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Back numberをラストに追加しました。タイトルも変更。キンデルダイクの風車群 2 風車の見学キンデルダイク(Kinderdijk)の風車見学風車の起源は「BC3600年頃? のエジプトで灌漑に使われていた。」と言う記録かららしい。その後はっきりしていないが、イスラムの諸国で使われていたものが十字軍の遠征によって、ヨーロッパにも伝えられたのではないかと考えられている。オランダ語で「低地の国」「低地地方」と訳されるネーデルランド(Nederland)。オランダとベルギーで低地利用の為に風車は多く建設されました。キンデルダイク(Kinderdijk)の風車見学1738年~1761年に19台の風車が建設され、アルブラセルワールト干拓地の排水を行った。この風車網は、オランダ国内で最大規模で、19基も残っているのもめずらしいらしい。前回も少し触れましたが、動力が蒸気へあるいは電気に移行すると、風車は捨て置かれ風車に住み着いていた人々も居なくなり、風車そのものも消滅の危機に。人が住んで、手入れをすれば風車も長持ちするので、現在はボランティアの風車番が時々まわしているのだそうです。(土曜日がよくまわっている。)廻っている時の風車は訪問する事が可能。風車には青い旗があがっているといわれていますが、見たことはないです。今回は、それに関係なく、常時風車内部を見学させてくれるモデル・ルーム? を撮影しています。有料ですが、そのお金は風車の保存の基金に使われるので仕方ないです。上の写真の風車の左側に伸びているテール(尻尾)は風向調整の為のレバーとウインチ。風車の羽根に真っ直ぐ風があたる方向にウインチを操作して使います。つまり、機種によって多少異なりますが、風車の方向は、その度に回転させて、効率よく風のエネルギーを受けるような所に設定しているわけです。このテールのついている機種は、風車のキャップ部分のみが動くものですが、風車全体のボディーが動くタイプには下に車輪が付いているようです。また、羽根に帆が付けられる事も。それは風の強さによって羽根には帆が全面、あるいは部分に張られて風を受けやすくする為です。下は、1階の入口に入った所で、右奥が住居部です。上の写真の階段側から撮影。狭いので、内部壁面も合理的に利用されている。2階部分です。主軸の上がディスクウィールと言う歯車で、これが風車軸のある上部歯車を動かし、翼帆軸に取り付けられた風車の羽根を動かしています。内部は動力部が半分しめているので、残りが住居部分です。1階奥のリビング兼寝室です。奥の作り付けのボックスの中がシングルサイズのベットになっています。ちょっとしたワンルームで、一人暮らしなら良いかもしれませんが、内部にはバス、トイレ台所といった水場がありません。風車の横にはたいてい小屋があるので、今は、そちらにあるのかもしれません。電気も来てるし・・。良く晴れていますが、晴れの日の確立は少ないようです。いつもは絵画の中に見るようなどんより曇り空が多いようです。Back numberリンク キンデルダイクの風車群 1 風車の種類 キンデルダイクの風車群 2 風車の見学リンク キンデルダイクの風車群 3 ポンプと風車関連リンク チーズの話(オランダのチーズ屋さん) 1 チーズの発祥リンク チーズの話(オランダのチーズ屋さん) 2 オランダ・チーズ
2009年07月31日
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Back numberをラストに追加しました。タイトルも変更。キンデルダイクの風車群 1 風車の種類キンデルダイク(Kinderdijk)モーレンハング(連列風車)牧場風車orアーンブレングルチェグラウンドセイラー木造六角、又は八角形上部回転風車突然ですが、オランダに飛びました。国土の70%以上が海面よりも低いオランダでは排水システムは最も重要な問題。開拓地(ポルダー)は海抜が低い為に土地の水抜きをする為に導入されたものがオランダの風車でした。キンデルダイク(Kinderdijk)ロッテルダムの南東約13kmの位置にあるノルド川沿いにある村がキンデルダイクです。「子供の堤防」を意味するこの村の風物は、川沿いに並ぶ19基の風車と壮大な景色です。1997年、「キンデルダイクとエルスハウトの風車ネットワーク(The Mill Network ar Kinderdilk-Elshout)」としてユネスコの世界遺産に登録されました。10~11世紀頃から人が住み着くようになったこの土地は酷い低地で、泥土を採掘して溝や水路を造って開拓をdなければ住めない土地。しかし、泥炭地の地盤沈下は進む。河川水位が上がると、堤防を築いて開拓地を守り、河川水位が下がれば水を汲み上げなければならなかった。14世紀までは水門で調整していたようですが、1400年頃に風車が導入され水位を維持できるように。1726年の大水害後から風車はもっと増設されていきます。モーレンハング(連列風車)開拓地内の水位と、その回りに造られた水路の水位差が大きすぎて、1基の開拓用風車だけでは水を充分な高さまで上げられない時に何基かの風車を一列に並べて配置。この数基の揚水能力の総和で開拓地内と水路の水位の差をなくすと言う考えです。それぞれの風車が1段だけ水を押し上げるので、階段式排水法とも呼ばれる。また、連なった風車をモーレンハング(連列風車)と呼びます。5基もあるのでかなり水の汲み上げが必要なのでしょう。牧場風車orアーンブレングルチェ特に低地排水用の排水システムにだけ使われたのがこの基。開拓された土地のより低い部分の排水路から、干拓地全体の平均水位を持つ水路に、水をくみ上げ、排水する。(キンデルダイクには1基のみで、古いものだそうです。)風車が、ベームステル湖、プルメル湖、スヘルメル湖などの大きな湖を干拓し、つい最近まで、西オランダ一帯の水位を管理していたと言う。一時期は、9000基もの風車が稼働していたらしい。(現在は1000基も残っていない。)衰退の原因は、新たな動力機関として、蒸気機関、熱機関、電気などが現れた事による、コスト面か?落雷と、火災、あるいは暴風雨や戦災によって破壊されても再建費用も無かったし、再建の意欲もなかった事。そして、気づけばいつのまにか風車はうち捨てられ、忘れられていったようだ。現在、保護文化財の中でも危険カテゴリーに入る風車は、保存の為にオランダ風車教会を設立。「有志風車番ギルド」と言うギルドの志願者によって保存保護が行われている。グラウンドセイラー周囲に風を防げるものが全く無い所に造られている。地上に直接建てられ、地上から操作。フリースランドでは、開拓地に使われるグラウンドセイラー・ボーフンクライエルス(上部回転式)の風車が、よく「修道僧風車」と呼ばれるのだそうです。今、風車の羽根は、小休止を合図しています。木造六角、又は八角形上部回転風車全ての形に共通するのが、キャップと呼ばれる上部が回転して、羽根を風上に向けるようになっている事。この土地の回りは風車くらいしかありませんが、川を遊覧船で巡り、風車に接近する川下りツアーや、風車の内部の見学ツアーもあります。つづくBack number キンデルダイクの風車群 1 風車の種類リンク キンデルダイクの風車群 2 (風車の見学)リンク キンデルダイクの風車群 3 ポンプと風車関連リンク チーズの話(オランダのチーズ屋さん) 1 チーズの発祥リンク チーズの話(オランダのチーズ屋さん) 2 オランダ・チーズ
2009年07月31日
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ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)(1805年~1875年)はデンマークの代表する詩人であり、童話作家です。彼の原作の童話の中の「人魚姫」(1836年発表)のお話は誰もが1度は耳にした事のある恋の悲劇のお話です。人魚姫(Little Mermaid)英訳すると、ディズニーを彷彿させてしまいますが、原題は「Den Lille Havfrue」だそうです。いつもは、海底深く暮らす人魚の姫の初恋は、もともと成就する事のない相手でした。人魚の王の末娘(6女)は15歳の誕生日に海の上に行き、そこで偶然見かけた人間の王子に恋をしてしまいます。王子の乗った船が、ある日嵐に遭って難破するのですが、姫によって王子は救い出されます。王子への想いがつのり、姫は地上に行って王子に会う事を決心し、人間になる為の魔法薬をもらいに魔女に会いに行くのですが、代償は足の代わりに声帯でした。しかも、もらった足は歩く度に苦痛を伴うつらいもの・・。さらに、もし、王子と結婚出来ない時は「海の泡」となって消えると言うリスクの高いものでしたが、姫の思いは強かったようです。運良く王子の側で暮らす事ができるようになった姫ですが、声のない姫は王子に語る事ができず、一方王子は命の恩人を捜していた・・。結果王子は命の恩人と勘違いしたまま別の娘と婚約してしまいます。どうする事もできなくなって悲嘆する姫に姉姫達が自らの髪の毛を代償に魔女からもらった短剣を姫に渡します。短剣で王子を刺せば、その血で人魚に戻れると言うものでした。結局愛する王子を殺す事のできなかった姫は海に身を投げ、泡となって消えてしまうと言うお話です。子供達から見れば、かわいそうなお姫様のお話ですが、この話にはいろいろな教訓が含まれているように思います。・ 「初恋は成就しにくい事。」・ 「どんなに想っても相手に想いが伝わらない事もあると言う事。」・ 「物事は、常に正しい方向に進むものではないと言う事。」・ 「何かを得るなら必ず代償がいる事。」・ 「愛を貫くなら、自分の死を持って貫く覚悟はあるか?」・ 「愛がかなわない時はいっそ愛の対象を消してしまうか?」下の二つはドラマ性が強くて現実的ではないですが、アンデルセンの恋愛経験と苦悩がこの話に反映されている気がします。生涯独身(未婚)であったアンデルセンは良い恋愛? うまく運んだ恋愛? をした事がなかったようです。下は、コペンハーゲン市役所の横にあるアンデルセンの像です。自分の死を持って愛を貫いた姫は偉かったのか? 私は、彼女は「速まった。」と思います。現実論で言えば、王子に会いに地上に行こうと思う時点で考え直すべきだったのですが・・。(世界が違いすぎる事は、やはり難しい。)姫は人の話を聞かないで、つっぱしるタイプだった? それならもっとズーズーしくても良かったのに・・と思ってしまいますね。デンマーク(Denmark)のコペンハーゲン(Copenhagen)コペンハーゲン港北東部ランゲルニエ地区にある人魚姫の像です。高さ125センチ、重さ175キロ。微妙に角度の違う写真を載せています。1913年、彫刻家エドワード・エリクソンの制作。モデルは彼の妻エリーネ・エリクソン。信じられない事に像は何度も損壊されているそうです。このたび、この像が中国に行く事になったそうです。しばらくいなくなります・・。2010年上海万博の、デンマーク館に出向するようです。像の不在期間中、普段は像がある場所にビデオ・インスタレーション(ビデオモニターを用いた造形作品)が展示されることになったそうです。2010年の4月から11月まで(8か月間)コペンハーゲンを留守にすることについて、コペンハーゲン市民の大半が反対しているようですが、決定したみたいです。下は、日中の写真です。日射しでちがうものです。すでに知られた事ですが、俳優の亡き「岡田眞澄」さんが、モデルのエリーネ・エリクソンさんの甥に当たるそうです。
2009年07月30日
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エーゲ海に浮かぶ島々を幾つか紹介してきましたが、島の街の中の写真が充実しているのがこのミコノス島です。つまり、絵になる写真が撮影できた場所がミコノスと言う事になります。ミコノス島(Mikonos)ミコノス・タウン(Mikonos Town)港に面して、格式? のある大きな建物が並んでいますが、ミコノスの魅力はその背後にある迷路のように広がる街区(旧市街)にあると言われています。白壁の家々が密集して建つ街区は、前回家族教会で紹介したように、パブリックとプライベートが混在した街ですが、さらに街区の2階屋、外階段を持つ独特の家の造りも、よりパブリックとプライベートを混在させているようです。外階段を持つ街区の家々は、今は1Fを店舗として貸している所もありますが、もともとは1Fが「リビング」や「客室」、「ダイニング」で、2Fが「寝室」といった、れっきとした1件の家の造りになっているのだそうです。ただ、私達の感覚と少し異なるのが、内階段がなく、上下階をつなぐ階段は外階段だけの所が多いく、トイレも階段下に1箇所で、家の中の移動の度に外に出るといったように、生活動線に外が含まれる造りのようです。狭い路地は、街区を不規則に縦横無尽に走り、その路地の壁には売り物の服がディスプレイされ、路面店舗にもなり、カフェ、レストランは狭い路におもいっきり椅子やテーブルを出して商売していると言うバナキュラー(お国柄)な一面を見せてくれています。迷い混んだ通りは、幾筋にも奇っ怪に路分かれをしては、さらにくねって、およそ想像とは異なる方向にへと導いてくれるので、方向感覚の無い人では迷ってしまうのかもしれませんね。Aディスプレイの仕方では、店と言うより洗濯物でも干しているようにも・・。通路は、側溝こそないが、水がうまくはけるように計算されているようですね。下が、外階段を持つ造りの家ですがが、ここは2階も店舗のようですね。B良く考えて見れば、大阪の商店街もこんな路地ありますね。(こんなに綺麗じゃないけど・・。)大阪のすごいのは、こんな路地も自転車やバイクがグイグイ入ってくることです。洋服、宝石、ギリシャ・アート、手編みセーター、毛皮、ギリシャ民芸品、ハンドメイド・アクセサリー等個性的な店が多いそうです。意外に思うかも知れませんが、ギリシャは毛皮が安いです。上質とは言えませんが、パッチワーク技術で一見高そうに見える安いコートなど掘り出し物があるかもしれません。C火事になったらどうやって火を消すのかな? 消防車は無理ですものね。最初から外テーブルが計算に入っているのでしょう。考えたら外テーブルのレストランがめちゃくちゃ多いですね。外で食べるのが好きなのか? 昔からの名残なのて゜しょうか?DE迷宮からの脱出。ポートに出てきた所。F一説には海賊対策で迷路のような造りにしたとか言われてますが、街区は城壁の中に住んでいた人々が城壁から出て、自然発生的に出来ていったものだそうです。1204年4月13日十字軍はベネチアの甘言に乗り、コンスタンティノープルを陥落させるとラテン帝国を建国。(十字軍の国家)ベネチアは、多くの戦利品と、交易の中継地などを手中にします。(ベネチアが大スポンサーだったから・・)クレタ島やキクラデスの島々も、東方貿易の拠点としてベネチアに目をつけられていた場所のようです。カストロと呼ばれる城塞型の街をこのミコノスにも築いていたのだそうですが、痕跡は、今は一部だけなのだそうです。むしろ、トルコ支配の300年間は割りに締め付けがゆるく、ギリシャ文化を維持できたようです。
2009年07月29日
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ミコノス島の教会ミコノス島には大小取り混ぜて365件もの教会と礼拝堂があるのだそうです。本当に可愛らしい聖堂が街のいたる所にあり、そのカラフルなドームは、必ず視界のどこかに入ってきます。なぜそんなにたくさんの教会があるのか?教会は家族教会と呼ばれるもののようです。本当に一族の元は墓地をも兼ねた家族の祈りの教会だったようです。バラポルティアニ教会(Paraportiani Church)Aミコノス島で最も有名な教会。形からギリシャ正教の教会だとわかりますね。家族教会リトル・ベネチア(パルキア街区)には4つの小さな家族教会が並んでいます。4連の教会の下には、一族の先祖が眠っているのだそうです。19世紀の半ばにミコノスをコレラが襲うまで、家族教会は墓地の役割も果たしていたようですが、それ以降は衛生面から共同墓地に埋葬する事が義務ずけられ、街中に教会を造る事も禁じられたそうです。どうしても家族教会に埋葬したい人達は、3年目の復活祭まで共同墓地に葬り、その後、赤ワインで骨を洗い清めて家族教会の床や壁の中に埋葬し直したのだそうです。下はローマン・カトリックの家族教会です。BBの教会の祭壇です。カトリックはシンプルです。Cパルキア等の古い街区では一族が家族教会の近くに寄りそうようにして集まって家を構えるそうです。その為に家族教会のある路地は、一族がそれぞれ核家族単位で住居を持ちつつも、大家族連合を形成した集落のようになっているようです。例えば、老いた親が一人暮らしをしていても、同居はしないようです。なぜなら、家族は同じ路地で暮らしているので、同居するまでもなく、食事を運んだり世話ができるからなのだそうです。つまり、教会をリビングとして、路地は家の廊下のようなものと見られているのかもしれません。本来パブリックな路地も彼ら一族のプライベート空間なのかもしれません。キクラデス諸島は強固な父系社会なのだそうです。新婚夫婦に家を用意するのは花嫁の父の仕事とされ、新郎の家族教会の近くに家を用意するのが努めのようです。(周囲の期待もあり、何が何でも探して確保しなければならないのだそうです。)そうして家族教会の回りには同じ名字の人達だけが住むのでしょうか?下は、ギリシャ正教の教会です。DDの教会の祭壇です。E小さいながらもギリシャ正教をしっかり表していますね。聖障(せいしょう)イコノスタシスはかなり奥にあり、至聖所は狭そうです。基本、至聖所は僧侶だけしか入れないそうですが、家族教会の場合はどうなのでしょう? 家長の父だけでもはいれるのかな? それにしても床下が墓地なのかな?セント・ニコラス教会Fミコノス島でもAのバラポルティアニ教会に並んで有名な教会です。頭にドームがついていたら、色は関係なくギリシャ正教のようです。つづく
2009年07月29日
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ミコノスは紹介する歴史も特にないので、写真中心です。観光ガイドブックを広げると、ミコノスのページは数ページもあるのに役に立つ情報がたいしてない。(実際にはどうでも良い情報でページがうまっているものもある。)皆、本当にガイドブックをあてにして頼って歩いているのか? と、疑問に思う事がある。島の交通も、ホテルの探し方もビーチの案内もクルーズ船でしか来ない日本人にはほとんど不要であるし・・。レストラン情報だって、案外潰れて無くな」っている事も多いし、売れてくると値段も高くなっていて、観光客と土地の人の値段が違う(メニューが別)所もある。入場料金とか、市内のバス代とかもすぐに変わるし・・。(だから私は金額をあまり載せない。)多分ガイドブックはどっちつかずに、いろいろ載せようと思って中途半端になるのかもしれないが・・。自分が求めている情報が無いと思う人のがきっと多いと思う。ガイドブックも顧客のニーズ分けをしないとね・・。そもそも古いガイドブックに情報の価値はほとんどない。本としてまとめて編集している間にも情報がどんどん更新される昨今、本という印刷物は時代遅れなのではないかと思う。「必要な時に新鮮な情報を必要な箇所だけインターネットで買えた方が合理的なのに。」と思う・・。(JTBでさえ、会社に情報バンクが存在しないのだから出来ないだろうが・・。)まあ、ギリシャのような田舎ならそんなに変わる事もないだろうが、ハワイなど6ヶ月くらいで街も店もホテルの名さえ変わっていたりするから高いガイドブック買ってももったいないし・・。(ハワイなら街でフリーペーバーがもらえるからそれで十分かも・・。)歴史情報に鮮度は関係ないけど、旅行情報には、鮮度が重要なのです。ミコノス島(Mikonos)今回は、リトル・ベニスの向側PORT周辺このあたりは浅瀬です。あちこちに小さな教会があります。清潔感あるかわいい造りですね。(教会は次回まとめて紹介。)ポートのまわりは、カフェが多い。(もちろん夜はレストランに。)同じに見えてもちゃんと店の個性は出ています。犯罪なんて縁のなさそうな島ですね。つづく
2009年07月28日
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やはり、地図が必要かと載せましたが、今回紹介するのはミコノス・タウンだけです。(クルーズで寄る所のみ)。ミコノス島(Mikonos)ミコノス・タウンは島の西端の中ほどに位置しています。クルーズ船が寄港するのはミコノス・タウンの上のトゥーロスの港(いかりのマーク)です。傘マークがビーチで、ビーチがとても多い事がわかると思いますが、第二次世界大戦以降にリゾート旅行のメッカとして注目された島なのです。遺跡のあるデロスの島よりもやはりのんびりリゾートの方が好まれるようですね。ミコノス・タウンには小舟の停泊する湾(Port)と、風車の丘の下のリトル・ベニスと言われる湾(湾とは言えないですが・・)があり、今日は風車とリトル・ベニスを紹介します。風車とリトル・ペニスリトル・ベニスとか、ヴェネチアン・ポートと呼ばれるアレフカンドラの街区は、海ぎりぎりまで白壁の密集した家や教会が建ち並び、かつブティックやカフェ、タベルナ(レストラン)が軒を連ねています。白壁と、空の青色で塗られた建具と赤い教会の屋根などの限られた統一されたカラーによる、素朴にしてアートチックな街の景観は、本場ベニスよりもポップで親しみやすいかもしれません。カト・ミリ風車 風車と言えばミコノスの専売特許のような存在です。地元の人がメルテミと呼ぶエーゲ海特有の強い風を利用してかつては小麦をひいていたようですが、今は、ただ島のシンボルとして6基たたずんでいます。小さな丘ですが、街がぐるりと展望できます。配色のセンスが抜群ですね。下は、風車からリトル・ベニスを眺めたものです。リトル・ベニスの一帯は、カフェが多いのですが、夜になるともっとテーブルが広がって、ムードのあるシーフード・レストランに早変わりします。(だからペリカンのペトロス君はお裾分けをもらう為に練り歩くのですね。)下は、リトル・ベニスの端です。まさか水に浸かっているからベニスなの ? そんな理由 ? 下は、リトル・ベニス側の海に出た小さなカフェ・テラスから風車を撮影です。眺めは素敵ですが、無理に造った感のあるスペースでしかも暑いし・・焼けるし・・。私は冷房付きの部屋の中のがいいな・・。日本人の発想ですかね? それにしても外人は外が好きですね。恐らくこの海の席は一等席で、夜はリザーブされて上客が座る席なのだと思います。つづく
2009年07月28日
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ちょっと触れようと思っただけだったんですが・・。せっかくだから写真を載せたら長くなって、ミコノス島は今回カット。次回につづきます。謎のエーゲ海文明キクラデス文明(Cycladic civilization)新石器時代から青銅器時代初期(BC3000年~BC2000年頃)にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えたとされる文明でクレタ島のミノア文明よりも古い文明です。以前「サントリーニ島4(ロバと街)」の所でそのキクラデス文明に少し触れましたが、アトランティス大陸か? とも思われる高度な文化を持った文明だったようです。この頃の人々の様子が、ある土器から推察できたそうです。シロス島のハランドリアニ遺跡からたくさん出土しているそのフライパンのような形をした土器は、背面に長くオールを30も持つ船の絵が描かれ、大型の船をあやつっての交易らしき文化のあった事がわかるそうです。ただ、その土器そのものの用途が未だ謎だとされています。下が、形から「フライパン」と呼ばれる謎の土器。アテネ国立考古学博物館所蔵キクラデス諸島には大きな特徴があり、それぞれの島から産出される天然資源が不均一に異なるのだそうです。例えば、黒曜石(石器の材料)の産出はミロス島のみ。銀や銅等の鉱石の産出ははシフノス島とギリシャ本土のアッティカ東南のラヴリオン一帯のみ。BC2000年頃まで栄えたキクラデス文化の遺跡にはすでに黒曜石の石器のみならず、青銅製の短剣や槍先、金や銀のブレスレットなどが出土しているので、島々相互の特産を交換しての海上交易が早くから行われていた事がわかるのだそうです。この交易は、キクラデス諸島内にとどまらず、トルコのアナトリアにまで広がるものだったようで、アイソトープ検査で出土品の履歴が今は特定できるのだそうです。キクラデスの大理石彫刻キクラデス文明の遺跡からの出土品に白亜の大理石を様々な形に加工した容器や、精巧な大理石製の石偶が出土しています。大理石はエーゲ海地域に広く産出し、神殿建設や彫刻には欠かせない素材ですが、どこからでも産出されるものではなく、とりわけ光沢のある美しい上質の鉱脈を求めてキクラデス文明期から探し求められていたようです。(パロス島に採掘抗の跡が残るそうです。)下は、ケロス島から出土した石偶「アウロスを吹く人」 アテネ国立考古学博物館所蔵。対に「ハープを吹く人」がある。優美な一対として、ある音楽を奏でる石偶である。これらキクラデスの石偶は後のギリシャ彫刻に見る精巧な大理石の彫刻とは異なりますが、現代のモダン・アートを思わせる水準の高い造形です。(決して稚拙ではないです。)キクラデスの彫刻作品を見たときに驚きました・・モディリアーニが頭に浮かんで・・。下も、おそらくデロス島からの出土品? アテネ国立考古学博物館所蔵。アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年~1920年)がキラクデスの彫刻を知っていたとは思えませんが、彼の彫刻作品は確かに民族美術に影響を受けた模倣にも近い作品だったのは確かなのです・・。(彼の作品はアフリカ系が多いですが、デッサンはギリシャ彫刻も結構ありました。)やはり(モダンだと)そう思ったのは私だけではなかったようです。20世紀半ばにコレクター達がその現代風な彫刻(ジャン・アルプやコンスタンティン・ブランクーシを想わせる)を奪い合うようになったことで再び注目された。(ウキペディア)残念な事にその為に遺跡が掘り荒らされてキクラデス彫刻は散逸して文明の脈絡が解らなくなってしまったようです。(作品が少ないと思いました。偽物も盛んに取引されたと言います。)文明は一線的に発展するものでは決してないそうです。ギリシャも初期青銅器時代から現代までに繁栄と衰退を繰り返し、時には自然現象で文明は絶え、時には侵略者により塗り替えられて来ています。キクラデス文明とクレタのミノア文明は、場所柄が近いにもかかわらず似て非なる文明なのだそうです。何故キクラデス文明が衰退したのか? 何故クレタ島の力が増したのか? 是非とも、そのきっかけを知りたいものです。これから博物館を廻る時は、キクラデス文明期の彫刻に注意してみなければ・・・。とは言え、実はギリシャ彫刻ではアルカイック期の作品が結構好きです。精神的に受ける何かインスピレーションを感じるんですよね・・。そう考えて見ると、ギリシャ彫刻は美しいだけでなく、奥が深ーいのかもしれないです。
2009年07月27日
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お待たせしました。正解はミコノス島です。ミコノス島(Mikonos)ギリシャのエーゲ海クルーズを象徴する人気の高い島の一つがこのミコノス島です。歴史的見所はありませんが、白壁の家々が群れる景観が美しく(白と青と赤)、私達観光客からしたら、別世界に来た感が一番感じられる島(私達の中のギリシャのイメージ)だからだと思います。問題のペリカン君はもしかしたら島のアイドルのペトロス君かもしれません。愛想の良いペリカンが人混みのカフェの中までうろついていると言われています。餌付けされたか? 社会性のある鳥なので人間と共生しているつもりなのかもしれませんが・・。クルーズ船からの上陸は2通りあり、クルーズ船が混み行っていて、直接接岸できない場合は、テンダー・ボートが利用されます。(その方が街の中心に近い)ミコノス島はキクラデス諸島に属するエーゲ海に浮かぶ小さな島です。東西15km、南北10km。面積は59km2小豆島の半分もないような島なのに、古代には2つのポリスが存在していたそうですが、共に力もなく、近くにデロス島があり、アポロンの聖地としてエーゲ海の通商の中心地だったデロス島への人手や生鮮食料を送るといったサブ的な役割りをした島のようです。現在は、すばらしい遺跡のあるデロス島より、世界中より観光客が集まるリゾート地となった、ミコノス島人気が高く、デロス行きの船はミコノスからしか出ていないそうです。5~9月までは観光客で賑わう島です。いつもは静かな漁村も、夏にはバーや、カフェ、ディスコなども現れナイトライフも楽しめる街に変わるそうです。紺碧の海と白壁の美しさと丘の上で存在感あるたたずまいを見せる風車はこの島の名物です。大地は花崗岩で構成されているそうで、水源が少なく、海水の淡水化で淡水の需要を応えているそうです。ハイ・シーズンでものどかさを感じる港町です。いきなり美しい海がひろがっています。サントリーニ島と違ってなだらかで、標高も低い(364m)のでビーチも多くリゾートには向いているようですね。つづく
2009年07月27日
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Break Time (一休み)クイズです。下の写真がどこかあてて下さい。タコを食べる民族は限られていますね。ぶつ切りにしてオリーブオイルをかけてたべるのかな? 多分・・。ここには、こんな夫婦も住み着いています。人間が近くにいても全然逃げません。て、言うか今まで車の影で日除けしていました。毛づくろいですか? 首が180度まわるんですね。ペリカン(Pelican)ペリカン目ペリカン科に属する鳥類だそうですが、DNA - DNA分子交雑法という分子生物学的手法を使ったSibley-Ahlquist taxonomy of birds(ジブリー・アールキスト鳥類分布)ではコウノトリ目・コウノトリ亜目・コウノトリ下目・コウノトリ小目・ペリカン上科・ペリカン科・ペリカン亜科になるのだそうです。大型の水鳥で最大の種では全長170cm(翼長 約3m)|肉食で、寿命は10~25年にもなるそうです。クチバシの中に魚を捕らえますが、ペリカンは袋の中に魚を蓄えず、それを傾けて水を吐き、素早く魚を飲み込むようです。アメリカモモイロペリカンはおよそ12リットルの水をクチバシに貯めることができるのだそうです。ペリカンは世界中の海岸、あるいは湖や川の沿岸で見られ、社会性のある鳥なのだそうで、たいていは群れで移動し、列を成したり、コロニーと呼ばれる集団で繁殖するようです。スペイン語では「アルカトラズ」と言うそうです。アルカトラズ刑務所そんな名前のアメリカ映画がありましたね。1979年に公開されたアメリカ映画「アルカトラズからの脱出」主演クリント・イーストウッドサンフランシスコ湾に浮かぶ鉄壁の牢獄、アルカトラズ島の「アルカトラズ刑務所」からの脱出をはかった映画です。「ザ・ロック」と別称される所から、同じ「アルカトラズ刑務所」からの脱出をはかった映画(この映画は逆で、監獄への浸入でした。)として1996年の公開されたアメリカ映画「ザ・ロック」は主演ショーン・コネリーで渋くてとても素敵でした。(ニコラス・ケイジも出ていました。)1850年より軍刑として利用された頃から、脱走しにくさと苛酷な環境で悪名高かった島の刑務所は1906年より一般の刑務所として利用されてから39人が脱獄を試みたそうです。島の周辺は潮流が速く水温が低いため島からの脱出はほぼ不可能とされ、脱獄者は39人中7人が射殺、1人が溺死、5人が行方不明(公式記録上は死亡)、26人再捕獲。1963年時の司法長官ロバート・ケネディによって連邦刑務所は閉鎖(閉鎖理由は不明)。実際の脱獄を再現した映画もできる伝説の刑務所です。現在は(1973年から)一般公開され、定期観光船が出ているそうです。いつか行ってみたいと思っています。でも、なぜ島の名がアルカトラズなのか? ペリカンは島に集まる生態があるようで、恐らくこの島がペリカンの集う島だったからアルカトラズになったのだろうと推測できますね。ずいぶん本題と離れましたが、ヒントは今までの流れでエーゲ海のどこかです。もう一つのヒントは、サントリーニ島にならんで人気のある島です。次回から少し紹介します。
2009年07月26日
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忙しい事は続くものである・・。今日は1日寝てようかと思ったのに・・商店街のお祭りをうちの寝室の真下でやっている・・。友人が出店するから来てくれと言われて、義理で顔を出し、バックとかマイケルジャクソンのTシャツを買わされて帰って来た。(バックはかわいいので7個も買った。)昼はロックでけたたましく・・・今は盆踊りタイム・・窓を閉めていてもうるさいのです。連日疲れてきちんとまとめられていないので、ギリシャ正教はもう少しきちんと紹介したいのですが、なかなか思う写真がなくて・・取りあえず今回は正教会の造りを見てもらう感じでいこうかと思います。写真そのものの紹介はあまりありません。エギナ(Egina)島アテネに近い、サロニコス湾にあるサロニコス諸の一つです。主要5島のサラミス、エギナ、ポロス、イドラ、スペツェスと他無人島で成っています。高速艇なら35分の距離。ギリシャでのエーゲ海クルーズのお手軽1日3島めぐりに入る島ではありますが、見所はBC480年頃のドーリア式神殿を持つアフェア神殿くらいです。今回はそこをよけて、地元の正教会を紹介します。この島はとても地味ですが、教会だけははたくさんあるのだそうです。下は、エギナ島入港ですが、見所も特になく、普通に漁村です。地味な島ではありますが、新ギリシャ国の独立当初(1827年~1829年)は首都になった事もあるそうで、(何故? )古代にはアテネを脅かす強大なポリスがあったのだそうです。(だから?)アフェア神殿の保存状態は良く神殿の原型がわかります。下は、エギナ島の正教会です。結構立派ですが、新しいのかもしれません。キリスト教系には絶対見えないですね。恐らく上空から見ればギリシャ十字の形をしていると思われます。下は聖堂内部です。下は、円天蓋ですが、光の取り入れが正教会の方が上手かもしれません。初期ローマ・カトリックの聖堂を考えても、ビザンチンはすでにこのタイプの聖堂を完成していたわけですから、文化レベルがかなり高かったのが解りますね。まさに天からの光が差し込んでくるような光源です。下は、天蓋の下に必ずあるシャンデリア。シャンデリア(Chandelier)生命の樹、再生、不死、知恵、宇宙を表す聖木は古今東西を問わず崇拝され、その果実は星に例えられ、知識の光源とみなされたそうです。それを貴金属で具体化したものがシャンデリアなのだそうで、それは叡知のシンボルを表現していると言います。そんな深い意味がシャンデリアにあったなんて・・。サントリーニ島の正教会でも天蓋の真下にもありましたね。下は、聖所、至聖所(しせいじょ)と会堂を区切る聖障聖障(せいしょう)イコノスタシス至聖所(しせいじょ)と会堂を区切る聖障には、聖人などの聖画像が直接描かれている場合と、イコンが掛けられている場合があります。聖人を身近に感じるだけでなく、儀式の時に彼らもそこにいるのだとされています。聖障は普通は木製の高い仕切りで、細かい浮き彫りを施して金色に塗り、聖画像のパネルを掛けるようですが、今日はこの聖障が正教会の会堂と至聖所を分けているそうです。この壁は、ビザンチン時代の後期に使われるようになったようで、初期キリスト教の祭壇前の仕切りは仕切りは低くできていたようです。その後至聖所はカーテンなどでおおわれる事はあったようですが、今の聖障に至ったのは、典礼のドラマ性の強調と聖画像の人気から身近に飾られるようになったからとされています。司祭が出入りする中央の扉は、儀式に神秘性と、ドラマ性を加えられなければならないようです。(ここはシンプルですが・・。)東ローマ帝国(ビザンチン)の人達は、典礼を重要視していたそうです。聖ヨアンネス・クリュソストモ(344年~407年)が作ったとされる典礼は、7世紀の終わりには確立していたそうで、聖バレシイオスの典礼や、四旬節の水曜と金曜、聖週間の最初の3日間には前の日曜に聖変化したパンとぶどう酒を使って聖体拝領をする事前聖別の典礼は今も正教会の典礼として残っているそうです。典礼と言う聖なるドラマは聖職者が演じ、正教会の会衆もそれに参加し、聖堂に飾られるモザイクやイコンの聖人画像も礼拝の場にいて見守っていると解釈する? ようです。
2009年07月26日
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ローマ帝国のギリシャ語文化とアヤ・ソフィアローマ帝国におけるギリシャ文化の扱いとギリシャ語ギリシャ正教(Greece Orthodox)とはオーソドックスでは「正統」と言う意味だそうです。ギリシャ正教は「東方正教会」とも呼ばれますが、正教会は数々あれど、そもそもギリシャの名を冠して残るのはなぜか? それは、ヘレニズム時代以来伝わるギリシャ古典古代のすぐれた高度な文化文明を崇敬していたからのようです。古代ローマ帝国の共和国制の末期からローマ人の指導者階級の者達は、ギリシャ語や文化を熟知する事が必要条件だったとされています。ギリシャのすぐれた古典、古代の文学(詩文等)を読んで知る事、また、それを演説の中で引用したりするに足りる教養(知識と知恵)は、身に付けるべき素養と考えられていた。また、文武の高官として東方の属州に赴任した場合、配下の役人や、軍人、地元の有力者、陳情者、裁判を受けに来る者達とのギリシャ語での会話も必要条件だった。他にも、ギリシャ語表記の書類を読み、決裁をこなす事は、「出来ない」ではすまされないローマの高級外交官の仕事であったらしい。つまりギリシャ語が出来ないようでは、高級外交官にも高級軍人にもなれなかったと言う事です。それ故、指導者達の師弟は、子供の時からギリシャ人の家庭教師が付けられ、長期としては現地への語学留学もなされたようです。(カエサル(シーザー)はロドス島に留学して、ラテン語とギリシャ語を毎日使っていた言われている。ビザンチン帝国はラテン語を公用語としていたが、実情的にはギリシャ語文化圏だったわけで、結局ギリシャ語のが多く使われたようです。ローマ人が各地に設けた図書館の本は、ラテン語とギリシャ語でそろえられたと言うが、教会の典礼では最初からギリシャ語が使われ、聖書もギリシャ語で書かれていた。ギリシャ正教は、その後バルカン半島からロシアに広まり(セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ロシア)、後にロシアを除いて殆どはイスラム教徒のアラブ、トルコに征服されてしまう。ビザンチン帝国そのものも、1453年コンスタンチノープルの陥落で終わります。アヤ・ソフィア聖堂下は、アヤ・ソフィア聖堂内部。昨日も紹介しましてが、モスクの漆喰をはがすと、キリスト教徒のフレスコ画があらわれたそうです。円屋根の高さは56m。下は、上の写真のアブスに残された、最も美しい聖母子と言われる。当初は絵画もモザイクもなかったようです。現在みられるものは、イコノクラスム(聖像破壊運動)以後のものらしい。(9世紀~10世紀頃)1453年、コンスタンチノープルを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は入城するとすぐにこの大聖堂におもむき彼は大聖堂入り口の土を自らのターバンに振りかけてから堂内に入ったとされコスタンチノープル総主教庁から大聖堂を没収すると、すぐにここをモスクへ転用することを宣言したと、言われている。アヤ・ソフィア内部は十字架が取り外され、壁画は塗り固められ、ミフラーブ(メッカの方向を示すくぼみ)が加えられる。その後、4本のミナレットが建設されて、礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇が取り付けられ、イスラムからこの聖堂は、アヤソフィア・ジャミイと呼ばれるようになった。オスマン帝国の君主が毎週の金曜礼拝に訪れ、オスマン帝国においてここは最も格式の高いモスクの一つとなった。下も聖堂内部。イスラムのコーランが書かれた円形の額?下は吊りランプ下が、オスマン帝国のメフメト2世によって加えられたミフラーブ(メッカの方向を示すくぼみ)アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられたましたが、内部の改修は必要最低限にとどめられた。今日は姪の(近隣地区の高校の)バトミントン大会でした。バトミントンのコートは冷房が使えないので(風が起きる)暑くてたまりません・・。今日はいつもより設備が良かったですが、古い田舎の体育館は死にそうになるくらい体熱が上がって辛いです。(都大会予選の会場は酷い・・。)今日の試合は、決勝戦でボロ負けでした。学校が穏やかでのんびりした校風なので、どうも人を蹴落として上に行こうと言う意欲も、いろんな意味で欲というものを彼女達は持っていません。(皆で楽しくバトミントンが出来れば良い。)決勝戦でもマイペースで覇気がないのが見て取れて、せっかく応援に行ったの優勝を目の前にしてガッカリ。己の技を磨く日々の精進はしているようですが・・優勝はずっとないだろうな・・。
2009年07月25日
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サントリーニ島でギリシャ正教会に触れたので、正教会の成り立ちなどを少し・・。写真は元、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)のギリシャ正教会アヤ・ソフィアから・・。※ 2020年「アジアと欧州を結ぶ交易路」の関係で多少書き換えタイトルも変更しました。使徒パウロの布教とギリシャ正教会ローマ帝国下でのキリスト教の布教使徒パウロローマ帝国時代のキリスト教の五大中心地ギリシャ正教会(東方正教会)の成立アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂のモザイク壁画ローマ帝国下でのキリスト教の布教イエスとその弟子、孫弟子が布教していた頃の1~2世紀は、ローマ帝国の黄金期の時代に重なります。ローマ帝国の威力による安定(パワーバランス)。奇しくもそれは全地中海の平和と安定となり、人の往来も自由にできたらしい。特にローマ帝国の第14代皇帝ハドリアヌス(76年~138年、在位117年~138年)の治世にローマ帝国の領土は最大となる。東はシリアから西はイベリア半島まで、人々は何の心配も妨げもなく旅ができたと言う。言語もローマ帝国の東半分ではギリシャ語が使われ、西半分はラテン語が公用語として使われ、広い範囲で、民族の壁を乗り越え文化文明は広がった。また伝わったのは文化だけではなく思想も同じ。このような広域な文化交流はそれ以前には無く、まさにローマ帝国のおかげでその地域は活気づいたのである。ローマ帝国が分裂して無くなるまでの間(安定期)、帝国内の文化は成育され続けた。キリスト教は、この好条件のもとで布教活動が行われたので短期間でローマ帝国内に広がったようです。またそれには使徒パウロの存在も大きい。※ 実際、迫害を行ったとするローマ皇帝は少ない。唯一ラテン語を話しギリシャ語も話せた使徒パウロの参加はキリスト教の世界布教に大きな貢献であった事は確か。何しろ十二使徒はほとんどが漁師だったのでパウロの学識に寄る布教活動は大きな力となった。言葉が通じなければ布教はできないのだから・・。それにパウロは、ユダヤ教の垣根を超えて異邦人にも布教活動を展開。一つ民族の宗教が全ての民族に向けられた宗教に拡大するのはこの時である。それだけではない。パウロは奴隷と主人の区別も、男と女の区別もなくキリスト教の布教をしてまわったそうだ。サンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)ローマの五大バジリカの一つで聖パウロを祀った聖堂。聖堂の写真はどちらもウィキメディアから借りてきました。下の写真は像のみ切り取って拡大しています。聖パウロのアトリビュートは閉じた本と剣使徒パウロ※ パウロとはサウロのギリシャ名。聖書ではサウロで示されている。12使徒には入らないが、新約聖書の著者の一人でもありキリスト教の布教に多大な貢献をした第一任者である。パウロはヘブライ人のユダヤ教徒で初期キリスト教の使徒であるが、もとはファイリサイ派の熱烈なユダヤ教徒で当初は敵対意識を持っていた。ダマスコ途上で天から降りたイエスに出遭った事で回心したとされる。以降、生涯をかけてイエス・キリストの福音を告げる役を担え事になる。パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えたた事から「異邦人の使徒」と呼ばれる。初期キリスト教の様子を書いた「使徒言行録」は「ルカによる福音書」の続編とされ特に2人の使徒ペトロとパウロの活躍が中心に描かれている。※ 「使徒言行録9 パウロの回心」では「あの者は、異邦人や王達、またイスラエルの子らに私の名を伝える為に私が選んだ器である。」とキリストが言明している。パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のもの。※ 新約聖書中のパウロによる書簡・・「ローマの信徒への手紙」,「コリントの信徒への手紙一」,「コリントの信徒への手紙二」,「ガラテヤの信徒への手紙」,「フィリピの信徒への手紙」,「テサロニケの信徒への手紙一」,「フィレモンへの手紙」ルターはパウロ書簡を極めて高く評価している。実はパウロにキリスト教における神学論で中心的な地位を与えたのは宗教改革以降らしい。アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)による4使徒左から「ヨハネ、ペテロ、」「マルコ、パウロ」ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)から以前「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー」でも紹介しています。リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーローマ帝国時代のキリスト教の五大中心地エルサレム(発祥の地)、アレキサンドリア(プトレマイオス朝の首都)、アンティオキア(セレウコス朝の首都)、コンスタンチノープル(東ローマ帝国の首都)、ローマ(西ローマ帝国首都)です。アレキサンドリとアンティオキアは、ローマ帝国時代に入っても有力な都市だったようですが、7世紀にアラブ人により領土が奪われ、ローマとコンスタンチノープルだけが残りました。下は、コンスタンテチノープル(現イスタンブール)アヤ・ソフィア聖堂最初の聖堂は360年コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世によって建立。二度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝が537年に再建。現在はアヤ・ソフィア博物館となっています。ギリシャ正教会(東方正教会)の成立ローマ帝国のを再統一したコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は313年にキリスト教を公認。(古カトリック教会)テオドシウス1世(Theodosius I)(347年~395年)は392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に制定。ローマ帝国はテオドシウスの統治下、比較的安定していたが「蛮族移住政策」もテオドシウスの死後破綻。395年、テオドシウス1世の治世が終わるとローマ帝国は東西に分けられる事になる。 長男に東を次男に西を与え、分割統治する予定だったが、帝国は二度と合体することなく分裂する。その時、宗教も東と西に分裂。西ローマ帝国(ラテン帝国)は、バチカンを総本山とするローマ・カトリック教会となり。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が、ビュザンティオン(コンスタンテチノープル)を主教庁とする東方正教会(ギリシャ正教会)となる。※ 以前「ベネチアのサンマルコ寺院とビザンティン帝国」でも紹介済み。リンク ベネチアのサンマルコ寺院とビザンティン帝国東西に分裂したキリスト教は、その時より、互いに「正統」を主張する確執が生まれたようだ。アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂のモザイク壁画「聖なる叡知」の教会アヤ・ソフィアは建立されて以来360年~1453年までほぼ1000年間、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の宗教の中心地となるのです。しかし1453年ビュザンティオン(コンスタンテチノープル)はオスマン・トルコに征服さる。教会はそれからの500年間、「アヤ・ソフィア・モスク」としてイスラム教徒の祈りのに改変されていた。しかし、アヤソフィアは1453年からイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた為に、当時の壁画が今も美しい状態で残されていたようです。下は、アヤ・ソフィア聖堂南入口とモザイク壁画10世紀末のモザイク、聖母の右はコンスタンチノープルを捧げるコンスタンチヌス帝。左は、アヤ・ソフィア聖堂を捧げるユスティニアヌス帝。下は、聖母左が、ヨアンネス2世右が皇后エレーヌ。献金袋と巻物をもっている。信仰深い彼らはパントクラトール修道院を建立。下は、南廻廊の東端にあるモザイク。右は皇后ゾエ、左は、コンスタンチヌス9世。こちらも献金袋と巻物を持っている。中央、福音を持つイエス・キリストが祝福を与えている図なのだそうです。このアヤ・ソフィアを建立したり、改修したり、修復したり、献金したりした歴代の東ローマ帝国の皇帝達が、祝福を受け、名誉を刻んだ図のモザイクが多いようです。確かに、一番の寄付者は皇帝でしょうから・・。ギリシャ正教とアヤ・ソフィアはつづく・・。明日も1日外出です。続きは夜遅くになると思います。
2009年07月24日
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昨日は、写真だけでも載せようかと思ったが・・2日の徹夜とお出かけで昼寝程度では、睡魔に勝てなかった・・。(思考力が0になったし・・)今日は、サントリーニ島のフィラの街にある教会を一つ紹介します。教会はもちろんギリシャ正教です。ギリシャ正教は華美なイメージがありますが、ここの島では教会は真っ白でとてもモダンな外観をしています。(中もシンプル)サントリーニ島(Santorini)の正教会下は、望遠で撮影。後ろに見えるのはブドウ畑?入口は、左から4つめのアーチの下にあります。何てオシャレな赤い花器、何て素敵な場所に置くのでしょう。なぜアーケードがこんなに長いのか? と思いましたが、よくよく見るとこの教会は円蓋式バシリカまたは小型ドーム・バシリカと呼ばれる典型的な東方正教会スタイルを取り入れた教会のようです。(円蓋のある聖堂の建物自体は、ギリシャ十字になっているようです。)バシリカはギリシア語で「王の列柱廊」を意味するバシリケーに由来しているそうです。小さいながらも身廊部分がギリシア十字平面に近クロス・ドーム・バシリカとなっている。カトリックと違って正教会は、聖所の中が見えないようなフェンスがあります。至聖所(しせいじょ)と呼ばれ、最も神聖な場所としてのコーナーです。正教会では聖書の記述に沿って、聖堂内部に神品とその補助者だけ(男性のみ)が入ることを許される場所が作られ聖体機密が守られているようです。正教会のミサはどう行われるのか解りません。そもそもギリシャ語、ロシア語圏で聖体礼儀をミサと呼ぶ事は無いそうで、カトリックのミサとは別物なのだそうです。下中央の壁? (聖障 イコノスタシス)の向こうが、至聖所(しせいじょ)。身廊天井からつり下げられたシャンデリアの上はキリストの絵が描かれて輝いています。下は、「双頭のワシ」の紋章。正教会の証。東ローマ帝国の「双頭のワシ」を受け継ぐ、コンスタンティノポリス総主教庁の紋章なのだそうです。下が本家コンスタンティノポリス総主教庁の紋章。正教会については、次回紹介。サントリーニ島もまだイアの街や考古学博物館や、遺跡(まだ調査発掘中で公開されていないようです。)等もありますが、5時間程の滞在なので他は行っていません。クルーズに行くなら暑くても夏がいいですね。写真がはえます。
2009年07月24日
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Break Time (一休み)サントリーニ島の喫茶店? プチ・レストランクルーズ船が入港すると、島は人であふれかえる。一隻2000~3000人の船がほぼ同時に何隻か寄港するのであるから、島には大量のお金が落ちるのだろうと予想される。下は、フィラの絶壁にあるお店。眺めが素晴らしく、ネア・カメニ島が良く見える。ティラ島の絶壁と遠くに見えるのはこの島のシッポかな? これが全て火口なのですね。かつて、この目前の海は陸地だった?もと陸地だった目前の海はクルーズ船は接岸こそできないが、実はとても深い。船が停泊している地点で水深400mからあり、錨(いかり)が海底まで届かないそうです。やはり冬場は暇なようである。夏場のシーズンになると街は新しく白いペンキで化粧直しされると言うがこの店は冬も営業しているのかな? (観光シーズンしか営業しない店がある)デッキはとてもオシャレではあるけれど・・・暑くて外に出るのはね・・。へんぴな島だから物価も高いか? と思いきや案外安かった? 印象が・・。クルーズ船の食事はブッフェ式で食べ放題なので、わざわざ島で食事をする人は少ないかもしれませんが、島での滞在時間は5時間くらいあるので、1度くらい喫茶店には入るはず・・。日本みたいに自販機なんて無いからね。そう言えばもサントリーニ島はワインが有名です。今見ている絶壁フィラの反対側に広がる海までは、ワイナリーもたくさんあるようです。火山性の土壌で栽培されたワインはフルーティーで独特な味わいを持つのだそうです。ラベルも出土した遺跡のデザインであったりと美しい物が多くお土産に良いそうです。(今、飛行機のドリンク類の機内持ち込みができないので、なかなか持ち帰りにくくなりましたね。)次回、フィラにある教会を一つ紹介してサントリーニ島は終わりにします。
2009年07月23日
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サントリーニ島(Santorini)地中海の街と環境と家地中海沿岸の地域には、高温乾燥の気候条件の所が多いので、日射を防いで日陰を作る必要があるようです。乾燥地であれば、風は熱風となるので、通風は無い方が良く、窓は小さくなり、同時に日射も防げるわけです。基本的に建物は、その土地で手に入りやすい材料で造るのが一般的だそうで、地中海沿岸では、一般的には土、または日干しレンガ(土を成形して固めた物)、あるいは焼きレンガが使われるようです。下は、フィラの街の下部、崖っぷちの家? カフェとかホテルです。近くに来ると、家々を隔てる壁の間に通路が続いているのがわかります。登ったり、下ったり、迷路のようです。日本と違いこちらは海賊の危険性があったので、家々は高台に作られるのが常識のようですね。石やレンガを積んで建物のボディを造る技法を「組積造り」と言うそうです。屋根は、アーチ、ボールト、ドーム構法があり、試行錯誤、その島に適した形になっているのかもしれないです。中庭というのも、通風よりは採光を取り込む為であり、廻廊式にすれば日陰のテラスにもなり、僅かでも木々や、水盤のような水場やプールがあれば、凉を呼び快適な空間を演出できるからうってつけ・・。ところで、前々から疑問で調べていたのですが「なぜ壁が白いのか?」「地中海独特の白い家」とされるだけで、何故か誰もそれに言及している本がありませんでしてた。おそらく、「秘密は白い漆喰にあるのではないか?」と調べて見ました・・。漆喰(しっくい)漆喰は最もすぐれた建築材料として数千年前から使われてきた素材だそうで、消石灰を結合材とする、塗り壁または、モルタルの事を言います。(5千年前のエジプトのピラミッドの壁に使われたのが漆喰の起源)漆喰は、石灰に海草糊やスサ(麻の繊維や紙などを細かくしたものや、川砂)を混ぜてペースト状にしたものです。(石灰はカキの貝殻などを粉にしたものを混ぜたようです。)強アルカリで防火性があり、湿気を吸集し調節するので季節の変化に耐え、カビや細菌の発生を防ぐという性質もあり、遮音性や遮光性にも優れているようです。また、漆喰は施工直後から空気中の二酸化炭素と徐々に化学反応を起こし、水分は気化、消石灰は二酸化炭素を吸収して、酸素を放出、石灰岩と同じ成分となり少しずつ硬くなっていくという特性を持っているようです。石灰の貝殻は海ではいくらでも手に入る素材です。今でこそ外壁は白ペンキで塗られているようですが、もともとは素の漆喰の白色だったのでしょう。遮音性や遮光性、カビや細菌をも防いでくれるなら、これほどお手軽な素材はなかったのかもしれません。また、太陽光は白い色に反射するようです。熱をはじき返す? からでしょうか?どこを歩いても「絶景かな・・絶景かな・・」です。オールド・ポートを見下ろす。天気の良い日はまぶしい。下は、フィラの街の中心あたりです。奥にドーム方の屋根を持つ大聖堂? が見えます。地中海の島の家でも代表的に取り上げられるのが、このサントリーニのフィラの街です。つづくサントリーニ島の最新版 20205月26日リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説
2009年07月22日
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Break Time (一休み)7月22日は、「ナッツの日」だそうです。と、お知らせがあったので・・。「ナ(7)ッ(2)ツ(2)」の語呂合わせだとか? 今日はアーモンドを紹介です。アーモンド(Almond)旧約聖書の民数記の中で、神は、父祖の家ごとに1本づつ、12本の杖を出させます。それを契約の箱の前に置くと、神の選んだ杖からは芽が出て、花が咲き、アーモンドの実を結んだそうです。杖は、アロンの杖でした。神はレビのアロンを選び反逆した者への警告にその杖を契約の箱の前に置かせました。「杖の話」の前に、神は、神の意志を伝えるモーセに反逆する者を罰しています。モーセとアロンに反逆したコラら、に対して神は炭火を入れた香炉で香をたかせて神の前に持って来させます。そして、モーセとアロンに「この共同体の者達」と分かれて立つよう支持し、その場から離れさせます。彼らの足下の大地は開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも飲み込んだ。彼らと彼らに属する者は全て、生きたまま、陰府(よみ)へ落ち、地がそれをおおった・・・・・また、火が主のもとから出て、香をささげた250人を焼き尽くした。とあり、杖は、「反逆すれば罰が下る事を示した」警告を民に示したものでした。(映画インディー・ジョーンズ「レイダース失われたアーク」のクライマックスはこの話から作られた場面のようですね。似てるもの・・。)下が、アーモンドの木。ギリシャで撮影。原産はアジア西南部だそうで、トルコにも多いです。バラ科サクラ属の落葉高木だそうで、サクラに似た白い花を付けるようです。葉は、何となく月敬樹の葉にも見えますが・・。アンズ、モモやウメの近縁種なのだそうですが(実が貧弱・・)果肉は薄くて、食用にはならないようです。下は収穫した実ですが、確かに貧弱な青梅にも見えますね。スイート種とビター種があるそうで、食用にされるのはスイート種なのださうです。(ビター種は大量に摂取すると有毒だそうです。)ビタミンEが多く含まれ、Eの活性酸素は体細胞や血管の酸化を防ぐ抗酸化作用があるそうで、老化防止の妙薬ですね。また、不溶性食物繊維を多く含むそうで、整腸作用があるようです。下は、種の中身を取り出し種の殻を割った中身をローストしたものです。ロースト・アーモンド塩無しです。おつまみナッツの定番ですね。話は変わりますが・・やっと衆議院議員の解散ですね。これから盛夏となるのに、熱い夏となりそうです。投票日(8月末)まで、やけに期間があるから選挙活動も長ーくなり、関係者は地獄の夏かもしれません・・。(夏の選挙は辛いですよ・・。)うぐいす嬢を1度やりたくて、選挙を手伝った事があります。実際の選挙期間中は事務所管理に回されたので宣車(宣伝カー)に乗ったのは3日くらいですが、自民党の宣車「あさ風」(もうないかも・・。)は後部にお立ち台があって、3人くらい立てます。(屋根にも上れたかも・・)走りながら回りの車に手を振るのは(誰もが注目する。)とても気持ちの良いものでした。(自分もだんだん選挙に乗って行くのがわかります・・。)本選2週間は出先本部の事務所責任者にされたので、2週間殆ど睡眠無しの毎日で、体力のない今はもうあんな事はできません。選挙対策本部に詰めるスタッフや後援会の人達は、一つの目標の為にほとんど寝食共にするようなものですから、一喜一憂し、2週間は運命共同体として共に戦い、燃える同志となるわけです。選挙とは、参加している人から見れば、一種の祭り事、イベントみたいなものかもしれまぜんが、当選ならともかく、落選時は寝込んで何日も立ち直れない疲れようです。(私は一勝一敗でした。)今、日本には実力と実行力があり、且つカリスマ性のある政治家が一人もいない事がなげかわしいですね。政権交代? 仮に民主党が政権を握ったとしても、首相も適任はいないけれど、入閣すべきメンツの適任者が民主党には誰もいない・・。と、言うより、皆忘れていないか? そもそも民主党のほとんどが元自民党の2軍ではないか・・。自民も民主も一緒、共産は絶対嫌、それでも投票に行くべきか ?
2009年07月22日
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サントリーニ島(Santorini)スカラ・フィラから石段を登るロバ隊お客さんはテレ・フェリックに行くので、滅多に乗っている人は見かけない。はっきり言って落とされそうだし、崖から落ちそうだし・・で、怖いそうです。登りより下りのが怖そうです。イタリアでは見かけませんが、ギリシャでは、まだロバを見かけます。大半は観光客のモデルとしてですが、本来は、人や荷物をのせて歩く労働力としての家畜です。港から高台にある道なきギリシャの家々にはなくてはならない動物でした。テレ・フェリックより値段は高いそうです。下は、テレ・フェリックを降りてから見たフィラの街です。下は、フィラの街に向かう道です。街には、一応車が走っています。写真の奥の右端に見えるのがこの島の三日月の端にあたります。アクロティリの遺跡はあのあたりです。今も発掘が続いているアクロティリの遺跡は、、「エーゲ海のポンペイ」を語るように火山灰の下から、BC15世紀の廃墟が見つかっているそうです。クレタのミノア文明(BC2000)の影響を強く受けているとされ、しばしばミノア文化と紹介されているようですが、サントリーニ島のアクロティリの遺跡から発掘される土器類は、青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明(エーゲ文明)であるキクラデス文化(BC3000~BC2000)の伝統を踏まえた独自性を持って入ると言われています。政治的にも独立を保っていた事、クレタの作品をしのぐ壁画類、自由奔放な土器類等、発見されるものから考えると、ミノア文化圏とは別の世界に属した文化であった事が伺えるそうです。つまり、サントリーニ島は、クレタのミノア文明よりも古い文明であった事を、遺跡アクロティリが示していると言う事です。 アトランティス大陸は、限りなくサントリーニ島の確立が高くなるようです・・。実際、ここは島ではなく、太古には大陸であったようです。大地が沈降してエーゲ海が生まれた時に島となり、それはまた度重なる火山の爆発で海底より隆起して地となり、爆発してはそこを捨て、静まれば舞い戻り街を造られた為に、古代ティラの遺跡からは様々な時代の遺跡が出土しているようです。BC12~BC9、ドーリア人が渡来しポリスを形成、BC4~30、エジプトのプトレマイオス王朝に支配され、AD13にはビザンチン帝国からベネチアに権利が渡り、1575年にはオスマン・トルコに奪われ、1821年ギリシャの支配に・・・と変遷を繰り返してきた島の歴史は、爆発に重ねてめまぐるしい島の歴史を物語っているようです。下がフィラの街ですが、前回も紹介したように1956年の大噴火の後に建てられた街です。火口に向かって立ち並んでいる所が凄いですね。
2009年07月21日
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Break Time (一休み)ちょっと体調悪いです。耳鳴りするし・・。サントリーニ島、番外編サントリーニ島のテレ・フェリックの写真が結構あるのでそれだけ紹介。テレ・フェリック何度か紹介しているので、説明は抜きです。下は、スカラ・フイラのテレ・フェリックのスタート場所です。6人乗りのゴンドラです。6機同時に出発です。運行間隔は15分位ですが、山頂まで5分かかりません。船が着く時は、ほぼ同時なのでその時は運行本数も増えるのでは? 殆どがテレ・フェリックに乗ります。外は暑いし・・。かなり急ですよね。テレ・フェリックの為に岩壁を削ったようですね。計算ミス? 削ってもゴンドラぎりぎりです。凄い傾斜角度です。崖上に到着。帰りは早めに乗らないと、クルーズ船は一斉に出港しますから、いろいろな船に帰る客で混雑します。テンダー・ボートも50人乗りくらいですから、一隻2000~の船に戻る人達のラッシュは大変なものです。遅刻して船に乗れない場合は、置いてきぼりです。待ってくれる? そんな甘い社会は日本だけですよ。
2009年07月21日
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サントリーニ島 3 (テレ・フェリック)サントリーニ(Santorini)島ティラ島上陸、崖を登ってフィラの街へサントリーニ(Santorini)島古代、島はティラ島と呼ばれていた。カリステ(美しい)とも呼ばれていたこの島は、ローマ時代の末期(キリスト教徒迫害の時)にテッサロニキより流刑されてきた聖女イレーネが守護聖女となり、(ビザンチンの時代)彼女の名よりサントリーニの名で呼ばれるようになったそうです。BC1628年頃に起きたサントリーニ島のティラ火山の大噴火以降も噴火を続け、現在外輪山は大小3つの島よりなり、中央火口丘にはパレア・カメニ(古い焼けただれた島)とネア・カメニ(新しい焼けただれた島)いう2つの島からなっている。パレアとネア・カメニはBC196年頃の噴火で誕生。1573年の噴火ではさらに島が増え、1925年の噴火では合体してネア・カメニ島が誕生。フィラの街から観光船でネア・カメニ島を訪ねると、「火口付近は地熱で厚く、硫黄の匂いがし、煙が上がっていて、温泉もある。」と言う事で、「活火山じゃないの!!!」と驚きます。噴火口の上をクルーズ船が通過し、外輪山にあんなにたくさん家を建てて住み着くものだと感心です。(因みに温泉は、船から海に飛び込んで泳いでたどり着くのだそうです。)古来より何度も大小まじえた噴火を繰り返す島。それでも人は住み着いています。現在の街は、1956年の大噴火の後に建てられたものだそうです。ティラ島上陸、崖を登ってフィラの街へアティニオス湾に停泊しているクルーズ船からは、オプションでイアの村に観光するコースもあります。それは、ニュー・ポート(アティニオス港)からバスで入ります。定期船や、クレタからの日帰り船もこちらに入港します。が、一般にクルーズ船からのアクセスは、テンダー・ボートでオールド・ポート(スカラ・フィラ)につき、崖の上にあるフィラの街まで、テレ・フェリックと呼ばれるロープウエイで登るか、歩いて587段の階段を登るか、ロバで登るか、の3つのどれかのコースで登る事になります。外輪山の内側の高さは、300m前後の断崖絶壁で海よりそそり立っています。したがってオールドポートに道路はないのです。下は、テレ・フェリックから見たオールド・ポートのスカラ・フィラです。写真下に人とロバの通る道も見えます。テレ・フェリックは、6人乗りで6機同時に移動します。写真下方にロバ隊が見えますね。テンダー・ボートの定員は50人くらいですから早く乗らないと行けません。下、フィラの街が見えてきました。山の上をビッシリとこぼれそうに家が貼り付いています。真っ白でとても綺麗です。下、もうすぐ頂上ですが、岩肌を見て下さい。幾度となくあった噴火により噴出物や、溶岩などが堆積して層をなし、沈んではまた隆起してゆがんだ断層が伺えます。もうすぐ到着です。つづく
2009年07月21日
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サントリーニ島の噴火の原因とアトランティスの場所について2020年5月「サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説」の中で追求し直しています。リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説幻の大陸は確かにあった。でも沈んでしまった。その原因をプレート・テクトニクスにより起きた天変地異ではなかったのか? と言う考察です。サントリーニ島とクレタ島は、古来エーゲ海文明、ミノア(Minoan)文明の中心地でした。サントリーニ島に入る前にアトランティス大陸の話に触れておきます。サントリーニ島 2 (幻のアトランティス)アトランティス大陸とプラトーンアトランティス大陸はどこか?サントリーニ島(Santorini)・・着岸までアトランティス大陸とプラトーンプラトーン (Plato-on)(BC427年頃~347年頃) 古代ギリシア、アテナイ出身の哲学者で、ソクラテスの弟子であり、アカデメイア(学校)を設立(BC387年)し、そこで天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられ、その門徒にアリストテレス(BC384年~BC322年)がいます。(彼は知恵とか知識の神様みたいな存在です。)アトランティス大陸はどこか?ブラトーンの後期著作の作品の三部作として構想した「ティマイオス」未完の「クリティアス」、未筆の「ヘルモクラテス」の中に幻のアトランティス大陸の話が出て来ます。クリティアス(プラトンの曾祖父)とソクラテス(プラトンの師匠、哲学者)とティマイオス(プラトンの数学教師でありロクリスの政治家・哲学者)とヘルモクラテス(シュラクサイの政治家・軍人)らによってクリティアスの家で対話形式で行われている形で、著された作品は、現実にあった4人の話をまとめた説話として捉えられたのだ。「ティマイオス」ではティマイオスが宇宙論について語り、アトランティスについて触れ、「クリティアス」では主にクリティアスが実家に伝わっているアトランティス伝説について語っているものなのだそうです。作品が未完に終わっているのでアトランティス大陸についてはそこで語られている事だけ。にもかかわらず、後世それもまた伝説のように語られてきた幻の大陸です。アルカディア(理想郷)と言われるその大陸伝説は、プラトンの時代にも「伝説として存在していた?」とされながらも、後世の人により今も探し求められている。近年、それは大陸ではなく島と考えられ、記述に酷似した内容から、ミノア文明期のサントリーニ島とクレタ島説が地中解説としては有力となっている。アトランティスを青銅器文明だと述べている事から、ミノア(クレタ)文明が青銅器文明であることに合致する。また「クリティアス」の中で記述された繁栄した王国を持つ島は、ゼウスの怒りに触れて一夜にして海中に沈められた。とされている。BC1628年頃に起きたサントリーニ島のティラ火山の大噴火は、30立方kmと言われる噴出物で島の地表を厚くおおい(数十メートル)、東地中海の各地にも降り積もり、大気中に残留した粉塵の為に地球規模での冷涼化現象が起きたとされるくらいの大爆発です。サントリーニ島のみならずクレタ島をも含む諸都市に壊滅的な打撃を与え、海中数百メートルも沈んだ大地による大津波はエジプトにまで達したらしい。サントリーニ島(Santorini)・・着岸まで幻のアトランティス大陸だったかもしれないサントリーニ島を紹介します。右の島が、ティラ島です。遺跡は、三日月の下方、アクロティリで見つかっていますが、今回写真はありません。フィラがメインの街です。地中海風の真っ白な家が、島の上に貼り付いています。下は、オールド・ポート(旧港)で、フイラの街の真下にあります。クルーズ船は接岸出来ませんが観光客はここから上陸します。下も、オールド・ポートですが、確かに火口の形をしていますね。下は、テンダー・ボートです。クルーズ船が来航したので、お迎えに行きます。クルーズ船は接岸できません。やはり、火口なので、下がすり鉢式になっているのでしょうか? 下は、クルーズ船に迎えに来たところで、テンダー・ボートは何往復もして乗客を島まで運びます。クルーズ船は一隻あたり、2000~3000人乗りだそうです。つづく
2009年07月20日
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今日はギリシャの島の一つの紹介ですが・・。どこの島にも歴史の一つ二つはあるものです・・が、なるべく写真中心で紹介します。非常に景観に魅力のある島です。火山の島サントリーニ島ギリシャのキクラデス諸島に属する。サントリーニ島は大小5つほどの島々でなり、一番大きい本島をティラ島と言います。左上がギリシャで、小さな赤い島がそうです。NASAの著作の写真ですが、(商売でない)ので参考資料として使わさせてもらいました。右の大きいのが本島のティラ島です。形を見てもらうと解るように、この島は火山の火口の外輪山として成っています。真ん中のネア・カメニ島が火口の中心で、海に沈んでいるので気づきにくいですが周りは、カルデラ湖でした。島は外側はなだらかですが、内輪は絶壁です。しかし、クルーズ船は内輪の海に船を停泊して、観光客は絶壁を上って街にアクセスするのです。この島の絶景は茶色い岩肌むき出しの絶壁の上に、雪のような白い家々が立ち並んでいるところなのです。下は、ネア・カメニ島ごしにティラ島を撮影しています。クルーズ船は火口のあたりを突っ切って一番大きな外輪山(ティラ島)に向かいます。下は、天気がよかった時の写真です。絶壁の上に白く見えるのがフィラの街です。白は、全て建物です。次回船から上陸です。
2009年07月20日
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絨緞思った以上に長くなりましたが最終章です。空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質絨毯のデザイン絨緞の品質ペルシャ絨緞とトルコ絨緞キリム絨毯のデザイン絨毯のデザインは大きく3つに分類されます。メダリオン・タイプ・・・中央に大きなメインのモチーフがあるもの。「空飛ぶ絨緞 ? 1」で紹介したデザイン。ミヒラブ・タイプ・・・祈祷用の絨毯のよなモスク型のデザインや、生命の樹のように上下が定まったもの。ヘラティ・タイプ・・小花模様のような、一つのモチーフが繰り返され、中央フィールドをまんぺんなく埋め尽くすタイプ。選びの基本は、やはり好みでしょう。柄は地方色があるので、キリムのような図象化したデザインしかない所もあります。アバウトながら、「どこどこ産のデザインが好き。」というのもおのずと出てくると思います。下は、祈祷用のプレイヤー・カーペット(Prayer Carpet)ミヒラブ・タイプです。メッカの方向(キプラ)になるように敷いて礼拝すれば、礼拝堂代わりになる優れものです。サイズは一人用なので小さめです。畳一畳で約1年くらいと聞きましたがノット数で異なるので一概には言えません。これだって1枚織るのに1年近くかかるのでは? と思われます。本当に貴重品なのです。下は、ヘラティ・タイプかな?おじさん達は売ろうとして必死です。最初から価値を知っている人でないと、こんな高額な絨緞をいきなり言われても買う人はいません。値切るのが常識といいますが、どこが買値かさっぱり見当も付きませんし・・。下は、イランのカーペット博物館の展示品ですが、なんとなく、世相が見えるので気に入った一品です。これは、タペストリーとして壁飾り用ですね。絵だけでも価値がありますが、絨毯であるということが、希少価値を何十倍にもしていますね。コレクターなら一つは加えたい一品ですが、何千万とかしそう・・。そう、これら絨緞は投資に買い込まれています。毎年工賃があがるので、値段も2~3割上がるからです。絨緞は畳と違って古いほど価値があるので、家で観賞して価値を高めれば一石二丁ですものね。(日本じゃ売れないけど・・。)泥棒も狙う高額商品です。絨緞の品質材料が良い事も、織りのノット数が多い事も紹介しましたが、もう一つつけ加えるなら、絨緞は毛足の長いものより、短いものが良いのです。細やかな絵柄がくっきり浮かび上がるベルベットのような毛先の短い方が、高く評価されます。はさみで切りそろえられたとは思えない表面の絨緞は指で押しても糸の密度が濃い為にへこむ事はありません。シルクの光沢は、光線の角度で色合いを変え、美しいですが、実は写真には撮りにくいのです。実際の色は肉眼で見ないといけません。買うなら尚更です。本物を買うつもりなら、たくさんの品を見る事が大事だと思います。私は、小さい物ですが寝室に2枚飾ってあり、(一応本物)毎日見て、触って、いざ購入のチャンスがある時に備えています。(チャンスはあってもお金がないか・・。まあ、心意気はそのくらいないとね・・。)絨緞だけではないですが、本物に触れる事が本物を知る近道です。日常生活の中で、使い捨ての物より、なるべく本物のできれば良い物に触れ、良い物を大事に使って行く事で物を見る目は自然と養われていくものだと思います。できれば子供のうちからそうして育ててあげられればね・・。ペルシャ絨緞とトルコ絨緞俗に言われるペルシャ絨緞は、宮廷やモスクに飾られるようなハイクラスの絨緞のようです。隣国ペルシャ・サファヴィー朝から貢ぎものとして、入ってきたペルシャ絨緞をトルコのスルタンは珍重していたようですが、やがてウールをベースにペルシャ式シングル・ノットで絹糸を結んで織り込まれたオスマン・トルコ式宮廷絨緞を作らせたそうです。それが、トルコのシルクの絨緞の始まりかもしれませんね。そもそもトルコ絨緞は、西アジア遊牧民の日常生活に根ざしていたキリム同様に生活必需品でした。それは日本人の畳に近いくらいの身近な物なのだそうです。(でも畳は新しい物が好まれるけど・・)キリム西アジアを遊牧する民から生まれた実用的な平織りの織物です。敷物としてだけでなく、布団や衣類の収納箱、織物などの食品の収納袋、赤ちゃんのゆりかご等、様々な用途に使用されて来たようです。部族や地域独特のデザインが存在し、母から子に受け継がれて行ったものなのだそうです。絨緞も必需品ですが、それ以上に生活の必需品です。空飛ぶ絨緞は、小さい頃から遊ぶ事も許されず、絨緞を織らされ続けた子供達の逃避(とうひ)の夢と希望のような気もします。(だからよけい飛んでくれたら良いのに・・と思うのです。)遠い異国で見る夢は、私達が思うメルヘンではない夢なのかも・・・。Back numberリンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 1 (ブルサ・シルク)リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質似て非なるものですが、フランドルのタペストリーを紹介。これはゴブラン織りの元祖です。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)
2009年07月19日
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昔からイスラム諸国では絨緞にお金をかける伝統があり、訪問客のマナーとして、相手方の玄関やリビングの絨緞をほめないといけないのだそうです。空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子トルコ絨緞最高級ヘレケ(Hereke)の絨毯最高級ヘレケ(Hereke)の絨毯トルコ絨毯の本によれば、世界で最も名高く、素晴らしい本絹の絨緞はヘレケ(Hereke)産の品だそうです。※ ヘレケはイスタンブールの東60kmの小さな村。素材も、シルクは、プルサ産の上質のマユからとれる絹糸のみを使って、1ヘイホウメートルに最低100万ノットが結ばれているそうです。※ 1日に数センチしか織れない。羊毛も、標高1000m~1500m以上の健康な「高地羊毛」からとれるやわらかく、長毛で光沢のある羊の毛を選んでいると言う事です。(素材の品質も最高なのだそうです。)19世紀からヘレケは絨緞産業の重要地となり、宮殿や皇族、政府高官の絨緞を織らせる為にスルタンにより織機が設置され、熟練者に織らせたという。※ 熟練者は年寄りではありません。むしろ逆に子供らが織子。そんな宮廷御用達の肩書きもあり、美術品クラスのすばらしい品が多いのは確かです。今ある絨毯は、オスマン・トルコの時代に確立したものだそうです。オスマン・トルコの芸術品は、中央アジア以来のトルコ民族の伝統に、イスラム、ビザンチンの両文化の影響を受けながら発展、成立していったもの。さらに隣国ペルシャ絨毯やヨーロッパ発祥のバロック美術の影響も受けながらバリエーションを広げて完成されたものです。例えば、幾何学模様とともに使われたモチーフには様式化された牡羊の角、牡牛の目、飾り玉、火打石、鏡の破片、樹木があります。これらモチーフは全てトルコ民族が変遷の間に接してきた宗教、シャーマニズム、マニ教、古代キリスト教、イスラム教や、他様々な民間信仰に基づいて考案された今日も残る図案です。(それらは、絨毯よりも平織りのキリムのデザインによく見られるようですが・・。)ノット結びと織り方絨緞を織るのは、西アジアや北アフリカの乾燥地帯に住む女達の仕事だったのだそうです。こうした織物は、山地により、部族により、昔からの伝統に従って、織り方や、デザインの基調が決まっているのだそうです。下はノット結びの図表です。左は、トルコ式ノットまたはギョレメ式ノット織りで、2本の縦糸に結ばれ、ペルシャ式より耐久性にすぐれて丈夫です。右は、ペルシャ式ノット織りで、1本の縦糸に結ばれ、繊細なフイニッシュに適しています。単位面積あたり、この結び目の数が多ければ多いほど、その絨緞は最高品です。当然気が遠くなるほどの細かい作業なので値段が高価になるのも仕方ないでしょう。織り子下は、トルコ、アナトリア地方の織り場です。やはり、若い娘が織るのは基本です。(ここは環境が良いです。)幅広の絨緞は、数人が横一列に並んで織るように椅子も長くできています。頑丈な木枠に張られた縦糸に、図案に従って色違いの横糸をからませ、結び目を作り、はさみで切り、さらに鉄製の重い櫛のようなもので上からトントン叩き、結び目を詰めて行くようです。特に細い糸で高級な絨緞を織るには少女のしなやかな指が最適とされ、近年までは8才12才ぐらいまでの少女が多数、朝から晩まで絨緞を織らされていたといいます。(トルコでは今はないようです。)トルコでは、嫁入り前に織って、財産として嫁ぎ先に持って行く風習があったらしい。それは絨毯のみならず、平織りのキリムも同様。どれだけ絨緞やキリムを持って行くか? で財産の目安になったそうです。(万が一の時は換金できますからね。)また、本人のみならず、女の子が生まれると、母が娘の為に織り貯めたとも言われています。所変わって、下は、エジプトの少女の作業風景です。トルコと比べて環境は良くないです。エジプトあたりは、今も少年少女が働き手となっています。ただ、学校に通わせてもらえる事が条件で・・・。写真にはないですが、小学1年くらいの男の子達もたくさんいます。日本なら労働基準法違反ですよ・・。こうして出来た絨緞を値切って買うのは、気が引ける・・と言う心理にもつけ込んで・・儲けるのは親方だけですが・・。長くなったので切ってしまいました・・絨毯次回最終です。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質
2009年07月19日
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日常私達が知る絨緞(カーペット)とは別物の絨緞の話です。(確かに発祥は日常品なのですが・・。)空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史絨緞の歴史絨緞織りは、中央アジアの高原で遊牧を生業にしていた民族からBC5~BC6世紀頃に始まったのではないかとされています。(絨緞の発見により・・)(大地の上に寝泊まりする遊牧民に部厚く、暖かい敷物は必需品)その後中央アジアに起きた干ばつで民族は移動し、西に移動した民族はカスピ海を隔てて北と南とに分かれたようです。(西に進んだグループは10世紀頃にイスラム教徒となり、アラビア文字を使うようになり、イスラム化していったようです。)さらに南に進んだ民族はアナトリアの地に住み着き、国造りにいそしみ、コンヤを首都とするセルジュク朝トルコを建国。トルコ民族は、他の遊牧民と比べて柔軟で、順応性に富んでいるので、原住民族とも自然に交流し、混血していったようです。小アジアの草原では遊牧生活を送り、オアシスの緑地帯では農民となり、シルクロードをつなぐ街では商人となる。移動の道々、征服してもまた、その土地(異文化)の文化、芸術を取り入れ新たな文化を創り上げる事にたけていた民族のようです。民族移動期の5~11世紀にかけてカーペットの作り方に関しては、何ら進歩もなく、大きな製法の変革を見せるのは12世紀初めになってからなのだそうです。12~13世紀にイスラム文化は黄金期を迎え、天文化学や数学の基礎を築き、医学、地理学、歴史学に関してもヨーロッパの模範となる文化レベルだったと言います。その成熟した文化の中で絨緞も花開くようです。1271年にアナトリアを通過し、セルジュク朝トルコの街々を見て来たベネチア出身のマルコ・ポーロは、「コンヤ、カイセリ、シヴァスで織られた、緋色の絨緞が最も美しく優雅である。」と「東方見聞録」の中に記しているそうです。(彼の見た絨緞はウールなのか? シルクなのか?)下は染色された絹糸です。12~13世紀、絹(シルク)は、まだシルクロードを通って中国より隊商に運ばれて来たもののようです。(絨緞にシルクが使われるのは自国生産の頃? でしょうか?)前回も触れていますが、中国で門外不出のはずのカイコをアナトリアに伝えた者がいたようです。1400年頃自国生産が始まっています。下は、絨緞作りに欠かせない道具ですが、イランのカーペット博物館のアンティックです。下は、トルコの織り場ですが、ここは環境が非常に良いです。エジプトは悲しいくらい酷いです。下は、絨緞の下絵の図面です。ベテランは頭の中の型紙で織り上げるのだそうです。実は、下はペルシャ絨緞の古い図面です。絨緞の柄は地方色をあらわしており、上のような意匠デザインは、非常にペルシャ的です。イスファハンあたりかもしれません。下はトルコ絨緞です。典型的なトルコ色の赤と青が使われています。赤は、トルコ絨緞に欠かせない色です。豊かさを喜び、幸せを意味します。青は、魔除けのメドゥーサの目(以前「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰」でとりあげましたね。)ナザール・ボンジュウの色でもある神聖さの色、大空の神ウルゲンの象徴色でもあるそうです。黄色は、邪悪なものを取り除いたり、遠ざける色として嫁入りの娘達の織る絨緞に好んで入りられる色なのだそうです。つづく・・。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子
2009年07月18日
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空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 1 (ブルサ・シルク)アラビアン・ナイトの空飛ぶ絨緞ブルサ・シルク残念ながら本当の千夜一夜物語にその頁はないようです。邦題「千夜一夜物語(The Book of One Thousand and One Nights, Arabian Nights Entertainments)」古いイスラム世界のアラビア語の説話集は、もともと9世紀頃のバグダッドの街の語り物、口誦(こうしょう)文学だったとされているようで、原本と言うものじたいが存在しないそうです。さらにそれに加えて成立後も様々な作家によって新たに挿話が付け加えられアラビアンナイトの物語は作られたようです。当初はヨーロッパ人の東方への憧れ、アラブ世界の事を知るための案内書の役割を果たしていた物語なのだと言われています。私達が通常知る絨緞とペルシャの絨緞は、柄も、きめの細かさも。手触りも、重ささえも全く異なり、職人芸による伝統美込められた芸術品です。そんな異国(アラビア)の香りする絨緞なら「本当に空飛を飛べるのではないか? 」、「不思議の絨緞は実は密かに売られているのではないか? 」と、アラブのバザールを見ているとふと思ってしまいます。不思議の国の絨緞は、無いとわかっていても夢を見させてくれるのです。下は、イランのカーペット博物館のペルシャ絨緞です。ところで、アラビアン・ナイトなので、ペルシャ絨緞としましたが、今日はトルコ絨緞作りを紹介します。(両者には同じであって同じでないへだたりがあります。)最古の絨緞は、南シベリアのアルタイ山脈から発見されたスキタイ王の墳墓から凍りづけで発見された2m×2mの絨緞で、BC5~BC3とされてます。1cmあたり、6×6で織られていた驚きの技術だそうで、デザインはペルシャ的であり、技術はトルコ式だとされ、ペルシャ絨緞が先か? トルコ絨緞が先か? と言う論争があるようです。そもそも絨緞は、遊牧民の生活の中から生まれたと考えられています。羊やラクダの牧草を求めて移動を続ける民に、暖かく、携帯にも便利な絨緞は必需品だったからです。そう言う意味では、絨緞は羊毛で出来きたウール100%が基本だったのかも知れません。(ウールに関して言えば山地に育った羊の背中の毛、それも春毛が優良なのだそうです。)今日紹介するのは、シルク織りの絨緞です。ブルサ・シルク絹糸の元の養蚕(ようさん)は、中国で始まり、1400年頃にアナトリアに伝えられたようです。トルコ国内の絹の需要をまかなっているのがブルサで、ブルサは桑の葉の環境に適しているようです。※ 当初シルクの織物を中国から運んでいたソグド人。いつしか、彼らは門外不出の蚕(かいこ)その物を持ち出してソグディアナ経由で伝わったと考えられる。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)マユは、湯がかれるとほどけてくるようです。合わさった糸をほぐして機械にかけて、巻き取っていきます。絹糸になったらそれらを染色していきます。トルコの染料も今やほとんど化学染料によるもののようです。手間のかかる草木染めは少数になっているようです。高級品は、当然草木染めです。天然染料で染めた糸を使った絨緞は、年数がたち、洗えば洗うほど、渋く、何とも言えない良い色調が出るそうです。一方化学染料で染めた物は年月がたつごとに退色するのだそうで、後世残すべき芸術品に化学染料を使うわけはありませんね。親方の認めた技術の有する物が再利用の素材を使って織るのでしょう・・。赤の染料は、赤タマネギの皮やヘンナの粉、黒イチゴの実、貝殻虫の一種コチニール(えんじ色)、茜の根が知られているそうです。青の染料は、たで科の一年草藍の葉と茎から採取。黄色の染料は、山藍、いらくさの茎と花、金木犀やカミツレ、ザクロ、サルビアの花、うるしの枝、オリーブ、はっか、マルメロ。緑の染料は、イチジク、西洋カリン、アーモンド、ぶどうの葉、ハシバミの実(ピスタチオ)の殻など。たいがいは黄色と青色の染料を合わせるようです。つづく・・。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史
2009年07月17日
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SMAPの木村君の素敵なCMが最近流れている。のりの良いディープパープルの曲で木村拓哉君の魅力がとても良く出ていると思う。曲のリズムと相まって、アップテンポで展開していく木村君の動きと場面展開の素早さは、「やっぱりキムタクは素敵・・。」と再認識してしまう良い出来である。そんなアップテンポなCMは終盤になって、がらっと転換、パソコンでメール確認する木村君・・。「タマホームの玉木(タマちゃん)です。」からのメールを見て固まる・・。再びディープパープルの曲「BURN」が替え歌で「タマホーム・・タマホーム」と流れて衝撃のラストを飾るのだ。インパクトも強く、とても良い出来のCMだし、曲も最高のセレクトではあるのだが・・。思わず笑えるのはディープパープルのこの曲のタイトルが「BURN」である事だ。BURNは火が「燃える」,(炉などで)「火が燃えている」、(物が)「焼ける」、「焼けど」と言う意味を持つ。ディープパープルのこの曲は日本では「紫の炎」とタイトルして発売されているが、このCMを見て、聞いていると(あくまで私だけと思うが・・、)「燃えろ」、「燃えろ」と聞こえてしまい、「タマホーム炎上」を彷彿させて思わず・・笑える・・のです。Deep Purple 「BURN」ディープ・パープル(Deep Purple)は、1968年にイギリスで結成されたハードロックバンドですが、ボーカルチェンジがけっこうあり、この「BURN」は、第3期(1973年~1975年)のグループ結成にあたります。4000人以上ともいわれる応募者の中から、当時はまったく無名だったデヴィッド・カヴァーディルが選ばれスタートし、このメンバーによる初のアルバム「紫の炎」(1974年2月)、が発売。(ウキペディアより) 後にリッチー・ブラックモアが「納得して制作できた」とコメントしたとするアルバムでパープル解散以降もすたれる事無く唄い続けられている名曲です。学生時代にミュージックショップでアルバイトをしていた時、手当たり次第に曲をかけていて、発見した私のお気に入りのディープパープルの一品でした。世代ではなかったのですが、「QUEEN」、「TOTO」、「EAGLES」、「DOOBIE BROTHERS」等もこのアルバイト時代に見つけて気に入ってたロックミュージックです。なつかしいかも・・・とCM見ながら当時を思い出す(記憶のフタを開ける)のも音楽の旋律の持つマジックかもしれませんね。魅惑的な怪しいバイクところで、今日は関連映像もないので、いつか紹介しようと思っていたラスベガスで見つけた怪しい魅力のバイクを紹介します。寺沢武一さんの漫画作品「COBRA」に出てきそうな「レディー」型のバイクです。ラスベガスのHOTEL PIRATESのカジノ・コーナーにありました。「COBRA」みたいですよね。バイク型のレディー・アーマロイドですか?素晴らしい彫金です。当然一点物でしょうね・・。映画か何かで使われたのかな?実際に走るかは不明ですが素敵!!!今日はディープパープルからロックな気分で・・・。
2009年07月17日
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イスラム圏の国に行くと、街でおじいさん達が吸っている奇妙な得たいの知れない物がある。麻薬か? それは水パイプとか、水タバコとか水キセルと言われる喫煙具なのだそうです。危ない怪しいものに見えてしまうのは私達の文化にはないからなのかも・・。そう言えば、不思議の国のアリスの中で芋虫? が吸ってましたね。水タバコエジプトでは「シーシャ/Shisha」トルコでは「ナルギレ/Nalgile」イランでは「ガリユーン/Ghaliyan」と呼ばれるようです。リンゴ等のフレーバー付けがされたタバコの葉に炭を載せて熱していぶして、出た煙をガラス瓶の中の水を通し吸う(水をフィルターとして煙を吸う)というタバコである。水の中を通す事でタールを吸収してくれるのか? タバコが軽いと言います。たばこを吸うというよりは「香りの煙りを吸う」感覚のようです。1回の燃焼時間が1時間程度と長く、重さもあり持ち運びはできないので、お店で吸い口だけ付け替えて、用具一式貸してくれるので、携帯する必要はあまりないようです。(一応携帯用の小型具も売ってはいますが・・・。)昼間の気温が高いインドや中近東で人気があると言われてますが、紙巻きタバコのある所ではあまり見かけないようです。下は、エジプトのアスワンのバザールにてここのお店で器具付きでタバコを吸わせてもらえるらしい。1時間はかなり長いですが、そう言えば葉巻も40~50分すると言ってました。余裕がないと据えない大人の楽しみ? のようですが・・・この男性通訳ガイドです。こんなにのんびりしていて大丈夫なのかな?たばこは皿の上の円筒の中につめられているようです。その上に炭?ここは、炭を入れる部分にふたカバーがされています。(トップの所)タバコのフレーバーは果物からスパイス、花、コーヒー、ガムなど多くの種類があり、日本でも通販しているようです。(楽天にもあるから自分で探してね)水タバコの容器は、大小様々で、30cm~80cm位が一般的のようです。下は、お土産屋で売られている水タバコ吸い器具以前、日本のタバコは日本専売公社の扱いだったので、なぜか水タバコの器具でさえ、海外からの持ち込みが禁止されていました。(お土産にできなかった。)今は大丈夫そうですが、ガラスなので壊れやすく重い? 下は、所変わってイランのイスファハーンのチャハイネ(喫茶店)です。ここでは若者達がコンパですか? お茶を飲んだりして皆と談笑しながら吸うのが案外多いと言います。左男性の手の先に見える白い部分(マウスピース)が交換できるようになっています。下はチャハイネの看板です。水タバコの絵が載っています。「水タバコやってます」と言う看板なのですね。ここの所押していて、生活の時間が完全にずれてしまいました。何とか戻さなければ・・。昼間は電話やメールが多く、宅配もよく来て起こされるので熟睡できません。いつぞやは、宅配のお兄さんに「具合が悪いんですか? 」と聞かれて、思わず「はい・・。」と答えてしまいました・・・。
2009年07月16日
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聖母(マドンナ)の画家として名高いラファエロは、37年間の生涯に50枚の聖母像を残しています。彼の描く聖母が「神の母」の輝きと同時に、人間的な母の愛を彷彿させる普遍的な美に満ちている。と言われ「ラファエロは夢の中に現れる聖母に霊感を得て、聖母子像を描いている。」と言う伝説まで生まれたそうです。今日は素敵な聖母子像を中心にラファエロを少し紹介します。ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi) (1483年4月6日~1520年4月6日)盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家ラファエロの類い希なる才能は、彼の気品ある優雅な身のこなしに似ていたようです。思いやりが深く、いつも取り巻きを従えており、ヴァザーリは「画家と言うより王侯にふさわしい」と彼の暮らしぶりについて語っています。彼の絵と同様の優美さは、彼の生い立ち、父(ジョヴァンニ・サンティ)が宮廷画家であった事に起因しているのは間違いないでしょう。幼少の頃から父により絵画の教育を受けた事はもとより、宮廷人との社交術をも教えられたのだと思います。元来おとなしい性格に加えて、宮廷人の洗練された物腰を身に付け流儀を心得た気品さえある美少年は、才能にも恵まれ、短い生涯ながらも宮廷人と友情をもわかち合い、庇護されるべき、愛されるべき存在であったようです。そして、加えるなら女性好きだった・・・。(女性に母を見ていたのかもしれないが・・・。)下は、「大公の聖母」(1504頃) フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵21才のラファエロがフィレンツェに出て来たばかりの時に描いた初期の聖母像です。聖母子をとりまく暗闇が作品全体に静謐(せいひつ)さ、穏やかさを与えていますが、当初は風景が描かれていたとも言われています。下は「草原の聖母」(1506年)8才の時に母親が亡くなり、11才の時に父を亡くしています。当時の慣習、「乳母制度」を使わず、母の愛情で育ったラファエロにとって悲しさは大きかったものと思われます。母への思慕がこうした聖母子に映されているのは間違いないでしょう。下は「ひわの聖母(1507年) ウフィッツィ美術館所蔵ピラミッド型の構図はレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を物語っています。ひわ(鳥)はキリストの受難の象徴です。この頃、これら安らぎに満ちた構図の聖母子像が多く描かれています。どれもすばらしいものばかりです。大抵は、貴族の依頼で描かれたものです。ラファエロ21才(1504年)の時、フィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノで残した頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式の影響を受けています。また、フラ・バルトロメオからも色彩や衣服のひだの描写の面で影響を受けており、ラファエロの画風は特にバルトロメオとの出会い以降変化しているのだとされています。ラファエロのローマ時代が始まります。この経験は彼にとっては名声を得ただけでなく、大いなる財産となりますが、彼の早すぎる死の前には貴重な大作の制作時間だったのかもしれません・・。1508年(25才)、教皇ユリウス2世に招かれてローマに渡っています。それは教皇が自分の使用するいくつかの部屋に絵を描いてもらいたかったからとされ、後に「ラファエロの間」とよばれる部屋となります。部屋は描かれた絵画の名を取り、、「ヘリオドロスの間」、「ボルゴの火事の間」、「セニャアトゥーラの間」、「コンスタンティーの皇帝の間」とも呼ばれ、バチカンに行ったら見逃せない場所の一つとなっています。「セニャアトゥーラの間」は、大切な書類の署名と捺印(セニャアトゥーラ)が行われるの事に由来する名です。フレスコで天井画と壁画を手がけ「アテナイの学堂」は前にも紹介)ルネッサンス時代の哲学思想と古代の思想をキリスト教思想に合わせようとする努力をあらわしているとされています。「火災の間」(1514年)も手がけていますが、多忙にして「ボルゴの火災」以外は弟子の手によるもので、ラファエロの手がけた間と言うには品格が下がりすぎていると言われています。下は、多忙だったローマ時代に描かれた「小椅子の聖母」」(1514年)フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵写真に入らないので削れていますが、トンドと言われる円形の絵画となっています。「火災の間」の制作時期とかぶっています。ラファエロ31~32才の円熟期にローマで描かれたこの作品は、ローマでの壁画制作を通じて磨かれた構成力に現れています。フィレンツェ時代に描き続けた聖母像の集大成はローマの経験で完成されたといえるかもしれません。聖母マリアに気高さを、幼児キリストに頼もしさを、不安げながらも讃え見守る幼児期の洗礼者ヨハネの図は私の大好きな聖母子ですこの「小椅子の聖母」は画家の死後にトスカーナ大公に買い取られているそうです。彼が最後まで所有していたのは何故か? 16世紀半ばまでメディチ家に所有された後、1800年前後にナポレオンの戦利品としてパリに渡っているそうで、ある意味数奇な運命に思えますが、この絵が見る人の心をとらえて放さないからなのかもしれません。今あるピッテイ宮の美術館に戻るのは1912年です。(欲しいけれど手に入れられる絵ではないから、自分で模写して立派な額縁に入れて飾っています。それも私のこだわりですかね・・。)1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしていますが、1520年、誕生日と同日に37歳の若さで亡くなってしまいました。もし、もう少し長く生きて作品を残してくれていたら、私達はもっと穏やかで、幸せな絵に出会えたかもしれません。
2009年07月16日
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実在の人物なのか? イエス・キリストの母の家がトルコのエフェソスに残っている・・と言うのをどれだけの人が知っているだろうキリスト亡き後、聖母はどうなったか? 実際、使徒ヨハネが面倒を見ることになった。・・とは私も知りませんでした。聖母マリアの家とマリア崇敬ヨハネとマリアの行方ヨハネの故郷エフェソス聖母(Madonna)マリアと聖母崇敬聖母被昇天聖ヨハネの福音書によるとキリストはその死にあたり、聖ヨハネに「そなたの母なり」とマリアを指し、マリアに向かって「女よ、これが汝の息子なり」と聖ヨハネを指したとされている。ヨハネとマリアの行方・・ウワサ聖母マリアを託されたヨハネはキリストの死から4年 or 6年後に短い期間ではあるがトルコのエフェソスを訪れ滞在していた家がある・・とされていました。また、パトモスに流刑されていたヨハネは、黙示録を書いた後(エフェソスのマリアの家に帰った・・・とされています。※ ヨハネがパトモスに流刑されたのは11代皇帝ドミティアヌス(在位81年~96年)の時代西暦95年なので96年終わりにはヨハネも住んでいたと考えられる家があった・・。いずれも細かい事は書簡にはないようですが、より合わせると、ヨハネはイエスに託された後に聖母マリアを自分の家に連れて行き、共に暮らした。と言う説がまことしやかにあり、ヨハネがバトモスに流刑され、黙示録を書いた後に再びエフェソス(現トルコ)の自分の家? マリアの家? に戻っているらしいことも伝えられているのです。マリアの家か? ヨハネの家か? と疑問も感じますが・・。キリストの母マリアの面倒を見る為にエフェソスに再び戻っているらしい事からマリアが最後に住んでいたかもしれない家?は確かにフェソスにあった? はず? それがマリアの家として実在していた? と言う紹介です。ヨハネの故郷エフェソス1891年エフェソス南手の山、パナユルダゥの上に「聖母マリアの家」と呼ばれていた家が発見された。(発見された当時は基盤と壁の一部が残っていただけで修復? 教会が建てられている。)多くの宗教学者が聖母マリアの家を本物と認めた事から、ローマ法王ジョン23世も「巡礼すべき場所である。」と断言。1961年そこは公認された聖地となったのです。不思議な事はその発見にもあった。 ドイツの病身の修道女カタリーナ・フォン・エメーリッヒは12年間ベットから出られない病身。その彼女がエフェソスのマリアの家を幻視して予見したと言うのだ。下がマリアの家の正面玄関側です。拝観できます。中は撮影禁止です聖母マリアの家は、マグネシアの門(エフェソス市の東の門)からビュルビュル・ダゥの方向に走る途上にあります。聖母マリアは、イスラムの世界でも神聖視されているので。この教会でイスラム教徒が礼拝する事もあるそうです。聖母(Madonna)マリアと聖母崇敬マドンナは、「私の貴婦人」と言う意で、貴婦人、淑女を尊敬する中世の騎士道精神から生まれた呼称であり、美術界では聖母を指す表現とされているそうです。聖母マリアは、神ではないが、神の子を産んだ神の母である故、聖母崇敬はキリスト教の祝祭の儀式の中で重要な位置を占めているのだそうです。使徒の時代より当然崇敬の対象だったようですが、時代が下るにつれ、特に東方世界において盛んになり、聖母崇敬の信仰が教会の中でも高まりをみせてきます。(4世紀に聖母に献げられた教会堂が設立された頃)431年にもエフェソス公会議で正式に教会に認められると神を産んだ女性は、普通の女性とは異なった神に近い存在となり、聖母神秘化の信仰が強く勧められるようになっていったようです。図像学(聖母マリアを描いた絵画)的見地からすれば、キリスト教美術の中でキリストに次ぐポジションを得るのはゴシック期からルネッサンス期にかけての時代のようです。(ラファエロが聖母子像をたくさん描いていますね。)欧州各地に聖母マリアを祀った聖堂が建築されていったのもたぶんこの頃からなのでしょう。下は、聖母マリアの像です。聖水の泉下は家の西手にある病が治ると言う聖水の出る泉があり、ここには寝室の床をおおうピンク色の大理石の下から水が流れ込んでいると解説書にあります。が、よくわかりません・・。聖水の泉は現在3ヶ所の水場から出るようになっています。いかにもお参り用?願い事がかなうと言う壁? 願い事を書いて皆そこに結んでいます。古今東西似ていますね。絵馬とかおみくじにそっくりです。信仰のある方々にとっては大変な聖地なのです。聖母被昇天キリストの昇天から24年、シオンの山麓で敬虔な日々を過ごしていた聖母マリアの許に天使が現れ。彼女の死を告知します。聖母60才とも72才の時とも言われているようです。(私の計算ではキリストの昇天から24年後ならば、74才にはなっていたはず。)「聖母マリアの死」のテーマは東方世界において4~5世紀頃から好んで取り上げられているようです。最初は霊魂だけであった被昇天が、肉体をも含む被昇天と信じられるようになります。聖母被昇天の栄光は、死後天に昇り、キリストの側で天の皇后になった時なのだそうです。それは8月15日とされ、その日を記念して聖母マリア被昇天節(Assumption of the Virgin)がカトリックの教会では盛大なミサが上げられるようになったようです。聖母被昇天図の部分です。下が欠けています。私の好きなティツィアーノの作品です。
2009年07月15日
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改訂今回紹介するギリシャの小島は、エウアンゲリオン(Evangelion)で記されたアポカリプス(apocalypsis)の島なのです。パトモス島(The Island of Patmos)ほとんどの方が聞いた事も無い島だと思いますが、ここはカトリック教徒の間では、アポカリプス(apocalypsis)の島として知られています。アポカリプス(apocalypsis)・黙示録「ベールを外すこと」or「開封する」「ふたを開ける」「幕をはずす」 というギリシャ語の原義を進展させると「解き明かされる・・」日本ではアポカリプス(apocalypsis)は「黙示録」と訳されています。このパトモス島は使徒ヨハネが黙示録を執筆した島として有名だったのです。日本人で知る人は少ないかも・・。「ヨハネによる福音書」にのみ記されている最後の審判を記した「ヨハネによる黙示録」だからエウアンゲリオン(Evangelion)で記されたアポカリプス(apocalypsis)の島と言ったわけです 地理パトモス島はエフェソスの南西90km の所に位置し、南北16km、東西9km のギリシャ領の小島です。面積34.6km² 人口3000人。島の地表は火山岩で構成されているようです。濃い青が諸島だが、小さくて載っていない。エーゲ海南東部に点在するギリシア領の島々であるドデカネス(12の島)諸島は、実際主要14島のほか約40の小島からなっており、古来よりギリシア圏の島々としてあったが、オスマントルコの侵略からギリシアがオスマン帝国から独立した後も近年までオスマン領のままで、1947年ギリシャに帰属しています。パトモスだけでなく、聖ヨハネ騎士団の遺跡のある島ロードス島もドデカネス諸島に含まれます。下は、修道院から撮影したパトモス島のスカラの港クルーズ客船が停泊しています。下は、スカラの街の港です。ヨハネが着いた時は家は全く無い地のはだけた丘だけだったのかもしれません。伝承では、島に住む者に助けられたようですが・・・。雨露をしのぐ為に岩窟にこもったのかも・・。神学者聖ヨハネ修道院とホーラ(Chora)ローマ帝国は当時、このパトモス島を流刑地として用いていた為、永らく人の住まない土地のようでした。1088年、ニケア生まれの修道士クリストドルス(Christodoulus)が東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノフ(在位1081年~1118年)の援助のもとヨハネ修道院をこの島に建立。後にエリアス山頂にあったアルテミスの神殿に代えて、修道院を移築し現在の場所が修道院となりました。修道院は、黙示録の岩窟のある山の頂にあり、修道院を囲んでホーラ(Chora)の街が形成されると言う特殊な形で成っています。ここ、ホーラは、修道院を守る為に建てられた街、城塞都市なのです。(現存する街は16世紀に遡ると言われています。)下は、修道院城壁の一部。周辺を黒みがかった城壁に囲まれている。もともと正教会の重要な巡礼地でしたが1999年、「エリアス山の黙示録の洞窟と神学者聖ヨハネの修道院とパトモス島の歴史地区(ホーラ)」はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。下は修道院から見えるホーラの街です。海賊に襲われていた島もともとホーラは、海賊対策でできた(城ではないですが)、城塞都市です。修道院が建立した頃は税の免除と海軍装備の恩恵を受けていたそうですが、1537年正式に島がトルコの支配に入ると海賊からの攻撃は無くなり、逆に平和になったようです。余談ですが、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノフの時代は、蛮族との領土の取り合いの時期で、東方のルーム・セルジューク朝討伐の為にローマ教皇に傭兵の提供を要請しています。これが第1回十字軍の遠征(1096年~)と言う予期しない事態を招き、帝国領が十字軍遠征の通過地となった為、かえって素行の悪い十字軍兵士に領土を荒らされる結果となったと言います。神学者聖ヨハネ修道院(モナステリー Monastrry)カトリコン(Katholikón, 身廊)、中央教会、資料館、聖マリア礼拝堂などからなる修道院です。撮影には距離がとれないので、全景が入りません。下は、ヨハネがこの島に来てから起こした奇跡の物語が描かれています。ちょっとオシャレなショットが撮れます。庭、円天井、階段、アーケード、鐘楼がロマンティックで城のような優雅さがあります。宝物館では古文書、イコン、宝石、修道院の貴重品も紹介されています。創立者クリストドルスの聖遺物のある礼拝堂もありますが、修道院・礼拝堂の撮影は禁じられているので写真はありません。パトモスは本当に小さな島なので、紹介されているガイドブックもないので、解る範囲で細かく書きました。
2009年07月15日
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無理をして、ダンテの新曲と福音書、そして黙示録の紹介をしようとしてきたのは、ここに引っ張る為でした。最後の福音書、ヨハネの黙示録は、エーゲ海に浮かぶギリシャの小島、パトモス(Patmos)島で執筆されたと言われています。ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos黙示録の記載ヨハネが黙示録を執筆した島アポカリプシス(Apokalipsis)黙示録の記載この世の終わりと永遠の神の到来を告げる「ヨハネの黙示禄」は新約聖書の最後に記載された預言書的性格を持っていると言う。聖典中の唯一の黙示文学です。(神から啓示を受け、それを書き記した話。)私は、あなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証の故にパトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日の事、私は突然「精霊」に満たされて、後ろの方でラッパのように響く大声が私に告げるのを聞いた。その声は言った。「あなたが視る事を書物に記して、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会に書き送れ。」私は、語りかける声の主を見ようと振り向くと、7つの金の燭台が見えた。燭台の中央には長い衣を着て金の帯を締めた人の子と思われる姿があった。その頭、その神の毛は白い羊毛に似て、雪のように白く・・・・・・右の手に7つの星を持ち口から両刃の剣を光らせたその人は言った。「恐れるな、私は最初の者にして、最後の者、また生きている者である。1度は死んだが、見よ、世紀を超え、世々生きて、死と冥界の鍵を持っている者である。さあ、視た事を、今ある事を、今後起こる事を書き記せ。」・・・・・・・尚も目を見開いていると天に開け放たれていた扉が見え、先ほどの声が言った。「此処に昇れ、これから起きる事を見せよう。」・・・・・Aヨハネが後述し、弟子が書き取っている図ヨハネが黙示録を執筆した島ヨハネの黙示録は、書記者が、自分はヨハネであると明示し記されている。しかし、実際は? 「使徒のヨハネ」ではなく、「福音書のヨハネ」でもないとの論議もあるのです。が、黙示録には、ヨハネの居る場所がパトモスであると記されている事から、ここパトモス島においては、使徒のヨハネだと信じられているようです。そもそもパトモス島はローマ帝国時代の犯罪者の流刑地の一つです。ヨハネなる人は、トルコでの布教活動を咎められ、この島に送られた。その年代が西暦95年頃で、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌス(在位81年~96年)の時代にはまるようです。伝承によればドミティアヌス帝は、即位後小アジアのユダヤ人やキリスト教徒を迫害した事から、黙示録の執筆年代がドミティアヌス帝の末期とするとつじつまが合うのだそうです。私個人の見解では、黙示録の執筆がドミティアヌス帝(在位81年~96年)の末期で間違いないのであるなら、むしろ使徒ヨハネの説は年齢的にも腑に落ちません。福音書記者ヨハネと使徒ヨハネは別の人間と考えた方が自然な気がします。下は、パトモス島です。タツノオトシゴのような形をした小さな島で、入り江の多い島です。地中海クルーズの船が立ち寄り、観光して行くくらいだそうで、地味で穏やかで、物価も安い島だそうです。B思う以上に明るく開放的に見え、暗い流刑地のイメージはありませんね。この島にいた時には、ヨハネはかなり老いていたので、執筆の実際の筆記者は、彼の弟子のプロコロだそうです。この島には、幾つかのヨハネの奇跡の話も残っているようです。島流しなのに、自由に動き回り、布教活動したとも伝えられている。アポカリプシス(Apokalipsis)ヨハネが黙示録を書いた岩窟は、その書「黙示録(アポカリプス)」の名で呼ばれている。スカラの街の南の中腹にあり、スカラから歩いて10分くらい。下は、ヨハネが黙示録を書いた岩窟の上に建てられた家? ですC建物の中は二つの部屋に別れていて、右の部屋が洞窟になっているようです。そこには、ヨハネの休んだ台と、壁に起き上がる為に使ったと言われるくぼみがあります。中の撮影はできません・・残念。使徒ヨハネは流刑されて18ヶ月この島にいたようです。その後、現トルコのエフェソスにある聖マリアの家に身を寄せて、第13代ローマ皇帝トラヤヌス(在位98年~117年)の治世まで存命していたと伝えられている。黙示録は、この世の終末から永遠の救済に至るプロセスです。第1段階 終末まで第2段階 千年王国第3段階 魔王復活第4段階 最後の審判第5段階 新天地創造次回ヨハネ修道院とマリアの家です。エフェソスにある聖マリアの家については<2009年7月15日「聖母マリアの家とマリア崇拝」でのせます。リンク 聖母マリアの家とマリア崇拝
2009年07月14日
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Break Time (一休み)My Collection の紹介 たまには違う物を・・。ビーニー・ベビー(BEANIE BABIES)ビーンズの入ったかわいいヌイグルミBeanieBabiesはアメリカで人気の手の平サイズのぬいぐるみです。耳に付いたハートのタグの中には、名前と誕生日が記載されていて、その子の来歴のようなものが書かれていたりします。何かしらの記念日や基金の為に特別販売されるものがあり、それがコレクターがいる為にプレミアが付いて高騰しています。(今は以前程じゃないだろうけど・・。)コレクターのお決まりの予備の在庫君達です。防虫剤と除湿剤の入れ替えの為に出して来ました。ビーニーは1986年アメリカで創立されたTy.Incが発売したものだそうです。1993年にBeanie Babiesの販売を開始されたようですが、幼児向きの人形なので、安全性に気が配られた商品です。燃えにくい材質で色落ちせず、アレルギー対策もされているようです。1997年にマクドナルドのカウンターで+α お金を出すと手に入ると言うプロモーションを兼ねた販売で一気に知れ渡ったらしいです。家の一部コーナーです。左縦3個と左下2個目は、ロサンゼルスの空港のマクドナルドで手に入れた品です。日本のマックでは、超ミニサイズのビーニーをお子様セットのおまけとして発売され、せっせと食べた記憶があります。はっきり言って部屋の景観には合わないのですが・・こんなに集まるとはお思わなかったので・・。今はテディ・タイプのみに絞っていますが、他の動物達も結構います。日本上陸時は一体580円くらいだったような気がします。(もっと安かったかな?)1999年8月 日本上陸とあります。多分私はその半年後くらいから集めはじめたと思いますが、当時「発売が終わるから手に入れられるのは今ですよ。」と言われた気がします。日本に上陸した時にはすでにアメリカでの人気もマニアだけだったのかも・・。結局Beanie Babiesは発売が続き翌年2000年3月25日(さくらの誕生日)に日本初の日本限定の「さくら」が発売されます。銀座のソニープラザの前には恐ろしい大行列ができたと言います。(友人が並んだ。)真ん中ピンクのが「さくら」(3/25)日本限定です。友人が私の誕生日にと通算5時間、朝一から銀座に並んでゲットしてくれたものです。直後に一体28000円付いていました。なぜなら外国のコレクターが欲しがったからです。「さくら」の後ろは「さくら2」(3/3)で誕生日が違います。プレミアも違います。右の紫は、「Princess」亡きダイアナ基金とか? 収益が慈善事業に廻るので、これを一体10000ドルで買った人がいるといっていました。海外で運良くゲットしてもらったような気がします。左2匹の犬は、2001.9.11の同時多発テロの時に活躍した犬達の基金? 左ダルメシアンが「RESCUE」、後ろシェパードが「COURAGE」(勇気)と名が付き、肩にアメリカの国旗を付けています。紫後ろもアメリカ限定「USA」君です。テレビ局のイベントで限定200体とか、アメリカ在住の人のみのネット限定とか、いろいろなコレクターをくすぐる要素もあり、振り回され続け、今は中止です。再び人気が出たら私の在庫君達の値も上がるのかな?アメリカでも発売中止になることはなく、イベントの限定品で常にマニア人気は続いていますが、最近は下火でソニーでも影が薄くなっています。今年ハワイのABCでフラのテディを見つけましたが・・。コレクターの道は情報と努力と財力ですね。
2009年07月14日
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前回、ミケランジェロはダンテの「神曲」をモチーフに「最後の審判」の壁画を描いた。と言う紹介をしましたが、そもそもダンテの「新曲」は、ヨハネの黙示録に根ざしたものです。今回はヨハネの黙示録に少し触れたいと思います。最後の審判 2 (福音書と黙示録)システィナ礼拝堂の「最後の審判」、そして「黙示録」システィナ礼拝堂は教皇を選出するコンクラーヴェ(Conclave )の会場でもあります。「鍵がかかった」の意があるように、従来は選挙が終わるまでこの部屋に缶詰にされたようです。(2005年に閉じ込められる慣習は廃止。)投票後には票の集計、数の検査、投票用紙の焼却がおこなわれ、教皇が決まれば白い煙、決まっていなければ黒い煙があがって知らせるようになっている。福音書キリスト教の聖典(新約聖書)は、4つの福音書と歴史書(使徒言行録)書簡(パウロの書簡)(公同書簡)と預言書からなっています。イエス・キリストの言行録(イエスの生き様とその教え)を弟子4人がそれぞれまとめて伝承したものが福音書とされていますが・・。実際「四福音書」が正典とされたのは紀元4世紀頃だそうです。新約聖書に納められた四つの福音書は、福音書記者の名をとってタイトルされています。マタイによる福音書 (80年~85年ごろ成立?) 天使のモチーフが象徴 マルコによる福音書 (65年~70年ごろ成立?) 獅子のモチーフが象徴ルカによる福音書 (80年~130年ごろ成立?) 牡牛のモチーフが象徴ヨハネによる福音書 (90年~110年ごろ成立?) 鷲のモチーフが象徴直弟子で使徒(十二使徒)の執筆と信じたい所なのでしょうが、書かれた推定年代も異説あり、実は全て論議の中です。キリスト教の教義がまとめられたのはパウロ以降です。執筆が直弟子の可能性は無いと思われます。誰が書いたか? は、さておき、4つの考方の異なる教派が存在していたと言う解釈もあります。わかっている事は、最後に書かれたものが「ヨハネの福音書」だと言う事です。ヨハネの福音書は、いろいろな意味において他と異なります。福音は、「良い知らせ」という意で、エウアンゲリオン(Evangelion・Evangelium)と呼ばれますが、。古代ギリシャでは、エウ(良い)アンゲリオン(知らせ)で元はめでたいニュースの意だったそうです。※ アニメ「エヴァンゲリオン」は、エウアンゲリオンをラテン文字表記した「Evangelion」に由来するそうです。)ヨハネのによる福音書とヨハネの黙示録の著者は同一人か?12使徒のヨハネはキリストの母マリアを託され、聖母をエフェソスに送りその後逮捕されパトモスに流刑され流刑地で執筆したと伝えられている。年代的にも疑問があるし、他の3つの福音書がほぼ同じ事を表記しているのに対して、ヨハネだけは内容も取り上げ方も別物です。例えば、ヨハネの福音書にはイエス誕生の話はありません。イエスの生涯の出来事よりもイエスの教えに重点がおかれ、思想、神学的と言われています。ヨハネの流刑地パトモス島リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmosリンク パトモス島 聖ヨハネ修道院エフェソスのマリアの家リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬ヨハネによる黙示録新約聖書の最後に記載された預言書的性格を持つ書です。神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、あるいはそれを記した黙示記録です。ヨハネはパトモス島で神から啓示を受け、それを書き記したので、「ヨハネによる黙示録」と呼ばれている。黙示録のギリシャ語の原語は「アポカリプス」。「開封する」「ふたを開ける」「幕をはずす」と言う意味を持つそうです。福音書のヨハネと黙示録のヨハネはやはり別人の可能性があります。しかし、黙示録の書き出しによれば、パトモス島に流刑された(十二使徒の)ヨハネと記されている。この黙示録で最初に示されたのが(第1段階)、この世の滅亡の始まり方、最後の審判が始まる前章です。第七の封印がとかれ、第七の天使のラッパが吹かれた時に大いなる災いが起きる事が書かれています。下は、ミケランジェロの最後の審判図から部分です。ミケランジェロの作品で7人の天使が笛を吹いています。最後の審判の図はここから始まるわけです。ラッパが吹かれて即審判に見えますが、黙示録によれば審判は第4段階になりまだまだ先です。終末論と創世記は表裏一体?ところで、システィナ礼拝堂の天井画と壁画ですが、旧約聖書の始まり「創世記」は天地創造の物語(天井画)で、人間の起源を記した話で始まる。新約聖書の巻末「ヨハネの黙示録」では古い天地が崩壊して(最後の審判)終わり、後に新しい神の天地が生まれる始まりの話となっている。最終的にはどちらも創世の話になっているように思います。終末論と創世記は表裏一体としてとらえることも・・。この両者のテーマをシスティナ礼拝堂に選んだのは誰だったのでしょう・・。黙示録の紹介は・・つづく 今回写真がないですが、次回黙示録の書かれたパトモス島に行きます。back numberリンク 最後の審判 1 (ダンテの神曲)
2009年07月14日
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Break Time (一休み)前回の最後の審判(まだ続きですが・・)が、下準備ができなかったので、書きながらどう進めるべきか、結構悩んでしまいました。本来ならもう一度読み直すべき本(忘れているから・・)ですが、最近そんな暇もなく、読書もたまに外出する電車の中で少しずつ読み進めているくらいです。たまに時間ができると溜ったコミック(連載で購読しているマンガ)をまとめ読みして、片付けるといった状態ですし、ネットでゆっくり買い物もままならない、毎日時間がキュウキュウした日を送っています。最近ブログ1本が長く重くなっているので、(私のこだわりだから仕方ないですが・・)1本書くのに5時間はざらです。それでも内容的にも、その時間内で毎回まとめきるのは「偉い、偉い」と、自分でほめてあげています。自分も常に向上心を持って毎日勉強して行かないと、「何で人は生きているのか? 」などと疑問を感じてしまいます。何だか良く解らないけれど生まれて、生きて、死ぬの? と考えてしまったらこの世にいる意味がなくなってしまうでしょう・・。人は生まれて、どこまで自分と言う個(魂)を成長させる事ができるのか? と言う事を自分自身に言い聞かせ、成長を目標としながら、とにかく何にでも興味を持って勉強してみようと生きています。自分が生きている間に知れる事は、地球規模で考えたら、微量な事ですが、どこまで知る事ができるか?、自分はどこまで行き着けるか?、は重大な事です。そうしている間に、なぜ自分がここに存在しているか? も、見えてくるかも・・と思ったりしています。それにしても、知と言うのは、知れば知るほど自分が無知な事に気がつくものですね・・。ヴィラ・サンミケーレ(Villa San Michele)いつぞや、カプリ島で紹介できなかったサンミケーレの邸宅を紹介。(写真中心です。)サンミケーレはカプリ島を愛したスウェーデン人、アクセル・ムンテ(1857年~1949年)の邸宅の一つです。スウェーデン宮廷に医師として仕え、1903年~1930年までスウェーデンのヴィクトリア女王の侍医として彼女が死ぬまで仕えたそうです。彼は、パリで開業していたようですが、カプリが気に入り、ローマ時代の遺跡の上に1890年地所を買い、邸宅を建てます。ここがその場所です。ここで、自伝的小説「サンミケーレ物語」を執筆しています。(カプリ島の人と自然について深い愛情をそそがれた内容だそうです。)庭からの眺めはすばらしく、カプリ島の東半分が一望にできます。(景色はカプリの所で見てね。)多くの考古学的遺物の発掘をしており、複製品もまじえて飾られています。中世の建築様式の要素をルネッサンスの伝統と結合した邸宅を自身で設計しています。ムンテは、スウェーデン政府が他のムンテ所有の邸宅とともに管理する事を遺言した為に、イタリアとスウェーデン間の文化交流が盛んになったのだそうです。下、チャペルは、970年大天使ミカエルに捧げられたものを遺跡でみつけられ、ムンテが再建して、図書室と音楽室として使われたものです。彼のコレクションの骨董品が飾られています。ムンテの食堂。家具は、16世紀ボローニャ地方の物で、食器はスウェーデン製なのだそうです。(見るからにアンティック)島には、850種を超える植物と多くの鳥類が生息するので、世界中から研究者が訪れるそうです。ここは、「青の洞窟」に入れなかった方達が代わりに訪れたりする程度で、日本人にはあまり知られていないかもしれません。こんな別荘欲しい!! こんな所でブログ書いて余生を送りたい・・・なんちゃって・・・。まだ早いけど・・・。
2009年07月13日
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最後の審判 1 (ダンテの神曲)最後の審判(Last Judgement)とダンテの神曲キリスト教における終末論2度行われる神の裁きダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)神曲 地獄編神曲 煉獄篇、天国篇ミケランジェロ作の「最後の審判」は、バチカンのサンピエトロ寺院、システィナ礼拝堂の正面祭壇に描かれたフレスコ画です。と言う紹介は前回しましたが、「そもそも何が最後の審判か?」と言うところは、キリスト教徒ではない人、聖書を読んでいない人にはわからない世界です。今回は、それを簡単に紹介できれば・・と思います。ミケランジェロの描いた「最後の審判」の絵は、一言で説明すればイエス・キリストがすでに亡くなっている死者達に復活か否か? 生前の罪を審判して振り分けの裁きを下している図・・です。キリスト教における終末論イエス・キリストは「神の国が到来するから悔い改めよ」・・・と言いっています。つまり、この世が滅んだ後に神の支配する世界が到来する。しかしそこには良き者しか入れない。でも、悪しき者達でも、今から悔い改めればまにあうぞ・・。と言う事です。そして、その滅びの日(終末)は突然やって来るのだそうです。まるで、天変地異のような状況下で・・。そうした考えから、キリスト教世界では人の世界の終わりを「終末論」に位置づけています。もっとも中世より現在にいたっても、世の中が悪くなると終末論は取りざたされ、今にも来る・・的な扇動を教会関係者がしていますが・・。(実際未だ終末は来ていないわけで・・)ところで終末に対する考え方は旧約聖書(ユダヤ教)と新約聖書(キリスト教)では若干考え方が異なるようです。旧約聖書(ユダヤ教)・・・悪がはびこり、やがてこの世は破滅する。 でも、神を信じていれば救われる?新約聖書(キリスト教)・・イエスを信じれば、今から救いが約束される。 つまり「神の国へのチケットが今もらえちゃう・・的な発想です。イエス・キリストを認めていないユダヤ教には終末はあっても、「最後の審判」は存在しない。キリスト教の言い分では、終末に神の代わりに裁きをする役目をキリストが負っているのだから、天国か? 地獄か? キリスト次第・・と言う事のようです。ところで、神の国は来世か? と言うと、私達の思う来世とは別物のようなのです。2度行われる神の裁きキリスト教には審判は2度あるようです。1度目は実際に死んだ時・・その時点での生前の行いに分けられて、魂の行く場所が違うようです。「ハデス」(地下世界)と呼ばれる魂の待機所は、(「ダンテの神曲」によれば)天国、地獄、煉獄、辺獄(リンボ)と言われる区画に別れています。2度目が最後の審判の時・・イエス・キリストにより、再び振り分けられる。その時は生前の肉体を持って審判され振り分けられるので、天国も地獄も肉体を持って入る事になるらしい。(カトリックで火葬しない風習は、肉体が無くなると審判の時に困るからです。)下は「最後の審判」の図の解説図です。A.天使、キリスト、他選ばれた者達。B.ラッパを吹く天使と本を持つ天使。C.よみがえる死者達。D.天に昇る救われた者達。E.地獄に落ちる者達。上の図と下を見比べて下さい。E.左上の拡大図です。地獄に引きずりおろされようとしている絶望の姿です。E.の図には現れていませんが、礼拝堂の絵では一番右下です。地獄に落ちる者を尚、船から落としているカロンがいます。これらの神の国に至る最後の審判の図の地獄風景を描く為に、ミケランジェロは、同じフィレンツェ出身の詩人、ダンテの「神曲 地獄篇」からモチーフを得て描いたと言われています。ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家。代表作「神曲」(La Divina Commedia)は長編な叙事寓意詩。ダンテ自身は、単に喜曲と呼んでいたそうです。神曲の書き出し部分はフィレンツェを追われた自分の彷徨う姿から始まっています。全編彼が主人公です。神曲 地獄編推定西暦1300年の聖金曜日、暗い森の中に迷い込んだダンテは出口を見つけられずに彷徨っていた。するとそこで古代ローマの詩人ヴェルギリウスに出会う。そこから逃れるすべのない彼は、正しい道に出る為、地獄、煉獄へとヴェルギリウスに導かれて長く苦しい旅に出る事になる。ヴェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内する。地球の中心部、魔王ルチフェル(サタン)の幽閉されている領域まで至るまでが地獄編です。「神曲は」ラテン語ではなく(イタリア)トスカーナの庶民語で書かれている。※ 誰でも読んで理解できるようにそうしたらしい。ミケランジェロは皆の知っているイメージを使ったとも考えられます。実際、ダンテの新曲のイメージこそが世間の地獄のイメージとして形造られるのである。神曲 煉獄篇、天国篇二人は、地獄から悔い改めの煉獄山を登り、再会したダンテの永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天する。さらに各遊星の天を巡って、神に選ばれたダンテは、神の住む至高天(エンピレオ)へと昇り見神する。それが神の支配する来世の場所? もはやそこは宇宙空間です神曲( La Divina Commedia)」は1307年より執筆の始まった。「三篇(地獄篇、煉獄篇、天国篇)で構成され、それは三行を一連とする「三行韻詩」で書かれている。「神曲」全体の構成まで含め、聖なる3の数字にこだわっていると言われ、叙事詩なのに幾何学的構成美のある作品なのだそうだ。イタリア文学最大の古典と位置づけられている。「神曲」が完成したのはダンテの死の直前1321年。その頃はラベンナにいたようです。ところで、ダンテは1301年政治的理由による一方的裁判でフィレンツェを永久追放されています。今や、「神曲」はイタリア文学最大の古典だけでなく世界の古典です。追放したフイレンツェが今更ながらダンテの墓の変換をラベンナに要求するくらい、彼の損失を悔やんでいるようです。ダンテの当時の知り合いや、古典の著名人が多く出演する書物なので、かなりのサブ知識が必要です。まして、カトリックを知らない私達が読むにはかなり事前のお勉強が必要ですが、「デビルマン」を描いたマンガ家の永井豪 先生がコミックでダンテの神曲を出版されているので、まずはそこから入るのが良いかもしれません。「最後の審判」は、つづくリンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録)リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos2018年07月「ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師」の中「ダンテの地獄図」と「地獄の解説」を入れています。リンク ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師
2009年07月12日
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Break Time (一休み)たまには料理ネタでも・・・。ケバブ(kebabu)はもともとバルカン半島の国々とその周辺(中東地域)地域で食べられているトルコが本場の料理で肉類をローストして調理する料理の総称です。串焼きケバブは「シシケバブ」と呼ばれ、「シシ」は金串(かなぐし)、「ケバブ」は焼肉という意味だそうで、羊肉の食べ方として一般的な食べ方として存在していたようです。ドネルケバブ 「ドネル」は「回転」と「回転する」で間違いないようです。やはり「回転焼肉」です。下は、ロードス島の旧市街Symis広場にあるお店で撮影したドネルケバブです。ドネルケバブは垂直の串にスライスした羊肉、鶏肉を上から刺して積みあげた肉の柱を回転させて電熱器で焼きながら焼けた外側の肉から薄く削り取るようにそぎ落として食べるお肉料理の調理と食べ方です。この写真では電熱器(ケバブロースター)は右壁の後ろです。以前は炭で焼かれていたといいますが、今は縦型の電熱コンロです。トルコとギリシアもとは一つ国(オスマントルコ帝国)を形成していたので、同じ食文化が根付いています。この食文化は近隣の中東にも及んでいます。もと、オスマントルコの帝国のあった地域に伝わっているのかもしれません。呼び方はそれぞれです。中身のお肉は、現在はバラエティーがありますが、基本はイスラム教国の場合、豚肉がタブーなので、羊肉、牛肉、鶏肉が使われています。そいで食べると言う事は、もともとお肉が硬いから薄くそいだものと思われます。元来は最初に記したように大人の羊肉が硬かったからかもしれません。おじさんがニコニコしているのはカメラを向けているからです。そぎ落とした物は薄いパン類に挟まれて、色々なトッピングが施されて提供されます。パンも、同じギリシャやトルコでも色々なタイプがあるので、これはオーナーの好みでセレクトされているようです。「何処の国はこの形のパン」とかは今はないようです。因みにこの店はPITA(ピタバン)があります。トッピングもタマネギ、トマト等の野菜からドレッシングをかけてくれる店もあり、(i肉にはすでに味がついている。)味のバラエティーも豊富です。レストランでは皿に盛られて出る場合もありますが、もともとは街のファーストフード店の、テイクアウト・メニューです。野菜が案外たくさん入っていて、ボリュームはあり、3ユーロくらい? 500円位いで、マクドナルドの「ビッグマック」より大きいので、男性でも一つで食べ応え十分です。味もGoodです。但し、店の当たり、ハズレは、やはりあります・・・。下は、別のお店の写真です。楽屋裏が見えました。奥のドネルカバブはまだお肉を積んでいる最中ですね。色々な端肉も混ぜているのでしよう。2本は、上から下味のソースのようなものをかけられています。全体に塗るのではなく、下にしたたり落ちるのを待つ方式なのでしようか?合理的、かつ経済的な方法です。最近は日本にも多いそうです。でも日本で販売されているほとんどが鶏肉か牛肉を使用したもののようです。「ギリシア料理ではギロと呼ばれる。」とありましたが、聞いた事がない(気にしていない)のでわかりません。「ドネル」を「回転」と解釈していましたが、「削ぐ」の意味では?と言われ調べましたが、「回転」、「回転している」で間違いないようでした。
2009年07月12日
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敢えて違う角度からめったに取り上げられないものを選んで紹介しています。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)下は、バチカンのサン・ピエトロ寺院の正面部分です。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年に起工。1514年にブラマンテが死ぬと、大聖堂の主任建築家はラファエロとなったそうです。1546年にはミケランジェロも主任建築家となっています。かつてドナト・ブラマンテとはライバルでした。教皇達は、自分の栄光の為にミケランジェロを働かせる事を望んだと言われています。サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑1513年、教皇ユリウス2世が、ミケランジェロに自分の墓碑を依頼したまま他界。1505年より約束されていた大がかりな墓碑の建築をミケランジェロは手がけるに手がけられず40年引きずり、悩ませられたそうです。1547年に完成された教皇ユリウス2世の廟堂は縮小されてサン・ピエトロの中に制作。ミケランジェロの作で「モーセ」像は有名です。下は、サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑の一部のモーセ像です。当初40体の彫刻を作るはずが、忙しすぎて自分で3体しか制作できなかったようです。メディチ家礼拝堂新廟メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男で駄目ピエロの弟)が教皇に即位。彼により、ミケランジェロはフィレンツェに戻り、サン・ロレンッオ教会の外観の設計など、メディチ家の仕事をするように言われます。図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設。1520~1533年に作られたメディチ家礼拝堂の新廟には、ロレンツォ2世の「暁と黄昏」とジュリアーノの「昼と夜」のすばらしいミケランジェロ制作のの墓碑があります。下は、ウルビーノ公ロレンツォ2世の墓碑の部分。(以前とりあげています。)石を彫ったとは思えない素晴らしい作品です。電動ドリルもない時代にミケランジェロはどうしてこうも細やかに、まるで粘土でも彫るかのようにできるのか? 天才以上に本当に神の業です。一体彫るのにどれだけかかるのか・・。法王レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたクレメンス7世が、教皇に即位した頃は不安定な国際情勢の中で、イタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国との戦闘の最中でした。マルティン・ルターによる宗教改革運動もあってクレメンスはサンタンジェロ城に幽閉、市内では殺戮、破壊、略奪、等の惨劇が繰り広げられていたそうです。ミケランジェロもそんな時代に翻弄され、フイレンツェの共和制を守って奮戦した為、メディチ家による処刑は免がれず、市内に隠れて不明(1975年にサン・ロレンッオ教会が隠れ場所だった事が判明)でしたが、墓所の建設と引き換えに赦免され、メディチ家礼拝堂の完成がなされます。ミケランジェロは、同士を裏切った罪にさいなまれ、また、彼の熱愛した「共和制の祖国フィレンツェ」の崩壊に絶望しローマに移ってから2度とフィレンツェに戻る事はなかったといいます。システィナ礼拝堂の祭壇壁画、「最後の審判」ローマに戻ると教皇クレメンス7世からシステイナ礼拝堂の祭壇壁画を依頼され、続く教皇パウルス3世もこの仕事の継続を望んだ為、(1536年~1541年)完成させます。巨大なフレスコ画による祭壇画は、ミケランジェロ自身が精神的な苦悩をした恐ろしいビジョンで描かれていると言われています。助手の手を借りずに一人で仕上げたと言われる壁画は、足場から落ちて大怪我したときも医師の手助けさえ拒否した程だったそうです。下の正面がシスティナ礼拝堂のフレスコ画、「最後の審判」です。、(1536年~1541年)ラテン語、賛美歌「ディエス・イラエ(神の怒り)と、ミケランジェロが暗記したダンテの「地獄編(小説)から大きなインスピレーションを得たとされ、畏敬の念を起こさせる大画面の構成になっています。1981年から1994年までに修復作業が行われ、ススで汚れていた壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇りました。(驚く程鮮やかで意外にポップな色で驚きました。古い美術書の写真は殆ど洗浄前の薄暗いものです。)最後の審判の紹介は別にやります。目的があるので・・。1544年と1545年の2度に渡って死を覚悟するほどの病気にかかります。明らかに教皇たちの過大な製作依頼が彼の体力を弱めていったようです。教皇パウルス3世はミケランジェロをサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家にし、その後3人の教皇のもと生涯続くことになり、存命中には完成しなかったそうです。1564年2月18日88才で亡くなります。ミケランジェロは敬虔なるカトリック教徒だったそうです。しかし、隠遁者で、内向的で憂鬱質であり、情緒的に激情する事もあったと言うので、恐らくうつ病の気があったのではないかと思います。節度ある生活を送っていたとされますが、召使が長く続く事がなかったそうです。また、彼は他の芸術家とは比べられないほど男性の裸体に興味を示し、夢中になっていたとまで言われ、ホモ・セクシャルだったとされていました。確かに、システィナ礼拝堂の巫女のモデルは、女性ではなく男性であったとされていて「そうなのかな?」と思う部分もありますが、彼は己のもつ芸術性にこだわりのある芸術家ですから、必要であれば男性の裸像に興味を示すこと自体は別に不思議ではないのでは? と私は思います。(筋肉フェチだったかも?)彼は単におく手で女性に接触がない職業だけに不器用だったのではないか? (顔のコンプレックスもあるし・・)彼の人生の後半に現れたペスカラ侯爵未亡人のヴィットリア・コロンナとの精神的な友情? は老いて静かに神と人生を語り合う相手として大切な存在だったのだと思います。もし、彼が10年若ければ結婚もあったのではないか? (出会いは61才)13才より好きで芸術の道に入り、自由に発想し、自分のこだわりが発揮できた時が彼の一番の幸せな時? と考えると大好きな祖国フィレンツェのダビデの像を制作していた時だったのでは? と思います。喜んで、奮発して特大サイズでダビデを彫ったのかな? と思ったりします。ミケランジェロは終わります・・・。でも・・やはり・・一枚紹介しておきます。先に「最後の審判」番外編です。右の脱皮した後のような皮がミケランジェロです。何を表して描いたのか? 「すでに気持ちはここにない? 」 or「自分は救われるべき人間ではない? 皮くらいで? 」
2009年07月11日
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前回に引き続き・・。やはり、ミケランジェロは一言で説明できる人ではありません。確かに長生きもしていますが、偉大な芸術家すぎて作品1つ1つも深すぎて大変です。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)フィレンツェを離れベネチアへ、そしてボローニャで1年過ごしフィレンツェに1度戻ると「眠れるキューピッド」(1495年~1496年)を制作。「古代の作品としても通用するだろう。」と言われたこの作品は後に古代彫刻としてローマで売り払われていた事件が発生。この事件を契機にローマに招請されたミケランジェロは、「バッコス」を制作し、フランス人枢機卿のジャン・ピレール・ド・ラグロラの為に「ピエタ」を制作します。それが、彼の代表作にも数えられるサン・ピエトロ寺院の聖母子像です。「ピエタ(Pieta)」制作(1498年~1500年)「ピエタ(Pieta)」は十字架から降ろされた息子キリストの亡骸を腕に抱く母マリアをモチーフとした聖母子を表現するものです。目を見はる美しさは、古典的な理想美の中にも抑制された美を表現した、独創性を持っています。この作品は、彼に不朽の名声をもたらし、一気にイタリア彫刻界の頂点に立たせた作品です。(以前「ミケランジェロ作メディチ家礼拝堂」の所で写真だけ紹介しています。)1501年英雄としてフィレンツェに戻ると、前回紹介した「ダビデ」(1501年~1504年)を制作。(この時彼はまだ26才なんですね。)ダビデ像は当時市庁舎として使用されていたヴェッキオ宮殿前に、ロレンツォの死後共和制にもどっていたフィレンツェの共和国の自由と、勇気と美徳のシンボルとされます。ローマで(ヴァチカンで)ユリウス2世(在位1503年~1513年)が即位すると再びローマに招請され、ミケランジェロはこの後7人の教皇に仕えて振り回されながら仕事をする事になります。下は当時ラファエロの描いたミケランジェロです。彼の肖像画は、老いたものばかりなので、彼の人物像がわかりやすい作品です。 一風変わった思索家といった感じですね。因みに欠けていますが、左上の白い衣装がラファエロ本人です。下は、上の作品の全景です。バチカン署名の間のラファエロ作。「アテナイの学堂」 制作1509年15011年。中心の赤い衣装がプラトンで右の青衣がアリストテレスです。1508年に教皇ユリウス2世から依頼された署名の間の壁面と天井画の成功で、ラファエロはルネッサンス最大の画家としての評価を得ています。ミケランジェロと同時期に、ほぼ隣で仕事をしていたわけです。ラファエロはレオナルド・ダ・ビンチの影響を受けた人ですが、ここでの仕事でミケランジェロを賛美したのかもしれません。最初の下絵に彼はいなかったのですから・・。サン・ピエトロ大聖堂の全面改築教皇ユリウス2世は、建築家ブラマンテに設計を一任します。同時にミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描くよう支持するのですが、もともと絵画は自分の専門ではなかった事もあり気乗りのしない仕事だったようです。暑く蒸し風呂の様な部屋で、足場の悪い中、上を向いて描くと言う制作で、絵の具はしたたり目の中に落ちるといったつらく苦しいものだったそうです。(特にフレスコ画は1日の描く分が決められてしまうので時間制限がつく。)確か女装して逃げた事もあったような記憶が・・。タイトルを忘れましたが、高校の頃に読んだミケランジェロの事を書いた本にそんな細かい記述があったような・・。なんだかんだと4年の歳月をかけて完成1512年の事です。「天地創造画」下が、制作期間(1508年~1512年)をかけたシステイナ礼拝堂の天井画です。「創世記」をテーマにした9つの場面が描かれたもので、一般に「天地創造画」と言われています。(バチカンにある絵の中でも有名な一つです。)一番中心、神がアダムに向かって手を差し伸べる場面が、「アダムの創造」です。その二つ右が「アダムとエヴァの原罪とエデンの園からの追放」食べてはならないりんごをヘビにそそのかされてエヴアが食べ、アダムに勧めた人間の原罪を表現しています。この作品も説明するには特集で何本かになるので、今回はスルーします。人々は畏怖の念を持って「天使の技」を見るために何100kmもの旅をして来たといいます。今回もつづく・・。
2009年07月11日
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ダビデ像(David)ミケランジェロ作のダビデ像(David)は、最初フィレンツェのシニョーリア広場のヴェッキオ宮殿の前にありました。下は、ベッキオ宮殿です。メディチ家の居城であった時代もありました。下の右端に注目。かすかに像が見えます。ここが、元の本家のダビデ像があった正位置です。1873年ダヴィデ像は、外にあると損傷を受けやすい(酸性雨とか・・年月の摩耗)ので、保存の為にフィレンツェに美術学校の美術館であるアカデミア美術館(Galleria dell Accademia)に移設。下の写真はアカデミアの本物の大理石のダビデですが、私の写真ではありません。1501年~1504年に制作。大理石で身の丈5.17m。ダビデが裸なのは、当初サウルが自分の着ていた甲冑をダビデに着せたのですが、着慣れない甲冑と動きのとれない事に戸惑い、「それらを脱ぎ捨てた。」と聖書に記されていたからだそうです。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人と多くの肩書きをもちますが、本人は、「私は彫刻家である。」と言い続けたそうです。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティと共にルネサンスの三大巨匠と呼ばれます。名前はミカエル(Michael)+ 天使(angelo)の意。ミケランジェロは、当時トスカーナ地方のカプレーゼで行政官をしていた家に生まれます。父は任期を終えフィレンツェに戻ると、生まれて数週間のミケランジェロをセッティニャーノ近郊の乳母の元に彼を預けたのだそうです。セッティニャーノは石切場が多く、乳母の父も夫も石工であった事が、彼の人生が決まる環境となりました。「私は、乳母の乳といっしょに、彫刻を作るのに使う鉄槌やノミも吸い取ったのだ。」と後にジョークを飛ばしていたそうです。芸術の道に進んだのは彼自身の希望で、(親は彼を文法学校に通わせていた。)13歳(1488年)の時にフィレンツェで一番成功していたドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし1年で頭角を現します。当時メディチ家の庭園にあったロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年)の新しい彫刻家の為の学校で学ぶチャンスを得ますが、才能のあった彼は学友の嫉妬心からいじめにあっていました。弱い者いじめの若い彫刻家ピエトロ・トリジャーノに顔面を殴打され、鼻の骨を砕かれています。ミケランジェロはこの事件と傷で、「生涯(心理的な)傷跡を残した。」と思われると、彼の親友のジョルジュ・ヴァザーリ(ヴァザーリの廻廊の建築家にして、「画家・彫刻家・建築家列伝」の著者)が記しているそうです。容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になった事は間違いないようです。ところで、ロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年)はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣し、フィレンツェのルネサンス美術をイタリア中に広めています。これは特異なロレンツォの外交政策の一端といわれますが、彼の代にメディチ家は最盛時(黄金時代)を迎え、盛期ルネサンスと重なります。芸術を愛したロレンツォが43歳の若さで病死し、息子のピエロ(1472年~1503年) が20歳の若さで家督を継ぎますが、もともと人望に乏しく、ロレンツォが「愚か者」と評した長男です。ロレンツォ亡き後のフィレンツェは衰退し始めます。同時に、芸術に興味のないピエロはミケランジェロに強い失望を与えました。この頃の不安なフィレンツェに不穏な事件がもう一つあります。サヴォナローラの登場です。サヴォナローラの事は別の機会にとりあげますが、彼の耳鳴りする説法により、ミケランジェロは仕事を辞めてフィレンツェから逃れて行きました。つづく
2009年07月10日
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お待たせしました。夕べはパソコンの前でいつのまにか寝ていました・・。リビングのロングソファーでやっているので、ちょっと寄りかかるだけで非常に良い眠りの体制になってしまいます・・。昨日は思考もまとまらなそうなので、あきらめて寝たら、なんと・・13時間も寝てしまいました・・。前回のミケランジェロ広場では、ダビデ像とミケランジェロまで紹介するつもりでしたが、(景色だけて終わった・・。)中身が濃いので(資料も多い)慌てず、分割することにしました。サン・ニコロ地区のミケランジェロ広場の建設工事(1873年~1875)は当初、建築家ジュゼッペ・ポッジの構想では、広場全体がミケランジェロを記念するモニュメントとなり、開廊はこの偉大な美術家ミケランジェロの、フィレンツェ市にある全作品を一同に集めた美術館にしたかったようです。(実際は見晴らしの良いデート・スポットだ・・。)唯一この丘の広場に置かれたミケランジェロ作のダビデ像により、「ミケランジェロ広場」の名は面目躍如と言った所となっています。ダビデ像(David)ミケランジェロ広場に置かれているミケランジェロ作のダビデ像から紹介ですが、当然ここのダビデ君はブロンズのレプリカです・・。シニョーリア広場のヴェッキオ宮殿の前にもレプリカがあります。本家はもともとシニョーリア広場にありました。1873年ダヴィデ像は、外にあると損傷を受けやすい(酸性雨とか・・年月の摩耗)ので、保存の為にフィレンツェに美術学校の美術館であるアカデミア美術館(Galleria dell Accademia)に移設されたました。ですから、写真はレブリカのダビデ君です。ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)のダビデ像やはり、作品はや夏の陽光に一番映えるようです。後ろ姿もりりしいですね。現物は大理石なのでこんなに綺麗には写真に写りません。彼は、広場の高所から街を見下ろしています。なかなか人が多くて掃けないので、撮影しにくい場所です。ピエタと並ぶミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)の代表作であるこの作品は、力強さと若さと人間の美しさの象徴とされています。本物は、制作期間は1501年~1504年大理石で身の丈5.17mもある彫刻作品です。(次回紹介)ダビデ(David)と旧約聖書の「サムエル記」ミケランジェロの制作したダビデ(David)は、旧約聖書の「サムエル記、上の17章」に書かれているペリシテ人の戦士ゴリアテとの戦いに勝利した時の姿です。ペリシテ人の侵略と戦っていた当時のイスラエル王サウルの命でダビデは巨身の男ゴリアテと一騎打ちをします。まだ少年だった羊飼いの少年ダビデは、止めるサウルに対してこのような事を言っています。「これまでも主の加護を得て、野山で羊を襲う獅子や熊を退治してきた私です。今度も、主は私と共にいてくれるでしょう。」ダビデは丸腰のまま武器も持たずに川原の石を5個とそれを投げて射る為の紐(ヒモ)1本だけでゴリアテに挑み、石で瞬殺したようです。倒れたゴリアテに近づき、彼の持っていた剣でとどめを刺し、彼の首を落として、掲げ、ペリシテ軍を撃退したそうです。(ゴリアテの首を持つダビデの絵もよく描かれる図です。)因みに、ダビデは、ミレー作の「落ち穂拾い」の女性、ルツとボアズとのひ孫にあたります。ユダヤ教では、王となるのに、何が何でも、正統な血筋の系譜かどうかが、重要視されています。勝利の後にダビデはユダの王となり、サウルの家来の軍勢と戦って勝ち、やがて古代イスラエルの2代目の王(在位BC1000年~bc961年頃)となりエルサレムに王国を築いています。彼の子がソロモン王です。旧約聖書の「サムエル記」は、古代ユダヤの歴史書のようになっています。正教会では「列王記第1」「列王記第2」と呼称され、「列王記第1」に含まれるようです。「ユダヤの予言者サムエル」の登場から彼により初代イスラエル王としてサウルが選ばれ、サウルが堕落し、ダビデが2代目の王として君臨し、彼が没するまでを「サムエル記」としています。彼の子ソロモン王から」「列王記1」となり、神殿建設の話が出て来ます。因みに、映画インディージョーンズの「レイダース/失われたアーク」で取り上げられたモーセの十戒の書かれた石板の契約の箱「聖櫃」は、ソロモン王の時代には、まだエルサレム神殿の至聖所に安置されていました。ダビデ像つづく
2009年07月10日
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帰宅が遅かったので今日も押してます・・・。フイレンツェに行ったら、まず最初に訪ねてみたいのがこの丘の上の広場です。ここからは、ほぼフィレンツェの全景が見渡せるからです。丘の上にはミケランジェロ作・・と、行ってもブロンズのレプリカですが、ダビデ像が飾られていて、その為にミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)と呼ばれています。「ヴァザーリの廻廊 1」で紹介したように、コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮殿は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観に手を入れなかったように、この街の整備計画においても、なるべく元の姿を残しながら、元の建築デザインに沿うように心がけて進められたようです。彼らの街作りの基本精神は、依頼脈々と受け継がれ、中世の街のたたずまいを今も存在させているのです。今日私達がフィレンツエに来た時に感じる中世にタイムスリップしたような不思議な感覚は、統一されたかのように同じ古い赤レンガ色した街の屋根と、かび臭そうな石の壁から匂い立つこの街の独特の空気の香りのせいなのかもしれません。下は、ミケランジェロ広場の丘から撮影したフィレンツェの街です。3枚のパノラマになっています。左、ピッティ宮殿のあるボボリ庭園の森からポンテ・ヴェッキオまで。ポンテ・ヴェッキオからヴェッキオ宮殿まで。ヴェッキオ宮殿からこの街のシンボルであるドゥオーモと鐘楼までです。たいがい紹介されるフィレンツェの写真はこの景色です。写真は夏の青さで街がくっきり浮かんで綺麗です。冬の写真は、弱い日差しで街が少しぼやけて見えますが、より中世に戻った気にさせてくれます。それは、薄暗さが私の中世のイメージだからかもしれませんが・・。BC8世紀にエトルリア人が開いた街だったと言う話しは、最初に触れましたが、彼らは、軍事と公衆衛生の立場から丘の上に街を造り、交易の為に一番渡りやすい所に橋を架けました。ボンテ・ヴェッキオです。今日フィレンツェ、ピサ、シェーナを含む地域をトスカーナと呼ぶのは、ローマ人が浸入するまではエトルリア人の住む土地だった事から「エトルスキの土地」と呼ばれ、エトルスキの土地の事を「エトルスカ」と呼ぶのだそうですが、それが後世なまってトスカーナと呼ばれるようになったそうです。BC3世紀にローマ人の勢力が増大してくるると、エトルスカもなし崩しにローマ化され、植民地にされてしまいます。BC59年、退役兵に報奨として土地を与えていたカエサルは、エトルスカも彼らに与え植民都市を造らせます、彼らは、アルノ川のボンテ・ヴェッキオ周辺に街を築いていったようです。(今は無いですが、円形闘技場の跡も道路の形として残っているそうです。)西ローマ帝国が衰え、蛮族が浸入してくると、街は掠奪と破壊の時代を迎えます。「治安が回復すれば、舞い戻って来てはローマの廃屋の街の上に新たな街を再建する。」を繰り返し復興させて行ったようです。(それをうまく整理したのが、コジモ1世とヴァザーリですね。)この街の名が「花咲く」、「繁栄」から来ていると言う話は「ポンテ・ヴェッキオ」の所で紹介したとおり、ローマの退役兵が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味でフロレンティア(Florentia)と名付けたのがフィレンツェ語源で、それが変化してフィレンツェ(Firenze)になったようですが、英語名のフローレンス(Florence)の方がローマ時代の元の名に近いようです。昔からこの街は花の都だったのですね。
2009年07月09日
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ヴァザーリの廻廊とピッテイ宮殿とコジモ1世コジモ1世(Cosimo I de Medici)(1519年~1574年)初代トスカーナ大公である彼は、本来は、メディチ傍系(大コジモの弟脈)でしたが、ウルヴィーノ公のアレッサンドロが暗殺されると白羽の矢が立ち17才で後継者としてフィレンツェに迎えられたそうです。若いながらも野心家であった彼は、評議会を自由にあやつり、裏切り者を処刑し(「4日間で毎朝4人づつ、裏切り者の首をはねる」)、新しい支配体制を樹立し、共和国は実質崩壊し、フィレンツェ公国を樹立させます。戦争も多くしたようです。シエナを支配に置き、領土も2倍に増えています。反抗的な都市に対して、「これを失うよりは、全滅させたい」と語った所に人柄が見えますね。(メディチ家有名人のトップ3人に入るのでは?) 頑健な体格にめぐまれ、冷静かつ積極的で、政治手腕はすばらしかったようですが、暴君で、当然人々から敬愛されるような人ではありません。しかし彼の行った都市整備と、メディチ家の伝統? 芸術を愛し、文芸擁護には尽力した事は、後世ほめられる所です。妻、エレオノーラとの間に11人の子がおり、ピッテイ宮殿の購入は妻の健康の為だったそうです。妻には誠実で愛妻家だったようです。 画家のブロンズィーノを宮廷絵師としてかかえ、多くの家族の肖像画を残しているようで、ブロンズィーノを徴用している所が個人的に好きです・・(お目が高い・・。)そんなコジモ1世の依頼したヴァザーリの廻廊に戻ります。写真が無くて・・またまた地図でカバーです。ポンテ・ヴェッキオをからピッティ宮(下)までです。橋を渡ってすぐ脇にあるのがサンタ・フェリチタ教会のようです。ヴァザーリの廻廊は橋を渡るとさらに続き、サンタ・フェリチタ教会のファサードの上を通過し、前回紹介しましたが、マンネッリ家の塔の舘(カーサ・トーレ)を迂回します。下は、サンタ・フェリチタ教会のファサードの通路です。その教会を削って作られているようです。メディチ家の人々が外に出なくても礼拝できるように作られたサンタ・フェリチタ教会内部のメディチ家専用バルコニーですが、よくぞ教会にこんな物を通させたな・・と言う罰当たりな気がします。時の権力者だから仕方がなかったのか? 通りすがりに「ちょこっと礼拝」みたいな気がしますね。下は、ミケランジェロの丘からヴァザーリの廻廊の通るあたりを撮影したものです。左奥の森の部分がピッテイ宮殿のボボリ庭園です。あのあたりに宮殿の端があり、ヴァザーリの廻廊はつながっています。特別見学の観光客は、宮殿内には入れてもらえず、手前のボボリ庭園のあたりで外に出されます。下は、庭園内の出た近辺にあるブオンタリンティの岩窟です。中には奇妙な形体のアートをした泉水? があり、メディチ家の庭園の一部をなしています。豪華なアート建築の作品? といった所です。ヴァザーリの廻廊の終点は本来ピッテイ宮の中ですが、警備上の問題か? 宮殿前の庭で終点になります。全長は1km程の距離ですから、メディチ家の人が最初から最後まで歩いても時間にして15分もかからないかもしれません。(観光客は飾られた絵画を見て、景色も見るのでもう少し時間がかかりますが・・。)廻廊建設は、やはり恨まれて暗殺の歴史の多いメディチ家ならではの発想かもしれません。特にコジモ1世は敵が多かったはずです・・。でも、廻廊はメディチ家のコレクションの展示場を当初から兼ねていたようです。建設はたった5ヶ月ですが、中身は5年分に匹敵する建築内容なのだうです。ウフィッツィ(オフィス)も当初からベッキオ宮殿に繋げて廻廊を造る計画の元にあの場所に建設されたようなので、大方の建物はほぼ完成していて、最後の接続に5ヶ月かかったのかな? とも思えます。このヴァザーリの廻廊は、第二次世界大戦の被害で近年まで使えなかったようです。(長い修復期間が終わり一般公開された。)1944年夏、1度も破壊されずにいたフィレンツェの街も、戦火が押し寄せ、ドイツ軍により、ポンテ・ベッキオ以外のこの街の橋と道路が爆撃されたそうです。破壊から免れたポンテ・ベッキオもがれきの山に前後をふさがれ、ヴァザーリの廻廊も通行不能の状態になったのは想像できます。ヴァザーリの廻廊の受難は最近まで続いていたようですね。全景ははいらないので、一部ですが、ピッティ宮殿です。ピッティ宮殿(Palazzo Pitti)メディチ家のコジモ1世が新たに購入した宮殿は、彼のライバルの銀行家ルカ・ピッテが1457年メディチ家よりも立派な宮殿を建設したくて、建築家フィリッポ・ブルネレスキに依頼し、設計され着工した宮殿です。彼の名のピッテイ宮殿と付いていますが、ピッティは1472年に死去。ピッティの死とともに、宮殿の建設も中止され、100年置かれたそうです。そして、1550年頃、ライバルの家系、メディチ家のコジモ1世が、ピッティ宮殿を購入し、ブルネレスキの設計を壊さないように増改築しています。1865年~1870年まで新生イタリア公国の王宮になっていたようですが、今は、6つの美術館となっています。トスカナ大公の時代からのメディチ家のコレクションが収容されていて見逃せないらしいですが、実は私もまだピッティ美術館は行っていません。昔、3泊4日でフィレンツェをまわったのですが、イタリアと言う国はやたらと「シェスタ」と言う昼寝の風習があり、昼から夕方までショップも美術館も教会もクローズしてしまい、休館日も加味すると時間を合理的に使って観光する事が非常に難しい街だたのです。(歴史も見るべき所も多くて長期滞在しないと見切れません。)ピッティ宮殿美術館にあるラファエロのトンドの「小椅子の聖母」は大好きなラファエロの一点なので肉眼で見たいですね。
2009年07月08日
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今日も明日もお出かけなので、少し押しています・・。ヴァザーリの廻廊(Corridoio Vasariano)は、いよいよポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)の上にさしかかります。と言っても窓から見える景色の違いだけですけど・・。一応地図を再び。橋を渡る所から出発です。A下は、アルノ川在の通路から橋の上の通路に入いる曲がり角から下のポンテ・ヴェッキオを撮影。ある意味ポンテ・ヴェッキオの全景です。B橋の上とは思えませんが、中世、街の中心にある橋は皆、このように、商店がビッシリ並んでいたのだそうです。(それにしても屋根瓦は中世からあったのでしょうか?)下は、ポンテ・ヴェッキオから前回紹介したアルノ川沿いの廻廊を撮影しています。牢屋ではありません・・。C下は、ポンテ・ヴェッキオ中ほどで、唯一店がなく、川の景色が眺められるところです。D左端の上に見える胸像はベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)(1500年~ 1571年)のもので、橋の上の貴金属店の商店主がフィレンツェの誇る彫金師を賛美して飾ったものだそうです。チェッリーニ自身、ローマ、ボローニャ、ピサと修行し、フランス国王フランソア1世に招かれパリにも滞在し、帰国後メディチ家のコジモ1世のもと、彫刻・装飾の仕事を多く残しているのだそうです。きっとメディチ家から彫金のアクセサリーの依頼も受けていたのでしょうね。下が、上の景色を見た窓のあたりです。E橋の上に店を建築したさいに、多少の川の景観を残そうとした店主らの良心からできた川の見えるスペースですが、ヴァザーリの廻廊はその上をおおっています。前々回 「ポンテ・ヴェッキオ(フィレンツェ)」の所で、肉や皮のなめしの匂いに耐えられなかったフェルデイナント1世の話をしましたが、めったに通らないのに気にいらなかった人がコジモ1世の妃エレオノーラです。一説には彼女が肉屋を追い出して貴金属屋にしたとか・・。当地では貴金属をたくさん身に付けている人の事を揶揄して、「ポンテ・ヴェッキオみたい。」と言うのだそうです。(その名前のファッション・ジュエリーの店がありますね。)下は、写真の廻廊の壁に見られる丸い小窓から撮影。F店の中まで見える良い場所です。店のオーナーは廻廊を通過する貴婦人達に何かアピールでもしたのでしょうか? 「新商品入荷しました。」なんて看板出したら女性なら興味わきますよね・・。橋を渡ると妙にジグザグした通路になっています。それはメディチ家の廻廊が自分の庭の敷地を通過する事を拒否したマンネッリ家の塔の舘(カーサ・トーレ)を迂回しているからだそうです。Aの地図で確認して下さい。迷いましたが、再びつづく・・。
2009年07月08日
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メディチ家の連絡通路、ヴァザーリの廻廊(1565年)を渡る建築家のジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)により、メディチ家の依頼で、ピッティ宮からポンテ・ヴッキオを通り越し、さらにウフィツィを通り越してヴェッキオ宮殿までつないだ宙の渡り廊下です。全長1km程あります。コジモ1世(1519年~1574年)が、メディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を希望していた事と、彼の息子フランチェスコとオーストリア皇女ジョヴァンナの結婚式(1565年12月)に間に合わせる為に急ピッチ(たった5ヶ月)で仕上げたようです。(フランチェスコの住まいベッキオ宮とゴジモ1世の住まいを繋いだわけです。)A長いのでピッティ宮はやはり下で切れています。上の左端に下だけ見えているのが、ヴェッキオ宮です。下は、ウフィッツィ美術館から撮影したヴェッキオ宮殿です。塔があるので宮殿には見えませんが・・。Bウフィッツィ美術館はコの字型をしており、撮影場所も美術館内です。下は、中庭部分。3階右の翼の突き当たりが、ヴェッキオ宮に宙でつながっています。(ヴェッキオ宮の左側がシニョーリア広場です。)下の右側がウフィッツィ美術館で左側がヴェッキオ宮殿です。シニョーリア広場側からの撮影です。Cデパートの連絡橋のようですが、中世にこの技術と発想はすばらしいですね。かくして、本当のヴァザーリの廻廊のスタートはここから始まります。でも、特別観光客はウフィッツィ美術館の3階からスタートします。ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)とジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)「古き舘」は、アルノルフォ・ディ・カンビオによって1299年~1314年に建設。当初、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、後にメディチ家の居城となると部分的に改築されます。(現在フィレンツェ市庁舎)依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリで、1550年~1565年の事だそうです。ジョルジュ・ヴァザーリは、「画家・彫刻家・建築家列伝」を著しており、美術史家の側面もあり有名です。一連の改築工事にあたり、ヴァザーリは「多くの事件を目の当たりにしてきた基本的な外壁。」・・・・は、そのままの姿で残すべきと判断したようです。コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観には手を入れず、改築は内装部のみで行われたようです。私達が今日見ているヴェッキオ宮殿は建築当時の1314年の姿のままなのです。廻廊は、ヴェッキオ宮殿の3階エレオノーラの居室「緑の間」から始まり、ウフィッツィ宮殿の左翼(写真Bでは右翼)に沿って、アルノ川に面した美しい廻廊に繋がります。美術館内の写真撮影が、今はできないので、美術館内の写真はありません。ウフィッツィ宮は、1591年より部分的に美術館として公開されています。もともとメディチ家のコレクションを置いてあり、コジモ1世の息子(前出の)フランチェスコ1世が最上階に美術品を展示し始めた事に始まるようです。近代式の美術館としてはヨーロッパ最古のものの1つと言う事です。窓辺には大理石の胸像がたくさん飾られていたと思います。(絵は陽に焼けるから。)下は、ウフィッツィ美術館を出てアルノ川沿いに進む廻廊です。撮影場所は、ポンテ・ヴェッキオの上のヴァザーリの廻廊からです。D上の写真を向側から撮影したものが、前回載せたものですが、再び載せます。下は、美術館の廊下側から撮影したものです。赤い瓦屋根の下が、アーチでささえられた廻廊です。アーチの下ではなく、通路は上です。四角いのは明かり取りの窓です。E前回も説明しましまたが、突然行って拝観する事はできません。かなり事前に拝観の申請して、許可をもらわないと、中に入れてもらえないので、注意して下さい。下は、ヴァザーリの廻廊内部、恐らく・・多分・・写真D、Eの通路? あたり?並んでいる絵画は、フィレンツェの画家達の肖像画です。F現在は近代風になっていて、ただの味気ない通路です。絵画は、メディチ家の所有だったものですが、ヴァザーリの頃から? 画家は、自分の肖像画をメディチ家に提出しなければならなかったそうです。ポピュラーな画家の肖像画は公開されていますが、微妙なラインの画家達の肖像画もだいたい揃っているようです。1966年のサイクロンの被害がどこまで出ているかわかりませんが・・。そう言えば、ルーブル美術館のモナ・リザ偽物説ですが、ジョルジュ・ヴァザーリはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)のモナ・リザの実物を見ているのだそうです。それは、「ルーブルのモナ・リザとは別物だった。」と言う所からも疑惑が出ていると、何かの本で読みました。(芸術家列伝で触れていたのかな? )もし、そうなら何世紀か前からすり替えられていた可能性もありますね・・。つづく・・。
2009年07月07日
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Break Time (一休み)以前(ヴェルサイユの後)写真の空きスペースに入れて置いて使わなかった写真を掘り起こして来ました。ここはウィーンの王宮前です。観光客の遊覧用の馬車がたくさん待機していて、お客さんを待っています。観光地に行くとローマなどもこうした馬車は見かけますが、ここはかなりたくさんの馬車が停車しています。他の観光馬車と違うのは、ウィーンでは車の走る一般道路も走る事ができるので、近場なら馬車でホテル前まで送ってくれるのです。(もちろん車線変更はできませんが・・。)昔から馬車を使っていたお国事情が、馬車にも交通輸送車としての権利を残してくれているようで微笑ましい気がします。道路を馬糞で汚さない為に馬のお尻の下あたりに馬糞受けが付いているのが特徴です。待ちぼうけの馬も可哀想ですね・・・。「早く走りたいよ・・、出なきゃエサをおくれ・・。」駅馬車15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていたそうです。馬や、ロパに乗る事さえ贅沢な事だった時代に、馬車は一般人に縁はなく、旅はもっぱら自分の足で歩いて行かなければならない大変疲れる事だったようです。商業や手工業が発達して商いが広域に拡大してくると、船で行ける所は良いですが、陸上輸送の方にも需要が生まれてきます。そんな中で一般庶民も乗る事のできる乗り合いの駅馬車と言うものが誕生したようです。最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけで、そのうちに一定の区間、(街道や街、港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化していったようです。いわゆる乗り合いタクシーか、バスですかね・・。(馬の頭数でも違いますが、定員は4人~。アメリカの幌馬車みたいのなら結構乗れるのでしょうが・・。)以前 「ロンドンバス(London Buses )」で紹介しましたが、ロンドンの2階建てバス(ダブルデッカー)の前身がこの普通の駅馬車だったわけで、乗客を増やす為に屋根まで乗せて、2階建ての駅馬車を考案した発想はロンドンだけだったようですが・・。因みに、ロンドンに辻馬車が登場したのは1625年だそうです。長距離便では、何泊もするものも登場。パリ~リヨン間を結んだ駅馬車(Diligence)は、夏は5日、冬なら6日もかかって両都市間をつないだそうです。(そんなに長いと馬車の中の人間関係もたいへんですね・・。)まさに馬車旅ですね・・。長距離便ができた事は、一般市民の行動範囲をおおいに拡大してくれたようです。旅の回数も、場所も増えたわけですから・・。そして、足の悪いおばあちゃんと孫も一緒でちょっと隣町のレストランなども行けたのですから、庶民の文化生活も広がって、おおいに楽しみが増えたものと思われます。いろいろな意味において選択肢も広がってきたわけですから、駅馬車の登場は都市交通の発展以外にも非常に重要な事項だと思います。いづれ、写真を見つけたら紹介するつもりですが、この定期便の駅馬車に手紙を一緒に運ばせたのが郵便事業であり、郵便車なのです。
2009年07月07日
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訂正サイクロンの年を入力ミス 正解は1966年です。フィレンツェ(Firenze)古代ローマ時代に、カエサルが退役軍人に与えた土地を兵士達が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味でフロレンティア(Florentia)と名付けたのがフィレンツェ語源だそうで、それが変化してフィレンツェ(Firenze)になったようです。街の歴史をさかのぼれば、BC8世紀にエトルリア人が街を築いたのが発祥だそうですが、14世紀にメディチ家が台頭して花開いた芸術と文化の都、ルネッサンスの発祥地としての方がピンとくるかもしれません。フィレンツェから、誰もが知る有名な芸術家が多く輩出されています。ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、フィリッポ・リッピ、作家ではダンテ、ボッカチオ、等。でも、今日は芸術家や作品ではなく、橋を一つ紹介します。イタリア語で橋をポンテ(Ponte)と言います。ポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)イタリア語で「古い橋」古来よりフィレンツェの交通の要としたアルノ川に架かけられた最初の橋です。橋は何度も架け替えられても古い橋と呼ばれたようです。下は、アルノ川と手前がヴェッキオ橋です。ミケランジエロの丘より撮影。ポンテ・ヴェッキオは普通の川を渡る橋ではありません。橋そのものが商店街になっています。A1170年に再建した石造りの橋は、1333年に洪水で流出し、再度1345年に建築されました。現在、上物は1966年のサイクロンで街が壊滅した時に破壊され、建て直されています。このアルノ川はアペニン山脈から来る大急流で、けた違いな洪水に見舞われては、水没の被害を被る歴史の繰り返しだそうです。1699年の洪水では、ウフィッツィ美術館の倉庫も2m浸水し、8000ものルネツサンス絵画が被害を被ったそうです。下は、ヴェッキオ橋の上です。Bおよそ橋には見えませんが、橋の真ん中あたりです。Aの写真でなにやら飛び出しているものが店なのです。中世には、魚屋、肉屋、皮職人の店が立ち並び、非常に臭かったのだそうです。メディチ家のフェルデイナント1世(1549年~1609年)は、住まいのピッティ宮殿から行政機関のあるオフィス(Ufficio)、現在のウフィツッィ宮まで通っていたので、この橋を渡るのがとても辛かったようです。ついに1593年に行政命令で、悪臭の酷い店は追放され、代わりに装身具店や貴金属店が入りました。(それが現在に至っています。)Cこれらの店は、地代を2倍払うかわりに、橋の上の店の拡張をしたようです。写真下、で見るような景観の悪い橋の姿になってしまったようです。(400年以上の歴史が凄いですが・・。)橋にたかった雑居ビルみたいですが、橋の耐久性が凄いですね。Dヴァザーリの廻廊ところで、フェルデイナント1世は、直接この橋を渡っていた訳ではありません。彼の父コジモ1世(1519年~1574年)が、1565年に、この橋の上にメディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を造らせているからです。渡り廊下は、住まいのピッテイ宮からウフィツィを通り越し、ヴェッキオ宮殿まで続いています。これを依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)で、彼に因んでヴァザーリの廻廊と呼ばれています。本来5年かかる建築を彼はたった5ヶ月で完成させています。それは今も存在しています。下は、ウフィツィ宮殿側から撮影したヴァザーリの廻廊とポンテ・ヴェッキオです。E写真右手前から橋に向かう赤い屋根がヴァザーリの廻廊の一部です。現在、ヴァザーリの廻廊は、事前の申し込みにより、特別公開されています。ウフィツィ美術館の特別廊下から入り、ピッティ宮殿の手前まで通って行けます。下がヴァザーリの廻廊の図ですが、橋を中心にしたので上のヴェッキオ宮殿が欠けて、下のピッティ宮殿も欠けてしまっています。Fヴァザーリの廻廊はつづく
2009年07月07日
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登山電車・ピラトゥス鉄道 3 (ピラトゥス山頂)ピラトゥス(PILATUS)鉄道、山頂駅、標高2070mピラトゥス(PILATUS)山、標高2121m下は、最後のトンネルを出てからの登り坂です。ピラトゥス山の峰(ホテル側)から撮影。駅は左の方A下方中より少し右に見えるのがトンネルです。(前回の)そこから左に走る線が鉄道路線です。(やはり上から見下ろすととんでもない坂です。歩いて登るのも容易じゃないです。)アルプナッハシュタット(Alpanachstad)駅から山頂のピラトゥス・クルム(Pilatus・Kulm)駅まで4.8km、標高差は1600mを一気に登って来ました。下は、山頂駅から出て行く? 電車かな? B到着は手前のボックスの方に入ります。下がビラトゥス山頂駅のピラトゥス・クルム(Pilatus・Kulm)駅 構内C天井の絵はピラトゥス鉄動の会社(Pilatus Bah)のロコ゜マークです。グリフォンぽいですが、なぜこれがシンボルかは解りません。会社はルッツェルンにあって、ホテルを2件経営している事は判りましたが、ホームページに創業年の説明が無く?、鉄道は1889年ですが、創業当初から同じオーナーなのかは解りませんでした。(駅は以外にモダンですね。)下は、写真Bの、駅の上の方から峰向こうのホテル方面を撮影。D山頂にホテルが2つあると言う事でが・・。経営は鉄道会社のPilatus Bahだと思います。呪われた魔の山伝説山には、魔の山? 伝説があります。そもそも山の名はイエスの処刑に関与したことで知られるポンテオ・ピラト(Pontius Pilatus)に由来しているらしい。ポンテオ・ピラト(Pontius Pilatus)は、古代ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(在任26年~36年)。彼の亡霊が、山稜に近い小さな湖をさまよっていると言われ、それ故、この呪われた場所に近づくと、恐ろしい嵐が起こるのだとか・・。ビラトゥス山は、そんな迷信で永らく恐れられていたようです。歴史的確証何もありませんが、ピラトはカリギュラ帝(第3代ローマ皇帝)の時、ガリアに派遣? あるいは流刑? そこで自殺したと言われているそうです。この山の麓フィーアヴァルトシュテテ糊に所縁(ゆかり)でもあったのでしょうか・・。※ ガリアは現イタリア北部からスイス、ベルギー、オランダ、ドイツ、フランス、あたり。古代ローマ帝国の植民地にあたる。下はこのあたりの景色です。いつも雲が多くてあまり下は見られないようです。(何だが雲の上の仙人の気分ですね。)下山ですが、登山電車でもと来たアルプナッハシュタット(Alpanachstad)駅に戻るか、あるいは、ここからロープウェイで、ルッツェルン郊外のクリエンス(Kriens)まで降りる事もできます。帰りの登山電車の傾斜も魅力ですけどね・・。※ 帰りの登山電車は40分で、行きより時間がかかります。下は、ピラトゥス・クルム(Pilatus・Kulm)駅ですが、ロープウェイの駅でもあります。左下からゴンドラが出る所です。登山鉄道は右から出発。山上駅からはまず40人乗りのロープウェイで、フレクミュンテーグ(Frakmuntegg)(標高1415m)jまで行きます。長さ1400m、所要6分。そこからは4人乗りくらいの小型ゴンドラに乗り換えて、山麓であるクリエンス(Kriens)(標高492m)へ降ります。全長4968m、所要30分。途中駅もあるようです。ピラトゥス(PILATUS)山は、春遅くそくまで雪が残るようです。夏しか運行していないようなので(ロープウェイも)、行くのはやはり夏場ですね。氷河急行、ユングフラウ、ゴルナーグラートが三大鉄道だそうです。氷河急行もいづれ・・ですね。Back numberリンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 1 (歯軌条、ラックレール)リンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 2 トラバーサー(Traverser)
2009年07月06日
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登山電車・ピラトゥス鉄道 2 トラバーサー(Traverser)ピラトゥス(PILATUS)鉄道トラバーサー(Traverser)パーミル(permil)ラック式鉄道が世界で最も普及している国はスイスだそうです。(そうでしょうとも・・。)ピラトゥス鉄道は、ロヒャー式 (Rocher) なので2枚の歯車がそれをはさむ形になり、分岐部を含み全線かみ合わせが外れるヶ所は無いと言う事です。車体が横から見るとケーブルカーもどきの平行四辺形をしているので、時々ケーブルカーとまちがわれるのだそうですが、れっきとした登山電車です。因みに、ケーブルカー(Cable car)はやはり、山岳の急斜面などを登る車両なのですが、ケーブル(鋼索)で引っ張り上げる(巻上機等で巻き上げる方式)鉄道なので自力走行の鉄道と区別されます。車両は外部から引っ張って運転するので動力部が無いのが大きな特徴でしょうか? (鉄道にあまり興味のない人だと区別がつかないですよね。)下はすれ違う電車ですが、左が下りです。なぜなら、左のパンタグラフが降りています。下りでは電力がいらないので降ろしているようです。おそらく、発電ブレーキを使い、発生した電力は屋根上の抵抗器に流して熱に変えてしまう方式かも・・。「動力部は坂下の方にあって、昇り時は客車を押し上げるように動き、下り時は前(坂下の方)側でブレーキングしながら、ストッパーになる。」のが動力車の原理なので、この電車は動力と客車一体型ですから、エンジンはやはり坂下部にあるのでしょう。鉄オタではないので列車の型や構造までわからないので、詳しく説明できませんが、理論的には合ってますよね。(ミニカーだったらひっくり返して裏側を確かめたいのですが・・。)たいていの登山鉄道は単線です。どこかで上下線がすれ違わなければなりません。多客時の続行運転中は、まとめて数車両のすれ違いをしなければならないようで、写真上は、後続の昇り車両もポイントに入っています。下は、鉄オタなら気づいたか? トラバーサー(Traverser)です。トラバーサー(Traverser)トラバーサー(Traverser)は、線路間で鉄道車両を移動させる装置です。ラック式鉄道でも、このビラトゥス鉄道のようにロヒャー式ラックレールでは分岐器が作れないため、複線区間(信号場)のポイント切り替えや、折り返し駅の構内ではトラバーサー(Traverser)を使って車両を移動させます。よって、ここでは「ポイントの切り替所」その物を「トラバーサー」仕立てにしてあるようです。今昇りに線路が設定されていますが、下りに線路をつなぐのには、ポイント線路そのものが水平移動して切り替わるシステムなのです。(案外これも目玉なのです。多分・・。)ピラトゥス鉄道は、「乗る事」に意義があるので、正直そんなに景色は良くありません。唯一の絶景がこのあたりかもしれません。(山頂の景色も晴れ渡る事の方が少ないようです。)下は、山頂まで、いよいよ最後の登りです。パーミル(permil)パーミル(permil)は、1000分の1を1とする単位で、記号は‰です。 (1‰ = 10-3)鉄道線路の勾配を表す単位で水平距離1000m当たりの高低(m)を指すそうです。ピラトゥス鉄道では1000mで480m標高が上がる(480‰(パーミル)。世界一の急勾配を誇っています。あまりの急勾配であるため、車両がケーブルカー(鋼索鉄道)と同じ平行四辺形状になってしまったようです。今、車両から左手に見えてる景色です。登り切れば山頂のピラトゥス・クルム(Pilatus・Kulm)駅です。つづくリンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 3 (ピラトゥス山頂)Back numberリンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 1 (歯軌条、ラックレール)
2009年07月05日
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カプリ島は終わりましたが・・。「カプリ島の登山鉄道フニクラーレ」を紹介した時に、車両モデルとしてスイスから持ってきたピラトゥス鉄道に少し触れましたが、「アルプナッハシュタットからピラトス行きの世界最大急勾配の鉄道です。」と紹介したようにピラトゥス鉄道は世界一なのです。坂がきつくて・・。(自力で坂を登る電車としては)今回ちよっと紹介だけしておこうと写真の選定をしていたら、やはり絞りきれませんでした。鉄道オタ重視の画像でまとめるか?、一般的にするか? 結局どちらも捨てがたいので両方チョイス。すると画像枚数から3回くらいのシリーズになるかもしれません。(あまり語る所はありませんが・・。)これから旅するにはスイスは最適な季節ですよ・・。登山電車・ピラトゥス鉄道 1 (歯軌条、ラックレール)ピラトゥス(PILATUS)鉄道歯軌条、ラックレールスイスでの鉄道始めは、1844年ストラスブールから国境のバーゼルの区間をフランス国鉄が乗り入れた事だったそうです。※ 自国の鉄道としては1847年にチューリッヒからバーデン間(23.3km)に施設。スイスでは、国土の2/3がアルプス山脈などに囲まれた山岳地帯であるにもかかわらず、鉄道が多く、スイス観光の目玉ともなっていますが、もともと私鉄主導で路線建設が行われた為、鉄道数が増え、路線密度では世界一。16km歩けば鉄道に当たると言われるくらいの数を誇っています。「スイス鉄道の旅」なんて本がたくさん出ています。ピラトゥス(PILATUS)鉄道ピラトゥス鉄道の乗り場は、スイスのフィアヴァルトスタッテ湖(通称ルツェルン湖)とつながる湖のほとりにあるアルプナッハシュタット駅から出発します。下は、ピラトゥス(PILATUS)鉄道、アルプナッハシュタット(Alpanachstad)駅。いきなり急勾配です。分度器で計るまでもなく見てわかる角度・・。アルプナッハシュタットは鉄道が開通する前から、インターラーケンやマイリンゲンといったアルプスの村とルツェルンを結ぶ交通の要所だったところだそうですが、ピラトゥス山に上る登山鉄道の拠点として認知されています。ルツェルンからは湖船または鉄道で簡単にアクセスできます。(この鉄道は乗ることに意義がある鉄道なのです。)駅からまだ出たばかりですが、あんなに下に駅が見えます。ピラトゥス(PILATUS)鉄道は、1889年開業。(開業時は蒸気動車)1937年電化。(電化方式は直流1550V。)アルプナッハシュタット(Alpanachstad)駅から山頂のピラトゥス・クルム(Pilatus・Kulm)駅まで4.8kmで、標高差は1600m。山頂のピラトゥス・クルム駅までの所要時間は30分。1000mで480m標高が上がる(480‰(パーミル)、世界一の急勾配のラック式鉄道です。電車は赤と白とあり、1両編成で登ります。カプリ島のフニクラーレと車両の型が同じなので、前に紹介した事ですが、中は、電車の構造上傾斜があるので、段差により、5つの扉と(運転席を除く)5つのコンパートメントにステップが分けられています。1つのコンパートメントは3人座れて(車両の幅で3人分)、8人くらいが立って乗れる造りです。下は前と同じ写真です。車庫に向かう引き込み線に入ったようです。下は、歯軌条、ラックレールの見本です。(ロヒャー式のラックとピニオン)アルプナッハシュタット駅撮影。歯軌条、ラックレール2本のレールの中央に歯型のレール(歯軌条、ラックレール)を敷設し、車両の床下に設置された歯車(ピニオン)とかみ合わせることで、急勾配を登り下りするための推進力と制動力の補助とする鉄道が、ラック式鉄道(Rack Railway)歯軌条鉄道と呼ばれるものです。ピラトゥス鉄道は、ロヒャー式 (Rocher) を採用しており、ラックの歯が上部ではなく側面にあり、2枚の歯車がそれをはさむ形になり、車体側のピニオンがラックに乗り上げるおそれがなく、諸方式の中で最も急勾配に対応するタイプなのだそうです。(ウキペティアより)通常電車(粘着式鉄道)は、電車車輪とレールと摩擦力(粘着力)によって駆動、支持する、その方式では80から90‰(パーミル)の勾配が限界なのだそうです。ピラトゥス鉄道は(480‰(パーミル)ですから、ラックレール式の中でも群をぬいています。(スイスの技師Eduard Rocher によって考案されたものだそうです。)因みに、ラック式鉄道(Rack Railway)は、当時は急勾配を登る為ではなく、機関車の空転防止が目的だったそうです。(1812年にイギリスで製作されたミドルトン鉄道の機関車で初めて採用)つづくリンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 2 トラバーサー(Traverser)リンク 登山電車・ピラトゥス鉄道 3 (ピラトゥス山頂)
2009年07月05日
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