まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2007.12.31
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カテゴリ: NHK朝ドラ
「ちりとて」の解りにくかった部分が、
今頃になって、だんだんわかってきた・・。

昨夜の《前半ベスト》の放送を見て、
ようやく「ああ、そういうことだったんだな」と思いました。

でも、やっぱり、
ちょっと脚本が分かりにくかったと思う。
伝わりにくい部分があったと思います。



11/21の日記でも同じことに触れていますけど、
問題だったのは、草若師匠です。

以下の3つの点は、とても解りにくかった。

1.なぜ、草若は落語を捨てたのか?
2.そして、なぜまた落語に戻ってきたのか?
3.破門したはずの草々を、どうしてすぐ迎え入れたのか?

これらのすべての疑問を解く鍵は、ズバリ「親心」でした。
つまり草若は、「芸人」や「師匠」である前に、「親」だったのです。

草若は、じつは意外にも優柔不断です。
喜代美の母が、娘に対してそうであるように、
草若もまた、いつも息子(たち)に甘く、結局は彼らを許してしまう。
それは「師匠の厳しさ」ではなく、「親の甘さ」ゆえのものです。

草若の“息子”は、小草若だけじゃありません。
草原も、草々も、四草も、そして若狭も含めて、
みんな「弟子」である前に、息子であり、娘なわけです。

以前の草若が「芸人」である前に「夫」だったのと同じく、
現在の草若も「師匠」である前に「親」なのです。
草若は、じつは昔も今も変わっていないのです。

わたしは草若に「変化があった」と思っていたんだけど、
実際は何も変わってなかったんだと思います。


1.なぜ草若は、落語を捨てたのか。

草若が天狗芸能から追放された時、
きっと、彼が真っ先に考えたのは、
「息子たちを道連れにしてはいけない」ということだったでしょう。
だから彼は、あえて息子たちを自由にするために、みずから落語を捨てた。

けれども、羽ばたかせたはずの息子たちは、
結局また「親」のもとへと帰ってきてしまいます。
(それは小草若のことだけじゃなく、弟子全員、プラス1のこと)

2.なぜ草若は高座に戻ってきたのか?

この答えもつまり、「息子たちが戻ってきてしまったから」です。
「芸人だから」でも「師匠だから」でもなく、「親だから」です。
直接のきっかけになったのは、
小草若が《親子の噺》として語った「寿限無」だったんですが、
草若は、帰ってきた子供たちを受け入れずにいられなくなってしまう。
親であるがゆえに、子供たちに甘く、優柔不断で、
やっぱりまた抱き入れてしまう。
それが、彼の変わらない行動原理であり、
同時にこれは、福井にも大阪にも共通している「親の論理」なんだと言える。

3.なぜすぐに草々や若狭の破門を取り消すのか。

これも親だから。
はなから、子供を捨てるなんてことをするわけがない。
帰ってきたら、いつでも抱きしめてしまうし、許してしまう。
それが親。
どんな決まり事でも、子供のためには翻してしまう。それが親。

優しくて、暖かくて、甘い。


疑問点は解決したんですが、


なぜこんなにも分かりにくかったのかというと、
脚本じたい、ちょっと誤解を招くような部分があったから。

具体的にいうと、
草若が落語をやめた理由について、ほとんどの視聴者が誤解したと思う。

昨夜の《前半部ベスト》の放送によると、
例の一門会当時の真相を菊江から聞かされた小草若が、
そこで、「草若の 親心 を知った」とのナレーションが入っています。

これは、やや“後づけ”っぽい気がする。

放送当時、大方の視聴者はそのようには理解しなかった。
むしろ、草若は「 師匠としての意地 」を貫いたと受け止めてしまった。
つまり、
「病気の妻のために芸を放棄した芸人の姿を、弟子たちに見せたくない」
という 師匠としての意地 を、彼は貫いてるんだと思ってしまったわけです。

ここの描き方には、
ちょっと脚本上のミステイクがあったんじゃないかなあ。

たしかに草若が師匠として虚勢を張っていたのは事実だろうし、
それは芸人を続けていた息子のためを思ってのことだったから、
脚本が破綻してるとまでは言えないんだけど、

でも、
「芸人」として、あるいは「師匠」として生きることが、
ときに「家族」をも否定しなければならない場合があるってことを、
視聴者は、あらかじめ志保のエピソードによって知らされているし、
それが容易に両立し得ないことを知っているので、
彼らがいったいどちらを選んでいるのか、そこを見分けるのは非常に難しい。

渡瀬恒彦の演技を見ていても、
「親の暖かみ」を強く感じさせるものかというと、ちょっと難しかった。

でも実際は、草若はいつでも、
「芸人」である前に「夫」だったし、「師匠」である前に「親」だった。
芸人や師匠であることの厳しさ以上に、
草若の行動原理の中では、
「夫」や「親」であるがゆえの優しさや暖かさが上回ってる。
そして、
それはときに優柔不断で情けない親の甘さとして描かれもする。

草若が落語の世界に戻ってきたのも、
「芸人」としての自信を取り戻したからではなく、
「師匠」としてのあり方を変えようとしたからでもなく、
たんに「親」として、子供たちの前に帰ってきただけだった。

今になってみれば、ようやくそういう風に読めるんですけども。
なかなか理解できませんでした。





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最終更新日  2024.06.20 17:06:17


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