで、ヘルスイノベーションを加速する場となることを目指している。この広大な湘南アイパークの約半分の建屋をタケダが研究所として利用し、残りがテナントとなっている。「JR大船工場跡地」には「木下大サーカス湘南鎌倉公演」の巨大テントが。大山の姿も。そして我が藤沢市役所庁舎。ビルの合間から湘南の「光る海」が。「富士山」の姿もかろうじて。そして友人の母校・中学校の姿も。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2021.12.14
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昨日、12月12日(日)の午後に、我が市内にあり、自宅から車で20分弱の場所にある曹洞宗の寺「天嶽院(てんがくいん)」に紅葉を愛でに妻と行って来ました。この寺に行くのは今回で7度目くらいでしょうか?この門柱に書かれている文字は、我が高校時代の友人Sさんから昨年に教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」ではないかと。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。 源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。パンフレットより。「功徳山早雲禅師 天嶽院」。パンフレットより。藤沢市渡内1丁目1−1。「天嶽院」の境内配置図をパンフレットから。この日の「掲示板」。「夢と理想の光をうけて虹の大橋心に架かる」と。正面に藁葺屋根の「山門」とその前の「寺号標石」と「仁王像」。江戸末期の安政二年(1855)、再び火災に遭って七堂伽藍が灰燼に帰したが、水戸光圀の寄進と伝わるこの総門(現山門)だけが焼失を逃れたのだと。「天嶽院」と刻まれた「寺号標石」と「仁王像(吽像)」。「仁王像(阿像)」をズームで。「仁王像(吽像)」をズームで。「山門」前にあった「仁王尊像」碑。そして「山門」前からの今年の参道の紅葉。昨年に比べて、やや茶色が濃いか?それとも紅葉の進み具合によるものか。「山門」下から。「千寿梅」と刻まれた石碑。徳川家康公手植えと伝えられる千寿の梅、天正十八年(1590年)小田原城落城後、玉縄城周辺を巡見、立ち寄られたという。梅の木が手前にあったのだろうか?「山門」の先、右手の紅葉を見上げて。参道を進む。一時(ひととき)の京都気分、人の数も少なく。苔に落ちた紅葉。そして階段を上がると右手にあったのが「不動殿」。「山門」を振り返る。ズームして。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。マスクの姿ではなかった。「参道」の脇の道を戻る。色のアンジュレーションを楽しむ。「山門」が後ろに。椿も花を落として。再び参道まで戻り石舟の上にある「不動尊」を。優しい穏やかなお顔の「不動尊」。「昭和平成伽藍恢興之碑」。昨年もあっただろうか。最上部に三つ鱗(北条鱗)が。「相生松」。道元禅師御道詠碑「峰の色 渓のひびきも 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と」峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、 自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であると。「中雀門」に向かって切石敷の参道を進んで行く。参道左側のこの石は?異形の石燈籠であろうか?「浄聖殿」。「功徳山早雲禅師天嶽院」碑。北条早雲公(戒名 早雲寺殿天嶽宗瑞大居士)が山号を「功徳」、寺号を「早雲」、法堂号(本堂)を「天嶽」と命名。左手にあったのが「庫裡」。入口にあった「おそうじ小僧」。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」と刻まれた石碑が後ろに。「庫裡」の玄関。この日は「坐禅会」が行わるようであった。参加費は無料と。次の機会に私も・・・。大きなカエルの置物も。玄関には「夢」と書かれた屏風が。そして「中雀門」。扁額は「湘中早雲禅寺」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた「中雀門」から「法堂」を見る。「中雀門」の真ん中に「常香炉」が置かれていた。香炉に乗っている鞠(まり)を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿吽形の龍が一対。近づいて。「常香炉」には北条氏の家紋「三つ鱗」が。「中雀門」前から「山門」前の紅葉を振り返る。「不動堂」に向かって進む。再び「浄聖殿」。「不動殿」。「山門」には多くの人の姿が。 ・・・つづく・・・
2021.12.13
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更に「玉雄山宝泉寺」の散策を続ける。「本堂」前の正面左手には大きな石灯籠とその奥に「六地蔵」が。石灯籠には施主のお名前が赤字で刻まれていた。赤い帽子と涎掛けの「六地蔵」。左から法性、地持、宝性、宝印、陀羅尼、鶏亀地蔵と刻まれていた。本堂に向かい合う様にこちらにも「六地蔵」が。様々な供養碑が。中央に「物故者供養之塔」。「本堂」の隣りにあったのが「瑞泉閣(客殿)」。葬儀・法事等の控室に使用する建物。130坪40畳の部屋が二間。それに洋間、厨房といった形で構成。平成6年に完成。「瑞泉閣」と書かれた扁額。折しも花屋さんが軽トラッの荷台に生花を載せて配達に。境内左側の、左から「閻魔大念珠堂」、「金毘羅大権現堂」、「観音堂」を見る。八角形の「観音堂」。「西國霊場三十三体 観音堂」。「観音堂 内陣」。観音堂に祀られている「三十三観音像」は、第十九世泰山和尚が西国霊場巡礼を果たせなかった母親の願いを成就させるために祀ったもので「遠藤観音」と呼ばれ深く信仰されていると。「金毘羅大権現堂」。扁額「金毘羅大権現」。「金毘羅大権現堂」。「金毘羅大権現堂再建記念碑」。金毘羅堂には大念珠があり、54個の念珠があり、二周回すことで、108の煩悩を払ってくれると。私も一生懸命回しました。扁額は「金毘羅」と書かれているのでしょうか?。「堂内の本陣」。そして「本堂」、「瑞泉閣(客殿)」を振り返る。「西国霊場観音堂建立記念碑」。そして「閻魔堂」。「南無閻魔大王」と書かれた赤の幟。「閻魔堂 内陣」。中央に「閻魔様」のお姿が。「嘘をついたら、地獄で閻魔様に舌を抜かれるよ」という言葉を、子供の頃祖母から何度となく実際、やっとこ形のくぎ抜きは今でも「えんま」と言うのではないでしょうか。「閻魔堂再建記念碑」。再び「瑞泉閣(客殿)」、「本堂」を振り返る。近くに松の木を彫りあげた「慈母観世音菩薩」が簡素な堂の中に。「慈母観世音菩薩」には、沢山の折り鶴が奉納されていた。赤い帽子を冠り優しいお顔、「う~~ん」と??。そして「水子・子育地蔵尊」。左手で赤子を抱え、足下にも二人の稚児が。お顔をズームで。「水子子育地蔵尊建立記念碑」。歴史を感じさせる石仏群。「水子子育地蔵尊」を横から。そして正面に見えて来たのが寶泉大仏像(釈迦牟尼大仏)。「寶泉大仏像」は、高さ10m、重さ8トン、青銅製で、原型は洛陽(河南省)の龍門石窟の奉先寺石窟の本尊釈迦牟尼大仏で、中国上海交通大学及び中国芸術院等の古代芸術研究グループにより中国で制作され、平成8年6月に開眼供養されたと。優しいお顔をズームで。「無畏と降魔の宝泉大仏ーーー印(いん)と結跏趺坐(けっかふざ)ーーー印とは仏さまが両手を結ぶ仕草で悟りなどの境地をシンボル化したものであリます。インドでは古来、手話のように手や指で意思を現す習俗があリましたところから、仏像が造られるようになった初期から、仏さまの内面の意志を、手や指の形で表すといった、インドの生活習慣が自然に造像に取入られ、その後の永い年月の間に、数千にも及ぶ様々な印が定式化されるようになりました。代表的な印相に、合掌の印、禅定の印、与願の印、説法の印、施無畏の印、触地の印があリますが、この宝泉寺の大仏さまの印相は右手が衆生の畏れや不安、苦しみを無くする為の施無畏の印、左手は悪魔を降す降魔の印であリます。仏像は仏さまの内面の意志を、結跏趺坐という坐リ方でも表現しておリます。跏とは足の裏、趺は足の甲の部分のことで、両膝を曲げ、両足の裏を上向きにして坐る坐リ方をいい、右足を先に曲げ左足をその上に乗せるのを降魔坐、左足を先に曲げその上に右足を乗せるのが吉祥坐。左足が右足下に隠れ右足裏だだけが上向く坐リ方を半跏趺坐とよんでおリます。この造像にあたり、制作に当たった中国芸術院のスタッフは如何に、衆生の畏れや不安の、また苦しみの根源を新ち、衆生に心の安らぎをあたえうるか、お釈迦さまの内面の御心の表現に心血を灌ぎました。仏像を拝むことは、仏像を通じて、己れ自身の内面の仏心を改めて見つめなおすことであリます。忙しない募らしのなかで、ひとときの静寂の時を、大仏様と過ごされんことを、お薦めいたします。」日本の大仏は通常右手に梵字の幸福を表し、左手は人々を救うと云う意味で手の平を上に向けているが、寶泉大仏の左手は邪悪なものはおさえると云う意味で手の平を下に向けているところが違うのだと。 更にズームで。坂道を下りながら、正面に山門を横から見る。山門近くの見事な紅葉を見上げる。逆光に映えて輝く紅葉。そして坂道の下から「山門」そして紅葉を振り返る。そして車で数分の場所には宝泉寺歴代大和尚の墓が。宝泉寺の縁起と開山を如幻宗悟、そして後北条氏の家臣である仙波土佐守が開創されたことが刻まれていた。宝泉寺歴代大和尚銘が刻まれていた。 歴代大和尚の墓碑(右)。 歴代大和尚の墓碑(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.18
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この日は藤沢市遠藤にある宝泉寺を久しぶりに訪ねたのであった。宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の寺院(禅寺)。山号は「玉雄山」。「萩の寺」としても知られている。修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は市の指定重要文化財となっている。また、境内の森は「ふるさとの森」として藤沢市指定をうけているとのこと。「宝泉寺霊園管理事務所」の前に車を駐めた。「鉄砲馬場と草競馬」案内板。「鉄砲馬場と草競馬明治末期から大正初期にかけて、毎年3月10日競馬が行われました。出場馬の多くは農耕馬や荷馬でしたが、近郊近在からの見物客も多く露店が出るほど賑わいました。」ここ宝泉寺の近くにあった馬場で草競馬が行われたと。その馬場はその距離の短さから「鉄砲馬場」と呼ばれていたと。コースが周回でなく、鉄砲と同じで「行ったきり」だから。また、鉄砲の弾が真っ直ぐ飛ぶことから「鉄砲」には真っ直ぐという意味もあると。賑わいの中から多くの男女が結ばれたことから「見合競馬」とも呼ばれたと。「宝泉寺」案内板。「宝泉寺玉雄山と号し、石川県能登の曹洞宗大本山総持寺(現鶴見のの総持寺)直系の曹洞宗別格の中本山である。本尊は釈迦牟尼如来で、開山は如幻宗悟大和尚。開基は小田原北条氏家臣の仙波土佐守。創立は永正十六年(一五一九)頃と言われる。また、夭正十九年(一五九一)にニ十一石の朱印地を賜った。寺内には市指定文化財の雲板などかある」『寶泉寺縁起』によれば宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の禅寺。永正16年(1519年)、相模国高座郡小出村字遠藤(現・藤沢市遠藤)に、開山を如幻宗悟、開基を後北条氏の家臣である仙波土佐守として開創された。開創当時の宝泉寺は境内も広大で、17棟の建物からなる大寺院だったが、1923年(大正12年)の関東大震災ですべての建物が倒壊してしまった。しかし、第二十八世住職龍紋大和尚は檀信徒の御力添えを得て、1926年(昭和元年)、本堂を向山に再建したと。「御所見南部・遠藤の「文化財ハイキングコース」案内板。遠藤・御所見南部の今と昔昭和三十年から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連なっています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社(うつぼちじんじゃ)を祀ったと考えられています。また自然を生かした遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(そごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語りあっています。」「市指定工芸品 遠藤宝泉寺・雲版雲版(うんばん)とは、禅宗の寺で、寝起き、食事、座禅などの時刻を知らせるために打ちならすものである。銅または鉄で鋳造されるが、宝泉寺のものは青銅製である。その源流は中国にあり、禅宗と共に日本に伝来したものであろう。この雲版は寺に保存されている釈迦涅槃図や修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は表面に次のように刻まれている。相州遠藤村玉雄山芳泉禅師常住物先打飯破村当寺七世悦堂代修造之者也萩野郷寛永三年丙寅冷月六日 大工木村長拾郎吉次この寛永三年(一六二六)当時の寺号は、開基仙波土佐守の諡(おくりな)「松岩院玉雄芳泉居士」からとったものであるが、後に宝泉寺と称するようになり、今に至っている。宝泉寺の雲版は、湘南地方では最古のものと考えられている。」宝泉寺境配置図。山門への階段を上って行った。何故か「西国霊場観音」と刻まれた石碑。 西国33ヶ所の観音が納められている観音堂が境内にあるから?山門前の紅葉が今が盛りであった。ズームして。宝泉寺の山門。この山門は2005年4月の再建で、左右に仁王様が堂々と。山門の扁額は、山号の『玉雄山』。 紋は五枚、三枚の桐の花を描いた五三の桐、本山の総持寺の寺紋が五七桐紋であることから本山から下賜されたであろうか?織田信長や足利尊氏が天皇に下賜されたのも、この「五三の桐」。山門右に開口の阿形(あぎょう)像。普通、正面から見て門の左側には阿形像、右側には吽形像が安置されていますが、ここは逆のようであったが。ネットによると、この左右の配置は絶対的なものではないようだ。阿形像と吽形像が左右どちらに配置されるかについては、時代によって違いもあると。上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにしていた。左側に口を結んだ吽形(うんぎょう)像。吽形像は怒りを内に秘めた表情。吽形像横の見事な紅葉。「山門」手前左手には「六地蔵」が。正面から。「山門」を潜り更に石段を上る。階段を登り終わると、右手には「書院」が。そして正面に「本堂」。宝泉寺の山門の階段を上がったすぐ右に、「布袋様」の石像が。正面から。近づいて。誰かに似ている・・・との声が聞こえてくるのであったが。斜めから。脇の石碑。何か文字が書かれていたようであったが。その前には、木枠に囲まれた石の玉が置かれていた。私もこの日も下記のごとく試してみたが・・・・、まだまだ修行が足りないのであった。「布袋玉(ほていだま)布袋玉とは布袋様(弥勒菩薩の化身)が持っていらっしゃる玉の事です。この玉を少し持ち上げてみてくださいいったん玉を置き、手のひらで軽く玉を数回叩いて、もう一度持ち上げてみてください。玉が最初より重く感じると思います。次に玉を優しく撫でてから、もう一度持ち上げてみてください。今度は玉が軽く感じると思います。この布袋玉は人の心の内を重さで表します。命持つものを叩くということは、どんな理由であれ心が痛み重くなるものです。又、優しく(慈悲の心で)撫でるということは、心を軽くするものです。布袋様は私たちに慈悲の心を説いています。命有るものに優しく接していれば、相手の心も自分の心も軽やかになるのです。日々、優しい心を持ち続けることが市袋様の願いなのです。」水瓶の表面は氷っていた。境内右手の書院前の石碑・仏像群。「大本山永平寺御開山 仏法房道元大和尚禅師像」。若かりし年代の道元の像のようであった。「十三重石塔」。「大本山總持寺御開山 瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)大和尚禅師像」。「本堂」前の石碑群。「殉国精霊之碑」。「顕彰 曹洞宗大本山總持寺御直末元輪番地」碑。「手水舎」。手水舎に置かれている龍。「曹洞宗 禅宗南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦牟尼佛大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。 その教義は瑩山禅師によって広く全土に実践強化され今日に至る。教義 人は本来佛性有り。己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読経し深く黙照して座し脚下照顧して己の足下を見つめ自然宇宙と 一体なる自己を見極めて、活達なる人生をいかしきるのが、禅の実践なり。経典 修証義般若心経観音経寿量品等を読誦する。本堂のご本尊に先ず合掌」宝泉寺本堂前の「おびんずるさま像(なでぼとけ)」。びんずる尊者は、お釈迦様の16人の偉い弟子(十六羅漢)の一人。体の具合の悪い所に相当する像の部位を念仏を唱えながら撫でると良くなると。 頭を一生懸命に撫でてきましたが時遅しか。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)おびんずるさま又は撫で仏(なでぼとけ)と申します。ご自身の体の具合いのすぐれない場所と同じところを撫でて頂くと良いと云われております」「本堂」。120坪の本堂は、関東大震災による建物倒壊後、昭和元年に建立。本堂の扉には「五三の桐」の紋が。山号の『玉雄山(ぎょくゆうざん)』と書かれた大きな提灯。『寶泉寺(ほうせんじ)』と書かれた提灯。「寶泉禅寺」と書かれた扁額。靴を脱ぎ本堂の回廊へ。本堂内部にはご本尊の釈迦如来が鎮座。回廊より本堂前の境内を望む。本堂回廊角の釣銅鐘。本堂の屋根下の銅風鈴。 ・・・つづく・・・
2021.01.17
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私の住む地域の「どんど焼き」が一昨日1月11日(月)8:00から近くの公園で行われました。コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料なし、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。役員の方が、家から枯れ木を準備して下さり、勢いよく燃え始めていたのでした。その上に我が家の「門松」、「しめ縄」等投げ入れました。私が子供の頃は、正月の書初めを燃やし、火が高く上がると字が上手になると言われていたのですが、最近では書き初めをする子供達も少なくなってしまったのです。ダルマも火炎に囲まれて。多少の風もあり、近くには近づけないほどの火力で。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。併せて消化器の準備もされていました。団子をアルミホイールで覆っている家庭の三叉団子が出番を待っていました。次第に公園には、この地域の方々が集って来ました。子供さんの姿も。そして漸く下火に。例年は、日本酒の入った白の紙コップが口元にあるのですが、今年は紙コップの代わりに白のマスクだったのです。我が家の三色団子。チョット割れ目が。私も団子の焼きに入りました。やはり、近所の方々も、三叉の木を準備するのが大変と。皆さん、マスク姿で、この日はお神酒もなく。焼き頃の火種になって来ました。赤、白、緑の順番は各家で微妙に違っていましたが・・・。子供たちの姿が年々少なくなっていると感じながら・・・の「どんど焼き」。御札も燃えて。団子の焦げた匂いも。丸い団子、やや平べったい団子とこれも各家独特の形が。皆さん、煙を避けて風上に。熱い熱いと言いながら小さな串団子の形で焼く姿も。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。そして30分ほど雑談しながらの「どんど焼き」も終えて自宅に戻り妻と焼いた団子をシェアーし、今年の健康を祈ったのでした。そしてこの日は「鏡開きの日」。鏡開きとは、正月に年神様(としがみさま)が滞在していた「依り代(よりしろ=居場所)」である餅を食べることで、霊力を分けてもらい、1年の良運を願う行事なのです。年神様は、穀物の神様。毎年、正月にやってきて、人々に新年の良運と、1歳分の年齢を与えると考えられて来たのです。神棚、床の間からお供えを下げて来ました。プラスチックのお供えの内部にあった餅を焼いてお汁粉にして。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2021.01.13
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「長生院」から下ってきた坂道を振り返る。「稲葉家基碑と隅切三(すみきりさん)」 時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られた。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚いた。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋とした。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげらる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出している。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。そして「永代供養塔」と「本堂」も振り返る。「俣野大権現」「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります。影平公は貞和年中(一三四五-四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております」そして「酒井忠重五輪塔」。「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重 は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」の後ろにあった石仏。そして「諏訪神社 神輿殿」。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。 時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の東門脇に建つ「小栗判官墓所入口」の石柱。石柱の先に、墓所のある長生院への小路が続いているのであった。旧東海道の遊行寺坂側の東側入口。そして旧東海道の反対側には「諏訪神社」👈リンク が。遊行寺境内の駐車場旧東海道側にある石碑群。右から「蓄霊供養塔」。「戦没者供養塔」遊行七十代一求(いちぐ)上人による戦没者慰霊名号碑と同時に、藤沢市戦没者の会によって、供養塔が東門の左側「敵御方供養塔」の側に建立されている。碑には「倶會一處(くえいっしょ) 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。趣旨は戦没者慰霊名号碑と同様である。「倶會一処」とは、極楽では多くのもっとも善き者と共に一つの所にいるという意味であると。「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解駅されています。南無阿弥陀佛自應廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。」そして東側からの参道沿右側にあったのが「鈴木貫介の歌碑」。「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」鈴木貫介は、国府津に住み、川田順に師事した歌人。「一遍上人像」の裏にあったのが「清水浩の句碑」「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の”花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない”という有名な言葉があるが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようだ。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か強い想いが感じられるのであった。そして境内を時計回りに完全に?1周し散策を終えたのであった。正面に「遊行茶屋」。トイレ・休憩所に立ち寄る。藤棚。5月になれば。 【http://www.jishu.or.jp/hana-migoro】より遊行寺の境内は何度となく散策したが、本堂の裏までゆっくりと散策することは今回が初めてなのであった。完全制覇の残りは「遊行寺宝物館」と「小書院の前の菖蒲園」であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.09
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そして「歴代上人の墓」に向かって石段を上る。墓所への石段の上に「回向堂(えこうどう)」があった。宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的。本堂裏の墓地。墓地の奥にあった「藤堂彦子の墓」。「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」「歴代上人御廟所」案内板に従い進む。「歴代上人御廟所」が石段の上に。中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。徳川以前のものは多く宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、それが整然と並んでいた。中央正面の「開山塔」。4代遊行上人、藤沢山遊行寺開山の呑海上人と他歴代7人の墓碑。右側の宝篋印塔(ほうきょういんとう)群。その奥に「長生院」の「小栗堂」が見えた。左側の宝篋印塔群。「歴代上人御廟所」を振り返る。更に奥から。そして「長生院」、「小栗判官墓所」に向かう。そして時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院」入口に到着。「市指定重要文化財(建造物) 時宗板碑二基板碑は、鎌倉時代初めの嘉禄(一ニニ五)頃から、近世初頭の天正・文禄(一五七三~一五九五)頃までの間に流行した卒塔婆の一種である。時宗板碑には「南嘸阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多いが、その名号には、楷書体のものと行、草書体のニ糸統がみられる。長生院の板脾は、緑泥片岩でつくられた武蔵型板碑である。長方形の板状の頂部を山形にし、その下にニ条の切り込み作る。身部には楷書体でつぎのような銘文がきざまれている。南無阿弥陀佛 延文元年 経阿弥陀佛 十ニ月三日南無阿弥陀佛 本阿弥陀佛百ヶ日為 永和三年巳丁十月十七日延文元年は一三五六年、永和三年は一三七七年にあてられている。このニ基の版碑は、江戸時代末に遊行寺境内から発掘された。」「昭和41年(1966)1月17日指定/総高112.0㎝の延文元年(1356)12月3日銘と、下部欠損の永和3年(1377)10月17日銘の、2基の板碑です。板碑とは鎌倉時代から戦国時代に至る約400年間に流行した卒塔婆(そとば)の一種で、2基はいずれも緑泥片岩製の武蔵型板碑です。時宗の板碑には「南無阿弥陀仏」の名号を刻みつけたものが多く、楷書体のものと行・草書体の2系統がみられ、この2基は楷書体で刻まれています。2基とも南北朝時代のもので、江戸末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)北方の畑から発掘されました。」【http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=2272】より「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造阿弥陀如来坐像当院の本尊である本像は、平安時代後期の作と推定され、市内屈指の古仏である。像高は、五ニ.五cmで、上品下生印を結ぶ典型的な定朝様の尊像である。定朝様は、大仏師定朝が完成した公家好みの様式で、宇治平等院鳳凰堂本尊を代表作とする。構造は、桧材の寄せ木造りで、目は彫眼、頭の螺髪は彫出されている。木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ更に前後に割り矧いでいる。尊顔は穏やかで、尊体の抑揚少なく、彫技は浅く整えられている。頭と躰そして組んだ両足の微妙な均衡、穏やかさと強さの調和に鎌倉期の足音を感ずる。」「木造阿弥陀如来坐像」「平成8年(1996)3月1日指定/像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊です。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」【http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=2294】より境内入口左の「知恵地蔵菩薩像」。「長生院」。永享元年(1429年)、清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。「小栗堂」。寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。「小栗判官墓所入口」案内板。「小栗判官墓所入口門」。「南無阿弥陀佛」と刻まれた大きな石碑。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について」案内板。案内板を抜粋すると常盤の国(茨城県)の小栗地方を統治していた14代城主・小栗孫五郎平満重(小栗判官満重)は、室町時代の応永30(1423)年8月2日、関東公方足利持氏との激戦に奮戦 拙つたなく破れ小栗城は城落した。この城落により満重はその子助重と十勇家臣と共に、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中、相州藤沢辺の悪党横山大善の館(横浜市戸塚区東俣野)で、歓待酒宴で毒をもられ,家臣10名は毒殺され哀れにも上野ヶ原 (藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺 (藤沢市)8 世・(遊行14代)他阿太空上人のご光配によって、藤沢山境内に手厚く埋葬されたという。 満重は、酌女から酒に毒がもられていることを耳打ちされ、厠に行くふりおして、さりげなく酒宴の座を立ち外に出、名馬鬼鹿毛に跨り藤沢めざして駆け去り、難を逃れたという。息子の助重もまた、幸運にも酌女の助けで大難を逃れ、九死に一生を得たといわれている。 父満重の死去(応永33年 3 月16日)後、助重は、十余年を経た嘉吉元(1441)年の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復し、小栗15代城主に就いた。 助重は毒殺という非業の死をとげた十勇家臣の菩を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の供養をもって父満重と家臣の墓石を八徳池のほとりに営んだという。 なお、悪党による酒宴で酒に毒がもられていることを耳打ちした酌女の名 は、「照手」と呼ばれ、後に小栗判官満重が探し出し、褒美として宝物を与え たという謂れがある。だが、酌女の「照手」と先述した千光寺の観世音の巧徳で2度も命を救われた「照手姫」とが同一人物であるか否かについてはここでは言及できない と。「照手姫の墓」。「長生院」の「歴代和尚之墓」。こちらもやはり宝篋印塔。「歴代和尚之墓」と刻まれた石碑。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。「厄除地蔵尊」。照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が 建立した 3 体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。 「照手姫 厄除地蔵尊」案内板。「(伝)小栗十四代城主小栗満重と十勇家臣の墓」案内柱。「小栗判官公並に十勇士の墓」。墓の後ろに見事なサルスベリ・百日紅の木が。ズームして。「小栗判官公並に十勇士の墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、「小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と銘記されていた。「十勇士の墓」(左)。「十勇士の墓」(右)。「小栗判官眼洗之池」。小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た。小池に纏わる逸話などは記されておらず,謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満 重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。池の中には小さな石仏も。「小栗判官眼洗之池」案内板。石灯籠と手前に「水琴窟」👈リンク と書かれた案内板があった。「小栗堂」を奥から見る。「長生院」からの下り坂を進んでいくと左手にあった石碑には「仁」の大きな文字が。「回向院」の全貌を再び見る。そして次に訪ねたのが、長生院からの緩い坂を下り、左側の墓地に入ると堀田氏の供養塔があった。江戸時代末期諸外国の要求による開国問題(1854年締結の日米和親条約(対交渉役はマシュー ペリー)により開国し下田、函館を開港した後、1858年に締結した日米修好通商条約の前半の幕府側交渉役が外国事務取扱に任ぜられた老中堀田 正睦(対交渉役はタウンゼント ハリス)であった。その後大老に井伊 直弼が就くと意見対立から老中失脚し幕府役職を辞した。ただし自らの辞職というのではなく、直弼派の圧力による蟄居処分だった。つまりは歴史的には修好通商条約の締結決断をしたのは直弼だったため、美味しいところを直弼に取られた老中です。)などの幕政に対応した老中であるが、大老井伊 直弼と対立し、老中を辞して自領に戻り藩政改革に尽力した5代下総佐倉藩主堀田 正睦に至る家系の、安土桃山~江戸初期の堀田氏の中の正俊系を生んだ創家家系です。四基の供養塔が並ぶ。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔」。「正統院殿華岳宗栄大姉」「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「活生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」供養塔の裏側を見ると夫々顕彰碑になっているようであった。細かい漢字がぎっしりと。少し離れた場所にあった「堀田 正仲墓所」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「常楽院殿其阿法漢映性大居士」「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」そして「本堂」横にあったのが「永代供養塔」。「犬描慰霊碑」「犬」と「猫」が描かれた石碑。「いつくしむ」と書かれた石碑。「合妃墓」。「水子地蔵尊」。お顔をズームで。小さな石仏が後ろに並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.08
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再び「遊行寺」の「境内案内図」。「特別展 遊行寺の什宝」展が「遊行寺宝物殿」で開催中であると。「遊行寺宝物殿」。桜の枝の影が「遊行寺宝物殿」の白壁に映り込み美しく。正面から。宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。これが「袴石」であろうか?「明治天皇 御膳水」。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。次に「黒門」、「中雀門」を訪ねる。まずは「中雀門」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。「中雀門」は向唐門造りで、勅使門として使われていたので正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。下り棟鬼瓦には徳川家の葵紋も刻まれていた。「中雀門」の見事な彫刻を追う。「中雀門」の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群。そして内側からの彫刻。ズームして。「中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。」「中雀門」の右隅にあった大王松は「三宝の松」と呼ばれ親しまれていると。人気の訳は手のひらより大きい松ぼっくりと長い葉。長い3本の松葉は大変珍しく、お守りとして持ち帰る方もたくさんいるのだと。また数年かけて実ることもある巨大な松ぼっくりは、落ちているのを見つけるだけでも非常に幸運であると。ちなみに三宝とは「仏・法・僧」のことであると。大王松の長い葉。左側が藤嶺学園藤沢中学校・高等学校の校門。藤嶺学園の前身は時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の僧侶養成機関「時宗宗学林」です。「時宗」は鎌倉時代、念仏と遊行に徹し、捨聖と呼ばれた一遍上人の開いたものです。本校はその教えを根本とし、宗教的情操豊かな人格の涵養をめざし、1915年(大正4年)に財団法人藤嶺中学校として創立されました。今年で100周年を迎えた歴史と伝統を誇る学校。「黒門」。「時宗総本山 寺務所」と書かれた札が掲げられていた。古図によれば遊行寺の黒門であって、現在は「惣門」を黒門と称しているが、これは明治以降のことであると。しかし、この日は黒門ではなく白門であったが・・・。その奥にある「御番方(ごばんかた)」は行事等の正式な玄関として使用されている。「遊行寺」の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この「御番方」と呼ばれる入口から入るのだと。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。左側に玄関・寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いたのであった。「御番方(ごばんかた)」の玄関にあった「このお寺の宗旨」。名 称 : 時宗 (じしゅう)宗 祖 : 証誠大師 一遍上人(智真)(しょうじょうだいし いっぺんしょうにん(ちしん))開 宗 : 文永11年(1274)総本山 : 清浄光寺(遊行寺)( しょうじょうこうじ(ゆぎょうじ))- 神奈川県藤沢市<本 尊 : 阿弥陀仏(阿弥陀如来)(あみだぶつ(あみだにょらい))称 名 : 南無阿弥陀仏教 義: 大慈悲の阿弥陀仏に帰命(おまかせ)すただ今のお念が一番大事なことですが 家業につとめはげみ、むつみあって、ただ今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく 生かされても明るさを増し皆倶に健やかに長寿を保つことになります。 浄土へ道はそこに開かれるとする教えです。経 典: 「無量寿経(むりょうじゅきょう)」・「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」 「阿弥陀経(あみだきょう)」)・「六時礼讃(ろくじらいさん)」などの経典を 読誦致します。左から寺務所、御番方、信徒会館。信徒会館を見る。「放生池」越しに「信徒会館」そして「太鼓堂」を見る。「放生池」。「放生池」の中に立つ「聖観世音菩薩像」。「聖観世音菩薩」と刻まれた石碑。「この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿一を保っとされている。」「魚鱗甲貝供養塔」。犬や猫の供養塔はよく見るが魚類、貝類は珍しいのでは。「河野静雲の句碑」。「放生池」の池畔に昭和44年4月27日に建立されたこの句碑は、高浜虚子門下の時宗の僧である河野静雲の句碑である。「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」「静雲」と刻まれた石碑。「静雲先生は、高浜虚子門下の〇〇太宰府佛心寺○句集○○あり時宗々門有縁諸大徳○晴雲先生主宰の冬野句友、並びに俳句○の協賛のもとにこの句碑を建立し先生の業績を永く、藤嶺〇〇顕彰す」と説明文が刻まれていた。「御番方」を別の角度から。「黒門」から出て「鐘楼」、「本堂」を見る。鐘楼に脇には、左側に「円意居士」と右側に「中里 理安・理益」の墓があった。「円意居士」墓。「円意居士」は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主です。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものがこの供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようです。「中里 理安・理益」の墓碑。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「南無阿弥陀佛」碑。「中里 理安・理益」の墓碑。「開運招福弁財天 宇賀神 入口」「遊行寺の宇賀神遊行寺の字賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十ニ代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永三年(一三九六)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。字賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉蚋されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼し、現在の神殿はのちに再建されたものであります。字賀神には戝施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣を授かり、特に金福の徳を授かると伝えられてます。寛政六年(一七九四)十一月に当山が焼失した際に字賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。」「當山檀墓地」、「歴代御廟所」と刻まれた門碑の奥の右側に「鐘楼」が。「鐘楼」。「銅鐘」。「清浄光寺銅鐘総高一六七センチ、口径九ニセンチ。鋳造は、銘文によると延文元年(一三五六)。遊行八代渡船上人の時にあたる。遊行寺開山以来、ようやく時宗が隆盛期に達した時代であった。治工は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人、光連と考えられる。この他の光連の遺作には伊勢原日向宝城坊の暦応三年(一三四〇)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(一三五〇)銘梵鐘がある。この銅鐘は、五段五列の乳の配列、上帯の飛雲文、下帯の蓮華唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持つが、竜頭部や宝珠の表現にはすでに形式化がみえる。銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。この銅鐘は、永正十年(一五一三)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永三年(一六二六)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである。」「川田順の一遍上人を讃える長唄」碑。「糞掃衣(ふんぞうえ=ぼろ布を洗ってつづり合わせて作った僧衣)すその短くくるぶしも臑(すね)もあらはにわらんちも穿(は)かぬ素足は 国々の道の長手の土を蹈(ふ)み石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかにいたましく頬(ほほ)こけおちて おとかひもしゃくれ尖(とが)るを眉は長く目見(まみ)の静けく たくひなき敬虔(つつしみ)をもて合せたる掌(て)のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ伊予の国伊佐庭の山のみ湯に来て為(な)すこともなく日をかさね吾は遊ふを この郷に生まれなからもこのみ湯に浸るひまなく 西に行き東へ行きて念仏もて勧化(かんげ=仏の教えを説き、信心を 勧めること)したまふみすかたをここに残せる一遍上人 川田 順」歌碑「感傷も今宵はよろし開山忌あがないてもつ葡萄の房を 俊人」。俊人(としんど)は、明治31年8月に藤沢大阪町に生まれ、昭和51年1月13日に没しました。アララギ歌人として知られた、若山牧水に師事し「菁藻(せいそう)」「まゆみ」「創作」を主宰し、藤沢市民短歌会会長を歴任した歌人で、旧制浦和中学校・藤嶺学園藤沢高校で教鞭を執りました。「青木泰夫の句碑」。泰夫は昭和3年に生まれ、昭和63年3月11日に没しました。俳誌「波」を主宰し藤沢俳句協会会長でした。句碑には「泰夫の句風を偲ぶ人々により思い出多き此処遊行寺に最初の句碑を立てる 昭和63年9月18日」とあります。「戦後遠し 働く蟻と 迷ふ蟻 泰を」4脚の台座に載った「五重塔」。「平成三年一月吉日 仙台市真福寺中 寄進高根秀峰」と刻まれていた。「南部右馬頭茂時之墓(なんぶうまのかみしげときはか)」。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃した。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。彦五郎はその後殉死。弟信長は盛岡に茂時の菩提寺「教浄寺」を建立していると。「南部右馬頭茂時墓鎌倉幕府が滅亡した正慶(しょうぎょう)ニ年・元弘三年(一三三三)北条一族に従って戦死した南部茂時の墓と伝わる。南北朝内乱を描いた『太平記』巻十には、鎌倉東勝寺の奥・葛西ヶ谷(かさいがやつ)にこもる北条高時とともに自害した人々に南部茂時の名が記されるが、遊行寺では、茂時は敵軍を突破して当寺に至り、遊行五代安国上人より御十念(ごじゅうねん)を頂いた後、家臣とともに自害したと伝えられる。茂時墓左右にある五輪塔は家臣の墓とされる。江戸時代、南部氏は陸奥国盛岡藩の領主となり、同氏の菩提寺である時宗教浄寺(きょうじょうじ)(岩手県盛岡市北山)には茂時の供養塔が伝わる。」墓石銘文正慶ニ癸酉歳五月廿ニ日(右側面)教浄寺殿正阿清空天心大居士(正面)南部右馬頭茂時之基(左側面)「放生池」を振り返る。「百間廊下」の下を潜る。「百間廊下」は、御番方から本堂へと繋がる幅2.7m総長80mの長大な廊下。当初は側壁はなかったが、雨露を凌げる空間として活用するため今の形となったと。構造・形式:木造平屋建、桟瓦葺、切妻造り。建設の年代:昭和12年。建築面積:221.8㎡。「本堂」の屋根を横から見る。本堂の妻飾りは複雑な造りだが二重虹梁大瓶束式であると。左手は「太鼓堂」に繋がる「百間廊下」。右手は「回向院」に繋がる「百間廊下」。そして「宇賀神社」が前方に。「宇賀神社」の石鳥居。「遊行寺の宇賀神遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十ニ代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永三年(一三九六)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたものであります宇賀神には戝施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣の福を授かり、特に金福の徳を授かると伝えらています。寛政六年(一七九四 )十一月に当山が消失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。」「宇賀神社(登録有形文化財)」。現存の社殿は1880年(明治十三年)に再建されたもの。社殿の見事な彫刻。「木鼻」の彫刻(右)。「木鼻」の彫刻(左)。裏手の湧水でお金を洗えば金運上昇にご利益のある「銭洗い弁天」としても信仰されている。湧水が上部の石碑の裏から。「銭洗い弁天」。「銭洗い」用の多くの柄杓が置かれていた。そして多くの一円玉も。「銭洗い」用のザルも置かれていた。「宇賀神社」境内左手にあった「通暁の句碑」。「日のいりて くれぬや富士の うしろ空 通暁」通暁については藤沢の俳人ではないかといわれているとのこと。「宇賀神社」前から「大書院」を見る。そしてその右手にあるのが「信徒会館」であろうか。再び「大書院」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.07
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今年も「時宗総本山遊行寺」に初詣に立ち寄って来ました。赤い欄干の「遊行寺橋」。江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた橋。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山遊行寺の門前の橋である。現在の橋は、昭和35年に造られたPC桁橋である。かながわの橋100選(平成2年度選定)の「遊行寺橋」。歌川広重「東海道五拾三次之内 藤沢(保永堂版)」。「製作時期:天保3年(1832)~天保4年(1833)。板元:保永堂広重には東海道の風景を描いたシリーズがいくつもあり、このシリーズは一般に板元の名から保永堂版東海道と呼ばれています。構図の良さや着眼点が受けて、広重最高傑作シリーズとして大ヒットし、以後風景画の第一人者と呼ばれるようになりました。図は藤沢宿にあった江の島一ノ鳥居を遊行寺を背景にして描いたもので、鳥居の後ろに架かる橋は大鋸橋(現遊行寺橋)です。橋の上で大きな木太刀を持った人たちは大山詣(雨降神社に太刀を奉納する)、手前、鳥居をくぐろうとしている杖をついた人たちは江の島詣(杉山検校の故事にあやかって目の不自由な人たちの参詣が盛んだった)で、藤沢宿が両地への参詣者で賑わっていたことを示しています。」と。「遊行寺橋」を渡ると、正面に「遊行寺」の「惣門」が見えて来た。右手にあるのが「ふじさわ宿交流館」。遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設。「ふじさわ宿交流館」。交流館前には江戸時代の高札場も再現されている。内部の「藤沢宿」のジオラマ。中央に、先程渡って来た「遊行寺橋」が。藤沢宿の地図も。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであったと。そして「遊行寺」の「惣門(そうもん)」。その両脇には歴史を感じさせる石垣と築地塀も。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が「遊行寺」の「惣門」で、右に「時宗總本山」、 左に「清淨光寺(しょうじょうこうじ)」と彫り込んだ大きな木札がかかっている。今日では遊行寺の黒門と呼ばれているのだ。当本山の正式名称は、「藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)」と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の「遊行寺」の方が知られているのだ。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。下が本物の浮世絵。『歌川広重東海道五十三次』= 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤澤 》松吟庵清風うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな惣門前に、高さ約2m80cmの青銅製の灯籠が対になって建立されていた。この灯籠については、遊行寺宝物館に蔵されている「籐沢山銅灯籠志記(とうたくさん どうとうろう こころざしのき)」によれば、江戸講中を初めとして遠近の篤志者が一体となって、建造を望んだのだと。時に天保10年(1839)5月であり、江戸講中の者が講元世話人となった。しかし、実際に建立されたのは、天保13年(1842)8月23日ですから、発願されて3年にして実現したのだと。右側の脚(竿)に「籐沢山三十九世他阿上人一如(いちにょ)書」とあり、左側の脚(竿)には「遊行五十七世他阿上人一念(いちねん)書」とあると。鋳造師は西村和泉守藤原政時であると ネット情報から。「傍示(ぼうじ) 門前先通道幅四間ニ尺」と刻まれた石碑。推測するに寺と街道の境目を表示したものと思われるが・・・。「惣門」を潜ると前方に続くこの石畳の坂を、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれている。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、大勢の見物客が押し寄せるのだ。平成19年(2007年)に大改修が行われた。地元の皆様には、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれている。「惣門」を潜った直ぐ左手には「板割浅太郎の墓」と書かれた案内板が。「板割浅太郎の墓」。この墓地群は「真徳寺」の境内のようであった。「板割浅太郎の墓」が正面に。「板割浅太郎の墓」。「板割浅太郎の墓の由来国定忠治への忠義を貫ぬく板割浅太郎(本名 大谷浅太郎 )は、大正5年(1916)に刊行された平井晩村の小説『侠客忠治 』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄』が話題となった昭和9年(1934)公開された映画『浅太郎赤城の唄』の登場人物として知られている。真徳寺には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されている。天保13年(1872)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺 (長野県佐久市 )住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改める。後に遊行上人の導きにより藤沢 の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となる。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔う。仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされる。以上の口承が昭和61年(1986) 山本周五郎が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされる。後の列成和尚は、明治13年(1880)に発生した藤沢宿大火により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いた。明治26年(1893)12月30日、74才にてその生涯を閉じたと伝えられている。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれている。 赤門真徳寺住職」そして「板割浅太郎の墓」の近くの墓石の前には掲示板が立てられていた。「○○○義雄家無縁墳墓等改葬公告墓地利用向上のために無縁墳墓等について改葬する事になりますので、墓地使用者等、死亡者の縁故者及び無縁墳墓等の権利を有する方は、本広告掲載の翌日から一年以内にお申し出下さい。尚、期日までにお申し出なき場合は無縁仏として改葬を致します。」と。右手に「赤門 眞徳寺」。正面から。「三界萬霊」。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。「本堂」。清浄光寺の塔頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。 遊行51代一法はこの寺の檀家から出ているのだと。「本堂内陣」。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。そして「いろは坂」を更に進むと左手にあったのが「時宗 眞淨院」。白壁に囲まれた参道を進むと正面に「山門」が。そしてその奥にあった「本堂」。「本堂」清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。「本堂内陣」ご本尊は阿弥陀如来。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあると。柱には時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」が。「遊行寺」境内へ入ると正面に「本堂」、手前左手に「大イチョウ」。「大イチョウ」を反対方向からも。「遊行寺」の御神木の「大イチョウ」。樹木医の治療もされて。「市指定天然記念物昭和四十六年(一九七ー)七月五日指定大イチョウ 樹高約21メートル 幹回り710センチメートルひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31メートルありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上6メートルの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で686センチメートルだった幹回りは、平成二十年の計測では710センチメートルと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月〔藤沢市教育委員会〕」1ヶ月前には。 【遊行寺の大イチョウ見学 | チャリで100万キロ (simple-k.com)】より「清浄光寺(遊行寺)境内案内」。境内配置図をズームで。境内の建物、池等が説明されていた。本堂前右手の高台には時宗の「宗祖 一遍上人像」。伊予国の豪族の次男として生まれたが、10歳で母を亡くすと天台宗に出家し教義を修学した。1274年2月から布教のための全国行脚を始めそれを遊行と称した。遊行15年目に過酷な遊行により過労と栄養失調で亡くなったと。戦中に鉄材供出のため撤収されたが、昭和45(1970)年5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立された。また台石は川越浄国寺檀徒、さらに築山庭石も信徒から寄進された。静かな境内の中でひときわ印象的な銅像。切妻造桟瓦葺の「手水舎」と蓮華形の「手水鉢」。手水鉢の台部に「明治百年記念 遊行七十一世他4阿隆宝上人御代」の銘が。清浄光寺手水舎は、明治十三年(1880)十一月の藤沢宿大火後に建築された可能性が高く、大正十二年(1923)の大正関東地震によって倒壊。昭和12年(1937)柱の一部など修復するかたちで、現在の位置に再建されている。手水舎の中央に設置された水盤は、昭和44年(1969)3月26日、明治百年記念に、大東亜戦争に供出された水盤を、東京オリンピック聖火台を作成した鈴木文吾氏の手によって復元安置されたものである。その建築様式は、両流造り、二軒繁垂木(しげだるき)、桟瓦葺きで、一般的な水屋に比べて、形態と装飾の優美さが卓越している。しかし「手水舎」はこのコロナ禍で使用禁止中。「本堂」右手には「ダルマ破魔矢 授与所」。そして正面に「本堂」。昭和十二年(1937)再建の入母屋造銅板葺の「本堂」。木造鋼板葺、1937年の再建。「本堂」の前には「常香炉」が。「本堂」を斜めから。「本堂幕」は白地に時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉。100円で購入できる線香がモウモウと。常香炉にも寺紋・「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が入っていた(以前の写真)。本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な海老虹梁の本堂。「登霊臺」の扁額は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。「登霊臺(とうれいだい)」。「本堂 内陣」。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しい。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像..平安時代後期作と伝える。参拝客の数も例年に比べ少なく、初詣の参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。「本堂」から「常香炉御堂」を見る。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)が正式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。この遊行寺は正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵(ひじりえ)」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多あります。境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵艟、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また桜・ふじ・花しようぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。」。「本堂」前右手の「地蔵堂」。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。扁額「地蔵堂」。木造で高さおよそ3メートルの日限地蔵様をお祀りしている。絵馬「おねがい地蔵」。絵馬「心願成就」。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」「本堂」の左手手前にも石碑が。文化庁の制定する「登録有形文化財(建造物)」に本堂、宇賀神社などが登録されたのだ。登録されたのは以下の10棟。・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・回向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「おみくじ結び所」。本堂前左手には大きな「南無阿弥陀佛」碑が。藤沢市の遺族会が建てた日中~太平洋戦争の戦没者慰霊碑であると。 ・・・つづく・・・
2021.01.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク6月23日(火)の早朝に近くにある「相州藤沢 白旗神社」に新車で久しぶりに行って来ました。手前に「御典橋」とその奥に「鳥居」。「白旗神社」社号標石。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだと。「大御神灯」慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。そして社殿への階段の両側には狛犬が。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。 その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そしてこの日の撮影の目的の「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」境内の「令和ニ年庚子歳 干支絵馬」。この絵馬は藤沢市在住の漫画家 佐野絵里子氏による原画をもとに奉製した絵馬であると。牛若丸と静御前。夫婦岩を意識した配置となっている。2020年、令和2年の干支・ネズミが遊んでいる綱が注連縄か。「湯立神楽 舞台」。「藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽白旗神社 を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽 等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東 一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。」「神輿殿」。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵していると。「御神札授与所・社務所」昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。近くにある「義経首洗井戸道しるべ」。👈リンク。「御神札授与所・社務所」前の「義経藤」。「義経藤」は純白の藤。 【https://twitter.com/tanuhashi102/status/1257468445249028096】よりそして「弁慶松」。こちらが「弁慶藤」、その手前に「芭蕉句碑」。「芭蕉句碑草臥て 宿かる比や 藤の花 文化二年建」。夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見ると。文化2年(1805)に江戸の俳人以足によって建立されたと。「弁慶藤」は紫。 【https://twitter.com/lammy1999/status/1122044834082983939/photo/1】より夜になれば。「弁慶藤」の前から境内の「義経松」、「弁慶松」方向を見る。境内の反対側には「古神札納所」。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左はピンボケ。白旗神社と書かれた白旗には「寒川比古命 源義経公」と。階段を上がり「拝殿」に向かって進む。左手に「干支絵馬」。「拝殿」はもう一つの石段の上に。境内には義経公に纏わる「鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」「拝殿」。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れろと健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。この石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」「拝殿」前より参道を振り返る。境内から「源義経公武蔵丸弁慶公之像」と「大鳥居」を見ながら、車に乗り込み帰路についたのであった。
2020.07.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「村岡御霊神社」を後にし、再び「古館橋」まで戻り、柏尾川を渡る。「腰越大船線」を柏尾川に沿って南下すると左手にあったのが「中外製薬(株)鎌倉研究所」。そして「手広」交差点を右折し、藤沢駅方面に歩く。「川名」交差点手前の路地を右折し進み、「川名清水谷戸」に辿り着く。「川名清水谷戸」は、近くの人々が農業を営み、自然と共生しながら里山環境を守ってきた場所。昔ながらの原風景がそのまま残る貴重なスポットなのである。左右を丘陵の稜線に挟まれた谷あいの平地で、田んぼや畑、水路、溜池があり、 いわゆる里山を形成しているのだ。藤沢市内には、三つの谷戸があり、「遠藤笹窪谷戸」「石川丸山谷戸」そしてここ「川名清水谷戸」。奥の沼には蓮が。未だ開花には早かった。そして次に訪れたのが「神光寺横穴古墳群」。神光寺の門を過ぎてすぐの土手にぽっかり穴が開いているのであった。右から第横穴古墳と第2横穴古墳。「市指定・史跡 神光寺(じんこうじ)横穴古墳(横花墓)群横穴墓は、丘陵斜面や断崖に横穴を堀り、死者を埋葬する墓で、古墳時代に造られた横穴系の埋葬施設の影響を受けて、5世紀代に九州北部で造られ始めました。横穴墓は有力者の墓であったと考えられており、藤沢市内では6世紀後半頃から7世紀代を中心に造営され、神光寺横穴古墳群の位置する片瀬丘陵では数多くの横穴墓が造られました。神光寺横穴古墳群は、昭和43年に横穴墓7基の調査が実施され、土師器片、須恵器片などが確認されています。玄室内では、遺体を安置する棺座が玄室の床面から高い位置に造られており、地域的な特徴とされ、市内の古墳時代を考える上で貴重な史跡といえます。」ここ片瀬丘陵には、一〇〇基を越える横穴墓の存在が知られているのだと。これが第2横穴古墳。近くにあったのが「シェア畑 湘南藤沢」。農具資材、種苗・肥料、アドバイザーサポート付きの貸し農園。入会金:11,000円 3㎡:6,400円 6㎡:8,400円〜そして「高野山真言宗稲荷山 神光寺」を訪ねた。「高野山真言宗稲荷山 神光寺」寺標。「掲示板」「何かにつまずいたら 一歩先を見るとよい いつまでも そこにいると その苦しみから ぬけだせない」「咲く花に この世の ご縁を学び 散る花に この世の 無常を学ぶ」「生きている間が人生 どう生きたら いいのか 今のうちに 考えておきたい」「 藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造虚空菩薩立像木造一木造り、彫眼。表面刳落、右腕・左肘先・両手足欠如(本来は右手に宝剣、左手に宝珠を持っていたと推定される) 像高108.7㎝。本像は、嘉永4年(1851)に神光寺に合併吸収された大勝寺・「新編相模国風土記稿」に「大勝寺、川名山金剛院と号す。本寺前(鎌倉手広青蓮寺)に同じ。本尊は虚空蔵なり」とある虚空像菩薩と推定される。風化が甚だしいが、古様の作風から製作年代は平安時代は中期頃と推定され、市内屈指の古仏である。また、立像の虚空菩薩像は全国的にも非常に希少な存在である。」高野山真言宗「稲荷山影向院(ようごういん)神光寺」の「本堂」。「本堂」の扁額 「影向院(ようごういん) 」 。「本堂」に向かって右前の「弘法大師像」。角度を変えて、後光のお姿を。弘法大師石像の「堂」。堂に添えられた石碑。「稲荷山影向院 大師石像 創建文政項 相模国巡四国八十八箇所 七十四番 川名村 御詠歌 いと深くかけし誓をたのみにて 川名のはしを わたるもろ人動物の像と合体したユーモラスでほのぼのとするベンチと石造の仏塔。「弘法大師報恩謝徳供養塔」。③神光寺 ④横穴墓群 案内柱「文化財ハイキングコース案内板村岡の歴史と文化財 村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による錬倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました.やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村〔柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚.宮前、川名〕は藤沢宿の助郷と定めら街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぷための人や馬を提供することを義務づけらました。明治時代になって助郷題度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は.武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり麦っているようですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居住地といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の番屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」そしてこの日の「藤沢歴史散歩」の最終ゴール地点の「川名御霊神社」を訪ねた。「御霊神社」社号標石。石鳥居。「社殿」は長い階段の上に。三回折れて平場がある、四本連なる階段。「御霊神社由来」碑。 創 立 天慶四年八月(千有余年前) 祭 神 早良親王 合祀 平景政 例 祭 九月吉日早良親王は相模平氏村岡良文の祖神なり良文は村岡郷に住し四辺を開拓して恩恵を垂れ景政は良文の裔にして鎌倉時代武者を以て知らる因縁浅からず当初鎮護の神となす我々民族心の古里である手水場。「まきの樹」。「明治百年記念 まきの樹」石碑(昭和43年(1968年)銘)。更に階段を上って行く。階段上に「社殿」。藤沢市川名の御霊神社は、村岡御霊神社の分社と伝えられている。祭神の早良親王は、桓武天皇の弟。川名の地は、鎌倉郡津村郷に属し、村上五郎(平良文)の領した村岡に近いことから、村岡氏の支配下にあったものと考えられるが定かではない。平安時代後期には、鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の一部として、大庭氏の支配下にあったと考えられている。祭神 早良親王 鎌倉権五郎景政扁額「御霊神社」。「稲荷社」。扁額「正一位 稲荷大神」。「福禄寿像」。相州村岡七福神の福禄寿。相州村岡七福神巡りでは、残りの弥勒寺(毘沙門天) 、小塚荒神社(布袋和尚)、柄沢神社(恵比寿) 、渡内日枝神社(弁財天)、高谷大神宮(大黒天)、宮前御霊神社(寿老人))に会えるのであった。そしてこの日のゴール地点から帰路への階段を下る。そして県道32号線藤沢鎌倉線に出て「御霊神社前」江ノ電バス停で藤沢行きのバスを待ち、藤沢駅に17:30に到着し、更に自宅まで、神奈中バスを利用し帰宅したのであった。そして18時過ぎに帰宅して、この日の歩数を見ると何と!!早朝6時に自宅を出発し。18時に過ぎに帰宅するまで、ひたすらカメラ片手に歩いたのであった。しかしこの日は足の痛み等はほとんど無く元気に帰宅できたのであった。そしてこの日でほぼ全ての「藤沢歴史散歩」コースを完歩したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク右手にJR大船工場(正式には「JR東日本 鎌倉総合車両センター」)の広大な跡地。この広大な敷地には、昭和18(1943)年に「大日本帝国海軍 横須賀海軍工廠 田浦造兵部 深沢分工場」(以下「海軍工廠 深沢分工場」と略す)が設置され、魚雷等が造られていたようだ。終戦後に日本国有鉄道の土地となり、昭和20(1945)年12月1日に「日本国有鉄道(国鉄)大井工機部 大船分工場」として発足。昭和25(1950)年 に「国鉄 大船工場」、昭和62(1987)年には「JR東日本 大船工場」、平成12(2000)年には「JR東日本 鎌倉総合車両所」、平成16(2004)年 には「JR東日本 鎌倉総合車両センター」と名称を変更しているのだと。この広大な敷地の再開発計画は?ここは鎌倉市。「NEMS cafe」案内板が巨大な跡地の狭い入口に。新型コロナ対応で新たに出店した店なのであろうか?入口で中を覗いていると、大きな声で「いらっしゃいませ!!どうぞどうぞ!!」の声をかけられたが・・・。そして「古舘橋(ふたてばし)」入口交差点に。「古舘橋」とあるのは、このあたりは当時の武士の館だったのであろう。下を流れる川が「柏尾川」。「柏尾川」を渡り、再び藤沢市内に戻ったのであった。北に向かっ進んで行き、御霊神社の裏参道を下りると「鎌倉古道(上の道)」と刻まれた標石が道の角に。鎌倉街道(かまくらかいどう)👈リンク は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのだ。「鎌倉街道(古道)上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - 高崎のルートである。武蔵国府付近は、東芝府中工場 - 分倍 - 中河原へ抜けるルートとなっている。そして右に進むと直ぐに古道が途切れ、辻の角に立つ標石柱の前には神戸製鋼のフェンスで囲まれた敷地内に兜松があったが、昭和22年(1947年)に枯死してしまったという。フェンスには「兜松と八ッ嶋」の看板があるだけであった。「兜松と八ツ嶋この道は鎌倉の化粧坂から柏尾川を渡り、村岡城内に通ずる鎌倉街道の名残である。八幡太郎義家が鎮守府将軍のとき奥州に後三年の役があり鎌倉権五郎景政も十六歳で従軍した。苦戦が続き新羅三郎義光も援軍にかけつけた。特に仙北郡金沢棚の合戦には鳥海弥三郎に右の眼を射られその矢を射返して敵を討ちとったことは有名である。凱旋のあとかねて祈願した御霊神社に戦勝のお礼詣りした記念に岩上の末の根もとに兜を埋めたのが兜松の由来である。またこの付近は新田義貞の鎌倉攻めの中心地で鎌倉方は相模守赤橋守時で六万余騎の大軍で元弘三年(一三三三)五月一八日は一日一夜のうちに六五度の合戦が行われた激戦地で世に州崎の戦いといわれている。その時の戦死者を葬ったのが八ツ嶋である。」兜山(塚)の木立をフェンス越しに。ズームで。「かぶと松の碑永保3年(1083)陸奥守兼鎮守府将軍源義家赴任、後三年の役となる。鎌倉権五郎景政若干16歳で出陣。仙北郡金沢柵の合戦の時、鳥海弥三郎に右目を射られ、その矢を射返して敵を討ちとった。凱旋し御霊神社に戦勝を報告、記念にこの岩上の松の根もとに兜を埋めたといわれている。源頼朝は鎌倉に幕府を開き、北条氏これを継ぐ。元弘3年(1333)5月、新田義貞上野国で挙兵 利根川を渡り疾風のごとく鎌倉に迫る。三浦義勝、村岡に陣を敷き鎌倉総攻撃を敢行 18日村岡の激戦となる。鎌倉方赤橋守時以下九十余人自害す。村岡方の戦死者を八ツ嶋に葬る今回この兜松に合祀す。」と刻まれているとネットから。そして「兜松と八ツ嶋」から引き返して「御領神社」に向かう。途中、美しいガクアジサイが。「御霊神社」の裏山の後河内公園北の断崖絶壁の山肌とその下に駐車した?車が並ぶ。旧家の前の左手に産直野菜の出店「はやしふぁーむ」があった。ズッキーニ。そしてこれは初めて見る「丸いズッキーニ」・グリーンエッグ。買いたかったが、まだまだ歩くので・・・・。来年、種を買って育ててみたいと思いながら。そして、変形十字路の右手奥に「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」の石鳥居が見えた。藤沢市宮前560。「宮前御霊神社」案内柱。そして角にあった「道祖神」碑とその手前に「力石」が2個。白ペンキで重さが書かれてあったが・・・??。「道祖神碑」。双体神祇道祖神、文化十一(1814)年そして「祭神」の銘。「大門この一帯を通称大門町と呼んでいるこの辻に道祖神あり丈化十一年(一八一四)宮前村中とあり昭和二十年代までこの前で正月十四日に村中集まってだんご焼きが行われた場所今では宮前公園で毎年行われている。ここの力石は大九十三キロ(二十五貫目)小七十八キロ(二十一貫目)あり。明治・大正時代項この大門に夜な夜な若い衆が集まりこの力石を担いで力を争そっていたと古老の話あり。普この場所で夏場鎌倉囃しの養成練習をした。参進には榎が両側に三本ずつあったと古老は云っていた鎌倉権五郎のお手植との伝説あり」「御霊神社」石鳥居と扁額。参道の「タブノキ」。「タブノキ」の前には松尾芭蕉の」句碑が。「梅が香に のつと旭の出る 山路かな」立春を過ぎて残る寒い朝。梅の香が匂う山路には、何の前触れもなく朝日がひょっこりと昇ってくる と。「のっと」という日常語を持ってきて、死後に一大流行を作り出した「軽み」の実践句であると。何故ここに芭蕉句が?梅の名所なのか?「宮前町内会館」。「御霊神社」碑。「日露戦役記念碑」。「手水舎」。「社殿」への石段。石段手前にあった「御霊神社」石碑。「御祭神 本殿五座 崇道天皇 光仁天皇第二皇子早良親王(さわらしんのう) 権五郎景政(ごんごろうかげまさ) 葛原親王(くずはらしんのう) 高見王(たかみおう) 高望王(たかもちおう) 境内副社 十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷 七面宮 祭日 毎年九月十八日 由来沿革 御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦十二年五月現在の京都市に御霊宮として祀り給い 其の後村岡に五郎良文公が住し天慶三年に勧請し戦勝祈願をなしたるを初めとす のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り二柱たりしが北条時頼の命により 葛原親王 高見王 高望王の三柱を加え県下に十三の分社ありその後村岡五ヶ村総鎮守として現在に至っている」「社殿」。藤沢市宮前のここ村岡御霊神社は、坂東八平氏の祖村岡五郎(平良文)が勧請したと伝わる。平良文は、桓武天皇を祖とする平氏で、承平・天慶の乱では平将門とともに平国香と戦ったとされるが定かではない。御霊神社の近辺に良文の館があったとされ、祭神の鎌倉権五郎景政もこの地に住したと考えられている。景政は、良文の子孫。父景成の代に鎌倉の大倉ヶ谷に館を構え「鎌倉氏」を名乗ったと。階段上に「寿老人」。「神社正面旧階段の鎌倉石前の鎌倉石の階段は慶応四年に御霊神社の造営完成後神社正面の階段九二段を元鎌倉郡今泉村より切り出し村人たちが運んで神社の正面階段に石工が工事しました慶応四年(一八六九)一三九年の歳月の経過で鎌倉石は軟質なので消耗が激しく危険なので昭和五二年神社萱葺き屋根を銅板に改修工事した後階段も新しく白川石にて改修し現在に至っております。」「寿老人」に近づいて。「末社十二天王社」の朱の鳥居。「末社十二天王社」「村岡御霊神社の境内社十二天下の小池で鎌倉景政(19)は射られた左目を洗ったことで平癒したという。十二天王社は十二天明神天神七代地神五代を奉祭し(『御霊宮来山(仁安2年(1167年))』『大永元年(1521年)文書』)、小名小山(村岡城址からのびる山の最南端)に祀られていたが、後に十二天王社は御霊神社に移され祀られる(『十二天王碑』『末社十二天王社看板』)。昭和初頭(1925年ころ)には道路拡幅で山は削られ、3m半ぐらいの「シシオトシ」もなくなり、湘南貨物駅ができたことで鎌倉権五郎景政の服を洗ったと伝えられている十二天の小池(『御霊神社略記』)もなくなり、片眼の魚の住家もなくなったため、金森氏(通称十二天)の宅端に祠を造り記念碑を建てたという。かつては天王様という立派な御輿を担ぎ、毎年7月14日に盛大に祭りが行われたが、(御輿は山頂に埋められ)御霊神社の御霊庵での日侍講に変わり、12歳を頭とする子供十二天祭りへと発展したと伝わる。」十二天王を祀る「石祠」。「十二天王社」碑。「七面宮」。「兜山七面宮鎌倉権五郎景政の兜を埋めし処の塚、八幡太郎景政と誓いの松榎の大樹あり、兜松と云う、兜山に大松ありこれを兜松とよんでいた。鎌倉権五郎景政は,後三年の役で源義家に従い戦功をたて,戦勝を祈願した宮前の御霊神社に戦勝の報告に参詣された記念に兜山に兜を埋めたと伝えられています。兜山には七面宮があり安政年間(一八五四)大風で破損し当御霊神社の境内に移したという。」「折笹矢竹稲荷大明神」。鎌倉権五郎景政が後三年の役の際に片目を射られた矢を射返して敵を討った。この矢を地に刺すと矢笹が生えてきたので矢竹稲荷を祀ったというと。「旗立山の由来この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が一二〇〇坪程あります。前九年の役(一〇五六)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(一〇八六)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)この旗立山には葛原親王(桓武天皇第五王子)が祀られていた塚があったとも伝えられています。」「疱瘡神」解説石板によると、天然痘は最も恐ろしい疫病とされ、その苦しみを少しでも軽くするため石塔を建て、祈りを捧げたのだと。この「疱瘡神」は八幡山の麓にあったが、鎌倉権五郎景政により御霊神社に移されたものだとか。帰路は「女坂」を下る。石段の下にまで下り、正面の空き地の奥にあったのが「徳寿院跡」案内板。第十六番村岡山徳寿院(廃寺)跡。草むらの脇の斜面下のやぐらの中に石仏そしてその横に石碑群が。「大師像」は、徳寿院跡地の後の崖をくりぬいたやぐらの一番右端にあった。「大師像」の左手には昭和57年宮前念佛講中が建てた石碑が並んでいた。「準四国八十八ヶ所 第廿六番阿波國観音寺」👈リンク 石碑。第16番御詠歌「ただたのめ ふたたびとては あひがたき 稔りをここに 宮前の寺。昔の人は稲刈り後の暇になった頃、相模国準四国詣りをしたようです。なんと、八十八ヶ所4、5日で回ったと。「徳寿院跡この地は村岡山と号す渡内天嶽院の末寺があっ所です。また、○○寺で天嶽院の隠居寺とも云われていました。本尊は聖観音を祀ってぃたようで創建の年歴等は不明ですが、古い〇〇に享保十二年(一七一六)の銘があり、この時代からのようであります。開山以後十二代の無縫塔墓碑があり、明治中期に廃寺となりました。その後宮前部落で管理しており、お日待や村の集会所に使われていました。昭和二十年代に解体された境内には弘法大師の像があり、江戸時代に始まったとされた相模の国・準四国八十八箇所霊場の中の十六番札所であります。慰霊碑。戒名が。歴代の住職であろうか?「村岡御霊神社」の帰路、参道の左にあったのが「内出町稲荷社」。「社殿」をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉市寺分地区の散策を続ける。「大慶寺」のすぐ先、左手奥にあったのが「駒形神社」そして石鳥居。鎌倉市寺分1-10-12。急な石段を上って行く。階段の上の境内正面に「拝殿」。祭神は、駒形大神(こまがたおおかみ)ということになっているが、地元では邇々芸命(ににぎのみこと)と伝えられて来たと。古くより、農業の神として崇められ、治承年間、この辺りを領していた大庭景親が「天候不順が止むよう祈願した」と伝えられている。境内には、1822年(文政5年)の造られた弁財天(やぐら内)や、富士信仰の名残の石塔が置かれている。江戸時代までは、本尊として千手観音が安置されていたというが、現在は、中国風木造人形七体と木造神馬が安置されている。かつては、東光寺の管理下にあったという。「拝殿」の奥に「本殿」。右奥に稲荷社、手前にやぐら内の弁財天。弁財天像、文政5年銘。ズームで。そして更に南に進む。右手に「 東光寺」と書かれた案内柱が。「高野山 真言宗 東光寺」。「東光寺」入口門。境内の「聖観世音菩薩像」。平成19年8月建立。門前の蔵のある家の者が30代の若さで亡くなられそれを悲しんで建てられたもの。「南無大師遍照金剛」と書かれた赤い幟が並ぶ。「太子堂」。鎌倉市寺分1にある東光寺は高野山真言宗のお寺で「天照山薬王院東光寺」という。創建は永享3年(1431年)と言われ、中興開山は法印霊範である。高野山慈眼院の法印霊範が隠居所とした寺と伝えられている。また、本尊不動明王は、智証作と伝わる。扁額「東光寺」。「太師堂」前の「弘法大師ご修行像」。「四国八十八ケ所 お砂踏み霊場弘法大師様開創の四国八十八ケ所霊場の各寺院よりお砂を勧請し、修行大師様の四方に納めさせて頂きました。「南無大師遍照金剛」とお唱えしながら、発心の道場 修行の道場 菩提の道場 涅槃の道場と、時計廻りにお詣り下さい。そして本四国八十八ケ所霊場遍路行と同じ御功徳を頂いて下さい」「やぐら」。「やぐら」内の石仏、庚申塔群。「岩壁家之墓」。「水子地蔵尊」の奥に「探し大師」。相模国十三番札所の弘法大師坐像。探し物が見つかるのだと。「六地蔵」。ここにも「岩壁家」の墓が。この寺の近くの旧家なのであろうか?「弘法大師御入定千百五十年御遠忌供養塔」。白のアジサイ。そして次に訪ねたのが「梶原 御霊神社」。「一の鳥居」とその奥に「二の鳥居」。「二の鳥居」の先に「石燈籠」と「社殿」。燈籠の台座に遊ぶ狛犬が刻まれていた。「拝殿」と「狛犬」。「御霊神社鎮座地 鎌倉市梶原一丁目十二番二十七号御祭神 鎌倉権五郎景政霊由緒御祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。」向かって左側の阿形「狛犬」。牡丹?の花を咥えてしかも子連れ。右側の吽形「狛犬」は何も咥えていない?「拝殿」。この石碑には何と?再び親友から「堅牢地神」ではないかと。「堅牢地神」は大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、堅牢の名がある。万物を生育し負載するはたらきを神格化したものであるようだ。「本殿」への石段。「青面金剛童子碑」。「本殿」。「陸軍歩兵一等卒勲八等安田定吉之碑」日露戦争に従軍し、明治37年8月22日に寺児溝西北髙地にて戦死した安田定吉さんの慰霊碑。有志らによって明治40年2月に建立されたのだと。「梶原景時の墓」梶原景時は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変) とウィキペディアよりそして「梶原 御霊神社」を後にし、「新川」沿いを柏尾川に向かって進む。右手にあったのが「鎌倉市立深沢小学校」。「新川の由来この川は潅漑用水路として開削されたものです。昭和十五年深沢村の中央に西方の柏尾川へ注ぐて五キロメートルの水路が設定されました。元より主として柏尾川、大塚川、笛田川の三すじの水系に頼ってきた耕地ですから、この「新川」の誕生はその後の農作業に大きな潤いをもたらしました。土地の提供や取水方式への合意など地域の人々の共同する心が整わなければ成し得ない大事業であったと思われます。深沢耕地は東部の山里から西へど潅水がゆきわたり稲作への貢献度は絶大であったと推察できます。深沢尋常高等小学校の生徒たちの中には、この開削事業に「川底固め」のために参画した例もあったと聞きます。それほどに地域社会の悲願だったとも言えるわけでこのエリアの人々の熱意や気概を伝える「新川」でもあります。」「湘南モノレール」下を潜る。「湘南モノレール」路線距離(営業キロ):6.6 km 方式:懸垂式(三菱サフェージュ式) 駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:全線(直流 1500 V) 閉塞方式:自動閉塞式 信号保安装置:ループ式ATS 交換可能駅:4駅(富士見町、湘南深沢、西鎌倉、目白山下) 最高速度:75 km/h ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「富士塚」を後にし、西に向かって進むと江の島 龍口寺から大船を結ぶ市道「大船西鎌倉線」に出たが、道の上を湘南モノレールが懸垂して走っていた。湘南モノレール「湘南町屋駅」手前の「町屋駅前」交差点を渡り更に西に進む。右手前方にあったのが「三菱電機㈱鎌倉製作所」が。この先の十字路を左折し南に向かう。柏尾川に向かって進むと正面に寺院の山門が姿を現した。「真言宗 泉光院」。鎌倉市上町屋631。山門前の掲示板には「良く忍耐する者は よく その希望を遂げる」と。我がこれまでの人生は「良く忍耐」できなかったのではと猛省。「天守山 泉光院」寺標と「山門」。山門をぬけると、 正面に本堂、左に薬師堂、参道両側に向かい合って宝筺印塔と宝号塔があり、本堂前面に弘法大師修行像、右に庫裡があった。「宝筺印塔」。宝号塔「南無阿弥陀仏」。「薬師堂」。薬師堂の薬師如来は、眼病平癒の信仰をあつめ、「町屋薬師」とも呼ばれている。「薬師堂」扁額。「本堂」。鎌倉市手広の鎖大師・青蓮寺(2002年6月掲載)の末寺として、高野山真言宗に属していたが現住職の代に、 真言宗大覚寺派に変わったと。真言宗大覚寺派の「天守山 高音寺 泉光院」👈リンク開山 季等和尚 寛永十六年九月七日本尊 阿弥陀三尊「弘法大師石像」。「いぼとり地蔵尊」。石を奉じてお祈りをすると、「いぼが取れる」とか「子供が元気に育つ」といわれているのだ。中央に「いぼとり地蔵」、両側に「弘法大師石像」が祀られていた。「庚申塔」と「馬頭観世音」碑が並んでいた。一番右にあった「十一面観音像」。「六地蔵尊」。本堂横の「大日如来坐像」。「愛玩動物墓」。私の墓石はこの何分の一のものになるのであろうか?そして近くの南側にあった「天満宮」を訪ねた。「天満宮本殿」。鎌倉市上町屋に鎮座する天満宮は、社伝によると天慶年間(937年〜947年)に平良文が霊夢から天満宮を勧請したのが始まりという。平良文は鎌倉権五郎の祖である。祭神は菅原道真であり、上町屋の鎮守である。境内社に梅王社、松王社、稲荷社があるというが、本殿の左右に建つ覆い屋の中は2つとも狐の像があり稲荷社に見えた。社殿は天明元年(1781年)に再建され、石造鳥居は天保11年(1840年)に建立された。関東大震災でも倒壊しなかったのだろうか。江戸時代までは泉光院の管理下にあった。その名残で、正月に泉光院から御幣を受けて祀る習慣が今も続けられているとのこと。「南無仙元大菩薩」。「山真講」の石碑。「真」の字の上に富士山の姿が。富士講「山真講」は千葉市寒川町で、文化年間に活動に入った。千葉市中心部から東金街道に沿って発展したようだ。「仙元大菩薩」は中国から伝来した弥勒教と富士・山岳信仰が結びついて生まれた宗教である弥勒講に登場する菩薩で、日本の国土を守護する米の神、富士山信仰・浅間信仰の祭神で、」石碑が富士山に向かって建てられているのだと。横の面には「大天狗 小御嶽石尊大権現 小天狗」と。一般に「石尊大権現」といえば神奈川県の大山阿夫利神社を指すのだと。よって「石尊参り」は大山詣でのことだと。大山関連の石碑にも、「石尊大権現・大天狗・小天狗」と書かれる。しかし、これに小御嶽が付くと、まったく別物となるのだと。富士山五合目には、現在も磐長姫を祀る小御嶽神社がある。ここに勧請された富士太郎坊という天狗が「小御嶽石尊大権現」なのだと。反対側には「元祖 食行身禄佛」と刻まれていた。「食行身禄(じきぎょう みろく)」は、日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤 伊兵衛(いとう いへい)で、食行身禄は行名(富士講修行者としての名前)。伊藤食行身禄、伊藤食行とも言われていたと。「菅公一千年際記念碑」(明治34年(1901年)銘)。「菅公」とは菅原道真のこと。この石碑を建てた1000年前は901年、この歳に菅原道真は大宰府に左遷されたのであった。平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」と。「稲荷社」。「天満宮」を後にし、「泣塔」に向かって進む。この付近には、寺の如き大きな屋敷、民家がところどころに。寺の如き屋根を持つ旧家が。ここの地名は「町屋」であり、昔は賑わった場所であったのだろう。そして、Iphonesによると「泣塔(なきとう)」に到着したはずが、それらしき物は見当たらず、こんもりとした竹藪はフェンスに囲まれていて立入禁止になっていた。深沢地域・梶原のJR東日本・旧大船工場跡地脇に建つ宝篋印塔・「泣塔」。「泣塔」(なきとう)とは、洲崎古戦場近くに建つ宝篋印塔。1356年(文和5年)の銘があり鎌倉市の有形文化財に指定されている。洲崎では、1333年(元弘3年)、新田義貞と赤橋守時の軍が激しい戦いを繰り広げられた。泣塔は、背後に「やぐら」もあることから、この戦いの戦死者の供養塔と考えられている。「かつて、泣塔は、手広の青蓮寺に移されたが、毎晩、すすり泣く声が聞こえたので元の場所に戻された」という伝承が残されていることから、「泣塔」と呼ばれるようになったという。この辺りの地名をとって「陣出の泣塔」と呼ばれている。これが見たかった「泣塔」なのであったが。 【http://blog.livedoor.jp/mamataro911/archives/1546175.html】より「泣塔」を後にし、数少ない後ろ髪を引かれながらモノレール方面に戻る。次に訪ねたのがモノレール下にあった「洲崎古戦場跡」碑👈リンク。元弘3年(13339)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めのおり、多摩川の分倍河原(ぶばいかわら)の戦いに敗れた北条軍は一気に退いて、この地に布陣した。新田軍の前面は掘口貞満軍、守は北条軍の将・赤橋守時。両軍がここで激突し、5月18日終日、戦いが続いた。一昼夜に65度に渡る切りあいがあり多数の戦死者がでて、始め、6万騎あった幕府軍は、新田軍の猛攻に会い、ついに300騎ほどになってしまった。幕府軍の赤橋守時は自害した のだと。「洲崎古戦場跡此ノ辺リ古ノ洲崎郷ニ属ス 元弘三年五月新田義貞鎌倉攻ノ折 ソノ武将堀口三郎貞満 大島讃岐守守之洲崎口ヨリ攻ム 鎌倉方ハ赤崎相模守 守時ヲ将トシテ邀撃シ 戦闘六十数度 遂ニ敗レ守時以下九十余人自刃シタル古戦場ナリ 」そしてモノレール下を「湘南深沢駅」方面に向って歩く。「富士塚小学校入口」交差点の路地を左に入り突き当たりを右に進んで行く。左手にあったのが「休場山 等覚寺」。鎌倉市梶原1-9-2「休場山 等覚寺」寺標と藁葺屋根の「山門」。この寺の山号は「休場山」、大相撲の力士には敷居が高い寺なのでは。「東覚寺(とうがくじ)」案内板。「東覚寺休場山弥勒院東覚寺と号し、高野山真言宗に属す。開山は秀恵僧都で応永年間(1394-1428)の創建という。本尊は不動明王、また出世子育地蔵尊を安置す。訓蒙学舎(深沢小学校の前身)創設の地なり」「等覚寺六地蔵」。左から4番目は、文化6年(1809年)11月吉日、念佛講中と読める。「水子地蔵尊」。「大師堂の弘法大師(石像)」。「延命地蔵尊」。「本堂」。扁額「休場山 等覚院」。「本堂内陣」。「弘法大師御入定千百五十年御遠忌供養塔」。「本堂」前の石灯籠。「北條一族 供養塔」。洲崎古戦場跡から出土した戦死者の供養塔。1333年(元弘3年)、新田義貞軍と赤橋守時軍は激戦を繰り返し、守時軍は敗れ90人以上が自刃したという。そして次に訪ねたのが「東覚寺」と小山の反対側にある「大慶寺」。「山門」前に「開山 大休正念禅師」碑と「関東十刹 大慶寺」寺標。臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山。鎌倉市寺分1-5-8。「山門」。「本堂」。創建は文永6年(1269年)〜弘安2年(1279年)とされ、開基は永井光録、開山は大休正念(仏源禅師)であり、至徳3年(1386年)に関東十刹に列せられた。地名の寺分は大慶寺の寺域で大慶寺分と言われていた。指月軒、覚華庵、天台庵、大東庵、方外庵など塔頭が五つもある大きなお寺であったが、永禄4年(1562年)上杉謙信が鎌倉八幡宮参拝の折の戦火により灰燼に帰し、昭和19年(1944年)に残っていた方外庵が大慶寺と改称し、復興したのが現在の大慶寺である。平成2年(1990年)から檀家を受け入れるようになり、樹齢700年を越えるといわれる天然記念物のビャクシンの老木2株の裏にお墓を造成して檀徒希望者に分譲している。最近、本堂を改築し、広い駐車場の前に山門も移築して屋根の萱が葺き替えられた。「本堂内陣」。「寺務所」。境内の「宝篋印塔」が2基。「宝篋印塔」の両脇に樹齢700年以上と言われるビャクシンの木。「本堂」裏の墓地の奥の「やぐら」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「山崎跨線橋」を渡り最初に訪ねたのが「妙法寺」。「本堂」妙法寺は、山梨県にあった寺で、関東大震災により廃寺となっていたのを、1928年(昭和3年)、日宝が鎌倉に再建した寺。宗派:日蓮宗。 山号寺号:宝珠山妙法寺。 創建:昭和三年(1928)。 開山:日宝。 本尊:大曼荼羅掛軸。 寺宝:本尊、木造日蓮上人坐像、木造鬼子母神像他。「妙法寺」、「南無妙法蓮華経」と開基の「中興 耀光院日寶上人」と刻まれた石碑。「地蔵堂」地蔵堂には、動物供養のために作られた猫や牛の石像もみられる。2人の上人像。「耀光院日寶上人之像」「當山中興 耀光院日寶上人之像」と刻まれた石碑。「二世 妙龍院日光法尼の像」。「當山中興 二世 妙龍院日光法尼の像」と刻まれた石碑。境内に石碑が並ぶ。右に「馬頭観音」、中央に「北条秀頼神社」、左に「山門并石段」と。寺院に神社の碑があるのは、かつての神仏一体の名残か?「北條秀頼神社」碑。「山門并石段」碑。境内の片隅、本堂の右手に七面天女が祀られた「七面堂」があった。「七面堂」の前には、「妙法庚申神社」と刻まれた小さな石碑が立っていた。この石碑は、寺を建てるとき地中から出現したものだと。「庚申ノ霊感告テ曰ク當山北方地下數尺六百三十年ヲ経タル我ガ神體アリ速ニ出シ法華勧請セヨ即チ守護法益ヲ得マシミ惣法其地ニハ此ノ神體出タリ依テ此處?ニ謹ミテ勧請ス維時昭和九年九月十日 寳珠山 龍敬誌 感得主 ???」と刻まれていた。そして「妙法寺」を後にし、進むと変形4差路にあったのが「庚申塔」。ここも古くからの辻で、山崎村への入口部分だったようだ。左の「角柱型庚申塔」には「大正九庚申年十月」(1920)、「深澤村山崎」と刻まれていた。その隣の「駒型 庚申塚 三猿」には「山崎村/講中」、「文政五壬午年十一月十五日」(1822)と。その横に「駒型 青面金剛立像 三猿」、文字は判読出来なかった。一番右に「折損塔 青面金剛立像 邪鬼 三猿 二鶏」、「山崎村」、「宝暦六年/子十一月」(1756)とそれぞれ刻まれていた。次に訪れたのが「天神山城」。案内板等が無く・・・。この先で行き止まりで、何も発見できなかったが・・・?今、考えてみると、この先の山が「天神山」であり、この「天神山」が「天神山城」跡なのであろう。そして「庚申塔」の路地を右に曲がり先に進むと右手奥に石段が見えた。「ここは北野神社」の案内板。石段の先に「北野神社」の石鳥居が見えた。この地図を見て?、今回は「北野神社」は訪ねなかった。「北野神社」をネットより。北野神社は、山崎天神とも呼ばれ、暦応年間(1338-1341)、夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝えられ、鎮座する山は「天神山」と呼ばれている。その後、1362年(貞治元年)、円覚寺塔頭黄梅院主によって再建され、村の鎮守となった。江戸時代には「洲崎神社」とも呼ばれていたという。(洲崎は現在の寺分・梶原・山崎・上町屋の古称。)夢窓疎石は北野神社とともに宝積寺も建立。本地仏として十一面観音像が安置されていたというが、明治の神仏分離によって昌清院に移された(円覚寺塔頭如意庵末寺)。祭神は菅原道真(すがわらのみちざね)、素戔嗚命(すさのおのみこと)。 【https://www.yoritomo-japan.com/page140kitanojinjya.htm】よりそしてさらに進み「山崎」交差点で湘南モノレールの下をくぐり、直進する。鎌倉市山崎の住宅街を進む。右側の林の手前の路地に石碑が。「従是えのし満」と刻まれた「江の島への道標」。「文化八年(1811)未年五月」とも。「山崎集会場」の角を右折し、坂道を更に上って行く。この集会場の場所には「十王堂」があった模様。右手にあったのが「昌清院」。門が閉まっていたため境内には入れなかった。昌清院の山号は「山崎山」。以前は「長崎山」あるいは「諏訪山」などと号していたが、近年に改められたのだと。残念ながら山門入口は閉まっており境内には入れなかった。よってこれも「本堂」の姿をネットから。山崎の昌清院は、円覚寺塔頭如意庵の末寺。本尊は釈迦如来。開山は如意庵八世の以足徳満(いそくとくまん)といわれている。その一方で、昌清院に伝わる如意庵開山の無礙妙謙(むげみょうけん)坐像の胎内銘に「当院開山」と記されているという。北野神社(山崎天神社)に、本地仏として祀られていた春日の作と伝えられる「十一面観音像」は、昌清院に安置されている。他に「地蔵菩薩像」、「十王像」、「倶生神像」、「奪衣婆像」を安置。これらの像は、近くにあった十王堂に安置されていたものと考えられている(現在の「山崎の集会所」がある所に十王堂があったという。)。「本尊釈迦如来坐像」は1775年(安永4年)の作、「奪衣婆像」は室町後期の作。 【https://4travel.jp/travelogue/11295765】より----------------------------------------------------------------------------------------------そしてこの寺は高校時代の学友のN氏が不慮の事故で20歳の若さで亡くなり、この寺の墓地に埋葬されている事を、これも学友のM氏がこのブログを見て教えてくれたのであった。そして2020年7月26日(日)に同じく学友のO氏との3人でお墓参りに再び訪ねたのであった。何と亡くなってから丁度50年目になるのであった。何度かお墓参りに訪ねたことのあるM氏が脇の潜戸から境内へ。そして階段上に本堂が。そして「本堂」。豪雨の合間に3人でお墓参り。そして、献花用の花束のビニールを境内の焼却炉に捨てに行くと、大声で戻って来たのであった。焼却炉の中に蜂の大群が入ると。私が行って、焼却炉の蓋を開けると日本ミツバチが巣を作っていたのであった。箱があれば、持ち帰りたかったが・・・・寺の住職が飼っている可能性もありやむなく諦めたのであった。そして境内の墓石、歴代の住職の墓であろうか?------------------------------------------------------------------------------------------そして少し来た道を戻り左折して、更に急坂を上る。正面に中央に手摺のある急な階段が現れた。なんと手摺の上部は給水栓?になっていた。鎌倉市寺分2丁目29にある「富士塚公園」に到着しベンチで暫しの休憩。「富士塚公園」。この場所を訪れたのは、「富士講」の遺跡に興味を持つ高校時代の飲み友にその写真を撮ってきて欲しいと以前に頼まれていたからなのであった。正面の石段がこの山の山頂への入口。この左側の階段を上って行ったが、直ぐに山道がなくなっていたのであった。一面、雑草や小木に覆われて、獣道さえ確認できなかった。ここを上っていくのは危険と判断し、やむなく引き返したのであった。ただし、ここは4、5年前にも訪れた事があるのであった。その時は山道がそれなりに管理され上っていくことが出来たのでその時の写真を。富士講の石碑(天保12年(1841年)銘)。洲崎富士塚山頂の石仏。嘉永2年(1849年)銘。これは釈迦石仏で、台座には世話人や富士講中の人の名が記されているという。帰路に湘南モノレール、その先の三菱電機㈱鎌倉製作所を見る。藤沢方面を見る。藤沢市役所新庁舎手前のNTTビルの塔(右)とそしてNTTコミュニケーションのアンテナ塔(左)をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.04
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我が趣味の養蜂場に咲く「アーティチョーク(Artichoke)」の花が満開になっています。キク科チョウセンアザミ属の多年草。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。ヨーロッパでは若いつぼみを食用とする(花菜類)とのことですが・・・・。地中海沿岸原産とのこと。多くの我がミツバチがこの花を訪れ、花の中に潜り込んでいます。最初は、花粉を求めてやって来ているのかと思いましたが、ミツバチの脚には花粉球はなく蜜(ミツ)を求めて訪花しているようです。しかし、日本はもちろん、ヨーロッパ等でも「アーティチョークのハチミツ」をこの眼で見たことがありません。どなたか、見た、食べたことのある方は書き込みをお願いいたします。-------------------------------------------------------------------------------------------------【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「諏訪神社」の次に訪ねたのが「龍宝寺(りゅうほうじ)」。玉縄城二代目城主北条綱成によって1503年に開かれた曹洞宗の寺。藁葺き屋根の「山門」に向かって進む。「山門」は元禄時代の建築とのこと。「龍宝寺」案内板。●宗派 漕洞宗●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺●建立 16世紀中頃●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)●開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」「境内案内図」。 【http://www.kcn-net.org/kokenchiku/ryuhoji/ryuhoji.html】より「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏開山 泰絮宗栄大和尚開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実山門 江戸時代元禄年間造鐘楼堂 設計 大岡 実面山瑞方禅師の銘文記す一、玉縄北条氏の供養塔一、新井白石公の碑一、金比羅宮一、子育地蔵尊堂一、福徳稲荷堂(天保年間造)一、弁天堂一、道祖神一、玉縄ふるさと館一、旧石井家住宅(国重要文化財) 歴史民俗資料館(鎌倉市指定)「山門」の扁額は「陽谷山」。「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」寺標。境内の左手にあり宗教法人 龍寳寺が経営している幼稚園が。「玉縄幼稚園 にゅうえんしき」と。新型コロナウィルスの影響で式典が延びているのであろう。「玉縄ふるさと館」が右手に。もともとは『玉縄民俗資料館』という名称であったが収蔵品の劣化と共に来館者も激減していた様で、2013年3月に国指定重要文化財である旧石井家住宅と併せ、「玉縄ふるさと館」としてリニューアルオープンしたのだと。右にあった「子育地蔵堂」。「子育地蔵尊」。團野功雄の歌碑。「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國 功雄」。裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐 團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。旧石井家住宅(重文)。元禄期に建てられた農家(名主)。境内の「芍薬園」。隣でショウブの花が開花中。芍薬が開花するとみごとに。 【https://tuesgenial.exblog.jp/18030589/】より参道の小さな社は「金比羅宮」。境内は広く、やや左にゆるく曲がるように参道が続き、一段高いところに堂々とした「龍寶寺」の「本堂」が立っていた。「本堂」。龍宝寺は火災により山門と鐘楼以外を全焼しているのだと。現在の建物は石碑にあった通り、昭和34年(1959)に大岡実の設計により再建された物「本堂」の扁額は「龍寶寺」。「本堂内陣」。 中央にご本尊の釈迦如来、両脇に文殊菩薩、普賢菩薩が祀られているのだと。「玉縄北条氏供養塔」。「玉縄北条氏供養塔永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に移設しました。この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。「本堂」前から広い境内を見る。「龍寶寺」を後にし、県道402号線を大船フラワーセンター方面い進むと正面にトンネルが現れた。神奈川県道402号 阿久和鎌倉線にある「龍寶寺トンネル」。延長: 52m 竣工:昭和45年(1970年)。そして「龍寶寺トンネル」を潜り50m程の路地を左折して、300mほど進むと左手にあったのが「玉泉寺」。「真言宗 聖天山 歓喜院 玉泉寺」の「本堂」。「玉泉寺」は、江戸時代に小林若狭という人物が建立した。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるという。秘仏本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされている。願行は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られている と。「本堂」の扁額。境内の稲荷社。「 修行大師像( 弘法大師空海)」「本堂」裏の墓地。「六地蔵尊」。「武将のお墓」寺院の裏のやぐらには、小林若狭の父とその家臣一族数十名が葬られていた。布袋様に似ているが・・・。地蔵様の首がなく、抱えているように見えたが・・・。そして再び県道402号線に戻り、東海道線の方向に歩を進める。右手にあったのが「日比谷花壇大船フラワーセンター」。閉園中であると思っていたが、開園している様子。帰宅して調べてみると、この日から再開園したのであった。「山崎跨線橋北」交差点。宙に浮いている?信号が中央に。「日比谷花壇 大船フラワーセンター」案内板。「山崎跨線橋」を渡る。下を流れる川は「柏尾川」。「柏尾川」そして「JR東海道本線」に架かる「山崎跨線橋」。前方、左側にあったのが「鎌倉市 山崎浄化センター」とその先に「鎌倉武道館」。焼却棟の壁には静の舞と流鏑馬の武将が描かれていた。東海道線、横須賀線の線路が。出発を待つ成田エクスプレス(NEX)の姿も。そして「山崎跨線橋南」交差点まで進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「貞宗寺」を後にし、県道302号線に再び戻り、先ほど訪ねた「久成寺」方面に歩を進め、ファミリーマートの先を右に曲がり、緩やかな坂道を上って「玉縄城址」方面に向かって行った。神奈中「陣屋坂(じんやさか)」バス停前を通過。玉縄城が廃城(1619年) になった後に玉縄領を預かった松平正綱が、この辺りに陣屋を構えたから「陣屋坂」の地名が出来たという。1698年(元禄十一年)正綱の作った陣屋は廃止されたのだと。左手にあった「陣屋坂公園」の先で「陣屋坂」は大きく左(西)にカーブ。更にしばらく上って行くとT字路がありその近くの高台のフェンス越しに朱の鳥居が見えた。「相模陣稲荷神社」。「相模陣」という地名も、玉縄城の南側を守るための陣屋があったため付けられた名称と考えられている。1619年(元和5年)、松平正綱が陣屋を造ったといわれている。「相模陣稲荷神社」は、陣屋坂を上りきる手前にあった。この「陣屋坂」は、「七曲坂」と「ふあん坂」の間にある坂。「ふあん坂」は、玉縄城から久成寺へと下る急坂で、玉縄城の防禦にとって重要な役割を果たした坂。階段を上がり「社殿」へ。「社殿」前には、「正一位稲荷大明神」と書かれた幟が対で。そして筍が奉納されていた。そして更に「陣屋坂」を上って行くとT字路に到着。右手に進むと「七曲坂」そして「玉縄城跡周辺」にとの案内。玉縄城方面に向って更に住宅街を進む。大手門跡、現在の清泉女学院の裏門(?)である。玉縄城の本丸があった場所は、現在は清泉女学院という中学・高等学校の敷地になっているのだ。学校の正門側にも遺構が残っているようだが、立入禁止表示板そしてゲートが設置されていて学院の許可が無いと立ち入れないのようであった。「玉縄城址」案内板。玉縄城は永正九年(1512)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれた城です。城が築かれた場所は古くは鎌倉街道、後に東海道と鎌倉を結ぶ中継地点という交通の要所にありました。北は大面川、西に滝ノ川(旧柄沢川)、東から南にかけては柏尾川があり、水運と同時に天然の水堀の役目も果たしていました。城主は初代氏時、二代為昌と北条本家から輩出された後に、本家が最も頼りにしていた武将である綱成が継ぎ三代となり、さらに氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続きました。これら名君揃いの城主が守った玉縄城は、その堅固さから一度も攻め落とされることはなかったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、徳川家康軍の説得に応じて開城しました。その後、徳川方の城になって、元和元年の一国一城令により、元和五年(1619)廃城となりました。」道路の左上、たちいりきんしの先には、清泉女学院中学高校のグランドがあるようであった。「植木1号市民緑地」案内板。「16世紀の玉縄城想像図」。「玉縄城は、永正9(1512)年。伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。当時をしのぶ地形は、七曲坂、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。玉縄城主として特に有名なのは不敗の名将。黄八幡の北条綱成です。その一門は玉縄衆と呼ばれ、鎌倉を守る役割を負っていました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、元和5(1619)年に廃城となりました。」舗装道路が終わり、細い山道状の石段を下って行くのであった。陣屋坂の上のT字路の一角の、民家の横の小さな空間の草叢の中に、ここが玉縄城址であることを伝える石碑があった。、陣屋坂に面した側から小さな階段を登ったところ。「玉縄城址」「玉縄城ハ永正九年十月北條早雲ノ築クトコロタリ 大永享禄ノコロハ北條氏時之ニ居リ 天文初年ヨリ一族北條綱成居城ス 天正十八年小田原北條滅亡ノ際城主氏勝降伏シ後城ハ徳川氏ノ有トナリ 程ナク廃城トナリシモノナリ」。【玉縄城は1512年10月に北条早雲(そううん)が築きました。1521年頃から1542年頃までは北条氏時(うじとき)がこの城主であり、1542年からは一族北条綱成(つなしげ)が城主になりました。1590年に小田原の北条氏が亡んだ時、城主の氏勝は降伏し、城は徳川氏のものとなりました。その後ほどなく、城は廃止されました】しばらくはひたすら階段が続いていた。山の斜面にはヤマユリが咲いていた。最近は、自然のヤマユリはあまり見かけることが、少なくなってしまったのだ。坂の途中には七曲の防衛の拠点である武者だまりの広場が存在し、休憩スペースとなっていた。「七曲坂武者だまり址鎌倉街道中之道や江戸湾(現在の東京湾)から攻め上ってきた敵から玉縄城の中心部を守る武者たちが防御の拠点にした平場でした。武田や上杉あるいは里見や徳川の軍勢も攻め込めなかった玉縄城の堅い守りの一つです。」玉縄城址 歴史の道「七曲坂」。「玉縄城緑地ボランティア活動日のご案内」。そして「七曲坂」の出口(入口)にあった冠木門を潜り振り返る。「鎌倉・玉縄城を偲ぶコースマップ」。そして更に下って行くと左側にあった丸い建物は「認定こども園 鎌倉みどりこども園」。更に下っていくと右手にあったのが「玉縄城長屋門」。現在地元の方の民家・小坂邸の一角に位置し、私有物となっているようで、中に立ち入ることは出来ないようであった。この長屋門の辺りは、玉縄番匠跡で城郭や寺社の大工集団が集まっていた場所であると。長屋門に近づいて。県道402号線に出て左折して進むと、前方が「諏訪神社前」交差点。「諏訪神社前交差点」を渡り少し進むと右手奥に諏訪神社の銅製の鳥居が迎えてくれた。鳥居の扁額には「諏訪・御霊両太神」と書かれていた。「社務所」が左手に。境内石段登り口の「由緒」と書かれた石碑。「由 緒この神社は、今からおよそ四百二十年前当時の玉縄城主 北条綱成公が、軍神の称ある信州諏訪の建御名方冨命・八 坂刀売命二座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと伝えられている。その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経 て現在のこの位置に移された。この時すでに鎌倉権五郎景 政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と合祀され村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内 安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行なわれている。ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であ ったが、天正十五年七十三才で没した。公一門の墓は社殿 脇の山頂にある。」「社殿」。「大船町」と「玉縄村」の「合併記念」の奉納額が「社殿」に掲げられていた。昭和8年(1933)玉縄村は大船町に編入、そしてその後、昭和23年(1948)大船町は鎌倉市に編入されているのであった。「諏訪 ・御霊 両大神」と書かれた扁額。諏訪神社の祭神はもちろん建御名方神(たけみなかたのかみ)、もしかすると 妃神・八坂刀売神(やさかとめのかみ)を合祀。御霊神社の祭神は鎌倉権五郎景政。そして「社殿」の向かいにあったのが「舞殿」。「舞殿」に腰掛けてしばしの水分補給の休憩とオニギリを1個、補給したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.02
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク渡内地区と村岡地区の境の道を東に進むと前方左側に鬱蒼とした林が現れた。ここを更に進むと左手に「二伝寺」の境内への入口があった。「二伝寺」脇門から境内に。藤沢市渡内三丁目13番1号。「二伝寺」の「本堂」。二伝寺は、1505年(永正2年)、玉縄城の初代北条氏時の発願によって、鎌倉光明寺第九世正空によって開かれた浄土宗の寺。扁額は山号の「戒法山」。「戒法山宝国院二傅寺」。当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にあたっては、福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。開山当時、寺号は違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる本山伝の伝書か紛失した時に、当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)かあったので二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。松平正次一族の墓玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。その後、玉縄城は廃城となりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。平 良文(村岡五郎良文)桓武天皇の四代あと、平高望の五男、東下りして村岡城に居を構え、村岡五郎と称しました。後に鎮守将軍に任ぜられ、坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に、初代平良文 二代忠光 三代忠通の塚があります。幡随意自道上人善行 松本家の出身で、当寺範誉義順のもと出家した浄土宗の高僧、京都百万遍知恩寺三十三世の後、神田に新知恩寺幡随院を開山しています。晩年には徳川家康の命を受け、キリシタン改宗の為、北九州地方に向い教化をしました。開山した寺三十三ヶ寺弟子三十五名を教え、伝法においても幡随意流伝法をまとめています。墓地の入口・左にあったのが「松平正次一族の墓」向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造聖観音坐像木造寄木造り、玉眼。身部の金泥と衣部の漆箔、及び両手足は後補。像高49.5cm 総高68.2cm。左手に蓮華を持つ通常相。作風は鎌倉期以来の慶派的特長が濃厚であり、相好は繊細かつ上品に引き締まり、尊体の抑揚も程よく、また衣文表現も巧みである。構造や材質(木および漆)も近世以降のものではなく、金箔を再塗装したが像の持つ整って上品な雰囲気と時代の特徴は失っていない。以上から鎌倉末期、14世紀の造立を推定する。なお、本尊を安置する戒法山宝国院ニ伝寺は鎌倉群三十三観音の三十二番札所である。」「本堂」横の墓地。アジサイも美しく。「本堂」裏の竹林と墓地。村岡歴代城主墓案内を漸く見つける。村岡城主であった良文、忠光、忠通の三代の墓が紹介されていた。「村岡五郎平良文公墓前碑」。「村岡五郎平良文公墓前碑良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)天慶二年(九百三十九年)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥) の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。」「良文公 塚」「忠光公 塚」「忠通公 塚」そしてこちらが山門への参道。「山門」。「浄土宗 二伝寺」寺標。ここにも「戒法山 宝国院 二傅寺当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にたぞは福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、玉蝿城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと伝えられます。開山当時、寺号は違うものでしたが、大本光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ぼれるようになったと伝えられています。」そして「二伝寺」を後にし、狭い坂道を下っていくと藤沢市から鎌倉市に入り県道302号線に出た。その向かいにあったのが「光圓山久成寺(くじょうじ」。鎌倉市植木494。「光圓山久成寺」寺標。「山門」。「日蓮立像」山門を潜るとすぐの所に日蓮立像が置かれていた。この寺の日蓮は若々しくて雄々しい姿をしていた。鎌倉の日蓮宗の寺には日蓮立像がいくつかあるが,それぞれ違った姿,形をしているのが面白い。久成寺は勿論日蓮宗.山号は光円山.徳川家康が小田原城攻めのときにここで祈祷したとのこと。「松平甚之助新兵衛内室の墓」「松平甚之助新兵衛内室の墓天正十八年(一五九〇)四月玉縄城が落城した後、徳川家康はこの地玉縄領を代官松平甚右衛門正次におさめさせた、その居蹟は今の植木「陣屋Lにあると伝えられるその子松平甚之助新兵衛(駿河大納言忠長卿に仕えた人)の内室妙秋院日種の霊とその一族の祖霊を供養のため後裔にあたる松平甚之助久勝が元禄七Z成年五月朔日ここに墓を建てたものである。」「本堂」。光円山久成寺は、永正17年(1520)に日蓮宗の熱心な信者であったといわれる後北条氏の家臣・梅田尾張守秀長が宅地を寄進して日瞬を開山に迎えて建立したといわれる日蓮宗の寺院です。 小田原の陣に出陣中の徳川家康公が久成寺に立ち寄り、四代住職日顗上人の祈祷の恩賞として三石を与えたといわれている。 その後、鷹狩りの折立ち寄った際、日顗が柚子を献上し、家康公からは「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたという。 この弁当箱は行厨(こうちゅう)あるいは破子(わりご)と称し、久成寺の寺宝となっています。「本堂」の扁額「???」。これも高校時代の友人から「𨾏凰閣」ではないかと。「本堂」を斜めから。「不動明王」碑。歴代上人(日舜、日慈、日康上人)の墓か?上杉謙信公祖「長尾新六、定景一族の墓」。長尾定景は源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物で、上杉謙信の先祖とも言われています。境内の坂道脇に咲いていた「常盤露草(ときわつゆくさ)」三角形の可憐な小さな白い花。 雄しべは6本あり、毛が生えていた。そしてしばらく藤沢市を超えて鎌倉市植木の散策を続ける。次に訪ねたのが「圓光寺」。鎌倉市植木549。「真言宗 城護山 圓光寺」。「本堂」。永禄年間(1558~1570年)に玉縄城主北条氏時が澄範を招いて玉縄城内に創建された。その後、玉縄城が廃城になると現在の地に移されている。開山 澄範開基 北条氏時本尊 不動明王扁額「圓光寺」。「薬師堂」。薬師堂には行基作と伝わる薬師如来像、十二神将像が祀られているが、60年に1度開帳される秘仏。「無縁佛塔」。ズームで。「無縁塔」碑。「圓光寺」を後にして、次に向かったのが「貞宗寺」。鎌倉市植木656。境内?の池には鯉が。次に訪ねたのが「玉縄山 珠光院 貞宗寺」。「貞宗寺」(浄土宗)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の祖母貞宗院の隠居地に建つ寺。大奥で御年寄役を勤めた貞宗院は、晩年この地に屋敷を構え、貞宗院死後、その遺言により「貞宗寺」が建てられた。創建は1611年(慶長16年)と伝えられている。開山は、貞宗院が生前帰依していた大長寺の暁誉源栄。大棟には徳川家の紋である「三葉葵」が入っており、徳川歴代将軍の位牌も安置されている。貞宗寺の寺小屋は、現在の玉縄小学校の前身となった(明治6年の学制によって「玉縄学校」が置かれていた。のちに龍寳寺に移転)。開山 暁誉源栄開基 貞宗院本尊 阿弥陀三尊お寺の方が「本堂」を開けてくださいました。大奥で御年寄役であった貞宗院死後、その遺言により貞宗寺が建てられたのだ。徳川家の紋である「三葉葵」が。徳川歴代将軍の位牌も安置されているのだと。こちらは「事務所」であろうか?「地蔵堂」。「地蔵堂」には小石が積み上げられていて、編笠、わらじ、草履が奉納されていた。よく見ると青面金剛像と如意輪観音像。きっと昔は石のお地蔵様もここにいて、人々の願いを聞いていたのだろう。「御霊屋」。貞宗院の墓といわれる宝篋印塔が安置されていると。扁額「御霊屋」。「御霊屋」の先、高いところにあったのが「極楽廟」。「永代供養墓 極楽廟」案内板」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.01
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク村岡城址公園に向けて村岡東二丁目の住宅街を北上する。村岡は起伏が激しく、坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと伝えられる。約一千年前の940年(天慶3)、村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は、平氏の守護神である御霊(ごりょう)神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文の居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ、当時関東、東北の政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には藤沢宿の定助郷(じょうすけごう)を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは、宮前(みやまえ)、小塚(こつか)、弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)、渡内(わたうち)を指す。宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前によるものといわれている。明治21年の町村制施行により、川名(かわな)と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり、昭和16年藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち、山苺、山百合、野草が見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和41年3月、およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれたのだと。村岡一丁目と二丁目の境の角にあった「石塔群」。高谷大神宮の左側に位置し、数基の庚申供養塔があった。「村岡御堂」と呼ばれていると。この付近・村岡地区に散在していたものをこの場所に集めたのであろうか。様々な石仏が。弥陀堂は渡内村伝寺持ちであったが、廃仏毀釈により、高谷425に移設され、藤沢市の区画整理により移転したと。右側中央には石仏、太子像であろうか。「石塔群」の左横の狭い階段を上っていくと、ここにも「石塔群」が。青面金剛・三猿・庚申塔などいろいろと。「奉立願帝釈天王」の文字の下に三猿がほられている藤沢市指定文化財の庚申供養塔があった。寛文4年(1664年)の銘も。一番左側の庚申塔がそれ。次に訪ねたのが約100mほど先左手の路地の奥にあった「高谷大神宮」。藤沢市村岡東3丁目379。村岡東という地名はもとはなく、この辺周辺一体は高谷村で、「高谷大神宮」はその鎮守。東側は現在土地区画整理事業が進んでおり、かつての山がすっかり様変わりしてるようだが、ここは、木が生い茂り、急な石段があって、どこか地方の神社に来たかのような雰囲気が残っていたのだ。石鳥居の先に急な石段が。扁額には「大神宮」と。石段を上って行った。この石段は58段。「社殿」天慶三年(940)平良文(村岡五郎)が甥にあたる平将門を討つために京都の御霊神社(祭神は早良親王)から勧請し、後に祭神として鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王を加え五座とした。祭神は天照皇大神、慶安3年(1650年)の創立で、高谷地区の鎮守。「高谷大神宮祭神 天照大御神 創立 慶安三年(一六五〇年)当時高谷部落約十軒の農民が五穀豊穣と郷土の安穏を祈念し建立その後嘉永四年(一八五一年)改築 再度平成二年(一九九〇)年債権を計画平成五年(一九九三年)完成し現在に至る 例祭日は十一月十五日と定められているが農繁期のため九月十五日にかわり その後時代の推移により九月の第二日曜日となっている。」境内社「矢竹稲荷」。 鎌倉権五郎景政が戦いの時に目を射抜かれた矢を個々に埋めたところ枝葉が生えてきたという逸話に因んだ稲荷社。境内には相州村岡七福神の「大黒天」も祀られていた。「大黒天」の横には石の祠が二つ。「社殿」裏からの眺め。そして石段を降りて次に訪ねたのが「曹洞宗 長福寺」。右手に「涅槃堂・位牌堂」。お葬式をはじめ様々な行事に利用できる多目的ホール「涅槃堂」(1階)と、故人の永代供養を行う位牌堂(2階)。「長福寺」寺標。境内の石庭。石庭の中にある墓地への石段の横には「不動明王」。ズームで。この丘は?塚の如くであったが。長福寺の本堂。禅宗らしい、質素で趣のある堂宇。ご本尊は釈迦如来。次に「村岡城址公園」を訪ねた。「村岡歴史の道 ⑨村岡城址」。「村岡城址公園」。村岡城址公園は、村岡地区の中でも小高い丘にあった。公園は二段になっており、西の高台に忠魂碑、村岡城址碑、三日月井跡碑が建てられている。村岡城は平将門の叔父である平良文(村岡五郎)の居城と伝わっています。その後も村岡氏の居城として維持され、新田義貞の鎌倉攻めなどでは戦場となったようですが詳細は不明です。戦国時代は北条氏が玉縄城を守備する「高谷砦」として利用されたと考えられており、北条氏滅亡とともに廃されたようです。現在は「村岡城址公園」として整備されており、遺構はありませんが、城址碑と案内板が建てられていた。「文化財ハイキングコース案内板」。「村岡の歴史と文化財村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました。やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村(柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚、宮前、川名)は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぶための人や馬を提供することを義務づけられました。明治時代|こなって助郷制度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は、武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり変っているようですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居城跡といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の長屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」「忠魂碑」。昭和3年11月10日に日清・日露戦争の戦死者4柱を合祀して建立された。終戦後埋没されていたが、戦後の昭和46年3月大東亜戦争の戦病死者を併せ祀り再建されたと。碑正面:「忠魂碑 陸軍大将一戸兵衛書」裏面:「昭和三年十一月十日建之」「村岡城址」碑。「額 元帥伯爵東郷平八郎書村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り昔従五位下村岡五郎平良文公及びその後裔五代の居城なり蓋しその築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ多くの荘園を有し威を関東に振るひたり天慶の乱起るに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族澁谷庄司重國あり其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城祉を史蹟として縣廳より指定せらるる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人會の賛助を得城址に碑を建て以て後昆に傳ふと云爾 海軍中将東郷吉太郎撰書 昭和七年十月三日」城址碑脇の「三日月井跡」。裏面には「ここより東百五十㍍の処に三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で眼を洗いに多くの人が訪れたようです。」「顕彰碑石井政次郎村長は清廉潔白、意思強固でしかも人格は円満で村民の信望も厚かった。大正三年三月から昭和十六年二月五日、六十歳でなくなられるまでの間多年にわたり村長として村の政を任されておりました。当時、柏尾川が毎年氾濫して村岡耕地の大部分が浸水し、農作物の被害は甚大であった。この点に意を注がれ、県関係者等の協力を得て自ら工事を請負い、村民の協力によって改修され、今日の柏尾川の姿となりました。特に柏尾川の川底は岩盤が多く、それを掘削する工事を宮前の石工、林 藤吉氏(現林石材産業(株)林一郎の祖父)に依頼し、その大部分は奉仕で行われた。又、小学校の増築、校庭の拡張をはじめ村役場の新築、村道の新設改修を行い、今日の村岡地区の基礎をつくられたその功績多大なものがあります。その後、昭和十六年藤沢市と合併し、戦後は企業誘致等により村岡の様相は大変革を遂げていますが、石井政治郎村長の当時の功績をしのび、後世にその偉業を語り伝えるべく碑又建てた次第です。」「蒼穹(そうきゅう)の碑」。裏面には村岡の略歴と土地区画整理組合のことが記されていた。側面には、石は語らず 蒼窮の丘山なみ続く鎌倉の景悠久の天地 幾星霜江戸城に数百年今 村岡城に座す「蒼穹」とは青空、大空のこと。この「蒼穹」の文字を刻んだ石は江戸城から持ってきたのか?公園の遊具は新型コロナ禍の影響で使用禁止になっていた。「村岡ふるさとマップ」。◯が現在地の「村岡城址」。「村岡城址」を後にし進むと左手にあったのが「陸軍砲兵 一等卒勲八等 福原佐太郎之碑」。 明治三十七、八年戰役=日露戦争において亡くなられた方のようだ。村岡三丁目、四丁目の境の道を北上して行った。そして渡内「日枝神社(ひえじんじゃ)」を訪ねた。藤沢市渡内3丁目8−10。村岡東地区から再び渡内地域に戻ったのであった。「村岡歴史の道 ⑪日枝神社」。「8基の石仏・石塔」が階段下に並んでいた。庚申塔、石塔、石仏。天和2年(1682年)と本社覆殿再建前後の頃の文政4年(1821年)から文政10年(1827年)頃の石仏。この中に文政4年(1821)と文政10年(1827)の双体道祖神2基が。(5番目と8番目)左手は青面金剛像で道標を兼ねており 「左かま具ら道 右 観世音道」 と刻まれていた。右手に三猿そして天和二年(一六八二)九月の文字が。「日枝神社の由来渡内の日枝神社は渡内の鎮守となっておりますが、発祥は裏山の台地宮山に平良文が京都より延長年間(九二三〜九四〇)宅の守護神として日吉山王大権現(大山咋命)を勧請したと伝えられています。その後応永二十七年(一四二〇)に福原家のご先祖、福原左衛門平忠次が現在地に移し、そのおり平良文の霊を合祀しました。尚、慶長十二年六月(一六〇七)福原孫十郎重種が再建する旨の棟札があります。社前の石段上り口に神鏡石燈籠があり、「村岡山王大権現御宝前石燈二基、平良文の遠縁村岡良綱、天保六年正月吉日(一八三五)建立」とあります。尚、現在の本社覆殿は、天保九年十一月(一八三八)福原家のご先祖、福原高峯が発願主となり、村の有志達によって再建されたものであります。その後、地域の開発が行われ、渡内東土地区画整理事業(平成十七〜二十一年)によって周辺の環境の変化に伴い、土地の造成工事が行われ、合わせて神殿の増改築を行い、現在に至っております。」福原家は代々名主で、その長屋門が新林公園に移築保存されているのだと。古い祠も並んでいた。「右側の祠(ほこら)は渡内四丁目一番(県道小袋谷・藤沢線沿いの「渡内」バス停北側)辺りにあったもので、平成十年(一九九八)区画整理事業に伴い移設したものです中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に七〇メートルほど行ったところです。平成二十年(二〇〇八)区画整理事業に伴い移設したものです。左側の祠は壺井三社大権現で、現在地より北東に一四〇メートル程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。壺井三社大権現とは、源頼義・義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祭った祠のことをいいます。」渡内日枝神社「社殿」。御祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)村岡良文(むらおかよしふみ) [別名]平良文(たいらのよしふみ)。「稲荷社」。「弁財天」。「弁財天藤沢市の東部に位置する村岡地区(七地区)の歴史をたどると、古事記に縁があると言われます。由緒あるこの地域に平成八年暮れ、村岡郷土史研究会のお導きで、お寺や神社に七福神を祭って「和と幸せをもたらすように」との地域の人たちの願いを込めて、新たに七福神が各地区に設置されました。この渡内日枝神社に設置された弁財天は、インドの河の神「サラスヴァティ-」が起源とされています。この神は世界創造の際、言葉や音楽を作ったとされ、また中国に伝わり、人々に弁財を与え、天災を徐滅させる仏神に変わり、日本に伝わったと言われています。芸能、芸術、文学、学問の才能、金銀財宝授与にご利益があります。弁財天は、仏神として崇敬された女神であります。」常夜灯の如き祠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「天嶽院」を後にし、県道312号線を南下し、「弥勒寺高架下」交差点を右に曲がり進む。和食「華屋与兵衛」が角にある交差点を左折して進む。右手に美しいアジサイが。白のアジサイも。その先右手にあったのが「藤沢市立村岡中学校」の正門。その先を左折して進むと正面に目的の寺の山門の姿が見えて来た。「法善寺」山門。藤沢市弥勒寺2丁目4−24。「法善寺」寺標。日蓮宗の寺院。扁額は山号の「蓮教山」。「本堂」。北条時宗が開基し文永2年(1265年)に創建した。もとは、永谷山法泉寺という寺院であった。創建頃の宗旨は不明。永正5年(1508年)日勤が日蓮宗に改宗した。再び廃寺となっていたが、明暦3年(1657年)日善が再興したと。本堂の扁額は「法善寺」。境内を囲む山の裾には石窟が穿たれたやぐら内に「法善寺」代々の住職の墓石が並んでいた。近寄って。その横のやぐらにも墓石、石仏群が。「藤沢 樹木葬墓地」の案内板。樹木葬とは、墓石の代わりに樹木をシンボルとするお墓のこと。桜や紅葉、ハナミズキなどのシンボルツリーの周りに遺骨が埋葬されるのだと。そして「法善寺」を後にし、住宅街をしばらく南下していくと左手にあったのが「むらおか幼稚園」。その先に、東海道線を超えていく県道312号線の高架が姿を現した。高架上の歩道からこの場所に降りる階段歩道橋。そして進むと、左手にあったのが「弥勒寺」山門。山門より「弥勒寺」境内を見る。境内の梅の木には完熟の梅の実がたわわに。そして地面にも多くの梅の実が落ちて。右手に「芭蕉」の木?が。バショウの雄花。「弥勒寺」の「本堂」。藤沢市弥勒寺519番地。日蓮宗の寺院。嘉禄2年(1226年)北条泰時が開基し創建した。 正和4年(1315年)火災で焼失し、日善が弥勒如来を祀る弥勒堂を建てた。 天正元年(1573年)日祐が再興、日蓮宗に改宗したと。扁額は「弥勒寺」。別の株の雄花。「本堂」裏のやぐらにも小さな石仏が。そして再び高架に沿って北上して行くと右手にあったのが「荒神神社」。建武二年(1335年)に小塚五左衛門さんという人が創建、一族の守護神としそれ以来小塚地区の鎮守となったそうです。「荒神社」と書かれた扁額。境内には相州村岡七福神の布袋様が。裏から境内に入ったようで、こちらが参道入口の「荒神神社」の石鳥居。関東大震災の紀念碑。村岡歴史の道⑯「荒神神社」。そして小塚交差点を右折し進むと前方にあったのが高谷交差点。高谷交差点を左折すると、右手、ガスト 藤沢弥勒寺店の駐車場入口にあったのが「庚申供養塔」。「市指定重要文化財(有形民族文化財)寛文四年(一六六四)庚申供養塔庚申信仰についてこれは十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無痛・息災・長寿を願う信仰です。この源流は、人の体内にあって、人命にわざわいをおよぼす「三尸(さんし)」という虫の害をふせいで、長寿を願う道教の信仰にはじまっています。江戸時代、万治・寛文頃(一六五八〜一六七二年)には仏教を背景に広く庶民に伝わり「庚申講」ができ、庚申の夜、当番の家に集って飲食歓談したり、供養塔を建てるなどの行事が盛んになりました。現在、市内には三百数十基の庚申供養塔が確認されていますが、このうちの十五基が藤沢市の重要文化財に指定されています。この近世庶民の素朴な祈願・信仰の遺産である庚申塔をともども大切に保護し後世に伝えてゆきたいものです。」後ろに回ったが、文字等は確認できなかった。「昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高97.0㎝、火成岩製/銘文から、寛文4年(1664)村岡の講中12名による造立とわかります。下方を基礎様に造り出して全体的な安定感を工夫し、塔身中央に帝釈天造立の発願文と年記を刻んでいます。日蓮宗系の庚申供養塔は、この塔のように帝釈天の尊号を標識とした例も少なくありません。帝釈天と青面金剛との結合は、青面金剛が帝釈天の使者として仮の姿をとって現れるという考え方によるものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.29
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県道312号線沿いにある「天嶽院」手前の林の中に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」に向かう。「天嶽院」の手前の鐘楼方面への坂道を進んで行くと左手に墓地への階段を上り、墓地の左手奥に進むと山道の如き道があり、山頂に向かって進むことが出来た。山頂に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」。最近建て直したようであった。秋葉大権現は火の神様として敬われ、「火防守護」その他七難を除き、除災開運、家内安全、授福繁栄の神様でもある。「秋葉三尺坊大権現」の反対側、墓地の先にも小さな神社が。「秋葉三尺坊大権現」から戻ると天嶽院の「六地蔵尊」が。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいた。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵らくらく地蔵・ほかほか地蔵 と名前が刻まれていた。「温顔和楽」と刻まれた石碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。「天嶽院(てんがくいん)」配置案内図。天嶽院は藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は功徳山。「天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。 この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。」と「天嶽院」HPから。藤沢市藤沢市渡内1-1-1。 【パンフレット】より鐘楼への道の左手のこの石碑は??「継末生流之碑」ではないかと、くずし字に詳しい「先生」から。「出家◯真如」?先ほど、高校時代の友人から「幽鳥弄真如」である旨のLINE書き込みが。そして「古松談般若(こしょうはんにゃをだんず) 幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょを ろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。「鐘楼堂」。「庫裡」。「早雲閣」。「六地蔵尊」。「とっても とっても生える雑草 どっちも根気だ 負けないぞ」は我が農園作業も同じ。再び「鐘楼閣」。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある。緑のモミジ葉に覆われた「手水場」。「法堂」への参道。「不動尊」。近づいて。「不動殿」。「不動殿 内陣」。青の「不動明王」。「相生松(あいおいのまつ)」。相生松とは、雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと。「浄聖殿」が右手前方に。道元禅師の代表的な歌。「峰の色 渓の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」という御歌。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であると。「浄聖殿」。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。 【パンフレット】より「中雀門」。「中雀門」からの「法堂」。「法堂」 【パンフレット】より「法堂内陣」。 【パンフレット】より 「庫裡」。「掃除小僧」。「庫裡」玄関。「開山堂」。 【パンフレット】より「葛籠ヶ池と鶴夢楼」。 【パンフレット】より「中雀門」から参道を見る。趣のある見事な参道を「山門」に向かって歩く。深緑のトンネルと切石敷の参道。石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のように美しかった。藤沢にも京都の如き雰囲気が。木漏れ日が参道に射し込み。新緑のもみじの下で青々とした苔が美しかったのであった。陽光が苔を輝かせる。山門から境内の参道を見る。山門前から、仁王像の後ろ姿を。江戸中期建立の切妻造茅葺の「山門」は2段になって、瓦葺の袖塀を設けていた。水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた「山門」。「山門」前には阿形吽形の「仁王像」が露座し、仏敵の侵入を防いでいるのであった。石造りの阿行像。ズームで。吽行像。ズームで。「天嶽院」寺標。「見直し 手直し やり直し 思い直して 根気よく」。この我がブログも同じくありたい。山門右脇の高台に「聖観音」。ズームで。既に赤いモミジが美しかった。「聖観音」前から「山門」を見る。境内を出て山門を振り返る。この門柱に書かれている文字も、我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「百花至佛境 流水識禅心」ではないかと。心強い我がブログの「校閲」支援者が増えたのです。丘を登ると「湘南霊園」が広がっているとのことで上っていった。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。優しそうなお顔。「◯地蔵」と。村岡の街並み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.22
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク村岡消防出張所前交差点を進むと左手高台にあったのが「慈眼寺(じげんじ)」。「慈眼寺」参道階段下。「曹洞宗 慈眼寺」寺標。入口の「不動明王像」。参道の石段の上には「山門」が。階段下の像。小地蔵に迎えられて慈眼寺の参道脇の狭い石段を上る。可愛らしいお地蔵様たちが次々と。家に持ち帰りたいほどに可愛いのであった。そして「山門」前に。「山門」前の右手にあったのが「平 氏満の墓」。武士の様な名前だが、藤沢の旅籠の隠居で、千種集という和歌集を編み遊行上人に献上した人物。石塔には 「平氏満之墓」 とだけ刻まれていた。「平 氏満の墓坂戸町(現在の藤沢本町)の旅龍小松屋の隠居。歌名を旦上平氏満という。詩歌を好み、『我棲里』の著者でもある小川泰堂とも親交があり、嘉永元年(一八四八)の『藤沢山日鑑』(遊行寺の日記)には、『千種集』と題した千句の和歌を遊行上人に献上したことが記されている。『千種集』は天地二巻よりなり、遊行上人の返し歌も記されており現在も遊行寺什宝として宝物館に所蔵されている。没後は、海の見える場所に埋葬してほしいとのことから慈眼寺の高台の一隅に墓を設けたものであったが、昭和六二年(一九八七)からの区画整理により、この場所に移動したものである。」 その横にあったのは歌碑であろうか?慈眼寺「山門」。扁額「無量山」。山門柱左右に龍の彫り物。ズームで。混生樹(寄り木)。場所を変えて。藤沢市指定文化財(天然記念物)混生樹(寄り木)右が指定文化財で、モチノキ(モチノキ科)4株、タブノキ(クスノキ科)3株、スダジイ(ブナ科、シイノキのうち樹皮が縦に割れるもの)1株の三種類8株が根元でくっついて一部融合した寄り木です。樹齢は300年以上と推定され、高さは約10メートル、全体の根回りは7・5メートルにもなっている大変珍しい樹木です。左も同様にケヤキとサクラの混生樹で、輪状に植えられた苗木が成長していく過程でこのような形になったものと思われます。共にもとは本堂裏手の丘の上にありました。」根元にはこのような「願掛供養」碑が。慈眼寺「本堂」。向拝の彫刻も見事。見事な向拝の彫刻。本堂扁額「慈眼寺」。「本堂」の右手に小さな(といっても高さ1m)の「梵鐘」(右)が吊るされていたが、これは上州藤岡の住人が鋳造し江島寺(廃寺)に寄進したもの。明和8年(1771)、藤沢宿の住人がこれを買い受け慈眼寺に寄進したのだそうだ。「藤沢市指定重要文化財 十一面観音立像 平成元年十ニ月十五日指定 旧江島寺梵鐘 平成十年二月十二日指定曹洞宗・無量山慈眼寺は、天文二年(一五三三)の頃、玉縄三代城主北条左衛門大夫綱成が開創し、中興開山は韓嶺和尚と伝えらる。本尊の十一面観音立像(一七八・五㎝)は、寄木造で玉眼(水晶)をはめ込み、頭・体とも四材矧ぎ(板材を接ぎ合わす)を基本に造られている。太づくりな肉取りをみせる量感のある体部や、よく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作風から、十三世紀後半の造立とされる。十二年に一度、申年に開帳される秘仏である。平成三年(一九九一)に解体修復が行われた際に、像内より紙片が発見された。これにより、天正十一年(一五八三)に玉縄六代城主北条氏勝の弟直重と母の七曲殿が鎌倉大仏所快円に修復を依頼したこと、この寺院が慈眼山観福禅寺と号し鎌倉の円覚寺の塔頭天池庵に関係があったことなどが、新たに確認された。銅造梵鐘(総高一〇〇・五㎝、口径五四㎝)は、その陰刻銘によると寛永六年(一六二九)に上州藤岡(群馬県藤岡市)の住人が「現生安穏、後生善処」を祈願して鋳造し、当時江の島に所在したもので、追記の銘文によれば、その後、明和八年(一七七一)に藤沢宿大鋸の住人が江島寺より買い受けて、慈眼寺に寄進したものである。」古い梵鐘が寂しそうに雨ざらしになっていた。鐘楼が出来るのを待っているような何となく不思議な光景。寛永6年(1629)金亀山江之島寺(江ノ島神社)の梵鐘として鋳物師の酒巻庄五郎定勝により鋳造され、明和8年(1771)江之島寺の鐘が再鋳されたので江島寺より買い受けて、慈眼寺に寄進したものであると。総高100.5cm、口径54cm、身高80.3cm。「お腰さま 貼り仏」。病む所に貼って祈願すると治癒すると。寺務所も豪華。「ニ百観音霊場巡拝供養塔」。「ニ百観音霊場巡拝供養塔西国三十三所 坂東三十三所 秩父三十四所の百観音霊場を参拝し 加えて三浦三十三所 鎌倉郡三十三所 武州金澤三十四所の百観音霊場を参拝し無事に二百観音霊場の巡礼が成就しその巡拝で得た功徳をすべての人々に施すという思いで安政四年(一八五七)に建てられた「供養塔」です。江戸時代 遠方まで行くことのできないお年寄りや女性達がこの供養塔で.二百所の観音霊場を巡拝したと伝えられています。」山門と本堂を見る。そして「慈眼寺」を後にし、再び村岡消防出張所前交差点まで戻り、ここを左折。左手にあった「オリンピック 藤沢店」は開店前。そして反対側の高台には「藤が岡中学校」の姿が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県道302号線を進む。前方に柄沢橋交差点が。民家の庭の枇杷の木にはビワがたわわに。そして次に訪ねたのが「柄沢山 宗休庵 隆昌院(からさわさん しゅうきゅうあん りゅうしょういん)」。日蓮宗の寺、「南無妙法蓮華経」題目碑。「鬼子母神」碑。通称「柄沢の鬼子母神」と呼ばれている寺。鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっているのだ。「縁起」 柄沢山宗休庵 隆昌院 通称「柄沢の鬼子母神」 創立元禄十六年(西暦1703年)約303年前「開山」閑攝院相休日心上人 播州赤穂、城主浅野内匠頭の家臣奥田孫太夫の末子、君父菩提のため鎌倉に来たり、両山(鎌倉妙本寺、池上本門寺)二十四世日等の法弟となり比企永代千部大会を開闢し、その法勲により日等より鬼子母神像を賜り当地に当院を建立する。その後本堂が大破し、文久三年(1863年)今日の本堂を再建す。当山安置奉る子育厄除鬼子母神は日蓮上人が松葉谷草庵に中老日法上人に彫刻させ宗祖開眼の尊像と伝えられ、後に比企大学に与え、妙本寺に格護、両山六世日行に夢告あり、両山七世寿(稚児貫主)を現出させた由緒ある尊像といわれる。以後、現在に至るまで子供の守護神として子宝成就、安産成就、育成祈願、虫封じ、命名、厄除け等でご利益甚大にして信者参拝多し。病弱の子供が丈夫になり、長命を得た人々の孫を連れての参拝者多数あり。「水子供養地蔵尊」。「寺務所」。「本堂」への階段。「本堂」。扁額「隆昌院」。向拝柱の見事な彫刻。本堂内陣。本堂前の摩尼車(後生車)。「祈願回向 一回一誦(いっかいいちじゅ」。「摩尼とは、宝珠・如意・離垢と漢訳し、珠玉の総称で正法の功徳にたとえられます。正法のお経である法華経が書写された車輪型の経文石板に触れ、一回転させる事でお経を一回読誦(一回一誦)した事になります。更に心を込めて回すと、その回数のお経を読んだ事と同じ功徳がいただけるとされます。また、一心に合掌し誓いや願いを祈りながら摩尼車を回すと必ず祈願が叶うと信じられています。私たちの心の中にある仏心を目覚めさせその美しい心を清め、自己を生かすことができるよう摩尼車を回して御参詣下さい。」とネットより。「南無日蓮大士七百年紀念開山」碑。「隆昌院」を後にし、階段道を上って行く。柄沢地区を北に向かって進む。右手にあったのが「森坂稲荷大明神」。「森坂稲荷大明神」社号標。社殿の前、両側に1対の狐が鎮座。「巻物」をくわえていた。「巻物」は仏教の経典で神様からの言葉の意味があるのだと。「社殿」。「内陣」。そして次に訪ねたのが「柄澤神社(からさわじんじゃ)」角にあった「青面金剛像」の庚申塔。天保十年(1839)、「當村中」?の文字が。「柄澤神社」社号標。社号標横にも青面金剛碑群。駒形碑(左)と地神像・文政十三年(1830)(右)。駒形碑の下部には三猿が。左から八臀弁財天 (はっぴべんざいてん)、不動明王像、大山不動尊(天明三年)。正面に一の鳥居と拝殿。1193年(建久4年)、入間野・那須野の巻狩へ向かう途中の源頼朝が参拝したことで信仰が広まり、鎌倉武士や江戸時代の領主大久保佐渡守忠保らに崇敬され、村民も氏神と仰ぎ祭事を尽くしたのだという。藤沢市柄沢512。左から青面金剛 (しょうめんこんごう)、帝釈天王とそれぞれ刻まれた碑。その右横の3体は、左から・合掌六腑責面金剛像+三猿・合掌六腑責面金剛像+三猿・元禄十二己卯天十一月廿六日、・六腑金剛像。狛犬(左)。狛犬(右)。鳥居の神額「柄澤神社」。「鐘楼」。「手水舎」。[柄沢神社由緒]鎮座地 藤沢市柄沢五一二番地御祭神 天照皇大神 孝安天皇由緒 創建年不詳。もとは第六天社といい、孝安天皇を祀っていた。建久四年(一一九三年) 右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、 鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く、 村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。文化六年(一八一〇年)六月 社殿を造営文久元年(一八六一年)四月 社殿を造営明治元年(一八六八年)三月二十八日 第六天社を柄沢神社と改称明治六年(一八七三年)十二月 村社に列せられた。明治十六年(一八八三年)現在地に移転した明治四十五年(一九一ニ年)四月 社殿を造営大正十年(一九ニ一年)三月三十一日 大神宮を合併し天照皇大神を合妃した昭和五十年(一九七五年)八月十四日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失昭和五十二年(一九七七年)四月十五日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成平成二十二年(ニ◯十◯年)十二月吉日 区画整理事業に依る改修工事完成祭礼 小祭 四月第二土曜日 大祭 九月第二土曜日 翌日曜日 「拝殿」。平成の村岡七福神恵比須様。「村岡ふるさとマップ」。これから巡る予定の神社仏閣を確認。渡内、村岡地区。弥勒寺地区。「柄澤神社」境内を振り返る。「柄澤神社」の隣りにあった「柄沢中央町内会館」。さらに302号線・小袋谷藤沢線を大船方面に進む。302号線・小袋谷藤沢線は鎌倉市小袋谷(こぶくろや・大船地区)と藤沢市西富とを結ぶ一般県道。古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り鎌倉街道(現県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ、小袋谷付近に関所が置かれていた とウィキペディアより。村岡消防署前交差点角。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.16
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク船玉神社を後にし鎌倉街道を境川にそって南に進む。そして最初の十字路を左折し坂道を登って行く。藤沢市藤が岡1丁目2-1。暫く坂道を登り左折すると右手にあったのが賃貸マンション・コンフォール藤沢。そしてその先、左手にあったのが「藤稲荷」。正式な参道の一の鳥居、二の鳥居を振り返る。「社殿」正面。神(扁)額「藤稲荷大明神」。「内陣」。「藤稲荷」を後にし、滝川沿いを下流側に進んでいくそして次に訪ねたのが「感応院」。「山門」は薬医門。高野山真言宗の寺院。山号は三島山。藤沢市大鋸二丁目6番8号。藤沢宿では最も古い寺院とのこと。山門前の石碑「弘法大師 感応院」。境内右側の歴史を感じさせる鐘楼は老朽化?による立入禁止のテープが周囲に。「太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(享保18年11月鋳造、昭和18年2月10日供出、昭和26年3月12日再鋳)」「弘法大師修行像」。感応院には弘法大師像が2つあり、1つは本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番。境内中央にはこの弘法大師修行石像があり、これは二十三番。八十八箇所を巡礼する人は、ここに2度来ることになるのだと。境内の植栽と十三重石塔。「不動堂(本堂)」。建保6年(1218)源実朝を開基として創建。道教の開山。応永5年(1398)幸海が中興。やや荒れているが、独特の風情がある。本尊は不動明王。藤沢七福神・「寿老人」の寺。扁額は「不動尊」。「不動堂(本堂)」右側の玄関の向拝の彫刻も見事。本堂唐破風の彫刻。本堂唐破風の童子の彫刻。「三嶋大明神」の石鳥居。扁額「三嶋大明神」。「感応院三嶋神社」👈リンク。源頼朝が建てたものとされ、堂が360°回転するように造られているとのこと。長谷寺の輪蔵などにも見られるように、経が納められた堂を回転させることで御利益あると。扉の両脇の木の壁には見事な彫刻が。三嶋大明神4面の昇り龍の彫り物。三嶋大明神4面の下り龍の彫り物。「不動堂(本堂)」前に石碑が2本。「南無妙遍照金剛」の石碑。「辞碑」「不動堂(本堂)」前から境内の鐘楼、山門を見る。この境内の一隅に、ちょっと変わった六地蔵を見つけました。右から「六地蔵」と彫られた台座の上に、一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。磨耗してよく見えなくなっているが、確かに6体。「感応院」を後にし、「遊行寺」交差点から日比谷花壇大船フラワーセンター方面に繋がる県道302号線・小袋谷藤沢線に出て、東に進み路地を左に折れる。県道302号線・小袋谷藤沢線は、古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り、鎌倉街道(現、神奈川県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代、この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ小袋谷付近に関所が置かれていたのだと。急な石段を上って行く。左手奥に赤い小さな社が。「大鋸山武士堂 稲荷大明神」。「内陣」。そして次に訪ねたのが、「山王神社」。階段の上には山王神社の朱塗りの鳥居が。藤沢市大鋸3丁目2-29。「山王神社の由緒この山王神社(正式名は、別地山王社:わけちさんのうしゃ)は、旧相州鎌倉郡藤澤宿西村(明治になり西富に改名)の鎮守で、祭神は大已貴尊{おおなむちのみこと}で別名は五穀豊穣・縁結びの神、そして医薬の神といわれる大国主命(おおくにぬしのみこと)です. 俗称として、七福神のひとつ『大黒天』とも言われています。 例祭lは、毎年6月14日に執り行われています。 この山王神社の由緒ですが、南関東の地を治めていた後北条氏が滅ぼされた後、代わって徳川家康が関東の地を治めることになり、江戸城に居を構えました。 その後、京との往来や鷹狩の際の宿泊所(御殿)が.慶長元年(1596年)に現在の藤澤公民館の北側にあった藤沢の氏神で撥塚山王権現社(ばちづかさんのうごんげんしゃ)の境内に造られました。 その御、徳川の天下となった寛永11年(1634年)に.徳川3代将軍家光が朝廷より太政大臣という最高官位を授かるため江戸より京へ上洛するに当り、将軍家光の威光を示す御殿を新築するために、山王権現社は坂戸町の西の丘(旧県立藤沢高校の地)に遷座され、その後.明治初期まで鎮座しておりました. この山王権現社は、明治時代にここの地に藤沢町営実業女学校(県立藤沢女子校の前身)を造るため、白幡神社に移されて合妃されました。 坂戸町の西へ移されて以来、西村・大鋸・大久保町辺りの住民より参拝するに遠いとの声が永らく多く出ていたため、安永9年頃(1780年頃)に遊行寺の藤沢山33世諦如上人によって鎌倉山之内往還(藤沢西村~小袋谷)の街道筋で遊行寺の寺領である西村1番地(現在の大鋸3丁目2-29)に別社を勧誘し、分地山王社が造営されました。それ以来、鎌倉郡藤沢宿西村・大鋸の鎮守さまとして戦前まで璃光の山王様と呼ばれ、例祭には芝居小屋や露天も出て近隣地域の多くの住民の参拝で賑わっておりました。 明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、この山王神社と土地は遊行寺より当時の大門町(大光町の前身)に無償譲与され、現在は地縁団体である大光町内会の所有となっており、大光町のみの氏神となっております。」6月14日に開催予定?の例祭への奉納掲示板。藤沢宿の最初の鎮守で、寛永年間(1624年 - 1644年)山王山(藤沢市本町4丁目8-50付近)に勧請された。安永年間(1772年 - 1781年)藤沢山33第諦如上人が清浄光寺の近くに移転させた。祭神は大巳貴命(おおむなむちのみこと)。境内の石造物群。青面金剛庚申塔は貞享2年の建立。白の縁取りのアジサイも美しかった。更に県道302号線を進むと左手に「正一位 山王稲荷大明神」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.15
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江の島灯籠 2024へ(その1~11) 2024.08.24盆参りへ 2024.08.16我が家の近くのひまわり畑 2024.07.22湘南江の島の海が割れる・トンボロを見に行く(1/3~3/3) 2024.05.28近所の民家の見事な藤棚 2024.05.05地元の花見(その1~4) 2024.04.13 「藤沢地名の会」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」(その1~14) 2024.04.01地元の紅葉の寺・天嶽院へ(その1~3) 2024.03.02今年の「どんど焼き」へ 2024.01.15時宗総本山 遊行寺を訪ねる(その1~9) 2024.01.06「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる (その1~9) 2023.12.28 藤沢市民まつり湘南台ファンタジア2023へ(その1~3) 2023.11.27龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠へ(その1~3) 2023.11.24白旗神社・湯立神楽へ(その1~5) 2023.11.19江の島・湘南キャンドル2023:夜空に輝く10,000の 灯りの魔法(その1~10) 2023.11.09 片瀬・諏訪神社例大祭へ(その1~4) 2023.10.034年ぶりの鵠沼【皇大神宮 例大祭】へ(その1~4) 2023.09.29今年も、小出川彼岸花を愛でる(その1~3) 2023.09.26 花應院(その1~5) 2023.09.18令和5年度 藤沢市文書館歴史講座・大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義 を受講(その1~2) 2023.08.16鵠沼・片瀬の史跡を巡る(その1~2) 2023.07.23鵠沼・蓮池を訪ねる(1/2~2/2) 2023.07.21我が藤沢市の交通インフラについて 2023.07.14藤沢地名の会・サバ神社と湘南台地区(その1~9) 2023.07.12今年も「大清水アジサイロード」へ(その1~2) 2023.06.19江の島に続く砂の道「トンボロ」を歩く(その1~6) 2023.05.30今田鯖神社へ(その1~2) 2023.05.03相州 藤沢 白旗神社を巡る(その1~2) 2023.05.01白旗神社の藤の花を愛でに 2023.04.29【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る(その1~6) 2023.04.23自宅近くの桜そして花々を追って(その1~5) 2023.04.01地元の早咲き桜を楽しむ(その1~2) 2023.03.04地元神社への初詣 2023.01.02湘南海岸・片瀬西浜からの富士山 2023.01.02湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出 2023.01.01藤沢市内にある『天嶽院』の紅葉を愛でに(その1~3) 2022.12.27我が地元の『六会イルミネーション2022』へ 2022.12.07辻堂駅前・テラスモール湘南のイルミネーション(その1~3) 2022.12.04秋の白旗神社へ(その1~3) 2022.11.22地元の寺・雲昌寺そして菊花展へ(その1~2) 2022.11.13江の島そして「湘南キャンドル2022」へ(その1~7) 2022.11.06瀧の口竹灯籠へ(その1~2) 2022.10.31今朝の富士山そして夕焼け 2022.10.26小出川の彼岸花を今年も 2022.10.10江の島からのダイヤモンド富士を見に行く(その1~2) 2022.09.12例祭:白旗まつりへ(その1~2) 2022.08.07鵠沼のはす池に(1/2~2/2) 2022.06.24今年も「大清水アジサイロード」へ 2022.06.06今年も地元の桜を愛でに(1/2~2/2) 2022.04.03地元の神社に初詣 2022.01.02湘南海岸の初日の出と富士山 2022.01.01今年も「天嶽院」の紅葉を愛でに(その1~2) 2021.12.13近くのボサ菊を愛でに 2021.11.10小出川の彼岸花を今年も(その1~2) 2021.09.23湘南T-SITEへ 2021.09.06再び「大清水境川アジサイロード」へ(1/2~2/2) 2021.06.06白旗神社の藤の花 2021.04.17日本大学湘南キャンパス の桜を愛でに 2021.03.29地元・引地川の桜 2021.03.28光と色の祭典・江の島「湘南の宝石」へ (その1~5) 2021.01.19遠藤にある曹洞宗の寺院(禅寺)・玉雄山宝泉寺へ(その1~2) 2021.01.17今年も「どんど焼き」へ 2021.01.13今年も遊行寺への初詣、そして境内めぐり(その1~4) 2021.01.06紅葉の天嶽院へ(その1~3) 2020.12.21あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩(その1~6) 2020.11.07湘南Candle2020へ(その1~3) 2020.11.04藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展へ(その1~4) 2020.06.24久しぶりに白旗神社へ再び 2020.06.23 藤沢歴史散歩:大鋸~柄沢~渡内~弥勒寺~村岡(その1~15) 2020.06.14藤沢浮世絵館へ(その1~4) 2019.11.02藤沢・龍口寺『龍の口法難会』(その1~3) 2019.09.21藤沢・遊行寺 初詣へ(その1~2) 2018.01.07相州藤沢 白旗神社へ 2018.01.06藤沢・善行神社、鶴嶋天神社 2017.02.08藤沢・西俣野 神明社、御嶽神社 2017.02.06藤沢・立石神社、立石不動尊 2017.02.05藤沢・旧三觜八郎右衛門家住宅(その1~2) 2017.02.03藤沢・用田散策(その1~2) 2016.11.20藤沢・葛原散策(その1~2) 2016.11.18藤沢・長後、下土棚散策(その1~3) 2016.11.07藤沢・高倉、長後散策(その1~3) 2016.10.22藤沢・菖蒲沢散策 2016.10.17藤沢遠藤散策(その1~3) 2016.10.14藤沢・獺郷、宮原散策 2016.10.09藤沢打戻散策(その1~3) 2016.10.04藤沢巡り(藤沢本町~辻堂周辺)(その1~7) 2016.09.06鵠沼散策(その1~3) 2016.08.27 皇大神宮例大祭へ(その1~3) 2016.08.23地元の寺・雲昌寺散策へ 2016.08.22小栗判官・照手姫伝承の里めぐり 2016.08.21 辻堂古道散歩(その1~4) 2016.08.16藤沢宿巡り(その1~8) 2016.08.06江の島 天王祭へ(その1~3) 2016.07.29藤沢散歩3 江の島道へ(その1~4) 2016.06.30藤沢散歩2 大庭城址へ(その1~3) 2016.06.25藤沢散歩1 江の島、そして岩屋へ(その1~4) 2016.06.19俣野別邸庭園へ 2016.04.10常立寺(じょうりゅうじ)へ 2016.02.13再び遊行寺へ(その1~2) 2016.01.30藤沢七福神めぐり 2016.01.28遊行寺へ 2016.01.09歩いてみよう藤沢宿(その1~2) 2016.01.07遊行寺 2015.01.07湘南ねぶた祭り2014 2014.08.312013 湘南ねぶた 2013.08.31小動神社 天王祭 2013.07.21湘南ねぶた 2012.08.27市民まつり(その1~2) 2011.09.26湘南ねぶた 2011 2011.08.20藤沢市民まつり 2010.09.26江の島 瀧の口法難会 2010.09.15江の島への早夕散歩 2010.09.14
2020.06.14
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は6月9日、「旧東海道を歩く」のブログアップも完了し、新型コロナの影響で外出もままならなかったが、6月に入りやや落ち着きを取り戻したので、我が街・藤沢市の「藤沢市文化財ハイキングコース」👈リンク の内、唯一?未だ本格的に訪ねることがなく残されていた場所へのマスク付きの散策に向かったのであった。自宅近くから早朝のバスを利用して、遊行寺前で下車し「藤沢橋」がこの日のスタート地点。藤沢橋交差点手前には、「藤沢橋自動車排出ガス測定局」があった。この建物は一見すると、なまこ壁があり藤沢宿に関する施設の様に思うのだが関係なく、景観への配慮でこの様な外観となっているのであろう。「旧東海道・藤沢宿旧東海道 藤沢宿 遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡江戸 からの東海道を 進むと、東海道第六の宿、藤沢宿 内の遊行寺 橋(旧大鋸橋 ) で境川 (片瀬川 )を越えてから高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大 久保町。橋のたもとに高札場 があり、公定運賃 の定め、キリシタン禁制 など、 徳川幕府 の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島 一ノ島 居」が建てられていました。江の島弁財天の川の鳥居 で、東海道と別れて居をくぐれば、 「江の島道 」です。」初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」「東海道五十三次 藤澤宿」(隷書東海道)夜の藤沢宿の場面が描かれています。画面右側にある鳥居が江の島道の入口である江の島一ノ鳥居 、画面中央にあるのが大鋸橋 (現・遊行寺橋)です。宿場に着いた人々や客引きなど、様々な人々の様子が描かれ、当時のにぎわいが感じられます。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「東海道藤沢宿成り立ち・しくみ」案内板。「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。藤沢宿 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。①藤沢御殿 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。②本陣と脇本陣 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。③問屋場 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。④見附 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。⑤高札場 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。⑥旅籠屋 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。⑦枡形 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。東海道分間延絵図。「旧東海道・藤沢宿」「江ノ島弁財天 道標」。「江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう 杉山和一、1610~1694)が寄進したと伝えられています、現在、市内外に十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう遊歩道の整備により当時の浮世絵類に描かれている江の島道入口の道標を参考として、この地に移設したものです。」「二世安楽」の文字が。正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」の文字が。広重 東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)。「画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。」「藤沢橋 交差点」。横浜方面を見る。こちらは茅ヶ崎方面の藤沢橋への下り坂。そして、藤沢橋から江の島方面に向かう国道467号線入口右にあったのが「金砂山観世音(きんささんかんのんどう)」。「金砂山観世音」寺標。「鼻黒稲荷大明神」社号標。「緒言夫れ靈驗顕著なる金砂山子育安產帶解觀世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の靈夢を感じて一宇を建立す參詣者常に群を成し善男善女の利盆感應を蒙ること多し其後天保年間に梶某なる者再築して一層美觀を添え慈德倍々輝けり然るに星移り物換り明治の初年に堂宇廢絕し真浄院に移轉し一堂を新築せんと欲して木材を集めしに不幸十三年の大火の災禍に罹り一燈の冷灰を化す又其後毛利觀道和尚十万の浄財に依り一堂宇を新築せられしも維持の基礎鞏固ならざりし高め綾滅に破したるは痛措に堪るず不肖常に復興の願意念頭を去らざること年あり然るに大非救世の機綠熟せしにや今回有志と相計り往昔安置の砂山に圖の如き堂宇を建立し觀音妙智力の慈德を仰ぎ又當地の舊蹟を復興し繁栄の一助にせんと欲すれども十方信者の信仰カに依らすんば竣工を期し難し故に信徒諸氏は此の車を替して浄財を寄付し起立塔像の巧德を蒙り福聚海無量現受無比樂の美果を得られんことを希ふ 大正五年七月一日 金砂山觀世音」 階段下から観音堂を見る。「観音堂」本堂の左隣に朱に塗られた「鼻黒稲荷大明神」が。実は、性病の一つ梅毒患者が治癒を目的にお参りする神社でもあったのだと。江戸時代、藤沢宿には娼妓が多数いたのだ。鼻黒とは、鼻先が膿んで真っ黒になり、その後「落ちて」無くなるとのこと。藩も厳しく取り締まりをしたそうですが、あまり効果がなかったと。境内にある「嗚呼九月一日」碑。「大正拾弐年九月壹日関東之地大震震源袮在千丹那山震幅方數十里斫地倒家減財損人其被害甚大喩之無物就中禍殃之大為帝都及金港不啻年土火其地域以揺減巨億之物貸殉難之生靈至算十數寓惨鼻之状豈忍説乎哉我藤澤之地亦在其圏中於震動最尤巍然藤澤山堂宇殆倒壊市街家屋亦大半没其姿一望凄然如臨荒墟特損生命者壹百餘名為天地暗澹鬼哭啾々日光有如無回想富時則肌膚生票戰慄不能語嗚呼逝者難追天譴易遣震災以來早既閲七星霜何人對殉難者無一片弔慰之念ロ是乎藤澤町民有志膂謀設一大法筵併建之供養碑以欲教後毘長追憶富時有所自警其擧洵美也矣予聞之賛称不措乃不吝筆勞茲録其梗概以使成其志云爾銘日一大地異揺坤軸來物貲成喪世夢始開獨憐老幼無辜殉災乃壮賛唄薦登靈臺昭和四年九月壹日藤澤山主大僧正他阿尊光」石碑背面上部の碑文は上記の如く漢文ですが、次のような内容が読み取れるのだと・大正12年9月1日に大地震があり、震源の数里四方は被害が甚大であった、・藤沢地方もその範囲内にあり、堂宇・人家は倒壊し百余名が死亡した、・その時から七年目に当たり、藤沢町民の有志が相談して慰霊祭を行い、併せてこの慰霊碑を 建立したことなど。この石碑の左側には金砂山安産子育観世音の石碑もあった。そして「藤澤橋」を渡る。下を流れるのは「境川」。赤い橋が「遊行寺橋」。江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山遊行寺の門前の橋である。現在の橋は、昭和35年に造られたPC桁橋である。「境川」石灯籠。境川というのは、かつて武蔵と相模の境ということ。こちらは「境川」の下流方向。滝川という小さな川が左手から合流。「藤澤橋」を渡り、最初の路地を右に入る。境川に合流する滝川に架かる舟玉橋を渡る。大鋸(だいぎり)2丁目の住宅街を進む。右手にあったのが「船玉神社(ふなたまじんじゃ)」。「船玉神社祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。日本武尊の奥方、女神である。船玉とは船霊のことで、船中に守護神として祭る神である。日本武尊が走水(横須賀)から房総に渡ったとき、荒れ狂う海に身を投じて日本武尊を助けたという故事から船の航行安全を守る神として崇められるようになったと。神社前の道は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで舟が出入りしたと言われ、鎌倉三代将軍の源実朝が舟を造らせた材木を切り出した所と伝えられていますここは大鋸(だいぎり)と言う地名ですが、「大鋸(おおが)ひき」と言う職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたと言われています藤稲荷大明神(ふじいなりだいみょうじん)この道10メートル先を右折階段を登り山の上にあります。藤稲荷は大鋸の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。」船玉神社「本堂」。扁額「船玉大明神」。「内陣」。境内には小さな社もあった。その横に二宮金次郎像も。船玉神社改築記念碑。この石碑は??「船玉のみ社まえへ・・・もみぢうえる はやかんれきをむかえんと言われての心あらしふくよの中ますます そだて大木へ」 ・・・つづく・・・
2020.06.14
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『幕府老中 覚(朝鮮通信使来朝につき)』「明暦元年(1655年)の通信使来朝に際し、江戸幕府の老中(阿部豊後守忠秋・松平伊豆守信綱)が、幕府代官の成瀬五左衛門へ、藤沢宿の人馬徴発や道の整備について滞ることがないよう命じた覚書です。」『原本』。『翻刻文』『葛飾北斎 東海道五十三次 十七 由井』「東海道の興津宿(現、静岡市)の近くにある清見寺付近は風光明媚なことで知られていましたが、そこを訪ねた朝鮮通信使の一行が、その風景を愛でて、同寺のために扁額を認めたという逸話を描いたものです。由井(現、静岡市)は、興津の隣宿です。」『葛飾北斎 東海道五十三次 十四 原』「東海道の浮世絵として、当時人気を呼んだ朝鮮通信使の通行風景は、絶好の画題だったようです。しかし皮肉なことに、通信使はこの浮世絵の発行された翌年、対馬(長崎県)までの来訪を最後に幕を閉じます。原は道中で富士山が一番大きく見える宿です。」『朝鮮人来朝御大名様方 御馳走御古御場所附』「朝鮮通信使来朝時の各宿場での御馳走大名の書上です。藤沢宿は細川若狭守(肥後熊本新田藩)が担当していました。当時の人々は通信使の来朝に大きな関心を寄せ、こうした摺物も広く販売されていました。」『江戸浅草東本願寺 朝鮮人逗留之中御馳走御馬附』「朝鮮通信使来朝時の最終到着地(浅草 東本願寺)での各大名等の馬の提供数(御馳走)一覧です。筆頭は老中酒井雅楽頭の十二疋(匹)になっています。」『エドワース・エス・モース』関連の展示。『エドワース・シルヴェスター・モース』「Edward Sylvester Morse 1838年~1925年)は、アメリカ合衆国メイン州ポートランドに生まれた動物学者。大森貝塚の発見・発掘者として知られています。東京大学動物学初代教授(1877年~1879年)。ピーボディ・エセックス博物館三代館長・名誉館長。1877年(明治10年)、1878年(明治11年)、1822年(明治15年)の三度に渡って来日。1877年(明治10年)、1878年(明治11年)、江の島を訪れて漁師小屋を臨海実験所に改造して採集活動を行いました。」『モース』の描いたものであろう。『モース博士と「日本 その日その日」』『エドワース・エス・モース Japan Day By Day』『エドワース・エス・モース 動物進化論』「E.Sモース博士は東京大学に招かれて進化論の講義を行い、その内容は石川千代松の訳で「動物進化論」として出版されました。同書には、モース博士が江の島で研究したシャミセンガイも紹介されています。」『江の島モース臨海実験所復元模型(縮尺1/30)』『江の島モース臨海実験所』の姿も。『コッキング商会 横浜七十五番コッキング商会(カタログ)』「同書にはコッキング商会の設立は1868年とあります。内容はキニーネ(坑マラリヤ薬の代用薬(クインクイニア)の説明が大半を占めています。当時の日本はコレラが大流行していましたがキニーネの供給はなく、代用薬は大当たりしました。」ズームで。『サムエル・コッキング(Samuel Cocking)』「サムエル・コッキング(Samuel Cocking)は、イギリス領アイルランド生まれの貿易商。オーストラリアに移住したのち、明治元年(1868)に横浜へ来日、同4年に横浜居留地にコッキング商会を開設する。翌年、宮田リキと結婚し、同13年にリキ名義で江の島に土地を購入、住居用別荘(自宅は横浜市神奈川区平沼)のほかに、私用の大規模な植物園を開設する。当時、本格的な植物園はめずらしく、栽培していたランなどについて、植物研究者等に注目されていた。その間、日本国内のコレラ流行に際し、医薬品の輸入販売で財を成すなどした。商会として扱った商品は、他に医療器具・測量器具・写真器材・楽器・洋酒等を輸入し、ハッカ・百合根・美術骨董品等を輸出した。また江の島以外にも湘南海岸一円に土地を購入し、別荘等として販売した。晩年は福祉事業にも力を入れ、江の島の植物園内で孤児院の事業を補助するための慈善園遊会を開いたりした。大正3年(1914)、平沼の自宅で永眠。中区相沢の共同墓地に葬られる。」『コッキング植物園温室遺構全景』『壬生昌延 相州江之島真景』「コッキングが江の島の頂上に植物園を開いたのは明治20年(1887)頃で、明治30年発行の「相州江之島真景」には、中央の山二ツと中津宮の間に、塀で囲まれた「植物園」が描かれています。また、左下にある洋館が別荘だと思われます。発掘調査の結果、大量のレンガを使用した植物園温室の遺構が確認され、現在もサムエル・コッキング苑内に残されています。」『各地の朝鮮通信使人形』「出雲人形(奈良県桜井市)、唐子踊り人形(岡山県牛窓市)」『エンゲルベルト・ケンペル 日本誌オランダ語第二版 ファクシミリ版』藤沢に関連する箇所の日本語訳、ケンペルの描いた挿絵などが展示されていた。『挿絵 日本と中国の想像上の動物園』「左上から「獅子(しし)、「麒麟(きりん)」、「騶虞(すうぐ)」、「獬豸(かいち)」「蛟(じゃ、たつじゃ)」、「螭(たつまき)」、鳳凰(ほうおう)」『フェリーチェ・ペアト 江の島(写真)』イタリア生まれのイギリスの写真家。東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人であり、また初期の従軍写真家の一人でもある。日常写真、ポートレイト、またアジアや地中海の風景や建物のパノラマ写真で有名である。ベアトはいくつもの国に旅行し、それらの国、人々、事件を撮影したが、遠く離れてそれらになじみの少ないヨーロッパや北アメリカの人々にとって記憶に残るものであった。インド大反乱やアロー戦争の記録も撮影しており、最初期の報道写真ともいえる作品を残している。彼は他の写真家に大きな影響を与えたが、特に日本においては、非常に多くの写真家・芸術家に深く、かつ長期にわたる影響を与えた。『明治初期に作成された着彩写真アルバムのページ』「写真左手に、片瀬洲鼻通りの茶屋、かどや(角屋)とかしはや(柏屋)が映っています。道をはさんで右手には、鳥居が見えます。」『川瀬巴水 潮来の夕』『川瀬巴水 浜町河岸』『川瀬巴水 馬込の月』『河原崎奨堂 ハゲイトウ』『井出岳水 ツタにシジュウカラ』『江の島弁財天道標』奥に『藤沢宿』コーナー。企画展示コーナーの水島爾保布の『「東海道五十三次」に描かれたケンペル像』が左手に。そして、吉田初三郎の「神奈川県観光図絵」など相模地域と日本の名所の鳥瞰図。相模湾と三浦半島。箱根とその後ろに富士山。横浜港周辺。浮世絵版画の制作工程の展示。絵解きコーナー。そして最後に再び『歌川広重(初代)相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図』を楽しんで展示室を後にしたのであった。エレベーターホールにあった様々な展示会ポスター。訪ねて見たい多くの展示会のポスターが。こちらにも。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.11.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク次に『江の島』コーナーへ。「富士山を別格とすれば、浮世絵に描かれた風景の中で、その数では江の島は、かなりの上位に入ると言えましょう。それほどに、江戸時代の江の島詣では一大ブームでした。」『歌川広重 初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図』江の島を岩屋側から描いた作品。画面左の岩場や参道に角木瓜(もっこう)の日傘の常磐津(ときわづ)節、中央の三本杵は江戸長唄(ながうた)の杵屋(きねや)、菱に三つ柏は清元(きよもと)節、桜草の宮本節も右の平な俎板岩(まないたいわ)の上で緋毛氈(ひもうせん)を広げ酒肴を楽しんでいます。その傍では釣りをする清元節の女性たちもいます。『柳亭種彦 歌川国貞(三代 豊国) 偽紫田舎源氏』紫式部の『源氏物語』のパロディー作品で、時代を平安時代から室町時代へ移し、将軍足利義政の妾腹の子・光氏を主人公としています。光氏が、将軍位を狙う山名宗全を抑えるため、光源氏的な紅色遍歴を装いながら、宗全一味をはかりごとで、滅ぼした後京都に戻り、将軍後見役となって栄華を極める、と言う内容です。この作品は柳亭種彦によって14年に渡って執筆された代表作ですが、種彦筆禍(当時の政治に対しての不満感を記し罰せられる意味)と死去により、第38篇(152冊)で終わっています。」語り手は、江戸日本橋・式部小路の女・お藤で、鉄砲洲の人丸神社に参詣し、石屋の二階に仮住まいして筆を取った、という設定。天保7年(1836)に刊行された木版オリジナル和本『偽紫田舎源氏』19編下。『江の島に訪れた江戸のキャラクター』『豊原国周 源氏之君江之島遊覧之図』『歌川国貞(三代豊国) 二代歌川広重 相州江之嶋』『二代 歌川広重 七里ヶ浜遊覧之図 江のしま眺望之景』『歌川貞秀 見立浮世源氏 相州江之島須磨』『月岡芳年 今様けんし江之嶋兒ヶ淵』田舎源氏の光君が江の島遊覧に訪れ、稚児ヶ淵で海女(あま)達の鮑漁りを見物している様を描いています。光の君は特徴のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華な衣裳を身につけています。いわゆる源氏絵で版の色数も多く、空摺(からずり)の技法も駆使した入念な錦絵です。『歌川国貞(三代 豊国)第日本六十余州之内 相模 白菊丸』『二代 勝川春好(春扇) 浮絵 忠臣蔵 八段目』そして『藤沢宿』コーナーへ。「藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えても6番目の宿場です。江戸幕府の道中奉行所の記録では、藤沢宿の名物を「大山詣で、江の島弁財天詣で」と記しています。」『藤沢宿』コーナー企画展「江の島を訪れたエトランジェ 描かれた異邦人」が9月7日から始まっていた。パンフレット。展示は、東海道五十三次、藤沢宿、江の島、関連資料などのテーマ別に60点。江の島に飛来し修行したと伝わる役行者(えんのぎょうじゃ)をはじめ、江島神社の縁起にまつわる高僧の空海や日蓮、朝鮮通信使、江戸時代のオランダ使節に同行して見聞記「日本誌」を記した医師で博物学者のエンゲルベルト・ケンペル、観光庭園の原型となった植物園を開いた貿易商のサムエル・コッキングら歴史上の人物と江の島との関わりを絵や資料から読み解く展示スタイル。『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』。蒙古襲来絵詞は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。『猪飼嘯谷(いかいしょうこく)蒙古襲来絵詞(粉本)』四条派に学び、母校の京都市美術工芸学校、後に京都絵画専門学校(現・京都市立芸大)で教える。歴史画、古代風俗画を得意とし、文展で活躍。『後巻 第二十六紙』『後巻 第二十七紙』『蒙古襲来』『後巻 第二十八紙』『後巻 第三十一紙』『後巻 第三十三、第三十四紙』『藤沢とのかかわり』『常立寺の伝元使塚』この供養塔(法華題目碑)の下にある五輪塔は、1275年、元(蒙古)の使者杜世忠(とせいちゅう)ら5名がフビライの国書を携え、無条件降伏を迫って来日したが、時の執権北条時宗は徹底抗戦を決意、龍の口の刑場で処刑、その5人の亡骸を葬った塚と伝えられるものである。『道歌百人一首麓枝折』『沙門因静 編 江島大草紙 上巻』『江之嶋全景』『役小角坐像』『歌川国芳 高祖御一代記略図 相州瀧之口御難』ズームで。忍性との祈雨対決以降、日蓮聖人はその行動や言動によって、幕府や諸宗派から命を狙われることになります。文永8年(1271)9月12日、松葉谷の草庵が襲われて日蓮聖人は捕らわれの身となり、佐渡流罪を名目に途中の龍口で頸を刎ねられることになりました。翌13日の午前1時ごろ、刑場に座らされて頸が刎ねられようとした瞬間、空からの光り物が大きく振りかざした太刀を直撃し、日蓮聖人は難を逃れるのでした。『日蓮大士真実伝 第四巻』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.04
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢宿コーナーは「イラストと漫画の時代へ」というテーマで、横山大観・下村観山・今村紫紅・小杉未醒による「東海道五十三次絵巻」、岡本一平をはじめとする新聞漫画記者で組織された「東京漫画会」による「東海道五十三次漫画絵巻」、水島爾保布の「東海道五十三次」が展示されていました。浮世絵で親しまれた東海道の風景が、イラストや漫画という新たな表現方法で描かれているところが見どころです。なお、水島爾保布の『「東海道五十三次」に描かれたケンペル像』が企画展示コーナーにも展示されています。『横山大観、下村観山、今村紫紅、小杉未醒 東海道五十三次絵巻』横山大観、下村観山、今村紫紅、小杉未醒 解説文。『品川(今村紫紅)、日本橋(小杉未醒)、藤澤(横山大観)』『箱根 芦ノ湖(今村紫紅)、吉原 富士(今村紫紅)』『大井川鉄橋(下村観山)、濱松(小杉未醒)』『池鯉鮒桶狭間(横山大観)、桑名(小杉未醒)』『亀山(今村紫紅)・庄野(下村観山)、京都三条大橋(今村紫紅)』『イラストと漫画の時代へ』「江戸時代後期には、歌川広重をはじめとする浮世絵師たちによって、数多くの東海道五十三次シリーズ作品が刊行されました。時代を経て、明治・大正期以降も多くの画家によって東海道の風景が描かれ続けました。それらは、江戸後期に確立された浮世絵による「東海道五十三次」シリーズの画風をベースにしながら、街並みの変化や時代の移り変わりがうかがえる作品となっています。浮世絵で親しまれた東海道の風景が、漫画という新たな表現でもって描かれていくさまを御覧ください。」『東京漫画会 東海道五十三次漫画絵巻』作品はガラスケース内部に並べられていた。正面から。『石部』『藤澤』在田稠。『平塚』中西立頃。『小田原』在田稠。『水島爾保布 東海道五十三次』水島爾保布の自著である『東海道五十三次』の挿絵。今展では全58図のうち30図が紹介されていた。そしててテレビモニターでは浮世絵による藤澤、江ノ島の紹介が。『藤沢・江の島 浮世絵名所巡り』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク外国からの来訪者や、相模地域の外から江の島を訪れた人たちの姿を描いた浮世絵作品や資料を展示する企画展、「江の島を訪れたエトランジェ 描かれた異邦人」が、地元・藤澤浮世絵館で10月27日(日)まで開催されているとの情報で、平塚まで仕事支援で行った10月5日(土)の帰路に訪ねてみました。JR辻堂駅から徒歩にて「ココテラス湘南」ビルを目指す。『ココテラス湘南』ビルの7階にある『藤澤浮世絵館』。『ココテラス湘南』ビル入口にあった案内板。そして7Fのエレベータホール。ホールの壁には江ノ島に関連する廣重他の様々な浮世絵が。歌川広重 作 『冨士三十六景 相模江之島入口(さがみえのしまいりぐち)』江の島の入り口にある青銅製の鳥居をくぐり、揃いの着物を着た三人が、参道を上り始めたところである。江島神社の弁財天は芸能の神様でもあるので、歌舞音曲の上達を祈るための参詣かもしれない。鳥居の内側に堂々たる富士の姿があるが、本来は富士の位置はかなり左になり、本図のように見えることはないのでは。ズームで。三代 歌川豊国(国貞) 作 『東海道名所之内 鎌倉七里が浜乃風景(とうかいどうめいしょのうち かまくらしちりがはまのふうけい)』『魚屋北渓(ととや ほっけい) 作 江島記行 兒ヶ淵(えのしまきこうちごがふち)』。江の島稚児が淵から遠眼鏡(とおめがね)で眺望しているところ。 『一寿齋国貞 作 江の島』。四代豊国(二代国貞)と二代広重との合筆による作品であると。将軍が江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑を取って来る様子を上覧している場面。『月岡芳年 作 今様げんじ江之嶋兒ヶ淵(いまようげんじえのしまちごがふち)』田舎源氏の光君が江の島遊覧に訪れ、稚児ヶ淵で海女(あま)達の鮑漁りを見物している様を描いている。光の君は特徴のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華な衣裳を身につけているが海女は上半身に何もつけていない。『歌川貞虎 作 鎌倉七里ヶ浜ヨリ江の嶋遠見』七里ヶ浜から遠景に江の島を描いた作品。作品は江の島詣の女性の一行が七里ヶ浜で一息いれているところでしょうか。そこへ海女や子どもたちが寄ってきたという構図で、女性の一人が海に投げ入れた銭を拾うために、子どもたちが競って荒波に飛び込んでいます。 『歌川広重 作 東海道五十三次 藤沢(隷書東海道)(とうかいどうごじゅうさんつぎ ふじさわ(れいしょとうかいどう)』藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられる。 『歌川芳形 作 上洛東海道 東海道藤澤』。行列の馬であろう飾り立てられた馬とその馬の草鞋(馬沓)を替えている馬子が大きく描かれている。『藤沢市 藤澤浮世絵館』は入場無料。写真撮影はフラッシュなしであれば全館内OK。狩野秀源貞信「東海道五十三次」 「四十八」「藤沢」「戸塚へ壱り卅丁」歌川広重 初代「相州江の島の図」『東海道五十三次』「東海道五十三次とは江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道に置かれた53の宿場のことです。日本橋を起点に三条大橋(京都)まで、約500kmの道のりです。」折しも、現在、私と旅友Sさんは、この『東海道五十三次』を日本橋から歩き始め現在、名古屋の手前の『岡崎宿』の先『池鯉鮒宿(知立宿)』まで辿り着いているのです。『東海道オマージュ』「二代広重が「重宣」と名乗り、初代広重の弟子として活動していた時期の作品です。あまり知られていない東海道作品になりますが、その画題のほぼすべてが、初代広重の作品の構図を模しているものであることがわかります。とくに、初代廣重の通称『人物東海道』の構図を取り扱ったものが多いですが、他にも初代廣重の東海道作品を見ることができます。江戸時代の浮世絵作品において、このような形態は現代の私達の考える『模倣』とは異なるものであり、初代廣重の東海道作品の人気にあやかって版元が制作支持したものと考えられます。よって、初代廣重を展開した東海道作品の人気ぶりがうかがえるものと位置づけられるのです。」二代歌川広重の「東海道五十三次」28作品が展示されていた。折しも、これまで歩いて来た静岡県内の、そしてこれから歩く宿場の浮世絵が展示されていた。『見附』(静岡県磐田市)天竜川を渡る舟が行き交う場面を描いています。穏やかな舟渡しの情景ですが、実際の天竜川は「あばれ天竜」とも呼ばれ急流として知られていました。『浜松』遠州灘を背景に、旅姿の女性二人がなにやら談所しながら歩いています。他の東海道シリーズでも、浜松の場面では同様に海浜の松が描かれています。『まい坂』浜名湖の今切りの渡しをすすむ舟が描かれています。舞阪宿は浜名湖南部の東岸にある宿場です。ここから浜名湖を渡るには今切りの渡しを舟で渡りました。『荒井』今切りの渡しの荒井側の渡船場を描いています。新居の関所は箱根の関所と並び、取締りの厳しい関所として知られていました。『白須賀』画面右手前に見える小高い丘の坂道は、展望の良さでは評判だった汐見坂です。後景には遠州灘が広がっています。『二川』旅姿の女性が共を連れて馬に乗りながら進んでいます。馬方も女性も楽しげな表情で、和やかな雰囲気が伝わって来ます。『吉田』吉田大橋は東海道の中でも屈指の大きな橋であり、橋と川と城郭を同時に描くことができる景観が好まれ、他の東海道作品にも多く描かれています。『御油(ごゆ)』御油宿から次の赤坂宿までは十六町(約1.7km)しか離れていなかったので、宿泊客の奪い合いが激しかったそうです。画中でも、旅籠の留女が旅人の腕や荷物を引っ張っている様子が見られます。『赤坂』旅籠の部屋で思い思いに過ごす宿泊客の姿が見られます。画中に見える中庭のソテツは、初代廣重による東海道シリーズの旅籠の場面でよく登場するモチーフとなっています。『藤川』藤川宿の東のはずれにある山中村の風景を描いています。中景の馬に乗る旅人の辺りで空間を区切ることにより、高い位置から低い位置へとつながる山道の傾斜を表現しています。『岡崎』矢作橋は、東海道随一の長さを誇った二〇八間(約374m)を有していました。画中では、木材を運ぶ筏、川で布をさらす女性たちなど、土地の風俗が描かれています。『池鯉鮒(ちりゅう)』街道を駆け抜ける早飛脚が描かれています。旅姿の女性の穏やかな「静」の風景と対比して、飛脚の「動」のスピード感がより強調されています。『鳴海』名産の有松絞りは、鳴海宿の東にあった有松村でつくられ、街道沿いの店で売られていました。店先には色とりどりの着物が掛けられ、旅人の足をひきとめています。『み屋』熱田湊の渡船場の風景です。画面左には熱田神宮の浜の鳥居、後景には伊勢湾が広がっています。宮宿から桑名宿までは東海道唯一の航路で、「七里の渡し」と呼ばれていました。『桑名』桑名宿の西に位置する富田の立場が描かれています。店先で名物の焼き蛤を焼いています。『四日市』四日市宿の西に位置する日永の追分の場面を描いています。この場所で、東海道と伊勢街道にわかれます。伊勢神宮の二の鳥居と常夜灯がが見え、多くの旅人が行き交い、賑わいのある追分の雰囲気が表現されています。『石薬師』画面右側に傍示杭が見えることから、宿場の入口であることがわかります。画面奥の石垣には土盛りがされ、頂部には柵が見られます。これは見附という宿場の入口に設けられたものです。『庄野』宿場のはずれの街道の景色が描かれています。画面手前には旅姿の女性たちが、その向こうには早駕籠が街道を駆け抜けています。『亀山』旅人たちが坂道の街道を進んでいます。坂道の奥に見えるのは、亀山城の城門です。『せき』宿場のはずれの出茶屋の様子が描かれています。出茶屋とは、簡素な茶屋のことで、旅人はこのような場所で手軽にのどを潤していました。『坂の下』坂下宿の手前に位置する筆捨山を望む場面です。この付近にあった茶屋は鈴鹿川の筆捨山の眺望で評判となっていたようです。『土山』両側を崖に囲まれた険しい鈴鹿峠の山道の風景です。土山は雨が多いところとして知られており、他の浮世絵作品でも土山の場面では雨の情景が描かれていることが多いです。『みなくち』宿場のはずれで女性たちが水口の特産である干瓢を天日干しています。画面左側では干瓢のもとである夕顔を切る女性がみえます。『石部』旅籠の部屋から男性客が景色を眺め、女中が寝具を運んでいる場面です。石部宿は歌舞伎の『桂川連理の柵』の舞台であり、画中の男女はその登場人物である長右衛門とお半を模していると思われます。石部は、東海道を京から出発して1日目の宿泊地とすることが多く、多くの旅籠が軒を連ね繁盛していました。『草津』草津名物の姥が餅を売る茶屋の風景です。駕籠が店前で止まり茶屋の繁盛している様子が描かれています。『大津』草津側の矢橋から、琵琶湖を挟んで対岸の大津側を見た風景です。画面遠景には比叡山、その右側には比良山脈が描かれています。『京 三条大橋』京の三条大橋を渡る、大原女や、傘をさす裃姿の男性が描かれています。背景にみえるのは東山の町並みです。『清水』清水寺を望む坊から、女性たちが景色を楽しむ画面です。画面右奥には清水寺と八坂の塔があり、その下には桜が咲き乱れています。音羽の滝のあたりにあった坊の南蔵院は精進料理を出す料亭も兼ねており、ちょうちんをに書かれた「う」「か」「む」の字は、南蔵院の通称「うかむせ(浮瀬)」の一部と思われます。『浮世絵とは』。『浮世絵の中のこれは何かな?』浮世絵の画中に見られる、様々な印や、彫り、摺りの技術について、少しくわしく見てみましょう。この浮世絵は『歌川国貞(三代豊国)作 東海道五拾三次之内 藤沢 小栗判官』★一文字ぼかし:画面の上部や水平線などに用いられる。真一文字のぼかしのことを言います。 主に、風景画で空や水の深みを表現するのに用いられ、摺師の熟練を要する 技法です。★毛割(けわり):人物の頭髪の部分を彫ることを、毛割と呼びます。 髪の毛の一本一本まで、しかも生え際まで彫りで表現する技法。 ・・・つづく・・・
2019.11.02
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県外からも。3番目:沼津 連窓寺万灯講。寛文2年(1622)に、沼津市下河原の妙海寺20世、日根上人が当地に開創した。開基檀越(寺を造る時、主になった寄進者・最初の檀家)は天照院殿三好松長将軍義観大居士。4番目:大磯 延台寺壱楽睦講中。中郡大磯町にある日蓮宗の寺院。山号は宮経山。日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いた寺。虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の龍神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせる寺。桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれる寺と。背中に赤子をおんぶして囃す女性(右)の姿も。5番目:茅ヶ崎 信隆寺信和会。信隆寺は、寛永元(1624)年に開創された茅ヶ崎市にある日蓮宗の寺院。本堂は平成10年に新築され、境内には茅ヶ崎市指定文化財に指定されている木造日蓮坐像が安置されていると。池上 大坊本行寺本睦会の万灯が漸く退く。6番目:三浦 三崎円徳寺矢作青年会。日蓮宗の寺で、山号は近浦山。鎌倉・本覚寺の旧末寺となっている。1294年、日蓮上人13回忌の折に創建され、日範上人の開基と伝わる。若い女の子が横笛を懸命に。矢作青年会だけあって、メンバーが若い!!。7番目:品川 荏原摩耶寺一心講寛文七年(1667年)の創建と伝えられている。延宝五年(1677年)に祖師像が、 延宝六年(1678年)に安置されている摩耶夫人像が造られる。多くの像は日蓮宗不受不施派の弾圧の際、法華寺(現在の円融寺)から当寺院に移されたものである。摩耶夫人が祀られている摩耶堂は天保年間(1830年~1843年)に造られたものである。その後関東大震災や第二次世界大戦などからの災害からは免れた。本堂は1978年に完成したもの。また荏原七福神の一つとして寿老人を祀っている。8番目:葉山町 本圓寺龍信会。日蓮大聖人は、建長5年4月28日、千葉県清澄山に於いて朝日に向かい、お題目「南無妙法蓮華経」と唱え、日蓮宗を開宗した。当時の幕府の地「鎌倉」にて、お題目を人々に広めようと海を渡り、横須賀に着いた。横須賀の人々に布教しながら鎌倉への途中、木古庭の里に御滞在され、伊豆より来られた僧の庵(堂)で、お題目の縁を結び、法華経の基を定めた霊場がこの本圓寺。延慶3年、日蓮大聖人の孫弟子・摩訶一阿闍梨日印聖人が、高祖坂題目堂本圓坊を日蓮大聖人を開山とし、この地に法縁を結びし日蓮大聖人32歳の御尊影(仏像)を安置し、山号を「大明山」、寺号を「本圓寺」と改めた。『南無妙法蓮華経』と書かれた大きな赤い幟。9番目:川崎 生田安立寺万燈講。法言山と号す。安立寺は、代官職佐伯馬之介が佐伯隼人(浄天院法言日正、永禄5年1562年没)の追福のために、日等(天正11年1583年寂)を開山として創建したと。準西国稲毛三十三観世音霊場9番、武州稲毛七福神の毘沙門天。纏回しの疲れか、必死に肩を回す少年。10番目:三浦三崎 延寿寺万灯講。日蓮宗の高僧日朗上人の弟子である日範上人を開山として、鎌倉時代の弘安7(1284)年に建立された。この日範上人は100歳を越える長寿を全うしたということで、山号を「壽福山」、寺号を「延壽寺」と名付けた。日範上人は当寺で入寂し、本堂前の松の根本に廟所がある。本堂には本尊の「釈迦如来・多宝如来」が安置され、右手には木像の「壽福大黒天」が、左手には「鬼子母神」が、それぞれ厨子の中に祀られているのだと。ヒョットコの姿で必死に踊るオジサンの姿が。満面の笑みで。背中には大黒天の姿が。11番目:座間 休息山圓教寺圓和会。文永8年(1271年)、日蓮が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬の龍口寺)で斬首の刀が折れ処刑を免れたという龍ノ口法難後、依知(現在の厚木市)の本間重連の館に向かう日蓮を、折れた刀の刀工鈴木弥太郎貞勝が自邸に招き日蓮に帰依して円教坊と名を改めたという。建治元年(1275年)貞勝は自邸を寺に改め、日範を開山、自身を開基として円教寺を建立したと。12番目:横須賀 本住寺纏講。この寺は古くは真言宗の寺であったそうですが、この寺が改宗したいきさつについて次のような話が伝えられています。真言宗の時代には印行坊という僧がこの寺にいたそうですが、あるときそこへ日蓮宗の九老僧の一人であった日相上人が乗り込んできて、問答を申し込んできました。印行坊はこれをうけ論争をたたかわしましたが負け、そのため寺を明け渡したということです。13番目:七里ガ浜 霊光寺田辺睦会。日蓮の雨乞い伝説が残されている「田辺ヶ池」の跡地に建つ。明治時代末、「日蓮大菩薩祈雨之旧蹟地」の石塔[2]が出土したため日蓮上人像と本堂が建立されたのが始まりである。建立にあたっては大日本帝国海軍大将の上村彦之丞が尽力し、本堂に掲げられている「祈雨霊蹟」の額も上村の筆によるものである。当初は霊光殿と称したが、1957年(昭和32年)に現在の寺号となった。14番目:腰越 竜の口睦会15番目:六浦 上行寺橘会。六浦上行寺は、日祐開山、六浦妙法開基の日蓮宗寺院。改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったといわれる。日蓮が下総から六浦津を経て鎌倉入りする際の船中で、乗り合わせた千葉氏の重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.22
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は9月12日(木)、江ノ電の江ノ島駅近くの『龍口寺(りゅうこうじ)』で行われる『龍の口法難会(たきのくちほうなんえ)』の『ぼたもち供養&万灯(まんどう)練り供養』を楽しみに行って来ました。江ノ電の藤沢駅。江ノ電はこの時間帯は12分ごとに発車。ホーム入口にはこの日も花時計が。時間は18:22。富士山の夕景写真。江ノ島の夕景写真。そしてホームに1507系江ノ電が入って来た。ホームには『龍の口法難会』の案内板が。龍口寺で行われる「龍の口法難会」は、9月11日~13日。特に盛り上がりをみせるのはこの日・12日の夜。境内には露店が建ち並び、法要が終わると名物の「ご難ぼたもち」(難除けぼたもち)が堂内にまかれます。そしてその後に万灯が奉安されるのです。鎌倉行きの電車に乗り込む。そして10分強で江ノ電江ノ島駅に到着。『龍の口法難会』のポスター。国道467号線に出ると、道の両側にはぎっしりと屋台出店が所狭しと並び、龍口寺に向かって進むのも大変であった。広島焼きの店か。タピオカドリンクであろうか。色彩豊かな笛の店。たこ焼き屋。そして龍口寺・仁王門前に到着。仁王門扁額には『龍乃口』の文字が。階段を上がった山門の扁額には『龍口寺』の文字が。そして境内広場に。山門をくぐり左手『寂光殿』の前には地元の『片瀬睦』と書かれた提灯が並ぶ。右手には『手水舎』が。『霊跡本山 寂光山 龍口寺 縁起』。「鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢餓疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧とみんしゅうの救済を提起した。しかし、幕府は政策への中傷と受止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永8年(1271)9月12日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノ口の刑場へ連行した。日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノ口刑場へ処刑中止の使者を送った。その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、13日の子丑も刻(午前2時頃)、日蓮大聖人を土牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備を整えた。その瞬間、江の島の方より満月のような光ものが飛び来たり、執行人は目がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止となった。その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ3年間流罪となったが、この大法難によって日蓮大聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、その後、数々の重要な法門を著述された。この霊場は、延元2年(1337)、直弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作の祖師像を安置したのが始まりであり、大聖人自ら『龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか』と獅子孔された随一の霊場である。」そして大本堂前に。「大本堂」の前庭には『南無妙法蓮華経 龍口法難高祖日蓮大菩薩 護報恩謝徳』と書かれた大きな報恩謝徳塔婆が二本建てられ、結縁綱で結ばれていた。白い結縁綱の先は「大本堂」内に安置された日蓮聖人の像に続いていた。本堂・日蓮聖人の像へと白い布が結ばれていた。日蓮聖人像が本堂右手にも。その先には鐘楼が。山号の『寂光山』と書かれた提灯。『献燈』と書かれた提灯が本堂入口上に。「鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。翌13日子丑の刻(午前2時前後)、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。 【http://ryukoji.jp/02histry.html】より更に「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。」 【http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55780851.html】より本堂内、そして階段付近には「ぼたもち」を拾おうと多くの人々が集まっていた。本堂前から山門に向かってレンズを向ける。本堂手前左手にあったのが『浄行菩薩』。側には、“さぁ、菩薩さまをお洗い下さい”とばかりに水桶とタワシの山が!。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。垂幕には日蓮宗の寺紋、『井桁に橘』が。日蓮聖人の出自は貫名氏といわれ、貫名氏の家系は井伊家から分かれたといわれます。そして、その井伊家の家紋が「井桁に橘」と言うわけです。井戸から湧き出す清水と、香り高く年中緑の葉を保つ橘とを組み合わせた「井桁に橘」紋は、永遠の生命を象徴するものとして、日蓮宗の定紋となっているのです。本堂への階段にも「ぼたもち」を頂こうと多くの人々が今や遅しと。『ぼたもち供養大法要 難除けぼたもちまき』は18時からのようであったが大法要が長引いたのか、ようやく『ぼたもちまき』が行われたのであった。ズームで。時間は19:01。しかし、ぼたもちが拾える場所には到底辿り着ける状況ではなかった。1271年(文永8年)9月12日、幕府の勘気にふれて捕らえられた日蓮は、裸馬に乗せられて龍ノ口刑場へと護送されますが、老婆(桟敷の尼)が護送される日蓮に「ゴマ入りのぼたもち」を捧げたところ、奇跡的に処刑を免れたという伝説が残されているのだと(龍ノ口法難)。そして漸く『ぼたもちまき』が終わり、本堂から人が溢れ出て来たのであった。拾った方の『御難ぼたもち』の写真を撮らせて頂きました。小さなビニール袋に、ゴマ入りぼたもちが2~3個?入っているようであった。この牡丹餅は、年中無難、様々な災難を逃れる効力があるとされ、「難除けの牡丹餅」として、この日・9月12日午後6時と、13日午前零時の法要のあと、堂内一杯に集まった参詣者に行き渡るよう、高所から撒かれるのだと。そして漸く近在講中の人たちによる万灯奉安が始まったのであった。時間は19:15過ぎ。本堂への階段下では既に万灯練行列が始まっていた。そして最初の万灯奉安の集団・地元の龍ノ口片瀬睦が階段を上がり本堂前へと。1番目:龍口寺 龍ノ口片瀬睦。小さな子供達も『龍』と書かれた纏を懸命に振り回していた。纏を背中に振り回して。重そうな大きな『纏頭』が光りながら乱舞。その下の『馬簾(ばれん)』も大きく広がり。数人での交代交代での纏の披露の後ろにはお囃子連が。大きな『うちわ太鼓』を懸命に叩いて。『馬簾(ばれん)』がちぎれんばかりに広がり回転するのであった。そして次から次へと20以上の団体が本堂に向けて進み、万灯の奉安、纏振りを披露したので順場にその勇姿を紹介します。纏振りの動きが激しく、なかなかピントが合った写真は撮れませんでしたが。2番目に現れたのが:池上 大坊本行寺本睦会。日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)。女性の元気な纏振り。団扇(うちわ)太鼓や鉦(かね)が賑やかに。見事な池上 大坊本行寺本睦会の万灯と五重塔。日蓮が死去した際に時ならぬ桜が咲いたとの伝説に由来して桜花を模した花が飾られているのだと。万灯をズームで。 ・・・つづく・・・
2019.09.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺の散策を続ける。鐘楼。 延文元年(1356年)鋳造。鋳物師は物部光連と考えられている。藤沢市最古の梵鐘で、後北条氏の時代には小田原にあって陣鐘として使われていたという。その後、足柄の寿昌寺に移され、江戸時代に入って再び遊行寺に戻された。神奈川県の重要文化財。放生池の石の太鼓橋を渡る。放生池の先には御番方そして信徒会館が。元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出された。「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」。こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生されたと。 遊行寺の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この御番方(ごばんかた)と呼ばれる入口から入るのだと。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。 寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いた。左から寺務所、御番方、信徒会館。中雀門を御番方側から。中雀門を本堂側から。安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古い建造物。四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。1880年の藤沢宿大火の被害は免れたが、1923年の関東大震災では倒壊しその後、そのままの形で再建され、現在にその姿をとどめていると。大棟に皇室との深いつながりを示す菊の御紋が。正月の御粧し(おめかし)をした今年の干支のワンちゃん。時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)の本堂。 時宗の宗紋「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」の横断幕も。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られたものと。本堂前の大香炉前で初詣客の交通整理に懸命な遊行寺の僧侶の姿。宗祖 一遍上人像。俣野大権現。遊行寺開基の俣野五郎景平が祀られている。開山の呑海は景平の弟といわれ、呑海が俣野領内の廃寺となっていた極楽寺に住んだことが遊行寺の始まりだと。本堂を俣野大権現の裏から。本堂前階段には初詣客の長蛇の列が。ダルマ販売所。破魔矢販売所。木造で高さおよそ3メートルの日限地蔵様をお祀りしている地蔵堂。遊行寺宝物館。「遊行寺の逸品」展を開催中。明治天皇御膳水井。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。大銀杏。樹高:16メートル、幹周り:6.83メートル。藤沢市指定天然記念物で樹齢700年余りと。時宗 真浄院(しんじょういん)入口。山門。白塀に囲まれた参道。本堂。清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。 本堂内部。ご本尊は阿弥陀如来。 赤門 真徳寺(しんとくじ)。清浄光寺の塔頭。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためと。遊行51代一法はこの寺の檀家から出ていると。三界萬霊。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。本堂。堂内部。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 板割浅太郎の墓。遊行寺の黒門の手前右に、遊行寺の塔頭真徳寺の墓地があり、そこに浅太郎の墓がある。板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害してしまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の塔頭の1つ貞松院の住職となった。貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在遊行寺内の真徳院の墓地にある。「當院 四十二世 洞雲院彌阿列成和尚」と刻まれた石碑。時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺の総門(惣門)・冠木門。右に「時宗総本山」、左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札がかかっていた。惣門前の青銅製灯籠・左。江戸講中をはじめとした信徒たちにより建造が望まれ、天保13年(1842)に建立。鋳造師は、江戸で活躍した西村和泉守藤原政時。後ろの石垣と築地塀は国の登録有形文化財。築地塀は、土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に、屋根瓦を葺いた立派なもの。高さ約2メートル80センチの青銅製の灯籠で、惣門前に対になって建立。右側の灯籠。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。ふじさわ宿交流館に立ち寄る。遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設。「ふじさわ宿交流館」と書かれた幟。箱根駅伝参加大学の幟も。館内では「みんなで応援! 第94回 箱根駅伝」が開催中。箱根駅伝の過去の写真が壁に展示され、テレビ放送も放映中。旧東海道藤沢宿関連資料が展示されていた。当時の藤沢宿のジオラマ。藤沢宿の地図も。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであったと。そして帰路も遊行寺前からバスに乗り帰宅し、再び箱根駅伝の復路10区の選手の激走を楽しんだのであった。
2018.01.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク1月3日の箱根駅伝・復路観戦の後は初詣&散策に遊行寺に向かう。道路の反対側にあるのが(大鋸)諏訪神社。建武2年(1335年)、清浄光寺(遊行寺)を開いた遊行上人第四代呑海が同寺院の鎮守として、信州の諏訪から勧請したことにより創建された。慶安年間(1648年〜1651年)には鳥居の前での落馬事故が相次いだことにより風早之谷(諏訪ヶ谷戸、藤沢本町駅付近)へ転座され、さらに元禄12年(1699年)に現在地へ移転した。以来、藤沢宿東方面の大鋸町や大久保町などにおける総鎮守となっている。明治維新後の神仏分離によって清浄光寺から独立したが、現在でも祭事などでの関わりは続いていると。遊行寺の脇入口・東門から境内へ。境内案内図。 右手に一般的にはお寺にない建物が。神仏分離の為に諏訪神社と遊行寺が分かれてしまっが、昔は仲良くしていたので、今でも遊行寺境内に諏訪神社の神輿社が残っているのだと。社殿内には大きな神輿が2基。酒井重忠逆修六地蔵供養塔。酒井長門守忠重が萬治 3年 ( 1660 ) 1月 15日に逆修のために建立した六地蔵。逆修とは、生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。生前に、墓石に朱書きで戒名を刻むことも逆修。酒井重忠五輪塔。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではと。右手の墓地の中にある堀田家三代の墓碑。一際大きな尖塔角柱型の5つの墓碑が。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から埋葬されたと考えられると。長生院に向かう。遊行寺の本堂裏手にある長生院、別名小栗堂。長生院(小栗堂)。「小栗堂」の扁額が掲げられた入母屋造(後方は宝形造)銅板葺で妻入りの本堂。永享元年(1429年)、清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。遊行寺塔頭の長生院(小栗堂)には、常陸国の小栗十四代城主・小栗満重(小栗判官)の伝説が残されている。足利持氏に背いて反乱を起こし敗れた満重は、落ち延びる途中で藤沢宿にあった横山大膳の館に泊まった。大膳は、遊女・照手姫をつかって満重とその家来10名に毒の酒を飲ませ財宝を奪おうとしたが、満重だけは照手姫によって助けられた。死を免れた満重は、鬼鹿丸(おにかげまる)という名馬で遊行寺に逃れ、三河に落ち延びた後、横山一党を滅ぼしたのだと。満重の死後、照手姫は長生尼となって、満重と家来の霊を弔ったという。小栗判官と十勇士の墓。小栗判事公と十勇士の墓では宝篋印塔が整然と鎮座。照手姫之墓の宝篋印塔。球状の塔身は五輪塔の水輪か?両側に舟形光背観音菩薩像(左は貞享五年(1688)造立)名馬・鬼鹿丸(おにかげまる)の墓。照手姫の厄除地蔵尊。裏手の墓地からの本堂と回向堂(右)。回向堂を裏手から。墓所への石段の上に建つ回向堂は露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺で大きな裳腰を設けている。歴代上人の墓所入口に立つ銅板葺の高麗門と石塀。中央正面に「開山塔」。左右に歴代上人の墓塔が整然と並んでいた。遊行寺の境内奥にある宇賀神社を訪ねる。 徳川家の祖先とゆかりのある神社と伝わっている。 社殿の裏手にまわると、宇賀弁財天が祀ってあります。江戸時代から銭洗弁天として藤沢宿の人々に信仰されたと。そしてこの宇賀弁財天の後ろからは水が流れ落ちており、ここが「淵沢」・水のある淵⇒「藤沢」の地名となったそもそもの場所であると。 本堂と宗徒会館、大書院を結ぶ百軒廊下を潜る。 右手斜め前に放生池が見えて来た。 南部右馬頭茂時墓。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃した。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。彦五郎はその後殉死。弟信長は盛岡に茂時の菩提寺「教浄寺」を建立していると。 ・・・つづく・・・
2018.01.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク箱根駅伝往路観戦の後は、徒歩にて白旗神社に初詣に立ち寄る。寒川比古命、源義経を主祭神として祀る。別名は白旗さま。 白旗神社は、藤沢宿西方面の総鎮守。もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。境内の巨大な絵馬には源義経の姿と4頭の犬が。 ところで写真右の『平成三十年戉戌歳』、今年は『戉戌(つちのえ・いぬ)歳』なのである。一般に干支と言うと、十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類を思い浮かべるが、本来は、五行思想に基づいた「木・火・土・金・水」を更に陰陽二極に分けた、十干と呼ばれる「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類と組み合わせ、合計60通りが存在するのです。戊戌は干支の35番目に当たり、2つ似たような漢字が並んでいる珍しい年であると。ところで十二支と十干の組み合わせで12×10=120⇒120年に一度にならないかの説明は私には解りやすく説明できませんので『干支は何故60通りなのか?』を参照願います。神楽殿 。神楽殿で神楽の舞を見られる時があると。神楽殿内では毘沙門天を祭っている。 社務所の前には色彩豊かな大小の熊手やお札が売られていた。 義経首洗い井戸の案内図も。お札を渡す社務所の巫女さん。 学生?も新年から頑張ってくれています。お炊き上げの火も勢いよく。 境内・神楽殿前から社殿を見上げる。社殿へ向かう階段下から。階段を上がったところにある源義経公鎮霊碑。伝説によると、文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、6月13日腰越の浜で首実検が行われた。その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられている。また、『東海道名所記』は、腰越に送られた義経と弁慶の首は、首実検後、夜のうちにこの付近に飛んできたと伝えている。このことを知らされた鎌倉の源頼朝は、白旗明神としてこの神社に祀るよう指示したのだと。平成11年、義経没後810年を経て、義経公の首実検のあった6月13日に白旗神社の御首と宮城県栗駒町判官森御葬礼所の御骸、両地の魂土(たまつち)を合祀し、義経公の兜を象ったこの鎮霊碑を建立したと。社殿。この社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置。源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」が幕や賽銭箱等あちこちに。拝殿には「忠友殿」の扁額が架かっていた。弁慶の力石。元(霊)玉、神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないという言い伝えが。昔、茶店で一服した農家や町内の若者たちが亀の甲羅に似たこの巨石を持ち上げて力比べをしたと。そしてバスに乗って帰宅し、箱根駅伝の小田原から芦ノ湖までの厳しい上りが続く5区での選手の激走を見守ったのであった。
2018.01.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク妻の実家の近くにある善行神社を訪ねました。善行神社は、源義経を祀る白旗神社の末社。善行稲荷とも呼ばれます。善行団地に行く坂道の途中にありました。鳥居の右側にある石柱には善行神社と。鳥居脇には参道向きに狛犬が一対。左に宝珠を乗せた獅子(阿形)、右に角を持つ狛犬(吽形)で逆位置?に。善行稲荷神社の創建年代は不明とのことですが、嘉永3年(1850)には既にあり、善行稲荷と呼ばれ親しまれて来たのだと。江戸期には金龍寺を別当寺とし、平成9年(1997)善行稲荷と八坂神社を合祀して善行神社になり、白旗神社(藤沢2-4-7)の末社となったのだと。祭神「宇迦之御魂命 手置帆負神 屋船久久能智神 屋船豊受姫神 彦狭知神」を安置。宇迦之御魂神:うかのみたまのかみ、名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神。手置帆負神:たおきほおいのかみ、紀伊(きい)の忌部(いんべ)の祖。 国ゆずり・国土平定の話に登場建築・祭器具製作の神。屋船久久能智神:やふねくくのちのみこと、神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に 産まれた神で木の神。屋船豊受姫神:やねとようけのみこと、神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神。彦狭知神:ひこさしりのかみ、岩戸隠れの時、手置帆負神(たおきほおいのかみ)と共に 天御量(あまつみはかり)を使い木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という 御殿を造った神で、土木、建築の神。以上、商売繁盛 五穀豊穣 家内安全 木の神様(上棟式に記される四神)として篤く信仰されていると。昭和58年(1983)善行稲荷神社時代に改築された社殿(切破風向拝の入母屋造)。社殿の掲額にも「善行神社」。この地域にはその昔、八坂神社と稲荷神社があったようで、これらを合祀して出来た神社とのこと。正面に龍の彫刻をあしらった扁額「善行神社」、格天井張り。 社殿前に善行稲荷時代の神使・狛狐(建立年代不明)も。 狛犬と狛狐が同じ境内に仲良く。 日露戦争記念碑。 塀沿いには、善行地区内各所から移された?文化・寛永・文政・天明期等の地神塔地蔵・双体道祖神等の石仏・石塔群が安置されていた。藤沢市の地理的なヘソ?・善行は、往古の時代から人々の生活の営みがあった地とのこと。江戸期、善行村は東海道藤沢宿の枝郷で、青面金剛には善行村と刻まれた塔が。左は庚申供養塔 寛永4年(1627)の文字が。五輪塔か? 薬師堂本殿の左にある赤い屋根の祠は、現在の善行1丁目21番5の辺りにあった全竜寺から移した薬師堂であると。薬師前に地蔵菩薩立像が祀られていた。 帰宅途中の善行と亀井野との境を流れている白旗川に橋が架かり、コンクリートの欄干が。この橋の場所が昔、藤沢町と六会村の境だったのです。我が養蜂場のある畑の下を流れる小川はこの白旗川に繋がっていると以前義兄から。橋の名は「藤會橋」と漢字で 。橋には入口 、出口が決められているのです。橋の入口には漢字、出口はひらがな。起点に近い方が入口⇒漢字になるのです。基本的に、その道路または線路の両端のうち、東京(道路は日本橋 、線路は東京駅)に近い方が起点とのこと。反対側には「ふじあいばし」とひらがなで。なるほどと再認識。 白旗川の上は暗渠となっており舗装され通路に。 「昭和26年11月竣工」と。藤會橋の手前に「馬頭観世音」と刻まれた供養塔が。この馬頭観世音塔は台座の中央に「馬持中」そして両側に近隣七村の村々の村名が刻まれているのです。我が地域には昔は馬の持ち主・馬主が多く暮らしていたのでしょう。そして鶴嶋天神社(つるしまてんじんしゃ)に立ち寄る。鶴嶋天神社は天満宮と御嶽神社を総本社とする神社。正面に一の鳥居。 二ノ鳥居。 境内はあまり広くないが、多くの樹木が密生した緑豊かな神社。「鶴嶋天神社」と刻まれた社号標。 手水舎。 手水舎の龍は小形ですが、毅然とした姿。 社殿正面。 創建年代は??。御祭神:菅原道真公 と 御嶽(おんたけ)大神御嶽神は御嶽教の主神で国常立神、大己貴命、少彦名命の3柱の神様の尊称だと。梅鉢紋はご祭神の菅原道真の象徴。 手水舎の前には白梅が開花中。「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 。新田自治会館横の藤沢市消防団第十五分団の消防車車庫のシャッターには地元の子供たちによる防火のポスターが描かれていた。 近くにありながら、この神社を訪ねたのは初めてなのであった。
2017.02.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に自宅方面に車を走らせ、西俣野にある神明社を訪ねる。大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政が伊勢神宮より持ち帰った御柱の材を用いて造立され、三浦義澄が社殿を改修したと伝えられている神社。鎌倉氏と三浦氏は、ともに平良文を祖とする桓武平氏の一族。平良文は相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)を本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物とのこと。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵した時に、ここ俣野郷を領していたのは、鎌倉権五郎景政を祖とする大庭一族の俣野景久とのこと。 石鳥居の横に「神明社」と刻まれた石碑。 境内に上る階段。手前には庚申供養塔他様々な石碑や石仏が並んでいた。 青面金剛の庚申塔も並んでいた。境内参道。 左手には赤い帽子を被った石仏が多数。 社殿前に古木の杉が2本。 社殿。 創立年月不詳であると。往古権五郎景政伊勢神宮の御柱の材を持来りて、造立後、三浦介善澄郷の崇敬するところとなり堂宇を修整せりと伝う と。寛政4年(1792)9月再建、弘化3年(1846)11月造営。氏子中にて明治4年(1871)9月再建したと。祭神は大日孁尊 ()(オオヒルメノミコト)と。 更に車を走らせると、御嶽大明神の手前左には小御嶽神社が。小御嶽神社の小さな社は道から一段と高くなった樹木の中、昼なお暗い鬱蒼とした雑木林と竹林が覆っている森の中に鎮座。そして徒歩で2~30m程で御嶽神社に到着。 西俣野にある御嶽神社は西俣野の鎮守。かつては「大日堂」と呼ばれ、大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政や俣野郷を領していた俣野景久が信仰していたのだと。俣野景久は、鎌倉権五郎景政を祖とする大庭氏の一族。境川を挟んだ反対側の横浜市戸塚区の俣野観音堂には、景久の守護仏である「十一面観音」が祀られているのだと。「吾妻鏡に、建久6年(1195)11月19日に、相模の国大庭御厨俣野郷の大日堂に仏聖燈油料として田畑を寄進した」と。もとは鎌倉権五郎景政の頃に伊勢神宮の式年遷宮の時、心御柱を伐り取り造立したものと。寛文元年(1661)、寛政4年(1794)、明治20年(1887)に再建。昭和12年(1937)拝殿改築の歴史があると。 拝殿。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。 向拝(こうはい、ごはい)には精緻な龍の彫刻が。金文字で御嶽神社と書かれた扁額。 境内には猿田彦大神石廟も。 市指定重要文化財(有形民俗文化財)にしていされた、猿田彦大神石廟。 境内にある説明によると、高床式・切り妻造・総高93cm 奥行66cmで、この石廟は延宝8年(1680) 造立、その後天明6年(1786)に 修復されたもの。四柱間の全面扉及び石室の三面壁に、花応院(花應院)、文殊院以下村民四十八人。全体が安山岩質の石造りで、廟の前方に縁を出し、石廟は上床、入口の扉は観音開きになっており、屋根はゆるい勾配で、二枚板石の合わせ葺き前屋根に二枚の猿像を陽刻しているのが特徴。右側の猿は半伽の姿勢で左手に葉付きの桃を 持ち、左側の猿は両手を拡げて猿は両手を拡げて匍匐している。もと字御所ヶ谷に祀られてあったのを後年ここ に移したといわれている。 横から御嶽神社の本殿。本殿は流造り。流造りの構造は、切妻造・平入であるが、側面から見た屋根形状は対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばす方式。 この境内にも庚申塔他石碑が。 俣野山稲荷大明神が拝殿の右側に。 正面鳥居。 鐘楼。 社殿正面。 「正一位俣野山稲荷大明神」 と書かれた扁額。木鼻 右。 頭貫 上。
2017.02.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク旧三觜家住宅からの帰路に地元近くの神社に立ち寄る。まずは立石神社へ。神奈川県藤沢市立石3-3182の一段高い所に鎮座する神社。 手水舎。 吐水龍。 社殿正面と左右に狛犬が。御大典立石神社御造営記念碑には「立石神社は大山祗命をお祀りしております。創建されたのはいつ頃か明らかではありませんが、延宝九年(1671)に社殿造立との木札が残されております。江戸時代は荘厳寺が別当寺でした。昔日照りが続き作物は枯れ食物にも困ったことがありました。土地の人々は神様におすがりするしかないと雨乞いをして大山阿夫利神社より水を貰い受け豊作を祈願して子孫未代の繁栄を祈ったと伝えられています。社殿左側にある石は丹沢大山から運ばれた力石といわれ立石の地名の起源ともなったそうです。例大祭は九月十五日氏子会の善男善女を中心に盛大に行われております。平成四年九月吉日」と。「立石神社」と書かれた扁額。龍の浮彫に囲まれた中に、白い字が浮き上がっていた。木鼻(右)。 木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたもの。獅子鼻の赤い口、舌が生々しかった。 山神宮と刻まれた楕円形の石碑。丹沢大山から運ばれた力石で「立石」の地名の起源となったと。 良く見ると、新しい「山神宮」の彫り字の斜め横下に古い時代の彫り跡も確認出来たのです。庚申塔他。青面金剛庚申塔3基。馬頭観世音(右)他。左は地蔵立像。 境内社が二社。向かって右側に立石稲荷社。 左側は秋葉神社。 境内の神楽殿は立石公民館に。 正面鳥居出口の先に山車殿。 そして下道を100m程走ると左側に立石不動尊があった。この場所は横浜市に水を運ぶための橋・横浜水道の手前。横浜水道は明治 20 年にイギリス 人パーマーによって作られた。相模川から野毛山貯水池までの鉄管の水道 が発端ですが、この水道道は、寒川の取水口から横浜市戸塚区の小雀浄水場ま で、ほぼ一直線に続いているのです。雑草の生える小道を斜め方向に戻ると小さな石の鳥居が右側に。「奉 立石不動尊」と赤く刻まれた石碑。コンクリートで整備された坂道を上っていくと小さな御堂が。御堂の中には、威厳のある姿の不動明王石像が祀られていた。この御堂の左側裏には、1m径ほどの穴が。不動の滝口と呼ばれたと。昔はここから水が滝のように流れていたのだと。御堂前から下の県道方向を望む。
2017.02.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク新春・打掛展を鑑賞した後は、2階に上がると、床の間のある部屋が。床の間に下がっていた漢詩の掛け軸。張継 作 楓橋夜泊(ふうきょうやはく)。『月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓(こうふう)漁火愁眠に対す 姑蘇城外の寒山寺 夜半の鐘声客船(かくせん)に到る』 【月が西に傾き夜もふけたころに、夜烏(よがらす)が鳴き、霜の降りる気配が 天に満ち満ちて、冷え込んできた。 川岸の楓(かえで)の木々の間には漁火(いさりび)が点々として、 旅愁のためにうつらうつらとして眠れない私の目に映る。 故蘇城の外にある寒山寺からは、夜半を知らせる鐘の音が、この客船にまで 聞こえてくる 】の意。 高校時代に「漢文」で学習した懐かしき漢詩なのであった。 更に奥の間。2階は最近改築した模様。2階から、門と庭園を見る。松の老木と開花した白梅。 2階の縁側天井。数寄屋造りとのこと。 欄間の透かし彫りには竹がそよいでいた。 1階に降りると、多くの展示品が。いろいろな祈祷札、鑑札等が並んでいた。 大きな神棚はガラス戸の中に。 14代当主肖像画とのこと。 太い通し柱。太さは1尺1寸5部角(34.5cm角)。私の後ろの上り框の横には大黒柱が。こちらの太さは1尺6寸角(49cm角)とのこと。 いずれも欅や松の良材であると。 面白い戯画をケースに入れて展示中。歌川芳藤の作品であろうか?歌川芳藤は1828-1887 幕末-明治時代の浮世絵師。文政11年生まれ。有名な歌川国芳の門人とのこと。横浜絵、武者絵などのほか、おもちゃ絵をかき、「おもちゃ芳藤」とよばれた浮世絵師。 歌川国芳の猫好きは弟子たちにも受けつがれたようで、とくにこの歌川芳藤の作品は師匠に勝るとも劣らない楽しいもの。 新板 猫 鼠? 仇討の図。忠臣蔵を真似た一場面か?にゃんとも楽しい猫づくし!新 板猫 十二か月? 新板猫 乙女・・・。 こちらにも。 正月の風景? 人形いろは文字。 東京名勝絵図。 いろいろな容器に入れたミニチュアジオラマ? そして仏間か? 脇玄関か? こちらは改築。潜り戸を内側から。竹で編んだランプシェードも美しかった。 邸宅裏にあった手水場。邸宅横の蔵の下部はなまこ壁。薬師門を屋敷側から。薬師門横の白梅は満開中。青空に映える白梅を最後に楽しみ、旧三觜邸を後にしたのであった。
2017.02.04
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク一昨日の水曜日に市内の「旧三觜家 新春・打掛展」に行って来ました。旧三觜八郎右衛門家住宅(羽鳥3の15の5)で2月11日(土)までの毎週水曜と土曜日、「旧三觜家 新春・打掛展」が開かれている、と前日のNHKニュースで知ったのです。開催時間は午前10時から午後3時、入場無料と。三觜家は江戸時代には100石以上の高持(本百姓)で代々八郎右衛門を名乗り、羽鳥村の名主を務め、羽鳥村の農民の4分の3と小作してもらう関係を結んでいたと。11代目は明治初期の高座郡羽鳥村の初代村長を務めた。13代目八郎右衛門は、小笠原東陽を招き学校を開いていたところ、明治5年に学制が布かれると「耕余学舎」という名の小学校に認定された。明治10年に東陽が、私塾を新設するときは三觜八郎右衛門も援助した。その「耕余塾」から各界へ多くの人材が輩出され、その中に後に内閣総理大臣となった吉田茂や、味の素を創設した鈴木三郎助などがいると。2013年(平成25年)に主屋、門、石塀が国の登録有形文化財に登録されたと。 自宅から車で約20分、旧三觜家に到着し門の前の広場に車を停車させていただく。主屋の前方に西面して建つ切妻造桟瓦葺である薬医門が。間口2.7mの木造。両脇に潜戸付きの袖塀を設け、取付部に絵様付きの柄振板を入れる。部材木口を白塗とし、扉の金具類も古式である。冠木や男梁等の材も太く、風格ある外観。屋敷の正門に相応しい格式で堂々たる風格。 今回で2度目の訪問。 潜戸から門を潜ると、この日も目の前に見事に手入れされた庭が拡がっていた。 旧三觜邸の大戸に設けられた潜戸から建物内へ。 係りの方に案内され、住所と名前を記入し設置されている収納ポストへ。靴を脱ぎ上がり、まずは「新春・打掛展」の会場に向かう。 廻り廊下の先の会場は8畳程の和室に、美しい着物が写真と共に展示されていました。写真撮影はフラッシュなしで可との確認後カメラ撮影。まずは 入って右側の黒の振袖。頂いた「展示品 解説」にはそれぞれの着物の詳細が記載されていました。それによると大正時代の「黒地梅に扇几帳模様振袖」と。模様を胸面と襟先から衽(おくみ)そして裾へと配した、いわゆる島原褄風の模様配置の振袖とのこと。(着物の後ろ側の展示でしたが) 袖下には梅と扇模様が。 梅は松・竹・梅 と組み合わせて使われる目出度い模様。梅は、松、竹とともに、雪の中でも蕾をつけて、芳ばしい花を咲かせる「歳寒の三友(さいかんのさんゆう)」 と。扇は別名末広と呼ばれ、その形から発展拡大を意味するこれも縁起の良いもの。 模様は全て友禅染の鮮やかな振袖。 結婚式の時のこの振袖を纏った花嫁の写真も展示されていた。 次には、これも大正時代の鮮やかな「紫地扇面に波頭模様振袖」。こちらも島原褄模様とのこと。扇面に松や菊、流水に紅葉など美しい模様がこれも友禅染で。そして扇面に波頭のしぶきが白くポイントに。 正面には赤い毛氈の上に2揃いの晴れ着が展示されていました。結婚式の花嫁、そして一族の姿や利用した黒塗りの車が写っている写真。 花嫁は横浜の富岡?の富豪から嫁がれた方と近くにおられた地元の?古老から。 結婚式の集合写真。 そして色彩豊かな「鶴草花に風景模様打掛」 明治~大正時代のものと。 肩には霞がたなびき鶴が飛び交い、松に梅菊牡丹が美しく咲いている模様。流水に葦の風景にはここにも鶴が舞い、母屋が配された風景模様。 緑、白、そして黄金の松。波の青はプルシアンブルーという輸入顔料であると。打掛が角を隔てて。その間の奥の唐紙には水墨画が。 部屋の左側の打掛2領。 向かって右側は大正時代の「白地桐に鳳凰模様打掛」。大正8年(1919年)に、三觜家15代当主・三觜進氏と大河原千代さんの婚礼が行われ、その際に着用された打掛とのこと。 打掛全体に大柄な桐と鳳凰が刺繍されていた。 鳳凰は麒麟、亀、龍とともに四霊と呼ばれる想像上の動物で、喜ばしい事があると出現すると古代中国では考えられていたと。また鳳凰は桐の実を食べるので、桐と鳳凰はセットで吉祥模様に登場するのだと。 締めは左側の明治時代の「白地松竹鶴亀鴛鴦(おしどり)模様打掛」。 松竹梅に鶴と亀・鴛鴦などのおめでたいモチーフを組み合わせた蓬莱模様。染色技法は、江戸時代から多用された、染に擦匹田(すりひった、鹿の子絞りを型染めで表す手法)と刺繍。 テレビニュース後の初めての水曜日であったため、混雑を覚悟して訪ねたが思いのほか見物客の姿も少なく、部屋を押し出されることなくゆっくりと明治~大正時代に婚礼で使われた打ち掛け・振り袖など計5点の美しさを堪能できたのであった。そして振袖・打掛鑑賞後は、旧三觜邸の邸内の2階を含む数々の部屋や庭を散策し楽しむ事ができたのです。
2017.02.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク次に用田寒川神社へ用田寒川神社は、藤沢市用田字御手洗水にある神社。1574(天正2)年、伊豆河津庄の領主伊東氏の子孫といわれる用田の豪族、伊東家の伊東孫右衛門の勧請により作られた。1873(明治6)年に村社となり、現在も用田の鎮守として地域の人々人親しまれていると。境内には速素盛雄命(ではやすさのおみこと)を御祭神とする八雲神社もあり、八雲神社例大祭では濱降祭に出御したこともある神輿も担がれるのだと。 入り口にある鳥居と狛犬。右にはご神木そして「元村社寒川神社」と平成九年に建てられた「用田寒川社」の二つの社号標が建っていた。本堂がある境内まで参道が伸びていた。 手水舎。 神楽殿。 本堂。 ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)[別名]応神天皇(おうじんてんのう)。ご祭神の品陀和氣命は通称「八幡さま」と呼ばれ、第15代天皇。八幡さまは農耕神、海の神 。ご利益は出世開運、武運長久 他 とのこと。境内の八雲神社。 階段の先には鐘楼が。 鐘楼。 鐘。 社寺譲受記念碑。 境内には用田公民館が。 鳥居の柱は途中で何段か繋がれていた。この鳥居は大正十一年建立。社号標裏面によると平成九年に参道の拡幅に併せて境内の整備を行ったとある。鳥居の横に立つ巨大な松の御神木 門前に『用田市民の家』 があった。 『用田(ようだ)』の 地名の由来が書かれていた。昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて「ク(苦?)」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、用田郷の地名が既に見られたといわれていると。藤沢市用田の用田の辻交差点付近にある史跡である大山街道の道標を訪ねる。丹沢山地の南東部に位置する大山と大山阿夫利神社は「雨降山、阿夫利山(あふりやま)」と呼ばれ、五穀豊穣の守護神として崇められ、江戸時代中期には江戸や関東周辺の人々の間で大山詣が流行した。この大山詣の人々が通ったいくつかの道を大山街道と呼びます。御所見地区を横断する大山街道は「柏尾通り大山道」と呼ばれ、横浜市戸塚区柏尾町付近で東海道からわかれ、横浜市中田、藤沢市長後、そして用田、門沢橋を通り相模川を渡り、厚木市・伊勢原市を通って大山に至るのです。この道と中原街道が交差する交通の要衝がここ用田の辻。当時は十数件の旅籠や茶屋が並び宿場町として栄えたと。用田の辻にあるのがこの不動明王で、1775(安政4)年、「右大山道」という銘が刻まれていた。 不動明王座像をズームで。像とその下の道標の材質は異なるようですので、いつの時か道標の上に載せられたのでしょうか。 不動明王座像の後ろ姿はなぜか寂しそうに感じられたのです。右下の小さな道標には「西座間村」と書かれているようです。この日の最後に藤沢市用田地区に入って、県道22号線旧道と43号線が合流する御所見中学校のそばの歩道橋の下の道標を兼ねた庚申塔を訪ねました。 県道に面して笠塔婆型角柱塔 六手合掌青面金剛が。 元禄15年(1702)建立。元禄15年と言えば赤穂浪士が討入りした年。「従是かしをとつかへの道」、裏面には「従是ふぢさわゑのしま」と刻んであるようですが・・・・。青面金剛の裏面が摩耗がかなり進んでいました。
2016.11.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク用田の女坂一般廃棄処分場の近くに、特徴のある屋根の本堂が。中央が突き出ている本堂の屋根。「女坂の花桃のお寺」で知られる用田の日蓮宗妙龍山薬王寺。寺標の向うに日蓮上人の立像。 3代続く尼寺とのこと。ご本尊は薬王菩薩。 『薬王寺』 と書かれた扁額。本堂内部。 薬王菩薩石造か? 境内右手には3本の石柱が。 薬王寺を後にし、中将姫祠に向かう途中の中原街道手前の藤沢市用田33、女坂の石塔列。一番右から馬頭観世音塔、単体道祖神、安曇野型双代道祖神、不明石、そして一番左に文字庚申供養塔。馬頭観世音。安曇野型双代道祖神。比較的新しそう。 その先の小さな祠には地蔵様が。 東海道新幹線の下を潜り、狭い農道を進むと『中将姫入口』の案内板を発見。 畑道を通り林の中を下ると竹林が拡がりその中に中将姫の祠が鎮座。『中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い継母に育てられた。しかし、その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ面で顔を隠す逃亡生活。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へと納められたが盗難に遭い現存していない。その後、姫は父と再会し一度は都に戻ったが願いにより当麻寺へ入り、17歳で中将法如として仏門に入り称賛浄土経一千巻の写経を達成した後、阿弥陀如来と観世音菩薩の力の元に、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。その後29歳を迎えられた中将法如は、光仁天皇の宝亀6年(775)3月14日、諸仏の来迎を受けて大往生を遂げた。』と案内板に書かれてあった。鎌倉材木座の光明寺には、中将姫の伝説を描いた『当麻曼荼羅縁起絵巻』が伝えられ、鎌倉国宝館に寄託されているとのこと。この祠は、逃避行中に姫がこの地に隠れ住んだという伝承があり、お参りすると子宝に恵まれるといわれていると。中将法如の命日である毎年3月14日には地元の中条の人々が集まってお祭りを行うとのこと。中将姫祠内部。中央に中将姫の姿が描かれた額に入った絵画。『当麻曼荼羅縁起絵巻』(二巻)は、奈良当麻寺の浄土変相図の由来を描いたもので国宝。奈良時代、聖武天皇の頃、横佩の大臣(藤原豊成)の姫が極楽往生を祈念し、蓮糸で曼荼羅を織りあげ、やがて阿弥陀如来のお迎えを受け、極楽へ旅立つという物語。この後は更に歩を進め、相模丘陵の間を流れる目久尻川沿いに建つ寺 寿昌寺を訪ねる。 護法山と号する用田の字中条にある曹洞宗の寺院。1613(慶長18)年に創建され、開基は用田区の豪農にして大庄屋として知られる伊東家の伊東孫右衛門、開祖は僧・通山。元遠藤宝泉寺の末寺で、6世悦道が中興の祖とされている。山門付近には大銀杏が2本あり寺のシンボル、続く参道も石燈籠が並び豊かな緑に囲まれていた。また、創建以来ほとんど火災に会っていないほか、関東大震災でも倒壊しなかった数少ない寺院のひとつで、本堂には地獄絵図2幅、十六羅漢像、まわり地蔵などが残されていると。 『曹洞宗 寿昌禅寺』と刻まれた寺標とその横に『寿昌寺略縁起』の石碑が。『無縁之塔』には多くの無縁仏の墓碑がピラミット状に積まれていた。 山門横に六地蔵とその左に3体の仏像が。歴史を感じさせる重厚な姿の石灯籠。 境内にあった小さな社。 山門は質素ではあったが、歴史が感じられる造り。山門から本堂までの参道は良く手入れた植栽が左右に。参道を進み、本堂手前まで進む。 十三石塔。 参道脇のお堂。 屋根が拡がる本堂。 『護法山』と書かれた扁額。 本堂内部。本堂手前の観音像。 優しいお顔の掃除小僧にお会いしました。 菩薩石造。 歴代大和尚の名が刻まれた大きな石板碑。開山の僧 通算ぎん(門篇に言)達大和尚 慶長4年(1599)から現和尚まで34代の名が。境内から再び山門を見る。 道に迷いながらも伊東家墓地へ。この伊東家の墓は、かつてこの地にあった豪族伊東家の墓が集まる史跡。伊東氏は、戦国時代に伊豆からこの用田の地に移り、用田村を草創した一族。江戸時代には相模でも屈指の豪農・大庄屋として栄え、菩提寺である寿昌寺や示現寺、用田村の鎮守である用田寒川社を創建するなど、現在でも残る寺社を残しているのだ。この史跡は、深い森のなかに寛永年間から近年までの一族代々の墓碑や庚申塔など、300基近くがが並んでいるのだと。
2016.11.20
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク瀧出現不動尊の横にある皇子大神(おおじおおかみ)を訪ねる。創建年代は不詳とされているが、桓武天皇の第三皇子葛原親王を奉祀していることから、垂木御所、乗福寺とともに垂木主膳長田武蔵守平忠望によってつくられたとの説もあると。かつては皇子権現と称しており、1869(明治2)年に現在の名称に改称。また、1879(明治12)年の神仏分離まで長盛寺(現在の滝不動)に所轄されていた。現在でも、葛原地区の鎮守さまとして地域の人々に親しまれ、木々に囲まれた社までの長い参道は、葛原親王を奉祀するのにふさわしいたたずまいを見せているのだと。境内入り口左の石塔群。 再建の記念碑。記念碑によると神社の鳥居はFRP製と。長い参道。人の姿もない鬱蒼とした杉木立の木々の中、ゆっくりと歩を進めると自然と厳粛な気持ちに。手水舎。手水舎はかつて寒川神社にあったものが、寒川神社の新改築によってここにに払い下げられたものであると。何故かこの日は水がない・・・・??参道を抜けると正面に本殿。御祭神は葛原親王(かずらわらしんのう)、葛原親王は、第50第天皇である桓武天皇の第三皇子。8~9世紀頃の皇族で、平家の祖と言われています。そして素盞嗚尊(すさのおのみこと)。素盞嗚尊は嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神。本殿の屋根の美しい曲線。 黄金の枠に縁取られた神額。 本殿内部。皇子大神 恒例祭事案内板。神輿社。境内には八坂神社が合祀されており、壮麗な神輿があると。神楽殿。社務所。参道を引き返すと、以前の石鳥居が保存?されていた。1907(明治40)年に建立され、関東大震災にも耐えたものだが、老朽化により建て替えられたもの。苔むした石灯籠とその前にはFRP製鳥居が。次に訪ねたのは乗福寺。寺の前にある駐車場に車を停める。ピラカンサスのオレンジ色の実が美しかった。乗福寺は葛原の字女坂にある、万年山昌寿院と号する曹洞宗の寺院。乗福寺山門と付近の様子。 乗福寺の寺標。 萬年山と書かれた扁額が山門に。参道の両脇には南無観世音菩薩の旗が。 境内の地蔵尊。こちらにも石仏が。三皇神社と刻まれた小さな石の祠も。境内にあった観音様。こちらにも小さな祠が。境内には十月桜が満開。毎年、年に二度開花する。エドヒガンの系列でコヒガンの雑種とされている桜。花弁の縁が薄く紅色。十月桜と冬桜は似ているが、花弁と花びらの数は、十月桜は”八重”で、花びらは5~18枚。冬桜は”一重”で、花びらは5枚。1027(万寿4)年ごろ、葛原親王の子孫で葛原を領有していた垂木主膳長田武蔵守忠望の勧進によって開基、僧、朝岩尊夙(ちょうがんそんしょく)によって開山された。以来、長田家の菩提寺として歴史を刻んできた寺。元は真言宗の寺であったが、遠藤にある曹洞宗宝泉寺の6世朝岩によって再興された時から曹洞宗となったという。手水舎。しかしその下には水道の蛇口とアルミの流し台が。本堂。本尊は釈迦如来。乗福寺と書かれた扁額。子育て地蔵。三界萬霊等(さんがいばんれいとう)と刻まれた石碑。三界とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天と。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別されると。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」というのだと。「萬霊」とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すと。『不許葷酒入山門』と刻まれた石碑。再び山門。
2016.11.19
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢市葛原の田園の中にある神社にまず立ち寄る。畑道の横の1段上にある小さな神社。垂木御所跡に建つ葛原神社 社殿。 その昔、桓武天皇第三皇子葛原(かつらはら)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳(長田忠望)がこの地に館を構えたので里人が垂木(たるき)御所と呼んだ。その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだとのこと。社額には『葛原親王(かつらはらしんのう)』と書かれていた。 葛原親王は平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。昔からの言い伝えによれば、『葛原』の地名は、ひとつには桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王がこの地におられたので高倉郡(タカクラゴオリ)「葛原村」となったと言われ、また、その一族(長田武蔵守平忠望)がこの地に住んで領主となり、祖先の葛原親王を鎮守として崇めていたので「葛原」という村名になったとも言われている。あるいは、葛がおい茂る原だったからだとの説もあるが、やはり葛原親王にちなんで付けたと思われるとのこと。笠木(かさぎ)は額束(がくづか)の上で2本を切り欠き段差で繋いでいた。 南葛野交差点横の石塔群。塩井淵の辻と呼ばれる交差点が現在のこの南葛野交差点付近にあり、現在でも1781(安永10)年銘の出羽三山供養塔と1850(嘉永3)年銘の道祖神が残っているのだと。葛原中村の道祖神。1850(嘉永3)年銘。 そしてその横には 角柱塔「月山/湯殿山/羽黒山 大権現」 安永十年(1781) 。『相模國高座邑?葛原郷講中 導輩? 長盛寺』と刻まれていた。瀧出現不動尊に到着。 『厩戸皇子』塔が建っていましたが・・・どの様な縁起? 『瀧出現不動尊』と刻まれた石碑。参道。瀧出現不動堂は、1655年に明滝山長盛寺として創建された模様で、別の地図には高盛寺不動堂とある。単なる不動堂が建っているのではなく、境内には歴史を感じさせる石鳥居、石燈篭が並び、しめ縄を張った木造堂が建っていた。また鐘楼、地蔵堂、十三石塔も。 鐘楼。 鐘。 拝殿。拝殿の鬼瓦も見事。 平たい鈴・「鰐口」。 「鰐口」は概ね寺院にあるが、この神社も鐘楼等も含めて神仏混淆の面影が残されていた。この鰐口(享保11年銘)は戦時中の供出を免れたもので、市内には3~4個しかない貴重品とのこと。十三石塔。 瀧不動尊縁起碑。葛原不動尊由来記によると、昔、葛原の領主小泉佐渡守(小泉姓の祖)の寝中、不動明王が夢枕に立った。驚いて目覚めた佐渡守は、直ちに家中を集めた。 「明王は水中におわしますぞ」…村中総出で探した所、夢のお告げのとおり滝壺の中から一体の御仏を発見した。これが長盛寺滝出現不動明王とのこと。 それから5年後の1654年、地頭の長田喜左衛門重昌が病気になり、名主はこの不動明王に三十三日間の子の刻参りを行ったところ、霊験により病が回復した。長田氏は翌年堂を建立し、奉拝したという。現在、不動明王像が発見された滝は埋め立てられ、人工池に姿を変えている。なお、平成3年に「滝不動尊夢次第書」という古文書が発見されているとのこと。 地蔵堂。 馬頭観世音の石碑が並んでいた。 滝出現不動尊 人工池。 旧暦3月28日の滝不動の縁日(瀧出現不動尊の例祭)では草競馬が行われ、400mの廻り馬場で近隣の農耕馬達がその速さを競いあったと。はじめは直線200mの直線馬場で、行ったきりで鉄砲馬場と呼ばれていたと。この日は露天商も並び、10キロ以上離れたところからも徒歩で人々が集まり、多い時で数千の人と50頭もの馬で身動きのできないほどの賑わいだった。またこの祭りをきっかけに若い男女が結ばれたので「見合競馬」とも呼ばれていたと。しかし機械化が進み、馬の姿が村から姿を消し始めた昭和20年代初めにこの草競馬は中止されたと。 池近くの石塔も素朴な形。
2016.11.18
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク下土棚にある白山神社に向かう途中、善然寺の墓地裏にあった小さな稲荷神社。 そして22号線を横断し白山神社に。 石の鳥居の手前左にあった狛犬 阿像。 参道を進み境内へ。善然寺の解説碑にあるように白山権現は下土棚の氏神。社殿左前に寛永四年(1664)の再建の記念として植樹されたという樹齢三百五十年の大銀杏が。社殿。天正十八年(1590)、徳川家康に従って三河国より東上した竹尾三九郎は下土棚の地頭を命じられ、下土棚の支配は七代目・竹尾善左衛門元貞まで続いたとのこと。善然寺には「相模国土棚郷」と刻まれた善左衛門元貞の墓碑が今に残る。此の墓碑は「土棚」という地名が残されている最古のものと。 文化六年(1809)頃には松平築前守及び遠山清右衛門の支配下にあり、幕末には江川太郎左衛門の支配下に属し、明治維新を迎えたのだと。奧の本殿を斜めから。御祭神は伊邪那岐命、須佐之男命。庚申供養塔群。一番右の庚申供養塔には寛政?年の文字が。その他の庚申塔の年代は確認できなかった。境内社。 右手に「堅牢地神塔」 嘉永六年癸丑二月(1853)。 春分、秋分に最も近い「戌(いぬ)の日」を社日(しゃにち)といい、我が地域付近の各地では、前夜に講の人々が当番の家に集まり、神禮寺(藤沢市酉俣野町)の「堅牢地神(けんろうじじん)の掛軸をかけて、地神(じじん)の日待(ひまち)を行い、翌日の社日は農耕作業を休んだと。社日は、田の神と山の神が交代する日と考えられたため、その年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀るこのような行事が行われるようになったのだと。よって堅牢地神塔は地神(じじん)信仰の石塔。私が子供の頃、我が生家でも近所の人が当番の家に集まり『おひまち(御日待)』と呼ぶ今で言う食事会を行っていたことを想い出したのであった。その食事会用に、米を一合ずつ集めるために私が近所の参加者の家を訪ねた事も懐かし想い出。境内西側には招魂塔が2塔。左の招魂碑には『日中戦争から太平洋戦争終結迄に、当地の白山神社、社殿にて祖国の為にと念じ出征して大陸、孤島洋上に於いて、参戦し戦死をされた勇士の御霊を祭るもので有ります。犠牲となられた尊い御霊の安らかなる眠りと併せて世界平和を祈念し遺族有志、並びに賛助者によって建立されたものです。』 と。この白山神社社殿から出征していった大東亜戦争の戦没者28柱の名前、没地、没年月日、年齢が詳しく刻まれていた。平成11年9月建立。 碑高198cm、幅190cm、厚さ35cm、台石60cm、基壇65cmの石碑に合掌。境内社(右)と神輿舎?。 石碑が2塔。右手は石祠、年不詳。 自然石板碑。「水神宮」と刻まれていた。明治十九年十二月吉日。
2016.11.09
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