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信濃川改修工事 その5次いで十六、七年の県会において田沢実入氏等大河津分水の請願を建議し、これを可決して県会より委員を上京せしめ政府に陳情せしめた。 明治十八年政府は内務技師古市公蔵氏の治水計画を採用して信濃川改修工事を起すに至った。その計画は堤防の改築と河身の改修であった。而して河身改修費は国庫これを負担し、堤防の改築費は県民これを負担することになった。ここにおいて新潟県会はこれが経費一、六二〇、三九六円、十三ヶ年の継続事業を可決し、十九年十二月堤防改築の起工式を挙行して着々工事を通むるに至った。 二十三年十二月県会において改修工事設計更正の建議があって論議せられたが、通過せずして改修工事は予定の進行をなしたが、二十七、八年の戦役に続いて二十九年、三十年に亘って信濃川その他諸川の大洪水があって、信濃川筋は横田、黒粂、大郷を始めとして数ケ所の大破堤があった。その損害数千万円に上り、剰え天気陰鬱で温度低下のため稲作に浮塵子の害があって、愁雲全県を覆い米価暴騰して県民の不安甚だしく、延いて信濃川堤防改築工事無効の声漸く高く、大河津分水の論又再燃して有志は復々運動を開始するに至った。 三十一年県会において信濃川排水の件に付決議し、三十四年十二月県会において小嶋太郎一外十五氏より建議して信濃川堤防改築工事の効果寡きを難じ大河津分水の利を説き、満場一致の議決を以て政府に請願書を提出した。然るに三十五年十二月県会に分水反対の建議が出て議会を紛擾せしめた事があったけれども、県民の熱望と政府の精密なる調査の結果、政府もこれを認め、いよいよ実行の域に到達せんとしたが、偶々日露戦役突発のため遂に起工の延期を余儀なくせられた。 由来大河津分水については反対を唱えるものがあった。即ち第一は分水工事のため立ち退きせしめられるべき分水渠付近の諸村、第二には分水渠新堤の崩壊して水害を蒙らん事を憂慮する諸村、第三は直接利害関係の少なき町村にありては経費の負担に苦情ある事、第四は灌漑水を失わん事を杞憂する諸村であった。しかしこれらは一小問題で、外に一大故障と称すべきは 新潟県の故障 である。即ち新潟の港を形成する所以のものは、一に信濃川と阿賀野川との恩恵によれるものとし、往年溝口家にて阿賀野川を疏鑿しその本流を松ヶ崎へ落し、新潟港への流水を減じたるため新潟港口に及ぼす影響は土砂の沈殿を多からしめ、而して港口を游塞するに至れりとは市民の夙に
2024.02.22
ルカ伝第11章9求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。ルカ伝第11章13天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか祈祷の精神とその目的物 明治36年7月23日(6月28日角筈聖書研究会において)11-338 今日はルカ伝第11章を開いて、その1節から13節までを読みましょう。最初の主の祈祷のことは、既に雑誌にも掲げて出したことがありますから、その事は別に申し上げんで、今は祈祷をする時の精神とその目的物とについて話しましょう。本章第5節以下13節までを精読しますと、私どもが祈る時には、いかなる決心をもってせねばならぬかが、よく分かってまいります。まずキリストの申されたたとえを仔細に考えてみなければなりません。ある人が夜なか不意に自分の家の門を叩いて、にわかの客来で何も振舞う物がないから、どうかパン三つ貸して下さいうんぬんというたとえであります。私が子どもの時に郷里(さと)に居ろました頃、にわかに客が来たというので、よくご飯借りに隣家へどんぶりを持って走ったことを記憶しておりますが、こんなことはナザレの村にもありがちなことであったろうかと思われます。キリストのひゆは、よく天然や日用のことから引かれますので、粉ひきとか、婚礼の席とか、どれもどれも分かりやすい例ばかりであります。ルカ伝に書いてありますのも、その一つでありまして、かく隣の人が門を叩いてしきりに貸せ貸せと頼みますから、内にいる者も、その切なる願いの声に耐えかねて、眠っている子どもの側を離れ、しめ切ってある門を開けて、家にあるパンを与えてやるという極々卑近な話であります。しかしキリストは教えて、これは頼んだ人が朋友であるから起きてあたえたのではない、ぜひ貸してくれというその声が、あまりに高かったから、それについ引かされて、与うるようになったのであると申しておられるのであります。 ちょっと考えてみますと、願い方があまり切であったから、やむを得ず与えたというのは、いかにも不人情のように聞こえますが、しかし、キリストはなお他の章において、これと類似したたとえを出しておられます。それは、寡婦(やもめ)が、すでに休んでいる代言人の宅へ来て、弁護をして下さいと頼みましたら、代言人はもう寝てしまったから、帰ってくれと返答しました。けれども寡婦(やもめ)は、一生懸命になって頼みますから、代言人はその女を追い払うために、ついにその依頼を聴いてやったというたとえ話です(ルカ伝18章1~8節)。キリストはかかる卑近なひゆをだされて、これはなんじらの常に経験する事実である。頼まれ人がたとえ一面識もない悪人であっても、一心に頼まれてみれば、すげなく追い払うことはない。まして頼まるる者が、友誼(ゆうぎ)あり愛心あるものであるならば、その所有物(もちもの)をあたえてやるのは当然(あたりまえ)であると、その教訓の意を強めんために、わざとかかるひゆを持ち出されたのであります。かくてキリストは、ご自身を盗賊に例(たと)えられたこともあります(マタイ伝12章29節)。キリストはもちろん強盗ではありません。けれどもキリストが愛の縄をもって私どもを縛り、私どもの霊魂(たましい)をとりこにさるれば、その残余(のこり)は一切キリストのものであります。これはちょうど、強盗がまず第一に、その家(うち)の力の強いやつを縛ってさえしまえば、後は何でも欲しい物がとられるのと同じ理合いであります。私どもはルカ伝のこの節を読んで、愛深き神の切なる祈願を聴きいれたまうことを信じますと同時に、パン三つのためにすら願うてみる私どもであってみれば、いわんや生命の根源たるべきもののためには、寸刻も祈ることを廃してはならぬと、くれぐれも思うのであります。願いの切なるということ、それが大いに力のあることであります。祈祷において私どもは、根気良く、よほど執念深くならねばなりません。しからば何を祈るのでありますか。これは同章の11節以下を読んでいけば、直ちに分かります。(サソリとは、英語のスコーピオンで、毒虫であります)。「なんじらは、悪に沈淪(しず)める者ながら、なお善き賜(たまもの)をその子どもにあたえることを知っている。まして天に在(いま)すなんじらの父は、求むる者に聖霊を与えざらんや」とあります。ここに至りて、キリスト信者の祈りの目的の何たるやは明々白々であります。(マタイ伝第7章に同じ文がありますが、そこには聖霊という字はありません)。多くの人の中には、息子が放蕩(ほうとう)をやめますようにと祈っている者もあります。また、父が早く酒をやめるようにと祈っている者もあります。たくさん金がもうかるようにと願うている者もあります。そうしてその祈祷が聴かれません時には、神も当てにならぬと申して、祈祷無効論を吹聴するのでありますが、しかしそれは、大へん間違った考えであります。神は一番善いものを与えてやろうとて、私どもの来るのを待ち焦がれておられるのです。「天に在(いま)す、なんんじらの父は、求むる者に聖霊を与へざらんや」というこの一句を忘れてはなりません。息子が放蕩をやめるのも、父が酒をやめるのも、試験に及第するのも、良友を得るのも、決して悪いことではありませんが、しかし神の眼から見ますれば、聖霊という結構な賜(たまもの)が、その手元に存在しているのであります。この賜をもらうことを忘れて、ほかの小さな物をもらおうとするのは、あまりにも謙遜過ぎた行為ではありませんか。しからば、なぜに聖霊がそれほど有り難いのでしょうか。第一、私どもはこれを受けて、我の罪深きを知り、神の恵みのいかに大なるかを知り、すべて神が人類のためにそなえてたまいし恩寵(めぐみ)の中の恩寵(めぐみ)、すなわちキリスト降世の意味の何たるかを知るに至ります。かくして人生問題も分りますれば、宇宙の問題も解けてまいります。子に対する関係、父母朋友に対する義務はもちろん、刃を迎えずに分かってまいります。もし聖霊の賜(たまもの)が私どもに下りまして、至深至高の大問題を解釈せられますれば、衣食、健康、家庭等の諸問題は、特別に教えられずとも、自ら明白になってくるものであります。それゆえに、第一の恵みであるこの聖霊を受ければ、私共は一切の賜(たまもの)を受けたと同然です。この第一の恵みをいただきますには、前にも申した通り、誠心誠意をもって一生懸命に祈るばかりでいます。無理にもパンをもらおうという心をもって祈りますれば、神は必ず聖霊を下したまうに相違ありません。一家の葛藤が無事に治まったとか、商売が繁盛し始めたからとて、我は最も神に愛されるる者だと思ってはなりません。ある種類の信者は、それくらいで満足するかも知れませんが、しかし神の愛は、確かにそれ以上、それ以上のそれ以上であります。薄情なる神は、我が子を殺し、我が家を滅したまうと不平を鳴らしております時に、聖霊は忽然(こつぜん)として、いずれよりか注いでまいります。「風は己れが任(まま)に吹く。なんじその声を聞けども、いずこより来り、いずこへ往くを知らず、すべて霊に由りて生るる者もこのごとし」(ヨハネ伝3章8節)であります。私どもが失敗に失敗を重ね、失望に失望を加えて茫然自失しております時に、聖霊風のごとく、我に入って、心眼ここに開けますれば、これほど愉快を感じることはありません。それですから、私どもの祈願は、世人のそれにならって、社会改良とか国家富強とかいうことぐらいにとどまってはなりません。これらは紛失物を見出そうとして、本願寺やお稲荷様に参詣する老男老女の祈願と、五十歩百歩の違いであります。私どもの希望は、「父を示せ、然らば足れり」であります。すなわち私どもは、どうにかして神そのものを心中に宿(やど)したいのであります。この目的にして達せられませんければ、私どもは生きて生き甲斐のない動物であります。家庭の平和、国家の富強ぐらいは、これにくらべてみますれば数うるに足らぬものでありまして、いわば糞土に比すべきものであります。キリストは何のために現世に降られたのでありますか。キリストは何のために十字架に上りたまいしのでありますか。彼は神自身をわれらに示さんため、永劫の生命、すなわち神自身を与えんために、現世において苦しまれたのであります。もしキリストの賜(たまもの)は何ぞと問う者あらば、神自身が私の有(もの)となり、神自身が、私に下るという、その賜(たまもの)であると答うるのほかはありません。これを得ざる信仰は、信仰というべきほどのものではないと思います。この賜を得ました暁には、何に失敗いたしましょうが、何を他人に盗まれましょうが、または世の中の第一の不幸者と笑われましょうが、かまったことではありません。またある人は、聖霊を指して、漠然たる風のごときものだと申すかも知れません。なるほど風のようなものでありましょう。これを手に取ってみることもできねば、またソロバンに弾(はじ)いて勘定することもできません。しかし、我において最も確実なるものは、心よりほかにはありません。そうしてその我が心よりも確実なるは、すなわち神の心であります。神の心、我に宿りて、これほど気丈夫な、確かなことは有りません。 日本第一の英雄といわるる秀吉も、老齢、霜を戴くに及びましては、「難波(なにわ)の事は夢の世の中」と歎じ、「世の中に我にも似たる人もがな。生きて効(かい)なきことを語らん」と歌いました。いかにも情けない歌ではありませんか。私どもは小なりといえども、神の聖霊の私どもの上に下ってくることを信じます。神の聖霊にして下りますれば、難波の事は決して夢の世の中ではありません。聖霊をうけざる人こそ、起きていても実は寝ている人であります。真の自覚というものは、仏教などでいう悟道(さとり)ではありません。世界が破壊しましても、我独り存するという自覚は、座禅を組めば一切が消滅して愉快になるという境涯とは全く違います。座禅するか、または華厳の滝に落つる時の平和は、平和といわば平和ともいえましょうが、しかし、これはむしろ一種の酔いと言うべきであります。死に酔うというは、すなわちこれらを指した言葉であります。 私どもも、聖霊などいう漠然として風のごときものよりは、実物たる一杯の飯が欲しいなど申してみた時代がございました。また聖霊の霊の字は、死霊生霊(しりょういきりょう)などと申して、お化けなどに縁の近い文字でありますから、日本人にあまり好ましく思われぬももっともでありましょうが、しかし聖霊のことは、聖書のしばしば繰り返すところであいまして、これによりて神とキリストが、私どものうちに宿るに至るのであります。キリストを理想的人物として崇拝すれば、自然にキリストのごとき人になると言う者もあります。なるほど人類の王なるキリストを崇拝して、その感化を受くるのも、一良策には違いありますまいが、ただし私どもがキリストの肉と血とを我が有(もの)とするには、キリストを一個の英雄として崇拝するくらいでは足りません。直ちに聖霊そのものをもって、キリストを私どもの心に焼き付けられなければなりません。天然や文学や哲学その他万般の思想も、貴いには相違ありませんが、しかし神自身と比べてみますれば、零たるに過ぎません。聖霊にして得られずんば、私どもの末路は、「生きて効(かい)なきことを語らん」という、情けない哀歌として消えてしまうのであります。何とはかない次第ではありませんか。多くの人は、自分には熱心がない、どうも信仰が足りないとため息をついてばかりいます。それは当然です。元来私共は、無力な者です。無力の者ではありますが、しかし、無理にもパン三つを借らんとするその熱心、無理にでも代言人に泣きつかんとするその勇気をもって頼みますれば、愛の愛である神は、必ずその頼みを聴きいれたまうに相違ありません。これをしても疑う者は、生涯無力な者となって、土に帰るのほかはありません。私どもにして、キリストの道徳を喝采しております間は、実に小なるものであります。聖書を一つの大文学として、これに道楽半分の批評を加えております間は、実につまらない者であります。 私も今までは、伝道とは読んで字のごとく、道を伝うるためのものとばかり考えておりましたが、これは実に大なる謬見(びょうけん)であったことを、近頃悟りました。ヨハネ伝第1章の12節13節に、「彼を接(う)け、その名を信ぜしものには、権(ちから)を賜ひて、これを神の子と為せり。かかる人は血脈(ちすじ)に由るにあらず、情欲にあらず、人の意に由るにあらず、ただ神に由りて生れしなり」と書いてあります。キリスト信者とは、キリストをうけ、その名を信じ、その力を授かりし者です。元々神に造られし者なるがゆえに、私どもは神の子と称せらるるのではありません。キリストを信じて、神の力を受けし者が、真正の神の子なのであります。血脈を引いて生れしにあらず、神によりて生まれし者が、神の子なのであります。ゆえにもし、伝道をもって、あるいは聖書知識を授け、あるいは道徳的感化を及ぼすにあるといたしますれば、これ実に根本的誤謬であります。キリストの伝道とは福音です。道といわば、これ聖霊を賜わる道のことであります。この道を示すを得ば、私どものいわゆる伝道の目的は達せられたのであります。この希望ありて、私どもは大なる勢力となることができます。私どもはこの点において、卑怯であってはなりません。大胆でなければなりません。私ごとき者がと卑下するのは、大間違いです。私ごとき者こそと、自重しなければなりません。私どもが心掛くべき祈祷の精神、祈祷の目的物とは、すなわち以上のようなものです。
2024.02.12
内村鑑三 明治30年12月14―16日『万朝報』「ああ、富士よ、かかることを勧めたのは真の日本の精神ではない。大和魂はそのようには弁じなかった。」「我が生まれし豊かな森の国よ! 世界の偉大な記録の新しい一ページたれ! 何がなされるべきか」「穏やかにして信頼しているならば、力を得る。そしてもし柔和なものが地を受け継ぐとするならば、日本はその傲慢(ごうまん)さにおいて失敗した東洋の支配を、その柔和さにおいて実現するだろう。」猛省(明治三〇年一二月一四―一六日『万朝報』) 三年半前、日本国民が一体となってシナとの戦争に入ったとき、我々は最も高貴な動機をもって危険な企てを始めたのだった。それは弱国をその尊大な隣人の支配から救うためだった。我々の強さはその時まだ試されていず、シナの弱さもまだ露顕していなかった。彼の海軍はわが海軍に勝り、彼の国庫は無尽蔵、彼の要塞はほとんど難攻不落と考えられていた。それでも戦争は義戦として始められ、それゆえに我々はたとえ国家の存立を犠牲にしても戦う価値があると考えた。それはペルシャのアケメネス朝の王たちに対するギリシャ人の戦いに似た戦い―文明のための戦い―と我々は考えた。正直なところ我々ははじめてこの戦争におもむくことを求められたとき、血と肉とに協議すること、ましてや自己と欲望に協議することなどつゆほどもなかった。 * 牙山においてピョンヤンにおいて、黄海の海上において、我々の鬨(とき)の声はこれだった―弱小隣国の救援!殺戮(さつりく)はこの動機に基づいてのみ正当と認められた。そう、我々は命を失うことを何とも思わなかった―自分たちはまさに「人が人のために死ぬ所」たる祭壇に犠牲として捧げられることを知っていたからである。支配者の剣が堕落するまでの日清戦争は、日本史の中で、その道徳的達成の最高点を示す指標としていつまでも記憶されるだろう。 * ところが、そこで変節が始まったのだ。まず指導者たち、ついで軍人、そしてついには全国民が、最初の誓いを捨ててしまった。彼らはいまや全く新しい道―卑劣不正な征服の道に入った。「シナ四百余州を双肩に担う」、「我が金融組織を確立するに足る金を吸収する」、「手負いの兎はしっかり捕えるまでははなさない」といったような声が、我がラッパ吹き新聞から聞こえ始めた。陽光輝く澎湖諸島に新しい遠征隊が送られ、自然の警告を無視し、恐ろしい悪疫を犯して征服を敢行した。威海衛は陸海からのわずかな攻撃だけで陥落し、丁汝昌の北洋艦隊の殲滅は、死んで行った者には不幸であっても我々の幸福には何の関係もないこととして、歓呼された。そして陸軍が遼東半島の背面に入ったとき、「過てる兄弟を膺懲(ようちょう)する」よりは「弁髪(べんぱつ)狩りをする」ために戦争が遂行された。牛荘を奪うのは何ら面倒なことではなかった。北京や奉天にむかい、我々は「二世紀にわたって蓄積された馬蹄銀(ばていぎん)」を目当てに急いだ。 ピョンヤンを占領した時には、正義が我々の目的だった。凍結した遼河を渡り、山海関にむかった時には、その同じものが我々の口実に過ぎなかった。国家の進路が本来の高貴な道からこのように逸脱した―これは目撃するに最も悲しい逸脱だった。 * 敵と講和を結ぶことになったとき、我々は朝鮮の幸福と独立を最大の関心事となすべきだった。講和条約のその他の条項は、すべてこの唯一本来の目的に従属せしめられるべきであった。このことに失敗して、我々は戦争全体に失敗した。そして事実はどうなったか? * 下関条約は平和の条約ではなかった。正確に理解すれば、それは将来長年にわたって極東を荒廃させる幾多の続けざまの戦争の条約であった。すでにそれはきわめて不可解なやり方で朝鮮の王妃を処分した。すでにそれは西洋の一強国による中国の一港湾の最も無法な占領を招いた。そしてあの恥ずべき条約の当然の結果として、またこれから起こるべき幾多の破滅的な事件を予想するのに、予言者の目は必要としない。 なぜ、こうなったのか? 日本があの条約において偽善的にふるまったからである。義戦が不義のうちに終結されたからである。台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるか。シナの暴徒の手にかかって殺された二人のカトリック宣教師の生命の代償の一部として、山東地方の鉱業独占権を要求するドイツの態度も、これよりわずかにもう少し不合理の度合いが大きいにすぎない。下関条約で、日本は戦争の本来の目的である朝鮮の独立のために、何ら特別な保証を求めなかった。二億両(テール)、遼東半島、揚子江流域の新条約港の開設、および台湾と澎湖諸島の割譲は、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と、極めてかけ離れた関係をもっているにすぎない。我々はここに告白しよう。かつて「日清戦争の義」を書いたことをみずから極度に恥じていると。下関条約はあの戦争を不義なるものとした。あれは義戦として始まったが、欲戦として終わったのだ。 * まったく当然のことながら、あの恥ずべき条約の締結以後、恥辱と厄災が我々の運命となった。三年もたたぬうちに、朝鮮は完全に戦前の隷属状態に逆戻りしてしまった。ただ服従せねばならない主人を変えただけである。日本がシナとの戦争によって朝鮮の隷属性を確認したのだ。あわれな朝鮮よ!おせっかいな隣人の騎士的行為により、その隷属はいまや確実になった。そして近い将来におけるその独立を―もしそのようなことがあるとしても―夢みる者は、アヘン吸飲者ぐらいだろう。台湾における薩摩の失政については、語るのも苦痛すぎる。君子国は新しく獲得した領土にその「君子政治」を拡張して、その地をゆすりと強盗の巣に変じさせた。東洋平和の保証として得られた台湾は、いまやそれを得た国民にとって「肉体の棘(とげ)」となり、それを取られた帝国にとって崩壊の恐れの種となっている。遼東半島は不面目にも返還され、我々がシナに強いて世界に開かせた諸港から、我々は何の利益も得ていない。そして最も悪いことに、二億両(テール)は我々にとって大きな落し穴だということがわかった。我々が「弱小隣国の救援」のために流した血の代価として取り立てた金は―さよう、一銭たりとも―我が無力な隣国の向上や強化に使われることなく、すべて我々自身の軍備増強に使われ、軍人階級に対する不当な権力の付与と、人民に対する絶えざる課税の増加をもたらした。これほど栄光にみちて始まり、これほど恥辱にみちて終わった戦争が、かつてあっただろうか? 責任は誰にあるか これらすべての恥辱の責任は誰にあるか。世界に対しては、国家としての日本にある。しかし国家に対しては、通常藩閥(はんばつ)政府と呼ばれる薩長政権にある。歴史の法廷では、こういう事態になるのをすすんで認めたり黙認したりした長州の侯爵や薩摩の伯爵・子爵たちが、厳しく責任を問われるだろう。道徳を単に方便として認め、愛国心は「有利に利用できる手段」とみなし、忠君と平等の名において徳川幕府を終わらせながら、その後で新しい貴族制度を樹立して自分と自分の子どもたちを貴族にした連中―これら神なく信仰なく真実なき連中が、日本国民をこの絶望の沼へ、東洋をこの崩壊の淵へと誤り導いたのである。不誠実な人間のなしうることは驚くべきものだ。ひと握りの政治的策謀家どもが、ラッパ吹きやその他の取り巻き連中の助けを得て、これらすべてのことを引き起こしたのだ!単独でいたり、自分に相応の位置にいたなら、彼らは誰一人として重要視されるべき人物ではない。ただ権力と権威をもって、彼らは東洋全体の平和を危険に陥れたのだ。 ああ、富士よ、かかることを勧めたのは真の日本の精神ではない。大和魂はそのようには弁じなかった。国民を欺き、国家を通して全世界を欺いたのは、南国の私生児どもである。ああ、遼東、山東、台湾で流された罪のない人々の血をして、我々を責めるのではなく、これら恥ずべきことすべての正当な犯人たちを責めさせよ。日本国は、その繊細な正義と慈悲の感情をもって、これら野蛮な息子を否認し、日本国の名において彼らが犯した偽善の行為を永久に恥じるものである。 * ああ、君たち偽善者よ、強欲と略奪はキリスト教世界のやり方だから、我々もまた同じことをしてよいのだ、などというな。そういう言い方は、我が国におけるキリスト教世界の代表者の言い方と同じである。つまり彼らは、日本の台湾占領を不法とみなし、そのことによって彼らの不法な膠州湾占領を正当化しているのである。我々は、他人が盗むからといって、自分を盗みをすべきだろうか。キリスト教世界には殺したり盗んだりさせ、彼らが自分のものとしている宗教の教えと真向から対立させよ。しかし我々は、殺したり盗んだりすまい。彼らが暗黒の子だということは、我々が光明の子たろうと試みてはいけない理由にはならないのである。 我が生まれし豊かな森の国よ! 世界の偉大な記録の新しい一ページたれ! 何がなされるべきか 誤っていたことを悔い改め、我々が高貴であることをやめたところから始めることだ。領土征服といういやしむべき目的を放棄し、所有物において偉大であるよりも、我々自身においてまず偉大であることだ。軍備の増強によって東洋に平和をもたらすというのは、野蛮人の夢に過ぎない。強力にして有望な国、キリスト教世界を恥ずかしく思わしめる国を、ここに出現させよ。そうすればその国が、いかに大きな軍備でももたらしえない平和を東洋にもたらすだろう。古代のユダヤがそうであったごとく、穏やかにして信頼しているならば、力を得る。そしてもし柔和なものが地を受け継ぐとするならば、日本はその傲慢(ごうまん)さにおいて失敗した東洋の支配を、その柔和さにおいて実現するだろう。 (原題 A Retrospect. 亀井俊介訳)
2024.02.11
「後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓した」『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』青山士の語る「パナマ運河の話」(第4集略出、一部読みやすくした)〇「ぱなま運河の話」の奥付には、昭和十四年五月二十日印刷とある。青山士が著者として唯一印刷・刊行した本で、パナマ運河にただ一人日本人として参加した記録としても歴史的にも貴重な資料である。〇 この本には、「はしがき」と奥付の次ページに青山士自身の筆記が載っていて、非常な興味を覚える。「はしがき」の上には「ゲーテの夢」という題で次の文章が綴られる。「人類がやがて成し遂げるであらう三つの偉大なる工事、それを見て死ぬ者は何と幸福であらう」その三と云ふのは「パナマ運河」「ダニューブとラインを結ぶ運河」及び「スエズの其である」。〇「ぱなま運河の話」の最初に三人の写真、「内村鑑三先生」、「廣井勇先生」、「ウヰリアム・エツチ・バア先生」が掲げられ、「感謝ヲ以テ此小冊子ヲ諸先生ノ靈ニ捧グ」と献辞がある。「はしがき」に、青山自身が本書刊行の意図を綴っている。「パナマ運河は世界の土木工事の中で相当に大きなもので、またそれが人類文化の上に大いなる影響を与える事において有名な施設であるが故に、その工事に実際携わった、またその所を視察した人、またそれについての書籍を読んだ人によって多くのものが書かれております。・・・・・ハナマ運河がいまだ海のものとも山のもとも分らなかった時から、私がその幻を逐って遂に身の強からざりし私をして七年有余消煙蛮雨の熱帯、不健康地に働く事を得せしめた恩師及び友達の奨励並びに御親切な御援助に対し、私自身が全身汗みどろになって働いたその工事の事及び私がその時見た事及び感じた事を書き付けてそのの甚大な感謝の意を表すると同時に後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓したのであります。 昭和十四年四月少閑を得て 著者誌(しる)す」 目次に、一歴史、二竣工せる運河の概要、三ガトウン堰堤、余水吐及水力発電所、四太平洋側堰堤、五閘門及閘扉、六閘門通過及び付属諸機械の電気的運転及其統御、七運河及閘門等の照明組織、八運河の海水面区間の航路、九運河関係永久的建築物、十臨港設備・船渠・修繕工場、十一糧食・石炭・鉱油・及其他の供給、十二要塞、十三運河地帯及陸軍用地、パナマ運河工事全盛時代(千九百九年及同年頃)使用土功器具機械、十五横浜港より普通航路によりパナマ運河を通過するとせざるとによる航路長の差、十六運河開通以来の船舶通航隻数及びトン数、余禄、図面とある。青山のパナマ運河建設従事の様子を〇「ぱなま運河の話」の「一歴史」「余録」等から現代語表記で紹介する。「私は東京帝国大学にいる時、スエズ運河が有名なフランス技師レセップ伯爵によって開鑿(かいさく)された事を聞いた。またパナマ運河も同伯爵によってその工事を始められたが失敗に終った事をも聞いていたが、明治三十六年大学を出る少し前に東京経済雑誌に出ていた峰岸氏の視察報告や広井教授のお話よりその運河開鑿工事に興味を持つ事になって、終に彼の地に渡ってその仕事の一部に従事してみたいという希望を抱いていた。同年七月十一日に卒業式を終ると、八月十一日に数人の友人に『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』(ヨシュア記第一章第九節)の言葉を以て送られ、横浜港を後に旅順丸の三等先客となって、まずカナダへ渡り、直ちにアメリカへ入った。そしてワシントン州のシアトル市付近で様々な労働に従事してその時の至るのを待った。」〇一九〇四年二月パナマ共和国と米国とが運河条約の批准を交換したからパナマ運河工事は遂行されると見当を付け、アメリカ西部を出発し、三月中旬にニューヨーク市に着いて、当時アメリカのイスミアン・カナル・コミッショナー(Isthmian Canal Commissioner)の一人、コロンビア大学のウィリアム・H・バア教授(Professor Williams H. Burr)へ広井教授の紹介状⑵を持って行って運河工事に就職方を依頼した(a)が、まだ出発する組も定まらないから、少し待つようにという事だった。その間何か働く事はないかと尋ねると、ニューヨーク・セントラル・エンド・ホドソンリバー鉄道会社へ紹介状をくれ、ニューヨーク市給水のため新クロトン・ダムの築造に当りクロトン湖の水面が上り、そのためにその付近にある同社線を変更しなければならなくなった。その線路変更工事へ働く事になって、ニューヨーク市の北四十八マイルのマウント・キスコ町へ行き、ノルトンという大男のエンジニアの下に働く事になった。〇初めは言葉もできず、常に必要な数の聞き取り、言い出しができず二週間ばかり下宿に帰るとその練習に費やした。そして弁当持ち、杭持ちから試験を経て、水準儀及び経緯儀を持たせられる事になった。しかしその仕事は終に一文にもならず、ただ働きだった。しかしこの二か月にわたる仕事の練習は後にパナマに行ってすぐ役立ち、非常によかった。〇バア教授の尽力により(b)、イスミアン・カナル・コミッションの職員の一人となることになり⑶、同年六月一日ニューヨーク港でユカタンという船の中で契約書に自署して工事従業員の一人となり、同日同港を出発し同月七日の午後、コロン港に着船した。この港はその当時は不潔で、また善い宿もなく、その晩は港の中で船中に泊まり、翌日、各人は蚊帳(かや)と毛布一枚までを渡され、この所より七マイル余り離れたボヒョというシャグレス河の岸にある村へ落ちつく事になった。その晩は元フランスの運河会社が建てた汚い古家で、屋根裏に何千匹というコウモリとアブラムシがギイギイ啼(な)いている所へ寝た。それ以後もこの所を宿舎とした。それから二、三日して測量、ボーリング等の機械が到着し測量及び地質調査の準備に掛り、まず初めにポヒョのダム予定位置の測量と地質調査に従事し、ダムの予定位置がガトウンに変更されてからは、ガトウン人工湖の貯水面積地形調査に移り、バス・オビスポからシャグレスの河の上流へ遡り、右へカトウンシュ河から分水嶺を越え、アグア・スシアからガトウン河を下り、ガトウン村に出て、またシャグレス河の左の一大支流のトリニダッド河へ遡ってテント生活を続けた。この野外測量隊の本部には組長一人またはアメリカ人エンジニア五、六人の割で一人に土人労働者四、五人、その他荷物糧食運搬及び料理人五、六人で、我々はテント中の帆布(はんぷ)のコットに蚊帳を吊って寝、土人は大概パームの種類の葉を葺(ふ)いた掘建て小屋へパームの一種の幹を割って開いて板のようにした床を造り、その上にアンペラのようなものを敷いて、毛布一枚くらいにくるまって寝た。測量には、見透しがきくよう熱帯ジャングルを一インチずつ切り開いて行かなければならないから、労力を要する。一組に五人くらい配し、交代に二人ずつそのジャングルを日本刀型のものと青竜刀型のものとを振って切り開いて行く。その刀はマチエッテという便利なものである。その仕事場への往復が三時間ないし四時間を要するようになれば本部を移すか、支部を置く事になる。アメリカ人が二、三人行く時はテントを持って行くが、一人二人の時は土人と同じくパーム葺きの掘建て小屋を建て、それに折畳みの出来る帆布を持って行く。私はしばしばこの支部へ行った事があった。一度、ただ一人で土人(どじん)労働者五人と一人の糧食運搬兼料理人を率いて行った時、下痢症にかかり、一昼夜十四、五回の下痢で、便所はジャングルの中に二本の大木を伐り倒して並べてあるくらいのものだったので、夜中ランタンを提げて行くなどなかなか苦しかった。医師は無く、本部から誰も来てくれないので、三、四日絶食療法を試みた。料理人が山鳥をとって来てくれ、そのスープで力を付けて一週間目くらいに、また測量に出たところ、めまいを起こし、土人に背負われて帰ったこともあった。また一度はアグアシア(スペイン語の濁水)の上流で組長と労働者との間の些細な行違いで土人にストライキを起こされ、ついにアメリカ人がマチエテで測線を切り開き、一アメリカ人をロッドマンとして私が水準測量をやった事もあった。その時、一日仕事に出て、幅五間位の谷川を渡って、向う側で仕事をしているうちに非常な急雨があって、急に水が出て濁水がトートーと流れ、水嵩を増し、谷川の幅も倍くらいになって渡れず、終に泳いで越す事になって、私が最も後になって測量野帳のカバンを頭に結んで泳いで対岸へ着こうとするところで、その野帳カバンが下へ流れて行ったのに気が付いて、その後を逐って、それを口にくわえ、ずっと下流に流されて対岸に着いた時は疲労して、やっと岸に這い上がり暫く動く事もできなかった。翌日その下へ行って見ると、その所に滝があってもう少し下流へ流されれば最早この世のもので無かったであろうとゾットした事もあった。またある時は山猫やマチョといって犀(さい)を小さくしてその角を無くしたような強力な動物で、どんなジャングルでもその鼻の先と体にて突入して行くようなものにも出合った。サソリ、カメレオン、アリ、これには多くの種類があり、ある者に頸筋(くびすじ)等を喰い付かれると、頭が痛み、顔が腫れたり、また手などを咬まれると手が痛み、わき下にグリグリができたりする。また蜂(はち)も至る所に巣食っていて、一日に数度打ち付ける事がある。蜂は人がその巣の近所を通ると、上からとび降りて来て刺すという始末におえないものもあった。また乾燥季になるとダニがいて、毎日それに取り付かれて困った事もあった。ワニは私達の働いていた近所に余り大きい物はいなかった。また河の縁の村落の近くへ天幕を張った時などは、フェスタつまり祭りで田舎の盆踊りのような踊りを見たりした。また雨季には朝から晩まで雨に湿(む)れ、または一日沼地に入り、腰の辺まで水に浸かった事もあった。熱帯無人の境における測量は費用を要するだけでなく、天然との戦争で苦痛の伴うものであるが、今になって顧みると血の沸き返るを覚えて愉快な事もあった。その天幕測量隊の労務は現場へ行き戻りの時間に合わせ九時間くらいであるから、キャンプに帰ってから、その日の測量の野帳を整理し、計算する必要があるものは計算し、誤差を見出せば翌日すぐにその所へ行って、その訂正を行い、組長はその夜中にその日に出来た測量の結果を出し、図面に書き入れて、また翌日の仕事をそれぞれ割り当て翌朝、組が出て行った後に昼寝をするという具合に仕事を進めて行った。このように二年余りの天幕生活をしてその測量を終った頃に、運河ができるようになって、私はガトウンへ戻り、ガトウンのダム及び閘門[こうもん・運河などで水量を調整する堰]等に関する精細な測量、続いて余水吐[よすいばき・ダムに予定以上の流水が入ってきた時に河川等に水を戻す施設]、堰堤(えんてい)、閘門、工事の施工に必要な線及び勾配など種々のステーキ・アウト(Stake out)に従事した。この運河工事に従事する職員は日給で、一年の中に六週間の有給休暇を取り、その間、温帯地方で休養のため費やすことになっていて、その所に至る汽車・船賃は非常な割引でその特典は家族まで与えられた。また一年を通し三十日の病気欠勤はその間の給料は支給され、また無料で官設の病院へ入院治療を受ける事ができ、それ以上給料は支給されないが、無料で入院治療を受ける事ができるようになっていた。また天幕生活を余儀なくされていたものには、その期間、上質の食料品をただで支給された。アメリカ人は働く事も善く働いて測量等の選点は必ず組長が先に立って行く。また機械はその測量中、測点より測点まで運び据え付ける等は皆測量技師がやる。また山の中でも日曜祭日は休養する事になっていた。気温は乾燥季、すなわち十二月より翌年四月の初めまでは夜明けは華氏の六十度[摂氏一六度]くらいまで下降する事がある。日中は八十度[摂氏二七度]以上でガトウン閘門築造中などは深さ八十尺[二四メートル]もある閘門の室の中でコンクリートの上では百十度[摂氏四三度]以上になり暑いだけでなく日光の反射で目がくらむような事もあった。湿度はなかなかで、クレプラの分水嶺の太平洋側は大西洋側に比べれば雨量も少ないが、私のいたガトウン等では一年の雨量が三千六百ミリくらいに達した事もあり、帽子、衣類、書籍などカビることがひどく、靴など雨に湿れて、明朝まで置くと青かびが生ずるというありさまで、雨季は気持の良い所ではないが、衣服は簡単で、役所で仕事中は所長以下皆、上衣を着る事は他を訪問する時くらいだった。〇一九一一年十一月十一日、パナマ運河地帯を去るまで、設計製図の内業に従事していた。私が設計して残してきたうちで、ガトウン閘門の湖水の方の翼壁及び下流の中央繋船壁及び小規模だが、ガトウン村の給水工事中の鉄筋コンクリート造のアグアクララ・フイルトレーション・プラントは私が帰る時は百分の七八十できていたが、その後、でき上った写真を見ると取水口、沈澱池、ラピッド・メカニカル・サンドフイルタア、浄水池、ポンプ小屋及び試験所等、皆設計通りにできているのを見ると、少しは働きがいがあったように感じる。(略)」〇青山士はパナマ運河委員会で昇進を続け、測量主任技師、最後は設計技師となる。一九〇六年八月に二年余のボイオの測量を終り、金メダルを授与された。〇後、クリストバル港の港湾建設現場に配置替えになる。一九〇七年九月、大西洋建設部のガツン閘門とダムの現場に測量主任として配置換えになる。一九〇八年十一月ガツンダムの余水吐の基礎が沈下して崩壊する事故があり、青山は測量技師から測量技師補に十一月二十三日付で降格し、翌年三月一日測量技師に復帰する。「パナマ運河委員会」の人事委員会への申請書に「アメリカ人ではないが有能」とある。青山はガツン閘門のウィング・ウォール、閘門中央壁の先端のアプローチ・ウォールの主任設計技師となる。一九一一年年俸二千ドルの中堅技術者となる。人事記録に「彼のサービスと品行は共にエクセレント」とある。(b)青山は一九一二年一月九日に辞職して帰朝する。「後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓した」『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』青山士の語る「パナマ運河の話」(第4集略出、一部読みやすくした)〇「ぱなま運河の話」の奥付には、昭和十四年五月二十日印刷とある。青山士が著者として唯一印刷・刊行した本で、パナマ運河にただ一人日本人として参加した記録としても歴史的にも貴重な資料である。〇 この本には、「はしがき」と奥付の次ページに青山士自身の筆記が載っていて、非常な興味を覚える。「はしがき」の上には「ゲーテの夢」という題で次の文章が綴られる。「人類がやがて成し遂げるであらう三つの偉大なる工事、それを見て死ぬ者は何と幸福であらう」その三と云ふのは「パナマ運河」「ダニューブとラインを結ぶ運河」及び「スエズの其である」。〇「ぱなま運河の話」の最初に三人の写真、「内村鑑三先生」、「廣井勇先生」、「ウヰリアム・エツチ・バア先生」が掲げられ、「感謝ヲ以テ此小冊子ヲ諸先生ノ靈ニ捧グ」と献辞がある。「はしがき」に、青山自身が本書刊行の意図を綴っている。「パナマ運河は世界の土木工事の中で相当に大きなもので、またそれが人類文化の上に大いなる影響を与える事において有名な施設であるが故に、その工事に実際携わった、またその所を視察した人、またそれについての書籍を読んだ人によって多くのものが書かれております。・・・・・ハナマ運河がいまだ海のものとも山のもとも分らなかった時から、私がその幻を逐って遂に身の強からざりし私をして七年有余消煙蛮雨の熱帯、不健康地に働く事を得せしめた恩師及び友達の奨励並びに御親切な御援助に対し、私自身が全身汗みどろになって働いたその工事の事及び私がその時見た事及び感じた事を書き付けてそのの甚大な感謝の意を表すると同時に後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓したのであります。 昭和十四年四月少閑を得て 著者誌(しる)す」 目次に、一歴史、二竣工せる運河の概要、三ガトウン堰堤、余水吐及水力発電所、四太平洋側堰堤、五閘門及閘扉、六閘門通過及び付属諸機械の電気的運転及其統御、七運河及閘門等の照明組織、八運河の海水面区間の航路、九運河関係永久的建築物、十臨港設備・船渠・修繕工場、十一糧食・石炭・鉱油・及其他の供給、十二要塞、十三運河地帯及陸軍用地、パナマ運河工事全盛時代(千九百九年及同年頃)使用土功器具機械、十五横浜港より普通航路によりパナマ運河を通過するとせざるとによる航路長の差、十六運河開通以来の船舶通航隻数及びトン数、余禄、図面とある。青山のパナマ運河建設従事の様子を〇「ぱなま運河の話」の「一歴史」「余録」等から現代語表記で紹介する。「私は東京帝国大学にいる時、スエズ運河が有名なフランス技師レセップ伯爵によって開鑿(かいさく)された事を聞いた。またパナマ運河も同伯爵によってその工事を始められたが失敗に終った事をも聞いていたが、明治三十六年大学を出る少し前に東京経済雑誌に出ていた峰岸氏の視察報告や広井教授のお話よりその運河開鑿工事に興味を持つ事になって、終に彼の地に渡ってその仕事の一部に従事してみたいという希望を抱いていた。同年七月十一日に卒業式を終ると、八月十一日に数人の友人に『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』(ヨシュア記第一章第九節)の言葉を以て送られ、横浜港を後に旅順丸の三等先客となって、まずカナダへ渡り、直ちにアメリカへ入った。そしてワシントン州のシアトル市付近で様々な労働に従事してその時の至るのを待った。」〇一九〇四年二月パナマ共和国と米国とが運河条約の批准を交換したからパナマ運河工事は遂行されると見当を付け、アメリカ西部を出発し、三月中旬にニューヨーク市に着いて、当時アメリカのイスミアン・カナル・コミッショナー(Isthmian Canal Commissioner)の一人、コロンビア大学のウィリアム・H・バア教授(Professor Williams H. Burr)へ広井教授の紹介状⑵を持って行って運河工事に就職方を依頼した(a)が、まだ出発する組も定まらないから、少し待つようにという事だった。その間何か働く事はないかと尋ねると、ニューヨーク・セントラル・エンド・ホドソンリバー鉄道会社へ紹介状をくれ、ニューヨーク市給水のため新クロトン・ダムの築造に当りクロトン湖の水面が上り、そのためにその付近にある同社線を変更しなければならなくなった。その線路変更工事へ働く事になって、ニューヨーク市の北四十八マイルのマウント・キスコ町へ行き、ノルトンという大男のエンジニアの下に働く事になった。〇初めは言葉もできず、常に必要な数の聞き取り、言い出しができず二週間ばかり下宿に帰るとその練習に費やした。そして弁当持ち、杭持ちから試験を経て、水準儀及び経緯儀を持たせられる事になった。しかしその仕事は終に一文にもならず、ただ働きだった。しかしこの二か月にわたる仕事の練習は後にパナマに行ってすぐ役立ち、非常によかった。〇バア教授の尽力により(b)、イスミアン・カナル・コミッションの職員の一人となることになり⑶、同年六月一日ニューヨーク港でユカタンという船の中で契約書に自署して工事従業員の一人となり、同日同港を出発し同月七日の午後、コロン港に着船した。この港はその当時は不潔で、また善い宿もなく、その晩は港の中で船中に泊まり、翌日、各人は蚊帳(かや)と毛布一枚までを渡され、この所より七マイル余り離れたボヒョというシャグレス河の岸にある村へ落ちつく事になった。その晩は元フランスの運河会社が建てた汚い古家で、屋根裏に何千匹というコウモリとアブラムシがギイギイ啼(な)いている所へ寝た。それ以後もこの所を宿舎とした。それから二、三日して測量、ボーリング等の機械が到着し測量及び地質調査の準備に掛り、まず初めにポヒョのダム予定位置の測量と地質調査に従事し、ダムの予定位置がガトウンに変更されてからは、ガトウン人工湖の貯水面積地形調査に移り、バス・オビスポからシャグレスの河の上流へ遡り、右へカトウンシュ河から分水嶺を越え、アグア・スシアからガトウン河を下り、ガトウン村に出て、またシャグレス河の左の一大支流のトリニダッド河へ遡ってテント生活を続けた。この野外測量隊の本部には組長一人またはアメリカ人エンジニア五、六人の割で一人に土人労働者四、五人、その他荷物糧食運搬及び料理人五、六人で、我々はテント中の帆布(はんぷ)のコットに蚊帳を吊って寝、土人は大概パームの種類の葉を葺(ふ)いた掘建て小屋へパームの一種の幹を割って開いて板のようにした床を造り、その上にアンペラのようなものを敷いて、毛布一枚くらいにくるまって寝た。測量には、見透しがきくよう熱帯ジャングルを一インチずつ切り開いて行かなければならないから、労力を要する。一組に五人くらい配し、交代に二人ずつそのジャングルを日本刀型のものと青竜刀型のものとを振って切り開いて行く。その刀はマチエッテという便利なものである。その仕事場への往復が三時間ないし四時間を要するようになれば本部を移すか、支部を置く事になる。アメリカ人が二、三人行く時はテントを持って行くが、一人二人の時は土人と同じくパーム葺きの掘建て小屋を建て、それに折畳みの出来る帆布を持って行く。私はしばしばこの支部へ行った事があった。一度、ただ一人で土人(どじん)労働者五人と一人の糧食運搬兼料理人を率いて行った時、下痢症にかかり、一昼夜十四、五回の下痢で、便所はジャングルの中に二本の大木を伐り倒して並べてあるくらいのものだったので、夜中ランタンを提げて行くなどなかなか苦しかった。医師は無く、本部から誰も来てくれないので、三、四日絶食療法を試みた。料理人が山鳥をとって来てくれ、そのスープで力を付けて一週間目くらいに、また測量に出たところ、めまいを起こし、土人に背負われて帰ったこともあった。また一度はアグアシア(スペイン語の濁水)の上流で組長と労働者との間の些細な行違いで土人にストライキを起こされ、ついにアメリカ人がマチエテで測線を切り開き、一アメリカ人をロッドマンとして私が水準測量をやった事もあった。その時、一日仕事に出て、幅五間位の谷川を渡って、向う側で仕事をしているうちに非常な急雨があって、急に水が出て濁水がトートーと流れ、水嵩を増し、谷川の幅も倍くらいになって渡れず、終に泳いで越す事になって、私が最も後になって測量野帳のカバンを頭に結んで泳いで対岸へ着こうとするところで、その野帳カバンが下へ流れて行ったのに気が付いて、その後を逐って、それを口にくわえ、ずっと下流に流されて対岸に着いた時は疲労して、やっと岸に這い上がり暫く動く事もできなかった。翌日その下へ行って見ると、その所に滝があってもう少し下流へ流されれば最早この世のもので無かったであろうとゾットした事もあった。またある時は山猫やマチョといって犀(さい)を小さくしてその角を無くしたような強力な動物で、どんなジャングルでもその鼻の先と体にて突入して行くようなものにも出合った。サソリ、カメレオン、アリ、これには多くの種類があり、ある者に頸筋(くびすじ)等を喰い付かれると、頭が痛み、顔が腫れたり、また手などを咬まれると手が痛み、わき下にグリグリができたりする。また蜂(はち)も至る所に巣食っていて、一日に数度打ち付ける事がある。蜂は人がその巣の近所を通ると、上からとび降りて来て刺すという始末におえないものもあった。また乾燥季になるとダニがいて、毎日それに取り付かれて困った事もあった。ワニは私達の働いていた近所に余り大きい物はいなかった。また河の縁の村落の近くへ天幕を張った時などは、フェスタつまり祭りで田舎の盆踊りのような踊りを見たりした。また雨季には朝から晩まで雨に湿(む)れ、または一日沼地に入り、腰の辺まで水に浸かった事もあった。熱帯無人の境における測量は費用を要するだけでなく、天然との戦争で苦痛の伴うものであるが、今になって顧みると血の沸き返るを覚えて愉快な事もあった。その天幕測量隊の労務は現場へ行き戻りの時間に合わせ九時間くらいであるから、キャンプに帰ってから、その日の測量の野帳を整理し、計算する必要があるものは計算し、誤差を見出せば翌日すぐにその所へ行って、その訂正を行い、組長はその夜中にその日に出来た測量の結果を出し、図面に書き入れて、また翌日の仕事をそれぞれ割り当て翌朝、組が出て行った後に昼寝をするという具合に仕事を進めて行った。このように二年余りの天幕生活をしてその測量を終った頃に、運河ができるようになって、私はガトウンへ戻り、ガトウンのダム及び閘門[こうもん・運河などで水量を調整する堰]等に関する精細な測量、続いて余水吐[よすいばき・ダムに予定以上の流水が入ってきた時に河川等に水を戻す施設]、堰堤(えんてい)、閘門、工事の施工に必要な線及び勾配など種々のステーキ・アウト(Stake out)に従事した。この運河工事に従事する職員は日給で、一年の中に六週間の有給休暇を取り、その間、温帯地方で休養のため費やすことになっていて、その所に至る汽車・船賃は非常な割引でその特典は家族まで与えられた。また一年を通し三十日の病気欠勤はその間の給料は支給され、また無料で官設の病院へ入院治療を受ける事ができ、それ以上給料は支給されないが、無料で入院治療を受ける事ができるようになっていた。また天幕生活を余儀なくされていたものには、その期間、上質の食料品をただで支給された。アメリカ人は働く事も善く働いて測量等の選点は必ず組長が先に立って行く。また機械はその測量中、測点より測点まで運び据え付ける等は皆測量技師がやる。また山の中でも日曜祭日は休養する事になっていた。気温は乾燥季、すなわち十二月より翌年四月の初めまでは夜明けは華氏の六十度[摂氏一六度]くらいまで下降する事がある。日中は八十度[摂氏二七度]以上でガトウン閘門築造中などは深さ八十尺[二四メートル]もある閘門の室の中でコンクリートの上では百十度[摂氏四三度]以上になり暑いだけでなく日光の反射で目がくらむような事もあった。湿度はなかなかで、クレプラの分水嶺の太平洋側は大西洋側に比べれば雨量も少ないが、私のいたガトウン等では一年の雨量が三千六百ミリくらいに達した事もあり、帽子、衣類、書籍などカビることがひどく、靴など雨に湿れて、明朝まで置くと青かびが生ずるというありさまで、雨季は気持の良い所ではないが、衣服は簡単で、役所で仕事中は所長以下皆、上衣を着る事は他を訪問する時くらいだった。〇一九一一年十一月十一日、パナマ運河地帯を去るまで、設計製図の内業に従事していた。私が設計して残してきたうちで、ガトウン閘門の湖水の方の翼壁及び下流の中央繋船壁及び小規模だが、ガトウン村の給水工事中の鉄筋コンクリート造のアグアクララ・フイルトレーション・プラントは私が帰る時は百分の七八十できていたが、その後、でき上った写真を見ると取水口、沈澱池、ラピッド・メカニカル・サンドフイルタア、浄水池、ポンプ小屋及び試験所等、皆設計通りにできているのを見ると、少しは働きがいがあったように感じる。(略)」〇青山士はパナマ運河委員会で昇進を続け、測量主任技師、最後は設計技師となる。一九〇六年八月に二年余のボイオの測量を終り、金メダルを授与された。〇後、クリストバル港の港湾建設現場に配置替えになる。一九〇七年九月、大西洋建設部のガツン閘門とダムの現場に測量主任として配置換えになる。一九〇八年十一月ガツンダムの余水吐の基礎が沈下して崩壊する事故があり、青山は測量技師から測量技師補に十一月二十三日付で降格し、翌年三月一日測量技師に復帰する。「パナマ運河委員会」の人事委員会への申請書に「アメリカ人ではないが有能」とある。青山はガツン閘門のウィング・ウォール、閘門中央壁の先端のアプローチ・ウォールの主任設計技師となる。一九一一年年俸二千ドルの中堅技術者となる。人事記録に「彼のサービスと品行は共にエクセレント」とある。(b)青山は一九一二年一月九日に辞職して帰朝する。(1)略⑵ 広井はパナマに向かう青山に対し「パナマ鉄道はその使用した枕木の数だけの人命に値した」という言葉を繰り返し健康に注意するよう助言した(本書p.169)。⑶ 「日本の友人のプロフェッサー広井の紹介で若い青山という男と私の縁故のフェランが応募した。採用したいのでよろしく」とバー教授からパナマ運河委員会ウォーカー委員長に推薦状が出され、「一九〇四年五月三十一日青山士ボイオ支局トリニダード川測量隊の測量補助員として三か月臨時雇用。無試験採用。バー教授の紹介。月給七五ドル。色:黄色。国籍日本人」と人事記録にある。(写真集p.15)⑷ 牧野雅楽之丞氏の追悼に「青山さんの話によると当時米国人の日本の認識薄く日本国などどこにあるのか一般の米国人は知っている者少なく特に人種的差別甚しく、初めは『ロッド、マン(ポール持ち)』にも採用しなかったそうで、それ故一々下から認めてやらして貰うのは容易でなかったと話されていた。気候は暑く不衛生地で蚊が物凄く家は金網張りだからいいが、作業は袋をかぶってやる事は閉口したが、よくも生きて帰れたものと述懐されていた」とある。(旧交録p.9)
2023.02.12
『広井勇と青山士』75-86ページにかけて、青山士の語る「荒川改修工事」を紹介した。4 青山士の語る「荒川改修工事」 機械学会雑纂第三十六号(大正十一年四月)に内務省技師・工学士 青山士の「荒川改修工事について」の講話が掲載されている。青山は加茂機械学会長から荒川改修工事見学の依頼を受け、「自分の仕事の広告になるかもしれない。エンジニヤーは連合して自分たちのできうることを広告したほうがよいと考え荒川改修工事の大体を話し、土木工事に対する興味を惹起すると同時に、視察の時の案内にもなろうかと思って講演を引き受けた」と前置きして話す。印象深い事は、青山が「軍人は又戦争の時には敵を殺すか又は再び戦闘することが出来ないやうにすると云ふやうなことをそれ自身が能く広告して居る」と言い、荒川改修工事の予算が「二千九百四五十万円と云ふと大分大きな金のやうに思はれますが、軍艦一艘拵へれば三千二百万円掛ることであります。軍艦たった一艘、それで荒川の水害を除くことが出来るのであります」と軍備に金を掛けるより荒川改修に金を掛けたほうが「百姓が助かるのみならず、新隅田川の沿岸に工場を持って居る方々も非常に助かる」と言っている⑴。また雨量二百ミリなど技術屋らしく数字で話を進めるところも面白い。以下、「荒川改修工事について」概略を抜粋する。(略)神戸淳吉の児童向けの本「洪水をふせぐ人 荒川放水路をひらいた青山士」に印象深いエピソードが紹介されている。台風の大雨ごとに静岡県磐田市から水門や隅田川が心配ないか駆けつける青山の姿が描かれている。それは「『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深い心配があったのであります。」という師・広井勇の責任に通じる。「朝からあれていた風は、夜になるとますますはげしくなってきました。雨も滝のようにふっています。すべてのものをふきとばし、おしながすようないきおいです。ラジオはなんども、りんじのニュースをつたえていましたが、それも、ぷっつり、電燈がきえると、もう、なにもいわなくなりました。きこえるのは、ものすごい台風のさけびだけ。台風が関東地方をわがものがおにあばれまわっているのです。 今から数年前の八月のことです。『荒川は、だいじょうぶだね。』『だいじょうぶだとも。利根川はあふれても、荒川は心配ないよ。』 東京の下町にすんでいる人たちは、雨がひどくなっても、決して荒川の水があふれるようなことはないと、安心していました。しかし三十年ほど前までは、とてもこんなのんきなことなど、いってはおられません。東京のまんなかを流れている川―隅田川の上流・荒川は、大雨や梅雨がながびくと、きまって洪水になりました。この隅田川は埼玉県の秩父の山おくから流れ、上流を入川、中流を荒川、東京へ入り千住大橋のあたりからは隅田川といい、同じ川でも名まえが三つもかわります。けれど、ふつうの、この川のことは荒川とよんでいますが、まったくその名のとおり、荒あらしい川なのです。東京を江戸といった三百五十年ほどむかしから、明治の末ごろまで、だいたい三百年あまりのあいだに、なんと百十三回も大雨があふれているのです。三年に一ど、江戸の町は家を流されたり、水びたしになったわけです。もちろん、これは荒川だけがあふれたのではありません。関東平野を東に流れ、太平洋へそそぐ利根川が、荒川と同じように洪水になり、それがたびたび、いっしょになって、どっと東京へ流れこむことがおおかったのです。なかでも、もっともひどかったのは明治四十三年の八月です。荒川のどてはきれ、利根川の水があふれ、東京の下町は一めん、どろ海になってしまいました。それから四十年―もうこんな大洪水をくりかえしてはたいへんです。建設省のかかりの役人たちは、赤羽にある荒川の岩淵水門へ朝からつめかけていました。この水門は、荒川の水をせきとめ、隅田川へ水をかげんして流すしかけになっています。いっぽう、その隣に新しく掘った大きな川―荒川放水路へ、せきとめられた荒川の水をおとすようにしてあります。これは明治の洪水にこりて、それをふせぐため、国がつくりあげたものです。その岩淵水門のそばで、さっきから、雨風にたたかれながら、じっとにごった水をみつめているひとりの老人がいました。作業衣にゲートルをつけ、しっかりしたみごしらえです。『だれです。あぶないじゃありませんか。』水門みまわりにきた役人が、老人をみつけ、ぎょっとしました。あらしの晩、なんの用事があって水門のそばにたっているんだろうと、かいちゅう電燈を、ちかづけました。『あっ』びしょぬれの老人をみて、役人ははっとしました。『あなたは、青山さん。青山さんではありませんか。』『やあ。ごくろうさまです。』青山とよばれた老人は、ひきしめた顔をほころばせて、あいさつをしました。水門と放水路をつくった青山士技師だったのです。『どうなさったのです。こんなばんに・・・・・・』『いやあ、台風のニュースをきいているうちに、なんだかしんぱいになってね、いそいでやってきたんだが。でも、まあ、このぐらいの水なら、水門も、隅田川もしんぱいはないね。』『それじゃあ、青山さんは静岡の磐田からわざわざおいでになったんですか。』『そうだよ。さっき、駅へついたばかりさ。事務所へ先によればよかったが、気になったものだからね、あはは、いやあ、しんぱいをかけてすまなかった。』青山さんは顔をふきながら、言いました。この水門などの工事をしてから三十年、いまもなお、大雨のごとにかけつけてくる青山さんに、役人はまったく、頭の下がる思いでした。その晩は青山さんのいうように、もうそれいじょう、川の水かさはふえませんでした。荒川の水はとうとうと放水路へ流れていきました。また、隅田川の川すじの人たちも、ぶじに台風の一夜をすごすことができました。(略)岩淵水門のすぐそばに、一かかえほどのまるい石がおいてあります。その石には金属板がはめこんであり、こういう意味のみじかいことばがきざんであります。工事をしあげた、多くの、われらのなかまがいるが、その人たちの苦しみや力を、いつまでも忘れないために 荒川の工事にくわわったものたちによってどこにも、大工事をしあげた青山士の名前はしるしてありません。それよりも、水門や放水路によって、洪水が防げたことのほうが何倍もうれしいのです。」⑴ 大西洋司氏は、「土木は人々の安全・福祉が目的で、土木と対照をなすのが軍備であるとの基本認識が終生変わらなかった」と指摘される。(「青山士の生涯」)
2023.02.12
💛前使っていたパソコンが壊れ、すべてのデータが失われた。「技師 青山士著述集」の構想も失われたと思っていたが、USBに残っていたものがあった。現在クラウドファンディングしている「訳注 静岡県報徳社事蹟」のクラウドファンディングが不調で、「技師 青山士著述集」が出版できるかはわからない。「わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ清沢哲夫『無常断章』「道」技師青山士著述集 序文 第一編 技師青山士(あきら)「人類のため国のため」1 青山士の生涯 ・・・・・・ 572 青山士の語る「パナマ運河の話」 ・・・・・・ 613 パナマ運河の失敗と成功の原因 ・・・・・・ 714 青山士の語る「荒川改修工事」 ・・・・・・ 755 広井勇から青山士へ ・・・・・・ 826 「人類のため国のため」碑文考 ・・・・・・ 86第二編 資料集 目次 ・・・・・・ 93 1 「ぱなま運河の話」抜粋他 青木士 ・・・・・・1642 ある土木技師の生涯 南原繁 ・・・・・・1843 内村鑑三「日記」・「ヨブ記講演」より ・・・・・・188年表 ・・・・・・205編集者後書 ・・・・・・207Ⅰ 青山士(あきら)「人類のため国のため」1 青山士青山家の先祖は徳川方の武将だったが、江戸時代に帰農し、中泉で庄屋のかたわら旅宿(郷宿)を営んだ。青山士は明治十一年に生まれ、士の名前は十と一を組み合わせて命名された。青山は中泉の小学校を卒業した後、尋常中学(後の日々谷高校)に入学し、第一高等学校に入学する。一高時代、内村鑑三の門下生となる。始めて内村の演説を聴いたのは、明治三十二年十一月五日で、演題は「日本の今日」であった。青山二十歳の時で一高同寮の友人浅野猶三郎に誘われたのであった。浅野は講演の言葉『もしもここに集るところの数百名の諸君が皆、神を信じて、正義仁道の人となるならば、日本帝国は滅びない』という内村の言葉を記録した。明治三十五年(1902)の夏期講談会の青山の感想が『聖書の研究』に載る。「この賎(いや)しきものをも爾(なんじ)の器となし給ひて爾の為め我国の為め、我村の為め我家の為めに御使い給はんことを。又私は信仰弱きものであります。故に或は悪魔の誘ひの為に、あなたの御子及師又は兄弟を売るに至らんことを恐るるものであります。願わくは御恩寵によりまして、どうぞ永遠に斯(か)かることなからしめ給わんことを」。内村は「斯かる祈祷を捧げ得る人が工学士となりて世に出る時に天下の工事は安然なるものとなるべく、亦其間に収賄の弊は迹(あと)を絶たれ、蒸汽も電気も真理と人類の用を為すに至りて単に財産を作るの用具たらざるに至らん、基督教は工学の進歩改良にも最も必要なり」と記した。青山は土木技術に進むことを決意し、広井のいる東京帝国大学工科大学工学部土木工学科に進んだ。一九〇三年大学卒業前に、東京経済雑誌に掲載された経済学協会例会での峰岸繁太郎氏の講演筆録「パナマ運河視察談」を読んだ青山はパナマ運河の開削工事の参加を決意する。青山のパナマ行きに当り、バー教授に紹介したのも広井である。青山は、パナマ運河建設にただ一人の日本人として七年間働いた。帰国後、広井教授の推薦で内務省技師としての青山の活躍が始まる。荒川放水路もその一つである。荒川放水路は延長二二キロ、十九年の歳月を要した大工事で死者二二名を出した。岩淵水門の入口に「この工事の完成にあたり多大なる犠牲と労役とを払ひたる我等の仲間を記憶せんが為に 神武天皇皇紀二千五百八十二年 荒川改修工事に従へる者に依り」という記念碑がある。一九二四年十月二五日に、摂政宮の荒川放水路ご視察があった。青山は事業成功を内村に報告した。内村は翌年一月一五日の日記に「夜、青山工学士の訪問あり。二人、こたつに陣を取り、関東平野の排水系統について聞き、大いに教えられた」と記した。青山は主任技師として荒川放水路に内村らを案内した。内村は日記に記した。「十月十七日(金)晴、神嘗祭である。北風強くして寒し。聖書研究会々員の女学生(主に女子高等師範生)を伴ひ、旧い教友の一人なる工学士青山士が主任技師として近頃竣工せし荒川下流改修工事の岩淵水門を見学した。技術上教へらるゝ所が多々あった。発電所に小集会を開き、神を賛美し、我が愛する友の事業の成功を感謝し、其の永く東京市民を福(さいわ)ひせん事を祈った。風は寒くあったが心は温く、若い人達と共に一日を暮して、我も亦若き人となった」 青山は一九二七年十二月から内務省新潟土木出張所長として信濃川大河津分水路の建設に当たった。信濃川の流量を分水によって日本海側に分流し、信濃川下流の氾濫を防ぐものであった。内務省直轄工事として一九〇九年着工され、一九二四年三月に竣工したが、その三年後一九二七年六月二四日、自在堰が陥没し分水の機能を失った。設計したのは岡部三郎であった。岡部も広井の東大土木工学科の教え子である。岡部が引責退職した際に、広井が岡部に出した慰留の手紙が『技師青山士その精神の軌跡』二一二頁に載る。「前略、官報によれば今般御退官なる由、是れ察する処大河津分水路破壊の責を貴兄に負わしめたる故なるべし。該工事たるや建設後、既に数年を経過せしものにして設計の完全なりしを示すに足り、爾来必要なる維持修護を怠りながら破壊の責を当初の設計者に負わしむるは不当なり。官庁の処置是れに至るに、貴兄は決して屈辱さるべきに非ず。貴兄をして無理に其の犠牲となしたるものなることは具眼者の認むる処なり。幸い春秋に覚え高き貴兄のことなれば必ずや捲土重来の勢いを以て工業界に臨み更に御大成を期されんことを千万希望に堪えず [昭和二年]十二月二十二日岡部兄 廣井」何と慰めと祈りに満ちた手紙か。岡部は「一種のノイローゼに陥ったところに、恩師の東大名誉教授広井博士から、手紙をいただいて精神的に蘇生することができた」と述懐している。広井は自ら施工した工事の責任感は人一倍であったが、工事失敗の責任を一身に負わされ有為の技術者を失うことを惜しみ、慰めかつ激励したのである。復旧応急工事に派遣されたのは、岡部の一高同級生で東大土木工学科一年後輩の宮本武之輔であった。宮本は着任の挨拶で「私が一生を賭して任に来れるもの、技術者としての生涯の栄辱を今回の大河津分水工事によりて決せんとす」と決意を述べた。「今回の工事は内務省直轄工事のための雪辱戦、昨年の災害の犠牲となれる不幸なる同僚のための弔い合戦にして・・・」と声涙共に下りて絶句した⑴。内務省は、新潟土木出張所長新開寿之助を更迭し、青山を後任に任命し、補修工事にあたらせた。一九三一年六月内務省直轄工事の威信をかけた大河津分水補修工事は四年の歳月をかけて完成した。青山は大河津分水堰竣工報告祭において挨拶した。「大河津における信濃川補修工事の竣工に際して私の感想はただ感激と感謝の語に尽きております。(中略)語[論語]に曰く失敗ということは、そのなしたる失敗を経験として使用し得ざりしことであると。我々は果たして失敗者であろうか。我々は過去四年間『オール』内務省土木技術者の為に悲しみ、奮励して、天候と施工の困難とに戦い、昼夜想いをこの所に致し、吹雪と炎熱とに曝され、神かけてこの補修工事の竣工に努力と犠牲とを捧げつつ闘ったのであります。今やそれが天佑と上司の支持と各位のご同情ご援助及び従業員諸氏の協力勉励とによって、皆様の見らるるごとく竣工いたしましたことは、実に感謝と歓喜に堪えざる次第であります。今まで工事中の四年間ご不自由を致させ申しましたことをお詫びすると同時に、その間私どもを信用して下さってその竣成を静かに待たれたことに向かってお礼を申し上げます。ここに各位の期待せられました信濃川補修工事は竣工いたしました。(後略)」 新潟出張所では、信濃川分水大河津自在堰が陥没した毎年六月二四日には従業員を集めて訓示を行い、昼食後、幹部は自動車で弥彦神社に参拝し、所長が玉串を捧げた⑵。青山は退官後も、六月二四日の自在堰陥没の日に大河津出張所あてに電報を打った。「天佑ト各位ノ細心ノ注意ニヨリ分水ノ無事ナリシヲ感謝ス」。青山は天の佑(たす)けに感謝し、人の細心の注意と人々の協力・勉励を願ったのである。⑴ 宮本武之輔日記昭和二年一月九日。⑵ 宮本武之輔日記昭和二年六月二四日。
2022.10.23
青山士「人と人との争いは人がこれを止むる事ができますが、天が人に降す災は人はこれを止める事はできません。ただ人はこれに対して、あらかじめ備えるほかありません。 人と人との間の争いは人文の発達しない時代は、力づくでその力の強い方の意思どおりになったのですが、今は裁判所もでき、それに仲裁されて判決されるのです。」青山士が、この言葉をはなったのは1928年今からほぼ100年ほど前であるがいまだに国と国の争い(ロシア・ウクライナ戦争)に、裁判所も国際社会の仲裁もできない。人類の未熟さ。洪水の災害と其の防御青山士(「水土と利水」第七巻第十号1928(昭和3)年10月)人と人との争は人之れを止むる事を得べきも、天の人に降す災は人之れを止むる事能はず唯人は之れに対して予め備ふるの外ありません。人と人との間の争いは人文の発達せざる時代は力づくで其の力の強い方の意思通りに成つたので ありますが今は裁判所も出来夫れに仲裁せられ判決せらるるのであります。災害の防禦と言ふことは天然と人との戦であります。而し天の人に降す災即ち天災を起す元は非常に強大で而も人間でないが故に談判をして、即ち話し合ひで之れを未然に止むる事は出来ません。即ち彼の関東の大震災も例令へ地震学の博士に依つて何年何月何日に起ると言ふ事が分つて居つても之れを止むる事は出来ません。只人智が進んで来て其の災害の来らむとする時期及び其の輪廓を知ることは出来るかも知れません。例へば日本に於ける台風等は其の卵が南洋諸島付近に発生してから日本本土へは五、六日で来る其の発達の程度はニ、三日前でなければ分らない其の深度に依つて其の威力の大体の輪廓も大体の輪郭も知る事が出来るかも知れません。例へば日本に於ける台風等は其の卵が南洋諸島附近に発生してから日本本土へは五、六日で来る其の発達の程度は二、三日前でなければ分らない其の深度に依つて其の威力の大体の輪郭も知る事が出来る而し其の台風を途中で喰止むる事は天気博士でも出来ない事である。彼の明治四十三年八月の日本国の殆んど全部を襲った大洪水又大正六年十月一日の東京湾を襲った暴風に依る津浪も又最近去る九、十、十一の降雨に依り生じた北陸地方の手取川水源加賀白山に於ける雪解、山抜けに依る大水害及び庄川、黒部川等の洪水にて僅か一日の間に百数十名の人名及び四、五千万円の財産を失ひ其の他勘定する事が出来ない無形の損害を蒙つた大水害等も皆仮令へ其の禍の来ると言ふ時日が分つて居つても之れを止むると言ふ事に就ては人間の力は今の所どうする事も出来ないのであります。それならばそれを拱手して待つべきかと言ふにそうは行かないのであります。人は其の力の及ぶ範囲内に於てそれに備ふる事を得るのであります。大雨の時の雨漏は相当なる大漏でもバケツ又は盥等で受けることが出来るも洪水はそうは行かないから近代に於ける洪水防禦の方法としては先づ河の両岸に大なる堤防を作り又は河の曲りを真直ぐにして一定の水路を作り又は河底を浚渫して水の流れを良くして地上に降った水を平地に溢るゝ事なしに海なり大きな湖水なりに早く流してやることであります。而し近代は土木工学の進歩に依つて其の河に良き地点があれば其処へ堰堤を設けて其の洪水を溜めそれを徐々に流す方法も考へられ又其の水を利用して水力発電又は灌漑に利用する事もあります。即ち東京の近くでは彼の大利根川の洪水に依り徳川幕府時代は江戸の下町は時々浸水の厄に遇ひ維新以後にあつても彼の権現堂堤其の他の個所の缺壊に依り東京の下町は水害に襲はれ明治四十三年の如きは其の洪水が荒川の夫れと合して上野の山下辺迄濁水が押寄せて来た事は其の後利根川、荒川の改修工事が竣功した今日殆んど忘れられた様な有様でありますが斯の如く利根川の改修工事に依つて関東平野の水災の大部分は除かれ又荒川下流の改修工事にて足立、江戸川、王子、豊島、浅草、下谷、本所、深川区等を荒川の水災より免れしめ、木曾川の改修工事は之れに関連して木曾、長良、揖斐三川を改修し濃尾平野の大水災害を除き、淀川の改修工事は之れに関連して摂津平野、大阪の大水害を除去し夫等地方に於ける人命及び国土、財産を安全にしたのみでなく其の地方の産業の発達を促した事は非常なものであることは言ふ迄もありません。以上の利根川、荒川下流、木曾川、長良川、揖斐川及び淀川の改修工事は国即ち内務省が大部分直営で施行したものでありまして夫れにどれだけの費用を投じたかと申しますれば総計約一億四千万円でありますが、それに依つて年々平均千五百万円の物質的の被害より国を救つて居るのでありますれば其の防禦工事が全く十露盤に掛らないものでないのみならず良き投資であると存じます。それのみならず衛生上の改善、交通の利便その他精神上の脅威を除く事に於て大なる利益のある事は言ふまでもありません。それでありますから皆様も此の天災即ち洪水の防禦に就て大なる関心を持つて戴きたいのであります。
2022.09.19
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