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第12回依智で 創価学会教学部編 受難の門下に励ましのお手紙 文永8年(1271年)9月13日の正午頃、日蓮大聖人は、相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある佐渡国の守護代(守護の代官)・本間六郎左衛門尉重連の館に入りました。 本間重連の館でその夜、兵士たちがいる中、館の庭に出られた大聖人は、月に向かい、〝諸天善神である月天は、法華経の行者を守護することを仏に誓ったのではないか。急いで、喜んで誓いを果たしなさい〟と責められました。この時の様子について「種々御振舞御書」には、「天より明星のごとくなる大星下って、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふ(武士)ども、皆えん(縁)よりとびおり(飛び降り)、あるいは大庭にひれふ(平伏)、あるいは家のうしろへに(逃)げぬ」(新1233・全915)と記されています。夜が明けて14日の午後6時頃、十郎入道という者が来て伝えました。「昨日の夜8時頃、執権・相模守殿(=北条時宗)に大きな騒動があり、陰陽師を呼んで占わせたところ、彼は『大いに国が乱れるでしょう。それはこの御房(=日蓮)に対する処罰のためです。大至急、呼び戻さなければ世の中がどうなるかわかりません」と言ったので「日蓮房をすぐにお許しになりますように」という人もいました。また『日蓮房は百日のうちに戦が起こるであろうと申していたから、それを待ちましょう』という人もいました」(新1234・全915、通解)詳細は定かではありませんが、北条時宗の周辺で何らかの事象が起こったことで、大聖人の処遇をめぐって混乱が生じたようです。 次々と門下を激励大聖人の依智逗留中、鎌倉では、放火や殺人が頻発しました。すると、「日蓮の弟子らが火を付けた」という事実無根のうわさが流されました。大聖人門下260人余りの名前が挙げられ、追放や流刑に処すべきであるとか、牢に入っている弟子たちは斬首すべきであるとかいう声まであったようです。しかし、大聖人は後に、「火をつくる等は持斎〈注〉・念仏者が計り事なり」(新1234・全916)と、全てが大聖人を妬む者たちの仕業であったと明確に仰せです。この間、依智に留め置かれていた大聖人は、門下たちに次々とお手紙を書かれています。激しい弾圧に動揺しているであろう門下たちに思いを馳せられたと拝察されます。9月15日には、下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍に、同月21日には、鎌倉の四条金吾に送られています。10月5日には、下総国の大田乗明、曾谷教信、金原法橋の3人に対してもお手紙を送り、涅槃経に説かれる転重軽受の法門について記されています。(「天重軽受法門」、新1356・全1000)。転重軽受とは、悪業の結果、受けるはずの重い苦しみを、正法を護持する功徳によって、現世で軽く受けることをいいます。ここでは、法華経の故の難に遭ったことで、御自身の過去世の謗法の罪を滅したと仰せになっています。さらに、難を受けるのは正法を弘めているのであれば当然のことであり、大難があることは覚悟していたと述べられます。そして、大聖人が大難を受けられたのは、法華経を身で読む意義があることを、経文を引いて示されています。また、同月3日と9には、日朗ら投獄された門下たちに法華経を身で読む功徳をたたえるお手紙を記されています。いったんは処刑は中止されたものの、予断を許さない状況下で、大聖人は各地の門下の中心者に宛てて、経文通りの難に遭うことは喜びであると伝え、師と同じ心に立って信心を貫くよう、烈々たる気迫で励まされたのです。結局、当初出た処分の通り、大聖人に対する佐渡への流刑が執行されることになりました。10月10日に発ち、「武蔵国久目河の宿(=東京都東村山市久目川町とその周辺)」(新1277・全951)を通り、22日而「越後国寺泊(=新潟県長岡市北部)(同)に着かれました。道のりはおよそ300㌔。寒さが増す時期でした。(続く) 〈注〉八斎戒(在家が守るべき八つの戒)を持つこと。本来、毎月所定の6日だけを守る。特に不非時食戒(午後に食事をしない)が重視された。僧侶は日常的に不非時食戒を守ることになっていたが、この時期には特に戒律を厳守する者のみが守っており、こちらも「持斎」と呼ばれた。御書の中での「持斎」も後者の意で、禅宗や西大寺流律宗の者を指す。 池田先生の講義から(悪僧らの世論操作による)竜の口の法難・佐渡流罪の一連の大法難は、門下の心を破壊しようとする魔の勢力の攻勢と、門下の信心を守り、むしろ、これを機に門下に御自身と同じ不二の信心を確立することを目指された大聖人の反転攻勢とのせめぎ合いと見ることができます。その反転攻勢は、九月十二日(文永八年)の竜の口の法難の当日に、竜の口に向かう途中に四条金吾を呼び寄せられたことから始まったと言える。大聖人の御心を金吾に明確に示し残そうとされたとも拝察されます。また、竜の口から一カ月ほど、相模国・依智の本間邸に滞在されているときも、門下と書簡の交流を行い、また、門下が頻繁に訪ねてきてもいる。この状況は、佐渡流罪の時代にも続くのです。師弟の間を離間する策堂に対して、師弟の絆を強めていく戦いです。(「池田大作全集」第33巻) [関連御書]「種々御振舞御書」、「土木殿御返事(依智滞在の事)」、「四条金吾殿御消息、「転重軽受法門」、「五人土籠御書」、「土籠御書」、「寺泊御書」 [参考]「池田大作全集」第33巻(「御書の世界〔下〕」第十章)、「大白蓮華」2012年5月号「勝利の経典「御書」に学ぶ」(「種々御振舞御書」講義②)、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」、『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻(「転重軽受法門」講義) 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年4月号
June 9, 2024
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発迹顕本 創価学会教学部編斬首の危機を勝ち越えられた日蓮大聖人は、兵士と共に相模国の依智(神奈川県厚木市北部)に向かうことになりました。 凡夫の身に本来の仏の境地を顕す 仮の姿を開く「竜の口の法難」は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、生命に本源的に具わる、慈悲と智慧にあふれるという仏という本来の境地(本地)を凡夫の身に顕されたのです。これを「発迹顕本(迹を発いて本を顕す)といいます〈注1〉。大聖人御自身、後に配流された佐渡の地で、「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑の時に頸は(刎)ねられぬ。これは魂魄、佐渡国にいたりて……」(新102・全223)と記されています。分かりやすく言えば、以前の境涯の御自身は竜の口で終わり、新しい御自身になって佐渡に行かれたということです〈注2〉。池田先生は、大聖人の発迹顕本についで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の「永遠の如来」を顕すということです」「凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている」と述べ、さらに私たち自身に当てはめて、「苦難を超えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです」(『池田大作全集』第32巻)と講義されています。この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、修行の対境とすべき御本尊を図顕されていくのです。この後、大聖人と門下たちの処遇について、約1カ月にわたって幕府で議論が重ねられます。 お振る舞いに兵士も心服 依智に滞在「竜の口の法難」後の文永8年(1271年)9月13日正午頃、大聖人は、依智にある佐渡国の守護代〈注3〉・本間六郎左衛門尉重連の館に入りました。大聖人は酒を取り寄せ、護送してきた兵士たちに振る舞われました。御自身の頸を斬ろうとした者たちを労われたのです。悠然たる御境涯が拝されます。帰ることになった兵士たちは、大聖人に頭を下げて合掌をして述べました。「阿弥陀如来を謗っていると聞いたので憎んでいましたが、直接お目にかかり、お振る舞いを拝見しましたところ、あまりにも尊いので、長年称えてきた念仏は捨てました」(新1232・全914、通解)本間重連の家来たちが警護の役目を引き継ぎ、四条金吾も帰っていきました。午後8時頃、鎌倉から幕府の使者が命令書を持ってきて言いました。「武蔵野守殿(=北条〈大仏〉宣時)は今日、午前6時頃に熱海の湯へお発ちになりましたから、(命令書を熱海に届ける前に)不当なことがあっては大変だと思い、急いでまずこちらへ走って参りました」(新1233・全914、通解)命令書の追状(追って出す書状)には、「この人は罪のない人である。今しばらくのうちに許されるであろう。過ち(=不当な扱い)を犯したなら後悔するであろう』(新1233・全915、通解)と記されていました。大聖人を密かに斬首する決定を下したのは誰か、定かではありませんが、北条宣時は、竜の口への連行を黙認した上、責任を回避して逃げ出してしまったようです。(続く) 〈注1〉 もともとは、法華経如来寿量品第16において、釈尊が始成正覚(インドに生まれ今世で初めて成仏した)という迹を開いて久遠実成(実は非常に遠い過去(久遠)に成仏していた)という本地を顕したことを、天台大師智顗が説明した言葉。〈注2〉 大聖人は後に、「法門のことは、さどの(佐渡)国へなが(流)され候しとおぼ(思)しめせ」(新2013・全1489)と、仏の教えに方便の爾前権経と真実の法華経の立てわけがあるように、竜の口の法難を経て、大聖人が佐渡流罪以後に説かれた法門は、それ以前の法門とは大きく異なることを心得るように教えられている。いわゆる「佐前・佐後」の法門の立て分けである。〈注3〉 守護の代理として現地に赴任して実務を行う役職。 [関連御書]「開目抄」「種々御振舞御書」 [参考]「池田大作全集」第32巻(「御書の世界〔上〕第八章、第九章」、同第33巻(「御書の世界〔下〕第十章」)、「大白蓮華」2012年5月号(「種々御振舞御書」講義②)、小説『新・人間革命』第11巻「躍進」 創価学会の発迹顕本第2代会長・戸田城聖先生は、会長就任式(1952年〈昭和26年〉)から間もなく、「創価学会の歴史と確信」と題する論文で、初代会長・牧口常三郎先生の「(学会は)発迹顕本しなくてはならぬ」という言葉を振り返られました。戸田先生は戦時中牧口先生と共に、軍部政府により不敬罪、治安維持法違反に問われ、投獄されました。戸田先生は、1945年(昭和20年)7月の出獄の日を期に、獄中で亡くなった牧口先生に、次のように答えることができたと述べられます。「われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき退任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」と。そして、「われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である」「この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」(『戸田城聖全集』第3巻)当時の会員の多くは、病苦や経済苦に悩んでいました。その一人一人が、師匠の誓いに呼応して、地涌の菩薩、大聖人の末弟子であるという確信を持ち、広宣流布に生きていること――これが、創価学会の発迹顕本であると、戸田先生は宣言されたのです。 【日蓮大聖人」誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年2月号
April 27, 2024
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竜の口の法難・下捕縛された日蓮大聖人は、佐渡国の守護(国ごとに置かれ、軍事・行政を統括する職)である北条(大仏)宣時の邸宅に身柄を置かれました。文永8年(1271年)9月12日、50歳の時です。 八幡大菩薩を叱責後に大聖人は、自らが置かれていた状況を次のように記されています。「去ぬる文永八年九月十二日、すべて一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こえしかども、内には頸を切ると定めぬ」(新290・全356) 夜中の連行。駆け付ける四条金吾 夜中になると、兵士たちが大聖人を連れ出します。この後の様子は「種々御振舞御書」に詳細に記されています。(新1230~1234・全912~915、参照)。若宮小路(現在の若宮大路。鎌倉の鶴岡八幡宮前から由比ヶ浜まで延びる大通り)に出たところで、大聖人は、「八幡大菩薩〈注〉に最後に申すべきことあり」と言って馬から降り、鶴岡八幡宮に向かって叱責されます。「いったい、八幡大菩薩はまことの神であるのか……今、日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上、自身に少しの過失もない」八万代菩薩は源氏の氏神であり、鶴岡八幡宮は鎌倉の宗教的中心でした。その八幡大菩薩に対して、大聖人は、〝法華経の行者を守護すると誓ったではないか。どうして、この場に来ないのか!〟と叱責されたのですから、兵士たちは驚いたに違いありません。 頸の座由比ヶ浜に出て御霊舎(現在の御霊神社)の前に差し掛かると、熊王という従者を遣わし、鎌倉の門下の中心的存在である四条金吾(頼基)を呼ばれます。急を聞いた金吾は跣のまま、人とも4人ともいわれる兄弟と共に大聖人のもとに駆けつけました。「今後、頸を斬られに向かいます。この数年間、願っていたことは、このことです。……日蓮は徳の少ない身と生まれて、父母への孝行も思うようにできませんでした。国の恩にお応えできる力もありません。『このたび、頸を法華経に差し上げ、その功徳を父母に回向しよう。その残りは弟子たちに分け与えることにしよう』と申し上げたのは、今この時のことです」 「これほどの悦びをわら(笑)えかし」 大聖人が語り掛けると、金吾たち兄弟は馬の口に取りついて供をし、腰越・竜の口(神奈川県鎌倉市腰越付近および藤沢市片瀬付近)まで行きました。午前2時頃、処刑の場と思われる場所に着くと、兵士たちの動きが慌ただしくなります。その様子を見た金吾は、「ただ今が最期です」と涙を流しました。自分も切腹しようという緊迫感です。すると、大聖人の声が響きました。「不かく(覚)のとのばら(殿原)かな。これほどの悦びをわら(笑)えかし(なんという不覚の方々か! これほどの喜びを笑いなさい!)」その時です。「江の島の方向から月のように光った物が、毬のような形をして、東南の方から西北の方へ、光を発しながら渡って」いきました。頸を斬る役目の兵は目がくらんで倒れ、兵士たちは、おじけづいていました。大聖人はお声をかけられます。「頸を斬るなら急いで斬るのがよかろう。夜が明けてしまえば見苦しいだろう」しかし、誰も返事をする者はいませんでした。斬首は未遂に終わったのです。この大難に際して、処刑まで大聖人に付き従おうとした四条金吾に対する御心情を、大聖人は、6年後の建治3年(1277年)に綴られています。「なんといっても今でも忘れられないことは、私が首を切られようとした時、あなたがお供をしてくださり、馬の口にとりついて泣き悲しまれたことです。このことは、どのように生まれ変わっても忘れることはできません。もし、あなたの罪が深くて地獄に生まれ変わるならば、仮に日蓮に対して釈迦仏がどれほど「仏になれ」と、お誘いになったとしても、受け入れることはありません。あなたと同じく地獄へ入るでしょう。日蓮とあなたが共に地獄に入るなら、釈迦仏も法華経の地獄にこそいらっしゃるにちがいありません」(新1595・残1173、通解)(続く) 池田先生の講義から大聖人は、一つ一つの大難をみずから乗り越えられることで、門下にその生き方を教えられたと拝したい。そして、その究極の生き方を、四条金吾に対して、まざまざと指南されたのが、辰の口の法難であったとも言える。弟子のためであり、未来のためです。金吾もまた、迷いの心がなかった。師弟ともに仏果に至ったのです。竜の口が常寂光土になったのです。(「池田大作全集」第32巻) 〈注〉八幡神。古くは農耕の神とされた。神仏習合の伝統から八幡大菩薩ともいう。鎌倉時代には源氏の氏神として深く尊崇され、武士全体の守護神とされた。 【関連御書】「下山御消息」、「種々御振舞御書」 [参考]「池田大作全集」第32巻(「御書の世界〔上〕第八章」、「大白蓮華」2012年5月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(「種々御振舞御書」講義②)、小説「新・人間革命第11巻「躍進」 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年1月号
April 8, 2024
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鎌倉時代の国名御書には、当時日本全国を意味する「五畿七道」「六十六箇国・二つの島」等の言葉が、たびたび使われています。これらは日本古来の律令制によって定められた地方行政区分のことです。「五機」とは、山城・大和・河内・和泉・摂津の五カ国のことで、「畿内」と言います。「畿」とは都(京都)の意味です。「七道」とは、それ以外の東海道・東山道・北陸道・山陽道・南海道・西海道の七つの区域を指します。ここでの東海道は、江戸時代の五街道の一つとしての東海道とは異なります。五畿七道のそれぞれに所属する国は左図の通りです。五畿七道の国の数は、全部で「六十八箇国」ですが、西海道の壱岐・対馬の「二島」を別にして、多くは「六十六箇国」と表現されました。日蓮大聖人の主な活動の舞台には、御生誕の地・安房国(千葉県南部)、若き日に比叡山などで就学された畿内と都の周辺、広布の主戦場とされた鎌倉のある相模国(神奈川県における、北東部を除くほとんどの地域)、流罪の地である伊豆国(伊豆半島と伊豆諸島)・佐渡国(佐渡島)、身延のある甲斐国(山梨県)、御入滅の地・池上のある武蔵国(東京都、埼玉県と神奈川県北東部)などが挙げられ、広範な地域に足跡を刻まれていたことが分かります。また、大聖人は御自身の出自を「日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり」(新310・全370)と述べられています。「第十二」とは、安房国が都に近い国から数えて12番目に当たるという意味です。そして、国の中にさらに「郡」「郷」という区分がありました。別の御書では、日本全体で「郡は五百八十六、郷は三千七百二十九」(心459・全1072)と、具体的な数字で言及されており、大聖人が日本全国のいたるところまで思いをはせ、大きな御境涯で包まれていたことが拝されます。御書新版では、大聖人のお手紙は、対告衆の居住地ごとに、安房、下総、鎌倉、伊豆、佐渡、甲斐、駿河(静岡県中部)、遠江(静岡県西部)などのなどに分類されています。代表的な門下で多くの御書を頂いた下総の富木常忍、武蔵野池上兄弟、鎌倉の四条金吾、駿河の南条時光は、単独で項目が立てられています。対告衆の取材地等が確定できないものは「諸御抄」としてまとめられています。大聖人は、「日本国の中にただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始めの一露なり。二人・三人・十人・百人・一国・六十六箇国、すでに島二つにも及びぬらん」(新1711・全1241)と仰せです。大聖人の一人が唱え始めた南無妙法蓮華経が、一人から一人へと伝わり、日本全国へ広がっているとの御確信です。そして、各地の門下は、「その国の仏法は機変にまか(任)せたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)とのお心のままに、わが地域の広宣流布に立ちあがっていったのです。 五畿七道.六十六箇国・二島 五畿 畿内五カ国 山城・大和・河内・和泉・摂津 七道 東海道15カ国 伊豆・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸 東山道8カ国 近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽 北陸道7カ国 若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡 山陰道8カ国 丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐 山陽道8カ国 播磨・備前・備中・美作・備後・安芸・周防・長門 南海道6カ国 紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐 西海道11カ国 筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬 大白蓮華2022年12月号
March 17, 2024
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第9回竜の口の法難・上 創価学会教学部編 良観に法華経への帰依を迫る大蒙古国(モンゴル帝国)は再び自らの影響下にあった高麗(朝鮮の王朝)から日本に使者を送ります。文永9年(1269年)9月、日本に国書が届くと、朝廷は翌・文永7年1月に返書を作成し、鎌倉幕府に贈りましたが、幕府は認めず、蒙古との交渉自体を拒否しました。 改めて書状を送る蒙古の侵略を恐れ、世の中が騒然とする中、幕府関係者や有力寺院は日蓮大聖人の主張を黙殺しましたが、文永6年11月、大聖人が改めて各所に書状を送られると、何通か返事が来ました。そのことから、幕府の要人も読んでいたと推測されます(新1354・全999、参照)。同年12月には「立正安国論」を自ら書写して下総国(現在の千葉県北部とその周辺)の矢木胤家〈注1〉という人物に送られています。「立正安国論」を読んでみたいという要望が広がっていたのかもしれません。一方で、大聖人に批判された諸宗の高僧は危機感を強め、大聖人を陥れようと幕府要人らに讒言(事実無根の訴え)を重ねます。当時の様子が、「種々御振舞御書」(建治2年〈1276年〉御執筆)に記されています。「国王にとっての重大事が起ころうとしているのだけでなく、それぞれの身の上に、大きな嘆きが起こるようなことがあるのである。それなのに、用いないどころか、悪口まで浴びせるとは、あまりのことである。これはひとえに、日本国の全ての人々が、一人も残らず皆、法華経の強敵となって、根が念を経たので、大きな罪が積もり、大鬼神がそれぞれの身に入った上に、蒙古国の国書によって正常な判断量を失い狂ったからである」(新1225・全999、通解) 祈雨の対決文永8年(1271年)6月、日照りが続き干ばつが起きた時、同月18日から24日まで、極楽寺良観(忍性)が祈雨(雨乞い)をすることになりました〈注2〉。このことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされます。それは、〝7日間の間に、一滴でも雨が降れば、私は良観の弟子となろう。雨が降らなければ、良観は法華経に帰依しなさい〟というものでした。祈雨の校歌を自負していた良観はこの申し出を受け、「百二十余人」の弟子と共に、「頭より煙を出だし、声を天にひび(響)かし」祈願しました(新1575・全1158)。しかし、雨が降る気配はありません。良観はさらに「弟子等数百人」を呼び集めて必死になって祈りました。けれどもついに、露ほども雨も降らなかったのです。この間、大聖人はあせる良観に追い打ちをかけるように3度、使いを送られています。「一丈(=約3㍍)の堀を越えざる者、二丈三丈の堀を越えてんや。やす(易)き雨をだにふら(降)し給わず、いわんやかた(難)き往生・成仏をや」(同)7日目、良観は涙を流して悔しがりました。さらに7日経っても雨は降らないどころか、干ばつはますます激しくなる上、暴風が一日中やまず、民衆の歎きは深まるばかりでした。ところが良観は、大聖人の主張を受け入れるどころか、むしろ怨みを募らせます(新1576・全1158、新281・全350、参照)。 公の場で法論を求める 行敏の訴えそれから間もない7月8日、行敏という僧から大聖人の主張に対する不審点を記した書状が送られてきました。行敏は大聖人と対面して、真偽を明らかにすることを求めましたが、これに対して大聖人は、公の場で法論を提案されます(新867・全179、参照)これまで求めてこられた公場対決が実現する好機と考えられたのかもしれません。行敏は大聖人の返答を受けると、幕府に大聖人を訴えました。日興上人によれば、行敏とは、浄土宗の僧・然阿良忠(然阿弥陀仏)の弟子の乗蓮のことです。行敏の動きの裏には、然阿や道阿弥陀仏(道教)、良観らの姿があったと推測されます。大聖人は、彼らが訴訟の主体であると認識されていました。訴状では、大聖人の主張が諸宗を否定する不当なものであると述べ、さらに、大聖人門下が「阿弥陀仏や観音菩薩等の像を焼いたり、川に流したりしていること」等が罪状として挙げられました。こうした非難は、大聖人を陥れるためのでっち上げや言いがかりでした。大聖人は反論書(陳状)を準備し、「慥かなる証人を差しだして申すべし。もし証拠無くんば、良観上人等、自ら本尊を取り出して火に入れ、水に流し、科を日蓮に追わせんと欲するか」(新871・全181)と追及された上で、良観らによる捏造であると喝破し、その重罪はすべて良観が負うものであると糾弾されています。 幕府による聴取良観らはこれ以外にも訴訟を起こしたようですが、それらがすべて失敗に終わると、幕府要人の夫人たちに対して、大聖人を処罰するよう働きかけます。これには、彼ら以外にも、密教の僧侶たりも関係していたと考えられます。「(日蓮は)『故最明寺入道殿』(=北条時頼)や極楽寺入道殿(=北条重時)のことを無間地獄に堕ちた」と言い、『(幕府の要人たちとゆかりのある)建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺などを焼き払え』と言い、『道隆上人や良観らの首をはねよ』と言っています。ご表情(=幕府当局者による合議)では何の処置がなくても、日蓮の罪は免れがたいでしょう」(新1227・全911、通解)こうした働きかけの結果、幕府は、大聖人の主張を確認するため、大聖人を呼びつけたのです。聴取に当たった侍所の所司〈注3〉である平左衛門尉頼綱らに対して、大聖人は答えられます。「以上のことは、一言もたがわず言いました。ただし、最明寺殿や極楽寺殿について(彼らが死んでから)地獄へ堕ちたといったというのは偽りです。この法門は、最明寺殿や極楽寺殿がご存命のときから言ってきたことです。結局、この一連のことは、この国を思って言っていることですから、世を安穏に保とうと思われるなら、あの諸宗の法師たち(=道隆や良観ら)を呼び出して、私と対決させて聞きなさい」(新1228・全911、通解)大聖人が「頸をはねよ」等と言われたのは、殺生を肯定されているわけではありません。むしろ、幕府の方こそが、以前から、大聖人や門下について「頸をはねるべきか、鎌倉を追放すべきか」等と議論していたのです(新1226・全910、参照)。大聖人の「頸をはねよ」という仰せは、〝頸をはねるというのであれば、何よりもまず、法華経の行者を誹謗し亡き者にしようとしている彼らの頸ではないか!〟という痛烈な反駁であり、憎悪に惑わされる人々の目を覚まさせるための慈悲の音声であったと拝せます〈注4〉。取り調べの場であるにもかかわらず、大聖人は、御自身の主張を用いて謗法を捨て正法に帰依しなければ、必ず自界叛逆難、他国侵逼難がおこることをふたたび警告されました。頼綱は人目も憚らず激怒しました。二日後の9月12日、大聖人は頼綱に書状(「一昨日御書」)を送られます。「そもそも貴辺は当時天下の棟梁なり、何ぞ国中の良材を損ぜんや」(新874・全183)を述べ、政治に携わり、天下の安泰を支える棟梁として、国内の人材を失うことがどうしてできるのかと、諫められました。そしてこの日、大聖人の御生涯を画する出来事が起こります。 池田先生の講義から大聖人は、重ねて「不惜身命」の喜びを語られます。「常々考え、覚悟していたのは、まさに、このことだ。何と幸いなことだろう。法華経のために身を捨てることができるとは! 砂を黄金に代え、石で珠を買うようなものではないか」と。この厳然たるお姿こそ、師子王の境涯です。そして、この御聖訓通りに戦われた方が、創価の父・牧口先生であり、わが恩師・戸田先生にほかなりません。両先生は、開かれた言論の広場である「座談会」を各地で刊行し、「不惜身命」の実践を貫き通したがゆえに、軍部権力によって投獄されました。牧口先生は獄死、戸田先生は、極限まで衰弱したお体で出獄されました。その崇高な師弟の闘争は、永遠の「学会精神の宝」であり、未来を照らし続ける「偉大な希望の光源」なのです。(『大白蓮華』2012年4月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」) 「さいわい(幸)なるかな、法華経のために身をすてんことよ」 捕縛この日の夕方、頼綱に率いられて、武装した大勢の兵士が大聖人の草庵に押し寄せました。一僧侶を捉えるにはあまりにも仰々しく、「常ならず法にす(過)ぎ」たものでした。〈注5〉。大聖人は、命の危険を察知されつつも、「さいわ(幸)いなるかな、法華経のために身をすてんことよ」(新1228・全912)と、悠然と臨まれました。すると、頼綱の一番の家来(少輔房)が走り寄り、大聖人がふところに持っていた法華経の第5巻を奪い取って、それで大聖人の額を殴りつけました。法華経の5巻には、法華経の行者が三類の強敵に杖で打たれるなどの迫害を受けることを記した勧持品第13が含まれます。兵士たちは法華経の巻物を庵室中にまき散らし、踏みつけるなどしました。その狂乱の姿をご覧になった大聖人は、頼綱に向かって大音声を放たれます。「あらおもしろや、平左衛門尉がもの(物)にくる(狂)うを見よ。とのばら(殿原)、但今、日本国の柱をたおす」(新1229・全912)兵士たちは、大聖人の堂々としたお振る舞いに驚き慌てました。捕縛された大聖人は、謀反人であるかのように鎌倉市街を引き回されます(新683・全1525、参照)。午後6時頃(「酉時」)に処分が出て、大聖人は引付衆(裁判実務を担当する役職)で武蔵守(国司の長官)であった北条(大仏)宣時の邸宅に身柄を置かれました(新1276・全951、参照)。宣時は佐渡国の守護(国ごとに置かれ、軍事・行政を統括する職)でもあったことから、処分は佐渡への流罪であったと思われます。後に大聖人は、この法難の際、頼綱に向かって、日本の柱である大聖人を倒せば、自界叛逆難と他国侵逼難が起こると警告したことを記されています(新204・全287、参照)(続く) 〈注1〉 下総国の守護だった千葉氏の一族とされる。〈注2〉 「下山御消息」(新281・全349)を参照。「種々御振舞御書」には「六月十八日より七月四日まで」(新1229・全912)とある。〈注3〉 侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は時間であるが、長官は執権が兼務するため、所司が実務の責任者。〈注4〉 「立正安国論」でも、「釈迦の以前、仏教はその罪を斬るといえども、能忍の以後、教説は則ちその施を止む」(新42・全30)と、殺生を肯定する発言はされていない。〈注5〉 「種々御振舞御書」には、「御勘気のよう(様)も、常ならず法にすぎ(過)てみ(見)ゆ。了行が謀反をおこし、大夫律師が世をみだ(乱)さんとせしをめ(召)しとら(取)れしにもこ(超)えたり。……太政入道の世をと(取)りながら国をやぶ(破)らんとせしに(似)にたり。ただ(只)事ともみえず」(新1228・全911)と記されている。 【関連御書】 「頼基陳状」「下山御消息」「行敏御返事」「行敏訴状御会通」「種々御振舞御書」、「一昨日御書」「撰時抄」 【参考】第32巻「御書の世界〔上〕」第八章)、「大白蓮華」2012年4月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(「種種御振舞御書」講義➀、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」 |御生誕 満800年記念企画|日蓮大聖人――誓願と大慈悲の御生涯大白蓮華2022年12月号
March 16, 2024
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四条金吾③「竜の口の法難」を勝ち越えられた日蓮大聖人は、佐渡へ流罪されます。到着は文永8年(1271年11月1日)。今日の暦ではすでに12月に入っていました。極寒の佐渡で、大聖人は言語に絶す津逆境におかれたのです。同じ頃、門下にも激しい弾圧の嵐が。わずかでも大聖人に心を寄せる者は、所領没収、一族郎党から追放、感動、罰金などの迫害が加えられ、退転者が続出しました。御自身も絶体絶命の状況下にあって、弟子を心から案じられた大聖人は、世間の義難に答え、法華経の行者として生き抜く境地をとどめる「開目抄」を御執筆になります。同抄は四条金吾を通して前門下へ与えられました。佐渡流罪期、大聖人から依頼された情報の収集など、門下の中心として重要な役割を果たしたと考えられる金吾は、険しい山海を越え、佐渡まで大聖人をお訪ねしています。文永11年(1274年)3月8日、平左衛門尉頼綱と対面。年内の蒙古襲来を予言し、堂々と国家諫暁されますが、幕府は耳を貸そうとはしませんでした。5月、大聖人は身延へ入られ、大難と戦っていける本格派の弟子の育成を開始されます。師の民衆救済の大闘争に金吾も勇んで立ちあがり、主君の江間氏への折伏を開始します。 法華経の文に「難信難解」と説き給うことはこれなり。この経をきき(聞)うく(受)る人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはや(易)すく、持つはか(難)たし。さるあいだ、成仏は持つにあり。この経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり。(四条金吾殿御返事(此経難事の事)、身544・全1136) 通解法華経の文に「法華経は、信じることが難しく、理解することも難しい〈難信難解〉」(法師品第10)と説かれているのは、このことである。この法華経を聞き受ける人は多い。しかし、聞き受けたとおりに実際に大難から来た時、それでも法華経を心にとどめて持ち続け、忘れることのない人(憶持不忘の人)はまれである。「受ける」ことは易しく、「持つ」ことは難しい。そうであるから、成仏は持ち続けることにある。この法華経を持つ人は、必ず難に遭うのだと心得て持つべきである。 ………… 文永11年(1274年)9月、四条金吾は、主君・江間氏を折伏します。しかし、江間氏は極楽寺良観を信奉しており、金吾は疎まれるように。嫉妬していた同僚の讒言もあり、四面楚歌の状況に追い込まれます。〝法華経を信じれば「現世安穏」になると聞き、信仰も貫いてきたのに、なぜ「大難」が雨のように降りかかるのか〟――剛毅な金吾も、この時ばかりは、つい弱音をはくほど、戸惑いを隠せずにいたようです。こうした金吾の疑問を弟子の日昭を通して聞かれた大聖人が、その不信を晴らそうと筆を執られたのが本抄です。法華経は、仏の真意を説いた「難信難解」の経典であり、その法華経を弘通しようとすれば、大難が起こる。金吾も、この原理は理解していたでしょう。しかし、実際に自分が難に直面すると、動揺してしまうのが凡夫の常。愛弟子が苦境にある今こそ、「成仏は持つにあり」との〝信心の真髄〟を刻ませたいとの師の厳愛が迫ります。池田先生は、つづっています。「障魔が問いかけるのは、実は、私たちの信仰の強さ、深さです。常に自身心を磨き、全部わが生命の変革から始まると決意をして、勝利するまで戦う誓願をおこすのです。それが『信心』にほかなりません。」 日蓮がさど(佐渡)の国にてもかつ(餓)えずし(死)なず、またこれまで山中にして法華経をよ(読)みまいらせ候は、た(誰)れかた(助)すけん。ひとえにとの(殿)の御たすけなり。また殿の御たすけはなに(何)ゆえ(故)ぞとたず(尋)ぬれば、入道殿の御故ぞかし。(四条金吾釈迦仏供養事、身1559、全1147) 通解 日蓮が佐渡の国でも飢えて死にせず、また、これまで身延の山中で法華経を読誦できたのは、誰の助けによるであろうか。ただひとえに四条金吾殿の御助けによるのである。また、金吾殿の御助けは何によるかと尋ねると、主君の江間入道殿のおかげによるのである。 ………… 四条金吾は、自らが苦境に立たされる中でも、のちに退転するものの不穏な動きを日蓮大聖人に報告するなど、師匠と連携を密に取り、同志を守るために必死で戦っていました。しかし金吾への攻撃は激しさを増す一方――。思いつめた金吾は、いっそのこと、主君のもとを去り、頭をそって出家してしまおうとさえ漏らします。大聖人は今いる場所に踏みとどまるよう諭されています。〝決して現実から逃げてはいけない。自暴自棄になってはいけない。佐渡で苦しんでいた私を助けてくれたのは、あなたではないか〟まるで金吾の肩を抱き、命を揺さぶるような渾身の激励。八方塞がりの状況で苦闘を重ねていた金吾の胸に、不屈の信心の炎が燃え上がったことでしょう。池田先生は、恩師・戸田先生の言葉を紹介されています。「人生は、トンネルに入ったようなときもある。しかし、トンネルを抜ければ、また、きれいな景色が見えるではないか。途中で止まってはいけない。信心で最後まで戦い、進むのだ」出口の見えない暗闇の中で、生き抜く力を呼び覚ますのは、理屈を超えた、人間の可能性への無限の信頼――大聖人の励ましの世界に脈打つ心音です。 【大慈悲の心音 門下への便り】聖教新聞2022.11.13
March 5, 2024
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久 遠 池田先生の指導から法華経本門の寿陵品に、「我は常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経479㌻)とあります。別の世界ではない、この苦悩に満ちた娑婆世界に生きる人間を救うために、法を説き続けてきたというのです。いうなれば、法華経の本門の立場は、永遠の生命に則りながら、どこまでも、現実の人間と共に在れ! 現実の社会の中で生き抜け! 現実の世界を離れるな! です。(中略)しかし、末法に正法を弘めれば、何が競い起こることは必定です。本抄(治病大小権実違目)にも「大難又色まさる」(全998・新1333)と仰せの通りです。その中で、まず「一人」立ち上がり、恐れず、負けず、屈せず、粘り強く、一人また一人へと、正法を説き続けるのです。その使命を担うのは本門の教主・釈尊ではなく、実は、弟子である地涌の菩薩なのです。(中略)現代において、大聖人の「地涌出現して弘通有るべき事なり」(全996・新1330)との御聖訓のままに、妙法を世界中に弘めてきたのは創価の師弟だけです。(「大白蓮華」2021年11月号〈世界を照らす太陽の仏法〉) Q1 天文学的な数量を表す言葉が、仏教ではよく用いられます。五百塵点劫や三千塵点劫、由旬、恒河沙、阿僧祇――仏教では、さまざまな場面で、想像を絶するような大きな数を表す単位などが出てきます。例えば、法華経で説かれる宝塔の高さを表す五百由旬は、一説には、地球の直系の半分のも及ぶとされます。これは、仏教の生命の偉大さを表すためであるとも拝せます。また、無数の地涌の菩薩が、それぞれ六万恒河沙(恒河はガンジス川のことで、その砂の数が一恒河沙。その6万倍)等の眷属(仲間)を率いているという説もあります。それぞれの単位が示す数量は、時代や地域によって解釈が異なりますが、仏教で説示する場合、多くは「無数」「無量」であることを強調するためであると考えられます。特に、仏が成道した久遠の過去や、仏の弟子との血縁の期間が長遠であることを示す際に、五百塵点劫や三千塵点劫など、大きな時間の単位として「劫」が用いられます。「劫」とは、サンスクリット(古代インドの文語)の「カルパ」を音写した「劫波」などの略で、「大時」などと訳します。その長さを示す説はさまざまあり、4000里四方の石山を、天人が100年に1度、柔らかい布で拭いて石山が摩耗し尽くしても、なお劫は尽きないといわれます。他に、大千世界を砕いて粉々にして、100年に1度、1粒を取っていき、これを取り尽くしたときを1劫とする説もあります。想像するだけで、気が遠くなるような悠久さうぃ感じます。 Q2仏が久遠の過去に成道したことは、何を示しているのでしょうか。法華経如来寿量品では、釈尊は五百塵点劫という計り知れない久遠の昔に成道したことが説き明かされます。その上で、その生命は「未だ尽きず」(法華経482㌻)、「常に此に住して法を説く」(同489㌻)――今なお娑婆世界に在って妙法を常に説き、衆生を救済し続けていると示されています。これが「久遠実成」の法理です。釈尊が過去の〝その時に成仏した〟と説かれているので、「始まり」があるようにも思えますが、実質的には、五百塵点劫という想像し得ない期間を示すことで、「永遠」を示唆しようとしているとも言えます。久遠の過去から無限の未来へ、仏界の生命も、衆生を救済し続ける菩薩界の精米も、ともに常住である――。いわば、久遠実成の法理とは、日蓮仏法の立場で拝せば、本来、誰もが仏であるという、私たちの生命の真実を明かしていると捉えることができます。池田先生は語っています。「無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、つねに不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。その仏と自分自身が、実は一体であり、自分自身が久遠の昔から人々を救うため、広宣流布のために働いてきたのだ、今だけのことではないのだ――そう自覚するのが寿量品の心です」(『法華経の智慧』普及版〈中〉)私たちの実践に即せば、御本尊を信じて、日々、自行化他の唱題に励み、広宣流布の誓いを新たにする、その時の生命が、まさに、瞬間瞬間、久遠の仏の生命と輝くのです。 Q3過去から未来へ、生命は永遠だということですね。仏法では、私たちの生命は今世だけではなく、過去世・現在世・未来世と、三世にわたるものと説いています。生命が「永遠に生と死を繰り返している」と捉えるのが日蓮仏法の生死観です。三世の生命観に立脚すると、今世に原因を見いだすことのできない苦難は、過去世からの行為(縮合)の結果が現れたものであり、また、現在世の行為が因となって、未来の果がもたらされると捉えることができます。その上で、今世において御本尊を信受し、広布を誓って自行化他の唱題に励む時、過去からの宿業を打ち消し、未来永遠に存在する絶対的幸福の仏の境涯を開くことができるという、万人成仏の道が、日蓮仏法によって確立されました。ゆえに、広布の活動にまい進する中で、必ず宿命転換することができるのです。御聖訓には、「自身法性の大地を、生死生死と転り行くなり」(新1010・全724)とあります。これを拝して、池田先生は「妙法に根ざした生と死は、『法性の大地』すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです」と語っています。三世の生命を確信する生き方には、死を忘れ享楽に走る「刹那主義」も、苦悩に満ちた現世の生を厭う「虚無主義」「逃避主義」もありません。だからこそ、「三世永遠の生命観」を基盤とするとき、現実の「生」を深め、豊かに充実させていくことができます。末法に民衆救済という久遠の使命を胸に、確かな生命観をもって、希望の光で人類を照らす――ここに、私たちの創価学会の崇高な誇りがあります。 【英知の光源 希望の哲理に学ぶ】聖教新聞2022.11.6
March 1, 2024
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第8回十一通御書 創価学会教学部編 幕府の関係者に次々と書状を送る 大宰府(筑前国〈現在の九州北部〉に設置された外交・軍事を司る地方官庁)に、大蒙古国(モンゴル帝国)からの国書(正式な外交文書)が届きました。文永5年(1268年)1月のことです。国書はよく・月〈注1〉に鎌倉幕府に贈られ、2月に朝廷に報告されます。そこには、蒙古と日本との国交を求め、それに応じなければ、兵力を用いる可能性がほのめかされていました。幕府と朝廷はこれを黙殺。幕府は西国の守護(国ごとにおかれ、軍事・行政を統括する職)に蒙古からの襲撃を警戒させ、朝廷は諸国の寺社に異国降伏を祈禱させます。3月には、64歳だった北条政村が執権から連署(執権を補佐し、公文書に執権と並んで署名する重職)となり、得宗(執権北条氏の家督を継ぐ者)である18歳の北条時宗が執権についています。時宗は北条時頼の子です。国難に対処すべく幕府の態勢を整えたのです。日蓮大聖人が「立正安国論」で予言された二難の一つ、他国侵逼難(他国からの侵略)が、8年を経て現実味を帯びて迫ってきました。大聖人47歳の時です。 預言の的中を強調国書の到来を伝え聞かれた大聖人は、同年4月、幕府の中枢に関係があったとされる法鑑房に「安国論御勘由来」(新46・全33)を送られます。その中で大聖人は、正嘉の大地震、飢饉、疫病について言及し、「立正安国論」を著された御心情を披歴されます。そして、蒙古からの国書の内容が「立正安国論」の主張に符合したと強調し、大聖人の教えを用いるように訴えられています。 宿屋入道に面会を申し入れところが幕府の反応はなく、大聖人は、同年8月には、「立正安国論」提出の際に仲介した宿屋入道に書状(「宿屋入道への御状」)を送り、謗法の諸宗がこの難に対して祈禱を行うなら、ますます事態を悪化させるだけであることを訴え、面会を申し入れられます(新852・全169、参照)。これにも返事がなかったため、翌月にも書状(「宿屋入道への再御状」)を送られます。立て続けに幕府関係者に向けて書状を送られたことから、緊迫した状況の中で、何としても国を守り、人々を救わなくてはいけないとの烈々たる御覚悟と大慈悲が拝されます。いずれの書状にも、〝自分のためではなく、ただ国のため、民衆のためである〟という御心境が綴られています。 ただ国のため、民のため 民衆あっての為政者しかし、再度の書状にも、宿屋入道から反応はありませんでした。そこで大聖人は、翌10月、執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の有力な寺院の僧侶たち、合わせて11カ所に書状を送り、「立正安国論」の主張を用いるよう迫られました。これらの書状を総称して「十一通御書」といいます〈注2〉。大聖人は北条時宗に対して、「国家が安泰であるか危うくなるかは政治が正しく行われているか否かにあり、仏法の聖者は経文という明鏡による」(新854・全170、通解)と、誤った教えを説く諸宗の寺院への帰依をやめるよう訴えています。宛先の一人、平左衛門尉頼綱は得宗被官(得宗家に仕える家臣)であり、後に絶大な権力を握ります。頼綱に対して大聖人は、「貴殿は、一天の屋梁たり、万人の手足たり」(新586・全171)と呼びかけられます。為政者の在り方を示し、その責任を果たすよう強く促されたのです。池田先生は、「まさに、民衆あっての為政者であり、どこまでも民衆が主人であるとの大宣言であったのである」(『新・人間革命』第2巻「民衆の旗」)と、書状の意義を示されています。 幕府権力と結びつく仏教界この時、鎌倉では、禅宗と真言律宗(西大寺流律宗)が幕府に関係していました。大聖人が立宗宣言された建長5年(1253年)、北条時頼が臨済宗の禅僧・蘭渓道隆を開山として、鎌倉に建長寺を創建します。正式には「建長興国禅寺」といいます。落成に際して、天皇家や将軍家、幕府の重臣の安泰と天下泰平を願うとともに、源氏三代将軍と北条政子、亡くなった北条一族を弔う供養が一度に行われています(「吾妻鑑」)。鎌倉における初めての本格的な禅宗寺院でした。以後、幕府の政策の一翼を担う宗教勢力としての全集は大きな発展を遂げます。その後、禅宗と並んで幕府を支える宗教勢力として興隆したのが真言律宗であり、その中心人物が良観(忍性)でした。良観は、建長4年(1252年)から関東で活動し、大聖人が伊豆への流罪に処された弘長元年(1261年)に鎌倉に進出します。翌年、良観の師である叡尊(思円)が鎌倉を訪れ、時頼ら幕府要人に授戒し帰依を受けました。専修念仏(浄土宗)の中心人物であった道教(念空)にも授戒し、鎌倉では宗派を問わず戒律尊重が一般的になりました。良観は、衆生救済を掲げ、道路建設や困窮者の救済など、幕府の許可を得て港や道路などを管理し、津料(港の使用料)や関銭(関所の通行料)などを徴収して、その収益を運用しました。これは、一種の利権を手に入れたことでもあり、良観が活動の拠点とした極楽寺には多くの富が集まりました。また、病人の衛生・治療や、貧しい人への施しなど、非人と呼ばれた人々の救済にも取り組みましたが、一方で、彼らを管理し、労働力として使役していました。 池田先生の指針から諫暁とは、真実を語り、誤りを正すことである。当然、それは法難を呼び起こすに違いない。しかし、すべてを覚悟のうえで、大聖人は真実を説かれ続けた。そこには、大切な民衆を、そして、一国を救わなければならないという、大慈悲の信念がある。真実の仏法への絶対の確信がある。山本伸一は、(「北条時宗への御状」の)講義では、この大聖人の諫暁の精神を受け継いで、軍部政府の弾圧と戦い抜いたのが、牧口初代会長、戸田二代会長であり、そこに創価学会の、輝ける不滅の歴史があることを語っていった。(中略)「政治の善し悪しは、人びとが生き、幸福になっていくうえで、極めて大きな役割を果たしています。その政治が民衆を忘れ、政治家の権力欲や名誉欲、あるいは、派閥の力学で左右され、理念も慈悲もない政治が行われていけば、民衆は不幸です」(小説『新・人間革命』第6巻「加速」) 「僣聖増上慢」と暴く道隆、良観も「十一通御書」のあて先となっています。幕府と結びついていた、これら諸宗の僧らに対して、大聖人はただお一人、その正体を見抜き、敢然と言論闘争を挑まれます。良観は前年(文永4年〈1267年〉)に極楽寺に入りいよいよ権勢を広げていました。良観への書状で大聖人は、「(良観は)僣聖増上慢であり、今世では国賊であり、来世では地獄に堕ちることは間違いない」(新861・全174、通解)と追及されています。「僣聖増上慢」とは、世間から尊敬されながら、内実は悪心を抱き、世俗の権力を利用して法華経の行者を迫害する高僧のことです。 自らの闘争示し門下に決意を促す 門下と共に幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧侶ら11カ所に書状を送られた際、大聖人は門下一同にも書状を送り、迫害への覚悟を促されます(「弟子檀那中への御状」)。各所に進言した理由について、「しかも強いてこれを毒す(而強毒之)」という天台大師智顗の言葉(「法華文句」)を引かれています。正しい教えを聞きたがらない人に対しても、強いて説くことによって仏縁を結ばせるという意義です。加えて、「今こそ生死の束縛を断ち切って、仏という成果を完成しなさい」「日蓮のところに来て、書状などをご覧なさい」(新866・全177、通解)とも仰せです。すでに伊豆流罪や小松原の法難などを勝ち越えてこられた大聖人が、自らの御闘争を示すことで、門下に対して共に立正安国の言論戦に立ちあがるよう、決意を促されたと拝されます。この烈々たる気迫による大聖人のはたらきかけを、幕府も諸宗も黙殺します。翌・文永6年(1269年)、再び蒙古より国書が届きました。予言の的中によって、大聖人の主張に耳を傾ける人が増える一方で、大聖人から批判された諸宗は危機感を深めていきます(新1273・全1515、新1354・全999、参照)。(続く) 〈注1〉 旧暦(太陰太陽暦)で、月の運行による暦年が太陽の運行によって定まる季節とのずれを調整するために、ずれが1カ月になると、同じ月を2度繰り返して1年を13カ月とした。この月を閏月という。〈注2〉 北条時宗、宿屋入道、平左衛門尉頼綱、北条弥源太(北条氏の一門と考えられる大聖人門下)、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当(鎌倉の大仏を安置した営舎を管理する役職)、寿福寺(臨済宗建長寺派)、浄光明寺(浄土宗など諸宗兼学)、多宝寺(当時、極楽寺の管理下にあったと考えられる寺)、長楽寺(浄土宗)の11カ所。 [関連御書]「安国論御勘由来」、「宿屋入道への御状」、「宿屋入道への再御状」、「北条時宗への御状」、「平左衛門尉頼綱への御状」、「極楽寺良観への御状」、「弟子檀那中への御状」 [参考]『池田大作全集』第32巻(「御書の世界(上)」第八章)、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」 【||御生誕満800年記念||日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2022年11月号
February 26, 2024
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第7回小松原の法難 弘長3年(1263年)2月、罪を許され伊豆から帰還された日蓮大聖人は、鎌倉に戻られたと推測されています。翌・文応元年(1264年)7月、東の空に巨大な彗星が出現します。当時、彗星は一般に凶兆と受け止められていました。大聖人は、文永5年(1268年)大蒙古国(モンゴル帝国)からの国書(外交文書)が到来し、他国侵逼難の危機が迫る中で、この彗星の出現について再考し、「前例のない悪い兆し」(新48・全35、通解)であると、その意味を明らかにし、「立正安国論」の主張の正しさを確信されています。大聖人は彗星が出現した時期の前後に、故郷・安房国に向かい、清澄山の山並みの麓にある西条華房(現在の千葉県鴨川市花房)に滞在し、弘教を進められたと考えられています〈注1〉。 母の寿命を延ばす当時、大聖人の母親は、病を患っていたようです〈注2〉。大聖人は御自身の祈りで母の病をいやし、寿命を4年延ばされます。このことについて、後年(文永12年〈1275年〉)、病気と闘う門下の富木尼御前に宛て、「日蓮、悲母をいいのりて候いしかば、現身に病をい(癒)やすのみならず、四箇年の寿命をのべ(延)たり」(新1308・全958)と仰せになっています。御自身が示された実証をもとに、「あなたは今、女性の身で病にかかっています。試みに法華経の信心を奮い起こしてごらんなさい。……命というものは、この身にとって第一の貴重な宝です。たとえ一日でも、寿命を延ばすなら、千万両もの莫大な金にも勝るのです」(同、通解)と、生き抜く勇気を呼び覚ますように、富木尼御前を温かく励まされたのです。 帰郷して有縁の人々と再会 念仏者らの襲撃文永元年11月11日申酉刻(午後5時頃)、大聖人の一行は、東条の松原大路(鴨川市広場と伝わる)で、大勢の念仏者の待ち伏せに遭います。大聖人が領家の尼に味方して裁判で争ってきた地頭・東条景信が、ついに武力を行使してきたのです(連載第3回参照)。弾正によれば、門下の工藤殿の招きを受けて、西条華房から東条の天津に向かわれる途中のことでした。西条華房から天津へ行く街道沿いに、東条氏の館があったようです。そのため十分に用意はされていたことでしょう。冬の夕闇に覆われた時間に、師を待つ門下たちのもとへ足を運ぼうとされたのです。1か月後に記された「南条兵衛七郎殿御書」に、襲撃の様子が描かれています。「数百人の念仏者等に待ち伏せされましたが、日蓮はただ一人で、(同行者を含めて)十人ほど、役に立つものはわずかに三、四人でした。射る矢は雨のようであり、打ってくる太刀は雷のようでした。弟子一人はその場で打ち取られ、二人は重症を負いました。私自身も斬られ、打たれ、もはやこれまでというところでした」(新1830・全1498、通解)急を聞いて駆け付けた工藤殿は重傷を負い、それがもとで亡くなったと伝えられています。また、大聖人は、左手を骨折し、刃をよけきれなかった額の右側には、四寸(約12㌢)の傷痕が残ったといいます(新881・全851、参照)。 「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」 いよいよ信心を増してこの事件を、伝承に基づいて「小松原の法難」〈注3〉と呼びます。御書を拝する限り、初めて門下に死人が出た法難です。「どうしたことでしょうか、打ちもらされて今日まで生きているのです」(新1831・全1498、通解)と言われているように、九死に一生を得られた大聖人は、「いよいよ法華経しかないと、信心が強まりました」(同、通解)と、信心の情熱の炎を一段と燃え上がらせられました。それは、法華経に描かれている「如来(仏)がいるときでさえ、反感(怨嫉)が多いのである。まして仏が亡くなった後はなおさらである」(「如来現在猶多怨嫉。況滅度後」、法華経362㌻)、「(法華経は)全世界において反感が多く、信じるのが難しい」(「一切世間多怨難信」、同443㌻)等の文を、身をもって読んだという御確信からでした。大聖人は断言されています。「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(新1831・全1498)法華経を暗誦したり、音読したりする「持経者」は、当時、少なくありませんでした。しかし、その誰も経文通りの迫害を受けていません。まさに法華経に「(悪口を言われ)また、刀で切られ、棒で撃たれる」(『及加刀杖』、法華経418㌻)と説かれている文字通りの「刀の難」にまで遭われたことを通し、大聖人御自身ただお一人が法華経を身で読まれた「如説修行の行者」であるという大確信を示されたのでした。 導善房と再会法難の3日後の同年11月14日、大聖人は、西条華房の僧坊で、出家の際の師匠・導善房と再会されます。大聖人が重傷を負われたとの知らせを受け、見舞いに訪れたのかもしれません。大聖人は、重傷の身であったにもかかわらず、お会いになりました。恩ある師に正法を説いて報恩しようとされたのです。導善房は、仏法の道理を理解できず、念仏者のままでした。導善房が尋ねます。「世間に広まっていることであるから、ただ南無阿弥陀仏と申しているだけである。また、自分から望んだことではないが、何かの縁あって、阿弥陀仏を五体までお作りした。これもまた、過去世の行いによるものであろう。この罪によって地獄に堕ちるであろうか」(新1192・全889、通解)十数年ぶりの師との再会であったため、大聖人は初め、穏便に話をしようと考えられていました。しかし、二度と会うことはないかもしれないということ、また、導善房の兄である導義房の臨終の様子がよくなかったらしく、このままでは導善房も同じようになってしまうであろうことから、導善房を哀れに思い、教えを聞き入れるとは思われませんでしたが、大聖人は、青年時代の恩に報いるため、思い切って語られました。「阿弥陀仏を五体お作りになったのであれば五度、無間地獄にお堕ちになるはずです。その理由は、『正直捨方便(きっぱりと仮の教えを捨てる)』の法華経に、『釈迦如来は我ら(衆生)の実の親、阿弥陀仏は伯父』であるとお説きです。自分の伯父を五体まで作り供養されながら、実の父を五体までも作り供養されながら、実の父を一体もお造りにならないのは、不孝の人ではないでしょうか」(新1193・全889、通解)大聖人は、さらに説明されますが、導善房は、あまり理解できない様子でした。導善房は後年、念仏に対する執着を捨てきれずに亡くなります。しかし、面会の後、法華経への信心を少し起こしたようで、大聖人は道善坊への恩を報じた御心情を、「たとい強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なれども、人を損するは妄語・強言なり」(新1194・全890)―たとえ厳しい言葉であっても人を助ければ真実の言葉であり、穏やかな言葉である。たとえ穏やかな言葉であっても人を誤らせば誤った言葉であり、厳しい言葉である―と仰せになっています。 「法華経の敵」と戦うことが成仏のための肝要 池田先生の講義から末法という時代は、機根が劣悪なばかりか、煩悩が盛んで多くの悪事をなし、法華経という根本の大善に反発し、かえって法華経を誹謗するという謗法が蔓延しています。だからこそ、最も大事なことは、自身が正法を実践するだけでなく、謗法と戦うことです。(中略)(「南条兵衛七郎御書」の)「いかなる大善をつくり……」以下の御文(=新1826・全1492)は、牧口先生の御書にも強く太く、朱線が引かれた一節です。悪を責めた分だけ、仏界の力がより強く表れます。胸中の無明を打ち破り、魔に力強く勝つことができる。罪業が消え、宿命展開が成し遂げられる。いざという時に、勇気ある信心で、師と共に、師と同じ心で戦ってこそ、今号の「仏の生命」となるのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第21巻) 兵衛七郎の手紙導善房との再会から1カ月後、大聖人は、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市下条)に住む門下の南条兵衛七郎にお手紙を送られます。先ほど紹介した、「南条兵衛七郎殿御書」です。当時、兵衛七郎は重病を患っていました。駿河国は、念仏を信仰する北条氏の有力者の影響が強い地域で、兵衛七郎は親類たちから妻子のためにも念仏に帰依するように勧められていたことでした。このような状況をよくご存じであった大聖人は、兵衛七郎の葛藤に寄り添う一方、法華経の信心を貫くことこそ、死後の不安を打ち破る正しい道であると励まされたのです。さらに、「どのような大きな善行を積み、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の瞑想法を得た人であっても、法華経の敵すら責めないので仏の覚りを得ることは難しいのである」(新1826・全1494、通解)と述べ、法華経を軽んじる謗法と戦うことこそが成仏のための肝要であると示されます。 最後に、「もし日蓮より先に旅立たれるのなら、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王らに申し上げてください。「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子である」と名乗ってください。まさか親切な扱いがないことはないでしょう」(新1831・全1498、通解)と訴えられています。「日本第一の法華経の行者」との力強い宣言は、一側面から見れば、病魔との闘いで弱気になっていた弟子を勇気づけるための慈愛の一言であったと拝せるでしょう。兵衛七郎の胸には、〝今世も来世も大聖人の弟子なのだ〟という新たな誓いの炎がともされたに違いありません。現在に伝わる兵衛七郎のお手紙は、この一通のみです。兵衛七郎は翌年3月に亡くなりますが、大聖人からこのお手紙が、兵衛七郎から、妻の上野尼御前、そして南条時光ら子へと信心が伝承されてゆく原点となったことでしょう。この文永2年(1265年)、大聖人は兵衛七郎の墓参のため、上野郷の南条家を訪問されています。ここで、後に富士方面の門下の中心者へと成長する南条時光に会われたと考えられます。時光は7歳でした。その後、文永5年(1268年)になると、時代が大きく動き始めます。(続く) 〈注1〉 帰郷の理由について、亡き父の墓参のためや、病気の母の見舞いのためという説があるが、定かではない。〈注2〉 確たる根拠はないが、大聖人の母の没年を文永4年とする伝承(「法華霊場記冠部」(1685年)があり、寿命が4年延びたとされることから逆算される。〈注3〉 御書には「小松原」という地名は記されておらず「東条の松原と申す大路」(新1830・全1498)とあり、近年は「東条松原の法難」とも呼ばれる。 【関連御書】「安国論御勘気由来」、「南条兵衛七郎殿書」、「善無畏三蔵抄」 [参考]「池田大作全集」第32巻(御書の世界〔上〕第八章)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第21巻(「南条兵衛七郎御書」講義) 【|御生誕満800年記念企画|日蓮大聖人―誓願と慈悲の御生涯】大白蓮華2022年10月号
February 7, 2024
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病魔との闘い 偉大な境涯築く磯部昌継 ドクター部長第20回 病によりて妙心尼御前御返事このやま(病)いは仏の御はから(計)いか。そのゆえは、浄名経・涅槃経には、病ある人仏にな(成)るべきよし(由)とか(説)れて候。病によりて道心はおこ(発)り候なり。(新1963・全1480) 病の夫・高橋入道を支える妙心尼に対して、厳愛の励ましを送られたお手紙。夫妻は、駿河国(静岡県中央部)の富士方面に住む門下で、高橋入道は、この時期、重い病だった。 池田先生は、ドクター部の友に対して、よく「負けじ魂の善医」と呼びかけてくださっています。金吾のごとく、広宣流布の最前線で戦い、自らの生命を磨きながら、どこまでも学会の同志を守り、〝生命の世紀〟を開く〝戦うドクター部〟の陣列を築いてまいります。 幸福へのプロセスコロナ禍が長期化する中で、今こそ「生命の尊厳の英知」「福徳長寿の智慧」である日蓮仏法を、先生の講義を通して学び深めていきたいと思います。今回は「妙心尼御前御返事」を拝します。私は歯科医師として大学病院の口腔外科で臨床に従事した後、現在は自身の歯科医院で診察を行っています。特に大学病院では、口腔がんと戦う多くの患者さんの治療に携わってきました。どんな人も、生老病死の苦悩から逃れることはできません。思いがけず、病気が分かり、〝なぜ私が〟〝どうして大切な今この時に〟と動揺することもあるかもしれません。先生はこの御文を拝し、病は〝忌み嫌う対象〟ではないと述べられ、次のように教えてくださっています。「むしろ、かけがえのない人生の一部、それも『一生成仏』、すなわち永遠の幸福への欠かせぬプロセスであると捉えるならば、今こそ強盛な信心を燃え上がらせる『まことの時』と確信することができるのではないでしょうか」 「妙とは蘇生の義」私自身、自分や家族の病を通して、このことを強く実感しています。中でも、長女の闘病は、自分にとって大きな経験となっています。長女が生後7か月の時、事故で脳出血を起こし、緊急搬送、手術を受け、なんとか一命を取り留めましたが、左半身にまひが残りました。集中治療室での娘の痛々しい姿に、ショックを受けました。数カ月して退院できましたが、手足のまひを回復させるためのリハビリが始まりました。自分の病気ならまだしも、小さな体で戦う娘の姿に胸をつかれました。当初、医師からは〝今後の発育に関してはどうなるか分からない〟と言われていました。「子どもが病気を通して親に本当の信心を教えて呉れようとしている。絶対に完治させてわが子を交付の人材に育てていこう」「必ず宿命転換していこう」—夫婦して御本尊に必死に祈る中で、語り合いました。長女はリハビリに励み、徐々に手足が動くように。「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すは、よみがえる義なり」(新541・全947)の御聖訓を胸に、娘の脳細胞の一つ一つに注ぎ込む思いで、真剣に祈りました。年々、担当医も驚くほど、知能や運動能力が回復。まさに、蘇生の実証を目の当たりにする思いでした。現在、長女は、軽度の生涯はありますが、それに負けることなく、私の歯科医院で歯科助手として勤務。また女性部では華陽リーダーとして奮闘しています。この間、師匠と地域の同志の皆さまにどれほど支えていただいたことか。娘の姿を通して、信心の偉大さを教えていただいたと、感謝の毎日です。 価値創造の戦い先生はさらに、「偉大な妙法を持つ人が宿命を打開できないはずがありません」と強調されています。病気になった時、「必ず意味がある」と捉えるからこそ、新しい価値創造の戦いが始まります。また、そこに病魔に打ち勝つ鍵があると思います。また先生は、9月号の「大白蓮華」の巻頭言の中で、仏法は最高の道理であるからこそ、基本の励行を改めて確認されました。具体的には、・張りのある勤行と献身の行動・無理と無駄のない生活・教養のある食生活・睡眠を十分にとること・時を逃さない早目の検診や治療そして、「広宣流布を遂行する、かけがえのない宝器たるわが身を守り抜いていくことだ」と呼びかけてくださっています。自らの健康を守ることが、広宣流布につながっていく―この確信で、聡明で豊かな生活を心がけ、創立100周年へ、はつらつと前進していきましょう。 勇気の指標 ― 著作から病気になること自体、何ら恥ずかしいことでもないし、まして人生の敗北などでは断じてありません。しかし、「自分は信心しているのに、なぜ」と疑いがもたげたり、「こんな時に病気になって」と苦しんだりする人もいるかもしれません。だからこそ、「このやはひは仏の御はからひか」と受け止める信心が肝要なのです。偉大な妙法を持つ人が宿命を打開できないはずがありません。◆◇◆「道心」とは仏道を求める心です。成仏の軌道へ入るということです。妙法の題目を唱え、病気に負けず、立ち向かう中で、実は、一段と大きく仏の境涯を開いていける。より深く、強く、尊く人生を生きていくことができる。そして、「病」や「老」や、「生」と「死」の実相を、恐れなく明らかに見つめられる功徳を満々と得ていけるのです。◆◇◆仏法では、病気は生命に本然的にそなわっているものと捉えます。病に直面して、健康の大切さ、生命の尊さを実感していくのです。自身の人生と使命を一重深く見つめ直すことができるのです。その上で、強盛な信心、不屈の祈りで病魔と闘い、自身の偉大な境涯を築いていく姿は、皆に勇気と希望を贈ります。「病」は、即「使命」です。 【御書根本の大道∮池田先生の講義に学ぶ∮】聖教新聞2022.9.17
January 31, 2024
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第6回伊豆流罪 創価学会教学部編「立正安国論」提出後、念仏者たちは、日蓮大聖人に対して、暴力に及ぶ攻撃を行いました。それが松葉ケ谷の法難です。さらに大聖人は、弾圧を受けることになります。すなわち、弘長元年(1261年)5月12日、日蓮大聖人は、鎌倉幕府によって伊豆国伊東荘(現在の静岡県伊東市中部から伊豆市東部)への流刑に処されるのです。 「政道を破る」不当処分この経緯を大聖人は「その夜の害もまぬ(免)かれぬ。しかれども、心を合わせたることなければ寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る。『日蓮が生きたる、不思議なり』とて、伊豆国へ渡しぬ」(新288・全355)と、大聖人を襲撃した念仏者らを不問に付して正しい道理を無視し、襲われた大聖人を配流にした、幕府の暴挙を記されています。また、大聖人は、「念仏者等、この由(「立正安国論」を用いなかったこと)を聞いて上下の諸人を語らい打ち殺させんとせしほどに、かな(叶)わざりしかば、長時武蔵野守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知って理不尽に伊豆国へ流し給いぬ」(新2113・全1413)と、最終的に伊豆への流刑に処した第6代執権・北条長時の判断は、父である重時の意向を酌んだものであったとして、その理不尽さを強調されています。鎌倉幕府には「御成敗式目」という法律がありました。この法律の趣旨にそむいて大聖人に処罰を加えたのです(新289・全355、参照)。伊豆流罪は、鎌倉幕府という政治権力による法難(王難)でした。大聖人が40歳の時です。 真心の尽力に心から感謝される 船守弥三郎夫妻の献身捕らえられた大聖人は、鎌倉の市中を引き回された上で、流刑地の伊豆に移送されました(新683・全1525、参照)。伊豆流罪の間、大聖人がどのように過ごされていたのか詳細は不明です。「船守弥三郎許御書」(新1722・全1445)によれば、舟での長時間の旅であったためか、大聖人は、伊豆国伊東荘川奈(伊東市川奈)の津(船着き場)に着き、苦しまれていたようです。この時、船守弥三郎という人物に助けられます。弥三郎とその妻は、大聖人に食事を準備し、手足を洗う湯水を手配するなど、真心を尽くしました。「この地の地頭や万民が日蓮を憎み、腹を立てていることは鎌倉よりも激しい。日蓮を見る者は目をひきつらせ、日蓮の名を聞く者は反発する」(同、通解)という状況でしたが、弥三郎夫妻は、わが身の危険を顧みることなく献身したのでした。これに対し大聖人は、「特に5月のことでコメの乏しかったことでしょう。それにもかかわらず、あなた方夫妻は、日蓮をひそかに養ってくださいました」(同)と心からの感謝を伝えられています。 地頭のもとへ1カ月後には、大聖人は、川奈から地頭の伊東八郎左衛門尉祐光のもとに移られています。伊東氏は祖父・工藤祐経の代に源頼朝に仕えた有名な御家人(将軍と直接の主従関係を結んだ武士)でした。当時、祐光は、病気を患い、大聖人に病気平癒の祈願を依頼しました。大聖人は、祐光が念仏を捨てて大聖人に帰依する姿を見せたので、平癒を祈念されました。病気が治った祐光は、海中から拾い上げられた釈迦像を大聖人に供養したと伝えられています。大聖人の祈願によって瀕死の状態から一命をとりとめた祐光ですが、残念ながら後に退転してしまったと考えられています〈注1〉。大聖人は、流罪中の弘長2年に、「四恩抄」を安房国の門下である工藤殿に送られたほか、「教機時国抄」、「顕謗法抄」を著されたとされます。 難こそ「法華経の行者」の証明 経文通りの難は「最高の悦び」「四恩抄」では、流罪の身になったことは「大いなる悦び」(新1212・全935)であると記されています。「これほど身分が低く、無智・無戒の者である日蓮のことが、二千余年も前に説かれた法華経の文に載せられ、必ず迫害にあうであろうと、仏が記し遺されたことの嬉しさは、言い尽くし難いことである」(新1214・全936、通解)と述べ、昼夜の休みなく法華経を修行できており、法華経のために流人となったことは、日常の振る舞い全てにわたって法華経を読み、行じていることになるとし、「これほどの悦びは何事か候べき」(新1215・全937)と高らかに宣言されています。まさに、大聖人こそ法華経を身で読んだ真の行者であることが示されていると言えます。池田先生は、「大聖人こそ『末法の法華経の行者』であるとの御宣言と拝されるでしょう。この御文を法難の渦中に身で読まれたのが、牧口先生であり、戸田先生です。戦時中、押収された戸田先生の御書には、この一節に力強く線が引かれてありました」と講義されています(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第10巻)。 「三類の強敵」を現す誉れ「四恩抄」の翌月に書かれたとされる「教機時国抄」では、「三類の敵人を顕さずんば、法華経の行者にあらず。これを顕すは、法華経の行者なり」(新482・全411)と、「法華経の行者」という言葉が明記されています。「三類の敵人」とは、「三類の強敵」のことであり、釈尊滅後の悪世で法華経を弘通する人を迫害する強固な敵対者を、妙楽大師湛然〈注2〉が3種類に分類したものです。大聖人は、この迫害者たちが姿を現すまでに不惜身命の法華経を弘めた御自身が、まさに「法華経の行者」であると、その誉れの自覚を示されています。さらに、同抄と「顕謗法抄」では、仏法を弘めるに当たって心得るべき基準として、「教」「機」「時」「国」「教法流布の先後」という「宗教の五綱(五義)」〈注3〉が示されています(新477・全438・新499全453)。「宗教の五綱」は、どの教えを選び取り、どのように弘めていくかについて、五つの観点から重層的に洞察した、大聖人の独自の思想です。この基準によって、末法の日本において凡夫の成仏のために弘めるべき教えは、最高の正しい教えである法華経であることを示されたのです。大聖人は、流罪の地において全くひるむことなく、むしろどうすればその法華経を人々に弘めていけるのか、その方法を模索されていたのです。 池田先生の講義から(「四恩抄」の「『流難に値うべし』と仏記しお(置)かれまいらせて候ことのうれ(嬉)しさ、申し尽くし難く候」「人間に生を受けて、これほどの悦びは何事か候べき」(新1214・全936、新1215・全937)の御文について)法華経ゆえに迫害を受けることを、無上の喜びとされる大境涯です。かえって、世間の法律ではまったく罪のない大聖人をたたえた法華経のゆえに迫害を加えた国主に対して、「生死を離るべき国主」(全938・新1216)と呼び、成仏のための修行をさせてくれた「恩深き人」(全937・新1215)であると感謝さえされています。不撓不屈であられ、究極の人間主義であられます。難に遭うごとにごとに、いよいよ力を増し、勢いを増されれいる。それは、正法のために命をかけて難と戦われている御自身の内に「如来の生命力」を現されているからです。(『池田大作全集』第32巻) 鎌倉に戻られる弘長3年(1263年)2月22日、大聖人は赦免されました(新251・全322、参照)。大聖人の罪が讒言(事実無根の訴え)を根拠にしたものだったことを知った北条時頼によるものと、大聖人はのちに説明されています(新1620・全1190、参照)。大聖人を刑流に処する上で大きな影響を及ぼしたと考えられる北条重時が、伊豆流罪の半年後の弘長元年11月に亡くなったことも赦免と関係があるかもしれません。赦免後、鎌倉に戻られた大聖人は、しばらくして故郷の安房国に帰られます。そこで、さらなる苦難が待ち受けていたのです。(続く) 〈注1〉「伊東八郎さえもん(左衛門)、いまはしなの(信濃)のかみ(守)は、げん(現)にし(死)にたりしを、いの(祈)りい(活)けて念仏者等になるまじきよし(由)明性房におく(送)りたりしが、かえりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ちぬ」(新1637・全1225)との仰せから、伊東祐光は後に退転したと考えられているが、退転したのは明性房とする説もある。〈注2〉➀教は最高の教えが何かを知ること。②機は、人々の仏教を信じ理解する能力で、人々がどの法によって教化されるかを知ること。③時は、現在がいかなる時であるかを知り、その時に弘めるべき法を知ること。④国は、国や地域の状況の違いに応じて弘教の方法を考え、教えを展開していくこと。⑤教法流布の先後は、先に広まった教えよりも優れた教えを弘めるという、弘め方の順序を知ること。 [関連御書]「下山御消息」、「妙法比丘尼御返事」、「神国王御書」、「兵衛志殿御書」、「船守弥三郎許御書」、「四恩抄」、「教機時国抄」、「顕謗法抄」、「聖人御難事」 [参考]「勝利の経典『御書』に学ぶ」第10巻(「四恩抄」講義)、「池田大作全集」第32巻、(「御書の世界(上)」第八巻) ノートNo t e 幕府の宗教政策日蓮大聖人が流罪中の弘長2年2月、奈良・西大寺の叡尊(思円)が、北条時頼・実時の度重なる招聘を受けて鎌倉を訪れます。叡尊は真言律宗を確立した僧で、良観(忍性)の師です。良観は後に大聖人に激しく敵対し、迫害を画策します。幕府要人たちは、禅宗や浄土教に好意を寄せ、寺院を開いていきました。この二つについては、すでに破折をされています。そこに幕府が支援する第三の勢力として、真言律宗が登場したのです。戒律復興を唱えた叡尊は、鎌倉滞在中の約6カ月の間、盛んに授戒活動を展開します。身分の上下を問わず授戒し、その数は連日、数百人、時には千人、数千人に及んだとされます。到着直後の2月末日に、法城実時の一族、また重時の娘で時宗の母である葛西殿が説法を聴きに行ったという記録があります。時宗の母は、長く良観の信奉者となり、その活動を支えていきます。時頼もこの期間に叡尊と幾度か面会しています。これにより、幕府中核と青邨・良観ら真言律宗との間に密接な関係が築かれたと思われます。この時の授戒では、浄土教と禅宗という二大勢力の僧たちも、叡尊から授戒されています。禅宗の拠点である建長寺の僧、浄土教の代表者と見なされていた新善光寺の道教も、授戒しているのです。叡尊の鎌倉訪問は、真言律宗が禅宗とともに鎌倉幕府の政治の補完的役割を果たしていく起点となったとの指摘もあります(川添昭二著『人物叢書 北条時宗』吉川弘文館)。また、鎌倉幕府の大公共事業を推進・管理する主体が、このころ念仏者から真言律宗へ移ったとし、浄土教と禅宗が律宗にすり寄っていったという指摘もあります(馬淵和雄著『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社)。真言律宗の授戒は、単に宗教上のものだけでなく、幕府の治安・財政などの体制作りにも深くかかわったものだったと推測できます。大聖人が伊豆に流刑に処されている間に、鎌倉では真言律宗を加えた新たな宗教体制が構築されていきました。真言律宗は幕府から特権を得て、さまざまな社会事業に関与し、その中心者である良観は生き仏のように崇められました。やがて、鎌倉に戻られた大聖人は、良観への批判を開始し、幕府の宗教政策と対決することになります。 【御生誕 満800年記念企画 日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2022年9月号
January 17, 2024
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日蓮生誕800年に思う: 21世紀に注目される仏教植木雅俊 平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、大地震や噴火などの災害が各地で多発。貴族社会から武家社会への転換期で戦乱が繰り返され、飢饉や疫病で苦しむ人々が後を絶たなかった。そのような社会的混乱や不安が広がる中で、仏様の教えにより人々を救おうとさまざまな宗派が生まれた。その一つが日蓮によって開かれた日蓮宗。日蓮自身は法華宗を名乗っていたが、宗派名に日本人の宗祖の名前が使われているのは、13ある宗派の中でも日蓮宗だけ。日蓮が生まれて800年目となる2022年、日蓮が日本仏教と社会に与えた影響を検証する。手紙ににじむ心の温かさ2022年は日蓮生誕800年に当たる。多くの記念行事が催され、筆者も僭越(せんえつ)ながら『日蓮の手紙』(角川ソフィア文庫)をまとめ、NHK-Eテレ「100分de名著 日蓮の手紙」で“人間日蓮”の実像を解説する機会を得た。現存する日蓮の手紙の真蹟(しんせき)と写本340通は、他宗派の開祖の追随を許さない。子を亡くした母親に寄り添った手紙や、職場や親子の人間関係に悩む人への現実的で具体的な励ましを読み、日蓮の心温かく人間性豊かな人格に触れ、「国家主義的」「攻撃的」――など巷(ちまた)で聞いていた日蓮像が一変した。北条一族の重臣で、職場の同僚からの嫉(ねた)みで命を狙われ続けた武士の四条(しじょう)金吾に対して、一貫して命を守るためのこと細かな忠告を与えているが、「殺(や)られる前に、殺ってしまえ」といった攻撃的態度は一切見られず、“専守防衛”に徹していたことがうかがえる。また今、喫緊の課題となっている地球温暖化への警鐘や、戦争への危惧にも目を見張った。それは『兵衛志(ひょうえさかん)殿御返事』の次の一節である。現代語訳して引用する。「世も末になると、人の貪(どん)欲さが過剰になり、主従、親子、兄弟の間で論争が絶えず、他人との争いは言うに及ばない。そのため、天も国を見捨て(飢饉による食糧の高騰、戦争、疫病などの)諸々の災難、あるいは一、二、三、四、五、六、七の日が出て、草木は枯れ、河川も枯渇(こかつ)し、大地は炭の熾火(おきび)のように燃え、大海は煮え立つ油のようになり、最終的には無間(むけん)地獄から炎が噴き出し、梵天(ぼんてん)の世界にまで火炎が充満する。これ程のことが出現して、世の中は衰退するのだ」タゴールの予見いずれも21世紀の今日に直面している現実的問題である。その21世紀に仏教が注目されるだろうと予見した人がいた。詩人、作家、思想家、音楽家など多才な顔を持つインドのR・タゴールである。彼が創設したタゴール大学学長のバッタチャリヤ博士が来日された折、「アジアは一つでなければならない」「それは、政治や武力によってではなく、文化によって一つでなければならない」「かつて、アジアは文化によって一つであった時代があった」「それは仏教によって実現されていた」「仏教は21世紀に注目されるであろう」――とタゴールが語っていたと聞いた。13世紀以降、インドの仏教徒は限りなくゼロに近い。それなのに、仏教のどんな点をタゴールは評価していたのか質問した。博士は、①本来の仏教は徹底して平等主義を貫いた②迷信・占い・ドグマ(教義)などを徹底して排除した③西洋的な倫理観を説かなかった――時間がなく、この3点を挙げられるのみだった。筆者は、この3点に「④“法”(dharma=普遍的真理、ダルマ)と“真の自己”に目覚めることを重視した」を追加し、その意味をこれまで考察してきた。その中でも、③に関連して仏教の倫理観について述べてみたい。タゴールの言う西洋的な倫理とは、人間や万物を創造した絶対者(神)に対する誓約として成立する倫理のことであろう。その場合、「神のために人を殺す」ことが「正義」になることが起こり得る。そこにおいては「神が目的」で、「人間が手段」となる。命も手段化されてしまう。またイデオロギーが神に取って代わることもあろう。それに対して、仏教では絶対者を認めない。中村元(はじめ)博士は、「西洋においては絶対者としての神は人間から断絶しているが、仏教においては絶対者(=仏)は人間の内に存し、いな、人間そのものなのである」(『原始仏教の社会思想』)とその違いを論じた。原始仏典には次の記述がある。「すべての生きものは暴力を恐れる。すべての生きものは死におびえる。わが身に引き比べて、殺してはならない。また他人をして殺させてはならない」(『ダンマパダ』)「『彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である』と思って、わが身に引き比べて、殺してはならない。また他人をして殺させてはならない」(『スッタニパータ』)ここに絶対者は出てこない。人間対人間という現実の関係において倫理が説かれている。人間が手段化されることはなく、人間が目的であった。仏教は人間、あるいは生命以外のものに至高の価値を置くことはなかった。『大智度論(だいちどろん)』には、「世間の中にて命を惜しむを第一となす」「一切の命あるものは、すなわち昆虫に至るも皆、身を惜しむ」とある。至高の価値を命に置く仏教経典の一つである『法華経』を最も重視した日蓮も次のように記している。「すべての戒めの最初に挙げられているのは不殺生戒(ふせっしょうかい)です。上は偉大なる聖人から下は蚊や虻(あぶ)に至るまで、命を財(たから)としないものはありません。これを奪うことは第一の重罪です。如来はこの世に出現して、生きとし生けるものの命を憐(あわ)れむことを本意としています」「命というものは、すべての財の中で第一の財です。〔中略〕(銀河系宇宙に相当する)三千大千世界に満ちている財をもってしても命に代えることはできません」「世の中で人の恐れるものは、火炎(ほのお)の中と、刀剣(つるぎ)の影と、この身の死することです。牛や馬でさえ身を惜しみます。人が身を惜しむのはなおさらのことです。難病の人だけでなく、壮健な人もなお命を惜しむものです」ここで言う「火炎の中」と「刀剣の影」は、ミサイルや大砲などのない時代の戦争のことであろう。至高の価値を人間や生命以外のところに置くと、人間や生命が手段化される。仏教は、人間や生命以外のものに至高の価値を置くべきではないと主張した。その尊さも、まず自己の尊さへの目覚めが第一歩となる。自己の尊さに目覚めるが故に、他者の尊さも知る(信ずる)ことができる。日蓮は、そのことを「一心を妙(みょう)と知りぬれば、また転じて余心(よしん)をも妙法と知るところを、妙経とはいうなり」と表現した。自己の心(命)を尊いもの(妙)と知ったならば、目を転じて他者の心(命)も尊い存在(妙法)と知ることができる。そのことを他者に伝えたくて言葉による表現に打って出る。そこに尊い言語表現(妙経)があるというのだ。筆者の最大関心事である〈自己〉〈他者〉〈言葉〉の三つの関係を簡潔ながら見事に表現している。日蓮は、「一人を手本として一切衆生(いっさいしゅじょう=すべての人間)が平等であることは、このようなことです」とも語っている。仏教の説く「平等」と「他者の命の尊さ」の裏付けには、一人ひとりの自己への目覚めがあったのだ。以前、無差別殺人事件の犯人が、「誰でもよかったから殺したかった」と語っていた。それを聞いて、親から愛情をかけられることなく育ち、自己が生きていることの尊さに気づく機会に恵まれず、自暴自棄になっていたからではないか――と思ったものだ。法華経の真髄法華経には、失われた自己の回復の物語が感動的に語られている。また、自己の尊さに目覚め、あらゆる人に「私はあなたを軽んじません」と語りかけ、他者を尊重し続ける常不軽(じょうふきょう)菩薩(ぼさつ)が登場する。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のデクノボーのモデルであり、日蓮が自らに引き当てて論じていた菩薩だ。この菩薩は、経典を読誦(どくじゅ=声を出してお経を読むこと)することも解説することもなく、あらゆる人を尊重することだけを貫いた。その行為を理解されず、ののしられ、危害を加えられるが、決して感情的にもならず、その振る舞いを貫いた。臨終間際に、誰も語っていない法華経の声が天から聞こえてきて、素直にそれを受け容れ、寿命を延ばし、そこから法華経を説き始めた。最終的には理解を勝ち取り、自他ともに覚りを達成する。この「誰も語っていない法華経の声が天から聞こえてきて、素直にそれを受け容れた」という記述に重大なメッセージが込められている。この菩薩は、経典を読誦することも解説することもなかった。仏道修行の最低限の形式を満たしていない。けれどもあらゆる人を尊重し続けた。そのこと自体が法華経の精神にかなっていた。文字として経典を読まなくても、その人間尊重の振る舞いが既に法華経であって、法華経を自得していたということであろう。これは、経典ばかり読んで難解な議論に明け暮れ、「人間を軽視する」権威主義的出家者たちに対する痛烈な皮肉でもあり、ここから、仏道修行の形式を満たしているかどうかは二の次で、人間や生命を尊重することが法華経であり、本来の仏教だということも読み取れる。そうすると、27年もの獄中生活に耐えて反アパルトヘイト運動に身を捧げたN・マンデラ氏も、公民権運動のリーダーの一人であったM・L・キング牧師も、法華経を実践していたと言える。仏教徒かどうかは二の次で、人間や生命を尊重することが法華経だというこの思想は、人間尊重、生命の尊厳を根本に据えることによる、一宗一派のセクショナリズムを超えるものだといえよう。法華経のタイトルは、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と漢訳されたが、サンスクリット語ではSaddharma-puṇḍarīka-sūtraで、「白蓮華(びゃくれんげ)のように最も勝れた正しい教え」を意味する。インドで重視される蓮華の中でも最も勝れた白蓮華に譬(たと)えたのは、この人間尊重の思想を説いているからだろう。その法華経を日蓮は重視し、法華経に還れと主張した。その法華経に基づいて、死の間際まで“立正安国”を訴え続けた。国主を諫(いさ)めたその意図は、「国主と成って民衆の歎(なげ)きを知らざるにより……」という一節に表れている。その上で、「なんじの一身の安堵(あんど)を思うならば、まず四方が静穏であることを願うべきです」「国に衰微がなく、国土に破壊がないならば、身は安全となり、心は禅定(ぜんじょう=安らぎの境地)を得ます」として、人々を戦争や飢えや疫病などの生命の危機にさらしてはならないと訴えた。仏教史上、大量虐殺したことを悔い、仏教徒となって生命を尊重する理想的帝王に転じた王がいた。紀元前3世紀のアショーカ王だ。治世9年目にカリンガ国に侵攻し、15万人の捕虜のうち10万人を殺害した。戦禍によってその数倍の人々が死亡した。それを悔いて仏教徒となり、治世10年頃に釈尊(しゃくそん)ゆかりの地を巡礼し、人民を慈しむ政治を行った。貧しい人のための「施しの家」、人間と動物のための病院を開き、各地で薬草を栽培し、街道には並木を植樹し、3里半ごとに井戸や、旅人の休憩所を設置した。その政治理念として、「ダルマ(法=正義)による政治」を掲げ、「国王といえども一切衆生の恩を受けている。政治はその報恩のために行われるべきである」「国民は皆、わが子である」という信念を貫いた。それは、法華経の「(一切衆生は)ことごとく是れ我が子なり」に通ずる。〈本来の仏教(原始仏教)〉〈法華経〉〈日蓮〉のすべてが訴えていた人間と生命を至高の価値とする思想が、今こそ注目されるべきであろう。 日蓮鎌倉時代の仏教僧。鎌倉仏教の一つである日蓮宗の宗祖。1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生。12歳の時に清澄山(きよすみやま)の清澄寺(せいちょうじ)に入り、住僧の道善房(どうぜんぼう)を師として修学に励む。16歳の時、出家し、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)を名乗る。各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺を中心に、園城寺・高野山などに遊学。52~53年頃、清澄寺に戻り、法華経の伝道を宣言する。53年、鎌倉に移り、伝道活動を開始。日蓮を名乗る。57年8月、鎌倉に大地震があり、大きな被害が発生。60年、浄土教を禁圧して法華経に帰依(きえ)しなければ、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、為政者の宗教責任を問う『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を著し、時の最高権力者、執権北条時頼に提出。その過激な思想を危険視した鎌倉幕府や浄土教信者の反発により弾圧や流罪(61年に伊豆、71年に佐渡島)を受ける。82年10月13日、入滅。写真:身延山久遠寺所蔵。 植木 雅俊UEKI Masatoshi仏教思想研究家。日本ペンクラブ会員。1951年、長崎県島原市生まれ。島原高校卒、九州大学理学部卒。理学修士(九州大学)、文学修士(東洋大学)、人文科学博士(お茶の水大学)。東方学院で中村元博士から印度学・仏教思想論などを学ぶ。著訳書に『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店、毎日出版文化賞)、『仏教、本当の教え』(中公新書)、『仏教学者 中村元』(角川選書)『法華経とは何か』(中公新書)など。小説に『サーカスの少女』(コボル刊)。2022.6.3 nippon.Com
October 17, 2023
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第4回立正安国論・上 創価学会教学部編安房国での立宗宣言からほどなく、下総国八幡荘(現在の千葉県市川市)の富木常忍が、日蓮大聖人に帰依したと考えられます。 下総国に門下が下総国(千葉県北部などの地域)は千葉頼胤という御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)が守護(国ごとに置かれ、軍事・行政を統括する職)を務めていました。富木常忍は、千葉頼胤に仕える有力な家臣で、訴訟の処理などの実務で活躍していました。そのため常任は頻繁に下総と鎌倉を行き来し、また鎌倉に詰めていた家臣とのやり取りから、幕府の内情などを知ることができ、大聖人にさまざまな情報を伝えたようです。下総は、と木常忍のほか大田乗明や曾谷教信など、大聖人を後援する有力な在家の門下が誕生し、やがて広布の拠点になっていきました。そして大聖人は、武家政治の中心地・鎌倉へ進出されます〈注1〉。 名越の地に草庵を大聖人は、名越(現在の神奈川県鎌倉市大町周辺)に草庵を構えられたと考えられています(新23・全16、参照)。名越は、鎌倉の東側の周縁にあたり、三浦半島を横断してたどり着く鎌倉の入り口の一つです。鎌倉への切通(山などを切り開いて通した道)の一つ、名越の切通があり、外敵を防ぐ重要な防衛地点でした。そこには、初代執権・北条時政の館があり、第2代・義時に次男・朝時が受け継ぎました。この朝時の一家が苗字として名越を名乗ります。その他にも、鎌倉幕府の問注所(訴訟審理等を担う機関)の初代執事である三善康信の有力者の屋敷が並んでいたようです。一方で、切通周辺の高地は、墓地になっていたと考えられます。墓地といっても当時は、遺体を埋葬せず、地面に置き、蓆などをかぶせておく風葬が一般的でした。名越の切通の周辺では、「やぐら」と呼ばれる崖に掘った穴が墓所として用いられていました。ほかの切通の周辺の様子から、名越にも災害などによって各地から流れ着いた人々が暮らしていたと推測されています。大聖人は、庶民の中で厳しい環境のもとで生きる人々の息づかいを感じながら、広宣流布の戦いを始められたのです。 鎌倉での弘教開始大聖人は、鎌倉で法華経に基づく自らの教えを広められ、帰依する人たちも少しずつ出てきました。そうした中で、いち早く四条金吾(頼基)が大聖人に帰依したと考えられています。四条金吾は、父親の代から、名越朝時の長男・江間光時とその子(「えま〈江間〉の四郎」〈新1599・全1175〉)の親子2代に仕えていました(新1597・全1161、参照)。同じ時期、武蔵国の千束郷池上(東京都大田区池上周辺)の池上兄弟も入信したと推測されています。この頃の御述作と考えられる「一生成仏抄」(新316・全383)では、全ての人に本来具わっている「妙法蓮華経」を自身の生命の中に見ることが、一生成仏の要諦であり、一途な信心の持続と唱題によって、仏の生命を現していくことができると仰せになっています。また、同じ頃に著されたとされる「主師親御書」(新319・全385)では、法華経が最も優れた経典であることを示し、娑婆世界の人々に対し主師親の三徳〈注2〉を具えていない阿弥陀仏を進行の根本とすることの誤りを記されています。この時期のほかの御書では、万人の尊厳と理想社会の実現を説く法華経を宣揚するとともに、その対極にある人間不信と現実逃避を説く念仏を法華経の精神に田期待する謗法として、厳しく糾弾していかれるのです。謗法こそが人々の不幸の根本原因であると示され、人々の心の変革、社会の変革へと向かわれたのです。 正嘉の大地震建長8年(1256年)8月、大雨と大風によって多くの人が命を失いました。この頃から日本は異常気象に襲われます。さらに、飢饉、流行病が続きました(1257~1261年頃)。これは、「正嘉の飢饉」と呼ばれています。正嘉元年(1257年)8月23日午後9時ごろ、鎌倉一帯を大地震が襲います。神社・寺院で無事なものはなく、山は崩れ落ち、家屋は倒れ、築地は全て壊れ、地が裂け、水や火炎が噴き出たという記録が残っています(『吾妻鑑』)。「正嘉の大地震」です。大聖人も、毎年、災害に襲われていたことを書き残されています(新46・全33、参照)。 惨状の真っただ中でこのような惨状の真っただ中に、大聖人はおられました。大聖人は記されています。「転変地夭・飢饉疫癘、あまねく天下に満ち、広く地上に逬(はびこ)る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半を超え、悲しまざるの族(やから)あえて一人も無し」(新24・全17)この悲惨な有様は、大聖人の眼前に広がる光景そのものだったのではないかと考えられます。民衆の苦しみを全身で感じ取られていたと拝されます。このような事態に対し、幕府は正嘉3年(1259年)、浮浪者となった人々が、生き残るために山野に入って長芋のつるや草を採ったり、川や海で魚や海藻を採取したりすることを地頭が禁じるのをやめて、困窮する人々を助けるよう命令を出しています(鎌倉遺文・文書番号8346、同8347)。また、仏教や陰陽道などに基づくさまざまな祈禱が行われ、各地の神社に対して祈願がなされました(新24・全17、参照)。そうした対策にもかかわらず、人々の苦しみは増すばかりでした(新47・全33、参照) 疑問の答えを経典に求める 災難の原因を思索「これはどのような罪によるのであり、また、どのような誤りによるのだろうか」(新25・全17、通解)大聖人は現状を深く憂慮し、消化の大地震を直接的なきっかけとして、疑問の答えを仏教の経典に求め、為政者への意見を述べる諫暁の書の作成に取りかかれるのです。その際、駿河国加島(賀嶋)荘の岩本郷(静岡県富士市岩本付近)にある実相寺に向かわれたとも伝えられています。実相寺は、後に日興上人が、院主(住職)たち灰汁僧の乱れた行いを51カ条にわたって告発しており(1268年)、日興上人にとって悪との闘争の舞台ともなった地でもあります。日蓮大聖人は、法華経、涅槃経などのほか、国土の安穏を説く護国経典などを読み、今、起こっている災害が、史上まれに見るほどの天変地異であることを確認されました(新228・全354、参照)。その考察を、正元元年(1259年)に「守護国家論」(新379・全36)、翌年2月には「災難興起由来」(新441※新規収録)、「災難退治抄」(新448・全78)として著されます。 北条時頼大聖人は、これまでの施策をもとに、災害を収束させる方途として、「立正安国論」を著し、ノン欧元年(1260年)7月16日、北条時頼に、宿屋入道〈注3〉を通して提出されます。第5代執権を務めた北条時頼は、30歳だった康元元年(1256年)、病気を契機として執権職を北条長時に譲って出家しました。自ら創建した最明寺にいたため「最明寺入道」「最明寺殿」と呼ばれます。時頼は、その後、ほどなく体調を回復し、出家後も北条得宗(北条氏の家督)として幕府の実権を握り、大きな影響力を持っていました。そのためもあって大聖人は、執権の長時ではなく、時頼に「立正安国論」を提出されたと推察されます。時頼は、宗教政策に力を入れ、園城寺の密教僧である隆弁を鎌倉に招いて鶴岡八幡宮の別当にしたほか、南宋から来日した禅僧である蘭渓道隆を開山として建長寺を建立し禅宗を優遇しています。「立正安国論」提出に先立ってと思われますが、大聖人は、「天魔の所為たるの由、故最明寺殿に見参の時、これを申す」(新2141※新規収録)と仰せになっており、時頼と対面し、禅宗について批判されたことがうかがえます。時頼は敵対する勢力を滅ぼし、得宗家の権力基盤を固める一方、御家人の負担を減らすなど融和策を取り、裁判の迅速化、物価統制や倹約の励行など、「徳政」を行っていると評価されていました。 「客来って共に嘆く。しばしば談話を致さん」 主人と客との対話「立正安国論」は、大聖人を想定した主人と、時頼を想定した客との対話形式で展開されています。世の惨状を嘆き、「いかなる誤りに由るや」という客に対し、主人は「独りこのことを愁いて胸臆に憤悱す。客来って共に嘆く。しばしば談話を致さん」(新25・全17)と応じます。主人は、「世の人が皆、正しい教えに背き、誤った教えを信じているために、国土を守るべき諸天善神が去ってしまい、魔や鬼〈注4〉が災難を引き起こしている」(同、趣意)と金教明経〈注5〉や仁王経〈注6〉などの経典に照らし合わせて答えます。そして、現在の災難がとまらない原因は正法に反する謗法の教えの流行であり、その元凶は、専修念仏を強調し、浄土三部経以外の経典を排除すべきであると説いた、法然の『選択本願念仏集(選択集)』であると厳しく批判し、念仏の禁止を促します。「しかず、彼の万祈を修せんよりは、この一凶を禁ぜんには」(新33・全24)と――。(続く) 〈注1〉 大聖人が鎌倉に進出された時期について、建長5年頃とする説のほか、同8年頃とする説などがある。〈注2〉 一切衆生が尊敬すべき主徳・師徳・親徳。➀主徳は人々を守る力・はたらき②師徳は人々を導き教化する力・はたらき。③親徳は人々を育て慈しむ力・はたらき。〈注3〉 北條時頼・時宗(第8代執権)の2台に仕えた武士。時頼の側近であり、彼の臨終間際に出入りを認められた数少ない一人とし伝えられる。〈注4〉 魔は、人の善事を妨げる悪神。鬼は、死者の魂、霊魂。人を害する悪い神。〈注5〉 四天王による国土の守護などを説く経典。大聖人が引用した箇所では、正法をないがしろにすれば、諸天善神が国を捨て去って種々の災難が起こると説く。〈注6〉 経典受持による国土の守護などを説く経典。大聖人が引用した箇所では、国土に災難が起こる原因と、その際に起こる七種類の災難(七難)を述べている。 [関連御書]「立正安国論」「安国論奥書」「安国論御勘由来」 [参考]『池田大作全集』第25・26巻(「立正安国論」講義)、同32巻(「御書の世界〔上〕第四章」、小説『人間革命』第2巻「地涌」小説『新・人間革命』第4巻「立正安国」 【御生誕満800年記念企画 日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2022-6
October 5, 2023
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第3回立宗宣言「今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ」御遊学の旅で、日蓮大聖人は、種々の経典や論書(経典の注釈書)を読み、諸宗の教義のかんようを学ばれました。その中で、最も優れた経典が法華経であり、その肝心である「南無妙法蓮華経」こそ、万人の苦悩を根本から景決する「法」であることを確信されました。 六難九易救いを求める人々が、正しい教えに背いているという重大な転倒を目の当たりにして、大聖人がその原因を、諸宗の高僧たちの誤った解釈にあると見抜かれました。しかし、その事実に気付かれたのは大聖人ただお一人です。それを口にすれば、当然、多くの人たちから反発を受けます。このことを、自身のうちにとどめておくのか、人々に言い伝えていくべきなのか――。大聖人は、立宗を前に一人、熟慮を重ねられます。その御心情を後年、「開目抄」に記されています。(新70・全200、参照)。御文に沿って確認します。「このことを一言でも口に出すなら、父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない」<注1>。しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。このように考えて、法華経や涅槃経の文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみると、言わなければ、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に転落してしまう。もし言うならば、三障四魔<注2>が必ず競い起こってくると分かった。この二つの中では『言う』ほうを選ぶべきである」このように一度は結論を出されますが、さらに深い次元で思索を続けられます。「国の権力者による迫害などが起こって来た時に退転してしまうようであるならば、初めから思いとどまるがよいだろう」と。しばらく思索をめぐらせた後、思い当たったのが法華経見宝塔品第11に説かれる六難九易でした。六難九易とは、仏(釈尊)がなくなった後に法華経を学び弘めることの難しさを、六つの難しいこと(六難)と九つの易しいこと(九易)との対比をもって示したものです。易しいこととして挙げられているのは、〝須弥山を手にして、他方の無数の仏の国土に投げ置く〟〝枯草を背負って大火に入っても焼けない〟といった、実現することが不可能なことです。そうしたことすら、なお〝易しいこと〟とする、それ以上の難事中の難事が、〝悪世で法華経を説く〟〝法華経を受持する〟などの六難であると教えています。その上で、釈尊は、いかなる苦難をも越えて、仏の滅後(釈尊の亡くなった後の悪世)に法華経を弘めるという誓いを述べるような菩薩たちに勧めているのです。万人の成仏を実現しようとする深い仏の大願を受け継ごうと、大聖人は御自身の逡巡を打ち破り、末法における全人類の幸福の実現のために決然と立ち上がられます。「このたびこそ、仏の覚りを得ようとの強盛な求道心を起こして、決して退転しない、との誓願を立てたのである」(同、通解)と。この時の誓願を、後に配流となった佐渡の地で、「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」(新114・全232)と述べられています。のちの話になりますが、迫害の嵐に襲われても一歩も退かない、むしろ、難に遭うことは経文通りで、伸の法華経の行者としての誉れであるとの御確信で、生涯にわたって誓願を貫き通されるのです。 池田先生の講義から(「九易」の例の中で)大聖人は、あえて「我等程の小力の者」「我等程の無通の者」「我等程の無智の者」との表現を取られ、凡夫であることを強調されています。ここには、肉体的な力がなかろうと、神通力がなかろうと、智慧がなかろうと、誰人であれ確固たる誓いをもって仏と共に歩めば、無限の力、無限の勇気、無限の智慧がわき、いかなる大難にも越えることができるという、無限の希望のメッセージが込められているのではないでしょうか。 (「池田大作全集」第34巻)◇日蓮仏法は、一宗一派の小さな次元を超えて、あらゆる人びと、あらゆる国々に開かれたものです。いわば「人類宗教」の開幕と拝すべきでしょう。その意義から考え通してみれば、日蓮仏法は、「人間宗」であり、「世界宗」であると言える。立宗宣言は、「人間生命に潜む根源の悪」「生命に内在する魔性」「一切の元品の無明」との大闘争宣言であったとも拝されているのではないだろうか。 (「池田大作全集」第32巻) 未来にわたり全人類を照らす太陽が昇った 「人間のための宗教」の開幕建長5年(1253年)4月28日の「午時(正午頃)」。故郷・安房国の清澄寺に戻られた大聖人が、同寺の僧侶らに教えを説くときが来ました。この時、大聖人は、「南無妙法蓮華経」が根本であることを明らかにされました(新1618・全1189、新1207・全894、参照)。それとともに、主に法然の専修念仏を批判し、法華経こそが真実の教えであり、題目を唱えることが称名念仏(「南無阿弥陀仏」ととなえること)などより優れた実践であることを初めて明らかにされます。法然は、末法(釈尊の教えが効力を失った時代)において成仏することは困難であるとして、来世で阿弥陀仏の浄土に生まれることを目指すべきであることを説き、そのためには称名念仏こそが真実の実践であり、その他の教えは必要ではないと説いていました。それは、法華経に説かれる万人成仏の教えを軽視することであり。今ここの現実に生きる人間が持つ可能性を否定することに通じるといえます。大聖人は、このような誤った教えをただし、「人間のための宗教」を弘めようと師子吼されたのです。南無妙法蓮華経こそ、末法の民衆を救済する正法であるとの宣言です。今日、これを「立宗宣言」と呼びます。「立宗」とは宗旨(肝要の教義)を明確に打ち立てることです。人間の可能性を阻む根源的な迷いの闇を照らす太陽が、遥かな未来におよぶ全人類の頭上に輝き始めた瞬間でした。大聖人が32歳の時です。真っ先に浄土宗を批判された大聖人は、続いて禅宗と真言宗(東密)、律宗<注3>、最後に密教化した天台宗(台密)を批判されていきます。この批判は、後に「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」と要約され、「四箇の格言」と呼ばれています<注4>。この「四箇の格言」の本質について、池田先生は、「当時の各宗の独善性と、その独善性を宗教的権威で隠す欺瞞性を見破り、厳格に指摘された大聖人の『智慧』の発現」であり、「その根底に、民衆を守る『慈悲』がみなぎっていた」と強調されています(『池田大作全集』第32巻)。 東条景信らから弾圧起こる 道善坊からの義絶立宗宣言以降、覚悟されていた通り、批判や迫害が起こりました。その様子を、大聖人は「はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていただけであったが、見る人、会う人、聞く人、皆が、目をふさぎ、眼を開いてにらみつけ、口をゆがめ、手を握りしめ、歯ぎしりをするなどして、父母、兄弟、師匠、善知識(=先輩・同輩の僧侶たち)までもが敵対した」(新1768・全1332、通解)と記されています。当時、東条郷の地頭を務めていた東条景信は、清澄寺一帯を支配しようとして、圧迫を加えていました(ノート参照)。さらに、清澄寺の円智房、実成房という僧も寺内で圧力を加えます(新253・全323、参照)。東条景信の怒りを恐れた道善坊は、あろうことか弟子である大聖人を義絶(師弟の縁を切ること)してしまいます(新253・全323、参照)。その中にあって、浄顕坊と義浄房(義城房)という二人の兄弟子が、危害を加えようと迫る景信の手から大聖人を守り、清澄寺を出た大聖人の後を追ってひそかに清澄寺を出ました。この勇敢な行動を、大聖人は後に、「天下第一の法華経の奉公なり」(新254・全324)とたたえられています。 「日蓮」と名乗られるこの頃から、大聖人は自らを「日蓮」と名乗られたと考えられています。後に、「法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮また日月と蓮華とのごとくなり」(新1510・全1109)と仰せです。池田先生は、「日蓮」との御名乗りについて、「日月のように衆生の闇を照らし、蓮華のように清らかに妙法の花を社会に咲かせていく使命を自ら悟られた」と語り、御名前に「万年のため」、「全人類のため」との大聖人の大慈大悲の誓願が込められていると拝されています(『池田大作全集』第32巻)。やがて大聖人は、武家政治の中心地・鎌倉へ進出されます。(続く) 【関連御書】「開目抄」「報恩抄」「清澄寺大衆中」 【参考】(「池田大作全集」第32巻(「御書の世界」〔上〕)」第三章)、「池田大作全集」第34巻(「開目抄」講義)第六章) <注1>「父母手をす(摺)りてな(成)しかども、師にて候いしかんどう(勘当)せしかども」(新1547・全1138)等を参照。<注2>正法を信じ行じる時に起こる、それを阻もうとする働き。<注3>奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に戒律復興運動に中で叡尊らによって新たに樹立された律宗。<注4>「大難の来れるは、『真言は国をほろ(亡)ぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊』とのた(宣)もうゆえなり」(新743・全585)等。 ノートnote東条景信東条景信(生没年不詳)は、源頼朝から長狭郡一帯の支配を認められた東条七郎秋則の子孫と考えられています。(『国士大辞典』吉川弘文館の「東条景信」を参照)。当時、幕府によって荘園(朝廷に認められた貴族や寺社の私有地)や公領(朝廷の公有地)に支配された地頭は、年貢の徴収や納入、警察権等を担いました。地頭はこの職権を背景として領主に年貢を納めなかったり支配権を拡大したりしたため、領主層との間で訴訟が起きました。景信も同様です。景信と領家(荘園領主)の尼との間に紛争が起こると、大聖人は、「重恩の人」(新1222・全907)であるという領家の尼の味方に付かれました。大聖人は「敗れれば法華経を捨てる」との覚悟で祈り、訴訟を勝利へと導かれます(新1208・全849、参照)この事件は建長5年頃のことと考えられていますが、定かではありません。景信の背後には、浄土信仰に傾倒していた、第5代執権・北条時頼の舅であり連署(執権の補佐)も務めた北条重時がいました。重時一派の意向を受けた景信は、その後も訴訟を続け、ついに文永元年(1264年)、帰郷された大聖人を襲撃するに至るのです。この時点で重時は亡くなっていましたが、訴訟は重時一派の裁定により、大聖人は故郷から追放されることになります(新2113・全1413、参照)そのご景信の動向は明らかではありませんが、文永8年に大聖人が佐渡へ配流されるまでには没したとも考えられます(新253・全323、参照)。 【御生誕満800年記念企画 日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2022年5月号
August 30, 2023
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千日尼千日尼は、夫・阿仏房と共に、佐渡に流罪中の日蓮大聖人に帰依しました。大聖人に真心を尽くしてお仕えした、佐渡の中心的な女性門下です。「阿仏房尼」と呼ばれていましたが、ある時期から「千日尼」と記されていることから、大聖人から法号を頂いたと考えられます。「千日』とは、一説には、大聖人が佐渡に滞在した日数に由来するともいわれます。2年5カ月に及ぶ佐渡流罪中、大聖人は衣食住も満足でなく、念仏者らに命を狙われる過酷な状況に置かれました。そうした大聖人の身を案じた千日尼は、食料を用意し、夫の阿仏房に櫃を背負わせ、地頭や念仏者らの監視の目をかいくぐって塚原の三昧堂にお届けするなどしました。大聖人を支えたことで、阿仏房夫妻は、住まいを追われ、罰金を科せられ、屋敷を取り上げられています。後に大聖人は、難に屈せず信心を貫く純真な千日尼のことを、「いつの世になっても、忘れることはありません」「まさに、亡くなった母が佐渡の国に生まれ変わってこられたのでしょうか」(新1741・全1313、通解)と最大限にたたえられています。大聖人が赦免になってからも、千日尼の求道の炎はいやまして燃え上がります。文永11年(1274年)から5年間に3度、遠く山海を隔てた身延の大聖人のもとへ、夫にお手紙と御供養を託して送り出しています。女人成仏や謗法の罪の軽重等、法理について大聖人に質問するなど、清らかな信仰を貫いた千日尼。夫妻の心を受け継いだ子息の藤九郎は、立派な法華経の行者へと成長していきました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来れり。仏になる道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御面(かお)を見てはなに(何)かせん、心こそ大切に候え。千日尼御前御返事(雷門鼓御書)新1746・全1316 心は不思議です。目には見えません。しかし、その心は、物理的な距離を越えて結ばれます。弘安元年(1278年)の初冬、身延の大聖人のもとに、千日尼からの真心の御供養が届きました。佐渡から遠く離れた身延の地へ、たびたび夫を送り出してきた千日尼。この時、すでに高齢だった彼女には、心のどこかに、〝もう二度と、大聖人にお会いできない〟という寂しさがあったかもしれません。その心を包む込むような温かい励ましの言葉です。〝あなたの心は、間違いなく私のところに来ていますよ〟〝お会いしたからといって何になるでしょう〟何度も夫を送り出すという行動となって表れた、師を求める千日尼の変わらぬ志を、最大にたたえられているのです。かつて池田先生は、「師弟不二」について語りました。「自分の中に、師をたもって自立するということです。私の中に戸田先生がいる。口で言うべきではなく、心の問題です。『不二』というのは、自分の中にあるからです」会えるか、会えないかといった、表面上の事実よりも、「心こそ大切に候え」です。心に師を抱き、心の師と共に進む人間に行き詰まりはありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― いよいよ信心をは(励)げみ給うべし。仏法の道理を人に語らん者をば、男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よしにく(憎)まばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまか(任)すべし。「如説修行」の人とは、これなり。阿仏房尼御前御返事 新1730・全1308 命懸けで信心を貫いてきた千日尼に、今一重覚悟を促し、力強く激励されています。大聖人が鎌倉に御帰還された後も、勇敢に広布の旗を掲げ阿仏房と千日尼の夫妻。念仏が盛んだったとされる当時の佐渡で、言われない中傷や批難に遭ったことは想像に難くありません。〝よし、憎みたい者は憎めばよい!〟――突き抜けるような御本仏の大確信の音声が胸に響いてくるようです。低次元な批判に振り回されて、くよくよする必要など全くないのだ、と。「一切の苦難は、自身の生命を金剛不壊に鍛え上げ、宿命の鉄鎖を断ち切って人生を自由に遊戯しゆく力を開発する原動力になる」この池田先生の指導の通り、どんな批判も圧迫も、人間革命のエネルギーへと変えていくために、「金言に身をまかす」如説修行が何より重要です。私たちの基準は、時や場所によってコロコロ変わる世間の評判でも、自らの弱い生命でもありません。御書、そして御書を身で読まれた三代会長のご指導こそ、不滅の羅針盤です。どこまでも心広々と、広布の大道を歩んでいこうではありませんか。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 【大慈悲の心音 門下への便り】聖教新聞2022.4.17
August 23, 2023
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第2回 求道12歳で清澄寺に入られた日蓮大聖人は、「日本第一の智者」にと祈り、「大智慧」「明星の如くなる大宝珠」を得て、求道の旅に出られます。 抱いた疑問清澄寺は天台宗の寺でした〈注1〉。あらに、当時、隆盛していた浄土教も受容され、大聖人が師事して道善坊など、南無阿弥陀仏と唱える僧も多くいたと考えられます。そのような環境で大聖人は、仏教を学ぶ中での疑問として、いずれの宗も「わが宗こそ正しい」と主張していることを挙げられています。どうすればいいかと迷って、「我、八宗、十宗に随わじ」(新214・全294)と誓願を立てたと仰せです〈注2〉。どこまでも教主釈尊の心に従うことを述べられた者でしょう。あくまで経典に説かれることに真摯に向き合い、後代の僧侶たちの私見に惑わされないという宣言です。当時は、それぞれの宗派が、中国・日本の宗祖の説を絶対視し、教学を展開していました。大聖人は、仏法の根源に立ち返り、何としても人々を苦悩から救いたいという大慈悲と求道心で学問に励まれたと思われます。それゆえに、当時の宗祖の本質について、思いをめぐらされたことと考えられます。また、源平の合戦での安徳天皇の入水(元暦2年=文治元年〈1185年〉)や、承久の乱での三上皇の配流(承久3年〈1221年〉)という、真言の祈禱を行っていた天皇、上皇方が敗れたことに対する疑問もありました(新674・全1518参照)。これらのことが、当時の仏教を見直すきっかけになったと思われます。 真実の教えを求めて 就学の旅人々を救済し得る、釈尊の真意というべき真実の教えは一体何か――。大聖人は、疑問の答えを求められますが、清澄寺では、「遠国なるうえ、寺とはな(名)づけて候えども、修学の人なし」(新310・全370)という状況でした。若き大聖人は、熱い求道心で寺内の学侶たちをしのぐ研鑽をされたものと拝察されます。そこで最新の仏教事情を知りたいと願い、鎌倉、京へと思いを馳せられたのでしょう。清澄寺を出て、「二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々」(新2106・全1407)を回り、諸宗の教義の肝要を学ばれたのです。始に鎌倉に向かわれたと考えられていますが、詳しい足跡は明らかではありません。出家(16さん)から1、2年後には浄土教の教えを一通り学ばれていたようです(新1830・全1498等参照)。21歳だった仁治3年(1242年)には清澄寺に滞在され、その後、比叡山延暦寺等に向けて旅立たれたと考えられています。延暦寺は、延暦4年(785年)、伝教大師最澄は比叡山で草庵を結んだことを起源とし、同7年に建立された小規模な寺院、一乗止観院が始まりです。ダウ25年に朝廷から一宗として認可されました。天台宗は、「天台法華宗」の名の通り、法華経を根本とする宗ですが、禅や戒、密教という、当時の仏教の主要なものを学ぶ(四宗兼学)、いわば総合大学でした。法然や親鸞、栄西、道元など、後の日本仏教に大きな影響を与えた僧も学んでいます。 謗法という大いなる穴御修学の旅を通して大聖人は、各宗派の教義の本質を把握されました(新1206・全893参照)。その過程で、あることを確認されます。それは、人々は、〝仏法の教えは一つであって、どの教えであっても、一生懸命に実践するならば生死(輪廻)の苦しみから離れて救われる〟と思っているけれども、仏法を間違って学べば「謗法(誹謗正法)という「大いなる穴」に落ち、大きな罪業を犯してしまう、ということでした(新2106・全1407参照)。大聖人は、天台大師智顗の教判(経文の教えの内容を判定し解釈すること)である「五時」に基づいて諸経を位置づけられます。「五時」では、天台大師の当時、中国に伝わっていた経典を全て釈尊が説いたものとみなし、その記述内容から、説かれた時期を定め位置づけられています。釈尊が法華経の説法を始める前に説いたとされる無量義経には、「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)とあります。つまり、無量義経の次に説かれた法華経こそが真実の教え(実教)であることを示しています。法華経にも、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説き給うべし」(同111㌻)とあります。大聖人は、これらの経文によって、法華経が釈尊の覚りの真実を説いた正しい教えであると確認されます。 最勝の経典法華経では、万人の成仏を教えることが、あらゆる仏たちの「一大事因縁」(この世に出現した最大の理由)であり(同121㌻)、それを解き明かした過去・現在・未来における諸経典の中で最高の経典であることが強調されています(同362㌻)。大聖人は、法華経の題目(題名)である「妙法蓮華経」の五字こそ、法華経の肝心であると同時に、あらゆる衆生の頂上に位置する正しい法であること(新254・全324参照)、法華経の行者として「南無妙法蓮華経」と唱題することに、あらゆる仏・菩薩、経典の功徳が具わるので、諸経、諸仏のはたらきは、妙法蓮華経のはたらきがなければ役に立たないことを訴えられているのです。法華経にこそ、万人の苦悩を根本から解決しゆく、宇宙と生命を貫く根本の法、すなわち「みょうほう」が説き示されていると見極められ、それを、末法において人々が実践すべき教えとして、南無妙法蓮華経と説きあらわされたのです。 池田先生の講義から(大聖人は御修学の結果)御自身に開かれた智慧は、釈尊の教えのなかでは、法華経の妙法にあたり、この妙法以外に、末法の人々を生死の苦から解放し、欲望と争いの末法の時代を変革していく法はないと結論されたと拝されます。 (『池田大作全集』第32巻) 凡夫成仏の要法を明らかに 南無妙法蓮華経大聖人は、法華経のどのような教理に、諸経に卓越する点を見いだされたのでしょうか。法華経には、二乗作仏、久遠実成という重要な法理が示されます。二乗作仏は方便品第2で説かれ、成仏できないとされてきた二乗(声聞と縁覚)が成仏できることが明かされ、これによって、十界のあらゆる衆生の成仏が保証されます。久遠実成は如来寿量品第16で説かれ、釈尊は今世で成仏したのではなく、久遠の昔に成道し、この娑婆世界で衆生を教化し続けてきたことが明かされます。しかしながら、法華経の経文では、久遠の昔に釈尊が実践し、成仏をもたらした方が何であるかは示されていません。そのため、私たち末法の凡夫が成仏するための根本の方がなであるかも明確ではありません。そのテーマを追求し、法華経の肝要である凡夫成仏の要法こそ「南無妙法蓮華経」の授受であると覚知されたのが、日蓮大聖人なのです(新54・全189・全247参照)。池田先生は凡夫成仏について、「『法華経の心』であり、また『宗教の根源』であるとも言えます」「永遠なもの、絶対的なものを人間の中に見て、人間生命を輝かせていくことを願う精神が宗教的精神です」と講義されています(『池田大作全集』第34巻)。「南無妙法蓮華経」とは、釈尊をはじめ、あらゆる仏が覚った、苦悩を根本から解決し幸福を開く、宇宙と生命の貫く根源の法そのものに名づけたものです。この南無妙法蓮華経を身に体現し、あらゆる苦難を打ち破り、何ものにも揺るがない絶対的幸福境涯を確立した人が仏です。末法に生きる私たちは、南無妙法蓮華経を信じ、実践する時、自身に具わる仏の生命を現すことができるのです。 仏の大願を受け継ぐ 悪僧が人々を惑わすところが、人々が法華経をないがしろにして方便の教えを尊重している実態を目の当たりにされた大聖人は、その謗法の充満が人々の不幸と社会の不安の原因だと見抜かれます。特に流行していたのが浄土教です。日本の浄土教の開祖・法然は、他の全ての修行を排し、もっぱら南無阿弥陀仏ととなえること(称名念仏)によって、死後、極楽浄土に生まれること(往生)を願うべきであると説きました。それは、自身の修行の功徳ではなく、阿弥陀仏によって救済されることを目指すものでした。大聖人は、この世界(娑婆世界)こそ、久遠実成の釈尊の浄土であり、この世界を捨てて仏国土を求めさせる日本の浄土宗の僧侶は、法華経の真意から外れていると考えられました。人々を成仏へ導くはずの僧侶が、反対に人々を成仏の直道である法華経から遠ざけている転倒を嘆き、憤られたのです。池田先生は、「御修学の結論として、広宣流布の大願を立てられたのです。それは、御幼少の時の誓願につながるとともに、法華経に説かれる仏の大願を受け継いでゆくという明確な御自覚を伴っていた」(『池田大作全集』第32巻)と語られています。心理を求め抜く、やむにやまれぬ思いが、そのまま、末法の世を救済せんとの大願に至ったと拝されます。修学の旅を終えられた大聖人は、故郷・安房国で広宣流布の御闘争を開始されます。(続く) 〈注1〉 承和3年(836年)に円仁(慈覚)が訪れ修行したことをきっかけとして天台宗となったと伝えられるが、円仁以降、天台宗は密教を重んじ、清澄寺も天台密教の房総地域の中心的寺院として発展した。また、山林修行の伝統が強かったようで、いくつもの道が設けられ、それぞれで種々の修行が実践されていたと考えられる。〈注2〉 南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)に天台・真言を加えたものを八宗といい、さらに禅・浄土を加えて十宗と呼ぶ。 関連御書「妙法比丘尼御返事」「本尊問答抄」「報恩抄」「清澄寺大衆中」「開目抄」「観心本尊抄」「神国王御書」 参考「池田大作全集」第32巻(「御書の世界〔上〕」第二章)、『池田大作全集』第34巻(「『開目抄』講義」第三章) ノートnote房総から海を渡って鎌倉時代、房総半島と鎌倉との交通は書として海路でした。それは、国名には京に近い方が「上」、遠い方が「下」と付くのですが、房総では南の方が「上総」、北が「下総」となっていることからもわかります。鎌倉と房総半島は、今の東京湾の入り口の狭くなった部分の回路の交通が主要だったようです。房総半島では、国府(千葉県市原市内)から木更津などの湾岸の港を結ぶ道路が主になっていたと考えられており、物流は、大量輸送が可能な海上交通に依っていたと想像されます。弘安6年(1283年)成立の仏教説話集『沙石集』には、鎌倉から上総国(千葉県中央部)に向かおうとする若い僧が、三浦半島の東岸にある六浦の港(横浜市金沢区内。現在はむつうらと読む)から対岸への船を待つ様子が描かれています。これらのことから、当時、房総から六浦まで椀を通って鎌倉と往来していたことがうかがえます。大聖人も、安房や下総と鎌倉との往来には、海路を通られていたと考えられます。(石井進・宇野俊一編『千葉県の歴史』山川出版社、綿貫友子著『中世東国の太平洋海運』東京大学出版会等を参照しました) 【御生誕漫800年記念企画「日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯」】大白蓮華2022年4月号
July 29, 2023
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第34回妙荘厳王本事品第二十七他人をうらやむのではなく「自分はこれで行くんだ」と決めて生きるのが法華経■大要仏教以外の教えを信じる妙荘厳王を仏法に導いた、浄徳夫人と浄蔵・浄眼の二人の子の姿を通して、法華経を弘める功徳が述べられています。有名な妙荘厳王の物語です。それでは内容を追ってみましょう。◇その時、釈尊は人々に告げます。「喜見という時代の光明荘厳という世界に、雲雷音宿王華智仏という仏がいた」――その時代のことです。妙荘厳王には、浄徳という夫人と、浄蔵と浄眼という、二人の子どもがいました。その子どもたちは、菩薩道を修行して、大神通力、福徳、智慧を具え、菩薩の境涯を得ていました。その時、雲雷音宿王華智仏は、妙荘厳王や人々を仏法に導きたいを願います。そこで、浄蔵と浄眼の二人の子は、母の浄徳夫人に相談します。「どうか母上も、仏のもとに行きましょう。私たちも、法華経の説法を聴きたいのです」母は答えます。「仏法以外の教えを信じている父上のもとへ行って、『一緒に、仏の説法を聴きに行きましょう』と言いなさい」二人は嘆きます。「私たちは、法王の子ども「仏弟子であるのに、こんな邪見の家に生まれてしまった!」母が励まします。「あなたたちは、父上のことを思いやってあげなさい。そして、父上のために神変(神通変化)を現じてみせてあげなさい。父上がそれを見たら、きっと心が晴れ晴れとして、素晴らしいと思われるでしょう。そうすれば、皆で仏様のもとへ行くことを許してくれるでしょう」早速二人は、父のもとへ行きます。空中に高く昇ったまま、自由自在に歩き回ったり、寝て見せたり、体から水を出し、火を出し、大空に満ちるような巨大な姿になったり、小さくなって見せたりします。さらに、空中で消えたかと思うと、たちまち地上に現れ、水に飛び込むみたいに地面に飛び込み、あるいは水の上を大地を歩くように歩いて見せたりしました。 神変を目の当たりにした父は、大歓喜し、合掌して、子どもたちに言います。「いったいお前たちは、だれを師匠にして、こんな力を得たのか。いったい、だれの弟子になったのか」二人が答えます。「今、広く法華経を説いておられる雲雷音宿王智仏こそ、私たちの師匠です。私たちは、その弟子です」父は言います。「お前たちの師匠に、ぜひ、お会いしたい。一緒に行こう!」二人の子どもは、空中から降りて、母のもとへ行き、合掌して伝えます。「父上は、仏法を信じ、覚りを求める心を起こしました。どうか仏のもとへ行き、修行することを許してください」母は言います。「仏のもとで、修行することを許します。それは、仏に会うことが難しいからです」「どうか一緒に、雲雷音宿王華智仏のもとへ行きましょう。仏に会うことができるのはまれなことであるのに、今、私たちは宿福深厚なので、仏法に巡り合うことができたのですから」父である妙荘厳王は群臣を、ははの浄徳夫人と子どもである二人の王子も、それぞれの眷属を引き連れて、共に仏のもとへ行きます。その時、雲雷音宿王華智仏は、妙荘厳王のために法を説きます。王は、素晴らしい仏の説法に大歓悦して、夫人と共に大変に価値のある首飾りを、真心の供養として捧げます。すると、仏は大光明を放ちます。それを見た王は、〝仏の身は稀有である〟と思います。その時、雷音宿王華智仏は、人々に告げます。「この王は未来に成仏して、娑羅樹王仏となるだろう」 すぐに王は弟に国を譲り、一族とともに仏道に専念します。王は、その後、八万四千年にわたって法華経を修行します。三昧(心を統一した境涯)を得た妙荘厳王は空に昇り、仏に言います。「この二人の子は、私の善智識です。私を救いたいと思って、私の家に(子どもとして)生まれてきたのです。その時、雲雷音宿王華智仏は、妙荘厳王に言います。「その通りである。善智識は、大因縁である。仏法に導いて、最高の覚りを得る心を起こさせてくれるのだ」妙荘厳王は、空中から降りて、仏の無量百千万の功徳を讃嘆して、合掌して語ります。「仏の法は、不可思議で妙なる功徳を具足し、成就しています。その教えと戒を行ずれば、安穏にして、快くなれます。私は、今日より二度と、自分の心の言いなりにはなりません。二度と邪見、驕慢、怒り、諸悪の心を起こしません」――ここまでが妙荘厳王にまつわる説話です。釈尊は、人々に告げます。「この話の真意は、なんであろうか。妙荘厳王は、どうして他の人のことであろうか。今の華徳菩薩である。浄徳夫人は光照荘厳相菩薩、二人の子どもは薬王菩薩、薬上菩薩である」釈尊が妙荘厳王本事品を説く時、八万四千の人々は、穢れを離れて、心理を見る清らかな力を得ます。 「法華経の智慧」から人のせいにするぐちの心がある分だけ、宿命転換は贈れる。「自分の宿命だ。自分の人生だ。まず自分が人間革命していこう」と決めて、苦しくとも、悲しくとも、御本尊祈り切っていけば、必ず道は開ける。◇明るく、伸び伸びと、自分らしく活躍していけばいいのです。それが自体顕照です。自分の生命そのものを光らせていくのです。(中略)他人をうらやんで生きるのは爾前の生き方です。「自分はこれで行くんだ」と決めて生きるのが法華経です。虚像ではなく、実像の自分で勝負していくのが信心です。それが「妙荘厳王」の意義なのです。◇今、世界広宣流布の真っただ中に生を受けたのがわれわれです。どれほど宿縁が深いか。どれほどの使命があるか。仏法に偶然はないのです。まさに「我れ等は宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり」です。この厳粛な事実を自覚すれば、欣喜雀躍です。歓喜がほとばしり出る。(普及版〈下〉 「妙荘厳王本事品」) 宿福深厚〝仏に巡り合うことは、3000年に1千度開花する優曇華を見ることや、1000年に1度会場に浮かび上がる一眼の亀が浮き木にあうことくらい難しい。しかし、宿福深厚(仏との宿縁が深く厚い)なので、正法と巡り合うことができた〟――ろ、「妙荘厳王本事品」には記されています。3000年、1000年という時間は、人間の寿命から比べれば、はるかに長い時間です。この一勝で仏法に巡り合うことは、それほど難しく、希だということです。今、仏法に巡り合い、妙法を受持できたことは、まさに宿縁の深さであり、使命の大きさゆえといえます。それを思う時、自身の福徳のありがたさに感謝と喜びがあふれてきます。本年は、日蓮大聖人の御生誕から800年――最高無二の哲学を持ち、稀有の師匠と同じ時代に生きられる不思議さに思いをはせ、歓喜の前進を開始しましょう。 【ロータスラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2022.3.13
July 3, 2023
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第33回観世音菩薩普門品第二十五・陀羅尼品第二十六 どんな苦境にあろうとも、広布に本気で立ち上がった人を諸天が守らないわけがない ■観世音菩薩普門品観世音菩薩が、三十三種に身を変えながら説法し、娑婆世界で一切衆生を救済することが説かれます。それでは大要を追ってみましょう。◇その時、無尽意菩薩が立ち上がって、釈尊に合掌します。「観世音菩薩は、どうして観世音という名前なのでしょうか」釈尊は、無尽意菩薩に告げます。「もし、計り知れない百千万憶の、あらゆる苦悩を受ける衆生が、この観世音菩薩の名を聞いて、一身に名を唱えれば、観世音菩薩は即時にその音声を感じて、皆を苦悩から解放するであろう」続いて、観世音菩薩の威神力によって、七難から逃れられることが説かれます。「大火に入っても焼かれることはない」「大水に流されても助かる」「刀や杖に斬りつけられそうになっても、その刀や杖が折れて傷つけられない」「悪鬼が害を加えようとしても加えられない」「罪があるにせよ、ないにせよ、足かせで縛られたり、鎖でつながりたりしても解放される」……。さらに、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒からも解放されると語ります。観世音菩薩の名前を一度でも供養するなら、ろく受二億恒河沙の菩薩に供養し尽くすのと同じ、百千万憶劫にわたって消えることのない福徳が得られると述べます。無尽意菩薩は、釈尊に言います。「観世音菩薩は、なぜこの娑婆世界で自在に、衆生の為に法を説くのですか。方便の力はいかほどでしょうか」釈尊は、無尽意菩薩に告げます。「仏身をもって救済される者には、観世音菩薩は仏身を現して、その者のために法を説くのである」さらに、観世音菩薩が、辟支仏から始まり、帝釈天、天の大将軍、長者、子ども等々、三十三種に身を変じ、さまざまな世界で自由自在に衆生を救済していくことを語ります。その後、無尽意菩薩が、自身が着けていた宝の首飾りを、観世音菩薩に供養しようとします。しかし、観世音菩薩は受け取りません。そこで、釈尊が受けるように勧めると、観世音菩薩は首飾りを受け取り、それを二つに分け、一つを釈尊に、もう一つは多宝仏に捧げます。その時、持地菩薩が立ち上がって、釈尊に言います。「衆生がこの観世音菩薩品を聞くならば、その人の功徳は少なくありません」この普門品を説く時、説法の場にいた八万四千の衆生は、皆、仏と等しい阿耨多羅三藐三菩提(仏の完全な覚り)の心を起こします。 ■陀羅尼品諸天善神が、法華経弘通の人を守護することが説かれます。それでは大要を追ってみましょう。◇その時、薬王菩薩が立ち上がって、釈尊に言います。「法華経を受持し、読誦し、学び、書写すれば、どれくらいの功徳を得られるのでしょうか」釈尊は、薬王菩薩に告げます。「もし八百億那由他恒河沙の諸仏を供養したとしたら、その功徳はどうだろうか」薬王菩薩は、「とてつもなく大きい功徳です」と答えます。釈尊は言います。「法華経の一つの偈(詩句形式の文)でも受持し、読誦し、信解し、修行したら、その功徳は、とてつもなく大きい」薬王菩薩は、釈尊に言います。「私は今、説法者(法華経を弘める人)に陀羅尼(魂を込めた言葉のようなもの)を与えて、守護します」そして、陀羅尼を唱え、「もし、法華経を弘める人を迫害し、謗る人は、諸仏を迫害し、誹る人です」と語ります。釈尊が、薬王菩薩をたたえます。「すばらしい、すばらしい。薬王よ、この弘教者をあわれみ、守護するために陀羅尼を説いた。多くの衆生が大きな利益を得るであろう」その床井、勇施菩薩が、釈尊に言います。「法華経を受持する人を護るために、陀羅尼を説きます。この陀羅尼によって悪い夜叉や羅刹などが、受持者の弱いところを探して攻撃しようとしても、できないようにします」毘沙門天、持国天も、陀羅尼を唱えて、行者の守護を誓います。さらに、十羅刹女と鬼子母神をはじめ、多くの鬼神も誓いを立てます。「私たちもまた、法華経の行者を護って、その患いを取り除きたいのです。もしも、行者の弱いところを探し、攻撃しようとするやつらがいても、そうはさせません!」「(悪い奴らが)私の頭に乗って、踏みにじろうとも、それはまだいい。しかし、行者を悩ませることは許さない。夢の中でさえ、行者を悩ませはしない!」「もしも、妙法の説法者を悩ませ、乱すならば、その者の頭は阿梨樹の枝のごとく、七つに分かれるでしょう。父母の殺す罪の如き題材を得ることになるでしょう!」「私たちもまた、説法者を護って、安穏にし、もろもろの患いを打ち払い、もろもろも毒薬を消させてみせます!」釈尊は、鬼女たちの誓いを喜んで、こたえます。「すばらしい、すばらしい。法華経の名前を受持するもとを護っただけでも、その福は計り知れない。いわんや、それ以上の修行をし、供養しているものを護る功徳となれば、なおさらです。まさに、あなたたちは、このような行者を護りなさい!」仏がこの品を説く時、説法の場の六万八銭の衆生が覚りを得ます。 「法華経の智慧」から信心の大確信の炎を観音菩薩とは、寿量品で示された久遠の本仏の生命の一部です。宇宙と一体の本仏の「限りない慈愛」を象徴的に表したのが観音です。だから久遠の本仏を離れては、観音菩薩の生命はない。◇観世音菩薩の「世」の一字には、深い意味がある。現実の「世」から離れないのです。「世」とは社会です。「社会の幸福」への挑戦なのです。「四」と対比すれば、「御」とは、ここの生命の叫びであり、「個人の幸福」への希求です。〝社会の繁栄〟と〝個人の幸福〟を一致させていこうというのが観世音であり、法華経なのです。◇一人立って、「私が必ず、広宣流布をいたします」と誓願の題目を唱えていくのです。御本尊に「阿修羅のごとく戦わせてください」と祈るのです。それで、力が出ないわけがない。勝利できないわけがない。たとえ今、どんな苦境にあろうとも、「広宣流布のために」本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない。その信心の大確信の「炎」を教えているのが陀羅尼品なのです。 (普及版〈下〉「観世音菩薩普門品」「陀羅尼品」) 福智の二法「観世音菩薩普門品」には、観世音菩薩について、「弘誓の深きこと海のごとし」(法華経634㌻)と教えられています。衆生を救済するための、あらゆる神通力と勇気の源泉は、深き誓いにあるのです。さらに、誓いを果たした観世音菩薩は、「福聚の海は無量なり」(同638㌻)と、無量の福徳が集まった大海のごとき大境涯を得たと記されています。この経門について「御義口伝」には、「依正・福智共に『無量』なり。いわゆる、南無妙法蓮華経は福智の二法なり」(新1104・全792)と仰せです。妙法の力によって周囲の環境も、自分自身も、くめども尽きぬ福徳と智慧があふれていくのです。日蓮大聖人の仏法は、誓願の仏法です。広宣流布を使命と定めた「西岸の祈り」と「慈悲と勇気の行動」のあるところ、地域も栄え、自身も福徳にあふれ栄光の人生を歩んでいくことができるのです。 【ロータスLotusLoungeラウンジ 法華経への旅】聖教新聞2022.2.13
May 31, 2023
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第1回 誓 願日蓮大聖人の60余年にわたる御生涯は、全ての人々の不幸を根絶し、仏の境涯を開かせたいとの慈悲の誓願に貫かれています。それは、民衆の幸福を阻む悪を責め抜き、大難に次ぐ大難を勝ち越えられた不惜身命の大闘争の一生涯でした。新連載「日蓮大聖人――西岸と大慈悲の御生涯」は、「日蓮大聖人御書全集 新版」に基づいて、時代状況や御文から推測されることも踏まえ、伝承に対して再検討を加えながら内容を構成します。さらに池田先生の講義を学び、私たちが末法の御本仏と仰ぐ日蓮大聖人の御事跡をたどります。池田先生はかつて、戸田先生の指導を教えてくださいました。「太平洋のような大境涯の信心で、御書を拝していかなければ、大聖人の御心に近づくことはできないよ。ただ才智で御書をわかろうとすると、大きな過ちを犯してしまうものだ」大聖人の御生涯をたどる中で、明らかになっていない点もありますが、一つ一つの事実を積み重ねながら、どこまでも求道の姿勢で、大成人の御心に、少しでも近づいてまいります。「一人の人間」が、偉大なる仏の境涯を開いていけることを証明されたのが、日蓮大聖人の御生涯です。その偉大な生命が万人に具わっていると信じ、それを現代に示したのが、創価学会の第三代の会長であり、創価学会員による人間革命運動にほかなりません。激動の鎌倉時代にあって、人々が持つ無限の可能性を開こうとされた大聖人の慈悲の大闘争は、800年の時を経て、感染症や自然災害、官許追う問題等の困難に直面する現代を生きる私たちに、大いなる希望と勇気と智慧を送っています。 「一人の人間」として仏の境涯を開けることを証明 庶民の生まれを誇りに今から800年前の貞応元年(=承久4年【1222年】月16日、日蓮大聖人は、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市内)で誕生されました(注1)。大聖人は御自身について、「安房国の海辺の旃陀羅が子なり」(新1196・全891)、「海人が子なり」(新310・全370)と記されています。「旃陀羅」とは、サンスクリットの「チャンダーラ」の音写であり、古代インドで四つの身分の再下層よりもさらにしたとされた階層で、狩猟や漁猟、屠畜(家畜を食肉用に解体すること)などの仕事と関係があるとされていました。このことなどから、片海の海辺の漁村であり、大聖人の漁業に関わるお家にお生まれになったと考えられます。また、「辺土に生をう(受)く。その上下賤、その上貧道の身なり」(新69・全200)、「貧窮・下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり」(新1287・ア全958)「遠国の者、民が子」(新1768・全1332)等とつづられています。法然や親鸞、道元といった鎌倉時代に誕生した所収の開祖たちが、貴族や地方豪族など、社会的身分の高い家柄の出身であったのとは対照的に、大聖人は庶民の子としてお生まれになり、むしろ、御自身はそのことを誇りとされていたのです。ご両親については、はっきりとしたことは明らかになっていません。御書を拝すると、「領家」とつながりがあったことが分かります。領家とは、荘園領主のことで、荘園制において土地の所有者から寄進を受けた中央の権力のある貴族です。大聖人は、「領家の尼」と呼ぶ人物について、「日蓮が父母等に恩をかほ(被)らせたる人」(新1208・全895)と仰せになっています。また、御兄弟の存在がうかがえる御文もあります(新70・全200等参照)。 本格的な武家政権御生誕の前年の承久3年には、後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の命を発し、これに対抗した幕府側が勝利した「承久の乱」が起こっています。これにより、それまでの朝廷と幕府の力関係和大きく変化し、本格的な武家政権が確立されていきました。当に、時代の転換期に大聖人は誕生されたのです(ノート参照)。仏教という側面から見ると、後鳥羽から朝廷は、真言密教で最高とされる、「十五段の大法」をはじめ、当時のさまざまな調伏(敵や魔を退散させる祈り)の祈禱を行っていました。これに対し幕府側の祈禱は、わずかなものでした。祈禱には武力と同じように現実的な力があると考えられていたので、万全の祈禱を行った朝廷が敗北するとは、とうてい考えられなかったことだったのでしょう。このことについて、大聖人は幼少の頃から疑問を抱き、答えを経典に求めるようになります。 災害が打ち続き、人心が乱れる中で研鑽 末法の到来を実感大集経という経典には、「闘諍言訟して白法隠没せん」と説かれ、釈尊滅後二千年を過ぎると、仏法の中での争いが激しくなり、正しい法が見失われる時代になることが示されています。仏教を学ぶ人々は、この経典に説かれる様相を目の当たりにし、末法の到来を実感していったのです。末法とは、仏の滅後を三つの時代に分けたうちの一つで、仏の教えの効力が消滅する時代のことです。当時、末法には釈尊の教えのみがあり実践とその結果としての覚りがないとされていました(注2)。日本で「末法に入る」と考えられていた年は、平安時代の永承7年(1052年)でした。平安時代末期から、大聖人が聖誕される鎌倉時代初期にかけて、天候の異変による災害が続きました。例を挙げると、治承4年(1180年)の干ばつによって、西日本が深刻な飢饉に見舞われています。大聖人がお生まれになって間もない安貞2年(1228年)には、東日本が台風に襲われ、政治の中心地であった鎌倉でも大きな被害が出ました。世の中の秩序も乱れました。大飢饉の渦中にあった寛永3年(1231年)には、京都で強盗が多発したという記録が残っています。 「まず臨終のことを」本格化する武家政治、打ち続く災害、乱れ行く人々の心――。そのような時代の中で、大聖人は成長されました。12歳になると、安房国の清澄寺において研鑽・修行をはじめられます(新310・全370)。この頃、清澄寺の虚空蔵菩薩(注3)に「日本第一の智者となしたまえ」(新1206・全893等)との願いを建てられました。そして、16歳の時、出家されたと考えられています。出家の際の師匠は道善坊という僧でした。大聖人は、「まず臨終のことを習って後に他事を習うべし」(新2101・全1401)と考えられました。乱れた世相を見つめ、生死の問題を解決することが出家の動機であったと拝されます。以後、何としても生涯のうちに成仏のための修行を成し遂げ、生死の苦しみから脱するため、仏法を学び極めようとされます(新2106・全1407参照)。それは、大聖人一人だけのためではありません。出家と俗世を離れて仏道修行することですが、大聖人は、「父母の家を出でて出家の身となるのは、必ず父母をすく(救)わんがためなり」(新58・全192)と仰せになっています。これは一般論として記されたものですが、大聖人御自身のこととも拝せます。さらに、「父母・師匠・国の大恩に報いるには、仏法を完全に習得し、智慧ある人となって初めて可能となるのではないか」(新212・全293、趣意)とも仰せです。身近な人々の恩に向きるため、生死の苦しみを超えるため、「日本第一の智者となしたまえ」との願いを立てられたのです。なお、大聖人が〝父母のため〟後に仰せになっているのは、最も身近な存在を、現実に生きる民衆一人一人の代表として挙げられたからではないかと拝察されます(新102・全223参照)。民衆救済といっても、具体的な一人を幸せにできるかどうか、です。「父母をすく(救)わんがため」との仰せは、混乱し、人々の苦悩が深まる時代の中で、生き抜く希望と勇気をもたらす宗教を強く求められたからこそのものではないでしょうか。 「日本第一の智者となし給え」 「大智慧」を得る祈りの中で、大聖人はある時、智慧を得られます。そのことを後に、虚空蔵菩薩から「大智慧」「明星のごとくなる大宝珠」の右の袖に受け取り、この智慧によって、さまざまな宗派、経典の優劣が分かるようになったと記されています(新1206・全893、「池田先生の講義から」参照)。大いなる知恵を得た大聖人は、鎌倉や、仏教就学の中心であった比叡山延暦寺をはじめ京都などへの求道の旅に向かわれたのです。それは、仏法を究め、民衆を救う誓願の人生の旅立ちでもありました。(続く) (注1) 御聖誕の日付についての記述は御書にないが、大聖人が亡くなられて数十年後に現されたとされる「三師御伝土代」に「2月16日」とあり、広く支持されている。また、御聖誕の正確な地点は明らかになっていない。大地震や大津波によって海底に沈んでしまったと考えられている。(注2) 三つの時代(三時)とは、正法・像法・末法のこと。一般的に日本では、中国の僧・基(慈恩大師)が『大乗法苑義林章』で述べた説に基づき、正法とは、釈尊の教えとその実践である行とその結果である証の三つがそなわる時代。像法とは、「教と行があって証のない時代とされる。(注3) 虚空のように広大無辺で揺るぎない智慧と福徳を具え、是を衆生に与え、願いを満たして救うという菩薩。清澄寺は宝亀2年(771年)、無名の法師が虚空蔵菩薩像を刻んで小堂を営んだのが始め利とされる。 関連御書「佐渡御勘気抄」、「本尊問答抄」、「開目抄」、「佐渡御書」、「中興入道消息」、「清澄寺大衆中」、「神国王御書」、「妙法尼御前御返事」、「妙法比丘尼御返事」、「報恩抄」 参考「池田大作全集」第32巻(「御書の世界[上]――人間主義の宗教を語る」第一章、第二章) 池田先生の講義から諸宗、諸経の肝要を知る智慧とは、仏法の根幹にかかわる智慧です。要するに、妙法の智慧を開かれたのです。民衆を根本から救いたいとの大誓願を持ち、必死に求道され、開覚されたのです。わが身の法性を、豁然と開覚されたと拝することができます。凡夫の身に仏性を開かれたのです。どうすれば民衆を救えるかという深く真剣な祈りゆえに、智慧の宝珠を得られたと拝される。大事なことは、大聖人が、それを到達点とされるのではなく、この悟りを出発点として、さらなる求道の道に入っていかれたことです。大聖人の誓願は、恩ある人々を救うために日本第一の智者になりたいということです。その誓願を、御遊学を通して、末法全体を救済したいという誓願に深められていった。そして、広宣流布の大願として確立され、立宗宣言に至る。自分だけ悟りの安住するのは、ある意味では簡単です。大聖人の場合は、つねに民衆を救い、末法の時代を現実に転換するための智慧を求めておられる。自分に覚りがあったからと言って、それで終わりではない。つねに「誓願」があって「悟り」がある。立宗後も、大難を超えられながら誓願を貫くことによって、悟りを深められ、ついには発迹顕本されて、末法の御本仏の御境地を顕されていくのです。(「池田大作全集」第32巻(「御書の世界[上]――人間主義の宗教を語る」第二章) ノート歴史の転換点「承久の乱」日蓮大聖人が度々、言及される承久の乱について確認します。承久の乱が起こる前、後鳥羽上皇と第3代将軍・源実朝との関係は良好でした。その上、上皇の皇子を後継将軍に迎えることで権威を高めたい鎌倉幕府と、わが子を将軍に据えて、東国にも影響力を持ち、日本全体を支配したい上皇とが、それぞれの利益のために手を結ぶはずでした。ところが、建保7年(=承久元年〈1219年〉1月、実朝が暗殺されるという衝撃的な事件によって事態は急変します。信頼関係にあった実朝の暗殺を防げなかった幕府に対して、上皇は不信感を募らせていったようです。さらに、実朝の家司(家の庶務を司る職)で、同年、大内守護(皇居=内裏〈当時は大内裏といった〉を守護する職)になった源頼茂が、7月に謀反の疑いで追討された揚げ句、内裏の中心に当たる仁寿殿に火を放って自害します。これによって代理は焼亡してしまいます。この大事件に心を痛めた条項に追い打ちをかけたのが、内裏の再建に幕府が協力しようとしなかったことでした。そのような幕府を支配下に置くべく、上皇は行動を起こします。承久3年5月、執権・北条義時追討の命令を下したのです。これを知った幕府側は、北条政子を中心に結束し、即座に反撃に出ると、激戦を制して京都に入り、幕府側が勝利したのでした。しかも乱の首謀者である後鳥羽上皇が隠岐国(島根県隠岐諸島)に流されたのをはじめ、3人の条項が配流されるという前代未聞の結末となりました。上皇方の所領は没収され、その地に新たな地頭(幕府から任命され、警察権や徴税権などを持つ職)が設置されます。没収地は西国が多く、東国の武士の温床として与えられると、多数の武士が移住しました。京都には、幕府の出張所である六波羅探題が設置され、東国中心であった幕府の勢力が、西国にも及ぶようになりました。幕府をコントロールし、日本全土を支配しようとした上皇。上皇の権威を借りようとした幕府。お互いに力を合わせようとした勢力が、力関係を逆転させ、貴族による支配から武士による支配へと、誰も予想しなかった歴史の大転換が起きたのが承久の乱でした。この翌年、日蓮大聖人が誕生されたのです。(坂井孝一著『承久の乱――真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書等を参照しました) 【〚御聖誕 万800年記念企画〛日蓮大聖人――誓願と慈悲の御生涯 創価学会教学部編】大白蓮華2022年2月号
May 16, 2023
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第32回妙音菩薩品第二十四 妙音とは、真心の声、確信の言葉、正義の叫び■大要妙音菩薩が、娑婆世界にやって来て、帰っていった物語です。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1その時、釈尊は、三県から光を放って、当方の百八万憶那由他恒河沙の諸仏の世界を照らします。それを過ぎた所に、「浄光荘厳」という世界があり、そこに「浄華宿王智」という名前の仏がいます。その仏は、無量無辺の菩薩たちに尊敬されており、その人たちのために法を説きます。釈尊が、その国を光で広く照らします。 ●シーン2その時、この浄光荘厳という国に「妙音」と名づけられた一人の菩薩がいます。妙音菩薩は、さまざまな徳を積み、無量の諸仏に親しみ、近づき、供養して、甚だ深い智慧を成就し、さまざまな大三昧(心を統一した大境涯)をえます。釈尊の放つ光が、妙音菩薩を照らします。すると妙音菩薩は、浄華宿王智仏に申し出ます。「娑婆世界に行って、釈尊を礼拝し、親しみ、近づき、供養し、さまざまな菩薩にお会いしたい」その時、浄華宿王智仏が、妙音菩薩に告げます。「娑婆世界を軽んじて、下劣であるとの思いを生じてはならない。釈尊の娑婆世界には、高低があり、泥や石や山が多く、穢らわしき悪に満ちている。仏の身も、菩薩たちの身も小さく、それに比べ、あなたは、はるかに大きく端正で、福徳にあふれている。だからといって、娑婆世界に行き、その世界を軽んじて、仏や菩薩や国土に下劣であるとの思いを生じてはならない」妙音菩薩は、浄華宿王智仏に言います。「私が今、娑婆世界に行くのは、全て如来の力によってです」妙音菩薩は、立ち上がることも、身動きもせずに、霊鷲山の説法の場から遠くない所に、宝でできた八万四千の蓮華を出現させます。 ●シーン3その時、文殊師利菩薩が、蓮華を見て、釈尊に言います。「どのような理由で、このような瑞相を現しているのでしょうか」その時、釈尊は、文殊師利菩薩に告げます。「妙音菩薩が、浄華宿王智仏に世界から、八万四千の菩薩に囲まれて、この娑婆世界に来て、私を供養し、親しみ、近づき、礼拝したいと望み、さらに法華経を供養し、聞きたいと欲しているのだ」文殊師利菩薩は、釈尊に言います。「妙音菩薩は、どのような修行をして、大神通力を得たのでしょうか。そして、妙音菩薩に会わせてください」その時、釈尊は文殊師利菩薩に、多宝仏が皆のために願いをかなえてくれると言います。その時、多宝仏は、妙音菩薩に告げます。「来たれ! 文殊師利菩薩が会いたいと願っている」妙音菩薩は、八万四千の菩薩と共に「七宝の台(うてな)」に乗り、通り路を振動させ、宝でできた蓮華を降らし、種々の天の音楽を鳴らしながら、娑婆世界の霊鷲山にやって来ます。妙音菩薩は、七宝の台を降りて、浄華宿王智仏の言葉を釈尊と多宝仏に伝えます。その時、華徳菩薩が、釈尊に語ります。「妙音菩薩は、いったい、どんな善根を植えて、このような神通力を得たのですか」そこで、釈尊が華徳菩薩に、妙音の過去世を明かしていきます。――昔、雲雷音王仏の時に、仏に十万種の舞踊と音楽、そして八万四千もの七宝の鉢を供養した。その功徳で、妙音菩薩として生まれ、さまざまな神通力や福徳を具えることができた、と。さらに華徳菩薩に呼びかけます。「あなたは、妙音菩薩の身が、ここにあると見るが、妙音菩薩は、種々の身を現じて、多くの衆生のために、この経典を説くのだ」続いて、梵王、帝釈、自在天……と、妙音菩薩が現す三十四の形(三十四身)が示されます。その中で、「妙音菩薩は、能く娑婆世界の諸の衆生を救護する者なり。是の妙音菩薩は、是くの如く種種に変化し身を現じて、此の娑婆国土に在って、諸の衆生の為に、是の経典を説く」(法華経616㌻)と、娑婆世界の衆生の救済に働くことが記されます。その時、華徳菩薩が仏に言います。「妙音菩薩は、どのような境涯を得て、衆生を救済するのでしょうか」仏は、華徳菩薩に告げます。「(妙音菩薩の)その境涯を『現一切色身』(十界の一切衆生の姿を自在に現せる)と名付ける。その境涯によって、至る所に姿を変じて現れ、衆生を救済する」妙因菩薩と共に来た八万四千の菩薩、そして娑婆世界の無量の菩薩は、皆、「現一切色身三昧」を得ます。 ●シーン4その時、妙音菩薩は、釈尊や多宝仏に、あいさつし、本土(浄華宿王智仏の世界)に帰ります。帰りもまた、通り路を振動させ、宝の蓮華を降らし、百千万憶の種々の音楽を奏でていきます。本土に帰った妙音菩薩は、浄華宿王智仏に、娑婆世界での出来事を語ります。この品が説かれる時、四万二千の天子は無生法忍(消滅を超えた不変の真理を覚った境涯)、華徳菩薩は法華三昧(法華経による心を統一した境涯)を得ます。――このように、娑婆世界に行き、自由自在の姿で民衆救済に立ち上がった妙音菩薩の物語が説かれるのが、妙音菩薩品です。 体宇宙そのものが「生命の交響曲」法華経の智慧から宇宙全体が「妙音」を奏でているのです。大宇宙そのものが「生命の交響曲」であり、森羅万象が歌う「合唱曲」であり、セレナーデ(小夜曲)であり、ノクターン(夜想曲)であり、バラード(物語風の歌謡)であり、オペラであり、組曲であり、ありとあらゆる「妙音」を奏で、「名曲」を奏でている。その根源が「妙法」です。「南無妙法蓮華経」です。だから本当は、勤行も、朝は胸中に太陽が昇る「目覚めの歌」であり、夜は胸中を月光で照らす「夜想曲」であり「月光の極」なのです。◇文低から見るならば、妙音菩薩も、苦しみと戦い、戦い、また戦って、題目を唱え、人間革命をしたのです。(中略)私たちも同じだ。つらいことがあっても、負けないで、題目を唱えながら前へ前へ進むのです。◇友を励ます「真心の声」。それが「妙音」です。人の心を揺さぶる「確信の言葉」。それが「妙音」です。悪を破折する「正義の叫び」。それが「妙音」なのです。 (普及版)〈下〉「妙音菩薩品」) あえて大変な所へ「妙音菩薩品」では、仏が、苦悩渦巻く娑婆世界に行きたいと願った妙音菩薩に、そこで暮らす人々や国土を下に見てはならないと戒めます。その後、妙音菩薩は、自在に姿を現じて、民衆を救済していきます。「御義口伝」には、「所用に随って諸事を弁ずるは、慈悲なり。これを『菩薩』と云うなり」(新1077・全774)と仰せです。妙音菩薩が、自在に姿を変えたのも、衆生を救いたいとの慈悲の力によってです。いま、自分が置かれている環境が、どんなに大変であったとしても、そこが自ら望んだ使命の舞台です。池田先生は、「いちばん大変なところで法を説き、法を弘めている方々を絶対に軽んじてはならない! 最高に尊敬していきなさい!」と語っています。あえて大変な所へ――悩める人の最大の味方となる時、生命の本源の力を、自由自在に発揮できるのです。 【ロータスラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2022.1.16
May 9, 2023
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第47回=完妙法尼、妙一尼妙法尼日蓮大聖人の認められたいくつかの御抄に、「妙法尼御前」「妙法尼」という宛名があります。これはすべて同一人物なのではなく、大聖人は「妙法を持つ尼」という意味で「妙法尼」という表現を用いられていたと考えられます。妙法尼に当たる人物としては、➀弘安元年(1278年)に夫を亡くした妙法尼、②兄と思われる尾張次郎兵衛を弘安元年6月になくした妙法尼、③駿河国の門下・松野殿にゆかりがあると考えられる妙法尼、このほか駿河国・岡宮(静岡県沼津市岡宮)に住んでいたとされる妙法尼〈注1〉などが考えられますが、このうち誰と誰が同一人物なのか、また別人なのかは定かではありません。ここでは、「妙法尼」宛の御抄、一遍一遍に即して、考えられる人物像、また、大聖人との、〝師弟の絆〟を紹介します。夫妻で信心に励む「妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)(弘安元年7月14日の御執筆)を頂いたのが、➀の妙法尼です。大聖人は、このお手紙の中で、妙法尼の夫の臨終の相が良かったこと、日々、妙法を唱えてきた夫が臨終の間際に題目を唱えて亡くなったことから、夫の成仏は疑いないと述べられ、妻である妙法尼の成仏も疑いないと激励されています。このことから、夫妻して信心に励んできた人物であると想像できます。このお手紙に「見参の時」(新2013・全1405)とあることから、この妙法尼は身延から、そう遠くない地に住んでいたと思われます。兄を亡くした女性「妙法比丘尼御返事」(弘安元年9月の御執筆)を頂いたのが、②の妙法尼です。同抄から、この妙法尼の兄と思われる尾張次郎兵衛は大聖人とお会いしたものの念仏を唱えてきたことを、そして妻は大聖人に帰依していたことがうかがえます。尾張次郎兵衛の妻は、夫が亡くなった後すぐ、妙法尼を介して大聖人に太布帷〈注2〉を御供養しました。本抄には、この供養への心からの感謝が綴られています。この中で大聖人は、付法蔵〈注3〉の第三の商那和修という人物が遠い過去世において聖者に衣を供養した功徳で、生々世々、衣に困らなかった因縁を語られ、法華経の行者を供養する功徳がいかに大きいかを述べられています。さらに大聖人は、尾張次郎兵衛の妻に「藤の花が咲き誇って街に絡まっているのに、松が思いがけず倒れたようなものです」(新2120・全1418、趣旨)と、いたわりの言葉を掛けて、夫を亡くして心を痛める彼女に寄り添われています。尾張次郎兵衛は法華経に帰依することなく、弘安元年6月に亡くなるまで念仏の信仰を続けたものの、大聖人は本抄で妻と妙法尼を大きく包み困れています。松野殿の縁者「妙法尼御返事」(弘安元年の5月の御執筆)を頂いたのが、③の妙法尼です。この妙法尼は季節の筍を御供養しています。このことから、この妙法尼は身延から近い地に住んでいたことがうかがえます。本抄を、頂いた妙法尼は、松野殿ゆかりの女性門下ですが、この松野殿についても、具体的にどういう人物かは分かりません。なお、「松野」の名字を持つ門下としては、駿河国・松野(静岡県富士市北松野・南松野あたり)の松野六郎左衛門入道がいます。大聖人は本抄で、供養の志を示した妙法尼の成仏は疑いないと強調されています。題目の意義をお尋ねする「妙法尼御前御返事(一句肝心の事)」(弘安元年7月3日の御執筆)を頂いた妙法尼は、この時、大聖人がいらした身延から、そう遠くない地に在住した門下であると考えられます。それは、同抄の末尾に「くわしいことは、お目にかかって申し上げるからと、お伝えしてください」(新2100・全1403、趣旨)との仰せがあるからです。妙法尼にゆかりのある弟子から妙法尼に本抄の内容を伝えるよう、大聖人が指示されたとも拝せます。このお手紙には、妙法尼が「南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのでしょうか」(新2098・全1402、趣旨)と質問したことが記されており、大聖人は「法華経について疑問を立てて、その意味を尋ねられたことは、尊い大善根〈注4〉です」(同、趣旨)と称賛されています。その上で、南無妙法蓮華経の題目こそ法華経の肝心であり、題目に仏の功徳を修行が全て含まれていることを教えられ、さらに竜女〈注5〉の即身成仏こそ法華経の偉大な功力の証しであると示されています。広布に励む、妙法尼の一人へ不軽菩薩と称え、成仏をお約束夫に先立たれた女性「妙法比丘御前御返事」(弘安4年の御執筆)を頂いた妙法尼は、夫に先立たれ、親類からも離れ、一人か二人いる娘も頼りにならない(嫁いで便りがない、ともとれます)なかで信心をしていました。彼女は大聖人が明衣〈注6〉を御供養しています。周囲の無理解の中、けなげに妙法流布に励む、この妙法尼のことを、大聖人は不軽菩薩のようであると称賛されています(新2121・全1419)。不軽菩薩は、避難・中傷があっても、相手の成仏を願い、「二十四文字の法華経」〈注7〉をひたすら説き続けました。不軽菩薩は、法華経に説かれる、釈尊自身の過去世における菩薩道の実践の姿です。「さながら不軽菩薩のごとし」(同)との仰せは、〝不軽菩薩のように妙法を弘めるあなたには必ず成仏しますよ〟と師の真心の励ましです。さらに大聖人は妙法尼に対し、釈尊の叔母である魔訶波闍波提比丘が一切衆生喜見仏との記別〈注8〉を受けたことを述べられ、「この一切衆生喜見仏とは、あなたのことですよ」(新2123・全1420、趣旨)と、不退の信心を示す妙法尼を包み込まれています。「一切衆生喜見仏」とは、「一切衆生が喜んで見る仏」との意味です。こうした慈愛こもる励ましに、妙法尼は心打たれ、歓喜したことでしょう。妙法尼は、大聖人の励ましを人生の確かな指針として、妙法流布に生き抜く決意を新たにしたに違いありません。〈注1〉「法華初心成仏抄」(新685・全544)を頂いたのは、駿河国・岡宮の妙法尼とされてきたが、最近の研究ではどうしょうのあて先は不明と考えられている。〈注2〉太布はコウゾなどの樹皮の繊維を紡いで織った布。帷は、裏をつけない衣服。〈注3〉釈尊から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱し、布教していった正当な継承者とされる人々のこと。〈注4〉善根とは、禅の果報を招き生ずる因となる善行を指す。〈注5〉竜女は法華経の説法の場で、その身かたちのままに成仏する姿を示したと、法華経提婆達多品第12に説かれる。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされ、同時に即身成仏を表現している。〈注6〉白い単衣の着物。〈注7〉「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻)の経文を指す。これは、あらゆる人が成仏できることを示している。鳩摩羅什の監訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という。〈注8〉仏が弟子の未来を保証し、仏としての名、また、その国土や劫(時代)の名称などを明らかにすること。[関連御書]「妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)」(新2101・全1404)、「妙法比丘尼御返事」(新2104・全1406)、「妙法尼御前御返事」(新1999・全1390〈松野殿御返事〉)、「妙法尼御前御返事(一句肝心の事)」(新2098・全1402)、「妙法比丘尼御前御返事」(新2121・全1419)妙一女日蓮大聖人が認められた「妙一女御返事」は、2編現存し〈注9〉、「妙一女」という女性の門下がいたことは確かです。ただ、どのような人物なのかは分かりません。妙一女と妙一尼〈注10〉を同一人物とする説もありますが、一般に別人とされています。2編とも、妙一女が即身成仏の法門に関心を持ち、大聖人にお尋ねしたことへの返答の書です。即身成仏とは、衆生が、その身のままで仏の境涯を顕すことができることを示す法理です。妙一女が、この2編のお手紙を頂いた洪庵3年(1280年)のころは、蒙古の2度目の襲来がいつ起こるか分からないという不安と、度重なる天災や疫病で、政治的にも社会的にも非常に緊迫していた時です。常に死と隣り合わせにいるという状況の中で、人々が成仏の法理に関心を持つのは当然ことだったかもしれません。仏法の法理に深い理解2編のうちの最初のお手紙が、弘安3年7月14日の御執筆の「妙一女の御返事(即身成仏法門)」です。このお手紙の前半部分は漢字体で書かれています(真筆は現存しません)。形式も、他の女性門下宛のお手紙には見られない問答形式であり、内容も法門に関することに終始しています。具体的には、即身成仏に関する弘法・慈覚・智証〈注11〉らの義を破折する内容です。このことから、妙一女は法門の理解が大変に深く、他宗の教義の知識も持ち合わせていたと考えられます。この御抄では、即身成仏の法門を立てる周波には法華と真言の二つの宗があるものの、真言宗で説く即身成仏は、経文の裏付けがなく有命無実であることが述べられています。求道の姿勢1通目を頂いてから2カ月あまり後、妙一女は、再度、即身成仏の法門について大聖人にうかがっています。大聖人は、その返信である「妙一女御返事(理事成仏抄)」を弘安3年10月5日に認められました。大聖人は、1通目の内容を心にとどめるよう述べられ、真言の教えには即身成仏の実義はなく、法華経の即身成仏の教えを用いていくよう念押しされています。そして、法華経のみに説かれる真実の即身成仏の証拠が、龍女の成仏〈注5を参照〉であることが示されています。さらに、このお手紙では、深い法門についても踏み込んで教えられ、凡夫の肉身そのままが、ありのままの仏であること、さらに末法においては日蓮大聖人こそ即身成仏を可能にする真実の法を弘めていくことを明らかにされています。大聖人は、難解な即身成仏に関する質問を大変に喜ばれ、「女性の身として、たびたびこのように即身成仏の法門について尋ねられたことは、ひとえにただごとではありません。教主釈尊があなたの身に入れ替わられたのでしょうか」(新2124・全1262、趣旨)と、妙一女の求道の姿勢を心から称賛されています。さらに大聖人は「あなたは、たちまち寂光の覚月を眺められていることでしょう」(同、趣旨=注12)と、成仏の核心を与えて妙一女の幸せを願われています。「竜女が跡を継ぎ給うか」(同)、すなわち、〝竜女の跡を継いで女人成仏を証明する人〟との真心の励ましに、妙一女は、大聖人の御指南を心に刻んで信心を貫いていこうと決意したことでしょう。〈注9〉「妙一女御返事(理事成仏抄)の冒頭に「去ぬる七月中旬の此、真言・法華の即身成仏の法門、大体註し進らせ候いし」(しん2131・全1260)との仰せがある。ここから、この御抄と、これ以外に与えられた「妙一女御返事(即身成仏法門)が、同じ妙一女という人物に与えられたことが分かる。〈注10〉大聖人御在世当時の鎌倉の女性門下。〈注11〉弘法は、日本真言宗の開祖である弘法大師・空海のこと。慈覚は平安初期の天台宗の宗・円仁であり、第3代天台座主。天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとし、法華経と密教は理において同じだが、印や真言の事相においては密教が勝るという説に立った。智証は平安初期の天台宗の宗・円珍であり、第5代先代坐す。慈覚が進めた密教化をさらに推し進め、密教が理法・事相とのに法華経に勝るとの立場に立った。〈注12〉寂光とは常寂光土の略。法華経に示された、久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土のこと。尾の仰せは、常寂光の仏土の月を眺めるような成仏の境涯を胸中に築けることを教えている。【関連御書】妙一女宛て:「妙一女御返事(即身成仏法門)(新2124・全1255)、「妙一女御返事(理事成仏抄)」(新2131・全1260) 【日蓮門下の人間群像―師弟の絆、広布の旅路―】大白蓮華2022年1月号
April 28, 2023
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民衆が主体を発揮する中に立正安国の思想の本質がある東北大学大学院 佐藤 弘夫教授 未聞の困難——日蓮大聖人御生誕800年という時節を、どう見つめておられますか。 私は、日蓮が生きた13世紀と現代の様相が、とても似ている印象を受けます。13世紀は寒冷化が進むなど機構的な変化があった時期ともいわれ、自然災害が頻発し、飢饉や疫病が相次いで発生しました。日蓮が「立正安国論」を顕す前の正嘉元年(1257年)には、鎌倉地方を巨大な地震が襲っています。一方、現代に生きる私たちは10年前に東日本大震災を経験し、気候変動やコロナ禍という未曽有の魂年に直面しています。どちらも、時代状況が大きく様変わりする中で迎える、一つの節目に当たっているのではないでしょうかと思っています。もう一点、指摘できるのは、800年前も現代も、思想が壁に突き当たっている現代であるということです。日蓮が生まれる前の時代は伝統仏教が国家に定着していたわけですが、それはあくまで国家の権力者のためのもので、一般民衆の生活は視野の外に置かれていました。一方で、12世紀末に豊年が始めた専修念仏は、誰にでも実践可能で平等な救済にあずかれるという思想であり、庶民の圧倒的支持を得て爆発的な流行を見せていたのです。ところが、法然ら浄土教系祖師たちは理想を来世に求めたため、人々は日常の生活改善には関心をもちにくくなっていました。そこへ飢餓や災害が次々と襲い、地獄の如き様相を呈していくのが800年前の状況です。そういったときに日蓮は生まれたのです。一方で、現代の思想的混乱は何かというと、私は、近代化に伴う人間中心主義に起因するものだと考えています。人間の理性が進化するほどに社会も成長し、理想的な世界が実現する思考は、徐々に社会から人間以外のものを追放してきました。気候変動や感染症の拡大といった人類的課題は、近代化や人間中心主義の広がりの弊害ともいえます。しかし、だとすれば、私たちは代わりにどのような道を歩めばいいのか。それを見いだせてはいません。人々が未聞の困難に向き合わざるをえず、思想が行き詰まりを見せ、自分以外のものに目を向けることができない。800年前と現代には、そのような共通性を見ることができるのではないでしょうか。 現実に向き合う——日蓮大聖人が御生誕になった時代、仏教はどのように受容されていたのでしょうか。 仏教は古代から日本に存在してきましたが、当時は、神や仏の存在を目の前にある仏像などとしてしか認知できないような時代でした。目に見えない浄土や成仏といった概念が人々に実感されるようになったのは、11、12世紀辺りからです。それ以前に、最澄や空海といわれるような天才的な思想家が表れてはいましたが、鎌倉時代以前の仏教は、あくまで「学問」でした。僧侶は、いわば国家公務員のようなものであり、国のために学び、国のために祈るのが仕事だったのです。平安時代後期にはいると、庶民の間に入って仏教を実践するような人が現れはじめますが、その背景となるような思想を深めるに入っていません。相次ぐ飢饉や疫病など、人間の力の及ばない事象に直面する中で、従来の形式的で論理だけの伝統の仏教をどうやって現実に適合させていけばいいのか。こうした問題意識が初めて起こったのが鎌倉時代というように考えることもできます。仏教を理屈や学問ではなく、実際に人々を救う力として昇華させていこうとしたのが、法然や親鸞、道元、日蓮ら、鎌倉仏教の祖師たちです。彼らは、それぞれの問題意識と解釈、そして実践で、現実に立ち向かっていきました。私は、この鎌倉仏教が日本を代表する思想の一つであり、世界遺産ともいうべき重みがあると考えています。 革新的な転換――鎌倉時代の祖師たちと比較する中で際立つ、日蓮大聖人の思想について教えてください。 例えば、地域の人口が激減するような消化の飢饉にあって、日蓮は東国で、親鸞は京都で、同じように凄惨な光景を目の当たりにしています。この災厄に触れて、親鸞は〝非常に大変で、かわいそうなことではあるけれども、仏がすでに説いたことであるから、今さら驚いてはいけない〟と記しています。彼にとって、究極の救いは来世にありました。次々に人が亡くなっていくが、人間の力ではどうしょうもない。今は地獄の苦しみかも知れないが、浄土では永久に救われるのだ——と。親鸞自身の解釈で現実を受け止め、ではどうすれば限りある命の中でこの苦難を超えていけるのかと思索を深め、独自の信仰をつくっていったのです。一方、日蓮は親鸞のように考えることはできませんでした。目の前で苦しみに喘ぐ人々に、この世での幸福を断念すればよいとはいえない。今、この人に何かできることはないだろうか——その止むに止まれぬ思いが立正安国論の著実へと結実し、新しい信仰として実を結んできました。そこに日蓮の独自性があると考えられます。その問題意識にあったのは、一貫した民衆へのまなざしです。 ——日蓮大聖人の「立正安国論」の御真筆に書かれた「国」の字は、くにがまえに「玉」ではなく、「民」が多く使われています。民衆の側に立って災害を捉えられた「立正安国」との言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか。 日蓮にとって「安国」とは、天皇や特定の権力者の安泰を意味するものではなく、あくまで民衆と国土の安穏を意味していました。今、眼前で絶望し、嘆き耐え忍ぶ人——そこから現実的な発想を展開しているのです。従来の伝統仏教では「時の権力者・支配体制の安泰」を「安国の目的」としていましたが、日蓮にとってそれは「安国の手段」にすぎませんでした。ここに日蓮の革命的な転換があるように思います。こうした論理は必然的に国家と正面から向き合うものとなりました。鎌倉仏教の中でも際立って特色のある考え方であり、日蓮は国家権力を相対化するような視点を確立した近代以前の唯一の思想家ともいえるのです。しかし、日蓮の案国の理念は、幕末維新期の動乱を経て、日本が天皇制国家として踏みだす中で、体制護持の思想として田中智学らによって再解釈され、戦前・戦中は日蓮主義として宣揚されていきます。戦後、それまでの天皇や国家に対する賛美と聖化は影を潜め、日蓮への評価は一転しました。いわば、日蓮仏法は戦争翼賛のための国家主義礼賛の教理に歪められ、誤解を払拭されないまま戦後に否定されたのです。一方で、国家に論及しない親鸞や道元の再評価が始まり、特に親鸞を基準に鎌倉仏教の祖師を評価する立場は、学界に大きな影響を及ぼしました。仏教界では、立正安国論の思想が完成する以前の未熟な著作とみなし、宗学から排除する方針も高まりました。日本の思想書の中で、立正安国論ほど評価が激しく分裂し、解釈が劇的に変遷した書は珍しいといえます。日蓮が39歳の時に記した初期の頃の著述ではありますが、日蓮はその後も改定を加え、生涯にわたって立正安国の論理を追求していきました。 あらゆる差異を超える視点が地球的諸問題の解決に不可欠 二つの論理——日蓮大聖人の弘法の御生涯は、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれます。 立正安国論の思想構造を厳密に見ると、そこには、二つの論理があるといえます。天変地夭による飢饉と悪疫の流行に対し、その対策を記した立正安国論は、幕府の時の最高権力者である前執権・北条時頼に提出された意見書です。「主人」と「客」との対話形式が取られ、日蓮の主張を代弁する主人は、頻発する災害の原因を、飽くほうが流布したために国土を守護するはずの善神が日本を捨て去り、代わりに悪鬼邪神が跋扈しているためであると主張します。日蓮が何より心を痛めていたのは、人々が災害や飢饉に苦しむことでした。見渡せば死体があふれ、生きるか死ぬかの状況です。そのようなときに「正しい教えを信じれば成仏できますよ」と言っても、庶民に言葉が届くはずがありません。まず眼の前にある危機をどのように乗り越えていくのか——それが、立正安国論の第一の論理です。立正安国論の執筆当時に日蓮が展望していたのは、伝統仏教の復興による国土安穏の実現でした。日蓮というと、ともすればきわめて独善的なイメージに思われがちです。しかし、立正安国論での念仏批判の論理を見ても、日蓮が避難したのはあくまでも念仏の排他性のゆえでした。法然が浄土教の教え以外を「捨閉閣抛(捨てよ、閉じよ、閣け、抛て)せよと主張していたことを問題視し、日蓮は排他的な念仏思想を責めたのです。日蓮は決して独善的でなく、寛容な立場であったと私は考えています。もう一つ、立正安国論には、第二の論理があります。一般的には念仏批判の書として捉えている立正安国論ですが、それでは思想的混乱が収まり、社会が平穏になったらそれでいいのか、という問題があるように思います。一番大事な仏教の悟りについて、言及がなされていないからです。ここで注目すべきは、立正安国論の第9段にある主人の「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり」という言葉です。日蓮の考えは、まず法然の念仏を禁止し、仏教の本来の状態に戻す。その上で、一人一人が進行の自己変革によって、仏国土を実現させていくという発想に立っていったのです。仏国土とは、たんに飢饉や疫病がない状況をいうわけではありません。個々人の悟りの顕現をもっての国土の安穏です。「なぜ生きるのか」「どうして死があるのか」というような、世俗的な価値の追求だけでは答えが出ない人生の本質的な問題に対し、「実乗の一善」に基づくことで解決を促し、その結果として、真の意味で安国の実現が可能であると説かれているのです。 実乗の一善——第2代会長の戸田先生は「幸福」について、経済的な豊かさやささやかな社会的地位といった自分の外の世界から得られる「相対的幸福」と、いかなる困難や試練にも負けることなく、生きていること自体が楽しくて仕方がないという境涯の確立である「絶対的幸福」の二つがあると立て分けられました。立正安国論前半の世俗的価値は相対的幸福について、後半の悟りの顕現は絶対的幸福について示されたものと受け取れるでしょうか。 そのようにも答えるでしょう。魔の前の苦悩に対して、まずはやるべきことをやらなければいけない。病気で苦しんでいるのであれば、薬を飲んだり、病院にかかったりして、病を治すのが先決です。しかし、それだけでは、揺るがざる幸福という根本的な救済につながるとは限らない。現代に当てはめて言えば、医療や社会対策を尽くし、コロナ禍を収束させるのはもちろん大事なことです。しかし、この立正安国論の視点から現代を見つめれば、重要なのは「その先」であるとの視座がうかがえるのです。気候変動など人類的諸問題が立ちはだかるこれからの時代を、自分はどのように生きていくのか。一人一人がどのような生き方をしていくべきかが問われているのです。人々が死の恐怖から解放され、道端にしがいが累々と横たわっている状況を改善することで、落ち着いて信仰に専念できるような客観的状況を確立し、それぞれが「実乗の一善」の実践が、強制や押し付けではできないということです。上からではない下からの変革の一人一人が客体ではなく主体となって、初めて安国があるといえるのです。 ——立正安国論に込められたメッセージを、創価学会では「人間革命」という理念で受け止め、実践を続けてきました。 ここに創価学会の凄さがあるように思います。私は多くの創価学会員を知っていますが、そこには、社会でいうに言われぬ差別を受けてきた人も多数いました。学界の中では、出自や社会的地位など全く関係なく、危機として信仰に励んでいるように見えます。日蓮の「実乗の一善」で提示されている価値観も、国家にも民衆にもよらない、人間としての普遍的な理念ではないでしょうか。あらゆる差異を乗り超える本質的な仏性という視点は、地球的な課題を考えうえでも欠かせないものです。一人一人に光を当て、その一人が自らの人生をより良く変える中で、社会を変革していこうとする――この主体性は、日蓮の基本的な立場であり、立正安国論の本質にも通じるものだと思います。 【日蓮大聖人御生誕800年記念インタビュー】聖教新聞2021.12.25 他者に寄り添い、聖典に問い掛けるそこに危機を打開する思想の力が 東北大学大学院 佐藤弘夫教授㊦ 宗教の命——25日付では、鎌倉仏教の誕生や立正安国論の思想構造、さらに民衆への眼差しが日蓮仏法の独自性であることを述べていただきました。佐藤教授は、祖師の思想の継承という点で、農民信徒が無実の罪で弾圧を受けた「熱原の法難」こそ、鎌倉仏教のピークであると論じておられます。 私は、宗教で一番大事なことは、教理や理屈というよりは、その思想が人々にどのように希望の灯をともせたかだと考えています。洪庵2年(1279年)に起こった熱原の法難は、そのことを如実に示すものでした。駿河国富士郡熱原に起こった法華信徒への弾圧事件は、農民3人の斬首、17人の禁獄という過酷な結末を迎えています。しかし、農民信徒たちは、なぜ命を捨ててまで、日蓮の教えを守り抜こうとしたのでしょうか。彼らの多くは、わずか1年余りの信仰歴で、僧侶でも武士でもない下層の人々です。名字すらありませんでした。当代随一の最高実力者である平頼綱は、罪を認めて念仏を唱えれば赦免すると迫りますが、農民たちはこの提案を一蹴します。そして理不尽な拷問に、題目を唱えて立ち向かっていったのです。生命の奥から迸り出るような題目の中で、自らの救済について絶対的な確信に到達していたに違いありません。わたしは、熱原の法難における、この農民信徒たちの行動こそ、鎌倉仏教の最も輝かしい到達点であると思います。宗教の核心とは、祖師の思想のみに存在するものではなく、その教えに生き、信念に殉じた名もなき人々の生き方そのものにある。教えを実践する人がいて、初めて宗教としての命が吹きこまれると思うからです。 ——日蓮大聖人は熱原の法難において、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられ、「出世の本懐」(この世に出現した目的)を実現したと示されました。 伝統仏教では、庶民はあくまで施しを受ける「客体」であり、日本の歴史をたどると、庶民が「主体」として浮かび上がってくるのは室町時代後期になってからのことです。ところが熱原の農民信徒は仏教を担う主体として、日蓮の信仰を内面のみならず行動において示しました。このことは封建的な差別を克服する道につながっているといえるでしょう。本尊分与の目録などを見ても、日蓮が信徒に授与した曼陀羅は同じもので、武士や僧侶や農民といった上下の差別は一切ありませんでした。身分や地位を超えた平等な救済を唱え、誰一人置き去りにすることなく客体から主体へと転換させていったことは、今、改めて注目すべき信仰の精神ではないでしょうか。 人間性の根源——創価学会は世界宗教として根本とすべき聖典が御書であると示すとともに、世界中の人々が閲覧可能な環境を整備してきました。御書の翻訳事業も進み、現在、10言語以上に刊行されています。 日蓮の教えは、鎌倉時代という状況、風土を前提として展開されたものです。それが、このように世界へと広まっていること自体、それだけの可能性が秘められていたのだということでしょう。創価学会の実践は、心を表面的になぞるのではなく、人間の心の中に縦に食い込んでいくような信仰世界をつくったところが大きいと思います。時代や地域によって人間の在り方は変わるかもしれませんが、人間の根源には共通する部分があるのではないでしょうか。適切な表現ではないかもしれませんが、あえて言えば、心の世界にどこまで杭を打ち込んでいけるか——普遍的な信仰や思想は、表層部分だけではなく、心の奥深くに、垂直に入っていけるものです。それがどの深みにまで浸透しているかで、人間の根源的な苦悩を解決していけるかどうかが決まってくるように感じます。たしかに日蓮の思想は世界にまで広まってきました。これが今後どれだけ広がり、果たして世界の運命を変える力があるかどうか。それは、熱原の法難がそうであったように、日蓮の思想そのものというよりは、それを解釈し、実践する信仰者の姿を通して明確になるものなのでしょう。 ――今、私たちが、現代の危機を乗り越えるために学ぶべき日蓮大聖人の思想の本質は何だとお考えでしょうか。 コロナ禍の議論は、どうしても人間中心になりがちです。「ウイルスと戦う」というような表現も見聞きしますが、これはとても近代的な発想です。もともとウイルスは、人間と一緒に生きてきた存在であり、ウイルスがいなければ人間も生きられません。そのウイルスがこういった事態を生じさせるということは、誤解を招きかねない言い方ですが、ある警告を発していると受け止めるべきではないでしょうか。さらに深刻な状況が起こる前に、人間が人間のことしか考えないような社会というものを改めなければいけない。ウイルスのメッセージが聞き取れるということでもあると思うのです。近代以降に人間中心主義が突出しましたが、この世界というのは人間だけで成り立っているのではなく、それを柔らかく包むような人間以外のもの――神や仏、死者や自然、ウイルスに至るまで、どれもがバランスをとって共存し、社会が柔らかく成り立っていく。それは伝統的な登用の思想であり、日蓮の思想の根幹にもあるものともいえます。立正安国では、打ち続く災害の原因として、思想が乱れることで国土を支える働きを持つものが失われ、秩序が混乱していると指摘されています。また、日蓮が草木成仏を説き、人間以外の存在への配慮も示していることは注目に値するものです。私たちを取り巻き、さまざまな働きをもたらしている存在は、批判する相手でもなければ、戦う相手でもありません。感染症を引き起こしたり、災害を起こしたりと、厄介な存在であったとしても、排除することはできないのです。人間は、こうしたものと常に一緒に生きることを宿命づけられている。今、全ての存在が、もう一度、調和できる社会をつくり上げていく。そう捉える中に立正安国論の一つの現代的意義、そして日蓮の願いがあるようにも考えられます。 信仰の書――先月、御生誕800年慶祝の意義を込め、『日蓮大聖人御書全集 新版』が発刊されました。 私も早速、手に取りました。非常にしっかりと校訂されている印象を受けます。文字が大きくなり、改行や句読点が増え、現代の仮名遣いや送り仮名、漢字表記が用いられています。また会話文に「 」が付けられているなど、「信仰の書」としての質の高いものとなっていることに、敬意を表したいと思います。日蓮の遺文は、なかなか公開できない時代がありました。戦前には、大事な部分が黒塗りにされ、伏せ字にさせられていたのです。今、自由に公開して議論ができるということは、とても大事なことです。古典は、時代を超えて、新しい読み方がなされることがあります。昔には見えなかったことを、今の私たちは読み取ることができる。立正安国論がまさにそうですが、今、我々が見えないことでも、次の世代の人たちが見えるということもあるかもしれない。そのためにも、常に原典に帰れるということが重要です。その意味でも今回の発刊には敬服しています。 ――創価学会は、「冬は必ず春となる」などの御文を、一節でも一行でも、実践の中で深く生命に刻み付けていこうと、「御書根本」を掲げてきました。 古典は時代や状況を超越して影響を与えてくれるものですが、難しいのは、私たちの問いかけに応じてしか答えてくれないという点です。そこから、より深いものを読み出そうとすれば、問題となるのは、問いかける側の姿勢です。同じように、御書を読むにしても、その時に求められる新しい答えを引き出すためには、〝自分がこの苦悩をどう捉えるべきか〟〝目の前の人をどう勇気づけたらよいか〟という、それこそ実存をかけたような問いで、御書に臨んでいくことが大切なのではないでしょうか。それを一つのきっかけとして、人間は信仰者として飛躍していくのです。古典、あるいは聖典へ問い掛けるといっても、決して大掛かりなことではありません。日蓮の生き方がそうであったように、目の前で打ちひしがれている人、隣で困っている人を見過ごさず、一緒に立ち上がろうとする。自他の悩みに対し、御書を紐解き、適切に思われる個所を見つけ出しともに深めていく。そこから全ては始まっていくのだと思います。私は、日蓮の思想には、まだまだ新たな可能性があると考えています。いかなる国や地域においても、日蓮の普遍的な思想が展開されることで、それぞれの社会の固有の課題にも答えていけると思います。創価学会の実践の中に、それを成し遂げていく力があると期待しています。 【日蓮大聖人御生誕800年 記念インタビュー】聖教新聞2021.12.26
April 23, 2023
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第31回 薬王菩薩本事品第二十三 末法広宣流布の戦士よ!薬王菩薩のごとく、命を燃やせ! ■大要薬王菩薩が一切衆生喜見菩薩だった時、日月浄明徳仏の入滅後に、報恩のため自分の臂(腕)を焼いて灯明として供養した故事が説かれます。そして、仏滅後に法華経を弘める功徳は、この焼身の供養より大きいことが述べられます。それでは内容を追ってみましょう。 ◇その時、宿王華菩薩が、釈尊に言います。「薬王菩薩は、どうしてこの娑婆世界を巡り歩くのでしょうか。どれほどの百千万憶那由他の難行苦行があったのでしょうか。どうか説明してください。その話を聞いて皆、歓喜するでしょう」——ここから質問に答える形で、薬王菩薩が一切書状喜見菩薩だった時代の難行苦行の話が始まります。その時、釈尊は宿王華菩薩に告げます。「無量恒河沙劫の昔、日月浄明徳仏がいた……」と、その仏や菩薩たちの寿命、そして国土の様子などが示されます。続いて、「その時、日月浄明徳仏は、一切衆生喜見菩薩、そして多くの菩薩や声聞たちのために、法華経を説かれた」と語ります。一切衆生喜見菩薩は、願って苦行を習い、精進し、仏を一心に求めること一万二千年を満たして、「現一切色心三昧」の境涯(十界の一切衆生の姿を自在に現せる境涯)を得ます。そこで一切衆生喜見菩薩は、大いに歓喜して思います。「私が現一切色心三昧を得られたのは、全て法華経を聞くことができた力によるのである。今、日月浄明徳仏および法華経を供養しよう」そして、一切衆生喜見菩薩は、さまざまな香を降らせるなどして、仏を供養して、さらに思います。「神通力をもって仏を供養したとしても、私の身をもって供養するのには及ばない」そこで、一切衆生喜見菩薩は、多くの香や香油を、千二百年にわたって飲み、さらに香油を身に塗るなどして、日月浄明徳仏の前で自分自身の体を燃やします。その光明は、八十億恒河沙の世界を照らします。多くの仏が、一切衆生喜見菩薩を同時に褒めたたえます。「これこそ真の精進である。これを『第一の布施』と名づける。多くの布施の中で、最も尊く、最も優れている。法をもって多くの仏を供養するからである」一切衆生喜見菩薩の身体を燃やす火は、二千年に及ぶまで続き、燃え尽きます。一切衆生喜見菩薩は、このように法の供養をなし終わって、この命が終わり、また日月浄明徳仏の国の中、浄徳王の家に生まれます。そして再び、仏を供養します。「入滅するときがやってきた」そして、一切衆生喜見菩薩に命じます。「仏法を、あなたに付嘱します。一切の弟子、阿耨多羅三藐三菩提(完全な覚り)の法、一切の宝などを付嘱する」日月浄明徳仏が入滅すると、一切衆生喜見菩薩は悲しみ、仏を恋慕し、その舎利(聖骨)を八万四千の塔を造って供養します。そして思います。「自分の心はまだ満足はしない。さらに供養しよう」しして、八万四千の塔の前で、自分の臂(腕)を、七万二千年にわたって燃やして供養します。その光景を見ていた声聞を求める人々らは、覚りを求める心を起こします。多くの菩薩たちは、一切衆生喜見菩薩の臂がないのを見て、憂い、悩み、悲しみ、いいます。「一切衆生喜見菩薩は、私たちの死です。今、臂を焼いて無くしてしまった」一切衆生喜見菩薩は、誓います。「私は両方の臂を失ったが、必ず仏の金色の身を得るだろう。それが嘘でない証拠として、私の臂は元通りになるだろう」臂は元通りになり、世界は六種に振動し、天から宝の花が降り、人々はいまだかつてない思いを得ます。釈尊は、宿王華菩薩に告げます。「あなたは、この話を聞いてどう思うか。一切衆生喜見菩薩は、どうして他の人のことであろう。今の薬王菩薩のことなのだ」そして、法華経、またその中の一つの四句からなる偈(四の形の経文)を受持する功徳は、計り知れないことを示します。続いて、具体的に十の譬喩を通して功徳の偉大さを表現します。一切の川の流れなど、多くの水の中で海が第一であるように、この法華経も、多くの仏が説く経の中で最も深く、大きい……。さらに、十二の譬喩を用いて、法華経が一切衆生を利益し、その願いを満足させることを示します。清涼の池が渇望している者を満たすように、寒い人が火を得るように……。もし法華経を聞くことができ、もしくは書き、もしくは他の人に書かせるならば、その功徳は仏の智慧をもっても計り知れない。続いて、薬王菩薩本事品を聞き、受持する功徳を述べ、付嘱します。「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむこと無かれ」「此の経はすなわち為れ閻浮提の人の病の良薬なればなり。もし人病有らんに、この経を聞くことを得ば、病はすなわち消滅して、不老不死ならん」等と語ります。最後に多宝如来が、「あなたは、不可思議の功徳を成就して、釈尊に問い掛け、計り知れない一切衆生を利益した」と、宿王華菩薩を称えます。このように「薬王品」では、師弟の報恩のドラマを通して、法華経の功徳が賛嘆されています。 「法華経の智慧」から全人類に「癒しの光明」を法華経はすべて「己心の儀式」です。経文を向こう側においては、肝心なことは分からない。わが生命の薬王菩薩とは、名前の通り、心身の病気を治し、生命を「健康」にする力用と言ってよい。その本体は「妙法」であり「仏界」です。仏界の大生命力が生命の苦しみを癒す働きを「薬王」と名づける。ゆえに御本尊に向かって唱題するとき、己心の薬王菩薩が働くのです。◇「健康」を象徴する薬王は、信念に「殉教」した菩薩であった。「戦う生命」それが「健康な生命」です。◇薬王品も、まさに「末法広宣流布の戦士よ! 薬王のごとく、命を燃やせ!」と教えているのではないだろうか。そういう青年が陸続と現れたとき、創価学会全体が永遠化される。「不老不死の教団」になっていくのです。そうなって初めて、永遠の未来にわたって、全人類に「癒しの光明」を燦然と送り続けることができるのです。 (普及版〈下〉「薬王菩薩本事品」) 本化と迹化「薬王品」以降の6品には、迹化・他方の菩薩に弘通を託す意義が込められています。広宣流布の主役は、あくまでも「本化」の菩薩である「地涌の菩薩」です。その上で、「迹化」の菩薩は、迹仏に化導された菩薩のことで、主役を助ける立場と言えます。つまり、「薬王品」からの6品は、「地涌の使命を助ける」働きを明かしていると考えることができます。池田先生は語っています。「『本化』として自行化他に励んで開拓した『仏界』の生命力を、『迹化』としての社会面、生活面で生かしていく。生かし、活躍していこうと努力するなかで、さらに『信心』が深まり『仏界』が固まっていく。この往復作業です。本化→迹化、迹化→本化という、粘り強い往復作業によって、自分の生命を限りなく向上させ、広宣流布を限りなく広げていくのです」広宣流布へ、それぞれの舞台で、「さすがだ」と、実証輝く活躍をしていきたい。 【LotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.12.19
April 15, 2023
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第46回 石河新兵衛入道、重須殿女房、刑部左衛門尉女房、出雲尼 石河入道・重須殿女房日蓮大聖人の身延入山後、富士方面では日興上人を中心に弘教が進み、駿河国(静岡県中央部)には有力な門下が数多く誕生しました。石河新兵衛入道もその一人です。石河入道は、駿河国富士上方重須郷(静岡県富士宮市北山)の地頭で、「重須殿」と通称され、実名(通称などでない本当の名前)は能助と伝えられています。日興上人が残された「弟子分本尊目録(弟子分帳=門下に授与された御本尊の目録)には「石河新兵衛入道道念」とあり、「道念」との法号があります。日興上人から石河入道の嫡子・石川孫三郎能忠へ下付された御本尊の脇書には「源義忠(能忠)」とあることから源氏の一族だと考えられます。石河入道の妻は「重須殿女房」と呼ばれました。「弟子分帳」に「南条兵衛七郎入道後家尼」と記されていることから、重須殿女房は、南条兵衛七郎(南条時光の父)の娘であったことが分かります。すなわち、石河家と南条家は姻戚関係にあり、石河入道は南条時光の義兄弟の間柄であったことになります。石河入道がいた重須郷は、時光の在所である上野郷(静岡県富士宮市下条)に近接し、近しく連絡を都営あえる距離にありました。石河入道夫妻は、時光から近隣の門下たちと励まし合い、力を合わせて、日蓮大聖人、日興上人を支えたものと思われます。 「姫御前」のお手紙日蓮大聖人から石河入道へのお手書きは、現存していませんが、他の門下への御消息で石河入道の家族のことが記されています。弘安元年(1278年)4月に南条時光に与えられた「上野殿御返事」に、「石河の兵衛入道のひめ御前」(1545㌻)と、石河入道の娘の話が出てきます。実は、この年、石河入道の娘が病気で亡くなりました。名をなくした叔父の時光から知らせを受けた大聖人が身延で認められたのだと思われます。大聖人は返書で、石河入道の娘が生前、幾度となく大聖人にお手紙を送っていることを明かし、入道の娘が息を引き取る前に送ってきた書状を紹介されています。「姫御前は、何度も私にお手紙を送ってくれました。3月14,15日の夜分でしょうか、このようなお手紙が届きました。「世の中を見渡すと、病んでない人でも、今年などは無事に過ごせるとは限らない状況にあります。まして、私はもとより病気の身です。病状が急に悪くなってきましたので、これが最後の手紙になるかもしれません」とありましたが、とうとう、お亡くなりになったのですね」(同㌻、趣意)「姫御前」とは、未婚の若い女性の敬称です。姫御前の病状が段々と悪化していったことは、おそらく大聖人の許に伝えられていたことでしょう。それでも、大切な門下の娘が亡くなったことは、大聖人にとって突然の悲しい知らせに違いありません。深く哀悼の意を表すとともに、姫御前からのお手紙を通して、その信心をたたえられたのです。当時は日本国中に深刻な疫病が広がっており、病気でない人にとっても死は身近なものでした。とはいえ、わが身に死の影が忍び寄れば「なぜ私が……」と思ってしまうのが人の常です。ところが姫御前は、若い身でありながら、自らの障子を冷静に見つめ、最期まで南無妙法蓮華経を唱え切ったのです。大聖人は、姫御前が死に臨んでも心を乱さず、最後まで信心を貫いたことは、「一眼の亀が浮木の穴に入るように、天から垂らした糸が針の穴を通るように、稀有なことであるとされ、姫御前の信心を最大に称賛されました」(1546㌻、参照)。「日蓮の弟子の中には、法門を分かったように見えて、南無妙法蓮華経以外に余教を交える過ちを犯す者がいるが、姫御前は素直に題目を信じて、信心を貫き通されたのである。なんと尊いことでしょう」(同㌻、趣意)と。姫御前が、成仏を確信し、大満足の心で臨終を迎えることができるのは、大聖人の法門の正しさを示すものと教えられています(同㌻参照)愛娘を失った石河入道夫妻が、深い悲しみに包まれたことは想像に難くありません。しかし、時光へあてたこの手紙のような渾身の激励が、夫妻のもとに届けられたことは大いに考えられます。入道夫妻は、繰り返し大聖人の励ましを拝しては、亡くなった娘がどれほど立派な信心を貫いたのかを胸に刻み、娘の分まで生き抜こう、大聖人の門下として立派に信心を貫こう、と誓ったことでしょう。 節目節目を深く決意し「新たな出発の日」に 十字御書御執筆が弘安4年(1281年)1月5日と推定される、重須殿女房へのお手紙(「十字御書〈むしもとごしょ〉」)があります。重須殿女房が震円に当たって、「十字(むしもち)〈注1〉=蒸し餅」100枚と果物一籠を御供養したしたことに対し、大聖人がそのお礼を認められたものです(1491㌻参照)。新年という節目に、新たな決意をこめて、御供養を捧げたものと思われます。大聖人は、重須殿女房の瑞々しい志をたたえられています。正月1日は、「月のはじめ」と幾重にも「始まり」の意義が込められているとしたうえで、その意義深き正月1日に、妙法をもって祝う人は、月が次第に満ち、太陽が赫々と昇っていくように、自身の福徳をますます豊かにし、人々から愛されるようになっていくとはげまされています(同㌻、趣意)。また同抄には、「今、正月の始めに法華経を供養しようと思われるあなたのお心は、木から桜の花が咲き、池から蓮のつぼみが出、雪山の栴檀の双葉が開け、月が始めて出るようなものでしょう」(1492㌻、通解)とも仰せです。これらは、凡夫の肉身に、仏界という最極の生命が具わっている譬えですが、泥の池から鮮やかな蓮の花が咲くように、さまざまな苦しみや悩みも、この妙法によって必ず成仏の淫へと転換できることを教えられた激励とも拝されます。当時、駿河国には北条得宗家〈注2〉の所領があり、大聖人一門に対して、厳しい目が向けられていました。また、この弘安4年ごろは、重須殿女房の弟である南条時光が、大聖人の門下ということで権力者から目を付けられ、所領に重い雑税や、夫役(労役を課せられること)などを課せられていました。近く石河入道夫妻にも何らかの圧迫が及んでいたことは、十分に考えられます。姫五山の死に続いて、新たな苦境に直面していた重須殿女房は、このお手紙を拝し、自分も必ず新人で玄関お苦しみを乗り越え、爛漫と希望の花を咲かせることができると確信を深めたことでしょう。 日興上人を自領に招く石河入道は、亡くなった娘の分まで、わが子には信心を受け継いでほしいと強く願ったに違いありません。妙法に生き抜いた親の信心は、嫡子・石河孫三郎能忠へと確かに継承されていきました。正応2年(1989年)に身延を離山された日興上人は、南条時光の招きで上野郷に入られました。その後、大石寺を日目上人にまかせた日興上人を、重須郷の自領にお迎えしたのが、石河孫三郎能忠だったのです。重須には、談所(学問所)などがつくられ、日興上人自ら数々の重書を講義され、広宣流布のための人材の訓育に当たられました。当時、不二または鎌倉方面に至門下の生命や財産が傷つけられる事件が起きました。日興上人が弟子に宛てたお手紙をみると、この事件に際して、石河入道の志尊が重要な役割を果たしたこと、また石河氏の意見を日興上人が重んじられていたことがうかがえます。このように、大聖人の滅後、石河入道夫妻の赤誠の信心は子孫に継承されていったのです。 〈注1〉 麦などの粉を練って蒸しあげたもの。その表面には十字の切込みが入れられたことから、「十字(むしもち)」と表されることになった。〈注2〉 鎌倉幕府の執権職を占めた北條氏の家督を継承する本家。 刑部左衛門尉女房刑部左衛門尉女房が大聖人から頂いたお手紙で現存しているのは「刑部左衛門尉女房御返事」の1編だけであり、詳しい人物像は分かっていません。宛名に「尾張刑部左衛門尉女房」とあるところから、尾張国(現在の愛知県)に住んでいたと推測されます。洪庵3年(1280年)10月に御執筆されたとされる、この御消息の冒頭を拝すると、刑部左衛門尉女房は亡き母の十三回忌に際して、大聖人に銭20貫文を御供養したことが分かります(1397㌻参照)。大聖人は同抄で、刑部左衛門尉女房の真心の御供養を心から称えられるとともに、仏法から見た最高の孝養について教えられています。まず、自分を育ててくれた母親の思いがいかに尊いかを語られています。「父母の恩がいかに大きいかは、いまさらあらためていうまでもありませんが、母の恩については、とりわけ心肝に染めて尊く思っています」(1398㌻、通解)と。そして、母親は、妊娠や出産、子育てで、計り知れない痛みと苦労を伴うものなのに、子どもがあまり恩を感じないことを、およそ御書全集1ページ分という長文にわたって具体的に示されているのです。お産が近づけば、あまりの痛みに腰は破れてしまいそうになり、目が飛び抜けて天に昇るようです。これほど苦しい目にあっているのに、3年もの間、心を込めて養い続けます。その間に、っこが母の父を飲む量は180斛(石)3升5号〈注3〉で、この乳はたとえ1合といえども三千大千世界に値するほど貴重なものです。それなのに、子どもは、それほど感謝の念を抱かないものです。たとえ子が今生で孝養を尽くしたようでも、母が亡くなり、日がたつにつれて、弔う人は減っていき、13年も経てば、ほとんどいなくなるでしょう」(1398㌻~1399㌻、趣意)と。大聖人は、母の恩がいかに広大であるかを示すことで、刑部左衛門尉女房の御供養がどれほど尊いものなのか、を称賛されているのです。母の恩を忘れない人は、強く、正しく、深い人生を歩むことができます。そのような賢者の振る舞いを、大聖人は喜ばれ、賛嘆してやまなかったのです。さらに大聖人は、御自身も母にもっと孝養を尽くせばよかったと、ありのままのお気持ちを語られています。「日蓮は、母の存命中、母のいうことに背いてばかりいたので、先立たれた今になって、深く後悔しています」(1401㌻、通解)と。だからこそ、大聖人は、釈尊の生涯の教えを探求し、母への効用を果たそうと思っているのだとつづられています(同㌻参照)。釈尊の教えの名間で最も優れた法華経を弘める大聖人を支えるために、母の追善に寄せて、真心の御供養をする刑部左衛門尉女房をたたえ、こう仰せです。「亡き母の冥福を祈り、追善を願い出る人々を見ると、わがことのようにうれしく思います」(同㌻、通解)と。亡き母に寄せる思いを、死はすべてすくい取ってくださいました。その言々句々に、刑部左衛門尉女房は感激し、胸がいっぱいになったことでしょう。大聖人は、妙法による追善で、個人がたちまちのうちに霊山浄土へ行かれることは間違いないと励まされ、善智識を求めて妙法の教えを求めていくべきであると本抄を結ばれています。刑部左衛門尉女房は、この後、妙法の先輩、同志と励まし合い、信心を貫いていったことでしょう。 〈注3〉1斛(石)は100升(約189.4㍑)、1升は10合(約1.8㍑)になる。 女性門下の無事の道中を心から祈る 出雲尼出雲尼は、『日蓮大聖人御書全集新版』に新たに収録されたお手紙の対告衆です。出雲尼が大聖人から頂いたお手紙は、弘安元年(1278年)12月1日付の1編の断簡だけが残されており、詳しい人物像はわかっていません。その宛名には「安州出雲尼御前」とあることから、出雲尼は、安房国(現在の千葉県南部)の女性門下だと思われます。御文の内容から、出雲尼はこの時、身延の大聖人のもとを訪問していたと思われます。大聖人は、安房からはるばる訪れた賤母尼が無事に帰ることができたかどうかをとても心配され、その心情をつづられています。「道中、どのようであったでしょうか。気がかりでなりません。すぐにでも御返事をいただいて、心のうちを晴らしたいものです」(『日蓮大聖人御書全集 新版』1268㌻、通解)と。この御文の直前には、「……を逆縁とお考えになるべきです」とあります。残念ながら、此れより前の部分は残されていませんが、おそらく出雲尼は大聖人に、何らかの悩みを打ち明けたのでしょう。それに対しで大聖人が、重ねてこのお手紙で門下の苦悩の闇を晴らそうと、法門に基づいた激励を認められたのかもしれません。また、出雲尼の同友の心配も去れており、このようなごく短い一節のなかからも、一人の門下をどこまでも思いやられる大聖人の心中が伝わってきます。 【日蓮門下の人間群像—師弟の絆、広布の旅路—】大白蓮華2021年12号
March 12, 2023
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第30回嘱累品第二十二 仏の願い、師匠の願いはただ「広宣流布」にある。ゆえに弘教に走ることが「報恩」 ■大要釈尊が、無量の菩薩の頭をなでて、〝一心に、この経を弘めていきなさい〟と語ります。それに応え、菩薩たちが〝釈尊の仰せの通りに実践します!〟と、誓います。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1その時、釈尊は、座から立ち上がり、偉大な神通力を現します。右手で無量の菩薩の頭をなでて語ります。「私が無量百千万憶阿僧祇劫という久遠の昔に修行した、阿耨多羅三藐三菩提(完全な覚り)の法を、いま、あなたたちに付嘱する(教えを弘めるように託す)。この法を、一身に流布して、広く人々に利益を与えていきなさい」このように3度、菩薩たちの頭をなでて、述べます。「私が無量百千万憶阿僧祇劫という久遠の昔に修行した、阿耨多羅三藐三菩提の法を、今、あなたたちに付嘱する。この経を受持・読誦し、広くこの法を語って、一切衆生が聞き、知ることができるようにしなさい」そして、その理由を語ります。「仏は大慈悲があり、物惜しみすることも、また畏れることもなく、衆生に仏の智慧を与える。仏は一切衆生の代施主である。それに従って仏の法を学び、物惜しみしてはならない。未来において、法華経を信じる男女が、仏の智慧を信じるならば、その人に仏の智慧を得させるために、法華経を説き、聞き知ることができるようにしなさい。もし、人々がこの経を信じ、受けるならば、仏の深き方の中に於いて、教えを示し、利益を与え、歓喜させるべきである。このようにするならば、諸仏の恩を報ずることになる」 ●シーン2菩薩たちは皆、釈尊の説法を聞き終わって、大歓喜します。ますます仏を敬うようになり、体を曲げて頭を下げ、手を合わせて、ともに語ります。「釈尊の仰せの通りに実践します。仰せのままにします。釈尊よ、どうか心を煩わせませんように」 ●シーン3その時、釈尊は、十方より集まってきた分身の仏たちを、それぞれの本土に帰し、宝塔を元通りにするように語ります。最後に、十方の無量の分身の仏や、多宝仏を上行菩薩をはじめとする無量の菩薩たち、舎利弗など声聞、四衆、一切世間の天界・人界・修羅界の人々など、生きとし生けるものが、仏の説法異を聞いた大歓喜します。 ■総付嘱「嘱累品」での付嘱は、釈尊に教化された本化(地涌)と、迹仏に教化された迹化のりょうほうを含めた無量の菩薩に付嘱されたので、総付属といいます。日蓮大聖人は、付嘱の光景を次のように記されています。「嘱累品の心は、釈尊が虚空に立たれて、四百万那由他の世界一面に、武蔵野の芒のように、富士山の木のように群がり、膝を詰め寄せ、首を地につけ、身をかがめて、手を合わせ、汗を流して、釈尊の前につゆのようにおびただしく集まった上行菩薩陶冶文殊等、大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に法華経を譲るため、3度も頂をなでられたことにある。たとえば、悲母が子ども髪をなでるようなものである。その時に、上行や日月刀は、かたじけない仰せを受けて、法華経を滅後末代に弘通することを誓われたのである」(御書1245㌻、通解)菩薩の頭を3回なでられたことについては、「御義口伝」に「三摩の付嘱とは身口意三業三諦三観と付嘱し給う事なり」(同772㌻)と記されています。池田先生は、次のように教えられています。「『弘教』です。広宣流布に動いていくことです。広宣流布に連なった『身』『口』『意』の三業は、塵も残さず、全部、大功徳に変わる」付嘱といっても。託される側が、広布の戦いを起こしてこそ、法を受け継ぐことができるのです。 ■嘱累品の題名である「嘱累」の「嘱」には「たのむ」「まかせる」「たくす」など、「累」には「かさなる」ほほかに「つなぐ」「わずらわす」という意味があります。つまり「嘱累」には、〝大変だが、弘通を頼む〟という意味合いがあるのです。また、嘱累品は、弟子の末法弘通の誓いで終わっています。池田先生は「弟子の側からいえば、『私が全部、苦労を担っていきます』というのが「嘱累」です。それで師弟相対になる。師弟というのは、厳粛なものです。師の一言でも、どれだけ真剣に受け止めているか。『すべて実行しましょう」と受け止めるのが弟子です』と。「嘱累品」は、師から弟子へ法を託し、弟子が師に誓いを立てる——歓喜に彩られた〝師弟の品〟とも言えるのです。 「法華経の智慧」から慈悲と言っても、凡夫には慈悲なんか、出るものではない。「自分は慈悲がある」なんて言うのは、たいていは偽善者です。だから慈悲に代わるものは「勇気」です。「勇気」をもって、正しい者は正しいと語っていくことが「慈悲」に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です。◇嘱累品に、弘教の人は「諸仏の恩を報ず」(法華経579㌻)とある。仏の願い、師匠の願いは、ただ「広宣流布」にある。ゆえに弘教に走ることが、それこそが師匠への「報恩」になるのです。恩を忘れて仏法はない。否、人道はない。仏法は「人間の生き方」を教えたものです。ゆえに、仏法者は、どれよりも「知恩の人」「報恩の人」でなければならない。◇たとえ師匠から離れた地にいようとも、直接話したことがなくても、自分が弟子の「自覚」をもって、「師匠の言う通りに実行するのだ」と戦っていれば、それが師弟相対です。根幹は、師匠対自分です。(普及版〈下〉「嘱累品」) 二処三会「嘱累品」で、「宝塔品」から始まった虚空会の儀式が、終わります。この後、法華経の説法の舞台は、再び霊鷲山へと移ります。このように説法の場所が、霊鷲山から虚空会、虚空会へと、二つの場所で三つの会座があることを「二処三会」といいます。池田先生は、「『二処三会』には、深い意義があった。それは法華経全体の構成によって、『現実世界から〈永遠の生命の世界〉へ』(霊鷲山から虚空会へ)、そしてまた『現実の世界へ』(虚空会から霊鷲山へ)という〝人間生命のリズム〟を示している」私たちにとっては、現実社会で広宣流布の苦悩を誓願の祈りに変え、生命力を満々とたたえ、再び民衆救済、立正安国へと挑んでいく。この往復作業こそが変革への確かな道であり、自身の成長と人生の充実もあるのです。 【ロータス ラウンジLotusLounge】聖教新聞2021.10.17
January 20, 2023
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第44回最蓮房、遠藤左衛門尉|最蓮房日蓮大聖人の佐渡流罪中に帰依した弟子に、最蓮房がいます。その人物像は、明らかになっていない事が多く、今回は、伝承や推測に基づいた内容を中心にご紹介します。 大聖人より前に佐渡へ最蓮房は、京都の出身と伝えられており、もとは天台宗の学僧で、大聖人が佐渡へ流される(文永8年〈1271年〉)より以前に、佐渡に配流されていたとされます。当時の天台州の僧侶の姿について、大聖人は「寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶は・かずをしらず」(229㌻)と述べられており、僧侶同士の抗争における寺塔の焼き討ち等の罪で、僧侶が流刑に処されることが多かったようです。最蓮房もあるいは、何らかの紛争に巻き込まれたのかもしれませんが、詳しいことは定かではありません。「十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず」(1357㌻)と、最蓮房自身が述べていたようです。また、最蓮房に対して、「上に挙げたところの法門は、すでにご存じのところであるが、書いて差し上げたのである」(1367㌻、通解)等と記され、学問的理解に優れたそうであったとされます。 塚原問答さて、天台宗の学僧だった最蓮房は、どのようにして大聖人の弟子になったのでしょうか。これについては、大聖人が文永9年(1272年)4月に送られたとされるお手紙(「最蓮房殿御返事」)に、「さる二月の初めから御弟子となり帰伏しました」(1340㌻、通解)とあります。その前月に当たる同年1月には、と華原問答が行われています。塚原に、佐渡・信越・北陸の念仏をはじめとする諸宗の僧ら数百人が集まり、大聖人の法論を挑んだのです。この問答で、諸宗の僧らは大聖人に徹底的に打ち破られ、大聖人に帰依する者もいました。最蓮房がこの場に居合わせたとすれば、大聖人の正義の言論、堂々たるお振舞を目の当たりにし、帰伏した、もしくは、人を介してその様子を耳にし、感銘を受けたのかもしれません。 重要な法門についての質問最蓮房宛てとされる御抄には、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「諸法実相抄」などがあります。これらの初では、最蓮房が大聖人に中世の天台州で重要とされていた法門について質問し、それに対する回答が記されています。例えば、「血脈」とは、師匠から弟子へ教えが受け継がれることを弟子の血のつながりに譬えたものです。「立正観抄」では、密教を取り入れた天台宗の堕落ぶりを、「勝手に一心三観の血脈などといって書を作り、錦の袋に入れて首に掛け、箱の底に埋めて、高価な値段をつけて売っています。この邪義が国中に流布して真実の天台の仏法はなくなってしまっています」(532㌻、趣意)と、厳しく糾弾されています。天台宗の法門とされる「生死一大事血脈」について最蓮房の質問に対する返答(「生死一大事血脈抄」)では、「あなたがお尋ねになった『生死一大事血脈』とは、妙法蓮華経のことです」(1336㌻、通解)と、生死の苦悩を根本的に解決する生死の一大事の法とは、妙法蓮華経以外になく、そして、その血脈の実体は、〝信心〟にこそあるのだと明快に示されています。 弘教を勧められる最蓮房は学問に優れる一方で、病気がちだったためか、一人静に自身が覚りを得るために修行しようという思いがあったようです。「祈禱経送状」によれば、最蓮房は、「山ごもりをしたい」と大聖人にもらします(1356㌻参照)。これに対し大聖人は、その思いを受け止めたうえで、「たとえ山谷にこもったとしても、病気が治り、よい機会があれば、身命を捨てて弘通しなさい」(1357㌻、通解)と激励されています。また、「諸法実相抄」には「行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(1361㌻)——行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はない。自分も行い、人をも導いていきなさい。行学は信心から起こる。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい——と、やはり他の人に教えを説いていくことを強く勧められています。ともすれば自行だけに偏りがちな最蓮房に、大聖人の末法に生まれ合わせた法華経の行者としての使命の自覚を促されていたようです。 「真金」の人とたたえられる 佐渡での苦難佐渡流罪中、大聖人は、念仏者たちから命を狙われていました。その悪人たちから門下も何らかの難に遭っていたことは想像に難くありません。実際、塚原で大聖人のお世話をしていた阿仏房と千日尼の夫妻は、住む所を追われ、罰金に処されるなどの迫害を受けています(1314㌻参照)。「生死一大事血脈抄」によれば、最蓮房にも、大聖人の弟子となったことで、何らかの圧迫が加えられたようです。「あなた(最蓮房)は、日蓮の弟子となって付き従い、また難に遭われている。その心中が思いやられて、心を痛めています」(1337㌻、通解)と記されています。さらに、難に屈しない最蓮房に対し、「金は大火にも焼けず、大水にも流されず、朽ちることがない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようである。あなたが、どうして真金でないことがあろうか。法華経の金を持つゆえであろう」(同㌻、通解)と賞賛されています。最蓮房がこのお手紙を頂いたのは、大聖人に帰依して間もないころとされていますから、今後もますます難が襲ってくることへの覚悟を促す意味が込められていたとも拝せます。最蓮房は、苦難に負けず具道心を燃え上がらせ、大聖人に重要な法門についての質問を重ねていったようです。 使途の宿縁を知り 地涌の使命を自覚 師弟の深い縁真金の弟子とされる最蓮房に、大聖人は、幾度もその師弟の関係の深い因縁を教えられています。例えば「生死一大事血脈抄」では、「過去の因縁に運ばれて、今度、日蓮の弟子となられたのでしょうか。釈迦仏・多宝如来こそご存じであると思われます。『いたるところの諸仏の国土に、常に師と共に生まれる』との経文は、決して嘘ではありません」(1362㌻、通解)、また「諸法実相抄」にも、「誠に深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのです」(1362㌻、通解)と、その過去世からの深い縁を強調されています。最蓮房は、佐渡に配流された当初には、来し方を悔やんでいたかもしれません。行く末を嘆いていたかもしれません。そんな時に、大聖人と巡り合い、弟子となって、しかも師匠との生死を超えた深き宿縁を知り、自身の使命を自覚した——。最蓮房の喜びは、いかばかりだったでしょう。「最蓮房御返事」には、こうつづられています「この世界の初め以来、父母・主君等から迫害を受け、遠国の島に流罪された人で、私たちのように喜びが身にあふれている者は、よもや、いないでしょ。それゆえ私たちが住んでいる法華経を修行する所は、いずれの地であっても常寂光の都(久遠の仏の住む永遠の仏国土)に違いありません」(1343㌻、通解)師弟の道に生き抜けば、流罪の地すら寂光土に変えることができる——。最蓮房は、師に教えを受けながら、歓喜に包まれた日々を刻んだことでしょう。さらに同書には、最蓮房との次のような約束が記されています。「あなたの流罪が早く許されて都へ上られたら、日蓮も、鎌倉殿〈注〉は『許さない』と仰せられても、諸天等に申して鎌倉に帰り、京都にお手紙を差し上げましょう。また日蓮が先に許されて鎌倉へ帰ったなら、諸天に申して、あなたを今日に帰れるようにしましょう」(同㌻、通解)だしの赦免を願い希望を持たせようとする慈愛、幕府権力を悠々と見下ろす境涯、そして確信に満ちた力強い励ましに、最蓮房はどれほど勇気づけられたことでしょうか。 地涌の菩薩の使命佐渡流罪を赦免になった大聖人が、文永11年(1274年)3月、鎌倉に帰られます。その後の最蓮房の消息がうかがえる確かな資料は残っていません。「諸法実相抄」には次のように綴られています。「何としても、この人生で、信心に励み、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していきなさい。日蓮と同じ心であるならば、地涌の菩薩でしょう。地涌の菩薩であると定まったならば、釈尊の久遠の弟子であることは疑う余地がありません」(1360㌻、通解)いかなることがあろうとも、「法華経の行者」として、「日蓮の一門」という最高の誉の人生を歩み通しなさい——最蓮房は、師との広宣流布の誓いを胸に、生涯、地涌の菩薩の使命に生き抜いたことでしょう。 〈注〉鎌倉幕府の将軍のこと。当時、鎌倉殿に変わって実権を執行していたのが「執権」であった。佐渡流罪時の将軍は維康親王、執権は北条時宗である。 池田先生の講義から師に随順して「弟子の道」に生き抜いている最蓮房を称賛されつつ、大聖人は師弟不二の実践の中にこそ、仏法の一大事である血脈が流れ通うことを教えられているのです。(中略)最高の信任に生き抜く人は、常に本質を見抜くゆえに、物事の表面にとらわれず、何事にも紛動されなることはありません。それに対して、信念なき愚人は、愚かな自分の心が基準となるゆえに、常に迷い、困難や障害に容易に負けてしまうものです。最蓮房自身、法華経が最勝の経典であることを深く理解していたことは間違いありません。そのうえで、最蓮房が大聖人の真金の弟子たるゆえんは、師に随順する金剛不壊の覚悟にあったといってよい。最蓮房は佐渡の地で、諸経の王である法華経の心のままに、不惜身命で民衆救済に生き抜かれる、真の「法華経の行者」を眼前に拝して、厳粛なる勘当に包まれた。それは、「御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」(1340㌻)との最蓮房の言葉に表れています。この法華経の行者と共に邁進し抜いていくことこそが、法華経の真髄であり、極意であることを、最蓮房は即座に、そして正確に理解したに違いない。だからこそ、迷うことなく師と共に忍難の道を選べたのではないだろうか。(『生死一大事血脈抄講義』) |遠藤左衛門尉「遠藤左衛門尉御書」は、佐渡の地の門下の一人、遠藤左衛門尉という人物に送られたとされる御書です。お手紙の宛先に「左衛門尉」とあることから、武士であったと考えられますが、その他のことを含めて確かなことは明らかになっていません。いずれにしても、他の門下たちと共に、食事をはじめとして、佐渡流罪の中の大聖人の様々な身の回りのお世話をしたと考えられます。 【日蓮門下の人間群像—師弟の絆、広布の旅路—】大白蓮華2021年10月号
December 23, 2022
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第29回如来神力品第二十一広宣流布を目指して進むわが同志こそ現代における「仏」です■大要地涌の菩薩が、仏の滅後に広く法華経を説くことを誓います。そのとき、仏が十神力(10種の不思議な力)を示して法華経の功徳をたたえ、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩たちに未来の弘通を託します。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1その時、千世界に微塵にした数の〝地から湧き出てきた菩薩〟(地涌の菩薩)が心一つに合掌し、釈尊の顔を仰ぎ見て、語ります。「釈尊よ、私たちは、仏が入滅された後、分身の諸仏がおられた国土で、仏が入滅された所で、広く法華経を説きます。それは、私たちもまた、受持・読・誦・解説・書写の『五種の妙行』を実践したからです」このように「地涌の菩薩」が、仏の滅後の弘通を誓います。 ●シーン2その時、釈尊は、文殊菩薩など無量百千万憶の昔から娑婆世界に住んでいる菩薩、男女の出家者や在家の者、諸天や鬼神、人間や人間でないものなど、全ての生きとし生けるものの前で、十神力を現します。➀仏が広く長い舌を出すと、天まで届く。②釈尊の毛穴から、あらゆる色の光が放たれ、十方世界を照らす。諸仏も同じように、広く長い舌を出し、無量の光を放つ。釈尊と諸仏が舌を収めると、今度は、③一斉に咳払いし、④一斉に指を弾いて鳴らす。声と指の音が全宇宙に響き渡ることで、⑤十方の諸仏の世界の大地が六種に震動する。⑥そこにいる生きとして生けるものが、娑婆世界の諸仏の姿を見ることができる。釈尊と多宝仏が宝塔の中の師子座におられるのも見ることができる。釈尊を、無量の菩薩や出家・在家の男女が取り組んでいるのも見ることができる。そして、皆、いまだかつて味わったことのない大歓喜を得る。⑦空中から、諸天の大きな声が響きわたり、「娑婆世界というところに、釈迦牟尼仏という仏がおられて、今、菩薩のために妙法蓮華経を説いておられる。あなたたちは、深く随喜して、釈迦牟尼仏に帰命する。⑨十方の世界から種々の華や香や、ありとあらゆる宝物を娑婆世界に届けられ、雲のごとく集まって、一つの大きな帳となり、それが十方の諸仏を覆う。⑩十方の世界の隔てがなくなり、一つの仏土になる。 ●シーン3その時、釈尊は上行菩薩などに告げます。「諸仏の神力は、子のように無量無辺であり、不可思議である。しかし、付嘱(教えを弘めるように託す)のために、この神力をもって、無量無辺百千万憶阿僧祇劫の間、この経の功徳を説いたとしても、説き尽くせないのだ」そして、次のように話します。「肝要をまとめて語るならば、『如来の一切の所有の法』『如来の一切の自在の神力』『如来の一切の秘要の蔵』『如来の一切の甚深の事』が、全てこの法華経に宣べ、示され、明らかに説かれているのだ」このように、釈尊が上行菩薩たちに、法華経の肝要を「四句の要法」にまとめて付嘱します。これを「結要付嘱」といいます。続けて語ります。「あなたたちは、仏の入滅後に、一身に法華経を受持し、読誦し、解説し、書写して修行すべきである」「五種の妙行に励むならば、その場所がどこであろうと道場であり、多くの仏が完全な覚りを得て、説法をし、入滅された場所である」法華経を修行する所は、どこであれ、道場であることが示されます。 ●偈文続いて偈文(詩の形式)で、これまでと同じ内容が述べられます。ただ、十神力によって法の功徳の偉大さをたたえていた箇所は、次のように法を受持する功徳の偉大さの表現になっています。「是の経を嘱累せんが故に、受持の者を賛美すること 無量劫の中に於いてすとも 猶故尽くすこと能わじ」(妙法蓮華経並開結574㌻)御書に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(856㌻)とある通り、法を弘めるのは、どこまでいっても「人」です。法華経の願いである万人成仏は、弘通の人がいてこそ可能になるのです。ゆえに「如来神力品」では、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩に滅後の弘通が託されるのです。 ■結要付嘱「如来神力品」に関する「御義口伝」には「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付嘱し給う故なり」(御書770㌻)と記されています。つまり付嘱された法華経の肝要である「四句の要法」とは、法華経の文の底に秘し沈められた、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経のことです。さたに結要付嘱には、滅後末法に向けた重大な意味があります。それは、末法に、地涌の菩薩の上首である上行菩薩が出現して南無妙法蓮華経を弘通することを予言している内容だからです。結要付嘱は、末法の弘通へ釈尊から地涌の菩薩、なかんずくリーダーである上行菩薩へと、教主が交代することを示す儀式といえるのです。 「法華経の智慧」から仏という「一人」から「全民衆」へ正法広宣流布を担うのは、いかなる国土であってもつねに「地涌の菩薩」なのです。それはなぜか。「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「「菩薩」として行動していくからです。いわば「菩薩仏」です。境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。◇ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、にせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。それを教えているのが、法華経であり、神力品の「上行菩薩への付嘱」には、そういう「人間主義の仏法」への転換の意義が含まれているのです。「日蓮と同意ならば」(御書1360㌻)と大聖人が仰せのように、広宣流布を目指して進むわが同志こそ、現代における「仏」です。(普及版〈下〉「如来神力品」) 民衆の中へ「如来神力品」の偈文(詩の形式)の中に、地涌の菩薩が民衆の中に入って、人々を救済する姿が、次のように描かれています。「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」(妙法蓮華経並開結575㌻)太陽が昇れば闇が消えるように、悪世末法にあって、地涌の菩薩が出現すれば、民衆に希望と勇気の光を送ることができるのです。それは人格、振る舞いが、月や太陽のような輝きを放っていくといえます。さらに、「世間に行じて」とあるように、地涌の菩薩は、世間から離れるものではなく、どこまでも現実社会の中で、人々を救済していくことを教えているのです。大変なところ、苦しんでいるところへ足を運び、民衆の幸福のために戦う——そこに地涌の使命があるのです。 【ロータスラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.9.19
December 9, 2022
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現代語訳「十一通御書」③=完 御書174㌻~177㌻弟子たちよいかなる苦難にも覚悟の信心を大仏殿別当への御状(御書174㌻)去る一月十八日、西戎である大蒙古国から国書が届きました。その国書に次のようにある。「大蒙古国の肯定より日本国の王に書状をお送りします。国家が行う正しい道は、はるか遠くにまで及ぶものです。誠実の交友し、親睦を図るならば、その道理がどうして異なることがあるのでしょうか。(中略)至元三年丙寅正月 日」と。以上、この国書の通りならば、返答によっては日本を攻めてくるにちがいないことは明白である。日蓮がかねがね思索し、申した立正安国論に少しも違うことがない。ただちに蒙古国を退けるよう対処しなさい。しかし日蓮を除いて、これを実現することはできない。早く自分自身を尊貴に思う慢心を捨てて日蓮に帰依すべきである。今世をむなしく過ごしてしまえば後悔してもしきれない。詳しく記すことはできない。この趣旨を方々へ申し上げた。一カ所に集まって、蒙古調伏についての御評議があるにちがいないでしょう。 文永五年(1268年)十月十一日 日蓮(花押) 謹上 大仏殿別当御房 寿福寺への御状(御書175㌻)伝え聞く所によると、蒙古国の国書が、去る一月十八日、確かに届いたとのことです。そうであれば、以前に日蓮が思索し、著した書である立奏安国論の通りに符合している。日蓮はまだ前兆もないことが分かる者かもしれません。このことから考えをめぐらせれば、念仏・真言・善・律などの悪しき教えが天下に満ち、身分の高い者から低い者まで全ての人々の師となっているために、このような他国侵逼難が競い起こるのである。法華経を信じないという過失によって、皆が同じように来世は無間地獄に落ちるにちがいない。早く邪な考えを改めて、達磨の教えを捨て、一乗である正法に帰依すべきである。このようなわけで、このことを方々へ伝えているところである。一刻も早く一カ所に集まって御評議すべきである。詳しくは対面して決着をつける時を待ち望む。謹んで申し上げる。文永五年十月十一日日蓮(花押) 謹上 寿福寺侍司御中 浄光明寺への御状(御書175㌻)大蒙古国の皇帝が、日本国を奪うであろうという趣旨の国書を送ってきた。このことは、以前に立正安国論において思索し、申した通り、少しも違うことはない。内心では、日本第一の勧賞にあずかるだろうと思っていましたが、それどころか何の御称賛もいただいていません。これは全て、鎌倉中の粗雑な教えに執着する者たち、すなわち律宗・禅宗などの者が、「国王・大臣に向かって、誹謗した私たちの欠点を説く」(法華経勧持品第13)からである。早く二百五十戒を抛って、日蓮に帰依し、成仏を目指すべきである。もしそうしなければ、無間地獄に堕ちる根源となるであろう。この趣旨を方々へお伝えした。早く一カ所に集まって対面して決着をつけることを遂行しなさい。これは日蓮が心から願うところである。決して諸宗をさげすんでいるのではない。法華経の大王のような戒に対して小乗の蚊や虻のような戒が、どうして比べられようか。笑わずにはいられない。笑わずにはいられない。 文永五年十月十一日日蓮(花押) 謹上、浄光明寺侍者御中 多宝寺への御状(御書176㌻)日蓮が故最明寺殿に差し上げた書である立正安国論をご覧になりましたでしょうか。まだ前兆もないことを分かって、これを思索し、申したものである。すでに去る一月、蒙古国からの国書が届いた。どうして驚かずにいられるのであろうか。このことは、大いに不審である仮に日蓮を憎んでいても、思索したことが的中したのにどうして用いないのか。早く一カ所に集まって御評議すべきである。もし日蓮が申すことをお用いにならなければ、来世には必ず無間地獄に堕ちるにちがいない。この趣旨を方々に申し上げた。決して日蓮の勝手な面会ではない。詳しく結論をお知らせいただきたい。言葉は心の中の全てを尽くさず、書いたものは言葉の全てを尽くさない。これ以上は全て省略します。謹んで申し上げる。文永五年十月十一日日蓮(花押)謹上 多宝寺侍司御中 長楽寺への御状(御書176㌻)蒙古国を調伏することについて、方々へお伝えしたところです。すでに日蓮が立正安国論に思索した通り符合した。早く邪な教えや教説を捨てて、真実の教えと教説を帰依しなさい。もしお用いにならなければ、今世では国を滅ぼして身命をお失い、来世には必ず地獄に堕ちるにちがいない。すみやかに一カ所に集まって話し合いを行い、評議しなさい。これは日蓮が心から願うところである。ご返事によって、その内容を知ることができるでしょう。決して諸宗をさげすんでいるのではない。ただ、この国の安泰を思うばかりである。謹んで申し上げる。文永五年十月十一日日蓮(花押)謹上 長楽寺侍司御中 弟子檀那への御状(御書177㌻)大蒙古国の国書が届いたことについて、十一通の書状をもって、方々へ申しました。きっと日蓮の弟子檀那は、流罪・死罪となるにちがいない。少しも驚いてはならない。方々へ強いて進言したことは申すまでもない。これは全て「而強毒之」のゆえである。これは日蓮が心から願うことです。皆それぞれ覚悟がなければならない。少しも妻子や親類縁者のことに執着してはならない。権威を恐れてはならない。今こそ生死の束縛を断ち切って、仏という成果を完成しなさい。鎌倉殿、宿屋入道、平左衛門尉、弥源太、建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿、長楽寺、以上の十一カ所へ十五通の書状を書いて諫めて訴えました。きっと意見があるであろう。日蓮のところに来て、書状などをご覧なさい。謹んで申し上げる。文永五年(戊辰)十月十一日日蓮(花押)日蓮弟子檀那中 創価新報2021.9.15
December 3, 2022
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第43回椎地四郎、星名五郎太郎、弥三郎 |椎地四郎椎地四郎が日蓮大聖人から頂いたお手紙は「椎地四郎殿御書」の1編だけ現存しており、詳しい人物像は分かっていません。居住地についても所説があり、定かではありませんが、鎌倉に在住していたとされています。なお、駿河国(静岡県中央部)駿東郡の人という説もあります。本人や他の門下への御書の文面から、椎地四郎は、四条金吾や富木常忍と親交があったとうかがわれます。例えば、「椎地四郎殿御書」の末尾では「四条金吾殿にお会いしたならば、よくよく語っていきなさい」(1449㌻、通解)とあります。弘安3年(1280年)の大聖人から四条金吾へのお手紙では、「椎地四郎が話しておりました。あなた(金吾)が主君の前で訪問を語ったことを、非常にうれしく思います」(1195㌻、通解)と記されています。更に、その翌・弘安4年の富木常忍の書状では、「椎地四郎のことは承っておきます」(995㌻、通解)と述べられています。この時、椎地四郎にとって何か不都合な事態が発生し、それを富木常忍が心配して、大聖人に報告したのかもしれません。これらのことから、椎地四郎は大聖人門下の様子を大聖人に報告したり、大聖人のお心を門下に伝えたりする役割を担っていたのではないかと考えられます。池田先生は『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻で、「(椎地四郎は)師匠からの信頼も厚く、師弟の歴史に名をとどめた模範の門下であったのではないでしょうか」と語られています。 「師曠の耳」「離婁の眼」「椎地四郎殿御書」の冒頭は、「先日、あなた(椎地四郎)が話されていたことについて、他の方に尋ねたところ、あなたが仰せになった通りです。少しも違い位はありませんでした』(1448㌻、趣意)との一節で始まっています。具体的な事柄は明らかではありませんが、椎地四郎は大聖人に何らかの重要な報告をしたと思われます。それを受けて、大聖人御自身でも確認されたところ、まさしく椎地四郎が伝えてきたとおりだったということです。続いて、「これにつけても、いよいよ励んで法華経の功徳を得るべきである。『師曠の耳』のように、『離婁の眼』のように見聞していきなさい」(同㌻、通解)と仰せです。おそらくは、椎地四郎が私心や私曲なく、ありのまま正確に報告したことから、それを称賛され、ますます信心に励み、大いなる功徳を受けていくように激励されています。その中で、聴覚、視覚に優れた者の譬えとして用いたれる人物の名前を挙げて、今後も的確に物事を見聞していくように励まされています。この後には、法華経の功徳を受けていくための要諦が記されています。それが「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同㌻)との仰せです。いかなる苦難の烈風にも、喜び勇んで立ち向かい、信心の炎を燃え上がらせていくように教えられているのです。さらに、「法華経の法門を一文一句であっても人に語るのは、過去の宿縁が深いと思うべきです」(同㌻、通解)と仰せです。当時、実際に難に遭ったり、その姿を目の当たりにしたりして、信心が揺らいでしまった門下は少なくありませんでした。そうした中にあっても、椎地四郎はけなげに妙法を語り、師匠の正義を語っていたのでしょう。それゆえ、大聖人に連なる宿縁の深さを示し、師弟不二の実践をたたえられたのではないかと拝されます。 法華経の法門を語るのは師弟の宿縁が深いゆえ 大聖人の葬儀に参列また、この書状では、法華経薬王品の、「如渡得船(渡りに船を得たるが如く)」(法華経597㌻)の文を引かれ、妙法の功力を生死の苦悩の大海を渡り切る船に譬えられています。「如渡得船」を具体的な船の素材や部位にこと細かく譬えていることから。(1448㌻~1449㌻参照)、椎地四郎は、船にかかわる武士だったという伝承も残っています。 本文(一四四八㌻一三行~一四四九㌻終) 抑(そもそも)法華経の如渡得船(にょととくせん)の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺(ぎょうちむへん)の番匠(ばんじょう)として四味八教の材木を取り集め・正直捨権(しょうじきしゃごん)とけづりなして邪正一如(じゃしょういちにょ)ときり合せ・醍醐一実(だいごいちじつ)のくぎ(釘)を丁(ちょう)と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしら(帆柱)に界如(かいにょ)三千の帆をあげて・諸法実相のおひて(追風)をえて・以信得入(いしんとくにゅう)の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢ(楫)を取り・多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応(かんがいそうおう)して・きりきりとこ(漕)ぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ、四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委(くわし)くは又又申すべく候、恐恐謹言。 四月二十八日 日 蓮 花 押 椎地四郎殿え 日興上人の「宗祖御僊化記録」によれば、弘安5年(1282年)の大聖人の御葬列の後方で、椎地四郎は「御腹巻(胴を守る甲冑の一種)」を奉持して参列しています。その葬列の後方で、池上宗長(池上兄弟の弟)は「太刀」を奉持しており、椎地四郎が池上宗長と並ぶ重要な門下と列されたのではないかと考えられます。 |星名五郎太郎星名五郎太郎が大聖人から頂いたお手紙は、文永4年(1267年)12月に認められた(星名五郎太郎殿御返事)の一通だけが現存しており、居住地やくわしい人物像は分かっていません。同抄では、人々が仏法の正邪に迷っているのは、法華経を誹謗する悪僧にたぶらかされているからであると、諸宗を厳しく破折されています。表面的な姿が立派だったり、高層の立場であったりしたとしても、そのものが付く教えが正しいとは限りません。仏法はあくまでも「法」が根本であり、正法に背く悪僧、善智識には決して従ってはならないことを教えられています。その末尾の段には、「この使いの方があまりにも急ぐので、とりあえず、お尋ねされた問いへの返答の一端だけを申しました。いずれまたの機会に、詳しく経釈を調べて書きましょう」(1209㌻、趣意)と仰せです。おそらく星名五郎太郎が大聖人に使いを送って、何らかの訪問についてお尋ねしたところ、大聖人が使いの者を待たせている間に認められたお手紙だったのではないかと推察されます。あとで詳しく経釈を調べて、改めて問われたことに答えたいとされているところに、どこまでも仏典を根本とされる大聖人の御精神、門下の清張を願われる誠実さが伝わってきます。さらに、この段では、「命年の秋・下り候て」(同㌻)と、翌年の秋には星名五郎太郎のもとを訪問したいと仰せになっています。「下り」という言葉から、星名五郎太郎の居住地が、御執筆の地の鎌倉以外にあり、鎌倉から足を延ばせる周辺地域に住んでいたのではないかと思われます。 |弥三郎「弥三郎」と称される門下も、大聖人から賜ったお手紙が1通だけ現存しています。その書状とは「弥三郎殿御返事(建治3年〈1277年〉8月御述作)」で、宛名には「弥三郎殿」とだけ記されています。弥三郎の名字に関する確かな情報は伝わっておらず、他の門下のお手紙でも弥三郎については触れらていないことから、所在地や人物像など、詳しいことは分かっていません。大聖人の出罪の折に門下となった船守弥三郎とは別人とされています。同抄によると、弥三郎は在家の身でありながら、何らかの事情で念仏僧と法論することになったようです。そのことを身延の大聖人にご報告した返答が、このお手紙です。佐渡から鎌倉に戻り、身延に入られた大聖人は、民衆救済を弟子たちに呼びかけられ、多くの門下が立ち上がりました。そうした中で、建治3年当時、四条金吾、南条時光、池上兄弟ら、有力な門下が周囲から厳しい圧迫を受けていました。同じ時期の弥三郎も、師の呼びかけに呼応して妙法流布に立ち上がった波紋が広がり、念仏者と法論をすることになったのかもしれません。また同年、四条金吾は讒言によって法座を乱したという冤罪を期せられ、主君から「法華経を捨てよ」と命じられました。それに対した大聖人は、弟子の潔白を証明しるため、金吾に代わって主君への弁明書を認められています(「頼基陳情」(1153㌻)。「頼基陳情」では、舌鋒鋭く悪侶を破折され、〝折伏とは、かくあるべし〟と正義の言論戦の模範を示されていますが、この「弥三郎殿御返事」でも、弥三郎が法論で語るべき内容を、大聖人が〝このように言いなさい〟と弥三郎の立場から記されています。まず同抄の冒頭で、大聖人は、法論の際に相手にいうべき言葉を記されています。「私は、仏法のことについてはよく分かっていない在家の身ではありますが、教わった法門で大事だと思ったのは、法華経の『今此三界』の文でございます」(1449㌻、趣意)と。これは、この娑婆世界(現実世界)で人々を守り、導き、慈しむ働き(主師親の三徳)を具えた「大恩ある仏」を間違えてはならない、という意味が込められていて、現実世界から離れて他土の仏(阿弥陀仏)を根本と仰ぐ念仏への破折になっています。さらに、「わが師(大聖人)のお心は、たとえ天照太神、正八幡大菩薩であっても、決して従わせることはできません。まして凡夫ができるわけがありません。仏の仰せのままに行動しようとする師の心は揺るぎません。ですから、たびたびの大難に遭われても臆することなく、いよいよ意気軒昂でいらっしゃるのです」(1451㌻、趣意)と言い切るように言われています。〝われわれの信心は、経典に照らして絶対に間違いない正法の大道を歩んでいる。ゆえに、何があっても決して臆してはならない。騒動と信心の大確信を訴えていけばいいのです〟——大聖人の烈々たる師子吼をわが胸中に燃え上がらせ、弥三郎は、いかなる圧迫に遭おうと、師の正義を叫ぼうとの決意がみなぎったことでしょう。 断じて勝つと決めることが勝利の肝要 ひとえに思いきれまた、法論への心構えとして、「くれぐれも心して、領地を惜しんだり妻子を顧みたり、また人を頼みにして不安がってはならない。ただ、ひとえに思い切りなさい」(同㌻、通解)と仰せです。法論に際しては、油断や不安を拝し、真剣な祈り方と万全の準備をもって臨み、「断じて勝つ」と腹を決めることが肝要であると教えられています。そして、「今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が亡くなっているのに、自分が今まで生き永らえてきたのは、このことに遭い、それを乗り越えて成仏するためであったのです」(同㌻、通解)と述べられています。当時、1度目の蒙古襲来の記憶も生々しく、さらに国中が深刻な疫病や飢饉に見舞われていました。また、多くの人が命を落としたことでしょう。そうした中でも、弥三郎が生きてこられたのは、この法論の勝利で大聖人の教えの正しさを説明し、自身が成仏するためであったと励まされているのです。さらに、この法論は、武士が名を挙げる重要な合戦と同じように、妙法弘通で永遠に名を残す機会であるとして、有名な合戦の勝負所となった「宇治川」と「勢多(瀬田川)」(同㌻参照)を例にあげられています。このような具体的な合戦地を譬えに用いられていることからも、弥三郎は武士だったのではないかと推察することができます。この後、実際に法論の行方がどうなったのかは分かっていません。しかし、師と共に戦う弟子の誕生を喜び、心から勝利を願われた大聖人の慈愛の励ましは、弥三郎の命に深く刻まれたに違いありません。 【日蓮門下の人間群像——弟子の絆、広布の旅路】大白蓮華2021年9月号
November 29, 2022
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生命尊厳を時代精神に小松 法子 女性平和文化会議長憎しみの連鎖私たち青年部は今夏、広島・長崎・沖縄で、「戦争・被爆証言を聞く会」を開催し、オンラインで全国をつなぎ、不戦の誓いを新たにしてきました。証言してくださった方たちは、思い出したくもないであろう悲痛な戦争体験を語り、恒久平和への切実な願いを、青年部に託してくださいました。今も地球上では紛争の渦中で苦しむ人がいます。その意味で、現代を生きる私たちにとって「戦争」は決して過去の出来事ではありません。証言会に参加された方からは、「世界平和のために、自分にできることが必ずあると確信した」等の声が多く寄せられました。皆さん、何か行動を起こしたいと決意されていました。今いる場所で、私たちにできること——それは、目の前の一人を理解していく努力はないでしょうか。アメリカ創価大学の学生だった時、私にとって忘れられない出来事がありました。2013年(平成25年)9月、ケニアの首都・ナイロビでテロ事件が起こり、67人もの死者が出たのです。そのニュースに大きなショックを受け、「なぜ、人間が人間を殺すのか」「憎しみの連鎖を断つにはどうすればよいのか」と真剣に悩みました。同時に、〝今、私にできることは、世界中から集まった多様な学生と友情を育むことで、異文化間に平和の架け橋を築いていくことだ〟と、使命を深く自覚しました。 無意識の偏見の克服自他ともに輝く 青春の日々を歩む 普遍性と共通性大学に入学した当初、私の何げない質問で友人を不快にさせてしまったことがありました。日本人が皆、和食や着物、相撲観戦を好むとは限らないように、サッカーが嫌いなブラジル人がいても当然です。にもかかわらず、相手の国や文化の特徴にとらわれて、無意識のうちに〝ラベル〟を貼って接していたことが原因でした。人はどうしても、自分と異なる人に〝ラベル〟を貼り、個人を判断しようとしがちです。これが「無意識の偏見」です。それでは、他者への無理解やステレオタイプ(固定観念)を助長しかねません。さまざまな文化を持つ友人との大学生活では、「差異」と同様に、人間としての「普遍性」「共通性」に目を向ける大切さを学びました。たとえば、相手をよく知らないうちは、「○○○人の女性」など、出身国のひも付けて相手を見ていました。しかし、相手の好きなものや、将来の夢を知るうちに、その人を〝同じ一人の人間〟として理解できるようになります。相手の個性を知り、〝その人のかわりになる人は、世界のどこを探してもいない〟と思えることで、深い友情を結ぶことができました。人は誰しも生まれ育った環境によって、ある種の固定観念が育まれます。それに合わない他者への偏見を持っています。また、知らない相手への恐怖ゆえ、誤った先入観が肥大してしまう場合もあります。差別を生み出す、こうした偏見から完全に逃れる手段はないのかもしれません。だからこそ、自身に対して「固定観念にとらわれてはいないか」「相手の思いを考慮しているか」と常に問い続けていくことが大切です。 万人に宝塔を見いだす池田先生は、小説『新・人間革命』30巻〈下〉で、東西冷戦下の複雑な国際情勢を憂慮し、「分断は分断を促進させる。ゆえに、人減という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められる」とつづられています。「人間という普遍的な共通項」に立ち返るとはどういうことか——ここでは、法華経で説かれる「宝塔」について、日蓮大聖人が門下に贈られたお手紙から拝察したいと思います。宝塔とは、法華経の虚空会の儀式に登場する、金・銀などの七宝で飾られた巨大な塔のことです。その大きさは、高さ五百由旬、幅二百五十由旬——一説には、地球の直径の3分の1から半分にも及ぶといわれる宝塔は、万人に具わる、仏界の生命の偉大さを表したものであると拝されます。大聖人は次のように仰せです。「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(御書1304㌻)「男女の・すがたより外には」「貴賤上下をえらばず」とあるように、性別や社会的立場など、一切の差異を超え、仏の尊極な生命が、〝ほかならぬあなた自身の胸中に具わっています〟と大聖人は教えられています。ここに、万人が等しく尊い存在である、との大聖人の人間観が輝いています。この究極の平等思想、人間尊厳の思想が、あらゆる悲惨をなくすための希望の源泉であると感じます。 変革は一人から人類が、紛争に加え、新型コロナウイルスの感染拡大という困難に直面している今、分断や憎悪が表面化する場面があります。SNSでの誹謗・中傷問題も深刻です。一人一人の尊厳を認め合う社会を築くために、重要な役割を果たすのが人権教育です。本年は、「人権教育及び研修に関する国連宣言」の採択から10年。これまでもSGI(創価学会インターナショナル)は、人権教育を市民社会の中で推進してきました。SGIは、国連人権高等弁務官事務所などと共に、映画「尊厳への道——人権教育の力」を制作。映画では、女性が虐げられる慣習に苦しんだインドの少女が、教師に相談したことで人権教育が広まり、人々の意識変革につながった事例など紹介されています。映画には一貫して「変革は一人から始まる」とのメッセージが込められています。今月行われた「青年不戦サミット」(第30回青年平和連絡協議会)でも、一人一人が今いる場所で〝平和の旗手〟になっていくことを確認し合いました。サミットに際し、先生は「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書986㌻)との御文を拝し、「大要の仏法を実践して一日又一日、かけがえのない青春の生命を自他共に明るく輝かせていくこと自体、不戦への挑戦です」とのメッセージを送ってくださいました。我が身の宝塔である、貴い「宝」であると自身の生命の尊厳に目覚めることで、縁する人にも宝塔を見いだすことができます。自分とあらゆる人の生命が貴い「宝」であり、生命の宝塔を輝かせていく——ここに、自他供の幸福を築いていくための大切な挑戦があると確信します。目の前の一人と友情を結び、生命尊厳の哲学を時代精神へと高めゆくことが、地球上の全人類の幸福をつくることになると確信し、学会活動や草の根の平和運動に励んでいきます。 【教学随想日蓮仏法の視座】聖教新聞2021.8.31
November 10, 2022
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現代語訳「十一通御書」②日蓮は日本第一の法華経の行者 北条弥源太への御状(御書172㌻)先月お越しくださったものの、とても急いでお帰りになり、残念に思っておりました。さて、蒙古国から国書が届いたことで、上は天皇から下は広く庶民にいたるまで、驚き動揺する様は極まりない。しかしながら、なぜかという理由を、人々はまだ知らない。日蓮がかねがね知っていたので、すでに一つの論文(立正安国論)をつくって、御覧に入れるためこれを差し上げた。兆候が先に現れ、災いは必ず後からやって来る。去る正嘉元年(1257年)の八月二十三日、戍亥の刻(午後9時頃)に起きた大地震は、まさに災いの前兆ではないか。法華経に「如是相」(方便品第2)とあり、天台大師は「クモが巣を作ると喜ばしいことが起こり、カササギが鳴くと客人が訪ねてくる」と言い、『易経』に「よいことや悪いことは変動から生じる」とある。これらの文がどうして廃れるであろうか。結局は、諸宗への帰依をやめて、一乗である妙法蓮華経の信仰をなさるべきであるということについて意見書を提出しました。日本が亡国となる根源は、浄土・真言・禅宗・律宗の邪な教え・悪しき教えから起こった。諸宗の僧と日蓮とを呼び集めて、諸経の勝劣を判別しなさい。特にあなたは、相模殿と姓氏が同じです。根本が滅んで、枝葉がどうして栄えるであろうか。早く蒙古国を調伏して、国土を安穏にしなさい。法華経を誹謗する者は、三世の仏たちの大怨敵である。天照太神や八幡大菩薩などがこの国を捨てられたため、大蒙古国から国書が来たのであろうか。今後は、各々、生け捕りとなり、他国の奴隷となるにちがいない。この趣旨で方々に警告し、拙文をしたためたお手紙を差し上げています。謹んで申し上げる。 文永五年(1268年)(戊辰) 十月十一日 日蓮(花押) 謹上 弥源太入道殿 建長寺道隆への御状(御書173㌻) 仏閣は隣り合って立ち並び、法門(教えという門)は屋根に届くほどである。仏法が繁栄していることは、インド・中国を越え、僧宝の振る舞いは、六通の阿羅漢のようである。しかしながら、釈尊が生涯にわたって説いたすべての経典について、いまだ勝劣・浅深を知らない。まったく鳥や獣と同じである。私たちに対して三徳を備えた釈迦如来を、ただちに抛って、他の仏国土の仏や菩薩を信じている。これがどうして逆路伽耶陀の者でないのか。「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為。真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」と言い切って来た通りである。そこで日蓮は、去る文応元年(1260年)の頃、思索して著した書を立正安国論と名付け、宿屋入道を介して故最明寺殿に差し上げた。この書の結論として、念仏・真言・禅・律などの悪い教えを信じたため、天下に災難が頻繁に起こり、そればかりか、他国からこの国が攻められるに違いないということを思索して著したのである。そうであるのに、去る一月十八日に蒙古国からの国書が届いたとのことであり、日蓮が思索したことと少しも違うことなく符合した。さまざまな寺院の祈祷に威力がなくなったからなのか、それとも悪い教えのせいなのか。鎌倉中の、身分の高い者から低い者まで、あらゆる人々は、道隆聖人を仏のように仰ぎ、良観聖人を阿羅漢のように尊んでいる。そのほか寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老らは、「自分自身を尊貴に思う慢心に満たされ、まだ得ていないものを得たと思っている」(法華経勧持品第13)増上慢の大悪人である。このような者らが、どうして蒙古国の大軍を調伏することができようか。そればかりか、身分の高い者から低い者まで、日本国中のあらゆる人々が全て生け捕りとなるにちがいないのであり、今世では国を滅ぼし、来世には必ず無間地獄に堕ちるであろう。日蓮が申すことをお用いにならなければ、きっと後悔するだろう。この趣旨を鎌倉殿や宿屋入道殿、平左衛門尉殿などにも書状で申し上げました。一カ所に寄り集まってご評議があるにちがいありません。これは決して日蓮の勝手な見解ではない。ただ経・論の文に従ってまでである。詳しくは書面にかき切れない。全て対面して決着をつけるときを待ち望む。書いたものは言葉のすべてを述べ尽くさず、言葉は心の中の全てを述べ尽くさない。謹んで申し上げる。文永五年(戊辰)十月十一日日蓮(花押)進上 建長寺道隆聖人侍者御中 極楽寺良観への御状(御書174㌻)西戎である大蒙古国から国書が届いたことについて、鎌倉殿其の他への書状を差し上げました。日蓮が去る文応元年の頃、思索して申した立正安国論の通り、毛筋ほども相違していません。このことをどう考えるのか。〝長老〟の忍性よ、速やかに〝嘲弄〟の心を改め、早く日蓮房に帰依しなさい。そし、そうしないであれば、「世俗の社会を軽蔑する者が、在家の者に対して教えを説く」(法華経勧持品第13)という過失は逃れがたいのではないか。「法に依り所とするのであり、人を依り所としてはならない」(涅槃経)とは仏の金言である。良観聖人の「住処」を、法華経に「あるいは阿練若にあり、衲衣の着、空閑にいて」(勧持品第13)と説いている。阿練若とは「無事」と訳す。どうして、日蓮について事実無根の中傷を権力者に訴えていることが、あなたの「住処」とことなるであろうか。まったく戒定慧の三学を修めた者に似た、矯賊の聖人である。僭聖増上慢であり、今世では国賊であり、来世では地獄に堕ちることは間違いない。少しでも、過去の過ちに悔いるならば、日蓮に帰依すべきである。この趣旨を、鎌倉殿をはじめとして、建長寺などその他にもお伝えしました。つまるところ、本意を遂げようと思えば、対面して決着をつけるのに勝るものはない。まさに、三蔵の浅はかな教えで、「諸経の中の王」である法華経に立ち向かうのは、河川と大海、華山と須弥山の勝劣のようなものであろう。蒙古国を調伏する秘法を、確かにご存知なのでしょうか。日蓮は日本第一の法華経の行者であり、蒙古国退治の大将である。「(法華経が一切の経典の中で第一であるように、法華経を持つ人は)一切衆生の中で、同様に第一である」(法華経薬王菩薩本事品第23)とあるのは、このことである。いうべきことは多岐にわたり、道理を尽くすことができない。これ以上は全て省略します。謹んで申し上げる。文永五年(戊辰)十月十一日日蓮(花押)謹上 極楽寺長老良観聖人御所
October 28, 2022
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第28回常不軽菩薩品第二十㊦■不軽の意味不軽菩薩の名前にある「不軽」については、いろいろな解釈があります。鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」では、〝常に人を軽んじなかった〟という意味です。しかし、サンスクリットでは、〝常に人から軽んじられた〟という反語の意味になっています。池田先生は、「常不軽菩薩が、いつもバカにされていたという表面に着目すれば、たしかに『常に軽んじられた』菩薩になるでしょう。しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、『常に軽んじなかった』という訳は正しいのではないだろうか」と語っています。不軽菩薩は、どんなに人から軽んじられたとしても、〝自分は人を軽んじない〟という生き方を貫いたのです。「御義口伝」には、「自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向かって礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書769㌻)とあります。相手の成仏の可能性を信じることは、自分の成仏の可能性を信じることと一体です。不軽の実践は、自他ともに仏性に目覚める修行なのです。 ■二十四字の法華経不軽菩薩の弘めた法華経は、「二十四文字の法華経」といわれています。「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」(法華経557㌻)の24字のことです。「御義口伝」には、「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(御書764㌻)とあるように、24字は、法華経の心が凝縮された「略法華経」に当たります。それが、「私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、あなどったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」との万人尊敬の精神です。 ■其罪畢已「其罪畢已」は、「其の罪は畢え已わって」(法華経564㌻)と読み、不軽菩薩が礼拝行を貫いて得た宿命転換の功徳を表した言葉です。日蓮大聖人は、「不軽菩薩の悪口罵詈さられ杖木瓦石をかほるゆえなきにあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説かれて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへてはんべり」(御書1000㌻)と仰せです。不軽菩薩が上慢の四衆から迫害を受けたのも、過去の法華経誹謗の故であり、それに耐えて法華経を弘めたことによって、過去の重罪を消滅することができたのです。池田先生は、「法華経を説いて、どんなに反対され、迫害されても、『これで自分の罪業を消しているのだ』と喜んで受けきっていきなさいということです。『嘆いてはならない』と教えてくださっているのです」と語っています。いかなる苦難があっても、常に朗らかに広布に励んでいくことを教えられているのです。 ■豈異人ならんや釈尊は、礼拝行を貫き法華経を弘めた不軽菩薩について、「豈異人ならんや。則ち我が身是れなり」(法華経561㌻)と、実は釈尊自身の過去世の修行の姿であったと明かしました。釈尊の成仏の因が、不軽菩薩の礼拝行にあったのです。大聖人は、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候へるぞ」(御書1174㌻)と仰せです。自他供に成仏へと導く、人を敬う振る舞いを示すことこそ、釈尊がこの世に生まれた一番重要な目的であると教えられています。さらに大聖人は、「法華経は三世にわたる説法の儀式であり、過去の不軽品に出てくる迫害された不軽菩薩は、今、勧持品で説かれる三類の強敵を呼び起こした私である。今、勧持品を身で読んでいることは、未来にあっては不軽菩薩の戦いとなるのである」(同953㌻、趣意)との御確信を述べられています。私たちにとって大切なことは、不軽の実践を過去の出来事として捉えるのではなく、自分自身のこととして不軽の修行を貫くことなのです。 ■創価学会仏池田先生は、威音王仏について、次のようにつづっています。「戸田先生は明言されました。『〈創価学会仏〉——未来の経典には、こう学会の名が記されるのだよ』私の胸は高鳴りました。それは、法華経不軽品に説かれる威音王仏に即して厳然たる大確信です。——最初の威音王仏は、衆生を教化し、入滅した。次に現れた仏もまた、威音王仏と名乗り、民衆を救済した。一代限りで終わることなく、次の代、さらに次の代と現れた。そして、二万憶もの仏が、みな同じ『威音王仏』という名前で、長遠なる歳月、民衆を救済してきた——と。戸田先生は、『次第に二万憶の仏有し、皆同一の号なり』(法華経556㌻)と描かれている無数の仏とは、〝永遠に民衆を救い続ける、威音王仏の名を冠した『和合僧団』であり、『組織』のことといえまいか〟と、鋭く洞察されたのです。まさしく『創価学会仏』とは、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生という師弟に連なり、広宣流布の大誓願に生き抜く地涌の菩薩の集いにほかなりません』 怒涛の社会の中へ「法華経の智慧」から最も苦しんでいる民衆の中に分け入って、人々の苦しさ、悲しさに同苦し、救っていく。それが「仏」です。しかも、民衆を救わんと戦うゆえに、傲慢な権力者からは弾圧され、僧侶をはじめ悪い指導者に迫害され、当の民衆から憎まれる。「悪口罵詈」であり、「杖木瓦礫」です。その大難のなかにこそ、「仏」はいらっしゃるのです。どこか安穏な別世界で、覚りすましているのが「仏」ではない。怒涛の社会の中へ、先頭を切って進むのが、「仏」なのです。◆今です。この今、広宣流布へ{戦おう!」という『一念』のなかにのみ妙法蓮華経は生きている。「豈異人ならんや」。大聖人は「不軽菩薩がじつは釈尊であった。今、大難にあっている私もじつは釈尊なのだ。仏なのだ」と教えてくださっているのです。それが分らないと、法華経を学んだことにはならないよ、と。(普及版〈下〉「常不軽菩薩品」) 非暴力不軽菩薩は、大勢力を誇った増上慢の人々に、杖木瓦石という暴力をもって迫害されました。それに対し、不軽菩薩は、礼拝行という精神の力で立ち向かったのです。暴力性はどこからくるのか。日蓮大聖人は、「第六天の魔王の所為なり」(御書765㌻)と、不軽菩薩の迫害は、第六天の魔王の振る舞いとされています。自他供の仏性を信じられないことから暴力は生まれるのです。だからこそ不軽菩薩は、相手の眠れる仏性を信じて、それを目覚めささるための仏縁を結び続けたのです。ここに暴力が暴力を生んでしまう負の連鎖を断ち切る智慧があるのではないでしょうか。無関心の相手や、敵意を示すような相手でも、誠実な振る舞いによって、必ず仏性を触発していくことができるのです。私たちも、あらゆる人に仏縁を広げ、人類の仏性を揺さぶり、覚ます立正安国の対話に邁進していきましょう。 【法華経への旅ロータスラウンジLotusLounge】聖教新聞2021.8.15
October 16, 2022
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第42回内房女房、内房尼内房女房(うつほさのにょうぼう)は駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮之内房)に住んでいた女性門下です。(夫の詳細は分かりません)。日蓮大聖人に銭十貫文をご供養しており(1420㌻)、また頂いたお手紙の内容から、信仰心の深い、教養ある女性だったことが推測されます。大聖人から賜ったお手紙は「内房女房御返事」1編が残っています。 内房尼は内房女房の母かなお、「三沢抄」に登場する「うちぶさの(内房尼ごぜん)(1487㌻)は、その内容から彼女の母であろうと思われます〈注1。実母継母かは分かりません〉。 信心の確かな門下「内房女房御返事」は、内房女房が父の百箇日忌を前にして、真心から追善供養に励んできたことをご報告してきたことに対するお手紙です。この百箇日忌に当たって、内房女房は大聖人に「願文」〈注2〉を届けているのですが、同抄の冒頭に、この願文が引用されています。願文に「女弟子大中臣氏敬白す」(1421㌻)とあることから、内房女房は「大中臣」という姓の女性であることが分かります〈注3〉。さらに願文の内容から、内房女房の父の百箇日忌は弘安3年(1280年)8月9日と分かるので、父はこの年に亡くなったことが判明します。ここから、同抄の御執筆は、この年の8月14日であることもはっきりします(抄末に「八月十四日」の日付がある)。同抄の内容から、父は内房女房の勧めで大聖人に帰依した可能性があります〈注4〉。願文には「女弟子」とあり、内房女房自ら〝大聖人門下〟であると称する、信心のしっかりした女性だったこともうかがえます。なお、内房女房は身延に足を運び、大聖人とお会いしていたと考えられます〈注5〉。 真心からの回向を最大に御称賛 輪陀王と白馬の故事願文から分かるのですが、内房女房は父親の百箇日忌に当たって、自ら法華経方便品・寿量品を読誦し、あわせて題目を5万遍唱えていました。これに対し大聖人は「いまだ五万辺の類を聞かず」(同㌻)——まったく先例がないことですよ、と称えられています。あわせて、仏典に説かれる〝輪陀王と白馬〟の故事を踏まえて、唱題の功徳を分かりやすく教えられています。この故事のあらましは、こうです。——昔、白馬のいななきを聞いて、色つやも良くなり、力も強く元気になる輪陀王という名の王がいました。白馬は白鳥の姿を見て鳴くのですが、白鳥は一羽もいなくなると、白馬は鳴かなくなりました。王は白鳥を呼び寄せるように命じますが、誰も呼び寄せることができません。そうした中、仏弟子の馬鳴菩薩が十方の諸仏に祈ったところ、白鳥が集まり、それを見た白馬がいななき、輪陀王は元気を取り戻したのです。 〝この唱題で亡父が成仏〟大聖人は内房女房に、亡き父は輪陀王、あなたは馬鳴菩薩、そして南無妙法蓮華経の題目は白馬のいななくようなものであり、「あなたの唱える題目の声を聞いて、父上は必ず成仏されるでしょう」(1424㌻、趣旨)と励まされています。〝あなたは、白鳥を呼び寄せた、あの馬鳴菩薩に当たるのです〟。この大聖人の仰せに、触れた内房女房は、妙法を持つ自身の使命と意義の大きさを改めて知り、心打たれたことでしょう。内房女房は、女房自ら唱える題目の声によって亡き父が成仏するとの師の指針を心に刻み、真剣な唱題に益々励んでいったにちがいありません。付け加えると、一生成仏のための根本は、その人自身の生前の信仰の実践にあることは言うまでもありません。大聖人が本抄で、「亡くなられた慈父尊霊は、ご存命中に南無妙法蓮華経と唱えられたのですから即身成仏の人です」(1423㌻、趣旨)と示されている通りです。 「法華経は主君」——法義の上から厳格な信心を示す一方で門下の心情を気遣うこまやかな配慮 内房尼の申し出をお断り一方、内房女房の母と思われる内房尼については、「三沢抄」に言及があります〈注6〉。同抄によると、内房尼は小袖を一つ、大聖人に御供養したようです。さらに、次のような挿話が記されています。内房尼が氏神〈注7〉へ参詣し、そのついでに大聖人にお会いしたいと願い出たのに対し、大聖人は、お断りになりました。このことについて大聖人は、法華経根本の法義の上から正しい信心の姿勢を教えるため、内房尼の嘆きに心が痛んだけれどもお会いしなかった——と記されています(1489~1490㌻)この点、大聖人は具体的に「神は所従なり法華は主君なり」(1490㌻)と、法華経を根本とすべきことを示されています。この仰せには、法華経の行者こそ根本として尊ぶべきことが含意されているとも拝せるでしょう。大聖人は内房尼の心情に配慮して、内房尼に限らず、下部の湯〈注8〉のついでに大聖人にお会いしたいと言ってきた多くの人に、お引き取りいただいているとも述べられています。 ゆかりのある弟子に言付ける 同抄によると、門下の三沢殿が大聖人にお会いした後、「三沢殿が病にかかった」という噂が、身延の大聖人のところに聞こえていたようです。しかし、三沢殿からは大聖人に、特段、知らせはなく、大聖人は心配をされていました。そうした中、三沢殿から久しぶりに便りがあり、大聖人は、ことのほか喜ばれました。大聖人は同抄の中で、こうしたいきさつを内房尼に詳しく話して差し上げてくださいと、三沢殿に託されています。大聖人の法門を正しく実践するとはどういうことかを厳格に示される一方で、大聖人を求める内房尼の信心の志を大切にして、いうなれば「尋ねたいこと、報告したいことがありましたら、遠慮なくお知らせください」と内房尼を気遣われる大聖人のこのこまやかな配慮が、ひしひしと伝わってきます。内房尼は、一人の門下の心を大切にする師・大聖人の人間としての偉大さを実感しながら、報恩・感謝の思いで信心に励んでいくことを決意したことでしょう。 〈注1〉 内房尼は「三沢抄」で、「尼ごぜんは・をや(親)のごとくの御とし(歳)なり」(1490㌻)と記されており、年齢から考えて、この尼御前は、内房女房の母であると推定することができる。本抄を頂いた三沢殿は、内房尼にゆかりのある人だったと思われる。〈注2〉 願文は一般的に、神仏に願を建てる時、あるいは仏事を修する時、その願意を記した文章をいう。〈注3〉 大中臣氏は古代の有力な氏族であり、神祇官の上級官人を占めてきた中臣氏の子孫である。内房女房は、生が大中臣であったことから、願文などの正式な文章では「大中臣氏」と記したと考えられる。〈注4〉 大聖人は「内房女房御返事」で、内房女房の父が生前、南無妙法蓮華経の題目を唱えていたことを「孝養の至極」とされ、さらに法華経の文を併せて示されている(1423㌻)。この法華経の文は、父・妙荘厳王を仏法に導いた浄蔵・浄眼の逸話が述べられる妙荘厳王本事品27の一節。〈注5〉 「内房女房御返事」には願文からの引用として、内房女房が大聖人のもとを訪ね、「妙法の題名を受け」たことの詳細がわからないが、大聖人と一緒に題目を唱えたことと拝察することもできる。〈注6〉 「三沢抄」の御執筆は建治4年(1278年)2月であり、同抄に述べられる内房尼のエピソードは、内房女房が父の百箇日忌に当たって追善供養をした時から2年ほど遡る時のことと思われる。〈注7〉 氏族の祖先としてまつる神、氏族に関係の深い神、それをまつった神社などの意味がある。〈注8〉 甲斐国・下部(現在、山梨県南巨摩郡身延町)にある温泉。 [関連御書]内房女房宛て:「内房女房御返事」(1420㌻) 【日蓮門下の人間群像——師弟の絆、広布の旅路】2021‐8大白蓮華
September 11, 2022
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第27回常不軽菩薩品第二十㊤■大要不軽菩薩のドラマを通して、滅後の弘通の方法と逆縁の功徳が説かれます。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1その時、釈尊が、得大勢菩薩に告げます。「今まさに知るべきである。法華経を持つ四衆(男女の出家・在家の弟子)を、悪口・罵詈・誹謗するならば、これまで説いた通り、大きな罪の報いを受けるであろう。法華経を持つ四衆得る功徳は、前章(法師功徳品)で説いたように、六根が清浄になるであろう」●シーン2威音王仏のことを語ります。「無量無辺不可思議阿僧祇劫というはるか昔、威音王仏という仏が、天界・人界・修羅界の衆生に法を説き、仏に智慧を究めさせた」「この仏(威音王仏)の寿命は四十万億那由他恒河沙劫で、衆生を利益し終わって入滅した。正法・像法・の時代が終わったこの国に、この仏は再び、威音王仏の名で出現することがあった。このように入滅と出現を繰り返し、二万憶の威音王仏という同じ名前で、長遠なる歳月、衆生を救済してきたことが説かれます。●シーン3続いて不軽菩薩のドラマが始まります。まずは時代背景です。「最初の威音王仏が入滅し、正法が終わり、正しい法が見失われた像法になると、増上慢の男性出家者が一大勢力を築いていた。その時、一人の『常不軽』という菩薩がいた」続いて名前の由来です。「どういう因縁で、常不軽と名付けられるのか。この人は、人々を見ると、全員に礼拝し、たたえ、次の言葉を告げる。『私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、あなどったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道を修行すれば、必ず仏になることができるからです』しかも、経典を読誦することに専念せず、礼拝行をするだけである。遠くに人を見かけると、近づいて礼拝し、たたえ、次のように語る。『私はあえて、あなた方を軽んじません。あなた方は皆、必ず仏になることができるからです』不軽菩薩に、怒りや恨みを生じる者が、悪口・罵詈して言う。『この無知の者は、どこより来て、自ら(私はあなた方を軽んじません)と言って、我らのために(必ず仏になることができます)と授記するのだ。このような虚妄な記別を用いない』このようにして、不軽菩薩は何年も常に罵詈されるが、怒りや恨みを抱かず、常に言葉を掛けた。『あなた方は、必ず仏になることができます』人々が杖や木でたたくと、それを避けて、走って遠く離れ、大声で次のように言う。『私はあえて、あなた方を軽んじません。あなた方は皆、必ず仏になることができるからです』常にこの言葉を掛けるので、増上慢の人々は、『常不軽』と名付けた」「(不軽菩薩は死期が来て)まさに命が絶えようとする時、天空からの声で、威音王仏がかつて説かれた法華経の二十千万億の偈(詩)を聞き、その全てをよく受持した。そして先に(法華経法師品で)説いたような六根清浄を得たのである。その後、二百万億那由他歳も寿命を増し、広く人のために、この法華経を説いた」「(不軽菩薩を)軽んじて賎しめて不敬と呼んだ増上慢の人々は、不敬菩薩がすばらしい神通力と雄弁と智慧の力を得た事実を見、その説法を聞いて、皆、信伏随従した」このように、不軽菩薩の実践が描かれています。●シーン4不軽菩薩は命が絶えた後、生まれるたびに、多くの仏に会い、多くの人のために法華経を説き、功徳を成就して仏になることができたことが述べられます。釈尊が、その話の意味を語ります。「その時の常不軽菩薩は他の人のことではない。私自身のことである。どうして別人であろうか。否、私のことなのだ」「もし過去世で、法華経を受持・読誦し、他人のために説かなければ、速やかに阿耨多羅三藐三菩提(仏の完全な覚り)を得ることは叶わなかったであろう。過去の仏のもとで、法華経を受持・読誦し人のために説いたので、速やかに完全な覚りを得たのである」釈尊の過去世における修行の姿であったことが明かされます。●シーン5「(不軽菩薩を迫害した)人々は、不軽菩薩への怒りや憎しみをもって、不軽菩薩を軽んじ、賤しんだゆえに、二百億劫の間、仏に会うことも、法を聞くこともできず、千劫も阿鼻地獄で大苦悩を受けた。その罪を終えて、また不軽菩薩に出会い教化された」続いて、話の意味を語ります。「常に不軽菩薩を軽んじた人々は、他の人のことではない。今、この会座の中の五百人の菩薩などで、最高の覚りにおいて退転しないものが、過去に不軽を軽んじた人である。知るべきである。この法華経は多くの菩薩を利益して、よく完全な覚りに至らせる。故に多くの菩薩は、仏の滅後に、常にこの経を受持・読・誦・解脱・書写すべきである」このように不軽菩薩品では、不軽の実践のドラマを通じて、滅後の修行について述べられています。 「法華経の智慧」から真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。この崇高な心の分からない人間からは、われわれは「常に軽蔑されて」きました。それでも、相手がだれであれ、われわれは悩める人がいれば、飛んでいって面倒を見てきた。抱きかかえながら、「あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ」と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。「一人の人」を身を粉にして育て、世話してきた。まさに「常に人を軽んじなかった菩薩」です。◆不軽菩薩は、上手な話もしなかった。偉そうな様子を見せることもなかった。ただ、愚直なまでに「下種」をして歩き回った。その行動にこそ、三世にわたって、「法華経」が脈動しているのです。要するに学会員です。最前線の学会の同志こそが、不軽菩薩なおです。(普及版〈下〉「不軽菩薩品」) 而強毒之 「御義口伝」に、不軽菩薩の礼拝行について、「而強毒之するは慈悲より起これり」(御書769㌻)と記されています。「而強毒之」は「而も強いて之を毒す」と読み、法を聞くことを好まない人にも、強いて法を説いて仏縁を結んでいくことです。不軽菩薩が、誰にでも声を掛けて仏縁を結んだように、先入観などを拝して仏縁を結んでいくことが大切です。不軽菩薩を迫害した人々が最終的に救われたように、ひとたび妙法に縁させれば、必ず相手を救っていくことができるのです。私たちの対話は、どこまでも慈悲の発露です。仏の振る舞いです。大切なことは、相手の反応に一喜一憂しないことです。いわんや、怒ったり、恨んだりしてはいけません。どこまでも相手の仏性を信じ、朗らかに、自信をもって語ることです。勇気を出して〝あえて語る〟ことが、本当の意味での相手への優しさであり、その行動こそ慈悲が脈打つのです。 【LotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.7.18
September 2, 2022
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第41回三沢殿、新池殿三沢殿今回は、初めに駿河国(現在の静岡県中央部)を舞台に奮闘した門下の一人、三沢殿を紹介します。三沢殿は、駿河国富士上方の三沢(静岡県富士宮市大鹿窪の三沢)の門下です。詳しいことは定かではありませんが、二沢に所領をもっていたようです。日蓮大聖人から頂いたお手紙(「三沢抄」)の内容から、三沢殿は、大聖人が佐渡に配流される文永8年(1271年)9月以前からの信仰に励んでいたと思われます。 駿河の地で信仰に励む当時、駿河国は、北条氏の得宗家が守護を、また、念仏の強信者であった重時(第二代執権・義時の息子)の一族が駿河守を務めていました。特に、富士方面は、「後家尼御前」(322㌻)と呼ばれる、重時の娘で、時より(第5代執権)の妻の影響が大きい地域です「後家尼御前」は、時より、重時の仇であるとして大聖人への怒りを抱いていました。そのような中、この地で日蓮門下が信心を続けるには慎重な配慮が必要だったはずです。建治年間に富士下方の熱原郷(富士市厚原)で、日蓮門下に対する迫害が強まり(熱原の法難)、弘安2年(1279年)には、その激しさが頂点を迎えます。このような状況の中で、三沢殿から大聖人への音信は途絶えがちだったようです。 久しぶりの音信門下への圧迫が増す建治4年(1278年)2月、三沢殿は身延山中の大聖人に柑子蜜柑100個、川海苔、於胡海苔(岩には生えるひも状の海藻)等をお届けしました(1487㌻参照)。これが、2年ほど前に大聖人にお目にかかって以来の便りだったようです。この間、〝三沢殿は病気〟との噂が大聖人のもとに届いていました。大聖人は、使者を出して様子を聞こうとされますが、やはり控えられます。幕府に警戒されている大聖人からの使いが来ることで、三沢殿に迷惑が掛かってしまうのではないかとのお心遣いと推察されます。大聖人は、〝三沢殿は実直であるから御病気であれば使者をよこすであろう〟と思ったものの、便りがないので、あえて疎遠になったまま、三沢殿のことを心配されていました(1490㌻参照)。再びの蒙古襲来の兆しに世間が騒然とする中、〝もう一度、三沢殿にお目にかかることはできないかもしれない〟と案じられていた大聖人のもとに、三沢殿からの久しぶりの音信が届いたのです。大聖人は、「恋しく思っていたところにお便りがあり、うれしさは申し上げようがないほどです」(1490㌻、通解)と、心から喜ばれます。音信が途絶えていた事情は分かりませんが、いずれにせよ、何らかの大変な葛藤を乗り越えて、師匠を求めてきたであろう三沢殿の勇気を、大聖人は喜ばれたと拝察できます。そして、大聖人はこの機会を逃すことなく、難の本質を示そうと筆を執られます。 魔の本質御返事(「三沢抄」)で大聖人は、仏道修行すれば、三障四魔、中でも天子魔(第六天の魔王)がさまざまに妨害してくるので、信心を貫くことは決して生易しいことではないことを、分かりやすく教えられます。「凡夫が仏道修行をして、いよいよ仏になろうとする様子を見た第六天の魔王は、一切の眷属を集めて『それぞれの能力に応じて、あの行者を悩ましてみよ、それが成功しなければ、彼の弟子檀那らの心の中に入り替わって、諫めたり、脅したりしてみよ。それでもだめなら、私自身が国主の身に入り替わって、あの行者を脅して見せよう』と評議するのです」(1487㌻、趣意)続いて大聖人は、御自身が経文通りの大難に遭うことは覚悟の上であったと述べられた後、「たとえあなたが法華経を捨てられたとしても、私にどのようなことがあったとしても、あなた方をお導きすると約束しましょう」(1489㌻、趣意)と断言されます。さらに、〝所領があり、家族があり、家来が三沢殿の信心を貫くことは、どうみても難しい。法華経の信仰などできないふりをしていなさい〟と、三沢殿を包み込むように励まされます。大聖人の慈悲の一言一言は、不安が渦巻いていた三沢殿の心に、温かな春風のように広がっていったことでしょう。 使命の自覚を促されるそのうえで、「迹門の事はさど(佐渡)の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とおぼしめせ」(同㌻)と、仏の教えに方便の爾前権経と真実の法華経の立て分けがあるように、文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難を経て、大聖人が佐渡流罪以後に説かれた法門は、それ以前の法門とは大きく異なることを心得るよう教えられています。いわゆる「佐前・佐後」の法門の立て分けであり、竜の口の頸の座において発迹顕本し、佐渡以後、末法の御本仏として御自身の本地を顕されたお立場を示されています。なぜ大聖人は、「弟子どもに内内申す法門」(同㌻)とまで仰せの甚深の教えを、あえて三沢殿へのお手紙に綴られたのでしょうか。大聖人は、三沢殿が強き信心に起てるよう、「一閻浮提に流布」(同㌻)していく仏法の偉大さを教えることで、難を乗り越えて大法を受持する使命の尊さを示されたと拝察されます。迫害への御自身の覚悟を示すとともに、使命の自覚を促されるこのお手紙を受けた三沢殿は、大聖人の〝私と同じ広宣流布の誓願を打ち立てなさい!〟との強い思いを感じたことでしょう。池田先生は「地涌の使命を自覚すれば、偉大なる力が出る。難は、民衆を救うために、自ら願って受けた難となる。そして、それを乗り越えることで、人々を救うという願いを果たすことができる。使命を果たすために難はあるのです」と講義されています。(「創価学会永遠の五指針」)。難と戦い、打ち破ってこそ、仏の境涯が光り輝きます。「あなた方は、このような法門に宿縁ある人なのだから、頼もしく思いなさい」(同㌻、通解)——この法門との深き契りを知った三沢殿は、師匠とともに広布に生きる誓いを新たにしたに違いない。 新池殿 続いて、遠江国(現在の静岡県西部)の門下、新池殿です。新池殿は、遠江国山名郡山名荘新池(静岡県袋井市新池)に住んでいた門下です。新池殿を「左衛門」「左衛門尉」と記す文献もあり、武士であった可能性もありますが、具体的にどのような立場にあった人物かは定かではありません。入信についても、日興上人との縁によるという説等がありますが、時期も含めて確かなことは明らかではありません。いずれにしても、新池殿は、妻・新池尼と共に純真な信仰を貫き、たびたび真心の御供養をたずさえ、身延の大聖人のもとへ訪れ指導を求めています。 亡き子を追善病気だったのでしょうか、新池殿は子を亡くしています。その子の追善のため、新池殿は三石もの米を供養します。大聖人は、早速題目を唱えられ、弘安2年(1279年)5月、「亡くなられた最愛の御子を霊山浄土へ『成仏は決して疑いない』との経文に任せてお送りするためです」(1435㌻、通解)と、お手紙を認められました(「新池殿御消息」)。その中で大聖人は、法華経供養の功徳の偉大さを教えられるとともに、法華経のために日本中の人々から憎まれている大聖人のもとを訪ねた新池殿の志を称えられます。「前世の父母か、昔の兄弟であったゆえに、(訪問を)思いつかれたのでしょうか。また過去に法華経との縁が深くて、今度仏になるべき種が熟したゆえに、多忙な在家の身として、公事(荘園制での年貢以外のさまざまな税や労役)の暇に思い出されたのでしょうか」(1438㌻、通解)さらに、「(遠江国から身延までの)道のりは三百余里に達します。……川の水は矢を射るように早く、大石が流れて人馬が渡ることができません。船も紙を水に浸したように危ない。……道は縄のように細く、木は草のように茂っています」(同㌻、通解)と、その道のりの険難さを強調され、〝このような所に訪ねてきたことは、過去世の因縁でしょうか〟と重ねて労をねぎらわれています。この仰せは、日本中から妬まれている大聖人のもとを訪ねることが、どれほど困難で勇気の要ることかを表し、新池殿の志の尊さを最大に褒め称えてくださったものと拝せます。「ありがたいことです。ありがたいことです。申し上げたいことは多々ありますが、このほど風邪をひいて苦しいので、これで留めておきます」(同㌻、通解)——手紙を認めるのが大変なほど体調が悪い中でも、門下の求道の姿勢を称え、励ましてくださる師匠のお言葉を拝し、新池殿夫妻はますます純粋な信仰を貫いたことでしょう。 歩みを止めない翌・弘安3年に頂いたと伝えられるお手紙(「新池御書」)では、「いよいよ信心に励み、怠ってはいけません。……始めから終わりまでいよいよ信心を持続していくのですよ。……譬えば、鎌倉から京へは十二日の道のりです。それを十一日ほど歩いて、あと一日になって歩くのを止めてしまえば、どうして都の月を見て詩歌を詠むことができるでしょうか」(1440㌻、趣意)と、惰性に陥り、慢心を起こすことなく、水の流れるように求道の実践を続けることの大切さを指導されています。 求道の道を真っすぐに貫く また、夜は寒さに震えて夜が明けたら巣を作ろうと鳴くけれども、日が出ると温かさにつられて眠って忘れてしまい、巣を作らないで一生の間、むなしく鳴くという〝雪山の寒苦鳥〟の説話を引いて、名聞名利に流され、無益なことに財宝を浪費して、肝心の仏道修行を忘れて一生を過ごしてしまう人間の愚かさを戒められます(同㌻参照)。さらには、「仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり」(1143㌻)と、妙法以外に成仏の法はないと一心に信じて唱題に励むさらば、仏の生命が顕れて来ると仰せです。無明(生命に備わる根源的な無知)に覆われた凡夫の生命を鳥の卵に譬えられ、「南無妙法蓮華経の唱への母」——唱題という母に温められることによって、雛にクチバシと毛が出てくるように、仏の特質がそなわり、妙法の覚りの大空に飛ぶことができるのですよ、と教えられています。多くの具体的な譬えを通して、分かりやすく仏道修行のあり方を教わった新池殿は、真っすぐに師匠を求め、素直に実践する純粋な信仰を持っていたことがうかがえます。大聖人の仰せの通り、夫妻して怠ることなく信心を貫いたにちがいありません。 【日蓮門下の人間群像—師弟の絆、広布の旅路—】大白蓮華2021年7月号
August 11, 2022
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第26回法師功徳品第十九■大要「五種の妙行」(受持・読・誦・解説・書写)を実践する人は、「六根」(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚・認識器官)が清らかになる功徳を得られると説かれます。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1 その時、仏が、常精進菩薩に告げます。 「もし、善男子・善女人(法華経を信じる男女)が、この法華経を受持し、もしくは読み、もしくは読み、もしくは誦し(経文を暗記する)もしくは解説し(人に法を説く)、もしくは書写するならば、この人は、八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得るであろう。これらの功徳によって、六根を荘厳して、清浄になるであろう」——このように、「五種の妙行」に励む人に、六根清浄の功徳があることが説かれます。 続けて仏は、一つ一つの功徳の偉大さを示していきます。 ●シーン2 「この善男子・善女人は、父母から生まれながら受けた清浄な肉眼で、三千大千世界の内外のあらゆる山や林や川や海を、下は阿鼻地獄から上は有頂天(天界の最高位)まで見ることができるであろう。また、その中の一切衆生を見て、その業因と果報を、全て見て知ることができるであろう」 ●シーン3 「また次に常精進菩薩よ。この善男子・善女人は、五種の妙行に励むならば、千二百の耳の功徳を得るであろう」「その正常な耳で、三千大千世界の舌は阿鼻地獄から上は有頂天までの、内外あらゆる音声を聞くであろう」 ここでは具体的に、象の声から始まり、車の声、日の声、地獄の声、仏の声など、ありとあらゆる音声が挙げられていきます。 そして、常精進菩薩に告げます。 「要は、三千大千世界のすべてのあらゆる声を、父母から生まれながら受けた、いまだ神通力を得ていない耳で、全てを聞き、知ることができるであろう。 このように、さまざまな音声の本質を聞き分けても、その能力を壊されないであろう」 ●シーン4 「また常精進菩薩よ。この善男子・善女人は、五種の妙行に励むならば、八百の鼻の功徳を成就するであろう」 「その清浄な鼻の働きで、三千大千世界の上下内外のさまざまな香を嗅ぐだろう」 ここでは具体的に、あらゆる香りが挙げられていきます。 続けて「香りを嗅ぐといっても、鼻の働きが壊されたり、間違ったりすることはないであろう。 それらを分別して人のために説こうとするなら、覚えていて誤らないであろう」と。 ●シーン5 「また次に常精進菩薩よ。この善男子・善女人は五種の妙行に励めば、千二百の舌の功徳を得るであろう」 「好みのもの、嫌いなもの、おいしいもの、まずいもの、苦くて渋いものでも、清浄なる舌に置けば、全て良い味となって、天の甘露のように感じ、おいしくないものはないであろう」 「もし、この舌で、大衆の中で演説するならば、深く妙なる声を出して、聞く人の心によく届き、皆を歓喜させ、気持ちよく、楽しくさせるであろう」気持ちよく、楽しくさせるであろう」 その人が法を説く声を聞いて、あらゆる諸天や衆生が、法を聞きに来集し、敬い、供養することが説かれていきます。 そして「その人のいる方面に向かって、諸仏は法を説くので、一切の仏法を受持するであろう。また、よく深く妙なる法を説く声を出すであろう」と。 ●シーン6 「また次に常精進菩薩よ。この善男子・善女人は、五種の妙行に励めば、八百の身の功徳を得て、清浄なる身は瑠璃のように、見る衆生を喜ばせるようになるであろう」 さらに、三千大千世界の下は阿鼻地獄から上は有頂天まで、あらゆるものを身に映すと説かれます。 ●シーン7 「また次に常精進菩薩よ。この善男子・善女人は、五種の妙行に励むならば、千二百の意の功徳を得るであろう」 「この清浄なる意の働きで、経文の一偈、一句を聞いただけで、『無量無辺の義』がわかるようになるであろう」 「その義をよく理解して、その一偈、一句の意義を演説すること、一カ月、四カ月、そして一年に至ろうとして、説くさまざまな法は、その意義に従って、皆、現実の姿と相いれないことはないであろう。 世俗のことについて語っても、全て正法にかなっているであろう。 三千大千世界の六趣(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)の衆生の心の働きを、全て知ることができるであろう。 いまだ完璧な智慧を得ていなくとも、胃の働きは清浄であろう」 「この人がしっかりと考え抜き、説くことは、全て仏法であり、真実でないものはなく、過去の仏の経文に説かれていることであろう」 ——このように「法師功徳品」では、全宇宙の神羅万象を正しく捉え、全ての振る舞いが妙法に合致していく、六根清浄の偉大な功徳が示されています。 法華経の智慧から前進しきった人が勝つ慈悲の一念が強ければ、相手が、どういう悩みをもっているのか、どこで行き詰っているのかも、分かってくる。名医が患者の「急所」を分かるようなものです。◇六根清浄とは「全身これ広宣流布の武器たれ』ということです。要領でなく、計算でなく、不惜身命で広布へ働いていく時、限りのない生命力が全身にしみわたってくる。智慧もわく。元気もわく。慈愛もわく。◇胸中に「戦う心」が燃えていることが大事です。その「信心」があれば、六根清浄です。どんな悩みがあっても、全部、「価値」に変えていける。「功徳」に変えていける。その大生命力を「法師功徳」というのです。結論すれば、仏勅の創価学会とともに、広宣流布ひとすじに生きた人が必ず、「これ以上はない」という無上道の軌道に入っていくということです。前進しきった人が、必ず勝つ。題目を唱えきった人が、必ず最後は勝つのです。(普及版〈下〉「法師功徳品」) 耳根得道日蓮大聖人は「此の娑婆世界は耳根得道の国(仏法を耳で聞くことによって成仏する国土)である」(御書415㌻、通解)と仰せです。ゆえに声の力で、広宣流布を進めていくことが大事です。さらに大聖人は、「仏になる法華経を耳にふれるならば、これを種として必ず仏になる」(同552㌻、通解)と教えられています。大切なことは、仏法の力を力の限り、相手の耳に触れさせ、仏縁を結ぶことです。また、「法華経法師品」には「其の耳は聡利なるが故に 悉く能く分別して知らん」(法華経534㌻)と、生命の境涯を聞き分けられると説かれています。相手の声なき声をそばだてて、俊敏に聞き取っていけるようになるのも「耳根清浄の功徳」の一つです。語るといっても、一方通行ではなく、友の心の声に耳を傾け、仏法のすばらしさを語っていくことが、自他供の成仏の道を開くことになるのです。 【ロータスラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.6.20
July 24, 2022
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現代語訳「十一通御書」➀池田大作先生監修 総大阪青年部編 解説文永5年(1268年)10月、日蓮大聖人は47歳の時、執権・北条時宗をはじめとする幕府の要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、合わせて11カ所に書状を送られた。これらを総称して「十一通御書」という。北条時宗、宿屋左衛門光則(宿屋入道)、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝時、長楽寺の11カ所である。この年の閏1月18日、蒙古からの国書が鎌倉に到着。そこには、蒙古の求めに応じなければ兵力を用いるとの意が示されていた。大聖人が文応元年(1260年)に、立正安国論(御書17㌻)で予言された他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのである。そこで大聖人は文永5年4月、幕府の中枢に関係があったと思われる法鑑房に安国論御勘由来(同33㌻)を送られた。これに対して反応がなかったため、かつて北条時頼に立正安国論を提出した時に仲介の労をとった宿や入道に書状(同169㌻)を送り(同年8月)、予言が的中したことを指摘し、宿や入道に面会を申し入れられた。ところが、この書状に対する反応もないことから、大聖人は、その背後に所収の策動があることを見抜かれ、11通の書状をしたためられたのである。大聖人は、これらの書状で、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らとの公の場での法論を迫られている。また、同時に門下一同に宛てても書状を送られた。 現代語訳 北条時宗への御状(御書169㌻)謹んで申し上げます。一月十八日に、西戎である大蒙古国から国書が届いたとのこと。日蓮が以前から、さまざまな経典の重要な文を集めて思索した立正安国論の通り、少しも違うことなく符合した。日蓮は聖人の端くれに当たる。なぜなら、まだ前兆もないことが分かるからである。それゆえ、重ねてこのことを警告申し上げる。急いで建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿などへの御帰依をお止めなさい。そうしなければ重ねて、周囲から圧力が加わるだろう。すみやかに蒙古国の人を調伏して、わが国を安泰にしなさい。あの国を調伏することは、日蓮でなければ不可能なのである。君主を諫める臣下が国にいれば、その国は正しく、親を諫める子がいれば、その家はまっすぐである。国家が安泰であるか危ういかは政治が正しく行われているか否かにあり、仏法の正邪は経文という明鏡による。そもそも、この国は神の国である。神は非礼をお受けにならない。天神七代・地神五代の神々、その他の諸天善神などは、一乗を守護する神々である。しかも法華経の教えを食べ物とし、正直であることを力とする。法華経には「世界を救う仏たちは、大神通力を備え、衆生を悦ばせるために、無量の神通力を現す」(神力品第21)とある。一乗を捨てる国において、どうして善神が怒らないであろうか。仁王経には「一切の聖人が去る時、七難が必ず起こる」とある。あの呉王は、伍子胥の諫言を用いないで自信を滅ぼし、桀王と紂王は、竜蓬や比干を殺して国王の位を失った。今、日本国はまさに蒙古国に奪われようとしている。どうして嘆かないでいられようか。日蓮が申すことをお用いにならなければ、必ず後悔があるだろう。日蓮は法華経の御使いである。法華経には「(法華経を一句でも説く人は)まさしく如来の使いであり、如来に派遣されて、如来の仕事を行う」(法師品第10)とある。三世の仏たちの仕事とは法華経のことである。このようなことを方々へ警告申し上げた。彼らを一カ所に集めてご評議のうえ、結論をお知らせ頂きたいのです。つまるところは、すべての祈祷を抛って、諸宗の僧と日蓮とを殿の御前に呼び集め、仏法の正邪をはっきりさせたい。谷底に高い松があるのを知らないのはすぐれた職人の誤りであり、暗闇の中で錦の衣を着た人を見たことがないのは愚か者の過失である。インド・中国・日本の三国において仏法の正邪は国主の御前で決定した。すなわち阿闍世王、陳や隋の皇帝、桓武天皇がそうである。これは決して日蓮の勝手な見解ではない。ただひたすらに大きな忠心を懐いているからであり、自身のために申し上げているのではない。神のため、主君のため、国のため、一切衆生のために申し上げているのである。文永五年(戊辰)十月十一日日蓮(花押)謹上 宿屋入道殿 宿屋左衛門光則への御状(御書170㌻)以前思索した書である立正安国論に符合したことについて、一緒にお届けした書簡で執権に申し上げたところです。 一月十八日に西戎である大蒙古国から国書が届いたとのこと。このことから考えると、日蓮は聖人の端くれに当たるでしょう。しかし、まだ執権からのお尋ねを頂いていないので、重ねて諫言の書状を差し上げた。願うところは、寺や僧侶への帰依を止めることであり、法華経に帰依されるのが良い。もしそうしなければ、後悔してもしきれないであろう。この趣旨を十一カ所に申し上げました。きっとご評議があるにちがいありません。ただ貴殿を頼みとするしかありません。すみやかに日蓮の本来の望みを遂げさせてください。十一カ所というのは、平左衛門尉殿への書状に申し上げたものである。詳しく申し上げたいのですが、執権への書状に明らかであるため省略しました。執権の御様子をお伝えくださることを心からお願い申し上げます。謹んで申し上げる。文永五年(戊辰)十月十一日日蓮(花押)謹上 宿屋入道殿 平左衛門尉への御状(御書171㌻) 蒙古国から国書が届いたことについて、執権に意見を申し上げたところです。 以前に日蓮が立正安国論で思索した通りに、少しも違わず符合した。それゆえ、重ねて主張を訴える書状によって愁いのこもった気持ちを晴らしたいと思っている。こういうわけで、「諫言の旗」を人々の前に翻し、「忠告の戟」を自らの後ろに立てた。つまるところ、貴殿は天下を支える針であり、民衆のために働く手足なのだから、どうしてこの国が滅亡することを嘆かないでいられようか。用心しないでいられようか。すみやかに対峙を加え、謗法の過ちを制止すべきである。そもそも、一乗である妙法蓮華経は、仏たちの覚りである究極の真理、諸天善神の力を増す食べ物である。これを信受するならば、どうして七難が来たり、三災が起こったりするのであろうか。それどころか、このことを申す日蓮を流罪にしたのです。どうして日・月・星宿が罰を加えないであろうか。聖徳太子は物部守屋の悪を倒して仏法を興隆し、藤原秀郷は平将門を討って名を後世に残した。そうであるならば法華経の強敵である帰依なさっている寺や僧侶を退治して、善神の守護を受けるのがよい。御成敗式目を見ても、道理に基づかないことを制止するのは明らかである。どうして日蓮の愁いの訴えをお取り上げにならないのでしょうか。まさに、御起請文を破ることではないか。この趣旨で、方々へ拙文をしたためお手紙を差し上げました。すなわち鎌倉殿、宿屋入道殿、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺、多宝寺、浄光明寺、弥源太殿、ならびにこの書状で合わせて十一カ所である。おのおの方で御評議のうえ、すみやかに結論をお知らせ頂きたいのである。もしそうなれば、卞和の璞が磨かれて宝玉となり、また転輪聖王の髷中の明珠が顕れるのは、今、この時以外にない。まったく自身のために申し上げているのではない。神のため、主君のため、国のため、一切衆生のために申し上げているのである。以上の通りです。謹んで申し上げる。文永五年(戊辰)十月十一日 日蓮(花押)平左衛門尉殿
July 23, 2022
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第40回妙密上人、日女御前日蓮大聖人の御在世当時、多くの門下が師をお守りしようと御供養の品々を届けていました。大聖人は、その一つ一つに、懇切丁寧に感謝の意を表すお手紙を認め、最大にたたえられています。今回は、残された御書は1編ないし2編と少ないのですが、真心から御供養を届けて大聖人を支えた2人の門下を取り上げます。 ■妙密上人妙密上人は、鎌倉の楅(くわが)谷(やつ)に在住していたとされる門下です。楅谷は「くわがやつ」と読まれていますが、「楅」は他に用例がなく、正しい読み方は不明で、鎌倉のどこにあたるのかも定かではありません(桑ヶ谷問答で知られる桑ヶ谷ではないかとする説もあります)。妙密上人が大聖人から頂いたお手紙は、建治2年(1276年)閏3月に認められた「妙密上人御消息」の1編しか残っていないため、人物像など詳しいことは分かっていません。しかし、大聖人が「上人」と呼ばれていることから、信心強盛な門下であることがうかがえます。このお手紙の直接的なあて先は妙密上人ですが、文中には「妙密上人並びに女房をば」(妙望にも委しく申し給へ(1241㌻)と記されていることから、内容は妙密上人夫妻に向けられたものと思われます。同抄の冒頭は、妙密上人が大聖人に「青鳧五貫文」の銭を御供養したことへの御礼で始まっています(1237㌻参照)。また、お手紙の末尾の段からは、妙密上人が大聖人にお手紙を差し上げるたびに、「青鳧五連(青鳧五貫文に相当する)(1241㌻)という金銭の御供養を重ねてきたことが分かります。大聖人は同抄で、一代諸教の肝心である法華経の題目こそが、末法のあらゆる人々の煩悩という病を治す大良薬であるとされています。そして、末法でこの大良薬である法華経の題目を先駆けて唱え始め、弘めているのは大聖人御自身しかいないこと宣言されています。大聖人はこのような点を踏まえ、「青鳧五連」の御供養を重ねて、大聖人の命を支えようと妙密上人の真心は、日本国に法華経の題目を広めることと同じであると励まされ、その功徳は絶大であることを教えられています。「今後、国中の人が題目を唱えたなら、その大功徳は、妙密上人の一身に集まることは間違いない。大海が露を集め、須弥山が塵を積むように、大功徳に包まれ、諸天善神が必ず守護することは疑いない」(1241㌻、趣意)と。自然環境が厳しく、物資も乏しい身延での大聖人の暮らしを心から案じ、折あるごとに御供養をお届けした妙密上人夫妻。大聖人は、その真心の信心を最大にたたえられ、〝あなた方の信心は、法華経の行者と同じですよ〟〝ご夫婦の信心の功徳は、大海や須弥山のように無量に積まれているのですよ〟と仰せられたのです。妙密上人夫妻は、お手紙を何度も読んでは、師の慈愛に包まれる思いだったことでしょう。 日本中に妙法の波動また大聖人は、立宗以来の御自身の闘争によって、「妙法を唱える人は、二人、三人、十人、百人と次第に増え、一国・二国の地域へと広がり、やがては、日本の全てである六十六カ国と壱岐、対馬の二島にまで、妙法の波動は及んでいる。かつて日蓮を誹謗していた者たちも、題目を唱えているだろう」(同㌻、趣意)と仰せになっています。文永11年(1274年)に大聖人が佐渡流罪を赦免されてから、本抄が執筆された建治2年(1276年)にかけて、各方面の門下は師の呼びかけに呼応して、妙法弘通に次々と立ち上がっていきました。妙法の灯は各地に広がり、大聖人が「自界叛逆難」を「他国侵逼難」の予言を的中させたことや門下たちの確信あふれる訴えによって、認識を変えていったのです。当時の妙密上人夫妻も、大聖人に帰依していたことで、周りから何らかの圧迫を受けていたかもしれません。そのような障魔があっても負けずに大聖人を支え続けてきた夫妻の信心の真心を、大聖人は最大にたたえ、今後、国中の人が題目を唱えたならば、その大功徳は妙密上人夫妻の身に集まることは間違いないと励まされたのです。 「いよいよ」と奮い立つ信心がいかなる逆境も跳ね返す さらに、同抄の結びの段では、「金は、焼けばいよいよ色がよくなり、剣は、研けばいよいよ、よく切れるようになります。妙法の功徳を讃えるならば、ますます功徳が勝っていきます」(1241㌻、通解)と仰せです。決して現状に甘んじることなく、「いよいよ」の心で奮い立つ強盛な信心を貫いていけば、いかなる逆境をも、はね返していけることを教えられているのです。妙密上人夫妻は、こうした懇切なお手紙を拝し、大聖人の偉大な御境涯と深い慈愛を胸に刻み、ますます強盛な信心を貫いていったにちがいありません。 ■日女御前日女御前は、大聖人御在世当時の女性門下で、住んでいた場所や人物像など、詳しいことは分かっていません。伝承によっては、池上宗仲の婦人という説もありますが、確たる根拠はありません。日女御前は、建治3年(1277年)の御述作とされる「日女御前御返事(御本尊相貌抄」と、翌・弘安元年の御述作とされる「日女御前御返事(嘱累品等大意)」の二つのお手紙を頂いています。二つの書状の内容から、信心と教養の深い女性であったことがうかがわれます。また、「嘱累品等大意」では、婆羅門の教えに執着している夫の妙荘厳王を正法に導いた、法華経・妙荘厳王本事品の話を引かれています。その話を踏まえて、浄徳夫人のように、妻が夫に正法を進める功徳は末法になっても変わらない(1249㌻、趣意)と仰せです。これは、日女御前も、浄徳夫人のように、夫を正法に導いた偉大な仏弟子であり、計り知れない功徳があることを示されていると拝することができましょう。また、「此は女房も男も共に御信用あり」(同㌻)との一節から、日女御前は夫とともに強盛な信心に励んでいたことが分かります。池田先生は、「日女御前」という名称に込められた意義について、こう語られています。「大聖人は、一人のけなげな婦人の弟子に、『太陽の女性』『太陽の婦人』との讃嘆といえるかもしれない」(『池田大作全集』第90巻)、「『日女』とは、まさに太陽の女性という意義であり、その生命の光彩は、われが「太陽の婦人部・女子部」に受け継がれている」(「随筆『人間革命』光あれ」聖教新聞2019年5月19日付) 偉大な御本尊は我が胸中にある 法華弘通のはたじるし「御本尊相貌抄」によると、日女御前は大聖人から御本尊を授与され、御本尊への供養として、「鵞目五貫」(鵞目とは銅貨のこと。銭5000枚に相当)、「白米一駄」、数々の果物をお届けしています(1243㌻参照)。また、「嘱累品等大意」からも、銭7000枚という金銭を御供養していることが分かっています(1245㌻参照)。「御本尊相貌抄」のかなでは、正法・像法時代に顕れず、正法時代の竜樹や天親、像法時代の天台や妙楽でも顕さなかった御本尊を、末法において大聖人が初めて「法華弘通のはた(旗)じるし」(1243㌻)として御図顕されたことを明かされています。続いて、法華経の虚空の儀式を用いて顕された御本尊の相貌を詳しく述べられ、この御本尊が万人成仏の実現する未曽有の曼陀羅であることを教えられています。大聖人は、この未曽有の御本尊を供養した女人の功徳はいかに絶大であるかを記されています。「(このような御本尊に御供養する女性は)今世では幸せを招き寄せます。また亡くなった後には、「御本尊が左右と前後に起ち添って、闇の中の灯のように、また、険難な山道で力強い案内人を得たように、あちらへ廻ったり、こちらへ寄り添ったりしながら、日女御前を囲み、必ず守るのです」(1244㌻、通解)と。当時は蒙古の襲来を恐れて、社会全体が大きな不安に覆われていました。そんな中にあって、〝この未曽有の御本尊は、いかなる時もあなたを守ってくれるのですよ〟と大聖人は励まされたのです。御本仏の大慈悲に包まれて、どれ程日女御前が安堵し、悪世末法に生きる不安や心配を払拭していったか、計り知れません。大聖人から賜った御本尊が、未曽有の御本尊だと知り感激したであろう日女御前に、さらに驚くべき真実が明かされます。「この御本尊を決して別のところに求めてはなりません。この御本尊は、法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える私たち自身の胸中にいらっしゃるのです」(1244㌻、趣意)と。〝そんな偉大な御本尊が私の命の中にある〟——日女御前はどれほど驚き、喜びに身を震わせたか分りません。日女御前は、その後、いかなる困難に直面しても、苦しみや悩みを転換する力は、自らの命の中にあるのだとの思いで、すべてに立ち向かっていったことでしょう。 【大聖人門下の人間群像—師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2021年6月号
July 10, 2022
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第25回随喜功徳品第十八鍛えあげられた強き境涯が本当の永遠性の「随喜」■大要初めて法華経を聞いて、随喜(信髄して歓喜)する人の功徳について説かれます。それでは内容を追ってみましょう。◇その時、弥勒菩薩が、釈尊に問います。「もし善男子・善女人(法華経を信じる男女)が、この法華経を聞いて随喜するならば、どれほどの福徳が得られるのでしょうか?」この問いに答える形で、『五十展転』の話が展開されます。その時、釈尊は、弥勒菩薩に語ります。「仏が入滅した後、出家・在家の男女や智者たち、また年配や若い人も、この経を聞いて随喜した。そして、他の所、例えば僧が住む場所や閑静な所、都、村などに赴いて、自身が聞いたように、父母や親族、また友人たちのために、自分の力に応じて法を説いた。さらに、それを聞いて随喜した人が、また他の所で法を説いて……。このように法を伝え広げ、順番に50番目の善男子・善女人が法を聞いて随喜した功徳を今、説こう。よく聴きなさい。師百万憶阿僧祇の六趣四生(六趣=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの境涯、四生=胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方)のあらゆる衆生がいた。ある人が福徳を求めて、衆生の一人一人の好みに合わせて、この世にある金、銀、瑠璃等の珍しい宝、そして車や七宝でできた宮殿を与えた。その人は、80年にわたって布施を続け、こう思った。『衆生の好みに応じて布施をしてきた。しかし、皆、老い、80歳を過ぎて白髪になり、顔に皺がよって死が近づいてきた。今、仏法でこれらの衆生を導こう』そして、衆生たちを集め、教え、導き、阿羅漢果(小乗の覚り)を得させた。この人の功徳は、多いと言えるだろうか?」弥勒菩薩が、釈尊に答えます。「その人の功徳は無量無辺です。衆生の好むものを施す功徳だけでも無量だからです。ましてや、阿羅漢果を得させたのですから言うまでもありません」釈尊が、弥勒菩薩に告げます。「わたしは今、はっきりと語ろう。この人が得る功徳は、先ほどの50番目の人が、法華経の一偈を聞いて随喜した功徳の百分の一、千分の一、百千万憶の一にも及ばない。計算や譬喩によっても知ることができないほどである。このように50番目の人が法華経を聞き、随喜して得る功徳ですら無量無辺である。ましてや、最初に法華経を聞いて随喜した人の功徳は、比べられないほど、無量無辺である」さらにたとえを通して、弥勒菩薩に功徳の偉大さを教えます。「もし、この経のために、僧の住むところに行き、あるいは座り、あるいは立って、少しでもこの経を聞く受ける人は、その功徳によって生まれ変わった所で、象や馬、珍しい宝の乗り物を得て、天宮に上ることができるだろう」と、物質的な幸福を得ることが説かれます。また、「もし説法の場で、来た人のために自らの席を開けて勧め、法を聴かせるならば、その人は、生まれ変わって帝釈天や梵天、転輪聖王の位に就くことだろう」と、指導者になる福徳が説かれます。続いて、「もし他人に法華経を一緒に聞こうと誘い、わずかでも聞くならこの人は菩薩たちと一緒の所に生まれ変わり、賢くて智慧があり、誰もが喜ぶ姿となるだろう。生々世々、仏を見て法を聞き、教えを信受するであろう」と、智慧が豊かになり、色心の健康を得ると説かれます。さらに、弥勒菩薩に、功徳の大きさの真理を教えます。「一人に法華経を勧めて法を聴かせる功徳は、このように大きいのである。ましてや、熱心に法華経を聞き、説き、読誦し、しかも如節修行(説の如く修行)する人の功徳はいうまでもない」——このように、「随喜功徳品」では、法華経を聞いて随喜する功徳が説かれています。 ■五十展転日蓮大聖人は、「五十展転」について、「一生の間に一回でも題目を唱えたり、また題目の声を聞いて喜び、さらにその喜びの声を聞いて喜び、このようにして50番目となる人は、喜びの心が弱いようだけれども、智慧第一の舎利弗の如き人よりも、文殊菩薩や弥勒菩薩のような大菩薩の如き人よりも、百千万憶倍の功徳がある」(御書1199㌻、趣意)と仰せです。50番目の人は、経典の文字通り考えれば、自分が随喜するだけで人には語っていません。それにもかかわらず、無量の大功徳があるのです。いわんや、歓喜して弘通に励む人の功徳は計り知れません。大聖人は、「五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生のことなり」(同789㌻)と述べられています。「五」とは妙法であり、「十」とは十界の全ての衆生です。妙法蓮華経の五字が喜び広がっていく時、一念三千の妙法が働き、万人成仏が成就されゆくことを教えられていると拝せます。希望と励ましの対話を広げゆく時、「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(同761㌻)と仰せのごとく、世界中に喜びの花が咲き薫り、一切衆生が功徳を受けきっていくことができるのです。 生命の根底が歓喜に「法華経の智慧」から苦しみは、苦しみにつけ題目を唱える。悲しみは、悲しみのまま御本尊にぶつける。うれしきは、うれしさを開いて、感謝の唱題にする。悩みは悩みとして、大きく見おろしながら、前へ前へと行くのです。御本尊を拝するということは、全宇宙を見渡し、見おろしていくようなものです。自分自身苦しんでいる生命をも見おろしていける自分になっていく。「随喜」と言っても、悩みがなくなるのではない。悩みがあるから題目が唱えられる。題目を唱えるから、生命力がわく。苦しみがあるから喜びがある。〝幸せだけの幸せ〟はありえない。〝喜びだけの喜び〟はない。「仏法は勝負」なのだから、一生涯、戦いです。闘い続けられる強き強き自分をつくるのです。鍛えあげられた、その強き境涯が本当の永遠性の「随喜」です。信心があれば、何があろうと、生命の根底が歓喜になる。希望になる。確信になる。そして、勇んで、悩める人のもとへ飛び込んでいって、自他ともに「随喜」の当体となっていけるのです。 下種仏法仏種を説いて人々に信じさせることを「下種」といいます。日蓮大聖人は、成仏の根本法である南無妙法蓮華経こそ、万人を成仏へと導く仏種であると明かされ、民衆救済の道を開かれました。ゆえに、日蓮仏法を下種仏法といいます。仏法対話は、人々の生命に成仏の根本法である仏種をまく尊き下種の振る舞いです。それは、万人の使命に本来具わる仏性を触発する音です。とはいっても、相手から反発されることもあります。池田先生は「相手がどうかではなく、こちらが妙法を讃え、聞かせていけば、それだけで大功徳になる。そう自覚していけば、またまた『歓喜」です』と語っています。相手が信心をしようがしまいが、妙法を語った功徳は同じです。相手の反応に一喜一憂することなく、仏法を語る誇りと喜びを胸に、朗らかに対話を広げていきたい。そこに自身の境涯革命の直道があるからです。 【ロータスラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.5.16
June 5, 2022
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民衆のために戦う大願と勇気大聖人の心は御書と共に永遠フランス語版「御書」総合監修者 デニス・ジラ博士——日蓮大聖人が御書を御執筆された時代背景や意義について、どのような印象をお持ちですか。 日蓮が生まれた末法の時代は、あらゆる恐怖がはびこる悪世でした。日蓮出生のその年にも自信が鎌倉を襲うなど、彼の生涯は大地震、大火、疫病、非時風雨(注=季節外れの風雨)、飢渇等、あらゆる災害の連続でした。こうした異変に加えて、国の舵取りを担うはずの政治が混乱し(自界叛逆)、国を亡ぼす脅威として、蒙古が襲来しました(他国侵逼)。日蓮は、こうした末法の時代に生きていることを深く自覚し、民衆を絶望の淵に沈める世の争乱に心を痛めました。当時の人々は、神仏にすがるほかなく、加持祈祷などで仏法に望みを託したにもかかわらず、その効果を感じられずにいたのです。恐怖によって人生を諦め、仏の真実の教えである法華経を信じることができないほどに、無明に覆われていました。このような時代にあって日蓮は、民衆の心に巣くう「恐れ」「諦め」と戦ったのだと考えます。御書を通して、「恐れるな!」とのメッセージを伝えようとしたのではないでしょうか。それは「師子王の心」であるともいえます。日蓮は、法華経を持ちさえすれば、何も恐れることはないのだと覚りました。そして、正法を退け、「法華経の行者」を誹謗する高僧や為政者たちとは、一歩も引かずに戦ったのです。 熱烈たる気迫——フランス語版「御書」の総合監修などを通して、印象に残った大聖人の思想や人柄について教えてください。 まず感銘を受けたのは、日蓮の述作の圧倒的な「多彩さ」です。膨大な経典や釈などを縦横無尽に駆使しながら、自身の思想の「一貫性」を、峻厳かつ厳密に展開していることに驚きました。また、カトリック教徒の言葉でいう「司牧的」にも通じますが、相手との社会的な立場の違いを超越して、一人一人に寄り添う、友情に満ちた「率直さ」も印象に残りました。この姿そのものが、苦悩する民衆に「同苦する心」を、端的に表していると思います。日蓮の願いは、法華経の真理に人々の目を開かせ、苦しみを抜き、法華経への強い「信心」を確立させることでした。御書を読むと、法華経の思想を全ての人と分かち合いたいとの日蓮の執念が迫ってきます。また、国主諫暁の書である「立正安国論」を拝すると、日蓮の「勇気の心」とその並々ならぬ「大願」がよく分かります。身命に及ぶ危険をものともせず、為政者や他宗の高僧たちに向かって、自らの信念を戸惑うことなく訴え抜き、法華経を根本とした、「南無妙法蓮華経の題目」を唱えることが、亡国から救う道であると説いたのです。こうした熱烈な気迫あふれる人柄の半面、私は、日蓮の温かい「人間らしさ」にも深い感銘を受けました。特に「三沢抄」を拝読すると、大変によく分かります。「何があろうとも、どうして私があなた方を見捨てるようなことがあるだろうか。決して、決して、あなた方をおろそかにすることはない」(御書1489㌻、通解)フランス語版「御書」に寄せた序文でも、私は、この部分を引用し、日蓮を理解するうえで大切な一節であると訴えました。 ——本年は、日蓮大聖人の御生誕から800年です。日蓮仏法の哲学を現代に紹介する意義について、どうお考えですか。 先ほど申し上げた日蓮の人物像——率直さや同苦する心、大願を貫く強さ、そして弟子への温かなじあいと励ましは、800年の時を超えて永遠であり、色あせることはありません。当時、直接の励ましを送った弟子たちにも、また今日、御書を通じて日蓮の精神にふれる皆さんにも、日蓮は、師匠と同じ道を歩むように呼び掛けています。一方で、世界的な感染症や気候変動などの危機に直面する現代において、その実践の方途は異なることにも留意しなくてはなりません。日蓮の教えに忠実であろうとすることは、時代に即した方途をもって答えを見いだそうとする皆さん方の、努力の中にこそ見出されなければならないと考えます。弟子の姿勢次第であるということです。では、今も変わらずに、人々の心を覆う恐れを見抜き、人々を解放することはできるでしょうか。一人一人が、信仰を大事にする気持ちを持ち続けることができるでしょうか。そして、日蓮のように断固として、法華経に説かれる真理を究めようとの、深き決意に立つことは可能でしょうか。私は、すべての問いに対して、確信をもって「ウィ!(然り!)」と答えます。月なぜならば、私は昨年の9月27日の「世界青年部総会」を視聴し、創価の青年たちの深き誓願と、世界を結ぶ団結と連帯を目の当たりにしたからです。それは現代を覆う恐れを見事に打ち破り、涌現した青年群像でした。私はその証言者の一人となったのです。800年前、日蓮が、このような世界の青年の連帯の姿を、果たして想像しえたでしょうか。しかし、日蓮なくしては、この集いは現代に涌出しえなかったのも事実です。 神学者として——博士はカトリックの神学者でもあり、仏教の専門家でもあられます。日蓮仏法の教義や大聖人の御生涯は、博士の信仰や生き方にどのような影響を与えたのでしょうか。 あらゆる仏教を学んできたので、その中で日蓮仏法だけを取り出して、私のキリスト教信仰への影響を特定することは容易ではありませんが、あえて一つだけ申し上げるのであれば、「信」「行」「学」の密接な結びつきです。神学者の中には学ぶことだけを重視する人がいて、「祈ることは必要ない」などと説く人もいます。一方で、実践や祈りが、学ぶことよりも重要だと考える人もいます。その上で、「信じること」は、すべての神学者が重要と考えています。こうした状況であるからこそ、「諸法実相抄」の内容に、強い関心を抱きました。「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりおこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361㌻)との一節です。私たちキリスト教徒と創価学会の皆さんとでは、「学」の中身は同じではありません。「行」の内容も、その信仰の「対境」も異なっています。しかし、それらの違いを超えて、私たちの信心が「内なる心を力」から起こるという、その「経験」は同じです。だからこそ、「行学は信心よりをこるべく候」と、「行」と「学」の実践の一致を、「信」を根源のエネルギーとして位置付け、浮かび上がらせてくれた日蓮に、私は心から感謝しているのです。 相手を敬う対話——宗教が世界的に発展を遂げるための要因は、何であるとお考えですか。キリスト教の歴史を踏まえて教えてください。 私の考えでは、宗教は誕生の段階から、普遍的であるか、そうでないかのどちらかです。この「普遍性」は、必ずしも、世界各地に存在しているという事実に依拠するものではありません。全ての人に語りかける「言葉」を、持っているかどうかによるのです。キリスト教は、キリストから託されたメッセージを長い時間かけて伝え続けました。ちなみに、カトリックは「普遍」を意味する言葉でもあります。エキュメニズム(キリスト教の諸教会の一致運動)でも、運動の第1段階としての「対話」が、異なる教会の間で取り組まれていきました。博愛の対話なくしては、キリスト教徒の言葉は「一貫性」を失ってしまうからです。こうした挑戦を通じて、「普遍」という言葉は、その本来の意味を取り戻していきました。一方、釈尊の「転法輪」(教えを転じ伝える)という言葉は、仏教が最初から「普遍宗教」であったことを雄弁に物語っています。普遍宗教だからこそ、転法輪の精神は、日蓮仏法に継承され、192カ国・地域に広がる創価学会によって顕現されています。創価学会は、世界各地にメンバーがいるから普遍的なのではありません。普遍的なメッセージを持つがゆえに、これほど多くの国にメンバーが誕生したというのが真実でしょう。世界宗教がその普遍性を表現し、機能させるために大切なのが対話です。カトリック教会は第2バチカン公会議(1962~65年)の折に、この対話の重要性を強く自覚しました。創価学会も、これからさらに、宗教間対話を重要視されると確信しています。その点、池田SGI会長がフランス語版「御書」の序文でつづられた言葉に、私は感銘を受けました。「この対話と相互錬磨の道をどこまでも歩み流づけて、人類の宗教がそれぞれの固有の価値を発揮しつつ、『人間のための宗教』として結びつき、世界平和実現への最大の力となっていくことを、私は念願している一人である」 ——対話に臨む上で、心掛けるべき点は何ですか。 どのような宗教・宗派を信じている人でも、あるいは無信仰の人であっても、心掛けるべき「内面的な態度」があります。第一に、他者への「好奇心」「関心」です。第二に、相手のことをすでに理解しているといった慢心を退ける「謙虚さ」です。自分のことすらも十分に分かっているとは考えず、ましてや他人については、知るべき多くのことがあると受け入れるのです。第三に、信仰に対する他者の真摯な取り組みを、たたえることのできる「広い心」です。これらに加えて、信仰者は、自分が畏敬の念をもって大切にしているものがあるように、他者にも大切にしているものがあるという心構えで、宗教間対話に取り組むべきだと考えます。キリスト教徒がもつ畏敬の念とは、〝人間は、神が創り給うた心材である〟ということへの核心を持つことに通じます。この点に、すべての人間の尊厳が基礎づけられているからです。私たちは宗教間対話の中で、こうした発見をすることが可能です。信仰の異なる他者こそが、自身の信仰の真の意味に目覚め、感謝を深める機会を与えてくれるのです。 コロナ禍に応戦——コロナ禍という地球規模の危機に立ち向かう一人一人に、日蓮仏法の哲学は、どのような価値をもたらすでしょうか。 パンデミック(世界的大流行)は、人の生命のはかなさを浮き彫りにし、総力戦で応戦しなければ、抜け出すことはできないという緊急性を自覚させました。それにもかかわらず、その緊急性を認めることを拒否し、協調性を欠く行動をとり続ける人たちが世界中にいます。私は、この「現実の否認」もまた、人類の深い苦悩と不満の反映であると考えます。こうした苦悩を前に、日蓮仏法は重要な役割を果たしうるでしょう。具体的な行為を促すだけでなく、人々の「連帯の心」「他者を思いやる創造力と真摯さ」を涵養し、また、そうした行動の基盤となる「慈悲」の思いを育むからです。日蓮仏法は、地球環境の危機にある社会を照らす、希望の哲学であると思います。その希望とは、「SGI憲章」に端的に示されています。「SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する」と。創価学会の皆さんが、この一文を具現化する行動の連帯を、さらに広げていかれるよう期待しています。 【日蓮大聖人御生誕800年 記念インタビュー】聖教新聞2021.5.8
May 28, 2022
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第39回日妙聖人、さじき女房■日妙聖人求道の姿を大聖人が称賛日妙聖人は鎌倉に住んでいた女性門下であり、佐渡に、また身延に、日蓮大聖人を訪ねた強盛な信心の人です。「日妙聖人」とは、大聖人がその尊い求道の姿勢を称賛されて贈られた称号です。実際の名前は明らかではありませんが、結婚し、乙御前という娘をもうけていましたので、大聖人は「をとごぜんのはは」(1222㌻)とも呼ばれています。夫とは、乙御前が小さいうちに別れていたようです。死別か離別かは明らかではありません。当時は、天変地異がひんぱんに起こり、人々は飢えと疫病に苦しめられていました。そのような中で夫と別れた女性が一人で生きていくことは、相当な苦労があったことでしょう。入信の時期ははっきりしていませんが、幼子を抱えながら純真な信心に励み、厳しい現実を一つ一つ乗り越えていったものと思われます。 弾圧の中、信心を貫く文永8年(1271年)9月、大聖人は竜の口の法難に遭われ、その直後、佐渡に流罪となりました。このことを機に門下の中から、大聖人を批判するばかりか、同志をそそのかして退転させるものが相次だのです。また、鎌倉では大聖人門下への弾圧の嵐が吹き荒れました。しかし、日妙聖人の信心は、微動だにしなかったようです。むしろ、大聖人の安否を気遣い、お慕いする心は、日に日に強くなっていったのでしょう。文永9年(1272年)5月、日妙聖人は、ついに佐渡の大聖人をお訪ねしたのです。その折に、幼い乙御前を連れてお訪ねしたという説もあります。 佐渡への訪問の称賛鎌倉から佐渡までの道中が、いかに困難なものであったか。大聖人は「山は峨々としてそびえ、海は濤々として波立ち、風雨は時節に従うことがありません。山賊や海賊は充満しています。途中の宿の民の心は虎や犬のようです。さながら現身に三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみを経験しているかのようです」(1217㌻、趣旨)と仰せです。その上、この年は二月騒動という、北条氏の一族同士が争う内乱が起こっています。それからまだ間もない厳しい状況の中を日妙聖人は、はるか佐渡までお訪ねしたのです。大聖人が、そのけなげな信心を大変に喜ばれ、認められたのが「日妙聖人御書」です。大聖人はその中で、雪山童子などの過去の行者が身をなげうって法を求めた尊い姿を述べられ、その上で、「女人が仏法を求めて千里の路を踏み分けたことは、いまだに聞いたことがありません」(1216㌻、通解)と仰せになり、日妙聖人の法門を心から称賛されています。大聖人は「妙」の一字に、過去の行者が長い修行で得た功徳がすべて収まっており、その功徳を受けるのは、「日本第一の法華経の行者の女人」(1217㌻)こそふさわしいとされて、「日妙聖人」という称号を贈られたのです。こうした大聖人の慈愛に触れ、日妙聖人は一層、信心に励んでいったにちがいありません。 池田先生の講義からまず、「古への御心ざし申す計りなし」と、乙御前の母のこれまでの求道の歩みが本物であったことを、あらためて称賛されます。しかし、続いて大聖人は、あえて、こう御指導されます。「今一重強盛に御志あるべし」——これまで以上に、強盛な信心を貫いていきなさい、との仰せです。すでに佐渡へ身延へと、不惜の師弟不二の姿を示している乙御前の母です。それまでの求道の報恩の姿が不十分だったというわけでは、決してありません。それでも、「今一重」と仰せられているのは、信心において一番大切な要諦は、「昨日より今日」「今日より明日へ」という姿勢であることを教えられるためと拝されます。仏法は、本因妙であり、現当二世です。どんなに過去に信仰の功績があっても、今、歩みを止めてしまったならば、いつしか、信心は成長の軌道から外れてしまう。(中略)乱世だからこそ、今こそ乙御前の母に、「絶対勝利」のための本物の信心を伝えておきたい、との大聖人の大慈悲が、ひしひしと感じられる一節です。(「勝利の経典『御書』に学ぶ」第三巻、「乙御前御消息」) 弟子たちを支援鎌倉に帰った日妙聖人は、弾圧の中で懸命に信仰を貫く、大聖人の弟子たちをお世話し、支援したようです。このことは、こうした日妙聖人の陰の尽力を聞かれた大聖人が日妙聖人に宛てて、「(鎌倉の)弟子たちにも何かと配慮してくださっていると伺っています」(1222㌻、趣意)と述べられていることから明らかです。また、この仰せからは、日妙聖人の労苦を知り、心から労う真心が伝わってきます。さらに、このお手紙の中で大聖人は「今、(あなたは)法華経を慕われていますから、必ず仏になれる女人です」(同㌻、趣旨)と、日妙聖人の信心をたたえられています。 身延へ再びの求道の旅文永11年(1274年)、大聖人は佐渡流罪を赦免になり、鎌倉に帰られて3度目の国主諫暁をされた後、身延に入山されました。この年の10月には、大聖人は予言通り、蒙古(元)が襲来しました。対馬、続いて壱岐を襲い、北九州に上陸して激戦となりましたが、この時は撤退していきました。しかし、翌文永12年(建治元年〈1275年〉4月には、再び蒙古の使者が来日した。社会が騒然と知る中、日妙聖人親子も、さぞかし心細い気持ちだったことでしょう。日妙聖人は身延にいる大聖人をお訪ねします。建治元年8月、大聖人は日妙聖人に「乙御前御消息」を与えられています。その中で大聖人は、「かつて佐渡まではるばる来られたことは、現実とは思えないほど不思議なことです。そのうえ、このたびの身延への訪れは何とも申しようがありません」(1220㌻、趣旨)と称賛されています。 悪世を生き抜く要諦はどこまでも強盛な信心に 師の慈愛の励ましそして、〝心の堅固な者には諸天の守りが必ず強い〟(同㌻、趣旨)との言葉を示されて、「これまでのあなたの信心の深さは、言い表すことができません。しかし、それよりもなお一層の強盛な信心をしていきなさい、その時は、ますます十羅刹女の守護も強くなると思いなさい」(同㌻、通解)と激励されています。悪世を生き抜く要諦は、どこまでも強盛な信心にあることを教えられていると拝することができます。お手紙の最後では、「どんな出来事でも起きたならば、こちら(身延)へおいでなさい」(1222㌻、通解)と仰せになり、また「乙御前は、さぞかし成長されことでしょう。どんなにか聡明になられたことでしょう」(同㌻、通解)と、その成長を楽しみにされています。こうした限りない慈愛の励ましに接し、日妙聖人親子は大きな安心感に包まれ、ますます信心根本にまい進しようと決意したことでしょう。 ■さじき女房夫妻で信心に励むさじき女房は、鎌倉の女性門下です。詳しいことは分かりませんが、大聖人は「さじき(桟敷)女房殿御返事」(1231㌻)で、さじき女房の夫を「兵衛さゑもんどの(左衛門殿)と呼ばれ、「法華経の行者」とたたえられています。また、さじき女房のことを「法華経の女人」と称されており、夫妻とともに強盛に信仰を貫いていたことがうかえます。 夏用の「単衣」を真心から供養 鎌倉の門下「さじき(桟敷)とは、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が由比ヶ浜の眺望を楽しむために桟敷を設け、その跡を「桟敷」と呼びならわしたことに由来する地名です。(ちなみに、この地名は現在、残っていません)。さじき女房は、この地に住んでいたため、こう呼ばれたと思われます。鎌倉の門下を見渡すと、この桟敷の地には、さじき女房以外にも、「冬は必ず春となる」(1253㌻)との励ましの一節を頂いた妙一尼や、「佐渡御書」の宛先の一人である「さじき(桟敷)の尼御前」(956㌻)がいたと考えられます。さじきの尼御前は同一の人物であるとの説もありますが定かではありません。(妙一海士は「日蓮門下の人間群像」上巻に収録)。 広布を願う信心の志に限りない福徳が 一家、眷属に及ぶ功徳建治元年(1275年)5月、さじき女房は帷(帷子)を日蓮大聖人に供養しました。旧暦の5月ですから、生家を前にして、夏用で裏のついていない単衣の帷を着てほしいとの思いでさしあげたのでしょう。大聖人は、この御供養に対する返礼の「さじき(桟敷)女房御返事」(1231㌻)で、さじき女房が自発の心から帷を御供養したことを、大いに称賛されています。この帷は、さじき女房が手ずから織り、縫い上げたものだったかもしれません。大聖人は、このようにたたえられています。——法華経に一枚の帷を供養したということは、法華経が六万九千三百八十四の文字からなり、その一つ一つが仏ですから、それと同じ数の帷を供養したことになります。春の野の、千里ばかりに生い茂っている草に、豆粒ほどのほんの小さな火を草一つに放つと、その日はたちまち燃え広がって無量無辺の火となるようなものです。この功徳は、父母、祖父母、さらに無数の衆生にもきっと及んでいくでしょう(同㌻、趣旨)。大聖人こそ、民衆の幸福を何よりも願って、末法広宣流布を進められた法華経の行者にほかなりません。この仰せは、その大聖人を支える功徳が限りなく大きいことを示していると拝することができます。と同時に、このお手紙からは、門下の真心を尊び、真心には真心で応えようとする師・大聖人の慈愛がひしひしと伝わってきます。 門下の真心に真心で応えた師・大聖人 再びの供養を讃嘆建治4年(1278年)2月、さじき女房は再び、帷と布を大聖人に御供養しています。大聖人は法華経法師品の内容を踏まえて、十種の供養の一つである衣服の供養をしたさじき女房は、過去世に十万憶の仏を供養した人であると示されています。法師品に、この十種の供養をする人は未来世に必ず成仏すると説かれている通り、さじき女房の供養は未来に必ず成仏する因を積んでいると讃嘆されているのです。さじき女房は、広宣流布を支えようとする信心の志に素晴らしい福徳が具わることを知り、信仰の核心をますます強くして、夫妻ともども信心に励んでいったことでしょう。 池田先生の指針から真心には、必ず真心で応える。これが仏法の人間主義である。日蓮大聖人は、女性門下の尊き志を最大に賞賛され、その功徳が限りない福徳の文を開くことを示されています。妙法を弘める「仏の世界」を守り、支える功徳は、父母はもちろん、無量無辺の眷属にも伝わる。一人の信心の志が、万人の幸福へと広がるのである。(2014年12月19日付聖教新聞、「御書とともにⅡ 名誉会長が指針を贈る」) 【日蓮門下の人間群像——師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2021年5月号
May 18, 2022
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第24回分別功徳品第十七■大要「如来寿量品第十六」での説法を聞いた菩薩たちが、それぞれの境涯に応じて功徳を得ます。その功徳を十二段階に分別(区別)して説くことから「分別功徳品」と言います。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1その時、会座では、仏が自らの寿命の劫の数が長く遠いことを、このように説くのを聞いて、無量・無辺・無数の衆生たちは、大いなる利益を得ました。釈尊は弥勒菩薩に告げます。「私が仏の寿命が長く遠いことを説く時——① 六百八十万憶那由他恒河沙に等しい衆生が、無生法忍(常住の生命を確信する境涯)を得た。② その千倍の菩薩だ、聞持陀羅尼門(聞いた教えを忘れない力)を得た。③ 一つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、楽説無礙辯才(礙りなく自由自在に、相手の樂うところにしたがって、正法を説ける力)を得た。④ 一つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、百千万憶無量の旋陀羅尼(悪を止め、善を進める精神力)を得た。⑤ 三千大千世界の微塵の数に等しい菩薩が、能く不退(引くことのない境涯)の法輪を転じた(教えを弘めた)。⑥ 二千中国土の微塵の数に等しい菩薩たちが、能く清浄(清浄なる境涯)の法輪を転じた。⑦ 小千国土の微塵の数に等しい菩薩たちが、八生して(8回生まれ変わって)、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない完全な覚り)を得るであろう。⑧ 四つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、三生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。⑨ 三つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、二生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。⑩ 二つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、二生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。⑪ 一つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、一生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。⑫ 八つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、皆、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こした」このように釈尊が、菩薩たちの得る12の大功徳を説く時、空から花が、集まっていた諸仏、そして宝塔の中の釈尊や多宝仏、そして大菩薩や人々に降り注ぎ……と、妙なる現象が記されていきます。 ●シーン2釈尊が、弥勒菩薩に告げます。「仏の寿命が、長遠であることを聞いて、少しも疑わずに信じる人は、無量の功徳を得るであろう」具体的な例を挙げて語ります。「完全な覚りを求めて、八十万憶那由他劫の間、五波羅蜜(大乗の菩薩が実践して獲得すべき布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの徳目)の修行をしたとしても、その人の功徳は、少しも疑わずに(仏の寿命が長遠であることを)信じた人の功徳に比べて、百分、千文、百千万憶分の一にも及ばないだろう」法華経、なかんずく寿量品を信じ持つ功徳は、計り知れないことを表現しています。 ●シーン3さらに、弥勒菩薩に語ります。「仏の寿命が長遠であることを聞いて、その言葉の真意を理解する人は、限りなく仏の智慧に近づくであろう。ましてや、この教えを聞き、人にも聞かせ、自ら持ち、人にも持たせたりして供養する人の功徳は、無辺であり、一切種智(仏の最高の智慧)を生じるであろう」再度、弥勒菩薩に呼びかけます。「仏の寿命が長遠であることを聞いて、深く信じ理解するならば、仏が霊鷲山で人々に囲まれて説法しているのを見るであろう。その娑婆世界は、瑠璃の平らな大地に、道は金で、宝の樹が林立し、菩薩たちが住んでいるのを見ることであろう。そのように感じられるのは、深く信じ、理解する姿である」いかなる供養をするよりも、信じる功徳の方が計り知れないことが示されます。今度は、釈尊が、自身が入滅した後の功徳について語ります。「私が入滅した後、この経を聞いて、歓喜の心を起こすならば、先に述べた深く信じ理解する人と同じく毒を得るだろう。まして、この経をもち、読誦するならばなおさらである」仏の滅後に、この経を受持し、弘める人は、仏に衣食住などの莫大な供養をしたのと同じ功徳を積んでいることが記されます。さらに釈尊は、弥勒菩薩に語ります。「まして、この経を持ち、その上、布施・持戒・忍辱・精進・一心・智慧を行ずる人の功徳は、虚空に果てがないように無限であり、速やかに一切種智に到達するであろう」「この経を受持し、読誦する人は、菩提樹の下に坐してすでに阿耨多羅三藐三菩提の境涯に近づいているのであり、仏に対するように供養されてしかるべきである」——このように、「分別功徳品」では、無量の功徳が説かれています。■自我偈の功徳日蓮大聖人は、「自我偈は二十八品のたましひなり」「自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三全世界の微塵の数こそ・あげて候へ」(御書1049㌻)と仰せです。日々、読誦している「自我偈」の功徳は計り知れないのです。 信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる——これが「分別功徳」の深義 法華経の智慧から広宣流布に生き抜く人生こそ最高私は、あらゆる迫害に耐え、あらゆる障害を乗り越えて、正法を弘め、学会を守った。ゆえに御本尊から偉大な功徳を頂戴した。同じ御本尊を拝んでいても、こちらの信心が弱ければ、こみあげてくる真の「大歓喜」は味わえない。信心しだいで、功徳が違ってくる。一人一人、千差万別の功徳です。これを「分別功徳」というのです。また、それぞれの信心、境遇、宿命などによって、功徳の現れ方は違うが、信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる。これが「分別功徳」の深義です。◇他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意思で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、わが生命に「不死」の大生命力が涌現してくる。仏の「永遠の生命」が満ち潮のように、生命を浸してくる。生活だって、よくならないわけがない。その意味で、唱題できることが、弘教できることが、広宣流布に働けること自体が、最高の「功徳」なのです。「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書1143㌻)です。(普及版〈下〉「分別功徳品」) 不退の地「分別功徳品」の偈文に、「不退の地に住し」(法華経498㌻)とあります。これは弥勒菩薩が、釈尊の説法を理解したことを表明した箇所になります。不退とは退かないことです。しかし、退かないで、単に止まっている状態を表しているわけではありません。池田先生は「『進まざるは退転』『戦わざるは退転』です。この『不退の境涯』を得れば、その人はもう勝利者です」と語っています。現実には、一歩も進めていないように思えることもあるでしょう。しかし、諦めずに挑み続けるならば、必ず勝利の突破口は開けます。私たちは、御本尊へのひたぶるな祈りで、生命力を湧き立たせて、前へ前へと進み続けることができます。諦めずに戦い続けることができるのです。私たちには信心がある!——この希望と勇気の境涯こそ、不退の地といえるでしょう。 【LotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.4.21
May 8, 2022
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〝逆境でさえ希望と確信は輝く〟大聖人は自らの生き方で証明ドイツ語版「御書」監修者 ヘルビッヒ・シュミット・グリンツァー博士日蓮大聖人が1222年(貞応元年)2月に御生誕されてから、本年は数えで800年。ドイツ語版「御書」第1巻の監修を務めたヘルビッヒ・シュミット・グリンツァー博士に、現代社会における仏法哲学の価値について聞いた。(聞き手=金田陽介) ——2014年発刊のドイツ語版「御書」第1巻を監修されました。御書を通じて、日蓮大聖人の人物像について、どのような印象を受けましたか。 日蓮は、卓越した仏法の師でした。「法華経」の教えを実践することが、仏道を歩む上で最も重要であると悟りました。そして、敵意や迫害に屈することなく、常に他者との対話を求めました。だからこそ、日蓮は影響力のある師となり、楚の教えには強い説得力がありました。本人が残した膨大な著作をひもとくと、心を開いた対話と、助けを求める全ての励ましを貫いていたことが分かります。また、日蓮は人々を精神的に導くため、自身の洞察を、主に法華経に照らしながら説きました。なぜ自分の教えが正しいのか、なぜ他宗の教えが誤っているか、理由を詳細に述べ、何度でも説明をする努力を怠りませんでした。さらに、そのような論議を通して、自身の思想も自己検証し続けました。その上で日蓮は「人はどのような逆境であっても、希望と確信を持ち続けることができる」という洞察を、自らの生き方を通じて証明したのです。そうした「仏の生命」が万人に内在しているならば、私たちは、これを顕現していく必要があります。それは、世界の繁栄や、「救済」「解脱」といったものの必要条件とも言えます。そしてそれは、仏法で言うところの「一生成仏」(どのような人も一生のうちに成仏の境涯を得られること)を目指すことによってのみ可能となります。 仏性を見いだす——日蓮大聖人は仏法者として何と戦い、当時の社会的指導者や宗教的指導者、また民衆に何を伝えようとしていたのでしょうか。博士が御書から見いだしたことを教えてください。 日蓮は、不退の決意を強く持った人でした。それゆえ、皆もそうあることができるように、「現代の危機を察知すること」「誤った教えに惑わされないこと」を、信奉者たちに教えました。そうした教えの中核となっているのは、法華経のなかで方便品と如来寿量品を中心に説かれている、「生きとし生けるもの全てに仏性(仏の生命)を見いだす」という教義です。この教えは、いわゆる大乗仏教の肝要です。大乗仏教においては「菩薩」の在り方も形づけられました。甫家様に説かれる菩薩は、完全な覚りを得たのにもかかわらず、そこに安住せず、同苦と慈愛をもって、悩み苦しんでいる人々に近づき寄り添います。法華経の常不軽菩薩品に描かれている「不軽菩薩」は、その偉大な模範です。不軽菩薩は、全ての人々への尊敬の念を「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻)と表現します。「当に作仏することを得(必ず成仏します)」という呼びかけは、万人への「大いなる約束」と言えるでしょう。日蓮の生き方は、この「菩薩」の役割を想起させます。 菩薩の生き方は「自己実現の道」 どんな状況でも——博士はかねてより、時代的・空間的制約を超える仏法の普遍的価値として、「菩薩」の役割に注目されました。 「菩薩」の生き方は、今に至るまで仏法の中心的なメッセージであり続けています。日蓮は法華経に基づいて、菩薩の理想像を自ら体現しました。それは「自らの救済」と「生命の尊厳」が結びついた(他者の尊厳が成り立ってこそ、自身の救済も実現される)生き方です。これは、自己実現の道を模索する現代人にとっては明白なことかもしれませんが、ほとんどの人はその具体的な方法を見つけられずにいます。そこに、日蓮の教えや、「菩薩」の理念が担うべき役割があります。すなわち、自身の覚りを求めると同時に、他者の生命を尊び、他者に同苦し、そうした視点に基づいた行動を起こす——それが、まさに現代人が模索している「自己実現の道」であることを、具体的な姿で示していくのです。人間は往々にして、その逆の行動を取ってしまったり、そうした衝動に負けないだけの力が自分にはないと思い込んでしまったりするものです。だからこそ、日蓮が自らの生き方を通して示した決意と確信は、全ての人にとっての模範となり、万人を鼓舞するのです。 ——「御書」の翻訳を通じ、800年の時間の隔たりを超えて、現代に日蓮仏法の哲学を紹介する異議を、どのように感じていますか。 日蓮の教えでは、「法華経」の諸品の読誦とともに、「南無妙法蓮華経」(法華経の教えを尊崇し、実践・体現していくという意味)を唱える祈りによって、自身の仏性を洞察することができます。自他供の仏性を信じ、どんな状況でも人間を尊敬し、その努力に関して決して揺るがないことが、菩薩の修行の根本です。自身の救済と完成を目指すだけでなく、それを他者にも広げゆく菩薩の生き方は、人間同士の信頼と、同苦の心を強めます。そうした思想と行動は、普遍的な人間主義の教えであると同時に、恒久的な「平和の礎」にもなると考えます。 「信」を貫く——日本の仏教者である日蓮大聖人の「御書」を翻訳し、空間的な隔たりを超えて、キリスト小社会のドイツに紹介する意義も大きいように思います。 池田大作氏は、ドイツ語版「御書」第1巻に寄せられた序文で、「ドイツ語圏各国の方々の深き人生哲学、豊かな精神性、そして人類の平和と幸福確立への道を志向する開かれた人間性と、『自他供の幸福』を実現する道を説く日蓮大聖人の仏法とは必ずや深く共鳴していくであろう」と述べられています。まさに、現在のドイツにおいて、日蓮の教えは違和感のあるものではありません。例えば、日蓮も説いている「他の人々の幸福と繁栄のために働く」といったことは、古今のドイツの人々には、いわば当たり前のこととして受け入れられます。私が「御書」で特に印象深かったのは、日蓮の「文章の迫力です」池田大作氏は、日蓮の言葉について「時に春風のごとく優しく民衆を包み、ときに激しく厳しい」と述べていますが、これは日蓮の言葉が「苦難の時代」のなかで書かれたことへの言及でもあります。今、私たちも等しく、人類の平和と繁栄が危ぶまれる「危機の時代」にいます。そうした中で日蓮の教えは、今の私たちに何が必要なのかを察知する力となり、新たな視野を開いてくれます。楽観主義、希望を持つこと、仏性の顕現によって宿命を転換しうるという考え方——そうした教えは、特に現代において、自らの人生の助けとなることでしょう。いかなる時代や場所でも、人間一人一人の幸せがあってこそ「世界平和」といわれる現状が実現することは、共通しています。日蓮の世界と現在の世界に時間・空間的な隔たりがあるからこそ、日蓮の教えを自らの人生に直結する教えとして〝翻訳〟できる可能性も、私たちの前に開かれるのです。 「危機の時代」を切り開く「自他供の幸福」の普遍性——2020年からの世界は、コロナ禍により急速に変化しています。日蓮仏法の哲学、とりわけ「菩薩」の生き方は、こうした時代を生きていく人間一人一人にとって、どのような価値をもたらすことができるでしょうか。 特に危機の時代において、「人間は(生老病死の)苦悩の世界から逃れ難い」という仏教の基本的な教えは、よい出発点になります。「法華経」は、例えば「譬喩品」の「三車火宅の譬え」など、そうして危機を乗り越えていくための知恵に満ちているからです。肝要なのは、法華経の言葉と、日蓮の教えを信じることです。「信」を貫くなら、法華経の信解品に描かれている「長者窮子の譬え」のように、最後は全財産を譲り受ける(自身の仏の生命を見いだす)ことになるのです。打ち続くパンデミックの影響で、「恐怖」が人々を操る手段として用いられることある今、強靭な人格と自らの仏性への確信は、そうした状況にあらがうために不可欠だと思われます。それは、自身の人生のみならず、家族や地域社会にも「知恵」「勇気」「慈悲」「活力」といった価値を広げゆくための、原動力になるのです。 ——創価学会は日蓮仏法の哲学を学び、実践しています。このような背景をもとに創価学会の意義について、所感などがあればお聞かせください。 創価学会は、危機と戦争の時代のなか、日本で創立されました(1930年11月18日)。それは、人々の心が深く結び附いた社会をつくるという、人間本来の願望の表れでもあったといえます。そうした共同体の支えによって、個々の人々は、本質的なもの(すなわち、自らの仏性)に目を向けることが可能になります。また、日蓮の教えに帰依することで、自身の仏性を知覚することができるようになります。それらのことは、生命の尊厳という生き方をもたらし、「一人一人個人の幸福があってこそ世界平和も実現する」という確信につながっていきます。こうした洞察に基づいて、創価学会は、志を同じくする個人や団体を協力しながら、個人の幸福と世界平和の実現、すなわち「自他供の幸福」を目指しています。池田大作氏は、「大聖人が展開される所説には、時代や社会を超えた普遍性があり、あらゆる人々の幸福を目指す菩薩の使命と実践が明かされ、その使命と実践を人々に勧め、励ますことにその核心があると拝される」(ドイツ語版「御書」第1巻「序文」)とつづっています。日蓮が教えた「自他供の幸福」という生き方は、800年前のものであるにもかかわらず、まさにそうした普遍性をもつのです。だからこそ私は、創価学会が創立100周年を迎える2030年までに、ドイツ語版「御書」の第2巻が発刊され、日蓮の教えがさらに広く世界に流布することを願っています。 【日蓮大聖人御生誕800年記念インタビュー】聖教新聞2021.3.30
April 18, 2022
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第23回如来寿量品第十六㊦無明を叩き破り久遠元初の大生命の太陽を昇らせるための法華経 ■偈文ここでは、勤行の際に読誦している自我偈の通解を掲載します。◇その時、釈尊は、重ねてこれまで説いてきた意義を述べようとして、次のように偈(詩句形式の文)を説かれた——。私が仏に成ることを得て以来、これまで通過したところの多くの劫の数は、無量百千万憶載阿僧祇である。(その間)常に法を説き、無数億という数えきれないほどの衆生を教化して、仏道に導き入れてきた。そのようにして今に至るまで数限りない劫を経てきているのである。(仏は)衆生を救おうとする故に、方便を用いて入滅の姿を現ずるのである。私は常にここにいるが、もろもろの神通力によって、「顚倒の衆生」に対して、近くにいるけれども見えなくしているのである。人々は、私が入滅したのを見て、広く私の舎利を供養し、皆、ことごとく私を恋い慕う心を抱いて渇仰する心を生ずるのである。人々はすでに信伏し、心がまっすぐで柔らかく、心の底から仏を見たいと念願し、自らの身命も惜しまないようになる。その時、私は、多くの弟子たちと共に、ここ霊鷲山に出現するのである。その時(仏を渇仰する滅後の衆生の前に出現した時)に、私は衆生に語るだろう。「私は常に霊鷲山に存在し続けており、滅することはない。方便の力で、入滅の姿や滅することのない姿を現ずるのである。他の国土で私を敬い、信ずるものがあるなら、私はその中に出現して、その人々のために、この上なき方を説くのだ。しかし、あなたたちはこれを聞かず、ただ私が入滅したと思っていた」と。私は、多くの衆生が苦しみの海に沈んでいるのを見る。それゆえ、姿を現さず、その人々に渇仰の心を生じさせる。衆生に仏を恋い慕う心が生じることによって、私は姿を現じ、法を説くのだ。(衆生を救うために姿を隠したり、現したりする)私の神通力は、このようなものなのである。阿僧祇劫という非常に長い間、私は、常にこの霊鷲山にいるのであり、また、折にふれて、その他の場所にもいるのである。衆生が「世界が滅んで、大火に焼かれる」と見る時も、私が住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界・人界の衆生で満ちている。種々の宝で飾られた豊かな園林には多くの立派な堂閣があり、宝の樹には、たくさんの花が咲き香り、多くの実がなっている。まさに衆生が遊楽する場所なのである。多くの天人たちが、種々の楽器で、常に妙なる音楽を奏でており、天空からは、めでたい曼陀羅華を降らせ、仏やその他の衆生の頭上に注いでいる。私の浄土は壊れることはないのに、衆生は、(世界が劫火に)焼き尽くされ、憂い、恐れなどのもろもろの苦悩が悉く充満していると見るのである。このもろもろの罪の衆生は、悪業の因縁によって、阿僧祇劫を過ぎても三宝(仏宝・法宝・僧宝)の名を聞くことがない。多くの、功徳を修め柔和で心がまっすぐな者は、皆、私の身が、ここに存在して法を説いているのを見る。私は、ある時には、この人々に仏の寿命は無量であると説く。久しくたってからようやく、仏を見た者には、仏には値い難いと説くのである。私の智慧の力はこのようなものである。智慧の光が照らすことは無量であり、その寿命は無数劫である。長い修行の結果として、それを得たのである。あなた方、智慧ある人よ。このことを疑ってはいけない。疑いを永久に断じ尽くさねばならない。私の言葉は、真実であり、偽りはない。譬えば、(良医病子の譬えで述べたように)良医である父が、巧みな方便で、本心を失った子どもたちを救うために、実際は死んでいないのに死んだと言ったのを、だれもうそつきだという者がいないように、私もこの世の全ての衆生の父であり、彼らの多くの苦しみや患いを救うのである。凡夫は心が顚倒しているので、私は実際にはこの世にあるのだが、入滅すると言う。なぜなら、常に私を見ていると、驕りや、ほしいままの心を生じ、ふしだらで五欲に執着し、悪道に落ち込んでしまうからである。私は、常に衆生が仏道修行に励んでいるか、励んでいないかを知って、どう救っていくべきかに従って、さまざまの法を説くのである。私は常にこのことを念じている。すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか、と。 ■「始終自身なり」自我偈は、寿量品の後ろの部分で、それまでの内容を詩句の形式で表現した箇所になります。「自我」で始まる偈なので、自我偈といいます。日蓮大聖人は、「自我得仏来」と「自」で始まり、「速成就仏身」と「身」で終わることから、「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり」(御書759㌻)と仰せです。さらに、「自」と「身」の「中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり」(同㌻)と教えられています。つまり、自我偈の文は仏の振る舞い、妙法の力を自在に「受け用いる身」のことを説いているのです。戸田先生が「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」と言われた通り、他の誰でもない自分自身の自在の境涯をたたえる詩句が、自我偈なのです。 『法華経の智慧』から十界本有の仏寿量品の仏は「十界本有の仏」(御書1506㌻)なのです。仏界だけでなく、菩薩も声聞・縁覚も、また地獄・餓鬼・畜生の境涯もことごとく、〝もともと〟具えている仏です。あるとき突如として仏になったのではないし、仏になったとたん九界の生命がなくなってしまったのでもない。しかも、この十界とは、十法界とも言う。法界とは、いわば全宇宙のことです。十界という全宇宙が本来、大生命体であり、巨大な仏なのです。無始無終で慈悲の活動を続けているのです。だからこそ、十界のどの衆生であっても、その仏と一体です。一体だと「自覚」すれば仏なのです。一切衆生に、そう「自覚」させるために、仏法は存在する。ところが人々は、小我に執着して、狭い心のまま苦しんでいる。その無用を叩き破って、久遠元初の大生命の太陽を昇らせるための法華経なのです。(普及版〈中〉「如来寿量品」) 毎自作是念全ての人と共に幸せに日々、読誦している自我偈の最後は、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上 速成就仏身」(法華経493㌻)と記されています。つまり、この現実世界に常住する仏界の生命は、瞬時も止まることなく、瞬間瞬間、〝早く、全ての人と共に幸せになりたい〟と願っているのです。日蓮大聖人は「毎自作是念の悲願」(御書466㌻)、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり」(同758㌻)と仰せです。池田先生は、「毎自作是念の悲願」について、「この『一念』、この『願い』こそ〝永遠の仏〟の実体です。永遠性といっても、この『大願』を離れてはありえない」と語っています。世界の安穏、友の幸福を願うほど崇高なものはありません。私たちが日々、あの人のために、この人のためにと、友の勝利を願い続ける生命に、仏界が輝いていることは間違いないのです。 【LotusLounge法華経への旅】聖教新聞2021.3.30
April 16, 2022
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第37回高橋六郎兵衛入道・妙心尼夫妻富士地方の武士高橋六郎兵衛入道は、駿河国賀島荘(静岡県富士市加島町周辺)に住んでいた門下であり、夫婦ともども信心に励みながら駿河の広布を支えていたと思われます。高橋入道は、六郎兵衛という通称から、高橋家の6番目の男子であり、さらに兵衛府の官職を持つ武士であったことが分かります。さらに、入道とあるように、正式に出家して僧となるのではなく、在家のままで髪を剃り、仏道修行をしていたことがうかがえます。妻は、駿河の門下である河合入道の娘であり、日興上人の叔母に当たります。夫妻は日興上人の縁で日蓮大聖人の門下になったと思われます。 大聖人との出会い高橋入道が、いつ入信したのかは明らかではありません。しかし、大聖人が身延に入山される際の道すがら、高橋入道の屋敷に立ち寄ることもできたと回想されています。ただ、幕府執権である北条氏並びに一族の影響力が強い地であることから、大聖人が訪問されることで、高橋家に何らかの圧迫が及ぶ危険性を考慮されたため、実際に大聖人が立ち寄られることはありませんでした。この時の心情を大聖人は、「今一度はみ(見)たてまつらんと千度(ちたび)をもひしかども・心に心をたたか(煩悶)いすぎ候いき」(1461㌻)と仰せです。〝もう一度、お会いしたいと千度、思ったけれども、葛藤の末、通り過ぎました〟との意味です。大聖人は、大切な門下のことを何よりも思いやり、やむなく訪問を断念されたのです。ここに「今一度」とあることから、すでに大聖人が高橋入道とお会いされていることが推察できます。同じ駿河の門下である南条兵衛七郎(=時光の父)は、大聖人が鎌倉にいるとき、早い段階で大聖人の門下になったとされています。高橋入道も同じように、大聖人の御化導の早い段階で大聖人とお会いしていた可能性が考えられます。 夫妻して大聖人を求め駿河の広布を支えた門下 師匠から深い信頼高橋入道ならびにその妻に与えられた御書を拝すると、日興上人から出家の門下が高橋入道の屋敷を訪れ、大聖人の御指導を伝えていたことが分かります〈注1〉。また、有名な「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつりて候ぞ」(1467㌻)との御金言のある御書が高橋入道宛てとされてきました(注2)。いずれにしても入道夫妻が大聖人から深い信頼を寄せられていたことが想像されます。 主人の病は「仏の御はからひか」妻に、一層の強情な信心を促す 逆境の門下への慈愛の励まし高橋入道は建治元年(1275年)、大聖人に自身の病について、ご報告しました。それに対する返信が、その年の7月に著された「高橋入道殿御返事」(1458㌻)です。ここでは、釈尊在世、重病(悪瘡)に陥った阿闍世王が、釈尊に帰依することにより、たちまち平癒して40年も寿命を延ばしたとの例を挙げて激励されています。「法華経は全世界の人々の病の良薬と説かれているのですから、病気のあなたの身がどうして助からないわけがありましょう。しかし、信心に疑いがあれば祈りは叶いませんよ」(1462㌻、趣旨)と、厳しくも温かいご指導をされています。高橋入道は、「どうして助からないわけがありましょう」(「一身いかでかたす(助)からざるべき」)との大聖人のお言葉に、どれほどの安堵の思いをしたことでしょう。さらに、その翌月、大聖人は高橋入道の妻に宛てたお手紙(「妙心尼御前御返事〈病之良薬御書〉」1479㌻=注3)で、次のように励まされています。「人が死ぬのは必ずしも病によるとは限りません。今の壹岐・対馬の人達は病気ではありませんでしたが、(蒙古の襲来により)皆、打ち殺されてしまいました。また、病だからといって必ず死ぬとは限りません。この病は仏の御計らいかもしれません。病の人が仏になるとの経典もあります」(同㌻、趣旨)これに続けて、「病によりて道心はをこり候なり」(病があるからこそ仏道への志が生まれてくるのですよ=1480㌻)と、夫の高橋入道の病を機に信心で大きく境涯を開くよう激励をされています。さらに、入道殿は病のために、日々、仏道を求める心を起こしているのですから、あらゆる罪悪を消滅することができるのですと力強く励まされています。また、三世の生命観の上から、入道殿は亡くなった後、「日蓮の弟子である」と名乗っていけば、死後の安心も疑いないと示され、入道の妻の心に寄り添われています(同㌻)。それからまもなく、この年(建治元年)の10月ごろ、高橋入道は亡くなります〈注4〉。入道は、「霊山に行かれたならば、日が昇って十方を見渡せるようにうれしく、よくぞ早く死んだものだと心から喜ばれることでしょう」(同㌻、通解)との大聖人のお言葉を命に刻みながら、臨終を迎えたことでしょう。大聖人は、高橋入道の墓前に弟子の大進阿闍梨を遣わされています。弟子を派遣されたのは、御自身が向かえば身延入山の時と同じように高橋家に権力からの圧迫が起こることを懸念されたからであり、大聖人は、やむなく墓参を弟子に託されたのです。「むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはか(墓)に自我偈よみ候はんと存じて候」(1467㌻)と大聖人は仰せです。〝自ら出向いて墓前で法華経寿量品の自我偈を呼んでさしあげたい〟との言葉には、古くからの門下である高橋入道を思いやるお心が込められています。 高橋入道の妻の呼称「妙心尼」「持妙尼」「窪尼」 「窪尼」の名は地名に由来当時、一般に女性が神を肩のあたりで切りそろえて尼となることは少なくありませんでした。海女とは言っても、正式に出家するのではなく、社会的立場は在家のままで仏門に入った女性のことをいいます。高橋入道の妻の場合、頂いた「高橋殿御返事」(1457㌻。建治元年7月の御執筆)に「女人の御身として尼とならせたまいて候」とあり、ちょうどこの頃、夫が闘病中であることから、その病気の回復祈るために尼になったと考えられます。大聖人は、その翌月のお手紙(「妙心尼御前御返事」1479㌻)で、高橋入道の妻のことを「妙心尼御前」と呼ばれています。このお手紙が、現存する御抄の中で大聖人が初めて「妙法尼」と記された御書です。妙心尼宛ての御抄は日興上人の写本が現存し、その中には宛名が「持妙尼御前御返事」となっているものがあります。このことから、高橋入道の妻は後に持妙尼とも呼ばれたことが分かります。高橋入道の妻は大聖人から御本尊を頂いていますが、その脇書きには日興上人の筆で「富士西山河合入道の女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼」と記されています。持妙尼の呼称は、大聖人から頂いた法号と思われます。持妙尼は、夫の死後、父・河合入道の住む、郷里・西山の窪(静岡県富士宮市久保)に移り住んだため、その地名の「窪」から「窪尼」(「くぼの尼」)とも呼ばれていました。だ聖人から、「窪尼御前」との宛名でいただいたお手紙が、ほぼ全て弘安年間のものであることから、高橋入道の妻は、弘安年間に入るころまでには、郷里に帰っていたと考えられます〈注5〉。ここでは、「妙心尼」「持妙尼」「窪尼」とされる人を同一人物と捉える立場から叙述していま〈注6〉す。 夫亡き後も純粋に信心を貫く妙心尼を心からご照称賛 嵐に揺るがぬ〝信仰の根〟を高橋入道の妻は郷里へ移り住んでからも、毎年5月、6月の農繁期や年末には、大聖人のもとへ心を込めた供養の品を欠かさずお届けしました。諸御抄の内容から、彼女が一貫して女性らしいこまやかな心遣いで大聖人への御供養を続けたことが分かります。弘安元年(1278年)6月、富士地方に弾圧の嵐が吹き始めていた時、入道の妻は大聖人から激励のお便りをいただきました(「窪尼御前御返事」1479㌻)。そこには次のように記されていました。「大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような乱世にあって、あなたが信心を貫いてきたことは不思議なことです」(同㌻、趣旨)根が深く張っていれば、風が吹いても、木が倒れて枯れることはありません。「根が深ければ」とは信心の確信が強く深まれば、ということです。また泉の中に玉があれば、水は絶えることなく、こんこんと湧いてくるといわれています。「潔い玉」とは清らかで濁りのない信心のことです。すなわち、強盛で清らかな信心が「あなたの生命に輝いているからこそ信仰を立派に貫くことができるのです。 窪尼と娘を温かく包み込む高橋入道には娘が一人いて、夫亡き後、妻が立派にその子を育てていたことが、大聖人のお手紙から拝されます(「窪尼御前御返事」1481㌻)。「あなた(=入道の妻)の供養のお志によって、亡き入道殿も仏となられるでしょうまた、姫御前(=入道の娘)も長寿で幸福となり、「さすが、あの人の娘よ」と称賛されることでしょう。(姫御前は)幼いのに、あなたに孝養を尽くす女性ですから、故入道殿の後世をも助けることでしょう」(同㌻、趣意)と、大聖人は温かい励ましを送られています。入道の妻は、この真心こもる師の仰せを抱きしめながら、一家を照らす太陽の存在として信仰のすばらしさを示していったことでしょう。 池田先生の講義から大聖人と心一つに、大難を乗り越え、ともに勝ち進んできた大切な同志。その一人の弟子が今、病に苦しんでいる。闘っている——大聖人は、胸の張り裂けるような思いで、平癒を祈り、筆を執られ、本抄を、日興上人らに託されたと拝されます。——日本国中が日蓮を憎む中で、あなたは、日蓮を信じてくださった。身延までも、お便りをくださった。あなたとは、今世だけでなく過去世から、深い深い因縁で結ばれているに違いない——生命に染み入るような師匠の一言一言に、高橋入道の心は温かく包まれていったことでしょう。〝今世だけでなく過去世からも、さらに来世も、その次も、永遠に、私とあなたは一緒だよ! 師弟は一体ですよ!〟——大聖人は、そのように限りない「希望」を弟子に送っていかれたと拝されてなりません。(「勝利の経典『御書』に学ぶ」第14巻『高橋入道殿御返事』)◇重病の夫を見守り支える妙心尼へ、大聖人は、善根からの励ましを送られます。——いかなる逆境にも負けない、強い強い信仰を胸中に植えつけておきたい。妙法の大良薬によって、永遠の幸福境涯を築けることは間違いない。ゆえに、どこまでも、その大確信に生きてほしい——。本抄は、門下を思う師匠の慈愛が満ちあふれている御書です。(中略)駿河は、鎌倉幕府の中枢にいる北条氏の縁者たちが所領を持っていました。妙心尼夫妻は、この幕府の影響の強い土地で、真面目に信心を貫いてきたのです。また、それだけに魔も強い。だからこそ、断じて魔に敗れることなど、あってはならない。魔を魔と見破り、信心が破られてはならない。むしろ、一層の信心を奮い起こして勝利していくのだ。そうした厳愛が込められた一書であると拝することができます。(「勝利の経典『御書』に学ぶ」第9巻「妙心尼御前御返事」〈病之良薬御書〉) 〈注1〉「高橋入道殿御返事」(建治元年(1275年)7月)に「覚乗房は( 伯)わき( 耆)房に度度よ(読)ませてき(聞)こしめせ」(1463㌻)とあり、また、高橋入道の妻に宛てられた「妙心尼御前御返事」(建治2年または同3年の5月)に「はわき殿申させ給へ」(1484㌻)との仰せがある。「は( 伯)わき( 耆)房」「はわき殿」とは日興上人のこと。かつては、高橋入道が弘安年間に死去したとされてきたが、本稿では、入道の死去を建治元年とする立場に立つ(〈注4〉参照)。ここから、今の「妙心尼御前御返事」の御執筆年を、御書本文の内容も考え合わせて建治2年または同3年と推定していた。〈注2〉本抄の詳細は不明だが、末尾に「松野殿にも見参候はば・くはしくかたらせ給へ」(1467㌻)とあり、これから同抄は、松野殿と同じ富士地方の門下当であると推定することができ、高橋入道宛てとされてきた。〈注3〉「妙心尼御前御返事」の御執筆は、これまで弘安元年(1278年)8月とされてきたが、最近の研究では建治元年(1275年)8月と考えられている。文中に蒙古襲来の模様が「当時のゆき(壹岐)つしま(対馬)のものどもは病なけれども・みなみなむ(蒙)こ(古)人に一時に・うちころされぬ」(1479㌻)と述べられ、文永11年(1274年)の蒙古襲来から、そう遠くない時期の御執筆であることがうかがわせる。〈注4〉建治元年8月に御執筆の「妙心尼御前御返事」(1479㌻)からは、高橋入道が闘病中であることが分かる。さらに、建治2年2月に大聖人が認められた御本尊の脇書きに、日興上人が「富士西山河合入道の女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼」と記しており、「後家」であることから、この時点で高橋入道が亡くなったのは、建治元年8月から建治2年2月までの間となる。ここで、高橋入道の妻である妙心尼に与えられた「妙心尼御前御返事」(1482㌻)に「すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか」と述べられており、さらに末尾から同抄が11月2日の御執筆であると分かる。まとめると、高橋入道の章月命日は11月2日の直前ということになり、死去は建治元年10月ごろと考えることができる。〈注5〉御執筆の年月がほぼ特定できる御抄のうち、大聖人が「窪尼」(「くぼの尼」)と記される最初のお手紙が、弘安元年6月に御執筆の「窪尼御前御返事」(1479㌻)である。つまり、この時まで高橋入道の妻は窪に移り住んでいたと考えられる。〈注6〉高橋入道の妻が「持妙尼」と呼ばれたことは明白だが、持妙尼と「妙心尼」「窪尼」とを別人とする説もある。しかし、「持妙尼」「妙心尼」「窪尼」が同一人物であることは、近年、一般的にも支持されている。妙心尼、窪尼それぞれのお手紙は、高橋入道宛てならびにその妻である持妙尼宛てのお手紙と照らし合わせても、内容に矛盾を生じない。 [関連御書]高橋入道宛て:「高橋入道殿御返事」(1458㌻)、「高橋殿御返事」(1467㌻)高橋殿御返事」入道の妻宛て:「高橋殿御返事」(1457㌻)、「西山殿御返事」(1476㌻=注)、「妙心尼御前御返事」(1477㌻)、「窪尼御前御返事」(1479㌻)、「妙心尼御前御返事(病之良薬御書)」(同㌻)、「窪尼御前御返事」(1481㌻)、「妙心尼御前御返事」(1482㌻)、「窪尼御前御返事」(1483㌻)、「妙心尼御前御返事」(同㌻)、「窪尼御前御返事(阿那律事)」(1485㌻)、「窪尼御前御返事(善根御書)」(同㌻)高橋入道宛て:「減劫御書」(1465㌻)〈注〉内容から、夫に先立たれた女性宛であることを、さらにこのお手紙を頂いた人物が「するが(駿河)の国・西山」に住んでいることが分かる。こおっから、高橋入道の妻宛てと推定することができる。 [参考文献]『勝利の経典「御書」に学ぶ』第14巻(「高橋殿御返事」講義)、「勝利の経典『御書』に学ぶ」第17巻(「窪尼御前御返事」〈虚御教書事〉)講義)、「勝利の経典『御書』に学ぶ」第9巻(「妙心尼御前御返事〈病之良薬御書〉」(講義)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第7巻(「減劫御書」講義) 【日蓮門下の人間群像——師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2021年2月号
February 5, 2022
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第22回如来寿量品第十六㊥妙法に根ざした生と死は永遠常住の大生命を舞台とした喚起のドラマ■大要の続き(㊤から)「私が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祇劫という長遠な時間であり、この世界に常住して滅することがない」「私が菩薩の道を行じて成就した寿命は、今なお尽きていない。にもかかわらず今、真実の滅度ではないが、まさに、〝仏は入滅するだろう〟と言うのである」その理由について語ります。「如来はこの方便をもって衆生を教え導くのである。その理由は何であろうか。もし仏が久しく世の中に住するならば、徳の薄い人は、善根を植えようとしないだろう。また、貧しく賤しい生活に落ち込み、欲望に執着し、間違った思想の網の中に入ってしまうだろう。もし如来が、常にこの世にあって入滅しないと見れば、すぐに驕りや、怠る心などを抱いて、仏に対して〝なかなか会えない〟と慕う思いや、敬う心が生ずることができないだろう。だから如来は、方便として『諸仏の出現に会うことは、難しい』と説くのである。それは、福徳の薄い多くの人は、無量百千万憶劫という長い時間を過ぎても、仏を見る人も、仏を見ない人もいるからである。ゆえに私は言う。『仏に会うことは難しい』と。衆生たちは、このような言葉を聞いて必ず、〝仏には会い難い〟という思いを生じ、心に恋慕を抱き、仏を渇仰して、善根を植えるようになるであろう。この故に如来は、実際は滅しないが、滅するというのである」「あらゆる仏は、皆、このように(方便をもって)法を説くのである。これは衆生を正しく教え導くためであるから、皆、真実であり、ウソではない」◇ここから有名な「良医病子の譬え」が始まります。——譬えば、智慧が聡明で、病気の診断と薬の処方に熟練し、多くの病気を治すことができる名医がいたとします。その人には、十人、二十人、ないしは百人の沢山の子どもがいました。良医は所用で、遠く他国に出掛けていました。その間に、子どもたちは、他の人が作った毒薬を飲んでしまい、毒が回って、悶え苦しみ、大地を転げ回っています。そこに、父が戻ってきました。子どもたちは父を見て、大歓喜し、合掌し、ひざまずいてお願いします。「私たちは愚かなことに、誤って毒薬を飲んでしまったのです。どうか救って、寿命を与えてください」父は、子どもたちが苦しんでいる姿を見て、良き薬草を求め、つき、ふるい、調合し、飲ませようとします。父は子どもたちに語ります。「この大良薬は、色と香りと良き味の全てを具えているから、この薬を飲みなさい。そうすれば、すぐに苦悩が除かれ、かずかずの病気にわずらわされることはなくなる」正気を失っていない子どもは、薬の色や香りは良いのが分かって、すぐにこれを飲んで、苦しみが除かれます。ところが、正気を失った子どもたちは決して薬を飲もうとしません。そこで父は考えます。〝かわいそうだ。毒で心が顛倒している。私が帰ってきたのを見て喜び、治療を願っているのに、この良薬をどうしても飲もうとしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませよう〟父は言います。「いいか、私は、老いてしまって死期が迫っている。この素晴らしい良薬を置いていくから、飲みなさい。苦痛が癒えないことを心配しなくていいよ」。こう言い残して、他国に行きます。そして、家に使いを出して語らせます。「あなた方のお父さんは、すでに亡くなりました」この時、子どもたちは思います。〝もし父がいたら、私たちを慈しみ、あわれんで、救ってくれただろう。今、遠い他国で亡くなった。私たちには、頼れるものがなくなってしまった〟子どもたちは嘆き悲しみ、ついに心が目覚めます。そして、父が置いて言った薬は、色の香りも味わいもよいことが分かり、すぐに飲み、毒の病が全て治ります。父は、子どもたちが治ったと聞いて家に帰り、皆の前に姿を現しました——。◇釈尊は語ります。「良医にウソをついた罪があると説く人がいるだろうか」菩薩たちが答えます。「いるはずがありません」そこで釈尊は言います。「私もこの譬え話と同じである。私は成仏してからすでに無量無辺百千万憶劫もたっている。しかし、衆生のためを思い、方便の力によって、まさに入滅するであろうと説くのである。したがって、私がウソをついたと言って、型通りに、その罪を言う者はいないであろう」(㊦に続く) なるほど寿量品で説かれる久遠実成によって明かされた成仏の因果を、本因本果と言います。寿量品に「我は下菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」(法華経842㌻)と記されている通り、久遠に菩薩道を行じてきたことが成仏の本因であり、その菩薩の生命は成仏してからも尽きることなく具わり、常住であると教えています。さらに「我は成仏してより已来(このかた)、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」(同㌻)と、本果である仏界の生命も常住であると説きます。このことによって「九界即仏界」「仏界即九界」が明かされたので、大聖人は「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書197㌻)と仰せられました。本因本果が明かされることによって、一切衆生が凡夫のままで、一生成仏を実現する道が開かれたのです。 『法華経の智慧』から凱歌の軌道を歩む〝生と死はない〟というのは、生命の常住の側面を強調しているわけです。その面だけにとらわれると、ある意味で抽象的になってしまう。〝生と死がある〟のは人生の現実だからです。その現実から逃避しては観念論になる。大聖人は、もう一歩深く、「自身法性の大地を生死生死と転(めぐ)ぐり行くなり」(御書724㌻)と仰せです。妙法に根ざした生と死は、「法性の大地」すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです。ドラマを演じていると思えば楽しいでしょう。生と死が苦しみでなく、楽しみになる。「生も歓喜」「死も歓喜」となっていくのです。妙法は、生死の苦しみを乗り越える大良薬です。寿量品に「是好良薬(是の良き良薬)」(法華経487㌻)とあります。法のため、友のために——くる日もくる日も、心を使い、体を使いきっている学会の同志は、永遠にわたる「生命の凱歌」の軌道を歩んでいるのです。(普及版〈中〉「妙来寿量品」) 是好良薬どこまでも自発を促す「良医病子の譬え」で、毒を飲んで苦しんでいる子どもたちの中に、なぜか良薬を飲もうとしない子がいました。その時、父親の良医は、力ずくで薬を飲ませることはしませんでした。その代わりに、どうすれば子どもたちが良薬を飲もうとする心が起こせるかと、智慧を湧かせたのです。教え導くことは、どこまでも相手の求道心を呼び覚ますことが大切であることを教えていると言えるでしょう。どんなに素晴らしい良薬、私たちでいえば仏法であっても、それを無理強いすることなく、〝やってみよう〟という自発を促していくことです。どんなにそれが困難に思えたとしても、良医が智慧を尽くしたように、相手の成長と幸福を心から願う時、計り知れない仏の智慧を発揮していくことができるのです。この慈悲の振る舞いこそ、仏の振る舞いなのです。 【LotusロータスラウンジLounge法華経への旅】聖教新聞2021.2.2
February 2, 2022
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第21回如来寿量品第十六㊤■大要「從地涌出品第十五」での弥勒菩薩の質問に対して、「如来寿量品第十六」では、釈尊の真実の成道が久遠の昔であること(久遠実成)を明かし、常に娑婆世界で衆生を導いてきたと述べます。さらに「良医病子の譬え」を通して、仏が入滅を減じるのは衆生を教え導くための方便であることを語ります。それでは内容を追ってみましょう。◇その時、釈尊は、菩薩や一切の大衆に告げます。「如来が語る真実の言葉を信じ、理解しなさい」再び大衆に呼びかけます。「如来が語る真実の言葉を信じ、理解しなさい」さらに重ねて大衆に語ります。「如来が語る真実の言葉を信じ、理解しなさい」この時、菩薩や大衆は、弥勒菩薩を先頭に、合掌して仏に言います。「どうか、如来の真実を説いてください。私たちは、仏の言葉を信じ、受持します」この言葉を三度繰り返し、さらに重ねて願います。「どうか、如来の真実を説いてください。私たちは、仏の言葉を信じ、受持します」その時、釈尊は、菩薩たちが懇願を止めないことを知り、告げます。「明らかに聴きなさい。如来の秘密、神通の力を」そして続けて語ります。「天界、人界、修羅界の衆生は、〝今の釈尊は、王宮を出て、伽耶城から遠くない道場で修行し、阿耨多羅三藐三菩提(仏の完全な覚り)を得た〟(始成正覚)と思っている。しかし私は〝実に成仏してから、無量無辺百千万億那由他劫という長遠の時を経ている〟(久遠実成)」釈尊は本来の境地を明かします。始成正覚という仮の姿(迹)を発いて、久遠実成という真実の姿(本)を顕したので、「発迹顕本」といいます。続いて釈尊は、〝どれほどの長遠の昔に成仏したか〟、すなわち久遠を譬喩によって表現します。「譬えば、ある人が、五百千万憶那由他阿僧祇という無数の三大千世界をすり砕いて細かい塵とし、その塵を持って東の方へ行き、五百千万憶那由他阿僧祇という無数の国を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。このように、東へ行き、この塵を全て落とし尽くしたとする。この間に通り過ぎた世界の数は、どれほどあると思うか。その数を知ることができるであろうか」弥勒菩薩たちが、釈尊に言います。「今語られた世界の数は、無量無辺で、計算して知ることもできません。一切の声聞や縁覚、そして不退の位にいる菩薩であっても知ることができず、ただ無量無辺としか言えません」その時、釈尊は、菩薩や大衆に告げます。「今まさに、はっきりと語ろう。この多くの通り過ぎた政界、すなわち細かな塵を置いた世界も、置かなかった世界も、ことごとく、また砕いて塵とし、どの一粒の塵を一劫(劫は、計りがたい長遠な時間の単位)として数えよう。私が成仏してから、現在に至るまでの時間は、また、これよりも百千万憶那由他阿僧祇劫も多いのだ」(ここで表現された久遠の時を、最初にすりつぶす五百千万憶那由他阿僧祇の三千大千世界にちなんで、「五百塵点劫」といいます)さらに釈尊は、如来の真実を説いていきます。「私は、久遠の昔に成仏して以来、常に、この娑婆世界で人々に法を説き、教え導いてきた。他の百千万憶那由他阿僧祇という無数の国土でも衆生を導き、利益してきた」具体的に、過去の振る舞いを述べます。「(久遠の昔から今に至るまでの)この中間において、私は燃灯仏などのことを説き、また、涅槃に入るとも言った。このようなことは、全て方便を用いて説いたことである」なぜ、方便を用いたのか。「私は仏眼によって、衆生の心や機根が鋭いか鈍いかを明らかに見て、救うべきやり方に従って、それぞれの所において、自ら異なった名前や種々の寿命の長さを述べ、『まさに涅槃に入るだろう』と言い、種々の方便を用いて如来の真実の妙法を説き、よく衆生に歓喜の心を起こさせてきた」「多くの衆生が、低い教えを好み、徳が薄く、煩悩の垢が重いのを見て、『若い時に出家し、初めて無上の覚りを得た』と説いた。衆生を教え導くために、方便として説くのだ」「如来が説く教えは全て、衆生を救い覚らせるためである。〝あるいはわが身を説き、あるいはわが身を示しあるいは他の身を示し、あるいは自分の事を示しあるいは他人の事を示す〟」「このようにして説く全ての教えは真実であって、ウソではない。その理由は何であろうか。如来は如実(あるがまま)に三界(衆生が生死流転する現実世界)の相を知見しているからである。生や死というが、この三界から退き去ることも、この三界に出現することもない。また世に在る者、滅度した者という区別もない。この三界のありさまは、真実でもない。だからといって虚妄でもない。〝このようである〟ということもない。〝このようではない〟ということもない。如来は、三界を、三界の衆生が見ているように見ていない。如来は、三界を明らかに見ていて、誤りがないのである」「衆生には、さまざまな性質、欲求、行い、観念や判断の違いがあるから、全ての衆生に全ての機根を生じさせようと望んで、多くの因縁、譬えや言葉を用いて、さまざまに教えを説くのである。その仏の行いは、いまだかつて瞬時も止まったことはない」(㊥に続く) 「法華経の智慧」からこの一生を勝利生きるか死ぬかという瀬戸際に、人間として何を語れるのか。そこに真の哲学がある。◇人生は長い。晴天の日だけではない。雨の日も、烈風の日もある。しかし何が起ころうと、信心があれば、最後は全部、功徳に変わる。戸田先生は言われていた。「信心さえあれば、ことごとく功徳なのだよ。信心なくして疑えば、すべて罰だよ」と。「永遠の生命」を信じて、この一生を生きて生きて生きぬいていくのです。この一生を勝利しきって、その姿でもって「永遠の生命」を証明するのです。それが法華経です。寿量品です。何があろうと、生きて生きて生きぬくのが「寿量品の心」なのです。◇大生命力で生き抜くことです。永遠にして宇宙大の「大いなる生命」の実在を明かしたのが寿量品です。その「大いなる生命」を、現実のわが身の上に顕していくのが寿量品の実践です。(普及版〈中〉「如来寿量品」) 秘密と神通力人を救う智慧と力「如来寿量品」で釈尊は、「汝等よ。諦かに聴け。如来の秘密・神通の力を」(法華経477㌻)と、弟子たちに宣言します。秘密は何か特別なもの、神通力は何か特別なもの、神通力は超能力のようなものを創造させます。しかし、誰も知らないようなことを知っていたとしても、超人的な力をもっていたとしても、それだけで幸福が決まるわけではありません。法華経での秘密と神通力は、一切衆生を成仏へ導くために減じてきた仏の偉大な力と深い智慧のことです。人を救う力のことです。日蓮大聖人は「御義口伝」で「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(御書753㌻)と仰せです。皆が平等に、凡夫のままの姿で成仏できる—これ以外の「秘密」の力、「神通」の力はないのです。ゆえに大聖人は、御本尊を顕され、誰もが実践できる唱題行を確立し、自他供の幸福の大道を開かれたのです。いわゆる神秘主義とは対極にあるのです。 【ロータス ラウンジLotusLounge法華経への旅】聖教新聞2020.12.29
January 1, 2022
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第36回波木井一族今回は、波木井実長と、その一族を取り上げます。日蓮大聖人の滅後、数々の謗法を犯し、弟子の道を踏み外した門下の人物像に迫ることで、峻厳な師弟の精神を学びたいと思います。波木井実長は、甲斐国南部(山梨県南巨摩郡南部町)を領した南部氏の一族で、入道していたので、「南部六道入道」と呼ばれていました。波木井郷(同郡身延町波木井)の地頭で、波木井後に住んでいたので「波木井」を名乗っていました。実長は幕府へ出資するため、鎌倉に滞在する機会も多かったようです。 師の御指導を聞き入れなかった実長 日興上人の教化日興上人が残された「弟子分本尊目録(大聖人の御本尊が授与された門下の目録)には「甲斐国の南部六郎入道は日興第一の弟子なり」と、「富士一跡門徒存知の事」では「日興最初発心の弟子なり」(1602㌻)と記されており、実長は、日興上人の教化によって妙法に帰依した門下であることが分かります。正応元年(1288年)に日興上人が著された「原殿御返事」によれば、実長はこの当時から「二十余年」前に入信しており(編年体御書1732㌻参照)、文永6年(1269年)頃には、すでに妙法を持っていたと思われる。 実長の息子たち「弟子分本尊目録」には、波木井氏一族や一族に縁のある人の名前が多数記されており、実長の何人かの息子たちも大聖人に帰依していたことが分かります。息子の一人である「南部六郎次郎」は、実名が「実継」で、字は「清長」と推定されています。建治3年(1277年)3月のお手紙で、大聖人に3斗の白米と油を御供養したとされる「六郎次郎」(1464㌻)は、この南部六郎次郎のことではないかと思われます。また、身延に大坊を建築寄進するのを手伝ったとされる「次郎殿」(1375㌻)も同一の人物だと推察されます。文永10年(1273年)8月に、佐渡流罪中の大聖人からお手紙(「波木井三郎殿御返事」)を頂いた「南部六郎三郎」なる門下もいます。この人物も実長の息子と考えられています(実長とする説もあります)。大聖人は、このお手紙でこう仰せです。「日蓮から度々大事な法門を聞いた者でも、今回のような大難に遭うと、信心を捨てるものがいる。ところが、あなたは、この法門を聞いたのは一度に二度で、それもわずかな時間しか聞いていなかったのに、いまだに法華経を捨てずに信心に励んでいる」(1372㌻、趣意)と。波木井氏一族は、日興上人との縁が深い一方で、この人物は、佐渡流罪以前は大聖人に直接お会いする機会はほとんどありませんでした。しかし、幕府による迫害で多くの門下が退転する中でも、信心を持ち続けていたことがうかがえます。 世間に迎合しがちな心が魔に付け込まれる 訴訟の問題文永11年(1274年)3月、佐渡流罪を赦免された大聖人は鎌倉に戻られ、翌月、平左衛門尉頼綱ら幕府重臣に国主諫暁されます。その後、5月に鎌倉を出て、身延へ向かわれました。大聖人と同じ誓願と行動を貫く広宣流布の弟子の育成と、末法万年にわたる広宣流布の基盤を築く戦いを開始されたのです。身延に向かわれたのは、日興上人の勧めによるものと思われます。前述のように、身延地頭である実長は、日興上人によって入信していました。身延は、鎌倉からさほど離れていない距離にあり、各地にいる有縁の門下の所在地にも近く、大聖人の当面の意に敵った地ともいえました。大聖人を自らの領地にお迎えできたことは、実長にとって、この上ない喜びであったことでしょう。しかし、実長は、必ずしも市に深く信頼する姿勢ではありませんでした。大聖人が四条金吾に認められた「四条金吾殿御返事(八風抄)から、そのことが垣間見えます。このお手紙では、所領の問題で主君の江間氏を訴訟しようとしていた金吾を指導されています。その中では、同じく、何かの件で訴訟を考えていたと思われる門下のうち、大楽三郎や池上宗仲は、大聖人の仰せの通りに実践した結果、祈りが叶ったことが書かれています。一方、実長は、法華経の法門については信じていたが、大聖人の忠言を聞き入れなかったため、訴訟で想うような結果が出なかったと記されています(1151㌻参照)。実長にとって、大聖人は師匠であるが、世間知では自分の方が長けているというおごりがあったのでしょう。「檀那(弟子)と師匠と心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので、叶うわけがない」(同㌻、通解)と大聖人は仰せです。勝利の原動力は師弟不二の一念、祈りと戦いこそにありますが、実長は史と信心の呼吸を合わせることができなかったようです。 大聖人の御入滅弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は身延を発ち、常陸国(茨城県北部と福島県東南部)へ向かわれました。重い病を患われていた大聖人を案じた弟子たちの勧めもあり、病気療養(湯治)をされるためでした。大聖人は、実長から贈られた馬に乗られ、実長の息子たちも随行したのです。大聖人一行は、同月18日、武蔵国池上(東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に入られました。大聖人は到着の翌日、日興上人に代筆させて、実長にお手紙を送られます。文中では、険難な道を無事に進めるよう守ってくれた実長の息子たちへのお礼や、味吞で9年間にわたって大聖人を支えた実長への感謝の思いが綴られています。そして、いずこの地で命を終えたとしても、御自身の墓所は身延にしたい旨を認められたのです(1376㌻参照)。国中から迫害を受けられていた弟子の誠意に応えたいとのお言葉だと拝されます。このお手紙を認められてから約1か月後の10月13日、大聖人は池上邸で、民衆救済に全生命を投じた貴い御生涯を閉じられました。 日興上人が身延に大聖人の御入滅後、日興上人はただ一人、師の精神と行動を受け継がれます。大聖人は、御入滅前に6人の「本弟子」を選びました。また、日興上人の「宗祖御僊化記録」では、6人で大聖人の墓所を参詣して、香華(仏前に供える香と華)を当番で行うように大聖人が御遺言を残されたと記されています。日興上人はこの御遺言に基づいて、墓所を守る輪番制度を定められました。しかし、この制度は実施されませんでした。そこで、日興上人が身延に入られて、墓所を守られるようになります。当時、墓所は荒れ果て、鹿の蹄に踏み荒らされているとまで表現されています(編年体御書1729㌻参照)。弘安7年(1284年)10月18日に、日興上人が上総国(千葉県中央部)の門下に書かれた「美作房御返事」では、「『詩を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(大聖人)を捨て奉るとは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる」(同1729㌻、通解)と述べ、五老僧(大聖人の高弟6人のうち日興上人以外の5人)を厳しく指弾しておられます。 そして、日興上人は身延に定住されることになります。実長にとっては、妙法に導いてくれた日興上人が身延にとどまるようになったことは、大きな喜びでした。実長は日興上人に宛てた手紙では、「大聖人が再び、身延にお住まいになっているように、ありがたく思っております」と記しています。身延は再び活況を呈するようになりました。また、「美作房御返事」では、「地頭(実長)が法に背いたことをすれば、私も身延に住まない」との大聖人の御遺言が明らかにされていますが、残念なことに、その通りに実長は謗法を犯していくようになります。 日向の謗法弘安8年(1285年)、五老僧の一人である日向が、身延の日興上人の前に姿を現しました。五老僧が誰一人として身延を訪れないことに心を痛めていた日興上人は、日向を身延の額等(寺の学事を統括するもの)に任命されました。日向は、大聖人の葬儀や百箇日法要に参列しておらず、墓所を守る当番にも来ていませんでしたが、それでも学頭に据えたのは、日向を大成させてあげたいとの日興上人の思いもあってのことだったと思われます。ところが、日向は、大聖人の御精神を踏みにじる不穏な言動を見せるようになりました。日興上人は、折に触れて、日向が説く教えが誤っていることを指摘しますが、日向は聞き入れようとしません(同1732㌻参照)。実長は、そんな日向に次第に毒されて行きました。もともと新人が定まらず、世間に迎合しがちな実長は魔に付け込まれていったのです。謗法に染まっていく様子は、日興上人が身延を驪山される前年の正応元年(1288年)12月16日に著された「原殿御返事」にくわしく記されています(このお手紙の宛先である「原殿」については定かではありませんが、実長の息子の一人ではないかとする説があります)。日興上人は、実長の唆した日向の邪悪に、原殿迄染まってしまわないように、日向の悪事を暴き、厳しく責められたと拝されます。(同1731㌻~1732㌻参照)。ある時、実長の息子の一人である弥三郎(「孫三郎」とする説もあります)が、幕府に熱く信仰されていた三島神社への参詣を企てました。日興上人は、弟子を遣わして、「立正安国論」に仰せの通り、諸天善神は謗法の国を去っているのだから神社に参詣してはならないと説き聞かせ、弥三郎を思いとどまらせました。ところが、これに疑問を持った実長に対し、日向は「日興は、外典読み(仏教以外の書にとらわれた表面的な読み方)で、立正安国論も一面的にしか読んでいない」と誹謗したのです。こうした日向の邪見をすんなり受け入れてしまった実長を、日興上人は厳しく諫められました。「日向の振る舞いは大聖人への師敵対であり、謗法の学頭を追放すべきである」と。にもかかわらず、実長は、九品念仏(9種の浄土に往生することを願って行う念仏)の道場を建立するなど、次々と謗法を犯します。こうした謗法を諫めても、「日向から許可を得ている」(御書1603㌻、通解)と言って聞こうとしない実長。日興上人は、時には実長の自尊心を考えて、諭そうとされたこともありました。「波木井殿は罪があるわけではありません。ひとえに心がねじ曲がった法師(日向のこと)の過ちです。『大聖人の御在世の時のように信じてまいります』と改心しなさい」(編年体御書1733㌻、趣意)と。ところが実長は改心するどころか、「自分は日向を師匠にしたのである」(同㌻、通解)と言い出しました。まさに「法華経の御信心逆に成り候いぬ」(同㌻)という顛倒でした。実長は、大恩ある日興上人に背き、完全に天魔の手に堕ちてしまったのです。実長が、大聖人の仏法に帰依できたのも、大聖人を身延にお迎えできたのも、日興上人のおかげでした。その大恩ある日興上人を裏切ることは、自分の信仰に対する裏切りにほかなりません。 身延離山ついに日興上人は、大聖人の正法を守るために、身延を離れる決心をします。師匠が晩年を過ごされた師弟の縁深き地を去らねばならなければならない悔しさ、自らが教化してきた実長を改心させられなかった真情を次のように綴られています。「この身延の沢を立ち退くことは、面目なく、残念さは言葉で言い表せないが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切である』(同㌻、通解)と。大切なのは「正法」であり、現実に「正法」を広宣流布して、悩める人々を救うことです。日興上人は、正法を惜しむ大感情で、謗法の地となった身延を去る決意をされたのです。日興上人が重大な決意をされたことは、実長の息子たちの耳にも入ったことでしょう。「原殿御返事」が書かれる少し前の正応元年(1288年)12月5日、実長の息子の清長は、日興上人に誓状を送っています。「もし、日興上人が身延を立ち去られたとしても、上人に対する私の心は変わりません。これまで教わったことに少しでも反するようなことがあれば、御本尊はむろんのこと、大聖人のお怒りをわが一身に受ける覚悟です」と。父とは違い、大聖人の教えを純真に信奉しようとする姿勢が伝わってきます。日興上人は、実長の息子たちが大聖人の正義をわきまえているのを心から喜ばれ、息子たちが実長を説得することに希望をつながれていたことが、「原殿御返事」からうかがえます。(同1734㌻、参照) 忘恩の徒を他山の石とし感謝と報恩の道を 違背した自分を正当化「自分は日向を師匠にしたのである」と言い放った実長でしたが、実際に日興上人が身延を離れるのは受け入れがたいことでした。実長は、波木井郷にいる越前房に、日興上人が離山を思いとどまるよう説得することを託したのです。正応2年1月、実長が越前房に深く感謝の意を伝えた手紙からは、日興上人がいまにも離山してしまうのではないかと案じる実長の様子が伝わってきます。しかし、実長には、日興上人の真意を理解し、謗法を改めようとする気持ちは全くありませんでした。日興上人が謗法の山と化した身延を断腸の思いで去ると、実長は同年6月、日興上人に宛てた手紙にこう書き記しています。「日円(実長)は、故・大聖人の弟子である。だから、いうならば、あなた方、老僧方とも同じ兄弟弟子である。それなのに道理もなく、(あなた方が)師匠である大聖人の墓を捨てたうえ、罪のない私を責め、謗法呼ばわりすることがどうして仏意にかなうでしょうか」と。大聖人の教えに背いて謗法を犯したことをタナに上げたばかりでなく、大恩ある日興上人に違背した自分を正当化しようとまでしたのです。忘恩の極みとしかいいようがありません。池田先生は、「報恩」の道が仏法者の生き方の根幹であることを示され、「忘恩」を厳に戒められています。「報恩の人生に、行き詰まりはありません。父母や師匠をはじめ、今の自分を築かせてくれた一切の人々への感謝と報恩の決意が、自身を向上させる原動力となります。自分を育んでくれた人々を断じて裏切るまいと思えば、人生の正しき軌道から外れることはありません。(中略)反対に、忘恩の人生は闇です。人間を人間たらしめる基盤を自ら失ってしまうからです」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第10巻)この波木井氏一族の歴史を他山の石とし、どこまでも「恩」を知り、「恩」に応えていく仏法者の正道を歩んでいこうではありませんか。 【日蓮門下の人間群像―師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2021年1月号
December 31, 2021
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第35回秋元太郎兵衛尉今回は曾谷教信に続いて下総国(現在の千葉県北部周辺)の秋元太郎兵衛尉という門下を紹介します。秋元殿に送られた御書で現在まで伝わるのは2編だけです。それでも、師匠や同志を思う秋元殿の真心は、時を越えて輝いています。 下総の武士秋元太郎兵衛尉は、下総の武士で、同国埴生西条(千葉県白井市・印西市北部)に住んでいたと伝えられています。「秋元」という名字は、上総国周東軍秋元郷(君津市北東部)に由来すると考えられています。与えられた御書の内容から、秋元殿は、日蓮大聖人は弘教の戦いを開始された初期に入信したと考えられます。その動機について、彼はこう述べています「末法の始めの500年には、どのような法を弘めたらよいかと思っていましたが、(日蓮)聖人の仰せを承ったところ、法華経の題目に限って弘めるべきであると聴聞して、御弟子の一分となりました」(1070㌻、通解)このことから、秋元殿は仏法の素養が高い人物であったことが分かります。末法という悪世において、自分の人生を真剣に模索していた中、「正しい法」「正しい師匠」に巡り合えた喜びが伝わってきます。 揺るぎない信心で下総の同志と支え合う 地域の同志と団結大聖人は秋元殿に「師檀となる事は三世の契り」(同㌻)と仰せになり、大聖人と秋元殿の縁は今世限りのものではなく(過去世・現在世・未来世)にわたるものであることを教えられています。そこでは、法華経の「いたるところの諸仏の土に常に師とともに生まれる』(化城喩品第7)、「もし法の師に親しむなら、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶなら、ガンジス川の砂の数ほど仏にお会いすることができる」(法師品第10)の文を引かれ、師弟の縁の深さと、正しい師匠に学ぶことの大切さを示されます。この甚深の御指導に、秋元殿が不退の決意をさらに強めていったことは想像に難くありません。(別掲「池田先生の講義から」を参照)秋元殿には、富木常忍をはじめ曾谷教信や大田乗明といった、支え合う同志がいました。佐渡流罪以前、文永8年(1271年)に頂いたとされるお手紙(「秋元殿御返事」、同㌻)には、「曾谷教信に教えた詳しい内容を聞くように」との御指示があります。また、弘安3年(1280年)に大田乗明が頂いたお手紙(「慈覚大師事」、1019㌻)では、これと同じ日に秋元殿当ててしたためられたお手紙(「秋元御書」)を、乗明が見るようにとの御指示があります。こうしたことから、秋元殿が大田乗明や曾谷教信と連携を密接に図りながら、大聖人の竜の口の法難・佐渡流罪という、大聖人門下にとっても最大の法難を乗り越え、さらに身延入山後も団結していったことがうかがえます。 池田先生の講義から「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」—仏法の師弟の絆は永遠であることを教えられています。今世で初めて弟子となったのではなく、三世の契りなのです。永遠の絆であると聞いた門下の感動と歓喜は、いかばかりだったでしょうか。また、この一節は牧口先生が傍線を引いて拝されていた御文であり、日蓮仏法、そして学会精神の根本を示す大変に重要な仰せです。仏教は「師弟の宗教」です。師弟がなければ、民衆を幸福にする広宣流布の実践は成り立ちません。師匠は、民衆のために戦う仏の境涯を、なんとしても弟子に伝えたい。弟子は、その師匠の生き方を、わが生き方として貫き通すなかで、不二の境涯を自身の人生に厳然と確立していく。師と一体となって戦う民衆が出現することが、人間の境涯を高め、人類の宿命を転換する大道となるのです。弟子を自分と同じ境涯に導く師匠。また、師匠と同じ生き方を力強く歩む弟子。師弟共戦—共に戦うことが師弟不二の本義です。そして、この師弟の絆は今世だけのものではありません。師弟は「三世の契り」であることを、明確に教えているのです。とりわけ法華経の焦点は、末法という法滅の時代の救済にあります。人々が正法から遠ざかり、無明が増長する闘諍の時代です。この時に正しき方を、正しく求めて、その法を説く正しき師匠と出会う。そして、その師匠とともに不二の不惜の人生を貫く。そう決意した人にとって、師弟の縁は、現世だけのものではなく、過去世から未来世にわたって続くものなのです。仏と同じ慈悲の行動を、自身の振る舞いで体現し、根源の地涌の使命を発揮しているからです。それゆえに、三世永遠に連なっている本来の境地を、生命の奥底で会得していけるのです。これ以上の誉の人生はありません。◇(大聖人は)「在在の諸仏の土に 常に師と俱に生ず」(法華経317㌻)という経文を引かれます。このように、師匠とは、有縁の弟子を三世にわたって化導していくのです。弟子は師匠を求め抜き、師匠は弟子を守り導く。仏法の師弟とは、最高に麗しき「人間の絆」といえるでしょう。これは、弟子側から見れば、単に「師匠と共にいた」という次元の話ではありません。死と共に菩薩行をしてきたという「共戦」の目覚めです。〝師匠によって救われる存在〟から〝師匠と同じ側に立って民衆を救う存在〟へと、自身の本源の生き方を確立していく。それは、菩薩の誓願に徹することにほかならないのです。(「世界を照らす太陽の仏法」第4回〈2015年8月号大白蓮華〉) 漆塗りの筒御器を御供養 堅固な信心のあらわれ秋元殿の信心がいかに揺るぎないものであったか、それを物語る出来事があります。弘安3年(1280年)1月、秋元殿は筒御貴30個と、さかずき60枚を、雪が降り積もる身延におられる大聖人に御供養しました。「筒御器」とは、酒や水を入れる筒状の食器のことです。大聖人は御返事「秋元御書」で、この筒御器について「今此の筒の御器は固く厚く候上・漆清く候へば法華経の御信力の堅固なる事を顕し給うか」(1072㌻)と仰せです。おそらく秋元殿は、特にツクリのしっかりした器を選び、これにこれ以上ないというほどに丹念に漆を塗らせて御供養したと思われます。この筒御器を手にされた大聖人は、そこに込められた秋元殿の堅固な信心を称賛されています。そして大聖人は、これは、〝もろもろの仏が成仏した根源の種子である妙法への御供養であるから、その功徳により、成仏という崩れない幸福境涯を得ることは間違いない〟と仰せになっています。◇ところで、御供養の食器類は何に使われたのでしょうか。ほかの御書には、身延の大聖人の御草庵に「人が少ない時は40人、多い時には60人になる」(1099㌻、通解、弘安元年御執筆)と記されています。御草庵の周辺に定住していた門下の世話をする、また、各種会合を執り行う際にも、多くの物資や食料が必要だったと推測されます。秋元殿が御供養した食器も、こうした門下たちのための日用品の一つになったと考えられます。大聖人やその教団をお守りしようという秋元殿の真心は、厳寒の身延で過ごす門下たちにも、喜びをもたらしたことでしょう。 コラムお礼のお手紙—時を逃さず、真心には真心で門下の御供養に対する日蓮大聖人の御返事の中には、その品々を明記した丁重なお礼に始まり、その品に対する説話などを通して、次第に仏法の深い法理を説いて指導するという内容の御話が、しばしば拝見されます。今回紹介した「秋元御書」も、その一つです。筒御器のお礼の後、人の心を器に譬えられ、器がひっくり返っていたり水漏れしたりしているようでは使い物にならないように、純粋な信心に謗法を交えれば「仏の智慧の法水」が入らないと教えられています。そこから支店は日本国全体に移り、一国が謗法であることを説かれます。特に、天台宗をはじめ諸宗の高僧が、たとえ法華経を用いていても、法華経を他経と同等、あるいは、劣るものとして信じている点を厳しく追及されます。そして、どんなに法華経を信じようとも、謗法の敵を放置して責めないならば、無間地獄に堕ちると強く戒められています。このように、筒御器一つから、大聖人のお話は日本全体、さらには仏教の歴史にまで及び「謗法厳戒」という重要な法門を教えられているのです。お手紙は、厳寒の身延の様子をこまごまと描写された後、最後に再び筒御器の話に戻ります。雪により人や物資の往来が乏しい中で、「この御器を頂いて、雪を盛ってご飯だと思い、水を飲んで重湯だと思っています」(1078㌻、通解)と。御供養に込められた門下の真心を大切にされ、その求道の時を逃さず、さらに深い信心へと導いていく。大聖人の自在の智慧と深い真心が拝されるお手紙です。 【日蓮門下の人間群像―師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2020年12月号
December 11, 2021
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第34回曾谷教信どこまでも寄り添ってくれる師匠がいて、どんな時にも励まし合える同志がいる。これほど幸せなことはありません。日蓮大聖人の一門を幾度も襲った大難にあって、同志と心を合わせて師匠を支え抜いた門下の一人に、曾谷教信がいます。 社会的な立場曾谷教信は、下総葛飾郡八幡荘曾谷(蘇谷)郷(現在の千葉県市川市曾谷)に住んでいた門下です。日蓮大聖人から「曾谷(二郎)入道」や「教信御房」「法蓮上人」とも呼ばれています。入道とは、出家して僧や尼になることのほか、在家のままで髪を剃るなど出家者の姿をして仏道修行をすることも意味します。御房は僧の敬称です。教信の社会的立場については、曾谷に所領を持っていたこと以外、定かではありません。富木常忍と同様に、下総国(千葉県北部周辺)の守護を務める千葉氏の家臣であったと推測できます。また、幕府に仕える役人であった可能なども指摘されています。越中国(富山県)にも領地を持っており、経済的に恵まれていたようです。教信は、大聖人から漢字体のお手紙を送られた門下の一人で、教養と学識も豊かであったことがうかがえます。 入信の時期入信した時期も明らかではありませんが、大聖人が「立正安国論」を提出された文応元年(1260年)ごろと考えられます。教信は、大聖人より2歳下の元仁元年(1224年)生まれという説がありますので、このとおりであれば37歳ごろに入信したことになります。いずれにしても、教信は日ごろから富木常忍と交流があったと考えられることだが、大田乗明らと共に入信したと推測されています。というのも、富木常忍は下総国若宮(千葉県市川市若宮)に住んでおり、教信の住む曾谷とは非常に近い距離でした。大田乗明も八幡荘中山(同中山)に住んでおり、やはり教信と近い関係にありました。 大田乗明らと団結曾谷教信は、富木常忍を中心に、大田乗明ら下総国の門下と連携を密にしながら信心に励んでいきました。文永8年(1271年)の竜の口の法難の直後、相模国の越智(神奈川県厚木市)に滞在されていた大聖人のもとに、千葉方面の門下が馳せ参じました。その真心の行動に答えて認められたお手紙が「転重軽受法門」です。あて先は、大田乗明、曾谷教信、金原法橋の3人の連名になっています。その冒頭で大聖人は、修利槃特という釈尊の門下の名前が、兄弟二人を指す場合もあれば、兄弟のどちらかが一人を指す場合もあるということも述べられています。そして、「あなた方3人(大田乗明、曾谷教信、金原法橋)もまた、これと同じです。一人で来られたならば、3人一緒に来られたと思っています』(1000㌻、通解)この時期は、一門を弾圧しようとする勢力によって、鎌倉を中心に放火や殺人の冤罪が門下に被せられるなど、さまざまな弾圧が画策され、多くの門下が退転しました。実際に大聖人ももと訪れたのが3人を代表した1人なのか、3人なのかは定かではありません。いずれにして絵も、緊迫する状況にあって、3人が心を合わせて信心に励んでいくよう指導されたと拝されます。さらに、身延入山の翌年の文永12年(1257年)3月にも、教信・乗明の両人は、大聖人からお手紙を頂いています(「曾谷入道殿許御書」、文永12年以前の御執筆の可能性もあります)。その中で大聖人は、度重なる法難の中で、所持していた経典類を失うなどしてしまったため、二人が持つ越中国の領地内やその周辺の寺々に所蔵されている聖教(経典などの書籍)の収集を依頼されています。その際、「両人共に大檀那為り」(1038㌻)と仰せです。檀那とは、在家の信仰者で仏教教団を経済的に支える人のことです。教信も乗明も、大聖人の御化導において重要な役割を果たしていました。お手紙の最後でも「今、二人が互いに励まし、日蓮の願いに力を添えて仏の金言を試しなさい」(1039㌻、通解)と、重ねて呼びかけられています。池田先生は、「師に仕え、師を守り、師の大願を実現することが、いかに崇高な人生であるか。仏法の師弟に生きることは、永遠の妙法に則り、不滅の常楽我浄の生命として最も尊極な使命を果たしゆく歓喜の大道です」(『希望の経典「御書」に学ぶ』第3巻)と抗議されています。教信は、乗明とともに力を合わせて、大聖人の厚い信頼に応えようと決意したことでしょう。竜の口の法難・佐渡流罪という大聖人の最大の法難にあって一心に師匠をお守りしようと努め、大聖人の身延入山後も、乗明らと団結し、強制な信心を貫いたのです。 父への孝養さて、曾谷教信の人柄をよく示すものとして、大聖人が建治元年(1275年)に教信に与えられたお手紙「法蓮抄」(「法蓮」は教信の法名とされます)があります。それによると、教信は、父が死去して以来十三回忌に至るまで、父のために自我偈を読誦し続けています。一説では教信の父は念仏の信者であったといわれ、教信は、その冥福を心から願っていたことでしょう。「自我偈」とは、法華経如来寿量品第16の「自我得仏来」から「速成就仏身」までの偈(経典の中で詩句の形式を用いて、仏の徳を讃嘆したり、法理を説いたりしたもの)のことです。大聖人は、この自我偈読誦の功徳について、「ただ仏と仏のみが、知り究めることができるのです。そもそも法華経は、釈尊の一代の教えの骨髄です。自我偈は法華経28品の魂です」(1049㌻、通解)と、凡夫の知恵では計り知れないほど大きいと称えられています。そして、「教信が朝晩唱える自我偈の五百十字の一つ一つが日輪に変じ、さらに仏と変わり、大光明となって大宇宙に遍満し、どのような所であっても父のいらっしゃるところまで探し当てて、照らしていきます」(1050㌻、趣意)と述べられるとともに、日々、妙法の供養を重ねてきた教信の信仰の姿勢を「是こそ真実の孝養なのです」(1051㌻、通解)と称賛されています。このお手紙で大聖人は、教信のことを「法蓮上人」(1045㌻等)と呼ばれています。このこともあわせて、大聖人の激励を受けた教信は、亡き父の成仏を確信し、信心を深めていったことでしょう。 教学力をそなえる曾谷教信は、学識豊かで求道芯の強い人でした。たとえば、富木常忍に送られた「観心本尊抄」の送状に、大田乗明とともに曾谷教信の名前が記されていることから、教信が真剣に仏法を求めている様子がうかがえます。「曾谷入道許御書」も、「観心本尊抄」と同様に漢字体で認められています。これは、末法に流布すべき要法が、地涌の菩薩に託された南無妙法蓮華経であることを明らかにされたもので、相当な教学力がなければ、理解することのできないお手紙です。大聖人はわざわざ草稿を作り、推敲を重ねて著されており、お手紙は上下2巻45紙にわたっています。このことからも、教信が求道心と学識、教学力をもつ人であったことが推測されます。 御供養の誠を尽くす教信は、現在伝わる御書から拝すれば、大聖人に対して、御供養の誠を尽くしたことが分かります。建治3年(1277年)11月には、身延の大聖人のもとに「小袖(袖口の細い着物)二重」「鵞目十貫」「扇百本」(1057㌻)をお届けしています。これは、一回の御供養としては際立った多さです。また、門下からの御供養の品々には生活必需品ともいうべき食料や衣料が多く見られる中にあって、この「扇百本」は、おそらく法会用と思われ、教信が大聖人から信頼されている様子を感じさせるものがあります。教信の子・道宗も、弘安2年(1279年)に「焼米二俵」(1059㌻)を御供養しています。大聖人は同年8月に送られたその返礼の中で「あなたが去る3月の御仏事に、たくさんの銭を供養されたので、今年は百余人をこの山中で養い、昼夜十二時にわたって法華経を読誦したり、抗議したりするほどです。この姿は、末代悪世において世界第一の仏事というべきです」(1065㌻、通解)と感謝で綴られています。親子二代にわたって、真心からの御供養を重ねた姿に、純真な求道心を見ることができます。 三世を照らす師弟の縁のありがたさ 「後生は必ず仏国に」弘安4年(1281年)5月、「文永の役」に続いて蒙古(モンゴル帝国)が再び日本に襲来します(弘安の役)。このため、教信も戦地に赴かなければならないかもしれないという状況になったようです。同年7月、教信は大聖人に自身の状況をご報告したと考えられます。その手紙が届いた翌日、大聖人は励ましの御返事を送られています8「曾谷二郎入道殿御返事」)。「思えばあなたと日蓮とは師匠と檀那の関係です。……いずれの代に対面を遂げることができるでしょうか。ただ一心に霊山浄土へ赴くことを期されるべきでしょう。たとえこの身はこの難に遭ったとしても、あなたの心は仏の心と同じです。今生は修羅道に交わったとしても、後生は必ず仏国に居住するでしょう」(1069㌻、通解)この年、大聖人は春から病気を患われていました。(1583㌻参照)。そして同じ7月ごろに富木常忍から幾度か手紙が届いても、返事を書けなかったと仰せになっています(993㌻参照)。そのような時に、大聖人は、戦地に赴くかもしれないという教信の不安に寄り添うように筆を執られたのです。戦地に赴いたために、たとえ今生の別れが訪れようとも、霊山浄土でお会いしましょう—弟子の幸福を断言しつつ、三世にわたる縁を思わせる言葉に、教信は師弟の道を歩む喜びを深くかみしめたことでしょう。なお、大聖人がこの御返事を認められた閏7月1日、前夜からの暴風により蒙古軍はほぼ壊滅しました。教信はその後、10年ほど経て亡くなったと伝えられています。 【日蓮門下の人間群像―師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2020年11月号
December 8, 2021
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