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吟じます。♪1月は腰の骨を折って入院して~~2月は風邪をひいて~~~3月には、花粉症になるかもしれない~~♪あると思います。_| ̄|○■□■2010.2月に見た映画■□■1■海角七号 君想う、国境の南■2.32■ヴィクトリア女王■2.33■インビクタス■2.184■食堂かたつむり■2.24■□■書き残したネタ帳■□■*冬のオリンピック(フィギアスケートの採点)*京都芸人ネタ*友人の病気*エスカレータとエレベータ*西谷祥子の漫画*湯浅誠氏■過去の書き残したネタ■*お守りブローチ*病院食・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.28
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子どもの頃には、冬の休みには、家族そろって、山に薪用の木を切り出しに行った。家のご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりするために、薪は必要品だった。荷車に、やかんやはんごうを積んで、父が引き、母が後ろから押した。荷車がやっと通れるほどの谷間の坂道を登って行く。溜池を3つ越えると目的地の山に着く。母は、荷車からはんごうややかんを下し、火を焚きつける。その間に私は、やかんを持って小さな泉に行き、水を汲んでくる。母は、はんごうに入った米を泉の水で研ぎ火にかける。それから皆で、近くにある木や枯れ枝を荷車に積む。父や母はナタやノコで、私たち子どもは、枯れ枝を拾って・・・。昼には、はんごうで炊いたご飯に持ってきた漬物、、ツケアミと呼ばれる、アミの塩漬を空き缶に入れ温めたものがおかずだ。昼時になると、父は木の枝で箸を作ってくれるのだった。焚き火を囲んで、木の香りのする箸で食べる炊き立てのごはんと、熱々のツケアミは、ごちそうだった。それは、大人にとっては、厳しいものだったのかもしれないが、私たち子どもにとっては、ピクニックか日帰り旅行のようなものだった。子どもの頃、家族旅行というものをしたことがないが、冬になると、小さな日帰り旅行をしていた。遊園地のような華やかさはないけれど、山で食べる昼ごはんや家族みんなで働いた満足感は、なにものにも代えがたい大切な思い出だ。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.26
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■食堂かたつむり:あらすじ■あるところに、願いが叶うごはんがありました。失恋のショックで声を失った倫子(柴咲コウ)は、子供の頃から苦手で自由奔放な母・ルリコ(余貴美子)が暮らす田舎へ戻り、小さな食堂を開いた。お客様は一日一組だけ。メニューはなく、お客様との事前のやりとりからイメージを膨らませて料理を作るのだった。訪れるお客様の想いを大切にして作る倫子の料理は、食べた人の人生に小さな奇跡を起こしていく。そして、いつしか「食堂かたつむり」で食事をすると願いが叶うという噂が広まっていった。そんな矢先、倫子はルリコからあること告白される…。 20人待ちして、読んだ小説■食堂かたつむり■。読みながら、これは映画のために書いたのではないかと思った。親の家の離れを約1ヶ月かけて作った、食堂は、それほど作業が魅力的だったからだ。やっぱり、考えることは、皆、同じで、映画化の話が23社からあったそうだ。日本に映画を作る会社が23社もあったのかと私はビックリ。監督は、CMやアニメを中心に活動する富永まい氏。そのせいか、現実離れした映像でポップな仕上げ。女の子向けの映画だった。原作では「食堂かたつむり」を作りあげるまでのプロセスを楽しんだ。テーブルは、どんな材質とか、ストーブかもらいものとか、食堂の入口のドアは、ネットオークションで落札したとか・・・。そんなところは、映画は、さっと流していた。映画の中に出てきていたもので欲しかったものは、*食器棚(アンティーク風)*柄がカワイイ、カフェオレカップ。*倫子さんのカフェ用の服と下に着ていた白にステッチの効いたブラウス。*おばあちゃんの家と暮らし。*倫子の料理の腕前。( ̄- ̄;)女の子の好きなカフェ用の雑貨もてんこ盛り。 銀色のコーヒーポットやガラスの保存瓶などうちにあるものもあった。それにしても、出てくる料理は、どれもみんな、美味しそう!!!全て、倫子役の柴咲コウが作ったのだそうだ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.25
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JR水戸駅近くの坂道で、72歳の女性が息づかいも荒くカートを引いていた。糖尿病を患い、がんの手術もした。最近は手足が思うように動かず、ゆっくりとしか歩けない。自宅から一番近かった大型店「リヴィン水戸店」が3月に閉店。この日は、自分の足で約20分かかるスーパーに行き、食材や日用品を調達した。「転んだら大変」と、今は週に1度、ヘルパーに買い物を手伝ってもらう。生鮮食品は1週間もたないので、缶詰や冷凍食品でしのぐことも多いという。駅前のバス停では、重い買い物袋を手にした85歳の女性が、ベンチに座り込んでいた。駅ビルの食品店で買ったのはキャベツ、ナス、白菜漬け、豚肉など。「これで1週間過ごそうと思って……」。ひざが悪いので長く歩けず、自宅まで一区間バスを利用する。この女性にとって、買い物は大変な困難を伴う。水戸市では近年、県庁の移転や周辺地域の再開発で中心街の空洞化が進み、生鮮食品を扱う店が減っている。茨城キリスト教大講師の岩間信之さんは2006年、同市中心街に住む65歳以上の高齢者に食生活に関するアンケート調査(117世帯回答)を行った。それによると、自宅から普段利用する生鮮食品店までの距離は「1~3キロ」が47.3%と最多だった。買い物の回数は、46.2%が「週に1,2回」と答えた。岩間さんは「車が運転できず頻繁に外出できない高齢者は、日持ちする食品を買いだめして生活していることがうかがえる」と指摘。「生鮮食品店の減少が、高齢者の健康に影響を与えているのでは」と話す。高齢者の買い物の不便さと食生活の関連性については、独立行政法人・建築研究所(茨城県つくば市)の研究員、樋野公宏さんも指摘している。樋野さんは東大大学院生だった2000年、東京都板橋区で65歳以上の高齢者にアンケート調査(932人回答)を行った。自宅から普段利用する青果店などへの平均距離は733メートルで、1キロを超える人も多かった。その距離に不満を感じる人ほど、買い物に行く回数が少ない傾向も浮かび上がった。さらに、2日間で3食のいずれかを「食べなかった」という欠食率は、週に3回以下しか買い物に行かない人で8.3%と、4回以上行く人の欠食率4.9%を上回った。板橋区は比較的、買い物をしやすい環境で、樋野さんは「地方ではもっと厳しい状況の高齢者が多いはず」としている。◇1970年代~90年代半ばの英国では、ショッピングセンターの郊外出店で、都市中心部の中小食料品店の閉鎖が相次ぎ、車を持たない貧困層の住民に心臓疾患やがんが広がる一因として指摘された。この現象は「フードデザート(食の砂漠)」と呼ばれ、欧米で社会問題化した。岩間さんは、日本でも、車を運転しない高齢者にこうした問題が広がっているとして、「高齢者が身近な場所で食品を入手できるようにするという視点からも、行政はまちづくりを考えるべきだ」と訴えている。(2009年6月10日 読売新)昨年末、腰の骨を骨折、自転車に乗れない生活が続いている。今、困るのは、買い物に行けないこと。かつては、家から5分歩けば、肉屋、小間物屋、花屋、惣菜屋、豆腐屋・・・と生活に必要なものがなんでもそろう市場があった。何年も前に、市場は潰れて、それでも自転車でなら、10分もかからないところに、スーパーがある。今は、歩いて5分の八百屋に行くだけ。後、週に1回、歩いて10分ほどのスーパーに行くが、重いものは持てない。そんな時にテレビで観たのが、「買い物難民」という言葉。今の私には、ぴったりのテーマだった。「買い物難民」=「フードデザート(食の砂漠」を作ったもの。それは、郊外に移ったスーパーマーケット。それを可能にしたのは、車社会だ。生鮮食品を入手しづらく缶詰、冷凍品でしのぐ高齢者は、栄養不足になって、余計に体を悪くする弱者たち。しかし、車に乗れない人やこれから乗れなくなる人のことを考えると「買い物難民」は人ごとではない。私だって、12月の29日までは、こんな日が来るなんて思ってもいなかったのだから・・・。■買い物難民 対岸の火事ではない(1月31日付) ■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.23
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浜辺 遥さまお手紙、グラシアス!私の知ってる数少ないスペイン語です、セニョリータ!私も30年以上前、英語をかじったことがあります。楽器か外国語ができれば人生は2倍楽しい、というのをなにかで読んだのがきっかけ。まず、家にあったギターをポロロン♪けれども、手が小さい私にはギターは不向き(本当は不器用というべきか)。やるのも早いが、あきらめるのも早い私。そこで、外国語(英語)となったのです。こちらも、ものにならなかったけれど(NYでヒスパニックに間違われるほど)。でも、いろんな人に会えて楽しい日々でした。先日、「新世界」で買ったというマフラーをしてらっしゃったけど「ええやん!!」あれが、ほんまに250円?私も欲しい、欲しい。それにジーンズもすてきだったし、もう「PAAFFY」も、まっさおって感じ。コギャルの間では、安室 奈美恵の真似をする「アムラー」が流行ってるけど私も、遥さんの真似をして「ハルカー」になろうかと思ったけど、やっぱり、やーめた。遥さんと私では歳も姿かたちも違うんだもんムリがあるもんね。カモメは、カモメ、私は私(何のこっちゃ)。 ところで、昨年の4月から始まった「おしゃれ手紙」、今月でもう1年です。友人に「よう書くことあるね」と言われるけど、毎回どれを書こうかと迷うくらいです。友人との旅、色と形がかわいい如雨露、グラス、古い着物で作ったパンツ、飴色のつやつやしたべっこうの髪飾り(アンティーク)、簡単で美味しい料理、グリーンのセーターやおもしろい本、里山活動になくてはならない長靴やリュックサック…。これじゃ「おしゃれ手紙」じゃなくて「おしゃべり手紙」。手紙には、不思議な力があるんですね。だって楽しいんですもん。先日、「何もしていない20代より、手入れをした40代・50代こそ美しい」というコピーにつられて雑誌「クロワッサン」を買いました。(コピーにつられて行動するあたり30年前と同じ)。そこで、美しい40代の代表として脚本家の内館牧子さんが登場。いわく★「好きなことなら、年齢も流行も気にしないで追っかけ、やればいいのよ。絶対、豊かになるって!」★「友達と『交換エッセイ』を書くと、生き方がていねいになる。おすすめです。」「これが私の生きる道」とおもわずPAFFYの歌で悟った名言でした。アディオス セニョリータ! 天地 はるな追伸:友人のS田さんがオリジナルの便せんを2種類デザインしてくれました。HOME◆おしゃれ手紙TOP◆・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.21
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■インビクタス:あらすじ■♪音が出ます!!ひとつの願いがほんとうに世界を変えた物語。それは、1995年のこと。アパルトヘイト撤廃を導き、南アフリカ共和国大統領となったネルソン・マンデラ(モーガン・フリーマン)。それでもなお色濃く残る、白人と黒人間の差別や経済格差の是正を目指し、彼は同国代表のラグビー・チームのキャプテン、フランソワ・ピエナール(マット・デイモン)と手を結ぶ。そして、白人と黒人によって結成されたチームで、ワールドカップへの出場を目指す。その人の名は、ネルソン・マンデラ。南アフリカの大統領だったと言えば、遠い存在だと思うだろうか。けれども、彼の起こした「奇跡」に触れれば、あなたの中で、きっと何かが変わる・・・。 なんという懐の深い人だろう、マンデラは・・・。自分を30年近くも牢獄に閉じ込めた白人たちを赦し、彼らの生活を守った。大統領を守るSPにも白人を起用。白人支配の象徴のようなラグビーも、熱心に応援する。彼の頭の中にあったのは、スポーツで、同じチームを応援することが黒人と白人の垣根を低くすることだということ。そのためには、チームの選手を黒人の子どもたちの中に入れること。白人の象徴のようなチームを嫌って、黒人たちは、相手国の応援をするという歪んだ関係は、こうやって少しずつ、近寄った。マンデラは、人の心に入るのが上手だ。ラグビーチームの選手の名前は、全て覚えている。練習中に突然、ヘリコプターで陣中見舞いをする。ラグビーチームの主将をお茶に招待する。秘書の服装をほめる。SPの家族の心配をする。以前、豊臣秀吉のことを「人たらし」といっているのを聞いたことがある。マンデラもそうとうな「人たらし」だ。実は、マンデラを主人公にした映画を見るのは、2回目。いや、前回は、マンデラが、刑務所に入っていたころのその看守の物語。■マンデラの名もなき看守■1968年アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国。刑務所の下士官ジェームズ・グレゴリーは、最悪のテロリストとされるマンデラの担当に抜擢される。マンデラの生まれ故郷の近くで育ったために彼らの言葉が分かるグレゴリーに、秘密の文書や会話を監視し報告しろと言うのだ。任務に忠実なグレゴリーだったが、マンデラという人物に触れ、彼が自由のために払っている犠牲を知るにつれ、次第にマンデラに魅了され、彼が目指す平等な社会に憧れていく。この時も、マンデラは、白人の心を変えていくような態度だった。生まれた時から、人間として扱わなかった人を尊敬させる。人間としての大きさを感じずにはいられない。インビクタスとは、征服されないの意味。27年間の獄中生活にあっても彼の心は、白人に征服されなかった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.19
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今すぐスタート!地球のためにできる30のこと:その22■どこでも室内温度はきちんと気を配って。1年中エアコンで快適な温度が保たれている温度設定こそ省エネの重要な要素。たとえば冷房をつけるとき設定温度を1℃高く、暖房をつけるときは1℃低く設定することで約10%の省エネが可能に。また、夜寝るときは眠りに入りやすい温度に合わせつつもタイマー設定にすることをお忘れなく。エアコンつけっぱなしをやめることで、さらに省エネ効果がアップ!***環境問題を意識した生活を送る、と考えるとなんだか難しそう。でも本当は、頭で考えるよりずっと簡単なことばかり。今すぐできる小さなアクションから地球を守ろう!「エル」エコ特集より■地球にできる30のこと■骨折した腰で冬を乗り切ろうとエアコン、石油ストーブ、電気毛布を使って、寒さ対策をしたのに、■風邪をひいてしまった。■2月3日頃から12日頃までの長い風邪。その結果分かったのが、部屋を暖かくしても、風邪をひくときはひく。だから、健康な場合は、あんまり使わない方がいい。昔のことをいって恐縮だが、子どもの頃は、エアコン、電気毛布はおろか、石油ストーブもなかった。いろりもないし、あるのは、火鉢と湯たんぽくらい。その上、家が隙間だらけで、今のようにフリースなどない。エアコンとストーブ、電気毛布で暖をとり、暖房効果満点の服を着て、小さな隙間のない家に住みながら、風邪をひくって、どれだけ現代人(私)は、ヤワな人間になったのだろう・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.17
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この10日あまり、風邪で体がふらふらだ。■2月4日(木)頃から、少し、体調がおかしかった。■次の日(金曜日)会社でも、フワフワと、雲の上を歩くような感じ。おかしいなと思っていたけれど、土曜日、日曜日と寝れば治るだろうとたかをくくっていた。■6日、土曜日に本格的に風邪の症状が出始めた。でも、うちには、風邪薬はない。それどころか、今、熱が何度あるのかを計る体温計すらない。私は、風邪をひかないのだ。もし、風邪らしきものをひいたとしても、寝れば治るので、体温計は不要なのだ。こんな時、いつもなら、自転車で体温計を買っただろう。ついでに、解熱剤を買っただろう。しかし、今、私は自転車に乗れない。■8日(月)、夫に電話して、風邪に必要なもの一式を買ってきてもらった。37.7度あった。私は平熱が低いので、普通の人の38度代だ。咳が激しい。帰りに医者に行くことに。熱っぽいと感じた時からすでに、4日が過ぎていた。薬をもらって、点滴をしてもらって、もしや、インフルエンザではないかと検査をしてもらって、咳き込むので肺結核ではと検査してもらって、ほっとして帰った。家で体温を計ったが、熱は下がらないし、咳は激しい。買ってきた、座薬を2個づつ、2回使用。■9日(火)38.8度くらいの熱。会社が終わって、その足で医者に。あまりのやつれ様に、医者サイドも順番を早めてくれたくらい。この日も点滴、抗生物質の薬を増やす。咳はますます、ひどくなる。この日も点滴。■10日(水)37度代だけれど、ここ数日に比べれば楽。しかし、咳は激しい。この日も点滴。■2月12日(金)仕事の合間に、医者に駆け込む。なくなった薬の補充のみ。今は、咳き込むのが苦しいのみ。今後は、薬が切れた時に来るように言われた。咳が始まると、止まらなくなり、苦しい。これまで、ぜんそく患者さんは大変だろうなと思っていたけれど、想像を絶する苦しみだが、今回それが分かった。しかし私の場合、風邪が治るまでという期間付きだけれど、ぜんそくの方はずーっとだから、私が分かったというのはおかしいかもしれないと思う。私が、風邪をひいたのは、背骨を骨折して、体力が低下していたから。風邪がひどくなったのは、これも、骨折のため、風邪薬を容易に買いに行けなかったから。咳が止まらないのは、風邪をこじらして、気管支炎になったから。安値が安値を呼ぶ、恐怖の、デフレ・スパイラル。私のは、骨折が体調をどんどん下げる、骨折スパイラル。_| ̄|○それにしても、風邪をひいたときにも、フラフラしながら働かなければならないとは、日本とは、貧しい国だ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.15
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バンクーバー冬季五輪が13日から始まった。日本からも観光を兼ねて沢山の応援団が行くのだろう。が、しかし、カナダのバンクーバーに行けない選手や、一般市民も是非、■「ひとりバンクーバー」■へ!!さあ、冬の*ひらパー*時間へ。毎年恒例の屋外スケートリンク。屋外リンク特有の爽快感を、ファミリーやカップルでお楽しみください。また、この冬ならではの衣装を身にまとった*「ひらパー兄さん」*がスケートエリアに隠れているので探してみよう!**ひらパー**正しくはひらかたパーク。せっかちな関西人は、谷町六丁目をタニロク、谷町九丁目をタニキュウと呼びひらかたパークもひらぱーとして親しまれてきた。**ひらパー兄さん**2009年4月から、ひらパーのキャラクターをつとめるのが、ひらパー兄さん。こどもたちとひらパーをこよなく愛し、今やひらパーの顔ともいえる存在。子どもたちは、「ありがとうひらパー兄さん」と感謝の声。容貌は、やや小太りで薄毛。ブラックマヨネーズの小杉に激似。口癖は「ひらパーで○○ちゃえよ。」■ひらパー■さあ、あなたも、冬はひらパーで、思い出っちゃえよ!!♪音がひつこく出ます。■開催期間12月19日(土)~2月28日(日)■休園日12月22日、1月1日、1月12日以降の火・水曜日■開催時間【平日】12時~17時【土・日曜、祝日、1月4日~7日】10時~17時■主催産経新聞社・京阪電車・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.13
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去年、梅田で映画を見た後、ウロウロしていると緑に囲まれた場所が!!!すーっと近づいてみると、「Cafe ゆう」という名前のカフェ!!ああ、お茶が飲みたかった。と言うのはウソで、入ってみた。 玄関には、緑の鉢植えが木枠といいコントラストで並んでいた。使わなくなった石臼なんかも使っている。こうやればいいのか・・・とメモ、メモ。 窓の前にも、木枠と木のベンチがあって、木が植えられたり鉢が置かれたり。これは、外からは目隠しに、中からは緑が眺められて、一挙両得。これも、メモ、メモ。 中に入って、紅茶を頼んで外に向かって座った。緑がたっぷり目に入る。 大阪は、緑が少ない。大阪に住んでいれば、たいていのものは買える。たいていの映画も見ることが出来る。しかし、それは、お金を払ってこそできること。本当は、無料で入れる緑溢れる公園を増やして欲しい。政治家は、緑に鈍感だから、当分、緑溢れるこんなカフェで我慢します。 ■「Cafe ゆう」■■場所大阪市北区芝田1-10-3野本梅田ビル■アクセスJR大阪駅より徒歩5分。阪急梅田駅より徒歩3分。茶屋町口から3番街(キディランド)を右手に直進。■営業時間:火曜~金曜 10:30~21:00(LO 20:30)土日月 11:00~20:00(LO 19:30) ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.11
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今すぐスタート!地球のためにできる30のこと:その21■暮らしにあったエコカーに乗る。ヨーロッパの人たちがとても大切にしている権利のひとつ、「移動の自由」。それはクルマに乗って、好きなところに好きな時間に自分で行くこと。日本では環境に悪いからクルマを締め出そうとするけれど、ヨーロッパでは環境を大切にしながら移動の自由を守ることが重視されている。それぞれの暮らしにあったクルマを選んでエコドライブを心がけたい。***環境問題を意識した生活を送る、と考えるとなんだか難しそう。でも本当は、頭で考えるよりずっと簡単なことばかり。今すぐできる小さなアクションから地球を守ろう!「エル」エコ特集より■地球にできる30のこと■ ヨーロッパは、「移動の自由」を重んじるというが、場所によっては、厳しく制限しているところがある。スイスでは、環境を考えて、車を列車に乗せて運ぶということを聞いたことがある。以前、*デンマークから、スェーデン*に行ったことがある。電車に乗って行ったのだが、電車ごとフェーリに乗った。もちろん、車もフェーリに乗った。デンマーク・スェーデン間は、間に島もあり、本当に近いのだ。日本なら、橋を架けて、車をバンバン通らすだろう。瀬戸内海に3本もの橋を架け、土日には無料で通らす。本人が好まなくても、その車はCO2を出している。前原誠司国土交通相は2日、高速道路37路線50区間を6月をめどに無料化すると発表した。対象は全国の高速道路延長の約18%にあたる1626キロ。地域間格差を埋めるためにも必要なことがあるかも知れない。それならば、車に乗れない人や車を持てない人のことも考えるべきだ。瀬戸内海の橋を無料にするのではなく、瀬戸内海を往復するフェーリを回数を増やし、運賃を安くした方がいい。また、公共交通の鉄道、バスに援助する方が、CO2の削減に効果的だ。■おまけ■トヨタのハイブリッド車(HV)の新型「プリウス」のブレーキが一時的に利かなくなると苦情が相次いだ問題。これで、エコカー熱が冷めないで欲しいと思うのだが・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.09
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■ヴィクトリア女王 世紀の恋:あらすじ■♪音が出ます!この国と、あなたを守る。7つの海を支配し、イギリスを「太陽の沈まない帝国」と呼ばれるまでに押し上げた、ヴィクトリア女王(エミリー・ブラント)。黄金期を夫婦で支え続けた女王とアルバート王子(ルパード・フレンド)は、19世紀当時からいまも、史上最高の理想のカップルとして、語り継がれている。しかし、真の絆を結ぶまで、2人は数々の波乱と困難を乗り越えなければならなかった。母親との確執、王室の権力争い、政治家との駆け引き、2人を引き裂く疑惑、国民の暴動。そして、ヴィクトリアに向けて放たれた、一発の銃弾…。国と愛する人に人生を捧げた美しき女王の知られざる真実の物語を描く。製作を巨匠マーティン・スコセッシが手がける。 ヴィクトリア女王と言えば、*ヴィクトリア朝*という一時代を築いた人。彼女のいた時代、19世紀の建物などは、ヴィクトリアンとして名高い。でも、若い頃は、王位を継承するというだけで随分と気苦労があったんだなと思う。彼女の食事を毒見する人がいる。母親たちが意のままにしようとする。彼女の叔父(オランダ?)の国王も意のままにしようとする。政治家たちも野心を持ってやってくる。結婚を申し込む王侯貴族も狙うは、彼女の権力。結婚も自分から申し込まなければならない。王位につき、アルバート公と結婚しても、普通の夫婦ではいられない。3日以上、宮殿を離れなれないから新婚旅行にも行けない。また、アルバート公が処理したことも、彼女は気に食わない。結婚しても、対等ではない。あくまでも、女王と臣下。 しかし、夫婦としての相性はよかったらしい。ドイツ貴族出身の夫をこよなく愛し、夫の歓心をかうためクリスマスに室内に樅の木を飾るドイツの習慣を英国にもたらしたというくらいだ。夫が42歳で死んだ後は、終生、喪服で通したというのは有名な話。2人を記念して■ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)■がロンドンにある。そこには、憧れのアールヌーヴーが沢山あるときいている。今度、ロンドンに行く時には、絶対に行こうと思っている。**ヴィクトリア朝**era)はヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す。この時代はイギリス史において産業革命による経済の発展が成熟に達したイギリス帝国の絶頂期であるとみなされている。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.07
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■海角七号 君想う、国境の南:あらすじ■♪音が出ます!時が流れても、心に残る歌がる。遠く離れても、忘れられない人がいる。1940年代、日本統治下の台湾で、一人の日本人教師と台湾人の教え子が恋に落ちる。だが、日本が敗戦し、教師は帰国することに。彼は船上から彼女への想いを手紙に綴る。それから60年後の現代、台湾最南端の町・恒春で郵便配達のアルバイトをする少年・阿嘉はある日、郵便物の中に、いまは存在しない住所・海角7号宛ての手紙の束を見つける。それは、60年前、日本人教師が恋人に宛てた手紙だった――。国境を超えた恋愛を描いた、ラブストーリー。台湾映画史上、歴代一位のヒットを記録した。 今年、最初に観た映画がこれ。去年からずーっと観たかったので、ちょっと遠いけど、腰の1カ月検診の帰りに行ってみた。台湾の映画は、■言えない秘密■以来。「言えない秘密」も素晴らしかったけど、この「海角七号 君想う、国境の南」も素晴らしかった。「海角七号」とは、地名。しかも、1940年代、日本が占領していた頃の番地。「岬7番地」というような意味らしい。太平洋戦争の後、離れ離れになった、カップルも多いんだろうなと思う。■中(あたり)孝介■が手紙を書いた男として、日本人歌手、中孝介として出ていた。彼の歌声を聞くと、涙が出る。台北で歌手を目指し、挫折して帰って来た主人公の青年が歌う歌もよかった。30年以上前に台湾に11日間行ったことがある。その時は、意識して見なかったけれど、行く機会があれば、「言えない秘密」や「海角七号 君想う、国境の南」の舞台になった所に行ってみたいと思う。あの頃とは違う印象を持つはずだ。「海角七号 君想う、国境の南」は戦争が招いた切ない映画だった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.05
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★午前十時の映画祭★豊かで、贅沢な朝の2時間を。1年間、たっぷりお楽しみください。全国の映画ファンの投票をもとに、」1950年~70年を中心とする映画の黄金時代に生まれた数々の作品の中から、特に素晴らしい傑作娯楽映画50本を選び出し、その全作品をオリジナルニュープリント。1年間にわたり全国25の劇場で連続上映いたします。それが、「午前十時の映画祭 何度見てもすごい作品50本」です。今も色あせない感動を、ぜひこの機会にスクリーンでお楽しみください。料金も感動の1000円(学生500円)。一日の中のたった2時間を、人生の中のたった1年を、映画とともに過ごしてみませんか。★★期間★★2010年2月6日(土)~2011年1月21日(金)毎朝10時開映★★劇場★★■ここ■★★料金★★一般1000円/学生500円★★上映作品★★★あ行★「明日に向かって撃て!」「アパートの鍵貸します」「アマデウス」「雨に歌えば」「アラビアのロレンス」「ある日どこかで」「ウエスト・サイド物語」「裏窓」「映画に愛をこめてアメリカの夜」「エデンの東」「お熱いのがお好き」「男と女」★か行★「カサブランカ」「クレイマー、クレイマー」「刑事ジョン・ブック/目撃者」「激突」「ゴッド・ファーザー」★さ行★「ショウほど素敵な商売はない」「ショーシャンクの空に」「十二人の怒れる男」「スタンド・バイ・ミー」「スティング」「戦場にかける橋」★た行★「太陽がいっぱい」「第三の男」「大脱走」「チャップリンの独裁者」「追憶」「鉄道員」「天井桟敷の人々」★な行★「眺めのいい部屋」「2001年宇宙の旅」「ニュー・シネマ・パラダイス」★は行★「バベットの晩餐会」「薔薇の名前」「パピヨン」「羊たちの沈黙」「昼下がりの情事」「フィールド・オブ・ドリームス」「フォロー・ミー」「ブリット」「ベン・ハー」「北北西に進路を取れ」★ま行★「ミクロの決死圏」★ら行★「ライトスタッフ」「ライムライト」「レインマン」「ローマの休日」「ロミオとジュリエット」★わ行★「ワイルドバンチ」「フィールド・オブ・ドリームス」「フォロー・ミー」「ベン・ハー」「ローマの休日」「ロミオとジュリエット」はリアルタイムで見た。ほとんどの映画はテレビで観たし、あらすじも知っている。でも、映画館で観たいと思っている映画がばかり。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.03
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この、茶色とモスグリーンの陶器、これは、昭和の汁椀だ。数年前のNHKの朝の■連続ドラマ「純情きらり」■でも、昭和初期という設定でこの汁椀が使われていた。この汁椀は、もはや、骨董に近いのだ。私の子どもの頃の、昭和も30年代頃までしか使っていなかったと思う。だから、このお椀を見て、懐かしいと思う人は、50代以上の人だ。それまでは、どこの家にもあった、このお椀がなくなったのはなぜか?安くて軽くて大量生産が出来、壊れない、合成樹脂のお椀が出来、人々は飛びついたのだ。しかし、昭和30年代に子どもだった私にとって、合成樹脂のお椀は、しっくりこなかった。なぜ、あの茶色とモスグリーンの陶器のお椀がなくなったのかと、いつも残念で仕方がなかった。しかし、念ずれば通ず。今から15年くらい前に再び、この陶椀と巡り合えた。会社へと向かう道の途中、それが、よその家の前に、ドンと置いてあった。不燃物の日に、捨てるために、捨てようとしていたのだ。ちょっと待ったー!!と、私は、ちょっと待ったコールを叫び、自転車を降りた。その家は、引っ越しでもするのか、大量の食器を捨てていた。しかも、私からすれば、ヨダレが出るようなものばかりを・・・。自転車なので、大量に運べない。会社に行く時間は迫る。運べる分だけをその場で、仕分け。「この分は、私が責任を持って取りに来ますから残しておいて下さい」と電話番号を書いて渡し、後は、泣く泣く処分してもらった。というわけで、この汁椀は、その時の戦利品。これと同じものが、5個あるが、どれも少しずつ違う。 私たち夫婦は、普段の味噌汁用のお椀にカフェオレボールを使用している。しかし、娘や妹が来た時には、これが汁椀として活躍している。この汁椀があった昭和30年代を知っている私の妹は、来るたびに、「お姉ちゃん、これ、あったよなぁ・・・」と懐かしそうに言う。寒い冬には、暖かい味噌汁が美味しい。それが、気にいったお椀でならなおさらだ。■器歳時記■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.01
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