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2019年4月29日、東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本1900」を見ました。クリムトの没後100年を記念する展覧会で、ウィーン・ベルベデーレ宮殿のオーストリア美術館の「ユディトⅠ」や、分離派館に飾られているクリムトの「ベートーベン・フリーズ」の複製が展示されており、見ててとても楽しかったです。クリムトの「ユディトⅠ」ですが、旧約聖書外典の「ユディト記」にある話を絵にしたものです。アッシリア王はユダヤの国を攻撃するため、司令官のホロフェルネスを派遣しました。信仰厚い女性ユディトは夫を病気で亡くしていましたが、思うところあって着飾ってホロフェルネスの元に行きました。酒宴の後、ホロフェルネスと一夜を共にする機会があり、ユディトは眠っていたホロフェルネスの首を切り落としました。これをきっかけに、ユダヤはアッシリアに勝つことができました。金箔を貼った絵には、裸体のユディットがホロフェルネスの首を持ち、喜びのような、恍惚のような、独特な表情が描かれています。「ベートーベン・フリーズ」は、クリムトがベートーベンを称えるために、ウィーンの分離派館の一室に描いた絵です。第二面は「敵対する力」として、ゴルゴン3姉妹、テュフォン、骸骨などが描かれており、印象的でした。ゴルゴン3姉妹は蛇の髪の毛で、特に三女は顔を見ると恐怖のあまり石になってしまうというメデューサです。テュフォンは巨大な怪物で、ゼウスと闘いエトナ火山の下敷きにされました。デュフォンが地下から逃げようとするたびに、地震が起きてエトナ火山が爆発すると言われています。第三面は、ベートーベン第九の第四章「歓喜の歌」をイメージしたもので、全裸の男女の接吻シーンが描かれています。昔、ウィーン・ベルベデーレ宮殿にあるオーストリア美術館に行き、クリムトやエゴン・シーレの絵を見たことがあります。「ユディットⅠ」を初めて見た時、なんとなく絵の主人公が歌手の「ジュリー(沢田研二さん)」に似ているなと思いました。↑ クリムト展の記念写真。↑ 東京・上野公園の東京都美術館。「クリムト展 ウィーンと日本」。↑ クリムト展 パンフレット。 「ユディットⅠ」。↑ 「女の三世代」。 赤ちゃん、母親、老婆。↑ ヌーダ・ベリタス (裸の真実)。↑ ゴルゴン3姉妹、テュフォンなど。↑ ベートーベン第九の第四章「歓喜の歌」をイメージしたもので、全裸の男女の接吻シーン↑ ラミューズ 第5号 オーストリア美術館。 1992年7月28日発行。講談社。↑世界名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編。朝日文庫。 1989年7月20日。朝日新聞社。 ↑ 朝日新聞 記念号外
2019.04.30
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2019年4月7日、岩国・錦帯橋と桜の風景です。吉香公園には、岩国第三代藩主の吉川広嘉(きっかわひろよし)の銅像があります。1673年に吉川広嘉の命により、5連アーチの木造橋が建造されました。翌年の1674年に錦川の増水で橋が流されましたがすぐに再建しました。1950年の台風で再び橋が流されました。コンクリートの橋にするかどうか議論されましたが、木造橋の希望が多く、木で再建されました。2002年~2004年には平成の架け替えが行われています。錦帯橋は橋面に沿って210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mで、江戸時代からの伝統工法による木組みの橋です。↑ 吉香公園にある第三代岩国藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)像。↑ 皇太子殿下ご成婚記念植樹。↑ 記念植樹されたゴヨウマツと、吉川広嘉の像。↑ ナニコレ珍百景で紹介された「日本一ソフトクリームむさし」。↑ 錦川河川の桜。↑ 錦帯橋を渡る。↑ 錦川と桜。 山頂には岩国城が見える。↑ 河川敷から見た錦帯橋。↑ 橋の裏。↑ 名勝 錦帯橋。↑ 皇太子殿下行啓記念碑。
2019.04.29
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2019年4月7日、岩国城天守閣からの景色と、二の丸広場の桜を撮影しました。↑ 岩国城天守閣から見た景色。 桜と錦川。↑ 錦川。 手前が金城橋、 奥が錦帯橋。↑ 錦帯橋。↑ 二の丸広場のからくり時計。 動く時間 9:10~16:55の15分毎。曲目:10分 童謡メドレー、25分 鵜飼音頭、 40分 鵜飼音頭、 55分 美しき天然。
2019.04.28
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2019年4月7日、山口県岩国市の岩国城へ行きました。吉川公園は桜が満開でした。岩国城ロープウェーで一挙に山頂駅まで移動し、そこから徒歩5分で岩国城です。岩国城や吉香公園には毎年のように訪れています。30回以上は来ています。岩国城の初代領主は吉川広家で、毛利元就の子である元春の三男です。1600年の関ケ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将になりましたが、西軍になることに反対していた吉川広家は、黒田長政を通じて徳川家康から、毛利領の安堵を取り付けていました。ところが東軍が勝利した後、毛利領安堵の話は反故にされ、周防と長門の2国を広家に与えるとの話になりました。広家は徳川家康に対し、自分は2国はいらず、あくまでも毛利領安堵をお願いしたいと手紙を書き、最終的に毛利家が防長2国を治めることが許されます。吉川広家は岩国を治めることになり、徳川家康から城造りを許され、1608年に岩国城が完成します。ところが1615年の一国一城令で、岩国城は取り壊されました。その時の天守台跡が残っています。岩国は1868年に藩として認められましたが、1871年に廃藩置県があり、藩が無くなりました。今の岩国城は1962年にコンクリートで再建されました。吉香公園から城が見える場所に天守台も移っています。↑ 吉香公園の桜と、佐々木小次郎像。吉川英治氏の小説「宮本武蔵」に、佐々木小次郎が錦帯橋近くで、柳の枝が燕を打ったのを見て、ツバメ返しの剣法「巌流」を編み出したと書かれている。↑ 佐々木小次郎像の頭の傍に、岩国城が見える。↑ 岩国城と桜。↑ 岩国城。↑ 銀雲閣。↑ 岩国城ロープウェー。吉香公園の山麓駅と標高200mの山頂駅まで、3分で結ぶ。↑ ロープウェー。↑ ロープウェーからの景色。 銀雲閣。↑ 錦帯橋と錦川。↑ 臥竜橋(がりょうばし)。 奥はJR岩徳線。↑ ロープウェー山頂駅から岩国城まで徒歩5分。↑ 檜(ひのき)が並ぶ。↑ 檜皮(ひわだ)の採取。 檜皮は神社仏閣の檜皮葺屋根(ひわだぶきやね)の材料になる。山口市の瑠璃光寺五重塔などにも使われている。↑ 大釣井(おおつるい)。この大井戸は、1609年、岩国城と同時期に掘られた。非常時に武器弾薬の倉庫にもなる。↑ 1615年、一国一城令により取り壊された岩国城の天守台跡。↑ 旧天守台。古式穴太積み(あのうづみ)でできている。 下の部分が当時の石垣で、上部は修復したもの。↑ 1962年に建設された岩国城。 旧天守台から場所を変え、吉香公園側に造られている。↑ 岩国城の入り口。↑ 吉川家略伝。↑ 徳川家康が吉川広家に宛てた書状。漢字で読める部分を一部抜き出す。「今度 関ケ原及一乱 会戦 之会議お達し 加勢 出馬 入 働 輝元 国変 毛利 見了 他変 長門周防 国 お達 永 充行」「三河家康 慶長五年の月 血判 吉川広家方」 これがスラスラと読めたら楽しいのに。↑ 防州岩国錦帯橋図。↑ 防州岩国錦帯橋之真図。↑ 天守閣からの眺め。 桜と錦川、錦帯橋。↑ 宇野千代(うのちよ)さんの紹介。小説家、随筆家、編集者、着物デザイナー/1897~1996山口県玖珂(くが)郡(現:岩国市)出身、岩国高等女学校(現:岩国高等学校)卒業。大正10年に処女作「脂粉の顔」で懸賞短編小説一等入選、作家としてデビュー。昭和11年に女性ファッション雑誌「スタイル」創刊、その斬新なセンスをいち早く形にする。昭和32年、代表作「おはん」で野間文芸賞受賞、その後も数々の賞を受賞。昭和58年「生きていく私」を発表しベストセラーになる。平成8年、98歳で死去。勲二等瑞宝章受章。錦帯橋下流の川西地区にある生家は、数々の資料とともに一般公開されている。
2019.04.27
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広島県呉市の大和ミュージアムで、呉・三宅本店の「千福純米酒 この世界の片隅にラベル」を買った後、山陽本線で山口県の田舎に行きました。田舎の庭は、白い桜、紅のモクレン、黄色いレンギョウが美しく咲いていました。庭のあずまやで、花を見ながら両親と食事をして、酒を飲みました。↑ クハ115-3003。 呉→広島→岩国はレッドウィングで移動し、山口県岩国駅で115系に乗り換える。↑ 夏みかん色になった車体。 山口県は県道のガードレールも夏ミカン色。↑ 山口県 JR岩国駅。↑ 下関行き。↑ 車内。↑ 今津川。↑ 門前川。 左側の中州には、米海兵隊岩国航空基地、海上自衛隊岩国航空基地、岩国錦帯橋空港などがある。↑ JR南岩国駅から見たレンコン畑。↑ 瀬戸内海の沿岸を山陽本線が通る。【田舎の庭】↑ 田舎の庭。 白い桜、紅のモクレン、黄色いレンギョウなどが咲いている。↑ 黄色いレンギョウが夕陽に映える。↑ 桜が美しい。↑ レンギョウ。↑ 呉の大和ミュージアムで買った、呉・三宅本店の「千福純米酒 この世界の片隅にラベル」。庭のあずまやで、庭を見ながら食事ができる。↑ 純米酒と刺身。 夏はテーブルの中央で炭の火おこしをし、肉、野菜、海産物を焼いて食べる。↑ 母親が作った夕食。 庭でとれたフキの料理もある。
2019.04.25
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大和ミュージアムにある戦艦大和の資料を少し紹介します。↑ 戦艦大和。↑ 「ブロック工法・先行艤装」従来の工法では、艤装(ぎそう)の大半は進水してから行われていたが、大和では船体の組立と平行して艤装を行う先行艤装が採用され、建造期間を短縮することができた。こうした技術は、戦後、造船業だけでなく高層ビルなどの建築にも活用されている。「生産管理システム」大和の工事では工数制御方式などの科学的管理方法を本格的に取り入れた。これにより問題の早期解決や工事の進行具合の把握が容易になり、これまでのどの艦船よりも、重量比で低工数、低コストで建造することができた。こうした技術は、戦後約10年で日本が世界一の造船国となる礎となった。↑ 「球状艦首(バルバスバウ)」艦首の水線下に球状の突起をつけることで、速力27ノットで約8%の造波抵抗を減らすことができ、有効馬力の節約と航続距離の増大につながった。戦後、この球状艦首は、世界の大型タンカーから漁船に至るまで幅広く利用されている。↑ 「46センチ3連装主砲」大和の主砲は重さ約1.5トンの砲弾を約40秒ごとに1弾発射できた。砲塔は1基あたりの重量が2,760トンもあり、これは駆逐艦1隻の重量に匹敵する巨大なものだった。主砲などを製造した工作機械は大型船のクランク軸製造に使用され、砲塔の組み立てとその性能を調査するためのピットは、現在、原子炉の圧力容器の漏れを調査する水圧試験などに利用されている。「弱電技術」大和では士官室と一部の兵員室に冷暖房が使用されており、夏でも27度くらいの気温が保たれ、他の艦からは「大和ホテル」と呼ばれていた。冷凍・冷蔵庫も223.4立方メートルという非常に巨大なもので、乗組員が約1か月無寄港で十分に食べられる量の食料を積んでいた。こうした技術は、戦後、弱電(家電)技術の基盤となっている。↑ 「製鋼技術」大和の特殊な装甲板は佐々木清技術大佐(のち技術少将)により開発された。従来の装甲板に比べ対弾効力が高く、製造期間は約半分という画期的なもので、製造原価の低減にも役立った。こうした技術は、戦後、特殊鋼の製造に活用されている。「発電と配電技術」大和の発電機は、225ボルト、600キロワットのディーゼル型4基、ターボ型4基の計8基で4,800キロワットの発電力があった。また、攻撃を受けたときの被害を最小限にするため、1基を1室に配置し、各室ができるだけ遠ざけられていた。こうした技術は戦後、大型発電機の発達を促した。「主機(タービン)」大和は4基の艦本式(かんほんしき)タービンを搭載し、出力150,000馬力を発揮した。↑ 「精密光学機器」目標まで距離を測る大和の15メートル測距儀は世界一の大きさと性能を持っていた。2組の上下像合致式とステレオ式の3連装式で構成され、目標を正確に測距できた。こうした技術は、戦後、カメラなどの精密光学機器に大きな影響を与え、日本の精密光学機器産業を世界有数のものに育て上げた。↑ 「推進器」大和の推進器(スクリュー)は3枚翼、直径5メートルという日本初の超大型推進器だった。広海軍工廠の鋳造鋳物技術の集大成と言えるもので、戦後の鋳物技術の基盤となっている。「操縦性能(舵)」従来の戦艦の2枚舵は左右に並べて装備されていたが、大和では約15メートル離して前後に装備し、同時に被害を受けにくいようにした。旋回性能も船体が大きいにも関わらず良好だった。↑ 現存する戦艦大和の設計図面。↑ 大和中央断面図。現存する設計時の青焼き図面(縮尺1:25)を実際の大和の原寸大に拡大したもの。船体中央部の41センチ厚装甲板が読み取れる。↑ 大和の生涯。↑ 昭和16年(1941年)12月16日に竣工後、大和は連合艦隊の旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたったが、時代はすでに航空機主体となり、支援任務が多くなる。戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えた。↑ 大和 公試。昭和16年(1941年)10月~12月。↑ ミッドウェー海戦。 昭和17年(1942年)6月5~7日。↑ トラック島。 昭和17年(1942年)8月。大和は連合艦隊旗艦としてトラック島に進出。↑ マリアナ沖海戦。 昭和19年(1944年)6月19~20日。↑ レイテ沖海戦。 昭和19年(1944年)10月24~26日。↑ 沖縄特攻。 昭和20年(1945年)4月7日。1945年4月6日、沖縄へ向け山口県徳山(周南市)を出港した大和以下の第ニ艦隊は翌7日、九州南西沖の海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けた。大和は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、14時23分沈没した。↑ 【沈没した艦船】大和、矢矧、朝霜、磯風、霞,濵風。 【帰還した艦船】冬月、初霜、雪風、涼月。↑ 冬月、初霜、雪風、涼月の4隻が佐世保へ帰還した。
2019.04.24
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2019年4月6日、大和ミュージアムで1/10の戦艦大和を見ました。↑ 戦艦大和の艦首。↑ 1番主砲、2番主砲、15.5㎝3連装副砲塔。 ↑ 球状艦首・バルバスバウ。大和で採用され、水の抵抗を軽減した。↑ 10分の1戦艦「大和」。↑ 2番主砲の上に、25㎜3連装機銃が2基増備された。↑ 1番主砲。94式45口径46㎝砲。↑ ワイヤーリール。↑ 艦橋と煙突。↑ 25㎜3連装機銃、 12.7㎝連装高角砲などが並ぶ。↑ 後部主砲塔付近。対空兵器が並ぶ。↑ 艦尾。↑ 艦尾付近。搭載機の格納庫がある。カタパルトやクレーンがある。↑ 左舷のスクリュー。大和は4枚のスクリューを持っていた。↑ 零式水上観測機が搭載してある。↑ 後部3番主砲。そばには張り出し部分に25㎜3連装機銃がある。↑ バーチカルボトムの部分。↑ 船を安定させるため、側面にビルジキールの板がついている。↑ 右舷のスクリューと舵。↑ 大和ミュージアム。
2019.04.23
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JR呉駅から観光案内所を経由して、大和ミュージアムへ行きました。小学生の頃は、父親の運転で呉市にある音戸の瀬戸のツツジを見に行ったり、呉市川尻の野呂山(のろさん)の山頂に遊園地があったので、何度も連れてってもらいました。遊園地には「びっくりハウス」という遊具があり、ハウスの中の席に座ると、家がグルグル回る仕掛けでした。本当にびっくりして、大声で叫んだことを思い出します。遊園地はその後閉鎖されました。小学生の時、仲の良い友人と、下蒲刈島でミカン狩りをしたことも思い出されます。昔、大和ミュージアムを見ようと思い、三原駅から呉線に乗って行ったのですが、呉駅に夕方着くとミュージアムがすでに閉館して見られませんでした。市内の堺川のそばに屋台が並んでいたので、フレンチの店に入り、スパゲッティやワインを注文し、店主の方と色々話をしました。↑ JR呉駅。↑ この世界の片隅に。 こうの史代さん作。↑ 瀬戸内マリンビューの紹介。↑ 呉駅の改札口。↑ 呉市ロケ地マップ。 オリジナルは観光案内所で頂いた。こうの史代さんの絵。↑ 2018年7月 TBS日曜ドラマ「この世界の片隅に」。松本穂香さん、松坂桃李さん。↑ 呉市駅前。(北側)↑ 呉駅前のプロペラ。↑ 呉駅前。↑ 呉市の紹介。↑ 歩道で海側に移動する。↑ 呉駅から大和ミュージアムまでのルート。↑ 呉市観光案内所に立ち寄る。 こうの史代さんの絵。↑ 観光案内所内の平清盛像。↑ 小学生の時、広島の風土記という本を読み、平将門の「音戸の瀬戸」伝説を知った。平将門が音戸に水路を通す工事を行ったが、工事が終了しないうちに日が沈みそうになったので、扇で太陽を扇ぐと、太陽が再び上昇し、日暮れまでに工事が終わったとの伝説。↑ 大日本帝國海軍の帽子、制服。↑ 「すずさんが暮らした呉」。この地図が欲しかったが、在庫が無かった。↑ 野呂山(のろさん)。 小学生の頃、毎年のように家族で野呂山の遊園地に行った。↑ 「オモヒデさがししませんか 大和のふるさと呉」↑ 「思い出づくりしませんか 大和のふるさと呉」↑ 昭和町のレンガ倉庫(呉貿倉庫運輸株式会社)↑ 桜。↑ 呉中央桟橋ターミナル(左)、大和ミュージアム(右)。↑ 大和ミュージアム(左)、海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)右。入り口には、潜水艦「あきしお」が展示してある。↑ JMU ジャパンマリンユナイテッド呉事業所。 昔は、旧呉海軍工廠造船部があった。↑ JMU ジャパンマリンユナイテッド呉事業所。↑ 呉中央桟橋ターミナルからの景色。↑ 海上自衛隊練習艦「しまゆき」。↑ 海上自衛隊輸送艦「くにさき」。↑ ユネスコ記憶遺産登録。「朝鮮通信使関連資料」。↑ 朝鮮通信使再現行列。↑ 呉市下蒲刈島の松濤園(しょうとうえん)。松濤園には「朝鮮人来朝覚 備前馳走船行烈図」という、1748年に朝鮮通信使と船団の様子が描かれた絵図がある。↑「朝鮮人来朝覚 備前馳走船行烈図」より。↑ 朝鮮通信使の船。正使官船。↑ 副使船。↑ 大和ミュージアム前のネプチューン像。↑ 大和ミュージアム前にある、戦艦「陸奥」の主錨。↑ 戦艦「陸奥」船尾旗竿。↑ 戦艦「陸奥」船尾フェアリーダー(右舷用)。 ロープを使うときにフェアリーダーの突起の間にロープを通して、振れないように安定させる。↑ 戦艦「陸奥」の説明。 ちなみに陸奥記念館は山口県周防大島町にある。↑ 戦艦「陸奥」の図。↑ 大改造後、全力公試運転中の戦艦「陸奥」 昭和11年(1936年7月27日)。↑ 戦艦「陸奥」。↑ 戦艦「陸奥」41センチ主砲身(4番主砲塔左)。戦艦「陸奥」に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠(こうしょう)で開発したもので、「陸奥」の建造当時は世界最大の艦載砲であった。呉海軍工廠砲熕(ほうこう)部が大正7年に量産初号砲を完成させ、以降74門製造した。大正9年からは北海道室蘭において日本製鋼所も生産を開始し、24門製造した。ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で、大正10年に完成したもので、戦艦「陸奥」には昭和11年に搭載された。この主砲身の砲尾に「室2」が刻印されている。 ↑ 戦艦「陸奥」スクリュープロペラ。↑ 戦艦「陸奥」主舵。
2019.04.20
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2019年4月6日、広島駅から瀬戸内マリンビューに乗り、呉線を南下しました。水尻駅辺りまで、広島市の黄金山が良く見えました。桜と海を見ながら進みます。三原駅まで乗る予定でしたが、大和ミュージアムに行くことにし、呉駅で下車しました。↑ 広島駅を出発する。↑ 呉麺屋。↑ マツダスタジアム。↑ 海田市駅。↑ 瀬野川。↑ 瀬野川の二つの建物の間に、黄金山が見える。↑ 海田大橋近く。↑ 坂駅。↑ 広島呉道路。↑ 金輪島。↑ 坂町。↑ 金輪島の新来島宇品ドック。↑ 広島市南区の黄金山の塔が見える。↑ 水尻駅。↑ レッドウィング。岩国行き。↑ 坂町と黄金山。↑ 小屋浦駅。↑ 桜が見える。↑ 天応公園・呉ポートピア。↑ 天応公園・呉ポートピア。↑かるが浜駅。↑ 狩留賀海浜公園。↑ 川原石駅。↑ 二河川。↑ 呉駅。↑ 瀬戸内マリンビュー号。↑ 呉駅。 戦艦「大和」誕生の地。↑ 呉線の図。
2019.04.18
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2019年4月6日、新幹線のぞみ1号で東京駅(6:00)から広島駅(9:49)へ行きました。広島駅から「瀬戸内マリンビュー」(10:03)が出発するので、急いで移動して写真を撮ります。車体は青と白で、船のキャビンのようなデザインになっています。広島駅から三原駅を休日に1往復しています。指定席は予約が取れなかったので、自由席に乗りこみました。↑ 瀬戸内マリンビュー号。 広島駅。【1号車指定席】【2号車自由席】
2019.04.17
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2019年4月6日、東京駅6時発の新幹線で広島へ行きました。快晴で車窓から富士山が良く見えました。↑ 東京駅。↑ のぞみ1号。↑ 東海道新幹線 のぞみN700A。↑ 東北新幹線 E5系。↑ 東京国際フォーラム。↑ 高輪ゲートウェイ駅。↑ 右は丹沢。左は富士山。↑ 富士山。 平塚付近。↑ 平塚市の有名な日向岡。↑ 三島付近の富士山。↑ 富士山。 ↑ 富士川。↑ 掛川城。↑ 京都。鴨川の桜。↑ 京都タワー。↑ 広島市南区の黄金山。↑ マツダスタジアム。↑ 広島対阪神。↑ 応援をしに行く人たち。
2019.04.16
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東京駅の新幹線中央乗り換え口近くに、「浜口首相遭難現場」のプレートが柱に付けてあるのを見ることができます。プレート近くの床には、現場を示す茶色に丸印の入ったタイルもあります。浜口雄幸首相は、その風貌から「ライオン首相」とも言われています。本当は「幸雄」という名前になる予定でしたが、父親が出生届時に酔っており、間違えて「雄幸」と書いてしまったという有名なエピソードがあります。昭和5年(1930年)11月14日、岡山行き特急「燕」に乗るため東京駅に来ましたが、4番ホームにて犯人に撃たれました。すぐに東京帝国大学医学部付属病院で手術を受けて一命は取りとめたものの、感染症により、昭和6年(1931年)8月26日に亡くなりました。プレートの近くにはインフォメーションセンターがあり、そばには彫刻家で有名な圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏の「仲間」という像があります。広島駅北口にも、同氏の「朝」という彫刻があります。↑ 東京駅にある「浜口雄幸首相遭難現場」のプレート。↑ 「浜口首相遭難現場」プレートの記載。↑ 左側は柱のプレート。右のタイルに、遭難現場のマークがある。↑ 東京駅新幹線中央乗り換え口。↑ 案内図。 現在地付近にプレートあり。↑彫刻家で有名な圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏の「仲間」という像。
2019.04.15
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河合奈保子さん、松田聖子さんとも、1980年代に雑誌、TV番組、写真集、ビデオ、CM、レコーディングなどのため、海外の色々な地域に行っていました。手元の切り抜きなどの資料を見て、二人とも訪れた海外の地域を紹介します。パリ、フィジー、ニューヨーク、グアム、サイパン、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランドです。フランスのニースは、奈保子さんの写真はあるものの、聖子さんの写真資料が手元に無いので(記事だけ有り)載せていません。ほかにも、二人とも訪れている地域があるかもしれませんいつか時間があれば、河合奈保子さんの海外の資料をまとめたいと思います。海外でリラックスした笑顔を見ると、とても楽しくなります。↑ 河合奈保子さんと松田聖子さん。【フランス・パリ】↑ パリ・セーヌ川と奈保子さん。 「オー・シャンゼリゼ」を歌う。↑ 楽しそうな奈保子さん。↑ パリ・モンマルトルの聖子さん。↑ サクレクール寺院。↑ サクレクールの丘とパリ市内。【フィジー】↑ フィジーでクルージングを楽しむ奈保子さん。↑ フィジーの聖子さん。【アメリカ・ニューヨーク】↑ ニューヨークの奈保子さん。↑ ニューヨーク・マンハッタンのビルの屋上にて。 ピアノと奈保子さん。↑ ニューヨークの聖子さん。【グアム】↑ グアムの奈保子さん。↑ グアムの聖子さん。【サイパン】↑ サイパンの奈保子さん。↑ サイパンの聖子さん。【ハワイ】↑ ハワイの奈保子さん。↑ ハワイの聖子さん。↑ ハワイ大学に語学留学をした聖子さん。【オーストラリア】↑ オーストラリアの奈保子さん。 楽しそうな表情。↑ オーストラリアの聖子さん。【ニュージーランド】↑ ニュージーランドの奈保子さん。↑ ニュージーランドの聖子さん。
2019.04.13
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2019年3月31日の夜、目黒川の夜桜を見ました。
2019.04.12
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2019年3月31日夕方、目黒川の桜を見に行きました。中目黒のスターバックス・リザーブ・ロースタリーの店は、入場整理券発行が終了したので入ることができませんでした。↑中目黒のスターバックス・リザーブ・ロースタリー店。
2019.04.11
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2016年7月30日、博多の福岡城(別名舞鶴城)を散策しました。関ケ原の戦いの後、黒田長政が築城しました。黒田長政が自分のゆかりのある備前国福岡にちなみ、福崎というこの地名を福岡に変えました。大濠公園のハスを見たり、福岡城天守台跡から、福岡ドームや福岡タワーを見る事が出来ました。広場の一角に平和台球場の碑がありました。昔はここに平和台球場があり、パ・リーグの試合が行われていました。小学校の頃はラジオで広島カープの試合を聞いていましたが、パ・リーグの速報も入り、「平和台球場」の途中経過もありました。西鉄ライオンズ、太平洋クラブライオンズ、クラウンファイターライオンズなど、チームの名前も変わっていきました。↑ 大濠公園のハスの花。↑ 平和台野球場の碑。↑ 昔はここに、平和台球場があった。↑ 福岡城の石垣。↑ 祈念櫓。鬼門封じの祈念をするために建てられた。↑ 福岡城天守台からの景色。↑ 福岡ドーム。↑ 大濠公園のスターバックス。
2019.04.10
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2016年7月30日、博多の櫛田(くしだ)神社に行きました。櫛田神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祭られており、博多祇園山笠の祭りが奉納されます。祭りは毎年7月1日~15日なので、すでに終わっていましたが、境内では博多祇園山笠の飾り山を見ることができました。↑ 博多・櫛田神社。↑ 奉納されている博多祇園山笠の飾り山。↑ 牛若丸。↑ 弁慶。
2019.04.09
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2016年7月30日、福岡市早良区(さわらく)の「サザエさん通り」を散歩しました。早良区の西新は、漫画「サザエさん」の作者である故長谷川町子さんが戦争中の昭和19年に疎開した所です。昭和21年に百道(ももち)の海岸を散歩しながら、国民的人気漫画「サザエさん」の登場人物を発案したそうです。サザエさん通りの途中には、磯野広場があります。昔の百道の海岸線があった所で、サザエさんの登場人物のアイデアが出た場所です。↑ サザエさん通りの案内。福岡市地下鉄 西新駅。↑ 筑前黒田藩御用窯 高取焼味樂窯 第十五代 亀井味樂作。漫画「サザエさん」第一巻 表紙。↑ 漫画「サザエさん」第一話。↑ ここ早良区(さわらく)は漫画「サザエさん」の作者である故長谷川町子さんが戦争中の昭和19年に西新に疎開し、昭和21年に百道(ももち)の海岸を散歩しながら、国民的人気漫画「サザエさん」の登場人物を発案したという地です。また、それを記念して平成24年には全国で2番目となる「サザエさん通り」が誕生したという、サザエさんや長谷川町子さんとのかかわりが深いまちです。↑ サザエさん通りへようこそ。 早良区”サザエさん通り”は1番出口へ。↑ 平成28年(2016年)は「サザエさん」生誕70年。 「サザエさん」は、昭和21年(1946年)に福岡の地方新聞(夕刊フクニチ」で連載が始まりました。↑ 「サザエさん通り」のルート。↑ サザエさんとワカメ。↑ 磯野広場。↑ 磯野広場にあるプレート。↑ サザエさん発案の地。 「サザエさん」の原作者、長谷川町子さんは、昭和19年~21年にかけて、福岡市(現在の西新3丁目)に住んでいた。百道(ももち)の海岸を散歩しながら、サザエ、カツオ、ワカメ等の登場人物を考案し、昭和21年4月創刊の夕刊フクニチ新聞(~平成4年休刊)に漫画「サザエさん」の連載が始まった。当時はこのあたりが海岸線。↑ 妹は順調に回復して、百道(ももち)の海岸を散歩するまえになりました。私は毎日一緒について歩き、そんなわけで登場人物がみんな海産物になったわけです。↑ のらくろの田河水泡さんに弟子入りした事が書いてある。↑ 妹と一緒に百道の海岸を散歩しながら、サザエさんの登場人物を発案した。↑ サザエさん通り。サザエさんと福岡タワー。↑ 福岡タワー。↑ サザエさん。↑ サザエさん誕生のまち。
2019.04.05
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福岡天神の地下街で、2016年7月に4か所全てのトイレがリニューアルしたという事で、見に行きました。4か所のうち一つは女性専用なので、残りの3か所を回りました。一番印象に残ったのは、イギリスの小説家の書斎をイメージしたトイレです。入り口には洋書が積まれており、本屋の雰囲気で楽しいです。屋台でラーメンを食べました。↑ 天神地下街入口。↑ 天神地下街。↑トイレ① 小説家の書斎をイメージ。↑ トイレ②↑ トイレ③↑ 天神かっぱの泉。↑ かっぱ。↑ 天神のスターバックス。↑ ついつい食べてしまう。↑ 天神の屋台。↑ ラーメンとビールを注文した。
2019.04.04
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新元号が「令和」に決まりました。歌人の大伴旅人(おおともたびと)が太宰府長官時代に宴会を開いた時に作った歌の序文から引用されています。これからますます太宰府天満宮を訪れる人が増えると思います。2016年7月30日、福岡県太宰府市の太宰府天満宮へ行った時の写真です。福岡市内にある西鉄福岡天神駅から天神大牟田線で西鉄二日市駅まで行き、西鉄大宰府線に乗り換えて太宰府駅に着きました。途中の西鉄五条駅で、観光列車「旅人」を見ました。時間が無かったのでラッピングの写真が撮れませんでしたが、近いうちに写真を撮りに行こうと思います。太宰府天満宮は学問の神様で有名な菅原道真公を祀っています。右大臣であった道真公は、左大臣藤原時平などの陰謀で大宰府に左遷され、数年後に無念のうちに亡くなりました。菅原道真公が亡くなった後、遺体を牛車で運んでいたところ、安楽寺の門前で牛が動かなくなり、道真公の意思と考えて遺体をそこに埋めました。その後に道真の祟りを言われる出来事が続いたため、遺体が埋められている場所に社殿が造られ、安楽寺天満宮として祟りを鎮めようとしました。近年になり、太宰府天満宮に名称が変更されています。敷地内には御神牛(ごしんぎゅう)の像がたくさんあります。太宰府天満宮には、小学生の時に家族で参拝した事があります。境内の様子が記憶に残っていました。スターバックスコーヒー太宰府天満宮表参道店を覗きました。建築家の隈研吾さんが設計しており、木の組み合わせに特徴があります。西日本鉄道(西鉄)3501。 西鉄福岡天神駅から天神大牟田線で二日市駅へ。↑ 二日市駅から西鉄大宰府線に乗り換えて太宰府駅へ行く。↑ 西鉄6505。↑ 西鉄五条駅で、観光列車「旅人」を見る。↑ 「旅人」。大伴旅人(おおとものたびと)から名付けられている。↑ 太宰府駅。↑ 参道の石鳥居。↑ 太宰府天満宮。↑ 御神牛の像。↑ 桜門。↑ 本殿。↑ 太鼓橋。↑ スターバックスコーヒー太宰府天満宮表参道店。建築家の隈研吾さんが設計。↑ 梅の模様のタイル。↑ 九州国立博物館。
2019.04.03
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2019年4月1日午前11時30分頃から新元号の発表があるという事で、パソコンのインターネットを開けると、ライブ中継を見ることができました。発表時間は少し遅れ、ライブ映像が何度も切れるのでやきもきしていました。その後、菅官房長官が額を持ち上げて新元号が発表されました。「令和」でした。「令和」の典拠は万葉集の梅花の歌の序文からで、「初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」の令と和を合わせたものです。天平2年(730年)に大宰府長官であった大伴旅人(おおとものたびと)が邸宅で宴会を開き、そこで詠まれた32の歌の序文だそうです。先日、テレビ番組で「平成」が決まるまでの再現ドラマがあり、興味を持って見ました。当時、内閣内政審議室長の的場順三氏が東京大学名誉教授の山本達郎氏を訪ねた時、平成の案の説明を受けた場面がありました。↑ 2019年4月1日(月) 朝日新聞夕刊。↑ 2019年4月2日(火) 朝日新聞朝刊。↑ 2019年4月2日(火) 朝日新聞朝刊より。
2019.04.02
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