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奮闘の詩(うた)ブラウニングOne who never turned his back but marched breast forward,Never doubted clouds would break,Never dreamed, though right were worsted, wrong would triumph,Held we fall to rise, are baffled to fight better,Sleep to wake.決して敵に背を向けず、胸を張って前進した者、暗雲が晴れるのを決して疑わず、たとえ正義が敗れるとも、悪が勝ちを収めるなどと夢想だにしなかった者、倒れるは起ち上がるため、挫折するはよりよく戦うため、眠るは目覚めるためと確信した者No, at noonday in the bustle of man’s work-timeGreet the unseen with a cheer!Bid him forward, breast and back as either should be,“Strive and thrive!” cry “Speed,─fight on, fare everThere as here!”否、人の働く喧騒(けんそう)の真昼時、見えない者に歓呼の声を上げて、挨拶せよ!胸も背も張り上げて前進するように、彼に命じよ、そして、叫べ、「奮闘し、栄えよ! 成功せよ、戦いつづけよ、とこしえに進め、この世のように来世においても!」と。後藤静香ブラウニングの「奮闘の詩」にはさすがに力がある」(後藤静香選集第1巻)
2024.05.19
屋根裏でも喜ぶ Pollyannaby Eleanor H. Porterだれ一人見送ってくれるものもなく、遠い旅路をただ一人、そまつなもめん着物に、小さいケース一つその全財産をもった少女が、肉親の叔母をたよって駅に着く出迎えのナンシーを叔母さんと取り違えて大喜び途中の馬車でナンシーと教えられ、ちょっと考えていたが、すぐに快活な調子にかえる。「おばさんが私を迎えに来て下さらなかったでもまだおばさんにこれから会う楽しみがあるしその上あなたともお友達になったし」おばさんはパレアナの父が大嫌いだったパレアナが話のたびごとに お父さん をくりかえすのが気にさわって「私はおまえのお父さんのことを聞きたくありません」「お父さんのことを話すなと言われて喜ばなくちゃお父さんのことを話さないほうがこらえやすいから」パレアナは屋根裏の物置みたいな一室を与えられた。美しい絵のある敷物も、鏡も、一枚の額もない「私鏡のないのがかえっていいと思うの。あると私のそばかすが見えるんですもの。まあ向こうに木や家や教会の塔や銀のような小川こんなところでは絵などいらない。おばさんがこの部屋くださって嬉しいわ」叱られても喜ぶ食事の時間に遅れたというので、叔母さんに叱られ、罰として女中と共に牛乳とパンだけの時も「私うれしいの。私パンも牛乳も好きなの。それにあなたといっしょに食べられていいの」夏の日の夜、パレアナは窓から出て、平たい屋根に寝ていたのを見つかり「今夜は、お前は私の寝台に寝なさい」パレアナ「叔母さんと、叔母さんの寝台で、ああうれしい。私誰かと寝たかったの。婦人会の人ではなく、本当の身寄りの人と。ねえ叔母様」医師に自覚を与えるチルトンという医者がパレアナを馬車に乗せると「先生ありがとう、わたし馬車に乗るの大好き。」「どうもあなたには大好きなことがたくさんあるんですな。」「先生、お医者様は一番うれしい職業だと思います。」「一番うれしい?私の行くところはいつも悲しみばかりですよ。」「ええ、でもね。あなたは助けているでしょう。人間の中で一番助けていらっしゃるんでしょう。」さあ喜ぶ遊戯を始めましょう愛する人たち、今からみんなでパレアナになろうではありませんか。うらむ、ねたむ、そしる、にくむ、かなしむ、いかる・・・このようないやなことがらのある世の中に全くの別天地、うれしいよろこびの世界ができるのですから。ああうれしい後藤静香「喜ぶ遊戯」と題して、パレアナを紹介したが、あの話はいつ読んでも清められるように感ずる。
2024.05.18
小説『少女パレアナ』は、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4)という聖書の教えを基盤としている1913年にこの小説が出版されると、たちまちパレアナは世界のアイドルになった。エレナ・ホグマン・ポーターは、1863年5月23日、米ニューハンプシャー州リトルトンに、フランシス・ホグマンとルエラ・ホグマンを両親として生まれる。エレナは生まれつき虚弱体質であったため、高校中退後は体力づくりに専念した。そして健康を回復すると、ニューイングランド音楽院に入学。24歳の時、ジョン・ポーターと結婚する。それから25年後、エレナは突然小説を書き始め、『潮流の転回』を出版。翌年その続編を出す。1911〜1912年、『ミス・ビリー』『ミス・ビリーの決心』を出版。明るいロマンスで好評を博す。1913年『少女パレアナ』『パレアナの青春』を出版すると、一躍その名を知られるようになった。強い信念と喜びを基調とするこの作品は、たちまち米国全土で人気を集め、すさまじい売れ行きを示した。この作品は週刊誌「クリスチャン・ヘラルド」に毎週連載され、続いて単行書になった。パレアナの評判が高まるにつれ、辞典にも「パレアナ」が普通名詞として載せられるようになり、「ポーター夫人は新しい言葉を辞典に加えた」と言った評論家もいた。1920年に57歳で没したが、その年に書いた『スウ姉さん』は同じような名作となり、高い評価を得ている。ポーター夫人の死後に短編集が出版されたが、こちらは『少女パレアナ』『パレアナの青春』ほどの人気は得られなかった。後藤静香 喜ぶ遊戯 傑作『パレアナ』のあらすじ 今を去る約20年、1913年2月のこと、米国の出版界に大きい波をうって現れた物語がある。作者はエリーナ・H・ポーターという閨秀作家である。本書が世に出るや、ひじょうな歓迎をうけ、その年の12月には15版をかさね、翌年6月には20番となった。物語の主人公は少女パレアナである。母は小さいときに亡くなった。父はまずしい牧師であったが、これも13歳の時に亡くなって、天にも地にもただ一人、わずかに婦人会の世話で、なき母の妹にあたるバレー叔母さんの家に引きとられる。叔母さんというのも40になる独身者で、父もなく母もなく姉妹みな死んでしまい、もう数年間大きな家と父がのこしていった巨万の富との、ただ一人の持主となっている。その年までも結婚しないのには、もちろん深い事情がある。今では世の中がいやになって、ひねくれて、わがままで、かんしゃくで、きびしいきつい顔をしている。ナイフが床におちても、戸のあけたてに音がしても顔をしかめる。静かでなんの音もしないときでも、きげんのよい顔をしようとは夢にも思ったことのない人である。ナンシーという女中と、トムという老人の忠僕が、おできにでもさわるようにして仕えている。 パレアナはこの家庭に入った。なくなった母の結婚のことから、パレアナの家庭とバレー叔母さんとの間には、久しいあらそいがあった。パレアナはその複雑な関係のある、そのやかましい叔母さんに引きとられねばならぬ運命であった。 しかるに天使のような天真らんまんたるパエアナは、あらゆる出来ごとにのぞんで、その光明のがわのみを見て、なんでもかでも喜ぶということを一つのあそびとしている。 そうして、誰にでも美しい美しい言葉と表情で接する、すべてのことを善意に解する。なんでも喜ぶあそびを次から次へとすすめる。こうしている間に、叔母さんがやさしくなる。病人が喜ばされてずんずんよくなる、離婚問題が中止になる、よくばり紳士が善人にかわる、かくしてその町全体がよろこびの感情がみなぎってくる。お医者様が処方箋に『パレアナ』と書きそえる。それはちょっとでもその少女が病人を訪問すると、病気がめっきりよくなるからである。 私(後藤静香)はさびしい人々、失望している人々、いな、すべての人々に、ぜひともこのパレアナを紹介せねばならぬ。なんでも喜ぶ遊戯の仕方それはパレアナ自身が女中のナンシーに話している言葉を取次ぐことにしよう。ナンシーは言った。『お嬢様は何でもお喜びになるようですこと。』パレアナは笑いながら『それが私のあそびなの。』『あ そ び?』『ええそうなの。何でも喜ぶあそびなの。』『それはいったい全体なんのことですか?』『お父さんが教えて下さったあそびなの。それはほんとうにいいのよ。私の小さい時から、お父さんと二人でしているのよ。婦人会の人にも話したの、そしたらその人たちもしてよ。』『どうするんでございますか。』『それはね、おくり物の中から出た松葉杖からはじまったの。私ね、お人形がほしくてたまらなかったの。それでお父さんが慈善会本部の方へ頼んでくだすったの。そうしたらね、お人形がこないで、松葉杖が入っていたの。それから私たちはこの遊びを始めたの。』『私にはちっともわかりません。』ナンシーは少しいらいらしてきました。『わかるじゃないの。あそびはね、なんでも喜ぶということなの。どんなことでもよ。それで私たちはその杖を始めたの。』『私は何が嬉しいのかわかりません。人形がほしい時に杖が来て!』パレアナは手をうって『それなのよ、私も初めわからなかったの、ナンシー。お父さんが教えて下さったの。あなたが杖を使わなくてもすむからうれしいの。ね、わかってくるとたやすいでしょう。うれしい方を見つけるにはあんまり長くはかからないのよ。私よく考えずにすることもあるの。なれてもので。いいあそびでしょう。お父さんと私とはそれが好きだったの。でも今は誰ともする相手がなくて、少しむずかしくなったわ。』(続く)
2024.05.18
【斎藤一人】どっちが正しいかより、どっちが楽しいか・後編 ~どっちが楽しいかを極めたら、この世は楽しいあのね、人間って、今生きている場所がありますよね 。今の環境。これをどっちに考えてったら楽しいだろうか?どうしたら楽しいか?楽しいからニコニコしてられる。ニコニコしてるから、人相も変わっちゃって、福相になって、運勢も変わります。いつも怒ってるやつに近づきたくはないよね。で、どうしたら楽しいだろうか?どうしたら、楽しく生きれるだろうか?そのことを極める。「楽を極める」から、「極楽」って言う。で、今を楽しめた人間が、死んでから極楽も行ける。わかります?それで、死ぬ前からここを極楽にすることができるんです。死んだ魂で「こんなはずじゃなかった」って呆然としてる霊がある。それは、「辛くても苦しくても、正しいことをしてれば、天国に行けるんだ」と思ってた人間は、死んだときに行く場所が違うんで、びっくりしちゃう。この世の中っていうのは、神様からの招待なの。わかる?私たちは招待されるんです。「この人生を楽しみなさい」って。今日も青い空でしょ?花も咲いてるの、きれいな空気もあるの、山もあるの。全てを楽しみなさいって。ねっ。男の人はね、女性を見て恋をし、ねっ。女性は素敵な男性に恋をし、ねっ。子供をつくりとか、全部を楽しむの。楽しむように招待されてるんです。それを、些細な意見の食い違いぐらいで、原爆までつくったりね、大砲までぶっ飛ばしたりしてていいんですか?神様は空気もつくり、水もつくり、みんないろんなものつくったけど、原爆を作ったのは人間です。よく考えてください。この世を地獄にするのも、極楽にするのも、「どっちが正しいか論」をやっちゃいけないんです。「どっちが楽しいか」なんです。わかります?どっちが楽しいかなんです。それで考えてください。で、「どっちが楽しいか」ってこと考えてくると、自ずから成功の道に行くんです。人間は神様からソフト、インプットされてるんです。それは、良心に、真心なんです。だから、人をいじめたときより、人助けしたときの方が気持ちがいいんです。楽しいんです。ねっ。あっ、きくちゃん歩いてるって、誰かがそいつをパーッと川の中に突き落として、そいつが溺れ死んだより、誰か落っこちそうになっている子供を助けたときの方が、気分がいいんです。ええ、考えてみてください。どう考えても私は突き落とした方が気分がいいと思ってる人がいたら、ちょっと考え直してください。おそらくそういう人は滅多にいないと思いますけど、あなたに言ってます。それで、どっちが楽しいか?そのことをきちんと極めるんだよ。そしたらこの世は楽しいよ。そして、これは一生一回なんです。一生一回のご招待なんです。私は楽しくてしょうがないんです。死にたくないですよ。死にたくは絶対ないんです。もっと、生きていたいんです。ねっ。それで、楽しくて楽しくて、こうしょうがない人生を、もっともっと楽しく生きるんです。それで、魂は何回も輪廻転生するとしても、この斎藤一人としての、この命。ねっ。この運命は、たった1回なんです。これはたった一度のご招待なんです。ねっ。本当に一生懸命楽しんでもらいたいの。この前、チベットの山の上で、すっごい、すっごいすっごいすっごいすごい環境の厳しいとこ、もう、あんなとこだと俺なんか泣いちゃうんじゃないかっていう環境の厳しいとこ。そこに生まれた人が、「ここいいとこなんです。素晴らしいんです」そこを楽しんでたの。「魂が、成長ができてるな」俺だって、こんな日本だって豊かで、こんな環境のいいとこだって、ときどき「生まれてこなきゃよかった」って思っちゃうことがたまにある、、、やるんだけど、あるじゃない?ねっ。魂が見てくれて、神様って優しいから、「こんなとこで、お前、こんないいとこなんだから、いいとこと思えよ」ねっ。私だったらチベットの上だったら泣いて暮らさなきゃならない。そこでも魂の立派な人はいるんだよ。ねっ。あの人は、あそこですら極楽にしてしまったんだよね。ねっ。この、すばらしいここを極楽にしたいなってことなんです。いかがでしょう?
2024.02.10
I先生に「I先生が 『報徳の精神』で動くからこその尊い出会いがあるのだと御本を読んで思いました」とショートメールしたところ返信のメッセージに「私の今年の収穫は、5月30日に出会った〇〇観世音菩薩様と先生です。(略)」観世音菩薩と同列においてくださること、恐れ入る。そのお心になんとかお答えしようと12月10日、17日の「安居院義道」連続講演の資料をUSBにおさめてお送りする。「「<からだ>の声を聞きなさい2」(リズ・ブルボー)の200ページに『鏡の技法』が載っています。イエスは「あなたはひとの目の中にある塵は見えても、自分の目の中の梁は見えない[聖書マタイ伝7-3]」と言われた。私たちは他人の中に欠点を見るが、本当はそれは自分自身の欠点であり、しかもそれは他人よりはるかに凄まじいということを教えようとされたのです。<鏡の技法>を使えば「私もあんなふうに振舞っているのではないだろうか?」と気づくことができます。あなたが他人をどう見るかが、あなたの心のありさまを反映していることを気づく必要があります。もし、あなたにとって自然がますます美しく見えるようになり、人々がますます美しく見えるようになったら、あなたは自分自身をもまたそう見ているのです。・あなたがある人の性格を素晴らしいと憧れるとき、自分自身はとてもそんな性格をしているとは思いません。自分が憧れるような面を自分が持っているとは思えないのです。でも、あなたがある人の優しさ、思いやりなどにあこがれるときは、実はあなたの中にもそれと同じ優しさや思いやりがあるのです。イエスも「あなたが他人のなかに見るものは、すべてあなたの中に、もっとたくさん存在している」といっています。つまり、あなたが憧れる他人の一面は、もっとたくさんあなたの中にあるのです。」つまり、I先生のなかに もっと素晴らしいものがもっとたくさんあるということにほかならない、💛しばらくブログをお休みします。良いお年をお迎えください。「らんまん」の脚本家・長田育恵さんが師の井上やすしさんからかけられた言葉を一つ紹介します。「今日一日を、あなた自身の心の力で、良い方向に向かわせなさい」今日の一日、一日が、皆さま一人一人の自身の心の力で良い方向に向かわせることを願います。
2023.12.22
「秋の葉は変化という風の精霊によって 枝から解き放たれる 彩りゆたかな正装で 彼らは優雅に舞い降りる 姉なる木や母なる土と混じりあうために 幼子なる種子たちをはぐくむ寝床となるために」 (ネイティブ・アメリカン聖なる言葉より)*今、変化の時なのかもしれないと「ありがとう」と感謝の心で受け取る。「感謝の心は 聖なる輪の旅の途上で あなたが与えることができる最大の贈り物 それは後悔を帳消しにする Migweitch(ありがとう)」 (ネイティブ・アメリカン聖なる言葉より)*聖なる循環の旅の途中で出会え、「感謝の心」を学べたことに心から感謝します。幸せをもたらす「魔法の言葉」「五日市ツヨシさんという人が大学院生のとき、イスラエルに旅行したことがあった。そこでイスラエル人のおばあさんに出会って『ツヨシさん、ツキっていうのはね、簡単に手に入るものなのよ』と言われる。『えっ?・・・どうしたら手に入るんですか?』って五日市さんは聞いた。」「それまで五日市さんはツイてなかった。空港でトイレに財布を忘れて、持金が半分になった。空港を出たら地元の両替商に騙されてまた半分になった。しかもイスラエルは70年に1度の大寒波。お金がないなかで安宿を探す中何日も食べてなたった。そんななかでイスラエルのおばあさんに声をかけられた。」「どうしたんですか?顔色が悪いですよ。そうおばあさんは言って、うちに来ませんか?と誘ってくれる。でも五日市さんは両替商に騙されたこともあって怪しいなあと もし、とまるところがなかったらお世話になるかもしれません と言ってその場は別れるんだ。 ところが泊るのを予定していたユースホステルなどはことごとくしまっていて、やむなくおばあさんからもらった地図を頼りにおばあさんの家に行った。 玄関に立って、ベルを鳴らすと待っていたかのように、すぐドアが開いておばあさんが出迎えた。そして暖炉で火が燃えている部屋に入ると、五日市さんがまるで今来るのが分っていたように熱々のスープがテーブルの上にあった。おばあさんは「幸せをもたらす魔法の言葉があるのよ。これさえ唱えていれば、誰でも幸せになるわよ。」と言った。それまでなんて「俺ってツイてないんだ」と思っていた五日市さんはすごく興味をそそられて聞いた。「何、なに?教えてくださいよ。」おばあさんが教えたのはね、「ありがとう」Thank you「感謝します」I appreciate it.という2つの言葉なんだ。「なあんだ、おばあさん月並みな言葉じゃないですか」何か呪文のような言葉を期待してがっかりする五日市さんにおばあさんは言う。「『ありがとう』という言葉はね、何か嫌なことがあったときに使ったらどうかな。たとえば寝坊して仕事に遅れたとする、『寝坊させてもらってありがとう』、車を運転中、事故っちゃった。そんな時も『ありがとう』、親が亡くなっても『ありがとう』ってね。良いことがあったら『感謝します』という。するとまた感謝するようなことが起こりやすくなる。」そしてあの後イスラエル旅行を続けたんだけど、バッグを持ち去られた、あっ全財産がと思いながら「ありがとう」と叫んだ。するとその泥棒がすってんころりんと転んで、バックを置いたまま逃げてしまった。また、車にはねられたこともあった。そこで「ありがとう」と叫んだ。するとなんともなかったんだ。そこで五日市さんはなんとかこの言葉をイスラエルにいるうちに身につけようとサインペンでシャツから手の裏からパンツまでこの言葉をかきまくって身についた。そして何よりも驚いたのは、帰りのチケットだけでほとんど無一文だったから、成田に着いてもうちまで帰れないなと思いながらイスラエルの空港に行ったら、空港の係りの人があなたは何か忘れ物しませんでしたかと五日市さんに尋ねた。なんとあの財布が出てきたんだ。そこで五日市さんは嬉しくって有りがたくって、始めて「ありがとう」と感謝します」が心魂に徹したんだ。
2023.05.03
「致知」オレゴン州知事テッド・クロンガスキー氏のインタビュー記事よ「致知」9月号に五日市剛さんと今野華都子さんの「社員のすべてを引き受け、人生の苦楽をともにする」という対談が載っていたので読んだ。内容に感動してコピーしては知り合いに配った。なんでも「致知」9月号の注文が殺到してんてこ舞いらしい。おそらくすぐに売り切れとなるであろう。その9月号の他の記事も読んでいたら、オレゴン州知事テッド・クロンガスキー氏のインタビュー記事が載っていて、これにも感銘を受けた。テッド氏は1940年ミズーリ州生まれで、生後すぐに父親を亡くし、カトリック教会の施設で育った。「私が生まれた直後に父が亡くなりました。そのため私は、カトリック教会の学校の寮でシスター達に育てられました。」テッド氏は、生きる上で守るべき大切なことはすべてシスターから教わったという。「シスターは私に『他人を裁いてはいけない』『相手が誰であってもフェアに扱わなくてはいけない』という大切な美徳を教えてくれました。私はこの二つを忠実に守ってきました。彼女たちの指導がなければ、いまの自分はありえません。」テッド氏は、高校を卒業して海兵隊に入り3年間勤めた後、退役して製鉄所で働いていた。自分の出身から他人に劣等感を抱いていて、一生製鉄所で働いていけたら、それでいいと思っていた。しかし、ある時、テッド氏はシスターから言われた言葉を思い出した。「志を持ちなさい。そして志を持ったら決して途中でギブ・アップしてはいけません。絶対に途中でやめてはいけないのです。」「大事なことは、大人になって初めて理解できるようなことでも、人生にとって大切なことはどんどん教えてくれる、そんな環境を子育てのなかにつくることが大切です。シスターたちは、私たち孤児全員を一人前の人間として大切にし、尊重してくれたのです。悪いことをすれば厳しく叱りました。そんな時には必ず『あなたには限りない可能性がある』と付け加えました。」「困難に直面したとき、この言葉を指針としています。『非常に難しいこと、困難なことは、良き人間にこそ起こる』人間の価値は、その人がどれだけ困難に遭遇したかではなく、それをどう乗り越えたかで、評価されるものだと思います。だから私は、どんな困難に出会っても決してあきらめず、ただ自分を信じて次に進むということを、とても大切にしてきました。そして最終的には目的を達成すると自分の心に決めています。」オレゴン州知事 テッド・クロンゴスキー氏:魂を試される時代だったテッド・クロンゴスキーが岩の多い海岸線に向かってフライを投げると、クラマスレイクには強い風が吹き、白波が立っていた。予期せぬ風が知事の釣り糸を乱し、この湖のトロフィートラウトを釣り上げようとする彼の望みをかきたてる。この晩春の日、クロンゴスキーは左目を失明し、ボートの揺れでめまいがひどくなっていた。彼は70歳、現在全米で最高齢の知事である。それでも、ペリカンが湖上を飛び、ハクトウワシの群れがポンデロサの枝から見下ろすなか、キロンスキーは突風に向かって何度も何度もキャスティングを繰り返した。この光景は、クロンゴスキー氏の知事としての8年間を象徴するものである。不況、戦争、予算危機、さらにはオレゴン州の大学制度改革のリーダーに選んだニール・ゴールドシュミットのセックススキャンダルなど、ほとんど常に逆風にさらされながら統治しているように見えた。クロンゴスキー時代このように、オレゴン州とその知事職におけるテッド・クロンゴスキーの夢は、高等教育の劇的な改善も含めて、すべて水の泡と化したのである。そして、公務員退職年金制度の改革、戦争で亡くなった多くのオレゴンの若者を悼み、何よりも必死に雇用を求めたことが記憶に残る、まったく予想外の知事となったのである。情に厚い男にとって、それは大変なことだった。イラクやアフガニスタンで死亡したオレゴン州兵の葬儀や追悼式に120人以上参列し、弔辞を述べてきた。彼は、オレゴン州に企業を誘致するために世界中を旅してきました。彼は、オレゴン州の低所得者層の大学進学を支援し、何万人もの子どもたちに医療保険を拡大するために、膨大な予算を精査してきました。彼は、オレゴンの飢餓の窮状に明るいスポットライトを当て、この問題にもっと世間の目を向けさせるために、1週間フードスタンプで生活したこともある。しかし、経済と州予算が不況に見舞われ、2003年1月の就任時より悪化した状態で、あと数週間で退任することになる。オレゴン州とその公共サービスを景気後退に備えるために、できること、すべきことはすべてやったのか、と問われると、彼は答える前に立ち止まる。システム、戦争で亡くなったオレゴン州の多くの若者を悼み、何よりも必死に仕事を探しているのだ。「誰もこの奥深さを予見していなかった。誰もこの事態を予見していなかった」と言う。「しかし、もしあなたが、これは私が建てた、あるいは建てるのに貢献した家なのか」、と尋ねるのなら......。と聞くと、彼はまた立ち止まる。"そうです"。立法府、保険委員、司法長官、最高裁判事、知事と、公職を渡り歩いてきたクロンゴスキー氏の輝かしいキャリアに、厳しい幕引きとなった。彼の長年のスタッフは、新しい仕事に移っている。有権者は前任者のジョン・キッツハーバーを知事の座に返り咲かせた。議員たちは、賛否両論ある議会の中で権力分立の交渉をしている。風向きは再び変わってきた。オレゴン州南東部のカリフォルニア州との州境にある小さな町、マリンにあるジャガイモの加工工場を見学に行ったとき、工場長は箱いっぱいのジャガイモをプレゼントしてくれた。「これほどきれいなものはありませんよ」と彼は知事に言った。長いキャリアの中で、オレゴン州のあちこちを訪れてきたクロンゴスキー氏。マリーンでは、毎年恒例のポテト・フェスティバルで「ミス・スパッド」の栄冠を手にするために、以前にも訪れたことがあるのだ。2002年の知事選では、ボーリング場や大通りを歩き、通行人と握手し、店の主人に自己紹介をする「エブリマン」として出馬した。ボウリングの腕前はそこそこで、バックパッキングとフライフィッシングに熱中しているというが、クロンゴスキー氏の選挙戦は普通の人がやるようなものではない。オレゴン州知事のなかでも、もっとも友好的で社交的な知事のひとりである。クレーン・ユニオン・ハイスクールの卒業式で講演をするよう招待された知事は、ダークスーツにネクタイ姿でバーンズ郊外の小さな寄宿学校に姿を現した。知事が周りを見回すと、他の全員がジーンズに銀色のベルトのバックルという出で立ちだった。知事は校長に「ジーンズを履いてくればよかった」と言った。"いいえ、違います "とその男は言った。"あなたは私たちが期待する知事の姿と同じです。"2003年1月に就任したクロンゴスキーは、内向的なキッツハーバーが州を統治できないと宣言して議事堂を出て行った後、オレゴン州が必要としていた知事のように思われた。オレゴン州民が失業、学期短縮、全米最悪の飢餓に苦しんでいるにもかかわらず、キロンスキーは心強い就任演説を行い、より良い日々を約束したのである。新知事は、「未来への楽観と信念は、幸せな子供たちを見て微笑むのと同じくらい、私の本質の一部である」と宣言した。従来の常識では、クロンゴスキーは、立法府とオレゴン州民を結びつけるのに最適な人格と経験を兼ね備えている、と考えられていた。彼は、慢性的に放置されてきた高等教育システムのルネッサンスという、これ以上ないほどの野心的な大計画を持って着任した。そして、州教育委員会の委員長に、最もカリスマ性があり、クリエイティブなゴールドシュミットを指名したのである。理事会を立ち上げるのに何カ月もかかったが、たった一度の暴露で吹っ切れた。ゴールドシュミットは、10代のベビーシッターとの数十年にわたる違法な性的関係を認め、高等教育委員会を辞め、公の場から姿を消した。クロンゴスキーは、ゴールドシュミットの行動を知っていた、あるいは知っているべきだったという疑惑をかわされることになった。個人的には温厚で議員との協調を公言していたクロンゴスキー氏だが、1期目の大半は、しばしば議会から浮き足立ち、距離を置いているように見えた。主要な側近が入れ替わり立ち替わりやってきた。知事就任後の4年間は、再選を断念しようと真剣に考えた時期もあったと、今では本人も認めている。それでも、長い間滞っていた橋や高速道路の補修のために数十億ドルを調達する交通法案の第一号など、いくつかの立法上の成功はあった。彼は、オレゴンに蔓延する飢餓に力強く対応し、フードスタンプの普及を大幅に拡大させた。また、メタンフェタミンの製造に使用される原料の厳しい規制を押し進め、最終的に州の犯罪率の低下に貢献した。しかし、「公務員退職金制度」の改革という、意外な課題が、彼の1期目の代表的な業績となったのである。元労働弁護士で終生民主党員として公務員の組合と密接な関係にあったクロンゴスキーが、州、学校、地方自治体、そしてそれらに資金を提供する納税者を何十億ドルも節約する大規模なPERS改革を推進するとは誰も予想しなかっただろう。しかし、裁判所は最も積極的な改革のいくつかを覆し、2008年の株式市場の暴落によって、PERSの長期的なコストと支払い能力に再び疑問符がつくことになった。しかし、オレゴンの年金制度は、今日のほとんどの州の年金制度よりはるかに強固である。それは、クロンゴスキーが重要な問題において、自分の中心的支持者を相手にする勇気を持ち、自分の立場を貫いたからである。クラマス盆地の納屋に停車中の泥まみれのピックアップの真ん中に立って、農民たちが旱魃、灌漑の閉鎖、作物の価格下落、倒産などにどう対処しているかを話すと、クロンゴスキーはうなずいたが何も語らなかった。「最悪なことを教えてやろう」 農夫の一人が知事に言った 「息子たちは、この件には関わりたくないと言うんだ。息子たちはこれに関わりたくないと言うし、私は彼らを責めないよ」。クロンゴスキー知事は顔をしかめた。知事は長年、失業者や飢餓者、無保険者の母親や父親を慰めたり、戦争で死んだ息子や娘を悼んだりすることに、多くのエネルギーと感情を注いできた。知事を「オレゴンの慰安婦」呼ばわりし、「オレゴン州民の葬儀や追悼式に出席して時間を浪費している」と批判する人もいる。これは冷ややかな批判だ。オレゴン州兵の最高司令官としての役割を、身をもって体験している。海外に派遣された1万2000人のオレゴン州軍人のほぼ全員と握手し、話をした。テキサス、ミシシッピ、ジョージアの各軍事基地を訪れ、彼らを見送った。イラクには3回、アフガニスタンには2回行っている。戦場での装備の改善や、自宅での精神医療やその他の福利厚生の充実のために闘ってきた。そして、彼らが亡くなるたびに、時間をかけて彼らを偲んできた。"影響がないとは言えないが、影響がある "と彼は言う。「私は自分の責任で行っているのです。私は、彼らを単なるニュース記事以上の存在にしたいのです。世間の人々に、"あなたはこのことに注意を払うべきです。と伝えたいのです」。最近、アフガニスタンで負った傷でメリーランド州の病院に入院しているラ・パイン出身の兵士の父親に、クロンゴスキーは会った。父親が言うには、その青年は落ち込んでいて、知事が時間を見つけて連絡を取ってくれないかと思ったそうだ。その日の午後、知事は電話をかけた。彼は、負傷した兵士について、「私は彼を笑わせた」と言う。しかし、葬儀や両親、配偶者とのつらい会話で、彼は疲れ果ててしまった。戦争がオレゴン州の家族に与えた影響について話すと、必ずと言っていいほど、クロゴスキーは声を詰まらせる。テキサス州、ミシシッピ州、ジョージア州で、何百人もの悲嘆にくれる両親を見送るために交わした会話の一つひとつを覚えているのだ。イラクには3回、アフガニスタンには2回行っている。戦場での装備の改善や、自宅での精神医療やその他の福利厚生の充実のために闘ってきた。"彼らが子供のことを話してくれるとき、私は自分の子供の顔を見る "と言うのです。良き時代、ここにあり、そして去ったクラマス郡北部のポンデローサ林の真ん中に置かれたひな壇に近づくと、太陽が雲を突き抜け、新しい蚊の大群がうなり声を上げている。オレゴン州では半世紀以上ぶりとなる新しい州有林、ギルクリスト州立森林公園の落成式に知事は出席した。今となっては思い出せないが、一時期は政治的な幸運がクロンゴスキー氏を照らしていた。2007年が明けると、すべてが整ったように見えた。彼は共和党のロン・サクソンに再選を果たし、経済は好調で税収も増え、民主党は議会の過半数を占めるまでになったのである。風は、ついに彼の背中に吹いたのである。そして、一時は政治的な勝利が目白押しとなった。彼は、オレゴン州の大学支援制度を責任共有型に変更し、何万人もの学生への支援を拡大し、授業料の急激な上昇を相殺することに貢献しました。また、ゲイやレズビアンに対する差別を防止するための法案を可決し、オレゴン州にシビルユニオンの制度を創設する法案に署名した。また、8万人の低所得者層の子どもたちの保険料をまかなうためにタバコ税を引き上げ、タバコ業界と闘った。タバコ産業が1200万ドルもの増税反対キャンペーンを展開したため、投票所では敗北した。しかし、クロゴスキーは医療提供者への課税という別の方法を見つけ、今日、その子どもたちは医療を受けられるようになった。彼は、オレゴン州の電力会社に、風力、太陽光、波力などのグリーン・エネルギー源から得るエネルギーの量を増やすことを義務づける再生可能エネルギー基準の承認を勝ち取ったのです。この法律と寛大なエネルギー税額控除により、風力発電と太陽光発電の企業がオレゴンの門を叩いた。しかし、この税額控除が数億ドルにも膨れ上がったため、オレゴン州政府は風力発電事業に対する優遇措置を強化するのに時間を要した。しかし、現在オレゴン州は、太陽光発電の製造において全米トップであり、世界最大の風力エネルギー企業数社の北米本社が置かれている。一時期、オレゴン州と州知事は絶好調のように見えた。2007年末、オレゴン州は予想外の税収として10億ドル以上の個人補償を行った。州知事は、議員や企業を説得し、3億4,000万ドルの法人税減税を雨の日基金に積み立てた。ほとんど誰も気づかなかった。州の一流エコノミストは、今後10年間もオレゴンの税収が堅調に伸びると予測していた。しかし、それは間違いでした。クラマス湖を横断して戻ってくると、冷たい水しぶきが船首にぶつかり、知事の顔にかかるという不愉快な旅だ。この2年間、オレゴン州ではそのような旅が続いている。2度目の就任演説で「この素晴らしい機会を、オレゴン州で最も長く、力強い繁栄の時代にする」と約束したクロンゴスキーは、州の失業率が10%を超え、そのまま推移するのを目の当たりにしてきた。住宅市場の崩壊は、すでに弱体化していたオレゴン州の木材産業やその他の主要な経済部門を押しつぶした。全国的な信用の凍結は、ビジネスを停滞させた。州予算の不足を補うための企業や高所得者への増税は、苦しい選挙戦を引き起こし、オレゴン州政府と企業の間にタイミング悪く楔を打ち込むことになった。クロンゴスキーは、いくつかの重要な問題で立法府と対立した。彼は、景気後退が続く場合に備えて州は資金を節約する必要があるとして、学校に2億ドルを追加で送る法案に拒否権を発動した。しかし、共和党を含む議員たちは、この拒否権を覆した。彼は、民主党の議員たちに、パーソナル・キッカー法を改正し、州がより大きな雨の日基金を作る手助けをするよう、オレゴン州民に求めようとしました。彼らは、オレゴン州民にキッカーを変更するよう求めるのは時期が悪いと断じました。州の収入は何度も何度も減少し、今になってようやく安定したようだ。クロンゴスキーは予算削減の責任を負い、州予算を均衡させるために二度にわたって全面的な削減を行った。高等教育、幼稚園から高校、州警察など、好景気に貢献した主要な投資のほとんどが、予算削減のために失われている。州知事はトップアドバイザーからなる委員会を任命し、破綻した州の財政システムを調査させた。その報告書は「リセット」と呼ばれ、オレゴン州は今後10年間で数十億ドルの赤字に直面すると結論づけた。2003年以来、クロンゴスキー氏が率いてきた政府は、もはや維持することができないのだ。この知らせを聞いて退陣し、公職生活最後の年の幕を閉じることもできただろう。その代わり、彼は州内を歩き回ってリセット・レポートについて演説した。このレポートには、予算の90%以上を占める教育、福祉、治安への支出を削減する、85ページにも及ぶ「お薬漬け」政策が盛り込まれているのだ。オレゴン州民を直撃する冷や水であり、クロンゴスキー氏を含む全世代のリーダーが今まで直面しなかった削減と統合である。クラマス湖の波をかき分けながら、クレーター湖を囲むマザマ山のギザギザした縁や、マクローリン山の鋭い峰が見える。ボートの影には、翼を広げて風に乗って滑空するペリカンがいる。船は入り江に停まった。オレゴン・フード・バンクに送るジャガイモの箱を機首に乗せたまま、知事は一連の行事を終えてセーラムに帰らなければならない。ポテトの箱はオレゴン・フード・バンク(Oregon Food Bank)のために飛行機の鼻先に置かれている。クロゴスキーは投げても投げてもアタリがなく、しぶしぶ糸を巻き取る。さあ、出航だ。
2023.02.01
「人生の王道」稲盛和夫 より京セラが順調に成長し、上場を視野に入れ始めた頃、ある大手銀行の頭取に会い、その経営理念で取引するか決めようとしたことがありました。私(稲盛和夫)は、松下幸之助の著書を日頃読み、尊敬していたので、私もそのような生き方をし、そのような姿勢で経営にあたりたいと、自らの考えを話しました。 すると「松下幸之助さんも若い頃はヤンチャなところもあった。あなたみたいに若いくせに老成したようなことをいうのか」とたしなめられ、その銀行と取引しないことにしました。人間ですから若い頃には至らないことが多々あるはずです。しかし、自分の人間性を向上させようとしているかが大切ではないかと思い、そのことを理解しない頭取が経営する銀行とは取引したくなかったのです。 その後、松下幸之助氏にお会いし、対談をさせていただいたことがあります。素晴らしい人格と識見を兼ね備えた不世出の経営者でした。一生涯をかけて自分の器を大きくすることに努められたのです。 本田宗一郎さんも同じです。・・・・・本田宗一郎さんたちとスウェーデンの王立科学技術アカデミーの海外特別会員に選出され、その関連行事のためにスウェーデンへ招待を受けたときのことでした。 一週間くらい、本田さんと一緒にスウェーデン各地をめぐり、寝食をともにするなかで、本田さんが素晴らしい人格の持ち主であることを実感しました。柔和で謙虚で思いやりに溢れた人格者でした。本田さんがそのように人格を高められたゆえに、本田技研工業が、世界に冠たる自動車メーカーにまで成長発展できたのだと私は思います。 私はこのように、経営者の人格と企業の業績がパラレルになるということを「心を高める、経営を伸ばす」という言葉で表現しています。
2023.01.21
「人生の王道」稲盛和夫 より京セラ創業3年目の1961年4月、前年に採用した高卒社員が11人集まって、私(稲盛和夫)のところにやってきました。「こんなボロ会社だと知らずに入社してしまった。将来が不安で、安心して働けない。 定期昇給とボーナスを保証してくれ。認めてくれなければ今日限りで全員辞める」できたばかりの小さな会社です。「そんな約束はできない。皆の力を合わせて会社を発展させよう」説得を試みました。「私たちにも生活がある。将来を保証してください。」彼らは一歩も引かず、私の自宅に連れて行ってひざ詰め談判を三日三晩話し続けた。「将来の約束はできないけれども、必ず君たちのためになるようにするつもりだ。それを信じてみないか。もし、君たちの信頼を踏みにじるようなことがあったら、私を殺してもいい」彼らも涙ながらにうなづいてくれました。しかし、その夜、私は眠れませんでした。 父親は戦前、印刷屋に丁稚奉公に上がり、私が物心ついたころには、鹿児島市内で小さな印刷屋を営んでいました。しかし空襲で工場がやけ、父はやる気を失い、その後、母が大変な苦労をして、私たち7人の兄弟を食べさせてくれたのです。兄は大学を出ていません、妹は高校を中退して私の大学進学に協力してくれました。 私は京都で就職してから、そんな家族に毎月仕送りしていましたが、とても十分ではありません。自分の親兄弟の面倒すら満足に見てやれないのに、会社を始めたばかりで、縁もゆかりもない人たちの生活を命をかけて守ると約束しなければならない。 京セラは稲盛和夫の技術を世に問う場として、支援してくださる方々につくっていただいた会社でした。ところが技術者としてのロマンを負い、実現するという理想が吹き飛び、いつの間にか社員の生活を守ることを会社の目的とせざるを得なくなってきたのです。 私は悶々として悩みました。「技術者としてのロマンを追えば、従業員を犠牲にすることもあるだろう。やはり、会社は従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せにすることを第一義とすべきではないか」そんなとき、会社の応接室にかけてあった西郷隆盛の「敬天愛人」の書が静かに私を見下ろしていました。「人を愛することが一番大切なんだよ」西郷がそう語りかけてくるようでした。「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」このとき、会社の経営理念が決まりました
2023.01.21
毎年12月に袋井市で開催してきた「報徳講座」も今年で第9回目になる。そのテキストの「訳注 静岡県報徳社事蹟」も印刷に入った。昨年度のテキスト「技師 鳥居信平著述集」から、クラウドファンディングにより印刷費用の資金集めをしている。CFは単に資金集めというよりは、CF期間中この事業を広く日本に発信できることができ、地方紙に記事として掲載されれば、その効用が大きいようだ。坂村真民さんは「『人生二度なし』これをしっかと丹田に打ち込むこと。特に晩年になるほど、これは大切である。」と言われる。『人生二度なし』これをしっかと丹田に打ち込んで「怠ることなかれ、倦むことなかれ」「報徳を実践せよ」である。「人生二度なし」(森信三「修身教授録」2第3講より)○坂村真民さんはこう書いている。「『人生二度なし』これは森信三先生のお言葉。これをしっかと丹田に打ち込むこと。特に晩年になるほど、これは大切である。私は森信三先生にお会いして、やっと腹が決まり、『詩国』を発刊し、五〇〇号になった。その間一回も休まず、入院もしない。凡ては先生のおかげである。皆さんもどうか、このお言葉を、骨肉に浸透して下さい。」○先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼された後、「人生二度なし」という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子の心相寄るはあわれなるかな「諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。」「心相寄るはーというところが好きです。」と生徒の一人が答えた。「ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それゆえ諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とにかく人間は、地位とか学歴とかに引掛っている間は真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。そもそも人間はその外面を突き破り内に無限の世界を開いてこそ真に優れた人と言えましょう。 さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。私なども、諸君くらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたから、もっともなことでもあるのです。 そもそもこの世の中のことは、多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。諸君らが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。もちろん諸君らも意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。要するに諸君たちが自分の生命に対して真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。 われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の少ないゆえんかもしれません。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったと言っていいでしょう。二宮尊徳翁はその「夜話」の中で「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」と言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあります。生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びても丁度鐘の余韻が残るようにその精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えると、諸君らは今こそここに志を立てるべき時です。そのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。人間が死後にも生きる精神とは、結局その人の生前における真実心そのもので、その真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るのです。かくして人生の真のスタートは、この「人生二度なし」という真理を、その人がいかに痛感することから、始まると言ってよいでしょう。」《二度とない人生だから》 by 坂村 真民二度とない人生だから一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう二度とない人生だから一匹のこおろぎでもふみころさないようここころしてゆこうどんなにかよろこぶことだろう二度とない人生だから一ぺんでも多く便りをしよう返事は必ず書くことにしよう二度とない人生だからまず一番身近な者たちにできるだけのことをしよう貧しいけれどこころ豊かに接してゆこう二度とない人生だからつゆくさのつゆにもめぐりあいのふしぎを思い足をとどめてみつめてゆこう二度とない人生だからのぼる日 しずむ日まるい月 かけてゆく月四季それぞれの星星の光にふれてわがこころをあらいきよめてゆこう二度とない人生だから戦争のない世の実現に努力しそういう詩を一篇でも多く作ってゆこうわたしが死んだらあとをついでくれる若い人たちのためにこの大願を書きつづけてゆこう
2022.12.09
17歳馬場咲希、全米女子アマV!9ホール残す圧勝で服部道子以来37年ぶり2人目の日本勢制覇8/15(月)初出場の馬場咲希(17=日本ウェルネス高2年)が、21歳のモネ・チャン(カナダ)に11アンド9の大差で圧勝し、1985年の服部道子以来37年ぶり2人目の日本勢優勝を果たした。 36ホールで戦う決勝で、馬場は最初のホールでパーセーブ。対してチャンはボギー発進となった。その後、馬場は5番までに4アップと差を広げた。6番でダブルボギーとし落とすが、すぐさま7番で奪い返し、その後も3つのホールを奪って、前半の18ホールだけで7アップと大差を広げた。 約2時間の休憩後、後半1ホール目となる19番はともにパーセーブで発進した。20番でチャンがバーディーを奪い、さらに21番で馬場がパーパットを外して、馬場の5アップとなった。 勢いは止まらない。175・3センチの長身から、伸びやかなショットが青空へ向かう。今大会は正確なショットでゲームメーク。グリーン周りでも安定したプレーが目立っている。22番で馬場がバーディーパットを決めると、チャンはバーディーパットを外す。これで6アップ。続く23番パー4では、馬場がグリーン脇のカラーからチップインバーディーを決め、7アップと一気に引き離しにかかった。 24番パー4でも馬場がバーディーを奪い、8アップ。25番パー4では相手がボギーとする中、パーで9アップ。ラウンドを見守るギャラリーの中には大きな日本国旗を肩にかつぐ男性の姿もあった。26番パー5でもバーディーパットを決めて10アップ。流れは止まらなかった。 そして27番パー3でも鮮やかなバーディーを奪い、11アップ。この瞬間、日本人37年ぶりの戴冠という歴史的偉業を手にした。37年ぶり快挙の馬場咲希、全米女子アマVに繋がった強靭メンタル「注目されると力出る」8/15(月)「試合で緊張することはあまりないです。ドライバーはちゃんと当たれば飛びます。特にプロの試合だと、ギャラリーの方々がいらっしゃるので、よく飛びます(笑)」「決勝ラウンドになると、ギャラリーの人が増えて、1番ティーにもたくさんいました。テレビで見ている光景と同じで、『楽しい~』と思えました」「会場で大好きな(ネリー・)コルダさんを見つけて、興奮しました。『やばい』『やばい』と言いつつ、通訳さんと一緒に『写真を撮っていただいていいですか』とお願いしたら、『もちろん』と答えてくださいました。もう、めちゃくちゃカッコよかったです」同大会中に7月の全米女子ジュニア、今月の全米女子アマに出場することも決め、日米を往復。その間に英会話を習い始め、今大会中もインタビューで照れながら「Shot is good」などと返し、「楽しい」「幸せ」と話してきた。そして、この日の決勝も「勝つ、勝つ、勝つ」と言い聞かせながらプレー。〇2012年6月24日 五日市剛は工学博士です。その講演をまとめた「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という小冊子は100万部以上の大ヒットし、関連書籍を含めると300万部以上発行されています。五日市さんがイスラエルに行った時、一人のおばあさんに教わった話が中心で五日市さんはイスラエルに着くなり、財布を亡くすわ、換金サギにあうわ、お天気まで70年に一度の大寒波でイスラエルは温かいと聞いて軽装で来た五日市さんにとって、まさにツイてない旅でした。ところが、そのおばあさんに出会ってうちにいらっしゃいと誘いを受けて夕食をいただいてから、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を教わります。「ついているとかついていないとか運ってあるわね。運って簡単に手に入るのよ」とおばあさんは言いました。「ええっ、おばあさん、教えてくださいよ」イスラエルに着いてからツイていなかった五日市さんは真剣におばあさんに向き合って聞き耳を立てます。勿論、英語での対話です。おばあさんは「The Mazic Words bringing Hapiness」と言ったそうです。「幸福をもたらす魔法の言葉」を五日市さんに伝授しました。○「The Mazic Word」の一つは「ありがとう」です。Thank you です。「なあんだ、おばあさん、そんなの誰でも使っているじゃないですか?」「そうかしら。使っているようでホントは使っていないんじゃないかしら。『ありがとう』は使い方があるのよ。嫌なことがある時、『ありがとう』とすぐに言いなさい。」「ええっ、嫌なことがあった時ですか?でも、誰に対して言うんですか」「ただ言えばいいのよ」そうおばあさんは言ったとあります。「悪いことがあるとまた悪いことが続くでしょう。『ありがとう』と言うと悪い流れが断ち切れるの。それだけじゃなくて、悪いことがいいことに変っていくの」とその魔法の言葉の効用についておばあさんは語ったそうです。すぐに「ありがとう」と声に出して言うことがポイントです。五日市さんがその後、すぐ言えるために水性マジックで手やハンカチやパンツまで『ありがとう』と書いて習慣にしたそうです。その後、イスラエルを旅行するなかで、ひったくりに会った時『ありがとう』、車にぶつけられた時『ありがとう』といってそのつど災難を免れた『魔法の言葉』を信じるようになったことが小冊子に説かれています。「もうひとつ魔法の言葉があるのよ。いい事があったら『感謝します』と言いなさい。」「五日市先生『感謝します』は英語では、何と言うんですか?」今日、神奈川から一緒に来てくれた杉山君と桜木町駅で初めて五日市さんに会って一緒に飲んだ時に聞きました。「英語では I'm appreciated といいます。『有難うございます、感謝します』という意味ですね」と答えられていました。「五日市さんね、感謝しますにはもう一つの使い方があるのよ」とおばあさんは言ったそうです。「まだ起こっていないことも、そうなったと確信をもって『感謝します』と言えばそうなるのよ」と。実はこれは私も愛用しています。 そうならなかったらどうするか。大丈夫です。ちゃんと用意されてます。五日市さんは言われます。「どっちに転んでも大丈夫」と。馬場咲希さんにとって「楽しい」「幸せ」が、Magic Wordなんですね。
2022.08.16
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