全6298件 (6298件中 151-200件目)
「熱海梅園」の紅葉を楽しんだ後は、イチョウ他の黄葉が美しいとネットで紹介されていた伊豆市堀切にある「益山寺(ましやまでら)」に向かって進む。走行ルートは数のごとく静岡県道11号熱海函南線~国道136号・伊豆中央道~修善寺道路を利用し進み山田川沿いの狭い山道を登って行った。そして「熱海梅園」から1時間強で「高野山真言宗 養伽山益山寺(ようかざん ましやまでら)」に到着。標高300mの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺。空海(弘法大師)の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。山中にある落ち着いた雰囲気で、お地蔵様、石仏など安置されていた。毎年1月の第3土曜・日曜に「星まつり」が行なわれ、護摩を焚いて1年間の幸福を祈り災いを除く真言密教の儀式が行われるとのこと。境内にある大楓は県指定の天然記念物で、根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほどで県下最大の楓と。木肌が美しく保存は良好で、瘤が多くあり盛り上がる力強さは、風雪に耐えた歴史を見せていた。市指定の大イチョウを従え、この時期・秋の紅葉は美しく、境内にある石仏群と調和してみごとな風物絵巻となっていた。本堂の右奥には延喜式内社である伊加麻志神社(いかましじんじゃ)があった。静岡県伊豆市堀切760。境内の庫裏前には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーの姿が。「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」への石段に向かって進む。「奉納 南無千手観世音菩薩」と赤地に白の文字で書かれた幟が並んでいた。石段の途中から見上げると、前方には黄色く色付いた巨木の姿が現れた。左手にはイチョウの葉が落ちて、一面黄色い絨毯のごとくに。そして石段の上・右側にあったのが、大きく傾き支柱で支えられている「大楓(オオカエデ)」。推定樹齢900年、県下最大の大きさといわれる「大楓(オオカエデ)」の紅葉。廻り込んで。見事な紅葉を見上げて。樹高約27m・根廻り約5m・目通り約4mのコブだからけのダイナミックな枝ぶりの大カエデがどっしりと構えていたのであった。「養伽山益山寺標高三百メートルの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺である。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っていると。境内並びに参道には百体の観音の石仏があり、県内でも珍しい石仏群集地である。又幕末の剣客「直指一刀流居士」の墓及び県指定の大楓、市指定の大銀杏がある。大楓(昭和30年2月25日静岡県 文化財指定) 根回り:五.四六メートル 目通り:四.〇五メートル 樹齢 :八百六十位の県下最大の楓大銀杏 (昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年 伊豆市教育委員会」「大楓」の周囲には千手観音の幟や、苔むした123体もの観音石仏像も安置されており、一般的な紅葉スポットと言うよりは歴史を感じる厳かな雰囲気が特に印象的なのであった。参道の両側に並ぶ「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟。近づいて。その奥にも観音石仏像が並んでいた。「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」。「養伽山益山寺」の名前は、一説によると、隣の神社の社号の「伊加麻志」から「伊加→養伽」、「麻志→益」となったらしい と。伊豆88遍路8番札所・養伽山益山寺。賽銭箱が何故か置かれていなかった。「本堂 内陣」を見る。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っているとのこと。ズームして。こちらが「大銀杏」(昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年「大銀杏」の周囲にも「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟が。再び「大楓」を振り返る。「益山寺」の「本堂」右の石段の先にあったのが「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」。参道を進む。狛狗(右)。狛狗(左)。「益山寺」境内の「観音石仏像」を振り返る。正面の石鳥居を潜って石段に。石段を上ると正面に「伊加麻志神社」の社殿。創祀年代は不詳とのこと。式内社・伊加麻志に比定されている古社。『伊豆國神階帳』に「従四位上 高山の明神」とある神社。社号の「伊加麻志」は、益山の近くに、加麻ガ洞という谷があることから付けられたとも駿河国の伊河麻神社を祀っていた人々が当地に移り住んで、氏神として祀ったとも考えられている。あるいは、「伊加」という語が「神聖な」という意味であるとも。また、益山の名は、猿山(ましやま)からの転訛であるという説もあるようで、結局、なにがなにやら、という感じだ。明治までは、三島神社と称していたことから現在の祭神は、事代主命 (ことしろぬしのかみ)だが、多くの資料では、祭神不詳と。『静岡縣神社誌』には三島大社の御子神とある。「疫病終息祈願 静岡県神社庁」と書かれた幟。社殿の扁額「式内伊加麻志神社」。「伊加麻志神社」社殿前から石段、石鳥居。狛狗を見下ろす。そして石段を降り再び「大銀杏」下に。「大銀杏」の上、下は一面の黄色の世界が拡がっていたのであった。陽光に照らされた、黄金の世界が拡がる。再び「大楓(オオカエデ)」に近づいて。廻り込んで。奥には無縫塔が並ぶ墓地があった。「益山寺」の歴代住職の墓地であろうか?「大銀杏」と「観音石仏像」を振り返って。近づいて。黄色の世界を追う。再び「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」を見る。「観音石仏像」に近づいて。本堂下広場の御地蔵様達。そして庫裏まで戻る。「星祭り(星供)」案内。「星祭りについてみなさんは自分の生まれ年、その年々によって、みなさまを導く三つの星があるのをご存じでしょうか?生まれ年による星は本命星(ほんみょうじょう)、元辰星(がんじんじょう)という北斗七星の中の星。年々により変わるのは當年星(とうねんじょう)という九種類の星(日曜星、月曜星、計都星等)があります。この星には吉星と凶星があり、私たちはこの星の導きにより、一年間(節分から翌年の節分まで)の吉凶があります。真言密教では、『宿曜経』などのお経に基づいて、みなさまのその年の星に対してお薦めし、吉星である方にはますますその益が増しますように、凶星の方には難事(災)を小さい難事(小災)で済むようにお勧めする修法があります。今からおよそ千二百年前の八〇四年、弘法大師空海が中国(唐)に渡り、インドから伝わった密教のすべてを授かって日本に帰りました。星供もその時に伝えられました。その後、村上天皇や白河天皇のご命令によって、当時の真言宗の高僧は、この星供を修法し、天皇のご健勝、また国家安穏をご祈願されました。このような伝統ある修法により、みなさまの一年間のご健勝をお祈りいたします。弘法大師が建立された当益山寺では、星供祈願のお印として、御札、祈願だるまをお分けいたします。特に凶星にあたる方には、この星供にてご祈願することをおすすめします。みなさまの本年のご健勝をお祈り申し上げます。高野山真言宗 養伽山益山寺小住合掌」寺の関係者の姿はなかったが。「だるま、招き猫」が並ぶ。「厄除開運 星祭護摩祈願」案内。「厄除開運 星祭護摩祈願」の様子。そして「益山寺」を後にして、往路と同じ路を引き返す。途中山の岩肌に丸く空いた穴が。何か仏の姿が陽刻されているように見えたが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.08
コメント(0)
さらに「熱海梅園」の梅の花を楽しみながら進む。 蝋梅の黄色い花。既に花のピークは過ぎていたが。そして「韓国庭園」手前の「足湯」に到着。梅まつりの期間中限定で毎日足湯を利用できるのであった。しばしベンチで休憩しながら、シャッターを押していたが、私も足湯に入ったのであった。湯温は44℃前後はあったのではなかろうか。あっという間に、私の足の膝下がピンク色に染まったのであった。「血の巡りが良い」と考えて良いのだろうか?「足浴とは、温めながら足を洗浄するケアのことで、身体の一部分だけをお湯につけて洗う部分浴のひとつです。病気やケガなどによって全身浴が難しい方に取り入れられることが多く、足先を清潔にする以外にも足のしびれや痛みを和らげる、血行促進、睡眠促進のために行われることがあります。足浴は、全身浴に比べて温熱作用や水圧による影響が小さく、身体への負担が少ないというメリットがあります。また、服を着たまま行えるため介護する側もされる側も羞恥心なく行え、全身浴に比べ介護の負担も軽減されます。寝たままの状態でも行える足浴は、介護度が重度の方のケアにも役立ちます。」 とネットから。そして次に訪ねたのが昨年12月上旬にも訪ねた「韓国庭園」👈リンク 。何と書かれていたのであろうか?左から「イン」、「ミョン」 、「ウィ」 、「チプ」 であろうが?「大門」を園内から。そして次に「中山晋平記念館」に向かう。途中にあった「歌碑」?「春の野に すみれ摘(つ)みにと 来(こ)しわれそ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける巻八ー一四二四 山部赤人」。【春の野にすみれを摘もうと来た私は、野に心をひかれたので一夜寝てしまった。】「立ちて思ひ 居(ゐ)てもそ思ふ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾(すそ)引き 去(い)にし姿を巻一一ー二五五〇 大蔵忌寸麻呂(おほくらのいみきまろ)」【立っては思い座っても思う。紅の赤い裳の裾を引いて去っていった姿を。】 「一本(ひともと)の なでしこ植ゑし その心 誰(た)れに見せむと 思ひそめけむ巻一八ー四〇七〇 大伴家持」 【一本のなでしこを植えた私のその心は、誰に見せようと思いたったのでしょう(貴方にお見せしたかったのです)。】そして「中山晋平記念館」👈リンク 展望台より。園内の売店には「梅抹茶」や様々なお茶が土産物として。「第80回 熱海梅園 梅まつり 行事案内」。 「熱海梅園 初川」は、現在はトイレのみであっただろうか?そして八分咲き?の「熱海梅園」を大いに楽しんだのであった。そして「熱海梅園」を後にして次に訪ねたのが、「うみのホテル 中田屋」。熱海ビーチラインから入り暫く進むと、左手への路地があり、小さな駐車場に車を駐めた。国道135号から山を下り辿り着く細い道もあるのだが。静岡県熱海市伊豆山604−10。「伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿」の碑。「うみのホテル 中田屋」は江戸時代後期の享和元年・1801年に創業。実測による日本地図を初めて作ったことで知られる測量家、伊能忠敬の測量隊が宿泊したとされている。しかしながら現在は閉鎖されているようであった。ネットには「相模湾を一望できる露天風呂や新鮮な海の幸を使った料理が人気で、2014年6月期は約2億2800万円の売上高を計上したが、過去に行った施設改装のための借り入れの返済などで経営が逼迫。2019年8月に営業継続を断念していた。」 と。以前は、走湯の目の前にあるこの「うみのホテル中田屋」浦に、「走り湯資料館」がありその歴史にふれることができるほか、走湯で作った温泉卵「走り湯御玉」が販売さていたが、これも現在は閉鎖されていたのであった。「伊能忠敬」像。江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人物。忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担った。第9次の測量1815年(文化12年)12月(旧暦)、忠敬は弟子11人とともに八丈島と伊豆七島を測量し、下田から伊豆東海岸を測量するの旅の中で熱海を訪れた。12月(旧暦)13日に網代、14日下多賀、15日、16日には熱海を測量し、それぞれ宿泊。17日に伊豆山に入り、18日から海岸沿いに小田原まで測量したのち、熱海に引き返し、熱海で年越しをするなど、約1カ月間滞在した。1801年にも熱海を訪れ、熱海本陣や網代、初島に宿泊している。江戸時代に初めて日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬測量隊の一行が、熱海に合計で45泊していることが分かった。測量隊が最も多く宿泊したのは本土では岡山の64日が最高で、北九州、熱海、下田の順だったといい、「熱海には本土では3番目に多い45日宿泊し、地図の製作や温泉で旅の疲れを癒したと思われる」と。第9次測量のルート図(赤線)をネットから。文化12年4月27日総員数11名で江戸出発。藤沢、小田原、下田街道(三島、韮山、天城、下田)へ。伊豆七島(三宅、八丈、漂流して三浦、御蔵島、三宅、神津島、新島、利島、下田、大島)、下田に戻る。ただし、伊豆七島の測量には、伊能忠敬は高齢もあり、唯一参加しなかったのだと記憶しているが・・・。右手にあったのが「伊豆山温泉 走り湯」の案内柱。その先には16段の石段が。「日本三大古泉 走り湯」。「走り湯」案内板。「走り湯(はしりゆ)この温泉は今から約一ニ〇〇年前に発見されたと言われている全国でもめずらしい横穴式源泉です。山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちるさまから「走り湯」と名づけられました。また、「伊豆」の国名が走り湯の「湯出」(湯出ずる国)に由来するとも伝えられています。湧き出す湯が病を治し長寿に効験があるとされ、古くから神格化し信仰の対象としておりました。この山の手に位置する「伊豆山神社」は江戸時代まで「走り湯山・走湯権現」とよばれ源頼朝が信奉し、源氏再興の基を作ったとして歴代鎌倉将軍の信仰をあつめました。鎌倉時代以後は、ニ所詣(走湯権現・箱根権現の参詣後に三島大社も加えられる)が普及して、武家や東国に下向する公家等が参詣に訪れました。室町時代には文人・高僧や各階層の旅行者が湯治を兼ねて訪れ、江戸時代に入ると熱海に湯治に来た諸大名が参詣の折に必ず走り湯の見物をして帰ったと言われ、「大湯」とともに熱海の名を広く世に知らしめました。鎌倉三代将軍源実朝はニ所詣での折に走り湯にて次の三首の歌を詠んだといます。「わたつ海の なかにむかひで いづるゆの いつのお山と むべもいいけり」「はしるゆの 神とはむべそ いひけらし はやきしるしの あれはなりけり」「伊豆の国 山の南に いずる湯の はやきは神の しるし なりけり (金槐和歌集)」走り湯内部案内図。幅約5尺(1.5m)、高さ約5尺3寸(1.6m)の隧道の奥に「走り湯」の湯口がある。養老年間(717年~724年)当時、1日約七千石( 1分間に約900リットル)が湯滝となリ奔流となって海岸に流れていたと言われている と。「伊豆山神社参道「いまむかし」」案内板。「伊豆山神社参道「いまむかし」現在の伊豆山神社の参道は837段のコンクリート製階段が確認されていますが、昭和30年代初期までは写真にあるとおり浜石の石段でとても情緒的で壮観であり又、その石段は海から神社本殿まで繋がっていました。現在ではコンクリート製階段の下に写真の浜石の石段がほとんどの部分眠ってしまっています。時代の流れの中で浜石の参道は姿を変えてしまいましたがそこから見られる雄大な相模湾や沖に浮かぶ初島などの景色は平安の頃より変わらぬ表情を見せてくれています。悠久な時の流れの中で、偉大なる先人たちが国家の安泰、国民の幸せを願いながら歩いた参道を、あなたのその足で歩いてみてください。かって源頼朝と北条政子に運命の導きを与えた伊豆山の大神があなたにも微笑みかけてくれるかもしれません。」「江戸時代の伊豆山神社参道」(右)と「現代の伊豆山神社参道」(左)「江戸時代の伊豆山神社参道」(右)をズームして。伊豆山神社参道について当、伊豆山神社はその参道のほとんどが階段であることから「歴史の証人になりませんか」の呼びかけで多数の参加者によリ平成22年2月14日に神社参道階段の段数調査が行われました。1、神社参道を、伊豆山浜から神社本殿前までとする。1、踊リ場の長短かかわりなく1段、段の高低にかかわらず段のあるところは1段とする。1、宮下で横断する市道の段差は、階段としない。浜から本殿前まで837段あったと。「逢初坂(あいぞめざか)」碑。国道135号の伊豆山郵便局の西から南西に下り、さらに狭い石段を複雑に曲がりながら海岸近くまで。坂下近くに“走り湯”の源泉がある。Aizomezaka走り湯~逢初橋 Hashiriyu Hot Spring—Aizome Bridge200m 200meters 逢初地蔵 Aizome Jizo Buddha走り湯の源泉 Wellspring of the Hashiriyu Hot Spring走湯神社 Hashiriyu Shrine海浜プール Kaihin Swimming Pool花火大会 Fireworks Festival 仲秋名月歌会 Autumn Moon Poem Festivalさざえ祭り Top- shell Festival伊豆山神社例大祭 lzusan Shrine Mein Festivalこちら中央は「役小角(えんのおづぬ)という仙人の石像」。走り湯は、この役小角が見つけた源泉だというエピソードが残っているのだ と。「役小角」は、鬼神を従わせる力をもつ仙人であったが、その優れた力をもつあまり、都で好き放題していたのだと。「走り湯と役行者(えんのぎょうじゃ)」と「役行者」 案内板。 「走り湯と役行者(えんのぎょうじゃ)伊豆山の海岸の洞穴から熱いお湯が海に向かって流れ出ているのを知っていますか。昔は、もっともっと勢いよく、走るように流れ出ていました。それで「走り湯」と名付けられています。この「走り湯」には次のような話が伝わっています。昔、文武天皇のころ(西暦699年)役行者という仙人がいました。この仙人は、鬼神を使って、水を汲んだり、薪を割らせたり、掃除をさせたりする事ができました。そんな力のある役行者は、しだいにわがままになり都で自分勝手の振る舞いをして、都を騒がせましたので捕らえられて伊豆の大島に流されました。その役行者がある日、大島から伊豆の方を眺めていますと、伊豆の山の上に五つの色をした煙が出ているのを見つけました。不思議に思った役行者は、波の上を渡ってきてこの「走り湯」を見つけたという事です。役行者は、この「走り湯」の近くに草で小さな家を作り、滝のように流れるお湯にうたれながらさらに修行して立派な仙人になったという事です。役行者が罪を許されて都に帰った後も日本中の行験者(山にこもって修行する人)がここに集まって修行したので「走り湯」の名前は広く知れわたりました。(あたみの民話と伝説、むかしこんなはなしがあったとさ)より役行者七世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)役優婆塞(えんのうばそく)とも言う。日本の山岳宗教である修験道の開祖として崇拝され、江戸末期には神変人菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、「続日本紀」文武天皇三年( 699 )5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和国葛上郡茅原郷に生まれ葛城山に入りやがて陰陽道神仙術と密教を日本特有の山岳宗教に取り人れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山や大峰山、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山の使役や呪縛(じゅばく)と伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。」「役小角」をウィキペディアから。そして「熱海市指定文化財 史跡 走湯温泉跡 指定 昭和五十二年四月ニ十五日」「日本三大古泉「走り湯」ご見学のお客様にお願い。走り湯洞窟は、走り湯源泉所有者(走り湯温泉組合)によリ洞窟に温泉送湯しております。温泉湧出口には温度70℃毎分100リットル以上の温泉が常時流れています。洞窟内は大井も低く狭い構造となっています。高温多湿で視界も悪く滑りやすいので事故の無いように十分ご注意いただき自己責任にて安全にご見学されますようお願いいたします。ご注意●天井や突起物への衝突・足元の滑り・踏み外し・つまづきによる転倒にご注意下さい。●温泉湧出口・湯道・照明器具・木柵には触らないでください。火傷の原因となります。」熱海伊豆山走り湯温泉、四国松山道後温泉、神戸六甲山有馬温泉が日本三大古泉 と。「史跡 走り湯 昭和五十二年四月ニ十五日 市指定この温泉は、奈良時代の養老年間に発見された全国唯一の横穴式源泉である。往時は一日約七千石(1分間に約900リットル)の温水が湯滝となり奔流となって海岸に流れてたといわれている。古くから霊湯とされ、火山や温泉湧出に対する自然信仰から生まれた伊豆山神社と深いかかわりをもち「走り湯権現」とよばれていた。いずれも日金山を背景に、山伏の修験の地として発展した。源頼朝は、治承四年(一一八〇)八月の旗揚げ前から、伊豆山権現を信奉していた。平家滅亡後まもなく「二所詣:にしょもうで:」と言って、伊豆山権現、箱根権現を参詣した。のち三島明神も加えられて、政子や実朝もこれを行った。明治の初め、皇室の御料温泉となり、伊豆山温泉発祥の源泉として、観光開発に貢献した。しかし、昭和三十九年源泉の多掘の影響をうけて枯渇したが、昭和四十五年増掘によって復活した。三代将軍・源実朝は、二所詣の折、ここで次の三首の歌を詠んだと金槐和歌集に載っている。わたるうみの なかにむかひて いづる湯の いづのお山と むべもいひけりはしるゆの 神とはむべそ いひけらし はやきしるしの あればなりけり伊豆の国 山の南に いづる湯の はやきは神の しるしなりけり(表記は国歌大観による) 昭和六十一年三月 伊豆山走り湯温泉組合 熱海市教育委員会」「日本三大古泉「走り湯」ご見学のお客様にお願い。走り湯洞窟は、走り湯源泉所有者(走り湯温泉組合)の手により洞窟に温泉送湯しております。洞窟には温度70℃、毎分100L以上の温泉が流れています。洞窟内は狭く、温泉蒸気により蒸し熱く、視界も悪くなっております。どうそ安全にこ注意頂き、ご見学下さいますようお願い申し上げます。(狭いです 頭上・通路通行安全にこ注意ください、温泉湧出ロ、温泉路(湯道)の温泉、洞窟内照明、柵等には触らないでくたさい、やけど等の事故が発生する事があります.洞窟内の事故につきましては責任を負いかねます。) 走り湯温泉組合長」 「走湯温泉湧出口」 と。「走湯」碑。 「走り湯入口」入口まで行くと、もうもうと湯気が立ち込めていて、明かりが灯っていても内部の様子が良くわからない。こちらの洞窟は高さがおよそ150~160センチくらいであろうか、あまり高くないので、少し背を屈まないと入れなかった。ムッとする熱気が既に溢れていた。温度は70度位の湯が沸いているそうなので中はけっこう湯気で満たされていて正直なところカメラには心配な環境。もちろん我が眼鏡もアッという間に曇ってホワイトアウト状態に。よってメガネをオデコにして一気に入って出てこようと!!そして蒸気朦朦の中を進む。レンズを拭いた瞬間にシャッターを押す。前方がよく見えなかったが。大きな目幅の格子が湯源にはあるのであった。近づいて!!。しかしあっという間にレンズが曇って!!以下2枚の写真はネットから。現在は下記の写真のようになっているらしい。そして急いで外に出てメガネを拭き「走り湯起源」案内板を。「走り湯起源」。この温泉は今から1200年前に発見されたと言われている全国でもめずらしい横穴式源泉です。山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちるさまから「走り湯」と名づけられました。699年(文武3年) 7月1日(旧暦5月25日)に、役行者小角(えんのぎようじゃおづね)は、朝廷の役人に護送され配流の地、伊豆大島に配流になったがじっとしていることができす島を抜け出しては浜辺を歩きまわり、富士山をはじめ近辺の山々を踏破しました。あるとき、伊豆山海岸から五色(赤白黄青黒)の湯煙があがっているのを目にした小角は、海岸に上陸し走り湯の近くに草ぶきの小屋を作り、湯滝を浴び、日金山や岩戸山に登り、神仏に祈る修行をし、その際「無垢霊湯(むくれいとう)、大悲心水(だいひしんすい)、沐浴罪滅(もくよくざいめつ)六根清浄(ろっこんしようじよう)」と書かれた金色の文字が霊湯と共に流れ出たと言われいます。この意味は、「これは、無垢の霊場である、菩薩の大きな慈悲の水である、この場に沐浴すれば罪が滅び、六根生ずる六つの感官、眼・耳・鼻・舌・身・意の総称〉が清らかになる」ということです。役行者がきたことがきっかけとなり、伊豆山に山岳修行者(修験者)たちが集まるようになりました。当初は日金山を中心に修行者たちが集まっていましたが、次第に人が増えるにつれ水の便が悪いことから、山を下り里に近いところに修行場所を移し、一時期は七尾の本宮跡になっていたところが中心となっていったようです。やがて今の伊豆山神社がある場所が中心となり、伊豆山を天に昇るめでたい龍に例え、富士山から入った龍が日金山から岩戸山までを〈胴体〉伊豆山権現の場所は〈目〉現在の浜町内にある花水〈鼻〉走り湯が〈口〉で呼吸をしており、富士山まで繋がっているという信仰が生まれた。」「走り湯と宇佐美ー多賀火山群「珍しい横穴式源泉走り湯は伊豆山の山腹に湧いた温泉で、珍しい横穴式の源泉をもちます。今から約1000年前に発見され、山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちる様子から「走り湯」と名付けられました.現在は洞窟の中に送湯管で温泉を送って、かっての様子を再現しています。走り湯から837段の階段を上ると、伊豆山神社の本殿に至ります。「走り湯が湧くしくみ走り湯の周辺の大地は宇佐美-多賀火山群の火山活動による噴出物の地層でできていて、この地層中から温泉が湧き出しています。火山が活動したのは今から70万~ 50万年前頃と考えられますが、その余熱によって温められた地下水は温泉となって地上に届けられています。「走り湯と伊豆山信仰海岸近くの洞窟から熱泉が走るように湧出する特異な現象に畏敬の念を抱いたことが走り湯信仰のはじまりとされ、平安時代の終わり頃にはすでに著名な霊験所の一つに数えられていました。伊豆山を含む伊豆半島の山岳地域は修験道の修行場となり、走り湯は山伏が山へ入る前に沐浴をおこなう重要な場所でした。」 ここは「走り湯の足湯」であったが、現在閉鎖中。高さ6mの所にあるので、足湯に浸かりながら、伊豆山港、初島、そして運が良ければ房総半島などを眺めることができるのであったが!!写真はネットから。次に「走湯神社」を訪ねた。これは「河津桜」であっただろうか。以前に訪ねた時は、改築工事中で社殿の姿はなかったが。新たな「走湯神社」の御本殿。この「走湯神社」は伊豆山神社の境外社である。御祭神は天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.07
コメント(0)
「中山晋平記念館」の裏庭の塀には西条八十作詞、中山晋平作曲の「熱海ぶし」👈リンク の楽譜が彫ってあった。『♪♪伊豆のあたーみーーか伊豆のあたみか あたみのー伊豆かーオサーヨイトサノセー♪♪』。右側には「熱海梅園」の梅の姿が。このラッパ状の黄色い花をたくさん咲かせていた花の名はキバナアマ(黄花亜麻)。下の写真は入口近くに咲いていたもの。「黄花亜麻(キバナアマ)ヒマラヤの原産十一月なかばより咲き始め三月中旬まで咲きます。茎が筒状で表面が麻のようです。」「中山晋平記念館」を後にし、入口方面に向かって進むと右側にあったのが「根なし梅」。この近くの梅は未だ蕾。「根なし梅野梅性の実梅(長束・ナヅカ)の一種で、昭和四十七年の台風により倒れかけていたものを起こしたもので、その際根元が半分幹から裂け、上半の根元は根が切れてなくなったことから「根なし梅」と呼ばれてる。」左側にあったのが「供養梅」。「供養梅有難や 熱海栄えの 人柱熱海の今日の繁栄は東海道線丹那トンネル開通に起因するといわれておりますが、この梅の木の直下で大正十四年の丹那トンネル工事中落盤事故により十七名の殉職者がでました。これを含め昭和九年の竣工まで六十七柱の尊い犠牲者に対し(敬虔なる)感謝の意を表し、昭和三十五年ここに梅の木を植え、供養梅と名付け市民の意を体し顕彰したものです。」「石割り榊」「月光は 流れに砕け 河鹿なく 羽多野光雨(はたのこうう)」。真っ直ぐ進むと正面ゲートへ。再び紅葉を追う。この正面ゲートへの初川沿いの路は、紅葉のプロローグはこれから?紅葉鑑賞には緑も必要!!「常盤木羊羹店」。お茶を御馳走になりました。「鶴吉羊羹」と。梅ようかん。フルーティーで上品な味わいが特徴とのこと。「雙眉橋」を再び見る。これぞ「熱海梅園」の紅葉が続く。中国人用の「熱海梅园指南」と。左手奥にあったのが「雨宮敬次郎翁碑」。「軽便鉄道の創設者 雨宮敬次郎翁碑甲州の人 雨宮敬次郎翁は資性豪邁にして不言実行の人 翁はことの外熱海を愛し明治四十四年一月二十日病を得て此の地桜ヶ丘の別荘にて逝く。享年六十六才。翁は熱海をこよなく愛し熱海の街の発展を思うことから「熱海ー小田原」間の人車鉄道 軽便鉄道の開拓にのりだし困難を排除して遂に実現させたのであります。今日の熱海伊東線・東海道線開通の糸口も翁の先見性と絶大な努力がなかったならば熱海の今日の発展はなかったでありましょう。もって翁の恩恵が熱海のためにいかに大きなものであったかをうかがい知ることができるのであります。因みに翁の生家は山梨県東山梨郡奥野日村です。」この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと。人道鉄道・豆相人車鉄道👈リンクは明治29年(1896 )に小田原~熱海間に開通した鉄道(下記緑で示された線路)で、4~6人を乗せた客車を2~3人の人夫が押して走るものであった。そして明治40年(1907 )、人車鉄道は蒸気機関車の軽便鉄道に変わったと。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より「熱海鉄道の軽便列車」。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より2020年に根府川の「おかめ桜」を愛でに行った際に第2会場の『離れの宿星ヶ山』にあった「人道鉄道・豆相人車鉄道」👈リンク の写真。「中山晋平先生追憶の碑」。「中山晋平先生追憶の碑について明治20年( 1887年)長野県に生まれ、明治45年( 1912年)東京音楽学校一現東京芸大)卒業。今向名曲として伝わる「カチューシャの唄」でデビュー以来歌謡曲ては独特の「晋平節」を確立。多くの劇中主題、童謡、新民謡を作曲した。昭12年( 1937年)以来熱海市西山に住居、熱海に関する数々の作曲をされた。「熱海節・熱海とろりこ・梅祭りの唄・丹耶トンネルの唄・熱海第一小学較校歌(熱海国民学校)」がそれらてある。代義的な歌曲としては、島村抱月と相馬御風の「カチューシャの唄」北原白秋の「さすらいの唄・別れの唄」吉井勇の「ゴンドラの頭」等でその後「東京音頭・船頭小唄・波浮の港・東京行進曲・銀座の柳・雨降りお月・諸城寺の狸囃子・てるてる坊主・あの町この町」等々数多くの名作を残し、その数3000曲を超える。昭和27年(1952年)12月30日、熱海市西山で逝去。没後西條八十先生を会長とする中山晋平顧彰会を中心に昭和36年(1961年)1月建碑・碑面には「熱海節」の譜を理め込み、「熱海の風光を愛しここに不朽の名曲を生めり中山晋平追憶碑・西條八十誌」と彫りこんである。」元熱海市長の「小松勇次像」。「澤田政廣」の作品であると。「石乗りもみじ」。「全国梅サミット記念植樹水戸市・安中市・越生町大梅市・小田原市・岐阜市田辺市・南部川村・岩国市武雄市・人吉市・熱海市 平成八年二月八日」「’96全国梅サミット宣言1996年2月1日、”梅”を共通の資源と考える市町村が日本全国からここ熱海市に集い、寒に耐え、新春を彩る”梅”をキーワードとして次のとおり宣言を行いました。1 梅が香る我がまちを愛します。2 梅に始まる日本の四季を尊びます。3 梅に集う多の人を歓迎します。4 梅を住民のやすらぎに生かします。5 梅を愛でる心の文化を広めます。6 梅を仲立ちとする友情を大切にします。」再び初川沿いの流れを追う。「もみじまつり 熱海海上花火大会」ポスター。そして「熱海梅園」入口前の「梅園 観光熱海」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.07
コメント(0)
左手にピンクの「しだれ梅」。 近づいて。「澤田政廣記念美術館」への「梅園橋」から「初川」に架かる「香浮(こうふ)橋」を振り返る。「梅園の入園券」で無料で「澤田政廣記念美術館」を見学できると。熱海出身の文化勲章受章者・澤田政廣(さわだせいこう)の代表作品を集めた「澤田政廣記念美術館」。本名、寅吉。文化勲章受章芸術家、熱海市名誉市民。熱海の海辺に育ち19歳で彫刻家を志し、高村光雲(たかむらこううん)の高弟山本瑞雲(やまもとずいうん)に師事しました。93歳で没するまで、多くの木彫作品をはじめ、絵画、陶芸、版画、書など、さまざまな芸術領域にわたり創作しました。力強く生命感と詩情にあふれた作品は、人々の胸に多くのロマンを語りかけます と。澤田政廣記念美術館に入る前に梅園からの通路にある作品。二人の裸婦が近寄って。「黄泉(よみ)のしこめ」👈リンク 昭和31年(1956)。ズームして。何かヒソヒソと語りあっているのであろうか?建物を取り囲む大きな壁にある穴からは女性像が。地中深く埋もれていた大きな岩の魂が突然地上に現れたが如き壁の姿。「ともしび・昭和21年(1946)」。ズームして大きな壁を廻り込んで。近づいて。「ろうそく」を灯した皿を持つ女性像。「蒼穹・あおぞら 昭和35年(1960)」。 「蒼穹・あおぞら 昭和35年(1960)」。ピンクの花の下に、横たわる男の像。「傷つける武人 昭和35年(1960)」。「傷つける武人 昭和35年(1960)」「澤田政廣記念美術館」を正面から。 人魚像・「海の讃歌」👈リンク。「海の讃歌 昭和38年(1963)」。 そして館内へ。館内は撮影禁止であったため、以下の写真はネットから(順不同)。玄関ホール天井の「飛天」。「隠者(いんじゃ)」という高さ265センチメートルもある大きな作品。長嶋茂雄選手の胸像。多くの「常設展示作品」👈リンク が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.06
コメント(0)
次に訪ねたのが「中山晋平記念館」。「てるてる坊主」「肩たたき」「シャボン玉」などの作曲家。当記念館は大正初期から、大衆音楽普及に大きな足跡を残した著名な作曲家中山晋平を偲び、中山晋平が居住していた別荘を移築し保存しているのであった。建物は、1944年に東京より戦災を逃れ疎開し移り住んだ、熱海市内の西山町に1935年に建築されていた別莊を移築したもので、終の住処として、1952年に没するまでこの家で生活を続けていたと。主屋の西側に玄関棟が設けられていた。「いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く」「弓削皇子(ゆげのみこ)」が「額田王(ぬかたのおほきみ)」に送った歌。過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます と。 「弓削皇子」は天武天皇の第六皇子で長皇子の弟。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸された時に同行した弓削皇子が、大和(藤原京でしょうか)にいる額田王に贈り与へた一首です。この鳥は不如帰(ホトトギス)のことで、中国の古事に蜀の望帝が退位後に復位しようとしたが死んで叶わずホトトギスとなり、「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているのだという伝説をもとにしてのものだそうですが、その故事と天武天皇の在世当時の昔を偲ぶ想いを掛けて詠んだ歌かと思われます。天武天皇が生きていらっしゃったあの頃にはもう帰れないのだろうとの寂しい想いとともに、天武天皇にゆかりの多い吉野の宮で、亡くなった天皇の魂を慰めようとする鎮魂の意思も感じられますね。あるいは望王の古事のように、弓削皇子は鳴きながら吉野の空を渡り行く不如帰に父である天武天皇が「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている姿を感じ取ったのかも知れません…」とネットから「中山晋平記念館」案内板。「中山晋平記念館入口門」を敷地内から。建物は木造二階建て、屋根は入母屋造銅板葺で、各階とも南・東面は一面ガラス張りになっていた。玄関内部。柱やそれに繋がる横柱に皮付丸太を使用し、数寄屋風としているのだった。バラの花が迎えてくれた。こちらは白いピアノ。西条八十・中山晋平がこのピアノで熱海節を作詞作曲した(昭和初期熱海で最初のピアノ)。「日本の歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作曲家 中山晋平 明治20年(1877)3.22~昭和27年(1952)12.30」作曲家。長野県生れ。教員生活1年ののち明治38年( 1905)上京。島村抱月家の書生を務めながら、明治45年(大正元年・1912)東京音楽学校本科器楽部(ピアノ科)卒業。小学校教員となる。大正3年(1914)抱月主宰の芸術座公演<復活>(松井須磨子主演)の劇中歌<カチューシャの唄>(抱月・相馬御風作詞)を作曲して好評を博した。つづいて同座公演の劇中歌<ゴンドラの項>(吉井勇作詞、1915)、<さすらいの>(北原白秋作詞、1917)などを作曲、一躍名声を得た。以後、野口雨情の詞によるく船頭小唄〉(1921)、(須坂小項〉(1922 )、<波浮の港>(1924)、時雨音羽の詞による<出船の港> (1925)、く鉾をおさめて>(1926)、西条八十の詞による<東京行進曲>(1929)、東京音頭(1933)などヒット曲を生み出した。また<證城寺の狸囃子><砂山><てるてる坊主>などの童謡でも親しまれた。昭和3年(1928)以後ビクター専属。昭和23年(1948)から日本音楽等作権協会会長を務めた。没後「中山普平記念音楽賞」が設けられた。作品総数は3,000余曲に及び、曲集として出版されたものに<中山晋平集>(1952 )、<中山晋平作曲全集>(童謡篇上下2巻、1956。新民謡篇1巻、1963)がある。彼は鋭い感覚で日本民謡の特徴を把握し、音階、リズム、日本語の扱い方などにそれを活用して、独特の明快な日本的・庶民的な歌のスタイルを作り上げ、「普平節」といわれた。童謡運動や新民謡運動に重要な役割を果たし、日本近代の大衆歌曲の道を開き、そのスタイルを確立した。」「中山晋平年譜」👈リンク。「中山晋平記念館」間取図。玄関から上がり左に折れた玄関棟西側の和室は、広さ4畳半とこじんまりとしていた。中山晋平が使用していたピアノや蓄音機が展示されていた。このピアノは、中山晋平先生が昭和27年12月、熱海で逝去されるまで愛用されていたもの。このビアノは、中山普平先生が昭和27年1 2月、熱海で逝去されるまで愛用されていたものです。「明治12年(1879)ニューヨーク・コーラー・アンド・チェイス社製で、大正8年~10年ごろ購人されたものです。」このピアノから生まれた曲は今でも歌い継がれている「船頭小唄丿(大正10年)、」「しゃぼん玉」(大正10年)、「波浮の港」(大正13年)「あの町この町」(大正13年)「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭(昭和8年)等々で数多くの名曲が残されております。 ※大変貴重なビアノです。」そして蓄音機。「カチューシャの唄」👈リンク の楽譜の掛け軸。長野市松代町清野947の林正寺境内にある松井須磨子演劇碑の拓本であると。「かみにねがーひを(ララ)かけーませうか」「中山晋平」の写真。「中山晋平」の写真がいろいろと。8畳間前の縁側。縁側の歪みのある大正ガラス?が。1階の茶の間。 妻・嘉子(新橋喜代三)も火鉢の前に座ったのだろう。「妻・中山嘉子は、鹿児島でも評判の芸者で、それは美しい女性でした。中山晋平とは昭和6年(1931)に出会い、晋平の勧めで上京して「小原良節」「よさこい節」を日本ビクターでレコーディング。同年に新橋芸者となり、昭和7年に新橋喜代三(しんばし きよぞう)という芸名で、ポリドールの専属歌手となります。昭和11年(1936)晋平の妻・敏子が病のため45歳で亡くなり、翌年に中山晋平と結婚、引退します。この熱海の邸宅で晋平と共に暮らし、晋平の死後、日本ビクターの歌手として復帰しましたが、熱海での暮らしを続けました。昭和38年(1963)3月23日に病により59歳で他界。」とのネット情報。和室6畳間には手火鉢があり鉄瓶が乗っていた。箱階段の壁付きを6畳間から見る。「箱階段」とは、木製の箱を段々に積み上げた形の階段。側面などに引き出しを付け、箪笥(たんす)としても利用できるものが多い。近世初期には町屋に見られたが、特に2階建てが建てられるようになった明治期に、町屋や農家で多く用いられた と。 解りやすい写真をネットから。階段の下のスペースを有効利用して、引き出し等の収納場所として利用。板欄間。居間の東側に座敷があった。8畳の広さで、雪見障子を隔てた東側と南側には縁側が設けられていた。この床の間にも「銀座柳の碑」の掛け軸が。座敷の付書院。「銀座柳の碑西條八十 作中山晋平 曲「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けば春風紅傘日仐けふもくるくる人道り」。この掛け軸は、長野県中野市の「中山晋平記念館」にある記念碑の拓本を表装したもの と。テーブルの上にも様々な資料が展示されていた。板欄間。6畳間、8畳間前の縁側。歪みのわかる大正・昭和前記を想い出すガラス窓。 洗面所・トイレ入口の扉も洒落ていた。狭い「箱階段」から二階へと上がる。この階段の下が収納スペース。上部に「東京行進曲」👈リンク の直筆の楽譜の複製品。「この譜面の書は昭和11年夏、飯山市の野田荘商店(昭和2年よりビクターの特約店)を訪れた時、酒宴の席で先生が書かれたものです。筆跡には畳目の跡がきっきりと残っている直筆の複製です。「東京行進曲」の2小節目で♪あだなとしまをだれがしろ♪と書かれています。 寄贈 飯山市 野田荘商店 東 在平 様」和室10畳の床の間を見る。床の間の掛け軸。「三笠山には つつじが咲いて 赤き心もしげくなる 雨情」。床の間の左の美しい組子の模様。板欄間や障子の組子には、一階とは異なる、これも見事な意匠が施されていた。しばし、寝転がっていたい眺め、空間であった。近づいて。2階にも縁側が。「中山晋平記念館入口門」を2階から見下ろす。1階に降りて。「熱海 梅まつりの歌」の楽譜、歌詞の展示コーナー。この欄間の彫刻も見事であった。「熱海梅園之図」。「中山晋平先生 自筆「熱海 梅まつり歌」👈リンク 作詞作曲 原譜」。1階の縁側を再び。反対側を振り返ってズームして。見事な縁側の天井の意匠。「大正・昭和を彩った中山メロディーの数々に出逢う中山晋平は、明治20年3月22日、現在の長野県中野市に生まれました。苦労の未高等小学校を卒業した彼は、上京し早大教授であり、新劇指導者であった島村抱月のもとで書生生活を始めました。その後、彼は抱月が旗上げした「芸術座」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲、大ヒットし、作曲家として華々しいデビューを飾ります。自由な発想から生まれる彼の曲は人々の心をとらえ「船頭小頃」、「東京行進曲」など次々にヒット曲を生み出しました。また「てるてる坊主」、「証城寺の理囃子」、「肩たたき」など、彼が作曲した数えきれない程の童謡は、今もなお人々の心に生き続け愛されています。」外に出て、再び「中山晋平記念館」を振り返る。門を出た左側にあったのが「中山晋平記念館碑」当記念館は、大正初期から大衆音楽の普及に大きな足跡を残した著名な作曲家中山晋平の別荘として昭和十年に市内西山町に建築され、昭和十九年空襲が激しくなったのを契機に本市に移住し、この町を愛して昭和二十七年亡くなるまでの間、作曲活動をしていた建物を日本ビクター株式会社より寄贈を受けて、平成三年四月、中山晋平が居住していた当時そのままの姿でこの梅園に移築したものです。 熱海市」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.06
コメント(0)
「あたみ桜・糸川桜」を楽しんだ後は、「熱海梅園」に向かう。「日本で最も早咲きの梅、そして最も遅い紅葉と言われる熱海梅園。梅は樹齢100年を超える古木を含め60品種・469本、紅葉樹は約380本もあり、のんびり散歩をしながら自然美を堪能できる場所です。1月上旬~3月上旬の梅まつり、5~6月の新緑、11月中旬~12月上旬のもみじまつりと、四季折々で楽しめます。熱海梅園は、内務省の長与専斎が、「温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、適当な運動をするからである」(「熱海風土記」梅園記より)と、提唱したことから造成され、1886年(明治19年)に開園しました。温泉保養地として栄えた熱海文化の、重要な一端を担っています。」と。駐車場に車を駐め、「熱海梅園」入口に。「熱海梅園」入口のピンクの梅の花は5~6分咲き。入園料は一般300円、団体(11名以上の場合)200円、市民・熱海市内宿泊者100円、中学生以下無料※梅まつり期間中のみ有料。「1886年(明治19年)に開園した熱海梅園は、 日本で最も早咲きの梅として有名です。毎年11月下旬~12月上旬には、第一号の梅の花が開花します。樹齢100年を越える梅の古木を含め、60品種・469本の梅が咲き誇り早咲き→中咲き→遅咲きと、順番に開花。梅まつり期間中、梅を存分にお楽しみいただけます。期間中、園内には足湯や土産店もオープン。 日によって熱海芸妓連演芸会や大道芸、歌謡ショー、甘酒無料サービスなどのイベントを実施予定」と。「第80回熱海梅園 梅まつり令和6年1月6日(土)~3月3日(日) 8:30~16:00」と。「熱海梅園」内に入る。「熱海まち歩きガイドの会」が「臨時手荷物預かり所」を運営。さらに、黄色のジャンパー姿で梅園入り口付近で無料ガイド活動を展開。40分で園内をぐるっと一回り。園内の見どころをご案内してくれるとのこと。この白梅は満開間近か?近づいて。「初島漁師の丼合戦2024年2月10日(土)~3月10日(日)」熱海港から定期船で30分!リゾートアイランド”初島”で開催。獲れたての海の幸を堪能できるグルメイベント「丼合戦」は、島の漁師が営む食堂を中心とした島内の13店舗が、獲れたての地魚やイカ、エビ、伊豆の名産野菜アシタバなど、旬の食材をふんだんに使った思い思いの「オリジナルの丼ぶり」をふるまう、島を挙げての冬の恒例グルメイベントであると。老木梅の下に「大塚実氏顕彰記念碑熱海梅園は内務省の初代衛生局長であった長与専斎の提唱を受け、横浜の豪商・茂木惣兵衛氏が私財を投じ、明治19年に開園したものです。爾来120余年の歳月が流れ、往時の優美な姿が失われつつあった中、熱海由縁の実業家大塚実氏の私財提供を受けて、開園以来の大規模な工事が行われ、清流初川の渓流を挟んで、晩秋の紅葉と早春の梅花、そして初夏の新緑と夏の夜に乱れ飛ぶ蛍の光が、その景観美を競うという、新しい梅園に衣更えいたしました。ここに熱海梅園を見事に再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表するとともに、この梅園を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成二十一年十一月吉日 熱海市長 齋藤 栄」」花に近づいて。蕾にも近づいて。「熱海梅園」内の「初川」の流れ。「案内標識」に従い進む。「熱海梅園のご案内」。ズームして。<2024年梅の開花状況>2/1現在 全体見頃全体(60品種・全469本)445本開花 →5.86分咲上記のうち・早咲き(全270本)267本開花 →7.03分咲・中咲き(全102本)100本開花 →6.51分咲・遅咲き(全97本)78本開花 →1.88分咲開花している品種(早)矮生冬至、鴛鴦、小田原十郎、鹿児島紅、甲州最小、十郎、新冬至、玉牡丹、唐梅、 緋の司、未開紅など(中)青軸、青竜枝垂、梓弓、鶯宿、大盃、鬼桂花、呉服枝垂、御所紅、酔心梅、長束、 紅牡丹枝垂、満月枝垂、三吉野など(遅)曙、思いのまま、見驚、白加賀、白滝枝垂、玉垣枝垂、月影、花香美、藤牡丹枝垂、 紅千鳥、養老、乱雪、佐布里梅など「中央広場」から。「貫一お宮の梅」。手前は「貫一の梅(白梅)」。「貫一お宮の梅 金色夜叉 第七章「熱海は東京に比して温かきこと十餘度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲き亂れて・・・・・宮は母親を連立ちて入來りぬ・・・・・」 明治の文豪尾崎紅葉の小説金色夜叉では、貫一とお宮とその母と、宮をよこどりした富山の四人の初の出逢いが梅園です貫一とお宮の梅はこれに因んで植えられたものです。貫一の梅(白梅)・十郎梅お宮の梅(紅梅)・紅千鳥」 「貫一の梅」に近づいて。「お宮の梅」は未だ開花していなかったのでネットから。貫一の梅が散るころにお宮の梅(紅千鳥)がさきだすそうです。「第14回全国梅サミット記念植樹」。「献上梅」。12月23日の上皇さまの誕生日に、静岡県熱海市が毎年贈っている「献上梅」と。ここにも「案内板」が。「松尾芭蕉の句碑」。『梅が香に のっと日の出る 山路かな 芭蕉』【早春の夜明け方、山道を歩いていると、どこからか梅の香が漂って来た。折しも、山並みの向こうから朝日がぬっと昇って来た】と。「松尾芭蕉の句碑梅が香に のっと日の出る 山路かな「梅が香に・・・・」の句は元禄七年、芭蕉が五十一歳の時、七部集の第六集として、門人が発刊した「炭俵」の上巻に納められている。これは門人である「志太野波(やは)」、「小泉狐屋(こや)」、「池田利牛(りきゅう)」、「服部乱雪(らんせつ)」等が、翁の旅立ちを記念するための句会の席上、連句の主座として発句したもので、翁の「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」のあとを、野波がすかさず「ところどころに雉の啼きたっ」と付けている。その野波が「家晋請を 春のてすきに とりついて」と続け、これに芭蕉が「上のたよりにあがる米の値」と付けている。芭蕉が熱海に来たことがあるかは分からないが、梅園に隣接していた撫松庵(ぶしょうあん)の高台から見た光景が思い描ける句である。建立者 小松精一氏(熱海の先覚者の一人) {熱海温泉いしぶみ巡りより抜粋}。紅梅も今が盛りと。食べ物の売店も出店中。美味しそうな「塩豆大福」、「よもぎ絵巻餅」。満開に向かって。梅園五橋と呼ばれるのは、漸佳(ざんか)橋、迎月(げいげつ)橋、雙眉(そうび)橋、駐杖(ちゅうじょう)橋、香浮(こうふ)橋の5つ。雙眉(そうび)橋を見る。駐杖(ちゅうじょう)橋は唯一朱色に塗られた印象深い橋。近づいて。「初川」に生えているのは山葵であっただろうか。2基の石碑が。「武田鶯塘(たけだおうとう)」句碑。「錦浦観潮 夏すでに 漲る(みなぎる)汐の 迅さかな」。「澤田政廣記念美術館のお知らせ令和5年12月22日(金)~令和6年4月21日(日)物語や伝承を題材として制作された作品を中心に展示します。澤田政廣のイメージから生まれた、描画と立体作品をご覧ください。」。山葵田?の先に「梅見の滝」。ズームして。さらに。滝の裏側に入って。滝の裏側の通路。大きな穴から落下する滝の姿を裏側から。滝の裏側から出て、再び滝を斜めから。正面から、モミジ越しに滝を見る。香浮(こうふ)橋。「茂木氏梅園記念碑」の上部には「茂木氏梅園記」と。「茂木氏梅園記碑文の日本読 内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵 伊藤博文 篆額」「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣従二位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、 適当な運動をするからである。 もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪(よしやぶ)の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見ると、あたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商であり、どんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。 明治ニ十年四月内務省衛生局長 兼 元老院議官従四位勲三等 長與専斎 撰 市河三兼 書 宮亀年 刻【碑の裏側に】茂木氏がこの園の造成に取り掛かると、横浜の平沼専蔵、朝田又七の両氏も資金を提供するなど協力したことも伝えるべきだ。東京の庭師小川九兵衛が工事を監督した。もともとの天与の地の利もあるが、工事が完成して眺めると、益々素晴らしく、工事にかかわった人々の努力や苦労も忘れてはならない。このことも碑の裏側に氏名などを記し後世に伝える。 専斎又記す」さらに奥に向かって進む。可愛らしいスイセンに似て。「ペチコートスイセン」と、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.05
コメント(0)
次に訪ねたのが「韓国庭園」。「韓国庭園」配置案内図。2000年9月に熱海市内で開催された日韓首脳会談が、両国交友の絆を更に深めたとして、梅園内に新たに韓国庭園が開園。韓国庭園は日本の庭園のように限られた空間の中で完結することはなく、自然景観との結びつきを大事につくられているのだと。2002年夏にオープンした熱海の名所で、16世紀の朝鮮時代の文化を体感できる場所 と。西側の入口門。その左側の「瓦張り土塀瓦張り土塀は瓦で細工された塀で、下部は玉石張りにしています。塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」。「韓国庭園」内に入ると、右側にあったのが「噴泉」。ズームして。「噴泉韓国庭園では水が大切に扱われ、特に水の噴出部には意匠がこらされています。形態は「陰陽思想」を表現したものが多くあります。」。そして正面に見えてきたのが「堂」。「大門」を園内から。両斑(ヤンバン)の家の正門は身分によって制限があり、屋根の部分の真ん中が少し高くなっている、ソスル門と、高さが同じな平大門があります。この門は、朝時代中期の四柱門の平大門。以下説明板より『朝時代中期の四柱門の様式で、「友好・平和」記念碑の正面にあることから格式を高く、大きな建物としました。梁の上部にある雲の形をした「雲板」は主人の精神性が雲上の如く高いレベルに達していることを表現したものです。また、入口部の柱の下部(根本)に彫られた図案は三太極という「天・地・人」の宇宙の構成原理を表現したものです。』「堂朝鮮時代における両班の家は、男主人の住まい外堂(サランチェ)と女主人の内堂(アンチェ)、行廊(ヘランチェ)、祠堂等が主で、外別堂、内別堂、選備問、チャントッテ、亭子等が配置されています。近づいて。奥には韓国衣装で書き物をしている人物の姿が。「本机」の前に座って。『堂貴族階級(両班)の方が、世俗より隠遁し、山中において詩歌を吟し、哲学を愛する学者の生活空問として造った建物です。小さなスケールですが、台所(女性の部屋)や使用人の部屋も付き、四季を通して全ての生活が出来る様になっています。建物の様式は、朝鮮時代初期(16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式を保ったスタイルです。マルと呼ばれる四方に壁のない開放的な部屋には自然との一体感が感じられます。この建物は「縁の家」と命名されました。又、内部には韓国文化院より寄贈された家具も展示してあります。』「台所台所は韓屋では一番独特な処で、料理をするだけではなく、暖房の役目もはたすところです。かまどの熱は、床下を通り煙家から出てゆきます。床下には平らな石が敷き詰められていて、この石を暖めて床と部屋をあたたかくするオンドル(床暖房施設)の役目をします。」。「堂」の裏にあった「煙家オンドル(床暖房施設)の排煙機能を持ち、形は住宅の構造を模しているので「煙の家」と呼ばれています。一般には住宅の後庭の「花階」に設置され、特に両斑(ヤンバン)の家では装飾的にデザインされています。煙家の形は四角、六角、八角、円形等で、壁面には長寿を象徴する動植物の模様や吉祥文字を瓦やレンガを使って入れています。」「花階」とは母屋の北側の斜面地に築く階段状の花壇。高貴な女性方の愛好の庭園として、季節感あふれる身近な植物や薬用植物、果実等の有用植物を植えています。その先にあったのが「チャントッテ」。「チャントッテ味噌、醤油、漬け物等の壺を置く場所で、台所に近い後庭に造られます。規模の大きさが家勢を表すものとされ、現在の一般家庭でも見られます。」。ここは「台所」の外側であっただろうか??「方池円島「方池」は正方形または矩形の中央に円形の島をもつ蓮池で、円島には景石以外に松・柏・柳が植えられます。一般的に四辺の護岸は花崗岩の切石積みで、一辺の中央には、方池にせり出した亭が設けられ、両班(ヤンバン)の大門部外周辺、または別堂(主人専用の離れ)近くに設置されます。池の方形は地の陰を、円島は天の陽を象徴したもので、陰と陽の均衡を保ち家勢の栄を願った庭苑施設です。」「堂」の外を一周して振り返る。「玉石張り土塀朝鮮時代の伝統的な塀には、自然石を積んだものから土壁の塀、玉石や瓦を使った塀が見られます。玉石張り土塀は、玉石で細工された塀で、塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」再び「大門」を見る。「友好平和記念碑」。「友好平和記念碑2000年9月23日に熱海で日韓首脳会談が行われ、翌24日に両国首脳が熱海梅園を訪れました。碑は日韓の絆を深めたこの会談を記念して設置されました。碑の刻字は、森総理大臣(友好)と金大統領(平和)の直筆です。」。「友好平和記念碑説明板2000年9月23日、日本国の森喜朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中大統領の日韓首脳会談が熱海で行われました。翌24日、両首脳は熱海の名勝地である熱海梅園を訪れ、園内を散策し歓談されました。熱海市は、日韓友好の絆を深めたこの会談を記念して、日本国と大韓民国の友好と世界の平和が永久に続くよう祈念し、熱海梅園内に大韓民国の伝統的様式と手法を取り人れた庭園を造るとともに、森喜朗内閣総理大臣と金大中大統領の直筆による友好平和記念碑をここに設置するものです。 2002年8月28日 熱海市長 川口市雄」。「韓国庭園」を後にして「玉石張り土塀」の前の紅葉を楽しむ。土塀には「熱海梅園韓国庭園」と。近づいて。こちらは「瓦張り土塀」。「朴敬元飛行士記念碑1933年8月7日、韓国で初の女性飛行士、朴敬元(バクキョンウオン)さんが、故郷である韓国への訪問飛行の途中、玄岳(くろだけ)山腹に激突し33歳の若さで墜落死しました。この悲惨な事故と地元(多賀)の人々との活動を通して生まれた友好を記念して設置しました。」。韓国で初の女性飛行士、朴敬元(バクキョンウオン)さん。「思いは遥か故郷の大空朴敬元女史 1901年 慶尚北道大邱府に生まれました。1925年に日本飛行学校へ入学して飛行機の操縦を学び大韓民国初の女性飛行士として二等操縦士免許を取ると、かねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し、1933年8月7日その日を迎えることになりました。飛行機は単発小型機で、「青燕号」と命名されました。女性としては初めての長距離飛行となり、羽田空港では官民多数の盛大な見送りを受け、午前10時35分離陸しましたが、気象変化の激しい箱根上空で密雲に阻まれ方向を失い、熱海市側の玄岳頂上よりわずか50メートル下の山腹に激突し、不幸にも33歳の若さで墜落死してしまいました。翌8日、女史の遺体は地元の多賀村の人々の手によって荼毘にふされ、翌年8月7日には、元多賀村長西島弘氏が私費で墜落現場に鳥人霊誌碑を建立し、そして1961年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は、夢半ばにして破れた朴敬元女史の心安らかなる事を願い、毎年定期的に墜落現場までの草刈や慰霊碑の保全を行う等、大切に護持しています。国を超えた人道的なこの地道な活動は、今日の友好と平和を祈念する多くの人々の思いでもあり、親切と文化を標榜する熱海市にとりましても、おもてなしの心を育む原点でもあります。熱海市は、朴敬元女史の墜落死と地元の人の活動を永く記億に留め、これまでかかわってきた多くの人々の友好平和のあかしとして、日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に記念碑を建立するものです。2002年8月28日 熱海市市長 川口市雄朴敬元女史略歴1901年 大韓民国慶尚北道大邱府で生まれる1916年 大邱府の信明女子校に入学1925年 日本飛行学校操縦科に入学1927年 三等操縦土免許を取得1928年 ニ等操縦士免許を取得1933年8月7日 午前10時35分羽田空港を離陸 同上 午前11時25分玄岳山中に墜落。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.05
コメント(0)
山の上には「熱海城」が。その下に見えたのが「熱海後楽園ホテル」。「スカイデッキ」に上がり「スパ・マリーナ熱海」の「第二桟橋」を見る。真鶴半島・真鶴岬をズームして。真鶴岬の先に浮かぶ「三ツ石」をズームしたが映像が何故か蜃気楼の如くに。モニュメント「恋人の聖地」をズームして。「初島」をズームして。花壇には終わり気味の「キルタンサス」の花が。「スカイデッキ」を「熱海サンビーチ」方向に進む。正面の「ムーンテラス」をズームして。中央に「恋人の聖地」 のモニュメント。「恋人の聖地」 のモニュメントをズームして。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザイン。そして熱海桜の下に「釜鳴屋平七夫妻像」が。海を見下ろす夫妻の銅像。左側には新たに作られた熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑大正14年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品おしんおんな太閤記春日局愛と死をみつめて女たちの忠臣蔵源氏物語渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子。」そして熱海桜の下に「釜鳴屋平七夫妻像」が。海を見下ろす夫妻の銅像。大島の方向を見つめる「釜鳴屋平七夫妻」。ズームして。銅像の下に、熱海ゆかりの文豪、武者小路実篤の言葉が記されている。純粋無垢な人間が好きな武者小路実篤先生らしい言葉。「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」巨大な亀やマンボウの姿が。しかし、ここ数年の世間の「マンボウ」とは「まん延防止等重点措置」のこと。「釜鳴屋平七夫妻」像と「熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑」。再び正面の「ムーンテラス」をズームして。中央に「恋人の聖地」 のモニュメント。ズームして。山の上には「熱海城」が。その下に見えたのが「熱海後楽園ホテル」。ズームして。「スカイデッキ」を見る。再び、陸から沖に突き出すようなかたちをしているムーンテラスの先端にある「恋人の聖地」を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.04
コメント(0)
更に熱海梅園の紅葉を追う。 陽光に輝く紅葉を振り返って。 「熱海梅園のご案内」。現在地はEの手前。梅園五橋「雙眉橋(そうびばし)」方向を見る。「雙眉橋」は梅園のほぼ中央に位置するアーチ型の橋。小川の両岸のみどころをまたぐ二つのアーチ型の橋という意味だと思いますが、この橋の両側には梅のみどころが多くあるのだ。移動して「雙眉橋」をズーム。この付近は、この日が見事な紅葉のピークではと。黃、オレンジ、赤、緑のカオスの世界をカメラで追う。石段の上を清流が流れるが如くに。「駐杖橋(ちゅうじょうばし)」は唯一朱色に塗られた印象深い橋。熱海梅園は日本一遅い紅葉でも有名だが、紅葉の季節にこの橋は最も映えるのであった。「澤田政廣記念美術館のお知らせ」。『あたみっこ澤田政廣』展覧会が令和5年8月25日(金)~令和5年12月17日(日)に開催中。本名、澤田寅吉。文化勲章受章芸術家、熱海市名誉市民。熱海の海辺に育ち19歳で彫刻家を志し、高村光雲(たかむらこううん)の高弟山本瑞雲(やまもとずいうん)に師事した。93歳で没するまで、多くの木彫作品をはじめ、絵画、陶芸、版画、書など、さまざまな芸術領域にわたり創作。力強く生命感と詩情にあふれた作品は、人々の胸に多くのロマンを語りかけるのだ と。近づいて。緑の残るモミジ葉に射し込む陽光を。そして真赤に変身したモミジ葉に射し込む陽光を。その先にあったのが「梅見の滝」。「梅見の滝」。熱海梅園の中にある滝。梅園入口から奥の方にある。適度な水量で滝が落下している。滝の流れ落ちる岩肌が洞窟のようにくり抜かれており、滝の裏側から鑑賞できるのであった。滝の水量も多すぎず少なすぎず適量で、紅葉とセットで眺めると味わい深かったのであった。滝の裏側を移動し、くり抜かれたそれぞれの大きな孔からシャッターを押す。滝の裏側の通路は「梅見の滝内通路」と。順路と案内板。近づいて。再び朱の「駐杖橋」を見下ろす。「梅見の滝」碑がここに。「小松勇次先生之像」「小松勇次先生之像」は、熱海梅園を国から払い下げを受けた当時(1960)の市長。この像は澤田政廣作によるもの と。「茂木氏梅園記念碑」の上部には「茂木氏梅園記」と。下の如く刻まれているとネットから。「茂木氏梅園記碑文の日本読 内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵 伊藤博文 篆額」「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣従二位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、 適当な運動をするからである。 もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪(よしやぶ)の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見ると、あたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商であり、どんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。 明治ニ十年四月内務省衛生局長 兼 元老院議官従四位勲三等 長與専斎 撰 市河三兼 書 宮亀年 刻【碑の裏側に】茂木氏がこの園の造成に取り掛かると、横浜の平沼専蔵、朝田又七の両氏も資金を提供するなど協力したことも伝えるべきだ。東京の庭師小川九兵衛が工事を監督した。もともとの天与の地の利もあるが、工事が完成して眺めると、益々素晴らしく、工事にかかわった人々の努力や苦労も忘れてはならない。このことも碑の裏側に氏名などを記し後世に伝える。 専斎又記す」そして「熱海市立澤田政廣記念美術館」👈リンク そして手前に橋が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.04
コメント(0)
前方にあったのが「新柳橋」。ここにも今年は提灯が。「あたみ桜」と「河津桜」の比較をネットから。熱海桜は花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長。花の中心が更に濃く。濃いピンクのブーゲンビリアも負けじと!!私も見てよ!!と。再びメジロの姿をカメラで追う。メジロが来る桜は寒桜系、寒緋桜系、河津桜、オカメ桜、大島桜などでソメイヨシノには来ませんとネットから。沢山の「メジロ」の他に「ヒヨドリ」が集まり、桜の花蜜を吸っていましたが、なぜなのか、沢山の「スズメ」も飛来して、桜の花びらを散らしていた。良く、観察して見ると・・・、「スズメ」は桜の花の付け根の子房を食べて、花びらを食べ散らかしているようであったが。密の味が其々の場所で違い、鳥によって好みが違うのであろうか?そして再びオブジェが。タコが逃げるかのように。実物大のタコが今にも動き出しそうに!!これでもかの紺碧の青空を背景に。これが瓦斯灯であっただろうか。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年) 頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によて殖やされ、現在は市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分市するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早ぐ花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました」「糸川」を覗き込むが如くに枝を伸ばして。花がモコモコと塊になって咲いて。「ヒラメ」が居眠りしているが如くに。桜の花びらが浮かぶ水盤には清水が湧き出して。姉がヒラメの目の上に浮かんでいた花を!!びっくりしたが如くに急に目が覚めた!!メジロが忙しそうに!!蜜を吸って。再びブーゲンビリアとの競演を。ここにもオブジェが。「蟹」と「マンボウ」。巨大な「蟹」。「マンボウ」。花にズームして。「熱海桜 夜会」ポスター。「日本で最も早く咲く「あたみ桜」の見頃に合わせ、昭和レトロの趣が残るスポットで「熱海桜 夜会」を開催。イベント期間中は糸川沿いのライトアップだけでなく、提灯モニュメントによる演出で、夜桜を幻想的に演出すると。また、文豪が逗留したことでも有名な「起雲閣」や、古き日本文化を体験できる「芸妓見番」での特別イベントも実施。二週間の昭和レトロ体験、お見逃しなく!」と。【糸川遊歩道】 あたみ桜ライトアップ+提灯モニュメント(1/27~2/12迄 16:30~23:00) 立ち飲みカウンター(1/27~2/12 16:30~19:00)【起雲閣】 浴衣や昭和レトロ衣装を着用した写真撮影(1/27~2/12 14:00~16:00受付) 3000円~ ※プランにより異なります【熱海芸妓見番】 演舞鑑賞、演舞鑑賞+寿司、演舞鑑賞+寿司+お座敷体験(1/27~29、2/2~2/4、2/9~12) ※5日前 までの予約対岸にあったベンチをズームして。上手く撮れました。石段を下りて糸川の流れに近づいて。ここにも鳥の姿が。国道135号に架かる「糸川橋」も見上げて。両岸に、糸川の川面に下りられる石段が設置されているのであった。手前がブーゲンビリアでがなく、真紅の桜であったらと妄想!!ズームアップして。河津桜にはない色合いの景色を楽しむ。「糸川橋」を振り返って。「柳橋」。手前に「渚歩道橋」その先に「熱海渚橋」。熱海城をズームして。更に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.03
コメント(0)
今日から暫くはダブル(W)熱海のブログアップです。毎早朝のブログは下記の「伊豆の紅葉、イルミネーションを愛でに」、そして正午のブログアップは「今年も熱海・糸川桜へ」です。既に、今日からのブログアップは昨年の12月4日~の紅葉、イルミネーション巡りですが、極力季節外れ(out of season)にならずに旬(in season)の話題としたいので(特に花見等!!)、昨日から、あえて2回/日のアップとさせていただきました。--------------------------------------------------------------------------------------------------この日は昨年12月4日(月)、1泊で会社の先輩と伊豆の紅葉、イルミネーションを愛でに向かう。先輩の住む二宮に向かって「新湘南バイパス」を進む。正面に富士山の姿が。ちなみに、「新湘南バイパス」は藤沢ICと茅ヶ崎海岸を結ぶ有料道路で、国道1号のバイパスとしての機能を持っているのだ。茅ヶ崎料金所に向かって進む。茅ヶ崎料金所。さらに正面の富士山の勇姿を楽しみながら、新湘南バイパスを進む。そして前方に「湘南ベルブリッジ」。本橋は、新湘南バイバスの茅ヶ崎海岸I C付近に位置し、相模川の支流である小出川を鋭角に渡河する橋梁。アーチの上部に取り付けられた4本のケーブルで「湘南ベルブリッジ」橋桁(はしげた)が吊り下げられ、アーチの下部も橋桁と繋(つな)がっている不思議な構造。ニール・ローゼ橋の一種と言うらしい。そして相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。「金目川」を渡る。「西湘バイパス」に入ると、正面に箱根の山々が姿を現した。そして「大磯西IC」で降り、国道1号を進み、二宮町富士見が丘3丁目に住む先輩と合流。そして再び「大磯西IC」まで戻り「西湘バイパス」を更に進む。左手には光る「相模湾」と「二宮港突堤」。岸から50mほど突き出た堤防。船の停泊目的の堤防ではないため漁船を気にせず釣りを楽しむことができる堤防のようだ。我がデジカメを助手席に座る先輩に渡し、写真撮影を依頼。「国府津IC」手前から富士山の姿を。「酒匂川」を渡りながら相模湾を見る。「西湘バイパス」を「石橋IC」で降り、国道135号・真鶴道路を進む。前方に見えたのが「真鶴半島」。前方に現れたのが「湯河原町」。前方に「熱海ビーチライン」案内板が。「熱海ビーチライン」には乗らずに、国道135号から遠く「初島(はつしま)」の姿を。初島は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。そして「春日町」交差点を右折して、JR来宮駅前を通過し、この日の最初の目的地の「熱海梅園」に到着。「第37回熱海梅園もみじまつり」は前日の12月3日で終了していたため、観光客の姿は少なかった。前日で終了した「熱海梅園 もみじまつり」のポスターをネットから。園内入口の「寒椿」のピンクの花。近づいて。「熱海梅園のご案内」。期間限定の「足湯」の案内もあったが、これも終了していた。石蕗の黄色の花が鮮やかに。「熱海梅園」と刻まれた石碑。「梅園の由来」。「梅園の由来明治十八年(一八八五 )わが国初の温泉療養施設「噏汽館(きゅうきかん)」開設に伴い、内務省衛生局長 長与専斎の遊歩公園造成提唱に応じた横浜の茂本自ら選定したこの地一万坪に早咲きの梅 初雁、冬至梅など紅白百種をこえる梅三千株と松、桧、楓を配し、三亭、五橋をもって翌十九年完成し「茂木氏梅園」と令名、「熱海梅園」と通称され当初より公開された。その後、皇室財産、国有財産を経て、昭和三十五年熱海市に譲渡された。長与専斎 略歴天保九年(一八三八)長崎県大村の藩医の家に生れ、十六歳で大阪の蘭学塾、緒方洪庵の「適塾」に入門、のち長崎で直接蘭医に学び長崎医大の前身、精得館、長崎医学校の学頭をつとめ近代医学の導入を図った。明治四年岩倉具視の米欧使節団に随行、国民の健康保護、医事行政、諸施設に深く啓発され、明治六年文部省初代医務局長のあと自ら案出した「衛生」のことばを用いた内務省初代衛生局長となり、在任十八年わが国医制、公衆衛生の基礎をつくった。明治三十五年(一九〇ニ)死去。昭和六十年一月吉日 孫眞道文」竹灯籠も役割を終えて。「かぐや姫 落葉の道に 灯りけり」と。ネットから。右手に「夫婦松(めおとまつ)」。樹齢400年以上と推測されるという「夫婦松」。二股に分かれていた。「いつまでも 達者でいよう 夫婦松」と。「大塚実氏顕彰記念碑熱海梅園は内務省の初代衛生局長であった長与専斎の提唱を受け、横浜の豪商・茂木惣兵衛氏が私財を投じ、明治19年に開園したものです。爾来120余年の歳月が流れ、往時の優美な姿が失われつつあった中、熱海由縁の実業家大塚実氏の私財提供を受けて、開園以来の大規模な工事が行われ、清流初川の渓流を挟んで、晩秋の紅葉と早春の梅花、そして初夏の新緑と夏の夜に乱れ飛ぶ蛍の光が、その景観美を競うという、新しい梅園に衣更えいたしました。ここに熱海梅園を見事に再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表するとともに、この梅園を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成二十一年十一月吉日 熱海市長 齋藤 栄」そして「もみじまつり」は終了したものの、まだまだ紅葉が見頃の絶景を楽しんでカメラで追ったのであった。そして「初川」の渓流がその下に。「初川」の渓流を覗き込むが如くに。熱海市の汚水マンホール蓋。熱海市は、2017年に市制80周年を迎えたことを記念し、マンホール蓋2種類をデザインした。市の花「梅」、そして熱海温泉の文化の象徴である「芸妓」を図案化したもので、「熱海市市制80周年」のロゴマークを配した。熱海梅園は、1886年(明治19年)に開園し、日本で最も早咲きの梅の名所として全国にその名を知られ、多くの観光客が訪れている。また、芸妓衆が稽古をする芸妓見番で開演される「熱海をどり」、「湯めまちをどり華の舞」では、豪華な衣装に身を包んだ熱海芸妓による艶やかな舞を披露しているとのこと。このデザインマンホールは、JR来宮駅前と熱海梅園周辺の歩道及び熱海梅園の園内に設置して いる と。再び初川の清き流れとその両岸を彩る紅葉を追う。青空に映えて輝く紅葉。梅園五橋の「迎月」が右手に。五橋とは漸佳(ざんか)橋迎月(げいげつ)橋雙眉(そうび)橋駐杖(ちゅうじょう)橋香浮(こうふ)橋 と。白き流れ。紅葉の隙間から陽光が川面に射し込む。この辺りは紅葉のエピローグへと。そしてこれはまだまだ!!と。 ・・・つづく・・・
2024.02.03
コメント(0)
今年も前日のテレビニュースで熱海・糸川桜が例年より早く満開を迎えているとのことで、一昨日の1月31日(水)に車で行って来ました。7時に自宅を出発し、西湘バイパス、国道135号を利用して、8:30過ぎに「熱海親水公園」の駐車場に到着し、散策開始。早咲き「あたみ桜」の名所とされる熱海市中心街の糸川遊歩道。例年1月初めから1カ月程度、濃いピンク色の花を咲かせているのだ。糸川に架かる国道135号の「熱海渚橋」。ポスター「第14回あたみ桜 糸川桜まつり」 2024年1月6日(土)~2月4日(日) ライトアップ 16:30~23:00「第80回熱海梅園 梅まつり」 2024年1月6日(土)~3月3日(日) 8:30~16:00 入園料 一般300円⽷川沿い(57本)、さくらの名所散策路(87本)、梅園前市道(23本)、海浜公園(11本)、渚⼩公園(15本)、親⽔公園渚デッキ(17本)ほか、サンレモ公園、釜鳴屋平七像、梅園内、市役所花ひろば、貫⼀ホテル斜め前、伊⾖⼭国道交番前、姫の沢スポーツ広場駐⾞場前、来宮駅前などで開花中と。ここ「糸川べり」には熱海市中央町の「赤線」があったことを知ったのは初めてこの桜を見に来た時。糸川沿いの右岸を上流に向かって進む。この日の朝は雲一つない晴天で、「あたみ桜」が朝の陽光に輝いていた。早朝のため、まだまだ人の姿は少なかった。前方に見えて来たのが欄干の「波」頭にカモメがいる「柳橋」。「柳橋」に近づいて。見上げて。熱海桜は花弁が濃いピンク色、特に花の中心部がさらに濃く花が大きいのが特長で、 カンヒザクラとヤマザクラとの雑種と推定されているのだと。「あたみ桜開花期 1月~2月特徴 開花期間が1ヶ月間と長い 熱海市」「あたみ桜」は、開花期が1月と沖縄の寒緋桜と並んで日本列島で最も早咲きで、早咲きの桜として注目を集める河津桜より約半月~1カ月早く咲きます。開花期間が長い理由としては、花のつき方が、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に開花する花芽の二段構えに形成されているためである とネットから。「柳橋」の欄干を見る。今年の「あたみ桜」は、例年より色が濃いとテレビのニュースでは。ゆっくりとズームして。糸川の堤防壁には熱海の海の姿・魚やカモメが。国道135号に架かる「糸川橋」の先にある「あたみ桜基準木」が姿を現した。南西方向の山の上には!?ネットで調べてみると「崇教真光(すうきようまひかり) 熱海遥拝所」と。「あたみ桜基準木」。案内柱「あたみ桜基準木 平成20年12月選定」と。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと、関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定れました。」基準木の下には真赤なブーゲンビリアの花も。「熱海桜」碑。花の色が濃い場所と、薄い場所が複雑に分布。その理由は?陽光の影響か?再び真赤なブーゲンビリアの花をズームして。さらに。常夏を思わせる鮮やかな赤色の「ブーゲンビリア」。風に揺れるやわらかな質感も魅力。ひとあし、いや、ふたあし、みあし早く、既に初夏を感じる光景なのであった。さらに糸川遊歩道を上流に進み、「あたみ桜」をカメラで追いかける。石のベンチは草木に覆われていた。更に「あたみ桜」を追って。そして今年の「桜橋」には提灯が。これぞ八重の鈴なり、いや鈴咲き。ズームして。歌碑があった。読めない!!しかし、ちゃんと「案内板」が!!「ちかき山 ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に、別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「桐一葉」「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。 昭和六十二年六月七日 逍遥協会」糸川遊歩道にはいろいろなオブジェが飾られていたのであった。亀とマンボウのオブジェ。上部には波の姿が。近づいて。そのオブジェを見下ろすが如くに。その先に見えて来たのが「ドラゴン橋」。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。橋の入口にあったのが「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成25年1月吉日 熱海市長 齋藤 栄」ドラゴンの姿が橋柱として。ドラゴンの姿の橋柱を覆い隠すがごとき「あたみ桜」。欄干がドラゴンの骨格のように。ドラゴンに近づいて。超密集な「あたみ桜」。三密(密閉・密集・密接)禁止の時期もあったが・・・。いや今も同じか!?「あたみ桜」の花をむさぼるが如きドラゴンの姿。そして「あたみ桜」に訪花する「メジロ」の姿を暫し追ったのであった。スズメ?の姿も。カメラ設定をいろいろ?変えて。まだまだ、「メジロ」と「ウグイス」を混同されている方が多いのであるが。そして「メジロ」を追う和服姿の女性の姿も。よく見ると自撮りの為に和服姿で!!? ・・・つづく・・・
2024.02.02
コメント(0)
「大門通り」の歩道の右手道路側にあったのが「大門」案内ボード。近づいて。「東海道名所之内 芝増上寺 二代広重 文久三年(1863)増上寺の朱に塗られている総門は、俗に大門と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり、下馬札が立っていた。」このベンチの如き石に描かれた蝶の如き模様は??方位標示。「芝神明」案内ボード。近づいて。「芝神明江戸芝神明之図 歌川国丸 文化文政年間(1820ごろ)俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は、江戸の有名な神社の一つである。往年の参拝の人びとや商人たちの生き生きした姿がえがかれている。」左手にあったのが「更科布屋」。東京都港区芝大門1丁目15−8 布萬スカイビル。「犬矢来(いぬやらい)」の前にあったのが蕎麦屋「創業寛政三年 芝大門 更科布屋」碑。「犬矢来」の由来は、犬の放尿除けのためにあると言われるようです。「更科布屋」の前にあったのが都営地下鉄「大門駅」入口。現在地はここ。「め組のけんか」案内ボード。「錦絵 神明相撲闘争之図 明治19年(1886)め組のけんか文化2年(1805) 2月(ー説)、芝神明の境内で、勧進相捉を興業していた力士と町火消め組との間でけんかが起こった。これが、のちに江戸っ子気質の典型として評判になった芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった。」「瓦斯灯」案内ボード。近づいて「金杉橋新堀の芝居(部分) 豊原国秋(三代広重) 明治8年(1875)」。明治7年(1874)金杉橋-京橋までの間に85基のガス燈 が設置された。今の海岸一丁目にあった瓦斯製造所(現、東京ガス本社ビル)から供給されたガスによって、東京に初めて文明開化のあかりがともされた。絵は金杉橋のガス燈である。左上の配置図は設計にあたったフランスの技師ベルグランによるものである。世界時差標示。「大門」交差点。国道15号・第1京浜との十字路の手前まで来る。「国道15号・第1京浜」。「大門」交差点を渡る。「日本生命浜松町クレアタワー」。東京都港区浜松町2丁目3。「手づくり郷土賞 やすらぎとうるおいのある歩道 三十選」碑。「手づくり郷土賞 建設大臣 越智伊平◯やすらぎとうるおいのある歩道 三十選昭和六十三年七月寄贈 (株)関東建設共済会」「日本生命浜松町クレアタワー」敷地内の緑地にあった作品「「空の水」青木野枝」。廻り込んで。数多くの柔らかい円が上昇していくような鉄の彫刻立体作品。「日本生命浜松町クレアタワー」を見上げて。地下3階、地上29階の建物。「日本生命浜松町クレアタワー」。東京都港区浜松町2丁目3-1。エントランスのエスカレーター。そして歩道の街路樹にはイルミネーションが点灯。「広げよう納税の輪」碑。正面には「ふれあいの道」と彫り込まれていた。右側には「世界の願い交通安全」とも彫り込まれていた。欲張って?3つものことが込められた珍しい?記念碑。そしてJR浜松町駅(北口)が見えて来た。「浜松町駅 開業1909年」と。そして山手線で「大崎駅」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.02
コメント(0)
次に訪ねたのが、浄土宗・「觀智院」。戦国時代末期より続く歴史があり、江戸時代に入り大本山増上寺が芝に移転してからは、増上寺の子院の一つとなった。増上寺が芝に移った際、その時の誠諦庵(現:観智院)の庵主である吟察上人が、増上寺の源誉存応上人に深く帰依(深く尊敬・信奉)して、誠諦庵は増上寺の山内(境内)に移り、子院となった。名前の由来は、増上寺の住職であった観智国師が当院に隠棲したことからと言われていると。「南無阿弥陀佛」碑。「觀智院」と。掲示板の横には「眞生」と。「この世の私たちは、仏様に生かされている存在だと考えます。世の中をよくしたいという仏様の願いを信じること、仏様の願いにかなった生き方を少しでもこの世に実現し、ひとりひとりが生きがいのある人生を送ることを「真生」と名付けました。真生主義真生主義は、宗祖法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことを理念としました。此の世は闇の世、苦しみの世界と考えるのは自分の目が曇っていたためで、一歩進んで眼さえ開ければ、光明はどこにもここにも充ち満ちています。至心に念仏申す人は如来の光明をこうむり、いつしか霊性が開発され、現実の世界でそのまま助かる道が感得されます。来世の救済を願うだけではなく、ただ今から未来世を貫く、永遠の生命と無限の向上を求め、人格の完成を目指します と。再び「増上寺 大門」への道に出て「増上寺 三解脱門」越しに「東京タワー」を振り返る。先程訪ねた「廣度院」の「練塀」そして「南門」。「南門」をズームして。歩道にあった「区の花 アジサイ」案内碑。アジサイには、ガクアジサイとタマアジサイなどがあります。関東地方に古くから自生し、花の色が雨などにより変化します。シーボルト博士が楠木お滝に贈ったことにちなみ、学名に「オタクサ」とつけられている国際性も豊かな花です。ユキノシタ科:日本(関東南部)原産・落葉広葉樹」。「区の花 バラ」案内碑。バラは香のよい色あざやかな花で種類も豊富です。日本にも古くから自生するノイバラがあります。現在植栽されているものの多くは外国から渡来し、明治20年には芝公園に「バラ園」が作られた記録があり、国際性豊かな花です。バラ科:日本・中国・欧州原産・常縁落葉低木つる「区の木 ハナミズキハナミズキは東京市からワシントン市に贈った桜のお返しとして、大正4年に渡来し、国際交流の橋わたしをした木です。成木は5 ~ 7m位になります。春には白やピンクの花が咲き、秋には赤い実、紅葉も美しく、小鳥も集まります。ミズキ科:米国南部原産・落葉広葉樹」右手にあったのが「安養院」。浄土宗寺院の「安養院」は、承応2年(1653)増上寺に止住した山城国大原向坊恵隆師の坊舎を創始とするといいます。明治11年に発足した芝区の区役所が当院内に置かれた と。「安養院」。本堂の扁額「安養精舎」。「本堂」を斜め横から。そして前方に「増上寺 大門」が姿を現した。増上寺の総門・表門で、地名の由来になっている門。現在のものは昭和12年に国道の通行整備のため、原型より大きく、コンクリート製に作り直されたが、旧大門は慶長3年に江戸城の拡張・造営により、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものであった。その旧大門は大正12年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたので、回向院に移築されたが昭和二十年の空襲により焼失したとのこと。その手前、左手奥にあったのが「常照院」。正面に「本堂」。境内に石碑が並ぶ。「史跡 恋娘昔八丈 城木屋お熊墓所」。「白子屋お熊」というのが実際の名前で、歌舞伎「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」は実名になっている。(明治に作られた芝居だから?)とにかく、実話では悪女ですが、大変な美人だったので芝居になり、人形浄瑠璃では話も美化されたと。なおこの寺は代々市川団十郎家の菩提寺であったと。(九代目が神道に改宗、のちに歴代団十郎の墓も青山墓地に)七代目が寄贈した手水鉢があり、七代目と書かれた石と三舛の紋があった。次に訪ねたのが「花岳院」。「花岳院」は、浄土宗大本山増上寺の山内寺院。江戸時代の永正年間に増上寺六世・知雲上人の隠棲の寺として創建された。増上寺の坊中四十八寺院のうち「七大庭園」とも呼ばれる美しさを誇っていたと伝えられている。徳川家康に仕えた牧野忠成の妹・昌泉院の宝篋印塔も院内にある。春には山門脇の桜が参拝者をやさしく迎え、江戸名所の一とされた芝大門を望む地で、古の歴史と風格を今に伝えている と。「浄土宗 花岳院」。「揚羽蝶の寺紋」が印象的であった。増上寺の子院なので、寺紋は徳川葵と思うも、揚羽蝶の寺紋であった。「本堂」をズームして。扁額「花岳院」。「本堂」入口にも「揚羽蝶の寺紋」。移動して。そして「増上寺 大門」に到着。門の下部にあった案内板を追う。「大本山増上寺 大門平成ニ十八年三月 東京都より無償讓与 同ニ十九年三月 耐震改修工事 十月 大門再建八十周年天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起國豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修禮讓【天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲起こらず。国豊かに民安し。 兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。】(天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、 国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、 努めて礼儀と謙譲の道を修めます)という意であるとネットから。八十世大僧正 戎譽季生」「大門沿革碑板大門ハ三縁山増上寺ノ総門ニシテ古来江戸名所ノ一 トシテ人口ニ膾炙セリ慶長十年徳川氏増上寺創建ノ際ノ造営ニ係ル明治十一年十月東京府ニ寄附セラレタリシガ其ノ後東京市ノ管理ニ帰スルヤ芝公園内ノ施設トシテ保存ニ務メタルモ近年破損著シク永ク保存ニ堪エザルニ至リシ薦地元芝公園改良期成金並ニ株式会社不動貯金銀行協賛ノ下ニ其ノ原形ニ則リ新タニ復興ノ業ヲ起シ茲ニ其ノ竣功ヲ見タリ依テ之ガ落慶ノ典ヲ行フニ方リ由来ヲ略記シ以テ後世ニ伝フ 東京市 昭和十二年十月 昭和三十三年十二月 全国不動会 再板」「港区指定有形文化財 建設物 大門大門は、増上寺本堂、三解脱門とともに門前から境内の軸線を形成する門で、初代の門は江戸時代に木造で建設されました。現存するこの門は、東京市土木局建築課の設計、安藤組の施工によって昭和12(1937)年に木造から鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものです。鉄骨鉄筋コンクリート造を採用しつつも、先代の意匠を踏襲することが試みられています。大規模な高麗門(こうらいもん)です、反りを伴った切妻屋根(きりづまやね)、繰形(くりかた)をもつ持送り、垂木(たるき)、六葉(ろくよう)なども木造さながらの表現となっています。昭和12年の建設総工費は2万円が投じられましたが、そのうちの一万一千円は、大門の向かいにあった不動貯金銀行の頭取、牧野元次郎の寄村によるものてす。また昭和五十年代に実施された大門の塗り替えや瓦の修理は、地元有志の尽力によるもので、大門が地域の人々によって支えられてきたことが分かります。戦災を免れ、地域の象徴であること、増上寺総門としての歴史的意味から、貴重な建造物です。平成ニ十九年九月ニ十七日 港区教育委員会 文化財を大切にしましよう」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」案内板。昭和11年2月写 木版画32✕22cm 版元:渡邊庄三郎(渡邊木版美術画舗) 画像提供:常泉幸雄川瀬巴水は、明治16 (1883)年5月18日、芝区露月町36番地(現、港区新五丁目6番)に生まれた。本名文治郎。明治43年、日本画家鏑木清方に入門。大正7 (1918)年以降は、新しい時代の芸術的浮世絵板画「新版画」を提唱し制作しだ版元渡邊庄三郎の下で、風景版画の絵師として活躍。昭和32 (1957)年11月27日に亡くなるまで、約700図の新版画を制作した。巴水にとって、増上寺は生地に近くなじみ深い場所。「新柬京百景』の第1作で描いたのは、その増上寺の旧総門「大門」であった。紅色の大門に雪を降らせ、巴水自身にも見える傘差す人物を添景とし、情緒的日本風景を表現した。また、紅白の色調は、版画ならではの美的効果を生んでいる。ここに、珍しく自動車を描き、近代都市「新東京」を象徴させた。巳水が描いた木造の大門は、昭和12年、回向院(墨田区両国所在)に移築され、20年、空襲で焼失した。本作品は、往時の大門を知る貴重な資料でもある。 清水久男(新版画研究家)」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」。大門の左手前の歩道にレリーフが掲出されていた。「江戸百景余興 芝神明増上寺」。奥に増上寺の大門、右手に芝神明宮が描かれています。「風景浮世絵の名手、初代安藤廣重が その最晩年の安政五年(一八五八)に描いた芝神明と増上寺で江戸の百景を選び 更に追加したものであろう。増上寺は徳川将軍家の菩提寺であって江戸時代の初めからの名所でありその僧たちや 今と変らぬ参詣見物の大勢の人たちの姿が描かれている。」「江戸自慢三十六興 芝神明生姜市」「芝神明は 平安時代に造られたという江戸有数の古社で 芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは 江戸時代のしょうが市の光景で今日でも九月十一日から二十一日まで長く続くため だらだら祭りの名がある。背景は 二代広重、人物 は 三代豊国の筆、元治元年(一八六四)江戸自慢三十六興の一枚。」「芝 大門」右 「浄土宗大本山 増上寺」左 「黒本尊 勝運 交通安全 御祈願」と。「芝大門 公衆トイレ」。「芝大門」交差点を渡る。再び「芝 大門」を振り返る。次に訪ねたのが「浄運院」。「浄運院」。浄土宗寺院の浄運院は、増上寺の子院で、起立年代等は不詳ながら、文化3年(1806)、文政2年(1819)と罹災してしまったといい、かつては上杉弾正大弼、上杉駿河守、真田弾正大弼、内藤主殿頭の宿坊だったと。本堂に近づいて。枯山水の庭。再び「芝 大門」を見上げる。先ほどとは、道路の反対側から振り返る。更に横断歩道を渡りながら。さらに「浜松町駅」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.01
コメント(0)
「増上寺前」交差点の横断歩道を渡った場所にあった、次の目的地の「芝公園8号地」を訪ねた。「公園制度の誕生 太政官布達公園日本で最も古い公園の一つ芝公園公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などでした。明治に時代が移り、新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、公園が誕生しました。その後、明治20年(1887)までに、江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25 号地に区画されていました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になりました。」「芝公園設計絵図」。1910年発行の『東京市公園改良設計調査報告書』にあった図面と共通性が高い図面で、上部にあるのが現在のもみじ谷。現在の芝公園・配置案内図。公園の角にあったのは「臥龍垣(がりゅうがき)」であっただろうか。その姿、地に臥せる龍の如し。臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもので、躍動感ある龍の姿を表現している。増上寺山門側のものは日本最長の19mもある と。 臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもの。その写真をネットから。「首提灯」案内板の横には「常夜灯江戸の夜の暗い町筋を照らしていたのは、辻々設けられた常夜灯でした。これは、この付近の町にもあったろうと思われる、常夜灯を模造したもので、江戸の町の、夜のありさまをしのぶために設けました」と。「常夜灯」に近づいて。「落語「首提灯」👈リンク江戸時代、芝山内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語『首提灯』の舞台となりました。侍とけんかした職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかすそのまま首を提灯代にして、火事見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。」「あらすじ金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く男。ほろ酔い加減で、機嫌もよく気も大きい。増上寺の鐘を聞きながら、芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかると、「おい待て」と声がかかる。てっきり追いはぎと思いきや、背の高い侍だった。「何かようか、おじさん」と問うと、「麻布にめえる(参る)には、どうめえる」と田舎なまりで聞いてきた。追いはぎでなくほっとし、田舎侍と見くびった男は、「丸太棒、ぼこすり野郎、かんちょうれい、二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるか」と言いたい放題、悪口雑言を浴びせ、悪態をつき始める。さらに調子に乗った男は侍に痰(たん)を吐きかける。身をかわした侍は「行け」というが、男は図に乗ってまた、痰を浴びせた。これが侍の羽織にかかった。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去る。首を斬られたことも知らずに品川に向かう男、「広い世間にあなたがいなきゃ、こんな苦労はしやすまい」なんて鼻歌まじりだが、声が漏れる。首も横から後ろへ回り始めた。グラグラして来た首にさわると血がべっとり、やっと斬られたことが分かった男、首をささえながら歩いていく。すると前方で半鐘の音、大勢の人が邪魔だ、邪魔だと駆け出して来て大混雑で、壊れ物の首が危ない。困った男、自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりに、「はいごめんよ、はいごめんよ、はいごめんよ」」と。「増上寺」周辺の地図。「現在地」。こちらは瓦を積み上げた「うろこ垣」。ここ「おもてなしの庭」では、古瓦の他、庭石もリサイクル。庭園や古民家にあったものが活用されているのだと。この瓦は滋賀県大津市の古民家から譲り受けたもので、門として生まれ変わったのだ。国の登録有形文化財である廣度院の練塀(ねりべい )を借景としていると。右手にあったのが「廣度院」の「練塀」。練塀は底部に間知石を置き、芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で、現在では用いられることがない。数多くの子院が集まって形成していた特異な都市景観を知るよすがとなっている。その先に「廣度院表門」。増上寺境内の子院の一間一戸の薬医門。浄土宗寺院の廣度院は、酉譽上人が増上寺を開基、廣度を其院名とした時、別に一院を建立、其の事跡を後世に伝えようと國師存應上人が圓融に命じて開創させた と。その先、右手前方に案内板が。近づいて。【No222 増上寺子院群ー廣度院跡遺跡(港区埋蔵文化財包蔵地区)】」「廣度院・練塀(こうどいん・ねりべい)間知石(けんちいし)」復元石積み江戸時代から続く、平衡に安定した上部下部間知石を、発掘の並び・積み上がりのまま復元しました。江戸時代、芝公園一帯は増上寺境内地で、このH¹O芝公園の敷地は三緑山廣度院でした。「間知石」は、江戸時代から平衡に揺るぎなく「練塀」を支えていました。上部は江戸後期の三角錘の間知石、下部は1640年以降の方形に近い間知石です。「練塀」は、三解説門左右・大門左右・御成門左右、台徳院殿霊廟惣門前、山内各所にもありました。「廣度院練塀」は「間知石」とともに、ここに存在しました。「廣度院練塀」は、『江戸城造営関係資料集』「塗師方壁方瓦方当時物井本途内訳」(東京都中央図書館所蔵・重要文化財)に記された内部構造構成を確認できます。「江戸城練塀」・「増上寺三門左右練塀」検証にも必要な存在です。「間知石」は、堀の中から地表へ二段三段と積み上げられていました。この「間知石」の存在や、今回の「廣度院練塀」解体修復調査で判明した「練塀」内部構造により、水はけ対策が理解できます。「廣度院練塀」の脆弱ではない重厚な造り、機能、水はけ対策、配置、景観等からは、増上寺山内寺院建築での配慮を知る事ができます。「増上寺山内常照院所蔵「明治34年大日本東京芝三総山増上寺境内全図」部分」。「堀・間知石・練塀内部構造等の再現図」。「H¹O芝公園の建築に先立ち、「廣度院練塀」及び境内地は、前建築解体工事による 損壊が懸念されました。港区議会では区長が、文化財を保護する観点から、丁寧な対応を指導されました。野村不動産株式会社は、地中調査及び解体前・解体中調査を実施。「廣度院練塀」に連結された前建築振動伝達物ベランダの適切な切り離し撤去と、「廣度院練塀」への前建築越境物解消のための一部解体修復保全工事を補償。文化財「廣度院練塀」及び境内地に損壊はなく、将来に懸念を残さないよう保護されました。H¹O芝公園は港区景観計画の主旨に沿いスカイラインと経済性を両立、増上寺境内地へのリスペクトを持つヘリテージマネジメントを実行しました。三解脱門・大門のアイスポットと寺院の多く点在する景観に配慮され、熊谷組開発の耐火性木の柱を駆使し、寺院建築、日本建築への敬意を示されました。歴史的建造物 「練塀」の瓦・塀の意匠を継ぎ、芝公園の緑の中に歴史的配色を施し増上寺境內廣度院の※遺跡を復元され、「廣度院練塀」への配慮もされました。国の登録有形文化財「廣度院表門及び練塀」が「増上寺子院群廣度院跡遺跡」とともに適切な理解と保存をされることを願い、「間知石」石積みの復元はなされました。1945(昭和20)年の東京大空襲まで、この敷地の一角に増上寺開山西要上人念持の不動尊がいらっしゃいました。不動堂再建のため、その場所は保存されましたが、戦後暫くして、この地に建築がなされました。頭一つ聳え立つ楼閣で、次第に風光明編な芝公園に建つ洋館として親しまれ、一つの時代を終えました。「廣度院練塀」の文化財的保全保護を実現するH¹O芝公園は、増上寺山内での、歴史にとけこみ発展するオフィスビルとして、国際的な港区の歴史の一頁を開かれますよう、不動尊のご加護とともに願っています。令和5年9月 三樺山廣度院」更に「芝公園8号地」東側に沿った通を進む。右側にあったのが「東京都港区役所」。その手前の敷地の角にあった裸像。「平和の女神(1968年) 北村西望作(1884年~1987年)」。弓のように開いた両手に陽光をいっぱいにうけて、男性像によって「平和祈念像」を完成した作者が、同じ理念を女神像によって表した作品。お顔をズームして。左に「港区平和都市宣言かけがえのない美しい地球を守り、世界の恒久平和を願う人びとの心は一つであり、いつまでも変わることはありません。私たちも真の平和を望みながら、文化や伝統を守り、生きがいに満ちたまちづくりに努めています。このふれあいのある郷土、美しい大地をこれから生まれ育つこどもたちに伝えることは私たちの務めです。私たちは、我が国が『非核三原則』を堅持することを求めるとともに、ここに広く核兵器の廃絶を訴え、心から平和の願いをこめて港区が平和都市であることを宣言します。 昭和60年8月15日 東京都港区」右に「「平和の女神」像あの悲惨な戦争が終結してから長い年月を経て、ややもすると薄れつつある記憶 私たちはその事実を歴史の中にうずめてしまうことはできません。港区では恒久平和の願いをこめて昭和60年8月15日、「港区平和都市宣言」を行いました。平和を願う港区民の心の結晶として、「平和の女神」像をここに設けます。 昭和62年3月 東京都港区」その先に「潮騒の記憶」関根伸夫作。かってこの地は海の近くで、海鳥が群れ、潮騒がたえず響く港であった。遠ざかる思い出と港区の未来を記念して、これを「潮騒の記憶」となす と。左手にあった「芝公園6号地」を訪ねた。「月の庭」と。作者は? 既存の「月」のモニュメント周辺に、蛇籠(じゃかご) に模して編んだ竹をしつらえていた。そのダイナ ミックな造形はまさに大蛇のよう。蛇籠は内部に石などを詰め、古来、河川工事の護岸や水制として使用されたのだ「このモニュメントは月見をイメージと」下記にあったが。近づいて。細い蛇籠を模して編んだ竹に囲まれて。「松原の復元芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれています。 それは、寛永十七年(一六四〇年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往来の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。 昭和六十二年二月 東京都」名所江戸百景「芝神明増上寺』。絵の左上に赤い山門が描かれている、これが上増寺の大門。その奥に山門と本殿の屋根が見える。また、右を見ると神殿造りの屋根が見える。これが芝明神。屋根には鰹木の突き出たのが明神さんの特徴だ。中央に描かれた団体さんは、寺での本山参りを終え、これから地元に帰るのか、それとも江戸見物にでも出かけるのか・・・その後ろにいる僧の一行は、江戸市中に托鉢に行くところだ道路脇には多くの松が植えられているのが解るのであった。「芝公園6号地」と「芝公園8号地」の境にあった竹塀と門。近づいて。「芝公園8号地」を縦断して、「増上寺前」交差点まで戻り、左折して「芝大門」方向に向かうと左手にあったのが「源興院」。住居の如き「源興院」。その先にあったのが「源流院」。浄土宗寺院の源流院は、観智國師の法流林應が、青山播磨守忠成と共に出府、林應庵と名づけた庵室を草創していたところ、青山播磨守忠成が増上寺造営奉行となり、増上寺の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け源流院と号して建立、後、青山播磨守忠成父子が当院に葬られたといいます。コンクリートの建物。道を引き返すと左手にあったのが「天陽院」。「浄土宗 天陽院」。「どんな一歩も大事な一歩いけらば念仏の功つもり、しなば浄上へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわすろう事ぞなき(生きている間はお念仏を称えてその功績が積もり、命尽きたならばお浄土に参らせていただきます。いずれにしてもこの身にはあれこれと思い悩むことなどないのです)私たちはさまざまな思いを抱きながら毎日を歩んでいます。思い切って踏み出した一歩も、迷いながら踏み出した一歩も、なんとなく踏み出した一歩も、どれも等しく大切で、私たちが生きる上でとても大事なもの。そんな歩みの中、私たちはお念仏をとなえることによって、阿弥陀さまにお見守りいたたき、いつか命終わる時、「極楽往生」というお導きをいたたくことができます,、日々、悩み戸惑い、心が散り乱れる私たちですが、お念仏の生活を送ることによって阿弥陀さまと共に安心して毎日を歩むことが出来るのです。」浄土宗寺院の天陽院は、生譽珍公が開祖となり、応永31年(1424)武蔵國日比谷飯倉附近に創建、増上寺が当地へ移転(慶長3年1598年)した際に、子院となったといいます。奥にコンクリート製の本堂らしきものが。そして戻る途中に増上寺の「三解脱門」が見えた。「芝公園10号地」にあった「芝公園記念塔」。「芝公園10号地」内を南方向に進む。10号地内の左にあったのが「ペルリ提督の像」。東京都港区芝公園2丁目、増上寺の門前、日比谷通り沿いの芝公園10号地にあるのが、このペルリ提督の像。1953(昭和28)年、「開国百年祭」に際し、ペリー提督の出身地であるアメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート市に東京都が石灯籠を贈り、その返礼として親善の印に贈られたものと云われています。1854(嘉永7)年、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立てたため、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。ちなみに、ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリー。嘉永7年(1854年)、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立て、日本語〜オランダ語〜英語〜オランダ語〜日本語という順序で訳されながら行なわれたため、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の名は、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。そのため、来航当時の文書には「ペルリ(彼理 ・伯理)」と表記されています。像の制作者は彫刻家、フェリックス・ド・ウエルドン(Felix Weihs de Weldon)で、有名なアーリントン国立墓地にある『海兵隊戦争記念碑』(昭和20年2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子をジョー・ローゼンタールが撮影した写真を元にして制作、『硫黄島記念碑』とも)と同じです。ちなみに、東京都とニューポート市は姉妹関係になく、ニューポート市と姉妹関係を結んでいるのは、日米和親条約の細則を定めた下田条約を締結した地、静岡県下田市です。すぐ近くには、「万延元年遣米施設記念碑」があり、増上寺の門前が開国記念の園地になっている感じに。「西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会」そして道路の反対側に見えたのが「常行院」。浄土宗寺院の常行院は、遵譽大和尚の招聘により下向してきた元天台僧の戒順が、当地に留錫して一院としたといいます。「住職 吉原自覚」と。「本堂」?をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.31
コメント(0)
「芝 増上寺」の境内の散策を続ける。次にあったのが「阿波丸事件殉職者之碑」。「阿波丸は第二次世界大戦も終わりに近い昭和20年4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に対する救恤品の輸送に當っていた。国際法で其の安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は二千有余名、世界史上最大の海難事故となった。 加害者に對する責任の追及や賠償交渉も進まないうち、同年八月わが國は無条件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米國に對する賠償請求權を國會の決議として放棄した。 いまや平和の時代となり、經齊は復興したが戰爭の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、歸らぬ人のことを思ひ續け悲しみを懐いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體の引揚げ遺骨の拾集も實行に移されないままである。三十三回忌に當り、悲憂を文に訴へるとともに、法要の心とするものである。 昭和52年(1977年)4月1日 阿波丸事件犠牲者 遺族一同」「筆塚 心と創造」。近づいて。「筆塚心と創造学びの精神はいつの時でも人を育み人とともに歩んでいきますその歩みの中で心豊かに それぞれの人生を創造していきます 学びとは心の糧であり創造の源です努力と研鑽 勇気と希望 自信と志の象徴です 碑に刻まれた「心と創造」が 明日へ歩む子どもたちの人生の標となるよう ここに努力の軌跡を残し 今感謝の気持ちを込めて 学び具を奉納します子どもたちへ学べよ 努めよ 今がその時です平成十六年二月吉日練成会グループ」「町火消「め組」の供養碑」。文字部分に赤いペンキが入れられているが、「め組」となるとその派手さが気にならないから不思議。「め組」。■町火消■まちびけし火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのであろう。■め組■町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です とネットから。句碑は「仰ぎ見る 萬代の星 千代の月」と我がブログの校正・校閲、古字・旧字読解の師匠が調べてくださいました。上記の石碑には纏の標識部を陀志(だし)と呼ぶが、「二」と「め」の字を配した姿が刻まれていた。隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。この増上寺周辺の地域は「め組 二番組」と。奥のこの石碑には「南無阿弥陀佛」と。「弔魂之碑(ちょうこんのひ」。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。石碑の下部には「弔 魂 之 碑 病者之得痊.傷 者之得治.一 由干医. 二由干看病人.蓋 薬剤錐中其病.而 有体 憧愛護者.則 平復難期也.看 病人之責重 突哉.明 治十年 征薩之役.陸 軍省発遣 看病人看病卒干戦地.死 者二十人・ 事 平.其 生還者.立 碑於芝山内.以 弔其 魂.陸 軍軍医監林紀君管理其事.属 余作 銘.銘 日. 看護他人 以損其身 比諸戦死 忠烈 惟均. 明治十一年八月廿日 中村正直撰 成瀬温書 従五位 山岡鉄太郎題額」とあった。台石が4尺位、碑石は14・5尺もある大きな立派な石碑である とも。近づいて。「弔魂之碑」の下に「有志六百名」と刻まれた石碑。台石の方には、発起世話人、関 成功など8人の名を刻んであ り、また「有志六百名 の文字もあった。そして「三解脱門」2階と横の「山廊」との連絡階段を境内から見上げて。再び「聖観世音菩薩」の足元へ。再び紅葉・黄葉を追う。「王殿」と「東京タワー」を再び参道から。「光摂殿」の裏にある「景光殿(旧広書院)表門」、「大納骨堂(舎利殿)」、「貞恭庵(ていきょうあん)」、「圓光大師堂(えんこうだいしどう)」等は、「以前に訪ねた」👈リンク ことがあるので、時間の関係上、この日はパスしたのであった。「寺務所」を斜めから見る。「大殿」と「東京タワー」。「黒門」に向かって進む。右手にあったのが「経堂」。1605(慶長10年)の創建。その後、1681年(天和元年)に改造移築、1802年(享和2年)に現在地に移築。構造は土蔵造で、内部には八角形の木造輪蔵を安置。輪蔵には、徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されている(現在は収蔵庫に保管)。隣にあったのが「増上寺 慈雲閣(開山堂)」。浄土宗大本山「増上寺」の敷地内にある式場。多人数の葬儀から格式高い社葬などに利用され、慈雲閣は1階部分が式場で2階部分に畳の広間があり、パーテーションにて式場の広さを調整できるようになっている と。扁額「慈雲閣」。そして「増上寺旧方丈門(黒門)」を境内側から再び。「黒門」横の紅葉。「三解脱門」を境内側横から。そしてこれでもかと「増上寺」の境内を楽しんで、「黒門」から日比谷通りに出て、「増上寺前」交差点を渡り「三解脱門」を振り返ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.30
コメント(0)
「増上寺 徳川将軍家墓所」を後にして「安国殿」方向に戻ると「徳川将軍家墓所」の北側の道路に沿った場所にも向かい合うように「千躰子育地蔵菩薩」👈リンク が並んでいた。「安国殿」前の「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「銅像聖観音立像」と「千躰子育地蔵尊」。角度を変えて。「西向観音堂」。「港区の文化財 西向観音堂西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰が続いています。平成四年三月三十日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」「西向観世音菩薩像」。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまです。昭和50(1975)年、安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています と。その横には、石仏が2体。境内入口の石柱には「江戸札所 二十一番 西向観音」と刻み込まれていますが、よく見ると左下に「橘右近謹」という文字が彫り込まれていた。「橘右近」という人物がこの文字を揮毫した と。「奉般若心経壱萬巻納」と。可愛らしい石仏像。さらに東に向かって進む。左側・増上寺 西向観音堂の裏には増上寺北側の道路からも境内に入れる道が。右手に蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだ と。 その手前には石灯籠の礎石か?ポツンと。そして参道の石灯籠(左)。参道の石灯籠(右)。さらに北側の参道を東に向かって進む。東京タワーを振り返る。ここにも「千躰子育地蔵菩薩」が並んでいた。「千躰子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」「千躰子育地蔵菩薩」に近づいて。「千躰地蔵尊」碑。「南無阿弥陀佛・・・・」と。「TERA CAFE SHIEN ZOJOJI」が左側に。そして正面に見えて来たのが「熊野(ゆや)神社」。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、当山では「ユヤ」権現として親しまれている と。「熊野」は元々は、イヤ・ユヤが語源の始まりと記されています。 谷、山深い地域のことをそう呼んだと。 それに、漢字の熊野をあてはめたと。 神武天皇が紀伊半島を超えて、大和(奈良県)に入った時に、熊にであったなどとの伝えもありますが、 単に、山深い・谷深いことの喩に、熊野と言う漢字を当てはめたのではと。 確かに、熊と野ですから、そう感じるのも不思議ではないのですが。能を代表する曲の一つである『熊野』(ゆや)は、世阿弥 の作であると。石鳥居。扁額「熊野神社」。「手水舎」。「手水鉢」。「手水鉢」には三本足の烏「八咫烏(やたがらす、やたのからす)」が。「「三本足の烏[八咫烏]『神々のお使い』日本書紀によると、神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。「日輪の中に三本足の烏」ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。『シンボルマーク』天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。 大本山増上寺熊野(ゆや)みこし講 世話人 益子良通」「熊野三所大権現宮由来記増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。御神体は熊野本宮大社 家津御子大神(けつみこのおおかみ)熊野那智大社 大己貴命(おおなむらのみこと)熊野速玉神社 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。 大本山増上寺熊野みこし講』「大本山 増上寺 熊野みこし講 創立40周年記念碑」「大本山増上寺 熊野みこし講 創始者 綿貫次郎 創立40周年記念碑」「西暦1974年(昭和49年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。平成26年4月吉日大本山増上寺 熊野みこし講」。「熊野神社」の「社殿」。近づいて。さらに。熊野神社の社殿前から、石鳥居越しに東京タワーを見る。ズームして。「安国殿」、「東京タワー」を振り返って。「喜壽記念 奉納桜 百本昭和五十五年四月吉日永谷キミ殿」「三解脱門」の横の「山廊」を裏から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.29
コメント(0)
「増上寺 徳川将軍家墓所」の西側正面を見る。「明治期の増上寺御霊屋図」案内板が中央に。「明治期の増上寺御霊屋図」。増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲によりその大半が焼失。昭和33年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられたのた。 写真「台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部」。旧増上寺の「北・南御霊屋」配置図。□ 現在の増上寺境内の敷地。□ 現在のプリンスホテルの位置モノクロだが豪華絢爛さが伝わって来た。「文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面」。「有章院(七代家継公)霊廟 勅額門」。「崇源院(お江の方)霊牌所 内部」。「鋳抜門」を霊廟側から。扉に近づいて。こちらには、徳川葵紋はなく、波のみが。右側の上り龍。左側の下り龍。「現将軍墓所宝塔配置図」。「二代秀忠公夫妻 石塔」 「台徳院殿 二代秀忠公」 秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、 二代将軍に就任。将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去。 大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、 霊廟が順次造営された。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋を つくしたものであったが、惜しくも木造のため戦災で焼失してしまったと。 「崇源院殿 お江の方」。 崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の 戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。 崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう)の名で知られるが、 諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と 婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ) をもうけたが、秀勝が急逝。 江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。「台徳院殿 二代秀忠公」と。「崇源院殿 お江の方」と。「二代秀忠公夫妻」の左側に「六代家宣公夫妻(青銅製)」。近づいて。「文昭院殿 六代家宣公」と。霊廟の右・北側に並ぶ墓石群。右奥の「有章院殿 七代家継公」。家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられた。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。その右側に「惇信院殿 九代家重公」。吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11(1761)年、51歳で逝去。調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたと。「惇信院殿 九代家重公」。「慎徳院殿 十二代家慶公」家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍に。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むことに。嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去。霊廟の左・南側に並ぶ墓石群。宝塔には石製と青銅製の2種類が確認できたのであった。 左側奥には「昭徳院殿 十四代家茂公」。紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年将軍家の養子となり十四代将軍に。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去。慶長2(1866)年、享年21。「昭徳院殿 十四代家茂公」。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じた。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られたと。i入口手前には歌碑があったが。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。「合祀(ごうし)塔」。 現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されていると。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われているのだと。 「増上寺 徳川将軍家墓所」越しに東京タワーを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.28
コメント(0)
粟津温泉 喜多八<石川県>「増上寺 宝物展示室」前にも、移設された青銅燈籠が2基。■宝物展示室入口(南側・写真奥) 奉献者:安芸国広島藩主 浅野吉長 鋳物師:多川民部藤原見歳■宝物展示室入口(北側・写真手前) 奉献者:前越後国高田藩主 松平定重 鋳物師:今井信濃藤原勝長「増上寺 安国殿」越しに東京タワーを見る。正面に「安国殿」👈リンク。常香炉とその先に「安国殿」入口が。内部に入る。寺務所。ネットから祭壇全体の写真。「安国殿」のご本尊、秘仏「黒本尊」はこちらにあるのだと。恵心僧都の作。家康が崇拝し、黒本尊のパワーを借りて激戦を勝ち抜いたのだ と。秘仏「黒本尊」の「お前立」をズームして。「安国殿と黒本尊この建物は德川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(一九七四)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。建物の老朽化に伴い、平成ニ十三年(二〇一一)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。」祭壇の右側には阿弥陀如来立像。祭壇の左側。中央に狩野探幽筆『徳川家康像』と同じ絵が、その下、右横には徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。そして一番左に「皇女和宮御像」。「安国殿」の右側にあったのが「徳川将軍家墓所公開」と書かれた門。「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)特別拝観当山に埋葬されているのは、ニ代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十ニ代家慶公、十四代家茂公、の六人の将重のほかニ代将軍正室崇源院、十四代将軍正室静寛院などです。以下 略」「千躰子育地蔵菩薩」。増上寺では子育安産の西向聖観世音菩薩にちなみ、昭和50年頃より子育地蔵が徐々に建立され、境内北側に約1,300体が安置されている。このお地蔵様は、お子様の「無事成長」「身体健全」或いは「水子さま」のご供養のためにと願いを込めて建てられたもの。毎年4月の第3日曜日には「千躰子育地蔵尊大法要」が執り行われ、子供の無事成長・身体健全の祈願、水子のご供養を執り行っている と。赤いニットの帽子をかぶり風車を持っていru。赤いよだれかけをしているお地蔵さんも。子供の健康と成長を願って安置され無数の地蔵尊が並ぶ。風が吹くと、時折、からからと風車が音をたててまわっていた。増上寺境内の地蔵様たちは皆それぞれ愛くるしい顔の表情で、端から端へと見て歩いたのであった。全ての地蔵様が「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」できちんときれいに身繕いされていたのであった。全ての子供達の健やかな成長を願いながら。「増上寺 徳川将軍家墓所」に向かって「千躰子育地蔵菩薩」に見送られながら歩く。「千体子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」そして正面に石碑が並んでいた。「皇女和宮の歌碑はゝ(母)所葉乃(そはの) 散(ちり)し秋さへ 思ひ出て 一方ならず 袖はぬれける」亡き母(観行院)を偲び、涙にくれたという歌である とネットから。「止於考」と刻まれた石碑。「止於考」は、儒教の「大学」にある「為人子,止於孝;為人父,止於慈」という文言によるもの と。「止於考」は、子として真心をもって両親に仕える道を「孝」とすることを意味する と。見事に紅葉したモミジ葉。近づいて。「徳川将軍家墓所・鋳抜門」が右手にあった。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されているのであった。扉には徳川葵紋が並んでいた。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。東京増上寺の寺紋、日光市日光東照宮の神紋、京都市清凉寺の寺紋であると。門の右には上り龍。門の左には下り龍。「港区の文化財 増上寺 鋳抜門」案内柱。近づいて。その奥には「徳川家 霊廟」と。「増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かっては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一角にまとめられた。」「徳川将軍家墓所戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右) に建ち並んでいた。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳 粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。 その後昭和 二十年(一九四五)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。 正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第 6 代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。 左右の扉は共に青銅製で 5 個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、 その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。 墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の 六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お 江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら 五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。」「四菩薩像」。「四菩薩像正面(右)から普賢菩薩(辰年守本尊)地蔵菩薩(子育地蔵)虚空蔵菩薩(丑寅守本尊)文殊菩薩(卯年守本尊)もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。西向の観音像に対し東向きであった。正嘉ニ年(一ニ五八)の作と伝たえられる古像である。奉納 杉浦米奉納 藤城里花」「港区の文化財 四菩薩」。「向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(一二五八)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。」「増上寺 徳川将軍家墓所」入口手前には大きな石灯籠が並ぶ。さらに左側にも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.27
コメント(0)
粟津温泉 喜多八<石川県>「写経塔」。「写経塔」は、三解脱門から大殿に向かって右手にあった。昭和54年から始まった増上寺の写経会で、書写された写経が奉納されるための塔とのこと。枝垂れ桜の木ノ下に「故長谷川一夫丈遺愛の桜」碑。「為照林院澄譽演雅一道大居士供養塔故長谷川一夫丈遺愛の桜施主 林 成年」と。長谷川一夫(1908~1984)は戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スター」と呼ばれた。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。大殿に登る石段の右手手前に「法然上人歌碑」。「月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ」「お歌の由来月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。 寄贈 千代田水産株式会社」。前方左手にも「法然上人歌碑」が。「池の水 ひとのこころに にたりけり にごりすむこと さだめなければ」人の心は、ほとけ心が起こるかと思えばあとからあとから迷い心がでてきて、なかなか悟ることはできない。何とも心もとないことであろう。という意味だ と。「お歌の由来池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。 寄贈 千代田水産株式会社」「聖鋏観音像」。この聖鋏観音像は、昭和56年(1981年)8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。「聖鋏観音縁起この聖鋏観音像は、 昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処とにり、お守りとなるよう願われて奉造された。聖鋏観音像は、彫刻界の長老・北村西望氏の制作である。毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される ハサミは観音菩薩の御手そのものである 徹誉大僧正」近づいて。そして石段の上に大きな「大殿(だいでん)」が。参道から大殿前に至る階段は18段。阿弥陀仏の本願、第18願であると。徳川幕府の支援を受けて建てられた創建時の大殿は豪華な一階建ての建物でした。その大きさは京都にある浄土宗の総本山、知恩院の巨大な大殿をしのぐほどでした。残念ながら、元の大殿は1870年代に起こった廃仏運動によって明治時代(1868–1912)に焼失しました。建て替えられた大殿は、第二次世界大戦の空襲で破壊されました。現在の鉄筋コンクリートづくりの大殿は、1974年に比較的シンプルな建築様式で建てられました。増上寺の本尊である阿弥陀如来の像は大殿の二階に安置されています。浄土宗の信徒はここに来て「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀様に帰依します)」と唱えます。これは、仏の名を繰り返し唱えることでどんな人でも悟りを開けるとする「念仏」という慣習です。本尊の左側に置かれているのは、浄土宗の開祖である法然上人(1133–1212)の像です。法然は上流階級のものだった仏教を一般大衆に広めました。右側には中国の高僧、善導大師(613–681)を祀る祭壇があります。善導大師は法然より何世紀も前に念仏の重要性を説いた人物で、法然は善導大師の残した書物から感銘を受けました。増上寺の僧侶は毎日3回、それぞれ午前6時、午前11時30分、午後5時に仏に祈りを捧げる儀式(勤行)を行います。参拝者は日々の勤行に加え、4月と12月に行われる舞楽の奉納など、大殿で開催される特別行事にも参加できます。大殿の他の階は、地下1階が宝物展示室、地下2階が檀家1,600人のお墓、3階が道場となっています。三門から大殿...距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっているとのこと。左右に「青銅製灯籠」。旧徳川将軍家霊廟に奉納されていた青銅製の燈籠4基が、埼玉県狭山の不動寺から増上寺に移設され、大殿前石段脇と宝物展示室入口に祀られたのだと。かつて歴代将軍が薨去すると、全国の大名から灯籠が寄進され、菩提寺に造営された各霊廟に献備された。寄進する灯籠の数や種別は、大名の石高によって決められていたと。江戸時代、増上寺本堂の南北に広がっていた二代、六代、七代将軍の霊廟には、1,000基もの石燈籠と、80基ほどの青銅製の燈籠が祀られていた。移設された4基は、六代将軍徳川家宣公の霊廟である文昭院殿霊廟の宝前に奉納されたもの。文昭院殿霊廟は、威容華麗を誇った台徳院殿霊廟に引き続き、1712年に増上寺の北側に造営された。惜しくも戦災で焼失しったが、再び増上寺に祀られた灯籠は、往時を偲ばせる荘重な雰囲気を醸成している と。この大殿前石段脇 2基は奉献者:越中国富山藩主 前田利興鋳物師:宇田川藤四郎重次 であると。左の青銅製灯籠。「大殿」入口前の階段下から。。「大殿」入口前。扁額「増上寺」。内陣。中央には本堂ご本尊(室町期製作)の「阿弥陀如来」が祀られている。ズームして。「大殿(だいでん)昭和四十九年(一九七四)、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。「大殿」と称し、間ロニ十六間余(約四十八メートル)奥行ニ十五間余(約四十五メートル)高さ七丈半余(約ニ十三メートル)総面積は一〇.五三五平方メートルという大きさの大本堂です。石段を登りきったニ階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に宝物展示室などを備えています。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。」「大殿」前から「三解脱門」方向を振り返る。左手奥にあったのが「祐天桜」。祐天桜は江戸時代を代表する浄土宗大本山増上寺第36世の祐天上人(1637~1718年)が寛永元年(1661年)の頃、手植えした桜と伝承されている。花がかたまって咲くのが特徴。「祐天桜」碑。住友林業のバイオテクノロジーで増殖された貴重種の祐天桜が植えられているのだと。道路標識の如き案内板が境内に。「幼少法然さま」(=御幼名・勢至丸さま)像。近づいて。平安時代末期、貴族よりも庶民に近い武士が政治権力を握るようになった。このため仏教も、貴族から庶民を対象とするものへと変化が始まった。そんな情勢で登場したのが法然(浄土宗開祖)だった。法然が9歳のとき、土地争論が発端で父漆間時国が殺害されたが、父の遺言により、仇討ちを放棄し仏門に入ったとのこと。増上寺「光摂殿」。右側は「増上寺會館」。昭和36(1961)年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11(1999)年に建立。東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されていると。 左側が「寺務所」。増上寺「光摂殿」。平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成。三縁山広度院増上寺境内に三解脱門から入って大殿の左側、増上寺会館との間に位置する。館内には108畳敷もの大広間があり現代日本画を代表する120名による天井絵は四季折々の草花をテーマで目に触れた人を極楽浄土を想像させるものになっている。また、光摂殿は増上寺の境内に三か所有る式場の一つで、それぞれ使い方が決まっていると。参列者が500名までは「慈雲閣」で1000名までが「光摂殿」1000名以上になると「大殿」と言う事になると。参列者が500名とは相当な人物?そして光摂殿と大殿の間に東京タワーの姿を再び。扁額「光摂殿」。「光摂殿」入口正面の唐紙の装飾模様。千羽鶴が連なって飛翔するが如き模様。「光摂殿」前から「増上寺旧方丈門(黒門)」方向を見る。日比谷通りから見たイチョウの葉の黄葉をこちらからも楽しむ。ズームして。更に。石碑に近づいて。三縁山広度院増上寺山仁誉上人の詠んだ歌「今日もまた 南無阿弥陀佛 すかりなは 導き受けて 日日に新たに」「今日もまた、南無阿弥陀仏と称えて、阿弥陀仏におすがりしたならば、仏の導きをうけて日々新たな思いですごすことができます」の意 と。「増上寺旧方丈門(黒門)」の姿が。再び「大殿」前まで戻り、境内を望む。「増上寺宝物展示室 長期休館のお知らせ」。「常設展 五百羅漢図」。「増上寺宝物展示室」は「大殿」の「B1入口」からと。「大殿」と「安国殿」の間に見えた東京タワーを再び。ズームして。「大殿」を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.26
コメント(0)
そして「増上寺」前の日比谷通り・「増上寺前」交差点に到着。増上寺の正式名称は「三縁山広度院増上寺」ご本尊は阿弥陀如来・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)交差点から巨大な山門・「三解脱門」を見る。「増上寺」は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与して来た。17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、巨大な寺であった。当時は、3000人以上の学僧の念仏が、全山に鳴り響いていたと言われている。苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たす。宗祖法然上人八百年御忌をお迎えするにあたって、平成21(2009)年には圓光大師堂と学寮を、平成22(2010)年には、安国殿を建立した。長い年月をかけて、境内諸堂宇が整い、復興が成ったとのこと。東京都港区芝公園4丁目7。「三解脱門」をズームして。間口10間4尺5寸(19.5m)奥行5間(9m)高7丈(21m)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有している。この巨大な門は1622年に将軍の大工頭によって建造された。この門は増上寺創建時から残っている唯一の建造物。この門の正式名称である「三解脱門」は、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろか)の三毒からの解放されてご本尊の阿弥陀如来さまの元へと向かい極楽浄土へ入るための門を意味しているとのこと。高さ21メートルの門の二階部分(現在一般には公開されていません)には、釈迦如来の像が安置されており、この像のかたわらにはそれぞれ異なる表情を浮かべている二菩薩と十六羅漢(釈迦の最も献身的な弟子)が控えている。これらの像は江戸時代(1603–1867)初期の作であると考えられている。下層に寄棟屋根、上層に切妻屋根を持つこの門の凝ったつくりは、仏教が日本に伝来した6世紀頃の中国の建築様式を参考にしたもの。二階部分の欄干のシンプルなデザインは、日本的な建築美学を反映しています。鮮やかな朱塗りのこの門は、江戸(現在の東京)を代表するランドマークのひとつであった。三解脱門には、通常お寺の入り口に置かれている2体の恐ろしい顔をした仁王像がない。これは、増上寺が浄土宗の寺院であるためで、浄土宗は救いを求めてやってくる全てのものを歓迎しているのだと。10年間かけて行われる三門の改修工事は、2025年4月に着工が予定されているとのこと。「三解脱門」の扁額は「三縁山」。横断歩道を渡り、「三解脱門」前に巨大な立札が。「大本山増上寺 浄土宗開宗八百五十年慶讃 勧進 法要奉修 令和六年四月」と。「勧進」とは「寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。」。「今月の言葉👈リンク西岸の上に人有って喚んで言わく汝、一心正念にして直に来たれ我よく汝を護らん衆て水火の難に堕せんことを畏れざれ 「三心料簡および御法語」法然上人」と。「西に向って旅をしている人がいます。するとその人の前に突然河が現われます。河幅は100歩程であるが、南は焼えさかる火の河、北には水の河が渦巻いていた。その水火の河の分かれ目に1本の白い道が西岸まで通じている。その白い道は幅が4、5寸であるが、常に炎と波浪が襲いかかり渡るにはあまりにも危険であった。後を振り返れば多くの賊徒や猛獣たちがこちらに向かって迫ってきている。絶体絶命のこの人は、どちらに向かっても死を免れることはできないと意を決し、どうせ死ぬならこの危い細い白道を進んでいこうと決心したのです。すると東岸から「この道を真っすぐ進んでいきなさい。死ぬことはありません。もしここにとどまれば必ず死んでしまうでしょう」と語る声がした。また西岸からは「心を定めて直ちにこちらに渡ってきなさい。私はあなたを必ず護ります。水火の河など恐れてはなりません」と語る声がした。東から「行け」西から「来い」と励ましの声がしたので旅人は、疑いや不安の心が消え決然と白道を進んで、西岸つまり極楽浄土にたどり着きました、という譬え話とのこと。「三縁山 広度院 増上寺浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきた。江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康から深く帰依を受け、手厚い保護を受けた。慶長3年(1958)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵している。」「三解脱門慶長十六年(一六一一)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中居大和守正清によって建立され、元和八年(一六二二)に再建されました。この門 は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約十九メートル)奥行五間(約九メートル)高さ七丈(約二十一メートル)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像 が奉安されています。」「三解脱門」の前には「日比谷通り」その先には「芝公園 8号地」の緑が。この「三解脱門」前の「日比谷通り」を正月2日、3日には箱根駅伝のランナーが爆走したのであった。寺号標石「浄土宗 大本山 増上寺」。「三解脱門」の左右に延びる棟には計四つの花頭窓が。反対側から「三解脱門」を見上げる。「三解脱門」に吊るされている飾り。名前は??最上部には、徳川家の菩提寺なので三つ葉葵の寺紋が。中央部には「魚がし」の文字。一番下には「(魚)壱場」漁業関係の会社からの奉納品であろうか。同じものが隣にも。「江戸切絵図」を「ネット」👈リンク から。「芝口南西久保 愛宕下之図」に描かれている。 拡大図。「東京名所芝増上寺之図」。明治32年(1899)8月10日 と。広重『東都名所 芝増上寺』。そして「三解脱門」を潜り境内へ。正面に巨大な「大殿」。「増上寺 境内 案内図」。翌日12月2日、大殿本堂内にて開かれる「増上寺蝋燭能」のポスター。演 目:狂言 「仏師」 野村又三郎 能 「船弁慶(前後之替)」 梅若泰志 と。「タイムカプセル」標。「宗祖法然上人御降誕850年慶讃タイムカプセル記念建設の標昭和57年浄土宗宗祖法然上人御降誕850年を慶讃し、この勝縁・恵まれた子供達の夢や希望を大切に育むことを目的としタイムカプセルに収蔵し埋設し、上人降誕900年を迎える50年後を待っております。勝縁に接することの出来た子供達は勿論のこと生あるものの幸せが永久しへなることを祈ります。南無阿彌陀佛 大本山増上寺 第85卋 心誉康隆」「浄土宗 大本山 増上寺」案内板。中央に配置案内図。「沿革浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(一三九三年)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうにん)によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(ー五九八年)に現在の地に移転しました。文明ニ年(一四七〇年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十ニ世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領ー万石余、ニ十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。1️⃣大殿(本堂・宝物展示室) Daiden (Hondo: Main Hall)1階 信徒の法要受付及び控室2階 大本堂 本尊阿弥陀如来をお祀りしています3階 仏間(道場)地下1階 宝物展示室「2️⃣安国殿徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け戦の勝利をおさめ、天下統一の大願を成就したという霊験あらたかな阿弥陀如来像で勝運や、厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。◆正月15日・5月15目・9月15日に黒本尊御開帳(正五九祈願会)◆各種御祈願・水子供養をお受けしております。◆お守り・お札・お土産等を扱う札所がございます。」「3️⃣圓光大師堂法然上人の御身柄が奉安されております。」4️⃣徳川将軍家墓所徳川家の菩提寺として現在6人の将軍と皇女和宮さまをはじめ、各公の正室・側室、そして子女の墓所があり、かっての栄華を偲ばせています。5️⃣貞恭庵(ていきょうあん)皇女和宮さまゆかりの御茶室。6️⃣光摂殿(こうしょうでん)1階 講堂3階 大広間(天井絵が飾られています。非公開)7️⃣慈雲閣(じうんかく)1階 多目的施設2階 開山堂 開山上人をお祀りしています。8️⃣増上寺会館会館2階に寺務所がございます。「聖観世音菩薩」。どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にあるこの「聖観世音菩薩」の像である。像がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われた縁とのこと。お顔をズームして。台座には「聖観世音菩薩ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれていた。そして台座の裏には「昭和六十二年(1987)二月八日株式会社 ホテルニュージャパン取締役社長 横井英樹 建之」と。先ほど解ったことであるが、横井英樹氏は死者33人を出したホテルニュージャパン火災で1993年(平成5年)11月25日に禁錮3年の判決が最高裁で確定。これにより勲七等及び記章を褫奪された。1994年(平成6年)から八王子医療刑務所で服役したが、1996年(平成8年)に仮釈放となり、1997年(平成9年)には刑期を終えているとウィキペディアより。よってこの「聖観世音菩薩」は裁判で争っている時期に建立したものであろうか。この「聖観世音菩薩」を建立した時の心境はいかに?「仏足石」。近づいて。「仏足石仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。この仏足石は、当山第70世福川行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。」そして「魚供養之碑」。「魚供養之碑魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。 昭和60年3月8日 千代田水産株式会社」「お~いお茶わたしの街の未来の桜プロジェクト祝一千本目 十一代目 市川海老蔵丈市川ぼたん氏、堀越勸玄氏 合同植樹」。「ブッシュ槙」。「ブツシュ槙(コウヤマキ)米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。」「詠唱発祥の地」碑浄土門主 心誉康隆淨土宗吉水講「詠唱発祥の沿革浄土宗は, 終戦直後の昭和21年, 国は焦土と化して, 身も心も路頭に迷う人々に心のやすらぎと生きる希望を与える教化活動と して, 時の浄土宗教学部長 吉水智承師を中心に, 古くて新しい詠唱, 浄土宗吉水講をこの地増上寺境内に開きました。第一回詠唱講習会が, 松濤基道師, 鈴木錦承師を講師として総本山知恩院に於て開催されたのが同年7月であります。詠唱教化の道が開かれましたが, 奇しくも翌22年12月に浄土宗に宗政の変動が興り, 詠唱教化の道は停滞したかに思われました。しかし, 幾度の困難を乗り越えて, 詠唱は政治を超越し, 念仏教化の道として受け継がれ, 昭和26年9月, 僧和探玄師, 花木順道師,知足園朗師, 池上霊心師を中心に 知恩院吉水講が産声を挙げました。増上寺吉水講は, 昭和55年 善導大師一千三百年遠忌を記念して, 第一回詠唱大会を開催することができました。その後毎年御忌 奉納を続け, 念仏の助業としての詠唱は, 燎原の火の如く, 関東, 中部, 東北, 北海道一円に広まり, 寺院を中心に吉水講の集いが結成され, 新しい念仏信仰が盛り上がり, 今日の浄土宗吉水講の発展に大きな原動力となりました。これは松濤基道師, 菊地道雄師, 北山良祐師, 故鈴木錦承師, 故曽我晃也師及び 詠唱指導普及委員先生のご尽力の賜であり, 講員一人一人の地道な活動と熱意にほかなりません。このたび増上寺吉水講20周年記念大会を開催されるにあたり, 浄土宗吉水講の記念事業として, 「詠唱発祥の地」と題し, 浄土門主 中村康隆猊下吉水講総裁の御染筆を戴き, ここに記念碑を建立することができました。先徳の主旨を受け継ぎ, 吉水龍詠唱を通じて念仏教化の道が全国に弘まることを念願するものであります。 浄土宗吉水講 平成十四年四月二日」「グラント松」。「グラント松米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓して日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。」境内地図を再び。境内から大殿そして東京タワーを望む。左奥の「方丈門(黒門)」の手前にあったのが「土木建築殉職者慰霊塔」。「土木建築殉職者慰霊塔ノ記土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和十二年三月二十一日 日本土木建築請負業聯合會」真っ黄色に咲く石蕗(つわぶき)の花が境内に。そして左前方に「水盤舎」。正面から「水盤」を。「水盤舎この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。」歴史を感じさせる石灯籠。手前の巨石は?そして「三解脱門」境内から振り返る。右手にあったのが「鐘楼」そしてその手前に「江戸彼岸枝垂桜」。「為 豊島泰三追善菩提奉納 江戸彼岸枝垂桜平成六年三月吉日」。開花時の写真をネットから。「港区の文化財 増上寺の梵鐘高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝7年(1673)に7回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。平成4年3月30日」。「梵鐘」。ズームして。「鐘楼堂👈リンク寛永十年(一六三三)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(一六七三)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寬永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.25
コメント(0)
民宿 さつき<石川県>「芝丸山古墳」へ向かう途中にあったのが「丸山随身稲荷大明神」。「丸山随身稲荷大明神円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名より迎えた御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。 大本山 増上寺」。朱の鳥居の扁額「圓山随臣 稲荷大明神」。社殿に向かって進む。狛狐(右)。狛狐(左)。社殿正面。芝東照宮の末社。ここの扁額も「圓山随臣 稲荷大明神」そして大きな「本坪鈴(ほんつぼすず)」が。社殿の鳥居前には多くの賽銭そしてワンカップが奉納されていた。幟「正一位円山随臣稲荷大明神」。そして「芝丸山古墳」。ここ芝公園が所在する標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける前方後円墳である。築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。1892年(明治25年)、3年間のヨーロッパ留学を終えた自然人類学者の坪井正五郎は、日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。1898年(明治31年)に坪井が発掘調査をしたところ、埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし後円部が削られたため埋葬施設は確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。「丸山古墳」碑。「東京都指定史跡 芝丸山古墳」碑。「東京都指定史跡 芝丸山古墳芝丸山古墳所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内指定 昭和五四年三月三一日全長一○六メートル前後、後円部径約六四メートル、前方部前端幅約四○メートル、くびれ部幅約二二メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約一六メートルの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治三一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵の有数の族長の墓だったと考えられる。 平成二年一二月二七日 再建 東京都教育委員会」以下、ネットから。(左)明治31年に行われた芝丸山古墳発掘時に撮影されたと推測される写真。出土した 切石の上に立つのが坪井正五郎です。 個人蔵「学習院大学史料館寄託」(港区立郷土歴史館特別展『港区と考古学』3頁 転載)(右)芝丸山古墳の測量図(赤ラインは編集部による)。西側が削られてしまいましたが、 前方後円形がよくわかります。 「東京都教育委員会所蔵」(東京都教育委員会1985『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸-』 193頁 転載)そして「大野伴睦句碑」昭和38(1963)年6月調理師法施行5周年にあたって、調理師会の名誉会長として尽力した 政治家大野伴睦氏の労に謝するため贈呈されたものであると。近づいて。大野 伴睦は、日本の政治家。 東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。「虎」は何をあらわしているのであろうか?自民党派閥の政治資金パーティーを巡る事件は2023年12月28日、東京地検特捜部が前日に続いて国会議員の関係先を捜索し、強制捜査の対象が広がった。「清和政策研究会」(安倍派)から高額のキックバック(還流)を受けた疑いが出ている大野 泰正やすただ ・参院議員(64)はこの大野伴睦の孫にあたるのだ。「鐘がなる 春のあけぼのゝ 増上寺」 昭和38年(1963)6月 調理師会」調理師法施工5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものであるとのこと。そして次に向かったのが「伊能忠敬測地遺功表」。枯れ落ち葉を踏みしめて進む。伊能忠敬の測量の起点となったのが、この芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てた。明治22年(1889)に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されたと。東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳内)2枚の石碑のうち1枚には日本列島と地球儀が。もう1枚には碑文と天の川・星々が彫り込まれていた。よく見ると、天の川の中にカシオペヤ座のW字のような並びと、その上に北極星とこぐま座らしい星の並びがあった。観測地点の緯度を知るには北極星の高さが重要な基準となるので、測地遺功表に北極星が刻まれているのは理にかなっている。とすると、写真手前はカペラ、奥の2星はベガとデネブ?。「伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。 1965年5月 社団法人東京地学協會 會長細川護立」。そして芝丸山古墳を下る。再び東京タワーが姿を現した。「芝公園」の北東の隅・日比谷通り側にあった「旧台徳院霊廟惣門(だいとくいんれいびょうそうもん)」を裏側から見る。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。台徳院(だいとくいん)は 秀忠の死後に贈られた名前(諡号/しごう)であると。正式には「台徳院殿興蓮社徳入西大居士(だいとくいんでんこうれんじゃとくよにゆうさいだいこじ)」。霊廟は、秀忠が死去した1632年(寛永9年)に増上寺境内南側南側に建立された徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものだったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で大部分が焼失。惣門・勅額門・御成門・丁字門が残された。惣門は現地に保存されたが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年(昭和35年)に所沢市の狭山不動寺(埼玉県)へ移築されている。三間一戸八脚門、入母屋造、前後裾唐破風付、銅瓦葺。唐破風(からはふ)とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法であるとのこと。唐破風には多くの黄金の徳川家・葵のご紋が。正面に回り込むと「仁王像」が左右に。近づいて。阿形像(右)。お顔をズームして。吽形像(左)。お顔をズームして。「港区指定有形文化財彫刻 木造仁王像 二躯重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。平成十六から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(一七八九)、弘化三年(一八四七)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(一八五五)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(一九四八)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。 像 高 阿形 二四三・五センチメートル 吽形 二四七・〇センチメートル 平成十八年十月二十四日 港区教育委員会」最後に振り返って。銅瓦葺の屋根の先には東京タワーが。増上寺境内前まで進んでいくと、左手にあった「増上寺 慈雲閣(開山堂)」を日比谷通り側から見る。その先にあったのが芝増上寺の土塀。土を厚く塗って固めた「築地塀(ついじべい)」。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地(ついじ)とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。築地(ついじ)は、もとは築泥(つきひじ)と呼ばれていたとされます。字のごとく泥を積み上げて作ることからそう呼ばれており、のちに築地と転じたため、築地塀(つきじべい)ではなく築地塀(ついじべい)と発音するのだ と。「築地塀」の断面の構造をネットから。その先にも、歴史を感じさせる「増上寺旧方丈門(黒門)」があった。「増上寺旧方丈門(黒門)」越しに増上寺境内を見る。銀杏の樹が美しく黄葉していたのであった。「東京都港区指定文化財有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。 昭和五十五年十一月十五日 東京都港区教育委員会」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.24
コメント(0)
金沢白鳥路 ホテル山楽東京タワーを後にして、東京タワー通りを東に進む。右手にあったのが「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」。東京都港区芝公園4丁目3−25。芝公園というと都心にある広大な公園を思い浮かべる人が多いかも知れませんが、実際は増上寺・東京プリンスホテルを囲む道路沿いに点在する飛び地の公園なのです。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の境内は広大で江戸時代は庶民にとっての憩いの場でした、1873年(明治6)に東京で最初の公園のひとつとして指定され、境内を取り込む形で公園化を計り広大な敷地を1~25号地に区画割したのだ と。「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」の紅葉を楽しむことに。昭和59年、大小の自然石を組み合わせた人工の渓流「もみじ谷」がつくられた。せせらぎの奥には「もみじの滝」もあった。その名のとおり、この谷の一帯にはモミジが植えられていて、11月末ごろには、一面赤く染まった紅葉でいっぱいになるとのこと。「もみじ谷エリア」の紅葉。「蛇塚」の石仏・地蔵尊群。この蛇塚はTV番組で紹介され、都内屈指のパワースポットとして一躍有名になったようですが、なんでも蛇が夢枕に現れた女性が以来、仕事運と金運に恵まれ、蛇を当地に祀ったのが始まりのようです。以来、当地は蛇神信仰(龍神信仰)の場として知られるようになっているとのこと。ズームして。地蔵尊が祀られている先、一番奥の地蔵尊のところに蛇の像が置かれていた。ここに日本酒と卵を備えると金運を授かれる、と言われているのだ と。秋田県出身で郷土料理店を都内で営み始めた女将が、この祠を拝んだところ蛇と遭遇、その後もビルを建て替えるごとに蛇の抜け殻や蛇に遭遇し、仕事も順調に進んだ、というエピソードがきっかけとなっている。蛇の夢を見たことが始まり、という説もある。金運アップ、仕事運、出世運アップなどのご利益がある。奉納された生卵の写真をネットから。この周辺は紅葉のプロローグに。広場にあった「時計塔」。「江戸幕府400年・芝公園開園130年記念複眼的報道の塔時代を見すえ悠久の時を刻むソーラー電波時計平成16年10月寄贈 社団法人 日本専門新聞協会」。一筋の滝・もみじの滝👈リンク。紅葉滝は、かつて滝が流れていた地形を利用し、2段に落ちる滝、滝壺、そこから地形になじんで弁天池まで走る渓流、その途中2箇所には土橋をかけ、水の景を包み込むように自然木が配されるなど、まさに都心のなかに深山渓谷の趣ある逍遥空間を創出させている。令和2年に修復工事が完了し、景観の復元等を行った。「もみじの滝」案内板。「もみじの滝・Momiji-no-taki(Maple Waterfall)もみじの滝は、日本人初のランドスケ-プデザイナー長岡安平の設計により1905年(明治38年)に築造されました。深山幽谷の趣が残る崖線を利用した滝が設けられており、自然の地形を生かした設計を好んだ安平の設計思想が現れています。幾度かの改修を経た今も当時の面影を感じさせる景観を楽しむことができます。」「「芝公園内瀑布設計図」1905年(明治38年)~1906年(明治39年)設計」竣工当時のもみじの滝。黄葉もゆたかな「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」。「もみじ谷のモミジもみじ谷には、多種多様なモミジが植えられており、12月頃に赤や黄色に色づき、あたり一面、美しい景観を楽しむことができます。東京タワーが建つ場所には、名前の由来となった「紅葉山」があったといわれています。」。◇もみじ谷で見られるモミジの仲間 Trees of the Maple Family Seen in Momiji-daniモミジの仲間は、いずれもムクロジ科カエデ属の落葉樹です。掲載した葉の大きさは実物の1.5~2倍です。イロハモミジ Smooth Japanese maple 葉の切れこみを「いろは・・・」と数えたことが名の由来で、5~7つに切れこむ。 紅葉は赤が多いが、オレンジや黄色もある。オオモミジ Japanese maple イロハモミジより葉が大きく、切れこみは7~9つで、ふちのギザギザは小さい。 紅葉は、黄、オレンジなどさまざま。ノムラモミジ Nomura maple オオモミジの品種で、若葉(写真)の時から葉が赤紫色で目立つ。 名は「濃紫」が由来。紅葉は濃い赤色。アオシダレ Aoshidare maple オオモミジの品種で、葉はつけ根まで完全に切れこんだ複雑な形。 枝はたれ下がる。紅葉はふつう赤色。ウリカエデ Hawthorn-leaf maple ウリのような緑色の幹が名の由来。浅く3つにさける薬や、ほとんどさけない葉がある。 紅葉は黄~赤色。イタヤカエデ Painted maple 葉は5~7つに切れこみ、切れこみの深さはさまざま、ほかのカエデとちがい、 葉のふちにギザギザがないので見分けられる。紅葉は黄色。カジカエデ Horned maple カナダの葉(サトウカエデ/Sugar maple)に似た大きな葉が特徴。 名はカジノキの葉に似るため。紅葉は黄色やオレンジ色。メグスリノキ Nikko maple 山地に生えるカエデで、樹皮をせんじた汁を目の薬に使うことが名の由来。 葉は3枚セットの形で毛が多い。紅葉はサーモンピンク〜赤色。ハナノキ Japanese red maple 愛知県周辺に分布するカエデで、春に咲く花の赤いおしべが目立つことから この名がある。葉は薄く3つに切れこみ、裏は白い。紅葉は黄色。真っ黄色の「ツワブキ」の花。ツワブキ(石蕗・艶蕗・橐吾、学名: Farfugium japonicum)は、キク科ツワブキ属に属する常緑多年草である。海岸近くの岩場などに生え、初冬に黄色い花を咲かせる。昔から民間薬や食用野草として知られ、若い葉柄が食べられる。観賞用に庭園に植えられることもある とウィキペディアより。「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」を後にして、横の坂道に出て東京タワーを振り返る。右手の路地の右側にあったのが「とうふ屋 うかい」。「芝 とうふ屋 うかい」👈リンク。これぞ秋の和の風景。赤の大番傘が緋毛氈の縁台に。座ってみたかったが・・・。「タイムスリップしたような錯覚に陥るこの異空間でいただけるのは、こだわりのとうふ会席。厳選された高級品種の大豆と八王子・大和田の名水、伊豆大島のにがりで作られた滑らかなとうふ。これを、とろりと甘く濃厚な豆乳出汁でいただく名物「豆水とうふ」は、旨味を極めたご馳走。また、炭火でカリッと炙り特製みそを塗った自家製の油揚げにネギをたっぷり乗せていただく「あげ田楽」は、一度食べたら虜になる美味です。これに季節の素材を盛り込んだコース料理が用意されています。」とネットから。この場所から東京タワーを見上げて。そして「都道301号線・白山祝田田町線」の「東京タワー下」交差点から。そして横断歩道を渡り、「芝公園17号地」に入る。東京都港区芝公園4丁目6−8。正面にあったのが「弁天池」。「紅蓮白蓮の弁天池中島の弁天社明治6年(1873)の太政官布達第16号により芝公園になる以前より、増上寺の山内丘陵の西後方、境内裏鬼門にあたる位置に弁天池という広大な蓮池があり、夏には紅蓮白蓮が混ざり合う、清香馥郁として奥深く静かな景勝地でした。池中の中島には増上寺三十世霊玄上人の時に弁財天が勧進され、弁天堂ができました。弁財天は一尺余りの腰かけ像で、9世紀に智証大師によって作られたものが源頼朝、北条家に篤く信仰され、その後徳川家康が増上寺に移したと伝えられています。 また、島には稲荷妙見菩薩も並んで祀られ、現譽公記に「丸山の麓に池あり、二月の頃は近郷の百姓もみを浸して番をなす故に、池の中に少しの島を築き、稲荷の祠をかまへり」とあります。明治維新までは両方の社がありましたが、現在では隣の宝珠院内に祀られ、現在、弁財天は港七福神の一つとして親しまれています。弁天池の名は、古くは 「さよ」 という女が身を投じた故に呼ばれた「さよが池」、また「ゆりが淵」などとも言ったと伝えられています。また、 池中に架かる石橋を接蓮橋、又は芙蓉橋といい、これも霊玄上人の命名したものです。 芝公園サービスセンター」弁財天付近(『新撰東京名所図会』明治30年)。移動して弁天池周辺の紅葉を見る。小さな滝があった。ズームして。「祝田通り」に出て東京タワーを振り返る。再び「芝公園17号地」に入り「体力測定健康歩道」を歩く。見事な銀杏の黄葉。そして、都道319号線・環状3号線に出て現在地はココ。左手にあったのが5つ星ホテル「ザ・プリンス パークタワー東京」の南エントランス。「ザ・プリンス パークタワー東京東京タワーと並ぶようにそびえたつ地上33階建て、「ザ・プリンス パークタワー東京」。芝公園の緑に囲まれた都心とは思えないほどの静けさと広い空。ここは都会に残されたオアシスのような場所。世界各国、日本各地から訪れる多くのお客さまをもてなし、磨きあげ続けてきたプリンスホテルのフラッグシップブランドホテル」とネットから。風情のある橋を渡って「芝公園1号地」に入る。東京都港区芝公園4丁目8−12。現在地はココ。「芝公園1号地」には、4世紀後半に築造されたと考えられる芝丸山古墳や大野伴睦句碑、そして伊能忠敬記念碑等があった。「芝公園1号地」を歩く。「丸山貝塚丸山古墳は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われず、貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などはわかっていませんでした。平成八(一九九六)年、公園内で行われた工事の際に良好な貝層が発見されたため、翌年、範囲等の確認調査が行われました。その結果、丸山古墳が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に、マガキを主体とする貝塚が形成されていたことが明らかになりました。土器などの遺物が少ないことが、この貝塚の特徴でもあリますが、わずかに出土した土器片から、貝塚の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられます。 昭和四十八年三月(令和二年一月建替) 港区教育委員会」「丸山古墳」の丘を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.23
コメント(0)
和倉温泉はまづる「麻布台ヒルズ」エリアを後にして、国道1号・桜田通りの「飯倉」交差点を進む。横断歩道を渡り「東京タワー通り」を歩き、「東京タワー」に向かって進む。左手にあったのが「聖アンデレ教会」。聖アンデレ教会(せいアンデレきょうかい、英語:St. Andrew's Cathedral, Tokyo)は、日本聖公会東京教区の主教座聖堂で、集会は1879年に始まり、現在の建物は1995年(平成7年)に建て替えたもの。東京都港区芝公園3丁目6−18。「日本聖公会 聖アンデレ教会」掲示板。聖アンドレ教会は、1879年にイギリス海外福音伝道会の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、福沢諭吉の援助を受け、芝公園の地に最初の教会堂を献堂したことに始まる。初代聖堂は、1878年、工部省雇い建築家チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィルによって設計され、1879年に完成した。その後、ジョサイヤ・コンドルによって増築設計が行われた とウィキペディアより。東京タワーがだんだんと大きくなって来た。現役の頃、会社の窓口として数えきれないほど頻繁に通った「機械振興会館」。機械工業関係者相互の親睦と連絡を密にするため、機械振興倶楽部を組織し、情報交換や講演会の開催等を実施していたのであった。久しぶりの「東京タワー」を見上げて。左手にあったのが「臨済宗 金地禅院」「江戸三十三観音札所二十八番」、「東京三十三観音霊場5番札所」であると。正面に「本堂」。「東京都指定旧跡堀杏庵墓所在地 港区芝公園三の五の四 金地院墓地内標識 昭和四年五月指定 昭和三〇年三月ニ八日堀杏庵(一五八五~一六四ニ)は江戸前期の儒医・儒学者です。名は正意、字は敬夫、他に杏隠、敬庵などと号しました。近江国に生まれ、父を継いで医師になります。京に出て藤原惺窩の門に入り林羅山などとともに惺門四天王と呼ばれます。安芸国広島藩浅野家、尾張国名古屋藩徳川家に仕えました。寛永三年(一六ニ六)法眼に叙され、同一九年、幕命により弘文院に入り「寛永諸家系図伝」の編集に関与しました。他に「朝鮮征伐記」などの著作があります。平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」山門には「卋外勝境 金地禅林」と刻まれていた。この石柱は大正14年に、三井家が寄進したものである と。「本堂」。「勝林山金地院」本堂は戦後の鉄筋コンクリート建築。金地院は、德川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)当地へ移転したといいます。以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたといいます。寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けています。本堂は近代的なものとなっているが、八戸藩及び七戸藩の藩主南部家の大規模な墓所が残る。本尊は「聖観世音菩薩像」。昭和20年の東京大空襲で、寺院も本尊もすべて焼けてしまった。その後、伽羅の一本作りの聖観世音菩薩立像が新たに今の本尊となった と。「本堂 内陣」。本堂の屋根の上には金色に輝く路盤宝珠?が。「水子地蔵尊」。見事な透かし彫りの置物が。「地蔵尊」か?右側に「庫裏」。「臨済宗 金地院大本山南禅寺 東京出張所」と。『江戸名所図会』の「金地院」をネットから。昔は、巨大な寺院であったようだ。「鎮守堂」。扁額「昭霊」。掲示板この寺には盛岡南部家、八戸南部家、七戸南部家の墓所があった。南部ゆかりの地なのだ と。墓地の中にあった「閻魔堂」。隙間から「閻魔大王」を。閻魔堂の右奥には、盛岡藩、八戸藩の大名家、南部家の墓・五輪塔が並んでいた。反対側にも。無縫塔が並ぶ。そして東京タワーの下に到着。東京都港区芝公園にある総合電波塔である。日本電波塔(にっぽんでんぱとう)とも呼ばれる。1958年(昭和33年)12月23日竣工。東京のシンボル、観光名所である。2018年度グッドデザイン賞受賞。創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計(詳細は設計を参照)。高さは333メートルと広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である とウィキペディアより。タワーの基礎部分。前庭には、小型の東京タワーが立っていた。クリスマス マーケットが準備中。ビル入口から見上げて。スタンプラリーであろうか?「優しいふりして誰でも迎えてくれるのに結局『受け入れて』はくれないこの『東京』が大きらいだった」。「FOOT TOWN 1F(チケット売り場)」チケット売り場には列もなく。「FOOT TOWN 1F(チケット売り場)」の壁には様々な写真が展示されていた。夜間のライトアップ写真。工事中の写真が並ぶ。下記右下の写真を見てもらえば分かりますが、安全帯はもちろん、落下防止の手すりやネットもない。ここで働いていた鳶職人は、”鳶の世界に黒崎あり”とうたわれた黒崎建設の精鋭部隊だったそうだが、とはいえ高度200メートル以上、幅30センチほどの鉄骨の上で、この「のんびり感」を出せるのは衝撃そのもの。鉄骨の立ち上げ工事の状況が解るのであった。東京タワーは1957年(昭和32年)6月から1958年(昭和33年)12月まで1年半の工期で、地上253mの自立鉄塔(鉄骨量3,600t)の頂部に、さらに80mのアンテナ支持塔(鉄骨量80t)を設置して、送受信用鉄塔として建設された。そして外に出て、ミニ東京タワーを再びカメラに。高さ11.1メートル(東京タワーの1/30スケール)の鉄製東京タワーとのこと。Q.東京タワーの高さはなぜ333mなの?A.この鉄塔を建設する際、電波科学の権威を結集してそれぞれ綿密、慎重な検討を行なった結果、 東京地区のVHFテレビ7局以上と将来開局が予定されるUHFテレビ局が、東京を中心とした 関東一円(北は水戸、東は銚子、南は沼津、西は甲府)をサービスエリアとして電波を送る 場合に、鉄塔の必要な高さは333mであるということがわかりました。こうしてみると高さ 333mのタワーが昭和33年に開業したのは、偶然の一致ということになります。 その一方、東京タワー創業者である前田久吉には、「どうせ作るならエッフェル塔の高さを しのぐものを。技術が進んだ現代であれば成し遂げることが出来る」との思いがあったようです と。Q.なぜ、メインデッキ(150m)とトップデッキ(250m)に分かれているのですか?A.タワー建設当初、現在のトップデッキの部分はアンテナ整備用の作業台として使用されて いましたが、昭和42年7月に展望台として一般公開されました。メインデッキよりも更に 100メートル高い視点から、東京を見下ろすことが出来、現在は事前予約制の 「トップデッキツアー」に参加することで、ここまで昇ることができます。 なお当初、メインデッキは大展望台、トップデッキは特別展望台という名称でしたが、世界中の お客様にとって分かりやすいよう、2018年3月3日、名称が変更されました。Q.展望台へは階段でいけるの?A.東京タワーにはフットタウン屋上から高さ150mのメインデッキまで続く外階段があります。 土日祝日の11時~16時のみオープンしておりますが、雨天・荒天時は中止しております。 また、同じように下りの階段も利用出来ます。階段数は約600段。数字を聞くとビックリして しまうかもしれませんが幼稚園児でも約15分程度で昇りきってしまいます。高さ333mの東京タワーの基礎杭の深さは、23m。「建主 日本電波塔株式会社設計 日建設計工務株式会社施工 株式会社竹中工務店 製作 松尾橋梁株式会社 製作 新三菱重工業株式会社 建方 宮地建設工業株式会社👈リンク」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.22
コメント(0)
癒しのリゾート・加賀の幸 ホテルアローレ34Fの「Sky Room」。「Sky Room」奥から東京タワーを。ここにもテーブルのみが。カフェラウンジ。階段上から「スカイロビー」を見る。ズームして。階段を引き返して、再び「スカイロビー」へ。再び「スカイロビー」から東京タワーを見る。南側の真下にあった「駐日ロシア連邦大使館」を。ズームして。その南、「東京アメリカンクラブ」の屋上階にあるプールの屋根をズームして。プールをネットから。2003年4月のオープンから今年10年を迎えた、東京の名所となった六本木ヒルズのシンボル・太くて高いオフィスビル「六本木ヒルズ森タワー」である。ワンフロアおよそ4,500㎡の貸付面積を持つ地上54階建てのこのオフィスタワーは国内最大の既成市街地再開発事業の中心となった超高層ビルである。事業における施工区域面積はおよそ11.6haであり、敷地内には超高層2棟を含む計4棟の高級賃貸住宅、テレビ朝日、グランドハイアット東京などの高層建築が建ち並んでいる。高層建築で得られた容積分で全敷地の50%に及ぶオープンスペースには広場や歩道、緑地帯を確保している。「元麻布ヒルズ フォレストタワー29階建てのフォレストタワーと5階、6階建てのフォレストテラスの3棟構成からなる元麻布ヒルズ。タワー形状は樹木をイメージした。 高さ約96m地上29階のタワーが閑静な住宅街に建つことは、影やビル風で住民の住環境に害を及ぼす可能性があった。そこで森ビルは20階以上の部分の幅を約40m、16階より下の幅が約33mという「頭でっかちで下半身スリム」な形を考案した。この形にすることで、高層ビルにつきまとう影とビル風という二つの大きな環境問題を解決した。」とネットから。このほか、地震対策として建物自体を変形させて地震エネルギーを吸収する「耐震構造」ではなく、建物と基礎の間の免震装置を介してエネルギーを減衰させる「免震構造」を採用しているとのこと。二子玉川方向の高層ビル群をズームして。中央に田町駅近く、東京都港区芝5丁目7−1にある「日本電気㈱ 本社(NEC)」その奥に「レインボーブリッジ」の姿が。帰りのエレベータへのルートとヒルズハウス・Dining33、Members Lounge案内図。エレベータ独り占めで地上へと。そしてビルの外に出て、「中央広場」へ。大きなキャノピーの下が「麻布台ヒルズアリーナ」で、キャノピーまでの高さは約16m。「森JPタワー」に隣接するこの「吊るし雲」がモチーフの大屋根は、トーマス・ヘザウィック氏」率いるヘザウィック・スタジオによるもの と。大屋根を冠する緑に囲まれたオープンスペースは「麻布台ヒルズ アリーナ」として四季折々」さまざまなイベントが催され賑わいの中心になるとのこと。「森JPタワー」を見上げて。庭園には小川が。円錐状のオブジェ。振り返って。奈良美智の彫刻作品「東京の森の子」、少女の顔が。再び見上げて。この後に訪ねた「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」を見る。東京タワーの上部が見えた。左「麻布台ヒルズ 森JPタワー」と右「麻布台ヒルズレジデンス」を見上げて。「GARDEN PLAZA C MUSEUM」。「麻布台ヒルズクリスマスマーケット 2023」が中央広場で12月9日(土)~25(月) 11:00~21:00の予定で開催されると。この日は準備中の工事が行われていた。シンボルツリーを中心に、17 の物販・飲食店がオープン。麻布台ヒルズでしか買えない限定商品・メニューも多数登場するとのこと。中央広場では水路とパブリックアートが隣り合わせ。水路の右手がホテル「ジャヌ東京」になる。「Artificial Rock. No.109」Zhan Wang作。再び「麻布台ヒルズ 森JPタワー」を見上げて。「麻布台ヒルズ マーケット」。「AZABUDAI HILLS MAP RESIDENCE A」案内板。正面から(下側が北方向)。「桜麻通り」を西に進み左折して南に進む。前方左にあったのが「アマンレジデンス東京」入口。「アマンレジデンス 東京」は、竣工時には日本で最も高いタワーとなる、地上の街の賑わいを遥か眼下に見下ろす、まるで雲に手が届きそうな天空に位置します。54階から64階に位置する~6ベッドルームを持つ各住戸には、専用エレベーターロビーが直結しています。レジデンスのインテリアは、国際的に高い評価を得ているデザイナー、ヤブ・プッシェルバ ーグによって手掛けられています と。「HILLS TOWER PLAZA」入口。そして左折して「外苑東通り」を東京タワー方向に進む。右手にあったのが「駐日ロシア連邦大使館」正門。右手に「ノアビルディング」。飯倉交差点にそびえ立つ楕円形のランドマークが「ノアビルディング」。そして「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」。「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」は「ModernUrbanVillage」をテーマとする「麻布台ヒルズ」の敷地東側(C街区)の複合施設。近づいて。八幡通に面して建つ、森の緑と幹に覆われたようなデザインのB棟の6~8階がガーデンプラザのレジデンス区画(計31戸の住宅。マンション)。ヘザウィック・スタジオが手掛けるユニークなランドスケープの中にある、麻布台ヒルズで唯一の低層住宅。街に広がる緑に最も近い住環境である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.21
コメント(0)
能登輪島温泉 ホテルこうしゅうえん(旧 ホテル高州園)「外苑いちょう並木」を後にして、都営大江戸線「青山1丁目」駅まで戻り乗車し、「麻布十番」駅で下車して、徒歩にて11月24日に「麻布台ヒルズ全体が開業」を迎えた事をニュースで知ったので「麻布台ヒルズ 森JPタワー」に向かって進む。都道415号線・「新1の橋」交差点の上部には「首都高速都心環状線」が走る。東京都道319号環状三号線の六本木ヒルズ方向を振り返る。高架下の横断歩道を渡る。その先を左折し、北方向に向かうと正面に「麻布台ヒルズ 森JPタワー」が姿を現した。ズームして。「麻布台ヒルズ森JPタワー」は、東京都港区麻布台一丁目にある超高層ビルである。複合施設「麻布台ヒルズ」の中核を担うビルである。さらに坂道を上って行った。右手の石垣の上の敷地は「駐日ロシア連邦大使館」。この坂の名は「狸穴坂(まみあなざか)」。「まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)」が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」「狸穴坂」碑。港区麻布狸穴町と麻布台2丁目・東麻布3丁目の間、ロシア大使館横を南に向かって下りる道。坂の東側はロシア大使館、西側はマンションに挟まれた、比較的単調な道。そして「麻布台ヒルズ 森JPタワー」前に到着。高さは325 mで、日本一高い超高層ビルである。日本で初めて高さ300mを超えた超高層ビルである大阪市阿倍野区のあべのハルカス(高さ300.0m)を抜いて日本で最も高いスーパートールとなった。デベロッパー・設計は森ビル、施工は清水建設。外観デザインをシーザー・ペリ率いるペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツが担当した。奇しくもペリは着工直前の2019年7月19日に死去、森JPタワーは彼の遺作となった。入口に向かって「外苑東通り」の横断歩道を渡る。右手奥には「東京タワー」の姿が。「AZABUDAI HILLS MAP」右手に「AZABUDAI HILLS 」。入口には「AZABUDAI HILLS MORI TOWER」と。地上64階、塔屋2階、地下5階、 高さ325.40mの日本一高い超高層ビル。麻布台ヒルズ森JPタワーの概要◆ 計画名-虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業施設建築物等新築工事 A街区◆ 所在地-東京都港区麻布台一丁目1000番1◆ 階数-地上64階、塔屋2階、地下5階◆ 高さ-最高部325.40m◆ 敷地面積-24,104.21㎡◆ 建築面積-15,201.25㎡◆ 延床面積-461,805.22㎡◆ 構造-鉄骨造、一部(鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造)エントランスホールを歩く。突き当りを左に。「AZXABUDAI HILLS MORI JP TOWER」フロアー案内。吹き抜けのロビー通路の横には天井からオブジェが。オラファー・エリアソンの作品『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』と。ズームして。中空に彫刻を吊るされていた。光沢があったりマットな部分があったりする金属のピースが連なって光を反射し、ある場所からは円や球のように見え、ある場所からは平面的に見えた。この形はある法則に従った数学的な軌道なのか。見る人が歩き回るごとに視点が刻々と変わり、違った形に見えるが、どのポイントから見る形も等しく重要と。瞬間ごとに変化する無数のエレメントが集合した形だとも言えるのだ。壁のオブジェ。近づいて。生け花も。近づいて。そして33&34Fへの展望台用エレベーターを利用。そして地上64階、高さ325.49mの33階にある展望フロアー・スカイロビーに到着。33階と34階の一部が一般開放されており、南側と東側を望むことができるのであった。33階に行けるエレベーターは中央広場の地下1階にあった。南方向を見る。手前に右「パークコート麻布十番ザ・タワー」、左「シティタワー麻布十番」そのはるか先に海の姿が。東京タワーが正面に。ズームして。海抜250mのトップデッキは見上げる高さ。スカイロビーは海抜150mのメインデッキを見下ろす高さになっていた。東京タワーの背後には、この後に訪ねた増上寺が見えた。増上寺をズームして。更に。増上寺会館、経蔵、増上寺 慈雲閣(開山堂)、その右に旧台徳院霊廟惣門(重要文化財)、港区立芝公園の姿が確認できた。その右にレインボーブリッジ、港清掃工場の煙突が左に見えた。レインボーブリッジとフジテレビ本社ビル。そしてこちらが麻布台ヒルズ展望台の大階段。33階と34階は大階段で繋がっていた。正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.20
コメント(0)
特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」ポスター。特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」展示会場へ。天皇皇后両陛下。「ごあいさつ令和5年(2023)、天皇陛下におかれては御即位5年、そして天皇皇后両陛下の御成婚30年の節目を迎えられました。令和の御代を迎えてまもなく、世界各地へと急激に広がった新型コロナウイルス感染症によりご活動の機会か限られながらも、両陛下はオンラインによる国内各地へのご訪問など、新しい形によるご公務に取り組まれ、コロナ禍に過ごした国民の苦楽に、常に心を寄せてこられました。このたび、装い新たとなった皇居三の丸尚蔵館において、ご結婚以来、両陛下がともに歩まれてきた30年の軌跡を、両陛下ゆかりのお品とともに紹介する展覧会を開催いたします。本展では、ご結婚の儀式のご装束やドレスをはじめ、愛子内親王殿下の健やかな成長の願いが込められたお召し物などが並びます。また、御即位の儀式で用いられたご装束や調度の品、各方面から寄せられたお祝いの品のほか、両陛下が皇室の伝統行事を受け継がれたご様子もあわせて紹介いたします。このたびの企画にあたっては、両陛下の深いご理解を賜り、貴重な品の数々を展示できることになりました。本展を通して今日までの両陛下の様々なご活動に触れていただくとともに、これらの品々が、日本の伝統文化の継承に深く関わるものであることをご覧いただけれは幸いです。令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」「特別展示の聞催に寄せて三の丸尚蔵館は、平成元年(1989)に上皇陛下と香淳皇后の思し召しによって美術品など6000点あまりが国に寄贈されたことを機に、これらを保存管理し、調査研究とともに展示公開を行う施設として平成5年秋に開館しました。さまざまな分野、幅広い時代におよぶ収蔵品の魅力を紹介し、皇室と文化との関わりを内外に広く発信してきた30年におよぶその活動は、令和元年(2019)から始まった施設・設備の拡張整備工事や職員の増員につながることになったといえます。そしてこの10月には、三の丸尚蔵館は宮内庁から離れて独立行政法人国立文化財機構の一員となり、新たな出発を迎えたことで、今後のさらなる発展が期待されるところです。今年、天皇皇后両陛下におかれては、御即位5年・御成婚30年の節目を迎えられました。三の丸尚蔵館では、令和2年2月に御即位に関する一連の儀式の様子と、両陛下のこれまでの歩みを紹介する特別展を開催しましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中断を余儀なくされました。三の丸尚蔵館が新たな展示室で、展示公開の活動を再開するにあたり、令和2年の展覧会の内容をさらに充実させた形で、本展が聞催されることは大変意義深いことです。国民とともにある皇室を、両陛下ゆかりの品々を通して感じていただけれはと思います。令和5年11月 宮内庁長官 西村泰彦」出品目録(1/2)出品目録(2/2)そして、会場内展示室は撮影禁止でしたので、ネットからの写真を順不同でアップさせていただきます。展示室内の展示状況。「結婚の儀」天皇皇后両陛下ご装束「結婚の儀」天皇陛下ご装束 束帯 黄丹袍令和度 悠紀地方風俗歌屏風 右隻 和歌:篠弘 絵:田渕俊夫大嘗宮の儀のために制作された「悠紀地方風俗歌屏風」(左)制作者は田淵俊夫・東京芸術大名誉教授令和度 主基地方風俗歌屏風 左隻 和歌:永田和宏 絵:土屋禮一大嘗宮の儀のために制作された「主基地方風俗歌屏風」(右)制作者は土屋礼一・金沢美術工芸大名誉教授大饗の儀で天皇、皇后両陛下の前に飾られた銀製の置物皇后雅子さまが天皇陛下との結婚の儀で着用された十二単(ひとえ)。天皇陛下が5歳の時に初めてはかまを着る儀式「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用された装束左:「宮中饗宴の儀」で雅子さまがお召しになった杏色のローブモンタント 展示期間全期間 右:愛子さまの御初召と上皇ご夫妻から贈られた犬張子 展示期間前期 左:天皇陛下が愛用されている天体反射望遠鏡 展示期間全期間右:天皇陛下がご幼少時に使用されたヴァイオリンと皇后陛下が使用されていたフルート 展示期間全期間ボンボニエール ご結婚ご祝宴。そして第2会場に戻り、設置されていたモニター画面で「三の丸尚蔵館の国宝のすべて」を観る。「喪乱帖(そうらんじょう) (原跡)王羲之 1幅中国・唐時代(7~8世紀)」書聖王羲之(4世紀)の書状集。冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。「東晋時代に活躍して、書聖として尊ばれた王羲之(三〇七~六五)自筆の、別々の三つの書簡の部分を、双鉤填墨(そうこうてんぼく)という、文字の輪郭を線にして写し、その内側を墨で塗りつぶす一種の敷き写しの技法を用いて表現した中国・唐時代の模本です。点画の跳ねや、文字と文字がつながる箇所では、輪郭線の内側に、細かい線が丁寧に重ねられ、かすれた感じがよく表されています。精巧な技法で作り上げられており、普通に墨で書いた文字のようにみえるため、極めて優れた模本であると評価されます。王羲之自筆の書は、後には全て失われ現存していないことからも、その書風を今に伝えてくれる名品で世界的に貴重な作品といえます。京都御所に伝来したと考えられ、後西(ごさい)天皇(一六三七~八五)の崩御後、御遺物として異母弟の堯恕(ぎょうじょ)法親王の手に渡って以降、親王が門跡を務めた妙法院に伝来し、明治十三年(一八八〇)再び皇室に献上されました。(高梨)」と、購入した案内本から(以下同様)。たてに簾目状の筋目のある(縦簾紙)料紙に書かれた唐時代の搨模(透き写し)本。袖に「延歴勅定」の方印の左辺部が残る。明治13年(1880)妙法院献上。「屏風土代 小野道風 1巻平安時代 延長6年(928)」平安時代中期の能書・三跡の筆頭である小野道風(八九四~九六六)三十五歳の書です。『日本紀略」の延長六年(九二八)十二月の条に、醍醐天皇の勅命により、内裏で新調する屏風の題詩を漢学者・大江朝綱に作らせ、道風に書かせたとする記事があり、そのための下書き(土代)を巻子にしたものと考えられています。和様の創始者といわれる道風の重厚で温かみのある書風で、随所の書き入れや訂正からは、推敲の跡がみてとれます。巻末には、三跡のひとり・藤原行成を祖とする世尊寺家五代・定信(一〇八八~一一五四~? )の奥書があり、保延六年(一一四〇)に行成の《白氏詩巻》(東京国立博物館所蔵)一巻とともに本巻を購入したことがわかります。後世の能書として知られる伏見天皇(一二六五~一三一七)の《屏風土代臨模》(御物)などからは、本作が手本として尊ばれたことがうかがえます。明治時代に井上馨の所蔵となり、大正十四年(一九二五)に井上家から大正天皇に献上されされました。(山田)。」「金沢本万葉集 藤原定家 2帖 平安時代(12世紀)『万葉集」巻第二および巻第四残巻からなる平安時代の古写本で、名称は金沢(加賀)藩主前田家に伝来したことにちなみます。料紙は主に三椏(みつまた)紙を用い、表裏共に白・黄・緑の具引き地にさまざまな型文様が雲母摺り(きらずり)され、一部に金銀箔、布目打などの装飾をもつ、和製唐紙が用いられます。筆者は、和様の書を大成させた平安時代中期の貴族、藤原行成に始まる世尊寺家第五代定信(一〇八八~一一五四~?)とされます。その字の特徴は、全体の流れの美しさを求め、早い運筆による右肩上がりの独特なもので、本作でも、速筆で字形にとらわれず、全体的な流れや流動感により美しさを追求しています。美しい装飾料紙に、技法を駆使した完成度の高い筆跡が調和した作品となっています。前田家に残る巻第三、巻第六残巻および手鑑「野辺のみどり」のなかの断簡(以上、前田育徳会所蔵)とともに一帖として伝来しましたが、明治四十三年(一九一〇)七月八日に明治天皇の前田邸行幸(ぎょうこう)に際し、分冊のうえ献上され、近年の保存修理事業において現状の二帖となったものです。(髙梨)」。金沢本万葉集 巻第二。金沢本万葉集 巻第四。「更科日記 藤原定家 1帖鎌倉時代(13世紀)紙本墨書 縦一六・四cm 横一四・五cm「菅原孝標女が著した日記体裁の回想記である『更級日記』を、鎌倉時代に歌道で活躍した貴族・藤原定家(一一六二~一二四一)が書写した冊子で、末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付けるように、書写文の傍らには定家による「勘物(かんもつ)」と呼ばれる注記や朱点などが確認できます。料紙には雁皮紙(がんびし)が使われており、「括(かつ)」という料紙五または六紙を二つ折りにした束を十枚重ねて、全体で綴じた綴葉装(てつちょうそう)という装幀(そうてい)にされています。近代の調査により伝来のなかで括の順番に入れ替わりのあるこが判明しました。この冊子は、『更級日記』の本文を伝える最古写本であり、流布しいる諸本の祖本と考えられるため貴重です。後水尾上皇の時代の仙洞(せんとう)御所に伝来していたことが知られます。(髙梨)」。「蒙古襲来絵詞 2帖鎌倉時代(13世紀)」「文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度、モンゴル帝国は海を越え北九州に襲来しました。元寇(げんこう)の名で知られるこの事件を記した史料は数多くありますが、同時代に絵画として制作され、かっ今日まで伝存するのはこの絵巻が唯一です。蒙古軍の衣服などの風俗、武器、戦闘方法を視覚的に伝える貴重な作品です。文永の役を描いた前巻における、炸裂する「てつはう」と奮戦する竹崎季長(たけざきすえなが)(一二四六~? )の場面は、教科書で誰もが一度は目にしたことがあるでしよう。後巻は弘安の役を描きますが、菊池氏一軍が居並ぶ石築地の前を悠然と出陣してゆく季長主従、それに続く海上での戦闘は臨場感に溢れ迫力があります。本作は明治二十三年(一八九〇)に大矢野十郎から宮内省が買上げましたが、伝来の過程で失われた箇所も多く、錯簡(さっかん)(前後の順序が入れ替わっていること)、絵と詞書が少なくとも二種類認められるなど、現状は極めて複雑な様相を呈しています。(野中)」「蒙古襲来絵詞 前巻」馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。負傷して退却する蒙古兵。「蒙古襲来絵詞 後巻」季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房(きくち・たけふさ)。「春日権現験記絵 高階隆兼 20巻鎌倉時代、延慶2年(1309)頃」「《春日権現験記絵》は藤原氏の氏社である奈良の春日大社の権現(仏や菩薩が化現した姿、ここでは春日明神を指す)の験記(利益など不思議な出来事の物語)を絵と詞書(ことばがき)(文字)によって語る絵巻です。十四世紀初め、春日大社に詣でたことで利益を得た左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願して制作されました。絵は宮中の画業を担う絵所を統括した絵所預の高階隆兼、詞書は前関白の鷹司基忠とその息子三人という、当時一流の人々が筆を執りました。絵巻としては珍しい絹地の上に広がる豊かな色彩と精密な描線は、制作から七〇〇年以上の時を経た今もなお驚くほど鮮やかです。とりわけ巻十九にみえる初冬の御蓋山(みかさやま)と春日山は中世絵画の白眉(はくび)といえるでしよう。衆徒らの決起と血生臭い戦闘の場面の間で、雪降る深閑とした神域が際立っています。」「藤折枝蒔絵箱」。「藤折枝蒔絵箱 鎌倉時代(14世紀)/木製漆塗・蒔絵「春日権現験記絵」(1-1)を納めていた箱。黒漆塗りの箱の蓋表と金銅製の金具には、それぞれ金高蒔絵と透かし彫りにより、藤原氏と春日大社にゆかりの深い藤花の文様が表されています」。「春日権現験記絵 巻十二」ズームして。「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳、[左隻]狩野常信6曲1双[右隻]桃山時代(16世紀)、紙本金地着色 縦二二三・六cm 横四五一・八cm[左隻]江戸時代(17世紀)、紙本金地着色 縦二二四・〇cm 横四五三・五cm」三頭の唐獅子を、六曲一双の金地の大画面に描いた作品です。左右隻で時代と筆者が異なり、右隻は桃山時代の狩野永徳(一五四三~九〇)、左隻は永徳のひ孫の狩野常信(一六三六~一七一三)が、江戸時代初期に、右隻にあわせて補作したものです。本図の特徴は、何といってもその大きさにあります。通常の屏風をはるかに超える大きさから、右隻は本来、大きな建築物の床の間の壁画であった可能性が指摘されています。筆者の永徳は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に仕え、彼らのために多く絵筆をふるいました。あるいは本図もそのような御殿の一室を飾っていた可能性も考えられます。右隻にみる、濃彩と豪快な筆致による、明るく躍動感あふれる表現は、永徳の真骨頂ともいえるものです。永徳の代表作であるだけでなく、この時代の雰囲気を濃厚に伝える作品として、令和三年(二〇二一)に、左隻とともに国宝に指定されました。長らく萩藩毛利家に伝来し、明治二十一年(一八八八)に旧藩主の毛利元徳より、皇室に献上された作品です。(戸田)」「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳」 ズームして。「唐獅子図屏風[左隻]狩野常信」。伊藤若冲「動植綵絵」 左:梅花群鶴図 中央:南天雄鶏図 右:諸魚図八幅(三十幅のうち)江戸時代(十八世紀)絹本着色縦一四一・八cm~一四三・四cm 横七九・一~八〇・一cm三十幅にわたって、極彩色にいろどられた多種多様な動植物が描かれます。伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)の代表作として近年人気を博してきましたが、令和三年(二〇二一)に国宝に指定されました。《動植綵絵》はもともと《釈迦三尊像》三幅対とともに京都・相国寺に寄進され、さまざまな儀礼で用いられていました。若冲は京都・錦小路の青物問屋「枡源」の主人で、相国寺の高僧・大典褝師に帰依し、隠居後はもっぱら作画に打ち込みました。若冲は「名声のために描いたのではありません。寺の荘厳をたすけ、永久に伝わってほしい」と、附属の《寄進状》に記しています。明治二十二年(一八八九)、本作は皇室へ献上され相国寺を離れましたが、その際の下賜金によって人手に渡っていた寺地を買い戻すことができたといいます。《動植綵絵》には鶏や鳳凰を大きく描くものがある一方、花弁や昆虫で画面全体を覆いつくすものもあり、それまでの花鳥画とは異なった独特の構成感覚があらわれています。花や鳥は驚くほど細かく描き込まれ、樹木や岩も各幅で意識的に描き分けられており、作画への並々ならぬ気迫を感じさせます。(上嶋)」。中央:南天雄鶏図 をズームして。伊藤若冲「動植綵絵」 左:菊花流水図 中央:芙蓉双鶏図 右:紅葉小禽図左:菊花流水図をズームして。白い菊の花は、裏彩色に胡粉が薄く施され、表は胡粉で濃淡がつけられていると。伊藤若冲「動植綵絵」 左:老松白鳳図 中央:蓮池遊漁図 右:秋塘群雀図「秋塘群雀図」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.19
コメント(0)
そして再び「神宮軟式球場噴水」前のT字路から「外苑いちょう並木」を見る。車のない時に慌ててシャッターを押したが。ズームして。そして「全国工芸職人展」会場を訪ねた。「全国工芸職人展」(旧・森のやきものフェア)は毎年、いちょうが「黄葉(こうよう)」する季節に行われる物産フェア。多彩な工芸品が展示販売されていた。毎年11月中旬から12月上旬まで、青山通りから聖徳記念絵画館に向かって約300メートル続く146本のいちょう並木が黄金色に染まる。落ち葉で埋め尽くされた並木道はまさに黄金色の「いちょうのトンネル」。このいちょう並木と聖徳記念絵画館の間の広場に特産品の販売店や飲食店が出店していたのであった。「第10回全国工芸職人展」ポスター。開催期間:令和5年11月17日(金)~12月3日(日) 10:00~17:00「第10回全国工芸職人展」配置案内図。現在地は「出入口」と書かれた場所。「出店者一覧」をネットから。「草木染山口(奈良県)」。藍染のTシャツが並んでいた。近づいて。「ジェイ・ディー企画(埼玉県)福井県若狭 箸 名前彫ります」と。「若狭塗箸」が並ぶ。佐賀県「有田焼」。「有田焼・美濃焼 手作り箸置き」。「五平餅(さかたや)」。「広島焼」の店。「石焼きいも」の店。「神宮外苑 いちょう並木 刺繍絵」。「まゆ工房飯村(福島県)」「まゆ玉でつくったフクロウ」が並ぶ。カラフルなブローチが並ぶ。そして再び「外苑いちょう並木」に戻る。青山通りに向かって右側の2列のいちょう並木の下を歩く。この時間になって、人も数も増えて来た。道路の反対側のいちょう並木を見る。ズームして。そして右折して、「秩父宮ラグビー場」の路地へ。路面には、役割を終えたいちょうの葉が落ちて、エピローグへと。蔦の葉の紅葉に近づいて。見事な形に尖った銀杏の樹。ここにも。入口まで戻って。「銀杏・いちょう」はイチョウ科イチョウ属の落葉樹。秋の黄葉や茶碗蒸などに使う銀杏で馴染み深く、公園、学校、街路、寺社等に植栽される。約2億年前の中生代ジュラ紀に栄え、現在まで種を絶やさずに続く歴史の長い樹種だが、その仲間の多くは恐竜と共に氷河期に絶滅した。現在イチョウ科の木はこれしかなく、メタセコイアと共に「生きた化石植物」と呼ばれているのだ。日本で見られるイチョウは、中国南東部で生き残っていた個体が朝鮮半島を経由して渡来したものとされる。その時期については、仏教が伝播した飛鳥時代とする説や室町時代とする説があり、特定されていないとのこと。イチョウという名は、中国名のイーチャオ(鴨脚=葉の形がカモの足に似ることから)が転訛したものとされる。なお、漢字表記の「公孫樹」は、孫の代にならないと収穫ができないことを意味し、「銀杏」はアンズ(杏)に似た銀色の種子に由来するのだ と。歩道に敷き詰められたが如き「いちょうの葉」。「イチョウの葉」をズームして。イチョウの葉脈はよく見ると平行に走っている。ところが所々で二又に分かれて。この二又に分かれる葉脈を持つことが原始的な特徴なのであるとのこと。原始的な陸上植物は葉を持たず二又に分かれた茎だけからできてきたと考えられているのだと。葉はその二又の茎から進化したと考えられるのでイチョウの葉脈は原始的な形態を残していると。この二又脈を持つ植物はシダ植物に多く見られるのだと。そして「イチョウの葉」の写真をネットから。「イチョウの葉」には、切れ込みがあるものと、切れ込みがないものがある と。切れ込みが葉の真ん中に入っているものを「ズボン型」、複数入っているものを「手のひら型」と呼び、切れ込みがないものを「扇型」と呼ぶとのこと。「イチョウは雄雌異株、つまり「オス」「メス」があります。イチョウの葉の形で、オス・メスが違うという説がありますが、これは俗説です。葉の形では全く見分けられません。ただし、メスの木の葉の方がオスの木に比べると、2割ほど大きな葉をしているようです。これは実をつけるために、そのぶんのエネルギーを光合成で生産しなければならないからだと思われます。なぜ葉の中央に切れ込みがあるものとないものがあるのか?これは理由がわかっていません。ただ、5月頃に展開した葉は切れ込みがなく、同じ枝の葉でも6月以降に展開した葉には切れ込みを生じる割合が増えるようです。剪定した後に伸びる枝(徒長枝)に展開する葉は、手の平の形になることがあります。剪定されるとその分の失ったエネルギーを補おうとして光合成量を増やす必要があり、イチョウは葉を大きくします。しかし大きな葉は風の抵抗を受けやすく、扇型のままでは抵抗が大きく、風で葉がむしり取られることにもなり兼ねません。そうなっては大きな葉は意味をなしません。そこで風の抵抗を軽減させるために葉に手のひらのような切れ込みを作ります。手のひら型の葉は剪定した街路樹のイチョウに多くみられますので、探してみると見つけられるかもしれません」とのネット情報。風の抵抗を減らすために、葉にスリットを入れる…人間よりテクノロジーを先取りしていたとは!!イチョウにはまだ分かってないことが多くあるようだ。葉っぱにイチョウの生きる術やロマンを感じるのであった。イチョウを見るときは葉っぱの形にも注目してみるのも面白い事を今知ったのであった。そして今年の「外苑のいちょう並木」も見納め!!「外苑いちょう並木」入口にあるこの石塁は、かつて江戸城を支えていた石垣で、旧国立競技場ができた1958年以前にあった明治神宮外苑競技場のもの。そして神宮外苑造営の際に建設されたものであるとのこと。関東大震災後のバラック建設の指揮官であり、小学校の鉄筋コンクリート化を推進した建築構造家・佐野利器が計画・建設したとのこと。そして最後に横断歩道を渡りながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.19
コメント(0)
そして伊藤若冲の国宝・「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の展示コーナーへ。「動植綵絵伊藤若冲/江戸時代(18世紀)/絹本着色さまざまな動植物を30幅に描いた。伊藤若冲(1716~1800)の傑作にして日本花鳥画の代表作。絵に専念した40歳頃から10年をかけ製作。自ら相国寺に寄進しました。入念な形態描写と鮮やかな色彩に若沖の独自性を見せています。明治時代に相国寺より献上。一番右は「紅葉小禽図(こうようしょうきんず)」👈リンク。紅く色づいたかえでのもみじを背景に、一対の小禽を描く。植物のほうが前景に出ていることは、菊花流水図と同じだ。面白いのは、モミジの葉の一枚一枚が、濃淡の差をともないながらも、ほぼ同じ形に描かれていることだ。かえでの三本の枝も、大きさの違いはありながらも、全く同じ方向をむいている。そんなわけで、この絵には反復があふれていると言ってもよい。「紅葉小禽図」。画面右下には土手が描かれている。その土手の向こう側に広がるのは、空であるのか水であるのか、俄かには判断できない。ただ、背景を単調にすることで、かえでのモミジが引き立って見える。(142.3×79.7cm)。小禽はオオルリと思われる。美しい声でなく青い鳥だ。夏にやってきて秋の終わりに南のほうへ帰っていく渡り鳥なので、この絵のなかのオオルリは、南へと渡っていく直前に、名残惜しく鳴いているわけであろう。次に「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」👈リンク。「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」。群生するシュロと、白と黒の2羽のニワトリの組み合わせという構図。黒いシャモは『南天雄鶏図』、白いニワトリは『向日葵雄鶏図』のニワトリを反転したポーズに似ている。シュロは古くは『枕草子』にも記述があり、江戸時代は寺院や大名屋敷などに植えられていた。シュロの葉は、緑青の銅と砒素の含有量を変えて、微妙な階調差で着色されている。款記はなく、印は「汝鈞」(白文円印)、「若冲居士」(朱文円印)。近づいて。白いニワトリの顔。黒いニワトリの顔。見事な羽の描写。脚の描写も。左「棕櫚雄鶏図」と右「紅葉小禽図」。そして「梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)」👈リンク。近づいて。さらに。一番左に「貝甲図」。下部に近づいて。その上部右側にも。1期:11月3日〜11月26日に展示されていた伊藤若冲が描いた国宝「動植綵絵」左から「秋塘群雀図」、「老松白鳳図」、「南天雄鶏図」、「菊花流水図」。「屏風土代(びょうぶどだい)👈リンク小野道風/延長6年(928)/紙本墨書三跡の一人、平安時代の小野道風(894 ~ 966) 35歳の書で、醍醐天皇の勅命で新調された、屏風の色紙形に書く漢詩の下書き(土代)。随所にみえる書き入れや訂正に推敲の跡がうかがえます。政治家・井上馨の旧蔵品で、井上家から大正天皇に献上されました。」本書巻は、延長六年(九二八)に醍醐天皇(八八五~九三〇)の勅命によって大江朝綱(八八六~九五七)が作った漢詩を小野道風(八九四~九六六)が屏風に貼る色紙形に清書するために試し書きした土代(下書き)である。温和で豊潤な中にも力強さを感じる本書巻の書風は、王羲之の書法が反映されてはいるが、中国書法に強い影響を受けた平安時代前期の書法の域を脱している。道風は、平安時代中期の三蹟の一人として極めて著名であり、唐様の書が用いられていたなかで和様の書を創始し、我が国の書風・書流に極めて大きな影響を与えた人物である。その後、和様の書は同じく三蹟の一人藤原行成(九七二~一〇二七)によって完成され、江戸時代末に至るまでの我が国の書道の基礎となった。本書巻には、「春日山居」など七言律詩八首と「問春」など七言絶句三首が行草体で書かれている。本書巻の詩は、『和漢朗詠集』には朝綱の詩として「春日山居」の頷聯や頸聯など八聯が摘句されている。行間のところどころには、本文の傍らに同じ字を小さく書き加えた箇所がある。また、行末には書ききれなかった二文字を小さく書いたり、脱字を行間に書き加えている。各漢詩の題辞の上には「乙一」「丙二」等の文字が小さく書かれており、屏風に色紙を貼る位置や順番を示したとする説もある。このように本書巻には下書きとしての特徴がよく残されている。原則として一首を一紙に記すが、うち三首については料紙が小分割されていて、全一八紙である。紙継目で文字が僅かに切れている箇所があるので、書写してから切断して再び継ぎ直したと考えられる。『日本紀略』延長六年十二月条から、醍醐天皇が大江朝綱に命じて「御屏風六帖」の題詩を作らせ、小野道風に清書させたことが知られる。世尊寺流の祖藤原行成より五代目の子孫である藤原定信(一〇八八~?)による「屏風土代」奥書にも同様の記述がある。また、奥書左端には「十八枚也、道風手」とあり、細切れにされた本紙の枚数と一致しているので、当時から紙数の増減は無いものと認められる。また、藤原行成筆「白氏詩巻」(東京国立博物館保管、国宝・昭和三十二年指定)には本書と同じく定信の奥書があり、保延六年(一一四〇)十月二十二日の朝、定信が経師の妻から本書と「白氏詩巻」を買い求めたことが知られる。本書巻は、我が国の書道史上で極めて重要な人物である小野道風の真跡として、最も評価が高いものである。また、『日本紀略』や奥書の記事によって制作の契機や伝来の経緯など歴史的背景も押さえることができる。よって、我が国の書道史上の代表作といえるものであり、文化史上にも比類無く貴重である。「林塘避暑入林斗薮満襟埃 看取香蓮照水開池上交朋唯対鶴 樹間鋪設不如苔境閑客熱辞身去 葉密松風払面来何必古時河朔飲 残盃更被晩蝉催」『林塘に暑を避く林に入り斗藪す襟に満つる埃 看取す香蓮の水を照らして開くを池上の交朋唯だ鶴に対ふのみ 樹間の鋪設苔に如かず境閑にして客熱身を辞して去り 葉密にして松風面を払ひて来る何ぞ必ずしも古時の河朔の飲のみならん 残盃更に晩嬋に催さる』【林塘に暑を避く林中に入り身に纒う俗塵を払い落とし、 (池のほとりで)香ぐわしき蓮花が水に照り映えて咲くのを伺い見る。(さて)池のほとりに交わる友と言えば唯だ差向いの鶴ばかりで、木々の問に敷き展べられているのは苔。この地は何とも閑静で、訪れる人の身から暑苦しさが消えてゆき、木々の葉がびっしりと繁っていて、松風が涼やかに顔を吹き払う。避暑の飲酒と言えば、古くは河朔の地の故事が名高いが、どうしてその地に限ったことがあろう(この地も満更捨てたもんじゃない)と思いつつ、夕暮れの嬋の声に飲み残しの盃をますます促された次第である】という意。 「山中自述碧峰遁迹臥松楹 謝遣喧喧世上栄竜尾旧行応断夢 鶴頭新召不驚情商山月落秋鬚白 穎水波揚左耳清唯有池魚呼後至 各随次第自知名」『山中自述碧峯に遁迹して松楹に臥し 謝遣す喧々たる世上の栄龍尾の旧き行には応に夢を断つべく 鶴頭の新たなる召にも情を驚かさず商山に月落ちて秋の鬚白く 潁水に波揚て左の耳清し唯だ池魚有りて呼びたる後に至り 各おの次第に随へば自らに名を知るならん』【山中自述美しいみどりの嶺に隠遁して山家に身を横たえ、騒がしい俗世の栄利なぞ無用と辞する。これ迄仕えていた官吏の道などすっぱり夢と思いきり、御上から新たなお召しがかかっても心を動かすこともない。商山には月が傾き、あの四皓の鬚は秋を迎えて一層白く輝いていようし、潁水には波が立って、許田の左耳は汚れを洗い落としてますます清らかであろうかと思われる。ただ池にいる魚に声をかけるとやって来て、列を成して泳ぐところをみると、魚たちが名を解しているかのように思われてならないことだ】という意。「送僧帰山一自方袍振錫行 別師還媿六塵情雖観秋月波中影 未遁春花夢裏名谷静纔聞山鳥語 桟危斜踏峡猿夜深莫歎迷帰路 定有霜鍾度嶺鳴」『僧の山に帰るを送る一たび方袍の錫を振て行きしより師に別れて還た六塵の情に婉づ秋の月の波の中の影に観ずと雖も未だ春の花の夢の裏の名を逃れず谷静かに纔かに聞く山鳥の語棧危く斜めに踏む峡猿の声夜深きも歎くこと莫帰路に迷へることを 定めて霜鍾の嶺を度りて鳴ること有らん』【師僧が錫杖を振ってお帰りになってからというもの、師に別れたことでやはり様ざまな世俗の汚れにまみれてしまう己の心が恥ずかしくてならぬ。秋の月が水面に映って波に美しく澄んでいるが、その月は実体のないものだ(一切のものには実体がないという水月観)などと思いなしても俗世から脱することはできず、相も変わらず夢中の春の花の如き実なき虚名を求めてしまう始末。(師僧の帰る)谷間は静かでわずかに山鳥の声が聞こえるばかりであろうし、懸け渡した危い橋を峡谷にひびく猿の声を下に聞きつつ渡られることだろう。夜更けて帰路に迷われてもお歎きになりませんように。きっと明け方の霜に鐘が峯を渡って自らに鳴り(導かれて寺に帰れ)ましょうから】」という意。「問春山吐雲晴樹競粧 高低無処不添光再三請問得知否 何故猶残鬢上霜」『春に問ふ 山の吐きし雲も晴れ樹は粧を競ひ 高きも低きも処として光を添へざるは無し 再三請ふ問へ知るを得るや否や 故か猶し鬢上に霜を残せると 』【春に問ふ山から出た雲も晴れ渡り、木々は春の粧美を競い合 い、高きも低きも大地のすべてが春のうららかな光を帯びている。何度でも春に尋ねてみなさい、知るや知らずや、(春とい うのに)一体どうして(自分の)髪は霜のような白毛を残した ままなのか、と】という意。「楼上追涼煩熱蒸人不異炊 登楼凜(快)然(被)還(遠)有(風)衣(吹)凜然還有衣裘想 安用袁宏一扇為」『楼上に涼を追ふ 煩熱人を蒸して炊ぐに異ならず 楼に登り快く遠くよりの風に吹かる 凜然として還て裘を衣んとの想ひ有り 安ぞ袁宏が一扇を用て為ん』 【うっとおしい熱さは人を蒸し上げるようで、飯をたくのに変わらぬありさま。そこで楼台に登り、遠くより来る風に心地よく吹かれる。すると身のひきしまる寒さに襲われ皮衣を着たいと思う程だ。これなら何もあの袁宏の団扇など要しま い】という意。「七夕代牛女独坐青楼漏漸深 支頤想像暁来心風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁」『 七夕に牛女に代はる 独り青楼に坐し漏漸く深し 頤を支へて想像る暁来の心 風は昨夜よりして声は弥よ怨み 露は明朝に及んで涙禁へず 【 七夕に牛女に代はる独り楼台にすわり夜もまさに更けた頃、頬杖ついて夜明け前の牛女の心に思いを馳せる。昨夜来の風は(牽牛織女 の離別の)悲しみの声を乗せていよいよ怨みがましく吹き来る。 露は二人の涙さながらに明方に降り敷き、(自分も)涙をこら えきれずにいる】という意。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
コメント(0)
「国立競技場」ゲートA・千駄ヶ谷門まで進む。国立競技場は4つの入口があった。北側にあるのがこの「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。千駄ヶ谷門(ゲートA)までの所要時間は・都営地下鉄大江戸線「国立競技場駅」 A2出口 徒歩1分・JR中央・総武線「千駄ヶ谷駅」徒歩5分 「信濃町駅」徒歩9分 とのこと。国立競技場の周囲を3/4巡ったことになるのであった。国立競技場をぐるりと囲む木製の庇(ひさし)。全国から建築材料が集められたとのこと。設計は建築家・隈研吾氏。氏が手掛けた建築の特徴である「和」を前面に押し出し、神宮の森がある周辺環境と調和できるデザインとなっている。外壁を取り囲む木材は、日本建築特有の庇がイメージされている。下から3段目までの庇を「軒庇(のきびさし)」と呼び、47都道府県から調達したスギ(沖縄はリュウキュウマツ)を使用。それぞれの杉材が、その産地の位置に応じてスタジアム全周に配置されているという。地上5階、地下2階、全高約47mもの巨大なスタジアムなのである。最上階の庇は「風の大庇」と呼ぶと。実は、木材に見える部分はアルミ製で、風雨にさらされても腐食しにくく、強度が高い。周囲の環境と調和させるために、表面を木目調に加工しているmのだと。国立競技場のある地域は、地上では風速2m、上空では風速10mの風が吹くという気候的特徴があるのだと。この自然に吹いている風を利用して、スタジアム自体に排熱機能を持たせていると。仕組みは、この上なくエコロジカルだ。外を吹く風が「風の大庇」によって場内へと誘導されると、観客席に沿って吹き降りて、フィールド内へ。その風は、フィールドにこもっている熱を上空へと押し上げ、天井の穴から場外へと放出されるのだと。左手にあったのが「青年像」。サイズ 高さ:4m 作者 :朝倉文夫 1956年の作品。動物(特に猫)の作品も多いが、躍動感溢れる スポーツマンの人物像の作品も多く手掛けてお り、明治、大正、昭和を通じ、日本の彫塑界を 先導した芸術家である。「青年像 朝倉文夫作」と。 そして「健康美」。サイズ 高さ:3m 作者 : 北村西望 。作者は30歳の時、「自分は天才ではないの だから人が5年でやることを自分は10年か けても、やらなければならないのだ」と 語っている。 長崎にある「平和祈念像」は、彼の代表作のひとつである と。近づいて。「全国髙校体育連盟寄贈 1964 健康美 西望作」と。この日は12月1日(金)、翌日の12月2日(土)には「2023 J1 昇格プレーオフ決勝」が清水エスパレスVS東京ベルディの間で行われるのであった。14:05キックオフとのことであった。この緑のジャージの方は東京ベルディのSTAFFの方であっただろうか?Hゲート周辺案内図。その先左にあったのが「2020東京オリンピック聖火台」。太陽をモチーフにし、佐藤オオキ氏がデザイン。球体が花のように開くことで生命力や希望を表し、東京2020大会の開始を神聖なイメージで象徴的にビジュアライズしている。東京2020大会では2台の聖火台が制作された。1台は開会式用聖火台で国立競技場に、もう1台の競技期間用聖火台は、東京臨海部夢の大橋有明側に設置され、開会式終了後に点灯された。東京2020大会では、脱炭素社会の実現に向けて、可能な限り省エネルギーや再生可能エネルギーの利用などを進めており、持続可能性に配慮した運営に取り組んでいる。その一環として、大会史上初めて聖火台の燃料に水素を使用したとのこと。「聖火台 Cauldron」案内ボード。「<概要>オリンピックスタジアム(国立競技場)で開催された、第32回オリンピック競技大会の開会式(2021年7月23日)及び閉会式( 8月8日)、東京2020パラリンピック競技大会の開会式(2021年8月24日)及び閉会式( 9月5日)で使用された聖火台。デザインは、太陽をモチーフとし、太陽から得られる工ネルギーや生命力を表現。大会史上初めて、聖火にクリーンエネルギーである水素が使用された。」開会式の聖火台の写真をネットから。ガラス越しでは、周囲の木々が映り込んで。夢の大橋有明側設置の聖火台の写真をネットから。そして再び「水泳競技」のメダリスト名が書かれたの銘板が並ぶ。こちらは1964年開催の東京オリンピックの「炬火台(きょかだい)」「<概要>1958年アジア大会へ向けて、炬火台の設計は国立競技場の設計者である角田栄ほか4名、製作は川口内燃鋳造所・美術鋳造の名工である鈴木万之助が担当した。当初は、前身の国立競技場の南側スタンドの最上段へ設置されたが、1964年東京オリンピック大会時にはバックスタンド(東側)最上段へ移設され、大会期間中聖火が灯された。国立競技場のシンボルとして、2020年に新しい国立競技場に移設した。」1964年の東京五輪開会式で聖火台に点火👈リンク した坂井義則さんの写真をネットから。1964年東京五輪の聖火リレーで最終走者を務めた坂井義則さんは1945年8月6日、広島への原爆投下から約3時間後、数十キロ離れた今の広島県三次市で生まれた。軍隊にいた父は誕生を見届け、翌7日に広島市に入り被爆。戦後生まれの坂井義則さんは被爆2世に当たるのだ。そして前方にG1ゲートが見えて来た。これで「国立競技場」を1周したのであった。「国立競技場」を観光する日本人のツアー客の姿が。そして工事中のフェンスを右に見ながら都道414号線・四谷角筈線を南に進む。この木々の奥にあるのが「明治神宮外苑 室内球技場」。「国道246号青山通り」まで600mと。リラックマでラッピングした「はとバス」が走る。右手に見えたのが「明治神宮野球場」。「外野中央」入口ゲート。周辺案内図。現在地はココ。外から見てスコアボードの左側見えるこの電光掲示板には、わが卒業会社の名前が表示されるのだ。クラブハウス「Tokyo Yakult Swallows」。さらに「明治神宮野球場」の1塁側スタンド下を進む。ヤクルトスワローズのファンクラブ・「SWALLOWS CREW 2024」ポスター。実は私もヤクルトファン、父が国鉄職員、私は六大学の卒業。バックネット裏には「明治神宮野球場」と。現在位置はココ。さらに3塁側スタンド下を進むと正面に先程訪ねた「国立競技場」の姿が現れた。「ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月の初め頃白い清楚な花が咲き、満開時には雪を被ったようにみえます。江戸時代後期の植物学者が尾州(愛知県)二宮の山中で発見し、ひとつばたごと名づけられ、ここ青山の六本の道路の交わる所に植えてあったことから「六道木(ろくどうぼく)」とも呼ばれておりました。(現在のヤクルト・クラブハウス裏あたりです。)大正十三年(1924)には天然記念物の指定を受け、大正十五年(1926)十月の外苑造成後も引き続き外苑の手により手厚く保護されてきましたが、昭和八年(1933)樹齢百数十年を誇った名木もついに枯死しました。ここ外苑の地は、明治時代の青山練兵場跡地に造営されたことから初代木の生前の勇姿は絵画館「凱旋観兵式」の中に画かれており、直径60cmの遺木の一部が絵画館に保存され、展示されております。ここに植えられた木は、「二代目なんじゃもんじゃ」の実生を苑内で育て、外苑創建六十年を記念し、移し植えたられたものです。現在、絵画館前庭には、その由緒を刻した石碑と共に、二代目の実生を苑内で育てた「三代目なんじゃもんじゃ」が植えられております。平成二十八年三月吉日 明治神宮外苑」。この日の「なんじゃもんじゃ」の樹。5月の開花時の写真を2枚、ネットから。更に進む。奥には「国立競技場」の姿が再び。正面の「スコアボード」を横から。「日本オリンピックミュージアム」。「オリンピックシンボル」「国立競技場」を背景に。そして神宮球場を1周して、再び都道414号線・四谷角筈線に戻り「外苑いちょう並木」に向かって歩いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
コメント(1)
右手にあった「皇居三の丸尚蔵館」には既に見学者の列が20mほどになっていた。開館 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)。鑑賞環境保持等のため、オンラインによる完全事前予約制であった。「大手仮休憩所(売店)」には「皇室御一家(皇室カレンダー)」が販売されていた。「ごあいさつこのたび、皇居三の丸尚蔵館の開館を記念して「皇室のみやびー受け継ぐ美ー」展を開催いたします。平成元年(1989)、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機に、それらを保存・研究・公開するための施設として、平成5年(1993)11月に、宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。その後も香淳皇后や各宮家からの品々が加わり、現在は約2万点の作品を収蔵しています。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域・分野ともに幅広いことが特徴です。令和5年(2023)、当館は開館30年を迎えました。収蔵品の増加と人館者の増大に対応するために施設の拡充をはかり、令和元年(2019)より新館の建設が進められ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。拡張工事は今後も引き続き、全館開館は令和8年(2026)を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展では、当館を代表する収蔵品を、4期に分けて紹介いたします(第ー期「三の丸尚蔵館の国宝」11月3日~12月24日、第2期「近代皇室を彩る技と美」1月4日~3月3日、第3期「近世の御所を飾った品々」3月12日~5月12日、第4期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日~6月23日)。いずれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々であり、展示を通してその一端に触れていただければ幸いです。当館は、これからも皇室から受け継いだ収蔵品を大切に守りながら、皇室と文化のかかわりについて、さまざまな機会を通じて広く紹介し、多くの方々に親しんでいただける施設を目指してまいります。今後とも、皇居三の丸尚蔵館へのご支援・ご協力を賜りたく、お願い申しげます。 令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」皇居三の丸尚蔵館 開館記念展皇室のみやび―受け継ぐ美会期 令和5年(2023)11月3日(金・祝) ~ 令和6年(2024)6月23日(日)会場 皇居三の丸尚蔵館 第1期:展示室2、第2期~第4期:展示室1・2展示品 第1期 三の丸尚蔵館の国宝 令和5年11月 3日(金・祝)~12月24日 (日) 第2期 近代皇室を彩る技と美 令和6年 1月 4日(木)~3月3日(日) 第3期 近世の御所を飾った品々 令和6年 3月12日(木)~5月12日(日) 第4期 三の丸尚蔵館の名品 令和6年 5月21日(火)~6月23日(日) 開館記念展では、《蒙古襲来絵詞》(1期)、伊藤若冲《動植綵絵》(1期、4期)、高階隆兼《春日権現験記絵》(1期、4期)、小野道風《屏風土代》(1期)、藤原定家《更級日記》(3期)、狩野永徳《唐獅子図屏風》(4期)と国宝8件のうち6件や、海野勝珉《蘭陵王置物》(2期、重要文化財)など、多様で多彩な各時代を代表する名品の数々が約8か月にわたり、4期にわけて紹介されているのであった。「皇居三の丸尚蔵館」👈リンク 展示室2の会場内は写真撮影可能であった。正面に後ほど鑑賞した「伊東若冲」の「動植綵絵」が4幅が展示されていた。右手に、最初に「春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ) 巻十九高階兼隆/延慶2年(1309)頃/絹本着色藤原氏の氏神、奈良・春日大社の草創と、霊験の数々を描いた全20巻からなる絵巻。左大臣・西園寺公衡の発により制作、絵は宮廷絵師の高階隆兼が描きました。豊かな色彩と精緻で気品あふれる描写による、中世やまと絵の代表作。明治時代に鷹司家より献上。」今回の巻十九の展示はこの部分から。購入した案内本「開館記念展 皇室のみやー受け継ぐ美ー」より。「「春日権現験記絵」巻十九第二段直前の場面では社から神体の神鏡が14面盗まれ騒然としていますが、ここでは初冬の厳かな春日山が広がります。続く場面では悪党と興福寺の衆徒(僧兵)が血生臭い戦いを繰り広げ、衆徒は死闘の末に3面の神鏡を取り戻します。『春日権現験記絵』巻十九は、正安三年(一三〇一)に起こった春日社神鏡強奪事件の顛末を描くものである。作品が成立する直前の出来事であり、いまだ生々しい記憶が残っていたであろう。掉尾を飾る巻二十も、嘉元二年(一三〇四)の地頭設置による神木枯槁と神火の事件を扱っている。この二つの出来事は、絵巻詞書の撰者である興福寺関係者にとって、大和国の支配に関わるきわめて深刻な政治的な事件であった。こうした直近の出来事を、春日権現の神威が今も新たなることを語る説話として、この大規模な絵巻のなかに取り入れている。この巻十九の扱う事件は以下のとおり。近年、興福寺の学侶は蜂起して、大和国の悪党を捜り捕えて流罪にするよう訴えた。これに反撥した悪党たちは、正安三年十月二十五日、春日社に乱入して大宮・若宮の神鏡計十四面を盗み取り、高尾というところに引き籠った。同二十八日、興福寺の衆徒は軍兵を率いて搦め捕ろうとし、大いに合戦をしたところ、悪党交名(リスト)にある池尻家政という者を戦場で討ち取り、その男の持っていた神鏡三面を取り戻した。その後、数々の奇瑞があって順次神鏡が発見され、三ヶ月のうちに全てが本社に戻った。この出来事を詞書とし、巻十九は全五段にわたって描かれている。うち第一段の絵は三場面からなっている。始めに、悪党が武装して春日社に押し入り、本殿の前の幣殿で勝ち誇ったごとく一服しているところ。次いで静かで美しい春日山の雪景色を挟み、悪党と追捕の軍勢とが山間で合戦するところ。図版はその合戦の場面である。双方の軍勢が対峙している画面左側の描写には、当時の戦闘の方式のひとつのあり方が反映されているだろう。楯を持って前進する者たちと、同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。この楯の列の背後から、互いに弓を射掛けあう。さらにその後ろには、太刀や長刀で戦う者や大将らしき騎馬武者が続く。矢に当たるなどして負傷すると、背負われて逃れるが、遅れて敵方に寄せられ囲い込まれて、命を落とすことになる。画面右側で、片足を斬り落とされ、髻をつかまれて、まさに首を取られようとしている者は、詞書にいう池尻家政であろう。彼から奪い返した神鏡を手に提げる軍兵がいる。描かれた楯は、板二枚を副木で打ち付けたもので、裏には立てかけておくための棒や持ち手も見えている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が、追討方には違い鷹羽を描いたものもある。『男衾三郎絵巻』や十五世紀の『十二類合戦絵巻』などに描かれた楯の形状や使用法とも類似し、華麗精妙を尽くした甲冑刀剣とは異なるものの、実戦には欠かせない武具のひとつであったとネットから。雪の御笠山と春日奥山。それに続く血まみれ+足切断の場面。近づいて。描かれた楯の、追討方には違い鷹羽を描いたものも。悪党と興福寺の衆徒(僧兵)との血生臭い戦いが続く。楯を持って前進する者たち。同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が。「春日権現験記絵」巻十九第三段大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出ました。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。神鏡を近くの金勝寺に移したところ、ニ上山に黒雲、春日山に瑞雲がたなびくという不思議な現象がありました。」大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出た。近づいて。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。近づいて。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来絵詞」は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻ともいう。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっている。国宝。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来合戦絵巻 後巻」に描かれているのは、弘安の役です。再び蒙古軍が志賀島(しかのしま:現在の福岡県福岡市)に上陸し、戦闘を開始。竹崎季長が敵船に乗り込んで、蒙古軍を討ち取っていく様子が描かれています。海での戦闘場面が多く描かれており、蒙古船は豪華堅固であるのに対し、日本船はカヌーのような粗末な作りであることが分かります。しかし、蒙古軍は、夜から降り出した「神風」(かみかぜ)と呼ばれた暴風雨により壊滅してしまったのです。竹崎季長が蒙古襲来絵巻を作らせたのは、鎌倉幕府から恩賞を得るためですが、自分の功績を後世に残そうとした目的もあったと見られています。なお、御恩奉行の安達泰盛は、1285年(弘安8年)に対立していた「平頼綱」(たいらのよりつな)の讒言(ざんげん:誹謗中傷)により「霜月騒動」で滅ぼされました。蒙古襲来絵巻は、竹崎季長が恩人の安達泰盛に対する鎮魂や恩返しのために制作したという説もあるようです。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻鎌倉時代(13世紀)/紙本着色いわゆる元寇のうち、弘安4年(1281)の2度目の来襲を招いています。生の松原の石築地前での主人公・竹崎季長主従の出陣や、それに続くモンゴル軍との海上戦などを、臨場感をふれる筆致で描いています。歴史的大事件を描いた同時代の絵画としては唯一のもの。明治時代の御買上品。」鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1284年)に中国の元が日本を襲撃した際の戦闘を描いており、肥後国(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が自らの活躍を子孫に伝えるために描かせたものとされています。「蒙古襲来絵詞」は「竹崎季長絵詞」とも呼ばれ、筆者不明の全2巻の絵巻物です。鎌倉時代の風俗や描写の表現が表れており、2021年に国宝に指定されました。「蒙古襲来絵詞」は、天草大矢野家に伝来し、明治23年(1890年)に同家が皇室に献納したものです。現在は宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。「「蒙古襲来絵詞」後巻蒙古軍との開戦に向け、軍船が海上を進みます。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護です。どちらの船も他と比べて船体は大きく、満ぎ手が立つ船枻(船外に突き出た板)があるなど構造が異なります。」奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)。手前は島津久親(1225-1284 )。蒙古船を襲う季長の一門。これは船で蒙古船に近づき、蒙古兵に襲い掛かろうとする季長一門を描く。日本船がカヌーに毛の生えたような粗末な造りであるのに対して、蒙古船の方は、一応は竜骨を供えた堅固な造りであることが伺われる。蒙古船の船尾に近づいて。蒙古船の船首。自分の戦功をアピールするための絵ですから季長は敵の首を討ち取ろうとしている。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。「「蒙古襲来絵詞」後巻敵船に乗り込み、竹崎季長(1246- ? )が蒙古兵の首を打ち取ります。季長は急いで参戦したため、兜の代わりに脛当を頭に着けていました。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。」そのすぐ近くの別な船に、季長を弓矢で狙う敵兵たちがいます。別な方向を見てる兵やら、頭に矢が刺さった兵もいます。この艦隊には中国風の兵士が多いように見える、船のディテイル、装備品、旗印までがドローン撮影でもしたかのように事細かに描かれている。そしてその先にあったのが国宝・伊藤若冲作「動植綵絵」4幅。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
コメント(0)
白鷺の湯 能登 海舟(共立リゾート)そして、2021年に、「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会のメイン会場」として使用され、開・閉会式と陸上競技が行われた国立競技場を訪ねた。横断歩道を渡って、国立競技場の敷地内に。国立競技場 施設案内。現在地はGゲート 手前。今回は、もちろん「国立競技場」内には入れなかったので、「国立競技場」内部の写真3枚をネット👈リンク から。整備費の乱高下で計画が白紙に戻り、政府は「屋根は観客席の上部に限ること」「機能を原則として競技に限定すること」などの方針を打ち出した。 建設コストを抑えるためであった。よって、屋根は全体が覆われているのではなく、ドーナツのように真ん中のフィールド部分は屋根がありません。座席は1層、2層、3層と分かれているのですが、屋根は1層(フィールドに一番近い)の最前列まで覆われている。もともと陸上競技場として歴史を刻んできたためか、芝生のセンターピッチとの距離はやや遠め。観客席には5色のアースカラーが模様のように配置されている。森の木漏れ日をイメージしていると。5つの色:白、黄緑、グレー、深緑、濃茶。これは海外のスタジアムでも使われている手法。こうすることで空席が目立たず、満員に膨れ上がっているように見えるのだとか。曲線を描いた天井の梁からも日本らしさが感じられるのだ。ゲート配置図。Hゲート方向を振り返って。右前方に「女神像」の姿が現れた。「ギリシャの女神像」。ギリシャの女神像は、1964年、東京オリンピック大会の成功を祈念し、国立競技場のメインスタンド貴賓席上部に設置された長谷川路可作の壁画。長年、国立競技場のシンボルとして親しまれ、2019年新しい国立競技場建設に伴って移設された。月桂冠と橄欖(かんらん)の枝を持ち勝者を称える女神に由来した「美の象徴」、作品名を「栄光」とした と。白と黒のモザイクをもって端的に表現し、白の部分には淡色の色ガラスを混入してそれぞれのニュアン スを試みたとのこと。サイズ 高さ:4.3m 幅:3.7m。「Gゲート 青山門」。「野見宿禰像」は、相撲の元祖で力の象徴とされる野見宿禰に由来し、「力の象徴」と。作品名を「勝利」とした と。作者 長谷川 路可サイズ 高さ:4.3m 幅:4.1m。近づいて。Gゲート周辺 案内図。「国立競技場」の周囲を時計回りに散策することとした。前方に博物館「日本オリンピックミュージアム」の姿が。「オリンピック・ムーブメントの発信拠点である『日本オリンピックミュージアム』。1階では、企画展やイベントが開催される「WELCOME SALON」や、オリンピックの世界観を鮮やかに描く映像が楽しめるなど、さまざまな視点でオリンピック・ムーブメントを発信します。2階では、オリンピック競技大会の起源から人類最大の祭典になるまでの歴史を学べたり、競技に共通する動きを体験し、オリンピアンの身体能力に挑戦できるなど、実際に見て・感じて・体験することでオリンピックについて知ることができます。ほかにも、オリンピックシンボルや日本で開催されたオリンピック競技大会の聖火台(レプリカ)の展示が見られるなど、ここでしかできないオリンピックに関わる貴重な体験が楽しめます。」とHPから。空調設備の室外機か?観客席に空調設備はないが、最上部の大きなひさしやスタジアムを360度囲む軒ひさしが外から場内に気流を生み、自然の風で涼が取れるようにもしたのだ と。Fゲート周辺 案内図。再び博物館「日本オリンピックミュージアム」と高層マンション「ザ・コート神宮外苑」を見る。Eゲートに向かって歩く。Eゲート手前の正面に3体の像が姿を現した。「槍投像」、塑像、高さ3.4m。「槍投 作者 雨宮治郎」と。大正・昭和に活躍した作家で、この「槍投げ像」は第15回帝展(1930年・昭和5年)の特選となった作品である。槍の鉾先は、国立競技場に向かっている と。千駄ヶ谷門入り左にあった「円盤投げ像(ディスコポロス像)」、塑像、高さ2.8m。作者:ミロン 。1964年1月に「オリンピック1964年展」を西武百貨店で開催した時、ローマ国立博物館より取り寄せた実物の型抜き。「寄贈サンケイ新聞社 フジテレビジョン 文化放送 ニッポン放送」と。「御車像」、塑像 高さ2.5m。作者 ファルピ・ビニョーリ。正面から。第11回オリンピックベルリン大会(1936年)で行われた芸術競技で金メダルを受賞 した作品。当時のオリンピックにはスポーツ競技とは別に「芸術競技」もあったのだ と。古代オリンピックで行われていた馬車競技の一頭だて馬車を操る御者をモチーフとしている。「この像は1964年1月 「世紀のオリンピック展」を西武百貨店で開催したときローマ國立博物館より取り寄せたミロン作ディスコポロス像(実物型抜き)である。 1964年9月4日 西武百貨店謹製」前方奥に「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が姿を現した。NTTドコモは1990年代半ば、携帯電話の急激な普及を見込み、都内と埼玉県周辺をカバーする新たな中継基地を建設する方針を決定した。立地場所は都心部でないと意味がないため、それを前提に建設地を探し求めていた所、たまたま旧国鉄の新宿貨物駅の跡地が見つかり、 1997年12月に工事に着手。2000年9月に竣工した。都内のビルの中では麻布台ヒルズ森JPタワー、虎ノ門ヒルズステーションタワー、虎ノ門ヒルズ森タワー、ミッドタウンタワー、東京都庁第一本庁舎、東京ミッドタウン八重洲に次いで7番目の高さ・240mを誇る。エンパイアステートビルなどの、1930年代に建てられたニューヨークの摩天楼を思わせるデザインが特徴であり、いつしか「新宿のエンパイアステートビル」と呼ばれるようになった。そしてこちらがEゲート・外苑門前の「国立競技場前広場」。国立競技場は4つの入口がある。北側にあるのが「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。そしてこちらが南側にある「外苑門」。競技場の1周は約1kmとのこと。ズームして。国立競技場 施設案内。現在地はここ◯。「国立競技場モニュメント」 Aゲート側。国立競技場の新たなシンボルとして、木のルーバーを多用した杜のスタジアムと調和するルーバー上のモニュメントをスタジアムの南北に配置。スタジアムを背景に訪れた人の記念撮影ポイントにもなっていたのであった。NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)。「TICKET」売場。これは「MEGA BIG」のポスター。「MEGA BIG」とは、Jリーグ等のサッカーの試合を対象に、指定された試合の90分間での両チームの合計得点をコンピューターが自動選択するくじ。「MEGA BIG」は、指定されたサッカー12試合の90分間での両チーム合計得点数を、コンピューターがランダムで選択します。コンピューターは以下4択の中から選びます。1点以下 「1」2点 「2」3点 「3」4点以上 「4」とのことだが、私にはチンプンカンプン???。正面には左「シャリエ神宮外苑」、右「千駄ケ谷インテスビル」。そして競技場の外壁には、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板が貼り付けられていた。この場所には「テコンドー」、「卓球」、「サーフィン」、「スポーツ‐クライミング」「スケートボード」・・・・・。「柔道」。「体操」。体操競技・男子個人総合 金メダル「橋本大輝」。「自転車競技・トラック」、「馬術」、「フェンシング」、「サッカー」、「ゴルフ」・・・。「自転車競技・4種目」。そして左斜め前方に「東京体育館」の姿が。「東京体育館」の屋根から「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が顔を出して。再び、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板を追う。「バスケットボール」。「バスケットボール女子」 銀メダル「日本」 。「野球/ソフトボール」野球 金メダル「日本」 ソフトボール 金メダル「日本」 。「陸上競技」男子マラソン金 KEN Eliud Kipchoge 2:08:38銀 NED Abdi Nageeye 2:09:58銅 BEL Bashir Abdi 2:10:00NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)が東京体育館の「相輪」の如くに。「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」。千駄ヶ谷門入り右にあったのが「波」、作者:吉田三郎 高さ4m。作者は大正から昭和にかけて、日本彫刻界の重鎮として活躍した作家。徹底した写実態度を示している。作風は、常に堅実で、男性像に傑作が多い と。「出陣学徒壮行の地」の碑「由来昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」「次世代への伝言 ―出陣学徒壮行碑に寄せてー昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」内容は上記と全く同じであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
コメント(0)
この日は2024年12月19日(火)、14:00から秋葉原にある生命保険会社に用事が出来たので向かった。早朝から出発し、小田急線を利用して代々木上原駅から東京メトロ千代田線で大手町駅で下車。c6b出口から地上に出て東京都道403号大手町湯島線の交差点を渡る。この日の午前中は、将門塚そして皇居三の丸尚蔵館で開催されている美術展そして皇居の散策を行うこととしたのであった。そして「将門塚」に向かって皇居の大手濠に向かって進む。右手に「将門塚」が現れた。場所を移動して。「都旧跡 将門塚」と「故磧保存碑」と刻まれた石碑が入口に。「故磧保存碑」は明治39年(1906)に平将門公の復権運動を展開した阪谷芳郎・織田完之らにより、当時大蔵省の敷地内にあった将門塚に建立されたと。「都旧跡 将門塚」。「東京都指定史跡将門塚神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(九三一~九四六)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けまていました。今を去ること一〇七五年ほど昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平真盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血(こうけつ)をしぼり、加えて洪水や旱魃が相次ぎ、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火(のろし)であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達芸者と原田甲斐の殺害された場所でした。 明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三十六年(一九六一)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。将門塚は神田明神・創建の地でもあります。 毎年九月彼岸の日には「将門塚礼祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿(ほうれんみこし)が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。 史蹟 将門塚保存会 江戸総鎮守 神田明神」「参詣者の皆様へのお願い」と点字による表記もされていた。「東京都指定旧跡 将門塚所在地 千代田区大手町一の二指 定 昭和四六年三月二六日平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱) を起こし九四〇年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。徳治二年(一三〇七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建に際して崩されました。幾多の変遷の後、令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。 令和三年五月 東京都教育委員会」関東大震災後に撮影された将門塚。当時は立派な「塚」だったことがわかる。大蔵省仮庁舎建設のため切り崩されたのはこのあと とネットから。上記より以前の明治時代初期の将門塚をネットから。「明治39年に整備された将門塚」をネットから。入口にあった石灯籠。「将門塚保存会 会長 頌徳之碑」。「将門塚」は平将門公の御首(みしるし)をお祀りする墳墓であり、また同時に神田明神創建の地でもある。天慶の乱後、将門公の所縁者たちにより、この地に納められ墳墓が築かれたのだと。「将門塚板石塔婆将門塚中央にある「板石塔婆」は昭和45年に再建されたもので、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年」が刻み込まれていた。近づいて。「平将門の乱の後、将門は自らを"新しい天皇”を意味する「新皇」と称し始めた。朝廷に反逆したとみなされた将門は平貞盛の軍と交戦し、下総の地で討死。その首は藤原秀郷により平安京の七条河原でさらされることになった。この話にはもう一つ、語り継がれている逸話があつ。平安京でさらされた平将門の首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやった。その後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説がある。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのだと。更にその伝説は続き、その後13世紀になると首塚は荒廃し、平将門の亡霊は怒り江戸の民を祟ったと言い伝えられてきた。祟りを恐れた江戸の民は、また改めて手厚く平将門を供養することにしたと。なお、塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されている。」とネットから。「将門塚板石塔婆」の後方には五輪塔が。「将門塚板石塔婆」の裏には「徳治二年 時宗総本山遊行寺の二世 真教上人江戸行脚のおり 将門塚が荒れ果て 疫病が蔓延してここ芝崎村の住民が難渋しているのに憐み 将門公に蓮阿弥陀仏と諡して塚を修復し その上に板石塔婆を立て 傍の日輪寺において供養したところ漸く怨霊は鎮り さらにその霊を神田明神として神に祀り 以来村民の守護神になったという。その後 徳川家康公江戸開府のとき 日輪寺は浅草へ 神田明神は駿河台に移されたが塚はそのまま旧地に保存された。以来幾星霜を経て明治時代となり この地は大蔵省の内庭となっていたが昭和十五年 雷火によって庁舎が炎上したとき 板石塔婆も焼損したため 時の大蔵大臣河田烈氏は時宗開祖一遍上人筆の南無阿弥陀佛の名號を写して新調された しかるに本年七月 再び損壊したので前記遊行寺二世真教上人の立てられた旧碑の拓本に倣い 遊行寺現法主七十一世隆然上人染筆によってこれを塚上に再建す。その志すところは平将門公の霊が鎮り人々の上に御加護のあることを願ったものである昭和四十五年九月二十二日 願主神田明神氏子総代 遠藤達蔵撰文願主神田神社宮司 大鳥居吾朗神田山日輪寺住職 原弘道史蹟 将門塚保存会会長 渡辺武次郎」廻り込んで。「将門塚」を後にして進むと「千代田区 総合防災案内板」があった。案内板右に「将門塚ゆかりの神社 江戸総鎮守 神田明神」の案内が。現在位置にズームして。「大手濠」に沿って走る「内堀通り・東京都道301号白山祝田田町線」との交差点まで進む。「大手町三井ホール」の角にあったクリスマスツリー。「将門塚」前の道を振り返る。「内堀通り」の竹橋方向を見る。「大手門」方向を見る。横断歩道を渡り、少し左手に引き返した場所にあったのが「内務省跡」案内板「内務省跡内務省は1873年(明治6年)、大久保利通(初代内務卿)の主導によリ設置された機関て、地方・警察・土木・宗教などの行政を管轄し、1933年(昭和8年)に霞が関へ移転するまでこの地にありました。初代の建物は木造二階建てで、鉄製の門は当時まだ珍しく人目を惹いたと言われています。江戸時代、この周辺には譜代大名の屋敷が置かれ、播磨姫路藩(現在の兵庫県)藩主酒井家の屋敷がありました。」そして「大手濠」沿いを進む。前方右手に見えた来たのが「江戸城 大手門」。ズームして。「江戸城 大手門」入口。「大手門橋」を進む。内濠に架かり、大手町一丁目と丸の内一丁目の間から、皇居東御苑に入る土橋。大手門は江戸城の正門でしたから、御城入口御門橋・大手下乗橋などの別名もあります。大手門は慶長11年(1606)に造られました。橋は、江戸時代は木橋でしたが、大正年間に埋め立てられ、土橋となりました。橋の北側は大手濠、南側は桔梗濠と呼ばれています。徳川家康入国以前は、この辺りも日比谷入江が入り込み、ここに船着場があったと伝えられています。そして、渡櫓の石垣が東側に出っ張っているのがわかります。この出っ張りは大手橋への横矢で橋を渡る敵兵を確実に射落とす為。また、土塀と石垣天端の中間に「石狭間」が切られている(開いている)のがわかります と。「大手門」入口の「高麗門(一ノ門)」。入口である高麗門を入ると、石垣に囲まれた枡形に入り、渡櫓と石垣の上から狙い撃ちされるという、戦国時代の防御の形式が見て取れ、残虐さとともに、城を守るというロマンが感じられ、その上、出入り口にしては、巨大すぎる建造物の規模と格式に言い知れぬ美を感じたのであった。奥に「渡櫓(わたりやぐら)門」という大きな門。大小2つの門に囲まれた枡形のすみにあったのが「旧大手門渡櫓の鯱」と案内板。 「旧大手門渡櫓の鯱」。「大手門大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和20年( 1945年) 4月の空襲で焼失し、昭和42年( 1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」( 1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。」「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を正面から。江戸城大手門は、高麗門とこの渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、渡櫓の櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものです。 枡形門とは石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門です。大手門は1607(慶長12)年、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。 1620年(元和6年)の江戸城修復に際し、伊達政宗(石垣を担当)や酒井忠世(さかいただよ)によって再建され、現在のような桝形門になっています。この渡櫓門には長大な武器庫である建物を載せていました。 現存する高麗門は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後の1659(万治2)年に再建されたものです。 江戸時代の渡櫓門は、残念ながら昭和20年の戦災で焼失。 昭和41年の東御苑開園に伴い昭和40年から復元工事が行なわれ、高麗門なども修復、往時の雰囲気が再現されました。巨大な梁材で支えられた「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を見上げて。「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を潜り左手に進む。眼の前は工事中で、杭打ち機やクレーンの姿があった。「三の丸尚蔵館整備に伴う新築工事(Ⅱ期)」と。「皇居東御苑と上皇上皇后両陛下」案内板。現在地はここ。 ・・・つづく・・・
2024.01.16
コメント(0)
そして「聖徳記念絵画館」への入口に到着。「明治神宮外苑案内図」。現在地はココ。右手に巨大な常緑針葉樹林樹・ヒマラヤスギ(ヒマラヤシーダー)が聳え立っていた。ドーム型屋根の「正徳記念絵画館」を見る。「あるけあるけ日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)1 0月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キやンプに向けて第1回大会を開催しました。私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一郎初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。 2004年(平成16年) 10月1 /日 (社)日本ウォーキング協会」「明治神宮外苑の舗装明治神宮外苑の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本格的加熱アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。この工事は、我が国においてワービット工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械施工が行なわれました。この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。「当時の工事概要 ワービット工法について(1)発注者:明治神宮造営局 粗粒度アスファルトコンクリートを(2)施工面積:59,096m2 下層に敷き、上層には富配合のアスファルト(3)施工費用:167,135円 モルタルを薄く敷均し、上下層を同時に転圧して(4)工期:1924年5月~1926年1月 仕上げる工法 (5)監督者:工学博士・藤井眞透」左前方に「明治神宮外苑 一角獣 国旗掲揚塔」を見る。左手奥に「外苑いちょう並木」と「東京クリスマスマーケット 2023」の会場が。「国旗掲揚塔」と「ユニコーン像」を逆光で。狛犬に代えてスコットランド王国の象徴であるユニコーンを用いたものかと。額に一角を持ち、牡ヤギの顎鬚、ライオンの尻尾、二つに割れた蹄が特徴。廻り込んで。「国旗掲揚塔」。大正15年、明治天皇と昭憲皇太后を讃えるために建てられた絵画館。神宮外苑の名物、イチョウ並木の真正面に位置し、シンメトリーの洋館。白亜のドームをもつ重厚な建物は、全体が花崗岩でおおわれ、入口や床はすべて天然の大理石を使っているとのこと。明治天皇を中心に成し遂げられた、維新の大改革、その輝かしい時代の勇姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれた80枚の名画が館内に。一流画家による優れた芸術作品であり、政治、文化、風俗の貴重な歴史資料でもある と。起工 : 大正8年(1919)3月5日竣功 : 大正15年(1926)年10月22日設計 : 一般公募156点の1等小林正紹氏の原図を基に明治神宮造営局において修正しました。構造 : 鉄筋コンクリート造り、外壁は岡山県万成産花崗石、画室を除く壁面、中央大広間は、 国産大理石と一部タイルを使用しています。規模 : 長さ 東西112メートル 南北34メート 高さ 中央ドーム頂点 地上32.1メートル 両翼 地上16.7メートル。「角池」越しに「聖徳記念絵画館」を見る。「聖徳記念絵画館」が「角池」の水面に映り込んで。巨大な「白松」の樹。「シロマツ 白松 中国名:白皮松分布=中国(湖北・陝西省(せんせいしょう)を中心とした北部から西部地域)日本では比較的珍しく、中国では王宮、寺院などに多く植えられています。」「聖徳記念絵画館」は明治神宮外苑の中心施設で、明治天皇の事績を描いた絵画を展示する美術館。明治神宮造営局の実施計画により大正15年に竣工。建物の中央に、ドーム屋根を戴く吹抜の大広間をおいて左右に絵画室を配置した構成で、外観は花崗岩による重厚な仕上げとし、内部は大理石やモザイクタイルで壮麗に飾る。「聖徳記念絵画館」は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。またドームのシェル構造や絵画室の採光などに先駆的な技術が取り入れられており、わが国の建築技術の発展を知る上でも重要である。「聖徳記念絵画館」前から「外苑いちょう並木」を振り返る。「角池」、「国旗掲揚塔」越しに「外苑いちょう並木」方向を。ズームして。さらに。地階と主階の二階構造。主階は、地上二階の展示フロアを指し、中央に大理石張りの大広間があり東西をこの広間で区分し、東側に日本画、西側に洋画を展示しております。中央大広間天井ドームは、最高部で床上27.5m、鉄筋コンクリート内側に金網張りモルタルを施し、ブラスター塗り及び石膏レリーフを取付けドーム部分を淡青色に、その下のレリーフ部分を淡黄褐色に着色している。画室は、採光のためガラス天井を設け、欅材以外の部分は、ブラスター塗りとし、日本画室は淡黄褐色、西洋画室は、淡青色で中央ドームの色彩と同じ着色です。主階へは、正面大階段を上り表広間から中央大広間に至り、その先に裏広間がある。地階は、地上一階のことで、事務所・絵画館学園用として使用しているフロア。「樺太国境画定標石」。「樺太国境画定標石時 明治三十九年六月~四十年十月所 樺太日露境界明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたガ、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕影周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。日本側の菊の紋章の背面には露国のの紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑」「聖徳記念絵画館」の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)は、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画であると。再び「聖徳記念絵画館」を振り返って。正面に「国立競技場」の姿が現れた。ここの両脇にもヒマラヤスギが。「国立競技場」に向かって進む。右手には案内板が2枚。石碑そしてその後ろには松が。「御鷹の松」碑澁澤榮一書 時年八十又七」「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と呼ばれしが又御鷹の松とも稱するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり 大正十五年七月 明治神宮奉賛會」「お鷹の松(おたかのまつ)大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。 昭和五十四年十月 明治神宮外苑」」「国立競技場」からの入口にあった「聖徳記念絵画館」案内板。近代日本のあけぼの、壁画に見る幕末明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の、大改革が断行された、明治維新。西欧の諸国が300年を費やした近代化を、明治天皇を中心に、僅か40年ばかりで成しとげた、輝かしき明治の時代、世界に誇る、館内展示の80面の名画か語る日本近代化への飛曜の姿、歴史事件の数々。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.16
コメント(0)
私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月14日(日)8:00から近くの公園で行われました。コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域では今年は従来通り執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きから ついたようです。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時前に近くの公園に。既に廃材その上に「しめ縄」や「正月飾り」が置かれていました。そして役員の方が8時前に着火し「どんど焼き」のスタート。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。併せて消化器の準備もされていました。団子をアルミホイールで覆っている家庭の三叉団子が出番を待っていました。役員の方が、家から枯れ木を準備して下さり、勢いよく燃え始めたのでした。その上に我が家の「門松」、「しめ縄」等投げ入れました。私が子供の頃は、正月の書初めを燃やし、燃えた書初めの半紙が高く上がると字が上手になると言われていたのですが、最近では書き初めをする子供達も少なくなってしまったのです。三股の団子を持ったご家族の姿も。次第に炎も大きくなり、遠ざかって。ダルマも火炎に囲まれて。まだまだ火力が強く、団子を焼くには早すぎるのでした。お神酒を紙コップにいただき、飲みながら団子の焼けるまでの炎を見つめていました。そして漸く下火になり団子焼きのスタート。三股ではなく三股2段で六股の枝の先端に団子を付けて焼く方も。このくらいになった場所が、団子焼きには良いのです。我が家の団子も。いつのまにか、この地域の方々の数も増えて。子供さんの姿も増えて。昨年は、お神酒の入った紙コップの代わりに白のマスクだったのですが。(昨年の写真)。やはり、近所の方々も、三叉の木を準備するのが大変と。3色の団子の位置は、各家で違うようだ。焦げ目もついて。6個の団子を1本の枝につけて、アルミホイルで巻いて。そして団子を焼く方の数も急に増えて、団子の焦げた匂いも。そして30分ほど雑談しながらの「どんど焼き」も終えて自宅に戻り妻と焼いた団子をシェアーし、今年の健康を祈ったのでした。そして去る7日(日)は七草粥の日。「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、子どもの頃に一生懸命覚えた春の七草の名前。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはかぶ、スズシロは大根のこと。この七草をおかゆにして1月7日に食べる七草がゆの習慣は、江戸時代に広まったそうです。七草の種類は時代や土地によって異なり、七草がもっと多くなったり、少ない場合もあったそうですが、いつの時代もどんな土地でも、年頭にあたって豊年を祈願し、「今年も家族みんなが元気で暮らせますように」と願いながらおかゆをいただくその気持ちに差はありません。さらに去る11日(木)は「鏡開きの日」であった。鏡開きとは、正月に年神様(としがみさま)が滞在していた「依り代(よりしろ=居場所)」である餅を食べることで、霊力を分けてもらい、1年の良運を願う行事なのです。年神様は、穀物の神様。毎年、正月にやってきて、人々に新年の良運と、1歳分の年齢を与えると考えられて来たのです。神棚、床の間からお供えを下げて来ました。プラスチックのお供えの内部にあった餅を焼いてお汁粉にして。「どんど焼き」「七草粥」「鏡開き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は、非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2024.01.15
コメント(0)
2列の右側「外苑いちょう並木」の横・開催されていた「工芸職人展」の入口にあったのが、この後に訪ねた「御観兵榎について」。さらに、いちょう並木を北に向かって歩く道路の反対側の遊歩道。正面の「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場では「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」が開催されていたが、この時間は11:00~開催の準備中であった。飲食店25店舗、雑貨店30店舗が出店し、グリューワインやドイツビール、欧風料理のほか、スイーツやエルツ地方・ザイフェン村の工房で作られた本格的なクリスマス雑貨などが楽しめる。目玉となる高さ14メートルを誇るクリスマスピラミッドは今年ももちろん健在。6段のピラミッドの各段にそれぞれ違うモチーフの木製の人形が配置され、回転するのだと。そして聖徳記念絵画館前の広場の前のT字路から「外苑いちょう並木」を振り返る。なかなか、車の映らない風景は・・・・・。「神宮軟式球場噴水」越しに、「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」会場そして「聖徳記念絵画館」を見る。この後に訪ねた「聖徳記念絵画館」をズームして。「神宮軟式球場噴水」前の歩道を移動しながら「外苑いちょう並木」を様々な角度で。多くの観光客が並ぶ中、ほぼ正面から。T字路横にあった名所の案内板。後に訪ねた「国立競技場」まで380m と。反対側のいちょう並木も訪ねた。そして途中で引き返し、再びT字路から。T字路の角にあった案内板。「正徳記念絵画館近代日本のあけぼの 大壁画にみる幕末・明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましよう。」「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場横の大きなカーブ進んで行った。右手にあったのが先ほどと同「御観兵榎についてこの外苑の敷地は、元陸軍の青山練兵所で、明治天皇 の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。 平成八年一月吉日 明治神宮外苑」「初代 御観兵榎」榎 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル碑石 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石題字 東郷平八郎 書 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神」とネットから。混雑しているイチョウ並木からちょっと入ったところにある嘘みたいに静かな公園区域に立っている一本榎。 御観兵榎という名の榎で明治天皇のゆかりのもの。しかし今植えられている榎はオリジナルではないようで2代目とのこと。東京都港区北青山1丁目7。「御観兵榎」碑。「明治天皇には明治二十年青山練兵場設置以来恒例の観兵式又は憲法発布及び凱旋観兵式を親臨あらせらし節に此の榎の下にて馬を駐めさせられた。大正十五年七月 明治神宮奉賛會」。伯爵東郷平八郎書と。近くにあった銀杏の黄葉を追う。そしてモミジの紅葉もこれでもかとカメラで追う。そしてさらに「正徳記念絵画館」方向に進む。右手にあったのが大学の「外苑キャンパス」。東京都港区北青山1丁目7−15 。「京都芸術大学東北芸術工科大学」と。「外苑キャンパス」は、京都芸術大学と姉妹校の東北芸術工科大学の東京の拠点として、2010年7月に開設された。緑豊かな明治神宮外苑の敷地の中にある延床面積3,124m²の2階建てのキャンパスでは、芸術を学ぶことができる多様な公開講座を開講する、社会人のための新型アートカレッジ「東京藝術学舎」や年間開講数約470を超える通信教育部課程のスクーリング授業などに利用されているとのこと。その先にあったのが「にこにこパーク」。神宮球場をはじめ各種スポーツ施設と四季折々の自然を満喫できる神宮外苑にある親子のための有料遊具施設。東京都港区北青山1丁目7−5。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.15
コメント(0)
加賀山代温泉 みどりの宿 萬松閣この日は2023年12月1日(金)、都内五反田駅近くで18時から開かれた久しぶりの元同僚との飲み会に参加。テレビでは神宮外苑のいちょう並木は真っ黄色に色づいている、とのことで、朝早くから自宅を出て向かったのであった。小田急線、千代田線、半蔵門線を利用して「青山1丁目」駅で下車。「青山1丁目」交差点に出る。国道246号・青山通りの「青山1丁目」交差点を渡る。正面にあったのが、「赤坂警察署青山一丁目交番」。 交番の横に「青山1丁目周辺案内図」。 現在地はここ!!最初の目的地の「外苑いちょう並木」まで240m と。近づいて。この先、右側に「外苑いちょう並木」。 「青山通り」の反対側のビル・「POLA青山ビル」の壁には大きな形状の物体が飛び出していた。 「ポーラ・オルビスグループの不動産会社である株式会社ピーオーリアルエステートは、2024年2月下旬竣工予定の「ポーラ青山ビルディング」敷地内に新進気鋭の現代美術作家SHIMURAbrosのアート作品を設置する運びとなりました。今の時代でこそ表現しうる現代アートをパブリックに展示することで、アート・人々・地域を繋ぐ新たな文化拠点を目指します。」 とネットから。 「時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品を、青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置し、その関連作品2点を公開空地に展開します。ポーラ青山ビルディングでは、他にもアーティストによる作品の設置やイベントの企画を予定しており、今後も情報を発信して参ります。」 とも。芸術センスのない私には、大好きな缶ビールのプルトップの如く見えたのであったが・・・。そして前方に「外苑いちょう並木」が始まる「青山2丁目」交差点が見えて来た。 前方右に黄色く色づいた「外苑いちょう並木」の姿が現れた。「国道246号・青山通り」。東京都が通称道路名として定めている青山通りは、千代田区永田町の内堀通りの三宅坂交差点から渋谷区渋谷の明治通りの渋谷駅東口交差点に至る延長5kmの往復6~8車線の道路で、道路法上は全線が国道246号になっています。青山通りの先は玉川通りになります。青山通りの都心側には最高裁判所のほか自民党本部などの政治関連の建物が多く、次いで衆参両院議長公邸や赤坂御用地があり、渋谷側は表参道や渋谷などの流行に敏感な地域を通ります。青山通りの下にメトロ半蔵門線と銀座線が通っています と。「青山2丁目」交差点。 そして「外苑いちょう並木」 。まずは「青山2丁目」交差点の横断歩道を渡りながら「外苑いちょう並木」その先に「聖徳記念絵画館」を見る。 ようやく青空も姿を現して来た。いちょうの黄葉は今が盛り!!再び横断歩道を引き返すと、左側に案内板と大きな石碑があった。大きな石碑には「明治神宮外苑之記」と。昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。「明治神宮外苑之記明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり、而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふものあらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾 大正十五年十月 明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 そして隣に「明治神宮外苑の記」案内板。 「明治神宮外苑の記石碑の題字 「明治神宮外苑之記」 明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ)撰文 明治神宮奉賢会 会長 徳川家達石材 東北仙台産の板岩 高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル碑文の大意明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはしめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画ガ揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。 大正十五年十月 明治神宮奉質会 会長 徳川家達」「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界によってさまざまな呼称があるのだ。道路の反対側をズームして。ここにも長文の案内板が。「銀杏並木いちょう(銀杏・公孫樹)銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本)四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。 平成御大礼の日 之を建つ 平成二年十一月十一日 明治神宮外苑」まだやや時間が早かったので、思いの外観光客の姿は少なかった。「早起きは三文の徳(得)」とはこのこと!!「4列のいちょう並木を、守ります」。スマホでQRコードを読み込んでみてください。多くの鳩が!何を食べているのであったか?「明治神宮外苑案内図」。そして右2列の「外苑いちょう並木」の下をゆっくりと歩いて進む。しばらくは、外苑銀杏の絶景をしばしお楽しみ下さい。等身大の人形を被写体にして、大きなカメラで撮影しているオジサンがいました。私も1枚ズームで撮らせていただきました。このお顔もモザイク加工が必要なのでしょうか?こちらが旧女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木。朝の陽光を浴びて黄金に輝く銀杏の葉をズームして。先端に葉の無い樹も。私の頭と同じ!!黄金のトンネルを更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.14
コメント(0)
天然温泉 加賀の宝泉 御宿野乃 金沢(ドーミーイン・野乃 グループ)「遊行寺」からの帰路に「白旗神社」に立ち寄る 。石段上の「拝殿」を見る。 参道の左側の石庭の「みそぎ川」の奥には石祠があった。ズームして。「白旗辨財天」と。「源義経公武蔵坊弁慶公之像」。この「源義経公武蔵坊弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の記念事業の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵坊弁慶公」。大きな薙刀(なぎなた)を持つ武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の首塚は、文治五年(一一八九)六月一三日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀の背に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の御首は、当社から南に一五〇メートルの場所に埋葬され、その御霊は白旗大明神として当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺境内にあり、その御霊は常光寺境内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを遺しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いて北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従没後830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵坊弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。 令和元年(二〇一九)一〇月二八日 白旗神社 宮司 鈴木大次」そしてこちらが「湯立神楽」の奉納場所。今年はこの「湯立神楽」👈リンク を10月28日(土)に楽しんだのであった。「藤沢市指定重要無形文化財 湯立神楽白旗神社を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男 が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月二八日 平成八年三月一日指定 藤沢市教育委員会」 そして既に正月の準備が進んでいて来年の絵馬が。「令和6年甲辰(きのえたつ)歳 干支絵馬」。旭日を背に舞う縁起の良い龍の姿が。「原画は例年通り、藤沢市内在住の漫画家 佐野絵里子先生に依頼、絵馬作成は藤沢市長後の㈱グロリア工芸さんにお願いしたとのこと。今回の図案は、義経公が来年の干支である龍(辰)に乗って雲の上を駆けている様子が描かれている。架空の存在である龍が登場しているだけあって、幻想的な絵となっているのだ。」 次に「白旗神社」の東側にあった「イチョウ並木」が人気の「御殿辺(ごてんべ)公園」を訪ねた。 「白旗川」に架かる「人道橋」の先に「イチョウ並木」が。 近所の保育園児が散歩に来ていたり、ベンチで休憩する人がいたり。普段は近隣住民の憩いの場、というこの公園ですが、紅葉の季節になると黄色く染まったこのイチョウ並木の見物に人々が訪れるのだ。毎年11月下旬から12月中旬にかけて見ごろを迎えるイチョウ並木。今年は剪定の都合により枝の広がりがかなり減っていたものの、がんばって黄葉している状態。一面黄金色に染まる美しいイチョウ並木。実は藤沢市内にも知る人ぞ知る名所なのである。左側奥には「御殿辺(ごてんべ)公園」の遊具が。その奥に見えたのが集合住宅「藤沢スカイハイツ」。 入り口向かって左に白旗神社、右に藤沢市民病院、向かいにはトレアージュ白旗というモールに面している。1万m2を超える広い敷地の中央にイチョウ並木が通り、遊具や木陰のベンチ、広々とした芝生が広がる公園。午前中の陽光に黄金に輝くイチョウの葉を追う。まだ緑の葉も。黄葉のプロローグ・序章。「白旗川」の上では鳩が日向ぼっこ中。 ズームして。そして「白幡神社」まで引き返す。 正面にFRP製の「一の鳥居」、その先の石段の上に社殿の姿が見えた。 見事な彫刻が施された「手水舎」。参拝の前に身を清める場所。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。新しく置かれた、義経に縁の深い亀の姿が。腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川を遡り、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられているのだ。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」山岳信仰の石碑群。右から・「御大典記念 永代御供米三俵」と刻まれた石碑。・「八海山大神」碑。 八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。 古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮として知られていたが、江戸時代後期に、 木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに 八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。・「御嶽大神」碑。 昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、 病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。・「三笠山大神」碑。 御嶽山の前山である三笠山は王滝口独特の霊場で、その山容が御笠をふせて形からその名が 付けられており、道中安全、交通安全の御神徳がある と。スリムな狛犬(右)。こんなに小顔なのも珍しいのでは。一角の狛犬(左)。石段を上り、社殿への参道を進む。参道左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。そして右側には「義経松」碑。しかし松の姿は見あたらなかった。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして「拝殿」。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻は何度見ても見事。唐破風下には、白旗神社に縁のある亀の姿が。「拝殿」前から参道を振り返る。「神輿殿」裏の見事な黄葉。 「神札授与所、 社務所」。 「義経藤(白色)」 。昨年の4月に訪ねた時の写真。そしてこちらは「弁慶藤」。 昨年の4月に訪ねた時の写真。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と。久しぶりに「遊行寺」そして「白旗神社」の境内・イチョウの黄葉を巡り、大いに楽しんで、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.13
コメント(0)
加賀・山中温泉 すゞや今日楼この日は2023年12月18日(月)、平塚駅前での勤務会社の忘年会がありJRで平塚駅に向かう。途中、辻堂駅前で「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」が行われていたので途中下車して訪ねたのであった。「12周年を迎えるテラスモール湘南。今年の周年祭のテーマは「12 colors of happy」湘南の青い海と蒼い空のイメージに加え、個性豊かな12人のサンタの世界を体験型のイルミネーションで表現しました。」と「Terace Mall 湘南」入口。「Terace Mall 湘南」の建物の壁には多くの入店会社の名前が。暫く待つと17:00になりイルミネーションショーが始まった。光・音楽・噴水が連動したイルミネーションショー。「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」ポスター。2023年11月3日(金・祝)から12月25日(月)まで開催 と。期間中約20万球にのぼるライトをテラスモール湘南が装飾され、一帯が湘南の青い海と蒼い空をイメージしたブルーの光で染まるのであった。1時間に4回、音楽と光と水が融合した噴水ショーが開催されるほか、ゲートスクウェアではプロジェクションマッピングを用いたインタラクティブな展示も実施。隠れたサンタクロースを見つけながら楽しむナイトウォーク。人の動きに合わせて波紋や流れ星、雪の結晶が広がり、湘南ブルーに輝く空間へと誘われるのであった。緑から白の世界へ。木々も青く輝いて。ここにもサンタクロースが。この日の月の姿を。鍵盤を踏んで楽しむステップピアノ。色も様々に変化して。再び刻々と変わる青の世界をカメラで追いかける。エスカレーターを利用して2階ウェルカムテラスから、青の世界を見下ろす。「ユーコーラッキー 37辻堂店」もライトアップされて。めまぐるしく色の変化する幽幻の美の世界をカメラで追う。2階ウェルカムテラスの青のフェンス越しに。近づいて。「なぜ青色LEDはノーベル賞を受賞したか?日本人による革命的発明の裏側」👈リンク2014年、青色LEDの発明と実用化に貢献したとして、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3名がノーベル物理学賞を受賞。彼らの研究によって作られた青色LEDは、寿命が蛍光灯の4倍で、消費電力は従来の電球と比べて10分の1となっているのだ。。よって最近は大規模なイルミネーションフェスタが全国で開催されているのである。そして平塚での忘年会からの帰路、小田急線への乗り換え時に藤沢駅南口のイルミネーションも訪ねて見た。こちらは、辻堂駅前とは異なり、こじんまりとしていたが、黄金の世界が広がっていた。 ・・・END・・・
2024.01.12
コメント(0)
山代温泉 雄山閣(BBHホテルグループ)「歴代上人御廟所」を後にして、巨大な屋根の「本堂」、宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的な「回向堂」を見る。「歴代上人御廟所」越しに「小栗堂」。 そして次に訪ねたのが工事中の「宇賀神社」。 ロープが張られており、社殿には近づけなかった。宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)寛政6年(1764)11月に当山の大部分が焼失した際に、宇賀神殿も類焼しました。このとき、幕府より白銀30枚を再興費用としてもらい受けています。天保年間の宇賀神社再興にあたっても同様の援助がありました。現在の建物は明治13年に類焼し、のちに再建されたものです。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。昭和9年7月に遊行六十七代尊浄上人によって「八大龍王碑」が建立されています。「誌出入職方一同は本山七百年記念事業より奉仕して参りましたが此の度遊山会として発足し益々本山とのきずなを固める事を誓い宇賀神に鳥居を奉納いたしました。」 「宇賀神社」から「鐘楼」へと続く参道を見る。「本堂」を「宇賀神社」前から。 「本堂」と「信徒会館」を結ぶ「百間廊下」を見る。 「百間廊下」をズームして。そして再び「回向堂」を見る。 「宇賀神社」を後にして再び墓地内から「歴代上人の御廟所」の白壁を見る。 「高瀬家累代之墓」と。 「小栗堂」を背景にズームして。 こちらは「金井家先祖代々之墓」と。 「南無阿弥陀佛」碑が並ぶ。「金井家の墓地」内には多くの墓石が。 卒塔婆も。再び「本堂」横の「長生院」からの坂道を下る。 右手奥に「地蔵堂」 。「本堂」を斜めから。 「遊行寺だより」。 再び「一遍上人像」を横から。 ズームして。そして「遊行寺」の「いろは坂」を下り「ふじさわ宿交流館」を訪ねた。 「旧東海道・藤沢宿」「藤沢広小路広小路とは、もともと「火除け地」を意味します。江戸の街ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は一六五七年の明暦の大火前から火除け地を計画していましたが、護持院の焼失(一七一七年)を契機に八代将軍徳川吉宗は、この地を火除け地とし、さらに江戸市中にとどまらず、各地の重要社寺等の門前にも設定しました。藤沢広小路は、大鋸広小路 とも言われ、時宗総本山清浄光寺 (遊行寺 )門前の商家 が櫛比していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く、各地に知れ渡って、日本三大広小路の一つとも言われていました。また、東海道五十三次の中では「三曲がり 」としても有名でした。ふじさわ宿交流館 は、この藤沢広小路 の一角に建てられています。」 「掲示板」。「藤沢市ふじさわ宿交流館 ご利用案内」。 「ふじさわ宿交流館」入口。「ふじさわ宿交流館」碑。 「ふじさわ宿交流館」内部に入る。「歌川広重「東海道五十三次藤沢(隷書東海道)」が描かれた「ようこそふじさわ交流館へ藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸時代には、大山道、江の島道、厚木道、八王子道(滝山街道)と、多くの道が集まる交通の要地としてにぎわいました。宿の名所としては、時宗の総本山であり小栗判官照手姫伝説の残る遊行寺や源義経の首洗い井戸、義経をまつる白幡神社などがあります。」 受付・販売カウンターを見る。「東海道中細身図会」。 「東海道五十三次細見図会」という、歌川広重が弘化年間(1844〜47年)に描いた画集。縦位置の図の上半分に各宿から次の宿までの道程を俯瞰的に眺めたものを描き、下半分には街道で見られる旅人の風俗画を描いています。「藤沢宿を通った人々近世藤沢宿にはどのような人々が行き交ったのでしようか。将軍、大名行列慶長関ヶ原戦に際して、徳川家康の軍団が通行し軍事物資の輸送が行われました。以後寬永十一年(一六三四)まで、京都・大阪などとの将軍の上洛還御の大通行が十一回ほど行われ、宿場や沿道の民衆に人馬の提供などの役担がありました。寬永十二年(一六三五)参勤交代制度が確立すると、大名行列の通行が定期的に繰り返されるようになり、宿場も次第に整備されていきましたが、宿場および周辺村落の負担も大きくなりました。外交使節朝鮮・琉球など外国使節も藤沢宿を通りました。琉球の使節は寬永三年(一六三五)から嘉永三年(一八三五)まで一八回派遣されています。琉球使は琉球国王即位を感謝する恩謝使で、将軍就任を祝う慶賀使とともに派遣されることもありました。琉球使の派遣は薩摩藩島津氏の監督のもとに行われ、多い時で一七〇人程でしたが、先導する藩士を加えると四千人余になることもありました。オランダ商館使節の参府が恒例となったのは寬永一〇年(一六三三)からで当初は正月に、寬文元年(一六六一)からは三月一日前後に将軍に謁見するようになりました。ケンベル、シーボルトらは、街道沿線の様子や風俗についてよく観察し、日記に残しました。ケンベルは藤沢で食事をして、遊行寺に指でています。またシーボルトは藤沢宿に宿泊しています。その他の公用交通日光例幣使は、朝廷から家康廟の日光東照宮礼拝のため毎年派遣された奉幣他(参議の公卿)で、正保二年(一六四五)以降毎年派遣されました。一行は五〇人程で、往路は中山道経由で、倉賀野から日光例幣使街道を通り日光霊廟に忌日前日の四月一六日に金の幣帛を奉納、帰途は江戸に寄り浅草寺に詣で、東海道を帰京しました。御茶壺道中は、宇治の御茶を茶壹に入れて将軍に献上するための一行です。これは寬永一〇年に制度化され、東海道通行は住路のみでしたが、元文三年(一七三八)からは往復東海道を通行しました。御茶壹道中は五摂家や宮門跡に準じた権威をもち、これに遭遇した大名は駕籠を降りて挨拶しなければなりませんでした。また、通行に際して、大名に優先して本陣を使用しました。天保三年(一八三二)、保上ヶ谷宿では茶壷の通行に人足五六七人、馬五五疋を要しています。なお、熱海の温泉も、はじめは東海道を通って江戸に送られ、将軍に献上されました。庶民商人、文化人、芸能者、宗教者をはじめ寺社参拝、湯治客など多くの人々が藤沢宿を通りました。特に伊勢お陰参りは時に爆発的流行があり、江戸時代に慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)年の四回の流行があり、その度に街道筋では混雑を極めました。藤沢宿の場合は、伊勢参拝を別として、大山、江の島・鎌倉参拝や、箱根・熱海の湯治などに向かう人々が多く通ったという特徴があります。とくに江の島参拝は、弁財天開帳の年に、より多くの通行がありました。」「東海道五十三次細見圖繪 藤澤 平塚へ三里半👈リンク下半分には、道中風俗、原野体の図、金毘羅参り、六部、修行者昼寝 が描かれている。上部には「南古立ば」「名物/あんこう/ふぐ」と記されている。その左手には「なんごの浦」の文字も見える。藤沢宿藤沢宿・東海道分間延絵図(藤沢市蔵複製)。近づいて。さらに近づいて。さらに。絵図東海道右端境川に架けられる橋が現「遊行寺橋」で、「字大鋸板橋」と記述され、その上に「高札」と記述され、下に道標と鳥居が描かれている。「藤沢宿」「慶長六年(一六〇一)、家康が発した朱印状で、各宿に伝馬を出すことが命じられ、一宿の伝馬を三六疋とし、馬数に応じた屋敷を置いたのが、近世の東海道の始まりです。東海道というと江戸から京都までの「東海道五十三次」が想い起こされますが、大津(滋賀県)から分かれる大坂までの道も東海道です。藤沢宿は日本橋から一二里一八町(約五〇キロ)、東海道第六の宿場で、遊行寺の門前町、江の島詣でや大山詣での中継地として賑わいました。天保一四年(一八四三)には人口四〇八九人、家数九一九軒、本陣・脇本陣が坂戸に、人馬継問屋が坂戸と大久保に置かれ、旅籠屋は四五軒ありました。藤沢御殿と陣屋天正一八年(一五九〇)関東に入った家康は各地に地域支配や交通の拠点としての専用の旅館・休憩施設としての御殿や御茶屋を設置しました。藤沢御殿の設置年代は慶長元年(一五九六)頃と推定されています。藤沢御殿は街道の北側、妙善寺のやや北東よりにありました。なお陣屋は御殿と同じ頃には存在していたものと推定され、代官(藤沢代官)とその部下の手付や手代が常駐し、伝馬の差配や諸般の事務を担当しました。本陣・脇本陣寛永一一年(一六三四)を最後に将軍の通行がなくなると将軍専用の宿泊休憩使節としての御殿の役割は終え代わって参勤交代など諸大名や幕府役人、勅使、宮門跡などが利用する本陣が設置されていました。本陣は門横に玄関、書院などを備えた建物で享和三年(一八〇三)当時の」蒔田本陣の規模は間口一三間(約二三・六m)、二一〇坪(六九三m2 )、部屋数一五(内上段の間二部屋、書院六部屋)、総畳数一四四畳でした。蒔田家は明治三年(一八七〇)本陣が廃止されるまで藤沢宿の本陣を勤めました。脇本陣は本陣の補助的な施設で規模は本陣に次ぎ、本陣が空いてないときに大名の休泊や幕府役人の御用宿を勤めました。平時は普通の旅籠屋でした。藤沢宿の脇本陣は、享和三年(一八〇三)に大久保町、坂戸町に各一軒ありました。旅籠屋格式の低い武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。旅籠とは食事付きの宿で飯盛女を置く飯盛旅籠と置かない平旅籠とがありました。また食糧持参で燃料代(木賃)を支払って泊まる宿を木賃宿といいました。藤沢宿の旅籠屋は地名にも残されているように大久保町の一部「旅籠町」を中心に立ち並んでいました。軒数は享和三年(一八〇三)四九軒、天保一四年(一八四三)四五軒でした。旅籠屋の規模は様々で、多くは畳数二〇~三〇畳ほどの小規模の旅籠屋が全体の六割以上を占めていました。宿場には休憩施設としての茶屋もありました。茶屋は部屋を建具で仕切る事を原則とした施設であった。茶屋では飲食を提供するほか地元の名産品を販売するところも多かった。問屋場宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立てです。宿場において人馬継ぎ立てを行う場所を問屋場といいその最高責任者を問屋といった。藤沢宿の問屋場は大久保と坂戸に各々一箇所あった。問屋場には問屋のほか年寄(問屋の補佐)、帳付(人馬の割り振り、賃銭の記帳)、馬指(馬に荷物を割り当てる)、人足指(人足に荷物を割り当てる)、出迎役(御用通行する武家や公家を境まで出迎え宿場へ案内する)、下働(問屋場の雑用、使い走りなど)が勤務、宿場全体では四〇名が間屋場に勤務していた。帳付以下は間屋が雇った奉公人であった。間屋場は明治になって伝馬所と改称され明治五年(一八七二)に廃止された。なお間屋は人馬継ぎ立て業務にともなう村々への助郷役や街道掃除役の割当て、継飛脚などの業務を担当した。寺院・堂宿場の寺院は通常宿泊するところではないが、特別の大通行があり宿が不足した場合は下宿として使用される寺院があった。藤沢宿では常光寺と永勝寺が宿泊できる寺院であった。また庚申堂、地蔵堂などは貧しき旅人が雨露を凌いだり、行き倒れ人の収容・埋葬施設としても機能した。見付藤沢宿の「見付」は「上居」ともいい、江戸方は遊行寺の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲でその目印でもあった。ちなみに藤沢宿の長さは一二町一七間(約一三四〇m)でした。高札場藤沢宿の高札場は万治元年(一六五八)に大鋸橋際に設けられた。道標宿場には立石(傍示)や道標があり、境界を示し、旅人を目的地へと導いた。江戸時代の絵図には、遊行寺の正門前に立石が記されている。この立石は現在も遊行寺の正門に立っている。また大鋸橋側には、江の島道鳥居と並んで道標が描かれている。この道標は江の島道の道標で安藤広重の浮世絵などにも描かれています。枡形藤沢宿大鋸町で東海道は右左に屈曲し大鋸橋を渡ってさらに右に折れている。また宿場かられるが引地川の手前でも東海道は左に屈曲して引地橋にかかる。こうしたクランクは枡形の変形で東海道が設置された当初の軍事防衛上の必要から設けられたものです。」『東海道五十三次(狂歌入東海道)藤澤』 「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲井をさして 登る春かな 松吟庵清風」境川に架かる「大鋸橋」でここが旧東海道。左にある鳥居が江の島道の入口の「一の鳥居」。旧東海道は「大鋸橋」を渡り、右折して平塚宿に向かっていたのである、 「東海道藤沢宿遺跡①~⑩は発掘調査地点第10次調査は、本館建設の事前調査」 薄いオレンジ部分は「藤沢御殿跡」」 「現代に姿を現した藤沢宿の痕跡江戸時代に東海道の宿場町として賑わいを見せた藤沢宿の痕跡が地下に眠っていることがわかったのは、一九九〇年代の中頃になってからです。これにより、藤沢市教育委員会は平成九年(一九九七)一月、神奈川県埋蔵文化財台帳に藤沢市の新たな遺跡として『東海道藤沢宿遺跡』を登録しました。藤沢市の南部には、湘南砂丘と呼ばれる砂丘地帯が拡がっています。ここには東西に延びる砂丘が複数存在していますが、藤沢宿はこれらの砂丘の中でも最北の砂丘列と境川に挟まれた緩やかな斜面地に立地しています。東海道藤沢宿遺跡に初めて調査のメスがはいったのは、遺跡として登録されてすぐの平成九年(一九九七)八月のことです。共同住宅建設の際におこなわれた第一次調査では、戦国時代から江戸時代にかけての五時期の生活の跡が確認されました。江戸時代だけではなく小田原北条氏が支配していた時期の痕跡が確認されたことは大きな成果でした。つづく第ニ次調査が平成十五年(二〇〇三)に、第三次調査が平成十六年(二〇〇四)におこなわれ、藤沢宿の様子が考古学の見地から徐々に明らかとなってきました。しかし、調査は主に宿場の中央から東側の地域にかけてのものであり、西側がどのような姿であったか、まだ明らかになっていません。西側の様子を知るきっかけとなった調査は平成十九年(二〇〇七)におこなわれた第四次調査です。この調査では江戸時代から大正時代にかけての生活の痕跡が確認されましたが、その中で注目されたのが、宝永四年(一七〇七)に富士山が噴火した際の火山灰を廃棄した土坑(大きめの穴)です。これまでの調査からも火山灰の廃棄土坑は確認されていましたが、穴が掘られていた場所は東海道から離れた敷地の裏側にあたるような場所でした。しかし第四次調査でみつかった土坑は東海道沿いに掘られており、また噴火前後に人々が住んでいた痕跡は確認されませんでした。天保十三年(一八四二)に記された『鶏肋温故(けいろくおんこ)』という文献には第四次調査地点周辺より西側を「坂戸新宿」と呼んでいたことが記されています。おそらく宿場の中でも新たに発展した場所を新宿と称したのでしよう。文献と発掘の成果が一致した貴重な調査となりました。なお第四次調査地点の北四隣りに位置する第六次調査ではこれまでに文献からは確認できなかった幕未期と考えられる最大幅約四・五の水路が確認されました。この水路や周辺のゴミ穴からは「伏見屋市兵衛」をはじめ様々な店の名前が記された荷札が大量に出土しました。今後これらの荷札を研究することにより、藤沢の物流の一端が明らかになることが期待されます。」。 「東海道分間延絵図」。「江戸時代の旅人のすがた江戸から京まで東海道を旅するのに、江戸時代には約一四日間ほどの日数を要したといわれています。一日に約四〇キロを往かなければなりません。季節にもよりますが、早朝から歩き始め日没前には投宿しなければならないと考えると、結構な強行軍です。道中記を片手に街道筋の名所旧跡を巡っていますが、実際には通りすぎたというのが実感だったのではないでしようか。それでも今日とは異なり、一生に何度も体験することのない旅となれば、人びとは懸命に歩き、見て、味わい楽しんだのでしよう。ここで、当時の旅人が携行した旅行用品についてみてみましよう。江戸時代に刊行された旅行の心得を説いた書物『旅行用心集』には、矢立、扇子、針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付け木、麻綱、印板が記され、その他に革袋、胴乱、鉤が図示されています。また、これら以外にも鋏・小刀・物差・ぶん回し(コンパスのような道具のことです)・耳掻き・毛抜き・千枚通しなどの七つ道具、弁当箱に方位磁石などがあります。今日の旅行用品とほとんど変わらないようにもみえますが、早朝出発や仕方なく夜道を歩かなければならないときには、やはり提灯や蝋燭が必要です。道脇で弁当を食べたり、木賃宿(燃料代だけを支払って宿泊する宿屋)で炊事をするにも火打道具に懐中付け木が必要でした。それから、方位磁石。不思議でもなく、実は方位磁石の果たす役割は大きかったのです。「東海道分間絵図」をみると、図中にしばしば方位が表示されています。つまり、絵図形式の道中記も同様ですが、紙の天地の幅が限定された図鑑の場合は、東海道は一本道として描くことになってしまいます。実際は、場所によっては南北に、あるいは東西に曲がりくねっていた道を右から左へ描いたため、宿場や名所旧跡などを除くと、例えば富上山や大山などの遠め近めの山などが目印となりました。そこで、自分がいる場所からそれらの目標が果たしてどのように見えるかを描き、現在地を確認してもらうために方位が側に記されていました。そこで、旅人は図と方位磁石を合わせてどの方角にどのように富士山が見えるかで、自分の現在地を確認したのです。こうした絵図中に方位を表示する方法を表示する方法は江戸市中の絵図にもみられるところから、ちょっとした散歩でも方位磁石は必須アイテムとなっていたにちがいありません。」 「小栗判官と照手姫「東海道名所図会 巻の六」東海道名所図会のさし絵添え書小栗小次郎は鎌倉権現堂にて強盗に出会い既に毒酒にて殺さるべきを遊君照手が貞操にて夜陰に忍び出竹林の荒馬に乗り藤沢の道場へ駈け入り危急の難を逃れたる これ馬上の達人にして王済が錦障泥を惜しむの類にあらず「小栗判官と照手姫 「東海道名所図絵 巻之六」」。「小栗判官」の物語は、ふるくから説経節(せっきょうぶし)として語られ、江戸時代には人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、登場人物や背景もさまざまに変えて上演され、大変流行しました。そして、江戸時代後半に庶民の物見遊山の旅行がさかんになると、物語の重要な場面で、「藤沢の上人」が登場することから、東海道を旅する人々は遊行寺や長生院をたずねることを楽しみにするようになりました。寛政9年(一七九七)に刊行された名所案内である「東海道名所図会」には、小栗判官照手姫の物語が藤沢に伝えられた話として、次のように紹介されています。 相模の豪族横山の屋敷に宿をとった小栗判官が、金品目当てに毒設されそうになりますが、 その場に居合せた遊女の照手姫に助けられて、荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして遊行寺へ逃れた・・実はこの話は、小栗判官の物語の様々な筋書きの一例にすぎません。現在も清浄光寺(遊行寺)の北側には、照手姫が開基となったという長生院があり、小栗判官主従や照手姫の墓、馬具などゆかりの品々を伝えるばかりでなく、「小栗略縁起」という小栗判官物語も伝えています。また、西俣野には「小栗判官絵解き」(花応院)や、小栗判官が埋葬されたという小栗塚跡などがあります。」 「歌舞伎役者が演じる小栗判官三代豊国 「役者見立 東海道五十三駅 藤沢 小栗判官」 「差上申手形之事この文書は、信州(信濃国・長野県)伊奈(伊那)郡福地村(長野県高遠付近)の住人である三四郎と營太郎が、現在の群馬県沼田の半兵衛方に所用のため旅行するので、関所を通してくれるよう、両名の居住する村の名主等が、慶応元年(1865年)差し出したものです。」 「差上申手形之事 内藤若狭守領分 信州伊那郡福地村 三四郎 榮太郎右之者此度上州沼田林屋半兵衛方迄用事有之ニ付罷越候間 其関所無相違御通シ被遊被下候以上 慶応元丑年 右村 名主 与兵衛 年寄 弥次右衛門 組頭 儀助横川 御関所 御役人衆中様」 「旅道具枕 むかしはまげを結っていたので、寝ている間に髪が崩れないように首の下に枕を当てました。旅行には小型の枕を持参しました。盜難対策に貴重品を入れる胴乱(もの入れのこと)が付いた枕もありました。」 「状箱誰もが気軽に旅に出ることができなかった時代、旅先に届ける手紙を預かりました。雨や汗で汚さないように、状箱に入れ、油紙でつつみました。」 「提灯日本でロウソク(和蝋燭)が作られるようになったのは、今から600年前、江戸時代より前で、外出時には提灯に入れて使われました。街灯が無い時代には、夜道を歩くときに欠かせないものでした。旅行者は、小型の提灯を持ち歩いていましたが、火を大きくできないので、あまり明るくなかったでしよう。」 「早道お金(銭)を入れたり、火打道具(火打ち石十火打金)などを入れて、帯に挟んで持ち歩く袋。」 「火打金火打鎌ともいう。火打金は鋼鉄の板で、これに火打ち石を打ち付けて火花を出し、モグサや木くずなど(火口という)に火をつけて、火種にする道具。帯に挟んで持ち歩くように、根付けが付いている。男性の装身具でもある。」 館内に展示されている藤沢宿(大鋸町地区)のジオラマ。大鋸橋。宿場町の時代は遊行寺橋の場所に架かっていた橋を大鋸橋と呼んでいた。遊行寺門前から大鋸橋を手前に向かって渡ると、左手に江の島道が延びている。右側の大きな橋が現在の国道1号の「藤沢橋」。江戸方面からの旧東海道は現在の「藤沢橋」手前で右に折れ、その先の「大鋸橋」で境川を渡り、直ぐに右折し藤沢宿の街を通過し平塚宿方向に延びていたのだ。「朝櫻楼国芳/歌川国芳「本朝武優鏡」源義経」。 「藤沢の義経伝説『吾妻鑑(あすまかがみ)』(鎌倉幕府の記録)によれば、義経は文治五年(一一八九)閏(うるう)四月三〇日に頼朝の意を受けた藤原泰衡(やすひら)に攻められ、衣川の館で自害したと書かれています。まだ三一歳の若さでした。そして、同書の六月一三日の項には、泰衡の使者新田高平が義経の首を腰越の浦に持参し、首実検のために和田義盛・梶原景時等が遣わされたとあります。頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われ、それから義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えません。腰越の浜に捨てられたという言い伝えもありますが、『鎌倉大日記』という書物の記載の中には、「閏四月三十日義経於衣河館自害、五月十三日首上鎌倉被埋藤沢」と書かれています(五月十三日は六月の誤りかも知れません)。藤沢に伝わる伝説では、腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川をさかのぼり、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられています。江戸時代の文政一三年(一八三〇)に、小川泰堂が著した、藤沢の郷土史『我がすむ里』には、 その頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。 里人驚きて怪しみたるほどに、側(かたわら)にありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)を はり、『我は、源義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)〔梶原景時のこと〕の毒舌にかかり、 身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ捨てられ怨魂やるかたなし、汝等(なんじら)、 よきに弔(とむら)いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。 諸人恐れて、これを塚となせり。また、首洗井戸については、 白旗横丁のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらい清めし水というと書かれています。義経に関係する伝説は、各地に存在しますが、死後のものはほとんどなく、藤沢に残されたものは貴重な伝説と思われます。小田急線藤沢本町の駅に近い白旗交差点のそばの公園の片隅に、「伝源義経首洗井戸」と「九郎判官源義経公之首塚」の碑が残されています。また、義経の首(みしるし)は、文治五年に近くの自旗神社に葬られたとされ、同社は宝治三年(一二四九)に義経を祭神として合紀し、名称も白旗神社となったと伝えられています。藤沢の旧宿場地域には、先に挙げた史蹟のほか、自旗神社境内の義経松碑(松は亡失)、弁慶のカ石、合紀の碑、荘厳寺の位牌、常光寺裏山の弁慶塚等が残されています。「浮世絵に描かれた藤沢宿」 初代広重「東海道五十三次之内 藤澤 保永堂版」 製作時期1832~1833年。江の島一ノ鳥居付近。背景の小山は遊行寺。鳥瞰図「湘南海岸」。 鵠沼海岸在住のデザイナー、市川勝典さんが、湘南の全景を描いた「鳥瞰図」であると。作品は魚眼レンズ越しに覗いたように丸みを帯びており、湘南の観光スポットを中心に遠くは富士山や伊豆半島まで一望している。「道~藤沢宿を通る道 藤沢宿からのびる道~●東海道 江戸と京都をむすぶ主要道路で大名の参勤交代をはじめ、旅人たちや物資・手紙などが 行き来する重要な道路でした。●厚木道 ●八王子道 藤沢宿から北西の厚木へ通じる道と、北の八王子へ通じる道です。●鎌倉道 藤沢宿から東へ向かい鎌倉へ通じる道で、今の柄沢を通る道と手広を通る道があります。●江の島道 遊行寺前の橋のたもとから南へ江の島まで通じる江戸時代の大人気観光ルートでした。●田村通大山道 西へ向かう東海道の途中から分かれて平塚の田村を通り大山不動尊へ通じる道です。 数人がまとまって参詣する「大山講」が盛んでした。」 「旧東海道藤沢宿近隣宿場マップ」 「宿場 ~藤沢宿の近くにある宿場~」 戸塚宿 江戸日本橋から五番めの戸塚宿は、ひとつ前の保土ヶ谷宿とともに 江戸から最初の宿泊地になることが多く、賑わいました。 藤沢宿 藤沢宿は東海道で六番めの宿場です。 鎌倉、江の島、大山など各地へ通じる道が集まる交通の要衝でした。四ツ谷の立場 宿場と宿場の間には「立場」という休憩所が設けら茶店などもありました。 四ツ谷は大山道への分岐点でもありました。平塚宿 相模川(馬入川)を渡った次の宿場は平塚宿です。水運も盛んで、 船で厚木方面へ上る大山参詣のルートもありました。大磯宿 高麗山(湘南平)のふもとを過ぎた先に次の宿場大磯宿があります。 曽我物語の虎御前や西行法師ゆかりの鴫立庵(しぎたつあん)など 歴史物語に彩られた宿場です。「浮世絵に描かれた藤沢・東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 歌川貞秀・東海道五十三次之内 藤沢 歌川広重・東海道 七 五十三次 藤沢 歌川広重」 上:「東海道図屏風」六曲一双(静岡市蔵) 江戸時代(17世紀) 静岡県指定「東海道図屏風」左隻。東海道は古代からある道ですが近世に入って徳川家康により整備された。江戸時代、歌川広重や葛飾北斎が描いた東海道五十三次の浮世絵は有名。この東海道図屏風は、1枚の屏風が6つの面で構成されている。そして左右2枚で一対になるようになっている。こういった屏風を「六曲一双(ろっきょくいっそう)」と呼ぶ。屏風の枚数の単位は「隻(せき)」で、右隻は向かって右側、左隻は左側に並ぶように置く。画面全体に広がる金色の雲と青々とした山並みが印象的。「東海道図屏風」右隻。下: 右上の江戸城に向かって進む朝鮮通信使一行が中央から左側にかけて描かれている「藤沢宿と朝鮮通信使朝鮮通信使とは、江戸時代に徳川将軍の代替わりの際などに、朝鮮王国から日本(徳川幕府)へ遣わされた外交使節のことです。使節の往来は一六〇七年(慶長一二年)から一八一一年(文化八年)までの全一二回でした。二回目(京都まで)と一二回目(対馬まで)を除く一〇回は東海道を通行した江戸への往復で藤沢を通過し、そのうち九度(往復で一八度)藤沢宿に宿泊しています。通信使は国賓待遇の使節でしたので、大名や公家と同じく宿場の本陣(大名など高家の宿泊所として指定された宿)に宿泊しました。使節一行と随行する大名関係者は総勢五〇〇人を超え、本陣のほか、宿内の主だった旅籠や寺院に分宿しました。一七一九年(享保四年)の通行の際には、帰路、藤沢宿を通過したのちに沿道から通信使の駕籠に蜜柑が提供され、一行が喉を潤したという友好交流の記録(申青泉「海游録」)も残されています。通信使の姿を伝える資料として様々な絵画が知られていますが、ここに掲げる「東海道図屏風」(静岡県指定文化財。静岡市蔵)もそのひとつです。六曲一双の右隻右上の江戸城に向かって、品川宿あたりから、チャルメラを吹く先触れや使節(正使)を乗せた輿などが生き生きと描かれています。華やかな外国使節の通過を見て、街道沿いの人々は様々な刺激を受けたことでしよう。」 「歌川広重 東海道堂遊歴双六 恵比寿屋庄七版」。「東海道五十三次と藤沢名物東海道五十三次とは、江戸時代の五街道のひとつである東海道に、江戸日本橋を起点に京までの間に置かれた五三の宿場のことです。江戸時代後期には誰もが安全に旅行できる環境が整い、社寺参詣を理由とした物見遊山が庶民の間にさかんになりました。旅は庶民にとっての、一生に一度の娯楽になりました。歌川広重が幕府の行列に同行して東海道を旅した際に行った写生をもとに、天保四年から五年(一八三三~一八三四)に制作した「東海道五十三次之内」は、それ以前は人物画が中心であった浮世絵に対して、風景を叙情的に描いた版画として大好評となりました。その後、他の版元も後を追って、五十三次を一組にした名所絵が次々に版行されました。東海道五十三次の名所絵を一枚にまとめ、道中訪ねるべき場所や、知っておくべき名物を描いて仕立てた「道中双六」も各種制作されました。「東海道遊歴双六」は嘉永五年(一八五一)に広重が制作したもので、各宿場の名所・名物を紹介しています。藤沢宿の名物は「砂糖漬」とあります。これは藤沢宿の和菓子屋が販売した防風などの砂糖漬のことを指しているのでしよう。防風とはハマボウフウのことで、海岸の砂地に自生するセリ科の植物です。砂糖漬のショウロもまた湘南地方の名物だったようです。ショウロは手入れのされたクロマッ林に生するキノコです。砂糖が高級品であった時代の高級菓子だったのでしょう。江戸時代の記録に残された藤沢宿の名物は、これらのほか「ひしこなます・さざえ・あわび・弁慶餅」があります。「ひしこなます」のひしこがシコイワシのことであれば、海岸部で漁師が作って食べていたイワシのぬたでしようか。さざえやあわびは、藤沢宿から参詣道が分かれる江の島詣でのみやげ物として有名で、浮世絵の美人が手に提げていたりします。弁慶餅というのは、どんなものだったか、今日ではわかりません。」 「歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢 弘化四年~嘉永五年(1847~1852)江の島道への分岐点となる藤沢宿で、江の島みやげを持った美人が描かれています。美人の旅支度は軽装ですが、駕籠に乗ってきたからなのでしょうか。丸い折詰に入っているのは江の島名物アワビの粕漬、その横には有名な員細工である貝屏風(畳んである)が描かれています。」 「東海道五十三次之内 藤澤圖 三代 歌川豊国(国貞)」 「五拾三次景色入女画」シリーズの一つで、バックの風景画は広重の保永堂版東海道に非常によく似ています。保永堂版に描かれた時間を少し進めたような感じです。後ろの小山は遊行寺で、大鋸橋(現遊行寺橋)付近を表しています。「東海道ってどんな道?近世の五街道・東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道」 「藤沢市ふじさわ宿交流館」のもう一つの入口。 そして「藤沢市ふじさわ宿交流館」の前にあった「藤沢宿高札場跡」。昔の場所の遊行寺橋(旧 大鋸橋)たもとにあるのは 史跡跡の説明板のみとなっていた。藤沢宿の高札場は 高さ:2間(約3.6m) 長さ:3間(約5.4m)とのことなので 丁度 石垣から上の部分が地面にあったと思われる。「藤沢宿の高札場東海道藤沢宿は鎌倉郡大鋸町と高座郡大久保町・坂戸町の三町からなりますが、郡境に境川が流れており、そこに架かる遊行寺橋(旧大鋸橋)のたもとの大久保町に高札場がありました。江戸幕府が作成した「宿村大概帳」によると、藤沢宿の高札場は間口三間(約五・四メートル)、奥行一間(約一・八メートル)、高さニ間(三・六メートル)の大きさでした。」 「高札とは高札とは、法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰など人目につきやすい場所に掲示したもので、制札とも言います。江戸時代以降、明治初年までの代表的な高札としては、正徳元年(一七一一)の五枚の高札(忠孝の奨励、切支丹禁制、火付・火事場取締、駄馬賃銭の制、毒薬・にせ薬売買の禁止)や、明治維新とともに新政府から出された五傍(五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散の禁、切支丹邪宗門の厳禁、万国公法履行、郷村脱走の禁、の五枚)の掲示などがあります。」 「定一、藤沢宿より駄賃幷人足賃銭 戸塚江 荷物壱駄 八拾六文 乗掛荷人共 同断 軽尻馬壱疋 五拾八文以下 略」 「東海道藤沢宿について藤沢宿は、慶長六年(一六〇一年)に東海道の宿場として設置され、後に戸塚宿、川崎宿が追加されて、江戸から数えて東海道五十三次の第六番目の宿場となりました。古くから清浄光(遊行寺)の門前の町として人が行き交う「藤沢」は東国、西国や北相、三浦半島などをつなぐ交通の要衝 でした。清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸見附)と小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(京見附)があって、江戸時代、この範囲が藤沢宿でした。」 そして道路脇の塀の蔦の紅葉を楽しみながら「藤沢市ふじさわ宿交流館」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.12
コメント(0)
「浜松町」駅から山手線で五反田に向かうが、途中大崎駅で下車し目黒川で行われていた「目黒川みんなのイルミネーション 2023」を訪ねることとした。まず、大崎駅東口の噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」を訪ねた。低層館2階の屋上にあたる部分に人工地盤を設け、これを取り囲むように高層館を配置。この広場には、植栽、彫刻、噴水、スペースフレーム等を設け、来街者や近隣の人々が快適に利用できる駅前広場となっていた。噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」にもイルミネーションが。「水の器 噴水のために」の周囲にもイルミネーションが。真ん中の広場にある植栽にも。近づいて。そして目黒川に向かって階段を降りる。「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」にもピンクのアーチが。「目黒川みんなのイルミネーション 2023」のイルミネーションMAP。目黒川の「居木橋」から「大崎橋」までの両側がイルミネーション会場。桜の木にピンク色のLEDランプが。前方の「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」を見る。ズームして。目黒川右岸の歩道を上流に向かって進む。「鈴懸歩道橋」。イルミネーションが川面にも映り込んで。その先の「御成橋」から「鈴懸歩道橋」を振り返る。「御成橋」から下流側の「鈴懸歩道橋」そしてその先の「大崎ゲートシティー」のビル群を見る。上流側の「山本橋」方向をズームして。「めぐろがわ」。英語、中国語、韓国語でも。さらに進む。ピンクのLEDで覆われた桜の樹に近づいて。さらに。前方に「山本橋」。その先の対岸・左岸にはフェンスを覆った黄金の帯が川面にも映り込んでいた。ズームして。黄金の帯を振り返って。「品川区大崎 光の滝公園」もライトアップされて。「JR 上目黒川橋梁」下の地下道を通過。子供たちの絵画が。反対側にも。「目黒川イルミネーション 冬の桜満開」と。「ふれあいK字橋」を通過。そしてこの日の、元同僚4人の宴会場に到着。そして久しぶりの再会で大いに昔話等で盛り上がったのであった。帰路は「大崎広小路」駅から池上線で旗の台駅に向かう。「池上線」に乗り込む。「旗の台駅」で大井町線に乗り換え。そして溝の口駅で田園都市線に、中央林間駅で小田急線に乗り換えて無事、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.11
コメント(0)
そして正面に見えて来たのが、時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院(ちょうしょういん)」。 「長生院 小栗判官墓所」「堀田家 稲葉家 酒井家 墓碑」案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定 時宗板碑(じしゅういたひ)板碑とは卒塔婆の一種で、鎌倉時代から安土挑山時代頃にかけて主に関東地方を中心として盛んに造立されました。長生院の本堂に安置されている板碑は、延文元年(一三五六)の銘がある板碑(全長110cm)と、永和三年(一三七七)の銘がある板碑(全長94cm下部欠失)のニ基があり、いずれも南北朝時代のもので、緑泥片岩製の武蔵型板碑と呼ばれるものです。江戸時代末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の境内から発掘されました。時宗板碑は「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多く、揩書体のものと行・草書体のニ系統がみられますが、こちらの二基は揩書体で刻まれています。 令和五年(二〇二三)三月 藤沢市教育委員会。」本堂の中のガラスケースの中に納められて。「藤沢市指定重要文化財(彫刻)平成八年(一九九六)三月一日指定木造阿弥陀如来坐像長生院の本尊であり、平安時代後期の作と推定される市内屈指の古仏です。像高は約53cm、檜材の寄木造で、上品下生印(来迎印)を結ぶ典型的な定朝様の尊像です。定朝様とは仏師定朝からはじまる仏像彫刻様式のことで、柔らかな曲線や彫りが浅く流れるような衣文(えもん)が特徴とされ、本像も柔和で優美な印象です。平安時代後期は極楽往生を願う浄土信仰が盛んであり、各地で制作された阿弥陀如来像には人々の極楽への願いが込められています。 令和五年(二〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会」 本尊:木造阿弥陀如来坐像「平成8年(1996)3月1日・藤沢市指定重要文化財(彫刻)指定。像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」とネットから。正面に「長生院」の「寺務所」。 そして「長生院」の「本堂」。 「小栗堂」に近づいて。寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。 「内陣」。 応永29年(1422)常陸小栗の城主「判官満重」は足利持氏の攻めにより落城、その子「判官助重」が家臣11人と三河に逃げ延びる途中にここ藤沢で横山太郎に毒殺されかけた時、妓女「照手」が「判官助重」一行を逃がし「遊行上人」に助けられたことでゆかりが深い。正長元年(1428)に照手姫は太空上人の弟子となり、剃髪受戒をうけて長生尼と号した。永享元年(1429)に閻魔堂の傍らに「草庵」を結んでこの地に住まわれ閻魔堂を「長生院」と改称された。浄瑠璃で名高い「小栗判官」は家名を再興し「照手」を妻にした。そのゆかりで「小栗堂」と言われている。「助重」の死後に「照手」は長生尼として助重と家臣11人の墓を守り続けここ「長生院」で余生を送った。現在の本堂は平成3年に落成したものだが、明治13年の大火、大正12年の大震災で本堂・庫裏を幾たびか失い再興している。「本堂」裏手には「小栗判官」と「照手姫」のお墓があり、一画には「小栗判官眼洗いの池」、その脇に名馬「鬼鹿毛の墓」までもがある。境内入口左の「知恵地蔵菩薩像」。「小栗判官 墓所入口」案内に従って進む。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について桓武天皇の曾孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の四子)は、平安時代の久寿二年(一一五五)に、伊勢皇太宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和市宮本)に築城市、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百年余の間、領主として常陸国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(一四二三)八月二日、関東公方 足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯の峰温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(一四四一年)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝行謝恩をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられています。またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗助重であります(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意を表して、小栗主従墳墓の概略由来等を顕彰するものです(小栗伝承藤沢編)」。前方に大小の墓石が並んでいた。 「(伝)小栗十四代城主 小栗朝重公と十勇家臣の墓」案内柱。 「小栗判官公並に十勇士之墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、案内柱には「(伝)小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と記されていた。小栗判官満重の墓石は石造宝篋印塔型、総高166.5㎝・火成岩製。十勇家臣の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔・火成岩製)である。10塔のうち、1塔(総高83㎝)に「重阿弥陀仏 応永21年7月13日(1414)」の銘が入る。右側の「十勇家臣の墓」。左側の「十勇家臣の墓」。「小栗判官眼洗之池」案内板 。「小栗判官眼洗之池小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た。小池に纏わる逸話などは記されておらず、謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。小栗判官満重が八徳水と呼んでいた事が『小栗畧縁起』に記載されているとのこと。その先の鯉の泳ぐ池にはネットが張られていた。「小栗判官公並に十勇士の墓」の後ろに見事なサルスベリ・百日紅の木が。引き返して行くと「照手姫之墓」。照手姫の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔)、総高110㎝・火成岩製である。 「照手姫の墓」案内板。右に「奉供養七観世音菩薩」像。 「奉供養七観世音菩薩 彦七母 長五良内女講中仁兵衛内 伊兵衛母 長右エ門内 特左エ門母 半左衛門母 妙林 新 五良内 七兵衛内」。舟形光背付聖観音像を半肉彫した総高80㎝・安山岩製。左に聖観音像を半肉彫した月窓妙鏡禅定尼墓碑(総高77㎝・安山岩製)「銘 月窓 妙鏡禅定尼霊位 貞亨五戊辰歳四月廿六日」(1688)。「厄除地蔵尊照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が 建立した 3 体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈迦様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。」 三躯とも火成岩製、総高・中央163㎝・左側157㎝・西側143㎝。右側1躯の手には穴が空けられ何かを差し込んでいた様子もうかがえるのであった。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。石造角柱型、総高104㎝・花崗岩製である。馬頭観世音菩薩を配し銘文は「宝暦五乙亥歳七月廿四日(1755)為馬神祭祠 藤澤道場」とある。馬を供養した慰霊塔は、遊行十四代太空応永23年(1416)に建立した国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」(怨親平等碑)が遊行寺境内にあり、順次往生を謳う畜類供養との関連性も見いだせるのだと。「長生院 歴代和尚の墓」。無縫塔には「長生院 小栗堂 歴代和尚之墓」と。 「長生院 歴代和尚の墓」から「遊行寺 歴代上人の墓」を見る。 「本堂」、「回向堂」を墓地側から見る。 「回向堂」をズームして。「宗祖一遍上人御入滅七百年記念」碑。長生院小栗堂本堂再建寄進者御芳名が。 「長生院」を後にして、墓地の中の通路を「回向堂」に向って進む。 正面に「回向堂」。振り返ると、一段高い場所に「長生院」の「小栗堂」が見えた。そして「歴代上人御廟所」を訪ねた。「歴代上人御廟所 長生院 小栗判官墓所」。手前にあったのが「藤堂彦子の墓」。 「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」こちらは「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」そして中央正面に當山開祖塔、左右に歴代上人の墓塔が。ほとんどのものが「無縫塔(むほうとう)」で、それが整然と並んでいた。「無縫塔は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」ともいう。形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある。中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である。」 「當山開祖塔」。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(右側)。この独特の卵型のデザインは、仏教の「宇宙の根源は無念無想」の考えからきていると言われている。すべてをつなぎ合わせると最終的には卵のような形になるとの仏教の思想を、お墓で再現したとの説が有力とのこと。また、五輪塔の「空輪」の部分を細長くデザインしたものという説もあるようだ。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(左側)。新しい無縫塔が2基。遊行七十三代 他阿上人 一雲大和尚。遊行七十四代 他阿上人 真円大和尚因みに現在の上人は、遊行七十五代 一浄大和尚 とのこと。よって、この無縫塔は先代のもの。遊行七十一代 他阿上人 隆寶大和尚(右)。遊行七十二代 他阿上人 一心大和尚(右)。他阿真教(たあしんきょう)上人は鎌倉時代の浄土僧で、一遍上人を初祖とする時宗の二代目の上人ですが、一遍上人没後、彼により教団が形成されたため、実質上の時宗開祖とされているのだと。そして「歴代上人御廟所」から石名坂環境事業所の煙突越しに富士山を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.11
コメント(0)
「吾妻山公園」を後にして、細い山道を下ると、「吾妻神社」の境内に。境内の隅にあった石碑群。庚申塔:三猿 笠付高さ:132センチメートル造立年月日:元禄4年(1691年)9月上旬銘文:「汝等前行是菩薩道」(正面種字3種)「漸々修學悉當成佛」「奉新造立庚申供養四面塔祈願」 「成就所」「相刕淘綾郡梅沢村/元禄四辛未天九月上旬」所在地:二宮町山西1117お顔のない石仏。「湯殿山講中供養」と刻まれていた。下部には奉納した12名の氏名も。こちらの石仏にもお顔がなく。廃仏毀釈の頃、仏像を壊す運動がおこった。明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で石仏の顔を壊したのであろう。割れかけている石碑には「吾妻神社改築寄附 金参阡五百圓也」と。石鳥居の先に松の巨木が。廻り込んで。珍しい松のようであったが。「奉献 日本大相撲協會 武藏山武」と。「武藏山」👈リンクは、神奈川県横浜市港北区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第33代横綱。本名は横山 武(よこやま たけし)。「武藏山武(横浜日吉出身 出羽海部屋)1909年12月5日生、農家の長男として幼少期より手伝いとして牛の代わりに荷車を引き、坂道を登った。右腕の怪力自慢として出羽海親方からスカウトされる!昭和5年に吾妻神社で奉納相撲し、大鳥居を寄贈する。昭和10年第33代横綱となる。神奈川県出身で横綱になったのは武藏山1人です。以下 省略」吾妻神社の本殿に刻まれた、「彫刻家 小林直光さん」の龍の彫刻が見られると。狛狗(右)。狛狗(左)。正面に「吾妻神社(あづまじんじゃ)」の拝殿。創建は第12代景行天皇(在位西暦71 ~ 130年)の時代たと伝えられてます。言い伝えには日本武尊(やまとたける・景行天皇の第2子)が東征の途中、海路上総(千葉県)へ渡ろうとすると突如として暴風が起こリ、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため荒れる海へ身を投じるとたちまち海は穏やかになりました。その後、海辺に流れ着いた命の櫛と小袖を人々が山頂に運び埋めました。この場所が吾妻神社であり、前一帯を埋沢(うめさわ)、海岸を袖が浦と言うようになったと伝えられています。日本武尊が東北平定の帰路、相模の国から甲斐へでる途中の峠で遥か東の海を眺めながら「あずまはや(吾が妻の意)」と嘆き、亡き妻を偲んだところから命(にこと)を祀った山を吾妻山と呼ぶようになったと言います。」石鳥居を参道から見上げる。江戸時代に奉納された石灯籠(右)。石灯籠(左)。参道を拝殿に向かって進む。左手に「手水舎」。「吾妻神社 由緒記」。「吾妻神社 由緒記吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子である。天皇にそむく蕃族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るき暴風突如に起り、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に 安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」拝殿に近づいて。この社殿を設計したのは「伊東忠太」氏とのこと。拝殿の唐破風下の懸魚。「本殿」を横から。祭神 橘姫命 ( たちばなひめのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )「本殿」右の彫刻。この吾妻神社の彫刻は、彫刻師 小林直光 1943(昭和 18)年の作と。近づいて。「本殿」左の彫刻。近づいて。この日は拝殿内部に入ることが出来た。祭神 橘姫命 (たちばなひめのみこと)。「五七桐紋」。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かった と。「感謝状」。祭神 日本武尊 (やまとたけるのみこと)。「十六葉菊紋」。十六葉菊紋は、16枚の花弁を持つ菊を描く。別名『十六菊』。多くは皇室や豊臣秀吉より下賜された家が用いる と。「弟橘媛命入水から七日目に(二宮海岸)現袖ケ浦海岸に漂着」。「本殿」への入口。近づいて。「弟橘媛入水の図」。「本殿正面」。「鏡」。日本は古来から「八百万の神」(やおよろずのかみ)という自然のものすべてに神が宿っているという考え方があります。人にも神が宿っておりますので、神社でのお祈り事は鏡に映る自分の神様への誓いでもあるということです。神社に参拝に行かれました時は鏡に映る姿を意識されましてお祈りして下さい。もしも鏡が見当たらなかった時は、鏡に映る自分の姿をイメージしながら神様にお祈りを致しましょう と。本殿の龍の彫刻。そして拝殿の脇障子(右)。拝殿の脇障子(左)。木鼻(右)。左はピンボケ。「拝殿」前から境内を見る。奉納と刻まれた各種石碑が並ぶ。そして石段の途中から石鳥居を見上げる。扁額「吾妻宮」は地上に安置されていた。落下したが割れなかったと。そして帰路は「梅澤口」への坂道を下る。「梅澤口」近くの右手の石段の上にあったのが「神明社」。近づいて。社殿。「庚申塚」。そしてこちらが「梅澤口」の石鳥居。そしてJR二宮駅に向かい、先輩と昼食を楽しみ、再会を約束して別れて、駐車場に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.10
コメント(0)
時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の東門脇に建つ「小栗判官墓所入口」の石柱。石柱の先に、小栗判官の墓所のある長生院への小路が続いているのであった。右手にあったのが「諏訪神社 神輿殿」。 扁額「諏訪神社 神輿殿」。一昨年の箱根駅伝応援後の初詣時の「諏訪神社 神輿殿」内の写真。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。小栗判官の墓所のある長生院への小路を進むと左手には多くの墓石が並んでいた。近づいて。左手に「六地蔵」。 「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。六地蔵に近づいて。その先に巨大な「五輪塔」。 この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないであろうか と。「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」 「地蔵堂」裏の地蔵様。 ズームして。小さな石仏も。「五輪塔」、「六地蔵」を振り返って。 「稲葉家墓碑」 稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚く。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。碑面には戒名が陰刻されていたが、どなたの墓碑なのであろうか?そして「本堂」横にあった「永代供養墓」。竣工年:平成二十五年寸法 :間口十三尺奥行八尺仕様 :散骨用地下納骨棺、骨壺保管用石棚、ガラリ付きステンレス扉、 蓮華台多宝塔、内部照明、明り取りガラス窓 「永代供養塔」前から本堂前の「常香炉」方向を見る。 「永代供養塔」を正面から。こちらは、犬と猫の石像があしらわれたペット類の合祀墓。「いつくしむ」と。 犬の親子?猫の親子。ペット類の慰霊塔「蒼空(そうくう)」。人間のようなペットの名前が書かれていた。「蒼空(そうくう)」と。「本堂」、「地蔵堂」の間に「大イチョウ」を見る。そして再び小栗判官の墓所のある長生院への小路・坂を上って行った。本堂を横から。ズームして。さらに。そして右手奥にあった「堀田家三代の墓碑」を訪ねる。右手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型(下の写真)の5つの墓碑があった。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。「藤沢山日鑑=遊行寺の日々の出来事等を記した記録」には、毎年のように堀田家からの墓参の様子が記録されている。さて、この5つの墓碑の内、直接埋葬されたのは正仲であり、正利は浅草日輪寺に、正盛は東叡山の現龍院に葬られている。そして正利・正盛の墓碑を遊行寺に建立したのは正俊。正俊は正盛の三男で母は酒井忠勝の女であり、家光の命によって春日局の養子になった。この正俊がなぜ正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないとのこと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から日輪寺に埋葬されたと考えられる。正俊は幕閣内においても勢力をもって来たことと、時宗の信徒として総本山に墓石を新たに建立することになったのではないかと考えられていると。正仲の墓石には「常楽院殿其阿法漢映性大居士」とあり、さらに元禄7年(1694)7月6日卒とも刻まれているのであった。「堀田正盛妻阿栗供養塔」「正統院殿華岳宗栄大姉」。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「活生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」少し離れた場所にあった「堀田正仲墓所」「常楽院殿其阿法漢映性大居士」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」「堀田家三代の墓碑」を後にして、さらに進むと左手奥に、この後訪ねた「回向堂」が見えた。 さらに、小栗判官の墓所のある長生院への小路を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.10
コメント(0)
展望台の中央に、現在地を中心とした関東地方の地図が石の表面に描かれていた。吾妻山を中心に相模湾、房総半島、伊豆半島、大島等が。光る海・相模湾と菜の花のコラボ。先端には四阿が。四阿方向をズームして。銀色に光る海をズームして。「国府津」、「鴨宮」、「小田原」方面を望む。そしてその先に伊豆半島。菜の花の香りに包まれて。菜の花(ナノハナ)の花言葉は、「小さな幸せ」「快活」「競争」「希望」「明るさ」「豊かさ」「財産」「故郷」などである と。いつの間にか人の数も増えて。菜の花、桜の花、白き富士山の姿をイメージして。桜の花が咲いていれば!!と我儘にも!!この日の穏やかな相模湾を。「吾妻山公園の由来」碑。「相模路(さがむじ)の 余綾(よろき)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思(おも)はるるかも」萬葉集 巻十四(東歌)(意味: 相模(さがみ:今の神奈川県)の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘(こ)のことが限りなく いとおしく思われる。 真砂(まなご)は、砂浜の細かな砂のこと。また、「まなご」で「愛児(まなご:最愛の児)」を イメージさせているとも考えられます。 )と。万葉の昔から 淘綾の里 二宮の美しい海浜と それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありましたしかし 第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で 山は顧みられることもなく 次第に荒廃が進んでいきました 町はこれを深く憂え 子孫に誇れる山として残したいと思い 地権者六十五名の協力と五年の歳月をかけて整備し 昭和六十二年七月十八日に吾妻山公園として開園しました現在では 健康づくりと自然とふれあう やすらぎの場として人々に喜ばれていますこの公園は 名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました。」「この碑は 公園開園五周年を記念し 柳川賢二顕彰会の有志の寄付により建立されました 平成四年十二月吉日 顕彰会会長 村 山 正 雄淘綾の濱とは ゆるぎ こゆるぎの浜ともいい二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます」芝生広場のほぼ中央に榎の老木が葉を総て落として。ヤドリギも確認できた。ヤドリギ(宿り木)とは、樹木の上の方に丸く鳥の巣のような形状で寄生する植物。正確には半寄生植物。簡単に言うと、「半分くらいは宿主となった樹木から水分と養分をもらうけど、残り半分くらいは自分でも光合成を頑張るよ」という植物。「エノキ 榎ニレ科 工ノキ属分布=本州~九州、朝鮮、中国実は食べられる。野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」。菜の花の先には、桜の木そしてその先に富士山。城跡の如き石垣の上の展望台をズームして。記念撮影スポット。真鶴半島その先に伊豆半島の姿が。四阿(あずまや)が前方に。四阿に向かって進む。振り返って展望台を見る。再びズームして。四阿で一休みして水分補給。西側斜面に咲く菜の花。再び富士山をズームして。「箱根」の山々を更に見る。右から、明神ヶ岳(924m)、明星ヶ岳(1169m)、神山(1438m)、駒ケ岳(1357m)、上二子山(1091m)、下二子山(1065m)。最後に、菜の花と戯れるミツバチの姿を追った。そして「芝生広場」を振り返りながら、この下にある「吾妻神社」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
コメント(0)
正面に「時宗総本山遊行寺」の巨大な「本堂」。木造銅葺きで木造としては東海道随一と言われる。関東大震災で倒壊し、昭和十二年に再建された。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)が正式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。この遊行寺は正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵(ひじりえ)」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多あります。境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵艟、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また桜・ふじ・花しようぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。」「本堂」手前に露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた「常香炉」。巨大な「常香炉」。「常香炉」には時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。本堂に近づいて。正面に扁額。「登霊臺(とうれいだい)」の扁額は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。この額はもともと惣門に掛けられていたが、明治の大火の際に救い出されて以降はここ本堂の正面扉の上に移された と。本堂の見事な彫刻をカメラで追う。木鼻も見事。天水桶には皇室の菊花紋(十六葉八重表菊)。「登録有形文化財清浄光寺 堂宇十棟・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・囬向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 平成二十八年二月二十五日登録」「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「歳末別時念仏会期間のご案内歳末別時念仏会に伴い、本堂内は完全非公開となります。11/24(金)~11/28(火)」 「一ッ火」開催案内。令和五年11月27日(月)午後5:30 解説/一ツ火法要。「広い本堂が順に灯火が消えていき、やがて完全な暗闇に包まれた本堂には幽音の念仏が響きます。一遍上人以来700年間行われている修行の一つで、暗黒の世界にただ一つ灯される新たな灯明が、光輝く念仏の世界を本堂内に映しだします。法要が進むと、灯火が消され、闇の中から念仏が聞こえてきます。しばらくすると、新しい灯が闇の中から輝き、堂内を明るくし、僧侶の念仏の声が高まっていきます。一年の様々な罪を懺悔し身と心を清めます。暗闇の中から遊行上人の静かな霊音念仏が始まり、二人の僧が古式通り火打石で「一ツ火」を打ち出します。そして仏前の灯火は灯されてゆき居ならぶ修行僧の念仏の高まりとともに再び堂内は輝きに満ち溢れます。闇と光と念仏がかもし出す世界はすべての人々が導かれる極楽浄土そのものです。」とネットから。「本堂 内部」。 外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しいのであった。扁額「清浄光寺」。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像。平安時代後期作と伝える。参拝客の数もこの日は少なく、久しぶりの参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。「本堂 内陣」の左側をズームして。「本堂 内陣」の右側をズームして。「本堂」前から境内を振り返る。ズームして。「大イチョウ」をズームして。 本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な曲線の海老虹梁の本堂。「放生池」、「寺務所」方向を望む。 「本堂」の手前、右側にあったのが「地蔵堂」。 露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。近づいて。「地蔵堂」の絵馬かけ。 扁額「地蔵堂」。 木造で高さおよそ3メートルの「日限地蔵様(ひぎりじぞうさん)」をお祀りしている。日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。日切地蔵と表記する例もあるとのこと。さらにお顔を。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」「地蔵堂」前から、「本堂」への参道方向を振り返る。 「本堂」を。青空に黄葉の映えた「大イチョウ」を再び。 案内に従い「国指定重要史跡 敵御方供養塔」を訪ねることに。 東側からの参道沿右側・「俣野大権現」の手前にあったのが「鈴木貫介の歌碑」。「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」 「逆修」とは、生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと。死後に行う七七日の仏事を生きているうちに営み、冥福を祈ること。予修(よしゅう)。逆縁。逆修善。「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解駅されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月」そしてこちらが「戰歿者供養塔」。「倶會一處(くえいっしょ) 戰歿者供養塔」 「倶會一處」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀様の御浄土でまた共に会わせていただくという意味であると。「戦没者供養塔この供養塔は日清・日露戦争・太平洋戦争で藤沢市出身の千二十余名の英霊が眠っている。遊行七十代一求上人による戦没者慰霊名号碑と同時期に、藤沢市遺族会によって供養塔を東門右側に建立、昭和25年4月23日開眼。「倶會一處 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。「倶會一処」とは、阿弥陀仏の浄土に往生して、人びとと共に一とことにいるという意味である。その後、樹木の生長により供養塔母体が破損、藤沢市、遊行寺の賛同を得、戦後六十年を記念して藤沢市遺族会が平成17年7月30日に現在の場所に移設建立した。また遺族の移住にともない他市の英霊もここに眠る。 平成17年8月7日 開眼」 斜めから。「畜霊供養塔」。 近づいて。昭和9年(1934)5月1日 高座郡農会と高座郡畜産組合が発起人となって建立された「畜霊供養塔」の書は秦堂栗原宣で、手洗鉢は高座郡南部豚商組合の寄進とのこと。「大イチョウ」をこちらからも。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
コメント(0)
この日は2024年1月6日(土)、平塚にて初仕事の打ち合わせに向かう。途中、新湘南バイパスから富士山の勇姿をカメラに。「宝永火口」の下まで積雪が広がっていた。宝永山は、宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。そして、平塚での打ち合わせを終えて、二宮駅前の『吾妻山』👈リンク で既に開花している「菜の花」を愛でに向かう。二宮にお住まいの、卒業会社の先輩と二宮駅で待ち合わせ。二宮駅南口に車を駐め、改札口に。「二宮駅総合広報板」前にはプランターに植えられた菜の花が並んでいた。「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2023.1.13(土)~2.18(日)まで開催されるとのこと。この日は、まだ開催前であったが、テレビのニュースでは既に満開になっていると。「にのみや guide map」。これから訪ねる「吾妻山」近辺をズームして。二宮駅北口にて先輩と合流して吾妻山入口に向かって進む。JR東海道線の二宮駅北口に降りると西側に見えるのが吾妻山です 。 二宮町は昔吾妻村と呼ばれていました。吾妻村は(明治22年町村制施行により一色村 、中里村 、 二宮村 、山西村 、川匂村の五村が合併し 、新しい村が誕生しました。 県から 「村の名前は、もともと郷名が二宮庄 、氏神が二宮明神であるから 、二宮村でよかろう」と指令があったそうです。しかし 、「二宮村に編入するようで嫌だ」という理由からか、三日三晩教義しても村名は決まらなかった そうです。その時に「村のどこからでも見える吾妻山があるから吾妻村としてはどうか」と意見が出て 、吾妻村になったそうです。今でも二宮町内の至るところから吾妻山は見えます。 「二宮町立二宮小学校」の前の急坂を上っていくと前方に「吾妻山公園」の入口が姿を現した。ここが吾妻山山頂の菜の花畑への東・役場口ルートの入口。「吾妻山公園」。「吾妻山公園 案内図」。「吾妻山公園」と書かれた木製のアーチの先にはいきなり急な石段が続いていた。最初の石段を登りきった右側には、カフェ・喫茶の「二宮町 ともしびショップ なのはな」があった。そして、途中の展望台で一休み。眼下には二宮・大磯の街並みそして相模湾が広がっていた。JR二宮駅をズームして。遠く、三浦半島にズームして。右手には江ノ島の姿が。江ノ島をズームして。灯台「江の島シーキャンドル」の姿も確認できた。この先にも「吾妻山公園案内図」。可愛らしいスイセンの花が、吾妻山公園の斜面にはいたるところで開花中であった。赤いツバキの花も。近づいて。「カンツバキ 寒椿ツバキ科:属ササンカの園芸品種 花は紅色で八重咲き」と。山の中腹には「つつじ園」が広がっていた。4月になれば。(以前に訪ねた時の写真)。道は二手に分かれていたが、「管理事務所、芝生広場」方向に進む。人の数は予想外に少なかった。白いスイセンに近づいて。右手にあったのが「浅間神社」の石鳥居。「浅間神社祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、二宮町上町地区の祭神で、土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。」 平成十六年四月吉日 二宮町二宮・上町町内会」さらに登山道?を進んで行った。左手の「吾妻山神社」への路は未だに通行止めとなっていた。「吾妻山公園・管理事務所」入口前を左折して進む。「吾妻山公園 ローラー滑り台」。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下ってこの場所まで滑って来るのであった。さらに丸太で作った急な階段を上る。ここにもスイセンの花が。更に上って行くと、「吾妻山公園 ローラー滑り台」のスタート建屋が。そして「吾妻山山頂」に拡がる「芝生広場」に到着。「芝生広場」の菜の花越しに富士山の姿を。ズームして。富士山の手前に見える山は「矢倉岳(やぐらだけ)」。矢倉岳は神奈川県南足柄市にある標高870mの山である。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かるのだ と。吾妻山からの展望は、現代になって菜の花と富士で有名になっていますが、遠く昔江戸時代天保元年~三年頃(1830~1832年頃)、浮世絵師の葛飾北斎も描いています。それは、富嶽三十六景『相州梅澤左』です。「澤左」は、「梅澤庄」あるいは「梅澤在」の誤りとされ、ここニ宮の吾妻山(当時の梅澤はもっと広い範囲)から中村川あるいは中村湖( 1498年明和地震で消滅)、矢倉岳、士山を描いたものと言われています。富士と鶴それも鶴が七羽で、非常におめでたいと吉祥図として説明する向きが一般的なようです。なかには、水面に立っ五羽の群鶴は、実は、富士神霊の化身(依代)として描かれていて、富士神霊(水神)の降臨地を指し示しているとみる人もいます とネットから。そして右側には大山そしてその左に丹沢の山々が。展望台から見える写真の山々の名前が説明されていた。「大山」。ズームして。再び富士山をズームして。富士山の左には、箱根の山々が。丹沢の山々をズームして。写真中央に、二ノ塔、三ノ塔。案内シートに近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
コメント(0)
「中雀門」の左にあった「黒門」から中に入ると正面に「寺務所」、左に「僧堂」、右に「御番方」が姿を現した。 「寺務所」。 ここで「御朱印」が頂けるようであった。 正面には「兵才無用(ひょうがむよう)」と書かれた巨大色紙?が。「『仏説無量寿経』というお経には、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てきます。武力も武器も用いる必要が無いという意味の言葉です。この言葉が出てくる一節は、「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り合うのである。」とネットから。右隣にあったのが「御番方」。境内北西を占める住居部の正面中央に建つ。入母屋造銅板葺で、正面の軒唐破風付の大振りな入母屋玄関は精緻な彫刻で飾り、遊行上人の出立などに用いる。内部は六間取方丈形式で、上間奥室に床などの座敷飾りを備える。寺格に相応しい品格を備えた接客施設 と。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われているのだと。屋根の下には金網で保護された鳳凰・鳥の「懸魚」の彫刻。唐破風下の向拝虹梁の上下の彫刻。扁額「御番方(ごばんかた)」。こちらには「遊戯三昧」と。自由気ままに遊びほうけること。 物事にふけって、夢中になること。 もとは仏教のことばで、何ものにもとらわれることなく、自由であることの意。「三昧」は、あることに一心になって他のことをかえりみないこと と。「中雀門」を内側から見る。懸魚の彫刻。そして「中雀門」の見事な彫刻を内側から更に追う。「中雀門」の扉を内側から見る。 「僧堂」、「寺務所」、「御番方」 を振り返る。 「放生池」手前には石碑が2基並んでいた。元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出された。 「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生された。 現在も、毎年、春季開山忌に放生会などでこの放生池で行われている と。「放生池この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保っとされている。」 『静雲』と。河野静雲の句碑『生きて居て相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲』。放生池の前に「魚鱗甲貝供養塔」があった。「魚鱗甲貝供養塔 遊行一雲平成九年四月遊山會」と記されていた。遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會 と。正面にある「太鼓堂」が水面に映り込んで。 ズームして。「放生池」の島には「聖観世音菩薩像」のお姿が。再び「御番方」、その右の「信徒会館」を振り返る。 「信徒会館」、「太鼓堂」、「聖観世音菩薩像」。「五重石塔」。そして新しくなって黒くない「黒門」出る。 左手にあった「鐘楼」👈リンク。 近づいて。この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。鐘楼に脇には、この写真の左側に「円意居士」、中央に「南無阿弥陀佛」碑、そして右側に「中里 理安・理益」の墓があった。「円意居士墓境内鐘楼の前に「円意(えんに)居士供養塔」があった。円意居士は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものは供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようだと。」 「中里 理安・理益」の墓碑。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「梵鐘」。この鐘は、総高168cm、口径(こうけい)92cmで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されている。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)。沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮(きゃくりょう)とも呼ばれていた。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆である。平和を願って造られた鐘ではありますが、この鐘自身も数奇(すうき)な運命をたどりました。それは永正10年(1513)1月29日、遊行寺は兵火のために全山焼失するという災難にあいました。戦国の時代の到来です。ここ相模国では伊勢長氏(北条早雲)と三浦義同(入道道寸)との戦いが繰り返され、遊行寺はその戦場となって焼きはらわれたのでした。それ以後、徳川時代になるまでの約一世紀の間廃寺同様となり、住職である藤沢上人もここに住むことができませんでした。梵鐘も北条氏によって小田原城に持ち去られました。天正18年(1590)7月小田原城は豊臣秀吉によって落城。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成し、遊行三十二代普光上人が遊行寺の住持となった。伽藍は再興されたが、鐘はありません。藤沢大鋸の中里八郎左衛門里安(りあん 理庵とも)という人が、小田原城主と談判を重ね、新しく鐘を造って交換するということで、その費用を負担して新しい鐘を鋳造し、古鐘を引き取って寺に寄進したのだと。寛永3年(1626)12月下旬のことと記録されていると。新しく造った鐘は小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻(いんこく)されている。「絵馬掛け」。 「おみくじ結び所」。 「大イチョウ」を振り返って。「宗祖 一遍上人像」。 ズームして。先代のものは太平洋戦争中に供出されたが、昭和45年(1970年)5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立されたのだと。さらに。「本堂」に向かいながら、「大イチョウ」を振り返って。 そして登録有形文化財「手水舎」。明治100年記念として、ここ手洗鉢が新設されたとのこと。近づいて。「明治百年記念碑。住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年 三月廿六日」とあり、発起人6名の名前が裏面に記されていた。 そしてその先にあったのが「俣野大権現」。 地蔵堂前に建つ小さな社は「俣野またの大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されていた。「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は、正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります影平公は貞和年中(一三四五~四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております 平成十年七月吉日 藤沢山」 句碑。2012(H24).10月に建てられた清水 浩の句碑と。「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の【花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない】という有名な言葉がありますが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようです。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か意義がありそうです とネットから。「提灯」越しに「大イチョウ」 、「いろは坂」方向を振り返る。 こちらからもズームして。「境内案内図」も新旧、歴史を感じることが出来るのであった。年中行事 元修正会 一月一日 初賦算 一月十二日 節分会 ニ月三日 釈尊涅槃会 ニ月十五日 釈尊降誕会 四月八日 春季開山忌 四月ニ十ニ日・二十三日 大施餓鬼法要 六月ニ十七日 薄念仏会 九月十四日 秋季開山忌 九月十四日・十五日 別時念仏会 十一月十八日~ニ十八日 減灯(一つ火) 十一月ニ十七日 大御台式 十一月ニ十人日 除夜法要 十ニ月三十一日 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
コメント(0)
「いろは坂」を上り終わり大きな「石門」前に到着。この石門は山門跡となる。「石門」前には「当山今月(11月)の行事」案内木札が並んでいた。貞秀の錦絵にも描かれた楼門の山門は明治13年(1880)に焼失。楼門に掛っていた「藤澤山」の扁額(公式サイトによると東山天皇の直筆による勅額)は本堂内にあるとのこと。 貞秀「東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺」をネットから。「東海道の名刹 藤澤 遊行寺」の幟。石門には時宗の「宗紋・「隅切三」(すみきりさん)」が。一遍上人は延応元年(1239)、 伊予(いよ・愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として誕生した。 幼名は松寿丸といい、父は河野七郎通広(こうのしちろうみちひろ) 、祖父は河野四郎通信(みちのぶ )。一遍の俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。隅切と呼ばれる、4角形の隅を切り落としたような8角形の枠に、漢数字の「三」を配しており、この8角形が、食器や供物を載せる盆「折敷」(おしき)に似ているため、この枠のある紋を「折敷紋」とも呼ぶとのこと。伊予国(現在の愛媛県)の「大三島神社」の神紋でもあると。「三」の文字は大三島神社の「三」であると言われているとのこと。上って来た「いろは坂」を振り返る。当時の石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれていた。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを今も与えている。平成19年(2007)に大改修が行われた。地元では、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれているのだ。 そして正面に真っ黄色に色づいた「大イチョウ」。この日は、この黄葉した「大イチョウ」を観るのが主目的であった。青空を背景に黄金に輝く「大イチョウ」。場所を移動して。北側は、黄葉へのプロローグの箇所も。「市指定天然記念物昭和四十六年(一九七ー)七月五日指定大イチョウ 樹高約 21m 幹回り 710cmひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31mありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で686cmだった幹回りは、平成二十年の計測では710cmと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月〔藤沢市教育委員会〕」「大イチョウ」前から「石門」越しに「いろは坂」を振りかえる。「大イチョウ」の先に「本堂」。 ズームして。「本堂」を望む。ズームして。「時宗総本山清浄光寺(遊行寺)境内案内」。 近づいて。ここにも「境内案内図」。 「大イチョウ」に近づいて様々な角度から。 「遊行寺墓苑案内所」。 入口の「観音像」。上記「遊行寺墓苑案内所」の先・右手奥にはトイレがあったが・・・。『小噺「厠(かわや)」遊行寺の大イチョウ前にいるお坊さんに、おばあちゃんが話しかけました。「和尚さん。厠(お手洗い)は、どちらですか」と尋ねました。お坊さんは「そこの茶屋の後ろにありますよ」と答えると、おばあちゃんは厠に向かいました。すぐに戻って来て言いました。「和尚さん、カミがないですよ」。お坊さんはすかさず「ここは、紙ではなく仏ですよ」。お坊さんが紙をお渡しすると、おばあちゃんは「なんまいだ…」と数え始めました。』とネットから。再び「大イチョウ」を追う。 宝物館の前にあった「明治天皇 御膳水」。 「明治天皇 御膳水」。 明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた「井戸」とのこと。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人) 時宗総本山 遊行寺」 明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。「遊行寺宝物館」。 これが「袴石」。宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。「徳川と遊行寺」👈リンク会 期 令和5年9月23日(土)~12月18日(月)で開催中であった。そしてこちらが「寺務所」への「黒門」。 そしてその右側に「中雀門」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。向唐門(むかいからもん)様式で作られている。境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政六年(1859)に建てられた。 明治の大火を含め度重なる火災でも焼け残っていたが関東大震災で倒壊、その後以前の姿に復元され平成二十年四月大改修が完成した。四脚門で、高さ約6m、幅約2m70cm。「藤沢市指定重要文化財(建造物)平成二七年(二◯一五)十月一日指定中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。平成二九年(二〇一七)三月 藤沢市教育委員会」 正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。正面破風にズームして。「中雀門」の見事な彫刻を更に追う。「中雀門」の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群。そして再び「大イチョウ」を振り返って。こちらからも、北側のイチョウの葉は、まだ緑が残り黄葉のプロローグに。黒門横の板塀にも禅宗様の「火灯窓・花頭窓」を想起させる模様が。 うすねずみ色の「黒門」から「寺務所」正面を見る。 再び「中雀門」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.07
コメント(0)
この日は2023年11月29日(水)、久しぶりに「遊行寺」の大銀杏の黄葉、そして境内を巡って来ました。まずは「遊行寺」の「惣門(そうもん)」。その両脇には歴史を感じさせる灯籠、その奥には石垣と築地塀も。 大きな寺号標石「時宗 総本山 遊行寺」。 提灯が並ぶ。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。下が本物の浮世絵。『歌川広重東海道五十三次』= 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤澤 》松吟庵清風うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな惣門前には、高さ約2m80cmの青銅製の灯籠が対になって建立されていた。青銅製の灯籠(右)。青銅製の灯籠(左)。「榜示(ぼうじ) 門前先通道幅四間二尺」と刻まれた石碑。榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。 江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた と。現在の黒門は、主柱の後に控柱をもつ4本足で、屋根が無く、主柱の上部を横木が貫く大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)。これが「遊行寺」の「惣門」。今日では遊行寺の黒門とも呼ばれているのだ。天保 10 年(1839)成稿の「相中留恩記略」挿図や明治初めの境内図では、この門は「惣門」とあって黒門とは書かれません。姿も今とは違い、冠木門に屋根がついた薬医門の形式で、基壇もある。そしてなにより黒く見えません。江戸後期の境内図で、門全体を茶色に塗ったものもあるので、やはり黒くなかったのでしょう。一説に大書院への門(現在は中雀門の隣)がもともとの黒門だともいわれ、確かにどの図でも黒く描かれています。とすればこのころ惣門は「黒門」と呼ばれていなかったのではないか とも。日本三大黒門の一つといわれますが、他の二つがはっきりせず、どうも根拠はないようです。そして、明治 13 年(1880)「清浄光寺境内絵図面明細書目」 (清浄光寺文書)の「総門」の項からは、桁行 3 間 1尺(約 570 ㎝)、梁間 2 間 3 尺(約 450 ㎝)、棟高 1 丈 4 尺(約 420 ㎝)、屋根は銅板葺きで、紀伊藩主徳川治宝が 染筆した「登霊台」の額が掛けられていたとわかりま す。「藤沢山日鑑」は文政 13 年(1830)5 月 25 日(17 巻) に、この額が届いたと記します と。「作者:歌川(橋本)貞秀東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺文久3年(1863)」に描かれた惣門。右に「時宗總本山」と彫り文字に墨入れした大きな木札がかかっている。当本山の正式名称は、「藤沢山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)」と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の「遊行寺」の方が知られているのだ。 左に「清淨光寺(しょうじょうこうじ)」と彫り込んだ大きな木札が。そして惣門から遊行寺の境内に入り、まずは直ぐ左手奥にある墓石を訪ねた。「板割浅太郎の墓」と書かれた案内板。この墓地群は「真徳寺」の境内のようであった。「板割浅太郎の墓」。 卒塔婆には「洞雲院弥阿」の文字が。 「板割浅太郎の墓の由来国定忠治 への忠義を貫ぬく板割浅太郎(本名 大谷浅太郎 )は、大正五年(一九一六)に刊行された平井晩村 の小説『侠客忠治 』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄 』が話題となった昭和九年(一九三四)公開された映画『浅太郎赤城の唄 』の登場人物として知られています。真徳寺 には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されています。天保十三年(一八四二)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺 (長野県佐久市 )住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改めます。後に遊行上人の導きにより藤沢 の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となります。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔うのです。仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされます。以上の口承が昭和六十一年(一九八六) 山本周五郎 が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされます。後の列成和尚 は、明治十三年(一八八〇)に発生した藤沢宿大火 により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いたのです。明治二十六年(一八九三)十二月三十日七十四才にてその生涯を閉じたと伝えられています。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれています。 赤門真徳寺住職「 そして右手にあったのが「眞徳寺」。 寺号標石「赤門 眞徳寺」。扁額「真徳寺」。境内に入り、「赤門」を振り返る。この大きな石碑には仏像が線刻されているようであった。「本堂」。清浄光寺の塔頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。遊行51代一法はこの寺の檀家から出ているのだと。唐破風の屋根。見事な龍の彫刻。「三界萬霊」碑。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。その右隣に卒塔婆が2本。「戦災震災風水害殉難横死之諸群霊証大菩薩堤塔」 「古今大戦々死病役之諸精霊証大菩薩堤塔」の文字が。十三重石塔、天水桶を見る。「本堂 内陣」。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 「本堂」前、一段下がった場所にあった墓地。 そして「いろは坂」を更に進むと左手にあったのが「時宗 眞淨院」。寺号標石「時宗 眞淨院」。白壁に囲まれた参道を進むと正面に「山門」が。扁額「登龍山」。そして白壁に囲まれた参道を進む。「水子地蔵尊」。 「本堂」。清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。近づいて。見事な彫刻の数々が正面に。彩色された龍の彫刻。牡丹の花と獅子の彫刻(右)。牡丹の花と龍の彫刻(左)。「開運厄除 毘沙門天」と。「開運厄除 福壽聖観音」と「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(右)。 「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(左)。「このお寺の宗旨名称 「時宗」 宗祖 証誠大師 一遍上人(智真)開宗 七百年前(鎌倉末期)本尊 「阿弥陀如來」を本尊に仰ぎます。称名 南無阿彌陀佛教義 大慈悲の阿彌陀如來に皈命(おまかせ)する只今のお念彿が一番大じなことです。家業に つとめはげみむつみあって只今の一瞬が充されるなら人の世は正しく生かされて、明るさを 増し皆倶(とも)に健やかに長壽を保つことになります。浄土えの道はそこに開かれるとする 教えです。お経 無量壽経 観無量壽経 阿弥陁経 六時禮讃などの 諸經典(おきょう)を読誦(およみ)致します。 教學部編」内陣。ズームして。「南無阿弥陀仏 無縁法界供養塔」。「無縁法界」とは、無差別平等の一切をこめていった言葉。縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者のことと。白壁の参道を引き返す。そして前方に入口が見えて来た。「時宗 眞淨院」の境内の隅にあった銀杏の老木を見上げる。 ・・・つづく・・・
2024.01.06
コメント(0)
全6298件 (6298件中 151-200件目)