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第 29 回 如来神力品第二十一
広宣流布を目指して進む
わが同志こそ
現代における「仏」です
■大要
地涌の菩薩が、仏の滅後に広く法華経を説くことを誓います。そのとき、仏が十神力( 10 種の不思議な力)を示して法華経の功徳をたたえ、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩たちに未来の弘通を託します。それでは内容を追ってみましょう。
●シーン 1
その時、千世界に微塵にした数の〝地から湧き出てきた菩薩〟(地涌の菩薩)が心一つに合掌し、釈尊の顔を仰ぎ見て、語ります。
「釈尊よ、私たちは、仏が入滅された後、分身の諸仏がおられた国土で、仏が入滅された所で、広く法華経を説きます。
それは、私たちもまた、受持・読・誦・解説・書写の『五種の妙行』を実践したからです」
このように「地涌の菩薩」が、仏の滅後の弘通を誓います。
●シーン2
その時、釈尊は、文殊菩薩など無量百千万憶の昔から娑婆世界に住んでいる菩薩、男女の出家者や在家の者、諸天や鬼神、人間や人間でないものなど、全ての生きとし生けるものの前で、十神力を現します。
➀仏が広く長い舌を出すと、天まで届く。
②釈尊の毛穴から、あらゆる色の光が放たれ、十方世界を照らす。諸仏も同じように、広く長い舌を出し、無量の光を放つ。
釈尊と諸仏が舌を収めると、今度は、③一斉に咳払いし、④一斉に指を弾いて鳴らす。
声と指の音が全宇宙に響き渡ることで、⑤十方の諸仏の世界の大地が六種に震動する。
⑥そこにいる生きとして生けるものが、娑婆世界の諸仏の姿を見ることができる。釈尊と多宝仏が宝塔の中の師子座におられるのも見ることができる。釈尊を、無量の菩薩や出家・在家の男女が取り組んでいるのも見ることができる。そして、皆、いまだかつて味わったことのない大歓喜を得る。
⑦空中から、諸天の大きな声が響きわたり、「娑婆世界というところに、釈迦牟尼仏という仏がおられて、今、菩薩のために妙法蓮華経を説いておられる。あなたたちは、深く随喜して、釈迦牟尼仏に帰命する。
⑨十方の世界から種々の華や香や、ありとあらゆる宝物を娑婆世界に届けられ、雲のごとく集まって、一つの大きな帳となり、それが十方の諸仏を覆う。
⑩十方の世界の隔てがなくなり、一つの仏土になる。
●シーン3
その時、釈尊は上行菩薩などに告げます。
「諸仏の神力は、子のように無量無辺であり、不可思議である。
しかし、付嘱(教えを弘めるように託す)のために、この神力をもって、無量無辺百千万憶阿僧祇劫の間、この経の功徳を説いたとしても、説き尽くせないのだ」
そして、次のように話します。
「肝要をまとめて語るならば、『如来の一切の所有の法』『如来の一切の自在の神力』『如来の一切の秘要の蔵』『如来の一切の甚深の事』が、全てこの法華経に宣べ、示され、明らかに説かれているのだ」
このように、釈尊が上行菩薩たちに、法華経の肝要を「四句の要法」にまとめて付嘱します。これを「結要付嘱」といいます。
続けて語ります。
「あなたたちは、仏の入滅後に、一身に法華経を受持し、読誦し、解説し、書写して修行すべきである」
「五種の妙行に励むならば、その場所がどこであろうと道場であり、多くの仏が完全な覚りを得て、説法をし、入滅された場所である」
法華経を修行する所は、どこであれ、道場であることが示されます。
●偈文
続いて偈文(詩の形式)で、これまでと同じ内容が述べられます。
ただ、十神力によって法の功徳の偉大さをたたえていた箇所は、次のように法を受持する功徳の偉大さの表現になっています。
「是の経を嘱累せんが故に、受持の者を賛美すること 無量劫の中に於いてすとも 猶故尽くすこと能わじ」(妙法蓮華経並開結 574 ㌻)
御書に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」( 856 ㌻)とある通り、法を弘めるのは、どこまでいっても「人」です。法華経の願いである万人成仏は、弘通の人がいてこそ可能になるのです。
ゆえに「如来神力品」では、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩に滅後の弘通が託されるのです。
■結要付嘱
「如来神力品」に関する「御義口伝」には「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付嘱し給う故なり」(御書 770 ㌻)と記されています。つまり付嘱された法華経の肝要である「四句の要法」とは、法華経の文の底に秘し沈められた、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経のことです。
さたに結要付嘱には、滅後末法に向けた重大な意味があります。それは、末法に、地涌の菩薩の上首である上行菩薩が出現して南無妙法蓮華経を弘通することを予言している内容だからです。
結要付嘱は、末法の弘通へ釈尊から地涌の菩薩、なかんずくリーダーである上行菩薩へと、教主が交代することを示す儀式といえるのです。
「法華経の智慧」から
仏という「一人」から「全民衆」へ正法広宣流布を担うのは、いかなる国土であってもつねに「地涌の菩薩」なのです。それはなぜか。
「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「「菩薩」として行動していくからです。いわば「菩薩仏」です。境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。
◇
ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。
「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、にせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。それを教えているのが、法華経であり、神力品の「上行菩薩への付嘱」には、そういう「人間主義の仏法」への転換の意義が含まれているのです。
「日蓮と同意ならば」(御書 1360 ㌻)と大聖人が仰せのように、広宣流布を目指して進むわが同志こそ、現代における「仏」です。
(普及版〈下〉「如来神力品」)
民衆の中へ
「如来神力品」の偈文(詩の形式)の中に、地涌の菩薩が民衆の中に入って、人々を救済する姿が、次のように描かれています。
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」(妙法蓮華経並開結 575 ㌻)
太陽が昇れば闇が消えるように、悪世末法にあって、地涌の菩薩が出現すれば、民衆に希望と勇気の光を送ることができるのです。それは人格、振る舞いが、月や太陽のような輝きを放っていくといえます。
さらに、「世間に行じて」とあるように、地涌の菩薩は、世間から離れるものではなく、どこまでも現実社会の中で、人々を救済していくことを教えているのです。
大変なところ、苦しんでいるところへ足を運び、民衆の幸福のために戦う——そこに地涌の使命があるのです。
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