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先ほど、イスラム掲示板に行ってみたら、私の書き込みが削除されていることを知り・・ガックシ肩をショボンと落としていました。失恋の気分というの?(気にすんなよ)しきりに自身を慰めつつ、しかしながら、心はまた、ぐんぐん、空に向って伸びていってる気がしているのです。「イスラームのお供え物って?」という内容の質問をしたのですが、あれこれ書いたのを、管理人さんは、さぞかし不快に思われ、こう思ったことでしょう。(あんたはユダヤ教か?キリスト教か?仏教徒か?よそ者はあっちに行ってくれ・・)その心中お察し致します。その当然の感情を、こちらは、事実としてそれを直面し、受け止めていく所存です。ありがとうございます。振られた気分?関心のある人に別れを告げられたような?・・きっと、これは神様のメッセージなのだと思います。何かを捨てる。何かが終わる。と、同時に、新たな出発を意味するからです。私の本当の動機と、目的が、鮮明になった気がしています。ラマダーンにしても、断食じたいにしても、何かに関心を示すということにおいて。ちょびちょび読んでた本で、「この一冊で『宗教』がわかる!」(著・大島宏之)・・一家に一冊あったら、便利そうな宗教辞書なのです。内容は、世界三大宗教から日本の緒宗教、新宗教まで、あらゆる疑問に答える本。この機会にイスラームのページを読もうと思いつつも、あまりページがすすみませんでした。今年のラマダーンで、イスラームの情報が増えたのは、kawausoさんと、ファーティマBさんから頂いた情報だけです。(後日、ショックから立ち直った時にでも、ファーティマさんから教えて頂いた勉強内容をまとめたいと思いつつ・・)私のラマダーンを支えて下さったお二人には、心から感謝致します。ごちゃまぜの私の文を温かく、大きな心で、見守って頂き、神様が私を励ましたなと感じ入るものです。ラマダーンの友となって下さったお二人に感謝致します。ありがとうございます。ありがとうございます。(ああ、だんだん、シアワセな気分になってきました)私は愛されています。私は期待されています。一皮向けて欲しいと願われています。成長を願われています。その手応えを感じているものです。後日書きたいテーマは「あけぼの」のこと。いたく気に入りました。詩人の坂村真眠の3時半、寅の一刻の意味を解明できる・・出来た・・気がしています。曙、夜明け、黎明、暁、黎明のルシファー。この時間の秘密を、訪ね求めていきたいと、張り切っています。すごく、しあわせにこの時期を過ごせました。それで、先ほどの辞書を、ちょびちょび読みながら、この期間、感じた事は、三大宗教は、一つになりつつある。プラス仏教も。共通点を見出すからだ。隣の人と仲良くしようと思ったら、隣の人がどういう人であるか、関心を持って、知ろうとしないと。世界が一つになるために、壁の理由を知りたかった。過去の歴史の誤解。言葉の解釈の相違。表現の違い。兄弟は、仲良くしないと。何故、できない。その理由は?神様をはっきり知らない。世界宗教・・人類の本当の世界平和。根本を知らないから。ある人が、ある人を尊敬し、ついて行きました。行ってみたら、失望。敵となりました。男と女の場合なら・・離婚すれば、財産など所有物の戦いを繰り広げます。人はお腹の中から学びます。幼少教育、青年教育、大人になって、本心の教育を受けたい。愛を円満なものに実現させたい。人は、本心は、それを願いながら、実際はそうなっていない。イスラムの人は戦争を聖戦とみている。が、それはまちがいである。このラマダーンの期間を通して、無知ゆえに、ぬくぬくしてきた、小さいワクから、どうぞ、脱皮して、新たな決意を持って、前向きに生きていくことが出来ますように。世界のことに目を向けて、より大きなことに意識を向け、祈る心を広げることが出来ますように。あけぼの時間に、目を覚まして過ごすようになってから、とても自分が締まってきました。ぶよぶよにむくんだ、余分なものが、排出され、引き締まってきたと思う。断食の喜び、お日さま時間がマイナスなら、日没後はプラスである。充実のおもいが、湧き出してくる。この無限の泉といったら。この自分を、どれほど信頼できるものか、様子をみていたが、・・このコに賭けてみようか。ずいぶん、ずぼらをし尽くしたのだから、もうよかろう。ほんとの力を出して欲しい。ほんとはもっとデキルコだろうが。緻密さを見せてほしい。感動させてくれ。がんばってる姿を表現してくれ。君に期待する。
2006年10月23日
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「12時(夜の)から一日断食する」とNさん。「へえー、あっ、そっ。じゃあ、私も、お付き合いしましょうか」(このカップルは断食マニアか?)21日は土曜日のため私は休み。日中はほとんど寝てた。夜はテレビ、「魂萌え!」「世界ふしぎ発見」「チャングムの誓い」それが見終わると同時に断食も終了。この日、Nさんは仕事で、帰ってから風呂も入らず、テレビの野球みて寝てしまった。夜、食事をしないとなると、一緒の部屋にいても、会話も全くなし。食事って、人と人をつなぐためのものなのですね。と、つくずく感じた。顔の表情も「食」がないと、ぼさーっとした無表情になりがちだし。また、「食」がないと、体も冷えるので、水もあまり飲む気がしないし。明るい電灯もうるさい気がして、電気を消して静かにテレビを見てた。私は昼寝て、夜テレビで時間を潰し、ラクなはずの、24時間「食」を断つことが、けっこう忍耐という気がした。けれど、一人じゃなく、誰かと一緒に断食というのはラクなもの。仲間がいるって、やりやすいものだ。24時間それをやる・・という決意は、やはり一人じゃしがたい。イスラームの日没までのラマダーンは、ほどよく、やりやすいものだなと思った。それで、「24時間の断食が終わったからといって、夜中に食べるとはもってのほか」、というのはNさんであって、私は「チャングム」が始まるまえに、圧力釜で玄米をしっかり炊いていた。火を消した圧力釜をテレビの前に持ってきてタオルケットを被せる。それと一緒に、身体ごと大型毛布で巻いた。あったかーい。一時間ずーっとアンカ効果を発揮していた。神様と仏様の所にご飯を運んだ。水を新しくし、花の水も替えた。圧力釜の中のカムカム鍋を小テーブルに運び、ご飯をついでいく。神様に茶碗二つ、Nさんちに二つ、私の実家に二つ、自分の茶碗につぎ、「いっただきまーす」とめずらしく、その部屋で食べた。自然塩を振りかけて、キムチで、こぶと大根の煮物で、ご飯が身に沁みてうまかった。「うめえー」をやたらと連発した。ちょっと泣きそうな感じになる。断食あけの喜びというのを久々に感じている。そう、食べた瞬間、体の細胞がピクピク動いて感動してるっていうあのかんじ。いつも、同じことをやってると無感動になる。たまに、飢えさせて、細胞をひっぱってあげる。・・と、わーっと、泣きそうになる感に包まれるというやつ。ああ、24時間、できて、うれしいな。食べることを忘れて動き回っていて、24時間、たまたま、食べてなかったというのが、数年前に何回かあったが。24時間を意識的に食べないというのは、いつやったことがあったか・・覚えてない。この時期に40日断食をしている人がいるという。強力な行者の背景を持った人なのだな。・・と、ふっ!っと、モーセのことが浮かびあがった。確か、モーセは40日断食のあと、神の啓示を受けたのではなかったかな。(時間は本日ラマダーン最終日22日の曙時間がやってきました。水ストップ)24時間断食したせいか、大きな便りが、今、ありました。なかなかの排泄力です。断食の効果って、やはりすごいな。今、聖書の「出エジプト記」を斜め読みしていた。先日、教育NHKで特集をやっていたのだ。それで、モーセは霊界で、どのような状況でいるのだろうか?と考えていた。その日の二時間後に「オーラの泉」で、青木さやかさんが出演されていた。その後、眠れなく、青木さんの命式≪傷官/敗財≫を確認していた。・・もしや、モーセも、そうであったかも?という思いがきた。「モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた」(出エジプト記34・28)・・その後に、「モーセは主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っていた」という言葉が三度も繰り返されている。あっ!、確かイエスも40日の断食をしたという箇所があったような。探してみるが、まだ、探しあてられず・・聖書をところどころ、読んでみると、「食べる」とか「供え物」とか「断食」とかの言葉はよく出てくる。ということは、断食は、イスラームの他に、ユダヤ教やキリスト教の人達も、頻繁に断食をする習慣はあるのだろうか?身近に、世界三大宗教の人はいないのだけど、どうなのだろう。素朴な疑問。さて、これから私は、掃除、洗濯、縫い物をして出掛ける。縫い物は、新品のサラシの白い布で二重に袋を作り縫う。その中に玄米・自然塩・米糠を入れ、フライパンで弱火でゆっくり温め、夜、帰ってきた時に、Nさんの腰に当ててあげるのだ。自然療法のお手当て法・・今、書いたことを有言実行できますように。重要なこの一日を心を込めて締めくくることができますように。
2006年10月21日
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イスラームのラマダーンも残り一週間ということらしい。始まる前にイスラム掲示板に挨拶にいった。断食ご苦労さんと返事をもらい、ちょっと寂しくもあった。ああ、私はイスラームの人ではないので、共に日中飲まず食わずの断食をすると言っても、それはラマダーンではなく、ただの飲まず食わずに過ぎないのだなあと。しかし、それは事実なんだ。それで、なぜだか、去年は日没後の水や食事に感動を覚えたものだったが、今回それは特には無く・・。途中、(何のためにやってるんだか)という迷いや空虚もあったりして。日々の曙(あけぼの)時間が何時であるか、その正確なカレンダーは探し当ててはいない。が、本日は午前4時9分で水をストップした。早起きして、曙前に水を飲んでおかないと、一日がドロドロ血液のまま出発ということになる。そうすると、日中、めまいや立ちくらみが起こる。そのため、曙前に目を覚ますということは必須である。だいたい目覚ましをかけなくても、曙前の20分くらい前に起こしてくれる。・・守護霊さんのお蔭です。秘書のように。(感謝しています)この早起きが、すごくいいことだなあと思えている。今朝、しみじみ思った。日没後に水を1リットル飲む。2時間くらい後に夕食を取る。朝は曙前にコーヒー2杯と、1リットル水を飲む。交互に飲む。体が冷えるので、既に冬スタイルだ。上はジャンパーを着て。カバーをつけた毛布で体を巻いて、ネットで読書して朝ドラ前まで過ごす。朝の<ネットで読書>・・この習慣が得られたことが、すごく感謝なことではないかと思う。去年のラマダーン時期は飲まず食わずの出発を日の入りから始めていた。今回はkawausoさんから教えられ、曙からの飲まず食わずに変えた。(kawausoさんに感謝)毎日が日曜日の生活の時は、夜中12時で食をストップしていた。が、日中出掛けるようになってから曙の直前迄の食ストップに変えた。曙前に食べると、水が入らない。水がちょっとしか飲めない。それで、その時間帯は、水とコーヒーだけの方が良いように思えた。コーヒーを飲むと、水がすすむ。それで、もっと水をすいすい飲むために、コーヒーと交互に飲む。曙10分前に目覚めたとしても、けっこう水が飲める。こうして、日中、飲み物も口にせずっていうのも、ちょっといいものだなあと思えてきている。平日、薬草風呂に入る習慣を得たのも気に入っている。これらの生活を、少し延長しようかと考えている。(出来れば2週間ちょっとくらい・・只今検討中)これからアイロン掛けして、朝ドラみて、出発します。祈りを込められますように。
2006年10月16日
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「大食いの人は不成仏霊の影響を受けている」の記事から変わった私。夏の大掃除と物捨て後、お盆とお彼岸を意識して過ごした。仏さまの掃除、お供え物、声がけが親密になった。霊界体操が出来るように。霊界の存在が少しわかるようになった。かと思ったら、お彼岸も終わって、あわただしい日常が始まった。慣れない新しい環境。日中断食しながらの学校通い、ちとシンドイ。水飲みがうまくいかない。一日は血液ドロドロのまま出発。トータル一日二リットルの水が飲めない。便秘。霊界体操をしようとしなくなる。西式体操もしないで過ごすようになり。気がついたら、掃除にキメ細やかな気配りが出来ない状態になっていた。全てはココからだったと気づく。全ては「掃除」から。仏さまとキチンとしようとするなら、まず、超キレイな部屋じゃないと、そういう気持ちがおこらないのである。図式はこうである。「物捨て・掃除」→「キレイな腸・規則的排泄」→「仏さまキチンと」→「高級霊の守り」→「断食・自己中心の欲を一時期ストップさせる」結果、ガツガツした食べ方が、自然と少食に。一皮むけて、魂の成長に役立つ。休日の今日は掃除日和。全てのドアを開け放して、お部屋に陽と風と新鮮空気を入れる。洗濯、床や柱の水拭き。今朝は午前2時半に起き、浄水二リットルを4時迄の間にちびちび飲んだ。腸が動き出した。滞った身体の気が、甦ってくるよう。続き、夜、書きに来ます。◇◇◇西式掲示板への書き込み~『イスラームのラマダーンの断食月に便乗させて頂き、日の出前の曙(あけぼの)から、日没迄、飲まず食わずを始めてから10日程経ちます。(西式の18時間の間を置くことが出来たり、出来なかったりですが・・)そこで、最近の気づきですが、「大食いの人は不成仏霊の影響を受けている」ということを目にして。(そういうこともあるのかな?)と、思っていましたが・・。この秋のお彼岸をきっかけに、仏様のお供え物に少し、気を配るようになりました。そうして、日中断食に入ったところ、なにかしら、自分の食べ方が変わってきたような気がしてきています。これまでも、仏さまの位牌に、毎日お水やご飯や、時々おやつを供える程度にはしてきたのですが・・。なにかしら、意識して、趣味のように、それを楽しく行うようになったせいなのか、あまり、食べなくてもおなかいっぱいになったり、それほど、食べたいというおもいがわかなかったり。・・!少食に近づいているような気がしてきているのです』(10月4日、西式断食掲示板)◇◇◇頂いたコメント~『小食にて、胃が小さくなり小食でも対応できる体に変化しつつあると言うことですね。大食いの人は不浄仏霊というのは、色々な意味合いで考えると大きくははずしてませんね。供養する意味で、しなければいけない事なのです。たとえば、ご先祖様を供養する意味で、好きな食べ物を添えることで迷いが消えて成仏したりと(^^浄化した霊は食べ物を一切食べたがらないそうです。神様にお供え物をするという意味は、感謝の気持ちの表れであり、食べたいと要求するものがあるとすれば、それは偽者だということになります。その意味合いから、食べ物を食べなくなる人は、高級霊の影響を受けて食べたくなる要求が減るということなのですね。ただ、あくまでも仏の世界での解釈であり、学問より長い間伝えられてる昔からの知識として受け入れるものですね。宗教色を強くする考え方から、小食をするのではなく食べ物には命があり、感謝をし頂くと己の欲のためにだけに食べ過ぎても良いのかと自分の心にきずき、結果、小食になれたという事が理想ですね(^^神様を信じなくても良いし、高級霊に囚われることはありません。生きてる人に信じられる生活を送れば何も恐れることはないのですね☆ 生きてるだけで、修行なのですから(^^生まれてきた試練や使命が違うだけで、元のもつ魂は人である以上変わらないと最近では思うようになりました。皆さんそれぞれ誰もが、素晴らしい方なのですから(^^あ、そうそう 最近のお坊さんはランパブに高級酒キープ、焼肉、ステーキ 女性と遊ぶなどすき放題しすぎの方が随分増えてるそうですね~そんな方のお経で諭されて、成仏するのか疑問に思えたことがあります(笑 でも、我慢だけが全ての道だと、お坊様の方も執着を残し成仏できないのでしょうね。我慢からとか、病気治しだけから小食、断食の道に入るも、長く出来ない要因の1つがここにあるのかもしれませんね。生かされてることにきずき、自分の体の声を、きちんと聞けるようにならないと挫折しやすいのかもですね(^^ ◇◇◇(10/21・土・こちらからの返信)>小食にて、胃が小さくなり小食でも対応できる体に変化しつつあると言うことですね。 一週間前に読んだ時は、(そうかなあ)と思ったのですが・・そうかもしれないと、今、思いました。これまで食べていた食事量が、今、キツク感じてます。一ヶ月前から日中断食やってて、今日は一日断食してます。朝晩、水を沢山飲んで。(5年前、食改善した時から西式を知る前まで、一日三食しっかり、きっちり食べていた時と、今の体重は、ほぼ同じです) >大食いの人は不浄仏霊というのは色々な意味合いで考えると大きくははずしてませんね。 理解して頂いて、すっごくうれしかったです。であれば、大食いは解決って、できるものなのですね。 >供養する意味で、しなければいけない事なのです。たとえば、ご先祖様で供養する意味で、好きな食べ物を添えることで迷いが消えて成仏したりと(^^ ひでちゃんから、そういう意見が聞けるとは、感動してしまいます。好きなものを供えることによって、ご先祖さんの迷いが消えて成仏するって、スゴイと思いました。目に見えない私の生活圏に影響する霊的存在の執着心がなくなる?って、子孫に、愛されて、満足して、行くべきところに行けるということなんですね。 >浄化した霊は食べ物を一切食べたがらないそうです。 すごーい!自分のご飯の前に、ご先祖さんのご飯を考えて実行してあげたら、自分の回りで、かまってかまってと、おんぶやだっこをせがむ霊は大人になって成長し、生きてる人を困らせないっていうかんじですね。 >神様にお供え物をするという意味は、感謝の気持ちの表れであり、それを食べたいというのは偽者であり、その意味合いから、食べ物を食べなくなる人は、高級霊の影響を受けて食べたくなる要求が減るということなのですね。 今、読んでみて、あっ!と思いました。≪お供え物をするとは、感謝の気持ちのあらわれ≫一種の祈りなのだなあと。口だけで、念仏のように、「感謝します」というのに対して、神様とかご先祖さんが、「ほんと?どのくらい感謝してるの?行動でみせて欲しい」ということなのかなあと。これは、普通の人間関係と同じということですね。好きな人には、「好き」という言葉もあげて、さらに、何かしてあげたくなるもの・・だものね。 私、たいしたことはしてないんです。分家だし、仏壇もないし。両家のお墓が遠いため、お墓参り、ほとんど、いけてません。組み立てしきの本棚二つを並べて、一番上の段に、それぞれの先祖代々の位牌を置いて、(仏壇やさんで、一番安いのを買ったんです)水、ご飯、お花、自分たちが後で食べるお菓子を、袋をはがして、「どうぞ」と差し上げるだけ。あっ、それと神棚もないので、お花を上げてる小テーブルに、神様の分も同じくしてます。そして、物を上げたり下げたりしながら、言葉をかけるのです。「どうぞ、召し上がって下さいね」「おみやげですよー」とか、「頂いていきますねー」とか。・・これが、祈りに通じる、やりとりなのかなって。解答を得て、それらは漠然としたものではなく、ちゃんと、やりとりがなされているのだなあと、実感したわけです。ありがとうございました。◇◇◇■甲田先生から影響されたこと。 投稿者:ヒヤシンス 投稿日:10月22日(日)06時13分1秒 私の病的症状というものを上げるとしたら、≪精神的鬱≫に関連するかもしれません。ファーストフードを食べた直後に、それを感じたことから、これまでの「食」習慣の間違いを徹底的に改善し始めました。きっかけは、知人にすすめられた玄米酵素のサプリメントの会社の、無料の栄養管理士さんによる勉強会でした。その関連で色々な専門講師の話があり、その中で、甲田先生の講演記事が紹介されていて読んだのです。サプリメントを買う経済的余裕が無くなったとき、再び、甲田先生の本との出会いがありました。「長生きするには朝食を抜きなさい」の昼休みの立ち読みから、朝抜き、昼抜きの体になり、その本には、霊的にすっぽり洗脳されました。また、体がいうことをききやすかったのです。あまりにも、甲田先生が好きになり傾倒したためか、一時期、私の顔つきが、甲田先生に似た顔つきになったなと思ったことがありました。食との付き合い方で、精神状態は、いかようにもなるものと、わかりました。(いちぐうさまへ)甲田先生関連で、いつか、お会いすることがあるとしたら、とても、素晴らしいですね。この掲示板の方々とも。また、11月の甲田先生の講演会の内容を、参加するどなたかが、レポートして下さると、ありがたいです。お話の中で、心にとまった一言でも知りたいものです。>甲田先生のお話の中にもいったん、お供えしてから食事をしなさいといわれてるところがあります、そうすると餓鬼が治まる人もいるそうです。これは、実感します。いったん、全てのものを捧げきる。神様にお返しする。そこから、ちょびちょび、おことわり申し上げて、神様から頂戴するという形を取る。>実際、先生も「自分の食欲も我慢できないなら医者になる資格がない、それならもう、食べたいだけ食べて死のうかと思った」時期もあるそうです。その時に祈ったというのです。「どうか命を大事にする愛と慈悲の心にさせてください」甲田先生の「少食にさせて下さい」と念ずる、出来るまで、念じ続けるというお話が最初の甲田先生とのインパクトある出会いでした。「食」と「祈り」のつながり・・今、もう一度、自身の中で意識し直し、深めていくことが出来ますように。・・初心に帰ることができますように。(ひでちゃんへ)江原さんの幼少期のような歩みを通過されてきたのですね。イエスやマホメットもそのようです。さらに、神の啓示を受ける人は、皆、共通して、苦境と思索の時期があるようです。甲田先生の本の中で、「五井昌久(ごいまさひさ)」さんの名前が出てきますので、調べてみました。甲田先生と共通する言葉として「人間は本来、神の分霊(わけたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているもの」であり、「この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤てる想念が、その運命と現われ消えてゆく時に起こる姿である」甲田先生の本の中で、自力と他力の話がありましたし、守護霊と守護神という言葉も見つけたので、「なるほどなあ」と思いました。それと、甲田先生は、顔つき、体つき、手相でも、瞬時に判断なさるので、霊能者の中でも高い心霊(神霊?)の域にある方かと思われます。
2006年10月14日
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塞(ふさ)がっていた心の霧が晴れたような・・。その理由の第一は、苦しい現状を深い感謝に転換させた人のメール文、つまり良質な心情が綴られた言葉と文を目にしたのが一つ。第二に、腸に渋滞していた便の詰まりが排泄され始めたことが一つ。第三に、断食掲示板へのマニアックな(?)自分の書き込みに、返事をもらっていたのを見つけたのが一つ。(どこから書き始めたらいいやら)・・掲示板に変なこと書いちゃったな・・と思っていたけど、レスをくれた一人の方の文を読んで救われた思いになった。コミュニケーション法を学びます。(と言って、自分のブログの掲示板に、書き込みくれた人に対して、長く返信ができないでいる。せっかく書いてくれた人は、無視かよって思いますね・・・・気分がノッタ時に書かせてやって下さい・・クールな一面を、自身に感じつつ・・なにとぞ、おおめにみてやって下さい・・今、変わろうとしている最中なのです)社交辞令の言葉を発したくない。おべっかや、繕った言葉、ツクリ笑いやお愛想はできない・・去年のラマダーン明けに噛み締めたことだったのです。私はお愛想の人だったし、表面つくろいのイエスマンだったし。人と対面する時、一所懸命「うんうん」と大袈裟な相槌を打ったりする。長く営業の仕事だったからと思う。そんな私に対してNさんが言う。「わざとらしい・・。そのくせ、本当には相手の言葉を聞いていない」いかにも話きいてますよと、表面いい人ぶって、その実、本当に人の話を理解しようとはしていない。(ああ、ズバリだな。本当にこの人は、私の問題点をよく理解しているな)と感心する。「そのわりに、わたしの話には、反応薄いよね。ホラ、また無視してる」とも、Nさんに言われてる。・・母が父の機嫌をとろうと、お調子ものに振る舞うのを見て、(夫婦はおべっかで付き合うのは絶対いやだな)と思ったことが一度ある。本音の負の言葉は口にせず、娘の私に愚痴をこぼした一場面に対して思ったことだった。「その言葉は、私じゃなく、本人に言うべきだと思う」と私。「言ってもムダ無駄」と母。(ヤな大人)と思った。それで、(自分がいっしょになる相手とは、喧嘩してもいいから、思ったことが言える関係でありたいな)そのとき思ったものだ。(夫に本音を言わずに誰に本音を言うのか)・・今、そう思える自分はありがたい運命にあずかっているな・・。夫が一番の親友といえるし、親以上の愛を注いでくれると感じさせもする存在だから。本音で接することが出来る相手に対して、素の顔の自分は、時にぞんざいな態度だったり、無反応、無視と受け取られたり。心遣い、気配りは、やはり手薄。こちらの気分による面おおし。結構、テキトーな「うんうん」で話を流したり。マンガチックなキャラクターの子供っぽい声でお調子もの風に、ワイワイ空気をかきまぜ演出してたりが日常だったり。それは、そうした空気の中にいた方が、自分の呼吸がラクだから。(あっ、そっかー)今、母の調子のよさを理解。(そういう人もきっと多いと思われる・・多分、藤井隆さんとかも(?)・・先日みた乙葉さんが、バラエティ番組で見せた反応からの推察)・・今、Nさんを見送ったところ(Nさんとは「お兄さん」の略)・・私は人を気分良くさせる言葉の紡ぎ方には天才的なところがある・・それを発揮しているのはNさんだけになんだけど。口オバケと言われるが、口をついて出てくるのだ。玄関口で・・今日の言葉はこう。・・サンタさんをお見送りするように・・「かみさま、お仕事に出掛けるんですか?かみさま、いってらっしゃい。夜だけココに、来られるんですよね。いっぱい愛を受けてるよ。ありがとう。このおうちは愛でいっぱいだよ。おへやは「好き」が充満しているよ」とかわいい口調で言ってみた。Nさん、笑いと、いいお顔。ちょっと、心が動かされている、という目のウルウルした表情、その顔を見て、(あたしって、本当に口が「お上手」な人だな)と自分に感心した。けど、おべっかではないんだな。セリフの創作なんだな。(あたしが、あげられることは、こういうことぐらいですが)(「賛美」、「相手を笑わかす」・・これは営業から学んだことだったな・・と言って、営業成績はそんなでもなかったな)自分にそう言っている。それでNさん、出掛ける前、今日の仕事内容やスケジュールを話してくれ、しばし雑談、今度は普通モードの会話。見送りのゲンキ・スマイルはちょっと誇張してみせ、見えなくなるまで可愛く手を振ってみせた。言葉はナマものである。私の心の有り様がセリフとなる。今、急に、朝ドラ「芋たこなんきん」の夫婦を思い出した。・・町子役の女優さんの表情。演じているのは、藤山直美さん。町子役のモデル像は田辺聖子さんです。(・・幸せな方なんだな・・)パートナー役を演じている俳優さんは、國村準さん。すごく存在感がある。物語のテーマは「親子の前に、まず夫婦。パートナー。何でも話合える夫婦」というものらしい。主人公カップルは、おっさんとおばはんなのだけど、言葉のやり取りは、実に親密でいいキャッチボールの投げ受けをしている。お二人の実年齢は40代後半から50代?なのだろうが、なんて味があるんだろうって思える。顔がどうのこうのとか、皺があるとかないとか、服装のセンスがどうとか、太ってる痩せてるとか、そういうものを越えている人間の味。顔の表情と、目の演技だ。確かにベテラン俳優さんたちだから、すごく上手なのだけど。(ああ、夫婦って、コレだよな!)と今、思えた。顔が、皺が、服が、体重が、どうのじゃない。顔の表情と目とで、本音トークを繰り広げているんだな。それが夫婦というものだな。その熟年カップルの会話に一役買っているのが、テーブルの上の食べ物。「ダイエットとかいうけど、食べることって大事なことやと思うんよ」と町子さん。今日、未明考えたこと・・(ウチのご飯のおかずメニューを練ろう。変化と工夫を凝らそう)・・さて、「芋たこなんきん」のあと、また来ます。
2006年10月14日
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「泣くとスッキリする。また明日頑張ろうって気になる」と山田優が言う。「新陳代謝よ」美輪さん。「魂も汗や涙を流す。それは分泌液。排泄している。お風呂に入っただけでも気持ちいいでしょう?排泄って大事」と江原さん。つまり魂も成長しているのだな。その際、汚れも吐き出す。一日の汚れは、その日のうちにサッと流す。早い方が汚れは落ちやすいものね。「オーラの泉」を終えて一夜明け、心に残ったのは魂の分泌液の話だった。その話についてなら、ちょっといい話がある。最近、習慣になっているのは、セイタカアワダチ草でつくる入浴剤のお風呂だ。なにしろ最近の私は、木工作業などをしているのである。のこぎりで木材を切ったり、マシーンで木を切ったり。木の粉をいっぱい浴びて帰ってくる。うわっ、目に入ったな。と、思ったあと、すぐに目の痛みは無くなったものの、家に帰ってから、湯のみに自然塩を入れて目を洗ってみた。木屑の粉が出てきた。うわっ!やっぱり、目に粉塵が入っていたか。体はどれほど汚れをまとっているかしれない。石鹸で洗う5分~10分のシャワーじゃ気分はスカッとしない。そこで自然の薬草を煮出したお風呂が効果的である。今週いっぱいお天気続きと天気予報で知って、休みの日に1年分のセイタカアワダチ草の花が開く一歩手前のものを収穫した。酵素が蕾にギュッとつまっているというから。いろいろ歩き回って、今通っている学校の裏の空き地にビッシリ生息しているものが、もっとも株が大きく品質が良いと知り。休日の朝、俵いっぴょうほどの量を収穫し、担いで家に運び、お風呂場の浴槽へ。二度の水洗い。ベランダ干し。蕾から30センチほどで切り束ねて干す。乾燥したらお茶と入浴剤に。その際、出た捨てる部分の茎や葉を今、煮出してお風呂に使っている。自分の分だけ使いきり。皮膚の隅々の汚れや、クサクサする思いの汚れもその液が吸い出してくれるよう。昨日はアカスリもして。黒い垢が出た。やっぱり、今、日中、飲まず食わずの断食しているから、奥の奥に潜む汚れも、排泄されようとしているのだな。自分が日記に書いた「遺伝子を清めている」の言葉には、慰労されるおもいだ。日中、水が飲めないというのは、やはり、ちょっとこたえている。昨日、お風呂のあと、2リットル水を飲んだ。まあ、そのお風呂に入ったあと、全身をEM石鹸で洗っておしまい。髪の質感をよくする・・これは納得だ。リンスが要らない。まとまりがよいなど。最後、石鹸で髪を洗う時、非常に気持ちのよい泡立ちである。大型やかんで煮出したエキスを少し湯のみにとって飲んでみた。みごとに苦い。木工作業はもちろん得意ではないけど。で、そのことで思い出した。昨日、手の平に小さいトゲが刺さっているのに気づいた。(どうしようもないな・・あきらめ)そのお風呂に入っている最中、どうやら取れてしまったようなのだ。汚れを吸い出すってこういう効果ものぞめるとは、ありがたいではないか。人は、小さいトゲに翻弄される。今日からは手袋を持参する。最近、書けない状態になっていた。書く行為は、私の魂の成長に欠かせない分泌液であり、新陳代謝であり、排泄でもあるのに。甲田先生なら、こう言うだろう。「便が溜まってますな」・・なるほど、無感動状態のときは確かに腸に便が滞っている状態というのは、ほんとうにそのとおりといえる。断食症状に激励をおくる。「今がベストの状態である」と。「飢えさせることによって、本来の力を引っ張る」甲田先生の言葉より。つまり断食は、分泌を活発にさせる行為でもある。メンテナンスの月間である。年齢や若さを儲けようとしている。この月間を終えるとスッキリするのだろう。食欲、食べることを欲するおもいは、随分変化が起きている。あまり食べれないのだ。素食と、少しで足りる。コーヒーも、そんなに欲しがらなくなってきている。
2006年10月12日
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韓国のお盆、秋夕(チェソク)にちなんで、チャングムの時代に関わった歴代王を下記に書き出してみた。あれこれと書いてしまいましたが、失礼!チャングムさん、ドラマの台本は脚色でしたね。お気をわるくなさらないで下さい。今日までが秋夕なので、チャングムさんの霊と、歴代王の霊の方々と、気持ちが通じますことをおもってアップします。◇◇◇「チャングムの誓い」その3・・本日、あけぼの前からチャングムをネタに書いている。それで、おもったこと。チャングム、あなたも、完璧な善人ではない。実在する人物だから、そう言いたい。宮中において、数日間、チェゴサングンの格好をしたチャングムは、男性と手を触れたり、男性の肩に頭をもたげたりしてはいけないだろう。母ミョンイは、≪男性との密会≫という偽りの噂を理由に毒殺されようとしたのだから。「王の女」という立場が女官なのであろう?医女の立場は知らないけれど・・。だが、その場面で流れた挿入歌、ゆっくり歌う男性の声・・とても良かった。昨日、賛美歌を聞いてみたが、賛美歌より上だと思った。霊性が高く感じられた。韓国の歌。ところでチャングムは「一番の医術」を極め、「復讐」も果たし、褒美の品ももらった。目標が達成してしまった。なんだか、一気に気が抜けただろう。一抹のさびしさ、空虚さも感じ取れた。チェ女官長、クミョンは素の表情を見せて、去っていったが、チャングムはこのところずっとかたい表情だ。演技が難しかしいところではあろうが。(・・ちょっと高慢さも感じられ、可愛げがないとも・・)いいことのあとには、全く別な試練が、別な角度から押し寄せたりする。このドラマ、今日で終わってもキリがよいところだが、まだ終わらない。人の物語は、実に始まりがなく、終わりがないものだ。私はこのドラマを15分ずつの朝ドラでも良いのではという気が、今日した。内容がいつも盛り沢山であるから、いろいろ変化が激しすぎて、感想を書くことがずっと出来なかったと思う。15分~30分くらいの刻みだったら、その都度、感想日記が書けたかもしれない。それと、ヒロインの条件を考えてみた。顔は美人でも、そうでなくても、≪顔が輝いている≫ことが絶対!それと、可愛げがあることと、ピュアな恥じらい。恥かしさの純朴を出せること。(・・「芋たこなんきん」のヒロインに、ちょっと注文をつけたい部分だったりして・・)それと、私生活においても、心に傲慢さがあったら、それが画面に現われてしまうのにお気づきか?視聴者に伝わってしまう。今の自分で、これでいい!思わないで。線を引かないで。その役を演ずる求道者であって欲しい。(これらは自分に望んでいることとも言えるのだが)ところで、今、韓国は秋夕(チェソク)といってお盆の時期らしい。10月6日が当日の秋夕で、前後3日間をさすという。今年は8日までとか。昨日はその情報を色々調べていたが、チャングムのドラマの中で、秋夕の場面もあればなおよいと思った。ドラマで韓国のお盆、秋夕の儀式を顕わしたドラマを見てみたい。◇◇◇◇九、成宗(ソンヂョン)・・燕山君、中宗の父・・1457年~1494年(没38歳)/朝鮮第九代王/在位期間:1469年(13歳)~1494年(38歳)/朝鮮開国以来、最も平和な時代を開門。◇十、燕山君(ヨンサングン)・・中宗と異母兄弟・・1476年~1506年(没31歳)/朝鮮第十代王/在位期間:1494年(19歳)~1506年(31際)/戊午士禍(ぼごしか)と甲子士禍(こうししか)を起こす。■十一、中宗(チュンヂョン)・・チャングムが仕えた王・・1488年~1544年(没57際)朝鮮(チョソン)第十一代王。在位期間:1506年(19歳)~1544年(57歳)/中宗反正(チュンヂョンはんせい・・正しい政治に戻ること)により王位に就く。◇十二、仁宗(インヂョン)・・中宗の長男、孝心に厚い・・1515年~1545年(没31歳)朝鮮第十二代王/在位期間:1544年(30歳)~1545年(31歳)◇十三、明宗(ミョンヂョン)・・中宗の次男、12歳で王位に就く・・1534年~1567年(没33歳)朝鮮第十三代王/在位期間:1545年(12歳)~1567年(34歳) ≪※注意・・韓国の年齢のかぞえ方は数え年≫
2006年10月08日
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夢の解明のつづき・・私は、今になって気づきはじめた。なぜ、人は断食するのか?断食の意味がすっかりわかった。(日中断食をしているからなのか?)・・食べるべきものでないものを食べたという罪なるおもいにかられた夢。それは、≪盗む≫とか、≪どろぼう≫とか、そういうたぐいの負債感だった。まさか、じぶんが・・。苦しかった。冷や汗をかいた。青ざめた。血統的罪というのか。自覚するのはつらいよ。けれども、・・究極的には、まさしくそのとおり!と客観的判定をくだそうと思う。人類歴史の最初の罪、それは、聖書によると、エバが蛇にそそのかされて、神様が「この木からは取って食べてはいけない、といわれた木の実を食べた」というもの。宗教者の断食は、そこに起因しているのだ。そんなことが、わからなかったなんて。初歩的な自分だ。食は(性殖の)殖でもあり、(色情の)色でもある。その人類始祖の二人から生まれた兄弟、兄カインは弟アダムを手にかけ殺めた。淫乱の血統、殺人の血統。そして、自分の血統を、泥棒の血統と呼ぶのはなんとも辛い。けれども、小さきことに嘆くな、じぶんよ。もともとをたどれば、実は淫乱も殺人も泥棒も、全てを含んでいる血統なのだ。多かれ少なかれ、実は全ての人に共通する血統の話だったのだ。テレビで医療ミスのニュース、メスをお腹に入れたまま忘れたなどの、うっかりミスが報じられるとき、その病院内で、どんな淫乱の状景、男女問題からくる曇ったおもいがあったのか?・・咄嗟にそうおもったのだ。断食とは・・先祖のまた先祖の、根本的な祖先からの遺伝子を、整理し清めようとする行為なのだ。その証拠に、細胞にこんなにも影響を与えているよ。胃の動き方も、食べ物の欲し方も、なんだか、いつもとちがうよ。遺伝子の大掃除、余分なものが、どんどん削除されていってるかんじだ。この者にとってためになるものだけが、厳選されて、残されているような感触。生きてるものだけがなせるワザ。(つづく)◇◇◇アインシュタインの言葉 :「私は神がどのような原理に基づいてこの世界を創造したのか知りたい。 そのほかのことは小さいことだ。私の最も興味を持っていることは神が宇宙を創造したとき選択の余地があったかどうかである」
2006年10月08日
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恥かしい罪の看板を首にぶら下げることほど辛いことはない。その逆は?・・人から賞賛、褒められるような証が印された首飾りをかけてもらったら?・・その誇らしさといったら、いかばかりであろうか。霊界で、永遠の時を過ごすというとき、その両者の違いはあまりにも大きい。あちらへ行って、体を失ったら、やり直しがきかないというではないか。◇◇◇「チャングムの誓い」その2・・私は先日のリアリティあふれる、午前2時にみた恐い夢をおもった。食べてはいけないものを食べ、罪に問われ、疑わしき目で詰問され、尋問を受け、「いいえ、知りません」とシラを切った夢だった。その恥かしさといったら。その負債感といったら。良心の呵責。良心が、おこなった全てを、みて、知っているため、びくびく怯える自分の愚かしさといったら。知らず知らずの内に犯す罪というものを、一回でも疎かに軽く思うな。一回を疎かにすれば、間違いを繰り返すことになるから。自身の中に住む良心が、ブレる時、呵責を感ずる時、それが間違いである。間違いがあったら、すぐにバレることは幸いである。そのことのために、即座に、その場で窮地に立たされる方が幸いである。そこで、学習できるからである。何が間違いであるのかを、自身に刻めるだろう。そして、早くに改善される。あの世で恥かしい思いをするくらいなら、この世で即座に恥かしい立場に立たされる方が幸いである。どうか、今後とも、私に悪事があったら、すぐさま、それらが露見し、私を窮地に追い込んで、罰して下さいますように。・・そんな思いをしたくない。良心と私は団結する。そのために、私に魔が侵入しないように。良心さん、事を起こす前に、お助け下さいませ。黙ってみてないで、お守り下さいませ。テレビで流れる事件を、今日、目にしたとき、事を起こす瞬間、その人に≪魔が侵入している≫・・そう思った。何者かに働きかけられていると。血統的な罪・・そこから来ている・・と思ったのは、今日のチェ女官長をみておもったこと。罪を犯すのは5分ででもできる。ゆえに、5分の遅刻を自分に許すな。5分の善行を積み重ねられるように。・・チェ女官長のセリフで「あっ!」とおもったことがある。「富と権力を手にしたものでなければ、わからぬ。名誉を残したいという気持ち・・」そのようなことをチャングムに言うセリフ。人間が一番欲しいものがわかった!と思った。究極的に、人は名誉が一番のほまれだ。そして、霊界に行けば、真の名誉ある実績を積んだものが、あの世の高いところで優遇されることになるのであろう。富や権力は、この世のもの。この世だけの価値。霊の世界で有効なのは、名誉ある真の実績によるものだけ。が、その名誉という言葉も意識も、超えて、忘れているとき、その人は神様の領域に入っているといえる。(つづく)◇◇◇■「脳内革命」( 著・春山茂雄)p45~51抜粋マズロー博士の五段階説と脳のはたらき・・人間の基本欲求は段階的に高まっていく(マズローの欲求的段階説)。その欲求はちょうど階段を一段一段登るように、低次元から高次元へと段階的に登っていきます。1、生理的欲求性欲、食欲、睡眠欲・・本能とか欲望。生命を支えるために絶対に満たされなければならないもの。この欲求の出所は爬虫類脳と考えられます。2、安全の欲求空腹の時は恥も外聞もなく食物を求め、そのために危険をおかしても平気ですが、それが満たされると今度は自分の安全ということを考えるようになります。3、所属と愛の欲求第一、第二の欲求が満たされると、その次に出てくるのは自分をなんらかのかたちで社会の一員として存在させたいという欲求です。社会帰属の欲求。対象を必要とする愛する行為もこの中に含まれます。空腹も満たされ、安全も保障され、社会の一員として集団に属することもできた。しかし、人間はここまでの段階ではけっして満足しないとマズロー博士はいいます。4、承認の欲求これは一般的に自尊心と他者からの承認の欲求といわれるものです。自分が人よりすぐれていることへの自信、能力への確信、達成の実績、自立の確認、こういったものによって自尊心を満足させたいという欲求と、そういったことを他者からも認めてもらいたいという欲求です。他者から認められた証として、表彰、名声、地位、評判などがこの欲求の具体的な内容になってきます。人間はただ社会的集団に帰属するだけでは満足しない。帰属すればしたで必ず自分が他人から承認されることを望むというのです。それでも人間はまだ満足しない。5、自己実現の欲求第四の欲求まで達した人間は次に「なれる可能性のある最高の存在になりたいという願望をもつ」(マズロー博士)これは神の世界にも通じる心境といえます。孔子のいうところの「七十にして心の欲するところに従い、矩(のり)をこえず」の世界でしょう。すなわち、他人と自分の間に境がなく、心の命ずるままに行動して、気がついてみたら、世のため人のための行ないになっている。そのような理想郷の世界ではないでしょうか。「自己実現の欲求」までの五つの欲求が、人間のもつ基本的欲求であるとマズローはいう。この説が「欲求段階説」と呼ばれるのは、これらの欲求が第一をクリアして第二へ、第二をクリアして第三へと、必ず前の欲求があるていど満たされたあとに次の欲求が生じるとマズローがいっているからです。この説は人間の基本的な欲求を脳生理の側面から理解するうえでまことに当を得ているといえます。
2006年10月08日
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「こんな家に生まれてきたばかりに・・悪事に身を染めねばならなかった、私の罪を許しておくれ」チャングムの母・ミョンイの墓で罪を詫びるチェ女官長。少女時代はミョンイと友達であったはずなのに、一族の命令で、当時の皇后に毒を盛る現場を、ミョンイに見られてしまった。正義感の強いミョンイは自らの危険をも顧みず上司に報告。上司はあわてた。毒を盛る一件に関わるものだったから。さっそく、口封じのため、ミョンイを死に追いやる口実を計り。死に至らせる役目を担ったのが、若き日のチェ女官長だった。「あなたが、私の一族に生まれ、私の立場にあったなら、あなたはどうしたかしら?是非知りたいわ・・。私は、一族を捨てられなかった」「いったん、富と権力と名誉を持ってしまったら・・」どんな手段をつかってでも、それを維持しようとするもの・・と。チェ女官長の悪事というのは、その人ひとりの問題ではなく、一族という血統的悪事を意味するものだったのだなとわかる。「その上の叔母も、またその上の叔母も・・」その地位を獲得するために、代々、悪事を計ってきたと懺悔する。墓に向って懺悔の前のシーン・・逃亡したチェ女官長がキムチの倉庫に隠れているという知らせを受け、チャングムが訪ねる。「自ら、自首なさって下さい。そして、全てを自白して下さい。名誉を持って、宮中から立ち去ることが出来るように」善人のチャングムと、悪人のチェ女官長が、対峙する最後の場面をみて、「ああ!」と、思ったことがある。はじめ、私は絶対チャングム側の善人・・というつもりで観ていたが・・。しだいに、悪人呼ばわりしている自分の中にも、チェ女官長の部分があるではないかと気づくようになっていった。(先週だったか・・)つまり、自分という一人の中に存在する両者の善と悪の性質。その≪善と悪を二人にくっきりと分配したな≫・・と、思えたのだ。悪の時は、いつかは果て、自然淘汰され、葬り去られる。善だけが残り、善の血統だけが、続いてゆくため。悪人は徹底して悪の限りをし尽くす、それは早く悪を根絶やしするために。悪の血統を葬り、終焉させるために。悪は一時は権勢を振るっても、いつかは悪事がバレ、不名誉と恥かしさいっぱいで、みじめな悔恨と自らを責める時がくる。(つづき)◇◇◇■「脳内革命」(著・春山茂雄)p26~28抜粋数ある脳内モルヒネの中で、最強の快感ホルモン物質はβ-エンドルフィンで、その効力は麻薬のモルヒネの五、六倍は楽にあります。これだけの快感物質が私たちの脳内でつくられることは何を意味しているのでしょうか。神様が私たち人間に「楽しみなさい」といっているのだと思います。人間はけっこうわるいことも考えるし、実際にそれをやってしまいます。たとえば「人をおしのけてでも自分が得をしよう」と考える人がいます。そうやって大金を儲けたとします。あるいは地位や名誉を得たとします。そのような願望が実現すればその人はうれしい。うれしければ脳内モルヒネは分泌します。しかしなぜだかそのような楽しみは長続きしないのです。必ずどこかでおかしくなる。世のため人のためにならないこと、人からうらみをかうようなことをすると、どういうわけか脳がその人を滅びの方向へと誘導してしまうようなのです。これはたぶん、神様が理想とする生き方にあった者だけが生き残れ、それにあわない者はできるだけ消していこうとするメカニズムが、遺伝子というかたちで体の中に残されているのだと私は解釈しています。 脳には先祖の記憶までインプットされていますから、そういうことがあってもおかしくないと思うのです。◇◇◇■あらすじ・・『宮廷女官 チャングムの誓い』・・第48話「チェ一族の崩壊」 司憲府の調査室にすべての関連者が集まり、チェ女官長とオ・ギョモの陳述が鋭く対立する中で決定的な証人が登場し、事件の全貌が明らかになる。決定的な証人とは?・・チョンホにともなわれ姿をあらわしたのは医局長ユンス。あわてたオ・ギョモとチェ女官長は・・。互いに罪をなすりつけ、その結果、これまでの悪事を暴露しあうことに。報告を受けた中宗は今回の件を左賛成に一任。取調べの責任者として任命された左賛成は、オ・ギョモとチェ女官長などすべての関係者を護送する。チョンホはパンスルの屋敷を捜索し、パンスルを捕らえる。一同の取調べが始まる直前、チェ女官長が逃亡を図る。宮中内に潜み、尚宮(サングン)たちに助力を求めるが、応じるものは誰一人いなかった。チャングムはチェ女官長に自首するよう勧める。どうにもならない事を悟り、チャングムの母であるミョンイの墓の前で自分と自分の一家の過去を悔恨する…。取調べが終わり、それぞれの刑が決まった。クミョンはチャングムにあるものを手渡す。刑に服するクミョンに、最後の声をかけるチョンホ。答えるクミョン。・・中宗は、自分の病を明かし、オ・ギョモらの悪行も明かしたチャングムにほうびを遣わし、願いをたずねる。チャングムには三つの願い事があった。
2006年10月07日
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昨日の続きを考えていた。断食の意味について。聖書にも断食の話が出てくる。イエスさまが、「私は断食してますという顔をするな」(いかにも、私は善行を行っていますという苦々しい顔をするんじゃないと)それはともかくとして・・食を断つということは、これまた神様とのコミュニケーションなのではなかろうか。なぜなら、日中飲まず食わずということは、人が食べている時間、暇なのである。数日前から学校に通ってきている人たちの中に7時間も一緒にいるわけだが、昼飯も食べなければ、お茶も飲まない。人々との交流の輪の中に入らない、入ろうとしない。休憩時間は本を読んだり、散歩したり、机にうつ伏せになって仮眠したり。そうする中で、ちょっと孤独であり、ちょっと寂しい。なので、一生懸命、神様に話しかけます。今日の気分は~こうこうこうで、こんなことを考えてます・・など。イスラム教徒の人はすごいなとおもう。一日に5回礼拝するそうだ。人々がコーヒーや煙草の時間、神様と交流する。意識的にそういう時間を5回つくるとは・・。どんなふうにそれをしているのか、あとで調べてみたいとおもう。ところで、神様へのお供え物について、またまた考えていた。食べるべきものを、頂かず、・・そのことじたいが、神様へのお供え物という意味なのかもしれない。ささげもの。その行為をとおして、神様とのやりとりができるできるのではないか。森公美子が、幽霊が出てくるには条件がいる。そういったではないか。神様がおでましになるにも、やはり条件がいるのだ。聖書での断食の意味は「罪の赦し」とか「天に宝を積む」などの意味。霊界へ行ってからの待遇に関係するなど。また、この世においても「食」とは「待遇」にも関係するかと思う。暮らしの待遇など。並べられているテーブルの上のものを通して、どれくらいの、もてなしを受けているのかの判断基準となったり。食の内容は、その人がいくべき人生の原因ともなる。いろいろな意味において。(四柱推命の十干のうち「食神」という星は最も尊ばれている星でもある。実際は、それを善しとするには、いろいろ条件があるにしても)「人の一生において食べる量はあらかじめ決められている」とは水野南北だが、その食という宝を、受け取らず、捧げるのだから、日頃は霊的にコンクリートで覆われている人間であったとしても、断食の時ばかりは、神様から注がれるものが、その人に及ぶ・・そういう意味もあるだろうか。断食について検索してみると色々な人がいる。40日断食をする人もいる。(イエスさまもそうだが)それをする人は、自分のためではなく、国のためというのである。生まれた時にすでに与えられている禄高を、神様へお返ししに持っていき、どうぞ、この条件をもってこの国の運命を救って下さいと、公のことのために、行動される人。すごい。義人である。そういう人がいるのだな。いろいろな情報を拾ってみると、ラマダーンというこの時期は、イスラームの人に限らず、あらゆるところで、≪食を断つ≫に挑戦している人はいるということだ。そんな月の運行時期なのだろうか。つまりは、断食はダイエットとかいう目的では、到底続かず、神様の介在あってこそ、意味あるものといえる気がします。ところで、深夜より雨嵐、今朝、そうした中を学校に歩いて通おうとしている直前。BGMのU‐SENも途中で切れてしまう。真夜中に時計を見たら午前2時ぴったりだった。恐い夢を見て目を覚ました。気分がおもいためすぐには起きれない。ぐずぐず惰眠して午前3時過ぎにようやく起き上がる。あけぼの時間の4時迄の間にコーヒーを飲みたいからだ。水を少々口に含み、コーヒーをおなかに入れるため、キャベツとニンジンを刻んだサラダをお腹に入れ、その次にコーヒーを流し込む。最後は玄米酵素のサプリメントを噛み、水を流し込んでおしまい。今日の日中、この者の心が守られますように。受ける授業の中に神様を見出すことがかないますように。そろそろ「芋たこなんきん」の時間がやってきた。
2006年10月06日
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「お茶でも飲んでく?」「幽霊だもん。いらない要らない」・・「オーラの泉」での森公美子の友人幽霊との会話。おでましになる幽霊って、実はそんなにコワイというものではないようだ。楽しさと笑い?喜ばしいものにさえ感じさせる。幽霊が出現するには静電気が関係し、その他いろいろな≪条件≫がいるらしい。足のない幽霊は根性がないからとも。森公美子さんの友人は霊性が高い人のようである。お茶など要らないよと言っている。ところで、イスラームではお供え物はどうしているか?キリスト教では?死者への物品はどのように。(「細川ガラシャ夫人」の中で、ガラシャが、側近の侍従者に調べてきてくれと言ったきり、解答は無かったもので)キリスト教の人たちは、お盆やお彼岸は、どのようにしているのか?(三浦綾子さんの家では、どのように?)歩きながら得られたヒントは・・お供え物などの万物は、死者の霊にしろ、神様への祭壇にしろ、「コミュニケーションである」というものであった。心のやりとり、会話にあたいするもの。物を通して心を伝える。この世においても、よく行われていることであるが。何かさしあげたい、お礼したい、与えたい・・などの気持ちを物品で顕わす。聖書で供え物のシーンはいくつかあり。カインの農作物とアベルの羊。アブラハムの牛や鳩や・・その後、子羊など。いずれも、供え物の失敗で、事件や試練に遭うなど、供え物をするものの心をご覧になられているようだ。人類始祖とされるアダムとエバにおける供え物というのは、とくになし。「禁断の実を食べないこと」のいいつけのみ。それが、いわば供え物という条件に相当するものだったのだな。約束を破ってしまったので、そのあと、供え物というものが、おこったのだろうな。・・と、朝7時にもなって、「なるほどそうか」という解答を得た。私において7時過ぎに意味する干支はインスピレーションの星が回ってきている。(辛・日干の人は朝7時~9時迄が傷官の星)3行のつもりで、この時間、日記に記せばいい。メモ書きのつもりで。(!)いい考えだ・・ひとりごとです。普通、人は幽霊と会話もしなければ、めったにあうこともない。霊の存在も、わかる人とわからない人がいる。森さんの場合は「右脳に入ってきて、私が勝手に映像化」らしいが、それも十年前に一度あった話らしいし。つまり、一般的には、霊と人は自由に交信できるようになっていない。霊と人の間のコミュニケーションが、≪物品≫かもしれない。それは、もののやりとりではなく、言葉の代わりに、物を言葉や思いとして、心を通い合わせるもの。また、こうして≪物を断つ≫ということをしている私の日中断食、これも、それにちなんだ意味があるのかもしれない。近頃私のお楽しみリズム、「芋たこなんきん」の時間が近づいてきた。食事の場面がぎょうさんでてきはる。「生きるとは、食べることである」と言ったのは食事研究家でもあった鈴木その子さんの言葉。今日もいちにち楽しむぞ。
2006年10月05日
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木枯らしふきすさぶ真冬の家にて、夫婦の憎悪、罵(ののし)り、売り言葉に買い言葉、仕返し言葉合戦。雪国の陰湿な鬱憤(うっぷん)は、光の差さない洞窟のごとくに。女性は、なぜ、徹底的にあやまり倒さないのか。「熱い」に対して、「熱い」で帰したら、熱がもっと増すではないか。血気、怒気、感情の昂(たか)ぶりは、いずれも悪しき霊におそわれる。・・それはあまりにも愚かではないか。一方の熱が下がるまで、女性よ、自分の非を認めよ。本心に立ち帰れよ。感情的言葉を、おもいを、慎めよ。こういう時こそ、祈りの沈黙に静まれよ。吹雪の嵐の中、家を出て、熱を冷ますことも、安易にできない。(ぶらりと一人旅できたらどんなによいか)世間体もあるし。意地もあるし。ああ、なぜ、雪国の人は、言葉が足りないのだろう。おなかに、言葉を溜め込んで、がまんしてしまうのだろう。日頃から、表面を穏やかに、とり繕わなくても、小さな喧嘩をしてでも、すぐに誤解を解いてカラにしてしまえばよいものを。私もかつての雪国時代は、おそろしく寡黙だった。言葉を出そうとおもって、引っ込めてしまう。なぜ、出し惜しみする?三浦綾子さん、今日、歩きながら、あなたの言葉の影響から、神様を意識して祈りました。綾子さんのことが、また一つわかりました。人が振り返る美貌をも体験し。神体験をし、神様と交流なさるようになってからは、ご自分のお顔が霊的に輝く美しさを発見なされた。素顔のご自身を自負するようになられ、神様のための美しさを考えるようになられたのではないか。あなたが、どんなに気性の激しい人であるか。あの映画の出来ばえをみて、どのように感じられただろうか。役者さんたちは、あなたが書いた原作に忠実に演技をしたと思う。けれど、監督さんは、役者さんは、スタッフさんは、あなたのような信仰があっただろうか。あなたは、物足りなかったと思ったかもしれない。あなたが監督であったなら、時間に追われぬ、輝いた映像美を、映画に実現されたのではないか。
2006年10月03日
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「ガラシャ夫人」を恩寵無限の世界に引き込んでいったとされるのが、キリシタンの女性清原佳代という人物であるという。三浦綾子さんの小説「細川ガラシャ夫人」、心に残しておきたいセリフを二点あげるならば、この場面。(玉子(ガラシャ)に語った佳代のセリフから編集抜粋)◇◇◇■「佳代は真心からお祈りいたしまする。汗の出るほどに・・この祈りを何としても、神にお聞きどけいただかねばと、切に切に思いまするとき、おのずと、汗も涙も出るものでござります。・・人様に少しむずかしいことをお頼みするさえ、わたくしどもは必死でござります。まして、聖なる御神におすがりいたしまするには、心をこめて、切に切にお祈りいたさねばなりませぬ」玉子に似て、妹かと噂されるほどの美しい目鼻立ちの佳代は、その白い頬をうっすらとあかくした。「お聞きとどけくださりますとも。神父(バアデレ)さまは、神さまは祈りを聞き給うお方だと仰せられました。ただ、その祈りの聞かれる日が、遅いこともあり、また、聞かれぬように見えても、それが神の応(こた)えであることもありますとか・・」◇◇◇■「もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵とお思い遊ばすことができますように、という祈りでございます。(祈りは朝夕はもとより、機(はた)を織ながら、歩きながら、毎日欠かさず)人の一生は、苦難の連続かも知れませぬ。無事ご帰城なされても、また別の、もっと大きな苦難が待っているかも知れませぬ」「苦難の解決は、苦難から逃れることではなく、苦難をデウス(天主)のご恩寵として喜べるようになること・・」苦難が苦難である人には、いつまで経っても、苦難の解決はない。けれども、苦難がご恩寵と喜べる人には、もういかなる苦難も、苦難ではない。「はい、喜びの中に苦難は住めませぬ」「・・天主様のお助けがあれば・・」(可能であるのだという)◇◇◇所感「切に祈るとき、汗も涙も出るもの」という箇所は、祈りとは人に物を頼む時の必死さとして、祈りのイメージがわいた。通じるような気がしてくる。祈る対象の神とは、人と同じような・・という身近さ。と、もう一つ。「苦難は恩寵」・・そのように思うとき、どのような与えられた情況も思い方で喜びになるという発見。今という今を、「恩寵無限」と感じさせてくれます。
2006年10月02日
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11月25日(土)/26日(日)にテレ朝系でスペシャルドラマ「氷点」が放映されるらしい。陽子役には石原さとみ、夏枝役に飯島直子のキャスティング。(北村一輝も・・この人に善良な人の役をさせてみたい)この夏書いた日記「氷点」感想文 にお知らせを下さったフィフティーズ1952さんからの情報です。(最近になって私は、新しく、三浦綾子さんと出会うようになったと思う)この冬「氷点」のドラマがあるらしいという情報までは、知っていたが・・。お蔭さまで、見落とさずに済むことを感謝します。この本を読んだ後、ネットで随分情報を検索しました。今まで演じた陽子では、内藤洋子さんが評判が良かったようですが、そんな気がします。その時の夏枝役、新珠三千代さんがどうだったのか、みてみたいと思いました。(ここでは余分な話だが、新珠三千代さんは「細うで繁盛記」のカヨ役のイメージが頭にある。花登筐(はなとこばこ)さん原作。・・最近私は、カヨという名前がつく登場人物に至極興味をもっている)今回読んだ「氷点」の後半、意地悪な夏枝像は、浅野ゆう子を頭にイメージした。苛められても健気に生きる、というのは人に共感をおこさせるヒロイン像と思う。本の中での陽子役は、「純情キラリ」の宮崎あおいの顔を、自然と思い浮かべていた。フィフティーズ1952さんは、三浦綾子さんに関して、かなりお詳しい方のように思う。きっと、三浦綾子さんのご主人さまほどに情報をもっていらっしゃるのでは?という気がした。綾子さんが小説で表現された、ご自身の信仰告白といわれる頃の若き日の綾子さんとは?そのイメージとは?人が振り返る程の、美貌の持ち主そのものだったのではないかということです。病気を経て、クリスチャンになられて、作家になる頃には、そういった表面的な美しさには、すでに見切りをつけられていたのではないかと察した。登場する二人のヒロインとは、綾子さんの内面にあったものを、脚色して、表現されたものと思う。それは、読者に存在する両者でもある。人が振り返るほどの美人・・それは、雪国でこそ許される表現かもしれない。綾子さんの作品には美しい女性がよく登場する。雪国という土地の条件ゆえに、人の肌質を美しきものに演出する。そうであるゆえに、雪国の女性の美には魔性の危険が潜んでいるかもしれない。登場人物の女性から「美しさ」を取り除いたら、そのごとくのドラマにはならなかっただろう、とも考えるのだ。(「続・氷点」借りてこようかな?)・・ふと、トイレに入ってて心におもった。トイレはいつもインスピレーションが不思議にわく。今日は、朝から図書館に行く予定なのだ。「続・氷点」は、今回借りる予定にしていなかった。(・・神様の善き計らいというものですね・・)今、読まなければ、多分、ずっと、読めない、読まない本なのかもしれない。(ネットにおける人との出会いに、神様の働きを感じる。神様、ありがとうございます)キリスト教というと、日本人にとっては敷居が高く、別世界であり、別空間だ。興味があっても、キリスト教会というのは、自分からは訪ねにくいもの。読者の多くは、啓造のように、教会の表には行ってみたとしても、決して中には入れないと思う。(作品の中で、そういう啓造の踝(くびす)をひるがえすシーンに、「わかるわかる!」私も、経験があったからだ。簡単に啓造の足を踏み込ませない、その設定は、よく出来ていると思った。そう、入りずらい。結果、決して一人では入れないし、入らない。特殊な空気に、気圧(けお)される。あちら側の空気の勢いに圧倒される。決して対抗出来ず、すーっと馴染むこともまた出来ず。澱んだ空気の自分は、じりじりと押され、退却してしまう。それを気さくに、教会の中に、礼拝堂に、祭壇の前に、招いて下さったのが、三浦綾子さんの小説と思う。そう、一人では決して、異質な所には踏み込めないものだから。キリスト教圏の海外に行ってこそ、誰でも自由に足を運べるというもの。ところで、綾子さんが書いた「氷点」のすごいところは、別にキリスト教とか信仰や聖書に全く無縁であっても、人々の共感を呼び、自分のこととして理解できる点である。その理解の浅い、深いは別としても。ご自分を雑貨屋の主婦という気さくな立場とされながら、世間一般に聖書というものを、すごく身近なものとして、興味を持たせ、紹介された功労者と思う。綾子さんが亡くなってから7年が経つという。綾子さんが霊界に行かれた状景を、誰かを通して、レポートしてくれたらいいと思う。誰かを通して、書かせたら、おもしろい作品を生むのではないか?ご主人さまであるとか?(あっ、是非、私に・・心の小声)北海道は私の家系とも縁がある。祖父の代まで、北海道に住んでいた記録がある。そこで、綾子さん似と思われる叔母が生まれた。叔母は美しい人だったらしく、綾子さんが発病する前の年齢に、結核で亡くなった。そのため、綾子さんを思う時、同時に対面したことのない叔母をおもうのである。戸籍によると、曾祖父は北海道の雄冬岬というところで遭難し果てたようだ。なぜだか、そんなことが引き出されて、感慨深い。霊界が、もっとわかれば、解決される問題は数多いだろうと思われる。つまらない罪に陥りにくく、罠にはまらず、引っ掛からないように、すいすいこの世を渡りやすいとも思う。どうも、人類歴史の堕落から人の霊性の通信機器は故障したようなのである。私たちの、霊界と交信するアンテナにほこりがまとわりついているのである。<追記>今、地名の確認作業で北海道の地図を開いてみた。戸籍に書いてあった「雄冬岬」・・私はこれを、(ゆうとうみさき)と覚えていたのだが、正しいルビがうたれていた。「雄冬岬」の正しい読み方は(おふゆみさき)というらしい。これ一つわかったことが、何て有意義なのだろう!ちょっと感動と感謝。(遭難した人の霊魂は、霊界に行ってどうしているだろう)三浦綾子さんの話から、実家の話に思いを馳せられて、なんといいことであろう!家人Nさんの親戚の一組の家族が、今、北海道に住んでいるらしいことをも思い出させた。「いとこ会」の連絡係をつとめているというNさんの母の話によると、マイクロバス一台をレンタルし、いとこ総勢で、北海道の叔父さん宅に旅行してきたという話も、今、思い出せたことが嬉しい。北海道と自分に関連するストーリーを、ドラマのロケ地が、テレビを通して、私に出合わせてくれるだろう。(陽子がどんな心情で、極寒の冬、牛乳配達をしたのだろうか?)作品は、北海道というところをも、広く紹介している。最後に三浦綾子さんを好きな理由の一つとして、夫婦仲が良いということ。その夫婦愛の姿に、深い信頼を抱かせてくれる。<翌日・追記>図書館は休刊日ということをすっかり忘れていた。「自然お産のすすめ」と「三浦綾子全集」の(1)と(6)の返却。パスポートセンターなど二件の公共機関へ足を運ぶ。その際、「不正」「処分」という言葉を目にする。写真と顔をチェックされる場面など。(霊界へ行った時、こういう厳正なるチェックがあるのだなあ)・・痛感のおもい。(霊界では、発覚すればではなく、すべてはおみとおし、ごまかしがきかない)どうぞ、神様のみ心のままに。神様がダメだしをなさるなら、どのような処罰をもお受け致します。願わくば、それら全ての物事をあなたさま中心にお役に立てるようにつとめますので、善きはからいを、善きみちびきを希望します。いっさいのことをあなたさまにおまかせいたします。
2006年10月02日
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◇お風呂苦手の克服できた。今日、お外でいっぱいつけてきた汚れやその他。お風呂で浄化させ、水に流してさしあげよう。君らをお風呂に入れてあげよう。いろんな汚れに付着した迷い子の霊がいるとしたら、お風呂に入れて、気持ちよくさせ、気持ちよく、旅立っていって欲しい。あなたも、もともとは神の子なのだから。なかなかお風呂に入れない原因がわかった。充実して納得して、十分愛され満たされたおもいで私から離れたいとおもっているのだよね。海に流れて、お空に行ってちょうだい。これから、お風呂はいるよ。Nさん、いつもありがとう。愛しています。探す本『人生の流れを別ものに変える風水の住まい」(著・松永修岳)(10/3(火)今日から学校です。楽しく行ってきます!)◇◇◇◇掃除は浄霊ではないか?線香一本が終わるまで何分かかるか?(はかってみたら、20分~30分)線香一本分、棚の整理を1箇所でもしてみる。東西の窓を開け放ち、掃除の間、お経を口ずさみ、布巾を水で絞ったもので、その場所、そこにある物を拭いてあげる。◇お風呂、アカスリ、風呂掃除、洗濯、・・これら全ては「浄霊作用」といえるかもしれない。汚れじたいが悪いわけではなく、汚れたものが集まってくるのが問題である。(時々、米ぬか風呂、酵素風呂に入って、体もお風呂場も排水管も、お掃除すると、スカッ!とする)◇管の壁の汚れ・・人の腸の腸壁、排水管の管の壁。腸壁にはサプリメントの酵素、排水管には米ぬかの酵素。排水管からくる臭い、人の口臭と同じ。腸壁、管の壁の汚れをきれいにする「酵素」が解決する。人が断食すれば、腸の壁がきれいになり、傷みを補修する。◇その場所に、不良がたむろっていれば、そこに聖なる人は現われることがない。危惧して、登場したくとも、留まれる場所がない。ならば、不良の心を穏やかにして、帰るべき家に帰し、場を清めれば、聖なる人が、やっとおでましになれる。そして、留まれる場所をつくればいい。◇「せいたかあわだちそう」を花瓶に飾る。近くに別の花瓶に飾った花がしおれて元気をなくす。その野草には野においても、他の植物を寄せ付けない、他と調和しない作用がある。悪霊を吸い込む力の強力さ感じさせる。花の蕾は食せるか?薬としての作用は?
2006年09月30日
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「チャングムの誓い」仇が許してくれと頭を下げる場面。神様は、この韓国の歴史的ドラマをどのようにして見つめていらっしゃるだろう。自分の母と恩師を死に追いやった、チェ女官長が土下座をして詫びた。(これだけ、頭を下げたのだから)「どうか許しておくれ」(これ以上、罪を暴くことをしないでおくれ)「そのお心を信じたいと思います」チャングムは言う。「チェ女官長さまもどれだけお辛かったことでしょう」とも。「では、しかるべきところへ行って、全てのことを告白して下さい」「なに?」相手は顔色を変える。こんなにも、お前に、こうして頭を下げているではないかと。「まことに心で詫び、反省し、もう二度と同じ間違いを繰り返さないというのでしたら・・」チャングムの口調は、静かに、穏やかに・・。「・・ただ、口であやまって、それで許されると、おおもいですか?自分は、何も失うこともなく、そのままで、世間さまに公表することもないというのは、まことに反省するということではありません。行くべきところへ行って、全てのことをお話になって下さい。そのお心を、行動で示して下さい」・・ああ、まるで、罪人と、救い主のようなやりとりではないか。これまで、チェ女官長や、その一族を悪者とし、「信じがたい存在」として嫌なものとして疎んできたけど、もしかして、我々は、私は、チェ女官長の立場にあるのではないのか?今、初めて気づいた・・。罪人のくせして、えらそうな顔をして、傲慢で、自分が一番と思っていて。先祖の分と、自分の分を加算したら、そうとうの強欲な汚れをしまいこんでいるかも。しかし、よく考えてみたら、チャングムは、最初は愛する者の仇とか、無念をはらすなど、復讐をバネとして、医術の道に希望を持ったはずった。が、その恨(ハン)の激情と炎を、静めて静めて、許そうと許そうと、自己なる内と戦ってきたのではないか。許さない、許せない、許されない、それを、許そう、許したい、許さなければ、許せるだろうか、許してしまいたい・・。許せたら、どんなにいいか。「私に、憎しみを持たせないで。行動で示して、クミョン」と、私にあなたを許すことができるようにさせて!と、訴えに行ったこともあった。相手は頑なだったが。「私の愛する人を奪ったあなたを、私が許せないのよ」という顔のクミョン。「あなたの愛する人が自分を振り向いてくれないからといって、人を殺めることの理由にはならない」と心の中で言っているチャングム。人は、心の中で思う、≪嫉妬、ねたみ、うらやみ、人と比べて悲観、さびしく思う、おもしろくない、疎外感、相手の幸せを自分のこととして喜べない≫など、その思いから、殺意を抱く。思いが繰り返されると、良心が追いやられる。呵責がどんどん薄まる。思いは実行として、体を動かす。人を亡き者におとしいれる。そのような罪。我々の、私の先祖たちも、そして、私自身も、その血統は、チャングムというより、クミョン側にあるな。・・今、気づいた。自分は、これまで、チャングム側と、信じて疑わなかったし、思い込んでもいたが、・・どうやら・・。このドラマは、まるで、人類歴史のようである。過去に犯した罪は、必ずあかるみになって清算されなければならない。いつまでも、いつまでも、封じ込めた罪は、犯した人を追いかけていく。だから、人はそれを許されたいのだ。もういいかい?まーだだよ。もういいかい?もういいよ。「もう、いいんだよ」と言ってくれる人が欲しい。罪を告白して、支払いをキチンと済ませ、人が同情するくらいの支払いをもって、罪を償ってこそ、はじめて人は罪から解放され、自由になれる。もう、その罪は追いかけてこない。そして、二度と、同じあやまちを犯すまいと、かたく心に誓うであろう。魂に刻みつけられるであろう。甘い誘惑に負けてしまったら、必ず、あとで、何十倍の散々な酷い仕打ちにあい、苦しみもがくことを学んでいたら、やれと言われても、人は罪を犯さない。何としても、罪を回避しようとするであろう。神様は罪を犯した子を許し、もとの状態に戻してあげたいと思っている。かみなりに打たせて死なせてしまうのは簡単である。けれど、くすんだ魂を、償いでもって、行動させ、告白させ、恥かしいおもいをも体験させ、二度と、罪を犯させない子につくりなおしたいとおもっていらっしゃる神様である。罪が終わるまで、いつまでも待とうとしておられる忍耐の神様である。歴史の全てのわだかまりも、その汚れたおもいも、いっさいが、法則にのっとって、許されていきますように。罪の繰り返しを終焉し、妬む心を切りとって、なにごともなかったように、歴史をやり直せるように。敵対したライバル同士は、手を取り合って友人同士となれるように。次からは、善なることを、建設的に競争してきけるように。自分から、今を、新しく、やり直せますように。(終)/////////////////////■「チャングムの誓い」47話*あらすじ*自殺した医局長ユンスの遺書の存在を巡り、疑心暗鬼のチェ一族とオ・ギョモ。チェ女官長は意を決してチャングムを訪ね、ミョンイの墓前に案内してもらう。一方、ヨンノの心変わりに気付いたチェ一族はオ・ギョモ側の意図を知り、ヨンノをいち早く探し出す。ついにオ・ギョモへ反旗をひるがえすチェ一族。とくにチェ女官長はクミョンとチェ一族を守るため、あらゆる火種を消しにかかる。中宗は医局長の遺書をチャングムが持っていると聞き、内侍府(ネシブ)の長官に入手を命じる。また、チェ女官長から聞かされた皇太后もチャングムを呼び出し遺書のありかを問い詰める。チャングムは真実を皇后に打ち明けることに。ヨンノの告発により、免職処分になったオ・ギョモ。そんな時、ヨリがユンスの遺言を役所に届け出た。あらためて取調べを受けるオ・ギョモ。そこへ内侍府(ネシブ)の長官が現われ、王命を伝える。アヒル事件の関係者を再度、全員取り調べよ、とのことだった。な、なんと!取り調べの場に、自殺したはずの医局長ユンスが現われた。
2006年09月30日
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『宮廷女官チャングムの誓い』韓国題は「大長今」(デ・ヂャングム)偉大なるチャングムの意。これの主題歌「オナラ」のパンソリについて。「オナラ」の3人の少女たちの歌声は、女官たちの一途で切ない思いをうたったこの曲にびったり。主人公チャングムの真実に対する正義感や、愛するものを失った悲しみ、激情を思わせる。少女たちの力強い歌声は、「パンソリ」で鍛えられたもの。パンソリとは、太鼓に合わせた歌と物語を聞かせる韓国の伝統芸能。一人前になるには何十年も歌い続け、喉を鍛えなければならないという。パンソリの世界では、まだまだ修行中の彼女たちの声。だからこそ、幼き頃から修行を積む、すべての宮廷女官たちの心情にも通ずるのではあるまいか。長い作品には7時間かかるものもあり、これを一人で演じる。メンバーの一人、ペク・ポヒョンさんは、パンソリを習い始めて5年、楽譜はなく、師匠の口伝(くでん)で学ぶという。・・この部分に、二つのことを思った。まず、「楽譜はなく、口伝で学ぶ」というところ。かつて、野山を随分歩いたことがあった。歩きながら、その時々の思いを歌にした。私は楽譜が書けない、読めない、演奏できない。が、歌詞とメロディが頭に浮んでくる。歩きながらにして、作品が次々生まれた。忘れないように、野で山で、何度も歌ったものだ。覚えておきたくて。18年前のこと。カセットに吹き込んで残しておいた。その年、わずか数ヶ月の間、不思議と霊界から音楽が聞こえたのだった。音楽の霊の作用かな?今、そう思う。そして、もう一つ、何を思ったか。韓国のパンソリというものの味わいというもの、あまり、いや、全くわからなかった。一度、映画で、才能ある盲目の女性のパンソリを聞いた。物語の内容も知っていたので、なるほど、惹き込まれるものがあった。女性の歌に対して、男性が太鼓でもって合の手を入れる。絶妙な乗りは美しい男女愛のようで恍惚とさせるものがあった。映画を見た時は、パンソリとは、そういう芸術の一つなのだろうな。とおもったくらい。今日、わずかなチャングムの番組でみた豆知識に、「!なるほど、これは、神さまへの祈りぞ・・」そんな気がした。韓国人の「恨(ハン)」の世界、心の叫び、ああ、このドラマ一つをとっても、韓国人の捉え方と、日本人の捉え方は、果して同じなのであろうかと考えた。(つづく)
2006年09月30日
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江原さんの解説からは、守護霊には四種類のお役目、四者の方がいらっしゃるようだ。主護霊、指導霊、支配霊、補助霊。支配霊の解説のところで、こうあった。「実はこの支配霊たちが私の人生と運命をコーディネイトしている」・・「支配霊たちが」という点に着目した。四人よりもっといらっしゃる、と考えていいという確認ができた気がした。なぜなら、私に守護して下さっている方を、私の守護霊さんに尋ねたところ、二人?三人?四人?ノーだった。五人以上ですか?に対してイエスだった。とても、質問は疲れるので、詳しくは聞けてない。また、個人的なこと、興味本位の質問には、冷たい。それと、色々な本を読むと、「守護霊」とか、「守護神」という言葉もある。それで、四種類の守護霊さんのリーダー格の方を守護神と呼ぶのではないか?と質問した。イエスだった。江原さんの言葉からすると、「主護霊」さんという中心的な守護霊さんのことということになる。ある全ての戸籍を取り寄せたとき、実家阿部家の戸籍は古くは新潟にあり、そこから青森に移っている。それで、生前新潟でしたか?と確認、イエスだった。最近の気づきは、植物が部屋の悪い気をたくさん吸ってる気がした。最初、よく祈るせいか、花が良く咲く、蕾がどんどん開く、と喜んでいたが、今朝は元気がない、と感じたもので。私が、霊界体操をよくするので、足から、膝から、腰から、中につまっていた宿便ならぬ、悪霊が、どんどん出てきて、植物に吸収されていってるように感じたのだ。それと、もしや、床には神霊が宿る?おじぎをするとき、頭の額が、床につく。だから、床はキレイに水拭きしないといけない。ある時期から、絨毯は取り払った。冬に敷く、霊界体操ができる大きさの、厚手の綿のマットは、この夏、丹念に洗って干したのが出来上がっている。ほこり、チリ、髪の毛を、さあーっとひと拭きできるように。それで、自身の中のチリがはらわれる。心のチリというなら、もう一つ、排水口の掃除。汚れが溜まりやすいとは、霊が溜まりやすいのでは?古くつしたを、ハサミでカットして掃除。ここも気づいたら、ササッと手をかける。部屋の霊をキレイに保つポイントになるんでは?と思った。また、供え物に、水や、炊きたてご飯の他に、玄米、自然塩、昆布もあげてみた。本日ラマダーン七日目。イスラームの人達の断食月はお祭りでもあり、日没後は普段より、ご馳走を食べたりし、食べ物の消費量はいつもの月より上回るようである。が、こちらは、普段より質素ときた。久しぶりに体重計に乗った。49キロ。多分やせたはず。私の場合、1日の内、18時間が食べない時間としているので、体内は大掃除されているはず。カレン・キングストンのスペースクリアリングの意味。部屋の空気、霊を(体内も)キレイに水洗い、水拭きして、清める。そういうことだなとわかった。汚れた固体を水で流す、・・心のおもいという汚れた気体も水で流す。液体にして、自然に流す。それが、川へ、海へ流れた時、どうぞ、蒸発して上へあがっていき雲となり、上へ上へと引き上げられますように。(終)/////////////////////人間は誰でも「オーラ」という霊的エネルギーを身にまとっている。不動明王の背後にある火炎や、キリストなどの聖人の背後にある金色の円形はオーラを表現したものとも言える。オーラには2種類ある。 ■幽体のオーラ 人間には肉体とは別に幽体と呼ばれるものがある。よく幽体離脱というのは、肉体から幽体が離れてしまった状態のことを指す。この幽体も実はオーラの1つ。肉体全身にそって光を放っている。 「幽体のオーラ」を見ることで、その人の健康状態や感情を見ることができる。 ■精神のオーラ もう1つのオーラが「精神のオーラ」で、通常、オーラの色を識別しているのは、このオーラを見ている。これは頭を中心に光を放っている。「精神のオーラ」を見ることで、その人の性格を見ることができる。このオーラは、人生経験を積むことで色が変わることもある。 ■オーラの色◇赤・・・頑固で情熱的、理想家 ◇青・・・知的で冷静、現実的 ◇黄・・・陽気で朗らか、ひょうきん ◇オレンジ庶民的でおっちょこちょい ◇緑・・・無欲な平和主義者 ◇紫・・・情愛が深い ◇銀・・・古風で地味 ◇金・・・最も崇高な色、英知 ■守護霊とは私たちは、誰にでも、守護霊(背後霊)がついている。守護霊は、私たちが現世に生まれてから死後の世界に至るまで、片時も離れず大きな愛で見守ってくれている。この守護霊を1つの霊だと思っている人も多いようですが、そんなことはない。誰もが複数の霊に見守られています。また、その役割によって主護霊、指導霊、支配霊、補助霊と大きく4つに分けられます。これらの霊を総称し、守護霊と呼ぶわけです。■主護霊 主護霊は、守護霊の中でも中心的な役割を果たしている霊魂。私たちがこの世に生まれる前、そして現世、死後も本人とは切っても切れない関係にある。つねに寄り添い、入れ替わることはない。この強い絆のためか、私たちはみな自分の主護霊に似た生涯を送るとも言われている。 ■指導霊 指導霊は、私たちの職業や才能、趣味を指導している霊魂。芸術家には芸術家の霊魂が、医師には医師の霊魂が、宗教家には宗教家の霊魂がついていることがよく見受けられる。しかし、指導霊はしばしば途中で入れ替わることがある。私たちが増長(得意になって、たかぶること)したり、傲慢になったり、精進を怠ったりすると、指導霊はあなたから去っていく。一方、精進努力を重ね、謙虚な気持ちでいると高級霊を呼び込み、能力を飛躍的に伸ばすことも可能になる。 ■支配霊 支配霊は、私たちの運命をコーディネイトしている霊魂。たとえば、人や出来事との出会い、新しく住む土地や環境など、私たちの進むべき方向を調整しています。従って支配霊は、私たちの十年程先もすべて見通すことができるようだ。人生はすべて偶然と思っている人も多いが、実はこの支配霊たちが私の人生と運命をコーディネイトしている。 ■補助霊 補助霊は、以上三つの守護霊たちの仕事を手伝い補助している霊魂。補助霊はさほど古くない霊魂の場合もあり、私たちの身内や近い先祖がこの補助霊となって守ることも多い。また時には、前世に関わる霊魂などが関与する場合もある。
2006年09月30日
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先ほど書いた日記の内容は、あれでよかっただろうか?守護霊さんに聞いてみた。よいという。タイトルはあれでよかったか?よい。着ていた着物の裾(すそ)は、床上か?それとも、床をすべらかしていた長さだったか、実演してみせた。すべらかしていた方だそう。これから、どういう風に日記に記していきたいか、その動機について述べ、相談。許可をもらった。せっかくの恩恵を自分だけのものにしておきたくない。人にも教えたい。ブログの表看板のタイトル「感動したことは必ず人に話す」あいにく話す場はない。書けば、多くの人の目に触れる。恥かしい失敗を多くの人がチラリと目にして、心にひっかけておけば、何かに危機が訪れた時、とっさに思い出すことがあり身を守ることがあるならば。一人でも、そういう人がいたとしたら、過去生さんの修行の善行の貯蓄が加算されるかもしれない。私も自分の過去生さんを一人では、とても受け止め切れない。公表することによって、自分はそれに縛られない。こだわらない。あくまでも、過去生さんは過去生さんの魂。私は私のみの魂。別人である。前世というと、私自身と感じるので、過去生さんと呼ぶ。実際、問題は、そこにあった。「過去に生きた人の生まれ変わりが、輪廻転生というのか?」では、両者は同一人物なのか?・・その辺が、まったくわからなかった。「美輪さんは、天草四郎の生まれ変わり?」では、両者の魂は一つであるのか?という問題。ここに、最も、ひっかかっていた。キリスト教やイスラム教は輪廻転生はないという。すなわち、自分という魂は、自分のみであると。私の理解は、そちら側だった。そのため、過去生とか前世という意味をあやしんでいた。(が、どうも、つくりごとではないようだ)・・「オーラの泉」を9ヶ月見てきて、それはわかっていた。先日、家系図講演会のノートを整理していて、ある一文に、ひらめきが起こった。「家系図の法則によると、何代前の人が自分に影響を及ぼしているかがわかる」というひとこと。もしや?その人が、私の過去生という表現に当てはまる人物ではないのか?それを、確認することができないのか?霊界体操と、5円玉の応答から、合点(がてん)がいった。そういうことなら、話はわかる。これは、きわめて重要なことなのだ。そこが、知りたかったのだ。この解釈であれば、キリスト教の人も、イスラム教の人も、気持ちよく納得し、理解を示すであろう。宗教の「自分のところだけが一番正しい」として他を排斥し批判するのは、言葉の誤解や、表現が偏っている、独自の思い込みなどに、あったかもしれない。これで、私の中の世界平和はまた一つ、近づいていった。(終)/////////////////////
2006年09月30日
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私の過去生さんが、かつてどんな髪型をしていたか、服装など・・こうだったな・・昔の女の人の髷(まげ)を結っており、大奥に出てくる女の人の髪型。着物を着ていた。裾(すそ)をすべらかして歩いていたかもしれない。(まだ、未確認だが)今年に入って、冬は服の上から毛布を羽織る。冬以降、木綿のシーツ大の布を羽織る。着物を着るとき、左、右と、着物の裾をすぼめるように体に巻きつける。冬は寒かったので、毛布をそのように体に巻いたが、温かくなってからも、体を布で巻くことによって心身が落ちついた。髪形のことは10日前から、過去生さんの髪型がわかった。必ず、額と耳を出さなければ、気がすまない。今後の髪を切る時の注文が定まった。後ろの襟足ギリギリの長さ。ボブスタイル。前髪は、頭の上から、真っ直ぐおろして、眉の上あたりで切り揃える。量が多いため、すいて軽くしてもらって出来あがり。・・これだけ、口で言えば、やり直しが不用。店を出たら、手ぐしで、前髪を上げ、サイドも後ろに流す。天然パーマのクセが少し残っているため、仕上がりはナチュラルに。過去生さんの過去における問題は、不倫。その罪は、不義なる男女問題にあり。その罪で、霊界に行ってから、大変肩身の狭い、辛いおもいをすることになった。霊界で、最も恥かしいことは、不倫の罪。生きている時は、自分だけが、知っている秘密だとしても、あちらへ行けば、全部暴露され、皆に見られ、人からあの人はそういう罪状か、という顔をされる。耐えがたい。だから、あなたはその失敗を繰り返してはいけない。化粧する時、どういう動機で化粧するのか、自戒して、注意をはらってもらいたい。ただ一度だけの不倫、お酒を飲んで、気を弛めた、わずかの時間の出来事。そこで、妊娠。おろす、ということは当時はなかった。生んだ。当然、自分も、周囲もあわてた。狭い村で世間体もある。生まれてすぐ、養女に出された。お乳が張って痛い。苦しい。その後、その人は、頭を丸めて出家する。頭に被り物。(家では、大判のハンカチや布で、被り物をする私の習慣)その人の、そのたった1回の出来事。わずかの時間で罪を犯した。そのことゆえに、その後、生涯にわたって悔いた。しかし、霊界に行ってからも、その罪を問われ続けた。たった1回が、悲劇を生む。あなたはお酒を飲まないで。外をふらふら歩かないで。必要以上にキレイに見せたいなどと思わないで。そのたった1回のことゆえに、同じようなことが、あなたが生まれる前までに、二度、家系において繰り返された。そのことゆえに、家系は衰退した。なぜ?たった一回のことから、相手の女性(妻)の恨み、激情を買った。相手の夫婦を仲互いさせ、その夫婦の間に、先に生まれていた子供が、病気であっけなく亡くなるなど、不運が引き起こされた。また、その親を苦悩させ衰弱させた。その親は、不倫で身篭った子供が、どうか、流れるようにと、太鼓を叩いて拝んだ。呪いの、いのりをさせてしまった。なぜ、こんな重たい、いやなことを言うかと?不倫の罪が、人を刺すより、重い罪と知らせたい。お酒を飲むと、前の(先祖の、DNAの)人達の淫乱の血が動き出すので、お酒を飲まないで。奉仕をすること。心のチリをはらうこと。環境をきれいに保つこと。女性が問題だった。不倫は、両方の心身が、負の一致を成立させたところに起こった。が、意識さえあれば、女性は回避することが出来た。女性は自分を絶対守らなければならなかった。が、無知だったのだ。雰囲気に飲まれた。また、そういうことが、人を殺すほどの、重い罪という教えを受けてはこなかった。が、霊界に行ってみると、大変な後悔をする。けれど、すでに体がないので償う方法がない。それで、子孫のあなたを頼った。あなたに、道を踏み外させない使命。あなたが、まっすぐの道を行く所に、こちらの修行の今後もかかっている。◇◇◇何かに、せきたてられるようにして書いた。掃除をすることが、それほど大事。古い、雑多なものを捨てるということに、実は大きな意味がある。子孫にしてもらいたいことというのは、前々の者たちの、雑多なものごと、からまった恨みの掃除であり整理であるという。霊界からメッセージをおくるには、雑多なものが整理されて、受け入れるカラの状態をつくってこそ、与えられるという。(終)/////////////////////■天国は、透明で白く明るい色。汚れのついているまだらなものがない。白い玉のように、まったく傷がない。低い霊界は、行くほどに、色がだんだんと濁っていく。薄暗い薄い色か、暗い濁った紫色系、中間色。もっと低い段階に行くと、薄い栗色、ネズミ色系。続いて灰色系、黒、濃い黒色の順。天国は、明るく天国の近くに行くほど明るい色の系統。地獄に行くほど、暗く薄暗い色。生きている間、罪を多く犯して霊界に来た霊であるほど、色は、暗く薄い。犯した罪によって、霊の体の部分に、色で表示され現れる。
2006年09月29日
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秋のお彼岸を今年は意識して過ごせてうれしい。心に余裕がある証拠である。今まで、先祖さんを大切にする気持ちが、自分の中からほんとうには出てこなかった。守護霊さんが、七代前の父方の先祖と、今朝、その七代前という確認が出来た。江原さんオーラのHPによると、生まれてから死ぬまでお付き合いして下さっているという。その守護霊さんがご先祖さんとわかって、とたん、身近に思えてきた。500年も修行してきたなんて凄い方だ。お盆とかお彼岸だけじゃなく、いつもいつも意識していきたい。お供え物をあげるのが、なんだか楽しい。「頂きます」と言って、仏さまのところから、お菓子をもらうのも、なんだかいい。守護霊さんリーダーを中心に、格の上下とか、秩序があるようだ。私はいつも、厳しい目でチェックされている。けれど、時々ジョークで笑わせてみたいとも思う。感動させてもみたい。一番仲良くしないといけないのが、守護霊さんリーダーだ。私がうまく体の管理、感情の管理、キレイな環境や霊の浄化ができ、常にプラス思考で、心がクリーンであるなら、いつでも相談に乗ってもらえそうだ。私が干支や四柱推命の暦をめくったりすることはご存知ですか?と聞いたら、知ってるという。守護霊さんの影響のようなのだ。専門用語でトークしてみた。それによる閃きを専門用語できいてみた。はじめて気づいたことがいろいろあった。こちらが、どうでもいいような質問をすると、答えたくない、ノーコメントというのもあった。(ビン!・・そういうこと)今日の霊界体操は、体によく振動がきた。床を飛び跳ね、両手を上高くあげて、ぴょんぴょんするとき、おしりのほっぺたがパタパタ、音がしてうるさいくらい。胸、肩を大きく揺さぶり、5円玉で答える前に体に「そうだ、そうだ、そうだ」と訴えてくるよう。毎日、少しずつ、こちらも学習する。父の機嫌をとる母のよう。つきあい方がわかってきつつある。私の心のぼやーっとしたものが、秋空の澄んだ空気のようです。やっぱり、物捨てから環境整備したことから小さな喜びがふつふつ沸いてきている。守護霊さんの存在を知ることって、おおきいな。(漠然と、いるらしい、というのより)具体的にわかれば、心のやりとりができる。きっと私の心の肝心な部分は、強まるにちがいない。霊界に関する専門的な知識を増やせば、もっと具体的な深い話ができるかと思う。霊とは人である。守護霊さんも人である。霊と人の関係とは、人間関係である。もっとも近い人間関係。上の看板に掲げた「人間は☆一番身近なものに影響を受ける」という表題。心理学の本から拾い上げた、この文の解答は「服」であるが。(私は相方のNさんと咄嗟に思ったのだが)・・ついにここまできたか。(感慨深い)一番身近なものとは「守護霊さん」ではないか。家庭の中で一番優先にすべき父のような存在。心がたるめば、私の肉に影響を与える、過去生さんが一番になって、霊界の秩序は乱れる。下克上となる。過去生さんはまだ修行の身、守護霊さんに指導を受ける立場。が、私への影響度は母親のようでもある。母は父をたてないと。目上のものをたてないと。私をとりまく霊界の段階から、秩序を作れるのは、この地に足をつけている自分。二人をケンカさせないように。過去生さんが、守護霊さんに責められないように。子供がいい子でいれば、過去生さんは、厳しい守護霊さんと仲良くしていられる。ここ数日、あけぼのから日の出迄の間、素敵な時間が過ごせたことを感謝します。◇◇◇ラマダーン1日目*9月24日(日)夜9半~玄米ご飯/子持ちししゃもの佃煮/カニ風味サラダ少々/ネギの味噌汁/納豆/おはぎ・お菓子/コーヒー。お供え物は、おはぎ(粒&こしあん)お菓子。ラマダーン2日目*9月25日(月)夜6時半~玄米ご飯/椎茸・生姜味噌汁/トーフ・丸大豆醤油/カボチャ・自然塩/もずく三杯酢/納豆/梨/くるみ餅/コーヒー。お供え物・・くるみ餅/りんご。ラマダーン3日目*9月26日(火)夜8時~玄米ご飯/椎茸味噌汁/トーフ/オクラ昆布納豆/りんご/お菓子コーヒー。お供え物・・煎餅/(ご飯の他に)玄米/自然塩。ラマダーン4日目*9月27日(水)夜7時~玄米ご飯/煮物少々(ごぼう・こんにゃく・わらび・油揚げ・れんこん・にんじん)/胡麻と生にんじん/パスタのサラダ少々/味噌汁/梅干/納豆/お菓子コーヒー。お供え物・・ゴーヤ/ピーマン/にんじん/玄米発酵食/生花(菊・せいたかあわだちそう)ラマダーン5日目*9月28日(木)夜6時45分~玄米ご飯/椎茸味噌汁/炒め野菜(ピーマン・ニンジン・ゴーヤ)/ポテトサラダ少々/納豆/生にんじん&生胡麻/野菜ジュース/おかし少々/スピルリナ玄米酵素/コーヒー。ラマダーン6日目*9月29日(金)夜7時~玄米ご飯/味噌汁/カボチャサラダ少々/納豆/お菓子少々/スピルリナ玄米酵素/コーヒー。お供え物・・利尻昆布ラマダーン7日目*9月30日(土)夜9時~玄米ご飯・根昆布入り/味噌汁(玉葱・ゴーヤ・マッシュルーム)/カボチャ煮/じゃがいもサラダ少々/海苔/納豆/お菓子2種少々/コーヒー少々/スピルリナ・サプリ。お供え物・・もも。ラマダーン8日目*10月1日(日)夜7時半~玄米ご飯/味噌汁(なめこ・ネギ・さつまいも・シソ(青/紫)・玉葱・七味)納豆・海苔少々・スプルリナ酵素・コーヒー・生ヨモギ。お供え物・・生花2種(黄小菊大量・ピンク花)・キャベツ・にんじん・ゴーヤ・ピーマン・さつまいも・ネギ・玉葱・じゃがいも。せいたかあわだちそう早朝収穫→洗浄→干す(去年より美しく作業完了)ラマダーン9日目*10月2日(月)夜6時~玄米ご飯/ゴーヤのくたくた煮(味噌)/納豆/海苔少々/梅干/ふかしサツマイモ小2本(自然塩)/玄米酵素/生ニンジン/コーヒー。
2006年09月28日
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(先ほどの続き)今まで、体操とかヨガとか、まったく身につかなかった。ストレスがいっぱい詰まっていたからだと思う。ストレスって、多分、悪霊が詰まっているって感じだ。人の目、人の負の想念や感情など。そのため、私の体はカチンカチンにかたかったのだと思う。霊界体操はすぐにポイントがつかめた。実行しなかっただけ。その存在さえ、全く忘れさっていたこと。なぜか、それを今週から始めている私。なんといま、守護霊さんと交流している。江原さんのオーラの泉HPをちょっと学習。オーラには「幽体オーラ」(体)と「精神的オーラ」(頭)と書いてあったが。それを、すこし突っ込んできいてみた。私が交流している人は守護霊さんの中のリーダー。つまり守護神さま。確認した。そう、「さん」じゃなく「さま」の方が、呼び方としてよいようなのだ。指導霊さん、補助霊さん、と言った時、円を描いたので、複数のよう。それで、守護神さまを親しみを込めて「良心さま」と呼びかけて質問に答えてもらっているのだが、江原さんの「幽体」「精神的」にあてはめると、精神的(頭)の方にあたる。(オーラ?とは確認していないが)オーラには、「幽体」(体)は体の形に表れる。「精神」(頭)が、一般にいわれるイエスの金色の輪などで、頭に表れる。守護霊さん(代表的な)は、頭であり心の方の形を担当し、私の心の肝心な部分に働きかける。過去生さんは、まだ修行の段階。私が善行を摘むことによってポイントがあがっていく立場。それで、私の体の心に働き掛ける。「体の心」食べたいとか、欲求、嗜好、癖など。・・たしかに!人間には心と体があるよ。けど、心と体は人間の心の中で、必ずしも。一心同体ではない。むしろ、葛藤、煩悩など、人は体の心が強く、心で良いことをしようと思っても、思ったようにいうことをきいてくれないのが体である。だから、昨日、守護霊さんが、過去生さんに対して、「格が合わなくてね」とちょっとボヤキ気味を知って、ああ、霊界でも、そういう人間関係の難しさがあるのか・・と、思ったものである。それと、「くだらないことは聞くな!」とも言われているようだった。どうでもいいことを聞くと、相手にしてくれない。それで思う。守護霊さんと過去生さんが、一緒の人はそうとう修行を摘んでいる人格者らしいのだが、心と体が、一人の人格者の霊だったら、葛藤がなくて、スルスル思った通りを行える人で、素晴らしいなと思った。昨日、過去生さんが、「助けることができることがある」これについて、もう一度、確認した。それは「体」を「体操」をということですね?と。守護霊さん、そうだと。体を担当しているからと。だから、霊界体操をすれば、コミュニケーションがとれていくんだな。心と体と私の3者が一体になれ、神の高い霊からのインスピレーションを受けていくことに近づいていくのだなと。霊界体操をしていると、思いつきがどんどん、口をついて出てくるので、反応もとても早い。私の言う祈りとは、「挨拶」「礼儀作法」は丁寧に。あとのお話は、親に話すように報告。「今、NHKで「エルサレムの特集」みてきたよ」と感想を言ったり。今日こうだったよ。反省したよ。連絡。これからこうするつもりだよと予定とか。今、こう思ったとか。このことについて相談なんですが。とか。思いついたことを言う。これは、こうじゃないですか?と閃きがきたら、5円玉を持って確認してみたり。それで、気を溜める時の体の動きは、バレーボールを転がすどころじゃなく、いろんな体の動きをしています。両手を大きく動かして自分の体全部の周りに、気をつくっている。気で覆っている。1m半×1m半のスペースが少し狭いと感じています。5円玉が机に、電燈の紐に、ちょっとぶつかったりします。紐の長さを調整したりして。けど、短すぎると表現できないですし、相手方が。今、ここの部屋はものすごく気が充実してるし、照明も明るくスポットライトしてるため、(ビン!)花の蕾がどんどん花を咲かせます。今朝、日の出と朝焼けの時、また新しい野の草花をとってきたのですが。植物からすごい精気が発散してると感じます。守護霊さんは私の心を司るリーダー。過去生さんは私に体の心に影響を与える修行中の人。その人のうまくできないクセは、私がカバーしていかないといけない。修行中の人の言いなりに私がなってしまうと、心のリーダーの声が聞こえなくなってしまう。実行者は私。私は行者の守護霊さんにリードされる必要あり。まさに、頭の心の守護霊さんとは父である。体の心の過去生さんとは母である。両者が一体となっていれば子はスムーズに生きれるが、両者が相克していたら、子はどっちの言うこときいたらいいのか、道に迷ってしまう。今、ラマダーンというイスラームの断食月の恩恵に預かって、体の心の勢力が弱まった。そこで、守護霊さんご登場となったわけである。
2006年09月28日
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昨日の「オーラの泉」の中で、花街でいじめにあった前世の人は、「丑みつどき詣でをして~云々」とあった。「娯楽もない何の楽しみもないその人にとって唯一の~云々」・・午前2時は負の霊界がたむろしているのかも?注意しなければ。「ビン!」霊界の音。・・逆に3時半~朝に向かっての時間は、高い波動の時間だ。多くの人が眠りの中。おとといから、一日の食事は夜の6時から夜の12時までの間で終了にした。去年のラマダーン月は「日の出から日没まで飲まず食わず」だけを考えていたが、イスラームの正式は、日の出前までで飲食ストップでなく、曙前でストップと聞いて、とりあえず、午前3時でストップにしてみたが、それより3時間前の夜12時にしてみようかとなった。なぜかというと、3時半から「霊界体操」をしている時、トイレに行きたくなるのを防ぐためだ。途中、ロウソクをそのままにして、トイレに中座したら、ロウソクの火が揺れてススがひどくなって、大変な無礼と怒られた気がしたからだ。けれど、今日、霊界体操の時間にトイレに行きたくなり、いったんロウソクを消して、断ってからトイレに。全く問題なかった。それでも、夜12時で飲食ストップし、一日の食事が夜の6時だと、これはいい!と、思った。甲田療法の朝抜きの条件にあてはまることになるからだ。それは、朝、食べないだけでなく、次の食事までの間が、丁度18時間になるのだ。そうすることによって、モチリンという体をキレイにするものが分泌される。多分一種の酵素と思うが。午前3時を回ったら、環境整備にかかる。お水をとりかえたり、お線香を一本立てたり、東西の窓を開け放ち、空気の入れ替えをし。それで、BGMの音楽にU-SENで、坊さんらしき声の般若心経を流してみたのだけど。お伺いを立ててみた。いかがですか?お好きですか?「ノー」だった。(あっ!Nさんが言ってたとおり!)私のお経はいかがでしょうか?5円玉が観覧車のようにゆるやかに周った。ヒーリング音楽は?チャンネルを切り替えた。同じくOKだそうだ。それがいつものBGMだったのでそれに直した。それを一つ確認して、霊界体操の気功で気を溜めた。気功体操なのだけど、やってると体が熱くなる。特に下半身全体が熱くなる。膝と足首をガクガク微細振動させるため。夏の服装に着替えた。「霊界体操」という名前をつけた。以前、17年前に椎間板ヘルニアになったとき、一度友達が「霊界体操」っていうのがある。と、池袋のそれに1回だけ参加したことがある。その時、ヨガポーズの基本姿勢だったか、正座だったか。両手を額の所で、三角のピラミッドをつくる。ヒーリング音楽に似たようなBGM。中村先生という女性の方がいて。一般のヨガ教室みたいに、フロア-に生徒さんが間隔を空けて座っている。「じゃあ、15分いきます」音楽スタート。先生が、背中にまわって言葉を唱えている。すると、私の体が動き出した。腰を中心にゆらゆらと。その体操が15分間、勝手に動き出したのだ。私の場合は普通。他の人たちは、いろいろな現象がおこって私をびっくりさせた。ある女性の声「お代官さま、許してくだせい。年貢の米が今年は天候が悪かったもんで、思ったとおりにいかなかったんです。ああ~(悲鳴とバサッと斬られて倒れる様子の音)」・・ある女性は子供の声でむにゃぬにゃと。子供の時に事故で亡くなった人の霊が成仏できず、その人に付いている。先の女性も、霊が付着している。ある人は外国の歌を歌い出した。・・など。私の場合の体の動きは、中村先生が言うには、腰を直すため、先祖の方が体操を助けていると言ってくれた。すすめていたのはこの霊界体操の他に「手水行」(水を二の腕に何回かかける)と「聖なる言葉を読むこと」と、憑いてる霊の方々が上の方に上がっていって成仏して下さいと祈るなど。それに参加したのは1回だけだったけど、別の所で気功も習ったので、それを混ぜてある期間一人で行っていたことがある。気功で気がたまると、おもったとおりに体が動く体験はその時していた。それを応用して、やすみやすみしながら行っている。今、時間を自由に使っているが、来週から私の生活時間は日中近くの学校へ通うので、先はわからない。でも、とても、楽しさを感じるので、うまく時間を調整して、こういう時間の過ごし方、続けられたらいい。すなわち、今の私には、外気からくるストレスというものが全く無い。そういう時に、こういうのを始められたことはよかったと思う。学校なので、人との関わりがあるわけではないので、精神的負担はないと思う。むしろ軽い運動になるはず。(次につづく)
2006年09月28日
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PCを開いたら液晶画面が写真のネガのように、暗くカゲリぎみになっていて。何回かやり直してみたが、変わらず。お経を唱えてみた。かしわでを打ってみた。(昨日の続き、書こうと思うんですけど、もし書かない方がいいのでしたら、辞めますが・・)心でそう思ったら、パッと画面が明るくなった。(ああ、書いていいってこと?)そうか、「こういうことを書きたいと思うのですが」と、ひとことあってもいいんじゃない?・・そう言われているみたいだ。昨日の日記書いたあと、ちょっとだけウトウト仮眠したら、トイレの夢。大をして水がジャーと流れる。風でドアが自然とあく。そこから出て手洗いしようとする。向こうが真っ暗くバーの店のよな。人影のよな。水を出して手を洗おうとしたら、体が電気風呂に入ったような圧迫を受け。(ああ、霊がきているのかな?)夢の中で思い、ぱっと目を覚ます。Nさん、出勤前で、まだ準備中だった。(ウチでは3年前から朝食廃止習慣)夕べのテレビの話で盛り上がり。突然「Nさんの補助霊、お父さんだよ」「なんで、あなたがわかるの?」「えへへへへ、まあね」しかーし、昨日の日記書いたあと、ちょっとズーンとくるものはありました。けど、電波に乗せて、自分だけが受けたもので、なくしたので、やっぱり、軽かった。そんな気がする。寝るとき、私を取り巻く霊界の皆さんに声をかけた。「あたしゃあ頑張るよ。今までのことは、みんな良かったんだよ。気にすることは何もないからね」「あたしゃあ、これまでのことに感謝してるんだからね。みんな、一緒に頑張ろうね。あたしも、頑張るつもりだから、みんなよろしく頼むね。よーし、やるぞお!」なんて。かんばるって言葉、いやだって言ってたくせに。午前3時半から5時前までの霊界体操は、実に楽しいよ。5時からは本を読みながら、文中で閃いたことを質問してみる。それに答えてくれる。その確認作業が、なかなか楽しい。髪を切って8日が経つのだけど、最近どんな顔してるんだっけ?ああ、手鏡が見当らない。玄関の鏡で顔を見てみた。ちょっと今までと違ってるかも?顔が白く澄んでるような気がする。それと、小学校1年の時の顔をしてると思った。守護霊さんとの交流の中で、話は希望的な方へ進展していっている。「純情キラリ」みて、また報告にきます。あれから、いろんな情報を収拾した。私の霊性は充実している。
2006年09月28日
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さきほど家系図の中の先祖の誰が自分に影響しているか?調べれば、家系図の法則によってわかるといった研究家の方の話を書いた。内容を思い出してみると、男性はより明確で、女性の場合は必ずしもあてはまらないと言われていた。本日ラマダーン4日目の曙から日の出前までの気功と守護霊さまとの交流。5時前にはもうぐったり状態だった。が、なかなか熱く語れた。日頃、こうじゃないかと思っていたのですが?と、「トイレ掃除は功徳」のRちゃんと電話で長話をするように、ざっくばらんな口調でしゃべった。まず「そうだ」の反応ありは縦に時計回り、強調はさらにぴょんぴょん小さく飛び跳ね、円が加速する。「ちがう」左右にゆらゆら。きっぱり「ちがう」の強調は、縦に時計の逆周り。私が、「こうじゃないかと思っているのですが、そうですか?」に対して、「そうだ」の明瞭なものの内容を、今、忘れないうちに書き出したい。『守護神と守護霊とは、同一人物?同じということ?→「そうだ」/アベ姓の祖先は貴人の食を供える人と、本で読んだのですが?→知らない。(わからないようす)私の守護霊さんは食に関する仕事ではない。アベ家の家系の行者。断食もしていた。先ほどの日記、「どの先祖の人のことが自分にきてるか?」の話ですが、守護霊さま、あなたさまですか?→(きっぱり)ちがう。もしかして、それは過去生の方の内容になるんですか?→そうだ。≪女性、結婚して子供を生んで、夫婦仲もよかった。夫が亡くなった後、一度だけの不倫で子を孕み、生んだが養女に出さなければならず。(このとき、私の胸、肩が左右にしきりに動く、打ち明けるのが苦しそうにもだえている様子)信じて、一度だけの過ちと訴えているような。良心の呵責に苦しみ、頭を丸めて出家。文筆関係も。名前も導きだした。母方の家系で、里村カヨさん。母方の家系図の話を詳しく話した。掘り下げた話を詳しく聞き出したが、今、重い話はまだ書けない状態。(私の心が整理されたのちに。これまで私におこった原因があきらかに・・やっぱり、そうか。思ってたとおり)だから、あなたには男女問題で失敗させまいとしてという訴え。私のそばに、もちろんいる。が、修行の途中段階のため、守護する力まではない。守護霊さんの、指導のもとにあり、お世話になっている。面倒をみてもらっている立場。(先生と生徒、上司と部下のような)里村カヨさんの魂はその人の魂。私の魂は私だけの魂。同じではない。(私のあり方によって、カヨさんの魂の成長、特典の加算に関わってくる。カヨさんと私、似てる面?あるけど、実際は全然違うタイプの人間。守護霊さんの表現では、霊格が違うためでもあるが、カヨさんとは、合わなく、たたかうことも有ると。(そういう面では、守護霊さんも孤独なんですね。里村カヨさんもそうだけど)カヨさんは、きれいなひと?いいひと?に対し、守護霊さん、(まあ)と言いながらも顔ゆがめ、首をかしげる状景。そんなクールな男性の表情が見えるよう。守護霊さんは気位が高そう。私のオーラの色は白。(ラマダーンに入ってから、特に白を好んで着ている)黄色、赤、青、紫、グリーン、オレンジ、金にはまったく反応なし。(銀はまだ、きいてない)カヨさんの波動「ごめんね。私のせいで。今、やっと話せる。どうして今まで、あなたが、こうだったか。待たなければならない期間が終わった。2年前の出来事には、あのことが関係している。(法則)これからは大丈夫、それには力になれることがある。今、時がきてやっとあいまみえることができた」
2006年09月27日
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家系図の法則で、何代前のことが自分にくるか?それがわかると、家系図研究家は言う。≪講演会メモ≫・・『奥さんとうまくいかなかった。頑固で口のきき方も女性らしさがなく乱暴に感じられた。顔も合わせたくもない。口もききたくない。奥さんとの夫婦の問題に葛藤し、二度の自殺を考えた。(自殺をすると地獄にいくという知識もありながら)二度の自殺未遂・・(ダンプカーが来ようとするところ、ひかれようと車道に飛び出す。が、そのダンプカーが消えた・・。崖淵を車で落ちようとした。が、落ちず・・その不思議は今もわからない)自殺未遂・・何故?・・それほどまでに、幸せになりたかった。幸せになりたかったから、自殺未遂を考えるほど思いつめた。ふと、気がついた。「幸せになるために、何をしたの?」「そこまでして、人を、周りの人を幸せにしたのか?」「していない」それに、気づいて、スカッとした。その時、相手さえ幸せになったらいいと思うようになった。体が弱い人だったので、毎日、指圧を一時間してあげた。7ヶ月続けた後、「あなた、良い人ね」と、相手の口から出た。さらに毎日指圧を続け、1年4ヶ月が過ぎた頃、「私、生まれ変わっても、あなたと一緒になる」という言葉を耳にしたのだ。それは、自分が、「生まれ変わった」ということを意味していると思った。その一週間後、神さまの声を聞いた気がした。・・それで、わかったことがある。”あること”をすると、「情欲」「色情」がおこるのである。(これは、悪霊現象である)たとえば、人を恨んだり、上司を憎んだり、コノヤローと思ったりすると、「情欲」が強くなるのだ。批判したりすると、「ピッ」っと、「色情」が反応して出てくる。(うらみ、さびしさ、くるしさ、全部悪霊が入る条件である。)心が全部感謝になり整理できると、その情欲の思いが消える。だから、絶対感謝。なんでも感謝。・・捨てられた、認められない、それでも感謝・・』◇◇◇その話を講演会で聞いた時、ちょっとオーバーじゃないかな?(自殺未遂だなんて・・)少し話を脚色してないかな?と、こっそり思っていた。たまたま、話をされた方のもとで「以前一緒に仕事をしていた」という人と言葉を交わす機会があった。「この間、こういう話を聞いたんですけど~(小声で)本当なんですか?」その人は静かに言った。「先生はうそを言われるような方ではありませんよ」と静かに、ひとことだけ。「・・そうでしたか。失礼しました(ああ、ほんとうだったんだ)」そういえば、人前で初めてこの話をした・・とも言われていたものな。(講演の日は、意味ある特別な日だったようだ)・・この話には続きがある。◇◇◇『そして、20数年が経った。次男は、不出来だった・・。実は、5歳まで喋れなかったし、会話ができなかった。先生方から、覚悟した方がいいとも言われていた子だった。その子が、デキル兄と同じ高校を受けると言い出したのだ。住んでいる地域で一番難しいとされているところであるため、母親は「どうせ無理だから」と、心配するゆえ反対した。しかし、父親まで同じことを言ったら、子供は自信を無くしてしまうだろう・・。それで、思いきってこう激励した。「おまえはお父さんの子だから大丈夫だ。思ったとおりにしろ」と。それに対する次男の反応・・”父親は自分を信じてくれているんだ”というような顔をした。意外だったんだろう、非常にうれしそうにしてみせた。(講演のその日は、合格発表の日で、合格の知らせを受けたあとだったといいう。感慨深い心内だったようだ)よく親は「勉強しなさい。」と言うが、心配しているのは親の都合である。本来、子供が主人公であるはずが、親が主人公になってはいないか。 問題は、子孫が本当に育ったのかということ。子供は、面倒を見た分しか育たない。≪結論≫・・※夫婦仲の良さを見せる。子供は言われることより、見えるものしかわからない。』(以上、講演メモより) ◇◇◇家系図の法則で「何代前のことが私に来る」それがわかると、その方は言われていましたけど。何代前かのご先祖さんは、夫婦の葛藤を持っていたのですね。でも、葛藤したままで、その先祖さんの生きている期間は終わってしまったのでしょう。それで、その続きを法則によって何代か後の子孫に「つづき」を歩かせるのでありましょう。子孫である、その方は、これを克服して、心配だった子供さんの能力をも引き上げた。愛し合う夫婦は、「ろ過器」「濾過装置」なのだそうだ。夫婦愛が濃いと、その先祖さんの悪いものが、そこでストップし子孫に流れないのだという。先祖さんの方の良いものがどんどん流れるというではないか。逆に夫婦仲が悪いと、先祖さのの方々の悪いものが、全部流れてしまうという。家系図の法則によると、私は何代目か前の、どなたかの、≪課題の続き≫を歩いているのだろうか。逆に自分自身をみれば、その人がどういう人だったのか、紐解けてくる?(あっ!何となく閃くものが)こういうことって、考えてもわかるというものじゃない。だ・か・ら、これから、気功体操と祈りで、このことを守護霊さんに話してみようと思う。<終>///////////////////////
2006年09月26日
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本日の日記4本目。先ほどの本を読んで閉じたのは、午前3時前。そろそろラマダーンの霊的準備に入ろう。本を片付けて部屋のセッティングに入ろう。洗濯したての白系テーブルクロスをかける。テーブルを脇によせて、3畳ほどの空きスペースをつくる。気功体操と5円玉運動を、今日も試すのを楽しみにしていたのだ。そう!楽しみという気持ち、すごく新しい感覚だ。フローリングの床を拭き清める。3時前になって、やっとお風呂に入った。3時前で口に入れる飲食をストップ。(ラマダーンの正式は、日の出からスタートではなく、曙からスタートらしい)3時半、一日で一番波動が高いという時間がきた。窓を東西少しあける。小さいテーブルに花を活け直す。(黄色のコスモスに似た花と緑)リンゴも。水、ロウソク、線香、りん。今日は素足で立つ。お経を口づさみながら、気功で気を作る動き体操をする。3時半から4時まで。4時になって、「トイレ行ってきます」と帰ってきたら、ロウソクの炎が大きく上にあがり、黒いすすが上に登っているではないか。キャー!なんで?せっかく気を注入した「手」をつくったのに、トイレに行ったのを怒られたと察知した。大変失礼致しました。水分の摂り過ぎと反省した。先日のテレビで、事件を解明する外国人霊能者が、ロウソクの炎の上に指を動かしながら祈る場面があり、指にすすが黒くついて、それは好ましくない暗示と言っていたのを思い出したのだ。とりあえず、ロウソクを消した。(若干神経質な私は、白系の部屋が汚れるのを嫌って、これロウソクをあまりつけなかったくらいで)これまで、汚れるのを嫌っていたけど、これからはまあ、あまり気にしないことにする。が、この極端なすすはいただけない。一度消して、気を取り直す。今度から気をつけますからね、気分を直して下さいね。新しいローソクに火をつける。今度は大丈夫。まずは、ご挨拶と、世界の平安と、世界のそれぞれの宗教が一つになりますように。一人一人は神の分け御霊という言葉を頭に描いた。あとは思いつくままに~4時45分くらいまで、一人で話していた。語りかけに対して、イエスを縦の円(時計周り)、ノーを左右の揺れ。気功で体を動かしていると、言葉も自然に続いて出てくる。(発見)昨日聞いたことを、もう一度聞きなおしたら、くどいと言われているような気がした。父方のアベ家は、源氏か平か?平側に円がビュンビュン。祖父の名が「新平」というので、平の方かな?と思っていた。(質問のネタを用意していなかったので、次、質問を考えよう)部屋のセッティングをした時、椅子を一つ用意してみた。ローソクの小さいテーブル(80センチ程の脚)の脇が小さな窓にカーテン。その窓を神様に通じる窓と設定して。その前に椅子を置いてみた。守護霊さんの椅子ということにしてみるかな。(神様の姿形とはやはりイメージしにくいので、神様の椅子というわけにはいかないもんで)いかがでしょうか?椅子を準備してみたのですが。縦円ビュンビュン。足ぴょんぴょんするので、えらい勢いで弧を描く。わかりました。わかりました。喜んで下さっているということですね。ありがとうございます。呼び名ですが、昨日「良心」という名で呼ぶ約束をしたのですが、もう一度確認なのですが、「良心さん」と「良心さま」とどちらが、よろしいでしょうか?心では「さん」かな?と思ったが、「さま」にびゅんびゅん。賞賛することは、大事なことです。以前、母親に丁寧にお辞儀した時、目を見開いてとてもいい顔になったことを思い出した。そういうものだ。礼儀作法といえば、さっき、床を拭き清めたと書いた。EM石鹸を薄めた液で拭いてみた。ピカピカいい気を発散しています。先日の「ウチくるSP」のゲストで渡辺えり子さんが、芝居の稽古場に宇梶さんが土足で上がってきたことをたいそう怒った話。「稽古場の床は休憩のとき、顔をくっつけて寝そべったりする床だというのに!土足でズンズン歩いてくるとはなにごとか!」印象に残った言葉だ。芝居の稽古場も道場なんだな。ある人が言ってました。道がつくものは皆、神様を求める道という意味なのだと。だから道場といわれるところには神棚が安置されているのだと。最後にこれを話した。やはり「ウチくるSP」江原さん語録から。先日から毎日のように書いている「江原さんとの霊的関係」の続きで、新しい心の到達をきいてもらった。「自分に返ってくるんだぞ。わかってるんだろうな!えっ!えええっ!!」・・これが、しだいに心地よくなってきているのです。私の背後の悪霊があれで吹っ飛んだような気が。そうなんですか?「霊能者に気合いを入れられて霊能力が開けた」という人の話を思い出したのです。あれは、その「気合い」ですか?ビュンビュン、足ぴょんぴょん。(そうだよ。そのとおり)信頼している弟子にこそ、素の顔と、ある意味ぞんざいともとれる微妙な対し方をされるんじゃないかと思ったんですが。ビュンビュン、シュンシュン。<終>///////////////////////////////////
2006年09月26日
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『名字でここまでわかるおもしろ祖先史』・・日本人十数万名字には、それぞれ秘められた歴史があり、その秘密の暗号を解くと、わからなかった祖先がハッキリと見えてくる。全国の墓地などの調査等を収集した膨大な研究資料が証す初めての祖先史は、一族のルーツの秘密を解明する。著者は日本家系図学会会長。◇◇◇先ほど「体にベテラン主婦が入ったよな俊敏さ」と書いたが、その表現よりも火事場の馬鹿力的ニュアンスかもしれぬ・・体の眠っていたものが覚醒されたような起きあがり?・・いま、ちょっとおもった。!男性的なのである。仕事人風動き。男性が家事を仕事的にやったら、こんなかんじかも?俊敏な行者風の動きといったら、もっとぴったりくる。今、読んでいる本2冊。『凶悪霊を守護霊に変える本』(「あなたの守護霊がはっきり見える」の改訂版/著・池口恵観)行者さんが書いている本です。それと、『名字でここまでわかるおもしろ祖先史』(著・丹羽基二)~抜粋「アベ氏は貴人に食を供える膳夫の役を受け持っていた。(私の旧姓はアベ)その職を引きついだのが、高橋姓。橋は水平の二点を結ぶことに多く使う。天と地を結ぶハシもある。すなわち高橋さんの原意は神降臨のために高々と建てられたポールなのである。いまも昔も、神様のことを柱という。もともとは、神を招くために建てた棒、この柱を建てる儀式が、祭りの中でもっともたいせつなのだ。庶民は、なにか願いごとがあると、すぐ柱を建てる。そして、そのもとには縄張りして聖地をつくり新屋をつくる。神の座所だ。こうしておいてからはじめて神を招く。膳というのは、天皇や神に食膳をささげる役職の人たち。天皇に食膳を供えることは絶対の信任のあるしるし」とある。アベ姓と高橋姓は兄弟のような関わりがあると、別なところでも聞いたことがある。ラマダーンの断食月に、私の祖先が、「貴人に食を供える職」にあったと知るのは何とも心地よい。ラマダーン前、部屋の準備を隅々してきた私。それに、備えたという意識はなかったが。7月からの家の物捨てから、この頃掃除が勢いづいてきたその意味とは?これは、この家に神の霊を降臨させるとか、神を招くとかの意味がある?物を捨てて空っぽにしてこそ、神からくるものが入りこんでくるという意味もあるのだな。今、部屋に、いい気が充満しているではありませんか。////////////////////////////////////
2006年09月26日
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とにかく喜んで、いくらでも働いてくれる・・といった私の体。うれしくて嬉しくてしかたないっといった体のその動きは、ガゼン頑張っちゃうからねという張りきりよう。まるで、家を舞台に踊る人のよう。その家事の手際良さとスピード感といったら!昨日から始まった守護霊さんとの一体化、一致化の現象ではないかと思われ。ラマダーン二日目の振りかえり。◇◇◇昨日は日記を書いて、「純情キラリ」(韓ドラ風です。桜子と達彦さんのキモノ姿が純真な心を感じさせてくれます。8時半~13時半睡眠5h。日照りの熱さに目覚め。「急げ!」お日様が照っている間に、洗濯、掃除のスペース・クリアリング、「するぞおー!」動く、動く。体がシャカシャカ動く。何か、私の体にはちょっと今までと違うものが入っている。楽しそうに動くのだ。7月からの40日の物捨て大掃除の時とは大違いではないか。あの頃は、おばあさんのようにノロノロの動きだった。体に気合いを入れるために、午前中は「にんにく酢」を飲んで体を動かしていたのだ。「朝、食べてしまうとお腹が空いて食べる量、回数が増える」シャーリー・マックリーンが巡礼の旅で言ってたのだが、ほんとにそうだと思った。「にんにく酢」を飲めば、食べることを忘れて働けた。が、それでもこの夏は、ノロノロ動作だったのだ。それなのに、昨日の機敏、俊敏な動きは何であろうか。私の中の何かが、大喜び、大はりきりしているのをみた。それも、ベテランの主婦というくらい、合理的にササササッと早い動作でパキパキ片付けてしまうのである。台所シンクの排水口の中も瞬時のうちに。トイレも玄関も、かーるがる。昨日はお天気が良かったので、玄関外、ベランダにジャンジャン水をまいた。マンションの工事が終わって業者の人達が撤退してから、はじめて思いっきり水をまけたと思う。とても気持ちよかった。日が沈む前くらいには楽勝で、仕事を片付けられた。体がスパスパ動くって、女性はこんなイキイキすることはない。(あたしもなかなかやるもんだ)若いとか、元気とか、じゃなく、大いなるものとか、大気からエネルギーをもらっているなという感じなのだ。(日が照ってるうちに!)というおもいが、お陽さまと競争していたようだった。午前中は曇り空だったので、やる気がパッとおきなかったけど、午後の日差しには触発された。この大気の気をウチの中に取り込むのだ!急げ!という思い。日差しの中、全ての戸や窓を開け放し、外に水をまき、微生物のシャボン玉EM洗剤で洗ったものを干す。シーツなどはベランダに干す場所が足りないので、部屋の中にも干す。適度ないい風も吹いていたので、東から入る風でシーツが揺れ、部屋の真ん中に干したシーツを踊らせて、西窓に干したシーツを動かし風が通り抜けた。部屋の配置のインスピレーションが沸く。(部屋の四隅に物を置かない方がいいよ)という思いがくる。よく四隅に気をつけろとか、盛り塩などというようだが、あまり注意をはらってこなかった。意味がわからなかったし、ピンと来なかったから。今、ちょっとわかる気が。四隅にものがあると、心をふさぐということだ。ほこりも、置いてある物に溜まるし、そのほこりをはらいにくい。今、6畳の和室の角のものを取り払ったら、空きスペースが4畳半分つくれるが、5畳にも持っていけそうでもある。夕食はそこで頂くのであるが、ガランとしているために毎日畳を拭き拭きしてしまう。ご飯のテーブルを拭くように。毎日拭いても、微細なほこりや髪の毛が拭き取れるものである。心はピカーンと自由感が充満する気分である。少食を実行する方法としては、「赤の小さなテーブルで食べることである」必ず物が溢れるから。ご馳走がいっぱいという気になる。これも、物捨て以降の発案である。赤というのが、食材をイキイキさせてみせる。質素な食事でありながら。冷蔵庫は今年1回しかスイッチを入れていない。冷蔵庫の電磁波と音が神経にさわっていたのは、もはや遠い昔のことである。日の入り前になって、玄米を炊き始めた。圧力釜でシュンシュンさせながら。玄米を浄水で洗う。泡立て器で軽く廻して、内釜のカムカム鍋から水を溢れさせる。ほこりを流す程度でOK。茶漉しをあてて水を流す。なぜ白米と研ぎ方、洗い方が違うか。白米の場合は、精米したあとだいぶ時間がすぎているので、顕微鏡でみるとカビが覆っているのだという。特に夏は。炊いている最中、和室で休憩。テレビにスイッチを。やっぱりやめた。暗いニュースを目に入れたくない。予定なくパッとつけるのは、ちょっとやめておこう。体操だ。気功だ。ああ、お日様がもうすぐ沈むではないか。体をゆらゆら動かしながら、今日の無事を感謝した。それを言葉で、もうそろそろラマダーンの二日目が終わります。感謝します。と、言った。お祈りとか、なかなか、言葉が出ない。けど、体を気功状態にすると、自然体で、子供に声をかけるように、声が出てくる。人が他にいなくても、大気に向って、言っていいのだ。こうして日記を書くみたいに自然体で、言葉にすればいいのだ。祈りは「ありがとうございます」というご挨拶。それがテーマである。その時、私のヨガポーズの体は窓の空を向いていた。空が祭壇である。それが、「部屋の角にものが無い方がよい」と思えた瞬間だった。物が無ければ、たえず畳をひと拭きできる。窓の一方向だけに向って、「神さまぁ、」って声を掛けるのは足りない?というか気恥ずかしい。両方の角が空いていたら、一方向プラス両角に思いが扇状に放射するんではないのか。もっと自然体に声をあけれそうなのだ。それを昨日は発案までだったが。(近々出来ますように。出来つつある)気功で体に気を溜めると、神様って言えそうなのである。これは森公美子の霊と交流できる条件と関係ありそうだ。体内に、電磁波、電気を起こす。と、霊との交流がおこる。明日の「オーラの泉」でその話が出てくるはず。日が沈んだ。水を飲む。お疲れさん。ちょっと乾いていたんだ。夕食まで水をチビチビやりながらネットで過ごす。BGMに「般若心経」ギャーテー、ギャーテー、ここの部分が意識に残る。Nさん帰ってくる。「何コレ?」「般若心経だよ~ん」「暗いからやめよぉ」「は~い」日本は仏教霊界だから暗いんだよ、だって。けど、秋のお彼岸中ということでもありますし。仏さまの部屋でこのBGMは何て便利なのでしょう。時々いいかも?と思った。食事(玄米ご飯/椎茸・生姜味噌汁/トーフ・丸大豆醤油/カボチャ・自然塩/もずく三杯酢/納豆/梨/くるみ餅/コーヒー)。仏さまのお供え物(くるみ餅/りんご)ごろりと畳に横になる。少しうとうと。お風呂に入らなきゃと起き上がる。が、なかなか入らない。ここで、閃き。わかった。なぜ、お風呂になかなか入れない私なのか。体の汚れや酸化、それら汚れには雑多な霊が付着するんではないのか。「オーラの泉」釈由美子の時、「お風呂場の排水溝に、あっ!小人のおじさんが流れていく~」これは霊のいたずらというだけ?だろうか。石鹸と洗い湯で、汚れを洗い流すと共に、雑多な霊が流れ落ちていくのではないか。・・やはり、そういうことはあるのではないだろうか。そうと、わかれば、まめに簡単でいいのだから、気軽にシャワーすることだ。汚れを溜めて、一度に長風呂で丁寧なアカスリしようなんて思わないで。(実際それで腰が重く行動できないのだから)決めた決めた。日中の家事モードに入った。超特急の動きで、サササササッ!とお風呂を完了した。毎日、ささささっとおおざっぱにアカスリすればいいんだ。
2006年09月26日
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ラマダーンを始める前、イスラム掲示板へ挨拶に行き。祈りとは、ご挨拶と思ったので。せめてと思い。去年もラマダーン前に、一度書き込みしたが、反応なしだった。けど、今回は管理人さんが、「断食ご苦労さんです」とレスをくれた。はは、そうですね。ムスリムではないので、単に断食であり、正式なラマダーン参加とはいいがたい。今朝、4時から東の窓に向って、ご挨拶した。(神様に)そのことを話した。管理人さんのレスに、あなたが、神様を信じて祈りを持って参加されたらもっといいのにとも書かれていた。それを期待すると。話しているうちに、こんな言葉が出てきた。私はイスラム教徒にはなり得ないけど、宇宙の神様はおひとりでいらっしゃるのでしょう?仏教でもキリスト教でもユダヤ教でも、様々な諸宗教においても、宇宙を司っていらっしゃる神様はおひとりでいらっしゃるのでしょう。ならば、どこに属していようが、みな兄弟姉妹ということで、心を一つにすることは、できるのでしょう?「ダライ・ラマに恋をして」(著・たかのてるこ)で学んだように、世界の平安を口にしていた。自分のことは祈らなくても、「世界が平和でありますように」と祈れば、その中におのずと自分は含まれているから。それが、祈りというものだよな。神様へのご挨拶というものだよな。納得した。飲み物などの飲食は午前3時前にはストップ。床を拭いて備えた。玄関から、ダイニング・キッチンに入って、この部屋に続く床がフローリングである。物の置いていない空きスペースは、本を読む場所のダイニング・キッチンの空きスペースが畳でいうと5畳程、この部屋が3畳ほど。その3畳のスペースを四角く作って、お祈りの場所を作った。気功で気を溜め、ヒーリング音楽のBGMとお経の口ずさみ、5円玉での良心さまとのやりとり、また後で報告します。より意識はグレードアップしたので。
2006年09月25日
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昨日書いた日記に つきのせさん が「食」と「霊」の関係に関してコメントをくれた。以前、守護霊さまのことで、いろいろ教えてもらったことがあり。再度また、さらに詳しく書いて下さった。日記を書いて午後4時に寝て5時間後の夜9時に目を覚ましてから、ずーっと起きている。すぐに書いておきたいことがおこる。初日のラマダン明けは普通だった。(いつもと同じ感覚)玄米・子持ちししゃもの佃煮・カニ風味サラダ少々・ネギの味噌汁・納豆。仏さまのお供え物は、おはぎ(粒&こしあん)お菓子。差し上げたあと、頂く。嗜好品のコーヒーや、水は朝4時でストップする。(守護霊に関する本があったな)閃く。「守護霊のおかげです」(著・高島忠夫)本を読むのにお気に入りのスペース、キッチンで読んでいた。般若心経のページなどを読み、途中思いついて、部屋についているU-SENの般若心経のチャンネルを夜中流してみる。お坊さんのゆっくり唱えられたお経を聞くが、今の私の心霊とは合わないようだ。お経はスローより、スピーディーなリズムの方がインスピレーションが沸くのだ。また、本にもどる。般若心経の意味の一つで印象に残ったことは、「捨てる」ことにより「入ってくる」ということ。だから執着をもたず常に「空」、カラにしておくようにというもの。昨日、つきのせさんのコメントを読んで、返信を書きながら、こう思った。人と、その人の後ろの守護霊さんと自由にコミュニケーションをたえずしたい。何故、できぬのだ。(江原さんのような通訳者を介せずとも、できないものなのか?)普段は意識していないので、忘れている。ならば、逆に意識すれば、し続ければ、求めれば、できるのではないのか。閃きがおこった。≪5円玉に紐をつけて廻す方法。≫・・以前、横浜と東京で、自己啓発のセミナーに参加したとき、体験したことがあった。わりと疑いを持たない性格のため、よく廻ってくれた。なので、イエス・ノー方式でたずねてみようかと思い立つ。でも、こういうのって、やって大丈夫なの?霊的に?時計を見た。時間は午前3時~3時半の間ではないか。この時間帯とは寅の一刻といって、一日のうちで一番波動が高いとされている時間帯ではないか。この閃きはわるくないと直感。5円玉を財布から取り出して、石鹸で洗って拭いた。手頃な白い紐を見つけた。結ぶ。部屋の中心で、さっそく持ってみる。午前4時迄の間、まったく動かず。最後の飲食、コーヒーと水を飲み干し、歯を磨いて、あとは日の出(5:20位)まで集中することとする。東と西の窓をわずかにあける。新しいロウソクに火をつけて、線香を一本つけて。線香一本が終わった。動きなし。新たな閃き、BGMにヒーリング音楽を流す。昨日のお経効果から、お経をリズミカルに唱える。更なる閃き。以前に椎間板ヘルニアの療養時期に試みた≪気功≫で、気を溜める方法を取ろう!両足を肩幅くらいに開く。膝をガクガク微細な振動の動き。更に、両手を前に出し、バレーボールを左右に転がす動き。それらをロウソクと花の植物の前で、お経を唱えながら5分、10分と。気を溜めた「手」をつくった。その手で、再度、五円玉の紐をもつ。真ん中のテーブルをわきに押しやって、空間のスペースをつくる。私は、語りを始めた。思いのままに、話す。簡単。コメントを頂いた時に、やたら丁寧にレスしたくなる、くどくどとしたトークを言葉にする。この方法で、コミュニケーションは可能ですか?やめた方がいいですか?絶対なんらかの方法で心を合わせた方が、お互いにいいとお思いになりませんか。漠然と守護し、守護されるんでは、仕事がはかどりにくいでしょうに。せっかく、500年も、修行してこられたのですから、心をひらいて交流しましょうよ。私、ふざけてませんよ。今、本当に変わりたいんですよ。このラマダーン期間で、飲食をある時間ストップすることを通して、何か不具合なものを調整し、修正されたいのですよ。昨日、あれだけ上手く環境整備法を学べたし。如何でしょうか。なにか、宇宙の法則に反しますか?いつも、日記を書いているとき「ビン!」と所々で反応下さるじゃないですか。そういうのでいいんです。イエス・ノ-でお返事頂けませんか?イエスなら時計廻りにまわって。ノーなら時計の反対の左廻りで示して頂けませんか?動き出した。五円でなく、身体が。足首、腰、頭。だんだん、どんどん激しく。全身を使って、ビュンビュン、五円玉が廻る回る周る。これは、自己啓発セミナーの体験どころでなかった。だんだん、私の語りは、ミュージカルか、一人芝居のように、どんどん言葉が出てくる。気持ちが伝わり合っているという感触。身体が、上下に飛び跳ねはじめた。とともに、五円玉は縦の円をつくった。宙に孤を描く。あまりのスピードにシュンシュン音をたてている。霊界の心の動きの強弱が伝わってくる。「~そうなの?」「そうだ、そうだ!そうだあ!!」守護霊さんは≪男性≫。≪行者≫。≪父方の家系阿部家≫。(七代前の方ですか?という質問をし忘れた)過去生とか前世とか、今、しきりに言われているのですが。・・本当に≪過去生というものはある≫のですか?あるという。(そうだったんですかあ!)初めて霊的に納得した。過去生は私≪女≫≪文筆関係≫これらを2度3度確認作業をした。ひののをさん が書いた安倍清明の話ですが、安倍晋三新総裁と関わりがありますか?総裁決定の日、目にした記事でインスピレーションを受けていた。大きくビュンビュン孤を描いた。やっぱり。ところで、10年前、私の後ろの霊を見た人が言ってた、白装束の修道者の姿の男性はあなたですか?違うという。きっぱり。もう私のところにはいないと。はい。「成仏して下さいと護摩木(700円)に書いて供養すると約束してくれたら話してあげる」その見える人は、そうでなく、ペラペラしゃべったとき、自分が打たれるのだと言っていた。その人は、私とたまたま朝の挨拶をした時、いきなり悲鳴をあげて顔を両手で覆ったのだ。みたくないものを見たという反応だった。けれど、その理由をなかなか言おうとしなかった。なかば、脅迫口調で、問い詰めたのだ。その人は霊媒体質ゆえの苦労が多いようなのだ。その人の言われた通りにした。・・考えてみたら、そういう出方をする人が守護霊であるはずはないのだな。・・で、納得もし、スッキリした。それから、これまで、死にかけたいくつかの出来事を一つ一つ話していった。オートバイに跳ねられて宙高く舞った時のこと。下手すると、植物人間になっていただろうという、あの事故の時、守ってくれたのはあなたですか?ビュンビュンビュン!ありがとうございます。では、子供の頃、公園の雪の被った川に落ちて、死にそうになったこと覚えてますか?助けてくれたのはあなたですか?(たまたま男性がたった一人近くにいた。悲鳴を聞きつけて、救い上げてくれたのだ)子供一人の力では這い上がれなかった。(どうぞ、その男性に福がもたらされますように)はやり、守護したのは、あなたでしたか?ビュンビュンビュン!あなたなんですね。ありがとうございます。では、これは覚えていますか?知らない山道で、真っ暗になった時のこと。懐中電燈を持っていなかったし、どんどん暗くなって、きた道を戻るのに難儀した時のこと。次の足を前に一歩踏み出す時に、なぜだか、一瞬、足をつけなかった。足をつけなかった。私は用心して、そこに地面があるかどうか、足を宙に泳がせて確認したのだ。・・!そこに、地面がなかったのだ。がけっぷちだった・・青ざめた。慎重に、足を後ろにひっこめた。ぞおーっとした。けど、(私は何者かに強力に守られている)感謝のおもいに熱くなる。(私って、こんなに守られてる。この世に生きよと、必要とされている命なのだ)・・あなたなんですね。私を助けたのは?ビュン!ビュン!!ビュン!!!(そうだ!そうだ!!そうだ!!!)はじめ、なかなか、正体をあらわされなかった守護霊さんでしたが、少しずつ、心を開いて、私を信頼して、表現を動きで示し始めた。なかなか情熱的な方ではないか。呼び名を提案した。以前、日記で、何となく閃いて、書いたことがあったのだが、確信が持てなかったのだ。その時の名が閃いて、聞いてみた。「リョウシン」と名づけたが。良心の意味。この響きでどうだろう?OKのようだ。以前、「リョウシン」で使いこなせなかったので、字を改め「良心」としよう。「良心さん」と呼ぶ約束をした。善なる霊の方を呼び寄せるには、信頼してもらわないといけないという気がした。こちらが真剣であることの訴え。ぞんざいに対すれば、傷つかれるような気が。信頼を裏切らないという姿勢。迎える気があるのかどうかという、丁寧なもてなし。どうでもいいお客さんへの対しかたなのか、大切なお客さまに接客する態度なのか。以前は、漠然としていたので、求める気持ちが中途半端だった。何か、離れ離れになった肉親とやっと会えたというような再会、抱擁の高揚した気分だ。先日書いた、トイレの神様に関するインスピレーションは正しいかどうかもたずねた。大きく孤を描いてくれた。かなり、今、ぐったり状態。これから、洗濯、丁寧な掃除、スペース・クリアリングをする。それが、彼と接する礼儀であると感ずる。
2006年09月25日
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天命館さん(太陽の回りをくるむローズの水晶を思わせる光の輪にはパワー有り)の記事から気づいたこと。解説された「霊」と「食」の関係がとても興味深く感じられました。正義感が強く霊的に鋭い管理人さんなので、見る目は厳しめですが、色々と閃きをくれるページです。霊と食のことをもっと教えて頂きたい。ここで私は、食べ過ぎてしまう理由というものが、初めてわかった気がしたのです。大食いの人の理由。なぜ、無駄に口に入れてしまうのか。少食の掲示板でも多くの人が、どうしても食べ過ぎてしまうといいます。食と霊が関係するということがわかるとなれば、「改善策がある!」道が開けた思いがしました。江原さんが語られた話「とても敏感な人は、人の気持ちを汲みやすい。そのため、食べたいという人の気持ち、霊の気持ちを拾ってしまう。死ぬ前の人は(病院で点滴を受けるなどで)ほとんど何も食べれなくなって死んでいきますから」どんどん食べて肥ってしまう人には、そのような理由があるというのです。大食いとは憑依。管理人さん解説≪霊に憑依されると大量にご飯を食べたくなる。そうなる時は、いくら食べても空腹が収まらない症状が出る。死ぬ前の人はほとんど何も食べれなくなって死んでいくため、憑依された人は、その人の体を使って霊を満足させ成仏させている。また、ある程度満足するといなくなる≫ああ、そういうことだったのか。今朝の私、日中だけの断食月が始まって、朝からスペース・クリアリングで部屋の浄化の作業を日の出と共に始めていた。窓を開けて、お経を一時間くらい口ずさみながら、仏様の水やら、花を活けたり、掃除をしたり動いていた。部屋の空気は、がぜん澄み渡り、ピカーンとしてる。これって、霊の浄化作用ってことだったのか!今、お腹が空洞状態で、とても平安、何もいらない。昨日は色んな時間に食べていた。が、今は、ちっともお腹すいてない。スペース・クリアリングって、部屋を整えるって、霊の精神状態を整えるっていう意味なのか。口ずさみながらのお経が効いたという気がしている。特に今、秋のお彼岸中ですし。それと今、気づいた。お彼岸の始まろうとしていた日、スーパー行って、お供え物の値段が高いといって何も買ってこなかったときのこと。帰ってきてから、何か怒られている気がして、ひえ~っとしたのだ。Nさんがおはぎや梨を買ってきてくれ、なんだか安心した気分になったのだ。これまで、仏さまに関すること、意識が薄すぎたこと自覚、反省。それは、霊とか、霊の作用とか意味とかが、よくわからないものだからピンとこなかったのだ。先日、霊媒体質のRちゃんが、お盆の時期、霊に連れていかれそうになった話を聞いて、お盆には本当に霊がくるんだなって初めてやっと意識したのだ。今年夏、物捨てと掃除に精を出したあと、多分はじめてお盆をちゃんとしなきゃいけないんじゃないかと意識した。調べてみると、ある霊能者の人が、たくさんの亡くなった人たちが、喉が乾いてカラカラなので、大きなボウルに水をたっぷりあげてと書いてあった。ストローも添えてと書いてあったが、そこはできてない。今、霊界の音が「ビン!」(はい。ちゃんとスーパーからもらってきます)その霊能者さんが言うにはお饅頭などのあんこは、愛情をあらわすのだとか。なんだか、こうして書いてみると、霊と食の関係って、ちょっとおもしろそうですね。もっと調べてみたくなりました。趣味にしたくなるかも。また「ビン!」って。書いていると、すごい霊界さん、反応してくれるんですよ。「ビン!」の音は「そうだ!」と解釈しています。男性的な(?)音かも。うちの両方の家のお墓は遠方なので、家系の位牌を仏壇屋さんで両家とも作り。(私の発案)毎日お水とご飯をあげ。だんごやお菓子など買って来たら袋を開けてお供えします。ちゃんと「どうぞ、お召し上がり下さい」と声もかけます。そこから頂く時は、「もらっていきまーす」と一声かけます。(これ、大事らしいです。霊能者の下ヨシコさんがテレビで言っていた)お経をあげるのは今年多分5、6回目くらいです。(ああ、このラマダーンの時期から良き生活習慣が身につきますように)さっき書いたラマダーン出発の日記、私は何か、導かれているような気がします。いろんなことが一つずつ紐解けていく気がする。昨日、一昨日書いた、江原さんとの霊的関係のその後はどうかというと。私が怒られたことが心に残ったということだったのですが、私の心に変化が起こっているのをキャッチしました。何かのトラウマだったのだろうかとも、考えたのですが。それほど、怒られてきた記憶はないのですが、そういえば、「何でも自分に返ってくるんだよ」天にツバを吐けば自分に返ってくる。そういうことは、母親がよく言ってたことだったんじゃないかなあって。それと親は子供にお客さんに接するようにはしない。笑顔も繕わなければ、素の顔で、辛口でストレートにくる。他人のおばさんとかはソフトに来るけど、親はそっけない。でも、それが親だよなあって思えてくる。「自分に返ってくるんだよ」っていう言葉が、夜中、神様の声に、ちょっと感じられた。江原さんに辛口きいたことが、親に辛口きいたことに重なった。親は、「親に向って、その口のきき方は何だ」むすっとしたことなど思い浮かぶ。ほんとだよなと。母親と江原さんが重なった。人に辛口きけば、自分が辛口言われる。母親の口癖「なんでも下でにまわって謙虚に。世の中の人はこわいんだぞ。特に人の口はこわいんだぞ」と。先人のご先祖さまの声にも聞こえてくる。
2006年09月24日
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空が白み始めてきた。空は私の祭壇だ。白のテーブルクロスの上に、緑と黄色の草花を花器に盛付けて。白熱灯に緑が透けてキレイ。お線香一本が終わる間を目安に、お部屋を整える。スペース・クリアリングの意味がわかった日。これから一ヶ月、朝3時過ぎに目覚め、ご挨拶をして、環境整備から一日を始めよう。◇◇◇神様おはようございます。全国全世界の兄弟姉妹の皆様おはようございます。今年2006年もまたすがすがしい気分でラマダーンに参加できるとは・・なんという幸せ者でありましょう。(3:15起床)私が暮らす地域、本日の<日の出/日の入>は(5:24/17:31)です。その間だけ飲まず食わずで過ごすという参加です。イスラム教徒ではありませんが、心の旅の、旅行者として便乗参加させて頂きます。快く許可して下さいませ。願わくば、笑顔で歓迎し、受け入れてもらえますように。便乗という他の人の乗り物に一緒に乗せてもらい、この時流をよき機会として活用させて頂くことに感謝します。よりよき導きがありますように。日の出の時間がせまる。(イスラム掲示板と同行者kawausoさんの所へ行き、出発の挨拶を書き込む)最後の浄水を飲み干す。空が白み始めてきた。PCを開いたまま、私は何をしたか。西の空が見える大スクリーン窓(縦横1、5m×2m)、白いカーテンをひき、窓を開ける。空に向って、神様と世界に向かって挨拶をした。広い空、私の祭壇だ。東の窓を開ける。まずは水。神様と仏様用の水、花瓶の水、窓の外のベランダに向けて流す。新しい水を汲む。(秋のお彼岸の後半、思いつきだが、ガラス器二つにたっぷりの水もテーブルに)ロウソクに火をともし、お線香一本に火をつけ、お経を口ずさみながら、どんどん体が動く。お線香一本の間くらいのきもちで、お経を口ずさみながら、体は動き、部屋の空気をかき回す。ドアを開け放した。ズックを履いて、マンションの階段を駆け降りて、花とグリーンを手折る。カボチャの花のついたツルの枝、南天を少し、キウイの枝、ゴウヤの実のついた枝、黄色い名前のわからない花などを収穫。部屋中心のテーブルに白系テーブルクロス。その上に白の花器たっぷりに飾る。(活けてる間も、口ずさんでいる)台所の片付け、床拭き、トイレ掃除、軽くサササササ。とっくにお線香一本は終わっていたが。お経を口ずさみながら、仏さまの前にきて、お経本を開いて最後だけキチンと。吐く息が長いと気づく。気がつけば、日の出から動きはじめて一時間が経っていた。お彼岸だからかもしれないけれど、最近、こういう朝がちょっとだけ続いている。日が暮れる前になったら、ヨモギ、青シソ、紫シソを摘んでみよう。水洗いして、口の中に入れてクチャクチャクチャ。生ニンジンと一緒に食べると、がぜん甘く食べれる。ここは、市の中心地域にありながら、家の廻りは菜園や空き地の緑があり。今日の草花は、隣の菜園のものが、マンションとの境の網の塀から、はみ出たものをいただく。この間の夕方、紫蘇やヨモギを摘んでいたら、畑のおじさんが声をかけてくれた。元気に挨拶して数分話す。もっとちゃんとしたのあげるよって。けど、咄嗟に断ってしまった。もらっても、今、必要なものは、ほんの少しでいいから。ちょっとまとまったものをもらうと余してしまう。家庭菜園のおじさんも、いっぱい収穫しても余してしまうから、与えたい心いっぱい。こっちはおこぼれ少しで足りる。けど次の時は「うん!ちょうだい頂戴」とかわいく言おう。朝一番の部屋の気を整える。木火土金水の五行。家の主人の片われとして気を動かす。◆朝の空気、朝の植物を取り込む・・<気/木> ◆ロウソクの火・・<火> ◆灰にお線香を立てる・・<土> ◆お経というリズムとサウンド、りんの鐘の音色・・<金> ◆コップ、ガラス器のたっぷりの水・・<水>「ガラクタ捨てれば未来がひらける」著者カレン・キングストンのスペース・クリアリングとは、コノ部屋の空気だ!と、思った。物捨てをごっそりしたお蔭で、ほこりを拭きあげる部屋全体の表面積がグン!と少なくなったのだ。その分、だんぜん時間短縮、サササササで終わる。線香一本分の時間のきもちで。<終>/////////////////////////////////////////■ラマダーン(アラビア語)はヒジュラ暦の第9月。日本ではラマダンともいう。イスラム教徒の義務の一つである「断食(サウム)」では、この月の日の出から日没までのあいだ、飲食を絶つ。「ラマダーン」を「断食」のことと誤って捉える人も少なくないが、月名である。また、1ヶ月間という期間を完全に絶食する訳ではなく、日没から日の出までの間に一日分の食事を摂る。旅行者や重労働者、病人など、合理的な事情のある場合は昼間の断食を免除される一方、敬虔なムスリムは自らの唾を嚥下することさえ忌避するなど、ひと口に「断食」と言ってもその適用範囲にはある程度の柔軟性と幅を持つ点にも注意が必要である。断食をするかどうかは原則として宗教的モラルの問題である。また、基本的に異教徒には強制されない断食は飲食物の摂取量を減らすことが目的なのではなく、あくまで宗教的な試練として課される。むしろラマダン中は夜食が盛大になり通常より食糧品の売れ行きが良くなるといわれる。 ラマダン中には世界中のイスラム教徒が同じ試練を共有することから、ある種の神聖さを持つ時期であるとみなされている。断食明けの祭りは盛大である。///////////////////////////////////////
2006年09月24日
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深夜、江原さんの顔が現われて・・困った。打ち消そうと、どんなに苦労したことか。(反省せざるを得ない)と思った。江原さんの後ろの方々にも怒られたんだろうと思う。江原さんの顔も、もちろん不快を訴えていた。(ショボン)しかし、あやまちは誰にでもある。このことを通して何かを学べばよいのだ。テレビ「ウチくるSP」を見た感想を昨日、初めちょっとのつもりで書いていたら、どんどん話が長くなっていき、やや辛口トークにもなってしまった。江原さんが読んだら不快な気持ちになるかもしれない・・とも思いながら、必死のフォローも添えたりしたが、言葉が足りなかったと思う。続きの作業が必要。書きながら、思っていたんだ。我が身のことであると。我が身への戒めトークです。全てに偶然がなく必然であり、人が見るテレビもが、自分と関わりある必然と思う。それらを通して、自分のことに当てはめて、学ぶべき材料を、神様はテレビという媒体と電波を通して与えてくれているのである。森公美子さんが「オーラの泉」トークで、「幽霊は電波などの条件があってこそ現われることができる」そういうことを言っていた。「霊界に関する本を読んだ時、電気の勉強をしてたからよく理解できたよ」と言ったのはNさんなのだが、その言葉が、いま思い出された。電気は、霊的なことへの理解を助ける?つまり、人の生きている霊も、あちらへ逝かれた方の霊も、そして神様の霊も、電気とか電波が交通網ではあるまいか。科学がもっとも発達した現代、霊界のことが最もあきらかにされるべき時代なのだ。今、こうして書いていること、想念が、霊界にも通じている。ネットという電波を通じて交流しているのだ。はっ!とするような文を、ネットで目にすると同時に「ビン!」とラップ現象が起こることを不思議に思っていたが・・いま合点がいく気がする。・・私は江原さんの高い後ろの霊界と交信しよう。負の部分に気づいたとしても、驚いたり、わるく思ったりなどせず、プラスの思いで見る目を、続けようと思う。それが、私が人に接するときの方法であり、人との関わり方の方針である。リアルの人間関係においても。(「ビン!」いま霊界の音が・・そうだ!と言っているようだ)・・たとえば、Nさんという相方に対して、私は全てを受け入れているではないか。相手の長短、正負も丸ごと飲み込んでいるではないか。一緒に暮らして、盲目的に好きなため、欠点が見えないという、実はアバタもエクボ状態なのだが、人と人との間に愛や信頼が流通すれば、実は誰だってそうなのかもしれない。あるお父さんが言った。「うちの娘、実はちょっと鼻ペチャで(笑)、顔もペチャっとしてて(笑)、しかも太っているんです(笑)」「それがねぇぇぇ、はは(笑)・・!かわいんですよお!!」つまり、そういうことです。親はそういうもんだということです。その子の全てを肯定的に受け入れている。欠点すら可愛く見え、感じられる。もはや欠点とはいえない。これを身内以外の一般の人間関係に適用させたいというのが、私の狙いである。暦を見て干支をよく調べていた時期があり、が、続けていると気分がダウンするという壁に突き当たり。なぜ?「良い」「悪い」ということに心が捕らわれるようになったからだと思う。そこに陥ると、人をも、自分をも、「良い」に喜び、「悪い」を排除したくなる。「悪い」ものを疎むような気持ちに誘われる罠が潜んでいる。「まじないや占いごとを聖書では禁じている」と、あるおじいさんの言葉が引っ掛かり。らい病患者に対して、人は先祖の因縁がどうのと、人を差別するような目で、冷たく見たり裁いたりするが、そうではない。意味あって神がそうしたのだ。良いものも、そうでないものも、同じく神の子であるという意味か。(まだ聖書は、ほんのちょっとしか読めてないので、いつか、ちゃんと探せますように)それで、このことは最近、三浦綾子さんの小説をいくつか読んで、「毒麦」に関する聖句をネットで調べているうちに、どんどん理解が進んでいった。その人を「悪」と決定してしまうには、まだ早いかもしれぬということ。だから、すぐに悪い人扱いしてはならぬということ。聖書の意味をネットという電波を通して、インスピレーションも手伝って、理解が深まった。自分の思考の中に、神様という存在を真ん中に存在させることによって、小さい心の世界が大きくおおきく、広くひろく、美しくうつくしく、ひらけていったのだ。それは、ここ最近の心の進展かもしれない。はたと気づく。(自分のことを鬱と表現してみたり、心霊ダウンと思ったり、人の好き嫌いが、少しずつ治っていきつつある)全快以上の心の成長といえるかもしれない。私は最近、長らく閉ざしていた干支表などの暦を、また開くようになってきた。人に対する見方が変わってきたお蔭で、暦の見方や捉え方が俄然、前向きなプラス思考に変わってきたのである。もはや、占いとか、鑑定とかではない。人という個性体に、神様を見出そうとする行為となってきたのだと思う。必ず人は、神様の一部分を担当している。神様の一部分の表現者である。だから、人を見切るのはちょっと待った。こちらが、人を悪く決めつければ、人はその想念に答えてやろうじゃないかとなる。子供もそうだ。ダメと否定し続ければ、ダメなとおりになろうとする。人間関係法は、子育て法に通じる。親と子の関係は、夫と妻の関係につながっている。他人との関係に通じていく。今、あらたな気づきがおこった。暦をみて干支を調べるのに熱中したころ、子育て心理学の勉強をしていて資格を取るのに通っていたところがあった。干支と、子育て心理学を混ぜて考えたとき、非情に面白い!と、何かを発見したような気持ちになった。それを心理学の方の先生に話したら、不快な反応が返ってきた。おもむろに嫌そうな波動が伝わってきたので、両者を混ぜる意欲も萎えてストップとなった。そこで使われていたテキストは欧米で作られたものの日本語訳で、キリスト教精神に基づいたものだったからなのだと、今、気づいたのだ。キリスト教は、まじないごとにちなんだものが嫌いなそうだから。けれど、今、思う。どちらも、そもそもの発端は、神様から出た発想の一部分なのではないか。根っ子は神様につながっており、それぞれは連携し合うことが可能な、実は兄弟だったのだという発見。江原さんトークの話から、右脳が刺激されたのか、どんどん、言葉が枝葉に分かれていった。森公美子さんの「オーラの泉」トークで、37歳の時(10年前)幽霊と会話の中で、「霊は電気」の他に「右脳で感じて映像化」とも言っていた。いま、書きながら、江原さんの表情はどんどん柔らかいものになってきています。(わかってくれた?)という表情。江原さんは子供さんを、奥さんを愛している。これから、また、やっぱり、時々、辛口トークしていきます。ぶつかっても、また仲直りできる業を知ったから。私の方針、無駄におべっかを使わない。疑問に思ったこと、これはいかがなものかという提案は、必ず、自分自身の成長につながるから。イエスマンだった頃の習性からもっと解き放たれるためにも。
2006年09月23日
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江原さんの息子さんからのメッセージが特に印象に残り。「身内に冷たい」「これ以上太らないで」「こわく怒らないで」と。江原さん、子供たちにどんな怒り方をするかを実演。三段階に及ぶというのだけど。・・かなりビビリました私、とても恐い気がしました。自分が怒られている気持ちになり。息子さんの気持ちがよく理解できました。多分、どこの家のお父さんも同じで怒ると恐いのでしょうが。それプラス、江原さんは人の背後の霊界を視て暮らしているわけであって。自分に対して厳しいように、身内に対しても同じく厳しくなってしまうのだろうなと推察した。「カルマの法則だぞ。全部自分に返ってくるんだぞ」と、スピリチュアルな論理と子育て法があるようですが。怒り方に凄味が利いていて、吹っ飛びそうなのです。「わかってるんだろうな!」(低めの声)→「ええぃ!!」(凄味を増して)→「えええぃ!!!」(悪霊退治をするような音量と霊的迫力にのけぞりそう)ちょっと極道のヤクザ的迫力を感じてしまいました。だらけた不良生徒が、「気をつけ!」の姿勢になりそうです。江原さん「まあ、息子ですからね」と言っていましたが。(ああ、もっとお父さん、テレビでゲストに接するようにニコニコ穏やかに言ってくれればいいのに)息子さんはそう思うのだろうなと思いました。霊能者の身内というのは、中途半端に甘えられない厳しいものがあると思いました。家族はお客さんではないからストレートです。森公美子さんが登場されました。江原さんと同じものを視る霊能力があるのです。同じものを視た時、江原さんが言葉で表現したものを相手に伝えます。その表現の仕方に、森さん、「ああ、こういうふうに表現するんだなあ、スゴイ!」と感心していました。視える人が視えない人に通訳する時の言葉の選び方、そこがむずかしいようなのです。江原さんは、ゲストの鑑定には表情と言葉にそうとうの気遣いをしていらっしゃる。特にテレビでのトークではお客様に恥をかかせてはいけないと、言葉の表現には最も苦労するところと思う。だからこそ、身内には本音トークをしたいところだと思う。江原さんの素の部分を知った気がする。また、江原さんはゲストへの言葉の選び方が本当に上手いのだとわかった。それで、びっくりしたのが森公美子さんの霊的素養。一緒にテレビを見ていたNさんが、「美輪さんを上回る迫力だね」大絶賛した。おばちゃんのような開けっぴろげ。おおらかで豪快な笑い。明るく愉快な霊能者という新スタイルを見る気がした。霊界の話を楽しそうに表現する才能をもっている。それはまた、江原さんや美輪さんにないものなのだ。ステーキのお店で「まいう」のいしちゃんこと石塚さん登場。「食べたい」という人の念を受けて「食べたくなる」と江原さんが言っていた。(「オーラの泉」で森さんがゲストで来られた時、「霊能者には太った人が多い」と言った江原さんの言葉に、美輪さんが「運動しないのもあるのよ」と一言つっこみを入れた)霊と食との関係とは?息子さんからのメッセージにあった「これ以上太らないで」という言葉は子供らしく率直だなと思った。誰もできないくらいのニコニコ笑顔と、誰も表現できない言葉選び、これはそうとうなストレスと霊的消耗があるだろうなと推察するのである。石塚さんに「太っている人たちにとって、いしちゃんの存在はとても救われたと思いますよ」と江原さんが言ったが、これは全くおべっかではないかと思う。「石塚さんの家族は健康をそうとう心配している」とも言ってたし。江原さんの課題がわかってしまった。ズバリ「食事の量が多すぎる」・・なんだか、石塚さんも江原さんも気の毒に思えてきた。ストレスが多いと食べすぎるからだ。仕事が忙しく入るほど、物を入れてしまうからだ。最近の江原さん、ちょっと顔つきが脂ぎってきています。注意信号かと思う。江原さんは顔の表情がとても変わります。差が激しいです。今、研ぎ澄まされた美しさ、精悍さを欠いています。人が頂点に立っている時は、すでに下降しています。減量しないと。節制しないと。はやしたてるまわりに振り回されて忙しくしていると、本人がだめになってしまいます。それと、ある人が言っていました。霊能者が本物かどうかは「男女問題をどう扱っているかどうか」で見極めることができると。ネットでそう書いていた人は、江原さんの男女問題について書かれている部分を読んで「ダメだ」と思った・・と、厳しいことを言っていました。私は読んだことはありませんが、今、食のことを書いていて「あっ!」と思いました。「食」は「色ごと」にも通じるのです。食欲は性的なものにも通じるという意味です。なので、優れた霊能者は、食を節制するのです。なぜ?って、色ごとから「魔」が罠をしかけてきて、その人の霊性を地に落とすことがいくらでもおこるからです。「これ以上太らないで」は神様からのメッセージだったのですね。率直な子供の感性は敏感なものです。江原さん、聞きづらいことをいっぱい言ってしまってすみません。江原さんが霊的に研ぎ澄まされた時の顔がカッコイイってわかっているから。ちょっと今、江原さんの口においしいものが入りすぎているなと心配したのです。美食は霊性を鈍くしますから。顔もみにくくなります。江原さん、厄年の42歳でもあるし。(私も森さんと同じように江原さんフリークなんですから)霊能者がショー的でよいのは、初歩的な人のため。けれど、ショー的なままでのぼりつめてしまうと・・とても危険なにおいがします。なんですか、こうして書きながら、江原さんの人知れぬ苦労が見えてくるような気がしています。私、石塚さんのことも、前々から、そんなに無理して食べなくてもいいのにって思っていました。ご家族の気持ちわかります。とにかく、異性に注意です。江原さん。それには、食をセーブすることがかないますように。そして、そのためには、仕事でのストレスをうまく緩和されますように。有名になるほど、精神的ストレスや傲慢という罠がこわいのです。時々、同じ霊能者の美輪さんとのやりとりでしっくりいかないことや、ムッとすることもあると思いますが、切磋琢磨してください。すいません。なまいきいいました。私は23日、もしくは24日から約一ヶ月間、日の出から日没まで飲まず食わずのラマダン(断食)をします。夜、食べるんですけど、質の良い「食」の神が、私の味方になってくれるような感じがするんですよ。その夜の食の喜びは、感動ものなんです。ストレス解消のために「食べる」じゃないんです。やみつきになります。ラマダンしながら、江原さんのこと、祈ってますね。江原さんはすごい人だと思うから。ここまで、人の霊性を育て、意識を広げてくれたから。誰もできない表現力者として、後ろの方々の活躍も大変なものと思います。その方々のことを思いながら、江原さんを応援したい気持ちです。子供さんの言葉を神様の声として、耳を澄ましてみたら、癒されるかもしれません。<終>///////////////////////////////////////
2006年09月22日
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安倍新総理の人気の秘密は、その顔にあった。人はテレビをつけたら気分のよくなる顔をみたいのだ。きれいな顔というより、人が気分のよくなる顔。顔からいい風がふいている。涼やかな光が放っている。人の顔はメッセージを伝えている。(「トイレ掃除がキレイな顔の子を生む理由」の推敲と追記)◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 子供がお腹にいる時に、せっせとトイレ掃除をしたら本当にキレイな顔の子が生まれたとある人が言う。また海外の方で、掃除本を書いてる人の幼い娘がいいました。「うちのママは、私がお腹にいたときお便所掃除さぼったんだね。○○ちゃんのお母さんはお便所掃除いっぱいしたんだね」と書いているのを目にし、へえ、海外でもそういう考え方があるんだなって思いました。掃除本の作者は、大々的に雑巾バケツを持って、という掃除法ではなく、自分が用をたす時に、その都度トイレットペーパーでササットお掃除するらしい。(きっと女の子もほんとはかわいい顔の子のはず)私も同じ掃除法で、時々泡スプレー洗剤&ブラシ&水雑巾。トイレの神様と言う人がいう。トイレの神様って、どんな方なんだろう。トイレ掃除の心得、教えていただきたいです。あっ!トイレの時、聞けばいいんですね。教えて下さいって。そういう求める気持ちが、そもそも欠如していました。なぜ、キレイな顔の子が生まれるのか?何故なんですか、トイレの神様?)・・ということは、キレイな顔をして生まれてくるということは、善なること!ですよね。・・(斉藤投手!と、おもい浮びました)・・きれいなものを見ると、人の気持ちにそよ風がふく。清涼感。神様を<親・母体>と考えた時、人間を<子・胎児>と思い描いてみた。子はお腹に入って、すっぱり母体に抱き締められている。(NHKの日曜美術の番組で、羽田美智子さんが語られた絵に対するコメントから、イメージを映像化し印象に残る)・・わかった!親が良いことをすると、子は良いことをする子に生まれる。つまり、似て生まれる。神様に似た子に、人間が生まれる。トイレ掃除という<善を施す行為>を母体が行うと、似た子供が・・。美しい行為、キレイにする行為。それが生みおとす結果の形ある存在。ピカッ!と輝いた便器、床、それに感動する母体の心も、キラッ!と心が洗われ・・結果、キレイな顔。キレイな表看板が形づくられ。と、同時に親に似た子供。(!神様は顔がキレイなんだ!)発見!神様をうつした顔形がおもてにあらわれたのだ。そうして生まれた子を見るときは、神様をみるような気持ちで見ればよいのですね。その子を見ると、神様をおもう。神様に接するように尊んで接したくなる・・か。(!なるほど)提案!スーパーでもえらる小さいビニール袋、出掛ける時はバックに数枚入れておく。よそで気になる汚れを発見したら、ビニールに手を入れて、トイレットペーパーで掃除をすればいい。簡単にできるプチ淑女。よそのトイレにいっても、心をピカッとさせる行為、おこなうことができればいい・・できますように。安部新総理の人気・・人は、テレビをつけたら気分のよくなる顔をみたいのだ。キレイな顔・・というより、人が気分のよくなる顔というのが美徳なのだろう。・・顔を見ただけで、「けおされる」ともいうではないか。相手の勢いに対抗できず、じりじりと押されるというやつ。人相、顔には相があるともいう。人相とは、「その人物」という小説のあらすじかもしれぬ。顔には気がある。迫力とか雰囲気。また顔にはツボがある。顔ツボの不思議・・顔のツボって、神様につながっている?西式断食療法の 甲田光雄先生は、<人の体は神の宮>と言っている)・・では、<人の顔は神の顔>?!そうなんですね。顔とは、その人を通して表現なさりたい神様のお顔なんだ。自分の顔を鏡で見つづけた少年が、おちついた良い子になっていったという心理学の先生の話があり。鏡をとおして、少年は、(自分という)神様の顔を見ていたわけだ。(合点!)・・この頃、机の上に上がっている、ファイルに入れてある写真に目をやる。ちょっと、キレイによく撮れているのだ。気分がちょっと良くなる。おちついた気持ちになったり、なぜだか、モチベーションがあがるのだ。自分の顔を通して、神様を表現できるという気がする。モテたいのじゃない。気分をよくしたいのだ。絵をみるように感動したいのだ。顔からよい光を出す。顔から涼やかな風を吹かせる。そういう顔は、人のよい気分を送る。顔は他の人のために役立てる。顔とは、自分のものでなく、神さまの一部分という個性体を表現させ、相手に喜びを与えるもの。・・そうだったのか。ああ、これで、自分を愛してあげられそうだ。理屈に納得すれば、もっともっと、自分に優しく親切になれる。人に半分、自分に半分、よくしてあげられる。自分のところのトイレ掃除も、よそのところのトイレ掃除も、苦どころか、気を楽にして出来そうだ。ううん、たのしめそう。フットワークが軽くなってきた。「ご不浄の掃除が何故だいじ?食べ物を頂く行為より、出すことが大切だから」ある人が言う。すごい!悟りだ。<食>は華やかな舞台があり・・<出す>はいつも裏方。褒められにくい、忘れられやすい場所だ。食べる、出す、二つはセットだ。(お兄ちゃんは<出す>場所の担当だ。小さい弟の方には<食>べさせ)・・また、<出す>は親!であり、<食>は子!だ。だから、ご馳走のテーブルに神様がいらっしゃるのではなく、裏方のトイレに神様はいらっしゃる。控えめで、目立たず、けれど、なくてはならぬ、生きるのに必須のトイレ。(・・なんだか、トイレの気持ちがわかってきました)・・わかった気がした。・・トイレの神様について・・。神様といって、やおよろずの神とかの「トイレの神様」じゃなく。堕落の世にあって、神様は本来、家の一番の上席に座らなければならない立場であるというのに、人間は神様の意味も存在もわからなくなってしまい。居場所がなく、トイレという、ご不浄とされる場所にしか、居る場所がなかったのではないか。そうなのですか?ほんとうは、そこにいらっしゃるべき方ではなく。真ん中の一番いい席に、温かく、柔らかく、いい匂いのする場所に・・。そこに、いらっしゃるべき方であるのに。(・・人間が追いやったのだ・・そうなのですか?神様?)・・だとしたら、かわいそうな神様。そんな風に考えてもよいでしょう。トイレで神様の啓示を受けつづけたアイリーン・キャディが頭に浮ぶ。寒い冬も、夜が明ける前、彼女はオーバーを着て、公衆便所のトイレに座った。ペンとノートを持って。何故、トイレの場所で、長いこと神様の啓示を受けつづけたのか。・・今、謎が紐解けたような気がした。このインスピレーションも、神様からのメッセージのひとつと思う。(トイレにはきっと、まだまだ秘密があるのかもしれぬ)テレビで品川裕が、ニートの若者に質問していた。「今の世の中、この国、なんかおかしいとおもいませんか?」「いや、別に・・いいんじゃないんすか」・・私も咄嗟に、何がおかしいとか出てこなかった。が、確かに、ぱっとテレビをつけたときのニュース番組は、アナウンサーが暗い顔で、暗い出来事やお知らせばかりを言っている。それも毎日、あたりまえのように・・おかしくないか?汚れがちなところ、においのするところ、そういう場所こそ、常にキレイを保つという精神。人の心の中にも、<お化粧して人をおもてなしするテーブルの部分>と、<一人で疲れた顔をするトイレの部分>があるのだと思う。心のトイレ部分を象徴した、<実際のトイレ>をきれいに保つことは、<心のトイレ部分>をきれいにするに通ずるのでありましょう。「入れる」も、「出す」も、どちらも大切なのですが、出すことが先。そして、もっと大切。「出す」ことがお兄さんなんだ。次に「入れるの弟だ。それが道理にあっているのだ。<出す>ことを強調し、意識して生きれば、自動的に必要なものが入ってくるのだ。人の呼吸も、長く息を吐くことの方を努めれば、自動的に出ていった分あたらしいものを取り込めるようになっている。「出す」「入れる」のバランスが取れてこそ、人は神さまと同じ<真ん中>で物事を考えることができるのだそうだ。<真ん中>とは、自分の中心であり、神さまのいらっしゃる場所、丹田だという。丹田とは、お臍のちょっと下あたりの場所。そこに神さまがいらっしゃるのですか。お腹をなでてあげなければ。人の運命はお腹が握っている。腸をキレイにする。宿便を出して、神様を招く。トイレを掃除をすれば特典がついてくる。トイレがキレイになったうえ、キレイな顔の子を生む。二倍のポイントが貰える。主婦の大好きな「お得」、人はお得なことをしたがる。一つを行って二つを得る、ほくほくの喜び。人に、ラッキー!と茶目っ気たっぷりの顔をさせる。単純に喜べばいい、単純は美徳なり。人はこういうのが大好き。大喜びする。神様はこうやって、人を喜ばすんですね。人は本来、家のどこの場所よりも「トイレ掃除が好き」なのかも。スペースがもっとも小さな部屋。汚れがあきらかなため、キレイにすれば、キレイ!って、敏感にわかる。もっともよく使う場所。だから、そこがキレイだと、「気持ちいい!」ってスグに感じられる場所。神様は丹田にいらっしゃるというのだから、腰掛けて神様が小休止する、腹式呼吸しやすい場所。トイレの話は神様抜きには語れない。亡くなった人の霊を、自分に映すという霊媒師。一般の人でも、霊媒体質の人は、人の霊が出たり入ったりするという。人に、よその人が入る?・・ほんとうは、そうじゃないんだね。人は、ほんとうは、神様を映すべき存在なのだよね。人は神様の入れ物。招くべきものは、よその人でなく、神様をお招きしたいのだ。なんて人はアートなのだろう。悪い人など、ほんとは一人もいない。<終>////////////////////////////////////////////////////////////////////
2006年09月21日
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子供がお腹にいる時に、せっせとトイレ掃除をしたら本当にキレイな顔の子が生まれたとある人が言いました。先日の日記でトイレ掃除のことを書いたら、いろいろヒントになる言葉を与えて頂き。コメントを書いているうちに様々なインスピレーションが沸いてきて・・。研ぎ澄まされた霊性を持って、ヒーリングをリードしていらっしゃるその方と、やりとりをするうちにヒーリング・セッションが自動的におこってくる不思議さ。<日々更新の意味>を教えて下さった「そらさん」ことそらのはるかさんとのやりとりをまとめてみました。■ご不浄の掃除海外の方で、掃除本を書いてる人の幼い娘がいいました。「うちのママは、私がお腹にいたときお便所掃除さぼったんだね。○○ちゃんのお母さんはお便所掃除いっぱいしたんだね」へえ、海外でもそういう考え方があるんだなって思いました。掃除本の作者は、大々的に雑巾バケツを持って、という掃除法ではなく、自分が用をたす時に、その都度トイレットペーパーでササットお掃除するらしい。(きっとそのお嬢ちゃんもほんとはかわいい顔の子のはず)私も同じ掃除法で、時々ブラシ&洗剤&雑巾です。>風呂掃除とかキッチンの掃除よりもトイレ掃除のほうがずっと好きなのですよ~~、不思議なコトに(^∇^)「私はトイレ掃除が一番好き!」その意識、今からいただき!>公衆トイレでもあまりにも汚いと掃除道具探してしたくなります。。よくいく大型本屋さんのトイレは何故か?お世話になることが多くて(笑)そこは掃除道具がすぐそこにあるので 雑巾をお借りして掃除することがあります~~~☆なんておりこうさんなお客さんでしょう。決めました。縁を持った学校のトイレ掃除リーダー!私の好きな場所にする。(できますように)◇◇◇■キレイなものを見た母体は、キレイをうむ。 >ひょっとするとトイレの神さまに仕込まれたのかも~~~、わはは~♪トイレの神様って、どんな方なんだろう。トイレ掃除の心得、教えていただきたいです。あっ!トイレの時、聞けばいいんですね。教えて下さいって。そういう求める気持ちが、そもそも欠如していました。(なぜ、キレイな顔の子が生まれるのか?何故なんですか、トイレの神様?)ということは、キレイな顔をして生まれてくるということは、善なること!なのですね。(斉藤投手!おもい浮びました)>そうそう、幼稚園の子どもは まだまだ上手にできない子もいるし(年少さんとか)あわててとか お腹の調子が悪くてとかあるんですよ(^-^そらさんは、子ぜんたいに対して親のこころに達していますね。公徳心が身についていらっしゃるんですね。神様を<親・母体>と考えた時、人間を<子・胎児>と思い描いてみた。(NHKの日曜美術の番組で、絵に対するコメントで、それにちなんだことを羽田美智子さんが語られていて、その映像が印象に残っていた)わかった!親が良いことをすると、子は良いことをする子に生まれる。つまり、似て生まれる。トイレ掃除という善を施す行為を母体が行うと、似た子供が・・。美しい行為、キレイにする行為、ピカッ!と輝いた便器、床、それに感動する母体の心も、キラッ!と心が洗われる→→→結果、キレイな顔。キレイな看板。と、同時に親に似た子供。神様は顔がキレイなんだ!発見!神様をうつした顔形がおもてにあらわれたのだ。そらさんの子を見るときは、神様をみるような気持ちで見ればよいのですね。その子を見ると、神様をおもう。神様に接するように尊んで接したくなる・・か。!なるほど。(深く有意義なヒーリングができました。満足)よそのトイレにいったら、心をピカッとさせる行為、させていただきます。(ありがたや)◇◇◇■顔ツボの不思議・・神様につながってるんだ。 >顔のツボ押しも 美顔が目的って言うよりも おやおや・・こんなに顔に力入れて歯を食いしばってたの~~?わたし~~~・・って感じで ご苦労様だねぇ~~。。って そんな思いでやってます~v「顔」って、私という神様のお顔なのですね。・・って、今、思った。私の顔は、実は私的な私でなく、私を通して表現なさりたい神様のお顔なんだ。(甲田光雄医師は、<人の体は神の宮>と言っている)自分の顔を鏡で見つづけた少年が、良い子になっていくという心理学の先生の話があって。鏡をとおして、神様の顔を見ていたわけだ。合点!(最近、私はきれいに写っている写真に(机の上に上がっているファイルに入れてある写真)時々目をやる。なぜか、モチベーションがあがる。>PCで疲れた目にもいいツボも押してると あらあら~~・・って思うほど凝り固まってますよぉ~・・。ああ、これで、自分を愛してあげられそうだ。理屈に納得すれば、もっともっと、自分に優しく親切になれる。>なのでたんぽぽコーヒーでブレイクタイムなのですよぉ~vもっともっとふんわり生きたほうが 周りも自分も楽なんだなぁ。。って最近ようやく気づいてますです(^-^*きらっ☆ツルっ ぷるん!になっちゃいましょ♪※「もっとふんわり生きる」→→→「周りも自分も楽」そらさんが辿りついたいいおしえ、しみこむ沁み込む。◇◇◇■ ≪※食べ物を頂く行為より、出すことが大切≫これから私は積極的によそのトイレ掃除のハシゴをするかもしれない。(今日はここ。明日はあそこ・・イメージ)フットワークが軽くなってきた。>ご不浄のお掃除は 食べ物を頂く行為より、出すことが大切すごい!悟りだ。<食>は華やかな舞台があり・・<出す>はいつも裏方。褒められにくい、忘れられやすい場所だ。二つはセットだ。お兄ちゃんは<出す>場所の担当だ。小さい弟の方には<食>べさせ。<出す>は親!<食>は子!だから、ご馳走のテーブルに神様がいらっしゃるのではなく、裏方のトイレに神様はいらっしゃる。控えめで、目立たず、けれど、なくてはならぬ、生きるのに必須のトイレ・・。トイレの気持ちがわかってきました。>食べ物を頂く行為より、出すことが大切 で(もちろん摂取することは必要ですが・・)そこをキレイに保つことの大切さ、でしょうか。。わかった気がした。・・トイレの神様について・・。神様、やおよろずの神とかの「トイレの神様」じゃなくて、この堕落の世にあって、神様は本来、家の一番の上席に座らなければならない立場であるというのに、人間は神様の存在がわからなくなってしまって・・、居場所がなく、トイレという最も不浄とされる場所にしか、居る場所がなかったのですね。ほんとうは、そこにいらっしゃるべき方ではなく、真ん中の一番いい席にいらっしゃるべき方。人間が追いやったのだ。かわいそうな神様。霊能者のアイリーン・キャデイが、何故、トイレの場所で、長いこと神様の啓示を受けつづけたのか。・・今、謎が解けた気がした。テレビで品川ひろしが、ニートの若者に質問していた。「今の世の中、この国、なんかおかしいとおもいませんか?」「いや、別に・・いいんじゃないんすかあ」私もとっさに、何がおかしいか出てこなかった。確かに、ぱっとテレビをつけたときのニュース番組は、アナウンサーが暗い顔で、暗い出来事やお知らせばかりを。それも毎日。あたりまえのように。おかしくないか。>とかく汚れがちな場所なので また臭いもある所なので そういう所ほど常にキレイに保つという精神を 仏教の教えかなにかで見聞きしたような覚えがありますね。。そうだな。人の心の中にも、<お化粧して人をおもてなしするテーブル>の部分と、<一人で疲れた顔をするトイレの部分>があるのだと思う。心のトイレ部分を象徴した実際のトイレをきれいに保つことは、心のトイレ部分をきれいにするに通ずるのでありましょう。>入れるも出すもどちらも大事ってコトなのでしょうvが、出すことが先。出すことがお兄さんなんだ。次に入れるの弟だ。それが道理にあっているのだ。<出す>ことを強調して意識して生きれば、自動的に必要なものが入ってくるのだ。人の呼吸も、長く息を吐くことの方を強めれば、自動的に出ていった分、あたらしいものを取り込めるようになっている。◇◇◇■神さまのいらっしゃる場所/丹田>バランスが取れてこそ 人は神さまと同じ真ん中(自分の中心であり 神さまのいらっしゃる場所/丹田)で物事を考えることができるのだと。。お臍のちょっと下あたりの丹田、そこに神さまがいらっしゃるんですか?!へえー、はじめて知りました。(今日、いっぱいお腹をなでました)>いやいや。。わたしの場合はそんな難しいコトよりも キレイな子ができるのねぇ~~~♪って単純思考でほわわん。。と掃除してましたね~。。トイレもキレイになった上に特典まで付いてくるだなんて トイレの神さまって太っ腹~~♪って感じです~。。わはは~(^o^)/単純は美徳なり!すごいです。トイレ掃除は2倍のポイントがもらえるんですね。主婦の大好きな「お得」なんですね。その、おまけ欲しさに買う心理・・一つを買って二つを得る。ほくほくの喜び。ラッキー!人はこういうのが好き。大喜びする。神様はこうやって、人を喜ばすんですね。キッチンより、お風呂場より、トイレ掃除が好き!と言うことの意味、今、理解できた。一番、狭いし、汚れがあきらか。キレイにすれば、キレイ!って、もっとも心が敏感にわかる。それに、一番使うし、その場所に留まっているし、だから、そこがキレイだと、一番キレイ!気持ちいい!って敏感に感じる場所なんですね。神様が丹田にいらっしゃるとすれば、神様がちょっと小休止して、腰掛けて落ちつく場所でもあるわけで。トイレの話は神様抜きには語れない。◇◇◇ 霊媒師って、亡くなった人などを映すわけだけど・・ほんとうは、そうじゃないんだね。人は、ほんとうは、神様を映すべき存在なのだよね。<終>//////////////////////////////////////////////////◇◇◇■斎藤 佑樹・投手(1988/6/6生)壬辰・墓(偏官)/戊午・偏官・胎(偏印)/戊辰・墓(偏官)自墓・魁ごう・F10/空・午未■ぺ・ヨンジュン(1972/8/29生)壬辰・墓(偏官)/戊申・偏官・長生(偏印)/壬子・比肩・帝旺羊刃(比肩)自墓・魁ごう・F3/空・午未■兄・ABE HITOMI(1960/2/24生)壬午・胎(偏財)/戊寅・偏官・病(食神)/庚子・偏印・帝旺羊刃(比肩)自死・F3/空・申酉◇◇◇■<壬>・・・競争心強く、決断力あり。一度思い込んだら方針変えることなく、何事についても偏る傾向。統率力あり情熱的。勇気、離別、勝利などを司る。◇◇◇■<壬戊・偏官>・・・臨機応変な行動と何事も恐れない勇気が、あらゆる競争を勝利へと導く。一生を通じて活気あり。多くの人から信頼を得ること出来る。発展と充実の運気。◇◇◇■29壬辰/墓(偏官)魁ごう知的・聡明・文才、歴史や古いものに関心持つ。意外と内向的、批判的。むやみに自分の主張通さず。内面負けず嫌い。対外的には強引でない。根気、粘りで勝ち抜いて行こうとする。親分肌。上下の秩序、肩書を重んじる。人の上に立てる頭領運あり。人の面倒をよく見る。それが人望と頭領運につながる。冷静、鋭い客観的な観察眼。が、自分自身のことは見えず。家族に非常に優しくよく尽くし従順な人。外での態度とは違う。お金のことに振り廻される宿命あり。坂本九/井上ひさし/芥川龍之介/田原俊彦女性は良妻賢母。子に対しては口やかましい。教育ママになったり、過保護となりやすい傾向。広末涼子/うつみ宮土里/魚住りえ/イングリット・バーグマン//南部AKEMI/橘内MIKIKO◇◇◇
2006年09月19日
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昨日「トイレ掃除は功徳あり」というRちゃんからTELがあり。誰もしない職場のトイレ掃除を時々してる彼女、これがまた決意がいるのだという。大学の受け付けをしている彼女の近くの、トイレのにおいが鼻をつく、それで休憩時間、それをせざるをえないという。もちろんトイレ掃除は功徳とも知っているが、それでも、そうとうの決意がいるというのだ。その話を聞きながら、20代の東京・横浜時代の飛び込み営業を思い出したのだ。家、商店、学校、会社、都会のオフィスビル街、夜営業の店など。そうとうの決意とはまさにそれ。腹を強くする修行だったと思う。たしかに他所(よそ)のトイレを掃除するのには、そのくらいの決意がいる。だから、仕事でないかぎりふつう、人はしたがらない。私が今度通うことになった歩いて15分程先の学校、トイレをもちろんチェックした。(私はここを掃除するだろうか)と思いつつ。つまり、掃除専門の仕事の人が入っていないということだ。(にんにく酢で気合いを入れ、いつか気が済むまでそこのトイレ掃除をすることができますように)今の私、トイレ掃除の方がまだやさしい。あんな腹を鍛えるようなこと、若いうちにいっぱい気苦労しておいてよかった!明るい気持ちになれた。そこで思ったこと。私は人の中に入っていって、人の前にたち、実に腹を鍛えるようなことをしてきたのだけれど、「皮膚も強い!」と思ったのだ。RちゃんとTELで話ながら、(ああ、彼女は皮膚が薄くて弱いからなあ)と彼女をあんじた。前田日明さんの「オーラの泉」霊媒トークで思い出すのだが、Rちゃんがまさに霊が入りやすいという霊媒体質の人なのだ。入ったら出ていきにくいときた。今年もお盆を過ぎた8月半ばくらいから不調を訴えた。わるいときは人にも会いたくないし、病院へ行く気力もないという。今回は本当にひっぱられそうになったという。「お盆の時って、ほんとうに霊が降りて来るんですってね。精神科の先生がそう言うの」「へえー」7月から40日をめどに取り組んだ部屋の物捨て&大掃除。それが終わりかけのそろそろお盆にさしかかったとき、お盆に関する本をひらいた。お供え物とかちゃんとすべき!意識が働いた。本どおりにはできなかったけど、おいしいものは並べられた。霊媒体質の人は、そういうことも特別きっちりすべきなのだろう。お盆が終わろうとするとき、霊の皆様はお帰りになる。「一緒に行こうと引っ張られた。危なかった。連れていかれるところだった」と一人暮らしのRちゃんぽろぽろ漏らす。今年初めから「オーラの泉」で色々な話を知るようになっていたので、今までよりもっとRちゃんのことを理解できるようになっているかもしれないと思う。本人いわく、人に電話できるようになったということは回復に向っているのだそうだ。40代始めに突入し独り身であり、体力の衰退や老化が気鬱であるという。顔のシミもとても気になるとよく言う。Rちゃんと並んで歩いていた時、友達のお母さん(70代)と擦れ違った。その人「あら、今日はお母さんと一緒なの?」と私に声をかけた。「はあ?」私より年下のRちゃんを、私の母親だってえ?そのおばさんも霊媒体質そうな顔かも。まあ、Rちゃんはお年寄りの霊が被さっているような感じもしなくもない。それから部屋にテレビは置けないという。テレビをつけるとニュースは悪いことばかり。とたんに体に悪影響。「オーラの泉」のバックナンバーを見ていたら、霊界に通じるアンテナを持っている私が見て捉える<傷官>の星のゲストは、「念を受けやすい」とか「嫉妬されやすい」というのが目に入った。疲労が激しく消耗されるだろうと思う。Rちゃんに西式健康法のことをちらりと話してみたが。「お金はかからないんだけど根気がいるの」と言いながら、(そういうのが一番やりにくいものなのかもなあ)と思った。人は手っ取り早く、買って手に入れるとか、お金を使って何かする方がやりやすいんだなと。Rちゃんを通して西式健康法で甲田先生がいいたいことが、ちょっと見えてきた。「皮膚」の大事さ。足首の重要さ。足首のズレを治す。腹をきれいにする。皮膚が丈夫であれば、足腰が丈夫であれば、老化を恐れなくてすむのだ。今度のパスポートの更新まで、あと一ヶ月半。写真の整理で、書類に貼るために撮った27歳の時の写真が出てきた。(この写真使えないかなあ)一瞬おもう。(な、何を言ってるか)(窓口で通っちゃったりして)(ばかな・・(汗)へんなことを考えるんじゃない)と、最近も書類用の写真を撮ったのだが・・。朝抜き、断食、玄米菜食などで節制している私は、みた感じの形はとても若い気がしているが、顔写真の違いとは・・!皮膚でした。27歳の写真の後、美顔に精を出したことはない。当時も特にはしてなかった。が、皮膚がピーンとしている。精悍な感じがする。若いって何もしなくても皮膚に張りある。が、その写真の数年前、一時顔の皮膚がひどかった時があったのだ。それを治すために少し努力したことがあったことを思い出した。(・・あと一ヶ月半、努力してみようか。)ちょっと楽しい思いが沸いてきたではないか。皮膚がピーンと張っている写真の精悍な顔を見ていると、元気な気分になるではないか。悪霊を跳ね返す、光が出ている顔をつくる。質の良い皮膚に鍛える。ここでもう一度、コーヒーを飲むのを遅らせることを念ずる。◇◇◇■西式健康法の四大原則の一つに、「皮膚」があげられている。皮膚(西式では内臓も皮膚の一部だと考える)の排毒作用を高め体内を清潔に保つことにより、さまざまな中毒やアレルギーを防ぐ。温冷水浴や裸療法等。(宿便の除去や腸の強化には栄養や四肢の療法が関連する。) ◇◇◇■及川光博(1969/10/24生)◇オーラ:シルバー/性格:古風で地味/守護霊・前世:イタリアのオベラ歌手/守護霊の人数:4人/宿命:嫉妬されるカルマを克服/そして・・強い愛が待っている。壬申・長生(偏印)/甲戌・食神・冠帯(正官)/己酉・正官・沐浴(印綬)/自臨・B6・財なし◇◇◇■国生さゆり(1966/12/22生)◇オーラ:本来はブルー・黄色だがベールに隠されている/守護霊:武家の奥方/特徴:人の「念」が付着しやすい/そして・・女性としての幸せが待っている。乙卯・建禄(比肩)/庚子・正官・病(印綬)/丙午・傷官・長生(傷官)自死・F5・財なし◇◇◇■羽田美智子(1968/9/24生)◇オーラ:基本はピンク/守護霊:武家の奥方・インドの行者・お坊さん/前世:イギリスの貴族の娘。丁酉・長生(偏財)/辛酉・偏財・長生(偏財)/戊申・傷官・沐浴(正財)/自死・B6/官印0・財4◇◇◇●S・H(1963/1/27生)庚午・沐浴(正官)/癸丑・傷官・墓(印綬)/壬寅・食神・絶(偏財)/自胎・B7
2006年09月17日
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仕事の本に溢れ、真琴の部屋は散乱していた。仕事で頑張るために人一倍努力してきた。一人でも生きていけるようにって。好調だった仕事から外され孤立する真琴。同僚から足を引っ張られ中傷される。状況を知った東次は真琴のアパートを訪ねる。我慢していた胸の内が限界になった。「こんなにやってきたのに、どうして!」いつも平然を装っていたクールな真琴が激情し泣きじゃくる。ぐずる子供をよしよしするように肩を抱く東次。塞がった思いをぶちまけた、はじめて弱さを見せた真琴。真琴(広末涼子)のこのシーンに、心打たれるものがあった。そんなにも広告の仕事に情熱を燃やしていたの?そこまでしたいと思う仕事のために、他のことを犠牲にしてでも努力してきたという真琴。その姿に、東次は刺激も受けたし感動もしたと思う。私がこれから努力してやりたいと思う仕事は何だ?(ライターだ!)心がポツンと言った。先日受けた試験の合否の郵便を待っていた一日。落ちたらそれがベストであり恩寵。受かったら建築の勉強に半年通うことになるが、最低書く材料に役立つだろう。体と意識が熱くなってきた。外に駆け出した。私にもやりたいことがあったのだという発見。二ヶ月半、家に篭った。毎日が日曜日にそろそろ限界を感じ始めていたのだ。真琴のように一人でも生きて行けるように頑張る決意はさらさらないけれど。熱中できる仕事、気を張って打ち込める仕事がないと、刺激がないのだ。二ヶ月半の間、外に出かけたのはわずか十日に満たない。ほとんど歩いていない。運動不足。人と会っていない。適度なストレスを与えてあげないとボケてしまいそうだ。リラックスばかりでは、人は生きていけないのだ。多分、人は幸せと平穏ばかりだと、感謝も忘れてしまうだろう。合格の通知が来た。お蔭でこれから忙しくなりそうだ。今後のスケジュールがあわただしくなってきた。それを待っていたのだ。■伊藤一尋(かずひろ)PD / ~このドラマで描きたいこと~真琴(広末涼子)は、結婚しても仕事を続けたいって思ってる、夢に向かって生きている女の子。そういう前向きなエネルギーに、東次(堂本剛)は惹かれるんですよね。それに対して菜央(内山理名)は、いわゆるどこにでもいるような普通の女の子。仕事も、エレベーターガールを辞める前の3~4年の間に、自分とふさわしい結婚相手を見つけて、壽退社でしたいなぁなんて、正直に思ってるような子なんですよね。でも、東次はそういう菜央と一緒にいると、肩の力が抜けて、ホッと出来る。東次は、そういう二人のそれぞれの魅力を知っているから、ふたりの間で揺れ動いていて、東次自身もそれを解ってるんですよね。でも、いい加減なヤツじゃないから「俺のことを構うな」って真琴に強く言っちゃったりする。そういう、新入社員世代の初々しい恋心みたいなもの…憧れの恋愛ではなく本音の恋愛を、上手く描ければいいなと思ってます。それと同時に僕が大切だと思うのは、ベースとなる部分。ただ恋愛するだけのために生きてる人を描くのって、あんまり好きじゃないんですよ。つまり、仕事で上手くいったエネルギーが恋愛に添加したり、恋愛が上手くいったエネルギーが仕事に繋がったり…。そういう“生きて行く”という形を、新入社員の中で描いていこうと思ったんです。その舞台にデパ地下を選んだ理由は、デパ地下はそういう、大きい生命力が溢れている場所なんですよね。スクランブル交差点のように、人が毎日行き交っている。そんな中で、東次が一生懸命生きていく姿も、きちんと描きたいなと思うんです。
2006年09月16日
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kawausoさんのラマダン体験記を読み返していた。今年も9月23日、24日くらいからイスラームのラマダン(断食月)が始まるからです。(今年も願わくば、ラマダンに参加して、<日の出から日没まで飲まず食わず>を一ヶ月続けることができますように)こう書くのは、イスラム教徒の人からみれば快く思われないかもしれない。けれど、この断食月に関しては広く大きな心で見て頂ければありがたい。「アラブ・ムスリムの日常生活」とは人類学者の清水芳見氏が、ムスリム(イスラム教徒)の村に住んで村人と交流を持ちながら村の土着信仰なども合わせ調査したイスラーム(イスラム教)の生活習慣を書いたもの。村人たちからムスリム(イスラム教徒)になることをずいぶん勧められたそうだ。結局「イスラームの教えを信じていなかったのでムスリムにならなかった」と書いている。私ははじめ(郷に入れば郷に従えばいいのに)と思った。信じきってなりきれば、もっと彼らを理解できるのではないかと。が、文献を残す立場としては客観視するためにもそれでよかったのかなと後に思った。「調査のため打算で、なるかなるまいかと悩んだことを恥かしく思う」とも書いてあった。でも、信じてないのなら仕方ないですね。「モロッコでラマダーン」(著・たかのてるこ)作者が旅先で出会ったムスリム(イスラム教徒の男性)から教えられた内容を思い出すのだが、「旧約聖書はユダヤ教、旧約聖書が元になってつくられたコーランがイスラム教、旧約聖書と新約聖書がキリスト教」と言ったのだったか。(少し自信がないのだけど、これでよかったか?)「僕たちは、他人には遠慮があるからおおっぴらにケンカしないけど、近い者同士ほど言いたいことを言い合ってケンカしたりするだろ。つまりユダヤ教も、イスラームも、キリスト教も兄弟なんだよ」と旅人のたかのさんに話してきかせる。(兄弟ということは、親は同じということなのだよね。神様は同一なる唯一神ということなのだよね)なるほどなあと納得した。兄弟喧嘩か・・。旧約聖書の初めての夫婦アダムとエバの間に生まれた子、兄が弟を殺すという歴史なのだものね。(ああ、そういえば織田信長も伊達政宗も弟を殺害している。けれど、豊臣秀吉の弟・秀長は兄に良く仕え、兄は弟を愛したという例もあるな)天地創造や旧約聖書に出てくる人物や歴史や、天地創造の唯一の神・・私は信じている。信じているというより、そうなんだろうなと思い込んでいる。(「カルマの法則」(著・五島勉)の本を読んだとき、「あっ!霊界はある!」感覚でわかった)だから、ユダヤ教の神も、イスラームの神も、キリスト教の神も、つまるところ一緒なのだと解釈。カルマといえば、仏教用語ではないか。仏教にも違和感はない。おおいなるものの一部分と思えるからだ。仏教の中に「神」という言葉が出てこないだけで、同じところを見つめているのではないかと思う。神様っていうのを富士山に喩えると、東西南北のどの地点から登っていくかの違いなのではないか。キリスト教もイスラームも輪廻転生はないという。輪廻転生を唱えているのは仏教であるという。「ダライ・ラマに恋をして」(著・たかのてるこ)の本でその話が出てくる。たかのさんは、その本の中で、仏教徒だった前世の記憶を持つというイスラム教徒の女の子を取材している。輪廻転生という言葉も、前世という言葉も、いったんはずしてみれば、ぶつかり合わない。「オーラの泉」に出てくる話は、見えてるものを話しているのだろうから無視できない。表現方法をどうするかということ。まだ明確に言い表せない神様という大きな山に含むもの。イスラームの関心する面がある。結婚するまで貞操を守る日本に来たイスラームの青年の話。同級生に異性の目で見られないように、学校に行く時頭に被り物をしていきたいと考える、日本に来たイスラームの小学生の姉妹の話。禁酒。人間は弱いから飲んでも運転してしまう、すると必ず事故をおこすので、はじめからお酒を飲まない決まりごとなど。ところで、清水芳見さんがいう「イスラームの教えを信じていなかったのでムスリムにならなかった」という話は、(そもそも神様を信じていないってことなのかな?)ちょっと思ったりした。私は神様は信じているけれど、何かのワクに入り込むのにはよほどの強い動機、きっかけがなければ誰でも無理と思う。郷に入れば郷に従えなんて少しでも思った自分は、少し軽い?そのことに関して、kawausoさんがこういうメッセージをくれた。『その本、僕も読みました。ただの解説ではなくて、その人の生活や考え、イスラムとの係わりの描写もあって、とてもおもしろかったと記憶しています。「信じていないのに信者になるものは最も悪い」といった内容の記述が、クルアーンの中にあったと思います。(ちょっと捜してみたけれどみつかりませんでしたので、ひょっとすると僕の記憶違いかもしれません)調査のための打算で改宗を偽ること、自分をつらぬいてしかも恥ずかしく思う態度に好感を抱いちゃいます。僕自身省みると、興味がなくても反対意見があっても、お客さんの話に相槌うってニコニコしたりしてるなあ。本当はそんなことしたくなくないのに。目先の利益を考えたり、自分自身の確立に自信がなかったりするんですよね。割り切ってるつもりでいて実は偽っているだけ。ヒヤシンスさんもそんなことないですか?(2005年11月)』kawausoさんコメントありがとう。ラマダンを体験して一番大きな収穫は、この最後の問いかけだったかなと思うのです。この一年、その言葉に戒められた気がします。「無駄におべっかをつかわない」を心掛けました。去年ラマダンの時期は転職の変わり目の時期でもありました。「朝も昼も食べない」人に聞かれたら話すことにしたんです。新しい職場における私の変身ぶりでした。ラマダン後も8ヶ月間は平日は夜だけの食事が習慣になりました。なぜか、ラマダン月だけはスーパーが活気があり楽しかったのです。山と積まれた商品の陳列が、神さまに供える祭壇に見えた日が一度ありました。野菜の色々なものがまた安かったのです。毎日、色とりどりの収穫がありました。が、ラマダン月が終わったとたん、スーパーの魅力が褪せてしまったのです。私の神様を形に表わすとすれば、簡単です。ズバリ!夫のNさんです。ああ、神様はこんな顔、こんな腕、足、皮膚なのかあ。山内一豊は妻・千代の言葉を信仰していると司馬遼太郎さんは書いていました。私も夫Nさんを信仰しているというのはぴったりです。いいことをしたら頭をなでてもらい褒められたい。ラマダン月は褒められる喜びがあるのです。ズシリとおいしい!って感じるごほうびの快があるのです。
2006年09月15日
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前田日明さんの「オーラの泉」を終えてから私の意識は上空へ昇った。ヨシ!と決意し温冷浴。気合いが入った時しかしない髪のトリートメントに着手。丹念なアカスリに集中した。ボロボロと不成仏霊を自分の体から剥がし、水に流していっているよう。西式甲田療法の温冷浴を調べ直す。赤ちゃんの場合はお湯からスタートで、<湯→水→湯→水→湯→水>だそうだ。普通一般の人の場合は水から始まり、お湯で終わる。<水→湯→水→湯→水→湯>これの良さが体で体得した気がした。「温冷浴」とは最近、甲田光雄先生の本で読んだのだが、雪国に暮らした時から「お風呂の後は水で引き締めてからあがる」を実行していた。6年程前からアカスリを真剣にするようになってから、湯と水を交互にしていた。とちゅう途中に水で体を冷さないことには、持続力を持ってアカスリを集中できないためだった。が、自己流の温冷浴には間違いがあったことを夕べ、初めて気づいたのだ。赤ちゃん温冷浴をしていた。<湯、水、湯、水、湯、水>問題は水で体を冷たくして終わること。夏は気持ち良くもあるので気にならなかった。が、季節の変わり目の秋口になり、水が冷たくなって寒くなったから気づいたのだが、体を芯から冷え冷えにしていた習慣を振り返ったのだった。最後は水で締めるのがいいという健康法の思い込み。ここに問題があったな!と気づけた。近頃、甲田療法の体操をちょこちょこ真面目に行なえる精神状態になった。体操をしながら、体が芯からあったかくなる。熱くなるのを体感した。これだ!わかった!と、思った。西式の前に自分が傲慢であったと近頃、自分に感じていた。真剣でない、客観的、お客さんのよう。傍観者だったことに気づきはじめていた。二十代の時、時々病院に行って診てもらったことを思い出す。「調子が悪い」と言って、胃の検査を受けたり、眼下の検診をしてもらった時、「何ともないですよ」医師が言う。私は神経過敏症なのかな?取り越し苦労が過ぎたようだと自分に呆れていたが、けれど甲田先生の本を読んで今、こう思う。甲田先生に診てもらったらこう言われるのだろうと。「食べ過ぎですな。だいぶ便も溜まってますな」と。世の中の基準でいう「何ともない」が、けっして好成績の健康度にあるわけではないと。先日二人の男性をケーキに喩えてみたが・・。小説「ひつじが丘」の良一は、好きな女性の<全てを肯定化する>。「何ともないですよ」という医師をそれにあてはめた。「ちょっとしたストレスですよ、問題ありません、おいしいものを食べて、ゆっくり休んで」と、ソフトな口あたりで優しい。一方、もう一人の竹山は「この部分を変えたらもっといい」好きな女性の<一部を否定する>。ああ!甲田先生はこちらのタイプなのだと、ある時気づいた。一般的にはモテはやされないけれど、本当に人を助ける人はマイナス部分を教えてくれる人だ。(そういう意味では、人の負を見る「ウマが合わない人」というのは、実はお薬のような存在であると、今気づく)数字やデータ上には現れない「何ともない」と表面上では言われるが、「ほんと?」と思う人にとって甲田先生の指摘は目が覚める思いだ。それで話は最初に戻る。皮膚の丈夫な私は根こそぎアカスリで不快を落とした。「オーラの泉」で久々に守護霊の存在や、浄化されていない霊の存在などを思い出した。日常、ほとんど、良い霊の守り、そうでない霊の侵入など忘れていたではないか。霊媒体質の前田日明さんの回だったがために、そういうことを意識させてもらえた。夕べ、その感想を書きながら、前田さんの正と負の霊について気づきがおこった。正と負の霊は、どちらも、もともと高い意識にある人間であったということだ。それで、前田さんの霊の存在に対して、高いものを見る眼差しを、書きながら持てた。それで、自身のアカを落とそう!という強い思い、行動力が促された気がするのである。温冷浴とアカ落としで、体も意識もお蔭様で高められた思いがしている。何てありがたいこと。人は一人では生きていけないものと実感する瞬間だ。一人では刺激も成長もなく、間違いに気づくことさえできないのだ。アカスリあと、研ぎ澄まされた「気」を一番に何に使うか。既に寝ているNさんの按摩に「手当て」として使った。そのあと、「オーラの泉」の感想を書いて、気の充実が続いている。このコツを前田さんの高級霊から教えを受けた気がする。前田日明さんはテレビで昨日はじめて知った方。人は本来神の子なのだ。不成仏霊と言われる方とて、本来は神性を持ったきれいな魂の存在なのだ。前田さん、日本刀を捨てられないその思いを、上から見るように思ってしまったが、私もこの数日の心霊ダウンはその執着にあった。コーヒーを数日間断って禁断症状で、ぼーっと過ごし「コーヒーを買い求める」「コーヒーを煎れようとする」のを夢で見たりしていた。「コーヒーが何日か飲まないでいたらぼーっとしちゃって」に対して「何日かじゃなくて、もうコーヒーは飲まなくていいよ」Nさんが、さりげなく、ちょろっと言った。おお!これを神の言葉として聞いてみようか。と、今日飲みづらかった薬草茶がスーっと体に入っていったのです。
2006年09月14日
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椅子に腰掛けた途端、いつものオーラのスタジオセットが狭く感じられた。すぐさま霊媒トークに突入。通常の進行の流れにはまらない。時々は新鮮でいい。国分さんのおちゃらけは全く入り込めない空気。前田さんは霊媒体質の方。将校さんがズラリといらしてる。人の言うことを全く聞き入れない頑固な霊の人々のよう。赤黒いオーラに江原さん苦戦の模様。三島由紀夫さんが後輩を助けるため、前田さんをお連れしたとのこと。「今日、ここから変わらなければいけないんです」美輪さん、江原さん訴える。織田信長に由来する三本の刀がクセ者のようだ。陶器などの骨董品なども。美輪さん、江原さんに「捨てたらいい!」と言われたが、びびっている様子。それに気づいた美輪さん、トークを緩めてしまった。「手放せなかったら、物が主(あるじ)でなく、自分が主であるぞと意識して、云々」という美輪さんのトークを取って「~そうします」と前田さん最後そう結んだ。だめだ、こりゃ。こりゃ、捨てられませんな。個人で所有するには抱えきれないほどの怨念の刀に、どうして価値を置くか・・。本人、変わりたいと思ってない。変わらなければならないと思っていない。そういう危機感がなければ、執着してきた愛蔵のものを手放す気にはならないだろう。気持ちがわからなくもない。けれども、うしろの親身になってお世話してくれる方というのは、先のことが読めるので、今のうちにこれまでのものと、スッパリ縁を切って欲しいと親心で思うのだろう。が、伝える術がないため、江原さんのところに連れてきた。江原さん、言葉でどう伝えたらいいものか思案の時しばし無言。見て捉えた情報を、テレビの伝播でどこまで表わしてよいものか。収録のあと、もっと詳しくきっとお伝えしているのでありましょう。後ろの善なる人の訴えが、正しく伝わりますように。助けてあげられますように。最初の段階で悟れなかったら、次にキツイ形で剥ぎ取られるような気がしますから。頑固な将校さんたちの成仏されていない霊の人々。神仏の話を美輪さんがした時、「姿を消した」と江原さんが言う。(神仏の前には下がらなければならない)霊能者の仕事は、上にあげれてない霊の人たちをあげるお仕事、お役目も。だから難行苦行の修行が必要。なんて大変なお仕事。わからずやの頑固な昔の人々に、どうしたらわかってもらえるのでしょう。それだから霊能者は滝に打たれたり、祝詞をあげたり、お経をあげたり、祈ったり、他力の力を借りる。そして自力が必要。その霊の人達と、これまでふつうに付き合ってきた本人の、心と身体と環境も変えなければ。「江原さんと前田さんはとても似ている。体格からしても」と美輪さん。「今の状態では、前田さんは陰で、私は陽になってますが・・」と江原さん。最初の挨拶で、「どこかでお会いしてますよね。たしか、お坊さんだったときに」いきなり前田さんが、江原さんに言った。「そうです。そうです」と江原さん。すごい会話。前田さんもお坊さんだった時があったよう。中国の皇子だった時もあり、処刑の断を下すこともあったよう。プライドもとても高い。15歳くらいの時から戦国時代に関する本に惹かれて多く読んだという。「オーラの泉」にゲスト出演される方は皆、徳分の高さをそれぞれに持っている。徳分の高い人の援護を受けて、登場して来られるのでしょうから、当然人物も良く、世の中にお役に立つ際立ったものを備えた方であると思う。どうぞ前田さんの今後が成功に導かれますように。(人を育てるお役目など)将校さんたちも、上の方にあがって行かれますように。もう、ずっと昔に亡くなったのですよ。亡くなった人は霊界に行くのですよ。そこで修行して、魂の格を高くして、世の中のためにお役にたつ次のお仕事を神様から与えられるのですよ。そもそも、将校さんという立場だったのですから、りっぱな方々だったに違いありません。いろいろなわだかまりもあるかもしれませんが、それらを解くためにもまずは上にあがっていってくださいね。<終>//////////////////////////////////////////////////////////////////■前田日明さん(まえだ・あきら)/大阪出身(1959/1/24生)(オーラ:赤黒いオーラが紫に変化/前世:武士・中国の皇子/守護霊:荒々しい僧侶/そして・・・青少年育成と仏性を究める事を生きがいに) 丙午・帝旺(比肩)/乙丑・印綬・養(傷官)/戊戌・食神・墓(食神)/自胎・F4■三島由紀夫(1925/1/14生)「仮面の告白」(自伝的作品)主人公は出産時の記憶がある。戊戌・墓(比肩)/丁丑・印綬・養(劫財)/甲子・偏官・胎(偏官)/自養・F7・魁ごう◇◇◇来週のゲスト■村上弘明さん(むらかみ・ひろあき)時代劇俳優/岩手出身(1956/12/22生)(オーラ:赤・金/前世:フランスの文学者・思想家/守護霊:武士・国学者) 癸亥・帝旺(比肩)/庚子・印綬・建禄(劫財)/丙申・正財・死(印綬)/自臨・F5/空・子丑
2006年09月13日
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助産婦さんといえば思い出す。17年前見た山口智子主演の助産婦さんの物語。助産婦修行の女性が、一人アフリカに行ってマラリアにかかりながらも現地の妊婦さんたちのお産を助けるというもので、若々しい山口智子のエネルギッシュな演技はとても輝いていた記憶がある。西式のお産がドラマや映像になったらいいな・・今、ちょっと思い付いた。昨日に続いて甲田先生の「自然お産のすすめ」を読む。起きて布団をあげたあと、畳をかたく絞った水布巾で拭く。風を入れて本に書いてある体操を実戦してみた。体操の種類はたったの4つ。これが何とも善行と思えてくるではないか。簡単そうである。きっとやる気があれば、本でも8割マスターできそうな気がする。「自然お産のすすめ」(監修:甲田光雄/春秋社)1987年初版のこの本はすでに絶版になっているらしい。私はたまたま図書館で借りられたが、これは少しでも貴重な内容をメモしておきたいという気持ちでいっぱいだ。今日はテレビの映像で秋篠宮悠仁親王殿下と、命名の話題を多く目にした。私は読書ノートに励むとしよう。気合いを入れて付箋紙を用意して読み込んでいく。ツワリの原因の一つに、また「宿便」とやらが出てくるようだ。西式の体操も、断食も、この宿便を一掃するためのようである。西式体操を日頃からこまめに行なっていると、宿便が溜まりにくいのだそうだ。これは妊婦さんだけの話ではないんだなとわかる。便秘と快便は人を大きく分けるポイントである。おととい以前の便がまだお腹の中にあるだけで、ぼーっとしてくる、無駄に長い眠り、気力が沸かないなど。スッキリ排泄されると、また何か新しく吸収していこうというやる気、感動がおこってくる。それらは日常において誰もが感じること。「自然お産のすすめ」この本が絶版ということは、これにちなんだ新しい本が世に現れなければならないということですね。<「自然お産のすすめ」(監修:甲田光雄)より下記抜粋>(P15)『正食に入ること。「食は命なり」健康長寿を保てるかどうかは、その人の食によって決まるということを教える格言。甲田先生は健康長寿だけではなく、その人の運命までも食によって左右されてしまうと考えている。食の正否が人間の幸不幸をも決めてしまうと知れば、毎日の食事をおろそかにはできないでしょう。(P16)妊婦にとっての食の重要性はまた一段と高まる。妊娠中はたった一日でも絶対におろそかにできない。母親のちょっとした油断や誤りが胎児には決定的な打撃となって現れてくる。妊娠中の母親の養生いかんが、産まれてくる赤ちゃんの運命を決めてしまうと極限しても間違いではない。赤ちゃんに一番強く影響を及ぼすものは何か?(P17)やはり母親が毎日口にする食物、これが即ち「食は命なり」。母親が急にカルシウムの多い食品を選んで食べたからといって、すぐに骨太の赤ちゃんが産まれるものではない。子どもの頃から正しい食事をまもるよう努め、それが一つの習慣となって結婚生活に入るというのが理想ではないか。「神様と思われん人つくるには親の親より食を正して」明治時代の有名な食養の大家石塚左玄が遺した歌。子どもの頃からではまだだめだ、親の親より食を正さなければいけない、というのです。このことは、癖直しというものが、いかに難しいものであるかをいい表わしたもの。甘党で、身体に悪いと知っていながら、なかなかやめられないのが凡夫の常。そう簡単に悪い癖は改まらない。(P20)ツワリに悩む原因の大半が「宿便」にあると考えられる。過食は「宿便」のもとであり、ツワリ、難産といったお産の問題にも関係してきます。まず生水(浄水)の飲用。生水を飲まない人は早晩、頑固な宿便を溜めることになる。一日二リットルくらいの生水を飲む。陰性体質でそもそも水の飲めない大きな原因の一つは「宿便」である。
2006年09月12日
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結婚してからでは遅い、妊娠してからでは遅いのだという。まず西式健康法で母体の体づくりをする。妊娠中も西式体操や少食・断食をして体内をきれいにする。自然分娩で生まれた後、お乳を含ませる前に、赤ちゃんのお腹に詰まっている、200グラム前後の真っ黒なカニババ(胎便)をすっかり出してしまう。これがポイントのようだ。これがきれいにすっかり出てからお乳を飲ませると、アトピーなどにかからないそうだ。この本の赤ちゃんのたっぷりの便の記録の写真を見て、衝撃を受けた。すぐに、この本にとりかかれなかった。自宅出産の話には興味を持っていた。が、情報がなかった。日本流奈さんのHPでお母さんが自宅出産という記事を読んだのが最初だったと思う。知人の夫婦が、勉強して自宅出産したという噂だけは聞いていたが詳しくは知らなかった。最近母親が思い出したように言っていた。そういえば、兄も私も自宅に産婆さんを呼んで生んだのだったと。しかし、西式のお産というのは、ただ昔ながらの自宅でのお産というのとも違う。食制限も体操も修行のようでもあり、かつ楽しそうなのだ。まさか、その話を甲田先生の本から知るようになるとは思わなかった。西式というのは、難病を克服するためというイメージがあったが、病気を防ぐという方法を母の胎内のうちから徹底して考えられているという健康法だった。あまりにも衝撃を受け過ぎて、本当にこの本にはすぐに飛びつけなかった。体が受け付けなかった。母も赤子も、とにかく宿便を出してきれいなお腹にするのがポイントのようだ。ここ数週間、三浦綾子さんの本を読んできた私は原罪とか、罪なる悪しきおもいというのを取り上げてきたのであるが、それが宿便と関連があるように思われてならない。おなかがきれいなら、おなかに宿るおもいもきれいなのだ。おもいは守られるだろうなと。胎内に居る時から体質改善をし、生まれると同時にカニババの完全排泄、断食という最後の仕上げをしてもらった赤ちゃんの頑健さ。肉が締まっている。宿便が溜まっていないから足が温かいのか、冬の寒い時でもソックスを直ぐ放ってしまい、真っ赤な頬をして素足で走りまわっている。祖母の立場から見たお孫さんの様子はまだ続きがあり。まるで家の中に、異質の人間が現れた様な感じさえ。健康な故か、楽しくて仕方がないといった具合で、何時もニコニコ顔で、表情豊かな面白い子で、精神面の発達も著しく、何事にも慎重で、沈着冷静に行動する性格が目立つなど。他にも赤ちゃんの情緒が豊かで、余り泣かず、上機嫌、愛嬌があり顔色が良く、人の言葉を良く聞いている、動作も早いなど。子どもが少しむずがったり、調子がいつもと違う様子なら、すぐに”便”だと思って間違いないとか。乳幼児期にみられる”ひきつけ、夜泣き、かんのむし”などはすべて”便の出が悪いのが原因”であり、胎便が腸内でひきおこす自家中毒症状とか。(P198)西式では、この胎便を出し切るか否かが、赤ちゃんの将来を大きく左右するのだそうです。この本の衝撃はまだまだ緩和せず、ずしりと重いものがあります。生命の厳粛さ。助産婦さんという仕事がどんなに神聖な職業であるか。家族の結束、一体感。汗と涙と喜びと感動と感謝。この療法をきちんと守るには、お母さんがまじめに真摯な気持ちで取り組まないといけない。健康体をつくるのに真剣に磨いていこうとしている姿が修道者のようなのです。
2006年09月11日
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七月開始の四十日ガラクタ捨ての恩恵は大きいものがある。つくずく。掃除も洗濯も台所仕事もラクラクなのだ。読書はキッチンの場所が一番すすむ。これは新発見だった。ずっと棚でふさがれた場所だった。それを取り除いて新たな空間を生み出した。そこで本を読むと、その場所から感動を生み出せるのだ。お掃除ブログ巡りで「EM石鹸、洗剤でピカーン!」という表現に魅せられた。その洗剤を使って床拭きをしてみた。台所仕事をしながら、その洗剤を布に含ませ床を拭く。それをしてから、そこで本を読めば気持ちよく過ごせるではないか。さらにEM石鹸で髪・顔・体洗い、バスタブをササッと洗い、水シャワー。水シャワーを浴びると、精神が研ぎ澄まされ、どよんとした血液がシャキンとなる。Nさんの足でも揉んであげようかという優しい心がおこる。すでに寝息を立てているNさんの足揉みをしながら、賛美を口ずさむ。これは私の癖なんだが、「かわいい」「大好き」とにかく褒める言葉をBGMにするのである。と、「脳内革命」の本を思い出した。寝たあと、10分ぐらいして、その人の頭のところで良い言葉をかける。と、暗示にかかる。免疫力を強める・・だったか。甲田先生の本に書いてあったのだったか。読書ノートを探してみる作業しばし。すぐに見つからない。(もう一度、ノートをおさらいしてみようかな)と、そんなわけで、頭のマッサージをしてあげながらも褒め言葉BGMがたえまなく流れるのである。そう、その人の全てをネタにして、褒める。・・と、それをしながら、昨日読んだ小説を思い出した。二人の男の一人、新聞記者で絵描きの良一の口説き方。褒め言葉BGMは、これに似てるなと。主人公の奈緒美は、この男の全てを肯定する言葉に、天真爛漫とか、純粋さ、正直さ、一緒にいて楽しいと好きになるのである。実際の人物の中身は別として。一方、もう一人の高校教師竹山の愛情表現は、「君のその無気力な態度をあらためたまえ」と頬を軽くピシャ!(私なら、完全、引きます)親からもピシャリと厳しく言われたことのない奈緒美は、担任教師の厳しくも、その真剣さ、誠実さに心打たれる。アドバイスを受け留め、素直に生活態度を改善し明るく振る舞うようになっていく。その先生は奈緒美を好きなのだけど、奈緒美は先生としては好きだけど、異性としては考えにくい。二人の男の「色気」と「まじめさ」という要素。女に顕わすと、「かわいさ」と「しっかりさ」。これをケーキに現わすと、「クリーム」と「カステラ」部分。甘いクリームだけ舐めてたら飽きてくる。パサパサのカステラ部分だけだと、のどに詰まる。つまり両方を適度に持っていたらいいのにっていう話です。結婚する前に、そういう女性になりなさいねと、人からアドバイスされたことを思い出した。それで、「ひつじが丘」の男二人を分析できた。クリームだけの砂糖の害たらふくの男。カステラ部分だけの型にはまった男。二人は相反する対照的な者同士でありながらも友達だった。と共に敵対心もあり。互いに自分にないものを持っていた。うまく融合し合えればよいのだけど。なかなか。でも、これは一人の人の中に融合して持ち合わすべきものなのだなあ。「みため」と「なかみ」。そう、クリームとカステラが融合してこそ、しっとりおいしく、喜びとなる。楽しくなる、人に幸せを感じさせる。ここ最近、三浦綾子ワールドにすっぽり入り込んでいる私なのだが、綾子さん小説からの気づきは「悪しきおもいは不幸を招くよ」「人に悪く思われるのを繰り返すと、不意の事故がおこるよ」誰かを対象に悪い思いを持てば、呪いとなって相手を打ってしまう。不快な事件を起こし、生死を分けもする。いや、相手が打たれるだけでは終わらないだろう。おもいは地球を一回転して、自分のところに戻ってくるんだろう。毒のおもいは早く軽い汚れのうちにちゃっちゃとお掃除して、水で洗い流さないと。そしていいおもいをかける。いい気分、褒める、感動する、究極は神様に向けての祈りのおもいであろうか。それで、三浦作品に解答する内容ともいえる春山茂雄さんの「脳内革命」においては毒のおもいが、身体にとってこんなに悪いよ、こんなに損するよと徹底的に書いてある。こんなふうに良いおもいに切り返せよと、絶対お得だぜとさんざん書いてある。この人の本に神様が登場するところが好きなゆえんです。EM(微生物)洗剤で洗いたての物を部屋に干す。風が部屋を通り抜けていくとき、部屋の空気がピカーン!としたかんじに気づく。微生物の何かしらの効果か空気を清浄にした感をもつ。気分上昇。お線香を一本立てるのも、甲田先生の理論も療法も、聖書に関心を持つのも、全ては思いをよくする方法だった。<「脳内革命」p24抜粋>■自然界には麻薬のモルヒネがあります。このモルヒネは中毒の危険がありますが、脳内モルヒネにはその心配はまったくありません。しかもその効力は麻薬のモルヒネの五、六倍もあるのです。 一部の人たちが法を犯し、廃人になる危険を知りながらも麻薬のモルヒネに走るのは、それが気持ちいいからです。でもそんな危ない橋を渡らなくても、神様は私たちに脳内モルヒネを与えてくださっている。 これは神様からの次のようなメッセージだと思うのです。「人生を愉快に生きなさい。愉快に生きればいつも若々しく健康で、病気にも無縁で長生きできますよ」―と。脳内モルヒネの存在は神様が正しく生きる人間にくれたごぼうびともいえます。
2006年09月08日
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早朝「ひつじが丘」終盤近くになってグワ~ン!と精神が高揚。小休憩。寝ているNさんの背中に抱きつく。背中に顔を押しつけながらNさんTシャツの背中で涙を拭く。「シアワセダー!シアワセダー!シアワセダアー!」を連発。次に腕にしがみつく。「神様、アリガトウ!アリガトウ!アリガトウ!」を連呼。両足を垂直にあげ、バタバタバタ!バタツカセル。天井に向って「神様あ~!」と言って両手を垂直にあげ手を振る。喜びの表現はゴキブリ体操か。甲田療法の「毛管運動」の変形版か。(全身の血液循環や、リンパ液の流通を良くし均等にする)甲田療法の体操が少しずつ出来つつある出来つつある。暗示をかけつつ、三浦綾子さんの小説で血液が躍動しはじめているのを体感した。何がうれしかったのか?綾子さん(親しみを込めて綾子さんと呼ばせて)は何を言おうとしてるんだろう。一冊の聖書を読んだ綾子さんがどの部分に共鳴し、魂が揺さぶられたのか。読めば同時体験できる、いや出来たという喜びかも。ヒロインは美しすぎるが故、同性たちから妬まれ、二人の異性の愛欲の執着に対象になった。二人の異性を比較する思いが生ずる。美しさが故に人の気を惹いてしまう。高慢、傲慢という罠に引っ掛かかる。結果、幸福ではないという構図。人の目につかぬ、そこそこのキレイさ。賞賛を受けないシアワセ。関心をもたれない自由さ。私は何てツイテル幸せ者なのかと思うのである。美しさ故に起こり得るだろうドロドロの愛憎劇経験と無縁だったこと。モテナイ者が持つ自由空間。人が持つ貸借対照表は平等であると感ずる。富めるものには富めるものの苦労が、貧しきものには貧しきものの苦労がある。生まれ持った顔形、健康体質、性格、境遇、貯蓄高、自分ではどうすることもできない一方的に与えられたものである。が、幸不幸はいかようにもなる。困難が来た時、それを難しいと思うかどうかは自分しだいだ。神が共にあるならば、これ以上の苦難に出会ったとしても感謝できる自分を育てるための神の愛だと、綾子さんほどの信仰者であれば思うのだろう。綾子さんの短編小説をいくつか読んで、壁にぶつかった。「毒麦の季」「逃亡」「赤い帽子」「足跡の消えた女」「片隅のいのち」「壁の声」「尾燈」何を言わんとしているのだろう。読解が難しい。作者による解説、エピソードがあれば助かる。「毒麦/聖書」で検索してみた。聖書の解説が出てくる。それらを調べたからといって、すぐにピンと心が合点するというわけではない。疑問をもう少し寝かせて、次々読んでみるべきか。・・と、それが、「!なるほど」と思えた後半だったのだと思う。畑に麦をまきました。悪い者が侵入してきて同じ畑に毒麦をまきました。しもべが主人に報告します。「今のうちに毒麦を引っこ抜いてしまいましょうか」「いや、収穫時まで待て、まだ成長段階だから、間違って良い麦も抜いてしまう可能性がある」というような聖書の内容。毒麦を誤って食べると下痢になったりするそうだ。「ひつじが丘」二人の男が登場する。高校教師の竹山は、まじめで善良そうな男である。新聞記者で絵描きの良一は、女性を口説くのが上手いが、酒飲み女グセが悪い。けしからん男、毒麦のような男だ。女は早く見切りをつけて捨ててしまいたいと思う。もう一人のまじめそうな男と一緒になれば幸せになりそうなものを。私たちは人を見下す時、常に自分は良いポジションに立っているのだ。そして人を非難する。では、人を見下す自分自身とは善良な麦なのか。自分の心の畑には、毒麦が全くないのか。罪がないのか。罪を誘発する要素が全くないのか。嫉妬・愛欲・人と比較して自分が小さいと不機嫌になる心、これらは次に何をしでかすかわからない。人は毒麦を持っている。毒麦の要素の多い人を悪人と呼び、毒麦の要素が少ないものを善人と呼ぶのかもしれぬ。が、生きている間はまだ結果がわからないという神様の目。途中、改心して毒麦が善なる麦に変わっていく可能性を信じている神様の目。まだ、人を判断するには早過ぎる。だから、人を断定するのは傲慢というものだ。自分を振り返れよ。ああ、自身の毒が洗われる思いになる。毒のおもいが素直に従順な血液に変わる。この毒なるおもいをいかにコントロールして生きるか?ここにポイントがあるのだな。具体的な結果として起きてしまった罪なる悪いことは重大問題である。が、それ以上に、今、まだ内在している悪しきおもいを恐れよ。表に出た悪いものは、ほんの一部に過ぎぬ。内在しているものは膨大である。それらを恐れよ。というメッセージが聞こえてくる気がする。綾子さんの一連の小説に見る共通点を発見した。憎しみ、人を非難し、不倫なる愛欲のおもいなど、心に吹き溜まる悪意、悪しきおもいが生ずるとき、残念な事件が起こっているのである。それも、女性。女性の腹の影響力といったら・・。善きものも、悪しきものも、結果は女性の心が人に作用する。男を生かしも殺しもする、それが女性の腹の内である。そこにふるえあがった。目指すは心美人である。美しい心が良きものを生み出すこと結論。それで、今朝、私がNさんの背中を抱き締めて涙をぬぐったわけは、そういうことである。この人の命は私にかかっているではないか。私のこころがけしだいで、この人の命の成功いかんが決定する。人間の幸不幸の法則がわかったよ!その喜びを表現したかったようなのだ。
2006年09月08日
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もういちど見たいな、この人の顔。売れっ子の脚本家を演じている女優さんのようである。必ず着物が似合う人だ。時代劇の中に登場したら映える顔の人だ。この人の脚本はどこかユーモラスで明るくて可笑しさがあって人を笑わせる。時代劇なのに暗さ重さがない。空気が澄んでいる、セリフにおいても。見始めたきっかけは、山内一豊の妻・千代という人がプラス発想の人で、プラスの言葉でどんどん夫をやる気にさせたというから、それにあやかりたくどんなものかと興味を持ったのだ。本を読むお気に入りの場所は、近頃キッチン。そこから斜めに、和室の奥のテレビが小さく見える。画面に女性の顔と、「大石静」という文字が大きく映し出された。次に「功名が辻」のワンシーン。「ああっ!脚本家の!」本をやめてテレビに近づいた。1951年、両親にとって待望の子として誕生する。隣家の旅館の女将は、両親にとって親代わりの存在。子のないその人は是非、養子に欲しいと言う。隣同士の、両方の親の間に育つ。両方の親から可愛がられたいと、上手に振る舞う術を、子供の時から身につけていた。何と!四十歳までは女優だった。三十歳過ぎて甲状腺の癌になる。手術は成功。三ヶ月の療養生活で女優に復帰。「なんとかなるだろうと思っていた。そのとおりになった。人が死ぬときは、死ぬと自分でわかるもの」断言!きっぱりとしたもの言い。女優に復帰したものの目立たない端役ばかり。女優としては売れなかった。台本を書き始めたのは、自分を主役にするためだったのだが、書いてみると台本の主役の役柄は、どうもピタリと自分にあてはまらない。しだいに演ずる意欲がうすれていく。四十歳、女優を辞める決心をする。転機が訪れた。連続テレビ小説『ふたりっ子』で優れた脚本家に贈られる向田邦子賞と橋田賞を受賞。落ち込んだ時は、処女作の台本を読むのだという。「初めての作品には、怖いものなしの大胆さがあり、のびのびした発想、思いもよらない言葉がある」「起承転結にこだわらない」「自分だったら、次、どんなセリフが聞きたいか」パソコンの前には鏡を置く。しかめっ面をしてないか、時々チェックする。鏡をのぞいて、いい顔の時はいいセリフが書ける。書くときは、体を締め付けないパジャマで書く。自由な発想が出てくる。日中は人に会ったりあわただしいので、執筆は夜と決めている。お線香を一本点てる。集中力が増すと人から聞いて、やってみるとそんな気がする。「セリフは語尾で決まるものなんです!」もっと語りたそうだったが。もっと聞きたい!この人の話。目と口の表情がイキイキ。情熱、創作意欲。内側の豊かさが顔の表情に涌き出てる。役者さんが最終撮りの日は必ず駆け付ける。役者の目に入らぬよう、邪魔しないよう必ず黒い服を着ていく。秀吉役の柄本明さんの最終撮りの場面。自分が書いたセリフに命を吹き込んで下さった役者さんに、感謝の気持ちを込めて最終の場面を見守る。花束を贈る。柄本さん「ぼくは大石さんの脚本は好きですね」時々こうして現場に足を運びスタッフと合流する。息を合わせる。鋭気をもらって明日からの執筆にのぞむ。ドラマは様々な人達が一体となって創られていくものだから。脚本を越えて演出家、役者さんの意見が加えられていく。お気に入りの場面・・演出家によって、濃姫が明智光秀の肩に落ちたもみじをそっと手に取る場面がつくられた。この演出で、二人の距離がぐっと近づいた。徳川家康の肖像画は福耳である。家康役の西田敏行が、大きな付け耳を提案した。これは面白い!と取り入れる。年をとるとともに耳たぶが大きくなる。観るものに気づいてもらおうと、家康が耳を触りながら考えごとをするシーンが脚本に加えられた。創作の泉がこんこんと沸いているという、目から出る光線。豊かな頬、きりりとした口もとの笑み。自分にはこんなにも才能がある。自分にうっとりする、自信に満ちた顔。その姿、たたずまい、きびきびした物言い。光が放っている。惹き込まれた。頭に沸きあがった世界を、話し言葉のセリフに表現する。創る喜び。そう、彼女の喜びが画面から伝わってきた。番組はNHKの「クイズ日本の顔」。司会のえなりかずきなら「詐欺師の役」を、ゲストの兵頭ゆきなら「妄想癖の主婦の役」をとも言っていた。語り口がほんと!豪快だ。この人はいったい女なのか?男なのか?と思わせる。美人といえるが、美人という表現がどうも合わない人だ。時の勢いに乗った人を眺めるのは爽快である。その人が持っている「時の運」をもらい受けるような気がする。それでテレビを消したあと、あわてて何が語られたかをメモしてる。玉木宏さんのテレビの映像を見て「この人イイ!」それでセリフを増やしたとも言っていた。それ、わかります。この役者さんの魅力が、一番この役で引き出されたと思う。人の思わぬものを引き出す時代劇。時代劇もいいものだなあ。着物の和装も好きになった。見なおした。それで「功名が辻」のHPのスタッフのページは先日から興味を持って、既にきっちり読んでいた。脚本・大石静って?どんな人だろう?もっと知りたい!と実は気になっていた人だったのだ。時代劇に関心がなかった自分が、初めて興味を持ったのだから。大石静・・名前からして、かなり年配の男性かな?とも思っていたのだから、びっくりしたわけだ。それにこの人、年齢が何歳なのかわからない顔をしている。才能ある創り手は面白そうに生きている。私は才能ある読者になろう。才能ある観客になろう。人は面白さを表現するいきものである。■大石静(1951/9/15)戊午・帝王(偏印)/丁酉・印綬・死(傷官)/辛卯・傷官・沐浴(正官)/自旺/F8■三谷幸喜(1961/7/8)壬寅・病(食神)/乙未・傷官・養(正官)/辛丑・印綬・衰(正官)自絶/B10
2006年09月05日
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「拘束」(こうそく)ということについて考えていた。「細川ガラシャ夫人」においては本能寺の変からの二年半、玉子(ガラシャ)は味土野に幽閉される。城に戻されてからも、夫・忠興は妻の美しさを人の目に触れさせたくないとして、外出を許さない。なんと自由がないかと思われる軟禁状態だ。作者・三浦綾子さんも24歳から37歳までの13年間、身動きもならぬベッドの上で過ごさなければならなかった。細川ガラシャは38歳で生涯を閉じ、三浦綾子さんは38歳から再度、新たな命を吹き込まれた。十数年という若き歳月を、三浦さんのように闘病生活に拘束される人が世の中にはいるのだなと思った。甲田光雄氏の本で西式の断食療法で克服するまでの、闘病体験記をいくつか読んだ時もしみじみ思った。人は生きる中で、必ずそういう身動きできない不自由に、ある一定期間浸(つ)かる。三浦綾子さんの「氷点」で、もらい子の陽子は、ある一定の成長期間、継母による憎しみの視線の中を耐えなければならなかった。18歳の時、「カルマの法則」(著・五島勉)を読んだ時、ギグッっとした。人は生きている間、ビデオカメラが回っていて、しっかり録画されているという。死ねば、録画されたビデオを巻き戻して、全部あらわにされるというではないか。秘密というものは、どうやら持てないようだと思った。再現フィルムを見る時、多くの人が恥かしい思いをするという。人に見られたくない場面が登場するというのである。つまり、人は放っておくと、無意識に生きると、罪を犯してしまうというのだ。ひえあがった。これは人の目に監視されて、悪いことができないように、自分をある程度縛る(拘束される)必要があるなと。美しすぎた細川ガラシャ夫人、「罪を犯す」、「罪を犯させる」ということを考えたとき、夫によって人前に自由に出ていかれなかったというのは、むしろ幸いなことだったようにも思えるではないか。キリシタンの高山右近が城を訪ねてきた時、夫の忠興は初めは妻にも右近の話を一緒に聞かせたのだ。ある朝、妻が寝言で右近の名を呼んだとして、夫・忠興は嫉妬した。以後、右近が訪ねてきたときは、妻を呼ばず、キリシタンの話を右近から自分が伝え聞いて、妻に話きかせたという。それも夫として、気が利いた配慮というものかもしれないとさえ思えた。なにしろ妻・玉子の美しさは、どういうものかというと、人と対面する時、はっと息をのむとか、一瞬目を見開いて呼吸を止めるという表現を綾子さんはする。右近と対面した時、初対面の人が必ずそうする反応をまるでおこさない右近に玉子がハッとする。キリシタンとはどのような教えなのかと。数回、目に移した右近の姿が、夫の腕の中にいるとき現われる。夫の姿が、右近の姿と重なる。夫が右近に入れ替わる。どうしたことであろうか。別に意識しているわけではないのに。人は何もしなくても、存在じたいが罪である、罪人なのである。玉子は静かに悟らせられ、罪を理解したのではないか。調べてみると、玉子は儒教にはあかるかったそうだ。一度だけ教会を訪れた時、儒教と比較してキリシタンの教えについて様々な質問を投げかけた。玉子の質問を受けた宣教師が、後に「これほど深い理解を示す人物に初めて会った」という言葉を残している。はじめ、玉子はキリシタンの教えはすぐには信じられなかったようだ。玉子は父・明智光秀を尊敬していた。玉子にとって、夫以上に信頼できる存在が父だった。いわば、父が神のような存在だったと思う。武将として、男道を生きる父にとって、信長から領地を没収されるということは行き場を失ったも同然。玉子は父の行動を理解する。そうせざるを得なかった事情というものを。ところがキリシタンである高山右近という人物は、「もし禁止令が出て、信仰を捨てなければ領地を没収すると言われたらいかがする?」という問いに対し「喜んで没収されよう。無一文になるまでのことじゃ」と平然と意ってのける。実際、それは現実となり。小西行長によって小豆島にかくまわれたとか。家族は淡路島に離れて住んだときがあったようだ。この一家離散という憂き目に対して、夫・忠興は言う。「馬鹿な男じゃ。信仰はそこそこでよいのじゃ。わしは家族をそんな目には遭わせない」お家が一番大事という細川家の人生観。玉子は、右近の身の処し方をみて、尊敬する父を上回っていると目を見張るものがあった。父は時の上司に冷遇され、これまで築き上げてきた財産も地位も名誉も全てを失い、限界を感じたと思う。けれど、右近は「たかが、無一文になるまでのことよ」と次に何かが待っているかのような希望めいたことを言う。キリシタンの教えとは、いったい何なのだろう。光秀は、高い立場をこれまで苦労して築き上げてきたものがあったからこそ、人は持ち物に執着する。他と自分を比較して、自分をあわれに思ったり、追い込んだりする。貧しい人は幸いであるという聖書の言葉がわかる気がする。お金持ちの人に対してイエスさまが、持ってるものを全て捨ててから、私のもとに来なさいというようなことを言っているではないか。夫の忠興は立身出世の男である。父以上に家名を挙げた。秀吉が朝鮮に兵を出したとき、忠興がもっとも活躍し、二千何百という首をあげたと得意満面の話を玉子は聞かされて・・。キリシタンの教えは人を殺してはいけない。自害してはいけない。妻以外のものを娶ってはいけない。夫の成功には常に罪が伴っている。その夫に抱かれる妻もまた同罪ではなかろうか。感情の起伏の激しい夫に、忍耐することも多かったに違いない。美しく賢い妻に対し、狂気なほどに執着した愛妻家であった。が、夫から注がれる愛には限りがあった。玉子はキリシタンの天主(デウス)の愛の世界に触れたとき、乾いた心がはじめて満たされたのだろう。一族の絶滅という孤独、夫が側めに子を生ませたショック、女性の気持ちがわからない夫の未熟。城内で簡単に人の首をはねるなどの短気、癇癪、冷酷・・。夫が死ぬ前に天主(デウス)様を信じてくれますように。切なる願い。そうであってこそ、「夫の言葉にキリストに仕えるごとく従う」と繰り返した玉子の言葉は真からの言葉となるのだろう。玉子の死後、忠興は45年生きて83歳で死す。玉子の死後、妻は迎えてはないという。玉子の死が、忠興に信仰の芽を芽吹かせただろうか。弟の興元が洗礼を受けたとき、母は猛反対して取り消すように激しく迫ったという。父、幽斎が信仰は自由であるといさめたとか。お家大事の人生観、富んだものは、無一文にならないと、デウスの愛と信仰の道は遠いのか。■「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マルコの福音書10-25)(終)//////////
2006年09月04日
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若き日のちょっとした人との出会い、家族の陰鬱、誤解、傷つき、人間不信、絶望、死に向き合う。北海道の雪原に旅立ち一人きり、最期の食事にお握りを食べ、その後は断食して、体力が消耗して。限界が近づくほどに・・俄然、生きたい心の欲求がおきてくる。救い主が現われる。三浦綾子さんの本をきっちり読んだのは、これで四作目です。短編小説は初めて読みます。教会の説教ってこんな感じだろうか?物語の後半になってひらめいた。場面は凍るような真っ白な雪原。これが礼拝堂の澄み切った空気を思わせた。春のような淡い喜び、夏のような心の高まり、秋の失恋のような落ち込み、冬の断食のような停滞。それを体験して、聖書の言葉を一つ理解していける、次の季節への希望。上からガツンとお説教しようっていうんじゃない。喩え話の物語を通して、読み手の心を引き上げていく。目覚めさせていく。三浦綾子さんの小説を読み進めながら推測したことがある。聖書では『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(第2章/16~17節)』作者は罪の根底に、男女の性とか、命の出発に関することがあるのではないか?と問いかけというより、提案しているのではないか。その疑問を聖書よりもっと具体的に、登場人物と状況を設定させ、シュミレーションして確認作業をしているかのようだ。が、実は既に作者の答は決定しているかのようである。それに関して異議なし同感である。今回、それを確認できたような気がする。三浦綾子さんて、こういうことを考えてこられたんだな。この人は本物だなって。学校の先生をしてこられた方だけれど、本当に生徒に教えたかったのは、人の失敗の根本原因をえぐり、もう失敗するなよと言いたかったのでは。喩え話を小説という場でこんこんと話してくれているように思う。人は成長と共に、必ず何かに傷つき挫折し、死にたくなるほどの喪失感に落とされるときがくる。そこがチャンスの時で、死を考えるとは、同時に生きるを初めて考えるとき。聖書の言葉の一行がしみこむときなのだろう。『石の森』は「三浦綾子全集」第六巻(主婦の友社)の中の「細川ガラシャ婦人」の続きに入っている作品。午後九時から午前四時まで七時間で、気持ちよく終了。すがすがしい気持ちになった。この方の本は安心して読める本なのだな。とても信頼できる方だな。と、とても作者と近しくなった気がする。
2006年09月03日
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