全19件 (19件中 1-19件目)
1
朝ドラ「虎に翼」on NHK。吉田恵里香の脚本の非凡さが、話が進むほどに際立ってきてる感じです…。前の記事にも書いたとおり、大森美香の手法に倣ってる面もあると思うけど、ただそれだけじゃないことが分かってきた。◇大森美香の手法というのは、簡単にいえば、ヒロインを不幸にしないこと。そのもっとも典型的な例が「あさが来た」です。周りに不幸なキャラは登場するけれど、ヒロインは基本的に幸福な家庭に生まれ育って、幸福な家庭に嫁いで、幸福なままに人生を終える。これが、朝ドラにもっとも適したスタイルであることを、2015年の「あさが来た」は強力に証明したと思う。いまのところ、今回の「虎に翼」も、その手法に倣ってるように見えます。しかし、吉田恵里香の脚本は、たんに大森美香の方法論を真似てるだけじゃない、…ってことが、だんだん見えてきました。◇第一に、この「虎に翼」は、たんなる伝記ドラマではない のですね。社会的なテーマを扱ってますが、それはけっして過去の話ではなく、きわめて現代的な内容になっています。朝ドラが、ここまでアクチュアルな問題に挑んだことは、過去に例がないんじゃないかと思う。◇これまでも吉田恵里香は、テレ東で「チェリまほ」を書き、NHKで「生理のおじさん」「恋せぬふたり」を書いており、果敢にジェンダーの問題に取り組んできてる。今回の「虎に翼」でも、現代社会におけるフェミ議論を挑発したりと、社会的なテーマをしたたかにエグってますし、それを朝のエンタメの枠組みのなかで巧く見せてます。こういう面においては、むしろ大森美香の「シッコウ」などを上回っている。◇わたしは、NHKの「恋せぬふたり」は見ましたが…残念ながら、テレ東の「チェリまほ」は見てなかったし、NHKの「生理のおじさん」は終盤部分を見ただけ。もともとNHKが、ジェンダーや月経の問題に取り組んでることに、ある程度の注目はしてたつもりだけど、脚本家の吉田恵里香のことは意識してませんでした。しかし、NHKは、彼女のポテンシャルを見抜いてたのでしょうね。この若い脚本家の能力をうまく引き出してると思います。◇第二に、失礼を承知で言いますが、今回の「虎に翼」には、美男も美女も登場していません。ヒロインは美女ではないし、そのお相手になる男性もイケメンではない。つまり、メインのキャラのなかに、典型的な美男や美女がひとりもいない。唯一「美女」と呼べるのは石田ゆり子だけだと思う。第4週には、いちおう岩田剛典が登場してますが、彼も一般的な「イケメン」の役回りとは違っていて、むしろ悪役になりそうな雰囲気を漂わせてます。こういうところも、従来の朝ドラのセオリーを大きく破ってますが、おそらく意図的なのでしょうね。◇すなわち、このドラマは、男性はもちろん、女性にさえも、「美」の役割=ジェンダーを求めてないのですね。そのこと自体がとても政治的だといえる。実際のところ、女に対して安易に「美」を求めるのは、本来ならポリコレに反するはずなのだけど、いまのところ、NHKにも、民放にも、その倫理規範にまともに向き合ったテレビ番組は、ほぼ存在していません。報道番組も含めて、あらゆるテレビ番組は、意識するとせざるとにかかわらず、ほぼ例外なく女に「美」を求めてしまっています。でも、今回の朝ドラは、そのことにすら抗ってるように見える。この公式ツイートはおそらく意図的なミスリード。🐯 #トラつばプレイバック 🪽寅子たちを温かく出迎えてくれたのは、クラスの中心的存在・花岡悟。花岡に「あなた方は開拓者。本当に尊敬している」と言われ、ほうけてしまう寅子たちです☺#朝ドラ #虎に翼#伊藤沙莉 #土居志央梨 #桜井ユキ #平岩紙 #ハ・ヨンス #岩田剛典 pic.twitter.com/Ehh0RqQBKy— 朝ドラ「虎に翼」公式 (@asadora_nhk) April 21, 2024 これもミスリードになってました。🐯 #トラつばオフショット 🪽無事に迎えた直道と花江の結婚式👰🏻♀️家族での記念写真&新婚夫婦2ショット!この二人ならずっとラブラブでいてくれる気がしますね…🥰#朝ドラ #虎に翼#伊藤沙莉 #石田ゆり子 #岡部たかし#上川周作 #森田望智 #永瀬矢紘#赤間麻里子 #横堀悦夫 #小須田康人 pic.twitter.com/7rPjvKERhn— 朝ドラ「虎に翼」公式 (@asadora_nhk) April 3, 2024
2024.04.23
遅ればせながら、朝ドラ「虎に翼」第1週を見ました。これってもしや「シッコウ‼」の続き??テレ朝のドラマでは、織田裕二から伊藤沙莉が「子ども六法」をもらい、本格的に法律を学びはじめるところで終わりましたが…NHKでは、石田ゆり子から戦前の「六法全書」を買ってもらって、そこから伊藤沙莉の法律家人生がスタートするっぽい。 目指すのは執行官じゃなく弁護士だけど!!ドラマのテイストも、どことなく大森美香が脚本を書いてる??と思わせるような雰囲気があって…そういえば、小林薫も「青天を衝け」の父親だったし、キャストの面子がなんとなく大森ドラマっぽいのよね。ってことで、かなりわたし好みな作風。◇なお、主人公が「梅丸少女歌劇に入りたい」と言ってたのは、たんに前作ブギウギをネタにしただけかと思いきや…ヒロインのモデルの三淵嘉子は、ほんとうに宝塚のファンだったようです。ブギウギ的にいえば、梅丸じゃなく花咲のファンだったのですね。嘉子は、男役の雪野富士子の大ファンでした。雪野は宝塚少女歌劇団雪組の男役でしたが、1934(昭和9)年に退団、若くして亡くなりました。https://news.yahoo.co.jp/articles/73500afd69bc299a8e79461519410f3d85c81a50?そして、母親の実家が四国の香川だったのも史実らしい。三淵嘉子の両親は香川出身なのですね。嘉子の父・武藤貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。https://news.yahoo.co.jp/articles/36935cc265b7af889bd8767ed68c7b80b2d411d8?ある意味で、ヒロインの母親の境遇は、笠置シヅ子にも重なる部分があるかもしれません。…かたやヒロインの父親は、香川から東京帝大へ進んだ超エリートなので、タダで銭湯に入るアホのおっちゃんではありません。【#ブギウギ 登場人物紹介💃】アホのおっちゃん:岡部たかしいつも薄汚い格好をして、よく酒に酔っているおっちゃん。大工仕事が得意。なぜか、おっちゃんだけはいつもタダで銭湯に入っている。#アホのおっちゃん pic.twitter.com/0wTKH1f3tu— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) September 4, 2023 ◇それにしても、去年の卯年は、大河も朝ドラも「兎」だらけだったのに、なぜか今年は辰年にもかかわらず、タイトルが「虎に翼」でヒロインが「寅子」とは…これいかに??しかも苗字が「猪爪」で、初週のサブタイトルが「牛を売る」って、やたらと動物だらけだし!トラが、イノシシの爪と翼を生やしてウシを売ったら、辰年の龍になるってか??いまにも龍になりそうな虎。描いたのは北斎ではなく娘の応為だとわたしは思う。【展覧会情報】あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区)では、10/6~11/19、「北斎ー富士を超えてー」展を開催。北斎の晩年に特にスポットを当てる。イギリスの大英博物館では同様の展覧会が5/23~8/13に開催。詳しくはhttps://t.co/3Cd7mSZZ0P pic.twitter.com/HDLCB3tnkI— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) March 29, 2017
2024.04.11
朝ドラ「ブギウギ」を見終わりました。世評は悪くないようだけど、個人的にはちょっと物足りなさが残りました。それは脚本のせいでもあるし、キャストのせいでもあるし、笠置シヅ子の生涯をドラマ化することの難しさのせいともいえる。◇笠置シヅ子は、日本のポップス史における最重要歌手なので、NHKが大々的に取り上げるにふさわしい人物にはちがいないけど、だからといって「朝ドラ」にふさわしいキャラクターかどうかは微妙だったのかも。不世出の歌手にもかかわらず、あっさり引退して美空ひばりにその座を明け渡してしまったので、全盛期はほんの数年間にすぎないし、それが敗戦直後の混乱期という異常な時代だったのも、ちょっと朝ドラ的には扱いにくい理由だと思う。さらには、出自が複雑だったり、未婚の母だったり、薬物中毒の疑い(←これはあくまで疑惑の域を出ないようです。しかも当時はまだ覚せい剤が違法じゃなかった)があったり、娼婦たちとの不思議な連帯があったり、自分の持ち歌を他人に歌わせなかったり、横領事件や誘拐事件に見舞われたり、いろいろとネガティブな面もあるので、それらを朝ドラ的なオブラートに包みながら脚本化するのは難しい作業だったでしょう。◇もっとも、最近の朝ドラは、たとえば「エール」の古関裕而や「スカーレット」の神山清子や「らんまん」の牧野富太郎みたいに、けっこうネガティブな面をもった人物でも果敢に取り上げてるし、あげくは「カムカム」の安子みたいに、わざわざネガティブな要素の強い架空の人物を作りあげたりもしてるから、その勢いで笠置シヅ子を取り上げるのも不可能ではなかったはずだけど、それでも今回のミッションが成功だったかどうかは微妙です。すくなくとも個人的には、これが笠置シヅ子の伝記ドラマの決定版というには物足りないし、ちょっと大胆さに欠けたと思う。主演の趣里は、東京出身にもかかわらず「コテコテの小柄な大阪人」というキャラをうまく演じてましたが、その歌唱パフォーマンスは迫力に欠けました。もちろん、趣里も、菊地凛子も、あくまで女優であって本業の歌手じゃないのだから、歌唱シーンが「なんちゃってパフォーマンス」になるのは仕方ないけど(その点でいえば李香蘭を演じた昆夏美の歌唱シーンは素晴らしかった!)、重要なのは歌唱力の問題ではなく表現のスタイルの問題なのです。おそらく演出上の方針として、笠置シヅ子の下品なまでの禍々しいパワーを再現しようという意志が最初からなかったんだと思う。趣里のパフォーマンスは、どちらかというとキャンディーズのランちゃんを彷彿とさせるような上品で可愛らしいパフォーマンスだったし、笠置シヅ子がスターだった時代の異常な雰囲気を体感させるような迫真性にはほど遠かった。…しつこいようですが、やはりわたしは「田村芽実が主演だったら…」ってことを考えてしまうのだけど。田村芽実がヒロインだったらこうだった!グルーヴ感が桁違い!歌唱シーン以外の部分でも、笠置シヅ子がスターだった時代の描写には物足りなさを感じました。曲がヒットして以降も、もっぱら家庭人としての面ばかりが強調され、およそスターらしさが見えなかったからです。端的にいって地味だった。たしかに、まだテレビもなかった時代だし、笠置シヅ子自身も庶民的なキャラの人だったから、のちの美空ひばりみたいな大スターっぷりとは違ったかもしれないけれど、すくなくとも映画や雑誌では顔が知られていたのだから、もっと一般のファンに熱狂される様子が描かれてもよかったと思う。戦後に「東京ブギウギ」で頂点に立った全盛期のスターっぷりが物足りなかったために、結局のところ、この主人公がいちばん輝いたのは、少女だった頃の《大阪の銭湯時代》だったんじゃないかしら?と思えてしまうし、そこから先の人生はすこしづつ尻すぼみだったように見えてしまうのです。◇最後の引退劇もいまいち納得感に欠けた。主人公が語った「羽鳥善一の歌にとって最高の人形ではなくなった」というセリフは、肥満を理由に引退した史実にもとづいてるのだろうけど、せっかくドラマ全体のエンディングにするのなら、もっとそれに見合うだけの物語を仕立てて欲しかったです。水城アユミを「大和礼子の娘」した設定は、とても素晴らしいアイディアなのよね。それでこそ平凡な引退劇を、ドラマのエンディングにふさわしい物語へと転換できるはずだった。つまり《大和礼子の娘にエンタメの未来を託す》という美談に仕立てれば、この物語は大団円のうちに終わったはずなのです。ちなみに水城アユミのモデルになったのは、美空ひばりよりもむしろ江利チエミだったらしい。江利チエミの母(谷崎歳子)は東京少女歌劇団を経て吉本興業で活躍したスター女優であり、父(久保益雄)はその吉本興業の専属ピアノ奏者で、両者ともに笠置シヅ子とは旧知の仲だった。なので、水城アユミを「大和礼子の娘」にした設定は、あながちフィクションではないのですね。しかしながら、美空ひばりと江利チエミを掛け合わせて「大和礼子の娘」に仕立てた設定は十分に活かされなかった。そもそも水城アユミとの出会いのシーンからして微妙な感じでした。せっかく大和礼子の娘に(赤ん坊のとき以来)再会したのだから、そこは母娘のように感動的なハグをすべきだったでしょ!たとえ「持ち歌」にかんする確執があったにせよ、それを乗り越えて水城アユミに未来を託す美談にすれば、きっと感動的なエンディングになっただろうと思う。物語的に考えたら、歌手の引退という突然の決断は、たんに羽鳥善一への恩義に報いて済む話ではないのです。東京へ送り出してくれた父と母の恩義にも報いねばならないし、幼馴染のタイ子ちゃんへの恩義にも報いねばならないし、大和礼子や歌劇団の盟友たちの恩義にも報いねばならない。さらには、自分に希望を託してくれた亡き弟や愛助の思いにも報いねばならない。それらをすべてひっくるめて納得感のある引退劇にするためには、やはり大和礼子の娘へとバトンを渡し、彼女にエンタメの未来を託す美談に仕立てるべきでした。へたに「さよならコンサート」みたいなフィクションをでっち上げるよりも、史実どおりに紅白を最後のステージにして、そこで水城あゆみにエンタメの未来を託すエンディングにしたほうがよかったと思う。ついでにいえば「義理と人情」をドラマの結論にしたメッセージも(スマイルカンパニーとジャニーズ事務所じゃあるまいし!)まったくの時代錯誤としか思えないので、むしろ終戦後の混乱期から復興期への転換を後押しするような、希望に満ちたメッセージで終わらせて欲しかったです。実際のところ、笠置シヅ子と美空ひばり(あるいは江利チエミや雪村いづみ)との違いは、その時代背景の違いでもあったのです。つまり、戦中・戦後の混乱期に禍々しいエネルギーを放った笠置シヅ子と、「もはや戦後ではない」といわれた復興期に明朗な希望を託された美空ひばりとでは、そもそも時代から求められたものが違っていた。笠置シヅ子の引退劇は、そのような時代の変わり目を象徴するものにしてほしかった。◇さらに苦言をいえば、2人体制による脚本も文句なしに成功したとは言いがたい。前々から言ってることだけど、シナリオ全体を共同で練りあげるならともかく、ただパートごとに分担するという手法はあまり感心できません。今回の「ブギウギ」の場合、脚本家の交代でテイストが損なわれるほどの問題は生じなかったけど、さすがに技量の差までは隠しきれませんでした。とくに戦時中のパートは脚本家の力量不足が顕著だった。笠置シヅ子は、戦時中の苦難よりも、戦後の「出産」「恋人との死別」というスキャンダルのほうが大きな苦難だったから、そちらをメインの脚本家が担当し、代わりにサブの脚本家が戦時中パートを担当する形になったのだろうけど、残念ながら、えなりかずきをはじめとするバンドメンバーのキャラ立ちは弱すぎたし、地方巡業のエピソードも心を動かすだけの要素には乏しかった。淡谷のり子と特攻隊のエピソードや、服部良一の上海でのエピソードについても、ただ史実の上っ面をなぞっただけで、十分にエモーショナルな物語とはなっていなかった。史実にもとづきながら、それをエモーショナルな物語に仕立てるのは難しいことだと思うけど、それこそが脚本家の腕の見せどころなのだし、もうちょっと脚色の技量を発揮してほしかったです。◇そして、笠置シヅ子の伝記ドラマを作るうえで、いちばん難しいのは生まれ故郷の四国・香川の問題だったかもしれません。おそらく香川には「実母の実家」「実父の実家」「養母の実家」「養父の実家」「実母の嫁ぎ先」の5つの家があるはずですが、それらの家との関係についてNHKがどれほど把握できていたのか分からないし、そのファミリーヒストリーをむやみにほじくり返すことの難しさもあったかもしれない。ドラマに登場したのは、法事のおこなわれた「実父の実家」と、葬儀のおこなわれた「養父の実家」と、異父兄弟のいる「実母の嫁ぎ先」だったのですが、それにかんしてさえ史実どおりではなく、おそらく何らかのフィクションに仕立てる必要性があったのではないかしら?実際、娘の愛子が実母と対面するシーンなどはフィクションだった可能性が高い。愛子のモデルになった娘の亀井ヱイ子さんは、放送前のイベントに柳葉敏郎と一緒に出てきたりしてたようだけど、あまり詳しい情報が出てこないせいもあり、いろんな出版物や情報番組などをとおして史実ネタに尽きなかった前作の「らんまん」に比べると、ちょっと煮え切らないようなモヤモヤした感じも残りました。とはいえ、フィクションを交えてでも、娘を捨てた笠置シヅ子の実母を描く意味はあったと思います。上白石萌音の「カムカム」を見たときは《娘を捨てる母親の物語》がかなり踏み込んだものに思えたけれど、むしろ今回の「ブギウギ」を見て思ったのは、昔も今も親子が離れ離れになるのは珍しいことじゃなく、それほど異端視すべきものでもないのだってことですね。今回のドラマでは、いちおう実母との再会が感動的に描かれてましたが、実際には疎遠なままの場合もあるだろうし、わだかまりが消えない場合もあるだろうと思います。笠置シヅ子 その言葉と人生 [ 亀井 ヱイ子 ] 楽天で購入 余談ですが…NHKは「名曲アルバム」や「クラシックTV」や「歴史探偵」などの番組でも、笠置シヅ子関連の内容を放送してました。それらを見てあらためて知ったのは《美空ひばりが横浜から誕生した必然性》もさることながら、《服部良一と笠置シヅ子が大阪から誕生した必然性》も確実にあるってこと。要するに、街が才能を育んだのですね。以下は、上記の番組からのメモです。・道頓堀には江戸時代から芝居小屋が並んでおり、そこで文楽も始まった。・笠置シヅ子は3才から日本舞踊や三味線を習い、芸事が身近にあった。・大阪松竹座が大正12年に現在と同じ場所に建てられた。・関東大震災によって人口移動が起こり、大阪が日本最大の都市になった(大大阪時代)。・道頓堀にダンスホールや劇場が林立し、道頓堀ジャズが隆盛した。・関東大震災から10年ほど経って大阪発の娯楽文化が東京へと逆流した。・松竹が東京に設立した楽劇団の副指揮者に服部良一が就任した。・服部良一が笠置シヅ子に求めたのはジャズのような地声唱法だった。・朝鮮特需に乗じた「買い物ブギ」は「東京ブギウギ」をも超える売上になった。ちなみに、わたしは「ラッパと娘」も三連符のリズムからなるブギウギだと思ってましたが、NHKの解説によれば、同じ三連符のシャッフルビートでも「4拍ならスイング」「8拍ならブギウギ」と分類するようです。そこからすると戦前の「ラッパと娘」はブギウギじゃなくてスイングなのですね。いずれにしてもシャッフルビートは日本の音頭と同じだから、服部良一と笠置シヅ子が作った「ご当地ブギ」の数々は、ある意味では「ご当地音頭」みたいなものだったと思います。やがて、このシャッフルする8ビートのブギウギは、均等な8ビートのロックンロールへと発展するわけですね。◇…ところで、このたびWikipediaを読んで知ったことですが、一般に使用されている「笠置シヅ子」という名前の表記は、歌手を引退したあとの女優時代のものであって、歌手時代の正式な表記は「笠置シズ子」なのだそうです。知らなかった!!わたしも慣例にならって「シヅ子」と書いてますが、歌手時代の彼女のことを書くならば、厳密には「シズ子」と表記するのが正しいのだろうと思います。
2024.04.05
NHK連ドラ「ブギウギ」見てます。いつもながら、朝ドラの子役たちは上手ですね~。現代の子とは思えないほど、みんな大正~昭和の子供になりきってたし、細かい心情の変化もよく表現できてて、どんな演出をしたらあんな演技が出来るの?…と不思議に思ってしまう。他方、水川あさみと柳葉敏郎は、実際には親子ほども年が離れてるのに、なんの違和感もなく夫婦を演じてるのが凄い。◇ところで、第1~2週にかけて、主人公の「出生の秘密」が少しずつ仄めかされました。あまりにも小出しなので、見過ごしてしまいそうです。ほぼ史実どおりだと思いますが、西野キヌ(中越典子)のモデルが谷口鳴尾。花田ツヤ(水川あさみ)のモデルが亀井うめ。3才で亡くなった花田武一たけいちのモデルが亀井正雄ですね。 NHKプラスではまだ全話視聴できるので、忘れないように、これまでのシーンをメモしておきます。◇まずは第1話の主人公のモノローグから。あ、家族はもう1人おった。ワテには双子の兄、武一兄ちゃんがおったけど、3才のときに病気で死んだ。ワテはよう覚えてへんけど、そのころはワテも病弱やったみたいや。つぎに第4話の回想シーンから。12年前の梅吉(柳葉敏郎)とツヤ(水川あさみ)の会話です。おかえりおかえり、ご苦労やったな。どやった香川? みんな喜んどったやろ、赤ん坊見せたら。(2人の赤ちゃんを見て)…双子やったかいな?ちゃうわ。何で?ふふ。…まあええわ。1人も2人も一緒や。お、こっちは女の子か。あ~、ツヤちゃん似やんな。そして第9話から。弟の六郎のセリフ。姉やん!姉やん!ワイと姉やん、ほんまの姉弟やないかもしれへんわ。アホのおっちゃんが言いよったんよ。ワイはカッパの子で、姉やんはクジラの子やって。ツヤはこうも言いました。あの子だけは絶対死なせたらあかんのや。顔向けできん。◇さらに、第2話にも、12年前の回想シーンがありました。ツヤが赤ちゃんを抱いて子守唄を歌っており、その横にはもうひとりの赤ちゃんが眠っており、後ろには顔色の悪いキヌ(中越典子)が座っていた。子守歌の詞はこうです。れんげも摘もか たんぽぽ摘もか今年のれんげも よう咲いた耳に鉢巻き スッチョチョンのチョンもひとつまわして スッチョチョンのチョン地域によって歌詞は違うらしいのですが、ツヤが歌っていたのは、おそらく香川バージョンでしょう。https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/warabeuta/renge-tsumoka.html◇なお、ツイッターによると、今後「香川編」があるとのこと。たぶん主人公が実母に会いに行くのですね。今日は「香川編」に登場するキヌさん、治郎丸さん、トシさんと、ある事情で銭湯「はな湯」にやってくる女性・光子さんをご紹介しました。香川編はモデルの笠置シズ子さんの出生地、香川県東かがわ市と丸亀市でロケを行いました。美しい風景をどうぞお楽しみに💃#ブギウギ pic.twitter.com/X5WJk8CCXM— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) September 7, 2023◇…ちなみに、ドラマの内容には何の不満もないのですが、おりしもジャニーズや宝塚の問題がある中で、ツヨポンの演じる服部良一が登場したり、「義理人情」だの「ご縁とご恩」の話が出たり、宝塚や松竹の歌劇団がモデルになってて、スパルタ指導やら退団やらの話が出てきたりするので、…何ともタイミングがわるいな~、と思わずにはいられない。そして、しつこいようですが、個人的に田村芽実の主演を期待してたことも、いまだに、ちょっと引っかかっています。
2023.10.15
朝ドラ「ブギウギ」のヒロインが決定。笠置シヅ子役は、てっきり田村芽実と思い込んでいたのに(笑)趣里でしたね。ドラマ「アイドル 明日待子」でのチョイ役は、いったい何のフラグだったんだろう??
2022.10.17
朝ドラ「おちょやん」の総集編を見ました。本放送のときは飛び飛びの視聴だったので、ようやく全貌を把握することができましたが、あらためて「すごいドラマだなあ…」という感想です。◇めちゃくちゃな家庭に育った千代。めちゃくちゃな家庭に育った一平。そして千代と一平がつくった家庭もまた瓦解する。家族幻想がことごとく打ち砕かれる。思えば「スカーレット」の主人公も、ろくでもない父親のもとで苦労しながら、結局は自分でつくった家庭も壊していました。あたかも家族幻想を粉砕することが、いまのNHK朝ドラの主要な任務だと言わんばかりに、このテーマを朝っぱらから容赦なくお茶の間に叩きつけています。◇実際問題、世の中には、テルヲなんぞよりもっとひどい親があふれていて、意地悪な継母や、虐待男を家に連れこむような親もたくさんいる。もはや「親孝行」を美徳に出来る時代じゃなくなってる。場合によっては、ろくでもない親を捨てなければならない。子供は、親のために生きるのじゃなく、なによりも自分のために生きることを考えなければならない。そういう時代です。もともと、わたしは、やれ「親孝行だ」などと言って、親のために生きることを暗に強いるような社会は、はなっから疑ったほうがよいと思っているし、そういう社会はとても嘘くさいと思っている。むしろ、親を捨てねばならない子供のほうを、社会は積極的に支えていかなければなりません。今回の朝ドラからは、そういうメッセージを感じます。◇まあ、救いらしい救いもなかった「スカーレット」に比べれば、まだしも「おちょやん」のラストには救いがありましたが、それでもなお、物語全体の壮絶さは、その「スカーレット」さえも上回っていたように思います。父に裏切られ、最愛の弟にも裏切られ、そして信じた夫にも裏切られる女性の半生。もちろん、そこには、大正モダンの欧風文化に感化され、イプセンの「人形の家」の台本を手離さなかった女性の、いわゆるフェミニズム黎明期の姿も託されているでしょう。◇もともと「スカーレット」も「おちょやん」も、実在した成功者をモデルにしているのだから、たとえば「わろてんか」や「あさが来た」のように、あるいは「ゲゲゲ」や「まんぷく」や「エール」のように、理想的な家族を軸にしたサクセスストーリーにも出来たはずです。しかし、そうはしなかった!そんな話はつまらないし、嘘くさいから!現実の人生は、努力すれば報われるような単純なものではないし、血縁家族は、無条件に信頼できるような帰るべき場所じゃない。だからこそ、「おしん」も「純情きらり」も、「スカーレット」も「おちょやん」も、人生の成功だの、家族の愛情だのといった安易な幻想を叩きのめすのです。主人公は子供のころから成熟しているけれど、周りの大人はガキみたいなクズばっかり。血縁家族より赤の他人のほうがよっぽど信頼できる。いくら努力をしたって報われるわけでもない。そうした逆説が、これらの作品の世界観を作っています。◇もしも努力して成長して成功する話が見たいのなら、シルベスター・スタローンの『ロッキー』でも見てればいいのだし、ひたすら理想的な家族像だけを見たいのなら、マイケル・ランドンの『大草原の小さな家』を見ればいいわけで。しかし、現代のNHK朝ドラの存在意義は、そういう甘い幻想を否定し尽くしたところにこそある。実際のところ「おちょやん」は、浪花千栄子をモデルにしながらも、彼女が映画やテレビで成功するまでの人生を描いてるわけではないし、かといって、吉本の歴史を描いた「わろてんか」ように、藤山寛美へいたる松竹の歴史の栄華を描いてるわけでもありません。ただ、ひたすらに、女性が直面する「家族幻想の崩壊」と「成長成功の逆説」を描いたのです。◇さて、今回の脚本は「半沢直樹」を手がけた八津弘幸でした。TBSの「半沢直樹」は、なぜか演出の福澤克雄ばかりが注目されがちだけど、この朝ドラ「おちょやん」をとおして、あらためて八津弘幸の脚本の実力が認知された形です。原作なしのオリジナル脚本ってことが信じられないほど、エピソードが豊富だったし、その中身も充実していました。そして申し分のないメッセージ性を湛えていました。たぶん八津弘幸は関東の人だと思うけど、そうとは感じさせないほど、泥臭くてアクの強い関西芸人の世界を、見事なほどリアルに表現できていたと思います。わたしは関西人じゃないから分からないけど(笑)その泥臭さやアクの強さを嫌った視聴者も多いでしょうが、そこにこそ凄みや醍醐味があったわけだし、演技と物語のダイナミズムもあったのだし、スペクタクルとしての面白さもあったのだし、朝っぱらから濃厚な映画を鑑賞させられるような見応えがありました。いちおうは史実に沿っているので、京都の山村千鳥一座や映画撮影所パートも必要だったのでしょうが、それらは大阪パートの迫力に比べると、正直、ちょっと見劣りがしたのも否めません。やはり大阪の道頓堀パートこそが本作の主軸であり、岡安の家族的な温かさと、大阪芸人の豪胆で破天荒な生き様が、最大の魅力になっていたと思います。◇シズと延四郎の悲恋物語。ロミジュリ的なみつえと福助の戦争悲劇。一平とお夕との悲しい母子物語。千之助と万太郎の因縁のライバル物語。…などのサブストーリーも非常に印象的で、それだけでスピンオフドラマを作ってほしいと思うくらい、胸に深く刻まれるような内容のものでした。これらは史実というより、かなり脚色された部分だとは思うけど、そこにこそ八津弘幸の作話手腕が光っていたと思います。ちなみに、千代、千鳥、千之助、千兵衛…と名前をそろえたのは、やはり「千両役者」の意味合いを込めてであり、そこからすると、さしずめ須賀廼家万太郎や万歳は「万両役者」であり、かたや一平は、たったの「一両役者」ってことでしょうか?(笑)千秋万歳なんて言葉もありますね。◇そして、ドラマのダイナミズムを生み出すこの脚本家の巧みさは、養女の春子を「父と継母の孫」と設定したところに、もっとも顕著に表れていたと思います。じつは史実では、浪花千栄子の養女(南口輝美)が誰の娘だったのか、明らかになっていません。「弟の娘」という説もあれば、「母の親縁の子」という説もある。かりに愛する弟や母に縁のある子ならば、主人公にとっては、だいぶ受け入れやすかったはずです。…にもかかわらず、よりによって、もっとも憎むべき父と継母の孫と設定したところに、八津弘幸のすぐれた作劇術と思惑とがうかがえます。つまり、半沢直樹は「復讐の物語」ですが、おちょやんはまったく逆なのです。千代は、自分を裏切った夫にも、その不倫相手にも、まして、その不義の子にも復讐ができません。それだけではなく、幼い自分に不幸な運命を強いた父と継母にも復讐できないし、それどころか(=だからこそ)、ついには彼らの孫娘を養女として受け入れ、自分の唯一の家族にするのです。千代自身が、血縁ではない岡安の人々に支えられたように、春子もまた、血縁ではない人々に支えられて生きていくのでしょう。◇人間は成長などしないし、努力したって報われないし、お芝居は、台本どおりには進まない。むしろセリフを忘れたときにこそ芝居が活気づき、台本と違うことを喋り出したときにこそ感動が生まれ、禁じられた接吻によってこそ公演が成功し、出ないと思ったラッパの音が出た瞬間にこそ笑いが生まれ、そして、もっとも憎むべき人間との再会や、ラジオドラマに誘うおっさんのアホみたいな楽天性こそが、人生を諦めてしまった主人公を、奇跡のように救い出すのです。人生とはそんなものだし、感動とはそんなものだし、お笑いとはそんなものですよね。そこに八津弘幸の脚本の真骨頂がありました。◇話は変わりますが、噂によると、トータス松本が「俳優を目指す」と言ったとき、井上陽水は賛成し、奥田民生は反対したそうです。ですが、トータス松本の俳優業の展望は、ここで「朝ドラ史上最悪の父親」を演じたことによって、一気に広がっていくのだろうなあと思うし、それが良いか悪いかは別として、「もう歌わなくても食ってけるんじゃないかなあ」って気もします。むしろ奥田民生のほうが音楽だけでやっていけるのかどうか。そっちが心配になりますね。◇他方、大阪のアクの強い芸人たちのなかで、杉咲花と成田凌の主演コンビの演技は堂々たるものでした。杉咲花には、「いだてん」のときにもかなり泣かされましたけど、意外にも彼女は、民放以上にNHKで実力を発揮しています。セリフのない演技にも圧倒的な説得力があって、成田凌との掛け合いにも盤石の安定感が出ていました。そのほか、篠原涼子、名倉潤、宮田圭子、片岡松十郎、ほっしゃん、板尾創路らの演技も素晴らしかったです。
2021.06.30
朝ドラ「エール」が終了です。今作の内容には、おおむね満足しています。とくに戦争以降の描き方は見応えがありました。◇ただ、最終週を見て、あらためて思ったのは、このドラマが、当初の予定とは、かなり違ったものになったのだ、ということ。今年は、東京オリンピックが延期になりましたが、ドラマのほうも、やはりオリンピックをすっ飛ばしてしまった感じ(笑)。開会式をテレビで見るシーンでは、東京の友人たちや、福島の家族の姿が映ったのに、豊橋にいる梅や五郎の姿が映らなかったのも残念でした。もしかして、森七菜のスケジュールが調整できなかったのでしょうか?◇◇今回の朝ドラは、1.脚本家の降板によって、2.志村けんの死によって、3.東京オリンピックの延期によって、かなりの改変を強いられたと思います。NHKのディレクターみずからが脚本を手掛けたのは、朝ドラ史上初めてのことかもしれませんが、ある意味では、NHKに対する自己批判もふくむ形で、かえって忖度のない内容に仕上がった気もします。◇最終週の脚本の変更。たとえば、小山田耕三(=山田耕筰)の手紙のシーン。これは、そもそも実話ではないはずだし、当初の脚本にすら無かったものだと思います。おそらく、志村けんが生きていれば、主人公に対する謝罪の場面は、もっと早い段階で描かれていたはずですよね。しかし、そのシーンが撮影できなくなったために、やむなく「死後の手紙」という形になったのでしょう。結果として、このドラマにおける山田耕筰の立ち位置は、かなり分かりにくいものになってしまいました。けっして、ただの悪役ではなかったはずですが、本来はどう描く予定だったのでしょうか?◇◇オリンピック開会式のシーンにも、大幅な脚本の変更が加えられたはずです。この開会式の場面は、すでに第1話で予告されていましたが、最終週で描かれた内容は、それを受けたものにはなっていませんでした。たんに、うわべだけ「伏線の回収」と見せかけたにすぎません。第1話で、主人公は、自分の曲が受け入れられるかどうかに自信がもてず、トイレに引きこもってしまうのですが、「長崎の鐘」を聴いたという青年の言葉に救われ、ようやく気を取り直して、指揮台へ向かうのですよね。本来、この場面は、作品全体のテーマにもかかわるような、きわめて重要な意味をもっていたはずです。おそらく、林宏司の当初の構想において、主人公は、オリンピックが開催された1964年になっても、いまだ戦争に加担したことの罪悪感を、完全には脱しきれずにいたはずなのです。だからこそ、長崎出身の青年の言葉を足掛かりとして、オリンピックに「夢と希望」を託し、その戦争という過去を乗り越えようとしたのでしょう。そう考えるならば、主人公が「オリンピックマーチ」を指揮するシーンは、このドラマにおける最大のクライマックスになったはずです。◇しかし、脚本家が降板し、さらには、今年のオリンピックが延期になったことで、このシーンの意味合いは大きく変わってしまいました。主人公が指揮台に立つシーンは省略され、「オリンピックマーチ」の演奏は一部分に短縮され、開会式のエピソードそのものが、かなり淡白なものに終わった。つまり、このエピソードは、本来の重要性を失ったのです。戦争に加担したことに対する主人公の罪意識は、すでに「長崎の鐘」を書くことで克服されており、「オリンピックマーチ」を書くときには、さしたる葛藤も逡巡もなくなっていました。作曲に時間がかかったのは、その作業があまりに「幸福だったから」にすぎません。◇今回の朝ドラは、コロナの影響で10話分ほど回数が減ったのですが、たとえそうだとしても、削るべきエピソードは他にいくらでもあったはずです。けれど、脚本を引き継いだディレクターの吉田照幸は、あえて、もっとも重要だったはずのオリンピックパートを、大幅に削ったわけですね。作曲のエピソードについていえば、「オリンピックマーチ」よりも、「長崎の鐘」や「栄冠は君に輝く」のほうに、より重心を置いて、熱を注いだ形になりました。◇結局、「いだてん」のクドカンも、「エール」の吉田照幸も、本来のNHKの思惑とは反対に、オリンピックをほとんど美化しなかったのです。わたしは、それでよかったと思います。オリンピックを美化しようという当初の構想のほうが、むしろ間違いだったのだから。そもそも、古関裕而が、”オリンピックマーチの完成によって戦争の罪を克服した”という安易な解釈にもとづく物語は、あまりにも御都合主義的な創作だというほかありません。ドラマの考証を担当した刑部芳則によれば、「オリンピックマーチ」の曲の構造は、「皇軍の戦果輝く」という軍歌の構造につながっているらしい。刑部は、このことを、古関の創造のための「忘却」によるものだと述べています。しかし、たとえ忘れていたにせよ、忘れていなかったにせよ、「戦争のための国威発揚」と、「オリンピックのための国威発揚」とを、同じような発想、同じようなメンタリティで、作曲してしまっていること自体が、やはり微妙な問題を孕んでいるというべきなのです。それを安易なかたちで美化するのは避けたほうがいい。◇本来なら、今年は、2度目の東京オリンピックが開催されるはずであり、この朝ドラも、現実のオリンピックに並走させるつもりだったのでしょう。しかし、正直なところ、現在の日本人は、オリンピックなんぞに「夢と希望」を託す気分じゃありませんし、吉田照幸による脚本の改変も、こうした状況と気分を的確に反映したものになったと思います。◇◇さて、この朝ドラの最終回は、NHKホールでのコンサートでした。多くのミュージシャンやミュージカル俳優を、メインキャストとして起用したドラマですから、このコンサートは、おそらく当初から予定されていたものでしょう。それどころか、本来なら、無事に閉幕したオリンピックを振り返りながら、観客も入れた大規模な公演をおこなうつもりだったと思います。しかし、コロナの影響もあいまって、だいぶ控えめなコンサートになってしまった。◇わたしとしては、井上希美や小南満佑子のソロ歌唱による曲も聴きたかったし、野田洋次郎が、古賀政男の曲を歌うところも見たかったです。ちなみに、わたしは、最後の最後まで、二階堂ふみの歌唱場面が"吹替"だと思い込んでいました(笑)。彼女の歌った「長崎の鐘」にビックリです。あんなに歌える人なんですね。
2020.11.29
この朝ドラは、当初、脚本家の降板騒ぎがあり、バラエティ系の演出家が脚本を兼ねるということで、ややイロモノ的な作品になるのかと思っていました。実際、前半はそういう面もありました。でも、戦中のパートになったら、いままでの作品にはないほど硬派な表現を見せて、それは戦後のパートになっても続いています。このような展開は、とても予想外だったので驚きです。◇戦後になって大きく変わったことは、人々の姿が、とても下品になったということです。これは、かなりリアルな戦後の表現なのだと思います。戦前は、とても上品で優雅な人々の生活が描かれていました。しかし、戦後になると、汚い建物、汚い服装、人々の粗暴な行動、品のない言葉遣い、そういったものが目立つようになりました。実際、戦後というのは、けっして明るい時代ではなかったと思います。「明るい時代にしよう」という希望をもった人はいたけれど、けっして誰もが明るく生きられる時代ではなかった。市街には戦傷者や孤児があふれていたし、物資や食料は不足していたし、家族が死んだ記憶や、人を殺した記憶が、多くの人々のなかに生々しく残っていたし、なりふりかまわずに、他人を押しのけるような人間でなければ、生きていけなかった時代だと思います。そういう人間ばかりが生き残ったともいえます。日本人は、戦前のような端正な美しさを失って、醜くなったと思います。本来の礼儀正しさや品のよさは、失われてしまった。バブル期にも、悪徳業者やヤンキーが増えたのですが、戦後にも、詐欺師やチンピラが町にあふれかえって、社会は荒廃したと思います。◇お金持ちのお坊ちゃんだった久志が、酒や博打に溺れるようになったのも、けっして例外的なことではなかったのだと思います。
2020.10.28
今回の朝ドラがはじまったとき、森山直太朗と野田洋次郎というミュージシャンの出演は、大きな注目を集めました。しかし、今にして思えば、これはたんに「ミュージシャンが俳優として音楽ドラマに出た」というだけのことではなかったと思います。この2人の起用には、制作者側のかなり強い思惑を感じます。◇森山直太朗の代表曲は「さくら」ですが、これはもともと軍歌「同期の桜」を想起させる面がありました。歌詞のなかで「あの日の唄が聴こえる」の後に、こう続くからです。さくらさくら 今咲き誇る刹那に散りゆく運命と知ってさくらさくら ただ舞い落ちるいつか生まれ変わる瞬間を信じ泣くな友よ 今惜別の時さくら さくら いざ舞い上がれ永遠にさんざめく光を浴びてさらば友よ またこの場所で会おうさくら舞い散る道の上で軍歌の「同期の桜」では、次のように歌われます。貴様と俺とは 同期の桜咲いた花なら 散るのは覚悟みごと散りましょ 国のためあれほど誓った その日も待たずなぜに死んだか 散ったのか離れ離れに 散ろうとも花の都の 靖国神社春の梢に 咲いて会おう「同期の桜」における桜とは、靖国神社の桜のことを意味しています。かつて作詞家の阿久悠は、歌詞のなかに愛国的な要素を盛り込むのを嫌って、「国旗はもちろん、桜の花ですら耐えられない」と語ったそうです。戦中世代にとって、桜とは軍国主義の象徴だったのです。◇ちなみに、靖国神社の桜は、昭和41年以降、例年の「開花宣言」のための標本木になっています。気象庁は、あえて靖国の桜を標本木に指定した根拠を示していませんが、靖国神社の桜から「過去の記憶」を払拭し、国民の親しみを取り戻すための政治的な方策とも見えます。ゆずの北川悠仁などは、「ガイコクジンノトモダチ」という曲のなかで、君と見た靖国の桜はキレイでしたと書いたりしていますが、すくなくとも戦中世代にとって、靖国の桜は、たんなる美しい花ではなく、強烈なまでに政治的・歴史的な意味を帯びていたのです。◇森山直太朗が演じた藤堂先生は、かなり複雑なキャラクターでした。若い頃には、軍人である父に反発し、生徒たちに「好きな道へ進め」と教えましたが、自分の子供が産まれると、軍人だった父の生き方を見直して予備役将校となり、ビルマでは、部隊長として戦闘の指揮をとり、最後は、愛する妻子を残して死んでいきます。鉄男や五郎は、裕一に対して「軍歌など書かないでくれ」と言いましたが、藤堂先生は、裕一にそのようなことを言いませんでした。あくまで架空の人物ではありますが、もしも藤堂先生が裕一にむかって、「本当に好きな音楽を書くべきだ」と諭していたら、裕一は軍歌を書くのをためらったのではないかと思えます。しかし、藤堂の死後には、鉄男までもが軍歌の制作に意欲的になります。モデルの野村俊夫も、古関裕而とともに戦時歌謡をいくつも手掛けています。◇森山直太朗と、藤堂先生は、どこか重なり合う部分があるのかもしれません。藤堂先生の人物像が複雑だったように、森山直太朗の「さくら」には両義性が見て取れるからです。ちなみに森山良子は、「さとうきび畑」のような反戦歌で知られていますが、息子の直太朗は「夏の終わり」のことを反戦歌だと述べています。◇一方、野田洋次郎の演じる木枯正人は、軍歌を書くことに消極的でした。モデルである古賀政男が、実際にそうだったのかは疑わしいのですが、一般的に、古賀政男は、軍歌や戦時歌謡によってではなく、あくまで叙情的な歌謡曲の作家として認知されています。◇しかし、RADWIMPSの野田洋次郎は、2018年に「HINOMARU」という曲を書いて、その国家主義的な内容の歌詞が物議を醸しました。アメリカ育ちの彼が、みずからのアイデンティティを希求するあまり、ある意味では素朴に、ある意味では安易に、国家や国旗への同化に傾いてしまった結果とも見えます。これは、台湾系であるユーミンが、しばしばコンサバな姿勢を見せるのにも似ています。◇森山直太朗にせよ、野田洋次郎にせよ、彼らはたんなるミュージシャンではありません。同時代において、それなりの政治性をも負ったソングライターです。彼らが、今回の役柄の重さを、どれだけ承知して引き受けたかは分かりませんが、同時代のソングライターである2人にとって、それぞれが演じた人物の生き方、そして古山裕一=古関裕而のたどった運命は、けっして他人事ではないだろうと思います。
2020.10.17
「エール」の戦争描写が衝撃的すぎて、視聴者のあいだに物議を醸しています。わたし自身、藤堂先生の死や、弘哉くんの死は、ある程度予測できましたが、梅にまで死の危機が迫る展開は予想外でした。結局、朝ドラ的な配慮もあって、豊橋の登場人物が命を落とすことはありませんでしたが、それでも梅の死をいったん意識させたことは衝撃的でした。◇「エール」の戦争描写が、視聴者に衝撃を与えたいちばんの理由は、日常との落差がきわめて大きかったことだと思います。このドラマは、基本的にはコミカルな演出で、おだやかな日常を描いていました。太平洋戦争がはじまると、さすがに服装や食事は質素になりましたが、それでも、日常のおだやかさは失われませんでしたし、演出にもコミカルな要素は残っていました。…しかし、主人公の裕一がビルマに派遣されたことで、ドラマの描き出す世界観がいっきに変わりました。画面が急に暗くなった感じがしました。その時点で、なんらかの悲劇が起こることは予想できたのですが、その内容は、想像をはるかに超えるものでした。わたしは、てっきり、「今週は外地の悲劇が描かれるだけ」と思っていました。内地で空襲などが描かれるのは、きっと来週以降だろうと勝手に思い込んでいたのです。むしろ、外地の悲劇的な状況と、内地の穏やかな状況が対比して描かれると思っていました。ところが、実際には、水曜から木曜とたて続けに、「外地の悲劇」と「内地の悲劇」が描かれました。見ている側に心の準備をする余裕はありませんでした。聴き慣れたテーマ曲やクレジットロールも省略され、いきなり視聴者は「日常」から「非日常」へ突き落とされました。外地の悲劇と内地の悲劇が、わずか2日間に凝縮して描写され、あっというまに終戦を迎えてしまいました。これは予想外でした。◇すくなくとも、藤堂先生や弘哉くんにかんしては、それなりの「死亡フラグ」が立っていたと思います。しかし、梅には、どこにも「死亡フラグ」など立っていませんでした。そこに最大のリアルがあったと思っています。なぜなら、現実の世界には「死亡フラグ」など存在しないし、悲劇に対しても「心の準備」などありえないからです。◇ちなみに、戦争というのは、一般的に「4年ぐらいで終わるもの」だといわれています。(双方の国力がそれ以上もたないからです)太平洋戦争があったのも、昭和16年から20年までの4年間です。最初の2年くらいは、大きくは変化のない日常が維持されます。ドラマのなかでも、登場人物たちは、優雅に音楽を演奏したり、喫茶店でコーヒーを飲んだりしていました。しかし、後半の1~2年のあいだで、あっという間に日常は崩壊します。生活必需品までがいっきに枯渇し、軍人でない人まで戦地に送られるようになります。実際の戦争でも、そういう状況に陥ります。かなり急激に日常が崩壊していくわけですが、多くの国民は、ギリギリまでそのことに気づかないのです。そして、崩壊しはじめて気づいた頃には、もう遅いのです。もちろん、誰も「心の準備」など出来ないし、誰にも「死亡フラグ」などは立ちません。にもかかわらず、もっとも死んでほしくない人が死んだりします。それが戦争のリアルだと思います。今回のドラマの衝撃は、そのような戦争の現実に近い体験を与えました。唐突ともいえる形で、おだやかな日常が一気に崩壊し、予兆に気づく暇もなく、非日常の状態へといきなり突き落とされたのです。それが視聴者のはげしい動揺につながったと思います。
2020.10.16
朝ドラは、大河とはちがって、実在の人物名や団体名は使わないものだと思ってました。実際、今回の朝ドラでも、古関裕而は「古山裕一」だし、山田耕筰は「小山田耕三」だし、古賀政男は「木枯正人」だしコロンビアレコードは「コロンブスレコード」だったわけです。ところが、先週の放送を見ていたら、木枯の作品は明らかに「酒は涙か溜息か」だった。そして、今日になって、「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」の曲名も明示されました。さらには、早稲田や慶応といった実在の大学が登場して、西条八十や住治男といった実在の人物名まで登場して、具体的な年号にもとづいた史実にも言及しはじめた。まさに実名のオンパレードになっています。朝ドラが大河みたいになっている。今日の内容からすると、早稲田の応援歌「紺碧の空」は、作詞が住治男で、作曲が古山裕一という、虚実入り混じった奇妙なことになっているのです。フィクションであるかぎり、史実を作り変えた物語を作っても問題ないと思いますが、どっちつかずの情報は視聴者を混乱させてフェイクを増幅させかねない。脚本家が変わったことで、根本的な設定まで狂っているのでしょうか?プロデューサーはちゃんと機能していますか?一般の視聴者にとっては細かいことかもしれないけれど、曲がりなりにも公共放送であるNHKが、虚実の入り混じった情報を国民に垂れ流すのはいかがなものかと思います。
2020.05.18
いずれ「ハイジ」の話になるだろうとは予想してたけど、奥山玲子自身は「ハイジ」の制作にかかわっていませんから、ドラマでも、てっきり夫の留守中に子育てをする話なのだろうと思ってました。まさか主人公みずからが「ハイジ」を制作するとは…。思えば「ハイジ」というのも、孤児の物語ですもんね。「anone」も「タイガーマスク」も「デビルマン」も、すべてが孤児の物語だったわけで、みごとに繋がっています。そもそも北海道の孤児という設定じたいが、すべて「ハイジ」への伏線だったわけですね。とはいえ、さすがにNHKだけあって、ここではしっかり「大草原の小さな家」にも絡めてきました(笑)。これを原作にした「草原の少女ローラ」というアニメもあったのですね。そんなの知らなかったです。マニアックだなあ…。まあ、これにも奥山玲子は関わってなかったようですが。◇こんどのアニメタイトルは「大草原の少女ソラ」。スイスが北海道になり、おじいさんが草刈正雄になり、ハイジが、なつになり、ソラになって、つまりは「なつ=ソラ」というオチなのですね!大喜利かよ(笑)こうして伏線を何重にも散りばめて、アニオタとネット民にいろんなネタを提供するNHKの手法は、民放ドラマのプロモーションをはるかに上回っているように思います。要するに、NHKのスタッフのほうがオタク度が高いということですね。「100分de名著」から「日曜美術館」まで、あちこちの番組でハイジを取り上げているところを見ると、NHKは、さぞかし力を注いで取材したのでしょうね。詳しくはこちらをどうぞ→音楽惑星さん アルプスの少女ハイジ関連
2019.09.08
NHK「朝ドラ100作ファン感謝祭」。名シーンランキングの1位は、「ちりとてちん」の渡瀬恒彦でした。この結果に、思わず ( ゚д゚)ポカーン となった視聴者も多いことでしょう。今回は、ネット投票による結果ですから、おもに若い視聴者層の好みが反映されたでしょうし、事実、選ばれていたのは、すべて2000年以降の作品でした。しかし、そうはいっても、なぜ「ちりとてちん」??あれって最低視聴率を記録した作品じゃなかったっけ??しかも渡瀬恒彦ってだれ?? オジサン??どうしてヒロインじゃないの??恋人役でもないの??おもに若い人が投票してるはずじゃないの??などなど、視聴者の脳裏には様々な「?」が湧き上がったことでしょう。しかし、一方では、この結果に思わず大爆笑した人もいるに違いありません。なぜなら、こと「ちりとてちん」にかんしては、このような不可解なことがさまざまに発生しうるからです。◇一般に「ちりとて信者」といわれる人たちが、はたしてどのくらいの規模で存在しているのか、わたしには分かりませんが、おそらくNHKのほうでは、かなりの精度で把握しているのでしょう。ネットをちょっと調べてみると分かりますが、いまや、この「ちりとて信者」の集団は、かなり強固なかたちで「アンチ半青」とも結びついているようですから、おそらく、それほど大きな集団ではないのだろうとも推測されます。ごく限定的な嗜好だけを共有した、きわめてリジッドな集団なのです。NHKとしては、こうした熱狂的な集団の欲求には下手に逆らわず、むしろ、SNSの時代であることを考慮して、その狂気的なエネルギーを朝ドラ支持層に取り込むのが賢明、と判断しているようです。まさしく今回の「ファン感謝祭」も、この熱狂的な信者集団を満足させるために設えられた特番だった、と言っていいでしょう。わざわざ最初から「1位」だけを隠して、それだけを後半にまで引っ張るといった演出にも、彼らの欲求をいかに満足させるかに腐心している様子がうかがえました。◇もちろん、どんなに熱狂的なファンが一部にいるといっても、それがそのまま視聴率に結びつくものではありません。事実、あえて「ちりとてちん」のアンコール放送を、これまでBS-hiだのプレミアムだので実施しているあたりには(笑)、しっかりとNHKらしいしたたかさも見え隠れするわけです。◇はたして「ちりとて信者」の人たちが、いったい何のために、いったい誰のために、こうした熱狂的な活動に走っているのか分かりませんが、藤本有紀の「平清盛」が惨憺たる結果だったことや、渡瀬恒彦が死去したことも、彼らの活動に拍車をかけているようです。まさか、こんどの「浮世の画家」のために、NHKが藤本有紀に媚びを売ったとは思いませんが、一方では、そんな疑いをかけられないための配慮も、今後のNHKには必要なのかもしれませんね。
2019.03.31
ちりとてちん終わりました。大傑作、とまではいかなかった。はじめの頃の勢いが、中盤部で停滞してしまったのが大きい。最大のネックは、草若だったと思います。彼が何を望み、何を願っていたか。結果的に見れば、その人物像にかんして脚本上の破綻はなかったのだけど、あまりにも分かりにく過ぎた。死ぬ間際まで、彼が何を考えているのかが分からなかった。サスペンスドラマなら、それでもいいのだけれど、こういうドラマで、柱になるべき人物が分かりにくいのは、かえって牽引力をそぐ。正太郎や糸子が物語の柱になっていた前半の福井編では、その明け透けで輝かしいほどのキャラクターが、物語を引っ張る力になった。それに対して、草若という人物はとても分かりにくく、画面から伝わってくるような輝かしい人間的な魅力や強さにも欠けた。その結果、大阪編ではドラマ全体が沈滞してしまった感は否めない。たとえ、ほかの人物たちがいくら輝いたとしても、柱になるはずの草若の分かりにくさが、全体を沈滞させてしまった。弟子たちを我が子ののように思い、彼らの将来のため、常打ち小屋の建設をめざして尽力した師匠。その、気まぐれながらも、思慮深さと愛情と人間性に満ちた人物像を、もっともっと、輝かしい魅力で画面に現わすことができていたなら、大阪編は、こんなにまで沈滞することはなかったとおもう。たとえば、もしも師匠役が、『タイガー&ドラゴン』のときの西田敏行のような、あんな輝かしくて人間的な暖かさに溢れるようなキャラクターだったら、きっと、その師匠の生と死が、その後の物語にさえも、もっと大きな重みを与えていただろうと思います。◇大阪編において、師匠役がドラマを引っ張るキャラとしての魅力に欠けた。それを補うためだったのか、なぜか大阪編になっても、糸子をはじめとする福井の面々が、頻繁に大阪にやってきました。たしかに、糸子たちが大阪にやってくるだけで、物語は輝き出す。福井の家族たちが集まってくると、ドラマは活気づく。それはドラマにとって唯一の救いではあったけれど、本来は、そんな風にすべきじゃない。あまりにも、登場人物たちが福井と大阪の間を頻繁に往来しすぎるために、その空間的な隔たりは、非常に安易なものになってしまいました。まるで、隣近所に遊びにくるような感覚になってしまった。たしかに現代は、昔に比べて空間的な距離は縮まっているし、福井と大阪なんて、もはやたいして遠くはないのだろうし、そういう意味では、これもまた現代的な演出のひとつなのかもしれないけど、こんなにも距離が縮まってしまうと、前半部において、主人公が泣きながら母と別れたシーンが、なんだか意味をなさなくなってしまうのも事実。ドラマを活気づけるためだったとはいえ、彼らの過剰な空間移動は、作品の質を安易なものにしたと言える。◇大阪編、とくに草若が物語の柱になった中盤部。ドラマはそこで停滞を余儀なくされた。そして皮肉なことに、草若が死んだことによって、再びドラマが活気を取り戻したように思えた。でも、そのときすでにドラマは終盤部に差し掛かっていて、この作品が「傑作」になるべく挽回するのは、もう不可能になってたと思う。長編ドラマは、本当に難しいです。結果的に見れば、可もなく不可もない作品だったと思います。
2008.03.29
「ちりとて」の解りにくかった部分が、今頃になって、だんだんわかってきた・・。昨夜の《前半ベスト》の放送を見て、ようやく「ああ、そういうことだったんだな」と思いました。でも、やっぱり、ちょっと脚本が分かりにくかったと思う。伝わりにくい部分があったと思います。◇11/21の日記でも同じことに触れていますけど、問題だったのは、草若師匠です。以下の3つの点は、とても解りにくかった。1.なぜ、草若は落語を捨てたのか?2.そして、なぜまた落語に戻ってきたのか?3.破門したはずの草々を、どうしてすぐ迎え入れたのか?これらのすべての疑問を解く鍵は、ズバリ「親心」でした。つまり草若は、「芸人」や「師匠」である前に、「親」だったのです。草若は、じつは意外にも優柔不断です。喜代美の母が、娘に対してそうであるように、草若もまた、いつも息子(たち)に甘く、結局は彼らを許してしまう。それは「師匠の厳しさ」ではなく、「親の甘さ」ゆえのものです。草若の“息子”は、小草若だけじゃありません。草原も、草々も、四草も、そして若狭も含めて、みんな「弟子」である前に、息子であり、娘なわけです。以前の草若が「芸人」である前に「夫」だったのと同じく、現在の草若も「師匠」である前に「親」なのです。草若は、じつは昔も今も変わっていないのです。わたしは草若に「変化があった」と思っていたんだけど、実際は何も変わってなかったんだと思います。1.なぜ草若は、落語を捨てたのか。草若が天狗芸能から追放された時、きっと、彼が真っ先に考えたのは、「息子たちを道連れにしてはいけない」ということだったでしょう。だから彼は、あえて息子たちを自由にするために、みずから落語を捨てた。けれども、羽ばたかせたはずの息子たちは、結局また「親」のもとへと帰ってきてしまいます。(それは小草若のことだけじゃなく、弟子全員、プラス1のこと)2.なぜ草若は高座に戻ってきたのか?この答えもつまり、「息子たちが戻ってきてしまったから」です。「芸人だから」でも「師匠だから」でもなく、「親だから」です。直接のきっかけになったのは、小草若が《親子の噺》として語った「寿限無」だったんですが、草若は、帰ってきた子供たちを受け入れずにいられなくなってしまう。親であるがゆえに、子供たちに甘く、優柔不断で、やっぱりまた抱き入れてしまう。それが、彼の変わらない行動原理であり、同時にこれは、福井にも大阪にも共通している「親の論理」なんだと言える。3.なぜすぐに草々や若狭の破門を取り消すのか。これも親だから。はなから、子供を捨てるなんてことをするわけがない。帰ってきたら、いつでも抱きしめてしまうし、許してしまう。それが親。どんな決まり事でも、子供のためには翻してしまう。それが親。優しくて、暖かくて、甘い。ということで、おおむね、疑問点は解決したんですが、なぜこんなにも分かりにくかったのかというと、脚本じたい、ちょっと誤解を招くような部分があったから。具体的にいうと、草若が落語をやめた理由について、ほとんどの視聴者が誤解したと思う。昨夜の《前半部ベスト》の放送によると、例の一門会当時の真相を菊江から聞かされた小草若が、そこで、「草若の親心を知った」とのナレーションが入っています。これは、やや“後づけ”っぽい気がする。放送当時、大方の視聴者はそのようには理解しなかった。むしろ、草若は「師匠としての意地」を貫いたと受け止めてしまった。つまり、「病気の妻のために芸を放棄した芸人の姿を、弟子たちに見せたくない」という師匠としての意地を、彼は貫いてるんだと思ってしまったわけです。ここの描き方には、ちょっと脚本上のミステイクがあったんじゃないかなあ。たしかに草若が師匠として虚勢を張っていたのは事実だろうし、それは芸人を続けていた息子のためを思ってのことだったから、脚本が破綻してるとまでは言えないんだけど、でも、「芸人」として、あるいは「師匠」として生きることが、ときに「家族」をも否定しなければならない場合があるってことを、視聴者は、あらかじめ志保のエピソードによって知らされているし、それが容易に両立し得ないことを知っているので、彼らがいったいどちらを選んでいるのか、そこを見分けるのは非常に難しい。渡瀬恒彦の演技を見ていても、「親の暖かみ」を強く感じさせるものかというと、ちょっと難しかった。でも実際は、草若はいつでも、「芸人」である前に「夫」だったし、「師匠」である前に「親」だった。芸人や師匠であることの厳しさ以上に、草若の行動原理の中では、「夫」や「親」であるがゆえの優しさや暖かさが上回ってる。そして、それはときに優柔不断で情けない親の甘さとして描かれもする。草若が落語の世界に戻ってきたのも、「芸人」としての自信を取り戻したからではなく、「師匠」としてのあり方を変えようとしたからでもなく、たんに「親」として、子供たちの前に帰ってきただけだった。今になってみれば、ようやくそういう風に読めるんですけども。なかなか理解できませんでした。
2007.12.31
以前の『ギャルサー』がまさにそうだったけど、この脚本家は、女の子の≪自我(エゴ)≫の描き方がとてもリアルです。今回の『ちりとてちん』にも、その面は出てる。このドラマには、「A子」と「B子」というふたりの女の子が出てきますが、当初、この「A子」/「B子」ってネーミングは、いくらなんでも露骨すぎなんじゃなかと思ってました。でも、じつは(ちょっと深読みかもしれないけど)、このネーミングの中には、過去の「NHK朝ドラ」に対する批判が入ってるのかもしれません。そこにこそ、この脚本家の描こうとする、リアルな女の子像ってものが意図的に設定されてると思う。過去の朝ドラヒロインは、みんな「A子」だった。いつも潔白で、偽りがなく、芯が強くて、めげない。決して他人を疑うこともなく、思いやりを失うこともない、そういう正しい女の子像。そういう女の子が、色んな困難にぶつかっても、意地悪な人達に囲まれても、決してめげずに、困難を乗り越えていく。そして周囲の人たちの心までも変えていく。そういう物語。もし、そばに挫けたり卑屈になったりしてる友達がいたら、その子を勇気づけるだけじゃなく、代わりになってでも乗り越えてあげるような、優しくて、健気で、ひたむきなヒロイン。そういう女の子像を通して、人間本来の信じるべき正しさとか真心とかを描くのが、今までのNHK朝ドラの役割だった。ところが、今回のヒロインは「A子」じゃない。B子。むしろ、周りに勇気づけてもらったり、慰めてもらったりしながら、やっと生きていく側の女の子。しかも、他人に勇気づけてもらったところで、かならずしもその困難を乗り越えられるとも限らない。場合によっては、いつまでもダメなままの子。たいした困難があるわけでもないし、これといって意地悪な人間が周囲にいるわけでもないのに、周りはみんな良い人ばかりで、環境だってそれほど悪いわけじゃないのに、悪いのは本人だけ。ダメなのも本人だけ。弱くて卑怯なのも、まったく本人自身。いろんな下心がある割に、まったくもって意志が弱くて、上手くいかないと、すぐネガティブになって、何もかも周りのせいにする。いわば、裏ヒロイン。歴代の朝ドラを全部見てきたわけではないけど、そういう女の子の≪自我≫のあり方を露骨に描いてみせたのは、朝ドラ史上はじめてのことじゃないかと思います。そのこと自体が、この作品のひとつのねらいであるように思えてきた。そして、そういう女の子像を描くのにもっとも適していたのが、この、かつて『ギャルサー』を書いた脚本家だったんだなー、と、今になって思えます。◇今日の展開。そんな「B子」の成長のために、必要なのは、はたして「優しさ」か、それとも「厳しさ」なのか。無限の愛情で包み込んでしまう母親。「厳しさ」と「優しさ」との狭間で迷い悩む師匠。「裏切られてこそ強くなるのだ」と力説する若い女性。あれやこれやと「B子」を気遣う周囲の人々。そして、4人4様のやりかたで立ち直らせようとする兄弟子たち。けっきょく、それらのすべての恩恵に贅沢にあずかりながら、やっとこさっとこ、しかも少しずつ少しずつ成長していくことしかできない、それが、このドラマのヒロインなのでした。
2007.12.04
NHK「ちりとてちん」。序盤の頃の勢いからすると、さすがに衰えた気はするけど、今日はひさびさにウルッときました。でも、今日の内容は、見る人によって、けっこう反応が異なるみたいです。ネット上の感想を読んでて、「なるほど」と思わせられた。たぶん、年代によって受け止め方が違うんじゃないかと思います。わたしぐらいの年代の人間からすると、いつまでたっても子供のままで成長しきれないヒロインのことが、切なくて、可愛くて、なんとも言えず、いとおしくなってしまうんだけど、逆に、ヒロインと同じくらいの若い年代の人からすると、まさにそういうところが、自分自身のイヤな部分を見せられてるようで、嫌悪感に苛まれるんだろうと思う。みんな、若い時って、「変わりたい」と思うし、「変わらなきゃ」と焦りもする。子供のような甘さから脱皮して、成長しようと必死になってる。そんなときに、いつまでも甘い考えで、態度や気持ちが子供じみていて、我がままばかり言っているようなヒロインの姿を見ると、なんだかイラッときて、許せないって気分になるんだと思う。わたしぐらいの年の人間から見ると、その幼さが、たまらなく愛おしいんだけど。わたしはむしろ、ヒロインには「変わらないでほしい」と思うし、「いつまでもこのままでいてほしい」とさえ思っちゃって、子供のままの主人公をギュっと抱き締めたくなってしまうんだけど、きっとヒロインと同年代の視聴者は、そんな煮え切らない甘ったれたヒロインではなく、成長して、見違えるように変わっていくような姿が見たいんでしょうね。◇ ◇NHKの朝ドラってのは、「ヒロインが成長していく過程を描く」というのが定番。たしかに今回のヒロインも、「自分が変わる」ということを目標にしてる。けれども、今回のドラマのテーマは、どうやら、「変わる」ということではないらしい。むしろ、じつは「変わらない」部分にこそ目が向けられている。ヒロインはもちろん成長するんだろうけど、それは、ただ「変わってしまう」ということではなさそうです。まして、それは、「B子だった昔の自分」を否定することでもないし、母親だとか、故郷の若狭だとかを否定しながら変貌していくことでもない。そのあたりが、若い視聴者に受け入れられるかどうか、ちょっと微妙なところなのかもしれません。※民放ドラマ「歌姫」。スゴクいいです。<TBS = 長瀬くんのチンピラキャラ = 昭和の映画館>という組み合わせで作った、舞台演劇のドラマ化だそうですが、TBSでこの路線は、何気に新鮮ですね。何がいいって、町はずれで波しぶきをあげてる、土佐の荒海がいいです。これだけで一時間観てられます。
2007.12.04
NHK朝の連ドラ『ちりとてちん』。非常に高密度な内容ではあるのですが。いったいどれだけの内容を詰め込むつもりか知りませんが、先週までの徒然亭一門の物語は、さすがにちょっと展開が速すぎて、やや未消化な感は否めません。それとも、これはまだ次の展開の伏線なのでしょうか?草若師匠と小草若。父と息子の物語。なかなか、その物語の全体像をつかむのが難しかった。それは、わたしの理解するかぎり、こんな内容でした。3年前、妻が余命わずかだと知らされた草若師匠は、そのショックから高座にあがることができなくなり、逃げ出してしまいます。草若は「芸人」である前に「夫」だったわけです。いつも妻と一緒に演じてきた「愛宕山」を、妻のいない場所で演じるのは、あまりにも残酷すぎた。彼は天狗芸能から追放されたのではなく、「芸人」として生きていくことの限界を知り、天狗芸能から追放されるのをあらかじめ知りながら、みずからその道を絶ったのだといえます。天狗芸能から追放されるという事態は、徒然亭の弟子たちに大きなショックを与えますが、その数ヵ月後には、さらに志保の死というショックが積み重なります。しかし、草若は、「高座からの逃亡」と「妻の病気」とが無関係だったかのように装います。それは、かろうじて師匠として「虚勢を張り続ける」ためのものでした。また、亡くなった志保も、師匠がそうあることを望んだのでした。3年後、仏壇屋の菊江が、小草若に真相を明かします。あの日、じつは草若は病院に来ていた、ということ。そして、その彼が一門会の会場の前にも現れていたこと。 ☆ちなみに、 草若が、志保の余命について医師の宣告を受けていたかどうかは、 菊江も志保も知りえないことですので、 本来なら、あのイメージを回想シーンに入れるべきではないと思う。上の2つの事実を聞かされた小草若は、真実を悟ります。つまり、父=師匠は、「遊び人」であったがゆえに「芸人」の道を絶たれたのではなく、「夫」であったがゆえに「芸人」としての道を閉ざしたのだ、と。そして、それは天狗芸能に強いられたことというよりも、なかば草若みずからの選択だったのだ、と。ここで分からないのは、なぜ小草若も、他の弟子たちも、また天狗芸能も、「草若の逃亡」と、当時の「志保の病気」とに関連があると考えなかったのか?むしろ、それを考えるのが普通だと思うんだけど。のみならず、なぜ小草若は「父と愛人との関係」なんてことを疑ってしまったのか?草若自身がそのように偽ったのでしょうか?天狗芸能から追放され、さらには志保が亡くなるという事態の中、弟子たちが大きなショックを受けているのに、師匠だけがヘラヘラと「遊び人」を装い続けるなんて、いくらなんでも不謹慎だと思うし、そうでなければ、それ以前の草若が、よほど女たらしでふしだらな人間だったってことでしょうか。そして、もうひとつ、分からないことがあります。それは、「芸人」であることを放棄したはずの草若が、なぜふたたび高座に戻ろうという気持ちを取り戻せたのかってこと。これも、じつはスッキリとした理解ができない。彼は3年前、「夫」であることを捨ててまで「芸人」であることはできないと感じ、高座を捨てた。その彼が高座に復帰したのは、何らかの理由で「芸人」として生きていく自信を取り戻したからです。そして、そこには息子・小草若の存在があったと思う。けれど、なぜ草若が「芸人」として生きていく自信を取り戻したのか、その理由は、明確には理解できません。「夫」であることと「芸人」であることの矛盾に苦しんだ草若ですが、ここでは、「父」でもあり、また「芸人(師匠)」でもあるという生き方に、何かしら新たな希望を見い出せたからなのでしょうか?様々に解釈のしかたはできるけれど、あそこに描かれたエピソードだけで、一般の視聴者にそれを理解させるというのは、かなり困難があると思う。◇小草若はなぜ父を誤解したのか。◇そして草若はなぜ「芸人」としての自信を取り戻したのか。この2つが未消化だったために、わたしにとって、父子の和解のエピソードは、充分に共感しうるものにはなりませんでした。もっといえば、この父と息子は、「芸人」としての道、「家族」としての道、「遊び人」としての道、いったい何を選び、何を捨てたのか、それとも、それを両立させる道をどこかに見い出したのか、そのへんもよく分からない。このドラマは「伏線を回収することに長けている」と評されていますが、同時に、「出来事の背景にある描かれることのないエピソード」についても、考え抜かれたものでなければ綿密な脚本とはいえない。伏線だけでなく、描かれない背景についても、いずれはちゃんと落とし前をつけていってほしいです。ついでに言えば、最近の展開では、四草や草原など、弟子たちのキャラの変化もちょっと早すぎる気がする。
2007.11.21
NHK、朝の連続テレビ小説。毎朝、傑作ドラマの誕生を目の当たりにしてる実感がある。いままでのところ、ずっと驚きが続いています。回を重ねても、脚本のクオリティがまったく落ちない。むしろ、だんだん高まってる気がする。すごいです。脚本家の藤本有紀に関心をもったのは、去年の『ギャルサー』のときでした。日テレの傑作『野ブタをプロデュース。』にも引けをとらない斬新な内容だったし、しかも、原作があるわけじゃなく、まったくのオリジナル脚本だったという点が驚きでした。オリジナルの脚本にもかかわらず、あれだけの独創的(≒荒唐無稽)な舞台設定を作り上げ、しかもその中で高密度のエピソードを重ね、同時に、きちんとしたメッセージも込めていました。オリジナルの脚本で密度の濃いドラマを作るのは難しいと思っていただけに、『ギャルサー』は本当に凄いと思った。そして、今回の朝ドラにも、またあらたな驚きを感じています。NHKの朝ドラというのは、全編が長いにもかかわらず、一回ごとの放送時間は短かいので、ドラマの密度を毎回の放送で維持し続けるのはかなり難しいと思う。それにもかかわらず、藤本有紀は、その豊富なアイディア、巧みなテクニック、全体の構成力、すべてにおいて抜きん出た力量を、惜しみなく見せつけてると思う。週ごとのタイトルがいつも駄洒落になっていて、それが巧みに物語の内容に掛けられてる。そして、クドカンが『タイガー&ドラゴン』でやったのと同じように、物語や、ドラマの色んな要素が落語の古典に引っかけて作ってある。この着想じたいは、もちろんクドカンの二番煎じなんだけど、でも、二番煎じであることが欠点だとは感じさせないくらい、その“お題”のさばき方はじつに見事です。かといって、一般の視聴者にとって難解な内容になるわけでもない。そうした“お題”をたくみに料理しながらも、毎朝のエピソードにはちゃんとした見せ場があり、たんに技術的なうまさに終始するだけじゃなく、物語には心を打つような感動もあるし、胸に響くメッセージもちゃんと込められてる。ドラマの核心部分は、決して大ざっぱなものじゃなく、むしろ、人の心の、ささやかで、細やかな機微のほうに目が向けられています。設定とか構成はすごく大胆なのに、テーマやメッセージはとても繊細なところにある。このドラマをとおして、藤本有紀という脚本家の、驚くほど抜きん出た力量が、あらゆる意味で毎朝証明され続けてる、という状況です。他方、演出も抜かりないし、キャストの演技も文句なしです。もとの脚本自体にもほとんど破綻がないと思うけど、脚本と演出の間にも、今のところ破綻が見えない。脚本の意図だけでなく、微妙な「間」の部分まで的確に演出してるのが素晴らしい。キャストの人たちの演技もみんなレベルが高いです。和久井映見もよかったけど、渡瀬恒彦もまったくもって素晴らしい。「寝床」の面々は、やや“御愛嬌”といえる演技だけど、メインのキャストも、サブのキャストも、かなり良いと思える。コメディ・ドラマでの演技センスということでは、同世代の上野樹里ちゃんが、一足先に一般の評価を定着させた感じだけど、このドラマのなかで、貫地谷しほりちゃんも評価を得ることになりそう。このドラマ、視聴率が良いわけではありません。旧来の視聴者は、内容の良し悪し以前に、ドラマの舞台設定にそもそもなじめていない、というのが実情だと思う。物語の入り口の舞台を福井の田舎町に設定したのは、そういう旧来の視聴者に対する配慮もあったとは思うんだけど、それでも、やっぱりなかなか視聴率的には厳しいようです。けれど、そのことをもって今回の作品を「失敗」とするのでは、作り手側だってやる気をなくすし、見るほうだって見る気をなくします。視聴率の結果はともかく、今回の作品は、いまのところ明らかに「成功している」というべきです。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2007.10.29
全19件 (19件中 1-19件目)
1