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ネットサーフィンしていましたら、カマンベールチーズは、白カビタイプのチーズの一種である。表皮が真っ白なカビに覆われていて、中はクリーミーで滑らかな食感、一方で優しく上品な味わいも持ち合わせているのが特徴のチーズであると記載されていました。その美味しい食べ方は、冷蔵庫から出して常温になるまでそのまま我慢するのが推奨され、上品な味わいが際立ってくるのだそうです。そう言えば、1991年春に、欧米の航空試験設備を調査して、自動車産業の次産業を担うとされる航空機産業のインフラを整える方策を確立しようとしたのです。私はヨーロッパ組に入って、英仏独での航空試験設備の現状を調査することになりました。調査団は、宇宙航空研究所(ISAS:今ではJAXA)、航空技術研究所(NAL:今ではJAXA)、機械研究所、航空産業関連企業のMHI、KHI、IHI、富士重工、加えて東大航空学科も加わっての調査でした。フランスの片田舎Modaneへは、LyonからChamberyを経て訪問したのです。其処の郊外には大きな低速風洞が設置されていたのです。Modaneは小さな村で、外国人向けのホテルは無く、民宿の様な小さなホテルに泊まりましたし、朝食は近くのパン屋に行ってフランスパンのバゲットを買い、民宿にあったカマンベールと共に朝食の糧としたのですが、細やか乍ら焼きたてのバゲットとカマンベールチーズは絶妙なCombinationで、美味しい朝食となったのです。
2024.11.16
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80才を超えますと、人生もロスタイムに入った様で、昔の旅を良く思い出します。1997年4月にオランダ国境に近くにあるアーヘン(Aachen)を訪れました。アーヘン大聖堂はしばしば「皇帝の大聖堂」(Kaiserdom)として言及され、この大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。Aachenの大聖堂は、ドイツ最古のロマネスク様式で、屋根に特徴があります。大聖堂は町中にあって、周囲に広場が無く、非常に写真が撮り難い位置にありました。逆光でしか撮影出来ませんでしたので、全容は判りにくいかも知れません。聖堂内には、皇帝の王座、シャンデリア、その他貴重な美術品が展示されていますし、大聖堂横の博物館では王冠展示などがあり、ドイツ有数の貴重なものだと言われています。アーヘン(Aachen)は、8世紀末(800AD)にカール大帝がフランク王国の中心都市として居を構えた由緒ある町です。その後、約600年の間、30人のドイツ皇帝がこのアーヘンで戴冠式を行って来たのです。しかしながら、16世紀半ばに、中心都市の栄光がフランクフルトに移されて、その歴史的な役割を終えたようです。その後の変貌が激しく、残念ながらドイツの1200年古都は、日本の1300年古都である京都に見られる落ち着いた雰囲気はありません。現在は温泉保養地として知られ、黒い森にあるバーデン・バーデンとその地位を競い、カジノ等もあって、保養客で賑わっていますが、何か騒々しい感じは否めません。アーヘンにはデュッセルドルフから1時間程鉄道に乗って行き、日帰りの訪問でした。大聖堂の直ぐ近くには温泉を利用した室内プールがありましたので、入場料を払って泳いで見ましたが、何と湯温というより水温は30℃程度しかありません。健康の為に長時間入って水泳をするのには良いのでしょうが、私は温水プールのつもりで入りましたので驚かされました。
2024.09.26
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シャルトル大聖堂はヴェルサイユ宮殿と共に、フランスの文化資産として1979年に世界遺産として登録されました。コローの油彩を鉛筆で模写したこともあり、訪れてみたい処でもありました。1998年初夏、ストックホルムでの米機械学会に論文出席した後、パリに一泊して帰国することになり、帰国便は夕方でしたので、半日の余裕が出来ましたので、シャルトル大聖堂を訪れたいと思ったのですが、時間的に難しく、仕方なくヴェルサイユ宮殿を再訪することしか出来なかったのは残念なことでした。シャルトル・ブルーのステンドグラスはネットで見つけることが出来るバラ窓画像です。世界で最も美しいと言われる中世のステンドグラスが、ほとんど当時の姿のままで保存されている稀有な聖堂です。ガラス加工技術が急速に進化を遂げる一方で、シャルトル聖堂のステンドグラスのような深みのある色の再現は、技術的に非常に難しいと言われ、とりわけ、その青色の美しさは比類なく、それ故「シャルトル・ブルー」と称されています。
2024.06.05
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オスロ市内にホテルが取れない為、隣町のドラメン(Drammen)にホテル予約を入れ其処に向かいましたのは、1998年6月のことでしたから26年も前のこととなりました。観光客も全くおらず、静かな町並み、ホテルにチェックインして聞いてみますと、此処がオスロ・フィヨルドの中にある町だとのことでした。夜8時にはなっていたと思いますが、10時頃までは明るいので素晴らしいフィヨルドを求めてドライブして見ました。夜9時を過ぎても、北緯60度ともなりますと6月はなかなか日が沈みません。横道から高台に入り、道の行き止まりから海を展望して見ました。オスロ・フィヨルドの入口でしょうか、美しい景色が広がりました。但し、切り立った断崖が無く、日本の長崎の入り江に似ている程度のもので多少がっかりしました。それでも、入り江に出来た小さな集落がまるで箱庭の様な景色をもたらせていましたので、其処を背景として、家内の写真を撮りました。夕景の中、静かに微笑んでいる様は、雰囲気があって良い画像となり、今でも時折、二人旅行の良い記念となったと大切に見ています。オスロ近傍では真夜中になりましても6月には真っ暗にはなりません。夕暮れの様な気配のままで夜の12時になっても、外では未だ子供達が自転車に乗ってはしゃいでいました。このまま朝の太陽を待ち受けるのです。日本では、体験出来ない一寸不思議な感覚でした。
2024.06.01
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アルプスの少女ハイジで有名な、スイス国マイエンフェルトでのトレッキングを紹介します。訪れたのは2000年6月のことで、前日の宿はラガーツ温泉のホテルタミーナに取りました。朝8時ホテルで朝食を済ませ、ドイツパンを2つ頂いて魔法瓶にもお湯を入れて貰い出発です。鉄道のマイエンフェルト駅を通り過ぎて、起点となる広場にはレンタカーで行きました。 午前9時の案内店が開くと言うので暫く待つ間、スーパーでハム、チーズ、果物、紙コップ・皿を買い込みました。店の人が来て、パンフレットを呉れましたので、それを持って出発です。日本ではデルフリ村として知られるハイジ村(独語Heidi-Doerfliは「ハイジの小さな村」の意)に30分程で着きます。典型的な民家がハイジの家として博物館に改装せれていて見物出来ます。小説に言う冬にお祖父さんと住んだと言う家でしょう。そこから、ハイジの道と称する緩やかな林道を歩いて行きます。スイスでは、散歩にもならない運動量なので、山歩きをする人も殆どいません。2時間程でハイジの山小屋に到着、お湯でコーヒーを入れ昼食を取りました。現在は喫茶店として開業しているとのことです。そこから20分でカルトボーデンという見晴らしポイントに着きます。山頂では無いのですが、ラガーツ温泉街、クール方面の素晴らしい眺望が楽しめます。生憎、この日はにわか雨があって対岸の山が雲の中に隠れてしまいました。其処からの下りは可成り急な坂道でしたが、危険な個所はありません。途中、マウンテンバイクで登ってくる若者に会いました。下りきった所はイェンニス村で、ハイジの作者ヨハンナ シュピリが良く休暇を過ごしていたそうです。所要時間はハイジの家から山小屋、イェンニス村経由で戻るまで約4時間で、マイエンフェルトからは合計5時間余掛かりました。山小屋付近はトレッキング靴があった方が良いと思いますが、私共はジョギング靴で済ませました。
2024.05.29
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7月のパリオリンピックの競技会場の一つにヴェルサイユ宮殿が設定されているのが、とても新鮮に又意気な計らいにも思えます。ヴェルサイユ宮殿には家族連れで、1983年9月の帰国旅行で立ち寄りましたし、1998年6月にスウェーデンでのガスタービン国際会議での論文発表での帰り途にやはり立ち寄りました。最も有名な「鏡の間」の他、広い庭園を徒歩30分も掛けて遠くのマリーアントワネットの田舎家にも行ってみたこともありました。ヴェルサイユ宮殿では、仮設オーバーレイで設営される会場によって、パリ2024競技大会の中でも他にはない歴史的な舞台が提供される。庭園に近接するグラン・カナルの西にある遊歩道、エトワールロイヤルの周りに観客席が配備された屋外仮設アリーナが設けられる。仮設アリーナは、馬場馬術と障害馬術に加え、総合馬術の2競技の舞台となる。総合馬術のクロスカントリー競技は、グラン・カナル沿いで実施される。また、近代五種の5競技もヴェルサイユ宮殿で開催される予定だ。
2024.04.18
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今朝のTV国際ニュースを見ていましたら、フランスF2にて焼け落ちていた尖塔が復活したこと報じられていました。訪問しましたのは1983年10月、米国駐在を終えて、欧州経由で家族旅行をしつつ帰国する途中に立ち寄ったのです。黒色の尖塔でしたので、金属製と思っていたのですが、ノートルダム寺院の屋根の相当部分は木製であった様で、火災には弱かった様です。家内は丁度40才、健康不安も無かった時代です!
2024.02.13
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何気なく古いScrap Bookを整理していましたら、昔にスイス旅行2日目に泊まったホテルのパンフレットと絵葉書が出て来ました。ホテル名はResidence、旅行案内所で予約し、夕刻に到着しましたら、家族4人と言うことで屋根裏ですが広い部屋に泊めてくれたのです。グリンデルワルトを訪れましたのは、1983年9月末でしたから40年昔のこととなります。4年の米国駐在を終えて、家族4人でスイス、フランスを訪問してから帰国しようとしたのです。帰国は最短コースで1週間以内と決められていましたので、本来のHouston-Los Angeles-Tokyo旅券を、ヨーロッパ経由の航空券にTravel Agentに替えて頂き、差額に必要な金額は自費負担、1週間以内の帰国を守ることで、了解を得ました。その屋根裏部屋から夕刻の風景を撮影した写真数枚を元に、後年鉛筆でスケッチしてから油彩としてみましたのが下記です。アイガーの尾根峰が切れ落ちた処に、氷河の上に立つシュレックホルンSchreckhornが夕陽に輝いている印象的な景色でした。
2023.11.08
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NHKBSの「世界ふれあい街歩き」で、コペンハーゲンが放映されていましたので、懐かしく拝見させて頂きました。1998年にスウェーデンのストックホルム市で行われたASMEガスタービン会議にて論文講演、その後南端のマルメ市に行って、波止場付近のホテルにチェックインしたのです。小さな街で、取り立てて観光資源も些少だったのが残念でした。波止場には国境渡航船があって、デンマーク港地区ニューハウン(Nyhavn)迄行けると言われましたので、折角ですからコペンハーゲンに数時間だけ滞在することにしました。現在は浅い海峡を渡る橋梁が出来ていますが、その頃は渡航船しかなかったのです。世界的にも有名なチボリ公園で過ごした後、街歩きをしていますとアンデルセン銅像がありました。もう午後9時を過ぎているのですが、緯度が高いので未だ太陽が沈んでいません。マルメに還るべく、ニューハウン(Nyhavn)まで歩いて到着しましたのは午後10時半を回っていました。夕方には沢山いた観光客も深夜に近いので去ってしまい、閑散としていました。
2023.09.26
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北緯60°に位置するオスロフィオルドでは、6月真夏の時期は真夜中になっても暗くなることはありません。西方の山岳地帯にあるベルゲン近くでは、氷河が削り取った深い谷に海水が侵入したフィオルドが絶景として知られていますが、オスロ近郊は平坦地ですので雄大な広い海が形成されるだけの様なのです。それでも、午後10時過ぎにホテルを出てドライブに出掛けますと、素敵な入り江に出会うこともあります。午後11時過ぎに、北欧の弱い夕日に照らされて微笑む家内の写真は私好みですので、フレームに入れて壁に掛けて時々観ています!
2023.08.10
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世界的に発展させた日本の自動車業界は先人たちの弛まぬ努力の成果ですが、追い上げ国の進展も考えて、次世代の目標とされたハイテクの航空業界は遅々としている状態にとどまっていて、残念な限りです。日本初の中型旅客機YS11は、日本航空機製造社が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機として開発されましたが、需要が低く2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了してしまいました。現在、ホンダが小型ビジネスジェットを販売して好調の様ですがエンジンはGE社製ですし、三菱重工の中型ジェット旅客機「スペースジェット」(旧MRJ)はP&W社ギアドターボファンを使って開発中でしたが、事業化出来ないと撤退になってしまいました。IHI社も戦闘機用ファンエンジンは開発成功となりましたが、民間機用の大型ファンエンジンの開発計画は全く無い状態で、欧米に伍するのは無理と言うしかありません。その実態は、性能を検証するべき試験設備や風洞設備が殆ど存在しないことにあるのだと考えられましたので、欧米の航空試験設備を調査することになりましたのは1991年春のことで、米国班と欧州班に分かれての調査でしたが、私は欧州班に組み入れられました。英国国防省の航空試験設備、仏蘭の風洞調査となり、最終調査地はモダーヌ市郊外にあるフランス国立航空宇宙研究所(ONERA)の大型低速風洞でした。仏のTGV列車の走行試験も行われたとのことで、日本の新幹線列車車両も受託試験されている様子でした。前列中央にいるのが、未だ49才と若い私ですが、重工3社と富士重工、大学、NAL(航技研:現在はJAXA)、ISAS(宇航研:現在はJAXA)、航空宇宙工業会、機械研究所等からの専門家集団でした!
2023.06.21
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シャルトル大聖堂はヴェルサイユ宮殿と共に、フランスの文化資産として1979年に世界遺産として登録されました。コローの油彩を鉛筆で模写したこともあり、訪れてみたい処でもありました。1998年初夏、ストックホルムでの米機械学会に論文出席した後、パリに一泊して帰国することになり、帰国便は夕方でしたので、半日の余裕が出来ましたので、シャルトル大聖堂を訪れたいと思ったのですが、時間的に難しく、仕方なくヴェルサイユ宮殿を再訪することしか出来なかったのは残念なことでした。シャルトル・ブルーのステンドグラスはネットで見つけることが出来るバラ窓画像です。世界で最も美しいと言われる中世のステンドグラスが、ほとんど当時の姿のままで保存されている稀有な聖堂です。ガラス加工技術が急速に進化を遂げる一方で、シャルトル聖堂のステンドグラスのような深みのある色の再現は、技術的に非常に難しいと言われ、とりわけ、その青色の美しさは比類なく、それ故「シャルトル・ブルー」と称されています。
2023.05.12
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昨日、NHKBS3で「大英博物館 創造の秘密へ古代エジプト」が放映されていましたので、懐かしく拝見しました。博物館の至宝と思われる古代エジプトから持ち去ったロセッタストーン(Rosetta Stone)、セキュリティー確保の為、縦に置いてガラスケースに収められていました。此処を訪れましたのは、湾岸戦争が曲がりなりにも終結した、1992年3月のことでしたが、当時は訪問客が良く見える様に、眼の高さで斜めに展示されていたのです。碑文は古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字、ギリシャ文字、3種類の文字が刻まれている。1822年に解読され、ロゼッタ・ストーンはエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他の古代エジプト語の記録も解読が可能になった。古代エジプトを繁栄させたラムセス2世の石像は、当時のままでした。その後は、包帯を外して見せたミイラは、少し気味が悪いので省略させて頂きます。放送はされませんでしたが、ギリシャの都市国家アテネのパルテノン神殿の上部欄干から剝ぎ取った大理石像がElgin Marbleとして、大きな一室に展示されていました。18~20世紀まで、フランスと世界の覇を競ったイギリスは、共にエジプトやギリシャから沢山の芸術品を持ち去っていたのです。
2023.01.31
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NHKBSの深夜番組で、アルプスの名峰アイガーと麓の町グリンデルワルトGrindelwaldが紹介されていましたので、懐かしく拝見しました。グリンデルワルトを訪れましたのは、1983年9月末のことでしたから40年昔のこととなります。4年の米国駐在を終えて、家族4人でスイス、フランスを訪問してから帰国しようとしたのです。帰国は最短コースで1週間以内と決められていましたので、ヨーロッパ経由の航空券にTravel Agentに替えて頂き、差額に必要な金額は自費負担、1週間以内の帰国を守ることで、了解を得ました。ニューヨークで、自由の女神と国連本部を見学後、スイスのチューリッヒ空港に降り立ち、駐在前に泊まったことのある、鉄道駅近くのNationalに宿泊、翌日にルツェルン経由でグリンデルワルトに着きましたのは夕刻、家族4人ですので屋根裏の大部屋を割り当ててくれました。アイガーの尾根峰が切れ落ちた処に、氷河の上に立つシュレックホルンSchreckhornが夕陽に輝いている印象的な景色でした。グリンデルヴァルト(グリンデルワルト)はスイスのベルンアルプスにある村で、冬はスキー、夏はハイキングが楽しめる人気のユングフラウ地域への玄関口です。アイガー山の象徴的な北壁を目指す登山の拠点としても知られています。
2023.01.26
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先日、会社の上司先輩からゲーテのイタリア紀行を再読した時の感想文をメールで頂戴しました。Goetheのイタリア紀行は、1786年9月に Karlsbadを抜け出して、駅馬車を乗りついで Brenner峠を越えてイタリアに入り、1787年6月に戻るまでの観察記録で、岩波文庫:相良守峯訳「ゲーテ著:イタリア紀行 上・中・下」に詳しく記載されています。現在ではインターネットで検索すれば、どんなことでもかなり詳細に知識を得ることが出来ますが、18世紀のGoetheの博学はどのようにして得られたのであろうか。勿論ドイツに限らず、欧州では昔から学術文献が揃っていたであるので、それを入手したり、或いは関係する所蔵庫で調べたりしたに違いない。紀行文には南下するにしたがって、気候がどのように変化し、そこに生息する植物がどのように変わっていくか、山や谷や河が地形にどのような変化を及ぼすのか、その他いろいろな事象を、持ち前の知識に照らして観察し、あるいは今まで全く知識の外にあった事象を咀嚼していく態度に敬服する次第です。ブレンナー峠はアルプスを越える峠の中で最も標高が低く(1,374m)、古くから南北を結ぶ交通のポイントにあり往来に使われたこの峠はインスブルックから南に伸びる谷に沿っています。古代ローマ軍団はここを通って北へ向かい、逆に外敵がローマに攻め込む場合にも要衝であった様で、古代カルタゴのハンニバル将軍によるアルプス越えも此処を通った可能性が大きいらしい。10世紀からは、神聖ローマ帝国の皇帝がローマへの道として使い、16世紀にはドイツ最大画家とされるAlbrecht Durerが、ブレンナー峠の絵を残していますし、18世紀にはモーツアルト、ゲーテ、19世紀にはハイネがやはり此処を通って南のイタリアへ旅しています。現代のブレンナー峠には、古くからの旧道と、鉄道、高速道路でアクセス出来る様ですが、私の場合はドロミテ山塊を見に出掛ける途中に高速道路で通過しただけで、2000年5月のことでした。
2022.04.14
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昨日、NHKBSで「ビューティフル・アルプス モンテローザ」と言う再放送を拝見・拝聴致しました。モンテ・ローザ(伊: Monte Rosa)は、イタリア・スイス国境にある山。アルプス山脈で2番目に高い山であり、スイスの最高峰である。イタリア側からの2ルートで山岳コースと氷河コースを、現地住民との触れ合いを楽しみながら紹介していて、とても楽しい登山となっていましたが、私に放映途中に立ち眩みを感じ30分程横になって安静していましたので、拝見を中止してしまいました。しかし、私たち家族は39年前に、その姿の一部を垣間見ているのを思い出しました。1983年9月、4年間の米国駐在を終えて、スイスからフランスを経ての家族旅行の中、ツェルマットから登山列車にて終点のゴルナーグラート(Gornergrat)駅から。割合間近に見えたのです。北には三角錐尖塔の美しさで知られるマッターホルン(Matterhorn)南にはゴルナー氷河の向こうにモンテロ-ザ山群があったのです。イタリア側最高峰のデュフール峰は見えなかったかも知れませんが・・
2022.03.30
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今から約2年前の2019年4月に発生した大火災により、ノートルダム大聖堂は壊滅的な被害を受けました。それまでは全て石造りの聖堂と思っていたので、屋根部分の多くが木造であったとは初めて知りましたことで、驚いてしまいました。1983年10月に4年に亘る米国駐在を終えてのヨーロッパ家族旅行の最中、家内も未だ40才丁度で、帰国後に白髪増えて来ましたが、この時は髪も黒々としていて白髪も見えませんのも懐かしい!ノートルダム大聖堂は13世紀に全体が完成した。最初の尖塔もこの頃に造られたものの損傷が激しく、18世紀末に撤去された。その後、建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・ドュクの設計で、ゴシック様式のまま19世紀中ごろに再建された。フランスでは、現在も続くノートルダム大聖堂の再建の一環として多くのオークの木が伐採されており、フランス革命期には苗木に過ぎなかったこの高さ約20mのオークもその1 本で、今回伐採されたオークは、他の1000本のオークと共に、屋根の木製格子の再建や、火災の炎に包まれて倒壊した尖塔の新しい基礎に使用される。オーク(Oak)は、ブナ科 コナラ属 落葉樹であるナラ(楢)の総称、昔の小中学校では樫(カシ)と教えられた覚えがありますが、樫はJapanese Oakと特定されていますので、どうも教育上の間違いと思われます。ノートルダム大聖堂は2024年にパリオリンピックに先駆けて、一般公開を再開する予定とされています。
2021.07.26
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最北端は1998年6月に訪れた、ノルウェーのオスロフィオルド、切り立ったフィオルドでは無く、長崎湾を思い起こさせる程度の平坦なフィオルドでした。この写真は微笑んでいる家内が愛おしく、フレームに入れて壁に掛けて懐かしんでいますが、午後10時はとっくに過ぎていますのに、未だ太陽が沈んでいません。北緯60度ですから陽は沈むのですが、真夜中になっても夕方が進まず、暗くならない白夜を初めて経験しました。最南端は2001年1月に訪れたニュージーランド南島、最南端のミルフォードサウンド(Milford Sound)と言うフィオルドでしたが、南緯45度ですので白夜は望めません。生憎、雨降りの天候で、フィオルドに突き出た山では世界最高峰と言う、マイターピーク(Miter Peak)は雲の中で、フィオルド周回遊覧船では合羽が必要でした。最北端。最南端とも、フィオルドと言うのも奇妙に思えてなりませんが・・!
2021.07.05
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昨日は食べ物の買い出しをするべく、京王デパートとイトーヨーカ堂を検索してみましたら、聖蹟桜ヶ丘の京王デパートでは3階以上は売り場閉鎖、南大沢イトーヨーカ堂は全階通常営業と言うことでしたので南大沢に行ってみましたら、随分混み合っていました。しかしその買い物で出掛けたこと以外は、緊急事態宣言に沿って自宅待機となっています。其処で自宅内にて、昔を思い出しつつ、シュトゥットガルトの思い出に浸っています。シラー(Friedrich von Schiller、1759 - 1805)は、ドイツの歴史学者、劇作家、思想家、詩人。ゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者で、独自の哲学と理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマで、自由はドイツの精神生活に大きな影響を与えた。又、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞で知られる様に、彼の詩は精緻でありかつ優美で、「ドイツ詩の手本」として教科書に掲載され、暗誦されている。シラーとシュトゥットガルトとの関係は、1781年から82年に掛けてシュトゥットガルトで軍医として従軍、しかも其処からマンハイムでの権力に反抗する犯罪者を主人公とした作品の上演、領主の怒りを買っての牢獄幽閉生活から逃れるべく、友人と共にシュトゥットガルトを出奔、マンハイムへ行ったと言うことらしいのです。市内にはシラー広場もあって、シラーが思案している様子の立像が設置されています。訪問しましたのは、1995年9月、シュトゥットガルト大学の航空試験設備を調査するのが目的でしたが、シラー像は深く印象に残っています。シュトゥットガルトは弁証法を確立させたヘーゲルの生家も残っていて、種々の文化が香る街なのです。ヘーゲル学派は、Alt HegelianaとJung Hegelianaに分裂、Jung派からはKarl Marxが出て、「資本論」から独特な唯物史観を経てマルクス経済主義を発展させ、日本でも大内兵衛を始めとする多くのマルクス経済主義者が誕生しことでも知られています。現在は、近代経済学に押されてしまって、見る影もありませんが・・
2021.04.29
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秋も深まって来て、寒さが感じられる様になり、人恋しさも募ります。私に仕事や業務の大切さを訓練させてくれた元上司が89才で、近所さんで啓蒙思想を保持した元ジャーナリストが87才で、共に鬼籍に入ってしまい、取り残された感が深くして、誠に寂しい限りです。家内も2009年10月に亡くなって11年になろうとしていますので、ふとアルバムをめくって家族写真を観ることにして、やはり思い出深いのは、米国駐在を無事勤めあげての帰国の途での、スイス・フランス旅行写真となります。登山鉄道終点近くのベンチに座って、マッターホルンを眺めている写真で、家内が40才、長男が12才、次男が10才でした。丁度、近くに地質調査をしている方々がおられましたので、「何故地質調査をされているのですか?」と聞いてみますと、「この地帯は永久凍土地帯で、どの様に拡がっているのか調査する必要があるのです」との回答でした。日本の3800m弱の富士山では永久凍土はありませんが、スイスは北緯46°に位置していますので、日本で言えば北海道よりずっと北にあるサハリン(樺太)に相当していますので、その様な状態になるとのことの様です。
2020.10.15
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インターネットを観ていましたら、ノルウェーDrammenでループ式に山岳に通したSpiral Tunnel開通の情報がありました。ノルウェーDrammenを訪問したのは、1998年6月でしたから、もう22年前のこととなりました。1998年にスウェーデンのストックホルムで開催された国際ガスタービン会議で、論文発表した後、折角ですからノルウェーに行ってみたいと。旅行業者に聞きましたら、首都オスロでは、ホテルが何処も満杯で泊まれないとのことで、スウェーデン南端のマルメ、第2の都市ヨーテボリの市内観光をすることにしました。泊まったホテルで、ノルウェーでの連携ホテル等をチェックして貰いましたら、オスロの隣町Drammenで1件だけ、空きがあるとのことで、翌日レンタカーを借り、ノルウェー迄の長躯ドライブを経て、オスロに到着、市内見物をし、美術館に行って、ムンクの「叫び!」を観賞後、夕刻にはDrammenに到着しましたが、観光資源があまり無いのか、観光客が殆どいません。軽い夕食を済ませて、午後9時を過ぎていましたが、まるで昼間の明るさでした。折角ですからDrammen Fjordの際を、その出口まで行ってみることにし、ゆっくりドライブしていますと、30分~1時間でその出口に着きました。フィヨルドと言うより、長崎湾を拡げた感じで、切り立った断崖は見えません。道が無くなる処まで行きますと、小さな入り江が箱庭の様にあり、其処には何件かの人家も見えました。白夜ですので、午後11時となっても陽が当たっていますし、家内の微笑む姿も、とても印象的で、今でもフレームに入れて壁に飾ってあります!
2020.08.25
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1995年の秋にSalzburgを訪問した際には「Sound of Music」観光バスを利用して、市内見物に合わせ、Salzkammergutにも遠出して、Wolfgang湖・Mond湖を含めて、近郊の名所を巡りました。2000年に再訪した際は、「Sound of Music」に出て来るマリヤ修道女が海軍大佐の大勢の子供達を連れてSchafberg登山鉄道に乗って楽しむ情景が印象的でしたので、家内と一緒に登山鉄道を試してみることにしました。トロッコ列車を牽引するのは、蒸気機関車とディーゼル機関車がありますが、運よく蒸気機関車に当たることが出来ました。Wolfgang湖を眼下に見ながら、1時間強を掛けて、頂上に到着しますと、素晴らしい展望台が待っています。Wolfgang湖だけでなく、5年前に訪れたMond湖も眼下に見えて、更に雄大な山塊の連なる素晴らしい眺望を満喫出来たのです。宿で頂戴したお湯を入れたステンレスボトルと、Salzburg市内にて購入したヤギのチーズのサンドウィッチを持って、2時間程掛けて、港の畔まで下山して行きます。頂上には、Haus Schafbergspitze(シャーフベルク頂上小屋)と称するレストランを後に、高山植物の花が咲いている高原を下っていました。下山途中の木陰で、昼食休憩をして、無事下山となり、登山鉄道近くに停めてあったレンタカーに乗ってSalzburgに戻ることになりましたが、これがオーストリアの初で唯一の山体験となりました!
2020.07.29
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NHKスペシャルで、「中世の宝石箱ロマンチック街道を行く」を懐かしく拝見しました。ドローン映像が主でしたので、鳥瞰図的な映像で、空から大きく見えるのは良いのでしたが、住宅街の様子や住民との往来が今一つで、何か物足りない感じがしてしまいました。景色全体を観るには、ドローン映像は際立って威力を発揮しますが、街を歩いて紹介するには定点が必要で、不足している様なのです。ドイツ南部を500キロにわたって縦断するロマンチック街道。ローテンブルクやネルトリンゲンなど、中世の面影を残す美しい町が次々と現れる。何百年間も変わらないのは風景や建物だけではない。門や塔を守る人、城に暮らす人等、地域の伝統の中で生きる人々との出会いも繰り返し、ゴール近くには、ノイシュヴァンシュタイン城がそびえている。ドイツアルプスを目指して空をクルージング。世界有数の人気観光ルート、ロマンチック街道をドローン映像でつづる空の旅。時は12月。美しい町がクリスマスマーケットでさらに華やぎを増す。ロマンチック街道(Romantische Strasse)には、1995年、1997年、2000年と、細切れに起点のWuerzburgから終点のFuessen迄、訪れました。やはり、その中の白眉は、城塞都市がそのまま残された中世都市Rotenburg、19世紀に時代感覚のずれをものともせずに建立されたNeuSchwanstein城、の2ケ所となるのだろうと思われます。上記画像は、最初に訪れた1995年のものです!
2020.05.22
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NHKBS「世界の街歩き」番組はフランスアルザス地方のコルマールでした。2015年2月24日、田畑智子女史の語りで放映されたものの再放送であった様です。しかし、フランス語を話す人達が住むとは言いながら、建物や街並みではドイツ雰囲気も濃いのですが、アルザス地方独自の文化が香る街だった様でした。アルザス・ロレーヌ(Alsace Lorraine)は古くからケルト人が住んでいた。ローマ帝国に支配された後、ゲルマン系のアルマン人とフランク人が侵入。この地は、神聖ローマ帝国に属していて、フランスの侵略の標的となった。神聖ローマ帝国は、アルザス・ロレーヌを帝国の領域から切り離してフランスに割譲、1736年にアルザス・ロレーヌはフランスに編入された。そして公用語としてフランス語が用いられ、アルザス地方の言葉はフランス語の語彙が入ったアルザス語として形成されていった。1871年に普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスと、ロレーヌの東半分がプロイセン(ドイツ帝国)に割譲される、という複雑な経緯を辿る。ふと、20才の頃読んだアルフォンス・ドーデー「 最後の授業」を思い出しました。記憶しているフランス語の語彙も疎らになりましたが、平易な言葉で綴られていますので、久しぶりに辞書を使って何とか読むことが出来ました。“Mes enfants, c’est la dernière fois que je vous fais la classe. L’ordre est venu de Berlin de ne plus enseigner que l’allemand dans les écoles de l’Alsace et de la Lorraine… Le nouveau maître arrive demain. Aujourd’hui, c’est votre dernière leçon de français. Je vous prie d’être bien attentifs. “Ces quelques paroles me bouleversèrent. Ah ! les misérables, voilà ce qu’ils avaient affiché à la mairie.Ma dernière leçon de français !…「私がここで授業をするのは、これが最後です。ベルリンからの指令でアルザスとロレーヌ地域では、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。新しい教師は明日に来ることになっていますので、これがフランス語の、最後の授業ですので、よく聞いて下さい」これを聞いて、私は激しい衝撃を受けました。 なんと惨めなことでしょう! その由が役場に掲示されることになりました。これが私のフランス語に依る最後の授業でした。
2020.01.24
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新宿にあった「地球の歩き方トラベル」で、ユーロレール券を2枚購入し、「ライン河の川下り」と「レンブラントの夜景観賞」「キューケンホーフ公園でチューリップ観賞」をしようと出掛けたのは1997年4月末のことでした。ユーロレールと言う旅行券は、多分Thomas Cook社が販売していたもので、Thomas Cook TimeTableと言う時刻表も付いているものでした。未だEUが成立していない時代で、ドイツ、オランダ、ベルギーの各国を跨って、1等車が乗り放題と快適で便利な鉄道旅を満喫することが出来ました。その旅行代理店Thomas Cook社が破綻したと言うニュースには、時代の趨勢に遅れたのでしょうが、半面懐かしさを感じてしまいます。創業178年、世界最初の旅行代理店とされ、航空会社も傘下に持つ英国トーマス・クック(Thomas Cook)社が突然破綻。空港にはいきなり「トーマス・クック破綻の為フライトキャンセル、ツアー中途解散」の告知が表示された。60万人ものツアー客が海外で突如足止め、英国政府は同社を救済しないが、15万人の英国人ツアー客を帰国させるべくチャーター機を手配し、緊急輸送作戦を取った。破綻の原因は海外旅行客の変化。今や旅行代理店の支店で担当者の説明を聞きながら決めるツアー参加は古いビジネスモデルだ。ネット経由でフライトでもホテルでもレンタカーでも自分で予約できる。ツアーのネット化に出遅れた。既に経営は悪化していたが、そこに救済の手を差し伸べたのが中国資本だ。復星国際(フォースン・グループ)という中国投資会社が最大株主となり、今回も9億ポンドの救済資金を提供していた。この中国企業の傘下には地中海クラブ(クラブメッド)も入っている。中国人中級層の海外旅行需要を視野に入れた動きだったが、更に2億ポンド追加が必要となり、その時点で手を引いた。
2019.09.25
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NHKBSの「世界街歩き」と言う番組で、ザルツブルク編が放映されてみました。ザルツブルクには2度程行ったことがありますので、懐かしく拝見し、ミラベル宮殿での庭散策では、ホーエンザルツブルク砦が見える花畑は、ザルツブルク市内見物の白眉だったのだろうと思い出しました。最初は、1995年10月、会社の30年勤続で30万円の旅行券を頂戴したので、それを利用して、ドイツ、オーストリア、チェコを周遊してみることにしたのです。ザルツブルクの入口案内所で、予約してくれたのは、最上級とも思われるOesterreichscher Hofと言うホテルでした。今ではZaccher Salzburgとなっていますが、元来Zaccher Hotel系列であったのか否かは定かでありません。市内見物をした後、Sound of Music観光バスに乗ってSalzkammergutまで行き、夜はホーエンザルツブルク砦でのクラシックコンサートに行きました。2回目は2000年5月、ミュンヘンでのアメリカ機械学会での論文発表の後、足を延ばして、再度ザルツブルクに滞在、この際は駅前の案内所で旧市街にあるGoldener Hirsch Hotelに予約を入れてくれました。此処は、ザルツブルク出身の著名な指揮者カラヤンの定宿だったのだそうですが、小規模ながらも落ち着いた雰囲気のホテルでした。この時は、Salzkammergut訪問が主体でした。先ず、ボルフガング湖(Wolfgang See)畔からSchafberg山へ上る蒸気機関車が引っ張る登山鉄道で頂上まで行き、下りは2時間掛けて山下りして、自然を満喫しました。翌日はSalzkammergutの宝石ともされるハルシュタット湖(Hallstatt See)に行って、岩塩抗を見学する予定でしたが、着いた時刻が遅く、閉園時間となっていたのは残念でした。それでも、ハルシュタット湖はアクセスが車以外には無さそうで、観光客も少なく、奥山の美しい湖だったのが、一番の思い出かも知れません。
2019.08.28
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ニュースで、燃え上がるノートルダム寺院の映像が放映されたので驚きました。全て石材に依る建築物と思っていましたのに、何故燃え上がるのかも不思議だったのです。フランス・パリ中心部にあるノートルダム大聖堂で15日夕に発生した大規模な火災は、16日未明、発生から約9時間後にほぼ消し止められた。2棟の塔など大聖堂の主要な構造は焼失を免れたが、尖塔と屋根が崩落した。出火原因は明らかになっていない。消防当局は改修工事との関連について調べている。消火活動中、消防隊員1人が軽傷を負ったと言う。築850年になるゴシック様式の大聖堂は世界遺産に登録され、フランスでも特に有名な名所の一つ、大聖堂は老朽化が進み、壁に亀裂が入るようになった為、フランスのカトリック教会が昨年、改修のため寄付を募っていた。寺院正面の尖塔の何方かには、屋上まで行ける階段があって登れ、多分尖塔屋上に近い回廊部分を歩き廻れるのですし、通路も含めて全て石材製ですから、木材部分があるとは思っていませんでした。4年の米国駐在を終えて帰国途中の家族旅行中の1983年10月1日の写真、家内は40才、豊かな黒髪で数年後に出て来る白髪も未だ見えず、若さを失ってはいません。新聞でチェックしてみますと、傾斜のきつい切妻屋根は、千年を超える木材で構成され、永らく「森」と呼び慣わされていたとのことです。そうなると、ウィーンのステファン寺院の屋根も急傾斜で、模様のある瓦で葺かれていますが、其処も木材製なのかと疑念を抱かずにはいられません。兎に角、上記写真に見える屋根に据え付けられていた鋼鉄製若しくは青銅製の尖塔も焼け落ちてしまいましたのは残念ですが、復旧は困難ではないと思われます。
2019.04.17
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先日のNHK散策番組「ブラタモリ」はフランス首都のパリ編の前編でした。首都発展の原点となったシテ島にあるノートルダム寺院の前庭には、フランスの道路原点があり、其処から散策が始まり、パリ大改造の秘密を探って行こうとしたのです。パリ観光の目玉でもあり、各種名作の舞台ともなった、ノートルダム寺院に入らなかったのは残念でしたが、都市の秘密を探ると言う番組趣旨にはそぐわなかったのでしょう!ノートルダム寺院を初めて訪れたのは、1983年10月のことでした。暗い寺院内には、パイプオルガンでシューベルトのAve Mariaが鳴り響いていました。室内からは、ノートルダムの背むし男が暗躍した上部回廊に行く狭い階段がありましたので、登って行きました。エッフェル塔や、モンマルトルのサクレクール寺院も見渡すことが出来ました。観光客が多数いましたし、家内も未だ40才で白髪も見えず、元気一杯でした。
2019.02.18
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先日のNHKBS世界街歩きはシュトゥットガルト編でしたが、街歩きと言うよりは、階段上りで、山の頂上まで、ひたすら登り切ると言う内容で、少しがっかりさせられました。シュトゥットガルトは、ベンツ自動車の本拠地ですが、又世界の哲学に多大な貢献をした弁証法確立の哲学者ヘーゲルが生まれた町で、文学者シラーが活躍した文化都市としても知られています。ヘーゲルの生家で購入した書籍にあったスケッチです。音楽も盛んでミュンヒンガー率いるシュトゥットガルト交響楽団は質の高い演奏をすることで非常に有名でした。シュトゥットガルト駅前の地下道を潜って出て来ると店の並ぶケーニッヒ通りがあり、真っ直ぐ通り過ぎると広々とした宮殿広場があります。広場の東側には新宮殿、南側にはルネッサンス様式の旧宮殿があります。シュトゥットガルトは丘陵地帯に発達していますので、中心街以外は坂道の多い町並みが並んでいるのです。泊まったホテルの部屋から撮った写真ですが、やはり谷底にいry感じです。訪れ1995年頃は、超音速飛行体研究が盛んで、ジェットエンジンを進化させたAir Breathing Engineが、宇宙開発でもSpace Shuttleと言う殆ど使い捨てのExpendable Rocketに代わって宇宙往還機(Space Orbiter)にすると言う開発研究がされていたのです。シュトゥットガルト大学は超音速研究で世界的にも名を知られた大学でした。
2019.01.26
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NHKBSの「世界ふれあい街歩き ちょっとお散歩 コペンハーゲン」を観ていましたら、夕暮れのニューハウン(新しい港)を訪れることで終わりとなりました。1998年6月、スウェーデン首都のストックホルムから鉄道で、南端の街マルメに着きましたのは正午頃、駅案内所で紹介されたホテルにチェックインして、市内見物に出掛けたのですが、小さな町で1時間程散策することで終わってしまいました。ホテルに帰り、ふと見ますと、ホテル前に船着き場があって、デンマークの首都コペンハーゲンまで、フェリー便があるのです。其処で、フェリーに乗って、コペンハーゲンの港ニューハウンに着きましたのは午後3時を過ぎていましたが、帰り便発は午後10時と言うことで、歩行者天国ストロイエを歩いて市庁舎広場に行き、世界初の遊園地チボリ(Tivoli)公園に入ってみることにしました。“新しい港”ニューハウン(NewHaun)と、世界初の歩行者天国 ストロイエ(Strøget)。世界で初めての歩行者天国といわれるストロイエは、市庁舎前広場からコンゲンス・ニュートー広場までを結ぶショッピングストリート。高級ブティックが立ち並びます。ニューハウンに戻って来ましたのは、午後9時半頃、未だ夕日が照っていました。しかし、午後3時頃は沢山屯していた観光客の姿はありません。国境を渡るフェリーに乗ってマルメに戻りますと、すっかり夜の帳が落ちていました。ストックホルムでは真夜中でも薄暗くなる程度ですが、一寸した緯度の違いで、コペンハーゲンやマルメでは夜の帳が下りるのです。白夜と言うものを初めて実感した北欧旅行の思い出です!
2019.01.23
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フランス映画界を代表する女優のジャンヌ・モロー女史が7月31日に89才で亡くなったとのことです。1950~60年代は、ハリウッド映画全盛の今と違って、フランス映画が人気を得ていました。その中でも、ジャンヌ・モロー女史は、特異な美貌と卓越した演技力と女性には珍しい独特の低い声で映画ファンを魅了したものでした。ルイ・マル監督の「恋人たち」では、人妻が安定した結婚生活に怠惰を感じ、若い恋人と駆け落ちをして新しい生活を期待するのですが、早くもアンニュイ(怠惰感)に依る破局を予感させることで、エンディングとなるのです。製作は1958年で、BGMにブラームスの弦楽6重奏曲を採用し、30才の彼女は、アンニュイ(怠惰感)を見事に演じていました。Brahms String Sextet No. 1 in B flat Major, II. Andante, ma moderato - Pablo Casals, Isaac Stern歳を取ってからも、女優として、又映画祭の審査員として活躍していましたのに、残念なことです。
2017.08.01
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昨日、テレビ朝日の長寿番組「世界の車窓」を観ていましたら、シャーフベルク登山鉄道編の2回目でした。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも、撮影場所となったことでも知られていましたので、家内と共に乗車しに行ったのは2000年5月のことですから、もう17年も前のこととなりました。1時間掛けて着いた山頂駅は標高約1800m、下にはヴォルフガング湖があり、オーストリアのアルプス山塊が見えて見事な眺望でした。山頂レストランを通って展望台に行きますと、眼下には2番目に大きな湖のモンド湖も見えて、ザルツカンマーグートの景色を満喫出来ました。「下山するのに、徒歩ですと、どの程度掛かるのですか?」と聞きましら、「およそ2時間!」と言うことでしたので、ゆっくりですが勇躍スニーカーで下山開始となりました。20分も下りて来ますと、山頂レストランは遥か上の彼方です。この日は五月晴れで、ゲンチアン等の高山植物を愛でることも出来ました。朝にホテルにてステンレスボトルにお湯を貰っていましたし、ザルツブルク市内で羊のチーズやソーセージを買い込んでありましたので、5月の太陽は暑いので、途中の木陰で紅茶とサンドウィッチの昼食となりました。
2017.02.17
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今朝、NHKBSを観ていましたら、ヨーロッパ鉄道の旅番組があって、今日からスウェーデン編で、出発地はマルメなのです。マルメ(Malmoe)訪問は1998年6月のことでしたから、もう19年も前のこととなりました。朝にストックホルムから特急列車に乗り、マルメに着いたのは午後早く、駅前で港近くのホテルにチェックインして、市内見物に出掛けました。スウェーデン第3の都市とは言え小さな町で、旧市街地のリラ・トリィ広場を散策し、マルメ城があると言うので行ってみますと、城跡と言え堅固な要塞で、城内にあるレストランでザッハートルテと珈琲を注文して、城内を見渡しますが見るべきものもありません。ホテルに戻って港に行ってみますと、デンマークのコペンハーゲン行きのフェリーが頻繁に運航されているのが分かりましたので、其処のチボリ公園に行ってみようと言うことになり、夜遅くに戻り翌朝は第2の都市ヨーテボリ(Goeteborg)に行きましたので、マルメの印象は至って薄弱なのです。当時は国境の長い海峡橋はなく、フェリーしかありませんでしたので観光客も少なかったのですが、状況は変わっているのでしょう!
2017.01.30
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NHKBSの旅番組にハンガリー一周の鉄道旅があって、ヘレンドHerendが紹介されていました。名高い磁器の生産地として知られています。亡くなった家内が、洋食器が好きだったこともあり、我が家には多少のカップ&ソーサーが揃っています。ヒューストン滞在中にWedgewoodのRubyシリーズ6客を購入したことに始まり、Coalport6客をも追加購入し、帰国後はヨーロッパ旅行の旅先で2客ずつRoyal Crown Dreby、Meissen、Delft、等を買い足しました。しかし、ハンガリーには行ったことが無いので、ヘレンドは無い筈なのに、飾り戸棚の中に1客だけあるのです。多分、町田のヨーロッパ風喫茶店に珈琲を飲みに行った際、オーストリア旅行中に「ウィーンの薔薇」を買いそびれたことを悔い、市内の洋食器店で、可愛いと言って買って来たのだろうと思われます。何故1客なのか、2客買って、1客は差し上げたのか、今となっては分からなくなりました。ハンガリーの首都ブダペストから車で2時間の処にあるヘレンド村で、16世紀からマヨルカ陶器の産地としても知られ、質の高い磁器生産に向けて試行・発展させ、18世紀の磁器コレクションの補充を引き受け、そのため磁器製品の高い技術や芸術性をヘレンドが獲得し、以後新作を発表して行く。1842年にはヘレンド磁器製造所として帝室・王室御用達と承認され、皇帝フランツ・ヨーゼフの庇護を受ける。有名な「ウィーンの薔薇」シリーズはウィーン窯で製作されていたが皇帝の命によりヘレンドが引き継いだ。世界初の1851年のロンドン万国博覧会ではヴィクトリア女王がウィンザー城のためにディナーセットをヘレンドに注文した。中国風の絵柄に蝶の舞うデザインは一般にも販売され、以後「クイーン・ヴィクトリア」シリーズと呼ばれ大変流行した。1853年にはニューヨーク産業展示会へ出展、1867年のパリ万国博覧会ではナポレオン3世の皇妃が「インドの華」ディナーセットを購入、ヘレンドの作品はブランドとして広まった。ヘレンドは20世紀に入り工場施設を新装、美術館の併設など発展を遂げるが伝統を重んじ、ハイクォリティーな手作り・手描きの磁器を現在も作り続けている。
2017.01.12
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NHKBSの旅番組「2度目のロンドン」を観ていましたら、大英博物館のエルギン・マーブル見物が放映されていましたので、楽しく拝見していました。エルギン・マーブル(Elgin Marbles)は、大英博物館にはよくある曰く付きの所蔵品で、古代ギリシア・アテネのパルテノン神殿の長押部を飾っていた彫刻群で、剥ぎ取られイギリスの持ち帰った略奪品で、ギリシャ政府から返還要求が出ていて未だ決着がついていない、ギリシャ彫刻の至宝でもあります。私がロンドンを訪れましたのは、1991年3月と4月の2回、湾岸戦争の影響で観光客が激減している時で、大英博物館も空いていました。その際、Elginは英語読みでは「エルギン」ではなく「エルジン」では無いのかと疑問に思いつつ、展示室係員に聞いてみましたら、彼も「エルジン」と発音したのでした。エルギン・マーブル(Elgin Marbles、Parthenon Marbles)は、古代ギリシア・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻。19世紀にイギリスの外交官がパルテノン神殿から削り取ってイギリスに持ち帰り、現在は大英博物館に展示されていて、エルギン・マーブルズと表記される。1970年代になると、ギリシャ政府はイギリスにエルギン・マーブルの返還要求を強めた(その先頭に立った文化・科学相のメリナ・メルクーリは、映画女優としても有名である)。しかしながら、両国の見解はすれ違ったままである。現在、パルテノン神殿に残っていた彫刻の多くを展示しているアクロポリス博物館では、やむを得ずエルギン・マーブルの精巧な新しいレプリカをオリジナルの彫刻と共に展示している。しかし研究によって、古代ギリシャ彫刻は白大理石の彫刻だったのではなく、古代エジプト等の文明の影響を受けて極彩色に着色されていたと判明したが、1930年に職員が行った「清掃(cleaning)」作業で表面を強く研磨した為、エルギン・マーブル大半から当時の色を知る痕跡が失われてしまったことが1939年にBBCによって報道された。
2016.11.01
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近頃、TVではペットの犬・猫の放映が多く、海外編も多数紹介されています。先日はウィーン郊外のクリーニング店の愛犬を、近所の老人が散歩に連れ出すエピソードでした。その老人は嘗て犬を飼っていたのですが、高齢となり犬の一生最後まで面倒みることが出来ないと認識し、近所の愛犬を忙しい店主に替わって散歩させていると言うので、散歩先がBeethovengang(ベートーヴェンの小径)だったのです。Beethovengang(ベートーヴェンの小径)を訪問しましたのは21年前、ウィーンの郊外ハイリゲンシュタットの小高い丘の一角にそれはありまました。片側に小川(Schreiberbach:シュライバーの小川)が流れている、本当に目立たない小さな小径でした。ベートーヴェンの小径の終点には小さな広場があり、1863年6月建立されたベートーヴェンの胸像が記念として立っていますが、木立に隠れてしまっていて目立ちません。記念像はブロンズ製で、且つ逆光となりましたので、真っ黒で表情が上手く撮影出来ませんでした。しかし、嘗てBeethovenがこの道をよく散策し、その途中で田園交響曲の構想を練ったと言われている道ですから、約200年を経て、同じ道を歩いているのだと思いますと、感慨深いものがあります。しかし小川は水量も少なく又護岸工事がされていますので、田園的情緒も無く住宅地の中にある横町と言った感じは否めませんし、想像力を働かせませんと雰囲気は偲ばれません。勿論その当時は現在と異なり、田園情景があったのかも知れませんが・・。
2016.02.15
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1983年9月末、米国駐在を終えてのヨーロッパ旅行、スイス最後の宿泊地はマッターホルンの町として知られるツェルマットでした。宿泊先は、前日グリンデルワルトの旅行案内所で予約して頂いた「ロマンティカ」と言うホテルで、花に溢れた庶民的な雰囲気の小さな宿でした。マッターホルンの眺望を楽しむべく、ゴルナーグラート鉄道の乗る前に、ホテル前での記念写真となりましたが、家内は40才、長男12才、次男10才の小学生でした。木造3~4階建てのホテルでしたので、取り壊れたか立て替えられたのではないかと思いつつ、YouTubeで検索してみましたら、何とプローモーションヴィデオを発見することが出来たのです。Hotel Garni Romantica, Zermatt, Switzerland31年経った今でも同じ雰囲気で営業中なのに驚くと共に、花畑も含めて余程手入れよく整備されているのでしょうが、内装を考えると木造の方がコンクリート製よりも長持ちするのかも知れません。
2014.12.19
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今年の受賞者の1人は17才のパキスタン女性マララさん、女性への教育・社会進出を否定するイスラム原理主義の銃撃にも屈せず、脅迫にも拘わらず女性への教育の必要性を訴える受賞演説は、鉄の女又はジャンヌ・ダルクを彷彿とさせます。慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において:国王、王妃両陛下、皇太子、皇太子妃両殿下並びにノルウェー・ノーベル委員会の皆様、親愛なる姉妹兄弟の皆様、今日は私にとって、素晴らしく幸せな日です。ノーベル委員会がこの貴い賞に私を選んでくださり、身に余る光栄です。みなさんの絶え間ない支援と愛に感謝します。今も世界中から届く手紙やカードに、お礼申し上げます。みなさんの親切や励ましの言葉に元気づけられ、刺激を受けています。両親の無条件の愛に感謝します。父は、私の翼を切り取らず、羽ばたかせてくれました。母は、がまん強く、いつも真実だけを語ろうという気にさせてくれます。これこそ、私たちが強く信じている、イスラムの真のメッセージです。ノーベル平和賞授賞式は市庁舎の大ホールで行われるとのことですが、1998年6月の訪問当時は知りませんでしたので、ムンクの絵画鑑賞の為の国立美術館、王宮への散歩が主となりました。 インターネット検索しますと、美術館さながらの庁舎の様で、入ってみるべきだったと思うのですが、「後悔先に立たず」で後の祭りです。高さ66mと63mの塔を持つ建物で1950年に完成、東の塔には38の鐘があり、その壁には1辺85mの大きな天文時計が掛かっています。1階中央の大広間に飾られた2mx12mの壁画はヨーロッパ最大の油絵で、ソーレンセンによる『働き楽しむ人々』。三方の壁画はアルフ・ロルフセンの作品です。東の塔の西側壁には、オスロの礎を築いたといわれるハーラル厳格王が馬にまたがる姿が刻まれています。その他ムンクの『人生』、クローグの壁画『都市とその周辺』等も有名です。
2014.12.12
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昨日TVでロマンチック街道が紹介されていましたので、懐かしく拝見しました。ロマンチック街道最大の街であるアウクスブルクを訪問したのは1995年9月ですから、もう19年も前のこととなりました。街の中心にあった市庁舎とペルラッハ塔は良く覚えていたのです。フッガーハウスと言う建物がありましたが、その前に建つ銅像は誰なのか19年間分かりませんでしたが、大富豪フッガーだとことが分かりました。フッガーハウスは、大富豪フッガー家の屋敷兼商館だったそうで、今でもこの建物でフッガー銀行が営業しているそうです。ロマンチック街道最大の街アウクスブルクは、歴史的に重要な都市に数えられます。アウクスブルクは、いつも裕福で輝きに溢れ、そして印象的な存在でした。 きれいな噴水、美しい教会、市庁舎等が、類い稀な都市景観を創り出しています。フッガー家は、3世代で大躍進を遂げ、世界屈指の大富豪になりました。 フッガー家の商業・金融帝国は、アドリア海から北海まで、大西洋から東ヨーロッパまでを支配しました。 ヤーコブ・フッガーとその兄弟たちは、世界初の社会福祉住宅であるフッゲライを残しています。 フッガー家の財産は、すでにヤーコブの頃には伝説的な額になっていましたが、甥のアントン・フッガーは、16世紀中葉にて世界で最も裕福な人物とされています。アウクスブルクと密接な関わりを持つのがモーツァルト家です。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父親であり、自身も優れた作曲家だったレオポルトは、この地で生まれました。 伝統的に5月に開催されるアウクスブルク・モーツァルト音楽祭では、レオポルトやヴォルフガング・アマデウスの有名な作品が演奏され、時代背景や家族、友人、音楽における同士やライバルなどが紹介されます。
2014.10.14
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ムンバイ(Mumbai)市を訪問したのは1985年1月でしたから、もう29年も経ちました。その当時はボンベイ(Bombay)市と言われていまして、ボンベイ沖に天然ガス田が発掘され、工業的に勃興期の始まりと言った感じがする町でした。その頃、Bombay High Projectで海底天然ガスの採掘が始まり、燃料事情が好転すると考え、米国やドイツ等の先進国で航空転用型ガスタービン販売が出来ましたので、取扱商社を住友商事として、開発途上国であるインドにも販売拡大の可能性探る為でもありました。結局、天然ガスや灯油・軽油等、航空転用型ガスタービンに必要な清浄燃料の入手が、未だインド産業界では難しいと判断して、拡販を諦める決断をした残念な旅でもありました。その当時は、物乞いの子供が群がって来ますので、車から出て歩かない方が良いとの助言もありましたので、市内観光は現地運転手の方に2時間程連れて行って貰っただけで、車の窓から名所などを眺めただけでした。その運転手の方はインドでは数少ない拝火(ゾロアスター)教信者で、死んだら鳥葬となるとのことで、その聖地にも案内して頂いたのですが、市内の何処だったかは分かりません。ムンバイの観光ハイライトはムンバイ湾岸にあるインド門だった様で、今でも記憶に残っています。この画像はムンバイから頂いた絵葉書をスキャンしたもので、私自身は外出散歩もしなかったので、1枚も写真撮影はしませんでした。インド門(Gateway of India)英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られた。玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っている。高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成した。嘗ては植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所であったが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっている。また、世界遺産にも登録されているヒンドゥー教の石窟寺院で有名なエレファンタ島への船着場もこの門の前にある。
2014.06.11
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ストックホルムに、1998年6月初旬、パリで一泊しての午前のスカンディナビア便で正午前に着きましたのは、もう16年も前のこととなりました。アメリカ機械学会にて割り当てられたホテルは、申し込んだ時期が遅く、中心部から離れた処、ストックホルム大学近くの小さな通りに面していました。その日は、土曜日で天気が良く、ホテルにチェックインしてから、昼食方々散歩に出掛けることにしました。商店街の続くドロットニングガタン(Drottninggatan)と呼ばれる通りを道なりに行きますと、旧市街のガムラスタンに辿り着き、王宮を通って、内海に面した広場に着きました。ガムラスタン (Gamla stan) は、「古い街」を意味するストックホルムの旧市街。街の発祥は13世紀に遡る。中世の小路、玉石敷きの通り、古風な建築が保存されている。北ゲルマン建築が、旧市街建設に強い影響を与えている。ストックホルム大聖堂のある場所であると同様に、ノーベル博物館とリッダルスホルメン教会、ガムラスタンの誇るスウェーデン・バロック様式の王宮が建ち、ガムラスタン中央部には美しいストールトルゲット広場がある。北欧の夏は快適で、其処で昼食を思ったのですが、何処も混んでいて、仕方なくスナックで済ませるしかありません。何も、食べている処を撮らなくても良いのにと、家内が嫌がっていたのも懐かしい遠い思い出となりました。
2014.06.09
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今朝NHKBS放送を見て、マウリッツハイス美術館の「首あてをつけたレンブラントの自画像」はレンブラント工房による模写と言うことを初めて知りました。私がこの絵を見ましたのは、1997年4月末のマウリッツハイス美術館でした。当時は勿論のこと、レンブラント作として展示されていたのです。1999年、ニュルンベルクのゲルマン国立美術館でよく似た作品を発見され、レンブラントの生誕地から遠いこともあり、此方が模写と認識されました。しかし、マウリッツハイス美術館での赤外線調査の結果、模写の痕跡が発見されて、ニュルンベルクの方が真作、マウリッツハイス美術館の方がレンブラント工房の弟子たちによる模写作品だったことが結論づけられたのだそうです。世界の名画中の名画「モナリサ」も、ルーブルと酷似した作品もあるとの情報もあり、真贋の見極めは難しいものだと思わざるを得ません!
2014.04.03
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「アルプスの少女ハイジ」のアニメが、カルピス世界名作劇場で放映されましたのは、1974年のことでしたので、もう40年も前のこととなりました。YouTubeで全52話がフランス語やスペイン語等でアップロードされていますので、久しぶりに此処1週間程、フランス語版を堪能させて頂きました。山の中腹に建つアルプスの少女ハイジの山小屋を見るにつけ、懐かしさが募りました。ハイジの道を辿って、アルプスの少女ハイジの山小屋(HeidiAlp)を訪れたのは2000年5月のことで、14年も前のこととなりました。クリックすれば大きくなります!近年は此処が休憩所に替り、珈琲等も飲めるようになっている様です。マイエンフェルトから日本ではデルフリ村として知られるハイジ村(独語で"Heidi-doerfli"ハイジの小さな村の意)に30分程で着きます。典型的な民家がハイジの家として博物館に改装せれていて見物出来ます。そこから、ハイジの道(HeidiWeg)と称する緩やかな林道を歩いて行きます。トレッキングにもならない散歩にもならない運動量であり、曇天でもありましたので山歩きをする人も殆どいませんでした。2時間程でハイジの山小屋に到着、お湯でコーヒーを入れ昼食を取りました。
2014.03.21
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マルメを訪れたのは1998年6月でしたので、マルメとコペンハーゲンに架かる橋-オーレスン・リンクは完成しておらず見ることが出来ませんでした。東京湾アクアラインと同様、海底トンネルと高架橋の組み合わせですが、鉄道レールと4車線道路が上下に設置されているので、利便性はオーレスン・リンクが優れている様です。オーレスン・リンクは2000年7月1日、海底トンネル(3.75km)、人工島ペウオホルム(4.05km)、斜張橋(7.85km)からなる全長16kmの橋で、複線の鉄道と4車線道路が設けられている。この橋とトンネルはヨーロッパ最長の鉄道・道路の横断距離であり、欧州自動車道路E20号線ともなっている。海峡中央には人工島ペベルホルム (Peberholm) があり、デンマークのアマー島から人工島までは海底トンネル、ペベルホルムからスウェーデンのマルメまでは橋となっている。デンマークとスウェーデンの国境はオーレスン橋のスウェーデン側から5.3 kmの地点にある。ストックホルムで行われたASMEガスタービン会議での技術ペーパー発表を終えた後の翌朝、特急列車を使って到着したのは正午過ぎにマルメに到着、駅の観光案内所でサヴォイ・ホテルを紹介して貰い、チェックインしました。スウェーデン第3の都市と言うことで、街中心部・マルメ城等の市内見物をしましたが、午後2時頃には終えてしまいました。ホテルに戻ってコンシエルジュに聞きますと、ホテル前の桟橋からデンマークのコペンハーゲンまで定期船があり、40分程で観光地ニューハウンに着くとのことで世界初の遊園地として知られるチボリ公園を楽しんでみることにしました。午後10時過ぎに戻って来たのですが、北緯59.3度のストックホルムでは真夜中でも暗くならないのですが、南端北緯55.6度のマルメでは漆黒の夜の帳が下りるのだと北欧の地理的差異を認識した記憶が鮮明に残っています。
2014.03.13
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チューリヒ街中の小さなペスタロッチ公園にあるペスタロッチ像にあったのは、1996年8月のことでしたのですから、17年も前のこととなりました。チューリヒには、1979年9月米国駐在直前に独りで、1983年9月には米国駐在直後の帰国途中に家族4人で泊って市内散歩をしたことはありましたが、日本航空紹介のNationalと言うホテルでしたこともあり、気が付きませんでした。1996年8月には、翌日にはレマン湖畔に近いレ・ディアブルレ(Les Diablerets)での水素吸蔵合金国際学会で論文発表がありましたので、ザンクト・ゴダードと言う駅に近いホテルに泊りました。夕方の散歩に出掛けましたら、ホテルの近くに小さな公園があって、ペスタロッチ像があり、改めて教育実践者として名高いペスタロッチはチューリッヒ生まれだったと認識したのでした。この画像はネットでお借りしたものです!ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746~1827年)はスイスの教育実践家。フランス革命後の混乱の中で、スイスで孤児や貧民の子などの教育に従事した。イタリアにルーツを持つ新教徒の子としてチューリヒで生まれ、活躍の場所はスイス各地にまたがる。基礎的なものから高度なものへという、直観教授、労作教育の思想は、当時のヨーロッパでは高い知名度を持ち、多くの期待を寄せられた。ペスタロッチの教育の実践は主として初等教育段階のものであったが、それを幼児教育へと応用展開したのは弟子のフレーベルであり、また大学教育の場での教育学へとそれを整理発展させた弟子のヘルバルトである。
2013.10.18
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NHKBS歴史館では、解説者が好き勝手に自分の意見を述べるのが面白くて見ています。盲人が象の体を解説する様な事例もありますが、それは一つの意見コメントとして捉えれば良いと思っています。前回は「童話作家アンデルセン」、貧民の出身でありながら上流階級の支援を受けて、世界的な童話作家になって行きますが、上流階級へのステップアップは拒否されてしまう経緯が解説されていました。19世紀デンマークの作家アンデルセン(Hans Christian Andersen)。その生涯は、まるで童話の原点のように、せつなく悲しい出来事の連続だった。貧困と両親の悲劇。上流階級の娘への恋と友情、そして裏切りと絶望。人は大事なものを犠牲にしなければ、憧れに近づけないのか? 美しい北欧、激動の時代を背景にした、知られざる波乱の物語。デンマークの首都コペンハーゲンの市庁舎前広場で、アンデルセンの銅像を発見しましたのは1998年6月、有名なチボリ公園を午後8時頃に出て来た処でした。6月ですと北欧コペンハーゲンでは、午後10時にならないと暗くなりません!ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)デンマークのオーデンセ生まれ。父は貧しい靴職人だったが、貧しくも暖かい家庭で彼は少年時代を過ごし、彼は父から詩的才能を、祖母からは空想を、母からは信仰心を受け継ぎました。1812年に父は、兵役を逃れようとする富農の息子に替って出兵、心も体もぼろぼろになり帰ってきた父は病気となり、33歳の若さで亡くなってしまいます。彼は15才でコペンハーゲンに出て歌手、俳優を志すが失敗。しかし、王立劇場支配人コリンの援助で高校に入学、コペンハーゲン大学を卒業、イタリアに旅行して、その時の印象と体験を、1835年に「即興詩人」を書き、一躍有名になって行く。同年に最初の「童話集」を出し、それから毎年クリスマスには、彼の「童話集」は、各家庭で待たれるようになる。「絵のない絵本」「親ゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」など、多くの童話は人類の宝と言われ、童話の父として今も世界中の子ども達に親しまれている。又、自叙伝「わが生涯の物語」は自伝文学の名作と言われています。彼は、一生を旅から旅に過ごし、家庭は持ちませんでした。
2013.10.17
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先日、BSFujiで欧州鉄道の旅を視聴していましたら、ヴュルツブルクが紹介され世界遺産となっている大司教領主の館「レジデンツ」が解説されていました。我々夫婦が此処を訪れましたのは1997年4月24日のことでしたので、16年も前のこととなりましたので、とても懐かしい想いがしました。フランクフルトで宿泊していたシュタイゲンベルガー(Steigenberger Frankfurter Hof)ホテルから地下鉄でフランクフルト中央駅に行き、ロマンチック街道の始点であるヴュルツブルクに行って見ようと言うことにしました。ドイツ鉄道(DB)を使い1時間程で到着、「マリエンベルク要塞」に登って市内遠望を楽しみ、世界遺産として知られる「レジデンツ」に向かいました。横庭では植栽の幾何学的な刈込と共に、ピンク色の八重桜が満開、日本では桜の季節は終わっていたのですが、北の国ドイツでは1月程遅れる様でした。「レジデンツ」は素晴らしい室内装飾と天井フレスコ画で知られていますが、撮影禁止でしたので写真は1枚も残っていません。裏庭では、散歩道に沿って多くの小さな子供像が配されていて、和やかに芝生や緑を楽しみつつ散策することが出来、散歩道テラスからレジデンツを背景に記念写真となりました。1200年頃にマリエンベルク要塞が建設され、ヴュルツブルクの司教の居館であった。18世紀初頭に新しい大司教領主が、市内に住む為の居館・レジデンツの建設を指示し、1744年に完成となった。此の旅行は、「地球の旅」新宿店で予めユーロレールと言う鉄道乗り放題のチケットを購入して行きましたので、優雅な1等車両を楽しんだものでした。
2013.03.29
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女子ジャンプWC最終16戦のオスロ大会の様子がTVで放映されていました。日本のエース高梨沙羅選手は惜しくも2位となりましたが、飛行距離では断トツの1位、飛行曲線が高く、K点どころか極限点HS(Hill Size)に達してしまい仕方なく落ちて行くのですからテレマーク姿勢を取ることが出来ず、飛形点で劣るのは当然、現行の採点法に問題があり、実質的には第1位だったと思いまた。オスロ大会に使われたホルメンコーレンジャンプ競技場に行ったことがありますが、スタートポイントも大きい建屋で、滑って行くアプローチ壁もコンクリートスラブの様で、印象が違うのです。訪問しましたのは1998年6月の15年前、札幌オリンピックの金メダリスト笠谷幸生選手が、オリンピックの直前1972年ヨーロッパジャンプ週間中、圧倒的な勝利を収めたジャンプ場を見てみたいと思ったのです。真夜中でも薄暗くしかならない真夏にも拘わらず、雨の降り続く寒い日でした。着地点付近は鉄ポールを組み合わせた柵になっていたのです。インターネットで調べてみましたら、2010年に大改修が行われたとのことで、ノルディックスキーコンプレックスを形成しているとのことでした。ホルメンコーレンジャンプ競技場(Holmenkollbakken)はノルウェー、オスロ郊外のホルメンコーレン地区に位置するラージヒル(K120m/HS134m)のジャンプ競技場。隣接してクロスカントリースキーコース、ノーマルヒル(K95m/HS106m)があり、ノルディックスキーコンプレックスを形成し、ノルディックスキーの聖地とも言える場所で、ジャンプ台は現在までに19回改築され、前回1982年の改修で観客席の収容人数は50000人以上に増やされた。19回目の改築工事が行われ2010年3月に完成、現在のスタートタワーは、地面から60メートルの高さにそびえる。
2013.03.22
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固定資産税都市計画税の督促状が来ていましたので郵便局に行き納めましたが、近頃は郵便局も記念切手販売に力を入れている様で、多数のシリーズが陳列されていました。先週発売で人気No.1は「第19集アルプスの少女ハイジ」とメモされていましたので、800円で購入することにしました。このアニメが放映されましたのは、1974年フジTVのカルピス名作劇場、子供が小さいころで一緒に良く見ていました。その後繰り返し何回も放映されていましたので、ハイジの山小屋に行って見ようと言うことになり、2000年5月ミュンヘンでのASMEガスタービン学会の論文プレゼンテーションを終えて、スイスまでレンタカーで行くことにしました。名作の舞台となっているマイエンフェルト村近くのラガーツ温泉に泊って、お湯を分けて貰ってステンレスボトルに入れ、車でマイエンフェルト村に行き中央広場の駐車場に停め、広場にあるお店でサンドウィッチを仕入れて、定められたコースに沿ってハイジ村を経て山小屋へのハイキングとなりました。特別の急登も無いなだらかな山道を経て、1時間半で山小屋に到着となり、誰もいない小屋の前のベンチで珈琲とサンドウィッチの昼食となりました。生憎の曇り空で、ハイジが経験したであろう素晴らしい景色は堪能出来なかったのは残念なことでした。
2013.01.28
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世界で一番有名な絵画と言えば、ルーブル美術館の「モナリザ」「聖アンナ」「聖ヨハネ」、ダヴィンチが最後まで所持していた3点、特に「モナリザ」の前は何時も混雑していて、正面からゆっくり観賞する余裕はありません。次に混雑しているのはアムステルダム国立美術館の至宝とされる「夜警」でしょうか、大きな絵画でもあり展示場所も広く取られているのですが、此処も観賞する人々が退きも切らず、空いている時はありません。家内と共に出掛けたのは1997年4月末のことですから、もう15年も前のこととなりました。4月末と言うのに氷雨が降り寒い日でしたので、家内はその晩に体調を崩してしまい、夕食を吐いてしまいましたが、ぐっすり寝ることで翌朝は回復してくれ、朝の散歩に出掛けられて安心した記憶が残っています。常設展示されている有名な名画でも、この2枚以外は割合ゆっくり観賞出来るのが海外旅行の楽しみで、ゴッホ美術館の「麦畑」、オスロ美術館のムンクの「叫び」、マウリツハイツ美術館のフェルメールの「真珠の首飾りの女」等はゆっくり観賞出来たのでした。私のパスポートも有効期限が切れて5年になりますが、やはり語り合う人のいない旅行では、観賞する喜びも半分と言うことなのか、未だに更新して独りで海外旅行に出掛けると言う気にもなれません。
2012.06.25
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