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新聞の折り込み広告に、ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展が4月18日~7月2日まで、東京都美術館で朝日新聞、TBS、BS朝日の主催で開催されるに伴い、予約券・当日券が発売されると宣伝されていました。ボイマンス美術館を訪れたのは、1998年3月、冷たい雨の降る日で、雨に濡れて風邪をひいたのか微熱がありましたが、悪い天候のお蔭か訪問客が少なく、ゆっくり観賞できた記憶があります。ボイマンス美術館の観賞法その他、印象に残ったのはレンブラントの息子の肖像でしたが、一緒に来るのでしょうか?19年ぶりに、観てみたいものです!
2017.02.21
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今日は「こどもの日」、元来は五節句の「端午の節句」とされ、「柏餅」や「粽(ちまき)」を食べつつ、男の子の成長を願う風習となっています。しかし、粽(ちまき)を食べる由来には、怨霊を慰めると言う歴史もある様です。「こどもの日」として祝われる5月5日、元来は五節句の「端午の節句」にあたります。「端午(たんご)」は5月最初の午(うま)の日のことで、午(ご)の音が五に通じることなどから、奈良時代以降、5月5日が端午の節句として定着したそうです。この節句は、家の後継ぎとして生れた男の子が、無事成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事で、関東では「柏餅」、 関西では「粽(ちまき)」を食べます。端午の節句に粽を食べる風習は、紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。国王の側近で忠臣であった屈原は人望を集めた政治家であったが、強国秦の策略で失脚し失意の内に汨羅(べきら)江に身を投げた。それを知った楚の人達は粽(ちまき)を川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったともされる。天心の受けた打撃は大きかったが、ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心と共に歩んでいくことを決意した。10月15日、日本美術院はスタート、開院式に合わせて記念展覧会が開催され、会場に飾られた大作がされた。その1つが大観の「屈原」だった。横幅が3メートルある大画面に、1本の花を手にして荒野をさまよう道服姿の屈原が描かれていた。屈原は中国古代の楚の人、政敵の告げ口によって江南に放逐され、詩を書き残して入水したのである。人々はこの絵に美術学校の校長を追われた天心の無念きわまる姿をみて、胸を打たれたのである。天心の胸中を察し、思わず涙するものもいた。
2016.05.05
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ローマ中央駅から遠くない処にある国立絵画館を訪問してから24年がたちました。元来はバルベリーニ宮殿、ベルニーニ設計のバロック様式の建築物で、13~16世紀までのイタリア・ルネッサンスの絵画を展示していることで知られています。絵画館2階の大広間に残る、ピエトロ・ダ・コルトーナのフレスコ天井画「神の摂理の勝利」は、日本ではこの画家の名は殆ど知られていませんが、素晴らしいものがあります。バルベリーニ家は、トスカーナ地方の出身で、ローマ法王ウルバヌス8世を出しているのですが、それを記念しての作品と言われています。同絵画館は展示油彩の数は多くないのですが名品が多く、ラファエロの「フォルナリーナ」、フィリッポ・リッピの「聖母と幼児キリスト」、カラヴァッジョの「噴水の傍のナルシサス」、ティツィアーノの「フィリップ2世の肖像」、ホルバインの「ヘンリー8世の肖像」の他、ティントレット等の作品が何気なく展示されていますのが、名品を誇らない感じがして良いものです。今回日本でのカラヴァッジョ展に、この初期の傑作が展示されているらしく、懐かしさを感じます。カラヴァッジョのナルキッソス 1598-99製作 110×92cm水に映る己の影を求めても得られないという懊悩が見事に表現されていて、自信の程が窺われます。カラヴァッジョは自信家でしたが、激情家で乱暴者でもあって殺人事件や負傷事件を犯してしまい死刑宣告を受け、最後は刺客に殺されてしまうと言う異色の画家だった様です。
2016.04.11
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2年前に新上五島町榎津にある家内の実家中2階で見つけた、家内26才肖像油彩はキャンバスのままテーブル卓に立て掛けてありました。デッサンが拙いタッチで、少し怖い顔になっているので手直しをしようと思っていたのですが、これはこれで私27才の完成作品と言うことで、そのままにしておくことにしました。聖蹟桜ヶ丘の世界堂に行って、適当な仮縁を見つけようと出掛けたのですが、何時も購入していたアルミ仮縁はF12号以上のものだけでF6サイズは陳列棚から姿を消していて、聞いてみますと1週間で取り寄せになるとのことで、違う仮縁を物色することにしました。そこで、見つけたシンプルな金色の仮縁、値段も5400円ですから、後で気に入らず使わなくなっても惜しくは無いだろうと買ってみることにし、自宅に帰ってF6油彩を入れてみました。肖像画のバックがBrown、Yellow Ochre、Burnt Umber、Blackで塗りこんでありますので、色調が単調に見える気もします。暫く、壁の何処かに掛けて様子をみてみようかと思っています。
2016.01.26
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NHKBSプレミアムにて、徳川美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」が修復を経て、下絵も含めて紹介されていました。その内、「柏木(二)」を観て60年前の中学校での授業が蘇って来ました。美術教師の太田教諭が、源氏物語絵巻柏木(二)の複製を掲げ、黒板にチョークで袋状の衣服を着た様を描いて、解説をしてくれたのです。女三の宮との密通を源氏に知られた柏木は、恐れて病の床につく。女三の宮は薫を出産するが、罪の意識のために臥せってしまい、見舞いに訪れた父朱雀院に対して出家の許しを願う。一方柏木は見舞いに訪れた夕霧に、源氏に対する取りなしと正室落葉の宮の後見を頼み、この世を去る。薫の50日の祝を迎えた源氏は、我が子ならぬ我が子を抱き、宿命に懊悩する。解説の内容はあまり思い出しませんが、太田教諭が描いたのは夕霧の衣装だったのですし、人の表情は「引き目鉤鼻」で端的に表現されているとことだった様です。昭和30年代前半に熾烈になって来た受験戦争とは一線を画して、生徒に名画の価値を教えようとした立派な教師だったのだと言うことが今になって分かりました。その他フランス絵画の解説もあり、マネの「笛を吹く少年」の紹介もあったのだと記憶しています。人間の記憶とは不思議なもので、すっかり忘れていたことが、一寸した切掛けで蘇ることがあるのです。
2015.11.27
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そろそろ、家内の実家に行って空家管理するべき時期となりましたが、梅雨の季節ですので、何時にするべきか迷っている処です。我が家には家内の油彩肖像が2枚残っています。1枚は、昨年夏に家内の実家に滞在中、中2階にある昔の勉強部屋の段ボール間から油彩が埃まみれで見つかったもので、私が1969年12月1日に描いた家内の肖像画、記憶にも残っていませんので吃驚でした。結婚3ヶ月前の26才、一生懸命描いたのでしょうが、私の癖である鼻を長く描く特徴はありますが、全体としては少し怖い表情になっているのは残念です。他の1枚は44才の肖像画、義父が亡くなり義母が独り住まいとなりました折、娘の油彩を急いで仕上げ、送ってあげたものです。段々と白髪が目立つ年齢となった頃で、永らく実家の壁に掛けてあったのですが、1昨年我が家に持ち帰りました。上の油彩とは異なり、柔和な表情なのですが、やはり鼻が少し長くなっている様です。バランス感覚の問題があるのか、遠い昔の中学校時代にモーゼの石膏像を写生した際も、美術教師から少し鼻が長いと言われたこともありました。生来デッサン力が弱く、無意識にモジリアニー風になってしまう様です。
2015.06.24
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一切スケッチをしなくなってから7年目となりましたので、能力も衰えてしまっただろうと全く描く自信がありません。このスケッチはコローの絵を18年前に模写したものですが、海外出張も多く仕事も忙しすぎて堪らないと趣味に任せてスケッチや油彩を描いていたのです。元々のコローの油彩原画は、ルーブルに所蔵されているものですが、シャルトルの180年前は田舎じみた場所だったのでしょうか?「シャルトル大聖堂」(1830年 油彩・カンヴァス ルーヴル美術館)は、カミーユ・コロー(1796~1875)が7月革命を逃れてシャルトルに滞在していた時期に描かれた。淡い青色と黄土色からは、初期によく描かれたイタリアの風景画を想起させられる。コローは1872年に画面左下に座っている男性を描き加え、女性像については修正を加えたとされています。家内が亡くなってからは、一緒に行った海外旅行の写真を参考にして油彩を描こうと思っていたのですが、5年経過しても果たせていません。昨夏、新上五島町で空き家となっている家内の実家で見つけた、私が描いたことも忘れていた家内27才の肖像画が少し怖い表情となっていますので、コローよろしく修正して優しい表情にすることが最低限の私の義務かも知れません。
2015.03.03
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五島滞在中は雨が多かったこともあり、室内作業も多かったのです。特に中2階部屋は昔勉強部屋であった様ですが、独り住まいとなった義母が物置場として活用していたので、使用済みの電気器具や雑誌類が山と積まれていました。昨年も雑誌類は相当処分したのですが、重いので小さなゴミ袋に小分けに出さなければなりませんでしたので、作業半分で終わっていたのです。今年、漸く全て廃却出来ましたし、序に電気器具の一部は燃えないゴミ収集日に出せました。多くの段ボールがあり、段ボール収集日は月1回ですので、20箱分を紐で括っていましたら、近所に風呂の焚き付けに利用する人がいると聞いて、その分は貰って頂けました。未だ段ボール類が大分残っていますが、少しは綺麗になりました。独り住まいとなった義母が雨漏りで苦労していました時代に、この部屋の畳は濡れてぼろぼろになってしまいましたが、屋根の葺き替え以後は問題が無いのですが、誰も行かない部屋の畳替えはしないことにしました。そんな作業中に、段ボールの間から油彩が埃まみれで見つかりました。署名を見ると、私が1969年12月1日に描いた家内の肖像画、記憶にも残っていませんので吃驚です。結婚3ヶ月前の26才、一生懸命描いたのでしょうが、私の癖である鼻を長く描く特徴はありますが、全体としては少し怖い表情になっているのは残念です。怖い表情が気に入らず、45年間死蔵されていたのでしょう!東京に持ち帰って少し筆を入れるか、45年前の記念としてそのまま額に入れるか、迷う所でした。
2014.07.26
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団地管理事務所の洋室を使っての隣人祭、今年で7回目の開催となりました。団地内の奥様方有志が協力しての出展、団地内の方々への出品依頼の呼びかけ、会場設営等苦労され、来状された方々には、コーヒー・クッキーサービスをしてゆっくり観賞して頂く様な心遣いも女性ならではと感心するばかりです。近頃は、デジカメを持って出掛けることが殆どで、スケッチする習慣も無くなりましたので、出品者も多く迷惑も掛らないだろうと、一昨年からは油彩出品は出さないことにしていました。昨年は先輩格の方から要請があって古いパステル画を出品したのですが、今年は何も出さない積りでした。しかし、世話人のお一人が訪問されて、壁に飾ってある油彩でも良いから出品して欲しいとの要請です。近頃は油彩をされる方々が少なくなり、是非にと言うことで24年前に描いた「スイスのルツェルン風景」を出すことにしました。今回の油彩展示は、その発起人の方と私だけの2点となってしまいました。私の横には自作のスピーカを展示されていましたし、趣味も色々あるものだと感心すること仕切りでした!
2013.11.25
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今日は、会社OBの営業先輩宅を、元直属上司と共に訪れました。営業先輩宅にはステンドグラス工房があり、元直属上司が是非見学したいとの要望があり、私の車で連れて行くことにしたのです。忙しい中、お昼をご馳走頂き、ステンドグラス工房を見学したのですが、種々色・模様パターンのグラスに加え、外国製の種々工具が沢山あるのには驚きました。ステンドグラス工房は、日本では日が浅く、材料・工具は未だ未だ、外国製品を取り寄せないと成り立たない様な感がしました。帰り際、ステンドグラス主が元直属上司と私に、「一枚ずつ完成したステンドグラスをお持ち帰りください」と頂戴することになりました。私は以前に貰った覚えがありますので、遠慮したのですが、「まあそう言わずに」と言われ有り難く頂戴することにしました。ステンドグラスはバックライトで透かして見るのが最善なのですが、バックライトの無い居間壁に飾ってみましても中々のものです。2ヶ月前に、飾ってありました紫陽花のパステル画を友人に差し上げたこともあり、ブランクスペースがありましたので、丁度埋まって、丁度良くなりました。
2013.07.07
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夭折した大学同期生HO氏の伴侶であり遺族である方から、20年以上に亘って毎年南画展覧会の開催通知兼招待状を頂いています。今年の招待状には、「主人が見ない孫が6人となりました」とメモが添えられていましたので、何時だったか同期会でお会いした時は娘さんが精々高校生と思っていましたので、もうそんなに年月が経過したのかと感無量でした。其処で、今日は六本木にある新国立美術館に行って、今月末まで開催中の日本南画院展覧会を観賞してみることにしました。多摩急行を使えば小田急線から地下鉄千代田線に乗り入れていますので、僅か40分で最寄り駅の「乃木坂」に着き、6番口は新国立美術館の入口ですから便利なものです。黒川紀章の設計で曲線を生かしたガラス張りの明るい美術感です。内部ホールは3階まで吹き抜けで、開放的な雰囲気で、各階どの展示ホールへもエレベータやエスカレーターを使って容易にアクセス可能となっていました。南画院展の規模が大きいのに驚かされました。会員・同人で200点、公募で90点の南画が展示されていて、3階A&B展示ホールでは手狭な程なのです。遺族の方の展示は「さくらふぶき」と言う、可愛い孫を描いた軽妙なモチーフでほのぼのとした情感がよく感じられるものでした。彼女は京都支部代表、副理事長で審査員と表示されていますので、完全なプロフェッショナルで、南画院の重鎮だったのです。同期生HO氏と知り合った時代は、容姿端麗が問われる航空機アテンダント(当時はスチュワーデス)と言う才色兼備な女性、就職して間もなく結婚し同期生でも一番早かったと記憶していますが、それだけでなく芸術での技も精神も優れて一級の素晴らしい女性だったのです。帰宅してから、彼女にお礼と共に今後のご活躍を祈りますとしたためて、投函することとなりました。
2013.03.28
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あまり掃除と言うのが好きではありませんので、何処其処少しずつ汚れがあると思うのですが、結構の間放置してあります。それでも、時々はダスキンのモップで家具表面の綿埃を取り、クルクルワイパーで床のゴミも取り、粘着性のカーペットクリーナーで髪の毛をからめ取って掃除しますので、ゴミ屋敷にはなっていないと思っています。独り暮らしと言っても、台所での食べ残しは至って気になるタイプですので、食器洗いは食事が終わったら直ぐしますし、ステンレス流し台、ガスレンジも結構拭きとっていますので、水周りは他人の訪問があっても大丈夫です。年末に向けて少しは綺麗に整理しておこうかと、先日は今の蛍光灯を取り替えましたら、明るくなったのには驚きました。此処は朝7時半から夜11時過ぎまで着け放しですから、1年で5000時間以上も使って、輝度劣化が激しかった様です。隣人祭に出したパステルを壁に掛け、シクラメン花鉢も飾って、居間の印象も少し変って来ました。ついでに、リビング壁にあった油彩のフレームも替えて、変化を楽しむことにしました。埃除けも近頃はガラスでは無く、アクリルとなっていますので、地震で落下することがあっても怪我の心配もしなくて良く、安心の様です。昨日は居間の遮光カーテンが汚れているかと洗濯、カーテンレールのゴミも拭き取り、掛け直しました。カーテンは残り4ヶ所あるのですが、天気と相談しつつ、洗濯しようと思っています。障子は、台風でガラス窓を閉め忘れて、剥がれた2枚は貼り直しましたが、残り2枚はどうしようかと思案中です。
2012.12.15
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家内が亡くなって鎮魂絵を描こうとしてから、もう2年も経ちましたが、一向にその気になれません。義母が我が家で亡くなるまでは、スケッチ・油彩と折に触れて、忙しい仕事のストレスを逃れるべく描いていて、義母が小さい頃から眺めていたであろう蛤浜遠望を鎮魂絵としたのも17年前のこととなりました。毎日が日曜日と言った生活になりますと、仕事のストレスも無く、余技をしようとの切迫感もありませんので、その気にならないのです。団地内の隣人祭で、出品されませんかとのお誘いがあり、13年振りに団地内風景を描いたのが4年も前のこととなりましたので、デッサン力もすっかり衰えて絵を描く力も無いことを自覚しているからかも知れません。2年の間に、スケッチブック、キャンバス、クサカベ製の追加絵の具等を買っているのですが、絵画意欲が湧いて来ないのです。そこで先日、聖蹟桜ヶ丘にある京王アートマンにある画材店「世界堂」に行き、新しい油彩セットを購入してみることにしました。絵の具は、せめてホルベイン製と思っていたのですが、箱入りの油彩セットはありません。世界堂オリジナルの専門家用絵の具が入っているので、それで良しとすることにしました。価格は10710円、インターネットにて「油彩セット」で検索しましても、そんな値段でしたので、それ相応のセットを手に入れたことになります。これで描く意欲が湧いて来ることを、暗々裏に期待することにしましたが、果たしてどうなりますことやら!
2012.02.19
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近頃は緑茶を飲みませんので、湯飲み茶碗を使うことがあまりません。食器棚には、家内が整理した湯飲み茶碗類がありますので、その中から2品取り出してみました。萩焼は25年ほど前には何回か車を運転して佐世保迄行き、五島列島までフェリーで渡ったことがありましたが、その帰途に秋芳洞を訪れて近くにあった湯田中温泉に泊った際に、其処のホテル近くの土産物店で夫婦茶碗を買いました片割れです。家内のものは見当たりませんので、萩焼の土は脆いので割れてしまったのだと思われます。益子焼は、学生の頃、大学から近かった駒場の日本民芸館を訪れて、その経緯を知り、渋谷のデパートで購入したものですので、もう50年も経ったことになります。萩焼の場合、高台の輪の一部をかき取った切り高台という形が多くみられ萩焼の特徴でもあります。切り高台の由来は、萩焼は毛利藩の御用窯として製品の市販が禁じられていましたので、広く庶民にも萩焼が使われる際に、故意に高台を切ってキズ物として市販したとか幾つかの説がありますが、陶工が製品を市場に運ぶ際に抹茶茶碗をたくさん積み重ねて一番下の茶碗の高台の切れ目に縄をかけ、運びやすくしたのが残ったものだと言われています。益子焼は黒羽藩の殖産事業の一つとして、主に日用品としての陶器を製造しており、こうして作られてものは台所でも多く使われていました。日用品であった益子焼に転機が訪れたのは、大正13年のこと、民芸運動の推進者である濱田庄司が益子町に移り住んで「用の美」を追求した作品を作り、民芸品としての益子焼の製造に着手、これが民芸陶器として名高い益子焼の基本となっています。我が家には家内が五島の実家から持ち帰った萩焼の一輪差し花瓶があり、其処にミニ梔子を入れて写生した油彩がありましたが、この絵は昨年会社の上司だった人が老齢となり、2世帯住宅に引っ越した際に、記念に差し上げてしまいました。萩焼の一輪差し花瓶は未だ残っていますので、又何か油彩の画題にしたいものだと思っています。
2012.02.08
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我が家には結構の書籍数があり、科学技術の専門書等は、階段の踊り場に書棚を設けて蔵書としています。階段の壁は白い壁紙が貼ってあるだけで寂しく思われますので、一寸としたギャラリーとしています。一番上には自分で描いたヨセミテ公園の油彩、ヴェネズエラのカラカス市に出張した時に購入した派手な織物、ユカタン半島のカンクーンで買ったマヤ雰囲気のある飾り物、一番下にはパリの土産物店で購入したゴブラン織りもどき、等が飾ってあります。もうこの状態で25年も経過していますので、我が家の内景の一部となっていますが、少し変化も欲しい気もしないではありません。今年こそ、何とか油彩を再開して、チェンジを図りたいものだと思っている処です!
2012.02.01
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昨日、教会で葬儀ミサに参列したこともあって、五島の教会を思い出しました。油彩F6号カンバス、1970年4月製作。日付は1970年4月となっていて結婚当初に描いたもの、東京中野区、横浜、三鷹市、米国ヒューストン市、小平市、多摩市、と引越しの毎に部屋の壁を飾っていたのです。49年前の新婚旅行で、私と家内は、その頃五島唯一の荒川温泉「豆谷旅館」に泊り、船便で玉之浦湾を渡り、多分バス便で大瀬崎灯台、井持浦教会に行ったのだと記憶しています。49年前の写真は、写真屋がフィルム露光させて殆ど駄目の状態、その中で形が何とか分かる部分だけプリントしてあったものをパソコンで修正したものです。この写真を元に、油彩にしたのが上記の画像ですが、アングルが異なっているのはデッサン力の拙さに依るものです。現在の天主堂は1987年に修復再建されたものですが、一寸印象が異なっています。教会境内横のルルドは昔と変わらずありましたが、井戸からポンプで取水出来る蛇口が2つ設置され、聖水を持ち帰られる様になっています。教会境内にあるルルドは、フランスのルルド(Lourdes)を模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、1899年に建設されたルルドで、聖母像は本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎいれた。日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たない。
2011.08.06
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団地の花水木通りで紅葉を迎えましたが、それ程の美しさは感じられません。葉の赤色は色素「アントシアン」が秋冷で醸成されて発色するのですが、花水木はアントシアンが少なく、くすんだ赤にしかならないからです。それでは美しく無いと思い、夕陽を浴びて赤色が増幅されている処を狙って、10日程前に撮影したのでした。実際の様子を脚色したと言われればその通りですが、良く写真家が撮影の瞬間を狙ってじっと辛抱強く長時間待っている気持ちが少しは分かりました。それでも絵心は刺激されませんのが残念です。同じアングルで8月末にスケッチし、季節を4ヶ月逆転して戻し、花水木を満開にさせた油絵です。やはり、この並木通りの見応えは春にある様です。この油絵を出展する団地内の第2回「隣人祭り 作品展」は、奥様方主催で10月26日に集会所洋室で開催されます。グリーンクラブと称する緑地整備メンバー連による集会などはありますが、男性中心の飲み会的色彩が強くどうも団地融和には寄与する処が少ないのです。団地「隣人祭り」は、唯一文化的な催しでもあり、発展を大いに期待しています。今回は11名の出展応募があった様ですので、どんな作品が展示されるのか楽しみです。
2008.10.17
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梅雨入りとなり、紫陽花の季節となりました。雨に濡れている紫陽花は瑞々しくとても魅力のある花です。花の種類・開花段階と土壌の性質から、花の色も白、青、赤紫、薄緑、オレンジに近いものもあって、色とりどりです。英語ではHydrangea、つまり「水を水道に様に吸い上げる花」とでも訳すのでしょうか、水を大量に必要とする花木で、梅雨の季節に映える様です。昔はこの季節となりますとスケッチブックに紫陽花を描き留め、後日油絵にしていたことも何年か続いたのですが、近頃はさっぱりとご無沙汰状態となりました。油絵の具はすっかり固まって使い物にならないだろうと思います。先日、五島列島の空き家で自分の描いた油絵を見つけましたが、日付には1992年8月となっていますので、もう12年も前のこととなりました。長い間、1人住まいだった義母の無聊の慰みにと贈ったものでしたが、1994年に多摩の我が家にて同居、1995年に逝去し9年が経ちます。スケッチブックを開いて見ますと、素描が残っていて日付は1992年6月28日となっていました。1ヶ月ほど経過してから油絵にしたようですが、自分でも定かな記憶はありません。 紅い水飲みグラスに自宅近くから失敬して切り取った紫陽花を差してスケッチしましたが、花瓶としたグラスの底が小さく、二輪の紫陽花でも安定しておらず、頭の方が重くなってしまっているのが残念です。油絵の大きな画像は、このWebサイトでListを選択し表示された絵の所をクリックするとご覧頂けます!
2004.06.07
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毎週土曜日テレビ東京で夜10時から放映される30分番組“美の巨人達”を楽しく拝見させて貰っています。その週の一点として「ある作品」を絞り込み、作品の解説から製作の経緯を紹介するだけでなく、現代のマニアがどのように作品を愛するのかを面白い観点から並列的に見せてくれるので、啓蒙的であると同時にマニアックな視点も分かって非常に面白く、番組プロデューサが余程優れた資質を発揮していると思える、肩の凝らない画期的な出色なテレビ番組です。先々週、先週とサンクト・ペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の収蔵作品の紹介で、先々週はレンブラント、先週はマチスの作品でした。レンブラントの作品は世界三大美術館と言われるフランス・ルーブル美術館、アメリカ・メトロポリタン美術館にも多数の作品が収蔵されていますが、エルミタージュ美術館の収蔵作品は秀逸なものが多くて驚きました。又、その作品の多くが35年前に日本で展示されていたことを思い出しました。1968年に大規模なレンブラント名作展が、東京国立博物館・京都国立博物館で3ヶ月間に亘って開催されていたのです。「学者の肖像」「フローラ」「アブラハムの生け贄」「老人の肖像」「老女の肖像」「ダビデとウリア」等エルミタージュ美術館の名品はその時に展示されていました。その時、会場で購入した古いパンフレットが書庫から出てきましたので、気になる3点をスキャナーで読み込んで見ましたのでスライドショーでご覧下さい。日記にアップした写真は「アブラハムの生け贄」ですが、緊迫感が凄い絵だと思います。3点の作品解説もそのパンフレットからの抜粋です。「フローラ」1634年、キャンバス油彩、エルミタージュ美術館 No. 732サスキア・ファン・アーレンブルクとの結婚後のレンブラントの明るく楽しい気分は、30年代に製作された多くの彼女の肖像画に現れている。花を絡ませたさく笏杖を手にした春の女神の姿で表し、魅力溢れる若い女性を谷間に生える草や灌木の緑を背景にくっきりと浮き出させている。「老人の肖像」1654年、キャンバス油彩、エルミタージュ美術館 No. 737ユダヤ人の肖像画はレンブラントの作品に屡々見られることである。この作品は、外面的特徴描写のあらゆる手段が、モデルの本質をあからさまにしてしまうのですが、しみじみとした素晴らしい肖像画である。「老女の肖像」1654年、キャンバス油彩、エルミタージュ美術館 No. 738深い安らぎと孤独が、レンブラントの筆によって永久に描き留められた老女の肖像画から、漂ってくる。積極的に生活に参加する力もない病身の老婆は、精神的威厳に溢れた人間として表されている。一部の研究者は「老人の肖像」と対をなす作品と考えているようです。
2003.09.25
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古いスケッチブックが出て来ましたので、拙いスケッチをご覧ください。戸外でスケッチしていると、必ず人が寄って来て覗き込んで行きます。見られて感心されるほど、上手くは描けませんので煩わしくなるのです。そこでスケッチを素早くして、後は写真をそこで数枚撮影して退散するようにしました。スケッチと写真の違いに後で絵にする時に煩わされます。スケッチでは自分が気になる所は注視して実際より詳細に描きますが、写真は全て客観的にしか記録しません。するとエスキスから絵にする時に、肝心な所の詳細情報が欠落してしまうのです。そんなスケッチも現場で描いて良かったと思われるものは、人に差し上げてしまい残っていません。ここで紹介しますのは、自宅の室内で花瓶に入れた花のスケッチ、写真からおこしたスケッチ、画集の気に入った絵の模写となります。 これらはスケッチブックを床に置いて、真上からデジカメで撮影したのです。スライドショーでご覧下さい!背景を茶色で描いて見た油彩の乙女椿は人に差し上げてしまいました。ご婦人のスケッチは昼休みに会社近くの遊歩道で写真を撮らせて貰い、それでスケッチしました。ヨセミテは古い写真を見つつ、スケッチしたものですが、油彩にしたものは、やはり、人に差し上げました。ルーベンスの模写は画集からですがこれほどキュートな女性の絵は珍しいとおもいます。この原画はロンドン国立美術館で二度ほど鑑賞しました。コローの模写は自宅にある画集からですが、女性はどうしても日本人の顔つきになってしまいフランスのうら若き女性の雰囲気が出ないで困りました。
2003.05.23
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昔使っていたスケッチブックが見つかりましたので、パステル画の一部紹介したいと思います。鉛筆によるスケッチから油絵にするのが常でしたが、色合いがどんな風になるのか事前に知っておきたくなり、ある時パステルを購入して来ました。パステルはクレパスと違い油分が入っていませんので、スケッチブックの紙の上になかなか乗りません。初めはクレパス・クレヨンと同様に強く塗っていましたが、パステルの粉が飛散して上手く行きませんでした。何事も自己流でやりますので困って仕舞いましたが、ある時テレビの絵画教室でパステルは少しづつ薄く塗り重ねるのが普通だと言っていましたので、その通りに薄塗りをしましたら少しは様になって来ました。殆どが自宅又は周辺で咲いている花をF4のキャンバスに油彩にて各準備作業となりました。完成した油彩は他人に請われるまま、差し上げてしまったのが殆どで自宅には1枚しか残っていません。 紫陽花は好きな花なので、三枚程油彩にしましたが、二枚は早くに人に差し上げて仕舞ってこのパステル画を油彩にしたものは長く自宅玄関に飾ってあったのですが、三年程前に差し上げて仕舞いました。地植の紫陽花は、他の豪華なものを油彩にしましたので、これはこのままでパステル画で止まっています。乙女椿も二枚程油彩を描きましたが、手元には残っていません。クチナシは現在唯一自宅に残っている油彩です。写生しパステル画としたのですがどうも安定が悪いので、油彩にする際もう一輪を描き加えました。
2003.05.20
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油絵は、気に入らなくなると上塗りして全く新しいものに出来るので良いと思い、時に触れ描いていたのですが、此処七年程遠ざかっています。全くの自己流で「油絵入門」等の本を買ってきて始めた経緯もあって、別にサークルに入っているのでも無いので誰かに見せるとか展覧会に出品すると言うのでもありませんので、強制力の無いことがその一因かも知れません。思い起こしますと、1970年頃に描いていた油絵は欲しいと言う人に差し上げたりして散失してしまっています。1979年からの米国駐在時代には絵の道具もどこかに行ってしまい、全く描かなくなりました。1987年から急に又描いて見ようかと言うことで、絵の道具専門店「世界堂」で一式を買い込み、米国での備忘録の目的を中心に8年程続いたのですが、実母と義母が亡くなったのが意欲を無くす結果となったのかパタリと描かなくなってしまいました。その間も米国人を含めて、描いた絵を欲しいと言われると差し上げていましたので結構散失してしまっています。私の場合は、絵を描く動機がどうも不純のようなのです。1970年に始めたのは、担当する仕事が単調に思えてこんなことで良いのかと疑問を感じてのことでした。1987年からは米国向け輸出工事のプロジェクトマネージャとなって、毎月1回は米国出張してのプログラム調整をしなければならず、体も頭もボロボロになる位に疲労してしまいましたので、これでは仕事に潰されてしまうと思い、疲弊した精神をリラックスさせる為に再開したのです。そんな風でしたから、1996年からの窓際族の閑職になった途端に描く意欲を失ってしまったのだと思っています。しかし、2000年に自己都合退職してからは、毎日が日曜日となっていますので、逆に義務感と言うものが欠落してしまっています。今年は、そんな緩んでしまったタガを締め直す意味で油絵を再開出来れば良いなと言う気持ちが芽生えて来ました。どこかのサークルか教室にでも通った方が良いかも知れませんので、検討して見ようと思います。 「上五島風景」は亡き義母を偲んで描いたもので、「山中湖入口からの富士」は実母を偲んで描いたものです。
2003.01.13
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