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ベルギーとルクセンブルクの旅を計画しています(^0^)Vおやっ知らない世界遺産が多いですね♪ベルギーの世界遺産・・・とは?1.フランドル地方のベギン会 Flemish Beguingages2.サントル運河にかかる4機の水力式リフトとその周辺のラ・ルヴィェール The Four Lifts on the canal du Cantre and their Environs, La Louviere and Le Roeulx3.ブリュッセルのグラン・プラス La Grand-Place,Brussels4.ベルギーとフランスの鐘楼群 Belfries of Belgium and France5.ブルージュ歴史地区 Historic Centre of Brugge6.建築家ヴィクトール・オルタによる主な邸宅群 Major Town Hauses of the architect Victor Horta(Brussls)7.スピンヌの新化石器時代の火打石の鉱山発掘地(モンス) Neolithic Flint Mines at Spiennes(Mons)8.トゥルネーの聖母大聖堂 Notre-Dame Cathed in Tournai9.プランタン・モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体 Plantin-Moretus House-Workshops-Museum Complex10.ストックレー邸 Stoclet House11.ワロン地方の主要な鉱山遺跡群 Major Mining Sites of Walloniaルクセンブルクの世界遺産・・・とは? 1.ルクセンブルク市の旧市街と要塞群 City of Luxembourg:its old Quarters and Fortifications世界遺産にぽち押してネ
2019.04.07
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オランダの街並みを散歩して私が計画した「アムス半日街歩き」を何とか無事に終わりホテルに戻って来れました【アムステルダム半日街歩き計画】マヘレの跳ね橋⇒レンブラントの家⇒ムントの塔⇒世界遺産シンゲル運河⇒シンゲルの花市⇒アムステルダム国立美術館⇒(トラムでスリに遭遇)⇒ホテル⇒レンブラント広場⇒中央駅⇒空港きらりのわがままオランダ旅日記・・第136回2018年11月4日(日)完璧な半日観光からホテルに戻り「帰国」です【世界遺産】オランダの運河と街並みの中にあるホテルに宿泊するめちゃ~めちゃ幸せな旅でありましたホテルから・・・トラムの『レンブラント広場』Rembrandtplinの近くでありましたレンブラント広場からトラムに乗ってアムステルダム中央駅まで行きます。レンブラント像とも「夜警」の実物大彫刻ともお別れですアムステルダム市内で「72時間乗り放題」バス・トラム・地下鉄乗り放題の切符を購入してとても便利にほぼ72時間使い果たしました!最後には、ホテルから中央駅までトラムに乗車5分で、到着ですアムステルダム中央駅⇒空港「スキポール・エアポート」までの切符は往復切符を買って居たので・・・帰りは、お金を支払う事無く「空港」へ・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.03.29
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【世界遺産】17世紀の環境運河は、オランダの黄金時代に掘られたものであります♪17世紀の環境運河地区は、ユネスコの世界遺産に2010年に登録されましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第133回シンゲル運河は、ムントの塔から直ぐです。アムステルダムの中心街を半円形に囲む運河の外堀でありました。運河沿いに並ぶビニール・ハウスが・・・シンゲルの花市場でありますこの花市場の歴史は1862年に始まりました。花の運搬ルートとして運河を利用し街の中心へ運んでいたのです。始めは、舟から花を販売していたそうでありますが・・・現在は、運河の上にビニール・ハウス型のお店が運河沿いに並んでおり半分は、道路の上と言う感じですねやはりオランダ・・・と言えば「チューリップ」ですよね毎日、トラムに乗って通り過ぎる時。あ~っ!チューリップ屋さんがっ!夜遅くまで、明るく照らされて気になっていたのでありますが・・・ここが『シンゲルの花市』の入口だとは思いも寄りませんでした。ムント広場の「ムントの塔」から【世界遺産】シンゲル運河沿いを・・・コングス広場まで、続いております1袋・・・€.5 2袋・・・€.10安いです!!変わった種類は1袋・・・€.62袋・・・€.10めっちゃ~お買い得です!!これは(ハッパ?)もしかして日本に持ち込めないお品かもです(公然と販売されております)2018年11月4日(日)9:30頃そろそろ「チューリップ」の植え付けシーズンなので主にチューリップばかりが店頭に張り出して売っております。ムント広場から歩いてくると「右側」が花市場です。道路の反対側は、お土産屋さんやレストランが並んでおります。そろそろ花市場は、終わりに近づき振り返って見ると・・・日曜日の朝だからでしょうか?めっちゃ~空いております。「BONSAI」盆栽も人気みたいです。そろそろ花市場の終点「コニングス広場」です。ガーデニングが趣味のきらり。空港で、めっちゃ~高いチューリップをドッサリ買い込みましたチューリップの球根は、重たいものですね。「コニングス広場」Koningspleinからトラム乗り場は、すぐです。私たちは、最後の目的地「アムステルダム国立美術館」へGO))アムス散歩にぽち
2019.03.26
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【世界遺産】ヴァチカンの大本山サン・ピエトロ大聖堂の「宝物館」Museo del Tesoro di S.Pietro ・・・入口です宝物博物館入口 Museo del Tesoro di S.Pietro イエスが、両手を広げて招いておりますきらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』宝物館宝物館 Museo del Tesoro di S.Pietro ムゼオ・デル・テゾーロ・ディ・サン・ピエトロ 宝物館の入口は 左側の「クレメンティーナ礼拝堂」近く 聖具室 Sagrestiaと続き・・・ 宝物館の入口がありました。 夏季は・・・8:00~19:00 冬季は・・・8:00~18:15 料金は・・・€.8 オーディオガイド日本語版・・・€.3 たっぷりの時間が必要な程の宝物があるそうです 内部は撮影禁止区域なので想像するのみです。 (ゴメンナサイ~私はパス) たび重なる略奪で・・・ 多くの宝物が持ち去られたのですが 今なお数々の秀作が見れるらしいエルサレムの神殿で キリストが持たされたといわれる 「聖なる柱」。 6世紀、東ローマ帝国の皇帝から ローマに寄贈された 金と宝石で飾られた美しい 「十字架」などが見所 石棺、燈台など・・・ 歴代の法王の宝物や宗教儀式の用具などの展示 参考の写真も無いので・・・ ぜひ日本語オーディオガイドを借りて 1~2時間たっぷり鑑賞できたらと考えます。 ぜひ3度目の訪問が実現したならば・・・と考えますきらり。聖なる柱にぽち
2018.02.27
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【世界遺産】ヴァチカンのキリスト教の大本山サン・ピエトロ大聖堂の中には「教皇グレゴリウス13世の墓碑」が・・・どこかで聞いたことがありますがっ・・・グレゴリウス そうそう現在広く使われている「グレゴリウス暦」を採用したのが この教皇グレゴリウス13世であります。 どんな教皇だったのでしょうね教皇グレゴリウス13世の墓碑 2017年10月14日ほしのきらり撮影きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』教皇グレゴリウス13世教皇グレゴリウス13世って調べてみました グレゴリウス13世・・・とは? グレゴリウス13世 Gregorius XIII 1502年1月7日 - 1585年4月10日 第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年) 本名は、ウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni) 学問を好み、奨励したことで知られ その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃 グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名 ・・・教皇登位まで・・・ ウーゴは、イタリアのボローニャ生まれ 地元の名門ボローニャ大学で法学を修め 1530年に学位を得た。 その後、同大学で法学の教官として教壇に立っていた。 生徒の中にはカルロ・ボッロメーオやアレッサンドロ・ファルネーゼなどがいた。 36歳にして教皇パウルス3世によってローマへ招かれ 教会法関係の業務についた。 枢機卿にあげられたのは教皇ピウス4世の時代であり トリエント公会議にも参加している。 ・・・治世・・・ 教会改革とグレゴリウス暦の採用 1572年5月、教皇ピウス5世の死去を受けて おこなわれたコンクラーヴェにおいて ブオンコンパーニ枢機卿が新教皇に選ばれ グレゴリウス13世を名乗った。 教皇位についた彼が まず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革であった。 特にトリエント公会議の決議の実施を徹底させ、 不在司教が問題になっていたことを受けて 司教や枢機卿は自らの担当地域に住むことを徹底させた。 さらに公会議後に実施されることが決まっていた 禁書目録の作成を実行するため委員会を任命している。 グレゴリウス13世治世の事跡でもっとも有名なものは 何と言っても 「グレゴリオ暦」として知られる新暦の採用である。 ユリウス暦のずれはすでに数百年前に ロジャー・ベーコンによっても指摘されていたが、 トリエント公会議において 教皇庁への委託業務として 新暦の研究が決定されていた。 これを受けて教皇は、この業務のため シルレト枢機卿を長とする委員会を設立して検討させた。 委員会の中には当代随一の天文学者であった ドイツのイエズス会員クリストファー・クラヴィウスも含まれており、 時代の先端をゆく科学的事業であった。 この委員会の研究と決定を受けて 1582年2月に暦の切り替えの勅令が発せられ、 暦の切り替えは1582年10月におこなわれることになった。 まずカトリックの国である イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用され、 ユリウス暦の1582年10月5日が10月15日に改められた。 プロテスタント諸国は当時、暦であっても カトリックの影響力を受けるのは不本意として グレゴリオ暦を受け入れなかった。 また、正教会にあっては、教会暦の変更は 奉神礼の日時に多大な影響を被るものであり、 ローマ・カトリック教会の独断で 教会暦が変更される事は受け入れられるものではなく、 新暦採用は東西教会の亀裂を深めた。 しかしやがてこの暦は プロテスタント諸国・正教諸国を含めた世界中で採用されることになり 現代に至っている。 ただし正教会に属する教会のうち幾つかの教会 (エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会など) では、当該地域の世俗国家はグレゴリオ暦を使用していても (イスラエル、ロシア、日本など)、 依然として教会内ではユリウス暦が使用されている。 また、法学者として ピウス5世時代に始められた教会法の改訂もおこなわせており、 『教会法集成』として完成させた。 ・・・外交政策・・・ 政治的には教皇はイスラム教国への対抗姿勢を示しつつも、 プロテスタント諸国の動向が気になっていた。 彼は聖職者養成のため、多くの神学校を設立し、 イエズス会の教育事業を強力に後押ししている。 この時代、イエズス会は多くの学校をヨーロッパに設立している。 中でも有名だったのが、 ローマにあったローマ学院である。 これは優れた聖職者を養成するために設立されたものであったが 教皇はローマ学院に大規模な援助を行い、 その規模を拡張させた。 教皇のこの業績はこの学校の現在もつづく名称である 「グレゴリアン大学」という名前に記念されている。 カトリック諸国のリーダーとして、 教皇がイングランド女王エリザベス1世の統治の転覆を支援したことは イギリスにおいてカトリック教徒が敵視される原因をつくってしまった。 1578年には自らの軍勢を与えたトーマス・スタークレーに命じて イギリスの膝元であったアイルランドへの侵攻をおこなわせようとしたが、 スタークレーは与えられた軍をもってポルトガル王セバスティアン1世と合流し、 モロッコ攻撃 (アルカセル・キビールの戦い)をおこなってしまったため 企図は果たせなかった (スタークレーとセバスティアンは戦死)。 1572年8月にフランスでサン・バルテルミの虐殺が起こって プロテスタント支持者たちが多数殺害されると、 「テ・デウム」を歌って神を賛美し、 記念メダルを作らせている。 ただ、この教皇の行動はプロテスタントの死を喜んだのではなく、 フランス王や実行者側がこの虐殺事件を、 王に対する反乱の計画者たちの誅殺であると国外に巧みに喧伝したため、 それを教皇が信じていたためという見方もある。 ローマにおいては サン・ピエトロ大聖堂にグレゴリウス聖堂を建築し、 1580年には現在でも首相公邸として用いられている クイリナーレ宮殿を造営させている。 さらにディオクレティアヌス浴場を穀倉に改造もしている。 これらの資金は 教皇領内の資産を没収するなどしておこなったため、 貴族たちの反感を集め、 統治に混乱をきたすことにもなった。 また、愛人との間にもうけた庶子ジャコモを引き立てて、 サンタンジェロ城の城主、 教皇領国務長官などに抜擢している。 教皇の歓心を買おうとしたヴェネツィア共和国は このジャコモを貴族に加え、 スペイン王フェリペ2世は将軍位を与えている。 ちなみに天正遣欧使節の少年たちは、 この教皇の治世最晩年にあたる 1585年3月に教皇の謁見を受け、 ローマ市内でも大歓迎を受けた。 なお、現存する最古の教皇冠は グレゴリウス13世時代のものである。 グレゴリウスにぽち
2018.02.26
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バチカン市国「サン・ピエトロ大聖堂」の中で圧倒されるのが個性的な中央にあるネジネジの柱ですきらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』ブロンズの天蓋 いよいよサン・ピエトロ大聖堂の中心に進んで来ました! ブロンズの天蓋 Baldacchino di Bronzo 大きいですね~巨匠 ベルニーニ作ですネジネジの柱に圧倒されますね~近くで見ると圧巻高さは・・・29m ブロンズ製なので重厚感たっぷりですよね~ この天蓋は、古い時代にはパンテオンにあったものだと記憶しておりますが (間違って居たらすみません) 土台には、3匹の蜂の紋章がありました。ローマの街のあちこちで見つかる「教皇の紋章」ですその真下のC.マデルノによる祭壇の下には 「聖ペテロの墓」Tomba di S.Pietro があり最も神聖な場所とされています。 真上には、一番大きな「クーポラ」が天から眩い光が指します~一番神聖な場所に来たという気持が盛り上がりますよね~流石の【世界遺産】に納得せざるを得ません納得したらぽち
2018.02.22
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ヴァチカンで“右足に触ると幸せになる像”があるとの噂を聞き、とっても楽しみにやって来たのは2017年10月14日の午後であります(^0^)ウキウキ♪きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』触ると幸せになる像サン・ピエトロ大聖堂の中を進むと・・・行列が出来ておりますあ~もしかしたらこれでしょう右足に触れながら・・・一心に願う人がっ『聖ペテロの像』聖ペテロさまの像ですね“右足に触れると幸せになる”ふふふっ。何の努力も無しに・・・触れるだけで「幸」って好きですね~絶対に人気があるのは世界共通のようで行列は、聖ペテロさまの銅像から3m程後ろから始まっていて自分の番が来ると・・・3mほど前に進みひとりずつ十字をきったりして・・・おもむろに右足に触れる儀式の様になっておりました。待ち時間にアイフォンで写真を写す人も多いです。行列は、3列ほどになっていて私たちも最後尾に並びますもうすぐね~楽しみだわと、並んでいたら・・・な・な・なんと~右から旗を持ったガイドが20名程のグループを引き連れ並んでいる私たちを全く無視し全員が右手を出して『聖ペテロ』さまの右足に一秒づつ降れて見事に20人程が通り抜けて行きましたあちゃ~っ行列をしていた私たちは、口をあんぐり開けたままで声も出ませんでしたはぁ~しかし、図々しいグループも居たものです・・・それが日本人グループで無くて・・・本当にホッとしましたあれは、相当に慣れていて・・ガイドが指示しているとしか思えない統率がとれていて驚く「チャイナ軍団?」であります。それにしても日本人グループには、遭遇しませんでしたね~昔は、旗を持った日本人グループがいっぱいだったのにヴァチカンも、ローマも少なくなりました。まぁ~個人旅行が増えているのかも知れませんが・・・「聖ペテロの像」には、きちんと並び右足に降れていや~ペテロさまの右足は、金ピカでした。さぁ~いよいよですネジネジ柱の祭壇がっヴァチカンにぽち
2018.02.21
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【ユネスコ世界遺産】ヴァチカンは、カトリック教会の総本山であります(^0^)V世界屈指の素晴らしい御本堂「サン・ピエトロ大聖堂」へ入りました♪聖堂内は、半時計周りに進むそうで・・・聖なる門の内側辺りから参拝をBasilica di San Pietroミケランジェロの「ピエタ像」きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』サン・ピエトロ大聖堂サン・ピエトロ大聖堂に入りましたミケランジェロの出世作「ピエタ像」にご対面その先は・・・クリスティーナの墓何しろ全てが巨大であります~観光客(信者さん)も上を見たり忙しいクーポラを見上げているのでしょうか大聖堂には、幾つかの小さなクーポラがあって光が差し込んでいます聖セバスティアーノ礼拝堂には、モザイク画「聖セバスティアヌスの殉教」です素晴らしい宗教画は、大聖堂にあってこそと思いますね~ゆっくり座って鑑賞しましょう~全ての造りが大きく素晴らしいですね静かで荘厳そのもの・・・心が清められる・・・天使があちこちにサン・ピエトロ大聖堂の中には、礼拝堂やお墓が・・・いっぱいです。おしゃべりしないので・・・無心におや?ハシゴがっなに・・・何事高~い 作業車は、大聖堂には似合わないクレーンの先を見上げるギャラリーたちよく出会う修復かと思ったら・・・お掃除(すす払い?)珍しい光景ですよね~10月からお掃除してもクリスマスまでに終わるのでしょうか天使たちも心配しております誰かに似ているなぁ~ってしてみました天使は、いっぱいですとりあえず反時計周りで歩いております~おっと~やっと正面が見えて来ましたねウキウキはははっ。めっちゃ~ピンボケやんまだまだ遠いですね~上を見上げると・・・クーポラが、またありますね~その下には・・・小部屋がっ何でしょうね望遠で・・・おや壁画が見えますがっおっと~先ほど見えたハシゴですまた・・すす払いでしょうかおっと~礼拝堂がっドメキーノ作「聖ヒエロニムスの聖体拝領」です右側には・・・祭壇と聖ヒエロムニスのお墓があり教皇聖ヨハネ23聖のお墓もあります。更に前に進みましょうねワクワク祭壇画にぽち
2018.02.20
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世界遺産サン・ピエトロ大聖堂を訪問したのは2014年10月14日小雨も止んで行列日和となりました~きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』サン・ピエトロ大聖堂サン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano Basilica di San Pietro in Vaticanoバァジリカ ディ サン ピエトロ イン ヴァチカーノなんと~国全体が【世界遺産】なのでありますカトリック教会の総本山 サン・ピエトロSan Pietro とは・・・?「聖ペトロ」の意味 キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みでペテロ殉教の地に建設サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院とも言われカトリック教会の伝承によれば・・・サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、 キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る何しろ全てが大きい 床面積・・・2万3,000m2ローマ教皇の住むヴァチカン宮殿やヴァチカン美術館がある。ミケランジェロのクーポラには・・・今日もたくさんの人が上っておりますサン・ピエトロ広場の中央サン・ピエトロが殉教した場所にオベリスクが立ちますベルニーニによる設計で建設された30万人収容できる広場サン・ピエトロ大聖堂に入るための大行列の最後尾に並びます雨も止んで行列日和・・・自どり棒を売るセールスが流行ってました大体1時間並んで・・・いよいよ~セキュリティーチェックミニスカート短パンやタンクトップは、禁止ですよ~持ち込み不可の物は、ゴミ箱へ検査が終われば・・・いざ階段の上には、有名なスイス兵警備員が立っております残念です~コート着用ラファエッロの衣装が見えませんサン・ピエトロ大聖堂に何かセレモニーがあったのでしょうか?Basilica di San Pietro in Vaticano 地図です~WELCOMEですって厳しい規則があります~いよいよ大聖堂の前に・・・【聖なる扉】Porta Santaぴったり閉まって監視員までおります“聖なる扉を通ると全ての罪が許される”しかし、扉は、閉じられ25年に一度に聖年がやってきてカトリックの信者さんに限って通れる門であり私の様なブージーは、聖年に来ても通してはもらえません「犯した罪が許される」あ~残念ですね!そう言えば昔『免罪符』を発行してこのサン・ピエトロ大聖堂の建設資金にしたと言う(ちょっとインチキくさいお話もありましたが・・・それは禁句)聖なる門は、通れませんでしたが・・・どこから入るのでしょうね?ここは、出口みたい?門が、いくつもありますね~ここは、丁度センターですが・・・ここも入れませんねああ~っENTRATA ENTRANCE・・・・はははっ親切に「入口」書いてありますちょっと地味な門ですが・・・門からはいりましょう~聖なる門では無いけれど・・・門には、あり難い行事が刻まれております。さぁ~いよいよサン・ピエトロ大聖堂に入りましようドキドキ世界遺産にぽち押してネ
2018.02.18
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何と言う幸せ♪ラファエッロの名作が3点も並んでおります!日本では、考えられない独り占め!バチカン美術館・絵画館「ピナコテーク」トレビの泉は、人でいっぱいね~コロッセオ・・・人が多いのは相変わらずですが日本人は居ないですね!凱旋門サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会ミサが行われていたので静かに・・・ボルゲーゼ美術館は、日本で予約してまいりました。ヴァチカン『サン・ピエトロ大聖堂』内やはり大きい!サンタンジェロ城には、初めてです♪映画『天使と悪魔』のロケ地『ローマの休日』ロケ地である宮殿へ♪バルベリーニ宮「古典絵画館」本当に空いていて静かで良かだったですが、監視員のおしゃべりがウルサカッタ~ヴァチカン美術館の螺旋階段・・・さて、きらりは何処に?はははっ、見つかりましたか?両手を広げてます~ネサン・ピエトロ広場サン・ピエトロ大聖堂ローマにぽち
2017.11.19
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イタリアの【世界遺産】コロッセオの屋根部分・4階~5階の一般公開がはじまります(^0^)V40年振りだそうです・・・2017年11月から・・・【世界遺産】ローマのコロッセオの屋階部分4階~5階(4レベル、5レベル)が 2017年11月から一般公開になるらしい? イタリアの新聞より・・・40年振りですって公開される所から眺めると・・・高いですね~【世界遺産】コロッセオ(円形闘技場)は、 紀元80年のローマ皇帝ティトゥス帝の時代に 完成した古代ローマ人の娯楽の殿堂です。 約5万人を収容できた闘技場は、 しばしば中央の舞台の床の上に舞台装飾を施すなどして "人間対猛獣"などの様々な戦いが繰り広げられました。 残酷な催し物でしたが、市民は大熱狂しました。 コロッセオは中世以降に ローマ市内の別の建物を建てる為に石材として持ち出されてしまったので、 現在の様な最上階まで残っている面もあれば、 2階までしかない部分もあり、 完璧な形では残っていません。 そしてコロッセオは真ん丸だと思っている人も多いですが、実は楕円形です。 一般公開が始まるのは、 予定では来月11月1日からで、 予約制(ガイド付き)で訪れることが出来ます。 1回に入場出来る人数は25名までで、 見学コースは3レベル部分(今日現在観光出来る最上階)から始まります。 将来的には足の不自由な方でも最上階まで上れる様に、 工事が進められています。 このコースの入場切符はお一人9ユーロ、 15ユーロの切符では、 屋階部分にプラスしてコロッセオの地下とアレーナ部分の見学も可能です。 予約は↓ホームページ こちら (現在準備中) http://www.coopculture.it/en/ または、 お電話 06-39967700で出来ます。 当時、この円形闘技場の4レベル部分の座席は 主に商売人や中産階級の人に、 5レベルは平民の見学席に充てられていました。 コロッセオの屋階部分は 床面(アレーナ)から40メートルの高さがあり、 実際に上がるとかなり高く怖いです。 2000年前の人達はどの様な思いでショーを鑑賞していたのでしょうか?? 果てしなく想像は広がります・・・!【世界遺産】にぽち
2017.10.11
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ヴァチカン市国の豪華絢爛♪壮大な「サン・ピエトロ大聖堂」建設費用は、どこから調達したのでしょうかね?サン・ピエトロ大聖堂 巨大な建造物と資金調達・・・方法とは?世界で最も大きな教会建築のサン・ピエトロ大聖堂巨大な大きさは疑いないものの・・・一度内部に入ってしまうとあまりの大きさにその正確な寸法を把握するのは難しい正面の柱廊を除き、全長192.76m3つの廊を含んだ幅は、58m身廊の天井の最も高い部分は、44.5mさらに驚くのは、クーポラを支える4本の巨大な柱のひとつがS.カルロ・アッレ・クェットロ・フォンターネ教会(ポッロミーニ)全体よりも大きいということだ。聖堂の巨大さを少しは想像できるかもしれない。おもしろいことに、この巨大さが床にも表してある。床の廊の中心軸に沿って、アプシスを起点にして測った世界のおもだった教会の大きさが金属の文字で示されている。ミケランジェロの手になるクーポラは、直径42m、床からの高さは、およそ120mにも及び徒歩で上がると優に30分もかかってしまうほどだ。「大きいことはいいことだ」とは、言いきれないがとにかくこの大きさには圧倒される。「よくぞこれほどに大きくて豪華な教会が造れたものだ」という気持ちサン・ピエトロ大聖堂の再建に当たっては、莫大な資金が必要だった。ユリウス2世の後を継いだレオ10世は、工事を続けるためにドイツの銀行家フッガー家から資金を借りる契約を結んだ。そして、経済難に陥った教会は、免罪符を売ることでこの危機を乗り越えようと考えたのだった。フッガー家が売り上げの半分を受け取るという取り決めの下免罪符は、ドイツを中心に売りさばかれた。やがて、免罪符は、良心的な聖職者のカトリック教会への不信と造反を招き、宗教改革の引き金となった。レオ10世による贖宥状免罪符・・・とは?レオ10世による贖宥状(しょくゆうじょう)のこと。1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売りだされた贖宥状は、イタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目で、ドイツにて売りに出されたもので、実際の発行者はドイツ宗教界の最高位であるマインツ大司教、販売の実務を担うのはドミニコ修道会だった。一般には、この贖宥状に対してザクセン選帝侯領の神学者マルティン・ルターが1517年に異議を唱えたことが宗教改革の端緒だったとされている。1517年にルターが95ヶ条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。贖宥状は第1回十字軍(1096-1099年)の頃から大々的に出回るようになったとされている。はじめのうちは十字軍が招集される度に贖宥状が発行されていて、戦場で敵を殺す罪を犯しても、その罰は免ぜられるという性格のものだった。十字軍が下火になったあとは、100年に1度、50年に1度と限定的に発行されていたが、しだいに安易な集金手段として乱発されるようになっていった。1513年にローマ教皇に就任したレオ10世はもともとイタリアの豪商メディチ家の出身で、日々王侯のような贅沢な暮らしを求め、その費用としてドイツの豪商フッガー家に巨額の借金をするようになった。また、1514年にドイツの最高聖職位であるマインツ大司教に叙任されたアルブレヒトも、その聖職位を得るための工作資金として、フッガー家から多額の借り入れを行った。フッガー家はこれらの貸付を回収するため、ローマ教皇とマインツ大司教は借金返済のため、3者の協力により「聖ピエトロ大聖堂の再建費用」の名目で贖宥状を発行し、その売上で借金を返済することを計画した。この贖宥状の販売実務にあたったのは、托鉢修道会の1つドミニコ修道会で、なかでもテッツェルという修道士が凄腕の販売人として歴史に名を残している。彼らは、買うだけでありとあらゆる罪から免れる、との謳い文句でドイツ中でこの贖宥状を売り歩いた、とされている。この謳い文句を聞いたヴィッテンベルクの神学者マルティン・ルターは、ドミニコ修道会への批判を開始し、1517年秋に95ヶ条の論題を貼り出した。一般的にはこれが宗教改革の端緒になったとされている。正確にはルターが批判したのは「ありとあらゆる罪」を免れることができるという主張に対してであり、伝統的な贖宥の教理に従えば「罰が一定程度減免される」だけに留まるはずだ、ということを論じようとしただけにすぎなかった。ルター自身は、この贖宥状がマインツ大司教とローマ教皇の借金返済のためのものであることは全く知らなかった。だからルターは、大司教と教皇は善良だが世間知らずのために悪い部下に欺かれているのだ、と考えていた。しかしルターの意図に反し、ルターが贖宥状を批判した、ルターが教皇を批判した、といって騒ぎが大きくなっていった。贖宥状・・・とは?現世における神の代理者である聖職者への告解によって、神の赦しが与えられる。人は死後、煉獄で焼かれ、魂の純化を待つ贖宥状を買う農民の女。 ローマ教会が最初に贖宥状を発行したのは第1回十字軍のときだったとされている。教会は聖地解放の従軍者を集めるため、この戦いに加わった兵士には特別なメリットがあるといって贖宥状を発行した。まもなく、女性や高齢者、病人など自分が直接従軍できない者でも、軍費を負担するならば同じような贖宥が得られるということになった。こうした贖宥状の売上は教皇の財庫に集められ、十字軍が実施されるときにそこからの支出が認められていた。十字軍が下火になったあとは、100年に1度のヨベルの年にだけ発行が認められることになった。これが当たると「ヨベルの年」は50年に1度ということになり、そのうちキリストの生涯と同じ33年に1度になり、さらに「普通の人間はキリストより弱いのだから」といって25年に1度になり、どんどん間隔が短くなっていった。1476年にシクストゥス4世が売りに出して以降、贖宥状は安易な集金手段として頻繁に発行されるようになった。【罪と罰、贖宥状の効能】もともと贖宥状による効果というのは、かなり限定的なものだった。日本語文献では贖宥状を「免罪符」と表現することもあるが、カトリックの本来の教理には「免罪」符は存在しない。免じられるのは「罰」であり、「罪」が無かったことになるわけではない。贖宥状によって赦しが得られるのは、あくまでも教会が信徒に課す罰の範囲に限られていた。カトリックの教理にしたがうと、人は誰しもが現世で生きていくことによって罪を犯す。その罪に対して神による永遠の罰が与えられる。しかしこれに対して悔悛の秘蹟が行われる。すなわち、聖職者に対して告解(罪を告白)を行い懺悔(悔い改める)する。すると神の現世での代理者である聖職者(教会)を通じて神の恩寵が与えられ、罪が赦免される。帰結として、受けるはずだった神の永遠の罰が回避される。ただしこの「赦免」の範囲はあくまでも神の罰についてであり、地上における現世での罪の結果が消えるわけではない。そして、告解さえすれば何でも赦されるようだと、人は平気でいくらでも罪を重ねるようになるかもしれない。そのためこの「罪の赦し」を授ける代償として、教会(聖職者)は信徒へ「罰」に相当する償いの行為を課す。「罰」は、具体的には深い祈り、痛悔のようなものから、巡礼、断食、寄付などの敬虔な現世的な善行の形をとるものまでさまざまであった。これらの「罰」は、現世における犯罪の被害者に対する弁償や補償という性格も備えており、社会を維持する役割も担っていた。そのため、告解とそれに対する罰の内容は、通常は告白者と聖職者の間だけの秘密だったが、犯罪行為によって損害を受けた被害者に対する賠償が伴う場合には公開されることもあった。例をあげると、教皇の命にしたがってヘイスティングズの戦い(1066年)に加わった騎士は、戦いのあとに告解を行い、そこで戦場で殺した敵1人につき10年の「罰」を与えられた。もしも存命中にこの「罰」を償いきれずに死んだ場合、死後煉獄に落ちる。人は煉獄で炎に焼かれながら、残った「罰」を清算して浄化されてからでないと、天国へ入る資格は得られない。しかし15世紀に入る頃には、煉獄に行かずに済むような人物など実際にはほとんどいないようになった。しかも、ペストに代表されるように、当時の人々はいつ死んでもおかしくないような日常を生きており、突然の死とその後に来る長い煉獄の苦しみは、当時の人々の恐怖の対象だった。人々は、教会から与えられ、蓄積された「罰」を巡礼や寄付などを通じて少しずつ償っていく。当初の贖宥状の効能とは、この教会が課す「罰」を「7年」のような一定部分だけ免除する、というものだった。この贖宥の効果はどこから来ているかというと、過去の聖人が積み重ねた功徳が源泉である。彼らは死ぬまでのあいだに、自分自身の「罰」の総和を上回る善行を行ったので、償いが余剰しており、教皇はその余剰を管理して分け与えるのである。贖宥状の効力は、そのうちにその対象や範囲が拡大されていった。たとえば「断食の免除や「所有者が不明な財産を取得する許可」なども出されるようになり、贖宥状を束で買うような者も現れるようになった。シクストゥス4世は、教皇が司る「現世」の中には「煉獄」も含まれるのだという解釈を示し、既に死んでしまった者が煉獄で支払い続けている教会の罰を減らすという贖宥状を発行した。レオ10世が売りに出したのは「ありとあらゆる罪がすべて」許されるというものだった。本来は「罪」と「罰」は別のものであり、贖宥状は「教会の罰」を減じるだけというのが教理であったが、多くの民衆はこうした詳しい教理は理解していなかった。また、後にルターによる問題提起で明らかになっていくのだが、教皇を筆頭に聖職者の多くも、贖宥状販売の実務は知っていても、贖宥に関する教理はよくわかっていなかった。【贖宥状に対する批判】こうした贖宥状を疑問視する声は昔からあった。そうした批判者のなかで特に有力だった者としてジョン・ウィクリフ(1320?-1384)、その弟子ヤン・フス(1369?-1415)らがいる。15世紀に贖宥状を批判して火あぶりにされたフスしかしフスは贖宥状以外にもさまざまな教会批判を行った結果、火あぶりにされてしまった。フスの場合、教会大分裂といって教皇を自称する3人の人物が鼎立してお互いに争っていた時期で、その中の1人ヨハネス23世が相手の教皇を倒すための戦費を募った贖宥状をフスが批判したのだった。まもなくヨハネス23世自身が公会議によって異端とされて全ての権威を否定されることになったのだが、フスはそのまま異端として取り扱われたのだった。ローマ教皇レオ10世レオ10世(ラファエロ作・1518年頃)レオ10世が発行した贖宥状は壮麗なサン・ピエトロ大聖堂の建築費に充てるという名目で売りに出された。 この時代、法王庁は財政的な豊かさを背景に力を伸ばした。ローマ教皇は単なる教会の長、隠遁聖職者の長老ではなく、大国の領主というべき力を持っていた。その政治力と軍事力を誇ったのがユリウス2世(在位1503-1513年)だった。ユリウス2世はイタリアのルネサンスの強力な支援者でもあり、ミケランジェロを保護し、文芸にも力を注いだ。そのユリウス2世の後継者がレオ10世(在位1513-1521年)である。レオ10世はフィレンツェの富豪、メディチ家の次男である。その資金力を背景に13歳で枢機卿になり、ユリウス2世のあとを継いで1513年に教皇位についたときはまだ38歳だった。レオは教皇位に就任するにあたり、「現世の享楽を謳歌する」と宣言してみせたほどの放蕩家だった。そこらの王侯よりも贅沢を好み、湯水のように金を使い、宴会、狩猟、戦争、賭博に明け暮れ、芸術の庇護者として振る舞った。その結果、就任から2年で法王庁の財政が危機に陥ったとも言われている。レオ10世は金策のためユリウス2世のやり方を真似した。レオ10世が売った聖職位は1年に2,000件にも及び、その売却額はドゥカーテン金貨50万枚にもなったといわれている。レオ10世がユリウス2世から引き継いだ大事業が聖ピエトロ大聖堂の再建である。これは100年以上の構想の末に1506年に着工したものだった。レオ10世はこの工事の設計にラファエロを任命し、大聖堂をさらに大きく、豪壮なものへと設計変更を行わせた。資金の流れの観点で言うと、この建築費用を用立てたのはフッガー家である。この時代のフッガー家は、ドイツでの鉱山経営の飛躍的拡大によって、レオ10世の出自であるメディチ家を凌駕する経済力を有していた。だからレオ10世もフッガー家に借金を申し込んだのである。聖ピエトロ大聖堂はこの融資によって建設された。しかしレオ10世にはこの借金と利息の返済のあてはなかった。そこでレオ10世は贖宥状を売り、その収益を返済に充てることにした。当時ドイツの庶民のなかには、「なぜ教皇さまはあれほどお金持ちなのに、自分のお金で大聖堂を建てないのだろう」と言うものもいたという。マインツ大司教位は、ドイツの聖職者の最高位であると同時に、7つしかない選帝侯位の1つである。聖界諸侯位なので、世俗諸侯と違ってその位は世襲制ではない。そのためマインツ大司教位はドイツ諸侯の家門政策のためにはぜひ手に入れたい地位だった。15世紀の終わりにはザクセン選帝侯を世襲するエルンスト家がその座を獲得した。同家嫡男のフリードリヒ3世(賢公)がザクセン選帝侯となり、次男エルンスト2世がマクデブルク大司教、三男アダルベルト3世がマインツ大司教に就いた。ザクセン選帝侯家は7つの選帝侯位のうち2つ占めることになり、栄華を誇った。しかしアダルベルトはわずか2年で若死にしてしまう。さらに1513年にエルンスト2世も死んでしまうと、エルンスト2世が持っていたマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位は、ブランデンブルク選帝侯位をもつホーエンツォレルン家の手に渡ってしまった。おまけに1514年に当時のマインツ大司教が死ぬと、マインツ大司教位までホーエンツォレルン家のものとなった。これによりホーエンツォレルン家が選帝侯位を2つ有することになった。この頃のホーエンツォレルン家はどちらかと言えば新興で、長くドイツで大きな勢力を誇ってきたエルンスト家とはなにかと対立する存在だった。そのホーエンツォレルン家にマインツ大司教の座を渡してしまったのは、ザクセン選帝侯賢公フリードリヒ3世の無策が招いた失敗だったと評されている。【ホーエンツォレルン家のアルブレヒト】この位に就いたのが、ホーエンツォレルン家の次男アルブレヒト(1490-1545)である。アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世(1484-1535)の実の弟で、はじめのうちは兄と共同でブランデンブルク辺境伯領を治めていた。1513年にマクデブルク大司教とハルバーシュタット司教を兼任していたザクセンのエルンスト2世が死ぬと、アルブレヒトはその後継者として叙任された。と言ってもアルブレヒトは神学者でもなんでもなく、ホーエンツォレルン家が金と政治力で手に入れた職位だった。大司教位は本当は30歳以上でなければ認められないのに、このときアルブレヒトはまだ23歳だった。翌1514年にマインツ大司教ウリエルが死ぬと、ホーエンツォレルン家はマインツ大司教位獲得に乗り出した。その結果アルブレヒトが、マインツ大司教、マクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教を兼任することになった。本来、教会法では高位聖職者の兼任は禁止だし、年齢制限も満たしていない。が、然るべき金額を支払うならば、教皇レオ10世はそれを許可したのだった。しかし問題はその金額の高さだった。もともと司教や大司教は、任命された1年目の収入を「初収入税」としてローマ教皇に上納する義務があった。ローマ教皇レオ10世は、アルブレヒトが複数の聖職位、それもドイツ最高のマインツ大司教位を含めた3つの職位を兼任することを「特別に」許可する代償として、法外な選任保証料を納めるよう要求した。その額は、マインツ大司教位に対して金貨12,300枚、マグデブルク大司教位に対して金貨1,079枚だったとされている。これは「大国の高級官僚の年収50年分とか「神聖ローマ帝国の歳入に匹敵」するほどの額だったとも言われている。しかしまだ若いアルブレヒトはそのような資産は持っていなかったし、所領のマインツからその費用を徴収するのも無理だった。というのも、マインツ大司教はここのところ数代にわたって短命な者が続いていて頻繁に変わっており、その都度ローマへ初収入税を納めていたので、もはやさらなる支払いを捻出できるような状態では無かった。そこでアルブレヒトはこれを賄うためフッガー家から借金をすることになった。アウクスブルクのフッガー家は中世に発達した商業資本主義企業家の代表格である。もとはドイツの毛織物業者だったのが、周辺で集めた織物をアルプスを越えてイタリアへ運んで売ることで財を成した。その資産で絹や香辛料を買い付け、高値で売ることで事業を拡大し、やがて王侯君主に金を融資するまでになった。さらに行き詰まった銅山を買い取って大規模経営化し、15世紀末から16世紀になるころにはメディチ家を上回る豪商となった。1500年にローマに銀行を設立したフッガー家は、ローマ教会が全ヨーロッパで課す十分の一税の出納を請け負うようになった。贖宥状の販売も取り仕切り、収送金も引き受けた。【贖宥状のキャッシュフロー】教皇もマインツ大司教もフッガー家に対する借金を返済するあてがなかった。フッガー家はこの両者を連結し、贖宥状販売を通じて元金と利息を回収する仕組みを考案した。このアイデアがもたらされたのは1515年3月だったとされている。実際に贖宥状をドイツ各地に売り歩くのはドミニコ修道会の役目である。これにはフッガー家の帳簿係が同行し、売上の記録をつける。売上の一部は、手数料としてドミニコ修道会の利益になる。残りはアルブレヒトの収入となる。この収入のうち、半分はアルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。教皇レオ10世の取り分は、これもまたフッガー家への借金返済のため、結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのである。こうして、名目は「聖ペテロ大聖堂の建築資金」として発行された贖宥状の売上は最終的にフッガー家の懐におさまった。ただしこの仕組は秘密であり、あとになってフッガー家の帳簿からわかったのであって、当時の人々でこれを知っているのは関係者に限られ、ザクセン選帝侯やルターも知らなかったことである。【ザクセン選帝侯の対応】当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、この贖宥状に眉をひそめ、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。ただし、ザクセン選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのは、純粋な信仰上の理由というよりも、領地の経済を慮ってのことだった。もともとドイツの領邦君主たちは経済的にローマに搾取され、ドイツの富がイタリアへ流失しているとの不満があった。教会はドイツ諸侯の支配を受けずにドイツの庶民に十分の一税を課すことができ、ドイツの民から集められた税や贖宥状の売上はイタリアを潤していて、ドイツは「ローマの雌牛」と蔑まれていた。これに加え、安易な贖宥状の乱発は、巡礼者が訪れることで潤うザクセン経済を阻害する恐れがあった。ザクセン選帝侯はヨーロッパを代表する聖遺物の収集家である。聖遺物というものは、それを拝みに巡礼に行くことで、聖遺物の著名度に応じた贖宥が得られることになっていた。そのため、フリードリヒ3世のコレクションを参拝するために各地から巡礼者が集まってきており、彼らが領内で費やす金がザクセン選帝侯領内の経済を潤していた。贖宥状はこれを損なうものだった。こうしたことからザクセン選帝侯は、贖宥状の販売を請け負っているドミニコ会修道士をザクセン領から追放し、立ち入りを禁止した。そのため贖宥状売りはザクセン領に入ることができず、代わりにツェルプストやユータボグのような、ザクセン領近傍で売り歩くことになった。ザクセン領民は贖宥状売りのところまで買い求めにゆき、領内にみやげ話を持ち帰ってきた。彼らが話す贖宥状売りの様子を聞いて、憤激した者がいた。それがザクセン選帝侯領の都であるヴィッテンベルクの大学の若い神学教授、マルティン・ルターである。ルターによる贖宥状批判は教会組織や教皇にまで及び、ドイツの宗教改革に火がついた。ローマ教皇レオ10世が認可し、マインツ大司教アルブレヒトが贖宥状を発行し、その販売の実務を委託されるのが托鉢修道会であるドミニコ修道会である。ドミニコ会の修道士たちは、贖宥状を売りさばくためならば神学の教理に反することも厭わなかった。彼らは都市や村へ「教皇の代理」として赴くと、その権威によって市長や教会に命令を行い、自分たちが贖宥状を売る間はすべての礼拝を停止させることができた。こうした売り手の筆頭格がヨハン・テッツェルである。【テッツェルのやりかた】民衆がルターに語ったところによると、テッツェルは、馬車で町の広場に乗りつけると、鐘を鳴らし赤い教皇旗と十字架を立ててきらびやかに現れ、驚くような説教をして「商売」をしていた。さてお聞きなされ、神と聖ペテロがおまえさんがたをよんでおられるのだ。おまえさんがたの霊魂や、無くなった愛する人たちの霊魂の救いについて、とくと考えなさるがよい。司祭、貴族、商人、娘さん、ご婦人、青年、お年寄りがたよ。聖ペテロの教会であるおまえさんがたの教会に、今おはいりなされ。おまえさんがたのまえに立てられ、いつもおまえさんがたを熱心に求めておられる十字架に、参詣なされ — ヨハン・テッツェル、贖宥状販売の前口上ルターの伝えるところによると、テッツェルの宣伝口上には次のような「驚くべき」主張が含まれていた。一方、テッツェル本人はこのような発言をしたことを後に否定している。•聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えば許される。•自分の代わりに聖ペテロが贖宥状を売りに来たとしても、自分の方がより多くの許しを与えることができる。•教皇の紋章である赤い十字架は、キリストの十字架と同じ力がある。•贖宥状を買うにあたり、悔悛の秘蹟(聖職者への告解と懺悔)を受ける必要はない。•これから犯す罪に対しても有効である。•天国への入場券にほかならない。•おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。贖宥状を買うやいなや、おまえの母親は天国に入る。テッツェルに代表されるドミニコ修道会士の説明は、明らかに、カトリック教理における罪と罰、悔悛の秘蹟と贖宥の関係を逸脱しているものだった。テッツェルの振る舞いをよく思わない人も多かった。テッツェルを揶揄するパンフレットでは、テッツェルはロバにのった姿で描かれており、韻を踏んだ有名な口上が書かれている。テッツェルはいつも売り口上をこの言葉で締め括ったとされている。 Im huy die Seel im Himel springt グルデン金貨が「チリン」と鳴れば たちまち「スポン」と天国へテッツェルはひどい悪徳のせいで神聖ローマ皇帝から死刑を命じられたことがあるとか、たくさんの隠し子がいるとかといった噂話に代表されるように、数多くの悪評、中傷が残されていて、戯画や嘲詩によって徹底的に貶められている。テッツェルがどのように贖宥状を売って歩いたかについての情報は、もっぱらルターによる批判の中で描かれている姿からしか伺い知ることはできない。しかし、テッツェルを「大ぼらふき」「市場の呼び込み人」と罵倒していたルターも、自分自身で実際に直接テッツェルの姿を見聞きしたわけではなく、庶民からのまた聞きでしかなかった。こうした大道商人のような「テッツェルの行状」は、このあと起きる宗教改革とプロテスタント・カトリックの対立のなかでスケープゴートにされて大袈裟に悪しざまに誇張されたものであり、実際のところかなりの部分は不当で事実ではないだろうと考えられている。贖宥状の販売時には、鉄で補強された大きな箱が置かれており、そこには贖宥状の代金が明記されていた。金額は以下のとおりである。諸侯 金貨25枚 貴族 金貨10枚 上級官吏 金貨10枚 上流市民 金貨6枚 その他の市民 金貨1枚 庶民 金貨1/2枚ないし1/4枚「現世の罪状はすべて消える」との謳い文句を真に受けて、ドイツの民衆は贖宥状に群がった。全体として、男性は贖宥状に懐疑的だったが、女性はそうではなかった。箱には「夫が反対しても、婦人は贖宥を購入することができる」と大きく書いてあり、女性たちは「気が狂ったように」買い求めたという。アウグスティヌス修道会で神学を学んだマルティン・ルターは、贖宥状を買ったというヴィッテンベルクの庶民から、テッツェルの様子を聞き、贖宥状販売に対する疑義を募らせた。テッツェルがヴィッテンベルクに近づいた1516年7月、ルターは贖宥状の有効性に疑問を呈する説教をはじめた。しかしこれが大きな問題となったのは翌1517年秋のことである。通説では、1517年の万聖節の前夜、すなわち1517年10月31日夜中に、ルターは「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの城に附属する教会の門扉に貼りだしたとされている。それが史実であるかどうかは議論がわかれていて決着していないが、いずれにせよ「95ヶ条の論題」はその頃公表され、ルターの意図とは違った形でドイツ中に大きな反響を巻き起こしていった。この文書はラテン語で書かれており、学者にしか読めないものだった。つまり、ルターには社会に向かって大々的に贖宥状を批判しようという意図はなかった。ルターは、「罪」と「罰」の関係、贖宥の教理についてドミニコ修道会と学術討論を呼びかけたにすぎないのであり、「95ヶ条の論題」は、討論会の開催案内に過ぎない文書だった。ルターの考えでは、贖宥状は教会が与える現世の罰を減免することはできても、罪そのものを祓ったり、まだ告解してさえいない罪や神の最終審判にまで影響を及ぼすという説明は、贖宥の教理を逸脱しているものだった。ルターは議論によってこれを確認しようとしただけだった。また、ルターはこの贖宥状の売上金がマインツ大司教やレオ10世の借金返済に充てられるとは全く知らなかったので、彼らも悪い部下に騙されていると考えていた。しかし、予てからアウグスティヌス修道会と対立関係にあったドミニコ修道会は、これを重大な挑戦だと受け取って騒ぎを大きくした。両修道会の喧嘩を面白がったドイツの人々が「95ヶ条の論題」をドイツ語に翻訳してばら撒いたため、話は一気にドイツ中に広まってしまった。当初は教皇レオ10世でさえ、これを両修道会のくだらない喧嘩だとみなしていた。ところがドミニコ修道会の攻撃に晒され、巧みな論法で誘導されたルターは、ライプツィヒ討論の場でうっかり異端のフスを擁護するような発言をしてしまった。これによりルター自身も異端であるとの烙印を押されることになった。その後ヴォルムス帝国議会を経て、ルターはザクセン選帝侯を筆頭とするドイツ諸侯の庇護下に置かれるようになった。これは純然とした信教上の問題というよりは、ドイツ支配を強化しようとするハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世と、それに対抗するドイツ諸侯の政治的争いだった。カール5世はローマ教皇とも対立しており、またフランスやトルコとの戦争遂行にドイツの協力を必要としていたために、長いあいだ宗教問題でドイツ諸侯に対して強硬な立場を取れなかった。そのあいだに宗教改革の動きはドイツへ拡大していった。・・・ウィキペディアさまより・・・【世界遺産】にぽち
2017.10.05
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【世界遺産】ヴァチカン市国を訪問する為に調べておきたい事をまとめてみました(^-^)Vサン・ピエトロ広場 Piazza San Pietro ・・・とは?左右に2列、284本の柱が並ぶ、 隨円形の大きなサン・ピエトロ広場 長径240mの回廊の上の像は、高さ3.2m カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を 飾るこの空間は、荘厳で美しい。 まるで、両の手で迎えられ、守られているようだ! 壮大なスケール、機能と美しさ、 そして親しみやすさを併せ持つ この広場を設計したのはバロックの巨匠ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂再建後40年を経て 法王アレクサンドル7世の命により、 1656年に着手、1667年に完成 中心に立つオベリスクは、1世紀にエジプトから運ばれ サン・ピエトロが逆さ十字に架けられた場所におかれた。 かつて聖堂の南にあったものを、1586年に ドメニコ・フォンターナがここに移設した。 オベリスクも、左右の噴水も、 回廊の上に並ぶ140の歴代の法王と聖人の像も、変わっていない。 30万人を収容できるという広場には、 1年中世界各地からの観光客や巡礼者が絶えることなく 日曜や聖日には、パパ(法王)のミサに参列し 祝福を受けようとする人々でいっぱいになる。 【面白スポット】 広場の左右2カ所、石畳の間に丸い石が埋め込まれている。 ここに立つと、広場を囲む回廊の4列の柱が重なって1列に見え 広場がより大きく感じられる。ベルニーニのアイデアだ! 【大聖堂と博物館は、日を分けて】 日程に余裕があるなら・・・ ヴァティカン博物館と大聖堂は、別の日に出かけるのが良い(理想) 朝一番に行けば並ばずに済むし 人が少ない内に見学ができ 朝の涼しいうちにクーポラへ上がれます。 朝日が大聖堂に当たって美しいそうです。 ちなみに朝は、エレベーターも階段も8時からです。 【バスで行くと便利】 「サンピエトロ広場」へ行くなら・・・バスが便利 40番 急行 64番 テルミニ駅、ナツィオナーレ通り、ヴェネツィア広場、V.エマヌエーレ2世通りから 115番 トラステヴェレから 「テルミニ駅」からは、急行バスが便利 乗り場=テルミニ駅前広場のバスのホームG(ここが終始点) バスは、ヴェネツィア広場、トッレ・アルジェンティーナ広場などに停車し 正面にサン・ピエトロ大聖堂を見て、終点。ここで全員が下車。 【帰りのバス】 再びこのバス(急行=40番)でテルミニ駅へ戻る場合は、 大聖堂から真っすぐ延びるコンチリアツィオーネ通りを サンタンジェロ城手前まで戻った 「ピア広場」 Piazza Pia.Borgo Sant’Angelo・・・【乗り場】 下車した場所からは、乗車できない! 遠いですね~ここまでなら 地下鉄=オッタビアーノ駅まで歩くのと変わりないですね! 帰りは、バスにするか?地下鉄にするか?迷いますね 「サンタンジェロ城」に寄るなら・・・バスも良いですね。 「サンタンジェロ城」に向かうコンチリアツィオーネ通りを歩き振り向くと「サン・ピエトロ大聖堂」全体を捉えるベストショットだそうです。「サンタンジェロ城」は、映画『天使と悪魔』のロケ地でもあるし・・・地下鉄A線ばかりを考えていましたが バスも考えてみますか?バスも地下鉄も同じチケット『アタック』€1.5(約200円)で乗れます。駅の自動販売機・トラムやバスの車内や街のタバコ屋さん、駅の新聞屋さんでも買えます。アタック ATAC・・・とは?Agenzia per i Trasporti Autoferrotranviario del Comune di Roma1日に2回しか乗り物に乗らない・・・きらり。乗り放題を買わずにアタックします(^0^)b旅の予習にぽち
2017.10.04
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ヴァチカン市国【世界遺産】サン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano ・・・とは?訪問に供えて基本的な知識をサラッと復習しておきましょう(^0^)bサン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano ・・・とは?バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山 サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、 キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。 サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。 カトリック教会の伝承によれば、 サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、 キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。 床面積2万3,000m2。 北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、 バチカン美術館などがあり、 国全体が『バチカン市国』として【ユネスコの世界遺産】(文化遺産)に登録されている。 カトリック教会の総本山として 規模、装飾とともに世界屈指の荘厳な宗教建築 現在、サン・ピエトロ大聖堂の建つ場所は、 ローマ時代には、共同墓地で、64年頃にこのあたりで、 サン・ピエトロ(聖ペテロ)が異教の罪によりネロ帝によって 逆さ十字に架けられたという。 その後、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、 サン・ピエトロの殉教の地に聖堂を建てさせ アッピア街道沿いのカタコンベに安置させていた 聖ペテロの遺体を聖堂地下の墓に埋葬し直した。 こうして、サン・ピエトロ大聖堂の前身の コンスタンティヌス帝の聖堂 Basilica di Costantinoは、 315年に工事が始まった。 最初の聖堂は、5つの廊をもち 現在の身廟と側廊に相当する大きさを誇ったもの 時代とともに古くなり倒壊の危険もでたため ユリウス2世 Giulio II は、 建築家ブラマンテに命じ1506年に教会再建に着手した。 当時の計画は、 縦横が同じ長さのギリシア十字架形で ブラマンテは、クーポラの支柱4本と その上のアーチを完成させただけで 亡くなってしまう。ブラマンテの死後 ラファエッロ、ベルッツ、サンガッロなどが工事を受け継いだものの 設計プランの変更などにこだわり、以降1546年 法王パウルス3世の命によりミケランジェロの就任まで工事は棚上げされた。 ミケランジェロは、ブラマンテのプランを生かしつつ 現在、見られる中央に巨大なクーポラ(円屋根)を乗せる計画を立てた。 彼の死後、工事はジャコモ・デッラ・ポルタやカルロ・マデルノに引き継がれ 1626年ウルバヌス8世によって献堂された。 【ファサード】 大聖堂正面の柱廟へと続く前階段は、ベルニーニの作 柱廊上には、9つのベルコニーが並ぶ 中央のバルコニーは、祝福の開廊と呼ばれ コンクラーベで、新しい法王が選出されると ここから発表されるしきたりだ。 ファサードは、8本の円柱と 上部に欄干が施されたまぐさ式構造を支える 角柱が強調されている。 ファサード上部には、 キリストと洗礼者ヨハネ、ペテロを除く11使徒の像が立つ 入口柱廊の左右の端には、カール大帝とコンスタンティヌス帝の騎馬像が立つ。 ファサードには、5つの扉がある。 左から、20世紀にマンズーによる「死の扉」、「善と悪の扉」 中央は、フラーテによる旧サン・ピエトロ聖堂から移設したもの 次が、「秘蹟の扉」 一番右の扉は「聖なる扉」 Porta Santa で 聖年の始めと終わりに法王の手で開閉される特別な扉だ。 中央の入口には、 15世紀のフィラレーテによる見事なブロンズの扉がはまっている。 上部の小舟のモザイクは、 ジョットのオリジナルであったが、17世紀に作り直された。 【内部】 奥行211.5m、総面積1万5160平方メートルの広い内部には、 たっぷりの時間が必用だ! 聖堂全体の広さを感じるには、 法王の祭壇 Altare Papale あたりから眺めるのがよい。 入口の右側が「ピエタの礼拝堂」 Cappella della Pieta di Michelangelo キリストの死を悼む聖母像『ピエタ』 Pieta がある↓ ミケランジェロ25歳の傑作 続いてC.フォンターナによる17世紀の 「スウェーデン女王クルスティーナの墓」、「聖セバスティアーノの礼拝堂」 ベルニーニの設計による「カノッサのマティルデの墓」 内部にベルニーニの設計による小壁龕のある「秘蹟の礼拝堂」 カノーヴァの代表作のひとつである「クレメンス13世の墓」などが並ぶ 後陣の中央には『聖ペテロの椅子』 Cattedra di S.Pietro が安置されている。 ベルニーニによるブロンズと金の装飾に囲まれた椅子は 実際は、9世紀後半に皇帝カールから法王ヨハネ8世に贈られたもの 椅子の右側には、ベルニーニ作「ウルバヌス8世の墓」 左側には、グリエルモ・デッラ・ポルタの代表作「パウロ3世の墓」 左サイドには、「コロンナ礼拝堂」 ベルニーニによる「アレクサンドル7世の墓」、「クレメンティーナ礼拝堂」 アントニオ・ポッライウォーロらによる「イノケンティウス3世の墓」 内部でひときわ目を引くのが、 ベルニーニによるねじれを加えた29mもの高さを誇る 4本の柱で形作られた『ブロンズの天蓋』 Baldacchino di Bronzo その下には「聖ペテロの墓」 Tomba di S.Pietro があり 最も神聖な場所とされている。 クーポラを支える4本の柱の下部の壁龕には、 主祭壇を囲むように聖人像が配されている。 右の身廊寄りには、ベルニーニによる「聖ロンジーノの像」 角柱の身廊側の「聖ペテロの像」は、 右足に触れると幸福になるといわれる。 右後陣寄りには「聖ヘレナの像」 左後陣寄りに「聖ヴェロニカの像」 左身廊寄りに「聖アンドレアの像」がある。 【宝物館】 Museo dei Tesoro di S.Pietro ムゼオ・デル・テゾーロ・ディ・サン・ピエトロ 左側「クレメンティーナ礼拝堂」近くに 聖具室 Sahrestia と続いて宝物館への入口がある。 たび重なる略奪で、多くの宝物が持ち去られているのは残念だが 今もなお数々の秀作を見ることができる。 エルサレムの神殿でキリストが持たれたといわれる「聖なる柱」 6世紀東ローマ帝国の皇帝からローマに寄贈された 金と宝石で飾られた美しい「十字架」をはじめ 石棺、燭台など、歴代の法王の宝物や宗教儀式の用具などが展示されている。 夏季=8:00~19:00 冬季=8:00~18:15 €.6 【地下遺跡】 Grotte Vaticano 地下遺跡の入口は、 サン・ピエトロ大聖堂内中央左「聖アンドレア像」の下です。 クーポラの下「聖アンドレア像」の下には、地下遺跡への入口がある。 現在、一般に公開しているのは一部で 法王の墓や初期キリスト教会時代の石棺 コンスタンティヌスのバジリカの遺構の一部などが見られる。 1940~57年にかけて大規模な調査が行われ 旧バジリカの床や聖ペテロの墓などが確認された。 また、最初のサン・ピエトロ大聖堂が ネロ帝の競技場の上に築かれたのではなく 1~4世紀の古墳の上に被かれたことも判明した。 要予約=聖堂正面右の事務所 9:00~15:30 €.13 【ミケランジェロのクーポラ】円屋根☆☆ Cupola クーポラ 大聖堂の向かって右サイドにクーポラへのエレベーターと切符売場 4月~9月 エレベーター 8:00~18:00 階段 8:00~17:00 10月~3月 エレベーター 8:00~17:00 階段 8:00~16:00 エレベーター料金 €.8(階段 €.6) クーポラの高さ=地上132.5m 直径=42.5m 頂上からは、ローマを一望する素晴らしい眺めが広がる。 クーポラの下のテラスまでは、 階段のほかにエレベーターもあるが テラスから頂上への92mの高さは、 自分の足で上らなくてはならない! 途中、円屋根の内側に巡らされた通路からは ベルニーニの天蓋を見下ろし 円天井を飾るモザイクを近くから眺められる。 やがて通路は外と中側の二重の隙間に入り 急な螺旋階段や斜頸のため体を傾けるような上りが続き 頂上のテラスに到着する。 ここからは、ローマ最高の素晴らしい眺めが広がる。 クーポラの切符売場は、 サン・ピエトロ大聖堂正面柱廊右奥 内部には、入らずに、入口から脇に進もう! エレベーター利用でも・・・300段以上の階段が続く 一部やや狭い部分もある! クーポラに描かれたフレスコ画や広い堂内を上から眺めながらゆっくりと進もう~ とりわけ、ブロンズの天蓋の姿には圧倒させられる。 クーポラの最上部分は広くはないものの360度のパノラマが広がり ローマの町からヴァチカン庭園まで詳細に見る事ができる。 クーポラ近くは、広々としており、売店もあるので絵葉書を書いたりもできる 下りのエレベーターは、上りと場所が違い聖堂内部に着く クーポラに上るなら・・・それなりの体力必須 サン・ピエトロ大聖堂のクーポラに上るには エレベーターを使っても300段の階段を上がるので それなりの体力が必要です。 う~っ。16年前に上っておけば良かった(きらり。無理?) 途中に売店がある所のトイレは、空いています。 トイレ事情 サン・ピエトロ広場、聖堂に向かって左側にある。ここは、混んでいる事が多い! 広場東側、列柱と城壁を出た小さな広場の地下トイレは空いている。 博物館内を出る前に済ませて置きたいですね☆【世界遺産】にぽち
2017.10.03
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もしも、ローマの宿が「テルミニ駅」南で「サンジョバンニ駅」の近くだったら サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)に行ってみたい!早朝7時からなので訪れると良いかもです♪世界遺産です。 地下鉄A線サン・ジョヴァンニ(San Giovanni)駅から徒歩3分 回廊は、9時~18時 定休日=なし 所要時間目安=1時間程度 入場料=無料 回廊は、2ユーロ 入場時の注意事項=静かにする、肌が露出している服は避ける サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)・・・とは? イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂 ラテラン教会、ラテラン大聖堂とも呼ばれる「ラテラノ宮殿」が隣接している。 ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。 四大バシリカ・・・とは? ラテラノ大聖堂(ここ) サン・ピエトロ大聖堂 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂) さらに サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。 ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外にあるが、 ラテラノ条約によってバチカンの特別な権利が認められている。 【歴史】 ・・・古代からアヴィニョン捕囚まで・・・ 古代においてラテラノ大聖堂は「救世主大聖堂」と呼ばれ、 ローマの多くの教会のランク付けの中で最上位に置かれ、 信徒たちの敬意を集めた。 ラテラノ大聖堂はローマ司教としての教皇の司教座聖堂(カテドラル)であることから、 「全カトリック教会の司教座聖堂」とも称される。 もともとこの場所にはローマ帝国の時代、 ラテラヌス家という一族が豪華な邸宅を構えていた。 ラテラヌスの一族は数人の皇帝につかえた。 セクスティウス・ラテラヌスは一族の中から初めてコンスル(執政官)に任命された。 その後、一族のプラティウス・ラテラヌスが執政官を勤めていた時、 ネロ帝に対する反乱の容疑でとらえられ、邸宅と財産を没収された。 その後、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝の妹であったファウスタを娶ったときに、 ラテラヌス家の邸宅を手にいれた。 そこでファウスタが暮らしたため、 「ドムス・ファウスタ」(ファウスタの家)と呼ばれるようになった。 コンスタンティヌスは後にキリスト教徒たちにこの邸宅一式を譲った。 キリスト教徒たちがこの建物を譲り受けたのはいつの頃かは定かではないが、 歴史家たちは教皇ミルティアデスの時代、 313年頃ではないかと考えている。 ミルティアデスの時代、 ドナティスト論争の決着のために教会会議が開かれた。 そこでは事効論が採用され、人効論を異端的として退けた。 以降、ラテラノ家のものだった邸宅に教皇が暮らすようになり、 ラテラノ宮殿(教皇宮殿)と呼ばれるようになった。 敷地内のバシリカは聖堂に転用されたが、 後に拡張されてローマ司教である教皇の司教座聖堂(カテドラル)となった。 ラテラノ大聖堂の正式な献堂式は 324年に教皇シルウェステル1世によって行われた。 同時に世界の中心たるローマで最大の聖堂であることから、 世界の母なる聖堂と称され、 聖堂の中の聖堂としての栄誉を受けた。 その後、 10世紀に入ると洗礼堂が新築されたことの記念に、 教皇セルギウス3世がこの聖堂を洗礼者ヨハネに再奉献した。 12世紀のルシウス2世は聖堂と宮殿をあわせて福音記者ヨハネに奉献した。 ラテラノ大聖堂は二人のヨハネを記念する聖堂として崇敬を集めた。 ミルティアデス以降の歴代教皇たちはラテラノ宮殿で暮らしたが、 14世紀のフランス人教皇クレメンス5世は フランス王の意を受けて聖座をフランス領内のアヴィニョンに移すことを決定した。 教皇庁がアヴィニョンに置かれていた間にラテラノ大聖堂と宮殿は荒れるに任され、 1307年と1361年に二度の火災にあっている。 アヴィニョンの教皇庁は修理にあてるようなにがしかの資金をローマに送金したが、 かつてのような威容が保たれることはなかった。 ・・・ラテラノ大聖堂の修復事業・・・ オベリスク 長らくアヴィニョンにあった教皇庁は紆余曲折をへてようやくローマに戻ったが、 ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れ果てていたため、 教皇はとりあえずテヴェレ川沿いの サンタ・マリア大聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)に住むことにした。 後に教皇の居住用にサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿がつくられ、そちらに移った。 以後、教皇は現代に至るまでバチカンの教皇宮殿で暮らしている。 16世紀の教皇シクストゥス5世は 荒れ果てていたラテラノ大聖堂と宮殿を修復してかつての威容を取り戻そうと考えた。 再建後、もともと一体化していたラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿は切り離された。 ラテラノ宮殿は現在では教皇庁立博物館として古代キリスト教関係の展示品を蒐集している。 シクストゥス5世は、お気に入りの建築家ドメニコ・フォンターナに修復事業の総指揮をとらせた。 1620年11月15日、 アジアから中東を経てヨーロッパにたどりついた日本人イエズス会士ペトロ岐部は、 このラテラノ大聖堂で念願の司祭叙階の秘跡を受けた。 彼はその後、迫害の激化していた日本に戻って殉教している。 17世紀になると教皇インノケンティウス10世は フランチェスコ・ボッロミーニに聖堂内部の装飾を大々的に行わせた。 18世紀のクレメンス12世はファサードのデザインを公募し、 アレッサンドロ・ガリレイの案を採用した。 現在見られる聖人たちが立ち並ぶ印象的なファサードは この案にしたがって1735年に完成している。 しかし、このファサードの設置によって 教会正面に残っていたバジリカ時代の面影がすべて取り払われてしまうことになった。 ラテラノ大聖堂前の広場にはエジプトから運ばれたオベリスクが屹立している。 このオベリスクはもともとトトメス3世によってカルナックに建てられたものだったが、 ローマ時代に大競技場チルコ・マッシモに建てるために運ばれ、 その後、競技場がなくなると、現在地に移された。 大聖堂に隣接する八角系の洗礼堂は、 コンスタンティヌス帝が洗礼を受けたという伝承の残る位置につくられ、 永きにわたってローマでただ一つの洗礼堂として尊重された。 【歴史的意義】 ラテラン宮殿は第一回から第五回まで行われた公会議、 ラテラン公会議の舞台ともなっている。 1929年2月11日には 教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿と イタリア共和国のベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、 ラテラノ条約が締結された。 その名称は条約が調印されたラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿の名称に由来している。 ラテラノ大聖堂は 数次にわたって大規模な修復や改築が行われたが、 随所に古代の建築物の痕跡をとどめている貴重な建造物であり、 1980年に【世界遺産】に登録されている。ROMA旅にぽち
2017.09.24
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秩序と調和に満ちた構成、卓抜な構図、大胆な明暗対比、劇的な物語表現 ラファエロの描いた壁画「スタンツェ」は、 後世の画家に模範として大きな影響を与えました。 ラファエロが、ローマへ移住してヴァチカン宮殿で描いた壁画を調べてみました。 「署名の間」の天井を飾るフレスコ画 「アダムとイブ」 1508~09年「ラファエロの間」の天井画の多くは ラファエロの弟子によるものと考えられているが、 この絵画は、ラファエロ自身によるものとされている。 「署名の間」の天井装飾のうち、『聖体の論議』と『正義の壁』の中間にある。天井の小場面の『正義(法学)』と(神学)にはさまれた部分。当然ながら、キリストによる贖罪の原因となった原罪の場面をあらわしている。しばしば指摘されるようにイブの下半身は、レオナルドの「レダと白鳥」のスケッチからとられている。「署名の間」の天井を飾るフレスコ画「署名の間」の天井を飾るフレスコ画・・・「正義の女神」 ラファエロが、スタンツエの装飾にたずさわるよりも前に「署名の間」の天井装飾だけは、画家ソドマによって始められていた。非常に装飾性が高く、細かく小画面に分割されお互いの間は、グロテスク模様でつながっている。やや大きめの8つの場面は、ラファエロが担当したと考えられるが帰属には、諸説ある。ラファエロの間(伊:Stanze di Raffaello)は、 バチカン宮殿にある4つの部屋の総称である。 この4つの部屋で一続きの応接室を構成しており、 教皇庁の一部として公開されている。 ラファエロ・サンティと 彼の弟子らの手による多くの著名なフレスコ画が展示されている。 ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画とともに、 フレスコ画としては、盛期ルネサンスを代表する作品として広く知られている。 イタリア語の呼称に含まれる Stanze(スタンツェ) という語は元々、 ローマ教皇ユリウス2世の住居であった宮殿内の一連の区画を指していた。 ユリウス2世は、1508年から1509年にかけて、 当時ウルビーノからローマに出てきて工房を構えたばかりの 若い芸術家であったラファエロに、 その内装装飾の全面的な改修を依頼した。 これらの部屋がユリウス2世と対立していた 前の教皇アレクサンデル6世のボルジアの間 のすぐ上にあったことから、 この大規模な改修は アレクサンデル6世に対する示威行為でもあったとも言われる。 ユリウス2世の居住区は建物の3階にあり、 ベルベデーレの中庭 を見下ろす場所にある。 「ラファエロの間」と呼ばれる一連の部屋には、 東から入って西に向かって歩いていくと、 「コンスタンティヌスの間 (伊: Sala di Costantino)」 「ヘリオドロスの間 (Stanza di Eliodoro)」 「署名の間 (Stanza della Segnatura)」 「ボルゴの火災の間 (Stanza dell'incendio del Borgo)」・・・・と続いている。 1513年のユリウス2世の没後も、 教皇レオ10世により改修は続けられた。 ラファエロが1520年に没してからは、彼の徒弟であった ジャンフランチェスコ・ペンニ 、ジュリオ・ロマーノ、ラファエリーノ・デル・コッレ が「コンスタンティヌスの間」を完成させた。 コンスタンティヌスの間(伊: Sala di Costantino) ラファエロの間に含まれる4つの部屋のうち、 コンスタンティヌスの間がもっとも広い。 この部屋の装飾画に関しては、 制作はユリウス2世、およびラファエロの存命中にはほとんど進められず、 また題材は、異教徒に対するキリスト教の戦いと勝利に絞られている。 ローマ帝国のコンスタンティヌス帝の生涯に始まり、 ロマーノ、ペンニ、デル・コッレによる絵画がその後の歴史を綴っている。 これらは、彼らの師であったラファエロ自身によるものではないため、 他の間にある絵画ほど有名ではない。 彼らは当時の慣習に倣い、絵画中のシルウェステル1世の姿形として、 実際にはクレメンス7世の姿を描いている。 十字架の出現 The Vision of the Cross 「十字架の出現」では、 コンスタンティヌス帝が対立する マクセンティウスに向かって進軍しているときに、 上空に十字架が現れた情景を描いている。 十字架の近くにはラテン語で In hoc signo vinces という文字が現れたとされており、 絵画中ではそれがギリシャ語で Εν τούτω νίκα と描かれている。 ミルウィウス橋の戦い 「ミルウィウス橋の戦い」は、 「十字架の出現」に続く、西暦312年10月28日のミルウィウス橋の戦いを描いている。 コンスタンティヌスの寄進状 The Donation of Constantine 「コンスタンティヌスの寄進状」では、 コンスタンティヌス帝がローマ教皇に領地を寄進する旨を記したとする 同名の偽書の内容を描いている。 コンスタンティヌス帝の洗礼 The Baptism of Constantine コンスタンティヌスの間の最後の絵は「コンスタンティヌス帝の洗礼」であり、 死の床に伏すコンスタンティヌス帝を描いており、ペンニによって塗装されている。 ヘリオドロスの間 (Stanza di Eliodoro) コンスタンティヌスの間から西へ進むと、ヘリオドロスの間である。 この部屋の絵画は1511年から1514年にかけて描かれた。部屋の名前は、 その絵画の一つから取られている。この部屋は当時は公開されてはおらず、 謁見の間であったと考えられているが、神またはキリストが教会に与えた保護を主題としている。 この部屋には4つの絵画がある。 「ヘリオドロスの神殿からの追放」と「ボルセーナのミサ」では、 ラファエロは依頼主であるユリウス2世(パトロン、資金提供者でもある)を 絵の題材への関与ある者、もしくは見守る者として描いている。 ユリウス2世の死後に描かれた「大教皇レオとアッティラの会談」では、 それがユリウス2世の後を継いだレオ10世になっている。 この部屋の絵画は「署名の間」のものよりも後に描かれており、 ラファエロのスタイルの変化を見てとることができる。 教皇の図書室に合わせた動きの少ない静かな印象と比較すると、 劇の要素を含んだ物語的な肖像画と、フレスコ画の表現力を最大に活かす工夫が見い出される。 絵画中に描かれている対象物をより少なく、そしてより大きくすることで、 そのものの持つ動きや感情の印象を、強く直接的に与える。 また劇場のライティングと同様の効果を取り入れることで、対象物を際立たせ、 その緊張感を高めている。 ヘリオドロスの神殿からの追放 Raphael, The Expulsion of Heliodorus from the Temple, 1511-12 「ヘリオドロスの神殿からの追放」では、 ラファエロは『マカバイ記』IIの第三章21節~28節によるヘリオドロスの物語を描いている。 これによると、ヘリオドロスは財宝を奪うためにエルサレム神殿に向けて送り出されたが、 僧侶たちの祈りに天使が答えて、ヘリオドロスたちを打ち負かし、神殿から追い返した。 ここに描かれている絵画は、ラファエロが、これ以前に署名の間で制作した絵画に比べて、 劇的な要素が強調されている。絵画の主題は僧侶の祈り、 ヘリオドロス、ヘリオドロスを追放する天使で、いずれも静止しているが、 天使たちは画面の外に向かって威嚇するように描かれている。 ユリウス2世の左側に、イスに座っている目撃者たちを支えるスイス衛兵が描かれている。 これは、教皇領を奪おうとする教区の世俗指導者を牽制するスイス衛兵の戦いを象徴している。 ボルセーナのミサ Raphael, The Mass at Bolsena, 1512 「ボルセーナのミサ」は、1263年に聖変化の教義に疑いを持っていたボヘミアの僧侶が、 ローマ近くのボルセーナでミサを行っていた際、 パンから血液が流れ出たという逸話を描いたものである。 パンが載っていたテーブルクロスは、聖宝としてオルヴィエート近くに保存された。 ユリウス2世は1506年にそこを訪れ、聖宝に祈りを捧げた。 絵画中で、ユリウス2世はミサに参列してこの奇跡を目撃する者として描かれている。 ユリウス2世は祭壇の左に跪いており、その後ろにローマ教皇庁の役人が立っているのが描かれている。 ラファエロはユリウス2世を、奇跡に対して静かに祈りを捧げる姿で描いており、 13世紀に目撃したであろう世俗の人々とは位が違うことを表している。 右下には、教皇の輿を担いできたスイス兵たちが描かれている。彼らスイス兵は、教皇領がフランスから領土を奪還するのに貢献したためユリウス二世によって親衛隊にひきたれられていた。乾かないうちに描かなくてはならない時間的制限があるフレスコ技法による作品で、これほど緊密で写実性に富み生命感にあふれた人物描写が、ほかにあるだろうか?大教皇レオとアッティラの会談 The Meeting of Leo the Great and Attila, 1514 「大教皇レオとアッティラの会談」は、 レオ1世とフン族の王アッティラの停戦交渉を描いている。 また聖ペテロと聖パウロも上空に剣を持った姿で描かれている。 ラファエロによる原案では、 ユリウス2世の姿でレオ1世を背景中に描こうとしていたことが分かっている。 しかしユリウス2世が死去した後、後を継いだ教皇は名前にレオを選び、 ラファエロに対してレオ1世を中央に、 自分の姿を使って描くよう指示したのではないかと考えられている。 聖ペテロの放免 Raphael, Deliverance of Saint Peter, 1514 「聖ペテロの放免」には、『使徒行伝』第12章に述べられている、 ペテロの釈放がどのように行われたのかを示す3つの逸話が描かれている。 この絵画は、 キリストの代理者として、人間としての制約から解き放たれているローマ教皇の力を示すものである。 ユリウス2世は、かつては枢機卿として ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 (San Pietro in Vincoli) に所属しており、 その後に教皇になった。そのため絵画は一般的な意味として制度としてのローマ教皇を表し、 同時に狭義にはユリウス2世を表している。このフレスコ画では月の明かり、 松明の明かり、天使の後光など明かりの表現が特徴である。 特に天使の後光が印象的に描かれている。 署名の間 (Stanza della Segnatura) 「署名の間」はラファエロが最初に手がけた部屋である。 この部屋はユリウス2世の書庫であり、学習に供された部屋であった。 もともとはここに使徒座署名院最高裁判所が置かれていたことから、その名がある。 キリスト教とそれ以前の精霊の調和、および教皇の蔵書のテーマである 神学、哲学、法学、詩作の調和を表現したトンド として制作されており、 ルネット(壁と円天井が接する部分にある半円形の部分)の上に描かれている。 この部屋の絵画の題材は、世俗的および霊的な知恵と、 ルネサンス人文主義がともに認めるキリスト教とギリシャ哲学の調和である。 この部屋で教会会議が行われ、また重要書類への教皇の署名が行われたことから、 知恵と調和はもっとも適切な主題と言える。 聖体の論議 Raphael, Disputation of the Holy Sacrament 「署名の間」でラファエロが最初に手掛けたのが、この「聖体の論議」(ラ・ディスプータ)である。 言い争っているように見えるので「論議」と一般に呼ばれているが実際には、「秘蹟の勝利」あるいは「信仰の勝利」と名付けられるべき内容である。彼は、この大画面(約7.7m)を天上と地上とに大胆に二分し地上では、聖餅(聖体)をいただく聖杯を、そして天上では、三位一体を取り囲むように人物たちを半円状に配した。これは、かつてラファエロが、ペルージャのサン・セヴェーロ教会で試みた方法を発展させたものである。天上の人物たちは、聖書の登場人物であり地上にいるのは教会教義の成立に貢献した聖人たちや教皇、教会博士たちである。そこに、フラ・アンジェリコ(左端)やダンテなどがまぎれこんでいる。アテナイの学堂 Raphael, The School of Athens 1509年の終わりに、ラファエロは「聖体の論議」の向かい側の壁に次の絵を描き始めた。 これは「アテナイの学堂」と名付けられ、この部屋の隣のユリウス2世の書庫が、 学問の部屋としての位置づけを持っていたことから、 哲学的な理性によって真実を探ることが主題となっている。 ラファエロの作品中、もっとも広く知られているものであろう。 ・・・次回、詳しく登場人物のご説明・・・パルナッソス山 Raphael, The Parnassus ラファエロは1509年の終わりから1510年の初めあたりに、 3つ目の絵画の制作を始めた。これが「パルナッソス山」で、 ギリシャ神話ではアポローンとミューズたちが住み詩作が祭られている場所である、 とされている。この絵画では、アポローンとミューズの周囲に、当時の詩人が多く描かれている。 枢要徳 Raphael, The Cardinal Virtues この部屋の4つ目の壁には、ラファエロの工房の弟子たちによる2つの絵があり、 その上のルネットに「枢要徳」と題された1511年にラファエロが制作した絵画がある。 「枢要徳」という題名は(もっとも重要な徳目である)忍耐(あるいは勇気)、 慎重さ、自制を表しており、それぞれ3人の女性によって象徴的に表現されている。 ボルゴの火災の間 この部屋は、この部屋に飾られている絵画「ボルゴの火災」に因んで呼ばれている。 この絵画は、バチカン近くのボルゴ で発生した大規模な火事を、 教皇レオ4世が十字を切って静めたという奇跡を描いている。 この部屋は、ユリウス2世の後を継いだレオ10世が音楽に興ずる間とされた。 この部屋の絵画の題材はレオ3世とレオ4世の生涯から取られており、 「ボルゴの火災」の他に 「レオ3世の宣誓」、「レオ3世のカール大帝への授冠」、「オスティアの戦い」がある。 「ボルゴの火災」はラファエロが構図を完成させてはいたが、 弟子たちがフレスコ画として完成させた。 他の3つの絵画にはラファエロの関与はなく、弟子によって描かれた。 レオ3世の宣誓 西暦800年12月23日、教皇レオ3世は、 彼の前の教皇であるハドリアヌス1世の甥らにより、 レオ3世にかけられた嫌疑に対して無実を宣誓した。 これを描いた絵画(題名は英語で表すと The Oath of Sir Leo III)である。 レオ3世のカール大帝への授冠 The Coronation of Charlemagne 西暦800年のクリスマスに行われたミサの最中に突然行われた、 レオ3世によるカール大帝への授冠の情景を描いた絵画。 ボルゴの火災 The Fire in the Borgo 「ボルゴの火災」は 「教皇の書 (羅: Liber Pontificalis)」に記されているレオ4世による奇跡を描いた絵画である。 カトリック教会によると、847年にローマの一地方であるボルゴで起こった火災を、 レオ4世が祝福 (benediction) により鎮火したとされている。 オスティアの戦い The Battle of Ostia 849年にオスティアでの海戦で、 レオ4世がサラセン人を打ち破ったこと(オスティアの海戦)を描いた絵画。美術館にぽち
2017.07.28
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ヴァチカン市国『サン・ピエトロ大聖堂』 Basilica di San Pietro in Vaticano・・・とは?国全体が・・・ユネスコの世界文化遺産です。サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう) ウィキペディアさまより資料イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticanoバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山サン・ピエトロとは・・・「聖ペトロ」の意キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。・・・サン・ピエトロ大聖堂の構造・・・ 図の左側に続く広場は省略されている。左側が正面(隣の写真参照)であり、真東を向いている。平面図にある建物は南北約150m、東西約210mサン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。創建は4世紀現在の聖堂は2代目にあたり1626年に完成したものである。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m総面積は49,737m2教会堂の前部には長径200m短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。本来は、コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものである。14世紀まで、ローマ司教(現在のローマ教皇)の司教座聖堂は、コンスタンティヌスのバシリカ(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)であった。アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にローマに戻った教皇によって、ローマ教皇の座所となる。最初の教会堂が大聖堂ではなく、聖ペテロの墓地の巡礼を目的として設計されたため、本来は東側に向けて構築されるはずのアプスは西に向けられ、東側には入り口が設けられている。サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称は、Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)であるが、この教会堂をバシリカと呼ぶのは、ローマ建築から初期キリスト教建築に連なる伝統的なバシリカだから、というわけではない。現在のカトリック教会は、重要な教会堂や大聖堂にバシリカの語を充てているが、本来は、ローマ教皇によって宗教的特権を与えられた七つの教会堂を示すもので、サン・ピエトロ大聖堂はそのひとつであることを意味する。実際に、現在の聖堂は伝統的なバシリカ式の教会堂建築ではない。特権を与えられた7つのバシリカは、サン・ピエトロ大聖堂のほか、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・セバスティアーノ大聖堂、そしてサンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ大聖堂で、かつては聖年に巡礼を行うと、贖宥されるとされた教会堂であった。【歴史】・・・創建前・・・歴史学的には、ペテロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。ローマ教皇庁が1950年に行った声明に先立つ1939年からの発掘では、大聖堂地下において墓碑とトロフェーオと呼ばれる祭壇の柱が発見され、さらにネクロポリス(墓地)全容も判明した。これがペテロのものであるという確証はない。ただトロフィーオからは古くはアウグストゥス時代のコインも発見され、当時から崇拝の対象になっていた事がわかる。現在は内部の一部も見学できるネクロポリスは、全体の長さ60mほどの通路の両側に、大小約20の廟(マウソレウム)が並んでいる。ペテロの墓といわれている部分の上に「赤い壁」があり、そこにトロフェーオが築かれていた。この場所は「カンポP」という名称がつけられている。ネクロポリスは地下聖堂(グロッタ)の床下6m、現在の大聖堂の床からは10m下にある。「カンポP」部分の上にはコンフェッシオーネがあり、その奥には「赤い壁」を穿つ形で『バリウムの壁龕』が置かれている。この壁龕の真上が教皇の祭壇が位置する。これらは、ペテロの墓の位置を知らしめるための配置である。なお、かつてここにはネロのチルクス(競技場)があり、64年に発生したローマ大火で罪を着せたキリスト教徒をここで見世物を兼ねた数々の残虐な刑に処したといい、この中にペテロもいたと伝わるため、しばしばペテロ殉教の地とされることもある。しかし、15世紀には、ペテロが逆さ十字に架けられたのは「黄金のヤニクルム」、つまりジャニコロの丘のモントリオ(サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のある場所)であるとされ、現在は、そこにドナト・ブラマンテの設計したテンピエットが建設されている。・・・聖堂の創建・・・旧サン・ピエトロ大聖堂復元図旧サン・ピエトロ大聖堂平面図とネロのチルクス、および現聖堂の平面初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認し、自らも帰依したコンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵に2世紀になって整備された異教徒用墓地区域にある、聖ペテロらのネクロポリスを覆うように計画された。これは、夢のお告げを受け十字架の旗を掲げミルウィウス橋の戦いに勝利した事から、その感謝の捧げ物(「エクス・ヴォート」)として、聖人の墓の上に建てられた6つの聖堂の1つである。この工事には2つの問題があった。一つ目はローマ法が禁じていた墳墓の冒涜に反し、当時も使われていたと考えられるネクロポリスを埋めてしまうという点である。二つ目は墓所が傾斜地にあり、バシリカを建設するには10mもの高低差を整地しなければならない点であった。これらは皇帝の権威で推し進められた。最初の大聖堂の形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され、身廊は360年頃、アトリウムは390年頃、内部装飾は5世紀中期までには完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプスを含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達する巨大なもので、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂であった。ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂は主教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代・中世の教皇の住まいは「首都と世界の本山にして首席教会堂」と称された救世主大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。896年に、救世主大聖堂は聖ヨハネに献堂され、「首席教会堂」の尊称はサン・ピエトロ大聖堂に遷されることになった。バシリカ式教会堂を舞台とする有名な出来事には、カール大帝の戴冠がある。教皇の座にレオ3世が就くと、799年に反発者らが襲撃をかけ、教皇はフランク王国へ逃げ込み大帝の保護を受けた。大帝は教皇をローマに護送し、代理人を立て裁判を開かせたが収まらず、ついに大帝本人がローマに入り事態を収拾した。この功績から大帝は冠を授かる事になり、クリスマスの日に祭壇の前で教皇が黄金の王冠を大帝の頭に載せた。現在のサン・ピエトロ大聖堂の身廊中央に斑石の円盤があるが、これは旧聖堂の祭壇前から移されたもので、カール大帝はこの石盤の上に跪いて載冠を受けたといわれる。現在、この創建当時のサン・ピエトロ大聖堂は失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂とファサードや平面がよく似ており、当時の教会堂を偲ぶのに適している。また、新聖堂が建設された16世紀に、聖職者のティベリオ・アルファラーノと公証人のジャコモ・グリマルディが残した平面図やデッサンおよび記録や、複数の画家による絵画からも旧聖堂がどのようなものだったか知る事ができる。・・・ルネサンス期・・・最初にバシリカ式教会堂を建て替えようという構想を持ったのは教皇ニコラウス5世であった。1377年当時のローマ人口は17,000と推計され、衰退した都市に落ちぶれていた。サン・ピエトロ大聖堂も老朽化が激しく、側壁が外れ、屋根は今にも落ちそうであった。また、当時の眼からするといかにも古臭く、「粗野な時代に建てられたもの」という酷評も残っている。教皇とレオン・バッティスタ・アルベルティが立案したローマ復興の計画は、城壁や街の整備の他に、大聖堂の再建が挙げられた。しかしニコラウス5世の在位は8年で終わり、工事の中断とともに再着手はなかなか行われなかった。現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に 教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。当初は自らの墓碑を据える発想だったが、ジュリアーノ・ダ・サンガッロの新聖堂建設の提案を元に計画がどんどん膨らみ、全面的に建て替える壮大なものになった。ブラマンテによるサン・ピエトロ大聖堂の計画案。現物図面は半分しか残っていない。外観はメダルの立面から推定される。復元されたブラマンテの集中式、ギリシア十字形プラン。建築設計競技によってドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われている。ただし、これらの作業に伴う改築決定の勅令や、古い聖堂を壊す契約書といった公式書簡は全く残されていない。このためユリウス2世とブラマンテは、まだ使用に耐えうる旧聖堂破壊の公式な決定をあえて避けたとも考えられている。ただし、ユリウス2世は各地に宛てた書簡の端々で、旧バシリカが倒壊寸前であること、状況を打開するには思い切った行動が必要であることを説明している。ブラマンテの計画案は、現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館に納められているが彼がこの大聖堂について決定した事項について知られているのはこの平面プランと、基礎石の下に埋め込まれ、「ペテロの神殿の再生」の文字と立面を刻印したカラドッソ作の記念メダルをおいてほかにない。これは、中央に大きなドームを持つギリシャ十字形の建物であり、四隅の塔や小さなドームなどを備えながらファサードを持たない構造だった。この設計の特色はルネサンス的な美学が反映している。建物は各部が回転対称にデザインされた集中的プランと呼ばれるもので、数学的調和を重視した結果である。ドームもまた同様に、宇宙を象徴する完全な半球が想定された。オノフリウス・パンヴィニウスとセバスティアーノ・セルリオが、木造模型ですら未完だったと述べていることから、これ以上のことは、恐らく何も決まってはいなかったと推察されている。1506年の式典に際して、主ドームを支える柱の位置が決定されたが、当初のプランではドームを支えるには全く強度が足りなかったため、ブラマンテが存命中にも柱は増強され、のちに柱は太くされた。この事実によって推察されるのは、工事全体の規模が、当時の芸術家や職人の把握できる限界を越えていたということである。それでも、1510年1月16日にドームを支持する4つのアーチが完成し、1512年には内陣部分の構造が完成した。しかしユリウス2世は1512年、ブラマンテは1514年にそれぞれ死去し、彼らが残したものは4本の柱とアーチだけであった。 ラファエロのラテン十字形プラン。次の教皇レオ10世 (ローマ教皇)はラファエロ・サンティを起用し、ジュリアーノ・ダ・サンガッロとフラ・ジョコンドを補佐につけた。しかしジュリアーノは間もなく死去し、甥のアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネが任を継いだ。彼らの補佐建築家(ソットアルキテットーレ)にはバルダッサーレ・ペルッツィが指名された。ラファエロは設計の変更に着手した。ひとつはレオ10世がバシリカの聖堂をすべて覆う大聖堂を望んだ事、またブラマンテの集中式プランはミサなどを行いにくい実用面での欠点が指摘された。ラファエロは身廊を備える古典的なラテン十字形プランを計画した。しかし工事はほとんど進展しないまま1520年にラファエロが、翌年にはレオ10世が亡くなった。享楽主義のレオ10世は放蕩を重ね、財政の圧迫と政治的混乱そして宗教的離反を招いていた。彼に続くハドリアヌス6世は質実だが芸術を虚飾と嫌い、建設は止まったままになった。次の教皇クレメンス7世は芸術を理解する人文主義者であったが、マルティン・ルターの宗教改革の時代にカトリック教会は厳しい情勢下にあった。ファン・ヘームスケルクによる工事中の聖堂のスケッチ。1532-36年頃。さらに追い討ちをかけた出来事が、1527年5月のカール5世の軍隊によるローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)であった。大聖堂も被害を受け、ユリウス2世など墓を暴き、貴重な古文書や文献が失われた。ペルッツィはスペイン人に捕えられ、画家と判ってようやく解放された。このような事件や財政不足から、大聖堂の建設はほとんど進まなかった。1532-1536年ローマを訪れたオランダ人画家ファン・ヘームスケルクは、当時の大聖堂をスケッチしたが、それによると主ドームを支える柱と架けられた格間ヴォールト以外の主要構造部分はほとんど工事が進んでいないのがわかる。壮大ながら工事途上で残されたアーチと柱の上に、長らく放置されたために生えた雑草も描いた。名家出身のパウルス3世が教皇になると、1536年頃からまた大聖堂の建設が再開された。しかし財政が好転したわけではなく、別な名目で得たスペインからの拠出金を流用したり、免罪符の許可などで賄った。さらには、石材をフォロ・ロマーノから切り出す事まで許可し、古代ローマの遺跡破壊をもたらした。ラファエロが亡くなった1520年にカポマエストロ(主任建築家)を継いでいたサンガッロは、建築が活発になりだした1538年頃から[20]8年間にわたり工事を統括した。彼は集中式ギリシア十字形プランとパジリカ的なラテン十字形プランの折衷的な案を提示した。これは、集中式プランの前面に凱旋門風のファサードをつけ、内部にもデアンブラトーリオ(周歩廊)を設けるなど複雑なものだった。彼は自分の案を元に7.3×6.0mの木製モデルを製作させたが、それから分かる計画は、2本の高い塔や細々した装飾に過剰なまでに凝ったものだった。この計画は当初から反対意見があったが、最終的に承認された。しかしながら、1546年に亡くなったサンガッロが残した業績は、この「指物細工の傑作」と言われる木製モデルと、大聖堂の床を3m高く変更し、後年に地下礼拝堂を建設できる余地を生んだ程度に終わった。ミケランジェロの集中式プラン。・・・ミケランジェロの集中式プラン・・・サンガッロの死後、後任にはジュリオ・ロマーノが選ばれたが直後に世を去り、ついにミケランジェロ・ブオナローティに白羽の矢が立った。このとき彼はすでに71歳と高齢で断ったが押し切られ、それからは超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。彼はまず、ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編し、 主ドームを支える柱の肉厚を増すとともに、サンガッロのプランが採光に難を抱えていた点を指摘して出来上がっていた工事部分の2/3を破壊してまで建物の輪郭を縮小した。こうして彼は、工事の規模自体を縮小してコストを切り詰め、造営工事の進捗を促したのである。彼のプランと建築計画はサンガッロ派から激しい攻撃を受けたが、ミケランジェロは無給で晩年の17年間を大聖堂建築に捧げた。現在のサン・ピエトロ大聖堂は後の計画変更で追加されたファサードを除けば、基本的な部分はミケランジェロの手による。造営工事は迅速に進められることになり、ミケランジェロの没年である1564年に、工事はドーム下部構造のドラムにまで到達した。 以後の工事はピッロ・リゴーリオを経てジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラが、主任建築家になり引き継がれた。彼は主に四隅の礼拝堂建設を担った。ただこの頃はレパントの海戦などトルコとの争いに向けた支出があり、工事はあまり進まなかった。 ・・・ドーム・・・大聖堂建設は16世紀末から活況を呈した。これはグレゴリウス13世からシクストゥス5世の頃にローマ全体で積極的な都市計画と建築が行われ、その一環として大聖堂へも力が注がれたためである。主任建築家にはジャコモ・デッラ・ポルタが指名され、都市計画で手腕を発揮したドメニコ・フォンターナが協力することになった。今日残っているブラマンテのプランでは、ドームは完全な半球であったが、工事を引き継いだフォンターナとデッラ・ポルタは、 静止力学的な解法から 尖頭型ドームを採用した。ミケランジェロが外殻を半球か紡錘か決めかねていた事を伺わせる資料が残っているため、この手直しがデッラ・ポルタらの独創かミケランジェロの影響があるかは明瞭ではない。しかしともかく、ドームは1588年から1590年にかけて昼夜を問わず工事が進められて架けられ、頂塔(ランタン)は1593年に完成した。ドームの内側はモザイク装飾へ変更されて1598年に着工、1612年に完成した。・・・バロック期・・・16世紀末から17世紀初頭、大聖堂の改築において大聖堂の正面に残っていた旧聖堂の東側部分をどうするかという問題が起こっていた。反宗教改革の流れから保守的な意見が強まったことに加え、初期キリスト教時代のカタコンペが数多く発掘されたことなど考古学的関心が高まる中、由緒ある旧聖堂を残すべきという主張が影響力を持っていた。教皇クレメンス8世は聖堂の内装工事などに積極的だったが、この問題に結論を下せなかった。しかし旧パジリカの老朽化はひどく、1605年ついにパウルス5世によって旧聖堂の取壊しが決断された。1606年には大聖堂の最終的な建築計画が8人の建築家によるコンペティションで競われたが、その過程でミケランジェロが理想と考えた集中式プランに対する欠点の指摘が相次ぎ、ミサを遂行したり儀式を補佐する空間が用意されていない点が問題視された。これらの検討の結果、カルロ・マデルノに旧聖堂の解体とミケランジェロのプランを変更する命が下った。マデルノは、ミケランジェロのプランに基づき既に出来上がっていた聖堂本体部分に、違和感を生じさせないよう延長させ身廊を設けた。ここには礼拝堂や聖具室など実用的な空間も付け加えた。さらに、列柱だけのファザードも変更し、通廊式のポルティコ(玄関廊)とした。この2階部分からは教皇が祝福を与える場(ロッジア)として想定された。1607年にプランを具体化した木製モデルが承認されると、1608年から工事が始まり、1612年に完成した。身廊ヴォールト架構は1614 年末に完成、翌年には新旧聖堂を分けていた壁が取り払われ、4月12日に新しい聖堂へ立ち入ることができるようになった。しかし、最終的な献堂式はウルバヌス8世によって1626年に行われている。マデルノによる計画は、初期キリスト教建築に遡る伝統的なバシリカではなく、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計したマントヴァのサンタンドレーア聖堂と同じ、両側に小礼拝室を備えた単廊式教会堂に近いものである。予定では、正面ファサードの両側には塔が建設されるはずであったが、現在では下部構造(ファサードの一部と化している)のみに止まっている。内陣の青銅製大天蓋(バルダッキーノ)は、ウルバヌス8世の命を受けたジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計・制作した。これは1624年に着手され、1633年に完成した。バルダッキーノのねじれ柱は、旧サン・ピエトロ大聖堂のパーゴラに使われていた初期キリスト教時代の円柱を再現したもので巨大な大聖堂の中心部に視線を集中させる効果を持つ。またベルニーニは、聖堂中心の4つの柱に、4つの聖遺物(ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖ヴェロニカの布、聖アンデレの頭部)を安置する祭壇を設け、その下に縁の人物像を配した。ベルニーニに与えられた次の仕事はマテルノが設計したファサードの鐘塔だった。既に基礎のベイは造られていたが、実は地盤の弱さが指摘され中止されていたものだった。ベルニーニは円柱を多用した設計案を元に1638年から工事を開始し、1641年には左側の塔2層目までを完成させた。ところが、塔とファサードに亀裂が発見され、すぐさま撤去された。ライバルのフランチェスコ・ボッロミーニから激しい非難を受けたベルニーニは修正案も否決された。。ドームから見た広場ファサードの最終的なプロポーション、すなわち列柱廊を持つ楕円形広場もベルニーニの手によるものである。鐘塔の失敗とウルバヌス8世の死後は干されてしまっていたベルニーニであったが、取り組んだ数少ない仕事のひとつウルバヌス8世墓碑の出来栄えを時の教皇インノケンティウス10世が認め、次代のアレクサンデル7世はベルニーニ起用を決めた。 最初の計画案は1656年の夏に作成された。ベルニーニが考案した計画は、現在のルスティクッチ広場に向けて収束するような台形の広場であったが、これはすぐに却下されたため、彼は円形の広場を構築する方向で計画を練り直した。最終的にレッタ(台形)とオブリクァ(楕円形)の広場を建設する案が決定され、1657年3月17日、法王にその計画が提出された。 ベルニーニ自身が、この広場を「信者を迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているかのように見せるコロネード(柱廊)を備えていなくてはならない」と評しているように、サン・ピエトロの広場は、広場としての境界は明瞭であるが、コロネードによって外部に対しても開かれている格好になっており、信者をゆるやかに抱擁するものになっている。また、マデルノによるファサードは、両側に鐘楼が建設されることを意図して高さに対し幅の広い、やや鈍重な形状になっていたが、ベルニーニは、オブリクァ広場に接続するレッタ広場の開口部をファサードよりも狭くし、大聖堂側に向けてコロネードを低くすることによって、大聖堂の高さを強調するような視覚効果を与えた。4列のドリス式円柱と140体の聖人像で飾られたコロネードは、1667年に完成したが、ベルニーニの考えでは、玄関にあたる部分に第三のコロネードと、大聖堂のファサードから離れた位置の両側に鐘楼を建設する予定であった。しかし、これはアレクサンデル7世が1667年に他界したため頓挫し、計画のみに終わっている。広場と並行して、ベルニーニは聖堂内に司教座の後陣(アプス)を備える装飾にも取り組んだ。彼は、旧聖堂に伝わる聖ペテロが使ったという木製の椅子(カテドラ・ペトリ、後の科学分析で否定された)を後陣に据え、これを4人の教会博士が支える構図の彫刻を中心に装飾する計画を立て、教皇がペテロの正当な後継者だと権威づけようと考えた。これは10年の期間を要して1666年に完成した。ベルニーニは1680年に亡くなった。この時には、サン・ピエトロ大聖堂は現在見せる形にほぼ仕上がっていた。建物建築に120年、周辺整備や装飾にさらに50年が費やされた。フォンターナとデッラ・ポルタは、鉄製のテンション・リングを埋め込んでドームを補強していたが、18世紀になると、このドームに亀裂が発見され、倒壊するのではないかとの噂がたった。この亀裂は専門家によって危険がないと判断されたが、1734年から1744年にかけて、ルイジ・ヴァンヴィテッリによってさらに5本の鉄製テンション・リングが埋め込まれている。・・・大聖堂の装飾・・・ミケランジェロのピエタサン・ピエトロ大聖堂を含むイタリアを訪れた観光客がかかる「スタンダール症候群」という病気を、1979年にフィレンツェの精神科医師ガジエッラ・マゲリーニが指摘した。これは、膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するものである。1975年にガラッシ・パルッツィが著した本によると・・・大聖堂の美術品はトラヴェルティーノ像165体、ストゥッコ像125体、大理石彫像が110体、ブロンズ像40体があると記されており、そのひとつひとつが大作揃いである。祭壇画はほとんどがモザイクの複製画に取り換えられているが、これも膨大な数になる。聖堂内にある歴代教皇の墓は147基あり、多くは地下礼拝堂にあるが堂内でもたくさんの墓碑を見ることができる。・・・サン・ピエトロ広場・・・広場は楕円形と台形が組み合わさったコロネードに囲まれ、中央には高さ25.5mのオペリスクがある。このオペリスクはカリグラ帝の戦車競技場にあったもので、旧パジリカ時代には大聖堂の横に立っていたが、1686年に現在の場所へ移された。コロネードの湾曲部分は「楕円」と言われるが、実際はそれぞれの中心がもう一方の円周上にある2つの正円である。各中心には円盤の目印があり、ここから眺めると4列の柱が重なって1本に見える。柱の総数はドーリス式円柱が240本、ピラスター(角柱)が88本。そして高さ3.2mの聖人像144体がある。楕円中心部には2つの噴水があり、右側はカルノ・マデルノ(1613年)、左側はカルロ・フォンターナ(1677年)の作である。19世紀中ごろ、聖ペテロと聖パウロの像は、15世紀の彫刻から現在のものへと置き換えられた。・・・ファサード・・・ファサードは2階構造で、8本の円柱、6本の半角柱、4本の角柱が支える。屋上にはそれぞれ5.7m高の聖人像13体が飾られ、その下になる2階部分には5つのバルコニーがある。その中央は教皇が祝福を行う専用のロッジャとなっている。・・・ポルティコ・・・ポルティコ(玄関廊)から聖堂内に入る扉は5つあり、右から『聖なる扉(ポルタ・サンタ)』(ポッロミーニ設計)、『秘蹟の扉』(ヴェンルツィオ・クロチェッティ)、『中央の扉』(アントニオ・フィラレーテ、旧聖堂から移設)、『善と悪の扉』(ルチアーノ・ミングッツィ)、『死の扉』(ジャコモ・マンズー、1964年)である。中央扉上部にはベルニーニら作の浮彫『私の羊を飼え』(1646年)がある。反対のファサード側にあるモザイク画『小舟(ナヴィチェッラ)』(ジョット、1298年)は、旧聖堂の前庭にあったものだが、のちに修復を受けた際に大きく改変された。ポルティコの右側にはヴァチカン宮殿へ繋がる階段(スカラ・レージャ)の踊り場にはベルニーニ作の『コンスタンティヌス帝の騎馬像』(1669年)があり、反対の左側には『カール大帝の騎馬像』(コルナッキーニ、1730-1735年)がある。・・・身廊・・・身廊に入って右手前に通称「ピエタ礼拝堂」がある。正式にはクロチフィッソ(磔刑像)礼拝堂というが、ミケランジェロの『ピエタ像』が安置されたことからこう呼ばれる。旧聖堂から移されたピエタ像は新聖堂内で場所を何度も変えられたが、1749年にこの場所に落ち着いた。1972年にはトルコ人の精神病者がハンマーを打ち付ける事件が起き、それ以来防弾ガラスが据えられている。次にはサン・セバスティアーノ礼拝堂があり、モザイク画『聖セバスティアヌスの殉教』(ドメニキーノ)がある。この右壁には『教皇ピウス11世の墓碑』、左壁には『教皇ピウス12世の墓碑』がある。次にあるサクラメント(聖体)礼拝堂は元々聖具室だった。ボッロミーニによる特徴的な鉄柵の中に、神殿形式の『チポーリオと天使』はベルニーニ作。背後には聖堂内唯一の油彩画『聖三位一体』(ピエトロ・ダ・コルトーナ)があり、右壁にはモザイク画『聖フランチェスコの法悦』(ドメニキーノ)、天井にはスコット装飾(カゾラーノとダーリアと伝わる)がある。身廊に入って右手前に洗礼礼拝堂があり、据えられたブロンズ製の洗礼盤はカルロ・フォンターナがデザインした。祭壇にはモザイク画が、中央に『キリストの洗礼』(原画カルロ・マラッタ)、右には『聖ブロケッススと聖マルティニアヌスに洗礼を授ける聖ペテロ』(原画パッセリ)、左には『ケントゥリオン・コルネリウスに洗礼を授ける聖ペテロ』(原画プロカッツーニ)がある。次の礼拝堂へ繋がる部分には、『マリア・クレメンティナ・ソビエスカの墓碑』(彫刻ピエトロ・ブラッチ)の墓碑、その向かいには彼女が嫁いだ『スチュアート家の人々の墓碑』(アントニオ・カノーヴァ)がある。次の礼拝堂はプレゼンタツィオーネ(宮参り)礼拝堂を呼ばれ、『ヨハンネス13世の浮彫モニュメント』(エミリオ・グレコ)、『教皇ベネディクトス15世のモニュメント』(ピエトロ・カノニカ)があり、祭壇には教皇ピウス10世の遺体が安置され、モザイク画『マリアの宮参り』(下絵ロマネッリ)がある。奥への接続部には、墓碑としては唯一旧聖堂から移された『教皇インノケンティウス8世の墓碑』があるが、古いスケッチからの類推では当初と左右を逆転して据えられている。この奥には参事会員のためのコーロ礼拝堂があり、ジャコモ・デッラ・ポルタ設計、ジャン・バッティスタ・リッチ制作と伝わるストゥッコ装飾が飾る。その他『スウェーデン女王クリスティーナの墓碑』 – カルロ・フォンターナ『教皇レオ12世の墓碑』奉献の礼拝堂の祭壇画『マリアの神殿への奉献』– ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ『マティルデ・ディ・カノッサ伯爵夫人の墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニおよびアンドレア・ボルジ『教皇ピウス10世のモニュメント』 – フロレスターノ・ディ・ファウストコーロ礼拝堂祭壇画『無原罪のお宿り』– ピエトロ・ビアンキ『教皇グレゴリウス13世のモニュメント』『教皇グレゴリウス14世のモニュメント』『教皇レオ1世のモニュメント』– アレッサンドロ・アルガルディ『教皇インノケンティウス11世のモニュメント』– ピエトロ・ステファノ・モンノ身廊壁龕の像(向かって右側)『聖ペテロ』『アビラの聖テレサ』『パウルの聖ヴィンセント』『聖フィリッポ・ネリ』身廊壁龕の像(向かって左側)『アレクサンドリアの聖ペテロ』『聖カミッロ』『聖イグナティオ』『パオラの聖フランチェスコ』・・・内部・・・主角柱壁龕の像『聖ロンギヌス』(像の下部に聖槍を所蔵)『聖ヘレナ(エイレーネー)』『エルサレムの聖ヴェロニカ』『使徒アンデレ』(像の下部にアンデレの頭部を所蔵)– ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ内陣および至聖所部分ペンデンティヴのモザイク『福音記者マタイ』『福音記者マルコ』『福音記者ヨハネ』『福音記者ルカ』『大天蓋(バルダッキーノ)』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『主祭壇』 – カルロ・マデルノ『聖ペテロの司教座』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『教皇ウルバヌス8世の墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『教皇パウルス3世の墓碑』 – グリエルモ・デッラ・ポルタ sauce soyja égraule rouleau de printemps comprend rien内陣周辺の各礼拝堂グレゴリアーナの礼拝堂『救いの聖母の祭壇』(コンスタンティノポリス総主教ナジアンゾスのグレゴリオスの遺体を安置)グレゴリアーナの礼拝堂『教皇グレゴリウス16世のモニュメント』クレメンティーナ礼拝堂– ジャコモ・デッラ・ポルタクレメンティーナ礼拝堂のモザイク『布の奇跡』– アンドレア・サッキクレメンティーナ礼拝堂『教皇ピウス7世のモニュメント』– アルベルト・トロバウゼンモザイク『聖ヒエロムニスの聖体拝領』– ドメニキーノ『キリストの変容』– ラファエロ・サンティ『聖バシレイオスの祭壇』『教皇ベネディクトス14世のモニュメント』『教皇ピウス8世のモニュメント』『ブジーアの祭壇』聖ベンチェスラオの祭壇の祭壇画 – アンジェロ・カロセッリ聖プロチェッソとマルティアーノの祭壇のモザイク『聖プロチェッソとマルティアーノの殉教』 – ジャンボローニャ聖エラスムスの祭壇のモザイク『聖エラスムスの殉教』 – ニコラ・プーサン聖トマスの祭壇モザイク『聖トマスの不信』 – ビンチェンツォ・カムッチーニ聖シモンとユダの祭壇のモザイク『聖ヨセフ』 – アキッレ・フーニ聖ペテロの祭壇の祭壇画『聖ペテロの磔刑』 – グイード・レーニ『教皇クレメンス13世のモニュメント』 – アントニオ・カノーヴァ小舟の祭壇『アレクサンデル7世墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『聖なる心の祭壇』聖ミカエルの礼拝堂の祭壇画『聖ミカエル』 – グィード・レーニコロンナの礼拝堂『聖母像』コロンナの礼拝堂『教皇レオ1世とアッティラの出会い』 – アレッサンドロ・アルガルディアヴェンティーノの丘の「鍵穴(聖ヨハネ騎士団の館)<it:Villa del Priorato di Malta>のサン・ピエトロ大聖堂」 以上・・・ウィキペディアさまより【世界遺産】にぽち
2017.07.26
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日本の世界遺産21個目です(^-^)b 日本の【世界遺産】21・・・とは?新しく登録されるのは・・・『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群 (Sacred Island of Okinoshima and Associated Sites in the Munakata Region) 場所は・・・ココ宗像・沖ノ島と関連遺産群(むなかた・おきのしまとかんれんいさんぐん) ユネスコの世界遺産暫定リスト記載物件の名称。 2017年の第41回世界遺産委員会への正式推薦に際し、 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群と改称され、 その名称で正式登録された。 福岡県の宗像市及び福津市内にある宗像三女神を祀る宗像大社信仰や、 大宮司家宗像氏にまつわる史跡・文化財を対象とするものであり、 自然崇拝を元とする固有の信仰・祭祀が 4世紀以来現代まで継承されている点などが評価されている。 世界遺産委員会では、 航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価された。 沖ノ島(宗像大社沖津宮) 「宗像神社境内」として島全体が御神体で国の史跡に指定、 「沖ノ島原始林」が国の天然記念物に指定。 また、 「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」 として約8万点の出土品が国宝に指定されており、 「海の正倉院」とも呼ばれる由縁となっている。 正式版の推薦書では、 島の手前にある 小屋島・御門柱・天狗岩の三つの岩礁が 鳥居の役割を果たしているとし、 付帯施設として記載された。 宗像大社中津宮と御嶽山祭祀遺跡(御嶽神社)宗像市大島。 「宗像神社境内」として国の史跡に指定、 本殿は福岡県の有形文化財に指定。 御嶽神社裏で確認された御嶽山祭祀遺跡は 沖ノ島と同時期の露天祭祀遺構である。 御嶽神社に至る登山道は九州オルレにも指定。 沖津宮遥拝所(瀛津宮)宗像市大島。 「宗像神社境内」として国の史跡に指定。 地図宗像大社辺津宮宗像市田島。 「宗像神社境内」として国の史跡に指定、 本殿及び拝殿は国の重要文化財に指定。 境内背後にある高宮祭場の地中にある 下高宮祭祀遺跡は沖ノ島 および御嶽山祭祀遺跡同様の露天祭祀遺構である。 福津市新原・奴山古墳群「津屋崎古墳群」として国の史跡に指定日本から推薦時に候補から外れたもの 新原・奴山古墳群を除く津屋崎古墳群 - 国の史跡に指定。 桜京古墳 - 国の史跡に指定。 【推薦範囲の法的保護根拠】 世界遺産の推薦にあたっては 完全性(インテグリティ)として法的保護根拠が求められる。 文化財保護法に基づく構成資産の指定は上記のとおりだが、 この他に宗像大社辺津宮から 神湊にかけて景観法の景観重点区域、 中津宮を含む大島は準景観地区、 新原・奴山古墳群周辺は眺望景観重点区域を適用する。 加えて宗像市は都市計画法の都市計画区域であり、 建築行為の規制が行える。 こうしたことから、 以前福津市に持ち上がった海上空港(新福岡空港)計画や 洋上石油備蓄計画などの開発を免れることができる反面、 今後風力発電や潮力発電の設置は困難になる。 一方、緩衝地帯(バッファーゾーン)は 海洋(海神)信仰の場として 神湊-大島-沖ノ島を結ぶ 玄界灘も設定している。 特に沖ノ島周辺海域は 地先公有水面となる(沖ノ島の地先権は大島にある)。 また、 辺津宮と神湊の中間に位置する玄海地区の農村田園風景が 古来からの稲作文化を伝承し、 大島の漁村風景も海洋信仰を継承してきた 海人の文化を残すとして、文化的景観も視野に入れる。 この他に宗像大社の鎮守の森や 新原・奴山古墳群から 玄界灘・大島を望む海浜部は 玄海国定公園の指定地域となっている。 【登録への経緯】 2006年度と2007年度に、 文化庁は各地方自治体から 世界遺産暫定リストに加える 候補の提案を受け付けた。 この物件は、 2006年度に寄せられた24件の提案の一つであり、 「沖ノ島と関連遺産群」という名称だった。 この24件からは まず4件が2007年1月に暫定リスト入りし、 残る候補と2007年度の候補の計32件のうち、 2008年12月15日、文化庁が 北海道・北東北を中心とした 縄文遺跡群(北海道など)、 九州・山口の近代化産業遺産群(福岡県など九州6県)とともに 追加申請を決めた。 そして、 この物件を含む5件が2009年に暫定リストに加えられた。 当初の記載名称は 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」であった。 2016年1月に 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」 (Sacred Island of Okinoshima and Associated Sites in the Munakata Region) の名称で文化庁から正式推薦された。 その後2017年5月に 世界遺産委員会の諮問機関である 国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、 沖ノ島および周辺の3岩礁のみに、 古代祭祀に関する考古学的観点からの 顕著な普遍的価値を認める一方、 宗像大社の信仰上の価値などは 日本国内レベルでの価値にとどまるとして、 沖ノ島と3岩礁以外の構成資産の除外を条件に「登録」を勧告し、 あわせて名称を「『神宿る島』沖ノ島」とすることなども勧告した。 【ICOMOSの勧告】 ・自然崇拝に基づく古代の沖ノ島信仰と現在の宗像大社信仰に、継続性は確認できない。 ・なぜ、どう信仰が変容したのか、説明が不十分。 ・女人禁制など沖ノ島の禁忌の由来は、17世紀までしか記録をさかのぼれない。 ICOMOSの勧告に対しては、 福岡県知事小川洋が 8件全てでの登録を目指して努力する旨を表明し、 宗像市長谷井博美も 同様のコメントを発表した。 他方で、8資産を結びつける「信仰」の価値が認められなかったため、 文化庁からは 逆転登録に向けた前途の厳しさを指摘する意見も出ていたが、 地元の意向にも配慮し、 政府は8件全てでの逆転登録を目指すことになった。 世界遺産委員会の審議では、 委員国から8件全ての価値について好意的な意見が示され、 逆転で8件全ての登録が認められた。 【登録基準】 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、 登録がなされた。 (以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、 建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、 人類の価値の重要な交流を示すもの。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、 唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 ・・・ウィキペディア様より・・・ 日本の世界遺産登録数は・・・21個 1.知床 – (北海道) 2.白神山地 – (青森、秋田) 3.平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 – (岩手) 4.日光の社寺 – (栃木) 5.富岡製糸場と絹産業遺産群 – (群馬) 6.小笠原諸島 – (東京) 7.富士山-信仰の対象と芸術の源泉 – (静岡、山梨) 8.白川郷・五箇山の合掌造り集落 – (岐阜、富山) 9.古都京都の文化財 – (京都) 10.古都奈良の文化財 – (奈良) 11.法隆寺地域の仏教建造物 – (奈良) 12.紀伊山地の霊場と参詣道(通称:熊野古道) – (和歌山、奈良、三重) 13.姫路城 – (兵庫) 14.石見銀山遺跡とその文化的景観 – (島根) 15.原爆ドーム – (広島) 16.厳島神社(宮島) – (広島) 17.明治日本の産業革命遺産 – (山口、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、岩手、静岡) ◦軍艦島 18.屋久島 – (鹿児島) 19.琉球王国のグスク及び関連遺産群 – (沖縄) 20.国立西洋美術館本館 – (ル・コルビュジエの建築と都市計画の一部として)ー(東京) 21.『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群(福岡)【世界遺産】マークにぽち
2017.07.10
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長い間、夢と諦めていた「イースター島」の旅ですが、その夢は昨年の夏に旅行会社のパンフを見た途端に夢でなくなり現実となりました!思い浮かべるだけでは、夢で終わります。勇気を持って「ひとり旅」お勧め致します♪イースター島滞在は、3日間でありました。2017年1月20日(金)出国日です。イースター島最後に訪問したのは、アフ・ビナプ Ahu Vinapu南太平洋を望む遺跡であります。右は、モアイの頭にのっていたプカオ(^-^)♪ビナプNO.2イースター島唯一と言われる女性のモアイ像(左)モアイ・メアメア思い出いっぱいです~♪空港までは、15分位で到着。空港で、モアイ・ネックレスをいただきました(^-^)b早速、首からさげて~南国のお出迎えは、お花のレイでありますが・・・帰りにも、モアイ・レイがあるなんて(笑)空港ターミナルは、ヤシの葉造りイースター島マタベリ空港 MATAVERI AIRPORTモアイ像や鳥伝説のモニュメントが植えこみにあります~♪飛行機までは、歩いて・・・チャーター機なので、3日間待って居たタヒチ・ヌイ君↑クルーも、同じように滞在していたみたいです。ビジネスの方は、左タラップからエコノミーの方は、右タラップから乗船です。イースター島2017年1月20日17:00発TN712「タヒチ・ヌイ君」は、タヒチに向かいます。所要時間6時間イースター島(2泊)→タヒチ(2泊)→成田そんな6日間の予定が、8日間に・・・恐ろしい出来事は、もう~始っているのであります。世界遺産にぽち
2017.03.18
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イースター島に行って来るけど・・・お土産は、何が良い?と、お友だちに聞くと「う~ぅ??とりあえずモアイ像だけは要らないから!」それでは、困るのです・・・。ハンガロアの近くにある「タハイ儀式村」近くの総合したお土産屋さん↓MERCADO ARITESANNAL観光客専用で~少し高いけど観光中に、どうしてもイースター島土産を買いたいならココかしら?私は、モアイ像とキーホルダーに絵葉書を買いました。「絵葉書」は、ここで買うと良いかもです♪アケアナ・ビーチの駐車場にあるお土産屋さん観光客が、トイレを「1米ドル」で借りるお店です。トイレは、バスに乗る寸前は、混むみたいです!ランチの前か?途中で済ませると良いです♪ここでも、お土産を買えます。私は、ここで「アナケナ・ビーチ」の自分用Tシャツを買いました。高いのでお勧めできませんが・・・。しかし、アナケナ・ビーチの柄は、ここでしか買えません!イースター島のお土産と言えば・・・モアイ像しか!私は、モアイ・チョコを探していましたが・・・何処でも出会う事が出来ませんでした!最後のチャンスを空港に託したのですが・・・空港にさえ、モアイ・チョコの箱入りとかありませんでした。空港で、聞いたら・・・イースター島では、チョコレートを製造して居ないからとの答えがっ!そう言えば・・・そうですよね~島にある石ころ1つも持ち帰れないイースター島もし出かける場合は、お友だちに・・・お菓子とか無いから!と説明して下さいね♪観光名所にも売店は、無くて・・・たま~に小さなテーブルを出して売っている住民がおります。アフ・トンガリキのお店↑重そうな石のモアイ像などがありますね~言葉は、ほぼスペイン語しか通じません!滅多に売れないのでしょう~店番は、値段を聞いてもほとんど答えられない・・・商売する気がほとんど無い!私が、興味を覚えたのは↓この板切れ↓値段を聞くと・・・めっちゃ~高い!これは・・・ロンゴ・ロンゴ謎の文字「ロンゴ・ロンゴ」もの言う木・・・とは? 1770年、スペインから フェリーペ・ゴンザレスが、 イースター島にやって来て 一方的に領有を宣言した。 そのとき島民は、 奇妙な文字でサインしたという。 それが「ロンゴ・ロンゴ」だ! だが1862年 ペルーの奴隷狩りによって 最後の読み手である タンガタ・ロンゴ・ロンゴたちも さらわれ死んでしまった。 1864年、宣教師ユージン・エイラウドは、 島の民家から いくつかの文字が掘られた木片を 発見したと言うが その後 島民のキリスト教改宗とともに ほとんどの コハウ・ロンゴ・ロンゴ(もの言う木)は、 『悪魔の文字』として 焼き捨てられてしまった。 謎の文字となってしまったロンゴ・ロンゴだが 根気強い研究者の読み方は解明された。 まず 右上から左へ読み 180度回転させ 板の上下を逆にして・・・ 下から2行目を右から左へと読む これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。 文字のルーツは・・・ インダス流域の「古代インド文字」 「アンデス文字」 「エジプト文字」と、諸説入り乱れています。 内容にしても、 神への祈り 神官への支持 鳥に伝わる伝説 死者の名簿など様々です。 ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で 現存しているのは・・・ 世界で、たった28点。 世界各国の博物館などにあるが・・・ イースター島の博物館には、 本物は、1枚しかありません! チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの 複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば・・・ 島に残された多くの謎が解明されるかも知れません!ですから・・・道で、売っているのはレプリカですね♪ロンゴ・ロンゴをお土産にしても価値を感じて頂ける方私の友人のなかには、おりません!ロンゴ・ロンゴ・レプリカは、高いので・・・助かりますが。【世界遺産】にぽち
2017.03.17
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イースター島南西部の海岸沿いにある『アフ・ビナプ』には、珍しい女性のモアイ像があるのです♪きらり。2017年1月20日(午後)訪問&撮影♪ビナプNO.2です(^0^)vアフ・ビナブ Ahu Vinapu には、ビナプNO.1とビナプNO.22つの遺跡があります。この赤い「赤色凝灰岩」で作られたモアイ像は・・・大変に珍しい女性のモアイ像だそうです。上部は、私が見ると・・・顔は、ドレ??と言う感じですが・・・下の方を見ると、両手を前で組んでいる指までが確認できます。お名前は・・・「モアイ・メアメア」謎多き女性でありますね~ アフ・ビナブには、倒れたモアイ像が6体あります。この倒れたモアイ像は、部族間の争いで部族ごとの守り神であるモアイ像を倒したもの目をくり抜いて、顔を下にして倒したそうで・・・ついつい起こしてあげたくなりますが・・・これもイースター島の長い歴史の遺産と言う事で、静かに・・・うつぶせ寝見守りました(^-^)b頭にのせていた「プカオ」らしい石も・・・これは、帽子だと思われていましたが、現在では、髪の毛・・・「ちょんまげ」みたいな物と考えられております。裏返しのプカオでしょうか?色々な部位が、あちこちに点在。古代のロマンを夢をみながら・・・草原を歩くのもナカナカ♪前回ご説明した・・・ビナプNO.1の石組の裏にも倒れたモアイ像が・・・帰りに発見!!うわぁ~っ!アフ・ビナプの入口ゲート↓顔が、こちらを向いて・・・!?チリ本土から西へ約3,800km沖合の太平洋上に浮かぶ孤島イースター島は、現地語で「ラパ・ヌイ」 周囲約60km面積は、約180平方km 北海道の利尻島と ほぼ同じ大きさの火山島であります。島の全体は、「ラパ・ヌイ国立公園」に指定されています。 ラパ・ヌイとは ・・・?現地語で「大地」を意味します。1722年の復活祭の日に オランダ海軍に発見されたことから『イースター島』と勝手に名づけられました。【世界遺産】にぽち
2017.03.16
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イースター島には、南米のインカ遺跡とそっくりの石組があるとの事!インカ帝国からイースター島に移り住んだとしたら・・・いやいや~ぁ(^0^)ロマンでありますね~♪アフ・ビナブ Ahu Vinapu 2017年1月20日(金)午後きらり。到着♪ここには、ビナプNO.1とビナプNO.22つの興味深い遺跡があります(^0^)V海を背に静かに佇む・・・・ビナプNO.1(後ろから撮影)とっても興味深い遺跡であります。まさか?と、思うのですが・・・この目でみるまでは、信じられない事であります。前に周ってみましょう~♪端っこを見ただけで・・・今まで見たイースター島の石組とは、違う!左へ・・・あああ~っ!これこれ(^0^)↑これは、南米ペルーで見た石組と同じですよ!ビナプNO.1 緻密な石組をご覧ください!ここは、確かに南太平洋の孤島イースター島。偶然と言えるでしょうか?でなければ・・・宇宙人がっ、ペルーのインカと、イースター島を基地にしていたとか?そうなると、モアイ像は、宇宙人???いやいや~これは、私の妄想であります(^-^)♪頭部だけのモアイ像が、優しくこちらを見ております↑このモアイ像も・・・他のモアイ像と同じ様に・・・体は、地底に埋まっています。横から見ると・・・こんな感じです。ビナプNO.1の左側へ隙間なく組まれた石組は、こちらまで続いています。近くで見ても、ぴったし・・・凄いです!画面は、更に左へははっ!宇宙船の基地に見えてきてしまう(^-^)b勝手に空想中。興奮して、バチバチ撮影しております~♪お隣には、ビナプNO.2のアフがっ!ここには、モアイ倒し戦争で、顔を下向きにされた6体のモアイ像が・・・折り重なる様に倒れています。イースター島唯一とも言われる珍しいモアイ像が、この前にあるのです。【世界遺産】にぽち
2017.03.15
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【世界遺産】の島・イースター島「アフ・ビナプ」Ahu Vinapuには、興味深い神秘的な遺跡が2つあります。訪問は、2017年1月20日(金)午後・・・♪駐車できる場所から・・・海の前まで、歩いて行かねばなりません!にわか雨が降ったかと思うと・・・今度は、良いお天気です。緑の中を歩くのは、苦になりません!頭上を飛行機が、飛んで行きます!!遺跡から帰りの日本人に「頑張って歩いてね!」と励まされてしまいましたいやぁ~そんなに歩くのでしようかね?少し、心配になってきたけど・・・遠くに見えて来ましたよ!現地人のガイドさんに声を掛けられ彼女が、見せてくれたのは・・・黒い石とても硬い石です。足元を見ると・・・あ~~っ、いっぱい落ちていますね!これは、多分「黒曜石」こくようせき硬くて、鋭い切り口です。モアイ像を作った時代は、鉄などが無かった為に黒曜石を石斧にして作業したようです。思わず1個拾って手に取ってみましたが・・・駄目です!イースター島にある「石ころ」ひとつでも国外に持ち出しては・・・いけないのです!と言う事で、惜しいけど元の位置に戻しました。Vinapu・・・到着です!相変わらず・・・お土産屋さんの1軒もありません!現地在住、日本人ガイド「瓜生」うりゅうさんのお出迎えです♪アフ・ビナブ・・・とは? Ahu Vinapu 2つのアフがあり ます・・・ビナブ NO.1・2 です♪南米のインカ遺跡そっくりの石組があったり・・・珍しい女性のモアイ像があるのだそうです。うぁ~っ青い海の近くにある・・・NO.1 NO.2ううう~っ。楽しみですね(^0^)ウキウキ♪【世界遺産】にぽち
2017.03.14
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アフ・アキビ Ahu Akivi イースター島内で唯一海を向いてるモアイ像 を訪問したのは・・・2017年1月20日(金)午後の事であります♪1960年に 木やロープ、石など 古典的な道具を使って初めて修復さてたアフ であります。5世紀に初めてラパヌイ人の祖先が訪れ その先達となった「ホツマツア王」の 7人の息子を祀ったとも・・・使者であるとも伝えられるモアイ像。太平洋の西側 つまり「ホツマツア王」の 北方向『伝説のヒヴァの国』の方向の海を向いている。 1960年に ウィリアム・ムロイ博士によって 復元されました。 初期に製作されたモアイ像の為 ・・・プカオ(ちょんまげ)を載せていない! それぞれ高さは4m余り 重さは、10トンもある。 モアイ像の後ろにも村落の跡も無い事から・・・村の守り神では、無かったと考えられております。EXIT・・・出口です。住居かと思ったら「馬小屋」観光用の馬さんです♪とっても人慣れしていますが~目の周りのハエが気の毒ですね!1月は、乾季のイースター島ですが、今年は、異常気象で雨が良く降るので・・・緑の牧草が豊か♪お花も咲いております♪Afu Akivi 入口は、ココです↑ 世界遺産にぽち
2017.03.13
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イースター島を知るにつれて知りたいと思う事が増えてまいります!その答えを探しに行ったのは・・・2017年1月の事であります。アフ・アキビ Ahu Akivi ここのモアイ像は・・・島内で唯一海を向いてる「モアイ像」 なのだそうです!それがっ!?何の不思議かと・・・おっしゃるでしょう。 アフ・アキビのモアイ像・・・向いてるのは、海の方↑イースター島を旅しているとモアイ像は、海を背にして・・・集落の方向を向いて立っております。モアイ像は、村人の守り神であり土台のアフは、ご先祖様のお墓でもありました。ですから、海を背に集落を見つめていないモアイと言うのは、特殊な存在であります。アフ・アキビの真後ろに立ってみました↓海は、右の方に見えております。どうして海の水平線を見て立って居るのか?彼等の後姿は、気のせいか~寂しそう;;集落の守り神として立って居ないと言うなら・・・何故ここに?海は、少し遠くて・・・ここは、内陸部であります。水平線の先は、西の海であります。西の海から先祖は、イースター島に最初に渡って来た「ホツマツア王」この7体のモアイ像は、そのホツマツア王の7人の王子であるとも7人の使者であるとも言われております。西の海には、ホツマツア王の渡って来たのは「伝説のヒヴァの国」アフ・アキビは、古い時代のモアイ像であります。それぞれ高さは、4mあまり・・・重さは、10トンもあるのだそうです。世界遺産にぽち押してネ
2017.03.12
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イースター島で、海を見つめるモアイ像があると言う!何故なのでしょうか?またまた不思議がいっぱいであります(^-^)「Ahu Akivi」アフ・アキビきらり。訪問は2017年1月20日(金)午後・・・雲行き怪しい現地ガイドの「ゆきこさん」が、待っていました♪同じグループの方たちは、カッパ姿ですが・・・気になる程の雨では・・・ありません!ここのモアイ像は、海に向かって立っております。モアイ像は、海を背にして・・・集落を守るように人々が、住む方向を向いているのが・・・普通。なのに彼等は、淋しげに・・・海を見つめております!そして、ここには集落のあった形跡が無いのであります!7体の謎が いっぱいのモアイ像・・・ヒントは、とても古い時代の物である事。無料です~ぽち押してネ
2017.03.11
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イースター島の南西部にあるラノカウ山の頂上には、火口湖があります。きらりが訪問したのは、2017年1月20日(金)午後ええ~っ!「ここのベンチの上に立って見ろ!」と言われ・・・キャ~ッ怖い!!ピースしながら腰が引けている・・・きらり。オロンゴ遺跡には、監視員が所々に立って居て・・・暇つぶしにフォトアドバイスをしてくれる!どうも~水質が悪いのかと!?思いきや・・・水苔の下は、飲み水でイースター島全土に供給されており・・・未だに涸れた事が事が無いそうですよ!この火口湖は、 ラノ・カウ山の噴火口・・・イースター島を造った3つの火山のうち 今から約250万年前に 島で、2番目に噴火したのが ここラノ・カウ山火口湖の直径は、1600m 湖からの山の高さは、200mそれにしても・・・ 気持ちの良い素晴らしいお天気♪オロンゴ鳥人儀式村の裏側に出て来ました~♪石に刻まれたレリーフが、あちこちに、あります~このお姉さんも遺跡の監視員であります♪花崗岩が点在しています~村は、石を積んだ住居であります。ひとまわり・・・遊歩道は、楽しかったです(^-^)bこれから、見に行く人たちにすれ違い「オラ~!」風も少なくお天気も最高でしたね~ オロンゴにぽち
2017.03.10
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オロンゴ儀式村は、イースター島の南西端ラノ・カウ山にあります(^-^)♪ きらりの訪問は、2017年1月20日(金)午後であります。 鳥人間が、断崖絶壁を下り泳いで行った島↑ 想像より近く感じてしまいました(^0^)↑ ここは、300mの断崖絶壁でサメが、居たり潮流が激しいために泳ぎ着くのは、難しかったそうであります!遺跡を保護する為と・・・滑落防止で 遊歩道のあちこちには進入禁止のマークがあります。 左側には、オロンゴ鳥人儀式村があります。 近くまで行って見たいけど・・・ここにも「侵入禁止」がっ 建物の入口が狭いのが・・・特徴だそうで これは、岸壁の風よけの為だったもよう!? かなり大きな村だったみたいですね~♪ 右側が、海。左が「オロンゴ鳥人儀式村」です。 オロンゴ ORONGO 鳥人儀式村でした(^-^)♪ 遺跡にぽち
2017.03.09
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イースター島・南西端の『ラノ・カウ山』Mt.Ranokau に行ったのは、2017年1月20日(金)午後の事です。「オロンゴ」ORONGO・・・鳥人儀式が行われた海です♪右手に見えると言う「島」を探しながら・・・ゾロゾロと、歩いてまいります♪ あっ!島がっ!見えてきましたね~♪もっと、近くへ・・・ 多分・・・この辺りの岸壁から鳥人間(バ-ドマン)は、岸壁を降りて行ったと思われます!ぱっと見た印象では、想像とは違って・・・近いっ!「ここなら、私でも泳いで行けるわ(^0^)V」なんて~つぶやいてしまう!ところが・・・この海には、サメが、ウヨウヨ(××)その上・・・海流が激しくて、見た印象より、体力を奪えわれるのだそうです!島の名前は・・・手前から モトゥ・カオ・カオ Motu Kao Kao トトゥ・イティ Motu Iti モトウ・ヌイ Motu Nui 毎年、7月~8月になると伝説の神「マケマケ」が、新しい季節の到来を告げる渡り鳥を待ち続けました。鳥人儀式は、マケマケ神の化身である鳥人間「タンガタ・マヌ」を選ぶ為に1年に一度おこなわれました。彼等のトレーニングは、とても激しいものであったそうです。ラノカウ山で、断崖絶壁を登るトレーニングに激しい潮流に耐えられるスイムをトレーニングして、一番鳥が、渡って来ると・・・儀式の為に特別な食事を食べ全身を土で、ペイントしすると300mの断崖絶壁を下り2km先のモトゥ・ヌイ島へと海流を横切って泳いで行きます。島に着いたらグンカン鳥が、巣を作る洞窟で鳥が、卵を産むのを待つ卵を手に入れて、頭にくくりつけ泳いで帰って来て断崖絶壁を登って、最初に卵を手渡された族長がその年の「タンガタ・マヌ」島の宗教・政治の実権を握るのであります。鳥人間にぽち
2017.03.08
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イースター島滞在で、一番の好天気に恵まれた2017年1月20日(金)午後ハンガロア村から、バスで15分程山を登ると・・・「オロンゴ」に到着です♪真青な海が、見えて・・・超ウキウキです♪ああ~っ!居た居た~現地公認ガイドの最上さんです!こらから、中で説明があります~♪イースター島の南西部岸壁に「オロンゴ」ORONGO は、あります。オロンゴの鳥人儀式村跡 です。これは、モアイ像と体のタトゥーを説明した図であると思われます。「ふんどし」にタトゥー↑モアイの時代の次に「鳥人間」の時代が、やって来ました!この鳥人間は、頭は鳥で・・・体は、人間であります。鳥人間・・・とは?イースター島永住許可を持った現地ガイド「最上さん」のお話。「オロンゴ」ORONGO ・・・とは?ここは、鳥人儀式のために造られた村の後 です。イースター島を造った3つの火山のうち 今から約2500万年前に 島で2番目に噴火したのが・・・ 島の南西端の『ラノ・カウ山』Mt.Ranokau 現在は、 直径約1100mの巨大な火口湖をもつ休火山です。 ラノ・カウ山の南西側にあるのが・・・ 「オロンゴの鳥人儀式村跡」です。 1960年代に復元された 53棟の石積みの住居があり中は、かなり狭くて・・・ 膝を抱えて座った状態で 寝ていたと考えられる。入口が、極端に小さいのも 特徴のひとつ。 周辺の岩には、 鳥の頭を持つ鳥人 創造の神「マケマケ」など 約500もの岩絵が残っています。また 眼下の海には、島 手前から モトゥ・カオ・カオ Motu Kao Kao トトゥ・イティ Motu Iti モトウ・ヌイ Motu Nui と言う3つの島を望む事が出来る。 そうそう~今日は、お天気が良いので、3つの島をばっちり見れますね♪ オロンゴにぽち
2017.03.06
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イースター島【世界遺産】で一番の日の出スポットへ向かったのは、2017年1月20日(金)6:30にホテルを出発し・・・イースター島の反対・東側まで、夜明け前のドライブです~♪「トンガリキ」に到着しました(^0^)Vイースター島で、復元された遺跡の中で最大規模であります!15体のモアイ像が、並ぶ・・・一番の見どころ♪ご来光を求めて遥々・・・世界の果てまで、やってまいりました(^-^)b世界一のサンライズは、どこまでも後方にさがります。とても気持ちの良い朝です♪ホテルで用意された「サンドイッチ」を石に座ってたべようと~しかし、この石だって「モアイ像」の一部であった可能性もあると思うけどモアイ像さん~いただきます(^0^)♪ハムとチーズ入り♪望遠で、見ると・・・皆さんは、モアイ像の前で待っておりますね!おっと~雲がっ丁度・・・邪魔っそれでも、太陽は、中央のベストポジションに↓モアイ様の頭に・・・後光がさして(^0^)合掌。うわっ~~っ!お見事であります~♪見事な15体の「アフ・トンガリキ」は、モアイ戦争で、前倒しになっていたモアイ像が1960年のチリ沖大地震の津波で、更に流され修復が断念されておりました。1992年 日本の「タダノ建設」が、クレーンを手配して復元を成功させたと言う日本人にとっては、深い関わりがある遺跡であります。アフ・トンガリキには、32体のモアイが見つかっており・・・モアイ像の前には、かつて大規模な集落があったと思われます。かつての村人は、この辺りから・・・ご来光を眺め♪守り神として、大切にしていたのであります。 海は、モアイ像の後ろに広がります~♪ここからは、見えませんが(少し残念)ラノ・ララクの山からは、豪快な海原とトンガリキが、フレームの中に納まりました。「イースター島」やはり、来て良かったです♪私のお勧めの世界遺産であります。お勧めにぽち
2017.02.28
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【世界遺産】イースター島に行ったのは、2017年1月であります。本来この時期のイースター島は、乾季でありますが・・・世界的に異常気象である関係でなのでしょうか?島民も首をかしげる・・・雨が多い「乾季」だそうです。夕方には、とても良いお天気だったのに・・・トゥパホテル・・・お部屋の前の庭♪日没鑑賞は、小雨のち曇りそれでも、モアイ像の後ろには、海に沈む太陽を確認できたのでありますがっ!私が、一番楽しみにしていた夜の『星空ツアー』は、3度「タハイ儀式村」へ午後10時半にマイクロバスで駄目だろう~と思いながらも「晴れ女」としての力を信じ・・・タハイ儀式村へう~ん!シャレになりません!!!これぞ、スコール状態でありモアイ像様のお姿さえ確認できないのであります・・・・あらら~っ。ここまで、何度もバスの中では・・・「雨」観光する時は・・・「晴れ」ミラクルを繰り返してきたのにね~グループの面々は、肩をガックリ落として・・・ホテルへ戻りました。その時、現地ガイドの最上さんが・・・余りにも気の毒なので、少し星空のお話をしますので~集まって下さ~い!ベランダの椅子を持ち込んだり、それでも足りなくてテーブルにまで座って・・・最上さんのお話を聞きました。疲れきっては居ましたが・・・南半球の星空のお話民話にイマジネーションを膨らませました(^-^)bそんなこんなで、終わったのは・・・0時ころだったでしょうか?そんな予感がして、昨夜2時に「ひとり夜空鑑賞」をお庭でしていて良かったです~ョ。南半球を旅すると・・・特に楽しみなのは、「夜空の鑑賞」であります。今回は、残念でしたが・・・今まで旅をして、何度か叶った「南半球の星空」を思い浮かべながら・・・ベッドへそうそう~明日は、早起きして「夜明けのモアイさん」を見に出かけるのです・・・しかし、朝までに荷物をまとめなくては・・・深夜に荷物をゴゾゴゾ・・・結局、パッケージが終わったのは、午前2時いや~っ!病院で、いただいた「ユウ眠剤」を飲んで爆睡!!何だか廊下の方で音がっ。あれっ?もしかして?????「朝」????あちゃ~っ!朝の6時に受け付けに「朝食」のサンドイッチを取に行かないとです(××)時計を見ると・・・午前5:55え~っ、5分しかありません!!!あわてて、廊下へ出て・・・「朝食」サンドイッチを受け取りにいや~まだ、出て無い!少し待って居たら・・・4~5人のメードさんがワゴンに乗せた「朝食」サンドイッチを運んで来ました。「サンライズ・ツアー」夜明けのモアイさん鑑賞は、6:30集合です。あたふた・・・準備は、昨夜してあるので、それでもシャワーを浴びて髪を洗って・・・メイクするきらり。ほう~間に合いました(^0^)Vマイクロバスに乗って、イースター島の反対側まで、真暗のドライブです。2017年1月20日(金)午前6:30アフ・トンガリキへ♪世界遺産の夜明けにぽち
2017.02.27
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イースター島【世界遺産】タハイ儀式村へ・・・「サンセット・ツアー」に行ったのは、2017年1月19日(木)午後20:30ころからこの日の朝に「タハイ儀式村」に訪れた事が、随分と昔に感じる程の濃い内容の1日でありました。いつもであれば・・・日没時の「タハイ儀式村」は、沢山の人で混雑するのに全く・・・人が、おりません!実は、雨がポツポツ。無情であります!!カメラのレンズにも・・・ぽつ。私にとっては、これしきの「雨」気にならないのであり・・・誰も居ないタハイ儀式村の夕景は~めっちゃ~コア(^-^)V雲に覆われていても、太陽は確実に沈む訳で・・・雲に映り込むピンク色の痕跡モアイ像は、かすかに・・・夕日を背にしております♪イースター島で、唯一目玉があるモアイ像「アフ・コテリク」コテリク様=きらり。お前一人かい?はい!みなさんマイクロバスで雨が止むのを待っております~そうか~ぁ、お前は、雨でも平気なのじゃな?はい!こうしてお会いする事を楽しみにしておりました。今日は、本当に嬉しい1日です(^-^)Vなぁ~んて♪はははっ、こんなポチポチ。雨なんて・・・全然、平気な私。こちらも~誰もおりませんよ~~♪【世界遺産】タハイ儀式村・・・独り占め(^0^)♪モアイ様も・・・独り占め!!いよいよ~日没タイム♪太陽は・・・船の上に沈んでゆきます~不思議な光景です。おおお~っ、ひとり地味に感動です!!その時、マイクロバスからあちこちのツアー軍団が、ゾロゾロ・・・とあっという間に日本人で、いっぱいに・・・皆さん、真剣です。雨は、ほとんど気にならない程度になって来ましたが・・・満足できるサンライズでは、ありませんでした。イースター島のワンチャンスで見事な日没を見れると思うのが間違いであり・・・1週間位、滞在していたら・・・ご褒美の日没が拝めるのでしょう~♪それは、私たちが日常、日本に居たって・・・そうであるようにです。それよりも、邪魔者無しで、モアイ様とお話し出来たことが・・・貴重な一瞬だったのであります。イースター島一番の「サンセット」を体験し・・・明日の朝は、イースター島一番の「サンライズ」日の出を見にまいります♪全く、忙しい日程ですよね~ツアーって!贅沢は、言いません・・・少しだけ日の出を(^0^)見たい~~~っ。 サンセットにぽち
2017.02.26
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イースター島【世界遺産】ラノ・ララクを登りながら・・・モアイ像を見て周っております。2017年1月19日(木)午後・撮影正座するモアイ像が見えて来ました(^0^)b正座するモアイ像は、この1体だけであります!特に日本人は、親近感が湧きますね~♪更に先まで歩いて行くと・・・海が見えて来ました!小さく見えるのは「アフ・トンガリキ」15体のモアイ像であります。いや~ぽつぽつ。豆粒ですから~見えるかな↑ここラノ・ララクの山から運んだのですね?いったい・・どうやって?クレーンも重機も無い時代にですよ!言い伝えでは、「モアイ像は、歩いて行った」との伝説。それにしても・・・不思議がいっぱいでありますね!雲行きが怪しくなったので・・・下山です。行きと帰りは、違うルートでまいります♪行きは、上の方を通りました↓これから登って行く人がおりますね~お天気が心配!帰りも、モアイ像が・・・私は、ドンドン下っております・・・う~ん!イケ面です。胸にタトゥーが、あるモアイ像浸食が激しいために・・・埋まってしまったとの事。モアイ像の運搬方法については、謎でありますが、現地の言い伝えによると・・・「モアイ像は、歩いて海岸まで来た」と、遠くから見ると・・・歩いて見えたかもですがっどうも、立てた状態で、左右に振りながら動かしたらしいのです。しかし、どうしてこれ程 沢山のモアイが、残っているのでしょう~モアイ製造工場であった岩山を後に・・・何とか~一周してまいりました(^0^)Vすると、いきなりのスコール!!!私にしては、ハイスピードで行って来ましたので、何とかスコールを回避できました(^-^)Vあれから登って居た方々・・・ずぶ濡れであります。 ラノララクにぽち
2017.02.24
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モアイ像は、どうやって製作されたのか?その謎を知る為に「ラノ・ララク山」を登りました。2017年1月19日(木)午後モアイ像は、遊歩道のあちこちで私たちを迎えてくれます~♪今までの遺跡は、遠くにロープが張ってあり・・・近くで見れなかった「モアイ像」が、手の届く距離で鑑賞できるのですが、触っては、いけません!!それでは、いよいよ・・・かつてモアイ像を作っていた現場へまいりましょう!この岩場が、モアイ像の原料であります。これからは、キツイ坂を登って行きます・・・同じ飛行機で、イースター島にやって来た日本人でいっぱいです。おお~っ!もう少しですよ・・・ふ~ふわぁ~ふぅふわぁ~段々と作りかけのモアイ像が見えて来ました!はぁはぁ~しながらもバチバチ撮影している・・・私。祠の様な場所に寝転んだ造りかけのモアイ像がおりますが、ちょっと混雑しているので・・・わたしは、直ぐ上に登り・・・最大のモアイ像を先に見に行きます♪ここです~左が、さっきの祠みたいな所で、右が一番大きなモアイ完成すると高さ21mのイースター島最大のモアイ像になる予定でした。最大のモアイ像は↑これです↑寝ています↑お腹があって顔が見えます~鼻が上を向いています。エッエッ?どこに・・・と、離れてみると・・・エエッ・・・余計に分からない?モアイ像は、上向きに寝た状態で掘られます。最初に全体のシルエットを掘ってから彫刻を施し岩場から、切り取り・・・立たせてから、横や後ろの彫刻を施したと考えられております。それでは、先ほど後回しにしていた祠みたいな場所に寝ていたモアイ像を見に行きましょう~♪流石にここは、柵があります。今度こそ・・・見えますね!頭が左で、上向きに大きな鼻がっ・・・近くで、撮影すると・・・全体がこま切れに胴体部分と、手前にも・・・顔が反対側に埋れて寝ている もう一体あったのですね!上の方にも作りかけのモアイ像が、ちらほら見えます。岩場の上に掘っていったモアイと岩の横をくりぬいて掘った物が、あるのですね!現場を見て初めて知る事もありますね(^-^)V エジプトで、ミナレットを掘り出した岩場を思い出して、共通点を感じたきらり。です〜 世界遺産にぽち
2017.02.22
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イースター島で一番のハイライトである「ラノ・ララク」は、モアイを掘り、彫刻を施した『モアイ製造工場』であったと考えられております。訪問日=2017年1月19日(木)午後ラノ・ララク Rano Raraku緑豊かな遊歩道を歩いて・・・ モアイ像を見ながら ご一緒にまいりましょう~♪まず、坂を登りながら・・・モアイ像が、埋まっております! これは、長い年月に間に雨で流され埋まっていったもの・・・モアイ像・・・案外、薄っぺら?かなりの坂ですから・・・ズズズッと滑り落ちて来たのです!もう~顔だけってモアイさんも↓遊歩道は、とても気持ちが良くて♪登山が苦手なきらり。でも全然 大丈夫です♪モアイ像の生まれる所だからパワーを授かるのでしょうかね?必ず遊歩道を歩かないとなりません!勿論、モアイ像にタツチも禁止であります【注意】この場所は、まだ下の方であります。モアイ像を製造したのは、もっと山の上の岩場であります。そうそう~岩が、見えて来ましたね↓お写真たっぷり・・・ご一緒に歩いております(^-^)お付き合いを♪あああ・・っ!このモアイ像は、パンフレットに良く出て来る方?斜面に丁度良い傾きで・・・たたずむ姿は、カメラマン好みですよね♪カッコ良いですね!!それに比べ・・・誰も気にしてくれない↓こんな姿も上を向いて顔だけ出して・・・それぞれに魂が宿っていると感じます。海を見ながら・・・何千年?謎だらけの世界遺産イースター島のモアイ製造工場下の部分です。これから、きつい坂を登ってまいります(^-^)大体45分位で、往復致しましたよ! 世界遺産にぽち
2017.02.21
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感動の「アフ・トンガリキ」Ahu Tongarikiから↓モアイ製造工場であった 「ラノ・ララク」Rano Raraku へマイクロバスで向います♪ 後ろに見える・・・2コブの山が「ラノ・ララク」です↑ イースター島の旅で、 信じられない程 沢山のモアイに出会えるのが ラノ・ララクです♪ウキウキ~ ラノ・ララクに到着すると・・・イースター島永住権を持った日本人ガイド「最上さん」がお出迎えです!イースター島は 海底火山の噴火と隆起でできた島で ラノ・ララクも火山です。 加工しやすい火山岩だったため、 モアイがここで造られることになりました。 ラノ・ララクには 製作途中のモアイや、 運び出す途中だったと思われる モアイが約400体も残っています。 ラノ・ララクの山は、 遊歩道になっていて・・・ コースの説明楽でコンパクトに周るコースと、全部見るコースがあります。注意事項モアイ像に触ったり、遊歩道以外の道は、歩かない事。それでは、皆さん~~ガイドの最上さんは、ここでバイバイ(^0^)行ってらっしゃ~い!それでは、元気に行ってまいります~~~♪ゲートを入ると・・・いやいや~(^0^)いきなりの「モアイ像」下の方には・・・倒れたモアイ像も青い空に怪しい雲・・・そして緑の草原を刈る香りが(^-^)V世界遺産に~ぽち
2017.02.20
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アフ・トンガリキ は、ハンガロア村から行くと、イースター島の中央をバスで走り抜けて行くので遠い位置にあります。2017年1月19日(木)午後訪問。【世界遺産】アフ・トンガリキは・・・15体のモアイ像が、100m以上もあるアフ(土台)の上に並びます。おや?16体目は、きらり。アフ・トンガリキの歴史は非常に古く 約10世紀頃からモアイ像が作られていたそうで、 そこから長い時間をかけて 数々のモアイ像がここに並びました。 ここにあるモアイは 、集落を守るように立てられているのが特徴です。 非常に大きな遺跡なので、遠く離れてみると・・・益々・・・大きく雄大である事を認識しますね♪後ろを振り向くと・・・ 「ラノララク」2コブの山が見えます↑ラノララクは、モアイ製造工場であります。この山で、モアイを造り・・・何らかの方法(諸説ある)で、ここまで運びました。ナノララクの山からここまで運んで来たのは、28体もあったそうで・・・15体以外のモアイを探してみましょうか?見つけました(^0^)Vラノララクの山と・・・上向きに寝ころんだモアイ像あと少しで、16体目になれたのに!反対側から撮影すると・・・益々、惜しい?アフ・トンガリキ・・・とは?ラパヌイ語で「王の港」という意味で・・・ 背後には屏風のような・・・ラノララク山左手には緑美しい・・・ポイケ半島そして正面には波静かな・・・ホツイティ湾と言う最高のロケーションであります。ココには、亀の岩絵があるとの事。探してみると・・・あの囲んである辺りかしら?カメ・・・は、うううう・・・。カメの甲羅みたいな痕跡は、ありますが~っこれが↑頭じゃない?あちらの方でも、これがカメの頭よ!とか言っておりますがっ。カメは、いったい何匹なのでしょうか!? 世界遺産にぽち
2017.02.18
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まさかここまで来れるなんて!夢の様であります~♪【世界遺産】イースター島最大のモアイ像「トンガリキ」と念願の記念撮影(^-^)V2017年1月19日(木)午後想像を絶する・・・大きさと迫力です!アフ・トンガリキ ・・・とは? Ahu Tongariki 復元された中で最も大きい 15体のモアイが立ったアフである。 前倒しにされていたモアイが、 1960年のチリ沖大地震による 津波の影響で・・・ 倒れていたモアイの位置が さらに移動してしまった。 そのため予定されていた修復作業が 断念されていた。 1992年に 日本のタダノ建設が クレーン車を手配して 復元工事(~1995年)が、行われ その交換条件として 大阪と東京で行われた 『世界の謎 イースター島巨石展』 に1体のモアイが、 6か月間貸し出された。 15体のモアイ像を右から順番に撮影してみようと・・・1番目2番目は、プカオがのっていて大きいです!3番目と4番目は、小さめです。5番目のモアイは、一番大きいです!1体ずつ撮影してみようと思いましたが・・・早くも断念6番目、7番目は、小さ目です。8番目以降は、一気に撮影~♪一番小さいモアイは、5m 大きなモアイは、9mに近い重さは、40t~80tもあるそうです。このアフ(土台)は、約100mで・・・1000年もの歴史があり何度も壊れては、積み上げ修復しているのだそうです。ここには、15体のモアイ像が並びますが・・・元々は、28体のモアイが運ばれて来たのだとか?石の目印で区切って、それより先には、入れないようになっています。1月20日(金)にイースター島から出した絵葉書「トンガリキ」さま2月15日に自宅へ到着しました。改めて、世界最果ての地からの手紙であることを実感しました(^O^) 世界遺産にぽち
2017.02.17
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とうとう~やってまいりました(^0^)イースター島「トンガリキ」のモアイ像の所へ♪復元されたモアイ像の中で、最も大きなアフ(土台)に15体のモアイが並びます。アフ・トンガリキ Ahu Tongariki 訪問は、2017年1月19日(木)午後お出迎えの現地ガイドさんは、瓜生さん↑イースター島では、一番大きな遺跡なのに・・・特別な施設は、ありません!それが、良いとも言えますがっ!ここで、最初にお出迎えしてくれたのが・・・ホツイティのモアイ像です。それでは、トンガリキのモアイ像まで・・・坂を下って行きましょう♪うぁ~っ!遠くから見ても感動です~ワクワク(^-^)b何だか・・・怪しい雲が、出て来ましたがいやいや~大きいです! 世界遺産にぽち
2017.02.16
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【世界遺産】イースター島で、一番保存状態の良いモアイ像「アフ・ナウナウ」ここ↓アナケナ・ビーチにあるのです。2017年1月19日(木)きらり。撮影Ahu Naunau & Playa de Anakena・・・とは? 約1500年前 伝説の王さま 「ホツマツア王」が、上陸した場所と 言われているアナケナ海岸 白砂の美しいビーチにアフ・ナウナウの7体のモアイ像も立っております。アナケナ・ビーチは、イースター島の北東部にあります。 南国ムード満点の海水浴ができる白砂のビーチを背に立つ・・・アフ・ナウナウイースター島で最も保存状態の良いと言われる ・・・モアイ像そのうちの4体は、ほほ完全な形を保っております。 腰には、「ふんどし」の紐や↑タトゥーが見えますね(^-^)bえっ!見えない?ほらほら、ちゃんと結び目までクッキリと(^0^)V背中には、タトゥーも刻まれております。イースター島で、一番保存状態が良い理由は、「モアイ倒し戦争」で、倒れたモアイ像がこの柔らかい白砂に埋まって・・・風化から守った為であります。土台の「アフ」にも彫刻が残っています↑「トカゲ人間」です。それでは、前に回って見てみましょう(^-^)Vアフ・ナウナウ7体のモアイ像です~♪何と~クッキリとしたイケ面たち~~長い耳を持った当時の支配者「長耳族」との事。左の4体は、ほぼ完全な形で・・・「プカオ」を被っております。プカオは、帽子との説がありますが、現在では、日本で言う「ちょんまげ」であったと推察されます。お腹には、タトゥー前から見ても「ふんどし」をしっかり確認できます!両手は、下げています。この砂浜から見つかったイースター島唯一の目は、このアフ・ナウナウにピッタリ一致したそうであります。海を背にしたアウ・ナウナウを私は、海を入れたくて・・・どんどん後方に下がり・・・高台まで登って来ました(^0^)中央に「アフ・ナウナウ」7体のモアイ・・・右の丘に「ホツマツア王」のモアイここから望遠で・・・海と空と雲にアフ・ナウナウシルエット・・・良いでしょ♪ひとりで、登って~自己満足(^-^)vそろそろランチタイムです!ヤシの木の先の白テントで、ランチです・・・歩いて行くと・・・大きな石これもモアイの一部かも知れません!?現地ガイド「ゆき子」さんが、ヤシの木の下は、ヤシの実が、落ちて来ることがあるので、ここに座ったりしないで下さい!打ち所が、悪いと・・・日本に帰れないそうであります。ランチの前に私は、トイレに行こうと・・・このお店の中に「有料トイレ」が、あるそうです。今なら混んで居ないので・・・トイレ料金は、1米ドル(当時117円)トイレ・・・高いです!無駄に広いトイレの中には、赤い椅子流すレバーは、タンクの上の布で見えません!高くて申し訳無いから?・・・お花が飾ってあります。お店には、Tシャツが売っています♪子どものTシャツが、18ドル(約2000円)高いです!大人のも、18ドル・・・何だか安い気がしてしまいました!良く見ると「アフ・ナウナウ」とヤシの木のデザインです(^-^)記念にそうそう~衝動買いです。ヤシの木の白テントでランチです~他の日本人グループさんとメニューは、イースター島名物「鮪のココナツ煮込み」?緑のゼリーが、救いです!う、う~ん!日本人には合わないです。ゴメンナサイ~残してしまって!世界遺産にぽち
2017.02.14
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【世界遺産】イースター島の北東部には、南国ムード満点のリゾート地・・・泳ぎたいですね!憧れの「白い砂浜」があります♪「アナケナ・ビーチ」です!この砂浜を振り返ると・・・小高い丘の途中に・・・お地蔵さん?いやいやぁ~モアイ像が↓約1500年前にヒバと言う西の方の島からやって来た伝説の王さま「ホツマツア王」が、上陸したとの言い伝えがあります。伝説の「ホツマツア王」のモアイ像↑小さいので、古い時代のモアイである事がわかりますね♪ホツマツア王のモアイは、ノルウェー人の考古学者「イエルダール」が発掘、再建されました。 海を背にして立つ後姿には・・・男の哀愁がっ。お顔は、うぅっ!なかなかの・・・イケ面(^-^)V彫りが深い目には、元々「目」が入っておりましたが、後の部族間の争い「モアイ倒し戦争」により威厳ある目は、えぐられ全てのモアイ像は、顔を下にして、うつ伏せに倒されたのであります。イースター島に唯一残る「目」は、この海岸から見つかりました。倒されたモアイ像は、白い砂浜に埋まり・・・時代は、流れたのであります。周囲が、岩だらけで上陸できる場所は、このアナケナ・ビーチだけなので日本の会社のクレーンは、ここから上陸し「トンガリキ」のモアイ像を復元したそうであります。伝説の王に~ぽち
2017.02.13
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イースター島の北東部まで、やってきました(^0^)2017年1月19日(木)昼ころここは、Anakena アナケナ・ビーチ♪イースター島のビーチと言えば・・・岩だらけですがっ!この「アナケナ・ビーチ」は、白砂のビーチだそうで(^-^)ウキウキ♪ヤシの木が、いっぱいですね~もう~南国リゾート気分が・・・ワクワク♪このヤシの木は、他国から移植されたものだそうです。左は、私たちのツアーディレクター(裏あだ名は、副校長先生)右は、現地日本人ガイド「ゆき子さん」ゆき子さんは、大好きなイースター島で日本人と結婚して、お子さんもいらっしゃるとの事。離島の子育てには、苦労が多いそうであります。嵐になると、補給が絶たれ、あらゆる物資が不足するのだとか!おっと~ヤシの木の先に・・・「モアイ像」の列♪それにしても・・・真っ白な砂浜♪あ~っ!泳ぎたいですね・・・・いやいや~ここで、ビキニをさらす勇気は。おりますね~イースター島唯一、砂浜で泳げるビーチ♪チリ本土から、やってくる人の多くは、目的が「遊泳」だそうであります。あらあら、ここで脱ぎますかっ?確かにお気持ちは、分かりますね~♪このビーチでは、 バーベキューやランチもできます🎵 私たちも、ココでランチの予定であります〜 それにしても、泳ぎやすそうなビーチ。私たちは、モアイ像を見てしまいますが・・・彼等は、みんなビーチを見つめております♪タトゥ~のお兄さんが、岩に座っております。実は、こんなに遠くからの望遠でした! 昨夜の雨で、砂浜は黄ばんでいるのが残念 乾けば真っ白な砂浜〜アナケナ・ビーチずっと居たいです(^0^)Vでも後ろには、モアイ像が、私を呼んでおります♪ ビキニに〜ぽち
2017.02.12
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世界最果ての島「イースター島」最初に出会ったモアイ像は、ハンガロア村から・・・歩いていける位に近い遺跡であります(^-^)b タハイ儀式村をパノラマで撮影してみました♪2017年1月19日(木)朝撮影。中央に豆粒みたいのが↑↑モアイ像モアイ像は、海を背にしてタハイ村に向かって立っております。タハイ村に立つモアイ像は・・・全部で7体一番右端のモアイ像は・・・おっと~一番右は、私=きらり。手前に、細くロープが、張ってあります!ココより先は・・・絶対に入っては、いけません!以前は、モアイ像と一緒に並んで撮影しようと台座の「アフ」に上る観光客が多く島民たちは・・・激怒。何しろ「アフ」は、ご先祖様のお墓でもあつたからであります。と、言う事で最近は、石やロープで、侵入できる範囲を明確にしているのであります。一番左の「モアイ像」は、「アフ・コテリク」中後期のものであるとされています。イースター島の初期のモアイ像は、高さ=3m程度の小さいものでありましたが・・・次第に大型化して、顔も細長い形に変化していきました。「アフ・コテリク」は、中後期のモアイであります。「プカオ」と言う帽子みたいな物を頭にのせていますが・・・「プカオ」は、日本で言う「チョンマゲ」のような物。更にズームすると「アフ・コテリク」には・・・目がっ!!!そうです(^0^)イースター島で、唯一「目」があるモアイ像この目は、復元されたものであります。モアイが、作られた時は、みんな、こんな目が入っていたのであります。「アフ・コテリク」の隣りのモアイ像は「アフ・タハイ」「アフ・タハイ」は、少し残念です。それでも海を背に立ち・・・村を守っている姿を確認できます。現存する「タハイ儀式村」のモアイ像は、全部で7体であります。3つの土台「アフ」にのっております。最後にご紹介する5体のモアイ像は、長くて大きな「アフ」にのっています。おっと~更に左にも痕跡がありますね!5体のモアイ像は・・・「アフ・バイウリ」手前にも土台が確認できます。考古学者が、「アフ」を発掘した時に沢山の人骨を発見した事から、お墓でもあった事を確信し・・・石で囲った高台は、全て進入禁止であります。この台座は、イースター島最古の物だそうです。海を背にして並ぶ・・・モアイと馬たち乾季なのに異常気象で雨が多いために青々とした草が美味しそう♪プカオをのせて目がある「アフ・コテリク」いや~飛行機で12時間+6時間はるばる やってきて~良かったです♪遺跡には、物売りが・・・値段を聞いても???いったい商売をする気が、あるのか!?【世界遺産】モニュメント発見Tahai・・・【世界遺産】タハイタハイ村が、特に有名になったのは、タハイ村からモアイを背にして・・・海に沈む夕日が、素敵だからであります♪私たちも、その感動を味わう為にまいります・・・・ ツーショットにぽち
2017.02.11
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【世界遺産】イースター島 タハイ儀式村 初対面の「モアイ像」に感動♪イースター島に行って初めのモアイ像は、ハンガロアから歩いて行ける場所にある「タハイ儀式村」にあります(^-^)Vウキウキ~2017年1月19日(木)朝ここには、7体のモアイ像があります。現地で、お出迎えしてくれたのは・・・イースター島の公認・・・日本人ガイド第1号「最上さん」きらりは、この最上さんに会う事をとても楽しみにしておりました♪あ~っ!最上さんだぁ~奥様お元気ですか?なんて・・・いきなり聞いてしまいましたが・・・元気ですよ(^-^)Vニコニコタハイ儀式村の【世界遺産】モニュメント(^0^)発見!!Tahai・・・世界遺産マーク↑スペイン語で記されております~おっと~英語もあります♪タハイ儀式村の位置が・・・イースター島のどの辺りか?説明は、スペイン語と英語です。正面の5体のモアイは、アフ・バイウリ海を背にして、村の方角を見つめております♪5体のモアイは、「アフ」と言う土台の上にのっています。アフは、神聖なものであります。日本で言えば・・・「墓石」の様なもの。ガイドの最上さんは、もし日本に外国人が来て、家のお墓に腰かけたとしたら・・・皆さんは、当然のように怒るでしょ?イースター島の人にとって「アフ」は、ご先祖様のお墓と同じなので、決して登ったり、触ったり市内で下さいね!なるほど~心が引き締まりますね。それでは、モアイ像のそばまで・・・失礼が無いように・・・行ってみましょう♪モアイにぽち
2017.02.10
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【世界遺産】イースター島「イースター島博物館」には、現存する唯一のモアイの「目」があると言う♪Museo Antropologico Sebastian Engilert「イースター島博物館」・・・とは?海辺にモアイ像があるタハイの遺跡から坂を登ったところにある!島の立体模型や・・・島の歴史、モアイの製作運搬に関する学説の紹介小さいモアイの頭や女性のモアイなどが展示なかでも必見は・・・ほぼ完全な完全な形で現存する唯一の目1978年にアフ・ナウナウのモアイ像の修復作業中に見つかったもので高さ=19cm左右=36cm中央の部分は、赤色凝灰岩白めの部分は、白珊瑚が使われている。ほかに伝説精霊カバカバの木彫り像ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれた板が展示されている。展示の説明は、全てスペイン語ありますが、入口の受付で「日本語の解説ファイル」を貸してくれる。館内は、フラッシュ・OFFなら撮影可能(^-^)bイースター島博物館火曜日~金曜日 9:30~17:30土・日 9:30~12:30大人=US$=2子ども=US$=1【世界遺産】にぽち
2017.01.23
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【世界遺産】イースター島の「モアイ像」をいっぱい見る為には、どうしたら良いのでしょうか?そして、民芸品やお土産も・・・買いたいのです(^-^)b島全体に点在する・・・「モアイ像」レンターカーで、回るか?(レンタカー会社 INSULAR)イースター島のレンターカーは、ほとんどマニュアル車レンタバイク・レンタルバギー・レンタル馬・レンタサイクルもある!☆ただし、イースター島では、保険が効かないので「注意」と言う事で・・・ツアーに参加するのが普通~♪ハンガロア村から歩いて行けるのは、タハイ遺跡 Tahai くらいしかありません!まずは、ハンガロア村の港に立ってみましょう~♪海を背にすると・・・坂の上の教会が見える。なんと素敵~憧れます!!右方向に真っ直ぐ歩くと・・・タハイのモアイ像「イースター島博物館」 Museo Antropolgico Sebastian Englert港から、教会に向かってテ・ピト・オ・テヘ・ハヌア通りAv.Tepito O Te Henuaを上がって行くと・・・最初に交差するのは、アタム・テケナ通りAtamu Tekena土産物や、レストランゲストハウスなどが並ぶ一番賑やかな街突き当りを左に行くと民芸品市場Mercado Artesanalがあります。【世界遺産】にぽち
2017.01.22
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イースター島には「ロンゴロンゴ」と言う不思議な文字がありました(^-^)b謎の文字「ロンゴ・ロンゴ」・・・とは?1770年、スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う・・・それが「ロンゴ・ロンゴ」です。しかし、1862年ペルーの奴隷狩りによって・・・最後の読み手である「タンガタ・ロンゴ・ロンゴ」たちも、さらわれ死んでしまった。1864年宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うがその後島民のキリスト教改宗とともにほとんどの「コハウ・ロンゴ・ロンゴ」もの言う木は、「悪魔の文字」として焼き捨てられてしまった。謎の文字となった「ロンゴ・ロンゴ」ですが根気強い研究によって・・・文字の読み方は、解明されました。まず右上から左へ読み・・・180度回転させて板の上下を逆にして・・・下から2行目を右から左へと読むこれを、繰り返すという奇妙な読み方でした。文字のルーツは・・・インダス流域の「古代インド文字」「アンデス文字」「エジプト文字」と、諸説入り乱れています。内容にしても、神への祈り神官への支持鳥に伝わる伝説死者の名簿など様々です。ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で現存しているのは・・・世界で、たった28点。世界各国の博物館などにあるが・・・イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません!チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。この文字が解明されれば・・・島に残された多くの謎が解明されるかも知れませんね♪世界遺産にぽち
2017.01.21
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イースター島は、モアイ像を信仰する部族間の争いが続きモアイ倒しで争いが耐えなくなります。その後【世界遺産】イースター島 オロンゴの鳥人儀式・・・とは?17世紀~18世紀部族間の争いで・・・次々と「モアイ像」は、倒されました。モアイ信仰は、衰退していった。そして、生まれたのが・・・「鳥人崇拝」島の宗教指導者たちは、ラノ・カウ山の南西側の「オロンゴ」に儀式のための集落を造った。そして毎年7月~8月になると・・・伝説の神「マケマケ」が、新しい季節の到来を告げるための使者である渡り鳥たちの来訪を待った。鳥人儀式は、「マケマケ神」の化身である鳥人「タンガタ・マヌ」を選ぶための儀式のため各部族から選ばれた族長の代理人である「ホプ・マヌ」たちは・・・まずラノカウ山の麓で、崖登りや水泳の訓練を重ねた。そして、一番鳥が、渡って来ると・・・儀式が始まります。「ホブ・マヌ」たちは・・・儀式のための特別な食事をとり全身を土でペイントする。それから、オロンゴの300mの断崖絶壁を下り2km先の沖合に浮かぶ「モトゥ・ヌイ島」へと海流を横切って泳いでゆく・・・島に着いたらグンカン鳥が巣を作る洞窟で鳥が、卵を産むのを待つ・・・やがて卵を持って泳ぎ帰る崖をよじ登ってきたホプ・マヌから最初に卵を渡された族長がその年のタンガタ・マヌとして島の宗教、政治の実権を握ります。この制度は、部族間の争いに終止符をうち・・・平和をもたらした。しかし、やがて西洋人たちが続々と島にやって来ると同時に島の文化は、急速に失われていく鳥人儀式は、1866年を最後に行われなくなった。世界遺産にぽち
2017.01.20
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イースター島 アフ・アキビ Ahu Akivi 海を向いているモアイ像イースター島のモアイ像の中で唯一「海」を向いて立って居るモアイ像だそうです~♪アフ・アキビ Ahu Akivi ・・・とは?数あるモアイ像の中で唯一、海に向って立てられたモアイ像アフ・アキビ Ahu Akivi島の中央近くの草原に横に長く延びたアフの上に7体のモアイ像が水平線を見つめながら立って居る。1960年にウィリアム・ムロイ博士によって復元モアイ像は、ホトゥ・マトゥア王の伝説に出て来る7人の使者とも、7人の王子とも・・・言われる初期に製作されたモアイ像のためプカオを載せていないそれぞれ4m余り重さは、10トンもある重厚なお姿。世界遺産にぽち
2017.01.19
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