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混沌の海1~2学問の世界であれすべては混沌の海誤解の渦曲解の嵐そこに見える一筋の光明それは信じること信じるしかない検証といえどもほんとうかどうか知れたもんじゃない自分が幸福になることを信じることそれしかない知っているんだ検証のための装置それが原因不明の反応をすることがあるってことを検証できたぞ!なんて喜んでいてもそれは検証なんかではなくって不思議な反応だったってことがあるんだ逆に検証されなかったな! 残念!そういう事態になっても実際は仮説どおりの結果がでるはずがおかしな反応によって検証されなかったそういったこともあるんだしかも仮りにそういった不思議な反応ではなく正しく検証されたとしてもその検証だけで検証されたなんてことはないだろう現実がそのとおりかどうか結局わからないってことだねだから信じるしかないんだ自分が幸福になることをぼくの一番の関心は転生はあるかないか宇宙は永遠につづいていくかどうか転生は永遠につづいていくかどうか自分とはなにか自分とは自分という意識だとしてその自分は永遠に転生していくかどうかあと質時間回帰則の検証そこの追求はまず思考実験によって行いついで脳に関するデータを用い宇宙に関するデータ数学的手法さらに実験さらに哲学的手法を用いる自分ではいい線いってるそう思ってるんだけれど最終的にはそれを信じるそれしかないんじゃないのかな(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.31
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混沌の海学問の世界であれすべては混沌の海誤解の渦曲解の嵐そこに見える一筋の光明それは信じること信じるしかない検証といえどもほんとうかどうか知れたもんじゃない自分が幸福になることを信じることそれしかない知っているんだ検証のための装置それが原因不明の反応をすることがあるってことを検証できたぞ!なんて喜んでいてもそれは検証なんかではなくって不思議な反応だったってことがあるんだしかも仮りにそういった不思議な反応ではなく正しく検証されたとしてもその検証だけで検証されたなんてことはないだろう現実がそのとおりかどうかわからないってことだねだから信じるしかないんだ自分が幸福になることをぼくの一番の関心は転生はあるかないか宇宙は永遠につづいていくかどうか転生は永遠につづいていくかどうか自分とはなにか自分とは自分という意識だとしてその自分は永遠に転生していくかどうかあと(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.30
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進化と知性なんにせよ、研究を続けていくと、研究が進歩・進化していくと感じる。しかし、そこに知性が参加してなかったら、そういったことはありえない。そういったことにおいて、たとえ一京年(一万兆年。ケイ)経過しても、なんの進歩もないだろう。一般にいわれている進化においても、なんらかの知性的なものの関与がなかったら、同じことがいえるんじゃないかという気がする。そこらあたりにも非常に悩ましくも魅惑的な神秘と謎が待ち構えている。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.29
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自由な思考・思索に乾杯!なにごとも自由に追求・研究していくことは素晴らしい!ぼくのばあい、ひとつの研究・追求がツボにはまってくると、立場がひとつにきまってくる。しかし、別な研究・追求になると、また広い視野で始めることになる。そこからまた立場が狭められていく。そんなふうに研究には自在性が求められる。ひとつの立場にこだわるのは、可能性を捨てることである。そんな中、ぼくの研究には工学的要素がある、といえそうだ。ただし、そうとばかりはいえないケースもあるだろうけれど。実際、自然の創造物・造型物・存在には工学的な要素が潜んでいる。そういったことを研究していくのは醍醐味である。昔のチーズのようなものの味・醍醐味、よりはるかにエキサイティングである(ジョーク)。インドのある地方では、醍醐(ダイゴ)のことをディーガというそうだ(脱線)。その発音の類似性は、絡み合った世界への興味をかきたてる(脱線から発展)。なにごとも自由に追求・研究していくことは素晴らしい!自由な思考・思索に乾杯!(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.28
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某サイトの皆様ゆうべは、ウイスキーの水割りをがぶがぶやりながら、書いたので、言葉が少し荒れてしまったようですな。失礼しました。真相は、私だけ「です・ます調」で書いているので、むかついてきたということですな。日本語のやりにくい面がでますな。で、私が書いているのは、私が構築中の心脳工学の立場に立ってのことであって、ほかの方々の論には一切言及しない。書き方がまずいので、誤解を招く個所があるとしても、そういうことですな。その心脳のモデルから必然的にでてくる哲学的な要素の部分も、平明な用語で構築中である。哲学をちらちら観察してきたけれど、今のところ役に立ちそうなものには出会わなかったし、それらは、心脳のモデルから必然的にでてくるものなので、そういうことになる。私は当然ながら、肝腎なところはここにはまだ書いていない。それに当然、検証のための実験も追求している。私のやり方はそういったものですな。私が構築中の心脳工学は、素材さえあれば、心脳という現実・現物・実物、やはり物質だけではないので、現実を強調して、そういったものをつくる、という研究内容をもっている。そういう大ブロシキを広げているわけですな(大ブロシキなのかどうかは、検証実験でわかる)。で、私は、この研究は、仕事ではなくて、考えずにいられないのでやっているだけですな。当然、ほかにやるべきことがたくさんあるわけであって、この研究に使える時間はかなり限られている。したがって、コメントにはレスをつけることができないことが多いですな。ここにくると血圧が上がるようなことも多い。自分の論で大ブロシキを広げるのは、別に問題はないと私は思う。で、人の論を批判・非難することほど簡単なことはないですな。私の投稿は建設的だと自分では思っていますが(ゆうべの分は除いて)。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.27
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易経一日一言きのうは、だれかさんの誕生日で、いろいろ食べて、デザートにはおにぎりの怪物みたいな大きさのシュークリームで中にいろんなものが詰め込まれてるのを初めて食べて、食べきれなかったんだけれど、麦ジュースをたらふく飲んで、その勢いで、ブログを書いていた。ポゥエムを書いたんだけど、いいのができたぞっ! って、うひゃひゃのひゃってよがって喜んでいたら、PCがフリーズ!過去にもそんなことはいくらかあったんだけれど、「たわけ! うぬぼれるな!」と解釈。よしっ! こんな時は易経を読もう!そうだ!亞さんの『易経一日一言』がいい。まだ購入してなくて、亞さんの楽天ブログでいろいろ読んでみただけだけれど。うん、亞さんの楽天ブログ(楽天ブックス)から注文しよう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.26
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ひと休み某サイトでがんばっているんだが、あそこはプロやプロみたいなのがたくさんいて、どこから殴りかかってくるか気が抜けない。血圧があがるようなことも起こるし、くたびれるなあ。ほかにやることがたくさんあるし、頭の切替えも大変だ。しばらく休もうかな。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.26
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フリーズ書いたものがフリーズして再現できなかったので今日はこれくらいで(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.25
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なにゆえに世界は1~2~3~4*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界はなにゆえに世界は5~6~7~8*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえにいつかみた夢そんな夢夢は必ず叶うそんな言い伝えのある幻の孤島そこは常夏のパラダイス樹々にいだかれ緑と色とりどりの花々にうめつくされ多様な鳥たちが飛びまわり小さな動物たちにあふれ行ってみたいその無限の孤島にそこでしばし憩うと夢が叶うそんな伝説のあるだれも知らない遥かな永遠の孤島抱きしめたくなるようなその波打ちぎわで波とたわむれ海の生き物たちと呼吸をともにし命の翼をひろげ精神のつくりを鍛え魂に世界のエキスを吸い込みいまだ見ぬ夢まで手元にひきずりよせいまだ知らぬ世界までこの身にたぐりよせ神々の素顔を見つめ宇宙の真理を飲み干し世界の謎を解き放つそんなそんな時代がもうすぐやってくるやってくるああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.24
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なにゆえに世界は1~2~3~4*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界はなにゆえに世界は5~6~7~8*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえにいつかみた夢そんな夢夢は必ず叶うそんな言い伝えのある幻の孤島そこは常夏のパラダイス樹々にいだかれ緑と色とりどりの花々にうめつくされ多様な鳥たちが飛びまわり小さな動物たちにあふれ行ってみたいその無限の孤島にそこでしばし憩うと夢が叶うそんな伝説のあるだれも知らない遥かな永遠の孤島抱きしめたくなるようなその波打ちぎわで波とたわむれ海の生き物たちと呼吸をともにし命の翼をひろげ精神のつくりを鍛え魂に世界のエキスを吸い込みいまだ見ぬ夢まで手元にひきずりよせ今だ知らぬ世界までこの身にたぐりよせ神々の素顔を見つめ宇宙の真理を飲み干し世界の謎を解き放つそんなそんな時代がもうすぐやってくるやってくるああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.24
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なにゆえに世界は1~2~3~4*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界はなにゆえに世界は5~6~7~8*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえにいつかみた夢そんな夢夢は必ず叶うそんな言い伝えのある幻の孤島そこは常夏のパラダイス樹々にいだかれ緑と色とりどりの花々にうめつくされ多様な鳥たちが飛びまわり小さな動物たちにあふれ行ってみたいその無限の孤島にそこでしばし憩うと夢が叶うそんな伝説のあるだれも知らない遥かな永遠の孤島抱きしめたくなるようなその波打ちぎわで波とたわむれ海の生き物たちと呼吸をともにし命の翼をひろげ精神のつくりを鍛え魂に世界のエキスを吸い込みいまだ見ぬ夢まで手元にひきずりよせ今だ知らぬ世界までこの身にたぐりよせ神々の素顔を見つめ宇宙の真理を飲み干し世界の謎を解き放つそんなそんな時代がもうすぐやってくるやってくるああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.24
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なにゆえに世界は1~2~3~4*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界はなにゆえに世界は5~6~7~8*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえにいつかみた夢そんな夢夢は必ず叶うそんな言い伝えのある幻の孤島そこは常夏の天国樹々にいだかれ緑と色とりどりの花々にうめつくされ多様な鳥たちが飛びまわり小さな動物たちにあふれ行ってみたいその無限の孤島にそこでしばし憩うと夢が叶うそんな伝説のあるだれも知らない遥かな永遠の孤島抱きしめたくなるようなその波打ちぎわで波とたわむれ海の生き物たちと呼吸をともにし命の翼をひろげ精神のつくりを鍛え魂に世界のエキスを吸い込みいまだ見ぬ夢まで手元にひきずりよせ今だ知らぬ世界までこの身にたぐりよせ神々の素顔を見つめ宇宙の真理を飲み干し世界の謎を解き放つそんなそんな時代がもうすぐやってくるやってくるああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.24
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なにゆえに世界は1~2~3~4*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.23
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なにゆえに世界は1~2~3*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.23
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なにゆえに世界は1~2*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.23
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なにゆえに世界は1*メロメロコーナー*ああ世界よ世界よ世界はなにゆえに果てしない宇宙とめどない世界そこにさすらう人間そこをさまよう精神無限に迷いこみ永遠をさすらい神々の知恵をたずねユートピアを夢み得体の知れない深淵謎をはらんだ時空情熱を揺さぶり感情を刺激し撹乱する謎謎謎世界は今崩壊の崖っぷちに世界はその先ゆくえが知れなくて人類は皆時代に宙づりにされ過去と未来のはざまでその圧力にたじろぎもだえ苦しみ新しい世界を夢みながらそのやり方をさがしながらなにも手につかず足は地につかずふらふらと悩ましげなまなざしで時代をみつめている新しい世界を求めて旅立つ時その時がきた今こそその時ああ世界よ世界よなにゆえに世界は(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.23
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進化を統計で扱って1~47~48~49~50「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.22
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進化を統計で扱って1~47~48~49「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.22
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進化を統計で扱って1~47~48「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.22
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進化を統計で扱って1~47「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.22
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哲学について、など私の今現在の研究の中心は、心脳工学、であって、要するに工学的なものです。その理解のためには、哲学的な素養は必要ありません。だからといって私は哲学を否定してはいません。歴史上、哲学はさまざまに役に立ってきています。私の今現在の研究には、哲学は必要ない、というだけのことです。で、私が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを元にして進んできているのは一目瞭然です。私は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあるものの、そういうことがいえます。ただし、必要なデータ、実験や観察結果の記録、基本的概念などだけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。私は、「世界哲学」というものも構築中ですが、そこでも、過去の哲学者の論を用いるという姿勢には全くありません。さらに私の研究姿勢としては、自分に考えられることをすべて考えあげて、その中のどれが現実どおりであるか検証する、あるいは、どれが有効であるか確認する、といったような面があります。それは研究対象によって異なってきますが。私の研究姿勢はそういったものです。要するに、自分で考えるのが好きなので、思索を続けているだけです。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.21
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進化を統計で扱って1~43~44~45~46「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.21
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進化を統計で扱って1~43~44~45「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.21
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進化を統計で扱って1~43~44「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.21
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進化を統計で扱って1~43「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.21
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なぜ研究をするのか心脳工学研究を続けてきたここに至って、私は、大ブロシキの広げすぎじゃないか、と不思議な気分になったりするのですが、一方、絶対正しいと確信があるぞ、これ以外にどこにもなにもないじゃないか、とも思います。だいたい、私は、こんな研究をする必要性はどこにもない。これを仕事にしようとか、誰かに頼まれたとか、一切なんにもないのです。ただ、考えることが好きで、考える時間にも恵まれてきているので、追求してきただけのこと。おととしの末、茂木さんのサイトを見て、茂木さんの元気ハツラツないきごみにあてられ、へえ、ここが、こういった方面の今現在の課題になっているのか、これは、質の科学では、抽象的に扱って済ませることのできていた部分だが、それじゃあひとつ、おいらもやってみようじゃないか、と首を突っ込んだ結果、ここに至っているわけです。質の科学はほぼ完成していたし、別にやる必要もなかったのに、なんでも考えたがる私は、その追求を始めたわけです。もっとも、その研究は必要がなかったのでほとんどやっていなかったものの、気にはなっていました。しかも、その質の科学というのも、やる必要性は皆無なのです。私のネット・ブログ活動も同じくそうで、ストレス解消と楽しみでやっています。考えないと気がすまない、というところです。で、心脳工学を完成に近づけていけば、質の科学の説得性も増すことだろう、とは思います。私の夢のひとつが、質の科学・世界哲学を世界に問うことなので、続けていきます。ただ、そういった、あまりにも漠然として果てしない未知の深淵・世界にはいりこんでしまっているため、時々、ビビリます。ほんとに。そんな時は、おいらがやってるんじゃない、天がやってるんだ、と思えば、気が楽になります。そう思わないと続けられないのかもしれません。まだ、なんの評価ももらってないので、やりにくい、ということもあります。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.20
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進化を統計で扱って1~39~40~41~42「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.20
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進化を統計で扱って1~39~40~41「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.20
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進化を統計で扱って1~39~40「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
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進化を統計で扱って1~39「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.20
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事実を書くだけのこと単に、事実を書くだけであるけれど、筆者が、「ニッケイとダウは、数値が一致していることが続いてきているが、あまりに不自然だ」とここに書いてしばらくしたら、それが離れて、離れた状態が続いている。これは事実を書いただけである。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.19
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進化を統計で扱って1~35~36~37~38「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.19
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進化を統計で扱って1~35~36~37「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.19
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進化を統計で扱って1~35~36「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.19
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進化を統計で扱って1~35「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。次のようなことを考えてみました。進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。試験はなしで、それで合格点をもらえる。もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。その方が効率がいい。そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。そういった教育です。まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.19
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進化を統計で扱って1~31~32~33~34「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。そのほかにも、肉体やDNAとRNAなどは、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。進化に着目した肉体やDNAとRNAなども、同じく、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、たとえば数千億年かかるのではないか、という思いがわきあがってくるのを止めることはできない。ただ、ある段階に達したら、文化や文明は加速度的に産み出されていく構造になっている、という気はする。(そういった構造といった何かが、ここの部分の前の個所にもいくつか存在するのではないか、という予感もする。たとえば「ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。」もそのひとつです)そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには広がっているという印象を受ける。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.18
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進化を統計で扱って1~31~32~33「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。そのほかにも、肉体やDNAとRNAなどは、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。進化に着目した肉体やDNAとRNAなども、同じく、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、たとえば数千億年かかるのではないか、という思いがわきあがってくるのを止めることはできない。ただ、ある段階に達したら、文化や文明は加速度的に産み出されていく構造になっている、という気はする。(そういった構造といった何かが、ここの部分の前の個所にもいくつか存在するのではないか、という予感もする。たとえば「ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。」もそのひとつです)そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには広がっているという印象を受ける。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.18
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進化を統計で扱って1~31~32「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。そのほかにも、肉体やDNAとRNAなどは、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。進化に着目した肉体やDNAとRNAなども、同じく、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、たとえば数千億年かかるのではないか、という思いがわきあがってくるのを止めることはできない。ただ、ある段階に達したら、文化や文明は加速度的に産み出されていく構造になっている、という気はする。(そういった構造といった何かが、ここの部分の前の個所にもいくつか存在するのではないか、という予感もする。たとえば「ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。」もそのひとつです)そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには広がっているという印象を受ける。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.18
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進化を統計で扱って1~31「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。連携して進化してきている。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。そういったふうに、非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。それは大変なことを意味しているのだろうか。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。で、筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません。現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。そのほかにも、肉体やDNAとRNAなどは、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。進化に着目した肉体やDNAとRNAなども、同じく、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、たとえば数千億年かかるのではないか、という思いがわきあがってくるのを止めることはできない。ただ、ある段階に達したら、文化や文明は加速度的に産み出されていく構造になっている、という気はする。(そういった構造といった何かが、ここの部分の前の個所にもいくつか存在するのではないか、という予感もする。たとえば「ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。」もそのひとつです)そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには広がっているという印象を受ける。「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.18
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進化を統計で扱って1~27~28~29~30「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには存在するという印象を受ける。☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。さらに、「心の器」というものも想定される。それも、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで同じく、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは同じく分業である。その「心」というのは、普通にいう「潜在意識」なのであるが、「潜在意識」をあてると、「心」という単語の出番がなくなる。すべて、「意識1」「意識2」「意識3」といったような形で表されてしまう。せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだから、それを用いたい。その流れの中で「心」を用語として用いると、「潜在意識」は「潜在心または心」となる。(より正確にいうと、その「心の器」は「潜在心の器」である)ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。筆者も同意する。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.17
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進化を統計で扱って1~27~28~29「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには存在するという印象を受ける。☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。さらに、「心の器」というものも想定される。それも、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで同じく、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは同じく分業である。その「心」というのは、普通にいう「潜在意識」なのであるが、「潜在意識」をあてると、「心」という単語の出番がなくなる。すべて、「意識1」「意識2」「意識3」といったような形で表されてしまう。せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだから、それを用いたい。その流れの中で「心」を用語として用いると、「潜在意識」は「潜在心または心」となる。(より正確にいうと、その「心の器」は「潜在心の器」である)ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。筆者も同意する。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.17
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進化を統計で扱って1~27~28「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには存在するという印象を受ける。☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。さらに、「心の器」というものも想定される。それも、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで同じく、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは同じく分業である。その「心」というのは、普通にいう「潜在意識」なのであるが、「潜在意識」をあてると、「心」という単語の出番がなくなる。すべて、「意識1」「意識2」「意識3」といったような形で表されてしまう。せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだから、それを用いたい。その流れの中で「心」を用語として用いると、「潜在意識」は「潜在心または心」となる。(より正確にいうと、その「心の器」は「潜在心の器」である)ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。筆者も同意する。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.17
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進化を統計で扱って1~27「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェア(のようなもの)の準備ソフトウェア(のようなもの)の適用ソフトウェア(のようなもの)の活動それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。☆☆☆筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。ただし、必要なデータと観察結果の記録や基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。そういうことなので、進化については、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。☆☆☆肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには存在するという印象を受ける。☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。さらに、「心の器」というものも想定される。それも、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで同じく、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは同じく分業である。その「心」というのは、普通にいう「潜在意識」なのであるが、「潜在意識」をあてると、「心」という単語の出番がなくなる。すべて、「意識1」「意識2」「意識3」といったような形で表されてしまう。せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだから、それを用いたい。その流れの中で「心」を用語として用いると、「潜在意識」は「潜在心または心」となる。(より正確にいうと、その「心の器」は「潜在心の器」である)ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。筆者も同意する。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.17
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進化を統計で扱って1~23~24~25~26「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、その状態から、枝わかれして進んでいっても、どちらの自分も自分という意識は変わらない、ということになる。その状態でも、自分という意識は変わらず、二重の意識状態だということになる。つまり、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、その自分は、自分というのは今までの自分そのものであるが、意識内容はほかの人の意識内容になっているということになっている。ここを理解することが、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.16
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進化を統計で扱って1~23~24~25「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、その状態から、枝わかれして進んでいっても、どちらの自分も自分という意識は変わらない、ということになる。その状態でも、自分という意識は変わらず、二重の意識状態だということになる。つまり、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、その自分は、自分というのは今までの自分そのものであるが、意識内容はほかの人の意識内容になっているということになっている。ここを理解することが、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.16
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進化を統計で扱って1~23~24「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、その状態から、枝わかれして進んでいっても、どちらの自分も自分という意識は変わらない、ということになる。その状態でも、自分という意識は変わらず、二重の意識状態だということになる。つまり、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、その自分は、自分というのは今までの自分そのものであるが、意識内容はほかの人の意識内容になっているということになっている。ここを理解することが、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.16
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進化を統計で扱って1~23~24~25~26「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、その状態から、枝わかれして進んでいっても、どちらの自分も自分という意識は変わらない、ということになる。その状態でも、自分という意識は変わらず、二重の意識状態だということになる。つまり、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、その自分は、自分というのは今までの自分そのものであるが、意識内容はほかの人の意識内容になっているということになっている。ここを理解することが、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む☆☆☆(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.16
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進化を統計で扱って1~20~21~22「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、4。転生があるかないかは別として、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.15
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進化を統計で扱って1~20~21「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、4。転生があるかないかは別として、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.15
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進化を統計で扱って1~20「だ・である調」で失礼します。(加筆と稿を進めること、などをやっています)進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もあるだろう。後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる。そういった情報構造の可能性の準備情報構造の準備情報(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ハードウェアの可能性の準備ハードウェアの準備ハードウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備ソフトウェアの準備ソフトウェアの適用ソフトウェアの活動それらの検証・フィードバック・修正訂正(以上にも試行錯誤があると考えてみる)以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。肉体的進化においても、似たような要素はあるだろう。そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。さらに、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。(ここの部分は、肉体的進化について述べています)それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。以上のような要素があると考えてみる。(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容である)それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。さらに考えられるのは;DNAとの関係なしの肉体だけの進化DNAと肉体が関係しあっての進化RNAの絡みの部分DNAだけによる進化DNAとRNAによる進化肉体とDNAとの関係ができる部分肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい百数十万年くらいかけてとされ、人間らしい現生人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。そこだけでも、数千億年かかるのではないか、と感じてしまうことを止めることはできない。そうやって計算した結果、現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。いったいどういうことになるのか。そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。そこからでてくるものは・・・(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵がそこには存在するという印象を受ける)☆☆☆実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。そこのポイントのひとつは分業である。その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。そういう順序で、進んできた。で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。意識内容が自分であるとしている。(これは、抽象化した表現である)。より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。それは正しい。実感としては、まったくそのとおりである。それには皆同意するだろう。それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。で、そこには異なるレベルが存在する。「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。1。自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。しかも、そのばあい、いくつかの場合分け2。完璧な映画システムで考えてみる。その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、より完璧に)というものである。それを観て、そういった状態になっている時、3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。これは、結局(2。)と同じになるのであるが、4。転生があるかないかは別として、「だ・である調」で失礼しました。 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.03.15
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