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ヴイッテルスバッハ家の夏の離宮だった宮殿は、選帝侯の夏の離宮であり、バイエルン国の王の夏の居城でもある。謎の死を遂げた白鳥城の王様、ルードヴィヒ2世は1845年8月25日、この宮殿で生まれた。彼の母プロイゼンの王女、マリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)がこの居城ですごしていた時に彼を出産しているからだ。もし夏の生まれでなかったらこの宮殿ではなかったのだろう ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)シュタイナー・ザール(Steiner Saal)選帝侯妃達の居室ルードヴィヒ2世 生誕の間ルードヴィヒ1世のコレクション 美人画ギャラリールードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)選帝侯フェルディナント・マリアの妃、ヘンリエッテが本館の建築を進め、息子マクシミリアン2世の時代に中央の本館に接続して両翼ができあがった。左右対称の宮殿は選帝侯の居室部と選帝侯妃の居室部に明確に分けられ、中央大ホールもこの頃造られている。母の造作したイタリア風から付け柱の装飾を加え、フランス風のバロックに改築され広間は明るくなったようだ。※ 宮殿の増改築はその後も続けられ、内装はバロックに加えてネオクラシックなど時代時代で造作が加えられているのがわかる。宮殿取り図左の南翼は選帝侯妃の居室 右の北翼は選帝侯の居室中央の大ホールシュタイナー・ザール(Steiner Saal)と呼ばれる広間がなぜ祝祭ホールと訳されたのか不明。直訳すると石のホールとなる。ボルゴ・デレ・ニンフェ(Borgo delle Ninfe)からニンフェンブルク(Nymphenburg)へこの宮殿のニンフは花の女神フローラがモチーフになった。花々が咲き誇る夏の離宮だからなのだろうが、これは建築家のアイディアかもしれない。フレスコの天井画はフランソワ・ド・キュヴィイエ監修絵はヨハン・バプティスト・ツィンマーマン中央に配されているのはローマ神。特に注目はメルクリウス(ヘルメス)の存在である。ボッティチェリの春(La Primavera)の中にもメルクリウスが存在するのだが、彼は神々とニンフ、あるいは人間とのつなぎの役をになっているのかもしれない。No12 選帝侯妃の寝室こちらの天井画もフローラ(花の女神)である。No20 王女の寝室ルードヴィヒ2世 生誕の間庭園側に面したこの部屋でルードヴィヒ2世は生まれた。この寝室は初代バイエルン国王(マクシミリアン1世)の2番目の妃で最初の王妃となったカロリーネ・フォン・バーデンの為に改築された。1806年、ナポレオンの台頭で時代は新古典(ネオクラシック)から、帝政様式(インペリアル・スタイルorアンピール様式)に・・。バイエルンはナポレオンにより王国として承認された事もありマクシミリアン1世はナポレオンに傾倒していたのかもしれない。ルードヴィヒ2世 生誕の間とは言え、表示意外にそれらしいものは何もない。ただ、この宮殿に付随する馬車博物館「マーシュタール博物館(Marstallmuseum)にはルードヴィヒ2世愛用の豪奢な馬車や雪ぞりが展示されている。ルードヴィヒ2世と言えば白鳥の城と謳われるノイシュバンシュタイン城に尽きそうであるが、彼がこだわったのは住まいだけではない。馬車博物館には彼が通常使用する乗り物にまで、どれだけこだわりを持っていたかと言うのが見てとれる。ある意味城よりも解り易い彼の美学がそこで見られる。一般のツアーでは時間的に立ち寄る事のない領域である。※ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4~5で紹介してます・リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)ブルーサロン王女の私的サロンですが、王子誕生の時はたくさんの側近が控えていた事でしょう。意匠がプリントされた壁紙も帝政様式のものであるが、新古典と相まってソフトに押さえられている。※ 帝政様式は主に家具などのインテリアに見られるがナポレオン台頭の一時期だけ、しかも本来家具などの装飾はもっとガッツリ、インペリアルを主張している物が多くヘタをすると品格が落ちるのだ。ルードヴィヒ1世のコレクション 美人画ギャラリーNo15の部屋はもとは王妃のダイニングルームだった場所である。美人画のコレクションはルードヴィヒ1世の物。おそらく近年この絵画を展示するべく「美人画ギャラリー」は造られたのであろう。本当にいろんな美女達ばかりが並ぶこの画廊はこのニンフェンブルク宮殿の目玉にもなっている。ルードヴィヒ1世は美女の姿を後世に残すべく、見初めた美人の肖像画を描かせてコレクションしたと言う。よって全てが彼の愛人だったわけではないのだ。目の覚める美女達は、実は少しデフォルメされより美しく理想化されて描かれているそうだ。今で言う美人を集めた写真集的なつもりだったのだろう。1827年から1850年の間に宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler )に描かせたものらしい。まさか全て同じ画家とは思わなかった。Grafin Caroline HolnsteinAmalie SchintlingHelene Sedlmayr不明ルードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)若き日の第2代バイエルン国王ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)ルードヴィヒ1世が退位を余儀なくされた美貌の愛人ローラ・モンテス(Lola Montez)本名はエリザベス・ロザンナ・ギルバート(Elizabeth Rossanna Gilbert)(1821年~1861年)美貌のダンサーであった彼女は富裕な資産家の男性の間を渡り歩いたと言う。1846年ミュンヘンでスペインのダンサー ローラ・モンテスとしてデビューするとすぐにルードヴィヒ1世の目に留まり王室に介入。愛人となる。ルードヴィヒ1世、60歳。ローラ25歳の時である。政務にも口を出し王に影響力を教唆(きょうさ)するローラは周囲の反感を勝う。もともと老いらくの王の恋を快く思っていなかった国民達・・。そこに王より年金と伯爵夫人の称号が与えられ、1848年国民の怒りと不満は騒動を越えて革命騒ぎとなったそうだ。ローラは国外追放。王は退位を迫られ受諾し、同時に二人の中は終わった。その後のローラはイギリス、アメリカ、オーストラリアと資産家男性の間を渡り歩いたようだがどこでもトラブルが絶えなかったようだ。最終的にはニューヨークで若くして梗塞で倒れ半身麻痺。お金も尽き39歳で亡くなっている。美女に目の無かったルードヴィヒ1世。ルードヴィヒ2世とはえらい違いです ニンフェンブルク宮殿つづくリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)
2015年08月30日
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何度も訪れたい国や都市があり、ハワイのように毎年バカンスをおくりたい場所がある一方、私には二度と足を踏み入れたくない場所もあります。一つはローマ市の城壁の外、旧アッピア街道沿いにあるカタコンベです。二度と行きたくないカタコンベアッピア街道(Via Appia)カタコンベ(Catacomb)アッピア街道(Via Appia)はローマ街道の中でも古くからある街道の一つです。古代ローマの繁栄時代「すべての道はローマに通ず」と言われ主要都市とローマは幾つもの街道で結ばれていました。その中でもアッピア街道は軍隊の迅速な移動を目的とした舗装された街道一号だそうです。(馬車が通れるように大きな敷石が敷き詰められています。)紀元前71年、約6000人の奴隷が反乱を起こしマルクス・リキニウス・クラッスス(カエサルと共に三頭政治をした人)によってこの反乱が鎮圧されると、「逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられた。」と言うエピソードもある街道です。カタコンベ(Catacomb)カタコンベ(Catacomb)は地下の墓所の事で、死者を葬る為に使われた洞窟、岩屋や地下の洞穴のことを指します。(何層にも深く掘られている。)古代には城壁内に墓所を作る事が禁じられていた為、墓所は城壁外の街道沿い作られたのです。カタコンベ(Catacomb)は最初、単なる墓地にすぎず、ここでキリスト教徒たちは葬儀を行ったり、殉教者や死者を記念する祭儀を行っていたようです。キリスト教徒迫害時代にはここに隠れ住んだとも言われていましたが、実際はそのような事はなく、ただ殉教者が葬られた為に巡礼の聖地となったと考えられているようです。アッピア街道沿いにはこのようなカタコンベがたくさん点在していて、有料で見学させています。私が入ったカタコンベは名前も覚えていませんが、当時発見されて間もなかったのか、教会も建てられていなかったと思います。当時ローマのカメオ屋さんで働いていたF氏に連れられて何も解らないままにここに来て、中に入れられました。10人単位くらいでまとまって一列に(通路が狭くて一人しか通れない)闇の中に下って行くと、両サイドは何メーターかある高い壁になっており、そこにはいくつもの穴が開いて(横に広く)縦には三段くらいで、石の蓋のついたままのもありました。怖かったです。深く進めば進む程背筋の凍るような恐怖で、見ず知らずの前の外人の背中をつかまえて、気がつけば数珠つなぎ、芋虫のように全員が繋がっていました。途中で一人が恐怖で狂って走って逃げて行きましたが、かえって危険な行為です。たまに迷子になって死ぬ人もいるようです。普通に立って歩く事が出来ません。頭の上が怖いのです。(両サイドも怖いけど・・)皆頭を下げて前の人の背中に押しつけるようにこごんで歩いていました。私は見えないけれど、比較的敏感な方の性質なので、半端ない恐怖体験でした。怨念が強い霊が多すぎだったのでしょう。まだきちんとお祓いもされていない墓地だったのだと思いますが、凄かった・・・。知ってたら絶対入らなかったのに・・。その翌日だったか、バチカンのサン・ビエトロ寺院に行き、地下に眠る歴代法王の墓が一般公開されていたので入りました(懲りもせず・・)でも、そこは清らかでした。清められているのが解りました。さすがバチカンだと感心しましたね。 アッピア街道もカタコンペも写真はありません。下はバチカンのサンピエトロ寺院。ローマ・カトリックの総本山です。バチカンやローマも追々紹介していきます。もう一つは次の機会に・・。同じく幽霊がらみですが、こっちは後が怖かった・・。
2009年05月05日
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追加テンプル教会ラストは、そこに眠る中世の英雄の話で締めたいと思います。ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)騎士ウィリアム・マーシャル(William Marshall)騎士をめざした貴族の子弟足のクロスの謎テンプル教会には何人かの騎士が眠っている。中でも円形ドームの下に眠るウィリアム・マーシャル(William Marshall)親子の墓は特別な存在である。騎士ウィリアム・マーシャル(初代ペンブルック伯)(William Marshal, 1st Earl of Pembroke) (1146年~1219年)ウィリアム・マーシャル(William Marshall)は日本では全く・・と言っていいほど知られていないが、彼は騎士の王道を進み、中世のイングランドで最も成功した一人です。幼少より奉公に出て修行し、トーナメントで実戦参加、戦場を渡り、騎士を育て、やがて戦場を退いて政治に携わる。ウィリアム・マーシャルの主君はイングランド王家(プランタジネット朝)であった。そこでヘンリー2世、ヘンリー若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された。親子でも敵対する時代に、互いに敵になりながらも、一度側近になれば、とことん忠誠を誓う信用と信頼のもてる男であった為、世代が変わりながらも歴代の王に仕え続けたのだ。それはこの時代とても希有(けう)な事なのだ。ウィリアム・マーシャルは身内だけでなく、敵対する武将からも一目置かれ信頼された。彼の正義は騎士道に忠実であったのだ。1170年に彼はヘンリー王子の武芸指南役に任命され4年でヘンリー王子を騎士に育てた。二人は師弟として、またそれ以上に強い友情でも結ばれていたようだ。騎士道を復活させ、騎士道に邁進(まいしん)。黄金期を造ったと言う。残念ながら若きヘンリー王子は1183年に熱病死するが、ウィリアム・マーシャルは1183年から1186年まで十字軍にも参加している。これがヘンリー王子との約束。・・だとも言われているが、参加に関しては、ヘンリー2世の代理で参加した・・と言う方が理屈が合う。(理由は前回紹介したトマス・ベケット暗殺事件である。)この十字軍参加でウィリアム・マーシャルは聖地でのテンプル騎士団の活動に感銘したそうだ。それ故、死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されることを誓ったとされ、その遺言通りウィリアムは死の直前にテンプル騎士団に入団してこの教会に埋葬された。何にしても財産も何も持たない一介の騎士から領地、名誉、爵位を受けて貴族に上り詰めた英雄的な騎士なのである。氏名不明の騎士の彫像(Effigy of Knight)上の4体は、大戦の時の空爆で天上ドームが崩落。教会や墓のダメージは大きく、左上の墓以外名前も不明。写真下は・ウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯とその子供のお墓左上・・ウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯 (William Marshal, 1st Earl of Pembroke) (1146年~1219年) 右上・・ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯 (William Marshal, 2nd Earl of Pembroke)(1190年~1231年) ジョン王の娘と結婚するが、子供をもうけることなく死去。右下・・氏名不明の騎士の彫像(Effigy of Knight) もしかしたらリチャード・マーシャル、第3代ペンブルック伯 (Richards Marshal, 3nd Earl of Pembroke)(1191年頃~1234年) 結婚するも、子供をもうけることなく死去。左下・・ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯 (Gilbert Marshal, 4th Earl of Pembroke )(1194年~1241年) 2度の結婚をするが、子供を得ることなく死去。注・・実はマーシャル家は2世代目のペンンブルック伯家となる。ペンブルック伯家は幾度も家系が断絶して爵位が数え直されていると言う。マーシャル家もまた2代から5代目まではウィリアム・マーシャルの子息であるが、不思議なことに息子たちは全員子供が無く、爵位は娘婿に継承される。写真上の右と写真下がウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯写真左が父親と同名の長男ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯上下逆であるが1941年のダメージ以前に撮影された上の二つの墓の写真 ウィリアム・マーシャルヘンリー1世の高官だったジョン・フィッツ・ギルバートの息子に誕生するも3男で家督権の無い彼は11歳で家を出され知り合いの伯爵家で騎士となるべく修行を積んだ。騎士をめざした貴族の子弟騎士階級の者は、主君より与えられた(騎士の)称号と義務、それに不随して得た領地は共に相続され子に引き継がれたそうだ。(現在は一代限りの称号も多い。)しかし、南フランスでは財産は子に均等に相続されるものの、北フランス、イングランド、ドイツではほとんどの財産が長子のみに引き継がれ、次男以下の息子には何も無与えられなかったと言う。つまり嫡子以外は早々に家を出され自ら生計を立てねばならなかった。結婚においてもしかり、貴族の子息と言えど、長子でないものは自分でトーナメントや軍隊で稼いで財産を得てからでないとできなかったので、30過ぎても独身の騎士は多かったと言う。それ故、12世紀末、十字軍の進軍や、テンプル騎士団の影響もあり、家を出る若者達の間で騎士ブームが起きたのもうなずける話である。成功すれば一攫千金なのだから・・。ウィリアム・マーシャルも自らの力で未来を切り開いた人であるが人望故か? 運も良かった。ヘンリー2世がウィリアム・マーシャルを気に入り、縁談を持って来た。逆玉である。相手は富豪の女性イザベル・ド・クレア(Isabel de Clare)(1172年~1220年)この結婚によりペンブルック伯爵などの爵位のほか、アイルランドのレンスターやペンブルック城など、イザベルがウェールズに有していた権利までも得たのだ。二人はかなり歳が離れていたと言うが仲がとてもよく10人の子供にめぐまれた。ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯もウィリアム・マーシャルの3人目の子息である。彼はトーナメントの事故で亡くなった。先に紹介したように、ウィリアム・マーシャルの息子には全員子供が無く、爵位は最終的に娘婿に継承された。ところで家を継承する世継ぎができる前に早世したのは彼の仕えたプランタジネット家も同じであった。ウィリアム・マーシャルが仕えた主君は6人。そのうち早世したヘンリー王子とリチャード1世とジョン王はヘンリー2世の子息である。世継ぎがいなければ長子でなくても王位や爵位が回ってくる事も多々あったようだ。足のクロスの謎彫像の足は交差し、ライオンなど動物? のようなものを踏みつけている。踏みつけられている物は騎士叙任時の象徴の言われからおそらくプライドを具象化したもの?足のクロスは十字軍騎士の特徴・・と言う説もあるがこの墓の主、ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯は騎士として戦いはしているが十字軍に参加はしていない。逆に初代ウィリアム・マーシャルは十字軍に参加しているが足はクロスしていない。つまり足のクロスが十字軍騎士の特徴と言うのは間違いで、単に当時の流行のスタイル? の可能性が高い。あるいは当時騎士の間で流行したスタイル(叙任式の騎士のスタイル)の可能性がある。もちろんそれはクロス(十字架)を意味しているのだろうが・・。なぜなら当時の騎士道はテンプル騎士の活躍もあり、非常に尊い、清くレベルの高い武士道であったからだ。騎士の叙任式には数々の儀式が執り行われる。それは今となってはどれも秘技である。別の回に紹介できれば・・。話は変わるが、十字軍兵士の墓と言われる物をあまり欧州で見かけた記憶が無い。王家に並ぶような有名な騎士や修道僧の立派な墓はたまに見かけるが・・。ウイーンのハイリゲンクロイツの僧院で聞いた話であるが、遠い異国の地で亡くなった遺体を持ち帰る事は基本不可能なので、あり得ないそうである。(遺体は腐るし荷物になる)しかし、どうしても故郷に連れ帰らねばならなかった時、遺骸を釜ゆでにして、肉をそぎ落とし、骨だけ持ち帰ったそうだ。このテンプル教会にどれだけの本物のテンプル騎士がいるのかは不明である。なぜなら彼らのほとんどは中東で亡くなっているのだから・・。テンプル教会 back numberリンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)十字軍についてのback numberリンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)騎士修道会についてのback numberリンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)「ロンドン(London) 」シリーズと番外リンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2リンク ロンドン(London) 6 (バトラーズ・ワーフ)リンク ロンドン(London) 7 (シャッド・テムズのカフェレストラン)リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク ロンドン(London) の地下鉄(Underground)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 フリーメイソン・グランドロッジ・ロンドンリンク シティのパブ The Edgar Wallace リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリアリンク ユーロスター(Eurostar)リンク 英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿
2013年09月13日
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最後にBack numberいれました。前回、「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」では、はっきりしなかったのですが、葛野大堰(かどのおおい)を手がけた秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)の孫、秦酒公(はたのさけのきみ)らしいです。471年、第21代雄略天皇(418年~479年)の御代に各地に分散していた秦氏族を統括して長になったのが秦酒公(はたのさけのきみ)。※ 秦酒公(はたのさけのきみ)は一族の造った絹織物などをうずたかく積み、朝廷に献上。それが地名の太秦(うずまさ)になった。と言う説もある。かつて広隆寺内にあり、明治の神仏分離政策で寺から出された大酒神社(おおさけじんじゃ)には秦の始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)が祀られています。中世、大酒神社に改名されたようですが、元の名前は「大辟(おおさけ)」神社。実は603年に広隆寺ができる以前からあった社(やしろ)だそうです。※ 広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)は秦酒公(はたのさけのきみ)から6代下がった子孫らしい。ところで、大酒神社で相殿神として祀られているのが秦氏と渡来した4人の織女のうちの二人だそうです。呉織神・・兄媛命(えひめのみこと) 呉服女と、漢織神・・弟媛命(おとひめのみこ) 。秦氏が養蚕(ようさん)に力を入れ、できた絹で、かつて中国の宮廷人しか着る事のできなかった上質の絹の織物を日本で生産。絹を織るのは誰でもできると書いている人がいたが、それは違う。やわらかな肌触りの絹織りや、豪華な西陣の帯のような織物は秘技でもある。秦氏は自分達に冨をもたらしてくれた織物の神様として彼女らも祀ったのであろう。余談だが、中国宮廷は絹製品を輸出しても生糸の生産流出を防いでいた。桑種子と蚕種が流出し、欧州には5、6世紀頃、イスラムへは8世紀頃伝播したとされる。日本へは、弥生時代に早くも持ち込まれてはいたが本格的な生糸の生産と上質な絹織の技術は秦氏のおかげで欧州よりずっと早くにもたらされたのである。そんな経緯もあり秦氏は蚕(かいこ)を祀っている。また稲も祀っている。蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが今回紹介する木嶋神社(このしまじんじゃ)の摂社にある蚕ノ社(かいこのやしろ)なのである。因みに「稲が生(な)る。」から生まれた? 稲荷(いなり)信仰では、秦伊呂具(はたのいろぐ)が全国の稲荷の祖となる伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)を創建(713年)している。※ 伏見稲荷大社については以前紹介しています。2014年5月「京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)」リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)2014年5月「京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)」リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎養蚕の話木嶋神社(このしまじんじゃ)と蚕ノ社木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森フタバアオイ紋三柱鳥居(みはしらとりい)木嶋神社(このしまじんじゃ)は前に紹介した太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)から歩いても10分くらいのところ。両者は太子道と言う通り1本で繋がっています。先に紹介した大酒神社(おおさけじんじゃ)と同じ頃の創建。太子道はもとは広隆寺への参道とも言われているので、もしかしたら大昔は木嶋神社や蚕ノ社もまた、広隆寺の敷地内に入っていたのではないかと思います。もとは一帯全てが秦氏の土地であったし・・。外の鳥居には養蚕(ようさん)神社の文字があったから明治以前は、養蚕(ようさん)の祭神がメインであったのだろう。最寄り駅は嵐電(らんでん)の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」だし・・。三柱鳥居(みはしらとりい)は木嶋神社(このしまじんじゃ)の目玉 鳥居が三組合わさった世にも珍しい鳥居。三柱鳥居(みはしらとりい)は元糺(もとただす)の森の中、元糺(もとただす)の池の中にある。木嶋神社(このしまじんじゃ)正式名称は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)です。神社の創建年ははっきりしていない。が、神社では、603年の広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと伝えられているそうだ。神社の名前が初めて記録に載るのは701年らしいが、平城遷都(710年)より前に存在していたのは間違いない。つまり、都がまだ奈良にあった時に秦氏はこちらに住みついていた事が解る。渡来した秦氏の一族は山城、近江、摂津に散って、それぞれ地方豪族になって成功して行ったようだ。山城でも、深草(ふかくさ)と葛野(かどの)に秦氏は関係が深い。(深草から葛野に移ったとも・・。)※ 山城(やましろ)、近江(おうみ)、摂津(せっつ)。ザックリ言うと現在の京都、滋賀、大阪。※ 深草(ふかくさ)は今の伏見あたり。葛野(かどの)は前回紹介した太秦や嵐山、嵯峨野あたり。※ 深草(ふかくさ)には秦氏(秦伊呂具)が祀った伏見稲荷大社がある。現在の祭神は、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 大国魂神(おおくにたまのかみ) 穂々出見命(ほほでみのみこと) 鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)境内摂社(東本殿)に養蚕神社(こかいじんじゃ)がある。またの名を蚕の社(かいこのやしろ)話はそれるが・・。祀られている神様は当時と違うのではないか? と言う疑問がある。明治政府の出した神仏統廃合令により、日本各地の神社では、天皇家の祖神、アマテラス(天照大神)を祀る伊勢神宮の下に統一管理される事になったそうだ。つまり独自の神様は主神から外されてアマテラスの系譜に沿う神様がメインに明治時代に置き換えられた神社も多々あるのではないか? と言う事だ。因みに、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原(たかまがはら)の頂点にいる神様であり、当然アマテラス(天照大神)の祖でもある。※ 実際、今祀られている五注の祭神は1883年(明治16年)の記録による所らしい。木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)先ほど、広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと書いたのは、神社の入口立て看板に記載されていた事だ。が、おそらく神を祀る・・と言う行為は、秦氏が葛野(かどの)に来てすぐにあったと思われる。そしてそれは今の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ではなかったであろう。最初に秦氏が葛野(かどの)に来て祀ったとされる神霊は、糺(ただす)の森と言われるこの神域そのものであったと推察する。※ 現在は糺(ただす)ではなく、元糺(もとただす)の森である。それは古来の神道を考慮すると、土地その物を神の座所とするカンナビ(神奈備)から始まったと考えられるからだ。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての鎮守(ちんじゅ)の森。そして森に湧く泉はまさに神聖な場所そのものだったのだろう。社(やしろ)ができるのはずっと後、古来、神の依り代となったのは深い森や、巨木、巨大な古い石、あるいは湧き出る泉だ。今風に言えばそれらはパワースポットと言えるかもしれない。古人(いにしえびと)達は本能的に畏怖(いふ)する場所を見つけ、畏怖と同時に見えない何かに畏敬(いけい)の念を抱きつつ、土地から与えられる稲や野菜などの恵みに感謝して、氏神様として祀ったに違いない。人により神の体系が作られるのはずっと後の話だからね。現在の木嶋神社(このしまじんじゃ)見取り図黄色→が境内摂社(東本殿)の蚕の社(かいこのやしろ)赤色→が元糺(もとただす)の池下の赤い円は、稲荷神の神使の御狐様の社がある所。木嶋神社(このしまじんじゃ)を取り巻く鎮守の森こそ、元祖「糺すの森」だ。※ 木嶋神社を取り巻く鎮守の森は本来もっと広大であったと思われる。舞殿赤い→が元糺(もとただす)の池と三柱鳥居(みはしらとりい)へのゲート。糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森当初、この森は「糺(ただす)の森」と呼ばれていたようだ。現在は糺(ただす)ではなく、「元糺(もとただす)の森」となっている。同じように「糺(ただす)の池」は「元糺(もとただす)の池」となっている。※ 実は現在、糺(ただす)の森は下鴨神社境内にある。「糺(ただす)の森」は清水の湧く所。かつて湧き出る泉からの縁か? 木嶋神社(このしまじんじゃ)では祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)が行われていたと言う。祈雨(きう)とは雨乞いの事である。奉幣(ほうへい)とは天皇の命により幣帛(へいはく)を奉献(ほうけん)する事。つまり、平安遷都後は、干ばつの時に天皇の命を受けて雨乞いの祈祷がされ、奉幣(ほうへい)が献(ささ)げられていた神社だったと言う事だ。ところが、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態が発生したらしい。何かしら汚れとなる事態が起きた? 嵯峨天皇の御代に「糺(ただす)の森」と「糺(ただす)の池」と共に、神霊が太秦より下鴨の地に移動したと考えられる。祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)の場も移動したかも・・。第52代嵯峨天皇(さがてんのう)(786年~842年)(在位:809年~823年)の御代、817年より7年連続で京都は干害の被害を受けたとされている。この時の祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)はどちらでおこなわれたのか?あるいは災いに関係無く、784年従二位、807年正一位と神階叙位(社格)を上げてきた賀茂神社の勢力による所もあるのかもしれない。地元神を押さえて賀茂神社の社格が高位にあがったのがこの頃だ。また、賀茂神社に斎宮の制度が始まった810年がまさに嵯峨天皇の御代。初代斎宮は嵯峨天皇の皇女 有智子(うちこ)内親王だった。諸々の情報を踏まえて検討すると、810年には移動していた事になりそうだ。ならば、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態は、嵯峨天皇の兄、第51代平城天皇(へいぜいてんのう)(774年~824年)(在位:806年~809年)の病気かもしれない。809年、病気のため在位僅か3年で嵯峨天皇に譲位しているのだ。※ 表向きは病気。実は嵯峨帝との争いに敗れた?代が変わればかつては宮殿も遷都していた。懇意にする神社も変わったのかもしれない。1994年に世界遺産に登録された下鴨神社。その全域を被う「糺の森(ただすのもり)」のルーツですね。※ 下賀茂の神社の案内にはいっさい無いが・・。拝所拝所から先は入れないのでここから撮影。実は肝心の東本殿(向かって右)にある養蚕神社(こかいじんじゃ)が撮影できなかった。下の写真右奧に見える社がたぶんそう。秦氏は、土着の、「元糺(もとただす)の森」の氏神様の他に、秦氏の糧(かて)である蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが、その社である。それは感謝以外の何ものもでもなかったろう。フタバアオイ紋不思議な事に木嶋神社(このしまじんじゃ)の紋章、神紋(しんもん)はフタバアオイである。これは、賀茂神社(かもじんじゃ)の神紋(しんもん)と同じなのである。※ 下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。それがなぜか? は、解らないが、フタバアオイは神事に必要なものだったらしい。下は下鴨神社内のフタバアオイ。葵祭で用いられることから今はカモアオイ(賀茂葵)とも呼ばれる。森林に生育し、暗い林床に生えると言う性質から木嶋神社(このしまじんじゃ)の糺すの森にもあったのだと思われる。神紋(しんもん)は、どちらが先かと言えば、たぶん木嶋神社(このしまじんじゃ)のが先だろう。秦氏と賀茂家の関係がそこにも見える・・。静かな境内はまさに鎮守の森奧が神殿で、向かって左の方に「元糺(もとただす)の池」がある。鳥居の奧に見える柵の向こうに三柱鳥居がある。「元糺(もとただす)の池」、泉水からはかつては豊富な泉が湧き出ていたらしい。おそらく池に下がる石段があるので、そこは浄めの御手洗(みたらい)をする場所でもあったと思われる。※ 伊勢神宮の五十鈴川のような役割。近年の宅地開発で水源が切れてしまったのか?今は枯れて行った時は全く水がなかった。が、夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に効くと言う信仰があるらしい。そして、この神事も同じく下鴨神社で行われる御手洗祭(みたらしまつり)と同じなのである。「元糺(もとただす)の池」の中にある三柱鳥居(みはしらとりい)三柱鳥居(みはしらとりい)の下はおそらく泉の水源であった場所だ。つまりそここそが、木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)様が宿った依り代? なのかもしれない。三柱鳥居(みはしらとりい)不思議なのは囲むように建てられた三つの鳥居の輪である。京都三珍鳥居の一つだとか・・。現在のは1831年に再建されたものらしく、かつては木像であったそうだ。※ 葛飾北斎の北斎漫画「三才鳥居」の絵はここの鳥居の絵らしい。三井家が守護神とする向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)にも同じ石の鳥居がある。それは三井家から来たものらしいが、もとはここのをコピーしたものらしい。神社の鳥居は本来、神域への結界である。鳥居を三つ合わせて閉じれば中は完全なる神域。まさに神の御座か?が、立派な鳥居に惑わされて忘れていたが、このマジック3は他にもあった。2014年5月「伊勢神宮 2 (外宮)」の中で紹介している「パワーストーンの三ツ石(川原祓所)」である。リンク 伊勢神宮 2 (外宮)日本最大のパワースポット伊勢神宮の中でも、特にパワーの強い場所が3ツ石の置かれている川原祓所」(かわらはらいしょ)である。そこは神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀(しゅばつさいし)が行われる神聖な場所。そして、そのパワースポットの三ツ石(川原祓所)」の場所はかつて川の中にあったと言う。※ 伊勢神宮では明応7年(1498年)の地震とその津波による影響で川の流れが変わってしまった。禊ぎや祓い清めの儀式の場なのだから確かに水の中でこそ・・。ひょっとするとここも鳥居ができる前は三ツ石がポイントであった可能性が・・。実際、賀茂神社では三柱鳥居(みはしらとりい)は真似していない。糺すの池は造ったが・・。つまり、平安の頃はなかったと言う事だ。うずたかく積まれている石の下に「三つ石」があったりして・・結論を言えばそこは聖なる禊ぎ(みそぎ)の場所。身にたまる穢れをそぎ落とす場所と言う事だ。そう言えば秦氏は神宮の伊勢への遷宮にも資金を出していたらしい。三柱鳥居(みはしらとりい)、自分の中では結論が出た感じです。追記・・・神社の説明の中に三柱鳥居は景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていましたが、論外です。神社の中にはお稲荷様も祀られている。9月に行ければ松尾大社に行ってきます。そこも秦氏のルーツにかかわる所です。そしてまだやってませんでしたが、下鴨神社。写真は撮ってきています。いつかやります。「倭人と渡来人」とりあえず終わります。次回は軽い物を予定しています。間を開けて松尾大社予定しています。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)他リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂
2017年08月27日
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いつものように民族のルーツから探りたかったが、今回はあまりに資料が少なく困っています。ベルベル人を追及した書物はほとんどなく、それなら言語から民族のルーツを探ろうか・・としたけれど、取り寄せた本「ベルベル人とベルベル語文法」は本当にベルベ語を話す為の文法がメインの本で(誰が必要とするのか?)役に立ちそうもなかった・・北アフリカの先住民族のベルベル人は、言語的にはアフロ・アジア語族(かつてはセム・ハム語)のセム語ではない方をさしている。(だからと言ってハム語とはいいきれない。)現在はセム語派に対してエジプト語派、クシ語派、ベルベル語派、チャド語派、オモ語派と分類されているようです。ベルベル人の家 1 (映画スターウォーズのホテル)北アフリカの先住民族ベルベル人の家 part 1ホテル・シディドリス(Hotel Sididriss)アルジェリアやモロッコでは、30~40%がベルベル人といわれているようですが、今回紹介するチュニジアでは98%がアラブ人で残り2%の中の一部にベルベル人がいるにすぎません。古代都市国家カルタゴを擁するチュニジアは、フェニキア人がやって来るよりもはるか前からそこにいましたが、カルタゴの発展と共に混ざり、同化する者が多かったのかもしれません。今回取り上げるのはチュニジアのマトマタに住むベルベル人の住宅で、特異な家なのです。(チュニジア観光では、ツアーで訪問できる村なのです。)マトマタの住居は山肌や、地中にクレーターのように穴を掘ったりする穴居型で、中庭のような空間を持った集合型住宅でもあり、先住民ベルベル人の住居として知られています。マトマタ近郊から撮影マトマタ地方の特殊な集落は、土地を追われたベルベル人が住んだ、山肌を利用した砦式の横穴式集落だったそうです。実はマトマタに映画「スターウォーズ」のシリーズ第1作目(エピソード4)の撮影に使われたロケ地があります。ホテル・シディドリス(Hotel Sididriss)映画スターウォーズのロケ地、さらには撮影スタッフの宿泊したホテルとして有名な洞穴ホテルは、穴居住宅をホテルにしたものでSW好きな若者がよく泊まりに行くようです。地上のホテル入口階段を降りるとフロントが一応ある。トイレもシャワーも共同と言う地元のプチ・ホテルなのだが、スター・ウォーズのおかげで繁盛。他の地元ホテルよりも少し割高と言う。観光バスが乗り付けて見学人もくるようだ。部屋の細部は横穴ではあるが、この中庭時代はクレーターのような竪穴である。入口の数字は部屋番号だろう・・・。スターウォーズで使用された中庭スペースには、映画の撮影の為に作られた装飾がそのまま残っている。ホテルのレストランやバーがある中庭。スターウォーズで使用された装飾類はよく見れば木工やプラにペンキを塗ったちゃちなもの。宇宙基地のバーは今もバーのようだ。でも中は狭い。未開に近い惑星と言えば確かにそう見える。それにしても、このホテル・・・・。電気の配線が土の中から出ているし、もしや壁も土に軽く漆喰を塗っただけ?フロントも確かに建具はなかったし・・・。ベルベル人の住居はつづくリンク ベルベル人の家 2 (マトマタの民家 1)
2010年03月29日
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夏の疲れでしょうか? 夜になると眠くて仕方がありません 当たり前の話ですが、夜の作業が得意なので寝てしまってはかどりません f^^*) ポリポリ今回はルードビッヒ2世(Ludwig II)が生まれた宮殿を紹介します。そこにはルードビッヒ2世がコレクションした豪華な馬車やソリの展示館もあり、見応えタップリでした。全3回予定。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)ミュンヘン中央駅からトラム17番ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)最初の宮殿ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)から北西に6km。右の赤い円がミュンヘンの街中央部 その中のピンクの円 Cがミュンヘン中央駅北西部にある左の見切れているピンクの円 Nがニンフェンブルク宮殿の一部です。地図で改めて見ると本当に近い事がわかります。そして宮殿の全貌を見ると、ミュンヘンの街中央部よりはるかに広大な敷地を持っている事がわかります。ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)ローカルに見えますが、ミュンヘンはBMW の本社などドイツの基幹産業も本拠を置く大都市で、金融においてはフランクフルトに次いでドイツ第2の都市です。もともとヴィッテルスバッハ家の城下町として栄え、バイエルン時代は王都となり、前回紹介したようにルードビッヒ1世が即位と同時に都市改革を行ったおかげで早くから近代化に成功した街なのです。1876年に運行したトラムは市内では最も古い公共交通機関として今も活躍しています。中央駅(Hauptbahnhof)よりトラム17番に乗車中央駅からトラムで15分くらいの所に宮殿はあるのでここまでは早い。ツアーで来る方は観光バスが宮殿近くまで直接乗り入れるのでここから歩く事はないが・・ここから宮殿まで10分弱。宮殿前池に繋がる水路上の写真3枚は地図右の見切れている水路の方角から撮影。宮殿内部の見学の他、広大な庭の鑑賞。庭園内の離宮や植物園、博物館が幾つか存在する。1日で全部回るのは不可能である。水路から宮殿前の池に出た所から広大過ぎて写真には収まりきらない。最初の地図は上が北でしたが90度傾けました。今度は上が西になります。この宮殿は北から南に広がって建てられているので西陽をもろに受ける逆光になってしまう問題が・・池越しのニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)宮殿は幾つかの正方形のパビリオンが並べられてシンメトリーに構成されている。写真は北側の翼・・(4)人類と自然の博物館同じ造りの南側の翼・・(8)馬車博物館(紹介予定)18世紀のヨーロッパ王宮では噴水は自慢ののアトラクションだったそうだ。フランス王宮より噴水技師を招き造らせたものらしい。豪奢な彫刻はないのの、この宮殿前の噴水はポンプ3台を使って高く水しぶきをあげる事ができる。これでも当時としては画期的だったのだろう。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)はバイエルン選帝侯時代からバイエルン王国の時代に夏の居城として利用されてきた宮殿です。最初は王妃の為の別荘だった居城は各王達により拡張工事がなされ、立派な宮殿になったようです。実は一般公開されているが、今もニンフェンブルグ宮殿はヴィッテルスバッハ家の個人所有の宮殿らしい。最初の宮殿バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア(Ferdinand Maria)( 1636年~1679年)(在位:1651年~1679年)は、妻が世継ぎを出産すると感謝の気持ちで土地を贈ったそうです。妻ヘンリエッテ・アデライデ(Henriette Adelheid)はイタリアのサヴォイ家(Savoyen)出身。世継ぎが生まれた2年後1664年に夏の離宮の建設が始まり中央の建物は1675年完成。設計は北イタリア出身のアゴスティノ・バレリー(Agostino Barelli)。指揮したのは妃ヘンリエッテ。アゴスティノ・バレリーは、ヘンリエッテの依頼で前回紹介したオデオン広場のテアティーナー教会も建設している。この宮殿は後々増改築されて行くが、初期の立方体の造りはサヴォイ家のトリノ近郊のイタリア・ルネッサンスの宮殿を彷彿させる物だったらしい。彼女はこの離宮を気に入り、ボルゴ・デレ・ニンフェ(Borgo delle Ninfe)(妖精の村?)と呼んだそうだ。それがドイツ語でNymphenburgとなり妖精の館、あるいは女神の館と呼ばれるに至ったようです。宮殿の表玄関側宮殿の中庭を望む。二階テラスからの中庭宮殿庭側実は正面玄関と中庭側の造りは非常に似通っていて、違いは胸像が3体庭側についている事。この似通った造りのおかげで写真の仕分けに苦労した宮殿内部につづくリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
2015年08月24日
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引き続きラスベガスのブルーバード周辺のホテルの紹介ですが、建物内の写真の無いホテルもあります。とりあえずどんな感じのホテルかを紹介する程度にして、今後行く時の参考にしてもらえれば幸いです。シーザース・パレス(Caesars Palace)ネバダ州(Nevada)ラスベガス(Las Vegas)場所はベラッジオの通り隔てて右隣にあるラスベガスを代表する名門ホテルです。Caesars宮殿ホテルの建設は1962年から始まり創業開始は1966年。当時の客室は680室テーマパークの走り的存在だそうです。現在は宿泊棟5つあり、3350室。向かい側にあるフラミンゴ・ラスベガスやバリーズ、パリスなどと同じハラーズグループ(Harrah's Entertainment 社)の運営になっているようです。ラスベガス・ブルーバード(ストリップ)とフラミンゴ・ロードの交差点から写っているのは全てシーザースパレスのビルです。ブルーバード通り正面入り口・・たぶんジュリアス・シーザー(カエサル)のつもり・・。。シーザーは古代ローマの武将ですが、シーザースパレスは、お客様がシーザーであると言うコンセプトのようです。貴方の宮殿ですよ・・と言う意味らしい・・。高額ギャンブラーをターゲットにした高級大人路線なのか、子供向きのエンターテイメントは無いようで、そう言う意味ではMGMに負けるのかも・・。正面右のコロシアムもどきはシアター劇場ローマのコロシアム風のシアターは、特にセリーヌ・ディオンのショー「A New Day」の為に建設されたとか。このショーは2003年から2007年12月までの超ロングランで、常にチケットはプラチナ化していたと言います。今月23日に双子を出産したセリーヌは、来年2011年3月から再びこのシーザースパレスのシアターで公演を開始。チケットは今年の2月からすでに発売開始されているそうです。セリーヌ・ディオン(Céline Мarie Claudette Dion)映画「タイタニック」主題歌「My Heart Will Go On」を歌ったカナダ出身のシンガーとして有名ですね創業以来いろいろなイベントを手がけていたようですが、新興勢力の前にかなり陰りがあると言います。かつてシーザーズパレスの伝統であったボクシングのヘビー級タイトルマッチの開催も他に奪われたとか。ローマ帝国もここでは地味なようです。古代ローマの宮殿風のホテルは次から次へと継ぎ足しのように増築されたので迷路のようだし、ブルーバードまで遠くホテルを出るのも一苦労。使い勝手は悪いようです。最も広くて解らないのはベネチアやMGMも一緒ですが・・。外も内部も調度品の彫刻があちらこちらに設置されています。ニケの像はギリシャですけどね古代ローマの浴場風のスパがあるそうですがそこまで行って確認はしていません。それは入ってみたいかも・・。シーザーズパレスとミラージの間に隣接するローマ神殿風のショッピング・アーケード「フォーラム・ショップス」は建物が素敵です。(枚数的に写真は載せませんが・・)入居しているテナントは高級ブランド店を中心でショッピングするには高いし買う物も無かった気がしますが、吹き抜けの内部の螺旋のエレベーター(三菱電機製)などは必見です。ショップもかなり大きな建物なので、通りすがりに中を見る程度でもお勧め。全部見るととても疲れますショップの建物の前のネプチューンの噴水も素敵。絶対写真を撮りたくなる。夜は色々なカラーに変化するライトアップが楽しめる。シーザースパレス起死回生? で建築されたようですが、ラスベガスでは雨後のタケノコのようにどんどん新しいショップが出来上がっています。最近ではベラッジオの左隣にできた新しいホテルの所に凄いショップタワーができたようです。ぶっちゃけ街に人が減っているし、どこのカジノもあまり当たりがでないので買い物をしている人もあまり見かけませんが・・。夜のシーザースパレス全景シーザースパレス前からのブルーバード写真左に見切れているのがフラミンゴ。写真中央のエッフェル塔はもちろんパリスです。ホテルつづくこの所やる事が多いのでUPもコメも少なめですが、なるべくがんばります
2010年10月30日
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前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ)の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。そこに父の影響もあったのかもしれない。ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった※ どちらも古い城跡の上に再建されている。しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。共に中世を意識する所は同じであるが、ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。当然その装飾の仕様も今までの一般的な城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。実際、ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク)だったというのだから納得だ。※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2018年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー城の建築で受けた地元の恩恵未完の城歌人の広間とタンホイザーとパルジファルルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデルードビッヒ2世の執務室 タンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世城の建築費城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)それ故、見学も一応予約制になっている。だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。初夏のノイシュバンシュタイン城城には常時30人が勤務して管理。王が城に滞在している時はその倍の職員が居て王に対応したらしい。写真中心部分のテラスがルードビッヒ2世の寝室のテラス1869年9月5日城の礎石が置かれる。※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。1869年~1873年に城門館が建築。1873年~本丸の王館に着手1883年には1,2,4,5階が仕上る。1884年春には4階の王の住居部は完成。1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞在。1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日間であった。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)城の正面、見えるのは城門館城の建築で受けた地元の恩恵ノイシュバンシュタイン城の建設には19世紀と言う時代の割にしっかりした建設計画や労働組合が存在していたと言うのだから驚く。前回、膨大な資材が投入された事に触れたが、例えば資材を運び上げる滑車は蒸気機関のクレーンを使用。資材はさらにトロッコで各所に運ばれていた。そんな建築機器の安全性と機能の検査を行う検査協会が当事すでにあり安全の確保が計られていたと言うのだ。前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)また、この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事だ。1ヶ月0.70マルクの会費に国王が多額の補助金を援助し、建設従事者が病気や傷害で休んでも最長15週間の資金支払いを保証すると言うもの。工事には何百人と言う職人を必要とし、多数の商人との取引が行われている。1880年には209人の石工、左官、大工、臨時工が直接建築に従事し、運送人、農民、商人、納入業者、さらに飲食業も建築に間接的に関わって来る。この地方全体の人が城建設に関わったと言って過言ではない。つまりこの地方全体が王が亡くなって工事が中断される1886年6月まで城から受けた恩恵は非常に大きかったと言う事だ。城門門に入ってすぐに見えるのは、後方の王の居室がある本丸。本当ならこの手前に礼拝室と巨大な塔ができるはずであった。入り口正面の突出したテラス部分は、塔ができる予定だった基礎の部分。本来は下のような90mの天守閣と下には宮殿礼拝堂が建築されるはずであった。建築はルードビッヒ2世の死と共に中断され未完となってしまったが、もしこれが完成されていたなら、もう少し城はカッコ良かったかもしれない。ちょっと中途半端なのはその為なのだ。城門館の内側城の見取り図上の二つがメインの王館となる部分ルードビッヒ2世の居室は中、ブルー系の所。メインの王館となる建物が正面テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。たぶん見える窓は左がクローゼット。壁画はニーベリングの指輪四部作の3つ目、ジークフリート(Siegfried)からジークフリートの大蛇退治。部屋の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている。城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。そもそも印刷が悪いので写りも悪いですが・・。歌人の広間普通の城であるなら、ここは舞踏会場となる広間であるが、ノイシュバンシュタイン城では歌人の広間と呼ばれている。歌人の広間とは、文字通りここが歌合戦の会場を意味している。歌人の広間とタンホイザーとパルジファル欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である王はどうしても歌人の間が欲しくて、この広間を中心にノイシュバンシュタイン城を建てたと言われているほどこだわった場所だ。広間はヴァルトブルグ(Wartburg)城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げたとされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?※ 舞台装置画家クリスティアーン・ヤンクはエドゥアルド・リーデルの設計を書き換えて王の好むスタイルに変えていた。絵画はアンフォルタス王とパルジファル白いドレスの女性が持って要るのが聖杯。女性はもしかしたら妖女クンドリーか?パルジファル(Parsifal)聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。王を救えるのは清らかな愚者。そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?残念ながら王の存命中にこの広間が使用される事はなかったと言う。1933年~1939年までワーグナー没後50年で祝祭コンサートが開かれたのが最初らしい。ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)後期ゴシック、樫の木がふんだんに使われた木彫のゴージャスベッドの天蓋、洗面台、読書椅子など、製作はミュンヘンのペッセンバッハー・エーレングート社製。既製品ではないだろうが、家具会社に発注したもののようですね王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。眠りと死は同一? キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。簡単に言えば悲恋の物語である。いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か? ※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザーテーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。壁絵はJ・アイグナー(J Aigner)ヴェーヌス山のタンホイザータンホイザー(Tannhäuser)舞台は13世紀吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。皆の非難を受け、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。エリザーベトの葬列を見て全てを理解したタンホイザーは狂気から覚めるが彼が真に贖罪されたと同時に彼も息絶える。あらすじはこんな所であるが、これをどう演出するかでオペラの内容も面白さも大きく変わる。ダンス音楽を奏でるタンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世ルイ9世で飾ったこの祭壇はミュンヘンのJ・ホフマン設計。ルイ(Louis)は、ドイツ語でルードビッヒ(Ludwig)。ルードビッヒ2世の名は聖人となったフランス王、ルイ9世からもらっている。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)※ 聖王ルイ9世については2017年2月に以下書いています。「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)公開されている部屋はまだあるが、実際写真は撮影できないので紹介はこんなところで・・。春のノイシュバンシュタイン城ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)城の建築費ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出している。とは言え、その資金だけでは十分ではなく、ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた。※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。ヴィッテルスバッハ家の古文書による王室会計の帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は6,180,047金マルクだとか。(現在のお金で200億くらいらしい。)しかし、王の借金は、王の死後に家族から返済されているそうだ。だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。ただ、ルードビッヒ2世が王位について、1866年、内戦が起き、バイエルンはボロ負け。バイエルンの被害はとても大きいものだった。その上、プロイセンに主権放棄と3000万グルデン(5400万金マルク)と言う賠償金を払わなければならなかった事なども国庫を苦しいものにしていたのだろう。王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。が、せっかく造った城なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎもっと居て、城を完成したかったろうに・・。そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。2018年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年03月29日
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入手しました。オーストラリアのシドニー市の消防自動車ですが・・。ん? はしごがない? 上に小さいのは一応あるみたいですが、本当に消防車なのでしょうか?日本と同じ赤ですが、親近感はないですね。CITY OF STDNEY COMMANDER と書いてありました。これは司令塔となる車だったのかな? シャッターの向こうはどうなっているのか????消防の歴史を調べようと思ったが資料がない。日本について少しわかった事だけ・・・。慶安3年(1650)、幕府は4,000石以上の旗本2人を火消役に任命。これが定火消と称する幕府直轄の火消組織のはじめかも。旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙(がえん)と称する火消人足が働く。最初2組で発足し、明暦の大火後(1658)に4組に増設。(定員は512人?)1組平均128人の大部隊である。この火消屋敷は現在の消防署に相当し、江戸城周辺の麹町、御茶の水、佐内坂、飯田町に配置され、江戸城防備が任務であったとされる。(消防火災博物館より)とかく江戸は火事が多かった。特に11月から5月の冬場。「関東のからっ風」と言う言葉があるが、冬に強い山越えの季節風が吹き、東京はとても乾燥する。そのせいだからなのか? 歴史を見ても大火と呼ばれる大型の火事は本当に多い。(江戸時代260年の中で大火は90件位あるらしい)今もそうだが、住宅やビルが密集していた事、そして何より燃えやすい木造建築で、日本の家屋はできている。今のような消防車のない時代、隣が燃えればドミノ倒しのごとく燃えていったのもわかるが・・。以前読んだ本でヨーロッパのある街(どこか忘れた)で大火が発生し、街そのものが全滅したそうだ。それを教訓に街は燃えない石造りの素材を選び家を建築。そして、最後の一つの石が教会に積み上げられるまで30年以上の年月を要したという。家は欲しいが、急がば回れで、十分考え時間をかけても二度と火事をおこすまいと言う考えの表れだ。素晴らしいと思った。それに引きかえ、日本人はとことん甘いなと思う。「燃えたらまた建てればいいさ。」的考えなのか? 単純なのか? 学習能力が低いのか? 消防士さんまかせにしないで少し自衛しなければいけないですね。2月にオーストラリアで大きな山火事があった。火事は放火で(2人逮捕)、181人の人が亡くなっていると言う。(動物はもっとだ!)最後まで自分の家を守るために防衛していて逃げ遅れた人達がほとんどだ。日本ならまず先に避難させられるが、国柄? 自分の家は自分で守れ! と言う考え方が根底にあるのか、いづれにしろ思うところの多い火事であった。 亡くなられた方のご冥福を祈ります。追記: 「火事と喧嘩は江戸の華」と言う言葉があるが、江戸っ子は野次馬根性が強い。(決して冷やかしではない)火事のサイレンが鳴ると家の家族は全員外に出て、どこの方面が火事か探す。火の手が見えようものなら弟は自転車でとんでいった(小学生の頃)。サイレンが鳴っているうちは夜中でも寝られない家族だった。
2009年04月24日
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今回でオルセーは最後です。私はどちらかと言うと盛期ルネサンスとバロックの合間にあるマニエリスムの画家達の作品の方が好きなのだと思う。それはやっぱり今も変わらない・・・。まだ幼少の頃、美術誌を見ていてボッティチェリの「ビーナスの誕生」や「プリマベーラ」に感動し、ラファエロやミケランジェロの作品に傾倒したのを覚えている。(その時、ゴッホ等の印象派の画家の作品を見て、「何だこれは?」、「チープだ・・。」と幼心にも思たものだ・・。)世間ではわかりやすい印象派が特に日本では取りざたされていたけれど、全く興味はなく、初めてパリで美術館を訪れた時もジュ・ド・ポーム(旧印象派美術館)はサクサク見て、ルーブルのドノン翼の2階に重点をおいて鑑賞した。印象派と分類される作品の良さがなんとなくわかりかけてきたのは実はずっと後なのだ。フランス(France)パリ、(Paris)オルセー美術館(Musee d Orsay) part 5オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)バーンズ・コレクション(The Barnes Foundation)ポール・セザンヌ(Paul Cezenne)セザンヌが売れるまで正直印象派にもセザンヌにも全く興味はなかった。私の気持ちを動かした大きなきっかけは1994年に国立西洋美術館で特別展示された「バーンズ・コレクション」なのです。アメリカの大富豪アルバート・C・バーンズの印象派絵画のコレクションは、今まで美術誌で発表されている作品など話にならない、はるかにレベルの高い作品群で、私にとって、印象派と言う絵に対する「目からうろこ」となりました。印象派の作品の中にも、見ていて、味のある作品が確かに存在する・・と知ったのがこのコレクションなのです。画家の名前だけで、たいした事のない作品も祭り上げられて、高値で取引されている昨今、誤解していましたが、彼らの作品の中でも特筆できる良い絵が確かにあったのだ・・。と感銘して、それから心を入れ替えて、印象派の絵画を鑑賞する事にしたのです。最初にオルセーに所蔵されているセザンヌの絵画から紹介。ポール・セザンヌ(Paul Cezenne)(1839年~1906年)彼の代名詞的な果物の静物画。彼は200点に及ぶ静物画を描いたと言う。幾何学的に配置された構図。これは繰り返し描かれる静物のモチーフであり、何度も配置を変えて、この果物が腐るまで、何度も手を加えて描き続けたといいます。描かれたのは1895年頃・・壺から・・。「自然の中に球形と円錐形を見なさい。」と彼は言ったと言うが、世間のセザンヌの印象はこれに尽きるのではないか?カードをする男カードをする男はたいてい相手がいるので複数で描かれている。バーンズ・コレクションでは5人の人物が登場しているが、この作品は1人称の空間で実に印象派的で、遠近にとらわれず、男の心情が伝わる作品です。このモチーフもセザンヌの作品紹介にはたいてい登場している。自画像?サント・ヴイクトワール山この山もセザンヌが特に繰り返し描いたモチーフである。制作年はわかりません。1885年~1887年頃か?オルセーの作品は、世間に広く知られている。だから世間はこれらがセザンヌの全てと勘違いしているかもしれない。実はセザンヌの作品は50歳を過ぎるまであまり世間には知られていなかったそうです。富裕な帽子屋から銀行家にまでのし上がった父の最初は私生児として生まれています。法律家の勉強を辞めて画家になる決心をしたものの「怒りっぽい田舎者」「救いようのない変人」・・彼の内的な要因で彼自身パリではなじめなかった。絵も死体、殺人、ごうかん・・そんな作品ばかり描いていて、その傾向が変わるのは後に夫人となる社交的な年若いオルタンス・フィゲとの出会い(1869年)です。バーンズ・コレクション(美術書より)レダと白鳥(1880年~1882年)女性に恐怖心さえ持っていたと言うセザンヌにしてはめずらしい作品なのである。1880年代のセザンヌの特徴を持った作品と言うが、こんな作品を彼が描いていたなんて知る人は少ないだろう。女性のヌードを描くには神話を題材にして、絵に高尚性を持たせる事が常套手段だった時代である。セザンヌが売れるまで30代を戸外に出て印象派の画家達のように絵を描き、カミーユ・ピサロの勧めで1874年(35歳)に第1回印象派展に出展していますが、1890年(51歳)までセザンヌはほとんど無名です・・・と、言うより忘れ去られた存在だったようです。(金銭的には莫大な遺産を相続していたので、絵が売れていなくても生活は出来た。)1895年にやはりカミーユ・ピサロの勧めで開いた個展を境に彼の名声は高まったのです。その個展を開いた画商のアンブロワーズ・ヴォラールが1897年彼の作品を全部買い取って行きます。これらがアメリカに渡ったのではないでしょうか。バーンズ・コレクションに1900年代以前のセザンヌの作品が多いのは、パリよりも先にアメリカ人に評価されたからなのでしょう。バーンズ・コレクション(美術書より)頭蓋骨を前にした青年(1896年~1898年)死の象徴である頭蓋骨も繰り返し出されるモチーフで、彼の構成要素に重要なものだったのでしょう。何よりもバーンズ・コレクションの作品には華があるのです。タッチが・・構図が・・よりも好まれる絵が多いところが素晴らしい。やっとパリで認められるのは1900年(61歳)に行われた「パリ万国博覧会」で催された19世紀のフランス美術を代表する「フランス美術100年展」への出典です。オルセーの作品浴図の小品裸の人物を風景と融合させると言うセザンヌ晩年の一連の作品の一部と思われる。彼はやがて印象派を乗り越えキュビスムに大きな影響を与える存在になるのです。オルセー美術館はぶっちやけ彫刻やアールヌーボーの家具等の調度品のコレクションの方が素晴らしいけれど、日本のツアーでは印象派の絵画くらいしか見に行かないのです。フリー・タイムにじっくり見学に行く事をすすめます。おわりオルセー美術館(Musee d Orsay) back numberリンク オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー)リンク オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)リンク オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)リンク オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)リンク オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)リンク オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)
2010年03月28日
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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れましたベルサイユ宮殿は改築につぐ改築が行われているので、建物以外、内装などは全くの別物になっている。実際、近年の観光でも行くたびにあちこち変化が見られる。例えば王の内庭にできた金の柵も2005年にはまだできていない。中にあったルイ14世の騎馬像も移動されている。全くもってそれは近年の観光用にしつられえられたものなのである。実際、フランスの場合1789年、フランス革命が起きた為に当然王宮や王侯貴族の家屋敷までが破壊され略奪うけている。ハプスブルグ家が歴代のコレクションを残しているのと違い、フランスの場合はほとんど何も残されてはいないのだ。フォンテーヌブローの所でも触れたが、ナポレオンが皇帝になった時に宮殿は修復されそれなりに直されたが、歴史的な復元がされた訳ではない。最近になってルイ14世時代の王宮がもっと壮大なものであった事が解ってきたが、そう考えると、今のベルサイユはいったいどの時代に合わされているのか? と、疑問に思う。日本人の人気スポットはマリー・アントワネットの寝室であるが、それも「王妃の寝室」とタイトルされている。歴代の王妃が使用する部屋の場所は確かにそこだが、内装はそれぞれであったはず。妃の部屋のテキスタイルは一応ルイ16世時代に寄せているのだろうが、写真なんかあるわけではないからベルサイユの場合、完全に当時を想像した復元と言う事になるのだろう。つまりベルサイユ宮殿の場合、実物でなくセット物感は否めない。さて、そんな前振りしましたが、今回は「鏡の回廊」の前後に位置する二つの角(かど)部屋の紹介です。新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)戦争の間(The Salon of War)画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)平和の間(The Peace Salon)ルイ15世のメダリオン(medallion)下は位置確認です。ウィキメディアのパノラマ写真を借りてきました。中に書き込みしています。庭からの宮殿。右側ピンク 平和の間(The Peace Salon)中のブルー 鏡の回廊(Hall of Mirrors)左側ピンク 戦争の間(The Salon of War)地図も位置を確認して下さい。下の図は宮殿正面側からです。鏡の間の向かって右端が戦争の間で、左の端が平和の間と呼ばれています。戦争の間の側(右翼)が王様の寝所などの領域で、左の平和の間の側(左翼)が王妃の寝所などの領域に分けられています。鏡の間の向こう側が、広大なベルサイユの庭園がある側です。※ 団体の観光ルートでは正面右のガブリエル棟から入り、王の間の領域を抜けて、鏡の間に入り、王妃の間の領域を見学するコースになっていますが、個人の入口は反対の旧棟かららしいです。因みに2018年頃に王の内庭の地下に大きなトイレが設置され混雑緩和になったようです。戦争の間(The Salon of War)1678年マンサールがこの部屋の建設に着手し、装飾は画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)1679年2月頃から造営。天井はクーポラ仕立て壁には大理石が貼られ、その上に金箔青銅の武具装飾と、武器類が流れるようなデザイン飾りとしてとり付けられ、天井にはル・ブランにより、勝利の女神に取り巻かれる戦勝国フランスの姿が描かれている。主題は、「ニメーグ和平における軍隊の勝利」そもそも「鏡の間」自体がルイ14世の戦争の勝利など功績が描かれ、栄誉をたたえる構成図案になっている。人が多いので全体の写真を撮影するのは個人では不可能です。下の写真のみ画像は悪いですが、参考に本からです。ベルサイユで発行している公式の写真集からであるが、この写真ではレリーフ下のブロンズはそのまま。近年、金箔を貼ったようです。敵を踏みつけにしているルイ14世。上に金箔の貼られた二人の噂の女神ペーメ。楕円形の化粧漆喰朝浮き彫りで表現されています。コワズヴォクスの傑作です。花鎖につながれた捕らわれの人とその下に歴史書を書いたいるクリオー天井四隅にはフランスの紋章がレリーフされている。画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)シャルル・ル・ブランはイタリアのバロック絵画をフランスに伝えた当時のバロック第一人者シモン・ヴーエ(Simon Vouet)(1590年~1649年)の工房で学び、1642~1646年までイタリアに留学。ニコラ・プッサンにも師事もしているらしい。帰国後、絵画アカデミーの設立に参加し、ルイ14世の首席宮廷画家として、ベルサイユ宮殿の装飾事業の指揮をとる事になる。つまりルイ14世のバロックはほぼシャルル・ル・ブランの作品と言う事になる。傍ら王立ゴブラン織りの製作所の長として宮殿に飾るタペストリーを制作したり、家具、銀器などの工芸品制作の監督にもあたっている。フランス美術界に君臨した画家なのである。※ フランスのゴブラン織りについては、サンカントネール美術館2の中「フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織り」で触れています。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)平和の間(The Peace Salon)戦争の間と対になっているこの部屋は、装飾も大理石と鏡と金箔青銅と言う所では一致しています。テーマは平和。欧州に平和をもたらすルイ15世のメダリオン(medallion)がメインになった部屋です。鏡の間を出て、王妃の宮殿側に入る最初のこの部屋は、1680年に完成したものですが、1710年から王妃の宮殿の一部として、娯楽室として使われた。何しろ隣は王妃のベッドルームなので・・。後世の妃によってこの部屋の為の装飾が足されたりしているそうです。下の写真のみ本からの出典です。画像は悪いですが、参考に・・。大理石の暖炉の上には楕円のルモワンヌの絵(1729年制作)が飾られている。建物の構成だけでなく、内装までシンメトリー(左右対称主義)に作られている。ルイ15世のメダリオン(medallion)欧州に平和をもたらすルイ15世の図は、19才の王がヨーロッパにオリーブを差し出し、その王の上には慈愛の女神と多産の女神が舞う。また生まれたばかりの王の双子の王女も描かれ、王家の繁栄もほのめかしている。天井画も、シャルル・ル・ブラン。平和の女神が先導し、四羽のキジバトに引かせた馬車に乗って空中を渡るフランス。そのフランスに不滅の輪を冠せているのが栄光の女神。また、フランスには婚姻の神が添っている。平和条約を締結した事を王家同士の結婚に例えて表現しているらしい。ベルサイユの写真だけで数千枚。それを部屋毎に分類せざるおえなくなりました。写真は一度の撮影ではないからです。前の時も大変でしたが、あれからさらに写真が増えています。途中、カーテンの色が変わっている事にも気づきました。内装の壁のテキスタイルも微妙に変わっていそうですし、調度品や絵画は大きく入れ替わりしています。何しろ昔はナポレオンの部屋など無かったような・・。最もベルサイユで飾られている額絵に関しては、ほぼレプリカです。本物はルーブル美術館のみならず、ウイーン美術史美術館所蔵の物もありました。つづくリンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)Back number削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。リンク 新 ベルサイユ宮殿 1リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂) 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2009年06月12日
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先週末は飲み会。月曜に京王プラザのブッフェ、火曜日に品川プリンスのブッフェと忙しくしていました京王プラザは3回目、落ち着いていて会話ははずむ。(月替わりのイベントで差が・・。)品川プリンスは今回初。カニ食べ放題に期待して出かけたのですが・・。カニは微妙。他の料理も微妙。何よりドン引きはローストビーフが焼きすぎて硬くてローストビーフとは言えない代物。しかもへんな味がして最悪に不味い。京王プラザの何倍もあるプリンスの広いホールのレストラン(ハプナ)は食べ物を取りに行くのも遠い。飲み物やフォーク、ナイフさえも自分で取りに行かなければならず、二人で行ったら常にどちらかが席を立っている状態。会話も何もなく、ザワザワ騒がしく落ち着けない雰囲気。プリンス大失敗でした 因みに、双方人気が高くかなり前に予約が必要ですが、プリンスは団体さん御用達に特化しているのかも・・。さて、毎度新規に入る時はそうなのですが写真の仕分けに時間がかかっていますウイーン分離派会館(Wiener Secession)分離派とはウイーン分離派ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ガイドブック、全てのかな文字が異なるので迷いましたが、分離派会館・ゼセッション(Secession)が本家のパンフレットの翻訳です。分離派会館斜め前はナッシュマルクト(Nasch Markt)入り口地下鉄U4が通りの下を走っていて、カールスプラッツ(Karlsplatz)が最寄り駅。つまりオペラ座からも2~3分のところ。※ 分離派会館は、2010年8月「オーストリア、ウィーン、 カールス広場界隈 Part 1 ワーグナー設計のカールスプラッツ駅舎」でちらっと写真紹介した事があります。分離派とは過去の様式から脱却して新しい様式を確立しようとした人達が立ち上げた芸術団体です。19世紀末になってもドイツの芸術カアカデミーは保守的で、若手には作品を紹介する場もチャンスもなかったそうです。そんな旧態依然の閉鎖的なミュンヘン芸術協会から離脱し自由に新しい表現の芸術を世に知らしめようと1892年、ミュンヘン分離派が最初の展覧会を開催。(時代は19世紀、いわゆる世紀末。フランスではアール・ヌーボーが流行していた時代です。)そして1897年には今度はウイーンでも分離派が立ち上がります。ウイーン分離派(Wiener Secession)の創設者の一人がグスタフ・クリムトGustav Klimt(1862年~1918年)でした。時代が時代ですから、当時の彼らの目指した芸術スタイルはウイーン版のアールヌーボーで、ドイツでは雑誌ユーゲントより、ユーゲント・シュテール(Jugendstil)と呼ばれるのがドイツの世紀末様式の呼称です。分離派(ゼセッシォン・Sezession)とは、ラテン語の反抗、撤退、分離の意味を持つSecedoから由来。ドーム下に書かれているのは、分離派のスローガン「時代には時代にふさわしい芸術を(与えよ)、芸術には芸術にふさわしい自由を(与えよ)」金色のリーフでてきたクーポラと白い立方体と正方形の組み合わせのこの建物はどうやら寺院のイメージで造られたようだ。そして建物はクーポラの月桂樹の葉に加えて、壁面に月桂樹の樹木もデザインされている事から建物自体を月桂樹の林に見立てて総合デザインされたのだろうと考えられる。ドームを被う月桂樹の葉は3000枚。月桂樹は勝利の冠でもある。月桂樹は古来、勝利と栄光の象徴であり、常緑樹と言う特性から不死の象徴でもあるらしい。設計はヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich)(1867年~1908)オルブリッヒもウイーン分離派の初期メンバーで、オットー・ワーグナー(Otto Wagner)は彼の師匠です。分離派の作品を展示する場として、1898年に僅か6ヶ月で建設されたと言う。分離派の装飾はコロマン・モーザー(Koloman Moser)(868年~1918年)が担当。正面入り口のゴルゴン(Gorgons)は勝利と工芸の女神の象徴だそうだが、ここでは魔除けの意味のが強いかもしれない。確かに拡大すれば髪がヘビ。ゴルゴン(Gorgon)と解るけど肉眼で下からは見えない。ゴルゴン(Gorgon)はホメロスのオデッセイアではでペルセウスに首を落とされ退治された魔物であるが、ここでは、ヘシオドス解釈の3姉妹のコルゴン(ステンノー、エウリュアレー、メドゥーサ)で表現されているようだ。ファサードに置かれた一対のボールは松明(たいまつ)用?亀が地球を背負っているような形状はまるで古代インドの世界観にも似ている。コロマン・モーザー(Koloman Moser)デザインのフクロウフクロウは女神アテナイの使いである。夜目が効く事から未来を見通し切り開く知恵があるようだ。シンプルでスッキリしたデザインは今風にさえ思える。さて、分離派会館内部であるが、中にはグスタフ・クリムトGustav Klimtが製作したベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)が展示されていて、有料で鑑賞できる。そして、今もオーストリア造形芸術協会の展示場として今と言う時代を表現する若手の作品が紹介されるギャラリーとなっていた。入場は9ユーロ。作品の撮影は厳しく禁止。一部、レプリカが置かれていてそれのみ撮影OKでした。ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ベートーベン・フリーズとは、全長34m、高さ2mの壁画で1902年、分離派第14回の展示会においてクリムトが、ベートーベンの交響曲第九をテーマに制作した作品です。クリムト的にはベートーベンを賞賛して、献げたと言われる作品です。が、当時は卑猥で露骨と揶揄され、1年後の1903年には7つに分けられて壁からはがされ売りに出されたそうです。1973年になってやっとオーストリア政府が買い戻し、1986年より再び分離派会館で展示公開されるようになったと言う曰く付きの作品。それ故今までのクリムトの作品集にはあまり紹介されて来なかった作品だと思います。※ フリーズ(frieze)とは建築用語で、壁面上部に帯状に描かれた装飾レリーフを指す言葉です。壁に直接描かれているので、作品の展示スペースは割と狭い。34mと言う作品の長さから逆算して70m2 (約21坪)くらいか?よく見ると文様などは立体装飾となっている。残念なのは、クリムト作品の絵ハガキや作品集などはメチャ高く、ベートーベン・フリーズの作品集を買って来なかった事だ。どこかに(家)あると思っていたのに部分数枚しかなかった もはや100年以上前の古典なのに強きである。ところで1905年には創設者のクリムトやオットーワーグナーは分離派から脱退している。それは分離派の外部団体としてウイーン工房を設立した事による内部分裂が起因。テキスタイルなど生活全般に応用したかったクリムトやワーグナーと異なり、商業主義に走りすぎる・・と言う反対派と方向性を違えた事による離脱だ。確かにクリムト作品は商業的かもね  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン次回オットー・ワーグナーの建築から
2014年10月22日
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大阪関連のBack numberも加えました。昨年6月に大阪の堺市にある古墳を見に出かけた。そこには世界最大級の墳墓がある。私が学生の頃は仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と紹介されていた前方後円墳である。※ 今は大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と呼ばれている。実は堺市には古墳がたくさんある。それらを総称して百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と呼ばれているのだが、とりわけ大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は規模が大きい。大きすぎて近くだとただの小山にしか見えない。しかもそこは天皇陵である為に宮内庁が直轄しているので中に入るどころか、遠くから小山の一部を眺める事しかできないのであった。ガッカリε~(;@_@)堺市は百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)を世界遺産にと望んでいるようだが、肝心の墳墓の発掘調査が宮内庁の壁に阻まれて、実は全然できていないから、今を持ってもほとんど解明されていないのが実情。特に最大の目玉である大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)には近づく事もできない。 御陵(天皇、皇后、皇太后の墓地)と御墓(皇族の墓地)を合わせた陵墓は宮内庁により管理。全国には896の陵墓が存在するそうだ。発掘許可がなかなか下りない事が考古学研究が遅れる要因の一つらしい。堺市は何とか観光の目玉にしたくて、上から一望できるように展望タワーの建設まで計画した事もあるそうだ。ところが実際建設のコスト計算したら観光客が入場でペイする金額と織りあわないどころか、建設費の返済に100年以上かかると算出されたらしく断念したらしい。実は昨年10月に宮内庁と堺市が共同で大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の発掘調査を進める事が発表された。宮内庁がなぜ重い腰をあげて堺市に声をかけ、外部の者を受け入れる事にしたのかも謎ではあるが・・。そんなわけで今回は堺市博物館の資料と共に旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎を考えてみました。旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)古墳のサイズと古墳ランキングから都の変遷JR阪和線 百舌鳥駅(もずえき)天王寺駅から11駅目。堺から2駅目。※ JR阪和線は大阪と紀州を結ぶ線である。下は駅近の公用地図ピンクの円で囲ったところが堺市博物館。百舌鳥駅が一番最寄り駅となる。初めての人はどこに向かったらいいかわからないと思う。何しろ近くに行っても対象物が見えないのだから・・。大仙陵古墳の陪塚(ばいづか)の一つ収塚(おさめづか)古墳大型の古墳の周りに造られた小型の古墳は、大型古墳の被葬者の親族、臣下の埋葬や、副葬品を埋納する為の塚であり、大型古墳をメインとする古墳群を形成している。墳丘長53m。帆立貝型前方後円墳。埴輪や高杯や器台など須恵器が出土しているらしい。大仙陵古墳の周囲にはこうした小さな古墳が今は13基数えられるが、本来はもっとあったはず。あるべき所に無い空があるので・・。旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は周囲を三重の壕で囲われている。下は一番外側の一つ目の濠(ほり)。墳墓が見えるの正面のみ。駅の前の道をひたすら歩くと右手に少し開けた拝所が見えてくる。最も堀の手前から墳墓が見られる程度の狭い拝所である。下が二つ目の濠の橋。一般人は入れ無い。鳥居の向こうに三つ目の濠があるはず。ウィキペディアから借りてきた2005年空撮写真(国土交通省国土画像情報より)下図は堺市文化観光局が出している「百舌鳥古墳群」の中の墳丘測量図から白黒なので解り易いように多少色つけました。ピンクの矢印が鳥居のある拝所の位置。墳丘長486m(実際は500mを超える)壕を含む全長840m三重濠の範囲464123.98㎡ (大正15年測量図による)周囲には大小の陪塚(ばいづか)※ 陪塚(ばいづか)・・大型の古墳の埋葬者のための関係者や副葬品を埋納する小さな古墳。古墳の周囲は2.85kmの周遊路があり散策できるようになっているそうだ。※ 先ほど紹介した収塚(おさめづか)古墳は右下の小円です。大山の名は、山に見えるほど大きいと言う江戸時代に読まれた句に由来。内堀の水面から後円部の高さは35.8m。※ レーザー測量による現標高は51.5m拝所の手前に250分の1スケールの石の模型がある。看板には大仙陵古墳が造られた5世紀の技術で一日あたりピーク時で延べ2000人。15年8ヶ月で述べ680万7000人が動員されたと試算。古墳の原型は意外にも幾何学的構成で積み上がるように形成されているのだな・・と言うことがわかる。現実には木が生い茂ってわからなくなっているからね。下は古墳時代の堺市全図今でこそ埋め立てがすすみ市街地が広がっているが、古墳時代、古墳のすぐ脇は海であった。江戸時代の文献では御廟は北峰にあり。石の唐櫃あり。石の蓋の長さ一丈五寸(318cm)幅五尺五寸(167cm)厚凡八寸(24cm)1872年(明治5年)前方部中段正面に竪穴式石室が発見され、中には石棺と副葬品が納められていた事が記録の絵図からわかったらしい。そしてそれら出土の絵図から、古墳の建造年代は5世紀中頃と考えられているらしい。先にも触れたが、宮内庁の管轄御陵の中でも調査許可の出ている所もある。にも関わらず、日本最大の大仙陵古墳が全く調査させてもらえなかったと言うのがそもそも不思議。もしかしたら天皇陵ではないのでは? と言う仮説もある。だから調査をされては困るのでは? との憶測も飛ぶ。何より今まで仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と記憶させられていた物が、いつのまにかシレッと大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)に名称変更されてるし・・。実際、仁徳天皇陵と伝えられてきた根拠は「日本書紀」や「古事記」の記述のみによる。日本に文字がもたらされ、編纂された最古の正史が日本書紀である。制作は720年(養老4年)。つまり古墳ができた時代にまだ日本には文字がなかったので、日本書紀に書かれた時点で、その存在は伝承意外の何物でもなかったと言うことだ。今後の発掘調査で別人の名が出るかもしれない。ところで、確証は何もないが、以前秦氏のところでチラッと触れたが、もしかしたら前方後円墳は秦氏ら渡来系の氏族により伝えられ、彼らの長の墳墓として最初造られたのではないか? と推察。理由は、前方後円墳など山系の古墳の造作はともかく、大仙陵古墳に見られる周囲を取り巻く濠(ほり)を造る灌漑(かんがい)技術は日本には無かったからだ。以前紹介しているが、灌漑(かんがい)技術を日本にもたらしたのは秦氏一族なのである。※ 2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」「秦氏の功績」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい玄室を支える巨石の切り出し。そして搬出も特別な技術が必要であったはず。巨大墳墓が天皇の墓であったにせよ、それは誰が造ったか? と言う謎の方に意義を感じるのは私だけだろうか?古墳のサイズと古墳ランキングから大阪府堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と大阪府羽曳野市・藤井寺市にある古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、近い上に緯度も同じ。大きな古墳が点在している場所です。堺市博物館の資料にちょい足ししました。古墳の大きさランキングの上位がそろい踏みしています。※ 資料は2018年5月「古墳大きさランキング(日本全国版)」文化観光局博物館学芸課堺市博物館1位 仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)墳丘長486m2位 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)墳丘長425m3位 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)墳丘長365m7位 ニサンザイ古墳 墳丘長300m以上以前古墳時代の終わりについて紹介したがある。2017年8月「倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ」の中「古墳はどうして消えたか?」リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ646年(大化2年)に出された「薄葬令」と言う詔(みことのり)により巨大墳墓は少なくとも関西では消えた。そこそこの墳墓は地方ではまだ造られていたようだが・・。文化庁が4年に一度出していると思われる埋蔵文化財関係統計資料と言うのがある。平成28年版の「古墳と横穴墳墓の数」の統計を読み取ると1位 兵庫県 18851基 (H24年18841基)2位 鳥取県 13486基 (H24年13459基)3位 京都府 13016基 (H24年13089基)4位 千葉県 12765基 (H24年12750基)※ 最もこの統計だけではも古墳と横穴墳墓の比率がわからないし、建設年代も不明だ。意外にも関東の千葉県が上位にきていたのには驚いたが、大阪は3427基と案外少ないのにも驚いた。H24とH28の数字を比べて見るとどこも数に変動がある。増えているのは新たな発見かもしれない。減っているのは? 自然倒壊というのもあるようだ。そう言う変動を見て気づいたのは、大阪の場合、後生、古墳が取り壊されて消えている確率が非常に高いようだ。史実として平安以降、かなりつぶされているらしいし、近年もしかり・・。近年こそ遺跡を残す事に意義が見いだされているが、昭和の初期までは地主が勝手に解体して土地の切り売りが行われていたのだ。昭和30年代でも調査の後に大概がつぶされて宅地開発されている事もわかっている。百舌鳥古墳群に今あるのは104基。かつては1000以上存在していたらしいので、大阪はもしかしたら日本一古墳が建造された土地だった可能生も見える。実際、古墳数では少なくても、墳丘長が200mを超える巨大古墳が大阪には多い。巨大古墳は全国に40基近くあり、そのうち11基が百舌鳥・古市古墳群にあると言う。おそらく大阪では小さい古墳は古墳時代以降に潰されてしまったに違いない。残念下は堺市博物館から仁徳天皇陵から出土した馬型埴輪(はにわ) 5世紀中頃 複製品仁徳天皇陵から出土した鹿型埴輪(はにわ) 5世紀中頃 複製品仁徳天皇陵から出土した甲冑小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと) 5世紀中頃 複製品横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう) 5世紀中頃 複製品浅香山遺跡から出土した左1つ目、3つ目と4つ目(手前)は須恵器(すえき) 5世紀中期から後期左2つ目 土師器(はじき) 5世紀後半百舌鳥陵南遺跡出土左手前一つのみ須恵器(すえき) 無蓋高杯(むがいたかつき) 5世紀後半 他、土師器(はじき) 5世紀前半※ 土師器(はじき)弥生土器の流れを汲む素焼きの土器※ 須恵器(すえき)は陶質土器(炻器)。同時期の土師器(はじき)とは色と質で区別。須恵器(すえき)は青灰色で硬く土師器より上質。南瓦町遺跡出土 5世紀中頃の須恵器まるて陶芸作品のよう。お茶の器みたい 都の変遷巨大古墳を造れるのは当然富と力のある豪族。大阪に宮殿があった事は近年の発掘でわかっているが、古墳時代の大阪に、力のある豪族がいたと言う歴史的な裏付けはまだ出ていない。ただ、大阪は奈良の都から瀬戸内海につながる出口であった。逆を返せば朝鮮半島から福岡を通り、瀬戸内海を通過して奈良に向かう入り口でもあった。大切なイベント(遣隋使派遣など)では、奈良から天皇が自ら出立の見送りに難波の宮殿に来ていたと思われる。そこで盛大な見送りをしたり出迎えをしていた。そう言う事を踏まえると大阪は日本と言う国の門であったと思われる。飛鳥時代の畿内の地図に藤原京以降の都を重ねた地図(大阪市歴史博物館から)。さらに古墳群(百舌鳥,古市,長原)の位置を重ねてみました。飛鳥以前の都は藤原京より下の方ですが、全体に都は時代と共に北上しています。この図の中では、百舌鳥古墳群と古市古墳群と長原古墳群はこの中のどの都よりも古い。しかし、肝心のこれら古墳時代の都の場所の特定ができていない。地図を見ていると、河の位置や地形、古墳の建造年から見て、ひょっとしたら大和川沿いの古市古墳群(ふるいちこふんぐん)のあたりに都があったとしてもてもおかしくない気がした。河内湖に注ぐ旧大和川が近くに流れる長原古墳群と古市古墳群。都の条件に水運交通は絶対条件である。長原と古市を比べれば、河口に近い長原。安全なのは古市の方。長原古墳群は河内湖からの侵略者よけ、そして百舌鳥古墳群の方は、瀬戸内海から畿内に入ろうとする侵略者からの防衛場所に適している。古墳時代の土地を戦略的に見るなら、古市のあたりにメインの都。古市を守る防衛に長原、百舌鳥。これはベストな案だと思う。古墳はそこを守る豪族の長の墓とも考えられるからね。.河内湖は巨大な湖だった。堆積物により縮小され、後に埋め立てされて消えてしまうが、太古は大阪湾に出るには、この河内湖を経由しなければならなかった。いつしか川の方も砂が堆積して航行不能になり、都は移動せざる終えない状況になる。あるいは流行病の蔓延や、水害、干ばつなどの理由もあったかもしれない。代替わりのタイミングで、利便を兼ね備えた良い土地に遷都。都はそんな理由もあり遷都を繰り返して行ったと思われる。空白の4世紀。古墳時代初期の都はどこにあったのだろう? .昨年、難波宮の遺構も見てきた。大阪歴史博物館の地下にあるのだ。仁徳天皇が難波に皇室を持っていたとウィキペディアには出ているが、これはどうだろう。前期難波宮は第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)(596年(推古天皇4年)~654年)が造営とされている。第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)では時代が合わない。そもそも仁徳天皇の年齢も定かでない。以前紹介しているが、仁徳天皇の治世は87年に及んでいる。生まれたのが神功皇后摂政57年(257年)で亡くなったのが仁徳天皇87年(399年)。142歳まで生きた事になる。これでは実在したのかも怪しいかもしれない。大阪歴史博物館 難波宮を模した宮中フィギュアいったい誰の墳墓なのか? 宮内庁と堺市の発掘調査が楽しみですね。Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 四天王寺庚申堂
2019年01月23日
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タイトルだけで盛り沢山にさて、「旧ベルサイユ宮殿」ですが、ルイ14世、ルイ15世と紹介してきたので、やはりルイ16世にも触れなければならないでしょう。風貌もさえないし、意思も弱そうでマリー・アントワネットの夫と言う認識しか持っていない人のが多いだろうが、実は彼はアメリカの独立戦争を応援してアメリカに海軍のみならず陸軍まで出して支援した王なのである。つまり今のアメリカと言う国はルイ16世のおかげで建国できたと言っても過言ではなかったのです。ニューヨークのリバティ島(Liberty Island)にある自由の女神像(Statue of Liberty)は自由と民主主義の象徴としてアメリカ独立の100周年にフランスが贈ったというのもなるほど・・なのである。ベルサイユから遠く離れた感は今回もありますが・・。後半しっかり載せてます。新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大ルイ16世とラ・ペルーズ(La Pérouse)調査隊ルイ16世のコンプレックストリアノン(Trianon) 大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon) 小トリアノン宮殿(le Petit Trianon)トリアノンの庭園造り ユベール・ロベールの世界感 ベルヴェデール (Belvédère) 愛の神殿(Temple Amour)王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine) マールボロタワー(Marlborough Tower) 粉碾きの水車小屋(Mill)アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大1776年7月4日に独立宣言したばかりのアメリカから、その9月、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)(1705年~1790年)がパリにやって来た。アメリカ大陸会議の特使としてフランス王(ルイ16世)に支援を要請する為だ。アメリカは独立宣言したものの、このままではイギリスにつぶされることは目に見えていた。イギリスに対向できる相手としてフランスが協力してくれれば勝てるかもしれない・・と言う理由だ。因みにベンジャミン・フランクリンは、この渡航でフランス、スペイン、オランダから1000万ドル以上の戦費の借金をして帰っている。ルイ16世の学力は決して悪くはないらしいが、タイプとしては地味な理系? 若い頃は錠前造を趣味としたオタク系だったのかもしれない。しかもコンブレックスを抱えたルイ16世は自信がないのか? 慎重すぎるからなのか? 決断力が足り無い。肝心な時に決められない。そう言う意味では本来トップの器では無いのだろう。でも、真面目で報われなかったが、頑張ってはいた。(議会に対して・・。)しかし、押しの強さが足り無い・・以前に「この王には大きな問題点があった。」バージニアヘンリー岬の戦い アメリカ独立戦争で戦うフランス海軍の艦隊Hampton Roads Naval Museum所蔵 ウィキメディアから借りてきました。アメリカの独立をフランスが支援する理由は果たしてあるのか? 財政難なのに・・。答えはすぐに出なかったが不思議なものでフランス国内でアメリカを助けろ・・と言う声が上ってきていた。7年戦争での仇(かたき)を取りたい臣下の思いもあった。また、アメリカに義勇軍師としてかってに乗り込み軍隊を指揮する青年貴族もいた。※ 7年戦争ではイギリスvsフランス艦隊のキブロン湾の海戦におけるフランスの大きな敗北。21隻の戦列艦のほとんどが壊滅させられた恨みがあった。何よりフランスはアメリカ大陸の植民に遅れをとっていた。それ故、イギリスの領土が減らせれば・・と言う引き算による力の均衡も考えた。それが海軍のみならず、陸軍まで遠い異国に派遣しての大々的参戦となった理由だ。1778年、フランスのアメリカの独立戦争への参戦はイングランドvsフランスと言う対立の代替え戦争にもなっていたのである。※ 1778年2月、ルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結んだ。これが正式なフランスの参戦である。フランスとアメリカ連合船隊 vs イギリスのフリゲート鑑 1779年 ウィキメディアから作者 Richard Paton 1780年結果、アメリカは勝利して独立を果たした。フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復し、勝ち組になったが、得た領土も実は少なく利益はそれほどなかった。※ アメリカの交易相手のメイン国は戦前のままイギリスであり、フランス独占にはならなかった。また以前北アメリカにあったフランス領を取り戻す事もできなかった。結果は徒労(とろう)に終ったと言える。戦士としてフランスは褒めたたえられはしたが・・。結果論で言えば、イギリスに一矢報い(いっしむくい)はしたが、むしろ借金が増えた。この戦いでフランスがアメリカ独立戦争につぎ込んだお金は13億リーヴル(約5600万ポンド)前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金を抱える事になってしまった。※ 現在の価値が解りませんが、イギリスがつぎ込んだ金額は8000万ポンド。フランスより当然多い。またその借入金には高利が付き返済は利子分だけで消える。フランスはもはや火の車。増税しか返済の見込みは無かったが、議会の承認がおりなかった。これもまたフランス革命の大きな要因となった負債である。ルイ16世とラ・ペルーズ(La Pérouse)調査隊このアメリカ独立戦争の遠く向こうにフランスには「インドからイギリス人を追い出す」と言う別の目的があったらしい。だからルイ16世は同時にインドとセイロンにも艦隊を送っていたと言う。またそれとは別にルイ16世はフランス海軍士官のペルーズ伯爵を1785年、科学探査の遠征隊として艦船をまかせ世界の海へと調査航海に出している。※ ラ・ペルーズ(La Pérouse)(1741年~1788?年) 海軍士官であると同時に彼は探検家として名が残されている。ウィキメディアから借りてきました。右がルイ16世。左がラ・ペルーズ。この遠征の目的は、ラペルーズが崇敬するジェームズクック(James Cook)(1728年~1779年)による太平洋の発見。その後の正確な地図の作成と、フランスの新しい植民地及び交易先の確保。また新たな海上交易ルートを開く事がまず任務として与えられていた。これは、とてつもなく大変な任務であり、全て完了すれば世界から称賛されるべき偉業であった。彼は大西洋を南下し南米南端のドレーク海峡を通過して太平洋に出るとイースター島によりハワイ諸島も押さえ、アラスカに向かう。アメリカ西岸の沿岸を南下して再びハワイ近海に戻ってから太平洋を横断してアジアへ。フィリピン、マカオと今度は日本海を北上して樺太、カムチャッカ半島そして再び太平洋の中心を通って南下しオーストラリアに到達。パプアニューギニア方面に向いソロモン諸島で消えた。ペローズの艦隊は世界を回ったあと、「1789年6月までにフランスに戻る予定である」との報告を最後に1788年消息をたったのだ。遠征の114人の乗組員の中には、10人の科学者もいた。天文学者で数学者、地質学者、植物学者、物理学者、自然主義者、イラストレーターの他、船の牧師(チャプレン)も乗っていた。また、この航海に応募した者の中に16歳のナポレオンが入っていたと言うのには驚いた。彼は最終的に航海リストには入らなかったのだ。運命とはいかに・・である。ルイ16世は死刑執行の朝(1793年1月)、「ラ・ペルーズのニュースはありますか?」と尋ねたと記録が残っているそうだ。世間はすでにラ・ペルーズを諦めていたが、ルイ16世は自分が死ぬ寸前までラ・ペルーズの帰還を楽しみに待っていたのだろう。そして航海の話しをたくさん聞きたかったのだろう。寡黙な彼は錠前造りが趣味とずっと言われてきたが、大人になった彼には別の趣味があった?彼の妻マリーアントワネットは彼がアメリカ問題で苦労している時にトリアノンの庭造りにいそしみ、子供ができてからは田舎暮らしの疑似体験で暇を潰して・・と得たのは自分の満足ばかり。ルイ16世のささやかな趣味が広い世界を知る事への投資であったのか? 本当は自ら船で航海に出たかったのかもしれない。地味ではあるが、激動の世の渦中で1人奮闘していたルイ16世。3人の王の中で一番真面目に政治をしていたのではないか? と思ってしまった。全ては先王らが造った借金と制度がいけないのに・・。ルイ16世のコンプレックスルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)ルイ16世(推定20~22歳) 製作年 1774年~1776年1774年はルイ15世が亡くなりルイ16世が即位した年。つまりこの絵は王になったばかりのルイ16世か?※ 雰囲気的には王太子時代に見え無くもないが、金羊毛勲章をさげている事から即位した後に描かれたと推測できる。1770年に挙式しているので結婚して4年。しかし王と王妃はまだ夫婦になってはいなかった。祖父のルイ15世と対称に、ルイ16世は女性に興味が無かったらしい。かなりの奥手の上に実は肉体的コンプレックスがあった事が後年判明する。1777年、なかなか子供ができない事を心配したオーストリアの母、マリア・テレジアからの使者としてマリーアントワネットの兄ヨーゼフ2世がフランスを訪問。ルイ16世の相談にのり指導をしている。後にルイ16世はプチ手術するに至り、1778年12月、やっと長女マリーテレーズをもうけているが、結婚から8年目の快挙である。ここで幾つかの疑問を持った。ルイ16世にはそんな事を相談できる友も臣下もいなかったのだろうか?女性に対する扱いや指導を誰も助言してくれなかったのだろうか?女好きのルイ15世は孫にそう言う指導を一切しなかったのか?なかなか孫ができない事を不思議に思わなかったのだろうか?確かに、ルイ16世はルイ15世の孫なので相談するには年が離れていた事もある。また老いても若い愛人を造る女好きのルイ15世の事を、父と同様に嫌悪していたと考えられる。※ ルイ16世も彼の亡き父も愛人を作る事はなかった。もちろん反面教師がいたからだ。ルイ15世とルイ16世の間には血縁以外、本当に何もつながりが無かったのかもしれない。問題は、祖父よりも回りの臣下である。将来の王になる王太子に誰も関心を持っていなかったのだろうか?ルイ15世の時のフルーリー枢機卿のようなすぐれた爺やは彼の側にいなかったのだろうか?爺やでなくても友でも良い。過去も未来も彼の回りに信頼に足りる人間が見えて来ない。彼は子供の頃から1人孤高の少年であったのか?そして王になっても孤高の王であったのではないか? と言う気がしてきた。アメリカ独立戦争でもしかり、王の煮えきらない態度、誰か彼を真剣に思い、サポートする人材は本当に1人もいなかったのだろうか?マリーアントワネットがかなり人事や政治に口を挟んできている。ルイ16世は王妃の言葉に弱い?政治も1人ぼっち? 普通なら王妃の介入は非難されるべき事。そう言えば、ルイ15世が亡くなった後、臣下は一新されている。よりによって、ルイ15世に追放されたモールパ伯爵を呼び戻し宰相にした事で戻った彼は、仕返し人事を行ったのである。つまり啓蒙派からまた保守派へと逆戻りしたのである。※ モールパ伯爵は、ルイ15世が1739年に取りやめた「王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式」も復活させているらしい。もはや啓蒙の時代に即さない古い頭。これもまたブルボン家を崩壊に導いた要因の一つかもしれない。要するにルイ16世は良い臣下にめぐまれなかった。そればかりか何でも相談できる友もいなかった。これは単純に彼にそれを見極める能力が無かった・・とは言えない気がする。良い人材が本当に誰もいなかった。と言う「不幸」だったのかもしれない。もっともルイ14世、ルイ15世と見てきて、確かにフランス王は友人が作れる環境で育てられていない。当然、学友はいなかったであろう。心を打ち解けて話せる人は彼ら(王)にはいなかったのかもしれない。※ しかし、ルイ14世とルイ15世には良い宰相がいた。ルイ15世がポンパドゥール夫人と性を越えて友人? ブレーン? 側近としたのはやはり希有(けう)な事だったのだろう。前述の「この王には大きな問題点があった。」とはまさにそこ。彼の為に真剣に寄り添ってくれる人間が皆無だった事である。妻である妃(マリーアントワネット)は幼くして嫁ぎすぎた。成長してもルイ16世が頼りにできる相手にはなれなかった。それどころか、先にも触れたが、夫が、フランス国が、アメリカで必死で戦っているさなかも自分の遊びに更けているだけ。自分の都合で人事に介入する事はあっても国家の為に少しでも何かできたか? と言えば誤解を生んで夫(王)の足を引っ張っただけだったかもしれない。28項目の起訴状をあげられ、1793年1月20日死刑が確定。ルイ16世はそれを平静に受け止めたと言う。下は、昔、本から持って来た写真なのですが、出典がわからなくなりましたタンブル塔での家族最後の別れのシーンです。私が見つけた写真の中で、最も家族らしい写真がこれ。ルイ16世の胸にうなだれるマリーアントワネット。トリアノン(Trianon)ベルサイユ全景メイン宮殿が下方。トリアノン(Trianons)とはベルサイユの北西部に位置する敷地内に造られた休息用の小宮殿です。ルイ14世によって最初に造られたトリアノン宮殿とルイ15世によって造られたトリアノン宮殿。最初のが大トリアノン宮殿(グランド・トリアノン)、後のが少し小さく小トリアノン宮殿(プチ・トリアノン)と呼ばれます。プチトリアノン庭園の奥にマリーアントワネットが建設させたのが造り物の農村。通称マリーアントワネットの村里。王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)です。大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon)1687~88年 ウィキメディアから借りた写真です。建設ジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)最初の宮殿はルイ14世がトリアノン宮殿の建設を指示。愛妾モンテスパン侯爵夫人に建てた離宮でした。※ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)最初の建物は建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)が設計。「磁器のトリアノン」(1670年)と呼ばれた。夏の世、ルイ14世は舞踏会や晩餐会を開催。損傷がひどくこれは後に建て替えられ、ジュール・アルドゥアン・マンサールJules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)の設計で1687年「大理石のトリアノン」が完成。現在の外観。高級な大理石をふんだんに使ったギリシャ・ローマが意識された宮殿。帝政の時代始め、ナポレオンが2番目の妻マリア・ルイーザと住居にしていた時もあり内装はその時に修復改装されている。広いので全景写真は難しいのです。小トリアノン宮殿(le Petit Trianon)(1762~68年)写真左が正面ファサード(自分の写真です)写真右が庭側(ウィキメディアから)建設アンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)(1698年~1782年)ルイ15世が小トリアノン宮殿の建設を指示。ポンパドゥール夫人のために建築されたが間に合わず、次の公妾デュ・バリー夫人が最初に使用し、ルイ15世が亡くなる(1774年)と、マリ・アントアネットの所有となった。宮殿エントランスなど一部は以前「新 マリー・アントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情」で紹介。リンク 新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情次回「マリー・アントワネットの居城 3」で多少扱う予定。トリアノンの庭園造り ユベール・ロベールの世界感1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を自分の好みに合うように改装することを許可して、王妃マリー・アントワネットに与えたのである。※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)( 1755年~1793年)以降、マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチトリアノンを自分の邸宅として使用する。しかも限られたお気に入りの側近のみが入る事を許され、ルイ16世でさえ許可無く入れなかったらしい。※ 貴族を公平に扱わなかった事もマリー・アントワネットの失敗であった。プチトリアノン(le Petit Trianon)に住み着くと、マリー・アントワネットは今度は庭園の造作に乗り出した。それ以前の庭園はトリアノン宮殿の植物園で働いていた植物学者ルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)の一家が30年に渡り育てていた観賞と研究用の植物群が植えられていた。パイナップル、アロエ、コーヒー、ゼラニウムなど。マリー・アントワネットが自分の庭をそんなもので飾りたくなくて、貴重な植物なのに1775年以降全て除去される運命となった。散々な目にあったリシャール一家であるが、1781年7月、ルイ・クロード・リシャールはフランス領ギアナに派遣され調査研究し革命の年、1789年に4000の植物標本をもって帰国。植物学者となる。ルイ16世はそちらの研究にも力を入れ彼らの研究を応援していた。新たな庭園の造作はイギリス式の庭園で画家ユベール・ロベール(Hubert Robert)((1733年~1808年)の世界感を現した景観になるよう建築家リチャード・ミケ(Richard Mique)が手がける。平坦なフランス式庭園ではなく庭に起伏を持たせ自然を意識。川があったり、小山があったり雑木林や花の咲き乱れる野原,鳥の戯れる池などを庭園に配置。さらに、そんなランドスケープ(landscape)の中に古代遺跡のような建物が配置され演出された。上は現在である。マリーアントワネットの時代にはもう少しナチュラル感があってイングリッシュガーデンのように四季様々な花が咲いていたのではないか? と想像する。現在の整備では、どこかのゴルフ場にありそうな景色ですね。下も18番ホール手前・・って感じところで、ユベール・ロベールの絵画は古代遺跡や架空の遺跡などを描き入れた風景画。それは時に廃墟の古代神殿跡の姿であったり、廃墟でない物まで敢えて廃墟風に描いて味を出すと言う特異な手法の作風。故にノスタルジーを感じる作風なのである。下は参考に彼の絵画から。2点、いずれもウィキメディアから借りています。凱旋門とオレンジ劇場(1787年) ルーブル美術館所蔵ちょっとペトラの遺跡に見え無くもない。完全に創造の産物でしょう。ルーヴル美術館の廃墟としての想像上の眺め、1796年のサロン敢えてルーブルを廃墟にしてみた・・と言う想像のノスタルジー。発想は斬新。現在でも通用する奇抜な試みです。トリアノンの庭では、それを実際の景観で造ろうと言うちょっと贅沢な庭造りであり、そのノスタルジーな景観の中に自分が居ると言う贅沢な構想? である。その為にトリアノン内には古代の神殿のような建物が建造されている。また王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)も計算され配置された景観絵画になる。そう言う意味で、ランドスケープ・デザイン (Landscape design) が重視された庭園造りがされていた。※ 過去形にしました。今は違うので。ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌから絵になりそうなショットのみ選んでみました。マールボロタワー(Marlborough Tower)湖を見下ろす為の塔らしい。王妃の家水車小屋下はマリーアントワネットの庭の為に造られたトリアノン庭園の景観のオブジェ的建物であるが、建物はともかく、周囲の景観は当時と全く違うだろうと思う。全く感動が無いから・・。要するに今の庭園の整備が今一なのです。ベルヴェデール (Belvédère) 1777年完成愛の神殿(Temple Amour) 1778年完成製作 リチャード・ミケ(Richard Mique)(1728年~1794年)ちょっと解りにくいが、川に挟まれた小島の上に建てられている。しかもここは王妃の寝室から見えるのだそうです。現在のでは風情が無くて残念です。1746年に造られた天使のオブジエの本物はルーブルに保管されている。通称 マリーアントワネットの村里王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)庭園の奥に造られたこの一体は、農村を模した王妃の為の田舎風離宮です。建築家リチャード・ミケ(Richard Mique)が画家のユベール・ロベールのデッサンに着想を受けた村里は、大きな池の湖畔に、農園と花園で囲まれた12軒のわらぶき屋根と、農場、酪農小屋、釣り場の塔、水車小屋 鳩舎等があったが、あくまで農村を模した物で、実際の農家を建てたわけではなく、外観は素朴なコテージであるが造りはしっかり。内装はそこそこ豪華にできていて、実際ビリヤード場も付いている。(そんな農家ない)※ 昔、全く知らないでル・アモーを訪問した。農家風のくせにビリヤード (・_・?) ハテ? ここが一体何なのか全く解らなかった。最も、現在村里のほとんどはナポレオン帝政下にマリー・ルイーズの為に修復されたり、一新されたもののようです。※ 大トリアノンにナポレオンが住居していた時がある。1783年、リチャード・ミケ(Richard Mique)王妃の家連結してビリヤードの家左上の螺旋階段上がビリヤード場?ジョルジュ・ジャコブが豪華な家具をそろえ、家具職人ジャン・アンリ・ケーズナーによって、ビリヤード場が木造廻廊で接続された。およそ農場には似つかわしくないビリヤード台ですが、ここはサロンの一つ。王妃は農婦を演じていたのではなく、農場での仕事そのものを遊戯として捉えていた。また、子供たちにとっては教育的役割を果たしていた。何しろ家畜である羊はリボンでつながれていたらしいから・・。王妃の家は食堂、番人の部屋、客間、娯楽部屋に図書室まであったそうです。階段は王妃のイニシャル入りの特注の鉢(サン・クレマンのファイアンス陶器)で飾られていたらしい。穀物小屋は舞踏会場にされ、(今はない?)釣殿があり、絞られたミルクを飲む時、王妃は磁器の食器を使っていたという。侍女カンパン夫人によれば、「村の全ての家を訪れる事、雌牛が乳を搾られているのを見る事、湖で釣りを楽しむ事・・・王妃はそんな事に夢中になっていおいでだった。」当初、マリー・アントワネットが子供達と田舎での楽しみを味わう為に発案されたものであったと言うが、多くは田舎風サロンとして親しい友人らと利用されていたのかもしれない。実際に農業で使用されている建物も存在する。納屋、粉碾きの小屋(Mill)、家畜小屋、漁師の小屋、警備の家。ろばが粉をひくための小麦を水車小屋に運んだり、女たちが洗濯物を池のまわりで叩いたりするのを王妃は家の廻廊から眺めていたと言う。マールボロタワー(Marlborough Tower)粉碾きの水車小屋(Mill)革命が勃発した時も彼女はここにいた。トリアノン通りの並木道旧ベルサイユ宮殿の11~15まで削除しました。昔のは毎日更新で中身も無かったので・・。削除した当初のルノートルの庭園部分はいずれどここかで書き加えるかもしれませんが、庭園の写真があまりないので考中です。アナログカメラ時代に車で庭園を一周しているのですが、写真が無いのです。※ ロココ様式も中途と言えば中途でしたね。とりあえず年内に「マリー・アントワネットの居城 3」を終えてベルサイユ関連を終了させたいと思いますが、年内に終えられるか? 先に書きましたよう、母が入院して忙しいと言うよりはストレスで睡魔が・・。また、読んでくれている方もそうでしょうが、少しベルサイユ飽きてきました「アジアと欧州を結ぶ交易路」も、これから大航海の時代に入るわけで、まだ続きます。今の所何も構想ができていませんが・・。いつも行き当たりばったりで書いている自分が凄い・・。(* v v)。懲りずに読んでくださる方ありがとうございます。それが原動力です。 ( ^ - ^ )ゝBack number新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1関連 Back numberリンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2020年12月22日
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一部修正今度は長野県北部で地震 被害の大きい割に人的被害は少なくすんで何よりです。あくまで私感ですが、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。今回被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。今年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?さて、三種の神器と言うと日本では天照大神よりもたらされた鏡、玉、剣。天皇家により代々継承される三つの宝物をさす語ですが、今回は神聖ローマ帝国の王冠とハプスブルグ家が継承する三種の神器を紹介ハプスブルグ家の三種の神器神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)フリードリヒ2世のマントオーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ウイーンの王宮(ホーフブルグ・Hofburg)の中でも13世紀に建てられたと言う古いスイス宮(Schweizerhof)にハプスブルグ家のお宝を集めて展示している王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)があります。宝物館はそれ自体が巨大な金庫歴代の皇帝の戴冠式には冠(かんむり)以外に笏(しゃく)、宝珠(ほうじゅ)など権力を象徴する2点が加えられている。(後々マントなども加えられている。)この帝国の皇帝の持つ神器の意味と力は特別なもので、後々ヒトラーがそれらを持ち出しニュルンベルクに運んだと言う。(ヒトラーが本当に第四帝国再興のために必要としたのかは定かでないが・・。)1946年大戦の終結後に宝物は発見回収されウイーンに戻された。神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)製作年代10世紀後半。頭部十字架とアーチは11世紀に追加。この冠は神聖ローマ帝国の初代皇帝在位中に製作されたものと推測される。神聖ローマ帝国の初代皇帝 オットー大帝(Otto I)(912年~973年)(在位:962年~973年)962年戴冠。共同統治者として967年に息子のオットー2世(Otto II)(955年~983年)(在位:973年~983年)も戴冠。王冠は967年の戴冠式には存在していたらしい。皇帝を表す8より八角形のプレートでつなげられ、正面のプレートには12使徒とイスラエルの12の部族を示す12の貴石がはめられている。貴石以外のプレートは六翼の天使セラフィム(seraphim)がキリスト、ダヴィデ王、ソロモン王、ヒゼキヤ王を挟むかたちで描かれている。神の慈悲、正義、知恵、長寿をそれぞれ表す4人だそうだ。正面の十字架とアーチは5代目? 皇帝コンラート2世(Konrad II)(990年?~1039年)が加えたらしい。(名前が入っているから・・)十字架には勝利を象徴する貴石が組み込まれ、裏にはキリスト磔刑の図が描かれている。皇帝はキリストの代理人として統治し、キリストから権力を与えられ、キリストに対して責務を負う。「我により、王は統治す」と表記してあるそうだ。少なくともこの帝冠はコンラート2世の時代までは使われていた事がわかる。フリードリヒ2世のマント戴冠式のマント1133年頃、イスラムのパレルモの宮廷で製作されたマントにはラクダを踏みつけるライオンが刺繍されているようだ。(これはあきらきかにキリスト教圏以外の国の技法と意匠)このマントは1194年にホーウェンシュタウン家のものとなり1220年のフリードリヒ2世の戴冠の時には着用され、以降帝国の宝物に加わっているそうだ。フリードリヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)神聖ローマ帝国ホーウェンシュタウン朝(在位:1220年~1250年) シチリア王(在位:1197年~1250年)異国の意匠にちょっと驚くが、もともとフリードリヒ2世の宮廷があるシチリア島パレルモはイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合していた土地。(1198年母方よりシチリア王位を継承。)肉体も頭脳も明晰でラテン語含む6つの言語に精通していたと言う博識の王は信仰に対しても寛容であったし、イスラム教の事もよく理解していた。しかし、フリードリヒ2世の知性からくる進歩的な考え方はまだこの時代には通用しなかったようだ。何度か教皇より破門を受けていて、当時イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを1239年、無血(交渉のみ)で休戦協定・・と言う偉業を成してもを教皇庁は彼を破門したままだった。なかなかドラマチックな人みたい神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)初代オーストリア皇帝の肖像画神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I)(在位:1804年~1835年)として即位。※ オーストリア帝国は1867年にオーストリア・ハンガリー帝国へ前回カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の柩を紹介したが、神聖ローマ帝国最後の皇帝が彼である。帝国解体にともないオーストリア帝国を建国して初代皇帝となり戴冠。そのオーストリア皇帝として正装した肖像画が上であり、下はその時身に付けた表章である。オーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝が付け加えた宝珠と王笏(おうじゃく)全てプラハで製作。ルドルフ2世の帝冠もともと皇帝の司教冠としてあった古代の宝冠をルドルフ2世の時代(1602年頃)にヤン・ヴェルエメンにより手直しされたものらしい。ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)神聖ローマ皇帝(在位:1576年~1612年)、ハンガリー王、ローマ王、ボヘミア王ルドルフ2世は政治の方は無能だったらしいが芸術家を保護、プラハは彼により文化的な繁栄を遂げている。その彼が選んだ工芸家が作り上げた見事な宝冠は1804年よりオーストリア帝国の正式な帝冠になった。中央ユリの紋章をかたどった真珠の中央には聖霊降臨祭を示す赤い色のルビーが配され王の叡智を示し、冠のアーチ部分に施されたダイヤモンドは王の統治を保証するキリストを表しているそうだ。冠トップの青いサファイアは天国を示しているらしい。これ自体が当時の技術を結集した立派な工芸品である。だいぶ研磨技術が上がってきたようだが、それでも中央のルビーは石の破片を磨いたたげの物。宝珠球体の宝珠は世界を象徴し、キリスト教世界が確立してからは上の十字架は宇宙の支配者キリストを象徴。そしてそれらは皇帝の普遍的な統治権を表す。王笏(おうじゃく)の頭の部分枝の部分はユニコーンの角と言う事になっているが、実際は存在しないので海にいるイッカクの牙であろう。ユニコーンの角はキリスト、神の力の象徴となり、キリストから王権を与えられた世俗の支配者の印になるらしい。関連のBack numberラストにいれました。マティアス帝が付け加えたこれらは帝冠に合わせて製作。宝珠と王笏(おうじゃく)共にアンドレアス・オセンブルック1615年頃製作。1619年よりこれらはフェルディナント2世の新しい表章となりフランツ2世はオーストリア皇帝としてこれを使用。皇帝の戴冠式にはどうやら正式な装束と備品(帝冠、宝珠、王笏)が必要不可欠だったらしい「ハプスブルグ家」関連Back numberリンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2014年11月26日
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Back numberは最後にまとめました。前3作は半跏思惟像でまとめたので番外にしようかと思ったのですが、蘇我氏の渡来人説も中途。秦氏の功績や神社も紹介したくて4作でも終わらなくなりました (;^_^A今回は秦氏の嵐山の功績を紹介して次回番外で秦氏が祀った不思議な神社の紹介をする事にしました。倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)秦氏の功績嵐山渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)蘇我氏と渡来人秦氏の功績魏志倭人伝によれば、日本には牛や馬どころか鶏もいなかったらしい。※ 其地無牛馬虎豹羊鵲 (牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない)※ 鵲(セキ)はニワトリをさしていたのでは? 渡来時期が弥生頃とされているし・・。それらは全て渡来人より大陸からもたらされたのである。秦氏は渡来して大陸の進んだ文化をたくさんもたらしてくれた。米をたくさん収穫する為に治水や潅漑技術をもたらした。そして米により酒も造られた。墳墓を造る為に山から巨大な岩を切り出して運ぶ技術もあったと思われるし、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいては、造船の責任者として秦氏の者(朴市秦造田来津)が共に半島に渡っている。大型の船を造る技術も持っていた? と推測できる。また秦氏は蚕(かいこ)を養蚕して絹織物を造る技術も伝えている。(かつて上質の絹織は中国宮廷の秘技)調べて見ると秦氏の功績はまだいろんな所に見られる。特に金銭的には白村江の後の百済皇族の亡命者を支援したのも秦氏のようだし、長岡京、平安京、共に造営には秦氏の資金が提供されていたようだ。※ 平安京の大内裏にいたっては、秦河勝(はたのかわかつ)の邸宅が利用されたと伝えられている。内裏の庭(紫宸殿正面)にある「右近の橘(たちばな)」はもともと秦氏の邸宅の庭にあったもの。常緑の橘は長寿瑞祥の樹なのだそうだ。それなのに歴史の表に出てくる人物は極めて少ない。まして階位もそんなに高くは無い。それはなぜだろう。階位が上がれば人から妬まれる。だからそんな物もいらなかったのかもしれない。望めばいくらでも高位に上がれたはずなのに・・。出過すぎず、決して目立つ事はなく、静かに朝廷に寄り添い、必要とされれば、己の役目を果たしてきた。そんな気がする。(そんな一族の掟でもあったのか?)かつて祖先が秦(しん)の国を追われた。渡来した秦氏一族は争いを好まない人達だったのかもしれない。朝鮮半島は地続きだ。いつ隣国が手の平返して襲撃してくるかしれない。静かに、安らかに暮らしたくて海の向こう、日本への集団移住をヤマト王権に申し入れたのかもしれない。岩田山モンキーパーク山頂からの京都盆地中心赤い矢印。遠くの山系は比叡山。その下黄色の矢印が双ケ丘(ならびがおか)でその手前が太秦(うずまさ)。その右下、双ケ丘(ならびがおか)より奧であるが、ピンクが京都御所のあたり。その奧の右、赤い矢印は大文字山。左手前、この山の足下が渡月橋。この写真では見切れているが、右手には京都タワーも見える。まさに京都盆地が一望できる山。岩田山モンキーパークはなぜか外国人に人気。客の8割は外国人であった。それにしても岩田山の麓から桂川(かつらがわ)は開けた盆地に向かって流れている。大雨が降れば洪水になり、弥生時代、このあたり一帯は水浸しとなった事だろう。桂川の向こう、嵯峨野がありその向こうが太秦(うずまさ)。前回紹介した広隆寺は双ケ丘(ならびがおか)の右手前の森。次回紹介する蚕の社(かいこのやしろ)は広隆寺のさらに後方の小さな森。5世紀以降は、ここから見える景色のほとんどが森か水田になったのであろう。平安京時代の京都盆地学研の鳥瞰イラストの本、「風水から見た平安京の図」に少し手を加えてしまいました。平安京の位置を中心に黒い円内くらいを当時の京都の範囲と見ました。オリジナルはかなり広域になっていたので・・。山陰道(白虎)のイラストのあるところがちょうど太秦(うずまさ)で、薄いピンクで円をしたあたりが秦氏が治水して水田を造っていたと想像できる範囲です。秦氏は京都盆地に根付き、左の桂川の治水工事をすると共に潅漑用水路を造り、京都盆地左に大規模な水田開発をしていたと推測。渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)嵐山の渡月橋(とげつきょう)は、嵐山を代表する景色の一つであるが、夏に大雨で時々増水しているニュースを見かける。実は桂川(かつらがわ)は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)ができる前はもっと酷い洪水を起こしては嵐山から下流域をメチャクチャにしていたらしい。下流からの渡月橋と嵐山渡月橋(とげつきょう)古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた川は「桂川」、「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川(おおいがわ)」、橋から再び「桂川」と何度も名前を変える。※ 大堰川(おおいがわ)の名は、大きな堰(せき)から来ているのは明白だ。因みにこの桂川は伏見区で鴨川と合流。大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾に繋がる河川だ。上流側からの渡月橋改めて見るとここからも比叡山が見えるし、太秦(うずまさ)もこの先に見えているところで、下流に向かって左岸が右京区嵯峨。手前の右岸が西京区で嵐山。つまり渡月橋の向こうが西京区の嵯峨であり、JR嵯峨野線や嵐電の駅がある。一方、右岸の西京区の方には阪急嵐山の駅がある。いずれも駅名は「嵐山」である。それ故、観光案内では渡月橋をひっくるめてこのあたり一帯を嵐山としたり、嵯峨嵐山としているようです。渡月橋からの上流、大堰川(おおいがわ)と小倉山(おぐらやま)写真、中心、椀をひっくり返したような小さな小山が百人一首の歌枕でお馴染み小倉山(おぐらやま)である。因みに山の手前、川の右(左岸)に小倉百人一首文化財団の時雨殿(しぐれでん)がある。橋から上流はちょうど西に当たるので逆光になってしまった。※ 今回の嵐山の写真は複数日に撮影したものです。季節も様々中には大雨の日もありました。一ノ井堰(いちのいぜき)と小倉山今は洛西用水(らくさいようすい)「一ノ井堰(いちのいぜき)」となっているが、ここがかつての葛野大堰(かどのおおい)である。※ 当時の堰(せき)は今は無いが、川底に当時の一部が残っているらしい。現在の堰(せき)はサイドに魚道がもうけられている。手前の白い器具はタービンのよう。ちょっとした発電をしているようだ。さらに手前の水路は洛西左岸幹線用水路らしい。弥生時代より川の周辺では稲作が行われていた。川が定期的に氾濫しているのだから土地が肥沃なのは確かだ。しかし年中氾濫していたのではたまらない。5世紀中頃、秦氏が葛野地方に住み着くと葛野川(かどのがわ)に堰(せき)を造ったそうだ。それが葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)である。また秦氏がおこなったのは堰(せき)造りだけではない。当時の堰(せき)はダムのようなもの。同時に堰(せき)から放水路が造られ、遠方の田畑に水をひく用水路となる潅漑(かんがい)工事もしている。1419年(応永26年)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋下流の右岸に「一ノ井」と云う名称で用水取入口が記されているそうだ。今とほぼ同一の場所に堰(せき)があり、室町時代には松尾、桂、革島等の農業灌漑用水として利用されていたのが解っているそうだ。京都市の看板より 多少色を付けました。もともと洪水対策用であり、さらにその水を川から遠い農地の潅漑に利用しようと言う一隻二丁の策である。堰(せき)はダムであり取水口になった。これにより嵐山界隈は大いに実りある稲作の土地に変わった。何より1500年以上も前にそんな大規模治水工事が行われていたと言う事が驚きである。今も農業用水として稲作や京野菜の為に利用されている洛西の幹線用水路の図。秦氏がもし葛野大堰(かどのおおい)を造らなければ、平安京への遷都もなかったかもしれない。少し前に琵琶湖疏水の事を特集したが、技術的な意味も含めて、桂川に堰(せき)が造られるのは、秀吉以降の時代までなかったかもしれない。それだけ秦氏が当時用いた葛野大堰(かどのおおい)構築の技術はすごかったらしいのだ。現在の一ノ井堰(いちのいせき)からの導水路右が嵐山公園。その向こうが桂川この導水路は再び桂川につながるのだが、途中から洛西右岸東幹線用水路と洛西右岸西幹線用水路に取水され、それは南下して桂川以西の西京区の方に流れている。保津川渓谷を下った船も堰(せき)があるのでここまでしか来れない。先ほども川の名称の所でふれたが、亀岡から嵯峨嵐山までを保津川(ほづがわ)と呼ぶ。ここが有名な保津川下りの終点なのである。JR嵯峨嵐山線や嵯峨野トロッコ列車で亀岡駅まで向かい、そこから船着き場に移動して川下りのスリルを楽しむと言うのが保津川の川下りである。嵯峨嵐山の楽しみの一つとなっている。(16km 2時間弱)因みに嵐山に下った後の舟は乗船場の亀岡市保津までトラックで運ばれて戻るらしい。蘇我氏と渡来人法隆寺にある聖徳太子をモデルとした長身の救世観世音菩薩像から発した疑問。もしや聖徳太子には渡来人のDNAが混じっていたのではないか?あるいは蘇我氏自体が渡来人だった可能性は?※ 実際蘇我氏の渡来人説と言うのは存在する。(多くの学者が否定しているが・・)蘇我氏が歴史の表に出てくるのは蘇我稲目(そがいなめ)(506年頃~570年)からだが、出身は大和の葛城(かつらぎ)とされている。そこは飛鳥地方の西の外れであるが交通の要所でもある。葛城川は大和川にそそぎ、それは大阪湾に繋がっている。そこは前回紹介した奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)にほど近い。ひょっとすると纒向(まきむく)の都市国家時代(3世紀?)にはすでに豪族だったのかもしれない。一族の者を朝廷の后に組み込み、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我 入鹿(そがのいるか)の時代(6~7世紀)に蘇我氏は全盛を迎える。だが蘇我氏が台頭したのは渡来人を配下においていち早く大陸の技術を導入し、地方支配に成功したからのようだ。明日香村南西部、古代、檜隈(ひのくま)と呼ばれた土地は朝鮮半島からの渡来者が多く集まって居住していた地だそうだ。※ 彼ら渡来系集団は後に東漢(やまとのあや)氏と呼ばれる。檜隈(ひのくま)もまた葛城(かつらぎ)に近い。蘇我氏は彼らから文字を習い、鉄器や須恵器(すえき)など大陸のあらゆる技術や文化を学んで取り入れ、生産して中央に近づいて行ったと思われる。もしかしたら彼らの技術を学びそれらを国内生産して普及させると言う使命のもと、渡来系氏族の担当になっていた可能性もある。※ 須恵器・・古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器。蘇我氏と渡来系氏族の関係は支配と従属関係か? あるいは相互関係にあったのか?自分たちより文化の高い彼らを支配下に置くのは疑問である。蘇我氏と彼らの関係はほどよい友好関係と見るのが妥当だろう。当然蘇我氏と彼らの間に姻戚関係ができても不思議ではなかったと思われる。つまり、蘇我氏自体が渡来系でなかったとしても、蘇我氏の血脈に渡来系の遺伝子が取り入れられた可能性は限りなく大きいと思うのだ。※ 可能性として考えられるのは欽明天皇の妃となった聖徳太子の祖母、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)や蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)がそれぞれ渡来人の母をもっていたかもしれない事だ。双方の祖父母からのダブル遺伝子で長身になったのかな?なんて・・考えてみた ☆⌒(*^-°)v次回「倭人と渡来人」番外編で秦氏の祀った「蚕の社」を紹介。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎少し間が開いて醸造祖神松尾大社を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
2017年08月15日
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Back numberの追加をしました。予告に変更がでました。「新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)」はまたまた延期。その前に入れたかった案件です。実はイントロで書き出した謎から違う方に興味が湧きどんどん横道にそれてこの冒頭部たけで10回くらい書き直してます。コロンブスの事、アメリゴ・ベスプッチの事、メディチ家銀行の事。メディチ家の経営や人々の事など膨らみ、何転も主軸の話しが変わりました。全体には「新世界アメリカ大陸の発見」に関する話しですが、当時の取り巻く環境としてメディチ銀行の話しも詳しく入れました。結果論で見ると「アメリゴ・ベスプッチを探求した章」になりすぎた感じです。尚、アメリゴ・ベスプッチ、長いので途中からアメリゴ呼びしています(;^_^A「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外の扱いに入れられるのかな? 新大陸を発見したのはクリストファー・コロンブス。なのに新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名から命名された。なぜ? と思った人は多いだろう。実際、「コロンブスの名誉を横取りした人」と非難されてもきたアメリゴ・ベスプッチ。最初に到着したコロンブスか? そこが新しい大陸と証明したアメリゴか? 今でも賛否両論あるらしい。そこでアメリゴの経歴共に調べて見たら、コロンブスの最初の航海から係わっていたらしい事も解ったし、表には出ていないが、アメリゴの功績は極めて大きかった事も解った。今ではアメリカで良かったのではないか? と言うアメリゴ擁護派に・・。今回はそんなアメリゴが新大陸と特定するにいたった経緯と同時に、コロンブスを支援した資金源にメディチ銀行がかかわっていたのではないか? と言う疑問から始まったのです。また、南米の国々の公用語にも不思議を感じた人は少なからずいるはず。ほぼスペイン語が公用語。それはアメリカ大陸における最初の取り分が影響している。追加で加えました。コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)アメリカ大陸のネーミングアメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)メディチ家とメディチ銀行プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)メディチ銀行(Medici Bank)メディチ家の事業形態複式簿記を用いていたメディチ家ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)ジャンネット・ベラルディとコロンブスアメリゴ公証人から航海士? への転換?ポルトガルによる南米大陸到達ポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴアメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」これはあくまで私の推測ですコロンブス(Columbus)の野望記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)中南米巣の公用語アメリカ大陸のネーミング冒頭触れたように、アメリカの名はアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)に由来している。但し、ヨーロッパとアジアがそうであったようにアメリゴ(Amerigo)をラテン語読みして女性形にした名前である。※ 南ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller)(1470年頃~1520年)が1507年、自書の添付地図にアメリカとして大陸名を記したのが初らしい。実はアメリゴ・ヴェスプッチは、新大陸を最初に新世界(New world)と提唱した人なのである。確かに結果論で見るとアメリカ大陸に最初に辿り着いたのはクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)ではあったが、彼は南米大陸の発見者である。※ コロンブスが辿り着いたのは南北大陸の狭間にあるカリブ海の島。※ アメリゴは南緯50度まで南下し、ブラジルの発見者となると同時に、そこが新しい大陸(南米大陸)と特定している。世間の評価はそこにある。コロンブスがたどり着き、すでに植民地となっていたカリブ海のイスパニョラ島他から金や奴隷が欧州に運ばれていたが、そこはアジアのどこか? と思われていた。何より、コロンブスは絶対的にジパングと信じて亡くなっていたし・・。もしそこがジパングであるなら、大きな海峡(日本海の事?)があり、その向こうにアジア大陸があり、香辛料豊富なインド諸島が無ければならない。コロンブスが新地の提督になっても統治に専念する事を放棄し、まだ調査航海に出たのは、それらを見付ける為であり、自分の理論を証明する事でもあったからだ。皆も薄々違うのではないか? と言う疑問もあったかもしれない。でも皆は自分が富めればそこがどこでも良かったのだろう。後にアメリゴ・ベスプッチはカリブ海沿岸に広がる土地を大きな島ではなく、欧州人が知る三つの大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)以外の全く別の新たな大陸だったと報告。それを新世界(New world)と伝えている。むろんそれにはきちんとした理由があった。それは彼の書簡を持ってまとめられ、世間に公表されたのである。内容自体が非常にセンセーショナルな報告であり、逆に、彼の航海が本当なのか? 書簡が本物なのか?論議は中世来続いている。 彼の名が新大陸に付けられた事自体にもかなり批判は出ていたようだ。が、当時の有識者は彼の名をつける事を否定する理由は無いとした。彼の証明は確かなものであり、事実であったからだ。そもそも彼は本来、探検家でも地理学者でもなかったし、まして船乗りでも無かった。彼の本業は実はメディチ家傘下のビジネスマン。それもかなり有能な・・。アメリゴベスプッチはフィレンツェのロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に仕えてセビリアに来た。そこでコロンブスの探検に係わる事になったのだ。コロンブスがアジアと信じていた大陸は、実は全く別の未知の大陸だったと証明するに至る理由はそこから派生している。彼が南米の探検航海に出たのはスペイン王やポルトガル王からの依頼に始まっている。43歳で初航海。文系の彼がそこに至るには結構なドラマがあったのです。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 クリスピン・ファン・デ・パッセ(Crispijn van de Passe)(1564年~1637年) オランダ出身、彫刻家であり印刷出版者。製作 1590年~1637年書かれているのは、フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチはブラジルの土地の発見者であり征服者であると言う内容らしい。オランダが海洋国として台頭してくる中でブラジルの土地の発見者として紹介されている所に意味がある。アメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家※ アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)ヴェスプッチ家はもともとフィレンツェでメディチ家に仕える家系。彼の家は両替商で、父は公証人をしていた。兄2人はピサの大学に進み、彼自身はドミニコ会修道士である叔父のジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受ける。※ ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)実はこの叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。勉学は文学、哲学、修辞学、ラテン語と幅広く、また、地理と天文学もそこで学んだらしい。とにかく学者としては申し分無い博識の人物で、彼に学んだ事が彼の好奇心をもふるいたたせたのかもしれない。そして、この時に天体の観測から器具を使い地図を書く原理も学んでいたのではないか? と思われる。先に言うと、この学舎の友2人が新世界に関する書簡の受取人である。アメリゴはセビリアでコロンブスの事を知ると、帰りにピサに立ち寄り金130ドゥカートもする航海地図を購入している。いつか自分も航海に出てみたい・・と言う夢をこの時持ったかもしれない。ところで、アメリゴはこの学舎で後に仕えるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出会うのである。※ ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)後にヴェップッチ家遠縁のセミラデ・アッピアーノがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに嫁いだので親戚同様の関係となった。※ セミラデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)美女だったらしいロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)制作 1479年 テンペラタイトルが若い男の肖像になっている。これで推定年齢は16歳。言い方を変えると、この学舎でアメリゴ・ヴェスプッチはその能力を買われてロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチにリクルート(recruit)されたのである。このメディチ家の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチと後にセビリアで知り合う商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)。またジャンネットがらみで知り合う航海士クリストファー・コロンブス Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)との出会いにより彼のその後の人生を大幅に、確実に変えたのである。セビリアに置かれているアメリゴの像車内からの撮影なのでアップがありません。彼らの関係に入る前に先に紹介したいのが、メディチ家との関わりである。実はこの時代、フィレンツェで銀行を起こしたメディチ家は欧州中の富を得たような成功ぶり。彼らは政治の世界にも進出して行く。時代はちょうどルネッサンス期、メディチ家は芸術家のパトロンとして惜しみなくお金を使った事でイタリア・ルネッサンスは花開いたのである。メディチ家とメディチ銀行アメリゴより12歳年下の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ銀行を創設したジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチのひ孫である。※ ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)また本来は分家筋になるのだが、父の早世により彼は現メディチ本家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の養子でもあった。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年) つまり彼はメディチ家本家の当主(メディチ家銀行の頭首)の元で育てられたのである。※ メディチ家は30~40代で若死にしている者が多く、その子はたいてい親族の養子となっている。ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)製作年 1533 年~1534年の間。テンペラタイトル ヴァザーリによる偉大なるロレンッオ・デ・メディチ(Lorenzo el Magnífico, por Giorgio Vasari)。ヴァザーリ作品なのでつい載せたが、ロレンッオの生没年は1449年~1492年。画家の生まれる前に亡くなっているのでこれは肖像画を参考にしてのリスペクト作品なのだろう。偉大な人(イル・マニフィコ・il Magnifico)と形容されるロレンツォ・デ・メディチは20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた。優れた政治、外交手腕を持った人物で特に芸術家を庇護。美術書によく名前が出る人物だ。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の祖父がフィレンツェにおけるメディチ支配を確立したコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)である。芸術家のパトロンとして? メディチ家は後世に貢献した。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚記念に画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年) にプリマベーラとヴィーナスの誕生を発注している。プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦203 cm×幅314 cmプリマベーラが結婚祝いに依頼された作品であるのは確かだが、養父が頼んだのか? 本人が発注したのかは不明。フローラが妻となるセミラミデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)で、マーキュリーがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコである。※ 先に触れたが、セラミデはアメリゴの母方の従姉妹にあたる。ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1485年 テンペラ縦172.5 cm×幅278.5cm初期ルネッサンスを代表する絵画フィレンツェ ウフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ本人が カステッロ邸(Villa di Castello)に飾る為にプリマヴェーラ(La Primavera)の後に依頼したものとされる。ヴィーナスが妻セミラミデ・アッピアーノ・アラゴナである。プリマベーラとヴィーナスの誕生は幼少期(8歳頃)、父の美術書を見て初めて興味をもった絵。だから初イタリアではフィレレンツェまで行ってウフィッツィで見て来た。素敵な絵。結婚祝いとは知らなかった。この結婚祝いに養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)が贈ったのもボッティチェリである。パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦207 cm ×幅148 cmこれも寓意画で、タイトルの意味はパラス・アテナイ(アテナイ神)、ケンタウロスを飼いならす」である。アテナイは妻セラミデであり、ケンタウロスは夫ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ。養父はセラミデに夫を「飼いならすように努めよ」と示唆した作品らしい。さらにロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコには女性に対して「理性の女神への野蛮な本能の降伏」をせよ? との意味が込められているらしい。サンドロ・ボッティチェッリのパトロンとして後世に素晴らしい作品を残した二人であるが、養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)との関係は後に崩れてしまう。金欠になった養父ロレンツォ・デ・メディチが息子の遺産を使い込んだ・・と言うのが発端らしい。半分は返しているらしいが・・。後に二人は喧嘩別れするが、趣味は同じだったのかもしれない。因みに、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはダンテの神曲の装飾写本もサンドロ・ボッティチェッリに委託している。地獄絵図を以前紹介しています。また、私のお気に入りボッティチェッリ作品はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で紹介した美しい聖母子です。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)フィレンツェにメディチあり。ルネサンスの中心がフィレンツェであったのは必然だったと言える。が、メディチ家の内情はすでに財政破綻が始まっていた。メディチ銀行(Medici Bank)薬屋から発したメディチ家はジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)の時(1397年)にその資本で銀行業に参入。メディチ銀行は瞬く間に成功して富を増し、同時に銀行を欧州中に展開。その発展に比例して政治的権威も拡大して行く。彼らの出身地であるフィレンツェを中心にメディチ家の「我が世の春」が至来したのはそうした銀行ビジネスの発展と成功があったからだ。この頃のメディチ家の人間は、分家筋にしても何らかの政治的地位に就き、メディチ家銀行or個人銀行に付随して商取引を行っていたと思われる。だが、銀行業はそもそも長くは続かないものらしい。メディチ銀行は世界最大バンクとして君臨もしたし他銀行よりは長く存続しているが、その業績はロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の頃から? 陰りをみせる。特に言われるのはお金の使いすぎである。ルネッサンス芸術が花開き始めたフィレンツェで彼らは多くの芸術家のパトロンとなった。(それ故後世に残る素晴らしい芸術作品が生まれているが・・。)当主が政治にのめり込みすぎビジネスをしなかったとか、政治的判断を誤り市民に嫌われたとか、理由はいろいろあげられているが、本当の所は、肝心の銀行業務における現地ビジネスパートナーの選定の失敗が多分を占めていたと思われる。つまり本家ではなく、いわゆる現地法人の支店銀行の経営が破綻しその負債を被った事による。メディチ銀行の負債は増大し、最終的にロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の息子の代に破綻(1499年)する。※ この破綻は財政難のみでなく、1494 年から始まるフランス王シャルル8世のイタリア侵攻も大きく影響している。アメリゴがメディチ家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の元で働いていたのはまさにメディチ銀行破綻の時代にかかっているのである。そしてまた、この学友にして雇い主であったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチこそが、アメリゴの新世界発見を報告した書簡の主の1人なのである。コロンブスとアメリゴ・ベスプッチの所でなぜメディチ銀行の説明をするのか? と言えば、アメリゴ・ベスプッチのバックボーン(backbone)を理解してほしいからだ。彼の人生は必然的に、成るように成って行った結果のような気がするからだ。メディチ家の事業形態メディチ銀行の仕組みは直接支店を造る事ではない。まず、現地で業務を委託できる人物を専任して共同出資のカンパニーを立ち上げパートナーシップを結ぶのである。契約や条項は細かくあるものの、実質現地の代表者に丸投げ的に近い委任した形をとっている。要するに経営判断はほぼ現地にまかせた形である。その上でメディチ銀行と、現地の代表者との取り分があらかじめ決められている。つまり、「メディチ家は現地代表を信頼してまかせている」と言うスタンスである為、委託先は初期段階で慎重に調査が行われ、かつ有能そうな人間が選ばれるはずなのだ。アメリゴはメディチ銀行のエージェントとして、セビリアで同郷の商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)を見い出しロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに推薦した。ベラルディは合格。契約は成立し、ジャンネット・ベラルディは共同出資してカンパニーを造るとセビリアでのメディチの事業を全て請け負う代理店となった。※ 推薦した段階でアメリゴはフィレンツェに戻っている。代理店がベラルディに決まると、今度はメディチ銀行からの監査役として1491年に再びセビリアへ赴きベラルディ商会に入っている。それ故、有能な人間であれば現地事業は成功し、もうけも増えるわけだが、銀行業務も付随しているのでで資金回収できなくなるケースがどんどん増えてくるのである。例えばイギリス薔薇戦争の時は、馬鹿なロンドン支店長が敵対する両者に資金を貸している。チューダー家が負ければ良かったが、もともと銀行に負債を負っていて返済の滞っていたヨーク家が負けた。ヨークのエドワード4世はメディチ家に借金が返せなくなり踏み倒したので、結局全てメディチ家の負債となった。ロンドン支店は、すでにパートナーシップの契約にも違反し、負債の全額回収は無理であった。本部から有能な監査役が来て一度整理しロンドンからは撤退。ブルージュ支店が業務を引き継いだ。ところが、そのブルージュ支店でも代表は返済不能な過度な融資を宮廷てにしていて、さらに詐欺まがいの事をやらかしてメディチ家に莫大な負債を与えていた事が判明。メディチ家は信頼できるエージェントを派遣して徹底的監査をしている。結果、違反だらけでパートナーシップを解消。ロンドンに続きブルージュ支店も消えた。利益の落ちてきたベネチア支店の閉鎖も考えたらしい。この頃のメディチ銀行は縮小しても構わないから負債を整理して立て直す事に舵をとったのだろう。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)は負債者に負債返済の為のローンを組むよう進めて非難をあびたらしい・・。王侯貴族は踏み倒しが多い事も解ってきた。だから世俗の支配者には貸すな・・とまで言ったらしい。※ 王侯の場合には商品の輸出入や税の事に制限を付けて脅しもしてくる。つまりメディチ銀行の最盛期には支店網を広げ、欧州中の商人のみならず王侯貴族にまで融資し、名声と共に一時は莫大な富も集中させていた。が? にもかかわらず? 結果論から見れば返金されず巨額の負債をかぶってメディチ銀行は倒産においやられたのである。※ 創業期間は1397年~1499年。これでも同一の銀行としては長く続いた方らしい。当然ながら、銀行の縮小でさえメディチ銀行で働らいていた者、融資を受けていた会社、閉鎖された銀行関係各所が路頭に迷う問題に発展する。銀行の倒産、撤退におけるフィレンツェ市民の怒りは大きかったようだ。だからメディチ家の信用はがた落ちしたのである。複式簿記を用いていたメディチ家もっともメディチ銀行がほめられる所は別にある。先に紹介したよう一つ企業の下に各支店があるのではなく、各拠点はそれぞれ現地代理人とパートナーシップに基づいて造られたいわゆる合弁会社のような形を取っているのでリスクは組織全体ではなく、各拠点毎に精算される。また、複式簿記を用いた財務システムがすでに利用されていたと言う点だ。すでに借方(かりかた)と貸方(かしかた)が明確な貸借対照表(balance sheet)が存在したと言う事は、資産(プラスの財産)と負債(マイナスの財産)のバランスが明確にされていたと言う事だ。だから有能な監査が入れば不正はすぐにバレたのだろうが、ロンドンやブルージュは信用しすぎていた分監査が遅かった事が問題だ。当然だが、メディチ家は人材のリクルートには力を入れていたはずだ。アメリゴのように現地でビジネスを任せられるような人材を捜してくる任務。エキスパートの監査役。メディチ家が直接動かなくても信用して任せられる有能者。彼らはそんな優秀な人材を学友などから捜していたのだろう。ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)先にも紹介したようアメリゴは叔父の学舎で知り合ったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に、その能力を買われたのだろう。メディチ家の海外事業のビジネスサポートをする事になる。学友の元でまかされた仕事はセビリアのメディチ銀行の不正に伴い新たなパートナーを捜す事にあった。アメリゴはセビリアで同郷のジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)と知り合い意気投合。ベラルディはすでに雑貨や奴隷貿易の商売をしていたがアメリゴの紹介からセビリアでのメディチ家の事業(貿易や金融)を管理する事になった。商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)1491年、アメリゴは契約が交わされるとセビリアに住居している。メディチ家側の人間としてベラルディの商売に不正がないか監査役である。この時点でのアメリゴの雇い主はメディチ銀行になったのだろうと思われる。※ メディチ銀行が繁盛している間はセビリアに居る事になるだろうと思っていただろうが、メディチ銀行は思っているよりも早く撤退する事になる。(1494年に破綻)おそらくメディチ銀行が破綻した時、ベラルディがメディチ家の仕事を止めた後もアメリゴはセビリアに残ったと思われる。それはベラルディの為? あるいはコロンブスの航海支援の為?※ ベラルディはコロンブスの支援を始めた頃にカナリア諸島と大西洋を越えてインドに至るカスティーリャの拡大を促進する為のサークルの中心人物になっていたと思われる。それをアメリゴが引き継いだかは定かでない。また先にも触れたが、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出した書簡により、メディチ家とのつながりは依然としてあった。と思われる。最も書簡の主も1503年には亡くなっている。ジャンネット・ベラルディとコロンブス実はこのジャンネット・ベラルディ自身もコロンブス遠征の出資者の1人だった。しかもコロンブスを支援する団体の中心人物で、スペイン王との関係を取り持ち、1492年の初遠征の資金も提供しているし、コロンブス個人に相当のお金も貸し付けしていた。Portrait of a Man, Said to be Christopher Columbusクリストファー・コロンブスと言われる男の肖像 ウィキメディアから仮ました航海士クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)画家 Sebastiano del Piombo (1485年~1547年)製作1519年コロンブス第1回航海(First time)。1492年~1493年 3隻で出航。※ コロンブスについては、すでに以下でも紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人上のリンクでは、ジェノバの商人がポルトガルとスペイン両国に資金提供をしたと書いたが、ジャンネット・ベラルディ自身はフィレンツェ出身者だった。また、Wikipediaには「セビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディ」と書かれているが、彼の本業は商人で、メディチ家の銀行とパートナーシップを結んでセビリアでの代理店を務めていたにすぎない。これら関係からコロンブスの遠征費用に、メディチ銀行からの融資が少なからずあったのでは? と推察できる。また、ベラルデイは個人でコロンブスにお金を貸していて、彼の死の時にも未返済で残っていた。コロンブスは第一回航海でアジアを発見? 金の発見を手土産に戻ったので、1493年の2回目の航海の時は武装船を含めて大艦隊で出航。前回は3隻だったので大出費がのしかかる。そもそもスペイン王室に資金は無かったので廻りの商人がお金を出さなければならない。つまり、コロンブスが何か依頼すれば、王室経由でベラルディらの所に出金要請が来る。ベラルディはその度に金策に動いたと思われる。回収できるか? それは不確実な賭けだったのにベラルディは支援を続けた。新世界より戻ったクリストファー・コロンブス Christophe Colomb au retour du Nouveau Monde画家 ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)(1798年~1863年)製作 1839年最初の航海から帰還したコロンブスがイザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica)(1451年~1504年)とフェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)に帰国の報告にきている図。この後、ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)の所にも挨拶にきているらしい。ジャンネットには個人的にもお金を借りているからね。むしろもっと貸してくれ・・と言ってたりして。そんなお金が必要な時にベラルディはメディチ家の仕事を辞めている。なぜか?メディチ銀行側から調べると、ベラルディが辞めたのではなく、メディチ家の没落に起因してパートナーシップが解除されたのだと思われる。時期的にメディチ銀行が採算の合わない支部の閉鎖をしていた事。またメディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。コロンブス第2回の航海は1493年~1496年。17隻で出航。1494 年、コロンブス兄弟はベラルディに大量の奴隷を送っている。メディチ銀行の破綻で経済的打撃を受けていたベラルディが少しでも経済的利益が得られれば・・と言う配慮だったか?しかしこれは合法性に疑念を抱いた国王が売買をやめさせている。※ その時は取引を中止したが、スペイン政府は1505年にはイスパニョラ島に黒人奴隷を大量投入しているけどね1495年、追加で12隻のキャラベル船をイスパニョラ島のコロンブスへ派遣するよう王室から依頼が来たが資金不足でベラルデイは船4隻しか準備できなかった。しかも出航前の1495年、12月にジャンネット・ベラルディは急死した。死因は書かれていないが、彼もまたメディチ家の破綻で自分の会社も整理しなければならないなど金策と心労だったのではないか? と推察する。不運は続き、翌年1496年1月、ベラルディ商会が調達した4隻の船すべてがカディス沖で難破。回収どころかより負債を抱えて破産である。遺言でアメリゴがその債務整理をしている。その後のベラルディ商会については書かれていない。ベラルディはとりまとめ役として奔走? コロンブスの冒険に共に夢を見ていたのかもしれないが最後はコロンブスの為にお金を集めるのさえ、至難だったと言う事だ。それ故、アメリゴは少なくとも多忙なベラルディの代わりにコロンブスの2度目の航海には係わっていただろう。そもそも彼はセビリアに来た後にピサで海図を購入している。非常に興味があったのだろうと推察できる。また、彼は同郷の学友等にコロンブスの冒険を話していただろうし、彼自身がコロンブスの冒険を非常に期待を持って応援していたのではないか? と思う。やはりコロンブスの計画にはロマンがあったと思うからだ。ただ、ベラルディ商会が破産した後、アメリゴがコロンブスの航海にかかわっていたかは不明だ。コロンブスの第3回の航海1498年~1500年。6隻の船で出航。コロンブス自身が逮捕され本国へ送還。コロンブスの第4回の航海1502年~1504年。小型のボロ舟4隻。イスパニョラ島への寄港禁止。4回目の航海ではイスパニョラ島への寄港禁止だったはずだが・・。コロンブス兄弟のイスパニョラ島の状況を知れば、コロンブス自身による返済も不可能に思えた。何よりコロンブスには商才も無かったし、人をまとめて統治するなどと言う能力も皆無だ。結局、コロンブスがベラルディのお金を返済したかも不明。1504年末にイサベル女王が亡くなるとスペイン政府はよりコロンブスに冷淡に。名誉だけは残されたが・・。ただスペイン政府はコロンブスの功績を高く評価せざる終えなかった事は事実。それだけ新大陸からの上がりは大きかった。最も、後世振り返ればベラルディら商人のコロンブスへの投資は別の形で還元されている?新大陸で略奪して得た一時的な金銀宝石よりも、実は新大陸からもたらされた農産物(トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、タバコ)の方がはるかに欧州人に恩恵をもたらしている。何にしても現場が一番キツイ。身銭をいっさい切らなかったスペイン王室が一番楽して得をしたと言う事だ。アメリゴ公証人から航海士? への転換?アメリゴは必然的に? ベラルディ絡みで当初からコロンブスの航海に関与したのだろう。いや、その後の行動を見ればアメリゴは積極的にベラルディの意思を引き継いだのではなかろうか?セビリアに留まりベラルディの死後、アメリゴは新世界への 2 つの航海に参加している。1497年~1498年第1回航海(First time)? カリブ海沿岸を探検。※ この航海に関しては本当に行っているか物議があるらしいが、アメリゴ自身がいつか渡航してみたいと願っていたのは確かだろう。その最初がどこか? が解らないが・・。1499年~1500年第2回航海(second time) カリブ海を南下。ブラジル北岸まで探検。この航海はスペイン王の依頼によるものとされ、5つの探検隊が南米を航海しベネズエラ沿岸とブラジル沿岸を探索している。(これは現在の南米大陸北岸への探検である。)この時点で、ここはアジアでもインドでもまして日本の近くではない。と疑問に思ったスペイン政府による調査だったのでは? と思われる。アメリゴもこの調査隊に参加はしていたが、彼の役割がはっきりしていない。投資家の代表として商人として乗っていた可能性。あるいは実は測量機器を扱えるアメリゴはこの航海で緯度など多少の測量をしていたのではないか? と思われる。これは、コロンブスの3回目の航海(1498年~1500年)期間で、コロンブスが報告したベネズエラの真珠の産地調査も含まれていたが、スペイン政府は、植民地と本国の貿易を統括する後のセビリア通商院の設置(1503年)に向けた現地調査であったのではないか? と思われる。ポルトガルによる南米大陸到達この頃、東廻りで本物のインドに到達していたポルトガルの遠征隊が南緯16度52分の地点で偶然にも(現在の)ブラジルを発見(1500年)してしまう。ポルトガル貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares de Gouveia)(1467年or1468年~1520年)である。ポルトガル王マヌエル1世は、そこが未発見の土地なのか? また島なのか? 大陸なのか? ブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴを呼び寄せた。ただの探検ではない、ポルトガルでは天体観測から導き出した測量による正確な位置の特定(地図の製作)が求められていた。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)かくしてアメリゴ・ベスプッチは1501年~1502年第3回航海(Third time)、今度はポルトガル王の依頼で南米大陸東岸に沿って南下(南緯50度まで到達)し測量?※ 彼は南米初の天体観測? を行ったヨーロッパ人と言う事になっているらしい。天体観測するアメリゴ・ベスプッチ ウィキメディアから仮ました1499 年の航海中にアストロラーベ(astrolabe)で南十字星(Crux)を発見。南天でも天の南極近くにある星座のため、大航海時代以来おもに南十字座が天の南極の方角を知るために使われた。確かに北半球と南半球では見える星座も違うからね。計測するにしても常識が覆るから慌てたでしょうね。因みに、アメリゴはこの航海で立ち寄った大西洋上のベルデ岬諸島? カーボベルデ (Cabo Verde)で問題の書簡をしたためたとされている。その書簡こそが新世界を世に知らしめた2つの書簡の一通である。South Atlantic(南大西洋)Homem and Reinel`s portolano of Brazil 1518年~1519年ポルトガルがたどり着いた南大西洋にあった大陸。南米ブラジルの絵図です。海図の本「Eary Sea Charts」からポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴポルトガル王の元でアメリゴは翌年2回の探検調査にも行っている。1503年~1504年第4回航海(4th time) 南米北東部沿岸を探検。※ この遠征に関しても物議があるらしい。この時点で、アメリゴはすでに地理学者? のごとき扱いとなっているが、経歴を見ても彼がどこでどうして計測を習得したかは書かれていない。ただ考えられるのは叔父の学舎時代? である。もともと天文学が好きだったと言うアメリゴはすでに計測はできたのかもしれない。あるいはポルトガル船で南米に向かったこの時、ポルトガルの航海士から測量や地図の製作について学んだ可能性もあるかも。。それにしてもポルトガル王はなぜアメリゴを呼び寄せたのか? 水先案内人として南米の確認をしてもらいたいだけだったのか? 実は、最初からそこにはポルトガル王の思惑があったのだ。と後から解る。後にアメリゴは学術書の執筆の為にこの航海時のデータが欲しいとポルトガルに求めたらしいが、機密情報として応じてくれなかったらしい。それはアメリゴの調査報告により? ポルトガルはトルデシリャス条約を盾に南米のこの領土も主張する事になるからだ。※ ブラジルがポルトガル語圏になったのはこの条約のおかげだ。これら経緯を鑑(かんが)みると、ポルトガルは最初からペドロ・アルヴァレス・カブラルが発見した土地はトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)ラインである西経46度37分内に入っている事は解っていた。だから敢えて、スペインからアメリゴを呼び寄せ、彼がスペイン人として探検した領土がどちらの領域に入っているのかの確認の意味が大きかったのではないか? と推察できる。また、ポルトガルはスペインがまだ到達していない未開の以南を南緯50度まで進んだ。そこにフラグを立てて自領にしたのである。スペインのアメリゴが証人でもある。ポルトガルにしてやられた感じもする。ポルトガルは正統性を主張する為の正確な南米地図を製作しているのである。South AtlanticPortolano of the coast of southern Brazil and Rio de la Plata1538年ブラジル海図の本「Eary Sea Charts」からポルトラノ(portolano)とは、いわゆる海図です。13世紀頃から地中海の船乗りたちの間で用いられた海図で、方位線網が図面を覆っているのが特色。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。それはポルトガルが先導した為? 大航海時代に新大陸のブラジルの地図もすぐさま造られている。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中、「ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤」で1554年の黒海の海図(Portolano)を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊当時、ポルトガルはすでに詳細な海図の作成ができたが、スペインにそれは出来なかった。当時のスペインは測量も調査もせずにアバウトにお宝のありそうな地域に侵入していただけだった?※ 当時の測量器については以前「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」の中、サンカントネール美術館から観測器具の写真を紹介している。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)アメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由スペインの入植地はインディアではなく、新大陸であった。そしてまもなくポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が香料諸島に到達しようとしていた。※ ヴァスコ・ダ・ガマ最初の航海1497年~1499年。インド西岸到達は1498年5月。ポルトガルの行動にスペインが慌てたのは言うまでもない。外海への海洋進出においては、ポルトガルよりスペインぱ遙かに遅れていたからだ。だいたいスペインは航海技術も地理情報の管理にしてもポルトガルより遙かに劣っていた。航海士の訓練や免許にしてもしかり。行き当たりばったりで先に船を出したから、おそらくカリブ海の測量なども当初全くしていなかったのだろう。※ スペイン本国では、どこの土地からどんな産物が上がってくるのか? など当然データとして残さなければならなかったはずだ。(後にセビリア通商院が設立され管理。)1505年、アメリゴがポルトガルよりスペイン(セビリア)に帰国。アメリゴはスペイン王フェルナンドに招かれる。そこでアメリゴはスペインがポルトガルよりいかに遅れているかを語ったのだろう。アメリゴの助言から? 航海士免許制度、航海訓練所の創設、王立地図台帳の作成をスペインでも導入する事になった。以降スペインの海洋進出の遅れを取り戻すべくアメリゴは尽力する事になる。そして1508年にアメリゴはスペインで初代の航海士総監(Pilot Major)に就任した。アメリゴが初代となって航海技術を教え、新大陸へ行くスペインの航海士を育てたのだろうと思われる。このアメリゴの経緯を見ると、逆に? もしかしたらアメリゴは敢えてポルトガルに渡り、そして残り、海洋研究や船乗りの学校の事、地図製作の為の計測技術など航海に関するあらゆる事を学んでいた可能性が考えられる。つまり、アメリゴがポルトガルにいた1501年~1505年はスペインの為に海洋学と航海術の勉強の為に留学していた期間と言う解釈ができる。そしてその時、ポルトガルで彼は最新のアジアの地図を入手し、アジアの最南端の緯度を確認したのかもしれない。アメリゴは1501年~1502年(Third time)、新大陸で南緯50度まで到達している。コロンブスがアジアの証明をしようとやっきになっていた最後の航海の時、すでにそこはアジアではないとアメリゴが証明していた事になる。アジア最南端は北緯1度のマレー半島なので、南緯50度以上続くそこはアジアではない。全くの別の緯度に存在する大陸に他ならない。・・と言う理論だ。※ マレー半島の最南端でありユーラシア大陸最南端でもある町はマレーシア(Malaysia)のタンジュン・ピアイ (Tanjung Piai) 北緯01度16分 東経103度31分因みに北米と南米が陸続きである事、また太平洋が確認されるのは1513年の事。アメリゴは1512年に亡くなっている。Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」アメリゴの業績はどのように世間に知れ渡ったか?それはアメリゴが生前したためた書簡2通が本として出版され紹介された事による。1通は学友でありかつての主であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに宛てた手紙である。「Amerigo Vespucci, Mundus Novus, Letter to Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici」『アメリゴ・ベスプッチ「新世界」』ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチへの手紙。※ 新世界(Mundus Novus)の初版がいつか定かでないが1504年にはすでに発行されていて、出版から 1 年以内に、イタリア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語など多言語で翻訳され12 の版が印刷。1550 年までに 50版は発行された。もう1通はフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニ(Pier Soderini)に宛てた手紙とされている。彼もまた叔父であるジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチの元で学んだ学友らしい。※ 1505 年頃にフィレンツェで出版先に触れたが、アメリゴはポルトガルの下での航海での帰途「我々の祖先も、誰も知らない土地」、「そこは島ではなく大陸」、「新世界」としてメディチ家のかつての主にして学友であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに手紙を送っている。もともと学友である。コロンブスの航海の事も度々報告していたと思われるし、自分がついに船で航海に出た事。そしてそこは「未発見の土地」と言う「ビッグニュース」を真っ先に知らせたかったのかもしれない。この書簡が送られたのは1502年。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ (1463年~1503年)は1503年に亡くなっているので、もしかしたら見舞いを兼ねた手紙だった可能性もある。また1505年に書かれた? とされるソデリーニの手紙は、ポルトガルの海図に基づいて新大陸を発見したとする報告である。こちらもまたかつての学友への書簡であるが、もと学友として送ったのか? 故郷フィレンツェ共和国の政治家への報告だったのか? ソデリーニの手紙はロレーヌ公国の学者らの目にとまったらしく、彼らは手紙のフランス語訳と、最新の西大西洋の沿岸を表したポルトガルの海図を入手して、アメリゴの功績を称賛したと言う。この2つの書簡により新世界(Mundus Novus)は広く認知される事になる。しかし、新世界を知らしめたこれらアメリゴの書簡自体が、疑問や疑惑や信憑性などが当初から多数取り沙汰され論議されている。これはあくまで私の推測です二つの書簡はそもそもアメリゴの功績を世間に知らしめる目的の手段であったと思う。実際にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに送った手紙は本当だったと思えるが、彼はまたこの事実を複数の人間に伝えていたはずだ。彼が最も伝えたかったのは彼を教育した叔父ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)であったはず。(叔父はまだ存命中)先に紹介している通り、この叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。アメリゴの新世界の証明を誰よりも支持したであろう人物だ。それ故、この功績をどうにか世に出してあげたいと考えたのではないか?その最も効果的な方法としてメディチ家の名を利用した。次にフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニへ報告の手紙を出した。(こちらも元学友)これは事実か? 事実でないかはさておき、フィレンツェ共和国の代表に出したと言う所に意味がある。本来ならフレレンツェ共和国の代表にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチがなっていたかもしれなかった。(養父と上手くいっていれば)ところが先に紹介したようメディチ家でいろいろあった時代である。メディチ家はフィレンツェから追放されていた期間でもある。※ メディチ家は1512年にフィレンツェに帰還。まず、多くの者に知ってもらう為の手段として、この形をとって公表したのではないか? 彼がそもそも専門の学者であったら、もっと他に公表の仕方はあったのかもしれないが、アメリゴはどこにも所属していないただの一般人。世論からアメリゴの功績として評価させたかったのではないか?それ故、もはやアメリゴが何回航海に出たかは問題ではないと思う。また、世に出す為に関係者が悪意はなく、意図的に手紙の内容を変更した可能性は十分考えられる。そもそも効果的に世に知らしめる事のみが目的だったろうから・・。だから今更、そんな論議で彼を否定するのは違うだろう、と思うのだ。文系だった彼が、計測の技術を身に付け、データを出して新大陸の存在を世界に知らしめた人物である事は間違いないのだ。そしてかつての仲閒が彼の仕事を評価して後押ししてくれた。・・と言う話しなのではなかったのか?コロンブス(Columbus)の野望すでにコロンブスについてはあちこちで紹介しているが・・。ジャンネット・ベラルディとアメリゴ・ヴェスプッチが惚れた? コロンブスの魅力は何だったのだろう。ジャンネットもアメリゴも、コロンブスに共感した? そして同じ夢を見たのだろうか?コロンブスは後に名の出る征服者・侵略者・コンキスタドール(Conquistador)と同質ではない。彼は純粋に冒険者(adventurer)だったのかもしれない。彼の一生はアジア探求の旅だったと言えるからだ。コロンブスはマルコポーロに憧れていた?彼のバイブル「東方見聞録・マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)」で知った黄金の国・ジパング。未知のアジアを旅したマルコポーロが記した東の果てにあるとされる伝説の黄金の国。そこに辿り付きたい。と言うロマンを多分に秘めた夢の冒険家だったのではないか?※ 件(くだん)のジパングは日本ではないと言う説もあるようですが・・。私なりに考察したものを以前紹介しています。ジパングが気になる方は是非一読お願いします。「京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング」・クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング・黄金の国ジパングの出所リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング「西廻り」と言うポルトガルとは反する航路でアジアに向かおうとしたクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)。当時まだ地球が球体だと言う事は証明されていなかったが、どうもコロンブスは球体だと信じて「西に進めば東のジパングに辿り付く」と確信していたようだ。その根拠となるのは、ポルトガル宮廷で最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイム(Martin Behaim)(1459年~1507年)と知り合い意見交換していたと言う説である。ただ彼は地球のサイズをかなり小さく見積もっていたと思われる。実際コロンブスは中米の海をアジアと勘違いした。たまたまエスパニョラ島から金が産出されたが為にそこをジパングと勘違いした。だから彼はそこがアジアだと証明する為に今度は香料諸島を探すべく、統治を弟にまかせて調査航海に奔走する。(それが失敗だった。)実は彼は、アジアに到達できたなら、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1を獲得する事をイザベル女王と契約していたので、発見した土地の統治を優先させるべきであった。野心的な部下らの暴走があった事も事実だが、彼は発見したエスパニョラ島の統治に失敗。度重なる現地反乱などの失態が続き最終的に排除される事になる。※ エスパニョラ島とは完全に引き離され、3回目以降立ち寄る事も出来なくなった。明らかにそれはスペイン政府の契約違反であるが・・。彼はエルナンコルテスやピサロのようなコンキスタドールとは違っていた。本質の所で、彼は夢の冒険者であったから、金や名誉よりも己の探究心の方が勝った結果だろう。エスパニョラ島を取り上げられても、嘆願し、今度は香料諸島の発見を目的に3回目、4回目と調査航海に出る。「西に進んでもアジアに到達できた」論を証明したかったのだろう。むろん香料諸島が発見出来れば、黄金に匹敵する香辛料の市場が開け、それはスポンサーらの収益となる。先にも触れたコロンブスの3回目の航海では大西洋を最も南側ルートで南米大陸北岸に到着。その時ベネズエラで真珠を見付けて報告。コロンブスは出資者の為に還元できる財を常に求めていたのは確かだ。※ アメリゴらはその場所を特定し、後にスペイン人は真珠の市場として現地を荒らすのである。運にも見放されたのかもしれない。アジアではなかったが、4回目の航海では、すぐ彼の目前に黄金文化を持った人々の土地があったし、あと少しの距離で太平洋だったのに・・。。彼は沿岸探索しかしなかったからだと思われる。調べれば調べるほどアジアは遠のいた。結果、香料諸島もアジアの海峡も見付けられず、でも最後までアジアと信じて? 亡くなったらしい。最後の扱いも悪く、無念な死ではあったが、コロンブスがスペインにもたらした恩恵は大きい。ベラグア公爵(Duke of Veragua)の称号をもらい受け、その家系は現在も続いている。ところでコロンブスに追随した輩(やから)はどうしたか?コロンブスがエスパニョラ島で黄金を見付けてから、20年は皆、カリブ海での黄金探しに夢中になっていたらしい。もともと黄金の量は多くはなかったから黄金の産出が減ると今度は対岸の大陸の方に目を向け、また奥地に進む事になる。その話は本線の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の方で・・。記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)バルセロナのベイ・エリアにあるコロンブスを頂いた塔は1888年のバルセロナ万博の時にアメリカとカタルーニャの交易を記念して建てられたもの。高さ60m。コロンブスは大西洋岸のパロス港から出航してセビリアに戻っているのでバルセロナは全く関係無いと思うが・・。左手に航海図を持ち、右手は新大陸(アメリカ)の方角をさしているらしい。バルセロナからでは方角解りにくいですよね。コロンブスは確かにスペインでは称えられています。彼がスペインにもたらした経済的功績は大きい。新大陸に名前は付かなかったけど、本人はジパングであって欲しいと最後まで願っていたのだから。まあしょうが無いね。※ 実際、南米大陸(ブラジル)の発見者? はアメリゴ・ベスプッチで間違いない。しかも測量したのも彼でポルトガルはそれを認めている?西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)でも代わりにコロンブスの名が付いた国が南米にある。コロンビア共和国(República de Colombia)である。それはかつてコロンブスが4回の航海で回遊していたカリブ海域に位置している。下は現在のカリブ海の地図です。※ カリブ海の名はコロンブス以前に南アメリカを現住としていたカリブ族(Caribs)に由来する。コロンブスが1492年12月イスパニョラ島(La Española)(Ispayola)に到達。欧州人による新世界最初の街が建設された島である。現在イスパニョラ島は西側3分の1がハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)、東側3分の2がドミニカ共和国(República Dominicana)の統治となっている。因みにこの南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域、キューバやイスパニョラ島に連なる諸島群には西インド諸島(West Indies)の名がつけられている。これは、インドに到達したとコロンブスが誤解したことに由来する名前がそのまま残った場所だ。地球儀を見ながら、なぜインドでないのにインド諸島の名が付いているのか子供の頃は疑問であった。理由を知った後もややこしいから止めて欲しい・・なんて思ってた中南米の国々の公用語以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」について紹介したが、地球をスペインとポルトガルで分割したまさにその支配権の公式が現在にも跡(あと)を残している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス以下に中南米の国と公用語を記しましたが、スペイン語が多勢を占めています。トルデシャリス条約でポルトガルは辛うじてブラジルの権利を得て南米に進出。スペイン、ポルトガルの後に続いてアメリカに植民地を開いたフランス、オランダ、イギリス。が、ナポレオン戦争が勃発するとその戦火はアメリカ大陸にも飛び火。ここで再び利権が移動。現在の国は植民地と言う支配からほぼ独立を果たしているがその公用語に旧支配国が見える。自分用に仕分けした物です。参考にどーぞ一部間違っていた所を修正しました。中米スペイン語(Spanish)を公用語とする国メキシコ(Mexico)エルサルバドル(El Salvador)グアテマラ(Guatemala)コスタリカ(Costa Rica)ニカラグア(Nicaragua)パナマ(Panama)ホンジュラス(Honduras)ドミニカ共和国(República Dominicana)英語(English)を公用語とする国ベリーズ(Belize)フランス語(French)を公用語とする国ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)南米スペイン語(Spanish)を公用語とする国アルゼンチン(Argentina)ウルグアイ(Uruguay)エクアドル(Ecuador)コロンビア(Columbia)チリ(Chile)パラグアイ(Paraguay)ベネズエラ(Venezuela)ペルー(Peru)ボリビア(Bolivia)ポルトガル語(Portuguese)を公用語とする国ブラジル(Brazil)オランダ語(Nederlands)を公用語とする国アルバ(Aruba)スリナム(Suriname)※ ギアナ地方は1499年発見。その後にオランダ、イギリス、フランス、スペインの探検家等が探検するが、入植したのはイギリス人とオランダ人。両国は領有権を巡り争ったが最終的にオランダが領有権を得た。当初、彼らは黒人奴隷を使役してタバコ栽培を行っていたが加えてコーヒー、カカオ、サトウキビ、綿を栽培。奴隷の待遇は劣悪で逃亡奴隷が多く出たらしい。英語(English)を公用語とする国ガイアナ(Guyana)※ スペイン人とポルトガル人の手が及ばなかったが後にオランダ西インド会社の管轄下に入る。が、ナポレオン戦争が勃発すると欧州のみならず戦闘はアメリカ大陸にも及ぶ。中南米のフランス領およびオランダ領はイギリス軍によって陥落し奪われていった。フランス語(French)を公用語とする国フランス領ギアナ(French Guiana)※ フランスがギアナに入るのは17世紀初頭。ルイ16世がトリアノン宮殿の植物園で働いていたルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)を1781年ギアナに派遣。植物の調査研究をさせている。ギアナもオランダ、イギリス、ポルトガルと分割されたり支配者が交代。今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外 扱いでお願いします。Back number入れて起きます。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン体調不良で1週間ダメでした。書けないと思っていたのに結構たくさん書きましたね。写真が少ないのが難ですが・・。
2022年08月27日
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今回はマゼラン一行の世界周航に触れるつもりでしたが予定を変更。先週日曜(2月19日)に乗った西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」を急遽紹介としました。久しぶりの鉄道ネタです。土日、祭日のみ運行するなかなかキップも取りにくい列車だそうです。今回弟が母の誕生日の為に予約してくれたのですが、たぶん自分が一番乗りたかったからかも因みに、西武鉄道はラッピング電車がよく走っています。最近亡くなられたマンガ家の松本零士氏も西武鉄道のラッピング電車「銀河鉄道999号」(2009年年5月1日)を手掛けていました。以前紹介しています。リンク 西武鉄道の銀河鉄道999リンク ラッピング電車「きゃりーぱみゅぱみゅ」 (SEIBU KPP TRAIN)西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」車両デザイン車両の内装52席の至福 宣伝パンフ52席の至福 乗車ディナー料理と酒スペシャル・サービス52席の至福からのお土産品Laview(ラビュー)西武秩父駅52席の至福 運行区間池袋~西武秩父駅間西武新宿~西武秩父駅間西武新宿~本川越駅間など52席の至福 運行日土休日を中心に年間100日程度の運行を予定する臨時電車と位置づけされている。乗車時と降車時はレッドカーペットを敷いてくれると言うのが、この列車のこだわり。でもドレスコードは無いので気楽にいつもの服でもよい。車両デザイン列車の外装と内装のデザインは建築家の隈 研吾 氏が手掛けている。とは言えもともと西武鉄道の52型(4000系)をリメークした車両が利用されているので、昨今のJRの高級電車とは違う。外装のラッピングを除けば、外見は親しんだ西武線だ。下は西武線のサイトから借りてきました。車両のデザイン画です。「秩父」の四季を自然豊かに表現したそうだ。2号車のデザイン画は海? と思ったが荒川をダイナミックに表現したものだと言う。1号車 春 芝桜、長瀞の桜2号車 夏 秩父の山の緑3号車 秋 秩父連山の紅葉4号車 冬 芦ヶ久保の氷柱タイトルの「52席の至福」とは、このレストラン車が4両1編成からなっているのだが、実際の食事席は2号車と4号車のみ。1号車はユーティリティー・スペースとして諸々イベントなど多目的に使われる車両。3号車が厨房車となっている。それ故、食事の提供してもらえる座席は52名がマックスらしい。車両の内装客車2号車現在、コロナ対策でついたてが座席横に立てかけられます。客車4号車姪が越境して4号車まで行き撮影。天井が違うだけなのですが、雰囲気がかなり違います。下の厨房の写真は西武鉄道から借りました。下は姪が撮影してきた写真。すでに撤収の時です。52席の至福 宣伝パンフ52席の至福 乗車現在、宮崎県とタイアップしているようで、食材も宮崎県産がソラチョクで運ばれ利用されています。観光PRのパンフ付き。ウェルカム スパークリングワインクレマン・ダルザス・ミシェルフォネ(辛口)ウェルカムドリンクとソフトドリンクはサービスです。ペアリングのワインや日本酒ウイスキーは別料金。ディナー料理と酒コース・メニューペアリングのワイン・リスト前菜 宮崎と秩父を結ぶ至福の前菜カップ手前はチョウザメの白身とキャビア魚料理 ハーブ香る鮮魚と宮崎産日向夏のサラダ仕立て日向夏と併せているのはタラ。前菜のチョウザメも淡泊な白身。ここでまた淡泊なタラ。日向夏とチョウザメのサラダにして、前菜の魚をサーモンでもよかったのに・・。と、思ったりして・・。白ワイン プイィ・フュメ(Pouilly-Fume 2020)を合わせました。フルーティーで爽やかなワインでした。メイン 宮崎牛とみやざき地頭鶏(じとっこ)みやざき地頭鶏(じとっこ)は、江戸時代に藩城主の地頭職に献上していた美味しい鳥肉から由来。宮崎県および鹿児島県の霧島山麓において古くから飼育されていた在来種だそうです。宮崎牛もとても柔らかでしたが、メインなのに量が少なすぎ。赤ワイン グラン・マレノン・ルージュ(Grand Marrenon Rouge 2019)を合わせました。こちらもとてもおいしいワインでした。デザート 和紅茶香る宮崎産金柑のコンポート イチローズモルトアイスとワイン、ウイスキー、紅茶など飲料の撮影を忘れました。よこぜのおいしい紅茶、とてもおいしかったです。52席の至福では、希少なイチローズモルトが飲めるのです。ここで味見にストレートをとったのでアイスにもかけて食しました。イチローズモルト・ホワイト・ラベルは秩父の酒屋さんでも購入できましたが52席の至福ではホワイト・ラベルの他にPB2020とPB2022が飲めるのです。食事後に感想を求められました。あくまで個人的感想ですが、褒め言葉はお酒にしか出なかった。とにかくワインの味がよい。料理とのマリアージュが良いのか? は別に本当にワインがおいしかった。プリンス・ホテル&リゾーツのエグゼクティブ シェフソムリエ(市村義章 氏)がセレクトしているそうです。52席の至福。料理は期待薄ですが、お酒を楽しむには最高かもしれません。メニューは3ヶ月ごとに変わるようです。ところで料理は監修されたものです。レストランで食せば? あるいはシェフがその場で調理すれば? また味は変わったのでしょうが・・。やはり電車の中と言うことでハンデもあるでしょうね。※ 調理協力は武蔵野調理師専門学校ちなみにワインは秩父のワインもあります。グラスが電車の為に一般のワイングラスでなくグラスカップを使っています。それ故、ワインの分量はやや多めに入っていた気がします。いつもはあまり飲めない私ですが、列車でスペシャルと言うこともあり、ついスパークリングの他に赤白も手を出しました。非日常だからこそできる贅沢もある。と言う点ではとても楽しい経験をしました。スペシャル・メニューアニバーサリー・プランで事前に姪が頼んでくれたプレート。記念写真も撮ってもらいました。52席の至福 電車の1号車はイベントスペースです。結婚式や誕生日会などもできると思います。そういう意味では事前にオーダーすればいろいろお願いを聞いて答えてくれるのではないでしょうか。スペシャル・サービス途中フルートの生演奏もありました。芦ヶ久保では氷柱を見る為にストップ。2号車の前で停車。次は4号車の前で停車。52席の至福からのお土産品秩父の赤ワインの絞りかすから作られた焼き肉のタレと、グラス・コースターは車内で使用したもの。ちなみにコースターは52席の至福 電車のロゴをあしらったものなので全4種。一枚500円で販売されています。車内販売のグッズ他にバーニャカウダがありました。確か1280円。購入しました。今回の列車は秩父発のデイナーコースで西武新宿到着でした。午前中にラビューで秩父に向かいましたからおまけです。Laview(ラビュー)西武鉄道001系 2019年3月運行開始。車体はアルミニウム合金製車体を採用。老朽化した10000系「ニューレッドアロー」の後継車両として製造。新車両のコンセプトは都市や自然のなかでやわらかく風景に溶け込む特急。みんながくつろげるリビングのような特急。L - 贅沢(Luxury)なリビング(Living)のような空間a - 矢(arrow)のような速達性view - 大きな窓から移りゆく眺望(view)からLaview(ラビュー)と命名されたらしい。52席の至福 電車では西武鉄道の一日フリーキップが付いています。特急券は別。客室窓 縦 1,350 mm×横 1,580 mmの大型窓上下の写真は別日に撮影したものです。西武秩父に停車していたラビューです。乗車が迫っていたので先頭まで撮影に行けませんでした。先頭車両の写真のみウィキメディアから借りました。列車を見せる為に両サイドの景色削除させてもらいました。池袋駅です。ラビューも日曜の昼は満席でした。また、平日の通勤時間帯は30分おきに運行しています。非常に混んでいます。所沢までは20分程度ですが、所沢から西武秩父まで1時間かかっています。西武秩父駅右端のホームに52席の至福 電車が停車している。向こう方面は三峯行き。駅に付随して右にお土産屋、フードコート、温泉施設と並んでいる。駅に温泉施設があるので帰りに寄って帰る人が多い?是非入浴して帰ってください。おわります m(_ _)m
2023年02月25日
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初期のブログなので書き直したり写真入れ替えたい部分はありますが・・。リンク先ラストに加えました。パレードの前に女王陛下の近衛兵をもう一つ紹介です。バッキンガム宮殿(Buckingham Palace) Part 4バッキンガム宮殿 4 (女王近衛騎兵連隊)女王近衛騎兵連隊ホワイト・ホール(Whitehall)トラファルガー広場から伸びるホワイト・ホール(Whitehall)は、ロンドンのウェストミンスター地区を南北に走る道路です。英国政府の各省庁の建物が周辺に立ち並ぶ地域で、東京の霞ヶ関にあたり、政府を指す言葉としてもホワイト・ホールが用いられるそうです。通りに面しては軍事関連の官庁が多く国防省、イギリス陸軍本部、イギリス海軍本部、そして、現在、近衛騎兵連隊の司令部となっているホース・ガーズもそこにあります。ホース・ガーズ(Horse Guards)1698年の火災で焼失した旧ホワイトホール宮殿内の馬上槍試合場付属の衛兵詰め所が起源だそうです。17世紀にセント・ジェームズ宮殿が王の居城となっても入り口はホワイト・ホールにあると考えられ、現在も近衛騎兵隊の司令官が本部として使用しているそうです。ホース・ガーズで歩哨の任務中のライフガーズ連隊(冬用の外套を着ています。)午前10時から午後4時までは乗馬した近衛兵が一時間ごとに交代。女王近衛騎兵連隊ライフガーズ連隊 (The Life Guards) ・・・・緋色の制服、白の頭飾り、白い鞍 ・・・・清教徒革命期(1641年~1649年)に設立された王党派の騎兵中隊が 王政復古後に統合されて出来た連隊。ブルーズ・アンド・ロイヤルズ連隊、(ロイヤル・ホース・ガーズ及び第一竜騎兵)(Blues and Royals (Royal Horse Guards and 1st Dragoons) ・・・・青色の制服、赤い頭飾り、黒い鞍 ・・・・1650年に創設され1821年に王室騎兵隊(Household Cavalry)となった 王室近衛騎馬連隊(Royal Horse Guards)通称 Bluesと 1661年、旧王党派兵士で設立された第1王室竜騎兵連隊 (1st The Royal Dragoons)通称 Royalsが1969年に統合。王室騎兵隊(Household Cavalry)に所属する近衛騎兵連隊は2個連隊からなり、さらにその中で編成組み分けされています。(女王エリザベス2世本人の直接の意向)王室騎兵連隊(実戦任務の戦闘部隊)・・・・各々2個中隊を抽出して計4個中隊で構成王室騎兵乗馬連隊(儀仗部隊)・・・・・・・・・・各1個中隊を抽出して計2個中隊で構成女王の警護とホワイトホールの女王近衛兵の任務。128頭の馬を持つ騎兵大隊にして、英国最後の鎧を付けた軍隊なのだそうです。(もっとも現在は、戦車と装甲車の装備もされているようですが・・・。)いづれにしても歴史ある軍隊です。ライフガーズ連隊 (The Life Guards) ブルーズ・アンド・ロイヤルズ連隊、(ロイヤル・ホース・ガーズ及び第一竜騎兵)(Blues and Royals (Royal Horse Guards and 1st Dragoons)ほぼ毎朝、女王近衛騎兵連隊はハイドパークの兵舎から騎乗して、コンスティチューション・ヒルを下り、バッキンガム宮殿を通り過ぎ、「ザ・マル(The Mall)」を通って、ホース・ガーズの警護の任務に付くそうです。写真が少しボケていますが、ブルーズ・アンド・ロイヤルズ連隊が、バッキンガム宮殿前を通過して、「ザ・マル(The Mall)」に入った所です。ロンドン市警察(City of London Police)の騎馬警官の先導が付いています。女王がロンドンにいる時の編成は ・・・・指揮官1名、下士官3名、兵11名。 騎兵連隊旗が掲げられ、あし毛の馬に乗ったラッパ手が先頭に立つのだそうです。女王不在の時は・・・・下士官2名、兵10名。 騎兵連隊旗も無し。女王近衛騎兵連隊の通過時や、衛兵のパレードの時はロンドン市警察(City of London Police)も出動するようです。宮殿前は観光客でごった返しているので、確かに警官も出動せざるおえないでしょうね。つづくBack numberリンク バッキンガム宮殿 3 (宮殿と女王の近衛兵) バッキンガム宮殿 4 (女王近衛騎兵連隊)リンク バッキンガム宮殿 5 (近衛隊の交替式流れ解説)リンク バッキンガム宮殿 6 (軍楽隊)
2009年10月23日
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ラストにブリッセルのBack numberを入れました。ブリュッセル1~12まであり、関連も数本あります。※ 途中でハワイが入りブリュッセル5と6の間が2ヶ月ほど開いています。イギリス、ロンドンから、ユーロスター(Eurostar)でベルギーに入国。リンク ユーロスター(Eurostar)ブリュッセル(Brussels)の南駅(Midi)がユーロスター(Eurostar)やタリス(Thalys)、ICE(Intercity Express)など国際列車のターミナル駅になっています。もっとも同じEU圏なので「入国」と言っても、空港のように入国審査があるわけでもなく、普通に列車を降りた感じです。ベルギーではその滞在のほとんどをブリュッセル(Brussels)にしていたので、乗り換えて中央駅に。あいにく雨で到着でした。ブリュッセル中央駅(Brussels Central)観光客にはつらい駅事情その前にベルギーの位置から。ブリュッセルは「ル」の文字のあたり。旅行書もたいていオランダと抱き合わせになっている為に資料も少なくどこにあるか知らない人も多いかも・・。それにしてもベルギーはかなりの田舎都市でした。一応欧州の中程に位置する為に欧州連合の主要機関が集まる国際都市なのですが・・。ブリュセル地図(内容が若干古いのですが・・。地図上に北駅があり地図左下に南駅。ブリュッセル中央駅は地図の中程の紫の部分。実は丘陵地の為か? 歴史地区に近い為か? 中央駅あたりは地下を走行しています。(地下鉄ではありません。)地上の建物は小さいけど地下に展開。その一帯が中央駅で地下鉄も別に乗り入れしています。赤で囲ったのが、世界遺産に登録されているグランプラス(Grand Place)で、観光の目玉の地。黄色の点が有名な小便小僧 (Manneken Pis)の場所です。因みにホテルは駅の正面に取りました。ピンクがホテル(Le Meridien Brussels)です。とにかく立地が最高でした。ブリュッセル中央駅(Brussels Central)1952年、もともと国際列車の到着する北駅と南駅を接続する北南接続線計画により中央駅が開業。欧州ではどの方面に行くかで、ターミナル駅が別れている事が多いのです。日本で言えば東北方面に行く上野駅と東海方面に行く東京駅を接続したようなラインです。中央駅もICE(Intercity Express)は停車します。上段が外観。下段がその展開図。観光客にはつらい駅事情チケットは1階に窓口とマシンがありますが、日本と異なりマシンの方は買いにくい。とは言え窓口に並ぶと、時間もかかるし窓口手数料で高くなります。発券窓口日本の郵便局のように時間がかかるので乗車間際では間に合わないかも・・。30分くらい余裕をみないといけないかも・・。列車が何番線から出るかは、この電光ボードで確認しないといけません。ホームに行っても方角の表示もないし、駅員1人いない。日本の国鉄と違い、時刻表もなんとなくうやむやです 窓口のおばさんに確認して、すすめられた電車に乗ろうと行ったら、祝日はダイヤ変更になっていたらしく電車が無かった事が・・。窓口で再度確認したのに最初の係の人も知らなかった。掲示板に出てないのですが・・。と再度聞いたら「今日は無かった・・。」と言われてビックリです。職員はこんな感じであまり信頼はできないので、自分で調べられる限りは調べて何度も確認しないと大変な事になります。因みにオランダのハーグに移動予定でした。日程は変えられないし荷物も多いのでアントワープ経由で乗り換えてハーグまで行くはめに・・ 因みにベルギーでは駅に改札はありませんし駅員もほとんどいません。ホームも、列車の運転手が自分で降りて確認して発車するので窓口でしか聞ける人もいません。ところで、改札も駅員もいなくても、キップはちゃんと買わないといけません。時々抜き打ちでチェックしているので見つかったら何倍も罰金をとられる事でしょう。地下がプラットホームになります。また、各方面からの地下道もこの地下に接続されています。駅舎が新しいのでここのあたりの地下は、まあまあ綺麗ですが、トイレは有料のが1カ所です。駅はどこも共通で0.5ユーロ。※ お金を払ったからと、必ずしも綺麗なわけではない。フランス系のベルギーはトイレ事情があまり良くありません。トイレが無いに等しいくらい無いので、たいていの地下道はくさいし汚いし、しかも掃除がされないので本当にバッチイです。地下鉄のエレベーターなど真っ黒です 初夏に近いこの頃、側溝から蚊の大群が発生していました。古来ペストなどにやられてきた歴史の理由がわかった気がしました。地下2階のホームホームには指示版が何も無い。「本当にこの電車で良いのか?」不安になる事でしょう。中央駅正面のホテル。メリディアン・ブリッセル(Le Meridien Brussels)ロビーは広くは無いが客室は結構多く、モダンで快適な現代的ホテル。因みに、ホテル1階のトイレも通りすがりの一般の人が使用できないようにキーカードが必要である。左がメリディアン・ホテルで右が中央駅。画面には無いが駅の道路隔てた右側におしゃれなガレリアがある。左方面に坂を下ると旧市街のグランプラス方面である。駅周辺とこのあたりは開発のされた新市街。旧市街の方は道も石畳になるのでヒールでは絶対歩けない。レンタサイクルを良く見かけるが、乗っている人は見かけない。石畳がこれだもの・・。因みにこれは横断道の敷石です。ベビーカーを押して、ウイーンからブリュッセルに遊びに来ていた日本人夫婦に合いました。道が最悪でベビーカーが押せないと嘆いていました。ブリュッセル・・つづくリンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 2 (オー・ザルム・ド・ブリュッセル)リンク ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)リンク ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)リンク ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)リンク ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)リンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)リンク ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)リンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)リンク ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)リンク 小便小僧(Manneken Pis) le Petit Julien鉄道リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)ブルージュもシリーズあります。リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)
2013年09月22日
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まずは答えからエジプト 2 (ギザのピラミッド)言わずもがな・・・これはピラミッドです。ギザの3大ピラミッドの一つクフ王のピラミッドです。前に写り込んでいるのは、ピラミッドの最トップを飾っていた石の部分です。古代王朝が栄えたエジプトは、今は立憲共和制の国となっていますが、今も、古代王朝時代のロマンを感じる事のできる国です。でも、最近の人の多さと、観光為の開発にむしろロマンが破壊されているのを感じます。誰でもがリーズナブルに簡単に出かける事のできる国は、違う進化をせざる終えないのでしょう。エジプト・アラブ共和国(Arab Republic of Egypt)ギザ(Giza)全体を写していないのには訳があります。これが、今のエジプトの現実だからです。近距離からだと全部は入らないし・・。まあ、ピラミッドは四角錐なので後ろからもとれますが・・・。前にはつい近年発掘された「太陽の船の博物館」がけったいな姿をして鎮座しています。なぜあんな形にしたのかは不明ですが、私には一見プレハブトイレに見えたそれにしても駐車場も・・・「かんべんしてよ・・。」て感じですね。数千年のロマンが一気に引いてしまう光景ですまあ、気を取り直して・・。近くに寄ります。かなりくずれて大きな石が転がっています。外装の美しい石(化粧石)がはがされてむき出しの内部の石が見えているからです。ズームしてサイズを見てください。前回紹介したように下段の石は大きく、上に行くほど小さくなっています。今回はこんなところで・・つづく。リンク エジプト 3 (ピラミッドとピラミッド・ピュー)
2010年01月13日
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Mail (armour)のリンク先追加しました。今回写真は神殿の丘から尚、本筋のロンドンのテンプル教会では、テンプルの資金と騎士ウィリアム・マーシャルを紹介する予定です。騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)騎士修道会(Knights of Christ)テンプル(神殿) 騎士修道会(Knights Templar)ソロモン王の神殿(Solomon's Temple)シトー会と聖ベルナール騎士修道会(Knights of Christ)十字軍時代に大活躍したのが騎士と修道会である。中でも修道会を軸とする修道騎士で作られたコミュニティーは、負傷兵や巡礼者の病院の役割ばかりでなく、巡礼者を保護したり、イスラムとの戦いにおいては戦闘集団にもなった。そんな志を同じくする騎士の集まりはローマ教皇に認可された騎士修道会となる。十字軍時代騎士修道会は8つほど発足したと言われるが、その中でも代表的な騎士団は3つ。聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers)テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)ドイツ修道会のチュートン騎士団(Teutonic Knights)当時騎士団に入る事はとても栄誉な事であり、非常に人気があったようだ。最初に認可された聖ヨハネ騎士修道会には欧州の身分の高い貴族の子息がこぞって参加したとされる。下、白装束に赤い十字はテンプル(神殿)騎士修道会の騎士彼らは修道士か? 騎士か? どんな身分の者も入団には修道請願をたてる必要があり、修道士としての規律を守る必要があった。それ故、団員のほとんどは臨時の修道士だった・・と言う事になり、聖戦において、戦士が僧侶になった・・と言うのが騎士修道会の実態である。十字軍時代の発足当初の「騎士修道会」とはKnights of Christ(キリストの騎士)と言う存在だったのだろう。が、後半の騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、祈りよりも戦力。キリストの騎士と言うよりは国の防衛の為だけに戦ったただの戦士となっていた。聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞と140の砦を守る任務があてられたと言う。テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)治安の悪かった巡礼路において、巡礼者を守る為に活動を始めたのがテンプル騎士団の創始理由です。創始者のユーグ・ド・パイヤン他8名で始まった警護は個人のボランティア? だったのか?ユーグ・ド・パイヤン(Hugues de Payens)(1070年~1136年)は1104年聖地での現状を聞いた後に聖地に出かけ1108年まで逗留。再び聖地に(1114年~1116年)次に帰国した時には資産を整理して1118年、3度目の聖地入に親類と仲間と共に入り活動を始めたとされる。神殿の丘は後にシオンの丘と呼ばれている。右の金色のドームが岩のドームで、左端にある銀色のドームがエル・アクサ・モスクテンプル(神殿)騎士と呼ばれるようになった理由最初は俗人の服を身につけ、信徒が与える施しにより生活。貧しさに耐え。報いられる事も世に認められる事も望まず。黙々として危険に身を呈していた彼らに対して、エルサレムの指導者達は深い感銘を受け、3代目国王ボードワンII(1118年~1131年)は主の神殿のそばにある王宮内に彼らの事務所と住居を与えたと言う。以降彼らはテンプル(神殿)騎士(Knights Templar)と呼ばれるのであるが、それが1118年~1120年の間とされている事からもしかしたらユーグ・ド・パイヤンは前の聖地入りの時からすでに活動を始めていたのではないか? と言う推察もできる。また、彼らが突然スターダムにのし上がるのはクレルヴォーの修道士ベルナール(1090年~1153年)の熱烈な支持があったからである。※ ベルナール (仏 Bernard de Clairvaux) ベルナルドゥス (ラテン語 Bernardus Claraevallensis)「新しき戦士を讃えて」の小雑誌では騎士の精神を忘れて世俗化した騎士を批判し、テンプル騎士団の清貧と熱意を賞賛。貧しき神殿の騎士を正式な騎士団に昇格する努力を彼は惜しまなかった。かくして豊かな寄付が彼らに寄せられるようになり、入団希望者は押しかけ、1129年のトロワの宗教会議では、テンプル騎士団の創設が決定された。ボードワンIIがユーグ・ド・パイヤンにソロモン神殿を譲る図 13世紀頃ウィキメディア・コモンズよりソロモン王の神殿(Solomon's Temple)主の神殿とは、ソロモン王が造ったとされるエルサレム神殿の事である。ソロモン王の神殿は紀元前960年頃の話であり、この当時すでに城壁の一部しか存在しておらず、神殿の上にはイスラムの建てた岩のドーム(The Mosque of Omar)(690年)とエル・アクサ・モスク(Mosque of El Aksa)(710年)があった。十字軍は岩のドームが契約の箱を納めた場所だと特定。アル・アクサ・モスクはソロモンの宮殿と呼ばれ十字軍のエルサレム王国の王宮として使用されていた。岩のドーム(The Mosque of Omar)(690年)アブラハムが生け贄(息子イサク)をささげようとした場所であり、ダビデ王やソロモン王が祈り、契約の箱を祀った場所である。イスラム教徒にとっても聖地。ここはマホメットが昇天した場所でもある。エル・アクサ・モスク(Mosque of El Aksa)(710年)エルサレム王国の王宮として使用され、テンプル(神殿)騎士修道会の本拠が置かれた。十字軍時代ここが至聖所の一画と考えられていたからでもある。テンプル騎士のフィギュア左の騎士の持つ白と黒に赤い十字の盾(たて)が1147年以降のテンプル騎士団の印。見えないが、白いマントの左胸に赤い十字のマークもテンプルの印。衣装の白装束は当初、テンプル騎士達がシトー会の聖ベネディクトの戒律を遵守していた事による。トロワ公会議の後にテンプル独自の戒律はできるが、衣装はそのままで、鎖帷子(くさりかたびら)の上に白い衣を着てマントをはおるのがテンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)風として定着。以前テムズの橋のところでドミニコ会系の修道士をBlackfriars(黒衣の修道士)と書いたが、逆に「白衣の修道士」と言うのが存在する。それがベネディクト会改革運動から分派したシトー修道会の装束である。シトー会と聖ベルナールシトー会は1098年、ディジョン南東の森の中シトーに「巡礼病院」として認可‥修道服の白色は自己犠牲、清貧、福音主義などの改革精神を象徴する色。前述、フォンテーヌの城主ベルナールの入会によりクローズアップされる修道会である。ベルナールの名演説で2回目の十字軍を募り後に彼は聖人に認定。神秘思想家にして政治、社会問題まで幅広い調停をこなすベルナールは当時欧州で最も影響ある人物であった。鎖帷子(くさりかたびら)ニットのように見えるが、薄い鉄板を輪切りにしたり、鉄の細糸を輪にしてつなぎ止めた防具。それ故Chain mail と呼ばれる。以前「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」でMail (armour)について紹介しています。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)嘆きの壁(The Wailing Wall)ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の西の外壁跡「嘆きの壁」はユダヤ人にとっての最も聖なる場所。つづくリンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
2013年08月14日
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ジャクソンホール(Jackson Hole)の幌馬車 1アメリカ、ワイオミング(Wyoming)州 ジャクソン(Jackson)幌(ホロ)馬車ワイオミング州北西部に位置するジャクソン・タウンを知る人は少ないと思います。街は北側と東側を高い山に囲まれている事から谷のような場所。いつしかジャクソ・ンホール(Jackson Hole)と呼ばれるようになったそうです。このジャクソンホール(Jackson Hole)の近隣には有名な国立公園の、イエローストーンやグランドティトンがあり、その玄関口として、実は全米でも有数の観光地。※ アメリカのスキーリゾート地としても有名らしい。ジャクソンホール(Jackson Hole)は古くから原住民族のインディァン(ネイティブ・アメリカン)が狩猟や祭事を行なっていた谷としても知られているそうです。その為に西部開拓で入植してきた白人達との抗争など暗い歴史もあったようです。今回はこの谷から現在改良されて観光に使われている珍しいものを紹介。幌(ホロ)馬車簡易な荷台に雨風をしのぐホロをつけ、馬にひかせたものがホロ馬車ですが、こちらのは車輪がタイヤになっています。幌付きの馬車は西部開拓の必須アイテムで、古いウエスタンの映画などで見かけますが、ヨーロッパの馬車で見られるものよりだいぶチープです。アメリカでは幌馬車は18世紀後半から19世紀の開拓時代の主に輸送手段。現在のトラックやトレーラーの代わり? いや、軽トラくらいかな? 時にはバスの代わりもしたであろう必需品ですね。下はアリゾナ(Arizona)州ページ(page)の街に飾ってあったホロ馬車後部。※ ページ(page)の街はグレンキャニオンダム (Glen Canyon Dam)の建設でできた街です。辻馬車としてはアメリカにも箱形のきちんとした箱馬車はあったようです。下はジャクソンの街の観光用?車の入れない箇所の観光に使っているらしいです。今回はレストランへの送迎用にお客様が運ばれています。馬車が庶民の交通機関として使われるのは、中世のヨーロッパですが、新世界のアメリカでは前述したように西部開拓史に大きな役割を果たしています。特に天然資源に恵まれた西部では物資の輸送には欠かせないもので、これが(物流)トレーラーのルーツなのかも・・。グランドティートン国立公園内・・・ここは、ロッキー山脈(Rocky Mountains)の一部です。谷の北側にはジャクソン湖 (Jackson Lake) 。(見えてる湖はジャクソ湖か不明・・。)谷の南端には一帯で唯一の正式な都市であるジャクソン市。谷の平均標高は2,000m競馬では気の散りやすい馬の場合ブリンカー(目を覆う馬具)をしますが、馬車をひく馬も、後方や横に気が散らないようする為でしょうか・・プリンカーを付けているようです。因みに下が気になる馬の場合シャドーロールを付けます。車輪がタイヤと言うのが時代ですね。揺れが緩和されるのと、合理性からなのでしょうが・・・。予備のタイヤが微妙ー速度は、時速十数km、悪路では時速6~8kmくらいがせいぜいらしい。観光のキャラバンです。どこに行くかは次回に・・。リンク ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)
2010年06月13日
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今回はナポレオンの死にまつわる毒物説についてである。ナポレオンの死の直接原因は医療ミスではないか? と言う結論に(前回)達っしたが、そもそもナポレオン自身が違和感をいだいていた原因不明の病気とは何か?後世、ナポレオンの物とされる頭髪からヒ素が検出された事と医者が書いた論文により「ナボレオン ヒ素毒殺説」がなんとなく定説化されてしまった。そして、考えられたのがワインに毒を盛った説である。桐生 操 氏の「ナポレオンは殺された」によればナポレオンがセントヘレナに同伴したモントロン将軍が刺客であり、南アからのワインに入れられて、少量ずつ盛られたのではないか? と言う考察。しかし、近年の研究では環境による慢性ヒ素中毒の可能生も指摘されている。それはワイン毒殺説よりも自然なヒ素中毒説である。「ナポレオンは殺された」のワイン説では、ナポレオンが毎食飲む数あるワインの中から多量に摂取しないワイン。すなわち少ししか飲まないワインをさぐりあてている。また犯人と考え抜かれたモントロン将軍は確かにナポレオンの飲食に毒を盛るのは可能。しかしその動機については確証が全くなく、どれも想像の域を出ない。全体によくぞここまでこじつけたな・・というのが正直な感想である。実は、もう一方の環境説が出てきたのは近年の事。今になって昔の事がいろいろ科学的に解明されてきたからなのであるが、驚くことにヒ素中毒はナポレオンに限った事ではないようなのだ。調べてみると1800年代という時代はいろんなところにヒ素が含まれた工業製品があふれていたのである。その諸悪の根源を中心に紹介します。ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green定説化されたナポレオン毒殺説と慢性ヒ素中毒セントヘレナは高湿の島美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン汎用されていたヒ素入りの顔料ナポレオンヒ素中毒説日本のヒ素事情微量成分とは言え、ヒ素は長く継続して摂取すれば慢性ヒ素中毒になる。ヒ素による人の致死量は100~300mg。だから例えば1mg/㍑高濃度のヒ素が含まれた地域の飲料水を毎日摂取しいてもすぐには気づかないのである。知らずに自分が汚染されて何か症状が出た時に初めて解る?しかも、ヒ素の特性として、化合物の違い、摂取した量や期間の違い、また体内へ取り込まれる経路の違いに応じてそれぞれ異なった毒性(症状)を現すらしい。つまり非常に多様性ある毒なので中毒患者でも人により症状が違うらしいからなおさらである。そんな事も今の医学ならカルテを見るだけで言い当てる医者もいるのだろうが、当時はまだそんな専門医もいないし、法医学者の意見はバラバラだったらしい。※ 当時はヒ素による毒殺を法廷で立証するのは至難だったらしい。澁澤龍彦氏の著「毒薬の手帳」によれば19世紀はヒ素による毒殺事件がたくさん伝えられている。昔から証拠がわかりにくい毒殺は犯罪者に好都合。中でも安価なヒ素は多かったらしい。中世以降、欧州ではヒ素化合物が政争や怨恨による毒殺の道具として盛んに使われるようになったと言う。さらに氏の著によれば毒殺加害者には女性が多かったらしく、中でも最も好まれた毒がヒ素だったそうだ※ ニコチン、モルヒネ、ストリキニーネ、ジキタリン、燐(リン)等の毒は高級な犯罪だったらしい。19世紀、ヒ素はネズミ駆除剤として出回っていたのでどこにでもあり、誰にでも手が届いたのだ。下はウイーンの王宮宝物館で見つけたナポレオンの肖像画です。(以前紹介した写真です。)ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日~1821年5月5日)1805年、ナポレオンが建国したイタリア王国の初代国王に就任した時の肖像画。当時36歳。2017年01月「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ところで、ナポレオンの場合、それは飲料による摂取ではないと思われる。犯人は空気中に漂うトリメチルアルシン (CH3)3As のような有害な有機ヒ素化合物の可能性が極めて高い。それらは、ヒ素を好むカビ菌の仕業で生成された有害物質である。ではヒ素を好むカビ菌とは?その正体はスコプラリオプシス・ブレビカリウス(Scopulariopsis brevicaulis)それ自体は一般の自然環境に広く生息する真菌らしい。要するにカビ菌がヒ素を空中に解き放ちそれを吸った者達が犯されると言う事だ。前回セントヘレナ島でナポレオンが暮らしていたロングウッド・ハウス(Longwood House)を紹介しているが、今回も同じハウスであるが、ちょっと趣が違う。曇天の陰気なロングウッド・ハウスである。※ この写真もウィキメディアから借りてきました。セントヘレナは高湿の島日記に、彼らはカビに悩まされていたとあったので、降雨が多いと思っていましたが現在の気象では曇天が多い島のようです。前回気象のデータをのせましたが、同じ諸島の隣の島と取り違えていたようです。m(_ _)mジェームズタウンの気象データでは 1 年を通して風が強く、気温は 17°Cから 23°C。降水量は少ないが曇天が多く年間通して高湿。夏は蒸し蒸しの島らしい。※ ナポレオンの住まいはセントヘレナの山の上。港のあるジェームズタウンとは実際かなり違うかもしれませんが、参考にのせます。セントヘレナは南半球にあるので日本とは夏冬が逆転。冬の期間の7月8日頃~12月28日頃まで 5.6 か月間は特に風が強く、曇天が多い。雨は少ないが高湿。1 年で最も寒いのが 9月。平均最低気温が 17°Cくらい。夏の期間の1月3日~ 5月15日頃の 4.4 か月間は、1 年間で最も湿度の高い期間にあたる。快適性レベルは少なくとも 21% の間、蒸す、蒸し暑い、または不快。 1 年間で最も蒸す日は、3月11日で 85% の確率で蒸す。※ Weather Spark ジェームズタウンにおける平均的な気候 よりナポレオンの衰えがひどくなるのが夏のピークを過ぎる頃。セントヘレナの夏の蒸し暑さはよりカビを増殖させた。具合が悪く部屋にこもるようになったからヒ素中毒も加速して行ったのかもしれない。ではカビが好んだヒ素はどこにあったのか? という事だが、案外それらはナポレオンの身の回りにたくさんあった可能性がある。美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン唐突ですが、ナポレオンの好きな色はグリーンでした。下はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)のナポレオンの寝室です。2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」で紹介しています。リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式ナポレオンのベットの天蓋もグリーン。家具類のテキスタイルもグリーンベースの植物です。18世紀、今までに無い美しいグリーンが発明された。それはナポレオンのみならず、瞬く間に欧州で人気となり爆発的に売れて流行したのである。初期の顔料には天然の鉱物が使われていたがそれらは高価。そしてさらに色を求めた結果、いろんな科学反応による合成物が誕生している。それらは中世の錬金術師などの得意技だったかもしれない。18世紀から19世紀はたくさんの発明により顔料が増えた時代なのである。少し以下に紹介する。1778年、シェーレ(Seheeie)が亜ヒ酸銅を主成分とする緑色顔料(シェーレ・グリーン)を発見。1797年、フランスのボーケラン(Vauquelin)はクロームを発見。クロムの発見で広範囲の色が出せるようになり、これは顔料史上のエポックとなる。1780年コバルト・グリーン合成。1782年亜鉛華(ホワイト)合成。1800年、ミティス(Mitis)、エメラルドグリーン発見。1802年コバルト・ブルー合成。1817年ストロメイヤー(Stromeyer)によるカドミウム・イエローの発明。1824年ギメー(Guimet)による人造群青の発明。1858年ギネー(Guignet)によるビィリジアンの発明。※ 年表資料は、共立全書「顔料および絵の具」と中央公論美術出版「絵の具の科学」から抜粋。今までに知られなかった新しい金属の発見と研究により新しい顔料が急速に出現しだす。しかもこれらは、安価な上に絵の具の耐久力も強い。高価な天然顔料は人造顔料に取って代わったのである。中でもグリーンの顔料は活気的だった。特にシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)の発明はセンセーショナルだった。それ以前は暗色の緑しか無かったからだ。シェーレ・グリーン(Scheele Green)は 1775 年(1778年とも)、スウェーデンの著名な化学者 Carl Wilhelm Scheele (1742年~1786年)の手により発見。明るく美しい若草色。ちょうど抹茶のような緑の顔料だ。しかしそれは亜ヒ酸銅が主成分になっている。亜ヒ酸銅塩(CuHAsO)三酸化二ヒ素と硫酸銅を炭酸カリウムと共に反応させると沈降してできるらしい。しかもヒ素と銅の調合次第で色の幅は広かったそうだ。もちろんこれは爆発的に売れたらしいがシェーレ・グリーンには黒化しやすいと言う難点があり、後にパリス・グリーン(Paris · Green)が開発されるとそれにとって代わられる。パリス・グリーン(Paris Green)はシェーレ・グリーンから派生したエメラルド色の緑だが、シェーレがレシピを公開しなかった為にオリジナルになっている。オーストリアの技術者Ignaz Edler von Mitis (1771年~1842年)が1800年(1805年とも)が合成。酢酸銅(II)と三酸化二ヒ素から作られたアセト亜ヒ酸銅。※ パリスグリーン、エメラルドグリーン、日本では花緑青(はなろくしょう)として知られ明治期に日本にも入っている。※ Cu(C2H3O2)2·3Cu(AsO2)21808 年に工業生産が始められると、その鮮やかな緑色からパリス・グリーン(Paris Green)は瞬く間に人気となりしかも長く売れるのである。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)にあるナポレオンの執務室。まさにこの部屋の壁と寝台の天涯はパリス・グリーン(Paris Green)です。色鮮やかに染まるので綿や麻の染色に使われていた。そもそも、それ以前に緑の顔料と言えば塩基性炭酸銅の孔雀石(マラカイト)やヴェルディグリ(塩基性酢酸銅)から造られる暗緑色の素材しかなかったので、目の覚めるような色鮮やかなグリーンに皆、魅了されたのである。ヒ素から造られた恐ろしい顔料なのに最も白色は鉛。黄色はカドミウム、赤は水銀とか人工顔料は今じゃ考えられない毒物のオンパレードだけどね特にシェーレ・グリーン(Scheele Green)やパリス・グリーン(Paris Green)は英国のビクトリア朝時代にはウィリアムモリスの壁紙(植物モチーフ)が爆発的に流行した為に多用されている。これによりヨーロッパの壁紙産業は飛躍的に成長し、イギリスの壁紙生産量は、1830年~1870 年には30倍に伸びたと言う。ナポレオンの死後、産業革命は本格化するが、それ以前から科学の予兆は始まっていたのである。産業革命は労働力と素材のコストダウンが行われて成立しわけだが、同時にそれは人の健康を脅かす公害物質の誕生であったと言う事になる。海外版のウイキメデイアから借りてきました。案の定やはり塗料に遣われていますね。1858年、ロングウッド・ハウスと墓の谷は総額7100ポンドでフランス政府に売却されたらしい。セントヘレナに行く前からグリーンに囲まれていたナポレオンであるが、さらにセントヘレナでもグリーンの壁紙、グリーンの天蓋(てんがい)、グリーンの塗料に囲まれた生活をしていたようだ。セントヘレナのロングウッド・ハウスは公開されていて、ネットでも間取りから内部の写真が確認できた。※ サイト主はおそらくsainthelenaisland.info、「Longwood House Napoleon’s residence」かなり写真が公開されているのでリンク先を下にのせます。リンク Longwood House Napoleon’s residence因みにパリス・グリーンを用いた壁紙を貼った部屋は、湿ると鼠のような臭いを出し奇妙な病気が発生していた事から学者による訴えもあったらしいが取り合ってもらえなかったらしい。その為に長く汎用され、アメリカでは19世紀までで、以降はネズミ駆除剤に限られたが欧州では第二次大戦頃までのこっていたらしい。汎用されていたヒ素入りの顔料ところで、亜ヒ酸銅を主成分とする顔料が使われていたのは壁紙だけではない。当然油絵の具の素材であり、絵画に使用されている。明るいグリーンを好んで使用していたのは例えばゴッホやゴーギャンなど印象派の画家達である。印象派の彼らにこれは願ってもない色であった。ゴッホやゴーギャンの絵にその使用が認められているが、意識して見て見ると、いろんな画家達が使用していた。ゴッホによるポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男) 1888年。ゴッホ美術館。1888年、ゴッホとゴーギャンが南仏アルルで共同生活をしていた時に描かれた作品のようだ。まさにシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)がメインのように使われた絵である。オルセー美術館所蔵のゴッホ自陣の自画像背景はパリス・グリーンにホワイトを混ぜた絵の具が使用されていると思う。顔の陰影はシェーレ・グリーン。ゴッホ美術館(本から)ゴッホの椅子 1888年バックの緑は間違いなくシェーレ・グリーンですね。それにカドミウム・イエローが使用されていると思われます。カドミウム・イエローの発明は1817年ストロメイヤー(Stromeyer)による。ゴッホの精神疾患ももしかしたらヒ素のせいでは? と考えている人もいるようです。他にもマネやセザンヌなどもそうだ。彼らが陰影に使用している緑の絵具がパリス・グリーンだと思う。また、シェーレ・グリーン(Scheele Green)は、塗装用のペンキとして、木船の船底塗料にも利用されているし、ネズミ駆除の観点から家の塗料にも利用されている。ナポレオンがセントヘレナに渡航する為に船にいた期間は出帆8月9日から到着10月14日の67日目間に及ぶ。船でも飛沫を吸っていた可能性は十分ある。さらにナポレオンの住まいであったロングウッド・ハウス(Longwood House)の柱にも塗られている。何しろパリス・グリーン(Paris Green)はコロニアル・カラーとして植民地の家屋敷で多く使われていたはずなのだ。下はオルセー美術館に所蔵されているエドゥアール・マネ「バルコニー」(1868年~1869年制作)絵画の中のバルコニーの塗装や窓枠にパリス・グリーンが使用されている。植民地は西回りも東回りも熱帯性で多湿の所が多いからネズミよけには最適であったはず。※ 現在のファッション界の「コロニアルカラー」は、植民地当時の人々が着ていた麻服などの色に由来しているらしいが、本当のコロニアル・カラーはパリス・グリーンである。他にも薬としても利用されていたし、ワックスキャンドル用、さらには子供用のおもちゃにも使用。ビクトリア朝時代には、酢と石灰にヒ素を混ぜて白粉(おしろい)を造り顔に塗っていた人もいたそうだし、もっと恐ろしいのはシェーレ・グリーンは、グリーンブランマンジュのような菓子の食用顔料として利用されていたとか。ナポレオンヒ素中毒説あえてナポレオンにヒ素を盛らなくてもヒ素中毒であったのは間違い無い。ではなぜ回りの人は大丈夫たったのか?当初のメンバーで、最後までナポレオンの側にいたのはベルトラン伯、モントロン将軍、第一従僕のルイ・マルシャンであるが、ベルトラン伯は、そもそもロングウッド・ハウスに同居していない。モントロン将軍とルイ・マルシャンの健康状態は不明であるが、ナポレオンが一番部屋に引きこもっていた可能性は高い。何しろナポレオンはパリの陸軍士官学校以来の読書好き。フォンテーヌブロー宮殿にあるナポレオンの図書館にはナポレオンの蔵書16000冊が所蔵されている。その一部はセントヘレナから回収された本だろう。2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」ナポレオンの図書館リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式さらに、陰気で多湿な島でナポレオンはほとんど外出も許されなかった。島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は脱走を恐れて馬で走れる範囲も狭めナポレオンが自由に1人で散歩できないようにしていたし、一日に2度士官に顔を見せなければならないなど小うるさい事を言ってはナポレオンを怒らせていた。ナポレオンは外出しないなどの抵抗を見せていたのだろう。誰がナポレオンを殺したか? と言うならこのハドソン・ローの行為は確実にナポレオンの寿命を奪った事になる。ナポレオンが体調不良を訴えるのは来島してまだ2年に満たない頃だ。それは1817年9月オマーラ医師の記録で解っているのだが、後々の見解では、その所見はほとんどがヒ素中毒に当てはまるらしい。ナポレオンが信じ、信頼していたオマーラ医師は翌年1918年8月ローによって島から追い出されてしまう。オマーラ医師がいなくなり、代わりの医師も無く、ナポレオンの体調はより急速に悪くなって行く。※ オマーラ医師は国に戻るとローの批判を始める。それが故、ローの殺人説ができあがったらしい。1818年暮れから始まる極度の冷え性。体の冷えは1821年亡くなる2ヶ月前にピークに達しているが、ナポレオンが島に来たのが1815年10月15日。1821年5月5日に亡くなっているが、1817年から体調不良が始まり、1818年末にはかなり悪化。1819年になると失神を繰り返し両足の冷えが改善されず、水銀の丸薬を丸飲みするようになる。すると脇腹に激痛が始まり顔は蒼白に。体調不良で外出ができなければカビの生えたパリス・グリーンの壁紙から発した有機ヒ素化合物のトリメチルアルシンがよりナポレオンを攻撃し続ける。1821年5月までよく持ちこたえたものだと思う。それにしても島に来てほとんど体調不良だったわけで、暗殺説もわかるが、極度に弱って行くナポレオンにヒ素を盛り続ける理由も無い気がするのだが・・。ヒ素を誰かに盛られていたのか? 環境によるヒ素中毒なのか? 両方なのか?セントヘレナの気候もまたナポレオンの死因における要因の一つだったのは間違いない。日本のヒ素事情ヒ素は、日本でも戦国期から石見国で産出されている。石見銀山ねずみ捕り(いわみぎんざんねずみとり)と言う言葉が今に残るほど有名なネズミ駆除剤となる砒石(硫砒鉄鉱)が産出される場所である。※ 実際は銀の鉱山の方ではなく、亜鉛や銅の採掘鉱山であった石見国笹ヶ谷鉱山である。元禄期には石見銀山より採掘量がまさり石見ブランドの殺鼠剤として知名度が上がったらしい。下はヒ素を含む硫化鉄鉱ヒ素は地球を構成する元素として天然にも広く存在している物質発見以来、農薬や駆虫剤や防腐剤、防カビ剤としても使用され続けているし今も半導体やプリンターの生産過程で使用されている。毒性の強いヒ素であるが、そこそこ貴重な存在のようですね。ナポレオン(Napoléon)おわります。m(_ _)m リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還その他ナポレオンリンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)
2019年03月07日
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マリーアントワネット関連back numberのリンク先をラストにさらに追加しました。フランソワ・ブーシェ(François Boucher)の作品の中から衝撃の絵を発見しました。これで全ての説明が付きました。客人は持参のオマル? の下に写真追加。写真を入れ替え、増やして編集し直しました。全面改訂です。「マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情」初期も初期に書いた、つぶやきに近い物が、毎日一番多いアクセスをいただき恐縮です。長らく避けてきましたが、写真だけでも入れ替えをと見たら、中身もとてもはずかしい内容で。 (* v v)。ハズカシイ やはり直したくて仕方無くなりました。前作では、ベルサイユ宮殿は入場料を取る上にトイレも有料と言う事を書きました。トイレ代金はトイレ管理のおばさんへのチップとして徴収されていたのですが、おばさんがチップの金額をごまかすのを防止する為に領収書を発行していたのです。それが2018年くらいに新たな無料の大きなトイレが王の前庭の地下に造られ、渋滞の大幅改善がされたようです。入り口はガブリエル翼と旧翼の両方からアクセスできると言うので、個人入場口と団体入場口の両方から入れるトイレらしい。とにかくベルサイユのトイレは評判が悪かったのです。最も、このトイレも庭だけ見学の人は対象外らしく、城への入場料を支払った人のみと言う事らしい。新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情トイレ事情の悪いフランスベルサイユ宮殿のトイレ事情マリーアントワネットのトイレシオン城のトイレ客人は持参のオマル?ルイ14世は「最高の香気を匂わす国王1778年マリーアントワネット22歳の肖像画マリーアントワネットが王妃になるのは1774年。18歳で王妃にこちらの写真はウイーンの美術史美術館から持ってきました。実家に送られたマリーアントワネットの肖像画で、ルイ16世と対になっています。ベルサイユにも同じ物があるようですが、こちらは大きい作品です。本物であるのは間違いないです。トイレ事情の悪いフランスそもそも、フランスと言う国自体、公共のトイレが今現在でも非常に少ない国です。地下鉄駅にトイレは存在しないし、フランス国鉄の大きな駅でさえ、個室が僅かの有料トイレが一つある程度です。※ ルーブル美術館の駅だけ外に個室の多い有料トイレがありました。デパートもそうです。各階にトイレは無く、1階おき。男性はさらに数が少なかったと記憶しています。また、必らずと言って良いほど壊れて使用できないトイレが複数存在するのでフランスでトイレはどこも行列です。そう言えば、シャルル・ドゴール空港でも、真ん中あたりの地下に一つとそこまで行くのに大変でした。※ 一つと言う事はないでしょうが、トイレまでの距離がありすぎるし、必ず待つ事になるので時間がね。パリの街は今でこそ下水道がしっかり完備されましたが昔は汚水を窓からバケツで投げ捨てていたらしい。2階の窓から棄てる輩もいたから汚物がはねてドレスが汚れる事も・・と読んだ記憶があります。近年まで下水道の整備が遅れていたのかもしれません。私が初めてパリに行った時、街は犬のフンの悪臭だらけでした。今はフンの清掃が年中来るし、下水溝の間口が広くされ、いっきに洗い流すようにされてパリの街においては、臭い事は無くなっています。が、問題は他にも。この国はトイレが少なく、しかも有料が基本の国なので必然的にトイレでしない人が多いのです。同じフランス語圏のベルギーもそうでした。街や特に地下鉄などの地下道が臭いのです。掃除が行き届いていない事もありますが・・。これではペストも流行るよね・・と思うわけです。そんな訳でフランス旅行はトイレ・ポイントを考えながらプランを作る事をお勧めします。因みに、団体旅行でトイレ付きのバスと言うのがありますが、これもあてにできません。運転手がトイレ掃除が嫌でトイレを使用させない事が多々あるそうです。王の前庭からの王宮この地下に2018年頃、大きなトイレができたらしい。入城者は無料。下の写真のみウィキメディアから借りてきました。ベルサイユ宮殿のトイレ事情「ベルサイユ宮殿にはトイレが無かったので臭くて汚かった。」と言うのは、大方の所では当っていると思います。王や妃の場合は自室の領域に便座トイレの個室があるのを私も見た記憶があります。だから全くなかったと言うわけではないのですが、汚水を処理する下水の観点から見ると、やはり無かったと言えると思います。そもそも近年でも来客用のトイレが宮殿内に設置できなかったのは、そう言う場所が無かったと言う事を意味しているのでは無いでしょうか?ルイ14世時代には、ルイ13世の小城館とル・ボーの新城館の中庭に面した場所に「キャビネ・ドゥ・シェーズ」(椅子の間?)と呼ばれる小さな小部屋があり、シューズ・ペルセ(便座椅子)が置かれていて、ルイ14世の専用トイレだったと言われています。ルイ15世の時は寝室の隣に上げ蓋式の便器を備えた部屋があったそうです。これは城見学に行くとよくあるパターンで、私も見た記憶があります。(捜したが写真が無い)ルイ16世の時は? 「水洗式のトイレを使用していた。」などと言う説もありますが、文献がないのでわかりません。本当に水洗であるなら、下水道が無ければならない。そのような施設がどこにあったのか? どこに汚物を流したのか? と考えると不自然な気がします。ベルサイユは庭の噴水の為に遠く川から水を引き上げていました。水道の方は説明できなくは無いですが・・。ローマ水道の時に紹介したように、水洗トイレは上下水道が完備された時に初めて機能するものだから。プチトリアノン(le Petit Trianon)にある王妃の部屋の中にマリーアントワネットも使用した木製便座のトイレがあります。ガラス張りで中までのぞけませんが、水洗には見えません。横の小さな穴の方が気になります。そこから水でもそそいだのでしょうか?トイレは王妃の部屋に付随している。ベッド類も再現物のようです。また。テキスタイルもちょっと現代風でいただけない貼り方です。ついでにプチトリアノン(le Petit Trianon)のロビー吹き抜けです。ルイ15世がポンバドゥール夫人の為に建設したものの、間に合わなかった建物です。でもロココでなく、新古典様式の建物です。最初に使用したのは次の公妾(こうしょう)デュ・バリー夫人(Madame du Barry)。ルイ15世が病気で倒れるとデュ・バリー夫人は宮廷から追い出された。その後、1774年から1789年までマリー・アントワネットが使用。シオン城のトイレさて、一般のトイレですが、何百人も集まるパーティーなどにおいて、客人が使用するトイレは下水の観点からも無かったと言えます。ただ、使用人達が使用していたであろうトイレはあったはずです。写真を捜しましたが、無くてしかた無く中世のスイスの城から持ってきました。木製になっているだけで古代の石のトイレと似てますね。ただ、あちらは水洗でしたが・・。スイスのモントルー(Montreux) のレマン湖畔にあるシヨン城(Château de Chillon)の兵隊達が使用したトイレです。トイレと言った個室ではなく、煖炉もある広い部屋の一画にあり穴の下は下界です。シオン城の写真はウィキメディアから借りてきました。自分の写真は全景が入っていなかったので・・。前の湖はレマン湖です。客人は持参のオマル?基本的にトイレは椅子型の場合も、オマル型、あるいはし尿ビン型にしても一時的に受けるもので、中身はどこかに棄てなければならないものでした。また、用を足す部屋があったか? 無かったか? と言うなら、客人用には無かったようです。「274の便座椅子がある」と書いてあった本がありましたが、全くもって確証がとれません。招待を受けた紳士淑女たちは、香をたいた携帯のMy便器を持参したと言われています。でも、その中身は従者が庭に捨てていたから、ある廊下のはずれは「汚物で沈んでいた。」とまで書かれていました。一晩のパーテイーに100人来たとして、その従者などいれたら400人以上。確かに一晩で汚物まみれになりそうです。故に、ベルサイユ宮殿が汚物にまみれて汚く悪臭を放っていたのは本当なのでしょう。だから宮殿南の翼にオレンジの果樹園を置いて空気を浄化しようとした。とも言われています。フランソワ・ブーシェ(François Boucher)(1703年~1770年) 写真はウィキメディアから英語版で見つけました。1760年頃の作品。今はプライベート・コレクションとなっています。載せて良い画像か少し悩みましたが、これは当時の風俗が解る貴重な資料と思い掲載しました。何より驚くのは、これをブーシェが描いていたと言う事実。ヽ(・_・;)ノ ドッヒャー 衝撃でした。何でこんな絵を描いたのか? また描かせたのか? この女性の羞恥心は? (;^_^Aそれにしても女性の場合はこんな感じだったのですね。取ってが付いたスープ皿のような受け皿ですね。 ドレスが汚れそうです。これの中身を従者が庭に棄てに行っていたと言う事なのでしょう。住居している人の汚水処理のタンクはあったのかもしれませんが、ベルサイユにそれらを棄てる場所が公式にはなかった。また、汚水はおそらく畑にまかれるとか、遠くセーヌ川まで運ばれて棄てられていたのではないかと結論できそうです。下は、ベルサイユ宮殿内にあるゴブラン織りの衝立です。フランス王立織物工場で宮殿用に制作されたもので、とても精巧な素晴らしい物ですが・・。こうした衝立(ついたて)の物影でスカートの中にオマル入れたのですかね。それくらいの羞恥心は欲しいところです。フランドル産に比べたらたいした事ないと思ってしまう。ルイ14世は「最高の香気を匂わす国王と呼ばれていた。それは、糞便の悪臭をごまかす為に大量の香水をつけていたからだと言われています。その理由は、下絶えず下痢状態で1日14~18回もトイレに行っていたかららしい。また、間に合わないこともしばしばで、便座トイレに座ったままで会議をした事もあったとか。ルイ14世は主治医によって抜歯されていた為に歯が無かった。咀嚼(そしゃく)ができないから消化を助ける為に下剤を飲まされていたからだと伝えられている。香水が最も発達したのはこの頃なのだと言うのも納得ですね。フランス人は昔からトイレに対して、前向きな取り組みをした事がないように思えます。「取り立てて考える必要の無いどうでも良い事象 ? 」当時のエピソードを聞くと、もよおした所がどこかにかまわず、そこをトイレとしていたようです。羞恥心の生まれた18世紀からは「しないような努力と我慢の歴史」となったらしいが・・。最後にマリーアントワネットが使用していたであろう食器を紹介しておきます。今後で使用する事もなさそうなので・・。セーブル焼きの磁器?ティーカップでなくてエッグスタンドにも見えますが・・。まだ完成されていないと言うか手作り感が凄く見えますね。ドイツやイタリアに比べると磁器造りもおくれているようです。磁器の元となるカオリンはベルサイユの近郊であるセーヴルで見つかったそうです。でも当初は技術が追いつかなかったとか・・。トイレ、あるいはオマルの写真がまた見つかりましたら追加しますが、城など行っても、なかなかトイレまで修復していないので無いのが現状です。おわりマリーアントワネット関連back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2009年06月19日
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写真追加しました年明け第一弾は、昨年出かけていた平安の陰陽師(おんみょうじ)、阿倍晴明(あべのせいめい)を祀った「晴明神社」から 実はかなり昔に参拝していましたが、ずいぶんと変貌していましたブーム以前の神社は半分駐車場となり写真映えは最悪。陰陽師ブームになる以前、「地元で、生まれてきた子供の命名をしてもらう神社」で有名だと当事のタクシー運転手に説明されました。それはもしかしたら、晴明神社がかつては戸籍代わりの氏子登録(氏子調)をする神社としてあったのかもしれない。実際、江戸時代には晴明九町組と言う氏子圏が組織されていたらしいから・・。※ 神社改革のあった明治(1871年)には村の鎮守の社などが列格される「村社」にふりわけられ、現在は神社本庁に所属。そんな晴明神社に活気がが戻ったのは、映画「陰陽師」のおかげ?現在は「魔除け」「厄除け」の神社として人気急上昇のようだ。来訪者はとてつもなく増えたのだろう。そう言う所が意識された? インスタ用のオブジェもいろいろ設置され、かなり様代わり。驚きました。(広くなっている気も・・。)陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)占いがメインであった陰陽寮晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)のブームは、夢枕獏(ゆめまくらばく) 氏の人気小説シリーズ「陰陽師」(1986年)と、それを原作に漫画化した漫画家 岡野玲子(おかのれいこ)氏の「陰陽師」シリーズに始まります。スコラでの漫画、一巻の初刊は平成6年(1994年)。マニア人気が少しずつ増えたのは、岡野玲子 氏の漫画に寄るところが大きい。その後、狂言師(きょうげんし) 野村萬斎(のむらまんさい)氏の主演で2001年、映画「陰陽師」が公開されると一気に安倍晴明の知名度は全国レベルに発展。※ 現在の清明神社境内にあるお土産屋(桔梗庵)の内容も映画関連が多いように思う。 映画はあくまで夢枕獏 氏の小説が原作となっていますが、登場人物のキャラクター等は岡野玲子 氏の描いた漫画「陰陽師」の世界感そのもの。漫画ファンの私は、映画以前に、岡野玲子 氏の描く「陰陽師」シリーズに影響された一人です。清明神社 拝殿前 左陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)安倍晴明(あべのせいめい)(921年~1005年)平安時代に活躍した陰陽師(おんみょうじ)。師は陰陽師(おんみょうじ)で天文博士である賀茂忠行(かもただゆき)(生没年不詳~960年)。陰陽寮に所属するのは40歳頃、天文博士となるのは50歳頃と遅い。それは兄弟子 賀茂保憲が上にいたからなのだろうか?晴明の名が史書に登場するのは961年、天文博士 賀茂保憲(かものやすのり)(917年~977年)の補佐として護身剣、破敵剣の鋳造の時。※ 賀茂保憲は晴明の師匠 賀茂忠行の息子。※ 安倍晴明が仕えた歴代の天皇は62代 村上天皇、63代 冷泉天皇、64代 円融天皇、65代 花山天皇、66代 一条天皇安倍晴明が天文博士となるのは972年。賀茂保憲の後を継承した晴明が表で活躍するのは64代 円融天皇(在位969年~984年)以降、65代 花山天皇、66代 一条天皇までとなる。※ 天文博士になるのは遅いが、彼の能力故、陰陽家としてすでに貴族の信頼があったようだ。霊感は幼少の頃よりあったようで、今昔物語には百鬼夜行を師の賀茂忠行に知らせて難を逃れたと言う逸話が残っている。物の怪の解除や祓い、病気の回復祈願、泰山府君祭りなど、晴明の得意分野であったようだ。※ 生死を司る泰山府君(たいざんふくん)の祭りとは、呪術により身代わりを立てて命の差し替えを行うと言うもの。今昔物語には晴明が泰山府君を祭る人物として登場。晴明の呪術の見事さが記されているらしい。それ故、陰陽師イコール呪術師のようなイメージがあるのは、安倍晴明の活躍に寄るところが大きいのだろう。995年には「蔵人所陰陽師」となり出仕はしていなかったが朝廷の諸々の諸事(先例、典故、吉凶、日時)を調べて上申する日時勧申(にちじかんじん)を80歳過ぎても行っていたと言う。亡くなる前年の雨乞いの「五龍祭」では大雨が降る快挙。褒美までもらったらしく、最後まで人気が衰えなかった事が解る。位階の最終は「従四位下」。晴明を祀るよう言明したのは一条天皇とされるのも納得だ。因みに、安倍家は晴明以後も代々公家として朝廷に仕えたが、室町時代中期以後、「土御門(つちみかど)」を名乗ったとされる。岡野玲子(おかのれいこ)氏の安倍晴明 スコラ 「陰陽師5(青龍)」より表紙漫画と言っても、筋だけ追うならともかく占術や呪(しゅ)についてなど、内容は後半に行くほど難解です占いがメインであった陰陽寮陰陽寮(おんみょうりょう)を造り、律令下に陰陽道を組み込んだ張本人は天武天皇(生年不明~686年)(在位:673年~686年)だそうです。基本、陰陽道は天文、暦、陰陽の3部門の専門集団からなっていたようですが、当初、天武天皇が求めたものは占い。天文や占星術を使用した占いで都を造る時の土地の善し悪しや方位を決めたり、天候不順など、通常で無い事(天変や怪異)がおきた時の瑞兆(ずいちょう)の判断など、諸々の天皇の政の中で重用された部署だったようです。つまり「陰陽寮」は官職であり、そこで働く技術集団は国家公務員なのであった。その占いのベースとなったのが、陰陽と五行思想。陰陽(いんよう)思想とは夜と昼の二元論。そしてそれは一年を通してみれば春夏秋冬。森羅万象あらゆる事が陰陽(いんよう)の局に分けられると言う考え。 五行思想とは、宇宙は5つの要素(木・火・土・金・水)からなり、それらには「相生」と「相剋」と言う二種の循環によってなると言う考え。方位の五行この陰陽思想と五行思想が組合わさってできたのが陰陽五行思想である。そしてそこから四神相応(しじんそうおう)の考えや、八卦(はっけ)、風水など、方位からあらゆる占いが考案されている。左 五行相克 右 五行相生※ 五行相克(ごぎょうそうこく)の星形である五芒星(ごぼうせい)はあらゆる魔除けの呪符として用いられた。安倍晴明がこれを紋に用いた事から晴明桔梗(せいめいききょう)印とも「セーマン」とも呼ばれる。陰陽道の方位と十二支晴明神社(せいめいじんじゃ)堀川通り 越しの「清明神社」右手が北、すぐ今出川通りにぶつかる場所。市バス「一条戻橋、晴明神社前」下車晴明神社は清明亡き後、安倍晴明を祭神として、1007年(寛弘4年)晴明の屋敷跡に祀られたらしい。一の鳥居には晴明桔梗紋が。晴明神社見取り図一の鳥居と二の鳥居の間に一條戻り橋のオブジェと式神のオブジェがある。(SNSスポット)晴明の屋敷に近い一條戻り橋には晴明が解き放っていた式神(しきがみ)がいたと言う。(源平盛衰記)この戻り橋はオブジェであり、実際の場所ではないが、欄干親柱は大正11年~平成7年まで使用されていた本物らしい。式神(しきがみ)「式(しき)」は「使役(しえき)」に由来する言葉のようだ。文献によっては「式鬼(しき)」とも。「宇治拾遺物語」は晴明が式神を使っていた話が出てくる。実際の人ではなく、鬼に類する精霊のたぐいか?今昔物語では神霊的なイメージ? 密教の童子のような眷属に描かれ、宇治拾遺物語では紙などが呪術であたかも生物に成り代わると言ういメージがついた?日月柱二の鳥居右に「陰陽博士 安倍晴明 公 居館跡」と石柱があるが、本当の清明の屋敷は現在の京都ブライトンホテルのあたりと言われている。※ 内裏の位置も平安と現在では変わっているが、晴明の屋敷は、紫宸殿の裏鬼門に位置していたらしい。陰陽師(おんみょうじ)先に紹介したように陰陽道はそもそも学問としては天文学や地政学に近く、それらから計算された占いが主な仕事であったようだが占いで良くない物がでれば、同時に祓いも行う。だんだんに怨霊や物の怪の「祓い」や「祭り」も行われるようになったようだ。平安時代、暗闇には魔物が潜んでいると皆が信じていた時代である。ちょとした天変地異(雷などの自然現象)でさえ怨霊の祟りと考えられた。その怪異の原因を占い、穢れ(けが)を祓い(はらい)、病気平癒(びょうきへいゆ)や、雨乞いまでしてしまうスーパー祓い屋、「陰陽師(おんみょうじ)」が定着したのは平安中期頃だそうだ。当然、安倍晴明らの活躍があったからだが、初期の「陰陽寮」では、占いはしても結果を天皇に奏上できたのは陰陽頭のみ。職務の分担があったらしい。二の鳥居をくぐると右手に手水舎があり、その横に晴明井がある。古より湧き出ていたと言う晴明井は洛中の名水として知られ、病気平癒のご利益もあるとされる。晴明五芒星、桔梗紋を配し、流水口はその年の恵方に向けられているそうだ。井戸の前には北辰北斗信仰の象徴の北斗七星が。陰陽道はもともと道教の北辰北斗信仰がベースにあるのだ。実はこの晴明井の水は千利休も茶の湯に利用していた水だ。なぜなら、現在の晴明神社の場所は、豊臣秀吉の屋敷、聚楽第(じゅらくだい)があった場所にひっかかっているようなのだ。二の鳥居左脇には聚楽第内に屋敷を構えていた千利休が茶事で利用した井戸がある旧跡と書かれている。そして聚楽第で秀吉により切腹を申し渡された千利休は聚楽第内で果てる事になる。※ 聚楽第と千利休については、2015年6月「大徳寺と茶人」で書いていますから良かったら見てね。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)正面に拝殿 左に晴明像、右に厄除け桃、そのまた右の大木がご神木である樹齢300年と言われる楠(くすのき)現在の本殿は明治38年にたてられたもの。厄除け桃原産地は黄河上流の高山地帯。古来、桃は魔除厄除の果物。食用のほか祭祀用途にも用いられ。平安時代には特に珍重。当時の桃はそれほど甘くなく主に薬用や観賞用とされた? 桃園を持つのは貴族でもステータスであった。楠の後ろ、本殿北側にお稲荷さまと2柱の神様が祀られるお社がある。天満社、齋稲荷社、地主社このお稲荷さまが、齋院(さいいん)鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所にあったことに由来するらしい。晴明の母、葛葉(くずは)は狐であったと言う風説から、晴明がお稲荷さまの生まれ変わりと解釈された説がある。久しぶりに行った晴明神社は、こじんまりした中にも、写真スポットは満載されている。近年のSNSブームを意識しての事なのだろう。参拝する方の立場で見ると、オブジェは少し軽い。式神なども可愛良すぎ。もう少しリアル感がほしいかも・・。売店の御札 一部さすが「厄除け」、「方除」、「火除け」、厄年用の「厄除」など災厄に関する札が並ぶ。学業守りとせず「、「向上守」としている所も良い。星形の魔除けステッカー、もう少し重厚なありがたみが欲しいかも・・。ところで、気になった事がある。神様でなく、人(人間)を祀る時の規定と言うものがある。本来人は祀られるべき対象ではないが、特例があるのだ。御霊である平清盛や、菅原道真はともかく、人である秀吉や信長を祀る神社は明治政府に公式に認められ存在する。明治以後に「人」を祀る神社が増えているのは明治政府が行った宗教改革のせいである。その明治の「人」を祀った神社の中に「清明神社」が無いので改めて、どこに分類されるのか不思議に思った。そもそも晴明神社は本当に昔から存在していたのか?1007年(寛弘4年)に晴明は祀られたとされるが、当初は祠(ほこら)だけで神社までは無かったのではないか? などと思ったのだ※ 2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」の中、「維新政府の宗教改革(振り回された神社)」にて明治政府の宗教改革について書いています。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)※ 御霊信仰については、2015年2月「北野天満宮 梅花祭り」「北野天満宮と御霊信仰」の中で簡単に紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭り
2018年01月11日
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サントリーニ島(Santorini)地中海の街と環境と家地中海沿岸の地域には、高温乾燥の気候条件の所が多いので、日射を防いで日陰を作る必要があるようです。乾燥地であれば、風は熱風となるので、通風は無い方が良く、窓は小さくなり、同時に日射も防げるわけです。基本的に建物は、その土地で手に入りやすい材料で造るのが一般的だそうで、地中海沿岸では、一般的には土、または日干しレンガ(土を成形して固めた物)、あるいは焼きレンガが使われるようです。下は、フィラの街の下部、崖っぷちの家? カフェとかホテルです。近くに来ると、家々を隔てる壁の間に通路が続いているのがわかります。登ったり、下ったり、迷路のようです。日本と違いこちらは海賊の危険性があったので、家々は高台に作られるのが常識のようですね。石やレンガを積んで建物のボディを造る技法を「組積造り」と言うそうです。屋根は、アーチ、ボールト、ドーム構法があり、試行錯誤、その島に適した形になっているのかもしれないです。中庭というのも、通風よりは採光を取り込む為であり、廻廊式にすれば日陰のテラスにもなり、僅かでも木々や、水盤のような水場やプールがあれば、凉を呼び快適な空間を演出できるからうってつけ・・。ところで、前々から疑問で調べていたのですが「なぜ壁が白いのか?」「地中海独特の白い家」とされるだけで、何故か誰もそれに言及している本がありませんでしてた。おそらく、「秘密は白い漆喰にあるのではないか?」と調べて見ました・・。漆喰(しっくい)漆喰は最もすぐれた建築材料として数千年前から使われてきた素材だそうで、消石灰を結合材とする、塗り壁または、モルタルの事を言います。(5千年前のエジプトのピラミッドの壁に使われたのが漆喰の起源)漆喰は、石灰に海草糊やスサ(麻の繊維や紙などを細かくしたものや、川砂)を混ぜてペースト状にしたものです。(石灰はカキの貝殻などを粉にしたものを混ぜたようです。)強アルカリで防火性があり、湿気を吸集し調節するので季節の変化に耐え、カビや細菌の発生を防ぐという性質もあり、遮音性や遮光性にも優れているようです。また、漆喰は施工直後から空気中の二酸化炭素と徐々に化学反応を起こし、水分は気化、消石灰は二酸化炭素を吸収して、酸素を放出、石灰岩と同じ成分となり少しずつ硬くなっていくという特性を持っているようです。石灰の貝殻は海ではいくらでも手に入る素材です。今でこそ外壁は白ペンキで塗られているようですが、もともとは素の漆喰の白色だったのでしょう。遮音性や遮光性、カビや細菌をも防いでくれるなら、これほどお手軽な素材はなかったのかもしれません。また、太陽光は白い色に反射するようです。熱をはじき返す? からでしょうか?どこを歩いても「絶景かな・・絶景かな・・」です。オールド・ポートを見下ろす。天気の良い日はまぶしい。下は、フィラの街の中心あたりです。奥にドーム方の屋根を持つ大聖堂? が見えます。地中海の島の家でも代表的に取り上げられるのが、このサントリーニのフィラの街です。つづくサントリーニ島の最新版 20205月26日リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説
2009年07月22日
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スペイン、バルセロナにあるグエル公園内アントニオ・ガウディー作の カメレオン? トカゲ?トカゲではなく、「ファイアサラマンダー(Fire salamander)」が正解です。2012年6月「グエル公園(Parc Guell) 2」の中でちゃんと解明しました。そちらも合わせて見て下さい。 2016年追記リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)尚、カテゴリーは「建造物・教会・墓地・墓石・遺物 」です。
2009年04月20日
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載せたい予定のものは画像が地味なので正月が開けてからにして、とりあえず写真だけでもキラキラするものを考えてみました 双胴型ヨット カタマラン(Catamaran)双胴船・カタマラン(Catamaran)ママラ・ベイ(Mamala Bay)双胴船・カタマラン(Catamaran)カヌーを二艘、並列につなげた船は古来ポリネシアンの人々が用いてきた船「カタマラン(Catamaran)」が起源だそうで、日本では双胴船と訳されますが、 英語名カタマランの名はそこに由来しているようです。シェラトン・ワイキキ前のビーチ双胴型ヨット マイタイ・カタマラン号 47人乗り。これからママラ湾(Mamala Bay)周遊のクルーズに本来の双胴船カタマランはポリネシアの大航海時代にタヒチとハワイ諸島間を行き来する長距離船として活躍。デッキが広くとれ、安定性が高い航海カヌーだったようです。今回紹介するカタマラン・クルーズは、カピオラニ・ビーチ、ワイキキ・ビーチ、フォートデルシー・ビーチ、デューク・カハナモク・ビーチと、いわゆるワイキキ前の海であるママラ湾(Mamala Bay)を横断して「海からワイキキを見て見よう。」と言うクルーズです。しかし、今回両親を乗船させたものの実は私は乗っていないのです。そんな訳で海からの写真がありません。それは次回に・・写真のほとんどはホテルの部屋から撮った写真です。因みにシェラトンのロビーで申し込みできましたが、シェラトンの船ではなく、別会社の経営のようです。※ 2012年11月~12月 カタマランセイリング乗船の写真は下のブログの方見てください。リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 2 (ワイキキのホテル)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 3 (アクティブ)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 4 (ダイヤモンドヘッド)双胴船カタマランは、船体形状を細長くして巡航速度を高くすることができるため、今も外洋ヨットのデザインに使える・・といいますが、かつて、広大なポリネシアトライアングルを木製のカタマラン(Catamaran)で行ったり来たりしていた古代ポリネシアンの人々の技術を考えると驚きです。因みに、この古代のカタマランを元に現代版に復元したものが、「ホクレア(Hokule'a)号」です。「ホクレア号」はただの復元だけでなく、実際に古代ポリネシアンの航海術にのっとって、星をたよりとした航海をし、実証した船なのです。因みに安定性の良いカタマラン(catamaran)は現在は客船のテンダーボート(tender)などで好まれて利用されています。ポリネシア・トライアングル北・・・・ハワイ諸島南西・・ラパ・ヌイ(イースター島)南東・・ニュージーランドハワイとニュージーランドの距離は約8000km。しかもポリネシアン・トライアングルは緯度を超えて北半球、南半球に及んでいる。が、それでも古代ポリネシアンの人々は、星、あるいは星座の位置だけを頼りに航海していたのですから本当に神業です。ビショップ・ミュージアムのプラネタリュウムでは一時期ホクレア号を所有していた事もあり、ホクレア号の航海の挑戦ビデオなどを見る事ができます。おまけ ハワイ語で・・。星 ホークー月 マヒナ太陽 ラー北極星 ホークー・パア (不動の星)カシオペア座 イヴァ・ケリイ (軍艦鳥)ぎょしゃ座 ホークー・レイ (星のレイ)プレアデス星団 マカリイ (ちいさな目の集まり)「マイタイ・カタマラン号」では有料により船内でマイタイを飲む事ができる。その辺は以下に説明しています。リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)カテマランは老若男女楽しめるのんびりハワイのお勧めオプションです。ママラ湾(Mamala Bay)シェラトンホテルから今回は簡単におわり乗船の紹介ですリンク マイタイ・カタマラン・セイリング 1 (出航)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング 2 (ワイキキのホテル)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング 3 (アクティブ)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング 4 (ダイヤモンドヘッド)
2012年01月06日
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今日は久しぶりに銀座に行って来ました。偶然ですが、銀座の大通りのホコテン(歩行者天国)で巨人の優勝パレードをしていたようで、ゴタゴタでした。(通過は一瞬)久しぶりの銀座ですが、あまりに店が入れ替わっているのに時世ながら本当に驚きでした。特に、あの、銀座の一等地と言われた鳩居堂、その横のワシントン靴店が地下に潜り、ほぼ丸ごとビルがユニクロになっていました。しかも、その隣の確か不二家だったか? が消えてそこのビルもユニクロに・・・。ユニクロの真向かいにはアディダスもあった・・・。驚いた銀座の客層が大きく変わってきているのでしょうね。あれでは銀座のデパートも売れないのわかります。老舗がどんどん消えていっている気がします。銀座ブランドて・・何? て気がしました。ところで、ハンターが仕留めるのに困難な五大獣のビッグ・ファイブ(Big 5)ですが、ライオン、アフリカゾウ、シロサイ、アフリカスイギュウ、ヒョウの5種シロサイだけ出会っていません。つまり写真が無いので、不本意ながらBig 5はBig 4で終わりですそれでも他の動物を少し紹介してアフリカもそろそろ終えようか・・・と思っています。ボツワナ共和国チョベ国立公園(Chobe Nationzl Park)とアフリカの動物チョベにはやけに角のある動物の種が多いです。その中で今回「何だかこんな動物もののけ姫にいなかったっけ?」 と思ってしまった動物を紹介しておきます。グレーター・クーズー(Greater Kudu)ブッシュバック属はサハラ以南のアフリカ東部の森林や藪に主に生息し、白い縦縞の文様とくねった角が特徴のシカよりは、ヤギに近いウシ科の系統のネジズル・レイヨウ族。角は確かに素晴らしいですが、案外目立つのですが・・・。シュート型に数回捩れて螺旋になった特徴的な角はオスのみで、角の前面にはねじれに沿って稜があり、節はほとんど見られないそうです。雌雄で体色も異なるそうですが、下の写真の色の方がリアルかもしれませんが、個体差はあります。眼の間には三日月型の白斑点があるのも特徴ですが、部分、部分を見ると何の種の動物なのか迷うくらい種々の特徴がある気がします。目 クジラ偶蹄目 Artiodactyla ・・・・ウシ亜目、ラクダ亜目、イノシシ亜目等に分岐亜目 ウシ(反芻)亜目 Ruminantia ・・・・・ウシ科、イノシシカ科、キリン科等に分岐科 ウシ科 Bovidae ・・ウシ亜科、ヤギ亜科、ダイカー亜科、オリックス亜科等に分岐亜科 ウシ亜科 Bovinae(ウシ族とネジズルレイヨウ族、ニルガイ族) ・・ブッシュバック属 、ウシ属、バイソン属、スイギュウ属等に分岐属 ブッシュバック属 Tragelaphus ・・・28亜種種 クーズー T. strepsiceros レッサー・クーズー Lesser Kudu グレーター・クーズー Greater Kudu進化の系統の種々の動物の特徴が混じり合っているような・・・気もする不思議君です。家族連れのクーズー通常はオスだけの群れで行動し、交尾期だけにメスと出会うようです。角の無いのはメス(右2匹目)。クーズーの成長は早く6ヵ月位でに親から独立するそうです。アフリカゾウの授乳期間だけで2~3年かかるのを考えるとえらく早いですが、これも弱い立場の動物(捕食される側)だから早く種を残すようなDNAがあるのでしょうかね・・。ラブラブなのかと思ったら・・・オス同士でした。もしかしたらホーンを突き合わせての威嚇対決かも知れませんが、緊迫感はない気がします。右のクーズーはアルピノ系でしょうか? 他のより白いです。グレート・クーズーは、本当に伝説に出てきそうな動物です。あまりポピュラーじゃないからかもしれないけど・・・。チョベ国立公園の夕暮れつづく
2009年11月22日
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ネーデルランド王国国土の20パーセントが干拓で造られ、国土の40パーセントが海面下の土地と言う、低い平坦な土地柄、こんな風に言われています。「神は地球を創ったが、オランダはオランダ人が造った。」オランダを象徴する風車も、もとは湧き出る水を揚水(水を高地に上げる)を目的に造られたそうで、この国の歴史は、水との戦いでもあったようです。アムステル川に築かれたダム(堤防)の名の街は165本の運河と1292の橋を持つ水の都です。運河がはりめぐらされた街は、ベネチアとは別物ですが、街の中を船が走り回る不思議な街です。オランダの旬の魚 鰊(にしん)スタンドオランダ、スヘベニンゲン(Scheveningen) 鰊(にしん)スタンドのおじさん。鰊(にしん)の時期には生で提供されるので手早く新鮮な内にさばいて売るのです。※ それ以外の時は酢漬けになっていたりする。※ 写真スヘベニンゲン(Scheveningen)はハーグの近郊こちらはハーグの鰊(にしん)スタンドでを立ち食いするおじさん。おじさんがスタンドでたべているのがこれ。でも、おじさんはカットなしでした。あれが本場の流儀?今の時期に食べられる生食の鰊(にしん)にニンニクとオニオン等好みでトッピングしたもの。アムステルダムの街は、アムステルダム中央駅を中心に下に扇状に広がっています。運河が幾十かに囲い、その間も小運河でつながり、海まで出られます。街にはトラムやバスも走るので、運河には橋も無数にかかり、船がこぐれないものはゴッホの跳ね橋のように開閉するものがあります。上のバトームッシュは観光用です。夜はワインとチーズをつまみながら夜のアムステルダムの観光に行くのがお奨めですし、昼の観光もまた別の楽しさがあります。思った以上に特色のあるカワイイ街です。アムステルダム中央駅はアムステルダムハーバーの裏手にあり、運河に囲まれています。1889年に竣工したこの駅は、東京駅のモデルになったとされています。今回はオランダの紹介はここまでにします。次の機会に街の紹介でもします。今さっき、ヤフーで検索したサイト(ブログ?)をクリックした瞬間パソコンの警報音が鳴りました。「ビー!」結構大きな音です。「ウイルスが見つかりました。」と画面に出てサイトがブロックされたので、ドキドキしてしまいました。こんな事Windowdsでは初めてです。私は本来Mac派(Appleコンビューター)です。株式のオンライントレードをする為に仕方なくWindowdsを使っていますが・・。Macには基本ウイルスの心配がなかったので、Windowdsのウイルスの多さには驚きますね。(警報まで鳴ったのは初)Macは本当にカワイイヤツです。昔のMacは最初に名前をつけてあげるようになっていたので尚更です。(私の初号期はトロンちゃん。2号機がサリーちゃん。)色々な所に遊び心が隠されていて(そもそもMacは最初からWindowdsタイプです。)フロッピー時代に企画の違う物を入れただけで「ペッ」とはき出すれたり、フリーズすると爆弾マークが出てきたりしました。(入力ミスの警報音を私は「クゥエ!」に設定してます。)そもそもゴミ箱もMacから出たアイデアで、ゴミが溜まるとゴミ箱が膨れたりと楽しませてくれるパソコンです。今でもMacにしかないコアなカスタムソフトがダウンロードできます。あの頃の初期型のMacのウイルスに「カスケード」と言うのがあり、(私はなりませんでしたが・・。)画面の文字が崩れ落ちて行くものです。キアヌリーブス主演の映画「マトリックス」で出てたのがまさにMacのカスケードだったのでは? (ウイルスさえも楽しませてくれるものでした。)今は旧 i-Mac(ドーム型)がクラッシック音楽専用機で、新型Mac(モニター型)がポップス系音楽とDVD等の専用機になっています。Macはコアなファンは多いけど一般的なソフトが足りないからWindowdsもないと困るのです。でも、絶対Macは辞めません・・。
2009年06月18日
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back numberのリンク先追加しました。修道院とか、建築とか、要塞とか載せたいものが出てきて時間かかってしまいました。 f^^*) ポリポリ モンサンミッシェルは見所も多いから写真もたくさん載せたかったので結局分割しました。次回も「モンサンミッシェル」です。ついでにフランス王国の成り立ちも加えました。フランク王国カロリング朝(Carolingiens)の末、神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)となったカール(Karl)大帝(742年~814年)の孫の代でフランク王国は東西フランク王国と中部フランク王国(後のイタリア王国)に分烈する。843年ヴェルダン条約によりルートヴィヒ1世の遺児が王国を3分割して相続するが、870年メルセン条約で中部フランク王国は割譲。それらは後のドイツ・フランス・イタリアの三国の原型となる。しかし、割譲された王国も東フランク王国は、ルートヴィヒ4世( 893年~911年)。西フランク王国では、ルイ5世(967年~987年)987年を最後にカロリング朝の血統は途絶え断絶した。ところで、話しは西フランク王国に戻る。西フランク王国では5代目あたりから必ずしも王位はカロリング家の世襲ではなくなっている。有力諸侯や聖職者の推薦で決められたらしいのだ。それ故、西フランクでは諸侯の力が時に王より勝る事になったらしい。前回、ノルマン人(ヴァイキング)の話しに触れたが。「885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接パリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。」と紹介。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人当時のフランク王国はノルマン人がセーヌ川やロワール川の川口から侵略する事が増えて困っていた。この時フランク側の防衛で活躍したのがロベール家(Robertiens)のアンジュー伯、ロベール豪胆公(Robert le Fort)(830年頃~866年)だった。そして次いでパリ伯となっていたロベール家、長子のウード(Eudes)(852年以降~898年)(在位: 888年~898年)は885年のノルマン人のパリ襲撃でノルマン人を阻止し大活躍する。そのパリ防衛の功績で、ウード(Eudes)は諸侯に推挙(すいきょ)されロベール家初の西フランク王国の王となった。※ 因みに、ウードの次代王は、カロリンク朝のシャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)に戻っているが、シャルル3世がノルマン公国を公認(911年)した王である。そして、後にカロリンク朝が断絶した時、ロベール家出身のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)が諸侯の推挙で次代のフランク王国の王位に付いた。987年、これよりカペー朝(Capetian)(987年~1328年)の時代が始まるのである。また、これを持って西フランク王国は終わりフランス王国が誕生したと見なされている。ノルマン人(ヴァイキング)を撃退して活躍したロベール家はフランス王国の始祖となったのだ。欧州史は、あちこちで歴史が絡んで来るので大変です。でも、知っているのと知らないのとでは格段に面白さが違いますさて、写真は複数年、季節も混ざっていますので了解お願いします。モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユフランク王国からフランス王国へベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院中世の修道院の役割ラ・メルヴェイユ(La Merveille)バットレス (Buttress)前に紹介していますが、トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたので、断面を見ると岩山の原型がわかります。下は南西正面角度の異なる教会を紹介ベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)ベネディクト会修道会(Benedictine Order)(ラテン語: Ordo Sancti Benedicti)アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)によって709年10月に開祖されたモン・トーンブ(墓の山)のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)はノルマンデイーとブルゴーニュのほぼ境界にあった。933年統合されモン・サン・ミッシェルもノルマンディー領に入る。しかし、ヴァイキング(ノルマン人)の襲来が酷くなってきた頃、避難? アブランシュに置かれていた司教座がドル=ド=ブルターニュ (Dol-de-Bretagne)に移転している。それが原因?モン・サン・ミッシェルの管理者(司教座)がブルターニュに移転したと言う事は、モン・サン・ミッシェルの管轄もブルターニュに移動してしまう? 危惧した? ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)は966年、ノルマンディーのサン・ワンドリル修道院とイタリアのモンテカッシーナからベネディクト会派の修道士を招いてモンサンミッシェルに修道院を設立させた。もともとノルマンディー建国当初より、歴代公はベネディクト会を擁護していた事もあったらしい。ノルマン公国時代の首都があったファレーズ(Falaise)にあるリシャール1世(Richard I)像ウィキメディアからですが、下をカットしました。※ 3代目(在位:942年~996年)ノルマンディー公リシャール1世(933年~996年)はノルマンディー公国の統治に集中。内政の安定化とノルマン人同士のつながりを強化し西フランクで最も結束力のある国に成長させた。ベネディクト会を擁護していた方には見えませんね。まだヴァイキング感が抜けていないのですが・・。これは像に問題ありなのか?もしかしたらキリスト教に改宗するにあたり、指導してもらっていたのかもしれませんね。修道士の役割はそもそもそう言うものだから・・。狭い岩山の上に建てると言う制約条件が、他と違う独自性を持った教会となっている。つまり、通常なら横に増築される部屋が縦に積み重なる構造になっている。聖堂の内陣は東に向いて立っている。モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院529年、モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の異教の神殿跡にヌルシア(Nursia)の名門出身のベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)は洗礼者ヨハネに捧げた修道院を建立。530年頃、ベネディクトゥスは修道会則を定め共同で修道生活に入ったとされる。※ 聖人に認定されてから聖ベネディクトゥス(St Benedictus)と呼ばれます。聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)は、全部で73章からなる修道院生活の規律が示されたもので540年頃に書かれた物と推測されている。中身は修道僧の規律となる生活に関する規範とクリストセントリックな生活(Christocentric life)を送る為の精神論だったとされる。多くは修道院と言うコミュニティーの中で謙虚に従順に在る方法や、修道院の管理に関する項目もあったが、食事の質や分量にまで言及されている。ざっと73規約を見たが、道徳に加え、かなり細かい行動内容にまで言及されている。学校の校則に近いものがあるそれは後に西ヨーロッパ中の修道会へ広がり中世ヨーロッパの修道制度の基本とされ導入されている。聖ベネディクトゥスが欧州修道会の父と呼ばれるのはそれ故である。※ 聖ベネディクトゥスは正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会でも聖人とされている。しかし、実際の全容は解っていない。実は、聖ベネデイクトゥスの死後、581年頃、モンテ・カッシーノはロンゴバルト人(Longobardi)により破壊されその原本が失われているのだ。僧院が再建されるのは718年。※ 表に出たのは難を逃れたベネィクト会の修道士から聞いた話しを 後に教皇(Gregorius I)となる聖アンドレアスの修道士グレゴリウス(Gregorius)(540年? ~604年)が著した事から広まったとされる。当時の聖ベネディクトゥスとベネディクト会が実際にどのような活動をしていたのかは定かで無いが、僧侶たちは毎日8時間祈り、8時間眠り、8時間肉体労働、神聖な読書、慈善活動に費やしていたとされる。聖ベネデイクトゥスが修道院を開いた頃は、西ローマ帝国が無くなり、イタリア半島がロンゴバルト人に浸食され始めた頃である。東ローマ帝国の力はまだ多少あったが、 欧州は絶えず異民族の侵略にさらされよりいっそう暗黒の時代を迎える事になる。そんな中で修道士の活躍はより必要とされた。ベネディクト会では指導できる修道士の育成を積極的に行い各地に派遣もした。教師養成所のような所でもあったわけです。※ ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院については以前ヴァッハウ渓谷 (Wachau) のメルク修道院でも紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架) 「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」について書いています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)下の写真、右の塔付きの建物がメルヴェイユ(La Merveille)の一部。塔はコルバンの塔。位置は北東のコーナーモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)地図下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図から。メルヴェイユ(La Merveille)の建物は北側。ブルーは参道のメイン・ルートを示した。(土産物やレストランの中店通り)※ 参道の途中あちこち山頂の教会堂を目指す階段も存在する。中世の修道院の役割初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来するものだったらしい。それは己自身を高める精神の修行が目的であった?しかし、中世中葉、ベネデイクトゥス以降の修道院は時勢により目的が違ってきた。彼らは己の精神修行よりもまずやらなければならない仕事ががたくさんあったからだ。荒廃した世の中の立て直しである。特に彼らは辺境地におもむき宣教よりも先に衣食住の復興や文化の復興もしなければならなかったからだ。輝かしいローマ帝国の文化はいつしか蛮族により荒らされていた。ローマ水道も破壊され、修復もままならず使用できなくなっていた。衛生的な水さえも手にいれられなくなり、文化度は所により原始生活にまで落ちていた所もあったらしい。辺境地に向かった修道士は大地を耕し、失われた文明を取り戻すべく活動を始めた。彼らの仕事には失われた書物の写本もあったが、とにかくギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究と共に修道士はそれらを伝えるべく、学校や図書館を作り文化の向上に力を入れた。彼ら修道士は村落の立て直しなどにも貢献し、農作物を育てる事なども指導していたと思われる。農作物も修道院では必要で在るし、聖祭の為のワイン造りは必要不可欠。彼らはその技術も当然持っていたからだ。彼らはそうした人々に寄り添いながら福音を述べ伝え、宣教活動もした。命を落とす事も多々あったであろう。殉教(じゅんきょう)と言うワードはまさにこの頃から再び増えて行ったと思われる。一つ気になるのは、庶民の識字率の低さである。彼らは読み書きは教えなかったのだろうか?もっとも、貴族の婦人でも中世半ばまで文字を読めない人はあたりまえにいたらしい。※ 識字率について以前書いています。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)メルクやザルツブルグの修道院で、彼らが写本していたのはラテン語の書物。大学など高学歴の人材育成に力が入れられていた?しかし ベネディクトゥスは高い学問を学びながら敢えてそれらを放棄させている。「学在る無知の教え」だそうだ。高い学問を一度は体験し、それらを軽んじる事は無いが、神の王国の前にそれらは必要無い。敢えてそれらを棄て、超越した世界に身を置く事を修行とした?それは高い学問を身に付ける事で悪徳の道に迷い、かえって身を滅ぼす者をたくさん見て来たベネディクトゥスの経験から来ているらしい。手前の建物がメルヴェイユ(La Merveille)呼ばれた建築。ネオクラシックのファサード? 一見ロマネスク風建築なのですが・・。聖堂の入口でもある。下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図ですが、をさらに解説を寄せて編集しています。左手前(北面)ゴシック3層構造のゴシック建築の部分であるが、全てひっくるめてラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)意味は必ず「驚異」とされているが、何? と思われるだう。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)は不思議とも訳される。本意は オッドロキー と言うところかな?それはゴシックを越えた? 建築技術に加え、まるで空中庭園のような屋上の回廊のある美しい中庭の存在だ。メルヴェイユ(La Merveille)は北側に位置するのでモンサンミッシェル全景の写真撮影ができない。下は世界遺産の本から持ってきました。トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設された。何しろ、そこは古来より神聖な岩山であったからだ。モンサンミッシェルの勢力の拡大と共に岩山の教会は拡大していく。最初の大きな聖堂の着工は1017年。1144年完成。重々しいノルマンディー・ロマネスク様式だったそうだが、クリプト(crypt)の強度の問題か? 15世紀には ひび割れが生じ危険な状態に。しかた無く聖堂の前部を取り壊しテラスにした。下は3層の一番下段。半分は岩山だ。聖堂の内陣も一部壊し、クリプトをしっかり造ってから造り変えるに至った。1446年から1521年。新しくできた聖堂の内陣はフランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)。フランボワイヤンは「燃えるような」と訳されるが、「火炎のような」華麗にして華美な装飾スタイルである。いろんな時代がミックスされています。聖堂は次回に後陣と聖堂の向こうには、3層構造の建物が絶壁に垂直にそそり立つように建てられた。これがラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる建物だ。上の図のラ・メルヴェイユの1階には礼拝堂付き司祭の間と貯蔵庫が置かれた。※ 司祭の間は巡礼者への施しも行われていた。2階、客間(貴賓室)と騎士の間。3階、広い食堂と回廊付きの中庭。※ 中庭からの眺めが驚嘆に値する絶景となっている。再び上層階に上がる大階段のある東面から3層構造の建物なのに一見、控えめなバットレス (Buttress)だけで支えられている。下は補強となるバットレス (Buttress)の部分を色を付けて見た。一見垂直に見えて、実は非常に巧みに組み合わされた控え壁の構造となっている。それは北面サイドを見れば尚さら驚ろく。バットレス (Buttress)15世紀と言う時代である。ゴシック様式でこれだけ高い建物で垂直性を物つ壁はなかなか見ない。石積みだけの壁は高くなればなるほど下方に重荷が来るので壁は外に湾曲にたわむのだ。それは天井にヴォールト構造が取り入れられるようになるとなおさら壁への負荷は増した。※ ヴォールトは次回説明します。だから壁が外に破れるように崩壊するのを防ぐ為に柱なり壁なりで押さえ込む構造で補強される。それがいわゆるバットレス (Buttress)と言う建築構造だ。因みにモンサンミッシェルでも聖堂部を支えるバットレスはまた異なる。フライング・バットレス(flying buttress)と言う飛梁(とびばり)構造になっている。フランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)の部分それはノートルダム教会の聖堂だと確認しやすい。あそこは側廊の壁面もフライング・バットレスだらけなので。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓因みにフランス語で「支え棒」の事を「アルク・ブータン(Arc-boutant)」と呼ぶらしくフランスの教会案内ではアルク・ブータンと説明されるかもしれない。それにしてもモンサンミッシェルのバットレス (Buttress)は奧が深い。計算され尽くし、かつ機能美さえも備わっている。最もモンサンミッシェルの場合、平地の建物とは異なり、裏側が岩盤により補強されている。1階の半分が岩盤なので可能だったのか?下は2階から3階の部。随所に見られる補強の構造に興味が湧く。3階のアーチは今はガラス? がはめ込まれている。危険だからでしょうね。227本の石柱で支えられた回廊式の美しい方形の庭園になっている。完成は1228年。聖堂より古い。回廊式中庭からの修道士の食堂 食堂は次回にアーチの向こうに広がる海原(うなばら)。見下ろすと目がまわりそうな高所で、空中庭園を想像?皆が感嘆したからラ・メルヴェイユ(La Merveille)驚異なのか? 不思議なのか?「驚異中の驚異」とも伝えられる。聖堂の翼廊の窓ですね。写真と解説を以前より増やした為に次回もモンサンミッシェル」です。なかなか写真のセレクトにも時間がかかり、また図解資料の着色などつまらない所で時間食っています。1週間程度で出せる予定です。緊急事態宣言5月31日まで延長されるようで、なかなか世の中が落ち着かないですね。とは言え、昨年に比べれば通常生活に近いかも・・。旅行は行けないけど・・。昨年から延期されていた姪の式が近づいています。ドレスを買いにデパートに行きたいが、デパートもドレス類は売れないので昨今はそう言う系は縮小されているそうです。でも来週こそ買い物に出かけなければ・・。ネットで失敗したので・・。飲食系だけでなく、そう言うイベント産業の人達も大変ですね。コロナ騒ぎに終息宣言が出されたとしても、完全にコロナ以前の世の中に戻る事は無い気がします。産業も形態も確実に変わって来る事でしょう。また、ネットが増えた昨今ですが、ネットではダメな分野は存在する。とは言え、今までと同じ事をしている企業はダメかも。コロナ後の新しい世界に生きる為に、誰もが進化しなければ。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年05月09日
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カールス教会 4 (天井画の聖人と黒死病)オーストリア共和国(Republic of Austria) ウィーン(Wien)カールス教会(Karlskirche) Part 4 天井画の聖人と黒死病前回に引き続いてヨハン・ミハイル・ロットマイヤー(Johann Michael Rottmayr)の天井画からです。観察するとこの天井画は、上に行くに程神の徳が高くなって位置付けされて描かれているようです。この教会は、「ペスト退散の守護聖人」、カール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウス)に献げられた教会と言う事で、天井画の中にも、もちろん聖人がいます。赤い衣が聖人ポロメーウスです。聖人ポロメーウスについては、調べたのですがこの時点では解りませんでした。しかし過去にペストが蔓延した時に、骨身を削って民衆の為に奮戦した聖職者なのでしょう。カール6世(1685年~1740年)はペストが終息するのを「聖人ポロメーウス」に祈ったと言います。そして、願いがかなったのでこの教会をお礼として建立し、聖人に献げた・・と言うわけです。聖人ポロメーウスの正体が判明しました。2014年9月「ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)にて紹介しているミラノの大司教聖カルロ(Carlo)(1564年~1584年)と同一人物でした。カルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)はドイツ読みだったようです。リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)聖人の位置は中段の下・・といった所かもしれませんが、そこは天界の中です。天界でも神の膝元に上げられた幸せな位置なのです。聖人ポローメウスの視線の先には・・・・十字架から降ろされたばかりのキリストが・・そのキリストに会いに来たモーセ? らしき・・がいます。調べたのですが、キリスト十字架降下の時もキリストの昇天の時も特に天界からの来訪者の記述はなかったと思います。私の見立てでは、旧約聖書の重鎮、預言者モーセか預言者エリヤかな? と思い、髪やヒゲからモーセのイメージだと思ったからなのです。老人は、神ではないのです・・なぜなら、この教会の最突端のドームの天井に父なる神が出現しているので・・。天井ドームも当然楕円形です。そこに神が鳥の姿をとって出現。ですから、天井画で、周りの羽根のある天使以外は、元人間であり、聖人となった者達です。下の絵は、下層の部分です。絵は、ペスト? 病気の者を看病する者や孤児らしき子供にミルクを飲ませている女性、それに薬らしき飲み物を渡す天使が描かれています。この部分は、そうした救護院的な奉仕をする者がたどりつく層なのかもしれません。黒死病(ペスト)の発生ペスト菌は本来リスやネズミなど野生のげっ歯類のかかる伝染病だそうです。ネズミなどからヒトへの感染は、ノミが感染した動物の血液を吸ってノミの体内で菌が増殖し、キャリアとなってネズミや人を感染させるからだそうです。ペストは、皮膚に黒紫色の斑点(敗血症によるチアノーゼ)が出る事から黒死病と呼ばれ、ヨーロッパでは非常に恐れられていた感染症です。何度も来る大流行によって一時はヨーロッパ全体の人口の1/3が失われたと言います。一説には、「ハーメルンの笛吹き男」の話は、ネズミの大量発生と子供の命が大量に失われた事を示し、ペストの発生が伺える内容だとか・・・・。キリストの架けられていた十字架・・この絵は聖人の頭上後方に描かれています。ペストは6世紀、14~17世紀、19世紀に大流行していますがそれは東西を結ぶ交易ルートに乗って広まったようです。ここウィーンではドナウ川が東西の交易ルートであり船が感染路だった可能性が大なのです。1679年にヨーロッパ各国を襲ったペストでは、ウイーンの街も街路が死骸で埋まる惨状で、異臭は街をお言い覆ったといいます。この時も時の皇帝レオポルド1世がペストが退散した記念塔を1693年に建立しています。設計士は同じフィシャー・フォン・エルラッハです。それから僅か数年で再びペストが蔓延したわけです。1713年のペストの流行はウィーンで17度目の発生だったとか・・。この絵の方がたぶん・・守護聖人のカール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウス)額縁が典型的なバロックしている・・天井画の写真もあまっているので、あと1回行きます。次回は聖杯と聖衣について紹介しています。リンク カールス教会 5 (聖杯、聖衣)ミラノの大司教聖カルロ(Carlo)と同一であったとは・・。先に紹介したリンク先のミラノでは「聖カルロの霊廟」も合わせて紹介していますし他にもキリスト関連の典礼なども紹介しています。この時点よりかなり勉強したので是非そちらをご覧下さい。Back numberリンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク カールス教会 2 (失われた帝都の遺産)リンク カールス教会 3 (ウイーン・バロックの巨匠) カールス教会 4 (天井画の聖人と黒死病)関連Back numberリンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
2010年07月31日
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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました。さて、旧「マリー・アントワネットの寝室」を改め「王妃のアパルトマン」として他の部屋もまとめて紹介します。ちょうど鏡のギャラリーの左右に左右対象に棟があり、北側(右)が王の為のアパルトマン(居室部)。南側(左)が王妃の為のアパルトマン(居室部)になっている。南側(左)の最初の部屋が「平和の間」。次の部屋はいきなり歴代王妃、ルイ14世妃、ルイ15世妃、ルイ16世妃と王妃の為の寝室である。それ故、「平和の間」が王妃の間の一部として娯楽室に使われていたらしい。最も現在の部屋は復元されたもの。革命後には何一つ残っていなかったからだ。新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)王妃の寝室貴人の間控えの間(大会食の間)衛士の間(スイスガード)右のピンクの矢印が王妃のアパルトマンの位置年代の参考にのせました。ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年) (在位:1774年5月~1792年8月)王妃の寝室王妃の寝室は1671年~1680年に完成した時はルイ14世の妃、マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)(1638年~1683年)の為に作られた部屋です。(調度品は全て銀製で揃えられていた)最も宮殿は建築が続いていたので騒音がひどく王妃はすぐに他の部屋に引越したらしい。1729年~1735年、15世の妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)の時に内装は一新される。天井はフランソワ・ブーシェ(François Boucher)(1703年~1770年)による「愛徳」、「豊穣」、「貞節」、「賢明」を円縁画が4作描かれ高貴な美徳が表現。1734年に描かれた扉上部の絵は、ナトワールの「青春の女神と美徳の女神」とジャン・フランソワ・ド・トロワの「栄光の女神」も見所だそうです。(写真はありません。)つまり内装はこの時、当時流行のロココ様式でまとめられた。現在の部屋はルイ16世の時代に造られているらしい。人が多いので全景の写真は撮れません。1770年にルイ16世の妃として、いよいよマリー・アントワネットが使用するようになると、部屋は彼女好みに改装される。天井の四隅にあるフランスとナバールの紋章に、オーストリア王家の双頭の鷲を加えるように、彫刻家アントワーヌ・ルソーに命じたと伝えられている。さらに、王立絨緞工場で夫ルイ16世とオーストリアの母(女帝マリア・テレジア)と兄ヨーゼフ2世(在位1780年~1790年)の肖像入りのゴブラン製のタペストリーを織らせて壁にかけたと言う。※ 部屋にあった物は全て革命中に紛失。現在の復元でも双頭の鷲(そうとうのわし)はいない。ベッドの天蓋です。ルイ16世の時代、最初の10年はロココ様式であるが、マリーアントワネットがトリアノンに行く頃には新古典様式のブームが来ていた。現在のこの寝室の装飾は、マリー・アントワネットが最後に使用していた「夏の内装」の再現だそうです。1787年にリヨンのデファルジュが納品した当時の寝台カヴァーが発見され、リヨンの絹織物製造組合が壁布を再現し、寄贈してくれる事になり、革命後何一つ残っていなかったこの部屋の復刻再生ができたそうです。※ リヨンの組合が寄贈したのは「孔雀の尾を絡み合わせた花束模様錦織の入った白地のトゥール絹布」で飾られた部屋とベットと天蓋とカーテンです。本当にゴージャス極まりない感じですね。ベットのサイドには同じ布が貼られた肘掛け椅子と折りたたみ椅子が置かれています。さらにシュベルト・フェッガー制作のセーブル焼きの磁器とミニアチュールで飾られた装身具用のタンスが戻されています。暖炉は1782年に金箔青銅の飾り付きのグリオット大理石に替えられています。彼女は1770年から1789年の10月5~6日の夜中に革命の暴徒から逃げ出すまでこの部屋の主でした。貴人の間この部屋は王妃の接見の間で、新たに宮殿に来た貴婦人らのお目通りの場所だそうです王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)の為に1671年ミッシェル・コルネイユが描いた天井だけが今も残っている。1785年まで壁は大理石と化粧漆喰(しっくい)で被われていた。高価な大理石を建築に利用したのはベルサイユが早かったが、部屋の主が変わった時、剥がして持って行く者もいたらしい。1785年、模様細工の腰板、鏡、及び金糸縁飾り付きの萌黄(もえぎ)色の絹織壁布に替えられた。グーチェール作の青大理石に青銅細工の暖炉もその時置据えられた。現在はマリー・アントワネットの時代に復元したらしい。天井は別であるが、内装は新古典様式(neoclassicism)ですね。ルイ15世の肖像画はゴブラン織りらしい。下は同じモチーフの絵画のようですが・・。ウィキメディアから借りてきました。紅いカーテンは色あせたのでしょうか?控えの間(大会食の間)天井は戦いを主題とするテーマ。しかも四隅には武器飾り。もとは衛士の間であったかららしい。衛士の間(スイスガード)天井八角形の絵は、神々の長が鷲のひく銀の車で形象化させた正義を従えて空を渡る所が描かれている。絵はノエル。クラベル。彫刻はル・グロとマウスの作品。最初、この場所は礼拝堂であったらしい。1676年に取り壊され壁は大理石で被われた。衛士の間になると、ここでは日夜衛兵が警護の為に詰めていたと言う。1789年10月、宮殿になだれ込んできた暴徒からマリーアントワネットは逃げる事ができた。最後まで忠義を尽くしてくれた衛兵はスイス人の傭兵(ようへい)である。以前スイス人の傭兵について書いているが、バチカンのスイスガード(Pontifical Swiss Guard)が今に残る昔からの衛兵です。最後までフランス王家に尽くして亡くなった兵士等の墓碑がスイスのルツェルンの街にあります。バチカンが今もスイス人の傭兵を雇っているのは、かつてバチカンが襲われた時に、最後まで守ってくれたのがスイス人だけ。イタリア人は真っ先に逃げたそうで、以降バチカンではスイス人のカトリックの信者のみしか雇わない事になった。その信頼があって、あちこちの王室で雇われていたらしい。時に同国人で戦う事も・・。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防絵は「ユピテルへの生け贄」「コリュバス達の踊り」ルイ14世(1638年~1715年)がこの宮殿の大改造をした時、建築はバロックが流行。ベルサイユ宮殿は古典主義的なフランス・バロックで他とは少し違った?絢爛なハロック建築は公式の場では威厳があるのでふさわしいが、生活の場では落ち着かない。バロックは教会などの内装にも使用されたが、主に建築で用いられたと言って良い。また、建築は一度造ったら長らく使用するので内装との一致はなかなか無いのかも。住居部の様式には落ち着きと安らぎが必要。1700年代に入ると趣が変化し、「軽快で繊細で華やか」「流麗にしてカワイイ」様式美が現れる。それはまだ前章で、それが後にロココ(ロカイユ)様式として確立するのです。パリ国立図書館では、このロココ(Rococo)様式は装飾様式として分類している。また、一般には18世紀にフランスで始まった様式とされるが、フランス・アカデミーは「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限られていると明確に示しているそうだ。ロココ(Rococo)様式とポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) は別の回で改めてやります。今回は前に紹介していなかった部屋も一気に入れました。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)Back number削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。リンク 新 ベルサイユ宮殿 1リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー) 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2009年06月13日
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2018年05月31日「新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)」を公開しました。内容はかなりくわしいものになっての改訂です。下をクリックすると直接飛びますスマホも同じです。リンク 新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)昨日に引き続きウェルウィッチアPart 2です。生態と長老を紹介します。世界で最も醜い植物 第4位 2 (ジャイアント・ウェルウィッチア)ウェルウィッチア(Welwitschia Mirabilis)1科1属1種の裸子植物である超珍稀植物。日本名が奇想天外。アンゴラ、ナミブ砂漠に群生する多肉植物とは書かれていますが、実は本当に多肉植物の定義に入るか? と言うと実はあやふやなのだそうです。多肉植物関係の人が係わったので多肉植物園芸の分野に落着く事になった? (実は行き場がない植物分類? )らしい。前回紹介した松かさのようなものからはがれたタネ。タネがひらひら飛んで、着床して芽が出たウェルウィッチアです。雄株のような気がします。まだ、葉は這いつくばっていませんが2枚葉が良くわかります。砂漠以外に着床したブッシュのウェルウィッチアは、地面を這わずに普通に天に伸びるので、環境適応は遺伝性ではないのかも・・。ブッシュの中で普通に生えているウェルウィッチアは、一見本当に万年青(おもと)です。ウェルウィッチアに非ずと言いたい別物ですね。(写真の容量の都合で載せません。)水分補給それにしても、砂漠で運良く着床できたウェルウィッチアも根が水源にたどり着く前に枯れてしまうので、なかなか生きていけないようです。前回も紹介しましたが、葉の気孔から大気中の湿気を吸収するか、長さ3m~10mにも達する根によって地下水を吸い上げていると言われています。ナミブ砂漠は年間の雨量が20ミリ程度で、大変暑く、砂漠の表面と空気は40~70℃に達する事もあり地表の水分も蒸発が激しく、植物にはとても過酷なのだそうです。が、海岸近くには年間100日ほどの霧の発生があり、年間50ミリ降雨量に匹敵する水分を得られるのだそうです。また、ウェルウィッチアの自生はナミブ砂漠の北に集中しているそうで、おそらく霧の発生にも関係しているのでしょう。絶滅しそうでガンバッテいるウェルウィッチア、自然の中に生きる物は強くたくましいです。下は砂漠の写真ですが、良く見るとウェルウィッチアが点在しています。ちょっと見づらいかもしれませんが、ウェルウィッチアは砂漠に一定の幅で一直線に生えています。Why?ウェルウィッチアは砂漠の下に走る水脈の上にきっちり着床して水を得ているのです。ウェルウィッチアの生ている所に「水脈あり」なのです。人間はウェルウィッチアを見る為に砂漠を走ります。おのずと道も水源に沿って走っていたわけです。実に面白い・・。ジャイアント・ウェルウィッチア(Giant Welwitschia)寿命は数百年から2000年と言われ、希少植物であることから、ナミビアでは厳重に管理されています。写真Bも実は石で囲われています。下、柵で囲われて保護されているのは樹齢1500年以上の雄の木だそうです。このあたりの最高齢の長老です。グランド・マザー・プラント? グランド・ファーザー・プラントですね。柵の横にやぐらがあり、上から見学するようです。アバウトですが、直径2.5mくらいで高さは1.2mくらい? の大きさがあるそうです。思った以上に大きいのです。でも、葉っぱは2枚なのだそうです。信じられないけど・・・。未知の国には神秘がいっぱい・・。
2009年08月23日
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Break Time (一休み)今回はユーロ(Euro)の紹介です。ユーロ(Euro) €ユーロは欧州の経済通貨同盟国で現在使用されている通貨です。但し、全てのヨーロッパの国が経済通貨同盟に加入しているわけではないので、加盟していない国は相変わらず、その国の通貨に両替する必要があります。2002年1月1日に現金の流通が11カ国で開始されてから、現在経済統合により導入しているのは16カ国に過ぎません。しかし、後発のユーロですが、今やドルに次いで、基軸通貨(国際間の取引に使われる通貨)になりつつあるお金です。オーストリア、ベルギー、ドイツ、フィンランド、 フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、スペインギリシャ、キプロス、マルタ、スロバキア、スロベニア※ その他、通貨同盟などによって、相手国と同じくユーロを法定通貨とした小国などもあります。(アンドラ、モナコ、サンマリノ、バチカン)ユーロの導入について導入していない国の中にはイギリスなどの大国も入っています。導入しているかしていないか・・については、その国の経済理由があるからなのです。ユーロの導入は、「その国の財務状況、物価の安定性、為替相場の変動幅、長期金利などについて、決められたマースリヒト基準をクリアしていなければならない。」と言う条件があります。つまり、加入したくても入れない国が存在するわけです。また、クリアできても、国民投票で否決される場合もあるのです。今回問題になったギリシャについては、そもそもそれら基準をクリアしていないのに、インチキして達成している振りをして加入に漕ぎ付けた経緯が指摘されています。ユーロ紙幣さて、今回、ユーロを紹介するに当たって、手持ちのお金では高額紙幣の持ち合わせがありませんでしたもっとも200ユーロ札や500ユーロ札に関しては、高額故にほとんど市場に流通していません。しかし、今回奥の手を使って紹介します。ユーロ表側 5、10、20、50、100、200、500ユーロ札の7種類。ユーロの紙幣のデザインはすべての国で共通。ユーロ裏側???? 実は、これは見本紙幣なのです。この紙幣は、2002年1月1日に現金の流通が始まる前に、パリの某デパートが事前の訓練用に使用していた、限りなく本物に似せた偽物なのです。突然の導入ではお店が混乱します。従業員に、事前に紙幣を覚えさせて間違えないように練習していた時のお札ですが、どうもデパート用ではなく、公式の練習用のお札のようです。実際のお札とどう違うか? 上の段が偽物です。偽物の方が、わずかに小さく出来ていますが、柄は一緒で比べると色が微妙に異なるのと、ホログラムが本物には付いている事が違う程度です。5ユーロ紙幣・・・本物1ユーロ・・東京三菱BKの昨日の買いのレートはCASH 114.37円。5ユーロ・・・571.85円。10ユーロ紙幣紙幣・・・本物 10ユーロ・・・・1143.7円100ユーロ・・・11437円200ユーロ・・・22874円・・・高額過ぎて市場にはない500ユーロ・・・57185円・・・同20ユーロ紙幣紙幣・・・本物50ユーロ紙幣・・・本物ユーロのコインコイン、上段は全て練習用の偽物。下段は本物。左から2ユーロ、1ユーロ50セント、20セント、10セント、5セント、2セント、1セントお札の柄は全ての国で共通ですが、コインに関しては、裏側は加盟国が各々自由な柄で印刷しているのです。肖像もあれば、国を代表するような建物。イタリアはレオナルド・ダビンチの人体図などのせています。1ユーロと2ユーロの柄が同じ国もあれば異なる場合もありました。2ユーロの重さは500円玉と同じでした。
2010年07月22日
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文の形体が崩れていたので修正しました。ついでに、2021年、3月24日今、ベランダの月桂樹はまさに花のさかりです。今年も咲いたのですさかのぼる事、昨年(2017年5月)「幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ」の紹介をしましたが、その直後に今度はベランダに置いていた月桂樹(げっけいじゅ)に花芽を発見。これはまたまた植物ネタか? と思ったのですが、花芽はそのまま夏を越え、秋を越え、冬を越えて3月に入るまで休眠状態? 花芽が出てから開花までに10ヶ月を要したのでした。しかもその花はうちでも10年ぶりの開花。私も見るのは2度目そんな訳でちょっと珍しい花の紹介です。月桂樹(げっけいじゅ)の花 雌雄異株月桂樹(げっけいじゅ)雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)月桂樹の花 雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)香辛料 ローリエ(laurier)性別記号(gender symbol)ベランダの月桂樹に花がやっと咲きました月桂樹(げっけいじゅ)学名 Laurus nobilis 「高貴な常緑樹」Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)Angiosperms(被子植物)Magnoliids(モクレン類)Laureales(クスノキ目)・・ 7科に100属2900種余り、大部分がクスノキ科Laureaceae(クスノキ科)・・55属2000種以上を含む被子植物の科・・多くは温帯南部や熱帯、特にアジア南東部やブラジルに分布・・精油を含み、芳香をもつ種が多い。Laurus(ゲッケイジュ属) L.nobilis(ゲッケイジュ)・・常緑高木。地中海沿岸原産。雌雄異株3月15日の花芽(直径5~7mm)上下共3月15日3月24日の花芽(花蕾)(直径1cm弱)上下共3月24日 花芽は割れて6つの花蕾に別れた。3月28日の花芽(花蕾)(直径1cm今思えば、この段階で雄花だと言う事が解る。つまり、うちの月桂樹の木はオスの木だったと言う事に・・。理由は簡単だ。月桂樹は以前紹介したアスパラガスの木と同じように雄(お)しべと雌(め)しべのいずれか一つしか持たない単性花(たんせいか)であり、しかもそれらは同じ木にには付かない。雌雄異株(しゆういしゅ)と言う別の株なのである。雌雄異株(しゆういしゅ)(dioecism)月桂樹(げつけいじゅ)の木は雌雄異株(しゆういしゅ)の形態を持つ木。つまりオスの木とメスの木が存在している種類なのである。被子植物の場合、花は両性花(雄しべと雌しべで一つの花)であるのが一般。自分で自家受粉(じかじゅふん)ができて結実する事ができるタイプが両性花(りょうせいか)である。雄花と雌花で別れるといと言う単性花(たんせいか)はむしろ裸子植物に近い。雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)単性花のうち雄花と雌花が同一の株につくタイプを雌雄同株(しゆうどうしゅ)と呼ぶ。一方月桂樹のように単性花でも、雄花(おばな)と雌花(めばな)とが別の株につくタイプを雌雄異株(しゆういしゅ)と呼ぶ。また、両性花と単性花が一つの株に雑居した雌雄混生タイプも存在。雄性両全性同株と呼ぶらしい。雌雄異株(しゆういしゅ)の場合、当然、自家受粉はできないので他家受粉となる。つまり雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)は自己受精を排除し、同種異系統(異系交配)を促進する方法の1つで、集団内に存在する劣性の有害な突然変異の発現を減少させるのだそうだ。月桂樹の場合、その繁殖方法は結実でなくても挿し木で増やす事が可能だし、観察していると毎年、月桂樹には側芽(そくが)が増え続け、株は横に広がって自生していくので雌雄異株(しゆういしゅ)の弊害はないように思う。それに必要とするのは香辛料に利用できる葉の部分なので雌雄の別になんら関係無い。その為もあるのか? 日本に流通している株のほとんどはオスの木らしい。開花は春初旬。オスの木は黄色の花が咲く(雄花)。※ オスの花が黄色に見えるのは実は雌しべの花粉の色なのである。メスは白い花が咲き結実して黒い実が付く(雌花)。それぞれの花は、直径1cmほどの中に6つの花蕾を持っている。ところでうちの月桂樹の花は、ほぼ10年ぶりに開花。なぜ?鉢植えだし栄養が悪かったのだろうか? 花芽の肥料は与えていたが・・。花芽の時に剪定していたか? いやいや花芽が10ヶ月もあったのだから間違って切り落とす事はないだろう。次も10年後なのだろうか?一つ言えるのは花芽の状態から毎年咲く事はありえないだろう。3月29日3月30日確かに雌(め)しべは見えない。あるのは雄(お)しべだけ。月桂樹の花解体してみた。(マイクロ撮りのできないカメラなので写りが悪いが・・)一つの花芽は1cm。花蕾に別れて一つの花自体のサイズは5mm程度。その中の雄しべは1mm以下。一つの花蕾に、花は6個。 花びらは4枚。 雄しべは10本。4月1日接写(限界)面白いのは、オスの木だけどとても甘い良い芳香がする事だ。確かに、虫に寄って来てもらわないとその花粉をメスの木に届けられないからね。納得そう考えると、芳香の強いものほど受粉を虫にたよっている種と言う事ですね。参考にメスの花を拾って来ました。さわやかで美しいてすね。雄(お)花は可愛く、雌(め)花は凜(りん)として美しい気がします。ところで、雌雄異株(しゆういしゅ)の木は実は珍しくない。案外身近にありました。キジカクシ目カジカクシ科 アスパラガス ※ 2011年6月「アスパラガスの木 「クイズ これは何でしょう? 」 解答編 」で紹介。イチョウ目イチョウ科イチョウ属 イチョウ (銀杏はメスの木に成る)ソテツ目ソテツ科ソテツ属 ソテツバラ目アサ科アサ属 アサ(大麻草)キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属 ハコヤナギ(ポプラ) ※ 日本のポプラはほぼオスの木らしい。キントラノオ目ヤナギ科 キヌヤナギクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 カゴノキクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 ハマビワクスノキ目クスノキ科クロモジ属 ダンコウバイ、シロモジ、アブラチャンクスノキ目クスノキ科シロダモ属 シロダモ、イヌガシ、ダイトウシロダモ ※ 月桂樹もクスノキ目クスノキ科です。クスノキ目多いですね。イチイ科イチイ属 イチイガリア目ガリア科アオキ属 アオキ雌雄同株(しゆうどうしゅ)の木マツ目マツ科マツ属 マツマツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属 スギマツ目ヒノキ科ヒノキ属 ヒノキ香辛料 ローリエ(laurier)ローリエ(Laurier)はフランス語で、ベイリーフ(bay leaf)は英語。ローリエ(laurier)は、月桂樹の葉を乾燥させた香辛料。ケルト語の「laur(緑色)」に由来するラテン語。そもそも月桂樹は小アジア原産の常緑低木で、かつては地中海沿岸に群生した林もあったらしい。昨年収穫して乾燥させた月桂樹の葉冷蔵庫に保管するといつまでも青々。4年前のもまだ青いです。青い方が製油も多く、香りも高い。楊枝の隣にある小さいのが市販されている一般のサイズ。その葉は、オリンピックなどの勝者に贈る月桂冠のリースで有名であるが、葉に含まれる精油の効能から薬用や料理に古来から重用されてきた香辛料である。近年、月桂樹の中に、血管を拡張する作用を示す物質が含まれている事が発見されたそうだが、欧州では食欲の増進や消化に効く。あるいは肝臓に良いとされて昔から利用されてきている。葉の成分に含まれるシネオール (cineol)、リナロール(linalool)、オイゲノール(geraniol)などのエッセンシャルオイルに効能があるようだ。特に葉の45%に含まれるシネオール (cineol)別名ユーカリプトール(eucalyptol)はさわやかな芳香と味を持つことから、食品添加物・香料・化粧品、薬用にも利用される成分だ。※ シネオール (cineol)はヨモギ、バジリコ、ニガヨモギ、ローズマリー、セージなどの葉にも含まれる。※ シネオール (cineol)の含有量の多い葉ほど高品質だそうだ。リナロール(linalool)はフレーバー、フレグランス両方の香料原料として使用される。オイゲノール(geraniol)もフレーバー、フレグランスに加え、殺菌剤や麻酔薬などの医薬品に用いられる。料理では肉料理の臭みけしとしてフォンドボーを造るのには欠かせない素材。一般にはシチューやカレーなどの煮込み料理から野菜スープなどにも利用。うちではコショウと同じくローリエ、タイム、オレガノは欠かせないハーブ。追記・・先ほど単性花と両性花で紹介した性別記号について・・。性別記号(gender symbol)元々は♂は火星、♀は金星を表す天文学や占星術で使う記号だった。スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)(1707年~1778年)が惑星の記号を生物の記号に利用したのが始まり。金星を表す記号は、雌記号 ♀ (Venus)。元はローマ神話の美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の持つ手鏡を図案化したもの? らしい。火星を表す記号は、雄記号 ♂(Mars)。元はローマ神話の軍神マルスの持つ盾と槍を図案化したもの。水星を表す記号は、雌雄同体の記号。つまり二つの性を持つ者。人間にはいないが植物にはある。元はローマ神話の商人や旅人の神メルクリウス(マーキュリー)の持つ、二匹の蛇が絡みついた杖を図案化したもの。だから本来、順番も惑星の配列(水金地火木土天海)に準じた並びになるそうだ。面白い。さて、次回はお金の話です。
2018年04月07日
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Break Time (一休み)前回紹介した「スペインのセゴビア水道」。そのセゴビアの街には名物料理があり、水道橋のあるアソケド広場あたりにも料理を出すお店が点在しています。(カステーリャ地方は焼き物料理が多いようです。)コチニージョ・アサード(Cochinillo Asado)はずばり仔豚の丸焼き料理です。上はアソケド広場近くにあるレストランのコチニージョ・アサード(仔豚の丸焼)料理です。こんがり焼けた色合いは美味しそうですが、ちょっと哀れをさそう頭が・・。本当にリアル仔豚料理ですよね・・。生後1ヶ月半以内、3~4キロ程度の仔豚で、まだ乳しか飲んでない仔豚を開いて丸焼きにしてしまう、ちょっと可哀想なお料理です。お肉があまりにも柔らかいので、豚を切り分けるときにナイフではなくて、お皿を使って柔らかさをアピールするのがセゴビア流です。ボーイさんが皿で切り分けてサーブしてくれています。皮は北京ダックのようにパリパリ。肉質は、柔らかい口当たりの脂肪分が口の中でとろける? (肉がやわらかすぎで脂身のような? (ここの店は、バターorオリーブをかけて焼くのか? さらに脂っこい気がします。)今まで食べていた豚とはまた別の次元のお肉の食感に、やみつきになる人が多いようで、他の街からわざわざ食べに来る人もいるようです。お店の焼き方や味付けにも違いはあるので最初に美味しいのにあたれば、あなたもやみつき? (頭の脳みその部分も全て食べ尽くしてしまいます。欧州の人って脳みそ好きですよね。白子のようらしいですが・・。やはり狩猟民族は違いますね。)下はトレドの豚肉料理の評判の店で出されているコチニージョ・アサードです。こちらのお店は頭も切り裂かれていて、「しっかり焼きました。」って料理ですね。仔豚の丸焼きはとてもシンプルな料理なので、素材の良さが決め手なのだそうです。こっちの方が見た目、リアルでないから良いかな? でも仔豚ばかりそんなに食べてしまって良いのでしょうか? それにしても日本ではペットにミニブタを飼う人もいると言うのに・・・。セゴビアの名物料理ではありますが、スペイン料理として浸透しているので、セゴビア以外の街でもたまに扱っています。かの文豪ヘミングウェイも「世界で一番美味しい料理」と絶賛したと言われています。セゴビアは仔豚の産地として有名で、この街から仔豚が供給されているようですが、料理が先か? 豚の飼育が先か? どちらでしょうね・・。また、スペインの植民地であったラテンアメリカや、スペインの入植した先々には仔豚料理があるようです。中世以降に考案されて広まったのでしょうね。追記マドリッドにスペイン最古のレストランがあります。(マヨール広場に隣接したレストラン)ボティン(BOTIN)の創業は1725年。世界で一番古いレストランとしてギネスブックに登録されているレストランで、ここのコチニージョ・アサードも絶品だそうです。そして、ここは世界中の政治家や著名人が訪れるだけでなく、色々な小説の舞台となったお店で、先に紹介したヘミングウェイもここのレストランの常連で、小説の中でこの店を絶賛してるそうです。ボティンのコチニージョ・アサードはドングリの木を薪に石釜で160℃程度で2時間半かけてゆっくり焼きあげるのだそです。いつか食べに行きたいです。
2009年06月04日
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ベルーガがナポリの空港にいたそうで、貴重な映像をもらいました。ベルーガ(Beluga)エアバス・超大型貨物機 A300-600STエアバス社は航空機の開発のために国際的な規模で共同出資してできたエアバス・インダストリーを前身にした会社です。航空業界では「保守のボーイングに対して、新技術を積極的に導入するという姿勢から、革新のエアバス」と呼ばれ両社は比較されています。(ライバル)(エアバス社自体は政治的な理由により生産施設を所有せず、生産を協力各社に発注している形をとっていると言う会社です。)ベルーガは大型輸送機 、スーパーグッピー (Aero Spacelines Super Guppy)の後継機として、開発された機体だそうです。(特大サイズの貨物、大型ロケットエンジンや旅客機の主翼や胴体などを空輸するために製造された広胴貨物輸送機なので、一般の旅客機とは構造が別物です。)下はスーパーグッピー貨物室を開いて荷積みをしている所です。成田で時々みかけるカーゴ機ですね。国際貨物で大型の物を輸送するのには欠かせない形状です。スーパーグッピー はもともとボーイング社の飛行機がベースの輸送機です。ボーイング377の軍用タイプであるC-97輸送機をベースに、エアロスペース社が1960年代に(アポロ計画の)サターンロケットを空輸する為に改造されたと言う歴史を持ちます。1970年代になって、前出のエアバスインダストリー(エアバス)が自社機組み立ての為に、欧州各地に分散する生産拠点から、胴体や翼などの大型品を最終組立工場まで輸送するためにこのスーパーグッピー4機が使われたのだそうです。その為、「全てのエアバス機はボーイングの翼によって届けられた」と皮肉られたようで、それもベルーガ開発の要因になったかもしれませんが、機体の老朽化により維持費が増大したのが本当の理由です。Airbus A300-600ST Super Transporter Beluga (ベルーガA300-600ST )ナポリのカポディキーノ空港で撮影。5機しかないので見られるのはラッキー。頭の数字は通番ですかね? 2001年1月に就航した5号機は、チャーター専用機だそうです。カワイイ形状とホワイトのボディから、通称ベルーガ(白イルカ)の愛称で呼ばれています。1991年より開発がスタートし、1995年より就航。5機が生産され、全機がエアバス社の関連企業SATIC (Special Aircraft Transport International Company) により運航されているそうです。貨物室は与圧無しで、直径7.26m長さ約37mの収容スペースが確保。上方に開く貨物扉が胴体前部の上部にあり、前方下の操縦席は、グッピーと異なり動かない。(その席を含む機首部分は貨物の出し入れの障害にならないように低い位置に移されている。)垂直安定性確保のために、垂直尾翼前方にフィンが追加されているほか、水平尾翼翼端に垂直安定板が増設されている。(ウキペディア参考)下は、ウキペディアでパブリックドメインに登録されて使用許可のある画像を参考の為に縮小して掲載させてもらいました。前頭部の開き方がベルーガと異なります。それにしてもダイナミック!!エアバス製コンポーネントの輸送(通常の任務)以外のカーゴとしても、エアバス外のアウトサイズ貨物の輸送にもチャーターされることがあり、1999年にはドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神を輸送するため成田に来た事もあるそうです。 2006年5月には国際宇宙ステーションヨーロッパ実験棟(コロンバス)のケネディ宇宙センターへの移送にも利用されたそうです。チャーターの特別フライトでなければ日本に来ることはないので、どこかで見られたら本当にラッキーですね。
2009年06月29日
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オーストリア共和国(Republic of Austria)ウィーン(Wien) 中央墓地(ツェントラルフリードホフ Zentralfriedhof)フーゴ・ヴォルフ(Hugo Wolf)(1860年3月13日~1903年2月22日)オーストリア出身の作曲家、音楽評論家。ワーグナーを賛美し、ブラームスを終生拒否し嫌っていた事でも知られる。1875年、ウィーン音楽院に入学するも2年で退学処分。父親からの財政的援助で何とか生活して、「サロンブラット(社交誌)」の音楽評論家になったそうです。その後1887年、音楽評論家から作曲家に転身。1891年末には、最高傑作を生み出し名声を得ていたと言われますが、気難しい性格が職業上の成功の妨げにもなり、財政的には常に逼迫したていたようです。(ウィーン・アカデミーのワーグナー協会や1887年にウィーンで設立されたフーゴー・ヴォルフ協会の支援で何とか生活。)彼の歌曲のベースはほとんどが詩人の作品(例えばゲーテ)を題材にしたものor自分の詩作に作曲したもののようです。ワーグナーを愛好するロマン派であるように、極度に深い詩の読み込みと彼の特異な想像力が呼ぶ幻想性は、彼の音楽が自身の主観的感情、思想表現、or内面性世界を伝えると言う抒情詩的解釈によるものらしい・・・。絶対的なこだわり派のようだ・・・顔を見てわかるが・・・。18歳の時に招いた梅毒の影響が現れ、精神病院へ強制的に入院させられて4ヶ月過ごし退院してトラウン湖で自殺未遂。その後5年狂気で過ごし43歳直前、1903年2月22日に永眠。マリア・ゲイスティンガー (Marie Geistinger) 日本語読みが解らないです。(1833年7月26日~1903年9月29日)オペレッタ歌手。ハプスブルク帝国の副都グラーツ(Graz)出身、両親はロシア人俳優。グラーツでは11歳でステージに立っていたそうです。1850年ミュンヘンでデビュー。1852年にウィーンにきてからオペレッタ作曲家オッフェンバッハのオペラに出演し活躍、オペレッタの女王に。1874年、ウィンナオペレッタの代表的な作品と言われるヨハンシュトラウスによる「こうもり(Der Fledermaus)」、1874年4月5日の初演の 妻役ロザリンデ(Rosalinde)だったそうです。1881年からアメリカ・ツアー等精力的にこなし、クラーゲンフルトで永眠。クラーゲンフルトの墓所から後に分骨されてこの中央墓地に。墓石の意匠が素敵。こうもり(Der Fledermaus)ヨハン・シュトラウス2世が1874年に作曲し、同年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演された全3幕のオペレッタ。ウィンナ・オペレッタの中でも最高峰とされる作品。物語が大晦日の晩の出来事を題材にしている事から、ウィーンをはじめドイツ圏の国々の歌劇場では年末年始の恒例の出し物で、大晦日のウィーン国立歌劇場の演目、年始のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの演目としても恒例となっているそうです。ところで、オペレッタは格式上宮廷歌劇場での上演は原則的に行われなかったそうです。1897年、5月、ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)音楽監督に任命されたグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年7月7日~1911年5月18日)が正式にレパートリーとしたと言われています。おまけ・・・どなたのお墓かわかりませんが・・・。ピアノの前で苦悩する男は作曲にゆきづまっているのか? ピアニストなのか?写真が完全じゃなくて残念。(何気に写っていたのを拡大したので写りが悪いですが・・素敵)あとちょっと墓地はつづく
2009年12月13日
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ラストに関連Back numberを追加しました。久しぶりに美術ネタでも・・と思ってセレクトしていたのですが、構想を練るうちに写真が足り無い、資料が無い。結局東京に戻ってからでないと完成できない事に気がつき断念 それはいずれ・・。そんな訳でまたまた迷走して、写真集めと資料集めに中之島の図書館と大阪駅を行ったり来たりと3日歩きました。年中使っている大阪駅ですが、知らなかった事がいっぱい。新しい発見も・・。で、今回は初めての方に解るように写真をたくさん載せて大阪駅の紹介をしてみようかと思います全2回の予定。大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)大阪ステイションシティー(Osaka Station City)現在の5代目大阪駅舎初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎大阪ステイションシティー(Osaka Station City)東京駅ほどではないが、JR大阪駅はかなり広い駅である。※ JR大阪駅に新幹線の乗入れは無い。新幹線は新大阪の駅に発着する。(大阪駅から東海道線で一駅)南側にはサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)がそびえ、大阪駅の顔となっている。※ 旧アクティ大阪そこにはデパートやホテル(グランビア大阪)も付随しているし、最近では、北側の操車場が無くなり、その広大な跡地の開発を進めている。すでに北側にはJR西日本がショッピングモールやレストラン、オフィスにフィットネスなど誘致した複合施設、ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)が建つ。それがノースゲートビルディングである。その新ビルにスムーズに入る為に造られたノースゲートからの3階コンコースと3階改札(連絡橋口)はとても使い勝手が良いさらにノースゲートの北側に建つグランフロント大阪も連絡橋で接続されているのでJR大阪駅に直結。JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝している。鉄道以外の商売にも熱心なようである。ホームからの北(ルクア1100)方面 右上に見えるのが新たにできた3階の改札(連絡橋口)プラットホーム全体を被う屋根が付き、台風などでも濡れずにすむようになった。この駅舎の鉄骨架設工事は送り出し工法で2004年4月から始まり2011年4月までの7年がかりで完成。3階改札(連絡橋口)に向かう途中の通路から3階の改札(連絡橋口)通路 奧が北エリアのルクア方面。南側のサウスゲートビルデイングから北側のノースゲートビルディング(Lucua とLucua1100)に繋がるコンコース(鉄橋)。さらにはノースゲートビルディングからグランフロント大阪には別の連絡橋でつながる。3階の改札(連絡橋口)中こちらは内部のが広いからすっきり。乗り場も解りやすい。大阪駅の問題点全体に良くなっているが、中央ゲートなど(地上階の昔からの改札)はとにかく動線が悪く、問題点はまだいろいろある。一日の乗降車数850000人。列車運行本数1500本。と利用客が増えているだけに年々手狭になっているのは事実。現在も乗降客はぶつかるように交差しながら狭い通路を進み、改札を出なければならない状態だ。人が多すぎて止まるとぶつかるし、先もよく見えない。しかも、下からだとホームの位置や番号も見つけにくい。(初めての人には解りにくい。)なぜだろう? 理由は東京駅の造りと比べると良くわかる。大阪駅は、駅の南北への一般の通り抜けが優先されて、通路が広く確保されている一方、駅利用者の改札内部のスペースがあまりに狭すぎるのだ。(現在の利用客数に見合っていない狭さ。)東京駅を参考にするなら、現在一般客が通り抜けしている通路全体を改札内部にすれば、すっきり解決できるだろうに。因みに東京駅にも通り抜け通路は存在している。でも圧倒的に駅利用者を優先した造りになっている。それ故、東京駅の構内は恐ろしく広い。完全駅中のマルシェが多数存在しているのも納得なのだ。ついでに問題点をもう一つあげると、大阪駅はバリアフリーにはほど遠い構造だと言う事。今でこそ、多少エレベーターなども設置されてきたが、車イスの方やベビーカーを押す人、あるいは大きなスーツケースを持って歩く人にはかなり不便な環境なのである。それは、駅自体が継ぎ足し拡張である事が上げられる。また、サウスゲートの大丸とグランビアの入る正面ビルと中央ゲートからのコンコースは、土地の高さにかなりのズレがある事だ。中央改札からサウスゲート側に出るのに、階段を10段ばかり上らなければ外に出られない。しかも、そこにスロープもエスカレーターも無い。かなり迂回するか、持ち上げて階段を登るしかない。そう言う意味も含めて、初めての方や、体の不自由な方、また荷物のある方などは3階のコンコースから改札を入る事をお勧めする。3階からだと全てのホームが一目。ホームも見つけやすい。(うろたえないですみます)※ 地下鉄乗り換えの場合は話が別。3階までの昇降時間を考えると、地上階にある中央ゲートや、御堂筋口ゲート、桜橋口ゲートを使用する方が早い。因みに、大阪駅では改札により、目的地がはっきり別れている。しかも、駅構内は解りにくいほど入り組んでいる。間違えると後が厄介です。だから誰かに聞くなら、まずはホームの上で「どの改札」を出たら目的地に近いか聞く事をお勧めします。ルクアイーレ(Lucua1100)にある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラマ※ 映り込みが激しいので背景を消しました。右の建物が南ゲートのサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)現在の5代目大阪駅と周辺をざっと紹介。地図はJR西日本が発行している冊子からのものです。6ヶ国語くらいに対応してました。ピンクの囲い・・JR西日本の「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のエリア北側ブルーのビル・・ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)中・・・JR大阪駅(Osaka Station)南側オレンジ・・サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)(上階・・ホテル・グランビア大阪)(下の階・・大丸デパート梅田店)参考にグリーンで囲った所・・阪急デパート梅田店と阪急電車梅田駅。薄いブルーで囲った所・・阪神デパート梅田店と阪神電車梅田駅。現在の5代目大阪駅舎大阪駅西側 桜橋口各ホテルの送迎バスの発着所がガード下にあり、右手前の桜橋口前はタクシー乗り場になっている。下の写真は、桜橋口を上から見た所。四つ橋筋からの撮影。大阪駅サウスゲートとなるサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル) 正面旧 アクティ大阪の時は、駅舎としの存在意義に欠けていた。ノースゲートとの連絡通路の接続の為に改修工事が行われ現在は大阪ターミナルビルとして一役かっている。実際サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)が大阪駅の顔だしね 現在、新たな駅前地下道の工事中。完成されれば、歩道も広がり、利用のアクセスももっと良くなるはず。真っ直ぐ進めば大丸デパートの間を通り段差を経て、中央コンコースに。エスカレーターで2フロア上がると、先ほど紹介した3階の連橋口に出る。左が大阪駅グランビア大阪。中には大丸デパート梅田店が・・。正面のビルが阪急デパート梅田店。写真右の建物が阪神デパート梅田店。ここはデパートのトライアングル地点ですね因みにこの道路の地下には阪神電車の梅田駅がある。今度は反対に御堂筋の歩道橋の上から南側駅前通りを撮影。御堂筋の歩道橋の上から大阪駅東側。バス停車場とピンクの↓下が御堂筋口。参考までに、飛行場までのリムジンバス乗り場の地図を乗せました。地下道だけではどれも行けず(雨の時は困る)、いずれも不便です。初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎不思議に思っていた事がある。都会の一等地なのに、貨物車の駅があったり、操車場があったり近年まで大きな開発がされないできた事に・・。理由はそればかりではないかもしれないが、前々回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中で書いたよう、かつて梅田墓所や火葬場があった場所に大阪駅はできたからのようだ。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)古い記録には、「摂津国西成郡第三区七番組曾根崎村、通称梅田千日の墓所を取り払い停車場を建つ」と記されているそうだ。当初、大阪駅は堂島に建設する予定だったらしい。しかし土地の買収を終えた後も「火の粉で人家が火事になる。」と、反対運動が再燃。そんな事から人家を遠く離れた梅田三昧(さんまい)墓地(通称 梅田千日墓所)に決まったらしい。※ 場所の移動にともない、路線も堂島から本庄・中津経由の吹田であったのが、本庄から吹田に変更。かくして初代の大阪駅は西成郡曾根崎村字旧天童(旧大阪中央郵便局の西裏)に変更された。当時の梅田は泥田の中に葦が生える荒れ地。そしてそにあるのは墓地と火葬場くらい。土地も安い。とは言え、鉄道用地として一反(いったん)(300坪、990平米)45円と高額に買いあげたらしい。※ 坪15銭。だから駅を建設した後も卒塔婆(そとば)が残っていたと言う。※ 資料はルクアのジオラマの所にあった駅史と、中之島図書館で見つけた「旅客輸送の100年(大阪府寄贈)」と、「大阪春秋13号、大阪駅舎物語」から。※ 近年の再開発でもお骨や墓石が出てきているようです。初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。1874年(明治7年)5月11日。大阪~神戸 間に関西で初めての鉄道が開通。我が国2番目に施設された鉄道だったらしいが、駅舎の建設が間に合わず、ホーム以外は仮の状態でのスタート。※ 日本初は1872年(明治5年)10月、新橋駅~ 横浜駅 間。駅舎は木造に赤煉瓦貼り。二階建て瓦葺きの西洋風。前面に池と植木が植えられ、当事としてはハイカラな駅舎。皆がお弁当を持って見学にきたと言う。「梅田ステンショ」の愛称で親しまれたそうだ。 ステンショ ? Station ?大阪発の神戸間20里(約74.54km)余り、所用時間は1時間10分。※ 1里=約3.927km。1日8往復。車両もレールもイギリス製。高給の外国人技師によって運転されていたらしい。運賃は大阪から神戸までで片道 上等1円。中等70銭。下等40銭。当事米一升が5銭。 ※ 米1升=10合=約1.5kg。1円=100銭。 (Xg:100銭=1.5kg:5銭)上等1円の運賃で米が30kg買えた事になる。つまり高額すぎて乗車できたのは、華族か、金持ち。あるいは居留地の外国人か貿易業者くらい。それでも一生の思い出? 冥途の土産? に乗った年寄りも多かったらしい 1889年(明治22年)7月、東海道本線、新橋~神戸 間が開通。 急行列車で所要17時間。1900年(明治33年)寝台車が連結。2代目駅舎に変わるのは1901年(明治34年)。その話は次回につづく。リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)Back number 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)大阪については以下も書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年11月15日
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ついに風邪をひいてしまいました。ここのところ忙しかったから・・・ところで地球の最北地からアイスホテルの写真が届きましたので2回くらいで紹介。ベルベル人の住居はその後に・・ノルウェー、アルタのアイスホテルとノールカップノールカップ(Nordkapp)ノルウェー、マーゲロイ島にあるヨーロッパ最北の地です。座標は(北緯71度10分21秒、東経25度47分40秒)を示している。マーゲロイ島、本当の最北の場所はノールカップより約1.5km北のクニヴスシェロデン。下に見える写真上部の突き出た突端がおそらく最北点。岬には地球儀型のモニュメントがあります。北岬は307mの崖にある。この岬に通じる道路が開通したのはつい近年の1954年。写真に見えるのはノールカップ・ホール。これが出来て年々観光客は増加し、1999年に海底トンネルが出来て大陸のコーフィヨルドまで繋がった。証明書は50クローネ(800円くらい)。購入して所持している事が証明になるらしい。さて、島にも飛行場はあるようだけどノールカップに行くには大陸側のアルタの街の飛行場が使われます。(オスロからの直行便がある)そのアルタの郊外に2000年にノルウェー初のアイスホテルがオープン。もちろん1月中旬から4月中旬くらいまでの期間限定だそうです。アルタ・イグルー・ホテル(アイス・ホテル)120年程前にこの地に住み着いたウィスロフー家の3代目が1989年ロッジをオープンしてオーロラ鑑賞などの顧客を呼んでいたようです。冬場だけのアイス・ホテルのオープンですが、オーロラ鑑賞もできれば一石二鳥?と、思いがちですが、わざわざ寒い思いをして宿泊する人も最近はあまりいないようで゛す。特に不景気で・・・。全景は撮影できなかったようです。(地形的に)ウィスロフー家のお嬢さん。入り口はトナカイの皮で仕切られている。ホテルの設計から施工までアルタ自然公園の職員が秋から暮れまで約6週間で造るようです。今年は1月16日からオープン。2つめの入り口中に入ると正面がアイス・バー。ここはちょっとしたホールでロビーは別館のロッジにあります。アイス・バーホテル内は氷のオブジェがいろいろ。毎年テーマがあるようで、今年も北極探検がテーマなのかもしれません。ノルウェーは物価が高いのでカクテル1杯が約1700円くらい。高いアイスバーの席とテーブルです。この席が全部埋まるのでしょうか?建物内はマイナス4~7度に保たれているそうです。ロウソクのせいなのでしようか? 冷気で写真が霞んでいます。寒そうですね・・・つづく
2010年03月22日
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「シュロ」について追加しました。今回写真は降誕のファサードの彫刻を拡大して紹介です。最近NTTコミョニケーションズのCMに出演されているサグラダ・ファミリアで主任彫刻家をされている外尾悦郎氏の彫刻も紹介します。サグラダ・ファミリア 2 (降誕のファサード)サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia) Part 2降誕のファサード主任彫刻家、外尾悦郎氏の彫刻教会の建設理念と建築士サグラダ・ファミリアの聖堂は五身廊、三翼廊(三袖廊)、身廊と側廊が列柱によって分けられるラテン十字型のバシリカ形式の聖堂です。下は聖堂の平面図です。水色のラインが聖堂の主祭壇です。1が受難(西面)のファサード4が降誕(東面)のファサード2の下が(南面)にできる栄光のファサードの位置です。前回から紹介しているのは、ガウディの存命中に立ち上がっていた4本の鐘楼がある東側、降誕のファサードです。今回使用の写真は説明上季節がまちまちになっていますのでご了承下さい。加えて上の写真は聖堂内部完成前の写真です。教会の完成時にはイエス・キリスト、聖母マリア、4福音書記者、そして12使徒を象徴した塔、合計18本の塔が立つ事になるようです。(現在10本の塔が未完らしい。)降誕のファサード(生命のファサード)キリスト誕生にまつわる聖書の話が具現化された彫刻で飾られています。左の門がヨセフを象徴中の門がイエスを象徴右の門が母マリアを象徴これら門に飾られている一部彫刻はガウディのスケッチに基づいて後世、外尾悦郎氏らによって彫刻されて設置されています。左の門より幼児虐殺の彫刻これはイエスの生誕を恐れたヘロデ王がその年にあたる子供をかたっぱしから虐殺する命令を出した事を象徴。生まれたイエスを連れて逃げる図風化が見られるので、最近の作品ではないようです。これは彫刻によって見る聖書そのものでもあります。中の門よりイエスの誕生を祝福する天使たち右のハープの天使拡大主任彫刻家、外尾悦郎氏の彫刻です。2000年に15体の天使像を完成させ、設置したことにより、降誕のファサードは完成されたのです。だから古いサグラダ・ファミリアの本には載っていません。右の門上部 誕生したイエスを祝福する三博士・・だと思います。左には植物のシュロが彫り込まれ、誕生の門の外壁は生命のみなぎる植物のような有機的なものになっていて、後に紹介する受難のファサードとは真逆の様相です。有機的な・・と言うところからすれば当時のモデルニスモ、所謂アールヌーボーの要素になっています。象徴としてのシュロ(ナツメヤシ)古来ローマよりナツメヤシは勝利のシンボルだったそうです。それがキリスト教に入ると殉教者の勝利に対する死を象徴するものとなったようです。他に聖書では様々な形でシュロが登場してきます。キリストのエルサレム入場の時に民衆が持ってユダヤの王(キリスト)迎えたのもシュロ。右の聖母の門においては、マリアが受胎告知で大天使ガブリエルから受け取ったのもシュロなのです。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻教会の建設理念と建築士さかのぼれば教会の着工は1882年3月19日。聖ヨセフの日に礎石。教会の建築を望んだのは聖ヨゼフ信心会を設立したホセ・マリア・ボカベージャ(1815年~1892年)。当初はヴァチカン詣でをした帰路に見たイタリア、ロレットの聖家族教会、そのバシリカと同じ聖堂を作る予定だったようです。彼は敷地を購入して主任建築士を教区建築家であるフランシスコ・デ・パウル・デル・ビリャール(1828年~1900年)に依頼。(最初からガウディが設計していたわけではないのです。)時代は産業革命後の社会的変革期・・人々の生活形態が急速に変わり、「脱教会化の風潮」の中、教会の威信が衰え始めだしていた頃です。聖ヨゼフ信心会の人達は家族の安定、社会秩序の礎石となるよう教会の建立を決め、教会が完成したあかつきには教区の子供達の学校、病院、労働者の為の職業教育のアトリエ等の敷設も備えた総合的な施設を構想していました。簡単に言えばキリスト教教会による社会的センター建設であり、それはすなわちカトリック信仰への人々の回帰をも望むものであったようです。しかし聖ヨゼフ信心会は会員数こそ多いものの貧しいカトリック信者の団体だったようで寄付を主体とするサグラダ・ファミリアの建築は最初からスローペースで始まります。今回ローマ教皇が訪問して聖堂開きがあっわけですが、当時のローマ教皇レオ13世(1878年~1903年)はサグラダ・ファミリアの建築の為に、バチカンへの奉納金を半分に減額して後押ししていた・・と言う経緯もあったものと思われます。(当時のローマもカトリック離れを憂いでいた。)アントニ・ガウディの大抜擢当初のデル・ビリャールの設計ではアカデミックなネオ・ゴシックの教会になる予定だったようですが、作業が始まってまもなく信心会とデル・ビリャールの間で意見対立があり、デル・ビリャールは更迭。後任は建築家ホワン・マルトレルの紹介により、31歳の若い建築家アントニ・ガウディが選任されたのです。1883年11月3日、建築家アントニ・ガウディは主任建築士となり、亡くなる1926年までの43年間の生涯をこの聖堂建築に携わる事になります。携わる・・と言うより、この建築に私財も生涯も捧げた、のめり込み方だったようです。アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet")(1852年~1926年)スペイン、カタルーニャ出身でバルセロナで建築を学びバルセロナを中心に活動した建築家です。時代はアール・ヌーヴォー期、スペインではモデルニスモと呼ばれるモダニズムな時代に独特の感性で表現した建築家で、サグラダ・ファミリアにも見られる変わった建造物を彼はバルセロナに他にも幾つか残しています。その類のない彼のデザインの根底にはスペインに土着したイスラムからの文化、ムデハル様式の影響を大きく感じるところです。ムデハル様式 (estilo mudejar)レコンキスタの後、イスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイル。Back numberリンク サグラダ・ファミリア 1 (未完の世界遺産)サグラダ・ファミリア 2 (降誕のファサード)リンク サグラダ・ファミリア 3 (生命の木)リンク サグラダ・ファミリア 4 (未完の理由 と主祭壇)リンク サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)リンク サグラダ・ファミリア 6 (天井の立体幾何学模様)リンク サグラダ・ファミリア 7 (ステンドグラス)リンク サグラダ・ファミリア 8 (受難のファサード)リンク サグラダ・ファミリア 9 (鐘楼のバルコニーから)リンク サグラダ・ファミリア 10 (教会建設)
2010年12月06日
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近年ステンドグラスの工房が流行っていますが、例えティファニーランプを作らなくても道具やガラス、鉛線・・等お金がかかる世界です。続けているのはお金のあるマダムばかり。そう言えば、かつて鳩山夫人もティファニーランプを作っていましたね。ティファニーランプの神髄は美術品としての装飾性です。ティファニー・スタジオではランプのシェード以上に土台となる台座の美術性を注視しています。ですからティファニーのシェードを乗せる台座も完璧で無ければならなかったはずです。高級なプロンズ像の上に完璧なランプシェードが乗ってる・・それがティファニーランプでなければならない・・・と私も思います。つまり、シェードの出来もさることながら「安物台座に乗せてくれるな・・」なのですティファニーランプ 藤のランプシェード 1セレブの愛した装飾ランプ Part 2ティファニーランプ(Tiffany Lamp Shade) 藤(Wisteria)ティファニーランプの工作・・・ステンドグラスルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)今回紹介するのは「ティファニーランプ」の代表格とも言うべき藤の花房をあしらったランプシェードです。今回も私の作品です。藤の花のランプシェードは、カーティス・フレッツェル婦人のデザインで発表当時から人気商品だったそうです。明かりをつけた印象明かりをつけていない時の印象 ドラゴンフライのランプ台よりは気持ち低い。ステンドグラスは使用する時の目線の高さに設定して台を選ぶと良いのです。このツリー型の台は高さが何パターンがあります。藤のランプは今もティファニーランプを作る人にとってはあこがれのシェードです。ただ実際にこれを作る人はあまりいません。なぜならお金がかかる事もさることながら、根気のある人間でなければ途中で絶対挫折する事になるからです。オリジナルの型紙で、ガラスのピースは全部で1945カットもあるのです。型紙の切り出しの段階で挫折する人も多いようです。この作品はデザインを多少自分なりに変更しています。1945ピースに加えて70ビース増やしているので全部で2015ピースになっています。明かりをつけていない状態コンセプトは白藤と紫藤のコラボです。オリジナルデザインでは花房がはっきりしていないので、はっきり房が解るようにデザイン変更しています。藤の花のランプは虚無僧(こむそう)のかぶる笠の形に似ています。このランプにもトンボの時のように足して買わなければならないパーツがあるのです。藤棚を伸びるつるを表した傘のようなベースが必要になります。藤の花のランプを作る時の最大の難所が実はこの傘の部分である・・と言うのはやった事のある人でなければわからない苦労が・・。鉛でコーテイングするのに半田コテを二刀流で3人がかりでした。さらに伸びる小枝の部分を表した特性の鉛でできた枝が必要になっているのです。これらのパーツがまた加算される上に、このパーツ故にランプの台は藤の花の場合はツリー型と決まってしまうのです。下から裏を見た所。このランプは4球なのでドラゴンほど明るくはありません。よくキングサリのランプシェードを紫のガラスにして藤のランプにする方もいるようですが、このランプシェードがオリジナルのティファニーの藤です。キングサリと藤では、そもそも樹形が全く異なります。下の写真はほぼ実寸に近いかもしれません。(画面の大きさで違いますか・・・)小指の爪ほどのピースばかりなので、組み立ても最も大変なランプであるのは確かです。1,型紙を切ってナンバリングして・・・2.両面テープで固定してガラスに貼り付け・・・3.ガラスをカットして・・・4.ガラスを研磨して・・・5.型紙をはがして綺麗にしてからカッパーテープで巻いて・・・6.半田でランプに一つずつ貼り付けて・・・7.仕上げる・・のがステンドグラスなのです。だいぶん割愛していますが、手間がかかるので材料費に加えて人件費がかかるのでティファニーランプはとても高価になるのです。買えないから自分で作ったのですが・・・1年かかりました。それでも型紙代金やベースとなるモールド代金、傘の部分に枝。ガラスも大量に使うし、カッパーテープや半田の値段を考えるとやはり材料費で数十万はかかっています。私のランプはどれも明かりをつ付けていない時は淡い色に設定しています。付けていない時のが多いので・・。でも光を入れた時には上品に色が出るようにガラスを選んでいます。30cm角のガラスで1個しか取らない場合もあります。気に入るガラスがないので途中で辞めている・・作品も実は残っているのです。まあ、こだわりはさておき、丁寧に作る事が大切です。その簡単な見分け方は、接合部のハンダの太さです。カットを失敗して角が落ちたのをハンダで埋めてごまかしているようなのは駄目です写真がまだあるので分割する事にしました。次回写真は明かりをつけた時のランプで、ルイス・C・ティファニーを少し紹介します。ステンドグラスのBack number ティファニーランプ 藤のランプシェード 1リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 2リンク ティファニーランプ 蜻蛉シェードリンク ティファニーランプ ポピーのランプシェード
2010年09月23日
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ルーヴル美術館 8 (天井の装飾) フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 7ルーヴル宮殿室内装飾ルーヴル宮殿の室内・・と言っても下は作品の展示になっているので、天井ばかりですが、あまりに素晴らしかったので写真にとっていたものから少し紹介します。宮殿内の様式や時代もまばら、撮影場所も定かではないですが主にバロックです。最後に変わり種もありますが・・。さすがフランス王家の宮殿です。やっぱりゴージャスです1650年代to欧州では建築、絵画、彫刻、演劇、音楽と、文化の潮流がバロック芸術へと移行。ルイ14世の改修はそんな中で行われています。ルイ14世の宰相マザランはイタリア出身であった為に1640年代からイタリア・バロックが導入。特に建築家フランソワ・マンサールは、古典的なバロック建築を好んだようで1667年~74年)のそれは、フランス古典主義建築の最も完成された姿、ルイ14世様式とも呼ばれるようです。部屋のコーナーを飾るこうした彫像は単体でも貴重な美術品です。ローマに留学していた画家ル・ブランは、ベルサイユの内装をローマ・バロック様式で手掛けていますが、天井装飾は、スタッコ装飾またはトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法による額縁に縁取られた天井画を描いています。それに対してここにトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法はありません。すべてリアル彫像になっています。ところで、ルイ14世は、ルーヴル宮殿の改修に巨費を投じながらも、1660年宰相であったマザランが死去すると、忌まわしい思い出のパリを捨て父王の好んだベルサイユに王宮を移してしまいます。(1678年ルーヴルの工事も中止)ニコラ・フーケのヴォー・ル・ヴィコント城のせいだけではありません。僅か4歳で即位したルイ14世にとってパリは内乱の多い恐ろしい街だったようです。一説には潜在的な民主嫌悪症があって、ルーヴルがパリの民衆に取り囲まれているのが不安だった・・と言われています。昨年6月の「ベルサイユ宮殿 1」と3で紹介。本当に、「威厳」と言うものを感じる装飾です。ベルサイユよりこちらの室内装飾の方がお金がかかっていると思います。6月「ベルサイユ宮殿 3 (ベルサイユ宮殿とパロック芸術)」でフランス・バロック様式について少し紹介しています。ベルサイユは当代唯一の芸術家の御三家(美術家、建築家ル・ボー、画家ル・ブラン、造園家ル・ノートル)が造りあげたトータル芸術で、傑作ではありますが、ルーヴルはベルサイユの装飾より私好みかもしれないかなり傾向の違うこの部屋は新古典様式の影響ありつつ・・の帝政様式なのかもしれません。帝政様式(Style Empire)建築での帝政様式はあまり見かけませんが、基本はデザインの様式です。ナポレオンのフランス第一帝政時代に始まりフランスの地位を理想化することを意図したもの・・だそうで、分類としては第2次新古典様式と見なされる場合も・・・。帝政・・Empire のフランス語発音からアンピール様式、英語読みでエンパイア・スタイルとの呼び方もあります。(私はナポレオン様式と呼んでますが・・家具では赤色に金彩色のテキスタイルが特徴かもしれません。足や肘掛けがエジプトを思わせる派手な彫刻がある場合も。本当にどこもかしこも、「凄い」に尽きます。絵画だけ見て帰るのはもったいない。おそらくナポレオン3世の時代か? より新古典様式でも帝政様式の色濃く出た装飾の部屋。なかなか見られない装飾です。例えるならギュスターブ・モローの絵画のようです。絵画部門、最近写真撮影ができるようになったので若干あるのですが。気がついたら連休に突入・・・明日からちょっとお出かけですパソコン持って行くので更新なるべくするようにしますが、休日バージョンで行きますルーブル美術感一応終わりです。back numberリンク ルーヴル美術館 1 (ニケ、ヴィーナス他、彫刻)リンク ルーヴル美術館 2 (ギリシャ彫刻)リンク ルーヴル美術館 3 ( ミケランジェロの奴隷像)リンク ルーヴル美術館 4 ( オリエント美術)リンク ルーヴル美術館 5 (オリエント史)リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)リンク ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)ルーヴル美術館 8 (天井の装飾)
2010年04月30日
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追記 Break Time(一休み)美貌のオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)こと愛称シシィ(Sissi)が宮殿を抜け出してまで買いに出かけた・・と言う伝説のお菓子を紹介。つまりこれぞ本物のセレブの愛したお菓子・・と言うわけです シシィとゲルストナーのスミレ菓子ゲルストナー(Gerstner)砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)ウィーン美術史美術館のレストラン本店はウィーンのシュテファン寺院の近くケルントナー通りにあります。創業は1847年。ベストリーのお店としてアントンとバーバラ・ゲルストナー(Anton and Barbara Gerstner)によりオープン。1869年にはオペラ座で軽食を始め、1873年には皇室御用達の菓子店に認定されました。現在はオペラ座や美術館にレストラン出店もしていて、カフェレストランとして知られていますが、私達観光客にとってはゲルストナー(Gerstner)と言えばやはりシシィのスミレ菓子でこそ有名なお店です。1個11.90ユーロ (1ユーロ140円として)1670円。20粒くらい。よくよく考えるとかなりお高いシシィ(Sissi)とはエリザベート・アマリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ (Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)(1837年~1898年)16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ彼女は窮屈な宮廷生活を嫌い、(姑と気が合わなかった? とも言われている。)夫に同伴したり極力宮廷にいる事をさけ旅行にもよく出かけていたといいます。(晩年は北アフリカにも出かけている)また宮中にあっては美容に気遣い、彼女の使用した美容の道具なども公開されています。特にウエスト50cm、体重50kg、身長172cmと言うモデル体型は彼女の自慢であり、それを維持する為の努力は惜しまなかったようです。ゲルストナー(Gerstner)の砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は彼女のお気に入りの1つで(前述私の推測では口臭予防の為? ) 宮殿を抜け出して買いに出かけた・・と伝えられるお菓子ですが、宮殿を抜ける口実もあったかもしれませんね。本当に砂糖付けされただけのスミレの花は甘くてちょっと独特な清涼感がある。はっきり言ってこのまま食べても別に美味しいと言うほとのものではないが・・。ふと閃いた熱湯で溶かしてみよう美しいスミレ色のティーになりました。甘さはそのまま食べるよりもまろやかになり、清涼感が増し、口臭を抑える役目があったのか? と言うお味でした d(-_^)good!!もしかしてシシィもこうして飲んでいたのかも さて、ゲルストナーはウィーン美術史美術館の中にも出店。それも一番素敵な場所に陣取っていました。ウィーン美術史美術館への出店は1989年。場所はちょうど入り口ドームの2階になります。つまりドームの下がレストランなのです。本当に内装はゴージャスだが、椅子やテーブルはたいした事はなかった。2002年にBusiness Magazineにより世界のGreat Gallery Restaurantsトップ10の2位にランクされたとか・・。現在は買収されケイタリングの会社として大企業に発展ています。スミレの砂糖漬けはここ美術館のお土産コーナーでも売っていました。軽食しかありませんでしたが食事をしてきました。Club Sandwich 13.60ユーロLemon & Lime Cake 4.60ユーロ飲み物はりんごジュースの炭酸割りアプフェルザフトショーレ(Apfelsaftschorle) 2.80ユーロ をとりました。ここは意外に値段が安いです。日本のケーキを食べている私達にとってぶっちゃけケーキはそんなに美味しくはない。それなりに・・である。オーストリアは確かに昔はお菓子の国だったかもしれないが、今や繊細さやグレードで言ったら日本が世界一だと思う。でもシシィの砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は他にないから一度試してみてはどうでしょう
2014年09月21日
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アウグスブルクの司教座聖堂を終えて、思い出したのがウイーンの司教座聖堂です。まだ紹介していませんでした 前々回、大聖堂が必ずしも司教座聖堂ではないと書きましたが、今回のは間違いなくDomです。日本では昔からシュテファン寺院と訳されてきましたからタイトルもそうしましたが、「シュテファン大聖堂教会管理局」の日本訳によれば「司教座聖堂ウイーン聖シュテファン大聖堂」となっていました。また、ウィキペディアによれば、「ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。」と書かれていますが・・。実際、シュテファン聖堂の歴史はわかっている時点でもオーストリアがまだ辺境の地であった12世紀に遡ります。あるいは、もっと古く、ローマの砦があった時代に異教の教会と墓地がここにあったのではないか? とも考えられています。それは聖堂入り口のリーゼン門の下から集団墓地らしき遺構が見つかっているからだそうです。(シュテファン大聖堂教会管理局発行の本より)何にしても教会の歴史の層は深く、比例するように教会の中の雰囲気にも現れている気がします。それは第二次世界大戦での大きな被害とその後の再建にもかかわらず・・です。さて、写真は2年前の撮影です。枚数がかなりあり写真の仕分けに時間がかかって随分お待たせいたしました m(_ _;)mシュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)バーベンベルク(Babenberg)家の教会教会建設史(簡略)元、ピルグラム(Pilgram)の大説教壇司教座聖堂ウイーン聖シュテファン大聖堂(Stephansdom)地下鉄シュテファンプラッツ(Stephansplatz)駅から地上に出たあたり南西側から撮影。写真の塔は南塔にあたる。南の尖塔の高さは137m。バーベンベルク(Babenberg)家の教会そもそもウイーンはもとはケルト人達の入植地。それは後に古代ローマの軍事基地となり宿営地ウィンドボナ (Vindobona)となったのが起源である。そこに辺境伯バーベンベルク(Babenberg)家が1155年に首都を移した事により発展。それを遡る事1137年12月26日。パッサウ(Passau)司教区の司教レギンマールとバイエルン公であり、時のオーストリア辺境伯であるバーベンベルク(Babenberg)家のレオポルド4世(Leopold IV)(1108年頃~1141年)との間でマウテナー契約が交わされる。簡単に言えば土地の交換を行いバーベンベルク(Babenberg)家はウイーンに進出。同時に将来司教座の置かれる教会建設を約束された。記録に残る最初の教会が建つのは1137年12月26日となっているが実際は未完ながら1147年に部分的な聖別式がパッサウ司教により行われている。当初の教会は「公爵の教会」と言う体であったようだ。※ パッサウ(Passau)は739年に司教座が設置された由緒ある司教区。そこにも聖シュテファン(独)を祀ったStephansdomがある。それ故か? 「司教座聖堂ウイーン」と「司教座聖堂パッサウ」との名前の判別が必要なのは・・。教会正面は正確には北北西にあたる。カトリック的でない正面二つの塔(ミナレット)はハイデン塔(heidnisch)と言うらしい。意味は「異教の塔」だとかリーゼン門 1230年~1250年に建造1250年、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)がウイーンを訪問する時に整えられた門らしい。とは言え、これが現在の教会の中でも最古の部分。聖堂内から入り口(リーゼン門)方面を見た所。入り口の上は2階桟敷席。写真から見えにくいかもしれないが、鉄柵が据えられている。ミサの時は観光客は中に入れないようです。手前 ↑ が正面リーゼン門ブルーのNが北の尖塔(聖堂内部からエレベーター) Sが南の尖塔(堂外から階段)グリーンのラインは使徒の廊中心グレーが内陣に続く身廊イエローのラインは女性の廊ピンクで囲ったアルファベットは全て祭壇教会建設史(簡略)1147年(第一期)ロマネスクの聖堂が建設。間口26m×長さは83m。1230年~1245年(第二期)当初の土台を全て取り払って後期ロマネスクのバシリカの聖堂で再建が始まる。「めざせ司教座聖堂」で皇帝の席や公爵の桟敷席なども設けられたと言う。1263年4月に聖別。※ バーベンベルク家はフリードリヒ2世(1211年~1246年)の代で男系が絶えて後に断絶。1304年~1340年(第三期)ハプスブルグ家のアルブレヒト2世(Albrecht II)(1298年~1358年)が3つの後陣を持つゴシックのホール式の聖堂を建設。(ハイリゲンクロイツのシトー修道会の聖堂がお手本)父アルブレヒト2世が没しオーストリア公になったルドルフ4世(Rudolf IV)(1339年~1365年)は西の礼拝堂を建設。1359年(第四期?)にはルドルフ4世自ら礎石を置いてゴシックでの教会の増築を開始。1361年には聖コロマンの石が司教の門に埋め込まれ、同じ年に側廊壁の建築が開始。ロマネスクの聖堂をすっぽり囲う形で外側にゴシックの外壁が完成すると1430年。ロマネスクの長堂側壁は撤去された。ルドルフ4世が銀製具を使用して礎石した南の尖塔は1433年に完成。(彼の死の68年後)北の尖塔の礎石は1450年。しかし建設が開始されたのは17年後の1467年。そして当初南の尖塔と同じ高さになるはずだった北の尖塔であるが1511年ほぼ現在の高さ(68m)で建築はストップ。(何度かトライはあったものの16世紀初頭に塔の建築は中止された。)1469年、ウイーン司教区に認定。1631年、ウイーン司教が侯爵司教(Fursterzbischof)の称号を得る。(神聖ローマ帝国の侯爵を兼ねた領主司教となる。)1647年、領主司教のもとでバロックの祭壇が完成。1677年、堂内のバロック化が進む。1723年ウイーンが大司教国に認定され、シュテファン寺院は管区の大司教座聖堂となる。内陣方面(柵の手前から撮影)元、ピルグラム(Pilgram)の大説教壇(15世紀後半)かつては「ピルグラムの説教壇」と呼ばれていたが、近年の研究でアントン・ピルグラム(Anton Pilgram)の作品ではない事がわかったらしい。よって今はただの大説教壇である。台座には飛び出すようにローマカトリックの4人の教父が彫り込まれている。写真左 聖アウグスティヌス 写真中 聖ヒエロニムス 写真右 聖アンブロジウス他 聖グレゴリウスまるで石をレース編みしたかのような細かい細工。台座には作者の自画彫像も彫られている。いったい誰だか解らないが素晴らしい作品であるのは間違いない。通常は触れる事も禁止であるが、待降節と四旬節。それに毎月第一金曜日には説教の為に使用されているらしい。とにかく広い。そして天井が非常に高い。他の教会とスケールが違う。身廊右側・・・使徒の廊柱と言う柱は祭壇になっているし、側廊はもちろん壁にも・・。F ヨセフの祭壇(聖堂中ほど右)1699年アントン・ショーニアンス作E 女性の祭壇(聖堂中ほど左)陽光のマリア 1470年~1480年頃の作品。なぜか聖母は三日月の上に立っている。聖母の頭上に天使が運んでいるのはハプスブルグ家の王冠だそうです。調度このあたりで教会の真ん中あたり。入り口方面を再び撮影。次回、内陣、そして北と南の尖塔に続きます。全3回くらいで行けるかな・・。終わったらデルフトを予定しています。リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)
2016年06月21日
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Break Time(一休み)まだ大阪に滞在中です。昨日は京都の上賀茂神社まで出かけてきました。今回は先週の日曜日(2月25日)に出かけた北野天満宮の骨董市を紹介するべく、写真をチョイスしていたのですが、毎日動き回っているので夜は疲れて知らず知らずにパソコン前にうつぶして寝る事多々。全然作業が進みませんでした以前はその日にアップできたのに、体力の衰えが・・。北野天満宮の骨董市(梅花祭り)古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)付喪神(つくもがみ)2015年02月25日、「北野天満宮の梅花祭り」についてはすでに紹介済み。今回、自分は3回目の梅花祭りだったのですが、年々人は増えてものすごい事になってました。特に外国の方が目立った気がします。今年は特に骨董市を目当てに出かけましたから、梅園も入っていないし、お茶会にも参加していません。単に骨董市を観て歩き、写真を撮ってきただけです 何しろ拝むのも行列。梅園に入るのも行列。野点大茶湯も行列。特に最近流行している御朱印の行列はハンパ無かったです北野天満宮 一の鳥居前から北野天満宮では毎月25日が天神市(天神さん)の日として市が立つのですが、2月25日は特に菅原道真公の命日であり、ちょうど見頃になる梅園の公開と梅花祭野点大茶湯(ばいかさいのだておおちゃのゆ)もあり大きな祭りの一つです。※ 初天神の1月25日と終い(しまい)天神の12月25日も凄い賑わいだそうです。北野天満宮の参道には飲食含めて縁日が出ていて大混雑ですが、お目当ては、境内の東に北上する御前通りに集まるフリーマーケット? です。飲食など縁日が参道にギッシリ建つのはもとより、その日は境内の駐車場の方まで所狭しと300軒くらいの市が林立。店の出し方も素人のフリマスタイルから、屋台の形態までいろいろありです。境内の中と外は別かもしれませんが、出店は年間契約らしいです。その会費が結構高いらしいので、一般の参加者は少ないのかもしれません。骨董が趣味のマニアックなコレクションをしている方々にはとっておきの場所です。天神市なら思わぬ掘り出し物を見つける事ができるかもしれません。とにかく、ここは品物の幅が広く、そこらへんのフリーマーケットとは置いている品物が違います。もしかしたら京都と言う土地がらもあるのかな?家のいらない物の中には先祖からの素敵な不要品が出てくるのかも知れません とは言え、実は骨董品と呼べるものは少なく、どちらかと言えば骨董と言うより全般に中古品マーケットとなります。そう言う意味では値段は手頃な物からあります。和菓子の型など京都ならではかも・・。さて、この中古品を業界用語で、古物(こぶつ)と言います。※ 古物(こぶつ)には年代物の骨董品も含まれます。古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)西洋骨董の世界では、骨董品と呼べるのは、100年を経過した物が対象になります。日本では、単に中古品は全て古物(こぶつ)と分類されます。それは国の便宜上の方針があるからです。日本では、1度販売された物は(新品でも)全て中古品として考えられ、それらを売買する時には「古物商」の許可証が無ければ販売する事は不可能と言う法律があります。※ 許可証の発行は、都道府県公安委員会が行い、その窓口は最寄りの警察署となっています。ですから、本来はバザーや青空マーケットなど、今回のような骨董市は、届け出の無い一般人の参加はできないのが原則。しかし、家庭の品のリサイクルがメインの一般人のバザーに関しては「商売外の行為」として多めに見ている・・と言うのが実情だと思います。※ 数年前まで「古物商許可証」を持っていたので警察で質問した時に言われた気が・・。加えて言えば、許可制度の理由の一つは、盗難品売買を防ぐ事にあります。ですから、本来どこから仕入れて、誰に販売したかをリストに残す義務があるのです。※ 売買の品のジャンルも申請して、ジャンルにあった分野の許可証をそれぞれ取らなければならない。そんなわけで日本の古物に関しての定義は案外広いのですが、ただの中古品と高価な骨董品は全て同じ扱いになっています。昭和30年代くらいの型押しガラス食器でも今の若者には新鮮?付喪神(つくもがみ)ところで、法律はさておいて、100年と言う単位で観ると、日本でも、「100年を経過した物には魂が宿る。」と考えられ普通の中古とは一線を画した物になると言う考えがあります。それがいわゆる付喪神(つくもがみ)が付いた物です。付喪神(つくもがみ)とは、100年を経過した物に付いた物の精霊と言う所が近いかもしれません。※ 百に一足り無い事から九十九(つくも)神とも・・。つまり、それなりに「一目置かれた物に昇格した証」、と言う境が同じく100年と言う事になるので、日本でも100年を境に骨董と定義しても良いと思います。最も、日本の場合、魂が宿って、付喪神(つくもがみ)になると、人を惑わす・・と言う考えもあり、古道具は毎年新年に捨てられた時代もあったようです。本当にガレージを利用したフリマもありました。茶道具類が中心でした。鉄瓶は外国人にも人気のアイテム。専門の所もありました。御前通りから上七軒に向かう辻(御辻通り)にもマーケットが・・。上七軒側からの北野天満宮 東門境内側の方外国の方に人気の店ってあるようですね。亜麻布(あまぬの)・・リネン(linen)外国の男性が見ていました。着物だからなのか? リネンだからなのか? 色が素敵だったから?確かに中古着物の出店は多いけど、男性用はあまり無いかもしれない。香炉素人は欲しい物と値段が折り合えば買えば良いけど、「良いな」・・と思う物は結構お高かったです。アンティックだけでなく、手作り品の出品もあります。笄(こうがい)をバラしてピアス仕立てにしたものなど・・。北野天満宮の骨董市 おわります。
2018年03月02日
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鎖国時代に、幕府が海外の情報を聞いて記録した「オランダ風説書」と言うのがある。何気に見ていたら1852年送付の末尾に「ペリー来航予告情報」なるものがあった。アメリカが日本と貿易関係を結ぶ為に近々施設団を日本に送る・・と言うウワサが流れている。と言う内容だ。驚くのは内容がかなり詳細で、アメリカは貿易の為に港を幾つか開いて欲しい。さらに中国とカリフォルニアを結ぶ汽船の為に石炭を貯蔵できる港が一つ欲しい・・と言う要望だ。また、それにはすでに中国海域にいる蒸気フリゲート艦サスケハナ号とコルヴェット艦のサラトガ号、ブリマス号、セント・メアリ号及びヴァンダリア号がいて、彼らが使節を江戸に送るよう言われている事。さらに、最近の情報で、遠征軍指令軍オーリック准将とペリー准将が交替する事。それに伴い中国海域の船は蒸気汽船ミシシッピ号、プリンストン号、ブリック艦ペリー号、運送船サプライ号などで増強されるだろう事。ただ上陸用並びに包囲網の資材はすでに積み込まれたものの艦船の出発はかなり遅れるだろう・・と言うもの。どうもこれらは新聞による情報らしいが、日本はこれを聞いて驚愕しただろう事が思い浮かぶ。わざとビビらせて・・と言う所だろうし、オランダもアメリカより先に日本と条約を結びたかったのでオーバーに知らせたかもしれない。まあ、それはともかく、重要なのは、幕府の上層は黒船の来航を事前に知っていたと言う事実である。何も知らない市民は驚いただろうが、幕府の方は覚悟していたのだろうな・・と言う事が解った事だ。実際ペリーの来航は翌年である。だからペリーの艦船が来ても慌てずに武力行使する事もなく、幕府側が艦船を誘導して浦賀に接岸させたのだろう。※ 2016年11月「2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)」の冒頭で「オランダ風説書」の事を書いています。リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)とは言え、艦船の脅威を見ても開国反対派はまだたくさんいた。幕府内は揺れ動く事になる。薩摩藩や長州藩などは大政奉還(たいせいほうかん)よりも前に藩士らを留学させている。また幕府の方も外国奉行 池田 長発(いけだ ながおき)(1837年~1879)以下34名からなる遣欧使節団をパリに派遣(1863.12~1864.12)。(スフィンクス前のサムライ写真で有名)。そして欧州を見た彼らは開国の必要性を感じ、必死で勉強して知識を積めて戻って来たのである。大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場ペリー来航予告情報(オランダ風説書)ゼロからの造幣局オリエンタル・バンクとお雇い外国人お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド長州五傑(長州ファイブ)薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)コイン製造の為の機器とコイン製造工場ゼロからの造幣局日本初の近代工場と言っても過言でない造幣局の建設は何もかもが無い所から始まっている。まずはちょっと年表から1853年7月、黒船が来航1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定。1867年(慶応3年)11月、大政奉還(たいせいほうかん)1868年(明治元年)、政府は造幣工場の建設を決定。11月には建設が開始される。驚くのは大政奉還した翌年には造幣局の建設を決めている事だ。日米修好通商条約で決めた貨幣の取り決めに不都合があり、早急に欧米並みの日本国の通貨を造らなければならなかったからだ。造幣局の機械は、イギリスが香港に設立して廃局していた造幣所から中古の機械を購入した。創業時の設備機器(一式、6万両で購入)全設備の原動力となる20馬力の蒸気機関2基。金溶解用コークス炉6基、銀溶解用コークス炉12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、仏トネリ社製圧印機2台、英ワット社製圧印機6台が可動。以前NHKの連続テレビ小説「あさが来た(2015年)」で人気急上昇したイケメン五代友厚(ごだいともあつ)氏(1836年~1885年)をおぼえているだろうか? 当事、大阪運上所(現在の大阪税関)の所長であった彼がその創建時、トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)(1838年~1911年)を通じて貨幣機の購入に尽力していたのである。※ トーマス・グラバーは1859年、開港間もない長崎に武器や弾薬も扱う貿易会社を設立。長崎観光でお馴染みのグラバー邸は彼の邸宅跡。建設は大阪でも水利の良い場所に決まった。18万㎡。(56000坪)。創設時の造幣局は現在の2倍の面積を持ち世界最大規模だったらしい。設計監督はグラバーの紹介で英国人のT.Jウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)が決まる。彼は煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど言葉の通じない邦人職人を熱心に指導。※ ウォートルスは造幣局完成後、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎などの建物も残している。造幣局の建設にしても、設立後の指導にしても、また、他の分野においても、日本国は多くの外国人の専門家から教えを請うことになる。そもそも何を成さなければいけないのかもわからない状況の中、明治の新政府は、よくぞやりきったものだと思う。造幣局のお雇い外国人中央後部の3人、左からキンドル、ブラガ、ガウランド (たぶん)オリエンタル・バンクとお雇い外国人日本の文明開化は、やはり指導してくれる外国人がいたからなしえたのである。1869年(明治2年)、明治政府はオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)と条約を締結。造幣局の建設から創業に関するあらゆる人材をオリエンタル・バンクが調達している。※ 造幣博物館資料では英国東洋オリエンタル銀行バンクと呼称している。そのオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)は1841年インドのボンベイで創設された英国の植民地銀行であり、支局香港では初の銀行でもあった。明治政府は、江戸幕府から600万両の債務を継承。内訳は150万両が下関戦争の賠償金。450万両がオリエンタル・バンクやオランダ商館からの借入金だったそうだ。つまり、江戸幕府の時代から日本は借金があり、オリエンタル・バンクは幕末、明治期に日本の国債発行を積極的に行ってくれた銀行であり、明治初期の日本国のメインバンクだったのである。※ オリエンタル・バンクが失敗して1892年に清算されると香港上海銀行が台頭。お雇い外国人は日本国政府が給与を支払ってはいたが、オリエンタル・バンクが雇用契約して派遣される形を取っていたので彼らの給与は銀行側が交渉して決めていたと思われる。造幣博物館には当事の雇用資料が残っている。当時1 円=金1.5g=1ドル。※ 因みに近々の金のレートは1gおよそ5000円。大臣、次官クラスが500~800 円、局長クラス200~300 円、職工で5 円前後の中、お雇い外国人は局クラス以上の月給。特に造幣長としてヘッドハントされたキンドルは破格値だった。※ お雇い外国人は他に31人が雇用されている。外国人を合わせた当初の総職員数は220人。お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド造幣局のみならず、お雇い外国人は他の分野でも功績を残している。キンドルこと、トーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年~1884年)元香港造幣局長。1870年(明治3年)に来日して造幣寮の首長に任命されたキンドルは大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した重要人物ではあるが、その給与は当事の太政大臣(現在の総理大臣)の月給800円よりも高い月給1045ドル(1045円)。それは破格の待遇で迎えられた事を意味する。1円のレートは金5000円で計算すると7500円。キンドルの月給は今の金の値段で換算すると783万7500円にもなる 昔より金は高くなっているだろうけど足下みられた金額ですね。確かに貢献度は大であったらしいが、キンドルの横柄さは人との争いを絶えずおこし、それが後の外国人を排した自国民だけの造幣局造りを目指すきっかけになったらしい。1875年(明治8年)解雇。因みに、1870年(明治3年)発足した神戸のフリーメイソンロッジの最初のマスターにキンドルは選ばれている。※ フリーメイソンは2013年9月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」で紹介しています。リンク 2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンV.E.ブラガ(Vicente Emilio Braga)(1840年~1911年)香港の元英国造幣局長キンダーの部下。1870年(明治3年)採用。大阪造幣寮勘定役(地金局計算方)となり,日本に初めて複式簿記法を持ち込んだ人である。造幣局の会計事務を整え1875年(明治8年)大蔵省に転じ官庁会計全般の指導にあたる。いわば日本の会計の父である。20年、神戸に在住。初代ポルトガル日本領事となっている。ガウランドことウィリアム・ゴーランド(William Gowland)(1842年~1922年)1872年(明治5年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任。英国式反射炉の築造と操業を指導。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約で帰国する者が多いなか16年在職して貢献。1881年(明治21年)解雇。それは温厚で人望も厚かった人柄ゆえなのだろう。勲章や褒賞も与えられている。ブライベートでは古墳研究や地質の調査をして日本考古学の父と呼ばる研究者でもある。また日本に近代登山を紹介。「日本アルプス」の命名者でもある。他にも金銀地金及び貨幣の分析に当たったツーキー(Charles Tookey)は貨幣の信頼を担う「製造貨幣大試験」の第一回試験方(明治5年5月)を努めている。1873年(明治6年)解雇。機械技師のマンチニ(Napoleon Mancini)は、前回紹介した造幣局を描いた人でもある。1877年(明治10年)解雇。鍛冶・鋳造所の改築を設計監督したマクラガン(Robert Macklagan)らがいた。キンドルの騒動もあり、当初運営、指導していた「お雇い外国人」は1889年(明治22年)を最後に姿を消し、造幣局は日本人のみの運営に移行する。ところで、「お雇い外国人」から技術指導を受ける為には語学ばかりか、工学の知識も必要。その為に1872年(明治5年)、学校(日進学社)も開設され職員や子弟の教育も行ったと言う。長州五傑(長州ファイブ)お雇い外国人だげてなく、日本人も留学の必要性を知って渡英している。左手前から時計回りに井上馨(いのうえ かおる)(1836年~1915年)長州藩士。2代、4代、7代造幣頭。初代外務大臣。遠藤 謹助(えんどう きんすけ)(1836年~1893年)長州藩士。10代造幣局長(キンドルを解雇して復帰)。井上 勝(いのうえ まさる)(1843年~1910年)長州藩士。3代造幣頭。大蔵省に勤務してから鉄道敷設を推進。日本の鉄道の父。伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)長州藩士。6代造幣頭。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣に就任。山尾 庸三(やまお ようぞう)(1837年~1917年)長州藩士。日本工学会の父。彼ら長州ファィブの5人、は1863年5月渡英。井上馨(いのうえ かおる)の発案で密かにロンドンに留学。国力の違いに驚愕。開国論に転じたと言う。それぞれ専門を学ぶと共に帰国すると語学をかわれて要職に就いている。特に造幣局は縁が深いようだ。※ 留学に際して使われたのが(元 東インド会社)ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)の船チェルスウィック号で密航し上海でホワイト・アッダー号に乗り換えて渡英。薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)(1836年~1885年)日米修好通商条約の前年1857年、長崎で海軍伝習所伝習生となりオランダ士官から航海、測量、砲術、蘭学、数学を学ぶ。1865年には、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使として16名の若者を連れて渡英し、フランス、ベルギー,オランダなど欧州を巡り、視察と同時に紡績機械や武器の買い付けをおこなっていたそうだ。帰国した彼は薩摩藩の商事を扱う会計係に就任。戊辰戦争(1868年~1869年)では倒幕軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)として活躍。1868年(明治元年)、新政府の元で参与職外国事務局判事掛となり大阪に着任すると大阪運上所(後の大阪税関)の長官となる。造幣局の設置を進言し、大阪に誘致したのは五代友厚らしい。それは大阪が帝都になる可能性が大きかった事が上げられる。因みに大阪が首都にならなかったのは京都市民の大反対が大きかったのでは? 市民感情として、大阪より東京の方がまだマシだったのか? 前にも紹介したが実際の所、東京に遷都(せんと)されたのではなく、奠都(てんと)と言う言葉が使われているし・・。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)」の中「奠都(てんと)と遷都(せんと)」を紹介。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)コイン製造の為の機器とコイン製造工場五代友厚が購入してきた圧印機(左)は造幣博物館前庭に置かれている。圧印機とは、淵(ふち)も含めて貨幣に模様をつけるプレス・マシンである。フランス・トネリ(Tonlli)社製 圧印機1871年(明治4年)の創業時には金銀貨幣の製造に使用されていた2台のうちの一つ。他にイギリス・ワット社製の圧印機6台の計8台のレバー式圧印機が稼働していた。翌年1872年(明治5年)大型高速の圧印機が購入されるとこれらは銅貨の製造にまわされた。ドイツ・ユロル(yhlorn)社製 圧印機1872年(明治5年)にユロル(yhlorn)社から10台購入された大型圧印機は一分間に60枚程度の圧印が可能であり、金銀貨幣の圧印にまわされたのである。現在の圧印機の写真(映り込みがあってボケ気味ですが・・。)ドイツ、シュラー(Schuler)社製。圧印能力150t。現在の圧印機では1台につき一分間に750枚生産。500円高価にして37万5000円。1台の生産枚数は272000枚。金額にして1億3600万円。高額なお金を造る事になるので、工場内は巨大な金庫にもなっているそうだ。下の窓の奧にマシンがある。見学者の為の廊下。見学ツアーは予約制でツアーには担当者がつく。ちょっと何の工場かわからない感じです。ところで最初に紹介したように造幣局はゼロからスタートしている。購入した工場の機械以外にも必要なものはたくさんあった。資材の運搬には鉄道馬車が必要であったし、地金の運搬の為には蒸気船の必要があった。電報が使えるように架線がひかれ電信設備も整えられ、精製や照明の為のガス製造窯や、コークス窯も造られた。金銀の分離精製や貨幣の洗浄には硫酸が必要で、工場内に硫酸製造所が造られる。さらに硫酸ソーダや炭酸ソーダの製造も始まる。小さな機器のほとんどは工場内の銅細工所、ろくろ所、鍛冶所で造られ、時計や秤、工場を建設するレンガも焼いて造ったらしい。また、帳簿をつける為のインクなども当初は自前で手作りしていたらしい。当然そこにはお雇い外国人の指導があった。が、そのお雇い外国人を感心させる素晴らしい職人もいた。オランダ留学の経験もある大野規周(おおののりちか) (1820年~1886年)は自作の大時計、天秤を製作している。大野規周の大時計大野規周の天秤大野規周の手回し計数機1870年(明治3年)に製作。1回で24枚数えられた。下は現在の計数機造幣博物館裏にある現在の貨幣工場工場では、熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)と作業が行われている。かつては、この工場内で素材を造る所から行われていた。動力は当初は蒸気発電。1911年(明治44年)には火力発電に代わり、現在の場所に発電所がおかれていた。それがなくなったので土地も狭くなったのだろう。コイン製造過程も写真のせる予定でしたが終わります。Part3 or Break Timeの形で「ギザ」の話や「ギザ10」の製造枚数等を紹介する予定。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
2018年05月03日
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ラストにミラノ勅令後のキリスト教を追記しました。タイトルも変更さて、前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)」では、ローマ街道(Via Romana)を紹介しましたが、今回は街道に関連して単独でローマ帝国内でのキリスト教の伝播について紹介します。ただ、単独にするにあたり大きく構成の見直しをしました。キリスト教を知らない人への説明と当時の帝政期のローマの事情も加えたのですが、盛りだくさんになって大変な事に・・。2本分あるかも。ローマ帝国の帝政期、ローマ帝国はローマ建国の神々を棄ててキリスト教を国教に制定しています。キリスト教はこの帝政期に発生し成長拡大した宗教なのです。何より短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそです。ローマ帝国の支配圏が広域に拡大。強いローマ帝国により地中海からは海賊が消え船の移動もスムーズに。陸路は道が整備されローマ街道はその支配圏を編目のようにつないだ。国境さえも容易に越えられるようになったので、一般の旅行を安全に、しかも容易にした。それはキリストの使徒(しと)らの伝導の助けとなったのである。今回写真にアヤソフィアのモザイク画も使用しています。1985年「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されたアヤソフィア(Ayasofya)はキリスト教の教会とイスラムのモスク時代を経て、トルコ共和国建国以降は博物館として存在。2006年からはキリスト教徒も正教会の信者もイスラム教徒も祈れる場所として仲良く存在していたのですが、現政権のエルドアン大統領は支持率upの為にアヤソフィアを完全モスク化して独占する話しが浮上し世界に衝撃が走っています。ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)キリスト誕生を紀元として造られた西暦アヤソフィア(Ayasofya)問題イエス・キリストの誕生ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)新約聖書とキリスト教徒異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡使徒(apostolos)パウロの伝道帝政期前半のローマ帝国 ・帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝 ・キリスト教を認めたコンスタンティヌス1世ミラノ勅令後のキリスト教キリスト誕生を紀元として造られた西暦現在の西暦(せいれき)と言う暦(こよみ)はイエス・キリストの誕生した年を元年として造られた紀年法となっている。※ 正確に言うならイエス・キリストの生誕はもう少し前、BC7~BC4年の間らしいが・・。西暦を案出したのは5世紀のローマの神学者ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus)(470年頃 ~544年頃)と言われている。彼は神学のみならず数学にも天文学にも精通した人物だったらしい。キリスト紀元 A.D.(anno domini)は私もよく使用するが、ラテン語で「主の年」を意味する略号である。同じく紀元前のB.C.(Before Chlist)は「キリスト以前」を示す略号だったのである。但しゼロの概念が無かった時代なのでキリストの紀年法に紀元ゼロ年は存在しない。紀元1年の前年は、紀元前1年。負数で紀元前の年を1年ずつずらして対応しているので紀元前10年は西暦 ではマイナス9年となるそうだ。※ 紀元0年は存在しないが天文学では計算上不都合が生じるので西暦0年が存在する。因みに、キリスト紀元の使用開始は532年らしいが、欧州で使用され始めるのは10世紀頃。世界に広まるのは18世紀頃らしい。それはおそらくキリスト教の宣教活動に関係していると思われる。イスタンブールのアヤソフィア、堂内後陣アプスの半円ドームに描かれたモザイク画 聖母子イスラムの支配時代、アヤソフィアはあまりに立派であったので壊さずにモスクとして再利用されていた。モザイク画は破壊されるか漆喰で塗り固められ一部が現在に残っている。この黄金タイルの壁画も漆喰で塗り固められていた? 調べたがそれは解らなかった。もしかしたらこの聖母はイスラムの時代もそのまま残っていた可能性がある。意外であるがイスラムにおけるマリアの地位は高い。コーランにも何度も登場し母として、女性として崇敬されていた? らしいのだ。因みにこれら修復にはアメリカン・エキスプレス社の資金援助もあったと言う。下は聖母の図像がある天井イスラム、モスクの説教壇ミンバルが下に置かれている。本来キリスト教では内陣に位置する場所。アヤソフィア(Ayasofya)問題アヤソフィア(Ayasofya)は最初キリスト教徒が建てた大聖堂であった。コンスタンティヌス1世は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)コンスタンティヌス1世は丘に広場やバシリカを建て給水施設(イェレバタン・サラユ )を建設。ビュザンティオンのキリスト教の大聖堂として建設されたのがアヤソフィア(Aagia Sophia)です。献堂は帝の子、コンスタンティヌス2世によるもの。建設は350年頃。360年2月献堂。※ 今の聖堂の形になるのは10世紀頃と考えられる。一時は帝政期のローマの首都となったビュザンティオン(コンスタンチノープル、現トルコのイスタンブール)。コンスタンチノープルがイスラムに陥落すると1453年大聖堂はイスラムのモスクに変わる。その後オスマン帝国の時代を経て、トルコ共和国が建国された時、建国の父であり初代大統領のアタチュルク(Atatürk)により1934年あらゆる祈りの場から外されここは博物館となった。キリスト教徒にとっても、ギリシャ正教会にとっても、イスラムにとってもコンスタンチノープルは聖都。それはアタチュルクの素晴らしい英断(えいだん)であったと思う。今回の事態はそれを冒涜(ぼうとく)するもの。そもそも2006年に祈りの解放をした事が問題。今回の一件は予見できたはず。イスラムのモスクの形はこのアヤソフィアが原点になっていると言う。イエス・キリストの誕生キリスト紀元にかかっているのが帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代である。そして2代皇帝ティベリウスの時に成人し、活動し、十字架にかけられた事になる。イエス・キリストは死海近くのユダヤの地、ベツレヘムで生まれた。父はヨセフ。母はマリア。聖書では聖母マリアは精霊により懐妊した事になっているのでヨセフは夫であるがキリストの父の扱いにはなっていない。が、正統と言う意味では父ヨセフの血筋がダビデ・ソロモン王につながるのでイエス・キリストは正統なユダヤの王と言う位置づけになっているのである。父ヨセフの本業は修道士であり、下界にいる時は大工をして暮らしていたと考えられる。母マリアも修道女であった。血筋を守ると言う意味で二人は婚約し結婚したのである。※ イエス・キリストは突然宗教に目覚めたそこら辺のお兄さんでは無く、もともと戒律の厳しいユダヤ系の宗団の中にいたからこそ・・なのである。以前「無原罪の御宿り日」の所で紹介しているが、ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義の一つ。当然カトリックでは、イエス・キリストは神の子なので人間の両親から生まれたと解釈するのはタブーである。ではこの説はどこからか? 実はマタイによる福音書の冒頭「イエス・キリストの系譜」に血脈の事はしっかり書かれている。後は死海文書の研究と照合による史実? 「イエスのミステリー(NHK出版)」から。バチカン美術館入口のプレゼピオ(Presepi) クリスマスシーズンのみです。プレゼピオ(Presepi)はキリストの生誕の祝いの場景を現すフィギュア。キリストが生まれたのは12月25日。帝政ローマの国教となった時に決定された。※ マタイとルカによる福音書にはキリストの誕生日の章はあるが季節も特定できない。マギ(magi)の来訪が翌年1月6日。その日がイエスの洗礼を記念する日。公現祭・エピファニー(epiphany) と定められた。つまり1月6日の公現祭までがキリスト生誕の祝い日である。※ 2017年12月「聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日」で聖母マリアの結婚と懐妊、人間の原罪についても書いていますリンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日※ マギ(magi)とキリストの誕生日については以下にリンク マギ(magi)の正体ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)バチカンのサン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)はアヤソフィアより少し早く326年頃コンスタンティヌス1世(ローマ皇帝)によりローマの教会として建設された。聖ペテロの墓の上に建設された殉教者記念教会堂がサン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)であり、現在それは、世界に13億人とも言われるカトリック信者を持つカトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山となっている。聖堂ファサードの上にはキリストを中心とする聖人らが並ぶ。下は堂内に置かれて居る使徒ペテロの座像。御利益? 唯一足が触れる像である。天国の鍵を預けられたペテロ。鍵は彼のアトリビュート(象徴)となるアイテムである。※ 天国とは死後に復活をかけた審判が行われた時にのみ開かれる天上世界である。鍵はその扉の鍵。ペテロは最初の弟子なので使徒の中でも地位は高い。が、パウロ程に旅はほとんどしていないようだ。異教徒への布教も、あまり乗り気ではなかった? と読める所もある。だが彼には天国の門の番人としての役割が与えられている。彼にはまだこれから大仕事が待っているのである。下の写真はウィキメディアのヴァチカンからパノラマ写真を仮りてきましたサンピエトロ広場は広く人も多く正面全景の撮影は非常に難しい。うらやましい写真です。アヤソフィア堂内のモザイク壁画、 デイシス(Deisis)のキリスト 1260年頃デイシス(Deisis)は中央にキリスト。左手に聖書。右手が祝福する形をとる。左側に聖母、右に洗礼者ヨハネを抱く絵画でビザンティンの代表的イコンのスタイル。正教会では聖像と呼ばれるもの。このデイシスのモザイク画は立体感も出ていて最高傑作と言われる一品。イスラムの支配時代、この黄金タイルの壁画は漆喰で塗り固められていたと思われる。下部が無いのは、痛みだけでなく、モザイク画の石はタリスマン(お守り)として売られていたからもあるのだろう。もし、モスク化されたら、これらは隠されるようだ。そもそも西側の資金を使って修復されてきたのに・・。新約聖書とキリスト教徒以前「死海文書」とクムラン宗団について紹介した事がある。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)そこでは文書の発見とクムラン宗団の存在についてしか紹介していないが、イエス・キリストも彼の父ヨセフもそしてイエス・キリストの洗礼者であるヨハネもまたクムラン宗団の一員であったと解釈されるに至っている。キリスト教がユダヤ教をベースにしているのは単にユダヤの地で生まれただけでは無く、分派したユダヤの教団の一員であったからだ。イエス・キリストの足跡以前も紹介していますが、カペナウム周辺のガリラヤ湖です。カペナウムに住む漁師シモン・ペトロとアンデレ兄弟を最初の弟子とし彼らの家に滞在して説法していたらしい。同じくガリラ湖で親子3人で漁師をしていたゼベタイの子、ヤコブとヨハネ兄弟は父(ゼベタイ)を残し弟子となる。彼らはイエス・キリストの最初の使徒である。初代教会ではシモン・ペトロとゼベタイの子ヨハネが中心的役割を担う事になる。キリスト亡き後に彼らは活躍するが迫害がひどくなり殉教(じゅんきょう)する。シモン・ペトロは、キリスト教が公認された後に彼の墓の上にサン・ピエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)が建立。ローマ・カトリックの総本山となる。(前述紹介済み)ゼベタイの子ヨハネは、キリスト亡き後、聖母マリアを託される。彼女をエフェソスに送り、自分は逮捕されて流刑地パトモス島で黙示録(もくじろく)を執筆。福音書記者ヨハネと同一と考えられている。ゼベタイの子ヤコブは殉教すると弟子らが彼の遺骸をパレスチナからなぜかスペインに運ぶ? そして彼の墓地の上に9世紀になってサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)が建立し巡礼地となる。(聖書でなく、外伝による。)ヴァチカンのペトロの墓とサンティアゴのヤコブの墓の上の教会堂は、聖地エルサレムと並ぶキリスト教の3大巡礼地となっている。※ サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼路も扱っているので長編です。一部のみリンクのせます。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)※ バチカンについてもあちこちで取り上げてますが・・。リンク 天使と悪魔とヴァチカンリンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂※ 聖母マリアについて書いています。リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬※ 以前キリストが主に説法してまわったガリラヤ湖を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」が合わさってできている。「旧約聖書」は神との契約に従い歴史の中に生きてきたユダヤ民族の話しがまとめられている。(預言書も含まれる。)ユダヤ教の唯一のテキストである。イエス・キリストに関係するのは「新約聖書」の部分である。神の代理人である救済者イエス・キリストの教えと奇跡の話しを後世弟子らがまとめて編纂したものが「新約聖書」なのである。ザックリ言うと、「新訳聖書」はイエス・キリストの言行を描く四つの「福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)」をメインとして使徒ペトロとパウロのによる布教活動など初期のキリスト教史が描かれた「使徒言行録」。使徒パウロが門徒らに送った「パウロの書簡」などから成っている。つまり使徒らによって書かれた「新訳聖書」の部分がキリスト教のテキストなのである。実際、キリスト自体が生きて活動していた時間は非常に短い。推定で34歳くらいで亡くなっているので活動は10年ほど? 彼の教えに感銘し弟子となった使徒(しと)らがローマ帝国内に伝導した事によってキリスト教は世界宗教にまで発展して行ったのである。因みにキリストが磔刑にされて亡くなったエルサレムのゴルゴダの丘とされる所に聖墳墓教会が建立されています。正直本当の場所かは定かで無い気がしますが、以下に紹介しています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)エルサレム聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)Via Dolorosa(苦難の道)からの教会です。全景写真が修復中で微妙なので下の写真はウィキメディアの聖墳墓教会から借りてきました堂の入り口です。異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡ここで、はっきりさせておきたいのは、ユダヤ教徒であったキリストが当初説法したのは回りのユダヤ民族に向けてであった。しかし、イエス・キリストが昇天し、使徒らが伝導を始めるとそれはユダヤ人以外の異民族にも広げられた。むしろユダヤ人よりも抵抗が無い分、異教の者の方が受け入れやすかったと言う理由もあっただろう。が、最もそれを可能にしたのは学識あるサウロ(後のパウロ)の加入であった。※ ギリシャ名パウロ(Paulo)とヘブライ名サウロ(Saul)「使徒言行録9サウロの回心」では「異邦人や王達、またイスラエルの子らに私の名前を伝える為に私が選んだ器である。」とイエス・キリスト自らサウロを宣教者として選んだ事が記されている。※ 彼はユダヤ教のファリサイ派( Pharisaeus)に属し、当初キリスト教徒らを迫害していた人物であった。グリーンの→がペンテコステ以降の信徒'(しんと)の移動? 伝道?ステファノの殉教以降がブルーパウロの布教をレッドでしるしたが、実際のパウロは、何度も各地を巡っている。ペンテコステ以降使徒言行録には、ペンテコスの日に起きた神の奇跡により信徒(しんと)らは突然異教の言葉が話せるようになったと言う話しがある。そして信徒らはエルサレムから方々に散り布教を始めたと言う。※ ペンテコステ(Pentecostes)聖霊降臨(せいれいこうりん)の日復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを予言。それはユダヤ教の春の収穫感謝祭の「五旬祭の日」であった。キリスト教徒は以降ペンテコステの日を聖霊降臨(せいれいこうりん)の日として祭った。ステファノの殉教以降ステファノ(Stefano)はギリシャ語を話すユダヤ人であり、キリスト教初の殉教者であった。彼の殉教の裏には初期教会の中で起きていた「ヘブライスト」vs「ヘレニスト」の問題があったらしい※ ヘブライ語(ユダヤ語)を話すユダヤ人がヘブライスト(Hebrew)ユダヤ人であるがギリシャ語を話すステファノ(Stefano)はヘレニスト(Hellenist)でありギリシャ語を話すステファノがユダヤ教の批判をしたと密告? ファリサイ派は怒り石打ちの刑を執行。ステファノは殉教。これ以降に迫害はひどくなり使徒らはフェニキア、キプロス,アンティオキアまで逃げた。ギリシャ語を話せる者が助けて伝道活動もできたようだ。※ 因みにステファノの刑の時にパウロが立ち会っていたらしい。つまりこの時点でパウロはまだキリスト教徒の天敵であった。使徒(apostolos)パウロの伝道パウロ(Paul)はローマの属州キリキアの州都タルソス生まれ(現トルコ)。ローマ市民権を持つファリサイ派のユダヤ人であった。先に「使徒言行録9サウロの回心」で紹介した通り、イエスの死後にキリスト教徒となった為に直弟子ではなく、12使徒からは外れているので狭義には使徒(しと)(apostolos)ではない。しかし、パウロはギリシア語とヘブライ語を話し、読み書きができるので漁師の初期メンバーより記録して残す事が可能。教会や信徒(しんと)らの疑問に答える手紙などたくさん出し新訳聖書にはパウロの書簡が「13書簡」採用され貢献している。パウロの功績は東地中海やバルカン半島にまで及ぶ異邦人の世界への率先した伝道の拡大である。かなり奥地まで立ち寄って講話をし、教会を建て、書簡も使って指導している。何よりイエスが救世主キリストであると言う信仰的理解と説明を成して彼は一貫したキリスト教の教義を確立。各教会に指導している事だ。4つの福音書が意味するのは4つの考えの違う団体があったから? と言う説もある。直接イエスから福音を聞いた使徒達の伝承では後にブレが生じる。パウロは直接イエスに合っていないからこそ、真理と確信を求めたのかもしれない。バウロはまだ未完全な初期キリスト教の基板を作ったと言える重要な人物なのである。ところで、回心以前のパウロはステファノの刑にもかかわるほどキリスト教徒の迫害をしていた為、キリスト教徒からはなかなか信用されず、元のユダヤ教のファリサイ派からは裏切り者として度々命を狙われていた。初期キリスト教徒の迫害は、ローマ帝国ではなく、ユダヤ教徒からの憎悪によるものが多かったようだ。パウロを祀るローマのサンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)の像 ウィキメディアから借りてきた写真ですが、この写真に関してはの像の部分拡大の為に切り取りました。パウロの布教については、初期2009年7月「使徒パウロの布教とギリシャ正教会」で紹介しています。この写真はその時にも使用しています。リンク 使徒パウロの布教とギリシャ正教会ローマの五大バジリカの一つであり、こちらもコンスタンティヌス1世により聖パウロの墓を祀るメモリアルとして創建された堂が前身。キリスト教の波及はまさに聖地エルサレムからシナイを出て、エジプトへ、メソポタミアへ、そしてアナトリア半島からバルカン半島へと散った。特に拠点となったのがシリアのアンティオキアである。当時、ローマ帝国の第3の都市であったアンティオキアには多くの異民族が住んでいた。キリスト教もこの中で受け入れられ異教徒の信者も増え教会ができ、さらにギリシア文化の影響を受けて発展している。もともとパウロの出身はキリキアの州都タルソスなので近いこの場所になじみもあったのかもしれない。パウロはアンティオキアの教会を拠点に伝道の旅に出ていく。キリスト教がエーゲ海域を中心に広まっている? と思ったのは地理的要因もさる事ながら、誰よりも伝道に力を入れたパウロ自身がギリシャ語を話せたと言う事が大きかったのだろう。※ 使徒言行録によればパウロは3回の大きな伝道の旅を行っている。※ 反感の多い土地でも、めげずに長期滞在している。聖書にはパウロの宣教の旅のルート図も載っている。下はパウロの伝道コースでの一つです。聖書から持ってきました。陸路が赤、海路が青ラインです。パウロが布教した当時はなかったビュザンティオン(コンスタンテチノープル)をピンクの星で印ました。ビュザンティオンは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都となる場所です。場所はボスポラス海峡 (Bosporus)の所。キリスト教を認めたローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマを捨て、330年ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)にキリスト教の都市を建設した理由がなんとなく解りました。当時のキリスト教の中心地は確かにここのようです。ところで、イエスとその弟子らが布教していた頃の1~2世紀はローマ帝国の黄金期の時代に重なる。ローマ帝国の威力による(パワーバランス)は、奇しくも地中海沿岸含む欧州の平和と安定をもたらした。冒頭ふれたように短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそです。パウロは旅も多くしたが書簡で各地の教会を指導している。郵便の無かった時代、その書簡はパウロの弟子によって運ばれていたのである。インターネットで超簡単に伝わる現在と比べると書簡の重みも違うでしょうね。帝政期前半のローマ帝国一応おさらいに古代ローマの政治体制の年代を入れておきます。BC753?~BC509 王政期BC509~BC27 共和政期BC27年~AD395年~476~1453年 帝政期※ 帝政期は節目の年も入れました。アウグストゥスが初代皇帝として即位し、ローマ帝国はリニューアルされ帝政期が始まる。アウグストゥスは巧に元老院をまとめ元首政(Principatus)を開始。BC27年~共和制時代にはただの都市国家ローマであったが、帝政期の始まりは巨大な領土を得た大帝国である。が、帝政期前半、安泰とも思えたローマ帝国であるが、紀元後、3世紀までに度々内乱が勃発している。ローマ内戦(68年から70年)4皇帝の年ローマ内戦(192年~197年)5皇帝の年ローマローマ内戦(238年)6皇帝の年 軍人皇帝時代へそれは帝政移行後も、軍事と政治の両方が皇帝に委ねられたからだ。皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。このシステムでは同時に2つの才能が要求されたのである。実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。しかし領土が拡大して度々対外からの侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。終身の存在である皇帝を退位させる事は難しい。結果、クーデターや暗殺などによる交代が増えたのである。最初はアウグストゥスに始まるクラウディウスの家系がネロ帝で絶えた後に起きている。ローマ内戦 (68年~70年) 4皇帝の年地方の属州総督らがが帝位を争って内乱を起こし短い間に4人の皇帝が就いた。ローマ内戦 (192年~197年) 5皇帝の年この時もハドリアヌス帝やアントニヌス帝の家系アウレリウスが途絶えた時だ。しかも暗殺によって・・。そして3世紀の悲劇と呼ばれる6人も皇帝が交代すると言う異常事態が起きる。ローマ内戦 (238年) 6皇帝の年前皇帝を暗殺し、軍事力だけで帝位を強奪した蛮族出身のマクシミヌス・トラクス以降238年だけで6人の皇帝が出た。それを含む253年~284年(31年間)、俗に軍人皇帝時代とも呼ばれ22人もの皇帝が誕生。皇帝の権威は大きく失墜(しっつい)したのである。また、この時、彼らローマ人が帝国防衛を怠り、皇帝に就く事に執着して内乱を起こしていた間に東方からはササン朝ペルシャが、北方からはゴート人を始めとするゲルマン人が帝国領に侵略を始めガリアでは属州民の反乱も起きていたのである。帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝この侵略者と内政の騒乱と言う危機を納めたのがディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)である。彼は属州民出身の軍人皇帝であったが良き指導者であった。広大なローマ帝国の統治と前線での指揮を皇帝1人で行うのは困難と、帝国を東西に分けての統治を考えた。またそれぞれに副帝もつけたので2人の正帝(アウグストゥス)と2人の副帝(カエサル)による実質4人の皇帝による統治、テトラルキア(tetrarchia)を考案した。任期も造り、特定の一族に権力が集中する世襲制をも避けた制度であったらしい。が、ディオクレティアヌス帝の退位以降テトラルキアは崩壊する。またディオクレティアヌス帝は、キリスト教徒に対して最大の迫害(はくがい)を行った皇帝でもある。全てはローマをまとめる為であったが・・。ディオクレティアヌス帝の治世、キリスト教徒は政府や軍内部にも増加。この頃キリスト教徒は帝国の総人口の1割、500万~600万人に上っていたと推定されている。多神教であらゆる宗教を認めていたローマ帝国ではあるが、東方からのマニ教もこの頃帝国に流入。303年2月、キリスト教徒に対する迫害は突然始まったと言う。4皇帝の中でディオクレティアヌス管理下のパレスチナとエジプトは特に反抗的な教徒が多かったと言う事で迫害は長く続いたらしい。キリスト教を認めたコンスタンティヌス1世ディオクレティアヌスの政治改革を引き継いで帝国の再統一を果したのがコンスタンティヌス1世である。コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスとは反対に324年の戦いではキリスト教徒の力を利用してマクセンティウス(Maxentius)に勝利。コンスタンティヌス1世の軍隊はその時、キリスト軍となり勝利者としてローマに入場。マクセンティウスもまたキリスト教徒への迫害を続けた1人であった為、キリスト教徒と反キリストの戦いとなったのである。※ 2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中、「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で紹介しています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツそもそもディオクレティアヌスが起こした迫害の時でも、迫害には差があり、コンスタンティヌス1世の領地ガリア、ブリタニアではたいした迫害も起きていないし殉教者も出なかったらしい。AD313年、コンスタンティヌス1世は信教の自由を認めるミラノ勅令を発布。(キリスト教が公認された)※ コンスタンティヌス帝とミラノ勅令(Edictum Mediolanense)したについても2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」で紹介しています。また、2014年09月「サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)」で書いています。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)官僚制を整備し、文官と武官を分離。彼は地中海世界で最も信頼される貨幣として流通するソリドゥス(Solidus)金貨を発行。※ 11世紀後頃から金貨の純度が悪化。信頼は低下して消えていく。さらに330年には皇帝コンスタンティヌス1世はローマをすて首都を東方(現トルコ)のコンスタンティノポリスに移転。コンスタンティノポリスはキリスト教の街として発展する。キリスト教に好意的なコンスタンティヌス1世のご機嫌とりの為に周囲はキリスト教に改宗していく。それは都市や村落単位でもそうだったらしい。アヤソフィアのモザイク画から右にコンスタンチノープルの街を献上するコンスタンティヌス1世左にアヤソフィアを献堂するユスティニアヌス1世南西の入り口のティンバヌムに描かれているがもしモスク化したら隠される図かも・・。コンスタンティヌス1世は死の間際にを洗礼を受けコンスタンティノポリスでキリスト教徒として葬儀が行われ、13人目の使徒として扱われ埋葬されたそうだ。(後にすぐ列聖されたらしい。)※ キリスト教の聖人として正式に認定されたと言う事。キリスト教をローマ帝国の国教に押し上げた業績が評価されたのだ。が、これがローマの元老院との軋轢を生む。後継者争いで帝国はまた分裂する。※ コンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令したミラノ勅令(ちょくれい)は「信仰の自由を保障する」と言うものでキリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代。アヤソフィァのインペリアル・ゲートのモザイク画皇帝だけが利用できた教会の正面入口のティンバヌムのモザイク右のメダリオンが大天使ガブリエル左のメダリオンが聖母マリアキリストに礼拝を行う皇帝が誰なのが謎。レオ6世またはその息子コンスタンティヌス7世説があり、ややレオ6世より。私的には光背(aureola)が就いているのでコンスタンティヌス1世ではないかとも思う。光背(aureola)は、普通なら聖人として列聖されている人物が付けるもの。だが、東ローマでは、テオドシウス帝にしてもなぜか皇帝の頭に光背(aureolaを付けたがる傾向がある。モスクになったらこれも隠されますね。ミラノ勅令後のキリスト教とにかく帝政期にキリスト教は誕生し、確立された。キリスト教がローマ帝国の国教に認定されるには各宗派のすり合わせが必要。共通の統一教義が不可欠であり、それがが皇帝の元に造られまとめられた。325年5月に開催された第1ニカイア公会議はキリスト教史における最初の全教会規模の大会議となる。一歩間違えればキリスト教会の大分裂、これはなかなか大変な会議であったと思う。失敗すればコンスタンティヌス1世も破滅? ストレスはいかに?因みに、数多くできたキリスト教の分派の中には、かなり離れた解釈をする所もありここで正統か? 異端か? ふるいにかけられ排斥された教派もある。もしキリスト教がローマの国教になっていなければ、ここまでしっかりキリスト教の教義は後世に残され確立されてはなかっただろう。ところで「信仰の自由を保障する」ミラノ勅令の時点では、キリスト教が国教になったわけではなかったが、キリスト教徒は「マウントをとった」感にあふれていた。迫害は逆転。キリスト教徒がキリスト教徒以外に向けての迫害を始めたのである。キリスト教を入れたら長くなりすぎました。キリも無いし今回はこのへんで終わります。関係リンクリンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
2020年07月29日
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