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August 21, 2019
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カテゴリ: 教学

現在、中学・高校生向けの「未来ジャーナル」では、池田先生による「誓いの明日へ――南条時光を語る」が連載中です。南条家といえば、この時光が、広布史に燦然と、その名をとどめています。

しかし、その源流をたどれば、父・兵衛七郎の存在を見過ごすわけにはいきません。まさに、妙法流布の礎に、一人の「父」あり、です。兵衛七郎は一族で最初に妙法を持ちましたが、若くして人生の最終章を迎えました。その中で彼が掴み取ったものとは、何だったのでしょうか。

地域広布の一粒種

南条兵衛七郎は、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市下条)に住んでいた武士で、「上野殿」とも呼ばれます。伊豆国田方郡南条郷(静岡県伊豆の国市南條周辺)を本拠地とする一族であったことから、「南条」の名字を名乗りました。

南条氏は、鎌倉幕府の将軍に直接仕える御家人の一族です。さらに、同じく御家人であり、幕府の執権となった北条氏の家督、すなわち得宗にも仕えるようになりました。兵衛七郎は、一族が(得宗の家臣となったことで)得た上野郷の経営をまかされたため、この地に移り住んでいたと考えられます。

妻・上野尼御前は、同じ駿河国の門下・松野六郎左衛門入道の娘に当たります。

子どもは多かったようです。男子は先述の次郎時光のほかに五郎、女子は蓮阿尼(新井田重綱の妻で日目上人の母)、新井信綱の妻、石河新兵衛能助の妻

が、御書や資料から確認できます。

兵衛七郎は、もとは一族で念仏を信仰していました。日蓮大聖人に帰依した時期は不明ですが、おそらく鎌倉にいた時であると思われます。

兵衛七郎が住んだ駿河国は、謗浄徳宗家が守護として支配していた地域です。特に上野郷がある富士方面には「後家尼ごぜん」( 1461 ㌻参照)の家臣が多く、強い影響力を持っていました。この後家尼御前とは、北条時頼の妻、また時宗の母のことで、念仏の強信者であった北条重時の娘に当たります。この後家尼御前たちには、大聖人を時頼・重時の敵であるとして憎んでいたのです。

このように、周りは念仏者たちばかり。その中で、兵衛七郎は一族で最初に妙法の信仰を持っていたと考えられます。そのため、身内はおろか地域住民から、驚きや反発が起こったことは想像に難くありません。

病床で迎えた最晩年

文永元年( 1264 年) 12 月、兵衛七郎は重い病に服していました。まだ働き盛りの、これからという年齢です。

それを聞かれるや否や、大聖人はお手紙(「南条兵衛七郎殿御書」)を送られました。

「御病気であるとうかがいましたが、本当でしょうか」( 1493 ㌻、通解)

このお手紙は、兵衛七郎宛の御書として、唯一現存しています。しかし、この一通こそが、兵衛七郎はもとより、一家一族の運命を決定づけるのです。

わずか 1 か月前、大聖人は小松原の法難に遭われ、御自身の ( ひたい ) に傷を被り、左手を打ち折られました。この時、弟子の工藤殿も殉教しています。

傷も癒えぬ中で認められた、このお手紙は、御書全集で 6 ページ、 400 字詰めの原稿用紙に 15 枚に相当する長文です。この法難の様子についても克明に描かれています。それとともに、命懸けで広宣流布を進める「日本第一の法華経の行者」( 1498 ㌻)の御確信が、ひしひしと伝わってきます。

念仏を破折

病を口実にしてでしょうか、兵衛七郎は一族から、再び念仏に帰依するよう勧められていたようです。大聖人のお手紙からは、恐れや迷いが、兵衛七郎の心の中で渦巻いていたことがうかがえます。

このお手紙で大聖人は、「教・機・時・国・教法流布の先後」の「宗教の五綱」の上から、念仏信仰を破折し、法華経こそが釈尊の真意を説いた教えであることを明かされます。

たとえば、念仏は、同じ釈尊が説いた教えであっても、仮の教えである。善であっても、大善を破る小善は悪道に堕ちてしまう。時に合わない教えなので、末法においては栗木がなく、それは冬に田をつくり苗を植えようとするようなものである、と戒められています。

悪の根を断ち切る

併せて大聖人は、法華経の信心が深いようでも、それだけではいけないと教えられています。

「どのような大善を作り、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観法の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ仏の道を得ることは難しいのである」( 1494 ㌻、通解)と。

この御文は、牧口先生の強く赤い線が引かれていた一節です。

「法華経の敵」とは、浅い教えに執着し、万人成仏を説く法華経を軽視する者のことです。このお手紙では特に、法華経を捨てよと謗法を犯している法然を強く破折しています。

そして、「朝廷に仕える人が、 10 年、 20 年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上もせず、自分自身もそれと戦おうとしなければ、長年の奉公の功労は皆消えて、かえって、罪に問われるようなものである」(同㌻、通解)と譬えられています。

法華誹謗という根源の悪と闘い、不幸の根源の悪と戦い、不幸の流転の根元を断ち切る。兵衛七郎は病床で、一生成仏の急所を師匠から教わります。周囲の反対をはねのけ、師が呼びかけた「大信心」( 1497 ㌻)を奮い起しました。その雄姿は、妻や息子・時光の目に深く焼き付いたに違いありません。

「日蓮の弟子」と名乗れ

兵衛七郎の病状は大変に重かったようです。そのお手紙の終わりで、次のように訴えられます。

「若し日蓮より先に旅立たれるなら、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王らに申し上げなさい。『日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子である』とお名乗りなさい。よもや粗雑な扱いはされないだろう」( 1498 ㌻、通解)

なんと心強い励ましでしょうか。〝今世も、そして来世も、師匠と一緒に生き抜くのだ!〟。兵衛七郎の心は、この大願に満ち満ちていたことでしょう。それは、一家一族の宿命転換の道が開かれた瞬間でした。

大願は子々孫々に

お手紙をいただいてから 3 カ月。

文永 2 年( 1265 年)の 3 8 日、兵衛七郎は霊山へと旅立ちました。「臨終正念」( 1508 ㌻)の姿を厳然と示したことを、大聖人は伝え聞かれています。

当時、息子・時光は 7 歳であり、末っ子の五郎は、まだ妻のおなかの中にいました。

しばらくして大聖人は、鎌倉からはるばる上野郷に自ら出向かれ、墓参されます。敵対者の多い地域にも関わらず、一家を真心から激励されたのです。

この時こそが、幼い時光と大聖人との運命的な出会いとなったのです。

「情けに厚い人」( 1554 ㌻、通解)と言われた父。その父が、師のもとで立て、家族に託した広布の大願とは。命の限り守ろうとした妙法とは――。死の肉声を通し、少年の心には、信心のくさびが、しっかりと打ち込まれたに違いありません。

父の願い、母の祈り、そして師匠の期待――。これらを一身に受けながら、時光は立派に成長しました。

やがて、青年・時光は、日興上人のもとで後継の信仰に立ちあがり、民衆仏法の興隆の一翼を担います。その中で起きた熱原の法難では、迫害を受けた人びとを自邸にかくまうなど、身を挺して戦いました。その奮闘をたたえられ、大聖人から「上野賢人」( 1561 ㌻)との称号をいただいています。

時光は、若くして命にかかわる大病も乗り越えています。大聖人滅後には、身延を離れた日興上人を自邸に招き、大聖人の正義を言語することに、その生涯をささげました。

「亡くなった兵衛七郎が、どれほどか、草葉の陰にあっても喜ばれていることだろう」( 1508 ㌻、通解)

後世まで語り継がれる、息子の晴れ姿。そこに、父の陰徳がしのばれます。

【日蓮門下の人間群像】大白蓮華 2018 8 月号






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Last updated  August 21, 2019 06:14:16 AM
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