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2021/9/24、久し振りの知多四国巡礼と見頃の過ぎた?曼殊沙華の群落を写真に収める目的でこの地を訪れました。札所巡りも光照寺で一区切り、次の目的地矢勝川に向け光照寺から西に向かい、阿久比川を越え県道264号線をひたすら北上します。やがて歩道脇に「南吉童話の径」の看板があり、そこから細い路地が左に伸びています。光照寺から概ね40分程。今回はこの通りに残る南吉生家とその前に鎮座する秋葉神社を取り上げます。この周辺には南吉生家の他、所縁のある寺社が集まっていて、その先は彼岸花で知られる矢勝川に続きます、なかなかスイ〃とは進めない。この辺りの通りの細い道筋は亀崎から半島西側の大野を結んでいた大野街道。写真は県道から大野街道に入ったすぐ右にあるのが「新美南吉生家」街道沿いには簓子塀の建物はところどころに点在しています。切妻、瓦葺で簓子壁のレトロな建物。ここが童話「ごんぎつね」などの作者新美南吉の生家。本名は新美正八、1913年(大正2)に父渡辺多蔵、母りゑの次男としてここで生まれました。正八を生んだ4年後母親は他界し、その2年後父親が再婚、継母志んとの間に異母兄弟が生まれた。街道沿いから見る生家は平屋の様に見えますが奥は二層構造で北垂れの斜面を利用した造り。街道側の右の間口が父親が営んでいた畳屋、左が志んの営んでいた下駄屋と生活必需品をターゲットにした多角経営をしていたようだ。やがて母りゑの実家の跡継ぎが不在のため正八は新美家に養子に出されることになったが、当時は跡継ぎとなる長男の養子縁組は禁止されていた時代だった。りゑの実家の跡継ぎ問題を解決するため取られた大人の都合は、幼い正八にとって衝撃的なものだったに違いない。正八八歳の時だと云う。新美家を継いだ正八は、1932年この地を題材にした代表作「ごん狐」を世に送り出す事になる。イベントで何度か生家の内部を見学する機会があったが、自分の幼い頃に見た事のある懐かしい展示品が置かれていたのを覚えています。この生家は後に償却され一時人手に渡っていたそうで、地元の生んだ著名な作家の生家を保存するため市が買い戻し、復元されたものという。入場は無料ですが内部の見学は建物左に掲示された連絡先に確認が必要。生家の左には「新美南吉生い立ちの地」の石標が建ち、ここと写真の県道265号線沿いに建つ「新美南吉資料館」や「童話の森」など童話の舞台となった一帯の観光の中心になっている。新美南吉生家の西側で道は二手に別れ、その角に秋葉三尺坊が祀られていました。先を急ぎスルーしようとしたが、通りすがりに常夜灯の元号を見て参拝する事にした。お洒落な住宅街の片隅に玉垣に囲まれ、社地が与えられている。玉垣も社も綺麗なため戦後の街角に祀られた火伏の神、・・・と思っていた。右手の常夜灯には大きく「文化五年」と刻まれていた。当時とまではいかないけれど、明治中頃の当地の地図が上。残念ながら鳥居の印は掲載されていないけれど、当時の岩滑集落東端に位置し周囲は水田が広がっていた。社は集落入口に鎮座している事が分かる。今では引いた写真も撮りにくい程お洒落な家が立ち並んでいる。矢勝川両岸は今も当時の面影が残るが、堤から少し離れた地域の移り変わりは驚くほど。ごん狐の舞台となったこの地も姿を変えようとしている。常夜灯左手の小さな解説板には秋葉社の由緒が語られていた。火伏の神秋葉三尺坊権現を信仰する秋葉講の信者により1808年(文化5)に建立した常夜灯。今から二世紀前の先人たちの思いから勧請されたもの。現在は電球ですが1955年(昭和30)頃までは講中の家々が交代で灯明を灯していたという。石段は岩滑の子供に達がヨモギの葉を潰し団子にする「草つき遊び」などの場だったようだ。新美南吉の小説にも登場するらしく、幼い頃の正八もこの常夜灯は遊びの場だったようだ。正八が八歳の時、ここで遊んでいると継母志んに呼ばれ、そのまま隣村の母の実家新美家に養子に出されたという。自分自身も幼い頃に両親の離婚、再婚を経験しているだけに、八歳の正八の心情は察するに余りある。29歳の若さで他界した新美南吉、幼い頃の遊び場となった舞台の一つが今も生家の傍に残っている。秋葉社の二股を左に進むと直ぐに八幡社の社頭、その前の路面に案内プレートがある。目的地は矢勝川、進路は八幡社を経て写真の常福院方向に向かう事にした。2021/9/24新美南吉生家所在地 / 半田市岩滑中町1-83秋葉社創建 / 不明常夜灯 / 1808年(文化5)祭神 / 秋葉三尺坊権現所在地 / 半田市岩滑中町2(新美南吉生家の斜め向かい)関連記事 / 知多四国八十八箇所十八番「光照寺」、知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩くアクセス / 光照寺から県道261号線➡国道247号線➡県道264号線徒歩約40分
2021.12.31
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乙川八幡神社を後に西方向へ徒歩で5~10分程の所に知多四国八十八箇所十八番「光照寺」は鎮座します。道のりは相変わらず見通しの効かない狭い道ばかり。上は光照寺南側の鐘楼門前の通りの写真。境内入口脇で見かけた「知多四国霊場道標」、☞十九番「光照院」までは十三丁と彫られています。1丁が約110㍍なので約1.43㌔、20分程の道のりか。鐘楼門、入母屋瓦葺の四脚二層の門。道路から見る門は、見る者に覆いかぶさってくるようでもある。鐘楼門正面。扉の様に見える袖壁が四脚其々に付けられ、軒先の深い屋根は鳥が羽を広げたよう。石段から境内の眺め、目の前に本堂は見えています。境内から見た鐘楼門、45度方向に付けられた袖壁が重心の高い門を支えているのがよく分かる。無骨な鉄骨に比べると遥かに違和感もなく寺の佇まいに調和している。過去に大きな地震も経験しているだけに学びの形だろう。本堂全景。庫裏、納経所は右手になります。光照寺は1324年(興国3)源 親房の建立とされるようです。その昔海岸線がもっと近かった頃は、過去記載した乙川八幡社付近の海岸に鎮座していたという。沿革は1324年(興国3)源 親房により建立。1555年(弘治元年)天誉白応和尚により復興再建。1781~1788年の天明年間に自然災害で伽藍を失う。1811年(文化8)堂宇建立。1980年(昭和55)庫裏改修、2003年(平成15)に本堂改修宗派は時宗で本尊は阿弥陀如来。本堂は入母屋瓦葺平入で大きな向拝が付き、深い軒の下に縁が付く。本堂、賽銭箱に三つ引きの紋が入る。本堂左から廻廊が続き観音堂と繋がっているようです。観音堂としては立派な方型の二層屋根の造り。1808年(文化5)、十四世 覚阿是興上人の時、紀州徳川家の支援によりこの地に移転した。1811年(文化8)、廓山和尚により本堂はじめ庫裏等が建立されますが、この時観音堂は塔として建てたかったようですが、当時寺格の高くない寺に塔の建立は許されなかった。塔の建立を捨てきれず、当時尾張徳川家の付家老だった成瀬隼人正家に懇願、「ひさしをつければ塔にあらず」の言葉をもらい建立が許されたのが観音堂だという。観音堂正面の眺め、二層方形屋根の観音堂で約束通りに大きな向拝が付けられています。改修履歴は不明で、現在の姿は1811年以降大きな改修を受けていないのか、軒などに傷みが見られます。観音堂向拝から内陣の眺め。外陣には大きな奉納額や提灯が吊るされ、内陣中央の厨子に本尊の秘仏十一面観音像が安置されている。この本尊はその昔、亀崎沖で漁師の網にかかったものと云われ、それをここに安置したという話が残るそうです。正直理解に苦しむ話ですが、こうした言い伝えは各地で耳にします。そうした数だけ戦禍や自然災害が起きていたのだろう、素直に解釈して「昔の海や川には沢山の仏像が流れていた」という事だろう。弘法大師像は内陣左に安置されています。観音堂左の不明社、ここでは氏子社としておきます。鐘楼門に続く境内南側に二つの祠があります。右の地蔵堂は「清水次郎長地蔵尊」、左が六地蔵堂。清水次郎長所縁の地蔵尊とされ、以前は亀崎街道の県道沿い安置されていたそうで、時代の流れで居場所を失い光照寺に安置されたようです。勝負事に御利益があるとされ勝軍地蔵、心願成就地蔵とも呼ばれるそうです。そもそも「亀崎に清水の次郎長さん?」となるだろうが、その昔の亀崎は海運業が盛んで舟の往来も多かった。講談にも取り上げられる話で、八尾ケ嶽惣七の四股名の相撲取り、穂北の久六は博打が好きで十手持ちでもあった。次郎長からも情けをかけてもらうなど親交があり世話になるも、ついにはその道にどっぷりと浸かっていき博徒として子分を持つほどの頭角を現していったという。悪行の数々を働き、次郎長からも行いを改める様に再三警告を受けていた、久六は次郎長の名声や警告を嫉み、次郎長に有らぬ疑いをかけ捕縛を画策したという。幸運にも逃げきった次郎長は、大政、森の石松、八五郎の子分を呼び、亀崎巡業に訪れていた久六を誘い出し、亀崎街道の現在の乙川駅付近で久六やその子分を襲撃、次郎長により右腕を切り落とされた久六は虫の息となった。見かねた村人が久六を取板の上に乗せ光照寺に運びそこで息絶えたと云う。1859年(安政6)のことだという。この地蔵は久六打ちを前に、次郎長が成功を祈った地蔵され、以来勝負事に御利益あるとされ参拝者が訪れるのだそうだ。六地蔵堂に安置されている地蔵達、どれだけの年月を重ねてきたものか、一部に表情は消えかけようとするものも安置されていました。地蔵堂から山門方向眺め、地蔵堂の左が手水舎。参拝を終え西側から光照寺を眺める。成瀬隼人正家の粋な計らいで形になった二層の観音堂と鐘楼門が印象に残る寺だ。2021/9/24乙川の清き流れに佛を映せば胸の垢や落ちなん開運山 光照寺宗派 / 時宗創建 / 1342年(興国3)建立 / 源 親房本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場十八番札所 / 知多西国霊場三十二番札所所在地 / 半田市乙川高良町120(乙川八幡神社から徒歩約10分程)関連記事 / 乙川八幡神社(入水上神社) / 知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く
2021.12.28
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今回は知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」から次の札所への移動中、常滑市西阿野半月で見かけた「七社神社」を掲載します。車道沿いの「⇦七社神社」看板に導かれ細い路地を進み社頭に向かいます。社頭全景右に「村社式外七社神社」の社号標、左に由緒書き。一の鳥居から少し先に二の鳥居が見えます、そこから先の参道は鬱蒼とした森の中に石段の参道が続きます。まずはこの辺りの地名「西阿野」について、西があれば東もあるのだろう、地図を見ていても見つからない、1970年に刊行された尾張国地名考の「西阿野村」を見ていると、「後世西の字を冠に置るは、郡内に同名出来たればればなり」とあった。知多郡内に「阿野」の地名が二つ存在する事になり識別化のため、西を冠したのが当地で、東を冠する阿野は現在の豊明市内に存在していました、傍にはないはずです。社頭の由緒書き常滑市西阿野字半月263番地 七社神社祭神天照大神(天照皇大神宮)・伊邪那美命(熊野權現)・譽田和氣気命(岩清水八幡宮) ・ 廣国押建金日命(藏王權現)・天児屋根命(春日大神)・菊理姫命(白山神社)・菅原道真公(天満宮) 主なる祭典例祭4月15日・祈年祭2月25日・新嘗祭11月25日・月次祭毎月1日往古七社明神と称してた、1824年(文政7)七社明神に昇格、明治維新の際七社神社に決定。1872年(明治5)9月村社に列挌、同40年12月神饌幣帛供進神社に指定される。以来氏子の尊敬篤く今日に至るニノ鳥居綺麗な外観は近年建替えられたようです。鳥居の左に手水舎があります。手水舎、鉢は龍不在で清水は満たされていなかった。訪れたのは2021/11/20、彩りの寂しくなった参道に椿の赤が彩りを添えていました。最後の石段を上り切ると境内のようです。境内全景。鬱蒼とした樹々が開け、広く明るい境内が広がります。二段に石垣が積まれ、その上に社殿、右側に境内社が纏められているようです。境内左に社務所があり、参拝中写真左方向から車が入ってきて社務所に出入りされていました。車で乗り入れ可能なようですが、参拝者駐車場の表記はなかった事だけは書き留めておきます。切妻平入の瓦葺拝殿、石段脇に狛犬が建てられ、狛犬後方の左右にも社標が建っていました。年季のはいった風貌の狛犬、1922年(大正11)の寄進の様です。拝殿全景。素木で人目を引き付けるような飾りや彩色はなく、落ち着いた佇まいをしています。拝殿から本殿方向の眺め。殿内を見渡し、外部の瓦も見渡したけれど神紋は分からなかった。拝殿右の境内社。境内社上段左が知立社と山神社、右が天神社、秋葉神社下段左が塩窯神社、厳島神社、右が金刀比羅社、白山社本殿(左)の右が天王山津島神社、猿田彦神社。何れも流造。西阿野を見下ろす丘の頂に鎮座する七社神社社殿全景。さて、1824年(文政7)七社明神に昇格まではともかく、この神社の創建は?となると辿り着けなかった。「七社神社」創建 / 不明祭神 / 天照大神・伊邪那美命・譽田和氣気命・ 廣国押建金日命・天児屋根命・菊理姫命・菅原道真公境内社 / 天王山津島神社・猿田彦神社・知立社・山神社・天神社・秋葉神社・塩窯神社・厳島神社、金刀比羅社、白山社所在地 / 常滑市西阿野半月263 洞雲寺から徒歩ルート / 東へ15分前後 関連記事 / 知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」 / 知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.27
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白兎川下神社のある「道の駅神話の里白うさぎ」から西へ、東郷池東岸に鎮座する伯耆国一ノ宮「倭文神社」までは移動時間は40分程。やがて県道右手に大きな池「東郷池」が見えてきます。「倭文神社」も随分と近づき、東郷池の地岸沿いを走っていて見つけたのが「宮戸弁天」予定外ですが県道沿いの池畔に佇む小さな神社の姿に魅かれ立ち寄り参拝する事にした。県道沿いにパーキングがあったことも立ち寄った理由の一つ、駐車余地がなければ恐らく立ち寄る事はなかっただろう。杉の杜に包まれ、大岩が幾つも積まれた小さな神域。宮戸弁天と呼ばれ、宮内の七弁天の一つが祀られています。弁天様は御存知のように七福神唯一の女神、財福や知恵、長寿を授けて頂ける事で良く知られます。そこには解説板が建ち、その内容によればこれから向かう倭文神社と所縁があるようだ。「宮戸弁天」「古来より伯耆(ほうき)一ノ宮の七弁天として付近7カ所に弁天さまが祀られていた。宮戸弁天はその一つ、祠が残るのは宮戸弁天だけである。もとは小島で倭文神社の祭神下照姫が魚釣りをしていた場所。下照姫の使いの白蛇がここから龍湯島までの間を往復した伝説もある。今は埋め立てられ陸続きとなっている」とある、倭文神社参拝に向け、これは何かの導きなのかもしれない。宮戸弁天は地元では古来から「一ノ宮の弁財天」と称され、祭神は七福神の一人弁才天。いろいろ調べて見ましたが「東郷町史」に上記解説内容が記されていました。しかし付近の7ヶ所とはどこなのか、いつから祀られていたのか等の詳細は分かりません。ただ、唯一残ったのが「宮戸弁天」のみという事です。町史によればかつては倭文神社境内にも小さな池があり、そこにも弁天が祀られていたとあります。それは境内整備に伴い池を埋めたので廃絶したとありました。唯一の弁天様という事でしょうか。何れにしても池畔を背景にし、磐座のような岩の上に佇む社の姿は琵琶湖東岸の「藤ヶ崎龍神」に通じる神秘的な雰囲気が漂います。解説にもあったように「宮戸弁天」は以前は島だったようです。現在は県道側から陸続きで容易に参拝が可能になっています。社頭は杜で隠れてわかり辛いかもしれませんが、解説板から左に進むと石の明神鳥居が建っています。鳥居は池側に向かって建っていて、池畔には船着き場の痕跡が残っています。島だった頃はここから上陸し参拝したのでしょう。鳥居から先に複数の岩が組まれ、その上に社が祀られています。その神域を包み込む様に杜が取り囲んでいます。宮戸弁天本殿。燈籠とか寄進年度を見れば良かったが忘れていました。本殿域を包み込む杜。本殿側面。流造で千木は外削ぎで鰹木は4本、弁天様は確か琵琶を持った七福神唯一の女神です。千木や鰹木で男神・女神の識別はやはり無理があるようです。小さな社ですが木鼻、虹梁などにはしっかり彫が飾りが施されています。池畔沿いに少し離れて見る宮戸弁天。島だった頃、美しいと伝わる下照姫が、朝もやに包まれた水面にその姿を落とし釣りに興じる姿は幻想的だったろう。東郷池に佇む宮戸弁天の姿も下照姫の姿に通じるものがある。湖面に向いて立つ鳥居の先には倭文神社の鎮座する御冠山も間近に見えている。これから向かう倭文神社のお使いは「蛇」とされます。町史によれば境内には蛇が多く、過去に倒壊した御神木の中は空洞で、蛇の巣となっていたそうだ。倭文神社の祭神が下照姫命をはじめ、出雲系の神が多いことに由来する様で、東郷池には下照姫命のお使いといわれる白蛇がいて、弁天岩付近から対岸を往復していたという民話も残るそうだ。この光景に水面を渡る白蛇、その姿はあまりいただけない光景かも知れないが、下照姫の隣で日がな糸を垂れるのは釣果が無くてもありかも知れない。2021/10/25宮戸弁天創建 / 不明祭神 / 弁財天所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内白兎神社から車ルート / 国道9号線を西へ、「新川浜入口」で左折県道320号線「湯梨浜町役場入口」を左折県道185号線➡県道234号線経由40分程関連記事 / 鳥取白兎海岸「恋島・白兎川下神社・淤岐之島」・ 藤ヶ崎龍神御冠山を目指し車を進める事にしよう。
2021.12.26
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2021/12/21奈良県へ薬師寺と唐招提寺へ訪れました。いつもの様に地酒を求め徘徊した際、「本物のどぶろく入荷」の手書き看板を掲げた怪しい酒屋さんの前で足が止まる。「本物のどぶろく」なんとも酒好きにはたまらないフレーズ、吸い込まれる様に店内へ。本物の「どぶろくとはどれ?」とお姉さまに尋ねたところ勧められたのが下の「三諸杉 濁酒」濁りじゃんと云うと、「いえいえ濁りとどぶの違いは・・・・」と巷に氾濫するどぶとの違いをしっかり説明してくれた。それが出来るのであれば彼女の言葉に疑う余地はない。よもや試飲などできないよねと聞くと「いえいえ・・・」なんともありがたい、奈良の地酒を利き酒させてもらうことが出来、気に入った清酒一本とどぶを買い求め「取り扱い注意」で奈良を後にしました。とにかくこのお酒、開栓時爆発注意、900ml瓶に750mlしか入れていないところなど見るからに恐ろしい。爆発や吹き出しをさせる事無く無事に自宅の冷蔵庫に。一晩冷やしていざ開栓、こうした脅し文句の類で文言に偽りなしの物にお目にかかったことがないだけに少し甘く見ていたかもしれない。「取り扱い説明書」の作法通り開栓しシーソーの様にゆっくり傾ける・・・甘く見ていた、あれほど余裕のあった瓶の空間は開栓した途端見る見る発泡し瓶口に向かう。危険を感じ栓を締めると怒りは収まり元の位置へ、ならばと開けると再び怒り爆発。これを数回繰り返し吹き出しが収まったのを見計らいシーソーの様に傾けてもろみとガスを混ぜ終わる。どぶろくは濁りと似てはいるけれど酒税法上の表記が違います。普段よく飲む濁りは「清酒」、どぶろくは「その他の醸造酒」、名ばかりのどぶは裏面の表記を見れば素性が分かる。「本物のどぶろく」の見分けはここ。麹や蒸米を粗く濾したのが濁りで白濁しドロッとしています。ろ過していないどぶはドロドロ、濾していないので当然酒粕も混ざっている、飲むと云うより食べる感覚かも知れない、多少酸味がある発泡性のドロドロの液体が旨い。甘酒の感覚ですが酒粕を溶かした甘酒と違い、アルコール度数15度としっかり酔っぱらいます。これを飲めばご飯はいらないかも。ボトルに添付されたラベル。開栓時の液の動きは正に生きもの、あのヘッドスペースも伊達じゃない。「本当に気を付けてください」に偽りはなかった。上は酒処きとらから配布されている注意書き。ここまで書く理由もよく分かった。飲んだ印象は上に書いたように、飲むと云うより食べる感覚の多少酸味がある発泡性のドロドロの液体。そこに旨味が混ざり清酒にはない素朴な味わいがあります。各地に残る「どぶろく祭り」ではこれが振舞われ、人生初のどぶろくは白川郷でした。以来無性に恋しくなりますが久し振りに元気のいいどぶと出逢いました。今西酒造 三諸杉濁酒 危険でおいしいどぶでした。西の京地酒処きとら(BEERSきとら)所在地 / 奈良県奈良市五条町3-30(唐招提寺から東へ徒歩5分程)URL / https://www.kitora.com/今西酒造株式会社所在地 / 奈良県桜井市三輪510番地関連記事 / 奈良県「薬師寺 国宝東塔初層特別開扉拝観」へ
2021.12.24
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大府市長草町本郷40「延命山地蔵寺」以前掲載した長草天神社から随分と歩いただろうか…なんて嘘ばっかりです。天神社から徒歩10秒もあれば五番札到着。何せ天神社境内から地蔵寺山門前の石段にショートカットできてしまう。なので知多四国巡りのかみさんの御供で来ているおやじには有難い立地条件である反面、ついつい「いい加減に合流して次行くよ」なる。上は長草天神社西側から見た地蔵寺伽藍。目の前の壁が本来あるべき姿ではないのは一目瞭然。天神社境内からショートカットするとこんな感じで目の前が地蔵寺山門です。山門から地蔵寺本堂の眺め。入母屋瓦葺で平入屋根で軒先の反りが綺麗な本堂だと思います。地蔵寺の始まりは1573年(天正元年)当時地頭だった市村伝四郎が地蔵堂を建立したことに始まるといいます。3年後横須賀の長源寺から教岩和尚を迎え開創、大阪冬の陣の1614年(慶長19)日山天朔和尚が伽藍を整え開山した、曹洞宗のお寺で本尊は延命地蔵大菩薩。現在の本堂は2004年(平成16)改修後の姿。本堂山号額は「延命山」東に隣接する長草天神社とは江戸末期まで敷地を共にしていたが、神仏分離によりあの壁が造られたもの。本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子の作と伝わるそうだ。境内右の庫裏、納経所。境内左の眺め。左に手水舎、右の寄棟の建物が弘法堂です。手水舎地蔵寺本堂西側に巨大な修業大師像がそびえ立つ。寄棟瓦葺の本堂とその右には1939年(昭和14)に、紀元2600年の記念として奉納された高さ3.5㍍の大きな大師像が奉納され、納経に訪れた巡礼者を見守る様に聳えています。長草天神との繋がりを示すかのように軒丸瓦などに寺紋の梅鉢紋が施されている。そんな顔しなくても……今日はまだ飲んでないし、至って素面なんで、受け入れて欲しいものだ。弘法堂右に二体の石仏。写真は切れてしまったが左のお地蔵さんはお洒落なニットの帽子がとても似合っていた。本堂左の寄棟瓦葺の弘法堂。賽銭箱も梅鉢紋が入る。額は「願王閣」、外陣右に賓頭盧尊者、内陣中央に本尊の地蔵菩薩、左に弘法大師が祀られます。ろくどう(六道)の のうか(能化)をちかう みほとけの りやく(利益)ながくさ このぢぞうじ2021/12/02「延命山地蔵寺」勧請 / 1573年(天正元年)開創年 / 1575年(天正3)開創 / 教岩玄相和尚宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40関連記事 / 『長草天神社』大府市長草町 /知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」2月24日直前の日曜日「どぶろく祭り」の時に再び訪れようと思います。どぶは旨い。「次行くよ!」…ハイ!
2021.12.23
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奈良県の国宝薬師寺東塔。2009年解体修理に着手してから12年、すべての工事を終え美しい姿を取り戻した。そして現在「東塔初層特別開扉拝観」が開催されていると聞き、薬師寺と唐招提寺拝観に絞り電車で奈良に行ってきました。乗換駅の大和八木駅までは近鉄特急の新型車輛「ひのとり」に乗車。この車両は一度乗って見たかった、期待通りシートは快適、余裕のある座席間隔や乗り御心地。快適な社内から眺める初冬の景色、そして景色を見ながら一杯楽しめるのも電車ならではのもの。名古屋から薬師寺の玄関先西ノ京駅まで約2.5時間程の移動時間、駅から薬師寺は2~3分、とても近い。薬師寺の特別共通割引券(1600円)を買い求め境内へ。この券で東塔含めた白鳳伽藍、玄奘三蔵院伽藍、国宝水煙(西僧坊)、食堂(じきどう)など拝観できる。薬師寺西塔と修理を終えた東塔、二つの塔が並ぶ姿も漸くみられるようになった。この改修の目玉は東塔の一番上部に聳える相輪の先端に施された水煙(すいえん)。写真上手前が西塔、奥が東塔。中が東塔水煙、下が西塔水煙の眺め。左薬師寺1300年の歴史で初めて新調されたそうで、現在は創建以来最上部を飾ってきた白鳳の水煙は取り外され西僧坊で一般公開され間近に見ることができます。ある意味1300年形を保ってきたこと自体が驚きでもある。緻密な透かし彫りが施され、下部には横笛を吹く「笛吹童子」の姿がある。右開け放たれた東塔初層の扉、国宝の多宝塔の心柱や天井絵を間近で見る機会はなかなかないだろう。薬師寺は創建以来幾度か戦禍や火災を経て金堂、講堂、中門、僧坊などが焼失しています。東塔だけは一度も焼け落ちる事無く今も当時の姿を留めています。二つの塔、西塔と東塔は色や形、大きさも違います。西塔は1528年、兵火によって金堂、講堂、中門、僧坊などとともに焼失。再建も1981年と最近の事で、日本の木造建築の技術は何百年先を見据え造られていて、塔の高さや支える基壇の高さが東塔と違うのも木の収縮や重さにによる沈み込みを考え、これから時を重ねてゆくことでやがて東塔と同じ大きさになる様に考慮した結果です。薬師寺の伽藍では鎌倉時代に再建された東院堂と東塔が最も古い建物となり、その後の伽藍復旧により現在の姿となっています。それ以外にも金堂の国宝「仏足石」や仏像など国宝は満載、天眼鏡をお忘れなく。食堂では田渕俊夫画伯の手による食堂の本尊「阿弥陀三尊浄土図」や全長50mに及ぶ14面の壁画「仏教伝来の道と薬師寺」を拝観できる他、玄奘三蔵院では画家平山郁夫が描いた、「大唐西域壁画」が拝観できる、そこには破壊される前のバーミヤン遺跡の姿も描かれいる。薬師寺は天武天皇勅願より680年(天武天皇9)の創建、本尊は薬師三尊。薬師寺 玄奘三蔵院唐招提寺薬師寺の北、徒歩10分程の唐招提寺(写真は国宝の金堂)天平宝字3年(759)唐僧鑑真により創建され、1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。本尊は廬舎那仏。こちらも薬師寺以上に見応えがあるかもしれない。特に金堂の国宝仏像群の中でも開山 鑑真や千手観音は必見だろう。天眼鏡で先に見たかみさんは、後から訪れた自分に天眼鏡でみるべきと差し出してくれる程、見る者に感動を与えるほどの魅力がある。天眼鏡で細部を見て行くと、それらを形にしようとした人の強烈なエネルギーが伝わってくる。(写真は金堂前から見える廬舎那仏)鑑真和上御廟境内北東の最深部にあり、森と池に包まれた静寂な空間に鑑真和上御廟があります。土壁の続く小さな門から一歩踏み入れると、杉林の中にベルベットのような質感の一面苔に覆われた空間が広がり、鑑真和上の廟はその正面にあります。唐招提寺を訪れた際は伽藍のみならず、見事な土壁が続く境内をぐるっと回る事をお勧めします。薬師寺とは違った、緑の中に佇む歴史ある伽藍の姿を見ることが出来ます。どちらも大きな伽藍。日帰りの場合、多くの目的地を入れない方が余裕が持てるかと。夕陽に照らされた薬師寺も見たかったがいいポイントが見つからず、遅い昼ご飯と地元の酒(試飲ができるのも電車移動の魅力)を買い求め帰途に着く。2021/12/21薬師寺所在地 / 奈良県奈良市西ノ京町457唐招提寺所在地 / 奈良県奈良市五条町13-46公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋駅➡大和八木乗り換え➡西ノ京駅降車➡徒歩2~3分所要時間約2時間半
2021.12.22
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常滑市井戸田町 洞雲寺宝全寺で納経を済ませ一路南下、洞雲寺へは県道34号線を左に進みます。その先の奥条4丁目信号で右に向かい阿野町3丁目交差点から左に進めば洞雲寺着です。所要時間ほゞ30分でした。阿野町3丁目交差点から左に進むと道路左側に小高い丘と森が見えてきます。失敗談。写真に矢印を付けておきますが、看板があり、私らはそちらを進んでいきました。後になって分かりますが、×を付けた細い道を進むと洞雲寺の駐車場と観音堂には出れますが、山門は左に進んだ右側です。右に続く細い道、その途中に石段があるのでこちらを上ります。上境内は左に観音堂と正面に稲荷鳥居があり、樹々に包まれた先の石段を下りると本堂に続きます。駐車場は右方向になります。下知多四国第六十二番札所洞雲寺観音堂。道路から見えていた丘の上に鎮座する入母屋瓦葺平入の観音堂。観音堂外陣。鰐口下に見える石の地蔵は「願掛け抱き地蔵」と呼ばれるそうで、願掛けをして地蔵さんを持ち上げた時、その重みが軽く感じれば願いが叶うという。重軽石の地蔵版。賽銭箱の上にある木彫りの手は祈願用で、これを持ち撫でるとご利益があるのだという。外陣天井を見上げると無数の千社札。壁面に巡礼奉納額が掛けられていましたが、年代は読み取れない。内陣左から弘法大師像、中央に聖観世音菩薩、右側に薬師如来像が安置されています。聖観世音菩薩は33年毎に御開帳されるそうで、前回は2019年に御開帳されたようです。上観音堂正面から境内の眺め、正面には忠魂碑。参道の両脇の鉢は蓮が植えられていて、時期になると綺麗な花を咲かせるようで、洞雲寺には双頭蓮と呼ばれる一本の茎から二つの花を咲かせる珍しい蓮があるという。100年に一度とか50年に一度あらわれるとか言われるようで極めて稀な事象とされ、吉祥、瑞兆の花とされ良い事が起こる前兆とされる有難い蓮なんだそうだ。蓮を生けた鉢は本堂前にも無数見られ、実際に見てはいませんがそれらの鉢に花が咲けば見ごたえがあるやも。下本堂に向かう石段の右に鎮座する稲荷大明神。役行者像稲荷社の向かいにオールステンレス製の祠に安置されていて、風化により像容や年代は窺い知れない。上本殿に続く石段、周囲にもみじもあり紅葉が綺麗かもしれない。11月の終わりに訪れましたが、この時期の紅葉はまだ色づき始めた頃でした。下本堂前の境内から石段の眺め。石段左右に祠があり、手前の祠が地蔵尊、奥は青面金剛明王像が安置されています。上洞雲寺本堂全景、寄棟瓦葺の平入。洞雲寺は正式名を御嶽山洞雲寺で、由緒沿革によると開山は1555年(弘治元年)に善海法師により開かれたという。白鳳年間、聖武天皇の勅願を受け、行基菩薩が天竺の香木から聖観世音菩薩像を刻み、御嶽山に安置、七堂伽藍、三百の坊を有する「御嶽三百坊」を建立したとされます。しかし、1537年(天文六)の兵火によりこの伽藍は数百年間にわたって信仰、文化の中心地であった御嶽山の伽藍坊舎はことごとく焼き払われたとされます。諸堂の焼失から難を逃れるため、仏像は池に沈められ、田畑に埋められたと伝わるようです。時は流れ御嶽池の改浚の折、本尊の阿弥陀如来(平安末期作)が池中から発見され、信仰の場として寺院を建立したのが御嶽山洞雲寺の始まりという。下本尊の「阿弥陀如来坐像」は常滑市文化財に指定されるもので行基作。右本堂前のおもてなし観音三十三の姿にかえられる観音様、生きとし生けるものを導く姿を「おもてなし」というようだ。左見上げて如来上半身だけの観音像はあまり見たことがない。これら何れも近年に建立されたもののようです。本堂山号額と堂内。本尊の像高は88㌢で榧(かや)材の一木造で現状は生漆塗りとのこと。極楽浄土から来迎する姿ではなく、悩みを紐解く瞑想の姿で、顔立ちは優しさが漂い、衣は十世紀風の古様を示し、平安末期と推測され昭和44年に常滑市指定文化財になったようです。堂内に安置されている像各々に銘板が付けられ、そうした銘板は境内の祠などにも及んでいる、馴染みのない者には有難い。左、賓頭盧頗羅堕尊者と右が俵子、色々と見どころの多いお寺です。洞雲寺の寧護大師。ガラスの箱に入れられた猫の置物、ではなく猫の姿をされた弘法大師なんだそうだ。この像は裏と表ともに猫の姿が描かれ、写真の三鈷杵を持つ側が弘法大師を表現し、裏側は数珠を持つ私達が猫として描かれている。寧護とは安らぎを守るの意味らしく、猫だけに鰹節のパックをお供えするのが習わしの様です。こちらの像も平成に入って奉納されたものという。寧護大師をお目当てに訪れる方や、専用の御朱印もあるようで、寧護大師は集客に一役買っているようだ。こちらが洞雲寺の玄関となる石柱門、ここから先の境内に数台は駐車はできるようですが法要に訪れた方用と割り切った方がいいかな。という事で冒頭に戻って、右の細い道から境内に入ったので裏から入り、表から寺を後にすることになりました。2021/11/25御嶽山 洞雲寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1555年(弘治元年)善海法師により創建本尊 / 阿弥陀如来座像札所 / 知多四国八十八箇所六十二番、知多西国三十三所霊場十三番、法然上人知多二十五霊場十二番 宝全寺から洞雲寺徒歩ルート / 約30分程所在地 / 常滑市井戸田町2-37関連記事 / 知多新四国八十八箇所霊場 六十四番札所 『世昌山 宝全寺』、知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.20
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二泊三日で岡山、鳥取、兵庫の一ノ宮巡り。道の駅神話の里白うさぎで車中泊し迎えた二日目。まだ薄暗い空ですが水平線を見れば徐々に陽が昇ってきています。二日目は、道の駅から徒歩10分程西にある気田岬を目指します。淹れたての暖かいコーヒーで体を温め二日目が始まる。道の駅駐車場の国道9号線。そこには白兎海岸に向かう観光用なのだろう、立派な木造の歩道橋が架かり海岸まで容易に行くことが出来ます。歩道橋から白兎海岸の眺め(3枚貼り付け)右方向は鳥取砂丘方向、左が目的地の気田岬。海岸は一面砂浜でサーフィンや釣りをする姿も見られます。岬の右に見える小さな島が淤岐之島、白うさぎが流れ着いたとされる神話の始まりの地とされます。この海岸は白兎神と和邇族(大陸からの海洋民族など諸説あり)との戦の場とも云われています。小さな湾の小さな砂浜は色々な神話の舞台となった。水平線の先は大陸。神話だけにとどまらず、意図して海を越え訪れる者から見れば、こうした場所は上陸に最適なロケーション。歩道橋から海岸線を西に進むと道沿いに案内板。恋島は大国主が八神姫にプロポーズした場所とされ、砂浜にある小さな岩で神楽岩とも呼ばれているそうだ。目と鼻の先の海面に見える岩礁帯と小さな島が淤岐之島。白兎の丘へは国道沿いに左に進み、白兎トンネルの手前から気田岬を上っていきます。上の案内板付近に神話「因幡の白兎」の解説板、舞台となった淤岐之島に向け閉立てられている。息子達が子供の頃に誰しも一度は読み聞かせた事があると思います。その時期も過去の事となると話の全容は怪しくなってくる。恋島(神楽岩)白兎海岸。遠目に見ると淤岐之島を望む砂浜に燈籠建てられ趣がある光景だわいとなる。見るべきところは実は燈籠の礎石になっている岩のようです。島とあるが、砂浜に岩盤の一部が露出した岩の集まり。この場が大国主命が八上姫にプロポーズした場所とされ、燈籠は1858年(安政5年6月)に、一番高い神楽岩の上に地元の若衆により建立されたもの。冬の日本海の荒波や風雪に耐え、今も姿を留めている。淤岐之島。気多岬の目の前の沖にある神話の舞台となった島。白兎はここに流れ着いた、陸は目と鼻の先。この小さな島には東西に通じる洞窟が出来ているといい、島の高さは約10㍍程。上部に僅かな平坦地があり、頂上には黒松や植物も自生し鳥居が建てられています。この島は鳥取池田藩主の遊覧所があった所と言われ、この島蔭は昔の漁夫の唯一の避難所だったといいます。沿岸の漁夫は、このあたりを「神が下」と呼んでいたようで、島の上に天邪鬼(あまんじゃく)の塚があるとされこのように呼んだようです。岬と島の間の波間には水深の浅い岩礁帯があり、それがワニの背に例えられているという。その気になればワニを騙さなくても陸に上がれる?そんな距離感です。猪だって海を渡る、うさぎだって…それでは神話にはならないか。気多岬の山陰に祀られた小さな神社「白兎 川下神社」古来「氣多ノ前神ヶ岩」に鎮座されたもの。天正九年秀吉の鳥取城攻めで秀吉の軍勢により焼失。白兎神社と共に1764年(宝暦14)に再興、1912年(大正元年)白兎神社に合祀した。祭神は豊玉比売で海を守り、婦人病の守護神とし崇敬され、平成21年の台風で被災し現在の場所に遷座。白兎川下神社の屋根に飾られた千木と鰹木は見慣れた形とは少し違う。こうした形の呼称を知らないが、以前見かけた穂高造の鰹木に似てなくもない。棟に沿って伸びる千木は一説には舟の舵を表しているとも聞いた気がする。山奥の穂高神社とは違い、ここは目の前は海、そして和邇族、海洋民族の香りが漂ってくるような。白兎 川下神社由緒 「川下神社は古来気田ノ前神ヶ岩に鎮座されたもの。白兎神社と共に、宝暦14年(1765年)に再興。大正元年に合祀した祭神の綿津見大神の娘豊玉比売は神ヶ岩に庵を結び鵜の羽を敷き鵜草葦不合の命を生み龍神となり海に入っていった、依ってここに祀ったと伝わる。海を守り婦人病の守護神として広く知られる。平成21年の台風で被災し現在の場所となる。祭典は8月1日」白兎 川下神社創建 / 不明祭神 / 豊玉比売所在地 / 鳥取県鳥取市白兎気多岬白兎川下神社から国道に出てトンネル右手を上っていきます。この先に気多岬東屋や更に上ると白兎の丘に続きます。気多岬東屋から淤岐之島の眺め。入口から2~3分の岬中腹にあり、東屋の外観は特段見所がある訳ではない。しかし東屋内から望む淤岐之島(おきのしま)は「因幡の白兎」の舞台が一望でき、鰐の背中とされる岩礁帯を見下ろせます。浜から見る島の姿とはまた違う姿を見せてくれる。こうして窓枠から眺める淤岐之島の姿は額に入れられた一枚の絵のようでもあり、朝な夕な光景は移り変わっていくのだろう。淤岐之島。東西に繋がる岩窟は見て取れないけれど、荒々しい自然が創り出した岩の島。島には鳥居以外になにもない、ここに辿り着いたら目の前の陸に上がりたくもなるだろう。岬から島までは白波が立つほどの浅い岩礁が続き、ひょっとすると鰐すら近寄れない水深です。「白兎の丘」気多岬東屋から岬頂上の丘へは二つの歩道がありますが、訪れた際は東屋から先に続く歩道は閉鎖され、東屋手前に上に続く坂を上っていきました。丘には展望台があり西側の眺望が望めます。白兎神上陸の地としてカップル向きの撮影スポットが建てられています。西側の眺め。眼下に小沢見の集落とその先の岬の「大崎城址」が望め、東方向を眺めると遠く鳥取砂丘が見通せます。サーフィンに適しているのだろう、この時期でも波に乗る姿も見られる。夏の澄み切った青い海もこの頃になると沈んだ色なり、冬の訪れを感じさせる。東側の白兎海岸と道の駅方向の眺め。大きな浜ではないけれど消波ブロックがある訳でもなく自然の姿をそのまま留めています。道の駅と丘はこれくらいの距離感、ゆっくり往復しても1時間はかかりません。白兎神社参拝の際は恋島・白兎川下神社・淤岐之島まで歩いて見るのもいい。関連記事 / 『白兎神社』鳥取県、二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day2、 穂高神社奥宮
2021.12.19
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乙川八幡神社(入水上神社)以前掲載した香取神社から南に約10分程の所に鎮座します。かつて入水上神社と呼ばれ、入水上八幡宮、八幡宮と改称し、1880年(明治13)に現在の八幡神社となったようです。鳥居左に神馬像と境内へ繋がるスロープがある。ここは祭礼で曳き回される山車が乗り入れるためのもの。短いながら傾斜があり、山車の出入りには酷な坂で曳き回しの見所となっているようです。朱塗りの両部鳥居はニノ鳥居で、ここから南に続く参道に石の明神鳥居がある。鳥居右に社号標があり手水舎は左にあるようです。左のスロープ沿いに手水舎がある、祭礼の事を考えての配置だろう。どう見ても鳥居側から利用するように配置されていないようです。拝殿全景。瓦葺の入母屋平入のコンクリート造りの拝殿。拝殿左には社務所、神馬像や多賀社が祀られています。右手には境内社が纏められていました。八幡神社の創建は定かではないようですが、「奉再建入水上社一宇」と記された棟札が残り、そこには1522年(大永2)と記されていると云う。古くは航路安全祈願、現在は交通安全祈願の御利益があり、また合祀に予母都事解之男命を祀っている事から悪縁切りにも御利益があるとされ、崇敬されている。八幡神社は指定文化財が多く、覆殿の中にある三間社流造の本殿はじめ棟札や祭礼絵図、社地絵図など有形文化財に、絵馬が有形民俗文化財と半田市の指定を受けている。また、毎年3月下旬の土曜・日曜に行われる乙川祭礼行事では、八幡神社から若宮神社へ御神体が移動する「神輿渡御」の際には4輛の山車が警護のため曳き回されるそうで、無形民俗文化財に指定されている。拝殿から幣殿の眺め。主祭神は応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命。速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀。拝殿右に境内社と注連縄が掛けられた大きな岩が安置されている。解説によれば「御祭神の神功皇后が子安・安産の神さまで、その御神徳と岩田帯にあやかり、この岩を撫でる事で御利益がある」という。正面に結界が張られた一画と手前の石の社は猿田彦神社。奥には境内社七社が祀られている。七社全景。流造、神明造、板宮造りと造りは様々。右から伏見稲荷大社、松尾大社。その左に熱田太神宮社と……白猫に山祇社。右から秋葉神社、天満神社、金毘羅社と並ぶ。上は境内社横から覆殿と拝殿方向の眺め。本殿は見て取れない。下はニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め、社頭には入水上神社と刻まれた社号標と狛犬がいる。鳥居扁額は「八幡社」とあった。山車はこの参道を経て、八幡神社と若宮神社を曳き回される。拝殿左斜めから社殿全体の眺め。再建時期が違うのか、幣殿は木造の入母屋平入でその先の切妻の覆殿と並んでいます。境内飛騨の端に脇参道があり、絵馬掛けと多賀社が祀られています。ニノ鳥居前の参道左に格納庫。3月の春の乙川祭礼は無形民族文化財に指定され、地域で組織される浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛の山車が、ここ乙川八幡神社に集結し、御神体を載せた神輿が若宮神社まで移動する際の守護として巡行されるそうです。この格納庫に保管される山車は源氏車と呼ばれ、1852年(嘉永5)岸幕善次郎によって建造または改修を受け、今日に至るまで幾度かの補修を受け引き継がれている。下はニノ鳥居脇に掲げられていた「乙川祭礼行事」解説。半田市内の祭礼の中では古い由緒来歴を持つと云う。「乙川祭礼行事」、一度は目にして見たいものです。2021/9/24乙川八幡神社(入水上神社)創建 / 不明祭神 / 主 応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命。合 速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀境内社 / 猿田彦神社、伏見稲荷大社、松尾大社、熱田太神宮社、山祇社、秋葉神社、天満神社、金毘羅社、多賀社所在地 / 半田市乙川殿町97関連記事 / 『香取神社』半田市乙川北側町、知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く
2021.12.16
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2019年秋から巡り始めたかみさんの知多四国八十八箇所霊場巡り。残りも5番と87、88番札所を残すのみ。終わりが見えてくると年内に一巡しておきたくなるもので、12月2日万願寺を目指し出かけてきました。万願寺でゴールと行きたいところですが、JR共和駅からスタートするとロスが大きい。それは諦め、五番札所地蔵寺を目指す、今回は地蔵寺に隣接する『長草天神社』を掲載します。長草天神社JR共和駅から南西に進み県道243号線沿いを20分程歩くと長草天神社到着。社頭全景。石の明神鳥居があり、鳥居を一歩くぐった左に手水舎と社号標。手水舎と時代に振り回された象徴「村社 天神社」の社号標。管が付けられた龍口も時代を象徴する光景かも知れない。鳥居の額はシックなものです。参道からすぐに石段が始まり、目と鼻の先の境内に続いています。天神社だけに石段を昇り始めた中ほどに大きな撫で牛が出迎えてくれる。石段左の由緒書き「御祭神 管原道真公例祭日 2月25日直前日曜日御由緒鎌倉時代英比ノ庄(大府市は当時英比ノ庄に属す)の地頭藤田民部は家人の藤次藤左衛門等をこの地に入墾させ、明応三年(1494)六月十九日地頭の邸内に祀られていた菅原道真公を産土神として迎えられたのが当時の創建と云われている。御祭神が丈道の大祖であることから、学問の神として合格祈願に詣でる人は遠近を問わず、御神徳はきわめてあらたか。大府市無形民俗文化財(平成14年指定)どぶろく祭り特殊神事として知られる「どぶろく祭り」は本社創建の際、藤田民部が寄進した御供田一反歩の収穫米をもって「どぶろく」を醸し、正月二十五日(現在は2月24日直前日曜日)に神前に供え、社頭で氏子、参拝者に振舞ったのが始まり。諸事情によって寛文五年(1665)より三年間中断したところ悪病が流行し、多くが病死し村は衰退した。これは神酒醸造を中止したからだと、寛文八年(1668)より再開したところ凶事凶作もなく平和な村になったと云う。その後この神事は如何なる年でも継承され現在に至る」創建から500年以上も風化することなくこの地で受け継がれている神事。境内左には「長草天神社どぶろく酒造所」として醸造専用の建物も建てられている。境内は右に社務所、その手前に梅の樹と歌碑が建つ。「こち(東風)ふかば 匂ひおこせよ 梅の花あるじなしとて 春なわすれそ」藤原時平一派の策略にはめられた道真は京から太宰府に流される時、手をかけていた梅を前に詠んだ有名な和歌。石段脇の樹齢を重ねた楠の樹。長草天神社拝殿全景。入母屋瓦葺の平入で軒唐破風付きの拝殿に見えましたが、横から見ると拝殿と幣殿、本殿が一体となる権現造なのがよく分かる。社殿の壁面は木を多用し、見た目に温もりを感じる。拝殿左の建屋は長草天神社どぶろく酒造所。拝殿前の狛犬。御影石の産地岡崎も近いこともありお馴染みの容姿。寄進されたのは比較的新しいようです。参拝を終え、拝殿から唐破風を見上げる。瓦や破風飾りなどいたる所に梅鉢紋が施され、温もりのあるシックな外観に金色の飾り金具が輝きアクセントになっている。拝殿内は窓が少なく薄暗いけれど、コンクリートにはないディテールや温もりが溢れている。余談になりますが最近在来工法で寺を再建する光景に出くわした。そこでおじさん達に交じり一人の若い女性の姿を見て、伝統技術を受け継ぐ若い世代がいる事に関心した。遷宮にしても建て替えにしても、伝統的な技術を次の世代に継承するのに一役買っている。社殿左からの眺め。この辺りの境内は広々とした余裕のある空間がある。境内の杜は主に楠木が主のようで、それら見事な枝ぶりのものばかり。拝殿左に境内社が纏められ、更に左の建物が長草天神社どぶろく酒造所。本殿は透かし塀もあり、全体を窺うことは出来なかった。垂木や隅木にも梅紋の入った飾り金具が施され、コンクリートではあまり意味のない技術かもしれない。本殿左にも撫で牛。天神様と牛「天神様と牛を結び逸話は数多くある。社頭に牛の像があるのも天神様のお使いとして信仰され、心願成就、病の平癒など祈願し牛を撫でる風習がある。謂れは一般的に道真公が丑年の丑の刻生まれとされ、牛を大切されたという」道真が丑年なのは知ってはいたが、真意のほどは定かではないようですが、丑の刻(午前1~3時)生まれだと云うのは今更ながら知らなかった。その左に境内社が二社祀られています。そこを守護するのが石柱の台座に乗せられ、小粒ながらしっかり角を持つ可愛い狛犬。相方も一緒に載せたかったが、色が飛んでしまい吽形のみとなってしまった。右手が津島社祭神は建速須佐之男命。左手が五社神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社の五社相殿。祭神は天照皇大御神、豊受大御神、大山祇大神、大名持大神、少名彦大神、火産霊大神、猿田彦大神。長草天神社どぶろく酒造所6つの酒元組により、輪番でどぶろくを醸造し「とぶろく祭」当日に1年の無病息災を祈願し参拝客に振る舞われるそうだ。…これは機会があれば来るしかないナ。その西は隣接する地蔵寺。江戸末期まで同じ敷地内にあり、境内西側から地蔵寺山門前に繋がっている。今頃かみさんはこちらで納経を済ませている頃だろう。境内西側に清祓所と鷽替之碑鷽替(うそかえ)とは、天満宮の特殊神事のひとつ、野鳥の鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年の災厄・凶事などを嘘とし、新しい年が吉となるように祈念する神事。実物の鷽が見ると「ウソ!」と思うかもしれないがデホルメされた鷽の石像。そろそろかみさんの元に行かねば。まだこの下に狛犬が見える、待たせついでに行ってみよう。境内南側は一段下がって県道249号線沿いに小さな神域があり、奥に狛犬が見えます。入口左に手水鉢がありました、元号は文化(1804~1818年)と刻まれていた。先に進むと上の境内から見えていた狛犬とその先に……?この先は参道入口の楠木の巨木と撫で牛に繋がっている。この狛犬はそれらを守護しているのかな?境内から地蔵寺山門前の石段に繋がる脇参道。ここから地蔵寺に向かいます、随分待たせてしまった。長草天神社創建 / 1494年(明応3)祭神 / 管原道真、菅原雅規境内社 / 津島神社、五社宮(神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社所在地 / 大府市長草町本郷44公共交通機関アクセス / JR東海道本線「共和」駅から徒歩20分程関連記事 / 知多四国八十八箇所霊場「五番 地蔵寺・八十七番 長寿寺・八十八番 圓通寺」
2021.12.15
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松平東照宮からあやめ恋路を『高月院』に向け歩いてきました。紅葉のトンネルも間もなく終わり視界も広がってきます。あやめ恋路出口の駐車場から望む高月院山門。高麗門の山門は1641年(寛永18)家光によって伽藍全て再建された当時のまま。左手に「法然上人三河二十五霊場、第一番高月院」の石標、右に「愛知高原国定公園」の碑が建つ。門前に掲げられた高月院解説と「高月院」の山門額。この辺りから城壁のように続く室町塀、松平郷方向を眺める。松平村史には「秋には紅葉、茸狩りに適す」と記されるほど、松平郷は昔から紅葉とキノコが知られているようです。現在もシイタケがこの地の特産品というのも頷けるものがある。山門から境内の眺め、三段で造られた境内、正面に中門、右手に庫裏に続く赤い通用門も見て取れる。直角に近い石垣が積まれた光景はやはり城のイメージ。参道から山門。2本の本柱に各々控え柱が付き、切妻瓦葺の屋根が付く。門からは白壁が続き、まるで城郭のよう。この石垣も再建当時のものだろうか。石垣の上には枝垂れ桜の古木などがあり、春は参道を彩るだろう。参道左の本松山三十三観音堂と百度石。ここから本堂へは中門の石段を経て結構な距離があり、それを百度…観音堂右手のモダンな作りの手水舎。中門全景。石段左には仏足石と葵の紋の入った小さな観音像が安置されています。お釈迦様の足跡とされる仏足石、大きさは様々のようでこちらの足跡は大きい。中門。シンプルな瓦葺の四脚門で両側に壁が続く。門から見る本堂。境内にも枝垂桜があり、紅葉だけではなさそうです。これは春に訪れる必要がありそうだ。中門扉の掲示物は是非とも読んでみたい、色々と取り組む住職の人となりが伝わってくる。本堂山号額。本尊は安阿彌定朝作と伝わる阿弥陀如来立像。高月院は草創期の松平氏と結びつき、14世紀後半から15世紀末にかけ浄土宗を西三河に定着させた鎮西派寺院、隣松寺(豊田市)、信光明寺(岡崎市)、大樹寺(岡崎市)などの一つ。開創時期や松平氏縁故など共通点も多いようですが、高月院は他寺院に比べ開創時期の経緯がやや不明瞭とされるようです。創建は1367年(貞治6年)、当時松平郷を治めた在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(足助重正)が開山。開創当時は寂静寺と号し、応安(1368年~1375年)の頃に松平親氏の歸依により現在の「本松山 高月院」に改め菩提寺として本尊や堂宇が整えられました。また親氏は、高月院から少し上の観音山の岩洞に観音像を勧請し、七日間天を仰いで祈ったとされる『親氏公行場跡』も現存します。親氏、松平氏第2代泰親の埋葬に伴い、高月院境内に廟塔が建立され、天文年間(1532年~1555年)には松平氏第四代親忠の五男(超誉)が住職となるなど強く結びつき、第五代長親が土地を寄進し、松平氏の始祖親氏、2代泰親、後に5代長親の母閑照院殿の廟として整えられた。天下統一を成し遂げた徳川家康は、1602年(慶長7)に上洛の途上に高月院の祖廟を参詣したとされ、その後も1641年(寛永18)には家光によって伽藍全て再建されるなど、江戸幕府により明治維新まで厚遇されていた。伽藍全景。入母屋瓦葺で平入の向拝が付く本堂、当初瓦葺ではなかったようですが、幾度となく補修の手が入る中で現在の姿になって行ったようです。写真の奥が庫裏になり、トーク好きな住職が御朱印を書いてくれます。鐘楼と中門、この梵鐘の音が松平郷に時を刻み、一日は朝6:15の鐘の音から始まる。中門全景。左に元信公(家康)手植えの枝垂れ桜、他にも宗家公手植えの松など徳川の息吹が漂っている。通用門と左に供養塔。松平弁才天本堂左にある宝物庫の横に鎮座、詳細は不明。松平氏墓所。本堂の左にあり、家康の祖先松平氏の墓所。中央に始祖親氏、右に泰親、左に5代長親の母、閑照院殿の墓塔があり、下に歴代住職と松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。墓塔の宝篋印塔は一部欠損しているが、室町時代のもので文政年間、明治中期に補修の手が掛けられている。因みに廟の左にふるさと小径があり、それを進み、突き当りを左の山手方向に進むと親氏公行場跡方面に続きます。高月院東の小高い丘から見る伽藍全景。そこから左に目をやれば山門が見下ろせる。柿が実り、紅葉が色を添える里山らしい光景が見られる。手前のビオトープではハッチョウトンボも見られるそうで、メダカも放たれているようです。悲しいかな持ち帰る輩がいる様で貼り紙が張られていた。ここにきてあるべき姿を見るから価値がある、メダカはデリケート、捕まえても酸素の行き届かない移動中に死なせてしまうだけ。熱田神宮の北外れにめだかの学校があるけれど、ここで群れて泳ぐ生徒の姿を見た事がない。高月院山号 / 本松山宗旨 / 浄土宗宗派 / 鎮西派白旗流本尊 / 阿弥陀如来創建 / 1367年(貞治6年・正平22年)開基 / 在原信重開山 / 見誉寛立中興 / 超誉存牛 本誉尊太(第15世)所在地 / 豊田市松平町寒ケ入44関連記事 / 松平東照宮 ・ 松平郷「あやめ恋路から高月院へ」・『親氏公行場跡』 松平郷 ・大樹寺
2021.12.14
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2021/11/18愛知県豊田市の松平郷を訪れました。さきに掲載した「八幡社・東照宮」から松平家菩提寺の高月院山門までのふるさとの小径を取り上げます。松平郷をぐるっと一周する3㌔ほどの散策路を「ふるさとの小径」として整備し、松平家の所縁ある史蹟や自然を満喫できる、訛った体を呼び戻すには絶好の散策路。松平郷を代表する松平東照宮から菩提寺の高月院までの約250㍍程の道周辺は「松平郷園地」として特に整備された道。紅葉のピークは過ぎたとはいえ、のどかな里山の雰囲気を留め、徳川ゆかりの地など見がてらゆっくり歩きたい道が続きます。右上の神明社入口が既に掲載した『親氏公行場跡』の神明社入口。八幡社・東照宮(東照宮)から緩やかな坂を高月院に向け歩き出してすぐに写真のような石段と歩道が奥へと続いています。稲わらを燃やす煙が霞の様に漂う、収穫を終えた後のならではの光景。次の稲作に向けての伝統的な光景でしたが、最近は昔の様に藁焼きも思うようには出来ない、世の流れというものだろうか。歩道脇の石柱は松平八代を象徴したもので七対の石柱が立っています。その突き当りには松平家の始まり「松平太郎左衛門親氏」の銅像が立っています。親氏の素性については僧侶だとされたり、ただの旅人としてこの地に辿り着いた、など諸説あるようです。一つの説として、関東で鎌倉公方との戦に敗れ、足利氏の追ってから逃れるために父・有親と相模国の時宗総本山清浄光寺に出家し、徳阿弥(とくあみ)と称する僧侶だと云われ、徳阿弥は部下を伴い諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、この地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となり、和歌に通じた才能を認められ、末娘の水姫の婿養子となり松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったようです。この歩道は徳阿弥と水姫をつないだ、あやめにちなんでいるのだろう「あやめ恋路」と呼ばれているようです。この辺りに天下池と呼ばれる小さな池があり、そにはあやめや蓮などが植えられ、そこに注ぐ流れ沿いは趣もあり散策にはいい。室町塀「ふるさとの小径」沿いに高月院まで続く土塀。塀自体は室町時代の趣を再現したもので、名から室町時代の名残りと思われるかもしれないがそうではないようです。この時期は延々と続く塀と紅葉が綺麗な場所、塀の一部は苔むし、そこに赤い落ち葉やシダが自生する光景は日本の秋を感じさせる風情があります。冠木門と天下茶屋室町塀の中ほどにある茶屋で門も含めて地域活性化のために作られたもののようです。営業時間は10時~16時で水曜定休、松平郷散策で唯一食事が摂れる場所。室町塀。まるで古都にでも来たようなしっとりとした光景も見られます。氷池跡。「あやめ恋路沿い」にあり、ここで天然氷を切り出していたという。この解説板がなければただの棚田としか見えない。「氷造りは明治20年頃に始まり、昭和16年太平洋戦争開戦に伴う中止まで行われた。池に水を張り、一月から三月頃まで三回ほど氷を切り出していた。切り出した氷は山影の氷室に夏まで保存し、岡崎方面に出荷された。こうした氷池は真垣内と東宮口にも存在していた」ひと昔前の山間部の田んぼで冬場スケートする子供達の姿を見たことがあるが氷とは驚きだ。そんな氷も温暖化の影響で成立しなくなったんだろうね、身近にも氷が張る光景を見なくなった。気候が変わってしまったのを実感する。「あやめ恋路」を氷池跡からそのまま室町塀沿いに上に向かいます。壁と紅葉が続く石段の小路、壁の向こうを歩くより自然に包まれ落ち着いた雰囲気が味わえる。壁の先に高月院の山門が姿を見せ始めました。少し上がると視線の先に高月院の伽藍が視界に入ってきます。紅葉に包まれた「あやめ恋路」も間もなく途切れます、山門はもう近い。因みに山門前に駐車場もあり、わざわざ東照宮から歩く必要はありません。松平東照宮から駐車場までは普通に歩いてしまえば5分くらいでしょうか。高月院まで訪れるなら「あやめ恋路」を歩くのをお勧めします。せせらぎの音を聞きながら、こうした紅葉や山野草など探しながら歩いていると、とんでもない田舎に来た感じですが、ハッチョウトンボの飛び交うこの郷へは、豊田スタジアムから車で30分もあれば手軽に味わえる。四季折々に表情を変える松平郷、お気に入りの場所になりそうです。…というか、「ふるさとの小径」、途中で道を見失い経由地の松平城跡には辿り着けず、「親氏」の銅像横に出てしまい一周できていない。雪が降りしきる時を狙って再度歩いてみます。松平郷「あやめ恋路から高月院へ」松平東照宮から光月院山門まで / 所要時間徒歩5分程東海環状豊田松平ICよりR301にて車で約15分。関連記事 / 八幡神社・松平東照宮 / 『親氏公行場跡』 松平郷 / 松平郷の紅葉
2021.12.13
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守山区川北町市内から庄内川を越え春日井にアクセスする松川橋。夕陽の庄内川を撮りに堤防に出る一心でゆとりーとライン「川村」駅から堤防に向かって歩いていました。道は堤防で行き止まり、何気に右手に瓦葺の建物が視界に入ってきました。以前からこの辺りに神社はない認識でいましたが、意外にもそこで神社を見付けました。いつから鎮座するのか過去(明治)の地図を見るも記されていなかった。当時は川村の中で庄内川に最も近い集落、1978年守山区大字北・大字大森垣外の一部から川北町として成立したようです。地図で云えばゆとりーとライン「川村」駅から県道30号線を越え、堤防に向かう住宅街の交差点角になります。色々と調べて見るも手掛かりはなく、こうして天王社と書いてはいますが、正直自信はありません。これがその全景で、三方吹き抜けで奥が壁、最初は正直分かりませんでした。それも正面に来てそれが覆屋だと分かります。壁だと思っていたいたのは実は社の台座、その上に真赤な社と素木の社の二社が祀られていました。覆屋東側から見た全景。覆屋の中の台座の上には真赤な社と小さな鳥居。守山で赤い社となれば「天王社」だろうと根拠もなく決めていますが、近くの村合町に鎮座する神明社には同様の外観で津島社があったりします。社名札はなく、扉も閉じられ御札から判断もできません。左にも社があり、こちらも社名札はなく詳細は分かりません。堤防も近く災いも多かった地域柄、集落の守り神として祀られたものでしょう。ここまで上げるかと思うくらいの高さに板宮造りの社が祀られています。境内も覆屋も綺麗に手入れされ、川北町の守り神として崇められているようです。詳細は分からずじまいですが、ひょっとして近くの川嶋神社に伺えばすっきりするのかもしれない。何れにしても自分では無いと思っていた地域で神社を見付けたのは新たな発見だった。(グーグルマップには既に記されていました)分からない事ばかりですが、この場では「川北町の天王社」とさせてもらいます。……ひょっとするとこの東の川上町にも神社が祀られているのかもしれない。「住宅街の森には神社か古墳あり」も通じなくなってきた。そういえば夕陽〃、美味しい時間は過ぎてしまったか。2021/12/1川北町の天王社と不明社祭神 / 不明創建 / 不明所在地 / 名古屋市守山区川北町328公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン「川村」駅降車徒歩2分関連記事 / 守山区史跡散策路 14 川嶋神社 守山区村合町『新明社』
2021.12.10
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白兎神社は、鳥取県北部の日本海に面した白兎の身干山の麓に鎮座し、鳥取市内から車で30分程。白兎神社の参拝者駐車場は国道9号線沿いの道の駅「神話の里白うさぎ」、今日はこちらの道の駅で車中泊させてもらいます。白兎は神話「因幡の白兎」の舞台となった場所で、日本最古の恋物語の地として広く知られています。それを裏付けるように神社周辺や白兎地区には神話の舞台が点在し、白兎神が流れ着いた淤岐之島、気多之前と呼ばれ白兎神が鰐に皮を剥がれ上陸した岬や白兎神が傷口を洗った不増不減池などの「白兎の神跡」を見ることができます。道の駅「神話の里白うさぎ」は正にその真っただ中に建っています。白兎神社の由緒となる「因幡の兎」は「古事記」にも記された神話。因幡の國八上の郷に美しい姫(八上姫)がいると伝え聞いた八十神達は、八上姫を射止めようと貢物を用意しそれらの貢物すべてを弟の大穴牟遅神(大国主命)に持たせ、先に因幡の国の八上姫のもとに向かったという。途中の海岸で皮を剥がれ傷ついた白ウサギが泣いていたが、八十神達はこれに誤った治し方を教え嘲笑っていった、そんな白ウサギに大国主命は訳を聞き、「水門へ行き水で傷口を洗い、ガマの花を下に敷き詰め、その上で養生すれば快復する」と導き、それに従った白ウサギは見事に完治したという。白ウサギは助けてくれた大国主命に「八上姫は、きっと優しい大国主命の妻になりたいと言われる」と予言したいう。八上姫は八十神達の申し出を悉く断ったが、大国主命の申し出は予言通り受け入れられたという。参道にはそんな神話を想像させる美しい八上姫の砂像が作られていた、ここは縁結びの聖地なのだ。道の駅左の駐車場に白兎神社の社頭がある。左右に社標と右にピンクのポストがある。右後方が白兎神社の樹叢、樹々は日本海から吹き付ける風で見慣れた杜の姿とは少し様相が違って見えます。緩やかに続く参道は杜の中に続いて行きます。日暮れ間近になると参拝者も少なく、参道途中で授与所の方とすれ違う、御朱印は諦めかな。一ノ鳥居額「白兎神社」上鳥居右のピンクのポストと後方に「恋人の聖地で縁結び」の看板、いかにもの演出だ。下白兎神社と社叢の解説。「因幡の白兎」で有名な白兎神を祀り、社叢は季節風を黒松が遮り、日本海岸の原始林の姿を留める」解説板から身干山を眺める、手前の丘には国学者北里闌の歌碑が立っている。「鰐の背に 似たる岩みゆ 蒲ならぬ 波の花散る 気田の岬に」丘の下に「北里翁歌碑」の石標。参道途中の覆屋に展示されている砂像。八上姫に求婚する大国主命の姿と傍らで成り行きを見守るうさぎが描かれている。そもそもこの白うさぎ、淤岐ノ島に流れ着き、島から気田岬に渡ろうと思うあまり、海の鰐を騙して、その背を踏んでに岬に降りたとうとした。降りたとうとする直前、よせばいいものを騙したことを鰐に告げたもんだから、怒りの余り鰐は兎の毛を剥ぎ取ってしまった事に始まっている。ある意味自業自得。白兎神社の社叢は国の天然記念物に指定され、白兎海岸沿いの丘にあり海から吹き付ける風で幹や枝が風下側に傾いた特徴のある森と日本海海岸地方の植物分布を残し、特にハマナスが自生する南限としても知られているようです。石畳が敷き詰められた参道はニノ鳥居へと続きます。参道沿いはこうした常夜灯?が一定間隔で立てられ、それら一つ〃に表情や姿の違う兎の像が乗せられています。そこには白い石にピンクの文字で縁と書かれた「結び石」が無数に乗せられています。「結び石」は社務所で頂けるようで、兎に乗せるだけで願いが叶う。難易度は高ですが鳥居に向け「結び石」を投げて鳥居に乗れば願いが叶うとも云われるようで、そうした事もあり写真のニノ鳥居には多くの「結び石」が乗っかっている、乗らなかったことを考えると御利益が同じならば……。ニノ鳥居からは平坦な参道となり、左に手水舎が見えてくる、船を模った手水石に智慧袋から清水が注がれ、上には白兎が乗る。静まり返った境内に水音だけが聞こえる。参道を隔てた向かいが御身洗池、不増不減の池と云われたりもする。自然の偶然が生んだ不思議な場所。鳥取砂丘の西端にあたり、池の底の岩盤と砂の微妙な境界により四季を通じて減りもせず、増えもしない事からこの名が付いたそうです。白兎は導き通りこの水で体を洗い、周辺に自生する蒲の花を下に敷き詰め養生したという。塩水よりは確実にいいだろうが……、過度な潔癖症のご時世にあってどうなんだろう。下世話な話はともかく、ブラタモリで仕組みを教えてくれない時代にあって、ここは不思議な場所だった事だろう、それは今も水が蓄えられ変わる事はない。御身洗池からすぐ左に社殿が見えてきます。切妻妻入りの拝殿に、同様の拝所が付きそこには大きな注連縄と額が掛けられています。この左手に社務所があります。拝殿前の狛犬は前屈みで、尾をピンと立てた姿はいつでも飛び掛かれる隙のないもの。年代は見なかったけれど勇猛な姿と「凱旋記念」と刻まれた台座から想像はできそうです。この後方にある常夜灯には寛政の文字が刻まれていた。境内右に白兎神社の由緒書き。御祭神 白兎神を主神として保食神を合祀。鎮座地 鳥取市白兎603番地例祭 4月17日御輿途御行事あり白兎神社は古事記、日本書紀に記されている由緒明らかな所謂「因幡の白兎」で有名な神社。……中略日本医療の発祥の地であり、古来病気傷病に霊験あらたかな神様で、大国主命と八上姫の縁を取り持った結びの神様でもある。神紋は亀甲に剣花角大きな注連縄は、出雲神社の注連縄を納める「飯南町しめ縄クラブ」の方々により2014年に奉納されたものだという。参拝を済ませ社殿をひと回り。社殿全景、本殿のある境内は一段高く盛られ、更に石垣を積み本殿域が作られています。白兎神社本殿創建は不明で現在の社殿は明治の頃に再建されたもの。拝殿は幣殿と一体となり大社造りの本殿と繋がり、外削ぎの千木に2本の鰹木が付く。主祭神は白兎神皮膚病・傷病・病気平癒、医療、縁結びに御利益がある。豊玉比売縁結び、安産、育児、海上安全にご利益がある。 もとは気多ノ前の神ヶ岩にある川下神社の豊玉比売が、大正元年に白兎神社へ合祀されたもの。保食神農業守護、漁業守護、開運招福、災難厄除け、航海安全、縁結び、子宝、安産、出世、家内安全など。特に人目を引く意匠が施されている社殿ではないけれど、本殿を支える菊座石は見ておきたい。本殿を支える土台石に二十八弁の菊の紋章が施され、こうした菊座石は全国的に珍しいと云う。「神社創建と皇室が何らかの関係があったものと云われる」と書かれている。本殿を支える土台石。真横からでは分かり難いけれど少し見下ろすと確かに菊の紋章が見て取れる、これが皇室とどのようなかかわりがあるのかは定かではないようだ。身干山を前にして佇む白兎神社。社務所前から眺めた社殿。おみくじの結び所もハート型、白兎神社の御神徳を表している。ニノ鳥居から一ノ鳥居、その先に白兎海岸が望める。そこには先の写真のように大国主命が八上姫に求婚したとされる恋島がある。2021/10/24白兎神社創建 / 不明 秀吉の鳥取攻めで社殿を焼失、後の慶長年間に再興され、寛文、安永、明治と再建。祭神 / 白兎神合祀 / 豊玉比売、保食神所在地 / 鳥取県鳥取市白兎603鳥取東照宮からのルート / 国道9号線で25分程関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1、鳥取東照宮
2021.12.09
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半田市乙川北側町2「香取神社」知多四国八十八番外奥之院の海蔵寺から南西の若宮神社を経て、社頭から右に進んだ左側に鎮座する。今回訪れた中で一番魅かれた神社かもしれない。上は先に掲載した海蔵寺、若宮神社と香取神社の位置関係。明治の地図には香取神社を示す印は表されていなかったが、若宮神社から徒歩で2~3分ほどの西山神楽車の山車蔵の左に鎮座しています。御神木は推定樹齢450年とされるイブキの樹、幹はうねる様に上に伸び枝葉は社殿を覆わんばかり。社殿は石垣が積まれ一段高く盛られ本殿域に周囲を玉垣と神門で囲み、覆殿の中に本殿が祀られているようで、手水舎は写真右側の常夜灯の横にあります。鹿取神社総本社は千葉県の香取市に鎮座する下総国の一之宮「香取神社」で全国に400社近くあるそうですが、この地方ではあまり馴染みがないかもしれない。小社ですが歴史は古く、由緒書きは以下「香取神社 本宮千葉県佐原市明徳時代(1390年頃)毘沙門として創建、明治8年頃に現社名に改称された。祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)毘沙門さん 明徳時代の御祭神で福の神、戦の神の御神徳が有名」とある。どこから勧請されたものかは記されていないけれど、祭神の経津主大神(伊波比主命)は出雲の国譲りの神話に登場する神様。天上界を治めていた天照大神は自分の息子が地上世界を治めるのが相応しいと考え、古代日本の荒ぶる地上世界(葦原中国)を治めていた出雲の国の大国主神のもとへ何度か遣いを下ろすも取り込まれ戻ってこない。満を持して遣わされたのが経津主大神と武甕槌大神の二神で、それにより大国主神は地上世界を天照大神に譲り、その見返りに大国主神のために出雲大社が建てられた。そうした武徳から平和・外交の祖神として、勝運、交通安全、家内安全、災難除け、産業指導、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として広く崇敬されている。桟瓦葺の玉垣に囲まれた香取神社、鳥居や狛犬はなく小さな社殿かもしれない。いつも感じるけれど、格式も敷居も高い大きな神社より、街角のこうした身近にある神社の方が妙に魅かれる。綺麗な街並みの中にポツンと荒廃した小さな神社の姿を見かけると、街並みも色あせて見えたりもします。町の守護神として住民の方々からどれだけ崇敬されているかがよく分かります。失くした町に住む者がこうして綺麗に維持された神社を見ると、地元の結びつきの強さみたいなものが感じられ時に羨ましく思ったりもします。半田に山車や祭りが受け継がれているのも、そうしたものが住民同士の結びつきを繋ぐ役割を持っているのでしょう。香取神社由緒書き。神門の軒下の透かし彫りはうずらとあわ?社殿の斜景、町の神社らしくこぢんまりと纏まっています。西山山車保管庫の右に方型の小さな地蔵堂がありました。詳細は不明。香取神社境内全景。右手が西山山車保管庫、中に保管されている西山神楽車は建造は天保年間(1830~1844)とされ、明治、昭和と修理され今に引き継がれている。香取神社創建 / 明徳年間祭神 / 経津主大神(伊波比主命)所在地 / 半田市乙川北側町2-1若宮神社から徒歩ルート / 南へ2~3分関連記事 / 若宮神社
2021.12.08
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2021/11/18松平郷の紅葉を見に出かけました。帰り道、身近で買いそびれたラズベリーの苗木はないものかとJAあいち豊田グリーンセンター 松平店に立ち寄ってみました。目的の苗木はなく、衝動買いで原木シイタケを買い求め、小腹も空いていたのでこちらのフードコートにある若葉亭で昼食を摂る事に。そこで食べたシイタケバーガーがとても美味しかったので紹介します。グリーンセンター松平店は東海環状自動車道の橋脚が聳える国道301号線沿いにあります。写真はフードコートの外観、大きなみたらし団子が目印。店内は良くあるショッピングセンターのフードコートそのもの。さて何にするかな?・・・シイタケバーガー?、価格も良くあるファストフードより安いかもしれない。他のメニューも手頃な価格設定。松平郷のある松平はしいたけが特産品、ならばご当地のしいたけを使ったハンバーガー食べて見よう!オーダーしてから厨房で一つ一つ作るので多少時間はかかります。日頃買う機会の多いMのメニュー写真と現実のギャップに毎度呆れたりする。正直期待はしていなかった。少々待って出て来たシイタケバーガーは想像を裏切るもので、パンズはふっくら柔らかくレタスもシャキシャキで揚げたてのタネは熱々でボリューム満点。外観もなんとなくシイタケに見えなくもない。特産のしいたけは肉厚でタネと一緒に揚げた物が挟まれている、この揚げ方が自分には合っていて、外は見事にサクサク、気持ちがいいほどのサクサク感、さりとて中身はジューシー。期待値が低かったこともあり、想像を超える美味しさとボリュームに大満足。食べている間にも地元の方だろう、幾つも買い求めテイクアウトする姿を見かけた。バーガーはこれ一品ですが、それが逆に意気込みがあって潔い。シイタケ好きにはツボにはまるバーガー。何かの機会で近くに来たらリピートしたい、松平のご当地グルメといってもいいだろう。どこぞのバーガーと比較してもこれは印象に残る美味しさだった。JAあいち豊田 グリーンセンター 松平店営業時間 / 9時~18時定休日 / 月曜定休所在地 / 豊田市松平志賀町丸山5−1関連記事 / 松平郷の紅葉
2021.12.07
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知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所「世昌山 宝全寺」かみさんの知多四国88カ所巡礼もゴールが見え始め、年内にコンプリートに向けラストスパートがかかった様です。11/20、この日は「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」の納経を目指します。 名鉄常滑駅から県道252号線を南下し大落川に架かる「いちば橋」、その手前で上流に向かいます。いつもの事ですが、道は狭くて対面通行なので大型車で分け入るのは躊躇する場所です。大落川沿いの情緒ある道筋を数分歩き、正面に小さな橋が見えればその左が「知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所宝全寺」です。寺の前の道筋は常滑街道でその街道に面し玉垣と石柱門が建っています。お寺に玉垣というのも何となく神仏習合の名残を感じます。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 曹洞宗「世昌山 宝全寺」全景。正面から撮りたいところですが、何せ狭い道なので斜景が精一杯。写真右手に参拝者向けの駐車場があるようですが、駐車場は2~3台で一杯になりそうです。石柱門から境内の伽藍を見ていきます。下は本堂脇に掲げられていた案内図、手作り感満載ですがとても分かりやすいものです。参道左から三十三観音堂と十王堂、秋葉三尺坊大権現堂と並び、弘法堂とその右に三宝荒神様を祀る小さな祠があり正面に金毘羅堂と続き、正面には本堂、参道入口右に地蔵堂と手水舎の伽藍。上は三十三観音堂と十王堂、堂正面に三十三観音と十王の説明が貼られていて、写真に収めてみましたがラミネートに外光が反射し内容が読み取れなかったのが残念。堂内は左に左に十王が並び、中央に弥勒菩薩と釈迦如来の姿、右に三十三観音が安置されています。この右に秋葉三尺坊大権現堂がありますが、単独の写真を撮り忘れていました。その右がむくり屋根の向拝を持つ寄棟瓦葺の弘法堂。右の小さな祠が三宝荒神様で更に右が金毘羅堂。左の金毘羅堂と本堂。何れも瓦葺で金毘羅堂は切妻妻入りでむくり屋根の向拝が付く。本堂は寄棟の平入で納経所は本堂右にあります、右手から続く参道は庫裏に続きます。訪れた時はこちらの住職は体調を崩されているようで本堂は施錠され、手書きの解説や納経印は御自身でと書かれた貼り紙が至る所に張り出されています。かみさんの話では、納経印を自分で押してきたが綺麗に押せなかったと残念がっていました。手作り感満載の案内図は詳細に描かれ、初めて訪れた者にはとても分かりやすいものです。案内図を見ていくと神仏習合を強く意識させる内容です。こうした経緯など伺うことができるよう、早く全快される事をお祈りします。参道入口の地蔵堂と手水舎。鉢の年代は見ていませんが佇まいに年月を感じさせるものがある。地蔵堂内に安置されている「いぼ取り、がん封じ地蔵」この二体のお地蔵様は近隣の墓地で六地蔵として祀られていた内の二体だと云います。中央の納骨萬灵塔にはそこで収められていたお骨が納骨されているそうです。このお地蔵様がいつから「いぼ取り、がん封じ地蔵」に御利益があると云われるようになったのかは定かではないようです。既に奉納されている小石を持ち帰り、患部をこするとご利益を得ることができ、治れば借りた石を倍にしてお返しするものらしい。こうした悩みを持つ方には御利益があり、遠方から訪れる方もあるという。足元の二体のお地蔵様には文政、天保の元号が見える、かれこれ2世紀ほど前に彫られたものです。宝全寺 本堂全景。創建は1573年(天正元年)と云われる曹洞宗のお寺で本尊は 十一面観世音菩薩。住職の体調が優れず本堂は施錠され直接拝むことは叶いませんが、ガラス越しに写った写真には左に弘法大師、中央に十一面観世音菩薩、右に閻魔大王の姿が見える。本堂左の金毘羅堂。堂前を守護する小さな狛犬と、その右に薬師如来像が安置されています。小さな狛犬は何気に表情も可愛いく見えてくる。賓頭盧様は風貌から察するには随分と願いを聞いてきたのだろう。堂内には十一面観音、弘法大師、菅原道真、弁財天、大黒天、秋葉大権現など祀るようです。向拝先端の瓦にご注目、左右には訪れた者を眺めるように天狗瓦が乗っています。左の天狗の鼻をよく見ると、高いはずの天狗の鼻が折れています、これは伊勢湾台風により被害を受け折れてしまったものらしい、右に比べると座り込んだ姿は表情も冴えないようだ。三宝荒神様の祠と左にお地蔵様。祠内に安置されている三宝荒神の姿は鋭い目つきなのは見て取れますが、全体のシルエットや彫られている文字など風化により読めなかった。金毘羅堂から三十三観音堂方向を眺める。中央の白壁が見えている建物が秋葉三尺坊大権現堂。狭い境内に神と仏がギュッと凝縮されている、そんな印象が残る宝全寺です。2021/11/20知多新四国八十八箇所霊場 六十四番札所世昌山 宝全寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1573年(天正元年)開創 / 雲騰龍吟大和尚開基 / 伊藤嘉蔵本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市本町2-248関連記事 / 知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」
2021.12.05
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毎年恒例、名古屋市北区山田三丁目の金虎酒造へ年越しの酒を買い求めに行ってきました。杉玉が吊るされた軒下、その下に紅白の幕が張られ今年の新酒が並べられている。金虎酒造善光寺街道入口山田村で初代大阪屋善兵衛が酒造業を始めたのが1845年(弘化2)と云う。「金虎」の屋号は名古屋城の金鯱と、三代目善兵衛が寅年であった事に由来するといいます。市内で身近に訪れる事の出来る酒蔵です。毎年12月に入ると初しぼり、にごり酒など直売コーナーで販売します。我家のお目当ては金虎『にごり酒』無くなり次第終売、なので出遅れると探し回って手にいれる事になります。今年の出来はと尋ねると、今年は気温が高く、その影響で菌が活発になり過ぎいつも以上に持ち運びに注意してくださいと云われた。いつも以上に活発? 出来について言及しなかったが期待していいのか?いつもの様に初しぼりとにごり(にごりは年越し前にほぼ枯渇)を買い求め、2021年の恒例イベントを終える、恒例と云えば梅酒の梅と酒粕は今年もプレゼントして頂けた。酒粕も焼いて摘みにするとこれはこれで美味しいものでお楽しみの一つ。酒粕でもその年の出来が見えてくる。早速今年のにごりを味わう。開栓時の吹き出しは店頭で云われたほどでもなく、二・三度静かに振った後も噴き出す事もなくいつもと同じ。かみさんと二人で軽く一口・・・・・・ン?一年ぶりなので味覚は当てにならないが何か違う。柔らかな口当たりより、雑味が先に来て妙に角が立つ、「こんなんだっけ?」とお互いが口にした。おいしいのは間違いなく美味しいのだが、何か違うような。酒粕は焼いて摘みに、・・・・・ン?天候の影響が・・・・・ン? に現れるのだろうかネそれでも師走の一つのイベントを終えると、一年が風の様に過ぎて行こうとしているのを実感します。二年続けて流行病に振り回され、この二年はなんだったのと思っている方が多数だと思います。生涯に一回しかないイベントやら出会いの機会が悉く失われた2年だったかもしれない。流行病が学んで成長していくように、人もまた2年で付き合い方や相手を知る学びの機会を得た、経験し成長していきたいものだ。来年の寅年が流行病制圧を祝う歓喜の雄叫びを上げる年になる事を期待し、丑のように着実に実践できることをし続けていくしかないのか。取り敢えず家族が皆健やかである事が何より大切なことだ。2021/12/3金虎酒造株式会社名古屋市北区山田三丁目11番16号
2021.12.04
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2019年秋から巡り始めたかみさんの知多四国八十八箇所霊場巡り、残りは5番と87、88番札所を残すのみ。なんとか年内に一巡しておきたいと思うのは人情だよね、天候を見ながら昨日ならいいだろうという事で廻ってきました。本来なら88番札所でゴールとしたいけれど残った札所を考えると効率が悪い、万願寺でゴールは諦めてJR共和駅に降り立ち歩きだす、まずは五番札所地蔵寺を目指す。ルートは上の様なルートで途中には寺社や城址がありますがいつも足手纏いになるので極力スルーした。長草天神社共和駅から南西に進み県道243号線沿いに20分程で長草天神社到着。天神社だけに鳥居をくぐると左右に大きな撫で牛が出迎えてくれる。創建が1494年(明応3)とされ、地頭・藤田民部の邸に祀られていた菅原道真を産土神として迎えたのが始まりとされるようです。かつて英比(あぐい)ノ庄に属し、道真の孫の菅原雅規(英比丸)も祭神として祀られている。菅原道真を祀ることから、合格祈願に訪れる若い参拝者は多いと云う。長草天神社では室町時代から500年以上続く「とぶろく祭」が今も引き継がれ、大府市無形民俗文化財にも指定されているそうで、毎年2月25日の直前の日曜日に開催されるそうです。地頭の藤田民部が寄進した田の収穫米でどぶろくを造り、氏子や参拝者に振る舞ったのがとぶろく祭の起源とされています。境内左にどぶろく酒造所があり、6つの酒元組が輪番でどぶろくを醸造、「とぶろく祭」当日に1年の無病息災を祈願し参拝客に振る舞われるそうだ。…これは機会があれば来るしかないナ。その他境内には道真が大宰府から流される時に詠んだとされる歌碑や鷽替之碑などがある。西に隣接する地蔵寺とは江戸末期まで同じ敷地内にあり、境内西側から地蔵寺山門前に繋がっている。長草天神社創建 / 1494年(明応3)祭神 / 管原道真、菅原雅規境内社 / 津島神社、五社宮(神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社所在地 / 大府市長草町本郷44延命山地蔵寺1573年(天正元年)に地頭・市村伝四郎が地蔵堂を建立したのが始まりとされ、1575年(天正3)に、東海市横須賀の長源寺から教岩和尚を迎えて開創されたと云われます。東に隣接する長草天神社とは江戸末期まで同じ敷地内にあり、神仏分離により敷地が分けられましたが、山門左から長草天神社に繋がっています。本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子作と伝えられ、本堂左には寄棟瓦葺の弘法堂、その右には1939年(昭和14)に、紀元2600年の記念として高さ3.5㍍の大きな大師像が安置され、納経に訪れた巡礼者を見守る様に聳えていました。「延命山地蔵寺」勧請 / 1573年(天正元年)開創年 / 1575年(天正3)開創 / 教岩玄相和尚宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40番地地蔵寺から県道248号線沿いを西に、末広交差点で右に進み県道23号線を北上します。県道は一部歩道はあるものの、大半は歩道がなく車道を歩くので車には要注意。沿道には既に菜の花が咲き、一方では秋の実りサツマイモの収穫となんだか妙な季節感。県道沿いの田畑が広がる風景の中に小さな地蔵堂が立っていた、右手の森には神社でもあるのだろうか。瑞木山圓通寺地蔵寺から30分程で圓通寺に到着。知多四国霊場八十八番札所の八十八番札所、寺の片隅に満願霊場の石標が建つ。かみさんの知多四国霊場八十八カ所巡礼もここで終わりを迎える。この後伺う八十七番札所が残っているが、ルートの関係で先に納経とした。圓通寺は現在本堂の修復工事(新築?)中。境内をぐるっと見て廻りたいところですが弘法堂までの参道以外は立ち入り制限がかかっています。工事中の姿を遮るものなく見る機会はさほどなく、丁度瓦を葺いている光景を見ることが出来た。建替なのだろう、屋根のみならず木造の真新しい素材が輝いていた、二巡目には工事も終わり新しくなった姿を見られるだろう。建物の維持管理が円滑に進む寺院もあれば、それに苦慮する寺院もありその差を目の当たりにするのが知多四国巡りでもある。729年(天平元年)、行基菩薩により開創されたと伝えれる曹洞宗の寺。応時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に襲われ、衰退していくが、1348年(享和4)夢窓国師が中興開山、宗派は開創以来、法相宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗と改宗されてきたようです。弘法堂は本堂の左に位置し寄棟瓦葺。堂内には弘法大師、毘沙門天、馬頭観音が祀られ、堂前の五色の紐は中の弘法大師と繋がっている。御詠歌 慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く「瑞木山圓通寺」開創年 / 729年(天平元年)開創 / 行基中興年 / 1348年(享和4)中興開山 / 夢窓国師宗派 / 曹洞宗本尊 / 馬頭観世音菩薩札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番所在地 / 大府市共和町小仏67番地JR東海道本線「共和駅」より、徒歩約15分「山神社」圓通寺から県道23号線、県道50号線沿いに30分程歩く。丸根砦跡の南を走る県道50号線(師崎街道)の道路際に真新しい「山神社」の社標があり、その奥の杜に社地を構える小さな神社が「山神社」緑区の山神社としては唯一独立した社叢を持つ神社だと云う。覆屋の中に祀られている本殿の創建は定かではないようですが、1650年代(江戸時代初め)の記録には既に記載が残ると云われている。祭神は大山祇命東海道線の高架が万里の長城の様に社頭の前を遮り、忘れ去られた様にポツンと鎮座していますが、以前は社頭前に踏切があり、大高の町に通じ人の往来は多かったのだろう。山神社創建 / 不明祭神 / 大山祇命所在地 / 名古屋市緑区大高町西丸根関連記事 / 丸根砦跡「山神社」から大高駅方向に向け県道50号線沿いに5分程歩くと右側に「長寿寺」が鎮座します。知多四国霊場八十七番札所で山号は鷲頭山、寺号は長寿寺と称し臨済宗永源寺派の寺院。本尊は阿弥陀如来で知多四国霊場 八十七番札所。その他に知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所でもある。コンクリート造りの伽藍で知多四国八十八箇所霊場の寺院としては半島先端で見かける寺院の姿とはかけ離れた立派で庭も綺麗に整備されている。本堂手前の右に方型屋根の弘法堂があります。鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。当山はもともと真言宗長祐寺と称したが、1560年(永禄3)鷲津砦の兵火で伽藍を焼失。江戸時代、大高領主の志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰が厚く、その臨終に際しこの地に禅寺の建立を孫忠時に遺命した。1682年(天和2)徳川光友の援助もあり伽藍が竣工し、春日井郡三淵村の臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の「紫金山慈眼寺」を開山した越伝和尚を招聘し中興開山、この時宗派を黄檗宗へ改宗、寺名も祖母の法名に因み「長寿寺」に改め、現在の宗派になったのが1691年(元禄4)石梯道雲和尚の時される。志水家の菩提寺として厚遇され、「尾張名所図会」にも挿絵が描かれています。特徴のある山門東側に高蔵坊稲荷神社の鳥居があります。この神社には昔話として「むかし〃寺が傷んできて修理もできず住職の高蔵坊は困っていた、その頃この山に一匹の狐が住んでいて、住職はこの狐をとても可愛がっていたという。住職の嘆きを知った狐は、住職の姿に変化し村々を巡りこの寺の御利益を説いて廻ったという。その結果、お参りの人々が訪れる様になり、寺は立派に修理できた」村人はその狐を高蔵坊狐と呼び一層可愛がったそうで、後に村人は、お堂を建てこの狐を祀ったのが高蔵坊稲荷神社だという。「鷲頭山 長寿寺」創建 / 不明開山 / 越博紹付、開基 / 長寿院元操尼中興年 / 1689年(元禄2)、 中興 / 中興道雲石梯宗派 / 臨済宗永源寺派本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場 八十七番札所、知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所所在地 / 名古屋市緑区大高町字鷲津山13番地関連記事 / 「紫金山慈眼寺」春日井市鳥居松町一巡目最後の87番の納経を終え、2年がかりでかみさんが巡った知多四国霊場八十八カ所霊場、ひとまず一巡を終えた。この間、会社の都合で一緒に納経したのは数えるほどしかないけれど、二巡目は足かせも外れ全て一緒に周れるはずだ。実際に歩いて見ての感想。大勢で歩くイベントならともかく、歩道が未整備だったりして、歩く横を吹っ飛んでいく車が多く、そこを延々歩くのは注意が必要。総歩行距離約7.5㌖ 総歩行数18,000歩、前日の天気の影響で多少風は強かったが思ったほど寒くもなく快適に歩けました。帰る前に情熱餃子鳴海店で遅いランチの満足ランチ800円なりとビールで喉を潤し、大高駅から家路に着く。所在地 / 名古屋市緑区鳴海町下汐田74今回の徒歩ルート / JR共和駅からJR大高まで徒歩7.3㌖・90分下はJR大高駅で見かけた史跡散策路のマップ、見所の多い町です。
2021.12.04
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海蔵寺参拝者駐車場の西側の道路を左に1~2分程歩く、住宅地の中、前方右側に広い空間が現れます。若宮神社の社地で、道路から振り返れば海蔵寺本堂の大棟が見えるくらいの距離感にあります。知多四国を歩いていたからこそ出会えた神社です。住所は半田市乙川若宮町、町名からして若宮神社の名を冠している。面白いのが周辺の住宅街と神社神域の境界となる玉垣が社地を囲っていない。若宮神社境内全景。横長の切妻平入拝殿に千鳥破風と唐破風が付きその後方に覆殿らしき建物の伽藍。境内左に境内社が二社祀られていました。社頭から境内全景。車道に面した社地はどこからでも境内に立ち入る事ができます。訪れたのが9月も終わろうとしているのに、まだまだ半袖で十分な陽気でした。深い杜がある訳でもないので境内は明るく、風の通りがとても良かったのが印象に残っています。広い社地の南側に常夜灯と鳥居が建ち、左には手水舎があるが社標はここには見られなかった。結界となる玉垣がないだけでこの神社が妙に身近な存在に感じられる。境内には由緒書きらしきものが見当たらなかったので手水鉢を診て見る。そこには弘化?5年戊申(1848)と彫られていた。読みにくいけれど元号の下に化が付いて五年の戊申というと弘化で間違いないだろう。綺麗な社殿の外観から想像できないくらい、古くからこの地で何世代にもわたり氏子達を見守ってきた神社のようです。上は1890年(明治23)頃の神社周辺、海蔵寺の直ぐとなりといっても過言ではない。田畑に囲まれた乙川村集落の北外れに鳥居は記されている。境内の燈籠や狛犬など目を通してみたが、鉢が一番古い寄進のようだった。どこまで遡れるのか地史など調べて見ましたが明確な記述は見つけられなかった。拝殿全景。コンクリート造りですがとても安定感のある外観で、破風がアクセントになり、いい姿をしている。拝殿前を狛犬が守護する。肉付きも良く、これ以上開きませんとばかり目を見開き眼光は鋭い。若宮神社で印象に残るのが拝殿の破風かもしれない。参拝を済ませ拝殿から本殿方向を眺める。拝殿から先は覆殿となっているようで、そこには石垣で一段高く積まれた台座の上に本殿が祀られていました。画像が不明瞭で本殿が良く分からないけれど、茅葺か檜皮葺の流造の様に見えます祭神は仁徳天皇(大雀命)創建等の詳細は不明。境内左に二社の境内社。左の社は秋葉神社。右の社が熱田神社。境内西側の杜が作る数少ない木陰の下に整然と祀られていた。どこからでも境内に出入りできる社地、少し調べて見ると…亀崎には山車がありました、この一帯にも山車が受け継がれているようで、3月の春の祭礼では浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛が、若宮神社とここから南に鎮座する乙川八幡社を二日間にわたり巡行されるそうです。山車の巡行のために玉垣で囲っていないのかも知れません。知多四国を巡りながら「チョットだけ」と寄り道するもんだから時間の過ぎるのが早い。かみさんの目が「次の札所いくよ」と訴えている。とてもお待たせしました、先に進もう。若宮神社の社頭から西の通りに出ると、社標はここにあった。2021/9/24若宮神社創建 / 不明祭神 / 仁徳天皇(大雀命)境内社 / 秋葉神社、熱田神社所在地 / 半田市乙川若宮町38関連記事 / 「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」知多新四国八十八箇所霊場番外海蔵寺駐車場からの徒歩ルート / 西に1~2分公共交通機関アクセス / JR武豊線「乙川」降車北に徒歩15分程
2021.12.03
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鳥取市上町の市内中心地。県庁や鳥取県警が置かれる地域で、樗谿公園の東端に「鳥取東照宮」は鎮座する。樗谿公園内の鳥取市歴史博物館第二駐車場に車を入れ、鳥取東照宮へは右手方向に歩いて行きます。この樗谿公園は鳥取城跡の東にあたり、鳥取藩主池田光仲が造営した因幡東照宮(樗谿神社)の社叢の一画にあり、鳥取東照宮の表参道に隣接して整備された公園。園内は芝生が植えられ、綺麗に整備された園内にはもみじや梅などの樹々が植えられ、表参道に添いに流れる樗谿川は保護活動によりホタルも舞うそうだ。訪れた時は園内のもみじが色づき始めていました。駐車場から鳥居までは徒歩で2~3分、木造の両部鳥居の前へ。参道はこの先で二手に別れ右に進むと太閤ヶ原に続く自然歩道、東照宮へは左に進みます。額には東照宮と記されている。明治時代から2011年までの一時期は樗谿神社とも呼ばれていたようです。別れ道の案内板、ここでは樗谿神社に向かいます。深い森に包まれた静かな自然歩道はウオーキングする方も多いけれど、黄色の看板には要注意。左に進み樗谿川を渡った正面に鳥取東照宮権現茶屋、東照宮の御朱印はこちらで頂けます。東照宮へは右手の神門をくぐり石畳の参道を更に進みます。門の前にはポニーが散歩していまし、東照宮に向かう参道左に公園があり、そこで飼育されているポニーのようです。城門の様な瓦葺の重厚な佇まいの神門から石畳は東照宮随神門まで続きます。右手の樗谿川にはこうした錦鯉が悠然と泳ぐ池があり、夏の夜には蛍の舞う姿が見られる。参道を進むと正面に手水舎と左に随神門。上随神門の手前に掲げられていた解説、随分と長いが内容は以下。「重要文化財樗谿神社本殿・唐門・拝殿及び幣殿指定年月日 昭和二七年七月一九日樗谿神社は、慶安三年(一六五〇年)鳥取藩主池田光仲によって、日光東照宮の分霊を勧請して造営され、因幡の東照宮とも呼ばれる。池田氏は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、特に池田輝政(光仲の祖父)は、徳川家康の信任がことのほか厚く、関ヶ原の合戦での行賞により姫路城守として播磨国(現在の兵庫県南部)五十二万石を所領とした。輝政は将軍家康のために西国大名を押さえ「西国将軍」とも呼ばれた人物で、家康の娘・督姫を継室に迎えている。池田光仲は、輝政と督姫の孫で、徳川家康にとって曾孫に当たる。このように徳川将軍家と深いつながりを持つ初代鳥取藩主池田光仲が藩主として行った大事業の一つが、曽祖父家康の霊を祀る日光東照宮の分社樗谿神社の造営であった。この造営には、日光東照宮を手がけた幕府お抱えの棟梁・木原木工允藤原義久らがあたり、完成後は神領五〇〇石を寄進され、藩内最高の社格として位置づけられた。神社本殿は入母屋造、檜皮葺きで周囲に玉石垣を巡らし、本殿前には唐門の中門を配している。拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きである。用材は総ケヤキ造りで、一部に彩色は見られるものの白木のままで、随所に桃山風の飾金具が見られる。権現造ではないものの桃山期の手法をよく残す江戸時代初め頃の代表的な神社建築である。また、社宝には狩野探幽の『三十六歌仙額』、『太刀』四振(いずれも県指定保護文化財)などがある。平成十五年五月 鳥取県教育委員会」下は随神門左の「日本遺産 因幡の麒麟獅子舞」の解説と右に「国重要文化財鳥取東照宮」の解説東照宮創建時の祭礼より姿を現したで麒麟の顔を持つ獅子舞で幸せを呼ぶ存在として、因幡地方で受け継がれてきているものだそうだ。随神門前景。意外なほどシックな門で光り輝くのは東照宮と書かれた額くらいなものです。その先に社殿が広がっています。随神門の額。随神門から先の参道には20基の石灯籠が奉納されています。これらは鳥取藩主池田光仲の家老や重臣14名により奉納されたものと云う。地方には徳川家への忠誠の証としてこうした東照宮が建てられ、鳥取藩の東照宮がここになります。入口の解説にあったように、日光東照宮を手がけた棟梁・木原木工允藤原義久があたり、拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きの総ケヤキ造りで素木造りと云っても良いかもしれません。鳥取東照宮は因幡東照宮(いなばとうしょうぐう)と呼ばれ、1874年(明治7)から2011年(平成23)までは樗谿神社(おうちだにじんじゃ)と称されていた。2011年(平成23)、本来の名称が「因幡東照宮」だった事から現在の鳥取東照宮へ改称されたもの。では参拝させてもらおう。拝殿正面の神社幕、扉、蟇股などいたる所に葵の紋が施され、さり気無く金色の飾り金具が飾られています。絢爛豪華な日光東照宮と比較すると全く派手さはなく、本来家康が望んでいた姿なのかもしれない。社殿全景。入母屋平入の拝殿と幣殿は一体で唐門と玉垣で囲われた本殿域に流造の本殿が鎮座します。拝殿側面の眺め。本殿域全景。周囲の玉垣は朱に塗られていたのか、至る所にその痕跡が残っています。重要文化財の唐門前の石灯籠は光仲の子、池田新五郎が奉納したものとされる。上唐門から正面全景。下本殿どちらも当然葵の紋が入っていて、本殿桁に左甚五郎の手による鷹の彫飾りがあるそうだ。彩色されていないと案内にありますが、劣化の影響でそう見えるだけかもしれませんが、唐門や向拝柱の表面には朱の様な赤みが見られる。拝殿正面の眺め。緑青の深い緑色の飾り金具、以前は金箔貼られ輝いていたのか?素木に緑青の緑は個人的にあっていると思いますが、そろそろ補修の手が必要な時期に近づいているのかも知れない。拝殿右から社殿側面の眺め。境内右に「探幽の井戸」解説の内容は以下「樗谿神社には歌は京都青蓮院二十九世門主尊純親王、絵は狩野探幽の手になる三十六歌仙の額と鷹の絵の額がある。慶安三年(一六五〇)四月創建された東照宮(樗谿神社の称は明治七年に定められた)の拝殿を飾るため鳥取藩主池田光仲が青蓮院門跡に所望して求めたものである。三十六歌仙の額は同年五月八日にできている(華頂要略、門主傅) 狩野探幽(一六〇二~一六七四)ははやくから徳川家康に厚遇され、家康の没後元和三年(一六一七)より幕府に仕え奥絵師となった。江戸時代の狩野派はこの探幽によって基礎が固まったのである。狩野探幽がこの地にきた資料はないが三十六歌仙の額と鷹の絵の額があることから、この井戸を「探幽の井戸」として今に伝えられたものであろう。」この井戸が創建当時からあったものなのか定かではないけれど、要するに探幽の名を付けた井戸という事だろう。探幽の井戸を覗かして頂き、再び拝殿から石段を下り東照宮を後にする。樗谿公園内ではクマ出没やクマ目撃情報の案内を見かけました、念のためクマ除け鈴があるとお守りくらいにはなるかもしれません。(…と云うか常につけるべきものになってきたのか?)2021/10/24「鳥取東照宮」創建 / 1650年(慶安3)主祭神 / 東照大権現配神 / 池田忠継、忠雄、光仲、慶徳所在地 / 鳥取県鳥取市上町87関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1
2021.12.02
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