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May 27, 2024
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カテゴリ: 抜き書き

法華証明抄

解説

弘安五年といえば、十月十三日に日蓮が入寂した年である。この手紙は、その八カ月ほど前に書かれた。日蓮は弘安余年の春以来、体調がすぐれず、身延の冬の厳しい寒さで病状を悪化させて新年を迎えていた。この時も、日蓮の体調は芳しくなかったのであろう。この三日前の二月二十五日に、日朗に代筆させて南条時光の看病に当たっていた日興に病への対応を指示していた。それでも満足しなかったのであろう。十八日になって、日蓮は、病を押して自ら筆を執ってこの手紙をしたためた。

手紙の冒頭に「法華経の行者 日蓮」と記して花押がある。「鬼神めらめ、〝法華経の行者 日蓮〟の言うことをよく聞くがよい」という思いを込めているのであろう。

本書で《前略》とした箇所では、「末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候、者」は、「過去二十万億の仏を供養せる人なり」と釈尊に語り、それを多宝如来がはるばると娑婆世界にやってきて、「妙法華経、皆世真実と証明せさせ給ひ」、さらに、「十方の諸仏を召しあつめ」、広長舌をもって十方の諸仏も証明したことが強調されている。このように、過去に十万億の仏を供養した人が、たとえ『法華経』以外の教えを信じることがあって、そのために貧賤の身として生まれることがあったとしても、『法華経』によって成仏すると綴っている。

以上のことを踏まえて、本書に挙げた文章が続く。

この手紙は、南条時光に対して与えられたものである。ところが、「この上野の七郎次郎は」とか、「鬼神めらめ、此の人をなやますは」とあって時光のことを指す「上野七郎次郎」も、「此の人」も、二人称でではなく、三人称になっている。日蓮がカラりかけている相手は、南条時光ではなく、「鬼神めら」である。

ここに、

日蓮は門下をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領、或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人人もあり。

とあるのは、南条時光自身に関わることである。

建治年間(一二七五~一二七八年)以後、駿河国富士郡では日興の主導で日蓮の教えが広まっていった。そこへ、幕府権力が公然と介入して弟子檀那を弾圧した。

時光が十九歳の建治二(一二七七)年南条家にも圧力がかかり始めた。その年の五月十五日付の『上野殿御返事』には「日蓮房を信じては、よもまどいなん。上の御景色もあしかりなん」と教訓するものもあったことが記されている。これに対して日蓮「人をけうくん(教訓)せんよりも、我が身をけうくんあるべし」と言い返すように諭した。

弘安二(一二七九)年の九月から十月にかけて弾圧が本格化した。熱原の法難である。熱原龍泉寺に止住して活動していた日秀と日弁の二人に従う農民信徒二十人が、苅田狼藉(暴力的に他人の田畑の作物を刈り取り、横領すること)の罪を着せられ、逮捕され、鎌倉に拘引された。鎌倉で平左衛門尉のもとで拷問が科され、農民三人が見せしめとして斬殺された。それは、正規の裁判を経ない私刑であった。日蓮は、日興に残りの十七人の釈放を求める訴訟を命じ、十七人は釈放された。

この時、時光は若干二十一歳であった。南条家に対する圧力は、弘安元年の所領替えをはじめ、富士大宮の造営を担当させたり、荷重の税負担を課すなど、法外な経済的負担を強いて疲弊させる「公事責め」が行われた。

弘安三年十二月二十七日付の『上野殿御返事』によると、南条家の休場は、「わづかの小郷に、をほくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」といった状況であった。

若き時光は、毅然としてこれに対応した。とはいっても、その心労は無視できないものがあったであろう。その結果のこの病である。

日蓮が、「上下万民にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに、つひに捨つる心なくて候へば、すでにほとけになるべしと見え候」と言ったのは、以上の背景があってのことであった。

その南条時光を苦しめる「鬼神めら」を「剣を逆さまに呑む気か」「大火を抱きかかえる気か」「三世十方の仏の大怨敵となる気か」と厳しく叱責する。三世十方に存在する全ての仏を敵に回すのか、頭破作七分となり、大無間地獄に堕ちてもいいのだな――とまで迫って、時光の病を直ちに治すだけでなく、守護者となるべきだと詰め寄る。

日蓮の気迫が文面にあふれている。それは、筆致にも表れているに違いないと思っていたが、この手紙の真筆を見た人が「聖人のすさまじいばかりの病魔撃退の筆あとが凛凛として書きのせられている」(『日蓮聖人大辞典』、七八〇項)と記していて、納得した。

ここに言う鬼神とは、霊魂のような「もの」ではなく、南条時光の病気になった心を指しているのであろう。南条家では、父・兵衛七郎は働き盛りの壮年で亡くなった。その時、時光は七歳、弟・五郎は母の胎内にいた。長男・太郎は十八歳で亡くなり、父の忘れ形見であった五郎も、一年ほど前に十六歳で亡くなったばかりであった。病に伏す南条時光の心には、自分も若死にするのではないかという不安がよぎっていたのであろう。日蓮は、その弱気になった南条時光の心を叱咤し、鼓舞しているように筆者は思える。

この時、二十四歳であった南条時光は、この病に打ち勝ち、元気を回復し、七十四歳の長寿を全うした、

この手紙の文章を読んでいると、体調がすぐれない中で、心に思い浮かぶ情熱があふれる思いを、そのまま筆に託して一気に書いた様子がうかがわれる。例えば、

 此の者、敵子(嫡子)となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに……。

という文章は、主語と述語の関係がズレている。「上下万民に」であれば、術後は「いさめられ」「をどされ候ひつる」と受動態にするべきところである。

また、この文章は、鬼神に語り掛けた文章が、それに続く「命は限りあることなり。すこしもをどろく事なかれ」という文章は、時光に語り掛ける言葉になっている。鬼神に語り掛ける文章と、時光に語りかける文章が入り乱れている。

このように文章の始まりと終わりで能動と受動が逆転したり、諸語がいつのまにか入れ替わってしまったりする文体は、佐渡の地で込み上げる思いを一気に書き上げた『開目抄』で頻繁に見られた。あふれ出る情念に筆が追い付かず、込み上げる思いが先行して、文章の後半を筆で書いている頃は、思考の方は次の文章に移っている。そのため、文章の終りのほうでは、初めのほうとのズレが生じてしまう。筆者は、ここに日蓮の慈愛あふれる自熱情の一端を垣間見る思いがした。抑えがたい感動を覚える。

現代は、パソコンの時代で、十本の指をフルに使ってキーをたたくので、思考の速度とほぼ同時に近い状態で文章を書くことができるようになった。毛筆による執筆の際の、思考と文章化の時間差の影響が現れた文章をここに見ることができる。


【日蓮の手紙】植木雅俊=訳・解説/角川文庫






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Last updated  May 27, 2024 03:58:13 AM
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