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ルクセンブルク大公国を小さな汽車ポッポ型の観光バス「ペトリュス・エクスプレス」に乗って約40分楽しみました2019年4月13日(土)友人ミーちゃんとの2人旅でありますきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第27回【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群ペトリュス・エクスプレスの天井は、クリアーボードで・・・頭上の要塞までハッキリと見えます。今現在でも【世界遺産】の町に暮らし続ける市民がおります。この急坂の町に住む事は、不自由だと思われますが長崎に住んだ事のある私にとって懐かしさも感じました。可愛い汽車ポッポに乗ってカタコトと登ったり下ったり楽しかってです〜要塞群と低地の町「グルント」を巡って参りましたがいよいよ この要塞の中に・・・入って行く事となります要塞群の高い場所まで戻って来ました。ペトリュス・エクスプレスは・・・中世の面影を残す石畳を登ったり下ったりおやっ。あんなに見事な青空だったのにもしかすると雪かしら鉄道の陸橋も霞んで見えています・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.28
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ルクセンブルクには、悲しい伝説があります。それは「人魚姫」のお話に近いと思われるのですが・・・ルクセンブルク人ならば誰でも知っている「悲しい伝説」であります。きらりの『ルクセンブルグ旅日記』・・・第26回ルクセンブルクの悲しい伝説・・・とは?このお話は・・・ルクセンブルクを最初に統治したジークフロイト伯爵時代のお話です。「メジャーネ」という『水の精』がアルゼット川に住んでおりました。メジャーネは・・・人魚のように下半身は「魚」。上半身は「人間の姿」をしておりました。メジャーネは・・・ジークフロイト伯爵に恋をしてしまいます。メジャーネは、人間の姿になって伯爵の前に現れます。ところが、ある夏の暑い日の事メジャーネが池で水浴びをしている所をちょうど伯爵が通りかかり伯爵は、水に浸かったメジャーネの下半身が人魚になっている事に気付き驚きます正体を見られたメジャーネは・・・絶望の余り高い崖の上からアルゼット川に飛び込んだそれ以来、メジャーネは、伯爵の前に姿を現さなかった。しかし、毎晩彼女は、アルゼット川から伯爵を慕って歌を歌い続けました。・・・おわり・・・ペトリュス・エクスプレスは・・・石畳をコトコトと進みます石造りの門をくぐります。門の上には・・・SCHLOSS ERBUTBRUECKF.1755ペトリュス・エクスプレスは・・・出発点の『ポックの砲台』へ戻るために低地の町「グルント」から急な坂を登り【世界遺産】要塞群の上に向かって走ります・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.27
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世界遺産を求めてルクセンブルクを旅する人は多いのですが〜谷底の町まで行ってみる人は思った以上に少ないです。2019年4月13日(土)友人のミーちゃんとの気ままな2人旅2020東京オリンピックの新種目となった「スケートボード」ですがルクセンブルクの練習場をグルントで発見しましたきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第26回【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群低地の町「グルント」を・・・・ペトリュス・エクスプレスに乗って走っています(小さな汽車ポッポ型の観光バス)石造りの陸橋の上には、本物の鉄道が走ります。陸橋をくぐると・・・低地の町「グルント」には・・・公園がありました。桜でしょうか珍しいです公園は、最近できた感じですおっと〜要塞の下にこれはスケートボード場ですねスケートボードは・・・2020東京オリンピックから新種目になり注目されていますスケートボードは・・・1940年代にアメリカ西海岸で木の板に鉄の車輪を付けて滑ったのが始まりなのだとか1950年代には、木製の板にゴム製の車輪が付いた「ローラーサーフィン」が生まれ1990年代後半からは、音楽やファッションを伴って若者の間で流行しました。オリンピックの種目は・・・2つ街の中を滑るようなコースで技を競う「ストリート」複雑な形のコースで技を競う「パーク」がある。ルクセンブルクの「グルント」で練習している若者は・・・オリンピックを目指しているのかは・・・わかりませんがナイター設備もあるみたいです。ルクセンブルクでは・・・足で蹴るスクーターも多く見かけます〜スケートボードもスクーターも仲良く楽しんでおります自転車置き場らしきものも(谷底なので自転車の人はほとんど見かけません)バスの中からの撮影です。この深い溝は「パーク種目」です。パークは・・・大きなお皿やお椀を組み合わせたようなコースで行われる「パーク競技」種目「ストリート」のコース「ストリート」は、街にあるような縁石やベンチ、手すり壁や坂道などを模した直線的な構造物を配したコースを滑ります。皆さん、お上手です公園には、木製のブランコや遊具がいっぱいでした。スケートボード場からこの崖も【世界遺産】の要塞の一部です。広い芝生は、冬にはスキー場でしょうか?冬季オリンピックでも活躍されたルクセンブルクですが・・・2020東京・スケートボード競技も選手が出て来たら応援したいです・・・つづく・・・ルクセンブルクにぽち
2019.11.26
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ルクセンブルク市の【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群をペトリュス・エクスプレスに乗った私たちは、被写体としてイヤイヤ〜注目されているのはカワイイ汽車ポッポですきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第24回【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群低地の町「グルント」におりて来ました崖の上にみえるのは「ルクセンブルク旧市街」です。旧市街と低地の町「グルント」を区切るのは高い岸壁に築かれた要塞であります。要塞には、窓が見えていますね〜20世紀半ばまで、ここには人が住んでおりました。岩盤が硬いので・・・ドアーや窓も取り付けられて結構〜普通の住宅に近かったらしいですアルゼット川にかかる石橋を渡って・・・おやっ私たちは被写体にバチバチ私たちの乗る列車が可愛いので撮影しているのですどうせなら手を振ってお写真にアルゼット川からの眺めは・・・ルクセンブルク市の色々な時代に建てられた崖の家や要塞群が見られます。ここからは、公園のようになっています。彼らは、どこに向かっているのでしょう・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.25
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ルクセンブルク【世界遺産】旧市街と低地の町グルンドに高い要塞に感動してるミーちゃんときらりは、ペトリュス・エクスプレスに乗って楽チンな観光をしております2019年4月13日(金)きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第23回【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群遠くに見える新市街と列車の陸橋が見えます。要塞の上(旧市街)に見える『サン・ミッシェル教会』(手前右)崖の下の教会は『サン・ジャン教会』渓谷の下に14世紀に建てられました。フランス革命以前は、ベネディクト派の修道院でした。『サン・ジャン教会』尖塔がそそり立つて目立ちますペトリュス・エクスプレスからは・・・垂直に近い崖の下なので屋根の一部しか見えておりません!それにしても静かであります。ルクセンブルク大公国を守った高い要塞ジークフロイトの時代からフランス統治時代へと歴史は、続きました。ペトリュス・エクスプレスの車窓からは・・・ポックの砲台が見えて来ました。ポックの砲台は・・・「虫歯」の穴の様にも見えますボックは、10世紀中頃に・・・アルデンヌ地方の領主「ジークフロイト伯爵」によりルクセンブルク城が築かれましたが現在では、跡形もありません〜要塞としての利点を全て兼ね備えたこの岸壁は、各国の支配下におかれましたが・・・その度に強化され「北のジブラルタル」と言われるほどの堅固な砦となっていったのであります。・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.24
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ルクセンブルク公国への旅は、2019年4月13日(土)友人のミーちゃんとの迷子になりながらも楽しい事もいっぱいの旅でありましたペトリュス・エクスプレスPETRUSSE EXPRESSに乗って観光しておりますきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第22回ペトリュス・エクスプレスの天井は透明です低地から景色を見上げることが多いからです石造りの陸橋の下を通っています(地図の右)この陸橋の上には、鉄道の線路があります。私たちが・・・ブリュッセルから乗って来た列車は、ルクセンブルク中央駅から出発するとこの陸橋を通るそうですが〜この時は、列車に遭遇できませんでした少し高い位置まで登って来ると陸橋が見えます。新市街が遠くに見えます。ペトリュス・エクスプレスは、急坂でも力強く登ります〜左に急カーブ先頭車両が見えます兵舎跡現在は、老人ホームになっている。標識は・・・SERVIORサバイバー?生存者ってどういう事?17世紀にルクセンブルクが・・・フランス軍に占領された時にグルントのかなりの地域が破壊されてしまいました。前の親子連れ・・・イヤホンガイドに聞き入っております。ペトリュス・エクスプレスは・・・登ったり下ったり17世紀末には・・・ルイ14世の軍隊に寄って建てられた兵舎の建物が並びます。現在は、老人ホームとして使われているそうですがまだ樹木は・・・ちらほら春の芽が出始めた感じそれにしても素晴らしい環境です。構内まで入って来ました〜兵舎に水を供給していたという・・・古い井戸が保存されていました。兵舎の先には・・・中世には、砦であった「東門」が残っています。この道が、ドイツのトリアーノまで続いていた事から「トリアーノ門」と呼ばれています。グルントの谷の町は、本来なら外堀の役目をしていて更にトリアーノ門から続く防壁に寄って守られていたのですね・・・つづく・・・ルクセンブルクにぽち
2019.11.23
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ルクセンブルク大公国を訪問したのは、2019年4月13日(土)ドイツ・フランス・ベルギーに囲まれた小さな国ですが~その歴史は、周囲の国との関わり合いが深いのでありますこれから向かう低地の村「グルント地域」も・・・ユネスコの世界文化遺産に1994年に登録されました。きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第21回「ポックの砲台」からペトリュス・エクスプレスに乗って谷底の町「グルンド」へ行きます【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群この要塞群は、963年、ジークフロイト伯爵が・・・トリアーのマクシミン修道院からこの崖地を譲り受けた時にはこの深くて幅の広い谷は存在していました。ジークフロイト・・・とは?(ジークフリート)Siegfriedルクセンブルク伯 ジークフロイトアルデンヌ伯初代ルクセンブルク統治者922年〜998年10月28日在位:963年〜998年ジークフロイトは・・・ビドガウ伯ヴィゲリヒと西フランク王ルイ2世の孫グニグンデとの息子とされている。王妃=ヘートヴィヒ・フォン・ノルトガウ訪問時は・・・春ですペトリウス・エクスプレスに乗って車窓からの風景です私たちは、要塞の上から(楽して)谷底の町「グルント」へかなりの急勾配を降りて行きます現在では、中世の建物を改装しながら住んでいるようですがジークフロイト伯の時代には・・・庶民は崖を住まいとしておりました。その後、窓も取り付けられて案外、快適な生活を送っていたそうであります。ペトリュス・エクスプレスは・・・坂になった道を登ったり下ったりかなり狭い道をクルクルと進んで行きます車内から撮影しております。一般のバス停もあるのですね〜CLAUSENER BRECK(バス停の名前)谷底の町「グルント」に到着です!標識は、Cents-Fetschenhaff I.NS大きめの交差点を曲がると・・・「グルント」は、この地図の右側グルント地域に降りて来ましたさぁ〜町に流れる「アルゼット川」に出会います。小さなせせらぎの「ペトリュス川」は・・・東から流れてくる「アルゼット川」とぶつかり合流するとこの谷間に開かれた低い土地の意味=「グルント」には、民家が密集しています。「グルント」と呼ばれるこの地域には・・・14世紀になって皮なめし工や粉屋など水を使う職人たちが住み着きます。次第に皮なめし業と関係のある靴職人や毛皮加工業などの職人さんも住むようになり15世紀になると・・・パン屋、鍛冶屋、ビール醸造業などが加わり手工業者たちの住む地域となってゆきました。・・・つづく・・・グルントにぽち
2019.11.22
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ルクセンブルク【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を訪問し「緑の汽車ポッポ」に乗ったのは2019年4月13日(土曜日)友人のミーちゃんとの2人旅ですきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第20回City of Luxembourg: its Old Quarters and Fortifiecations1994年登録【世界文化遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群さぁ〜現地の親子連れの後ろの席に座ってPetrusse Expreessペトリュス・エクスプレス緑の汽車ポッポ型の観光バスは、発車しましたエクスプレス「列車」だと勝手に思っていたのですがどうも線路も見当たらないはず遊園地でお子ちゃまが乗る小さな観覧バスです。色々な国でお子ちゃまの列車?に乗る・・・きらり。Case mates du Bock「ポックの砲台」ワクワク出発しました料金は・・・前払い大人=13ユーロ(約1560円)子供=8ユーロ(約960円)家族割引=33ユーロ(約3960円)(大人2人+子供3人まで)この前の3人家族は・・・1ユーロ(約120円)しか割引になりませんが周遊時間は、約45分ちょっと割高ですが各國の言語で説明が聞けます。おやっ言語選択は・・・8ヶ国語に対応ルクセンブルク語ドイツ語フランス語英語オランダ語スペイン語ロシア語中国語さすがルクセンブルクらしく選択が多いですが日本語・・・無いです寂しいですね〜まぁ日本人に一度も出合わなかlたですから従って解説は、ほぼ理解しておりません。ですから〜下の町グルントの景色を楽しむことにしました・・・つづく・・・汽車ポッポにぽち
2019.11.21
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ユネスコの【世界遺産】ルクセンブルクの要塞群「ポックの砲台」に現地の親切なカップルに連れてきていただき到着しました2019年4月13日(土)午後2時半頃きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第19回City of Luxembourg:its Old Quarters and Fortications【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群古い古い遺跡です!!Bock Casemates「ポックの砲台」到着ですポックの砲台の上は・・・緑の汽車ポッポ型の「ペトリュス・エキスプレス」の発着所があります。「ポック」はSigefroi Mantee 通りに面しています(地図右)Sigefroi Mantee 通りの真下に要塞があるのです。眺望がすばらいい世界遺産の上を歩く人々要塞の下の街を根がめています〜ここからは【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街が見えます通って来た「聖ミッシェル教会」が左に見えます。「ポックの砲台」と言うけれど・・・上から見ると「砲台」らしき物体は、見えません!!早く中へ入って見たいのですが・・・私の予定では、まずPetrusse Expreessペトリュス・エクスプレス小さな緑の汽車ポッポで谷底の町「グルンド」を見て来ようとの計画。ユーロの旗とルクセンブルクの旗が風にバタバタと激しく音を立てております。ペトリュス・エクスプレスは・・・この場所から出発します。ありましたよチケット売り場Petrusse express緑の汽車ポッポです冬場はお休みです!!料金は・・・大人=13ユーロ(約1560円)子供=8ユーロ(960円)まぁ〜ちょっと高い乗車時間は、30分間イヤホンガイド込みです乗りましょう〜チケットを買うとイヤホンが渡されました。汽車ポッポは、直ぐにやって来ましたよ!・・・つづく・・・汽車ポッポにぽち
2019.11.20
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ルクセンブルク大公国【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を訪問したのは、2019年4月13日(土)友人のミーちゃんとの2人旅ですきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第18回City of Luxembourg:its Old Quarters and Forticationsペトリュス渓谷の底を歩いておりますおおお・・・やっと人間に出会いました犬のお散歩をしているのは、確かに「現地女性」「ペトリユス・エクスプレス」の乗り場を聞けますよもう〜すぐに人に聞く・・・私きらり。しかし・・・「分からないわ!」と行ってしまいましたもう〜どうするの深い深い渓谷の底で・・・「迷子」悲しくなって来ました。このままペトリュス渓谷を歩いて進めば谷底の町「グルンド」に着くと思われますが私の計画では・・・谷底の町「グルンド」の上『虫歯』から「ペトリュス・エクスプレス」に乗ってペトリュス渓谷をひと周りしたい♫なのですが〜なんせ失敗の根源はホテルに地図を忘れた私=きらり誰のせいにもできないのであります改めて地図で見ると私は、とんでもない事に現在地アドルフ橋の下あたり 目的地は右上「虫歯」ポックめっちゃ〜遠いです。どうやって行くのでしょうこんな時に神様は、私たちを必ず助けてくれるのです。その神様は、滅多に現れないのですが・・・誰も通らないペトリュス渓谷の底にひと組のカップルが歩いてくるでは・・・ありませんか「ペトリュス・エクスプレスの乗り場はどこですか?」と聞くとカップルは、「私たちの後を着いていらっしゃい!」と言うのです。えええ・・・案内してくれるみたいですなんと〜親切な現地のカップル現地カップルは、要塞の崖を登り始めましたえええ・・・っ要塞の上に乗り場は、無かったのですが長い足のカップルは、大股で大きな石段をスイスイと登って行きます!私は、モデル並みの長い足を羨ましく思いながらよいしょ、よいしょ と遅れながら登ります。いやいや〜深い谷であります。下りと上りでは、当然辛さ倍増。モデル並みの現地カップルは、振り返って私を見て「大丈夫ですか?」と多分ルクセンブルク語で励ましてくれているみたいですが「もう少しよ!」は〜い頑張ります!!いや〜登って見るとそこは「アドルフ橋」新市街です。長い間「アドルフ橋」は、工事中だったらしいですが完成してはいますが・・・その交差点は掘られています。旧市街の「憲法広場」から見えたルクセンブルク国立銀行(午後2時)目の前に見えた事で・・・自分がとんでもない場所に居ることが分かって来ました。ここで写真を写したらカップルがこちらを振り向いて「写真ですか?行きましよう!」とあら〜まだ先まで連れて行ってくれるのでしょうか?私たちは、カップルの後に続きますこの2人です私たちを助けてくれたカップルです後ろ姿は、後光が差して見えませんかカップルは・・・【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を端から端まで・・・私たちを連れて案内してくれております「聖ミッシェル教会」ルクセンブルク市内最古の教会。聖ミカエルが守護神の教会です。こんな親切にしてくれるなんて・・・到着したらお金を要求されるかもいや〜そんな失礼な想像ダメですョ。旧市街の近道をドンドン通り抜けて連れて行ってくれました。もぅ〜申し訳なくて何とお礼をして良いか分かりません!坂を下ると・・・目的の「ペトリュス・エキスプレス」の出発場所ポックの砲台「虫歯」に到着。現地の親切なカップルは・・・「ここですよ!」とあっさり宣言すると元、来た道を戻って行きました。あらら〜何とあっさり、親切。お金の要求どころか申し訳なさすぎじゃ〜ないの?外国人に親切にするって大切だけど歩いて世界遺産の端から端まで歩いて来てくれるってどうやって感謝したら良いのでしょうか?♪ありがとう♪ルクセンブルクのカップルさん〜・・・つづく・・・ルクセンブルクにぽち
2019.11.19
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ユネスコの【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群(2019年4月13日土曜日訪問)ミーちゃんときらりの2人旅1番の楽しみだった「ペトリュス渓谷」のお散歩を楽しみましたきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第17回ここがペトリュス渓谷の底ですアドルフ橋の下あたりなのですが〜「ペトリュス・エクスプレス」の乗り場が・・・あると言うのでやって来たのですが停留所とか・・・全くその形跡がありません対岸の階段を上るのでしょうか?それは、無いですよね誰かに聞いてみたいですが・・・人間に出会いません世界遺産の1番の見どころなのに観光客で「ペトリュス渓谷」に降りてくる人は・・・皆無であります。いや〜こんなに気持ちが良いのに石橋が見えて来ましたここが「ペトリュス川」です。崖を下りやっとペトリュス川に地図で見ると太いですが・・・チョロチョロなのね石橋には1番(標識)→ずっと1番の標識に従って歩いて来ましたがこのスペースは、重要な見学ポイント説明があります〜読んでも分かりませんが自然の断層を利用して要塞を築いたのでしょうか?アドルフ橋の辺りは・・・要塞が最初に築かれた場所でありますので【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群その「要塞群」の発祥の地かと?ごめんなさい推測で進めておりますが、おそらく最初の要塞群は・・・自然の断層を利用して・・・くり抜いて作られたと鉄の扉は、中の遺跡を保存する為に取り付けたものかと勝手に推測しておりますがまぁ〜このペイントはちょっとがっかり!余りにも人通りが無いので仕方ないのでしょうかねこちらは・・・新しい時代のものですね。第一次世界大戦の頃の要塞?第二次世界大戦の頃のもの?ちょっと〜何も分かりませんがルクセンブルク分からないことが多いです〜ここまで来る日本人は・・・滅多におりませんので知りたいことは、いっぱいなのですがどなたか教えて下さい。・・・つづく・・・渓谷の底の遺跡にぽち
2019.11.18
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ルクセンブルクを友人のミーちゃんと2人で渓谷散歩をしたのは2019年4月13日(土)の事♫新緑は、私たちに歩くパワーを与えてくれました。きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第16回「アドルフ橋」に近くなりましたここは・・・おそらく渓谷に降りて1番の写真スポット新市街の「ルクセンブルク国立貯蓄銀行」の建物は・・・ぐっと近くに見えますが・・・真下なので〜隠れてしまいました。ここは、大昔の砦であります。地図で見るとアドルフ橋の右下です。200m『憲法広場』から近く見えますが登り、下り、うねうねと渓谷へ降りて、かなり歩きます。国立銀行→アドルフ橋=近いでしょ私たちは、ここまでかなりトントンと下って来たのですがここで若いカップルがニコニコしながら私たちを見ていました。「ここに立って下さい〜写真を写しますよ!」あ・あ・・ありがとう〜と2枚のツーショットを撮影してくれました。お互いに外国人観光客。カップルは、インドから来たのだとか私たちは、日本・東京です。と言うとあ〜遠いですね!そうか〜インドは、日本より随分と近いのです。私たちも写真を写してあげましょうか?いらないみたいです。あらら〜ただのお邪魔虫だったみたいです。急いで撮影場所を空けた・・・私たち。早速、彼女を砦の端に立たせて撮影していました。急いで階段を降りて来たら・・・写した写真を仲良く確認しています。それにしても「ペトリュス渓谷」深いです!!←1番(標識)発見!!まだまだペトリュス川のせせらぎに出会えません渓谷散歩は、・・・つづく・・・世界遺産にぽち押してネ
2019.11.17
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ベルギー王国からルクセンブルク大公国へ旅したのは、2019年4月13日(土)列車で友人のミーちゃんと渓谷の遊歩道をお散歩しております♪きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第15回ペトリュス渓谷からアドルフ橋を眺める!『憲法広場』から「ペトリュス渓谷」へ下りて来ました静かですね~誰もおりません!!気持が良いですね~私たちは、ペトリュス渓谷に降りて「ペトリュス・エクスプレス」の乗り場を探しております高い高い要塞です1番(標識)⇒発見!!やはり1番のルートで行けば・・・乗り場に行けるみたいですああ~我家にもあります。春のお花ですね【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群高い要塞の前には、緑がいっぱいです。E14APRILE14APRIL 14世紀でしょうか?4月ですね~ちちちょっと~待って下さいよ!!これは、めっちゃ~古いですよ!ルクセンブルク大公ギョーム1世より古い時代です。いやいや~ここは、文字さえ見えませんがっここは、旧市街より古い古い時代の下の町なのです。ここは・・・ペトリュス川に面した砦が最初に置かれた場所アドルフ橋から憲法広場の下ペトリュス渓谷の下から眺めています←1番(標識)左へGelle Fra(ゲレ・フラ)黄金の女神⇒右へPlace de La Constitution 「憲法広場」憲法広場へ行く道案内です⇒私たちは、憲法広場から来たので←1番(標識)の方向へ進みます「アドルフ橋」が低く見えるようになってきましたこう言ったら何ですが~砦の上から眺めるのも良いですが・・・ペトリュス渓谷の底から砦を見上げる方が気持ちが良い!それにしても・・・誰も通りません!!ペトリュス渓谷の遊歩道は、最高です!!『憲法広場』からの絶景は、最高かも知れませんが・・・渓谷へ下りて砦を見上げるって全く違います!!私たちは、春の訪問新緑が鮮やかでした。四季折々に景色が異なるのでしょうね?夏は、ひんやり涼しく秋は、紅葉冬は、雪渓いつ訪れても楽しいと思われます。ペトリュス渓谷散歩は、・・・つづく・・・ルクセンブルクにぽち
2019.11.16
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ルクセンブルク大公国唯一のユネスコ【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を訪問したのは2019年4月13日(土)友人のミーちゃんとの気ままな2人旅きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第14回さぁ〜てこの長い階段は・・・深い深い「ペトリュス渓谷」へ降りる階段です。旧市街の「憲法広場」から降りて来ました実は・・・私たちは、谷底の街を自力で歩き通そうとの考えは、全くありませんでしたちょっとズルをして「ペトリュス・エクスプレス」という小さな汽車ポッポ型の(観光バス)に乗ってぐる〜っとペトリュス渓谷を楽して見物しようと計画していたからです。ところが〜ズルイ計画には・・・罰が地図では『憲法広場』にあるはずの乗り場がありませんでした『憲法広場』の売店のおばちゃんに聞いたら「あ〜階段を降りてアドルフ橋の下に乗り場があるわよ!」との説明で仕方なくペトリュス渓谷に降りて来た訳でペトリュス渓谷の道あらら〜綺麗です〜これって八重桜かしら?ルクセンブルクに八重桜ありえないと思うのですが〜季節的には・・・4月13日八重桜の時期と言っても良いと思いますがベンチもありますが〜人物は、全く降りません!静かな静かなペトリユス渓谷散歩であります〜♫標識発見1→そうそう『憲法広場』の1番→から降りて来たのでこれが正しいコースだと思われます。(多分、私たちはそう感じたのです)しかし、このコースが「ペトリュス・エキスプレス」の乗り場に行く道か?それは、分からないのですが・・・乗り場がある「アドルフ橋」の方向なのでとりあえずあら〜っ「ペトリュス渓谷」は、もっと下青い→発見!!いや〜下りは、まだ これからですよ外国で日本みたいな「苔」発見です!!緑が深い深い谷底に降りて来たからでしょう〜湿気が多いからかもですね?嘘でしょ?まだまだ下らないと・・・「ペトリュス渓谷」には、到着しないみたいです転がらないように気をつけて一歩一歩いや〜ナイキのトレッキング・シューズを履いて来たのは偶然ではありますが歩きやすい、降りやすいはぁ〜随分と降って来ましたよ!新市街の建物が・・・かなりの高さに小さく見えるようになりました。あらら〜深い森に迷い込んだみたいちょっと〜気持ちが良いのですがもしかして、楽しくなって来たのですが全く辛くないし〜これってパワースポットだからまたまた青い→発見!!右へ行けと標識が示しております。いやいや〜家にある観葉植物と同じですがこれも【世界遺産】の要塞の一部の岩で重なりあってます。オヤ〜ツこの要塞の上は『憲法広場』の展望台です下から見たら・・・こんな感じなのですねもしかして上から見るとちっさい東洋人が短い足で歩いているよと笑っているかもね道は、さらにペトリュス渓谷に降っているように見えます。ペトリュス渓谷散歩楽しくなって来ました・・・つづく・・・(追伸)渓谷散歩をお勧め致します世界遺産散歩にぽち
2019.11.15
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ルクセンブルク大公国で一番の絶景を楽しんでおります♪2019年4月13日(金)午後2時20分頃ミーちゃんときらり。わがままな旅を続けておりますきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第13回City of Luxembourg:its Old Quarters and Fortlfications【世界遺産】ルクセンブルクの旧市街と要塞群中世の街並みと緑豊かな渓谷に要塞群憲法広場からの眺望は、ルクセンブルク一番対岸の街は、新市街でありますこちらは、旧市街の「憲法広場」からの眺めで緑深く深くえぐられたペトリュス渓谷が間にありその先には、グルンドと呼ばれる下の街があります。旧市街は、楽に歩けますが・・・この深い渓谷へ自力で降りるのは辛いでも渓谷の下から要塞群を眺めてみたい下の街の道路には「ペトリュス・エクスプレス」小さな汽車ポッポが走っているはず・・・一度も通りませんね憲法広場中間のお花畑が綺麗です渓谷は、もう一段下まで降りないと・・・汽車ポッポの乗り場がこの辺りにあるはず・・・誰かに・・・聞いてみますか?地図をホテルに忘れた私きらりの記憶ですが・・・シティ・ツアー「ペトリュス・エクスプレス」 乗り場ここが乗り場のはずああ〜これかないや〜これは、バス・ツアーですよね売店のおばさんに聞いてみました。「ペトリュス・エキスプレスは、階段を降りてアドルフ橋の下よ」エ〜ッここから出るんじゃないの全く違うでしょもう〜ルクセンブルクの情報は、少なくて間違いが多いですよ売店のおばちゃんが指差す方の階段に行きました。ああ・・・やはりこの階段を降りないといけないみたいです。「ノートルダム大聖堂」が見える「憲法広場」の端っこです。はぁ〜それでも階段を降りてアドルフ橋まで行けば後は、楽々の小さな汽車ポッポですから頑張って1番→から渓谷へ降りて行きましょう気持ちの良い新緑の季節渓谷の下は、パワースポットに違いありません・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.14
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ルクセンブルク大公国で一番の絶景を楽しんでおります♪2019年4月13日(金)午後2時20分頃ミーちゃんときらり。わがままな旅を続けておりますきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第13回City of Luxembourg:its Old Quarters and Fortlfications【世界遺産】ルクセンブルクの旧市街と要塞群中世の街並みと緑豊かな渓谷に要塞群憲法広場からの眺望は、ルクセンブルク一番対岸の街は、新市街でありますこちらは、旧市街の「憲法広場」からの眺めで緑深く深くえぐられたペトリュス渓谷が間にありその先には、グルンドと呼ばれる下の街があります。旧市街は、楽に歩けますが・・・この深い渓谷へ自力で降りるのは辛いでも渓谷の下から要塞群を眺めてみたい下の街の道路には「ペトリュス・エクスプレス」小さな汽車ポッポが走っているはず・・・一度も通りませんね憲法広場中間のお花畑が綺麗です渓谷は、もう一段下まで降りないと・・・汽車ポッポの乗り場がこの辺りにあるはず・・・誰かに・・・聞いてみますか?地図をホテルに忘れた私きらりの記憶ですが・・・シティ・ツアー「ペトリュス・エクスプレス」 乗り場ここが乗り場のはずああ〜これかないや〜これは、バス・ツアーですよね売店のおばさんに聞いてみました。「ペトリュス・エキスプレスは、階段を降りてアドルフ橋の下よ」エ〜ッここから出るんじゃないの全く違うでしょもう〜ルクセンブルクの情報は、少なくて間違いが多いですよ売店のおばちゃんが指差す方の階段に行きました。ああ・・・やはりこの階段を降りないといけないみたいです。「ノートルダム大聖堂」が見える「憲法広場」の端っこです。はぁ〜それでも階段を降りてアドルフ橋まで行けば後は、楽々の小さな汽車ポッポですから頑張って1番→から渓谷へ降りて行きましょう気持ちの良い新緑の季節渓谷の下は、パワースポットに違いありません・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.14
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ルクセンブルク大公国を訪れると必ずここに観光バスが停まると思われます。2019年4月13日(土)友人のミーちゃんとブリュッセルから列車でまいりましたきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第12回Place de la Consitution憲法広場(ルクセンブルク)ベルギーのブリュッセルから列車で3時間半で隣国ルクセンブルク中央駅に到着しました。私たちは、旧市街までバスでやって来て【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群旧市街から先にまわって「憲法広場」に到着しました。観光バスが、いっぱいとまれるスペースがある広場です。ルクセンブルク一の絶景ポイント!世界遺産『ルクセンブルク市の旧市街と要塞群』の要塞群この要塞の上に「憲法広場」があります。ここから眺めるアーチ橋「アドルフ橋」も映えポイント「憲法広場」の中央には・・・「金の女神像」が輪を掲げております。色々な国でこんなグッズを買う動向のミーちゃんは「黄金の女神像」をここの売店で小さいのを買いました売店のおばちゃんは・・・公式「ゲレ・フラ」だと言っております!GELLEERA「ゲレ・フラ」LUXEMBOURG40mの高いオベリスクの上で光って見えにくいですが・・・お土産の「黄金の女神像」は、月桂樹の冠を掲げドレスもかなり忠実です。ゲレ・フラの下は・・・「戦没者慰霊碑」ルクセンブルク国旗が左右にたなびいております。第一位世界大戦の戦没者慰霊碑でありましたが第二次世界大戦中ナチの犠牲者の慰霊を1985年に加え2つの戦争犠牲者のために再建されました。黄金の女神像は、月桂樹の冠を掲げています・・・つづく・・・ゲレ・フラにぽち
2019.11.13
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美しいアーチ橋が見えて来ました〜ルクセンブルクのシンボル的な「アドルフ橋」です♫2019年4月13日(金)午後1時過ぎ頃ミーちゃんとの気ままな2人旅です。いよいよ美しい渓谷とアーチ橋が見えて来ましたきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第11回Adolphe Bridgeアドルフ橋アドルフ橋・・・とは?Adolphe Bridgeルクセンブルク公国・ルクセンブルク市のアーチ橋である。この橋はペトリュス川(The Petrusse)を超える道路交通を担いヴィル・オート(Ville Haute)のロワイヤル通り(Boulevard Royal)とガール(Gare)のリベルテ通り(Avenue de la LIverte)自由通りを接続している。この橋は・・・この時期の水量が少なく要塞の上からは見えませんが幅は、172mアドルフ橋は、4車線の道路があり、ガールに向かう3車線とヴィル・オートに向かう車線があり左右に歩行者用の歩道がありました。橋のデザインは・・・フランス人「ポール・セジョルネ」Paul Sejourneとルクセンブルク人「アベール・ロダンジ」Albert Rodangeによりデザインされ1900年〜1903年、建設。ルクセンブルク大公国の首都ルクセンブルク市で旧市街と新市街を結ぶ石造りのアーチ橋で緑の美しさが印象的なペトリウス渓谷に架かっていてルクセンブルクで人気の観光スポットであります。渓谷の底には、古い時代の遺跡が・・・この橋は・・・大公アドルフにちなんで名付けられました。アドルフ・・・とは?Grand Duke Adphe1817年7月24日~1905年11月17日(88歳没)Adolph Wilhelm August Karl Friedrichアドルフ・ヴィルヘルム・アウグスト・カール・フリードリッヒ在位:1839年8月20日-1866年9月20日(ナッサウ公)1890年11月23日-1905年11月17日(ルクセンブルク大公)アドルフは・・・ナッサウ公(在位:1839年-1866年)のちルクセンブルク大公(在位:1890年-1905年)ナッサウ公ヴィルヘルムの長男。異母妹は、スェーデン王オスカル2世の妃ゾフィア。ナッサウ公時代は・・・1839年、父の死によりナッサウ公を継承。1844年1月、ロシア皇帝バーヴェル1世の末子ミハイル大公の娘エリザヴェータ・ミハイロヴナ(エリーザベト)と結婚。1845年、エリーザベトは女児を死産し死去。1851年、アンハルト・デッサウ公子フルードリッヒ・アウグストの娘アーデルハイトと2度目の結婚。5人の子を得たが、うち3人は早生した。ヴィルヘルム(ギョーム)1852年-1912年→ルクセンブルク大公フリードリヒ 1854年-1855年マリー 1857年フランツ 1859年-1875年ヒルダ 1864年-1952年→バーデン大公フリードリヒ2世と結婚ルクセンブルクの大公は・・・ギョーム1世 1815年-1840年 ギョーム2世 1840年-1849年 ギョーム3世 1849年-1890年 アドルフ 1890年-1906年 ギョーム4世 1906年-1912年 マリー・アデライード 1912年-1919年 シャルロット 1919年-1964年 ジャン 1964年-2000年 アンリ 2000年-現在街を歩いている間に登場して来て段々と歴史も分かって来ましたよ・・・つづく・・・アドルフ公にぽち
2019.11.12
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【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を歩いたのは、2019年4月13日(土)旧市街と緑深い渓谷美を楽しむ旅であります友人と2人で訪問。きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第10回ルクセンブルク「ノートルダム大聖堂」ノートルダム大聖堂の美しいステンドグラスに魅了されてルーズヴェルト通りを渡ると古い古い石垣は・・・【世界遺産】の要塞群の一部であります「憲法広場」と「ノートルダム大聖堂」の間です。ここから「ペトリュス渓谷」に降りる階段があります1番→マークです。渓谷は深くどこまでも・・・長い長い階段です。いゃ〜ここを下るってありえませんペトリウス渓谷は、想像を絶する深さであります要塞の上から眺めてみましょう〜おやっ深すぎて・・・渓谷の深さが分かりません春4月13日そろそろ新緑が・・・ペトリュス川が見えないですね〜向こう岸には・・・お城のような建築が緑が深く向こう岸の建物にズームうわぁ「国立貯蓄銀行」さらにズーム1時22分です立派です〜【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群要塞群と緑深い渓谷です渓谷の底には、道があります。そうです〜渓谷の下にも道があり古い町があるのであります。めっちゃ〜古い時代の町渓谷の底にある町にも行くのですがどうしても「楽」して行って帰ってきたい私=きらり。渓谷を楽々で周遊する「ミニトレイン」があるのですPetrusse Express「ペトリュス・エクスプレス」小さな汽車ポッポですでも上から眺めても・・・汽車ポッポが見当たりません・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.11
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ルクセンブルク大公国【世界遺産】ルクセンブルク旧市街その古い町並みと要塞群の遺構。その中の「ノートルダム大聖堂」を訪問したのは、2019年4月13日(土)ミーちゃんとの気ままな2人旅♫いよいよ世界遺産登録された「ノートルダム大聖堂」の中へきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第9回ルクセンブルク「ノートルダム大聖堂」に入ると・・・蝋燭がいっぱい灯されています〜さすが〜お金持ちのお国らしく金ピカです SANCTE JOSEPHノートルダム大聖堂は・・・1613年〜1621年イエズス会の修道士ジャン・ドゥ・ブロークによって設計されました。ルネサンス様式・バロック様式・イスバノモレスク様式など複数の様式が併存する珍しい大聖堂ですが・・・何と言ってもこの大聖堂内部の素晴らしさは・・・美しいステンドグラス!!長く天の神様に届くようなデザインですどうです〜美しいでしょステンドグラスの中央に十字架のイエス正面には・・・赤い衣の「聖母子像」ステンドグラスと共に美しいです〜赤い衣装は、珍しいと思いますルクセンブルク「ノートルダム大聖堂」は、やはりステンドグラスのゴージャスさですね〜高窓からの光が明るいです。座席もめっちゃ〜多く上品な壁画と・・・タペストリーは、ルクセンブルクの景色でしょうか?イギリスのターナーがルクセンブルクに何度か訪れ景観を描いたと聞きましたが・・・時代的にターナーのデザインでは無いと推測されます。後部の・・・パイプオルガンも立派でした。ステンドグラスの色彩が美しいルクセンブルクは・・・小さな国ですが、中世では・・・ルクセンブルク家から神聖ローマ帝国の皇帝を4人も輩出しました。その中には・・・カール4世(Karl IV)1316年5月14日-1378年11月29日ルクセンブルク家第2代皇帝文人皇帝として知られ、しばしば最初の「近代的君主」と称される。ボヘミア王も兼ねルクセンブルク家を公爵家に昇格させた。ちょっと話が外れましたが・・・ノートルダム大聖堂立派です〜確か?ローマ法王さまでしょうか?反対側の入り口の近くです。ステンドグラスが素敵です最後に主祭壇にもう一度上部に主なる神を掲げ・・・十字架のイエス左に聖母マリア。右はマグラダのマリア?もともと文字の読めない人の為に作られたステンドグラスイエスの生涯を記してありますが〜ここは、長いストーリーみたいです見事ですね最後にノートルダム大聖堂の守護聖人「マリア様」にお参りしていよいよ緑豊かな要塞へ・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.10
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ルクセンブルク旧市街で一際、空に突き刺さる屋根の大聖堂を目がけて歩いて来ました♫ミーちゃんとの気ままな2人旅は、2019年4月13日(土)きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第8回Kathedral Notre-Dameノートルダム大聖堂入り口は・・・左側へKADDISCH大きな観光バスも来ていますね!ノートルダム大聖堂の前は広くなっていてバス停留所もあります。ノートルダム大聖堂には、2箇所の入り口があります。こちらは「憲法広場」側の入り口ですルクセンブルク語:Kathedral Notre-Dameフランス語:Cathedrale Notre-Dame白い聖母マリア母子像が祀られております。ルネサンス様式にバロック様式イスパノ・モレスク様式などの複数の建築様式が混じり合う目面しい大聖堂です。1613年〜1621年、イエズス会修道士である「ジャン・ドゥ・ブローク」によって設計。1935年〜1938年、増築工事。【世界遺産】ルクセンブルク市街その古い町並みと要塞群の遺構に含まれています。それでは・・・美しい大聖堂に天使の扉をうわ〜右手で扉を開ける人が多いから右手だけがピカピカです・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.09
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ルクセンブルク【世界遺産】の街を友人のミーちゃんと歩いたのは、2019年4月13日(土)の午後のこと。ギョーム2世広場からノートルダム大聖堂へ向かって歩いております。きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第7回City of Luxembourg:its Old Quarters and Fortifications【世界遺産】ルクセンブルクの旧市街と要塞群旧市街と要塞の緑に囲まれた世界遺産を楽しんでおります旧市街の地図ブリュッセルから電車→ルクセンブルク中央駅→バスで旧市街に到着→ダルム広場で骨董市→ギョーム2世広場で土曜日朝の花市場に遭遇ノートルダム大聖堂へ向かっておりますRUE DE LA CONGREGATION joffergassel 1・32MINISTERE DES FINANCES IN SPECTION GENERALE DES FINANCESノートルダム大聖堂のトンガリ屋根が見えて来ましたおゃ〜小さな子どもが台座に乗って楽しそうにしています右手を挙げた銅像は・・・国民に広く愛された女大公「シャルロット女大公の銅像」シャルロット・・・とは?ルクセンブルク女大公Charlotte Aldegonde Elise Marie Wilhelmineシャルロット・アルデゴンド・エリザベート・マリー・ウィユエルミーヌ1919年1月14日-1964年11月12日(89歳没)子どもたちからママまで大好きな大公みたいですシャルロットは・・・ルクセンブルク大公ギヨーム4世の次女。1919年、共和制を望む左翼の暴動のため退位した姉マリー・アデライドに代わり即位した。同年、バルマ公ロベルト1世の子で互いに母方の従兄妹であるフェリックス公子(オーストリア皇后ツィタの弟)と結婚。2男4女をもうけた。1940年、ルクセンブルクがドイツに占領されるとポルトガルを経てカナダに亡命1945年、帰国。長男のジャンに大公位を譲って退位した。シャルロットは・・・家名をルクセンブルク(リュクサンブール)家と改称したがナッサウ=ヴァイブルク家の名称は、現在でも用いられる。(ウィキペディア様より)RUE DE LA CONGREGATION joffergassel 中世の町並みを楽しみながら覗いてみますが〜真っ暗で中世は見えませんさぁ〜ここを進むと「ノートルダム大聖堂」です。・・・つづく・・・シャルロットにぽち
2019.11.07
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ルクセンブルク大公国【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群を訪問したのは、2019年4月13日(土)ミーちゃんとの2人旅でありますそもそもLUXEMBOURG「ルクセンブルク」の語源って知ってましたかきらりの『ルクセンブルク 旅日記』・・・第6回ルクセンブルク旧市街の中心「ギョーム広場」まで歩いて来ました【世界遺産】ギョーム2世広場丁度「土曜日朝の花市場」でしたラッキー広場の中央には「ギョーム2世の騎馬像」が立っておりますルクセンブルク大公「ギョーム2世」は、オランダ王=ウィレム2世19世紀初頭のルクセンブルク大公国は・・・主権国家とは名ばかりでオランダやベルギーに併合されておりオランダ王がルクセンブルク大公を兼ねていた。ギョーム2世・・・とは?オランダ王「ウィレム2世」Wilem IIウィレム・フレデリック・レオルヘ・ローデウェイク・ファン・オラニエ=ナッサウオランダ語=Willem Frederijk George Lodewijk van Oranje-Nassau1792年12月6日-1849年3月17日(56歳没)第2代オランダ国王(在位:1840年10月7日-1849年3月17日)ルクセンブルク大公(ギョーム2世)Guillaume II初代オランダ王ウィレム1世の息子。配偶者(王妃)=ロシア皇帝パーヴェル1世の娘「アンナ・パヴロヴナ」ギョーム2世は・・・1792年、オランダ・ハーグにてネーデルラント連邦共和国の総督ウィレム5世の孫として生まれる。その後、フランスの侵攻で一家揃ってイギリスに亡命。その後、イギリス軍に加わり初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーと共に半島戦争を戦った。1813年、父のウィレム1世が即位すると故国に戻った。ナポレオンが・・・エルバ島を脱出するとイギリス軍に加わり第1軍団を指揮しカトル・ブラの戦い、ワーレルローの戦いに参戦し負傷している。オランダが新たに王国となり父ウィレム1世が国王に即位するとオラニエ公となった。1840年、父の譲位により即位した。1848年、自由主義派の要求する王権を制限する憲法改正を認め1849年3月17日(56歳没)にて逝去した。ギョーム2世騎馬像の周りは・・・お花でいっぱい春の訪問は・・・良いです薔薇は・・・5,95ユーロ(約714円)ルクセンブルクの面積は、2,586平方メートルチューリップは・・・12,50ユーロ(約1500円)ルクセンブルクの物価は、ヨーロッパの中でも高めであります。2019年1月1日の人口は、613,894人【旧市街の地図】ギョーム広場からは・・・2本の先頭が聳える「ノートルダム大聖堂」が見えます。ルクセンブルクの語源・・・とは?ルクセンブルクは小国でありますが・・・その歴史は、一千年以上に遡り大国並みの古い歴史を誇っておりアルデンヌ地方(ルクセンブルク北部)の伯爵が963年、今日の首都の地に小さな城壁を築いた事に始まった。その砦は・・・リユシリンブルフクLucilinburhuc(小さな城)と呼ばれこれが後のルクセンブルクLuxembourgの語源になったそうでありますさぁ〜この小さな歴史ある国の中心を散策してまいりましょう・・・つづく・・・ルクセンブルクにぽち
2019.11.06
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ルクセンブルク国民は、何を食べているのでしょうか?興味深い土曜日の市が開かれていたので興味深く覗いてみました〜2019年4月13日(土)昼ごろですミーちゃんとの気ままな2人旅。きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第5回ダルム広場→ギヨーム広場へ市場には、冷蔵庫が付いた露天のお店がルクセンブルク人が食べるハム・・・とは?あららっ〜かなりヘビーですオランダともベルギーとも少し違います。ドイツにも近いのですが・・・チーズもありました種類が豊富ですね〜量り売りみたいです。私たち日本人は、国内消費のみで買えますが日本に持ち帰ることは、できません!皆さんエコバックを持参しております。「ダルム広場」と「ギョーム2世広場」の境目がはっきりしません〜ギョーム広場を中心に広がる半径5〜600m余りの中に大公宮殿・大聖堂・首相官邸・各省庁がありそこを取り巻く環状道路には・・・銀行が立ち並んでおります。政治も経済も全てがこの岸壁の上の地域に集中し市民は、ここで生活の全てが都合よく暮らしています。果物屋さんから八百屋さんがありそろそろ「ギョーム広場」に入って来ました「ギョーム広場」の花市へこのお店には、ハーブ類が多いですね〜ジャガイモの種芋も・・・ミントの苗ですスペアミントは、爆発的に増えますよね〜海のないルクセンブルクお肉料理が多い国なのでハーブは、人気があるのでしょう〜お豆の苗も・・・ここまでは、野菜苗のコーナーですねそれでは、花の朝市へ進みましょう・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.11.05
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ルクセンブルク大公国への旅は、2019年4月13日(土)友人ミーちゃんとの2人旅でありました♫旧市内では、骨董市や花市場が私たちを迎えてくれたました楽しい世界遺産の街歩きに出発ですきらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第4回【世界遺産】ルクセンブルク旧市街の中心部ダルム広場には・・・骨董市?陶器かしら? Place d'Armes市庁舎と記されています市庁舎では、パスポートにハンコが押してもらえるはずヨーロッパ内では、入国の際にパスポートは、不要となりそれでも特別にハンコを押してくれるのだとか・・・どこでしょうねアーケードのような感じですが〜入り口がわかりませんね〜通り抜けてみましょう〜トイレ発見!!街歩きをする時に一番困るのは・・・トイレここのトイレで無料ですこの扉から入り階段を降りて行くとトイレがあります。正面の地図KAEMOFF-KOHLERイースターのウサギが並ぶお店は・・・サンドイッチ屋さんケンプ・コーラーベルギーだと直ぐにチョコレート屋さんやワッフル屋さんがあるのですが・・・近いのにルクセンブルク大公国に来ると随分と違いますね。ロールサンドイッチとケーキ屋さんお惣菜もあるビストロです。カラフル〜ですねおやっTATTOO和風に彫って下さるの?サクX・・・とは誰?日本人からすると微妙。それでは、旧市街のお店をさらに散策しながら・・・つづく・・・ルクセンブルク にぽち
2019.11.04
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【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群に到着致しました〜2019年4月13日(土)昼頃。ミーちゃんとの2人旅♫きらり=61カ国目の訪問国「ルクセンブルク大公国」・・・とは?きらりの『ルクセンブルク旅日記』・・・第3回City of Luxembourg:its Old Quarters and FortificationsGrand'Rue 通り【世界遺産】ルクセンブルク市の旧市街と要塞群・・・とは?岩山につくられた堅固な天然の要塞やゴシックとルネサンス様式の大聖堂イスラム様式の影響を受けた大公宮など旧市街の歴史的な建造物が登録されている。ルクセンブルク・・・とは?Luxembourgルクセンブルク大公国Grousserzogtum Letzebuerg首都:ルクセンブルク国旗は、赤・白・青の3色13世紀の大公の紋章に描かれている青い縞模様のある銀の台の上のライオンに由来する。赤は・・・ライオン白と青は・・・銀の台を表す。ルクセンブルクは・・・神奈川県より少し大きい国土であるが国民一人当たりのGDPが世界一の豊かな国1位=ルクセンブルク115,53621usドル26位=日本39,30396usドル首都ルクセンブルク市は、深くえぐられたペトリュス渓谷の上部にある旧市街とグルンドと呼ばれる下の街とで構成されている。旧市街には、城壁が巡らされ街全体がひとつの巨大な要塞を形作っている。ルクセンブルクは・・・ベルギー・フランス・ドイツに囲まれた小さな国。日本との時差は、ー8時間(サマータイムー7時間)言語:ドイツ語に似たルクセンブルク語が母国語である。通過:ユーロ電圧:220V 50Hz プラグ:Cタイプ SEタイプ付加価値税:TVAと呼ばれ 17%還付=(同じ店で)74ユーロ以上買う場合タバコ:16歳からそれでは、旧市街へお散歩おゃ〜骨董市みたいです水曜日と土曜日の午前中には・・・市場が並ぶのだとか〜ラッキーお宝探し私たちは、バスターミナル付近で下車しGrand'Rue 通りを進み『ダルム広場』Place d'Armes旧市街の中心までやって来ました一品ずつ。まぁ〜揃った物も統一性もありません〜目利きで好きな方には・・・バスターミナルを降りて「ダルム広場」へ旧市街の中心から・・・ギョーム広場の方向へ進みましょう古本屋さんのお店も人気です。・・・つづく・・・世界遺産にぽちお願いネ
2019.11.03
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ベルギー・ブリュッセルの街歩きは、ウィンドウを覗き込んでなかなか目的の「小便小僧」君の所へたどり着きませんミーちゃんと気ままな2人旅2019年4月12日(金)夕方きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第187回Rue de I7Etuve「エテューブ通り」ベルギー・タペストリーのお店です美術館マニアにを釘付けにするウィンドウです。ピカソのギターが・・・ベルギーは、織物産業特にタペストリー製作で発展した国であります。国内だけでなくヨーロッパの各地に輸出しておりそれは、現在スペイン王室で展示されている作品もほとんどがベルギーのタペストリーであります。ウィンドウは、季節的にもお花が多いですね〜ピカソのタペストリーです。世界で一番、作品が多いピカソですからクッションの種類も多くなってちょっと〜パロディーでもありますが可愛いですね〜更にベルギー・レースのお店が多いです。カール5世により修道院などで女性の仕事として緻密なレースが製作された文化的な遺産であります。エチューブ通りのゆるい坂を下って行くとベルギーの名産名物が体験できるのであります。DANDOYショコラティエの名店「ダンドア」真剣にアイスクリームを選ぶ子たち全部、食べたいけど〜なかなか選べません坂の途中のレース屋さん私は、ここで帰りに買いましたああ〜これこれアニメの街ブリュッセルの名所ホテル・アミーゴ☆☆☆☆☆16世紀〜19世紀まで監獄として使われていた場所。フランデレン語で、監獄の意味を持つ・・・vrunteと言う言葉がvriendt・・・友達の意味を持つ発音が似ているスペイン語の「アミーゴ」と誤訳され呼ばれるようになった。1873年、フランスの詩人ヴェルレーヌが詩人ランボーに発砲しかつてここにあった監獄に投獄された事で有名になりましたが今では、TINTINタンタンの壁画アニメの街ブリュッセルでは・・・有名な漫画家による壁画に時々、遭遇します。このTINTINの壁画は、ホテル・アミーゴの壁面です。ホテルの階段を降りて来るのは・・・主人公タンタンと踊り場から顔を出す愛犬スノーウィその下には、ハドック船長も描かれています。場所は【世界遺産】グラン・プラスの南面からエテューブ通りを下り「小便小僧」に行く間にあります。間も無く「小便小僧」・・・つづく・・・ブリュッセルにぽち
2019.10.26
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グラン・プラス近くのレストラン「シェ・レオン」でバケツ1杯のムール貝と小エビのコロッケを食べて満腹の私たち2人の旅は、腹ごなしにグラン・プラスへ戻りあちこちお店を見て歩きます2019年4月12日(金)午後5時頃きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第181回ベルギーの首都ブリュッセルにてグラン・プラス周辺をお散歩うわ〜パエリアのお店貝のディスプレー美味しそうな貝が並んでおります〜エスカルゴも小道の街灯がアール・ヌーヴォーです〜ベルギー・ブリュッセルは、アートの街小道の壁にも・・・アート3人のおばあちゃまにちょっと〜いたずら書きは・・・あかんがなっ。猫にのってホウキを持って戦っているのは牛のようなゴミ私たちは、ディナーを早めに食べたのでまだ外は、明るいです。テラス席は、まだ早いようです。私たちは、街をプラプラ何を買うでもなく中世のお屋敷やギルドハウス をリフォームしてお洒落なショップが〜いっぱいあああ〜っあった足元に石畳の道路上に【世界遺産】マーク発見この道の先からユネスコの【世界文化遺産】ブリュッセルのグラン・プラスという印La Grand-place,Brussels 世界文化遺産1998年登録美しい「市庁舎」が見えます〜ブラバン公の館南側のギルドハウス 市庁舎『グラン・プラス』広場の広さは・・・約110m×70mギルドハウスに囲まれた“世界一美しい広場”であります西側のギルドハウス 1階は、スターバックス「パン職人のギルドハウス 」の呼名の標章は、スペイン王現在は・・・カフェ「ビエルケルダ」レストラン「ル・ロワ・デスパーニュ」出入口上には・・・パン屋の守護神サン・オーベル司教の金の胸像が見えます。ここには、代表的なギルドハウス の説明が内容は左から(西側3番目)獣脂組合のギルドハウス =呼名「手押し車」(西側1番目)パン屋のギルドハウス =呼名「スペイン王」(北側左)果物商・個人住宅=呼名「兜」(北側右)ヴィクトル・ユーゴが亡命し執筆活動をしたギルドハウス =呼名「鳩」(北側右)個人住宅=呼名「牝鹿」ゴディバの本店(南側左中央)醸造業者のギルドハウス =呼名「黄金の木」ビール博物館(南側左一番右)アーケード=呼名「星」セルクラースの像が横たわっています。昔は、番地が無かったので・・・呼名で呼ばれました。日本でも、昔は「屋号」と言うものがありましたが同じです。もう一枚は・・・(左から)市庁舎 Gat Street市庁舎の右に描かれているのは・・・(西側右から5番目)船乗り組合のギルドハウス =呼名「角笛」(西側右から4番目)弓矢の射手のギルドハウス =呼名「雌狼」(西側右から3番目)建具屋と桶屋のギルドハウス =呼名「袋」その西側の横道Rue au Beurre この道には、ショコラティエ「チョコレート屋」さんが多く並びます日本未上陸のショコラティエも・・・?ELiSABETHイースターのディスプレーが素敵ですChocolatie Belge GOURMETLeonidasきらりの好きなレオニダス人気です2013年に王室御用達になりました1900年初頭にギリシアの菓子職人レオニダスが創業。高品質で価格が抑え目であることから普段用のチョコレートとしてベルギーでも大人気。BRUYERREBS40BS40(ダルシー)Darcis若くして数々の受賞歴があるジャン・フィリップ・ダルシー。斬新なフレーバーとクリーミーなガナッシュとの組み合わせ極薄のチョコレートが特徴。ブリュッセルではBS40で購入できます。CORNE PORT-ROYALそろそろ広場に戻ります〜グラン・プラスの南側お買い物を済ませた観光客が増えてます。北側「王の家」の右には・・・GODIVA(本店)観光客でいつも賑わっているゴディバ第1号店1926年にブリュッセルで創業したショコラトリー。日本をはじめ世界中に店舗を持ちその知名度は、群を抜いている。BRUYERRE角のお店イースターのディスプレー(北東部)ここの右の道 Rue de la Collin へ入ると・・・2つ目のユネスコの【世界遺産】マーク発見!!ここまでが世界遺産のエリアなのでしょうエリアを出ると・・・アメリカのチョコレート屋さんがM&Mさぁ〜この道を進むと「世界最古のアーケード」到着ですウキウキ・・・つづく・・・世界遺産マークにぽちネ
2019.10.21
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ヴィクトル・ユーゴは、妻への手紙で「ブリュッセルは、私を感動させる。市庁舎は、一つの宝石だ。それを取り囲む広場は、まさに真の奇跡といえよう」と書き送った。ここは、ユーゴの最初の亡命先でありますきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第179回【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラス2019年4月12日(金)友人ミーちゃんと2人で訪問。きらりの【手書き地図】王の家を挟んで(北側・左)『王の家』の左に6軒この6軒の家は・・・広場の中でもファサードの手摺りの装飾に特徴があります北側(右)1軒目呼び名の標章は・・・兜昔は、果物商(個人住宅)現在は・・・レストラン「カーザ・マニュエル」北側・右から2軒目画面右呼び名の標章は・・・孔雀現在は・・・レストラン「パオン」ベルギー料理北側・右から3軒目・画面左呼び名の標章は・・・子狐現在は・・・レストラン「エル・グレコ」ギリシャ料理そのお隣呼び名の標章は・・・オークの木昔は・・・靴下編み現在は・・・カフェ「アロマ・コーヒー・ラウンジ」そのお隣の右呼び名の標章は・・・聖バルバラそのお隣(一番左)呼び名の標章は・・・ロバ現在は・・・「ベルジャン・アート」ゴブラン織りの専門店 店内には、精巧に織られた壁掛けや クッション、ポーチ、バックなどが並ぶ。 上品な小物が並びます。ここからの小道は、チョコレート屋さんがいっぱい・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.10.18
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世界一美しいと評判のベルギー【世界文化遺産】ブリュッセルのグラン・プラス♫大広場を順に見ております。2019年4月12日(金)午後・友人と2人旅にて訪問きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第178回中世の面影が色濃く残り世界文化遺産の優美な大広場は、歴史的な建造物に囲まれておりますGRAND PLACEグラン・プラス 北面には・・・中央に『王の家』左右に「ギルドハウス」が並びますきらりの【手作り地図】(北側・右)ギルド・ハウスとは?北側・右の4軒は・・・個人住宅北面・1番右呼び名の標章は・・・牝鹿この家は、1710年建立。現在は・・・チョコレート屋「ショコラトゥリー・グランプラス」北面・右から2番目「聖ヨーゼフの家」は、1700年頃建立。北面・右から3番目「聖アンナの家」も、1700年頃建立。昔は・・・醸造業者現在は・・・チョコレート屋GODIVA(グループの待ち合わせ場所でしょうか?)「ゴディバ」本店 言わずと知れた、王室御用達のブランドの本店。 日本には、輸出していないチョコがある 名門が集結するグラン・サブロン広場にも支店がある。北面・右から4番目「天使の家」は、1698年建立。現在は・・・レース店「エフ・リュブレヒト」 伝統的な店構えで、美しい手作りのベルギーレースや アンティークレースを扱う。鑑定なども扱う。 10時〜19時(日曜は18時まで)北側・右から5番目呼び名の標章は・・・金の小型帆船とモグラ元来の二軒の家を統合。1500年頃、仕立て屋の組合が結成されていた。砲弾後、ウィレム・デ・ブラウンの設計で1696年に再建。ファサードは、イタリア古典様式とフランドルバロックの折衷方式。しかし、片蓋柱とその配列に特色があるためここは、広場でも特色のある建物の一つと評価されている。屋根の頂上には、ローザーヌの司教の聖ボニファティウス像入口の上には、仕立て屋の守護聖人バルバラの胸像がある。現在は・・・カフェ「ラ・シャループ・ドール」 店内に入ると数種類のタルトが並ぶショーケースが目に入る。 テラス席で、市庁舎の塔を眺めながらタルトにお茶良いですね 10時〜22時北側・右から6番目「画家の組合会館」呼び名の商標は・・・鳩1695年の砲弾による破壊後1697年建立。棟梁で石工ピエール・シモンがこの区画を購入した後自らファサードを設計した。ドーリア、イオニア(円柱)、コリント様式風の片蓋柱、怪人面ベネツィア風の窓と手摺り、アーチ型の窓の開口部など各階の区分が変化に富み、ファサードのデザインは、広場の中でも目立つ存在である。この家は・・・フランスから亡命したヴィクトール=マリー・ユーゴーの最初の滞在先として知られている。彼は、ナポレオン3世のクーデターに抵抗し1851年12月2日に追放されたが翌年、印刷職人に変装し偽造パスポートを持って国境を超えた。この家で、ルイ・ナポレオンを弾劾する『ある犯罪の物語』と『小ナポレオン』が執筆された。ユーゴは・・・1852年、妻への手紙で「ブリュッセルは・・・ 私を感動させる。 市庁舎は一つの宝石だ。 それを取り囲む広場は、 まさに真の奇跡といえよう」と、書き送っていた。現在は・・・「メゾン・アントワーヌ」レース店 ルネサンス・ボビン・プリンセスなど、 様々な編み方のベルギーレースを取り揃えている店。 10時〜19時(夏季〜20時、冬季〜18時)「ノイハウス」チョコレート店北側・右から7番目個人住宅アマンの小部屋市長の部屋黄金の商人として知られる。「ブラバントの紋章」1709年建立。北側・左面に・・・つづく世界遺産にお願いネ
2019.10.17
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ベルギー【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラスを訪問したのは、2019年4月12日(金)友人と2人旅で訪問しましたグラン・プラスの大広場に面した「東側面」を見てみましょううわわっ。上部にはホテルですって〜泊まりたかったきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第172回Maison des Ducs de Brant『ブラバン公爵の館』ブラバン公爵の館は、東側面〜南にあります【グラン・プラス手作りの地図】標章は・・・1696年〜1698年、建立。ウィレム・デ・ブラウン設計。ファサードには・・・19人の公たちの銅像が並びますファサードは、1つですが・・・実際は、7軒の家の集合体。正面に歴代のブラバン公の胸像が飾られているため『ブラバン公爵の館』と呼ばれる。正面は、コロサイルという建築様式が用いられているがこの様式は、古典建築と調和するようにバロックのイタリア・フラマン様式に変化をつけたもの。したがって、イタリアの影響が大きいが駒形の屋根は、フランスの影響でもある。広場に面して地下への入り口がありレストランになっている。上階には・・・ホテル。朝に夜にグラン・プラスの雰囲気を満喫できる。泊まりたかったです〜組合名と家の標章は・・・「右から」皮革商・・・「名声」 現在は、カーヴ・デュ・シーニュ(レストラン)ワイン商・・・「隠遁者」なめし業者・・・「運命」 現在は、ケルデルク(ベルギー料理) サンミッシェル(ホテル)Saint MIehel 広場に面した絶好のロケーションを誇る 32号室からは、王の家が望める。 4室あるグラン・プラス側の部屋が 人気が高いので予約は早めに! バロックス・カフェ(ベルギー料理)左へ製粉業者・・・「風車」 現在は、KBC銀行大工・・・「錫製壺」 現在は、KBC銀行彫刻家・左官屋・石工・スレート屋根葺き職人・・・「丘」 現在は、KBC銀行両替商・・・「財布」この7軒の家の集合体です=南側面・終わり=・・・北側面のギルド・ハウスにつづく・・・世界遺産にぽちお願いネ
2019.10.16
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ユネスコの世界遺産『ブリュッセルのグラン・プラス』大広場の中に立ったのは2019年4月12日(金)午後4時10分の事。ミーちゃんと気ままな2人旅ですきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第176回【世界文化遺産】ブリュッセルのグラン・プラス(1998年登録)右側に半分見えるのが「市庁舎」ですその左隣(南側)のギルドハウス を見てまいりましょう【グラン・プラスの手書き地図】広場の中から見ると【地図】は、逆さまですがここには、南面のギルドハウス が並びます。それでは・・・一番右の一番小さな家からここは、いつも観光客がいっぱいなのですがおっと〜今、空いていますね急げっ。「南側面」一番右アーケードになっている所です『個人住宅』めずらしいです〜誰も居ません呼び名の標章は「星」14世紀に記載がありグラン・プラスで一番古い館のひとつそして一番小さい家である。道路拡張のために1852年に破壊。1897年に再建。現在は・・・アーケード。アーケードの壁面には、名所旧跡があるのですLa Statue d' Everard'SerelaesEverard t'Serclaes『セルクラースの像』「星の家」の壁面にある『セルクラースの像』セルクラース・・・とは?Everard t'Serclaes1388年、暗殺された町の英雄。12世紀初頭から14世紀初頭までブリュッセルの町は、ブラバン公によって統治されていました。ブリュッセルの繁栄をうらみ、なんとかして王位を継承しようとたくらんだフランドル伯の旗を1356年の嵐の晩、セルクラースは・・・「星の家」に片手でよじ登り正統な後継者のブラバン公の旗に取り替えてしまった。彼の英雄的な行為は、市民の士気を高めブラバン公が正統な後継者として王位に就いたのであります。『セルクラースの像』セルクラースの手は、ピカピカですブリュッセルを訪れ・・・この手に触れる人々に幸福をもたらす♫と昔からの言い伝えられています。ですから、ブリュッセルを訪れると必ずここに立ち寄りセルクラース様の手をなでなで手だけの人もおりますが・・・足から肩まで歩きながらなでなでしてゆく人もおりますが私は、14年ぶりに手だけなでなで「幸福」の方は・・・まぁ〜2度も訪れる事が出来た事。幸せですよね〜このお隣から「ギルドハウス」が並びます。南側面・右から2番目『肉屋組合会館』標章は・・・「白鳥」正面扉の上に「白鳥」の彫刻。1698年建立。元来は、個人住宅。1848年、カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスがブリュッセルで『共産党宣言』を執筆した時2人は、ここで2週間に一回、会合した。現在は・・・ブラッスリー・オメガング(ブラッスリー)ラ・メゾン・デュ・シーニュ(レストラン) 精肉店のギルドハウス にあるレストラン。 アラカルトのほか 平日は、メインに前菜かデザートを選ぶ 手軽なランチメニューが25ユーロもあり。 ワインは、約900種類を揃え ボルドーが充実!南側面・右から3番目『醸造業者の組合会館』呼び名の標章は・・・「黄金の木」以前は、『なめし業組合』その後、『タペストリー製造業組合』砲弾による瓦礫の中から1698年、ウィレム・デ・ブラウンの設計で建立。ファサードには・・・山羊・ホップ・ビール樽と遊ぶプットーたちの3点の薄肉浮彫がある。屋根の上にローリントリンゲン公の金ピカ騎馬像。現在は・・・ビールの製造技術を公開する小博物館『ベルギービール醸造博物館』トイレあり 階段を下りると18世紀の醸造所 発酵用の桶など道具が置かれ、 奥にスクリーンあり。酒場あり。トイレあり。 入場料5ユーロ(1杯のビール込み)10時〜17時南側面・右から4番目『個人住宅』呼び名の標章は・・・「バラ」1702年、建立。現在は・・・ラ・ローズ・ブランシュ(ベルギー料理)「バラ」と名付けられたギルドハウス に位置するレストラン ベルギービールを調味料に使った料理が、スペシャリテ! 天井には、店名にもなっている「白いバラのレリーフ」がある。 マロリエンヌ風肉団子:16,5ユーロ 11時半〜23時南側面・一番左『個人住宅』呼び名の標章は・・・「タボール山」1699年、建立。また「三色の館」とも呼ぶ。現在は・・・ゴータム・ダイヤモンド&ゴールドダイヤモンド専門店。ダイヤ0,14カラットで855ユーロのリングなど指輪のサイズ直しは40分ほどでできる。・・・南側面終わり。つづく・・・世界遺産にぽちm
2019.10.15
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【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラス♫1998年に文化遺産に登録された大広場にやってまいりました2019年4月12日(金)午後3時10分友人ミーちゃんと2人で訪問。ヴィクトル・ユーゴが「世界で最も美しい広場」と称しジャン・コクトーは「豊饒なる劇場」と称賛したグランプラスは、ギルドハウス に囲まれた約110m×70mの広場です♫(歴史については、昨日長々とご紹介したので)ざっくりと西側のギルドハウス から・・・カフェとレストランもご紹介きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第175回La Grand Place,Brussels【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラス=西側面広場を囲む華やかな「ギルドハウス」広場にある組合会館や個人邸宅のファサードに動物や道具の浮彫りがあるがそれは当時の習慣を表しています。つまり家には、番地はなく浮彫による標章が「呼び名」とされていました。ギルドハウス =組合会館は、ネーデルラント各地の同業者たちが集まり会議をしたり、社交的な場として利用されましたが同時に商工業者同士の取引も行われた。現在では、ホテル・レストラン・居酒場ショップ・博物館などに利用されています。グラン・プラスのギルドハウス ・・・とは?【グラン・プラスの手書き地図】左の「西側」ギルドハウス から西側右「パン屋の組合会館」(一番右)パン屋のギルドハウス 呼び名の標章は「スペイン王」カール2世の胸像がある爆撃後の1698年〜1697年ヤン・コセインスによって周囲のどの建物よりもイタリアの古典様式で再建された。最上階の手摺りの上にパン製造に関する力小麦・風・火・水・摂理の擬人像が立っているが当時のものではない!入り口にパン屋の守護神サン・オーベル司教の金の胸像がある現在は・・・ル・ロワ・デスパーニュ(カフェ) パン職人のギルドハウス にある老舗のカフェ 1階中央に大きな暖炉があり 吹き抜けの空間が気持ち良い♫ 窓側の席からは、石造りの王の家とギルドハウス が 整然と並ぶさまが一望できる(カフェ10時〜翌1時)ピエルケルダ(カフェ)西側右から2番目「獣脂業者の組合会館」呼び名の標章は「手押し車」1439年〜1445年に建立。しかし、砲撃後1697年に再建。正面は・・・浮彫りのある柱、ねじれ柱、コリント様式風の柱頭のある片蓋柱などイタリアの古典様式とフランドル・バロック折衷方式。屋根にある貝殻と果実・花の連房装飾は、ヤン・コセインスのデザインと思われる。1844年、以前の木彫のファサードを石造りに変えた。守護聖人エギディウス像は、1912年のもの。現在は・・・ラ・ブールエット(カフェ) サンドイッチなどの軽食。 ベルギー各地のビールも揃っている。 朝8時から24時まで営業。西側右から3番目「建具屋と桶屋の組合会館」呼び名の標章は「袋」1645年〜1645年の建立。砲弾の影響は少なかったが・・・1697年にアントワーヌ・バストラーナによって再建。ファサードに人身柱のほか壺・貝殻・果実の連房などの華やかな装飾が多い!大きな袋の中に頭をつっこんでいる姿はユーモラスです。現在は・・・スターバックス(カフェ)西側右から4番目「弓矢の射手の組合」呼び名の標章は「雌狼」元来、14世紀にさかのぼる広場で最も古い建築であったが17世紀の数回の火災で消失。砲弾の時は瓦礫の中にかろうじて存続していた。1696年建立。屋根の頂に、灰の中から蘇生したという伝説の「不死鳥の像」がある。三角の破風には、「竜ピトン」を弓で倒すフェブス・アポロの像がある。3階には・・・真実・欺瞞・平和・不知の擬人像。4階には・・・トラヤヌス・ティベリウス、アウグストゥス、カエサルなど古代ローマ皇帝のメダイヨン、入り口には・・・雌狼の乳を飲むロムルスとレムス兄弟の像などファサードには、全体として古代ローマに関する彫像が多い。現在は・・・CBC銀行。西側右から5番目(左に半分見えるギルドハウス )「船乗りの組合会館」左側半分しか見えませんが呼び名の標章は「角笛」1434年に船乗りたちが広場に居住した記録がある。1641年新築。屋根には17世紀のフリーゲート艦を思わせる船尾がある。砲弾による破壊後、1697年にアントワーヌ・パストラーナが再建した。ファサードは、典型的なイタリアとフランドル・バロック折衷様式。2階には・・・トリートンと海馬に乗る2体の彫刻最上部には・・・2頭の獅子が守るスペイン王の紋章カール5世の円形肖像、東西南北の4つの像がある。現在は・・・CBC銀行西側右から6番目「小間物屋の組合会館」(中国おじさまの後方一番左のギルドハウス )呼び名の標章は「狐」14世紀に記載があり15世紀に小間物屋の組合に売却。1699年、簡素な木造住宅から石造り建築に建立。ルイ14世様式のファサードには、1階には・・・5つの擬人像。すなわち正面にアフリカとヨーロッパ左側にはアジアとアメリカの四大陸の擬人像3階には・・・金羊毛・麦穂・葡萄・花を持つ人身柱など多くの彫像で飾られている。屋根には・・・守護聖人ニコラスの像がある。現在は・・・CBC銀行グラン・プラス・西側終わり・・・グラン・プラス・ギルドハウス は、つづく・・・世界遺産にぽちネm
2019.10.14
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【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラス La Grand Place,Brusselsは、1998年にユネスコの文化遺産として登録されました。2019年4月12日(金)友人と2人で夕方の訪問です。最初は、ブリュッセル市庁舎を見てみましょうそしてグラン・プラスの歴史・・・とはきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第174回Hotel de Villeブリュッセル市庁舎【グラン・プラスの手書き地図】ザックリと書きました15世紀に建てられ広場で最も大規模な建築「後期ゴシック・フランボワイヤン様式」の美しい建築。15世紀の初めには、現在のライオンの階段と左翼は1402年、建築家ヤコブ・ヴァン・ティーネンJacques Van Tienenによって建設。1445年、多少短い右翼を増築されたので左右対称では無い1445年、中央の鐘塔が建築家ヤン・ヴァン・ライスブルックVan Ruys broek によって建てられました。鐘塔の高さは、96mである。その軽妙で優雅な姿は無比のものと絶賛されてきた。頂上に『竜を倒す聖ミカエル』の像が立っているが聖ミカエルは・・・ブラバント州の守護聖人である。1520年、ここを訪れたアルブレヒト・デューラーは、『ネーデルラント旅日記』で「大きく、美しい 飾り格子の窓のある立派な市庁舎と 透けて見える塔を見た」とその印象を述べている。1694年、フランス軍による砲撃時にも奇跡的にこの塔は爆破を免れた。この鐘楼が大好きですグラン・プラスの歴史・・・とは?ブリュッセルという地名は、「ブルオクセラ」つまり「湿地の村」というフランコニア語に由来する。966年の記録以前のブリュッセルは、まだ湿地帯の中の一村落であった。977年に低地ロートリンゲン大公がセンヌ川の島(現在のブリュッセル)に城塞と聖堂を建て聖ガウゲリクス(カンブレの聖ゲリー)に献堂した。1047年頃、同大公はより高台のカウデンベルフ(クーデンベール、16世紀の宮殿の所在地)に居を移したと推測される。この地方に流れるセンヌ川は・・・ドイツのケルンとベルギーのゲント、ブルージュを結ぶ水上運輸の利便性を提供していたのでブリュッセルは、都市として次第に発展していった。ブルゴーニュ公国時代になると・・・歴代の統治者は、ディジョン、ブルージュなど各地に宮殿を持ったがシャルル突進公(在位1467〜1477)と3番目の妻マーガレット・オブ・ヨーク(1446〜1503)は、ブリュッセルを含む、ゲント、リール、メヘレンなどに宮殿を置いた。彼らをはじめ突進公の一人娘(2番目の妻と子)で後継者マリー・ド・ブルゴーニュ(後のマクシミリアン一世の妻、在位1477〜1482)もとりわけブリュッセルをブルゴーニュ公宮廷の所在地として重要視した。15世紀を通じて・・・ブリュッセルの宮廷を訪れる各国の使節たちや貴族またこの都市の旅行者たちは、この都市の贅沢な美術品に瞠目しこぞって注目した。例えば・・・ヤン・ボレマンとその一族は、ひとつの大きな木のブロックから数体の彫刻を彫り上げる木彫祭壇を製作。ローヒル・ヴァン・デン・ウェイデンとその弟子たちは、光沢のある油彩で祈念画的な要素を含む写実的な祭壇画を製作。すでに13世紀からブリュッセルの特産として著名なタペストリー華麗な彩飾写本、精巧な金銀の工芸品良質の革製品などであった。「マリー・ド・ブルゴーニュ公の画家」によるいくつかの時禱書から当時の華やかな宮廷生活を垣間見ることができる。16世紀になると・・・神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王・在位1516〜1556、神聖ローマ皇帝・1516〜1556)がブリュッセルにおいて果たした役割は大きい。彼は、わずか6歳でブルゴーニュ家の所領を継承したが伯母のマルグリート・ドートリシュ(在位1507〜1530)はまだ幼い甥カールのために摂政を務めた。彼女は、宮廷をブリュッセルからメヘレンに移したがそれにはさまざまな歴史的な背景があった。すでに1473年、ブルゴーニュのシャルル突進公がメヘレンに大評議員を置いていたこと突進公の没後(1477年)妻マーガレット・オブ・ヨークがメヘレンの宮殿をこよなく愛しここを居住地としたこと。こうして彼女と親しかったマリグリート・ドートリシュにとってもメヘレンには数々の思い出があった。だがカール5世は・・・1515年、15歳でハプスブルク家の継承者となるとネーデルラントの統治者としてブリュッセルで入市式を行った。その時、グラン・プラス(大広場)でもさまざまな公的なページェントが繰り広げられたに違いない!1530年、マルグリート・ドートリシュが没するとカール5世は、妹でハンガリー王の未亡人マリー(在位1530〜1555)に執政を命じた。カール5世は、これを機会に宮廷をふたたびブリュッセルに移し、この地を政治活動(国事評議員、内務評議員、政務評議員)などの中心地にした。彼は、カウデンベルフの宮殿を再築(1731年に破壊された)しグラン・プラスの「王の家」の建築(1515年着工、17世紀初期に再築)にも着手ナッサウ礼拝堂(1530年着工、現在の王立図書館の一部)を建てた。後に・・・カール5世が退位したのもブリュッセルの宮殿であった。16世紀のブリュッセルの経済的、文化的な発展にとって地場産業であるタペストリーは、大きな存在であった。1477年、生産者たちが独立した組合(ギルド)を結成すると飛躍的に発展した。ピーテル・アールストが、1493年にブリュッセルに居を構えタペストリーの事業に成功させる頃にはこの産業は、ブラバント地方の中心的な存在となる。ブリュッセルで活躍した画家たちは・・・多かれ少なかれタペストリーのための下絵を製作したがベルナルト・ヴァン・オルレイは、その主導的な役割を演じた。タペストリー連作『マクシミリアンの狩猟』の下絵素描は、彼の代表作である。しかし、地元の画家だけでなくラファエロのような同時代のイタリアの画家にも下絵が注文された。16世紀中期には・・・オルレイの弟子でフェリペ2世の宮廷画家となったミヒール・コクシーやピーテル・クック・ヴァン・アールストは、イタリア・ルネサンス様式を反映したタペストリーやステンドグラスの下絵を製作した。ブリュッセル産のニードル・レースやボビン・レースもこの時代の特産であった。非凡の才能を持ったジャックリーン・マスケリールは、芸術性の高いレースをアントワープの出版業者プランタンに供給した。プランタンは、人物や動物の動きが緻密に編み込まれている美麗なレースがヨーロッパの上流階級の人々を魅了することを知っていた。広場は・・・一般に政治的な行事や祝祭用のイベントの場所また経済的活動としての市場になるなどさまざまな機能を持っている。だが、16世紀の後半、ブリュッセルのグラン・プラスで誰しも忘れることのできないある歴史的な悲劇が起こった!1566年のネーデルラント各地でのカルヴァン派の聖像破壊運動を鎮圧するために翌年猛将アルバ公が引率する1万人あまりのスペイン軍隊がブリュッセルに侵攻した。しかし、地元の貴族たちは、ネーデルラントの秩序回復という名目で強硬な弾圧政策をとるアルバ公を厳しく批判しエグモント伯とホルン伯などの有力貴族がスペイン国王フェリペ2世に緩和政策を嘆願した。こうした行為に対し1568年6月5日、フェリペ2世はグラン・プラスで反逆者としてエグモント伯とホルン伯を斬首他の多数の貴族をも処刑した。そんな歴史を持ちながらもグラン・プラスは・・・絢爛豪華な祝祭行事の場ともなった。例えば1614年に描かれたデニス・ヴァン・アルスロートの『グラン・プラスのオメハング』では精霊降誕後の日曜日、アルバート公夫妻の隣席のもとで荘厳な祝祭行事がパノラミックに描写されている。貴族、役人、各組合(ギルド)の構成メンバー楽隊、大旗の名手など・・・数百人による行列とイベントが繰り広げられている。今でも伝統的なオへマング祭は継承され毎年7月の第一木曜日に同じ広場で「時代祭り」的な行事として開催されるがその中央席に座るのは、ハプスブルク家の末裔である。グラン・プラスがこうむった最も悲劇的な事件は・・・17世紀末に起こった!1695年8月13日と14日、フランス王ルイ14世の命令でヴィルロワ将軍がモーレンベークの丘からブリュッセルのグラン・プラスおよび隣接する道路に向かって36時間にわたって大砲や銃弾を浴びせかけた!グラン・プラス広場に面した建物のうちさいわい市庁舎の塔は、爆破を免れたが広場のほとんどの建物は木造だったため同業組合(ギルド)会館や個人住宅の大半は消失したそれだけでなく周辺の16の聖堂、約4000件の家が戦火の犠牲となったこの仏軍の攻撃は・・・アウクスブルク同盟(オランダ・イギリス・ドイツ・スペイン)への報復行為であった。というのは、同盟国の連合軍がすでに北フランスの海岸都市を砲撃していたからである。そんな最中、オランダやイギリスの軍隊は、ナミュールに駐留していたためブリュッセルの守備は、かなり手薄となっていた。仏軍の爆破の後・・・ブリュッセル市の指導者たちは、復興へ奔走し始めた!アントワープ、メヘレン、ルーヴェンなどの周辺の都市からさらにブラバントやホランド州からも支援を得た。当時、バイエルンのマクシミリアン2世エマヌエル選帝候は、再建の援助を条件に広場を選帝候の権力の場にしようとし再建プランにさまざまな注文をつけた。だが、都市の実質的な実力者である商人たちや手工業者たちは結束し選帝候の要求を退けた。彼らは、グラン・プラス広場に同業組合の存在感をアピールするために斬新で当世風なデザインでありながらそれぞれが特色を持った組合会館を林立させた。多くの組合会館のファサードに1697年浮き彫りの数字で1697年という年号が記されている1695年の砲撃後、2年間で復興したという組合の自負を物語っている!こうして、グラン・プラスは・・・市庁舎を中心とした中産階層の「経済力の象徴」となった。グラン・プラスの歴史終わり長々。歴史にお付き合いありがとうございましたグラン・プラスの観光客たちいっぱいです〜大人気スポットですグラン・プラスの建物については明日からさらに詳しくカフェもしっかりご紹介。(スタバもあります)・・・つづく・・・世界遺産にぽち押してネ
2019.10.13
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さぁ〜【世界遺産】グラン・プラスに到着です。14年前に来た時よりも金ピカ度がUPしている気がしますがかなり修復されたのでしょうね(2019年4月12日午後)友人と2人旅にて訪問♫グラン・プラスは・・・オランダ語で「フローテ・マルクト」です注意です。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第173回Grand place何と〜チャイナ・グループ様がお馬車に乗ろうとしております大きな声で、お友達を叫んでおります。ココは世界で一番美しい広場!!(いやいや〜世界一美しい広場って何度か出会いましたが・・)確かに美しいです何しろベルギー観光では、1番人気旗や傘を持ったガイドさんに連れられた世界中の観光客に会うことが出来ます。(スリ・置き引きに注意)「王家の家」ブリュッセル市立博物館各組合の「ギルドハウス」広場には、オープン・カフェがいっぱいです〜春がオススメです・・・グラン・プラス解説つづく・・・世界遺産にぽち
2019.10.12
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2019年4月12日(金)友人ミーちゃんと私きらりは、ベルギーの古都ゲントに日帰り旅♫をしてブリュッセルまで早めに戻って来たので【世界遺産】グラン・プラスで夕ご飯を食べるつもりでしたがディナーには、早すぎるので・・・ミーちゃんが「小便小僧」にご挨拶してからにしましょうよ」きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第172回ちょっと予定を変えた事で迷子に!!ブリュッセル中央駅→芸術の丘→楽器博物館→ロワイヤル広場→ヤコブ教会→王立美術館→王宮→ココで、全く違う方向へドンドン・ドンドン進んでなんのこっちゃ〜ベルギー王室の名所を巡っている事にさぁ〜とりあえず「小便小僧」にご挨拶じゃなく【世界遺産】グラン・プラスに行く事!!誰かに道を尋ねるにしても誰もおりませんきらちゃん!!もしかして「感」で歩いているでしょ?ドキッ!!と、ミーちゃんに痛いところを突かれそうそう〜誰かに現地の人を探して道を尋ましょう〜犬のお散歩中の女性に聞いてみました!あ〜この道を真っすぐ行って右に曲がって・・・ありがとういやいや〜それにしても遠い遠いタクシーとかは道で拾えないお国。歩くしかありません!日頃のわがままな私は(ちょっぴり反省)もう一度、道を尋ねると観光客だったせいか「知らないわ〜」と冷たく返されて・・・えええ〜っあそこに見える あれはあああ〜坂を下った先に【世界遺産】グラン・プラス見えていますけど〜さっきの観光客は、確かに「グラン・プラス」方向から坂を登って来ているのに何で〜教えてくれないのGrand Placeグラン・プラスいやいや〜発音が相当違うのでしょうかオランダ語ではフローテ・マルクト!えええ・・・通じるわけないです。せめてこの本には、書いて欲しいですがまぁ〜現地の人は「英語」も話すのでそもそも「グラン・プラス」の発音が微妙かもです【地図】グラン・プラス・・・つづく・・・いよいよ世界遺産に到着フローテマルクトにぽち
2019.10.11
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ベルギー【世界遺産】文化遺産「ゲントの鐘楼と繊維ホール」は、1999年ユネスコの世界遺産に登録されました♫2019年4月12日(金)友人と2名で訪問しましたきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第165回【世界遺産】Belfort en Lakenhalle【世界遺産】鐘楼と繊維ホール鐘楼の高さ=91m鐘楼の上には、53個の鐘カリヨンがあります1300年頃に建てられた鐘楼の本来の目的は・・・非常時に兵士を招集するためのものでありました。世界遺産の鐘楼は・・・ゲント市民の自治のシンボルとしてギルドの繁栄の象徴として市民の生活を見守って来ました1377年からドラゴン像が鐘楼の上で見張り番をしているそうであります。【世界遺産】鐘楼と繊維ホール東側に隣接する「繊維ホール」は・・・見事なゴシック様式の建物です1425年の建造であり、鐘楼より125年後の事。繊維ホールは、市の有力者たちが事務所を構えた場所でありラシャや毛織物の商人たちの会議場でもありました。見事なゴシック様式のホールは・・・20本の円柱によって3つの広間に分けられています。18世紀には、牢獄として使われていました。繊維ホールと鐘楼の間には・・・『旧・看護の家』左「繊維ホール」と右「鐘楼」の間に1741年に建てられた・・・小さな建築は、1902年まで「刑務所」のニックネーム“Mammelokker”という伝説のレリーフが正面上にあります。娘のベロが牢獄の老人シモンに生き続けるように胸を吸わせた伝説の彫刻です。【ゲント旧市街の地図】コーレンマルクト→聖ニコラス教会→繊維ホール→聖バーフ教会は、並んでおります・・・つづく・・・ゲントにぽち
2019.10.03
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ゲントの旧市街を歩いてくると「ゲントの歴史」に興味が湧いて来ました♫一番北まで歩いて来たら古い古い『フランドル伯居城』Gravensteenに遭遇!!(2019年4月12日)友人と2人で訪問。ベルギー西部ゲントは、フランドルの商業の中心地でありましたきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第163回Gravensteenフランドル伯居城1180年、フランドル伯「フィリップ・ダルダス」によって築城された。お堀に浮かぶような古い時代のお城ですその後、14世紀には、軍事機能を失い拷問室・牢獄は、アウデブルグ学校伯爵領の造幣局・裁判所として使われ18世紀には、綿製糸工場・工員の宿として使われました。現在では、一般公開しておりますゲントの歴史・・・とは?ゲントは・・・11世紀には、フランドル地方の要衝の地として商工業の中心地をなし、フランドル伯の居城も建てられた。以後、中世を通じて、ブルージュ、イーペルとともにフランドル地方における三代都市の一つとして栄えた。14世紀半ばには、人口6万人を数えアルプス以北の都市では、当時パリの20万人に次ぐ大都市となっていた。西フランドルを代表する都市ブルージュが13世紀以来北西ヨーロッパにおける世界市場となり国際商業都市として栄え他のに対し東フランドルの中心都市であったゲントは、スヘルデ川の上流から運ばれた穀物の取引市場としてまたイングランドからもたらされた羊毛を加工する卓越した毛織物生産都市として13世紀にその繁栄の頂点に達したのである。ゲントでは・・・12世紀以来、商人をはじめとする小数の都市有力市民層による都市支配が行われた。織布工をはじめとする毛織物関係の手工業者たちが人口の6割を占め14世紀初頭からは、彼らも都市の政治に参与した。毛織物のみならず、さまざまな手工業者層は、領邦君主であるフランドル伯からの都市特権獲得の際にも都市の主要な勢力を構成し対外的には、1302年のフランス騎士軍との戦い「コルトレイクの戦い」においてフランドルの諸都市連合軍が歴史的勝利をおさめた時の立役者ともなったのである。14世紀以降、ゲントは・・・フランドル諸都市の代表として12世紀以来享受して来た政治的経済的特権を維持するためにイングランド王と結んでフランドル伯やその主君たるフランス王に対抗した。例えば、14世紀のゲントにおける都市反乱を指導したヤーコブ・ヴァン・アルテヴェルデとフィリップ・ヴァン・アルテヴェルデ父子は、商工業者のリーダーとして名を馳せた。ゲントの手工業者たちの反乱は・・・武力を伴った大規模なもので伯領の支配君主であったフランス王やブルゴーニュ公をたびたび脅かした。15世紀には・・・文化的には、ヴァン・エイク兄弟ヒューホ・ヴァン・デル・フーラら初期ネーデルラント派の画家たちをはじめ彩色写本制作者や音楽家などの活動が花開いた時代であり14世紀末以降は・・・ブルゴーニュ公国の宮廷の支援を得ながらブルージュと並んでゲントでも多くの芸術家の工房が開かれた。ヴァン・エイク兄弟の最も著名な作品である『神秘の子羊・ゲントの祭壇画』1432年これも16世紀以降、数奇な運命をたどりながら現在では、ゲントの「聖バーフ大聖堂」の中に保存されている。(一部、ゲント美術館で修復中)2019年4月それでは、これから歩いて・・・市庁舎を通り「バーフ大聖堂」方向に行きましょうヴェーレ広場ゲントで一番古い広場です(戻っています)南東へ向かいます。【ゲント旧市街・北部の地図】市庁舎 Stadhuis へ旧魚市場の運河側レストランが運河の上にも大肉市場の方向へ戻っております【世界遺産】ベルギーフランスの鐘楼群が遠くに見えます。そこまで歩きます大肉市場大肉市場もギルドハウスです道なりに進むと「市庁舎」に行けます。Hoogpoort 通りああ〜右奥に「市庁舎」が・・・市庁舎につづく・・・ゲントにぽち
2019.10.01
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【世界遺産】ベルギーフランスの鐘楼群・聖母大聖堂(アントワープ・ノートルダム大聖堂)をたっぷり時間を掛けて周って来ました~2019年4月11日(木)2人旅にて訪問いよいよ『フランダースの犬』のモニュメントを探しにきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第108回Beeldje van Nello en Patrasche住所=Kalel Strat.3,Hoboken,Belgium場所は『聖母大聖堂』のすぐ裏の広場です。ああ~っあります石畳のお布団をかけているので・・・すぐに分かります純白のモニュメントです。日本人の立場からすればイメージが・・・?ファルコンに乗ったこけし?製作したのは中国資本「周大生」ナルホド~中国版のイメージでしたかモニュメントの説明は・・・オランダ語・フランス語・ドイツ語・英語中国語・日本語でもありますNello & Patrasche『ネロとパトラッシュ』(日本語版)友情の物語孤児で貧しい少年ネロと荷役犬のパトラッシュは、1878年出版のイギリスの小説「フランダースの犬」の主人公です。この物語は、彼らは毎日一緒にアントワープの街に出ます。そこでしばしば聖母大聖堂を訪問しネロは、ルーベンスの絵にあこがれを抱きます。不幸と苦難の末に少年と犬は大聖堂で一緒に死んでしまいます。この感動的で感傷的な物語は、誇りと限りない友情のメッセージを含んでいます。流石です(日本のアニメについては、触れておりません)2003年、日本資本「トヨタ」がモニュメントを寄贈。日本語開設のみで理解が得られず撤去。その後、中国資本がモニュメントを作成。【世界遺産】聖母大聖堂聖母大聖堂とモニュメントの位置関係さぁ~歩いて旧市街の観光へ【ここまでの観光】『聖母大聖堂』Onze-Lieve-Vrouw Kathedraal「フランダースの犬」モニュメント(完了) 【これからの予定】のんびり旧市街のお散歩中グローテ・マルクト広場アントワープ『市庁舎』Stadhuis Antwerpen 『肉屋のギルドハウス』Museum Vleeshuis 『聖パウルス教会』Sint.Paulskert 『ロコックスの家』Museum Rockoxhuis 『聖ヤコブ大聖堂』ルーベンスのお墓参りSt.Jacobskerk 『ルーベンスの家』Rubenshis 『アントワープ中央駅』 国鉄にて『ブリュセル中央駅』地下鉄・トラム ホテル着。こんな2人の欲張ったスケジュールです2004年12月に訪問した時は・・・クリスマス市が催されていましたが~今回は、修復作業中です(囲いがカラフルで可愛い)・・・つづく・・・世界遺産に押してネ
2019.08.04
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聖母大聖堂の厳かな身廊の奥までやってまいりました~(^0^)♪2019年4月11日(木)友人と2人旅にて訪問。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第107回Onze-Lieve-Vrouw Kathedraalオンゼ・リーヴェ・フロウ・カテドラルアントワープ『聖母大聖堂』大聖堂奥の身廊の奥までまいりました誰もおりませんおやっもしかすると・・・これって「天井画の原画?」英語版の説明では・・・Assumption of the Virgin(1647)(canvas,diameter 580cm)Cornelis Schut(1597-1655)『聖母被昇天』1647年(カンヴァスの大きさ580cm)「コルネリウス・シュット」作(1597年~1655年)『祝福の塔』は、大聖堂の「身廊」と「翼廊」の交叉部分です。直径=580cm 高さ=43m・・・間違いありませんBecause the Cathedral is dedicated to the Assumption of Mary,Cornelis Schut-a late contemporary of Rebens-continued thas theme high up in the cupola(43metres high).Thanks to the expert manner in whichSchut created the perspective,it seems as though the Cupola is openingup towards heaven.『聖母被昇天』天井画1647年ううう~む。これに気付く人はきらり。くらいでしょうか?身廊の奥には、祭壇がいくつもあります。『聖母大聖堂』の中には・・・小さな「礼拝堂が」幾つもあります。アントワープの繁栄と共に財を得た組合が多く礼拝堂を欲しがりました。『聖母大聖堂』は、特に人気が高かったので次々と増築して「礼拝堂」を増やしたのですがなかなか「礼拝堂」&祭壇を持つ事は、難しかったようです。奥のステンドグラスは、また年代が違います祭壇を設けた信者さんは、光の下で祈ります。ルーベンス『聖母被昇天』はココ。それにしても贅沢な名画鑑賞です。聖母大聖堂の主祭壇何度、観ても飽きませんルーベンス『聖母被昇天』聖母マリアは・・・神とキリストに導かれ天国へ昇ってゆきます。さらにマニアックな作品をご紹介しましょう~『聖母大聖堂所蔵』カナの婚礼・・・からマールテン・デ・フォスMaerten DE VosBruiloft te Kana「カナの婚礼」ALTAARSTUK VOOR AMBACHT VAN DE WINJNTAVERNIERワイン居酒屋の祭壇1597年 油絵パネル縦=268cm 横=235cm『聖母大聖堂所蔵』活台『カナの婚礼』の中心は・・・ワインの奇蹟であり、聖堂の聖歌隊席側廊にあるワイン居酒屋たちの祭壇には、うってつけでした。実は・・・何人かの居酒屋経営者たちが着飾った裕福な客として描かれてたのです。場面は・・・ルネサンス様式の室内で満席の食卓には、高価な陶器を誇示するかのように並べています。絢爛さに大きな注意が払われているため一見、宗教画というよりは、世俗画のような印象を与えます。マールテン・デ・フォスは・・・長期にわたってイタリアに滞在したことがあり当時最も知られた画家の一人でした。この作品において彼は、フランドルとヴェネチィアの影響を見事に統合しています。・・・有名な題材が続きます・・・オットー・ファン・フォーンOtto VAN VEENHet laatste Avondaal「最後の晩餐」ALTAARSTUK VAN DE BROEDERSCHAP VAN HET ALLERHEILIGSTE SACRAMENT聖体秘蹟会の祭壇1592年 カンバスに油絵縦=350cm 横=247cm『聖母大聖堂所蔵』キリストが弟子たちとともに食卓につきパンとワインを聖別して次のように言います。「私の記念としてこれを行いなさい。」これこそが聖体の秘蹟の制度でありまたキリストにおける救いの教えを明かした瞬間でした。弟子の中には、彼らのうちの一人が師を裏切るだろうというキリストの告知に気をとられこの劇的な出来事にほとんど気がついていないものもいるようです。どんな些細な嫌疑からも逃れようとしてユダは、集まりから顔をそらし杯にワインを注ぎ足しています。一般にこの絵は・・・オットー・ファン・フェーンの作品の最高峰であると考えられています。聖体のために奉献された「尊者の礼拝堂」の祭壇のために制作されました。大きい「礼拝堂」です。フランス・フランケンFrans FRANCKENChristus onder de schriftgeleerden「律法学者のもとでのキリスト」ALTAARSTUK VAN HET SCHOOLMEESTERSGILDEEN HET ZEEPZIEDERSMBACHT職人の祭壇1560年頃 油絵パネル縦=250cm 横=220cm(中央パネル)縦=250cm 横=97cm(両翼パネル)『聖母大聖堂所蔵』教師と石鹸製造職人は・・・聖堂で祭壇を共有しておりこの三連画をフランス・フランケンに注文しました。教師たちの方が・・・懐具合(ふところぐあい)がよく主題の選択にもそのことが現れています。中央パネルには・・・20代のキリストが律法学者に教授している場面が左翼パネルには・・・アンブロジウスに洗礼を受ける教父アウグスティヌスが描かれています。アンブロジウスは、教師の守護聖人です。右翼パネルは・・・油の奇蹟が描かれています。預言者エリシャは、底に残った僅かな油をたくさんの壺を満たすまで増やしサレプタの寡婦(かふ)がそれを売って借金から逃れるのを助けたのでした。かつて知られていなかったこのエピソードは、石鹸製造職人に関連しています。油は、石鹸の原料であるからです。さぁ~私の宗教画の鑑賞も・・・おわりそろそろ、入口まで戻りましょうか?ヤン・ファーブルJan Fabre『十字架を持つ男』輝く銅像394cm×200cm×100cm大聖堂に入ると・・・すぐに金ピカの男が大聖堂のすべての訪問者にとって鏡のような存在でありたいこの銅像は・・・あなたにもその十字架をバランス良く持たせそれをどのように感じるか体験させたい!!なるほど・・・鏡の様な存在に。深いですね~哲学的であります。バランスって大切ですよね心のバランス世界のバランスまで最後に『聖母大聖堂内のショップ』お土産屋さんで欲しかった物大天使ミカエル欲しいです~19.8ユーロ(約2500円?思ったより高いです)小さな聖母マリアに天使たち14.8ユーロ下にセットもありますね~何だか私にも作れる気がします~辞めとこううう・・・見るだけでしたそれでは、大聖堂を出て「フランダースの犬」のモニュメントへGO・・・つづく・・・ランキングは・・・【6位】かなっ。聖母大聖堂にぽち
2019.08.03
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聖母大聖堂でルーベンスの聖母被昇天を独り占めの鑑賞をし終え上を見上げると・・・♪高い高い天井にも聖母被昇天を発見!!きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第106回アントワープ『聖母大聖堂』中央「主祭壇」2019年4月11日(木)ほしのきらり撮影。主祭壇の絵画は・・・ピーテル・パウル・ルーベンス作『聖母被昇天』1725年~1626年作縦=490cm 横=325cmアントワープ『聖母大聖堂所蔵』主祭壇の前には・・・空中の十字架があります。空中の十字架の上を見上げると天井画が右には、パイプオルガンここは『祝福の塔』大聖堂の「身廊」と「翼廊」の交叉部分です。高さは、43m。堂内で一番高い部分になっています。外から見るとドームになっています。窓が囲んでいますが~ステンドガラスが無いのでここから、明るい光が入ってくるのですね。まさに天空天井を見上げていると首が痛くなってしまい一度、首の運動をしてから再度みあげ何しろ43mもの高さですから肉眼では、何が描かれているかは・・・デジカメで、ズームしてみるとあああっ。『聖母被昇天』1647年「コルネリウス・シュット」作直径=580cmルーベンスの『聖母被昇天』に似ておりますね~ルーベンスの描いた「聖母マリア」が昇っていったイメージですスカートの中が丁度ドームの中心になっていますね聖母マリアは、天国へ到着したのでしょうか?マリアを導いた天使たちと、ハープを持った女性が。これは、天界でしょう白い鳩から光がさしています。聖母マリアは、少し若返ったように見えます。見事ですね~しかし、めっちゃ~首が痛くなりました肉眼やスマホでは、ここまで見る事は出来ませんので・・・望遠鏡・オペラグラス必要です。一眼レフのカメラだともっと良いかもですが?アニメ「フランダースの犬」少年ネロも昇ったのでしょうか?・・・つづく・・・ランキングはさて7位かな?6位とな!感謝です。聖母大聖堂にぽち
2019.08.02
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さぁ~お待たせ致しました♪今回の旅で誰もが知る名画の前に再び立つことが出来ました。2011年4月11日(木)友人ミーちゃんと2人旅で訪問。巨匠=ルーベンスの代表作『キリスト昇架』でありますきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第103回Onze-Lieve-Vrouw Kathedraalオンゼ・リーヴェ・フロウ・カテドラル(オランダ語)アントワープ「聖母大聖堂」画家を目指した少年「ネロ」が憧れたルーベンスの名画です。ピーター・パウル・ルーベンスPeter Paul RubensThe Elevation of the Cross「キリスト昇架」十字架昇架アントワープ『聖母大聖堂所蔵』1610年-1611年 油絵パネル縦=460cm 横=340cm(中央パネル)縦=460cm 横=150cm(両翼パネル)もともとは・・・アントワープ『聖ヴァルブルガ教会』の主祭壇画であった。19世紀初めに「フランス軍」に強奪されパリに持ち去られる。1815年、アントワープに戻る。1816年~『聖母大聖堂』に安置される。王の画家にして 画家の王ルーベンスが・・・ローマから戻り最初に手掛け力を振るったルーベンス随一の代表作「三連祭壇画」であります。作品は・・・ネーデルランドに「バロック美術」と呼ばれる様式が広まるきっかけとなりました。【中央パネル】(中央パネル)縦=460cm 横=340cmイエス・キリストは・・・頭にいばらの冠をかぶせられ両腕は、やや高めに挙げられ、筋肉質の腕であり手の甲は、釘で十字架に打ちつけられ赤い血液が手首まで流れ、力強く表現されています。イエスの体は、十字架に沿うように左上から、右下へと画面全体を斜めにダイナミックな身体表現で2本の足を重ねた形で美しく揃えられ釘で十字架に打ちつけられております。ルーベンスは・・・ローマから帰国した直後の制作でありヴァチカンでミケランジェロの「最後の審判」を観てきたばかりそのミケランジェロは・・・ヴァチカンの「ラオコーン」に影響され「最後の審判」を制作。勿論、ルーベンスも「ラオコーン」をしっかり観て来たのであります。彫刻が本職とした「ミケランジェロ」の力強さがアントワープにそのまま直で持って来てルーベンスは、このカンヴァスに表現したのであります。キリストを十字架に釘で打ち持ち上げる男たち地面で、キリストを十字架に打ちつけ力強くロープで持ち上げる男たちの筋肉は・・・ラオコーンの後姿か?むしろヴァチカンの「ベルベデーレのトルソ」の影響も強いと私は、考えます。左翼パネルには・・・縦=460cm 横=150cm左翼パネルの下部には・・・女性や子どもたちが多く描かれました。イエスが、十字架に架けられる瞬間を見て抱いる子どもを落としそうになりながらのけ反る女性老婆は、目を真ん丸に見開きイエスを見ています。上部には・・・左上に立つ「洗礼者ヨハネ」その右に立つ「聖母マリア」がこの出来事を見守っているか?の様な姿が描かれました。右翼パネルには・・・縦=460cm 横=150cm右翼パネルには・・・大きく「馬」が描かれています荒々しく白い鬣をなびかせた馬に乗るのは、キリストの磔刑に処するように指示を出すローマ軍の司令官が恐ろしい顔で描かれています。後方には・・・キリストと共に磔刑を受ける泥棒が2名男たちに腕をつかまれ連行されていてもう一人は、寝転んだ形ですでに十字架にくくられています。泥棒と一緒に処されるとは・・・悔しい私は、三連祭壇画を鑑賞する時は、必ず裏側に周って行くのでありますそれは、3連祭壇画は、両開きの三面鏡のように開かれた状態だからです。閉じられた時の正面となる絵画がほとんど描かれておりますさぁ~ルーベンスの『キリスト昇架』裏側の装飾は裏翼には・・・「左翼パネル」の裏側2人の聖人が描かれて上部に天使が飛んでいます。「右翼パネル」の裏側は・・・こちらも2人の姿が描か天使が上部に舞っており両翼を閉じると聖人たちが向かい合う状態に治まります。ルーベンスの代表作『キリスト昇架』は・・・アニメ『フランダースの犬』最終回の舞台であります。愛犬パトラッシュは・・・大聖堂でルーベンスの絵を見ながら行き倒れなっているネロを見つける。ネロは、パトラッシュに「パトラッシュ、疲れたろう~僕も疲れたんだ。なんだか、とても眠いんだ」と言い・・・ネロは、両親のいる天国へと旅立った。もう~辛いこともなくいつまでも末永く平和に暮らすのでした。(フィクションです。)・・・大聖堂の話は、つづく・・・ネロにぽち
2019.07.30
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聖母大聖堂(アントワープ・ノートルダム大聖堂)には、多くの三連祭壇画を観る事ができます。2019年4月11日(木)ほしのきらり&ミーちゃん2名で訪問。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第102回アントワープ「聖母大聖堂」Onze-Lieve-Vrouw Kathedraalオンゼ・リーヴェ・フロウ・カテドラル(オランダ語)大聖堂の身廊に多くの素晴らしい「三連祭壇画」があります。しっかり観て行きましょう何が描かれているのでしょうか?『王立美術館所蔵』クィンテン・メツァイスQuinten MetsijsDe bewening「嘆き」ALTAARSTUK VAN HET SCHRIJNWERKERSAMBACHT家具職人組合の祭壇画1509年から1511年 油絵パネル縦=260cm 横=263cm(中央パネル)縦=260cm 横=120cm(両翼パネル)『王立美術館所蔵』クィンテン・メツェイスは・・・16世紀初期においてアントワープで最も傑出した画家であると見なされていました。誉れ高き家具職人組合が新しい祭壇画の発注に際して彼に、白羽の矢を立てたのも当然のことといえるでしょう。本作品は・・・光と色彩に溢れたものになっておりこれは、注文主の希望によるものに違いありません。しかし、この作品に陶然としたのは、注文主ばかりではありませんでした。1577年には、スペイン王フィリップスII世、イギリス女王エリザベスI世もこの作品を入手しようと試みたのです。組合は、この申し出に屈しそうになりましたがマールテン・デ・フォスは、アントワープからの流出を防ぐために市当局がこの絵を獲得するように説得しました。構図におけるマドロッドのプラド美術館所蔵のロヒエー・ファン・デア・ウェイデン作の「キリスト降下図」の影響が明らかにみられます。ヘンドリク・ファン・バレンHendrik van Balen1573・1575-1632.7.17Johannes predikt in het bos「森で預言するヨハネ」ALTAARSTUK VOOR HET SCHRIJNWERKERSAMBACHT家具職人の祭壇1622年頃 油絵パネル縦=270cm 横=201cm(中央パネル)『アントワープ王立美術館所蔵』縦=270cm 横=85cm(両翼パネル)『聖母大聖堂所蔵』16世紀に・・・クインテン・メツァイスに傑作『嘆き』を注文したことのある家具職人は、1620年から1622年の間にヘンドリク・ファン・バレンに新たに祭壇画の制作を依頼しました。メツァイスは・・・職人たちの守護聖人である洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネを両パネルに描きましたが・・・ここでは、ヨハネの説教が題材の中心を担っています。左翼パネルには・・・水を浴びるイエスーヨルダン川での洗礼(?)ーが前景に描かれ右翼パネルには・・・ヘロデ王が義理の妹との不貞をしたことを咎める洗礼者ヨハネを見ることができます。ヘンドリック・ファン・バレンは・・・多才な芸術家でした。肖像画や祭壇画と並んで神話やアレゴリーに題材を採った家具用の細密画も製作していたのです。ハンス・ファン・エルブルフトアンブロジウス・フランケン(周辺)作Hans VAN Elburcht enAmbrosius FranckenWonderbare visvangst「奇跡の大漁」ALTAARSTUK VAN HET VISVERKOPERSAMBACHT魚屋の祭壇1560年頃・16世紀後期 油絵パネル縦=190cm 横=167cm(中央パネル)縦=50cm 横=69cm(膝つき台装飾画)『聖母大聖堂所蔵』復活したキリストが・・・弟子たちの前に現れます。彼らは、ティベリアス湖で漁をしています。そして網に大量の魚が掛かっていることに気がつきます。キリストは・・・彼らを岸へと呼び寄せ素朴な漁師であったペテロを教会の最高司祭に任命します。魚屋が祭壇画を注文するのにこれほど適した題材は、ほかに考えられません!ファン・エルブルフトのこの絵は・・・もともと三連画のパネルでした。比較的描かれることが稀な聖ピリポと聖ヤコブの障害から採られた場面が、両翼パネルに描かれていました。16世紀の終わりにパネルの端が切り落され新しい祭壇画枠に嵌め込まれたようです。おそらくその時に使徒の召命の場面が足つき台に描かれたものと思われます。・・・ルーベンスの代表作につづく・・・聖母大聖堂にぽち
2019.07.29
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アニメ「フランダースの犬」で有名になったノートルダム大聖堂【世界遺産】聖母大聖堂には、ルーベンスをはじめとして、驚くほど多くの宗教画が掲げられております。まず「聖母大聖堂」のジオラマからきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第99回Onze-Lieve-Vrouw Kathedraalオンゼ・リーヴェ・フロウ・カテドラル【世界遺産】聖母大聖堂教派=ローマカトリック創設日=12世紀以前守護聖人=聖母マリア設計者=ペーター・アッペルマン様式=ゴシック様式着工=1352年完成=1521年尖塔数=1(南塔は未完成)尖塔の高さ=123m塔には・・・615段の階段があります。世界遺産=ベルギーとフランスの鐘楼群を構成する建築物のひとつとして登録されております「聖母大聖堂」内に掲げられた宗教画を観てゆきましょう05・06ー15・11・2009CATHEDRAL OF OUR LADYANTWERPRE・U・NIONQuintenMETSIJSPeter Paul RUBENSアンブロジウス・フランケンAmbrosius FranckenPrediking van de heilige Eligius van Noyon「ノワイヨンの聖エリギウスの説教」4LTAAESTUK VAN HET SMEDENAMBACHT鍛冶職人の祭壇1588年油彩パネル縦=250cm 横=180cm(中央パネル)縦=260cm 横=89cm(両翼パネル)『アントワープ王立美術館所蔵』教会を満たした鍛冶屋職人やそのほかの聴衆に、司教の祭服に身を包んだ「聖エリギウス」が説教をしています。これが、(当時未完成であった)アントワープの聖ワルブルヒス教会の内部であることが明らかに見て取れます。ここには・・・1885年まで、鍛冶屋職人たちの礼拝堂が置かれていました。両翼パネルには・・・聖エリギウスがよく知られる由来となった数々の善行が描かれています。左パネルでは・・・足の不自由なものを助け死者を埋葬しています。翼裏では・・・聖人が鍛冶場で仕事をしている様子が見られ司教に叙任されている場面を目撃することになります。鍛冶職人の守護聖人に捧げられたこの三連画は、アントワープの有名な宗教的歴史画家「アンブロジウス・フランケン」のよって大聖堂のために制作された最初の祭壇画でした。バーレント・ファン・オルレィBarend van OrleyLaatste Oordeel met de zeven Werken van barmhartighid「最後の審判と7つの慈善の行い」救貧院付司祭の祭壇画ALTAARSTUK VAN DEAALMOEZENIERS VAN DE ARMENKAMER1517年から1524・25年頃 油絵パネル縦=248cm 横=218cm(中央パネル)縦=248cm 横=94cm(両翼パネル)『アントワープ市王立美術館蔵』アンシャンレジーム期を通じて貧民と病人救済は、教会と信心会の人々の宗教的な動機によるものが大部分を占めていました。救貧院の果たした役割は、大きなものだったのです。その救貧院付の司祭のためにバーレント・ファン・オルレィにより描かれたこの三連画において、慈善の行いと持たざる者への介護が重要な位置を占めています。最後の審判の日に、司祭たちは、安息の気持ちを持って判事の前へと進み出ることができるのは、その善き行いのおかげである一方で前景地面の右手にいるこじきとミギパネル前景の男の艶やかな服装には、誰もが辿りうる運命への警告の意味が込められておりまた、司祭の地位へとかれたを勧誘した司祭が伝統的に享受していた安楽な境遇を表わしてもいるのです。・・・つづく・・・聖母大聖堂にぽち
2019.07.26
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ベルギー・アントワープ【世界遺産】聖母大聖堂(ノートルダム大聖堂)に到着しました~2019年4月11日(木)友人ミーちゃんと訪問。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第98回Onze-Lieve-Vrouwekathedraal「聖母大聖堂」「聖母大聖堂」ノートルダム大聖堂・第2の塔の下まで来ました。おやっ!?少女がお手伝い?この銅像は大聖堂の建設に携わった建築家「ペーター・アッペルマン」の功績を讃える記念像。12世紀の大聖堂の前身は「ロマネスク様式」の聖堂であったが1352年「ブラバント・ゴシック様式」の大規模な建築物を建てた。「ジャン・アッペルマン」と「ペーター・アッペルマン」父子により徐々に大聖堂の内陣、西側正面、身廊と建築が進み1472年~1500年「ヘルマン・デ・ワーマーケレ」の設計により2つの側廊を完成させた。彼は、16世紀のアントワープにとって最も重要な建築家であり・・・「シント・ヤコブ大聖堂」「畜産組合会館」「取引所」も設計した。ヘルマンの息子ドミーンが、アントワープの経済発展を背景に建設を一挙に進めた。1518年、北塔123m完成。ブルージュ「聖母教会」より1m高い!ネーデルラントで一番の高さを誇る当時のアントワープの発展を象徴する建築物であった。カール5世は・・・ネーデルラントで最も高い123mの北塔の完成を見て「この聖堂は、1つの王国に値する」という称賛を贈った。しかし1533年、火災により被害を受ける。ネーデルラントで最も美しい「ブラバント・ゴシック様式」の聖堂は破損してしまう!1559年、司教座聖堂となる。1566年、聖像破壊運動により、美術品が破壊される。17世紀初頭、巨匠「ピーテル・パウル・ルーベンス」がローマから帰国しアントワープに戻って来るとアルブレヒト大公とイザベラ大公妃の宮廷画家となり多数の祭壇画を制作した。『聖母大聖堂』に納められた『キリストの昇架』『キリストの降架』中央に納められた『聖母被昇天』は、当時の作品である。1801年、コンコルダートにより司教区が再編され、司教座を失った。1961年、アントワープ司教区が再設立され、再び司教座聖堂となる。1872年、イギリス出身の女性作家「ウィーダ」により『フランダースの犬』を出版。1975年1月5日~12月28日フジテレビ系で放映され視聴率30%を超える。2003年、聖堂前に記念碑が立てられ2017年、さらに新たな記念碑が建立された。さぁ~それでは大聖堂内に入ってみましょうすぐに・・・聖母子像があり蝋燭が並んでおります。この聖母大聖堂の守護聖人は「聖母マリア」なのであります大聖堂の正面を見ると・・・思ったより多くの絵画や彫刻が見えます。もう昔~18年程前に訪問していたのに多くの作品があった記憶がありません!冬の訪問でお天気が悪く暗かったせいでしょうか?今回は晴天であり、ステンドグラスにも目が向きます。大聖堂壁(右側面)ステンドグラス素晴らしいですね大聖堂の窓口は、128面あり・・・その中で54面がステンドグラスそれぞれ時代も様々であり統一されておりませんが(左側面)ステンドグラス外部からの光を得て美しく映し出され私たちは、大聖堂と言う「神さまの家」に入りそこには、神秘的な体験が待っているのであります。この日の私たちは、確かに神さまの光を受けて見事なステンドグラスを観る事ができたのでありますそれでは、聖堂に安置された見事な作品を後部から順に観てまいりましょう~おっと~同行のミーちゃんは・・・いきなり聖堂奥に進みルーベンスの代表作へ直行・・・つづく・・・世界遺産にぽちお願いネ
2019.07.25
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「アントウェルペンはヨーロッパの女王都市である!」と形容した16世紀のフィレンッエの歴史家ロドヴィコ・グイッチャルディーニ。「ネーデルラントのローマ」と評し「重厚な大理石の美しい建物を見よ!善き習慣、工人たちの仕事など、すべてがローマの栄光のように呼吸している」と讃えたイギリス人ダニエル・ロジャーズ。きらりのわがまま『ベルギー』・・・第97回さぁ~当時のゴシック様式の代表的な建築物が見えてまいりましたGROEN PLAATS「フルン広場」2019年4月11日(木)ほしのきらり。撮影フルン広場から見えるのは・・・【世界遺産】ノートルダム大聖堂?聖母大聖堂?Onze-Lieve-Vrouwekathedraal(現地アントワープ・オランダ語での呼び名です)フランス語では、Catedrale Notre-Dame英語では、Cathedral of Our Lady日本語では・・・フラン語訳の「ノートルダム大聖堂」と英語訳の「聖母大聖堂」と2種類で呼ばれております。ノートルダム大聖堂と呼ぶと火災で有名になったパリの「ノートルダム大聖堂」を思い浮かべてしましますが、こちらは・・・アニメ「フランダースの犬」で有名になった大聖堂であります。「我らが貴婦人の聖堂」すなわち・・・聖母マリアに献堂された事を意味するので『聖母大聖堂』と呼びたく思います。『聖母大聖堂』は・・・【世界遺産】ベルギーとフランスの鐘楼群を構成する建築物のひとつ。であります【世界遺産】の鐘楼群のひとつとして登録されました。その優美な姿を眺めることができる「フルン広場」であります。1518年に完成した北塔は123mブルージュの「聖母教会」122mを超えて当時のネーデルラントで一番の高さを誇る建築物でありアントワープの発展を象徴する建築物であったのです。フルン広場から並んで見えているのは・・「ルーベンス像」ルーベンス・・・とは?ピーテル・パウル・ルーベンスPeter Paul Rubens1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)ベルギー・アントワープにて没する。ルーベンスは、バロック期・フランドルの画家・外交官祭壇画・肖像画・神話画・寓意画・歴史画などを描いた。画業だけでなく7か国語を話し「外交官」として活躍。古典的な知識を持つ「人文主義学者」であり「美術収集家」でもあった。代表作は・・・アントワープ『聖母大聖堂』のルーベンス『キリスト昇架』1610年-1611年ルーベンス『キリスト降架』1611年-1614年Petro Paulo Rubens台座のネームは「ピエトロ・パウロ・ルーベンス」と記してあります。外交官でもあり、イタリアで絵画の修業重ねたルーベンスは、イタリア語の表記であるこの名前も大切にしておりました。それは・・・イタリアでの修業の途中で母の危篤を知りアントワープに戻ってくる前にもう一度ローマに戻る事を願って名乗ったネームであります。結局は、母の最後を看取ることはできなかったのですがローマへ戻る願いも叶わずにアントワープで暮らす事になりました。ルーベンスは、アントワープで自宅を建設し、工房を構えて制作を続け成功した人生を送ったのであります。フルン広場から見えるのは・・・ HILTON 「ヒルトン・ホテル」ここに宿泊すれば便利ですね~【世界遺産】ノートルダム大聖堂は、目の前です「フルン広場」を通り抜けて大聖堂に向いましょう~広場を囲むようにカフェがあります。鐘楼の方角に進む道へ進みましょう~東洋風のレストランがあります。彼らが食べていたのは「やきそば」でありますはははっベルギーにも「割りばし」あるのですね~頑張って2本の「割りばし」を使おうと苦心しております。いや~「割りばし」を楽しんでいるようでした【世界遺産】聖母大聖堂は、すぐです。世界遺産にぽち
2019.07.24
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ピンポン『令和』となり最初のブログであります『令和』明けましておめでとうございます本年号もよろしくお願いいたします。きらりの【世界遺産】&【世界の美術館】を巡る旅勝手にダラダラと続けておりますが~退屈と思われながらもまだまだ『令和』に改元されても『平成』のブログを続けて参ろうかと~都合よくですねさて~14年目となった『きらりの旅日記』平成31年最後の4月は・・・ベルギーとルクセンブルクへミーちゃんと2人で行ってまいりました。いやいや~色々とありまして~どうでしょう?お恥ずかしい旅でありますが行きたい所に全部、行けただけで満足な旅でありました。とりあえず4月16日に無事、帰国できたことは、喜びでありました。・・・つづく・・・『令和』にぽち
2019.05.01
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パリ・ノートルダム大聖堂を最初に訪れたのは、もう20年前で私の初めての海外旅行でした。そんな初めて来た外国で最初に訪問した【世界遺産】当時は、まだデジタル時代となっておりませんから~(これは8年前)2012年1月の画像です。この美しいステンドガラスに当時は、感動致しました。画像をただご覧くださいませ~大きな聖母子像は、ご無事でしょうか?一番心配なのは・・・巨大な絵画たち・・・フラッシュ禁止で暗いのでボケておりますが・・・素晴らしい色彩であります。世界中から宗徒や観光客が来ております。この辺りは、壊滅的な部分であると・・・もう~悲しいです。こうして見ると焼けやすい部分が多く・・・こちらは、正面ですね。素晴らしいですね~こちらは、多分側面近寄って見ると・・・昔、字が読めない人の為に絵で説明をした貴重な美しい作品たち祭壇です。天井からの灯かりは、運び出せたのでしょうか?立派な柱ですね~改めて感じます。この時は、1月の末ですが・・・クリスマスの飾りが大聖堂の中まで幻想的に飾ってありました。壁には、古い壁画があります。下は、クリスマス飾りです。ノートルダムの規模はやはり違いますね~どうでしょう~凄いですよね首が痛くなります・・・今回の火災で大きな穴が空き空が見えていた天井部分世界60カ国を旅してまいりましたが~これほど荘厳な造りは無いと思うのであります。と言うか~きらりの世界遺産旅の出発点であります。ですから大切な場所「聖地」でもある訳であります。2018年4月訪問時には・・・すでにクレーンが1年前には、修復工事が始まっていますね。じっくり時間が掛かっても修復して欲しいですが今度は、違うデザインになるかもですね。世界遺産にぽち押してネ
2019.04.20
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2012年1月の訪問です。この時は何度も『ノートルダム大聖堂』を訪れました。お天気がよいですね~少し雲も朝でしょうか???夕陽ですか?1月末なのにまだ正面にクリスマスツリーがありますほしのきらり撮影。私と友人ミーちゃんは、大聖堂に上ろうと来たのですが・・・公開時間がどうもタイミング悪く美しいですね~遠くから見てもまだ撮影してます。どんだけ好きなのこの年は、何度も大聖堂に行ってのですね。最近では、写真さえありませんが・・・それでは、内部の素晴らしいお宝映像は、明日に今回の火災で焼け落ちた部分です。もう~このお姿が見れないのでしょうか?・・・内部画像につづく・・・世界遺産にぽちお願いネ
2019.04.19
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昨日午後にベルギー&ルクセンブルクの旅から帰りました(^0^)8日間の自由旅は、かなりハードでありました~まぁそんな計画を全部実行できるとは・・・少し自信が無かったのですがなんとか~予定をクリアーできましたまぁ~ミーちゃんとの2人旅だからこそ成し遂げられたと思うのであります。それより、何より・・・帰りの飛行機でニュースを開くと・・・LIVE映像が入って来たのですNOTRE-DAME CATHEDRAL FIRE何?何が起きたの信じられない映像ですあの阪神大震災のようなニューヨークの9・11のような東関東大震災のような映像が・・・BBCをはじめ各放送局の全てが【世界遺産】ノートルダム大聖堂が炎上しているLIVE映像です。マクロン大統領も視察に来ました!LIVE映像は、飛行時間の12時間続き鎮火しました。中の宝物が心配ですが運び出したとの映像もありますがあの美しいステンドグラスは失われたのでしょうか?パリのノートルダム大聖堂は、私が初めての海外旅行で訪れた最初の【世界遺産】であり・・・あの時の感動から20年間に60か国までを訪問する出発点となった場所でもあります。あれから何度もパリ訪問をいたしましたがそこには、いつも貴婦人のような姿で迎えてくれたいつでも美しい大聖堂が当たり前のようにいらしたのであります。それにしても、その後の様子は日本に戻り報道が少なく感じます。ちょっと残念ですよね~世界の宝ですよ・・・あの美しいお姿あのユニークな建築物を生きている内に見ることが叶うのでしょうか?旅の疲れがドット出て、うまく表現できませんがそれでは、明日までゆっくり休みます。世界遺産にぽち押してネ
2019.04.17
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