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すべてのものの成長が早い。20日大根がほんとに20日で食べられるようになったのは初めてだ。畑を始めて1ヶ月が過ぎた。昼は暑くて、夜は涼しい。こんな気候が年中続くならば彼らの成長も早いだろう。そして、こぼれ種でよく発芽する。驚いたのはさつまいももこぼれ種でそこかしこに発芽してきている。パパイヤは食べた残りを畑に投げた後しばらくすると生えてくる。彼らの躍動感が伝わってくる。今は乾期と雨期の境目。こちらに来てから5回程雨が降った、そして一昨日のは一弾激しく土砂降りの雨。「もう水まきをしなくていいぞ、雨期がはじまりだ」「いやいやまだまだ始まっていない」という声。街の中の塀に囲まれた畑、しかも砂地。そして、無農薬・無肥料(米ぬかと籾殻はすきこんだが)。それでも、彼らは成長してくれる。日本から持って来た種で残念ながら発芽しないのもあるが、一度発芽したら彼らは早い。郊外に出れば、土地もずっと肥えているという。すべての成長が早いということはもちろん「草」の成長も早い。かぼちゃのつるみたいな草が気がつけば一日で畑に侵入していた。そして虫たちもだろう。アリの数と種類がやたら多い、どこにいっても彼らはいる。蚊も一年中いる。ということは病気になったりもしやすいことになる。いや、つまりは自然に還ろうとする力が強いということだ。日本には冬という休む時期があるが、こちらは年中働きっぱなし。メンテナンスをせず、ずっと働きっぱなしとなると、ガタがくるのも当然早いことになる。一応、乾期は農閑期ではあるが、昼間は暑く、「冬眠」は存在しない。こちらの人はよく病気になる。もちろん栄養状態も良くないということがあるのかもしれないが、この環境自体がそうさせているような気がする。そして、その時が彼らの「冬眠」の時期なのかもしれない。野菜たちの成長も日本では「頑張れ」と励ます声掛けが多かったが、こちらでは「早まるな、もう少しゆっくり」となだめる声掛けが必要になってくるのかもしれない。ということは無理な畑をすれば、いわゆる「土が死ぬ」ということも早いだろう。連作障害などがでるのもはやいだろう。そういえば、とうもろこしの連作障害をこちらの百姓からよく聞く。あるルブンバシの大きい農園ではじゃがいもの病気が広範囲に出たという話を聞いた。「自然のリズム」から外れたことをするならばそのお返しがくるのも早いということだろうか。「成長が早い!」と浮かれているだけではいけない。その後にどうなるかを注意深く感じ取ることが必要になってくると思う。まさしく、ここでは相生農法だなあとするどく感じている。by Yasu
2013.09.27
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カレミに着いて、はや2週間近く。着いて早々、畑が始まった。この畑はルカのNGOの米の精米所兼倉庫の裏手。彼のNGOでは米を買い付けて、それをここで籾すり・精米して売る、ということを始めている。今住んでいる場所からこの畑まで歩いて40分ほどかかるが湖沿いの道なので気持ちが良い。そして、相変わらず「ニイハオ」な毎日だが、毎日同じ道を歩いていると、彼らもこちらを認識してくる。そこで、日本人だと教えると、次回からは「ジャポネ」になる。ここではルブンバシよりもますます東洋人といったら中国人としか彼らには映らないようだ。季節は雨季と乾期の境目で、こちらに来てからすでに2度雨が降った。(ルブンバシではまだ乾期の最中)丁度、これから種まきシーズンに入るようだ。ということで、とにかく開墾しては、種をまき、草を刈っては開墾、種まき。幸運なことに、米ぬかと籾殻は山ほどあるので、これらも畑にすきこんでみる。どんな形になるかわからないが、とにかく畑が始まって、種はまかれた。彼らの特性として外人を見ると「仕事が欲しい」と言ってくる。それはそれでいいのかもしれないが、それよりも、その仕事を「創る」という方向に持っていくことはできないだろうか。それも生きがいを感じるような。この畑をキャンパスとしていわば学校のように(といっても講義なんかはあんまりないような)コンゴの人達と、耕し、種をまき、収穫し、売り、加工し、いただき繕レストランを作る・・・ということを彼らの実践を通して、作ることができないか、というのが計画のひとつだが、しかし、子供の学費にも事欠く人が大多数のこの町。とにかくも、まず最初に彼らと共に畑で汗を流す日々を過ごすということがカギになるだろう。早速その一人がルカのNGOで働いているKafindo。彼とは朝の少しの時間だが、共に農作業をしている。彼は百姓でもあるので、土を知っている。鍬使いも上手い。その共有する時間の中で、生まれてくる何かがあるはずだ。もうすでに、畑の学校は始まっているのかも。By Yasu
2013.09.07
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体の声を聞く、というと何か抽象的なように聞こえるがそうではないことがだんだんわかってくる。歩き方を変えてみようという「気になってきた。」どうも立っている姿勢が猫背で写真なんかを見ても、姿勢の悪さにより「間が抜けている」自分に気づいてきた。いや知ってはいたが、まあそんなものかとしか思わなかった。おそらく、この姿勢一つで人格というか生き方そのものも変わるのでは、という感覚が強くなってきた。歩く際、両脇腹に少し意識を置きながら歩く、そして猫背になっていた姿勢をピンと伸ばし、今までおそらくやや斜め下にあった目線をまっすぐ前に向けて歩くように心がける。「心がすわる」という言葉がるように腰を据えて、構えていれば何事にも冷静に対応できるようになるのではなかろうか。それには常日頃からのこの姿勢が重要なのではないかという気持ちが大きく芽生え始めてきた。とにかくここに来てから歩くことが多い。そして声をかけられやすい、というより「外人(ムズング)」ということで(特に「中国人」と見られる)外からの視線が強いのを感じる。であるからこそ、この姿勢で落ち着いた行動を常に心がけることが必要だ。このチャンスを逃すまいと体は何か訴えてきたのかもしれない。「今が姿勢を変えるチャンスだ」と。人格が変わるかどうかはわからないが、少なくとも猫背で間が抜けているよりは、シャンとした姿勢の方が良いということはあるだろう。これは、また同時に常に体の声を聞く、自分の体に意識を向ける癖をつけるという訓練でもあるだろう。姿勢を「気にする」というのはその為の方便かもしれない。昔の人と今の人とではまるで姿勢が違うのは確か。明治末くらいの日本の労働者や力士の写真を見たときのことを思い出した。彼らの姿勢のよさは印象深い。「腰が座っている」。それであるがゆえに凛々しい。腰を使う場面が少なくなってきたというのもあるのだろうが、しかし、常日頃から腰(両脇腹)に意識を入れるようにすればどうだろうか。「姿勢に意識を向ける」ということは本当は難しいことではないはず。しかし、他の観念が入ってしまい、すぐにその意識が他へ向いてしまうことに気づく。しかし、その繰り返しを粘る強く続けることでその時間は増えていき、ついには「気がついたら」という境地に到達するだろう、変わったという意識もないままに。By yasu
2013.08.24
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彼らの家を訪れる機会に何度か恵まれているが、必ずと言っていいほどそこで出てくるのが「写真」。彼らは写真を本当に大切にしている。最初は良くわからなかったが聞いてみると、「コンゴ人にとってそれは自分の歴史だ、それで自分の人生をシェアできるのだ。」ということでとっても大切なことなのだそうだ。彼らの家は驚く程、物が少ない、しかし、写真は大切にしている。そんなこともあってか、撮った写真を都度都度町の現像屋で現像してもらって彼らに配っている。これは、彼らにとって、何よりの宝物の一つになり、一つの歴史になり、何より彼らが本当に喜んでくれる。そして、写真写りが非常に良い、かっこいい。その一枚に対する意気込みが違う。デジカメの普及で一枚一枚の価値が薄れてしまっている、そして何枚も何枚も簡単に取ることができる。それはそれで便利であり、飛躍的に知見は広がったので否定はできない。しかし、彼らのその一枚に対する意気込みを見ているとふと、一瞬一瞬の大切さを思い出させてくれる。彼らにとってのカメラに収まる一瞬は、かけがえのない一瞬なのだ。ものがありあまる程にあることで、なんだか麻痺している状況とものはなくてもそれを求めて、一日一日懸命に生きている状況。まだまだ麻痺しているので気づかないことも多いがしかし、こういう一面に出会えることでタイムスリップというか前世に戻ったような感覚になる。そして、こんな純粋な人たちがここにいるということは可能性に満ち溢れているわけで。どうも教育、教育というけれども、彼らのそういう尊いものを尊重しながらただ、舞台をシェアしていければいいだけのような気もしてくる。それが、語学の交換という舞台であり、畑という舞台であるんだろうけれど。By yasu
2013.08.18
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この、待つ間の時期に行っていることの一つに語学の勉強がある。シュリーマンが行っていたという方法を改良したものだが、今、これはと思って実践している方法が一つ。先生みたいな人(添削できる人)が必要なのだが。1、まず、その言語の日記を書く。どんな短くても良いし、 間違えていても良い。2、それをその先生に直してもらう。3、それを読んでもらいながら録音する。4、直してもらった文章を清書する。5、録音を何度も繰り返し聞く。6、聞きながらも声に出してしゃべる、つぶやく。本当は暗記するというところまでいければいいが、内容をなんとなく覚えるところまでいけば、まあ良しとしている。シュリーマンは読んでもらって、それを何度も繰り返して暗記したというけれど、今は録音ができる時代。そして、内容も自分のことだから、それはテキストみたいな本を利用するよりも親近感も沸く。あとは、会話を録音させてもらって、それを後で聞きながら書きとっていくという方法も聞き取り能力の改善になる。要はどれだけ、その言葉との距離感を縮められるかだろうけれども。以前シュリーマンの話は聞いていたが、これを思いついて実践しだしたのは、しばらく経ってから。しかし、日本語を教えているIbraimはこの録音する方法を、教える前から知っていて、携帯の録音機能で、「録音して欲しい。」と向こうから言われた。語学の勉強には慣れているのかもしれない。これは、また別の地に行ったとしても、どこか別の国に行ったとしても、続けていく予定だ。だから、もちろんカレミに移動したとしても続ける。・語学を教えてもらう・語学を教えることができるという語学交換はそれ以上に、様々な可能性が開けていくことにつながることがわかってきたからだ。だから語学を学ぶということも方便であり、彼らとの距離を縮め、喜びを共有するための一方法であるだけのような気もしてくる。by Yasu
2013.08.14
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ここでは信頼のおける人が本当に重要だ。何せ勝手が違う、どうも「約束」「言葉」に対しての受け取り方が違うようだ。時間を守らないというのもそうだが、そのことに対して、あまり悪く思わない、そもそも約束はあってないようなもの、そんな感覚なのかもしれない。それは、スワヒリ語の「kesho ケシュ」という言葉にも現れている。「明日」という意味だけれども、この意味が明日というより、今度いつか、みたいなニュアンスが含まれているらしい。「tutaonana kesyo トゥタオナナ ケシュ」「また明日会いましょう」という意味だけれども、これが、どうも「会えたらまた会おうね」くらいのニュアンスになることがあるようだ。「明日はわからない」というこの辺りの国の事情が込められている気がする。だから先のことよりも、今できることに懸命になっているのだ。何より、自分の所有物がほとんどない。身軽だ。常にどこにでも移動できる準備はできている。「所有」の概念がものすごく単純だ。たしかに、だからここルブンバシでは彼らの多くは常に純粋に「お金、お金」といっている、言わざるを得ない状況になっているというのもあるけれど。自他の区別がちょっと曖昧なのかもしれない。こういうこともあった。VISAを2ヶ月延長しようとある組織のメンバーの一人に頼んだ。その人はまたその組織の別のメンバーの一人に頼んだのだが(もちろん彼にも面識はあった)、なんだかんだで延長は1ヶ月だけできて、その彼はさらにお金を請求してくる始末。(つまり彼は1ヶ月分のVISA代を横領したのだと思われる)どこのメンバーだとかそういう区別が考えられない、また先の事を考えない、(どう考えても信頼を失うことになるのに決まっているのに、そして下手したら、そのファンデーションをクビになったり、ここに住めなくなる場合だってありうるだろうに・・・ということは考えない)、とにかく、その目先のものに単純に飛びついてしまったという一例なのだが。「信頼」とか「道徳」とかそういう概念があまり通用しない面もある。しかし裏を返せば、今までそういうものがあまり必要でなかった、あまり要求されることがなかったということがあるのかもしれない。(ここルブンバシは、急速に貨幣経済が浸透してきている、それに翻弄されている人が非常にたくさんいるし、そうならざる得ない状況でもある)しかし、そういう経験もあってか、そこで「まあいいか」という心を忘れずに、(もちろんこんな事が二度と起こらないように最善の努力はするけれど)流れに身を任せていくうちにそういう人達とは自然と離れていく。だから、今の状況になっているのだろうけど。そういう意味で、ここでは人探しをしている。そんな人達とは何かを求めている最中によく出会う。その「求める」度合いが純である、つまりよこしまな、闇の力があまり働かないような時に出てくるようでもある。5月末のとある日。フランス語とスワヒリ語の勉強をどこか集中できる場所はないかと探していた時、何気なく飛び込んでみたのが、とあるゲストハウスのカフェテラス。そこで、受付・ウェイターとして働いていた、Pacifiqueという青年と出会った。彼は元々先生で英語もフランス語もスワヒリ語もできる、ということでフランス語とスワヒリ語を教わることになったのだ。また、6月のある日。ルブンバシについてのレポートを書く事になり、ルブンバシ大学の農学部の学生達にもインタビューをどのようにするかと考えていた時、Ibraimという青年と偶然バスで乗り合わせたのだが、かれはなんと農学部卒業生だった。Pacifiqueからはフランス語とスワヒリ語を習っている。もちろんここの公用語はフランス語なので必要なのだが、しかしそれ以上に「スワヒリ語」がキーポイントであることがわかってくる。彼ら同士の会話に「フランス語」はあまり出ない、「スワヒリ語」だ。正確に言えば、フランス語混じりの方言「スワヒリ語」だ。そして田舎に行けば、そのスワヒリ語もかろうじて通じる程度で現地語がメイン、フランス語はほとんど通じない。ここで長く暮らすためには、彼らと一体になるためにはこの「スワヒリ語」がポイントだ。何より、こちらがスワヒリ語を話すことに喜びを感じてくれる。それが本当の喜びなのかはわからないけれども、とにかくこちらも嬉しい。そして、こちらも彼らとはフランス語で話すよりもスワヒリ語で話すほうが通じる場合が多い。距離感が全く違うのだ。Ibraimには日本語を教えている。相変わらず、時間には来なかったり、音信不通になったりと(電波状態が不安定な時がよくある)不定期ではあるが来た時は、彼は意欲に燃えている。彼らにとって日本語を話すことはそれほど難しくないように思える。同音異義語がたくさん見つかるし、そもそも、すでに彼らは現地語をいれると3~4ヶ国語を話せているのだから。二人とはどうもこうして、自然な流れで今も関係が続くことになっている。「喜び」がうまく連鎖反応をしてくれれば、さらに今後も関係は続くだろう。それには、焦らず、怒らず、「まあいいか」という心が自分の中の多くを占めてくれる如何にもよるだろう。そして、「怒り」は大きく流れそのものを変えてしまうことが多い。ここはその格好の訓練道場になっている。「まあいいか」と思うしかしょうがない状況に半ば無理やり、遭遇させてくれることになるのだから。By Yasu
2013.08.12
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S氏を待つこと3ヶ月弱。結局彼らとは一緒にやらないことになった。ここコンゴでは「まいっか」という心が常に試されている気がする。何よりも待つことが多い。この3ヶ月何をしていたかというと「待っていた」(もちろんそればかりではないけれど)ここは時間の感覚が違う。例えば、「あと10分で着くから」と言われて2時間以上待つことが結構ある。「今日この書類を受け取ることができる」と言われて半日ほど待ったあげく、「明日には出るでしょう。」と言われたり。そして今回もS氏を6月中旬をメドに待っていたら6月末、7月上旬、7月中…。と、ズルズル延期する、そんな具合であった。いちいち、この「待つ」ということに対して、敏感になったり、腹を立てたりしていてはここで生きていくことは難しい。今回、この「待つ」ということに巻き込まれるのではなく、「まあいいか」という心で接してみたらどうなるかということを実践する機会になったのかもしれない。元来、待つことが嫌で何かしていないとダメなきらいがあったが、そういう彼らもここに来て少しは大人しくなってきているようだ。この待つ間は、いやがおうにも、いやむしろ好んでかもしれないが、ここでの生活を実感できる貴重な機会に恵まれている。「現地の人と生活を共にする」この長期のプロジェクトはその基礎からはじめることになっているようだ。正直、畑に出たい、始めたい、寝転びたいという思いはあった(ある)のだが、それすら本当の自分ではなくひとつの観念であるのかもしれない。そうではなく、それすらも手放した時に大きな動きになるのかもしれない。手放してはないけれど、半ば、この「まいっか」という思いがじわじわと自分の中に入っていったとき、少し動きが出てきた。それは今月中にルカのいるカレミKalemieに行くことになったということ。丁度、S氏と一緒にやらないということが決まった日、同時にVISAをどう延長しようかという事項が出てきた時、町で偶然にPaulinに会った。彼はLucaとコンタクトを取りつつ、Biochaストーブという のプロジェクトを計画中。ということで、その時の状況を話したところ、「Lucaだ、Lucaに電話しよう。」ということでLucaと話すことになった。結果、VISAの長期延長もできそうだということと同時に、彼から「カレミに来ないか」という提案を受けることになった。すでに町から近いところ、住んでいる場所のそばに4反ほどの土地を借りて、ほんの一部作物を育て始めたそうだ。そこでこちらのプロジェクトをその土地で始めてはどうかということになった。再合流ということになったのがけれど、4月の別れる前の時とは状況が違う。それは、彼らは彼らのプロジェクトが進行中であるということ。別にこちらもあちらもないのだけれど、この3ヶ月の間の別離で、うまく作用してくれる程よい距離感を与えてくれることになったのかもしれない。Yasu
2013.08.08
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つい先日のこと。とある人から連絡があり、「日本のコンバインで稲刈りをして欲しいなぜかうまく刈れないんだ。」ということで、詳しい事情はよくわからないままとにかく行ってみることになった。日帰り一日、泊りがけ4日の計5日間滞在した。場所はここルブンバシから100kmほど北西に離れた場所。着いてみると、そこには広大な湿地の中に雑草とともに生えていた稲が。そして、2条刈りの福井にあるものと同じ大きさの小さなコンバインがそこに。ここは雨期に湿地になる場所を利用して無農薬でなんと125haの面積を作っている。そして、いわゆるVillage(ヴィラージュ、村)なので電気もガスも電波もない場所。この草だらけの中、果たしてコンバインは入るのだろうか?さっそく、試してみたところ、やはり草が原因で稲刈りはうまくいかない。草が詰まってコンバインに負荷がかかりすぎてすぐにストップ、草を取り除いては、また動かす・・・。最後は、刈歯の連結部分のネジが壊れてしまい、機械での稲刈りを諦めざるを得なくなった。日本でどのようにコンバインが使われているか全くわからないまま無理に使おうとしたことにそもそもの問題があるのだが、(そして、2条刈りコンバインという小さな機械で100ha以上の面積を刈ろうとしたところにも)その隣では村人が総勢60人ほどで手で刈っていた。彼らは短く稲を刈って、それをタライに集めて、さらに大きな袋に集めて、それを一箇所に集めていた。よく見ていると、それぞれ各個人の置き場所が決まっている様子。聞いてみたら、ひと袋=いくらかの魚 という条件で作業を行っているとのこと。そして、集めた後は、その超大量の刈った穂先を、棒で叩いて脱穀するという作業が待っている。この作業をコンバインで脱穀しようと試みていたが(実はコンバインは2台あった)、刈った穂先が短すぎて、また、穂先がそろっていないので日本のように動いているチェーン部分に次々と藁を乗せてあとは自動的に脱穀してくれる、というわけにはいかず、脱穀している場所に直接穂先を入れて脱穀、そうすると脱穀された藁が詰まっていくのでそれを開けては藁を取り出し、つまっては藁を取り出し、最後は中が藁だらけになって機械に負荷がかかりすぎてストップ、という状態。・・・それでも、少しずつコンバインを使っての脱穀はおこなっていたようだが、メカニックの一人がコンバインの欠けた部品を探しに、ルブンバシに戻ったので残りの2日間は、手で脱穀する作業を朝から晩まですることになった。結果は結果だとしても、この5日間でここコンゴでの農の可能性をさらに感じることができ、そして、何が欠けているのかを感じることが少しはできたのかもしれない。1、コーディネーター(オーガナイザー)の必要性。彼らは彼らのやり方があり、こちらから口を出すべきではなかったかもしれないが、同行した一人(村人ではなく、この田んぼの持ち主の下で働いている人間)に「穂先をそろえて、もう少し長めに刈って、次々脱穀できるようにすればもっとはやくいく」と実演してみたり、「直接、コンバインをこのような草だらけの田んぼに入れるのは、機械に良くないし、すぐ問題が発生する。だから、もしこのコンバインを使うのであれば、これだけ人がいるのだから、そして2台コンバインがあるのだから、手で刈りながら、その後ろにコンバインを持っていき、脱穀してはどうだろうか。」とつい口を出してしまったのだが、もちろん先方には聞き入れてもらえず。彼らには彼らのやり方があり、今更なんだ、ということにしかならないようだった。最初から彼らとともにしていたならば、おそらく別だっただろうし、そして彼らを束ねられるようなコンゴ人のオーガナイザーがいるならば、ということを強く感じた。とにかく人はたくさんいる、60人が一斉に作業している様子は圧巻だった。2、なんとかしてしまう彼らの(同行したメカニック)の驚くべきところは例えボロボロの機械でもなんとか動かしてしまえること。このコンバインもいくつもの部品が欠けているにもかかわらず、動きはバッチリだった。使い方が、そもそも間違っているだけ、知らないだけ。だからそれを導いてくれる人の存在があれば、彼らの「なんとかしてしまう」力はいかんなく発揮されるだろう。3、ちょっとした道具・用具。例えば、唐箕は大きすぎるにしても、ふるい、箕があるならば、人がたくさんいるのでかなりの量を選別・後処理ができそうだ。あるママはタライで巧みに選別していたが、その腕があるのならば、箕があれば日本のおばちゃん顔負けの力を発揮しそうだった。草刈り鎌などの道具不足から、食器のナイフで稲を刈っている人も。あと手袋などがあれば。こういう道具・農作業用具があるとわかれば、そしてシェアできれば、現地で作る人も出てくるだろうし、また別のアイデアも出てくるかもしれない、都度都度、日本から持ってくるということではなく。そういう気づきをお互いが大切にするならば、信頼、そして発展も生まれてくるように感じた。たまたま、日本から持っていったつなぎの中にマスクが入っていたので脱穀作業を皆で手でした時に、一人のママに渡したら驚いた様子で、「こんなものが日本にはあるのか」と作業中愛用してくれた。たかだか4日間いただけなのでなんとも言えないことだけれども、村人たちはそれなりの暮らしを、それなりにしてきたわけで、例えば他からの援助物資があることによってそして、他からの雑多な情報があることによって、「僕たちは貧しいのか?」援助を差し伸べる団体が現れ、「やっぱり貧しいのか?」という意識が生まれるのではないのかなという感じもした。もちろん、それらも必要な時もある。しかし、結局、このあたりの地域は、豊かなのでよっぽどのことがない限り、飢餓などは起きない。たしかに「モノ」はないけれど、ないならばないなりでなんとか、なっている様子ではあった。むしろ、大地からの「智慧」が他からの中途半端な「モノ」によって中途半端に失われているのではないだろうか。重要なのは、この今の社会で、それらのことを踏まえた上で、「自信」を持って生きていくこと、大地とともに暮らすことが人間にとってどれほど尊いことかを一緒に耕しながら、汗をかきながら・・・。それを実感していくことではないのだろうか。今後、どんな展開になるかはわからないが、そんな可能性を一緒に作業しながら感じることができた。by Yasu
2013.05.11
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「英語」というのは、やはり世界共通の言語なのかもしれない。ここ、コンゴでは、フランス語と現地語(ルブンバシではスワヒリ語、ベンバと呼ばれるいちスワヒリ語)が話されているが若者、もしくはある一定の階層以上の人達は「英語」を話す、もしくは話したいという欲求が強い。それは、国際化の社会を受けてだろうが、その「国際化」がいやがおうにも影響する場所では「英語」が圧倒的である気がする。彼らの中には元ベルギーの植民地であったことをそういう意味でハンデに思っている人もいる。(「英語」でなく「フランス語」であったことに)もちろん、時が長く経ってしまったからだろうが、卑屈な意味での「植民地」のイメージはあまり感じられない。(これはあくまでルブンバシという都市内での話だけかもしれないが)そして、3種類、4種類の言語を話すことができる人がざらにいる。以前、とある女の子にスワヒリ語を勉強したいといったら、「え?なんで?私はスワヒリ語は好きじゃない、英語を勉強したい。それに日本語も。」と言われた。もちろんこれはごく一部のことだろうけれど、ここの国の事情をよく示した会話だったのかもしれない。ここの知事もフランス語・スワヒリ語以外にもちろん英語も話す。(なまってはいるが)おそらくここでは英語を話す若者はこれから益々増えるだろう。特に、フランス語をしゃべる人にとっては英語を学ぶというのは、日本語話者が英語を学ぶよりも非常にたやすいこと。しかし、悲しいかな、共通語というのはその国の土着語ではないから意思疎通はできるだろうけど、その言外に含まれるニュアンスみたいなものは中々伝えられない。ストレートにものは言えるけれど言葉と体に少し距離のある感じ。先日、今お世話になっている家のママから日本の友人に送るために簡単なフランス語の文章を日本語に訳してくれと頼まれた。文章はほんとに簡潔に書いてくださったので訳すことはできたけれども、しかし、「ストレートさ」がどうもつっかかり、日本語にすることが難しい…と思ってしまった。日本語は言葉により重みというか言外に含む「モノ」がちょっとばかり自然に近いような気がする。そして、漢字というものの存在が大きい。こうアルファベットばかりの中で、「感じ」「思い」をそのまま文字で表した、表すことができて今でも残っている、その「漢字」に、その「漢字さん」に感嘆せざるを得ない。それを作った先人の方にも。先日、知り合いの中国人のファームに滞在した時、彼と文字についての話になったのだが、中国では現在、かなり文字を簡略化してしまい、その文字をみただけでは意味を汲み取りにくくなってしまったという。確かに、色々と文字を見せてもらったが日本も維新後・戦後と色々と簡略化してきたが、それでもまだそれなりの昔からの文字の「感じ」が残されている。(台湾は旧字体を使っているみたいだが)スワヒリ語は…もともと文字を持たなかったので、アルファベットで表記するしかなかったけれど、言葉自体に、先日のブログで書いたように生々しさが残っている。また、地域差がかなりあるというのも生活に根ざしている感がある。今後、国際舞台で活躍する次の世代に少し伝えたいことは英語は必須そして、日本語も必須しかし、やはりフランス語も。といったところだろうか。他の言語はできるだけ早いうちに片付けるというかモノにしてしまった方がいい。「聴くこと」そして、後は実践。しかし、結局は、それが生活の一部というか体の一部にしてしまうことが一番だと思う。遠い記憶をたどり、思い出すような感じ。それが自然体に近い子供であればあるほど早いのは当然なのだろう。大人になっても自然体に近ければ…。しかし、フランス語の聞き取りは中々…。日本人にとってはスワヒリ語の聞き取りの方がはるかに易しい。by Yasu
2013.05.04
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久々に鍬を持った。ここは今お世話になっている家。元在日コンゴ大使館で働かれていたKyungu家で2週間ほど前よりお世話になっている。どの家の庭先にもちょっとした畑がある。ここもそう。これから乾期であるというので、畑を起こすことになった。乾期と雨期とでは育て方が違う。「レンガレンガ」をまこうという話になっている。日本の「アオビユ」だと思うけど、日本では雑草扱い。こちらでは、貴重な乾期の食糧。種子も食べるという。また、アマランサスに似ている。小さな畑なので、それほど長時間耕していたわけでもない。けれど、久々という新鮮さもあって、ふと感じたことがあった。鍬と呼吸がぴったりとあっているときはあまり重さや負担を感じない。でも、体だけで、、手だけで、鍬を使ったときはどうも息が切れやすい。息を吸いながら、鍬を振り上げ、息をふっと吐きながら、腰を少し意識して、鍬を振り下ろす。うまくそれがピタリとはまると逆に、鍬を使うたびに力がみなぎってくるようだ。ひょっとしたら、道具があるおかげで昔の人はずいぶんと助けられていたのではなかろうか。この意味は、手だけではできないことも道具があるおかげでできた、という意味ではなく、道具を媒介として、道具があるからこそ、人はうまい「呼吸」を得られていたのではなかろうか。呼吸法というか、そういうものを自然と得られる仕組みになっていたのではないのだろうか。もちろん、道具なしでもそれを得る機会があっただろう。しかし、道具があるおかげで、それをより得やすい、感じやすい、環境になっていたのではなかろうか。知らず知らずやっていたということよりも、ああ、こうしたら楽だし、何やら力もみなぎるようだぞ、という体知が、道具があるおかげでより得やすかったのではなかろうか。そして、その体知が次の世代へと伝えることをよりたやすくすることになった。それが脈々と今日まで受け継がれてきたのではないだろうか。何かを媒介にしてというのはよくあることだけど、(儀式とかそういうものに特に)今回、こと農作業において、そういう道具がとても尊いものに思えてきた。by Yasu
2013.04.27
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家の周りはとにかくきれい。入口の前は必ずきれいにする。毎朝毎朝、竹箒みたいなものでどの家庭もせっせと掃いているのを目にする。(もっとも道路やなんかはゴミだらけだが…)習慣というのか文化というのか、この習慣はもちろん日本にもあるのだけれど、(今はだいぶなくなりつつあるが)その掃除具合がその日本のそれとどことなく似ている。そういう、日本とここコンゴの類似性はそこかしこに見受けられるようだ。アニミズム的なところ、そして先祖供養などでもそうなのだ。つまり、キリスト教的でないものが、そこかしこに散在する。(ここでは、キリスト教がよく普及しており、毎週日曜日は多くの人が教会に行く。しかし、そのミサはどうもヨーロッパ的な荘厳さはあまりなくアフリカならではの陽気さがある。歌ったり踊ったり。つまり、現地の事情に合わせて現地っぽくなっているのだ。)この「掃く」という習慣もその一つの例。そして、それらがどうも「人」の生き方に直結するような部分が多い。今のところ、というかここに来てある種の「安らぎ」を感じているのも多分にその「似ている部分」からくるのだろう。そして、時間がゆっくり流れている。たしかに、日本だと数時間で終わることがここでは何日もかかったりすることがよくある。約束の時間なんていうのもあってないようなもの。でも、どうやら彼らは彼らなりに、その瞬間にできることをしようという意識も強い。例えば、何かをお願いすると、今やっていることを止めてでもすぐに対応してくれることがある。おそらく彼らの中で、約束とかよりもその場その場で喜んでもらえる、喜びをまさに今、共有したいという思いが強いのだろう。そもそもの時間の概念が違う。しかし、それはおそらく近代化、資本主義化が進むと同時に失われていくものなのだろう。結局、一分だ、一時間だという時間の概念は誰かが決めただけのことであって絶対的なものではない気がしてくる。それを彼らはどうも自然に実践しているようだ。By Yasu
2013.04.14
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ルカはついにカレミへと旅立った。こちらは、カレミにはやはりどうしても何か引き付けられないものがあり、ここにしばらく残ることにした。特に、例のごとく、カレミに行こうとする度に「何か」が起こった。ルカ達の車がおかしくなったり、PCがなくなったり、とっくにおりているはずのVISAが中々おりなかったり…。これをどう感じるか、何を彼ら達は主張しようとしていたのか。そんな一連のことが起こっている最中のこと。3月末にS氏というコンゴ人で日本の大学で教鞭をとっていらっしゃる方と会う機会に恵まれた。日本にもう30年以上も住んでいらっしゃるということで日本語がバラバラ(なんとスワヒリ語では「ぺらぺら」をこう表現します)なのはもちろんなのだけど、「コンゴと日本は似ているものがある」「日本に住んでみると、何故かどことなく居心地が良い」そんな話を聞きながら、相通じるものがあった。「コンゴの人自身がコンゴの人を「助ける」べきで、そうでなければ、このコンゴの発展はありえない」「そもそも、農をするのもイノチを感じあってそれが喜びにつながるから」そんな根本の話で共感しあえるというのはこの異国に地において何よりなこと。目下、彼が6月にまたこちらに戻ってくるのでそれを待って、カミーナという地域に行く予定になった。ということで、またしても「待つ」ことになった。その間、何ができるのか。ここ、コンゴではフランス語と現地語(ルブンバシではキスワヒリ語)が話されているのだが、フランス語は公の言語であって、人々の日常会話ではほとんど現地語が話されている。最初はまずはフランス語をと思っていたが、どうやら、スワヒリ語で彼らと話をしようとすると彼らとの距離感が断然違うことがわかってきた。「近くなる」「喜びを感じあえる」また、田舎に行くとほとんどフランス語話す人はいなくなる。町を歩いていて、彼らはまず「ボンジュール」か「ニイハオ」と話しかけてくるのだが、答えとして、「ボンジュール」ではなく、「ジャンボサーナ。ハバーリ?」(スワヒリ語で「こんにちは、元気ですか?」)と答えてみる。そうすると、「お前はスワヒリ語を話すのか!?」みたいな驚きとともに、よそよそしさが取れて(もともと彼らにはあまりないけれど)にやりとした笑顔が返ってくる。彼らはもともと自然体に近い人達なので、喜びというのを何か共有しやすい感じがある。この言葉一つをとっても、良い意味での一体感をお互い得られる感じがする。そして、気がつけば、日本に興味のある人が周りにたくさんいる環境になってきた。ここ、ルブンバシにはわずか3人の日本人しかいないのにもかかわらず。ということで、言語のイクスチェンジ(交換)を兼ねて日本語を教えようという流れになってきた。面白いことに、このスワヒリ語と日本語は似通っている部分が多い。さきほどのバラバラもそうだけれども、道路の状況が悪いことを「バタバタ」という。(日本では「ガタガタ」かな)唐辛子を「ピリピリ」といったり。意味は違うけれども発音が同じものが、たくさん。カマタ(切る)、カマ(もし~なら、if)、バンソウコウ(?)、イネ(数字の4)、モト(火、電源)・・・おそらく、お互いの言語には古来の言葉が残っていて、それは人間が感じたことがそのまま「言葉」として残されたもの。だから、似通っているのかもしれない。Polinに少し日本語を紹介した際、「これは簡単じゃないか」と言っていたが、おそらく、彼らにとって日本語を話すことはそう難しいことではないのかもしれない。「種をまく人」として、ここにきた以上、その任務を努め続けていきたい。「我」の人脈ではなく「公」の人脈として。By Yasu
2013.04.13
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来週、ついにカレミに行くことになった。ここを去るということになるとなんとも言えない気持ちになってくる。それはどこから来るものなのか。そんな気分であると天気もここ連日雨が続いている。ルブンバシ大学・農学部と将来的に何らかの形で提携するということで話は動いている。カレミにはカレミ大学があり、調べたら、実はここはルブンバシ大学の分校みたいな立場のようだ。このカレミではルカのプロジェクトに協力するとともにそのカレミ大学と関係を築いて行く予定だ。ここコンゴの人は自然体に近い生活をしている人も多い。というのも、シンプルな食生活をごく当たり前のようにしている人が多い。もちろん、十人十色なのだろうが、あるコンゴ人から聞いた話では、一日一食、それもFufu、野菜、豆、魚。不思議とスープはない。肉も食べる人は食べるがその辺りで野放しで飼っているヤギ。そして卵も食べるがその辺で歩き回っている鶏。つい10年ほど前までここコンゴは内戦状態だった。この時、ほんとうに食べ物がなかったらしい。別に一食にしたくてしたわけではないけれど、戦争が終結して、ある程度は食料が手に入りやすくなってもそのままこの習慣は続いているという。理由は、好きだから、体にあうから、らしい。日本も戦中・戦後とそうであったように、確かに栄養学的に見れば滅茶苦茶なのかもしれないがとにかく、彼らは元気で生きている。人の面から見てもここは希望の土地だ。彼らと汗水流して、体を使って働く。その機会が訪れるのを待っていた。米のプロジェクトがとか色々肉付けはあるのだろうが、要はこの一点。多分、中には先達のような人もいるのかもしれない。そんな方々と「一緒になれる」という機会なのだ。どうやら、この雨ももうすぐ止みそうだ。By Yasu
2013.03.13
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以前のブログで畑に種をまいたことを書いた。さて、その畑で農作業をしていたところ、この敷地内の奥に住んでいる住人が話しかけてきた。もちろんフランス語はほとんど話せないので、先方のカタコトの英語と、こちらのほんのカタコトのフランス語でなんとか会話する。「君はここでビジネスをしに来たのではないのか?」という。だいたい、ここにいる外国人はほとんどがビジネスできている。それもほとんど鉱山関係。でなければどこかのNGOだろう。「いや、違う。百姓をしにきたんだ。」みたいなことを伝えるとびっくりした様子。「俺も畑をやっている」みたいなことを彼は言ったがその時はそれで終わった。そうしているうちに、ルカと彼と交えてじっくり話す機会があった。面白いことに、彼は大学で植物学を勉強していた、そして現地の薬草・野草なんかもある程度知っていた。彼の父親が昔、日本の会社が経営する鉱山に勤めていた。(40年ほど前、ここに日本が経営してた鉱山があった)ということがわかった。そして、また大学との提携の話が上がってくるととてもこちらに興味があるらしく、なんと農哲学院のHPの英語版をフランス語に訳して読もうとしていた。「とにかくできることは協力したい。」「将来の夢はここで自然農の大きな農家になることだ。」日本にも、とても興味があるみたいだ。こんな近くになんとまあ縁のある人がいるもんだ。種まきをするというのはもちろん植物の種をまくことなんだけれど、それ以外にも意味が含まれているようだ。つまりは人間の種をまく。人との縁の種をまく。とでもいうのだろうか。別にそれを求めていたわけではない。もちろん収穫してそれをいただくということにこしたことはないのだけれど、また、「経験」ということでコンゴでの条件はいかなるものかという意味もなかったわけでもない。この約ひと月あまりという期間限定で住む家の横で畑を開墾することにどんな意味があるのだろうか。とはあまり考えず、とにかく体を使い、自然体になれる空間・機会はあるといいなと思い、毎朝起きて、満面の笑みで挨拶する対象があるといいなと思い、それはもちろん僕にとっては田畑なのだと思って、持ち主に許可をもらって開墾した小さな小さな畑。そんな小さな畑にもこんな力があるんだ。いくら言葉を重ねても、理論をならべても、綿密な計画なんかがあったとしてもこうした人の縁に勝るものはない。そしてそれは、体を使った、動くことによって得られるのかもしれない。畑は・・・やはりこちらはすべての成長がはやい。植物の成長も早いが、虫や草の成長も早い。「土作り」の段階とはいえ、日本とは何かが違うようだ。by Yasu
2013.03.01
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kalemieカレミという場所に行ってきた。ここは、ルブンバシからは800kmほど北東に上がった場所。ルカが偶然再開した友人の故郷がカレミであったことから話が浮上。田んぼもあるということなので見に行くことになったのだ。ここは人口20万人ほどの都市。目の前には海と見間違えてしまうほどの巨大な湖、タンガニーカ湖。砂浜もあり波もあり、本当に海みたいなのだが、水を舐めてみるとしょっぱくない、淡水なのだ。ルブンバシとは全く違う気候。湖に近いせいか、湿度が高く、じめじめしている。植生も違う、季節が違うのだ。というのも、ルブンバシ近辺でまだ背丈の小さかった雑草がこちらではもう種になっていた。この町の中心から約35km離れた場所にFAO(世界食糧機構)の援助でできた田んぼがあるというので見に行った。驚くべきことに、日本の昔に似た田んぼが広がっていた。一枚1反にも満たない田んぼが数え切れないほど。そして、さらに驚くべきことに、もう少しで収穫かと思われる稲がある田んぼの隣では苗の移植をしていた。そしてその横ではこれから移植する為の準備をしている田んぼ。収穫が終って起こしてある田んぼ。季節感がなく、ごちゃまぜになっている。ほとんど年中田んぼができるらしい。ここは2毛作、やろうと思えば3毛作もできるそうだ。それも、自然農で。収量も反当たり400キロ、約6俵と悪くはない。これが、アフリカが可能性の土地だと言われる所以であろう。そしてその隣には里芋が。「タロ」と呼ばれていて、同じように芋を食べるそうだ。人類の起源と言われるこの大陸にはまた日本と同じようなものがたくさん存在している。米・豆・野菜そういったものは生きる上での根本にあるというのがわかるし、こういうものが身近にあるかどうかの距離感で人間と自然との距離感がはかれるのかもしれない。バナナ・パームヤシ・タバコ熱帯の植物もまた多く栽培されている。町の中心には大きな市があり、港町といった印象。対岸のタンザニアまでは船が頻繁に出ている。そして、そのタンザニアの対岸のキゴマという町からはダルエスサラームというインド洋の大きな港町まで直通で鉄道が出ている。なんだか日本が近くなったような印象。そして、このコンゴでの一番の問題であり、今後の行く末を左右するであろうのが交通事情の悪さ。舗装された道路はこの町では中央通りの一本しかない。(だいたいどこの町も同じ、しかし舗装された道路でさえ珍しいのがこの国)あとは、相変わらずの悪路。先日訪れた田んぼのある村も、行くまでが大変。35kmといえども1時間はかかる。それもトヨタのランドクルーザーで。ランドクルーザーはどうやら世界で一番タフで強い車らしい。この国では必需品のひとつかもしれない。なにせ、UN(国連)やらFAO(世界食糧機構)やらどこの機関にもこのランドクルーザーは必ず一台はある。どこもかしこもこの国中は交通網の悪さが問題で、収穫した後の運搬が一つの大きな問題となっている。作物を作る人はたくさんいるのにそれが流れない。流通システムが機能していないのだ。このカレミという場所もその交通網の悪さでほとんどがここにとどまったまま。そして、タンザニアからくる輸入物に押されているという。タンザニアは何せここコンゴからすれば文明国。いろいろな洗練されたものが入ってくる。米も同じ。綺麗に精米されたタンザニア産の米が大量に入ってくる。以前は農作物の輸出国であったという。それが長年の内戦でそして、長年の独裁政権で国は停滞したまま。一気に輸入国になってしまったという。だが、逆に以前そうであったという事実があるのだから可能性は十分にある。この交通網の整備だけでこの国は生まれ変わるだろう。by Yasuカレミ周辺図のリンク↓大きな地図で見る※地図ではカレミエとなっているがカレミと発音する(フランス語)
2013.02.13
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希望の畑。ついに、仮ではあるけれど、そして一時的ではあるけれど畑をつくることができることになった。2月よりルブンバシの郊外に引っ越した。ここは以前のダウンタウンに比べれば格段に環境のよい場所。元、ゲストハウスだった場所をこれからレストラン兼ゲストハウスとして改装する予定の家を借りることができたのだ。ひと月限定で。屋敷はゲストハウスということで広く、邸内には庭もある。さらにここの習慣として屋敷内にまた別の家があり、そこに家主の親戚の人達が住んでいる。家の横の庭の一角を開墾していいことになったので早速引っ越した早々から開墾し始めた。元芝生だったのか、やたら根のはった草が多く中々一筋縄ではいかない。そして、ここには普通のことだが、ゴミも中から出てくる。昼近くになって晴れていると灼熱の太陽が照りつける。昼前後の作業は不可能に近い。こちらでは、朝が勝負。それでも、少しずつ、開墾し、先日種もまいた。アブラナ・エゴマ・バジル。そして、日本から持ってきて息の切れかかっていたにんにく、ニラ。カレミから帰ってきてみると、(カレミについては次の日記参照)アブラナ・バジルが発芽していた。やはり、早い。ここはアフリカだ。希望の畑の誕生だ。by Yasu
2013.02.07
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と、前回の日記を書き終わった直後に、そのブンケヤが「マイマイ」によって襲われたという情報が届いた。世の中に、「決して」という言葉は存在しないようだ。やはり、振り出しに戻った。ルカ曰く、5月までに遅くとも彼のプロジェクトの核である「農村部から米を買い、籾すりなどもきちんとして、パッケージングもしっかとしたものを作り、きちんとした商品で市場に出す」は動き出さなければならないとのこと。そして、その数日後、ブンケヤの村長(シェフ)に会った。ルカのプロジェクトに非常に前向きで協力は惜しまないとの言葉。ここコンゴの田舎では村のシェフが絶大的な権力を握っている、そういう人からの言葉なのだから、影響力はあるだろう。そして、ブンケヤ内で多少強奪などあったものの(数人の死者もでた)、今は小康状態で軍隊も何十キロも先にマイマイを追い返したという。そして、様子を見るために、2月末までは軍隊を駐屯させるが、その後は撤退させるという。その後ならいつでも来て欲しいとのこと。そう、つまりは、ブンケヤに行くのは、いや、行けたとしても、3月からになるということだ。しかし、先のことはわからない。これは明らかにサインだろう。それでも固執するのか、それとも流れるのか。そして、ちょうど、そんな折に、ルブンバシから東に100キロ弱のところにあるKiniamaキニヤマという村で農園をしている方と会った。少し、何か感じるところもあり、そこに今週、行ってみることになった。その後のことはわからない。とにかく必要なことは、「原点に帰れ」ということだ。固執するものをなくし、流れが来るのを待って、それにゆだねる。この何日間はそれができるよう、ただただ祈るばかりだ。yasu
2013.01.29
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人から毒を受けていると感じていても、その人も他のなにかから毒を受けている。それを考えずに、一方的に被害者だと思ってしまうことに事の起こりがあったようだ。もちろん、いつもはそうは思っていないけれど、そう思いがちな傾向にあるということ。何かの瞬間に一瞬でもそう思ってしまうことがあるということ。毒の連鎖に陥らないように、少なくともそれに気づいて、連鎖にならないようにする。毒はこの世にいる以上、多少なりとも受けてしまうのだ。乗数みたいに、ねずみ講みたいに、連鎖が始まると加速度的に広がってしまう。そして、その人がどこからか毒を受けているかを考え、感じ取る努力をしてみたらどうなるだろうか。その人の態度のどの部分がどこから起こったものなのか、この思いの照準をそこに変えてみれば、道は開けるかもしれぬ。そんなようなことを感じ、しばらく過ごしてみた。・・・少し事態は好転してきたようだ。そうしているうちに、見えてくるものがあった。どういうものが原因で、「毒」みたいなものがでてくるのかが。その多くは、食べ物であると思う。この環境は今までとは全く違う環境。今までの食生活とは全く違う。日本との比較でいえば、米(短粒米が)もない、海苔もない、昆布もない、醤油もない(あるけど高い)、味噌もない、ましてや納豆もない。ヨーロッパもものはまだ比較的手に入りやすいが、それでも当地での食生活と同じようにはできない。当然、今までなかったものを受け入れるのだから、自分の体に何か反応が起こるのは当然だろう。それに対して、どう彼らを受け入れることができるのかが重要な問題なのだ。食べない方がいい、と言い切れればいいのだけれど、そんな境地にはおよそ到達できていない。我々にとっては、彼らを受け入れる瞬間を持つ必要がある。そんな時に、どんな態度を取ったら今ある自分の体とうまく一体になれるのだろうか。なるべくなら、一緒になってうまく迎合して付き合っていければというのが大方の心情ではないだろうか。しかし、どうしても受け入れがたい方々には、それとなく退散してもらいたい。そんな風にするにはどうしたら良いのだろうか。どんな妙案があるわけでもないけれど、少なくともそう思いながら、そして時に出会い(人の出会いとおなじように)にワクワクしながら、食事の時間を迎えたらどうなのだろうか。こちらにきて、もう何度も下痢に襲われたりしているけれど、「彼らは、自分の体にはどうも受け入れがたい何かを持っていて、逃げ出したのだろう」と思える環境にあるのだなと思ってしまえば、それもまた小さな体知。常にそういうことを自然に感じながら食事を迎えられる為の訓練にもなる。逆にすべてのものを拒否する、つまりネガティブな気持ちで受け入れるとしたらどうなるだろうか。自分の体の中にすでにあるものと入ってくるものとが、すれ違いを起こし、お互いが拒否反応を起こし、喧嘩ばかりする。同じ下痢のようにも見えるけれども、喧嘩別れした状態でなんだか嫌な気持ちで外に出ていってしまう状態の下痢とは何か違う気がする。そして、実は自分の体にとってあっていたものも、その喧嘩に負けたり、居心地が悪くなって、出ていってしまう事態も起こりうる、要は、強いもの勝ちの世界になってしまい、力のあるものが自分の体の中を支配してしまうかもしれない。例えば、食べ物を箸でいただくのと、フォークでいただくのとでは全く違うことになると思う。こちらでは、手でというのが一般的だが、それもまた違ってくると思う。「箸でいただく」ということが、実は何気なくしていたことだったけれど、かなり謙虚な行為のようだ。直に手で食べることがおこがましい、さりとて、フォークを使って食べ物を突き刺すなんてことはできない、ならば、せめてそうならないように、「つまむ」ことにしようか。というような、謙虚な態度の上で「箸」が考えられたのではなかろうか。この「箸を使う」文化圏の祖先の方々の自然感は、何かしっくりくるものがある。(あっているかどうかわからないけれど)少なくとも、そういう文化圏で生まれ、特に、説明されたわけでもなく、何気なくやってきたことではあるけれど、その「何気なくやってきた」ということ自体で「大きな違い」があるのかもしれない。いや、レッテルも貼りたくもないのだけれど、少なくともこういう話を理解しやすい環境にあるということは言えると思う。箸で食べるということが、食べ物への思いを馳せやすくするということも言えるかもしれない。何を食べる、食べない、という云々よりもどう受け入れるか。今までいただいてきたようなもので、ああ体にあっているなあというものが、ほとんど手に入らない状況なので、結局、そういうところに持っていくしかなくなってきたのかもしれない。つまりは、「毒」というものは体の中から排出されるモノがどんな状態で出るか、どんな思いで出るか、によるといったところだろうか。「二度とこんなところにくるか!」という思いと一緒に排出されてしまえば、それが毒となりうるし、「また、来たいなあ、今回は残念」という思いと一緒に排出されれば、それは毒ではなく、逆に良薬となりうるのかもしれない。Yasu
2013.01.28
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今、こちらはまたしても待機状態となった。というのも、例の「マイマイ」という武装勢力が、今度行く予定であったブンケヤの北20kmにある村を襲ったという情報が入り、またこのブンケヤに難民がたくさん集まってきている、さらには警察と軍隊もこのブンケヤに駐屯して治安維持にあたっているという状況。このブンケヤはそのあたりの中心集落で、ブンケヤ自体は決して襲われることはないそうだが、今置かれている状況、特に軍隊はよく問題を起こすみたいで、このような状態では、とてもブンケヤで農業をはじめる環境ではなく、UN(国連維持部隊)にも安全性が確保されるまでは近づかない方がいいとのアドバイスも受けた。一番のネックが通信状況で、ブンケヤにはネットはおろか電話も通じない状況で何かあった時にも、助けも求めることができない・・・。ルカは、それでもここブンケヤでやりたいという思いがあり(もちろん、今は無理にしても)、とにかく、ここルブンバシとブンケヤの間にある、どこか田んぼのある場所を探して、そこから小さくとも始めてみて、ブンケヤの安全性が確保されたのならば、ブンケヤに戻ってスタートしたいとのこと。安全性が確保されないのならば、その始めたところで、続ければいいのではという意見だ。何かこうなることには重要な意味があるにちがいない。どうも、先のキルワというところにしろ、このブンケヤにしろ、行くべきではない、行く時期ではないのだろう。一旦、真っさらにして、一からスタートし直すのが良いのではないだろうか。何か、天は示唆を与えて下さっているのだろう。さらに、今月末には今住んでいる場所をでることになっている。来月からは車のみという生活になるかもしれない。幸いにも、ルブンバシ内に一時期ならば滞在できそうな場所は見つけたのでそこに、荷物を置かせてもらいながら、拠点となる場所を探すという生活になるかもしれない。ちなみに、この場所はルブンバシの大学と共同で中国人が主体となって行っている農園。中国人はしたたかだ。そして、そこで見たのは、懐かしい田んぼの風景と、田植え機。田植え機はクボタ日本製。どんな形であれ、いわゆる田んぼに(こちらでは田んぼといっても日本の田んぼみたいになっているのは皆無)近づけたことは、ここでの可能性を強く感じた。また、近日中に、このブンケヤの村長と会うことになっている。その話如何では展開が変わるかもしれない。Yasu
2013.01.25
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週末、Bunkeyaブンケヤというところに行ってきた。そもそもキルワに行く予定であったのが、しばらく情勢は好転しない模様だったので、最初にルカが見つけて、ルカのプロジェクトをやると決めていたブンケヤという所に行ってみることになった。ルブンバシからは約200キロ弱、途中までは舗装された道路、残り約50キロくらいが未舗装道路。車で約5~6時間の距離。道とはいっても、コンゴでは舗装された道路はほんのごく一部に過ぎない。運の良い事に、途中までは舗装された道路、なぜならその道路近辺には鉱山があるから。中国やらアメリカやらどこか外国の資本によって、鉱山が運営され、それに付随して道路も舗装される。しかし、鉱山が近くになければ、それはほぼない。ここブンケヤはルブンバシとは全く違った環境。人口は2万人ほどいるということだが、村は村。子供がそのあたりを駆けずり回り、ヤギやブタ、鶏などの動物がそのあたりを徘徊している。メインストリートには露天がずらりとならび、にぎやか。しかし、一歩そこを離れると、静かではないが、ゆったりとした空間が広がる。想像でしかないのだが、日本でいうところの昭和30年くらいの田舎の光景とでもいうべきなのだろうか。今回ここにいってみてわかったことは以下のとおり。・村の中心部は集落のみで、その周りに畑や田んぼが取り囲んでいる状態。・水源は山からながれてきた雨水を利用している。例のごとく、雨季には田んぼは常に水が溜まっている状態、しかし乾期には、田んぼには潅水できない。 また、川は常に濁っている感じで、澄んでいる感じではない。・電話・インターネットのアクセスができない。アンテナが最近立ったが、雷により倒れてしまった。・家の隣というわけにはいかないが、村の中心から約3km離れた場所に3~5haの未使用の土地を使用できそうな見込み(最終的な判断は村の村長シェフが決める)・村にはいくつかの空家もあり、借りることはできるだろうとのこと(これも村の村長シェフの判断)・アクセスは大都市のルブンバシまで陸路で可能。約5~6時間の距離。 リカシという都市までは約3時間の距離。・ルブンバシの大学との提携も可能。若い人材が集う可能性。ここに大学のブランチができる、今まさに校舎を建築中とのこと。・近くに鉱山がなく、水の汚染からは守られている。・近くの湖で塩が取れる。・赤い土、赤い石が近くで手に入る。(もともとこのあたりは赤土が多い。)3人の意見で、とにかくここでプロジェクトを始めようということになった。今、村のシェフがルブンバシに滞在しており、近日中に彼に会い、プロジェクトの説明、その後の結果次第で、2週間後をめどに、このブンケヤで長期滞在を前提に移動する予定になった。こちらでの一つの大きな前提がある。それは、今のところほぼ全員が自然農(無農薬・無肥料)をしているということ。企業が大規模で行っているところはわからないが、大多数の農業に従事する人は自然農。もちろん、肥料・農薬を買えないということもあるかもしれないけれど、それで成り立っている、そしてきちんと収穫ができるということが前提になっている。そもそもが肥沃な土地である、そして、雨期の間の雨が土地を持続可能なものにしている、そして何よりもほとんどの作業が手作業、マンパワーだということ。もちろん、都市集住傾向はあるけれども、それでも農業に従事している人の数は非常に多い。だから、一軒の農家が何haもの面積を手作業でこなすことが可能。(もっとも昔の日本もそうだったのだろうが)ここがコンゴが可能性のある国であるという確固たる証拠であると思う。人類がここ何十年か辿ってきた道から、あたかもタイムスリップし過去に遡ることができたような感じ。だから、その道の行く末がどうなるのか想像できるし、今なら、辿ってきた道とは違う道を辿ることができるのではないかと思う。田んぼに従事する人も多い、自然農だが、収穫量もまずまず、(3.5t/ha平均)収穫・脱穀も手作業だが、それに従事する人がいる。日本みたいに整然とした芸術的な綺麗さはないけれども、こちらの農業のシステムもなかなかのもの。問題は、脱穀した後だ。村には中国製の古い籾すり機が一台あるだけ。まともに籾摺りができない。籾摺り後も籾殻や籾が混じって出てくる。これが、商品としての米の質が良くならず、安く買い叩かれてしまっている原因。それでも、コメはとうもろこしの二倍の値段が付くとのこと。だから、良質の籾すり機一台あるだけで、だいぶ変わるのではないかと思う。そして、そのくらいの変化でいいのかもしれない。そのぐらいにしておけば、違った道を辿れるような気もする。どうも一方通行というのは良くないらしい。例え、その人に喜んでもらいたい、そうでなくとも純粋な心で何かをしようとしても本人がその気でないのならば、それは分かち合うということにならない。そのあたりから闇の力は入り込むようだ。例えば貊塩を勧めてみたとする。それが、例え自分がずっと使い続けてきて、これは本当に良いものだという実感がこもっていたとしても「これは粗いから嫌だ」と言われたとする。そこで、まあそんなもんか、じゃあ細かくしようかくらいに思えばいいのだろうが、そのあたりから闇の力が現れ始め、「それなら二度と勧めたくないなあ」というある種の卑屈な自分が姿を現す。ことの起こりはいつもこんな風。そこに、変に固執するよりも、その背景を感じ、そして静かに待つ姿勢が問われるのだろうが、一度まかれた種はある意味根強い。そして、何かの度にそれが大きくなり、目に見える形ででてくる(態度など)とハッと気づき、それが一旦は奥に引っ込む。しかし、雑草の草の部分だけ刈っただけなので根は残る。そして、また何かを栄養分にしてむくむくと成長してくる。これの繰り返し。しかし、よく考えれば、ずっと刈っているうちに彼らも居心地が悪くなってそのうち生えてこなくなるのかもしれない。いや、奥底にはいるのだけれど、出るのをためらうようになるのかもしれない。そう考えると、自分自身の中が一つの大きな畑や田んぼのようだ。畑のように何年も続けていくうちに、植生は変わる。人間の心もそのように変わることが可能なのだろう。Yasu(ブンケヤは村なのでgogle mapでも細かくしないと出てきません。上図の下の方にあるリカシという都市から約70キロ北上したところです)
2013.01.16
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Kilwaキルワに行くのが延期になった。そのまえに、今の状況を少し述べていきたい。まず、コンゴについて以降、Lubumbashiルブンバシという南コンゴ一番の都市にいる。ここは鉱山都市で人口は100万人以上、町は活気にあふれているが、何せ環境はあまりよくない。鉱山・汚水・排気ガスなど空気も汚れ、地面もゴミだらけ。ルカは最初、この近郊で土地を探していたが、中々見つからず、ようやくここから300キロ程離れた、Kilwaというところで見つけた。ここは、コンゴでは比較的水田が盛んな地域で、湖があり、国立公園であるKundelunguという山が背後に控えており、おそらくその山から流れてきた水を田んぼに使っているとのことで、汚染の激しいルブンバシに比べれば、抜群の環境だと思う。ルカはそこで田んぼをしている農家(正確に言えば投資家)と知り合い、ルカのプロジェクトに賛同、約25haの土地を使うことができることになった。(土地の売買・貸与に関してはすべてそこの首長の権限にあるとのことで、その首長がOKとの判断を下したらしい。)このKilwaという町に1月4日(金)に移動する予定だった。途中、道路の道が無く(あるけれど、限りなく悪く、雨季ではランドクルーザー以外では無理とのこと)、船を使っての移動で、ここからまる一日かけて移動するという予定だった。「マイマイ」という武装集団(?)の活動がその近辺で見られたために、そこまで行くバスが一時不通になってしまったとのこと。これはまた、「何か」を示唆しているのに違いない。「何か」行くことにつっかかりがあったのは確か。準備が出来ていないのかもしれない。新年明けて以来、急ピッチで進められていた準備。現地は電気もなく、ここ都会のルブンバシとも全くちがった環境。4日に出るんだという、なんだかそれだけが先行してしまっていたのかもしれない。二人の口論も目立っていた、そして、それに引っ張られがちの自分。3日の夕方、今回のKilwa行きの賛同者、先に述べた農家兼投資家Angeからのコール。「マイマイ」の活動により、キルワ行きのバスが普通になった、そして今は行けない状況になったとのこと。腑に落ちるものがあった。出発は延期でしばらく様子を見ながら、情報収集することに。とりあえず、そのバスが運行を開始するまでは待つことになった。これは天からの恵みであるように思えた。今はまだ行く時期ではないのかもしれない。そう簡単には行かせてくれないのだろう。焦ったり、カッとなったり、急いだり、ついそうすると道を失いがちになるけど、そこにストップをかけ、冷静になって見渡す機会を作ってくれる、いつもいつものことなのだが、そう簡単に「大地」に触れさせてはもらえない。しかし、準備が出来たのならば、自然と天はそこに導いてくださるだろう。ルカたちのこの3ヶ月、様々なことがあったにせよ、確実に導かれてここまで来ているのだから。いつもながらひねくれている自分がいるのだけれど、ここではひとりぼっちなので、それを省みることができるのが良い。例えカッとなったとしても、今の自分ではそうしたところで、ここでは「生きていけない」ということがわかっているので、一歩下がって見ようという力が働いてくれる。どうやら人が悪口を言ったりするのを聞くのが嫌みたいだ。そのことによって、ああこの人はそんな人なんだなというレッテルをつい貼ってしまいがちなのだが、そういう人もそれが単なる借りている体にすぎないのだなということをもっと体知するべきなのだ。こうやって文章に書いているときはごく冷静に書けるのだけれど、その場にいてそういう状況になると、やはりあの闇の力は入り込みやすいところに入るものだ、スっと知らず知らずのうちに入ってくる。それに対して、自分の第二の矢までささらないように、どんな方法があるのだろうか。「一言」でも声をかけるべきなのだろうか。それとも黙って笑顔を浮かべていればいいのだろうか。恐ろしくもあり、また可能性でもあるのだが、こういう時の一挙手一投足によりすべての状況が変化しうる、ということ。今回のことでもそうなのだが、焦りや急ぎ、怒りなどがないまぜになり、今の状況を作る一因になっていると思うと恐ろしいことなのだが、決して後退ではない。問題は、第二の矢まで刺さらないこと。すべての色メガネをとって、真っ白にしか見えない世界はさぞかし美しいことだろう。しかし、余計な一言は言わなくて、少なくともよかったのかもしれない、空虚な笑いは時として出てしまったが…。つまりはここで食い止めることができて、まだ良かったということだろうか。「初心を忘れるな」というのは、最初に人に会った時、その人に対してのなんにも印象のない真っ白な状態であった時のことを常に思い出すように心がけることなのかもしれない。でもやはり「言葉の壁」は素晴らしい。とりあえず、何とかしてみようとして、眠っていた力が動き出したり、まあいいかと諦めて、余計なことに惑わされないことになるから。今のこの状況ともまた違うが、違う人種同士が適度な人数で集まって何かをするということは良いのかもしれない。観察する力がつくだろうし、自分を体知することがもっともっとできるだろう。そういう意味でも海外にでるというのは、かくも素晴らしいことではなかろうか。Yasu
2013.01.07
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コンゴについて1週間。感じたことを連ねていこうと思う。〇黒人は、人類の起源だということがわかる気がする。彼らの顔つきをみていると実にさまざま。日本人っぽい顔つきをしている人もいれば、ヨーロッパ系、他のアジア系っぽい顔つきをしてる人もいる。ただ、黒いというだけで人種のるつぼだ。つまり、ここから人類が世界各地にちらばっていき、それぞれの「顔つき」になっていったのだろう。〇また、こちらの人は語学力に長けている。その必要性があってそうなっているのであろうが、フランス語、スワヒリ語、現地のスワヒリ語、英語も少々、というのがほとんど皆。〇驚くべきことに、走っている車のおよそ80%くらいが日本車だ。それもTOYOTAが圧倒的。しかもそのまま手入れをせずに輸入したのであろう、車に書かれた日本語もそのまま残っている。日本車はその信頼性において遠く、このコンゴまできこえている。しかし、相変わらず、町を歩くと「シノア!(中国人)」とばかり言われてしまう・・・。(どこにいっても中国人はいるようだ、ここルブンバシにもなんと3つものチャイニーズレストランがあるらしい)道路状況が非常に悪く、日本車でもランドクルーザーやパジェロなどが好まれるようで、いくら金持ちでもベンツなんかに乗らず、そういう実用性に富んだ車を持つ傾向にある。 〇田んぼの方法がまるでちがう。こちらでは今のところ、このルブンバシという都市(100万人以上)内でしか田んぼをみていないが、川原に草を刈って、鍬で耕して、苗を植える。そして、雨を待つ。雨季ならば、時に非常に激しく雨が降る。そして「田んぼ」に水が満たされる。つまり、水をためるような田んぼにはなっていないのだ。良くも悪くも天気任せ。しかし、こちらには雨季があるので、雨季の間であれば水には困らない。〇畑は驚きべきことに、ごく普通に混植している。よく目にする組み合わせは、トウモロコシとキャッサバ(イモの一種)、豆とトウモロコシ、豆とレタスなど。混植の効果をよく知っているようだ。そして、今のところ、雑草を刈っている姿を見たことがない。作物が草と共生をしている。どちらも同じくらい早く成長するということだろうか。まだぱっと見た感じだけであるので、どこかの時期で除草をしているのかもしれないが。栽培してる作物は、オリジナルのキャッサバなどもあるが、とうもろこし、大豆、いんげん豆類、ナス、唐辛子、じゃがいも、キュウリ、20日ダイコン、ズッキーニ、トマト、オクラ、人参、たまねぎ、ニンニク、しょうが、ねぎ・・・これはもう、日本に似た風景が広がる。 (とうもろこしとバナナの木)(オクラ)ほとんどありとあらゆるものが栽培可能なのだろう。そして、かぼちゃやさつまいもも栽培するが、こちらではどちらかというと葉っぱをメインに食べる。フルーツ類も豊富。バナナ、マンゴー、アボガド、まれではあるがデーツもある。そして、それらの木と作物の混植もしていたりする。例えば、バナナの木の下にとうもろこしを植えていたり。 (ナス、こちらのは少し小型)(バナナの木)ほとんど手作業であるがゆえにこうしたことができるのであろう。これが、機械化されたら、単品栽培になってしまうのかもしれない。今まで見てきた畑はごくごく一部にすぎないが、機械というものを使っていない。ほとんどが人海戦術だ。それくらい、ここは人にあふれている。ということで、農業を商売にしている人(投資家)もいるが、彼らにおいても、人を雇って広い面積をほとんど手作業で栽培している。色々な面でアフリカは可能性にあふれているといえるが、この点においてもだ。つまり、「農作業」をする人があふれるほどいるということ。もちろん、今は彼らは生きるために個々に、しかも副業的にやっている。そういう彼らが、持続可能な「農」を一丸となっておこなうということになればものすごい力を持つことになるだろう。またそれを支えることのできるくらい豊かな大地であることは確か。雨季と乾季があるものの、例えば、とうもろこしはほとんど通年栽培が可能とのこと。だから畑も、休ませている場所、種を蒔いたばかりの場所、収穫間近な場所とすべての段階が入り混じっている。しかし、今は雨季であるので、一番畑が豊かな時期だということかもしれない。 ○不思議なことに、彼らはいつ寝ているんだ!?というくらい、一見してずっと働いているように見える。というのも例えば、街角の小さなお店などほぼ、24時間年中無休で開いている。しかし、反面、働いていないようにも見える、例えば、町を歩いてみると、ただイスに座って何もしていない人々がたくさんいたり、気だるそうに無表情に一見するとやる気がないように見える店員など。しかし、それは気候の変化のなさからくるものではなかろうか。つまり、このあたりは赤道に近く、常に暖かく、陽が昇る時間と、日が沈む時間が年がら年中あまり変わりない。だから、常に一定なリズムになっている。日本がキッチリとした「四季」があるのに比べて常に一定であるから、メリハリがなく、リズムのアップダウンもなく一見するとやる気がないようにダラダラと働いているように見えるのではないのだろうか。変化を求めない。というのはあるのかもしれない。というより、必要なかったのかもしれない。生きるために必要なものは、この「変化のない」しかし、いつ種をまいても育つ大地が天から与えられていた、そこから「急ぐことはない、まあ座っていればいいさ」という性格が形成されたのかもしれない。しかし、今はここ、コンゴにも変化が始まっているようにも見える。新旧が入り混じっている。例えば、電気はないけれど、I-Podを持っていたり、きらびやかなスーパーマーケットの前には、食べ物やら靴やらとにかく雑多なものを売るべく露天商が盛んに呼びかけていたり、水洗トイレがあると思えば、排水システムがなく垂れ流しであったり、信号はあるけどそんなものは機能することができないほどの車の数・・・、ルカが「broken country」だといったけれど、ゴチャゴチャと何もかもが入り混じり、なんでもありというのがこの国。そして、その大きな大前提が「変化を求めない」という国民性がどっしりと座っているようにも見える。それは、言ってみれば「真っ白」。だから、植民地になってしまったということもあるかもしれないけれども、でもでも、ほんとうに自然体に近いと思う。思うに、僕たちが何ができるということもないだろうけれども、行く末の道の一つを一緒になってつくり上げていくことはできるような気がする。なぜならまだ道が出来上がっていないのだから。日本などは道が既にきれいに出来上がりすぎていて、新たに道をつくるなんてことを必要としない頭になってしまいがちだが、ここはその道そのものがまだない。いや、というより、そういうかしこまった道は必要ないということを一緒になって体知できる環境がある、ということだろうか。Yasu
2013.01.01
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