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法華証明抄解説弘安五年といえば、十月十三日に日蓮が入寂した年である。この手紙は、その八カ月ほど前に書かれた。日蓮は弘安余年の春以来、体調がすぐれず、身延の冬の厳しい寒さで病状を悪化させて新年を迎えていた。この時も、日蓮の体調は芳しくなかったのであろう。この三日前の二月二十五日に、日朗に代筆させて南条時光の看病に当たっていた日興に病への対応を指示していた。それでも満足しなかったのであろう。十八日になって、日蓮は、病を押して自ら筆を執ってこの手紙をしたためた。手紙の冒頭に「法華経の行者 日蓮」と記して花押がある。「鬼神めらめ、〝法華経の行者 日蓮〟の言うことをよく聞くがよい」という思いを込めているのであろう。本書で《前略》とした箇所では、「末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候、者」は、「過去二十万億の仏を供養せる人なり」と釈尊に語り、それを多宝如来がはるばると娑婆世界にやってきて、「妙法華経、皆世真実と証明せさせ給ひ」、さらに、「十方の諸仏を召しあつめ」、広長舌をもって十方の諸仏も証明したことが強調されている。このように、過去に十万億の仏を供養した人が、たとえ『法華経』以外の教えを信じることがあって、そのために貧賤の身として生まれることがあったとしても、『法華経』によって成仏すると綴っている。以上のことを踏まえて、本書に挙げた文章が続く。この手紙は、南条時光に対して与えられたものである。ところが、「この上野の七郎次郎は」とか、「鬼神めらめ、此の人をなやますは」とあって時光のことを指す「上野七郎次郎」も、「此の人」も、二人称でではなく、三人称になっている。日蓮がカラりかけている相手は、南条時光ではなく、「鬼神めら」である。ここに、日蓮は門下をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領、或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人人もあり。とあるのは、南条時光自身に関わることである。建治年間(一二七五~一二七八年)以後、駿河国富士郡では日興の主導で日蓮の教えが広まっていった。そこへ、幕府権力が公然と介入して弟子檀那を弾圧した。時光が十九歳の建治二(一二七七)年南条家にも圧力がかかり始めた。その年の五月十五日付の『上野殿御返事』には「日蓮房を信じては、よもまどいなん。上の御景色もあしかりなん」と教訓するものもあったことが記されている。これに対して日蓮「人をけうくん(教訓)せんよりも、我が身をけうくんあるべし」と言い返すように諭した。弘安二(一二七九)年の九月から十月にかけて弾圧が本格化した。熱原の法難である。熱原龍泉寺に止住して活動していた日秀と日弁の二人に従う農民信徒二十人が、苅田狼藉(暴力的に他人の田畑の作物を刈り取り、横領すること)の罪を着せられ、逮捕され、鎌倉に拘引された。鎌倉で平左衛門尉のもとで拷問が科され、農民三人が見せしめとして斬殺された。それは、正規の裁判を経ない私刑であった。日蓮は、日興に残りの十七人の釈放を求める訴訟を命じ、十七人は釈放された。この時、時光は若干二十一歳であった。南条家に対する圧力は、弘安元年の所領替えをはじめ、富士大宮の造営を担当させたり、荷重の税負担を課すなど、法外な経済的負担を強いて疲弊させる「公事責め」が行われた。弘安三年十二月二十七日付の『上野殿御返事』によると、南条家の休場は、「わづかの小郷に、をほくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」といった状況であった。若き時光は、毅然としてこれに対応した。とはいっても、その心労は無視できないものがあったであろう。その結果のこの病である。日蓮が、「上下万民にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに、つひに捨つる心なくて候へば、すでにほとけになるべしと見え候」と言ったのは、以上の背景があってのことであった。その南条時光を苦しめる「鬼神めら」を「剣を逆さまに呑む気か」「大火を抱きかかえる気か」「三世十方の仏の大怨敵となる気か」と厳しく叱責する。三世十方に存在する全ての仏を敵に回すのか、頭破作七分となり、大無間地獄に堕ちてもいいのだな――とまで迫って、時光の病を直ちに治すだけでなく、守護者となるべきだと詰め寄る。日蓮の気迫が文面にあふれている。それは、筆致にも表れているに違いないと思っていたが、この手紙の真筆を見た人が「聖人のすさまじいばかりの病魔撃退の筆あとが凛凛として書きのせられている」(『日蓮聖人大辞典』、七八〇項)と記していて、納得した。ここに言う鬼神とは、霊魂のような「もの」ではなく、南条時光の病気になった心を指しているのであろう。南条家では、父・兵衛七郎は働き盛りの壮年で亡くなった。その時、時光は七歳、弟・五郎は母の胎内にいた。長男・太郎は十八歳で亡くなり、父の忘れ形見であった五郎も、一年ほど前に十六歳で亡くなったばかりであった。病に伏す南条時光の心には、自分も若死にするのではないかという不安がよぎっていたのであろう。日蓮は、その弱気になった南条時光の心を叱咤し、鼓舞しているように筆者は思える。この時、二十四歳であった南条時光は、この病に打ち勝ち、元気を回復し、七十四歳の長寿を全うした、この手紙の文章を読んでいると、体調がすぐれない中で、心に思い浮かぶ情熱があふれる思いを、そのまま筆に託して一気に書いた様子がうかがわれる。例えば、 此の者、敵子(嫡子)となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに……。という文章は、主語と述語の関係がズレている。「上下万民に」であれば、術後は「いさめられ」「をどされ候ひつる」と受動態にするべきところである。また、この文章は、鬼神に語り掛けた文章が、それに続く「命は限りあることなり。すこしもをどろく事なかれ」という文章は、時光に語り掛ける言葉になっている。鬼神に語り掛ける文章と、時光に語りかける文章が入り乱れている。このように文章の始まりと終わりで能動と受動が逆転したり、諸語がいつのまにか入れ替わってしまったりする文体は、佐渡の地で込み上げる思いを一気に書き上げた『開目抄』で頻繁に見られた。あふれ出る情念に筆が追い付かず、込み上げる思いが先行して、文章の後半を筆で書いている頃は、思考の方は次の文章に移っている。そのため、文章の終りのほうでは、初めのほうとのズレが生じてしまう。筆者は、ここに日蓮の慈愛あふれる自熱情の一端を垣間見る思いがした。抑えがたい感動を覚える。現代は、パソコンの時代で、十本の指をフルに使ってキーをたたくので、思考の速度とほぼ同時に近い状態で文章を書くことができるようになった。毛筆による執筆の際の、思考と文章化の時間差の影響が現れた文章をここに見ることができる。 【日蓮の手紙】植木雅俊=訳・解説/角川文庫
May 27, 2024
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本来の仏教日蓮の〝立正安国〟は、本来の仏教だけでなく、『貞観政要』にも則って主張されていたのだ。そのすべてに一貫しているのは、「国主は、どこまでも人民のために奉仕すべきである」という主張であった。ところが、日本において、仏教は当初から鎮護国家の仏教として受け容れられ、貴族仏教の性格が濃く、人民への共感は乏しかった。戸頃重基博士の表現を借りれば、「鎮護国家の名の天皇制祈禱仏教」「貴族趣味や武家好みの、人民搾取の象徴にすぎない豪壮華美麗な殿堂伽藍仏教」(『日蓮教学の思想史的研究』、二三六頁)ということであった。それは、仏教が、朝廷や幕府と癒着の関係にあったということでもある。中村元博士が、日本の仏教需要の仕方について、所詮はシャーマニズムの城を出ることがなかったと指摘されていたことを、先の『兄弟抄』の解説(275頁)で紹介しておいたが、それはそのことであろう。日本仏教は、伝来当初から鎮護国家のための祈禱を行うことが中心の貴族仏教であったと言えよう。「皆成仏道」(皆、仏道を成ぜん)を説く『法華経」の平等思想に注目していた伝教大師最澄が開いた比叡山ですら貴族仏教の域を出ていない。天台座主になった人の出自を見ただけでも、それが分かる。塩入亮忠著『傳教大師』に寄せた序文で、時の内閣総理大臣・近衛文麿(一八九一~一九四五)は、「比叡山の座主には皇子が六十五名方、宮家が七方、藤原家出身が四十八人、其他六十余名が座主に補任されたと聞いているが、近衛家からは五人の天台座主を出し、其他六名程天台の門跡に任ぜられている」と記している。門跡とは、皇子、皇族、貴族が住職を務める寺院、あるいはその住職のことで、最高の格式ある寺院とされた。もちろんインド、中国ではありえないものである。インドでは、出家前の身分は全く無関係であった。『法華経』提婆達多品には出家した王が奴隷となって師に仕える話が出てくる。戸頃博士が「祈禱仏教」という言葉を使われているように、本書の巻末に掲げた年表を見ると、鎌倉幕府も、朝廷も、なすすべもなく、疫病などの災害や、蒙古の調伏の祈禱をやらせている。釈尊は、迷信やドグマを徹底して排除し、神通力のように神がかり的なことを嫌悪していた(拙著『仏教、本当の教え』第一章を参照)。原始仏教の『ティーガ・ニカーヤ1』には、 ケーヴァッタよ。私が神通力を嫌い、恥じ、ぞっとしていやがるのは、神通力のうちに患いを見るからである。 (中村元訳) と語った釈尊の言葉が記されている。護摩を焚いて行う祈禱の儀式についても釈尊は「堕落した祭儀」と称し、 このような畜生の魔術から離れていること――これが、その人(修行僧)の戒めである。 (同) と語っていた。本来の仏教は、祈禱や神通力などを排除していたのだ。ナガールジュナ(龍樹、一五〇頃~二五〇頃)が、政治の在り方を南インドのシャータヴァーハナ王に説いた『実行王正論』には、呪術的な要素は全く見られない。災害時の王への提言を見ると、 災害・流行病・凶作などで荒廃している人々の救済に寛大に取り組んでください。田畑を失った人には種子や、食べ物を給し、租税を減免してください。盗賊を取り締まり、資産を平等に、物価を適正にしてください。 といった言葉が列挙されていて、災害時の対応として、どれを見ても現実的で具体的な提言に満ちている。これまで見てきた日蓮の手紙を見ても、種々の困難な状況に立たされた富木常忍や四条金吾、池上兄弟に対する教示には、呪術的要素も、祈禱のようなものの欠片も見られなかった。極めて現実的で具体的なアドバイスであった。〝立正安国〟とは、正法を立てて国家、国民、国土の安穏、平和を実現することだが、その〝立正〟を呪術的、シャーマニズム的にとらえてはならない。平清盛をはじめとする平家一門が、その繁栄を願って『法華経』を書写して、当時の工芸技法の粋を尽くした装飾を施して厳島神社に奉納した平家納経のようなことが大事なのではない。『法華経』は、経典という〝物体〟に意味があるのではない。芸術的に装飾を施すことも、本質からズレている。そこに説かれている思想が重要なのだ。すなわち、〝立正〟とは、『法華経』という正法を人々の生き方に反映し、確立するということが重要なのである。『法華経』は、釈尊入滅後五百年経ったころに編纂された。その後百年間に本来の仏教からズレが生じ、道理に反する仏教の装いで語られるようになった。『法華経』は、そうしたズレに対して、「原始仏教の原点に帰れ」と主張している。在家や女性を軽視する差別思想や、神がかり的な救済、権威主義などを廃し、人間の尊さ、平等を訴え、〝今〟〝ここで〟この〝我が身〟を離れることなく、人間対人間の関係性の中で自他共に目覚め、あらゆる人に安寧と幸福をもたらすために説かれたのが『法華経』であった(詳細は、拙著『法華経とは何か』を参照)。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 17, 2024
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貪欲を追求した結果の地球状況近年、既に顕著になりはじめた温暖化、気候変動の様相そのままである。われわれは空気中に生息しているから、その深刻さを感じにくい。サウナで空気の九〇度には耐えられるが、水の九〇度では身体は煮えて死んでしまう。気温が一度や、二度の上昇は、風呂の設定温度で考えてみればいい。暑くてたまらない、海の生き物は生息困難で、魚介類は死滅する。温度上昇で水蒸気の量が増え、台風のエネルギーが強化され、トラックも宙に浮くほどの風速60メートル級の暴風が当たり前になり、一時間降水量八〇㍉以上といった大水害も常態化する。例年の四倍という昨年(二〇二〇年)来の大雪も、日本海の水温上昇で水蒸気が増加したことによるものである。一昨年から昨年にかけて何カ月も燃え続けたオーストラリアの森林火災は、気温の上昇と乾燥によるもので、大都市の空を真っ赤に染め、煙と煤で呼吸も大変だったと報じられた。地表の草木が燃え尽きた後も、根っこが炭化し熾火となって燃え続け、大地は熱かったという。さらに「大地はすみ(炭)のごとくをこり」「無間地獄より炎いでて、上梵天まで火災充満す」そのままであった。これは、対岸の火事ではない。シベリアのベルホヤンスクでは昨年、温暖化で最高気温が三八度を記録し、永久凍土が解けて、露出した土壌から強烈な感染力を持つ未知のウイルスが発見された。何万年もかけて永久凍土に閉じ込められてきた大量の温室効果ガスが、大気中に放出されれば、温暖化は一気に加速する。昨年末、新型コロナウイルス感染症によって人類が脅かされているが、感染から発症するまでの一~十二・五日の時間差に悩まされてきた。ところが、温暖化のツケは、数十年ほど後に顕在化する。その取り返しのつかない状態でだ、核廃棄物は、ものによっては何万年という単位で維持し続ける。そのツケの損害をこうむるのは若い人たち、これから生まれてくる人たちである。今、政治の世界で権威をふるい、利権をほしいままにして、権力闘争に明け暮れしているのは老人の政治家で、そのツケ顕著になる頃は、この世の人ではない。温暖化への対応は、この十年が勝負の分かれ目だと言われている。ところが、老人の政治家たちは、全く無頓着のようである。この理不尽さに黙っておれなくて、声を上げたのが、若きスウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリ氏(二〇〇三~)であった。その叫びは、真実であり、切実である。日蓮が、『法華経』のをはじめとして、『金光明最勝王経』『薬師経』などの仏典を踏まえて、『立正安国論』(一二六〇年)で、汝須く一身の安堵を思えば、先ず四表の静謐を禱らん者か。と叫んでいたことは、このような人類的危機を前にして、国主は責任ある政治を行うべきだと警告していたように思える。賢う人も、身分の低い人も皆、分かっていることでありながら、三毒という酒に酔ってズルズルと破滅に向かうことを危惧していたのであろう。それは、七百六十年後の今日のために書かれたのではないかとすら思えてくる。 【日蓮の手紙】植木雅俊 訳・解説/角川文庫
May 13, 2024
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一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず「世間法」と「仏法」という立て分け方がある。「主君のため」と「世間に対する心根」は、前者に当たる。日蓮は、両者の関係を次のように記している。 まことのみちは、世間の事法にて候。金光教には「若し深く世法を識らば、即ち是れ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師は法華経の第六巻の「一切の治生産業は、皆実相と相ひ違背せず」との経文に引き合わせて心をあらわされて候には。彼れ彼れの二経は深心の経経なれども、彼の経経は、いまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。 (『白米一俵御書』) 世間法(世法)と仏法に二分して、世間法としての世俗的生活が汚れたもの、価値の劣るものとして、日本仏教の多くは世間を離脱して山林に隠棲して禅定や読経に専念する傾向が強かった。世間法は仏法のためには手段であるかのように言われているが、世間法は目的なのであり、それが『法華経』の思想なのだと、日蓮は言っている。仏法は、世間の法と切り離されているのではなく、仏法と世間法は不即不離であり。日蓮は、さらに次のように言っている。 智者とは、世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず。世間の知世の法を能く能く心えて候を智者とは申すなり。 (『減劫御書』) 智者と言われる人は、仏法を世間の法とかけ離れたものとしてとらえることはない。世間における一切の生産・創造の活動は、仏の悟られた真実の在り方と矛盾・対立するものではないのだ。『法華経』や、日蓮のこのような思想に由来して、京都の法華衆の中から、狩野元信(一四七六~一五五九)、長谷川等伯(一五三九~一六一〇)、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)、尾形光琳(一六五八~一七一六)、松永貞徳(一五七一~一六五四)、山本春正(一六一〇~一六八二)、元政上人(一六二三~一七四三)、俵屋宗達(?~一六四〇頃)、室井其角(一六六一~一七〇七)、尾形乾山(一六六三~一七四三)など、多くの幻術化や文学者達が輩出したことは、特筆すべきことであろう(元政上人については、拙著『江戸の大詩人 元政上人』、中央叢書を参照)。彼らにとって、文学や芸術の創作といった世間法そのものが、仏法であった。世間の治生産業の法をよく心得る智慧とは矛盾しない。『法華経』の信仰は、現実とかけ離れいるのではない。現実世界、各人の日常生活の場面を通して現れるものなのだ。その現実生活、日常生活の一環として、四条金吾にとっては喫緊の課題となっている「主君のため」ということが挙げられている。それをさらに一般論化すれば、「世間に対する心根」ということであろう。以上のような考えから、弘安元年四月十一日付の『四条金吾殿御返事』(『檀越某御返事』の別名がある)では、 御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり。 という表現も出てくる。ここに「御みやづかい」をあげていることについて、日蓮は、封建制度を容認していると論ずるものがあるが、それは前後関係の世見落としである。ここは、当時の社会における「一切世間の治生産業」の一つとして挙げられたものである。『法華経』の徳実相というものは、「主のため」や、「御みやづかい」をはじめとする「一切世間の治生産業」における「世間の心根」のよい、社会人としての立派な振る舞いを離れて存在することはないのだ。「仏法」は、人間として在るべき理法に基づき、真の自己に目覚めることによって人格の完成を目指すものである。その人格の完成を通して世間、すなわち社会に貢献することが「仏法」だというのだ。 【日蓮の手紙】植木雅俊 訳・解説/角川文庫
May 11, 2024
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大衆運動の落とし穴 「どのような大衆運動でも、運動の支持者のうちに自分の生命までも捧げようとする覚悟と、統一行動を求める傾向を生み出すものである。大衆運動においてどのような教義が教え込まれるかにかかわらず、さらに、どのような綱領が提起されるかにかかわらず、つねに狂信と熱狂と熱烈な希望と憎悪と不寛容とが育まれる。そしてすべての大衆運動は人生の特定の領域において激しい活動の流れを生み出すことができるのであり、どのような運動もその参加者に対して盲目的な信仰と一途な忠誠を求めるのである。」 エリック・ホッファー『大衆運動』(中山元訳、紀伊国屋書店、2022年、9頁)
May 10, 2024
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日蓮の戦略日蓮は、不正や間違ったことを見て、黙っておれない人であったのだろう。これまでも、教理の両親を世話し、日蓮自身をも支援していた安房国の東条郷の領家(荘園制度の領主)の尼が、地頭の東条景信に領地を横領されようとしたのを聞きつけ、裁判でそれを阻止したこともあった。領家の尼は、三代執権・北条泰時の弟・名越朝時の妻であったので名越の尼とも呼ばれる。地頭は、平安・鎌倉時代に荘園を管理し、税金を取り立てる役人であったが、「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺が生まれるほどに、権力を振りかざして横暴を働いていた。地頭による荘園の略奪に対抗する手段として、「半分あげるから、残り半分は勘弁を」(下地中分)といった妥協策がとられるほど全国的な問題であった。日蓮は、そのような地頭・東条景信を相手に、一年近くにわたって裁判の場に臨んで完全勝訴に導き、領家の尼の荘園をそっくり守りきった。このように裁判闘争にも勝利する日蓮は、『頼基陳状』のもっとも効果的な提出の仕方まで四条金吾に指示している。騒ぎに騒がせておいて、「陳情は書き上げてあっていつでも提出できる」と知人らに語らせ、公開の陳情の形にするよう指示したようだ。ただ、陳情の結果が出るまでには時間がかかる。直ちに対応すべきことは、御内からの追放と、所領の没収という問題である。まず、押さえておくべき心情として、➀わずかの二カ所の所領に執着しない、②たとえ乞食になったとしても『法華経』にはきずをつけない――この二点であった。『法華経』にきずをつけないということは自らの生き方の原点、よりどころ、信条としての『法華経』を放棄しないということである。この二つの姿勢に立てば、たとえ所領を没収され、御内を追い出されたとしてもそれは十羅刹女の計らいであって、その時は悪い結果に見えても、後になってそれがよかったと分かることがある――という大きな視点に立つことを押さえさせた。その上で、結果的に御内を追い出され、所領を没収されることになるとしても、自分からそのことを認めるようなことを言い出してはならないと忠告した。日蓮は、所領の問題を担当する奉行人との交渉で、決して後手の守りになることなく、先手の攻めに徹するように話の進め方を教示しているのが読み取れる。そのためには、少しも相手に媚び諂う態度を取らない。毅然としていることが大事であり、絶対にこちらから所領は入りませんと言ってはならないということだ。日蓮は、四条金吾の短気な性格から、「そこまで言われてまで、そんな所領なんかいるもんか」と口にしてしまうことを最も心配している。所領に執着心を持たないことはいいとしても、それをこちらから言ってしまったら、向こうのペースで話が進んでしまうからだ。その先手の第一手が『法華経』「自分から御内を出て、所領を返上しるわけにはまいりません」であった。第二手が、「『法華経』の信仰の故に主君に没収されるのだから、それは『法華経』に対する布施になることであり、幸いなことです」と声高に言い切ること。その時、決して奉行人に諂ってはならない。第三手が「この所領は、主君にもらったのではなく、主君の思い病を『法華経』という妙薬によって助けたことでいただいた所領です。その所領を没収するならば、その病が再び戻ってくることでしょう。その時、私に詫び状を書かれても、私に知ったことではありません」と当てつけるように、憎々しげに捨て台詞をはいて帰ってくることであった。先手の連続である。何も悪いことをしていないのだから、悪びれる必要もなければ、媚び諂う必要もない。「当てつけのように、憎々しげに捨て台詞をはいて帰って来い」という言葉に正しいことを信念をもって堂々と主張する日蓮の誇り高い精神が垣間見られて共感を覚える。このように読んでくると、日蓮は世間知らずの僧侶などとは程遠く、正義感に燃える〝戦略家〟としての一面も見えてくる。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 7, 2024
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衆生所遊楽とは 一念三千とは、瞬間瞬間の心(一念)に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と、声聞・独覚・菩薩・仏からなる十種の働き(十界)を具えていて、その十界がそれぞれに、また十界を具える(十界互具)ので百界となり、さらに存在の在り方や因果の理法としての十如是が具わって千如是となり、一念の広がりの三段階を示す三世間を加味して三千世界となるということだ。我々は、一念に三千世間という最大限の生命的空間をもっていながら、地獄の苦しみにさいなまれたり、有頂天になったり、心が委縮したり、尊大になったりして、狭い生命空間の中であくせくと生きている。それに対して、最大の生命空間の中で何ものも恐れることなく、動揺することもない、不動で、心豊かで、雄大な境地としてあるのが一念に三千を具現した状態である。その境地を、日蓮は『観心本尊抄』に次のように表現している。 今、本時の娑婆世界は、三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化を以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり。 これを現代語訳すると、次のようになる。 本門寿量品が開顕された今、教主釈尊が久遠以来、常に説法教化してこられたこの娑婆世界は、衆生の眼には大火に焼かれているように見えてとしても、仏の眼には火災・水災・風災の三災にも損なわれず、成・住・壞・空の四劫をも超越した常住の浄土である。仏は過去に入滅したこともなく、未来に生ずることもない永遠の存在であって、その化導されるべき九界の衆生もまた仏と同体である。従って、この境地は『法華経』を受持する人の己心の一念における三千の具足であり、個人レベルの五陰世間から衆生世間・国土世間までの三世間にわたるものである。 日蓮が、「南無」すべき対象としていたのは、この境地であった。ここに「三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土」が立ち現れる。「四劫」とは、世界の成立から破滅に至るまでの四つの期間のことである。そこには、一念に具わる三千のすべての働きを自在に自ら受け用いることができる身(自受用身)としてのブッダ(覚者)である。『法華経』に説かれた永遠・常住の境地に「南無」することによって、「自己」に永遠・常住の境地を体現するところに「衆生所遊楽」がある。それがまた、「自受法楽」(自ら法の楽を受ける)ということである。それは、「現世安穏・後生善処」とも表現される。日蓮は、そのような意味を込めて、一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱うるよりほかに真実の「遊楽」はないと言っている。哲学者の梅原猛氏(1925~2019)の表現を借りれば、『南無妙法蓮華経』と唱える題目は、いわば永遠を、今において、直観する方法」(紀野一義・梅原猛著『仏教の思想12 永遠のいのち(日蓮)』であった。「衆生所遊楽」の「衆生」という言葉には当然、四条金吾も含まれている。「所」というのは、どこか別世界のことではなく、人間の住む国土である一閻浮提のことであって、日本国はその一閻浮提に含まれているのである。日蓮は、仏典の言葉を一般論で論ずることはなく、「それは、あなたのことです」と具体的に語る。ここも、その例に漏れない。永遠は、決して死後の世界にあるのではなく、「今」「ここ」で、この「我が身」を離れることはないのである。先の「観心本尊抄」は、日蓮が龍口の刑場で死に直面した後、流罪先の佐渡でしたためられた。日蓮は、苦難の中で永遠を見ていたのだ。中村元先生が、「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります」と話されたことがあった。確かに日蓮の場合は、永遠性に根ざしつつも「法華経の行者」として現実へのかかわりを重視する歴史的な時間意識があったといえよう。「衆生所遊楽」も「自受法楽」も、日蓮自身が、体現したものであった。その上で、四条金吾に教示しているのだ。「世間の留難」は、賢人や聖人も免れることはない。だから、いちいちそれにとらわれることなく、南無妙法蓮華経と唱えているように諭している。それも、一方では「女房と酒うちのみて」であり、他方では「苦をは苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合せて」と言う。我々は、苦しいことが続くと、極端に落ち込んでしまったり、逆に楽しいことや、いいことがあると極端に有頂天になってしまって、自分を見失いがちである。自分の一念の置きどころは不動であるべきで、自分の進むべき道は客観状況が変動しようがぶれてはならない。困難な苦境にあれば、冷静に「苦しい」ことを認め、舞い上がるほどの楽境にあっても、平静を保って「楽しい」と達観して、わが道を行く。それは永遠のものを見据えて、不動の境地に立っているからこそであり、日蓮はそこに南無妙法蓮華経と唱えることの意義を説いている。たとえば、独楽の中心軸がずれていれば、回転が速いほど、不安定に独楽は踊る。軸が中心にぴったりと合っていれば、回転が速くなればなるほど、全くぶれることなく安定して回転する。客観状況のあわただしさが、回転に相当し、中心軸が自己の心と考えればいい。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 7, 2024
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「自帰依」「法帰依」佐渡流罪が許された日蓮は、文永十一(1274)年三月末に鎌倉に戻り、五月に身延に入山した。日蓮の流罪赦免がよほど嬉しかったと見えて、四条金吾はその年の九月に、主君に『法華経』の法門を説いて聞かせ、信仰を勧めた。その報告を受けた日蓮は、九月二十六日付の手紙『主君耳入此法免与同罪事』で、「主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ、ありがたく候へ」と、『法華経』弘通の行為を誉める一方で、「此れより後には、口をつつみておはすべし」と用心するように注意した。それは、主君が機嫌を損ねて、いるこの機会を利用して、日ごろから四条金吾のことを妬んでいる同僚たちが、命を狙ってくることを日蓮は心配したからだ。具体的に次のことを指示した。 此れよりも申すなり。かまへて御用心候べし、いよいよにくむ人人ねら(狙)ひ候らん、御さかもり(酒宴)、夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで、なにの御不足あるべき、他人のひる(昼)の御さかもり、おこたる(油断)有るべからず。(『主君耳入此法免与同罪事』)それから一年九カ月経ってのこの手紙である。ここにも「ただ女房とうちのみて」とあるということは、状況はほとんど変わっていないということであろう。そのような困難な状況にあっていかに自粛して過ごすのかが示されている。ここから、南無妙法蓮華経という題目を唱えることに日蓮はどのような意義を込められていたのかが読み取れる。「南無妙法蓮華経」の「南無」とは、サンスクリット語のナマス、あるいはその変化形ナモーを音写したもので、「敬礼」「帰依」「帰命」と漢訳された。「妙法蓮華経」は、『法華経』という経典の正式名称である。従って、「難妙法蓮華経」とは、『法華経』に「南無」(帰依/帰命)するということだ。「南無阿弥陀仏」が、「阿弥陀」という「人」に「南無」することであるのに対して、「南無妙法蓮華経」は、「妙法蓮華経」という「法」に帰依することという対象を示している。釈尊亡き後、何をよりどころにすべきか不安になっているアーナンダ(阿難)に対して、釈尊は「自帰依」「法帰依」と言われる教えを説いていた。それは、それは、「今でも」「わたしの死後にでも」「誰でも」という三つの条件をつけて語られた次の言葉であった。『忘持経事』では拙訳を挙げたが、ここでは中村元先生の訳を引用する。 自らを島とし他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらわが修行僧として最高の境地であるであろう。(中村元訳『ブッダ最後の旅』、64頁) これは、「自己」と「法」の関係として仏教が説かれていることを意味している。釈尊自身が「法」を体現したように、その「法」を「自己」の生き方に体現することが仏教の目指したことであったのだ。「南無妙法蓮華経」も、この「自己」と「法」の関係としてとらえることができる。「自己」の南無」すべき対象が「妙法蓮華経」(法華経)という「法」である。それは、あらゆる人をブッダたらしめる『法華経』の普遍的平等思想と人間尊重の思想、寛容の思想などに帰依することであり、『法華経』に展開される尊く豊かな生命の世界に帰入するということである。 【日蓮の手紙】植木雅俊―訳・解説/角川文庫
April 30, 2024
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「押しつけ憲法論」とは何か?(略)日本国憲法の制定過程について、「押しつけ憲法」を根拠に、強い反発を発露する人もいる。「押しつけ憲法論」とは、憲法は日本の主権者たる主権者たる日本国民が制定しなければならないのだから、GHQが作った原案を日本国民に押し付けたのは不当だ、という主張である。これは一見、「分かりやすい」主張である。しかし、上に見たような制定過程を細かく見ていくと、日本国憲法はGHQだけが作ったものではない。さらに、そもそも、この主張には致命的な矛盾がある。「押しつけ憲法論」は、国民が自ら憲法を制定すべき主張するのだから、国民sy権を前提とする。しかしながら、国民主権原理自体、GHQ案により導入されたのである。となると、「押しつけ憲法論」は、GHQが「押しつけた」国民主権原理に反するから、GHQの押しつけはおかしいという議論構造になっていることになる。「押しつけ憲法論」は、大半の国民の支持を得られなかったが、こうした不合理で首尾一貫しない議論が相手にされないのも当然だろう。 1946年の段階で、日本の領域に住むほとんどの人が、日本国憲法を日本の憲法典だと認識したのは事実である。そうすると、日本国憲法が妥当性を持った憲法であることを前提に、内容に問題があれば改正する、というのが理想的な態度だろう。もし、憲法を改正したいのなら、制定過程をとやかく言う必要はなく、内容の問題を指摘すべきである。 テレビが伝えない憲法の話木村草太SotaKimuraPHP新書
February 13, 2024
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明治憲法の成立と崩壊 日本における立憲主義と憲法法典の歴史は、明治維新に遡る。1868年から69年にかけ、徳川幕府が打倒され、明治政府が樹立された。明治維新である。明治政府は、欧米列強に対抗するため、あらゆる分野で近代化を推し進め、政治制度も西欧化を進めた。1889年には、大日本帝国憲法(以下、明治憲法)が制定され、本格的な議会政治が導入された。明治憲法は、天皇主権原理を採用し、天皇が臣民に与えるものという形で定められた。明治憲法は、言論の自由や信教の自由の制度には議会の同意が必要だと定めるなど、一応、人権宣言を置いている。また、帝国議会・大臣・裁判所の三権分立も定めている。つまり、立憲主義の観点からも、ある程度評価しえる内容になっている。特に、議会政治の導入は重要で、民選議員という新たな政治プレイヤーを創出した点で、日本の政治史において画期的な意義をもっている。とはいえ、いくつかの問題点もあった。まず、天皇主権原理の下、広範な堪能体験が認められた点である。政府は、天皇の名を用いて、議会を無視して軍事指揮権を行使したり(統帥権の独立)、法律に変わる勅命を出したりすることができ、権力分立が確立していたとは言い難い。さらに、人権保障の点でも課題があった。確かに、議会の同意なしに自由を制限できないようになっていたが、他方、議会制定があればいくらでも自由を制限できる内容になっていた。このため、社会主義団体の結成に重罰を科す治安維持法や、政府の都合で出版や記事の差し止めを命じることを認めた出版法・新聞法など、不当に自由を制限する立法もなされた。権力分立と人権保障が不十分であったことは、日本の軍事力の統制失敗につながり、立憲主義が機能しなくなったことの一因であろう。 テレビが伝えない憲法の話木村草太Kimura SotaPHP新書
February 8, 2024
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憲法9条改正の条件憲法9条を改正し、日本が国際平和のための武力行使に参加するには、いくつかの条件が満たされる必要がある。まず、国民一人ひとりが、集団安全保障措置への参加や集団的自衛権の行使に関する政府の判断を批判的に検証できるようになる必要があろう。具体的には、安保理決議の内容を吟味する能力や、国際紛争の状況を精査し、どのような対応をすべきかを検証できる能力を身に付ける必要がある。しかし、現状、メディアでの国際紛争ニュースの比率は低く、東ティモールや南スーダンへの国民の関心は低いように思われる。これは、メディア自身の問題でもあるし、メディアが報道しても強い関心を持たない国民にも責任があるだろう。国民自身が国際問題への関心を高め、それに関連する報道が高い視聴率を取るようになれば、報道予算も増え、報道の質も高まる。そして、それにより国民の関心はさらに高まる。こうした循環が生まれない状況で、集団安全保障措置への参加を解禁すれば、判断は政治任せになり、海外での野放図な武力行使を判断できなくなってしまう。それは、かえって、国際社会での日本の評価を低落させる可能性が高い。さらに、国連という組織そのものが、より正統性をもち、十分な人間・資金的資源を備える必要があろう。現在のシステムでは、安保理の力が強すぎ、国連の判断が常に国際社会にとって正しい判断である、との信頼があるとは言い難い。こうした信頼がない中で、集団安全保障措置に参加しても、大国の主張に振り回されるだけになってしまう恐れがある。国連の機能強化に向けて、国際的な働きかけをする必要もあろう。 また、先ほど述べたように、日本政府は、軍事力の統制に失敗した過去があり、国内外での信頼を醸成することが、当然の前提になる。しかし、憲法9条改憲派の言動には、信頼の醸成からかけ離れたものが多い。現役の財務大臣がナチスを見習えと発言してみたり、改憲派の政党の党首が慰安婦問題について無節操な発言をする。さらに、首相は、先般を英雄と祀る神社に参拝し、国家の指導者として当然の行為だと断言する。こういう報道を見ていると、まずは、学校の世界史を勉強し直してほしくなる。第二次大戦後のドイツの場合、ニュルンベルク裁判で戦争責任を問い、ナチス関連の戦争犯罪を裁くことから、戦争等時国との関係を再出発させたのである。これを日本とパラレルに見るなら、東京裁判で大日本帝国の戦争を捌き、戦後の国際関係を築いてきたのである。個人的な歴史認識として、「ナチスと大日本帝国の政府や軍は同等の地位にある」ことが、戦後外交の基本認識であることは、当然の国際教養として理解すべきであろう。自分の世界観に浸って満足することなく、常に、国際社会からみられているという緊張感を持って、多角的な検討の上、なすべき行動を決めなければならないのである。憲法9条を改正したいのなら、国際平和の理念を掲げ、国内外の信頼を醸成するために極めて慎重な言説を積み重ねる必要があろう。水も漏らさぬ完全試合が要求される場面で、慰安婦発言、ナチス発言、侵略否定発言といったタイムリーエラーが重ねれば、憲法9条の改正はどんどん遠くなる。こうした言動を見ていると、この人たちは、本当に憲法9条を改正したいのだろうか、と不思議な気分になる。国際主義の観点から真剣に憲法9条の改正を主張する人は、こうした状況を苦々しく思っているはずである。というだけで、現状、憲法9条の改正の善とは全く整っていないと評させざるを得ない。 テレビが伝えない憲法の話木村早太Kimura Sota🦄PHP新書
January 31, 2024
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「普通の」憲法9条の役割憲法第9条の内容は、国際法の一般原則に沿ったもので、全く異なるものではない。憲法9条は、日本特有の「普通でない」規定だと言われることも多いが、実際には、国連憲章という世界190カ国以上が批准する条約の内容に沿ったものである。つまり、グローバルスタンダードに則った「普通の」内容なのである。そうすると、「憲法9条を改正すれば、日本の防衛力が強化される」「憲法9条のせいで、日本の防衛力は弱められている」といった議論は、全く誤解に基づくものだということになる。というのも、仮に憲法9条がなかったとしても、日本は国際法に拘束される。したがって、憲法9条を削除しても「周辺諸国との緊張への対応」のために取り得る選択肢が増えるわけではなく、「自衛戦争」ができるようになるわけでもない。「日本の防衛力を強化」とか「高まる周辺諸国への対応」という理由で、憲法9条を改正しようと提案する人は、憲法9条・国際法に関する正確な知識を欠いており、そもそも、憲法9条改正論議に参加する資格などない。 もっとも、憲法9条が国際法原則の確認に止まるのだとすると、なぜ国際法に加え、わざわざ憲法規定として置いておく必要があるのだろうか、という疑問も生じるだろう。しかし、憲法上行として、9条のような条文があることは極めて有意義である。まず、国際法上の原則を、国内法で再確認すれば、国民が理解しやすい。国民に対して、武力不行使原則を宣言することで、政府が実力組織を備える場合には、それが国際法で認められた必要最小限の範囲に収まっていることを国民に説明しなければならなくなる。政府に、防衛組織・活動に関する説明責任を課し、国際法の厳守を促すことは、権力を統制するために非常に有意義である。実際、日本政府は、防衛予算をGNP1%枠内に収めることを原則としたり、新たな装備を配備するときに、あくまで「自衛のための必要最小限」の範囲で必要なものだとの説明を要求されたりしてきた。憲法9条は、これまで、そうして機能を十分に果たしてきたし、今後も、それを維持すべきなのは明らかだろう。また、序章で述べたように、憲法典中の規定は、それが法律文書として技術的にどのような意味があるか、という観点だけでなく、外交宣言としてどのようなインパクトがあるかにも配慮が必要である。憲法9条は、国際法を順守する旨の外交宣言でもある。現状、国際法を強制的に執行する主体は存在しない。こうした中で、お互いの信頼を醸成するには、国際法を尊重する宣言を明確に出しておくことが有意義であり、憲法9条の意義は計り知れないほど大きい。 【テレビが伝えない憲法の話】木村早太著/PHP新書
January 30, 2024
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感じる力を持った選手は必ず伸びる懸命に努力しているのに、結果が出ないという選手がいる。私にもそういう時代があった。前にも述べたが、プロ三年目にしてレギュラーとなり、翌年にはホームラン王を獲得。「これで何とかプロでやっていけそうだ」と思った矢先、突然、打てなくなった。二年連続して打率は二割五分程度、ホームランも二十本ほどに減ってしまった。「練習が足りないんだ」そう思った私は、それこそ手をマメだらけにして毎日バットを振った。人の倍以上は練習をしたと思う。それでも結果は出なかった。要するに、間違った努力を私はしていたのである。私は打てない原因をひたすら「練習不足」に求め、何をすべきかを理解していなかったのだ。あるとき、私はバットを振るだけでなく、なぜ打てないのかじっくり考えてみた。すると、「自分は不器用である」という現実にぶちあたった。つまり、こういうことだ。私は、カーブならカーブ、ストレートならストレートがくると分かっているときはちゃんと打てる。ところが、カーブと予測したところにストレートを投げられたり、逆にストレートだと思っているときにカーブがきたりすると、もうお手上げなのだ。とっさに対応できる技術力を持っていなかったのである。一軍に上がったばかりの頃は、相手がなめてかかっているから、普通に勝負をしてきた。それである程度打てたのだが、何年かすれば当然相手は警戒するようになる。私の裏をかいてきる。それで読みが外れて打てなくなってしまったわけだ。とはいえ、読みが外れたときにとっさに対応できるのは、ある意味、天性である。いくらバットを振ろうと、どんなに努力しようと、天災ではない私にできる芸当ではなかった。にもかかわらず、私はやみくもにバットを振るだけだった。その時私は気がついた。「おれには読みがはずれたときの対応力はないが、読みが当たれば打てるのだ。だったら、読みの制度をあげればいいのではないか」そこに気がついたことで、私はデータを収集して相手バッテリーの配給を分析するとともに、テッド・ウィリアムの著書を参考に、相手投手や捕手のクセを探した。おかげでそのシーズンに早くも二割九分、二十九本塁打をマーク。以降も打率三割前後、ホームランも三、四〇本をコンスタントに記録できるようになったのである。確かに努力は大切だ。だが、方向性と方法を間違った努力は、ムダに終わるケースもある。そこに気がつくかどうかが一流になるための重要なカギとなる。何度も繰り返すが、「人間の最大の罪は鈍感である」—私はそう思っている。一流選手はみな修正能力に優れている。同じ失敗は繰り返さない。二度、三度失敗を繰り返す者は二流、三流。四度、五度繰り返す者はしょせんポロ野球失格者なのである。なぜなら。そういう選手は失敗を失敗として自覚できないか、もしくは失敗の原因を究明する力がないからだ。「鈍感は最大の罪」とは、そういうことを指すのである。「小事は大事を生む」という。ささいなことに気付くことが変化を生み、その変化が大きな進歩を招くのである。気づく選手は絶対に伸びる。これは長年プロの世界に身を置いてきた私の経験から導き出された真理である。従って指導者は、もしも相手が間違った努力をしているときは、方向性を修正し、正しい努力をするためのヒントを与えてやる必要がある。だから私は「監督とは気づかせ屋である」と常々いっているわけだ。 【弱者の兵法 野村流 必勝の人材育成論・組織論】野村克也著/アスペクト文庫
January 28, 2024
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多数決の危機感私は、最近、「有権者の多数決」を「国民」と同視し、多数決なのだからとにかく従え、それが国民主権だという素朴な議論が幅を利かせていることに、少なからぬ危機感を持っている。国会の議論で決着をつかないのなら、ともかく国民投票にかければいいではないか、という議論も同様である。「有権者の多数決」=「国民」という議論は、少数派の排除をもたらす危険を孕んでいる。投票は、ある意見により多数の産生が集まった、という事実は示している。しかしこれは、逆に言えば、かなりの数の反対者がいた、ということも示しているのである。多数決に何でもかんでも委ねるということは、数の暴力、少数派の排除にほかならない。これに対し、議会というのは、相手の主張をよく聞いて、相互に尊重しながら、相互の歩み寄りの可能性、妥協点を模索する作業である。最後には、議会での多数決がなされるにしても、歩み寄りの努力が十分になされたかどうか、そのプロセスの重要性を忘れてはならない。このプロセスこそが、数の暴力との違いを基礎付け、反対者までをも拘束することの正当性を担保するのである。また、裁判所というのは、両当事者からは一歩引いた形で、双方の声に耳を傾けねばならない、という素朴な良心が生まれることもあろう。しかし、その素朴な良心が、より広く長い視野で見た時に、常に「正」の側にあるとは限らない。生身の人間の声を聞きつつも、冷酷なまでに「法」による議論を貫徹することによってのみ、裁判は、正当性・正統性を維持するのである。「法」こそが「国民」であるという感覚も、決して忘れてはならない。 【テレビが伝えない憲法の話】木村草太著/PHP新書
December 29, 2023
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人にどう見られているかが気になってしかたがない…… 偉そうに虚勢をはっている者ほど、他人の批判で傷つくであろう。高慢な人間は、どんなに平静をよそおっても、批判されたら心の底では傷つく。高慢な人間は、心の底で自分を軽蔑しているからこそ、他人の自分への批判に過敏なのである。そして自分を批判するものを激しく憎む。虚栄心の弱い人というのも同じであろう。他人を見下し、自分の持っているものや、自分の地位を鼻にかけながら、他人が自分をどう見ているかを気にかけ、そして他人の批判に過敏に反応する。おそらく虚栄心の強い美貌の夫人は、鏡を見て自分の美貌にうっとりし、一日に何度でも鏡を見るだろうし、なによりも自分の姿を見るのが好きだろう。あるいは自分の宝石を見るのが好きだろうし、社会的地位の高い自分の友人と話をするのも好きであろう。美貌の夫人は、周囲の人間からちやほやされていなければ自分がもたないのではないだろうか。この夫人の他人に対する関心とは、その人が自分にどのような反応を示すかということでしかない。つまり他人そのものにはなんの関心はない。彼女に関心があるのは自分だけである。湖に移る自分の姿に見とれるナルシストは、じつは自分に自信のない美青年なのである。彼は湖に移る自分の姿を見ているようである。しかし、これは彼自身の目が彼の姿を見ているのではなく、他人はこんなにも自分を美しく見ているのではないだろうか、ということである。彼は彼自身の姿に見とれているのではなくて、他人の心の中にうつった自分の姿に見とれているのである。自分はこんなにも美しく他人に映っていると思って酔っているのである。彼が酔っているのは、自分の心に映った自分ではない。彼が讃えているのは、自分の心に映った自分ではなく、他人の心に映る自分にしか関心がないのである。彼は自分がどのような人間であるかに関心がない。彼は自分が他人の心にどのように映っているかに関心があるのである。だからこそ、他人の批判に過敏に反応するし、他人の言動に傷つきやすいのである。ナルシストは自己評価の低い人と同じく、傷つきやすい。それは自分の本質そのものに関心がなく、他人の心に映る自分にしか関心がないからである。自分が何であるかという関心ではなく、自分がどう見られているかという関心がナルシズムにはある。他人にとって自分がなんであるか、ということがナルシストには大切なのである。他人に嫌われることを恐れて他人に対していろいろ配慮をする自己執着的人間は、ナルシストなのである。そうした意味で、「精神衛生講和」を書いた下田光造の言う執着性性格というのは、ある意味ではナルシストでもある。他人に対する配慮があっても、それはあくまで他人が自分に好意をもつためのものである。他人に嫌われることで傷つく。だからこそ他人に配慮する。他人に対する配慮はあくまでも、自分が傷つく。だからこそ他人に配慮する。他人に対する配慮はあくまでも、自分が傷つくことに対する防衛のための配慮である。執着性性格の人も、どこまで行っても他人そのものには関心がない。どこまでいっても関心は他人の心に映る自分の姿だけである。我執というのが、ある面ではナルシズムなナルシズムを自己愛と訳した大きな間違いがあった。我執の人は、他人に批判されて傷ついて怒る。そして怒れない時には抑うつ感情に襲われる。執着性性格はうつ病の病前正確である。それは怒れない我執の人を表現している。ナルシストや我執の人は、傷つくことを恐れて過度に自分を防衛する。しかし他人が傷つくことにはまったく無関心である。他人に関心がないのだからあたり前であるが、とにかく他人に対する思いやりがゼロである。思いやりとかやさしさというのは、ナルシズムが解消されれば自然に生まれてくるものである。逆にナルシスティクな愛の対象とされたほうがかなわない。ナルシストの親に「愛された」子はいつも傷ついている。親にとって唯一の現実は自分の人生であり、自分のナルシズムである。子供の欲求と自分の欲求が違うということを認識できない。そのような親は子供の欲求をふみにじりながら、「こんなに愛しているのに」というようにしか理解できないのである。親からしてほしくないものをしてもらって、「いや」とは言えず、嬉しそうな顔をしなければならない子、そんな子は心理的に挫折し、傷つきながら生きている。ナルシストの親にとって、この世の中で傷つくのは自分ひとりなのである。ナルシストの親にとって、この世の中で欲求とは、自分の欲求だけなのである。彼は他人の言葉を聞いていない。彼にとって他人の話は音でしかない。自分以外に重要な現実がないのだから、あたり前である。したがって、子供の心を傷つけたら、自分は子供を愛してやまないとしか思えないのである。昔々からこのような過ちはあった。あのイプセンの『人形の家』がそうである。ヒロインであるノラが言った次の言葉は、夫には理解できなかった。「あなたたちは、私にたいへんな間違いを犯してきたのです。はじめにお父さまが、それからあなたが」夫は驚く。「なんだって、……おまえをこの世でなによりも愛してきた私たち二人が」夫は決してウソを言っているのではあるまい。ただエゴイスティックにナルシスティックに自分の欲求を満たすこと、愛することが違うということが理解できないだけである。野良は「お父さまも、あなたも私もたいへんな罪を犯してきた」と言う。罪を犯しながらも、それを愛としか思えないほどナルシストの現実はゆがんでいる。ナルシスとは立派な親という自己のイメージを限りなく愛するのである。青のイメージを傷つけるものに対して憎しみをもつ。 【「くやしさ」の心理】加藤諦三著/三笠書房
December 12, 2023
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日本人はなぜ勤勉なのかウェーバーの学説は、社会科学の定説ですが、それなら日本人はなぜ勤勉なのか。宗教(特にキリスト教の信仰)をもたない日本人がなぜ資本主義を成功させたのか、という疑問も湧いてきます。この慰問には、ふた通りの回答が可能です。ひとつは、日本人は表面上宗教を信じていないようにみえるが、実は宗教に等しい信念を持っているとするもの、もうひとつは日本人は宗教を信じていないからこそ資本主義で成功したとするもの。前者の代表は、山本七平の仕事でしょう。彼は『勤勉の哲学』を著し、禅宗の鈴木正三や進学の石田梅岩ら江戸時代の思想家に日本人の勤勉の思想ルーツを発見しました。そしてそれをベースにした日本人の暗黙の行動形式を、「日本教」とよんだのです。後者を明確に主張した学者はいませんが、日本人が、営利を禁止する宗教的ルールを知らないのは確かです。士農工商の身分秩序は、明治政府の命令であっという間になくなりました。ちなみに、カースト制を否定する宗教として、シク教があります。グル・ナーナク(一四六九~一五三八)の創始したシク教は、ヒンドゥー教もイスラム教も一つの心理を説くと教え、聖職者を認めず、職業労働を重視し、勤勉で識字率の高い教団をつくりあげました。パンジャブ州を中心に一七〇〇万人、ターバンを巻く、鉄の腕輪をする、など独特の服装でひと目でわかります。イギリスのインド統治まで独立を保っていたのですが、インド/パキスタン分離のあたりまで独立を果たせず、独立運動が続いています。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
December 5, 2023
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経済活動と宗教ウェーバーが最も注目したのは、経済活動に及ぼす宗教の影響でした。特に、合理的な経営や営利の精神(世俗内禁欲)が、どのように組織されるかという点です。ユダヤ教では利子をとることは禁止です。それは、労働の対価ではないからです。『ヴェニスの商人』で、ユダヤ人謝意ロックが高利貸しとして登場するのはなぜでしょう。それは、キリスト教徒は異教徒なので、宗教法の埒外だからです。ユダヤ人同士は利子をとって貸し借りはできないが、相手がキリスト教徒ならかまわない。キリスト教徒からみると、ユダヤ人は高利貸しとなります。イスラム教の場合も、利子は禁止です。イラン・イスラム革命のあと、シャリーア(イスラム法)に忠実な国づくりを進めているイランでは、無理し銀行が創設されています。これらの例は、逆に、営利活動や利潤を宗教的に正当化するのがいかにむずかしいかを示しています。ウェーバーの回答は、プロテスタンティズムがそれをなしとげた、というものでした。ピューリタニズムは、世俗の職業を神聖化し、労働を美徳としますが、同時に、個々人がその成果(利潤)に執着することを禁止します。そのため、彼の労働の制かは、自分のものではなく神のもの、という性格を帯びます。彼らの構成する法人(企業)は、彼個人と区別されて、神の影響を受けつつ拡大再生産を始められます。そのプロセスは、徹底的に合理化されます。かくて資本主義がスタートした、というのがウェーバーの見解でした。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
December 4, 2023
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日蓮と法華宗親鸞と並ぶ、鎌倉仏教のもうひとりのスーパースターが日蓮(一二二二~一二六三)です。日蓮は、房総半島の漁師の息子でしたが、地元の清澄寺で僧となり、比叡山に上って勉強を続けました。日蓮は、仏教の思想的混乱を解決しようとあらゆる経典や論書を読み、結論として、法華経を中心にすべきだというアイデアを得ました。これは、天台の五時教判を下敷きにするものです。五時教判によれば、法華経が最高の経典でしたが、華厳経や般若経も読んだほうがよいとされていた。日蓮によれば、法華経は完全な経典なので、そこにすべてが含まれており、ほかの経典はいっそ読まないほうがよい。華厳宗も律宗も、浄土宗も真言宗も天台宗も、これまでの宗教はすべて間違っているのです。日蓮は、鎌倉で布教を開始しますが、あまりに極端な主張で、多宗派への論争(折伏)も激しかったため警戒され、弾圧されます。しかし、彼に従う信徒も増え、「南無妙法蓮華経」と経典の題目を唱えるだけでも功徳があると「易行」の要素も加えたため、法華宗(日蓮宗)が成立しました。日蓮の権威を高めたのは、彼が「立正安国論」を著し、そのなかで、法華経を重視しないなら、日本に外国が攻めて来るであろうと予言したことです。その通りに、蒙古軍が襲来しました(元寇)。法華宗は弟子たちによって各地に広まり、一向一揆とよく似た法華一揆もあちこちで結成されました。☬日蓮の主張は、なぜ正しいのでしょうか。 もともと天台の五時教判は、ひとつの学説でした。それを一歩進めた、法華専持(法華経だけあればいい)も、学説のはずです。学説であるからには、ほかの説(ほかの宗派の主張)も容認してよいはずです。他の宗派にしてみれば、法華経が大事だというのは日蓮個人の見解にすぎません。日蓮は、法華経には「この経典が一番大事だ」と書いてある、と言いますが、ほかの経典もそのように主張するかもしれず、決め手になりません。この点でもう一歩踏み出したのが、日蓮正宗です。日蓮の弟子の日興が始めた日蓮正宗は、日蓮は単なる僧侶ではなく、仏陀そのもの(本仏)である。仏陀が言うのだから法華経が大事であるという主張は正しい、とします。そして、日蓮が仏陀であることは、法華経のなかに予言している(「東方に仏陀が現れる」と書いてある)、と主張します。日蓮正宗は、室町~戦国~江戸~明治時代を生き延びて、戦後、大きな勢力になりました。日蓮正宗の在家信徒団体である創価学会が、信者を獲得し広まったからです。戦前の天皇制に反対して、獄中でも転向せず信念を貫いたのは、日本共産党と創価学会(当時は創価教育学会)だけだったので、戦後の人々の信頼を獲得したのです。創価学会については、できれば機会を改めて、社会学的な考察を試みたいと思います。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
November 29, 2023
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教相判釈インドでは、経典とそれを伝持する教団とがきちんと対応していましたが、中国にはバラバラに大小乗の経典や仏典が持ち込まれて翻訳されたので、混乱が生じました。すべて釈尊ひとりの著述と信じられていたから、量が多いのはともかく、内容に違いがありすぎます。そこで、中国では、どの経典が大事かを判定する教相判釈(略して教判)が、盛んに行われました。互いに矛盾するさまざまな仏典を、整合的に理解し、釈尊の思想を再構成しようとする試みです。天台宗は五時教判、華厳宗は五教十宗など、宗派ごとに教判がありました。☬教相判釈は仏教特有の現象で、一神教にはありえません。釈尊は、いくら偉くても人間です。経典は、覚りのためのマニュアルです。そこで、どれが役立つか、価値があるテキスト化を、序列づける学説を立てることができます。いっぽう一神教の聖典は、どれも神の言葉ですから、たとえばマタイの福音書よりも使徒行伝の方が価値があるなどと、人間が勝手に序列をつけることは許されません。 天台の五時教判このうち、重要なのが、天台の五時教判です。天台宗の開祖・天台智顗は、すべての経典を、釈尊が説法した時期に従って、五つに分類しました。彼の説によれば、釈尊はまず覚りの直後、興奮さめやらぬ間に、大変レヴェルの高い説法をした(華厳時)。この時に説いたのが華厳経だが、いきなり難し過ぎたので聴衆がついていけず、反省し、今度は相手のレヴェルに合わせたやさしい小乗の阿含経を説いた(鹿苑時)。そのあとはだんだんレヴェルを上げて、維摩経や勝鬘経を説いた方等時、般若経を説いた般若時と進み、最後に、一番大切な経典である法華経と、臨終の経典である涅槃経を説いた法華涅槃時に至るという、全部で五つの時期を経過したというのが、五時教判です。☬最澄が、天台宗を日本に伝えて比叡山延暦寺を開いてから、天台の五時教判の学説は事実上、日本仏教の共通了解になりました。もともと独立した思想の表現だったそれぞれの経典は、互いに矛盾もある。それが、釈尊ひとりの著作と信じられ、内容の食い違いは聴衆の理解能力に合わせた「方便」だと解釈されたのです。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
November 23, 2023
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浄土教団と阿弥陀信仰阿弥陀仏は、Amitabha(無量光)、Amitayus(無量寿)の音訳で、〝寿命無限の光り輝く仏陀〟という意味です。今日の研究によると、その実体はイラン(インドの西方!)に広まっていた拝火教(ゾロアスター教)の神(アフラマズダ)で、それが仏教化したものです(ですから浄土宗は、仏教の中でも一神教に近いのです)。また極楽は、チグリス川河口に実在した小島と言われています。極楽はのちに、浄土でもあると考えるようになります。阿弥陀信仰は、阿弥陀仏の仏国土(=極楽)に往生(=転生)して、そこで成仏しようというものです。ごく初期の『大阿弥陀経』(「無量寿経」の呉訳本)では、➀六波羅蜜の修行者、②仏塔信仰者、③念仏を唱える者、が往生するとされますが、のちの経典では、➀、⓶が除かれ、③だけ(念仏が極楽往生の必要条件)になります。浄土経典によれば、阿弥陀仏の前身・法蔵菩薩はその昔、世自在王如来に対して四八の誓願をしました。その第二二願に「われ仏となるとき、他方の仏土の諸々の菩薩衆、わが国に来往せば……必ず一生補処(次に生まれるときは成仏できる修行ランク)に至らしめん」とあります。そのあと成仏し、阿弥陀仏となったのですから、約束通り極楽に往生すれば歴劫の修行など必要なく、来世には成仏が保証されるというわけです。極楽は、宝石の樹が生え、妙なる音楽が流れ、修行には最適の場所とされます。阿弥陀仏の寿命が尽きたあとを、観音菩薩・勢至菩薩と継ぐことになっており、この二つを本尊とあわせて阿弥陀三尊と呼びます。 ☬阿弥陀仏がもともとインド仏教起源ではなく、イランのゾロアスター教の神であった、という有力な説があるのを知って、私はびっくりするのと同時に、なるほどと納得するところが多くありました。釈迦仏のかわりに阿弥陀仏を信仰し、極楽浄土への往生をひたすら願う浄土教は、仏教としては奇妙な構造をもっています。そのことは、阿弥陀仏が本来は一神教的な神であったと考えると、すんなり腑に落ちます。ゾロアスター教は、善=光の神アフラマズダと、悪=闇の神アハリマンの戦いがこの世界だとする二神論で、最後には善=光の神が勝利するというものですが、一神教とよく似た構成です。そして、ユダヤ教、ひいてはキリスト教に影響を与えたことも知られています。このような考え方が、東はインドに伝わって大乗仏教の阿弥陀信仰となり、西はキリスト教になったと考えると、ほぼ同時期に起こった日本の浄土真宗(一向一揆)とドイツの宗教改革(農民戦争)は、いわば兄弟同士あったことになります。阿弥陀仏信仰が、一神教の変形したものであることを考えると、浄土宗で自力本願/他力本願の論争が起こった必然がわかります。仏教は本来、めいめいの修行によって成仏するのですから、自力本願に決まっています。いっぽう一神教では、神は万能ですから、人間の信仰は他力本願でしかありません。阿弥陀仏の場合、極楽では恐らく万能でしょうが、しかしそこは、われわれのいるこの世界ではない。この世界では少なくとも、阿弥陀仏は万能ではないのです。そこで、人間がこの世界から極楽に「往生」するのは、われわれの主体的努力(自力)によるか、あるいは阿弥陀仏の能力(他力)によるのか、どちらともいえず論争になったわけです。浄土真宗は他力本願の説に立っていますが、それでも論理的に考えて、誰もが必ず往生できることの証明はできないと思います。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
November 19, 2023
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ビルト・イン・スタビライザー憲法は、国民、人民全体に対する契約です。だから、権力者が憲法に外れたら、知識人を先頭に、それを批判する人が現れ、大きな運動になって権力がチェックされる。憲法の役割とはそういうものです。 小室直樹博士は、預言者の社会的機能を、システム理論の「ビルト・イン・スタビライザー」(社会があるべき状態を逸脱したとき、それをあるべき状況に戻すため、もともと社会に組み込まれている制御メカニズム)と呼びました。 ビルト・イン・スタビライザーbuilt in stabilizer」は、サイバネティックスcyberneticsの用語です。冷蔵庫であれば、サーモスタットthermostat。温度を感知して、冷えすぎたらきり、温かくなったらまた入れて、冷蔵庫の室温を一定にする。つまり、社会の状態が変な方向へ動けば、スイッチが入って預言者が現れ、いろいろなメッセージを送って社会を正しい方向に導く。神道には、神との契約の考え方はありません。神と連絡できるのは、神主と巫女という選ばれた人で、その人が神の意志を代弁する。契約の内容や神の意志をはっきり述べているテキストがあるわけではないので、人民は言いなりです。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
November 10, 2023
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「宗教」という言葉は、明治時代の発明品さて、宗教というとなんとなくわかった気がしますが、いざ定義しようとすると難しいのです。私自身はいろいろ考えた結果、宗教を、「ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと」と定義しているのですが、ここではそれと関連して「宗教」という言葉の意味を探ります。「宗教」という言葉は、英語のreligionの訳語として、明治時代に発明されたものです。西洋文明にとって、religionといえばキリスト教、そして本家に当たるユダヤ教徒、姉妹宗教に当たるイスラム教のことです。ギリシャ・エジプトの宗教や、ヒンドゥー教、仏教、儒教はその他大勢(偶像崇拝)の扱いです。江戸時代、religionに当たる言葉は「宗門」でした。具体的には、天台宗、真言宗以下、幕府が公認した仏教の宗派を指します。キリスト教は「切支丹」で、邪宗門の扱い。儒教は「儒学」とよばれ、意識されていませんでした。「宗門人別長」が戸籍の代わりになっていたぐらいで、日本人は原則として全員仏教徒だったのです。 神道は、宗教ではない⁉そんな日本が開国して明治の世となり、「信教の自由」を外国に約束する羽目になりました。キリスト教の布教は自由、しかし、天皇を中心とする明治政府への忠誠は確保したい。そこで苦肉の策として、「神道は宗教にあらず」という政府の公式見解が生まれました。このアイデアを考えたのは、井上哲次郎という東大哲学科の教授ですが、神道は宗教ではないのですから、キリスト教徒にも仏教徒にも、天皇崇拝を強要できる。軍人勅論も教育勅語も、そうして可能になります。こうして、国家全体が宗教化・兵営化する可能性(つまり、大東亜戦争の可能性)がととのったわけです。「神道は宗教ではない」のはなぜか? それは神道が、日本人の生活や風俗・習慣に溶けこんでいて、特別にそれを信じるまでもないからだといいます。でもそれを言えば、イスラム教だって生活に溶けこんでいる点では同じでしょう。江戸時代まで日本人は、神も仏も一緒くたんに信じていたはずですが(神仏混淆)、そんなことは棚に上げた詭弁がまかり通った。神道が宗教になった(国家が神道と分離した)のは、日本が戦争に負けて、GHQがそう命令したからなのです。日本国憲法にも政教分離の原則がうたわれました。 日本人はなぜ、宗教を軽蔑する?日本人は、ひとくちで言えば、宗教を〝軽蔑〟しています。〝苦しいときの神頼み〟という諺があります。宗教を信じるのは「弱い者」「女子ども」「病人」……と相場が決まっていて、立派な大人は宗教と縁がないものということになっています。日本人はこれが当たり前だと思っているので、あまり意識しません。でも、そうなのです。そしてそれは、江戸幕府の政策、そして明治政府の政策のせいなのです。幕府は、布教して信者を増やすなど一切の宗教活動を禁止しました。そのかわり檀家制度をつくって、僧侶の収入を保証しました。葬式さえやっていれば、生活に困らない。そういう環境を用意し、僧侶を堕落させようとしたのです。これが効果を上げ、民衆は僧侶を尊敬しなくなりました。信仰の単位は個人でなくて「家」なので、〝うちの宗旨は何だっけ〟という宗教的無関心も生まれました。明治政府は、檀家制度を温存するいっぽう、神道を強要して(それ以外の宗教は危険視して)天皇の絶対化をはかりました。そういう歴史が尾を引いて、日本人の頭に巣くっているのです。 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/筑摩書房
November 2, 2023
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成功する部類の人精神科医たちが面談する鬱状態の患者さんは多いが、その後成功する部類の人は、鬱状態のあいだに、それまで高調子に活動していた時には考えなかったことを考え、反省や、思索をした結果を、立ち直ったあと生かすという人である。これにも二種類あって、ひとつは、その間に他人の苦しみや弱さがわかり、同情できるという素質がより磨かれるタイプである。一般に鬱病になる人は、病前から共感性の素地のある人が多い。それが苦悩によってより深まるので、この人にとっては鬱病になったことも無駄ではなかったとはた目からは思わせるのである。もう一つは、躁→鬱の両周期のある人である。落ち込んだときに周囲からその活動性の低下につけこんで迫害されたことを覚えていて、信念がより強固となり、躁の時に旧倍のエネルギーと確信をもって復活するというものである。支配者には古来このタイプが多くて、藤原道長、足利尊氏などもそうであり、宗教改革期の巨人、マルチン・ルターもこの傾向が強い。更にあの田中角栄氏や池田大作氏、さらに第二次世界大戦後、とくに流通産業で盛行した創業経営者たちもこのタイプが多いようである。反対に立ちなおりにくいタイプは、自分が一度でも鬱病というレッテルを張られ、精神科にかかったという事実に拘泥する。ある者は、自分がそうした「弱さ」を隠すために、わざと居丈高にふるまったり、他人のミスや「弱さ」が許せなくなったりする。医師のアドバイスに従わず、これと衝突したりする。逆に、心身の健康に対する自信を失い、いつまでも鬱状態が蔓延するものもある。 【権力者の心理学】小田晋著/講談社+α文庫
October 16, 2023
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五つのいじめ脱出法今日の職場や学校が管理社会化し、人々がその中に取り込まれ、囲い込まなければいじめはそれだけで頻繁となる。しかも社会における上下関係や水平関係を決定する基軸が多様化し、あいまい化し、アノミー(無規範)化している情報社会では、いじめは多角化し、多大化する上に、その方法も多様化し、陰湿になるのである。つまり、うかうかしていると、部下が上司を、学生が教師を、子どもが親を、妻が夫を、OLが課長を、助教授が教授をいびるというようなことが容易に起きる世の中になったので、上位者、強者とされているほうも大様に構えていられず、つまり、「いじめのバトルロイヤル」のような状況が起きているのが今日の社会であるといえる。他方では、「忍従の美徳」が象徴され、信望が愚かしいこととされる風潮の中で、いじめの被害者のほうも、一般に耐え性がなくなっているということも問題を深刻化させている。上述のように、職場内いじめは人間性の本質に根差し、かつ管理社会化が進行すればするほど増幅することがあるので、これに対する特効薬もなかなか見いだしにくいのである。しかし、権力を持つ上位者は、自分自身、劣等感や被害者意識をもっているほど、ついそれを下位者や弱者に転嫁し、そのことを自覚していないということになりがちであることを銘記してほしい。人はいじめたことはよく忘れるが、いじめられたことは忘れないのである。 自分は職場でいじめに遭っていると自覚している人には、次のような脱出法をすすめたい。➀被害者のおちいりやすいいちばんの危険点は、冒頭の広島大学事件の場合のように、そのことしか頭にない「蟻地獄症候群」におちいることである。職場を離れたら職場のことを忘れること、そのためには職場でも家庭でもない趣味や研究グループのような第三の空間をもつこと。「いじめっ子」の悪口を言うのにもそのほうが安全な聞き手が見つかるであろう。 ②状況を客観化し、ドラマ化してみること。イラストレーターの真鍋博氏は「いじめられ状況」を脚本か漫画として、頭の中に描いてみることをすすめている。そうすることで少しは相手の立場に立ってものごとを考える余裕が生まれることもある。自分でそれができない人のためにカウンセラーは「サイコドラマ(心理劇)」という方法を用いる。 ③サイコドラマは、また、「猫とネズミ」状況となり、苦手な上役に向かって言うことも言えない場合に用いられる。これは「主張訓練法」といい、「いじめられた状況」を切り抜けるシミュレーションを用いるのである。 ④敵の敵は味方、友だちの友だちは皆友だち――たとえ、周囲が皆よってたかって自分をいじめているというように見えても、余裕をもって見れば、相手のいじめに必ず対立は生じる。その時、一方に「自分は味方だ」と言ってやること。そして味方になればかつていじめられた旧怨は忘れること。 ⑤たとえ自分がへまが多くて、周囲からつつかれ通しであっても、長いあいだには「ここで抗議すれば勝てる」という状況が一度は来る。この機会をのがさないことであり、この場合の秘訣は「余裕と観察」なのである。 【権力者の心理学】小田晋著/講談社α文庫
October 9, 2023
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「精神科」には行けないたとえば「心の問題」は本来宗教家の領分であり、心身症や神経症の一部は信仰によって不安が取り除かれることがあるにしても、それによって精神科受診が手遅れになることである。精神分裂症、とりわけ心身症や精神病によく似た境界例や、脳波異常と心身症のような症状を伴う癲癇や本物の鬱病といった心の病気が手遅れとなり。取り返しのつかない犯罪や事故に至ってしまうことが決して稀ではないからである。刑事事件となってからの司法精神鑑定に従事することの多い筆者は、毎回それを痛感させられている。この場合、「神経内科」や「脳外科」や一般家庭医ですませておくことさえ場合によっては危険である。最近は上場企業の経営者や高等裁判所の判事のようなエリート層でさえ、鬱病のために自殺する事例が増えている。これらの人びとはそのステイタスの故に、精神科にかかることになったらおしまいであると思いこみ、さらにそのわがままを周囲も「認めて」しまうために、専門家による充分な治療を受ける機会を逸しているように思われることが多いのである。アメリカのレーガン元大統領は、俳優組合委員長時代、神経症のために精神分析医の治療を受けており、自伝でもそれを隠していない。かかりつけの精神分析医を持つことがエリート層のステイタスシンボルであるというアメリカのような状況が、日本にただちに来るとは思えないが、「人権屋」的な告発キャンペーンのために、精神医療の実態が黒く塗りつぶされ、とくに知識層に、精神か専門医に受診することをためらわせている事情を忘れるわけにはいかない。似たような事情は、がん、動脈硬化、高血圧、心臓疾患、糖尿病といった成人病の場合にもありうることなのである。がんの場合、日本の専門医は、病名告知をしないことが多いので、どうしても歯切れが悪くなりがちであり、家族に対する予後の説明は、身長というより悲観的にすぎると思われることもある。宗教家や民間療法家の病気なおしは、がんでない患者もがんである「一撃診断」して治していることも多く、実はがんノイローゼを治しているにすぎないことも少なくないのであり。がんで死んだ場合にも、彼らは「おかげで半年生き延びた」「苦痛なしに死ねた」と自画自賛に事欠かないのである。がん患者に対しては、日本の医療機関は愚かしいストイシズムを放棄して麻薬の十分な施用に踏み切るべきであるし、終末患者に対する時には宗教家と協力してカウンセリングを積極的に行うべきである。しかし、がんに対しては、定期健診と早期手術、心臓血管障害についても、血圧、心電図の管理と降圧剤、血管拡張剤等の必要最小量の維持投与と食事の節制、ストレス・コントロールといった平凡な療法のほかに、信頼できるサバイバル戦略は存在しないことは、繰り返し強調しておかなければならない。 【権力者の心理学】小田晋著/講談社+α文庫
September 18, 2023
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カウンセラーは教祖さま⁉欧米の場合、キリスト教における「告解」の伝統があり、牧師や司祭ばかりでなく、弁護士も、精神医学や心理学カウンセラーも、みなその伝統を引いている。つまり「職業的な悩みの聞き手」があり、そういう人たちのために相談するのは恥ずかしいことではなく、また安全なことであるという社会通念がある。わが国の場合、庶民層のための手っ取り早い市井カウンセラーの役割を果たしているのは実は新興宗教であり、さまざまの「巷の神々」である。そして、そういうものを嘲っているはずの、知性も高く、意志の強い政財界のトップたちの心の悩みの聞き手になっているのも、実はさまざまの教祖さまたちであることが多い。中曽根元首相の場合は禅仏教の他に、「禅の友」であるということになっている四元義隆氏の影響があるようであるし、かつて福田元首相やその他自民党系の政治家が政治日程その他の決断に際して安岡正篤氏の「周易」(中国で周代に集大成された易学の原典)にもとづく判断を仰ぐことがよくあったことも知られている。クリスチャンであった大平元首相の場合も、政治評論家の伊藤昌哉氏を通じて金光教の導師の霊感に頼ることがあったことを、『自民党戦国史』(朝日ソノマラ社)は述べている。この場合の伊藤氏の方法は、心理学的に見れば正統派のカウンセリングとTM(超越瞑想)法を組み合わせたようなやり方であった、利害関係のない聴き手として、相手に言いたいことを言わせ、自分の方も相手に同化してその考えを引き出すのである。普通のカウンセリングと違うところは、結論は、相談する人(クライアント)の口から出てくるのではなくて、伊藤氏(ないしその背後にいる導師)が瞑想をしている時に、霊感的な心像として与えられたという点であろう。その場合、「結論の正しさ」を保障するのはその前に相談の受け手のクライアントに充分に同一化し、状況を把握し、私心なしに相手の心の奥底にある本当の考え(それは日常的な些事や枝葉末節の考慮で覆われている)を引き出すということである。だからこそ得られる結論は結局、クライアント自身の考えにすぎないのであるが、この場合、相談を受ける受け手の私心が混入しないことが成功の条件になる。問題は、一度そうやって相手に精神的影響力を及ぼす立場に立った場合、自分の利害がバイアスのかかった立場を相手に吹きこもうという誘惑に負けないでいられる人がどのぐらいいるか、ということである。とくに最近気になるのは、そういう政財界の「不安の受けとめ手」がオカルト的になり、神がかり的になる傾向があることであり、先ほど挙げた人たちに見られるような品位や方法的な抑制がなくなってきているのではないか、ということである。超心理学や密教のブームが、こんな人がという人までをかなりいかがわしい新興宗教の影響下に置いているという状況は、考え方によっては恐ろしいことである。実はこういう状況はロシア革命前のロマノフ王朝の宮廷や、第二次大戦前のわが国でも見られたのである。そういう意味からは、指導者たちの心身の悩みや不安を受け止めるカウンセリングの役割は、場合によっては、国家や企業の存立そのものにかかわる「サバイバルの問題」になってくるのである。 【権力者の心理学】小田普著/講談社α文庫
September 15, 2023
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坂東武士の原型司 馬●考えてみれば弥生時代の頃までは、日本人も朝鮮人も、ほぼ同じ民族だった。それがここまで両者違ったものになるというのは、地理的環境によるものが大きいのだが、それと民族の血の混合度合いでしょうか。朝鮮民族というのは、まず北方から滴ってきたツングースの血と、朝鮮南部の土着の血の混合だと思うのですが、日本人はツングースだと思われる縄文人もおればアイヌもいる、黒潮に乗って来た南方の血もあれば、中国江南の民族あたりの血が入っている想像上の形跡もあり、挑戦の血もむろん濃厚に入っている、そういう血の混血の度合いによって差異ができたのか、よくわかりませんが。 海音寺●「魏志倭人伝」の記述を真正直に読めば、倭の境は朝鮮半島にありますね。つまり、三国志の頃の中国人は南朝鮮から日本列島にかけての地域全体を倭――日本と考えられていたのですね。ですからおそらく南朝鮮の人間とは同種族でしょう。 司 馬●同じだと思いますね。「古事記」だったか「日本書紀」だったかにも、素戔嗚命は朝鮮南部とさかんにゆききして、晩年はソシモリというところに隠棲したということになっておりますね。その子のなんとかという命も、日韓を往復し、挑戦の植物をうんと持って来て日本に植えた、ということになっていますね。 海音寺●辞林の著者の金沢庄三郎博士――あの人は言語学上から日韓同祖説を唱えていますね。同祖説の最初の人ですね。今日の日本の学者の中にもそういう人がいないではない。騎馬民族説の江上博士なぞは、向こうの方から、――征服民族ですが、渡って来ているといっているんですね。古代の一時期、朝鮮南端は日本の天皇家及び天皇家をとりまいている貴族らの根拠地であったという風に、江上博士は言っていますね。最近の朝鮮の学者たちにもその説の人が多く、こっちが本家で、日本が分家だという説なんですね。戦後まもなく私もそれを考えたことがあります。朝鮮と日本の関係は、イギリスとアメリカとの関係なんじゃないとかね。朝鮮がイギリス、日本がアメリカとね。 司 馬●私も大ざっぱに言うと、その考えが常識的だと思うんですけれども。 海音寺●古代において朝鮮人が日本にたくさん入ってきているんですが、これは大体において最優秀な技術者ですから、日本じゃ大歓迎していますね。日本の文化が飛躍的に進み、生産が飛躍的に増大したのは、この連中の功績でしょう。それから唐の勢力がさかんになって朝鮮にのびて来たとき、百済、新羅、高麗などの国々が滅ぼされますね。その時に大量の移民が波状的に日本に入って来ましたね。この連中が今の東京と埼玉県に多量に入られたのですから、この地域は連中によってひらかれたのですね。おそらく、それまでは茫々たる原野と森林だったでしょう。 司 馬●だから関東武士の原型は朝鮮人ですね。 海音寺●でしょう。――畠山重忠の家は坂東八平氏の一つだというし、熊谷次郎直実は多治氏だといわれていますが、これは父系で、母系の方には濃厚に朝鮮の血が入っているんですよ。だから坂東武士というものの血を成りたたせている主なものは、朝鮮かも知れんですよ。 【日本の歴史を点検する】海音寺潮五郎|司馬遼太郎/講談社
August 19, 2023
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旅路の途上の最期 不屈の魂で人生を生き抜いた日蓮にも、やがて最期がやってきます。佐渡流罪を赦されて身延へ入山してから九年。六十一歳のときでした。ひどい下痢(くだりばら)の症状が出ていたようなので、胃腸の病気だったのでしょうか。その数カ月前に上野尼へ送った手紙の中に、こうあります。 〔身延へやって来てから〕八年の間にやせ病といい、年齢といい、年々に体も弱まり、心も老い耄れているうちに、今年の春からこの病〔下痢〕が起こって、秋が過ぎ、冬に至るまで、日々に衰え、夜々にひどくなっておりましたが、この十日余りは既にほとんど食事もとどまっている上に、雪は降り積もって、寒さにせめられておりました。体が冷えることは石のようであり、水の冷たさは氷のようでありました。(「上野殿母尼御前御返事」、弘安四年(一二八一)十二月八日) 年々やせ衰え、体力もなくなってきたところへ、ひどい下痢が起こっていると言っています。体の冷えも深刻で、つらそうです。それも無理はありません。何しろ日蓮は若いときから迫害の連続で、命に関わる怪我をし、二度も流罪に遭い、佐渡で死体捨ての場のような場所で極寒を耐え忍んだこともあるのです。世の中には貴族のごとく裕福な宗教者もいますが、日蓮は贅沢とはまるで無縁で、最後まで質素な草庵暮らしでした。体も悪くなるでしょう。下痢の症状については、その夜年ほど前に四条金吾にも見られるので、かなりの長患いです。 日蓮は、下痢の症状が去年の十二月三十日に起こり、今年の六月三日、四日と日々に激しくなり、月々に倍増しました。前世から定まっている業〔の報いとしての病〕かと思っているところに、貴殿の〔処方した〕良薬を服用してより、これまで日々月々に症状が治まって、今は百分の一になりました。(「中務左衛門尉殿御返事」、弘安元年〔一二七八〕六月二十六日) 金吾が心配して薬を送ってくれたようで、症状が百分の一ほどにもなったと感謝しています。実際はそんなによくもなっていないのでしょうが、あなたのおかげですよ、ありがとうと大仰に喜んでみせるところに日蓮の人柄がうかがえます。やせ病、老い耄れ、下痢、食欲減退……。私は日蓮がこのような自分の病や衰えを、何のためらいもなくつづっていることに胸を打たれます。それは、釈尊の最期を彷彿させるからです。釈尊も最後は枯れ木のように衰弱しましたが、見えもなく、虚飾もなく、ありのままを語り、ありのままの姿を周囲に見せました。 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の通り過ぎ。老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、おそらく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。(中村元訳、『ブッダ最後の旅』より) 釈尊の死因はキノコ料理による食中毒だったといわれます。お腹を下して亡くなった頃も日蓮と似ています。神秘でも冷厳でも奇跡でもない。何も神格化されていない生身の人間らしい逝き方がここにあります。誌のひと月前、日蓮は弟子に付き添われて、常陸国(現在の茨城県)に湯治に出かけました。身延へ入山してから一歩も駿河国の外へ出たことはなかったのに多い腰をあげたのは、門人たちの勧めもあり、静養しなければならないという判断だったのでしょう。しかし、途中に立ち寄った武蔵国の池上兄弟の住まいに身を寄せたところで力尽きました。弘安五年(一二八二)十月十三日でした。今残っている最後の手紙は、身延の日蓮の生活を支えてくれた波木井実長に当てた礼状です。 道の程は、特別のこともなく池上に着きました。道の途中は、山といい、河といい、(病の身には)いささか大変なことであったのを、波木井氏の公達(子弟)に護られて、難儀なこともなくここまでたどり着いたことは、恐れ入りながらも喜んでおります。ついには、やがて戻っていく道でありますが、病の身であるので、思わぬこともあるでありましょう。そうであっても、日本国でいささか取扱いに困っている身を、九年まで帰依された志は、言葉でいい尽くせないので、いずこで死んだとしても、墓は身延の沢にしてくださるべきです。(中略)病のために判形(花押)も書き加えなかったこと、恐れ入っております。(『波木井殿御報』弘安五年(一二八二)九月十九日) すでに筆を執る力もなく、弟子の日興の代筆です。花押すら書き入れることができないことを詫びていますが、文面はしっかりしています。「思わぬこともあるだろう」「墓は身延の沢にしてもしい」と言っていますので、覚悟はあったのでしょう。けれども、悲壮感が漂うわけでもなく、仰々しくもなく、むしろ淡々としています。「日本国でいささか取扱いに困っている身』などと言うあたりは、日蓮らしいユーモアも漂います。ほんのりと明るい感じすらあります。それは、生と死はひとつながりだからでしょうか。霊山浄土で会える人々がたくさんいるからでしょうか。『法華経』そのものの人生を生きた日蓮にとっては、生死をまたぐ瞬間も、また喜びであったのではないでしょうか。 【100de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)/NHKテキスト
July 21, 2023
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霊山浄土でお会いしましょう日蓮はかくも「生きる」ことを喜ぶ人でした。この世に生まれてきたことの貴重さ、命の尊さ、生をまっとうし、一日でも長く生きることのありがたさを人々に訴えました。こんな言葉があります。 命というものは、人にとっての第一のこの上ない宝物です。一日であってもこれ(寿命)を延ばすならば、千万両の金〔こがね〕にも勝っています。(『可延定業書』、文永十二年(一二七五)二月七日) 一日であっても生きておられたら、功徳を積むことができます。何と惜しむべき命でしょうか。惜しむべき命でしょうか。 (同前) 生きることが大切なのは当たり前で、特に珍しいことではないと思われる方もあるかもしれません。しかし、当時は必ずしもそうではなかったのです。ことに宗教的面においては、「いま」「ここ」に生きていることよりも、死後の別世界のほうが尊くありがたいという考えがあったのです。その最たるものが、法然らの浄土信仰でした。その教えによると、われわれが生きているこの世界は穢れてどうすることもできないが、西方の遥か彼方(西方十万億土)に阿弥陀仏のおわします極楽浄土がある。ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後そこへ行けると説きました。いわゆる「厭離穢土」「欣求浄土」です。この考え方に、日蓮は異議を唱えました。われわれはいま、ここに、こうして生きている。なのに、なぜわざわざ死後の別世界(他土)に浄土を求める必要があるのか、と。『法華経』では、「常にこの娑婆世界に住して説法教化している」とあるように、釈尊は常にこの現実世界に関わり続けているといいます。『法華経』を信じ実践する人のいるところこそ、釈尊が成道し、法を説き、涅槃に入るなど、仏陀としての活動を展開していくところだというのです。そもそも「浄土」という言葉は、どこか特定の場所を指したものでもなければ、『阿弥陀経』のサンスクリット原典にも鳩摩羅什訳にも出てきません。もともとは「仏国土(ブッダのいる国土)を浄化する」[浄仏国土]という意味なのです。『維摩経』に書かれているこのサンスクリット語の原文を、鳩摩羅什が「浄土」と漢訳しました。『維摩経』は、如来の身体も人間離れしたところには存在しないことを強調する経典です。人間を離れて、別世界に「浄土」を求めさせることはありません。釈尊は仏であると同時に人間ですから、我々人間が住んでいるこの国土に正法が行われ、清らかになることが、すなわち浄土です。では、世間法を重んずる『法華経』には、「浄土」は説かれていないのでしょうか。あります。それを日蓮は「霊山浄土」と呼びました。極楽浄土のように死後の別世界ではなく、われわれが生きているいま、この娑婆世界で体現できる世界です。それは、われわれの住むこの娑婆世界のインド北東部に実在する霊鷲山の情報の虚空で展開される世界として抽象的に描かれています。『法華経』は霊鷲山で説かれましたが、途中で会座を空中(虚空)に移しました。仏教において虚空は、地上世界と異なり、あらゆる対立概念を超越し、時空の概念も取り払った世界です。そこに釈迦・多宝の二仏を中心に過去・現在・未来の三世の仏・菩薩や、司法・発砲・十方に存在する仏・菩薩をはじめあらゆる衆生が一堂に会して、説法は展開されるのです。これは、「霊山虚空会」と呼ばれます。この「霊山虚空会」を日蓮は「霊山浄土」と言いました。この霊山虚空会に込められた意味を説明します。虚空会には、三世の諸仏・菩薩が一堂に会しています。それは、「現在」の瞬間に過去も未来もはらんだ永遠の世界を意味しているのです。時間といっての「いま」(現在)しか存在しません。過去といっても、過去についての「現在」における記憶であり、結局、「現在」です。未来といっても。未来についての「現在」における期待や予想でしかありません。所詮、「現在」です。過去といい、未来といっても、「現在」を抜きにしてはあり得ないのです。それなのに多くの人は、「いま」(現在)の重みには気づかずに、過去や未来にとらわれてしまいがちです。過去につらく忌まわしい経験をして、それを忘れることのできない人は、過去を引きずるように過去にとらわれながら、「いま」を生きてしまいがちです。あるいは、「いま」をいい加減に生きながら、未来に夢想を追い求めて「いま」を生きる人もいます。いずれも、妄想に生きていることに変わりはありません。過去にあった〝事実〟は変えることはできませんが、過去の〝意味〟は変えられます。それは、「現在」の生き方いかんによります。仏教は、原始仏教以来、一貫して「現在」を重視してきました。原始仏典の「マッジマニカーヤ」に次の言葉があります。 過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来はまだ到達していない。そして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また行動することなく、それを知った人は、その境地を増大せしめよ。ただ今日はまさに為すべきことを熱心になせ。 霊山虚空会は、その「現在」の瞬間がいかに豊かな永遠の境地をはらんだものであるかを示しているのです。それは、虚空会に十方の諸仏が集合していることで、われわれの生命が宇宙大の広がりを持つものであることを象徴することによっても示されています。悩みに打ちひしがれているとき、自己は小さく委縮していますが、山の頂上に立ったりすると、視野が広がって広大な自己に気付きます。この例が示すように日常の雑務に追われ、困難に打ちのめされてちっぽけになった自己であっても、広大な生命の広がりを持っていることが分かります。このように永遠の時間と、無限の空間をそなえた虚空会の会座に〈地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天〉の六道の衆生と、〈声聞・独覚〉の自利的真理探究者、〈菩薩〉という利他的修行者、それに覚者としての〈仏〉の十種(十界)がすべて勢ぞろいします。それは、瞬間に永遠をはらみ、宇宙大の広がりを持つわれわれの生命に具わる十種の働きを擬人的に表現したものであって、この虚空会自体が、一人の人間の生命の全体像、命の本源を意味しているのです。これが、『法華経』に描写された霊山虚空会の意味であり、日蓮の言う「霊山浄土」なのです。『法華経』を読誦することは、その命の本源である霊山浄土に立ち還ることを意味します。日蓮は、その霊山虚空会(浄土)を文字で曼陀羅として顕しました。その曼陀羅に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えることは、「妙法蓮華経」、すなわち『法華経』に南無する、すなわち帰依すること、『法華経』に展開される尊く豊かな生命の世界に立ち還るということです。それは、日々に霊山浄土に立ち還ることを意味します。『法華経』が、初めは霊鷲山という地上で説かれ、途中で虚空に場所を移し、最後に再び地上に戻るという形式をとっているのは、日常生活の場と霊山浄土の往復を言っているのでしょう。日蓮の手紙の中に、このことを分かりやすく説明した手紙があります。 私たちが居住していて、『法華経』というあらゆる人を成仏させる一仏乗の教えを修行する所は、いずれの所であっても、久遠の仏が常住する常寂光の都であるはずです。我らの弟子檀那となる人は、一歩も逝くことなくして天竺の霊山浄土を見、本来ありのままに常住する仏国土へ昼夜に往復されることは、言葉で言い表すこともできないほど嬉しいことです。(「最蓮房御返事」、文永九年〔一二七二〕四月十三日) 『法華経』を読誦し、実践する人のいるところが、そのまま霊山浄土であり、その人は、そこから一歩も動くことなく、日夜そこに往来できると説いています。日蓮は、この『法華経』の思想に基づいて、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを勧めました。哲学者の梅原猛氏の表現を借りれば、 「南無妙法蓮華経」ととなえる題目は、いわば、永遠を、今において、直観する方法なのです。(紀野一義・梅原猛著『仏教の思想12 永遠のいのち〈日蓮〉』) ということでしょう。『法華経』に説かれた永遠・常住の境地(霊山浄土)に立ち還ることによって、自己に永遠・常住の境地を体験することになります。永遠は、決して死後の世界にあるのではなく。「いま」「ここ」で、この「わが身」を離れることはないのです。それを極めていけば、もはやこの世もあの世も分断されたものではありません。娑婆世界を離れて浄土は存在せず、娑婆世界を穢土として厭い離れる必要もありません。生も死も一つのつながりのものとなります。それは、上野尼に与えられた次の手紙に示されています。 生きておられる時は、〝生の仏〟であり、亡くなられた今は〝死の仏〟であって、生死ともに仏なのです。即身成仏という大事な法門はこのことです。(『上野殿後家尼御返事』、文永十一年〔一二七四〕七月十一日) ここには、「生死の二法は「心の妙用」(『大白午車書』)という考えが反映していると考えられます。「生」という在り方(法)も、「死」という在り方も、一つの生命(一心)に具わる不思議な働きの二つの現れ方であるということです。それは、ちょうど「水」と「波」の関係に似ています。風が吹けば波が生じます。風がやめば波は滅します。波の生と滅が、生と死に相当しますが、そこには「水」が変わることなく在り続けています。生命(一心)が条件に応じて「生」と「死」の姿をとっているということです。上野尼の末子・五郎が亡くなった次の日、および四か月後に書かれた手紙をすでに紹介しましたが、その手紙の末尾には、いずれも大事なことが記されていました。愛しい五郎を亡くして、夢か、幻かと嘆いている尼に、日蓮はいつの霊山浄土のことを説いていたのです。 82ページで取り上げた手紙の続きが、こちらです。 〔五郎殿は〕釈迦仏と『法華経』に熱心に帰依しておられましたので、臨終の相は立派でありました。心は、亡くなられた父君と一緒に霊山浄土に行かれて、手を取り合い、頭を突きあわせて喜んでおられることでしょう。(「上野殿後家尼御前御書」、弘安三年(一一八〇)九月六日) また、84ページで紹介した四か月後に送られた手紙の末尾がこちらです。 〔あなたはどうしたら五郎殿に会えるか心惑っておられるようですが〕やすやすとお会いできることがございます。釈迦仏を使いとして霊山浄土へ行ってお会いして下さい。『法華経』に「もし法を聞くことあらん者は一(ひとり)として成仏せずということ無けん」といって、大地を指せば外れるとしても、太陽が尽きがちに堕ちるとしても、潮の干満がなくなる時代が来るとしても、夏になっても花が実にならないとしても、南無妙法蓮華経と唱える女人の思い続けている子どもに会えないということはないと説かれております。(「上野尼御前御返事」、九安余年〔一二八一〕一月十三日) これが『法華経』の教えであり、日蓮の死生観です。以上のことから、霊山浄土は、生存中に日々立ち還るべき生命の本源であり、死して後に還りゆくところといえましょう。 【100分de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)/NHKテキスト
July 15, 2023
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龍口の法難の顛末末法の世とされた鎌倉時代初期、幕府や朝廷の後ろ盾を得て多くの仏教宗派が教えを広めましたが、混乱は一向に鎮まりませんでした。日蓮は混乱した世を正そうと、幕府に物申し続けましたが、幕府は黙殺しました。また日蓮は、公の場でどの仏法が正しいかを議論して明らかにしようとしましたが、それは叶いませんでした。文永八年(一二七一)六月、鎌倉で旱魃が起こったとき、極楽寺の良観が雨乞いの祈禱を買って出ました。良観はハンセン病患者の救済事業や、各地に道路や橋をつくるなど慈善事業をしていたことで有名でしたが、その陰で幕府に通じて私腹を肥やしているのではないかと日蓮は疑っていました。日蓮はかねてから良観に公開討論を挑んでいたのですが応じなかったので、この機会をとらえ、「もしも、あなたが一週間以内に雨を降らせることができたら私が弟子になろう。降らなかったら、私のいうことを聞いて、あなたの心を改めなさい」という勝負に出ました。結果、雨は降らず、悔しがった良観は謀計を巡らせ、日蓮を幕府に訴えました。「御成敗式目」には、偽りの訴えをしてはならないとあるので、本来、訴えた良観のほうが罰せられるべきなのですが、裁判もなされず、九月に日蓮は逮捕され、龍口刑場へと連行されます。僧侶を斬ると仏罰があるのではないかと恐れる処刑人たちは、刑場へ向かう途中、鶴岡八幡宮の前で幕府の氏神である八幡大菩薩を叱り飛ばす日蓮を見て、さらに震え上がりました。いざ、処刑人が太刀を構えると、大きな丸い光るものが飛んできて、太刀が折れて、日蓮の首を斬ることができなかったといいます。怯える処刑人に日蓮の首を斬れなかったという事実があって、そこにいろいろと伝説めいた不思議な話が生じる余地がありました。最終的には、処刑は平頼綱の一存で決めたことで、それを知った執権時宗によって中止させられました。 コラム 植木雅俊の日蓮研究② 【100de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)/NHKテキスト
July 1, 2023
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女性に「聖人」という最高の称号最後に、もう一人重要な女性信徒の例を挙げたいと思います。日妙尼という女性です。それは文永九年(一二七二)の五月ごろ、この尼が幼い娘とともに鎌倉から信濃の山を越え荒波を渡り、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきたのです。この人は夫と早くに離別し、苦しい暮らしの中、女手一つで子を育てていました。当時は日蓮が佐渡へ流され、教団全体が厳しい弾圧にさらされてから、まだ半年かたっていません。幕府の役人に睨まれたら、どんな目に合うか分かりません。その三カ月前には北条時輔の乱(二月騒動)も起こりました。その余燼も冷めやらず、国中に不穏な空気が漂っていたのです。山路には山賊、海路には海賊が横行しています。そんな危険をものともせず、幼子の手を引いて訪ねてきてくれたのです。男性であっても二の足を踏む状況下に、か弱い女性が踏破してこようとは、思いもよらぬことでした。しかも、帰りの旅費のおぼつかないことを知った日蓮は、『法華経』一部十巻を渡すことを条件として、滞在先の主人に借金し、それを持たせて帰したほどでした。日蓮は後日、言葉を尽くして礼状を送ります。まず、経典や釈尊の過去世物語の中から不惜身命の求道者たちを列挙します。身の皮を紙、骨を筆、骨髄を墨、血を水として仏の一偈(詩句)を書写した楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)、どんなに罵られ危害を加えられようとも、「あなたは如来になります」と人に話しかけ、誰人を持軽んじることがなかった常不軽菩薩、餓死しそうな虎の母子を救うために身を投じて食べさせようとした薩埵王子、鷹に追われた鳩の命を助けるために自らの肉を切り取って鷹に与えた尸毘王(しびおう)。インドに法を求めて十七年がかりで十万里を旅した玄奘三蔵。唐に法を求めて二年、波濤三千里を超えた伝教大師……。しかし、これらはみな男性です。女性の身で仏法を求めて千里の道を越えた例はありません。あなたは素晴らしい勇気と心根の持ち主です――と絶賛します。 須弥山を頭に載せて大海を渡る人を見ることがあったとしても、〔実語(真実の言葉)の中の実語である『法華経』を心得る正直の者である〕この実語の女人を見ることはできません。砂を蒸して飯とする人を見ることがあったとしても、この女人を見ることはできません。《中略》あなたは、日本第一の『法華経』の行者の女人です。ゆえに、名を一つ付けて、常不軽菩薩の義になぞらえましょう。日妙聖人です。(『日妙聖人御書』、文永九年〔一二七二〕五月に十五日) 『法華経の行者』、そあいて「日本第一の法華経の行者」とは、それぞれ日蓮が伊豆流罪、小松原の法難を経て自覚したことでした。そして、「常不軽菩薩」は日蓮が『法華経』独自の菩薩である地涌の菩薩とともに自らの身に引き当てて論じていた菩薩です。その二つだけでも最高のなぞらえであるのに、さらに「聖人」とまで称しています。「聖人」の号はとりわけ徳が高く、高潔な人格の教祖や高弟にしか用いられません。当時の他の宗教者ならば、貧しく、身分があるわけでもない寡婦にこんな称号を与えることはないでしょう。これは、人間の価値は生まれで決まるのではなく、その人の行いによって決まると説いた釈尊の教えをそのまま実行していることでもあります。日蓮は、実に言行一致の人でありました。 【100de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)
June 30, 2023
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正しい教えを求めて釈尊が入滅すると、正法千年(または五百年)と像法千年(または五百年)を過ぎて末法に入り、正しい教えが衰滅していくと考えられていました。ここで言う千年、五百年という期間は大まかな目安にすぎません。「正法」は、サンスクリット語でサッダルマ(正しい教え)、「像法」はサッダルマ・プラティルーバカ。プラティルーバカは形容詞で「似ている」、名詞で「やぶ医者」「山師」なので、像法は「正しい教えに似て非なるもの」を意味します。よって、像法は「正しい教え」が「似て非なる教え」に取って代わられる時代のことです。どんなに優れた普遍的思想であっても、後世には低俗なものにすり替える人が現れるということでしょう。その像法を経て、正法が消滅させられるのが末法です。鎌倉時代初期は末法の世とされました。さまざまな厄災に見舞われ、幕府と朝廷の権力争いが続く混乱した末法の世を憂いて、日蓮は真の仏法を求め、原始仏教の原点に還るべく『法華経』を拠りどころにしました。原始仏教とは、釈尊が線存していた時代から釈尊滅後の教団が分裂していた時代から釈尊滅後の教団が分裂する以前、ほぼアショーカ王(在位前二六八~前二三二)ごろまでの仏教を言います。その多くがスリランカに伝承されましたが、そこでは教団分裂後の権威主義化が見られず、改ざんもほとんど行われておらず、改ざん前の釈尊の教えがそのまま残る貴重な経典とされています。釈尊滅後五百年ごろ編纂された『法華経』は、原始仏教の原点に還ることを主張する経典といえます。『法華経』のタイトルは、サンスクリット語で「サッダルマ・プンダリーカ・スト―ラ」と言います。「サット」が「正しい」、「ダルマ」が「教え(法)」、「プンダリーカ」が「白蓮華」、「スト―ラ」が「経典」を意味します。これを鳩摩羅什は「妙法蓮華経」と漢訳しました。私はサンスクリット語の文法から考え、「白蓮華」は「最も勝れたもの」という意味をもつことから「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」と現代語訳しました。 【コラム植木雅俊の日蓮研究➀】「100分de名著」NHKテキスト
June 23, 2023
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自己との対決以上、富木常忍、四条金吾、池上兄弟という三組の信徒の受難と、日蓮が彼らに授けた問題解決の知恵を見てきました. これらの手紙を読み返しながら、私は改めて日蓮の革新性に思いを致します。日蓮がこれらを書いた七百五十年前は、「君に忠」「親に孝」が当たり前の封建時代の真っただ中でした。その中かで、日蓮は個人の意思というものを重視していました。その主張は、言ってみれば個人主義のすすめです。利己主義ではありません。当時としてはとてつもなく新しく、また勇気のいることだったと思います。そもそも、仏教のいちばんの目的は、東京大学名誉教授の中村元先生がおっしゃっていたように「自己との対決」を通しての「真の自己に目覚めること」「失われた自己の回復」「人格の完成」であると私は考えています。中村先生は、日本の仏教の受容の仕方について、「思想体系としては理解されていない」「儀礼的呪術的な形態」でしか民衆と結び付いていない。「思想的指導性は極めて乏しい」と指摘されていました。そして、仏教が現代において普遍的意義を取り戻すためには、「自己との対決」を通して仏教をとらえなおすことが必要だと訴えていられました。仏教の唯の儀式、あるいは字面だけの学問の対象としてではなく、一人の人間として、時代や社会の偏見、価値観、先入観などとの葛藤と闘い、乗り越えるための生きた教えとして学ぶことが重要です。富木常忍も、四条金吾も、池上兄弟も、中世の封建社会で個の自覚をしました。いつの時代でも個を自覚するとき、社会の価値観との間に軋轢が必ず生じます。しかし、日蓮は弟子たちにそれを乗り越えさせ、仏法の本当の意義を検証させました。それこそが「自己との対決」です。仏教は、一人ひろちにこの重さと尊さを目覚めさせてくれるものです。それが結果として他者の尊厳に目を開かせ、他者と共に生きていける社会づくりに貢献することにもつながるのです。振り返れば、創始者たる釈尊がそうでした。原始仏教において、釈尊は過去の因習や、迷信、先入観、独断的なドグマ(教義)、占いなどを徹底的に排除しました。それは当時の常識とは鋭く対立することでしたが、くじけることなく思うところを貫き、「人間はいかに生きるべきか」を問いました。日蓮自身もまた同じように時代・社会と格闘し、「自己との対決」を繰り広げていたと思います。その姿の中には、現代に通じる問題提起がたくさんあると感じます。中村先生は、日蓮の手紙をまとめて読まれることはなかったようですが、もし読まれていたならば、そこに「自己との対決」を通して仏教にアプローチした人たちの姿を見て、喜ばれただろうと思います。 【100分de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)
June 22, 2023
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安房の漁師の心意気日蓮という人は、正しいと思うことはとことん主張し、間違っていることに対しては、どうあっても黙っておれない性でした。その度胸と正義感の強さは驚くばかりで、こういう強烈な個性の持ち主には、なかなかお目にかかれるものではありません。私は長い間、日蓮のこの精神性はどこで培われたと疑問に思っていましたが、あるとき、その答えのようなものに遭遇しました。それは二十年ほど前のこと。インドの大学院博士課程で日本語を学び日本に留学していた友人を誘い、家族で千葉県の大原の船宿を訪ねたことがありました。太平洋で釣りをして、新鮮な魚をその場でさばいてもらって食事をしていると、襖一枚隔てた部屋から漁師さんの会話が聞こえてきて、とても騒がしかったのです。何しろ声が大きく、ずけずけと遠慮のない物言いで、笑っているのか、喧嘩腰のように聞こえます。「せっかく遠来の客を接待しているのに、申し訳ないなあ」と、私は冷や汗をかいていました。ところが、驚いたことに、友人は、「この土地の言葉は温かいですね」と、言ったのです。「東京の言葉はきれいだけれど冷たい。それに比べて、ここの言葉は温かみがあります」私はハッとしました。日蓮の故郷はこの大原漁港の近くです。そうか、日蓮の心根の大本はここにあったのか――と、腑に落ちました。日蓮はいわば、〝海洋民族〟的でした。幕府は、それに対して、〝農耕民族〟的でした。稲作を主とする社会は、周囲との折り合いを重視し、個人の意見をはっきりと主張することを嫌います。ここにも、日蓮の主張が容れられなかった理由が読み取れます。漁師さんの世界というのは、いわば競争の社会です。それと同時に、悪天候や菓子の具合など、命に関わる情報は何でもあけっぴろげで共有します。多少乱暴なところがあるかもしれませんが、陰湿さはなく、言うべきことははっきりと言います。いわば漁師の心意気といったところです。私は、日蓮が恐れることなく幕府にものを言えた理由の一端を見た思いで、思わず膝を打ったのです。 【100分de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)
June 20, 2023
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末法思想と鎌倉新仏教第1回では、日蓮の生涯を概観したいと思います。その六十一年の生涯を眺めながら、日蓮の『法華経』への思いと、くじけぬ魂が分かる手紙を紹介しましょう。日蓮が生きた鎌倉時代初期は、仏教史で言うと末法の世に入っているとされていました。末法とは、釈尊(お釈迦さま)が亡くなってしばらくは「正しい教え」(正法)が行われるが、次第に「似て非なる教え」(像法)に取って代わられ、最終的には正法が見失われ、いかに修行しても覚りに至ることができなくなる、という考え方です。いつから末法の世に入ったかについては諸説ありますが、日本では平安時代の後期の永承七年(一〇五二)からだとされました。そして、それを裏付けるかのように、世の中が乱れ始めました。武家が台頭して源平合戦が起こり、貴族社会は衰退し、鎌倉に新しい政権ができました。これだけでも天地がっくり変えるような変化なのに、追い打ちをかけるように天災、疫病、飢饉が続き、多くの命が失われました。まさに末法の世の中がやってきた――と、人々は恐れおののいたのです。そのような時代の中から、次々に新しい宗教者が登場しました。法然、その弟子の親鸞、一遍、栄西、道元、そして、日蓮などです。みなさんは、仏教はそもそも人を救うためにあるとお思いでしょうが、当時の仏教はそうではありませんでした。日本の仏教は聖徳太子のころ(五三八年)に朝鮮半島を経由して中国から伝来して以降、ずっと鎮護国家のためのものでした。すなわち、国家を収めるため、もっと露骨に言うと権力者を護るためのもので、そこに民を救うという視点はほとんどありませんでした。その傾向は時を下るにつれて強くなり、平安時代後期には、特権階級の要請に応じて加持祈禱をするだけの存在になっていました。このような状況を憂え、革新の意欲を持った宗教者が相次いで現れたのです。新仏教の祖師たちは、末法という状況に対して、みなそれぞれの考えに従って教えを説きました。法然や親鸞は「浄土三部経」に従い、穢れた世を厭い離れて、死後に極楽浄土を求めることを説きました。道元は、正法・像法・末法を立てることは方便だとして、末法ということには超然として、ひたぶるに坐禅を組むことを唱えました。そして日蓮は、末法のいまこそ仏教の原点に立ち返り、『法華経』を根本として「正しい教え」が興隆すべきだと主張しました。日蓮はこの新仏教の流れの最後に生まれたことで、日蓮は少なからぬ試練に直面することになりました。というのも、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば誰でも極楽に往生できると説いた法然らの浄土教(念仏宗)は、そのとりつき易さから瞬く間に庶民の心をつかみ、禅宗はその自己鍛錬の態度が武家の精神と親和し、鎌倉幕府から絶大な支持を得ました。また、旧仏教の系統ながら、社会活動、慈善事業を盛んに行い、政権の首脳と強く結びついた真言律宗という一派もありました。ほんの数十年の違いながら、これら先行の宗派が既得権益をがっちりと獲得していたため、後発の日蓮には様々な困難が降りかかったのです。 【100分de名著『日蓮の手紙』】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)
June 18, 2023
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家康について家康は、少年のころから隣国尾張の信長との関係がくかく、最初は信長にいじめられ、つぎには利用され、ついには引きたてられた。といって家康は、家臣ではない。その同盟者で対等である。信長は家康を弟のように愛した。いや、弟よりも愛した。戦国武将の家にあっては、弟でさえ時に自分の地位をうかがうおそれがある。現に信長の場合、勘十郎信行がそうだった。信長が家康を愛したというより、家康が信長に愛されるようにした。信長という烈々たる農道精神の持ち主と仲間になるためには同じ能動精神を発揮してはうまくゆかない。受け身に徹底する必要があった。信長の生存中における家康の態度は、信長に対してきわめて女性的だった。こんにちでいえば、家康は信長の下請け会社の社長にあたる。下請け会社を維持するためには、徹底的に律儀であることを必要とする。信長の生存中の家康は、律儀に徹した。元亀三年武田信玄が甲斐の軍勢をこぞって征西の途につくや、家康は部下の反対を押しきって信長の利益のために、かなわぬまでも対武田戦に踏みきり、果然三方原に戦って大敗を喫した。少々の小才子なら、ここで強者の信玄につくであろう。つかぬまでも、多様の動揺はみせるであろう。家康は愚直なまでも律儀だった。ただの小心者の律儀ではなく、律儀のためには千万人といえどもわれ征かんというていの律儀である。世間あいさつ的な律儀ではなく、生命をかけたいわば男性的な律儀さで、この一戦の律儀さが、家康の生涯を決定した。三方原の敗北によって、信長が、心胆に銘じて家康を信頼するにいたったことはいうまでもないが、同時に、戦国社会の世評のなかで、徳川家康という人間像をもっともクッキリとうかびあがらせた。家康こそ運命を托して信ずるに足る、と思わせた。秀吉の死後、秀吉の大名がこぞって家康のもとに奔ったのは、この信頼感によるものだ。律儀は単なる性格ではない。離合集散の常でない戦国社会にあっておのれの律儀を守ることは、奇跡にちかい努力を要した。それは才能でさえあった。家康に天下を取らしめたのは、この巨大な才能といえるだろう。【歴史の世界から】司馬遼太郎著/中央公論新社
April 29, 2023
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高度な宗教が生んだ思想人いまでも石川県は「真宗王国」といわれ、東本願寺の金城湯地とされているが、ともかくも江戸三百年のあいだ本願寺がその教義をもって加賀人を薫化した。本願寺の教義は本来、人間無力のおしえである。無力なればこそ絶対者である阿弥陀如来——他力本願——の本願にすがり参らせるという教えであるが、この信心を得るためには、自分の精神的体質を、絶対無力の境地にまでひきさげて(ひきあげて)しまわなければならない。むろんこの絶対無力というのは政治的なものではなく、きわめて哲学的に定義されたのであり、無力から仏教的大勇猛心をひきだすというものだが、他力本願や無力ということをことばどおりに直訳すると、石倉前蔵相の失言問題のようなことになるだろう。石倉さんは、「他力本願では日本防衛はできない」といったそうだが、真宗の生命線であるこのことばをこのようにつかわれては、平素おとなしい本願寺も抗議さざるをえなかったのであろう。しかし本願寺の協議がきわめてきわどい(どんな高度の宗教でもそうだが)ところに成立しており、江戸時代のきばをぬかれた加賀門徒も、あるいは石倉的誤解の上できばを抜かれていってしまっていたものかもしれず、このところはきわめて微妙である。筆者は播州門徒のすじをひく家にうまれた。だからつい本願寺びいきになるのだが、この日本人が生んだもっとも高度な宗教が加賀人を行動家から思想家に仕立てたという点では、異論のないことだろう。西田幾多郎は加賀の宇ノ気という真宗のさかんな土地にうまれ、きわめて親鸞思想の影響の濃い哲学を発展させた。西田哲学でいう絶対矛盾的自己同一というおも仏教がもとからもっていた一種の弁証法であり、根源は華厳から出ているという。西田幾多郎のばあいはその根源の華厳にさかのぼってのことよりも、むしろ手近に、その生家にみちていた真宗的気分のなかから発想されたものに相違ない。鈴木大拙にしてもそうであろう。大拙は禅を世界に紹介した人だが、絶対自力の禅のなかに絶対他力の侵襲的境地をひき入れ、とくに真宗の独自の人間風景である「妙好人」(絶対無力の行者)をもって禅宗の悟達者とひとしいものであるというひろやかな思想を確立した。西田幾多郎も鈴木大拙も加賀にうまれなければおそらくその思想はべつなかたちのものになっていたであろう。ほかに加賀では戸田城聖がうまれている。創価学会の組織者であるこのひとの脳裏には、当然ながら「講」と「寄合」をもって爆発的発展をとげた初期本願寺のやりかたが、他人ごとならず映っていたのであろう。 【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文春文庫
March 23, 2023
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蓮如はオルグの天才これは私見で確証のあることではないが、これ以前から加賀平野の一体に灌漑や開墾がすすみ、耕地面積が飛躍的にひろがっていったのであろう。このためちょうど同時期の紀州紀ノ川流域(雑賀地方)の発展ぶりがルイス・フロイスをおどろかせるかのように、それと同じ事情で富裕な自作農、小地主を大量に発生させていたにちがいない。それを自前百姓が大同団結すれば当然、中世末期の衰弱しきった守護大名や地頭の権力を圧倒することが可能であった。さらにそれを可能にさせたのは本願寺教団の力であった。本願寺のこんにちは知らず、過去における最大の凄味はここにあるといっていい。本願寺の宗祖親鸞は、「親鸞は弟子一人も候わず」といいつづけてついに教団形成の意志はなかったが、第八世蓮如が出るにおよび、その天才的な組織力によって全国にその法義が燎原の火のようにひろがった。とくに北陸と近畿、東海においてさかんであった。「四、五人の寄合合談せよ」ということを蓮如は組織づくりの眼目とし、ひとびとが集まって法義を語りあうことをすすめた。これによてかれら門徒の単位として「講」というものが組織されたが、この「講」の出現こそ日本民衆史上、仰天動地のできごとというべきであろう。それまでの民衆は村落領主に支配されるだけのいわばタテの社会的関係のなかでしかこの世で棲息しえなかったが、講の出現によってヨコの関係をはじめて持つことができた。住んでいる世界のひろがりは、それだけでもかれらの感動を生んだ。その感動はまたたくまに加賀一国にひろがった。それらヨコの組織を宰領していたのは本願寺末寺であり、彼が僧侶を中心に、これら講や末寺門徒が連合し、ついにはぼう大な軍事組織になってゆくのだが、当の蓮如はこれをきらい、しきりに、「王法をもって本とせよ」と、国権尊重を説きつづけ、おさえつづけたが、しかし蓮如ですらこの新興のエネルギーの前には無力であり、加賀から去らざるをえなかった。とにかく加賀人は「立って走り」はじめたのである。 【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文春文庫
March 22, 2023
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本来の仏教は今を生きること中村先生は、「仏教の思想は、時間論と言ってもいい。それは〝今を生きる〟ということだ」と言われた。仏教の時間論は、原始仏典の『マッジマ・ニカーヤ』の次の言葉に尽きる。過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。まだ未来は未だ到達していない。 (中村元訳)時間は、今・現在しか存在しない。過去といい、未来といっても、過去についての「現在」における記憶であり、未来についての「現在」の予測でしかない。いずれも「現在」を抜きにしてはあり得ない。この時間論から、先の一節に続けて、そして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなく、それを知った人は、その境地を増大せしめよ。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。という生き方が強調される。本来の仏教では、死後のことよりも〝今〟〝ここ〟でいきているこの〝我が身〟に即して、いかに生きるのかが説かれていたのだ。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川文庫
December 19, 2022
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第十八話 始終自身なり「真の自己」の探求を重視していたことを物語るエピソードとして原始仏典の『マハー・ヴァッガ』に記されている。それは、釈尊が、ペナレス郊外の鹿の苑(鹿野苑)で初転法輪を終えて、自らが覚りを開いたところであるウルヴェーラーへ戻る途中のことだった。釈尊は、街道からそれて林に入って樹木の根元に坐っておられた。その林に三十人の友人たちが夫人同伴でピクニックに来ていた。そのうちの一人だけは、独身だったので遊女を連れてきていた。ところが、その遊女がみんなの持物を持って逃げ去ってしまった。その女を探し求めて林をさまよっていて、釈尊の姿を目にして声をかけた。「一人の女性を見ませんでしたか」と。そこで釈尊は、女性を探す理由を訪ね、この答えを聞いていった。 青年たちよ。あなたたちはどうかんがえますか? あなたたちが女性を探し求めると、自己(atta(ー))を探し求めるのと、あなたたちにとってどちらがすぐれたものでしょうか? 青年たちは、「自己を探し求めることです」と答え、釈尊の説法を聞いて出家を申し出たという。ここでは、「真の自己」の探求ということが重視されている。それは、既に触れた入滅前にアーナンダに語っていた「自帰依」「法帰依」の教とも重なっている。初転法輪直後の教と、入滅間際の教が、同趣旨である。釈尊の教には、最初から最後まで一貫して自己の探求であったことを意味している。しかも、「自帰依」「法帰依」を語るに当たり、釈尊は、「今でも」「わたしの死後にでも」「誰でも」という条件を付けていた。これも、〝真の自己〟の探求こそ、釈尊が一貫して説きたかったことであり、いつの世も常に一貫して仏教の目指すべきことだということを意味している。ところが釈尊の滅後、「わたしの死後にでも」とあったにもかかわらず、時の経過とともに、教団は権威主義化し、差別思想が持ち込まれ、自己、人間という視点が見失われるようになってしまう。その差別思想の超克と人間と自己の復権は、大乗仏教、なかんずく『法華経』の登場を待たねばならなかった。『法華経』に説かれる「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬(たと)え」にしても「依(え)裏(り)珠(じゅ)の譬え」にしても、自らを貧しいものと思い込み、自己卑下して自らが無上の宝石を具えていることに無知な男に宝石の具有を自覚させる物語である。あらゆる人にとっての「失われた事故の回復」「真の自己への目覚め」がテーマになっている。その『法華経』第十五章寿量品(第十六)の中の五百十文字からなる韻文(詩)に日蓮は、「自己」という視点の重要性を読み取った。その韻文は「自我」の二文字で始まる偈(詩句)であることから「自我偈」と呼ばれている。それは、「自我得仏来 所経諸劫数(しょきょうしょこうしゅ) 無量百千万 億載阿僧祇」に始まって、四百七十五文字を挟んで、「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」で終わっている。この「自我偈」の最初と最後の文字に日蓮は注目した。そして、「自とは始なり。速成就仏身の身は終りなり。始終自身なり」と論じた。自我偈は、「自」という文字で始まり、「身」という文字で終わっている。だから、この偈では、始終、自身のことが説かれていると結論づけているのである。「最初から最後まで一貫して、この寿量品の自我偈には自分自身のことが説かれています。ほかの誰のことではありません。あなた自身のことであり、皆さんのことであり、私のことですよ」と展開したのだ。さらに日蓮は、「自□□身」という構造の四文字熟語「自受用身」と対応させて、「自」と「身」に挟まれた自我偈の五百八文字が「受用」に相当しているとして、自我偈には「自身」に具わる「法」を「受け用いる」こと説かれていると強調し、その「自受用身」に「ほしいままにうけもちいるみ」とルビを振っている。「自由自在に法の楽しみを自ら用いることができる身」ということだ。この五百十文字からなる自我偈では、釈尊自身が、「私が仏になって以来、もう天文学的な時間が経っています。それ以来、私はいろんな仏国土に出現して、かくかくしかじかのことをやってきました」という話が展開されている。釈尊自身が、自ら覚った法をいかに受け用いてきたかが書かれている。それを日蓮は、「ここに説かれていることは、釈尊のことだ けではなく、実は皆さんもことであり、最初から最後まで自分自身のことですよ」と主張したわけである。主張は大変に素晴らしいもので、よくここまで展開したなあ と感動をおぼえる。ただ、何もここから「始終自身なり」と持って来なくてもいいのではないかという思いは残る。悪い言葉でいえば、語呂合わせなのだが、それを通して言っている内容は素晴らしい。漢文の規則からすれば、最初の「自」という文字は、自分自身のことではない。英語のfromに対応している。「自我得仏来」は、「我れ仏を得て自(よ)り来(このかた)」と書き下される。英語でいえばfrom my attaining Buddhahoodである。「私がブッダになってより」であって、フロム(from)なのだ。決して自分自身のことではない。日蓮は、そんなことは分かっていて、あえてこういう展開をしている。この言葉を日蓮のものとすることを疑問視する〝文献学者〟もあるようだが、だれが言ったにせよ、原始仏教において最初から最後まで一貫して重視されていた〝真の自己〟の探求において最初から最後まで一貫して重視されていた〝真の自己〟の探求について再度強調する視点は大いに評価すべき事であろう。 【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書
November 27, 2022
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迷信・呪術・占いを否定釈尊の教化を受けて弟子となったカッサバ三兄弟の末弟ガヤー・カッサバは、男性出家者たちの回想を詩でつづった「テーラ・ガーター」において、次のように述べている。 〔ブッダの〕よく説かれた言葉と、法と利を伴った語句を聞いて、私は、あるがままの真実に即した道理(tatham yathavakam atham)を根源的に省察しました。(第三四七偈) この言葉に仏教の基本思想の一端がうかがわれる。それは、「あるがままの真実に即した道理」を説くものであったということである。カッサバ三兄弟は、古くから行われてきた火の供犠に対して何らの疑問も挟むことなく、取り組んできたのであろう。釈尊は、それに対して道理に照らして、ありのままの真実に目を向けさせたのである。この点を見ると、仏教が目指したこととしてまず、一点目に、迷信・ドグマ等の否定を挙げることができよう。釈尊が、迷信やドグマ等を否定した背景には、当時の既成宗教、特にバラモン教が迷信によって人々の心を惑わせていたという事実があった。その代表的なものが、この火を用いた供犠という迷信である。宗教的権威であるバラモン階級は、呪術的な祭儀を司っていた。その祭儀は、「ホーマ」と呼ばれる火祭りからなっていた。これは、「ヤジュニャ」と呼ばれる動物供犠、生けにえの儀式である。これには動物ばかりではなく、牛乳やバター、乳製品、穀物までも火の中に投じられた。動物の肉や脂肪や血であれ、穀物であれ、供物は火の中から煙に乗って天上の神のところに届くと語られていた。これに対して、釈尊は「アヒンサー」(不殺生)を唱え、バラモン教のこうした祭儀を堕落した祭儀として否定した(中村元著『原始仏典を読む』一〇四頁)。「ホーマ」は漢字で「護摩」と書かれ、真言密教に取り入れられている。しかし、実は釈尊はこの「ホーマ」の儀式を否定していたということを忘れてはならない。火の供犠は、日を燃やすことで過去世からの穢れをなくすことが信じられて、行われていた。火を神聖なものと考え、火を崇拝することによって身が浄められ、苦から解脱することができるというわけだ。これに対して釈尊は、「火によって穢れがなくなるというのなら、朝から晩まで火を燃やして仕事をしている鍛冶屋さんこそ一番穢れが少なくて、解脱しているはずである。それなのに、カースト制度では最下級に位置付けされているのはどうしたわけであるか」と批判している。大変に道理にかなった常識的な言葉だ。さらに釈尊は、成立の古さにおいて『スッタニパータ』の若干部分と並ぶといわれる『サンユッタ・ニカーヤ』第一巻において次のように述べている。 バラモンよ、木片(を燃やすこと)が清らかさを定めると考えてはいけない。それは外側のことにすぎないのである。人が完全なる清らかさを外的なことによって求めるとするならば、その人は実に清らかさを〔得ることは〕ないと善き行いの人たちは説くのだ。 (一六九頁)バラモンよ、私は木片を燃やすことを捨てて、まさに内面的に火を燃やすのだ。永遠の日を輝かせ、常に心を安らかに定めていた、尊敬されるべき人(阿羅漢)である私は、清らかな行いを行ずるのだ。(同) バラモン教は、人間の心の外側のことである火の儀式を重視して、形式的な儀式中心主義に陥っていたといえよう。釈尊は、それに対して内面を輝かせる「火」こそ重要なものであり、それを「永遠の火」(niccagini)と言った。後に仏教がヒンドゥ教の影響で密教化するにつれて、このホーマの儀式が中心的なものであるかのようになってしまってしまうのだ。このほか釈尊は、沐浴についての迷信も否定している。それについては、第二章第六節でプンニカー尼について論ずる中で触れることにする。迷信の中には、超能力、さらには通力も含まれると考えてよいだろう。原始仏教においては、この超能力や、通力に頼ることも否定している。『テーリー・ガーター』を読むと、尼僧たちが次々にみんな解脱するけれども、解脱の直前に「三明六通」といって三種、あるいは六趣の通力、超能力みたいなものが現れてくる。『テーラ・ガーター」と比較してみると、このことは、女性出家者のほうに特に顕著である。これは、女性の特質を考える上で、面白い現象である。そして、『テーラ・ガータ―』では、「智慧第一」とも「真理の将軍」(dhamna-senapati)とも称されたサーリプッタ(舎利弗)が、通力の名前を一つひとつ挙げて次のように語っているのも大事なことだろう。 それは私にとって空しくない聴聞であり、私は解脱いて、煩悩のないものとなった。実に、過去世の生活〔を知る通力〕を得るために、ものごとを見通す天眼〔の通力〕を得るために、他人の心を読み取る〔通力〕を得るために、死と転生を知る〔通力〕を得るために、聴く働きを浄める〔通力〕を得るために私の誓願が存在するのではない。(第九九六、九九七偈) これは、サーリプッタが「六つの神通力(六通)を得ることを目的として仏道を修行しているのではない」ということを自ら明言した言葉である。釈尊は、最も古い経典とされる『スッタニパータ』において、バラモン階級をはじめとする人たちが行っていた呪術などを用いることを次のように明確に否定している。 〔仏教徒は〕アタルヴァ・ヴェータの呪法と夢占いの相と星占いのとを用いてはならない。鳥獣の声〔を占うこと〕〔呪術的な〕解任術や医術を信奉して、従ったりしてはならない。(第九二七偈) ここでいう医術とは、当時の迷信じみた呪術的な医術のことである。釈尊の前世の因縁ものガラリ『ジャータカ』(本生譚)の中には、「星の運がめでたくない」というアージ―ヴィカ教徒の言葉にとらわれて、せっかくめでたい結婚を台なしにしてしまいそうになったカップルの話しが描かれている。二人に対して、賢者(過去におけるブッダ)は、次のように語って聞かせた。 星占いが何の役に立つのでしょうか。娘をめとることこそが実に〔めでたい〕星ではないのですか。(第一巻、二五八頁) 星占いによって人生を左右されることの愚かさを指摘し、それを否定しているのだ。あるいは「不吉」を意味するカーラカンニという名の友人に家を守らせた豪商・アナ―タンピティカが、その友人のおかげで財産を奪われずにすんだ話も出ている。アナ―タピンディカは、 〔人の〕名前は、単に言葉だけのことです。賢者たちは、それを〔判断の〕基準にすることはありません。〔名前を〕聞いて吉凶を判断することだけはあってはならないのです。私は、名前だけのために一緒に泥んこ遊びをした〔幼な〕友達を捨てることはできません。(同三六四頁) と語っている。つまり、姓名判断的な行為も否定していたのである。こうした迷信やドグマを拝して物事を正しく見て、正しく考えて、正しく行動することを教えたのが、八正道(八聖道)であった。『テーラ・ガーター』の原始仏典には、しばしば、 〔ブッダは〕➀苦しみと、②苦しみの生起と、③苦しみの超克と、④苦しみの止滅に趣く八つの支分からなる聖なる道(八正道)を〔示された〕。(第一二五九偈) といった記述が見られる。誤った考え方は、苦を生み出す原因であり、その「苦しみの止滅に趣く」ために説かれたのが八正道であった。それは、➀正見(正しく見ること)、②正思惟(正しく考えること)、③正語(正しく言葉を用いること)、④正業(正しく振る舞うこと)、⑤正命(正しく生活すること)、⑥正精進(正しく努力すること)、⑦正念(正しく思念すること)、⑧正定(正しく精神統一すること)——の八項目からなる。いずれも、「正しく」(samyak)という文字が付いている。筆者は始めこれを見て、「正しく」という副詞をつけても、何をもって「正しい」とするのかを述べなければ、それは何も言っていないに等しいと思っていた。けれども、当時の思想状況を知って納得した。いずれの項目も、バラモン教や、六師外道(仏教以外の六人の代表的な自由思想家)が活躍していた当時の思想状況、思考法、実践法を正しながら、正しい「法」に目覚めさせるものであったのだ。当時は、生まれによって貴賤が決まるとされたり、その生まれも過去世の業によって決定づけられているとしたり、呪術に頼ったり、火を礼拝したり、極端な苦行に専念したりする不合理なことが横行していた。そうしたことに対する批判的な是正の意味も込めて「八正道」が説かれたのだ。このほか、「中道」「四聖諦」が説かれたのも、通力や、おまじない、迷信、占い、呪術などの誤った考え、不合理な因果のとらえ方などをただすという意味合いがあった。 【差別の超克-原始仏教と法華経の人間観】植木雅俊著/講談社学術文庫
November 8, 2022
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人は死ぬということ弘安三年には、熱原の法難に伴う前年来の迫害が和らいだこともあり、そのお礼のためであろう、八月十五日に時光は、弟の五郎とともに身延の日蓮を訪ねた。その三カ月後の弟の死であった。日蓮は、「人は生まれて死するならい」という言葉を、自分は知っていたし、人にも教えてきたけれども、死という事実に直面すると、嘆き、驚かずにはおられないといった文章の中に織り込んでいる。「人は死ぬ」ということは、真実ではあるが、その言葉を身内を亡くした人に突きつけることをしていない。日蓮は、これ以後も五郎の四十九日に当たる弘安三年十月二十四日、翌弘安四年一月十三日の手紙でも、そして次にあげる十二月八日の母親の対する『上野殿尼御前御返事』でも、必ず五郎のことに触れて母親の悲しみに寄り添っている。このようにして、死という事実を通して『法華経』への信心を促している。釈尊の死が間近になった時、弟子のアーナンダ(阿難)は、わが師はなくなられるだろうと思って泣いていたことを、『大パリニッバーナ経』にある。その時、釈尊は、次のように語って聞かせた。やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてありえようか。(中村元訳『ブッダ最後の旅』、137頁)要するに「人は死ぬんだ」という事実を、あらかじめ説いてきたし、アーナンダにその事実を認めさせようとしている。それは、自分自身の死について語る時のことで、子どもを亡くした母親に対して、「人は死ぬんだよ」という言い方は決してしなかった。どうしたら、その人が死ぬという事実を受け入れることができるのか、その状況を作ってやった。キサー・ゴータミーという女性が子どもの亡骸を抱いて「この子を生き返らせてください」と半狂乱でさ迷い歩いていたことがあった。人人は、それを嘲り笑って見ていた。その女性と出会った釈尊は、「私が生き返らせてやろう」と声をかけた。「それには誰も死者を出したことのない家から芥子の実をもらってくる必要がある」と言った。ゴータミーは一軒一軒訪ねて回るが、死者を出したことのない家などあるはずもない。それを繰り返しているうちに、ゴータミ―が「人は死ぬんだ」と気付き、子どもの死という現実を受け入れ、出家して阿羅漢に達したという。これに対して、湯浅治久著『戦国仏教』(中公新書)によると、正嘉元年(一二五七年)の大地震と、その翌年から数年にわたって続いた飢饉で亡くなった人について親鸞(一一七三~一二六二)は次のように語ったという。老少男女、おほくのひとびとのしにあひて候らんことこそ、あはれにさふらへ、たゞし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ……。 (『末燈鈔』)いわば、多くの犠牲者が出たことについて、阿弥陀如来がすでに説いておかれたことだから、そんなに驚くことではないというのだ。「人は死ぬのだ」ということに対する態度は、三者三様といえよう。日蓮は、同じ正嘉の大地震と飢饉を目の当たりにして、『立正安国論』をしたためた。それは、次のように書きだされている。旅客来りて嘆いて曰く、「近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に逬る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半を超え、之を悲しまざるの族、敢えて一人も無し……」これに対して、主人の曰く「独り此の事を愁へて苦臆に憤悱す。客来りて共に嘆く、屡談話を致さん……」と主人が切り出し、多くの死者を出した災害の現実を共に嘆き、災害に見舞われた国土をいかに安穏ならしめるかという客人と主人の対話が展開されていて、湯浅氏は、親鸞と対照的であることを指摘している。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川ソフィア文庫
October 30, 2022
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女性信徒について日蓮に帰依した信徒の階層を見ると、これまで見てきた富木常忍は有力御家人である千葉氏の被官(直属の家臣)で、四条金吾は北条庶子(本妻以外の子)である江間氏の被官であった。池上兄弟と、南条時光は得宗被官であり、幕府に仕える御家人としてそれぞれ武蔵と、駿河の地頭であった。御家人としての地頭には、このほか駿河の高橋、由比、石河の各氏、甲斐の波木井氏などが挙げられる。このように、日蓮に帰依した人たちは、御家人、地頭などの武士階級が多く、商人や農民、下人たちを抱えた名主、幕閣につながる有力武士もいた。鎌倉幕府で儒教を講ずる学者比企大学三郎能本もいた。その中で女性の信徒が数多くいたことが注目される。日蓮は、正嘉元(一二五七)年の大地震や、相次ぐ疫病などの災害を目の当たりにして、『立正安国論』を執筆するに当たり、正嘉二(一二五八)年に駿河国の岩本実相寺で一切経を読破している。三十七歳の時のことだ。それを通して、多くの経典が女性を蔑視している一方で、『法華経』が女人成仏を強調していることに注目したと思われる。そこで抱いた第一の印象は、日蓮、法華経より外の一切経をみ候には、女人とはなりたくも候はず。(『四条金吾殿女房保返事』)であったようだ。その理由として、日蓮は諸経に散見される「女人は地獄の使なり、能く仏種を断ず」「一度女人を見る者は眼の功徳を失ふ。設ひ大蛇をば見るとも女人を見るべからず」「三千大千世界にあらゆる男子の諸の煩悩を取り集めて女人一人の罪とす」などと言った女人別紙の言葉を多数列挙している。諸経に女性を蔑視する言葉が多いのに対して、日蓮は、『法華経』から女性を平等にみなす言葉として、法師品の次の一節を挙げる。若し是の善男子・善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし。是人は、則ち如来の使なり。(植木訳『梵漢和対照・現代語訳』下巻、六頁) これについて、法華経の法門を一文一句なりとも人に語らんは、過去の宿縁ふかしとおぼすべすべし、[中略]僧も俗も尼も女も一句を人に語らんは如来の使と見えたり(『椎地四郎殿御書』)として、在家・出家、男女の区別なく如来の使いと見るべきことを強調している。さらに、『法華経』提婆達多品で多宝如来の第一の弟子である智積菩薩と、釈尊の弟子で智慧第一のシャリープトラ(舎利弗)が小乗教の女性蔑視の考えから難癖をつけてきたのにもかかわらず、龍女がそれを退けて成仏し、説法して人々を歓喜させる姿を見せつけたことについて、次のように述べる。智積・舎利弗は舌を巻きて口を閉ぢ、人・天・大会(筆者注=人界や天界の衆生からなる法会)には歓喜せしあまりに掌を合わせたりき。 (『法華題目抄』)このように龍女が、畜生の身で、しかも八歳の幼い女性の身で即身成仏したことをとっかかりとして、『法華経』勧持品において釈尊の姨母マハー・プラジャーパティー(魔訶波闍波提)比丘尼や、ラーフラ(羅睺羅)の母ヤショーダラー(耶輸陀羅)女と眷族の比丘尼たちとともに未来成仏の予言(授記)を被り、さらに鬼道の女人たる十羅刹女も成仏していることに着目して、然れば尚殊に女性の信仰のあるべき御経にて候。 (『女人成仏抄』)と論じている。そこで日蓮は次のことを願い女性たちに対していく。但法華経ばかりこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へと見候ひしかば、悲母の恩を報ぜんために、この経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す。ところが、その思いを理解しない女性たちから敵のように思われるが、それでも日蓮の志は揺らぐことはなかった。ここに日蓮願って云く、日蓮は全く悞なし、設ひ僻事なりとも日本国の一切の女人を扶けんと願せる志はしてがたかるべし。との志を持ち続け、 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず。 (『諸法実相抄』) 此の世の中の男女層には嫌ふべからず、法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ。 (『四条金吾殿女房御返事』) 此の法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず、一切の男子にこえたりとみへた候 (同)と説き続けた。このような女性観に立っていた日蓮は、数々の経典に登場する菩薩の修行を挙げた上で、 此等は男子なり、上古なり。賢人なり。いまだきかず、女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を。 (『日に要聖人御書』)と語り、数々の危険な状況の中で求法のために鎌倉から佐渡まではるばると訪ねてきた乙御前の母を、「日本第一の法華経の女人」と讃嘆し、「日妙聖人」という名前を与えている。日蓮は言行一致の人であった。日蓮の手紙から、当時の女性たちの女性としての不安、関心がうかがえる。幕府の儒学者であった大学三郎の妻は、月水(月経)を穢れと見る当時の考えにとらわれて質問してきたが、後述するように、日蓮は迷信を徹底的に排除する本来の仏教の立場に立って、きわめて合理的な答えをして、安心させている。千日尼から届いた手紙の内容を日蓮は、 御文に云く、女人の罪障はいかがと存じ候へども、御法門に法華経は女人の成仏をさきとするぞと候ひしを、万事はたのみまいらせ候ひて等云々。(『千日尼御前御返事』)と要約しているが、「女人の罪障」という当時の女性たちの関心の一端が、ここにうかがえるとともに、千日尼が「法華経は女人の成仏をさきとするぞ」という日蓮の法門を頼りとしていたことが分かる。多くの女性信徒たちも、『法華経』の女人成仏の教えを頼りとしていたことであろう。下総にあっては富木常忍の妻、鎌倉にあっては四条金吾の妻、武蔵にあっては池上兄弟の妻、駿河にあっては南条時光の母などが夫や子や、教団を支えていた。地域ごとに主な女性信徒を挙げると、鎌倉には、先の日妙聖人のほかに、妙一尼がいて、夫とともに強盛な信心を貫いた。夫は、下人を抱える小規模の領地を有する武士であったが、龍口の法難の伴う弾圧で所領を没収され、家族は零落するが、妙一尼は佐渡流罪中だけではなく、身延入山後も日蓮のもとに下人を派遣して身辺の給仕に当たらせた。安房の新尼は、領家の嫁であった。その姑は領家の御尼と呼ばれ、日蓮は多尼のことを「日蓮が父母に恩をかほらせたる人」「日蓮が重恩の人」と称しているように、日蓮の両親が恩をこうむっただけでなく、日蓮自身の諸国遊学の資金援助をした人であった。その大尼は、龍口の法難の際に信仰を放棄するが、嫁の新尼は信仰を貫き通した。新尼宛ての手紙は一通しか残っておらず、詳細は分からないが、「御信心は色あらわれて候。さど(佐渡)の国と申し、此の国と申し、度度の御志ありてたゆ(弛)むけしき(気色)はみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり」(『新尼御前御返事』)とあることから、佐渡配流中だけでなく、身延入山後も日蓮にたびたび志を尽くしていた。佐渡には、千日尼・国府尼らがいた。佐渡流罪そのものが、日蓮を死没することを願っての幕府の措置であった。そのため衣食住のいずれも粗悪な状況下に置かれていた。その日蓮を命の危険も顧みず守り、信仰を貫いたのが阿仏房とその妻千日尼、そして国府入道とその妻国府尼たちであった。阿仏房も、国府入道も下人を抱える名主階級であった。昼夜に監視されている日蓮のもとに、千日尼は阿仏房にお櫃を背負わせて、夜中にたびたび訪れた。それによって、科料(罰金)を科された。家を没収され、追放されるが、信仰を貫いた。千日尼に代わって、次は国府尼らが日蓮のもとに通った。流罪が赦免となり、身延に入山した後も千日尼と国府尼は、たびたび夫に身延を訪ねさせ、供養の品々を届け、『法華経』についての教えを請うた。それに対して日蓮は、「阿仏房にひつ(櫃)をしを(背負)わせ、夜中に度度、御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか」との思いを綴った。その思いは国府尼にも通ずるものであっただろう。このように強盛な信仰を貫く女性たちが各地にいた。安房の光日尼、鎌倉の桟敷尼、佐渡の一谷入道の妻、駿河の持妙尼、妙心尼(窪尼)、妙法尼、日女尼といった名前を挙げることができよう。日蓮は、夫を亡くした女性や、子に先立たれた母親など、一人ひとりに状況に応じて具体的に寄り添うように励ました。本書では、第一章で富木常忍の妻、第四章で南条時光の母、本章で大学三郎の妻、日女聖人、四条金吾の妻、千日尼への手紙を取り上げた。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川ソフィア文庫
October 29, 2022
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「立正安国論」の思想的意義正法としての『法華経』は、要約すれば「人間として在るべき在り方」「正義」を説いたものといえよう。戸頃博士は、「十三世紀の日蓮」が、「宗教の衣をまとって実証した」表現を思想的に、倫理的に読み替えて、「正法を、倫理的に正義の用語におきかえれば、立正安国とは、国家、国民、国土の平和のため、破邪すなわち不正を否定することなしに顕正のありえないことを意味しているのである。正義を愛するとは不正を憎み、不正と戦うことである、という日蓮の倫理公式が現代にもそのまま妥当する」(戸頃重基著『日蓮教学の思想史的研究』、七三頁)と言っているのは納得のいく理解である。このように考えると、〝立正〟とは、正法を人間の生き方の根幹に打ち立てることで、「人」と「法」の関係が重要になってくる。日蓮は、天台大師智顗の『法華文句』の「法、妙なるが故に人貴し、人、貴きが故に所尊し」という一節を、『南条殿御返事』に引用している。「所」、すなわち国土、社会が尊くなるためには、「人」が貴くなることが欠かせない。「人」が貴くなるためには、「法」が勝れたものでなければならない。最も根本に「法」があり、それを実践する「人」がいる。その両者が相まって初めて善なる価値を生じ、「所」も貴くなる。智顗も、日蓮も、「法」と「人」を根本とする原始仏教以来の考え方を強調している。この考え方からすると、日蓮が主張した「立正安国」とは、「正法」を国主だけではなく、一人ひとりの「人」の生き方に反映させ、その一人ひとりの現実における具体的な振る舞いの総和として「安国」があるということであろう。災害や飢饉、疫病を目の前にして、坐して瞑想にふけったり、個人の覚りに安住したり、人間が考え出した架空の如来にすがったり、釈尊が嫌悪していた祈禱をやっても、現実に苦しむ人民は救えない。国主は、人民の安穏、平和を第一とする正義を現実社会に貫け、具体的な政策を実行して、困窮している人に手を差し伸べよと主張したのが『立正安国論』の思想的意義であろう。 国に衰微なく、土に破壊無んば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。という一節がそれを示している。国土という客観的条件が破壊されれば、そこを生活環境とする人民の心の禅定(安穏)もありえない。日蓮は、佐渡流罪が赦免となり、鎌倉に戻るとすぐに侍所所司の平左衛門尉頼綱に対面を遂げた。頼綱に「大蒙古国はいつ攻めてくるのか?」と問われて、日蓮は「今年は一定なり」と断言した。その時、頼綱は西御門の東郷入道の館跡に寺を造り執権・時宗の帰依を申し入れたという。それは、蘭渓道隆や極楽寺良観忍性と同様に幕府権力に優遇されることを意味した。いわば懐柔策であった。日蓮は、政治の世界であれ、仏教の世界であれ、正義を貫くことを訴えていたのであり、当然のごとく、それを蹴った。そして、身延に入山した。寺を寄進する話があったということは、言い伝えであって史実かどうか確認できないが、〝アメ〟と〝ムチ〟に屈することのなかった日蓮の人格からすると、当然の話といえよう。これは体制内にあっての〝立正安国〟ではないということである。体制外にあって、矜持を持って、国主に対して正義を主張する立場を取り続けるということだ。この手紙の省略した部分に、 あはれ、平の左衛門殿、さがみ(相模)殿(筆者注=北条時宗)の日蓮をだに用ひられて候ひしかば、すぎしに蒙古国の朝使のくびは、よも切らせまいらせ候はじ。くやしくおはすらん。とある。「蒙古国の朝使」とは、文永の役の翌年(一二七五年)に元の正使として来日した杜世忠(一二四二~一二七五)ら五人である。蒙古に対するあまりの恐怖心から狼狽した結果だったのであろう。北条時宗は、杜世忠らと面会することもなく、鎌倉の龍口の刑場で全員の首を斬らせ、見せしめにさらし首にした。それは、戦時の外交のルールに反して外交使節を斬ってしまうという異常な仕打ちだった。幕府はそれを知りながらあえて使節を処刑した。若き執権・北条時宗は、宋からきた禅僧・蘭渓道隆から、「宋が蒙古を軽く見てだらだらと交渉している間に侵略された」ことを聞いていた。日蓮は、『罪のない使者を斬ることは何事か』と幕府の非人道的処遇を非難した。日蓮ならば、処刑させることはなく、外交交渉の指揮を執っていたことであろう。そのネゴシエーター(交渉人)としての勝れた智慧は、これまでの富木常忍、四条金吾、池上兄弟への手紙に示された具体的提言から読み取れることだ。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川文庫
October 14, 2022
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本当の仏教とは日蓮の〝立正安国〟は、本来の仏教だけでなく、『貞観政要』にも則って主張されていたのだ。その全てに一貫しているのは、『国主は、どこまでも人民のために奉仕すべきである』という主張であった。ところが、日本において、仏教は当初から鎮護国家の仏教として受け容れられ、貴族仏教の性格が強く、人民への共感は乏しかった。戸頃重基博士の表現を借りれば、「鎮護国家という名の天皇制祈禱仏教」「貴族趣味や武家好みの、人民搾取の象徴にすぎない豪壮華麗な殿堂伽藍仏教」(『日蓮共教学の思想史的研究』、二三六頁)ということであった。それは、仏教が、朝廷や幕府と癒着の関係にあったということである。中村元博士が、日本の仏教受容の仕方について、しょせんはシャーマニズムの域を出ることがなかったと指摘されていたことを、先の『兄弟抄』の解説で紹介しておいたが、それはそのことであろう。日本仏教は、伝来当初から鎮護国家のための祈禱が行うことが中心の貴族仏教であったと言えよう。「皆成仏道」(皆、仏道を成ぜん)を説く『法華経』の平等思想に注目していた伝教大師最澄が開いた比叡山ですら、貴族仏教の域を出ていない。天台座主になった人の出自を見ただけでも、それが分る。塩入亮忠著『傳教大師』に寄せた序文で、時の内閣総理大臣・近衛文麿(一八九一~一九四五)は、「比叡山の座主には皇子が六十五方、宮家が七方、藤原家出身が四十八人、其他六十余名が座主に補任されたと聞いているが、近衛家からは五人の天台座主を出し、其他六人程天台の門跡に任ぜられている」と記している。門跡とは、皇子、皇族、貴族が住職を務める寺院、あるいはその住職のことで、最高に格式ある寺院とされた。もちろんインド、中国ではあり得ないものである。インドでは、出家前の身分は全く無関係であった。『法華経』提婆達多品に出家した王が奴隷となって師に仕える話が出てくる。戸頃博士が「祈禱仏教」という言葉を使われているように、本書の巻末に掲げた年譜を見ると、鎌倉幕府も、朝廷も、なすすべもなく、疫病などの災害や、蒙古の調伏の祈禱をやらせている。釈尊は、迷信やドグマを徹底して排除し、神通力のように神がかり的なことを嫌悪していた(拙著『仏教、本当の教え』第一章を参照)原始仏典の『ディーガ・ニカーヤⅠ』にはケーヴァッタよ、私が神通力(iddhipatihariya)を嫌い、恥、ぞっとしていやがるのは、神通力のうちに患い(adinava)を見るからである。 (中村訳)と語った釈尊の言葉が記されている。護摩(homa)を焚いて行う祈禱の儀式についても釈尊は、「堕落した祭儀」と称し、このような畜生の魔術から離れていること——これが、またその人(修行僧)の戒めである。 (同)と語っていた。本来の仏教は、祈禱や神通力を排除していたのだ。ナーガールジュナ(龍樹、一五〇頃~二五〇頃)が、政治の在り方を南インドのシャータヴァ―ハナ王に説いた『宝行王正論』(Ratnavali)には、呪術的な要素は全く見られない。災害時の王への提言を見ると、 災害・流行病・凶作などで荒廃している時は人々の救済に寛大に取り組んでください。 田畑を失った人には種子や、食べ物を給し、租税を減免してください。 盗賊を取り締まり、資産を平等に、物価を適正にしてください。といったことなどが列挙されていて、災害時の対応に対して、どれを見ても現実的で具体的な提言に満ちている。これまで見てきた日蓮の手紙を見ても、種々の困難な状況に立たされた富木常忍や、四条金吾、池上兄弟に対する教示には、呪術的要素も、祈禱のようなものの欠片も見られなかった。極めて現実的で具体的なアドバイスであった。〝立正安国〟とは、正法を建てて国家、国民、国土の安穏、平和を実現することだが、その〝立正〟を呪術的、シャーマニズム的なにとらえてはならない。平清盛をはじめとする平家一門が、その繁栄を願って『法華経』を書写して、当時の工芸技法の粋を尽くした装飾を施して厳島神社に奉納した平家納経のようなことが大事なのではない。『法華経』は、経典という〝物体〟に意味があるのではない。芸術的な装飾を施すことも、本質からズレている。そこに説かれている思想が重要なのだ。すなわち〝立正〟とは『法華経』という正法を人々の生き方にいかに反映し、確立するかということが重要である。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川文庫
October 11, 2022
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日蓮の説く信仰日蓮の説く信仰は、単なる〝神頼み〟ではない。『法華経』さえ読誦していれば、いいことがあるだろうというような安易さはない。依存心や甘えとは対極になる。あくまでも自らの言動、立ち居振る舞う、行為に対して自覚し、責任を持つことであった。どんなに優れた『法華経』の教えを信奉するといっても、自らがいい加減な生き方をしていたら、『法華経』が生かされることはない。一人の人間として、また社会人として立派であろうとするところに『法華経』の人間観、人生観が生かされるのである。そのことを、武士である四条金吾に、『法華経』を、〝兵法〟や〝剣〟に譬え、それを用いる人の心こそが大切だと諭した。それは、日蓮自身が心掛けていたことであろう。先の引用文に「日蓮祈り申すとも」とあった。日蓮も祈っていた。それが〝神頼み〟でないことは、これまでの四条金吾に対する微に入り細を穿つ具体的な指示を見ればわかる。四条金吾にとって何が大事なことか、どうしたら四条金吾がうまくいくのか——といったことを祈っていたのであろう。本書で取り上げた手紙を見ただけでも、プロの武士である四条金吾も気付けないような詳細かつ具体的な指示を与えている。それができたのは、祈りに裏付けられた智慧に基づいていたからであろう。また、日蓮は「あなたの宿業だから……」といったことは一言も言っていないことも注目される。四条金吾への日蓮の手紙を通して読んできて、四条金吾という一人の人間が、宮仕えという場にあって、主君や同僚と、自己との間の葛藤と奮闘している姿が目に浮かぶ。人は、社会の一員であるとともに、個という存在として生きている。それぞれの社会には一定の価値観が定着しており、差別や偏見もある。社会の一員であることで、殺して盲従させようとする力が働く。それによって、個が埋没させられてしまいがちである。ところが、仏教は一人一人の個の存在の重さ、尊さに目覚めさせるものである。中村元先生の表現を借りれば、〝真の自己に目覚めること〟であり、〝失われた自己の回復〟であり、〝人格の完成〟であった。仏教が個の尊厳を主張していることは、一見すると、社会の目指す方向性と逆行しているように見える。だからと言って、仏教は反社会的な行為を奨励しているのではない。個を埋没させることではなく、一人ひとりが個の尊厳性に目覚めたうえで、社会に貢献することを目指している。仏教は、エゴや、自分中心などの心を改めて、自己の尊厳性に目覚めさせるものだ。それは、他者の尊厳性に目覚めることにもつながる。一人ひとりが目覚めて、高い次元でより以上に社会のために貢献することが、仏教の目指したことであった。そのような意味を込めて、日蓮は四条金吾に次の目標を示していた。中務左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねも、よかりけり、よかりけりと、鎌倉の人人の口にうたはれ給へ。『法華経』信奉者としての人格を陶冶し、主君のためだけでなく、社会(世間)に対する心根も立派であれということだ。以上、概観してきた四条金吾に対する日蓮の手紙から、『法華経』の信仰をとおしての主君(社会)や同僚たち、身の回りの人たちとの人間関係のあり方を学ぶことができよう。四条金吾は、日蓮の教示をけなげにも守り通した。晩年は甲府(山梨)後に隠棲して、約七十年の生涯を終えたといわれる。 【日蓮の手紙】植木雅俊著/角川文庫
October 3, 2022
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日蓮の思想 欧米の多くの研究者が日蓮について国家主義者・国粋主義者だと評しているのに反して、フランスの社会学者で哲学者のラファエル・リオジエ氏(Raphael Liogier 1967~)は、相手の性格、人柄、能力などに応じて人間性豊かな文章で語りかける日蓮の手紙(消息文)に関心を深めている。わが国でも、日蓮というと国家主義や、国粋主義を連想する人が多い。それは、明治時代の国家主義へと突き進む時流の中で形成されていった。田村芳朗(一九二一~一九八九)は、その著『法華経——真理・生命・実践』(中公新書)において、日本近代、すなわち明治以降の国家主義、ないし日本主義の高まりにともない、いかにして日蓮主義者たちによって、『法華経』や、日蓮の思想が国家主義や、国粋主義と結びつけられていったかを詳述している。日蓮を国家主義的に信奉し、日蓮主義運動を展開した人として田中智学(一八六一~一九三九)を挙げ、その目指すところは国体(天皇の神聖性とその君臨の持続性)の宣揚が第一義であったという。それは、必然的に日本という国家を絶対化し、国粋主義へと発展していった。田中智学の直接の影響ではないが、右翼革命と日蓮主義を結びつけたのが、二・二六事件の黒幕とされる北一輝(一八八三~一九三七)であった。彼は、日蓮と『法華経』を熱烈に信奉し、日蓮の著作と『法華経』の言葉を引用して自説を展開した。『法華経』は、あらゆる人が平等で、尊い存在であり、誰でも成仏できることを説く経典であって、それを説き示す使命を帯びて出現するとされたのが地涌の菩薩であった。ところがその地涌の菩薩について、北一輝は、大地が震裂したことを「来りつつある世界革命」のことだと曲解し、地涌の菩薩を「地下層に埋まるゝ救主の群れ」であり、「草沢の英雄」「下層階級の義傑偉人」のことだと意義づけした。このように右翼革命、武力革命、武力侵略を正当化するために『法華経』や日蓮の言葉を強引に歪曲されて用いられた。こうした動きに対して高山樗牛(一八七一~一九〇二)は、『日蓮上人と日本国』を著わし、日蓮を国家主義者と見なすことの誤りを論じた。高山樗牛は大学時代の学友であった姉崎正治(一八七三~一九四九)も、当初は日蓮について批判的で、日蓮を国家主義的で排他的だと評していたが、樗牛の熱心な説得に心を打たれて誤解を改め、日蓮に好意的になった。一九一三年にハーバード大学に招かれて日本文化についての講座を担当し、英文の論文“Nichiren, the Buddhist prophet”(仏教の予言者日蓮)を執筆した。帰国後に日本語で加筆して名著『法華経の行者日蓮』(一九一六年)を出版した。田村芳朗は、高山樗牛について次のようにに綴っている。かれは当時、国家主義が高まっていくにつれ、日蓮宗の僧侶が日蓮を国家主義者に祀り上げていく姿を見て、憤りを感じた。右の論文(筆者注=『日蓮上人と日本国』)に「嗚呼国家的宗教と云ふが如き名目の下に、自家宗門の昌栄を誇らむとする僧侶は禍ひなる哉。斯かる俗悪なる僧侶の口よりその国家主義を讃美されつゝある日蓮は気の毒なる哉」と嘆いている。(『法華経——真理・生命・実践』、一七二頁)高山樗牛の言を待つまでもなく、日蓮だけでなく、『法華経』の言葉までも曲解されていたことは悲しむべきことであり、日蓮の人間としての実像を明らかにすることが望まれる。それは、教義を理論的に展開した著作よりも、具体的な個々の人々の喜び、悲しみ、怒り、不安に寄り添って書かれた日蓮の手紙に最も表れているのではないかと思う。オリジェ氏が、日蓮の手紙に関心を深めているのは、正鵠を射ているといえよう。日蓮の手紙は、真跡、写本等が三百四十通ほど残っている。これは、他の教祖の追従を許さない圧倒的多さである。法然(一一三二~一二一二)の直筆の手紙はないと言われているし、道元(一二〇〇~一二五三)は、ほとんど手紙を書かなかったようで残っていない。本書で取り上げる檀越(信徒)の四家だけを見ても、富木常忍関係が四十二通、四条金吾関係が三十九通、池上兄弟関係が十九通、南条時光関係が五十二通を数える。日蓮の手紙の特徴は、相手に応じて文体や、文章、表現をがらりと変えているということだ。富木常忍のように学識豊かな人には漢文体の著作や手紙を与えているが、他の檀越や女性に対する手紙はいずれも和文体で仮名書きである。十代の若い時の南条時光には、漢字が少なく、ほとんど平仮名で書かれている。相手が詠めそうにないかなと思った漢字には、自らルビを振っている。文字が読めない人もいたのであろう。弟子の名前を挙げて、その人に読んでもらうように指示した手紙もある。日蓮は、檀越たちのそれぞれの状況に応じて手紙を書いた。従って、日蓮の手紙には、人生相談あり、生活指導あり、激励ありと内容が幅広く、日蓮は、時に応じ、機に応じて弁護士、教育者、心理学者、劇作家、戦略家、詩人、ネゴシエーター(交渉人)であるかのような多彩な文章を綴っている。それも、法門を型にはまって説明するのではなく、相手に応じて仏典だけにとどまらず、インド、中国、日本の故事や説話、歴史的教訓などを駆使して何とか分かってもらおうとする配慮に満ちている。子を亡くした母や、夫に先立たれた妻の悲しみに寄り添い、少年には父が子に噛んで含めるように語って聞かせるように文章を綴っている。信仰と、職場や親子などの人間関係との葛藤に悩む人には、きめ細かい現実的で極めて具体的な教示を与えていて、そこには精神論も、抽象的な答え方もまったく見られない。一人の人を激励するにも、相手の身になって、その人の周辺の人間関係をおさえて、その人間関係の中でどうしたらその人が生きるか、やりやすくなるか——という視点からなされていることに気づく。このような日蓮の手紙について、梅原猛氏(一九二五~二〇一九)は、親鸞の手紙は、だれにあてても同じようなことを書いてます。このくらい同じだとこれもみごとなもので、私は感心しるんですけれどもね(笑)。ところが日蓮の手紙は、一人一人違うでしょう。(紀野一義・梅原猛著『永遠のいのち(日蓮)』、一七二頁)と語っていた。日蓮の手紙を読んでいると、『法華経』安楽行品で釈尊滅後の菩薩の実践のあり方として説かれていた次の言葉と重なってくる。熱心な衆生が集まっていた時、この法座に坐って、多くの種々の話を簡潔にまとめてしてやるとよい。男性出家者にも、また、男性在家信者や女性在家信者、王や、賢者は、常に嫌な顔をしないで種々の意味をもつ感動的な話を語るべきである。質問された時も、質問した人が悟りを得ることができるように、適切な意味のすべてを説き示すべきである。(植木訳『サンスクリット版語訳 法華経 現代語訳』二三六頁)賢者は怠慢であることを避け、倦怠感を生じることなく、不愉快を捨て去って、聴衆のために慈悲の力を起こすべきである。賢者は、多くの譬喩によって、日夜に最高の法を説いて、聴衆を歓喜させ、満足させるべきであり。 (同)手紙は、佐渡流罪在中、身延隠棲中に特に多くなっている。佐渡からは、紙が貴重で少なく、それぞれに手紙を出すことができないので、代表に送ってみんなで読むように指示している。『佐渡御書』の追伸には、『外典書の貞観政要、全ての外典の物語、八宗の相伝等、此れ等がなくしては、消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給候べし」記していて、消息(手紙)を書くのに、仏教以外の資料として、『貞観政要』や、説話などの書まで目を通していたことがうかがわれる。それだけ、日蓮は手紙を重視していたということであろう。 【日蓮の手紙「はじめに」より】植木雅俊著/角川文庫
September 19, 2022
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後口上3・11以来この国は先行きの見えない渾沌の中にあります。どこを見ても明るくはない。しかも、活眼をひらいてみると、過去にすでに体験したことがある、いわゆる既視感(デジャビュ―)のあるものがやたらに目につきます。戦前日本にもあったリーダーたちの独善性と硬直性と不勉強と情報無視が、現在に通じているのではないか、そう思えてくるのです。何度も反芻しますが、大本営陸海軍部は危機に際して、「いま起きては困ることは起きるはずはない。いや、ゼッタイにおきない」と独善的に判断する通弊がありました。今日の日本にも同じことが繰り返えされている。東日本大震災という国民の生命と健康と日々の生活に関わる一大事において、そうした通弊がそっくりそのまま出ています。とくに昔もいまも共通してあるのは、エリート集団による情報の遮断と独占と知らんぷりではないでしょうか。つまりタコツボ化の弊害です。而も、3・11の場合には、総理官邸、原子力安全・保安院、それに東京電力というエリート集団の間で、意思の疎通が全くできていませんでした。由々しきことでした。そのバラバラさは、皆の、仲間である情報課からの情報さえも入れることがなかった参謀本部作戦課そのままです。作戦課の部屋は、入り口に番兵が立っていて、部外者は何人たりとの入れないことになっており、あからさまに〝聖域〟を誇っていました。東電の原発部門も聞くところによれば、作戦課のような部署とは全く関係なく、独歩独往した組織になっていたというじゃありませんか。そして国民に伝えられる情報は、このばらばらの集団それぞれから発信されるものでした。それで事故発生当初は、ガセネタや風聞と事実の区別もつかず、何を信じたらいいのか、国民は振り回されるだけ。この国の危機管理体制は根本からできとらんと、しみじみ恐ろしく感じました。(中略)そしていま、強いリーダーシップが声高に求められている。まさか、かつてのリーダーのように、組織をきちんとするよりも支配することを重視し、説得よりも服従を求め、人々を変革するよりも抑圧することにつとめる、そんな力のあるリーダーを日本人が求めているのではないと思いますが、とにかく今の政官財の無責任体制はほとんど昭和戦前と変わらないようです。「想定外」という言葉は、「無責任」の代名詞なのです。このことに対する根本的な反省がないかぎり、3・11以降の再建はあり得ないと思います。国家が危機に直面した時、その瞬間に、危機の大きさと意味を知ることは容易ではないのです。而も、人間には「損失」「不確実」「危険」を何とか避けようとする本能という心理があるといいます。ですから、この三つとは直面したくない、考えまいとするのが人の常です。そこでいま大事なのは、この三つから逃げ出そうとせず、起きてしまった危機を、失敗を徹底的に検証して、知恵をふりしぼって、次なる危機に備え、起きた場合にはそれを乗り切るだけの研修と才覚と覚悟をきちんと身につけておくことです。そのためにも、過去の戦争のときに身をもって体験し学んだ「死を鴻毛より軽し」とする考え方、根拠のない自己過信、無知蒙昧、底知れぬ無責任など、私たち日本人の愚劣さ、見たくない本質を正しく見つめ直すことが大切だと思うのです。 【日本型リーダーはなぜ失敗するのか】半藤一利著/文春新書
September 18, 2022
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曖昧な日本語の表現日本語による表現について、尼子哲男氏は次のように説明しています。「日本の学校教育では小学校から高校まで勉強と称して条件反射的なクイズのような練習ばかり行っており、自分の考えをだれが聞いても誤解のない内容に伝えるという練習は全くやらない。大学でそれをするかというと、大学の教官はぼやくばかりでやはりやらない。もともとクイズのような入学試験を編みだしたのは大学の教官なのであるから、多くは期待できないのも当然である。私の授業が終了したある時、教壇に一人の学生が近寄ってきて〝センセ、紙〟と言うのである。私は〝紙ならトイレじゃないの〟と答えたが、よく聞いてみると、授業の始めに配布したリポート用紙の一枚が足りなかったので、もう一枚もらえないかと言うのであった。……途中省略……逆に、西洋では教養として、話の組み立て方、プレゼンテーションの仕方が重要な要件となっているのである。ヨーロッパではどの国でも中学に入れば、論理展開の方法の訓練を徹底的にさせられ、あらゆるリポート、試験でその出来栄えが評価されるのである。導き出された結論事態に〇✕をつけるのではなく、その結論を導き出した根拠と理論の展開の方法について評価を下すのである。エリートというのはさらにそれを口頭で行い、対面した相手をいかに説得させるかという練習を心がけている。このような訓練の練習の蓄積のない日本人マネージャーとしては、特に意識した効果的な訓練を受けない限り、いくら語学のハンディーを考慮してもらっても、ヨーロッパ人管理職に一目を置かれるレベルに達することは難しい」(尼子哲男『日本人マネージャー』創元社、一九八九年)尼子氏の指摘されている「意識して表現方法を練習する」という点に注意する必要があります。その場合、日本語のもつ言語体系の曖昧さに注意をして練習しないと、その効果が限られてしまうからです。この点について、野中郁次郎氏は智顗のように説明しています。「日本語の意味は〝コード〟つまり文法によってその意味が自律的に完結するというよりは、〝コンテクト〟つまりそれに関連する知的体系を聞き手が補完することで確定するとよく指摘される。例えば、私が海外にでかける際、日本航空の機内のことである。スチュワーデスが食事のメニューをききにきて、〝あなたは肉ですか、魚ですか〟となにげなく尋ねてくる。すると、私は当然のように〝ぼくは魚です〟と答える。しかし、ちょっと考えてみればわかるように、私は肉でも魚でもない。私は人間であって、食べる料理が魚なのである。日本語はそのように言語体系そのものがあいまいであり、それが他人に自らを伝達する際の障害となるのである」(野中郁次郎「企業経営はヨーロッパに学べ」『Voice』一九八九年八月号) 【交渉力入門】佐久間 賢著/日経文庫
July 15, 2022
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運強く、深く念じたとき、頭に閃光のごとくひらめくものがあった。 勝利への執念を捨てた者に、幸運が訪れることはない。運は自らの手でつかみとるものだ。 運というものは、いたずらに怠惰を貪るものへは転がり込んで来ない。つねに上の地平をめざし、命をかけて叩き続けるものの前にこそ、道はひらける…… 【臥竜の天】火坂雅志著/祥伝社文庫
May 2, 2022
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