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名古屋市守山区白沢町「長命寺」市内から車の場合、県道30号線を龍泉寺方向に走り「松川橋南」交差点で右折、「川村」交差点を左折、直進した左側で参拝者駐車場も確保されています。前回掲載した守山区白沢町「天王社」の東に隣接する臨済宗のお寺です。長命寺、山号は医王山。道路南に面し白壁が続き、中ほどに重厚な山門を構えています。山門左の石碑には「長命を 祈りてまいる この寺は 清く流るる 川村の里」と記されている。山門から境内の眺め。正面に入母屋瓦葺の本堂と右方向に庫裏、寺務所と繋がっている。本堂左方向に濃尾震災慰霊碑などがある。山門右の手水舎。山門から左方向。右から蓬莱七福神の寿老尊を祀る壽老殿と鐘楼、その左に観音堂の伽藍。境内から山門の眺め。四脚の瓦葺の山門、木鼻や蟇股など手が掛けられ、趣のある佇まいをしています。境内西側に戦没者慰霊碑が建っている。長命寺はもともとは川嶋神社付近に長母寺を開山した無住国師が旧号で光常寺として開山したとされ、小牧・長久手の合戦(1584年)で本尊の薬師如来像を除き伽藍を焼失。後の1700年(元禄13)に長母寺末寺、「医王山 長命寺」と改号し再興され現在に至るようです。(上の地図の左のマーカーが川嶋神社で右が長命寺)また周辺にはかつて南北に城があり、ゆとりーとラインの「白沢渓谷」付近の小高い場所に川村北城が、長命寺の南東付近に川村南城があったとされ、どちらも今は痕跡は残っていません。長命寺と川村南城は所縁があり、織田信長の家臣とされる水野右京進が築城し、城主5代に続く水野氏の菩提寺が長命寺だという。本堂裏手には1720年(享保5)に建てられた石碑も存在する。現在の本堂は1956年(昭和31)に再建されたもので、伽藍は新しいけれど長い歴史を持つ寺。本堂全景向拝木鼻などには意匠が施され、コンクリートにはない暖かく落ち着いた佇まい。本尊は薬師如来。瓦葺、入母屋造りの妻入りの壽老殿全景。蓬莱七福神の寿老尊を祀る。蓬莱七福神とは守山区、尾張旭など名鉄瀬戸線沿線の霊場巡り。守山区小幡の長慶寺(大黒天)、同区大森の法輪寺(福禄寿)、同区小幡の弘法寺(布袋尊)、同区市場の宝勝寺(毘沙門天)、春日井市松河戸の観音寺(弁財天)、尾張旭市印場元町の良福寺(恵比寿)、別格として守山区竜泉寺の龍泉寺(宝船)、そしてここ白沢町長命寺の寿老人の霊場を巡るもの。木造瓦葺の鐘楼緑青に覆われつつある梵鐘、銘文は見当たらず、いつ頃鋳造されたものかは分からなかった。梵鐘の下帯には蓮?が描かれているけれど、全体の姿はシンプル。観音堂鐘楼の左にある切妻の建物でこの背後が白沢町の天王社。堂中には複数の観音像と右に地蔵が安置されています。観音像前列の像は主に昭和の頃の像が多いが、奥の方には寛政や文政の頃に奉納されたものが見られます。一番奥に安置された丸みのある素朴な表情の像などは更に古く見える。そうした像はきっちりと刻まれたものにはない、人の思いが感じられいいものです。2021/07/27長命寺宗派 / 臨済宗本尊 / 薬師如来開基 / 無住国師創建 / 不明所在地 / 名古屋市守山区白沢町319-1関連記事 / 「天王社」守山区白沢町 長母寺
2021.07.31
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今回の戸隠五社巡りの起点となる戸隠イースタンキャンプ場。カッコーの鳴き声で目覚める、相変わらず朝は早い、熟睡中のかみさんを起こさない様に一人早朝の散策に出かけた。熊の存在を考えると少し心細いが遭遇したらその時に考えよう。目的地はキャンプ場から県道36号線沿いに奥社方向へ徒歩10分程、県道沿いに熊笹に包まれた森に続く注連縄の吊られた小路を目指します。前日キャンプ場に向かう途中、車窓から見え、気になっていたところです。国道沿いに無料の駐車場があり、そこに掲げられていた案内図が上。複数の車中泊の車はここから登山目的で夜を明かしていたようです。目的地へはこの看板脇から右に続く小路があり、そちらからも行く事が出来ますが熊笹が生い茂り、ここは県道側から向かいます。県道36号線から念佛池入口を見る。左手に注連縄で結界がはられた入口があります。県道から入口の眺め。注連縄と右手の石標に気が付かなければ見つけにくい。池そのものがやや下がった位置にあるので目立たない事もあり、訪れる人は少ない。念佛池はすぐこの先。右の苔むした石標「念佛池」とある。碑の裏側の元号は安政5年(1858)と読める。ほぼ2世紀にわたり雪深いこの地に建ってきただけに全体は苔が覆い、碑そのものは角がない。碑からすく先の少し窪んだ場所に小さな池があります、これが「念佛池」池の対岸に石の祠と解説板があるが、見ようによっては「ただの池じゃん」となるだろう。池の周囲は花期は過ぎているけれどリュウキンカの黄色の花がちらほら残っている。5月から6月頃なら池の周囲は鮮やかで可憐な黄色の花が彩を添えているのではないかな。この小さな池、どこからも水は流れ込んできていません。澄んだ池の底を眺めてください、砂を舞い上げて地下水が湧出しているのが見て取れます。念佛池解説建歴2年(1212)の頃、親鸞聖人(浄土真宗開祖)が戸隠権現(戸隠神社)へ参詣されました。その折り、この小池の端で念仏を唱えると、念仏に応えて池底が沸き返るが如き不可思議な状態を現したので、戸隠権現の霊験顕著と感激し「念佛池」と命名したと伝えられています。親鸞聖人旧跡滞在宿坊 (戸隠中社)桂の木 (戸隠豊岡)奥社鳥居左奥に「一龕龍王の祠」が建っていますが、干ばつの時に黒姫山登山道の脇にある「種池」の水を汲んで雨乞いをすれば、必ず雨が降ると信じられていて、「種池」の主とされる「一龕龍王」がそこに祀られているという。6月の「種池祭」では、その祠と「種池」、そしてここ「念仏池」でも神事が行われるそうだ。右手の「念仏池」と刻まれた石標には親鸞聖人がこの池を拝む姿が描かれている。すっかり苔むした祠、いつ頃祀られたものなのか詳細は分かりませんが、時の経過とともに山と一体になろうとしているようにも見えます。森の中に佇む小さな池。池の底から砂を舞い上げ脈打つように水が湧きだす光景は親鸞聖人がこの小池の端で念仏を唱えて起きたとされる不可思議な状態が今も続いている。朝霧に包まれた念仏池の水面に周囲の木々が映り込み、静まり返った周囲にあって、池の底から湧き上がる湧水のさまは自然の息遣いそのもの、この山自体が息づいている。そう感じる事間違いない、神秘的な光景が見られます。そろそろかみさんも起きていることだろう、ここはかみさんにも教えてあげよう、いい加減戻るとするか。念佛池方向の県道から戸隠イースタンキャンプ場受付ロッジ(右の建物)の眺め、キャンプサイトは県道を超えた右方向になります。2021/06/24念佛池関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」所在地 / 長野県長野市戸隠越水車アクセス / 上信越自動車道信濃町ICから約30分戸隠イースタンキャンプ場から徒歩10分程
2021.07.30
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名古屋市守山区白沢町白沢渓谷の西の麓に当たり平坦な扇状地にできた地域、ここから東は緩やかに丘陵地が続きます。町名の由来となる白沢川は1768年(明和5)に従来の流れに堤を築いて堰き止め、北側の山を開削し庄内川へ流路が変えられたもので、ここから東に行くと城土公園があり、園内を白沢川が流れ庄内川に注いでいます。古くから農耕を生業とする集落があり、龍泉寺に続く四観音道に続く里道でもあり、川村南城もあったようだ。今回の目的地は白沢町の「天王社」。目印は臨済宗のお寺「長命寺」で天王社は長命寺の敷地の西角に一部に社地が与えられた、そんな感じが漂う。天王社はこの白壁の切れた所に鎮座します。南の車道から見る天王社と後方は長命寺。切妻の妻入り四方吹き抜けの拝殿から本殿の眺め。拝殿左上に何か記された木札があり、恐らく由緒に繋がる事が書かれているような気がするが読めなかった。拝殿左に祭礼の案内。近隣の川嶋神社の管轄のようです。この天王社の創建など詳細は分からないが、川嶋神社で伺えば何か得られるかもしれない。こうして年間の祭事計画が貼りだされているだけに、近隣に住民からは今も崇敬されているようです。本殿は守山では定番ともいえる赤い覆屋の中に赤い本殿が祀られ、本殿前には赤い鳥居も置かれている。扉が閉じられているので分からないが、恐らく津島神社の御札が収められていると思います。赤く塗られた社殿、いかにも氏子の手で維持されているのがわかる。ペンキまみれのこの光景も良く見かけるものだ。荒れるに任せた社に比べれば、この方が血が通っていて鎮まる方も喜んでいるのではないだろうか。今は平穏なこの地も、過去には自然からの試練を受けてきた、そうした過去の経験から災い除けのために祀られたものだと推測します。目的があってここに祀られ、今もその思いは次の世代に受け継がれている。こうした思いが受け継がれていく事は、この地で生活するうえで重要な伝承だと思います。「天王社」白沢町創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区白沢町公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン「川村」駅下車 南へ徒歩10分程
2021.07.27
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戸隠キャンプで大雨に見舞われ、予備のテントが使えるかしばらくの間張りっぱなしで様子を見ていた。その間あの時の様な強烈な雨が降る事もなく梅雨が明けてしまった。やった事はポールのショックコードの長さをつめた事くらいで肝心の防水性は見切れていない。シームの防水性は確実に使い込んだコールマンよりは生きていそうなのでタープがしっかりしていれば雨漏りにはならなさそうだ。そこで戸隠の大雨で急場をしのぐためテントの上にかぶせたヘキサタープに手をかけて見た。上の写真は大雨が過ぎ去った翌朝の状況。フライシートのないメッシュタープはブルーシート、テントはタープを被せ雨の侵入を防ぎ大した被害には至らなかった。新しいのが欲しい所だが、ヘキサが大雨を緩和してくれれば、今のテントやメッシュタープでも快適に使えるのでは。という事でタープのシームテープを全て引っ剥がし、手持ちの素材を代用して貼替、防水スプレーを吹き付け補修して見る事にした。買う買わないはその後だ。結局縫製する箇所にはシームテープは付き物。使おうが使うまいが接着面は浮き、縫い目からの漏れは避けられない。おまけに少し浮いたテープは触れば触るほど剥がれてくる。一枚ものの生地で作られた製品はないもんだろうか。昔からそう思うところ。シンプルな構造のヘキサですら5枚も縫製してある。テープは簡単に気持ちよく剥がれてくる。縫製部分の汚れ、ごみを取り除き代替のテープで貼替。手持ちの素材はメッシュ入りの補修テープとビニール地のガムテープ(ホームセンターで数百円程度)。以前知り合いからもらったもので生地や粘着性は折り紙付き。その昔カヤックの底部分の補修の為に使っていた残りですが、5カ所分の長さはないのでオリジナルのシームテープ幅で切り取って長さを稼いで張ってみた。本当はこの幅の倍くらいで行きたいところ。テープは生地にしっかり貼りつき良い感じです、最後に生地の裏側(表)に板を敷きテープの上から仕上げの加圧をして、生地の重なりやテープの気泡を追い出して良しとした。加圧を終えた縫製部分、結局5本中3本はこれで補修が出来た、これは原材料費ゼロ。残る2本はどうしたもんだか、布のガムテープは宜しくない、物色すると写真のビニール地の粘着テープが出て来た。これなら布に比べれば防水性は高い、接着力もありそうだ、webでもこうしたテント補修用の商品があるけれどこれで様子を見て見よう。買い替えるかもしれないものに無駄な出費は不要。貼り方はいとも簡単、ゴミと汚れを取り除き、テープの幅そのままで縫製部分に貼り付けるだけ。唯一の注意点は生地にシワを作らず、テープに空気を入れずにしっかり貼り付ける。それだけです。こちらも貼り終えた後、生地の裏側に下敷きになるものを置きしっかり密着させる。シームを張り替えた後は表にして、スキーウエア用の防水スプレー(これもいつのものだか)があったのでひたすら吹き付けて完成。しっかり乾燥させ生地もサラサラ、この金をかけない労力に見合う効果があればいいのだが。いや、あるはずだ。メッシュタープも補修したいが、一枚構造でフライシートのないテントやタープに雨漏りは付き物です。ブルーシートを被せるのが安価で最強かも知れない。来月は乗鞍方面に2泊三日のキャンプが決まった。乗鞍も過去に強烈な雨を経験したことがあるだけに、もう一度戸隠キャンプで露呈した問題点を解決しなければ。その一つに快適でありながらコンパクトな装備。今回は少し冒険してみようと考え、軽で行ってみようと目論んでいます。スペアタイヤのない軽はパンク補修キットで対応できないバースト(タイヤが裂ける)の場合、山では苦労する、なので未舗装を走る山行に軽は避けてきた。タイヤは意外なほど簡単に岩で裂けてしまいます、タイヤに負担をかけないためにも身軽な装備は重要になってくる。2021/7/25関連記事 / 久し振りのキャンプ計画 後確認1
2021.07.26
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名古屋市緑区大高町字中川寝覚の里から徒歩で常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分。道は巨大なコンクリート堤防により行き止まりとなり、堤防の先は天白川が流れる。いかにも夏を感じさせる空。堤防から天白川河口方向を眺めてみた。先に見える橋は天白犀川橋は下を国道23号線、上は名古屋高速大高線。小さな流れの天白川、ここまで来ると流れを集め川幅はとても広く、水位は平時でも干満の影響を受け上下します。堤防から上流の眺め。左が天白川、手前が扇川、ここから堤防を上流に向かうと大高川が合流する。見あげる高さの堤防も、上から眺めると意外に水面が近い、標高はこそ-ではないものの、この巨大な堤防に守られ平穏な日常がある。1890年代(左上)からほぼ現在(右下)のこの地の変貌。往古は等高線が密になる辺り以外は波打ち際、新田開発で沖へ〃と海岸線は遠ざかって行き、伊勢湾台風で大きな被害を経験するなどした周辺も現在は住宅地に移り変わってきた。堤防から南東方向の眺め。今回の目的地「龍宮社」はこの堤防沿いに鎮座しています。堤防を降りても社殿らしき姿はない。堤防から少し離れると、先ほどから手前に見えていた生垣に鳥居が建っていた。会社の緑地帯の様に見えていたがここが「龍宮社」で間違いないようだ。鳥居はとてもタイトな位置に建っていて、鳥居の直前に企業のフェンスが迫り、鳥居から境内全景が伝えずらい。南東方向を向いて鎮座する「龍宮社」、三方は生垣に囲まれ境内は通りから見付けにくいかもしれない、この生垣が目印といっていいかな。社地はブロックで囲われ、そこに土が盛られ外周に生垣が植えられ神域を形作っています。夏空を背景に仰ぐ高さに本殿が祀られていて、4本の鰹木と縦に削がれた千木が付く。龍宮社「名古屋市緑区大高町字中川祭神 底筒男神、中筒男神、表筒男神正式名称は住吉社と云い、大阪の住吉大社からきている。筒男三神は航海安全の神として各地の海辺に祀られる。大高川と扇川との出会う南側に鎮座されていたが、昭和34年(1959)伊勢湾台風で被害を受け、河川改修の為、昭和40年(1965)にこの地に移された。龍宮社提灯祭り 毎年旧暦6月15日」筒男三神は正式には住吉大神と呼ばれるようで、伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊を行ったときに、瀬の深いところから底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神、水表で上筒之男神が誕生したとされる水の神。解説によれば伊勢湾台風で被災以前はここから約400㍍程上流に鎮座していたという。帰りに寄り道してみたが痕跡は見つけられなかった。2021/7/18龍宮社(住吉社)創建 / 不明祭神 / 底筒男神、中筒男神、表筒男神所在地 / 名古屋市緑区大高町字中川寝覚の里から徒歩ルート / 常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分関連記事 / 寝覚の里 住吉大社
2021.07.25
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2021/06/23~25キャンプメインで戸隠神社を巡ってきました今回は戸隠イースタンキャンプ場から車で5分程の戸隠神社奥社を掲載します。キャンプ場から近いこともあり、まずはキャンプ場にテント設営、ランタン含め装備をセットしてから奥社駐車場(有料)へ向かいました。天気はいつ降り出してもおかしくない状況ですし、ただでさえ大食いの車なので身軽にしてから移動という事です。大鳥居へは写真の駐車場からまっすく進めば、さかさ川沿いに鳥居前に至ります。戸隠神社は、信仰の山「戸隠山」の麓に鎮座する奥社、九頭龍社、中社、宝光社、火之御子社で成り立ち、それらを参詣する事を戸隠神社五社巡りと呼ばれています。今回はそのうちの奥社と九頭龍社を目指します。戸隠神社奥社大鳥居さかさ川に架かる橋を渡れば左側に下馬石がある。そこから先は、例えガースーだろうがマスクの人だろうが、忖度なしに馬から降りなければいけない。さかさ川 鳥居前を流れる細い渓流で、清らかな流れの中には岩魚の姿も見られます。殺生禁止という事もあり人影を見ても隠れる気はないようだ。河畔には茶屋があり奥社からの帰りには一息入れることが出来る。鳥居左奥に「一龕龍王の祠」右に一枚岩の大きな社標が建ち、こんもり盛り上がった高みに石段が作られ、その先に苔むした小さな祠が祀られています。干ばつの時に黒姫山登山道の脇にある「種池」の水を汲んで雨乞いをすれば、必ず雨が降ると信じられていて、「種池」の主とされる「一龕龍王」がここに祀られている。由緒は分からないけれど、今も6月の「種池祭」では、この祠と「念仏池」、「種池」で神事が行われるそうだ。念仏池は滞在中に訪れたが、朝霧に包まれた森のなかに佇む小さな池、底から脈打つように水が湧きだす光景は自然の息遣いを目の当たりにすることが出来る。この山自体が息づいている、そう感じる事間違いない。ただ感受性が違えば「ただの池じゃん」となるかもしれない。(近く掲載予定)参道を進み奥社に向かいます。ひたすら真っすぐに続く参道は鳥居から2㌔続きます。この参道ただ真っすぐなだけではなく、冬至と立春には太陽が真っすぐに昇るように仕組まれているという。とにかく静かだ。聞こえるのは踏みしめる足音と小鳥のさえずり、森を吹き抜ける風の音、そして風に吹かれ、時折聞こえるクマ笹の葉が擦れ合う「ガサ〃」。大鳥居周辺で見かけた案内板、バリアフリー遊歩道も整備され水芭蕉の時期には良いかもしれない。良くないのは右の看板、一応御呪いのつもりでクマよけの鈴は下げてはいるが、これは致し方ないだろう「人出没注意」として避けてくれれる事を祈るしかない。取り敢えず「いるよ」もうひとつ左は大鳥居付近の参拝案内図と右は熊出没注意看板。かつては戸隠山顕光寺と呼ばれた戸隠神社、そこに続く道は戸隠道呼ばれていたという。戸隠山は修験者によって開かれ、後に大衆の参詣道として、そして流通道としての役割も担い整備されていった。参拝案内図によれば奥社までは2㌔の参道を40分ほどかけて登っていきます。大鳥居から隋神門まで1㌔15分、隋神門から奥社までが1㌔25分とある、平坦に見えるこの参道は随神門から先は過酷になる事を意味しています。こんな天気の時はトレッキング並みの足ごしらえは必要かと思う。この長い参道のチェックポイントはやはり随身門となるだろう。杉木立に覆われ緑あふれる参道は静まり返り、厳粛な雰囲気に包まれている。参道脇には杜の歴史を伝えるように朽ち果てた株を苔が覆い、次の杜を担う新芽が根を張っている。「後で拡大すればいい」とろくに読まなかった石碑の碑文、甘い考えでした。どうやっても読めない、参道脇にはこうした石碑や塔、石仏が見られる。歩きはじめて20分、鳥居から1㌔地点に朱塗りの随神門が現れる。その手前には大きな狛犬が一対。大きくて貫禄のある狛犬です。苔むしてなんぼの神域にあって図体は大きいがまだまだ経験不足。神仏習合時は仁王門として仁王像が安置されていたと云います、今は左右に随神を安置した随神門となり、神域に立ち入る邪悪なものから守っています。建立は1710年(宝永7)の建立とされ、茅葺き入母屋造りの三間一戸の八脚門。戸隠神社の伽藍の中でも最も古いとされる建造物。茅葺屋根は萱を台地として根付いた緑が生い茂り、年月を感じさせる。個人的にはシダの緑がとても新鮮で趣きがあり好きなんだけど、これはそろそろ葺き替え時期のサインでもある。額は「随神門」随神が訪れた者に睨みを利かせている。上は戸隠神社御本社復興記念参道左右には細い流れがあり、それらの周囲には既に巨大な葉っぱと化した水芭蕉も自生しています。下は参道左の奥社院坊址案内板。随神門の奥側左右に850年(嘉祥3)以来戸隠権現に奉仕した嘗ての院坊址が点在する。明治政府による神仏分離に伴いここにあった院坊は中社、宝光社として移転していった。上戸隠神社社叢案内板「戸隠神社奥社社叢は、戸隠神社奥社(江戸時代以前は戸隠山顕光寺奥院)の境内地として400年にわたり保護管理た社叢林である、授僕の伐採が禁じられてきたため原生林に近い稀有な森林植物相を持つ貴重な森である、随神門から先の参道沿いは江戸時代初期に挿し木により植樹された200本を超える杉の巨木が並木をつくり、人為と自然が年月をかけて融合し一体となった姿を見ることができる」下戸隠神社信仰遺跡案内板「戸隠神社は奥社・中社・宝光社の三社からなっている。平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られる。縁起によると学問行者が修験を始めた年代を849年(嘉祥2)としていて、これが戸隠寺(奥院)の起源とされる。1087年(寛治元年)に中院が開かれ、明治の神仏分離により寺を廃し、奥院・中院・宝光院を奥社・中社・宝光社と名称を改めた。」戸隠神社社叢参道脇はこうした巨大な杉並木が続く。奥社に向け参道を進んでいくと杜の中に様々な石碑や塔、院坊址が残っています。左上「大乗妙典一字一石書写碑」1751年(寛延4)宝篋印塔入口付近の参道右側の少し高みの茂みの中に埋もれています。「大乗妙典」とは法華経のこと、「一字一石」は経文の一字を小石に書き留め、それを地中に埋めた供養塔。右上「宝燈国師母公 祈願観音堂跡 宝篋印塔」参道左に建ち、ここから先に宝篋(きょう)印塔があるらしいが、踏み込めなかった。右下法華多宝塔、1705年(宝永2)奉納された六角柱の塔、各面に梵字と「為大衆説、妙法華経」などの文字が刻まれていますが。足元が悪く傍に近寄れなかった。左下随神門から奥社までは同じ1㌔でありながら+10分余分に時間を費やします、参道は表情を変えて来ます。飯綱社奥社も近くなり、急な参道の途中左側の一段上がった所に鎮座する飯綱社。飯綱大明神を祀り飯綱大権現ともいわれ、戸隠山の北東に並ぶ飯縄山の神仏習合の神。一説によれば九頭龍権現を主とする戸隠信仰より、飯綱(いずな)権現を主とする飯縄信仰の方が古い?とも云われるようです。古くから戸隠山の鎮守としてここに祀られてきたと云う。実態は不思議な能力をもった天狗と言われ、崇める事でその能力を授かる事が出来るといいます。上斜面の上方に見える建物は奥社社務所。奥社まで間もなくです。下尾上講社石塔詳細は不明雨脚も強くなり、雷が轟く天気となった頃、漸く奥社に辿り着く。境内はフラットではなく4段の境内。下の段に手水舎、一段上がった左が社務所、その上の段の左が九頭龍社、右の最上段が戸隠神社奥社の伽藍。手水舎から九頭龍社の眺め石段手前の狛犬、どちらも立派な角を持ち、苔むした姿はキャリアを感じさせる。奥社最上段に鎮座する。戸隠神社奥社(御本社)御祭神 天手力雄命御由緒並びに御神徳創建は、前210年、第八代孝元天皇の 御代。御祭神は神代の昔、天照大神が天岩戸にお隠れになった時にその神力をもって、岩戸を開いた神。開運守護・五穀豊穣に御神徳があり、大相撲の土俵祭りの御祭神に御名を連ねるなど、武道・スポーツ必勝の神としても知られる。嘉祥二(八四九)年、開山した学門行者が道場として築いた伽藍が起源とされ、山中の三十三窟の第一窟・本窟(宝窟)の在所です。新年祭 五月一五日例祭 八月一五日新嘗祭 十一月二十三日社殿は後方の戸隠山の岩肌にできた本窟(宝窟)と一体化したような独特の姿をしている。豪雪地帯にあってこの立地という事から、何度か雪崩の被害を受けているという。現在の社殿は1979年(昭和50)に再建されたもの。趣はシェルターの様相です。社殿奥にあるという本窟、そこは当然見る事は叶わない。戸隠神社奥社創建 / 前210年、第八代孝元天皇の御代祭神 / 天手力雄命本殿域で唯一社殿が山に接していない「戸隠大神」詳細は不明。神社に来れば地元の酒の銘柄が良く分かるかもしれない、今夜の酒はどちらにしよう。本殿域から一段下がって左側に鎮座する九頭龍社、五社巡り二社目。御祭神 九頭龍大神御由緒並びに御神徳地主の神で御鎮座年代古く、天岩戸が化成したと云われる戸隠山の守護神にして神代の岩戸隠れの変に御功績を立てました本社の御祭神である天手力雄命を当山にお迎えした大神で水分神、水口神、五穀豊穣、魔除けの神、虫歯の神、縁結びの神として御霊験あらたかに国民の多幸弥栄の上に高大なる御神徳を恵み給う大神です。祈年祭 五月一五日例祭 八月一五日新嘗祭 十一月二十三日奥社同様拝殿の先は右後方の戸隠山に接している。九頭龍社天手力雄命が祀られる以前から地主神として古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として崇敬されている。創建 / 不明祭神 / 九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)奥社、九頭龍社共に背後の杜や御神体の戸隠山の岩肌と一体となりそれぞれが趣のある佇まい。ここまで来たら社殿を取り巻く周囲の光景に視線は向けたい。さて社務所で御朱印を頂き大鳥居に戻ります、傘もなく、下はぬかるんで滑りやすい、それでいて雷鳴がやたら近い。早足になるところですが、雨は参道の杜が和らげてくれます、足元を見てゆっくり下るのが賢明。手水舎から少し下った、参道脇の石仏。行きに見かけていたが、雨もありスルーしてしまったけれど、濡れついでに帰りに寄ってみました。参道から見ると木々が生い茂る山肌の岩。岩の下は自然にえぐれたようになっていて、そこに苔に包まれた大小の石仏が安置されています。由来は不明。雷に怯えながら中間地点の髄神門まで戻ってきました。裏側から見る屋根も苔むし、シダや若い木々が育っている。漸く大鳥居が見えてきたころ雨もやんできた、参道は水たまりができている。天気が思わしくない時に参拝する場合、しっかりした靴、雨具をお忘れなく。ついでに、あればクマ除けの鈴をぶら下げると気持ちが落ち着きます。駐車場に向かう途中で見かけたマンホール、戸隠の山と鳥がデザインされている。雨と雷にくじけそうになったけれど、包み込むように迫る戸隠山とそこから育まれる自然の光景や恵み。ドピーカンより早朝か曇天に訪れる方が神の山を身近に感じることができるかもしれない。多少濡れたけれど気持ちのいい参道です。戸隠神社 奥社 九頭龍社所在地 / 長野県長野市戸隠3690戸隠イースタンキャンプ場から車ルート / 奥社駐車場(有料)まで約5分YouTube画像はこちらから
2021.07.24
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エコキュートの入れ替えとかあり、蓮の見頃を見逃していた梅雨も明けた今頃になって漸く森川花はす田を訪れてきました正直期待はしていなかったが、品種によっては綺麗な姿を見ることができました名古屋を5:30に出て下道で小一時間、道の駅「立田ふれあいの里」に6:30前には着くことが出来た道の駅駐車場には、車で一晩明かした他府県ナンバーの車が結構見られたここに駐車して「森川花はす田」へは川を隔て東に歩いて2分程、目の前だ7/20時点の蓮田の眺め見るからに花は少ない印象、やはりピークは過ぎている東側から道の駅方向の眺め、淡いピンクの蓮を見たかったが、白系や目的の淡いピンク系は終盤のようです、やたらと赤い種類の花が目立つこちら方面は以前から来たかった場所の一つ田園の中にこんもりした森が島の様に点在する、それらを目指せばほぼ神社に辿り着く後方の「こんもり」は古木江城跡今日は蓮を見るのが主目的、ぐるっとひと回り蓮は朝がいい、しかも霧雨の様にしっとりと降る雨の中で見る姿が綺麗だ実は霧吹きを持っていこうとも考えていた、やはりピーカンの蓮は味気ない巨大な葉の下に雫を見付けた、この雫がいい良く見える表の花はこうして見頃を迎えた花もあり、蕾も多数ある、もうしばらくは楽しめそうですその際には気に入った花の葉にひと吹きするといい感じになるのでは朝陽で透かしてみるのも綺麗なものです大きな蓮の葉の下にはすっかり見かけなくなったカエルの姿、逃げもしない・・・・・これがいるという事は奴もいることになる外に出ていなかった事もある、蜂や水生昆虫、今年初めて見るとんぼは新鮮に映る手前の白系の大半はこのような状況とみておいた方がいいかもしれませんいかにいい花を探すかです家と買い物くらいしか出かける事がなかったかみさん久し振りに外に出て蓮田を巡り、今日は結構万歩計も歩数が伸びているだろう結構人はいるのでマスク着用に変わりはない帰りは道の駅で地元の野菜がリーズナブルな価格で販売され、きゅうりの苗も安かったのでしっかりと買い出しもできる今頃苗と思われるかもしれないが、強烈な出来事があり枯らしてしまった五輪スポンサーの赤いメーカーの水は野菜にやってはいけない、自然は忖度なしに正直かもしれないこんなのもいっぱいだった綺麗なんですが、触ってはいけないその昔食用として輸入されたジャンボタニシの卵稲を食い荒らす厄介者だが、そもそも人の都合で来たわけで、ある意味人が一番自然に大きなインパクトを与えているこれほど多くの卵を目の当たりにするのは初めて、もはや受け入れるしかないのかも2021/7/20森川花はす田駐車場は蓮田付近に数台分、道の駅に駐車も可能所在地 / 愛西市森川町村仲
2021.07.20
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名古屋市緑区大高町中ノ島あれ、ここのあたりは東海市だと思い込んでいたが名古屋市なんですね。前回記載した名和町寝覚「神明社」から東に歩いても2~3分程、寝覚めではないのか。神明社の鳥居から常滑街道を東に進み「大高町砂畑」交差点を右に進みます。正面の小高い山は火上山、今回の目的地「寝覚の里」はこの通り沿いにあります。通りからだと木々の生い茂る未造成の区画にしか見えないかもしれない。左手の解説板が目印か。寝覚の里入口。右側に「史蹟 寝覚の里」寝覚の里「ここは、日本武命と宮簀媛命が新婚のひと時を過ごした館があったとされる所。当時海辺であったこの地、毎朝寄せてくる潮騒に寝覚めを得ていた。そのことから里人はこの地を「寝覚の里」と呼んできた。初めはここよりやや東の田の中に塚が設けられていたが、伊勢湾台風で散逸。現在の碑は昭和35年この場所に再建されたもの。」碑文は識別不能な文字もあるので勝手に要約すると「大高の里の寝覚の地名は、1800年の昔、倭武天皇が火上の御座所にいたとき、毎日朝になると波の音に目覚めたところから付いた。この地名を末永く伝えるために碑を残す 明治43年10月 熱田神宮宮司」という感じだろうか。石碑が建つ一画は一段高く盛られ、区画を囲むように樹木が植えられている。碑はその奥に建つ。石碑全体像。碑文拡大。この石の紋、なかなかのもの。景行天皇より東征を命じられた日本武尊、伊勢神宮で倭姫命より草薙神剣を授かり、当時尾張国を治めていた乎止与命の館のあった氷上山に立ち寄りそこで宮簀媛命を見初めたという。日本武尊は東征を果たし、再びこの地に凱旋し、宮簀媛命と妃として迎え、氷上館にとどまり打ち寄せる波の音を聞きながらひとときの平和な日々を過ごしていた。その場所がこの地「寝覚の里」とされ地名の由来となっている。当時は波打ち際か迫っていたこの地も、新田開発や干拓により海岸線は遠く離れ、川はコンクリート堰堤により河口も沖へと伸びていき、今では潮騒は聞こえない。ロマンス漂うこの地も碑が建てられた頃とは様変わりして民家が立ち並び、道路は整備され車の往来の多い土地柄となりロマンスを感じるどころではないかもしれない。また浦島太郎とは無縁の様だ。2021/07/19寝覚の里所在地 / 名古屋市緑区大高町中ノ島19名和町寝覚 「神明社」から徒歩ルート / 東に進み大高砂畑交差点を右に数分関連記事 / 名和町寝覚 「神明社」 、 氷上姉子神社
2021.07.19
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東海市名和町寝覚。寝覚、なにやら意味ありげな町名。ここから南に見える小高い山(火上山)を目指せば熱田神宮境外摂社「氷上姉子神社」まで徒歩10分~15分程か。火上山に向かう道すがらの住宅地の一画に「寝覚の里」と呼ばれるスポットがあります。日本武尊と宮簀媛命が火上の地で出会い、夫婦となり暮らした住居跡と伝わる場所。現在その場所には石碑とそれを伝える解説板が置かれています。町名はここから来ているようで、浦島太郎ではないようです。もっとも、古くはこの辺り一帯は渚で浦島伝説があっても何ら不思議でもない。今回の目的地は大高町砂畑交差点から常滑街道を西に進んだところに鎮座する「神明社」です。最初に書いておきますが、神社へは車で直接訪れる事は出来ません。大高町砂畑交差点から常滑街道を100㍍程西に進む。写真は交差点と名四国道方向の東を眺める。写真は交差点から名和方面の眺め。早朝ということもあり、常滑街道は車の往来も少なく静かな住宅街の佇まい。神明社への参道は常滑街道沿いの南側に神明鳥居を構えています。ビルとビルの隙間に社殿に続く参道が伸び、神明社へはここから詣でる事になります。神社はとても不思議な立地環境にあります。周囲は民家と工場に囲まれ、常滑街道から小さな杜と玉垣が見えている、しかし脇参道もなく杜の向きから西側が社頭だろうと徘徊しましたが最初は見つけられませんでした。どうやって行くんだ?と街道を歩いて見付けたのがここ。安心して参道を進むが正面は倉庫で行き止まり、えっ?これは会社の敷地では?と思われるでしょう。ここから左に向かいます。左に進むと正面に大きな松が聳える社地が見えます。やっと着いたぞ。でも、雰囲気は工場敷地内のイメージが漂う。怪しいおやじ、少し小さくなりながら拝殿に向かう姿は一層怪しく映るかもしれない。神社は予想通り西向きに鎮座していました。境内へ。拝殿までの参道、その先に鳥居が見える、これは二の鳥居になる。二の鳥居前から境内を見渡す、正面に拝殿、左に手水舎、右に石標が建てられている。手水舎と鉢もあり、まめに参拝に訪れる方は多いようです。境内の掲示板に貼られていた由緒と年間行事計画が貼られている。神明社由緒「神明社は、今から約800年前、天照大神(御伊勢様)をこの地に祀り、安産の守護神として近隣の尊崇をあつめ、その加護をうけてこの土地には以来難産の家は出ないと伝えられている。左義長(さぎちょう)には、妊婦さんの参拝をおすすめします。この神明社は、尊い安産の神様です。妊婦さんは、守護神のご加護をうけて元気なお子さんを産んでください」昭和38年に境内の石垣を改築した様で名和、上名和部落、北脇部落、南脇部落の総代、船津神社の管轄のようで宮司の名も刻まれている。左義長とは一月に行われる神事「どんど焼き」の事。創建は800年前に遡るという、1220年頃というと鎌倉時代、元号では承久あたりか。氏子たちにより受け継がれ、小さな神社ながら長い歴史を持っている。拝殿でいいのか自信はないけれど、入母屋妻入りの拝殿は固く扉が閉ざされていた。伽藍は目立つ老朽化もなく、近年補修の手が入っているようで、境内は綺麗に手入れされていました。拝殿後方の本殿域、自然石を組み上げ周囲を玉垣が囲っています。5本の鰹木と内削ぎの千木が施された神明造のようです。本殿域には他に2社祀られているようです。中央が本殿、天照大御神を祀る。左右の板宮造りの二社は手掛かりもなく詳細は不明。樹々の枝は上空を覆い境内は木陰で包まれていて、風の通りがいいせいか、蚊の襲来もなく心地いい。本殿域から二の鳥居方向の眺め。神明社全景。コンパクトな伽藍で人目を引き付ける派手な意匠もないけれど、氏子たちに支えられこの先も受け継がれていく事だろう。話は脱線するけれど、三河の山間部を訪れた時の事。荒れた参道の先で朽ち果てた小さな神社と出逢いました、朽ち果てた鳥居の先で村の老婆の姿があった。ただの朽ち果てた神社と見る向きもあるだろう。しかし拠り所として拝みに来る人がいる限り、神社は社格や立派な伽藍で評価されるものではないと常々思う。思いがありそこに祀られ、支える氏子やそれを拠り所とする人がいなくなると姿を消し思いも消えていく。なんだかなあ、単に社が無くなるだけではないような気がしてならない。2021/07/11名和町寝覚 「神明社」創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内2社 / 詳細不明所在地 / 東海市名和町寝覚43関連記事 / 氷上姉子神社
2021.07.18
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名鉄楽田駅から稲置街道を歩き始め、前回記載した稲置街道「犬山神社」をゴールとしていましたが、そこから犬山城の東を木曽川堤に向かい、木曽川を渡り鵜沼方向に向かいますもう一社参拝し、帰りは新鵜沼から家路に向かう事に。公園坂の赤い橋を越え左手に進むとその先は木曽川。堤を上流に向け歩いて行くとその先に木曽川に架かる犬山橋が見えてきます。2021/3/9この時期、河津桜が咲き誇り色合いが乏しかった風景に春の訪れを告げる。対岸の小高い山は鵜沼城址。橋の上から下流の眺め、左に国宝犬山城と対岸に伊木山城址、いずれの城も目と鼻の先。一目で互いの動きが捉えられる距離にあり、川を挟んで対立する際には戦略的にも重要な場所。木曽川沿いに御囲堤を築いたのも頷ける。ひと昔前の犬山橋は電車と車が並行して渡っていた恐怖の橋、今は分離され安心して通行できるように整備された。高山線の踏切を渡ると左に「金幣 村國眞墨田神社入口」の看板が見えてきます。かみさんは正面右の和菓子屋さん、おやじは村國眞墨田神社と別行動。県道27号線から線路沿いに左に進む、右手に立派な玉垣が見えてきます。今回参拝する最後の神社「村國眞墨田神社」です。社頭から境内の眺め、右手に「郷社 村國眞墨田神社」社号標、郷社の文字は埋められているようだ。1908年(明治41)健之の鳥居、その先の境内は奥行き、横幅共に余裕たっぷりの広さを持つ。鳥居扁額は「式内 眞墨田神社」鵜沼地区の産土神で、各務原市「金弊五社」(那珂手力雄神社、加佐美神社、村国神社、御井神社、村國眞墨田神社)の一つです。玉垣右に金弊社の石標がある。金弊社。明治初期、神社は県社、郷社、村社に格付けされましたが、戦後は全国の神社を一律、平等に扱うことになり、この制度は廃止されます。しかし岐阜県は社格が一律なのはおかしいということから金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類したもので岐阜県固有のものらしい。社格制度はともかく、各務原市鵜沼地区の産土神として人々から崇敬されている。 一の鳥居から見るこの姿に、長い歴史を誇る式内社として威厳が漂う。小振りで子犬の様な狛狐が守護する眞墨田稲荷神社鳥居をくぐった左に東向きに鎮座する。境内右に手水舎。舟の様な形の手水鉢は1823年(文政6)のもの。龍口からは絶え間なく清水が注がれていました。境内全景左から朱の鳥居は恵比寿大黒神社、右の明神鳥居が護国神社、その右の神明鳥居は金毘羅社、注連柱の先が千鳥破風が付く入母屋平入拝殿。境内はとても綺麗に掃き清められていた。境内で一際目立つ荒樫の御神木。元々は拝殿脇の杉の巨木が御神木だったが、昭和34年の伊勢湾台風で倒木、代わって樹齢600年と云われるこの樹が御神木に、老木ゆえに樹木医により数々の延命措置が講じられ現在の姿を保っている。天正十二年(1584)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた際に、許可を得て現在の場所に神社を遷宮したとのことです。金幣村国真墨田神社の御由緒当社の祭神は天之火明命 彦火火出見命 金山彦命 岡象女命 村国雄依の5柱である。社名の由来は南宮 真墨田 村国の組み合わせで美濃の南宮神社の系列で尾張の真清田神社と同系である。村国は飛鳥時代当地方を治めた村国氏の祖を祀ることでつけられたもので、この地に散在する古墳が村国氏にゆかりが深いことはよく之を物語っている。醍醐天皇の御代の延喜式神名帳には村国大明神と有り、天正12年までは南町部落郷倉にあった。戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね永正3年、時の城主大沢和泉守吉正の弟大沢治郎左衛門正継が出家の折り奉納した愛刀村正は現在神刀として保存されている。永禄10年鵜沼城は落城し織田領となり、天正12年小牧長久手の戦いに船頭がしら河村惣六は豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力、その功により馬5頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり、之を奉納し当社の宝物となっている。惣六は喜んで村中氏子の同意を得、現在地に神殿を造営奉遷し現在に到っている。一番古い棟札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である。拝殿前の警護担当。祭神は天之火明命、金山彦命、彦火火出見命、罔象女命、村国男依を祀る本殿は流造のようですが全容は捉えきれませんでした。創建時期は7世紀頃といわれ、美濃国各務郡を支配していた豪族村国氏が美濃国一宮の南宮大社の主神「金山彦命」と尾張国一宮の真清田神社の主神天火明命を合祀して創建したのが始まりのようです。村国男依は後に祭神として合祀されたようです。拝殿額は「稜威」と拝殿内の額は「金幣村國眞墨田神社」拝殿左に六末社(天満社、秋葉社、雨之宮社、山神社、洲原社、御鍬社)拝殿左に神明鳥居を構える社が金毘羅社。鳥居の先で本殿を守護する小さな狛犬は年期が入っていそうですが年号を見忘れました。恵比寿大黒神社一の鳥居(上)と一見するとニの鳥居に見える正面の鳥居は護国神社の鳥居(下)。恵比寿大黒神社の二の鳥居は参道左の朱の鳥居。護国神社本殿を先に参拝。本殿は神明造。参道左側の恵比寿大黒神社。左手は日露戦争記念碑。その並びに小社と霊神碑、御嶽神社だろうかか?上境内西側から社務所方向の眺め。境内右に神馬像がある。下社地西側の脇参道から境内の眺め。社頭の南はJRと名鉄の線路が横切り赤い電車が行き交う。鳥居から南を眺めると道の先には木曽川で隔てられているが犬山城の天守を一直線に眺めることが出来る。この眺めは岡崎の大樹寺山門から直線上に岡崎城が一望できる「ビスタライン」と似ている。「鵜沼ビスタライン」とでも命名しよう。金幣 村國眞墨田神社創建 / 不明祭神 / 天之火明命、金山彦命、彦火火出見命、罔象女命、村国男依境内社 / 六末社、護国神社、眞墨田稲荷神社、金毘羅社、恵比寿大黒神社、所在地 / 岐阜県各務原市鵜沼山崎町1丁目犬山神社より徒歩 / 県道27号線、犬山橋経由30分程公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線・各務原線新鵜沼駅より徒歩5分関連記事 / 稲置街道 「犬山神社」 『大樹寺』德川家発祥の地を訪ねる
2021.07.17
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春日井市柏井町「八幡社」過去に掲載した松新町の「八幡社」から車で北に5分程、国道19号線の南に当たり、勝川市立小学校の東に鎮座する神社。社頭は県道508号線の西の一方通行の道路に接しており、社地の西の通りに無料の参拝者駐車場があります。西側の通りから境内駐車場に車を停めさせてもらい、上の社頭に戻って境内を進むことにします。社頭より境内を眺める、下街道の北筋にあたり、以前は水田が広がっていたこの地域、今や田畑は消え住宅が広がり、その中に緑豊かな杜が残る、その姿はあたかも島の様です。社頭は南向きで、右側に「八幡社」の社号標、石の神明鳥居の先から参道は杜に消えていきます。鳥居の先に狛犬が一対。年号の確認はしていないけれど、苔むして緑色にそまった姿は貫禄が漂う。参道を守護する狛犬。参道は先で二手に別れ、左が駐車場、手水舎は右方向に進みます。右方向に進んだ左に社殿域が広がります。境内の由緒碑神社名 八幡社鎮座地 春日井市柏井町2-31-1祭神 / 品陀和気命(応神天皇) 、大帯日子游斯和気命(景行天皇)、建速須佐之男命、天照大神境内末社 / 天神社、秋葉社、津島社由緒当神社は、古くは下條村に鎮座せる柏井の庄、下条村、上条村、松河戸村、中切村の総鎮守であった。縁起書に寛文11年(1671)この地に遷座せりと記されてる。翌12年領主竹腰山城守(尾張藩城代家老)より年貢、使役の境内地除地を認められ、元禄12年(1699)の棟札に、各村からの寄付により社殿再建とある。明治40年供進使指定社となる。大正3年、字前田(現徳農地区)八幡社と字北(同地区)神明社を合祀。この神明社は享保12年(1727)八田与吉この地を開墾し、八田与吉新田と呼ぶ土地となる。この人野辺にあった当社を移し再建したとされる。手水舎ここから東に脇参道が続き、社地東の県道508号線に繋がっています。手水舎前に瓦葺の切妻、妻入りの建物、手前に蕃塀があり妻飾りや木鼻など意匠が施されている。よく分からない。社殿全景右の鳥居は境内社の天神社、秋葉社、津島社。そこから左が拝殿でそこから渡廊、社務所に繋がっている。杜に包まれた本殿は見通す事が出来ませんでした。石の明神鳥居の先に玉垣で囲われ、石垣が高く積まれた本殿域には社が二つ。神域右には可愛い表情の撫で牛とその先に小ぶりな狛犬が二社を守護している。本殿右が天神社、左の外削ぎの千木と5本の鰹木が施された社は津島社と秋葉社の相殿。拝殿全景瓦葺の切妻妻入り拝殿、木の色合いは落ち着いた趣の社殿に良くあっている。拝殿の妻飾りも派手さはないけれど手が掛けられています。拝殿内から本殿方向の眺め、コンクリート造りにはない温もりが漂う、奥の幣殿までは随分と奥行きがあるようです。社務所全景。当日は宮司をお見掛けすることは出来ずお話は聞けなかった。社務所左の奥に春日野部屋稽古場があり宿舎になっています。折しもこれを書いている時は大相撲名古屋場所が開かれています。今頃は幟も建ち、ここで稽古する力士や周辺でも力士の姿が見かけられることでしょう。県道508号線沿いの脇参道、県道沿いに玉垣が続き、その木々に包まれた東の高みに忠魂碑が建つ。県道508号線から見る忠魂碑、バス停の直ぐ後方にあり、移り変わるこの地の姿を見届けているようでもある。柏井町「八幡社」、古くは下条村、上条村、松河戸村、中切村一帯の総鎮守だったというだけに立派な社殿と社地を持つ神社だった。2021/5/22柏井町「八幡社」創建 / 不明祭神 / 品陀和気命(応神天皇)境内社 / 天神社、秋葉社、津島社所在地 / 春日井市柏井町2-31-1公共交通機関アクセス / JR勝川駅下車、北へ徒歩で15分程八幡社HP / http://kashiwai-hachimansha.com/sanpai.html関連記事 / 神明町の天王社 松新町の「八幡社」
2021.07.15
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名鉄小牧線楽田駅から稲置街道を歩き国宝犬山城までやってきた。今回は「犬山神社」参拝客の多い三光稲荷神社、猿田彦神社に対し「犬山神社」を訪れる方は意外に少ない。「三光稲荷神社」、「猿田彦神社」から西を見ると「犬山神社」の鳥居は見えています。社頭全景。右に社号標、ニノ鳥居まで構える立派な伽藍を持っています。鳥居左に由緒「祭神 犬山城主成瀬正成を始め歴代の城主並に明治維新以後の戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者を祀る神社。創建犬山城内にあった先祖の霊社を1717年(享保2)、犬山城第4代城主成瀬正幸が丸山新田東の洞、相生山(現 在のモンキーパーク近隣)に遷し相生の宮と称した。社は霊験あらたかな代々の祈願所だった。変遷 この地は犬山城主平岩主計頭親吉の松の丸、丸の屋の屋敷を1665年(寛文5)に移した西御殿があった。1869年(明治2)犬山藩主庁となったが、1875年(明治8)これを廃し土地を払下げ民有地とした。 1883年(明治16)相生の宮をこの地に遷して犬山神社に改称し村社とした。1720年(享保5)新田の内高百五十石を寄進された。 1948年(昭和23)承認を受け明治維新以後の戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者三七一柱を合祀した」犬山城は明治の廃藩置県で廃城となった後も取り壊される事無く存続し、1891年(明治24年)の濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れたため、城の修復を条件に1895年(明治28年)旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。 以後は城主であった成瀬家により2004年まで個人所有の文化財でしたが、後に財団法人設立に伴い個人の手から財団の所有となったようです。ニノ鳥居から境内の眺め。左に手水舎、正面に社殿、右手に境内社が祀られている。拝殿左にも祠(詳細は不明)があり、更に左側には砲弾が安置されている。入母屋瓦葺の妻入り拝殿です。社殿全景。拝殿から切妻平入の幣殿、そこから渡廊が本殿に繋がっています。境内左の砲弾。「忠魂碑」戦争で犠牲となった方々を英霊として称える目的で各地に建立されたもの。国や天皇への忠義心を高める目的もあり、戦争を大義とした思想が漂う日本の負の遺産として戦争を考える場所として残していかなければならないもの。拝殿右の社は「熱田社」、祭神は熱田大神。参拝させてもらいます。外削ぎの千木と5本の鰹木が施された本殿。犬山城の天守からの眺望を楽しんだ後はここ犬山神社へも足を向けるのも悪くはない。2021/03/29犬山神社祭神 / 成瀬正成以降の歴代犬山城城主、戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者371柱を祀る。創建 / 1717年(享保2)境内社 / 熱田社所在地 / 犬山市大字犬山字北古券12公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線犬山遊園駅より徒歩15分関連記事 / 稲置街道「三光稲荷神社」「猿田彦神社」
2021.07.14
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6/23~25にかけて戸隠で2連泊し戸隠神社5社巡ってきました。何十年ぶりかのキャンプでした。当時頻繁に行っていた頃のツールはビンテージものとなり、前準備でテント・メッシュタープ・ランタン等は点検・補修した、はずだった。実際想定外の事が起こるのがキャンプ、ガソリンランタンは事前点検でしっかりポンピングでき、安定して灯ったが、現地ではスカスカ(webでパッキンセットを手配中)で使い物にならなかった。撥水性が落ち、シームテープは劣化、縫製の目開き等のあるビンテージもののテント類では想像を超える雨量に太刀打ちできなかった。念のため持参したタープとブルーシートで事なきを得たけれど、使い慣れたテント、メッシュタープは完璧な防水性のあるタープとセットでなければバケツをひっくり返す雨には耐えられない事が分かった。良くて災害時用。自宅に戻り、予備として全く使用していなかったテントを引っ張り出し二~三日張りっぱなしで様子を見ることにした。組み方すら忘れてしまった予備のテントを組み、生地や撥水性、ポール等の機能確認をしてみた。フライシートの撥水性はそこそこあり、縫製部分も目開きはないようだ。内部のグランドシートも穴あきや劣化は見られない。フライシート裏のシームテープ、こりゃ駄目だ。2回程しか使った事がなかったが年月には勝てないようだ。生地だけはしっかりしているがテープは触ると割れてくる、テープを貼り替えれば使えそうだ。大事に保管しておいたトレッキングシューズを山で履き替え、歩き出したらソールがペラッと剥がれるようなものか。使ってなんぼかもしれない。インナーテントの縫製もしっかりしているようだ。ファスナー部分やメッシュ部分も綺麗なものだ、これで2~3日張りっぱなしで様子を見てみよう。テント内部のグランドシートが濡れなければ、フライシートのシームテープと撥水材を買い求めて安く抑える事ができるかもしれない。それにしてもテントはカラフルなのは良いけれど、縫製の少ないものがありがたい、出来れば一枚もの。どうしてもシームテープは弱い、補修も綺麗に剥がせないので地道な作業になる。家で眠るテント類がある方は一度張ってみるといいかもしれない。本音はもう少し小さ目のテントと同様のメッシュタープ、それら二つをカバーできる防水性の高い大きなタープが欲しいところですが使用頻度と懐具合を考えると見送らざるを得ない。ガソリンランタンのパッキン類とテープが届いたらリベンジキャンプしてみるか。関連記事 /、 久し振りのキャンプ計画 、久し振りのキャンプ計画 前準備 2 、 戸隠でキャンプしがてら5社巡り
2021.07.13
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あれだけ降った雨もしばらく晴れ間が続いたら 待ってましたとばかりに蝉が鳴き始めた目覚ましタイマー始動いよいよ梅雨明けも間近なようだ 体が溶けるような夏もそこに来ている
2021.07.12
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愛知県一宮市赤見 「赤見國玉神社」木曽三川公園の帰り道、名岐バイパス「朝日2丁目」交差点の東北角の店舗の東で出会った神社。バイパスからは店舗の影になり、直接神社の姿を見る事は出来ないけれど、たまたま社頭の前を通りがかり「赤見」と彫られた社号標を見て立ち寄ってみた。「赤見國玉」見慣れない社名ですが、偶然なのか地名まで赤見である。「春日山田赤見皇女」、仁賢天皇の皇女である春日山田皇女(山田赤見皇女)をお祀りする。地名の赤見もそこからきているのかもしれない。一説には鉄分の多い水を湧出し、酸化すると見た目は良くないが赤水になるけれど営みに利用されていたという。赤見はその赤水からきているともいう。國玉とは恐らくその土地そのものが人々を慈しむ神とみなした「國魂」からきていると思われます。尾張名所図解丹羽郡には大赤見村西方にあり本国帳の「従三位赤見國玉天神」と記載があり創建年代などは不明ですが、かなりの古社で室町時代には既に鎮座していたという。県道171号線から社頭の眺め。境内は南北に長く、社地の東側の一部に公園があり、東側の道筋に秋葉三尺坊が鎮座する。少し奥に石の神明鳥居と右に社号標。参道の先にはニノ鳥居と蕃塀もあるようです。訪れたのは5/28、参道には終盤を迎えたサツキが彩りを添えていました。杜は鬱蒼としたものではなく、見上げるような御神木はありません、陽射しや風の通りも良く明るい印象を与える。ニノ鳥居から見る境内、左に手水舎、正面に高さを控えた蕃塀を構えている。手水舎高さを控えた蕃塀の先に拝殿とその奥の幣殿が見通せる。拝殿左にも社号標が見える。瓦葺切妻屋根の拝殿は四方吹き抜け、手前で狛犬が守護する。拝殿正面からの眺め。厚化粧しない狛犬、好きなタイプです。一見シンプルに見える拝殿は良く見ていくと手が掛けられている。妻部分には睨みを利かせた龍や獅子など彫られ、飾りこそないが斗栱などしっかり作られている。参拝拝殿は全面格子天井。拝殿左は招魂社、地元から出征し亡くなられた方々が鎮まる。幣殿全景切妻平入のコンクリート製で格子の入ったガラスの引き戸が4面に付けられている。大きな自然石を組み上げその上にコンクリートの壁で囲われた本殿域が広がります。手前には石灯籠と自然石の台座の上に小振りながら味のある狛犬が守護している。本殿域後方から伽藍全体の眺め。本殿は神明造で6本の鰹木が施され、千木は内削ぎ、俗に言われる女神を祀るパターンになっている。それにしてもこの石組に使われている岩は、どれも立派なものが使われ贅沢なものです。拝殿後方から境内の眺め。二ノ鳥居から一ノ鳥居方向を眺める、正面の通りは県道171号線。左はニノ鳥居1900年(明治33)健之、右上の蕃塀は1915年(大正4)、右下の石灯籠の竿には天玉宮とある。社地東側の通りから境内の眺め、ここに脇参道があり道路沿いに社号標と秋葉三尺坊が鎮座しています。「村社 赤見國玉神社」の社号標と右奥の社が秋葉三尺坊。東向きに鎮座する秋葉三尺坊。創建等詳細は不明、本殿は板宮造り。右には歌碑があるが調べきれませんでした。赤見國玉神社創建 / 不明祭神 / 春日山田皇女(山田赤見皇女)境内社 / 招魂社、秋葉三尺坊所在地 / 愛知県一宮市赤見3-1-25関連記事 / 「138タワーパーク」 0528 part2 「不明社」 国営木曽三川公園 138タワーパーク 「お囲いロード沿いの不明社」
2021.07.10
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とんでもない雷と強烈な雨が降った一日でした嵐の前の静けさかだったのか今朝は晴れ間も出ていました最近全く出歩いていなかったので久しぶりに外に出て見た下は里山の草地で見かけた正体不明の喰えない面々肉厚の手のひらサイズでひょっとして「バターソテーで美味しそう?」見た目はいけそうでも「喰えない」確率の方が確実に高いくれぐれもそんな好奇心を満たすためにチャレンジするのはやめよう若い頃乗鞍のキャンプ場の管理人さんとキノコ採りに出かけ乗鞍の食べられるキノコを教えてもらった自生する場所やキノコの外観を写真に収めファイリングした事があった、既にそのファイルはなくなり画像もなくしてしまった。覚えているのは「同じキノコでも山が変わると色などが変わり、迂闊に手は出せない」地元の人ですらそう言っていた。熟知した地元の人と採りに行くしかない、素人が見つけた喰えそうは「喰えない」喰えないと云えば今朝の大臣発言や昨日からのガースーの朗読、進行役の「追加の質問」など「まったく喰えない」言葉が理解できない、質問する側もそうした人向けに要点だけにして明確な内容にする事が必要だ。あのやり取り、あなたの会社で通用するだろうか? 即刻「誰か代われ!」だろう重要な決断・意思決定も出来ない、外交のコミュニケーション能力も下手なリーダーを持った我々は不幸であり恥ずかしいとしか言えない雨が多い年は毒キノコも多く生えてきます、危ないものは喰ってはいけない。
2021.07.09
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名古屋市南区源兵衛町1-21名鉄常滑線「柴田」で下車、東の大きな通りは国道247号線。そこから右方向の天白川右岸の堤防道路を上流に向かえば堤防沿いに鎮座する三吉稲荷大明神までは歩いて10分もかからない。現在、堤防道路は整備中、それにより神社までは通行出来そうですがそこから上流は封鎖されています。近隣には国道沿いに柴田「稲荷神社」、対岸には「八幡社」、神社から上流に向かえば「須佐之男社」など鎮座しています。堤防脇には駐車余地があり、ここまでなら車で訪れる事は出来そうです。左が天白川、そこに架かる橋は千鳥橋、古くから新田開発で開かれた地域、伊勢湾台風では大きな被害を受けた地域でもある。生命線でもある巨大な堤防の上に目的地「三吉稲荷大明神」が鎮座しています。所在地は柴田町ではなく源兵衛町になります。1706年(宝永3)、大山屋二代目の神戸文左衛門より資金融資を受けた山口源兵衛により開かれた地域、町名の由来はここから来ていると思われます。新田として開かれた土地は今では住宅地に変貌、この巨大なコンクリート堤防に守られ、普段の生活では過去の悲惨な歴史や生い立ちの面影は感じられないけれど、標高は1㍍に満たない事だけは間違いない。神社は堤防上の東西に細長い社地が与えられていて、社頭は東(上流側)になります。社頭と対面するように青峯山観音堂が祀られています。そこから対岸の東海市を見ると緑の森が視界に入ります、名和町新屋敷の「八幡社」は目の前。三吉稲荷大明神の全景。手前に1936年(昭和11)健之の社号標と手水鉢。稲荷鳥居が連なり、その中ほどに石の鳥居、本殿は更に右奥。石の鳥居は1957年(昭和32)と刻まれていた、伊勢湾台風が1959年なのでそれ以前よりここに鎮座する様だ。過去の年代別の地図から創建時期を調べて見るも、そもそも表記されていなかった。恐らくは周辺の開発によりこの地に遷座されたものでしょうが詳細は分からなかった。1936年(昭和11)健之の社号標は妙に綺麗だ、手前の手水鉢の年号は見過ごしてしまった。社頭から本殿の眺め。社頭左に地元出身者の石碑が並ぶ。小さな稲荷社でありながら、奉納鳥居は意外に多く、本殿まで続いている。地元からの崇敬は厚いようです、この中ほどに石鳥居がある。本殿域。手前の狛狐は1962年(昭和37)、そこから一段盛られた上に本殿が祀られている。狛狐眉間のシワなど細部まで彫が施され表情にリアリティーがあり、肉付きも良くイケメンの狐だ。三吉稲荷大明神祭神は倉稲魂命。創建などの詳細は不明。参拝を終えて対面する青峯山観音堂へ。青峯山観音堂この観音堂の詳細も分からなかった。青峰山は三重県鳥羽市松尾から志摩市磯部にまたがる標高336㍍の山、青峯山には複数の堂宇が点在し山頂に真言宗の古刹山頂には正福寺がある。標高は低いけれど、伊勢湾や遠州灘、熊野灘からも見通せた事から、古くから沖合いを航海する船舶の目印とされ、航海の安全祈願、海を生業とする海女や漁師から崇敬されているという。そうした事から鯨の背に乗った黄金の観音様が安置されているという。堂内の観音像。年号までは写真では読み取れなかった。青峯山観音堂北側から天白川、名和町新屋敷の「八幡社」方向。強固な堤防の上から観音の見つめる先は三吉稲荷大明神か、はたまた河口を見守っているのかナ。2021/07/04三吉稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命青峯山観音堂建立 / 不明所在地 / 名古屋市南区源兵衛町1-21関連記事 / 須佐之男社 、柴田「稲荷神社」、東海市「八幡神社」
2021.07.08
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6/23~25日戸隠へキャンプ目的で出かける機会ありました。そこで長野県の酒を土産用で何本か買い求めてきましたが、下のお酒(リキュール)が印象に残ったので記載しておくことにします。信乃大地黒姫高原ヨーグルトのお酒酒蔵は高橋助作酒造店(HP/http://www.matsuwo.co.jp/)かみさんが魅かれて買ったものですが、家で開封し味わってみたところ、ワインで云えばデザートワイン感覚。しっかり濃厚なヨーグルトの風味を持ちながら、それでいて酒の風味が残り女性には好まれる嗜好性のお酒だった。見た目がとぶろくや濁りの感覚ですが、飲むと西洋の風味が広がる、それでいて上品で程よいさっぱりとした甘みがあり不思議に美味しいお酒だ。初物は大概300mlの小瓶で買い求め、気に入れば後に地元かwebで購入するけれど、今回は少し後悔している、どうも大規模に流通していないようだ、こんなんなら一升瓶で買えばよかった。とはいえ初物一升瓶買いで何度外した事か、現在メーカーに地元取り扱い店舗の有無、直送の可否を問い合わせているけれど難しそうだ。webを調べて見ると「ふるさと納税」のパッケージに含まれていた。(楽天市場 長野野県信濃町ふるさと納税)このお酒が何に会うかと云うと正直よく分からないが、クイックイ飲めてしまうところが怖いかもしれない。高橋助作酒造店は長野県上水内郡信濃町にあり、創業は1875年、「松尾」を醸す酒造会社で戸隠神社にも多数奉納されていました。黒姫高原の生乳から作られた新鮮な100%ヨーグルトと、長野県産の酒米美山錦から造られ、酵素など添加しない手造りの純米酒を使用しています。種類の区分はリキュール、アルコール度数は5度から6度未満価格は一升が3,280円、720mlで1,650 円、300mlで695円
2021.07.07
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2021/7/18エコキュート入替工事、結局はハウスメーカーの取引先に依頼し工事も終わり、請求書を待つばかりとなった。暫定見積は以下の内容大金さんのサービスマンから聞いていた相場の価格帯だったので安い見積りもあったがハウスメーカーとの顔つなぎを考慮して決めた。助成金もなく、安い買い物ではなかった。さて見積りを見る、相変わらず定価と販売価格に開きのある事。オープン価格という事でユーザーはとても得した気にはなる、実際のところ卸価格はいくらなのか実態がさっぱり見えてこない。消費者にとって商品選択の際の具体的な価格相場の目安が付けにくいだけで、小売店側の価格を実勢と照らす労力が必要となる。相場は良く6掛けと云われるが、この見積りや巷の価格は一体なんだろう。製造原価の元値はいくらなんだ、小売店の利幅はどれくらいなのか怪しい世界だ。因みに価格COMの平均価格が240,000円前後、webで見かける同型機種の見積りが以下となる。もっと安く販売している、それらは一部に何か交換すると別途〃で値が張ってくる。我家の見積りでもそれはある、全てが工事費と云う形で盛り込まれてくる。限られた予算の会社の中でこの見積りが出てくれば値引き価格、工事費は即刻見直しをさせるところ。ましてやかみさんと業者間での見積り対応、女性は言い値で受け入れやすい。「元値は幾らなんだろうね」と一声で千単位の金額がなくなった。ネゴは恥ずかしいものでもなく、お互いの妥協点を見出す作業だと思っているし、この探り合いも楽しみの一つだと思っています。今回の業者好意的に対応してくれ、丁寧に仕事をしてくれたし、ハウスメーカーの取り分も考えてこれで良しとしよう。安いものに手を出すと、いざという時に迅速な対応はしてもらえない。それは過去の台風で家の屋根瓦が被害を受けた時の事。以前の家は知り合いの工務店で建ててもらった、高齢に伴い廃業した後の為、修理先がなかなか見つからない、見つかっても顧客が優先され修理に時間がかかった苦い経験がある。どこが着地点となるのか、消費者にとっては買う前の楽しみかもしれないが、値段だけで手にすると意外な落とし穴があるかもしれない。今回のこの結果、同じ思いをする方の一つの妥協点として参考になれば幸いかも知れない。言えるのは10年保証もいいけれど10年後存在する会社である事、ネゴを相談してみる事、施工中はたまには見る事。それにしても夏でよかった。2021/7/72005年製の大金エコキュートついに天命を全うしたそもそも10年交換を推奨するメーカー、2018年にエラーコード「J3」が頻発して出るようになり、本体電源を落としリセットしながら半年、結果サーミスタの故障でメーカー出張修理を依頼。その際にそろそろ更新しなければとメーカーからも推奨されていた。しかし人は目の前の課題が無くなると当然の様にそのことを忘れるもの。あれから3年かみさんから「悲しいお知らせ」という事で見せてもらったのがエコキュートの操作パネルそこには「警報」とエラーコード「C72」が表示されている。その前にエラーコード「U0」が表示されていたらしい。一度電源をOFFにして再度電源投入すると「U0」は消え、代わりに「C72」が表示されるようになる。「C72」はタンクのある本体側に着く三方切替バルブの故障信号らしい、メーカーに問い合わせると「C72」より最初に出た「U0」が致命的らしい。「「U0」が出たら交換しましょうね」と軽く答えが返ってきた。所謂ガス漏れ、密閉されていた冷媒ガスの漏れによるものらしい。ならば漏洩ヶ所の部品交換と冷媒補充で復活だ。・・・・・素人考えでそう目論んだがエコキュートはそうした仕様で作られていないそうだ。現在の表示は三方弁エラーの「C72」のコードが出ている、三方弁を交換すればこのエラーは消えるだろうと質問すると、これが消えても恐らく「U0(もう交換)」が再び表示されるだろうとの事。「パソコン繋いで幾つエラーが出ているのか吸いだして分かるのでは」と聞くもそうした機能はないのだそうだ。という事はひたすら表示されるエラーを消すため部品を交換する事になる。そのゴールが「U0(もう交換)」が出れば交換部品そのものが無駄となる。この辺りのモニタリング機能は要改善の余地がある。メーカー交換推奨を越えた設備、あの時交換も考えただけに潔く引退してもらう事にしよう。ひとまず、ハウスメーカーを通し設備メーカーに見積依頼、そしてもう一社CMで見かける評判の宜しくない業者に見積は依頼した。取り敢えずハウスメーカーなら巷で耳にする悪質な商売はしないだろう。幾らかかるものか、懐が心配なところだが、あの時動かなかった当然の結果だ。それにしても悪い時期に重なったものだ、世の中半導体不足で車の生産ラインは止まり、些細なものまで「半導体が無くて・・・・・」と一言目には出てくる。大国の采配や国内工場の火災で直ぐ身近に影響が出てしまう。これが食糧であったなら、ぞっとするがそんな国だ。貯湯量は少ない、適時設備が見つかればいいが、下手すれば水風呂だ、救いは夏だった事か。コロナで封印していた銭湯通いが始まりそうだ。それにしてもたった一回の「U0(もう交換)」で逝ってしまうとは。16年も動いて来たんだから、逝くときはそんなものか。・・・・・風呂に浸かりたい。2018/02/20ここ数年は1年に一回の頻度で出ていたアラーム「J3」 こいつの一時対応は本体ブレーカーのON⇒OFFで一時復旧するので厄介だ 頻度は半年に一回に変わり、毎月⇒毎週、今年に入りほぼ毎日アラームが出るようになった 初めてエラーが出る状況を目の当たりにした こいつは不調ケ所がさっぱり分からない 意地になって夜中に屋外で調べていたのが最大の要因だろう 脱力感から始まり、節々の傷み、ついには指の関節まで動かせなくなった、風邪だ エコQはこの間も相変らず「ピィ~~」という音と共に毎日エラー表示とお知らせが出る このエラー出ると湯を作らなくなる 量が少ない状態で昼間に一時復旧させると契約電力に関係なく貯湯動作となり、湯量グラフはあがるが かみさんの眼は三角になっていく 大概のものは楽しんで自分で修理してきましたが今回はもうギブです 基盤交換か、10年タイマー(そんなものはないが)をリセットするのか知らないが 専門家に任せる事に決め、考えないことにした「ピィ~~」はもう聞きたくない 毎日使う設備なのだから10年タイマー?があるとしたら、それいらないでしょう? J3アラーム厄介な奴だ どこが悪いのか自己診断で教えて欲しいものだ おっさん? 風邪の影響で腰と指の関節に痛みが伴い 「体力年齢リセットJ3」アラームが出ている 2018/02/22大金エコQ「エラーコードJ3」どうにも面倒なのでついにメーカー修理依頼若いお兄さんがやってきた交換内容を遠目に見ていたら、「エラーコードJ3」はブレーカーのある本体側に故障がある訳ではなく本体の横にあるエアコンで言えば室外機側の様でした狭い隙間に設置された室外機の外カバーを外し、ファンの右側あたりから下の吐出サーミスタを取り外す10年以上使用し取り外した吐出サーミスタ(湯温センサー)、被膜も汚れています交換用サーミスタ「J3」アラームの要因はリード線とセンサーを繋ぎ、密封する○部分の密封材に穴が開き センサー内に湯が入り込むことで湯音コントロールが出来なくなるもののようです密封方法がこんな構造なんですね、意外にシンプル こうした部品、単価は安いんだよね お兄さんに聞いてみたQ.「部品設計寿命はどんなもんだろうね?」 ユーザーとしては10年の耐久性は欲しいよねA.「5~6年くらいでしょうか、良くもった方ですよ」Q.エラーコードから交換部品の選定・公開や部品販売なんかしてくれるといいのにA.「ダメ」 そうですか、狭いところでお疲れ様でしたね 作業時間は運転確認含め90分 頂いた修理代は上の金額、部品代470円、そんなもんだわナ作業費・出張費はつきものだけに、もう少し部品寿命と構造しっかりしてもらって、10年安心にしてもらえるとユーザーは嬉しいよね ここ数年ごまかしながらJ3と付き合ってきたけれど、やっと解放されると思えばこの金額許せるか? エアコンの室内温度センサー交換した時はメーカー部品販売が確か2.3千円していた事を思えば安い!それにしても明細は見ない方がいいよね
2021.07.07
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前回掲載した針綱神社、その写真の中にも映り込んでいた赤い社殿。今回は「三光稲荷神社」とその西に鎮座する「猿田彦神社」を掲載します。「三光稲荷神社」と「猿田彦神社」は針綱神社の西に隣接しており、三光稲荷神社の社地に猿田彦神社が鎮座しています、こうしてみると三社が一つの様に見えますが其々は独立しているらしい。とはいえ、三社は参道で繋がり閉鎖的な感覚は感じられません。本町通から針綱神社の鳥居を左に進むと隣接するように三光稲荷神社の社頭。神仏習合で三光寺とも称したが、明治の神仏分離により三光稲荷神社に改称した。拝殿までは緩やかな石段を上った正面にあり、途中に手水舎、銭洗い神社、猿田彦神社があります。銭洗稲荷神社神水でお金を洗うと増えて戻ってくるとされ、清浄した福銭を持っているだけで一家繁盛、子孫長久になるとされる。社務所で受付しているようです。猿田彦神社千社札がいっぱい貼られた拝殿みちひらきの神 猿田彦大神を祀り、建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、多くの御神徳を与えてくれる。猿田彦神社左に二社右手が山之神。左の虫鹿子守神馴染みがなくよく分からない、三匹の虫から守ってくれるのだろうか。三光稲荷神社拝殿から本殿方向の眺め。本町通りを進むカップルの大半は正面の針綱神社ではなく三光稲荷神社に向かっていきます。右の稲荷鳥居を進めば犬山城登城道に繋がっています。三光稲荷神社の創建は定かではなく、1586年(天正14)の伝承もあるようです。もともとは社頭を西側に進んだ丸の内緑地公園(三狐寺山)に鎮座していたという。古くは信長の叔父織田信康に崇敬され、後に犬山城主成瀬家の守護神と崇敬を受け、天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全の祈願を祈願し数々の神宝が寄進されたという。1964年(昭和39)…?、東京五輪の年に現在の地に移築されたようです。近年は良縁や恋愛成就の祈願に訪れる女性やカップルのスポットになっているようで、境内にはハート型の絵馬で溢れている。拝殿上に掲げられた奉納額に描かれた狐は、普段見かけるきつい表情とは違い、微笑ましい表情で見つめあう姿は願掛けに訪れる方の目指す姿が現れている気がする。……そんな頃もあったもんだ。一人より二人がいい、がんばれ。祭神は宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神。拝殿右に安置される「風輦神輿」由来は犬山城の北を流れる木曽川、その下流の葉栗郡北方村の住民らにより制作奉納されたもので1880年(明治13)に三光稲荷神社に奉納された。1989年(平成元年)に塗装等修復の手が入れられた事もあり、神輿は美しい黄金色に輝いていた。拝殿右に西向きの社が二社あります。ここにはピンクのハート絵馬が一杯かけられている、写真は右手の社で「三狐地稲荷神社」その左は「御縁の松と女陰石」解説は以下「三狐地稲荷社御縁の松と女陰石御縁の松は、当社御祭神大宮女神歌舞、音楽の御祖神の御神慮により、遥か5㌔東南の地に吾が神霊をもって、育てられしものなり。のち此の神庭に移して、あまねく諸人の幸なる良縁・諸願成就を叶え給わる神木をして祭られり女陰石は、この御縁の松の御導きにより、良縁を得られし信者が、さらなる子宝と安産を誓願するために奉献されたもの。女陰は神秘にして且つ崇高なり。よって皆様方、この御神木を仰ぎ御霊石に触れられいただき、心を込めて御祈願されんことをお伝えします」左の椥の樹は古くから縁結びに御利益があり、椥(ナギ)の葉を鏡台の引き出しに忍ばせておけば思う人と結ばれ、財布に入れておけばお金の縁が切れないと言われている。姫亀神社祭神は大宮女大神、男女良縁・家内円満・夫婦和合の御神徳があるという。境内は金運、恋愛、安産などのテーマパークのようだ。三光稲荷神社本殿稲荷鳥居の辺りに来ると流造の本殿が見られる。稲荷鳥居を抜け登城道から見る三光稲荷神社。赤い鳥居と背後にピンクの♡型の絵馬、映え写真の撮影スポットのようですね。右の社号標は「三光神山稲荷神社」とある、年号を見忘れました。その後方の鳥居と社号標は「三光稲荷奥の院」で、本殿域には小さな社が鎮座しています。犬山城登城道から見る三光稲荷神社。ここを登れば針綱神社拝殿を右に見て国宝犬山城に続きます。この登城道には岩坂門、黒門、松の丸門、矢来門、中御門等の礎石が残り、小さな犬山城ですが防御は固かったようです。城の北側の断崖絶壁にも木曽川に続く門が築かれたようです。それらの門の一部は一宮市の徳林寺、扶桑町の専修院、犬山市内の常満寺などの山門として移築され現存しているという。今回は城には寄らず、登城道を下って猿田彦神社の西に向かいます。中御門から西に進むと展望が広がる。断崖の上に建つ犬山城と下を流れる木曽川、北側からは攻めたくない立地です。西方向の眺め、左手に見える社殿は「犬山神社」道路の先に見える森が丸の内緑地公園(三狐寺山)、嘗ての三光稲荷神社の鎮座地。2021/3/9「三光稲荷神社」創建 / 不明祭神 / 宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神境内社 / 三狐地稲荷神社、姫亀神社、銭洗い稲荷神社、三光稲荷奥の院「猿田彦神社」創建 / 不明祭神 / 猿田彦大神境内社 / 山之神、虫鹿子守神所在地 / 犬山市北古券65-18公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「犬山遊園」下車、西へ徒歩15分程関連記事 / 針綱神社
2021.07.06
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春日井市松新町5丁目「八幡社」以前は春日井市松河戸の一部だったが、1948年(昭和23)に現在の春日井市松新町として成立した町。神社の鎮座する場所はJR中央線勝川駅から南東、徒歩3分程の場所にある。周囲は西に駐車場、北にJRの高架が続き、それ以外は余裕を持って住宅が立ち並ぶ。名古屋市内に比べると随分と空間に余裕が感じられる。それほど縁のある場所ではないけれど、過去の記憶とは程遠く随分綺麗な街並みだ。写真は八幡社の南東角からの眺め。右手の建物は社地に立つ松新集会所、社頭はその西になります。空の広い街並みが広がる一帯にあって、今では目立つ存在になった杜が残っています。すぐ西には松新公園もあり、子供らの遊び場には事欠かない、境内を冒険する事もなさそうだ。上は1891年頃の当地、下街道沿いに集落ができ、古くから人が住み農業が営まれてきた。神社は下街道の南に位置しています。松新の「八幡社」の創建は古く、1799年(寛政11)にまで遡るという。創建以来200年以上この地の移り変わりを見てきた神社で、松新町の氏神様として代々受け継がれてきた。社頭から境内の眺め。こんもりとした杜に包まれた南北に長い社地を持ち、石の神明鳥居と右に社号標「八幡社」が建つ。なんだろう、よく街中で見かける、民家に囲われて肩身の狭そうな佇まいとは違う。隣が駐車場という事もあるのだろう、何か解放感を感じる趣だ。鳥居の先にはコンクリートの蕃塀があり、拝殿から先の様子は蕃塀がしっかりと目隠ししている。蕃塀先から拝殿と本殿方向の眺め。右手の建物はよくわからないが祭礼で使う備品倉庫だろうか。境内右からの眺め。拝殿前で小ぶりな狛犬が拝殿、本殿を守護しています。左奥に見慣れない塔のようなものがある。1918年(大正7)奉納の狛犬、変に彩色されていないので個人的には好きなタイプ。拝殿四方吹き抜けで瓦葺の妻入り拝殿。外観は派手な飾りを廃した素朴なもので、それが軒下の彫を引き立たせている。見落としているかもしれないけれど、扁額は掛けられていなかった。拝殿から本殿の眺め。祭神は応神天皇、菊理姫之命、須佐之男命、大山津見之命とされ、末社として昭和18年に町内の戦死者を祀る碑がある。2006年(平成18)伽藍の改修が行われているようで、朽ちてしまい痛々しい姿はありません。では参拝させて頂きます。最近どこに行っても鈴紐は下がっていないことが多い、ここも例外ではない。存在に気が付いて頂けているのか、近頃拍手をやたら強く打つ習慣になった気がする。本殿全景丸い石を積み上げて盛られた本殿域は玉垣で囲われ、神明造の社が祀られている。鰹木は五本で千木の削ぎは水平です。本殿右の巨木、しっかり見なかったけれどこの木肌から恐らく楠か、その枝ぶりのいいこと。本殿域の上を覆うような勢いがある、比較的広い境内、好きなように成長させ、町のシンボルツリーとしてありかもしれない。気になっていた塔、どうやらこれは以前の玉垣を積んだものだろうか。町の氏神様はそこに住む氏子たちあってなんぼのもの、過去の先人の志を大切に残していく、この町の思いが伝わってくる。神社はその町の住民同士の結びつきにも重要な役割をもっているようだ。我が町からとうの昔に消えてしまったものだ。2021/5/22八幡社創建 / 1799年(寛政11)祭神 / 品陀和気命(応神天皇)所在地 / 春日井市松新町5 公共交通機関アクセス / JR中央線勝川駅下車、南口から徒歩数分、杜が目印。
2021.07.03
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早いもので7月手ごわいコロナと煮え切らないガースーのリーダーシップ、取り巻きの古老たちに振り回され、学びと実りのない半年を過ごした気がしてならない、それに対し自然は粛々とやるべき事をこなしている写真は庭で見かけた油蝉の抜け殻、今年最初に見かけた初物の抜け殻だ今年はウグイスの目覚ましもほとんど鳴らなかった、セミの目覚ましタイマーは健在のようだ街中の猫の額のような小さな庭の地中で何年もじっと過ごし、満を持して地上に這い上がり羽化する以前に比べ羽化する量は減ってきている気がするやたらとカラスが増えたこともあるのだろうか、抜け殻の主は無事に羽ばたいて行けただろうか地中の長い生活に比べ、1か月もせず命を全うする、輝く時期は短いよねそしていい相手に巡り合い、種を残す、目的はシンプルだこの梅雨が開ければきっと騒がしくなるのだろうそれとてカラスの鳴き声で目覚めるよりましだ少しの間、長年の憂さ晴らしにつきあってやろうコロナ禍で我々が感じるものの憂さ晴らしはどこで晴らせるのだろうかオリンピック? いやぁ、それは違うような気がする選挙? ピタッと半々で割れた抜け殻の様にした方がいいのかもしれないが楽しみではないな日々の憂さを晴らしてくれているのはオータニさんの活躍だ何をやるのか毎日楽しみだ、楽しんでプレーする姿もとても清々しい怪我無く楽しんでプレーしてほしいものだそれが今のおやじの楽しみかもしれない
2021.07.02
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越中國、能登國、加賀國一之宮を車中泊で巡ってきましたが、今回の加賀國一之宮白山比咩神社で終わりとなります。前回掲載した能登國一之宮「氣田大社」から、車で1時間30分程度の移動時間で石川県白山市の白山比咩神社に到着する事が出来ます。白山比咩神社花の山として知られる霊峰白山を御神体とする、全国3000余社の白山神社の総本宮であり、加賀國一之宮として古来より崇敬されてきた神社です。白山比咩神社の参道は、県道103号線沿いに大きな駐車場を備えた北参道と南参道、そして手取川沿いから続く表参道の三か所があります。写真は表参道の一ノ鳥居。神域の玄関にあたり、そこに構えられた石造りの明神鳥居は、1936年(昭和11)に建てられたもの。もともと白山比咩神社には長らく鳥居がなかったそうで、白山七不思議のひとつと云われていました。鳥居を過ぎた参道脇に由緒書き。「白山本宮 加賀一之宮白山比咩神社御祭神 白山比咩大神(菊理媛神)、伊弉冉尊、伊弉諾尊当社は霊峰白山を御神体として生きとし生けるものの「いのち」の祖神である白山比咩大神をお祀りした事に始まる。神祠の創建は崇神天皇の七年(紀元前91年)と伝えられる延喜式内の名社である。古来「下白山」と称えられた当社は現在「白山本宮」「加賀一ノ宮」として仰がれ「白山さん」として親しまれる北陸鎮護の大社。旧社地は北陸鉄道加賀一ノ宮駅前の古宮公園の安久濤の森だが文明12年(1480年)大火により四十有余の堂塔伽藍を焼失。その後は末社三宮神社の境内の現在地に遷座、本宮鎮座の地として現在に至る。明治維新の後「白山天嶺」を奥宮「下白山」を本社として「国幣中社」となるが、終戦後の今日は全国三千有余を数える白山神社の総本社として「白山信仰」の中心として家内安全・延命長寿・五穀豊穣・大漁満足・商売繁盛・交通安全・縁結びなど広大なる御神徳を仰がれている。白山奥宮は1,700㌶の境内を中心とする国立公園白山は春山・夏山・秋山とし5月から10月までの6か月間登拝のため開山されます」霊峰白山へは加賀・越前・美濃の3国それぞれから山頂に至る禅定道があり、加賀禅定道(白山比咩神社)、美濃禅定道(長瀧白山神社)、越前禅定道(平泉寺白山神社)と呼ばれ、それらは三馬場として栄えたがいずれも神仏分離により衰退していった。上そこから先の参道は杉や欅、楓などの杜に包まれた表参道が続き、中ほどには琵琶瀧などあり「水」の豊かさを感じることが出来ます。下ニノ鳥居前から一の鳥居方向の眺め、右手に続く石段は北参道へと続きます。ニノ鳥居と手水舎。目の前の石段を登ると境内に繋がります。右手は杉が生い茂り、切れ堕ちるような斜面が手取川に向かって続いています。自然石を積み上げた手水鉢、正面の龍口からは絶え間なく水が湧きだし、森の豊かさを感じさせる。この空間は参道を登って火照った体に一時の清涼感を与えてくれる。ニノ鳥居から最後の石段を眺める。周囲の緑に溶け込み存在感を感じないけれど、狛犬もいる。どちらも山の斜面の過酷な場所に台座が作られ、その上に苔むして緑色になった小さな狛犬が見つめている。奉納年度は不明です。三ノ鳥居ここからは平坦となり左の神門の先に境内が広がり、神門の手前を左に進むと北参道を経て、北駐車場に続きます。神門の傍らに社が見える。荒御前神社神門の傍らに鎮座する境内摂社の荒御前大神。一見社流造の社には荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の四神が祀られています。荒御前大神は『日本書記』の中で、神功皇后の朝鮮半島出兵の際、それを守護する神として登場します。三間八脚の神門に神馬舎が繋がり、左手に北参道に繋がる玉垣門へ続く。神門から眺める外拝殿。神馬舎神門右にあり白山麓の大欅を素材にして作られた神馬が安置されています。均整の取れた神馬は絢爛豪華な装飾が施され、白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる。白山比咩神社拝殿から本殿方向の全景。切妻造りの平入、檜造りの優美な姿の外拝殿の破風屋根と後方の妻入りの直会殿の屋根が見せる曲線は綺麗なものがあります。もとは、1920年(大正9)に建てられた旧拝殿、1982年(昭和57)の増改築で外拝殿になりました。その後ろに、直会殿、拝殿、幣殿、本殿までが一直線に並びます、本殿の姿は窺えない。拝殿前の狛犬から社務所方向の眺め。拝殿前を守護する狛犬は角付きで逞しいシルエットをしています。外拝殿唐破風向拝。大きな注連縄が吊るされ、木組みには派手な飾りや彫は施されていないシンプルなもの。拝殿扁額と下は拝殿から幣殿の眺め。神紋は「三子持亀甲瓜花」、このご神紋の意味は「生命がますます栄えるめでたさを象徴し、家運長久・子孫繁栄・神人和楽のしるし」とされるようです。拝殿と幣殿は一体化し、本殿へは30段の木階登廊で結ばれているという。ご祭神の白山比咩大神(菊理媛尊)を祀る本殿は、江戸時代の1770年(明和7)、加賀藩10代藩主前田重教の寄進によって造営されたもの。加賀禅定道として栄えるが、室町時代中期以降は一向一揆により一時衰退しましたが、信長によりそれらが一掃され、領主となった前田家から厚く庇護され、江戸時代に入り加賀藩主となった前田家からも引き続き庇護を受け栄えたという。それも明治の神仏分離令と修験道廃止令の執行に伴い、別当寺院だった白山寺は廃寺となり、他の馬場同様の道を辿り、社号も白山比咩神社へ改めた。手前の遊神殿から社務所方向の眺め。白山奥宮遥拝所神門をくぐり右に鎮座し、遠く離れた険しい白山山頂の奥宮を拝む遥拝所。鳥居の先に注連縄が架けられた大きな岩は、「白山三山」大汝峰、御前峰、別山の形をしているという。毎月1日と15日の月次祭(つきなみさい)では、神職による遥拝が行われるそうだ。左手の参道を進むと南参道、住吉社、禊場などを経て南駐車場に繋がっている。鳥居右の「白山奥宮遥拝所」の石標。この先に白山が聳え、白山を登ることなく奥宮に参拝できる。眼下には水の恵みをもたらす手取川の流れが望める。参拝を終え神門から右に進み北参道に向かいます。玉垣門をくぐり杉の巨木に包まれた石畳の参道を進む。社務所全景。フラットな参道は巨木の杜が作る木陰が広がり静寂な空間が広がる。古い株は苔むし、その上から新たな命が芽吹いている、自然の循環は力強い。参道脇の句碑。1689年(元禄2)に、松尾芭蕉が奥の細道への道すがら、北陸の中天に聳える白山の姿に感銘を受けて詠んだ句が刻まれ、建立は1961年(昭和36)。『風かをる 越しの白嶺を 国の華 翁』北参道車祓所と手水舎。県道に隣接する北駐車場が現在の主要な参拝道なのだろう、切妻の大きなもの。新しいもので龍の姿はありません、その代わりに欄間には細かな龍の彫飾りが施され、木鼻の飾りと共に視線を引き付ける。北参道の大鳥居で守護する狛犬。こちらも角を持ち、鼻に特徴的がある。北参道大鳥居脇の「触穢の所」と社号標。参拝前に喪や出産の穢れを自らお祓いする場所。作法は1、一礼し扉を開く、2.二礼二拍手し中の祓詞を唱える、3.二拍手二礼、4.祓い串で自らを祓い清める、5.塩で自らを祓う、6.扉を閉じて一礼する。社号標は「国幣中社 白山比咩神社」とあり1893年(明治26)の健之。北参道大鳥居。北参道駐車場からなら足元の心配なく容易に参拝が出来る。境外社 河濯尊大権現堂北駐車場の西隣に鎮座し祭神は河濯尊(かはすそん)を祀る。天明時代から続くようで、以前は神社の地内の参道脇に鎮座していたという。明治の頃に2回の火難に遇い、以降は現在の地に祀られたようです。堂内には泰澄大師作と伝わる石仏が安置されており、難病、病魔退散、下半身の病に御利益があるという。堂内には「仏様のことば」が記されていて、一読すると感じるものがあるかもしれない。「お前の人生は、悪くもなければ良くもない、お前にとって丁度よい、地獄へ行こうと極楽へ行こうと行ったところが丁度よい・・・死ぬ日月さえも丁度よい・・・」北駐車場の白山手取川ジオパークの解説板。若い頃に手取川へ大きな岩魚を求め相棒と良く出かけていた、豊かな水と自然に包まれ、自然の息吹を感じる噴泉塔もあり白山の恵みの豊かさを体感できた。行きたい気持ちは十分あるけれど、気持ちと体力は別物だ、何より頼もしかった相棒もいない。今は、当時見向きもしなかった神社を参拝して回るのが「丁度よい」のかもしれない。加賀國一之宮白山比咩(しらやまひめ)神社主祭神 / 白山比咩大神、伊邪那岐尊、伊弉冉尊創建 / (伝)第10代崇神天皇年間境内摂社 / 荒御前神社境外社 / 河濯尊大権現堂境外飛地摂社 / 水戸明神(未訪問)境内末社 / 住吉社(未訪問)所在地 / 石川県白山市三宮町ニ105-1氣田大社から車アクセス / のと里山海道(県道60号線)白尾IC➡津幡バイパス➡金沢バイパス➡北陸自動車道白山IC➡県道8号➡国道157号線明島町交差点➡県道105号線西崎交差点➡県道103号線八幡町交差点右折➡表参道 所要時間1時間30分程度関連記事 / 能登國一之宮氣田大社 其の2「亀鶴蓬莱山 正覚院」 「白山長瀧寺と長瀧白山神社」 福井県勝山市平泉寺町 「平泉寺 白山神社」
2021.07.01
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