5月23日(木)
近藤芳美「土屋文明」より(76)
岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明 … 鑑賞篇」よりの転載です。
第八歌集『山下水(やましたみず)』より(8)
木ずゑ吹く朝の野分に目をあきてすぎし人すぎしこと残るいまの我
(昭和二十一年)
木ずえを吹いている朝の野分のかぜが見えている。目をあきて、とあるから、作者は目ざめた床の中から風にふきしなう冬枯れた木群の枝を見ているのかもしれない。野分は秋の末から冬のはじめにかけて吹く疾風のことである。死に去った人々のこと、過ぎてしまった遠い日々のこと。作者はおもうともなく思い出している。そうして、一人だけ今生き残っている自分の事をも … 。
「浅間温泉懐旧」と題する作品。浅間温泉は長野県松本市の北郊にある温泉場のことを指しているのだろうか。彼はかって松本で教師をしていた事もある。「衢にも面知る人の少なくなり安けくさびしく一日ゆけり」「相共にさらばふまでに老いぬれど語らひつぐはうれしくもあるか」などの歌がある。作者は五十七歳。敗戦の日の後まで生きて来たことの哀愁感が静かにただよう作品である。
初々(うひうひ)しく立ち居(ゐ)するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎
(昭和二十一年)
「再報樋口作太郎君」と題された作品の中の一首。ハル子さん、というのはその「再報」する相手の人の不幸な肉親の女性か、あるいは肉親である人の未亡人なのであろう。無論、この場合そのいずれであるかという事の詮索は作品の鑑賞とは関わりはない。「ハル子さん」と作者の呼ぶ女性は戦争未亡人であろう。作者は奈良の佐保山のふもとの寄宿舎にその女性を訪れる。「未亡人寄宿」である。不幸な今も、悲しみにけなげに耐えて、むかしと少しも変わらずういういしく立ち居する「ハル子さん」に会ってきましたよ、と土屋文明は告げようとする。呼びかける肉声のままの、感情にあふれた短歌である。「世の中の苦楽を超えて君ありとも君の涙がいくらか分る」「折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまへな藷うゑ静かな寄宿舎なり」の二首がそのあとにつづいている。口から語り出される口語がそのまま自然に定型の中に生かされた、やさしい作品である。
(つづく)
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