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昨日取り寄せていた本がやっと届いた。にわかにベストセラーとなっていて、なかなか入手しにくくなっている「本能寺の変 431年目の真実」である。その著者は明智憲三郎 氏。明智光秀の子孫の方である。苗字により一目解る本能寺の変の謀反者。光秀の子孫である苦悩が著者にはあったそうだ。なぜ光秀は主君織田信長を裏切ったのか? 光秀の出自から迫り、今まで定説とされて信じられてきた内容の矛盾を多方面から集めた文献を上げ考察。真実に迫った書なのである。そこには今まで誰も気付かなかった史実が見えてきた。内容も理路整然とし、明確な解析。光秀論としては、今後の定説になるであろう画期的な一冊となっている。そもそもなぜ定説に問題があったのか?それは定説の元となった光秀論が秀吉の書かせた「惟任退治記」(大村由己)による所が大きいからだ。歴史を歪曲し、己を良くする為に人物像をゆがめ、史実をゆがめても隠したい事が秀吉にはあった。さらに秀吉亡き後に時を待って書き上げられた信長の元で仕えた太田牛一の日記「信長公記」。これは公式に出版されなかった為にこれをパクッて軍記物「甫庵信長記」を出版した小瀬甫庵なる人物が話を歪曲してしまった。読み物として脚色され歩調され、自身の論評まで加えられた本書はベストセラーになって世に広まっていたのだ。加えてこれらを元に光秀、野望説を説いたのが1958年高柳光寿の「明智光秀」だそうで、定説を決定づけてしまったらしい。尚、真実の太田牛一の「信長公記」(池田家本)が出版され世に出るのは何と近年1975年の事。岡山大学付属図書館池田家文庫に原本が保管されていたそうだ。現在、新人物文庫にて現代語訳の「信長公記(しんちょうこうき)」が出版されている。その内容は非常に細かく、本当に日記としてコツコツ書き留めていた事がうかがえる内容である。(そこから見えてくる真実はたくさんあるはずだ。但し、本能寺の変の時に彼はそこにいない。誰かから聞いた話が元になっている。)定説を考えずにこうした本から入り直すと誰も気付かなかった発見がまだあるかも・・。因みにルイス・フロイスの日本史も中公文庫で出版されています。さて、本能寺に入るわけであるが、知らない方の為に先づ紹介したいのは、現在の本能寺が本能寺の変の場所ではない。・・と言うことだ。だから「本能寺跡地」と「本能寺」と言う紹介になるのである。秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転寺町通り御土居(おどい)本能寺跡地現在の本能寺本能寺が焼け落ちたのが1582年(天正10年)。寺はその後再建に進む。しかし上棟式直前と突然に秀吉から移転命令が出た(1591年)と言う。なぜ? しかし実は寺の移動を余儀なくされたのは本能寺だけではなかったのだ。秀吉の改革は前回紹介したように後に徳川家康に消し去られているので解りにくくなっているのであるが、信長亡き後、天下を納めた秀吉は京の洛中の改造を始めていた。所謂洛中の仕分けである。内裏近くに自分の館、聚楽第を築くと周りには有力武将の館を集め町人には町人・・と身分による棲み分けを決めたようだ。1589年(天正17年)2年の歳月をかけて御所を一新すると1591年(天正19年)本格的に京都街の大改造事業を開始。20日間で2000軒の屋敷が撤去されたと言う。京都全体を戦場にした応仁の乱(1467年~1477年)で長らく荒廃していた京の街を改造するにはちょうど良かったのかもしれないが・・。寺などは引っ越しも容易では無かったはずだ。寺町通りその時に洛中の寺は北(鞍馬口通り)~南(五条通)に至る通り、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集められているのである。平安時代、東京極大路は御所にも近く、貴族の邸宅が集まっていたセレブ通りだった。が、そこに寺ばかり集まったので通りは「寺町通り」に変わった。(つまり寺町通りの起源は秀吉なのである)秀吉により集められた寺は約80ヵ寺を数えたと言う。その中には本能寺のすぐ上手にあった妙顕寺や妙覚寺も入っているし、織田家の菩提寺? であった阿弥陀寺もまた所領を減らされて洛中でも洛外に等しい場所に追いやられているのである。現代の地図に重ねた御土居(おどい)の位置と黄色のラインが寺町通り寺町通りのすぐ東に鴨川が流れている。この鴨川はよく氾濫し、当初寺が集められたのは敵の襲来を防ぐ目的と、川の氾濫を食い止める目的があったとも考えられている。オレンジが内裏その西隣のピンクが、聚楽第の場所である。レッドが再建された本能寺の場所。因みに向かいのグリーンは現在の京都市役所である。秀吉はまた、洛中と洛外を明確に分ける為に?あるいは敵からの防御の為に? 京の市中を囲むよう御土居(おどい)なる土塁と堀を建設している。※ 秀吉の治世が終わると水害に懲りた寺院は川の向こうの安全な場所に引っ越しした所もけっこうあるらしい。御土居(おどい)1591年(天正19年)豊臣秀吉が諸侯に命じて造らせた土塁と堀による障壁。そして堀の上には美観を兼ねて竹林が植えられていたと言う。※ この御土居の工事もまた洛中の住み替えの工事と平行して始まっている。江戸時代に家康により取り壊された為に現存するのは数カ所。たまたま撮影していた北野天満宮の裏庭の御土居(おどい)は今や貴重な史跡。左が土塁(その向こうが梅園)で、その外に堀が造られている。橋は近年かけられたもので、堀も近年整備されたものだろう。また御土居(おどい)における洛中と洛外を結ぶ出入り口は限られていたので、現在のような橋はここにはなかったはずだ。下は徳川時代初期の堀の図に多少手を加えました。全ての寺が洛中の寺町通りに集中していたわけではない。もとの位置から動かなかった大徳寺、北野天満宮。また、秀吉が許した本願寺(現在の西本願寺)はわざわざ洛中でも目立つ場所を与えられて移転してきているのである。オレンジの聚楽第は秀吉の時代にすでに無くなっているが地図に残した。参考までにパープルで円を描いた所は、当時の葬送地である。本能寺跡地本能寺の変・・1582年(天正10年6月2日)織田信長が天下統一を前にして無念にも明智光秀の謀反により亡くなった場所である。この付近本能寺の標識。前の道が蛸薬師通りであるから本能寺入り口がこのあたりだったのかも。とにかく行って驚くのはただの住宅街の中である。近年発掘調査をしたものの、今更住宅をどかす事もできないだろう。せっかく場所を特定したので地図で紹介しておきます。A・・現在の本能寺B・・本能寺跡地(下の赤い点が標識の場所) 織田信長が変の時に宿坊していた寺 西・・油小路通り 東・・西洞院通り 北・・三条通り 南・・蛸薬師通りC・・南蛮寺(イエズス会の京都の教会)跡地 信長が庇護していた教会D・・妙顕寺跡地E・・妙覚寺跡地 織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺オレンジが御池通りピンクが河原町通り。現在の本能寺京都市役所の正面、御池通りはさんで南側が本能寺の場所である。表玄関(寺町通り)裏口(河原町通り)ビルの狭間に入り口があるのだが、知っているならともかく初めてだと見つけにくい入り口である。御池通り側には本能寺会館があるが、寺の入り口は寺町通りか河原町通り側からのアクセスになるようだ。本能寺つづくリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉関連リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名高台寺は正室である北野政所寧々様が夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺です。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月30日
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追記しました文字制限でどうしても縮められず2部構成になってしまいました 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)秀吉の出世大坂の陣後の家康家康の復讐?妙法院門跡秀吉の出世1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)1582年(天正10年6月27日)(清洲会議)本能寺の変後、織田家から完全に権力をはぎ取ると権威として冠位を受ける為に朝廷に取り入った秀吉。その出世は早かった。1584年(天正12年11月)従三位、権大納言1585年(天正13年3月)正二位、内大臣宣下1585年(天正13年7月)従一位・関白宣下、内大臣如元(正親町天皇のより関白に任じられる。)1586年(天正14年9月)豊臣姓を下賜される。11月後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進、豊臣政権誕生である。※ 後陽成天皇の在位期間は秀吉の時代から徳川家康の時代にまたがっている。秀吉は関白職を公家から武家に移して世襲とし、諸大名や武家に官位を配りまくったそうだ。しかし、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城で薨去し、翌年後陽成天皇より「豊国乃大明神」の神号をもらい豊国社で祀られるも、1615年(慶長20年)の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると家康により秀吉の残したものはことごとく消されて行った。大坂の陣後の家康徳川家康は大坂の陣後から朝廷の人事にも介入。秀吉の重用していた後陽成天皇は退位させられ上皇にされ一線から外される。それも後任人事は望の皇子でなく、家康の希望する不仲の第3皇子の政仁親王への譲位である。それが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)であり、これにより「禁中並公家諸法度」の公布など家康の思うままの朝廷が誕生したのである。家康の復讐?秀吉により官位を受けていたとは言え、秀吉の行為には苦渋の思いをさせられていた家康が秀吉の栄華の後を消し去るのは想像に難くないことだ。1584年(天正12年)織田信雄(次男)、徳川家康vs秀吉の戦いの因縁もあるし・・。また、神格化されて、次の政権の足をひっぱられては困るので、政敵に利用されない為にも完全に秀吉生前の偉功を消し去る必要があったのでは? と、想像できる。かくして1615年(元和元年)豊国社は破却され、社殿は壊され本当に何も存在しなかったように草の原にされ、秀吉の遺品や豊国の神仏お宝類はすく裏にある妙法院の物となった。大仏がすでに壊れていた事は幸いしていたかもしれない。もし大仏が残っていたら破壊されていたかもしれない。その当の大仏は高さこそ6丈3尺(約19m)と東大寺を越えていたものの、材質は銅像でなく木彫の漆喰造り、事もあろうに開眼1595年(文禄4年)のその翌年1596年9月5日(文禄5年)に起きた慶長伏見地震で大仏殿は残ったものの大仏自体が倒壊していたのである。まさに幻の大仏殿跡地に豊国神社は再建されている。方広寺(ほうこうじ)梵鐘だけは今日に残っている。現在の方広寺(ほうこうじ)は豊国神社隣。上の写真の梵鐘裏手の方向に豊国神社社殿がある。梵鐘には「国家安泰」とあり、「家康」の名が分断されている・・と呪詛の解釈をしたとも言われている。妙法院門跡は最初、秀吉が両親の供養の為に行っていた僧千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所(妙法院庫裏)として歴史に出てきた寺院である。大坂の陣で豊臣家が滅亡すると同時に方広寺はほぼ解体状態。すると当時の妙法院住職は徳川にうまく乗ったようだ。夏の陣後、同年1615年(元和元年)に縮小された方広寺住職をなぜか妙法院門跡が兼務している。豊国社のお宝も妙法院門主の管轄下に入り、同時に新日吉社や秀吉が後白河院や清盛の栄華にあやかろうと肝いりで堂の修復や塀や門を直した蓮華王院(三十三間堂)もまた妙法院門主の管轄下に入っているのである。※ その時組み込まれた新日吉社と豊国社は現在独立しているが観光客収入の多い蓮華王院(三十三間堂)はまだ管轄下にあるようだ。僧千僧供養の僧の食事を準備した庫裏(くり)・・キッチンである。土間に大きな釜土があった。門跡と言うのは皇族や貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指すらしい。が、確かに妙法院は皇族と深い関わりのある寺なのである。下は明治天皇が来訪された時の碑と建物。部屋も公開されていたが、よく来ていたらしい。要するにお坊さん個人の邸宅のようなもの。御所を追われた公家が逃れて来た事や、文化人も多く集まったと言う。公家のサロン的な役割もあったのだろう。円山応挙や伊藤若冲らが出入りしていたと言う。とにかく襖絵(ふすまえ)が素晴らしかったです。本尊は普賢菩薩。写真は普賢堂。偶然立ち寄ったら一年に1度のご開帳「五月会(5月14日)」で中を観覧し、僧千僧供養の食を出した庫裏や書院やお庭が見学できました。無料でしたが中は撮影禁止。(残念)普賢堂では花びらに願いを書き込み、法要奉修していただきました なんてラッキーな日。何にしても豊臣家が滅して大もうけしたのが妙法院なのである。豊国神社奉納絵馬秀吉に因んで瓢箪(ひょうたん)と草履の2種あるようだ。瓢箪(ひょうたん)には開運絵馬草履には出世絵馬と仕事絵馬があったがどちらも仕事が順調に行く事を願う内容が多かったです 日本人は働き者ですね。豊国神社宝物館内部豊国神社が再興されても妙法院門跡はお宝は戻してくれないようである。たいしたものはほとんど無い。逆にかわいそうである。秀吉の歯・・とか珍品はあったが・・。それにしても一つだけ家康を褒めるとすれば、秀吉の墓は破壊しても柩には手を出さなかった事だ。秀吉の功績は明治に入り評価され冠位が上げられた? (格上げ人事?)1915年(大正14年)贈正一位。豊国神社おわりBack numberリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1他、秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月22日
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前回に引き続き、豊臣秀吉関連です。本当に偶然なのですが、今回京都の国宝「三大唐門」を巡っていました。別名「桃山の三唐門」。大徳寺、西本願寺、豊国神社の唐門がそうです。それらに共通していたのが豊臣秀吉です。大徳寺の唐門は秀吉の館の一つだった京都の聚楽第(じゅらくだい)にあったものを拝領した・・と大徳寺のパンフに書かれています。聚楽第は秀吉が居城として京都の町に築いた城ですが、甥の豊臣秀次に譲ったものの、彼を切腹させた後に徹底的に破壊した・・と言われる竣工してたった8年で消えた幻の館です。(現在の二条城より北の位置)西本願寺の唐門は、私感では最も見た目豪奢な門です。この唐門に関しては、京都の地に本願寺が移動してきた1591年(天正19年)に竣工されたもののようです。それにしてもウィキペディアには秀吉が大阪天満にあった本願寺を京都に呼んで創建させた・・と書かれていますが、本願寺発行の本の方に秀吉にかかわる記載がありませんでした。(・_・?) ハテ?そして今回紹介する豊国神社の唐門は、鳥井から正中、社殿の前にありました。豊国神社は明治に再建されたものですが、その唐門の出所は、遡れば秀吉が亡くなった時に居た伏見城の遺構だった? と言われています。それにしても天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、これだけ京都の町に秀吉の残した遺構が多いにもかかわらず、織田信長よりも京での人気はかなり地味な感じがします。豊国神社(とよくにじんじゃ) 1「桃山の三唐門」について豊国神社別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)豊臣秀吉豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)豊国神社(とよくにじんじゃ)、通称「ほうこくさん」大和大路通り1880年(明治13年) 明治天皇のご沙汰に寄り別格宮弊社に列せられ、社殿は旧、方広寺大仏殿跡地に再建されたのが現在の豊国神社である。前回紹介した豊国廟は、それから遅れる事、1898年(明治31年)秀吉公300年祭に遭わせて再建されたもの。御祭神はなんと豊臣秀吉です 人間なのに?以前御霊信仰で祭られた神田明神の平清盛 公や、北野天満宮の菅原道真 公などスペシャルな場合はありましたが・・。朝廷が許可を出すと明神になれるようです。別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)は明治維新以降に作られた神社の等級や格を仕分けた社格制度の中で生まれた部門で、「国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなったや兵士を祭神として祀る神社」。武将が多いようです 東照宮・・徳川家康 建勲神社・・織田信長 上杉神社・・上杉謙信 etc因みに靖国神社も別格宮弊社の扱いです。唐門のせいで一瞬寺にも見えてしまいます。豊臣秀吉(1537年(天文6年2月6日)~1598年(慶長3年8月18日))豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)1598年(慶長3年8月18日)太政大臣を辞職し、8月に伏見城で薨去(こうせい)。しばらく秀吉の死は隠されたそうです。そして翌年1599年(慶長4年)東山大仏(方広寺)の鬼門に位置する阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に八幡宮(はちまんぐう)を建立し、自身の墓所とするよう遺言していたと言われています。一節には秀吉の死を隠したまま、墓所の社殿の建設は始まり、太閤坦(たいこうだいら)に日本初の権現造り社殿が造営されたそうです。秀吉の指示した、八幡神(やはたのかみ)は当時、武家の守護神になる神様として信仰を集めていたようです。が、想定外? 後陽成天皇より「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与えられ、新八幡宮にはならなかったのです。社殿の前には先に紹介した国宝の唐門唐門(からもん)・・・唐破風(からはふ)と呼ばれる屋根の形状からそう呼ばれる。下の写真にラインをひいてみました この独特の形状が唐破風です。かつては彩色があったかもしれません。ここから先、一般の参拝で立ち入りはできませんでした。何か行事の支度をしていたのでその為でしょうか?当時30万坪(100万平方メートル)あった豊国社は徳川家康の時代になると跡形もなく壊され消滅し、人々から忘れさられたと言います。拝殿。奧が本殿宝物館の肖像画より関白時代の秀吉公御画? 作品は江戸時代のものらしい。美化しすぎ?晩年の秀吉公秀頼の8歳の手形入りの掛け軸である。これが最も実物に近い肖像画なのでは? これでも美化されてる?秀吉の枕「夢を喰らう」と言われる獏(ばく)は中国より伝わる伝説の動物。そもそも「夢を喰らう」ではなく、「悪夢を祓う」が本当らしく、邪気を払う事から晩年の秀吉が愛用していた枕らしい。寝具に用いると病や悪気を祓う事から秀吉が病気で苦しんでいた事がうかがえる。2部につづく 同時にのせます。リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2015年05月21日
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写真追加しました前回保留にしていた織田信長の墓所を踏み込んで、大徳寺にも行ってきました。大徳寺は豊臣秀吉が主君、織田信長の為に葬儀を執り行い、かつ大徳寺塔頭に織田家の氏寺を創建しているのです。たまたま今回は特別拝観もあり、話も聞けましたし、最も信長に似ているだろう木彫を拝む事もできました。以下予定しているラインナップなのですが、今「信長公記」と「フロイスの日本史」を読んでいる所なのでもう少し待ってください。信長の墓所 1 (本能寺跡地と本能寺)信長の墓所 2 (阿弥陀寺)信長の墓所 3 (大徳寺塔頭 総見院)で、今回先に秀吉の墓所を企画する事にしました。実は一昨日、前から気になっていた豊国神社(京都)に行って来ました。京都国立博物館隣に神社がある事は知っていたのですが、疲れてなかなか行く事ができなかった場所なのです。その豊国神社には秀吉が豊国大明神としてまつられていて、かつ、遺言により、豊国神社管轄のお山に秀吉は埋葬されていたのです。遺体も灰もなき、織田信長の墓(供養塔)は全国に数十あり、どこも来訪者の多い所ですが、割と知られていないし、ガイドブックにも詳しく乗っていなかったのが豊臣秀吉の墓なのです。なぜ天下を取って大葬儀しをたにもかかわらず、マイナーなのか? それは明治になるまで完全に人々から忘れさられていた墓だったからなのです。秀吉の墓所(豊国廟)阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)豊国廟(ほうこくびょう)秀吉の本当の墓所豊国神社のパンフの地図もともと少しデフォルメされた地図ですが少し加筆しました。A・・豊国廟参道入り口B・・豊国神社飛地境内(現在その境内のほとんどは駐車場になっている)C・・阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹の門所(実ここが本当の秀吉の墓所)D・・五輪の石塔(明治に造られた秀吉の墓)次回豊国神社も紹介する予定ですが、実は現在の豊国神社の場所は、明治になり建てられた物です。本来の豊国神社は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)にあり、創建当時は30万坪(100万平方メートル)もあったそうです。明治政府により豊国神社の再興が認められたものの元の場所に同じ物を造る事はできなかったようです。秀吉の廟は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に再建され、社殿は大和大路通りの旧方広寺大仏殿跡地に再建されています。※ 阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)は豊国神社飛地境内と言う事になります。A地点・・・かつての参道は現在公道になっています。近年参道として整備されたものの、実質この道は京都女子学園に向かう道です。なるべくありのままを紹介します東大路通りから参道に入ると緩やかな坂道になります。それをだらだらと10分ほど歩くと豊国神社飛地境内に入るのですが・・京都女子学園を通り過ぎると、そこは境内前の参道ではなく、バスの待機所含む有料駐車場となっていました。(仮にそこまでタクシーで行ったとしても、駐車場料金500円とられるらしいです。)※ バスは京都女子学園が契約していると思われる「プリンセスライン京都」のバスです。一般の方も現金でなら乗れます。そして3方面くらいに路線があり、市バスと同じ停留所に止まっています。駐車場の間を通り抜けると、神社の入り口が見えました。そして、階段上がってビックリ ここも駐車場になってる。見えるお山が阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)です。B地点・・・太閤坦(たいこうだいら)の社? 門? 拝殿?これが何なのか聞くの忘れましたが、お山の墓所を拝む拝殿なのかもしれない。とにかくこの下を通り抜けて向かうよう言われました。札は参拝の方に向けられたメッセージで、廟に進み参拝する人は、登拝料100円を払ってください・・と言う内容です。(少し前まで50円だったみたいです。)案内所のような社務所? 小屋? があるので、人がたまたまいればいろいろ話は聞けます。階段が多いので大変ですよ・・と豊国神社で聞いてはいましたが・・。Σ(^∇^; )))ゲッ!! 先が見えません。歩けど歩けど階段は続く。 へろ へろへろ~ (;@_@)ノやっとゴールか?C地点あれ? 門だけ?門の向こうにまたまた階段が・・(Ω_Ω)すでに麓の境内までが登りだった為にこの階段はきつい。豊国神社のパンフでは、565段の石段と書かれています。(おそらくそれは最初の鳥居から? と思われます。)ここから上までさらに3回ほど休みました。尚、この参道には一切明かりがない為に、暗くなると危険なので日のある時に登りましょう。後ろを振り返るとかなり急勾配です。もし、木が無ければ京都の町がとてもよく見えた事でしょう。豊国廟(ほうこくびょう)やっとたどり着いた山頂(標高193.5m)秀吉の廟は、囲いで被われて近づけませんでした。拝む所も、賽銭箱も無し。本当に何も無しです。高さ三丈一尺(約9.4m)こう見えて、かなり巨大な五輪の石塔です。この写真は石格子の隙間からカメラを入れて撮影しています。上まで高くて届かないのです。秀吉の本当の墓所新しいこの廟は、明治31年(1898年)秀吉公300年祭で再建されたものだそうです。だから見た目も味気ないものですが、本当にこの下には秀吉公が眠っているらしいです。なぜなら、本当にお骨は発見されているのです。間抜けな事ですが、遺体無き秀吉の墓ををなぜか山頂に造る計画ができたそうです。先ほど登ってきた565段の石段は全てその時に造られたもの。そして工事の途中、山腹で秀吉の柩らしい甕棺(かめかん)が出てきたそうです。中には秀吉らしい人が座る形で居たらしい・・と社務所の方に聞きました。しかし、工事は進み、もともと山頂に造る予定だった五輪の塔はそのまま再建され、本当に遺骨の出た、かつて本当に豊国の社殿があった場所をならして門を造ったそうです。それが先ほど紹介した中継点の門の場所です。秀吉公は遺言でこの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の中腹に埋葬するよう言い残したそうです。それなのになぜ山頂に計画したのか? そもそも疑問です。では、そもそもなぜ豊国神社は無くなったのか?秀吉のお墓はなぜ消滅していたのか?それは次回豊国神社の所で紹介します。社務所でうられてていたお守りつづくリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名前述の信長の墓所リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓
2015年05月15日
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Break Time(一休み)格式と豪華さを備えるホテル(ラグジャリー・ホテル)のみが加盟を許されるリーディング・ホテルズ・オブ・ザ・ワールド(The Leading Hotels of The World)と言うホテル・チェーンがあります。日本で登録されているのは、帝国ホテル東京、ホテル・オークラ東京、パレスホテル東京の格式ある高級ホテル3件のみ。オーストリアには7件あり、そのうち2件がウイーンとザルツブルグにあるホテル・ザッハー(Hotel Sacher)となっています。ホテル・ザッハーと言えば、かの有名なチョコレートケーキの「ザッハ・トルテ」を創出した老舗ホテルです。カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)オリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)ザッハー(Sacher) vs デーメル(DEMEL)ザッハ・トルテからホテルへホテル・ザッハー・ザルツブルグ(昨年7月)ザルツァッハ川畔、新市街側 マカルトシュテーク(Makartsteg)橋の所。実はここがホテル・ザッハーになったのは割と近年の事。前身はホテル「d’Autriche」とホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 1866年ホテルとしてオープンしている。ザルツブルグがちょうどオーストリア・ハンガリー帝国(1867年~1918年)となるほぼ同時期のオープン。特に夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に高級ホテルの存在は不可欠。エスターライヒッシャー・ホフは当時から貴族のサロン的なホテルとして存在していたようです。それが1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生する。正面入り口はシュバルツ(Schwarzstrasse)通り写真左側・・・カフェ。写真右端・・・オリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)を販売しているショプで、店はホテルとは独立した入り口になっている。(カラヤンの生家は道路隔ててその前。)ロビー客室数83 内スイート30室1階階段脇にはここの常連と思われる著名人の写真が並べられている。カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)カフェは1階シュバルツ(Schwarzstrasse)通り側ここにも常連とおぼしき著名人の方々の写真が・・。カフェ・ザッハー・ザルツブルグのカフェは静かで落ち着いた雰囲気のお店。観光客っぽいお客様は他にはいませんでした。ケーキは十数種。驚いたのは昔と違い、ケーキの甘みが遠くなっていて日本人にも食べやすい甘さになっていた事。昔はもっと甘かった・・と思う。テーブルにあるスタンドはメニュー表でした。本のようなメニューが挟まれているのだが、案外使いにくかった。ウインナー・コーヒーとケーキオリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte) €4.90オリジナルのトルテは中程に薄くアプリコット(杏子)のジャムの層がある。※ザッハ・トルテに関しては、2009年12月デーメル(DEMEL) のザッハトルテで以前紹介しています。リンク デーメル(DEMEL) のザッハトルテ 1 (ウイーン王宮御用達菓子店)リンク デーメル(DEMEL) のザッハトルテ 2 (ザッハトルテの商標権争い)ホテル・ザッハーとデーメル、両者のザッハ・トルテに関し以前争いがありました。係争7年。1963年に示談が成立したそうです。ホテル・ザッハーの物はオリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)とし、後から真似した? デーメルの方はデーメルズ・ザッハ・トルテ(Demel's Sacher Torte)とする。オリジナル・ザッハー・トルテ(Original Sacher Torte)前にも書いていますが、ホテル・ザッハーのトルテを考案したのはホテル創業者の父。フランツ・ザッハー(Franz Sacher)(1816年~1907年)です。フランツは当時時の宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)の所で見習い料理人をしていたところメッテルニヒの依頼を受けた主任シェフの代役で1832年、このお菓子を考案したと言われている。僅か16歳の時だそうだ。フランツは修行を続け、その後1884年にデリカテッセンをウイーンに開業。そしてザッハー・トルテを販売。好評を博し、その得意顧客には以前スミレ菓子で紹介したシシィ(Sissi)こと皇妃エリザベート (Elisabeth)(1837年~1898年)もいた。リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子因みにデリカテッセン部門は1871年に「k.u.k. Hoflieferant (皇室および王室御用達)に認定されている。ザッハー(Sacher) vs デーメル(DEMEL)ところで、デーメルとの争いは、デーメルがザッハー・トルテを販売した事に始まるのだが、そのレシピはフランツ・ザッハーのレシピであった。だからこそ本家ザッハーが怒ったわけであるが、そのレシピの流出の理由は諸説ある。最も信憑性のあるのが1934年頃、アンナ・ザッハー亡き後、財政難となったザッハー家がホテル部門をギュルトラー・ファミリーに譲渡し、デリカ部門はライバルのデーメルの援助を受けた事。デーメル援助の見返りにデーメルの子女との政略結婚があり、その時にレシピがデーメルに「流れた?」 あるいは「売った? 」とする説である。何にしても秘伝のレシピが流出したのはこの頃のようで、後年、訴訟を起こしたのはザッハー側のようである。Apfelstrudel €4.30アップルストューデル、所謂アップルパイの事であるが、生地が薄くて、スライスされたリンゴがたくさん詰まっているザッハ・トルテからホテルへ1876年、フランツの息子エドゥアルド·ザッハー(Eduard Sacher)(1843年~1892年)の時に貴族向けの賃貸ルームを開業。それはエドゥアルド亡き後、妻のアンナ・ザッハー(Anna Sacher)(1859年~1930年)が引き継ぎ、支配人となり彼女の才覚により業績は伸び、ホテル・ザッハーが誕生。現在のホテル・ザッハーはギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)が所有している。5つ星ホテルとしては珍しい個人所有のホテルだそうだ。Erdbeerschnitte €3.20所謂イチゴ・ショートである 静かで、落ち着いた素敵な雰囲気の中で優雅にカフェ・ブレイク。思った以上にケーキも甘くなくて、全て美味しかったです
2015年05月07日
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3日からまた急遽大阪に行く事になりました。行ったらまた京都などでかけてくるつもりではありあますが、ザルツブルグの資料を持っていけないので、ヘルブルン宮殿は中旬以降になると思います。<(;_ _)>ごめんなさいザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地クアガーデン(Kurgarten)残念ながら今回宮殿の内部は撮影していません (締まっていて入れなかったのだと思います。)ミラベル宮殿は現在ザルツブルグ市の役所として、また市公営の結婚式場として利用されていて、海外ウエディングとして日本からも参加でき、人気だと言います。かつてバロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) の設計した宮殿は1818年の火災で焼失していますが、焼け残った西翼北のゲオルグ・ラファエル・ドナー(Georg Raphael Donner)の階段と大理石の間は、結婚式やコンサートなどのイベントで絶えず利用されているそうです。宮殿南西面宮殿南面のバラ園周りにに置かれている17基の大理石の壺最初にバロックの庭園を設計したヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)が置いたもの。しかし、現在のものは本物か? 周りが溶けてしまったのか? 大理石には見えない。宮殿南側ローズガーデンを西面からこのローズガーデンはかつてはオランジュリー(オレンジ園)だったようだ。ミラベル宮殿裏(西側)、ペガサスの泉転々としてここに落ち着いたペガサス像当初カピテル広場に設置されていたペガサスの像は1700年頃移設。フィッシャー・フォン・エアラッハがバロック庭園を手がけた時に移設されたものか?あるいは宮殿をバロックに変えたフランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )が大司教になった時に移設したのかも・・。しかし、1818年の火災の後に撤去され、オークションにかかるなど数奇な運命を辿り再び戻ってきたらしい。ここで式を挙げた多くの新婚さん達がこの前で記念撮影するそうだ。北門の階段とその向こうがクアガーデン(Kurgarten)北門の階段にはユニコーンの像が置かれている。クアガーデン(Kurgarten)からのペガサスの泉越しのミラベル庭園とホーエンザルツブルグ城クアガーデン(Kurgarten)公園ローズヒルの向こうにかすかに見える建物がシェラトンホテル。ここは丘になっているセントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地この北西エリアには30年戦争(1618年~1648年)の頃、ミラベル宮殿を守る砦が建設されていたようだ。装備が築かれるのはパリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)の時。ミラベル宮殿を守る砦、セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡と印されている。30年戦争で使用される事は無かったかも知れないが、ホーエンザルツブルグの要塞同様、ザルツァッハ川に面したこの宮殿の防衛の為に堡塁が築かれていたのは間違いなさそうだ。その跡地の遺構が後半紹介するドワーフの広場である。クアガーデン(Kurgarten)時代が代わり、ザルツブルグ市の所有が大司教からオーストリア皇帝に移るとフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)がここの整備を始めて1854年、ミラベル庭園とクアガーデン(Kurgarten)の一般公開を始めている。現在もシェラトン・ホテルに隣接してコンベンション・センターとクア・ハウス(スパ)が存在しているが、これがフランツ・ヨーゼフ1世時代に造られたクア・ハウス(温泉施設)の名残なのではないかと思う。(シェラトンに宿泊していて全く気付かなかった)※ 少なくとも第一次世界大戦(1914年~1918年)まで市民の憩いの場としてこうした施設も存在していたようだ。クアガーデンからのミラベル庭園方面ミラベル庭園ペガサスの泉の後側ライオンの階段がある。そこを上がると橋があり面白い像がたくさん置かれている広場? があった。この橋に据えられた像を見る限りでは戦争のイメージこれが要塞の堡塁につながる橋と思われる。全景はないのだが、堡塁跡と思われる広場は、ほぼ完全な円形の丘の上にあり、270度くらいの角度をカバーする事ができるだろう。橋を渡ると円形の広場にぐるっとドワーフの像が設置されている。これらドワーフは復元作品で、実はバロックの時代からこのドワーフは存在していた・・と説明している所もあるが、ちょっと疑問である。少なくともこの場所ではなかっただろう。どう見ても作品は1600年代ではない。風刺か? 変なおじさんの像もある。ドワーフ(dwarf)・・トールキンのフアンタジーでもお馴染みの伝説の小人族。人ではなく、妖精の種とも?ミラベル宮殿正面(雨の日の写真ですが・・)普通に役所なのである再度になりますが、バロックの宮殿と庭園に造り上げたのはフランツ・アントン・ハラッハ大司教の時代(1710年頃)で、ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教の時(1606年)ではありません。つまり宮殿のルーツは愛人の為の邸宅であったが、その後の所有者により増改築され、立派になっていった・・と言うのがこの宮殿です。しかし、1818年の火災でバロックの宮殿は焼け、後年、少し質素なネオクラシック(新古典様式)で建て直されて現在に至るわけです。(その立て直しの年代がはっきりしていない。 断定できるのは、フランツ・ヨーゼフ1世の時代である事。)また、ぶっちゃけ、現在の庭園の彫刻はどれも撮影するほどの品ではなく、近景ではほとんど載せませんでした。(後年の安いレプリカか?)ザルツブルグは第二次世界大戦のおりに近くの駅舎が爆撃され、未だ不発弾がうまっているかもしれない場所です。(その時に被害が及んでいる可能性はあります。)近年庭園などは整備されつつありますが、昔の豪奢なスタイルに戻ったとは思えません。何しろ入園はタダ。財源は市から出ているわけですから、維持管理にそんなにお金はかけられないのでしょう。たぶんバロック時代の宮殿はもっと素晴らしいものだったに違いない・・と言う感想で「ミラベル宮殿と庭園」終わります。Back numberリンク ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)
2015年05月02日
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本当は、本能寺と阿弥陀寺の織田信長の墓所を紹介する予定でしたが、写真を選んで見たらふつうに墓地と墓石の紹介のよう・・。それではあまりよろしくない・・と今回は保留にしました それにしても今年の春は雨が多くて、せっかくの桜の季節が台無しでした。大阪造幣局の桜並木は、桜の木に名前や品種の札がついていて、全部撮ったら桜の花の図鑑になりそうなほど品種がありましたが、灰色の空の下の桜では絵にならない。今年の写真では載せられませんでした o(*≧O≦)ゝ < ザンネ-ンッ!!そんなわけであれこれ迷走した結果ザルツブルグに戻ってきました。 おまたせいたしました m(_ _ )mザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1) ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)大司教の結婚大司教ヴォルフ・ディートリヒの失脚と宮殿の改名バロックの巨匠の宮殿と庭園ホーエンザルツブルグ城からのミラベル宮殿と庭園(赤い円)ユネスコ世界文化遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」ザルツァッハ川右岸地域ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten) 1996年認定現在、ザルツブルク市庁の建物となっている宮殿は、1606年にザルツブルグ大司教であるヴォルフ・ディートリヒ(Wolf Dietrich )が愛人サロメ・アルト(Salome Alt)(1568年~1633年)と暮らす為に造らせた邸宅が最初だそうです。(最初の邸宅はもっと小さかった)南門からの庭と宮殿宮殿の方は公営の結婚式場にも利用されていますし、美しい庭園の方は公園として市民に開放されています。当時は人もほとんど寄りつかないザルツァッハ川の向こう岸ですが、現在は有名ホテルが固まっています。地図では駅が上方右方面。旧市街は左下の方面。地図のAはシェラトンホテル。Bはホテル・ブリストル。Cはホテル・ザッハ南門もともとザルツブルグは独立した大司教区で、ここでは大司教がまるで世俗の王侯のような暮らしをしていた・・と言う話は前にもしていますが、実際歴代の大司教達は公認されたかのように派手な生活をしていたようです。特に突出して目立つ大司教が2人。今回紹介するミラベル宮殿を建築させたヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教と、ヘルブルン宮殿を建築させたマルクス・ズィティークス・ホーエネムス大司教です。大司教の結婚大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(Wolf Dietrich von Raitenau)(1559年~1617年)(在位1587年~1612年)サロメ・アルト(Salome Alt) アルト・フォン・アルテナウ(Alt von Altenau)(1568年~1633年)もともと高貴な家系のヴォルフ・ディートリヒはローマで勉強した高い教養と、芸術の素養を持った才子(さいし)。王室厩舎、カプチン派修道院、参事会会場、新レジデンツの建設。また火災で焼けた大聖堂建築計画などザルツブルグを美しい街にすべくいろいろ尽力した功績はあったようです。本来カトリックの聖職者は結婚はできないのだが、ヴォルフ・ディートリヒは「司祭に叙階される前にサロメと結婚の契約を締結した」と報告。結婚を公式に認めさせたかったようだが、失敗?結果、世間的にはアウトでも、地元では半ば公認の関係で、2人の間には15人の子供が誕生。(やはり完全な妻であり、愛人と言う方が不適切な気がします。)サロメももともとザルツブルグの名門商家出身。しかもザルツブルグいちの美女。彼は妻サロメの為に? 子供達の為に? 爵位をとり地位と財産を確保させたかったようです。1600年に爵位の称号をもらいアルト・フォン・アルテナウ(Alt von Altenau)に改名。それ故1606年に建てられた家族の住まいはアルテナウ宮殿と呼ばれたそうです。大司教ヴォルフ・ディートリヒの失脚と宮殿の改名バイエルン選帝侯のヴィルヘルム5世(Wilhelm V)との間で塩山の領有権問題で紛争が勃発。1611年バイエルンの侵攻により破れて捕えられ、宗教界からも見放されて1612年に失脚。身分を取り上げられた上にホーエンザルツブルグ城に幽閉。牢獄の中で5年後(1617年)に亡くなったそうだ。享年57歳。次の大司教マルクス・ズィティークス・ホーエネムス(Markus Sittikus Graf von Hohenems)(1574年~1619年)(在位1612年~1619年)彼は大司教になると、失脚した前任者任の影を払拭するべく?アルテナウ宮殿をサロメから取り上げ追放して、宮殿の名をミラベル(Mirabell)宮殿に改名。※ イタリア語で「mirabile(立派な)」+「bella(美しい)」=「Mirabell」すばらしく美しい? 女性の名前に使われる名称だそうだ。しかし、大司教マルクス・ズィティークス・ホーエネムスはここに来る事はほとんどなかったらしい。彼の興味は別の宮殿に向いていたからだろう。(それこそがヘルブルン宮殿である。)この宮殿に興味を示し好んで住みついたのがその次の大司教パリス・ロドロン伯である。大司教パリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)欧州では30年戦争(1618年~1648年)が勃発。カトリックvsプロテスタントの戦い・・と言える欧州中を戦乱に引き込んださなかでも、なぜかザルツブルグ大司教区は巻き込まれる事がなかったと言う。その為にミラベル宮殿の増改築と庭園の拡大に費用が捻出できたようだ。そして好んでここで暮らし、ここで亡くなったらしい。バロックの巨匠の宮殿と庭園フランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )の時に有名なバロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) をウィーンより招聘。バロックの宮殿が完成。しかし1818年火災でバロック宮殿は崩れ、後にネオクラシック様式で再建。それが現在の宮殿の姿である。庭園はそれより前1690年にヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)により設計。その後1730年にアントン・ダンレイター(Anton Danreiter)により変更。しかし基本はヨハン・ベルンハルトのバロックの庭園だそうだ。この庭はシンメトリーになっていないのだ。ミラベル宮殿の庭師?早朝の庭の手入れをしている若者が・・。夏場は暑いからね・・。日本製だ つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)
2015年04月27日
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以前紹介しいる「法隆寺」のback numberのリンク先加えました。Break Time(一休み)法隆寺 (柿食えば・・の鐘の件)柿食えば・・の梵鐘西円堂(さいえんどう)夢殿(ゆめどの)古い話に遡りますが・・。「2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1」で法隆寺の紹介をすでにしています。リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1「2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 2 解答編 日本最古の木造建築」 (2011年8月7日)タイトル変更しました。リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 1 法隆寺縁起リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 2 聖徳太子その時「柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺」 by正岡子規」 「歌碑にある鐘は?」 それがどこの鐘か? と疑問があり、西院伽藍、大講堂横の鐘がそうかな? と写真を紹介していたのですが、この程疑問が解明されました。実は先週の月曜、雨の中、法隆寺に出かけてきました。その日は、斑鳩町観光協会で、法隆寺のガイドをお願いしていたのです。前回の時もガイドをしていただいたのですが、今回は延々4時間のみっちりガイドで、疑問をいろいろ聞いて来ました。法隆寺境内図W・・西院伽藍 域(金堂、五重塔、大講堂、西円堂゜、他)E・・東院伽藍 域(夢殿、他)※ 法隆寺は大きく西院伽藍と東院伽藍に別けられます。柿食えば・・の梵鐘正岡子規の歌碑は西院伽藍横にある聖霊院(しょうりょういん)前の鏡池の畔にある。聖霊院(しょうりょういん) 1284年 国宝聖徳太子、薨去(こうきょ)500年、1121年に造られ? 1284年全面改築聖霊院(しょうりょういん)の本尊は冠を戴いた聖徳太子座像。(1121年 国宝)前の鏡池のほとりにある(境内図、青い★)。そこにかつては茶房があったらしい。雨脚が酷くて全景をとっている暇がありませんでした(いつも雨で申し訳無いです。)「柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺」 歌碑鏡池のほとりの茶房に座っていた時に聞こえてきた鐘は、時報の鐘だったらしい。とすると、時報の鐘は西院伽藍の鐘ではない。伽藍にある白鳳時代の梵鐘は法要の時のみ突かれるらしい。(この日は法要は記録に無いそうだ。)時報の梵鐘は、西伽藍北西に位置する西円堂の梵鐘。つまりそれが正岡子規の聞いた鐘の音である。西円堂(さいえんどう)一般の拝観では来ない丘の上に西円堂(さいえんどう)と梵鐘(境内図、赤い★)がある。西円堂(さいえんどう) 八角円堂 1250年 国宝八角造りの円堂である西円堂は夢殿に似ている。1250年は再建年。もとのお堂は717年~724年に創建された物と伝えられているらしいが、747年の「法隆寺伽藍縁起並びに流記資財帳」に記載が無いのでそれ以降に建てられた物かもしれないそうだ。因みに夢殿は739年建立。夢殿より先か後か? 何れにせ建立の時期は近い。西円堂も夢殿も観音像を祀るのが主眼の堂。原型はストゥーバ(仏塔)を日本流にしたものなのだろうが、ドームができないからか? この時代のお堂はこの八角形スタイルがスタンダードだったのかも。おそらく後にこれが重なり五重塔に発展するのだろう。西円堂(さいえんどう)の本尊は薬師如来座像薬師如来座像 奈良時代 国宝 脱活乾漆造(漆で型どりされた非常にお金のかかっている如来です。) 円相は鎌倉後期基本撮影は出来ないので法隆寺の本から持って来ました。薬師如来飛鳥時代から広く信仰されている薬師如来は、すべての病人を24時間体勢で救うと言うありがたい如来である。しかも1度でも参拝すればあらゆる病が除かれ、長寿になるとか・・。※ 時の高貴な人が、病気平癒を祈って造られた物が多いそうです。左手に持っているのは薬壺(やくこ)。これで薬師如来と解るが、他にも条件がある。薬師如には脇侍として日光菩薩・月光菩薩が付随。(ここの場合円堂の屋根瓦にも日月が付いている。)さらに眷属(けんぞく)である十二神将が守護している。十二神将は薬師如来の12の誓願の現れ(分身)とされているが、平安時代からは12時のご護法神として十二支獣を頭上に表すようになったらしい。ざっくり言えば、日光菩薩・月光菩薩は昼夜交代で、ここでの十二神将は24時間働きますよ。・・的な意味のようだ。話がそれましたが、下の鐘付き堂の梵鐘が時報を告げる時の鐘。正岡子規の聞いた鐘はこれですおまけ 西円堂の八角と似ているので夢殿も紹介。東院伽藍 夢殿 八角円堂 739年 国宝東院伽藍は、聖徳太子を祀る為に建立されたもので、現在の建物は1230年に改造されたもの。601年(推古9年) この斑鳩(いかるが)の地に上宮皇子である厩戸皇子(うまどのみこ)後世、聖徳太子と呼ばれる王子の宮殿(上宮王院)が建立。622年(推古30年) 聖徳太子、薨去。643年に起きた内乱により廃墟となったこの宮殿跡を嘆き、行信僧都(ぎょうしんそうず)が東院の建立を発案。(739年建立)回廊の中心に堂は建ってる。夢殿の本尊は聖徳太子、等身の御影(みえい)久世観音菩薩(くぜかんのんぼさつ)久世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ) 飛鳥時代 国宝撮影は出来ないので法隆寺の本から持って来ました。こちらは秘仏なので春と秋の年2回のご開帳。(4月11日~5月18日)今なら大宝蔵院で見学できます。身長は178.8cm。聖徳太子と等身に造られた御姿と言う事で、それなら聖徳太子はかなりの長身の人。時代も時代なので今より全体に身長が低いのが普通。案内してくれたガイドさんと聖徳太子はやはり渡来系だったのでは? と言う話で盛り上がってました。蘇我氏、渡来人説がにわかに真実みが出てきた感じです。何しろ聖徳太子の父(用命天皇)も母(穴穂部間人皇女)も蘇我の出自なので・・。実は2月に広隆寺に行ってきました。そこにはこの東院伽藍、横の中宮寺に伝わる弥勒菩薩(半跏思惟像)と人気を二分する弥勒菩薩が鎮座しています。でも、目的はその弥勒菩薩よりも広隆寺にありました。そこは渡来系氏族、秦氏の氏寺だったからです。秦氏のルーツを研究しようかな? と思っているのですが、このペースではそこまで行けるのか・・。それに蘇我氏のルーツも気になるし・・。とりあえず「柿食えば・・の鐘の件)」おわります。おまけ写真 法隆寺南大門 参道から法隆寺南大門からの伽藍、五重塔法隆寺あなどっては行けません。かなり広いです。
2015年04月20日
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今回、醍醐寺の紹介は、下醍醐の北にある弁天堂までで終わりにさせてもらいます。上醍醐の方は山上なので、弁天堂から先、登山道になり今回行っていません。(唐門から3.2km徒歩68分)弁天道の上の無量寿苑までは行ったのですが、桜は全くなく、折り返してしまいました。(現在一般の方の桜見物はだいたいそこまでのようです。)しかし、後から解ったのですが、豊臣秀吉の花見跡と言う場所が、無量寿苑より上の方にあったようなのです。桜の季節は外れますが、また日を改めて登山のしたくをして今年中に登って来るつもりです 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)醍醐寺の再興観音堂(上醍醐准胝堂)西国三十三観音霊場醍醐寺は平成6年(1994年)に「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録。現在の寺宝、伝承文化財はおよそ10万点。国宝69419点、重要文化財6522点2013年)。ものすごく沢山のお宝の眠る寺院なのですが、それもこれも豊臣秀吉のおかげ・・と言う所が大きいようです。※ Part 1で紹介した三宝院とその庭園、前回Part 2で紹介した西大門(仁王門)、金堂など、たいていの国宝や重文は秀吉以降に再建、もしくは作られたり奉納されたもの。醍醐寺の再興そもそも醍醐寺は醍醐天皇とその子息である天皇により支援され大きくなったものの、応仁の乱の戦火で荒廃。下醍醐の伽藍は、五重塔以外はほぼ焼け落ちてなくなり、三宝院も消失。一時は廃寺寸前の状態で、資金もなく再建できないでいたようです。それが安土桃山時代に現れた醍醐寺金剛輪院の座主であった義演(ぎえん)(1558年~1626年)から寺は再興されます。豊臣秀吉は義演(ぎえん)の為に資金を出し醍醐寺を再建させたからです。(寺に寄進する・・と言う事は、同時に仏に帰依した事になるようだ。)では秀吉が醍醐寺の再建に資金を出したのはなぜか?実は、三宝院座主であった義演の父は二条家14代当主にして左大臣から関白に2度就任。母は皇族出身。長兄、九条 兼孝(くじょう かねたか)(1553年~1636年)・・関白。次兄、二条 昭実(にじょう あきざね)(1556年~1619年)・・関白。つまり、義演の家は歴代の関白を賜る公家。それ故、僧侶とは言え、もともと高位に上がる事が約束をされたエリート僧侶なのであった。義演の次兄、二条 昭実(にじょう あきざね)は、織田家、秀吉とも深い親交があり、秀吉に関白を譲った事からその恩義に報いるべく、醍醐寺の援助をするようになったと言われている。秀吉は、よく三宝院で義演(ぎえん)と遭っていたそうだが、二条 昭実(にじょう あきざね)もまた友人関係にあったのかもしれない。1598年3月15日(1598年4月20日)醍醐の花見に際しては、三宝院を整備させて、自ら庭を造り、700本の桜の木を植樹したと言われているが、そもそもこの花見は確か義演(ぎえん)の方からの申し出だった・・と記憶している。(元気を失っていた秀吉に提案した・・と何かの本で読んだ気が・・。)寺を直す良い機会・・と義演(ぎえん)が画策した? とも考えられる。余談であるが、二条 昭実(にじょう あきざね)は織田信長の養女と結婚し、さらに秀吉の側室であった信長の実子(三の丸殿)とも結婚しているのである。(織田信長フェチか?)観音堂(上醍醐准胝堂) ※旧大講堂西国三十三観音霊場第11番札所実は、建物は1930年(昭和5年)「醍醐天皇一千年御遠忌記念」の時に建築された大講堂だそうです。現在は西国三十三観音霊場第11番札所、准胝観音(じゅんていかんのん)様の仮住まいになっていて、観音堂の名で呼ばれているようです。准胝観音(じゅんていかんのん)は、もともと上醍醐に社があったようですが、2008年(平成20年)8月、落雷により消失。もともと西国三十三観音霊場第11番札所であった為に、それも代行しているようです。※、准胝堂(じゅんていどう)再興の為に現在資金集めしているもよう・・ 西国三十三観音霊場西国(近畿地方)に点在する33か所の観音信仰の霊場で、醍醐寺にある伽藍北の上醍醐准胝堂はその巡礼地の1つ、11番札所になっているそうだ。札所巡りは、33箇所の観音菩薩を巡礼すると、現世での悪行がクリアされて極楽浄土に行ける? と言う信仰があるらしい。ところでそれと非常に似た慣習がキリスト教にもあります。いわゆる聖地巡礼がそれなのですが、特に以前紹介した事もある、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は辿る行程で、立ち寄る教会のスタンプなどを貰って行く事。また最終のサンティアゴ・デ・コンポステーラで、聖なる門をくぐると、現世の悪行が免罪されて天国に行ける・・と言う事など、非常に似ている気がします。※ 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」シリーズは全14編。2011年に紹介しています。弁天池と弁天堂弁天堂醍醐天皇一千年御遠忌記念」の時に大講堂時と共に、弁天堂、林泉、地蔵堂、鐘楼、伝法学院などこれら諸堂も同時に寄進されたようです。弁天堂前からの観音堂無量寿苑霊宝館の庭園、平成館テラス側のしだれ桜文字通り寺の宝を収蔵する施設です。明治期に政府の行った廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)では、日本の寺は解体の危機に遭いました。それぞれの寺が、資金難から手持ちの宝物を手放して行った時代で、たいていの寺の宝はこの時期に散逸。寺そのものもたくさん潰れた時代だったといいます。(一昨日訪ねた法隆寺でさえ廃仏毀釈の時は、皇室に宝を買い取ってもらったそうです。)そんな時もここ醍醐寺では、一切の宝物を一紙に至るまで流出させない事を旨として困難な時期を乗り越えて宝を守ってきたと言います。だからこそ、膨大な宝が今日まで残っているわけです(でも一紙流出無し? それ本当かな? よほどのパトロンがいたのかな?)三宝院左翼の外れに大きな桜の木が植えられている。とりあえず、醍醐寺おわり 上醍醐は、今年中になんとかできれば・・。Back numberリンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
2015年04月14日
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9日より大阪桜宮造幣局の桜の一般公開(通り抜け)が始まりました。造幣局は八重桜が多いので遅いらしいのですが、今年は早いなーと思っていたら、連日の寒さと雨でやはり開花がストップしたようで見頃はまだ先のようです。 さて、醍醐寺ですが今回は伽藍のある下醍醐を紹介します。前回と同じく写真は3月31日のものです。京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)西大門(仁王門) 金堂(国宝) 不動堂・護摩道場 五重塔(国宝)醍醐寺建立 醍醐天皇と菅原道真公の因縁醍醐寺が修験者の霊場として開山されてから数十年。第60代天皇、醍醐天皇(885年~930年)は菅原道真公の祟りを恐れてか? 厄払いか? 不動明王の力を借りるべく醍醐寺を自らの祈願寺として、財力をかけててこ入れしています。(それは続く子息、朱雀(すざく)帝、村上(むらかみ)帝の代にまで続いて・・。)第60代天皇・・・醍醐(だいご)天皇 ※醍醐天皇はこの寺への帰依から名をもらったようです。第61代天皇・・・朱雀(すざく)天皇(923年~952年) ※ 醍醐天皇の第11皇子第62代天皇・・・村上(むらかみ)天皇(926年~967年) ※ 醍醐天皇の第14皇子上醍醐と下醍醐地図黄色の円・・上醍醐赤色の円・・下醍醐(ピンクは五重塔、金堂、不動堂と、伽藍の主要建造物)西大門(仁王門)慶長10(1605年)豊臣秀吉により再建。仁王像仏師・・勢増 長承3年(1134年)山は伽藍以外は杉の林万葉集東歌(まんようしゅうあずまうた)の中で杉は神聖な木として詠まれている。榊に類する神木なのだ。(そう言う意味では伽藍は杉林の結界の中にある。)金堂(国宝)醍醐帝により延長4年(926)に創建。(創建時は釈迦堂)永仁、文明年間に2度焼失し、現在の金堂は秀吉の命で紀州(和歌山県)湯銭から移築されたもの。安置されている薬師如来座像が寺の本尊。不動堂 護摩道場手前の石柱には「醍醐天皇一千年御遠忌記念建立」の文字が入っている。※ 遠忌(おんき)とは、祥月忌日(しょうつききじつ)50回以上の時に使う言葉らしい。醍醐天皇が亡くなったのは930年なので1930年に建立されたものか?この堂に関しての詳しい来歴がどこにもない。そこで気が付いたのは、明治政府のおこなった「神仏分離令」かつ「修験道廃止令」の影響で1度、お堂は壊されていたのではないか? と言う事。その後廃仏毀釈が一段落してから1930年(昭和5年)頃? 「醍醐天皇一千年御遠忌記念」の名目で堂は再建されたのかもしれない。不動明王像前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ祈願が行われると言う。堂内にも不動明王をトップに五体の明王が安置されているそうだ。※ 不動明王像は霊宝館の特別展示でも多数展示されていた。(撮影は禁止)不動明王像・・・石彫りの明王の迫力が凄い五大明王の中心となるのが不動明王。本当に霊験ありそうな風格です 五大明王 (中央)不動明王 (東)降三世明王 (南)軍荼利明王 (西)大威徳明王 (北)金剛夜叉明王or烏枢沙摩明王もともとインドのジヴァ神から来ているとされる仏尊で、日本へは最初、弘法大師(空海)が唐より持ち帰った図像(曼荼羅?)にあったとされる。(密教自体はもともとの釈迦の教えとは異なり、一般人でも救われる・・と言う大乗仏教に分類される。)力を持って人の救済をする明王は、仏の知恵と真言を身に付けた強面の仏の化身のような存在。(大陸で発展した仏教は土着の信仰と合体して数々の菩薩や如来、明王などを産んだようだ。)菩薩の救済に対して、明王はその力で悪をねじ伏せる。だから持ち物も戦闘的な武具が多く、形相も険しい。(その有様で邪気を払って救済してくれる要素を持っているようだ。)それ故、密教や修験道では尊格として広く信仰され、明王の元に息災や降伏祈願と言った祈祷が行われる。醍醐寺建立 醍醐天皇と菅原道真公の因縁霊水を得て、874年に開山。開山堂は最初山上の上醍醐に創建された。延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立され上醍醐の伽藍が完成する。どうもこれは菅原道真公(845年~903年薨去)の祟りに影響されているように思う。(菅原道真公の祟り(たたり)については、2月「北野天満宮 梅花祭り」の中で紹介。)醍醐帝は、自分の仕打ちにより、憤死したとする菅原道真公の怨霊に悩まされ続けていた。菅公の位階を右大臣職に戻したのが923年。その後延長4年(926年)には下醍醐の地に金堂(釈迦堂)が建立されている。清涼殿の落雷の後、ショック? で亡くなった醍醐帝(930年薨去)の菩提を弔うために建立されたのが五重塔である。皇子である朱雀帝、村上帝が建立。936年着工。天暦5年(951年)完成。五重塔(国宝)高さ約38m。相輪の長さ約13m。内部は最近月命日の29日に一般公開されているようだ。(拝観料600円と別途、写経奉納1000円が必要)中には醍醐天皇とその家族の少し大きめの位牌が中央に置かれている。またその堂、初層には平安時代に描かれた大日如来と両界曼茶羅図や真言八祖が描かれていて、それ自体が、塔と別に国宝に指定されている。因みに醍醐天皇の亡骸は、醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下に土葬されたと言う。山下の平地に大伽藍(下醍醐)を造ると醍醐寺は発展。その後朱雀、村上天皇の三代に渡り、寺には堂が建立されて行くのですが、前回紹介したように500年後におきた応仁の乱(1467年~1477年)で寺は荒廃するのです。現在ある堂は五重塔以外はほとんどが秀吉とその息子による再建のようです。入りきらなくなったので切ります つづくBack numberリンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院) 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
2015年04月10日
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醍醐寺と言えば豊臣秀吉が亡くなる5ヶ月前に、最後の盛大な花見をした寺として非常に有名なお寺。場所は京都東山より西側、北は比叡山、東は音羽山に接する山科盆地。標高450mの醍醐山に寺はあります。なんでこんな所まで? 案外京都市内から離れているのに驚いたのですが、晩年の秀吉は京都伏見城に居たようで、花見の5ヶ月後に息を引き取った場所も伏見城でした。伏見城から醍醐寺までは割と近かったのです 撮影は3月31日、1度は桜の季節に来て見たかった場所なのですが、直前にNHKがスペシャルで醍醐寺を取り上げた事もあり、今年は住職も驚く異常な人出だったようです。ぶっちゃけ桜より人のが多かったし、目が回りそうな人混みでした それにしても桜の花だけの紹介予定が、醍醐寺は案外奧が深かった 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)醍醐寺の創建と修験道三宝院 太閤しだれ桜醍醐の花見境内地図醍醐山の山上山下に広がる醍醐寺は、山の上の堂群が上醍醐、伽藍のある中腹が下醍醐、醍醐寺西大門から総門前に開ける三宝院と霊宝館は醍醐寺の塔頭(たっちゅう)にあたる。※ 塔頭(たっちゅう)とは高僧の住房や庵居から発展したいわゆる子院。本寺に付随する脇寺である。A・・三宝院 ★ 唐門前、下乗B・・霊宝館C・・伽藍 〇 五重の塔唐門前からの醍醐寺西大門左が三宝院、唐門、右が霊宝館三宝院 唐門(国宝)三宝院、勅使門(ちょくしもん)慶長4年(1599年)建立。※ 下乗とは、ここから先、車馬禁止の印。三宝院、一般人用の門醍醐寺の創建と修験道創建は貞観(じょうがん)16年(874年)開祖は理源大師聖宝(りげんだいし・しょうぼう)(832年~909年)真言宗醍醐派の総本山。ここは、もともと山岳信仰の霊山である笠取山に列なる山。そこで明神より託宣(たくせん)を受けた理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音(にょいりんかんのん)を山上に祀ったのが開山、醍醐寺の始まりだそうだ。醍醐寺のある山はもともとは山へ籠もって厳しい修行をする行者(山伏)達、山岳信仰者たちの修行の山。つまりここは修験道(しゅげんどう)から発展した寺なのである。それ故、醍醐寺の塔頭(たっちゅう)である三宝院もまた、醍醐寺14代座主勝覚僧正が永久3年(1115年)に開いた院がはじまりなのだが、修験道当山派の本山となっている。醍醐寺自体は弘法大師、空海を祖に置く真言密教系の寺で、修験道の一派(真言宗醍醐派の総本山)だそうだ。※ 修験道(しゅげんどう)については別の機会に・・三宝院 太閤しだれ桜太閤秀吉にちなんで名付けられたしだれ桜は、秀吉が醍醐の花見をした時に植えられた桜の子孫とされているそうです。(現在の太閤しだれ桜は推定樹齢150年らしい。)醍醐寺にある桜の木はおよそ1000本。桜は、野生種や園芸品種を合わせると約600品種が存在すると言うが、醍醐寺に何品種あるか不明であるが、早咲きのカワヅザクラ(河津桜)から始まり、彼岸桜、しだれ桜、染井吉野、山桜、八重桜、大紅しだれ、大山桜と、順次開花。咲き終わるまで約3週間以上と見頃が長いようです。しかし、連日の気温の高さで、この日は人も多かったけどほぼ満開の花日よりでした 三宝院玄関(重要文化財)三宝院は室町時代に醍醐寺の本坊となり、将軍を補佐するまでの力を得るが、8代将軍足利義政の継嗣争いから始まる応仁の乱(1467年~1477年)で焼失。醍醐寺自体が甚大な被害に遭い、伽藍の五重塔を残してほぼ失ったそうだ。それが現在は建物の大半が重要文化財に指定。中でも庭園を見渡す寝殿造りの表書院は国宝に指定されている。(残念ながら内部は一切撮影は禁止)醍醐寺再興に一役買ったのが、豊臣秀吉なのである。(三宝院や伽藍の再建は、秀吉亡き後も秀頼に引き継がれたと言う。)三宝院庭園は国の特別史跡、特別名勝になっているのだが、その庭園は秀吉が醍醐の花見に際して自ら縄張りし、聚楽第から覇者の印とされる「藤戸石」を運び込んで造り込まれた庭だと言われている。醍醐の花見時は1598年3月15日(1598年4月20日)醍醐寺、上醍醐の山麓で死期を前にして豊臣秀吉、一世一代の大茶会が催された。その花見に際して、畿内700本の桜を醍醐寺に植林。三宝院の建物と庭園を造り、息子に正室(北政所)、側室(淀)などの女房衆と、諸大名1300人あまりがこの茶会に呼ばれたと言う。(まさに大宴会だったようだが、実際茶席に招待されて歌を詠んだのは女房達ばかりだったらしい。)この古事にならって、毎年4月第二日曜日に「豊太閤花見行列」と言うイベントが醍醐寺で開催されるそうだ。※ カッコはユリウス暦である。現在のイベントはユリウス暦で行われているようです。三宝院 憲深林苑秀吉が亡くなったのは茶会のその年、1598年8月18日(9月18日)。伏見城で薨去。ところで、ここでもまた日がずれているわけだが、戦国の時代の暦と季節にはかなりのズレか生じていたらしい。にもかかわらず日本では、太陰太陽暦である宣明暦(せんみょうれき)が862年から江戸時代1685年まで823年も使用され続けたのである。(織田信長が天下を取っていたら暦の修正はもっと早かっただろう)醍醐寺の桜はどれも大木。枝を支える支柱があちこちに固定されている。醍醐寺つづく 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
2015年04月04日
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映画「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」と言えば、ザルツブルグを著名にした映画ですが、実はこの話はそもそも「トラップ家の物語」(1949年出版)と言う実話からなっています。執筆者はマリア・アウグス・フォン・トラップ(Maria Augusta von Trapp)(1905年~1987年)。映画でジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)が演じた「尼僧のマリア」その人です。マリアの夫、ゲオルク・フォン・トラップ(Georg Ludwig von Trapp)男爵(1880年~1947年)フィクションなのは時代が多少ずれている事。実際に二人が結婚するのは1927年9月。ナチスによるオーストリア併合は1938年3月なので10年の差があり、新婚旅行から戻った・・どころか二人の間には2児が誕生し子供は7人から9人に増えている。そして、1935年、ザルツブルグ音楽祭コーラス部門で一位を獲得。その後音楽一家としてすでに欧州では有名に? (尚、子供はアメリカに渡ってからもう一人増えている。)一家はヒトラーがオーストリアを併合した年(1938年)の9月にはザルツブルグを脱出して電車でアルプス越えし、イタリア、スイス、フランス、ロンドン経由で、アメリカ、ニューヨークに逃げています。映画ではアルプスを登りスイスに至るところでエンディング。一家が音楽祭の後にこの墓地に逃げるシーンは、映画の為の創作だったようです。(確かにこの修道院は祝祭劇場の隣にありますが・・。)トラップ一家はなぜ国外逃亡したのか?トラップ男爵がオーストリア・ハンガリー帝国時代に海軍大佐で、しかもU-boat(ユーボート・潜水艦)の指揮官であった事からナチスより海軍に招集されていた? とも伝えられるが、オーストリア併合の1938年に男爵は58歳になっているので、ナチスのU-boat乗船が強要されていたとは思えない。いずれにせよ反ナチスのトラップ大佐は度重なるナチスの要請を断る事が難しくなった? と言う現状に加えて金融恐慌のおり、投資に失敗。トラップ家はほとんど財産を失い。家は神学校に賃貸すると言う貧窮。その時に出会ったフランツ・マティアス・ヴァスナー(Franz Mathias Wasner)神父がトラップ家の歌の指導をし、ディレクターとなり一家の音楽ツアーに同行し、アメリカにも一緒に行くのである。ピクニックに行く体(てい)で、着の身着のままでのオーストリアを脱出。亡命の理由はナチス支配から逃れての自由な音楽活動? と言う所だろうが、イコールそれは経済的事情でもあったかもしれない 最終的にトラップ家は演奏旅行で生計を立て、1941年、アメリカ、バーモント州(State of Vermont)に農場を購入して終の棲家としています。つまりトラップ家は戦後も故郷ザルツブルグに戻る事は無かったのです。(トラップ夫妻はバーモント州ストウ(Stowe)に眠っている。)ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)映画「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」ザンクト・ペーター修道院(Erzabtei St.Peter ・ stiftskirche Sankt Peter )ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)メンヒスベルグの丘(Monchsberg)の岩肌に張り付いている建物の様にもに見えるが・・。そこは岩肌に彫り込まれた洞穴墓地なのである。ローマ時代、まだキリスト教が公認される以前(3世紀頃)に、キリスト教徒がミサを行い、死者の埋葬場所にもなっていた岩窟(がんくつ)のカタコンベ(catacombe)がここにある。実はこの地は696年、ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 が来るずっと昔、古代ローマの都市があり、塩の街として栄えていたようだ。ローマ時代の遺跡がそこここから発見されるようで、ホーエンザルツブルク城の中からも、またこの近くの建物の下からも発見されている。カタコンベ入り口後世この初期ローマの墓地はやはり司教達の墓地として利用されてきた。現在のカタコンベは、18世紀後半に整備しなおされたものらしい。実はカタコンベはここだけでなく、メンヒスベルグの丘にはあちこち洞穴墓所があったとされている。おそらく中世におきた崩落事故で他の物は潰れたのかもしれない。入り口は時間外は閉鎖されている。(有料なので・・)この右横に接しているのが、Kreuz Kapelle(クロイツ礼拝堂)こちらには音楽家ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn)と、その弟ヨゼフ・ハイドンが納骨されているそうだ。ハイドンは1806年69歳で、このザルツブルクで亡くなっている。実はハイドンはザルツブルグ司教領が解体された時にここに居た。1789年に起きたフランス革命はザルツブルグにもとばっちりが来たのだ。共和制となったナポレオン率いるフランスが一時占領し、ザルツブルグ司教領を解体してオーストリアに譲渡。その時に大司教から庇護を受けていたハイドンは給料も失い財産も奪われたらしい。入り口はこの向かって左から左の階段脇に料金所があるが、ここもザルツブルグカードがあれば見せるだけでよい。すれ違いはきつい狭い階段。2階 ゲルトラウデ礼拝堂近年まで遺体の一時的保管場所としても利用されていてらしい。昔はそのまま、中世には柩に入れられ、安置されたのだろう。奧の窪地がその区画である。エジプトの時も石棺の中に入って写真を撮らせている人がいたが、よく平気でできるな・・と感心。壁の様子から見ると礫岩(れきがん)のようだ。同じローマ時代のカタコンベでも、アッピア街道沿いのカタコンベとはかなり違う。ここは迫害されたキリスト教徒ではなく、あえて辺境に住み着いた隠修士(いんしゅうし)とか、隠者と呼ばれる修道僧の教会堂だったのかもしれない。そもそもメンフィスベルグ(Monchsberg)とは、僧侶の山を意味する語なのだ。そう言えばウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の「薔薇の名前」の中でアドソがこのこような岩をくり抜いた中にワラを敷いて寝てたっけ・・・。3階 マクシムス礼拝堂石版はラテン語でかかれていて、16世紀のものらしい。ザルツブルグは、この後ミラベル庭園やヘルブルン宮殿を予定していますが、本日よりしばらく大阪に出かけるので2週間ほど続きは中断させてもらいます m(_ _)mリンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)あちらからは京都の桜(醍醐寺)を予定しています。また前回撮影して載せていなかった織田信長の墓がある阿弥陀寺も紹介できれば・・の予定です。リンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
2015年03月28日
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セイレーンの所、修正しました。m(_ _)mチュニジアで邦人の巻き込まれるテロが発生 1997年11月に起きたルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿での銃乱射事件(邦人10人を含む62人死亡)を思いだしました。犯人は直後に自殺。イスラム主義過激組織「イスラム集団」が犯行声明を出していますが、実行犯はかなりのお金をもらっての犯行であったとも報じられていました。今回と非常に手口が似ているので同じ指示系統なのかな? と言う気もします。つい先日、ISIL(アイシル)による拉致殺害事件が起きたばかりなのでイスラム圏がより、きな臭い感じになってきた気がして不安です。特に今回のように外国人観光客をわざとターゲットにしている所は、あざとさを感じざるおえません。それぞれの不満を宗教の名を借りてぶつけてくる彼らは、イスラム原理主義の団体の肩書きをつけてますが、地域、個人それぞれにより利害が異なるので決して同じではない。「うちがやった。」と言う犯行声明が複数出るのも一枚岩ではない事を示しています。まともなイスラム教徒の人達からしても彼らは反社会分子です。エジプトはあの事件により30年後退したと言われています。復興していた観光産業は壊滅。大型ホテルもつぶれて皆職を失いました。地元の人達からみても彼らは最悪の邪魔者以外何者でもない。今回邦人3人を含む21人が犠牲に。(イタリア、フランス、ポーランド、南米コロンビア)不本意にも事件に巻き込まれまれてお亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。m(_ _)m続けて起きたイエメンでのモスクでの自爆テロ。腹立たしい限りです。信仰に厚い同胞まで標的にするなんて、もはや宗教戦争ではありません。こちらも犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。m(_ _)mそれにしてもエジプトの時も出た話ですが、犠牲者にアメリカ人がいない。(・_・?) ハテチュニジア共和国(Republic of Tunisia)バルドー国立博物館(Bardo National Museum)フェニキア人の都市カルタゴチュニジア・シディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)チュニジアは北アフリカの国ですが歴史深い国なので世界遺産が多く集中しています。かなり前からいろんなツアーが出ていますが近年特にクルーズ船で立ち寄るツアーが人気のようで今回の被害に遭われた方々は地中海クルーズの途中にチュニスに寄港しての観光だったようです。(楽しみにしていた旅だっただろうに・・)実はかつてチュニジア特集をした事がありました。5年前なのでカメラの質も今より劣りますし、若干景観が変わった所もあるかもしれませんが、さしさわりない分の写真も少し追加してみました。とても素敵な所なので、これで観光客が遠のく事は非常に残念です 2010年03月ベルベル人の家 1 (映画スターウォーズのホテル) ベルベル人の家 2 (マトマタの民家 1) ベルベル人の家 3 (リビング、寝室) ベルベル人の家 4 (フランス移民のベルベル人) 2010年04月チュニジアン・ブルー Part 1チュニジアン・ブルー Part 2砂漠のオアシス 1 (予告) 砂漠のオアシス 2 (タメルザ峡谷とシェビカ) 砂漠のオアシス 3 (シェビカのオアシス) 砂漠のオアシス 4 (タメルザのオアシス) 砂漠のオアシス 5 (ミデス)チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 1 チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 2 (ぶらり途中下車) チュニジア鉄道、レザー・ルージュ 3 (リン鉱山) 2009年05月(番外)モザイク壁画とモザイク、ガラスの話 バルドー国立博物館(Bardo National Museum)チュニジアは古代ローマ以前、フェニキア人の交易都市として大いなる繁栄をした街です。現在残っているのはローマ時代の遺跡ですが、バルドー博物館はそんな古代ローマ時代のモザイク画のコレクションが目玉になっています。今回事件が起きたのがこのバルドー博物館入り口(外観写真はありません。)ローマ時代のモザイク画コレクションとしては世界有数だそうです。セイレーン(Siren)上半身が人で、下半身が鳥。キリシャ神話の海獣である。下の絵が続き。マストに縛り付けられた男がオデュッセウス(Odysseus)。船を漕ぐ兵士等には耳栓をさせ、自身はセイレーンの歌声を聞く為に自らマストに縛り付けられた。歌声を聞いたオデュッセウスだけが暴れだしたが、船は止まる事なく走り災難から逃れるのである。これはホメーロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア」の一節。セイレーン(Siren)の話しはアルゴー(Argo)船でイアソン(Iason)がコルキスにあると言う黄金の羊の毛皮(金羊毛)を求める冒険物語のエピソードにもある。因みに、中世、「金羊毛騎士団」の名はここに由来する。下は海神ポセイドン(ギリシャ神)orネプトゥヌス(ローマ神)地中海交易で栄えた都市だけに海に関するテーマが多いようです。下は上と同じ絵の中の一部完璧に近い形のモザイク画は案外少ないのです。後世の画家達に影響を与えたであろう事は間違いないです。チュニス最寄りの大型船の停泊する港、ラ・グレット(La Goulette)からはカルタゴやシディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)と言った見所がある。下はチュニス近郊の地図ですが、ちょっと古いかも・・位置だけおさえてね。黄色の円・・チュニス ピンクの円・・シディ・ブ・サイド 赤の円・・カルタゴ 青の円・・ラ・グレットフェニキア人の都市カルタゴ紀元前15世くらいからフェニキア人は地中海に進出。その出身はおそらく中東レバノンあたり?(系統としてはギリシャより古代オリエントに近い? クレタの文明色もミックスされていると思う。)紀元前12世紀には地中海のあちこちに港湾都市を建設し海上貿易で冨を築き繁栄。紀元前814年頃には現在のチュニジア、カルタゴ(BC814年~BC146年)に都市が建設され最盛期を迎える。そのカルタゴには今はガラクタのような遺跡の残骸しかないが、かつては夢のような伝説的未来都市があったらしい。フェニキア時代の円形港の後は見る影もなく、全景も撮影できていないので載せるのを辞めました 何しろフェニキ人の都市カルタゴはローマに滅ぼされて燃えて無くなったので現在残っているのはローマ領になってからの遺跡です。見える半島がカルタゴとチュニス湾(チュニスは写真右方面、内陸)撮影場所のホテルシディ・ブ・サイド (Sidi Bou Said)白と青(チュニジアン・ブルー)で彩られたカルタゴの街の山の手に展開する街。ラ・グレット(La Goulette)停泊では、ここが目玉である。青と白の建物は、一見ギリシャ的かもしれないが、ここはむしろスペイン、アンダルシアと同じ姿が見える。2010年03月「セビーリャのアルカサル 4 (装飾とイスラム文化) 」の中で「モサラベ様式とムデハル様式」を書いた事がありますが、おそらくここの建築の特徴はイスラムとキリスト教のミックスに近い?次回ザルツブルグに戻ります。
2015年03月22日
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古代クレタやギリシャ、ローマの文明はどこに消えたのか?疑問に思っていた人は多いと思う。疑問に思いながらも追求するチャンスが無かったのは日本の教育では世界史が重視されて来なかったからだろう。しかし、これからグローバル化の中で「知らない」・・では済まされないかもしれない。島国一国の日本では想像もつかない戦いの歴史が陸続きの欧州では絶えずあった。特にほぼ2世紀毎に東よりやってくる大量の侵略者。(インド・ヨーロッパ語族、ゲルマン語派の諸民族)彼らは数で驚異となる。また同時期に台頭してたきたイスラム教国の聖戦を掲げた侵略は、欧州を暗黒の時代に引きずりこんだのである。戦いが始まれば全ての創造物は破壊され、ゼロになる。ゼロが続けば、やがてそれを再生させる人も知識も失われた・・と言う事だ。クレタやギリシャの文明は古代ローマには継承されたが、かのローマ帝国が滅亡を余技なくされてから、文明は壊滅されたのだ。(フォロロマーノはその残骸の1つである。)ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)ザンクト・ペーター修道院(Erzabtei St.Peter ・ stiftskirche Sankt Peter )ザンクト・ペーター修道院付属のレストラン「St.Peter」(Stiftskeller das Restaurant)ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)789年3月カール大帝(742年~814年)は一般勅令で「すべての修道院に学校の設立」を指示したそうだ。つまり布教にあたる修道院が、修道士のみならず、地域住民の教育を徹底させ、知的水準をあげようとした事実である。その背景にはゲルマン民族の流入により、ローマ時代より築きあげられた高度な文明が破壊された欧州の現状があり、同時に教育が途絶え、乱れ忘れかけられたラテン語の悲惨な現状があったと思われる。(長い荒廃の時代に古代ローマ時代から続く、ラテン語はゲルマン語と混ざり乱れ、読み書きのできる者も減ってしまったようだ。)カール大帝は、未だ蛮族により荒廃した欧州東方へ遠征し領地を広げた。彼の生涯の大半は遠征に費やされた・・と言うが、彼はただ領地を増やしたかっただけだろうか?この勅令を知って、そうではなかったのでは? と思った。彼は征服後のフォロー? 修道院や教会を設立して布教と同時に教育を施すよう促している。(共通の言語と文化、民主主義の導入によりその地は確実にフランク王国に組しただろう。しかし、実際の意義は、原始的生活まで落ちていた地域の文明化を促した事かも・・。)もちろん勅令は、修道院の方も修道士自体の学歴向上にもなった。失われた書物を取り戻すべく写本を進め欧州に本を配給。ザンクト・ペーター修道院は、書写学校として早くから有名だったようだが、1623年にはベネディクト修道士会の大学にまで発展している。いろいろ鑑(かんが)みると、カール大帝の真の狙いは、東欧の文明の回復(ローマの時代に戻す事)にこそあったのではないか? と思うのだ。つまり勅令の本音は、帝国拡充の為の政策と言うよりは、やはり純粋にラテン語の復興と学芸教育の普及を望む・・と言う個人の信念では? と思ってしまった。ザンクト・ペーター修道院付属のレストラン「St.Peter」(Stiftskeller das Restaurant)ザンクト・ペーター教会正面(墓地はこの教会裏手)写真右下方 C・・墓地入口 R・・修道院レストラン入口seit 803(803年以来)ザルツブルグでは最古のレストラン。(欧州最古かは? 定かでない)修道院の開祖が696年頃なので割と早くからレストランがあった事になる。ゲートをくぐると中庭があり、メンヒスベルクの丘に張り付いた建物の方がレストラン入口。今回、中で食事をしていないのでここまでしか紹介出来ませんが、モーツアルト・ディナー・コンサートのイベントを付けて夜は、団体ツアーの一団で賑わっているようです。(昼は閑散)日本の団体ツアーでもよく利用。元々、教会では貧しい人達への救済の為に食事を振る舞っていた事から食堂に転じた? とも?あるいは、修道僧為の食堂であったか?何にしても、現在は修道院には不釣り合いな高級路線のレストランになりお値段が高くなっています。ホームページで見ると、セレブの写真がずいぶん出ていますが、雰囲気と音楽の付加価値を除くとさほど??? と言うところらしい。ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)写真は天気の日と雨の日が混じっていますので悪しからず f^^*) ポリポリ聖堂脇から撮影昔から、メンヒスベルグの丘は初期キリスト教徒の墓地であった所。メンヒスベルクの丘に食い込んで立てられている礼拝堂と丘に掘りこまれたカタコンベが存在する。※ カタコンベについては次回紹介。Kreuz Kapelle(クロイツ礼拝堂)と左がカタコンベ入り口丘の下に続いて見えるアーチは17世紀以降のザルツブルグの貴族達の納骨堂と礼拝堂になっている。(1454年までこの墓地に眠れるのは聖職者のみだったそうだ。)実はここの墓地はちょっと変わっていて、ザンクト・ペーター教会(Peterskirche)の裏手墓地の中に小礼拝堂であるチャペルが複数建てられている。写真中央奧に見えるのがMargarethen Kapelle(マルガレーテ礼拝堂)ザンクト・ペーター教会の右にも張り付くようにMariazeller Kapelle(マリアツェル礼拝堂)がある。下の写真手前に見える小さい建物。ザンクト・ペーター教会(Peterskirche)聖堂側からの全景カタコンベから撮影上の写真も同じくカタコンベから。(左のがザンクト・ペーター教会の聖堂)下からのザンクト・ペーター教会と墓地。墓地だと言うのにものすごい人である。それは、ここが映画サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)に登場した事から人気があり、特に音楽関係者の聖地のようになっているからだ。トラップ一家はナチスに追われてこの墓地の中に逃げ込み墓石の陰に隠れるのだが、実際ここにはそれほど隠れられるような墓石はない。なぜなら、ここの墓所の大きな特徴は墓標がアートな美しいアイアンワーク(鉄細工)になっているからだ。カタコンベからのMargarethen Kapelle(マルガレーテ礼拝堂)墓地、つづく リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)
2015年03月17日
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アメリカでは3月8日2時から夏時間が開始されました。時計は午前2時に1時間進められ、調整の為に3月8日は理論上、一日23時間になります。(逆に終了の時は午前2時に1時間戻して25時間となる。)これは日が長くなる夏場の明るい時間を有効に活用する為に導入された制度なのでアメリカではそのまま(Daylight Saving Time)。欧州では夏に導入する制度として夏時間(サマータイム・summer time)と呼んでいます。アメリカでは一部アリゾナ州とハワイ州を除く、ほぼ全ての州で実施されています。3月の第2日曜日~11月の第1日曜日。(今年2015年は3月8日2時~11月1日2時まで。)一方欧州では3月最終日曜日~10月最終日曜。(今年2015年は3月29日1時~10月25日1時まで。)因みに南半球であるオーストラリアやニュージーランドは季節が逆になるので、4月に時計の針を戻して、9月or10月に針を進める形となります。たまたま現在甥がニューヨークに遊びに行っていて、サマータイムの時計の調整の話をしたら、「iPhoneが勝手に時間修正してくれるから大丈夫だよ。」と言われました。便利になったものです。それにしても時間を計測する地球の自転そのものは不規則で、一定ではない。自転一周で一日24時間とするのは暫定的な解釈で、実際の一日の時間には伸び縮みがあるそうです。(つまり、地球はいつも同じ速度で回ってはいない。)その帳尻あわせが4年に1度来る閏年(うるうどし・Leap year)だそうです。ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)ザンクト・ペーター修道院(Erzabtei St.Peter ・ stiftskirche Sankt Peter )ザンクト・ペーター教会(Peterskirche)今回紹介するのは、ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)の足下にあるザンクト・ペーター修道院(Sankt Peter stiftskirche)です。以前写真だけチラッと紹介した事がありましたが、今回は映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも撮影された墓地の方も紹介しようと思います (全2回)ところで呼び名ですが「stiftskirche Sankt Peter 」と書かれているのもありますが、本家の看板には「Erzabtei St.Peter」と書かれていました。前回紹介したホーエンザルツブルグ城からの写真です。(直下なの全部見えていません。)第1回目に紹介したように初代ザルツブルグ司教となったルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教が布教の足がかりにする為に建立した教会です。案内図・・・図面上がメンヒスベルの丘下の写真で位置確認してください。D・・ザンクト・ペーター教会(Peterskirche)E・・ザンクト・ペーター墓地F・・カタコンベR・・ザンクト・ペーター修道院付属のレストラン「St.Peter」写真Aの後ろの建物が祝祭劇場です。写真はAから入った中庭。像は聖ルーペルト(ルーペルト司教)696年、バイエルン大公テオド2世(Theodo II)は、ザルツブルグの土地をルーペルト(Rupert)司教に寄進。彼に南東部アルプス圏のキリスト教布教を要請。ゲート上の壁のキリスト磔刑図はよく見ると・・。何だかどさくさにまぎれたようにキリストの十字をささえる司教の姿が描かれている。頭の上には精霊の鳩も・・。フレスコ画のような感じです。前に紹介したように、サンクトペーター修道院は東部アルプス一帯の布教活動の拠点として696年に創建されました。修道院は書写の学校でもありましたが、このベネディクト会系の修道院は後に正式に大学となります(1623年)パリス・ロドロン大司教の時代だそうです。Bのゲートスクエアの中庭を囲む修道院の建物には、それぞれの方面に抜けるトンネルがある。今や近所の住人や観光客が通り抜けできるのだ。このスクエアには聖ペテロの像が据えられた水飲み場がある。かつては、ここで修道僧達が顔を洗ったり、水を飲みに来たりしたのであろう。聖ペテロの泉(1670年)12使徒の一人。聖ペテロはヴァチカンのサンピエトロ寺院で祀られている聖人と同じです。上の写真と撮影日が異なり、雨のこんな写真しかありませんでした 全景です。聖ペテロは教会の方に祈りを捧げています。建物がひっついているし、修復されているので解りにくいですが、正面にある入り口が修道院の教会(ザンクト・ペーター教会)です。教会入り口の真上に鐘楼が付いているのはちょっと珍しいかも・・。次回改めて紹介しますが、建物右のコーナーにある入り口右が、ザンクト・ペーター修道院付属のレストランで、「St.Peter」です。教会入り口を入るとさらにアイアン・ワークの豪奢なゲートがある。たぶんこの位置が鐘楼の真下。身廊17~18世紀に改築され、さらに近年修復されてますが、バロック様式の教会堂です。実はモーツァルト(Mozart)が1769年、13歳の時にここで初ミサ曲を上演しているそうです。モーツァルトはザルツブルグ出身で、この近辺を何度か引っ越ししていますが、1789年(27歳)の時はミサ曲ハ短調 K.427を上演し、結婚したばかりの妻コンスタンツェ・ヴェーバーがソプラノをひろうしているそうです。側廊側廊にはどこも祭壇が置かれている。それは歴代の司教の墓と祭壇であったり、地元の名士のプライベート祭壇であったりする。主祭壇(左)主祭壇前から入り口を撮影墓地の紹介は次回に・・リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)
2015年03月11日
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Break Time(一休み)世界一の朝食? シドニー発のレストラン billsbills 表参道店スクランブルエッグ(1人分レシピ)リコッタパンケーキ(4枚分のレシピ)昨今はパンケーキ・ブーム。とにかく日本人はすぐにブームにして乗っかる。実際アメリカではパンケーキは朝食に食すが、店にはパンケーキ以外にもちゃんとしたお食事メニューがある。パンケーキだけをお目当てに来る客は少ないし、それを看板にしている店も無い。たまたま3日の日に友達と原宿に出かけたので話題のお店に入ってみました。(朝食タイムのメニューです。)以前ハワイのパンケーキ店を3軒紹介していますが、もちろんそこも一般的なレストランです。「エッグスィングス(Eggs 'n Things) Ala moana」(2012年12月)リンク パンケーキ・ハウス (Eggs 'n Things Ala moana)「コア・パンケーキ・ハウス(Koa Pancake House)」(2013年02月)リンク 一押しパンケーキ ハウス(Koa Pancake House)「シナモンズ・レストラン(Cinnamon's Restaurant)」(2012年10月)リンク シナモンズ・レストラン(Cinnamon's Restaurant)今回紹介するのははオーストラリア、シドニー発で日本上陸したカジュアル・ダイニング・レストラン。実はここもパンケーキが話題です bills 表参道 (東急プラザ 表参道原宿 7階)bills 表参道は2012年4月18日オープン。オーナー・シェフ、ビル・グレンジャー(Bill Granger)氏の手がけるレストランはニューヨークのセレブ達に「世界一の朝食」と絶賛されたそうだ。表参道と明治通りの交差店。向かいにはラフォーレ原宿。入り口はちょうどラフォーレ前。エレベータで7階。店に着いても、行列なので結局階段で下まで降りなければならない。店の中から入り口を撮影右のガラス張りがエレベーター。その手前が階段。8:30~23:00 (L.O. food 22:00、drink 22:30) 不定休予約はディナーのみ(17:00~)https://bills-jp.net/店内はとても明るくて清潔。メインフロア108席 / (外の)テラス14席全体にガラス張りなので外の景色が見えて開放感がある。表参道側のテラス席はキャリーバッグ入りであればペット可能だそうです。(1組1匹)東急プラザ6階には公園テラス(おもはらの森)がある。1993年、シドニー郊外のDarlinghurstに最初のレストランをオープン。海外進出は日本が初だったようです。鎌倉・七里ヶ浜店(2008年3月)横浜・赤レンガ倉庫(2010年3月)東京・お台場(2011年7月)東京・原宿店(2012年4月)・・最後にできたが、ここが旗艦店(Flagship shop)になると言う。因みに、ホノルル・ワイキキ店(2014年3月)もオープン。日本人目当てかな?見えるのは表参道・・右方面が明治神宮。お勧めを聞いて見ました。やはり一番人気はスクランブルエッグのようです。オーガニック・スクランブルエッグ W/トースト 1250円+サイドオーダー・・自家製グラブラックス・サーモン 350円ふわとろのスクランブルエッグは「世界一の卵料理」とNew York Timesで絶賛。サイドオーダーの自家製グラブラックス・サーモン もお勧めだそうです。サイドオーダー種類アヴォガド/フレッシュトマト 200円ローストトマト/マッシュルーム 250円ベーコン/チェダーチーズ/フレッシュリコッタ 300円自家製グラブラックス・サーモン/フェンネルソーセージ 350円スクランブルエッグ(1人分レシピ)卵 2個生クリーム(植物性油脂) 85ccバター 10g塩 少々※ コツは混ぜすぎない。オムレツの一歩手前かな?みんなのお目当てのリコッタパンケーキ(ハニーコームバター付き)リコッタ・パンケーキW/フレッシュ・バナナ/ハニーコーム・バター 1350円 (パンケーキは3枚厚さは2cmくらいあったか・・。)+サイドオーダー・・ベーコン 300円 (そんなに塩辛くないベーコンです。)Billsのパンケーキの種類はそれのみ。お店の方の勧めでベーコンを付けましたが、パンケーキと合間に食べると塩気があるので飽きない感じです。ロケ中のトムクルーズやデカプリオも気に入って通ったと言うリコッタのパンケーキは付随するハニーコーム・バターが余計に美味しさアップ。丸いのがハニーコーム・バターの輪切り(結構贅沢に乗ってます。)こちらもふわとろ。強いて言えばチーズスフレに近い感じでもっとなめらかで優しい食感。すぐにとろける感じです。 これは1度経験してみる価値ありです。あきらかに他の所のパンケーキには無い新鮮さ。 (暖かいうちに素早く食べないとこの食感は味わえません。)リコッタパンケーキ(4枚分のレシピ)リコッタチーズ 1/2カップ薄力粉 45g卵(卵黄・卵白別々)2個・・・卵白はメレンゲにするのがコツ牛乳 60~80mlベーキングパウダー 小さじ1バター 適量(低塩バター)ハニーコーム・バターハニーコームとは、蜂の巣箱の中の巣そのもの。ハニーコームをすりつぶしてバターと混ぜた物でbillsのは自家製のようです。(ほぼ蜜蝋の食感は無くなめらかでした。)その物は濃厚な味ですが、バターの塩分と混ざり、くどく無くなった甘さがほどよく、付属のソース(多分メープルシロップ)がなくても私には調度良かったです。ティーもお洒落Billsブレックファスト・ティー 680円ライム・ヴィターズソーダ 680円それにしてもビル・グレンジャー(Bill Granger)(1969年8月~)氏は、そもそもフード・ライターでシェフではなかたそうです。今や料理本も沢山出して、マスコミにも出演する売れっ子。彼の提案する料理はシンプルだけどとってもこだわりがあり技がある。一見家で食すメニューなのですが、なかなか真似はできそうにない。結果なんだかとても贅沢な料理・・となっている気がします。(実際にお値段も違うけど・・。)場所も場所なので待ち時間は店舗によっても異なるでしょうが、原宿は席数も多い。穴場の時間はあります。因みに私は待ち時間30分程度。 皆さん長居をするのでタイミングが悪いとかなり待つかも知れないけど、朝昼兼用、ブランチにでも行って見てください。
2015年03月06日
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昨日東京に戻ってきました 北野天満宮はもともとの予定でしたが、今回京都には3日通いました。(大阪から)本能寺と阿弥陀寺・・織田信長関連。広隆寺と蚕ノ社、蛇塚、嵐山・・秦氏関連下鴨神社・・鴨氏関連近いうちに紹介したいです 今回ホーエンザルツブルク城は載せない予定でしたが、せっかく写真もたくさんあるので城内をささっと写真で紹介。ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)辱めの仮面(Schandmasken)貞操帯(Keuschheitsgürtel)ホーエンザルツブルク城行きのケーブルカー乗り場城内観光とケーブルカー片道往復のパターンがあり、年齢、グループ、家族でも値段の設定がいろいろある。しかし、ここもザルツブルグカードさえ持っていれば見せるだけでよい。場所は墓地の裏口出口すぐ。レジデンツ広場からも近い。ザルツブルグカード24時間・・23ユーロ 48時間・・31ユーロ 72時間・・36ユーロケーブルカーから 見えるのはザルツブルグ大聖堂見えるのは・ザンクト・ペーター教会ホーエンザルツブルク城 案内図よりエレベーターは右の下から最初のテラスからは階段で城内に入るので足の不自由な人はちょっと厳しい。ゲオルク稜堡(りょうほ)・・たぶん稜堡(りょうほ)・・城塞などで、砲撃しやすいように突出したテラス部分。特に攻撃の死角をなくすような構造がとられている。城内は武器庫や穀物貯蔵庫もあり、かつては何ヶ月かの籠城に耐えた。パリス・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教(1586年~1653年)の時代に城塞はほぼ現在の形になったそうだ。カトリックとプロテスタントの対立から始まった30年戦争(1618年~1648年)の時に就任して終わるまでその地位についたこの大司教は武器庫や穀物貯蔵庫を拡張したものの、通常は街のレジデンツの方にいたようだ。信仰の自由を保証し、中立を取り、領土を守った事でザルツブルグは焼け野原となった欧州の中で発展を続けた。この大司教のおかげだそうだ。パリス・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教の印中ほど真ん中が叙任司祭の館。左は昔は武器庫。塔の所がゲオルク教会ゲオルク教会壁壁の像はたぶんレオンハルト・フォン・コイチャッハ(Leonhard von Keutschach)(1442年頃~1519年)大司教彼の時代にホーエンザルツブルグ城は拡張され、豪華な宮殿も建設された。(58箇所)それらに云れのついたレリーフが残されていると言う。確かにあちこちに下のレリーフがついていた。因みに建築費は近郊の鉱山で採掘された金でまかなわれたらしいが、司教の贅沢ぶりに金鉱夫達の怒りは倍増しやがて爆発する。レオンハルト・フォン・コイチャッハ(Leonhard von Keutschach)大司教の印右のは白いカブ。農場主になるのが嫌で? 僧侶になりたいと言って父に怒り投げつけられたカブらしい。前述のパリス・ロドロン大司教が信仰と街の守護者なのに対して、私利私欲で城塞を拡張し贅沢していたレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教は悪ですな 城内一部見学できて、展示品が幾つか公開されている。たいした物はないが、特に面白い貴重なのを紹介。辱めの仮面(Schandmasken)何の仮面だろうな・・と思っていたらどうもこれらは軽犯罪用の拷問道具だそうです。これをつけて笑われなさい・・と言うような仮面。ある意味やさしい拷問具ですね。貞操帯(Keuschheitsgürtel)おそらく罰と拷問の道具して造られた鉄製の貞操帯。年代が解らない今までの一般認識だと、十字軍などの戦争遠征の時に夫が妻にはかせて浮気など不貞行為をさせないようにした・・と聞いていたが、実はそうではなったかもしれない。何しろ衛生面が悪い。これでは病気になるし生活が不便。イタリアの方では、売春婦に延滞税の債務を収集するために、ヴェネツィアの元首が考案してこれをつけさせた・・と言う逸話まであるが、確かにこれは女性からしたら拷問具以外のなに物でもない。因みに男性物も存在していたようだが、男性物の場合、戦争などでの防御用につけるふんどしのような物と混同されているのでは? と言う気がする。写真の物は犯罪器具関係のコーナーにあったので、これは拷問具としての貞操帯であろう。そもそも中世にあった・・と言われている貞操帯自体が、本当に前述の目的で存在していたのか?本当は後世造られたジョークだったかもしれない。また、それに乗っかって、実物を造ったり売った人がいたかもしれない。(ドイツ圏ではこの同じタイプの貞操帯があちこちに残り展示されているのは確か。)いずれにせよ、本当に夫が妻にそれを付けさせた・・なんて事実はないのではないか? 逆に妻が自分の貞操を守る為に自ら付けた可能性はあるかもしれないが・・。(もちろん鍵は妻が保管)※ また詳しい資料が出たら紹介しますね 次回、サンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)予定リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)
2015年03月02日
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Break Time(一休み)現在大阪に滞在中 用事も済んだので昨日から京都の観光に出かけています。そんな訳で今回ちょっとザルツブルグを中断して梅花祭りを紹介します待っている方、申し訳ないです (*_ _)人ゴメンナサイ北野天満宮 梅花祭り北野天満宮と御霊信仰菅原道真(すがわらみちざね)菅原道真公の祟り?梅苑北野天満宮参道梅花祭りの時はものすごい数の市が参道や周辺道路に立ちます。本殿 (参詣の行列は真ん中で拝みたい人。)現在、京都大学の試験中だそうで、街には受験生とその親たちが集まってきているそうです。何しろ菅原道真公は学問の神様ですから、学業成就と受験の合格祈願者がものすごいです 北野天満宮と御霊信仰菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祀る北野天満宮は御霊信仰(ごりょうしんこう)の元に造営された神社です。(947年)御霊信仰(ごりょうしんこう)については以前、2014年5月「神田明神 (薪能)と御霊信仰」の中で取り上げていますが、祟る怨霊(おんりょう)を鎮めて御霊(ごりょう)とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を願う信仰の事です。リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰簡単に言えば、平安時代に菅原道真の怨霊と思われる災いが多発した為に氏を讃え、祀る事で怒りを静めてもらおう・・と、神社が建立されたわけです。菅公の命日(2月25日)に毎年開かれる梅の花の開花祭り。梅の花は、菅原道真公の最も愛した花だそうで、この北野天満宮の印にもなっています。菅公と梅と牛はとても縁がある。菅原道真(すがわらみちざね)(承和12年6月25日~ 延喜3年2月25日)(845年8月1日~903年3月26日)平安時代(794年~1185年)中期(宇多天皇、醍醐天皇から重用)の政治家であり、漢詩人であり、学者であった彼はマックス、右大臣、右大将まで上り詰めている。ところが、菅公の勧めた朝廷への権力集中に反発する所(藤原時平)の謀略により道真は位階を落とされ大宰府へ左遷されたのである。(昌泰4年1月25日(901年2月16日)任)一応肩書きは「大宰帥の権官(ごんかん)」。しかし実態は中央で失脚した高官が飛ばされるポストなのだそうだ。そしてそこで菅公は憤死したと伝えられる。(延喜3年2月25日(903年3月26日)薨) 59歳。※ 薨(こう)・・・元皇族や三位以上の人が亡くなった時に使う言葉らしい。菅原道真公の祟り(たたり)?菅原道真公が亡くなった直後がら京の宮中で災いが多発。それを関係者は彼の怨念のせいだと考えたらしい。(40年以上も?)最初、彼を左遷に追い込んだ藤原時平の周りに早い死が訪れる。藤原時平も若干39歳で病死。 (延喜9年(909年)また醍醐天皇(だいごてんのう)の方も皇子が夭折したり・・と続き、恐怖で菅公の位階を右大臣職に戻したりしている。(923年)しかし延長8年(930年)、清涼殿に落雷が落ち高官達が焼け死ぬ?と言う一大事件が発生。醍醐天皇はこの3日後にショック? で亡くなっている。(45歳)天変地異はすべて御霊の所業とされていた時代。鎮魂の為の祭祀である御霊会(ごりょうえ)はそれ以前から行われていたようだ。もともと当時の平均寿命は短い。幼児の死亡率も高かった時代であり諸々、病気の治療法も解からなかった上に病は気から・・と言う事もあったであろう。因みに祇園祭(祇園御霊会)も、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りだそうだ。個人的見解であるが寿命の短さは、平安時代から始まる貴族の化粧にもあったのではないかと思う。宮中では身分の高い者はそれを象徴するように女性も男性も顔に白粉を塗った。ところがその成分は良質なものほど鉛や水銀など毒性の金属からできていた。下級の者は穀粉(米粉など)で代用。鉛を原料とする鉛白(波布邇・ハフニ)水銀を原料とする伊勢白粉眉毛を全部抜いて白粉を塗る。それも女の子であれば10歳を越えた頃から・・。彼らの早死にの要因に鉛や水銀中毒が多分にあったのではないかと推察する。話はそれたが、菅公が左遷されて以降の宮中では、災いや怪異と言えば必ずと言っていいほど菅公の怨霊が疑われたのかもしれない。(少なくとも醍醐天皇の代は)天暦元年(947年)、村上天皇の時に近江国比良宮の祀官神良種や多治比文子、朝日寺の僧最珍らが相談して菅原道真公の神託があった北野の右近馬場に神殿を創建(北野天満宮)して神霊を祀ったのだそうだ。(何と菅公が亡くなってから44年後の事。)梅苑境内と境内横の梅林に合わせて50種1500本。2月上旬から3月下旬までが梅の見頃として梅苑が開催されていますが今年はまだ3分咲き?大人600円。お菓子とお茶付き梅の木にメジロが数羽。何てことでしょう。花芽が食われちゃってます梅苑に入るチケット600円には半券が付いていて、梅苑の中のお茶所で梅昆布茶とお菓子がいただける最後にちょっと望遠で今一ですが野点の写真を載せました。北野天満宮の東に位置する由緒ある茶屋街「上七軒」から芸妓さんと舞妓さんが来て野点茶会をしてくれるのです。野点拝服料1500円。撤饌(てっせん)と宝物館入場券(300円)付き
2015年02月25日
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ザルツブルグの街で一番目立つのは旧市街、メンヒスベルクの丘(Monchsberg)に建つホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)です。このホーエンザルツブルク城は完全なる要塞です。しかし、前回まで紹介したヴァッハウ渓谷 (Wachau)の街とは全く異色の経歴で城塞は建築されました。通常は、防衛の為に城壁が築かれ、要塞化して街に発展。城塞は街の人々を守る為に活躍するものなのですが、ザルツブルグは他と異なり司教が個人的に敵から逃れる為に建設した要塞がルーツなのです。司教の敵とは誰でしょう?司教が裏切った司教区のオーナーである神聖ローマ皇帝。また司教の贅沢と課せられた重税に耐えかねたザルツブルグの農民と鉱夫たちです。(農民達の怒りは16世紀にピークに達します。)つまりザルツブルグの大司教は本来尊敬されるべき立場にありながら、正反対の人物で、この要塞を築いた・・と言う事です。ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞メンヒスベルクの丘(Monchsberg)メンヒスベルクの近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)・・・・メンヒスベルクの近代美術館テラスから撮影場所とホーエンザルツブルク城はメンヒスベルクと言う同じ丘陵地にあります。ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞前回紹介したように街の成り立ちは、ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 がこのあたりの布教の為にバイエルン王のきもいりでサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設したことに始まります。(696年)その後798年にはカール大帝の進言で大司教区に昇格。(この頃は平和だったのかもしれません。)10世紀になると教皇庁が勢力を強め管轄司教区の人事権で諸侯と対立が始まりました。これが叙任権闘争で、11世~12世紀にはローマ皇帝の支配権下でも教皇庁と対立が激化。当時のザルツブルグ大司教は教皇側に付き、この司教区を作ったバイエル王(神聖ローマ皇帝)を裏切りました。大司教はバイエルン王の報復を恐れてメンヒスベルクの丘に逃げ場所を作ったのが発端だったとされています。ホーエンザルツブルク城は1077年に最初の着工がされ、それから700年かけて増改築が行われています。最初はちょっとした建物から始まり、13世紀から15世紀には堡塁(ほうるい)が築かれ、同時に豪華な司教の邸宅も中に建設。砲弾はは1525年には攻めてきたザルツブルグの市民に向けられ、籠城を勝ち抜いた後も市民の再びの襲撃を恐れて城はより堅牢な要塞にされたのだそうです。(そんなに達の悪い司教が中世にはいた・・と言う事が信じられませが・・)旧市街とホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)ホーエンザルツブルク城眼下の旧市街A・・・ザンクト・ペーター教会墓地と岩窟カタコンベB・・・ザンクト・ペーター教会とザンクト・ペーター修道院C・・・コレーギエン教会(Kollegienkirche)D・・・大聖堂(Domkirche) 周りがレジデンツE・・・ザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)F・・・ザルツブルグ大学ザルツブルグ地図一部写真下の青い四角がメンヒスベルクの近代美術館テラス写真右のピンクがホーエンザルツブルク城メンヒスベルク近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)テラスから海抜507m※ 残念ながらここに上った時は雨でした。メンヒスベルク近代美術館にあるカフェ・レストラン・バー M32メンヒスベルク山の急斜面に2004年にオープン(月曜休館)今回美術館もレストランも入っていませんが、見晴らしのよいこのレストランは昼はビジネスマンなどで人気のようです。(テラス裏手には車が乗り入れられるルートがあるようです。)展望テラスと美術館行きのリフト乗り場入り口リフトの乗り口が非常に解りにくい。リフトのあるグシュテンガッセ通りの建物はメンヒスベルクの岩壁に張り付いて建っていて、一見普通のビル。リフトはこの奧、岩山の下に位置しています。写真下、リフトのチケット売り場。美術館に行かなくてもテラスだけ上れます。但しリフト代は有料(ザルツブルグ・カードが使用できます。)岩山の下の洞窟からリフトに乗れるのですが、ちょっと怖い感じです。何しろこの山は実は崩れ安く、17世紀には突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなったそうです。現在は定期検査して気をつけているそうですが・・。ホーエンザルツブルク城からのメンヒスベルクの丘(Monchsberg)・・西方面(近代美術館は丘陵右)遠方の山はドイツ国境にある山ホーエンザルツブルク城からの北西方面手前が旧市街地区で対岸が新市街地区対岸、新市街裏の丘陵はカプツィーナベルク(Kapuzinerberg)天気の関係で晴天、曇り、雨が入り交じった写真になり色合いが異なってしまいました (カメラの違いもあるけど・・。)つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)
2015年02月19日
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季節がらクリスマスを盛り込んでいたようですが、今回は夏のザルツブルグを紹介します。それにしても教会などは変わらないはずなのに、何だか街が様変わりしてました ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教イン(Inn)川の支流であるザルツァハ(Salzach)川。 上流の旧市街方面を撮影ザルツブルグの街はハラインの川下。それをさらに下るとイン(Inn)川に合流する。ザルツブルグはどうしても通過しなければならない要所。ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ旧市街を流れるザルツァハ川上流15km。ドイツ国境に隣接するハライン(Hallein)の街は古来岩塩の採掘で知られた街です。デュルンベルク(Durrnberg)の山腹、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑で採掘された塩や、その通行税は中世ザルツブルグ司教の収入源となって司教区ザルツブルグを潤しました。最初に岩塩を発見したのは紀元前10世紀頃ここに定住していたケルト人だそうです。そしてそれは入植してきた古代ローマに引き継がれ塩を運ぶ為にザルツブルグ中心に道路網が整備。(ザルツブルグのレジデンツ広場界隈にはローマ時代の遺構がたくさん出土している。)ところがゲルマン民族の移動によりローマ帝国の街は壊滅されザルツブルグは1度荒廃。7世紀になって新たな布教者が現れるまでザルツブルグもハラインの塩も埋もれていたのです。後で紹介していますが、塩の採掘を再開して布教の資金にしたのがザルツブルグの初代司教です。ザルツブルグで買った塩ではありますがハライン(Hallein)のじゃないかも・・。もとは赤茶の岩塩で、1度煮溶かし、不純物を除いて精製したもの。何だかヒマラヤ岩塩に限りなく似ている気がします ※今回は行ってないのですが、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑では鉱山観光のアトラクションもあるそうです。(列車とバスでザルツブルグから小1時間。)2010年7月「オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩) 塩の産地ハル(Hall) 」の中でも紹介していますが、ザルツブルグ交易の塩はハライン(Hallein)の塩だけではありません。近郊のザルツカンマングート(Salzkammergut)地方のハルシュタット(Hallstatt)からももたらされています。ハルシュタット(Hallstatt)の精製前の岩塩ウンタースベルグ山(Untersbergbahn)から写真左見切れている方角がザルツブルグ。写真右中手前見切れている当たりがーから先がハライン(Hallein)写真右奧の山当たりがザルツカンマングート(Salzkammergut)ザルツブルグカードで無料で乗れるウンタースベルグ山(Untersbergbahn)のロープウェイ乗り場である聖レオンハルト(St. Leonhard)村からハライン(Hallein)は目と鼻の先でした。(残念ながら山頂の天候が悪くそちら方面の写真は撮れませんでしたが別の回で紹介予定)ザルツブルグ市内地図赤い丸ABCDEは主要観光スポットのある場所ピンク1 写真撮影の橋ピンク2 ホーエンザルツブルグピンク3 メンヒスベルクの丘ピンク1・・の橋から撮影丘の上に見えるのがこのザルツブルグの象徴も言えるホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)丘の下は旧市街。写真右のドームがコレギエン教会(Kollegienkirche)写真左のドームがザルツブルグ大聖堂(Dom)ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグと言う砦の持ち主は神聖ローマ皇帝に仕える諸侯ではなく、実はローマ教皇に仕える司教だったのです。布教の為の特別区は、一国となり、政治、軍事まで含む巨大な権力が司祭に集中。司祭はもはや布教ではなく、街を維持する政治をする事に追われる。しかも塩による財力が豊富なのでいつしか神に仕える者とは思えない行為までしだすのです。例えば王侯の宮殿のような大司祭の館(レジデンツ)。大司祭の愛人の為の館(ミラベル宮殿)。大司祭の夏の別荘(ヘルブルン宮殿)等々。そんな所が観光名所として現在も残り公開されているのは皮肉ですが、司教の王国・・と言うザルツブルグの特殊性がそこに見えて面白いかも・・。旧市街に渡る橋右に見える丘陵がメンヒスベルクの丘(Monchsberg)丘の上の白いのが現代美術館(あの丘の上までは地下トンネルの先からエレベーターで一気に上がれる。)ザルツブルグ4日の間、雨が8割。僅かの天気の間に撮影した写真です。この時は天気で喜んでいた後に傘が役に立たないほどのひどいドシャブリに合いました 旧市街旧市街と言っても市民が生活している街でもある。ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教696年頃ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 はバイエルン公よりこのあたりの領地をもらいサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設した。また塩鉱の権利をもらってゲルマン族の侵入以来途絶えていたハラインの塩鉱を復活させ、布教の財源とした事から、ザルツブルグ(Salzburg)・・・Salz・burg(塩の砦)と街の名は決まったようだ。その後ルーペルト司教の活躍によりサンクトペーター修道院は東部アルプス一帯の布教活動の拠点となる。また彼の布教活動の成果を得て、ザルツブルグには司教座が置かれルーペルト司教は最初のザルツブルグの司教となっています。司教座になると、司教座聖堂が必要になる。最初は木造の簡素な聖堂が造られやがてそれは大聖堂建築に発展する。現在のザルツブルグ大聖堂(Dom)のルーツである。8世紀になると布教活動はカール大帝の政策と一致を見る事になり、より活発な布教活動が展開。798年にはカール大帝が教皇に進言してザルツブルグは司教区から大司教区に昇格。つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年12月15~18日 かつてザルツブルグ特集をしていました。ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街) 」ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) ザルツブルク 4 (マルクト広場) ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市) 使えそうなところのみリンク入れました。リンク ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教)リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)リンク クリスマス市の名物グリューワイン
2015年02月13日
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発券機の所追記2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1」および「2」でオーストリアの国際特急列車の紹介をしているのですが、今回ザルツブルグ(Salzburg)へのアクセスは行き帰りもレールジェット(railjet)を利用しました。リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)街も駅もだいぶ整備されたようでこの数年でとても綺麗な最新の駅舎にかわっています。今後利用される方も多いと思うのでザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)の駅構内の写真を番外として紹介しておきます ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)QBBの発券機オーストリア領内西、ドイツに国境を近くするザルツブルグはもともと国際列車の通過駅の1つとしてできたようです。(1860年頃)欧州ではこの温室のようなガラスのドーム式タイプが多く見られます。19世紀の近代化の中で現れたアート的な鉄の建築が欧州駅舎のスタンダードになったのでしょう。モーツァルトの生誕地であり、音楽の都として賑わっている街は1996年にはさらに「ザルツブルク市街の歴史地区」としてユネスコ世界遺産に登録。より人気の観光地として観光客も増え、ザルツブルグを拠点にミュンヘンへの日帰りやインスブルックへの日帰り、あるいは移動へと来訪客は年々増えているようです。オーストリア連邦鉄道(QBB)のレールジェット(railjet)現在も西オーストリアのハブ駅として多くの国際列車が乗り入れする主要駅になっています。Line Salzburg たぶんザルツブルグ鉄道(Salzburg AG)です。ザルツブルグからローゼンハイム、ミュンヘンを結ぶ列車。下の列車は同じくミュンヘンとザルツブルグ間を結ぶバイエルンラントバーン(BOB)傘下のメリディアン鉄道(Meridian Eisenbahn) この列車は主に通勤用のようですが、ザルツブルグから、あるいは、ミュンヘンからの日帰り観光チケット(バイエルンチケット)で利用できる列車となっています。München ~ Rosenheim ~ Salzburgザルツブルグ、ミュンヘン間は高速列車のレールジェット(railjet)だと所要1時間28分くらい。しかし、バイエルンチケットでは高速列車は対象外、乗れるのはRE(地域快速)、RB(普通列車)で所要2時間くらい。僅かローカル線で2時間と言えど、かつては国が異なると電荷が異なる。ミュンヘン~ザルツブルグ間の鉄道計画は19世紀初めからあったもののなかなか困難なものだったようです。(国鉄、私鉄と2国間の会社が協賛しているライン)オーストリア連邦鉄道(QBB)ザルツブルグ社(Salzburg AG)ドイツ鉄道(DB)BOB傘下のメリディアン鉄道(Meridian Eisenbahn) もちろ欧州各国のユーロシティー(EC)、インターシティー(IC)、レールジェット(RJ)、シティー・ナイトライン(CNL)などの車両が運行。プラットホーム下の地下道写真左がQBBのラウンジ・・一等のチケットを持っている人のラウンジ列車の発券機手前赤いのがオーストリア連邦鉄道(QBB)。奧のがドイツ系と思われます。QBBの発券機ウィーン西駅で撮影言語は7ヶ国語対応。言語を選んでから発券操作に入る。入力項目などちょっと手間がかかるので時間に余裕を見てください。上の発券機以外にもインターネット予約でチケットを購入して日本でプリントアウトしてくれば発券機を使用する必要はありません。現地予約でプリントアウトしてない場合やその場購入の時に発券機が必要になります。また窓口購入も可能ですが、行列待ちがあること。また窓口発券をすると手数料がかかります。最近は事前にインターネット予約してプリントアウトしてくるのが一般的です。ただし、問題になるのは旅行取りやめになった場合です。QBBの窓口まで発券チケットを持っていけば、少しは戻るかもしれませんが、(前にも書きましたが)EU圏に居住していない者はカード決済したチケットの払い戻しがほぼ不可能なのです。国境がまたがる場合、同じ路線間でも、どちらの国でどのような買い方をするかで値段が異なってくる。ドイツの場合、早くチケットを購入すればするほど週末に限ってはかなり格安に購入する事ができる。一方オーストリア国鉄の場合、ローカル列車は超格安に買う事ができるが、特急列車などに関しての割引は無かったと思う。略号RJ(railjet)・・・・・・・レールジェットEC(Euro City)・・・・・ユーロシティ国際特急ICE(Inter City Express)・インターシティ高速列車IC(Inter City Train)・・・インターシティ特急REX (RegionalExpress)・快速急行列車RE (RegionalExpress)・・地域快速列車RB (Regional Bahn)・・・普通列車S (S-Bahn)・・・・・・・近郊列車U (U-Bahn)・・・・・・地下鉄改札が無いので日本とは異なるが、いわゆる駅中に相当するザルツブルグの駅舎内。もちろんショップも入っている。駅舎内に自転車は日本では不思議であるが、こちらでは電車に自転車を持ち込むのはあたりまえの光景。外観の写真が無かったのでのでRail Europeから借りてきてしまいました下の写真1870年頃の駅舎の模型(美術館で撮影)現在はこの駅舎の向こう側のプラット・ホーム上にドームがかかっているのである。(当時は駅舎側だけルーフがあったようです。)ところで、ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)は第二次世界大戦のおりに爆撃され、その時の不発弾が近年まで地下にうもれていたそうです。その不発弾の信管を抜く時に被害が出たとか・・。2007年8月、QBBはさらに不発弾の探索をしたと言いますが、まだ近隣に残っている可能性もあるらしいです。次回ザルツブルグを予定。しかし、以前1度特集しているのでどう載せるか思案中
2015年02月06日
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Break Time(一休み)未確認の謎の物体?写真を多く撮っていると、たまに予期しない物が写っている事があります それも現場でなく、家で写真を拡大してチェックしている時に発見。以前、ノルウェーの墓地で写り込んだオーブ(光の玉)は確実に危ないので消去しましたが、今度はそっち系ではない玉を発見。光の反射には思えないものが、写真2枚に連続で写り混んでいました。撮影は前回まで紹介していたヴァッハウ渓谷 (Wachau)。メルクを出て、シェーンビューエル城とシェーン・ビューエル修道院を過ぎて振り返って撮影。これもまた撮影した時には全く気がつかなかった物です。写真A-1晴天でまぶしいくらいの日差しの中、船のデッキ(屋外)で撮影。下から上がっているのは飛行機雲に見えますが、問題は上の方の点。以下2枚はそれを拡大したものです。写真A-2何でしょうね。 雲の変わった軌跡がついている所が光の反射とは思えなかった点です。写真A-3拡大すると明らかに中ピンクで周りが白いです。写真B-1もう一枚にも写っていました。時間はぼ一緒、船の方が移動しているので角度が違うのです。この前後にもたくさん撮影していますが、写り込んでいたのはこの2枚だけでした。Unidentified Flying Object未確認飛行物体 略してUFOそんなだいそれた写真ではないかもしれませんが、気になったので載せてみました 次回からザルツブルグを予定してます。現在写真整理中です。
2015年02月04日
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ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)クレムス(Krems)シュタイナー門(Steiner Tor)中世の定期便(駅馬車)デュルンシュタイン (Durnstein)を後にクレムス(Krems)へ (船で15分もかからない。)見えるのはマウテルナー橋。このあたりはもうクレムス(Krems)。クレムス(Krems)正式名はKrems an der Donau 自治体独自の都市法を持つ憲章都市(Statutarstadt)だそうです。(現在オーストリアにはそうした憲章都市が15あるそうです。)市のエンブレムはシュタイナー門(Steiner Tor)に印されている。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)東の拠点クレムスの街も歴史が古く27000年前の旧石器時代に遡ると言う。995年には記録に表れ、中世ウイーンに並ぶ繁栄があったと言われている。それはクレムスの街がヴァッハウ渓谷 (Wachau)の川下であり、ワインの集積地として栄えたからだそうだ。クレムスで集積されたワインはドナウ川をさらに下りウィーンへと運ばれたのだろう。クレムス(Krems)の船着き場船着き場はちょっとしたターミナルであるが、そこからの交通手段が無い。個人の場合、オーストリア鉄道のクレムスの駅まで15分~20分くらい歩く事を想定した方がよい。(旧市内をめざすなら道は駅から離れる事になる。)船のターミナルにインフォメーションがあり、街の地図をもらう事ができるが地図はわかりずらいのと、街に街の地図や標識がないので、旧市内をめざすと、駅の方角がよけいわからなくなる。列車の時刻が決っているなら、日本で解りやすい地図をダウンロードしていく事をすすめます。駅方面を示す看板が一切無いので駅入り口が非常に見つけにくいのです クレムス(Krems)の旧市街入り口には古い城門が残っている。19世紀まではまだ街を囲む城壁が残っていたらしく、ドナウ川が氾濫した時の防波にも役立っていたようです。現在一部保存されているだけで治水が出来るようになった近年街の壁はほぼ取り壊されたらしい。門は3つ印されていたシュタイナー門(Steiner Tor)、 クレムス門(Kremser Tor) 、 リンツァー門(Linzer Tor) 、確認したのは1つ。シュタイナー門(Steiner Tor)クレムスの唯一の目玉がこの門。現在の門は2005年に再建されたものらしい。最初にできたのがいつなのかは定かでないが、1477年にハンガリー軍に破壊され1480年再建された・・と言うのが古い記録。先ほど紹介したクレムスのエンプレムが出来たのが1453年から1463年頃。いずれにせよ、中世以来クレムスの街に入るメイン・ゲートがここであったのである。この城門からの通りが昔からの街の目抜き通り(オーベレ・ラント通)で、今は観光客や地元の人も利用するショッピング・アーケードになっている。オーベレ・ラント通り(Obere Land st)クレムスは人口20000人以上の都市なので新市街には大手スーパーもある近代的な街ですが、この旧市街にはホテル、パブ、レストラン、お土産やさん。中世の街の縮図が全部詰まっています。写真左は中世以来のホテル・レストランです。店のアイアン・ワークに注目。 駅馬車とラッパと鍵。ここは中世、ホテルであると同時に郵便車の止まる指定宿の1つでした。中世の定期便(駅馬車)2009年7月「馬車と駅馬車」のところで中世の駅馬車のについて1度紹介していますが・・。中世の都市交通の1つとして生まれた駅馬車は街と街の宿を結ぶ定期便です。それに手紙を一緒に運ばせたのが郵便事業であり、郵便車の始まりなのです。手紙をどこかの街に届けてもらいたい時にこの宿に郵便物を預けにきたり、逆に受け取りに来たりと、街の老舗ホテルは初期の郵便局を担っていたのです。そしてその馬車は黄色であった。駅馬車の車掌は停泊所に近づくとラッパを鳴らして人々にその到着を知らせました。それがルーツとなり、欧州では郵便ポストが黄色であり、ラッパのロゴが残っているのです。Goglhaus・・1500年前後に建設された中世の家。オーストリア連邦鉄道(OBB) クレムス(Krems)駅クレムスを出発してからはしばらくブドウ畑が延々と続いていました ヴァッハウ渓谷 (Wachau) おわりBack numberリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオンリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船) リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月31日
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人質事件残念です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)第三次十字軍(Third Crusade)デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世リチャード1世の像(ロンドン)現在の国会議事堂であるウエストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の上院側、Old Palace Yardに像はあります。リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)イングランド王(在位:1189年~1199年)父は、プランタジネット朝初代国王のヘンリー2世(Henry II)で彼はその3男として誕生。以前テンプル教会を紹介した時に中世の騎士の事を書きましたが・・。2013年9月「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」そんな騎士道華やか成りし頃のイングランドでリチャード1世は誕生。当時の慣習により(イングランドは全ての家督を継げるのは長子に限る)家から外れ、騎士としての訓練を受けたのだと推察。騎士は彼にとって最高の生き方だったのかもしれません。長兄が亡くなりイングランド王位が彼に回ってきても、彼は自ら戦闘に出る事を辞めなかった。在位していた10年で国にいたのはわずか6か月とか・・。彼は常に先陣を切る騎士王だったようです。以前テンプル教会で紹介した英雄的騎士、ウィリアム・マーシャルは、プランタジネット朝のヘンリー2世、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された騎士であり政治家です。彼はリチャード1世の時は遠征中の王に代り本国イングランドで政務を担っていた人ですが、彼は「王たる物が浅はかに敵を追うな。そう言う事は部下にさせろ」と言う旨の苦言を提したと伝えられています。それでも彼は聞く耳持たず、第三次十字軍では一人奮闘してサラディンと戦い、そのサラディンから「彼は本物の騎士だ」と賞賛されるほど・・。ウィリアム・マーシャルが心配した通り、彼の最後はフランス領のアキテーヌ公領シャリュでの戦いにおいて受けた矢の傷が元で戦死。若干42歳でした 街の裏手、デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)矢印が城跡。途中ブドウ畑を通過。この当たりまでは道も整備されてましたが、城跡まで上る道は結構険しい。一応案内では20分でしたが、体力落ちている私はもうちょっとかかりました とにかく足場が悪い。雨の後だったら滑って危険です。眼下に見えるのは川上、メルク方面。第三次十字軍(Third Crusade)(1189年~1192年)1187年、サラディンの元で再びイスラムの手に落ちたエルサレムを奪還する為に教皇グレゴリウス3世の要請で立ち上がったのが、神聖ローマ、フランス、イングランドでした。1189年、先発で進軍したのが神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世。しかし途中急死。1国で派遣した十字軍部隊としては最大規模だっそうですが、1190年キリキアのセレウキアの街。サレフ川で溺死してしまいます。(現在のトルコ。シリフケの街はずれ現在のGoksu川。)※ 皇帝亡き後、臣下の多くは帰国。ドイツ隊としては少人数が統率者の定まらぬまま残った程度。1190年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)は7月それぞれ出立してシチリアで合流。(父王以来土地の問題で戦争関係にあったが、リチャードとフィリップはこの時点では仲良しだった。)1191年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)、それに神聖ローマの残った兵隊でアッコンを陥落。(イングランドの艦隊の海上封鎖による兵糧攻めが勝因。)リチャード幽閉事件の要因は、このアッコン陥落の時に起きた些細な出来事。神聖ローマの残った兵隊の司令官であったオーストリア公レオポルト5世はフランスとイングランドに並べて図々しくも自身の旗を掲げ、それをリチャード側により撤去された。その後怒ったオーストリア公レオポルト5世は帰国。残ったフィリップ2世もその後意見の衝突が多くなり帰国。残されたリチャード1世は一人で軍隊率いてサラディンと戦闘を繰り返す事になった。しかし二人の間には何かしら信頼関係が出来たのだろう。1192年、サラディンとの間で休戦協定が締結。エルサレムの奪還こそできなかったけれど再びキリスト教徒のエルサレム巡礼が再開。これをローマ教皇は高く評価した。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)ファースト・ステージからセカンド・ステージ入り口城は大きく3つのステージに・・。現在ファーストには何もない。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世第三次十字軍(Third Crusade)はイングランド王リチャード1世の功績により終結。ところが、エルサレムからの帰国途中にリチャード1世は捕らえられ(1192年12月)、デュルンシュタイン (Durnstein)で幽閉された。捕らえたのはアッコンの一件でリチャード1世に恨みを持つレオポルト5世。(英雄を捕らえたのですから、後にレオポルド5世は教皇より破門。)1194年2月神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身代金を払い解放されるまでリチャード1世はデュルンシュタインの城に閉じ込められていた・・と言う訳です。デュルンシュタインがクーリンガー(Kuenringer)家の領地として歴史に出て来るのは1158年。もともとはメルクと同じく要塞が起源で、クーリンガーはオーストリアの高官。写真からは解りにくいですが、日差しが強すぎて真っ黒に焼けました。日焼け止め必要です。サード・ステージから撮影。絶景。絶景。風が凄いです。次回でヴァッハウ渓谷終わり。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月25日
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ヴァッハウ渓谷、今回はデュルンシュタイン (Durnstein)です。私の中の目玉でした ここは小さな中世の街がそのまま残ったところです。中世ながらの造りの家が現役でリフォームされて今に使われている。しかも景観を残す為に幹線道路や鉄道は街の地下を走っている。日本のように電線が見えている事も無い。綺麗目な中世の街はとても居心地の良い所でした。滞在時間は次の船まで。ランチをして山の城跡までリチャード1世を探しに行ってきました それにしても、資料が少なすぎて建物の正式な名前など調べるのに苦労しました。調べていると時間が早くたつ。夜の方がはかどるのでもっぱら夜の作業なのですが、最近0時過ぎると眠くて仕方がない。無理したくても眠気の誘惑に負けてしまう昨今です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)デュルンシュタイン (Durnstein)の街吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)中世の大イベント、十字軍の遠征については、以前紹介していますが(2013年8月)、今回紹介するデュルンシュタイン (Durnstein)は第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が幽閉された場所として歴史に残っている有名な街です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)最大の観光スポットデュルンシュタイン (Durnstein)の街街の象徴とも言える水色の塔はデュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)教会左隣は参事館(Chorherrenstift) 左に見切れているのが5つ星のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)デュルンシュタイン (Durnstein)は街を取り囲むように石の壁が築かれた城塞都市です。赤とオレンジで城壁の部分を塗り分けてみました。デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)は見切れている上方にあります。A・・デュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)と参事館(Chorherrenstift)B・・宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)C・・前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)で現在はホテル・レストラン リチャード獅子心王(Hotel Richard Lionheart)D・・古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)参事館(Chorherrenstift)の下に船着き場があるのですが、そのまま真っ直ぐには街には入れません。街に入るルートをピンクで示してみました。城壁の下のトンネル城内から見たゲートたまたま居合わせたデュルンシュタイン・ドナウ教会で式を挙げたばかりの新郎新婦。大人のカップルですねメインストリートに繋がるゲートの方メインストリートのハウプト通り(Hauptstrabe)ラートハウス(Rathaus) 旧市庁舎? 現在はペンションのようです。古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)ロケーションもNo1ホテル・シュロス・デュルンシュタインからのヴァッハウ渓谷 (Wachau)の眺めホテル・シュロス・デュルンシュタインから先は岩山に張り付くように建つ教会や邸宅が並ぶ。街を囲む城壁と岩山に溶け込むかのようにはまっている建物。吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)最初に、ここは第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が不本意にも、幽閉された街・・と書きましたが、リチャード1世はデュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)に幽閉されていたとされています。なぜ幽閉されたかについては、次回説明しますがBlondelsageと呼ばれる逸話があり、それによればリチャード1世の家臣で、吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)の歌声が彼の場所を突き止めて、救出にいたった・・とされる話です。その為に功労者プロンデルは英雄となっています。前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)入り口現在はホテル・レストラン リチャード獅子王(Hotel Richard Lionheart)そして中庭右に同じく宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)が同居しています。しかし、実際はBlondelsageはイングランド側による作り話かもしれません。なぜなら、実際リチャード1世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身代金を払って解放されているのです。そして、実際山の上のデュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)はかなり遠く、風も強い。とうてい下から声が届く場所ではなかったのです。仮に下の方に小屋があったとしたら可能かもしれないが、1000年近く前の話である。建物など今は存在していないので検証もできない。天下のリチャード1世が身代金で解放ではみっともないから後世そんな話が作られ吟遊詩人が歌い続け、さもそれが事実のようになったのかもしれない。・・と思うわけですデュルンシュタイン (Durnstein) つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)
2015年01月18日
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せっかく写真があるので、クルーズしている感が出るようたくさん写真載せる事にしました。今回は中盤のシュピッツ(Spitz)界隈とのヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)航行を紹介します。この当たりは両岸日当たりよく、ワイン用の葡萄畑が一面です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)ヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ドナウ川クルーズ・シュピッツ(Spitz)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)仲間同士で、優雅に食事を楽しんだり、パーティーをするなどのイベント船(Donau Wachau Brandner)や自転車を積んで、サイクリングしながらクルーズする船(MS Theodor Körner Boat & Bike Danube)など夏場にはいろいろな船が運航しています。特にサイクリング船はドナウ川だけでなく、オランダ、ベルギー、フランドル、ドイツクロアチアなどバルト海域など様々な場所でクルーズをするアクティブな人向けの船でちょっと面白そうです 自動車まで乗っかる渡し船世界遺産に認定されているので橋が架けられないようです。世界遺産に認定された後に地元住人が勝手に橋を架けて認定取りやめになった所が確かドイツにありましたが、地元の住民の利便か世界遺産認定か・・難しいですねヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ところで葡萄畑が広がるこの河岸で1908年にオーストリア最古と言われる旧石器時代(紀元前24000年頃)の土偶ならぬ石偶が見つかっています。わずか11.1cmの石灰岩を彫り込んで作られた豊満な女性の立像はおそらく五穀豊穣や多産の象徴的なお守りだったのではないか? あるいは不妊の神様? と考えられヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)と呼ばれるようになったそうです。立像は現在ウィーン自然史博物館に所蔵されていると言う事ですが、写真を撮ってきていないのでウィキペティアの無料メディアリポジトリより借りてきました。日本の土偶は出産で亡くなった女性への弔いの要素が強かったと思いますが、こちらは見た感じ、五穀豊穣でミルクが沢山出て子供が良く育ちますように・・と言う身重の女性のありがたいお守り神様のような気がします。 (^人^)パンパン 人(-_- )一礼 謎は顔が無い点だとか・・。何にしてもやはり川辺の日照の良いこの土地には古来より人が住んでいたと言う事です。それは同時に昔から陣取り合戦で、敵が攻めてくる土地だった・・とも考えられます。そしてローマ帝国時代にはドナウ川の源流から河口までのほぼ全域が帝国の北方の防衛線であったと言われ、今もあちこち当時の名残の城塞跡が点在しています。ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡より川下がシュピッツ(Spitz)の町です。シュピッツ(Spitz)の桟橋に着岸する時は方向転換して川上が船首に・・。シュピッツ(Spitz)の桟橋シュピッツ(Spitz)の1000Eimer-Berg1000Eimer-Berg・・・「1000アイマーのワインが収穫できた山」の意1Eimerは56.5リットル 昔使われたワインを量る単位だそうです。標高の低いとこにはグリューナー・フェルトリーナー種高い所にはリースリング種が植えられているとか・・。また町のもう一つの特産品がアプリコットらしい。時間が無かったのでここでは船を降りませんでした。船は1日2便しかないので1度降りて次の船に乗るには下船できるのは1箇所のみ。他の手段はバスで次の町に出るしかない。ヴァイセンキルヒェン聖ミカエル教会(Weissenkirchen St Michael)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)城塞跡の城塞教会と言う変わった経歴の教会。1500年~1523年に建立されたという城塞。塔は1531年にオスマン軍の侵略から守る為に立てられたとか・・。ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)の町ヴァイセンキルヒェンは白ワインのぶどう品種であるリースリング(Riesling)の発祥の地と言われている。つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)
2015年01月10日
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新年おめでとうございます。m(_ _)m♪☆ヾ(*∩_∩)∠※☆ノ+。:.゚.:。+ 本年もよろしくお願いします゚+。:.゚.:。+゚♪新年迎えて6日。関東では7日には早くも松飾りの撤去です。歳神様を迎える(松の内)の松飾りは今でも地方では、小正月(1月15日)までの所が多いようですが、関東では大正月(1月7日)までで撤去です。それは寛文2年(1662年)に江戸幕府により出された江戸城下の通達以来徐々に広まったそうです。正月の短縮の意味は今一つよくわかりませんが、この時に松飾りの炊きあげをしていた火祭りも江戸では禁止されています。理由は炊きあげによる火災を恐れての通達だったようです。何しろ明暦3年(1657年)には江戸城下の大火事(明暦の大火)が起こっていますし、元号変って万治4年(1661年)には内裏の火災が発生。縁起が悪いので元号を変えた寛文2年(1662年)にこの通達が出されています。江戸幕府は冬の関東の乾燥と火の気を何より心配した・・と言う結果が今に継承されているのですから歴史は面白いですね ところで、明暦の大火は、振り袖火事とも言われ、供養の振り袖の炊きあげにより起こった・・とされる火事ですが、現在の見解では老中の屋敷からの出火と言うのが真相だったとされています。さて、ヴァッハウ渓谷のクルーズ写真が結構たくさんあり、選ぶのにわけがわからなくなっています 本来4回程度で終わらせる予定でしたがすでに5回目。もう少し長くなりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)ドナウ川クルーズ船メルク修道院(Stift Melk)のテラス眼下にメルク川があり、そこから1社、橋を渡ってドナウ川岸に数社の船乗り場があります。そこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズ船が出発しています。GGSG Blue Danubeの観光船MS Wachauはメルク発。(1日2本運行)こちらは遊覧船で宿泊船ではありません。いずれにせよヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズは冬はやっていないようです。地図の下方Melkよりスタートそこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)自体は36km程の距離。渓谷にはかつての要塞や古城、修道院が点在。2000年にユネスコ世界文化遺産に登録。メルク修道院(Stift Melk)を後方に見て出発ドナウ川に合流日差しが強い7月の上旬。サングラスも必要。写真下、左が支流のメルク川すぐ対岸にはEmmersdorfの船着き場。ドナウ川はかなりの大河。なかなか気持ちの良い航行です。そんなに揺れませんが、風は強く帽子は飛んでしまいます。そしてかなり日に焼けるので日傘が必要ですが、それも風で押さえるのが大変でした。キャビンに入れば日焼けは免れますが、良い写真を撮りたいならデッキにいるしかありません かつては、オスマン帝国の兵や物資を運ぶ輸送路となり、十字軍の遠征にも利用されたこの航路は川下は黒海に至れる河川であり地中海に臨める経済航路です。しかし、上流は、現在でこそライン・マイン・ドナウ運河(Rhine-Main-Danube Canal)により北海にも繋がっていますが、昔は途中陸路を移動してライン川やマイン川に連絡しなければならなかったようです。これら河川をつなぐ構想は8世紀からあったようですが、標高差が異なる為に最終的に完成したのはつい近年(1992年)だそうです。シェーンビューエル城とシェーン・ビューエル修道院1844年にバイエルン王妃エリザベート(シシィ)が訪問してバルコニーから手を振った・・とか・・。航行の難所と言われるこのあたり。結構多くの船と行き交いました。夏だけ運行している船旅用の客船A-Rosa Bella 全長124.5mこちらはブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る船舶で、船の中はかなり豪華みたいです。それにしても船の絵柄のセンスが・・(* v v)。こちらも船旅用客船Prinzessin Katharina 全長110mこちらもブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る客船です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)はオーストリア最大のワインの産地でもあります。両岸にはブドウ畑がたくさん見られます。何よりこれだけ夏の日射が強いのですから、かなり糖度の高い良いブドウが育つでしょうね。カメラ3台で撮影しているのでカメラによりかなり色調が違ってきています。特に日差しが強すぎて色が飛んでいるか、青く出過ぎるか。・・で、多少色調調整をおこなっています。それにデジカメのモニターが反射して何も見えません。天気が良すぎるのも難しいです。クルーズ写真次回も続くリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)
2015年01月05日
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メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン前々回に紹介したメルクの十字架ですが、通常は公開されていないものだったようです。バーベンベルグ家(Haus Babenberg)のハインリッヒ1世が殉教者、聖コロマン(St.Koloman)(不詳~1012)の遺骸をメルクに運び入れたのが1014年、それから今年が1000年目の記念年の為に公開されていたらしいです。いつも不運続きなのにめずらしくラッキーな事・・ でも1つ疑問が・・。私が資料にしたメルク修道院の資料本(1998年版)に載っているメルクの十字架と実際に見て撮影した十字架と微妙に違う箇所がある。中央クロス部分のサファイア? の向きが明らかに異なってます。(・_・?)さて、今回修道院横に付属している庭園(修道院と別料金)とパビリオンの写真もおまけで紹介しておく事にしました。ツアーの観光客は時間的に立ち寄らない場所ですし、パビリオンの室内装飾(フレスコの壁画)が素晴らしかったので・・。本当に修道院とは思えない華やかさです もしかしたら・・。マリーアントワネットがフランスにと嫁ぐ旅の宿として1770年4月22日メルク修道院に滞在しているのですが、その為に整備された可能性があります。バロックの庭園とパビリオン入り口は一度修道院を出てから左手。ハビリオンの向こうはドナウ川です。1747年~1748年に造園された公園デザインはウイーンの建築家で画家のフランツ・セバスチャン・ローゼンスティングル(Franz Sebastian Rosenstingl)(1702年~1785年)パビリオンはオーストリアのバロック建築家フランツ・ムンゲナスト(Franz Munggenast)(1724年~1748年)パビリオン内のフレスコ画は1763年~1764年に描かれたようだ。ヨハン・バプティスト・ヴェンツェル・ベルグル(Johann Baptist Wenzel Bergl)(1718年~1789年)ウイーンで活躍したバロックの画家で女帝マリア・テレジア(1717年~1780年)のお気に入りの絵師によるものらしい。エキゾチックなバロックである。明らかに北アフリカがテーマになっていて見ていて楽しい これもバロックなんだ・・と驚嘆です。最近の作家の作品かと思いきやマリア・テレジアのお気に入り・・と聞いて尚驚く。これが250年前の作品だなんて・・。これを見るとヴェルサイユなどの装飾とは全く違う。オーストリアの趣味の高さがうかがえる・・と言うものです。現在はガーデンパビリオン・カフェになっていて、ここでコンサートなども行われるらしい。パビリオンからのメルク修道院ドナウ川の向こう岸かつてのメルク修道院(絵葉書から撮影)クルーズ船 メルクの乗り場の1つ次回は年明けになりそうです。良い新年をお迎えください (*∩_∩)ノ”リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2014年12月29日
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さて、メルクで回が増えてヴァッハウ渓谷、押しています m(_ _)m ゴメンナサイ 今回教会の中をさっと? 紹介して修道院終わります。ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)メルク修道院教会(Stift Melk Kirche)ペテロとパウロ(Peter and Paul)初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来すると言われています。キリストと同じ境地にたどり着きたい? とでも言う所なのでしょう。つまり修道士は現世の儚(はかな)さやこの世の価値を体現する事で得られるかもしれない究極の精神世界を求めた。己がまさに使徒的な立ち位置にいる・・と言う事も重要だったろうし、二元論(天国と地獄)の存在が広まると今度は緊迫感を持って禁欲はより広まったようです。あくまで初期の禁欲的修行はそれぞれが己の為に・・と言う所に端(たん)を発していたと思います。(たぶん傍(はた)から見たら彼らはちょっと? かなり? 変わり者だったかも・・ )しかし、時代は取り巻く環境を大きく変えます。まさにメルクができた頃の中世の修道院の主眼は布教です。だから敢えて辺境地に作られ始めます。前にドナウ川は異教徒との国教・・と書きましたが、この時代の修道士は己の精神世界を追求するよりもやらねばならない仕事(宣教活動、復興、文化活動など)がたくさんあったのです。強いて言えば彼らは学校の先生・・と言う存在だったかも・・。そう言う修道士らの生活や仕事、守るべき、あるいはこうあるべき模範となる戒律を作ったのが聖ベネデイクトゥス(Benedictus)です。メルク修道院教会大理石の間と図書室の間はテラスでつながれていて、その間にコロマンの庭と教会があります。間の悪い事に現在修復中で工事中でした バロックのこれだけ凝った立派な装飾が現存しているのが凄い。教会内部の装飾はイタリアの建築家アントニオ・ベトウィッチ。ベルトルド・ディートマイヤー(Berthold Dietmayr)院長は本当は一部ゴシック教会からの改修工事だった所を全面改築にしてこの教会を建立。一時は、教会の豪華さや贅沢さは非難されもしましたが、当時も、今日も、観光の目玉になっているのですから結果的には元がとれているかも・・円蓋の下、市民祭壇から祭壇左に聖コロマンの祭壇が置かれている。円蓋アントニオ・ベトウィッチのデザインを元にザルツブルグの画家ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤが描1716年~1717年に完成。聖コロマン(St.Koloman)の祭壇聖コロマンについては前々回紹介していまいすが、メルクに最初に祀られた聖人です。主祭壇左手に聖コロマン、右手には聖ベネディクトゥス祭壇があり、双方シンメトリーにデザインされている。聖櫃の上方のオベリスクの前で跪くのが聖コロマン。主祭壇ザルツブルグの大理石と金箔をほどこした木造でつくられているこの祭壇のコンセプトは教会の戦いと凱旋らしい。祭壇後陣の像 中央はこの教会の守護聖人である、パウロ(右)とペテロ(左)別れを惜しみ、二人はこれから最後の戦いに出かける・・図らしい。ペテロとパウロ(Peter and Paul)伝説によれば、二人はネロ帝の時代、同じ日にローマのフォロ・ロマーノにあったマメルティヌスの牢獄から引き出されて処刑されているそうだ。ペテロ外伝では逆さ十字架にかけられている。パウロについての聖書に記載は無いが、エルサレムで捕らえられ、ローマに送られ64年か67年にローマ市民として斬首されたらしい。それ故パウロは殉教の印から剣が象徴される事もある。因みにペテロはとりわけ天国の鍵が象徴される事が多い。キリストより天国の鍵を預かった人物だからである。それによりカトリック教会はペテロを初代のローマ教皇とみなしていて、初期の教皇はペテロの後継者を名乗っていたようだ。大きな王冠は、勝利の王冠らしい。つまり聖ペトロと聖パウロの為の勝利の王冠。布教は殉教との戦いであったが、二人は天に 凱旋した?教会の思想らしいが、資料の説明からは今いち、意図している事が読み解けないです 身廊側面には祭壇のブースがたくさん・・。これだけ見たら教会と言うよりはやはり豪華な宮殿です。Michael Altar(ミカエル 祭壇)ミカエルに献げられたこの祭壇の下、聖櫃にいるのはクレーメンスと名付けられた殉教者の遺骨だそうだ。そのお骨自体が、寄贈品だそうで、昔は殉教者のお骨は神的に崇められていたのだろう。Johannes der Täufer Altar(洗礼者ヨハネ 祭壇)こちらのお骨はローマのカタコンベから運ばれた身元不明者のもの。寄贈したのはマリア・テレジアだそうだ。※ それぞれ祭壇にかかげられている絵画から区別できる。殉教者=聖人 の考えがまだあったからなのだろうが、身元不明まで持ってくる意味がちょっと解りませんね (・_・?) ハテ?メルク修道院(Stift Melk)おわり いよいよ次回船に乗りますメルク back numberリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院) リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)メルク修道院おまけリンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオンヴァッハウ渓谷のクルーズリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2014年12月27日
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「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」再度書き換えさせていただきました。この修道院は私が今まで見てきた修道院の中で一番華やかです。外装こそ少しチープに思えるバロック様式ですが、教会内部の贅を尽くした装飾や教会の聖具のお宝とも言える装飾性の高さには驚かされました ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)メルク修道院(Stift Melk)メルクの十字架(The Melk Cross)失われたマウリティウスの槍の謎聖ベネディクトゥスがめざしたものメルクのベネディクト会の全盛は17世紀末のバロック時代。修道院をバロック様式で建設を指揮したのは1700年に当時30歳で修道院長に就任したベルトルド・ディートマイヤー(Berthold Dietmayr)(1670年~1739年)。建築士はヤコブ・プランタウアー。1702年に礎石。教会の内装には最高の芸術家をそろえたそうです。当時、国内の高位聖職者の中でも、メルクの院長の地位はかなり高かったらしい・・。オーストリアの近代的歴史学の起点になる・・と言われる程、ここの芸術性は高くベルトルド・ディートマイヤーのこだわりのもと、教会聖具なども極まったハイレベルな逸品が産み出されたようです。特にバロック時代に高まったと言う聖遺物崇拝のせいでしょうか? 司教様? あるいは聖人? の遺骸を装飾として飾り立てた祭壇が並んでいて、ちょっと驚きでした。メルクの十字架(The Melk Cross)バーベンベルク家のアダルベルト伯(1018年~1055年)がメルクにもたらしたと言うキリスト磔刑の時の十字架木片。それに大公ルドルフ4世(Rudolf IV)が1362年にフレームを作らせたらしい。(しかし、その年はこの十字架が2度目の盗難に遭った年。何か因果関係でもあるのかな?)選帝侯時代には、こうした格のあるお宝が地位の証明や名誉になったと言う。メルク修道院はメルクの十字架、そして失われたマウリティウスの槍と聖人達の墓所としても選ばれ、オーストリア公やハプスブルグ家からも留意される特別な場所として存在していた場所だったそうだ。ところで十字架の木片は、以前ウイーンの王宮宝物館で紹介した「皇帝の十字架(Imperial Cross)」にもありましたが、気になったのは失われたマウリティウスの槍。もしかして、同じくウィーンの宝物館で紹介した金の衣をまとった聖槍がそうだったんじゃないの? と言う気がしてきました 照明の関係で色が少し違いますが・・。表面・・・4福音書記の印が人の姿に逆アレンジされている。失われたマウリティウスの槍の謎実はこの十字架は度々盗難にあっているそうです。記録では1362年に2度目の盗難に遭う。犯人はすぐに解り、追って途中ヤンウェルリングの教会で祭壇に隠されている十字架を見つけ無事に戻されたようですが、当初、犯人はプラハに行きカール4世(Karl IV)にこれを売る予定だったそうです。(メルク修道院の資料本より)犯人はすぐに死刑になったそうですが、もしかしたら犯人はこの時にマウリティウスの槍も盗んだのではないか? そして槍はカール4世(Karl IV)の元に渡ったのではないか? と言う疑惑が浮かびました。なぜなら、2014年12月「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」で、ウイーンの聖槍の謎を紹介していますが、本来マウリティウスの槍だったものをロンギヌスの槍に仕上げた本人がカール4世(Karl IV)(Karl IV)と思われるからです。たまたま同時期に扱かったので気が付いた訳ですが、カール4世(Karl IV)は盗難品と解ると不味いので、素性を隠す意味で黄金のカバーを取り付け「主の槍と釘」と刻印し別物に仕上げたのではないか? ・・と、考えるに至った次第です。(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)因みにカール4世はルドルフ4世の義理父だそうです。12世紀のローマン十字架大理石の間を抜けるとテラスに出られる。テラスからのメルクの街右に流れるのがメルク川図書室図書室内は撮影禁止でしたが、知らずに撮影してしまった1枚のみ載せました。下は全て図書です。ここには1800の手書き本が収納されていて、古い物は9世紀に遡るそうです。しかも神学文献だけでなく、最古のドイツ語による文学作品や、数々の写本に古版の図書が10万冊を越え、そのうち16000点が図書室にあるそうです。ベネデイクト会派の修道院では、勉学は最重要の課題。修道士達は祈りと収蔵されている多くの本を読み勉強していました。その蔵書がここにある事でメルクは文化的にも高い位置にいた事は間違いありません。修道院の館から教会に至る螺旋階段聖ベネディクトゥスがめざしたもの西欧修道制の父と言われた聖ベネデイクトゥス(Benedictus)(480年頃~547年)はローマ帝国が崩壊し荒廃した世の混沌の中(暗黒の時代)で福音を述べ、大地を耕し、破壊され、葬られた文明を取り戻すべく修道士を育てた。彼らの仕事は古典哲学、芸術、薬学、神学書の保存と研究。それに伴う学校や図書館の建設だったとされる。聖ベネデイクトゥスの戒律は73章からなる。「清貧」「従順」「貞潔」を遵守し、「定住」の誓願をたて、修道院においてキリスト教徒としての規律正しい共同生活を送りながら、祈りと市民の為に労働にいそしむ。修道士のあるべき姿の基本が記されている。「戒律」と訳すよりは「教則」と言う方が近いかもしれない。荒廃した中世社会を立て直すべく、ベネデイクトゥスはたくさんの修道士を育て社会に放った。修道士には、まずは読み書き。そして本を読み学ぶ事を奨励。暗黒の時代にまず、教える者を育てる必要があったから、初期のベネディクトゥスの修道会は、その為の教育機関として存在していたと言える。彼らは失われた書物の写本もしたが、大多数は荒廃した村落の立て直しに回されたのではないか? と思われる。何しろ、西ローマ帝国が消え、ローマ兵がいなくなってからの西欧州は蛮族(イスラム海賊やロンゴバルト人など)の侵入と略奪がありローマの街でさえ、ひどい有様だった。※ 当時の社会状況は以下のへんで書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人ベネディクトゥスは、彼ら市民の生活や教育はもとより村落の立て直しをまず優先したと思われる。※ 場所により文明は完全に消えて原始生活していた所もあったらしい。それ自体は教会の文化活動ですが、当時のそれは文化活動にくくるには、遙かに超えていた活動であったと思われる。また、修道士達は自由時間には聖書を読むだけで無く、天文や、薬学などあらゆる書物を読み知識を磨く事も求められていた・・。そうする事で物を多方面から考察する事ができる。と言う事でしょう。たぶん。また、修道士が守る事として、清貧と貞潔、祈り、写本もあります。特にベネディクト会の「清貧(せいひん)」は有名ですが、同時に「貞潔(ていけつ)」である事は修道士としての絶対条件です。「祈り」は神の僕としての義務だそうです。これに関しては、信者でないのでわかりませんが、祈りと言う時間の中で日々を反省し、心を保ち、あるいはリセットさせて前に進む? そんな効果もあったのではないでしょうか?「労働」は、社会への貢献活動です。平和な現在では修道士の労働とは何? と思うかもしれませんが、ベネデイクトゥスが当時修道会を立ち上げたのは荒廃した社会の立て直しが目的。※ メルクのような上位の修道院では写本も重要な仕事。かつての本(古代ローマやギリシャ由来の書物など)は蛮族の侵略によりほとんど失われていたので、彼らはそれら残された良書を写本して各地に送った。メルクの蔵書は有名だったらしい。修道士の活動は、未開の地に迫って行く。布教と言う目的もあるから当然言語も通じない野蛮な世界の中で彼らのほとんどは活動した。彼らは未開の地で師となり、畑を無から耕し、食物を育てる事。人らしい生活を教える事から入った者もいただろう。「読み書きを教える」は次の段階でしょう。彼らが受け入れられる前に殉教(じゅんきょう)者も多く出した事だろう。誰かが殉教すれば、また次の修道士が派遣された。だからベネデイクトゥスの立ち上げた修道会は、それ以前の個人の修行を目的とした陰修士(いんしゅうし)とは全く別物です。彼らは社会の為に貢献する活動化のような存在? 蛮族に侵略され、荒廃した中世の社会を一から作り直さなければならなかったから彼らは修道士であると同時に師となるべく育てられた。中世のベネディクトゥスが創設した当時の修道会はそんな師となる修道士を育てる為の学校だったと言える。彼らの生活に関する基本は、後々創設される他の宗派の修道会でも模範にされる。暗黒の中世の未来に大いに貢献した会派だったのです。メルクでは特に多くのラテン語の書物を翻訳したり、写本が行われていた。ところで、社会が平穏になり始めると当然修道会や教会の役割も変化を余儀なくされる。特に安定しだす中世、「神に近い」教会や修道院には特別な特権が与えられるのてです。王や貴族からの寄進、税の免除や多数の土地が寄贈され、潤う所は潤う。メルクに並ぶ宝飾品ともいえる黄金の聖具を見ると、ここがいかに権力を持った修道会であったかわかります。全てがそうではないが、時世が安定しだす中世後期は俗な修道士や修道院も現れるのです。「貞潔の教え」にもかかわらず、多数の愛人を抱える聖職者も現れたりしています。ここ、メルクには陰と陽があからさまに見える気がします。最も、メルク前のドナウ川をはさんで対岸は中世後期まで蛮族が攻め入る前線でした。※ メルク修道院の場所はかつて城塞があった場所。その前線には、ベネディクトゥスの教えを遵守した修道士が命をかけて派遣されていたのは間違いないでしょう。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院) ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン
2014年12月22日
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ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」を読んでいる方なら気が付いたかも知れませんが、語り手であるメルクのアドソが在籍していた僧院がこのメルク修道院です。(事件の舞台はこの修道院ではありませんが・・。)記号論哲学者で、中世研究者でもあるエーコの小説は中世の僧院を舞台にした推理サスペンスで、ショーン・コネリー出演で映画化もされている有名な作品です。しかし、非常に難解な作品なのです。小説冒頭に語り手であるメルクのアドソが時代を理解してもらいたい・・。と言う断りがあるよう、その時代背景諸々を共に理解しないと解らない部分が多く、私もなかなか手が出ない作品でした。(映画は見ていたけど)時代がちょうどアヴィニヨンに教皇庁が置かれていたアヴィニヨン捕囚時代(フランス王フィリップ4世のいいなりの時代)で同時に異端審問が厳しくなっていた時代でもあります。特にアドソが非難するアヴィニヨン時代の初代教皇クレメンス5世はテンプル騎士団を異端審問にかけ、火あぶりにした教皇ですし、教皇ヨハネ22世は自ら清貧を心理としたフランシスコ会を異端的と断罪した教皇です。そんな理不尽がまかり通されたアヴィニヨン時代の教皇庁は異常そのもの。そんな時代をからめたサスペンスは史実を理解していたらより楽しめる作品と言う事で長らく棚上げしてきましたが、そろそろいけそうなので年内読破を目論んでいますヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)メルク修道院(Stift Melk)マルク(Mark)聖コロマン(St.Koloman)ドナウ川分流のメルク川からのメルク修道院(撮影は川下、ドナウ川合流地点から)船で攻めて来たらすぐわかるような丘に要塞(マルク)は築かれ、それはやがてベネディクト会修道院になった。別の回で紹介しますが、テラスからの景色は絶景でしたメルクの街のハウプト広場から小説の語り手、アドソの父はバイエルン王、ルードヴッヒ4世の随身貴族だったが・・。実際、ここはバイエルンの高位貴族出身のバーベンベルグ家(Haus Babenberg)、レオポルドが976年に辺境伯として赴任し拡大した土地である。マルク(Mark)10世紀頃、ドナウ川流域は守備の為のマルク(Mark)が建設。マルクとは軍事的な砦の事である。エンス、イップス、メルク、クレムス、トゥルンと川の名前がそのままつけられたマルク(Mark)は辺境地にあるから辺境区であり、その辺境区を治め指揮管理する地方長官が辺境伯(Markgraf)である。後に「辺境伯(Markgraf)」の称号は世襲化されて、一種の爵位称号に変わってしまったが・・。メルクはこのあたりのマルクの中でも最も重要な1つだったようです。駅前広場を下ってくると・・ところで修道院の成り立ちについては、いろいろあるのですが・・。7世紀以降の西部フランクあたりでは、ベネディクトゥス戒律が採用されたと言う。779年に発布されたカール大帝の最初の勅令の中では修道士のあり方まで言及されているらしいし・・。そんな事情もあったのか? 11世紀にはバーベンベルグ家より土地を贈与され、1089年3月21日修道院長ジギボルトに率いられた修道士達がメルクに入りベネディクト戒律に基づいた共同生活に入った。城塞はメルク修道院(Stift Melk)となり、ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院になった。メルク修道院図建物の部分のみ拡大したが、修道院の右の見切れている方に倍以上の荘園を持っているようです。修道院の畑にはワインに使われるブドウの栽培もあります。なぜワイン? と思う方もいるでしょうが、聖体拝領に必要だからです。ワインはキリストの血にみたてられパンはキリストの体にみたてられる聖体。最後の晩餐に由来する典礼で使用。修道院の門修道院にしては本当に豪華な建物である。現在の建物は1702年礎石。1736年頃完成していたらしいが、直後に火災に遭いかなり焼けたそうだ。ベネデイクトの間と呼ばれる建物は中庭へのゲート聖コロマン(St.Koloman)もとは要塞の傍ら、バーベンベルグ家(Haus Babenberg)の墓所だった教会にハインリッヒ1世は箔を付ける為に1014年、殉教者、聖コロマン(St.Koloman)(不詳~1012)の遺骸を運ばせ、ここに祀った。アイルランドの異人、聖コロマン(St.Koloman)はスパイ容疑で処刑されたそうだが、死後にStockerauの墓所で不思議な現象が続き、神聖視される。聖コロマンは17世紀までオーストリアの聖人であり、その信仰はハンガリー、バイエルンに広がっているそうです。高位聖職者の庭幅42m。奥行き84m。実際、奧の方が少し狭まっているのでこのような写真に・・。皇帝階段皇帝回廊西の皇帝回廊の方の部屋は美術館として修道院の宝物が展示されています。その中には聖遺物の納められたメルクの十字架があり、それは「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」の時に紹介した皇帝の十字架(Imperial Cross)に匹敵するお宝です。(次回紹介)窓越しに見えるメルクの街大理石の間つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)
2014年12月15日
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一年は早いものです。もう12月。初夏の旅行の報告が冬になってしまいましたが、今回はウイーンを離れて、夏のヴァッハウ渓谷ドナウ川クルーズから紹介です。(このクルーズは5月から10月初旬まで運行。)クルーズはウイーンより上流にあるメルク(Melk)まで行って乗船。途中デュルンシュタイン(Durnstein)で下船して観光して最後はクレムス(Krems)で下船して列車でウイーンに戻りました。風光明媚なヴァッハウ渓谷 (Wachau)はワインの産地でもあり、そのドナウ川両岸にはブドウ畑と古城が点在。クルーズの景観は2000年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。メルク(Melk)では崖の上に立つメルク修道院が目玉。デュルンシュタイン(Durnstein)ではイングランド王リチャード1世が幽閉されていた場所を探して山の城塞まで登ってしまいました。今回はイントロ。 全4回くらいになりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)列車でメルク(Melk)へメルク(Melk)の街メルク修道院(Stift Melk)ドナウ川はドイツ南部から始まり、現在は東欧諸国を10ヶ国ほど通過して黒海にそそぐ国際河川ですが、ローマ帝国時代、ドナウ川は侵入してくる蛮族(ゲルマン人)との攻防ラインだったそうです。そしてこの河川は内陸より黒海へ、そして地中海に出る事が出来たので古来より交易には欠かせない経済航路。中世に入ると帝国の国境は川を越えて広がって行きますが、やはり東は異教徒の領域。ドナウ川の沿岸には防衛の為の城塞がたくさん建てられたようです。半分廃墟になった城塞跡含めて古城がこのヴァッハウ渓谷 (Wachau)にはあちこち見られるのです。左下が上流通常乗船場所のメルクまではツアー・バスで行く方の方が多いと思いますが、個人旅行向けに列車での行き方を紹介。列車でメルク(Melk)へウィーン西駅からオーストリア連邦鉄道(OBB)のレールジェット(railjet)で出発。途中ポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線に乗り換えメルク(Melk)駅まで列車で約1時間ほど。チケットは往復列車代とクルーズ船の乗船代。それにメルク修道院の入場圏付きのお得キップがあるのでネットで予約をしてから行くのがお勧め。(但し、クルーズの運行は5月から10月初旬までなのでキップもこの時期だけかも・・。)西駅の券売機or発券機下がお得チケット(上 列車往復チケット 中 クルーズ乗船チケット 下 メルク修道院観覧チケット)一人48ユーロ※ マシン以外に窓口で発券してもらえますが、1ユーロかかります。7:30発のレールジェット(railjet) Bregenz 行きポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線のCity Shuttleに乗り換えポルテンから先、車窓は小麦畑 (写真撮影できるほど窓は綺麗 )メルク(Melk)駅オーストリアでの鉄道旅行はとても快適です日本とほとんど変わらなく清潔でサービスが行き届いているからです。これがドイツだとまあまあ・・になり、イギリス、フランスだと掃除は一日1回らしくゴミだらけ、窓もキズだらけでバッチイ感じ ※ レールジェット(railjet)については2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1・・2」で紹介しているから見てね。リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)ザルツブルグの所でQBBの発券機を紹介しています。リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)メルク(Melk)駅外観一応駅前ロータリーになっているが店は喫茶店1件のみ。何も無い。例えるなら私鉄のローカル駅。でもとても新しく綺麗でトイレもありましたメルク駅の正面からメルクの修道院が見える。一見近く見えるが実は谷があり、そこにメルクの街が広がっています。メルクの街に入るまで5分くらい。メルク(Melk)の市内とても綺麗な街ですこの当たりが街の広場らしいのだが、工事中で残念な状態 スラブ語でメルクとは「ゆるやかな川」を意味するそうだ。ローマ帝国の手が及ばなくなってからこの地に6世紀頃スラブ人やアヴァール(Avars)人がやってきたと言う。当時スラブ人はアヴァール王国の支配にあったそうだがアヴァール(Avars)人についてはよくわかっていない。中央アジアか、あるいは東ヨーロッパから渡来してきた新しい民族で、現在のハンガリー中心に遊牧国家を建設していたらしい。(彼らもゲルマン系かも・・。)もちろん宗教が異なるのでローマ帝国側からすると彼らは蛮族なのである。アヴァール(Avars)王国は804年頃にはドナウ川を征服してきたフランク王国のカール大帝に討伐されて滅亡。以来、ここはフランク王国の土地としてそこそこ重要ポイントになったようだ。メルクは修道院を中心に栄えた門前町と言うよりは城下町のような所。このあたりは修道院につながる路地がいくつかあるので観光客向けの土産物屋さんやカフェが建ちならんでいます。一番賑やかな通りです。パステルの色彩が可愛らしい。なんとなくアウトレット・モールにありそうな景観の建物が並ぶ・・修道院は小高い丘の上にある。こんな路地が幾つもあり道は修道院まで続く。次回メルク修道院からリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)他列車ICE インターシティエクスプレス(Intercity Express)リンク アウグスブルク 1 (Intercity Express)国際列車ユーロスター(Eurostar)リンク ユーロスター(Eurostar)ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)少し古いですが、スペインのレンフェ (RENFE)ですRENFE (Red Nacional de los Ferrocarriles Españoles)AVE (Alta Velocidad Española)リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 1リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 2
2014年12月08日
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関連カ所のリンク先追加しました。今回もウイーンの王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)からの紹介です 聖遺物については度々紹介していますが・・・。キリスト教においては、イエス・キリストを筆頭に聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関するお骨や彼らにまつわる品物などを総称して聖遺物と呼ばれています。聖遺物は当然カトリック関係者からみればそれ自体が信仰の対象物となり、どんな高価な宝石にもまさるお宝なのです。※ 2014年4月「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話) の中、聖遺物(聖遺物収集、聖遺物産業、聖遺物の略奪)で書いています。リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)※ 2021年8月「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」で聖人や聖遺物信仰についてかなり詳しくまとめてあります。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)皇帝の十字架(Imperial Cross)キリストの聖遺物・・・十字架の破片聖槍ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)ハプスブルグ家か所有していた神聖ローマ皇帝の表章(レガリア・regalia)は前回紹介した帝冠(ていかん)、王笏(おうじゃく)、宝珠(ほうじゅ)、以外にもたまだたくさんあります。その中でも特にパワーがあり最重要のお宝がハプスブルグ家が所蔵する皇帝の十字架の中に納められていた聖槍(Heilige Lanze)です。皇帝の十字架(Imperial Cross)この宝石で装飾された皇帝の十字架は、実は本来の用途は遺宝容器なのだそうです。つまりこれは皇帝の所蔵する聖遺物を収納する為の入れ物。1024年~25年頃の品?その中に納められていたのが(上の写真)十字架の下に置かれている槍の穂先と十字架の木片です。左・・聖槍 右・・十字架の破片聖遺物の中でもキリストに直接かかわるこれらは最も位の高い聖遺物。裏側にはエッチングで福音書記者の印や使徒達が描かれていて、その裏板ははずせるようになっている。中央のヒツジはキリスト自身? 信徒だけでなく、イエス自身も人の罪を取り除き神の犠牲となる神の小羊に例えられる。左・・マルコ・・ライオンがシンボル右・・ルカ・・牛がシンボル上・・ヨハネ・・鷲がシンボル下・・マタイ・・人がシンボルちょっとマンガちっくな絵ですねキリストの聖遺物・・・十字架の破片ゴルゴダの丘でキリストが磔にされた・・と言う十字架の木片・・・らしい。血の浸った釘穴がある・・と信じられているとか・・。キリスト受難の象徴の1つだけにキリストが持ち主を守護してくれる・・と信じられている特に神聖な遺物。出自についてはよくわかっていない。宝物館の資料に入手の解説もない。コンスタンティノープルに保管されていたものが12世紀頃に散逸して欧州にでまわった・・と言う説もあるが、そもそも磔にされていた十字架が残されていたとは思えない。(張り付け板は使い回しされていた可能性だってあるし・・。)12世紀頃に散逸して欧州に・・とは、まさに十字軍の遠征後に世にそう言うものが出回った・・と言う事なのだろう。以前紹介した聖遺物産業が頭をよぎる  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン・・・本来は木片のみ支柱に納められていたのものを後にカール4世(Karl IV)(1316年~1378年)により1350年頃十字の枠が作られたそうだ。聖槍宝物館の資料によれば、この槍はローマ教皇ハドリアヌス1世(生年不明~795年)からカール大帝(742年~814年)に贈られた品とされている。カロリング時代の槍の中央は鉄のピンが入れる様に削られていて、3つの真鍮製の十字架がついている。槍の中に組み込まれた鉄のピンはいつしかキリスト磔刑の十字架に打ち込まれた釘と考えられるようになったらしい。金の被いは、カール4世(Karl IV)(1316年~1378年)時代に欠けた部分を被うようにかぶせられたもので、「主の槍と釘」と刻印されている。(それによりこれはロンギヌスの槍と釘・・と言う解釈になったらしい。)しかし、近年クリーニングした時に金の被いの下から別の刻印が出てきているそうだ。287年に殉教した聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の名前が・・。これは以前は聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)と解釈されていた・・と言う事だ。聖槍は、金の被い以降にロンギヌスの槍(Lance of Longinus)になってしまったと言うのだからおそらくその犯人はそれらを施したカール4世(Karl IV)であろう。カール4世は政治的にも様々な工作をして家権強化を図った人だ。特に位の高い聖遺物を所有している・・と言う事はただのステータスだけではない。他の諸侯より神聖ローマの皇帝はずば抜けた聖遺物を所持していなれば笑いものである。だからもっともらしい話で正当性を強調したのだろう・・と推測できる。現在の宝物館の資料によれば槍は8世紀、フランク王国時代のカロリング朝・・と表示されている。つまり聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)でもないかもしれない・・と言う事だ。オットー1世の伝説がある。オットー1世がこの槍を持ち、侵略する異教徒よりキリスト教国を守ったレフィフェルト(Lechfeld)の戦い。勝利した事によりローマ教皇より正式に神聖ローマ帝国の帝冠を戴いた。そんな奇跡の勝利をもたらした無敵の力備わったこの槍は王者の絶対的シンボルとなり皇帝のレガリア(regalia)になった・・と言う事だ。※ レガリア(regalia)・・それを持つ事でことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。因みに聖釘はハプスブルグ家に所蔵されている他の聖体顕示台の中にも存在している。ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)キリストの脇腹を刺した聖槍はそれを刺したローマの兵隊、ロンギヌスの名に由来していると言うが、それ自体が実は後世の創作で実在の人物ではないらしい。そもそもキリストを刺した槍の存在はヨハネの福音書のみに記載されている話。(しかも生きている時に槍でつかれたわけではないから血が噴き出す・・と言う事も物理的にありえない。)※ ロンギヌスの槍については、2013年8月「十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)」の中、キリストの墓 で少し触れています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)キリスト教徒が迫害されていたローマ帝国時代。ローマ帝国の軍隊の指揮官だったマウリティウスはガリアに進軍。しかし皇帝との宗教的トラブルで兵は皇帝に従わない者は異教徒として殺害。287年に殉教した。槍は彼が持っていたものか? 打たれたものかは不明であるが、件の槍は聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の槍(Lance of St. Mauritiusu)とされている。ローマ皇帝マクシミアヌス帝(Maximianus)の時代に迫害された・・と書いているものもあるが、彼はそんなにキリスト教徒の迫害には荷担していないそうだ。もしかしたら聖マウリティウスの殉教にかかわったのは当時ローマ帝国を東西に分けて共同統治していたディオクレティアヌス帝(Diocletianus)による迫害によるものかもしれない。それにしても希少なはずの聖遺物は世にたくさん存在している。実際ロンギヌスの槍は他にも存在するし、釘や十字架の破片などもあちこちに存在。その3点に限って言えば、本物は1つもないのではないか? と思うのは私だけだろうか?
2014年12月01日
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一部修正今度は長野県北部で地震 被害の大きい割に人的被害は少なくすんで何よりです。あくまで私感ですが、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。今回被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。今年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?さて、三種の神器と言うと日本では天照大神よりもたらされた鏡、玉、剣。天皇家により代々継承される三つの宝物をさす語ですが、今回は神聖ローマ帝国の王冠とハプスブルグ家が継承する三種の神器を紹介ハプスブルグ家の三種の神器神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)フリードリヒ2世のマントオーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ウイーンの王宮(ホーフブルグ・Hofburg)の中でも13世紀に建てられたと言う古いスイス宮(Schweizerhof)にハプスブルグ家のお宝を集めて展示している王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)があります。宝物館はそれ自体が巨大な金庫歴代の皇帝の戴冠式には冠(かんむり)以外に笏(しゃく)、宝珠(ほうじゅ)など権力を象徴する2点が加えられている。(後々マントなども加えられている。)この帝国の皇帝の持つ神器の意味と力は特別なもので、後々ヒトラーがそれらを持ち出しニュルンベルクに運んだと言う。(ヒトラーが本当に第四帝国再興のために必要としたのかは定かでないが・・。)1946年大戦の終結後に宝物は発見回収されウイーンに戻された。神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)製作年代10世紀後半。頭部十字架とアーチは11世紀に追加。この冠は神聖ローマ帝国の初代皇帝在位中に製作されたものと推測される。神聖ローマ帝国の初代皇帝 オットー大帝(Otto I)(912年~973年)(在位:962年~973年)962年戴冠。共同統治者として967年に息子のオットー2世(Otto II)(955年~983年)(在位:973年~983年)も戴冠。王冠は967年の戴冠式には存在していたらしい。皇帝を表す8より八角形のプレートでつなげられ、正面のプレートには12使徒とイスラエルの12の部族を示す12の貴石がはめられている。貴石以外のプレートは六翼の天使セラフィム(seraphim)がキリスト、ダヴィデ王、ソロモン王、ヒゼキヤ王を挟むかたちで描かれている。神の慈悲、正義、知恵、長寿をそれぞれ表す4人だそうだ。正面の十字架とアーチは5代目? 皇帝コンラート2世(Konrad II)(990年?~1039年)が加えたらしい。(名前が入っているから・・)十字架には勝利を象徴する貴石が組み込まれ、裏にはキリスト磔刑の図が描かれている。皇帝はキリストの代理人として統治し、キリストから権力を与えられ、キリストに対して責務を負う。「我により、王は統治す」と表記してあるそうだ。少なくともこの帝冠はコンラート2世の時代までは使われていた事がわかる。フリードリヒ2世のマント戴冠式のマント1133年頃、イスラムのパレルモの宮廷で製作されたマントにはラクダを踏みつけるライオンが刺繍されているようだ。(これはあきらきかにキリスト教圏以外の国の技法と意匠)このマントは1194年にホーウェンシュタウン家のものとなり1220年のフリードリヒ2世の戴冠の時には着用され、以降帝国の宝物に加わっているそうだ。フリードリヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)神聖ローマ帝国ホーウェンシュタウン朝(在位:1220年~1250年) シチリア王(在位:1197年~1250年)異国の意匠にちょっと驚くが、もともとフリードリヒ2世の宮廷があるシチリア島パレルモはイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合していた土地。(1198年母方よりシチリア王位を継承。)肉体も頭脳も明晰でラテン語含む6つの言語に精通していたと言う博識の王は信仰に対しても寛容であったし、イスラム教の事もよく理解していた。しかし、フリードリヒ2世の知性からくる進歩的な考え方はまだこの時代には通用しなかったようだ。何度か教皇より破門を受けていて、当時イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを1239年、無血(交渉のみ)で休戦協定・・と言う偉業を成してもを教皇庁は彼を破門したままだった。なかなかドラマチックな人みたい神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)初代オーストリア皇帝の肖像画神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I)(在位:1804年~1835年)として即位。※ オーストリア帝国は1867年にオーストリア・ハンガリー帝国へ前回カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の柩を紹介したが、神聖ローマ帝国最後の皇帝が彼である。帝国解体にともないオーストリア帝国を建国して初代皇帝となり戴冠。そのオーストリア皇帝として正装した肖像画が上であり、下はその時身に付けた表章である。オーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝が付け加えた宝珠と王笏(おうじゃく)全てプラハで製作。ルドルフ2世の帝冠もともと皇帝の司教冠としてあった古代の宝冠をルドルフ2世の時代(1602年頃)にヤン・ヴェルエメンにより手直しされたものらしい。ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)神聖ローマ皇帝(在位:1576年~1612年)、ハンガリー王、ローマ王、ボヘミア王ルドルフ2世は政治の方は無能だったらしいが芸術家を保護、プラハは彼により文化的な繁栄を遂げている。その彼が選んだ工芸家が作り上げた見事な宝冠は1804年よりオーストリア帝国の正式な帝冠になった。中央ユリの紋章をかたどった真珠の中央には聖霊降臨祭を示す赤い色のルビーが配され王の叡智を示し、冠のアーチ部分に施されたダイヤモンドは王の統治を保証するキリストを表しているそうだ。冠トップの青いサファイアは天国を示しているらしい。これ自体が当時の技術を結集した立派な工芸品である。だいぶ研磨技術が上がってきたようだが、それでも中央のルビーは石の破片を磨いたたげの物。宝珠球体の宝珠は世界を象徴し、キリスト教世界が確立してからは上の十字架は宇宙の支配者キリストを象徴。そしてそれらは皇帝の普遍的な統治権を表す。王笏(おうじゃく)の頭の部分枝の部分はユニコーンの角と言う事になっているが、実際は存在しないので海にいるイッカクの牙であろう。ユニコーンの角はキリスト、神の力の象徴となり、キリストから王権を与えられた世俗の支配者の印になるらしい。関連のBack numberラストにいれました。マティアス帝が付け加えたこれらは帝冠に合わせて製作。宝珠と王笏(おうじゃく)共にアンドレアス・オセンブルック1615年頃製作。1619年よりこれらはフェルディナント2世の新しい表章となりフランツ2世はオーストリア皇帝としてこれを使用。皇帝の戴冠式にはどうやら正式な装束と備品(帝冠、宝珠、王笏)が必要不可欠だったらしい「ハプスブルグ家」関連Back numberリンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2014年11月26日
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マリア・テレジアの改革は凄い。軍隊を強化する為に陸軍学校を設立し技術と士気をあげさせたり、初めて帝国内の国税調査を行ったり、司法も分離してきちんとした裁判ができるようにした。また学校を設立して一般の子供も義務教育を受けさせ、かつ能力あるものに奨学金を与えている。ところでマリア・テレジアは20年で16人の子供を産んだと紹介したが、子供の死亡率が高かったこの時代彼女も6人の子を成人前に亡くしている。父が後継者に悩んだ事もあり、とにかく子供をたくさん産もうと考えたようだが、この医療のおくれた時代は出産後の女性の死亡率も高かった。だから彼女は医療の進んだ国から医師を招き病院を設立している。彼女の改革は帝国内の民の為、その為に骨格である帝国(ハプスブルグ家)の強化を図った。それが息子ヨーゼフ2世との違いなのだと思う。カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)フランツ2世(Franz II)マリア・ルイーザ(Marie Louise)M・・Maria-Theresien-Gruft神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)の柩 (非常に質素なのは本人の希望。)マリア・テレジア・グルフト図(マリアテレジアの柩前がヨーゼフ2世後ろがヨーゼフ2世の妻子)神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)(1741年~1790年)マリア・テレジアとフランツ1世の長男古い王政からの脱却、国家の近代化を計り国民の為の国家(ハプスブルグ家)であらんとしたマリア・テレジア。その後継がヨーゼフ2世であるが・・。。啓蒙専制君主の代表のように語られるが、実際はどうなのだろう??母の憎んだプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し、マリア・テレジアの望まない方向に帝国を導いた。彼は市民の為にたくさんの改革をしてよりレベルの高い近代国家を目指したらしいが傍らでフリードリッヒ2世にそそのかされてポーランド分割に参加している。それはかつてフリードリッヒ2世がシュレージェン(Schlesien)を略奪した行為とさして変わらない。また改革自体もマリア・テレジアが始めていた改革と混同されて過大評価されている部分も多いのでは?と思う。(思いつきで根回しもなしに勝手に提案してすぐに撤回するような物もたくさんあったらしい。)社会が変わりつつあったのは確かだが、いずれにせよハプスブルグ家衰退の序章はここから始まった。1番目の妃 マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ(Maria Isabella von Bourbon-Parma)(1741年~1763年)2番目の妃 マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン(Maria Josepha von Bayern)(1739年~1767年)成人した子はなく、彼の死後帝位は弟レオポルド2世(Leopold II)が継承。上の写真右に横たわるのはヨーゼフ2世の夭折した娘。マリア・テレーゼ(Maria Theresia)(1762年~1770年)右が1番目の妃 左が2番目の妃ところでマリア・テレジアは宗教界にもメスを入れている。典礼を減らして教会や修道院が増えるのに歯止めをかけた。ヨーゼフ2世はさらに聖職者の横行を止める? 葬儀の簡素令を出したそうだ。だからそれ以降に亡くなった妃や子供達の柩はとにかく質素になっている。この政策はモーツァルトの葬儀が簡単で質素で、遺骸が行方不明になった事件にも関係して来るそうだ。※ 後先になりますが・・。「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」 を書いています。2016年7月「シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)」リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)T・・Toskana-Gruftトスカーナ・グルフト(Toskana-Gruft)はトスカーナ大公だったレオポルド2世(Leopold II)の家族のブースである。(柵があり中には入れなかったので見落としたのかも知れないが、レオポルド2世の柩は見あたらなかった。)レオポルド2世Leopold II)(1747年~1792年)ヨーゼフ2世(Joseph II)の次に神聖ローマ帝国の皇帝。ヨーゼフ2世の弟でマリア・テレジアの3男。ここで再び・・グルフトの見取図(この堂は10のブースに分かれている。)M・・Maria-Theresien-Gruft の上はその子供や子孫達になる。Fr・・Franzensgruft最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年)のブース神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)の柩神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年)神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I.)(在位:1804年~1835年)として即位。父はレオポルド2世。1806年ナポレオンを中心に諸侯が同盟を結び帝国を脱退。、フランツ2世は同年8月に神聖ローマ皇帝の退位と帝国の解散を宣言。つまり彼が最後の神聖ローマ帝国の皇帝なのである。※ 彼の戴冠式の肖像画は宝物館に残されている。肖像とハプスブルグ家の三種の神器は番外で紹介予定。Fe・・・Ferdinandsgruftフェルディナント1世の柩フェルディナント1世(Ferdinand I)(1793年~1875年)オーストリアの皇帝、ハンガリーの国王2代目のオーストリア皇帝。父はフランツ1世N・・・Neue Gruftマリア・ルイーザ(Marie Louise)の柩マリア・ルイーザ(Marie Louise) (1791年~1847年)父はフランツ2世で、フェルディナント1世の妹。ナポレオン1世の2番目の妃として有名。成り上がってフランス皇帝になったナポレオンは今度は箔を付ける為にハプスブルグ家の皇女との結婚を望んだそうだ。最も憎むべき相手と結婚しなければならなったマリア・ルイーザは泣き続けたと言われている。それでもナポレオンとの間に長男ナポレオン2世(1811年~1832年)誕生。ナポレオンが退位してエルバ島に流されると彼女は帰国。二度とナポレオンの元に戻らぬようバルマ公国の統治をまかされ、その時護衛していたナイペルク伯と恋いに落ちて子供を出産している。(マリア・ルイーザは3度結婚した。)ナポレオン2世はほとんど母に見捨てられた子だったようだ。ところでナポレオン2世は21歳の若さで亡くなり当初はこのカプツィーナ・グルフトに葬られたそうだ。リストにないし写真にもないので調べていたら後世ナポレオンを崇拝するアドルフ・ヒトラーによって他の墓所に運ばれたらしい。Fr・・・Franz-Josephs-Gruft中央がフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)の柩左が前に「シシィとゲルストナーのスミレ菓子」で紹介したフランツ・ヨーゼフの妃エリーザベト(Elisabet)の柩リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子容量オーバーなので写真のみで終わらせてもらいます。「ハプスブルグ家」関連Back numberリンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2014年11月19日
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700年続いた家系と言うのは世界広しと言えどなかなか少ないだろう。しかも歴史に燦然と輝き続けたその家系の支配は当時欧州全土に影響を与えただけでなく、今尚その存在が語られ続けている。ハプスブルグ家は名門中の名門の王侯貴族である。ライン川の上流、現在のチューリッヒに近い場所にハプスプルグ家のルーツがある。1273年ルドルフ1世(Rudolf I)(1218年~1291年)(在位:1273年~1291年)が神聖ローマ帝国(当時のドイツ域)の王に推挙された事からこの家系は発展する。7人の選帝侯によって突然選ばれたルドルフ1世(Rudolf I)は、田舎の弱小貴族で御しやすく無難な人物だと思われたからだった。(しかしルドルフ1世は頭も切れたようだし政治手腕を持っていた。)当時ハプスプルグ家より本命視されていたボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は憤慨。3度の召還勧告を断った事によりルドルフ1世は皇帝令でライヒスアハト (Reichsacht)を勧告。それは帝国内での法的権利や財産剥奪で、実質の帝国追放と同じ。1276年帝国とボヘミア王オタカル2世の戦闘が始まる。1278年マルヒフェルト(Marchfeld)の戦いでボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は戦死。戦後、ボヘミア王に帰属していたバーベンベルク家の所領、上オーストリア、下オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン等がハプスブルグ家の所領となったのである。(この領地が後にオーストリア・ハプスブルグ家の誕生に繋がる。)さらにボヘミア王の夫人と取引。ルドルフ1世は自分の娘とオタカル2世の遺児を結婚させ、ヴァーツラフ2世(Václav II)として即位させボヘミア王国とモラヴィアの継承を許した。ここに見えるエピソードが全てを語っている。ハプスプルグ家はそのように徐々に領地を拡大。結婚により欧州中と縁戚関係になるのである。最も全てが順風満帆ではなかったが・・。カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩ルドルフ1世(Rudolf I)とハプスブルグ家マリア・テレジア・グルフト(Maria Theresia Gruft)マリア・テレジア(maria Theresia)神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファン(Kaiser Franz Stephn)マリア・テレジア・グルフト(Maria Theresia Gruft)見取り図M❤F・・・マリア・テレジアと夫君フランツ・シュテファン・ロートリンゲン 二人のサルコファガスF・・・マリア・テレジアの教育係の女官だったフックス夫人の柩J II・・・・神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の柩J1 J2 Jはヨーゼフ2世の妻と子供の柩で、他は全て・マリア・テレジアの子供達の柩基本この堂はマリア・テレジアとその子供達のグルフトである。唯一の他人がマリア・テレジアの計らいで特別にこの堂に納められたフックス夫人である。カタリナ・フオン・フックス(Karoline von Fuchs-Mollard)(1675年~1754年)造形美術アカデミー所蔵マリア・テレジアの肖像バロックを代表する画家マルティン・メイテンス(Martin van Meytens)(1695年~1770年)は宮廷画家としてマリア・テレジアの家族を描いている。マリア・テレジア(maria Theresia)(1717年~1780年)神聖ローマ皇帝カール6世(Karl VI)とエリザベト・クリスティーネ(Elisabeth Christine)の長女。長男レオポルト・ヨーハン(Leopold Johan)が1歳でなくなり、その後男子に恵まれなかった為に長女のマリア・テレジア(maria Theresia)がハプスブルグ家の家督を継承。(カール6世、エリザベト、レオポルドの柩は前回と前々回紹介済み)しかし、問題があった。領地に関してはカール6世の手回しで女のマリア・テレジアが後継者として相続できるようにしていたが、神聖ローマ皇帝の称号だけは男性しか継承できない。カール6世はマリア・テレジアが男児を産んでくれる事を待ちわび亡くなった。オーストリア継承戦争勃発(1740年~1748年)カール6世(Karl VI)が亡くなると、生前とりつけていた約束は反故され、オーストリアの領地を狙い他国が戦争を仕掛けてきたそうだ。特に達の悪かったのはプロイセンのフリードリッヒ2世で、産業で繁栄しているシュレージェンSchlesien)を略奪。そしてバイエルンは神聖ローマ皇帝の王冠を狙った事だ。(カール6世の次に皇位についたカール7世はバイエルのヴィッテルスバッハ家)マリア・テレジアはこれに激怒し、生涯フリードリッヒ2世を軽蔑し恨んだそうだ。カール6世はマリア・テレジアに帝王学を学ばせなかったと言うが、23歳のマリア・テレジアはこれに奮起して身重ながら奪回の策を講じハンガリーに自ら乗り込み軍資金と兵を整え奪われた土地の奪還にかかる。マリア・テレジアは夫に神聖ローマ皇帝の地位を約束したと言う。事実夫のロレーヌ公子、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)は神聖ローマ皇帝フランツ1世(1745年~1765年)として即位している。この頃、最初はバカにしていたフリードリッヒ2世は彼女がただの女でない事を思い知らされる。シュレージェンは結果的には取り戻せなかったが、シュレージェン奪還に対する執拗な攻撃にフリードリッヒはおののき、生涯の宿敵になるのである。マリア・テレジアが女帝と呼ばれるのはただ安穏と帝位に就いていたのでは無く、実際彼女はたくましく戦っていたからなのである。そして人材を見抜く目があり、人の活用に才たけていた事は良い意味で帝国の改革に繋がった。マリア・テレジアの改革は封建時代の因習を絶ち中央集権国家を確立。近代国家に近づいた事だ。堂の中央にはマリア・テレジアと夫君フランツ・シュテファン二人の遺骸が納められた豪奢なサルコファガス(sarcophagus)が置かれている。マリア・テレジアは、政略結婚がほとんどだったこの時代の姫で奇跡の恋愛結婚を成就させた人なのであるそれ故、二人は生涯愛し合い(20年の間に男子5人、女子11人の計16人の子供をもうけた)死してもこのように二人で眠る事を選んだと言うわけだ。(あっぱれ)因みにマリア・テレジア48歳の時にフランツ1世は心臓発作で急逝。それから15年後にマリア・テレジアは亡くなるが、それまでずっと喪服を着続けたそうだ。神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファン(Kaiser Franz Stephn)(1708年~1765年)ロレーヌ公子、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)マリア・テレジア(maria Theresia)の夫君である。カール6世のお気に入りだった娘婿フランツはロレーヌ公領を手放して妻と共にハプスブルグ家の共同統治者になった。妻のおかげでフランツ・シュテファンは神聖ローマ皇帝になれた。大切な故郷を失ったが・・。しかし、人の良いフランツにはハプスブルグ家のしきたりは苦悩だった事だろう。席次は当然2番手で時には末席。常におまけとして嘲笑され差別を受けていたと言う。だからこそ、マリア・テレジアは夫に冠を載せてあげたかったのだろうが、相変わらず政治も実権も妻が握っていた。(それは彼に政治の才覚が無いと見抜いていたから? それとも逆にフランツに家庭をまかせマリア・テレジアは安心して政治を行なっていた?。)またフランツには投資家の才能があったようだ。新しい産業に次々投資してもうけ、彼が亡くなった時その財産は国庫を潤すほどだったと言う。いずれにせよ野心的でなく、おとなしく、良い人だったようだ。上、右側面には戦争ト宮殿のレリーフが彫られている。下、柩の裏側。王冠の下には二人の碑文が書かれている。1754年彫刻家バルタザール・フェルディナント・モル(Balthasar Ferdinand Moll)(1717年~1785年)の作品。説明が長くなり予定の半分でした。次回再びマリア・テレジア・グルフトから リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓
2014年11月16日
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前回に引き続き カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)から紹介します。7月にウイーンに旅行した時にマリア・テレジアの墓所を訪ねたいとおもい出かけたのですが、豪華なバロック時代の柩はどれも凝りに凝ってすばらしく、カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)どこかで紹介したいな・・と思っていました。Gruft とは棺を置く墓所。つまり 納骨堂のような所。ウイーンのホーフブルグに近いカプツィーナ教会(Kapuzinerkirche)の地下にオーストリア・ハプスブルグ家の墓所カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)があります。そこには12人のハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝と8人の皇后。それに皇子や皇女100人以上の棺が安置されています。また棺だけでなく、心臓の入った壺(カノポス)や遺灰も収められているとの事。メインはマリア・テレジアの予定でしたが、ここには歴史に登場する有名人(の棺)が一堂に会しているのでいろいろ紹介しようと思います カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナー納骨堂 (カプツィーナ・グルフトKapuzinergruft)マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Theresa von Spanien)レオポルド1世(Kaiser Leopold I)カプツィーナー納骨堂 (カプツィーナ・グルフトKapuzinergruft)オーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世(1558年~1564年)に始まると言われるが、この納骨堂はその孫であり神聖ローマ皇帝になったマティアス(Matthias)とその妃アンナ(Anna)から始まっている。(2人とも孫であり従妹同士)奥の格子の扉の向こうにあるのが創設者納骨堂で、マティアス(Matthias)とその妃アンナ(Anna)の棺が納められている。神聖ローマ皇帝マティアス(Kaisers Matthias)(1557年~1619年)(在位:1612年~1619年)皇妃アンナ・フォン・ティロル(Kaiserin Anna)(1585年~1618年)皇妃アンナは二人の墓所とカプチン会修道会の為に1617年に教会の建立を計画し資金を出したと言う。そして翌年にはアンナは亡くなり、皇帝もその翌年に亡くなった為にそのあとに皇帝となった従兄のフェルディナント2世が1622年に教会の礎石を置いたそうだ。しかしフェルディナント2世が始めた30年戦争で大幅に工事が遅れ教会の献堂は1632年。カプチン・フランシスコ修道会(ラテン語:Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum)が現在も納骨堂の管理保全をしているらしい。因みに礎石したフェルディナント2世は熱烈なイエズス会の信奉者だったそうだ。さて、このあたりは皇后の柩がならぶ場所写真下の矢印がベラスケスの絵画でも有名なスペインから嫁いだマルガリータ王女の柩です。マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Theresa von Spanien) (1651年~1673年)スペイン王家出身で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の妻となった彼女はスペイン王フェリペ4世が最も愛した娘でした。フェリペ4世はたくさん彼女の肖像画を描かせました。おかげで彼女の肖像画はスペイン宮廷だけでなく嫁いだウイーンの他ルーブルにも所蔵されています。そう言う意味では最も世界的に有名になった王女かもしれません。ウイーン美術史美術館に所蔵されているディエゴ・ベラスケスの手による彼女の肖像です。マルガリータ・テレサ8歳の時と思われます。フェリペ4世が最も愛した娘でも彼女は政略結婚によりたった15歳でウイーンの宮廷に嫁ぐ事になりました。相手は11歳年上の母方の叔父で神聖ローマ皇帝レオポルト1世。しかしこの結婚は彼女が生まれた頃から決まっていた?3歳、5歳、8歳スペイン宮廷からウイーン宮廷に贈られた彼女の肖像画は彼女の成長過程を知らせる見合い写真的なものだったようです。結婚生活は順風で6人の子供を授かったそうですが、6年で6人の出産です。第6子を出産して直後に21歳の若さで亡くなったそうです。因みに彼女が病に伏せるとすぐに次の后候補を探すなど意地悪されていたようで、政略結婚後はもう用済み? 彼女の柩が割と質素なのもそう言う理由かも・・。マルガリータ・テレサの柩の右隣はフェルディナント3世の3番目の皇后の柩エレオノーラ・マグダレーナ・ゴンザーガ(Eleonora Magdalena di Gonzaga-Nevers)(1630年~1686年)イタリア、マントヴァを支配していたマントヴァ公爵家ゴンザーガ家の出身。1651年にフェルディナント3世と結婚。3番目の皇后となる。彼女の生まれた年にマントヴァはオーストリア・ハプスブルク家に侵攻され本来彼女の父が継ぐべきマントヴァ公は分家に奪われてしまった。理由はエレオノーラ父が親仏派だったからのようだ。最も彼女が生まれてすぐに父は早世している。この結婚は領土拡大の為の政治取引による政略結婚だったのは間違いない。1708年イタリアの領土全てを没収されマントヴァ公領は独立国の立場を失いハプスブルク家領のミラノ公国に併合されゴンザーガ家は消滅している。柩もさらに質素な気がします。少し豪華になった柩右・・レオポルド1世の3番目の妃エレオノーレ・マグダレーネ(Eleonore Magdalene )(1655年~1720年)の柩。(一番目の妃マルガリータ・テレサより豪華である )中・・不明左・・早世した赤ちゃんの柩。両親はカール6世と前回紹介したエリザベス・クリスティーヌの息子。レオポルド・ヨハン(Leopold Johan)(1716年~1716年)さて、ここでやはり紹介しておかなければならないのが度々出てきたレオポルド1世です。下が神聖ローマ皇帝レオポルド1世の柩レオポルド1世(Kaiser Leopold I)(1640年~1705年)神聖ローマ皇帝(在位:1658年~1705年)オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王1番目の妃マルガリータ・テレサ(1651年~1673年) 1666年に結婚2番目の妃クラウディア・フェリーツィタス(1653年 ~1676年) 1673年に結婚3番目の妃エレオノーレ・マグダレーネ(1655年~1720年) 1676年に結婚※ 妃が亡くなった年にすぐに再婚している兄フェルディナント4世が亡くなった為に王位を継承。本来は聖職者になるべく教養を身に付けていたそうで学問と音楽をこよなく愛する文人皇帝だったそうだ。だからマルガリータ・テレサとの関係は良かったのかもしれない。1667年の結婚の祀りではマルガリータと共にオペラで主演しているそうだ。また彼自身が作曲家として教会音楽やバレエ曲まで作曲。音楽家のパトロンとしても活躍しウイーンが音楽の都として発展する素養を造った人物のようだ。レオポルド1世の治世は半分が戦いだったそうだが、何にしてもカール5世以降衰退していた帝国を立て直した事でバロック大帝と呼ばれるようです。敬虔なカトリック教徒で自らの生活は割と質素だったと言う。柩も前回紹介したヨーゼフ1世やカール6世よりもはるかに質素ですね。通路の一番奥に女帝マリア・テレジアと夫君ロートリンゲン公フランツのサルコファガス(sarcophagus)が置かれた部屋がある。次回紹介 リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)
2014年11月09日
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31日、美容院の帰り、都心行きの電車にジャック・スパロウ(Jack Sparrow)が乗っていました。ものすごくリアルでものすごく似ている外国の方です ああ、ハロウィーンのパーティーに行くのかな?それにしても電車の椅子に一人でおとなしく座っているリアル・ジャックは違和感ありありで、とても間が抜けて見えました さて、日本でも年々仮装が激しくなるハロウィーン。ハロウィーン(Halloween)はもともとケルト由来でキリスト教に取り入れられたイベントだった・・と言う話は今まで何度か紹介していますが(昨年の煉獄思想とジャックを見てね)、異教の祭りがキリスト教の典礼に変換された例は他にもあるようです。変換? と言うよりむしろキリスト教が公認されるとあらゆる宗教のイベントがキリスト教の典礼にすり替えられた・・と言った方が正しいかも・・。毎年あるお祭りが今年もある。しかし名目は変わっている。最初は違和感があっても、何年かすれば知っている人は少なくなる。(100年も過ぎれば昔の事など知る人はいなくなるのだ。)キリスト教の関係者はゆるやかに異教の祀りを排除して行ったのである。が、失敗した例もある。1年12ヶ月の暦や1週間7日の割り振りしたローマ暦である。キリスト教では最初は新しい呼び名を考案したものの、定着できずに結局ローマ神や皇帝の名前が残ってしまったそうだ。因みにクリスマスに贈物をする習慣も、実はローマ時代の冬至に贈り物をする慣習から来ているらしい。バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)サルコファガス(sarcophagus)カプツィーナー納骨堂 (カプツィーナ・グルフトKapuzinergruft)の柩ハロウィーンに因んで柩(ひつぎ)の髑髏(されこうべ)だけピックアップしていたのですが、過ぎてしまったので内容を全面的に変えましたサルコファガス(sarcophagus)遺骸を納める柩をさらに納める彫刻のほどこされた石棺(石の容器)の事。例えばエジプトのミイラは何層もの柩に収められているが、一番外側の石の柩(ひつぎ)をそう呼ぶようです。直訳だとサルコファガス(sarcophagus)は石棺ですが、実はもっと深い意味があるようです。言葉としてはギリシャ語由来で「肉を食らう」と言う意味からきているようで石棺自体が死体を分解する・・と言う意味から「食う」が転じたようです。また遺骸を分解すると言う石棺は本来は石灰岩でなければならなかったようです。金属のサルコファガス(sarcophagus)柩の外装を被うサルコファガス(sarcophagus)はどうも時代と共に進化し、素材も多様化して行ったようです。何しろカトリックでは遺骸はそのままできるだけ残さなければならない。最後の審判後に天国に行く時に元の体が必要だからです。(石に食われては困るわけです)さて、石棺ではないから、そもそもサルコファガスとは呼べないのかもしれませんが、この中にさらに柩が納められている・・と言う意味においてはやはりこれはサルコファガス(sarcophagus)です。今回は豪華な装飾が付いたバロック時代全盛の金属製のサルコファガスを3櫃(き)紹介します。特にこのカプツィーナー納骨堂では歴代ハプスブルグ家の人達の柩がたくさんありますが、ブロンズ製や後半は質素な鉄になってきていて、栄華盛衰を感じるラインナップでした。神聖ローマ皇帝 ヨーゼフ1世(Joseph I)の柩ヨーゼフ1世(Joseph I)(1678年~1711年)神聖ローマ皇帝(在位:1705年~1711年) ハンガリー王、ボヘミア王。亡くなった時代順に載せていますが、時代とともにより豪華に変遷してます。神聖ローマ皇帝 カール6世(Kaiser Karl VI)の柩カール6世(Karl VI)(1685年~1740年)神聖ローマ皇帝(在位:1711年~1740年) ハンガリー王、ボヘミア王。ヨーゼフ1世が若く亡くなり即位。彼は弟で本来はスペイン王を継承する予定だった。そしてマリア・テレジアの父である。もはや写真一枚におさまらないのである。神聖ローマ皇帝妃 エリザベト・クリスティーヌ(Elisabeth Christine)の柩エリザベス・クリスティーヌ(Elisabeth Christine)(1691年~1750年)神聖ローマ皇帝カール6世の皇后。マリア・テレジアの母。最初の2櫃(き)はハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝の柩。3櫃(き)目は神聖ローマ皇帝妃の柩でした。いずれもゴージャスな装飾がほどこされていますが、特徴的なのは、やたらに髑髏(されこうべ・ドクロ)の装飾が多い事です。見ている限りでは、このバロック期に増えている気がします。実際墓だけでなく、バロック時代によく描かれるようになった静物画、バロック・ヴァニタス(barocker Vanitas-Stillleben)では頭蓋骨が必ずと言って良いいくらい登場してきます。死、死神、はかなさ、虚しさ、悲しみをイメージさせる頭蓋骨(スカル・Skull)は死を象徴する寓意表現の素材であり死の記号です。(絵画においては、十字架と共にある時は死後の永遠の生命を瞑想している時だとか・・。)15世紀以降に欧州でしばしば猛威を振るったペストの発生と大量死。どうやらそれらにも起因しているようです。死が最も身近にあった時代だったからでしょうか?それでもちょっと気になるのは、まるで遺骸を守護するように装飾されている点です。私の知らない別の解釈がきっとあるのでしょうね
2014年11月02日
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アヴァンギャルド(avant-garde)と言う言葉は第一次大戦以降に使われるようになったらしいが、もともと軍隊の用語で、先制攻撃を仕掛ける前衛部隊から来た語らしい。切り込み隊は、突破口を開く者であり、また開拓者とも言える。階級闘争においては、前衛隊である指導者達、芸術の分野では先駆的な、革新的な、従来にない世界を追う芸術家達(いわゆる抽象画家達)がそれにあたった。ピカソやカディンスキーが有名になると、軍隊用語は革新的な芸術家達を指す言葉として定着してしまった。ところで、アヴァンギャルド(avant-garde)は20世紀から使われるようになった言葉ではあるが、芸術の分野には常に開拓者がいたわけである。近代絵画が生まれる前、19世紀には、しとやかに新しい芸術の表現方法を実践する者達が各地で生まれていた。印象派と呼ばれる人達だってアヴァンギャルドな人達だし、古典から一気に近代芸術にのしあげた19世紀末ウイーンの分離派(ゼセッション・Sezession)もアヴァンギャルドな芸術家の一団と言える。前回はその分離派の本山を紹介したが、今回も分離派の一員であった建築家の作品を紹介。オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の集合住宅オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の駅舎メダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)マヨルカ・ハウス(Majolika Haus)オットー・ワーグナー(Otto Wagner)(1841年~1918年)2010年8月「オーストリア、ウィーン、 カールス広場界隈 Part 1 ワーグナー設計のカールスプラッツ駅舎」でも紹介しているので詳しくは省きます。オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の駅舎当時ウイーンの人口は増え、リンクの外に住み市内まで通う人が増加。市は市街への鉄道計画とともに新しい都市計画をオットー・ワーグナーに任せた。1890年に市の都市計画顧問に就任。1894年から始まった市街鉄道では、そのうち2路線の駅舎と鉄橋をオットー・ワーグナーが担当したと言う。(現在は地下鉄U4とU6になっている)前に紹介したカールスプラッツ駅舎(Karlsplatz)はその1つである。鉄道とは言えウイーン市内を走るのでその美観を損ねてはならないし、まして駅舎も街の装飾の1つでなければならない。デザインの均一化を図る目的もあり路線単位でデザイナーが統一されたようだ。カールスプラッツ(Karlsplatz)駅舎右に見えるのがカールス教会で駅舎は左に向かい合う相似の建物。1899年開業。ワーグナーがデザインした当時の鉄道ラインは地下に潜ったがカールスプラッツ駅はハプ駅であり、地下鉄だけでなく、地上では今も複数の路面電車の軌道が交錯している。カールスプラッツ駅が地下鉄になった時(1981年)本来駅舎は取り壊される予定だったそうだ。現在ワーグナー・デザインの駅舎は喫茶レストランと、地下鉄入口の一つとして利用されている。ケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)駅舎当時ワーグナーがデザインしたラインの駅舎の一つで、今回紹介するワーグナー・デザインの集合住宅に至る最寄り駅がここ。1899年開通するも第一次世界大戦で閉鎖(1918年)。1925年鉄道は電化され再興。 現在の駅舎は一部ワーグナーのデザインが残っているのみ・・となっているようです。カールスプラッツ(Karlsplatz)もケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)の駅舎も鉄とガラスと言う当時では斬新でモダンな素材でデザインされている。メダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)ワーグナーが手がけた集合住宅がナッシュマルクト(Nasch Markt)前にある。最寄り駅がケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)で半地下のホームからもよく見える。Linke Wienzeile 38 のメダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)1898年~1899年施工メダル状のデザインからメダイヨン(Medaillon)と呼ばれるようになったが、実は壁面装飾は分離派会館でもお馴染みのコロマン・モーザー(Koloman Moser)によるデザインである。シュロの下にメダルがあり、その中の少女? のデザインは全て異なっている。マヨルカ・ハウス(Majolika Haus)Linke Wienzeile 401898年~1899年施工イタリア、マジョリカ焼きのタイルで外壁が装飾されている事からそう呼ばれているが、実はこのタイルのデザインもワーグナーではない。アロイス・ルードヴィヒ(Alois Ludwig)(1872年~1969年)1895年~1898年までウイーンの美術アカデミーでオットー・ワーグナーの下で学んだ教え子で、1898年からワーグナーの下で働いている。壁面に施された花の装飾はアロイス・ルードヴィヒのデザインである。ウィリアム・モリスのテキスタイルのような花柄プリントである。メダイヨンとマヨルカは隣あった建物。接続部は別の建物か? こちらもマヨルカ焼きのタイル装飾。よく見れば2階のテラスの手すりが続いている。こちらでは建物の間は接続させなければならない法律があるそうです。双方の建物とも、現役で住居になっている為に内部に入る事はできない。つまり見学は出来ないのである。内部こそオットー・ワーグナーらしい造形が見られるかも知れないのに・・ 通りを走っていると、とにかく目に留まる。皆が賞賛する外側のデザインは、実はワーグナーのデザインではなかった。が、それでもアイアン・ワークとガラスの美しい駅舎、それにこれらマンョンはやはり世紀末ウイーンを飾ったユーゲント・シュテールを代表するオットー・ワーグナーの作品なのである。おわり
2014年10月28日
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先週末は飲み会。月曜に京王プラザのブッフェ、火曜日に品川プリンスのブッフェと忙しくしていました京王プラザは3回目、落ち着いていて会話ははずむ。(月替わりのイベントで差が・・。)品川プリンスは今回初。カニ食べ放題に期待して出かけたのですが・・。カニは微妙。他の料理も微妙。何よりドン引きはローストビーフが焼きすぎて硬くてローストビーフとは言えない代物。しかもへんな味がして最悪に不味い。京王プラザの何倍もあるプリンスの広いホールのレストラン(ハプナ)は食べ物を取りに行くのも遠い。飲み物やフォーク、ナイフさえも自分で取りに行かなければならず、二人で行ったら常にどちらかが席を立っている状態。会話も何もなく、ザワザワ騒がしく落ち着けない雰囲気。プリンス大失敗でした 因みに、双方人気が高くかなり前に予約が必要ですが、プリンスは団体さん御用達に特化しているのかも・・。さて、毎度新規に入る時はそうなのですが写真の仕分けに時間がかかっていますウイーン分離派会館(Wiener Secession)分離派とはウイーン分離派ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ガイドブック、全てのかな文字が異なるので迷いましたが、分離派会館・ゼセッション(Secession)が本家のパンフレットの翻訳です。分離派会館斜め前はナッシュマルクト(Nasch Markt)入り口地下鉄U4が通りの下を走っていて、カールスプラッツ(Karlsplatz)が最寄り駅。つまりオペラ座からも2~3分のところ。※ 分離派会館は、2010年8月「オーストリア、ウィーン、 カールス広場界隈 Part 1 ワーグナー設計のカールスプラッツ駅舎」でちらっと写真紹介した事があります。分離派とは過去の様式から脱却して新しい様式を確立しようとした人達が立ち上げた芸術団体です。19世紀末になってもドイツの芸術カアカデミーは保守的で、若手には作品を紹介する場もチャンスもなかったそうです。そんな旧態依然の閉鎖的なミュンヘン芸術協会から離脱し自由に新しい表現の芸術を世に知らしめようと1892年、ミュンヘン分離派が最初の展覧会を開催。(時代は19世紀、いわゆる世紀末。フランスではアール・ヌーボーが流行していた時代です。)そして1897年には今度はウイーンでも分離派が立ち上がります。ウイーン分離派(Wiener Secession)の創設者の一人がグスタフ・クリムトGustav Klimt(1862年~1918年)でした。時代が時代ですから、当時の彼らの目指した芸術スタイルはウイーン版のアールヌーボーで、ドイツでは雑誌ユーゲントより、ユーゲント・シュテール(Jugendstil)と呼ばれるのがドイツの世紀末様式の呼称です。分離派(ゼセッシォン・Sezession)とは、ラテン語の反抗、撤退、分離の意味を持つSecedoから由来。ドーム下に書かれているのは、分離派のスローガン「時代には時代にふさわしい芸術を(与えよ)、芸術には芸術にふさわしい自由を(与えよ)」金色のリーフでてきたクーポラと白い立方体と正方形の組み合わせのこの建物はどうやら寺院のイメージで造られたようだ。そして建物はクーポラの月桂樹の葉に加えて、壁面に月桂樹の樹木もデザインされている事から建物自体を月桂樹の林に見立てて総合デザインされたのだろうと考えられる。ドームを被う月桂樹の葉は3000枚。月桂樹は勝利の冠でもある。月桂樹は古来、勝利と栄光の象徴であり、常緑樹と言う特性から不死の象徴でもあるらしい。設計はヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich)(1867年~1908)オルブリッヒもウイーン分離派の初期メンバーで、オットー・ワーグナー(Otto Wagner)は彼の師匠です。分離派の作品を展示する場として、1898年に僅か6ヶ月で建設されたと言う。分離派の装飾はコロマン・モーザー(Koloman Moser)(868年~1918年)が担当。正面入り口のゴルゴン(Gorgons)は勝利と工芸の女神の象徴だそうだが、ここでは魔除けの意味のが強いかもしれない。確かに拡大すれば髪がヘビ。ゴルゴン(Gorgon)と解るけど肉眼で下からは見えない。ゴルゴン(Gorgon)はホメロスのオデッセイアではでペルセウスに首を落とされ退治された魔物であるが、ここでは、ヘシオドス解釈の3姉妹のコルゴン(ステンノー、エウリュアレー、メドゥーサ)で表現されているようだ。ファサードに置かれた一対のボールは松明(たいまつ)用?亀が地球を背負っているような形状はまるで古代インドの世界観にも似ている。コロマン・モーザー(Koloman Moser)デザインのフクロウフクロウは女神アテナイの使いである。夜目が効く事から未来を見通し切り開く知恵があるようだ。シンプルでスッキリしたデザインは今風にさえ思える。さて、分離派会館内部であるが、中にはグスタフ・クリムトGustav Klimtが製作したベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)が展示されていて、有料で鑑賞できる。そして、今もオーストリア造形芸術協会の展示場として今と言う時代を表現する若手の作品が紹介されるギャラリーとなっていた。入場は9ユーロ。作品の撮影は厳しく禁止。一部、レプリカが置かれていてそれのみ撮影OKでした。ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ベートーベン・フリーズとは、全長34m、高さ2mの壁画で1902年、分離派第14回の展示会においてクリムトが、ベートーベンの交響曲第九をテーマに制作した作品です。クリムト的にはベートーベンを賞賛して、献げたと言われる作品です。が、当時は卑猥で露骨と揶揄され、1年後の1903年には7つに分けられて壁からはがされ売りに出されたそうです。1973年になってやっとオーストリア政府が買い戻し、1986年より再び分離派会館で展示公開されるようになったと言う曰く付きの作品。それ故今までのクリムトの作品集にはあまり紹介されて来なかった作品だと思います。※ フリーズ(frieze)とは建築用語で、壁面上部に帯状に描かれた装飾レリーフを指す言葉です。壁に直接描かれているので、作品の展示スペースは割と狭い。34mと言う作品の長さから逆算して70m2 (約21坪)くらいか?よく見ると文様などは立体装飾となっている。残念なのは、クリムト作品の絵ハガキや作品集などはメチャ高く、ベートーベン・フリーズの作品集を買って来なかった事だ。どこかに(家)あると思っていたのに部分数枚しかなかった もはや100年以上前の古典なのに強きである。ところで1905年には創設者のクリムトやオットーワーグナーは分離派から脱退している。それは分離派の外部団体としてウイーン工房を設立した事による内部分裂が起因。テキスタイルなど生活全般に応用したかったクリムトやワーグナーと異なり、商業主義に走りすぎる・・と言う反対派と方向性を違えた事による離脱だ。確かにクリムト作品は商業的かもね  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン次回オットー・ワーグナーの建築から
2014年10月22日
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加筆しました シュテファン寺院のすぐ近くグラーベン(Graben)通りはブランドショップが立ち並ぶ高級品通りです。そのグラーベン通りがコールマルクト(Kohlemarkt)通りに突き当たった所に今回紹介するウイーン老舗高級食材店があります。そもそもはホテルの部屋で食べる美味しいフルーツやスイーツを探しに入ったのですが、実はコーヒーの焙煎で世界的に有名なお店だったそうですついでに店内にあるレストランも、オーストリアの中でもトップ5に入る有名店だったそうで、たまたま食事もしてきたので紹介します。ウイーンの高級食材店 ユリウス・マインル(Julius Meinl)ユリウス・マインル・アム・グラーベン(Julius Meinl Am Graben)Restaurant Julius Meinl Am Grabenユリウス・マインル(Julius Meinl)の創業は1862年に遡る。最初はスパイス店として店を開きスパイスの他に紅茶やココア、コーヒー豆、砂糖などを販売。その後息子のユリウス・マインル2世(Julius Meinl II)は、1877年にコーヒー豆を美味しくローストする技法を編み出したそうだ。そして、ユリウス・マインル(Julius Meinl)は世界初、コーヒー豆を焙煎して売り出す店となった。コーヒーのパイオニアであるユリウス・マインルは世界中から最高のコーヒーの生豆を入手する事が可能らしい。そして美味しい豆の焙煎技術。今でもユリウス・マインル(Julius Meinl)と言えば美味しいコーヒー・・と絶賛される理由はそこにあるのでしょう。入り口とその上のレストランの外壁が修復中でちょっとガッカリ入り口左には喫茶が併設。軽食もとれるようです。(前がコールマルクト(Kohlemarkt)通り)因みにコールマルクト通りの名は石炭市場の意だそうです。店内はさしずめ紀伊國屋と言った感じ。下は商標となっているマインル・ムーア(the Meinl Mohr)少年の人形。1924年にグラフィックデザイナーのJoseph Binderが手がけたらしい。1階は生鮮野菜にフルーツ、牛乳ヨーグルトやワインショップの他にチョコレートなどお茶や雑貨一般が置かれている。1階は単に高級スーパーと言った感じ。2階は主に高級デリカテッセンに紅茶やケーキやパン、生ハムやソーセージ、オリーブやピクルスなどを扱う専門店が入っている。ユリウス・マインル(Julius Meinl)が成功したのはコーヒーの焙煎だけではなかった。もともと食材店である。ユリウス・マインル2世は第一次世界大戦中に自社開発のビスケットを陸軍省に独占納入して成功。1913年にはオーストリア・ハンガリー帝国だけでなく、コーヒーの輸入と焙煎で世界最大手の会社に成長。ところで2代目ユリウス・マインル2世(Julius Meinl II)(Julius Meinl II)(1869年~1944年)は日本人の女優でオペラ歌手の田中路子と1931年頃に結婚し10年ほど暮らしている。2階にはMICHIKOの名を冠した紅茶が売られていた。年の差40歳。ユリウス・マインル2世は時の財政界の重鎮であり、財力もある。彼女のヨーロッパ・デビューを支えたが、彼女は恋多き女だったようだ。ハムやソーセージの種類はハンパないつい食べたくなり生ハムもスライスしてもらった。ここで買ったチェリーは一粒がこの上なく大きい。そしてケーキやパン、トマト、オリーブ、チーズも購入。今までいろいろ食材店には行ったが、確かに最高の品揃えのお店であった。(枠の関係で紹介できないのが残念)今でもユリウス・マインル(Julius Meinl)のコーヒーは世界に流通しているが、食材店は最盛期には欧州に1000店あったらしいが今はウイーンにあるこの店だけのようです。おそらく転機がきたのは第二次大戦後、そして1960年代、業務提携? あるいは買収されたか? 創業以来の店舗は縮小。2000年には食料品部門の撤退をして残り店舗はドイツ系の「Billa」や「SPAR」が買収。ユリウス・マインル(Julius Meinl)は立て直しの為にコーヒー部門のみに特化したようです。Restaurant Julius Meinl Am Graben2階にあるレストランはユリウス・マインル・アム・グラーベン(Julius Meinl Am Graben)の直営のレストランでした。1969年創刊のフランスで最も強い影響力を持つレストランガイドブック「ゴー・ミヨ(Gault et Millau)では高い評価をされているレストランだそうです入り口が割と地味な所にあり見落としやすい場所。オープンと同時に入ったのだが、空いていた。 窓から見えるのはグラーベン(Graben)通りとペスト記念柱何より美味しかったのだが、その飾り方に感激。アートでしたパンと一口前菜 一口サイズのクロケットです。モッツアレラ・チーズ(Mozzarella) 19ユーロ前菜にローストしたフォアグラとテリーヌ(Biogansei Eber) 25ユーロフィレ肉のパイ包み(Meinl's Wellington) 41ユーロウイーン風カツレツ(Wiener Schnitzel)とサラダ 26ユーロコーヒー・メーカー本来なら食後のコーヒーとデザートははずせない。でもこの日突然の胃痛で苦しくて食べられなかったのです 振り返ってみればレストランは当然ながらお店のお総菜や生ハム含めて今回の旅行で一番美味しい店だったかも・・
2014年10月14日
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最近海外での日本 人気はかなり高くなってきているようです つい先頃、和食が世界文化遺産に登録されましたが、近いもので日本のお弁当も高評価があるようです。栄養バランスを考えたヘルシーな中身は当然ですし、経済的にもGood。しかも可愛く自分らしくアレンジして行けば職場で注目です。My弁当を持って学校や会社に行く・・と言うのはもはや日本人だけでなく、海外の若い女性達の間でもちょっとしたブームになって来ているようです。実際、今回アメリカに住む甥の彼女からお弁当箱が欲しい・・と依頼があったのです そもそも海外でのお弁当ブームの火付け役は、幼稚園生の母達のキャラ弁の影響もかなり高いと聞きます。(みなさんネットにすぐにアップするからね・・)が、実際大食のアメリカの人が日本の小さなお弁当箱で足りるのだろうか? と言う疑問がわきました。姉は大食漢の彼女がこんな小さなお弁当箱で事足りるはずがない・・と言うのです。確かにそうかも・・。しかもその彼女は食べる事は大好きだけど自分で料理を作る気は全くない人です。そんなに日本の冷食が普及しているとも思えない。(中身は甥が作るのかな?)彼女の弁当箱の中身がとっても気になる私です サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)ラテンの教父(Latin Fathers)聖域である内陣修復再建されて新しいとは言え、今まで見て来た教会とはかなり建築スタイルが違う。この教会はラテン十字ではないが、内陣、聖域(Sanctuary)の上は8角形のドーム状の天蓋になっている。前回この教会はロンバルディア・ロマネスク様式と紹介したが、ここから見ると2階建てのバシリカ構造で、建物内部に関してみれば円蓋式バシリカで、ロマネスクと言うよりは、初期ビザンティン様式かも・・。下は天蓋の中心の聖アンブロージョのモザイク(修復後の物)聖アンブロージョ(Sant'Ambrogio)・ アンブロジウス(Ambrosius)(340年? ~397年)ラテンの教父(Latin Fathers)聖アンブロージョは、古代ラテンのキリスト教会を代表するラテンの教父(Latin Fathers)の一人だそうです。ギリシャ語にも精通していた彼は東方の教父の思想をラテン語で西方教会に翻訳して教えをもたらした西方キリスト教神学の貢献者で、西方の水準を高めた学者だったようです。(もともと聖アンブロージョは、ただの司教ではなく、高学歴の法学者)つまり教父と言うのはもともとラテン語を軸にする研究者であり神学者だったと言う事。ところで彼のキリスト教神学は、後にアウグスティヌス(Augustinus)に影響を与え、アウグスティヌスはさらにプラトン主義やストア思想を組み込み、中世のキリスト教神学のスタンダード思想を確立して行ったようです。共にカトリック教会だけで無く、正教会など他の宗派からも聖人視されているのはキリスト教会の父として崇敬されているからなのでしょう。内陣のドームと中央祭壇中央祭壇は大理石の4本の支柱でさささえられた天蓋と、その下の台座には金箔の施された祭壇布がかけられている。祭壇後方に半円の開いた壁が見えるが、その向こうが地下聖堂クリプト(Crypt)である。台座はあたかも黄金のレリーフで造られているようにみえるが、台座のカバーとして彫金仕立ての祭壇布が4面に掛けられているようだ。祭壇布は9世紀、金細工師のボルヴィーノの傑作。台座自体は創建当初の4世紀のものらしい。台座の上の天蓋にはキリストとペテロらのレリーフが施されている。レリーフは9世紀のもの)後陣の天蓋後陣の天蓋を見る限りでは、東方の円蓋式バシリカそのものである。ここは正教会か? と思うイコンのようなモザイク画 壁画には聖アンブロージョの仕事が記録されている。地下聖堂クリプト(Crypt)内陣下のクリプトには聖アンブロージョ(Sant'Ambrogio)の遺物が祀られていると言う。データによればここに祀られているのは聖アンブロージョ (Ambrogio)と、殉教者聖ジェルヴァジオ(Gervasio)と聖プロクシオ(Protaso)の遺骸らしい。もちろんこれらは後年造られた聖櫃である。ところで写真で拡大してみても二人しかわからない。聖アンブロージョ (Ambrogio)の遺物はもしかしたら水晶と銀の骨壺に収められているかも・・。礼拝所の1つキリスト教発祥当初は神やキリストの姿をそのまま表現するなどあり得なかった事。最初は太陽のマークでシンボリックに表現されていたそうだ。聖人の彫像はバロック期には全盛だった気がするが、本当に彫像が現れるようになったのはいつ頃なのだろう?内陣左脇から外庭に出られる。見えるのは教会内陣ドーム(正面は右奧)右の建物がたぶんブラマンテの設計によるルネサンス様式のカノニカ (Canonica)外庭に続く柱廊もブラマンテの柱廊と言われるのでたぶんそうなのだろう。ブラマンテ(Bramante)(1444年頃~1514年)以前(2014年7月)に「ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)」でブラマンテの付け足した「ブラマンテの僧院廻廊」を紹介した事がある。ブラマンテは寝殿造りの回廊が好きだったようですね。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)おわり次回はウイーンに行く予定ですが、まだしばらく大阪に滞在しているのでイレギュラーになりそうです back numberリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
2014年10月07日
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鉄道関連のリンク先をラストに載せました。Break Time(一休み)東海道新幹線開業50周年の日ただいま大阪に来ております。(たまたま昨日) そうしたら何と昨日(2014年10月1日)は東海道新幹線開業50周年の日だったのです。東海道新幹線は1964年10月1日、東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせて開業されたそうです。今年は調度50年の節目の年。そして日本が再び次のオリンピックに向けて新たな飛躍をしようとするグッドタイミングな年でもあります。いろいろ記念セレモニーもあるようですが、JR東海では、1日、東海道新幹線全17駅の改札口で新幹線をご利用のお客様にプレゼント・・と言う事で記念クリアファイルを配っていました。もちろん限定50万枚で、しかも改札に入る時にのみ配布。(時間は不明)東京駅ではもらえなかったのですが、たまたま新大阪の駅で配っている所に遭遇したので頂いてきました。超ラッキー d=(^o^)=b イエイクリアファイル左が表、右が裏。今までの新幹線の歴史を物語る素敵なファイルです。しかもドクター・イエローも入ってる。素晴らしい ~(^∇^~)(~^∇^)~マニアらしき人もファイルもらいに来ていました。それでアレ? と気が付いたのです 何て運がいいの (^人^)パンパン 人(-_- )一礼今や世界に売り込みに出かけ、採用されている新幹線の開業は実は終戦から19年目に開催された東京オリンピックとパラリンピックの為だったそうです。それは日本の復興と民主化の象徴の産物であり、国家的一大事業だったと言います。その後1970年には大阪万博があり、1972年には山陽新幹線が開通。1972年は日本の鉄道100年記念と言う節目でもありました。たまたまなのですが、1972年に頂いたおじいちゃんの記念品が出てきました。鉄道100年記念に大阪鉄道管理局長から頂いた金属のプレート。当時、JRの線路下倉庫を3つ借りていたおじいちゃんはJRのお得意様としてこのプレートを頂いたそうです。同時に山陽新幹線の試乗チケットも頂いたそうです。(下)チケット裏側50年もたつのに新幹線は今も変わらずフレッシュな鉄道と言う気がします。中国には技術提携してパクられましたが、これからも新幹線は世界に誇る日本のブランドです。寿司と同じく日本と言えば新幹線・・と言ってくれる外国人が増えるといいな・・と思います。ガンバレ新幹線 o(*⌒O⌒)bふぁいとっ!!そう言えば車内でコーヒーを頼んだら、50周年記念にキリマンジャロのスペシャル・コーヒーが出てきました。キリマンジャロの故郷タンザニアも建国50周年だそうで、コラボ企画のようです。いつものコーヒーより本当に美味しかったです。初期の券売機ヘーっと見ていたら、もっと面白いものが出てきました。下は自動券売機の中のプリントのゴム印です。初期の券売機のチケットはゴム版にインクを乗せてプリントする・・と言う原始的なプリントだったようです。上下の写真とも、上がゴムの種印部分で、下はインクで版したもの。(ゴムの部分がみえにくいですが・・。)製品の年代はおそらく昭和40年代。オムロン製の自動券売機のゴム印です。(摩滅するので交換して捨てられるべき印で、大阪鶴橋の駅のマシンの物。)20円と50円区間のもの。何でこんな物が出てきたか? と言うと、当時おじいちゃんのビルに立石電機(オムロン)の券売機のメンテの事務所が入っていたからだそうです。捨てるべき物を拾ったのかも・・ (* ̄- ̄)驚いたのは当時のキップが機械の中でゴム版によりキップを刷っていた・・と言う事実。すごい、自動というよりむしろアナログだ・・ 関連のBack numberリンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2014年10月01日
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御嶽山(おんたけさん)の突然の噴火には驚きましたもともと2万年の間に噴火は4回と少なくこの火山に対する傾向や情報が少なかったようですが、近年(1979年)の爆発以降は小規模な噴気活動が続いていて監視、観測の対象になっていたそうです。(計器もいろいろ設置されていたらしい。)しかも、最近は火山性地震の予兆はかなりあったようで今月11日には80回もの地震が観測されていたとか・・。それなのに警告程度で入山規制は出されていなかった1日に80回の地震なんて尋常ではない。「ちょっとヤバくね?」と気付きそうなものだが、登山者も気象庁も何を優先したのか? 結果、噴火の時に信じられない数の登山者が火口に近い尾根で逃げ惑う・・なんて驚きの事態になったようです。みなさん無事に下山できる事を願っています。さて、そろそろウイーンに行きたい所ですが、ミラノで紹介しておかなければならない教会がもう1つありました。ミラノの教会3部作の最後はミラノ最古の教会です。逆に言えばキリスト教が公認されて初に建てられた教会・・と言う訳なのですが、それ故? 今まで紹介してきたカテドラルとは全く異質の装飾に驚いたのです。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)アトリウム(atrium)エトルリア(Etruria)遡る事ローマ時代。まだキリスト教徒が迫害されていた時代、そこには宮殿があり、異教の神殿の遺構があった場所と言われています。(初期の教会は異教の礼拝所が転用される事が多かったようです。)紀元313年コンスタンティヌス帝によ信教の自由が認めらると(ミラノ勅令)、そこにミラノの最初の教会が建設されました。創設は379年。現在の建物は11~12世紀に再建されたロマネスク様式。建設された時は街外れだったと言うが今はミラノ中心からほど近い。教会前庭には回廊式のアトリウムが付属している。ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)学校で習ったのはディオクレティアヌス帝のキリスト教徒大迫害(紀元303年)の後、紀元313年に西のコンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令した「信仰の自由を保障する」と言う勅令(ちょくれい)です。しかし、実際に二人は確かにミラノで会談した経緯はあるものの、ここで共同声明を出したわけではなさそうなのです。だからこれは勅令ではない・・と言うのが最近の見解だそうです。因みにミラノ勅令は全ての信仰を認める・・と言う内容で、キリスト教に限ったものではありませんでした。キリスト教がローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代ですが、いつを持って・・と年代を出すのが難しい。一応381年にコンスタンティノポリスで開かれた第2回キリスト教公会議の主催者がローマ皇帝テオドシウス1世だったので、その頃から・・としておきます。この教会はミラノの守護聖人サンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)を祀った教会堂(バシリカ)です。そもそも、この聖堂は司教アンブロージョ (Ambrogio)(340年? ~397年) が創設した教会でしたが、彼が亡くなった後に聖人認定され聖アンブロージョ(サンタンブロージョ・Sant'Ambrogio)と呼ばれるようになりました。当初は彼の兄弟(Satirus)が亡くなり、その墓を考えた時に殉教者の遺物と共に小さな礼拝所をもうけたものを造ったのが始まりだったようです。因みに、ガイドブックによればこの土地はマッシミーノ(Massimino)皇帝の宮殿の一部だったようでコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談が行われた場所がまさにこの場所。しかも10世紀にもまだ皇帝の宮殿が残っていて中世、神聖ローマ皇帝が戴冠に訪れた由緒ある教会でもあるそうです。教会堂の前に中庭がある光景は私は初めてでした。現在の教会堂は8世紀と11~12世紀の改築の姿が濃く出ているようです。ロンバルディア・ロマネスク様式の模範例だそうです。アトリウム(atrium)このバシリカ前の回廊(アトリウム)は初期キリスト教の教会にみられた構造で、現在現存しているのは僅かのようです。そもそもは洗礼志願者の為の空間であったとされていて、ここは9世紀に拡張されているそうです。ミラノ勅令後にできた初期の教会は、もともと秘密だった個人宅の集会所やカタコンベに礼拝堂が建てられできたものもあるそうです。右が3つあるうちの中央の入り口。中央には羊が彫り込まれているのだが、そのまわりの装飾はちょっと独特。。隣の入り口の柄にいたっては、キリスト教とは思えない絵柄(グリフォンとヒョウ?)です。中央入り口の柱にはなぜか牛の彫り物が・・。ミトラ教の装飾か?すでにあった異教のパーツなども建築資材に混ぜられたのか? それとも石細工師が持っている技がこれだったのか?中央祭壇左にある石の箱物に注目ちょっと変わった説教壇とスティリコの石棺ロマネスク・ビザンチン様式で12世紀の作品らしいが、実は1196年に天井が崩れ崩壊したのを以前のように復元したもの。裏側に彫りのない部分が・・。下のはなぜか石棺で389年~390年頃のものであるが、これも当初からここにあったものらしい。後年テオドシウス1世のお気に入りの軍人で義理の息子となったフラウィウス・スティリコ (Flavius Stilicho)(365年~408年)の名が付けられて呼ばれるようになった。実際誰が入っていたかは解らないらしいが、絵柄に夫婦のレリーフがあるのでどこかの貴族夫婦の石棺だったかも・・。スティリコの石棺(sarcophagus of Stilicone)説教壇もスティリコの石棺も、その彫刻が面白いのだ。写真正面の柱にはトラ? ライオン? キメラ? らしき獣が威嚇している。デザインはヘレニズム的。一応装飾はキリスト教のモチーフがメインになっているようだが、ここも異教のテイストである。使徒の集会とおぼしきローマの衣装を着た集団。中央の聖人らしき人はヘビを握りしめている。この教会には他にもヘビのオブジェが乗った柱があるのだがヘビはキリスト教でこそ原罪のシンボルとして嫌われているが、ローマでは薬草を発見してくれる貴重な動物でもあり、幸福のシンボルとしてとしても扱われてきたそうだ。融合美術? キリスト教が国教化された初期の頃は従来のいろいろな信仰のすり合わせがあって、異教の信仰がミツクスされていたのかもしれない。それにしてもどこかで見たような・・と、気が付いたのは、このデザインのテイストの元はエトルリア美術ではないか? と言う事だ。エトルリア(Etruria)エトルリア(Etruria)はBC8世紀~BC3世紀頃に現在のイタリア中北部にあった都市国家であるが、非常に高い文明を誇った伝説の王国であり、ローマの開祖にもエトルリア人が入っている。エトルリア自体はローマに吸収されて消えてしまった。ルーブルやサンカントネールの美術館にまとまったエトルリアの美術品がある。ギリシャともオリエントとも違う独特なスタイルがあり、しかもその1つ1つのクオリティーが高いのが目にと留まる。このあたりの装飾はバビロニア風な気もするけど明らかにエトルリア系の融合ですねちょっと彫りはゆるいけど・・。次回主祭壇とサンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)聖櫃です。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
2014年09月28日
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追記 Break Time(一休み)美貌のオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)こと愛称シシィ(Sissi)が宮殿を抜け出してまで買いに出かけた・・と言う伝説のお菓子を紹介。つまりこれぞ本物のセレブの愛したお菓子・・と言うわけです シシィとゲルストナーのスミレ菓子ゲルストナー(Gerstner)砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)ウィーン美術史美術館のレストラン本店はウィーンのシュテファン寺院の近くケルントナー通りにあります。創業は1847年。ベストリーのお店としてアントンとバーバラ・ゲルストナー(Anton and Barbara Gerstner)によりオープン。1869年にはオペラ座で軽食を始め、1873年には皇室御用達の菓子店に認定されました。現在はオペラ座や美術館にレストラン出店もしていて、カフェレストランとして知られていますが、私達観光客にとってはゲルストナー(Gerstner)と言えばやはりシシィのスミレ菓子でこそ有名なお店です。1個11.90ユーロ (1ユーロ140円として)1670円。20粒くらい。よくよく考えるとかなりお高いシシィ(Sissi)とはエリザベート・アマリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ (Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)(1837年~1898年)16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ彼女は窮屈な宮廷生活を嫌い、(姑と気が合わなかった? とも言われている。)夫に同伴したり極力宮廷にいる事をさけ旅行にもよく出かけていたといいます。(晩年は北アフリカにも出かけている)また宮中にあっては美容に気遣い、彼女の使用した美容の道具なども公開されています。特にウエスト50cm、体重50kg、身長172cmと言うモデル体型は彼女の自慢であり、それを維持する為の努力は惜しまなかったようです。ゲルストナー(Gerstner)の砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は彼女のお気に入りの1つで(前述私の推測では口臭予防の為? ) 宮殿を抜け出して買いに出かけた・・と伝えられるお菓子ですが、宮殿を抜ける口実もあったかもしれませんね。本当に砂糖付けされただけのスミレの花は甘くてちょっと独特な清涼感がある。はっきり言ってこのまま食べても別に美味しいと言うほとのものではないが・・。ふと閃いた熱湯で溶かしてみよう美しいスミレ色のティーになりました。甘さはそのまま食べるよりもまろやかになり、清涼感が増し、口臭を抑える役目があったのか? と言うお味でした d(-_^)good!!もしかしてシシィもこうして飲んでいたのかも さて、ゲルストナーはウィーン美術史美術館の中にも出店。それも一番素敵な場所に陣取っていました。ウィーン美術史美術館への出店は1989年。場所はちょうど入り口ドームの2階になります。つまりドームの下がレストランなのです。本当に内装はゴージャスだが、椅子やテーブルはたいした事はなかった。2002年にBusiness Magazineにより世界のGreat Gallery Restaurantsトップ10の2位にランクされたとか・・。現在は買収されケイタリングの会社として大企業に発展ています。スミレの砂糖漬けはここ美術館のお土産コーナーでも売っていました。軽食しかありませんでしたが食事をしてきました。Club Sandwich 13.60ユーロLemon & Lime Cake 4.60ユーロ飲み物はりんごジュースの炭酸割りアプフェルザフトショーレ(Apfelsaftschorle) 2.80ユーロ をとりました。ここは意外に値段が安いです。日本のケーキを食べている私達にとってぶっちゃけケーキはそんなに美味しくはない。それなりに・・である。オーストリアは確かに昔はお菓子の国だったかもしれないが、今や繊細さやグレードで言ったら日本が世界一だと思う。でもシシィの砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は他にないから一度試してみてはどうでしょう
2014年09月21日
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近年イル・モーロの居城であったスフォルツェスコ城 (Castello Sforzesco) では、塗り込められたイル・モーロの部屋の壁からレオナルド・ダ・ヴィンチの新作が発見されたそうです。現在スフォルツェスコ城では作品を復元修復しているようですが、まだフレスコ画が主流だった時代です。他にも塗りつぶされたり破壊された壁画がどこかにあるかもしれません。またレオナルド・ダ・ヴィンチはイル・モーロの依頼で巨大な騎馬像の制作をしていたそうです。しかし原型となる粘土製の像はイタリアに侵攻したフランス軍により射撃練習の的にされて破壊され、材料のブロンズの方は大砲の材料に持って行かれ結局造れなかった。(完成していたら残っていたかも・・。)何しろこの戦争でイル・モーロは囚われミラノ自体の運命が大きく変わるのです。その時(1499年)ダ・ヴィンチは弟子のサライや友人とミラノを離れヴェネツィアに逃げています。ミラノ侵攻がその時に無ければ、ミラノにはもっとダ・ビンチの作品が残っていたに違いありません。さて、今回はミラノの貴族の私邸を改造した美術館の紹介です。偶然にもこの時、一部作品が日本に来ていたようで逆に残念でした。(Bunkamura ザ・ミュージアム と大阪で特別展)所蔵品の質においては前から定評がある美術館でしたが、館の素晴らしい調度品の中でこそより引き立つ絵画やコレクションの鑑賞は来館したからこその有意義な時間でしたポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)マルティン・ルター夫婦の肖像聖人図ミラノの貴族であった美術収集家ポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )(1822年~1879年)の私邸はモンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)駅から数分のところです。以前「モンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)のレストラン」で紹介したジュゼッペ・バガッティ・バルセッキ(Giuseppe Bagatti Valsecchi)美術館と同じようにゲートは狭く中庭に美術館入り口があります。ルネッサンスから19世紀までの美術品のコレクションは、もともとポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )とその母ローザ(Rosa Trivulzio)のコレクションからなっているそうです。ポルディ・ペッツォーリは1879年に57歳で亡くなり、コレクションや屋敷は遺言で芸術財団に寄贈。財団により1881年4月にポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)は開館しています。エントランス右の螺旋階段は待合室を兼ねた造りになっている。こじんまりしているけど個人の家としてみたらかなり立派。オブジェの池には金魚が・・。コレクションを飾る為の場所にもこだわったと聞く。1階には中世の武具コレクションの部屋とペルシャ絨毯の部屋がありました。2階に上がってすぐに陶器のコレクション・ルームマルティン・ルター夫婦の肖像突然ですが、階段上がって正面の小部屋にはルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach il Vecchio)の手によるマルティンルター夫妻のポートレイトがありました。一般に紹介されているのはたいていこの写真です。左・・マルティン・ルター(Martin Lutero)(1483年~1546年)右・・カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora)(1499年~1552年)マルティン・ルター(Martin Lutero)は免罪符を非難し、宗教改革の引き金を引いた人で有名ですが、いくつかの改革の中でも聖職者の独身制を否定して自ら結婚していた。と言うのを実は知りませんでした。ルターはもともと聖アウグスチノ修道会系の修道士であり、カタリナも修道女。ルター41歳、カタリナ26歳の時に2人は結婚したそうですが当然カトリック教会からは猛反発。しかしプロテスタント教会においてはルターのおかげで牧師の結婚が認められる事になったのです。ところで、プロテスタントとは、ラテン語のプロテスタリ(prōtestārī)(抗議)が由来。カトリックに抗議した事から来た語と言う訳だ。陶器の間の先ずっと奧に特にスペシャルな部屋があった。そんなに広い空間では無いがその部屋は隅々凝りに凝った装飾がされている。装飾の雰囲気からしてここはプライベート祈祷室だったのかもしれない。向かって左サイド入り口側を振り返った所まるでイスラム教のミフラーブのような造りと装飾はちょっとムデハル様式を思い出す。壁に描かれた絵画からロマン派の要素もうかがえる。これが本当の本場イタリア式のネオ・ルネッサンス(Neo Renaissance)様式なのかもしれない。そう考えてみると建物も気になった。古代ローマを意識したような古典リヴァィバルである。ポルディ・ペッツォーリの時代からしてもおそらく建物自体もネオ・ルネッサンス様式に違いない。ポルディ・ペッツォーリのコレクションで最も感激したものが下である。これは自動時計の開発される前の携帯日時計なのだ。金持ちはこうした象牙でできた方位磁石と日時計を持ち歩いていた・・と言う事実に驚いた 聖人図ポルディ・ペッツォーリの館には沢山の絵画コレクションもある。特に聖人像や聖母の絵画は非常に有名どころがそろっていて質が高い。聖セバスティアヌス(Sebastianus) 日本でも三島由紀夫のおかげでよく知られているセバスティアヌスの絵画がこの家にはかなり多かった。その理由は彼はミラノ市民だったからのようだ。若くて美しい? セバスティアヌスはローマ軍の指揮官で皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)(在位:308年~313年)の時代に生きた人である。特に皇帝ディオクレティアヌスにはかなり気に入られていたにもかかわらず、キリスト教徒であることが知れると矢で射られる刑を受けた。その受難の姿が上のような図なのであるが、実際彼は矢では死なず、後に棍棒で打たれて殉教したとされている。(黄金伝説)ミラノではキリスト教が公認されるとわりとすぐに聖人認定されていたようだ。聖母子数多いポルディ・ペッツォーリ美術館の聖母子の中でも特に魅入られたのがこの作品。実に気品あるこの作品はサンドロ・ボッティチェリ(Sandoro Botticelli)の「Madonna of the Book」ボッティチェリと言えばヴィーナスの誕生など異教の女神を描いたものが有名であるが、こんな聖母子も描いていたのが逆に新鮮 他にジョットなど紹介したい作品もあるから続きにすべきか・・次回まだ未定。 ( ̄~ ̄;)ウーン・・・
2014年09月15日
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ウイーンにあるカールス教会(Karlskirche)がペスト撲滅を祈願して建立された教会・・と言う事は以前紹介した事がありますが、そこに祀られていた聖人ポロメーウスの正体が実はカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)だった・・と言う事が今回わかりました。カルロ・ボロメオを調べている時にカールス教会の天井画の司教(聖人ポロメーウス)図が共に紹介されていたからです。奇しくも今回ミラノに行く前にウイーンでまさにカールス教会に行き上って教会クーポラに描かれた天井画を見て来たばかりだったので・・ (以前調べた時は聖人ポロメーウスは不明のままでした。)ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)守護聖人の認定とは?ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑福者(Beatus)と証聖者(Confessor)聖カルロの十字架の祭壇生前から信徒に崇敬されていたカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)は彼の祝福を望む者達の所に自ら訪問(旅)したとされている。例えばスイスの谷を訪問した時は奇跡を起こして人命救助。また悪霊から多くの者を解放。そんな風に生前から奇跡をもたらすと呼び声高かったそうで亡くなった後も彼の亡骸を訪問して奇跡の治癒の恩恵を受けた者が後を絶たなかったと言う。(奇跡の伝説)現在に続くガラス張りの柩と遺骸の公開はそこにもあるのか?祭壇真ん中(下の写真)の磔刑姿のキリストの木彫はカルロ・ボロメオ大司教が1576年のペストの時、地域を訪問する時に持ち運んでいたとされるキリスト像だと言われている。(残念ながらその伝説を立証する有力な資料は見つからなかったし、ドゥオーモの公式ガイドブックにも書いて無かった。)守護聖人の認定とは?聖カルロはペスト退治の聖人として、かつてはウィーンの守護聖人としても祀られていたようです。現在のウイーンの守護聖人は別の聖人です。(守護聖人は事情により時々変わるようです。)聖人認定は列聖省が行っていますが地域の守護聖人認定も教皇庁への許可申請が必要だそうです。(今は1つの教会で1人の聖人が望ましいとされている。)中世は地域単位でも聖人があふれるほどいたようです。地域信仰から聖人になった人、中には地域でかってに信仰されて聖人視されていた人や出自の不明な信仰もあったでしょう。また地域での呼び名が異なり複数に数えられていた聖人もいたかも・・。それらを整理すべく? 17世紀、聖人をリスト整理してカテゴリーに分けた教皇がいました。それがウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644)年らしいです。彼は教書の中で聖人の仕分けをしてランク付けし、ランクにより典礼の種別を行ったと言います。目的は膨れあがった聖人の整理と典礼の削減。(典礼が重なった時の優先順位など・・)前回ふれましたが、多神教にならないよう、かってに地域で典礼ができないように制限をかけた・・と言う事もあったかもしれません。(その改革後に守護聖人が変わった街もあるようです。)さらに近年も聖人の見直し判定がされているようで、聖人リストからはずされた元聖人もいるようです。(聖者か否か? の判定は時代と共に変わる?)特に今年列福されるパウロ6世(Paul VI)は自身の教皇在位中の教書で何人かの聖人をリストから外していると同時に、枢機卿団の人数や列福者の数は逆に増やしたようです。またヨハネ・パウロ2世も多くの列聖者、列福者を許可。その理由は今後の司祭達の励みになる・・と言う目的が上げられています。ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑製作はレオーネ・レオーニ(Leone Leoni)(1509年~1590年) 制作年は1560年~1563年レオーネ・レオーニは当時欧州でで活躍した彫刻家です。得意顧客はハプスブルク君主チャールズV、神聖ローマ皇帝とスペインのフェリペ2世とセレブ御用達の彫刻家です。この霊廟はジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)(1498年~1555年)に献げられた・・とされているが・・。実際はジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)とジョバンニ・アンジェロ・メディチ (Giovanni Angelo Medici)の2人の兄弟の墓碑である。おそらく製作依頼者は弟のジョバンニ・アンジェロ・メディチ (Giovanni Angelo Medici))(1499年~1565年)実は彼がミラノ出身の教皇ピウス4世(Pius IV)(在位:1559年~1565年)なのであるレオーネ・レオーニ(Leone Leoni)のこの霊廟はしばしミケランジェロの影響がある・・と言われているが、ジョルジュ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)によればこれはまぎれもなくミケランジェロによって提供されたデザインに基づいて製作されているそうだ。そしてそれはレオーニにとっても革新的挑戦であったとされている。福者シュスター枢機卿とマティーニ枢機卿の記念日ミラノ大聖堂で特別典礼されていた祭壇が2基ありました。(1基しか撮影していなかった)下はおそらくミラノ大聖堂の大司教であったカルロ・マリア・マルティーニ(Carlo Maria Martini's)枢機卿 (1927年 ~2012年)の柩 2012年8月31日にガッララーテで亡くなったそうで今年がマルティーニ枢機卿の2年目の記念日。もう1基の祭壇には福者シュスター枢機卿が同じようにガラスの柩で公開されていました。アルフレド・イルデフォンソ・シュスター(Alfredo Ildefonso Schuster)枢機卿(1880年~1954年)(ミラノ大司教 在位:1929年~1954年)今年はシュスター枢機卿の死後の還暦記念日だそうです。(聖者は亡くなった日を以て天国に生まれ変わる・・と言う思想なので「死後」とは失礼な表現だが・・。)シュスター枢機卿は1996年にヨハネ・パウロ2世により列福された。福者(Beatus)と証聖者(Confessor)聖人には、殉教者と証聖者がいるそうです。現在殉教者と言うのはほぼ無いでしょうから列福する人のほとんどは証聖者(Confessor)となります。殉教の場合は、説明無く簡単ですが、現代の証聖者の証明はなかなか大変です。キリスト教徒としての信仰の正当性は当然、生き方でゆるぎない信仰を示した人。生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要です。不思議なのは奇跡の証明です。現在もこれがあるのか解りませんが、時代の科学で証明できない奇跡の認定がされないといけないそうです。また、一般信者からの自発的礼拝がなされているか? と言う事は候補者の人徳の高さなどを見る上で重要な項目のようです。前出のシュスター枢機卿は亡くなって3年目に墓から掘り出されて新しい祭壇が造られ祀られたようです。おそらく、すでに列福の為の候補にあがっていたと考えられます。しかも遺骸は腐敗せずにきれいな姿で残っていたそうで、それも聖人である証明の一つになるようです。 聖人認定の話しが不完全であったので書き直ししています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂マルコ・カレッリ(Marco Carelli)の石棺1408年フィリピーノ・デリ・オルガニの造った石棺に彫像はヤコビーノ・ダ・トウラダーテ(Jacopino da Tradate)派の彫刻家により彫られている。マルコ・カレッリ(Marco Carelli)は1390年の記念祭に莫大な金額を寄贈した大商人であり銀行家。彼のおかげで大聖堂の建築は弾みがついたのでミラノ大聖堂の大貢献者と言う事で民間人ながら教会に墓がもうけられている。また大聖堂の最初の尖塔(1395年~1404年)も彼に献げられている。ミラノ大聖堂おわりback numberリンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク ミラノ(Milano) 3 (ミラノ大聖堂 1) リンク ミラノ(Milano) 4 (ミラノ大聖堂 2 屋上テラス)リンク ミラノ(Milano) 5 (ミラノ大聖堂 3 外壁の装飾)リンク ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ) ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
2014年09月09日
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第262代ローマ教皇(在位:1963年~1978年)であったパウロ6世(Paul VI)がこの10月に列福される事が決定されたそうだ。列福とは列聖の前段階。つまり将来聖人認定されるかもしれない「準聖人」あるいは「聖人予備群」に相当する地位である。列聖のための調査が行われ、通常は早くても列福まで本人の死後数十年を要する。(パウロ6世(Paul VI)はなくなってから36年目にあたる。)さらに聖人認定にいたる場合は、死後数百年にも及ぶ厳しい審査が続くそうで、認定はバチカンの列聖省が審査して推挙し、ローマ教皇が許可する・・と言う形で認定される。ノミネートされた尊者(そんしゃ)の中から毎年十数人が選出されるようだが、殉教のなくなった現在にもかかわらず、列福する福者の数は意外にも増えているようだ。今回は聖堂内の祭壇や霊廟を紹介しますミラノ大聖堂はさすが歴史があり聖人認定された司教様や福者の方がたくさんおられるようです。ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)ミラノ大聖堂(Duomo di Milano)聖者の遺骸への礼拝(らいはい)聖カルロ(Carlo)奧が北翼の祭壇(マドンナ・デッラルベロ祭壇)、右が内陣内陣前と北翼の前が立ち入り禁止区域となっていた為にマドンナ・デッラルベロ祭壇とその前にあるトリヴルツィオの燭台の近景が撮影できなかった 左の翼廊(北翼)の祭壇・・・マドンナ・デッラルベロの祭壇1500年末~1614年製作の祭壇。中央のマリア像は1778年ヴインチェッゾ・プッチの作品。祭壇を遮る燭台がトリヴルツィオの燭台。トリヴルツィオ(Trivulzio)の燭台は、1562年にトリヴルツィオ司教により献上された高さ5mある鋳型の大燭鑞は12世紀頃の中北部ヨーロッパ圏の作品で装飾が素晴らしかったようだ。残念その祭壇上のステンドグラス右の翼廊(南翼)の祭壇・・・聖ジョバンニ・ボーノの祭壇7世紀ミラノを復活させた司教ジョバンニ・ボーノ(聖人)を祀った霊廟で、制作年は1600年代末~1700年初頭。中央の像は1763年エーリウ・ヴィンチェッゾ・プッツィの作品。北翼の廟とこの南翼にある廟は同一人物の作品なのだろう。それ故似ているからどちらがどちらの翼の作品か取り違えそう・・。聖バルトロメオ(Bartolomeo)の像南側翼廊。内陣寄りキリストの使徒の1人であった彼は皮剥ぎの刑で殉教したと言われる聖人である。まとっているのは自身の皮衣なのだ。殉教者の聖人像は高い信仰への模範を示しているのかもしれない。内陣を取り囲む障壁の一部(工事中の為に今回の写真ではありません。)地下礼拝堂の入り口になっている。聖カルロ(Carlo)の小礼拝堂(スクローロ)入り口聖者の遺骸への礼拝(らいはい)神の最もそばに使える聖人に敬意を表すだけでなく、人と神との間の取りなしを願う・・と言う姿勢? は、そもそもキリストの12使徒礼拝? の延長であり、やはり1つの信仰としてとらえられるだろう。それが中世より聖人認定者が増えて一段と増えたようだ。聖人像を置いたり、祭壇を造ったり・・は、なんとなく理解できるが、聖者の遺骸への直接の礼拝(らいはい)は日本人にはちょっと理解できないかもしれない。聖者の遺骸を公に公開し、皆が目にする事で御利益が得られる・・と言う事らしいのだが・・。数が増えてどんどん多神教のようになっている。キリスト教は一神教なのに・・。実は、こうした聖人信仰は地域の守護聖人に限られたり、また、準聖人である福者に対する信心も主に関係の深い地域の教会での典礼においてのみ許されているらしい。ミラノ大聖堂にはミラノの2人の守護聖人のうちの1人、聖カルロ(Carlo)が祀られている。※ もう1人の守護聖人は聖アンブロージョ(Ambrogio) で、彼も4世紀にミラノの司教だった人である。小礼拝堂(スクローロ)と言うよりは、聖カルロの霊廟である。多角形の礼拝堂1606年ニフランチェスカ・マリア・リッキーノがプロジェクト。銀の祭壇とその上に聖カルロのガラスの聖柩が置かれている。聖カルロ(Carlo)・・・ミラノの大司教(1564年~1584年)カルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)(1538年~1584年)1576年、ペストで壊滅的被害をおったミラノで危険を顧みず、市民を助け、埋葬に尽力した事などで1610年11月には早くも列聖されている。中がちょっと透けて見える。聖カルロ(Carlo)の小礼拝堂(スクローロ)反対側に地下聖堂がある。冬用の祈祷席とも呼ばれる地下聖堂は内陣後方のクワイヤ(聖職者祈祷席)の真下にあたる位置。1500年代にティバルディがプロジェクトした円形の礼拝堂で、中心に祭壇が置かれ、木製の聖職者祈祷席が配置。天蓋は漆喰に金メッキされた見事な装飾で、それを8本のカラー大理石が支えている。フラッシュをたいた写真が上。中には入れず戸口から撮影。中心の祭壇は殉教した聖人の遺物が納められていると言う。聖カルロ(Carlo)の墓碑?後陣真後ろにあった聖カルロ(Carlo)の墓碑らしきもの。遺骸は早くに列福、列聖したので祭壇を造る必要がなかったのかもしれない。これは祈念碑のようなものか?実は聖カルロはサラブレットである。パヴィアの大学で法学も学んでいる。若干22歳で枢機卿になり、26歳でミラノ司教になっている。それもこれも教皇ピウス4世が伯父だったからに違いない。そして、ペストのエピソードの後に亡くなりすみやかに列福して、列聖するまで26年。ある意味生き急いで聖人になった人である。しかし、その功績はやはり素晴らしかったようだ。ペストだけではなく教会や修道院の風紀を直し改革。司祭たちの教育の向上や貧者、病人の救済に奔走したそうだ。彼はフランシスコ会、カルメル会の守護聖人にもなっている。聖堂内部2回で終わらなかったので次回につづく。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
2014年09月04日
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ミラノ大聖堂の内部も、ものすごく広い。普通の教会なら入堂するとそこそこ内部全体が見渡せるのだが、ここは無理。何しろ身廊を支える柱も2重に構成されているから見渡せないし薄暗いから遠くまで綺麗に撮影もできない。広いから見落としている所もたくさんある。(子牛線(しごせん)の撮影を落としてしまった)古代ローマの遺跡入り口などほとんどの人は気づきもしない場所だ。しかし気付いて驚いた物もあった。側廊にあった大司教の祭壇のいくつかは石棺ではなく、ガラスの柩に入ったまさに司教様のミイラ? がそのまま見えるのだ。それもやけに生々しく・・。(それを紹介してよいものか迷う。)とりあえず聖堂内部の紹介を前後編の2回で行います。ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)ミラノ大聖堂(Duomo di Milano)撮影料司教座席緑のタグはカメラ撮影の許可書ですタグの色は日替わりか? 年毎か? 変わっているようです。撮影料大聖堂の修理、維持の為、と言う目的のもと? 昨年よりカメラ撮影したい人からミラノ市がお金を取るようになったそうです。1台? 2ユーロ。(スマホもi padも全て有料)しかも写真撮影可能な時間帯が設定されているとの事。祝祭日はミサのある午前中は駄目みたいです。聖堂を入ると受付けブースがあり、そこで希望者は2ユーロ支払いタグを巻いてもらう。知らないで撮影している人も多くいるからバックレても? と思えるが・・。ちゃんと撮影者のタグをチェックして回っている係員がいました 撮影料を取る教会は珍しいですが、オーストリアのシュテファン寺院は教会に入る事がそもそも有料。また、入場料をとってもロンドンのウエストミンスター寺院は撮影そのものが禁止されていました。聖堂の図下の左の扉が入り口専用水色の→は古代ローマ時代の洗礼堂入り口S1 S2は今回紹介するステンドグラスの位置カラーの部分は特別なミサ席? 囲われて立ち入りのできない部分。ピンクの〇は聖カルロの聖体用祭壇紫の部分(クワイヤ)は地下にもクワイヤ(カルロのスクローロ)があり覗ける。(入り口は黄色)ファサード側。正面扉は「ミラノ大聖堂 1」で紹介したルドヴィーゴ・ポリアーギの扉ルドヴィーゴ・ポリアーギの扉の上のステンドグラス聖母マリアに献堂された教会なので正面はやはりマリア様+身廊、内陣方面を撮影。内陣がはるか遠く・・。側廊から内陣は臨めないクーポラ(Cupola)の下には十字架が吊り下げられている。内陣は現在修復工事中(赤い被いがされている。)下は修復以前の内陣写真。地球儀のようなドームの塔が置かれている。左右の柱の内側が内陣。正面の主祭壇は取り壊されたサンタ・マリア・マッジョーレ教会のもの。ドーム(聖カルロの聖体用祭壇)の後ろのアプス(後陣)にクワイヤ(聖職者祈祷席)があるが、立ち入り禁止区域がある為に近づいて正面からの近景撮影は不可能でした。内陣真後ろのバラ窓(後陣を飾るステンドグラスのデザインはここだけ異なる)イエス・キリストを表現した「正義の太陽」がデザインされたバラ窓上は中側。下は外側古いステンドグラスは1400年代にに造られたらしい。近年の新しい物はガラス絵付けと言うエナメル技法で描かれている。撮影困難なので本から借りました。多角形の後陣には3つバラ窓を持つ大きなステンドグラスの窓があり、それら下は福音や聖人の逸話の絵巻になっている。まさにこれは見る聖書なのである。エナメル技法の新しいステンドグラス作品は精巧で絵画のようであるが、透明度に欠けて本来のステンドグラスの美しさからは遠ざかる気がするが・・。内陣を少し横から撮影。後陣を囲む回廊も見える。内陣入り口は左にパイプオルガン。(1500年代のもの)右の柱には司教座席がしつらえられている。修復工事以前の内陣写真司教座は他のクワイヤ(聖職者祈祷席)よりかなり前にある。写真は無いが、このクワイヤは1500年代末に着工され1614年に完成したもの。司教座席前にも紹介したが、カテドラル(司教座聖堂)たる所以がこの司教座の存在である。その教区を治める教区長が座す着座席。つづくリンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)
2014年08月29日
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タイトル変更長期旅行では、よく利用していたアメリカン・エキスプレスのドル・トラベラーズ・チェック(T/C) が今年2014年3月31日に日本での販売が終了していましたトラベラーズ・チェックはそもそも海外渡航中の現金の盗難や亡失といったリスクを回避する為にできた旅行小切手でしたが、昨今は国際キャッシュカードやクレジットカードの普及に加えてデビットカードが現れ需用が一気に激減していたようです。これからはクレジットカードか? デビットカードか? あるいは電子マネーか?デビットカードは自分の口座にお金さえあれば即時決済です。だから買い物をする時点で口座にお金が無ければならないが、購入の時のレートで決済されるから納得が行くのが利点。一方クレジットカードでは、決済の時期が購入時と異なる為に為替のレートが変わってしまう問題があった。(ヴィトンなど高額の品物を買うとレートが高い時に決済されていた。)またクレジットカードはお金が無くても借金できる利点がある一方キャッシングすると実はものすごく高利。(気付いていない人が多い。)逆にデビットカードはクレジットカードの取得が困難な若者でも口座開設と共に発行されるが、即時決済のリスクが生じるし、クレジットカードと違って24時間利用できない場合があるそうだ。(即時決済のリスクとは、店員の入力ミスによって金額に重大な問題が生じた場合でも一度デビットカードで決済すると(海外の場合)現金の時のような返金は難しい・・と言う事。)実はデビットカードも微妙な展開。電子マネーもBitCashの問題があったから今後はわからない。さてさて、大金を移動する人はこれから銀行送金か、それができなげれば危険ではあるがキャッシュを持ち歩くしかないのかな?さて、今回はレールジェット(railjet)の座席予約について・・と、ダイニング・カーで提供される料理を紹介。オリエント急行はともかく列車内レストランとしてはかなりメニューも豊富で何より味が良かったのですオーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)座席予約の確認列車レストランのメニューDining Cabinちょっとした調理室を備えた厨房のあるキャビンにはテーブルが4人がけ4つと二人がけ1つある。従来の列車はテイクアウトが中心のビストロであったが、レールジェット(railjet)では完全な食堂車レストランになっている。またBusiness(ビジネス)やテーブルのあるFirst Class (1等客室)には座席までのサービスが付いている。Economy Class(2等客室) に関しては、新幹線のような車内ワゴンサービスが来ていた。座席予約の確認ちょっと見えにくいが、天井部に赤い〇と→でしるしをしました。このような表示がされている席は、予約席になっています。ウイーンからザルツブルクまでは誰かが指定している席・・と言うサインです。これ以外の区間であれば座れます。基本、こちらの座席予約は日本のような車両単位になっていません。(日本なら自由席車両、指定席車両と分かれている。)ですから指定席予約をしていない人は、First Class あるいはEconomy Class の中で空席のところを好き勝手に座る事が可能です。(始発駅なら早く入って座席をとれるが途中駅からの乗車なら予約しておいた方がよい。)First Class の指定料金は一人3ユーロで意外に安い。尚、チケットの値段は同じ区間でも取り方によりバラツキがありすぎでした。例 ウイーン~ザルツブルク (317km) 所要2時間40分から3時間 乗車運賃(特急料金含) First Class 1人、83.20ユーロ Economy Class 1人、47.50ユーロこれを3ヶ月近く前に予約するとFirst Class で1人34ユーロになりました。(早割がある。)どこの国でチケットを購入するか?その国にはどのような割引サービスがあるのか?当日や前日は定価になりますが、うまいことチケットを予約購入するとお得に旅ができるのです因みにドイツには土日割引があります。(オーストリアには無い)そのかわりオーストリアにはレールジェット(railjet)などの特急や急行は除外されますが2~5人のグループで、全員1日乗り放題(月~金am9:00~翌am3:00)で35ユーロと言う(Einfach Raus Ticket)格安チケットが発売されています。列車レストランのメニュー最初に座席にメニューが配られました。列車内レストランはHenry am Zugと言うウイーンの会社が運営。この会社は他の列車にも提供しているようですが、おそらくレールジェット(railjet)はここが一社独占のよう。※ Economy Class (2等客室)はもう少し小ぶりな冊子が椅子の前に挟まっていた。自分達は予約の段階で向きあわせの固定テーブル座席を指定していたので席でサーブしてもらえた。値段は割と安い。しかもパン付きで非常においしかった ほぼイメージ通りこのサンドイッチは感激。別の乗車時に再び注文して2度も食べた 朝食セットメニュースパークリングワイン付き朝食カレーやシチュー、スープなどもあるし、ホットサンドやサラダもある。キッズ・メニューカプチーノ 2.8ユーロ左のプレッツェルはよくわからないがサービスでもらった。注文した人だけなのかは不明。飲み物はソフトドリンク7種、ビール5種、ワイン&スパクリング8種、コーヒー&ティー9種など種類も豊富。値段もリーズナブルで列車内の割にはむしろ安いかも・・。尚、値段には20%~10%の付加価値税が含まれて表示されている。テーブルでのサービスだったので給仕さんにチップは1割ほどのせて渡したが、Dining Cabinで直接購入するならそれはいらない。また乗りたいな・・と思える列車でした。バックナンバーリンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)ザルツブルグの所でQBBの発券機を紹介しています。リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)
2014年08月25日
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