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中興入道一族は、佐渡国中興(現在の新潟県佐渡市中興)に住んでいた門下の一族です。
日蓮大聖人の悪口や誹謗が渦巻いていた佐渡において、地域の人々の認識を大きく改めさせた父・中興次郎入道と、流罪赦免後も父の志を受け継いで大聖人を外護した息子・中興入道が知られています。
弘安 2 年( 1279 年) 11 月 30 日に、大聖人は身延の地から中興入道夫妻に贈られたお手紙(「中興入道御消息」)が残っています。
信頼厚き地域の有力者
文永 9 年( 1272 年)の夏ごろ、佐渡の塚原から 一 谷 (佐渡市一野沢)に移られた大聖人は、 一谷入道 の 屋敷地内で生活をすることになり、流罪御赦免まで、ここで過ごされます。
一谷で流人の管理に当たった 名主 (年貢の徴収などを担う階層)は、大聖人を激しく憎みました。しかし、名主が管理する地域にいた一谷入道は大聖人に次第に心を寄せ、生活の便宜も図るようになり、一谷入道の妻も大聖人に帰依しました。
中興の地と一谷の地は距離的に近かったことから、大聖人は一谷におられた頃に中興入道一族と出会われたと考えられます。
さて、「中興入道御消息」では、中興入道の父・中興次郎入道の人柄について触れられています。
「佐渡の島には日蓮を憎む者は多かったけれども、中興次郎入道という老人がいた。この人は、年配者であるうえに、心は賢く、身も裕福であり、佐渡の人々からも立派であると思われる人であった」( 1333 ㌻、通解)と、中興次郎入道が、地元の人々から厚い信頼を集めていた地域の有力者であったことがうかがわれます。
当時、佐渡の住人たちの多くが、念仏者にたぶらかされて、大聖人に激しい憎しみを抱いていました。監視の目をかいくぐって大聖人に食料をお届けした阿仏房は、「所を追われたり、罰金に科せられたり、家を取られたりする」( 1314 ㌻、通解)ありさまでした。
こうした世間の風評は、当然、中興次郎入道の耳にも届いていたはずです。しかし、次郎入道は、先入観を拝した人間対人間の触れ合いを通し、民衆のために正義を貫かれる大聖人のお心を、そのまま受け止めたのでしょう。「日蓮という僧は、何か格別なところがある方であろう」( 133 ㌻、通解)と述べていたようです。当時の状況を考えると、この発言が、どれほど勇気あることだったか、計り知れません。
人格に優れ、信頼が厚かった中興次郎入道のこの認識は、大聖人を取り巻く環境を大きく変えていきました。一族の人々は、次郎入道と共に、大聖人に敬意を払うようになり、中興家に仕えていた人々も危害を加えることはありませんでした。次郎入道の振る舞いはまさに、諸天善神の働きとなって大聖人をお守りすることになったのです。
一対一の大誓実の対話が、地域広布の環境を変える上で、いかに大切か、大聖人と中興次郎の師弟の交流は教えてくれています。
後に、大聖人には罪科がないことが明白になり、流罪は赦免されます。その時まで大聖人が無事であった背景には、中興入道をはじめとする佐渡の門下の尊い外護があったことは確かでしょう。
毎年のように大聖人のもとへ
中興入道は、この中興次郎入道の息子です。
弘安 2 年( 1279 年)に中興入道に宛てられたお手紙では、「あなたは、亡き次郎入道の御子息であられる」( 1334 ㌻、通解)「亡き父母も」( 1335 ㌻、通解)と仰せになっていることから、中興次郎入道夫妻は弘安 2 年の時点で、すでに死去していたことが分かります。
中興入道夫妻は、父の志を継ぎ、法華経の信仰に励んでいきました。夫妻は力を合わせて大聖人を外護し、夫の中興入道は毎年のように身延の大聖人のもとを訪れたようです。
そのことを、大聖人は次のように仰せです。
「非常に賢明であった方(=中興次郎入道)の御子息と嫁だからであろうか。故・入道殿の御志を継いで、国主も用いていない法華経を信仰されているだけでなく、法華経の行者である日蓮を養い、毎年毎年、千里の道を送り、迎えている」( 1334 ㌻、通解)
大聖人の胸中には、純真に信心に励む中興入道夫妻の姿が、最も大変な時に大聖人をお守りした父の姿と重なって見えたことでしょう。
同抄によると、この折、中興入道は銭一貫文を御供養し、大聖人は「あなたの御供養の志を妙法蓮華経の御宝前に申し上げました」( 1331 ㌻、趣意)と仰せになっています。
題目の功徳を強調
また、お手紙では、中興入道夫妻が、娘の十三回忌に際し、南無妙法蓮華経の七文字を持って供養したことに触れて、題目の功徳を強調されています。故人への追善は当然のことながら、題目の功徳は、大きく周囲に広がり、供養した人は最高に満足した人生を送ることができる。そして、亡くなった父母とも霊山でまた会えると仰せです。どこまでも家族の心に寄り添おうとされる大聖人の慈愛に満ちた御心が拝されます( 1334 ㌻参照)。
この他に中興入道一族に関するお手紙としては、 4 月 12 日付で執筆された御真筆の短い断簡(御書全集未収録)が残されており、その宛先は「なかおきの政所女房」となっています。この「中興の政所」が誰を指すのか、確かなことは分かっていませんが、中興入道である可能性も高いとされています。また、ここで言う「政所」とは、地方の荘園の執務所のことと考えられ、中興入道は、その中心者、あるいは関係者であったのかもしれません。
このお手紙は、身延時代の御執筆である「国府入道殿御返事」( 1323 ㌻)と同じ日付です。だとすれば、当時、国府入道が身延を訪れていたことが分かっていますので、中興入道も国府入道と共に大聖人のもとを訪問していたかの性があります。
ともあれ、中興入道夫妻へのお手紙だけでなく、阿仏房夫妻、国府入道夫妻、一谷入道夫妻らへのお便りをあわせて拝すると、佐渡の大聖人の門下たちは、個人単位というよりは、家族や一族を中心に根付いていったことがうかがわれます。
地域の人々が、大聖人を〝遠流の罪人〟という厳しいまなざしで見ているなか、大聖人の人としての振る舞いや偉大な人格に共鳴し、大聖人に帰依した佐渡の門下たち。一人一人を大切にする慈愛あふれたお姿に感銘を受け、〝私も師の大聖人のように〟と、徹して一人を大切にする法華経の実践に励んだことでしょう。
同志一人一人が家族一体となって、手を取り合い、互いに励まし合いながら信心に励み、和楽の家族や一族を築き、〝善の連帯〟を地域で広げていったことを、佐渡門下へのお手紙は物語っているのです。
【日蓮門下の人間群像】大白蓮華 2018 年 7 月号
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