全1386件 (1386件中 101-150件目)
お知らせ2013年8月「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」のカテゴリーを「お金」に変更。金融街シティの成り立ちの話になっています。リンク 「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」さて、今回は科学系ですカテゴリーを「珍品」にするか迷ったのですが・・なぜかわかりませんが、昔々紹介した「世界で最も醜い植物 第4位 (ジャイアント・ウェルウィッチア)」のアクセスが増えています。画像の解像度の悪い時代のものだったので、気になっていたのですが、写真の入れ替えだけするよりいっその事全部造り変える事にしました。写真はたくさんあるので増やす予定です。で、ウェルウィッチア(Welwitschia)の写真を見ていたら、先に紹介しておきたいものが出てきました。それはウェルウィッチアの生息地の歴史にかかわるものなのです。言ってしまえばそれは太古の地層で生成され、地上に再び姿を現した珍しい化石です。ところが、それと同じ物がアメリカ大陸にもあったのでウェゲナーの大陸移動説を考えながら両者に関係があるのか調べていたらパンゲア大陸、ゴンドワナ大陸と膨らんで、地球史そのものをひもとく事に・・。私的にはちょっと地球にロマンを感じた内容です。遅れた理由は、こだわりすぎた事。紹介する地球生成の地質年表に納得の行くのが無くてPDFでオリジナル作成しました。それだけで4日もかかった。ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動石化の森(Petrified forest) ナミビア・コーリシャス(Namibia, Khorixas)幻のダマラランド(Damaraland)現在に至る地球の大陸移動と生成石化の森(Petrified forest)珪化木(けいかぼく)アリゾナの石化の森地球生成の地質年表アフリカ南部のナミビア共和国の街、コーリシャス(Khorixas)から42km(26マイル)西に位置するC39道路沿い。東にカオコベ砂漠(The Kaokoveld Desert)が隣接する砂漠とサバンナの狭間。そこには古代の地球の残骸が転がっている。化石の残骸に住み着いた住人。まずはナミビア共和国の位置から石化の森(Petrified forest)赤い丸・・コーリシャス(Khorixas)の町はその右幻のダマラランド(Damaraland)最近の旅行案内ではこのあたりをダマラランド(Damaraland)と呼んでいるようだが、これは正式名ではない。1914年、南アフリカ軍が南西アフリカに侵攻、支配されていた時代(アパルトヘイトの時代)にダマラ族の土地として独立する機運があり名前ができた。しかし、ダマラランド独立は他の南西アフリカと共に、1990年3月ナミビア共和国独立の中に統合され、幻に終わった。現在のコーリシャス(Khorixas)は暖かい暑い夏と穏やかな冬の半乾燥気候。もともと人口も少ないが、荒涼とした大地には生息できる生物も限られているので、手つかずに、今も古い地球生成過程のドラマの一部が残っているのだ。ここで、地球生成の過程を簡略に紹介。先ほど触れたウェゲナーの大陸移動説です。いらないと言えばいらないけど後々、解った方が面白いので載せました ※ アルフレート・ウェゲナー(Alfred Lothar Wegener)(1880年~1930年)初期ウェゲナーの大陸移動説では原動力を地球の自転に求めた事から存命中は否定される。近年、海洋底拡大説が出てからジョン・ツゾー・ウィルソン(John Tuzo Wilson)(1908年~1993年)によって、1968年にプレートテクトニクス(plate tectonics)が完成された。現在に至る地球の大陸移動と生成細かい事は省きますが、大きく時代区分は4つ。先カンブリア時代、古生代、中生代、新生代→現代先カンブリア時代は地球の土台、地球生成の時代と言える。先カンブリア時代末、大陸の生成は6億年程前から始まった。ロディニア大陸分離→初期のゴンドワナ大陸の誕生。古生代(こせいだい)に入りオゾン層の形成が開始。4億年前(シルル紀)にオゾン層が完成。生物は陸上に上がる。古生代末、石炭紀からペルム紀、ゴンドワナ大陸は北上(地球の気温上昇)してユーラメリカ大陸と衝突→巨大パンゲア大陸の誕生。上は現在の大陸が割り振られたパンゲア大陸の想像図です。これらがさらに分離移動して現在の大陸の位置に移動。因みに石炭紀にはパンゲア大陸は南極部に位置していたので寒冷。石炭紀後期に北上して赤道に向かうので温暖化する。古生代・ペルム紀~中生代・三畳紀「P-T境界」地球史上最大規模の火山活動があり環境が激変。生物ばかりか植生も一変する。重要なポイント。下図は三畳紀の大陸移動図 2億5000万年前から2億年前(三畳紀末)中生代(ちゅうせいだい)、三畳紀からジュラ紀、2億5000万年前にパンゲア大陸は分裂→ローラシア大陸とゴンドワナ大陸に分離。ジュラ紀、さらにゴンドワナ大陸は分裂→西ゴンドワナ大陸と東ゴンドワナ大陸に分離。下図は、ジュラ紀の大陸移動図 2億年前(三畳紀末)から1億4500万年前(白亜紀頭)ジュラ紀はまさに恐竜の時代。離れる大地の間の浅い海は恐竜を多様化。そして鳥類も誕生。白亜紀(はくあき)、西ゴンドワナ大陸は分裂→現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸に分離。東ゴンドワナ大陸も分離→インド亜大陸及びマダガスカル島、南極大陸およびオーストラリア大陸に分離。下図は白亜紀の大陸移動図 1億4500万年前(白亜紀頭)から6500万年前(白亜紀末)インド亜大陸とマダガスカル島が分離。インド亜大陸はユーラシア大陸に向けて急速に北上開始。白亜紀前期は、長期にわたる温暖で湿潤な気候。現在より高い海水温でジュラ紀に続き恐竜や爬虫類は全盛しているが、白亜紀後期、恐竜を代表とする大型爬虫類やアンモナイトが絶滅。 生物の個体もがらっと変わる。段階的に変わったのか? 末に起きたインパクトによって変わったかは不明。.中生代・白亜紀~新生代・古第三紀「K-Pg境界」白亜紀末、地球規模の大絶滅が起こり、恐竜類は鳥類を除いて大量絶滅。種のレベルで最大約75%の生物が絶滅。個体の数では99%以上が死滅。.イリジウムが大量に含まれた粘土層の発見から火山説と隕石の落下説があった。現代の調査ではメキシコ、ユカタン半島付近に落ちた直径10kmの巨大隕石(小惑星)の衝突によるものであると結論。※ 2010年にサイエンス誌の発表では衝突した小惑星(チクシュルーブ衝突体)の直径10~15km、速度は約20km/s、衝突時のエネルギーは広島原爆の約10億倍。衝撃はマグニチュード11以上。高さ300mの津波発生と推定。前出、アンモナイトの絶滅は以降の海中環境の激変による食物連鎖が崩れたからか?.下図は新生代(古第三紀、新第三紀、第四紀)の大陸移動図 6500万年前(白亜紀末)から現代新生代(しんせいだい)南極大陸からオーストラリア大陸が分裂、北上。インド亜大陸は北上を続け、4500万年程前にユーラシア大陸に衝突してヒマラヤ山脈を形成。人工衛星による測地観測により、現在進行形で今も大陸は移動しているらしい。.上の説明では大陸移動に重点をおき、生物は省きましたが、大陸移動と環境と生物の出現、生息を見るとより解り易いと言うものです。ブログの最後にオリジナルで造った「地球生成の地質年表」を載せておきます。.さて、ナミブのコーリシャス(Khorixas)にある石化の森(Petrified forest)に戻ります。体の柄はまるで鱗木(りんぼく)の皮のよう。古生代石炭紀に繁栄し、二畳紀に絶滅した植物ですが・・。この生物の名前はわかりませんでした。ナミブで見る他のトカゲ類とはちょっと姿が違う気がします。頭がカエルぽい気がするしワニの頭にも似ていそう。水性の生物が水面に顔を出す時に便利そうな頭です。体はポテっとして湿っているようで、どちらかと言えば両生類に見える肢体です。でもこの地帯はウェルウィッチァ(Welwitschia mirabilis)の生息地でもあるので水は極めて少ない場所です。(夜、霧が発生するかも・・。)この子はどこにいるのでしょう?岩場の中で寒暖をしのいで生活しているのは解りますが・・。エサは何なんでしょうね。ズームアウトをすると解るこの子の小ささを・・。そしてその場所に驚く。この子の巣は岩場でなく、木の幹? の一部だと言う事を・・。木の幹? ズームすると確かに石でしたよね。そう、これは石になった木の幹です。つまり木の化石と言う事になります。実は小さすぎて最初気付きませんでした。化石を撮影していた過程の副産物でした。.石化の森(Petrified forest)周りは見る限りサバンナ地帯。その中に枯れた倒木が・・と思いきや、転がる倒木は全て石化していたのです。確かに写真で見てそれは木の幹そのもの。しかし触ると固い石。「Petrified forest」とは樹木の幹が大量に堆積され化石となった場所なのです。樹皮の一部からメノウが見える。主成分は二酸化ケイ素(SiO2)、メノウは水晶なとと同じ石英系の生成物だそうだ。水晶が大きな塊の石英に対して、微少な結晶が集まり、かつ、様々な成分が混じって模様を造ったのがメノウらしい。メノウの生成には火山性(volcanic)と、堆積性(Sedimentary)の物があり、こちらは堆積性の生成。.珪化木(けいかぼく)こう言う木の化石を珪化木(けいかぼく)と呼ぶ。珪化木は,地質時代の樹木や木材が数百万年から数千万年というきわめて長い年月地層に埋蔵されている間に,木質部の細胞や組織がシリカ鉱物(二酸化ケイ素)で置換されることによって起きた木の化石である。.おそらく、古代にあった木々は大規模な洪水によって流され、砂の多い河道に溜まる。そして川床の砂や火山灰、あるいは火山灰を含む砂に埋もれる。空気を奪われた木の幹は腐敗せず、珪化が起こり石化したものと思われる。倒木の化石の大きな集積は森(forests)と呼ばれる事から石化の森(Petrified forest)と呼ばれるようになったのだろう。.石化の森(Petrified forest)では化石となった木の幹の大半は倒れた状態で保存され、周辺の砂はいったん地層下で砂岩層になり、地表に出てから風化により砕け始めている。また地表に出てから8000万年とも言われているが、それらもなんらかの衝撃により劣化? 砂に返り始めている。.下は崩れ始めた巨大な2本の木の幹。右の方はまだ形が残っているものの、左の方は、確かに昔はそこに横たわっていたのだろう・・と言う残骸だけになっている。じき、にこれらも風化が進み最後の一粒も風にとばされて行くのだろう。.「諸行無常」をこんなところで感じている場合ではないが・・。これら元になる植物が最初に堆積したのは2億8000万年前だとか・・。これについてはちゃんとした確証がとれていない。が、もしそうであるなら古生代ペルム紀であり、先に紹介した古生代・ペルム紀~中生代・三畳紀「P-T境界」あたりと推察される。珪化木(けいかぼく)の素材も、ここでは「モミやマツの原型」といわれる種類だとされているがひょっとしたらナンヨウスギ科なのではないか? と推察する。.アリゾナの石化の森実はアメリカのアリゾナに同じような珪化木の森がある。アリゾナ州北東部の国立公園(Petrified Forest National Park)がその保護に当たっている。何しろ世界最大規模のしかも色鮮やかな珪化木の森らしい。.アメリカの方は研究も進んでいるからいろいろ解っている。品種は北半球では絶滅したナンヨウスギ科のアラウカリオキシロン・アリゾニカム (Araucarioxylon arizonicum) 種らしいし、地層から三畳紀前期。2億5000万年〜2億年前(三畳紀)、アリゾナは超大陸のパンゲア大陸の北西に位置しいた。そこに直径60cm以上。高さ60mもあるアリゾニカムの森林が群生していたらしい事が解っている。.三畳紀末、ちょうどバンゲア大陸が移動分裂を始めた頃、この砂漠地帯は熱帯に位置し乾季と雨季があったそうだ。気候は恐らくモンスーン気候。洪水の季節になると木々は押し流され、先ほど紹介したよう砂利混じりの砂の層に埋められ火山灰は、埋められた木を化石化した。二酸化珪素に、鉄やマンガンなどの多くの酸化物が混じりあい色が非常に多様なのがアリゾナの特徴らしい。さて、不明の多いナミビアの方の珪化木であるが、ペルム紀と言うのは違うかもしれない。先に紹介したように。「P-T境界」は特別なカテゴリーなのである。古生代・ペルム紀から中生代・三畳紀にかけては大きな環境の激変があり生物の種も激変している。裸子植物が出現するのも「P-T境界」あたりなのでナミブの森も2億8000万年でなく、アリゾナとほぼ同じ2億5000万年〜2億年前(三畳紀)、頃だったのではないか? と推測する。時代によっては1000万年の違いは大きいのである。大陸は動き環境がかなり変わって来るので・・。.三畳紀、ナミビアはパンゲア大陸の内陸地でしたね。あの頃は全ての大陸がひっついていた。貴重な時代です。アリゾナもこのコーリシャスにある石化の森も共に北に砂漠を従えている事が特徴です。ここに隣接するカオコベ砂漠は北のアンゴラのモッサメデス砂漠に続く。そのベルト上にウェルウィッチア(Welwitschia)の生息地が重なっています。今回の写真の中にも何気にウェルウィッチアが写っています。.地球生成の地質年表 造って初めて気付いたが、大きな時代区分(先カンブリア時代、古生代、中生代、新生代)は環境の劇的過度期(かとき)であり、新時代は新生物の出現で振りわけられていたようです。.オリジナルの表には、他の年表にはない特徴がいくつかあります。基本、この年表は大陸の移動分離の時代を見る為の年表です。ですから生物についてはほとんど入れていません。色々盛ると目的がぶれるので・・。どの年表にも入れられて無かったのであえて加えたのが「P-T境界」と「K-Pg境界」です。極めて大きな過渡期である古生代からの中生代「P-T境界」と中生代からの新生代「K-Pg境界」を入れた方が理解しやすいと思ったからです。※ P-T境界はペルム紀(Permian Period)と三畳紀(Triassic period)の略。同じく「K-Pg境界」は白亜紀(Cretaceous)(独 Kreide)と古第三紀(Paleogene)の略。「C」が多いのでドイツ語の「K」が付けられたそうだ。また、オゾンの形成についても年代を入れました。地球史では重要な項目です。その方が生物の誕生や進出が解り易いので。スマホで見られるように幅も狭くしたのですが、小さくて読めないかな? A4にギリ収まるように造りました。 ※ エクセルで造りPDFにはしたのですが、普通の写真形式でしかのせられませんでした。.今回、大陸移動と合わせて時代を分類してみて気が付いたのですが、地球の環境と合わせて考えるには逆に必要な事だったのでは? と思いました。いろいろこれから利用できそうです。.次回は、ウェルウィッチア(Welwitschia)をきちんとした形で作り治します。実はウェルウィッチアも2000年と言う長い月日を生きている化石のような原始的な植物です。次回も今日の大陸移動図が役に立つのでは?リンク 新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)
2018年05月23日
コメント(0)
改めて造幣局の写真を見返すと、今欲しい写真が足り無い事に気がつきました。今月末か来月頭に大阪に行くので造幣博物館にもう1度立ち寄って写真を撮って来なければ・・と思ったのですが、写真が足り無くても、このまま続けてしまう事にしました「Gold standard」を日本では「金本位制(きんほんいせい)」と訳しますが、国の貨幣の基準を金に置いて価値を決めるやり方です。金本位制を採用している国同士の場合、流通している通貨が異なっても「金」を主体にしているので事実上共通の通貨と同じ扱いができるわけです。幕末当事、アジアではメキシコ銀が流通していた事から国内ではメキシコ銀(8 レアル銀貨)と同質量の本位銀貨を発行した方が良いと言う「Silver standard(銀本位制)」の考えが圧倒的。※ アメリカではメキシコ銀貨は米1ドル銀貨と同等に扱われていた。米1ドル銀貨もほぼ貿易用です。しかし、世界の多勢では金本位が圧倒的?日本の「Gold standard(金本位制)」を強く押したのは伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)だったそうです。※ メキシコ銀とは、もとはスペイン時代に南米が開拓され欧州に流入したメキシコ産出の銀である。(1821年メキシコは独立)。しかし、南米からの多量の欧州への銀の流入は欧州経済を乱し1816年にイギリスは金本位に移行すると他国も銀本位からの離脱が進む。結果、伊藤 博文の言うように明治政府は「Gold standard(金本位制)」を採択。補助銀貨としてメキシコ銀と同質量の一圓銀貨を発行し、貿易決済用銀貨として使用される事に決まったそうです。※ 伊藤 博文は英国に留学して文化や作法を習っていたからね。つまり明治政府は本位貨幣を金貨にし、新たに日本の金貨及び補助貨幣として銀や銅の製造を決めたわけです。そもそも、江戸時代から幕府が金本位であったのは確かです。各藩が発行する金貨も存在。ところが幕末には各藩も財政難となり、偽造貨幣まで造られ市場は混乱したのだそうです。何しろ金や銀は、含有量をちょろまかしても簡単には解らないので・・。かくして、1871年(明治4年)、新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が発布され、最初に銀貨、そして金貨が発行される事になった。本位金貨は、1円、2円、5円、10円、20円。1871年(明治4年)8月から金貨が鋳造・発行。(3年銘も存在。)同時に1円銀貨と貿易銀貨(一圓)が発行される。※ 当初は金平価1 円=金1.5g=1ドル。また旧1両は、新1円と等価となる。さらに補助貨幣として、補助銀貨(5銭、10銭、20銭、50銭)。補助銅貨幣(2銭、1銭、半銭、1厘)。が発行されることに決まった。大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話Gold standard(金本位制)明治初期の貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)と 龍金貨の流通なき金本位制種印(たねいん)ギザの話明治初期の貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)と 龍明治3年発行 20円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径35.06mm 量目33.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)上の写真と下の写真のコインは同じ金貨でも額面が異なる。つまり、大きさも重さも異なる。現在と異なり、明治初期の金貨2円、5円、10円、20円の絵柄はサイズが違えど額面以外は同じなのである。では何が違うか? 絵柄の出方である。小さくなればなるほど絵柄は不鮮明になるのが実状。原盤(種印)も小さくなればプレス(圧印)にも支障がでる。当初の貨幣製造では、綺麗に製造できない貨幣も結構あったらしい。例えば、明治3年の5銭銀貨(15.15mm)は素材の問題もあるが、龍の鱗が不明瞭で出来が悪いのがほとんどだったらしい。明治4年銘の硬貨は作り直した極印を使用。それでもほとんど綺麗に製造できなかったらしく、再度、明治5年に造り直し。龍図をあきらめて「五錢」の文字に改正したと言う。金貨の1円に関しても同じ、小さすぎて龍図は入れられずデザイン変更。それのみ「一圓」の額面入り。明治3年発行 2円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径17.48mm 量目3.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)錦旗(きんき)錦の御旗(にしきのみはた)の略. 天皇(朝廷)の軍、つまり官軍である事の旗印。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習により生まれた軍旗であるが、定まったスタイルがあるわけではなかったらしい。明治維新の際には、赤地の錦に日月紋、または菊花紋を描いた二種、「菊章旗」と「日月旗」がある。日章(にっしょう)太陽をかたどったしるし。日の丸のしるし。白地に赤の日章をあしらったのが現在の日本の国旗。1870年(明治3年)太政官布告で日本の商船が掲げるべき旗と定められ、後に上国旗となる。因みに、日章(太陽)がさんさんと輝くように光条(旭光)が付いた意匠を「旭日(きょくじつ)」と呼ぶ。龍(りゅう)元首の象徴である龍。実は外国の貨幣と同じように国家君主の肖像を・・と言う話が外国人よりあったらしい。しかし天皇陛下の肖像など恐れ多くて無理。と言う事で代わりに元首の象徴として龍が描かれたそうだ。デザイナーは彫金師 加納夏雄(かのう なつお) 造幣博物館で撮影加納夏雄(かのう なつお)(1828年~1898年)明治維新後に皇室御用人となり、明治天皇の太刀の金具を彫刻した加納夏雄(かのう なつお)に1869年(明治2年)、白羽の矢が立つ。彼のデザインした貨幣の原画はお雇い外国人らも感嘆し、当初イギリスに発注するのを取りやめて採用。1875年(明治8年)、退官。値付けなどの彫彫金師に戻るが、明治期の貨幣のデザインは加納夏雄とその門下生(益田友雄)の仕事だそうだ。1876年廃刀令が交付されても彼の人気は衰えず海外でも人気となり1890年第3回内国勧業博覧会では作品が受賞。この年東京美術学校の教授に就任。さらに第1回帝室技芸員に選ばれている。明治以降の貨幣 明治4年から明治11年までの金貨と銀貨の詳細(造幣局資料一部に手を加えました。)黄色・・金貨 青色・・銀貨 赤色・・龍の絵柄 オレンジ・・ 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)※ 上の資料は見学ツアーの時にもらったもの。コインの重さや品位などはこの資料から紹介しています。本家ですから間違いないでしょう。明治3年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 龍 裏 日章(にっしょう)明治7年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 一圓 裏 龍下は上と同じ明治7年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影こちらにはサイズ質量とももっと詳しく書かれていた。量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10明治8年発行 1円銀貨 (貿易銀) 造幣博物館で撮影量目27.216g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10※ 明治8年発行の貿易銀に関しては、気持ち量目が多くしてアメリカ貿易銀と同量に。「貿易銀」と銘が入るのは明治8年から。しかし、この事が海外でつぶしの対象になってしまい明治11年に元に戻したらしい。金貨の流通なき金本位制実は金の回収率が悪かったらしく、そのほとんどが海外に流出して戻って来なかったらしい。冒頭に「Gold standard(金本位制)」の話をしましたが、実際には金貨が足り無くて銀貨が代わりを務める自体になるのである。旧金貨は発行高の8割以上、新金貨も発行高の7〜8割が海外に流出。国内残高も、その大半が正貨準備として日本銀行に保管され市場で流通したものはごく一部。その為に1878年(明治11年)から日本国内でも一円銀貨の流通が認められる事になったのです。金準備が不足し名目と化した金本位制の下で、銀が事実上の本位貨幣になっていたのである。因みに、それら金貨は、近年、未使用や美品の状態で海外から多く戻ってきているらしい。明治13年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10ところで、3枚は表を紹介している。明治の段階では表裏が公式にあったらしい。明治7年と明治11年からの貿易1円銀貨は龍図と額面の裏表が逆転している。種印(たねいん)と極印(こくいん)ところで、コインを造るのに圧印機でプレスする機械の話はしたが、コインの絵柄の原図から原盤となる種印(たねいん)を造り、種印から極印(こくいん)を造っている。当初種印はコインのサイズと同じ小さい物。前出の加納夏雄(かのう なつお)を筆頭にする彫刻所で、直接タガネから手作業で掘り出していたそうです。信じられ無い事に本当に彫金作業だったようですね。因みに、当初、種印は海外に発注する予定が加納夏雄(かのう なつお)の腕前に日本で造る事が決まったようです。上・・直彫(じかぼり) 10円金貨併用極印(こくいん) サイズは29.42mmくらい?下・・一銭銅(手彫り) 直接、銅円板に彫刻した高肉彫り。作者は宮内勘三郎。明治2年になっているので試作品か? サイズは27.27mmくらい?下は直接鋼鉄に手彫りした極印(こくいん) 右が加納夏雄 左が益田友雄(夏雄の門下生)1877年(明治10年)第一回内国勧業博覧会で授与するメダルの極印(こくいん)。1904年(明治37年)、フランス・ジャンビエ社から縮彫機(しゅくちょうき)を購入。種印の製造が画期的に変わる。下の機械は1925年(大正14年)購入されたもの。パンタグラフの原理を応用して大きな原画から小さな種印を製作する機械である。とは言え、当初は賞牌(しょうはい)のみに利用。硬貨に利用するのは1918年(大正7年)が最初。実物より6倍くらい大きな大きな原画を作成し、縮彫機(しゅくちょうき)に取り付ける縮彫原板を作成。縮彫機(しゅくちょうき)で原板を縮彫した種印(たねいん)を造る。現在の硬貨の極印(こくいん) 造幣工場内で展示されているもの。100円の極印(こくいん)ここでコイン製造の工程を簡略に紹介。熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)圧穿(あっせん)焼鈍(しょうどん)洗浄(せんじょう)圧印・検査(あついん)圧印済み貨幣計数・封緘(けいすう・ふうかん)ギザの話貨幣の縁には通称ギザと呼ばれる模様が入れられている。下はそのギザの模様3種である。そもそもギザや穴の主な目的は目の不自由な人が手触りで判別できるようにする事であったそうだ。また、10円硬貨の平等院鳳凰堂のような細かなデザインは、当初高額硬貨であったため偽造防止の意味も含めて決められたものらしい。偽造防止と言う観点で言うと、現在最高額である500円硬貨は、旧500円硬貨の大量変造事件を受けて材質をニッケル黄銅とし、潜像・斜めギザ・微細線・微細点などの偽造防止技術を施しているそうだ。それ以外にもギザを縁に付けた理由はある。当初は金や銀の貨幣である。削り獲られる事を防止する意味でギザは必要だったらしい。ギザが消えていれば削られた事がすぐに解るからね。※ 五銭以下の銀貨や銅貨には入っていない。薄すぎて入れられなかったのかも。造幣局の人が言うには、基本ギザは一番高額なコインに入れられる印だそうだ。ここで確認をおこたったのだが、現在は、50円以上のコインにギザが付いている。一番高額なら500円だけになぜしないのだろう? と疑問が残った。発行当時からデザインが変えられていないからかな?ギザ10コレクターの間で稀少性が言われているギザ10の話であるが、現在の10円にギザは無い。ギザが付いて入るのは、1951年(昭和26年)~1958年(昭和33年)の10円である。※ 1956年(昭和31年)は発行数0要するにかつて10円の縁にはギザギザが付いていたが、1959年(昭和34年)には消えたのである。だから今や幻ともなったギザのついた10円に希少価値を持ってサイフの中を探す人がいるのだ。しかし、サイフの中にあるコインに実は価値はありません。基本、価値のあるコインはどれも未使用品のみです。造幣局で売られているその年のコレクション用のミントセット(通常貨幣セット)かプルーフセット(特殊加工)に収められているコインと言う事になります。では毎年コインセットを買おう・・と思ったのですが、額面666円なのにミントセット(通常貨幣セット)でも3倍以上のお値段がしています。なぜ?因みに発行数0は当然無いわけですが、発行数の少ない年も、セット販売用がほとんどで、市場に回らない事もあるようです。だからサイフの中を探しても駄目なのです。基準は10円が最も高額のコインであった時代の事である。しかし、50円が1955年(昭和30年)から発行されている。さらに、100円が1957(昭和32年)から発行されている。その理論で言えば50円が登場した1955年(昭和30年)から消えても良いはず。なぜ3年も猶予があったのだろうか?この辺の話は宿題にさせてもらって、造幣局で確認して来る事にします。また、コインの年度別、発行枚数についても紹介する予定でしたが、宿題がわかった時まで持ち越しです。それにしても、コイン製造工程を紹介するつもりが、なんとなく、幕末と経済の話になってしまいましたね (*^-'*)> ぽりぽりback numberリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話関連リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2018年05月12日
コメント(0)
鎖国時代に、幕府が海外の情報を聞いて記録した「オランダ風説書」と言うのがある。何気に見ていたら1852年送付の末尾に「ペリー来航予告情報」なるものがあった。アメリカが日本と貿易関係を結ぶ為に近々施設団を日本に送る・・と言うウワサが流れている。と言う内容だ。驚くのは内容がかなり詳細で、アメリカは貿易の為に港を幾つか開いて欲しい。さらに中国とカリフォルニアを結ぶ汽船の為に石炭を貯蔵できる港が一つ欲しい・・と言う要望だ。また、それにはすでに中国海域にいる蒸気フリゲート艦サスケハナ号とコルヴェット艦のサラトガ号、ブリマス号、セント・メアリ号及びヴァンダリア号がいて、彼らが使節を江戸に送るよう言われている事。さらに、最近の情報で、遠征軍指令軍オーリック准将とペリー准将が交替する事。それに伴い中国海域の船は蒸気汽船ミシシッピ号、プリンストン号、ブリック艦ペリー号、運送船サプライ号などで増強されるだろう事。ただ上陸用並びに包囲網の資材はすでに積み込まれたものの艦船の出発はかなり遅れるだろう・・と言うもの。どうもこれらは新聞による情報らしいが、日本はこれを聞いて驚愕しただろう事が思い浮かぶ。わざとビビらせて・・と言う所だろうし、オランダもアメリカより先に日本と条約を結びたかったのでオーバーに知らせたかもしれない。まあ、それはともかく、重要なのは、幕府の上層は黒船の来航を事前に知っていたと言う事実である。何も知らない市民は驚いただろうが、幕府の方は覚悟していたのだろうな・・と言う事が解った事だ。実際ペリーの来航は翌年である。だからペリーの艦船が来ても慌てずに武力行使する事もなく、幕府側が艦船を誘導して浦賀に接岸させたのだろう。※ 2016年11月「2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)」の冒頭で「オランダ風説書」の事を書いています。リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)とは言え、艦船の脅威を見ても開国反対派はまだたくさんいた。幕府内は揺れ動く事になる。薩摩藩や長州藩などは大政奉還(たいせいほうかん)よりも前に藩士らを留学させている。また幕府の方も外国奉行 池田 長発(いけだ ながおき)(1837年~1879)以下34名からなる遣欧使節団をパリに派遣(1863.12~1864.12)。(スフィンクス前のサムライ写真で有名)。そして欧州を見た彼らは開国の必要性を感じ、必死で勉強して知識を積めて戻って来たのである。大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場ペリー来航予告情報(オランダ風説書)ゼロからの造幣局オリエンタル・バンクとお雇い外国人お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド長州五傑(長州ファイブ)薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)コイン製造の為の機器とコイン製造工場ゼロからの造幣局日本初の近代工場と言っても過言でない造幣局の建設は何もかもが無い所から始まっている。まずはちょっと年表から1853年7月、黒船が来航1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定。1867年(慶応3年)11月、大政奉還(たいせいほうかん)1868年(明治元年)、政府は造幣工場の建設を決定。11月には建設が開始される。驚くのは大政奉還した翌年には造幣局の建設を決めている事だ。日米修好通商条約で決めた貨幣の取り決めに不都合があり、早急に欧米並みの日本国の通貨を造らなければならなかったからだ。造幣局の機械は、イギリスが香港に設立して廃局していた造幣所から中古の機械を購入した。創業時の設備機器(一式、6万両で購入)全設備の原動力となる20馬力の蒸気機関2基。金溶解用コークス炉6基、銀溶解用コークス炉12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、仏トネリ社製圧印機2台、英ワット社製圧印機6台が可動。以前NHKの連続テレビ小説「あさが来た(2015年)」で人気急上昇したイケメン五代友厚(ごだいともあつ)氏(1836年~1885年)をおぼえているだろうか? 当事、大阪運上所(現在の大阪税関)の所長であった彼がその創建時、トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)(1838年~1911年)を通じて貨幣機の購入に尽力していたのである。※ トーマス・グラバーは1859年、開港間もない長崎に武器や弾薬も扱う貿易会社を設立。長崎観光でお馴染みのグラバー邸は彼の邸宅跡。建設は大阪でも水利の良い場所に決まった。18万㎡。(56000坪)。創設時の造幣局は現在の2倍の面積を持ち世界最大規模だったらしい。設計監督はグラバーの紹介で英国人のT.Jウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)が決まる。彼は煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど言葉の通じない邦人職人を熱心に指導。※ ウォートルスは造幣局完成後、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎などの建物も残している。造幣局の建設にしても、設立後の指導にしても、また、他の分野においても、日本国は多くの外国人の専門家から教えを請うことになる。そもそも何を成さなければいけないのかもわからない状況の中、明治の新政府は、よくぞやりきったものだと思う。造幣局のお雇い外国人中央後部の3人、左からキンドル、ブラガ、ガウランド (たぶん)オリエンタル・バンクとお雇い外国人日本の文明開化は、やはり指導してくれる外国人がいたからなしえたのである。1869年(明治2年)、明治政府はオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)と条約を締結。造幣局の建設から創業に関するあらゆる人材をオリエンタル・バンクが調達している。※ 造幣博物館資料では英国東洋オリエンタル銀行バンクと呼称している。そのオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)は1841年インドのボンベイで創設された英国の植民地銀行であり、支局香港では初の銀行でもあった。明治政府は、江戸幕府から600万両の債務を継承。内訳は150万両が下関戦争の賠償金。450万両がオリエンタル・バンクやオランダ商館からの借入金だったそうだ。つまり、江戸幕府の時代から日本は借金があり、オリエンタル・バンクは幕末、明治期に日本の国債発行を積極的に行ってくれた銀行であり、明治初期の日本国のメインバンクだったのである。※ オリエンタル・バンクが失敗して1892年に清算されると香港上海銀行が台頭。お雇い外国人は日本国政府が給与を支払ってはいたが、オリエンタル・バンクが雇用契約して派遣される形を取っていたので彼らの給与は銀行側が交渉して決めていたと思われる。造幣博物館には当事の雇用資料が残っている。当時1 円=金1.5g=1ドル。※ 因みに近々の金のレートは1gおよそ5000円。大臣、次官クラスが500~800 円、局長クラス200~300 円、職工で5 円前後の中、お雇い外国人は局クラス以上の月給。特に造幣長としてヘッドハントされたキンドルは破格値だった。※ お雇い外国人は他に31人が雇用されている。外国人を合わせた当初の総職員数は220人。お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド造幣局のみならず、お雇い外国人は他の分野でも功績を残している。キンドルこと、トーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年~1884年)元香港造幣局長。1870年(明治3年)に来日して造幣寮の首長に任命されたキンドルは大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した重要人物ではあるが、その給与は当事の太政大臣(現在の総理大臣)の月給800円よりも高い月給1045ドル(1045円)。それは破格の待遇で迎えられた事を意味する。1円のレートは金5000円で計算すると7500円。キンドルの月給は今の金の値段で換算すると783万7500円にもなる 昔より金は高くなっているだろうけど足下みられた金額ですね。確かに貢献度は大であったらしいが、キンドルの横柄さは人との争いを絶えずおこし、それが後の外国人を排した自国民だけの造幣局造りを目指すきっかけになったらしい。1875年(明治8年)解雇。因みに、1870年(明治3年)発足した神戸のフリーメイソンロッジの最初のマスターにキンドルは選ばれている。※ フリーメイソンは2013年9月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」で紹介しています。リンク 2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンV.E.ブラガ(Vicente Emilio Braga)(1840年~1911年)香港の元英国造幣局長キンダーの部下。1870年(明治3年)採用。大阪造幣寮勘定役(地金局計算方)となり,日本に初めて複式簿記法を持ち込んだ人である。造幣局の会計事務を整え1875年(明治8年)大蔵省に転じ官庁会計全般の指導にあたる。いわば日本の会計の父である。20年、神戸に在住。初代ポルトガル日本領事となっている。ガウランドことウィリアム・ゴーランド(William Gowland)(1842年~1922年)1872年(明治5年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任。英国式反射炉の築造と操業を指導。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約で帰国する者が多いなか16年在職して貢献。1881年(明治21年)解雇。それは温厚で人望も厚かった人柄ゆえなのだろう。勲章や褒賞も与えられている。ブライベートでは古墳研究や地質の調査をして日本考古学の父と呼ばる研究者でもある。また日本に近代登山を紹介。「日本アルプス」の命名者でもある。他にも金銀地金及び貨幣の分析に当たったツーキー(Charles Tookey)は貨幣の信頼を担う「製造貨幣大試験」の第一回試験方(明治5年5月)を努めている。1873年(明治6年)解雇。機械技師のマンチニ(Napoleon Mancini)は、前回紹介した造幣局を描いた人でもある。1877年(明治10年)解雇。鍛冶・鋳造所の改築を設計監督したマクラガン(Robert Macklagan)らがいた。キンドルの騒動もあり、当初運営、指導していた「お雇い外国人」は1889年(明治22年)を最後に姿を消し、造幣局は日本人のみの運営に移行する。ところで、「お雇い外国人」から技術指導を受ける為には語学ばかりか、工学の知識も必要。その為に1872年(明治5年)、学校(日進学社)も開設され職員や子弟の教育も行ったと言う。長州五傑(長州ファイブ)お雇い外国人だげてなく、日本人も留学の必要性を知って渡英している。左手前から時計回りに井上馨(いのうえ かおる)(1836年~1915年)長州藩士。2代、4代、7代造幣頭。初代外務大臣。遠藤 謹助(えんどう きんすけ)(1836年~1893年)長州藩士。10代造幣局長(キンドルを解雇して復帰)。井上 勝(いのうえ まさる)(1843年~1910年)長州藩士。3代造幣頭。大蔵省に勤務してから鉄道敷設を推進。日本の鉄道の父。伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)長州藩士。6代造幣頭。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣に就任。山尾 庸三(やまお ようぞう)(1837年~1917年)長州藩士。日本工学会の父。彼ら長州ファィブの5人、は1863年5月渡英。井上馨(いのうえ かおる)の発案で密かにロンドンに留学。国力の違いに驚愕。開国論に転じたと言う。それぞれ専門を学ぶと共に帰国すると語学をかわれて要職に就いている。特に造幣局は縁が深いようだ。※ 留学に際して使われたのが(元 東インド会社)ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)の船チェルスウィック号で密航し上海でホワイト・アッダー号に乗り換えて渡英。薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)(1836年~1885年)日米修好通商条約の前年1857年、長崎で海軍伝習所伝習生となりオランダ士官から航海、測量、砲術、蘭学、数学を学ぶ。1865年には、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使として16名の若者を連れて渡英し、フランス、ベルギー,オランダなど欧州を巡り、視察と同時に紡績機械や武器の買い付けをおこなっていたそうだ。帰国した彼は薩摩藩の商事を扱う会計係に就任。戊辰戦争(1868年~1869年)では倒幕軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)として活躍。1868年(明治元年)、新政府の元で参与職外国事務局判事掛となり大阪に着任すると大阪運上所(後の大阪税関)の長官となる。造幣局の設置を進言し、大阪に誘致したのは五代友厚らしい。それは大阪が帝都になる可能性が大きかった事が上げられる。因みに大阪が首都にならなかったのは京都市民の大反対が大きかったのでは? 市民感情として、大阪より東京の方がまだマシだったのか? 前にも紹介したが実際の所、東京に遷都(せんと)されたのではなく、奠都(てんと)と言う言葉が使われているし・・。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)」の中「奠都(てんと)と遷都(せんと)」を紹介。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)コイン製造の為の機器とコイン製造工場五代友厚が購入してきた圧印機(左)は造幣博物館前庭に置かれている。圧印機とは、淵(ふち)も含めて貨幣に模様をつけるプレス・マシンである。フランス・トネリ(Tonlli)社製 圧印機1871年(明治4年)の創業時には金銀貨幣の製造に使用されていた2台のうちの一つ。他にイギリス・ワット社製の圧印機6台の計8台のレバー式圧印機が稼働していた。翌年1872年(明治5年)大型高速の圧印機が購入されるとこれらは銅貨の製造にまわされた。ドイツ・ユロル(yhlorn)社製 圧印機1872年(明治5年)にユロル(yhlorn)社から10台購入された大型圧印機は一分間に60枚程度の圧印が可能であり、金銀貨幣の圧印にまわされたのである。現在の圧印機の写真(映り込みがあってボケ気味ですが・・。)ドイツ、シュラー(Schuler)社製。圧印能力150t。現在の圧印機では1台につき一分間に750枚生産。500円高価にして37万5000円。1台の生産枚数は272000枚。金額にして1億3600万円。高額なお金を造る事になるので、工場内は巨大な金庫にもなっているそうだ。下の窓の奧にマシンがある。見学者の為の廊下。見学ツアーは予約制でツアーには担当者がつく。ちょっと何の工場かわからない感じです。ところで最初に紹介したように造幣局はゼロからスタートしている。購入した工場の機械以外にも必要なものはたくさんあった。資材の運搬には鉄道馬車が必要であったし、地金の運搬の為には蒸気船の必要があった。電報が使えるように架線がひかれ電信設備も整えられ、精製や照明の為のガス製造窯や、コークス窯も造られた。金銀の分離精製や貨幣の洗浄には硫酸が必要で、工場内に硫酸製造所が造られる。さらに硫酸ソーダや炭酸ソーダの製造も始まる。小さな機器のほとんどは工場内の銅細工所、ろくろ所、鍛冶所で造られ、時計や秤、工場を建設するレンガも焼いて造ったらしい。また、帳簿をつける為のインクなども当初は自前で手作りしていたらしい。当然そこにはお雇い外国人の指導があった。が、そのお雇い外国人を感心させる素晴らしい職人もいた。オランダ留学の経験もある大野規周(おおののりちか) (1820年~1886年)は自作の大時計、天秤を製作している。大野規周の大時計大野規周の天秤大野規周の手回し計数機1870年(明治3年)に製作。1回で24枚数えられた。下は現在の計数機造幣博物館裏にある現在の貨幣工場工場では、熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)と作業が行われている。かつては、この工場内で素材を造る所から行われていた。動力は当初は蒸気発電。1911年(明治44年)には火力発電に代わり、現在の場所に発電所がおかれていた。それがなくなったので土地も狭くなったのだろう。コイン製造過程も写真のせる予定でしたが終わります。Part3 or Break Timeの形で「ギザ」の話や「ギザ10」の製造枚数等を紹介する予定。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
2018年05月03日
コメント(0)
大規模ネット障害に関して大規模インターネット障害からやっと回復させました。パソコンでこれを見ている方には必要のない情報ですが、まだ家のパソコンがトラブッテいる方に紹介です。現在も続いている日本全国で起きているシステム障害は、対処できた人は復旧できていますが、放置していては戻らないかもしれません。実際、私は朝になっても戻っていなかったのでプロバイダーからソフトをダウンロードして復旧させた一人です。その復旧に関しては、スマホを持っていた方は対処を見つけられたかもしれませんが、当初のDNSの設定変更「8888」は通用しなかったので、別の方法をトライしました。プロバイダーからソフトをダウンロードする。繋がっていないネット回線ですが、電話回線が生きている人の場合、自分のパソコンからプロバイダーにアクセスしてソフトをダウンロードする事が可能なのです。※ 電話回線が生きている人の場合、他のサイトにもアドレス入れれば接続可能。以下に紹介するのは、うちの場合なので。NTTのフレッツ東の光回線(flets-east)の場合です。他のブロバイターの方は自分の契約の所につなげてください。パソコンを立ち上げてアドレスの左上のメニューバーの所にアドレスを入力。https://flets-east.jp/soft/setup/そして検索マークではなく、→マークをクリックすると直接サイトに飛びます。NTT東日本のサイトの以下のページに飛びます。「フレッツ簡単セットアップツール」「簡単セットアップツール」ダウンロードページここでダウロードをクリックするとセットアップーのページに飛ぶそこで必要なのはブロバイダーとの契約のユーザーIDとパスワードです。つまりダウンロードで問題は解決できますが、契約のユーザーIDとパスワードが解らないとお手上げです。.今回の問題の原因はまだ不明?NTT東日本の障害発生マップ(スマホでも確認できます)今日5月3日11時59分現在のマップ。昨晩はもっと全体に真っ赤。一瞬思ったのは外国からのサイバー攻撃です。常に日本には外部からのサイバー攻撃がしかけられていると聞きます。それをブロックしていたわけですが、それを突破されての攻撃だとしたら、これから他のサイトでもいろいろ起きるかもしれませんね。.早い所では昨日の昼過ぎから障害が発生したそうです。うちの場合は、20時頃からです。何度もルーターをリセットしながら続けましたが、5分で切れてしまう。それを23時頃まで続けてなんとかブログの方はほぼ完成したのにその後、2度と繋がらなくなったのであきらめて寝ました。.この後、造幣局の方手を入れてからアップさせる予定です。m(_ _)m
2018年05月03日
コメント(0)
今回は「大阪天満の造幣局 2」はお休みしてショートネタ。造幣局で見つけた豊臣秀吉の金の話を単独にしました。1935年(昭和10年)、造幣局の前を流れる大川(旧淀川)からとんでもないお宝が発見された。シジミ獲りの漁師が見つけたお宝は、さらに遡る事1615年(慶長20年)の大阪城落城の際に逃げる船から落とした遺物ではないかと考えられている。それは大阪造幣局のお宝となって今に展示されている「竹流金(たけながしきん)」と「菊桐金錠(きくきりきんじょう)」と名の付いた豊臣時代の金塊。秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)秀吉の金配りと鉱山開発法馬金(ほうまきん)秀吉の黄金趣味竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)冒頭紹介した川からの拾いものの金塊であるが、竹流金(たけながしきん)は文字通り竹のような鋳型に砂金を流して造られているのでそう呼ばれているが、室町時代末期から安土桃山時代にかけて作られた秤量貨幣(ひょうりょうかへい)の一つだそうだ。※ 重さが一定していないのは、使用に際して必要分を削ったり切ったりして使うタイプだかららしい。一方、菊桐金錠(きくきりきんじょう)の方は重さの一定したナゲットだったらしい。共に言えるのは軍用や恩賞用として主に利用されるタイプの金で、流通用ではなかったと言う事だ。それ故大阪城、落城の時に慌てていて落としたものではないか? と考えられたのだろう。竹流金(たけながしきん)秤量金貨(ひょうりょうきんか)として必要に応じて切ったり削ったりして使われる金。ちょっとした旅行に携帯するのに便利。菊桐金錠(きくきりきんじょう)竹流金(たけながしきん)と違って、こちらは丸ごと与えられた。こちらは平の家臣ではなく、大名クラスの褒賞用サイズですね。どちらにも菊(きく)と桐(きり)紋(もん)が刻印されている。金塊なのに着物の小紋のような素敵な柄入り。考案した人はオシャレな人だったようですね。その桐(きり)の紋ゆえに豊臣秀吉が鋳造した秤量金貨(ひょうりょうきんか)と推定されたようだ。そして、菊紋は完成品に刻印される印だったと造幣局の説明にはあった。しかし、その紋は、正確に言えば五三桐(ごさんのきり)と十六葉菊(じゅうろくようぎく)なのである。これは織田信長の使用した家紋の中の二つにあたる。左1番目が十六葉菊(じゅうろくようぎく。右2番目が五三桐(ごさんのきり)竹流金(たけながしきん)は永禄(1558年~1570年)、元亀(1570年~1573年)、天正(1573年~1593年)時代の頃、豪族や大名らが、備蓄の軍用金として鉄砲や火薬など武器の支払いや、人を雇う時などの賃金として使う目的でストック。時に武功をあげた家臣の恩賞などにも利用されていた金竿らしい。※ 平の家臣には一削りとか? 今日はたくさん削ってもらえて嬉しい・・とか? かな?まさしくそれは織田信長(1534年~1582年)の時代にピッタリあてはまるオシャレな人だったらしいから、ひょっとしたら織田信長が最初に考案したのではないか? と考えが及ぶ。確証は何も無いけどね。秀吉の金配りと鉱山開発秀吉はいろんな物を信長から継承しているので竹流金(たけながしきん)のルーツが信長にあった可能性はあるが、菊桐金錠(きくきりきんじょう)のような重量の固定されたナゲットは秀吉の頃からかもしれない。何しろ、秀吉は何かとこれら金を大名や家臣(配下の武将)や朝廷の貴族らに配りまくっているからだ。※ 有名な話では、1589年(天正17年)に身分のあるセレブおよそ300人に大判5000枚を配ったと言う「金賦り(かねくばり)」という催しがあったとか・・。それらは秀吉の下に彼らをひれ伏させる事は当然、秀吉の行う事業を円滑にする為の文字通り試金石(しきんせき)になったのだろう。それにしてもそれら金はどこから来たのだろう?なぜ、秀吉はそんなに金持になったのか?太田牛一が書かされた秀吉の軍記物「大かうさまくんきのうち(太閤様、軍記の内)」の一説。「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に、金銀山野にわきいで・・・」太閤秀吉公の世になってから日本各地で金銀が山から湧くように掘り出されるようになった。※ 太田牛一は織田信長の記録「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた人である。それ故に秀吉により白羽の矢が立ったのである。秀吉は全国の鉱山開発を進めたのだろう。おそらく鉱脈を見つける技(わざ)を知っていた?「秀吉は山の者を使っていた」と読んだ記憶がある。山の者が鉱脈を見つけて秀吉に報告していたのなら納得。山野を歩く山伏などは植生で鉱脈を探りあてると聞くからね。かくして、鉱山開発が進められると、そこは直轄領とされ、全ての金、銀、銅は秀吉の元に集まるシステムが造られたのだ。秀吉の後に天下を取った徳川家康は、秀吉のシステムのほとんどをそのまま踏襲している。鉱山ばかりでなく、金貨に至ってもほぼ同じ物が造られている。次に紹介する法馬金(ほうまきん)も秀吉が最初に造ったものである。但し、江戸時代の金貨は幕末に向かう程に金の含有量が減らされて行くのである。財源不足で・・。資料は造幣博物館から豊臣秀吉が天下を取って、スケールが違うなと驚いたものがある 次に紹介する超巨大な法馬金(ほうまきん)である。法馬金(ほうまきん)(分銅金)上は徳川時代に造られたもののレプリカだが、形は計測用の分銅に同じである。大事な事を紹介し忘れていたが、前回、両替秤用分銅で紹介した後藤四郎兵衛家であるが、分銅のみならず、金の造作(大判造りなど)も後藤家が行っていたのである。※ 後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう)について書ています。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局後藤四郎兵衛家は室町幕府の時代から御用達彫金師として刀剣の装飾など織田信長にも仕えている。いつの頃から大判の造作に携わったのかははっきり解らなかったが、秀吉と言うよりは、やはり信長の時代あたりからかもしれない。後藤家は豊臣方についた事から当初徳川にじゃけんにされるが、許しをもらい、徳川の時代も大判の製造を続けている。つまり大判小判の製造は幕府直営ではなく、民間企業による委託生産だったと言う事だ。※ 江戸に出たのは後藤四郎兵衛家ではなく分家? の後藤(橋本)庄三郎らしい。因みに、江戸の後藤家屋敷には敷地内に小判の験極印を打つ後藤役所が併設されていた。その屋敷跡が現在の日本銀行本店がある中央区日本橋本石町2-1-1らしい。法馬金(ほうまきん)(分銅金)は大判1000枚で造られた千枚分銅金(約165kg) と大判2000枚で造られた二千枚分銅金(約330kg) と言う巨大な金塊「大法馬金」と重さ375gの「小法馬金」とがある。※ 現存しているのは「小法馬金」のみ。重さではサイズ感がわからないかもしれない。正確に計っていないが、「小法馬金」は最長部6cmくらい。「大法馬金」は最長部38cmくらい。法馬金は何に使ったのか?大法馬金の表には「行軍守城用勿用尋常費」の文字が鋳込まれている。戦争となり、城を守ったり戦に出る時の軍資金であり、通常は使ってはいけない。・・と言う意味で、非常用の備蓄金と言う事のようです。確かにこのビックサイズであれば容易には盗めないですしね。最初に秀吉が造らせた事から太閤分銅金(たいこうふんどうきん)とも呼ぶようだ。大阪城にはこの大法間金が積み上げられていたらしい。でも現存は一個も見つかっていない。一方、小法馬金の方は結構見つかったらしい。ふと、思ったのであるが、徳川埋蔵金、みんなは小判だと思っているが、もし大法馬金であったなら、地中探査レーダーだけでは見つからないのでは? 金属センサーも併用しないとね。もう一つ秀吉が造った大判金貨を紹介。とてもきれいです。天正菱大判上が表 現存は5~6枚と言われるこの大判もまた後藤四郎兵衛家の作品。無名の大判に埋め金して量目を調整してあるそうだ。墨字で十両(量目)と記され、その下に製造責任者の署名と花押(かおう)(サイン)がされている。さらにその下に菱形の中に入った五三桐(ごさんきり)の印が押されている。金の品位が740/1000ですからK18(75.0%)に近いですね。下が裏秀吉の黄金趣味豊臣秀吉は、何かと言えば金を使用する。よほど好きだったのだろうと思われているが、確かにとんでもなく金が産出されて黄金三昧になれば、金でいろいろ造ってみよう・・と言う気にもなるのかもしれない。いろんな物を黄金で作ったと聞くが、珍しい物として外国人に紹介されているのが金の茶室である。秀吉の金の茶室を再現した部屋が大阪城の西の丸庭園の迎賓館にありました。見るからにこれは造りがチープですが、黄金の茶室は運搬可能な組み立て式の移動式茶室だったようです。看板にはGolden Tea Ceremony Room (Chashitsu)と書かれてました。黄金三昧とは、ちょっと成金的ではありますが、法馬金を見てちょっと考えが変わりました。法馬金はいざと言う時に削ったり切り取ったり、あるいは全部溶かして利用する資金です。同じ事が金の茶釜にも言えるのかもしれない。いざとなったら茶釜だって戦費に変われるのです。金は永遠に再生可能な物質なのですから・・。蔵の中でずっと眠っている法馬金よりも金の茶釜はみんなの目を楽しませてくれる。金の茶釜も金の茶室も贅沢と言うより話のネタ? 単純に秀吉の遊び心? だったのかもしれないなーと・・。因みに金は物質的に何の作用も無い金属ですから、金の茶釜で点てたお湯を使った茶は混じりけの無い茶そのものの味がしたはずです。鉄分を補う意味でも使われた鉄の茶釜の湯で入れたお茶とはやはり味が違ったはずです。茶の味を味わうより黄金を愛でて飲んだ茶の方がやはり美味しかったのでしょうけどね総じて思ったのは秀吉が金が大好きだったと言うより、金を利用して宣伝効果をあげていたと言う方が真理なんじゃないのか? と言う事です。まあ、金が嫌いな人はいないと思いますけどね さて、次回は「大阪天満の造幣局 2」で現在のコイン製造を紹介予定です。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話秀吉関連として豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様の隠居した寺リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2018年04月23日
コメント(0)
金貨流出図の写真追加しました現在の為替相場は変動相場制で行われている。それは日本円を外国の通貨に両替する時、例えば1ドルを円に交換すると幾らになるか? と言う割合(rate)が一定していないのが変動相場制である。為替は一日の中でも刻々と変化するので朝と夕でも為替のレート(exchange rate)はそこそこ異なるのである。※ 因みに4月14日では、1ドルは107.10~107.70円の間で推移。※ 外国為替証拠金取引 FX(Foreign eXchange)をする人はその差益で利益を上げている。この変動相場制はドルの信頼低下に伴い先進各国が導入を決めたが(日本は1973年4月から。)それ以前はドルを基軸とする固定相場制(あらかじめ決められた交換レート)であった。固定相場制は第二次大戦後、1945年、国際間の通貨安定の為に国際通貨基金 IMF(International Monetary Fund)の始動と共に各国が採用。敗戦国日本では1945年9月から導入され最初の軍用相場は1ドル15円。1947年3月 1ドル=50円1948年7月 1ドル=270円1949年4月25日 1ドル=360円開始今は信じられ無い事だが、1ドル=360円時代は1949年4月~1971年12月まで続いたのである。当然だが、海外旅行なんてお金持ちしか行けなかったのである。この360円の固定相場は、基軸となるドルが強かったから可能だったのである。実際ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力は低下。変動相場制に移行する前に1ドル=308円時代が来る。※ 先に書いたが今日は、1ドル 107.10~107.70円の間で推移だからね 何にしてもこのように固定相場制から変動相場制へと国際間の為替のレート(exchange rate)は決められてきたのである。大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局変動相場制と固定相場制幕末期の貨幣制度(両替)小判の流出事件江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯幕末期の貨幣制度(両替)冒頭説明した通り、国際間の取引で為替レート(exchange rate)は重要な項目だ。日本では鎖国時代の貿易では金、銀、銅と交換で品物を得ていた。ある意味物々交換に近い。なぜなら、以前紹介しているが、オランダは日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。そしてそれがアジアでの交易用のコインとなり長く流通。一番求めていたものは銀だった。※ 幕府は金銀の流出を抑えるが為に含有量を減らした品質の落ちる金貨を発行している。それで国内がインフレになるなど幕府の経済政策は駄目駄目。※ 2016年11月「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)」の中で書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)大阪造幣局内 造幣博物館から慶長丁銀 慶長6年7月(1601年)に鋳造開始博物館にはいろんな丁銀がありましたが、その文様が美しいナゲットだったのでこれを紹介。1853年7月黒船が来航し、日本も鎖国を解き、欧米諸国とも貿易を始める事になるとやはり為替レート(exchange rate)を決めなければならなくなった。1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定する。(当事の国際通貨はメキシコ銀ドル貨幣だった)幕末に日本との交易に利用されたメキシコ銀ドル貨幣1857年(安政4年) 量目 26.8~27g 品位 銀 862~886/1000日米修好通商条約 5条では「外国の諸貨幣は、日本貨幣、同量、同種を以て通用すべし」とあり、この条件を以てメキシコ銀ドル貨幣 1ドル(1枚) = 天保1分銀×3枚 と定められた。天保一分銀 1837年(天保8年) 量目 8.6g 品位 銀988.6/1000小判の流出事件ところが想定外の問題が起きた。金と銀の交換レート(金銀比価の比率)は 日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。金と銀の両替比率(価値観)が違い過ぎた。賢い人は気付くだろう。まずメキシコ銀貨を日本の天保一分銀に交換し、さらに金貨に両替すると金が多く手に入るカラクリに。こうして日本の金貨(小判)の海外流出が恐ろしい早さで始まったのである。1860年、万延の改鋳 明治政府が金の純量を3分の1に引き下げるまで流出は続いたそうだ。ところで、江戸時代の貨幣制度は四進法で行われていた。下は造幣博物館の資料から幕末期 1両=4分=16朱=4貫=4000文なぜ四進法なのか?昔は貨幣と言う塊よりも金や銀は重さが取引の基本。市中では両替商により秤(はかり)で計測されて取引がされていた。等分ずつ分けられていくのだから必然的に4進法に行き着いたのでは?江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)横道にそれるが・。上の表は江戸の末期に額面の固定された一分銀(表記貨幣)が発行されてからの話。一分銀発行以前は銀は重さにより価値が計測される秤量貨幣であった。つまり銀は毎日、微妙に公定レートが変わったのである。それは藩(都市)によっても違ったらしいので江戸時代の銀は変動相場制だったようだ。因みに江戸時代、大阪では銀が、江戸では金が主流であった。その為に江戸から大阪に取引に来た商人は金から銀への両替の必要があったのだ。後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう) 1686年製造。50両で1870g。1匁で3.78g。両替秤用分銅は、後藤四郎兵衛家のみが製造を許された。銀行の地図記号はこの分銅の型に由来するそうだ。 意味が解ったね下は大阪歴史博物館の資料から一分銀が出る以前、銀が秤量貨幣だった頃の貨幣制度江戸17~19世紀 金1両=銀60匁(もんめ)=銭4000文ついでに大阪歴史博物館の資料から国内鉱山の地図を紹介。大阪が銀、江戸が金の理由がわかる。さて、だいぶ横道にそれましたが、今回は造幣局の話でした。上は本局(大阪市北区天満)。桜之宮公園内の泉布館前から正面玄関方面を撮影。下は造幣局内の昔の正門昔は川が主な出入り口の為に正面は川に向かって建っていた。造幣局とは、現在日本で流通している貨幣(コイン)の製造と勲章の製造を行っている所。現在日本に造幣局は3軒あり独立行政法人となっています。本局(大阪市北区天満) さいたま支局(さいたま市大宮区) 広島支局(広島市佐伯区)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯本局である天満の造幣局の歴史は幕末の乱れた貨幣制度を建て直す為、明治維新の政府が総力を挙げた近代化計画の一つとして始まった。コイン鋳造の為の造幣局が1871年(明治4年)4月4日に創業。(それは欧米からの要望でもあった。)1873年2月(明治6年)イタリア人のマンチニ氏の描いた造幣寮前景図の一部です。1873年、ほぼ全ての施設の建築終わった頃の作品。この旧造幣寮鋳造所正面玄関が、桜之宮公園内にある明治天皇記念館の玄関に移築されて残っている。我が国初の本格的西洋建築。旧明治天皇記念館の設計はアイルランドの建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)。下は桜之宮公園内にある泉布観(せんぷかん)。旧造幣寮応接所。マンチニ氏の絵の右に描かれている。やはりトーマス・ウォートルスにより設計され1871年竣工。1872年(明治5年)6月、明治天皇が行幸の時に「泉布館(せんぷかん)」と銘々された。総レンガ造りの西回りコロニアルスタイルである。※ 泉布館と先の旧正面門は当事の位置にそのまま存在。1871年(明治4年)に金・銀貨幣の操業が開始。1873年に銅貨幣工場が竣工。当事の敷地は18万㎡。(56000坪)。現在の敷地は10万㎡。(30000坪)。※ 金属の鋳造工場が現在は他に移っている。1911年(明治44年)竣工の火力発電所(写真左)操業当事は蒸気機関で動力としていた。見える煙突はその名残。日露戦争1904年(明治37年)~1905年(明治38年)を背景に製造能力の倍増が求められ、1908年(明治41)~1912年(明治45)電化への設備拡張が行われた。(貨幣の製造能力は倍になった。)現在、造幣博物館となっているレンガ館は写真にある1911年(明治44年)竣工の火力発電所である。博物館は通常一般公開されている。桜の通り抜けの期間を除いて。欧米式に建設された造幣局のシステムは手探りで海外から導入。しかも技術のみならず、機械、科学、薬品、ガス、コークスなどの材料さえ、自給自足で調達せねばならなかったので結果的にそれらは日本に欧米の近代工場を紹介する事にもなったと言う。(あらゆる事において日本最先端工場だったのである。)我が国最古のガス灯(創業当初から使用されていた)構内にガス製造所が設置され石炭ガスを製造。1871年(明治4年)の創業当時、構内と付近の街路に65基設置。工場内621基。計686基もあった。因みに一般にガスが供給されるのが1905年(明治38年)。初めて灯った造幣局のガス灯に大阪市民は驚愕したらしい。この大阪の造幣局はいろんな意味で先端を行っていた。職員には断髪を指示。イギリス兵のような制服も造られ着用。オシャレな西洋建築とガス灯。ここだけ一気に文明開化 1863年浪速大川地図造幣局の立地は、大阪城の対岸。江戸時代には御破損奉行が管理する木材置き場あった場所。御破損奉行は、大阪城と蔵などの造営修理を専門にする役職。中心赤い円が造幣局に決まった場所。その上のピンクは大阪天満宮。レンガ館前の通り桜の通り抜けの時は建物が見えないほどに桜が満開。造幣局の風物詩、今年の桜の通り抜けは4月11日(水)~17日(火)まで。現在開催中。※ 桜の通り抜けに関しては、昨年紹介済み。 2017年4月「大阪 造幣局 桜の通り抜け」下は以前の写真毎年新しい桜が加わるのも愉しみ。造幣局次回に続く。リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2018年04月15日
コメント(0)
文の形体が崩れていたので修正しました。ついでに、2021年、3月24日今、ベランダの月桂樹はまさに花のさかりです。今年も咲いたのですさかのぼる事、昨年(2017年5月)「幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ」の紹介をしましたが、その直後に今度はベランダに置いていた月桂樹(げっけいじゅ)に花芽を発見。これはまたまた植物ネタか? と思ったのですが、花芽はそのまま夏を越え、秋を越え、冬を越えて3月に入るまで休眠状態? 花芽が出てから開花までに10ヶ月を要したのでした。しかもその花はうちでも10年ぶりの開花。私も見るのは2度目そんな訳でちょっと珍しい花の紹介です。月桂樹(げっけいじゅ)の花 雌雄異株月桂樹(げっけいじゅ)雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)月桂樹の花 雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)香辛料 ローリエ(laurier)性別記号(gender symbol)ベランダの月桂樹に花がやっと咲きました月桂樹(げっけいじゅ)学名 Laurus nobilis 「高貴な常緑樹」Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)Angiosperms(被子植物)Magnoliids(モクレン類)Laureales(クスノキ目)・・ 7科に100属2900種余り、大部分がクスノキ科Laureaceae(クスノキ科)・・55属2000種以上を含む被子植物の科・・多くは温帯南部や熱帯、特にアジア南東部やブラジルに分布・・精油を含み、芳香をもつ種が多い。Laurus(ゲッケイジュ属) L.nobilis(ゲッケイジュ)・・常緑高木。地中海沿岸原産。雌雄異株3月15日の花芽(直径5~7mm)上下共3月15日3月24日の花芽(花蕾)(直径1cm弱)上下共3月24日 花芽は割れて6つの花蕾に別れた。3月28日の花芽(花蕾)(直径1cm今思えば、この段階で雄花だと言う事が解る。つまり、うちの月桂樹の木はオスの木だったと言う事に・・。理由は簡単だ。月桂樹は以前紹介したアスパラガスの木と同じように雄(お)しべと雌(め)しべのいずれか一つしか持たない単性花(たんせいか)であり、しかもそれらは同じ木にには付かない。雌雄異株(しゆういしゅ)と言う別の株なのである。雌雄異株(しゆういしゅ)(dioecism)月桂樹(げつけいじゅ)の木は雌雄異株(しゆういしゅ)の形態を持つ木。つまりオスの木とメスの木が存在している種類なのである。被子植物の場合、花は両性花(雄しべと雌しべで一つの花)であるのが一般。自分で自家受粉(じかじゅふん)ができて結実する事ができるタイプが両性花(りょうせいか)である。雄花と雌花で別れるといと言う単性花(たんせいか)はむしろ裸子植物に近い。雌雄同株(しゆうどうしゅ)と雌雄異株(しゆういしゅ)単性花のうち雄花と雌花が同一の株につくタイプを雌雄同株(しゆうどうしゅ)と呼ぶ。一方月桂樹のように単性花でも、雄花(おばな)と雌花(めばな)とが別の株につくタイプを雌雄異株(しゆういしゅ)と呼ぶ。また、両性花と単性花が一つの株に雑居した雌雄混生タイプも存在。雄性両全性同株と呼ぶらしい。雌雄異株(しゆういしゅ)の場合、当然、自家受粉はできないので他家受粉となる。つまり雌雄異株(しゆういしゅ)(Dioecy)は自己受精を排除し、同種異系統(異系交配)を促進する方法の1つで、集団内に存在する劣性の有害な突然変異の発現を減少させるのだそうだ。月桂樹の場合、その繁殖方法は結実でなくても挿し木で増やす事が可能だし、観察していると毎年、月桂樹には側芽(そくが)が増え続け、株は横に広がって自生していくので雌雄異株(しゆういしゅ)の弊害はないように思う。それに必要とするのは香辛料に利用できる葉の部分なので雌雄の別になんら関係無い。その為もあるのか? 日本に流通している株のほとんどはオスの木らしい。開花は春初旬。オスの木は黄色の花が咲く(雄花)。※ オスの花が黄色に見えるのは実は雌しべの花粉の色なのである。メスは白い花が咲き結実して黒い実が付く(雌花)。それぞれの花は、直径1cmほどの中に6つの花蕾を持っている。ところでうちの月桂樹の花は、ほぼ10年ぶりに開花。なぜ?鉢植えだし栄養が悪かったのだろうか? 花芽の肥料は与えていたが・・。花芽の時に剪定していたか? いやいや花芽が10ヶ月もあったのだから間違って切り落とす事はないだろう。次も10年後なのだろうか?一つ言えるのは花芽の状態から毎年咲く事はありえないだろう。3月29日3月30日確かに雌(め)しべは見えない。あるのは雄(お)しべだけ。月桂樹の花解体してみた。(マイクロ撮りのできないカメラなので写りが悪いが・・)一つの花芽は1cm。花蕾に別れて一つの花自体のサイズは5mm程度。その中の雄しべは1mm以下。一つの花蕾に、花は6個。 花びらは4枚。 雄しべは10本。4月1日接写(限界)面白いのは、オスの木だけどとても甘い良い芳香がする事だ。確かに、虫に寄って来てもらわないとその花粉をメスの木に届けられないからね。納得そう考えると、芳香の強いものほど受粉を虫にたよっている種と言う事ですね。参考にメスの花を拾って来ました。さわやかで美しいてすね。雄(お)花は可愛く、雌(め)花は凜(りん)として美しい気がします。ところで、雌雄異株(しゆういしゅ)の木は実は珍しくない。案外身近にありました。キジカクシ目カジカクシ科 アスパラガス ※ 2011年6月「アスパラガスの木 「クイズ これは何でしょう? 」 解答編 」で紹介。イチョウ目イチョウ科イチョウ属 イチョウ (銀杏はメスの木に成る)ソテツ目ソテツ科ソテツ属 ソテツバラ目アサ科アサ属 アサ(大麻草)キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属 ハコヤナギ(ポプラ) ※ 日本のポプラはほぼオスの木らしい。キントラノオ目ヤナギ科 キヌヤナギクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 カゴノキクスノキ目クスノキ科ハマビワ属 ハマビワクスノキ目クスノキ科クロモジ属 ダンコウバイ、シロモジ、アブラチャンクスノキ目クスノキ科シロダモ属 シロダモ、イヌガシ、ダイトウシロダモ ※ 月桂樹もクスノキ目クスノキ科です。クスノキ目多いですね。イチイ科イチイ属 イチイガリア目ガリア科アオキ属 アオキ雌雄同株(しゆうどうしゅ)の木マツ目マツ科マツ属 マツマツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属 スギマツ目ヒノキ科ヒノキ属 ヒノキ香辛料 ローリエ(laurier)ローリエ(Laurier)はフランス語で、ベイリーフ(bay leaf)は英語。ローリエ(laurier)は、月桂樹の葉を乾燥させた香辛料。ケルト語の「laur(緑色)」に由来するラテン語。そもそも月桂樹は小アジア原産の常緑低木で、かつては地中海沿岸に群生した林もあったらしい。昨年収穫して乾燥させた月桂樹の葉冷蔵庫に保管するといつまでも青々。4年前のもまだ青いです。青い方が製油も多く、香りも高い。楊枝の隣にある小さいのが市販されている一般のサイズ。その葉は、オリンピックなどの勝者に贈る月桂冠のリースで有名であるが、葉に含まれる精油の効能から薬用や料理に古来から重用されてきた香辛料である。近年、月桂樹の中に、血管を拡張する作用を示す物質が含まれている事が発見されたそうだが、欧州では食欲の増進や消化に効く。あるいは肝臓に良いとされて昔から利用されてきている。葉の成分に含まれるシネオール (cineol)、リナロール(linalool)、オイゲノール(geraniol)などのエッセンシャルオイルに効能があるようだ。特に葉の45%に含まれるシネオール (cineol)別名ユーカリプトール(eucalyptol)はさわやかな芳香と味を持つことから、食品添加物・香料・化粧品、薬用にも利用される成分だ。※ シネオール (cineol)はヨモギ、バジリコ、ニガヨモギ、ローズマリー、セージなどの葉にも含まれる。※ シネオール (cineol)の含有量の多い葉ほど高品質だそうだ。リナロール(linalool)はフレーバー、フレグランス両方の香料原料として使用される。オイゲノール(geraniol)もフレーバー、フレグランスに加え、殺菌剤や麻酔薬などの医薬品に用いられる。料理では肉料理の臭みけしとしてフォンドボーを造るのには欠かせない素材。一般にはシチューやカレーなどの煮込み料理から野菜スープなどにも利用。うちではコショウと同じくローリエ、タイム、オレガノは欠かせないハーブ。追記・・先ほど単性花と両性花で紹介した性別記号について・・。性別記号(gender symbol)元々は♂は火星、♀は金星を表す天文学や占星術で使う記号だった。スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)(1707年~1778年)が惑星の記号を生物の記号に利用したのが始まり。金星を表す記号は、雌記号 ♀ (Venus)。元はローマ神話の美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の持つ手鏡を図案化したもの? らしい。火星を表す記号は、雄記号 ♂(Mars)。元はローマ神話の軍神マルスの持つ盾と槍を図案化したもの。水星を表す記号は、雌雄同体の記号。つまり二つの性を持つ者。人間にはいないが植物にはある。元はローマ神話の商人や旅人の神メルクリウス(マーキュリー)の持つ、二匹の蛇が絡みついた杖を図案化したもの。だから本来、順番も惑星の配列(水金地火木土天海)に準じた並びになるそうだ。面白い。さて、次回はお金の話です。
2018年04月07日
コメント(0)
前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ)の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。そこに父の影響もあったのかもしれない。ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった※ どちらも古い城跡の上に再建されている。しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。共に中世を意識する所は同じであるが、ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。当然その装飾の仕様も今までの一般的な城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。実際、ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク)だったというのだから納得だ。※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2018年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー城の建築で受けた地元の恩恵未完の城歌人の広間とタンホイザーとパルジファルルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデルードビッヒ2世の執務室 タンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世城の建築費城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)それ故、見学も一応予約制になっている。だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。初夏のノイシュバンシュタイン城城には常時30人が勤務して管理。王が城に滞在している時はその倍の職員が居て王に対応したらしい。写真中心部分のテラスがルードビッヒ2世の寝室のテラス1869年9月5日城の礎石が置かれる。※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。1869年~1873年に城門館が建築。1873年~本丸の王館に着手1883年には1,2,4,5階が仕上る。1884年春には4階の王の住居部は完成。1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞在。1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日間であった。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)城の正面、見えるのは城門館城の建築で受けた地元の恩恵ノイシュバンシュタイン城の建設には19世紀と言う時代の割にしっかりした建設計画や労働組合が存在していたと言うのだから驚く。前回、膨大な資材が投入された事に触れたが、例えば資材を運び上げる滑車は蒸気機関のクレーンを使用。資材はさらにトロッコで各所に運ばれていた。そんな建築機器の安全性と機能の検査を行う検査協会が当事すでにあり安全の確保が計られていたと言うのだ。前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)また、この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事だ。1ヶ月0.70マルクの会費に国王が多額の補助金を援助し、建設従事者が病気や傷害で休んでも最長15週間の資金支払いを保証すると言うもの。工事には何百人と言う職人を必要とし、多数の商人との取引が行われている。1880年には209人の石工、左官、大工、臨時工が直接建築に従事し、運送人、農民、商人、納入業者、さらに飲食業も建築に間接的に関わって来る。この地方全体の人が城建設に関わったと言って過言ではない。つまりこの地方全体が王が亡くなって工事が中断される1886年6月まで城から受けた恩恵は非常に大きかったと言う事だ。城門門に入ってすぐに見えるのは、後方の王の居室がある本丸。本当ならこの手前に礼拝室と巨大な塔ができるはずであった。入り口正面の突出したテラス部分は、塔ができる予定だった基礎の部分。本来は下のような90mの天守閣と下には宮殿礼拝堂が建築されるはずであった。建築はルードビッヒ2世の死と共に中断され未完となってしまったが、もしこれが完成されていたなら、もう少し城はカッコ良かったかもしれない。ちょっと中途半端なのはその為なのだ。城門館の内側城の見取り図上の二つがメインの王館となる部分ルードビッヒ2世の居室は中、ブルー系の所。メインの王館となる建物が正面テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。たぶん見える窓は左がクローゼット。壁画はニーベリングの指輪四部作の3つ目、ジークフリート(Siegfried)からジークフリートの大蛇退治。部屋の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている。城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。そもそも印刷が悪いので写りも悪いですが・・。歌人の広間普通の城であるなら、ここは舞踏会場となる広間であるが、ノイシュバンシュタイン城では歌人の広間と呼ばれている。歌人の広間とは、文字通りここが歌合戦の会場を意味している。歌人の広間とタンホイザーとパルジファル欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である王はどうしても歌人の間が欲しくて、この広間を中心にノイシュバンシュタイン城を建てたと言われているほどこだわった場所だ。広間はヴァルトブルグ(Wartburg)城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げたとされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?※ 舞台装置画家クリスティアーン・ヤンクはエドゥアルド・リーデルの設計を書き換えて王の好むスタイルに変えていた。絵画はアンフォルタス王とパルジファル白いドレスの女性が持って要るのが聖杯。女性はもしかしたら妖女クンドリーか?パルジファル(Parsifal)聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。王を救えるのは清らかな愚者。そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?残念ながら王の存命中にこの広間が使用される事はなかったと言う。1933年~1939年までワーグナー没後50年で祝祭コンサートが開かれたのが最初らしい。ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)後期ゴシック、樫の木がふんだんに使われた木彫のゴージャスベッドの天蓋、洗面台、読書椅子など、製作はミュンヘンのペッセンバッハー・エーレングート社製。既製品ではないだろうが、家具会社に発注したもののようですね王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。眠りと死は同一? キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。簡単に言えば悲恋の物語である。いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か? ※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザーテーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。壁絵はJ・アイグナー(J Aigner)ヴェーヌス山のタンホイザータンホイザー(Tannhäuser)舞台は13世紀吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。皆の非難を受け、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。エリザーベトの葬列を見て全てを理解したタンホイザーは狂気から覚めるが彼が真に贖罪されたと同時に彼も息絶える。あらすじはこんな所であるが、これをどう演出するかでオペラの内容も面白さも大きく変わる。ダンス音楽を奏でるタンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世ルイ9世で飾ったこの祭壇はミュンヘンのJ・ホフマン設計。ルイ(Louis)は、ドイツ語でルードビッヒ(Ludwig)。ルードビッヒ2世の名は聖人となったフランス王、ルイ9世からもらっている。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)※ 聖王ルイ9世については2017年2月に以下書いています。「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)公開されている部屋はまだあるが、実際写真は撮影できないので紹介はこんなところで・・。春のノイシュバンシュタイン城ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)城の建築費ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出している。とは言え、その資金だけでは十分ではなく、ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた。※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。ヴィッテルスバッハ家の古文書による王室会計の帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は6,180,047金マルクだとか。(現在のお金で200億くらいらしい。)しかし、王の借金は、王の死後に家族から返済されているそうだ。だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。ただ、ルードビッヒ2世が王位について、1866年、内戦が起き、バイエルンはボロ負け。バイエルンの被害はとても大きいものだった。その上、プロイセンに主権放棄と3000万グルデン(5400万金マルク)と言う賠償金を払わなければならなかった事なども国庫を苦しいものにしていたのだろう。王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。が、せっかく造った城なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎもっと居て、城を完成したかったろうに・・。そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。2018年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年03月29日
コメント(0)
ナチス侵攻時、シャガールがパリから逃げた先は南仏でしてた。書き換えました。詳しくは以下で扱っています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールノイシュヴァンシュタイン城 2」の予定でしたが冒頭の書き込みで横道にそれましたビュールレ・コレクションについて国立新美術館の学芸員が書かなかった事を書いてみました。ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)略奪美術品退廃芸術展と後に売りとばされた絵画退廃美術オークションビュールレ(Bührle)の兵器会社ビュールレ・コレクション(Bührle collection)国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展ベルジェ・レポート(Bergier Report)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)ふと思った。ノイシュヴァンシュタイン城は大戦の戦火に巻きこまれる事は無かったのだろうか? ノイシュバンシュタイン城はドイツ南部の国境に近い。どうやら中央から外れた田舎だった為に、第一次、第二次の大戦共に戦火から免れていた。が、しかし、城は1944年まで、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に占領されていた時代があった。全国指導者(Reichsleiter)アルフレート・ローゼンベルクの指導下で行われていた略奪美術品や図書等のオーバーバイエルン主要集積所として城は使われていた過去があったのだ。※ アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Ernst Rosenberg)(1893年~1946年)はナチスの最高幹部の一人。※ ナチスの支所や集積所として、他にも城や修道院が利用されている。この全国指導者アルフレート・ローゼンベルクこそが、最初に退廃芸術の一掃(いっそう)を叫んだ男である。略奪美術品ナチス時代の美術品については以前、2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」でもちょっと紹介しているが、近年になって、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)のコレクションも略奪美術品が多数含まれているのではないか? と問題になった。※ ビュールレ・コレクション財団によれば、一部それは返還して買い戻しを行ったと言う事だが・・。※ ビュールレ・コレクション展が現在六本木で開催中。後で紹介。※ 2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」リンク 2016年2月ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション.そもそも略奪品とは何か? それはナチスが占領下で美術館や個人から強制的に奪い取った膨大な美術品の数々である。当初、それは確かに思想上の理由での退廃芸術の一掃が目的であったと思われるが、後にナチス占領下のユダヤ人達からの強制略奪も始まる。※ 「略奪品」の範囲を「ナチスのせいで仕方無く手放した品まで含めるべきだ」と論争が起きている。近年になり、当時美術品を奪われたユダヤ人被害者らから返還要求訴訟が次々起きているし、美術品ではないが、アメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟をスイスに起こしている。※ スイスではこれによりベルジェ・レポート(Bergier Report)なるものが発表され社会に影響を与えた。退廃芸術展と後に売りとばされた絵画ナチスがプロパガンダの為に行った歴史上悪名高い「退廃芸術展と大ドイツ展」がある。ナチスの嫌う、排斥すべき芸術作品展が「退廃芸術展」(ミュンヘン大学考古学研究所2階)ナチスの好む、理想とする芸術作品展が「大ドイツ展」(ドイツ芸術の家)ナチスが嫌ったのは印象派以降の近代芸術全般。モダンアート(modern art)である。それらは精神の不調と堕落の象徴と考えられた。美術を勉強していたヒトラー自身が理解できなかったのが大きな要因であろう。相対するこの展覧会を企画したのは宣伝全国指導者パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)(1897年~1945年)である。※ これに大いに協力したのが画家でナチスの造形美術部門の責任者に任命されていたアドルフ・ ツィーグラー(Adolf Ziegler)(1892年~1959年)。この退廃芸術展の為に、ドイツ国、州、市町村が所有する1910年以降の退廃芸術作品を展覧会の目的で搬出(押収)できると言う権利がアドルフ・ ツィーグラーらのメンバーに与えられた。ベルリン。ハンブルク、マンハイム、デュッセルドルフ、フランクフルト、ドレスデン、など20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収。押収された美術品は絵画5000点。版画12000点。ナチスの嫌った画家から マルク・シャガール(Marc Chagall)南仏ニースのシャガール美術館で撮影シャガールとピカソは第二次大戦のドイツ軍のパリ占領の時に対象的な行動をしている。ユダヤ人だったシャガールはパリに荷物を残しドイツ兵が来る前にパリから脱出。特に彼はナチスに嫌われていた。※ 詳しく調べたら、故郷でなく、南仏でした。さらに南仏からアメリカへ亡命していた。※ パリで描きかけの絵画の一部は後に描かれているので、没収された者もあるかもしれないが、預けられて無事だった絵もあった模様。帰国した後にシャガールは全く同じ絵を描いたとされる。が、絵の継続も見られるのでどこかに密かに預けられていた絵もあったのだろう。※ その辺の事は以下に詳しく書いています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールピカソは、逃げずにパリに居座り、ドイツ兵の嫌がらせにも耐え、黙々と作画活動をしていた。下の「花とレモンのある風景」は占領下のパリで虚しさを描いた作品だそうだ。ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) 花とレモンのある風景ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) イタリアの女ビュールレ・コレクション(Bührle collection)の公式図録から1937年7月19日、ヒトラー臨席のもとミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕。入場者はナチス奨励の「大ドイツ展」が3ヶ月で70万人なのに対して「退廃芸術展」では1日2万~3万人。多い日で4万人の来場があった。最終的に排除される方の絵画のほうが4ヶ月で200万人超えると言う人気。とは言え、近代美術は否定され、国民の税金で病んだ精神の絵を購入したと、美術館は非難にさらされた。一方ナチスはこの展覧会の成功に「退廃芸術展」の全国巡回を決める。ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ヴァイマル、ウィーン、フランクフルト、ハレなど13都市へ1941年までかけて巡回。計100万人を動員。この巡回公演の為に、ドイツ全土から退廃芸術を一掃すべくさらに100以上の美術館から美術作品が押収された。しかもこの巡回の途中の1938年、「押収美術品を自由に処分できる」とする法律が公布された。これにより展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた美術品17000点は正式に国家に没収される事になる。それら作品は、最初にナチスの高官らが没収。ヘルマン・ゲーリングはゴッホ、セザンヌ、ムンクなど13点を取り置きして持ち帰ったと言う。次に売れる作品は売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることになった。そこに退廃美術オークションなるものが始まる。因みに高額では売れない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれ、後に宣伝省のホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があり1939年3月20日、ベルリンの消防署の庭で焼き払われたと言う。※ 実際は、美術品のほとんどが先に宣伝省の職員や画商らによりベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に避難させて、売買や交換、オークションへと流れたらしい。退廃美術オークションナチスは退廃芸術と認定したが、すでに印象派の絵画は欧州ばかりかアメリカでも人気急上昇となっていた。特にベルリンのナショナルギャラリーの館長ルードヴィヒ・ユスティ(Ludwig Justi) (1876年~1957年)(館長職1909年~1933年)はナチスに解雇されてしまうが、彼には先見の目があったようだ。どこよりも先駆けて近代絵画の購入を始めていた。それが余計にナチスの気にさわったのだろう。退廃芸術展では購入金額を記載され、いかにつまらない作品に税金がつかわれたかのアピールに使われる。だが、市場では印象派やポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。ナチスによってけなされた作品をナチスが高く売るわけにはいかない。売買はメンバーの中にいた画商たちにゆだねられ、国外で売られたようだ。※ 中には交換など軍との取引もあったと思われる。1939年6月の大々的なオークションで、各国マスコミの関心の集まる中、ヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターなどに売却された。(一部)先述の、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレも1939年ルッツェルンフィッシャー画廊で行われた退廃美術オークションに参加して作品を手に入れている。因みに、コレクション展の行われた3ヶ月後、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まったのである。ナチスが外貨を獲得したかった理由がわかる、ビュールレ(Bührle)の兵器会社エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)は印象派の初期個人コレクターとして有名なようだが、スイスに渡り武器商人として成功した金持ちである。もともとドイツで生まれた彼は第一次世界大戦(1914年~1918年)で招集され敗戦前(1916年)のドイツではマシンガン部隊の指揮官(中尉)として前線で活躍。戦後も部隊に残留。彼の成功のきっかけは戦後駐留し、寄寓(きぐう)ていた銀行家の娘と婚約(1919年)、そして結婚(1920年)した事に始まる。銀行家の妻の父は当事マクデブル工作機械社(Magdeburg Werkzeugmaschinenfabrik)の株主であった事からビュールレはその子会社に出向。そして1924年にはマクデブル工作機械社が買収していたスイスの工作機械会社「エルリコーン(Werkzeugmaschinenfabrik Oerlikon)」のCEOに就任する。ビュールレがCEOになるとすぐにエルリコーン社はドイツの会社から20ミリ機関砲砲の特許を獲得。第一次大戦の敗戦国であるドイツでは再軍備が厳しく規制されていた関係もありドイツの軍事関係の技術の多くは近隣の中立国に移されはじめていた。※ 実はスイスは永世中立国として宣言しながら現在に至りかなりの武器輸出国なのである。エルリコーンが買った20ミリ機関砲の技術はさらにここでバージョンアップされる。その資金援助をしたのも実はドイツなのである。※ 考えようによってはドイツはスイスに兵器工場を移したと言うことかも・・。その完成度を増した20ミリ機関砲(20-mm-Oerlikon-Kanone)は世界から注文が来る。スイス軍ももちろん重要な得意顧客であるが、中国の蒋介石(しょう かいせき)(1887年~1975年)は120門発注。エルリコーン大砲(Die Oerlikon-Kanone)は、当初は対戦車銃としても提供されたが、航空機搭載機兵器や軽戦闘機としては特に輸出のヒットとなったそうだ。1929年に義理の父エルンスト・シャルク(Ernst Schalk)がマクデブル工作機械社の筆頭株主なると販売権はドイツ、イタリア、日本にも及ぶ。そして欧州(フランス、イギリス、ベルギー)から大口発注が入り南アフリカとも対空砲の契約を結ぶ。時代はナチス・ドイツが台頭してきた頃。ドイツはナチスの元で再軍備を開始していた。つまりビュールレの会社エルリコーン(Oerlikon)はドイツがあってこそ、そしてナチスの時代(1933年~1945年)に拡大成長したスイス大手の兵器会社なのである。この会社は第二次大戦で敵対する双方の国々に開戦前に兵器を納入している。第二次大戦(1939年~1945年)が勃発して1940年にドイツによるフランス占領が開始されると、さすがにフランスとイギリスへの武器の納品ができなくなる。するとスイス政府はドイツへの武器、弾薬の供給を奨励したと言う スイス政府がドイツへの兵器の輸出を完全禁止を決定したのは1944年。終戦(1945年)の1年前である。よってエルリコーン(Oerlikon)社は連合国軍のブラックリストに乗る事になる。※ 1946年には解除されている。※ 上記、ビュールレ(Bührle)の経歴に関する細かい資料は国立新美術館で今回出したビュールレ・コレクションの為の公式図録による。クロード・モネ(Claude Monet)睡蓮の池、緑の反映国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展で唯一撮影が許可されている目玉の壁画200cm×425cmスマホで撮影しているのでちょっと斜めっています下の2点は部分を撮影。モネの睡蓮はトリーミングのしなおしにより別作品になる。とは言え、よくよく観察すると、どの睡蓮もほぼ同じパターンで描かれている事がわかる。下のトリーミングした作品は西洋美術館のモネと構図が一緒だと思う。なぜなら、この構図で私はステンドグラスを製作したので・・。ビュールレは1951年、モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエに行き、画家の息子ミシェル・モネからチューリッヒ美術館の為に2点の壁画を購入。その翌年1951年にモネの展覧会で購入したのがこの作品である。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)上に紹介した「ビュールレ(Bührle)の兵器会社」、その拡大と共にビュールレの絵画コレクションは増えて行く。学芸員は書けなかったのかもしれないが、ビュールレ・コレクションは、ナチスと第二次大戦を抜きに語る事はできないのだ。ビュールレの資料に寄れば、初コレクションは1936年、ルノワールの静物とドガの踊り子の素描4点の購入から始まったらしい。1937年スイス国籍を取得しチューリッヒに移住すると、その年に25点を購入。※ コローなどのバルビゾン派とクールベ、モネ。ルノワールにどの印象派をチューリッヒの画商から。※ マネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、フラゴナールをルッツェルンの画商から元々絵画に興味があり、美術史講座を受講していたビュールレに金銭的余裕とチャンスが巡って来たのかもしれない。1937年は先に紹介したがミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕された年である。そして退廃芸術展に出品された絵画はナチスの資金源となるべく画商達により国外で売り払われて行く。※ 1935年にもプレ退廃芸術展がドレスデンであったらしい。もともとドイツの将校でドイツに機関砲を売っていたビュールレにはナチスにツテもコネもあったろう。資料に書かれてはいないが、時に武器と交換に絵画を手に入れた事もあったかもしれない。そして先にも書いたが、1939年にはルッツェルンのフィッシャー画廊で開かれた退廃美術のオークションに参加。この時に知り合ったミュンヘンから亡命? した画商フリッツ・ナタン(Fritz Nathan)(1895年~1972年)は今後のビュールレ・コレクションの助言者になったと言う。不思議なのは亡命してすぐの画商が即、スイス美術貿易協会の副会長になれるのだろうか? と、考えると彼はナチスから承認された画商だった可能性がある。もしそうであったなら、ビュールレは非常にラッキーに作品を格安に購入できたと思われる。公式には大戦中にピュールレは76点の作品を入手している。が、もしかしたら表に出さず秘蔵している作品もあるかもしれない。なぜなら入手方法に問題があったり、返還命令が出されては困るから・・。実際、終戦後の1945年、連合国軍の調査でナチスがフランスで行った略奪品がフィッシャー画廊経由でビュールレに買い取られていた事が解っているし、1948年スイス国内にある77点の美術品(13点がビュールレの所蔵)が略奪品と認定され元所有者への返還命令が出されている。※ 13点のうち9点は持ち主から買い戻している。そしてフィッシャー画廊に訴訟を起こしている。※ コレクションの中にはまれに贋作もあったらしい。※ ビュールレ・コレクションは1937年から1956年にかけて収集されている。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)宣伝チラシピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展そんなビュールレ・コレクション(Bührle collection)がタイムリーにも現在日本に一部来ていた六本木にある国立新美術館で2018年2月24日~5月7日までビュールレ・コレクション(Bührle collection)展がおこなわれているのだ。※ 作品は64点。彼の死後、財団が美術館として一般公開していたが2008年の絵画盗難事件で美術館を閉館させてチューリヒ美術館に全コレクションを移管することにしたらしい。(2020年移管。)どうしても略奪絵画が知りたくて見に行ったものの、彼の略歴は紹介されていたものの略奪絵画どころか、ナチスの一言も書かれていなかった。通り一遍の印象派など、絵画のジャンルなどについて書かれていたくらい。物足り無かったです因みに、最大の見物はルノワールの美少女。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」とモネの壁画「睡蓮の池、緑の反映」である。プライベートコレクションとしては、正直バーンズ・コレクションの方が見応えがあった。※ バーンズは全体に趣味が良かった。来日している作品にもよるのだろうが・・。何しろたった64点しかないのだ。作品に入手の年代は書かれていないが、略奪絵画はこの中にあるかもしれない・・と言う色眼鏡でコレクションを見て回ると、ちょっと面白いかも知れない。国立新美術館ベルジェ・レポート(Bergier Report)先に少しふれたが、永世中立国が揺らぐ大戦中のスイス政府とスイスの企業の実態がクローズアップされる事件が起きた。1990年代にアメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟が起きた事が発端だ。第二次大戦中にスイスがナチス・ドイツやユダヤ人にした事を検証する、いわゆる第三者委員会ができた。ジャン・フランソワ・ベルジエ(Jean François Bergier)(1931年~2009年)率いる委員会である。1996年から2002年3月まで、5年間かけて検証した報告書がベルジェ・レポート(Bergier Report)である。亡命を希望した2万人以上のユダヤ人をドイツに追い返した事やユダヤ人口座を閉鎖した事。またナチスの放出した金塊の77%をスイスが購入し、ナチスの資金源にされていた事など暴露された。たぶん先に紹介したスイス政府がドイツへの武器輸出を奨励していた事なども含まれているのだろう。永世中立国と謳いながら、それを良い事にあっにもこっちにも武器を売っていたりと、結構あくどかったスイスが露呈され、国内でも論争になったレポートだ。ビュールレの兵器会社で思い出したので加えてみた。次回こそノイシュヴァンシュタイン城です m(_ _)m
2018年03月19日
コメント(0)
国庫の無駄使いだと国民にもとがめられたルートヴィヒ2世(Ludwig II)であるが、中世の世界感あふれるおとぎ話のような王の造った夢の城は、世界一美しい城と形容され、今やドイツ観光の目玉となっている。確かに女の子が夢見る典型的な城の形をしているのがノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)なのである。そんな誰もが認めるメルヘンな城は、カリフォルニア・ディズニー(Disney)の「眠れる森の美女」の城のモデルにもなっている。※ シンデレラ城の方は、フランスの城(フォンテーヌブロー宮殿、ヴェルサイユ宮殿、シュノンソー城、シャンボールなど)の建築様式がモデルとされているらしい。なんだかんだ王が城などの建設にかけた金額はとっくに回収して余りあるのではないか?何しろノイシュバンシュタイン城が一般に公開されたのはルードビッヒ2世(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)の死後わすが数週間後からだと言うのだから・・。※ 当事の入場料は平日2マルク。当事はかなりの高額だったらしい。※ 現在の入場料は12ユーロ 現在のレートで約1576円)。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬冬のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)城と言えばタレット(Turret)マリーエン橋(Marienbrücke)城と言えばタレット(Turret)ふと思ったのであるが、子供の頃読んだおとぎ話の中の城はどれもこれも三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)がついていた。「城の絵を書きなさい」と言われれば、これを書けば必ず城と認められたと言っても過言ではない。それだけこの三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)は特徴的な意味を持つのである。ではタレット(Turret)は何か? と言えばこれは防衛の為の櫓(やぐら)の付いた塔の事なのである。普通の塔との違いは、より見渡せ、攻撃しやすいように、外に張り出している事だ。雪のノイシュバンシュタイン城こちら城の裏側は西面。見えるパルコニーは玉座の間。そこからシュバンガウ城が良く見える。一際目立つ大きなタレット(Turret)たぶんこちらが北面以前(2016年01月)、「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、「宝冠と紋章」のところでタレット(Turret)について触れているのだが、城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなる。そしてそのタレットの形が勲章(くんしょう)の元となる宝冠(ほうかん)の形のルーツなのである。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)タレットは中世から現れた防衛施設であるが、屋根が付くのはさらに後だ。※ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城は、あくまでイメージで城を造ったので、実際の防衛施設としての城が建てられた訳ではないし、タレットも実用ではない。タレットは確かに中世の防衛の最前線である要塞に見られる特徴。ライン川や、ドナウ川沿いに残る古城には必ず付いている。つまり、日本の物語に出て来る西洋の城はフランスやイギリス系よりはむしろ、ドイツ系の城のイメージだったのか・・と言う事だ。まさか全てノイシュヴァンシュタイン城がモデルだったりして? 南面? 城の裏口かな?ノイシュバンシュタイン城と言えば、冬の方がイメージがある。なぜなら、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)が雪ぞりで夜な夜なソリ遊びをしていたからだ。夜中に活動を始める王はもはや奇人と思われていた。下は2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」で1度紹介した事がありますが・・。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)まさしくこのノイシュバンシュタイン城の山道を下っている絵である。しかもソリは下の天使のソリ。夜用にライトが搭載されている。ルードビッヒ2世のこだわりは、乗り物にも及んでいる。ニンフェンブルク宮殿(ミュンヘン)には彼の豪奢な馬車やこんな豪華なソリがコレクションとして残されている。あれは一見の価値ありです城と麓(ふもと)のシュバンガウの街の往復に冬は馬車か徒歩しか無い。かつてルートヴィヒ2世が雪ぞりで滑っていた道である。秋ではこんな感じ玉座の間のバルコニーからの眺め(秋)左にアルプ湖。右にシュヴァーン湖(白鳥湖)。その間にホーエンシュバンガウ城。湖の後方の山はオーストリアとドイツの国境となっている。ホーエンシュバンガウ城は前回紹介したが、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)が建てた中世風の城であり、王は青春時代のほとんどをここですごしている。ここが玉座の間のバルコニーと言う事もあるかもしれないが、王がここから城を眺める姿が絵画に残されている。同じバルコニーからの白銀の景色。こちらのバルコニーは立ち入り禁止。中から窓越しの撮影である。チビの雪だるまは職員のご愛嬌?ちょっと邪魔ザックリしたデフォルメ地図ではあるが街から城へのルート図である。下の黄色いのが前回紹介したホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城上の地図がデフォルメしすぎて方位が入れられなかったが、実際はノイシュバンシュタイン城の西方に存在。薄いパープルが通年城に向かう道。冬場はバスは登れないので歩きか馬車のみ。ルードビッヒ2世がソリですべったルートである。ピンクがペラート峡谷(Parat-Schlucht) マリーエン橋(Marienbrücke)に至るルートです。(冬場は閉鎖)※ マリーエン橋から城へは徒歩で15分~20分。マリーエン橋(Marienbrücke)12月初旬、年によってち違うのだろうが、この時は橋は閉鎖されていたので城の全景は撮影できていない。つまりマリーエン橋(Marienbrücke)からの城の全景は春から秋でないと撮影できないのである。12月下旬にはこんな感じ9月最初にペラート峡谷(Parat-Schlucht)橋をかけたのは1845年、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)である。それは木の橋であり1866年ルードビッヒ2世により鉄橋に掛け替えられた。橋の名、マリーエン橋(Marienbrücke)は、ルードビッヒ2世の母、プロイセン王女であったマリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)(1825年~1889年)に因んでいる。マリーエン橋からの城の全景10月ある意味秋はスッキリしているので城をしっかり見たい人には良いかも。東面は城の正面玄関にあたる城門館。12月、テラスからは撮影ができないので落葉した後の方が撮影しやすい。しかし、これで城の事情が解っちゃう事がある。実はこの城は大半がコンクリートでできているのだ。つまり成りは中世でも中身は近代的な城なのである。詳しい建築事情は次回にまわすが、1879年~1880年に使用された資材の統計が残っている。セメント600トン。砂3600㎣。石灰50トン。木炭40トン。ザルツブルグの大理石465トン。ニュルティンゲンの砂岩1550トン。レンガ(帝国サイズ)40万枚。足場用木材2050㎣。これはあくまでその時期に使用された資材である。何しろ城の礎石は1869年におかれているし、それ以前に山を削って基板も整えている。1869年~1873年までに上の写真の城門館が建てられているのだが、1872年の一年間でセメント450トンが納品されている。かなたに見えるのは巨大なフォルクゲン湖 (Forggensee)フュッセン(Fussen)北東部に位置するフォルクゲン湖 (Forggensee)は、アルプスの雪解け水で起こる洪水を防ぐ為にできた人造湖だそうだ。ノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)次回につづくリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーバックナンバーリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
2018年03月12日
コメント(0)
Break Time(一休み)まだ大阪に滞在中です。昨日は京都の上賀茂神社まで出かけてきました。今回は先週の日曜日(2月25日)に出かけた北野天満宮の骨董市を紹介するべく、写真をチョイスしていたのですが、毎日動き回っているので夜は疲れて知らず知らずにパソコン前にうつぶして寝る事多々。全然作業が進みませんでした以前はその日にアップできたのに、体力の衰えが・・。北野天満宮の骨董市(梅花祭り)古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)付喪神(つくもがみ)2015年02月25日、「北野天満宮の梅花祭り」についてはすでに紹介済み。今回、自分は3回目の梅花祭りだったのですが、年々人は増えてものすごい事になってました。特に外国の方が目立った気がします。今年は特に骨董市を目当てに出かけましたから、梅園も入っていないし、お茶会にも参加していません。単に骨董市を観て歩き、写真を撮ってきただけです 何しろ拝むのも行列。梅園に入るのも行列。野点大茶湯も行列。特に最近流行している御朱印の行列はハンパ無かったです北野天満宮 一の鳥居前から北野天満宮では毎月25日が天神市(天神さん)の日として市が立つのですが、2月25日は特に菅原道真公の命日であり、ちょうど見頃になる梅園の公開と梅花祭野点大茶湯(ばいかさいのだておおちゃのゆ)もあり大きな祭りの一つです。※ 初天神の1月25日と終い(しまい)天神の12月25日も凄い賑わいだそうです。北野天満宮の参道には飲食含めて縁日が出ていて大混雑ですが、お目当ては、境内の東に北上する御前通りに集まるフリーマーケット? です。飲食など縁日が参道にギッシリ建つのはもとより、その日は境内の駐車場の方まで所狭しと300軒くらいの市が林立。店の出し方も素人のフリマスタイルから、屋台の形態までいろいろありです。境内の中と外は別かもしれませんが、出店は年間契約らしいです。その会費が結構高いらしいので、一般の参加者は少ないのかもしれません。骨董が趣味のマニアックなコレクションをしている方々にはとっておきの場所です。天神市なら思わぬ掘り出し物を見つける事ができるかもしれません。とにかく、ここは品物の幅が広く、そこらへんのフリーマーケットとは置いている品物が違います。もしかしたら京都と言う土地がらもあるのかな?家のいらない物の中には先祖からの素敵な不要品が出てくるのかも知れません とは言え、実は骨董品と呼べるものは少なく、どちらかと言えば骨董と言うより全般に中古品マーケットとなります。そう言う意味では値段は手頃な物からあります。和菓子の型など京都ならではかも・・。さて、この中古品を業界用語で、古物(こぶつ)と言います。※ 古物(こぶつ)には年代物の骨董品も含まれます。古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)西洋骨董の世界では、骨董品と呼べるのは、100年を経過した物が対象になります。日本では、単に中古品は全て古物(こぶつ)と分類されます。それは国の便宜上の方針があるからです。日本では、1度販売された物は(新品でも)全て中古品として考えられ、それらを売買する時には「古物商」の許可証が無ければ販売する事は不可能と言う法律があります。※ 許可証の発行は、都道府県公安委員会が行い、その窓口は最寄りの警察署となっています。ですから、本来はバザーや青空マーケットなど、今回のような骨董市は、届け出の無い一般人の参加はできないのが原則。しかし、家庭の品のリサイクルがメインの一般人のバザーに関しては「商売外の行為」として多めに見ている・・と言うのが実情だと思います。※ 数年前まで「古物商許可証」を持っていたので警察で質問した時に言われた気が・・。加えて言えば、許可制度の理由の一つは、盗難品売買を防ぐ事にあります。ですから、本来どこから仕入れて、誰に販売したかをリストに残す義務があるのです。※ 売買の品のジャンルも申請して、ジャンルにあった分野の許可証をそれぞれ取らなければならない。そんなわけで日本の古物に関しての定義は案外広いのですが、ただの中古品と高価な骨董品は全て同じ扱いになっています。昭和30年代くらいの型押しガラス食器でも今の若者には新鮮?付喪神(つくもがみ)ところで、法律はさておいて、100年と言う単位で観ると、日本でも、「100年を経過した物には魂が宿る。」と考えられ普通の中古とは一線を画した物になると言う考えがあります。それがいわゆる付喪神(つくもがみ)が付いた物です。付喪神(つくもがみ)とは、100年を経過した物に付いた物の精霊と言う所が近いかもしれません。※ 百に一足り無い事から九十九(つくも)神とも・・。つまり、それなりに「一目置かれた物に昇格した証」、と言う境が同じく100年と言う事になるので、日本でも100年を境に骨董と定義しても良いと思います。最も、日本の場合、魂が宿って、付喪神(つくもがみ)になると、人を惑わす・・と言う考えもあり、古道具は毎年新年に捨てられた時代もあったようです。本当にガレージを利用したフリマもありました。茶道具類が中心でした。鉄瓶は外国人にも人気のアイテム。専門の所もありました。御前通りから上七軒に向かう辻(御辻通り)にもマーケットが・・。上七軒側からの北野天満宮 東門境内側の方外国の方に人気の店ってあるようですね。亜麻布(あまぬの)・・リネン(linen)外国の男性が見ていました。着物だからなのか? リネンだからなのか? 色が素敵だったから?確かに中古着物の出店は多いけど、男性用はあまり無いかもしれない。香炉素人は欲しい物と値段が折り合えば買えば良いけど、「良いな」・・と思う物は結構お高かったです。アンティックだけでなく、手作り品の出品もあります。笄(こうがい)をバラしてピアス仕立てにしたものなど・・。北野天満宮の骨董市 おわります。
2018年03月02日
コメント(0)
リンダーホフ城とノインシュバンシュタイン城はルートヴィヒ2世の城でまとめる事にしました。しかし、双方、城内の撮影ができない為に外観と庭の写真しかありません。ニンフェンブルク宮殿は撮影できたのに・・。悲劇のフランス王妃マリーアントワネット(Marie-Antoinette)や非業の死を遂げたオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)の話は私のブログの中でも不思議と読者人気が高いのですが、今回紹介する、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)はその男性版。彼は昔ドイツ、バイエルンにあった王国の美貌の王様です。ルートヴィヒ2世もまたマリーアントワネットのように個人の贅沢にお金を使いすぎて国民の支持を失ったと言う点で似ているし、皇妃エリザベートも同様。つまり、今回は美貌の王様に、悲劇をもたらしたお城の紹介となります。因みに ルートヴィヒ2世については、以前墓所も紹介しているし、生まれた宮殿も紹介していますが(最後にバックナンバーを載せます)、ルートヴィヒ2世と皇妃エリザベートとは曽祖父母が共通の先祖で、エリザベート母方の従甥(じゅうせい)にあたる関係です。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ルードヴィヒ2世とワーグナーワーグナーの為の劇場建設リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちバイエルン王、ルートヴィヒ2世(Ludwig II) (Ludwig II)(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)はバイエルン王国4代目の国王です。写真はバイエルン王城協会発行の冊子(王ルートヴィヒ2世)から1864年即位したばかりの頃?そのバイエルン王国は、現在のドイツ・バイエルン州を含むもう少し広い地域に1806年~1918年まであった王国ですが、実はその歴史は12世紀にまで遡る家系です。ルートヴィヒ2世の家系、ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に仕えていたオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に始まり、以来ずっとバイエルン公としてバイエルンを治めてきた君主一族です。※ 17世紀には神聖ローマ皇帝の選挙権を持った7人の選帝侯の一人に入る家系。そんな家系でルートヴィヒ2世は、まだ皇太子であった父マクシミリアン2世(Maximilian II)(1811年~1864年)とプロイセン王女であった母マリー・フォン・プロイセン( Marie von Preußen)(1825年~1889年)との間に跡継ぎとして誕生。街には祝砲が鳴り、ミュンヘン中の市民に知らせられたと言うくらい喜ばしく、祝福された待望の誕生であったそうです。皇太子であった父マクシミリアン2世は、前王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)の退位を受けて1848年に3代目バイエルン国王に就任。※ 以前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」の所で紹介しているが、ルードヴィヒ1世の退位は王の逝去によるものではなく、ローラ・モンテス(Lola Montez)と言う女性とのスキャンダルによる残念なものでした。この2代目の王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)は北欧神話のヴァルハラ(Walhalla)に着想した魂の館。ヴァルハラ神殿(霊廟)を建設している。芸術を奨励、ミュンヘンに大学を造り近代化に励み、ドイツ初の鉄道も施設している。非常に女性好きな王だったと言う所は正反対であるが、ルードヴィヒ2世に通じるものを感じる。実は総じてヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は芸術の造詣(ぞうけい)が深い家系のようだ。一方、3代目の王となったマクシミリアン2世(ルードヴィヒ2世の父)は息子ルードヴィヒ2世が多大な影響を受けた中世の城をイメージしたホーエンシュヴァンガウ城を再建している。それは廃墟に近いシュヴァンシュタイン城を購入しての改築(1853年)であったが、ベルリンで学び、ドイツ、イタリア、ギリシャを旅行して見聞した事に加え、徹底的に中世を研究しての再建らしい。勉強熱心なマクシミリアン2世は、その城に芸術家や学習者。科学者を集め、歴史研究に没頭したらしい。ホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城からの撮影冬のホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城マクシミリアン2世は、前王の父(ルードヴィヒ1世)とは違い真面目な堅物? 政務については、彼の治世に王国の安定を回復し、ドイツ統一の戦いではバイエルンの独立を維持しつつミュンヘンを文化的で教育的な都市に変えようと努力もあり国民には人気があったらしいが、国王は決定を下す前に長官と学識経験者の助言を繰り返し求めたらしく審議が中断する事ばかりだったらしい。 ある意味マクシミリアン2世は学問オタクだったのかもしれない。その為に2人の息子の教育には非常に厳しかったと言うが、どうも肝心な帝王学が抜けていたようだ。王子達の使命や将来待ち受ける問題や心構え、人生を生き抜くすべを教えていなかった。しかも、早すぎる突然のマクシミリアン2世の死。ルードヴィヒ2世は無防備に、わずか18歳と言う若さで王になってしまった。 1865年頃ミュンヘンの画家、フェルデイナント・フォン・ピロティー(Ferdinand von Piloty) (1828年 ~1895年)作ルードヴィヒ2世とワーグナーマクシミリアン2世は、学術的に中世の城を再現してみせた。時はちょうど中世ブームだったと言うのもあったかもしれない。しかし、ルードヴィヒ2世の造った城は、王、個人の趣味の世界だ。時代は中世であっても、それは現実世界と言うよりは想像を駆使した夢物語の世界。ルードヴィヒ2世が幼少期に過ごしたのは、父の趣味で至る所に中世騎士伝説が描かれた城だ。森や渓谷に出て素朴な村人と触れあう事はあっても、同年代の友を持つ事もなく、城に閉じ込められるようにすごした。自分の感情を外に表現したりぶつける相手もなく、ただひたすら目の前の中世の伝説の世界へ自らを誘い自分中心の世界を造りだし、その中で一人で遊ぶ事が日常? だったのかもしれない。当然だが、王は理想主義、ロマン主義に傾倒していく。詩人フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)がお気に入りだったらしいが、王は神話や伝説の本を好んで読んでいたそうだ。そして、騎士伝説に観る気高く、美しい者が王の好みとなったのだろう。そんな時に新しい型の音楽に出会った。1861年、ルードヴィヒ2世16歳の時にリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)自作のオペラ「ローエングリーン(Lohengrin)」に出会う。※ どこで観たか場所が特定できないが、もしかしたらウィーン宮廷歌劇場であったかもしれない。※ ワーグナー自身ザクセン宮廷音楽家という地位にありながら先頭に立って革命に関与。結果、国外逃亡を余儀なくされ、その初演は1850年、友人リスト委ねられた。ワーグナー自身が、それを聴くのは、1861年のウィーン宮廷歌劇場だったと言う。このワーグナーが造りだした世界感にルードヴィヒ2世は同じ感覚の理想を観た? のだろう。この日を境に彼はワーグナーの大ファンとなり、全ての作品と、手に入れられるあらゆる出版物を収集。ワーグナーは、ただの音楽家ではなく、ルードビッヒ2世の「神」となったのだ。そんな経緯でワーグナーの世界の虜になった王は、3つの城の建設を計画した。リンダーホフ城(1874年着工~1878年完成)ヘレンキームゼー城(1878年~1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)ノイシュヴァンシュタイン城(1869年~居住1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)リンダーホフ(Linderhof)城完成したのは南バイエルンにあるこのリンダーホフ城だけ。父(マクシミリアン2世)が亡くなり、ルートヴィヒ2世(在位:1864年~1886年)、が即位すると、真っ先に彼が行ったのがワーグナーとの謁見である。父の城で中世の騎士にあこがれた少年は、ワーグナー(Wagner)の、オペラ、ローエングリン(Lohengrin)を観て虜となったのは至極(しごく)当然の事。彼は即位後(在位:1864年~1886年)、借金に苦しむワーグナーをミュンヘンに呼び寄せ、借金を肩代わりしてかつ莫大な支援をする事になる。※ その中にはバイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus)も含まれる。つまりバイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)は、ワーグナーに心酔し、熱狂的なファンとなり、パトロンとなりお金を使った。しかもワーグナーのお金の使い方も尋常ではなかったらしい。王の無駄な城建設もあるが、ワーグナーに莫大なお金を投じた事も国民の反感を買った要因の一つなのである。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)ドイツのロマン派を代表する歌劇作家で、作曲家。もともと父マクシミリアン2世が「王家の小屋」と言う狩猟小屋を持っていた所。1869年頃より土地を手に入れ始め1874年に建築が開始され、1878年に完成。ヴェルサイユにあるトリアノン宮殿を手本にして建てられたと言われる新古典様式? の建造物です。実は彼がパリ旅行でヴェルサイユに行き、トリアノン宮殿(le Trianon)を気に入ったからのようです。本物のトリアノンより装飾は凝って素晴らしい。それこそがルードビッヒ2世(Ludwig II)のこだわりのたまもの。新古典様式ではない部分です。※ サイズ的にはプチ・トリアノンなのですが、グランド・トリアノン説もあます。宮殿のホールには太陽王と呼ばれたブルボン家のルイ14世(Louis XIV)に敬意を表して騎馬像のブロンズが飾られ、天井には「誰よりも偉大なるべき」と刻まれている。ワーグナーの世界感にひたる為に建設されただけかと思いきや、偉大なる王の継承者になるのは自分だと言う信念も込められていたようだ。庭園正面の扉装飾は実にこだわりが・・。お金かけてますねワーグナーの為の劇場建設今風に言えば、ルートヴィヒ2世がした事はオタクの極致。根っからのロマン主義者である彼は、ワーグナー(Wagner)の造り出した世界に、まさに理想を観たのだろう。おそらく何もかもが好きだった。先ほども触れたが、王は年金だけでなく、ワーグナーの夢の実現の為にバイロイトに劇場を建設する。それはオペラ「ニーベルングの指環」を上演する目的での建設だ。つまり現在も毎年開かれているバイロイト音楽祭のルーツは、この祝祭劇場が元なのである。このオペラ「ニーベルングの指環」を上演するにあたり、ワーグナー自身がものすごいこだわりを持って構想。特別の劇場で、祭典としての上演を念願。場所も自分で決めた。それは自分のオペラをわざわざ見に来てくれる人達の為の劇場でもある。※ 1876年初演は不評の上、大赤字。第2回は1882年まで開かれていない。このバイロイト音楽祭は、ワーグナーの為の劇場だったのでワーグナーのオペラしか上演されない。にもかかわらず現在は人気でチケットがなかなかとれないらしい。、※ 今年(2018年)のバイロイト音楽祭は7月25日~8月29日まで全てが王の出資ではないが、建設から上演までは莫大な費用がかかり、結局王に泣きついたようだ。宮殿側から南側庭段丘テラスと円形の堂、城はもともと狩猟小屋の場所と言うだけあって、山はほどよい借景となっている。渓谷に造られた宮殿はなかなか便の悪い場所であり、ツアーバスでないと大変。おそらく元はホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城を拠点にした狩猟場だったと思われる。城内の撮影はできないので、下の写真はウィキペディアから借りてきました。リンダーホフ・ヴィーナス・グロッテ(Linderhof Venus Grotto)人工の鍾乳洞であるヴィーナス・グロッテはタンホイザーのヴィーナス山の場面が再現されている。バックの絵はアウグスト・ヘッケルの作品でヴィーナスの元にタンホイザーが描かれている。それよりも画期的なのは、1867年に実用化されたばかりの新発明、発電機・ダイナモ(dynamo)を使用していた事だ。この発電システムにより、王を幻想世界に誘う為の水中照明や波動装置、回転ガラス板による交番式変更装置が採用された事はかなり驚くべき事だ。この洞穴ははワーグナーの世界感にひたる為に建設された。ここでルードビッヒ2世は楽士にオペラのさわりを演奏させ、自身はローエングリンの扮装をして船遊びを楽しんでいたらしい。城の後方北側の山の斜面海神ポセイドンの噴水ワーグナーの為に、そして自分の為に、王自身もワーグナーの音楽世界を体現する城や乗り物を造り夢の実現を図っている。王は理想の城で夢の世界にひたった。しかしそれは王の職務にどんどん反比例。ドイツも激動の時代ではあったが、政治的陰謀や個人攻撃、またワーグナーに対する国民の不満。王は、王としての職務を半ば放棄してどんどん現実逃避に走る。それらはやがてバイエルンの国庫を揺るがす重大事に発展。結果、莫大な費用が王を追い詰め、地位のみならず、命まで奪われる事になる。彼が王でなかったなら究極の趣味人としていられたが、国庫を湯水のように使ってオタク道を走った彼は精神異常者として扱われたのだ。※ 王の最後については2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」で書いています。リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルートヴィヒ2世の存在自体が、もはやオペラになりそうなストーリーを持っている。西の庭園像はローマ神話のファーマ(Fama)ラテン語でファーマ(Fama)は噂 (うわさ)や名声を現す。ファーマ(Fama)を人格化した女神だそうだ。彼女はよい噂を好み、悪い噂には憤ると言う。ルードビッヒ2世は、嫌な噂を聞いたらここに来ていたのだろうか?次回リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザールードビッヒ2世に関するバックナンバーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年02月20日
コメント(0)
「お勧めブログの紹介シリーズ」で「ルードヴッヒ2世(Ludwig 2)」に関わるブログの紹介をしようと過去ログをあたっていたら、ノイシュバンシュタイン城やリンダーホフ城を正式な形で紹介していなかった事に気がつきましたノイシュバンシュタイン城については、「ここはどこ?シリーズ」の形体で2009年の暮れから正月にかけて簡単に紹介しただけ。リンダーホフ城については、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生家を紹介(2009年12月)したついでにおまけに載せただけ。見返すと中身も薄いけど写真の色も悪くなっていた※ 昔の楽天ブログは容量に制限があり、写真も解像度を落とさないと枚数載せられなかったし、文字数の制約があったのです。これをどうにかしないといけないな・・と言うわけで、2009年12月「ヘルベルト・フォン・カラヤン + リンダーホフ城」をそれぞれカテゴリー別に分離。内容を充実させ、過去のログを消去して新たに掲載し直すことにしました。リンダーホフ城が残れば良かったのですが、カラヤンも大幅に中身変更して残しました。カラヤン、リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城と順次更新予定。とは言え、カラヤンについて語れる事はありませんので経歴の紹介程度です。2018年2月「ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家」2018年2月「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)ザルツブルグ旧市街・・・メンヒスベルグ(Monchsberg)の丘からホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)とピンクの矢印がザルツブルグ祝祭劇場ザルツブルグ新市街(川の向こう)ザルツァッハ川の新市街側、モーツァルトのタンツ・マイスター・ハウス近所、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ隣(川下側)にカラヤンの生まれ育った家が残っています。ピンクの矢印がカラヤンの生家水色の矢印がホテル・ザッハー・ザルツブルグ黄色の矢印がモーツァルトの住んでいた家の一つ。今は記念館。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルクの生み出した音楽家はモーツアルトだけではありません。20世紀クラッシック界のマエストロ(巨匠)と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)もザルツブルクで生まれ学んだ人です。音楽を知らない人でもカラヤンの名前くらいは聞いた事があると思います。1954年の初来日以降、11回も来日しているし・・。ベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮者を勤めた世界的指揮者でありオペラの芸術監督でもありました。経歴を見れば帝王と呼ばれたのも納得です。※ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker) ・・・(1955年~1989年 終身指揮者・芸術監督)※ ウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker) ・・・(1948年~1960年 主席指揮者・ウィーン演奏協会音楽監督)※ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker) ・・・1983年 名誉指揮者※ ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper) ・・・(1956年~1964年 芸術監督)※ ウィーン楽友協会(Wiener Musikverein 1929年~? 音楽監督)彼の功績は、田舎町ザルツブルグを今も世界に名を馳せさせる音楽の都としての地位をさらにあけだ事にあると思います。その一つが今もザルツブルグで毎年行われているザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)。これは彼が1967年に創設した音楽祭です。なかなか男前・・・だったのね。 写真はウィキメディアからヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年4月5日~1989年7月16日)オーストリア・ハンガリー帝国だった時代にザルツブルクで貴族の子として誕生。ザルツブルク・モーツァルテウム大学(Universitat Mozarteum Salzburg) ではピアノを学んでいます。(家の近所だし・・・。)ザルツブルク・モーツァルテウム大学と現在名称が代わっていますが、前回紹介した国際モーツァルテウム財団が1914年に築いたモーツァルト会館「モーツァルテウム」内に入った音楽学校が、それです。1914年に音楽院となり、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(1887年~1971年)が1917年~1938年と1945年~1959年まで長きに学長を努めている。彼はベルンハルト・パウムガルトナーの最も有名な弟子の一人としてあげられています。新市街と旧市街を結ぶ新しい橋。旧市街側からザルツァハ(Salzach)川、越しの左がカラヤンの生家で右がホテル・ザッハー・ザルツブルグ。家は、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)の道路隔てたお隣です。現在はオーストリアの銀行が所有。貴族の称号を持つカラヤンの家には室内楽愛好家が集まっていたらしい。下がホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)正面カラヤンの家は写真右の見切れている所。川は建物の裏。川の向こうが旧市街。ちょっとホテルの説明を入れるとホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)になったのは割と近年の事。ホテル自体は1866年創業しているが、最初はホテル「オーストリア(d’Autriche」)。そしてホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 となって1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生している。当事のホテルは貴族のサロン的なホテルとして存在していた。当然、夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に今も高級ホテル。しかもザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)まで橋を渡ってすぐと近いからね ザルツブルグはとても小さな街ですが、モーツァルトの住んだアパートの一つもこの目と鼻の先。裏はミラベル庭園と、とても立地の良いところです。カラヤンは、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の後ウィーン国立音楽院にて指揮法を習得。さらにウィーン大学で音楽学を学び、そして、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。いったんデビューすると、1927年、ウルム市歌劇場の指揮者に就任。1929年には「フィガロの結婚」でオペラ指揮者として、1935年にはアーヘン歌劇場音楽総監督に就任。1938年、ベルリン国立歌劇にて「トリスタンとイゾルデ」の指揮で国際的評価。その後は、ベルリン国立歌劇場、ベルリン国立管弦楽団、ミラノ・スカラ座でのオペラ指揮と、とんとん拍子に・・・。ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛されたそうで、実力が伴っていたのは間違いない。世界大戦を越えてからは、1948年にウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker)の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。1955年~1989年、ベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任。34年間という長きに君臨。※ ベルリン・フィル前任はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1886年~1954年)。20世紀のクラシック界を二分する名指揮者がベルリン・フィルに二人も在籍していた。しかし、疎遠になった音楽際も・・。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭で、主催のリヒャルト・ワーグナーの一人息子と衝突して疎遠になったバイロイトがあり。1956年から1964年まで努めたウィーン国立歌劇場の芸術監督時代の衝突で疎遠になったウィーン国立歌劇場があります。「全てにおいての支配を望むカラヤン」と悪意的に表現する人もいるが、自分の描いた完璧な音楽を何一つ妥協せず人にこびずに実効する事は芸術家なら誰もが望む事だろう・・・と思う。そのカラヤンのこだわりを「カラヤン美学」と称すのだろう。逆に帝王カラヤンにとっての不満を解消し、思い通りに計画立案して実行できたザルツブルク・イースター音楽祭の創設はカラヤンの理想の完璧な音楽になっていたはずだ。像の写真はかなり前のもの。近年のは汚れているのかカメラの解像度がよくなったからなのか? 汚いのです。汚れると銅像はおじいさんに見えますね。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)祝祭大劇場はザルツブルグの旧市内に建設。完成は1960年。土地の少ないザルツブルグで苦肉の策でメンヒスベルク(Monchsberg)の岩盤をくり抜いて(55,000m3 )建築したと言う。ステージの大きさは最大横32m、高さ9m。座席総数は2179席、立ち見席はなし。しかし、実はここには3つの音楽堂がある。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)1960年~フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)1926年~モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)1925年~メンヒスベルグ(Monchsberg)の近代美術館テラスから岩肌に建物がめり込んでいるのが解る。写真、建物手前がカラヤン広場。ホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)から実はこの山は崩れやすい。祝祭劇場の向こうの荒れた岩肌は崩れてできたもの。17世紀、突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなっているそうです。それでも土地の狭いザルツブルグの旧市街は一等地。岩山の中には丘に上がる為のエレベーターや地下道が通っている。下から見ると薄っぺらくて、まさかこれがコンサート会場だと気付かない。手前がモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)で隣接した奧がザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)春の復活祭に開催されるザルツブルク復活祭(イースター)音楽祭と夏に開催されるザルツブルク音楽祭では共に主会場となる。広報の言葉を借りると、一年の内の5週間(2018年7月20日~8月30)だけ、ザルツブルクは世界の中心となる。らしい。劇場前からのメンヒスベルグ近代美術館方面ひさしのある所がフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)とモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)入口。エントランスのオブジェはギリシャ由来の3つの戯曲(悲劇、喜劇、サテュロス劇)の仮面がモチーフになっているようです。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)の中を見ていないが、ここが歌劇場たと言うことは上のオブジェが示唆している。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)一番古くからあったフェルゼンライトシューレの前身は1693年大司教がメンヒスベルグの岩肌を利用して狩猟の為の厩舎(きゅうしゃ)を建てた事に始まる場所。1841年には乗馬学校となり、第一次世界大戦後は最初の連邦軍がここに駐留。ザルツブルグ祭の一環として演劇の野外公演に利用される事になったのは1926年から。当初は自然の岩肌をを利用したもので音響は微妙なものの舞台には向いていたらしい。1948年にはカラヤンが初めてオペラの舞台に変えた。1968年から1970年にかけて、再設計され幅40mのステージは深さ4mのサブステージを受けステージを保護の為、可動式の遮光性の伸縮式雨カバーが設置。2010年と2011年にはさらにモバイル屋根がリニューアル。新しいペントルーフは6分以内に5本の伸縮アームで引っ張って伸ばすことが可能に。これは2012年にザルツブルク州の建築賞を受賞しているそうだ。ウィキメディアコモンズから借りてきたフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)内部これを見ておきたかった残念ここで「サロメ」を見たらゾクゾクしそう。(2018年のプログラムに入っている。)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)前からのホーエンザルツブルグ城方面モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)元はザルツブルク宮廷の旧厩舎が1924年改築されたもの。屋外でのオペラ上演が雨天で出来ない時の代替えなど考慮されてさらに改築されている。1960年祝祭大劇場の完成とともに、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスなどの比較的小規模のオペラの舞台となり「祝祭小劇場」と改称。モーツァルト生誕250年を記念して、「モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)」とさらに改称。客席は拡張され、現在の座席数は1,495席、立ち見席85。ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。カラヤンにとって思い入れのあるワーグナーを。彼自身の解釈によるワーグナーを。彼の思うように指揮のできるワーグナーの演奏を目指しての創設だった?カラヤン自身、私的な音楽祭としてイースター音楽祭を位置づけしていたらしい。財務的、芸術的に可能な限り自立したなか(約88%が音楽祭の後援者とメンバーシップなど民間による支援で運営)で、自身の夢を可能にしたと広報には書かれている。夏の音楽祭に比べれば小規模だそうですが、かつては4つの公演全てを、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン・フィルの首席指揮者が指揮するという点。特にベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏する機会はこの音楽祭以外にはほとんどない貴重な体験として人気を博したらしい。これはカラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者をしていたからこそなしえた事だったのだろう。彼の死後存続が危ぶまれたらしいが45年間の長きにわたりベルリン・フィルとザルツブルグ・イースターの関係は続いた。しかし2013年から一新された。演奏はドイツ、ドレスデンの歌劇場の専属オーケストラザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン(Sachsen Staatskapelle Dresden)と指揮はその首席指揮者クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(1959年~ )に変わっている。今年の開催は2018年3月17日~4月2日音楽祭の中心となるのはジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ「トスカ(Tosca)」だそうだ。内部見学ツアー(古い写真ですが見つけたので・・。)たぶんザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)の内部ところで、カラヤンの墓所はザルツブルグ郊外のアニフの教会に故人の遺志通りに埋葬されたらしい。(ザルツブルクとしては、豪華な墓所を提供したかったようですが・・・。)おわりザルツブルグについての過去ログは以下です。2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベ)2015年4月 ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1) 2015年5月 ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)2015年5月 カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年のものは画像も悪いですが・・。2009年12月 ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街)2009年12月 ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) 2009年12月 ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 2009年12月 ザルツブルク 4 (マルクト広場) 2009年12月 ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)2009年12月 ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)2009年12月 クリスマス市の名物グリューワイン 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトの家 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトクーゲル次回、「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」予定。
2018年02月09日
コメント(0)
一昨日の赤く染まる月。それは3年ぶりの皆既月食。古来の人は、「皆既月食は良く無い事が起こる兆し」としてとらえていたと言う。また、昨日朝方、諏訪湖(すわこ)に出現した御神渡(おみわたり)現象。古来の人は「御神渡りは上社の男神が下社の女神のもとへ出かけた跡」ととらえていたと言う。御神渡(おみわたり)は諏訪湖が「全面氷結」した時に起こりうる現象で、気温が下降すると湖を分断するよに氷は収縮して湖上に亀裂が走る。その裂け目に水が貫入して再び膨張凍結して、いかにも何かが通ったかのような氷のせり上がりが起こると言う珍しい現象である。※ 氷の筋道の方向やせり上がり具合でその年の豊作や吉凶なども占ったらしい。夜空に不釣り合いな赤色は人を不安に駆り立てる。まして自ら光るように輝く月の異常事態である。一方諏訪湖の方は、まだメルヘンを感じられる解釈であるが、古来わからない事を神の仕業ととらえていた事の証拠である。つくづく、古人(いにしえびと)は自然の中に常に神を見い出していたのだろうな・・と思う。倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)磐座(いわくら)磐座(いわくら)登拝の条件霊亀の滝と(霊泉)亀の井醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社醸造祈願祭りと醸造感謝祭り酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)前回、松尾大社は京都の神社としては最古と書きましたが・・。実は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請しての松尾山の麓への社殿の創建は701年(大宝元)ですが、信仰自体はもっと昔からあったとされているからなのです。2017年8月「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」 の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」で、カンナビ(神奈備)について紹介していますが、松尾山の磐座(いわくら)もまた、古代人より祀られてきた そう言う霊験な場所だと言われています。よって、松尾大社の祭神の本来の鎮座場所は巨石をいたたぐ松尾山(標高223m)の頂上に近い大杉谷上部の磐座(いわくら)であり、松尾山自体が神域となっているのです。※ 現在は旧鎮座場所とされている。実はこの旧鎮座場所である松尾山の磐座(いわくら)に参拝に行く事が可能です。しかし、残念ながら今回は登って来ていません。紹介のみ ※ 神域ですから、登拝(とはい)には諸々の条件があり、写真を撮る事も不可能。磐座(いわくら)登拝の条件磐座(いわくら)に登拝する人はここで祓串(はらえぐし)で左右左と祓い清めて行かなければならない。松尾大社地図から。 境内の裏山が松尾山。磐座(いわくら)は地図の右上。社殿の背後の松尾山を含む約12万坪が境内だそうだ。画面中、ピンクの矢印が磐座(いわくら)登拝。霊亀の滝。霊泉「亀の井」。への入口。松尾山は別雷山(わけいかづちのやま)とも称され、七つの谷に分かれている。社務所で登拝(とはい)料を払い、許可証をもらわないと登拝の参道には入れない。門が閉まっている。参道の道はあまりよろしくないらしい。松尾大社では磐座登拝道修復協賛金 一口500円を募っている。上古の庭の裏手に磐座(いわくら)を真下から拝める遙拝所(ようはいしょ)の登坂口がある。下がその遙拝所(ようはいしょ)あくまで、神様のお膝元・・と言う概念であり、正面はただの山の斜面。左手に「心願」の杯(さかずき)投げコーナーがもうけられている。5枚 200円。京都では何カ所か見たが、ここのは坂の上方面に樽があるので難しい。届かないので一枚お持ち帰りしてきました。素焼きの小皿です。登拝(とはい)と遙拝(ようはい)の違いは、登拝(とはい)は拝しながら登って神所に進む事。一方、遙拝(ようはい)は遙か遠くから神所を仰ぎ見て拝む事。日本各地にある富士を遠くから拝む富士山信仰などは遙拝(ようはい)にあたります。諸注意の看板。看板は登坂口にありますが、簡単に紹介。入山はいつでもできるものではなく、登拝できない日や時がある。(天候でも禁止になる事がある。)入山には必ず入山受付けが必要(記帳)で、許可証を必要とする。(受付は9時~3時。下山は4時まで。)※ 登拝の初穂料金は高校生以上1000円。2回目以降は500円。一人での入山はできない。(危険がある為と思われる。猿も出るらしい。)カメラ、ビデオの持ち込み禁止。およその所要時間1時間。※ 松尾大社のサイトからでも確認できます。社殿の裏山。どうも松尾山はこんな岩盤でできているらしい。磐座の写真が撮れないので苦肉の策なのであるが、実は松尾大社の磐座(いわくら)は、かつて古墳時代に玄室の石切場だったのではないか? と言う説がある。以前紹介した蛇塚古墳を調べていた時にこの説にあたったのだ。※ 蛇塚古墳については、2017年8月「倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ」太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)で紹介リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ蛇塚古墳の場合、巨石の材質は堆積岩らしいが、近辺に巨石の採掘できる場所は無い。巨石の運搬は当然 川、あるいは農水道が利用されたのだろうと考えると、松尾山の可能性はかなり高い。(保津峡も考えられるが・・。松尾山にかなり近接する一ノ井川が気になる。)以前も紹介したが、古墳時代の終わりは646年(大化2年)に出された薄葬令による。つまりそれ以降の採掘は無くなり、岩山は祀られたのではないか? とも考えられるのだ。最も 社務所の人にそれとなく聞いたけど、そんな話は聞いた事もなさそうだった 岩の成分を調べれば解るだろうけどね。手水舎(ちょうずしゃ)の亀松尾大社ではあちこちに亀の像を見る。それは松尾大社ではの亀と鯉が神の使いとされているからだ。伝説では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が山城丹波の国を拓くため保津川を遡った時、亀と鯉(急流)に乗ったと言う寓話から亀と鯉が神の使になったらしい。また古事記では、首に三台(三つの星)をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀』が谷より現れたと言う。それを嘉瑞(かずい)として谷は霊亀に改元。※ 嘉瑞(かずい)はめでたい事。吉兆はめでたい事の前ぶれ。きざし。霊亀の滝と(霊泉)亀の井写真左奧の赤い鳥居の奧が霊亀の滝。霊亀の滝からの水で出来た小川は御手洗川(みたらしがわ)と言うらしい。つまりは浄めの御手洗(みたらい)をする川と言う事だが、川の目の前に霊泉があるからね。亀の井看板には神泉(しんせん)と書かれている。茶道や書道の用水として汲み帰る人がいる霊泉らしいが、延命長寿「蘇りの水」としても有名だそうだ。最も特異なのは、酒造家(蔵人)がこの水を酒の元水として持ち帰り、仕込み水に混ぜて用いる風習があった事だ。醸造の際にこの水を混ぜると酒が腐らないと信じられていた? なんて説も出ているが・・。江戸時代には各地の酒蔵関係者が参拝に訪れ、水を汲んで帰ったと言うが、実際、江戸時代の酒造家のテキスト(壱子相伝 酒蔵口伝)には松尾大明神への信心が説かれていたらしい。それ故、松尾大社は昔から酒神として酒造関係者の信仰を集めている。霊亀の滝松尾大社では、古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造祖神として、全国の酒造家、味噌、醤油、酢等の製造及び販売業の方から格別な崇敬があると言う。※ 先に「亀の井」を紹介しましたが、酒蔵家だけの神様ではなく、醸造には醤油・味噌・酢も含まれる。境内には全国の酒蔵の菰樽(こもだる)が奉納され並んでいる。酒樽の破損を防ぎ保護する為に菰(こも)を巻いた菰冠樽(こもかぶりだる)。その起源は海上運搬の始まった江戸時代。上方から江戸に酒荷を輸送する樽廻船(たるかいせん)に合わせ四斗樽(72リットル)が登場。その破損が問題になったらしい。※ 72リットルで一升瓶40本分。醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社松尾山の神様。大山咋神(おおやまぐいのかみ)が醸造祖神となった理由は松尾大社 所蔵の「酒由来の事」による伝説です。簡単に略すと神代の昔、八百万の神々が松尾山に懇親会に集まった時、水ではしのびないと、山田(嵐山)の米を蒸し、東流の清水を汲み、一夜にして酒を造り、大杉谷の杉の木で器を造り神様方に振るまった。つまり、大山咋神(おおやまぐいのかみ)は神様に出す為にお酒を造った神様だと言う事。松尾大社 お酒の資料館の掛け軸よりまた、松尾大社 所蔵の1834年(天保5年)の「造酒三神と云所謂書」では45代 聖武天皇(701年~756年)の御代、733年(天平5)に社殿背後の御手洗谷(みたらしだに)より醴泉(れいせん)湧き出る。※ 醴(れい)は、通常「甘酒の意」であるが、「旨い味の水」が湧き出た・・と言う事。託宣の結果、諸人はこの醴泉(れいせん)を飲むべし。諸々の病を癒やし、寿命も伸び長くなる。またこの御手洗の泉をもって酒を醸して我を祀らば寿福が増長。家門繁盛して自然と造酒の業に霊功を得て造酒にあやまちあるべからずとの御霊告於今に著しく諸国遠近の造酒家おのおのにも当社に詣で御手洗の泉を酌み持ち帰りて酒を醸し・・。733年に御手洗谷の泉(霊泉 亀の井)が湧き、それはとても旨い水であった。その水は飲めば病にも効き寿命も延びる。またそれで酒を造って我を祀るなら福が来て家は栄え、酒造りの功績を得るであろう。酒造家は当社に詣でて泉を持ち帰りそれで酒を醸すと良い。以上は、亀の井の伝説にほぼ一致する。醸造祈願祭りと醸造感謝祭りところで、酒造りは「卯の日」にはじめ、「酉の日」に完了する慣わしがあるそうだ。松尾大社では、秋に醸造祈願の為の「上卯祭」)(11月 上卯日)が行われる。また春には醸造の成功を感謝する「中酉祭(ちゅうゆうさい)」(4月 中酉日)が行われる。毎年11月上の卯の日の醸造安全祈願祭(上卯祭)では全国の和洋酒、味噌、醤油、酢等の醸造業はもとより、卸小売の人々も参集し、盛大に醸造安全を祈願が行われる。守札としての大木札(だいもくさつ)を受けて持ち帰り、蔵の神棚に奉斎してからお酒造りを始める醸造家かは多いらしい。下が醸造関係者に授与される守護の大木札(だいもくさつ) 見本これらの祭事には、灘の酒造会社各社から役員や杜氏なども一同に介し、参拝し大木札(だいもくさつ)を戴くらしい。酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)ところで秦氏(はたうじ)とお酒の関係がなかなか見つからない。21代 雄略天皇(在位456年~479年)の時代に側にいた秦氏は秦酒公(はたのさけのきみ)。名前からするとお酒造りをしていた人なのか? とも思う。それを証明するすべは無いが、酒宴が朝廷の重要な行事にとなった律令下(7世紀末~10世紀)に宮中には酒造司(みきのつかさ)と呼ばれる官職があった。主な職務は酒や醴(あまざけ)、酢などの醸造で、宮中で供される全ての酒造りもなされていた官営工房であり、酒造技術も、この司で進歩発展したと言われる。因みに平安中期の延喜式」神名帳には酒造司(みきのつかさ)について書かれた条文があり、「御酒(ごしゅ)」「御井酒(ごいしゅ)」「醴酒(れいしゅ)」「三種糟(さんしゅそう)」などいろいろな種類のお酒の仕込みや配合等が詳しく記述されているらしい。それによればどうもお酒は行事や季節により使い分けられていたらしく、例えば「三種糟(さんしゅそう)」は正月用で、米、麹、麦芽に酒を加えて造られるみりん系らしい。奈良の平城京跡からも酒造司(みきのつかさ)に関する木簡やお酒を貯蔵した坪が出土していると言うが、どうも平安京の酒造司(みきのつかさ)の実務を担当していたのが秦氏(はたうじ)らしいのだ。秦氏の関係する所には良き水と米がある。さて、今は摂社である松尾月読神社も載せたかったのですが、入り切らずに終わります。
2018年02月02日
コメント(0)
タイトル ミスしちゃいましたBreak Time(一休み)フォッサマグナ(Fossa magna)と白根山1月23日。白根山がついに爆発。正確には現場は本白根山(もとしらねさん)だそうです。今回の噴火も被害者が出てしまいました 悲しい事です。亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。それにしても今回の被害場所は草津国際スキー場。2014年9月に起きた御嶽山の噴火を皆さん思い出した事でしょう。今回は雪上訓練をしていた自衛隊員の方々が一番の被害者になられましたが、これが夏場であったなら、御嶽山同様にもっと一般観光客に被害が出ていた事でしょう。白根は、スキー客より夏の草津白根の観光客が多いからです。※ 夏はリフトに乗ってトレッキング。あるいは軽装で山頂まで登って引き返す一般観光客が多い.それにしても驚きました。噴火警戒警報が下げられていたそうです。2014年9月の御嶽山噴火。そして2014年11月の長野県北部で地震。この年に草津白根山も噴火警戒レベルが2に引き上げられていたからです。それなのに昨年6月に1に下げられていたとは・・。実は2014年11月の長野県北部地震の時「ハプスブルグ家の三種の神器」を紹介した時に「フォッサマグナが怪しくなってきているのでは? 」とコメントを書いていたのを思いだしました。当事、草津に旅行していた両親らから、草津白根ルートの道が閉鎖されていた。と聞いて、こちらも火山活動が活発化。近いうちに爆発するのではと思っていました。以前書いた内容は、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。 今回(2014年11月)被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。 今年9月(2014年9月)に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?気象庁は2009年に湯釜火口の内部の温度が高い状態と発表。2014年3月上旬から山の直下を震源とする火山性の地震が増えた事、山頂付近の地殻変動がありわずかに膨張。2014年5月以降は火口直下の温度上昇。2014年6月「火山活動は活発化しており、小規模な噴火が発生する可能性がある」として噴火警戒レベルを「レベル1」から火口周辺規制の「レベル2」に引き上げている。1度活発化したものが終息するわけはなく、なぜレベルを下げたのだろう。これもまた観光との兼ね合いなのだろうか?白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。2014年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。フォッサマグナの東側線にある草津白根山。フオッサマグナ(Fossa magna)の場所の地図を載せてみました。(Wikimedia Commonsから)オレンジの部分です。先に紹介した山は、ちょうどブルーのライン上にあるのです。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線(異説あり)フォッサマグナ(Fossa magna)語源はラテン語。「大きな裂け目」とか、「大きな溝」と言う意味。東日本と西日本の境目。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)とも呼ばれ地質的に全く造成期が異なる地質の断裂帯である。東域と西域は2億6000万年以上前に形成。中央地溝帯は約1600年前に形成。フォッサマグナ誕生2000万年前、太平洋プレートがユーラシアプレートの下に沈み込み、アジアの地殻は変動。マントルの上昇流によって火山活動が起こった。やがて湖(日本海)とフォッサマグナとなる陥没地帯が誕生する。湖はさらに拡がり日本海となる。その日本海にはマグマの貫入で多くの海底火山が誕生。フォッサマグナの落ち込みには海水が浸入。海となる。(フォッサマグナ海峡)海峡は1200万年前に砂岩泥岩互層によって埋まる。※ 海だった証拠にフォッサマグナでは魚類の化石が出土。日本列島は地震を起こしながら山地や丘陵は隆起。全体に土地が持ち上がった。海峡であったフォッサマグナも海から陸へと上昇。日本列島が火山と地震の国となったのはこうしたその生成にあるからだ。地図上では普通に日本列島であるが、確実に中央部は異質の陸。フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすいからつなぎ目となるライン上は火山活動も活発化するのだろう。フォッサマグナが活発化したのは東日本大震災が関係しているのではないか? と言うのが前回の感想でしたが・・。日本列島の構造は複雑怪奇。どこに地震が起きても、火山が爆発しても不思議じゃない造り。何万年周期で見たら、どこにそれがあたるかなんて解らない。子供の頃に今回の噴火地点、鏡池界隈に行った事がある。硫化水素(りゅうかすいそ)がきつかったのを憶えている。母は、やはり子供の頃に浅間山に登り、翌日噴火したそうだ。運とか不運とか、確かにあると思う。それでも今は科学の時代。専門家もたくさんいるのに今回も全く無防備で被害者多数。なぜ事前に解らなかったのだろうか?気象庁にはとても残念だ。
2018年01月26日
コメント(0)
さて、昨年「倭人と渡来人」シリーズ1~5で、古来日本にやってきた渡来系氏族について書きました。内容は後半、その中でも最も大きな氏族である秦氏(はたうじ)と、彼らが日本にもたらした功績についての紹介となりました。Back numberはラストにまとめました。秦氏は大人数で渡来。日本各地に散った一族はそれぞれに成功。冨を築き、朝廷の大きなスポンサーになったにも関わらず謎が多い氏族です。謎が多いとは、秦氏の役割存在は大きいにもかかわらず、政界に進出する欲がなかったようで歴史の表に出て来る人物も、彼らの仕事についても記録がほとんど残っていないようなのです。そして、そればかりか、秦氏の名前は8~9世紀頃より歴史の表舞台から消えて行く。※ その理由については、ちょっと思う所がある。今現在、秦氏の子孫とされる一族は多々いるようですが、その後の秦氏について公式に語られてもいない。ましてどういった経緯で日本に渡って来たのかも、ハッキリされていないので相変わらず謎の一族のまま。しかし、解らないのを良い事に、「秦氏はユダヤ人だ」とか言う話をでっちあげて真実のように語っている人達がいるのに驚いた秦氏については、歴史で検証できる事実において、曲げられない真実もある。それら話はそんな真実も無視したものだ。先にその問題を片付けたいと思う。そもそも、その原因の発端に木嶋神社(このしまじんじゃ)の看板があるのではないかと思う。「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」では、バカバカしてくあえて簡単に流したが、元糺(もとただす)の森の元糺(もとただす)の池にある三柱鳥居(みはしらとりい)が、景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていた事だ。当の神社がそんな事を載せるようでは鵜呑みにする者が出るのも致し方無いが、三角形を見たらなんでも三位一体にはめるのはいかがなものか。私の結論(史実から導き出した結論)では、あの鳥居が石造りになるのは江戸の終わりか明治の頃。それ以前は木造の姿で浮世絵に描かれている。そもそもあの鳥居は平安の頃には無かったと推測される物だ。平安時代にあったなら、賀茂神社にも同じ物が無ければならないからだ。加えて言うと、古代キリスト教の教派の1つネストリウス派の開祖ネストリウス(Nestorius)(381年?~451年?)は431年のエフェソス公会議で異端とされ排斥さた。その後彼らはペルシャ帝国へ移動、7世紀頃に中央アジア、モンゴル、中国へは唐の時代(618年~907年)に伝わったとされる。秦氏の日本への渡来時期は3世紀から4世紀である。全く時代に引っかからない。※ ネストリウス派が異端とされたのは、簡単に言えばマリア信仰を認めなかった事だ。神は唯一であり、神の子イエスを生んだとしても特別は無い。ローマの国教としてコンスタンティヌス帝が求めていた教会の教義の統一に逆らった・・と言うのが排斥理由の一つだろう。ユダヤ人説もどこから出たのか?ユダヤ教は選民思想の教えである。(ユダヤ教はユダヤ民族の為の思想。)しかも一神教であるので、他のいかなる神も認めない。秦氏は日本に来て、いろんな神様を祀った。ユダヤ教徒ではあり得ないのだ。秦氏の日本へのルートも、そもそも秦(しん)から直ではなく、朝鮮半島の辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からと推測される。※ 前に紹介しているが、1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部が辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)と別れていた時代であり、辰韓(しんかん)は文化的にも秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国とされた。その辰韓にもいられない事情があっての日本亡命であろう。弓月君が日本の朝廷に申し立てた「民族の危機」と合わせて、考えられる秦氏の渡来時期は辰韓(しんかん)が滅する356年前後と推定。(一番理にかなっていると思う。)そしてそれは、15代応神天皇~16代仁徳天皇の御代と推測される。実際 秦氏が日本に持ち込んだ文化は中国宮廷、門外不出の秘技、「絹の織物と蚕」そのものである。もし、ユダヤ人であるなら、秦氏はワインを造って日本に紹介していたことだろう。秦氏が造ったのは米から日本酒である。真実が一つも無いのに勝手な論法であたかも本当のように寄せて行く。それはダメでしょ で、今回紹介するのは、やはり、秦氏に関わる松尾大社です。京都の神社としては最古とも言われ、しかも「お酒の神様(醸造祖神)」を祀った神社として有名です。創建は701年。弓月君から何代目かわかりませんが、秦大津父(はたのおおつち)の系統の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わっています。因みに伏見稲荷大社を711年に創建した秦伊呂具(はたのいろぐ)とは兄弟のようです。タイトルをどうするか悩みましたが全体に秦氏の話になったので「倭人と渡来人 6~7」でまとめる事にしました(松尾大社全2部予定)倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)秦氏にまつわるウワサから秦氏の造った用水路(洛西用水路)脇勧請(わきかんじょう)松尾大社の創建松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 松尾大社、平成の大鳥居横には巨大な一対の御神酒徳利(おみきどっくり)が置かれて居る。松尾大社は中世以降、醸造祖神としても信仰されている。それは霊泉「亀の井」があるからだ。(次回紹介)神酒徳利(おみきどっくり)、瓶子(へいし)の後方に見えているのが松尾大社のご神体である磐座(いわくら)がある山。※ 神饌用酒器、瓶子(へいし)のルーツは中国の宋の時代の酒瓶として使用された梅瓶(めいびん)。前回、「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」の中「占いがメインであった陰陽寮」で紹介した「陰陽五行思想」を元にした占いですが、秦氏は渡来した時にすでにこれらを持ち込んでいた可能性がある。「四神相応(しじんそうおう)」を考慮して794年に都を平安京に遷都させたのは第50代 桓武天皇。しかし、すでに秦氏が葛野地方に住み着いて300年? 秦氏は氾濫する川に堰(せき)を造り、京都を富める土地へと造っている。そもそも京都盆地の中心、平安京の内裏でさえ、元は秦氏の邸宅だった所。※ 秦氏のもたらした土木技術も当事の日本には無い高水準のもの。実は今回紹介する松尾大社の創建は701年。正式に京都に都(平安京)が遷都されると、松尾大社は西の王城鎮護の社と称され、崇敬される。東の王城鎮護の社は賀茂社。賀茂社の創建は賀茂別雷神社(上賀茂)678年。共に長岡京以前、都が奈良にあった時に創建されている。平安京のベースは全て秦氏がひいたと言っても過言では無い。ついでに長岡京の資金も平安京の資金も秦氏が援助している。一の鳥居(平成の鳥居)からの二の鳥居.秦氏の造った用水路(洛西用水路)一の鳥居と二の鳥居その間には洛西右岸の用水路が横切っている。「大堰川(おおいがわ)」の「一ノ井堰(いちのいぜき)」から取水された用水路(洛西右岸東幹線用水路)である。大堰川(おおいがわ)」の堰(せき)については、2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)下は渡月橋近くの看板から松尾大社のある松尾山の北側のお山が嵐山。渡月橋までは近い。5世紀中頃に、秦氏は桂川の氾濫を押さえる為の堰(せき)を大堰川(おおいがわ)に建設したとされる。同時に放水用水路は農業用水として、洛東と洛西の水の無い場所に施設。これにより京都は富める土地に生まれ変わった。※ その農業用水は今もほぼ同じ所を流れているらしい。実は葛野大堰(かどのおおい)がいつ造られたのか? 誰の時代に造られたのか? 明記された物が無い。あくまで推論であるが、弓月の君から3代目?、秦酒公(はたのさけのきみ)は全国に散らばっていた秦一族の族長として、21代 雄略天皇に山のような献上品を贈っている。※ 21代 雄略天皇(418年~479年)(在位:456年~479年)その事から秦酒公の時はすでに葛野大堰(かどのおおい)は完成していた可能性が高い。順番が後先になるが、楼門をくぐった後、松尾大社境内を横切る洛西の用水路。おそらくこちらは洛西右岸西幹線用水路。右の帆掛かりが修復中の楼門。二の鳥居次回紹介するが、今は摂社となっている松尾月読神社はこの左(南)方面400m。二の鳥居を飾る脇勧請(わきかんじょう)古墳時代前期の4世紀頃には原始的な神社が登場。日本最古級の神社と言われているのは奈良県桜井市の大神神社。ご神体は三輪山にある磐座(いわくら)。実は松尾大社のご神体も松尾山にある磐座(いわくら)。脇勧請(わきかんじょう)鳥居の起源についてはハッキリしていないが、最初は木と木を縄で結んだだけのものが鳥居の起源と考えられているそうだ。※ 鳥居の形式はいろいろあるようだが、よほどの理由が無い限り、寄進者の好みの問題らしい。そして、松尾大社の二の鳥居にかかる縄となにやら下がったもの。実はそれは榊(さかき)の束であるのだが、これらは脇勧請(わきかんじょう)と呼ばれ、鳥居の原始形式を示すものだそうだ。松尾大社では、脇勧請は新年に合わせて交換。縄に貼られた榊の束は全部で12束。閏年は13束。それは月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗によるものらしい。写真は昨年(2017年9月13日)のもの。榊の枯れ具合で占うと言うものだが、空気の乾燥度合いを読むのかもしれない。「勧請(かんじょう)」と言う言葉の意味を考えると、占うと言うよりは「豊穣を祈り誓願する」的な意味も込められていたのではないか?松尾大社の創建松尾大社は、第42代 文武天皇の勅令により701年(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請して社殿を建てたのが始まりとされている。730年(天平2年)には第45代 聖武天皇(しょうむ てんのう)(701年~756年)(在位:724年~749年)より大社の称号を得、第56代清和天皇(850年~881年)(在位:858年~876年)の時に社格は正一位。延喜式(えんぎしき)神名帳によれば明神大社22社の制において上7社に数えられ天皇の行幸も行われたと言う平安の頃より格式高い神社だそうだ。※ 明治の時に旧官幣大社となり、現在は別表神社に管轄されている。御祭神は2柱。大山咋神(おおやまぐいのかみ) と 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)冒頭の方ですでに書いたが、京都に都(平安京)が遷都されると、王城鎮護の社として、西の松尾大社と東の賀茂社は尊崇される。松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係実はまだ賀茂社については、取り扱っていないのだが、両者の御祭神を見ると面白い事がわかる。賀茂社が祀る祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)その賀茂別雷大神には両親がおり、母は賀茂建角身命の娘の玉依比売命(たまよりひめのみこと)そしてその父は 上賀茂神社の社伝では、山代の乙訓社の火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、古事記では松尾大社の祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)とされている。つまり、古事記を支持すれば、賀茂社の祭神は松尾社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の息子と言う事になるわけだ。神社の創建では678年と僅かに賀茂社(賀茂別雷神社)の方が早いが、松尾社の祭神の息子では歴史が後先になるから賀茂社は父を変えたのかな?楼門は修復工事中だったので、楼門を出た所からの拝殿拝殿の真後ろに本殿があるのだが、見えない。拝殿を回り込み本殿。こちらも修復中なので本殿参拝所のみの撮影です。社殿が修復中で見えないが、本殿は室町時代(1397年)の建造。1542年に修理。松尾造りと称される建坪35坪余り、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで国の重要文化財に指定されている。賽銭箱にはフタバアオイが・・。菊の紋は、神話などに登場し天皇家の祖と考えられた祭神を祀っているから?松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 以前、木嶋神社(このしまじんじゃ)の所で紹介しましたが、木嶋神社の神紋(しんもん)もフタバアオイ。そして、下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。さらに、信長が延暦寺焼き討ちで攻めた日吉大社の神紋もフタバアオイでした。※ 日吉大社のフタバアオイは花付きではありませんが・・。日吉大社は(東本宮)祭神に、松尾大社と同じく大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祀っている。その為なのか?あるいは、やはり秦氏に関係した神社なのか?実は日吉大社もまた、平安京の表鬼門を方除する神社でした。※ 創建はハッキリしていないが、西本宮は大津京鎮護の為に祭神に大己貴神(おおなむちかみ)をたてて668年に創建されている。※ 大己貴神(おおなむちかみ)の別名大国主命(おおくにぬしのみこと)曲水の庭からの松尾山。旧、ご神体の座した磐座(いわくら)は右の方の山かも。磐座(いわくら)には許可を得て、ルールを守れば登山する事が可能です。それについては次回につづく。リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
2018年01月22日
コメント(0)
写真追加しました年明け第一弾は、昨年出かけていた平安の陰陽師(おんみょうじ)、阿倍晴明(あべのせいめい)を祀った「晴明神社」から 実はかなり昔に参拝していましたが、ずいぶんと変貌していましたブーム以前の神社は半分駐車場となり写真映えは最悪。陰陽師ブームになる以前、「地元で、生まれてきた子供の命名をしてもらう神社」で有名だと当事のタクシー運転手に説明されました。それはもしかしたら、晴明神社がかつては戸籍代わりの氏子登録(氏子調)をする神社としてあったのかもしれない。実際、江戸時代には晴明九町組と言う氏子圏が組織されていたらしいから・・。※ 神社改革のあった明治(1871年)には村の鎮守の社などが列格される「村社」にふりわけられ、現在は神社本庁に所属。そんな晴明神社に活気がが戻ったのは、映画「陰陽師」のおかげ?現在は「魔除け」「厄除け」の神社として人気急上昇のようだ。来訪者はとてつもなく増えたのだろう。そう言う所が意識された? インスタ用のオブジェもいろいろ設置され、かなり様代わり。驚きました。(広くなっている気も・・。)陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)占いがメインであった陰陽寮晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)のブームは、夢枕獏(ゆめまくらばく) 氏の人気小説シリーズ「陰陽師」(1986年)と、それを原作に漫画化した漫画家 岡野玲子(おかのれいこ)氏の「陰陽師」シリーズに始まります。スコラでの漫画、一巻の初刊は平成6年(1994年)。マニア人気が少しずつ増えたのは、岡野玲子 氏の漫画に寄るところが大きい。その後、狂言師(きょうげんし) 野村萬斎(のむらまんさい)氏の主演で2001年、映画「陰陽師」が公開されると一気に安倍晴明の知名度は全国レベルに発展。※ 現在の清明神社境内にあるお土産屋(桔梗庵)の内容も映画関連が多いように思う。 映画はあくまで夢枕獏 氏の小説が原作となっていますが、登場人物のキャラクター等は岡野玲子 氏の描いた漫画「陰陽師」の世界感そのもの。漫画ファンの私は、映画以前に、岡野玲子 氏の描く「陰陽師」シリーズに影響された一人です。清明神社 拝殿前 左陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)安倍晴明(あべのせいめい)(921年~1005年)平安時代に活躍した陰陽師(おんみょうじ)。師は陰陽師(おんみょうじ)で天文博士である賀茂忠行(かもただゆき)(生没年不詳~960年)。陰陽寮に所属するのは40歳頃、天文博士となるのは50歳頃と遅い。それは兄弟子 賀茂保憲が上にいたからなのだろうか?晴明の名が史書に登場するのは961年、天文博士 賀茂保憲(かものやすのり)(917年~977年)の補佐として護身剣、破敵剣の鋳造の時。※ 賀茂保憲は晴明の師匠 賀茂忠行の息子。※ 安倍晴明が仕えた歴代の天皇は62代 村上天皇、63代 冷泉天皇、64代 円融天皇、65代 花山天皇、66代 一条天皇安倍晴明が天文博士となるのは972年。賀茂保憲の後を継承した晴明が表で活躍するのは64代 円融天皇(在位969年~984年)以降、65代 花山天皇、66代 一条天皇までとなる。※ 天文博士になるのは遅いが、彼の能力故、陰陽家としてすでに貴族の信頼があったようだ。霊感は幼少の頃よりあったようで、今昔物語には百鬼夜行を師の賀茂忠行に知らせて難を逃れたと言う逸話が残っている。物の怪の解除や祓い、病気の回復祈願、泰山府君祭りなど、晴明の得意分野であったようだ。※ 生死を司る泰山府君(たいざんふくん)の祭りとは、呪術により身代わりを立てて命の差し替えを行うと言うもの。今昔物語には晴明が泰山府君を祭る人物として登場。晴明の呪術の見事さが記されているらしい。それ故、陰陽師イコール呪術師のようなイメージがあるのは、安倍晴明の活躍に寄るところが大きいのだろう。995年には「蔵人所陰陽師」となり出仕はしていなかったが朝廷の諸々の諸事(先例、典故、吉凶、日時)を調べて上申する日時勧申(にちじかんじん)を80歳過ぎても行っていたと言う。亡くなる前年の雨乞いの「五龍祭」では大雨が降る快挙。褒美までもらったらしく、最後まで人気が衰えなかった事が解る。位階の最終は「従四位下」。晴明を祀るよう言明したのは一条天皇とされるのも納得だ。因みに、安倍家は晴明以後も代々公家として朝廷に仕えたが、室町時代中期以後、「土御門(つちみかど)」を名乗ったとされる。岡野玲子(おかのれいこ)氏の安倍晴明 スコラ 「陰陽師5(青龍)」より表紙漫画と言っても、筋だけ追うならともかく占術や呪(しゅ)についてなど、内容は後半に行くほど難解です占いがメインであった陰陽寮陰陽寮(おんみょうりょう)を造り、律令下に陰陽道を組み込んだ張本人は天武天皇(生年不明~686年)(在位:673年~686年)だそうです。基本、陰陽道は天文、暦、陰陽の3部門の専門集団からなっていたようですが、当初、天武天皇が求めたものは占い。天文や占星術を使用した占いで都を造る時の土地の善し悪しや方位を決めたり、天候不順など、通常で無い事(天変や怪異)がおきた時の瑞兆(ずいちょう)の判断など、諸々の天皇の政の中で重用された部署だったようです。つまり「陰陽寮」は官職であり、そこで働く技術集団は国家公務員なのであった。その占いのベースとなったのが、陰陽と五行思想。陰陽(いんよう)思想とは夜と昼の二元論。そしてそれは一年を通してみれば春夏秋冬。森羅万象あらゆる事が陰陽(いんよう)の局に分けられると言う考え。 五行思想とは、宇宙は5つの要素(木・火・土・金・水)からなり、それらには「相生」と「相剋」と言う二種の循環によってなると言う考え。方位の五行この陰陽思想と五行思想が組合わさってできたのが陰陽五行思想である。そしてそこから四神相応(しじんそうおう)の考えや、八卦(はっけ)、風水など、方位からあらゆる占いが考案されている。左 五行相克 右 五行相生※ 五行相克(ごぎょうそうこく)の星形である五芒星(ごぼうせい)はあらゆる魔除けの呪符として用いられた。安倍晴明がこれを紋に用いた事から晴明桔梗(せいめいききょう)印とも「セーマン」とも呼ばれる。陰陽道の方位と十二支晴明神社(せいめいじんじゃ)堀川通り 越しの「清明神社」右手が北、すぐ今出川通りにぶつかる場所。市バス「一条戻橋、晴明神社前」下車晴明神社は清明亡き後、安倍晴明を祭神として、1007年(寛弘4年)晴明の屋敷跡に祀られたらしい。一の鳥居には晴明桔梗紋が。晴明神社見取り図一の鳥居と二の鳥居の間に一條戻り橋のオブジェと式神のオブジェがある。(SNSスポット)晴明の屋敷に近い一條戻り橋には晴明が解き放っていた式神(しきがみ)がいたと言う。(源平盛衰記)この戻り橋はオブジェであり、実際の場所ではないが、欄干親柱は大正11年~平成7年まで使用されていた本物らしい。式神(しきがみ)「式(しき)」は「使役(しえき)」に由来する言葉のようだ。文献によっては「式鬼(しき)」とも。「宇治拾遺物語」は晴明が式神を使っていた話が出てくる。実際の人ではなく、鬼に類する精霊のたぐいか?今昔物語では神霊的なイメージ? 密教の童子のような眷属に描かれ、宇治拾遺物語では紙などが呪術であたかも生物に成り代わると言ういメージがついた?日月柱二の鳥居右に「陰陽博士 安倍晴明 公 居館跡」と石柱があるが、本当の清明の屋敷は現在の京都ブライトンホテルのあたりと言われている。※ 内裏の位置も平安と現在では変わっているが、晴明の屋敷は、紫宸殿の裏鬼門に位置していたらしい。陰陽師(おんみょうじ)先に紹介したように陰陽道はそもそも学問としては天文学や地政学に近く、それらから計算された占いが主な仕事であったようだが占いで良くない物がでれば、同時に祓いも行う。だんだんに怨霊や物の怪の「祓い」や「祭り」も行われるようになったようだ。平安時代、暗闇には魔物が潜んでいると皆が信じていた時代である。ちょとした天変地異(雷などの自然現象)でさえ怨霊の祟りと考えられた。その怪異の原因を占い、穢れ(けが)を祓い(はらい)、病気平癒(びょうきへいゆ)や、雨乞いまでしてしまうスーパー祓い屋、「陰陽師(おんみょうじ)」が定着したのは平安中期頃だそうだ。当然、安倍晴明らの活躍があったからだが、初期の「陰陽寮」では、占いはしても結果を天皇に奏上できたのは陰陽頭のみ。職務の分担があったらしい。二の鳥居をくぐると右手に手水舎があり、その横に晴明井がある。古より湧き出ていたと言う晴明井は洛中の名水として知られ、病気平癒のご利益もあるとされる。晴明五芒星、桔梗紋を配し、流水口はその年の恵方に向けられているそうだ。井戸の前には北辰北斗信仰の象徴の北斗七星が。陰陽道はもともと道教の北辰北斗信仰がベースにあるのだ。実はこの晴明井の水は千利休も茶の湯に利用していた水だ。なぜなら、現在の晴明神社の場所は、豊臣秀吉の屋敷、聚楽第(じゅらくだい)があった場所にひっかかっているようなのだ。二の鳥居左脇には聚楽第内に屋敷を構えていた千利休が茶事で利用した井戸がある旧跡と書かれている。そして聚楽第で秀吉により切腹を申し渡された千利休は聚楽第内で果てる事になる。※ 聚楽第と千利休については、2015年6月「大徳寺と茶人」で書いていますから良かったら見てね。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)正面に拝殿 左に晴明像、右に厄除け桃、そのまた右の大木がご神木である樹齢300年と言われる楠(くすのき)現在の本殿は明治38年にたてられたもの。厄除け桃原産地は黄河上流の高山地帯。古来、桃は魔除厄除の果物。食用のほか祭祀用途にも用いられ。平安時代には特に珍重。当時の桃はそれほど甘くなく主に薬用や観賞用とされた? 桃園を持つのは貴族でもステータスであった。楠の後ろ、本殿北側にお稲荷さまと2柱の神様が祀られるお社がある。天満社、齋稲荷社、地主社このお稲荷さまが、齋院(さいいん)鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所にあったことに由来するらしい。晴明の母、葛葉(くずは)は狐であったと言う風説から、晴明がお稲荷さまの生まれ変わりと解釈された説がある。久しぶりに行った晴明神社は、こじんまりした中にも、写真スポットは満載されている。近年のSNSブームを意識しての事なのだろう。参拝する方の立場で見ると、オブジェは少し軽い。式神なども可愛良すぎ。もう少しリアル感がほしいかも・・。売店の御札 一部さすが「厄除け」、「方除」、「火除け」、厄年用の「厄除」など災厄に関する札が並ぶ。学業守りとせず「、「向上守」としている所も良い。星形の魔除けステッカー、もう少し重厚なありがたみが欲しいかも・・。ところで、気になった事がある。神様でなく、人(人間)を祀る時の規定と言うものがある。本来人は祀られるべき対象ではないが、特例があるのだ。御霊である平清盛や、菅原道真はともかく、人である秀吉や信長を祀る神社は明治政府に公式に認められ存在する。明治以後に「人」を祀る神社が増えているのは明治政府が行った宗教改革のせいである。その明治の「人」を祀った神社の中に「清明神社」が無いので改めて、どこに分類されるのか不思議に思った。そもそも晴明神社は本当に昔から存在していたのか?1007年(寛弘4年)に晴明は祀られたとされるが、当初は祠(ほこら)だけで神社までは無かったのではないか? などと思ったのだ※ 2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」の中、「維新政府の宗教改革(振り回された神社)」にて明治政府の宗教改革について書いています。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)※ 御霊信仰については、2015年2月「北野天満宮 梅花祭り」「北野天満宮と御霊信仰」の中で簡単に紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭り
2018年01月11日
コメント(0)
日本では、ツリーが撤去され、門松が建てられ始めましたが、実はまだキリストの生誕祝いは終わっていません。なぜなら、キリストが生まれた時にその知らせを星で知ったマギ(magi)が、星をたよりにベツレヘムにやって来るまで日数があるのです。彼らマギ(magi)がベビー・イエスを拝み、祝いの品を渡すのは1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日。それ故、カトリックの国では、最低でも1月6日まではクリスマスツリー(Christmas tree)やプレセピオ(Presepio)は飾られたままとなります。決して撤去が遅いわけではないのです マギ(magi)については、2013年12月「マギ(magi)の正体で紹介しています。リンク マギ(magi)の正体加えて言うと、東方教会では、エピファニー(epiphany)は別の意味合いを持っています。東方では、イエスの洗礼を記念する日がエピファニー(epiphany)なのだそうです。イエスの洗礼とは、大人になったイエスが(洗礼者)ヨハネよりヨルダン川で水の洗礼を受けた日。これはエジプト起源の祝いだそうで。元はナイル川の神、オシリス神崇拝から来ているらしい。そんな訳でクリスマスは過ぎましたが、「クリスマス歳時記 2」をつづけさせてもらいます。聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日プレセピオ(Presepio)無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日ムリーリョの「無原罪の御宿り フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine)プレゼピオ(Presepio)父の入院で予定がくるいましたが、「クリスマス歳時記」を書こうかと思ったきっかけは、たまたまその日が「無原罪の御宿り日」(12月8日)であったから。※ プレゼピオ(Presepio)を飾るのは12月8日(無原罪の御宿り日)の日と決まっている。プレゼピオ(Presepio)はキリスト降誕の情景をフィギュアで現したオブジェです。そもそもは、識字率の低かった欧州で、生誕の物語を演じて見せたのが始まりだったらしい。一説には、アッシジ(Assisi)の聖フランチェスコ(San Francesco)(1182年~1226年)が考案したとも言われている。バチカン美術館の入口にあったものザルツブルグの聖アンドラ教会にあったものイタリアでは等身大の人形が飾られる事もあるらしいが、家庭用はミニチュア。パターンが幾つか決まっていて、納屋で生まれた所。マギが東方より訪ねてくる所。納屋でキリストに祝いの品を渡す所。天使が集まる所等々。※ 2013年12月「マギ(magi)の正体」の所でもプレゼピオ(Presepio)を紹介。すでに冒頭で触れたが、マギ(magi)が来訪する翌年の1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日までは当然ながらプレゼピオ(Presepio)は飾られている事になる。プラド美術館 ムリーリョの「無原罪の御宿り ベネラブレス(Venerables)」1678年バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)スペインでは非常に人気のある画家です。日本ではあまり知られていないかもしれませんが・・。マリア信仰の厚かったスペインでは、特に聖母の純潔性を描いた作品は圧倒的な人気があったと言う。その中でもムリーリョの「無原罪の御宿り」は代表格である。下の拡大写真はウキペディアから借りてきました。自分の写真はボケ気味で拡大が無理だったので。無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日「無原罪の御宿り日」とは何か? 日本人には聞き慣れない言葉だろう。無原罪とは「原罪を持たない」と言う事。では、そもそも原罪とは何か?それは創世記、アダム(Adam)とエヴァ(Eve)が神の意向に背いてリンゴを食べた事に始まる人間の生まれながらに持った罪の事である。しかし、人間の女性で唯一、原罪を持たずに生まれてきた者がいる。それが神の子とされるイエス・キリストを宿したマリアの事である。しかもマリアはこの世に命を得た瞬間(母アンナの体内に宿った時)から無垢な者として存在したとされる。その記念すべき日が、無限罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)なのである。※ ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義であるが1854年に教皇が公認。カトリック信者の多い国では12月8日は法廷休日に認定されているそうだ。因みにパナマでは母の日に認定されているらしい。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)祭壇画に描かれた無原罪の聖母目に留まったので撮影していたが、聖母マリアの貫禄に恐れ入ったのかな?※ 正教会ではマリアの無原罪を認めていない。マリアに栄光が得られるのは、神の子イエス・キリストを生んで聖母となった時。ところで、「処女懐胎」とも言われる理由は、マリアの懐妊は、性交による所でなく、天の聖霊によって子が宿された事。大天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知がそれを示している。フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知 アルテビナコテークから受胎告知も多くの画家が描いているが、中でも優美で特に素敵な絵の一つです。ルネッサンス期の画家で、サンドロボッティチェリの師匠であるフイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)(1406年~1469年)の作品。受胎告知では共通に、マリアとマリアに告知するユリの花を持った大天使ガブリエルがいる。彼は神の言葉を伝える天使なのである。この絵はそれだけではない。時代の流行もあるのだろうが・・。下の絵の左上、天上人からの金の光の帯が鳩(聖霊)を通してマリアに届く。それによりマリアは懐妊する。精霊による懐妊が、レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知よりも解り易い。子供を産んでもなお、彼女は純潔であると言う事を象徴している絵である。だが、教義では、もっと深く清純とされた。マリアはすでに彼女の母アンナのお腹に宿った時から原罪を持たないで生まれたクリーンな人とされている。無原罪の聖母の絵画はスペインで特に好まれたらしい。因みに、現実的に考えると、マリアにはヨセフと言う夫がいる。以前読んだ興味深い本によればダビテ・ソロモンの血をひく家系とされる修道士ヨセフは、当然子孫を残さなければならない。彼には婚約者がいた。それが修道女マリアである。しかし婚約中に懐妊してしまったので正式に二人の子とは認定されず、処女懐胎と言う流れになったらしい。そしてヨセフは3年に1度下界に降りて結婚生活を営んだ。その時の職業が大工であったそうだ。※ 「イエスのミステリー」死海文書で謎を解く NHK出版 原題 「Jesus The Man」 Barbara THIERINGついでなのでマリアの結婚の絵画を紹介。非常に珍しいタイトルであるが、何とラファエロの名品である。ブレラ美術館 ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine) 1504年頃サン・フランチェスコ聖堂サン・ジュゼッペ礼拝堂(ペルージャ近郊のチッタ・ディ・カステッロ)の為の祭壇画として制作。この祭壇画はラファエロが21歳の時。この絵画では、神の子を産む、マリアの結婚相手を司祭が選んでいるらしい。杖に花が咲いた大工ヨセフが夫として選ばれた・・と言う内容らしいが・・。先に紹介したように、実際はダビテ・ソロモン王の血をひくヨセフありきの二人の結婚である。ところで、この作品はラファエロの師、ピエトロ・ペルジーノの「ペテロに鍵を渡すキリスト」(システィナ礼拝堂)に構図がそっくり一緒。建物、人物の配置、遠近を使用した床の描き方まで・・。ペルジーノの弟子をしていたのは4年程。この頃は師の影響がかなり強く出ているが、それでもラファエロらしい人物像がすでに表現されている。ブレラ美術館でも目玉の一つになっている。因みに、師匠ペルジーノの技術を吸収したラファエロは、この祭壇画製作の後すぐ、フィレンツェに移りレオナルドやミケランジェロから刺激を受ける事になる。クリスマスのルーツについて書く予定が、着地点が変わりました。次回番外の形で載せるか検討中。ところで前回ラストに出した問題の解答ですが、あの聖母子の製作者はサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)(1904年~1989年)でした 来年になりますが、清明神社と秦氏の関連で松尾大社を紹介予定です。
2017年12月27日
コメント(0)
さて、長らくお休みしておりましたが、今回はクリスマスイベントに関する話を・・。クリスマスイベントと言っても、俗なパーティーの事ではありません。真面目にカトリック信者のクリスマスイベントを幾つか紹介 今回写真は三角構図の聖母子を中心に選びました。※ 写真は、美術館で撮ってきた全て自前の写真です。映り込みなど、正面から撮影できなかった絵もありますが・・。聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)クリスマス(Christmas)歳時記アドべント(Advent)聖ニコラウスの日((Saint Nicholas of Myra)12月6日聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)聖母子を描いた絵画はローマ時代から存在し、ルネッサンス期には大量の聖母子が描かれた。が、芸術性の高さでも取り分け知られているのが、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ・サンティの三角構図の聖母子であろう。※ 三角構図とは、四角いキャンパスや写真のレイアウトを決める時に、三角形の構図に収めると、バランスが良く、まとまり感が出て、失敗が少ないのだ。ダ・ヴィンチは特に三角構図を好んだらしい。わざと三角構図に描き込むと言うよりは、恐らく自然と落ち着きのあるバランスが三角構図の発見であったと思われる。三角構図はモナリザにも利用されているが、聖母子で言うなら、2人よりも3人の方がバランスが良いのは明らか。※ 聖母子とは母マリアと幼児キリストである。聖母子絵画に3人?聖母子以外に加えられるのは、聖母マリアの母であるアンナや、マリアの従姉妹エリザベスの息子ヨハネ。とり分けヨハネは、後にキリストに水の洗礼をした為に洗礼者ヨハネと呼ばれる。絵画に幼児が二人居る時は、キリストとヨハネに間違い無い。因みにマリアとエリザベス、キリストとヨハネの4人のバージョンもある。イエス・キリスト(英 Jesus Christ) ナザレのイエス(BC6年~BC4年頃誕生~AC30年頃)洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)(英 John the Baptist)(BC6年~BC2年頃誕生~AC36年頃)ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(1483年~1520年)の作品からウイーン美術史美術館からのラファエロベルベデーレの聖母子(Madonna del Belvedere)orプラトの聖母(Madonna del prato)or 草原の聖母 と呼ばれる。1506年十字の杖を持つのがヨハネ聖母がいない二人だけの絵画もある。可愛い幼児二人はそれだけで絵になる。ルーブル美術館からのラファエロ聖母子と幼児聖ヨハネ(Madonna col Bambino e san Giovannino)美しき庭師(Bella Giardinier)1507年アルテピナコテークからのラファエロカニジャーニの聖家族 (Sacra Famiglia Canigiani)1507年※ カニージャ(Canigiani)は最初に所蔵していたフィレンツェの一族の名前らしい。聖母子と、聖母の母アンナ、父ヨアヒム、洗礼者ヨハネマリアの両親が加わる絵は、滅多に無い。(これだけかも?)アルテピナコテークには、別のラファエロの聖母子もある。こちらの絵はフィレンツェのピッティ宮殿にあるトンド(円形)の小椅子の聖母と構図が一緒。だからか? 構図がちょっと不自然。無理に収めた? トリーミングされた感がある。次はレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)の作品からルーブル美術館からのダ・ヴィンチ聖アンナと聖母子1510年頃聖母子と共にいるのは、姿は若いが、マリアの母アンナとされる。マリアの母アンナの登場は、恐らく、聖母マリアの「無原罪の御宿り」が公認されてからではないかと思う。※ 「無原罪の御宿り」については、次回歳時記で紹介します。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で見つけた絵画を紹介。ラファエロにも、ダ・ヴィンチにも似た聖母子の絵は、実は上の絵が元になっているらしい。描いたのは、ダ・ヴィンチの弟子の一人、チェーザレ・ダ・セスト(Cesare de Sesto)(1477年~1523年)聖母子と子羊(Madonna con il Bambino el'agnello)1515年弟子のチェーザレは、明らかに師匠ダ・ヴィンチの作品を真似しています。しかし、そこにはマリアの母、アンナがいない。何故いないか? 実はこれは論争になっている謎なのです。真実は解りませんが、チェーザレ作品はシンプルに幸せそうな聖母子そのものです。三角構図にはブレがあるが・・。一方、聖アンナがいるダ・ヴィンチ作品の方は、確かに三角構図になっているようですが・・。安定よりも、むしろ構図に違和感を憶える気がします。もろもろのバランスが崩れている気がします。聖アンナを後から足した感じが満載です。いや、むしろいろいろ書き直したのかもしれない。そしてバランスが崩れたのか?三角構図は、二等辺三角形だからこそ美しい。巨匠を真似してもやっぱりひと味ちがうんですね ※ 20014年9月「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」を紹介。その中でそこの目玉サンドロ・ボッティチェリの聖母子も紹介しています。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)クリスマス(Christmas)歳時記神社仏閣、教会と、なんでも参拝する日本人にとって、12月25日のクリスマスはただのパーティー・イベントでしか無い。しかし、クリスチャンの人にとって、クリスマスは特別なイベントの日なのである。特にローマ・カトリック圏では12月に入ると、クリスマスを迎えるの為の準備がおごそかに進められて行く。その始まりの一つがアドベント(Advent)である。※ 正教会やプロテスタントでもクリスマスの祝い方は異なります。アドベント(Advent)※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」の中でアドベント(Advent)の紹介をしていますが・・。アドベント(Advent)は、ラテン語のAdventus(到来、降臨)に由来する。簡単に言えば、キリストの降誕日(クリスマス)まで、カウントダウン方式で降臨を待ち、祝うと言うイベントです。※ ローマ・カトリック、ルター派では待降節と呼ぶ。期間はキリスト誕生(降誕日)の前約4週間。しかし、開始日(Advent Sunday)は毎年異なり、11月30日の使徒アンデレの日に一番近い日曜日が第一主日(First Sunday of Advent)と設定される。アドベント第一主日(First Sunday of Advent)アドベント第二主日アドベント第三主日アドベント第四主日アドベントの終了は12月24日の日没後つまり、クリスマスまで4回の日曜日を過ごしてクリスマスを迎える事になる。祭司が紫色または青色の典礼服を着用し、最初の紫色または青色のアドベント蝋燭(ろうそく)がミサで灯され始まる。皆も家でリースに飾ったろうそくに灯りをともし(一週毎に1本づつ増やす)その日を待つのである。そこら辺のイルミネーションの点灯式とは次元が違います。そもそもは東方教会において洗礼志願者が断食と悔改めを実践する準備期間であったらしい。西方教会では待降節までの典礼として取り入れたようだが、儀式はあくまで厳かに。祈るのはイエスの人間界への降臨を顧み祝い、未来における降臨(最後の審判)を待ち、悔い改め、慎み深く心の準備を整えてその日を待つ。願わくば、最後の審判の裁きで、蘇れる事を望んで・・。つまり、本来のクリスマスは楽しむものではなく、あくまで、キリストの誕生日を祝う祭典だと言う事です。当然祝うのは家族単位。恋人同士で一夜を過ごすなどあり得ない。敬虔なるカトリックの信者の方から見たら、信者でもない日本の勘違いクリスマスには驚くのでしょうね。また、アドベント(Adventus)の期間内には、12月6日の聖ニコラウスの日や、12月8日無原罪の御宿り日も含まれている。それは共に今のクリスマスに関係する日である。聖ニコラウスの日(Saint Nicholas of Myra)12月6日ミュラ(Myra)の聖ニコラウス(Saint Nicholas)(270年頃~343年)ミュラ(現トルコ)の司教であったニコラウスの伝説は、日本人のほとんどは聞いた事も無いと思うが、それこそが、クリスマスのブレゼントの由来となる話なのだ。前にも触れているが、どうも12月25日に子供達にプレゼントをする習慣は、実は新大陸のアメリカから始まったと言われている。つまり、本来は12月6日がプレゼントデー。それは聖ニコラウスに因んだイベントであったらしい。3世紀、貧しさで身売りされそうになった三姉妹の為に、聖ニコラウスは彼女らの家に干してあった靴下の中に金貨を入れて救ったと言う。靴下や長靴にプレゼントを入れると言うルーツはその靴下にあったらしい。だからオランダでは25日よりも、聖ニコラウスの日である6日にプレゼントをもらうのがポピュラーだそうだ。12月6日が聖ニコラウスの記憶日(命日)だから。因みに、プレゼントの慣習は、オランダ移民によりアメリカへ伝わったとされる。聖ニコラウスはSaint Nicholas→Sinter Klaas(オランダの発音)→オランダ訛りでSanta Clausとなったと言う説もある。が、ちょっと疑問なのは、アメリカに伝えたオランダ移民は間違いなく清教徒であろう。つまりプロテスタントである。プロテスタントは聖人崇拝は無いはずなんだけどな (・_・?) ハテ?※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」では聖ニコラウスの日についても書いています。クリスマス歳時記 次回につづきますが、その前にクイズです。下の聖母子は誰の作品でしょう超有名人ですよ。
2017年12月21日
コメント(0)
タイトルとカテゴリーを変更しました。今回はちょっと趣向を変えて、ウイーン美術史美術館所蔵からちょっと怖い絵画を紹介。製作者は超有名なバロックの巨匠、フランドル出身のルーベンスです 合わせて紹介する写真は以前紹介した事のある所ですが、今回は視点を変えての紹介となります。ところで、遅れた理由はもう一つ。今回も紹介にあたり、ルーベンスの来歴と、その絵画のモチーフとなった伝説(ギリシャ神話)を再度調べていたら、例によって、どんどん方向性が変わってきてしまいました。最初、一枚の絵画から始まったテーマは、ヴィザンティン帝国の創建の時代に遡り、ヴィザンティオンに帝国の首都を置いたコンスタンティヌス1世に辿りつき、さらに彼が造った? ローマ帝国正規軍の紋章ラバルム(Labarum)に行きつきました。しかし、ラバルム(Labarum)に興味はあるが、今回は断念。全くもって今回の内容にはひっかからないのですそなこんなで、どこかで必ずやりたいテーマがまた一つ増えました。ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)色調絵画バルール(Valeur)メドゥーサ(Medousa)は何者か?イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサイェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)とりあえず、ウイーン美術史美術館所蔵の絵画から紹介。The Head of Medusa 1617年 ~1618年ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) (1577年~1640年)ヘビは動物専門の画家フランス・スナイデルス(Frans Snyders)、(1579年~1657年)作品はギリシャ神話の怪物メドゥーサ(Medousa)がペルセウスに退治され首を落とされた所のようです。ゴルゴーン(Gorgōn)3姉妹のうち、不死身で無い3女、メドゥーサはペルセウスの宿題の為にターゲットにされます。そもそもはペルセウスの母ダナエに言い寄るポリュデクテスに彼女の首を差し出す約束をしたからでした。メドゥーサ(Medousa)は髪が蛇,見るものを石にする目を持つ。(もとは普通に美女だったらしい。)ペルセウスはアテナイ神とヘルメス神の助けを受けて彼女を捜索して殺し首を持ち帰る事に成功。その首は死んでもまだ効力を発揮。最終的にはポリュデクテスを石にした後にアテナイ神に献上。アテナイ神はメドゥーサの首を自分の山羊皮の楯アイギスにはめ込み最強の盾にした。小品ながら非常にドラマティックに描かれている。ヘビやファイア・サラマンダーは専門家のフランス・スナイデルスの筆であるが、メドゥーサの見開かれた眼と総合演出はさすがルーベンスである。特に押さえられた配色の、しかも暗色の中でメドゥーサの青白い顔の色は取り分け目立つ。いつもなら、ルーベンスの女性は赤色を刺した暖色で、プルプルの肌つやを持つのが特徴だ。ここでは怪物で、なおさら死人なので赤みこそ無いが、確かにルーベンスなのだ。どこの誰のオーダーで描かれたのかは解らないが、異質ながらも引きつける魅力は小品でも十分ある。さすがルーベンスなのか? さすがメドゥーサなのか? 因みにギリシャ神話では、メドゥーサの血についての伝説が幾つかある。1. メドゥーサの首からあふれ出た血から、空駆ける天馬ペガサス(ラテン語|Pegasus)が生まれた。2. 切り落とされたメドゥーサの首から滴り落ちた血はペルセウスによって2つの瓶に集められ、アテナイに献上された。右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。色調絵画バルール(Valeur)これらはバルール(Valeur)と呼ばれる技術が使われた作品に分類されそうだ。バルール(Valeur)を説明するのは難しいが、構図(配置)や色の明暗(色調)による視覚効果を狙ったりと、五感に訴えた表現作品と言える。巨匠だからこそ怪物の迫力が伝わるバルール(Valeur)である。その成功によりこの絵の完成度は増している。1620年代から1640年代にかけて、原色を用いず、色彩を抑制(淡褐色などごく限った色)。その中で明暗の変化を利用して雰囲気を出した作品がフランドルで流行している。※ この時期は服飾においても、白と黒の地味な服装が流行。風景画の中にも海と空だけの海景などまさに単色の世界が出現。その新傾向の絵画は、色調絵画とか、単色様式とか日本訳されているようだが、これがバルール(Valeur)作品をさしているのだろう。またこれらに共通するのが、断片的作品。広大な景色からごく一部分を抜き取って表現したもの。「メドウーサの首」はまさしくそう。本来なら、メドゥーサを退治するペルセウスが画面にいても良いし、何よりメドゥーサの体全体があっても良い。これら限られたアイテムで表現する効果は確かに面白いが、実は何より、効率の良い仕事なのである。膨大化する絵画需用をこなす為に編み出した妙案かもしれない。従来の大きな作品では製作時間がかかりすぎる。これらは時短作品でもあるのだ。写真左下のファィア・サラマンダー因みに2012年06月「グエル公園(Parc Guell) 2 (グエル公園のファサード) 」で紹介したファサードを飾る謎のトカゲの正体がこれ。やはり欧州には多く生息しているようですね。リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)メドゥーサ(Medousa)は何者か?ところで、メドゥーサ(Medousa)は、海の神ポルキッュスの娘。そもそもは美しい髪と瞳を持つ絶世の美女だったそうだ。彼女はアテナイ神と張り合い彼女の逆鱗に触れて醜い、おぞましい怪物の姿に変えられたと言う。美しい髪は蛇に。美しい瞳は見る者を石に変える邪眼(じゃがん)に。別の伝承では、さらに歯はイノシシのごとく、顔は醜悪。黄金の大きな翼を持っていたとも・・。それはアテナイ神の呪いである。ギリシャ神話は読んでいて、つくづく神は傲慢で我が儘だと思っていたが、結構たちが悪い気がする。メドゥーサは洞窟に潜んでいただけなのに、わざわざ探されて退治されてしまうのである。ちょっと、いや、かなり気の毒だ。※ この話は英雄物語(ペルセウスの物語)に書かれている。でも本来のメドゥーサ(Medousa)はギリシャ以前の時代に土地に土着していた豊穣の神様として、東地中海からエーゲ海に至る地域で信仰されていた女神だった。以前紹介したナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉の形をした護符。アレクサンダー大王の没後にヘレニズムの文化が始まったとされるが、それ以前からメドゥーサ(Medoūsa)信仰は存在していた。それはギリシャの神々の体系がつくられるよりも前だったと推測できる。実はメドゥーサについては、以前触れていた事がある。2009年05月「地下宮殿とメドゥーサ (Medousa)」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノン」※ 若干読みにくい所を書き換えました。以前は毎日更新していたので内容も浅いですが・・ この際、メドゥーサ (Medousa)を掘り下げて、以前メドゥーサ寝殿に飾られていたかもしれないメドゥーサ像を再び紹介する事にしました。それは以前紹介した地下寝殿に現存する部分ですが、視点を変えて見てみてください。※ 実はダン・ブラウンの小説「インフェルノ」で思いだしDVDで確認しました。遺跡の内容は今も変化無し。「インフェルノ」ではクライマックスに地下宮殿で激戦している。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサ5世紀にどこからかもたらされた石として、事もあろうに地下貯水槽の柱に転用されてしまった悲しいメドゥーサのヘッドの話です。それは現在のトルコの首都イスタンブール。かつてのコンスタンティノープルに設置された古代ローマの地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)に置かれています。地下貯水槽とは言え、美しさでは世界一と言える列柱廊の並ぶバシリカ造りと言う事から地下宮殿 (イェレバタン・サラユ・Yerebatan Sarayı)とも呼ばれ、また英語ではバシリカのある貯水槽(バシリカ・シスタン・Basilica Cistern)で知られています。それは1985年「イスタンブールの歴史地区」としてユネスコ世界文化遺産に登録された遺跡です。Yerebatan(地下)、Sarayı(宮殿) と言いわれる理由が解る。まるで大聖堂の中の光景。でも、ここはイスタンブールの地下に掘られた貯水槽なのである。(現在は使用されていないが・・。)場所はアヤ・ソフィアに近いイエレバタン通り。ここはビザンチン時代のセブンヒルズ(7つの丘)の一つで、コンスタンティヌス帝が都を築いた時の最初の丘にあたる。当初の丘の中心には公共広場(Stoa Basilica)(アウグストゥス大広場)があり、その地下にそれは造られた。給水施設が近代化された時に、ここの使用はとりやめ、今はただの池となってしまった。1960年代に天井近くまであった水は抜かれ清掃され、今は観光と時々コンサートなどのイベントが催されている。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者最初にビュザンティオン(コンスタンティノポリス)に給水施設を造ったのはローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)とされる。皇帝は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。※ ビュザンティオンは後にコンスタンティノポリスとなり、現在はイスタンブールと名を変えた。※ 東側のローマ帝国は後に東西に分裂するが、旧都市名ビュザンティオンから東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれる。ローマの街造りは上下水道に始まる。そして浴場の建設ははずせない。水は黒海の近くから運ばれ、かつてはイスタンブール大学のあった場所に90万平米の大型貯水槽が造られ、一端そこに貯めてから宮殿やアヤ・ソフィアに供給された。当初は広場に大聖堂もあったらしいが、476年火災が起きた。(後に聖堂は再建)そしてユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(483年~565年)(在位、518年~527年)の時代に貯水槽は拡大される。それが今に残る地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)である。長さ140m。幅70m。天井を支える8mの花崗岩。柱は4mおきに28本ずつ12列。全部で336本。それぞれの柱には細かい模様が彫られ、コリント式の柱頭が付いている。ここの建築には7000人の奴隷が使役されたと言う。そのバシリカ構造と壮観さから地下宮殿(イェレバタン・サラユ ・Yerebatan Sarayı)と呼ばれるようになったと言う。1453年にオスマン帝国が征服され、現代に至るまこの給水施設はトプカピ宮殿に水を供給したと言う。泥水5000トンが抜かれ、足場が組まれ、一般公開されるに至ったのは1987年。この建設の資材は再利用なのである。実はローマの都市は案外リサイクルで成り立っている。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の城塞を取り壊し資材を運んだ。また、近くのヘレニズム時代の遺跡からも資材を調達。かくしてどこからかここにとんでもない物が運ばれたのである。メドゥーサ(Medoūsa)の首実はこれは写真を逆さにしたものなのである。本当の姿は下。全体を見せると、こんな感じに置かれている。置かれている・・・と言うより、実際はこんな使われ方をしている・・と言う事に着目。またこんな横倒し使用のもある。メドウーサの顔が踏みつけられたかのような粗雑な扱いにビックリするが、これは当然メドゥーサ信仰の無い者達の仕業である。この置き方は敢えてサイズ調整の為だと前回書いたが、悪意があるのは確か。コンスタンテイノポリスを造ったコンスタンティヌス帝)(在位:306年~337年)は初めてキリスト教を公認したローマ皇帝である。正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めた皇帝なのである。だから彼の治世には以前のヘレニズムの時代の神様も、同様に大事にされていたはず。実はユスティニアヌス1世 がここの建築をするまでの間にキリスト教がローマ帝国の国教になったのである。392年、テオドシウス1世は(Theodosius)(347年~395年)(在位:379年~395年)キリスト教を東ローマ帝国の国教と制定。異文化の神殿破壊や遺跡の排除がこの後に始まったのだと推測される。ここを建設したユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(在位、518年~527年)の時代には他文化の遺跡等を破壊する事は何でも無い事だったのだろう。上に向きを変えて、気付いた事がある。口が半開き。もう一つは口を閉じていた。まさかこれは・・。神社の境内にある狛犬。あるいは寺の門前の仁王像に同じ。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像なのではないか?もし、そう解釈するなら、この像は神殿か何かの入口に飾られていた像だった可能性が・・。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の古い城塞を壊してここの資材の一部とした。ひょっとするとその城塞の入口には一対のメドゥーサ(Medoūsa)の顔がはめ込まれていたのかもしれない。ついでに気になっていた柱について・・。中には変わった模様の柱がある。これについては目玉飾りで被われた柱と解釈。ここを建設した時に使役された奴隷が7000人?古代のテキストでは、列の涙が貯水槽の建設中に死亡した何百もの奴隷たちに敬意を表していると記されているとか・・。しかしキリスト教で「奴隷に敬意を現す遺物」を造る事は考えられない。単純に、これもどこかの遺跡からのリサイクル(柱)と思う。それにこの柄、これは涙と言うより、まさにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)そのものではないか?つまり、これらはメドゥーサ(Medousa)の目玉そのものと解釈した方が納得がいく。目玉の付いた柱は、どこかの寝殿から持って来た物の可能性は高いが、護符として、わざとそこに建てた可能もあるかも・・。参考にうちのナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)の写真左のは縦11.5cmあります。トルコのお守りで、守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。詳しくは前に書いたのを見てください。メドゥーサ(Medoūsa)の首 おわり
2017年12月04日
コメント(0)
鉄道関連のリンク先をラストに追加しました。大阪駅を後に東京に戻ってきました。温度差で体がついていけません断然大阪のが暖かいです。ところで、滞在中は外食がとても多くなります。何しろ天神橋筋商店街の近くなので食べ物屋の数はハンパなく多いし、とにかく安い店が多い。連日食めあてのお客さんや、近年は外国人も団体でやってくる食のスポットの一つなのです。その天神橋筋はかつての天満(てんま)青物市場に由来する場所。それは石山本願寺があった戦国の時代に始まるらしい。※ 堂島米市場の米。雑喉場魚市場の魚。天満の青物市場の野菜。それらは秀吉の時代には天下の台所と呼ばれる大阪の三大市場の一つであった。天満青物市場の時代、遠方から来て荷下ろしをした船員達が、その足で買い物に出かけた場所が十丁目筋。それが現在の天神橋筋商店街のルーツらしい。※ 大阪では南北縦の道が筋(すじ)。東西横の道を通り(とおり)と名付けられていた。天神橋筋商店街の全長は2.6km。日本一長いアーケード商店街としても知られています。現在アーケードがあるのは天1から天6まで。その中でも天5界隈はとにかく飲食の店が増え続けている場所。※ 天5に集中する理由は天満市場がすぐ横にあったからであろう。激細の狭い路地にさえ、店が所せましと道にはみ出ていて、ただでさえ狭い通路なのに夜になると路上に椅子やテーブルを出す店も多数。今時分はビニールシートで周りを被い、外だけど寒さがしのげるような造りに。かつての天満市場のバラックの下も、今やほとんどが店を閉め、その後はそれぞれ簡易式飲食店になっている。飲食の方がきっと儲かるのだろう。ほとんどが一杯飲み屋風なのにオシャレな店もあるから面白い。また、商店街に面した細長いビルなどは、もともと八百屋、魚屋、豆腐屋など小売店の集まったマーケット。それも今は正面の昆布屋を残したくらいで、ほぼ飲み屋街へと変身した。とにかく行く度に既存の洋服屋とか、靴屋とか、雑貨屋はどんどん消え、新たな飲食店が誕生している。今やその数は1000程あるのではないかと思うほど。(一坪店舗などもあり繁盛もしているようなので驚く。)それでもまだお店が増え続けているこの現状は、みんなの食の意識が高いからなのか? はたまたは店を出して一旗揚げたいと言う起業家精神が高いからなのか? 挑戦者が後を絶たない場所のようだ。さて、今回は前回に続き、2代目駅舎から現在の大阪駅ノースゲートを紹介します。さっさと終わらせる予定が結構詳しくなってしまいました 分けた方が良かったか?前回のリンク先 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)大阪駅 歴代の駅舎 逓信建築 2代目大阪駅舎 悲劇の3代目大阪駅舎 JRの副業 複合型4代目駅舎開発中の北ヤードノースゲート大阪駅 歴代の駅舎初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)前回紹介 2代目駅舎 1901年(明治34年)~1935年(昭和10年)※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。初代駅舎が手狭になり旅客も交通量も増えたので、3カ年継続事業で34年7月に新駅が竣工。初代駅舎より約2丁(約220m)東に移動しほぼ現在の位置に。移転の最大の理由は、2年後の1903年(明治36年)に天王寺今宮で開催される内国勧業博覧会に備え、より多くの来訪者を受け入れる駅舎の誕生であった。当事の工費は12万円。駅前には、待合茶屋や、旅人宿、運送店がだんだんに増え、人力車が客待ちで群れをなすなど繁華街となっていったらしい。建物はみかげ石造り。しかしモニュメント内部はレンガ。木材はヒノキとケヤキが使用された豪華なもの。ホーム幅17m。待合室は270坪、2階には乗客の為の食堂も完備。写真を見る限り、ドイツ系のNeoclassicism(新古典様式)かな?と思ったが、設計したのは逓信技師の吉井義則 氏(生没不明)。日本人と知って驚き、逓信技師と知ってさらに驚き。逓信建築 2代目大阪駅舎日本の近代建築の始まりの中に逓信(ていしん)建築と言うのがある。かつての逓信省では、郵便・電信・電話・電気など事業の局舎、施設の設計を自前の技師集団でおこなっていたらしい。それは逓信建築(ていしんけんちく)なる言葉を生み出す程に合理的で堅実で質の高い建築設計を数多く生み出したそうだ。結果的に個性的な建築家を多く輩出したらしい。※ 逓信省(ていしんしょう)は、当事の電気通信事業の政府機関。今の日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)の前身にあたります。設計したのは逓信技師の吉井義則 氏と解っているのに、逓信建築の中に2代目大阪駅が含まれていなかったのは、今はその建物自体が無いからなのか?復元できればそれなりのものであったと思われるが、残念ながら2代目駅舎は3代目ができた後に東京の技芸学校に2500円で売却されて解体された。完全なる解体ならまだしも、外壁の御影石の化粧板だけを持ち去ったらしい。中之島の日本銀行大阪支店、大阪造幣局の泉布観(せんぶかん)と共に大阪の3名所とうたわれた駅舎だったのに・・ この2代目大阪駅舎の時に日露戦争(にちろせんそう)1904年(明治37年)~1905年(明治38年)が勃発。時の政府は鉄道の国有化を進めた。3代目駅舎 1940年(昭和15年)~1979年(昭和54年)この写真を見た時に、昔の東西統合前のベルリンの駅を思いだしました。写真で見て解るよう、駅前がすっきり整理されている。3代目駅舎は駅だけでなく、駅の前の整理と整備、近辺の区画整理、そして地下鉄建設や私鉄(阪急、阪神)のターミナル改造が含まれての改築だった。なぜなら、1940年(昭和15年)に東京で開催予定のオリンピックをめざし、宿泊も完備したステーションビルとして構想。しかも、旅客専用の高架停車場として計画されていた。当初は3階までが駅舎。4~5階がホテル。231個室。収容300人。宴会場、サロン、浴場まで完備する近代建築技術の 粋(すい)を結集した近代建築で計画され、国際ステーションとして華々しくデビューするはずであった。(全館完成ならず、未完の竣工。)悲劇の3代目大阪駅舎1937年(昭和12年)、日華事変が勃発。国家総動員方が公布され戦局は深刻化。その中で1940年(昭和15年)、3階までの駅舎は一応の完成を見たものの時局はオリンピックどころではなくなっていた。1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入。「金属類回収令」が公布。1943年(昭和18年)、4階以上の駅舎以外の鉄骨の供出命令が出され、切り取った鉄の重量は650トン。それらは戦列の大砲の弾となったそうだ。(軍からは鉄の質が良いとほめられたらしい。)因みに、悲劇は社寺にも及んでいた。1942年(昭和17年)、仏具特別回収なるものが行われ、四天王寺では、大梵鐘がターゲット。同じく1943年(昭和18年)、梵鐘は供出され、銃弾など兵器となり人を襲ったのだ。また、駅の悲劇はそれだけではない。駅は連日連夜、臨時電車が走り、出征兵士の送り出しや軍需品輸送に利用され構内は兵士見送りの人波で大混雑。1945年(昭和20年)にはついに空襲で大阪駅倉庫一帯と商店街が焼夷弾により焼失。梅田から心斎橋の方まで見渡せるほどだったらしい。そして終戦、今度は進駐軍部隊の輸送で利用され、駅舎は米軍鉄道輸送司令部として連合国軍に接収。結局、3代目大阪駅舎は戦争のあおりを受け、当初予定の駅舎にはなれず、ホテルもできず、それでも戦後の動乱も乗り切り、大阪万国博覧会をへて、高度経済成長を通過し、1979年(昭和54年)まで頑張ったのである。※ 1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会の為、1967年(昭和42年)~1970年(昭和45年)駅舎の改良が行われている。4代目駅舎 1979年(昭和54年)~2011年(平成23年)大阪万国博覧の時でさえ、駅舎は建て替えられる事はなかった。大阪市は万国博覧会にそなえ、「大阪駅前市街地開発事業」をスタート。駅前の再開発と共に大阪市の顔となる駅舎の建て替えも希望していたようだが、JRは改良程度に留めた。結局の所、赤字のJRに建て替えのお金がなかったのだろう。民間の資本での改築申請もあったらしいが・・。JRの副業 複合型4代目駅舎JRが重い腰を上げたのは1971年(昭和46年)に国鉄法改正が行われ、国鉄業務以外の副業が認められる事になった事だ。JRでは「駅周辺用地の高度利用」をうたい、業務施設機能と商業施設を併せ持つ複合型の駅舎の開発を決めた。(駅舎の中にデパート、ホテル、旅行サービスなどを誘致。)つまり、建て替え費用の負担ばかりか、今後の家賃収入、その他諸々の収入が得られると言う事だ。前回「JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝している。鉄道以外の商売にも熱心なようである。」と書いたが、まさにそれである。1976年(昭和51年)、「大阪駅ターミナル問題懇談会」発足。新駅は地下4階。地上27階。延べ床面積は13.6万平米の総合ターミナルビルと駅業務用施設(別棟の北ビル)の建設が決まる。1979年(昭和54年)、駅本社となる業務用施設、「北ビル」が開業。1983年(昭和58年)、もともと駅本社のあった場所に各種商業施設の入った大阪ターミナルビル「アクティ大阪」が開業。その中核となる施設はホテル(グランビア)。確か時代はバブルの頃。※ 現在ホテルグランビア大阪の大株主はJR西日本ホテル開発である。ここに3代目駅舎で構想していながら実現できなかったターミナルホテルがやっと4代目駅舎で実現。利便か? 儲けか? 駅舎とホテル一体と言う発想と着眼はどこよりも早かったかも・・。5代目駅舎 2011年(平成23年)~前回ジオラマや図解で位置など紹介。5代目駅舎の誕生は、北地区に残る梅田貨物駅用地など24haの活用を検討する中で生じたものだ。2003年(平成15年)。「大阪駅北地区全体構想」が発表。国際都市をめざした上での街造りが検討され、広場、通路の整備や駅の改良などが行われる事になった。2011年(平成23年)3月、大阪ターミナルビル、サウスゲートビルディング(旧アクティ大阪)開業同年4月、橋上駅舎 前回紹介した3階改札(連絡橋口)開業同年5月、ノースゲートビルディング 開業新しくなった大阪駅は、大阪の玄関にふさわしい空間と荘厳さと格調を持って誕生。さらには駅前広場と一体となるデザインが重視。新しい街。そして新たなランドマークとなるようスタイリッシュにデザインされている。(ごちやごちや感がなく、イベントにもすぐ活用できるようなゆったりめの造り。)下は前回も紹介したルクアイーレにある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラマノースゲート側の面※ 映り込みで見えにくいので背景を消しjました。ノースゲート側の写真はグランフロントが存在するので全景の実写は難しい。屋上は庭園とさらに上が菜園として公開されている。長らく北に残っていた曰わくのあった操車場(北ヤード)は(墓地→駅→車両基地→貨物駅)土地を売却して国鉄長期債務の返済に充てられることになったらしい。そして梅田の貨物駅はグランフロント大阪のオープンと入れ替わるよう2013年4月1日に正式に廃止。開発中の北ヤードノースゲートビル屋上庭園からの北ヤードを撮影(2017年11月現在)右のビルがグランフロント大阪。(グランフロント北館Cにはインターコンチネンタルホテルが入っている。)北ヤードをはさんで向こう側が新梅田シティ。左中、ガラス張りのが梅田スカイビル。左がウエスティンホテル大阪。共に新梅田シティを構成。かなりの敷地が開いていたのですね。今は見渡せますが、グランフロント前に何やらビルの工事が始まっているようです。この景色はいつまで見られるのでしょう。そして今度は何ができるの?2013年9月 梅田スカイビルからの大阪駅北側と北ヤード を撮影古い写真だし、映り込みもあるので綺麗とはいえませんが、在りし日の北ヤードの写真です。すでに梅田貨物駅が閉鎖され、解体が進められ始めた頃ですね。ノースゲートさて、現在のノースゲートビルの方を紹介。ノースゲート地上階 グランフロント前から地上階では、グランフロントと大阪駅の間には公共の道路が存在した。以前は歩道があり、渡ることが可能であったが、現在は仕切りができて渡れないようになっている。大阪駅ルクア側の地上階側がJRハイウェイバスの配車場になったからだ。向こう側に渡りたい人は、一度2階に上り、改めて駅側のコンコースにまわるか、ヨドバシカメラの方まで行ってから信号を渡るしか無い。因みに、現在はヨドバシカメラまで歩道橋が付いたのでノースゲートからそのまま行けるようになった。(地下からも行けるが・・。)ノースゲート2階エントランスフロア 入口このフロアから、先ほどの駅側の地上階中央コンコースに降りる事が可能。また、登れば3階連絡橋の改札コンコースに出る。※ 時計のついている階が3階連絡橋の改札コンコース。上降と下降のエスカレーターが両サイドについている。←緑、エレベーターも設置されているので車イス、ベビーカーの方はそちらへ。地上階行きのエスカレーターに乗れば旧大阪駅中央コンコースへ因みに正面ガラスの向こうに見えるのは11番ホーム。東海道本線北陸方面行き 特急列車。※ ホーム階は2階と言う設定のようだ。だから改札は1階口と3階口となる。ノースゲート3階 連絡橋と連絡橋改札のあるフロア左、グランフロント方面右 連絡橋と連絡橋口改札。そしてサウスゲートと大丸デパートにも接続。見えるエスカレターの裏(写真では右)にインフォメーションがある。ノースゲート3階中央のエスカレーターと階段。連絡橋の上に付いている展望デッキ「時空の広場」へ。この階段の真後ろがインフォメーション。そしてさらに向こうが連絡橋と改札。連絡橋の上の展望デッキ「時空(とき)の広場」連絡橋の上を利用したテラス広場。各種イベントが催される。ルクアとルクアイーレのの5階に接続されている。展望デッキ「時空の広場」からはホームも見下ろせる。但しガラス越しに・・。展望デッキ(時空の広場)からさらに上階に上る。ルクアとルクアイーレの連絡橋(ルクアの7階)に出る。ルクアとルクアイーレの連絡橋(ルクアの7階)からノースゲートのエントランスフロア(2階)と向こうに見えるのがグランフロント大阪。さらに上がると映画館や屋上庭園へ屋上庭園から先に紹介した北ヤードが見える。さらに屋上菜園までは階段を上る。ノースゲートビルのオフィスタワーと右が北ヤード。景色はそこそこであるが、屋上菜園は何もなく、苦労して登るほどでもなかったかも・・。大阪駅(Osaka Station)おわります。大阪については以下も書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂鉄道関連のBack numberリンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎) 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2017年11月25日
コメント(0)
ラストに鉄道関連のリンク先を追加しました。久しぶりに美術ネタでも・・と思ってセレクトしていたのですが、構想を練るうちに写真が足り無い、資料が無い。結局東京に戻ってからでないと完成できない事に気がつき断念 それはいずれ・・。そんな訳でまたまた迷走して、写真集めと資料集めに中之島の図書館と大阪駅を行ったり来たりと3日歩きました。年中使っている大阪駅ですが、知らなかった事がいっぱい。新しい発見も・・。で、今回は初めての方に解るように写真をたくさん載せて大阪駅の紹介をしてみようかと思います全2回の予定。大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)大阪ステイションシティー(Osaka Station City)現在の5代目大阪駅舎初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎大阪ステイションシティー(Osaka Station City)東京駅ほどではないが、JR大阪駅はかなり広い駅である。※ JR大阪駅に新幹線の乗入れは無い。新幹線は新大阪の駅に発着する。(大阪駅から東海道線で一駅)南側にはサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)がそびえ、大阪駅の顔となっている。※ 旧アクティ大阪そこにはデパートやホテル(グランビア大阪)も付随しているし、最近では、北側の操車場が無くなり、その広大な跡地の開発を進めている。すでに北側にはJR西日本がショッピングモールやレストラン、オフィスにフィットネスなど誘致した複合施設、ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)が建つ。それがノースゲートビルディングである。その新ビルにスムーズに入る為に造られたノースゲートからの3階コンコースと3階改札(連絡橋口)はとても使い勝手が良いさらにノースゲートの北側に建つグランフロント大阪も連絡橋で接続されているのでJR大阪駅に直結。JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝している。鉄道以外の商売にも熱心なようである。ホームからの北(ルクア1100)方面 右上に見えるのが新たにできた3階の改札(連絡橋口)プラットホーム全体を被う屋根が付き、台風などでも濡れずにすむようになった。この駅舎の鉄骨架設工事は送り出し工法で2004年4月から始まり2011年4月までの7年がかりで完成。3階改札(連絡橋口)に向かう途中の通路から3階の改札(連絡橋口)通路 奧が北エリアのルクア方面。南側のサウスゲートビルデイングから北側のノースゲートビルディング(Lucua とLucua1100)に繋がるコンコース(鉄橋)。さらにはノースゲートビルディングからグランフロント大阪には別の連絡橋でつながる。3階の改札(連絡橋口)中こちらは内部のが広いからすっきり。乗り場も解りやすい。大阪駅の問題点全体に良くなっているが、中央ゲートなど(地上階の昔からの改札)はとにかく動線が悪く、問題点はまだいろいろある。一日の乗降車数850000人。列車運行本数1500本。と利用客が増えているだけに年々手狭になっているのは事実。現在も乗降客はぶつかるように交差しながら狭い通路を進み、改札を出なければならない状態だ。人が多すぎて止まるとぶつかるし、先もよく見えない。しかも、下からだとホームの位置や番号も見つけにくい。(初めての人には解りにくい。)なぜだろう? 理由は東京駅の造りと比べると良くわかる。大阪駅は、駅の南北への一般の通り抜けが優先されて、通路が広く確保されている一方、駅利用者の改札内部のスペースがあまりに狭すぎるのだ。(現在の利用客数に見合っていない狭さ。)東京駅を参考にするなら、現在一般客が通り抜けしている通路全体を改札内部にすれば、すっきり解決できるだろうに。因みに東京駅にも通り抜け通路は存在している。でも圧倒的に駅利用者を優先した造りになっている。それ故、東京駅の構内は恐ろしく広い。完全駅中のマルシェが多数存在しているのも納得なのだ。ついでに問題点をもう一つあげると、大阪駅はバリアフリーにはほど遠い構造だと言う事。今でこそ、多少エレベーターなども設置されてきたが、車イスの方やベビーカーを押す人、あるいは大きなスーツケースを持って歩く人にはかなり不便な環境なのである。それは、駅自体が継ぎ足し拡張である事が上げられる。また、サウスゲートの大丸とグランビアの入る正面ビルと中央ゲートからのコンコースは、土地の高さにかなりのズレがある事だ。中央改札からサウスゲート側に出るのに、階段を10段ばかり上らなければ外に出られない。しかも、そこにスロープもエスカレーターも無い。かなり迂回するか、持ち上げて階段を登るしかない。そう言う意味も含めて、初めての方や、体の不自由な方、また荷物のある方などは3階のコンコースから改札を入る事をお勧めする。3階からだと全てのホームが一目。ホームも見つけやすい。(うろたえないですみます)※ 地下鉄乗り換えの場合は話が別。3階までの昇降時間を考えると、地上階にある中央ゲートや、御堂筋口ゲート、桜橋口ゲートを使用する方が早い。因みに、大阪駅では改札により、目的地がはっきり別れている。しかも、駅構内は解りにくいほど入り組んでいる。間違えると後が厄介です。だから誰かに聞くなら、まずはホームの上で「どの改札」を出たら目的地に近いか聞く事をお勧めします。ルクアイーレ(Lucua1100)にある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラマ※ 映り込みが激しいので背景を消しました。右の建物が南ゲートのサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)現在の5代目大阪駅と周辺をざっと紹介。地図はJR西日本が発行している冊子からのものです。6ヶ国語くらいに対応してました。ピンクの囲い・・JR西日本の「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のエリア北側ブルーのビル・・ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)中・・・JR大阪駅(Osaka Station)南側オレンジ・・サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)(上階・・ホテル・グランビア大阪)(下の階・・大丸デパート梅田店)参考にグリーンで囲った所・・阪急デパート梅田店と阪急電車梅田駅。薄いブルーで囲った所・・阪神デパート梅田店と阪神電車梅田駅。現在の5代目大阪駅舎大阪駅西側 桜橋口各ホテルの送迎バスの発着所がガード下にあり、右手前の桜橋口前はタクシー乗り場になっている。下の写真は、桜橋口を上から見た所。四つ橋筋からの撮影。大阪駅サウスゲートとなるサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル) 正面旧 アクティ大阪の時は、駅舎としの存在意義に欠けていた。ノースゲートとの連絡通路の接続の為に改修工事が行われ現在は大阪ターミナルビルとして一役かっている。実際サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)が大阪駅の顔だしね 現在、新たな駅前地下道の工事中。完成されれば、歩道も広がり、利用のアクセスももっと良くなるはず。真っ直ぐ進めば大丸デパートの間を通り段差を経て、中央コンコースに。エスカレーターで2フロア上がると、先ほど紹介した3階の連橋口に出る。左が大阪駅グランビア大阪。中には大丸デパート梅田店が・・。正面のビルが阪急デパート梅田店。写真右の建物が阪神デパート梅田店。ここはデパートのトライアングル地点ですね因みにこの道路の地下には阪神電車の梅田駅がある。今度は反対に御堂筋の歩道橋の上から南側駅前通りを撮影。御堂筋の歩道橋の上から大阪駅東側。バス停車場とピンクの↓下が御堂筋口。参考までに、飛行場までのリムジンバス乗り場の地図を乗せました。地下道だけではどれも行けず(雨の時は困る)、いずれも不便です。初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎不思議に思っていた事がある。都会の一等地なのに、貨物車の駅があったり、操車場があったり近年まで大きな開発がされないできた事に・・。理由はそればかりではないかもしれないが、前々回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中で書いたよう、かつて梅田墓所や火葬場があった場所に大阪駅はできたからのようだ。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)古い記録には、「摂津国西成郡第三区七番組曾根崎村、通称梅田千日の墓所を取り払い停車場を建つ」と記されているそうだ。当初、大阪駅は堂島に建設する予定だったらしい。しかし土地の買収を終えた後も「火の粉で人家が火事になる。」と、反対運動が再燃。そんな事から人家を遠く離れた梅田三昧(さんまい)墓地(通称 梅田千日墓所)に決まったらしい。※ 場所の移動にともない、路線も堂島から本庄・中津経由の吹田であったのが、本庄から吹田に変更。かくして初代の大阪駅は西成郡曾根崎村字旧天童(旧大阪中央郵便局の西裏)に変更された。当時の梅田は泥田の中に葦が生える荒れ地。そしてそにあるのは墓地と火葬場くらい。土地も安い。とは言え、鉄道用地として一反(いったん)(300坪、990平米)45円と高額に買いあげたらしい。※ 坪15銭。だから駅を建設した後も卒塔婆(そとば)が残っていたと言う。※ 資料はルクアのジオラマの所にあった駅史と、中之島図書館で見つけた「旅客輸送の100年(大阪府寄贈)」と、「大阪春秋13号、大阪駅舎物語」から。※ 近年の再開発でもお骨や墓石が出てきているようです。初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。1874年(明治7年)5月11日。大阪~神戸 間に関西で初めての鉄道が開通。我が国2番目に施設された鉄道だったらしいが、駅舎の建設が間に合わず、ホーム以外は仮の状態でのスタート。※ 日本初は1872年(明治5年)10月、新橋駅~ 横浜駅 間。駅舎は木造に赤煉瓦貼り。二階建て瓦葺きの西洋風。前面に池と植木が植えられ、当事としてはハイカラな駅舎。皆がお弁当を持って見学にきたと言う。「梅田ステンショ」の愛称で親しまれたそうだ。 ステンショ ? Station ?大阪発の神戸間20里(約74.54km)余り、所用時間は1時間10分。※ 1里=約3.927km。1日8往復。車両もレールもイギリス製。高給の外国人技師によって運転されていたらしい。運賃は大阪から神戸までで片道 上等1円。中等70銭。下等40銭。当事米一升が5銭。 ※ 米1升=10合=約1.5kg。1円=100銭。 (Xg:100銭=1.5kg:5銭)上等1円の運賃で米が30kg買えた事になる。つまり高額すぎて乗車できたのは、華族か、金持ち。あるいは居留地の外国人か貿易業者くらい。それでも一生の思い出? 冥途の土産? に乗った年寄りも多かったらしい 1889年(明治22年)7月、東海道本線、新橋~神戸 間が開通。 急行列車で所要17時間。1900年(明治33年)寝台車が連結。2代目駅舎に変わるのは1901年(明治34年)。その話は次回につづく。リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)大阪については以下も書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂鉄道関連のBack number 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2017年11月15日
コメント(0)
2015年08月「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」のタイトルで載せた事がありました。それは変わった看板紹介の第一弾だったのですが、以来すっかりご無沙汰してました前回紹介した「大阪ミナミ」の紹介で載せる予定で落ちてしまった分ですが、せっかくなのでカテゴリーを「世界の看板」でくくる事にしました こんな巨大看板が並ぶ街なんて、世界広しと言えど、他に無い光景だと思います。世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)道頓堀通りの巨大看板フグ、カニ、タコ、ギョウザ、おじさんetc中座 と くいだおれ太郎 「くいだおれ」の由来 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)について道頓堀通りの名物「めだってなんぼの巨大看板」が軒を連ねる不思議な世界巨大トラフグ提灯が下がる「つぼらや」はフグ料理専門店1920年(大正9年)創業の老舗。フグはトラフグ。最近は軽量化。元祖のトラフグ提灯は100kg近くあったらしい。戎橋(えびすばし)と道頓堀(どうとんぼり)通りの角にある「かに道楽」本店道頓堀には本店、中店、東店と3軒あるようだ。巨大で、しかも可動式のカニは白地に赤い、日の丸をイメージしたものだそうだ。(現)道頓堀本店がこの道頓堀通りに開店した1962年からあると言う。巨大看板としてはグリコの看板に負けるけれど、立体式の巨大看板としては元祖かも。ところでこのカニの種類は?どうもズワイガニらしい。 種類については明記されていないが「かに道楽」の社史に「1965年かにの安定供給のため、北海道漁場を開拓し、ズワイがにの仕入れに取り組む。 」とあるので、間違いない。巨大海鮮系、近年お目見えした巨大たこ看板。「たこ家道頓堀くくる」は白ハト食品(守口市)経営。会社の創業は1947年(昭和22年)。1970年代からたこ焼きが始まり、1992年(平成4年)に「蛸づくしくくる」から「たこ家道頓堀くくる」に名称変更。たこ焼きの「くくる」の看板であると同時に、ここではコナモンフードテーマパーク「道頓堀コナモンミュージアム」の名物看板でもある。この巨大看板は、中国上海にまで渡って親善大使をしていると言うから驚く。上海万国博覧会の日本産業館の壁面に展示される為にリメークされ、4本脚が可動、目にLEDが入れられ発光。墨に見立てたミストを口から出すなどの仕掛けが施され、船で中国まで渡ったらしい。大阪王将の巨大ギョウザ。これは看板と言うより、巨大食品サンプルですね。道頓堀に出店するのに巨大看板ははずせないアイテムなのでしょうか? 元祖串カツだるまの社長さん曰く「道頓堀は日本のエンターテインメント」らしいですよ。入り口の看板も見逃せない。なんか可愛い最近はこんな怒ったおじさんもいる。こちらは名物店主そのものを看板にした珍しいもの。6mあり、1000万円したらしい。怒ったおじさんが看板になっているのは「元祖串かつだるま」創業は1929年(昭和4年)と割と古い。お店の発祥は「新世界」(通天閣の近く)だそうで、串カツ発祥? とも言われる串カツ激戦地からの出店。モデルは串かつだるまの4代目会長兼社長上山勝也氏。どうも「ソースを二度づけしてはダメだ」と怒っている姿らしい。大阪では串カツ屋のソースはボトルでなく、ステンレスの容器に入れられて提供される事が多い。でもそれは、一人一ケースではなく、みんなで共有。だから食べかけをソースに入れる事が禁止なのである。(衛生上の問題)人の食べかけをつけられたら嫌だからね。たぶんこのシステムは物資が無かった時代のなごり。ボトルのような容器ができた昨今でも、続けられているのは、もはや伝統と化したから? なのか、この方が美味しいから? それともコストパフォーマンス? いずれもそうかも・・。特に串カツのソースはウスターソースと決まっているので、水のように流れるソースはボトルでかけても美味しくないのかも。何はともあれ、この看板は大阪での串カツの食べ方ルール「ソースの二度づけ禁止」をしっかりアピールする物らしい。つまり深読みすれば、メッセージ型の広告看板と言えるのでしょう。因みに、3代目で閉店の危機を赤井英和が救ったらしい。4代目となったのは高校のボクシング部の後輩(現会長兼社長)。この立体看板(フイギュア)のおじさんですね。そもそもおじさんフィギュアのルーツは「難波本店」のオープン時に赤井英和 氏からプレゼントされたものだったらしい。同じおじさんでもこちらは優しいほのぼの系 明治製菓の「カールおじさん」「カール」の発売40周年記念で設置されたものらしい。カールおじさんの横にあるモニター画面には、リアルタイムで向かいを通行する人達が映し出されている。〇時00分。毎時ジャストアワーに帽子が上がってカエルのケロ太くんが登場するそうだ。今度は古くから道頓堀に居着いている年齢不詳のおじさん。くいだおれ太郎 フィギュア看板。中座と くいだおれ太郎チンドン屋らしき姿で太鼓をたたくちょっとやかましい「くいだおれ太郎」の誕生は1949(昭和24)年。道頓堀の飲食店「大阪名物くいだおれ」の看板人形として登場したらしい。どんな店だったかの資料が無いが、コンセプトは家族で来れる飲食店だったらしい。実際、子供の気をひくのが目的の太郎人形だったようだ。しかし、店は2008年(平成20)年に閉店。惜しまれながらの太郎引退であったが、現在の「中座くいだおれビル」のオープン(2009年7月)に合わせ、再び道頓堀に復活している。(元の店ではない。)姿はいわゆるチンドン屋である。若者は聞いた事も見た事も無いだろうが、まれに今でも商店街のイベントなどの時に見かけたりする。(天神橋筋商店街で今年見た気がします。)チンドン屋とは、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らし派手な出(い)で立ちで街を練り歩き人目をひいてお知らせや宣伝をすると言うパフォーマンス広告である。その存在は、明治初期にはすでにあったらしい。因みにくいだおれ太郎の個性的な頭部は、どうも文楽(ぶんらく)人形を意識したものらしい。なぜなら、太郎誕生前に宣伝に使われていたのは文楽人形その物だったらしいから。「くいだおれ」の由来江戸時代から「京は着て果て、大坂は喰て果て、堺は家で果てる」と、言いまわしがあったそうだが、古事ことわざとして「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」がある。要するに京の人は着る物に財産を使い、大阪の人は食べ物に財産を使い道楽すると言う気質を現した言葉。「くいだおれ太郎」の生みの親は大阪人の気質をそのまま太郎人形に与えたのだろう。尚、「三倒れ」と言ってそれらに、「江戸の飲み倒れ」が加わる場合も・・。※ 「江戸の飲み倒れ」は酒代で身上(しんしょう)潰す事ですね。正面からだと見えないが、後ろにはチンドン太鼓らしきものが・・。因みにこの衣装は昭和天皇崩御の時に白黒になり、平成天皇即位の時にバンザイ人形(弟分 くいだおれ次郎)になったらしい。さて、下は道頓堀通りの現在の地図ですが。ピンクで囲ったのが現「くいだおれビル」。現在「中座くいだおれ」のビルのある場所が、江戸時代に芝居小屋「中の芝居」があった場所。※前回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中、「道頓堀周辺図(幕末頃)」 に昔の位置がありましたね。芝居小屋「中の芝居」(現 中座)1661年(寛文元年)「中の芝居」落成。名代は塩屋久郎右衛門。それは角の芝居 (現角座) とともに大坂の代表的な歌舞伎小屋であったそうだ。当時5棟あり現在残るのは松竹となった中の芝居(中座)のみ1920年から松竹の経営。1945年には「戦災で焼失。再建後は松竹新喜劇の本拠地となったそうだ。市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)についてふと思った事が・・。1697年(元禄10年 )、初代團十郎が創出し 、1742年(寛保2年正月)、大坂 佐渡嶋座において二代目市川海老蔵(二代目市川團十郎)が完成させた歌舞伎の「不動」がある。大詰めに役者が不動明王に扮してにらみを効かすと言うもの。二代目市川團十郎が演じた「不動」の舞台 二代目が舞台で演じるお不動さまは、「不動の見得」という表現が有名となり、あまりの人気に「不動の見得」でにらまれると、あらゆる病が治るとまで噂されたと言う。それが故、江戸中に不動尊信仰を広めて行ったらしい。 前回紹介した法善寺の水掛不動であるが、その水掛の不動明王ブームは、もしかしたら市川家の歌舞伎「不動」に由来するのではないか? 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)のすぐ南側に法善寺があるのだ。ところで市川家の菩提寺は成田山新勝寺である。もちろんその御本尊は不動明王である。さて、ラストにグリコの看板を載せておきます。下は戎橋(えびすばし)からの撮影。もちろん道頓堀のグリコ看板(道頓堀グリコサイン)です。江崎グリコが設置。2014年10月LEDを採用された6代目グリコ看板に。約14万個のLEDを使用し、映像が流れるのが特徴。因みに初代は(1922年~1927年)。戦前である。顔が怖いと言う事から2代目(1928年~1944年)に変わる。下は道頓堀通りにある撮影スポットです。実際のオリンピック選手のゴールの姿が参考になっているらしい。ランナーのゴルインマークは元気の象徴らしいですが、どう見てもおじさん。今更だけれど、もう少し若くできなかったのかな?もっとも子供の頃はおまけしか見ていない。箱なんか見てなかった気がする。道頓堀の看板とりあえず終わります。まだ他にも巨大なのあるんですけどね。
2017年11月07日
コメント(0)
最後に他のリンク、先追加しました。前回、秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)が大阪の発展の始まりだと書きましたが・・。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)もともと堺の商人の貿易力は戦国の時代から信長も認めていた事。秀吉の時代を経て江戸の城下がはるか遠くなっても、大阪は戦略的にも、経済的にも重要な拠点。徳川家康がそれをほっておくわけはなかった。大阪夏の陣後、家康の特命により摂津大阪藩10万石の藩主となったのは、家康の外孫であり養子でもある松平忠明(まつだいらただあきら)(1583年~1644年)(在職 1615年~1619年)である。そもそも彼は秀吉との休戦協定中、大阪城外堀と内堀の埋め立てを担当した奉行でもあった。※ 徳川方 勝利の一因は、この埋め立ての早さにもあった。つまり、家康の肝いりで藩主となり大阪城下の戦災復興担当に任命されたのも彼なのである。在職期間に大阪の町の区画整理をし、人を大阪に移住させたり、市街地の拡大を積極的に行い、堀の開削を進め物流を確保したり、町の強化も図っている。(少なくとも藩主時代の5年で街の骨子は造られた。)在職は5年であるから、城下中心部が主であるが、それはどれもこれも素晴らしく計算されたものである。頭の切れる人だったに違いない。松平忠明(まつだいらただあきら)は「大阪都市計画史上特筆すべき業績を残した人物」と、讃えられている。因みに、1619年、摂津大阪藩は幕府の直轄地となり大阪町奉行が置かれる事になった。つまりこの時、摂津大阪藩10万石は無くなったのである。そして1620年、松平忠明 転封(てんぽう)後に大阪城の再建が始まる。1624年には大阪城下の町組、大阪三郷(おおさかさんごう)(北組、南組、天満組)ができている。大阪城の再建は、都は江戸に行ってしまったが、大阪と言う街の活気を取り戻す事に寄与したのだそうだ。さて、今回は前回に引き続きミナミの繁華街にある法善寺の紹介ですが、その前に面白い事を発見したので先に紹介です 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大阪七墓)摂津大阪藩主 松平 忠明大阪七墓と七墓めぐり千日墓地と法善寺法善寺と法善寺横丁水掛不動(みずかけふどう)大阪七墓と七墓めぐり摂津大阪藩10万石の藩主となった松平忠明が行った仕事の中に、寺および墓地の移転がある。街の拡張を行うにあたり寺は小橋村と高津村、天満村に集められた。そして、じゃまになった墓地をまとめ、また火葬場や刑場を市外に移転させたのである。(もともとそこにあった墓地もあるが・・)それでできたのが江戸(時代)の「大阪七墓」である。梅田村、濱村(南浜)、葭原(よしわら)、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、飛田(とびた)、千日(せんにち)※ 江戸から明治にかけて大阪市内には七つの墓所と二つの処刑場(No6.No7)があった。下の地図は現在の環状線の駅に乗せてみました。便宜的(べんぎてき)に数字を当てました。(大阪環状線を右回りに梅田を1番にしました。)1.梅田墓所・・・・・・・・JR梅田貨物駅のあった北ヤード。火葬場もあった。 1684年大阪三郷の墓地を集めた曾根崎の墓所が梅田に移動したもの。さらに長柄墓地に移転。 近年の再開発の為、平成22年8月に地蔵尊は四天王寺の地蔵堂、供養塔と後から出た墓石は川西市の稱名寺、遺骨は天王寺の一心寺に改葬。2.濱村(南浜)墓所・・・・・北区豊崎。 開所747年。 行基(668年~749年)によって開所されたと言われ、日本最古の墓所とか・・。現存。3.葭原(よしわら)墓所・・北区天神橋6丁目。沖向地蔵尊の堂宇のみ現存。堂はポケストップになっている。 墓所は北市民館建設の為、長柄墓地に移転。天六地下鉄工事爆発事故の現場界隈だった。現在は無い。4.蒲生(がもう)墓所・・・・都島区東野田町。京橋駅の外側近く。現存。5.小橋(おばせ)墓所・・・天王寺区東高津公園。真田丸の南方に位置する。現在は無い。 冬の陣、真田丸攻防の時の戦士の墓だったとも・・。1914年、北の十萬寺に移転。無縁仏は大圓寺へ。6.飛田(とびた)墓所・・・・西成区JR新今宮駅の南側。処刑場があった。 1874年新設された阿倍野墓地に移転。近年まで墓地跡に太子地蔵尊があったらしいがそれも現在は無い。7.千日(せんにち)墓所・・中央区千日前。火葬場と処刑場があった。(大塩平八郎ら20名の処刑) もともと江戸初期に集められた場所のようだが、千日寺と呼ばれた法善寺、竹林寺(天王寺区に移転)の南に刑場と聖六坊、斎場、焼場、灰山、墓地などがあった。大坂三郷、最大の墓所だったらしい。 刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転(1872年の地図には既に記録が無い)大阪冬の陣に続き夏の陣の戦没者は相当数いたようで、墓地は共同墓地的な要素が強かったのかも。もちろん普通の寺にも檀家の墓所はあった。まだ墓所に入れてもらえた人はともかく、堀に落ちて、そのまま埋められてしまった方々もかなりいたようだ。建設工事の時に未だに人骨もよく出るらしい。400年もたっているのにね 七墓めぐり江戸時代中頃から、明治の初期まで、大阪には「七墓めぐり」と言う風習(流行?)があったそうだ。盂蘭盆会(うらぼんえ)(7月13日~16日)の間に、諸霊供養の為、木魚、持鈴、摺すり鉦などを持って徹夜で大坂七墓を巡り無縁の卒塔婆を回向すると言うもの。※ 祖先の供養と同時に、自身が極楽浄土へ行けるようにと言う願をかけたと言う話もある。千日墓地と法善寺「千日前」とか、「千日前通り」と言う地名は今も残っているが、これは先に紹介したように千日(せんにち)墓所に由来している。明治の初期に移転をよぎなくされたが、かつて、そこには千日(せんにち)墓所があり、刑場があり、火葬場(火屋)があり、幾多の寺が寄り、地蔵が置かれた土地であった。もちろんそれができたのは江戸の初期。冒頭紹介した松平忠明(まつだいらただあきら)の町造りの中で置かれたものだ。順序としては、墓所が決められ、寺が寄ってきた。法善寺が移転してきたのは1637年。竹林寺(前身は浄業院)が移転してきたのは1649年。いずれも墓所より後。また江戸後期地図にある蓮登山自安寺(日蓮宗の門跡)が来たのは1742年。※墓所は、松平忠明の着任中(1615年~1619年)には決まっていたはず。夏の陣の戦没者などがいたはずだから・・。千日寺(せんにちでら)とはそのネーミング、一般的に周知されているのは、法善寺と竹林寺が千日回向(せんにちえこう)を行う寺だった事。通称「千日寺」とよばれ、その門前は千日寺前と呼ばれたと言うもの。千日回向とは?回向(えこう)とは、1)死者の成仏を願って(主家)供養をする。とか、2)僧が念仏で自分の修めた功徳 (くどく) を他の人に分け与える。とか、その念仏により、3)阿弥陀如来が人々を救済し、浄土に迎えくれると言う(他力回向)。など。※ 千日回向とは、詳しくわからなかったが、千日毎に行われる特別な回向があったものと思われる。そもそもは、1)の意味で「大坂の陣での戦死者を含めた死者の供養の為、千日回向が始められた」と考えられる。が、江戸も中頃以降? 目的は2)や3)に変わって行ったようだ。 一度の参詣が千日分の御利益が得られると騒がれ浄土宗の法善寺や竹林寺は千日回向に来る人でかなり賑わったらしい。確かに千日ごとでは3年弱になるからね。寺が年中賑わっていたのなら、回向は年中行われて、いつでも御利益がもらえたと考えた方が正しいのかも。下は道頓堀近くの看板の一部「道頓堀周辺図(幕末頃)」 ※ 見づらかったので手を加えました。図の難波新地は1765年に開発され、茶屋が集まりやがて大阪有数の歓楽地となる。千日(法善寺)の人気が出て、知名度が上がった理由千日の周辺は、娯楽所が寄り合っていた場所。後に難波新地もできる。本当は千日寺近辺に遊びに来るのが目的だが、体裁的に、千日参詣を口実に利用した可能性が・・。何しろ墓地のすぐ北には幕府に公認(1653年)された芝居名代5棟が立ち並んでいた。※ 芝居小屋の方が法善寺より早く1626年(寛永3年)に移動してきたらしい。(看板に書いてあった。)下は大坂歴史博物館のジオラマからこうした芝居小屋は道頓堀の前に建ち並んでいたらしい。現在、かに道楽やくいだおれ太郎の店が並ぶ道頓堀通りだ。また、芝居小屋だけでなく、法善寺の開帳時には見世物小屋が開かれ、軽業や見世物興業、勧進相などが行われたようだ。※ 実話の心中(しんじゅう)話を舞台や浄瑠璃(じょうるり)にして演じて客を呼ぶ(興業)など話題も造った。日本橋(道頓堀東)の方面には宿屋があり、新町に女郎屋が存在していたかは定かでないが、夜鷹(よたか)(辻の売春婦)は確実にいただろう。1627年、新町に吉原遊郭 誕生していた。まあ、何にしても、千日寺と共に界隈は有名になり、旅人(観光客)も立ち寄り大いに繁昌したようだ。大坂歴史博物館のパネルより現在の地図にだいたいの場所を載せてみました。黄色が現在の戎橋筋商店街、ピンク1~5は芝居小屋の位置(今の道頓堀通り)紫は現在の法善寺の場所。緑の四角内に千日墓所(東墓地と西墓地、中に刑場、火屋(火葬場)、灰山が築かれていた。※ 今回、はっきり特定するのを避けましたが、詳しく調べて載せている方はいます。※ 千日前デパートの火災事故による大きな被害は、その場所がらの因縁がもたれる由縁です。先に書いたように、刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転している。この元墓地の場所は繁華街となり、地価が高騰。近年の開発で千日前通りに面していた竹林寺も2008年になって天王寺区勝山へ移転している。一方、現在も残り、且つ水掛不動尊で繁盛している法善寺は。昭和の時代も平成になってからもずっと人気で、ミナミの顔となっている。法善寺と法善寺横丁どちらかと言えば、現在の法善寺は道頓堀からのが近い。ここが寺か? と思える路地を入った一角にある。正直、どこからどこまでが寺なのかもよくわからない。普通の寺なら本殿があり、そこで拝むのが当たり前。しかし、ここにはそう言うかんじではない。写真左に金比羅堂(こんぴらどう)。写真正面の唐破風の向こうに水掛不動尊(みずかけふどうそん)上は水掛の順番待ちの列。水掛不動の正体は不動明王(ふどうみょうおう)様です。乾く時間もなく、常に水を掛けられているので水苔でフワフワ、モサモサのお不動様。見て、正直ちょっと驚いた こんなになっちゃって・・・水掛不動(みずかけふどう)実際、水を掛ける根拠は何もないそうだ。そもそも不動明王(ふどうみょうおう)は大日如来の使者とされ、憤怒の相で自ら火生(かしょう)。身から火炎を放出してその火で悪魔や煩悩(ぼんのう)を焼き尽くすと言う明王である。だから本来の御利益は、厄払いです。逆境(ぎゃっきょう)を乗り越えたい人にお勧めですが、物は考えよう。学業、仕事、勝負事などなんでも行き詰まった事に厄払い。ある意味オールマイティーなのかも。因みにここでは水を掛ける事から水商売系にも良いらしい。戦前には、普通にお水を供えしていただけだったそうだ。ところがどこかの女性が願を掛けながら水を掛けたらしい。それを見た次の人が真似をした?今に至るまで、みんなが水をかけ続けていて、こんな姿になってしまったらしい。正直、石仏に水をかけ続けていつかヒビが入り壊れるのではないか? と心配である。上手い具合に火炎の所にコケは無い。それは意外に位置が高いから水がそこまで届かないのである。柄杓(ひしゃく)でかけても私には顔さえ届かない。中にはバケツでかける人もいるようだが、見ていて、さすがにお不動様に失礼な気がした。中央に不動明王(ふどうみょうおう)、脇侍は矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ) どっちがどっちか解りません。水掛不動の堂を横から見た所。水掛不動様は割と薄い?金比良堂江戸時代には金比良信仰でも賑わったと言う。でもこちらは神道なんですね。神仏習合の見本みたいなものです。金比良さんは漁師、船員など海事関係者の守り神として崇敬され、信仰されているそうだ。この堂の右の路地にたくさんの地蔵が・・。慈悲地蔵尊。奉納料、一体2万円なり。法善寺横丁道の両脇には和洋の飲み屋さんが並ぶ。そもそも法善寺の境内の露店から発展したのがこの横丁のルーツらしい。明治から昭和の初期にかけては寄席の紅梅亭と金沢亭が全盛で、落語を楽しむ人々で賑ったそうだ。これら夜のお店の繁盛のおかげで、逆に水掛不動尊は夜も水を掛けられているのだろう。看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんらしい。多分、法善寺正面の看板が西で、こちらが東。さて、道頓堀通りの看板の写真が今回載せられませんでした。大阪七墓が長くなって・・面白ハデ看板の写真だけ番外で近日アップします。今週日曜から再び大阪入りです。天気だったら良いのにな (* ̄- ̄)人Back numberリンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)他 一部リンク先リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2017年10月31日
コメント(0)
大阪関連のリンク先を最後に追加しました。大阪の街は東京よりも解り安い。もちろん規模が違うが・・。例えば都内中心を走る山手線の一周は距離34.5km。所要時間約64分。一方、大阪環状線の一周は距離21.7km。所要時間約40分。※ 大阪環状線の場合、山手線のように、全線がぐるぐる回っている訳ではない。同じラインに大和路快速や、関空行きなども合間に走っているので確認して乗らないと一周どころか、通過する駅もある。大阪の街は、割とまとまってできている。それは遡れば豊臣秀吉の町割りのおかげでもある。町人、商人、仕事場。遊び場などが江戸時代前後に完成されていて、明治になってもそれが引き継がれて残っている所が多いからだ。逆に良くない方角の場合、近年まで人があまり入らず、開発の遅れた所も残っていたが・・。そんなわけで、町に地域の特性が出ているから例えば「どこに行きたいか? 」「何をしたいか?」 と聞いて答えやすいのかもしれない。※ 東京の場合、産業別カラーが残った土地もあるが江戸城下の面影はほぼ無い。広さの事で加えて言うと東京の場合、山手線沿線に民家は少ない。何しろ都心は地価が高すぎて庶民には住めないからだ。もちろん東京でも都心部に住んでいる人はいる、下町も残っているし江戸っ子(3代以上続く)もいる。だが都心部に住んでいる人の絶対数は少なく大抵は東京郊外から1時間以上かけての通勤である。つまり都内で働いている大部分は近県からの通勤組で、案外地方出身者が多いのが現実だ。だからこそ大阪の方が街に人が感じられるのかもしれない。ところで、大阪には「キタ」と「ミナミ」と呼ばれる街が存在する。大阪の人なら当たり前に知っている事だが、部外者には解らない。地図には載っていないからだ。今回は、その「キタ」と「ミナミ」のルーツと共に「ミナミ」を紹介。なんとなく「大阪の成り立ち」に話が寄ってしまったかもしれませんが・・ 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)現在の「キタ」と「ミナミ」「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街大阪の街の紹介をする前に、どうしても踏まえて起きたい事がある。今の大阪の街はほとんど埋め立てでできた都市だと言う事を。下は大阪歴史博物館で撮影してきたものです。図に書いてあるよう、弥生時代中期頃とされる大阪湾の復元図です。変遷写真は幾つか段階があるのですが、詳しい事はいずれまた・・。今回押さえて欲しいのは、もともと湾を形成する半島のような所が、大阪市の背骨とも言える上町台地だと言う事だ。下は以前「大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)」の所で一度紹介したリンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)国土地理院が出している航空レーザー測量による上町台地のカラー陰影段彩図です。上町台地は濃い茶の部分。黄色は土地が低くなっている所で、緑と薄い青の部分は埋め立て地。上町台地右手の薄い青の部分は「河内湖(かわちこ)と名が付いていますが、太古には大阪湾であり、それが閉じて湖のようになった所です。つまり緑はかつての砂洲。薄い青は海だった所と言うわけです。上町台地左(西側)には自然に砂洲が形成され、街は少しずつ西に広がって行ったようです。上の写真では中程、赤い円をしてあるところが四天王寺の場所です。四天王寺ができた飛鳥の時代には目前に海が迫っていたようです。下は上の航空レーザー測量の写真を一部拡大したもの、残念ながら上が切れているのですが、赤で「KITA」と「MINAMI」と印しました。「MINAMI」の円の中、上の円が心斎橋筋商店街を中心にする区域で、下の黄色の円が戎橋筋商店街を中心にした区域。紫の円は難波(なんば)と呼ばれる区域です。「キタ」と「ミナミ」はもともと江戸時代に区画された大阪の自治組織「大阪三郷(おおさかさんごう)」天満組、北組、南組の名残である。現在の「キタ」と「ミナミ」地図から見れば確かに「北の街」と「南の街」と言う事なのですが・・。「キタ」と「ミナミ」には生活上の仕分けがあるのです。場合に寄っては、「キタ」に行くか「ミナミ」行くかで、その人が何をしに行くのか解る事も・・。細かい事は後にして、現在の「キタ」と「ミナミ」を簡単に説明するなら、やはり鉄道と言う事になるでしょう。「キタ」「キタ」が発展したのぱ1874年(明治7年)の国鉄 大阪駅の開業。つまり「キタ」とは、梅田(うめだ)の事。明治以降に田んぼが埋め立てられ(埋め田→梅田)となり、大阪駅が置かれた事により、大阪駅と呼ばれるようになった。現在は、JR(大阪駅)だけでなく、大阪市営地下鉄、阪急電鉄(梅田駅)、阪神電車(梅田駅)が乗り入れた梅田駅界隈が大阪のキタの中心的エリアです。つまり、「キタ」は、京都や神戸など東海道、山陰、山陽方面への玄関として発展している。デパートは阪急梅田、阪神梅田、大丸梅田※ 三越・伊勢丹は撤収。「ミナミ」「ミナミ」の開発は秀吉の時代に始まった。江戸時代には幕府の直轄地となり、埋め立てと町の整備が進められた事により発展した。場所は心斎橋以南、難波駅あたりまで。つまり、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街を中心にする界隈である。鉄道は、JR(難波駅)、大阪市営地下鉄、南海電鉄(難波駅)、近鉄と阪神(大阪難波駅 共用)が乗り入れ。JR難波駅は奈良や和歌山、名古屋、亀山方面南海は和歌山・関西国際空港・高野山・泉北ニュータウン、方面近鉄は奈良、京都、伊勢、志摩、方面。阪神は尼崎、甲子園、三宮、方面。総じて、ミナミは奈良や和歌山方面への玄関。(紀伊半島経由の伊勢志摩、名古屋ルートでもある。)因みに阪堺鉄道(南海鉄道)の難波駅創業は1885年(明治18年)。難波~大和川間(7.6km)を小型SLJR難波(なんば)駅は当時は湊町(みなとまち)駅。1889年(明治22年)の創業。鉄道では「キタ」より遅れたがデパートは早かった。大丸心斎橋 店(当時 松屋)1726年 (享保11年)大阪高島屋 店 1919年(大正8年)※ 大丸、心斎橋店は、八代将軍 徳川吉宗の時代にはもう創業していた。なんばパークスからの南海難波駅とビル難波パークスは市内最大級のシネコン等が集まる複合商業施設。南海難波駅の南に位置する。ここは、かつて南海フォークスの球場があった場所。これで「ミナミ」の領域は確実に広がったかも・・。下は大阪高島屋と南海難波駅のビル大阪高島屋 店は1919年(大正8年)の創業。現在の場所には1932年(昭和7年)から。ちょうど「戎橋筋商店街」南の入口の向かいになる。「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展かつては「キタ」も「ミナミ」、どちらも海の中だった場所。「ミナミ」の発展と言うよりも、大阪自体が発展したのは豊臣秀吉が大阪に都を置いた事に始まる。遡れば飛鳥の時代から大阪は物流の拠点ではあったが、平安以降は地味に・・。秀吉のおかげで大阪に活気が戻り、大阪の街は商人の街として大発展する。特に秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)は、大阪の経済発展に大いに寄与する所となった。1598(慶長3年)の図 大阪城に三の丸が建設される事になり城の惣構(そうがまえ)は拡張。下の図は大阪歴史博物館から1598(慶長3年)は秀吉が亡くなった年。亡くなる直前の指示だ。同じく1598(慶長3年)に東横堀川 以西に船場(せんば)が造られた。※ 寺は寺町通りに集められている。大阪城のベースは石山本願寺(大阪本願寺)である。寺なのに濠や土居で囲まれ防備だけでなく、立地にもすぐれた場所。秀吉はすでにあった堀の外に外堀を造り城の惣構(そうがまえ)を拡張。それが町の再編に繋がる。その三の丸の建設で堀の内となった者たちは強制退去。商人や職人らは船場(せんば)に移動。船場(せんば)はあらゆる職種の者があつまる商人の街として発展する事になった。下の図も同じく大阪歴史博物館から時代がさらに下がるが17世紀末の船場の職業分布図だ。上の図では、船場(せんば)の西にさらに西船場が拡張。道頓堀もできていて、心斎橋筋商店街も、そろそろ現れてくる頃。ついでに戎橋筋から難波駅までピンクで印つけました。※ かつては島之内、全体が「ミナミ」とされていたらしい。新町の遊郭は黄色の円あたり。 1627年、吉原遊郭 誕生の後に、大阪の遊郭として沼地を埋め立てて新町を造り、遊郭を一箇所にまとめ「新町遊郭」が完成。江戸幕府公認の遊郭だった。船場(せんば)は堀と河に巡らされた物流の拠点であり、大阪の産業の中心地となった。鍛冶屋、鋳物屋、針金屋、銅細工、皮細工、足袋屋、綿帽子屋etcそこそこ広い地域であるが、不思議と、同業者同士が寄り集まっていたらしい。江戸との物流が始まると、両替商も現れる。江戸は金。大阪は銀を通貨に使用したらしく、両替の必要があったらしい。大きな両替商は大名の年貢も取り扱っていたらしいし・・。北浜にある大阪証券取引所は船場の北の浜から付いた地名だ。道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)そんな時に船場の商人であった安井道頓(やすいどうとん)(1533年~1615年)が城南の開発の為に私財をなげうって1612年(慶長17年)川を開削。堀の掘削を始めた。残念ながら安井道頓は豊臣方に付き、大阪夏の陣で巻きこまれて戦死。道頓堀(どうとんぼり)の完成は1615年。だから道頓堀(どうとんぼり)の名は安井道頓の名に由来する。グリコの看板と、阪神タイガース優勝の時の川ダイブでお馴染みの道頓堀。こんな写真しかありませんでしたが・・上は先月の写真です。下の写真は2011年7月の道頓堀 東方面。ほぼ店舗は代わっていません。ドンキホーテの観覧車、今もそのままあります。2017年中に観覧車が再会するとのウワサが・・。ところで、「ミナミ」には現在、南北に続く大きなショッピングアーケードが二つ存在している。それが心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街である。それらは道頓堀の戎橋(えびすばし)をはさんで以北と以南で分けられている。下は戎橋筋商店街を出た所からの北方面の写真。(夜)つまりゴチヤゴチャ人がいる所が道頓堀の戎橋(えびすばし)の上。写真奧に心斎橋筋商店街のアーケードが見える。心斎橋筋商店街(戎橋)入口ウィキペディアによれば、戎橋は1日平均20万人が通行しているらしい。前と比べて明らかに人が増えた。今や意識して覗き込まない限り戎橋(えびすばし)の上から道頓堀は見え無い。外国人の観光客が増えて驚いたが、さらに驚いたのは、外国人(おじさん)の、おもらいさんが橋の上に座っていた事だ。心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街先に紹介したように、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街は、戎橋(えびすばし)を間に挟んで続いているアーケード商店街である。両者は、道頓堀川をはさんで「ミナミ」を南北に縦断する商店街であり、ある意味「ミナミ」の大動脈とも言える。(北側)心斎橋筋商店街・・南北に約580m。北は長堀通の南から、南は道頓堀川、戎橋手前、宗右衛門町通りまでの区間。(中)道頓堀 戎橋(南側)戎橋筋商店街・・南北に約370m。北は道頓堀川、戎橋から南は千日前通りで一度切れて難波駅(高島屋大阪店)の前までの区間。江戸時代の(北側)心斎橋筋は、ぬり物屋、書物屋、古道具屋、経師に琴三味線ひき、飾り職、etc。諸々の商売は少しハイソなラインナップ。船場の下に位置していた事で船場のダンナさん達が買い物や遊びに来る場所として栄えたらしいから・・。そして明治時代には、舶来品を扱う店や、時計屋、呉服屋なども増え、大正・昭和の時代には、呉服屋はデパートに変貌して行く。だから創業100年を越える老舗もザラにあったらしい。※ 飾り職or錺り職・・・金属製のかんざし・帯留め・指輪など金具の細工をする職業。また、その職人。飾り師。飾り屋一方、江戸時代の(南側)戎橋筋の方はちょっと違う。幕府の都市計画で道頓堀の南側に大坂中の芝居小屋が集められ、47軒の水茶屋が許可されて長らく日本の芝居の本場として栄えた。そして芝居に大勢の人が集まってくると、食べ物屋も自然に繁盛。現在、芝居小屋は戎橋近くの松竹座だけしか残っていないらしいが、飲食店は道頓堀通りの北側にさまざまなジャンルの店が、目立つ看板を上げて軒(のき)を連ねている。江戸で例えると昔の心斎橋筋は日本橋。戎橋筋は浅草のような町だったのかも。下は先ほど紹介した大阪高島屋の前からの撮影 戎橋筋商店街 南の入口大阪は屋根付きのアーケード商店街が多い。雨が降っても気にせず買い物できるのは嬉しい。入ってわりとすぐにアイスキャンディーでお馴染み「北極」なんば本店 1945年(昭和20年)創業。終戦直後の大阪なんば・戎橋の本店辺りは食べる物を販売できるお店がほとんど無かったそうだ。せめて女性や子供に冷たいアイスを・・。と言う事で創業したお店らしい。子供の頃に「北極」のアイスキャンディーを食べた人達がファンなのだから人気は凄いらしい。残念ながら東京出身の私は知らなかった。最近社長をテレビで見たから知識はあったが・・。551蓬莱(ほうらい)の本店も、この戎橋筋商店街。「北極」と同じ1945年(昭和20年)創業。「551蓬莱(ほうらい)」と言う変わったネーミングの由来は創業当時の店の電話番号からきているそうだ。ついでに551「ここがいちばん」とダジャレも付けて。551蓬莱(ほうらい)の「豚まん」人気度は、関東で言う崎陽軒(きようけん)のシュウマイに匹敵する。崎陽軒(きようけん)の「シュウマイ」を愛する人は、きっと大阪人の「豚まん」愛も解るだろう。基本は各店で手包みによる作りたてのものが販売されていて、空港や大阪駅などではチルドも販売。今や大阪名物のお土産として利用する人も増えている。実際、関東の私が食べても絶品である。中身に食べごたえがあるし、ジューシーなのだ。こちらは「蓬莱(ほうらい)」は実は「551蓬莱(ほうらい)」とは今は経営が異なる。創業当初は一緒にやっていた店らしい。てっきり隣合わせだから一緒の店と思っていたが・・。.ところで、関東では「豚まん」とは言わない。「肉まん」と呼ぶのが普通。初めて聞いた時は、「豚まん」と呼ぶのに抵抗を感じたものだ。.戎橋筋商店街のアーケードは千日前通りで一端切れている。写真の右手、1ブロック先が、元、「千日前デパート」があった場所。「千日前」とは、実は法善寺の事なのだ。詳しくは次回紹介するが、現在の法善寺は次のアーケードの右手の方になる。そんなわけで次回、法善寺横丁です。「大阪七墓と七墓めぐり」についても書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)他リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜
2017年10月23日
コメント(0)
以前は当の寺や神社の案内が一番正しい・・と思っていましたが・・。社寺の来歴では、都合の悪い所など敢えて書かない。実は正しく解っていない。特に口伝により伝えられた来歴の信憑性は微妙です。それなのに? 希望的観測? ならまだしも、社寺にマイナスになりそうな内容を敢えて消すなど(来歴詐称?)史実をねじまげている所も見られ、本家の掲げる由来は逆に信用できない・・と思うこの頃です。やはり、ある程度は客観視して照らし合わせないとね比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由比叡山(延暦寺)と僧兵比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない本当の焼き討ちの場所は坂本?僧兵が生まれた理由今月初め比叡山に行ってきましたが、寺では、信長に焼き討ちされて尊大な被害を被った話が連呼されていました。比叡山の説明に寄れば、最盛期3000に及んだと言われる堂や伽藍は信長の全山焼き討ちにあって消滅したとの事。実際、信長は確かに焼き討ちをしましまたが、当時の比叡山側に問題があったのは明らか。それに焼き討ちしたのも歴史的に見れば、実は信長だけではなかったのです。加えて言うと、近年の発掘調査で、考古学的に信長の時代に合致し、火災焼失と思われるのは根本中堂と大講堂のみで、寺側が言う程の被害は発見できなかったとの事。最盛期に本当に堂が3000もあったのか疑問だし、それらは信長以前に無くなっていた可能性のが高い。そして、何より、今回行って思ったのは、本当にこの深山の中まで攻め上り、焼き討ちできたのか? と言う疑問である。ひょっとすると今の比叡山の山中ではなく、信長が攻めたのは琵琶湖畔の坂本にある日吉大社の山、八王子山だけではなかったのか? と調べているうちに確信してきました。さて、今回写りがあまりよろしくないのですが、10月2日に出かけた雨の比叡山の写真です。比叡山がいかに深山であり、今だからこそルートができているけれど、人が易々入山できるようなお山では無い事を紹介します。京都側から入ったので、叡山本線で八瀬比叡山口からケーブル、ロープウェイを使って比叡山頂に向かいました。叡山ケーブル 八瀬駅八瀬から先は急勾配を上るケーブルカー(鋼索鉄道) が設置されている。その高低差561mは日本一らしい。(9分で登る。)そして勾配も平均勾配が40分の1。ケーブル比叡駅の標高は686.5m。逆算すると、ケーブル八瀬駅の標高は125.5m。天気が良ければ、京都の街が見えたに違いない。残念。でもまた行きますそれにしても、こんな山登れませんよ。比叡山(延暦寺)と僧兵最澄や、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍の功績にあぐらをかき、権力を得た比叡山。平安時代より寺の勢力を拡大してきた比叡山は朝廷でさえも手を焼く目の上のたんこぶとなっていた。武力を持って他を制するなど、仏の道の者が? と言う非道な振る舞いがあたりまえに。朝廷への嘆願も多く、非常に達の悪い存在に・・。つまり、比叡山は立派な教えを持つ寺であるにもかかわらず、平安後期にはすでに多くの敵を造る存在になっていたようだ。もともと僧兵は、寺領荘園を自衛する目的で始まったが、保守の度が過ぎて他者の者まで奪う行為に発展? 比叡山の私設、僧兵の進軍で寺社を奪われ武力により傘下にされた寺は数知れず。叡山ロープ比叡 駅濃霧でも止まらないらしい。カミナリの時は停電すると困るので運休する可能性はあるらしいが・・。3分で到着。比叡山駅の標高は813m。比叡山山頂の標高は848m。実はロープウェイを降りてから、シャトルバス乗り場まで1km程歩く。バスは比叡山内のシャトルバスである。東塔エリア、西塔エリア、横川エリア、ロテルド比叡 間を巡回している。つまり、普通の寺の山と違い、比叡山は連山でできている。お山は一つではないのである。エリア移動をシャトルバスでし、後エリア内は自力で山坂、階段の上り下りが基本。ぶっちゃけ、足腰の悪い人には無理である。比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない比叡山の脱線はおよそ400年。平安時代末期、寺社の統制に力を入れていた後白河法皇(1127年~1192年)により、平清盛(1118年~1181年)に延暦寺と僧兵、駆除の攻撃を命じている。特に南都興福寺と比叡山延暦寺の対立は激しく手を焼いていたそうだ。実際、京都の祇園社(八坂神社)争奪で興福寺と争い、勝った延暦寺は、周辺の利権を獲得。より勢力を拡大。特に鴨川西域の利権を独占すると物資の流通も独占して財力も得る事になる。信長の焼き討ちより酷かったのは、室町時代、1435年(永享7年)、第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)による制圧です。将軍が強行した理由の一つには、天台宗内部、延暦寺と園城寺(三井寺)の対立で、比叡山の宗徒によって園城寺(三井寺)が焼き討ちされた事。(焼き討ちは度々あったらしい。)※ 園城寺(三井寺)は比叡山の琵琶湖側の麓にある。将軍、足利義教は自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲。トップの僧侶の首を斬首して、沈静化。(この時、抗議のため根本中堂に火をかけたのは僧侶側。)ひょっとすると、信長よりも強烈な仕打ちをしたのは足利義教かもしれない。その炎は京都からも見え世間は騒然となったらしいが、それに触れる者を「罰する」とした為に世間には広まらなかったのかもしれない。しかし結局、足利義教が亡くなると、比叡山は再び力を増したと言う。軍兵とも言うべき、数千人の僧兵をまとった比叡山は軍事独裁国家に成長していく。つまり、寺の看板をしょってはいるが、そこら辺の武将よりも強大で、やっかいな存在であったのは間違いない。1499年(明応8年)には、管領 細川政元も延暦寺を攻め、根本中堂を灰にしている。それにしても根本中堂は何回焼けたのか?※ 比叡山東塔の根本中堂は比叡山第一の総本堂。比叡山の勢力は相変わらず。それは戦国時代に入ってからも酷かったらしい。1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。西塔エリア 入口2017年10月1日より、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の始祖 相応(そうおう)和尚(831年~918年)の1100年御縁忌を記念して、西塔エリア、釈迦堂の本尊、釈迦如来立像がご開帳され、同時に内陣特別拝観が行われる事になった。それがお目当ての比叡山でした。酷い雨でしたが・・。西塔の中堂が釈迦堂。正式には転法輪堂。釈迦堂側からの階段 あの階段を下り、帰りは登るのである。釈迦堂(転法輪堂)は、信長の比叡山焼き討ちで焼かれた事になっている。※ 1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。それは信長が焼き討ちする前の年。現在の建物は、秀吉の代になって比叡山再興が許可された為に、秀吉により、坂本の圓城寺(三井寺)弥勒堂を移築し、手を加えたもの。建物自体は、鎌倉時代建立のもので、山上で、現存する最も古い建物だそうだ。今回の内陣公開は、比叡山の僧侶でさえ、拝んだ事が無いものまで含まれているらしい。宝物館の方よりも、良かったです。そして1571年(元亀2年)9月12日、織田信長による比叡山の攻撃が始まる。そもそもは、浅井、朝倉攻めに伴い、比叡山に協力のお願いをした事に始まる。せめて協力しないまでも、邪魔だてしないで欲しい。もし、邪魔をするならば、一山焼き払うと言明したそうだ。太田牛一「信長公記」(現代語訳)より「比叡山、山下の僧衆は延暦寺が皇都の鎮守であるにも関わらず、仏道の修行でも出家の道を外れ、天下の笑い者になっているのも恥じず、天の道に背く事の恐ろしさにも気付かず、色欲にふけり、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて浅井、朝倉に荷担し、かって気ままな振る舞いをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった。ついにその時が来たのであろうか。その鬱憤を今日こそ晴らす為、9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞(うんか)の湧き上がるごとく灰燼(かいじん)の地と化した。山下の老若男女は右往左往して逃げ惑い、取るものもとりあえず、皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った。」僧、俗、学僧、上人、すべての首を切り信長が検分。中には寺にいるはずのない美女、小童、なども居て数千の死体が転がったと言う。戦国武将らも比叡山には手を焼いていた。結果、信長が焼き討ち討伐に成功し、比叡山は一時おとりつぶし状態に。もしかしたら信長以外の武将が同じような事をしていた可能性もあったろう。・・と思う。因みに、この比叡山焼き討ちの後、明智光秀は近江国滋賀郡が与えられ坂本城を築城。城主となる。信長の目的は比叡山の監視と琵琶湖の制海権? だったらしい。その城は琵琶湖に面した平城であったが山崎の戦いで明智光秀が落命すると、安土城から引きあげできた明智 秀満(あけちひでみつ)が居たが、秀吉の軍勢に囲まれると、自ら城に火を放ち自害したそうだ。信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで果て、坂本城も無くなると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めたと言う。比叡山の再興の許可は秀吉が出している。東塔エリア 大講堂。経典の講義や、5年に1会の法華大会の場になるそだ。坂の下左(修復中)が東塔エリアの中核。根本中堂である。内陣の撮影はできないが、この中に「不滅の法灯」が置かれている。ところで、延暦寺に脈々伝わる「比叡山・不滅の法灯」であるが、やはり、焼き討ちのあった1571年(元亀2年)9月12日にその炎は途絶えている。が、不滅の法灯は当時、各地の天台の寺に分燈されていた事から、ラッキーにも、山形の立石寺(りっしゃくじ)から分燈されて本家に戻れたのである。天皇もしのぐ権力を振りかざし、俗人のような振る舞いをしていた当時の比叡山の堕落ぶりは皆が周知していた、それ故、「山門を亡ぼす者は山門なり」と皮肉まで言われ、同情するよりも肯定的に評価されて来たと言うのも皮肉である。比叡山と周辺のマップ左下が京都。右が琵琶湖。左のピンク→が、叡山ケーブル&叡山ロープウェイ右のピンク→が、坂本ケーブル黄色の円が日吉大社と八王子山坂本ケーブルは、全長2.025km。日本一の長さを誇るケーブルカーである。比叡山の境内がいかに広いか解るだろう。坂本ケーブル、延暦寺駅からの景色(本来は琵琶湖が見渡せる絶景のはず。)本当の焼き討ちの場所は麓の坂本?それにしても比叡山は行って見てわかるが、非常に険しく広大な山である。簡単に登って比叡山全てを焦土にする事など不可能である。襲撃の前日(9月11日)、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたらしい。そして攻めたのは、現在の坂本ケーブルの乗り場近くの日吉大社と八王子山である。実際、八王子山は比叡山の一部となる山(標高381m)であるし、当時はそこも延暦寺境内だったのだろうが、そこから現在の延暦寺の東塔までは恐ろしく深山を登らなければならない。一日では無理である。誰か配下の者を別に登らせて、火を付けさせた可能性はあるが・・。先に紹介した「信長公記」の中「皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った」とある。現在、八王子山には日吉大社の三宮宮と牛尾宮があり、おそらく攻められて逃げた衆徒らはそこで囲まれ斬首された。当時、比叡山の僧徒のほとんどは坂本に居住していたのかもしれない。東塔や西塔がある深く険しい深山には、千日修行する行者しかいなかったのかも。坂本ケーブル 延暦寺駅 654m見るからに急で険しい山の中。比叡山に入るなら、恐らく、坂本ルートであろう。坂本ケーブル、坂本駅の標高は170mところで琵琶湖の海抜は84mである。ここまでの標高差は86m。琵琶湖湖畔の坂本と言っても結構登っているようです。坂本駅の右手の山の方に日吉大社はある。(ここより徒歩5分)僧兵が生まれた理由当時は僧兵とは呼ばなかったようだが、大寺院で雑務をしていた者達が武装化して寺社の境内や荘園を守ったのが始まりだったようだ。最初は警備程度のものだったのだろうが、後々他勢力への対抗のために完全な兵隊に進化。「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を憶えているだろうか? 歴史の教科書で習いましたね。「墾田永年私財法」は、聖武天皇の治世、743年(天平15年)に発布された勅令で、墾田(開墾して得た耕地)の永年私財化を認める法令です。農地を増やし税をたくさん取る為に天皇の勅令によりこの法律はでき、人々は必死に田畑を開墾するかと思いきや、実際、得したのは資本のある金持ちと大寺院である。金持ちは人を雇い土地を拡大。寺社も同じく僧徒らを使い土地を拡大。しかし、領地が増えれば盗賊もやってくる。「自分達の土地は自分達で守ろう」と武装化したのが武士の始まりとされています。同じように寺領荘園を有する寺院の武装集団は、僧兵と言う分類になります。実際は僧侶が武装化したわけではなく、当初は使役されていた寺男達がそれを勤めたのでしょうが・・、ところで、僧兵と言う言葉から、十字軍の兵隊達がよく重ねられるようですが、彼らとは全く違います。彼らは、聖なる戦いの為に、兵士となりましたが、実際は僧侶ではありません。テンプル騎士団に限って言うなら、彼らは、テンプル騎士として働く間に限り、「修道誓願」の誓いをたてる事が約束されていたのです。だから騎士としてある時は、彼らは真面目な修道騎士だったのです。※ テンプル騎士団についてはかなり詳しく書いています。リンク先一つだけのせます。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)日本の僧兵はそう言う意味では、僧侶の姿をしているけれども、こちらも決して僧侶ではなく、ただの荒くれ者? だから女は買うし、博打もするし・・と駄目駄目だったのでしょうか?最も、そう言う者らを雇い、管理していた僧侶側に問題があったわけですが・・。もちろん今の比叡山の立派な僧侶の方々とは何の関係もありません。ただ、自分達だけ黒歴史に蓋をして、信長を悪く言える立場ではないよ・・と思ったわけです。比叡山開山1300年近くの中、黒歴史が400年。凄いな
2017年10月13日
コメント(0)
Break Time (一休み)やっと東京に戻ってきました。何だかんだと3週間を越え・・。帰京前に比叡山まで足を伸ばしてきましたが、あいにくの雨。本来なら絶景が臨める坂本ケーブルからの琵琶湖どころか、寺さえもガスって撮影はできない状態でした また行かねば・・。でも、相応和尚1100年御遠忌記念と言う事で10月1日から33年ぶりに西塔の釈迦堂内陣が一般公開され、延暦寺の僧侶でさえ、拝む事ができないような扉も開かれ、秘仏が公開されているので今が行き時です。※ 2017年10月1日~12月10日まで公開。さて、今回は久しぶりの鉄道ネタです ドクターイエロー(Doctor Yellow)ドクターイエロー(Doctor Yellow)新幹線のグリーン車(おまけ)走行スケジュールは非公開。見ると幸せになれる? という都市伝説まで生まれた幻の黄色い新幹線。ドクターイエローをついに見る事ができました 10月5日14時11分~13分の間に新大阪の駅構内で撮影。14時30分の新幹線に乗る為にホームに上がったら なんと黄色の車体がいるではないか・・。思わず走ってとにかく頭を撮影に。(実際は尻尾であった。)ドクターイエロー(Doctor Yellow)「ドクターイエロー」は通称で、「新幹線電気軌道総合試験車」が本来の名称らしい。目的は、走行しながら線路のゆがみや架線のたるみ、信号や電気系統の電流の状態を検測すると言う新幹線の走行にかかわるチェッカー(checker)車両である。しかも、営業速度(270km/h)で検査、走行できる車両としてはドクターイエローが世界初だそうだ。いわゆる新幹線(Bullet train)のお医者様と言う事で、敬意を表して? ドクターイエロー(Doctor Yellow)と呼ばれるようになったのか?なぜ黄色いか? 夜目に目立つように、もともと保守作業車の色は黄色かった事から由来しているらしい。そして、お客様が営業車と間違えないように・・との配慮もあるらしい。7両で1編成のドクターイエローは東海道新幹線と山陽新幹線の区間(東京~博多)を2日間かけて往復。およそ10日に1回のペースで可動。途中駅をノンストップで東京~博多の間を往復する通称「のぞみダイヤ」は1カ月に3回の運行。各、新幹線の駅を全停車して往復する通称「こだまダイヤ」は2カ月に1回の運行。乗員は運転士と車掌。線路点検の技術者が3人、電気設備点検の技術者が4人乗車しているそうだ。※ 7号車には50人分の座席があり、特別視察団などに対応。ボードには「回送988」あるいは、「Out of Service」の文字が・・。非稼働中?ドクターイエローの車体は現在で3代目1964年の東海道新幹線開業の1964年~1974年まで活躍した初代は0系新幹線の試験車を改造して造られたものらしい。1974年からは車内の検査設備が新しくなり、電気設備と線路の点検が一緒にできるようになった車両が登場。(車両自体は前と同じ0系)※ 山陽新幹線の博多開業に合わせて登場。1974年~2001年。2001年、700系をベースに最新の検査設備を持ち、かつ車両のフロント部に監視カメラが設置された車両が登場。車体のイエローはより、鮮やかな黄色が採用。初めてまじまじと見たけど700系のイエローはとても美しい。個人的にはN700系より700系のが形が好き写真下、車両フロント部のカメラ車体はアルミニウム合金ブルーのラインは東海道だから。東北・上越新幹線ではグリーンのラインが入った「ドクターイエロー」が2002年まで走っていた。※ JR東日本の東北・上越新幹線の検査車両はイーストアイ(East i)に変わったらしい。ドクターイエローが消える?実はJR東海は2015年10月、東海道新幹線をすべてN700系(N700A)車両に入れ替えて、2019年度末までに700系の廃止を発表。そうなると700系のドクターイエローも引退か? とささやかれている。もしかしてJR東日本の東北・上越新幹線のようにドクターイエローは消えるのか?ファンとしては、気が気で無いだろう。それについて、JR東海は言及を避けているらしが、今や国民的な人気を博したドクターイエローを廃する事はできないだろう。・・と思う。とは言え、最高速度の問題もあるので、700系に代わるN700系でもない、超新型のドクターイエローが登場してくる可能性はあるかもしれない。とにかく見られて写真撮影できて、ラッキーでした。新幹線のグリーン車(おまけ)諸条件はあるが、事前予約で、土日に2人以上でグリーン車に乗るとお安くなるらしい。新幹線の普通車の座席は横5列(2列+3列)グリーン車は横4列(2列+2列)でかなりゆったり。でも、車両により、機能の差は大きい。(お値段は一緒なのに・・。)新型の車両は飛行機のような装備。N700系のシートは「シンクロナイズド・コンフォートシート」というリクライニングすると座面後部が沈む構造が採用されているそうだ。たぶん写真の車両はそれだったと思う。飛行機ほどにリクライニングはしないが・・。グリーンにはフットレストが付いている。しかし、これは微妙。飛行機は自分の椅子の下から出るので調整もできるが、前の座席に着いたフットレストでは、多少の上下げができても、距離感や高さがどうもしっくり来ない。フットレストのおかげで、前にキャリーケースも置けないから私にはジャマかも。基本上の棚に載せるようになっているが、力の無い女性に上まで上げる力は無いからね。それにしても新幹線はグリーン車両にも荷物置き場が無い。(成田エクスプレスにはあるが。)外国の旅行者のスーツケースは上の棚に置けない程大きい人がたくさんいる。座席の所に置く人もいるし、後部の僅かの空間を争って荷物を置いたりしている。外国の車両を見習って、荷物置き場を少し考えるべきだ。飛行機と同じように手元にいろいろ付いている。肘掛けには椅子のプライベート・ライトやコンセントも。最近は普通車両も足下の壁にコンセントが付いていて、携帯など充電できるタイプも多くなったが、初期車両なのか? グリーン車でもコンセントがない車両もある。下の矢印は、プライベート・ライトその位置で役に立つのか試しませんでした丸いのは荷物掛けなのか? 車両内を歩く時に揺れて捕まる為の取ってなのか?旧型車両には取ってがついていた。下が旧型のグリーン車先ほど触れた、コンセント一つ無いグリーン車。JR東海の「のぞみ」グリーン車ではパーサーが乗務おしぼりのサービスと希望すればブランケットの貸し出しがある。(端の荷物棚の上に置いてあるので、乗車時に自分で取って行く方が良い。)全体に乗客は少ないので静寂で、のんびり旅が楽しめるかも知れない。でも、東京~大阪なら、普通車で十分かも。新型に乗車した時には後ろの席に元ジャイアンツの桑田氏が座っていた。まれに芸能人を見かける楽しみはあるかもね。見て見ぬふりするのが東京流(マナー)ですが・・。旧型の車内は明かりも違う。全体に昭和のレトロ感があるかもね。いずれにせよ、同じ値段なのだから、新型車両に当たりたい。旧型だと損した気分。でも車両は何が来るか解らないようです。(飛行機は機材が事前に解る)グリーン車には、もう少し何かサービスが欲しい所です。例えば、車両の中でも外でも使用できるコーヒー・チケットを配るとか・・。ところで、最近在来線に少しお金を出して指定席にできると言うプレミアム・カーが流行っているようで、あちこちお試ししています。そこそこ写真があれば、京阪電車のプレミアムカーを近日紹介します。
2017年10月07日
コメント(0)
庚申堂の Back numberと大阪関連のBack numberもラストにあります。天王寺は、前に紹介したように、石山本願寺VS織田信長「天王寺の戦い」の場所ですし、何より、徳川家康VS真田 信繁(幸村)「大坂夏の陣」の主戦場です。それは地形的な問題もありますが古来、要所であった場所だからです。※ 2017年4月「大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村」リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村何やら、界隈にまた新たに旗が沢山建ち、茶臼山には以前なかった石碑が建っていました NHKの大河ドラマ以降、訪ねてくる人が増えたのでしょう。ブームに乗って天王寺一帯の街おこしに利用されているのです。尚、ビックリなのは壮年で戦った筈の真田 信繁(幸村)なのに、美青年の姿でイラストされている事。これはもう若い女性受けまでねらった商法ですね。2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 1~2」 を改訂してタイトルを替えました。リンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)※ カテゴリーの「神社仏閣」に仕分けしています。さて、今回引き続き紹介する庚申信仰は、前回の2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」を見てからの方が、わかりやすいかと思います。基礎が書いてあるので。。、リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)四天王寺庚申堂青面金剛(しょうめんこんごう)と青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?庚申詣での楽しみ四天王寺庚申堂は茶臼山(ちゃうすやま)のすぐ近くでした。四天王寺南大門より南に300mの少し下った坂の途中。JR天王寺駅にほど近い。庚申堂東門前から庚申街道と四天王寺南大門を見る東門かつては、四天王寺南大門の脇に堂があったようです。前回紹介したように、明治の維新政府により、神仏分離が進められ、庚申堂は寺の境内から出されたのは間違いないようです。(現在は飛び地扱い)※ 四天王寺や庚申堂の解説にはそのような記述は一切書かれていませんが・・。大阪歴史博物館蔵 四天王寺境内絵図集 (18世紀前半の四天王寺伽藍図)赤く囲った所が18世紀前半の庚申堂の位置。赤い矢印300m先に現在の四天王寺庚申堂がある。南大門より、そこに至る道は庚申街道と呼ばれている。※ 資料は中之島の府立図書館で探してきました。青面金剛(しょうめんこんごう)と青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)一般に、庚申信仰で祀られる本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)である。しかし、四天王寺の庚申堂では、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が祀られているようだ。(・_・?) ハテ?そもそも、庚申信仰は、中国より伝えられた守庚申(しゅこうしん)と言う行事を平安貴族達が真似して始めたのが発端のようだ。そしてそれは庚申の日を終日寝ずに起きて居ると言うものであった。(庚申待 or守庚申)※ 前回(2017年9月)「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」で説明してます。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)庶民にその慣習が降りて来たのがいつ頃かは特定できないが、三猿など、山岳信仰と結びつき? 守庚申(しゅこうしん)は形を変えたようだ。庚申の日は、青面金剛(しょうめんこんごう)に人々からのいろいろなお願いを祈祷する日に・・。本来は病気と寿命を司る天帝に告げ口する三尺(さんし)の駆除をしてくれるのが青面金剛(しょうめんこんごう)の役割だったはず。今はいろんなお願いをきいてくれる存在に?しかし、四天王寺はちょっと違う。(四天王寺の庚申縁起)四天王寺の「庚申堂由来記」によれば、疫病の流行った7世紀、庚申の日?、帝釈天のお使いと言う青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が病気払いの祈祷をしていた僧の前に現れ「人の悩みを憐れみ除災無病の方便を与えよ。」と告げられて来たと言う。その後疫病は退散したので、以降、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を祀る事になったとされる。つまり、四天王寺では、病気と寿命を司る天帝は、帝釈天であり、その使いが青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)と言う事になっているようだ。青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)の描かれたポスター四天王寺庚申堂の青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)像のご開帳は60年毎の庚申(かのえ さる)の年。近々では1980年(昭和55年)。次の庚申の年は2040年(平成52年)となる。しかし、今上天皇がご退位を考えておられるので、年号は変わっているだろう。きっと・・。それにしても、他は青面金剛(しょうめんこんごう)なのに、四天王寺ではなぜ青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が祀られているのか? 前回、八坂で紹介したように青面金剛は仏教の仏ではなく、またアマテラスの系譜でもない。それが明治政府が庚申信仰を棄却した理由である。しかし、青面金剛が帝釈天のお使いであるなら、問題は無い?四天王寺が、明治政府への言い訳の為に青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を間に挟んだのか?あるいはもっと昔から? 四天王寺では青面金剛が仏教の仏ではない事に気がついていたのかもしれない。なぜなら、唐から守庚申の行事を日本に持ち帰ってきたのは、間違いなく、遣唐使であったからだ。それすなわち僧である。守庚申(しゅこうしん)の行事は、その頃日本に伝わり、四天王寺が天台化した頃(9世紀)に取り入れられた? と推測される。※ 「青面金剛童子」を祀る行為は室町時代に入ってからとの説もある。 尚、こちらの縁起に三尸(さんし)の話は見えない。正面門(南)日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?ところで、実は海外との交易や人の行きが始まって、日本に入ってきた物は良いものばかりではない。大陸より新型の疫病(えきびょう)も持ち込まれている。白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)以降は、特に大陸からの大量の移民団も来たし・・。ほとんど知られていないが、7世紀~9世紀は日本に疫病が蔓延。苦しんだ時代でもあるそうだ。※ 白村江の戦いについては、2017年7月に書いてます。 「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」 の中 大宰府の大要塞化と百済からの難民 「百済の最後、白村江の戦い」 「百済からの亡命者」リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)特に聖武天皇(701年~756年)の御代、735年~737年に流行した天然痘では政府高官や藤原四兄弟なども感染して大量の死者が・・。当然政治自体も混乱を極めたようだ。聖武天皇による、後期難波宮(大阪の宮)の建設などは、飛鳥に居られなかった切迫した状況があったからだと 考えられる。四天王寺の「庚申堂由来記」に書かれている事が真実なら、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)の出現と共に、いくら仏僧が加持祈祷をしても収まらなかった疫病が、たまたまピークを越えて、収束したのだろう。それ故、四天王寺では無病息災と疫病退散がメインになったと思われる。人は単純に現世利益を求めたがるものだ。霊験(れいげん)があるなら庚申信仰の本尊は青面金剛でも、青面金剛童子でも帝釈天(たいしゃくてん)でも猿田毘古神(さるたひこのかみ)でもよいのかも・・。宝輪閣お百度石(ひゃくどいし)の上にも三猿が・・。百度参りも民間信仰。願かけて寺社に百度参りをする慣習は鎌倉時代頃にはじまったとされる。大阪ではけっこう見かけます。いつか詳しく調べてみます。三猿堂今は堂の中には三猿の置物。(格子のすきまから撮影。二猿しか撮影できず。)山王信仰と結びついてお山の猿(神徒)が持ち込まれたのでは・・と寺で聞いたが・・。前回、三猿は、天台系の僧により8世紀頃に日本に持ちこまれたらしいと紹介。仏教、密教、修験道、道教などいろいろ絡んで来るのは確か。三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が庚申の使いに抜擢された理由は、「見なかった事にして。聞かなかった事にして。天帝に告げ口しないで。」と言う意味が込められていたかららしい。※ 三猿が三尺(さんし)の役割をしているかのようだ。最も昔は猿もあちこち出没したのだろう。四天王寺庚申堂では、近年まで実際生きた猿がいたそうで、下はそのお猿さんたちのお墓らしい。堂の中にも猿が・・。(許可を得て猿だけ撮影させてもらいました。)毎日朝、10時~11時、「猿加持祈祷」なるものが行われているそうだ。写真の木猿で体の痛いところを撫でてもらうと、「病に勝る」「魔も去る」と言う事らしい。※ 猿は「サル(去る)」から厄除けの意味にも使用されている。本堂は、行った事のない人でも、もしかしたら見た事があるかもしれない。1970年の大阪万国博覧会の時に日本仏教会が建てた「日本仏教館」(宝輪閣)である。四天王寺復興部建築事務所が設計にあたった縁もあり、博覧会終了後に四天王寺に移築し庚申堂として改装した建物だそうだ。※ 天王寺区役所市民協働課の資料より以前のものは1945年の空襲で焼失。外はモダンであるが、中は天井から灯籠が吊されて伽藍には四天王が安置されている。最も身近で拝める四天王像だそうだ。手水舎(ちょうずしゃ)と奧が東門四天王寺庚申堂では、庚申の日には、四天王寺から僧侶が来て祈祷が行われる。特に年明け初めの初庚申日には和歌山より修験者が来て護摩焚祈祷も行われ賑わうらしい。庚申詣での楽しみ庚申の日には、八坂の場合もそうであったが、なぜかコンニャクの市が立つ。四天王寺だけでなく、八坂でも庚申の日には市が立つ。コンニャクは体の砂払い(老廃物の排出)と言われている事からなのか?四天王寺では、北を向いてコンニャクを食べると無病息災が叶うと伝えられている。ところで、コンニャクの砂払は迷信ではない。実際グルコマンナンと言う食物繊維でできていてるコンニャクは人の消化酵素では消化しきれずに腸まで届く。そして腸内活動を活発にして老廃物を排出する助けとなる物質なのだ そもそも、歴史をみればコンニャクは仏教と共に日本に伝来。薬用として始まった食品らしいし・・。恐らくコンニャクを食す慣習は江戸時代からだろう。何しろ庚申信仰は江戸期に人気急上昇した信仰なのだ。そして昆布も大阪では庚申の日のお土産となっていたらしい。大阪と昆布と言えば北前船の影響だろう。江戸時代から明治時代にかけて北海道から日本海沿岸を航行した海運のたまものである。運ばれてきた昆布は昆布の佃煮となって大阪名物となっている。この昆布は細く365筋に切り、毎日食すると効用があるらしい。(髪にいいからね。)下は現在も東門の前で営業する「梅須磨商店」「梅須磨商店」は江戸時代の創業。江戸時代から庚申の日は境内でも販売していたそうだ。昆布は自ら切らなくても、ちゃんと松葉昆布が売っている。昆布の佃煮は母のお土産にしました。江戸期には「七種の麁菓(ソカ、お菓子)を紙三角形に包み12銭をもって参詣人に授く」どうもかつてはお下がりのお供物が振る舞われていたようなのだ。現在は無い。代わりに現在は庚申の日に甘菓子が売られている。やはり東門の前に店を構える「青山の甘納豆」である。こちらも創業93年の老舗である。実は、こちらのお店と御縁があった。庚申堂の三猿堂の前に たまたまいた美人親子に庚申の話を聞いたのだ。七色菓子の話を聞いて、「七色ではないけどうちは甘納豆屋です。」と言うのでお店に伺った。上の庚申最中はお猿の形。餡が別にパックされているので日持ちがする。お土産に買ってきました。庚申の日は境内でも売られているそうです。甘納豆もお土産にはお手頃値段。私はミックスを購入。甘さはとても控えめ。サツマイモの甘納豆が特に気に入りました四天王寺庚申堂に行ったなら、是非お土産にどうぞ。実は、平成29年9月29日から30日にかけてがの庚申の日。つまり今日なんですね。だから急いでいたのですが、いろいろ忙しくて遅れました。庚申の日を待って、行って撮影してから載せようかとも思ったのですが、せっかくなので間に合わせました。Back numberリンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰) 四天王寺庚申堂大阪関連 Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎
2017年09月28日
コメント(0)
秦氏が歴史から消えて行った理由がなんとなく解りかけてきました。一言では終わらないので、松尾大社、もしくは大覚寺を紹介する時の機会にします。今回は別の案件ですが、やはりその歴史は古く、平安時代まで遡る変わった信仰のお話です。古来、日本は大陸からいろんな物を受け入れてきた。それはほとんど来る物をこばまなかっと言っても良い。特に宗教に関しては土着の神(カミ)がいるにもかかわらず、仏(ホトケ)をありがたく受け入れた。仏教を積極的に受け入れた蘇我氏に対して、物部氏は、従来の神様に対して「申し訳無い。神が怒り災いが起きるのではないか?」と反対したらしい。実は神と仏は全く別物だ。神は存在自体は不確かなものであるが、我々の周りのあらゆる物に神が宿っていると考えられ、人は神をあがめ、祀った。それは現実的に考えれば、自然への感謝とみて良い。一方仏教の方は、原始仏教に立ち返ると、釈迦が語ったのは、人の生きる道での精神論だ。畜生とは異なる思考を持つ人間の苦悩。迷いや悩みや、苦しみからの解放の教えこそが、釈迦の悟りである。つまり人の心を支える教えが仏教なのだ。仏像をありがたく拝む・・と言う行為は釈迦以後の後世の造り事。人は拝むだけでは救われない。本来の仏教は非常に哲学的な思考のものなのである。もっとも、渡来当時「人はなぜ生まれ、生きているのだろう?」などと考え悩んだ人達がどれだけいたか・・。「神頼み」と言う言葉があり、神様はいろんなお願いを聞いてくれる。(かもしれない)が、仏様には自身の誓願成就を祈るお願いくらいしかできないのである。明らかに、両者は性質が違うのだ。さて、話がそれかけたが、大陸から伝播した宗教は仏教だけではない。と言うのが今回の話に繋がる。八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)維新政府の宗教改革(振り回された神社)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か?庚申待(こうしんまち)とは?庚申待(こうしんまち)の変容庚申信仰にあやかる?くくり猿が八坂庚申堂を救う?日本初の暦中国からは儒教や道教思想も持ち込まれた。孔子(こうし)が示した儒教(じゅきょう)は。「仁、義、礼、智、信」の五常が示すように人の倫理に関する指導書? である。論語と共に日本に入ってきた儒教は、学問として限られた人達の中で浸透?問題は道教である。正式に誰が入れたわけでもない。気付いた時には日本中に道教思想は広がっていたようなのだ。今でも私達のまわりに残る民間伝承のほとんどが、そこからきていると言っても過言ではない。七夕とか、てるてる坊主、なども道教由来のお話であるし、前に紹介した「六道の辻」の閻魔信仰もまた道教由来。本能寺で紹介した「三足の蛙」もまた道教由来。方位としての「鬼門」のこだわりなども道教由来のものなのである。何だか庶民に広まった身近な信仰のほとんどが道教由来かもしれないと言う事実に改めて驚いたそもそも道教自体の発生が、中国でも、各地の土着に発生した話が各地に伝播されたものとされている。(内容に統一性が無い。)だからこそ、日本においても庶民の生活に一番近く、受け入れ安くもあったのかもしれない。それらは半ば楽しまれて拡散して行ったのかもしれない。子供にする夜とぎ話にもちょうど良いし・・。だが、庶民の中に浸透するにつれ、原型が失われ、不思議な変容をとげた信仰も多々あったようだし、それらが産んだ強い迷信は、もはや文明開化の中で「まやかし」の信仰とされたのも確かだ。京都、夢見坂からの 八坂の塔(霊応山法観寺)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)はこの撮影場所より少し下がった右側。維新政府の宗教改革(振り回された神社)とにかく日本人は、矛盾するようなものまで、何でも取り入れてきた。それが神仏習合と言う、ユニークな寺や神社を産み出したのである。が、明治の維新政府はそれらを否定して宗教改革を断行。国家の中心に神道を置く事で日本人のアイデンティティー(identity)を示したかったのだろうし、意識の統一も計りたかったのかも・・。まずはごっちゃになった神と仏の分離を始めた。(神仏分離)明治政府は仏教を迫害したわけではなかったが、過激な者達により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こってしまった。神社には国家からお金が出るようになったのに対して、寺の方は寺院の特権もはがされ寺領は減らされ、暗黒時代を迎えた。とは言え、神社自体も調査時の176000社から、合併や排斥があり80000社が削減されたらしい。素性の知れない祭神を祀っていた神社や、寺などはその対象になり随分閉鎖に追い込まれたり、前回触れたように祭神の置き換えが行われ、オリジナルが取り払われ変貌した所も多々。結局、明治の維新政府は信仰を利用した国家戦略で国をまとめようとしたわけだが、大戦での敗戦が決まると、日本統治に入ってきた連合国軍総司令部(GHQ)により、政府のしてきた国家神道の解体が進められた。諸悪の根源は明治政府の打ち立てた国家神道のせいだ・・と理解されたからだ。この時、維新の時と反対に、国家の庇護と援助金がなくなった神社に暗黒時代がやってきたのである。だが、GHQの予想に反して、神道は消滅する事なく、神社は個々に生き残りの道をかけて再スタートしたようだ。(信仰の自由となり、オリジナルを取り戻した所も・・。)事情を考慮してもらう為に前振りが長くなってしまいましたが、今回紹介するのは、明治政府によって「迷信(めいしん)」とされ、棄却された庚申信仰(こうしんしんこう)なのである。※ 庚申信仰は今や絶滅危惧の信仰で、本もほとんど絶版。都内大手ショップにもなく、古本の取り寄せに時間がかかりました。そして、今回もまた、かなり長くなりました m(_ _)m八坂庚申堂(やさかこうしんどう)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)は、排斥されたにもかかわらず、今に残る庚申信仰の地です。しかも、元祖、発祥の地らしい。三猿即庚申尊庚申信仰では三猿と青面金剛(しょうめんこんごう)が主に祀られている。庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か? 庚申信仰とは、そもそも宗教とは言いがたいものですが、庚申(かのえさる)の日の夜に庚申の言い伝えにより「庚申待(こうしんまち)」の習俗(しゅうぞく)をしていた人達を言います。古くは平安時代に貴族の間で始まっていた?習俗とされ、その話は枕草子の中にも出てくるそうです。庚申待(こうしんまち)とは?60日に一度の周期で来る庚申(かのえさる)の日、寝ずに一晩をやり過ごす・・と言う習慣です。それは、庚申(かのえさる)の日、人の体に宿る三尺(さんし)と言う虫が、人が眠ると体を抜けだし天帝の所に向かい、その者の罪過を報告に行くとされ、それを受けた、天帝は、その者の健康や寿命を操作したと考えられていたからです。報告されては困る、身に覚えのある者達はそれを阻止するべく、「三尺(さんし)が体から出られないように、寝ずに庚申の晩が過ぎるのを待つ。」「庚申待(こうしんまち)」なる奇妙な習俗(しゅうぞく)ができたようです。そもそも庚申(かのえさる)と言うのは陰陽五行、十干(じっかん)、一二支(じゅうにし)が組み合わさってできた古来の暦の57番目の日をさしています。(60日で一周、同じく年も60年で一周して還暦となる。)北宋時代の道教類書、雲笈七籤(うんきゅうしちせん)には3回守庚申すると三尺(さんし)は弱り、7回すると根絶できると書かれているらしい。もしかすると、日本の各地にあった庚申塔や、庚申尊などの石塔は7回守庚申を終えた講(こう)の記念塔なのかもしれない。三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)もいつの頃か庚申信仰に欠かせないアイテムに中国より、天台系の僧により8世紀頃に日本に持ちこまれた三猿。日光東照宮より先に庚申信仰で三猿は有名に?三猿は庚申の使いになっている。庚申待(こうしんまち)の変容陰陽五行の暦なので陰陽道(おんみょうどう)に由来すると思われている人もいるようですが、もとは中国(唐時代)の道教の祭り、一陽来復を願う守庚申の行事に由来するらしい。※ 唐の守庚申は、日本の正月に似たものだったらしい。日本では最初(平安の宮中で)、僧や貴族がそれにならった「庚申の御遊」が始まり、後に陰陽道(おんみょうどう)の中で「延命長寿」あるいは「疫病退散」の呪法が取り入れられたのではないか?さらに、一般民衆に伝わるうちに、その手法は元の形から大分変化したと思われる。最初は一人で寝ずに真面目に朝待ち。いつしか複数の友達と歓談しながら寝ずに朝待ち。やがて酒を飲むように。人が集まり講(こう)なる集団が結成。村落単位もあったと思われる。やがてそれは60日に一度、大酒を飲める大宴会に発展? したのだろう。もはや災厄から免れる祈りの行事と言うよりは娯楽色が強い。明治政府はこれを悪しき習慣と位置づけたようだが、排斥されても娯楽の無かった山間ほど残ったらしい。何だか女性が多い気がする。開基 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)? 様かと思ったが、十六羅漢の1人、賓頭盧尊者(びんづるそんじゃ)の木像らしい。内容的には巣鴨の「とげ抜き地蔵尊」のように、悪い所をなでて拝むと良くなる・・と言う事らしい。なぜここに仏教が? と疑問であったが、八坂庚申堂の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」つまりここは今は寺になっていた。それにしても庚申信仰が廃絶されたのに、なぜ八坂に残っているのか不思議であったが・・。実は大阪にも四天王寺庚申堂が現在も存在する。しかし、そこもかつては四天王寺 境内にあったものが明治の神仏分離で外に出された・・と言う経緯がある。八坂庚申堂は、庚申信仰を捨て、寺として明治に生き残こり、敗戦後の宗教の自由により復活したのかな?本堂前現在の本堂は1679年江戸時代の再建本堂の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、秦氏が渡来したときに持ち込まれたもの・・とされているが・・。三尺(さんし)の虫を食ってくれるとも言われ中世以降は庚申待ちの時に青面金剛に祈る風習に変わった?とも言われる。庚申信仰にあやかる?青面金剛(しょうめんこんごう)が秦氏が持ち込んだもの・・との説はちょっと疑問。何しろその信仰は中世かららしいし、実は仏教の仏像の中に青面金剛(しょうめんこんごう)はいない。どうも仏教由来の像ではなさそう。ひょっとするとバラモン教の神あたりから由来しているのではないかと思う。※ 冥界の神ヤマ(Yama)はバラモン教からヒンドゥー教に融合され、道教に入って閻魔天を指す。青面金剛(しょうめんこんごう)の姿はバラモン教の像の方に近い気がする。とにかく庚申待ちの盛んになった江戸時代には庚申信仰にのっかるべく、神社仏閣がその人気に乗っかったらしい。三猿も青面金剛(しょうめんこんごう)と同じく祀られたが、それは庚申(かのえさる)の猿に由来しているらしく、後はそれらに引っかけて? 神道系では猿田毘古神(さるたひこのかみ)が祀られている。人気のあやかり系では、柴又の帝釈天も江戸時代には庚申詣で有名だったそうだ。一時行方不明になった本尊の帝釈天像が庚申の年の庚申の日に見つかった・・と言う御縁かららしい。庚申の日には多くの人が詣で、縁日が出て「弾き猿(はじきざる)」なるオモチャも売られたそうだ。神仏習合のチャンポン文化は、この頃さらに加速しているのである。それにしても平和の安定した江戸時代の文化は華やかだ。流行の先端を行く江戸の庶民は賑やかなイベントが大好き。何か今の若者たちに思考が似ているかもしれない。かつてはかなりの規模だったようだが今は狭い。それでも驚くのは、近年また人気が出たのか? 人が非常に多かった。くくり猿が八坂庚申堂を救う?どうもSNSで最近若い女性の間で人気のスポットとなっているらしい。その理由はカラフルなくくり猿と写真映え。さらに、くくり猿は、それ自体は庚申尊(青面金剛)の分霊の入った「御守」らしいが、くくり猿に願い事を書き、自分の欲を一つガマンすれば願い事が叶うとされているらしい。だからこの寺のあちこちに絵馬に相当するくくり猿がカラフルにくくられている。くくり猿とは、手足をくくられて動けなくなった猿の姿を現した物。人の欲の姿を猿に置き換えた物らしい。つまり欲求のままに走り回る猿の行動。人の内にある欲望も同じ。その欲望を固定して欲求をセーブ。庚申さんによって猿がくくりつけられている姿と言う事らしい。「くくられた猿」とは微妙ではあるが、見て可愛らしい造り。もちろんお持ち帰りしても良いそうだ。境内にくくられたカラフルなくくり猿。本当はカラー毎に願いの意味があると思うのだが・・。どれを見ても恋愛成就。あるいは「彼女、彼氏ができますように。」中には「息子にカワイイ彼女ができますように。」何てのもあった。SNSで拡散? 八坂庚申堂はなぜか恋愛成就の祈願場所になった?どうりで女性が多くなったはず。そして着物女子も増えたわけだ。ご近所の軒先にくくられている。5匹のくくり猿「御縁があるように」とか「家庭円満」の願掛けがあるらしい。都内にも庚申塚なるものが幾つか残っているので私も名前くらいは知っていたが、それら塚は全国に無数にあったにもかかわらず、ほとんどが明治期に破壊されたそうだ。(明治政府の廃仏毀釈があったから)地域で多少ムラがあるのは、厳しく取り扱われたか・・と言う事?東京でも入谷(いりや)に庚申堂があったらしい。昭和初期に探した人がいたらしいが、すでに無かったとか・・。それにしても地方独自のアイテムもいろいろ出て来るので庚申信仰は面白い。何より今もずっと進化し続けている所がまた面白い。くくりザルは八坂庚申堂だけ? かもしれない。四天王寺庚申堂では庚申の日に七色菓子、昆布、蒟蒻(こんにゃく)を売っていたそうだ。もはやお参り帰りのお土産としか思えないが・・。調べていたら広がり過ぎて、盛りだくさんに。これなら他の庚申堂にも、また違う庚申信仰の方法が出て来るかもしれない。確かに学者さんはそこそこ厚い本を出版されている。一朝一夕(いっちょういっせき)に語れる内容の話では無いのである。少なく見積もっても1200年は続いているはずなのだから・・。日本初の暦日本最初の暦が作られ配布されたのは第33代推古天皇の治世。604年(推古12年)正月の事。日本書紀によれば、当初の日本の暦は百済から招いた暦博士が編纂したものだったらしい。602年に(推古10年)に百済から僧、観勒(かんろく)を招くと、暦法や天文地理を帰化系の子弟らに指導してもらい、604年(推古12年)。完成にいたったとされている。※ 推古天皇の治世である、摂政は聖徳太子なので、渡来系の子弟とは、おそらく当時太子のブレーンをしていた秦氏らを中心とした者たちだったと推察できる。※ 帰化系の子弟ら・・と言うのは言葉の壁もあったのかもしれない。※ 日本書記には百済とあるが、ひょっとすると来日したのは新羅の僧であった可能性もある。当時の暦は太陰太陽暦の暦法を用いた中国の暦、元嘉暦(げんかれき)であったとされる。※ 元嘉暦(げんかれき)には朔日の問題があり、後に定朔法を用いた儀鳳暦(ぎほうれき)に併走しながら代わる(697年)庚申信仰の元となる暦はこれらの暦からきたもの。1.五行・・・き・ひ・つち・か・みず ※ 木・火・土・金・水(もく・か・ど・こん・すい)だけど組み合わせの読み方は(き・ひ・つち・か・みず)となる。2.十干(じっかん)・・・甲乙丙丁戊己庚辛壬葵3.一二支(じゅうにし)・・・子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥この3つの組み合わせで月日や年は構成され60で一周になる。2017年9月「四天王寺庚申堂」も書いています。リンク 四天王寺庚申堂長くなりついでに日本初の暦についても載せました。しばらくお休みさせてもらいます。(9月末くらいには再開予定。)その為に今回内容的には3回分くらいを詰め込んでしまいました。 m(_ _)m
2017年09月07日
コメント(0)
最後にBack numberいれました。前回、「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」では、はっきりしなかったのですが、葛野大堰(かどのおおい)を手がけた秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)の孫、秦酒公(はたのさけのきみ)らしいです。471年、第21代雄略天皇(418年~479年)の御代に各地に分散していた秦氏族を統括して長になったのが秦酒公(はたのさけのきみ)。※ 秦酒公(はたのさけのきみ)は一族の造った絹織物などをうずたかく積み、朝廷に献上。それが地名の太秦(うずまさ)になった。と言う説もある。かつて広隆寺内にあり、明治の神仏分離政策で寺から出された大酒神社(おおさけじんじゃ)には秦の始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)が祀られています。中世、大酒神社に改名されたようですが、元の名前は「大辟(おおさけ)」神社。実は603年に広隆寺ができる以前からあった社(やしろ)だそうです。※ 広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)は秦酒公(はたのさけのきみ)から6代下がった子孫らしい。ところで、大酒神社で相殿神として祀られているのが秦氏と渡来した4人の織女のうちの二人だそうです。呉織神・・兄媛命(えひめのみこと) 呉服女と、漢織神・・弟媛命(おとひめのみこ) 。秦氏が養蚕(ようさん)に力を入れ、できた絹で、かつて中国の宮廷人しか着る事のできなかった上質の絹の織物を日本で生産。絹を織るのは誰でもできると書いている人がいたが、それは違う。やわらかな肌触りの絹織りや、豪華な西陣の帯のような織物は秘技でもある。秦氏は自分達に冨をもたらしてくれた織物の神様として彼女らも祀ったのであろう。余談だが、中国宮廷は絹製品を輸出しても生糸の生産流出を防いでいた。桑種子と蚕種が流出し、欧州には5、6世紀頃、イスラムへは8世紀頃伝播したとされる。日本へは、弥生時代に早くも持ち込まれてはいたが本格的な生糸の生産と上質な絹織の技術は秦氏のおかげで欧州よりずっと早くにもたらされたのである。そんな経緯もあり秦氏は蚕(かいこ)を祀っている。また稲も祀っている。蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが今回紹介する木嶋神社(このしまじんじゃ)の摂社にある蚕ノ社(かいこのやしろ)なのである。因みに「稲が生(な)る。」から生まれた? 稲荷(いなり)信仰では、秦伊呂具(はたのいろぐ)が全国の稲荷の祖となる伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)を創建(713年)している。※ 伏見稲荷大社については以前紹介しています。2014年5月「京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)」リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)2014年5月「京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)」リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎養蚕の話木嶋神社(このしまじんじゃ)と蚕ノ社木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森フタバアオイ紋三柱鳥居(みはしらとりい)木嶋神社(このしまじんじゃ)は前に紹介した太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)から歩いても10分くらいのところ。両者は太子道と言う通り1本で繋がっています。先に紹介した大酒神社(おおさけじんじゃ)と同じ頃の創建。太子道はもとは広隆寺への参道とも言われているので、もしかしたら大昔は木嶋神社や蚕ノ社もまた、広隆寺の敷地内に入っていたのではないかと思います。もとは一帯全てが秦氏の土地であったし・・。外の鳥居には養蚕(ようさん)神社の文字があったから明治以前は、養蚕(ようさん)の祭神がメインであったのだろう。最寄り駅は嵐電(らんでん)の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」だし・・。三柱鳥居(みはしらとりい)は木嶋神社(このしまじんじゃ)の目玉 鳥居が三組合わさった世にも珍しい鳥居。三柱鳥居(みはしらとりい)は元糺(もとただす)の森の中、元糺(もとただす)の池の中にある。木嶋神社(このしまじんじゃ)正式名称は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)です。神社の創建年ははっきりしていない。が、神社では、603年の広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと伝えられているそうだ。神社の名前が初めて記録に載るのは701年らしいが、平城遷都(710年)より前に存在していたのは間違いない。つまり、都がまだ奈良にあった時に秦氏はこちらに住みついていた事が解る。渡来した秦氏の一族は山城、近江、摂津に散って、それぞれ地方豪族になって成功して行ったようだ。山城でも、深草(ふかくさ)と葛野(かどの)に秦氏は関係が深い。(深草から葛野に移ったとも・・。)※ 山城(やましろ)、近江(おうみ)、摂津(せっつ)。ザックリ言うと現在の京都、滋賀、大阪。※ 深草(ふかくさ)は今の伏見あたり。葛野(かどの)は前回紹介した太秦や嵐山、嵯峨野あたり。※ 深草(ふかくさ)には秦氏(秦伊呂具)が祀った伏見稲荷大社がある。現在の祭神は、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 大国魂神(おおくにたまのかみ) 穂々出見命(ほほでみのみこと) 鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)境内摂社(東本殿)に養蚕神社(こかいじんじゃ)がある。またの名を蚕の社(かいこのやしろ)話はそれるが・・。祀られている神様は当時と違うのではないか? と言う疑問がある。明治政府の出した神仏統廃合令により、日本各地の神社では、天皇家の祖神、アマテラス(天照大神)を祀る伊勢神宮の下に統一管理される事になったそうだ。つまり独自の神様は主神から外されてアマテラスの系譜に沿う神様がメインに明治時代に置き換えられた神社も多々あるのではないか? と言う事だ。因みに、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原(たかまがはら)の頂点にいる神様であり、当然アマテラス(天照大神)の祖でもある。※ 実際、今祀られている五注の祭神は1883年(明治16年)の記録による所らしい。木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)先ほど、広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと書いたのは、神社の入口立て看板に記載されていた事だ。が、おそらく神を祀る・・と言う行為は、秦氏が葛野(かどの)に来てすぐにあったと思われる。そしてそれは今の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ではなかったであろう。最初に秦氏が葛野(かどの)に来て祀ったとされる神霊は、糺(ただす)の森と言われるこの神域そのものであったと推察する。※ 現在は糺(ただす)ではなく、元糺(もとただす)の森である。それは古来の神道を考慮すると、土地その物を神の座所とするカンナビ(神奈備)から始まったと考えられるからだ。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての鎮守(ちんじゅ)の森。そして森に湧く泉はまさに神聖な場所そのものだったのだろう。社(やしろ)ができるのはずっと後、古来、神の依り代となったのは深い森や、巨木、巨大な古い石、あるいは湧き出る泉だ。今風に言えばそれらはパワースポットと言えるかもしれない。古人(いにしえびと)達は本能的に畏怖(いふ)する場所を見つけ、畏怖と同時に見えない何かに畏敬(いけい)の念を抱きつつ、土地から与えられる稲や野菜などの恵みに感謝して、氏神様として祀ったに違いない。人により神の体系が作られるのはずっと後の話だからね。現在の木嶋神社(このしまじんじゃ)見取り図黄色→が境内摂社(東本殿)の蚕の社(かいこのやしろ)赤色→が元糺(もとただす)の池下の赤い円は、稲荷神の神使の御狐様の社がある所。木嶋神社(このしまじんじゃ)を取り巻く鎮守の森こそ、元祖「糺すの森」だ。※ 木嶋神社を取り巻く鎮守の森は本来もっと広大であったと思われる。舞殿赤い→が元糺(もとただす)の池と三柱鳥居(みはしらとりい)へのゲート。糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森当初、この森は「糺(ただす)の森」と呼ばれていたようだ。現在は糺(ただす)ではなく、「元糺(もとただす)の森」となっている。同じように「糺(ただす)の池」は「元糺(もとただす)の池」となっている。※ 実は現在、糺(ただす)の森は下鴨神社境内にある。「糺(ただす)の森」は清水の湧く所。かつて湧き出る泉からの縁か? 木嶋神社(このしまじんじゃ)では祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)が行われていたと言う。祈雨(きう)とは雨乞いの事である。奉幣(ほうへい)とは天皇の命により幣帛(へいはく)を奉献(ほうけん)する事。つまり、平安遷都後は、干ばつの時に天皇の命を受けて雨乞いの祈祷がされ、奉幣(ほうへい)が献(ささ)げられていた神社だったと言う事だ。ところが、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態が発生したらしい。何かしら汚れとなる事態が起きた? 嵯峨天皇の御代に「糺(ただす)の森」と「糺(ただす)の池」と共に、神霊が太秦より下鴨の地に移動したと考えられる。祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)の場も移動したかも・・。第52代嵯峨天皇(さがてんのう)(786年~842年)(在位:809年~823年)の御代、817年より7年連続で京都は干害の被害を受けたとされている。この時の祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)はどちらでおこなわれたのか?あるいは災いに関係無く、784年従二位、807年正一位と神階叙位(社格)を上げてきた賀茂神社の勢力による所もあるのかもしれない。地元神を押さえて賀茂神社の社格が高位にあがったのがこの頃だ。また、賀茂神社に斎宮の制度が始まった810年がまさに嵯峨天皇の御代。初代斎宮は嵯峨天皇の皇女 有智子(うちこ)内親王だった。諸々の情報を踏まえて検討すると、810年には移動していた事になりそうだ。ならば、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態は、嵯峨天皇の兄、第51代平城天皇(へいぜいてんのう)(774年~824年)(在位:806年~809年)の病気かもしれない。809年、病気のため在位僅か3年で嵯峨天皇に譲位しているのだ。※ 表向きは病気。実は嵯峨帝との争いに敗れた?代が変わればかつては宮殿も遷都していた。懇意にする神社も変わったのかもしれない。1994年に世界遺産に登録された下鴨神社。その全域を被う「糺の森(ただすのもり)」のルーツですね。※ 下賀茂の神社の案内にはいっさい無いが・・。拝所拝所から先は入れないのでここから撮影。実は肝心の東本殿(向かって右)にある養蚕神社(こかいじんじゃ)が撮影できなかった。下の写真右奧に見える社がたぶんそう。秦氏は、土着の、「元糺(もとただす)の森」の氏神様の他に、秦氏の糧(かて)である蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが、その社である。それは感謝以外の何ものもでもなかったろう。フタバアオイ紋不思議な事に木嶋神社(このしまじんじゃ)の紋章、神紋(しんもん)はフタバアオイである。これは、賀茂神社(かもじんじゃ)の神紋(しんもん)と同じなのである。※ 下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。それがなぜか? は、解らないが、フタバアオイは神事に必要なものだったらしい。下は下鴨神社内のフタバアオイ。葵祭で用いられることから今はカモアオイ(賀茂葵)とも呼ばれる。森林に生育し、暗い林床に生えると言う性質から木嶋神社(このしまじんじゃ)の糺すの森にもあったのだと思われる。神紋(しんもん)は、どちらが先かと言えば、たぶん木嶋神社(このしまじんじゃ)のが先だろう。秦氏と賀茂家の関係がそこにも見える・・。静かな境内はまさに鎮守の森奧が神殿で、向かって左の方に「元糺(もとただす)の池」がある。鳥居の奧に見える柵の向こうに三柱鳥居がある。「元糺(もとただす)の池」、泉水からはかつては豊富な泉が湧き出ていたらしい。おそらく池に下がる石段があるので、そこは浄めの御手洗(みたらい)をする場所でもあったと思われる。※ 伊勢神宮の五十鈴川のような役割。近年の宅地開発で水源が切れてしまったのか?今は枯れて行った時は全く水がなかった。が、夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に効くと言う信仰があるらしい。そして、この神事も同じく下鴨神社で行われる御手洗祭(みたらしまつり)と同じなのである。「元糺(もとただす)の池」の中にある三柱鳥居(みはしらとりい)三柱鳥居(みはしらとりい)の下はおそらく泉の水源であった場所だ。つまりそここそが、木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)様が宿った依り代? なのかもしれない。三柱鳥居(みはしらとりい)不思議なのは囲むように建てられた三つの鳥居の輪である。京都三珍鳥居の一つだとか・・。現在のは1831年に再建されたものらしく、かつては木像であったそうだ。※ 葛飾北斎の北斎漫画「三才鳥居」の絵はここの鳥居の絵らしい。三井家が守護神とする向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)にも同じ石の鳥居がある。それは三井家から来たものらしいが、もとはここのをコピーしたものらしい。神社の鳥居は本来、神域への結界である。鳥居を三つ合わせて閉じれば中は完全なる神域。まさに神の御座か?が、立派な鳥居に惑わされて忘れていたが、このマジック3は他にもあった。2014年5月「伊勢神宮 2 (外宮)」の中で紹介している「パワーストーンの三ツ石(川原祓所)」である。リンク 伊勢神宮 2 (外宮)日本最大のパワースポット伊勢神宮の中でも、特にパワーの強い場所が3ツ石の置かれている川原祓所」(かわらはらいしょ)である。そこは神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀(しゅばつさいし)が行われる神聖な場所。そして、そのパワースポットの三ツ石(川原祓所)」の場所はかつて川の中にあったと言う。※ 伊勢神宮では明応7年(1498年)の地震とその津波による影響で川の流れが変わってしまった。禊ぎや祓い清めの儀式の場なのだから確かに水の中でこそ・・。ひょっとするとここも鳥居ができる前は三ツ石がポイントであった可能性が・・。実際、賀茂神社では三柱鳥居(みはしらとりい)は真似していない。糺すの池は造ったが・・。つまり、平安の頃はなかったと言う事だ。うずたかく積まれている石の下に「三つ石」があったりして・・結論を言えばそこは聖なる禊ぎ(みそぎ)の場所。身にたまる穢れをそぎ落とす場所と言う事だ。そう言えば秦氏は神宮の伊勢への遷宮にも資金を出していたらしい。三柱鳥居(みはしらとりい)、自分の中では結論が出た感じです。追記・・・神社の説明の中に三柱鳥居は景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていましたが、論外です。神社の中にはお稲荷様も祀られている。9月に行ければ松尾大社に行ってきます。そこも秦氏のルーツにかかわる所です。そしてまだやってませんでしたが、下鴨神社。写真は撮ってきています。いつかやります。「倭人と渡来人」とりあえず終わります。次回は軽い物を予定しています。間を開けて松尾大社予定しています。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)他リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂
2017年08月27日
コメント(0)
Break Time(一休み)最近夢の中でも仏像など調べ物をしていて、現実の事とゴッチャになって来てました かなり頭が疲れているんだな・・と、今回趣向を変えて・・。6月の初め、ちょっと風の強い日にマンション5階のベランダに美しい白っぽい蝶が飛ばされて来ました。最初はアルビノ(albino)のアゲハ蝶かと思ってカメラを取り出し撮影。植木で接写ができずちょっとボケ気味ですが・・。実はその蝶? 名前が気になり、グーグルの画像検索に入れてみました。世の中進んだものである。すぐにヒット。アメリカでは俗にルナ・モス(luna moth) 学名は(Actias luna)日本では俗にオオミズアオと呼ばれる種の蛾(ガ・moth)であった。オオミズアオとマダガスカル・ムーン・モスオオミズアオ(Actias luna)世界最大の蛾 マダガスカル・ムーン・モスオオミズアオ(Actias luna)何て美しい色だろう。まるで薄羽蜻蛉(うすばかげろう)のような色の羽。それはアメリカでも最も美しい蛾(ガ・moth)として讃えられ、1987年にはアメリカのファーストクラスの郵便切手にもなっている。日本では和名のオオミズアオの呼び名のが一般的のようだが、ルナ・モス(luna moth)の名も入れておきます。※ ルナ・モス(luna moth)のlunaは月の女神である。美しさの形容であろう。 mothはそのまま蛾(ガ)である。だが、美しくとも、ルナ・モスこと、オオミズアオは蝶ではなく、蛾(ガ・moth)に分類されている。チョウ目(鱗翅目)、ヤママユガ科、Actias属 、オオミズアオ(A. aliena)種最も蝶と蛾の明確な区分けのポイントはないらしいが、なぜか蛾の方が蝶より20~30倍も種類が多いらしい。※ チョウ目(鱗翅目)は、卵(たまご) → 幼虫(ようちゅう)→ 蛹(さなぎ)→ 成虫(せいちゅう)という 完全変態を行う昆虫である。翼幅は8~11.5cm(3.1~4.5インチ)。地域で多少大きくなる事もあり、アメリカでは蛾としては最大だとか。生息域アメリカでの生息域はメイン州南部からフロリダ州、西部からテキサス州東部、ノースダコタ州東部まで、すべての東部州で発見。カナダでは、サスカチュワンからケベック州の中心部を通ってカナダのノバスコシアに至るまで発見。平地から高原まで生息域は広く朝鮮半島,中国,ロシア南東部にも分布しているし、日本でも北海道から九州。そして低地から高地まで幅広く生息していると言う。私は初の対面であったが東京都心でも多数発見されているので珍しい種でもないらしい。風が本当に強かったので、肢体はボロボロ。壁に必死に張り付いていたので時々お腹を見せてくれた。お腹が真っ白でフワフワしていたのが可愛かった。うちに来たのは昼頃。もしかしたらふ化して、羽が固まる前に飛ばされたのかもしれない。ふ化は午前中で羽が固まるまで2時間かかるらしいから・・。食幼虫の時にモミジ、ウメ,サクラ,リンゴなどバラ科、ブナ科、カバノキ科ほか多くの樹木の葉を食べるらしい。アメリカでは北のものは白樺を、南部ではクルミやヒッコリーを主に宿主とするらしい。しかし、ふ化して成虫になると、口が退化して食事ができなくなるのが特徴らしい。だから寿命は1週間程度?美しいい物は儚い(はかない)物なのですね。さて、実はこれだけではありません。ふと気になって以前チラッと写真一枚紹介したマダガスカル・ムーン・モス(Madagascan moon moth)の写真を引っ張り出してきました。そして発見。ルナ・モスこと、オオミズアオとマダガスカル・ムーン・モスにはやはり共通する特徴が・・。名前も月の女神(luna)と月(Moon)だけど前翅、後翅(こうし)のウイングに目のような柄。後翅(こうし)の尾状突起がこちらは異常に長いけどそれもオオミズアオに似ているんですよね。世界最大の蛾 マダガスカル・ムーン・モスオスの翼幅は20cm、尾の長さは15cm。 世界最大のシルク蛾(silk moths)。2010年1月「ここはどこ? シリーズ3作目 8 (擬態するもの) 」の中で「おまけ」として最後に「マダガスカルオナガヤマユ」として紹介していますが、それは和名?実はこちらはマダガスカルの熱帯雨林に生息する世界最大のアフリカの蛾(African moth)である。コメット・モス(The comet moth) (Argema mittrei) あるいはマダガスカル・ムーン・モス(Madagascan moon moth) と呼ぶようです。※ 日本人はマダガスカルオナガヤマユと呼んでいるらしい。ふ化して間もないのか? 繭(まゆ)にしがみついているマダガスカル・ムーン・モスメスは120~170個の卵を産む。繭(まゆ)に開いた穴は繭(まゆ)に雨水などで水がたまるのを防ぐ為の機能だそうです。水がたまると溺れるので・・。ちょっとわからないけど糸も太いのかな?こちらもオオミズアオと一緒で口が退化し、成虫になってから食事はとれない。従って寿命は4~5日らしい。成虫になると、彼らは仲間を探し、すみやかに交尾。大きく、美しく、目立つ肢体は仲間捜しやペアの相手探しの為なのだろう。しかし、それ故、外敵からも狙われやすい。彼らの天敵はカメレオン、ヤモリ、鳥類。限られた時間の中で、次の世代を残す為の活動をする。卵が170個という数はそれだけ命の確率が低いからに他ならない。それを遺伝子は察知していると言う事だ。仮に交尾まで達して無事に卵を産んだとしても、それが次の世代にたどりつける保障はほとんどない。今、生存を確認できている事自体が自然の神秘かもしれない。当然、、彼らは絶滅の危惧される生物である。マダガスカルのナショナルパーク Andasibe Mantadia National Park では早くに捕獲され、繁殖に成功したようです。ルナ・モスこと、オオミズアオとは体長で2.5倍近くサイズが異なりますが、実はとても近種だったようです。以下比べてみました。違いは属からですルナ・モスとマダガスカル・ムーン・モスの双方、ヤママユガ科。糸を吐いて繭(まゆ)を形成する所など一緒。蚕(カイコ)はカイコガ科であるが、成虫では口が退化して食べられなくなる特性も一緒。カイコも遠い親戚?それにしても何で口が退化したのか謎ですね。偶然見つけたけど面白い
2017年08月19日
コメント(0)
Back numberは最後にまとめました。前3作は半跏思惟像でまとめたので番外にしようかと思ったのですが、蘇我氏の渡来人説も中途。秦氏の功績や神社も紹介したくて4作でも終わらなくなりました (;^_^A今回は秦氏の嵐山の功績を紹介して次回番外で秦氏が祀った不思議な神社の紹介をする事にしました。倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)秦氏の功績嵐山渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)蘇我氏と渡来人秦氏の功績魏志倭人伝によれば、日本には牛や馬どころか鶏もいなかったらしい。※ 其地無牛馬虎豹羊鵲 (牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない)※ 鵲(セキ)はニワトリをさしていたのでは? 渡来時期が弥生頃とされているし・・。それらは全て渡来人より大陸からもたらされたのである。秦氏は渡来して大陸の進んだ文化をたくさんもたらしてくれた。米をたくさん収穫する為に治水や潅漑技術をもたらした。そして米により酒も造られた。墳墓を造る為に山から巨大な岩を切り出して運ぶ技術もあったと思われるし、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいては、造船の責任者として秦氏の者(朴市秦造田来津)が共に半島に渡っている。大型の船を造る技術も持っていた? と推測できる。また秦氏は蚕(かいこ)を養蚕して絹織物を造る技術も伝えている。(かつて上質の絹織は中国宮廷の秘技)調べて見ると秦氏の功績はまだいろんな所に見られる。特に金銭的には白村江の後の百済皇族の亡命者を支援したのも秦氏のようだし、長岡京、平安京、共に造営には秦氏の資金が提供されていたようだ。※ 平安京の大内裏にいたっては、秦河勝(はたのかわかつ)の邸宅が利用されたと伝えられている。内裏の庭(紫宸殿正面)にある「右近の橘(たちばな)」はもともと秦氏の邸宅の庭にあったもの。常緑の橘は長寿瑞祥の樹なのだそうだ。それなのに歴史の表に出てくる人物は極めて少ない。まして階位もそんなに高くは無い。それはなぜだろう。階位が上がれば人から妬まれる。だからそんな物もいらなかったのかもしれない。望めばいくらでも高位に上がれたはずなのに・・。出過すぎず、決して目立つ事はなく、静かに朝廷に寄り添い、必要とされれば、己の役目を果たしてきた。そんな気がする。(そんな一族の掟でもあったのか?)かつて祖先が秦(しん)の国を追われた。渡来した秦氏一族は争いを好まない人達だったのかもしれない。朝鮮半島は地続きだ。いつ隣国が手の平返して襲撃してくるかしれない。静かに、安らかに暮らしたくて海の向こう、日本への集団移住をヤマト王権に申し入れたのかもしれない。岩田山モンキーパーク山頂からの京都盆地中心赤い矢印。遠くの山系は比叡山。その下黄色の矢印が双ケ丘(ならびがおか)でその手前が太秦(うずまさ)。その右下、双ケ丘(ならびがおか)より奧であるが、ピンクが京都御所のあたり。その奧の右、赤い矢印は大文字山。左手前、この山の足下が渡月橋。この写真では見切れているが、右手には京都タワーも見える。まさに京都盆地が一望できる山。岩田山モンキーパークはなぜか外国人に人気。客の8割は外国人であった。それにしても岩田山の麓から桂川(かつらがわ)は開けた盆地に向かって流れている。大雨が降れば洪水になり、弥生時代、このあたり一帯は水浸しとなった事だろう。桂川の向こう、嵯峨野がありその向こうが太秦(うずまさ)。前回紹介した広隆寺は双ケ丘(ならびがおか)の右手前の森。次回紹介する蚕の社(かいこのやしろ)は広隆寺のさらに後方の小さな森。5世紀以降は、ここから見える景色のほとんどが森か水田になったのであろう。平安京時代の京都盆地学研の鳥瞰イラストの本、「風水から見た平安京の図」に少し手を加えてしまいました。平安京の位置を中心に黒い円内くらいを当時の京都の範囲と見ました。オリジナルはかなり広域になっていたので・・。山陰道(白虎)のイラストのあるところがちょうど太秦(うずまさ)で、薄いピンクで円をしたあたりが秦氏が治水して水田を造っていたと想像できる範囲です。秦氏は京都盆地に根付き、左の桂川の治水工事をすると共に潅漑用水路を造り、京都盆地左に大規模な水田開発をしていたと推測。渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)嵐山の渡月橋(とげつきょう)は、嵐山を代表する景色の一つであるが、夏に大雨で時々増水しているニュースを見かける。実は桂川(かつらがわ)は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)ができる前はもっと酷い洪水を起こしては嵐山から下流域をメチャクチャにしていたらしい。下流からの渡月橋と嵐山渡月橋(とげつきょう)古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた川は「桂川」、「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川(おおいがわ)」、橋から再び「桂川」と何度も名前を変える。※ 大堰川(おおいがわ)の名は、大きな堰(せき)から来ているのは明白だ。因みにこの桂川は伏見区で鴨川と合流。大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾に繋がる河川だ。上流側からの渡月橋改めて見るとここからも比叡山が見えるし、太秦(うずまさ)もこの先に見えているところで、下流に向かって左岸が右京区嵯峨。手前の右岸が西京区で嵐山。つまり渡月橋の向こうが西京区の嵯峨であり、JR嵯峨野線や嵐電の駅がある。一方、右岸の西京区の方には阪急嵐山の駅がある。いずれも駅名は「嵐山」である。それ故、観光案内では渡月橋をひっくるめてこのあたり一帯を嵐山としたり、嵯峨嵐山としているようです。渡月橋からの上流、大堰川(おおいがわ)と小倉山(おぐらやま)写真、中心、椀をひっくり返したような小さな小山が百人一首の歌枕でお馴染み小倉山(おぐらやま)である。因みに山の手前、川の右(左岸)に小倉百人一首文化財団の時雨殿(しぐれでん)がある。橋から上流はちょうど西に当たるので逆光になってしまった。※ 今回の嵐山の写真は複数日に撮影したものです。季節も様々中には大雨の日もありました。一ノ井堰(いちのいぜき)と小倉山今は洛西用水(らくさいようすい)「一ノ井堰(いちのいぜき)」となっているが、ここがかつての葛野大堰(かどのおおい)である。※ 当時の堰(せき)は今は無いが、川底に当時の一部が残っているらしい。現在の堰(せき)はサイドに魚道がもうけられている。手前の白い器具はタービンのよう。ちょっとした発電をしているようだ。さらに手前の水路は洛西左岸幹線用水路らしい。弥生時代より川の周辺では稲作が行われていた。川が定期的に氾濫しているのだから土地が肥沃なのは確かだ。しかし年中氾濫していたのではたまらない。5世紀中頃、秦氏が葛野地方に住み着くと葛野川(かどのがわ)に堰(せき)を造ったそうだ。それが葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)である。また秦氏がおこなったのは堰(せき)造りだけではない。当時の堰(せき)はダムのようなもの。同時に堰(せき)から放水路が造られ、遠方の田畑に水をひく用水路となる潅漑(かんがい)工事もしている。1419年(応永26年)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋下流の右岸に「一ノ井」と云う名称で用水取入口が記されているそうだ。今とほぼ同一の場所に堰(せき)があり、室町時代には松尾、桂、革島等の農業灌漑用水として利用されていたのが解っているそうだ。京都市の看板より 多少色を付けました。もともと洪水対策用であり、さらにその水を川から遠い農地の潅漑に利用しようと言う一隻二丁の策である。堰(せき)はダムであり取水口になった。これにより嵐山界隈は大いに実りある稲作の土地に変わった。何より1500年以上も前にそんな大規模治水工事が行われていたと言う事が驚きである。今も農業用水として稲作や京野菜の為に利用されている洛西の幹線用水路の図。秦氏がもし葛野大堰(かどのおおい)を造らなければ、平安京への遷都もなかったかもしれない。少し前に琵琶湖疏水の事を特集したが、技術的な意味も含めて、桂川に堰(せき)が造られるのは、秀吉以降の時代までなかったかもしれない。それだけ秦氏が当時用いた葛野大堰(かどのおおい)構築の技術はすごかったらしいのだ。現在の一ノ井堰(いちのいせき)からの導水路右が嵐山公園。その向こうが桂川この導水路は再び桂川につながるのだが、途中から洛西右岸東幹線用水路と洛西右岸西幹線用水路に取水され、それは南下して桂川以西の西京区の方に流れている。保津川渓谷を下った船も堰(せき)があるのでここまでしか来れない。先ほども川の名称の所でふれたが、亀岡から嵯峨嵐山までを保津川(ほづがわ)と呼ぶ。ここが有名な保津川下りの終点なのである。JR嵯峨嵐山線や嵯峨野トロッコ列車で亀岡駅まで向かい、そこから船着き場に移動して川下りのスリルを楽しむと言うのが保津川の川下りである。嵯峨嵐山の楽しみの一つとなっている。(16km 2時間弱)因みに嵐山に下った後の舟は乗船場の亀岡市保津までトラックで運ばれて戻るらしい。蘇我氏と渡来人法隆寺にある聖徳太子をモデルとした長身の救世観世音菩薩像から発した疑問。もしや聖徳太子には渡来人のDNAが混じっていたのではないか?あるいは蘇我氏自体が渡来人だった可能性は?※ 実際蘇我氏の渡来人説と言うのは存在する。(多くの学者が否定しているが・・)蘇我氏が歴史の表に出てくるのは蘇我稲目(そがいなめ)(506年頃~570年)からだが、出身は大和の葛城(かつらぎ)とされている。そこは飛鳥地方の西の外れであるが交通の要所でもある。葛城川は大和川にそそぎ、それは大阪湾に繋がっている。そこは前回紹介した奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)にほど近い。ひょっとすると纒向(まきむく)の都市国家時代(3世紀?)にはすでに豪族だったのかもしれない。一族の者を朝廷の后に組み込み、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我 入鹿(そがのいるか)の時代(6~7世紀)に蘇我氏は全盛を迎える。だが蘇我氏が台頭したのは渡来人を配下においていち早く大陸の技術を導入し、地方支配に成功したからのようだ。明日香村南西部、古代、檜隈(ひのくま)と呼ばれた土地は朝鮮半島からの渡来者が多く集まって居住していた地だそうだ。※ 彼ら渡来系集団は後に東漢(やまとのあや)氏と呼ばれる。檜隈(ひのくま)もまた葛城(かつらぎ)に近い。蘇我氏は彼らから文字を習い、鉄器や須恵器(すえき)など大陸のあらゆる技術や文化を学んで取り入れ、生産して中央に近づいて行ったと思われる。もしかしたら彼らの技術を学びそれらを国内生産して普及させると言う使命のもと、渡来系氏族の担当になっていた可能性もある。※ 須恵器・・古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器。蘇我氏と渡来系氏族の関係は支配と従属関係か? あるいは相互関係にあったのか?自分たちより文化の高い彼らを支配下に置くのは疑問である。蘇我氏と彼らの関係はほどよい友好関係と見るのが妥当だろう。当然蘇我氏と彼らの間に姻戚関係ができても不思議ではなかったと思われる。つまり、蘇我氏自体が渡来系でなかったとしても、蘇我氏の血脈に渡来系の遺伝子が取り入れられた可能性は限りなく大きいと思うのだ。※ 可能性として考えられるのは欽明天皇の妃となった聖徳太子の祖母、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)や蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)がそれぞれ渡来人の母をもっていたかもしれない事だ。双方の祖父母からのダブル遺伝子で長身になったのかな?なんて・・考えてみた ☆⌒(*^-°)v次回「倭人と渡来人」番外編で秦氏の祀った「蚕の社」を紹介。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎少し間が開いて醸造祖神松尾大社を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
2017年08月15日
コメント(0)
想定していなかったが、太秦(うずまさ)の写真が日の目を見る事になった そして奇しくも全3部で3体の有名な半跏思惟像を紹介できてしまった。いつも書いているうちに方向性が変わり、当初予定の所に着地できないのが問題だけど・・ 今回の写真は秦一族が住み着いた京都太秦(うずまさ)から秦氏の創建した広隆寺、秦氏のお墓の一つ、蛇塚古墳から。蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)については次回番外で。今回もものすごく長くなってしまいました 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像気になる邪馬台国(やまたいこく)ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか? 辰韓(しんかん) 秦(しん)と始皇帝太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)古墳はどうして消えたか?弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョン 高さ124cm。国宝撮影が禁止されていたので広隆寺の冊子からの撮影です。日本の有名な半跏思惟像の一つである中宮寺バージョン(「倭人と渡来人 1」で紹介)よりもむしろ前回紹介した韓国の国立博物館に所蔵されている三国時代の半跏思惟像に近い形態です。素材は赤松。(韓国の像は金堂製) 日本の方に表記はありませんが、韓国の方の説明に新羅からの仏師が寺の創建にかかわっていると書かれていました。金属の型抜きされた仏像よりも、やはり細工が細かくできるので木彫の方が複雑な表情の表現ができるのだと思います。半跏思惟像は菩薩の、あるいは釈迦の瞑想する姿を示した像。それ故に仏像を彫った仏師も「仏師としての悟り?」 瞑想の中で一心に彫ったのでしょう。心打たれる格別な感慨を与えてくれる逸品で、いつまでもじっと見ていたい仏像です。広隆寺の仏像はほとんど製作年代がアバウトでこれも「飛鳥時代」とだけ・・。せめて西暦を入れてくれれば良いのですが・・。英語案内もないです。聖徳太子が秦氏に贈った像と言われ、広隆寺本尊となり、寺は創建されました。しかし、現在の本尊は弥勒様ではないようです。※ 寺は後から・・。秦氏に入る前に・・。気になる邪馬台国(やまたいこく)邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったか? 論争は続いている。前回触れたが、三国志(儀、呉、蜀)時代の史書に書かれた魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が筑紫に駐屯していた事は記されているが、肝心な邪馬台国の場所の記述については、なぜか特定できていない。記述のミスとも考えられ、九州説が有力であったようだが・・。まだ全容は見えていないが、奈良で近年発見され発掘が続いている纒向遺跡(まきむくいせき)がちょうどその時代にあてはまり、ひょっとしたら邪馬台国? との可能性が高いとされている。纒向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市の三輪山西麓にある。その地帯はもともと初期の古墳(前方後円墳)がたくさん発掘されている所。※ 古墳は3世紀中頃から登場。※ 纏向遺跡からは運河のような遺跡が発見されている。それは最終的には大和川につながる支流に繋がっていたのだろう。大和川は大阪湾に繋がっているので瀬戸内海から船でたどり着ける地と言う事。そこに見つかった集落の遺跡は、発掘するにつれ想像以上の規模の都市型集落跡だと解り、3世紀と言う推定年代から、邪馬台国の可能性が限りなく強くなったらしい。・・と、同時に奈良に3世紀には大きな都市があった事が証明されたのだ。倭(わ)の女王、卑弥呼(ひみこ)が存在したのは3世紀。弥生時代の終わりである。魏(ぎ)は今後の交易の印となるべく金印を贈った。そしてシャーマンである彼女の為に刀2口と貴重な銅鏡を100枚を贈っている。ところが、歴史資料はその邪馬台国からほぼ一世紀抜けている。中国で動乱があり、史書が無いのだ。次に日本の歴史が語られるのが5世紀。宋書による倭の五王の話。つまり前回冒頭で触れた「謎の4世紀」と言われる弥生時代から古墳時代に入るあたりの日本史の空白が問題なのである。邪馬台国からどうヤマト王権に進んだのか?卑弥呼は倭国動乱を治める為に女王となった。そして卑弥呼はそこそこ長命であったようだが、卑弥呼が亡くなるとまた動乱が起きたと言う。この動乱後にまた巫女が立って収まるが、動乱を起こした国の中にヤマト王権が入っていたのだろうか?あるいは邪馬台国と時を同じにして(大陸には知られていない)別の王朝があったと言う事か?ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)百済(くだら)滅亡と共に渡来人もまた増えたが、飛鳥時代以前にすでに帰化している渡来人もかなりいたようだ。その中には百済と同じように大陸での政変から国を逃れて日本に渡ってきたと思われる者もいた。亡命組の中でも秦氏(はたうじ)と東漢(やまとのあやし)は多くの民衆を従えて団体で渡来してきたとされている。双方とも日本書紀によれば第15代応神天皇(おうじんてんのう)の治世あたりに渡来?※ 東漢(やまとのあやし)は小氏族で構成されたor 渡来人集団の総称とも考えられる。いずれにせよ、彼らは進んだ大陸の文化を日本にもたらしヤマト王権の礎を造ったと想像される。秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)太秦(うずまさ) 広隆寺(こうりゅうじ) 仁王門撮影所でお馴染み京都の太秦(うずまさ)は、実は秦氏が渡来して土地を賜った場所なのだ。太秦古墳群と言うほど古墳が点在し、その墓の副葬品から渡来氏族のものと思われる遺物が出土していると言う。秦公寺(はたのきみでら)と別称もある広隆寺は秦氏と蘇我氏や聖徳太子との深い関係を示す寺でもある。寺の説明書(日本書紀による)では創建は推古天皇11年(603年)で山城最古の寺だそうだ。上宮王院太子殿(本堂) 1730年に再建推古天皇の治世に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子より仏像を賜ったのが建立のきっかけだったそうだ。その仏像こそが、先に紹介した弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョンである。秦氏は、すでに渡来してから事業に成功。一族はそれぞれ豪商になっていたらしいし、その財力により寺社建立だけてなく、朝廷の財源や平安京への遷都にも関わっていたらしい。秦河勝(はたのかわかつ)は、渡来して何代目かは定かでないが、当時聖徳太子の側近までしていたようだ。聖徳太子の仏教普及の為に彼は広隆寺を建設して協力したのである。広隆寺は、聖徳太子の建立した日本七大寺の一つだ。なぜ本堂を上宮王院と呼ぶのか不思議であったが・・。実はここの本尊は聖徳太子なのである。とは言え秘仏として公開されるのは一年に1度、11月22日の火焚き祭りの時だけ。秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秘仏の本尊(聖徳太子像) 冊子から撮影しました。聖徳太子の像が造られたのが1120年、平安時代後期。聖徳太子立像により、広隆寺は聖徳太子信仰の寺に変わったらしい。実は聖徳太子像が身に付けている黄色の装束に意味がある。古来より、歴代天皇が即位する時に身につけられた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が贈進されて着用。一天皇の御代に一着のみの装束と言う事になるらしい。※ 広隆寺で買った冊子にまさか写真が載っているとは思いませんでした。広隆寺は何度か火災に遭っている。その度に再興されているのだが、火災の度に、そこそこ巨大な仏像が運び出されたのか? 霊宝館(宝物館)には国宝や重用文化財に指定された仏像が多数展示されている。なかなか見応えのある仏像がそろっていた。霊宝館は有料。写真撮影は禁止ですが、行ったなら絶対入らないと損です。秦河勝(はたのかわかつ)夫妻の像 重用文化財 こちらも冊子から檜造り。藤原時代のものらしい。藤原時代? 広隆寺の書き方は万事こんな感じ。解りにくい。894 年の遣唐使廃止以後の3世紀(平安中期・後期)を藤原時代と呼ぶらしい。秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか?秦氏の先祖とされる渡来人「弓月君(ゆづきのきみ)」は秦(しん)の帝室の後裔と伝えられている。※ 生没年不詳。実在かも不明。日本書紀には応神天皇14年に弓月君が百済? から来朝して窮状を天皇に上奏。弓月君は百二十県の民と共に日本へ帰化を希望していたとあるそうだ。応神天皇14年は西暦で283年。新羅の妨害があり半島を出られず、渡来したのは応神天皇16年(285年)とされる。疑問応神天皇の生誕を調べて見たら14代 仲哀天皇9年(200年)に生まれて応神天皇41年(310年)に亡くなった事になる。110年も生きたのか? 仮に神功皇后9年(209年)だとしても101歳になってしまう。(古事記の誕生年に誤りか?)また、次の16代仁徳天皇の年齢も問題だ。仁徳天皇の治世は87年に及んでいる。それが生まれたのが神功皇后摂政57年(257年)で亡くなったのが仁徳天皇87年(399年)だから142歳になってしまう。古事記の記述そのものが怪しくなるのであてにできない資料かもしれない。さらに、応神天皇の時代に百済はまだ無い。百済(くだら)(346年頃~660年)もしこの時代に半島から来たとするなら間違いなく辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からだろうし、新羅になってからの渡来の可能性もある。辰韓(しんかん)朝鮮半島南部には秦からの亡命者が古くから移り住んでいたと言われている。特に1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部は言語や風俗がそれぞれ異なる辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)の3つに分かれていた。その辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)は中国の王室から来た娘が祖? 秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国だったらしい。(それが後に12に分離。)辰韓人(しんかんじん)は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。これはまさに秦氏が日本にもたらした技術なのである。※ 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には秦始皇帝三世孫(孝武王)の後裔と記されているらしいが、「新撰姓氏録」自体が平安時代初期(815年)に編纂されたもの。秦(しん)と始皇帝最初に中国を統一した王朝として知られるが、それは長い秦時代(BC778年~BC206年)の最後である。BC221年、初めて統一に成功すると自ら始皇帝(しこうてい)(BC259年~BC210年)と名乗る。我々も良く知る万里の長城の建設や、等身の兵馬俑(へいばよう)を造った皇帝だ。が、始皇帝が亡くなり彼の息子が二人? 即位するも彼の死から3年ほどしてBC206年に秦は滅亡した。その秦の始皇帝には当然たくさんの子女がいたはずである。前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された「史記」の李斯列伝(りしれつでん)には始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことが記されているそうで、代が変われば命が危ぶまれて逃げた子弟も多かったのかもしれない。あくまで私の推論であるが、秦氏が半島から来た年代は、辰韓(しんかん)が滅する356年あたりの可能性が高いと思う。少なくとも統一新羅(668年~900年)が始まるずっと前。振り幅が広いが、秦氏の渡来は新羅の勢力に関係していると思われるからだ。もし辰韓(しんかん)滅亡の時であるなら、日本は16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)の治世(仁徳天皇44年が356年)にあたる。そう言えば日本は3世紀中頃から古墳が作られ始めるが、大阪にある仁徳天皇陵は最大規模の前方後円墳である。秦一族は治水などの工事もしているし、古墳ももたらしている可能性もある。今回紹介する太秦(うずまさ)にある蛇塚古墳がその一つで、今は見る影も無いが秦氏の墓も前方後円墳なのだ。ひょっとすると仁徳天皇陵の造作には秦氏の技術があったかもしれない。帰化のお礼に極めて大きな立派な墓を造ったのかな? 太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)太秦の面影町にある古墳の残骸が蛇塚古墳である。蛇が住み着いていた事から蛇塚と名前が付いたらしい。今後被葬者が解れば、名前は変わるかも・・。実は密集した住宅街のど真ん中にある。しかも今は破壊されて玄室部分の一部しか残っていない。もとは立派な前方後円墳であったそうだ。しかも時代は古墳時代最後の7世紀始め頃と推定。1920年(大正9年)頃はまだ畑に埋もれながらも前方後円の墳形は残されていたらしい。ところが地主が土地を切り売りしてしまったようだ。1936年(昭和11年)、さらに地主により封土が取り払われ、玄室までもが除去されようとしていた。突き当たりが蛇塚古墳。古墳手前の道までが前方後円墳の前方部分の山があった所のようだ。今は蛇塚古墳では前方のしかも玄室部分しか残っていない。が、上空からの写真を見れば、連なった家をひっくるめて確かに前方後円墳型になっているのである。誰かドローンで最新の映像を撮影してほしいものだ。道も狭くて入り切らない。撮影も大変なのだ。ところで、学者達は現れた石室を見て驚いたようだ。明日香村にある蘇我馬子? の石舞台古墳に匹敵する規模だった事が判明したからだ。玄室のサイズは全長17.8m、長さ6.8m、幅3.9m、床面積25.8平方m。蛇塚古墳の全長は約75m、前方部幅約30m、後円部径約45mと推定。これだけの石室の墳墓を作れる同時代の者は、よほどの財力を持っていた。蘇我馬子に匹敵する大物は? 太秦に本拠を持っている秦河勝(はたのかわかつ)しか考えられない。と。言う訳だ。墳墓のところには京都市の看板が立っているが、それにしてもこの墳墓の扱いはヒドイ。確かに巨大な石が今にも転げそうな危険な状態ではあるが、もう少し手を入れて金網ももう少し中が見えるような配慮とかできないものだろうか?金網に掛けられていた町会の看板もいかがなものか・・。周りの住宅も京都府が買い上げてもう少し元の形を復元すれば良いのに・・と思ったりして・・。もしここが本当に秦河勝(はたのかわかつ)の墳墓であったなら、それはものすごい発見である。古墳はどうして消えたか?646年(大化2年)に出された詔による。従来の墓の規模を縮小し、簡素化すると言う薄葬令が出されたからのようだ。これにより巨大な古墳は消える。故に古墳時代は3世紀半ばから646年までと言う事になる。今回も長くなったので切りました。次回番外編として出すか考え中。秦氏の創建したやはり太秦にある蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)を紹介します。「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
2017年08月07日
コメント(0)
今回は「倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の続きから。本を何冊が読んだのですが、研究はまだ続いているようで近年の発掘により古代史はもっと変わるのだと実感しました。学者の方の意見もそれぞれ、みなさん自分の信じている方に寄せて行く傾向があり、矛盾を感じた内容も・・。読んだ事により、より迷走してしまった今回でした f^^*)当初はシンプルに蘇我氏のルーツとかかわる秦氏のルーツで終わらせる予定が、思いの外、古来日本には多くの渡来人が渡ってきていて、朝鮮半島との交流がかなりあった事が解りました。(逆もしかり)さらに、秦氏のルーツはヤマト王権初期にかかり、ではヤマト王権はいつからか? と言うと実は「謎の4世紀」と言う日本史の抜けた歴史に当たりました。「謎の4世紀」は邪馬台国からヤマト王権に移行する時期なのですが、実は邪馬台国とヤマト王権は全く別物で、繋がっていなさそうなのです。謎の4世紀に何があったのか? それはどこにも文献が無いので解らないようなのです。※ 古事記や日本書紀は8世紀頃の編纂なので必ずしも実際の真実を伝えていないからです。※ 中国の方も動乱期で書かれた書物が無い。そんな訳で歴史を遡っていたら、どこからまとめて良いか解らなくなってしまいました とりあえず今回は古来日本の海外との交易の実態と百済滅亡後の渡来人をまとめて見ました。歴史が後先になりますが、秦氏については次回に・・。今回写真は韓国の国立中央博物館から古代史にかかわる遺物を紹介します。韓国の国立中央博物館は、大方の所で写真撮影が許可されているのです。弥生時代以降の朝鮮半島とのかかわり方が少し見えるかもしれません。倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)写真 韓国 国立中央博物館(National Museum of Korea)からいろんな渡来人朝鮮半島の倭人外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ大宰府の大要塞化と百済からの難民 百済の最後、白村江の戦い 百済からの亡命者三国時代の半跏思惟像 金銅製(高さ 93.5cm)日本の半跏思惟像は弥勒菩薩とされているが、こちらの半跏思惟像は出家前のシッタータ太子そのものらしい。※ シャカ族のシッタータ太子は出家して、悟り、「目覚めたる者」、仏覚者となった。仏陀(ブッダ)です。こちらは四苦(生老病死)について悩み、瞑想にふける出家前のシッタータ太子の姿と解釈されている。中国では5~6世紀、朝鮮半島では三国時代の6~7世紀に流行したスタイルだとか。次回紹介する渡来系氏族である秦河勝(はたのかわかつ)が京都太秦(うまさ)に建立した広隆寺に所蔵される弥勒菩薩半跏思惟像(木彫)に姿形(頭上に三山冠or蓮花冠と呼ばれる低い冠など)が非常に似通った仏像である。但し、日本の像は木彫。こちらは金銅製。いろんな渡来人古来日本には、大陸より多くの渡来人がやって来ていたようです。正式な渡来人には当てはまりませんが、弥生人の存在と彼らの水稲作農法は大陸からの伝来(でんらい)です。弥生人そのものが大陸の者と倭の(縄文人?)のミックスとも位置づけされているようです。では俗に言う渡来人(とらいじん)とは何か? ヤマト王権に入る4世紀以降に大陸や朝鮮半島から日本に移住した人々をさすようです。彼らの来日理由はそれぞれ。大陸での派閥争いの末に国にいられなくなり逃げて来た者。正式に亡命と言う形でやってきた者もいただろう。侵略や、海賊の一派としてやって来て住み付いた者もいただろうし、技術者として派遣されて来た者達もかなりいたようだ。当時の倭や朝鮮半島、あるいは中国の政治的事情があったのが解る。逆に日本海の海賊として倭国の者が大陸の人に認識されていた事実がある。※ 3世紀にはすでに朝鮮半島南端に倭人の済む土地があったと言うし、倭が半島で軍事的支配権を持っていた時代もあったとか・・。原三国時代 鴨型土器(高さ 32.5cm) 原三国はBC1~4世紀中頃。百済や新羅が国家としての体裁を整える頃を指すらしい。まさしく倭に邪馬台国があり、交易が始まった頃の物かもしれない。鳥は穀物豊穣など天と地の媒介者。また死者の魂を天に導く者として製作? 副装品の水挿しか? 酒器か?下の土器の来歴はわからない。馬やイノシシ? のような動物が絵が描かれた珍しい土器。博物館のホームページの収容作品リストにも解説が無かった。新羅 騎馬人物形土器人間、動物、物の形をかたどった象形土器は、祭祀のような儀礼用。死者の安らかな眠りと死後の世界に対する願いが込められたものだそうだ。墓からの副装品らしい。※ もしかしたら、これはソグド人の商人の姿かもしれない。漢代(前漢 (BC202年~AD8年) にはすでにソグド人との交易の話しは記されている。当時新羅でもすでにペルシャとの交易があったのだろう。ソグド人については以下に書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)朝鮮半島の倭人朝鮮半島にはない異質の倭人の物と思われる弥生式土器が出土している痕跡からすでに倭人が紀元前に朝鮮半島に渡って集落を形成していたと考えられている。※ 実際BC4~BC3には双方の交易の関係から朝鮮半島南部への移住及び入植者が増えたようだ。284年頃書かれたと推定される三国志の魏書東夷伝倭人条には、倭人の北限が朝鮮半島に達していた事が記されているそうなので倭人が弥生時代に大陸に進出していたのは間違いない。倭人に関係の深い任那加羅(みまなから)が歴史の表に出てくるのは3世紀以降の事。※ 世界史年表図の4世紀には加羅(から)が表記されている。任那と加羅はしばしば分けられて表記されているが、もとは小さな部族が点在した小国家郡だったようで、5世紀に政治勢力が2分されて南の金宮伽耶が任那(みまな)、北の高霊(こうりょう)が加羅(から)になったと言う説と、伽耶諸国の総称が任那(みまな)である。との説がある。日本書紀(720年編纂)には4世紀頃朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本の統治機関「任那日本府」があったとされている。4~5世紀前半の朝鮮半島南部思う以上に古来より大陸や半島との交流のあった事が解る。何しろ朝鮮半島は非常に近接しているからね。※ 学者の中には「往来には小舟が利用されていたはず。」と言う人がいたが、手こぎ船に帆の付いた大人数が乗れるガレー船の歴史はBC3500年に遡る。シルクロードを通じて中国は西方の諸国とつながっていた。西方の人もまた中国や半島に渡来していたと言う史実もあり、思う以上に造船技術も進んで大型化していたのでは? と思う。青銅印章 ?邪馬台国の卑弥呼が金印を賜った。それは今後の外交時、その印を持って正式な通商とする為のハンコらしいが・・。金印の方は摩耗が少なく使った形跡がほとんとどないらしい。上の印についての説明も中央博物館の関連には無ったが、何らかの公的文書の印だったのだろうか?金よりも実用的な気はするが・・。それにしても印鑑の文化ってけっこう古いんですね。百済 青銅鐎斗(せいどうしょうと)青銅で3本の足と把手をつくってつけた北斗七星形の容器、容量は1斗。こうした鐎斗(しょうと)は4~5世紀代に百済と中国南朝との交流によって中国青磁と一緒に中国南朝から伝わり、百済の地方統治過程で地方の有力な勢力に伝えられた威信財(いしんざい)だそうだ。※ 威信財(いしんざい)・・所持している事が名誉となる物。あるいは冨の優越を示すアイテム。資料検索の過程で見つけた。東京国立博物館にも同じ物が存在しているようだ。こちらのものは摩耗が激しいが、東京の物は龍の頭部もはっきりしていて美品。尾? のような装飾も付いていた。三国時代 百済金銅大香炉 レプリカ? 高さ61.8cm香を焚く為の穴は蓋の鳳凰の胸辺りに2つ、山の峰の周りに10。計12。蓋の最上部には鳳凰が、その下には五人の楽士が楽器を演奏している姿が彫刻。74の峰の彫刻には木、岩、川、滝、さらに虎、鹿、象、猿など42匹の動物や6種類の植物、12人の人物が表現。胴には蓮のつぼみと二人の人物、羽の付いた魚、鳥などの27の動物が彫刻。脚部はダイナミックな姿勢の龍の装飾。外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ学校で学んだ歴史の中に鎌倉時代の元寇(げんこう)の襲来があるが、それ以前から北九州や日本海沿岸は地理的に侵略者の入りやすい場所であった。太宰府(北九州筑紫)と言うと、大宰府の長官として派遣された菅原道真公を思い浮かべるが、そのルーツは、古来(邪馬台国の時代よりも前)倭国の王が侵略者防御の要塞を組んだ土地であり、逆に大陸との外交や交易の窓口として朝廷の出先機関が置かれていた重要な要所であった。284年頃書かれたと推定されるの三国志の魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が駐屯していた場所と記されているそうだ。つまり外交の公式窓口がヤマト王朝以前からそこに存在していたと言う事実がある場所だ。その大宰府の大要塞化が進んだのは飛鳥時代、白村江の戦い(663年)以降だと言う。※ 白村江の戦い(663年)は日本も参戦した朝鮮半島の勢力争いである。※ 百済帰化人の協力の下、対馬や九州北部の水城や瀬戸内海沿いに朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、特に北九州沿岸は開放的な造りで外敵が侵入しやすく防人(さきもり)を配備して慎重を重ねている。つまり北九州(特に博多湾)は良くも悪くも渡来人の入り口でもあったと言う事だ。※ 7~10世紀に朝鮮半島北におきた渤海(ぼっかい・Balhae)(698年~926年)との交易でも朝廷は北九州を示唆したそうだが、北九州は遠く、海難事故も頻発するので新潟の糸魚川あたりに航路を取って日本に来ていたようだ。(韓国でルート地図発見)。余談であるが、韓国では好んで糸魚川でとれる翡翠を調達していた。三国時代 新羅の金冠 高(冠)27.3cm新羅(BC57年~AD676年)は華やかな黄金の文化を開花させた国だったらしい。「輝かしい金銀彩色の国」と歴史書に書かれているそうで、実際、古代新羅の墓からは様々な黄金製の装身具が出土しているそうだ。半島では翡翠はとれないらしいから、もしかしたら日本の翡翠で造られた勾玉(まがたま)かもしれない。耳飾り 6世紀新羅もしかしたら、この細工はペルシャの物かもしれない。先に触れたソグド人がペルシャから運んで来た金細工かも・・。首飾り 6世紀新羅大宰府の大要塞化と百済からの難民百済の最後、白村江の戦い歴史的に案外重要なのが、朝鮮半島で起きていた百済の攻防である。先にふれた白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)に日本は参戦しているのだ。朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国の均衡がやぶれ、中国の唐と新羅の連合軍に百済は攻め滅ぼされる事になる(660年)。300年にも及ぶ百済との関係、しかも、百済の皇子は人質の体で日本の宮廷にいた。※ 百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)(599年~660年)(在位:641年~660年)の皇子の二人。扶余 豊璋(ふよほうしょう)と百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)中大兄皇子(天智天皇)は百済再興を支援して661年から3年続けて百済援軍を日本から送ったのである。※ 第1派、1万余人。船舶170余隻。(これに皇子(豊璋)も乗っていた。) 第2派、2万7千人。軍主力。第3派、1万余人因みに倭国の方も、661年、斉明天皇が崩御し、即日中大兄皇子が称制。※ 即位は668年。翌662年が実質天智天皇元年となっている。結果的には白村江の戦い(663年)で日本もろとも敗戦。朝鮮半島の領地や権益を失っての帰国となったようだ。百済滅亡は政治や統率不足など王の采配不足。自滅に近かったらしい。百済からの亡命者白村江で大敗した倭国軍は、亡命を望む百済遺民を船に乗せ帰国。先に述べたように報復を恐れてか? 天智天皇は北九州の防備を固めると共に、摂津国難波にあった宮を667年に内陸の近江国滋賀郡大津(近江大津宮)へ遷都している。またこの時、百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)の息子で日本に来ていた善光はそのまま日本に残り敗戦が決まると帰化し、百済王族として豪族の待遇を受けている。天智天皇の御代に起きた朝鮮半島の攻防は多くの日本への渡来人をうむことになった。しかし、百済への支援はヤマト王権初期にもある。先ほどの任那加羅(みまなから)の話につながる。日本の朝鮮半島進出のきっかけ? 4~5世紀頃、中国が宋の時代の話だ。日本がいかに百済を大切にしていたか良く解るし、貿易以上の関係もあったのかもしれない。龍山(よんさん)にある韓国の国立中央博物館国立中央博物館に行ったのは4年くらい前だが、入場は無料。きれいで見やすく展示品の時代が一目でわかるような配慮がされている。収蔵品も多く2日通って見てきました。年表では上段が西欧。次に韓国、年史が入り、その下に中国、日本と、各国ポピュラーな出土品などが合わせて写真付きで載せられている。これはとても良いアイデアだ。惜しいのは、ハングル表記がほとんど。せめて英語の説明書きがもっとあったらよかったのに・・。博物館は頼めば日本語のできる学芸員の方が案内してくれるので時間があるならそうした方が良い。「倭人と渡来人」 次回につづくリンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
2017年07月31日
コメント(0)
リンク先をのせました。アメリカ編を1度整理しなければ・・と思っていたのですが、イエローストーン国立公園と同様に開いて見たらカテゴリーの変更だけではすみませんでした。写真もなぜか変色? 入れ替えしたり、新たに足したりとグランドティートン国立公園もちょっと大変でした どうも思い立ったらやってしまわないと次に進めない性格故に長引いてしまってスミマセン m(_ _)m お勧めブログ・バックナンバー4 (グランドティートン国立公園 他)グランドティートン国立公園(Grand Teton National Park)1~8ワイオミングおまけ ジャクソンホールの幌馬車 1~2ワイオミングの動物シェーンの時代に見るアメリカ開拓史の事情ホームステッド法(Homestead Act)アメリカの国立公園トップ10の一つグランド・ティートン国立公園(Grand Teton National Park)は前回紹介しているイエローストーン国立公園のすぐ南に位置しているのでツアーであれば、だいたいセットで回るコースとなっています。ゲートとなるシティはワイオミング州ジャクソン(Jackson)。ジャクソンには空港もある。アメリカで唯一の国立公園内の空港だそうだ。1929年、国立公園に指定されたのは18番目と割りと古い方。見所は西部開拓史時代を描いた映画シェーンの世界感と、相反するロッキーのダイナミックな自然。広大な草原(Prairie)地帯は西部開拓史に想いはせてしまう所。そこにあたり前のようにある平原も、実は先人が苦労して切り開いた草原です。そしてバックにそびえる古代隆起してできた壮大なロッキー山脈。壮大ながらも今はほのぼのとする光景です。そして一度、山に入れば今度は大自然を身で感じるうっそうとした原生林のダイナミックな自然に遭遇。そこはトレッキング好きの方にお勧めです。ところで、西部開拓史と言うと、日本人からしたら西部劇で見た開拓民の苦労ですが、それは開拓民は正義で、彼らをいじめる悪いヤツラと言う構図。しかし、現実には先住民族であるアメリカンインディアンから土地を奪っての白人達移民の開拓は、映画シェーンのような白人同士の正義と悪との話とは全く別次元。開拓民の方はそれはそれなりの苦労をされたようですが、それよれも元々そこにいて土地を奪われた原住民であるアメリカ・インディアンの方が悲劇でした。(アメリカ史ではふれられていませんが・・。)2010年06月、「ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)」の中でそのあたりは少しふれているのですが、今回白人側がなぜ西部をめざしたのか?開拓移民に関する法律を最後にのせました。リンカーン大統領が署名した「ホームステッド法(Homestead Act)」です。リンク ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)ワイオミング州 グランドティートン国立公園(Grand Teton National Park) 1929年指定グランド・ティートン国立公園 1 (シェーンの世界) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 1 (シェーンの世界)グランド・ティートン国立公園 2 (スネーク・リバー) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック)グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック)oxbow bendグランド・ティートン国立公園 4 (ジャクソン・レイク界隈) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 4 (ジャクソン・レイク界隈)グランド・ティートン国立公園 5 (ジェニー・レイク) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 5 (ジェニー・レイク)グランド・ティートン国立公園 6 (ヒドゥンフォール) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 6 (ヒドゥンフォール)グランド・ティートン国立公園 7 (インスピレーション・ポイント) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 7 (インスピレーション・ポイント)グランド・ティートン国立公園 8 (シュワバッカー・ポイント) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 8 (シュワバッカー・ポイント)ワイオミング州 おまけジャクソンホールの幌馬車 1 2010年06月リンク ジャクソンホール(Jackson Hole)の幌馬車 1ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法) 2010年06月リンク ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)幌馬車隊の目的は野外レストラン余興で襲う役割のインディァンの方々ワイオミングの動物ワイオミングの動物(エルクとプレーリードック) 2010年06月リンク ワイオミングの動物(エルクとプレーリードック)グリズリー・ベア(Grizzly bear) 2010年07月リンク イエローストーン グリズリー・ベア(Grizzly bear)シェーンの時代に見るアメリカ開拓史の事情前回触れた西部探検のルイス&クラーク探検隊がもたらした地理情報や地図は1840年代以降になって、西部方面への入植者を増やしていく。その理由の一つは人口の増加である。アメリカへの移住者が増えて土地が必要になったからだ。「自由な天地」と、人々は西に向かった。しかし、そこにもすでに先住民族のインディアンが住んでいた。当初政府は、そこに住んでいるインディアンの長達と交渉し、物々交換、あるいは金銭により土地の譲渡をしてもらう条約を作ったそうだ。(1785年、公有地法が制定)つまり、いったん買い上げ、国の公有地にしてから開拓民に分譲して払い下げる・・と言う形をとったのだ。※ オハイオなど一部、そうした形できちんと契約された土地の例は残っている。しかし、アメリカへの入植者が増えるとインディアンを人と思わない白人達も増えた。当初メイフラワー号で移民してきた者はインディアンに助けられて生き残れたのに・・。彼らを追い出して政府から土地を買うことも無く、自分の土地をかってに造り出す者が出てきた。開拓した者が権利をうる・・と言う考えに近い。まさに西部開拓の時代は無法地帯だったと言える。欧州の国ではかってに植民地としたアメリカの土地を売買。フランスよりアメリカはルイジアナを1500ドルで購入。もはやそこにはインディアン達の土地と言う概念が無い。さらに移民は続々やってきた。人があふれて未開の土地に続々人がやってくる。耕作すれば土地が得られる・・とかってに信じて・・。「入植した農民が5年間耕作すると無償で一定の土地が得られる法律」があったから?実は順番が違う。かってに開拓して居座った者達が土地をよこせと騒いだのだ。「居住しています。」・・と言う既成事実を先に造ってから政府に訴えたのである。彼らの訴えのもと、リンカーン大統領はホームステッド法に署名した。それが新たな土地の規定である。※ エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)(1809年~1865年) 第16代アメリカ合衆国大統領ホームステッド法(Homestead Act) 1862年に制定アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 160エーカー(約64.6ヘクタール 東京ドーム役14個分の土地)を無償で払い下げると言う自営農地法である。もちろん申請には条件がある。申請時に 21 歳以上敷地内に12× x14フィート(3.6×4.3m)以上の大きさの住居がある事が必須。建設後、自ら耕作した土地で最低 5 年間は農業を営んだという実績が必要。この法律により、さらに入植者が増えたのは言うまでも無い。最終的に、1862年~1986年の間に160万件が申請。その総面積は2億7,000万エーカー (1.097兆m2) アメリカの国土の10%に達しているそうだ。よく解らない広さだが、日本が2904個分くらいらしい (_ _ ??)/◇ワカラン・・とにかく途方もない広さの土地が無償で得られた・・と言う事です。次回アンテロープキャニオンなど国立公園でないけど景観の凄いアメリカを紹介して、お勧めはひとまず終わります。渡来人もう少しお待ち下さい m(_ _)m
2017年07月12日
コメント(0)
リンク先を追加しました。分類の項目に「アメリカの国立公園」を追加しました。それで検索がしやすくなるはずです。これからグランドティートンなど編集した時に変更ていく予定です。今回は過去に載せていたアメリカの国立公園のタイトルをまとめました。(過去にイエローストーン国立公園、グランドティートン国立公園、他幾つか紹介しているのです。)ちらほらアクセスのあるアメリカのイエローストーン国立公園は、全20回に渡っていました。自分でも驚き。3ヶ月にわたって分散して載せていたようです。長くなったのはイエローストーンが広大で、個性がたくさんある事。紹介写真も多くなりました。(そんな訳で今回も写真を探してくるのに手間取りました )でも、アメリカは歴史が浅いので、ほぼ語れる事はありません。写真中心なので安心してください。内容は7年前に遡りますが、国立公園の形態は変わっていないようなので今でも参考に使えるはずです。何しろイエローストーンは1807年に発見されてからすぐに保護政策がとられたからです。見た者が誰しも驚く自然の神秘がイエローストーンの魅力です。再度紹介するに当たって全20編を見直して、写真追加もしました。その為に載せるのが遅れてしまいました。全20はかなりきつかったです (--; ゲソ~ お勧めブログ・バックナンバー 3 (イエローストーン国立公園)アメリカの国立公園トップ10イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)ワイオミング州 イエローストーン国立公園 1872年指定ワイオミング州 1~20のリスト紹介前に・・。第3代大統領(1801年~1809年)トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)(1743年~1826年)の頃はまだアメリカは未開の土地がほとんどだった。(特に西方面は・・。)西部探検隊が組織されルイス&クラーク探検隊が1807年にイエローストーンを発見。その景観のすごさを伝えても当時の人々は信じなかったと言う。後に自然保護、そして国有化へと進む。そして1872年世界で初めての国立公園となった。その後アメリカでは国立公園が次々に指定され現在59件あるようです。その内のトップ10だけ紹介しておきます。アメリカの国立公園トップ101.イエローストーン (Yellowstone) ワイオミング州 1872年2.ヨセミテ (Yosemite) カリフォルニア 1890年3.グランド・キャニオン (Grand Canyon) アリゾナ州 1919年4.グレーシャー (Glacier) モンタナ州 1910年5.グランド・ティートン (Grand Teton) ワイオミング州 1929年 次回6.ザイオン (Zion) ユタ州 1919年7.ブライス・キャニオン (Bryce Canyon) ユタ州 1928年8.セコイア (Sequoia) カリフォルニア 1890年9.ロッキー・マウンテン (Rocky Mountain) コロラド州 1915年10.マウント・レーニア (Mount Rainier) ワシントン州 1899年イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)バックナンバー全20のタイトルを以下写真と共にのせました。イエローストーン国立公園 1 (分水嶺とアメリカバイソン) 2010年06月リンク イエローストーン国立公園 1 (分水嶺とアメリカバイソン)イエローストーン国立公園 2 (5つのエリア) 2010年06月リンク イエローストーン国立公園 2 (5つのエリア)イエローストーン・レイクマッドボルケーノ界隈からイエローストーン国立公園 3 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 3 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン)イエローストーン国立公園 4 (グランド・プリズマティック・スプリング) 2010年07月リンク エローストーン国立公園 4 (グランド・プリズマティック・スプリング)イエローストーン国立公園 5 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン景観) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 5 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン景観)ミッドウェイ・ガイザーベイスン Opal Pool ?Grand Prismatic Springイエローストーン国立公園 6 (アッパー・ガイザー・ベイスン) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 6 (アッパー・ガイザー・ベイスン)Old Faithful Geyserイエローストーン国立公園 7 (ガイザー・ヒル) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 7 (ガイザー・ヒル)イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー)イエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺)Tortoise shell springイエローストーン国立公園 10 (ジャイアント・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 10 (ジャイアント・ガイザー)イエローストーン国立公園 11 (グロット・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 11 (グロット・ガイザー)Rocket GeyserGrotto Geyserイエローストーン国立公園 12 (モーニング・グローリー・ブール) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 12 (モーニング・グローリー・ブール)Morning Glory Poolイエローストーン国立公園 13 (イエローストーン湖) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 13 (イエローストーン湖)イエローストーン国立公園 14 (ヘイデンバレーとマッドボルケーノ) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 14 (ヘイデンバレーとマッドボルケーノ)イエローストーン国立公園 15 (キャニオンの眺め) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 15 (キャニオンの眺め)イエローストーン国立公園 16 (Lower FallsとUpper Falls) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 16 (Lower FallsとUpper Falls)イエローストーン国立公園 17 (マンモスホットスプリングス) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 17 (マンモスホットスプリングス)マンモスホットスプリングスイエローストーン国立公園 18 (テラスマウンテン)リンク イエローストーン国立公園 18 (テラスマウンテン)ミネルバテラスイエローストーン国立公園 19 (ミネルバテラス) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 19 (ミネルバテラス)イエローストーン国立公園 20 (ウエストサム) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 20 (ウエストサム)ウエストサムイエローストーンは北アメリカ大陸最大の火山地帯。その景色はわれわれ人間が想像しえなかったいろんな顔を持っていました。中心になるのはいろんなGeyser(間欠泉)とspring(温泉)です。日本には無いダイナミックな景観ばかりです。イエローストーンだけで大変な作業になりグランドティートン国立公園以下は次回にさせてもらいました。またまた次回に続きます。m(_ _)m
2017年07月06日
コメント(0)
リンク先入れました。さて、今回もお勧めブログ・バックナンバーを引き続き。今回は芸術家の話と、墓所ピックアップ、他 ですお勧めだけでは何なんで一緒に写真でも・・と、これが結構大変な作業となりました。何しろ写真の数が膨大で、どこにあったか探すのが大変。今回も写真をはさみましたが、今回は紹介していない写真を中心に載せました 写真だけでも楽しめるように・・。お勧めブログ・バックナンバー 2 (芸術家の話と、墓所、他)芸術家の話墓所ピックアップその他芸術家の話クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ) 2017年03月リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション) 2017年04月リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー 2016年02月リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ) 2016年02月リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo) 2016年06月リンクジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)(1527年~1593年)ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス 2014年02月リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園) 2016年02月リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き) 2016年02月リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首 2017年12月リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé) 2018年11月リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン 2019年01月リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション 2016年02月リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクションナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection) 2018年03月リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)南仏、マントン市役所 婚礼の間 コクトーの壁画空間が狭いので壁画の全景は撮影しにくいのです。しかも灯りが間接照明なので薄暗いし・・。ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)自身が描いた壁画です。婚礼の間 天井画ジャン・コクトー(Jean Cocteau)の壁画から 2012年08月リンク ジャン・コクトー(Jean Cocteau)の壁画からマントン市庁舎のコクトー婚礼の間 2009年04月ニースのシャガール作品 2009年04月リンク ニースのシャガール作品墓所ピックアップバロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus) 2014年11月リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)ハプスブルグ家納骨堂 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)上、カール6世(Karl VI)(1685年~1740年)の棺下、マリア・テレジア夫婦の一緒の棺ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓 2018年06月リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降二人分なので大きい ハプスブルグ家最大規模の最も豪奢な棺です。「シシィとゲルストナーのスミレ菓子」で紹介されているシシィ(Sissi)の棺です。「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3」で紹介していました。ヨーゼフ2世は聖職者の横行を止める? 葬儀の簡素令を出した。これ以降棺は質素な時代に突入。名入の墓石が造られる事も一時は禁止された。モーツァルトの遺体が消えたのはそんな時代だったからです。「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」については「シュテファン寺院(Stephansdom) 2」で紹介しています。シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所) 2016年07月リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 2015年07月リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓 2016年10月リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 2010年03月リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 写真追加スペイン、アンダルシアのセビーリャ大聖堂にあるコロンブスの棺大きな棺・・を考えていて思いだしました。ちょっとユニークなタイプです。しかもかついでいるのはカスティリア王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国の四王国を象徴する4人の王様です。彼は死後、ずっとたってからセビーリャに戻ってきました。堂内が非常に暗くて撮影は難しい所です。前にのせた分は画像がイマイチなので悪しからず・・。さて、日本ですが・・。信長の墓所と呼ばれる寺を3つ紹介。なぜ信長の遺骸が消えたのか? 検証してみました。本能寺の事情から見る発見です。信長の墓所 1 (本能寺) 2015年06月リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院) 2015年06月リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺) 2015年06月リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)信長の墓所 4 (消えた信長公) 2015年07月リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓 2015年07月リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉の墓所(豊国廟) 2015年05月リンク 秀吉の墓所(豊国廟)豊国神社(とよくにじんじゃ) 1 2015年05月リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康) 2015年05月リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎 2019年01月リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎
2017年06月29日
コメント(0)
ラストにリンク先追加しました。聖徳太子は何者だろう? そんな疑問から始まった探求は仏教の日本伝来の話まで行ってしまった。以前(2015年4月) 「法隆寺 (柿食えば・・の鐘の件)」で、すでにチラッとふれているのですが、聖徳太子が渡来系ぽいな・・。と言う所から発して、飛鳥の時代にすでに来日していた渡来人を追求した感じです。Break Timeネタの軽いつもりで始めたけど、ぜんぜんBreak Timeじゃなくなりました 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)法隆寺の救世観世音菩薩像アルカイック・スマイル(Archaic smile)とアルカイック期の影響仏像の誕生仏教の伝播日本へのルート日本への伝来倭(わ)の国から日出処(ひのいずるところの)国へ聖徳太子と蘇我氏の系譜法隆寺に行った時の事。宝物館で救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)を拝観。それは東院伽藍(とういんがらん)の中庭にある夢殿(八角円堂)の本尊である。もともと東院伽藍は聖徳太子の住まいのあった所。そこに聖徳太子供養の為の堂として夢殿は建立された。739年(天平11年)実は、その夢殿の本尊である菩薩は長い間秘仏しとて開帳さえされないままずっと白布にくるまれて閉ざされた厨子の中に眠っていた。どうやら災いが起こるとされて何百年も開かれて来なかったかららしい。それが世に再び出たのは明治の事。1884年(明治17年)その幻にも近い秘仏を開かせたのが明治政府のお墨付きをもらって調査に来たアメリカの東洋美術史家であったフェノロサと当時弟子であった岡倉覚三(後の岡倉天心)である。※ アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)(1853年~1908年)ハーバードで政治や哲学を学び東大で教鞭を執る為に来日。東洋美術史家になるのは日本に来てから。※ 岡倉 天心(おかくら てんしん)(1863年~1913年)日本美術院を創設。近代日本における美術史学研究の開拓者。※ 東院伽藍の夢殿は毎年春と秋の特別開帳となっている。国宝3体 救世観世音菩薩立像(飛鳥時代) 行信僧都坐像(750年) 道詮律師坐像(876年)※ 法隆寺の国宝は全体で17件ある。法隆寺の救世観世音菩薩像その救世観音(ぐぜかんのん)の制作年は7世紀前半の飛鳥時代と推測され、聖徳太子の念持仏であったとされる一方、その御影は太子 等身の像とも言われている。つまり、この救世観世音菩薩像のモデルは聖徳太子かもしれないと言う事だ。※ 聖徳太子(しょうとくたいし)(574年~622年)本来菩薩に性別は無いが、見た目が非常にスレンダーで、女神のようにも見える。が、何より気になったのはその長身ぶりである。身長178.8cm(本家からの引用)実際聖徳太子は、非常に背の高い人物だったらしい。今なら普通に背の高い人もいるね・・とスルーする所であるが、倭人(わじん)と呼ばれていた弥生人(やよいじん)の系譜からすると話が違う。倭人は非常に小柄な民族だとされていたからだ。聖徳太子の身長はどう考えても異国人。当時はすでに渡来系の氏族が宮廷に寄り添って活躍していた時代。ひょっとして? と思ったわけだ。まずはその救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)を紹介します。撮影が禁止されていたので、参考の為に雑誌等から持ってきました。救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ) 国宝法隆寺 宝物 救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)素材は楠(くすのき)の1本造り。その上に白土の下地(胡粉?)を塗り、漆をかけて金箔を押している。クスノキは防虫効果もあり、飛鳥時代の仏像ではポピュラーな素材らしい。杏仁形の目(アーモンド・アイ)と口角の上がった独特な微笑みが特徴のアルカイック・スマイル。そしてシンメトリー(左右対称)な造作の立ち姿。この菩薩像が北魏様式のタイプだと位置づけされる由縁である。アルカイック・スマイル(Archaic smile)とアルカイック期アルカイック・スマイルとは、古代ギリシャのアルカイック期の石像がたたたえた特徴的な微笑みを指している。(ギリシャ彫刻ではお馴染み)。アルカイック期はBC8世紀から始まり、ギリシャがアケメネス朝ペルシアに侵略されたペルシア戦争中BC480年までを指しているのだが、その時代はギリシャの文明も大きく変格した時期なのである。エジプトやメソポタミアの巨大な彫像の影響を受け、彫刻ばかりか陶芸などにもオリエントの影響が現れた時期だ。蓮華座に乗っているのは宝珠? 非常に珍しいタイプのようだ。 中には香炉だと言う人もいるがクッションに乗せられた宝珠であろう。そして宝珠から霊気が登っている・・と言う所かな?東院伽藍入口 見える奧の屋根が夢殿斑鳩に聖徳太子の宮殿が建てられたのは601年(推古天皇9年)太子は仏教による平和国家の建設に邁進。太子は622年(推古天皇30年)2月22日に49歳で薨去(こうきょ)された。643年、この宮殿で太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は蘇我入鹿(そがいるか)に襲撃される。辛くも一家は逃げるがその後一家全員が自害して上宮王家は断絶。斑鳩宮は廃墟となった。そもそも争いの原因は当時の後継者選びの悪しき問題らしい。739年(天平11年)、廃墟の跡を憂い(うれい)た行信(ぎょうしん)は東院の伽藍を建設。それが今の東院伽藍である。夢殿屋根は1230年の大修理で改造されている。巨大な厨子となっている八角円堂の中に先ほど紹介した太子の御影、救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)が安置された。夢殿の中には僧、行信の座像が置かれ堂を見守っている。仏像の誕生そのアルカイック(Archaic)期の影響はギリシャの販路拡大とアレキサンダー大王(BC356年~BC323年)の遠征によって再びメソポタミアを超えてさらに東方に伝わる事になる。奇しくもインドのガンダーラがギリシャの植民地となり、古代ローマの影響やエジプトの影響も受け、本来無かった仏像と言うものが誕生したのである。仏像が初めて誕生するのはBC1.5世紀頃。初期の仏像は、やはりギリシャ・ローマの風貌だったと言う。等身サイズの仏像が現れたのはエジプトの石像の影響らしい。仏教の伝播一方、仏教自体はBC6世紀 ~BC5世紀頃に北インドで始まり、まずガンダーラやセイロン島の方にまで伝播。その後ガンダーラからヒンドゥークシュ山脈を越え、パミール高原を越えて西域に(北伝ルート)。セイロン島からは海路、東南アジア諸国に伝播(南伝ルート)。中国へは北伝ルートと南伝ルートの両方で1世紀頃には伝わっていたそうだ。そして仏像もまた北伝ルートと南伝ルートでそれぞれ様式の違う仏像が誕生したのであるが、中国に残る古い仏像や仏蹟は北魏時代(386年~534年) の敦煌、雲岡、竜門などの北伝系の物だそうだ。10世紀以前の仏教の東伝と諸宗教の弘布 (吉川弘文館 「世界史年表・地図」 からの引用)日本へのルート伝播の経路を考えると、北伝ルートで秦の時代(BC3)に中国大陸に伝播? 南伝ルートではおくれる事、前漢時代(BC2)に中国大陸に伝播? そして後漢時代(AD2)に中国全土に広がった?さらに4世紀後半頃、中国は前秦(ぜんしん)と東晋(とうしん)時代、前秦(ぜんしん)から朝鮮半島北ルートで高句麗に伝播。東晋(とうしん)からは海を越えて朝鮮半島南の百済(くだら)に伝播して行ったと考えられる。※ 日本に伝播する頃には前秦(ぜんしん)と東晋(とうしん)は北魏(ほくぎ)と宋(そう)に代替わりしていたかも・・。日本へは朝鮮半島の高句麗(こうくり)→新羅(しらぎ)を経たルートと、百済(くだら)からのルートがあったはずだ。なぜなら仏像は高句麗(こうくり)→新羅(しらぎ)経由の北魏様式と百済(くだら)からの南朝様式に分けられるからだ。476年頃 高句麗 最大の販図(ウィキペディアから借りてきた資料に矢印追加しました。)倭(わ)が日本です。地図の関係上北九州上陸になりましたが、どこから入ったかは不明。日本への伝来飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時(日本書紀) と言うのが一般的な説だ。※ 欽明天皇(きんめいてんのう)(509年? (継体天皇3年)~571年(欽明天皇32) 聖徳太子の祖父にあたる。仏教を日本に広めたいと言う活動の表の第一人者が聖徳太子(574年~622年)であった。その太子の伝記により仏教は538年にはすでに日本に伝わっていたとしている。書ではなかなか形に見えないが、仏像から見ると、初期の飛鳥時代に伝来した日本の仏像は、渡来人により製作されたものなので平安時代以降に日本人仏師らが造像した仏像とは歴然と違う。救世観世音菩薩像しかり、中宮寺や広隆寺の半跏思惟像もしかり、大陸の影響が色濃く出ていて、風貌もエキゾチックなのである。中宮寺金堂ちょっと変わった造りの金堂の正面に弥勒菩薩は鎮座している。当然撮影は禁止なのでパンフ等から写真を持ってきました。法隆寺に隣接する中宮寺は、もともと聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)生年不詳~622年(推古天皇30年)の為に596年(推古天皇4年)に建立。その宮殿を後に寺としたもの。太子が建立した7つの寺の1つ。中宮寺半跏思惟像 如意輪観音像材は全て楠(くすのき)高さ158cm。当初は白木に胡粉彩色(ごふんさいしょく)だったらしい。装飾物が失われているが、当初は宝冠をつけ、瓔珞(ようらく)など装身具も付いていたそうだ。倭(わ)の国から日出処(ひのいずるところの)国へ倭(わ)は、もともと中国側や朝鮮側の国から呼ばれていた呼称。蔑称(べっしょう)とも取られるが、とても小さい民族・・と言う意味での倭(わ)人と言う説もある。大和統一の政権ができると倭(わ)は和(わ)となり、尊称の大が加えられて大和(やまと)となったらしい。日本が随(ずい)(581年~618年)や唐(とう)(618年~907年)と交易を始める頃には倭は消えたようだ。その理由が第2回遣隋使として小野妹子(生没不明)を派遣した時に聖徳太子(574年~622年)が持たせた書状にもあったようだ。「日出処天子至書日没処天子へ・・・」日の出る国の天子から日の沈む国の天子に・・。対等の立場で交易しましょう。と言う意味あいが込められた書き出し。と、解釈されている。※ 余談だが、当然怒った隋の皇帝は怒りの書状を書いた模様。しかしその書は帰途に紛失。内容は不明のままとなった。太子の手紙のおかげ?「日の辺に在るを以て日本とする」と言う国号が生まれた。つまり日本の語源は「日出処天子」から転じたと言う事だ。(701年(大宝元年)の大宝律令で「日本」と正式決まった)その「日本」の国号は中国が唐(とう)の時代に入ってから定着されていく。ところで最初に戻って、聖徳太子の御影と言われる救世観世音菩薩像の長身ぶりであるが、教科書に出ていた「聖徳太子および二王子像」 図の謎は理解できた。唐本御影(とうほん みえい) 聖徳太子および二王子像右 殖栗王(えぐりおう) 左 山背大兄王(やましろのおおえのおう)1878年(明治11年)法隆寺より皇室に献納された。なんで他の2人より背が異様に高いのか? 敢えて主役を強調したのか? と思っていたが、実際ずば抜けて太子の背が高かっただけなのだろう。聖徳太子と蘇我氏の系譜ここで聖徳太子の系譜を見ましょう。蘇我氏の主要な血筋を紫で書き込みました。一目でわかる蘇我氏の血が濃い血統です。飛鳥時代に活躍した豪族である蘇我氏の蘇我稲目(そがいなめ)を筆頭にしています。※ 蘇我稲目 生年不明 506年(武烈天皇8年頃)?~570年(欽明天皇32年)実は豪族の中でも、仏教受容の先頭を切ったのが蘇我稲目(そがいなめ)です。仏教の本格的流入で論議が始まったのが欽明天皇の治世(在位:539年~571年(欽明天皇32年)。蘇我氏と物部氏の二極体制(大伴氏はすぐに失脚)の中、仏教の奨励派(蘇我氏)VS仏教排斥派(物部氏)の争いに。太子はその流れから仏教奨励にまわった可能性もありますが、何より、国民をまとめる精神的柱としての宗教の導入の必要性を感じ積極的な仏教文化の導入と新しい統一国家を目指したのだと思えます。なぜか仏教方面に話しが向かってしまいました。本当は渡来人の話にしたかったのに・・。聖徳太子と仏教は切っても切れない関係なんですかね。次回こそ渡来系の豪族についてふれます。そして写真はペルシャのガラス博物館から当時のローマングラスでものせようと予定しています。少し間があいている為にリンク先のせました。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎倭人と渡来人 6と7は7かなり間が開いています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)法隆寺リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 1 法隆寺縁起リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 2 聖徳太子遣隋使と遣唐使については「京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化」の中、「公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)」で詳しく書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化
2017年06月23日
コメント(0)
ここの所の寒暖の差と疲労からちょっと体調を崩していました。頭が働かなかったです先週、実家に行ったらちょうど甥や姪も来ていたので父を取り巻きしばし談笑。すると母がこの中に私のコレクションの土鈴(どれい)が入っているとサイドボードを指さした。土鈴(どれい)とは、焼きもののベルの事である。小学生の頃に旅するたびに買い集めていた物なのだが、いらないから実家に残していたものだ。どれい? (・_・?) ハテ?甥や姪はどうも違う奴隷(どれい)を想像したらしい。頭の中をグルグル思考をめぐらせながら、いったいどんな奴隷が出てくるのかとドキドキ。見たらなーんだ。と言うオチなのであるが、日本語は難しい。甥や姪と言っても彼らも大学生や社会人。最初から漢字で見ていたら即、理解できただろうに・・。それにしたって奴隷コレクションて・・。 私が?? Σ(T▽T;)ヒドイ…さて、琵琶湖疎水、通常なら前回のインクラインで終わりなのですが、たまたま季節運行していた十石舟で南禅寺溜りから鴨東運河(おうとううんが)をクルーズして来たので追加となりました。琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)南禅寺船溜り鴨東運河(おうとううんが)岡崎わかば回廊 十石舟めぐり疏水感謝金岡崎わかば回廊 十石舟めぐり 鴨東運河クルーズ赤い橋は平安神宮大鳥居前の橋。この水路の突き当たりが琵琶湖疎水記念館で、さらにその直線上に南禅寺の三門と方丈が連なっている。つまり見える山は京都東山に連なる山。(その向こうは滋賀県)手前の琵琶湖疎水のパイプが通る山は瑞龍山(ずいりゅうさん)らしい。そして奧の山は如意ヶ嶽(にょいがたけ)(標高472m)と思われる。※ 視界に入っていないが、如意ヶ嶽その西峰が京都五山の一つ。大文字山(だいもんじやま)(標高465.4m)である。南禅寺の正式名称は瑞龍山太平興国南禅禅寺(ずいりゅうさん たいへいこうこく なんぜん ぜんじ)。南禅寺の山号(さんごう)は瑞龍山(ずいりゅうさん)。だから南禅寺山ではなく瑞龍山(ずいりゅうさん)が元の山の名前だ。南禅寺橋から 先が蹴上方面さて、インクラインは蹴上から南禅寺前までの落差36mの勾配をへて、いよいよ南禅寺船溜まりに到着。南禅寺橋から 昔の着水地と南禅寺船溜まり南禅寺橋(南禅寺は左方面)南禅寺船溜まりから運河へ赤い矢印が琵琶湖疎水記念館琵琶湖疎水記念館写真左のレンガ色の所が扇ダムからの運河への放水路である。琵琶湖疎水記念館京都市上下水道局が管理している琵琶湖疎水記念館は、琵琶湖疎水100周年を記念して1989年(平成元年)建てられた施設。琵琶湖疎水に関する資料館である。入場は無料なので是非立ち寄ると良いです 琵琶湖疎水記念館前からの鴨東運河インクラインに昇降する舟(写真は琵琶湖疎水記念館のもの) 写真の時代は大正期らしい。鴨東運河(おうとううんが)図・・・南禅寺船溜まり(右の黄色の星)~夷川発電所(左の円)まで赤く囲った所は平安神宮です。豆知識として・・平安神宮の創建は1895年(明治28年)。内国勧業博覧会の目玉として復元された大内裏は平安遷都1100年を記念して建てられた神社だったのです。つまりできたのは第1琵琶湖疎水(1885年(明治18年)~1890年(明治23年))完成より後なので平安神宮より鴨東運河(おうとううんが)のが先にあったと言う事です。鴨東運河(おうとううんが)は全長1.5km。カクカク曲がりながら西方面に。写真右側は京都市動物園。鴨東運河クルーズ船の乗り場岡崎わかば回廊 十石舟めぐり は3月25日~5月7日までの季節限定のクルーズ船。2003年(平成15年)第三回世界水フォーラムで運行された船2隻を利用して2004年(平成16年)より季節限定の運行が始まったそうです。南禅寺船溜まり(右の黄色の星)~夷川発電所(左の円)までの往復30分くらい。たまたま南禅寺橋の所で勧誘されて乗船。南禅寺船溜まりを後に・・謎のトンネルは白川合流点鴨東運河(おうとううんが)クルーズでは6箇所の橋をくぐり抜ける。船の屋根を支える支柱に注目。実は油圧式で上下可動するような仕組み。鴨東運河(おうとううんが)にかかる橋の高さはまちまち。特に古い橋は低いので、船の屋根の高さは本来低い物に設定される。しかし、それでは辛いからだろう。低い橋をくぐり抜ける時だけ、船の屋根を下げているのだ。だから乗船客もガイドの案内に従って頭を下げる事になる。このあたり右手は動物園から京都市美術館になっているので土地が少し高目。桜並木にはなっているのだが、前日の雨でほぼ散ってしまい残念。ぶっちゃけ桜がなければそれほど・・の運河なのだだから季節運行なのだろう。理由はもう一つある。先ほど紹介したように油圧式で屋根を可動させる十石船は2隻あるが、運行の採算があわないようなのだ。平安神宮の大鳥居と慶流橋(けいりゅうばし)行きは西に向かっているので写真の写りが悪いです夷川(えびすがわ)発電所の手前、夷川船溜り(えびすがわふなだまり)この景色は船からでないと撮影できない。乗船の価値はここにある?琵琶湖疎水の船溜りは全部で10箇所。その中で最大の広さを持つ。夷川発電所(えびすがわはつでんしょ)1914年(大正3年)夷川発電所(えびすがわはつでんしょ)完成。中之島の上下水道疎水事務所。手前には京都府知事の北垣 国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)の銅像が建っている。十石舟はここでUターン。帰りの方が東なので写真が綺麗かもしれません。それに絵になる写真は行きよりも帰りかも・・。正面とその左方面が平安神宮の敷地。立派な運河ですね。琵琶湖疏水の歴史散策琵琶湖疎水は琵琶湖の大津から取水している。今回の紹介は蹴上から南禅寺界隈になりましたが、大津運河周辺、小関から藤尾、山科疏水(四の宮~安祥寺~日ノ岡)、蹴上、鴨東運河まで琵琶湖疏水の歴史を辿る各散策コースが紹介されています。そのコースに関しては、琵琶湖疎水記念館で300円で販売されている「琵琶湖疏水の歴史散策」と言う冊子で紹介されているので是非行く前に購入されると良いでしょう。疏水感謝金因みに、琵琶湖から取水しているので、かつて京都市は滋賀県に発電用水利使用料を払っていた。今は国からの通達もあり使用料を払う必要はなくなったのだが、京都市としては発電など諸々の恩恵を受けているので1947年からは疏水感謝金と名目が変わり(年間2億3000万円)滋賀県に支払いが続けられている。その金額は10年ごとに査定を行い物価も考慮されて金額が決められている。2015年3月に年間2億3000万円に決まったので、2025年まではこの金額なのだろう。何にしても電気の恩恵のおかげで京都市は復活できたのだから・・。下はその恩恵の一つ京都市営電気軌道(京都市電)である。写真は琵琶湖疎水記念館から写真は1912年(明治45年)5月10日第一疎水の電気で1895年(明治28年)、日本発の営業鉄道「京都電気鉄道(伏見線)」開通。第二疎水事業では京都三大事業と銘打って電気の生産を増やすと共に市電網の拡張を計り京都市の市電が開業されている。市電の開業は1912年(明治45年)6月なので、乗車しているのは訓練を受けてきた車掌さん達だろう。明治の近代化はすさまじいものでしたね。当初思った以上に壮大な話でした。やって良かったです琵琶湖疏水おわります。バックナンバーリンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)
2017年06月15日
コメント(0)
以前、ベルギーの地図は解りにくい・・と言う事を書きましたが・・。実は京都の地図看板も非常に解りづらい所の1つです。それは、大抵の地図が北を上に表示するのが常識のなのに京都の場合はメチャクチャ。上が南や右が北などなんでもあり。同じ看板にもかかわらず、南北が違うパターンが存在したり・・。その理由は看板の設置された位置に対して南北東西の設定が違うからのようです。つまり看板が南を背に置かれていたら南が上になる・・と言う論法のようです。この方法は一見わかりやすいようで実は非常に解りにくい。通常北の位置を念頭に頭の中で「現在地に対して〇時の方向」と、位置確認して経路を組み立てているのに地図看板を見るたびに方位が異なるから訳がわからなくなるのです。地図の読みこなしに慣れた私でも京都だけはニガテです <(;_ _)>今回使用する地図も北が上の地図から選んでいます。琵琶湖疎水断面図に至っては、左右反転させて造り変えました。(東と西を正常位置に)琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)田辺 朔郎(たなべ さくろう)蹴上インクライン(keage Incline)三十石船(さんじっこくぶね)蹴上インクラインから前回紹介したように琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)にかけて建設された琵琶湖から京都をつなぐ運河です。1881年(明治14年)第3代京都府知事、北垣国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)氏は京都復興の為に琵琶湖疎水(Lake Biwa Canal)を計画。(用途は前回紹介)その1つが琵琶湖、京都、大阪への物資輸送ルートの開拓。琵琶湖から大阪への水路大津市三保ケ岬の取水点から長等山(ながらやま)をトンネルで抜け、山科北部を通り九条山の蹴上(けあげ)のトンネルに出る。蹴上げからは鴨東運河で岡崎地域を抜けて鴨川の手前まで行き、鴨川に沿って下り深草、伏見を経て濠川(ごうがわ)に入る。濠川は、伏見の市街地を何度か曲がりながらは三栖閘門(みすのこうもん)を経て宇治川へ合流。宇治川は山崎を過ぎて大阪に入ると淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。滋賀、京都、大阪への疎水を利用した運輸ルートの完成であった。※ 濠川は、豊臣秀吉が伏見城の外堀として開削した元は堀。琵琶湖疎水で接続された。琵琶第1疎水断面図、琵琶湖から南禅寺前まで(左、西に京都 右、東に琵琶湖)掘削方向を赤い矢印で書き込みました。左黄色の坂がインクライン(Incline)。第一疎水の流量は毎秒8.35立方m。難工事の理由疎水は地形の高低差を利用した水路なので、地上部を通る所もあるが、琵琶湖から京都へは幾つかトンネルが掘削されている。とりわけこのトンネル掘削工事が琵琶湖疎水工事の最大の難工事であったそうだ。また、水運事業としては、蹴上から南禅寺前までの最後の急勾配(落差36m)が最大の難関であった。第1トンネル 2436m。(傾斜1/3000) 諸羽トンネル 520m。第2トンネル 124m。第3トンネル 850m。(傾斜1/3000)蹴上インクライン 582m。(傾斜1/15)小関越えの長い第1トンネルは当時日本最大の長さ。工事には竪坑工法を併用して掘削は4箇所から始まった。第1シャフト(深さ47m)。第2シャフト(深さ20m)2~3人がやっとの狭いシャフトの中で固い岩盤をほぼ手彫りで深さ47m。水がどんどんたまるシャフトの水を汲み出しながら掘り進む事196日。完成まで多数の殉職者を出したそうだ。蹴上、南禅寺、鴨東運河 界隈A・・蹴上の第3トンネル出口と蹴上船だまり。(久城山)B・・蹴上インクライン(keage Incline)C・・南禅寺船だまりD・・鴨東運河(おうとううんが)A・・蹴上の第3トンネル出口と蹴上船だまり 九条山右に見切れているのが明治45年に宮内庁が建設した御所水道ポンプ室。蹴上船だまり蹴上疎水広場にはこの建築の責任者であった田辺 朔郎(たなべ さくろう)氏の像琵琶湖疎水もとりわけ発電事業は、田辺 朔郎(たなべ さくろう)氏なしにはできなかったかもしれない。田辺 朔郎(たなべ さくろう)(1861年~1944)工部大学校土木工学の学生であった時に卒業論文で「琵琶湖疏水工事の計画」を発表。京都府知事の北垣 国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)の目に留まる。1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府御用掛に採用され琵琶湖疎水の実現に向けて奔走。疎水事業が決定すると弱冠21歳で施工の総責任者に抜擢。(だから銅像も若い)工事途中の1888年(明治21年)に渡米し、ダムや運河の水力利用について視察。帰国後、当初予定の水車動力を減らして水力発電計画を盛り込む。それによりできた蹴上発電所より送られた電気により京都は近代化できたのだ。蹴上インクライン(keage Incline)インクライン(Incline)とは? 単純に言えばケーブル・カーの事。しかしケーブル・カーの定義では、旅客を乗せる鋼索鉄道(こうさくてつどう)(cable railway)がケーブル・カー(Cable car)。貨物用の鋼索鉄道は傾斜鉄道(けいしゃてつどう)(Incline railway)と呼称されるようだ。琵琶湖疏水事業では2ヶ所、傾斜鉄道がもうけられた。(蹴上インクライン・伏見インクライン)両者は1891年~1948年まで運用されたらしい。現在蹴上インクラインは保存用に昔の姿が復元されている。それを今回紹介。蹴上船だまりから船はケーブルカーに乗る鉄製の船用ケーブル台車。「船受枠」という名前がついている。船も琵琶湖疎水のトンネルを流れてくるのでサイズが小ぶりの三十石船(さんじっこくぶね)が採用。三十石船(さんじっこくぶね)長さ 15m,幅 2m,深さ 0.55m。和船の中でも最も小型の米30石分の積載能力を持つ川船。淀川水系の川船の代表的存在として昔から活躍。ひょっとするとこの船が通れる大きさのトンネルと言う事で琵琶湖疎水のサイズは決められたのかもしれない。※ 明治時代、米1俵が4斗(60kg)に規定。2.5俵で1石(150kg)。 30石だと 30×150kg=4500kg=4.5t そんなに? 下方にあった積載見本かくして三十石船(さんじっこくぶね)は台車に乗って水から上がり山を下るのである。反対からは同時に登ってくる船が・・。そのケーブル跡の廃線具合が桜の頃はとても美しいのです しかし、前日に防風のような豪雨があり桜は全部散ってしまいました 下が薄らピンクなのは桜の花びらですインクラインの下方では三条通りが途中まで並行。下っているのが解ります。地下鉄蹴上駅は写真左の見切れているところが出口若干の残った桜を撮影している皆さん通り側は三条通りと仁王門通りの分岐点先ほどの積載見本。台車に乗った三十石船(さんじっこくぶね)2010年、復元されて寄贈されたものだそうです。京都から滋賀への物資は主に米、薪炭、醤油、酒。先ほども書いたが、このシステムは1891年~1948年まで運用された。それ以降中止されたのは車や鉄道の普及が要因であった。南禅寺には地下鉄蹴上駅が最も近い。しかしインクラインを知らないのか? 三条通りを下って水路閣だけ目指す人が案外多い。どうせなら合わせて見るといいのにね 琵琶湖疎水 つづくリンク 琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)バックナンバーリンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)
2017年06月08日
コメント(0)
南禅寺の水路閣は、推理サスペンスドラマでは常連の場所である。何しろレンガのアーチはとても絵になるからだ。でも、それが何なのか京都の人はさておき、知っている人は少ないだろう。以前「ローマ水道」(1~10)を特集した事があるが、南禅寺に見られる水路閣(すいろかく)は、まさに京都の水道橋(すいどうきょう)なのである。※ 水道橋(すいどうきょう)とは、高低差を利用して、山や河や谷を超えて水を運ぶ水路の事。(今なら水道管がそれにあたる。)江戸では、上水(じょうすい)と言う人口的な水路が早くから確立されていて、遠くの河や池から水をひいて江戸市民の飲料をまかなっていた。人口が増えた都市の大量の水の需用。大火の時の水の必要性。江戸の井戸水は塩分濃度が高かった。などの問題があったからだ。 (水道橋(すいどうばし)は神田上水の通る橋から由来。)京都ではそれが遅れる事、明治維新。やはりきっかけは京都大火。そして東京奠都(てんと)であった。※ 東京奠都(てんと)については後から説明。琵琶湖の大津より取水して京都まで水をひくと言う疎水(そすい)事業は1885年になってやっと行われた。豊臣秀吉以来の待望であったと言われる疎水(そすい)事業は、山を越えると言う技術的な問題で、なかなか難しかったのだ。だが琵琶湖疎水が優れていたのは、その水路が飲料や潅漑(かんがい)だけでなく、物流や、発電にまで利用された事だ。そしてその発電により京都では日本初の民間による路面電車(京都電気鉄道)まで走ったのである。※ 後に京都市により買収されて公営に。今回は、その琵琶湖疎水(びわこそすい)にかかわる所を紹介するのですが、どこから入るのかで右往左往。まずは解りやすく南禅寺の水路閣(すいろかく)から入る事にしました。琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)琵琶湖疏水(びわこそすい)とは?琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割京都三大事業(第2 琵琶湖疎)南禅寺水路閣(なんぜんじすいろかく)奠都(てんと)と遷都(せんと)南禅寺の中にある水路閣(すいろかく)名前は水路閣(すいろかく)となっているが、これは水の水路。水道橋(すいどうきょう)です。言われてみれば気が付く、京都には小さな堀や河がたくさん見られます。それはほぼほぼ人口の堀だったのです。例えば垂直に南北に延びた堀川は、琵琶湖疏水第二疏水分線でできた川。確かに垂直は不自然。また銀閣寺西の「哲学の道」と言われる遊歩道もまた琵琶湖疏水に沿ってできた管理用道路として設置された道。(疎水は一級河川である白川と合流もしている。)参考に哲学の道の横の疎水(そすい)です。銀閣寺西橋から撮影。琵琶湖疎水(びわこそすい)とは?琵琶湖を水源にした潅漑(かんがい)用の運河の事である。京都市では琵琶湖疎水(びわこそすい)をLake Biwa Canal と訳している。琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割第1 琵琶湖疎水 1885年(明治18年)~1890年(明治23年)完成1. 農地の為の潅漑(かんがい)用水。2. 水運 琵琶湖から京都を通り大阪に至る運搬ルートの確立。 ※ 1893年(明治26年)鴨川運河竣工。 ※ 大津―(疎水)―蹴上―(鴨東運河・鴨川運河)―伏見―(宇治川・淀川)―大阪水運ルート開通3. 飲料としての上水道。4. 精米や、粉物など水車の動力としての利用 ※ 当初の第一目的であったが縮小。水力発電にシフト。5. 水力発電 ※ 1891年(明治24年) 第一期 蹴上発電所(けあげはつでんしょ)送電開始。 営業用としては日本最初の水力発電所となる。 ※ 1895年(明治28年)これもまた日本発の営業鉄道。京都電気鉄道(伏見線)開通。上に紹介したのは第1期の 琵琶湖疎水事業によるもの。この後、京都市は、もっと多くの電力を得る為、また都市の基盤を整備する為の事業計画として京都三大事業を立ち上げる。それは第2 琵琶湖疎を中心に展開される都市機能の拡充である。京都三大事業(第2 琵琶湖疎)第2 琵琶湖疎水 1908年(明治41年)~1912年(明治45年)完成1. 第2 琵琶湖疎水 ※ 蹴上発電所の限界。より多くの電力により産業の発展。2. 上下水道整備 ※ 都市人口の増加。井戸水の汚染。飲料になるので全線トンネルになっている。 ※ 1912年(明治45年)第2疎水を利用して日本初の急速ろ過方式の浄水場完成。3. 道路拡張と市電の施設。 ※ 都市の発展の為の道路計画と市電網の拡張。琵琶湖疎水略図から 一部黄色の円が蹴上(けあげ)。南禅寺の水路閣もそこに含まれる。蹴上(けあげ)蹴上(けあげ)は山科疎水(やましなそすい)からトンネルを経由して京都側に出た場所。高低差を利用した疎水路により大文字(如意岳)の山に沿って南禅寺、若王子、吉田山の北東を通り、高野、下鴨、堀川と南から北へ。その後西に向かって市内へ水が配水される。蹴上 第2疎水合流水路とナイアガラフォール この右手に山からのトンネルがある。蹴上発電所への取水設備と発電所への送水鉄管 斜面を利用した水力発電だそうだ。蹴上はまさに京都の心臓部にあたる場所。(浄水場や発電所も集合している。)南禅寺は蹴上の少し北に位置し、疎水の合流点に割と近い。第1疎水の分線の他に南禅寺の裏の山には南禅寺トンネルと言う導水トンネルが通っていて、それは先ほどの哲学の道の疎水までつながっている。南禅寺 三門近いうちに南禅寺を紹介する時に詳しくはとっておきますが、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」は南禅寺三門から、満開の桜の景色を愛でたセリフだそうです。実は前日の防風雨で桜がほぼ散ってしまい本当に残念。三門の上から 後方の山にパイプラインが通り、疎水分水が走っている。ピンクの矢印の所に疎水分線の水路閣がある。南禅寺水路閣((なんぜんじすいろかく)位置的に水路閣は東西にかかっている。裏の山が南1888(明治21)年に疎水事業の一環として建設された水道橋はローマ水道の橋を想い起こすと評判に。・・と言う事から「水路閣(すいろかく)」と呼ばれるようになったらしい。全長93.17m、幅4.06m。高い所で9m。水路幅2.42m。レンガ造りのアーチ工法。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあったらしいが、当初山を掘る予定が予定地に皇室の稜があり断念。かくして突出した水道橋はお洒落な西欧風のレンガの橋となった。※ 設計デザイナーが不明。琵琶湖疎水の責任者である土木技師 田辺 朔郎(たなべ さくろう)(1861年~1944)と書いている人もいるが、確証がとれていない。彼が全ての設計をおこなったとも思えないし・・。水路閣の看板にも設計者の名前は書かれていなかった。奧に見えるのが南禅院1983年(昭和58年) 「南禅寺水路閣・蹴上インクライン」京都市の史跡に指定。1996年(平成8年) 第1疏水関連施設12箇所が「日本を代表する近大遺産」として国の史跡に指定。※ 南禅寺水路閣・蹴上インクラインの他、疎水のトンネル出口や竪坑などが入っている。今や京都を代表する観光名所の1つです 山側から山側から、東の高徳庵方面奧の方が水路閣この後方は南禅寺方丈の庭園裏山を回り込み山のトンネルに。山側、南禅院前から南禅寺法堂方面疎水工事については次回触れるが、日本初の技術がたくさん盛り込まれた画期的な工事。しかし完成できるか危ぶまれた難工事だったそうだ。何しろ琵琶湖からここまで山の中を最長のところで2436m(第1トンネル)もあったそうだ。そこで竪坑工法により掘削が始まったそうだが、当時は重機もなく、ほぼ人海戦術。無理な悪条件で死者も多数でたそうだ。もちろん木材も、レンガさえも時前で調達。水路閣に使用されているのは国産レンガらしい。通常西側の上から水路が見えるのだが、今回工事中? 塀で閉ざされてのぞけませんでした。残念 橋脚の下のアーチを覗く。西から東方面(南 右の山側)みんなが撮影したがるのでこんな写真を取るのは結構至難。東から西方面(山は左側)反対東側から撮影して気付いた事がある。橋脚のアーチの大きさは、東に行くほどに小さかった。奠都(てんと)と遷都(せんと)ところで、なぜ京都市は琵琶湖から疎水する事に踏み切ったのか?冒頭に書きましたが、大きく言えば明治維新がきっかけです。1867年、第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に奏上(そうじょう)。大政奉還1868年、江戸城の無傷開城を1つに明治天皇は東の京都に都を定めた。東京奠都(とうきょうてんと)1869年、明治政府も京都から東京に移動。京都から人口の減少や産業の流出がおこり京都がこのまま衰退してしまうのを恐れた第三代京都府知事であった北垣国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)が構想した京都の勧業政策であった。それにしても不思議なのは、都は京都から東京に遷都(せんと)されたのではないそうだ。天皇陛下の住まいも、政治中枢も確かに移ったのだから遷都で良いはずなのだが、京都に気を使ったのか?奠都(てんと)と言う言葉が使用されている。奠都(てんと)では、都は京都のままであるが、新たに東にも都を造った。と言う事になるらしい。つまり京都も東京も並立して帝都と言う解釈のようだ。次回 引き続き琵琶湖疏水でインクライン紹介です。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)リンク 琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)
2017年06月01日
コメント(0)
Break Time(一休み)息抜きに、久しぶりの植物ネタ。今、自宅にある「幸福の木」の花が見事に満開。幸せのお裾分けです (@^_^@)幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)幸福の木の名の由来?近年の植物分類学被子植物系統群(Angiosperm Phylogeny Group)(APG)一般に「幸福の木(fortune plants)」と呼ばれるのはドラセナの中でも、ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana) を指すそうです。18年くらい前に300円で購入し、当初トイレに飾っていた観葉植物はろくに日も当ててもらえないのに立派に生長。1年もしないうちに倍のサイズになり、トイレからリビングの一番良い場所に移転。そして5年ほどしてから想定外に見事な花を咲かせるようになりました。今年は2ヶ月ほど遅いかもしれません。花はおよそ1年に1度開花するが、成長が早く天井にぶつかるので2年に1度、幹を1m程切り詰めています。※ 切り詰めた翌年は咲かない時もある。また切り詰めて根付かせた木にも花が咲いてます。花開いて行く度に芳香を放ち1週間以上続く。家中香水を噴きかけ回ったような香りで満たされ、ぶっちゃけちょっと香りに酔ってます その芳香故に、ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)と種名が付いています。「幸福の木」の名の由来?はっきり解明できていませんが、フィリピンのミリオンバンブー(ドラセナ)が風水的に福をもたらす事から・・と言う説とハワイ由来の説がありますが、ハワイ由来の木はそもそもドラセナではありません。勘違いから来ているのか? 最初から間違って認識されたのか解りませんが、ハワイ由来の植物はフラのダンスで腰に巻く蓑(みの)となる植物で、俗に広い葉「ティー・リーフ(ti leaf)」と呼ばれる種です。邪悪な霊を払うと言うその植物は聖なる植物としてハワイアンに大切にされています。(邪気払いから好んで敷地内に植える人が多いとか。)同じ Asparagaceae (アスパラガス科)ではありますが、こちらはパプアニューギニア、ポリネシアなどの南洋諸島の原産で、見た目も違います。一方、ドラセナ・フレグランスマッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)は熱帯アフリカの高地が原産です。(日本では室内管理が基本ですが・・。)およその生息地を囲いました。最も今は全世界に出回って生息している事でしょう。5月5日 最初に気がついた時にはすでに穂が・・。何より花が咲くには条件があるようです。直前に増えて密集した葉を20枚くらいカットしています。葉に行く栄養が減ったせいもあるのかな?いつも香りで気がつくので、もっと成長してからでしたが今回は花芽の段階で気付いたので撮影ができました。5月5日cornstalk dracaena(トウモロコシの茎 ドラセナ)と言うだけあって、確かにトウモロコシっぽいです。5月6日滴ってきているのは蜜(みつ)です。すでに甘い香りが漂ってきています。経験上、鉢のまわりには紙のシートをはりめぐらしています。蜜がポタポタ落ちてくるからです。5月7日ちょっとブロッコリーの花蕾(からい)のようにも見えますが、花が咲くと全然違います。5月16日咲く時は1度に咲かない。時間差で開花。だから最初の花は5月16だけど本日25日まだ若干残こった花がまだ咲いています。ジャスミンの花にも似た白い小さな花弁。花1つだけでものすごい香りを放っています。ものすごく甘い香りです。森にあったなら虫がたかってくる事でしょう。5月18日咲き始めたら早い。近年の植物分類学実は近年DNA解析が進み、植物の系統分類が大きく変格しています。80年代以降コンピューターが導入され、しかも近年高速化が実現。葉緑体DNAや核DNAのシーケンスを利用した系統解析が今の主流。(理論的な裏付けができる。)それに対して今までの植物分類は形態的特徴によるもの。目や科の入れ替わりや消滅は激しく、各分類群の再評価が始まっているのですが、逆にDNAによる遺伝分類よりも形態情報が追いついていないのだそうです。たいていの植物図鑑もそうですが、ウィキペディアでも未だ古い分類のままで記されている所が多く、何が最新で正しい情報なのか解りにくい状況です。正直、以前の形態分類では、納得のいかなかった分類が多々有りました。それがDNAによる遺伝分類により、有無を言わさず確実な縁戚関係が証明されるのですから、これにまさるものはありません。そう言う意味では、全てリセットして造り治した方が早いし解り安くなるのではないか? とも思います。なぜなら、古い形態による分類をどうしても残したいが為に今現実にややこしい事態になっているからです。新たな遺伝子分類による系統樹ができたなら、植物分類は、劇的に変わってくるかもしれませんね。ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana) 植物分類Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)1998年に公表された被子植物の新しい分類体系APG III(APG体系、2009年第3版)Angiosperms(被子植物) Monocots(単子葉植物) Asparagales(アスパラガス目) Asparagaceae (アスパラガス科) Nolinoideae(スズラン亜科 和名?) Dracaenoid(ドラセナ) Dracaena fragrans (ドラセナ・フレグランス)※ Asparagales(アスパラガス目)はラテン語の直訳で日本ではなぜかキジカクシ目と和名が使われています。それが余計にややこしいので省きました。グローバルに研究する時代なのでもはや学術分類に和名はいらない気がします。※ 園芸の本ではドラセナは未だリュウゼツラン科とされていますが、このあたりがAPG IIIの分類で大きく変更。今までリュウゼツラン科に含められていたドラセナ、サンセベリア他、今までユリ科に含められていたスズラン、オモト、ナギイカダ等がNolinoideae(スズラン亜科)に移動されている。これから続々植物のDNAが解析されてくれば、まだ変動はたくさん出てくる事でしょう。今回調べて見て、植物学は発展途上? かなり遅れた分野だと感じました。5月21日 昼そろそろ枯れかけてきた? と思うかもしれませんが・・。写真は昼間のものです。幸福の木の花は夜開花します。5月22日 夜復活。まだいけそうな感じですね。5月25日深夜さすがに終わりですね。昼にカットしましょう。子房の部分は理論的には実になるはずですが、ボロボロ音を立てて落ちてきています。木の方の栄養もかなり取られているので素早くカットして、肥料をあげて、来年また咲かせてもらえるようケアをしなければ・・。花の穂が出てから20日目。今回は花も10日近く楽しめました。例年1週間が目安。その間家中がにフローラルの香水をまき散らかしたような芳香に包まれ感謝です。これこそが、「幸福の木」の由来なのかもしれません。よく、滅多に無い事が起きると枯れてしまうのではないか? などと言われますが、その後のケアをちゃんとすれば大丈夫です。うちでは鉢植えの、月桂樹にも花が咲いた事があります。1度だけ。その後10年花は咲いていませんが・・。ハッピーついでに宝クジでも当たらないかな 次回、琵琶湖疏水、蹴上インクライン(けあげインクライン)予定
2017年05月24日
コメント(0)
次をどこにするか? 「六道の辻」でも紹介しようかな・・と考えながら寝たら、とても恐ろしい夢を見た 寝て居る自分の胸に何かがこぼれ、そこにこぼれたエサ? をねらって胸の上でエサをついばむような騒動が起きていた。その後、静まってから胸を触ろうとしたら無い???背中から触っても腕はあるのに背中も胸も消えている。 ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ首から下がガランドウなのだ。何かに食われてしまった???私の特技は金縛りからの覚醒である。(声を出す技術があるのだ。)助けの声をあげて体を触ってもらうと現実に帰還。(夢から覚める。)体はちゃんとついていた。(#´ο`#) はぁ~でも、さらにゾッとしたのはこの後だ。 「六道の辻」は鳥辺野(とりべの)の入口にあたる。以前、京の三大葬送地について書いた事があるが、鳥辺野(とりべの)はその1つ。平安時代には庶民の葬送地。当時は風葬が一般的で、特に鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りがされていた。それが故に鳥の名が残った場なのだ。「六道の辻」は生者と死者の住む堺であり、冥界への入口と言われる由縁だ。が、今の今まで鳥辺野(とりべの)の事は忘れていた。それなのにあんな夢見るなんて・・悪夢は自分が鳥葬にあっていた記憶だとしたら恐ろしい事だ ..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ※ 2015年6月「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」 古の京の三大葬送地 でふれています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)そんな訳で今回の場所はその六道の辻(ろくどうのつじ)の話と冥界への入口とされた六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に決まったのです 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺常見(じょうけん)と断見(だんけん)六道輪廻(ろくどうりんね)六道の辻(ろくどうのつじ)京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)冥途(めいど)通いの井戸仮説六道まいりまず最初に、「六道の辻」とは、仏教から来ているもので、現実の辻道の事ではない。かつて六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)と六波羅密事(ろくはらみつじ)のあたりは、仏教の因縁により、「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼称された場所なのである。しかし、それは平安時代に遡る話。※ 今はそれぞれに寺領が小さくなっているので少し離れているが、かつて六波羅密事(ろくはらみつじ)と六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は門前が向かい合っていたと言う。なぜここが「六道の辻」なのか? 六道の辻の因縁はこの六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を中心に発展した話だからだ。常見(じょうけん)と断見(だんけん)人が死んだらどこに行くのか?実は仏教以前から、霊魂不滅(魂は転生)の立場をとる常見(じょうけん)と、霊魂消滅(人の魂、一代限り)の立場をとる断見(だんけん)と言う相反する2つの考え方があった。簡単に言えば、人間死んだら全てがリセットされる・・と言うのが断見(だんけん)の立場。これは釈迦が最も嫌った考えである。では釈迦は常見(じょうけん)派か? と言うと単純にそうだとは言えない。釈迦の説法にはここに釈迦流の「業と因果」と言う注釈が加えられるのだ。業(ごう)とは善因善果、悪因悪果の思想(因果応報)。よく自業自得(じごうじとく)と言う言葉を使うが、自分のした事(因縁)には必ず報いが来る・・と言う考え方。つまり業は因縁によって引き起こされる事象でもあるのだが、人はその業により苦しみに囚われる。六道輪廻(ろくどうりんね)輪廻(りんね)は、人の生前の業により、次のしかるべき世界へと転生。そしてそれは流れのように巡ると言う考え方。六道輪廻(ろくどうりんね)の、六道とは地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天の6つを指す。生前の業により、これらいずれかの世界に生まれ変わると言う考え方。しかし、実はこれもまた仏教以前からの常見(じょうけん)派の考え方で釈迦の本意ではない。魂ひっくるめて、あらゆる物は無常であり絶えず変化しているので今の延長に想定する未来があるわけでもない。つまり釈迦の教えでは人の霊魂がそのまま次の人に転生すると言う考え方はしていないし、六道のいずれかに行けるとも言ってはいないのだ。※ 仏教用語となっているが、輪廻転生(りんねてんしょう)は本来インド古来の死生観であり釈迦の教えではないと言う事を書いておきたいと思ったのです。六道の辻(ろくどうのつじ)「六道の辻」の説明では、亡くなった人が現世を離れて向かう(輪廻する)、六道の6つの辻として紹介されている。輪廻転生を旨(むね)として六道を示唆する事より、むしろ人の生前の行いを諭す(さとす)意味で六道輪廻(ろくどうりんね)の考え方は利用されたのかもしれない。通常は誰しも生まれ変われるものなら、天か人を望むからね。因みに六道の衆生から救済してくれるのが地蔵菩薩で、末法思想が盛んになった平安期から地蔵信仰も同時に増えたようだ。(平安初期は街も人もかなりすさんだ状況だったらしいから・・。)実はこのあたり、六波羅密事(ろくはらみつじ)他、地蔵信仰が盛んだったあとが多々見受けられた。この寺始め、六波羅密事にも古い地蔵様がたくさん集められている。六道の辻地蔵尊と言うのもある。おそらく、この界隈を宅地造成した時に集められたものなのだろう。鳥辺野(とりべの)水色の円が古来の鳥辺野のおよその場所。黄色の円が六道の辻紫の円が豊臣秀吉の墓所のある阿弥陀が峰。京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)平安時代、鴨川を越えた洛外、東は、人の住む場所ではなく、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)より先は遺体捨て場と言っても過言ではない一般庶民の風葬地であった。※ 冒頭に書いたが、鳥辺野の名前は鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りから来ているらしい。※ 一般庶民も火葬するようになるのは鎌倉時代から。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創と伝えられるよう古い寺である。この寺で最後のお別れの野辺の送りの法要を行った後、遺骸は鳥辺山の麓へと運ばれたそうだ。それ故に生者と死者の境目の場所であり、他界(冥界)への入り口とされ、そこが六道(地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天)の辻と呼ばれるようになったらしい。そして寺は親しみを込めていつしか「六道さん」の名で呼ばれるようになった。本殿前の三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)三界萬霊(さんがいばんれい)とは、3つの階層世界(欲界、色界、無色界)等しく供養する事。つまり上は六欲天から、下は八大地獄まで、どの世界に行った者にも等しく供養をすると言う事らしい。実は三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)あたりが「六道の辻」伝説の中心地とされている。そしてそれは鳥辺野の入口だかからだけではない理由がある。閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)この寺には冥界につながる井戸があると言うのだ。その井戸を入口に冥界の閻魔大王(えんまだいおう)の元に夜ごと通い、そこで閻魔庁の冥官をしていた人間がいる。(伝説)それが平安時代、嵯峨天皇(786年~842年)に仕え、文徳天皇(827年~858年)に仕えていた平安の官僚である小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)である。※ 百人一首の歌人、参議篁(さんぎたかむら)と同一。小野篁(おのの たかむら)像 江戸時代の作左から冥官(めいかん)、小野篁、獄卒(ごくそつ)。おそらく小野篁自身が裁定を下す閻魔となっている像。小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)父も参議であった為に必然的に宮中で仕える役人となっている。父と同様に漢詩や和歌などにも優れていた事から嵯峨天皇に気に入られたようだ。古今和歌集や小倉百人一首にもその歌は伝えられた歌人でもあり、文人として遣唐副使にも選ばれている。(行かなかったが・・。)身長188cmの巨漢で自由奔放、怖い物知らずのところがあったようだ。遣唐使の一件で朝廷を非難する歌を詠んで1度は官位剥奪され島流しに会うも再び呼び戻されて大成している。最後の役職と冠位は 参議、左大弁 従三位。江戸期1689年の仏師の作 閻魔・篁(たかむら)堂の格子の隙間から撮影。伝承では、彼は昼に人間界で働き、夜は冥界で働いていたとされた。そもそも冥界で裁きを行う閻魔(えんま)大王の話は明や唐 由来の話で我々も知るところの話ではあるが、あまり知られていないのが人間でも優秀な官吏は冥界に召喚され、冥界の管理官になると言う役が与えられたと言う話だ。小野篁(おのの たかむら)作とされる閻魔大王座像何よりこの閻魔大王は唐代末に道教思想が混ざりあった偽経(ぎきょう)の産物である。※ 偽経(ぎきょう)・・インド本来の仏典ではなく、後世、土着の信仰と融合されて造られた偽の経。小野篁(おのの たかむら)は846年以降、宮廷の最高機関である弁官(べんかん)として活躍、判事なども行っている。特にその時に判じた「善がい(ぜんがい)訴訟事件」などから「冥界の管理官」などの話が生まれたのではないか? と考えられる。彼の話は平安末期より「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語(こんじゃくものがたり)」、「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」などのより語られ、室町時代には定着していたらしい。それにしても六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)との関係は不明。冥途(めいど)通いの井戸小野篁(おのの たかむら)が、閻魔庁のある冥府に通う為に利用していた入口が井戸で、この寺の本堂裏庭に伝わる「冥途(めいど)通いの井戸」がそれである。写真下。右が井戸。左が小野篁(おのの たかむら)が念持仏としていた竹林大明神を祀る祠(ほこら)。基本予約しないと見られないそうで、こちらものぞき格子の隙間から撮影。小野篁(おのの たかむら)は行きにこの冥途(めいど)通いの井戸を利用。帰りは嵯峨野の福生寺の井戸から帰還していたとされる。(寺の看板より)※ 右京区の嵯峨野にも六道の辻があり、明治期までは福生寺もあったと言う。ところで、これはあくまで私の仮説であるが、先ほどの小野篁(おのの たかむら)の念持仏、竹林大明神であるが、実はこれが何なのか不明。もしかして? それは竹林の七賢(ちくりんのしちけん)から由来しているのではないか? 「竹林の七賢」は、中国の魏国時代の賢者達が、酒を交わしながら国や政治や諸々の事を談議する集まりの話。(宗の時代に逸話集として編纂された中の1つ)現在と違い、うかつな事を言えばすぐに首が飛ぶ時代のエピソードを時代を置き換えて説話にしたもの?そう考えると、ひょっとすると・・。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は人の寄らない場所。特に夜は誰も来ないだろう。(誰か宮中の者に存在を見られる心配もない。)そこで、小野篁(おのの たかむら)は気心の知れた仲間と時々そこに集まって、酒を飲みながら憂さ晴らし兼ねた談議の会を催していたのではないか? と推測する。以前、遣唐副使の件で失敗して官位剥奪を受けた事があるだけに本当は朝廷に対する不満は大きかったのでは? 左遷されてその地で亡くなり怨霊となった菅原道真公に比べれば、割り切りのいい漢(おとこ)だったようにも思うが・・。六道まいり寺では毎年盂蘭盆(うらぼん)(8月13日~16日)前の8月7日~10日4日間、「六道参り」が行われている。先祖の霊を祀る報恩供養であるが、槇(まき)の葉に乗って冥土より帰ってくる先祖の霊を「お迎え鐘」で迎えると言うものらしい。「お迎え鐘」の音は十萬億土の冥途まで響き渡ると言う。残念ながら「迎え鐘」は修理中であった。チャンスがあれば盂蘭盆(うらぼん)に行って見たいが・・。境内のおみくじ閻魔様鎌倉時代までは東寺の末寺としてあったようですが、南北朝時代以降、建仁寺の塔頭の1つになっています。六道珍皇寺おわります。※ 「京都五山禅寺」にて建仁寺の紹介をしています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師
2017年05月18日
コメント(0)
昨年暮れに高台寺を紹介した後に、同じく寧々様ゆかりの圓徳院(えんとくいん)を紹介する予定でしたが、今一つ写真が足り無い。次に関西に行った時に不足の写真を撮ってこよう・・・とずっと保留になっていた所です。2016年京都の秋と2017年春の写真合作になってしまいましたが、やっとこの春に実現。高台寺とその塔頭にあたる圓徳院やその界隈「ねねの道」や「石塀小路」をサクッと紹介します 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)ねね(高台院) 終焉の地 圓徳院(えんとくいん)北政所(きたのまんどころ)の称号ねねの道とねねの小径三面大黒天尊天圓徳院(えんとくいん)と庭高台院時代の寧々(ねね)様石塀小路(いしべいこうじ)2016年12月。2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となった。そして1606年、夫の菩提と実母の菩提を弔う為にに建立した寺が前に紹介した高台寺の創建でした。出家した寧々(ねね)様は高台院を建立するにあたり、1605年、伏見城(桃山城)の化粧御殿と桃山時代の代表作とも言える伏見城の前庭を山内に移築した。それが現在の圓徳院(えんとくいん)の場所でそれ故、圓徳院の北庭は伏見城からの石組でできている。以前も紹介したが、高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があり、高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も幕府が担って建設されている。徳川が排斥した豊臣の奥方なのに、関ヶ原以降も北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。秀吉の残したものはことごとく打ち壊されたにもかかわらず、別格の扱いがあり、伏見城は解体されても案外残された物はあるようだ。高台寺の秀吉と寧々の霊屋(おたまや)の所ですでに紹介した寧々(ねね)様の像。※ 実物の写真撮影が禁じられているので、上の写真はBS朝日で放送されたテレビから引っ張ってきました。北政所(きたのまんどころ)の称号寧々(ねね)→北政所→高台院湖月尼(1548年~1624年)1585年、夫秀吉が関白になった事により彼女自身も従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)の称号を許された。1588年(天正16年)には従一位を授かっている。彼女が序せられる以前は北政所と呼ばれる女性は多々いたようだが、以降北政所と言えば寧々オンリーなったようだ。因みに秀吉の母は大政所(おおまんどころ)と呼ばれたそうだ。圓徳院地図(以前紹介した高台院塔頭全景図の看板より一部切り取り書き加えました。)ねねの道より右側の山の上に高台寺の方丈などがある。(台所坂より登る)写真左に見切れているが石塀小路は下河原通まで続いている。実はもとはその一体全て圓徳院の敷地だったそうだ。(明治期に税務対策で売却された。)赤い→ 圓徳院 入口ピンクの→ 楽市ねねとねねの小径 入口ねねの道とねねの小径ねねの道 (北)八坂神社側から、(南)八坂の塔方面へ 左が高台寺※ 基本的にはここら一帯が高台寺内である。ねねの道より 高台寺に登る 台所坂その真向かいあたりに圓徳院敷地内「楽市ねね」、「美術館」、「三面大黒天」、「ねねの小径」入口圓徳院敷地内の詩仙堂と三面大黒天の堂があるが、お土産やカフェスペースにされている(美術館もこの上)ので常に観光客でゴチャゴチャねねの楽市とは・・・おみやげショップの集まりの事です昔は高台寺の門前町として祗園方面まで賑わいがあったらしいですが・・。ねねの小径とは・・・軒の連なったお土産ショップを通り抜ける路地の事でここより裏の石塀小路への抜け道となっています。石塀小路界隈が昔はすべて圓徳院の土地だったようです。三面大黒天尊天の堂堂は京都御苑よりの移築物らしいが、本尊の三面大黒天は福徳信仰の象徴として、豊臣秀吉が念持仏としたと伝承される珍しい尊像だそうだ。つまり秀吉の出世守の本尊?ねねの道より八坂の塔圓徳院(えんとくいん)と庭圓徳院入口圓徳院(えんとくいん)圓徳院とは、寧々(ねね)様の実兄、木下利房 公の法名である。木下利房 公は江戸幕府の元で賀陽郡と上房郡の2郡で2万5,000石を与えられ足守藩主と言う役を持っていたらしい。妹寧々(ねね)を後見していた木下利房 公は、寧々(ねね)亡き後、1627年に法名、圓徳院(えんとくいん)を得ている。そして1632年、ここを木下家の菩提寺として高台寺の三江紹益 和尚に開基を願い高台寺の塔頭の1つになったようだ。※ 農民出身と言われる秀吉ですが、妻である寧々(ねね)様は戦国武将杉原家の出自。良家のお嬢様であった。先ほど紹介したよう当初の住まいとなる建物は伏見城の化粧御殿を移築したものだったらしい。 同時に木下家の客殿も建立? (それが現在の方丈らしい。)木下利房 公は高台院である妹寧々(ねね)が1624年亡くなるとここを相続したようだ。高台院時代の寧々(ねね)様高台院となった寧々(ねね)様は1605年にここを建立して1624年亡くなるまでここで余生を送っていた事になる。が、のんびり余生を送っていたわけではなさそうだ。先ほど書いたとおり1588年に従一位を授かった寧々(ねね)様は秀吉存命の頃より朝廷との交渉役をしていたようで、公家の一員として高台院となってからも度々御所に献上品を送っていた事が記録から解っている。また、秀吉の菩提を弔う為に高台寺に日参する傍ら、北政所を慕う大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家、など多くの文化人がここを訪れて賑わっていたようだ。また高台寺の所で書いたとおり、徳川2代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)自身が、高台院が創建されてから度々寧々(ねね)様に会いにきていた事が知られている。豪傑で面倒見が良く、人望のある女性だった事はいろんな逸話から知られる所です。南庭 の書院書院造りの和室 松竹梅図襖 木下育慶 作南庭徳村宗悦 作 日本庭園の研究者、造園史家の森蘊(もりおさむ)博士(1905年~1988年) 指導国名勝指定の北庭 北書院から伏見城の化粧御殿と共に同時に移築した化粧御殿前庭は桃山時代の代表的な庭園で今に残されている。賢庭 作 小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式庭園。※ 小堀遠州については2016年12月2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)」の中「史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州」で書いています。もとは池の中に巨石の橋が渡されていたものだが、今は本当に枯山水になってしまっている。当時を残そうと少し荒れてしまっているのが残念な気がしました。夕刻で日陰になり見えにくくなってしまいましたしかも幅広で全景が撮れませんでした。石塀小路(いしべいこうじ)ねねの道からの石塀小路入口もとは圓徳院の敷地だった所だそうです。石畳が続くモダンな通りは大正時代初期のもの。明治時代に圓徳院が明治政府への税金を納める為に土地を切り崩して手放し、宅地になった場所だそうです。薄い黄色が高台寺濃い黄色の通が石塀小路レンガの塀は圓徳院の外壁。レンガは当時の輸入物。非常に珍しいものだったそうだ。お金もかってますね 下は「ねねの小径」入口で先ほどの「楽市ねね」に繋がっている。下の石畳は、昭和に入ってかららしい。なぜならその敷石は当時市電の敷石に使われていたものらしいのだ。当時から雰囲気はバツグンで文化人に人気の場所らしい。ノスタルジックな雰囲気に今は観光客。特に外国人が多い気がした。今はレストランや料亭などの看板が目立つが一般民家もある? 何れにせよ高級住宅地の感じ?あちこちに「静かにしてください。」の看板が目立った。下河原通りに抜ける細い路地は民家の屋根の下をくぐる。下河原通り入口は2箇所あるが、ちょっと解りにくい。高台寺と圓徳院 界隈 終わります。Back numberリンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)他秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
2017年05月11日
コメント(0)
Break Time(一休み)当世流行り物? デパートの仕掛けるお菓子cororo(コロロ)UHA味覚糖 cororo(コロロ)江崎グリコ バトンドール(Bâton D'or)ネスレ・ジャパン(Nestle Japan) キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)大阪より変わったいただき物が届いたなんのことはない、一見箱に入ったグミである。しかし、値段はこれで税込み3240円。4月26日から大阪梅田の阪急デパートで販売開始されたUHA味覚糖の新商品。販売開始都と共に大行列。しかもお一人様1点限りで姉はこれを購入する為に1時間半行列に並らんだと言う UHA味覚糖 cororo(コロロ)新感覚グミ「cororo(コロロ) 6種×4袋(2粒) 内容量360g (一袋食べました)この箱の場合、一袋125円。48粒になるので一粒あたり62.5円。 高い何これ?その正体は菓子メーカーの高級路線商品として開発された通常の市場には出ない限定品らしい。そう言うの最近流行っているな今回のは阪急デパートとUHA味覚糖とのコラボ商品?今まで売られているグミキャンデーcororo(コロロ)の高級バージョンらしい。下は従来のコンビニなどで売られている商品大阪ではこの商品の宣伝が各ワイドショーなどで紹介されているらしく、それを見て姉はハワイにいるお菓子好きの友人へのお土産にこれを購入したいと並んだらしい。一粒直径2cm弱。味は全6種。左からマスカット、巨峰、白桃、レモン、クランベリー、梅新食感を売りにしているだけあって変わっているのはその中身開きにしてみました。クランベリー、梅、白桃は果肉入り。レモンはレモンピール入り。巨峰とマスカットは種に見立てた小粒グミが中に入っている。(完成度は物により差があり)でも既存のグミキャンデーcororo(コロロ)の方は果汁100%とうたっているのに、こちらには果汁のパーセンテージ記載がない。何となくこういうのは果汁の比率が気になるからね。ところで味だが、レモンと梅は確かに美味しかった。果肉入りだし・・。後のはなんとなく香料の味が出て安っぽかった気がする。本来コンビニやスーパーで手軽に変えるお菓子なので安ければまあまあ・・だが、一粒あたり62.5円と考えると、他にもっと良いお菓子買えるのではないか・・と思う。例えば同じような本格的フルーツジェリーの「彩果の宝石」なら1個あたり37円。悪くはないけどやっぱり値段設定が高すぎると思う。商品を販売する「味覚糖株式会社」は大阪に本社を置く1949年設立のお菓子会社。キャンディー系中心らしいが、「UHA味覚糖」の商標は東京でも知られている。商標の「UHA味覚糖」のUHAとは「unique」、「human」、「adventure」の略と言うだけあって、ちょっと変わった面白い? お菓子の開発が好きなのかもしれない。※ 因みに東京での販売予定は今の所無いらしい。大阪ではテレビの宣伝もあって行列らしいが、東京ではどうだろう?今回はおそらく阪急デパート側から仕掛けた物?梅田の阪急デパートは行列のできるデパートで有名だ。いつもどこかに行列がある。かつて江崎グリコの高級ポッキー、バトンドール(Bâton D'or)が出た時も恐ろしい行列だった。最近こそ陰りを見せて行列が短くなっているがバトンドール(Bâton D'or)は高級路線の元祖かもしれない。以前撮影していた写真があったので合わせて載せました。江崎グリコ バトンドール(Bâton D'or)写真はリッチストロベリー(Rich Strawberry)、当時は5月頃までの季節の限定品だったような・・。フリーズドライのイチゴが練り込まれていて本当に美味しい。現在の値段は601円(税抜556円) 内容量:20本(4本x5袋)江崎グリコの高級ポッキーはバトンドール(Bâton D'or)の商標で、百貨店向けの高級路線として2012年10月より大阪高島屋と阪急デパートで販売が始まった。バトンドール(Bâton D'or)とはフランス語で「黄金のスティック」を意味するそうだ。バターをふんだんに練り込んだ生地をじっくりと焼き上げ、かつ澄ましバターをしみ込ませたと言うだけあってリッチなバタープレッツェルはとても美味しい。これはもはや通常のプリッツをはるかに超えた別物である。シンプルなシュガーバター(Sugar Butter)は定番で必ず買いたい味。1度食べた人がリピートしているから行列が続くのだろう。そう、江崎グリコも1929年創業の大阪の会社である。もう1つ紹介。ネスレ日本 株式会社(Nestle Japan Limited)のキットカットの超高級バージョンだ。しかしこちらは上の2つと違い通販でも買えるようだからデパート・バージョンとは言えないが、写真の品は池袋西武デパートにキットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)がオープンした頃に買った時の写真。ネスレ・ジャパン(Nestle Japan) キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)写真の商品は「サクラ・グリーン・ティー(Sakura Green Tea)」「キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)」は「ル パティシエ タカギ」のオーナーシェフ高木康政氏が全面監修した「キットカット」の専門店。※ 「ショコラトリー」とは「ショコラティエ」と「チョコレートファクトリー」を組み合わせた造語。ネスレは高級路線用にキットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)」のブランドを立ち上げたと言う事だ。その世界初のキットカット専門店の1号店として池袋西武にオープンしたのが2014年1月。写真のサクラ・グリーンティーは6月の撮影になっていたのでその時の限定品だったはず。味は・・。値段は通常より高いのにチョコレートにそんなに高級感を感じなかった気がする。そして香料が気になった。一般のキットカットも香料がキツイが、これもサクラ味のせいで微妙だったような・・。キットカットとして買うのはともかくチョコレート菓子として見るならヴィッタメールのチョコでも買った方が良いだろうし、通常のご当地物で十分である。会社のコンセプトには2003年以来の開発になっていたが、高級路線の販売は2014年。デパート出店は他の菓子メーカーより後発である。※ 何よりネットで売っているのだからデパートに行列は無い。高級路線ではないが、今やキットカットはご当地物までたくさん種類がありすぎて幾つあるかわからない状態である。しかし、これは日本だけの現象なのだ。海外には定番のチョコレート味のみだったので、来日する外国人がこぞって土産にしたものだ。私も海外旅行に持参して、抹茶味をザルツブルグのホテルスタッフにあげた所フロント・スタッフがざわついた 「ネットで見た事はあるが実物を見るのも食べるのも初めてだ。」と、とても喜ばれたのだ お礼にモーツァルト・クーゲルをもらった話はそれたが、デパートも今は売れ行きがた落ち。各デパートはいかに売り上げを上げるか策めぐらしている。やはり食品が一番売れるのだろう。うちの近所のデパートも食料品コーナーを拡張してカルビーのライブが入ったし・・。企業とコラボして自分の所にしか無い商品を作って集客する。素晴らしいアイデアです。リピートしてくれる商品でないと意味は無いけどね。私は並ぶの大嫌い。1時間半も並んで買ってきた姉に感謝して有り難くいただきます (^人^)感謝♪
2017年05月03日
コメント(1)
大阪関連のBack numberも加えました。前回紹介しましたように、真田氏は本名、真田 信繁(さなだ のぶしげ)と、呼称、真田幸村(さなだ ゆきむら)と二つの名前が知られています。以下、真田 信繁(幸村)と表記させてもらいます。徳川に敵対した武将ながら、武将としての彼の活躍は素晴らしく、家康は彼を高く評価していたそうです。「大阪冬の陣」で大阪城を守備する出城の真田丸にさんざん負け越した後に真田 信繁(幸村)の腕を買って買収しようとして断られています。かつて関ヶ原の合戦後に「恩義を忘れ、私欲をむさぼり人と言えるか」と言ったように、彼は豊臣に対する恩義と忠誠を武士のプライドにかけて貫いたのです。大阪夏の陣では捨て身で命かけて大将、家康の首を取りに果敢に攻めてきた真田 信繁(幸村)。戦闘虚しく安居神社で討たれましたが、彼の首級を確認した家康は、「真田 信繁(幸村)の武勇にあやかれよ。」と居並ぶ武将に言うと、皆、彼の遺髪を取り合ったと言われています。(茶臼山山頂の看板より)大阪冬の陣、夏の陣ともに真田 信繁(幸村)の活躍は目覚ましく、特に赤いのぼり旗に赤い甲冑で統一された真田隊は、とにかく目立ったのでしょう。敵方まで「あっぱれ」と、感服。武士がリスペクトする武士だったと言えるのでしょう。※ 今回、随分盛りだくさんな内容になってしまいました。ちょうど今の季節なのです 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)安居神社(やすいじんじゃ)天王寺七坂と天王寺七名水天王寺名水と創建年の考察真田 信繁(幸村)の終焉の地武田家家臣から豊臣家家臣に大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地真田家六連銭(さなだけろくれんせん)安居神社境内に建立された真田 信繁(幸村)の像天王寺界隈(「七坂」、一部と★安居神社近辺)オレンジ・・天王寺七坂 下から 逢坂、天神坂、清水坂、愛染坂、、(口縄坂、源聖寺坂、真言坂)※ カッコ内は 地図に乗せていません。赤い星★・・安居神社安居神社は、谷町筋と松屋町筋の間。逢坂と天神坂に挟まれた場所に所在しています。松屋町筋には表参道の鳥居が建っている。表参道(西坂石段)拝殿実は安居神社には他にも2つ参拝ルートがある。逢坂側からの入口安居神社は上町台地(うえまちだいち)の西のきわに建っているので坂の途中にあたる。一番楽なアクセスは、逢坂は国道で道幅が広い坂。「天王寺」の駅から来て逢坂から入るのが一番楽。下るだけなので・・。(逢坂をはさんで手前が一心寺)「四天王寺前夕陽丘」の駅から天神坂ルートで来ると北坂石段を登ら無ければならない。天神坂(北坂石段の前から)安居天神から天神坂と名が付いたらしい。天王寺七坂と天王寺七名水安井の名水(天王寺七名水の1つ)このあたり名水の産地。上町台地からの綺麗な水が潤沢に湧き出る事からここで水を汲んで売りに行く・・と言う水売りの商売(水屋)もあったそうだ。天王寺七坂には天王寺七名水が存在していた。金龍の水、有栖の清水、増井の清水、安井の清水、玉手の水、亀井の水、逢坂の清水と7つの井戸があったらしく、それらは綺麗故に眼病などにも利用されたらしい。北坂石段北坂石段登った所から、奧が拝殿奧が北階段。左が西階段。つまりここは一際高台でとても眺めが良い場所。真田氏がここで討たれたと言う事は、攻められたのは神社裏の東側か逢坂からと言う事になる。安居神社の創建は不明。御祭神は少彦明神と菅原の道真公少彦明神とは少名彦命(すくなひこなのみこと)以前神田明神で紹介した事があるが、(えびす様)として商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様として祀られる神様である。天王寺名水と創建年の考察以前2015年8月「大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)」の所で「天神信仰の発端(御霊信仰)」について紹介しているのですが、御霊として菅原道真公が祀られると言う天神信仰は村上天皇(926年~967年)の治世942年に始まっています。彼はここの名水で病気を治癒したとして祀られるようになったとか・・。それ以前は少名彦命のみ一柱、が祀られているわけで、その信仰はいつからか?古事記に由来する少名彦命(すくなひこなのみこと)を祭る神社が近くにありました。愛染坂の所にある大江神社(おおえじんじゃ)も少名彦命を祭っていて、そこも創建は定かでないものの、聖徳太子が四天王寺の鎮守社として建立した伝承されている事から四天王寺の起源に近いと思われます。※ 四天王寺はいつからか? 四天王寺は、593年(推古天皇元年)に聖徳太子により創建されたとされている。ところで少名彦命(すくなひこなのみこと)は酒蔵の神様でもあるそうだ。酒は「百薬の長」と言うからね。それにこれら名水は眼病にも効いたらしいから医薬健康の神として祀られたのは納得。おそらく神社の創建は名水がらみで由来しているだろう。昔はこの名水を合酒の水としても利用されていたらしいし・・。推定は四天王寺創建以降、大江神社よりも後、7~8世紀以降かな?真田 信繁(幸村)の終焉の地場所は境内向かって右手。逢坂よりに石碑が建てられ、近年像が建立(2009年)されたらしい。真田松と真田氏の像と戦士跡の碑後ろには真田 信繁(幸村)が休息していたと言われる真田の松が生えている。当時の松は既に枯れ、現在のは昭和26年に社殿の復興と共に植樹されたもの。真田 信繁(幸村)は5月6日伊達正宗の兵と戦い、翌5月7日松平忠直と奮戦。退却してここで休息している時に松平忠直の家臣、鉄砲隊の西尾 宗次(にしお むねつぐ)に発見され討ち取られたそうだ。(享年49歳)越前松平家の記録には「相手が信繁と知らずに槍で戦って信繁を討ち取った。」と書き記されているそうだ。真田 信繁(さなだ のぶしげ)幸村(ゆきむら)(1567年~1615年)戦国時代に武田信玄の配下であった真田家は信州上田の出身。武田家家臣から豊臣家家臣に織田と徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、その後織田方に付くが、その信長も亡くなり、武田領をめぐる争いが勃発。秀吉が台頭すると父真田昌幸は豊臣方に付き大名扱いとなるものの、秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦(1600年10月)で徳川家康に惨敗。徳川方に付いていた長男 真田信之の取りなしで命は救われるが真田昌幸と真田 信繁(幸村)は和歌北の九度山に流される?1611年父は亡くなり、1612年に真田 信繁(幸村)は出家。一方、豊臣家と徳川家の関係がギクシャク。方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の件で家康は豊臣家討伐を決める。それが「大阪の陣」につながる。※ 「豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)」の所で方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の事書いています。豊臣家からの招集1614年豊臣家VS徳川幕府今や豊臣方は65万石の弱小。兵は30000前後しかいない。見方する大名もなく豊臣家はかつての家臣達に声をかけた。真田 信繁(幸村)は支度金、黄金200枚と銀30貫。徳川に勝った暁には50万石を約束され大阪城に向かい再び豊臣方に付いたと言うわけだ。大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地大阪冬の陣では籠城。防御の戦いであった。大阪冬の陣 配置図(1614年11月~12月)地図の中ほど、大阪城を囲む外堀の右下に真田丸は建てられ、そこで真田 信繁(幸村)は一手に兵を食い止めたと言う。真田 信繁(幸村)はこの戦いにおいて戦績を挙げた。(それまでは有名ではなかった。)家康は後に信濃10万石で真田 信繁(幸村)を買収してきたと言う。大阪夏の陣 配置図(1615年4月~5月)冬夏比べてもらえば一目。大阪城周りのお堀が減っている。もともと埋め立てOKしたものの、時間が稼げると思った豊臣方だが、徳川方はものすごい人数を動員して急いで埋めてしまったらしい。今度は籠城はできない。大将の首(徳川家康)を直接取るしか勝つ方法はないと真田 信繁(幸村)は果敢に攻めの戦いをした。だが兵の数に差がありすぎた。豊臣方55000人。徳川方は15万5000人。10万人も違う ちょっとここで上町台地の高低差が解る画像を紹介。どうしてこんな配置図になったかよく解ります。左三角が茶臼山。夏の陣では真田 信繁(幸村)陣どった。右三角が御勝山。(生野区勝山)徳川秀忠が陣取り戦勝の宴を催した元古墳は御勝山と呼ばれるようになった。☆星が冬の陣の時の真田丸の位置。大阪城を攻めるなら南側の台地からしか無いのである。さて、真田 信繁(幸村)と言えば赤である。冬の陣では赤い登り幡(幡指物)を立てた。それは敵味方の区別を付ける為の幡指物であるが、非常に目立ったと言う。夏の陣では真田隊は甲冑も赤で統一されたらしい。そして登り幡(幡指物)には真田家の家紋の1つ六文銭の図柄が入れられた。2015年「大坂の陣400年 丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち」のポスターから甲冑部だけ借りてきました。そもそも本物は現存していないので甲冑レプリカだそうです。真田家 六連銭(ろくれんせん)図柄の元は六文銭であるが、家紋としては六連銭(ろくれんせん)が正しいらしい。夏の陣ではこの家紋が使われたと言う。実は真田家には戦時の旗印として、「結び雁金」と「州浜」もあった。夏の陣での戦いで六連銭(ろくれんせん)が印象強くなってしまったようだ。※ 真田家の六連銭(ろくれんせん)と有名になったが、本家は信濃の海野氏(うんのうじ)らしい。そもそもこの六連銭(ろくれんせん)には意味がある。三途の河の渡し賃、六道銭(ろくどうせん)が由来となっている。つまり冥途(めいど)に入る時に使用する最後のお金である。※ お棺にお金を入れる風習はこの冥途のお金が由来である。真田 信繁(幸村)隊のほとんどは傭兵だったようだが、彼らの決死の覚悟の出陣がうかがえる。死して400年、尚も武勇が伝えられる真田 信繁(幸村)公のご冥福をお祈りします(( -.-人毎年5月安居神社では幸村祭が行われている。今年2017年の日時を見忘れたようですが、5月2日あたりだったような・・。尚、神社は開門時間があります。午前7時~午後4時。古戦場おわります。Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年05月01日
コメント(0)
大阪関連のBack numberも加えました。さて、今回は三度(みたび)大阪からの紹介です。大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村茶臼山(ちゃうすやま)真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前古戦場(天王寺)天王寺公園(てんのうじこうえん)「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」と言う諺(ことわざ)がありますが、いつもお参りに行っていた義理の両親が眠るお寺さんはどうも「大阪の陣」の合戦地だった事が解りました。※ 新しい寺だと思いきや、創建は1185年(文治元年)とかなり古かった。そして調べて見れば、すぐ裏の丘は茶臼山(ちゃうすやま)で、寺の正面ゲートの前方には安居神社がある事も解りました。知る人なら知る、そこは大阪冬の陣、夏の陣、共に武将らの本陣が置かれ、合戦場所となった曰く(いわく)の土地だったのです。近年の大河ドラマのおかげで真田幸村(さなだ ゆきむら)ブームが起きていて、それで知る所となりました。(関連場所には赤いのぼり旗が立っている。)私、日本の戦国物あまり詳しくありませんが「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」の縁で今回、真田 幸村(さなだ ゆきむら)(信繁)氏の合戦地と最後の地を紹介する事にしました。真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前ところで真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で知れ渡った豊臣方の武将ですが、本名は真田 信繁(さなだ のぶしげ)(1567年~1615年)が正解です。「幸村(ゆきむら)」の名は後世、江戸期の軍記物「難波戦記(なにはせんき)」の中で付けられた名前らしく、反徳川の武将だった為に本名を敢えて控えた? ようです。いわゆる芸名が一人歩きして本名を食ってしまった感じです。茶臼山(ちゃうすやま)茶臼山(ちゃうすやま)と河底池(かわぞこいけ)共にここは現在、天王寺公園の敷地内になっています。住所は大阪市天王寺区茶臼山町1-108写真撮影の場所は慶沢園(けいたくえん)前。茶臼山(ちゃうすやま)と名が付いているが標高26m 小さい丘程度である。実は5世紀頃の古墳ではないか? と言う説もあるが出土品が出ていないので判らないが、大阪はヤマト王権時代からの歴史を持つ土地なのである。確かに前方後円墳のような形ではあるし近所の四天王寺(聖徳太子建立の寺)では埴輪棺が見つかっているので可能性は高い。天王寺公園の地図・・方位を北にあわせる為に横にして、さらに必要箇所を少し足しました。ピンクが茶臼山です。その周囲が大阪市立美術館もあるエリアです。グリーンは動物園。オレンジは最近できた天王寺駅前の芝生広場。茶臼山の北北西に一心寺があり、さらにその北に安居神社があります。さらにずっと北に行けば大阪城です。一心寺と安居神社に挟まれる道は逢坂(おうさか)で右(東)に登ると四天王寺があります。実はここは上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の西の稜線に位置していて、このあたり「天王寺七坂」と呼ばれる有名な坂が並んで存在しています。茶臼山(ちゃうすやま)山頂ルートは天王寺ルートや一心寺ルートなど外からのルートは3つ。山へ登るのは5箇所。一心寺から見た茶臼山一心寺も高台になっている。本当にただの小山。名前がついている事に驚くが戦国の時代には茶臼山には城郭があったらしい。築年は1546年(天文15年)。細川晴元の家臣である山中又三郎が古墳の上に建てたとされる大塚城である。木が無ければ西方面の景色は一望できたはず。古戦場(天王寺)ところで天王寺と言う場所は数々の戦場になった場所なのである。その理由は地形による所が大きい。(次回詳しく)先ほども触れたが、上町台地(うえまちだいち)と言う小島のような丘陵が平たい台地の上に乗っていて、古来そこに人が住み着いたからだ。※ 上町台地(うえまちだいち)の北には大阪城が建っている。1576年(天正4年)4月石山本願寺(現大阪城の場所)が挙兵し、天王寺まで進軍。織田方の天王寺の砦が包囲されると京都より信長自ら少ない手勢で救援に向かい先陣の足軽に混じって駆け巡り危機を脱っした戦いが石山本願寺VS織田信長「天王寺の戦い」である。さらに戦国最後となる豊臣家VS徳川家の決戦の場所もここである。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、ここを徳川家康は住吉から茶臼山に本陣を移し使用したと言う。徳川方はここより真田丸を攻めたのである。さらに翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣では、反対に豊臣軍の真田信繁がここを本陣にして徳川の首をとるべく野戦に出たのである。(茶臼山砦や茶臼山陣城)一心寺側ルートからの茶臼山山頂へのアクセス山頂は狭い古戦場の戦線地図が置かれているのだが、ガラスで光って見えにくく。写真も全てダメでした。山頂登頂の証明書が欲しい人は、茶臼山ゲート前の一心寺存牟堂で発行してくれるらしい。9時~16時。一部100円の実費がかかるが・・。最近山頂には立て看板が建った。真田信繁(幸村)の人となりや名言が書かれている看板が幾つか。武将の鏡と称される名言が真田信繁(幸村)には数々あるらしい。上は豊臣方に受けた恩義を忘れない。と、同時に金品に目がくらんで恩義を忘れるヤツは人ではないと罵倒。確かに真田信繁(幸村)は豊臣方に忠義を尽くしたが、彼の兄は徳川方に忠義を尽くした。そして兄弟で敵対したわけだが、そもそも真田の家を残す為に敢えて二方に別れたのが本当だ。※ どっちが勝っても家名が残るからね。下も茶臼山にあった看板この図ではJR環状線の内(豊臣方、赤)と外(徳川方、青)で対峙して戦った事になっている。まさに真田信繁(幸村)は上町台地(うえまちだいち)の上手側から攻めている。※ 赤い甲冑は真田信繁(幸村)のトレードマークである。天王寺公園(てんのうじこうえん)茶臼山は左。河底池(かわぞこいけ)にかかる赤い橋は和気橋。西から東方面を撮影。四天王寺は茶臼山の向こう側。その写真右方面にアベノハルカス写真右に見切れているのが大阪市立美術館。大阪市立美術館美術館エリアから天王寺駅前の芝生広場に出る歩道橋からまさにこの当たり徳川の陣前の合戦場所。次回、真田信繁(幸村)最期の地を紹介Back number 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年04月26日
コメント(0)
天満の造幣局博物館と関連リンクをラストに載せました。大阪市北区天満1丁目に造幣局がある。創業は1871年。明治政府により近代国家としての統一した貨幣による貨幣制度の確立を図る為、江戸幕府の時からあった金座と銀座を接収して造った貨幣氏司がルーツになっている。遡る事1868年。英国の払い下げの造幣機械を購入して大阪に造幣局を誘致したのは五代 友厚(ごだい ともあつ)(1836年~1885年)である。一時NHK朝ドラ「あさが来た」でブームになったイケメン五代様である。※ 彼は明治政府の参与職外国事務掛となり、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、かつ初代大阪税関長となっている。近代式の機械工場とは言え、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足で調達してラインを確保したようだ。(それに伴う燃料や電信電話、ガス灯、時計もいち早く導入している。)他に簿記も複式簿記となり、インクとペンが使用される。職員の身なりも、断髪、廃刀、洋服の着用を率先。造幣局が欧米文化移植の先駆者であり、大阪の近代工業及び文化の興隆を牽引して行ったのである。(大阪の町工場の原点がそこにあるのかもしれない。)その造幣局では毎年4月に桜の花見が催されている。造幣局は大川(旧淀川)沿いに立地していて、川辺の全長560mの通路には桜の木が多数植栽されている。それを4月の一週間だけ一般の人も中に入場して桜を鑑賞する事ができると言うもので、かなりの賑わいをみせるイベントなのである。今年は、桜の花と名前をしっかり撮影して歩いてきました。大阪 造幣局 桜の通り抜け造幣局ルーツ桜の通り抜け小手鞠(こでまり) 大手鞠(おおてまり) 紅手鞠(べにてまり)大沢桜(おおさわざくら)八重紅虎の尾(やえべにとらのお)楊貴妃(ようきひ)法明寺(ほうみょうじ)八重紫桜(やえむらさきざくら) 白雪(しらゆき) 鬱金(うこん)千原桜(ちはらざくら)毎年3月中旬に決めると言う桜の通り抜け、今年は4月11日(火曜日)から4月17日(月曜日)でした。所が今年は3月桜の開花頃に寒さがぶり返し開花が中断。結果的にスタートの11日時点で3割程度、最終日の17日でさえまだ満開までいかないような状況。つまり今年は造幣局が桜の開花時期を見誤った感じでした貴金属を扱う場所なので通常一般人は入れ無い。毎年この時期だけの風物詩である。1883年(明治16年)、当時の造幣局長遠藤謹助が「大阪市民の皆さんと一緒に花見を楽しもうではないか。」と発案したのがきっかけだったそうだ。全長560m。混雑するので一方通行となっている。(入口は天満橋方面から。出口は桜宮橋へ。)トイレは入口と出口にある。近年はツーリストが多く張り紙には中国語と英語、韓国語が書かれていて大阪城にバスを停めて歩いてくるらしいので驚いた。染井吉野(そめいよしの)染井吉野(そめいよしの)江戸末期頃、駒込染井村の植木屋が初めて出した品種と伝えられる桜で、大阪城公園は染井吉野ばかりであったが、逆にこの造幣局ではこれが唯一の木だそうだ。写真は13日時点のもの。いつもなら染井吉野はとうに散って居るはず。八重紅大島(やえべにおおしま)八重紅大島(やえべにおおしま)花は淡紅色の八重咲き、大島桜系の一品種で、花弁数は26~35枚、少し香りがある造幣局は八重桜が多い。そもそもここは藤堂藩の蔵屋敷があった場所。その庭の桜を造幣局の北門と南門を繋ぐ道にそって移植したものらしい。種類も凄いが、中にはここでしか見られ無いような桜もあるらしい。小手鞠(こでまり)小手鞠(こでまり)多数の花が枝の先に密生して咲き、小さい手毬の状態となるところから、この名が付けられた。大手鞠(おおてまり)大手鞠(おおてまり)多数の花が枝の先に密生して咲き、大きい手毬の状態となるところから、この名が付けられた。花は、中輪の淡紅色で花弁数は20枚程。紅手鞠(べにてまり)紅手鞠(べにてまり)小手毬と同様であるが、花が赤い手毬の状態となるところから、この名が付けられた。小手鞠(こでまり)や大手鞠(おおてまり)は造幣局以外ではなかなか見られ無いらしい。大沢桜(おおさわざくら)・・里桜大沢桜(おおさわざくら)京都嵯峨野の大覚寺境内にある大沢池畔にあった非常に美しい淡紅色八重で、花弁数は15~18枚の優雅な里桜である。八重紅虎の尾(やえべにとらのお)八重紅虎の尾(やえべにとらのお)古くから京都で栽培されていた桜といわれ、その咲く有様は虎の尾のようで、花は淡紅色である。 楊貴妃(ようきひ)楊貴妃(ようきひ)昔、奈良地方にあった桜で、つぼみは紅色であるが、開花時には淡紅色となり、花色も優れ豊満なので、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けた。花弁数は、20枚程である。法明寺(ほうみょうじ)法明寺(ほうみょうじ)京都府美山町の法明寺境内にあった名花を、佐野藤右衛門氏が接木育成し、命名した。花は淡桃白色である。八重紫桜(やえむらさきざくら)八重紫桜(やえむらさきざくら)紫桜の重弁の品種。三好 学氏が小石川植物園において紫桜の実生栽培したところ、重弁のものが生じ、この名が付けられた。白雪(しらゆき)・・里桜白雪(しらゆき)東京荒川堤にあった里桜系の名花で、花は白色の一重で、花つきが多い優美な品種。 鬱金(うこん)緑の桜? 鬱金は今年の花に選ばれている。鬱金(うこん)古くから知られた桜で、江戸時代に京都知恩院に植えられていたといわれ、樹姿は直立高木で、花は淡黄緑色のショウガ科のうこんの根の色に似ていることから、この名が付けられた。花弁数は10~15枚。千原桜(ちはらざくら)千原桜(ちはらざくら)淡い緑を含む白色の花弁は、染井吉野の1.5倍と大きく、1本の小枝に一重と八重とが咲き乱れる様は、誠に見事である。?名前が落ちてわかりませんでした。ちょっと桜には見えませんね。ものすごく可愛いです。今年は少ないからこそ、桜が綺麗にとれた感じがします。昨年は満開で花が密集している上に人が多すぎた為に桜に近づけない状態。今年は自撮り棒禁止になったので、少しは渋滞緩和になったのかな?造幣局はいつか中の紹介がしたいです。造幣局書きましたリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2017年04月18日
コメント(0)
9日日曜朝まで降っていた雨が上がったので大阪城公園の桜の様子を見に出かけてきました。チョット遠回りでしたが、天満の天神さんを通りぬけして天神橋(てんじんばし)から天満橋(てんまばし)に戻る形で西外堀を歩いてめざし、大手前から大手門に回り込み入城。西外堀に着いたのはちょうど昼頃。天気はそこそこ晴れて来た事もあり、そこまで来ると城を目指す人がだんだんに増えてきていました。恐らく花見をするには最後の日曜日。毎夜の雨で夜桜が見られ無かったので皆さん待ちに待っていたのでしょう。大手前から大手門まで、すでに桜並木が満開で(日当たりが良いので)、そこで満足している人もいましたが、とりあえず、西の丸庭園を目指してみました。大阪城は幾つかのブロックに分けられていてエリア毎にそれぞれ楽しめるのですが、天守閣の西に位置する西の丸庭園は1995年11月アジア太平洋諸国の首脳級が参加する国際会議「APEC'95」きに迎賓館が建てられて芝生広場とそれを囲む桜や四季の花が楽しめるように整備されているのです。(有料ですが・・。)今回は西の丸庭園中心に桜を拾って見る予定でしたが、大手門にもこだわってしまいました ※ 2011年09月「空からの大阪城」で天守閣はちょこっと紹介しています。2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜徳川幕府の城大手口 枡形門(ますがたもん)西の丸庭園北政所(寧々)の屋敷跡?大阪城アクセスマップピンクで囲んだのが西の丸庭園→が大手門紫の星印が石山本願寺推定地の碑大手口(大手門)大阪城の表玄関になるのが大手口の門(大手門)である。城には幾つか口(出入りの門)があるので今ならどこからアクセスしてもかまわないが、城の防御の為に堅牢な造りになっているので大手門から観察しながら入るのがお勧めです 西の丸の坤櫓(こんやぐら)から大手口を撮影ゲートまでのストロークは長く左右は堀。門手前の櫓が千貫櫓(せんがんやぐら)である。左が千貫櫓(せんがんやぐら)右が大手口を形成する枡形門(ますがたもん)の一画、多聞櫓(たもんやぐら)徳川幕府の城大阪城と言うと、豊臣秀吉の城と言うイメージがあるが、現在の城は徳川家康により再建された城1620年(元和6年)~1629年(寛永6年)の遺構となっている。※ 秀吉当時の城の残骸は地下に多少残っている程度。秀吉の城を完全に消し去って新たな城を築いたと思われる。大手口の門は寛永5年(1628年)、大阪城再築の、徳川幕府により建造されたもので、幕府による命令で諸大名が城壁を形成する巨大な石を運び込んで造られたものなのである。大手口一の門 高麗門(こうらいもん)大手口枡形内 高麗門(こうらいもん)内側から大手口枡形内 大手門南方塀(写真右が一の門)壁の穴は鉄砲用。 侵入者に対する攻撃用の壁となっている。大手口枡形内 多聞櫓(たもんやぐら)の一部? 壁の巨石に驚く大阪城ではとんでもない巨石があちこちに使われている。中でもこの大手門の巨石は城の威容を誇示する為に表22畳(35.82m2)から29畳(47.98m2)の表面積の石が採用されている。採石地は瀬戸内海小豆島と推定。当時舟にしてもここまでどうやって上げたのかいつも思う所だ。大手口 枡形門(ますがたもん)大手口は防御の為に枡形(四角)構造になっていてL字に門が二つある。(一気に進入できないような造り)一の門は高麗門(こうらいもん)、二の門は櫓門(やぐらもん)と言うのが枡形の一般的な形だそうだ。大手口枡形内 二の門 櫓門(やぐらもん)多聞櫓(たもんやぐら)の一部である。今まで秀吉VS家康の戦いがあった所だと思っていたがそうではなかった。合戦後に全て新しくされているので・・。徳川の時代に新設されたこの枡形大手口内は、江戸時代には商人が定期的に入城。城詰めの大番衆が商人から日曜品など購入する為の市が立ったそうだ。少なくとも江戸の時代は大阪城は長く平穏。しかし落雷による火災が度々。1665年(寛文5年)には落雷によって天守が焼失。徳川慶喜が大阪城を追われた戊辰戦争(ぼしんせんそう)(1868年~1869年)時の大火災。明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用。その為に昭和20年の空襲で破壊。城はいつのまにかコンクリートのビルになっていた。(昭和の天守)昨年姫路城の天守に登ったが、景色以外大阪城の天守に魅力が無いのが残念だ西の丸庭園さて、本来の目的であった大阪城公園の桜の紹介です。広大な芝生広場の前。写真の場所は恐らくかつての城代屋敷のあたり。徳川時代の西の丸跡地とその南に位置していた城代屋敷と合わせて昭和40年(1965年)、総面積約64,000m2の芝生庭園として西の丸庭園は開園。ソメイヨシノを中心に約300本の桜が植えられた桜の名所となっています。※ 大阪城公園全体では3000本。入園料は本来大人200円だが観桜ナイター期間中は350円になっていた。でも中学生以下無料。(大阪在住の)シニアも無料だそうです。お金取るけど価値はありました。何よりタダの所より人が少なくて静かです。天守から内堀一つ隔てた西の丸は豊臣時代に多くの御殿が建ち並んだ場所だそうです。秀吉没後慶長4年(1599年)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が一時住んでいた場所でもあり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦まで徳川家康も住んでいたらしい。※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)寧々様はその後京都に移り住み、1605年伏見城から化粧御殿と庭園を移築して方丈を造り晩年の19年をそこで過ごす。それが近日紹介の圓徳院である。※ 秀吉と寧々様の霊廟のある高台寺は、昨年紹介済み。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)芝生広場からの天守閣左見切れているのが迎賓館。京都二条城の二の丸御殿の白書院をモデルにした純和風建築だそうだが建物が微妙。写真撮らなかったのです。(後からあれが迎賓館だと知った)「APEC'95」で建てられた迎賓館は今は結婚式場とかに利用されているそうだ。大阪城は今回はこれにておわり
2017年04月12日
コメント(0)
2日より大阪に滞在しております 大阪はさぞや暖かいかと思って来たものの6日以降また天気はくずれ夜は寒さもぶりかえしています。おかげで桜の開花を楽しみにしていたのに雨と寒さで桜も蕾の状態で止まってしまっているようです。6日に撮影した時点では見頃は今週末かな? と思っていたのですが、その後の天気の悪さでわからなくなった感じです。5日に京都も見てきましたが、京都はもっと遅れて全体としての見頃は来週くらいかな? と言う状況でした。でもそちらも天気次第かも・・。以前(2011年4月)に紹介した「大阪淀川沿いの桜の名所」のアクセスが増えており、勘違いと期待がもたれているのかな? と言うわけで、今年の桜の状況を報告するのが今回の写真です。※ 写真は2017年4月6日に撮影してきたものです。2017年4月 大阪淀川(大川)沿いの桜 (源八橋から桜宮橋)源八橋(げんぱちばし)から帝国ホテル界隈桜宮橋(さくらのみやばし)から陽光桜(ヨウコウザクラ)6日昼頃の撮影です。この後3時間ほどして雨が降りだしてきました。以降ずっと天気が悪いです。実際はそこそこ天気だったものの、写真で見るとかなり暗く光量の少なさが判ります。そんな訳で多少明るく色調調整しています。それでもかなり曇った感じですが・・。源八橋(げんぱちばし)から大川(旧淀川) 源八橋から 右の高いビルはOAPタワーで、その手前に帝国ホテルがあります。源八橋(げんぱち)については、2011年「大阪淀川沿いの桜の名所」ですでに紹介していますが、中島にかつて梅林があり、橋が架かる前までは舟の渡しがあったそうです。今は中之島一帯に桜を植えようと言う「桜の会・平成の通り抜け」プロジェクトが建築家安藤忠雄氏の呼びかけ(2004年11月にスタート)で発足し、その成果が実っての桜並木が誕生。源八橋は日照が良いのでここの桜は水面にまで大きな枝をのばして綺麗でした。桜を上から撮影する機会はなかなか無いものです。源八橋のたもとから川縁を帝国ホテル方面にまだ八分咲き だから? 毎年来ていますが、何だか今年は桜が少ない気がしました (・_・?) ハテ?その理由はもしかしたら枝の伐採にあるのでは?今年は大きな太い枝がかなり落とされてスッキリされちゃっているようです。そのせいでいつもは左右から覆い被さるように張り出していた桜の枝がなくなって空がはっきり見えているせいかもしれません。今のシーズン、舟はお花見コースで岸辺を航行。対岸の桜も微妙。本来なら今週末が花見所のはずでしたが、この日より天気は悪化。曇りか雨か・・のお天気がずっと来週いっぱい続くらしいです。傘さしての文字通り「桜の通り抜け」はともかく花見の宴会は今年は難しいのかな?この日は午後から雨の予報があるにも関わらず場所取りしている方がいました。根元までシートをかけているのが気になりました。東京の上野公園では、通路の方に座席コーナーが区分けされていて桜の根をふんづけて痛めないよう配慮されています。帝国ホテル界隈OAP(大阪アメニティーパーク)前OAPレジデンスタワー前桜宮橋桜宮橋(さくらのみやばし)から橋のたもとからOAP手前まで屋台が許可されている? ようです。毎年出てるから・・。桜宮橋上から源八橋方面源八橋の向こうJR大阪環状線の橋があり、右岸がすぐ桜宮駅OAPタワーと帝国ホテル桜宮橋から南 大阪城方面写真中央に大阪城がポツンと見える。写真より右岸に造幣局造幣局前の川辺の桜はそろそろピークだけど造幣局の中の八重桜はまだまだ。今年の桜の通り抜けは4月11日(火)から17日(月)と看板がありましたが微妙な気がします。※ そう言えば今年は英語と中国語のお知らせ張り紙も出ていましたよ。大阪城・・・前に障害が・・。前はもう少し見えたはず。帝国ホテルのラウンジ前にひときわ目立つピンクの桜が・・。陽光桜(ヨウコウザクラ)天城吉野(アマギヨシノ)と寒緋桜(カンヒザクラ)とのミックスらしいです。開花時期は3月から4月。染井吉野(ソメイヨシノ)よりも少し早く咲く桜は改良25年の傑作らしい。確かにひときわ目立っていました。冒頭大阪滞在と書きましたが中旬までは大阪にいる予定です。旅先と言うわけでもないのですが、家にいませんので資料が集められません。しばらく写真紹介などが中心になると思います。ご了承お願いします。因みに天気にさえなれば、大阪城公園の桜も紹介したいです。
2017年04月07日
コメント(0)
全1386件 (1386件中 101-150件目)