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■10月22日(火)-2山形城でガイドさんと合流、山形城に続いて、あちこち案内してもらった。▲旧済生館本館(山形市立郷土館)旧済生館本館は、1878年(明治11年)に建てられた洋風の病院建築で、現在は霞城公園内に移築されている。外国から導入した新しい建築技術と日本古来の工法を組み合わせて設計されているなど意匠が優れており、明治初期の木造高層洋風建築物として貴重な建造物であることから国の重要文化財に指定されている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲山形県郷土館 文翔館山形県郷土館は、1916年(大正5年)に県庁舎および県会議事堂として建設された英国ルネサンス様式の建造物で、国の重要文化財に指定されている。新県庁舎が建てられた現在は改築され、地域に関する資料を展示しているほか、会議室やコンサートホールが一般に開放され県民の文化活動の場として利用されている。▲美は細部にやどるというけれど、階段の手すりにまで美しい細工が・・・。▼旧県庁舎の塔時計は、日本で現在稼動している内では、札幌の時計台に次いで2番目に古いものであり、文翔館のシンボル。 建物の基礎から塔の避雷針の付け根までの高さは約25メートルで、最上階には大きな時計装置がある。振り子を動かす分銅は、5日に1度、時計職人の方が手動で巻き上げており、現在まで文翔館の時をたゆまず刻み続けています。▲道路の正面に「旧県庁舎」がある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲水の町屋七日町御殿堰御殿堰は山形市内にある五堰(5つの用水路)のひとつ。かつて農業用水、生活用水として利用され、御殿堰の一部は山形城の城濠(しろぼり)にも流れていました。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲シネマ通りここはかつては「旭銀座」と呼ばれた山形の賑わいの中心地。山形市の繁華街、七日町(なのかまち)。そこに、通称「シネマ通り」と親しまれている通りがある。シネマ通りには、その名の通り、かつて映画館があり、書店やダンスホールもあったという山形随一の文化拠点。山形の若者たちはここを訪れ、映画にダンスに明け暮れた。大正時代から続いたそのにぎわいは、いつしか終わりを迎え、かつては6軒もあった映画館は、今となっては1軒も存在していない。映画館だった跡には、雑草が生えていた。ヨウシュヤマゴボウ、「わたしの好きな植物」と私がいうと「私もです」とガイドさん(⌒∇⌒)街灯をレトロにしたり、映画にまつわるものを、道路に描いたりして、盛り上げようとしている。その結果か、築40年の古い雑居ビルをリノベーションし、よみがえらせたショップが出来ているそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲山形七日町二郵便局もともと洋品店として開店した建物であり、大正14年にできた鉄筋コンクリート造の建物です。関東大震災直後の本格的な耐火耐震建築物であり、山形県内の鉄筋コンクリート造りの建物として先駆的な建物の1つといえるでしょう。 戦後は店舗の2階がダンスホールとビリヤード場になったこともあるようです。洋品店は西隣に松坂屋(現在のナナビーンズ)が進出したのを機に廃業し、昭和47年に近隣の山形七日町郵便局(当時の名称)が入居したかたちです。 このビル、なんとなく、アールデコっぽいなと思ったら、1925年(大正14年)に出来たもの。アールデコが世界中で流行っていた頃だ!!▲山形市立第一小学校旧校舎1926年(大正15)築。山形県内初の鉄筋コンクリート構造の校舎で、3階建(一部は4階建)であり地下階が付いている。この校舎は、国内でも当時の鉄筋コンクリート建築技術の最先端を示すものである。設備にも、教室の電気ストーブ、校舎屋上の電気時計、国産鋼を使用したスチールサッシやスチールドアの建具など、当時の最先端の技術が導入されている。14デザインも玄関ポーチの半円アーチ開口窓の意匠や、門柱、柵などにドイツ表現主義、アール・デコ等の当時の最新デザインをとり入れている。設計は山形の設計事務所としては最古参の秦・伊藤建築事務所が担当し、秦鷲雄と伊藤高蔵が中心的役割を果たしている。階段の縦の模様がまさに、アールデコ!!▲山形聖ペテロ教会山形市街の中心部に位置する木造の教会堂。屋根勾配が急な切妻造で,北妻西側に塔屋を設けている。外壁は下見板張で,窓のほとんどを尖塔アーチ型とするのが特徴。小規模ではあるが,外壁立面,内部のトラス架構など意匠を凝らした建築である。山形聖ペテロ教会は明治時代に建てられた教会建築の遺構として貴重で「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成14年(2002)に国登録有形文化財に登録されています。 これ以外にも、いろいろあって、山県市は、素敵なまちだなと思った。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲今日の方言▼▲マンホールの蓋の模様は、もちろん、紅花!!山形のスーパーでは、食用菊をあちこちで見た。●16880歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■10/21-1■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■10/21-2■レトロな銀山温泉/川北町・紅花資料館■10/22-1■山形市:山寺/斎藤茂吉記念館/山形城■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.28
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■10月22日(火)閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉紀行文「おくのほそ道」の代表的な句が生まれた場所として有名な山寺。立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある、天台宗の仏教寺院。遠く平安初期にたてられたという立石寺は官寺(かんじ)である。官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。寺格の一つ。狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指すが、広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す。立石寺は、山寺(やまでら)の通称で知られている。だから、山寺の門前の食堂も「山寺食堂」!!1015段もある長い石段を登って奥之院を目指すのが王道の参拝ルート。石段は登ることにより煩悩が消滅すると言われている、ありがたい修行の石段。まずは登山口からほど近い場所に位置する「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」へ。国内最古のブナ材木造建築とされ、国の重要文化財に指定されています。立石寺の鐘楼堂は、山門の前に佇む小さな堂で、その存在感は除夜の鐘として広く知られています。江戸時代末期に鋳造された梵鐘は、毎年12月30日には厳かなすす払いの総会が行われます。そして、その翌日の正午前には、多くの参拝者が集まり、幸せを願って除夜の鐘を強い力つきの瞬間が訪れます。▲大イチョウ。いてふの根 床几斜めに 茶屋涼し 高浜 虚子▲俳聖・松尾芭蕉と▼蕉門十哲と呼ばれた俳人「河合曾良」最初、芭蕉と曽良は、山寺に行く予定はなかったが、尾花沢の清風らの勧めにより立石寺を訪ねる。▲山門これから先も石段は続く。奇岩怪石からなる山全体が修行と信仰の場になっており、登山口から大仏殿のある奥之院まで1時間ほどの道のりのそこかしこに、絶佳の景観が広がるというが、私たちは、ここで、山寺を後にした。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆斎藤茂吉記念館に行った。■斎藤茂吉年譜■*斎藤茂吉は、1882年(明15)5月14日(戸籍では7月27日)、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村=現上山(かみのやま)市金瓶=の農家守谷伝右衛門の三男として生まれた。*1896年(明29)14歳の時、茂吉の資質を目にとめていた住職の仲介で、東京浅草で淺草医院を開業していた同郷出身の斎藤紀一のもとに寄寓し、開成尋常中学校(現在の開成中学校・高等学校)に編入学。医学を学び、斎藤家の養子となって後を継ぐためでした。上京した茂吉は開成中学から旧制第一高校(東京大学の前身)へと進学。第三学部(医学部)の学生となった茂吉でしたが、一方では幸田露伴の文学に親しみ、1904年(明治37年)12月には、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集「竹の里歌」を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになります。1906年(明治39年)、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めます。歌誌「馬酔木」が「アララギ」へと変わってからはその中心的な歌人となりました。1913年(大正2年)、第一歌集『赤光』(しゃっこう)を発表し、大きな反響をよびました。 この間、1905年(明治38年)には斎藤家の婿養子として入籍(23歳)、1910年(明治43年)卒業、1914年(大正3年)に斎藤紀一の二女輝子と結婚します。茂吉31歳のときでした。斎藤茂吉は、天才的な頭脳の持ち主で、医師として、当時海外に留学するほどの、人だったばかりか、歌人としても、当時の一流の人と交流があった。みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげるのど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(死にたまふ母 大正2年)この二つの短歌は、有名。★詩人で作家の佐藤春夫や歌人で医者の斎藤茂吉は、類の相談相手。類と妻が営んでいた書店「千朶(せんだ)書房」という名は、斎藤茂吉がつけた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆山形城で、ガイドさんと待ち合わせ。山形城は、「霞ヶ城」とよばれる。「北の関ヶ原合戦」と呼ばれた慶長出羽合戦においては、城郭が霞で隠れて見えなかったことから、「霞ヶ城か」と呼ばれたと地元では語り継がれています。天文15年(1546)に、最上義守の嫡男として、最上家11代当主となる最上義光( よしあき)が誕生した。幼少の頃から武勇に優れていた義光でしたが、最上家内の内紛や近隣大名との確執など、青年時代はさまざまな困難に見舞われます。隣国のライバルである伊達政宗だて まさむねとは、最愛の妹・義姫よしひめを通した叔父・甥の関係でもありました。山形城は土塁で囲まれた城郭ですが、城門のみ石垣が用いられています。石垣には馬見ヶ崎川で採掘された玉石(安山岩)を割った石材を用い、割り面を前面に利用しています。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■10/21-1■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■10/21-2■レトロな銀山温泉/川北町・紅花資料館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.27
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今から65年以上前、昭和30年代、岡山県の田舎で子ども時代を過ごした。その頃は、村のどこの家にもテレビはなく、うちには、ラジオも無かったけれど、流行りの歌謡曲は、よく知っていた。近所に、若い女性が嫁入りしてきた。 彼女は、「播州弁」の訛りで、子どもを流産したことを涙ながらに母に話していた。「あんたは、若いんじゃから、大丈夫じゃぁ。また、できる」と母は励ましていた。家に電話もない時代、言葉の違う見知らぬ所に嫁入りして来た女性にとって、我が子だけが唯一の身内と思えたのではないだろうか。 その頃、村はずれにあった、小さな墓地で、その女性は、流産してしまった、子どもを思ってか、毎日手を合わせていた。その頃流行っていた歌に、「別れの一本杉」というのがあった。♪泣けた 泣けたこらえ切れずに 泣けたっけあの娘(こ)と別れた 哀(かな)しさに山の懸巣(かけす)も 啼(な)いていた一本杉の石の地蔵さんのヨー 村はずれ小学生だった私は、「泣けた」や「村はずれ」などの言葉から、その女性の姿に、「別れの一本杉」を重ねた。その後、彼女は、男の子を出産し、「まさひろ(仮名)」と名付けられた。数年後、今度は、女の子を出産、「よしみ(仮名)」と名付けられた。毎日、墓に行っていた女性は、もう行かなくなった。子どもが出来たこともあるし、その頃、村に点在していた墓地が、近くの山の中腹に移転したからだった。 まさひろ君は、地元の役場に勤め、定年退職した後、司法書士になっていた。今年、私の父母が亡くなってから、長い間、放っておいた実家の持ち主の名義を変えるために、司法書士を頼まなければ・・・となった時、親戚が、「まさひろさんが、司法書士をしょうる」と教えてくれたのだ。結局、私の家の近くの司法書士に頼んだが・・・。今、まさひろ君の家は、彼の母親が毎日、手を合わせていた、墓地の跡にある。彼は、そこが墓地だったことも、彼の母親が、子どもをなくして涙していたことも、知らないかもしれない・・・。昔、昔のことだから・・・。彼の両親を見たのは、私の父がまだ生きていた20数年前で、以後、見ていない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.26
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■10月21日(月)-2銀山温泉に行った。山形県尾花沢市にある銀山温泉は江戸時代初期の大銀山として栄えた「延沢銀山」の名称に由来している。 NHKの連続テレビ小説「おしん」の舞台となったことで一躍脚光を浴び、大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べ、昔ながらの独特な景観を味わうことができる。500年もの歴史をもつ銀山温泉は、奥羽山脈の懐に抱かれた自然の中にあります。大正2年(1913年)の大洪水でそれまでの旅館街が壊滅し、湧出量も減ってしまいましたが、昭和元年(1926年)に源泉のボーリングで高温多量の湯が湧出し、各旅館は一斉に洋風の3~4層の木造構造に建て替えを行いました。銀山川を挟んで建ち並ぶ現在の旅館街はその頃に形成されたもので、「家並み保存条例」により守られているその景観は、まさに大正ロマンの趣が溢れています。「銀山温泉が今のような街並みになったのは、実は1910年代以降です。銀山川の洪水により、当時の建物がかなり被害を受け、その後、大工職人や左官職人、建具職人が競い合って再興し、今のような洋風木造多層の建築物に生まれ変わりました」その際にガス灯や石畳の沿道、橋の整備なども行い、現在の銀山温泉の姿になったそうだ。近くに滝があって、散歩によき。写真で見たが、夜や雪の景色は、幻想的で美しい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆河北町の紅花資料館を見た。かつて、最上紅花その価値は米の百倍、金の十倍といわれ、山形県の県の花に指定されている紅花。「べに花の里」として有名な河北町にある全国唯一のベニバナの資料館。 河北町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。河北町紅花資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡です。屋敷の総面積は約80aで、かつては土蔵が6棟、板倉が6棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまいました。この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点を保存しています。昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館したものです。壁が赤いのは、「ベンガラ」という鉱物を使ったからだろうか?紅花は、北前船で主に京都に運ばれた。その際、北陸の港で降ろし、陸路、琵琶湖まで運び、琵琶湖から京都に向かった。「源氏物語」には、「末摘花」という不美人でありながらも生涯光源氏と関わり続けた女性がいる。「末摘花」とは、源氏がこの女性につけたあだ名で、彼女の「鼻が紅い」こととベニバナの「花が紅い」ことをかけたものである。●8044歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.25
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■10月21日(月)-1この日は、最上峡芭蕉ラインの舟下りである。かつてここには、舟番所があり、舟の荷物を調べていた。五月雨を集めて速し最上川 芭蕉 (奥の細道) 芭蕉がこの最上川を俳句にして以来、多くの文人墨客がこの川を見るために訪ねた。病身の正岡子規も、ここまできた。(略)ずんずんと夏を流すや最上川 子規■街道をゆく10:羽州(うしゅう)街道■五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村子規は、蕪村の句の方が、芭蕉の句よりもいいという。▲これは、子規の句。▲芭蕉の酒田での句。(奥の細道)服二枚重ねて秋の最上川 はるなこの日は、肌寒くて、フリースの上着の上に、ダウンのベストを着た私。1時間舟下りをして、バスで帰ってくることになっていたが、今年7月の大雨で川の形が変わってしまった。だから、いつもの半分のコースでUターンした。<人格というほかない大きな気魄>に圧倒されると誰かが書いていたが、ここが大雨で河の水が増えたら、本当に、獣が荒れ狂うようだったろう。観光舟も何艘か流されてしまったそうだ。▲今も7月の増水の名残りがあちこちに残っていた。▼ NHK朝ドラ、「おしん」は、このあたりから舟に乗って、酒田に行くという設定だ。酒田まで、下りの舟は、4~5日くらい。帰り(上り)は、風任せなので、2週間以上かかったとガイドさん。風がない時は、陸から舟を曳く、曳き子が必要になり、曳き子を職業とする村もあったという。 最上川の難所や急流では、当時往来する川船では、曳子たちが船に綱をかけて引っぱりました。難所付近にはこの曳子たちの住む曳船集落があり、多いときには100人以上の曳子が必要だったようです。■最上川舟運■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆最上川を体感したあと、尾花沢という町に行った。江戸時代宿場町として栄えた尾花沢。この町は、芭蕉10泊の町を売りにしている。(他にもあるが)元禄2年(1689)5月17日(新暦7月3日)、松尾芭蕉は「封人の家」を出発し難所である山刀伐(なたぎり)峠越えて昼頃に羽州街道の尾花沢宿(山形県尾花沢市)に到着。尾花沢宿では旧知である鈴木清風宅を訪ねています。その時の様子を「尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれど、志卑しからず。都にもをりをり通いて、さすがに旅の情をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。」と「奥の細道」では記しています。芭蕉は5月17日当日は鈴木清風宅に宿泊したものの、翌日からは少し離れた養泉寺(山形県尾花沢市)に宿泊地を変えています。これは、芭蕉が訪れた時期が紅花の開花期に重なった為、邸宅は多くの人々があわただしく出入りして落ち着いた雰囲気が無く、清風自身も忙しく動かざるを得ない状況だったからと推定されています。養泉寺は元禄元年(1688)に本堂を再建したばかりで、まさに新築の建物に芭蕉を迎え入れた事となり、その心遣いに大変感謝しています。そこで生まれた句が・・・ 涼しさを わが宿にして ねまるなり 芭蕉 (奥の細道)「ねまる」とは当地方の方言で、力が抜けて、だらりと、寝そべる(楽に座る・あぐらをかく)意味で、芭蕉は養泉寺で昼風呂から上がり一息入れると、まるで自分の家にいるように心に風が吹き抜けるような爽やかな気持ちになり、安堵感と開放感に包まれた様子を表現しているようです。這出よ かひやが下の ひきの声 芭蕉 (奥の細道)芭蕉が尾花沢で訪れたと思われる蚕を飼っている小屋の床下で、恋を奏でるヒキガエルの声を聞き、恥ずかしがらないで、こちらに来て顔を見せて欲しい、といった意味と思われます。もう一句・・・・まゆはきを 俤にして 紅粉の花 芭蕉 (奥の細道)芭蕉が訪れた時期は丁度紅花の開花期に重なった為、紅花の畑を見学したのかも知れません。その際、紅花の花弁の形状が眉掃き(おしろいをつけたあと、眉を払うのに用いる小さな刷毛)のようで、風で揺れるとまるで女性が化粧をしているようにも見えて美しいことだなー、といった意味と思われます。 鈴木清風は、芭蕉とも親交のあった俳人であるが、本業は「島田屋」という商家の三代目で”紅花大尽”と呼ばれる程の豪商でもあった。元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は智略でこれを突破、三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えた-----。と言う豪気な逸話等が残されている。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.23
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■10月20日(日)出羽三山の羽黒山を目指していたら道路に大きな鳥居が!!古より信仰をあつめてきた出羽三山。羽黒山、月山、湯殿山の三山を巡めぐることは、死と再生を辿たどる「生まれかわりの旅」といわれてきました。■随神門■出羽三山神社の神域の表玄関。神域に邪悪なモノが侵入するのを防ぐ御門の神を祀っています。明治時代まで「仁王門」と呼ばれており、1695年に現秋田県由利本荘市矢島の領主生駒山讃岐守が、家運繁栄と極楽往生を祈って寄進しました。目指すは、東北北地方では最古の塔、国宝 羽黒山五重塔だが、長い長い石段が・・・。羽黒山には2446段があるそうだ。普通は、階段を登って、神社があるというのが当たり前だけど、ここは、何段もの石段を下った先に、五重塔がある。現在の塔は、約600年前に再建されたものといわれています。高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定されました。▲五重塔に着くまでに、杉の林が・・・。▼石の道もいい。近くには樹齢1,000年、樹の周囲10mの巨杉"爺杉(じじすぎ)"があります。出羽三山は月山が過去、羽黒山が現在、湯殿山が未来を象徴するとされ、それぞれ月山神社、出羽神社、湯殿山神社が鎮座する。▲入り口には、古くからの宿坊も残っている。多くの人が、この神社に参詣している。松尾芭蕉も「奥の細道」に出羽三山の俳句を残している。「涼しさや ほの三か月の 羽黒山 」「雲の峯 幾つ崩て 月の山」「 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」の3句を短冊にして収めています。■鏡池■東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。■鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)■堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。 この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。▲雨に洗われたように、赤い鳥居や木々の緑が美しかった。▼ホテルに早く着いたので周りを散策。ススキが美しい!!赤い実もきれいだ。この日は、ホテルに3時に入った。普段は、ゆっくり暮らしているのに、旅行中は、早く起きて、早く朝食・・・。たまには、ゆっくりしたい。朝一番に、前日に壊れたスマホを直しに行った。●11701歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.22
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■イル・ポスティーノ■「言葉」が人生に愛を運ぶ。南イタリア、ナポリの沖合いに浮かぶ小さな緑溢れる島に、チリから亡命してきた高名な詩人パブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が滞在することになる。貧しい漁師の父親と二人暮らしのマリオ(マッシモ・トロイージ)は、世界中から送られてくる手紙をネルーダへ届けるだけの郵便配達人に採用される。初めは緊張していたマリオだが、サイン欲しさに買ったネルーダの詩集を読むうちに言葉のパワーに目を開かれ、自らの生き方や社会についても考えるようになる。ネルーダもまたマリオの無垢な感性に刺激され、二人の間に友情が育ってゆく。そんな中、港のバーで働くベアトリーチェ(マリア・グラツィア・クチノッタ)に一目で恋したマリオは、ネルーダの応援を得て新たな人生へと踏み出す。だが、突然、ネルーダの追放令が解除され、祖国へ帰る日がやって来る──。20世紀最高の詩人と言われているパブロ・ネルーダ。チリを代表する国民的な詩人であり、外交官、政治家。2024年はネルーダ生誕120周年にあたる。ネルーダは、16歳でパブロ・ネルーダというペンネームで詩を書き始め、24年官能的な愛の詩集「二十の愛の詩とひとつの絶望の歌」を出版。20代から外交官としてアジア各地を遍歴し、34年スペインに赴任、スペイン内戦を目の当たりにし共産主義に接近。45年にチリ共産党に入党するが、48年に議員資格をはく奪され、国外逃亡を余儀なくされる。このころのイタリア亡命時代を題材に『イル・ポスティーノ』が作られている。50年には詩集「大いなる歌」を刊行。52年、逮捕令が解けてチリに帰国。70年には共産党から大統領候補に推されるが辞退し、チリは世界で初めて民主的な選挙によって社会主義政権が誕生。駐仏大使中の71年にノーベル文学賞を受賞するが、病気のため大使を辞任し72年にチリに帰国。しかし翌73年9月11日、ピノチェト将軍率いる国軍クーデターが起こり、兵士らに家を破壊される。その12日後、危篤状態に陥り死亡。死因は長い間病死とされてきたが、軍部による毒殺だったという疑惑があり、2013 年チリ司法当局は死因確認のため、遺体を掘り起こし調査したが、遺体から毒物は検出されなかったと発表した。★映画メモ★★1950年代の一時期、祖国チリを追われた実在の詩人パブロ・ネルーダが、ナポリ湾のカプリ島に身を寄せた史実にもとづき、架空の漁村を舞台に物語は展開する。★主演のマッシモ・トロイージは撮影時に心臓病に冒されており、すぐに手術しなければ危険な状態だった。彼はロケの最中に倒れ、「今度は僕の最高のものをあげるからね」とスタッフに言い残し、映画撮影終了の12時間後に亡くなっている。★1950年代の質素な暮らしの中に、マリオのベッドの可愛らしさ(*´▽`*)港のバーで働くベアトリーチェのベッドもかわいい♪★イル・ポスティーノとは、イタリア語で「郵便屋さん」的な言葉だそうだ。★父親と二人暮らしのマリオ(マッシモ・トロイージ)の家は、貧しい。食器なども粗末だし、食事も品数が少ない。1950年代は、日本でも質素な暮らしだった。★当時の郵便屋さんの給料は少なく、チップをあてにしていた。★製作年:1994年製作国:イタリア=フランス・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.21
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■ルート29■大丈夫。きっとふたりなら。他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった──。★兵庫県・姫路から鳥取までのロードムービーということで見に行った。姫路は、働いていたし、買い物や映画に行ったりしていたから、知っている所が出ているかもと思ったけど、分からなかった。★主人公は、人と関りが苦手。しかし、病院の患者に、「娘が姫路にいるから、鳥取まで連れてきて」と頼まれると、仕事用の車を盗んでまで、引き受ける。やっぱり、人から頼まれたことが嬉しかったのだろう。★2匹の犬を連れた赤い服の女、★天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、★「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、車で移動中、主人公のり子の出会う人々は、みんな不思議な人。不思議というより、ありえない!といいたい人々。★久しぶりに会った姉も心に闇を抱えているようだ。★ハルが急にいなくなって、主人公・トンボは夢中で探す。人に関わらないように暮らしてきたトンボだったが、ルート29を旅するうちに、一緒にいないと心配になるという風に変わってきた。そういう映画にして欲しかったな・・・。道路の上を巨大な魚が泳いでいるのは、何を意味するのだろう?他にも、カヌーでじいじを迎えに来た不思議な人々などシュールである。シュールの苦手な私は、この映画は、苦手だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.19
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■2024.10.19(土)-2雨雨の中、酒田市にやってきた。酒田市を案内してくれるのは、酒田市が大好きなガイドさん。他府県で「酒田ってどこ?」といわれてガッカリ。そこで、酒田のことを知ってもらおうと思ったのがガイドになったきっかけだと話てくれた。酒田市は、北前船で栄えた港町。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」 江戸時代に出羽庄内地方では、そんな俗謡が歌われました。本間様とは酒田の豪商ですが、商人にはとてもなれないが、せめて大名になりたいというところに、当時の本間家の繁栄ぶりをしのぶことができるでしょう。 宝暦6年(1756)、酒田地方に大災害が起こると、本田光丘(みつおか)は窮民救済のために米100俵を供出。庄内藩主・酒井忠寄(ただより)はこれを賞しました。この時、光丘23歳。 宝暦8年(1758)には酒田の西浜に防砂林をつくります。今風にいえば商売で得た利益を地域に還元し、公共事業を行なうようなものでした。この時、光丘は26歳。 その他、数々の行いは、米沢藩主・上杉鷹山の知るところとなり、鷹山に請われて、米沢藩の財政再建策にも大きく貢献しました。光丘の考え方は、鷹山の考え方と符合していたといわれます。▲1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造した、旗本二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。▲庭も大名庭園のような広さ。▼池のヌシのような鯉。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆次にガイドさんが案内してくれたのが、日和山。昔の港町には、日和山から天気を見て次の日の日程を決めることになっていた。今は、テレビやネットで天気を知ることができるので、市民の公園になっている。手前に酒田港が見えて、向こうに最上川。右はしに日本海が見えた。山形に40日余り漂泊し、そのうち酒田に9泊した松尾芭蕉。杖に網代笠を持ち、ずだ袋を方に下げ草履を履いての旅で、46才の芭蕉はとても健脚だったそうです。暑き日を海にいれたり最上川 芭蕉(奥の細道より)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆最期にガイドさんが案内してくれたのは、米どころ庄内のシンボル山居(さんきょ)倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。日本海からの西風と夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現役の農業倉庫でした。2022(令和4)年9月に129年の米倉庫としての役割を終えています。樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。 ※2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。山居(さんきょ)倉庫のあるところは、川の中州。ここなら、もらい火事もないだろうということ。どこまでも考え抜かれた山居倉庫である。夕食は、ガスト。この日、私のスマホがうんともすんとも言わなくなった。( ;∀;)●13208歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.18
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■2024.10.19(土)-1朝から雨が、強く弱く降り続く。それでも旅は続く。鶴岡商工会議所会館でガイドさんが待ってくれているからだ。(⌒∇⌒)鶴岡市は、山形県の庄内地方の南部にある市。市の人口は約11万人で、県内人口は第2位である。鶴岡の町中は、城址公園を中心に、二の丸跡には荘内神社や大寶館、三の丸跡には致道博物館と、歴史をたどる観光スポットが集中しており、徒歩での観光が可能。雨の中、美しい城下町をガイドさんと廻った■藩校・致道館(ちどうかん)■文化2年(1805年)、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まる。当時は現在の鶴岡市日吉町にあったが、文化13年(1816年)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に移された。明治6年(1873年)廃校。東北地方に現存する唯一の藩校建造物で、孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は国の史跡に指定されている。ここ鶴岡は、作家・藤沢周平の故郷で、鶴岡を舞台にした作品がある。▲致道(ちどう)博物館「致道」の名称の由来は、庄内藩校「致道館」によるもので当館では典籍、版木、祭器など多くの藩校資料の保存とともに藩学の伝統を主とした古典の研究もおこなわれています。▲旧鶴岡警察署庁舎(国指定重要文化財)明治17年(1884)に高橋兼吉の設計によって建てられた2階建ての木造建築。西洋の様式を取り入れつつ、日本在来の様式も見られる和洋折衷の建物です。▲大宝館鶴岡市の鶴岡公園にあるドームを載せた赤い尖塔屋根と白亜の外壁という外観をもつレトロな洋風建築の「大宝館(たいほうかん)」。大正天皇の即位を記念して建てられた施設。オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームが特徴の擬洋風建築。木造2階建て、バロック様式を模した大正初期の洋風建築の建物内部は、郷土人物資料館として、横光利一(よこみつりいち)といった明治から平成にかけて各分野で鶴岡に貢献した先人・偉人の業績を戦時中は空襲を避けるためという理由で黒塗りにされていたという。「大宝館」は、鶴岡市指定有形文化財でもある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆風間家は、鶴岡城下で庄内藩の御用商人として発展し、後に鶴岡一の豪商となり産業の振興に力を注ぎました。明治29年丙申の年、武家屋敷跡に風間家七代当主・幸右衛門によって住居と営業の拠点として建てられた丙申堂は、薬医門(約200年前の武家門)のある商家として当時の繁栄ぶりをよく残しています。約4万個の石が置かれた石置屋根が特徴で主屋を中心に4つの蔵や広大な板の間と大黒柱など、豪商の往時の面影を今に伝える貴重な歴史遺産として国指定重要文化財にも指定され、注目を集めています。石置き屋根より以前は、藁葺きが主流でした。しかし、日本海側地域の一部では強風により藁葺きが通用しないということもあり、このような石置き屋根が用いられるようになったようです。風間氏は、日本の氏族の一つ。沢海藩(現在の新潟市)では武士でしたが、商人となり村上、酒田を経て、18世紀後半に鶴岡に移住したと伝えられています。その後鶴岡城下で藩の御用商人として太物屋を営み、鶴岡第一の豪商となりました。■旧風間家住宅 「丙申堂(へいしんどう)■▲鶴岡商工会議所会館に飾ってあった民具が美しい!!鶴岡を後に酒田市に向かう。途中、田んぼには沢山の鳥が・・・。鶴岡だけに鶴か?◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■今年5月霞ケ浦■に行った時、土門拳の写真に出会い感銘を受けた。山形県酒田市に■土門拳記念館■があるので、行って見ることに。1974年(昭和49年)に市初の名誉市民の称号を授与された土門拳は、顕彰式で「僕の全作品を酒田市に寄贈したい」と述べ、相馬大作市長に「入れ物(収蔵庫)は、そんなに立派なものでなくてもいいよ」と語りかけた。欧米の観光客が多かったのでビックリしたが、「ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャポン」(2009年)に二つ星で紹介されているというので納得。雨の勢いやまず・・・。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.16
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■ラストマイル■ブラックフライデー前夜、届いた荷物は爆弾だった――日本中を震撼させる4日間。11 月、流通業界最大のイベントのひとつ“ブラックフライデー”の前夜、世界規模のショッピングサイトから配送された段ボール箱が爆発する事件が発生。やがてそれは日本中を恐怖に陥れる謎の連続爆破事件へと発展していく――。巨大物流倉庫のセンター長に着任したばかりの舟渡エレナ(満島ひかり)は、チームマネージャーの梨本孔(岡田将生)と共に、未曾有の事態の収拾にあたる。誰が、何のために爆弾を仕掛けたのか?残りの爆弾は幾つで、今どこにあるのか?決して止めることのできない現代社会の生命線 ―世界に張り巡らされたこの血管を止めずに、いかにして、連続爆破を止めることができるのか?すべての謎が解き明かされるとき、この世界の隠された姿が浮かび上がる。 ドキドキハラハラの映画で、合間に笑い( ´艸`)があって、この映画好きだ!!!小ネタ例として、運送会社の名前。羊(ひつじ)運送って、クロネコヤマトや、「カンガルー」「ペリカン」「アリ」など動物の名前が多いから?また、八木=やぎさんという名前でひと遊び((´∀`*))ヶラヶラ 塚原あゆ子監督で検索してみると「重版出来!」や「わたしの幸せな結婚」など私の好きな作品が多い。面白いはずだ。「MIU404」もテレビで毎週楽しみにしていた(*´▽`*)何気なく、見ていたこれらのドラマが、塚原あゆ子監督というワードで繋がった。これからは塚原あゆ子監督を意識して見よう。この映画の謎。★博多から所長として来たエレナが、博多にいなかったこと。★事務所に寝泊まりするエレナ。★警察が犯人だと睨んでいた元社員の山崎佑の痕跡が、会社のPCから消えていたこと。などなど複雑だ。■大手通販サイトの問題■Amazonも(映画の中の)デイリーファーストのように、非常に機械的な仕組みで労働者を扱っているとして槍玉にあげられる企業だ。デイリーファーストによってAmazonのような大手通販サイトの問題を描くだけではなく、運送会社が安く買い叩かれているという現状も『ラストマイル』では描いていると考察できる。それに対し、2024年4月からトラックドライバーの時間外労働の960時間上限規制と改正改善基準が告示されることによって労働環境を変えようという試みはある。しかし、それによってトラックドライバーの人材不足が叫ばれている。運送業の労働環境を変えようとしても、簡単に変わらない。しかし、『ラストマイル』で描かれているように運送業者とは国の血管だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.14
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■ネネ エトワールに憧れて■ネネ、12歳。夢は、オペラ座、エトワール・・・。パリ郊外の団地で育った労働者階級の12歳の黒人少女ネネ。何よりもダンスが大好きで、自宅近くや郊外線RERの駅で伸びやかに踊る喜びを感じさせる彼女のダンスには人を惹きつける“華”があった。ネネはパリ・オペラ座バレエ学校の入学試験に見事合格、毎日時間をかけて髪をシニヨンにまとめ、熱心にレッスンに励むネネは才能を花開かせていく。だがネネが憧れている、パリ・オペラ座の最高位“エトワール”だった校長マリアンヌは伝統を守ることに固執し、「バレエは白人のもの」とネネを邪険に扱う。またネネを羨み、あるいは妬む同級生たちの嫌がらせも始まる。このままバレエを続けるか苦悩するネネ…そんな最中、マリアンヌの隠された秘密が明らかになる――。 パリ・オペラ座バレエ学校は、国王ルイ14世が設立した王立舞踊アカデミーに起源を持ち、300年以上の歴史と格式を誇る世界で最も古いバレエ学校。世界最高峰のバレエ団の一つであるパリ・オペラ座バレエ団の団員の95%は、このパリ・オペラ座学校の出身者であり、毎年数百名の応募者の中から、20人程度が入学できるという狭き門。入学してから卒業するまで毎年選抜試験が行われ、選ばれた者だけが残っていくという厳格なシステムでパリ・オペラ座バレエ団に入団できるのは毎年数人に過ぎない。★映画メモ★★パリ・オペラ座のバレエ学校に入るのは、至難の業。バレエの技術は当然のことで、体形が悪ければとらない。なんせ、親の身長が体重まで書かなければならないのだ。★12歳で入るのだが、これから身長は、どこまで伸びるのか、肥る家系ではないかなどが、入学試験の参考になる。★エトワールとは、星という意味で、そこから花形スターを意味する。★映画を観ていて、フィギュアスケートのスルヤ・ボナリーを思い出した。■スルヤ・ボナリー/1992 Albertville Olympic - Free Skating■スルヤは、たぐいまれなジャンプで1990年代のはじめ頃、女性ながら4回転と飛んでいた。これは、女性としては初である。しかし、フィギュアスケートも白人をイメージするスポーツだ。 ★黒人が花形ダンサーになれるかというのは、少し?だ。もともと、こういものは、白人を主人公に作られたものだから・・・。もし、黒人が主人公になるならば、それにあったストーリーの作品が必要だ。街角の演奏に自由に体を動かして踊るネネを見て、バレエ以外のダンスを目指した方がいいのではないかと思った。たとえば、ミュージカル。 「コーラスライン」なんかピッタリだと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.13
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■2024.10.18(金)-2そうだ、東北いこう!!■前回■青森県、秋田県、岩手県に行ったから、今回は、山形県、宮城県、福島県に行って見よう!新潟も行ったことがない(佐渡島はあり)から、新潟県から旅を始めよう。というわけで、大阪から新潟市に空路でやってきた(約1時間)。新潟空港近くでレンタカーを借りて、ここからドライブによる旅の始まり。今回は、19泊20日の長期旅なので、体がもつかと心配する高齢者夫婦だった。■2024.10.18(金)-210月16日(水)、新潟県から始まった旅は、この日、山形県に入った。新潟から山形の道は、日本海沿いで海風を防ぐ装置が続いていた。まず向かったのは、鼠ヶ関(ねずがせき)だが場所がはっきりしない。探しながらあちこち回った。▲弁天島にある厳島(いつくしま)神社。鼠ヶ関(ねずがせき)は、山形県鶴岡市の大字である。古代の関所。現在の山形県鶴岡(つるおか)市鼠ヶ関(ねずがせき)にある。白河・勿来(なこそ)の両関とともに蝦夷(えぞ)対策の一環として設けられた奥羽三関の一つ。▲弁天島の先端にある灯台。「弁天島の東方山麓の小部落を関と呼び、その付近に古代集落があったらしいことが伝えられている。この関は北陸と出羽口を位置にあり、古代東北の開拓時代蝦夷を防ぐ城柵的性質を帯びていたものと考えられている」 「この関は京・鎌倉の南と、出羽・陸奥の北を分けるもの。北の侵入を防ぎ南の逃亡を防ぐために南が置いたもの。鼠ヶ関は荘内地方の名前と考えてはいけない。これは南が北に向かって付けた名前。ねずみの関は子の関で子は北の方向。越国の最北端に置かれたのが子の関であり、それがねずみのせき鼠ヶ関のであろう」「鼠ヶ関の存在は平安中期から末期ないし鎌倉までの10世紀から11世紀 平安中後期の南を検問し防備する関門と考えられる。」と記し、この関を義経が通ったことを暗に示すとともに、7世紀中葉の蝦夷防御の「関」ではないことを示した。ちなみに万葉仮名の読みは「念」=ね・「珠・種」=す・ず。であるから、「念珠」は「ねず」、念種「ねず」と読む。▲念珠の松▼「念珠関」の表記は1889年(明治22年)から1954年(昭和29年)まで存在した自治体「念珠関村」にも使われていた。▲念珠庭園の入り口のアケビ。美味しそう・・・。▲鉄道の無人駅の名前が「鼠ヶ関駅」。駅からすぐのところに、あった!「鼠ヶ関」この、村の中に新潟と山形の境界線があるそうだ。見逃した・・・。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆山形県・鶴岡市にある加茂水族館に行った。経営上の紆余曲折も経ながら、クラゲに特化した水族館として復活。今や「50万人/年度」以上を集客する庄内地方有数の観光地となった。度重なる経営危機を乗り越えて大幅な業績回復を成し遂げたため経済界からも注目されており、経済誌からの取材を度々受けている。2005年(平成17年)にクラゲ展示種類数世界一となった。同年から日本大学生物資源科学部において、クラゲのヒーリング(癒やし)効果の科学的な検証がなされた ♪メダカの学校は川の中・・・ 机が!! (*`艸´)排水溝もクラゲに見えてきた・・・。秋風やあしか悲しき曲芸す はるな◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆海辺にあるクラゲの水族館から鶴岡市内の鶴岡カトリック教会 天主堂を見に行った。赤い塔屋がひときわ目を引く白亜の殿堂で、明治36年に建てられたものでロマネスク様式教会建築の傑作として国の重要文化財に指定。ステンドグラスとは異なる独自の技法でつくられた「窓絵」や世界的にも珍しい「黒い聖母マリア像」は、国内ではこの教会でしかみられない。フランス人ダリベル神父の全財産と寄付により明治36年(1903)、庄内藩家老屋敷跡に建設。バジリカ型三廊式とよばれる造りで、設計は佐渡の両津教会や京都の旧聖ザビエル教会(現在は明治村に移築)など日本の教会堂を数多く手がけたパピノ神父によるもの。赤い塔屋の高さは23.7メートル。●7340歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.12
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■2024.10.18(金)-1新潟市から始まった旅は、新発田市、村上市と続いている。私は、いつもなら、眠ると朝まで起きないのだが、この日は、3時前に目が覚めて、5時過ぎまで眠れなかった。この日は、満月で、カーテンを開けっ放しの窓から月が煌煌と輝いているのをずっと見ていた。 眠られぬ我を見守れ旅の月 はるな笹川流れの遊覧船に乗るために、海岸沿いの道を走る。山が海まで迫ってきていて、トンネルが出来るまでは、船で行くしかなかったのかもしれないようなところ。笹川流れの遊覧船乗り場に着いた。近くにお土産屋さんがあって、魚を売っていた。▲こんな魚もあった((´∀`*))▲イカもある(*´▽`*)▲これは、鮭ではないだろうか?▼なんたって村上市は、鮭オシですから~~。(⌒∇⌒)笹川流れとは、新潟県村上市に位置する、11kmの美しい海岸線。して、この笹川より沖合の岩の間を盛り上がるように流れる潮流が見られることが、名の由来とされています。海水は日本有数の透明度を誇ります。無数の奇岩、絶壁、洞穴が連続する。眼鏡岩、びょうぶ岩、ニタリ岩、恐竜岩、蓬莱山などの奇勝があり、観光船で探勝できる1952年から笹川流れ遊覧船が運航され、現在に至ります。カモメの餌付け体験も人気。 兄頼朝に追われた義経と弁慶の一行は、ここを船で北上したという。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.11
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■2024.10.17(木)-2新潟県・新発田市は、雪が多いのか、商店街に雪対策の雁木(がんぎ)が・・・。雁木造(がんぎづくり)とは、雪や雨の日で通行機能を確保するため、建物の庇を長く張り出して、下を通路として作り出した建築様式を指す。新発田城に行った。最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。かつては浮船城、狐の尾引き城、あやめ城と呼ばれていた新発田城であるが、▲現在は、陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。近年では戦国自衛隊の城という愛称で呼ばれることが増えてきている。 柴田藩は、「11人の賊軍」の舞台。新発田市を後に、村上市に向かった。ここでもガイドさんに案内をお願いした。村上市(むらかみし)は、新潟県北部にある市。日本海に面している。北限の茶どころとして知られるほか、三面川の鮭や牛肉(村上牛)が名物。瀬波温泉や笹川流れ、町屋通り、粟島航路など観光都市としての側面が強い。▲このまちのあちこちで、鮭を見る。▼古い家に入ってみると、▲あちこちに鮭が!▼▲冷蔵庫の無かった時代は、こうして鮭を干して保存していたのだろう。▼「町歩きもいいけど、鮭のとれる川を見に行きませんか?」とガイドさんが誘ってくれたので三面川(みおもてがわ)の鮭のとれる場所に行った。三面川では、秋になると川幅いっぱいに『ウライ』と呼ばれる柵が設けられ、産卵のために遡上してくる鮭を一括採捕しています。これは、戦後中断していたものを昭和52年から鮭増殖を目的として再開したもので、遡上してきた鮭の行く手を阻み、2か所だけ開いている落し柵と呼ばれる密柵で捕らえ、採卵し、人工ふ化増殖を行っています。 司馬遼太郎が「街道をゆく」で青森県のことを「北のまほろば」と称していた。まほろばとは、もの成りのよい、豊かな国のことだという。ここ新潟の北部も鮭が遡上する豊かな土地だ。●隣の新発田市の語源もアイヌ語で「鮭が取れる所」を意味する「シビタ」を由来とする説があるから、この辺りは昔は、鮭が登ってくる豊かな土地だったようだ。この日泊まったホテルから海に沈む夕日が見えた。●9754歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.09
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5■2024.10.17(木)-1新潟から新発田市に行った。新発田市の清水園でガイドさんと会う。ガイドさんの背中には、「五階菱(ごかいびし)」という柴田藩主・溝口家の紋が・・・。五階菱は、今は新発田市の紋章になっている。「新発田」の由来には諸説ある。●荒地を開墾してできた新田「新開発田」の転訛とする説。なお、この説の補強論・背景として、江戸時代中期には紫雲寺潟新田が開発されるなど、穀倉地帯として発展した北陸・東北地方の歴史があるためである。●潟湖に接する「州端(すばた)」を由来とする説●アイヌ語で「鮭が取れる所」を意味する「シビタ」を由来とする説●諏訪神社の社田「諏訪田(すわた)」を由来とする説「新発田」という地名は、享徳3年(1454年)の中条房資記録 など、室町時代から見られる。「新発田」という表記に対する推察の一つとして、「しばた」に対する当時の現地発音が「シンバッタ」またはそれに類する発音であり、それに沿って「新発田」の字が当てられたのでは、といったものがある。清水園は、溝口家の下屋敷として造られ、清水谷御殿とも呼ばれていたそうです。広い庭園は、広さが15,200平方メートル、幕府の庭方の県宗智を招き造られ、近江八景をとり入れた純京都風で、中央に草書体の「水」の字をかたどった大泉池のある回遊式庭園です。池の水に、季節ごとの樹木の色がはえて、何ともいえぬ風情です。新発田藩の歴代藩主は、茶道に力を入れました。現在も清水園や五十公野御茶屋などでお茶会が開催されています。▲雪囲い▼竹に雪囲するのかとびっくりした。▲庭園にある灯篭や井戸は、必要なものだけれど、美しいデザインでオブジェのよう。まさに用の美!!▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆江戸時代末期における新発田藩の足軽長屋で、藩政当時のままの姿で現存する。当時の下級武士が住んでいた八軒長屋は、歴史的にも貴重な存在です。木造茅葺きの質素な建物は、当時の足軽たちの暮らしぶりを感じさせてくれます。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「清水園」の近くに「トキワ荘」を発見!!トキワ荘といえば、東京にあった漫画家の住むアパートとして有名。手塚治虫が入っていて、手塚が出て行った後に、藤子不二雄が入り、赤塚不二夫、 石ノ森章太郎などなど多くの漫画家がここに集結して青春時代を過ごした。 手塚治虫の次に入ったのが、寺さんこと寺田ヒロオ。 藤子不二雄(ふたり)の世話をしてくれた、トキワ荘にリーダー的人。その寺田ヒロオが、ここ新発田の出身で、このトキワ荘は、寺田の記念館的な場所だそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆♪「金襴緞子の帯しめながら…」で始まる唱歌「花嫁人形」の詩の作者でもある画家・蕗谷虹児の「蕗谷虹児記念館」もよってみた。 10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.08
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■2024.10/16(水)-2江戸時代に名所として多くの人が訪れた「日和山」ガイドさんの案内で向かう。ガイドさんの着ているシャツは、新潟の地図が!!道には、ところどころに砂が見える。新潟砂丘は70キロに及ぶ広大な砂丘だった。新潟の砂は、新潟市を流れる信濃川、阿賀野川が運んできたのだ。海の方に向かって歩くとき、普通ならどんどん地面が低くなる。しかし新潟では、反対に坂道を上ることになる。上の写真の塀も、坂道仕様になっている。そして、松。松が見えたら砂地と思ってよい。反対に、柳の並木が見えたら、そこには、かつて水路があったと思ってよい。▲手前が高くなっていて海の近く。「かつては信濃川、阿賀野川が大量の土砂を運んできていましたが、今は分水などもあって水量、土砂ともに減り、そのために今度は陸地が削られているのです。一時はこの展望台の手前まで海が押し寄せてきていましたが、近年の保全工事のおかげで今の状態に。水量が多すぎても少なすぎてもダメ。新潟では今も水との闘いが続いているのです」日和山に登る。北前船等の帆船の行き交う時代、みなとに船が入出港する際「水戸教(みときょう)」と呼ばれる水先案内人が、近くの高台にて天候や海上の状態を観測していた場所が「日和山」と呼ばれていたそうです。新潟だけではなく、全国に80か所以上もあるそうで、現在も方角を見るために使っていた「方角石」が各地の日和山に残されています。日和山の山頂には、住吉神社が・・・。住吉神社は、航海の神・港の神として祀られた神社である。ここにも、かつての北前船で栄えた港の痕跡が残っている。新潟県だけでも4箇所。*日和山 (新潟市) - 新潟県 新潟市 新潟港。*新日和山 - 新潟県 新潟市 新潟港。上の日和山の後継で、現在は水没。*日和山 (佐渡市小木) - 新潟県 佐渡市 小木港。*日和山 (沢崎) - 新潟県 佐渡市 沢崎港。ガイドの野内さんは、全国の日和山に行ったというツワモノ((´∀`)) 日和山(ひよりやま)は、日本各地にある山の名前である。船乗りが船を出すか否かを決める際に日和を見る(天候を予測する)ために利用した山で、港町に多い。船乗りにとって日和山は寄港する港ごとにあるもので、地名というより港湾施設の一種である。日本海を見ながら「あそこが佐渡です」とガイド氏。うっすらと佐渡の島影が見える。荒海や佐渡によこたう天の川 芭蕉今回の旅は、芭蕉の「奥の細道」と重なるところが多い。東北を廻った後で、新潟に来た芭蕉とは反対に、私たちは、新潟県の後、東北に入る。新潟では古来から海岸で海を眺めるという浜遊山(はまゆさん)が恒例の行事として行なわれており、市街地近くに海岸砂丘(全長70kmの新潟砂丘)が発達という特異な地形がそんなレジャーを生み出しています。そして、その接待場が「浜茶屋」の起こりなのです。浜遊山がいつごろ始まったのか定かでありませんが、幕末にはすでにその風習があったことがわかっています。「日和山は住吉神社もあれば有名な団子茶屋が砂丘の上に甘い団子で塩辛くなった喉を和ぐべく待っている。海岸の傍らには東宮殿下御成りの際の休憩所もある。此処もまた納涼地には持って来いの場所で遊人や職人衆の江戸っ子式な遊び振りを見せるところ」(大正10年7月22日付/『新潟新聞』夕刊)そんな日和山の5合目にカフェがあって、ちょっと寄らせてもらった。■日和山五合目 hiyoriyama coffee■ここ日和山の歴史に目を向け、光をあてたのが、今回、ガイドをしてくれた野内(のうち)さん。時々、SNSで通知して、市内を案内することがあるそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆野内さんの車で、この日、二人目のガイドさんのところまで連れて行っていただいた。二人目のガイドさんの案内で、新潟市内の花街を廻った。文人・政財界人も愛した伝統と格式ある料亭「鍋茶屋」。創業は弘化3(1846)年、江戸末期創業の料亭。文人、政財界の著名人から「新潟に鍋茶屋あり」とうたわれてきた料亭。店名の由来は創業者がすっぽん料理を始めたことによるもので、店のしるしもそれにちなんだ亀甲となっています。新潟の民謡・新潟甚句にも「〽新潟焼けても 鍋茶屋焼けぬ」とも歌われたほどの、新潟を代表する料亭で建物は国の登録有形文化財。古町八番町側の東新道は、この料亭があるため「鍋茶屋通り」とも呼ばれています。この店は、塀に竹でデザインした意匠が、さすが、粋だね!!新潟に大阪屋あり秋の暮れ はるな万代橋が見たかったけど、暗くなっていて残念・・・。😞帰りに絶対にみよう・・・。この日は、二人とも疲れ果てていた。●17754歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.07
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そうだ、東北いこう!!■前回■青森県、秋田県、岩手県に行ったから、今回は、山形県、宮城県、福島県に行って見よう!新潟も行ったことがない(佐渡島はあり)から、新潟県から旅を始めよう。というわけで、大阪から新潟市に空路でやってきた(約1時間)。空港近くでレンタカーを借りて、ここからドライブによる旅の始まり。今回は、19泊20日の長期旅なので、体がもつかと心配する高齢者夫婦だった。■2024.10.16(水)-1最初は、新潟市。新潟市は、日本海側最大の都市で、かつては北前船の港町として多いに栄えていた。その痕跡を路地連の野内さんに案内してもらった。シャツの模様が、新潟の地図!!(*^▽^*)待ち合わせたのは、上の地図の現在地とある場所。ここには、▲本館▲旧第四銀行住吉町支店▲旧新潟税関▼が並んでいる「みなとぴあ」という場所。明治開港後、交流の中心地となった「旧新潟税関庁舎」は、明治2年に建てられた擬洋風建築。▲塔のような建物を造ろうとしてけど、どうしても日本が・・・。▼青海波も取り入れて、ここも日本から離れられないようだ。(⌒∇⌒)まちのあちこちに、水に関係する場所や港の痕跡が残っていて面白い。ガイドさんも、そのあたりを見せてくれた。●海抜0メートルやマイナスのところがある。●地名に水にまつわるところがある。▲堀の跡があった。地名にも●●堀などがあった。「新潟」という地名じたい、水に関係ある地名だ。●船乗の神社がある。金毘羅さんは昔から航海の神、船の神として漁業や航海に関わる人々に厚く信仰されました。新しい船が作られると、船主は船頭や船員をともなって金毘羅さんに参拝し、船の絵馬を奉納するのが習わしになっています。▲この狛犬は、下を廻すことができる。男性は、向かって右、女性は向かって左の狛犬の下の石を廻して、願掛けをする。▲えっ!?事件?縛られた?これは「足止め狛犬」。元々は、北前船などの船乗りが、順風に乗って行ってしまわないように、順風が吹かないようにと祈るためのおまじないだそうだ。この水路は、船から降ろされたものが、小舟に乗せて移動するためのもの。海の近くにある、日和山に向かって歩いている。このあたりから、坂道が続いている。海に近づくと下るはずなのに、新潟では、坂道を上がっていく。砂丘があるからだ!! 旅行前に参考書として読んだ司馬遼太郎の■街道をゆく 潟のみち■。「ブラタモリ」も参考にした。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.06
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■結(ゆい) 妹背山女庭訓波模様(いもせやまおんなていきんなみもよう)■江戸時代も半ばを過ぎた道頓堀には芝居小屋がひしめき合っていた。近頃は歌舞伎芝居に押され、往時の勢いはないものの、「道頓堀には、お人形さんがいてこそ、や」人形浄瑠璃に魅せられ、人形浄瑠璃のために生きた人々の喜怒哀楽と浮き沈み、せわしなくも愛しい人間模様をいきいきと描く群像時代小説。史上初の直木賞&高校生直木賞をW受賞した『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』から2年。直木賞受賞第一作にして、『渦』の待望の続編がついに刊行。 人形浄瑠璃に魅せられた人々のせわしなくも愛しい人間模様をいきいきと描く群像時代小説。●目次●●「水や空や」●「種」●「浄瑠璃地獄」●「月かさね」●「縁の糸」●「硯」★主な人々★★松屋平三郎・・・「松へ」骨董に狂う道楽者の父が沢山の骨とう品を残して死んだ。酒屋は、やめて父の残した骨董品を扱うことに。趣味で扇に絵を描いて稼いでいる。絵の号は、耳風斎(じふうさい)人形浄瑠璃を語るという旦那芸も玄人並み。★大升屋・徳蔵はじめは、人形浄瑠璃の話を書く近松半二の門人だった。少ししてから人形浄瑠璃から歌舞伎の作者に変わった。実家は裕福な置き屋的な家。祖父は、作家の「雨月物語」の作者上田秋成とも仲が良く、上田秋成が店の離れに暮らしていたこともあった。そんな縁からか「雨月物語」を歌舞伎に書こうとしている。★おきみ近松半二の娘。松屋平三郎・・・「松へ」大升屋・徳蔵の幼馴染。人形浄瑠璃に関しては非凡な才能がある。父親の死後、体の弱い母親と京都の親戚を頼っていく。女の物書きはいない中、父親・半二が途中まで書いて残した浄瑠璃を完成させたりするが、表には出ない。★近松やなぎ飾り職人だったが、人形浄瑠璃の本を書く。その際、おきみの意見を参考にしたり尻を叩かれたりした。 この他にも沢山の歌舞伎や浄瑠璃に関する人々が出てきた。昔のコテコテの大阪弁が楽しかった。★人形浄瑠璃の客を増やすため、毎朝、明け五つまでに小屋に来た者は、木戸銭をタダにするなど工夫をした。なあ、硯よ、そやったよな。徳蔵は、布施を墨にひたす。筆が墨を吸う。たっぷりと吸う。墨の匂いがする。筆の重みを感じる。あたらしい紙に筆をおとす。腕をうごかす。文字が生まれる。これがすべてだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.04
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■みみずのたわごと■徳川慶喜家と会津松平家に伝わる貴重な史料で綴る壮大なファミリーヒストリー第1章 みみずのたわごと 徳川慶喜の孫・徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫・松平和子(徳川和子)による手記。華族として育った幼少期から、戦後、華族制度が廃止された後の暮らしまで。貴重な歴史的史料を初公開。第一章 みみずのたわごと 徳川和子まえがき/一 少女時代/おいたち/関東大震災のこと/幼稚園/女子学習院初等科/変な話/小石川の通学路/二 懐かしい人たち/同級生/いしのこと/まきのこと/俥夫のしょうとくにのこと/間瀬さんのこと/野出蕉雨と佐々木主馬/商人部屋/行商人/市電/映画と演劇/三 人種差別(差別用語)について/四 歯医者の思い出/五 オートバイの音/六 美容院の今昔/あとがきに代えて●読書メモ●●家に「お運動部屋」とよばれる12畳のお遊び場がある。(1923年=T12)●1923年=T12・9月1日関東大震災。庭に押し入れのすのこを敷き、その上に花ござをしいて、昼食をとった。おかずはハムエッグだった。それ以後、毎年9月1日のお昼は、ハムエッグを食べた。庭の木の枝に蚊帳を吊って寝たが寝付けなかった。会津若松の連隊が来て、表座敷に泊まった。兵隊は、庭に竈を築いて食事を作った。●女子学習院(女学校。今の高校か?)私のクラスは大名家族や御公卿さんが少なくて、ほとんどが明治の元勲の孫たちに占められていたので、幕府方は、私と柄本武揚の孫、後は、薩長、山県さん、毛利さん、東郷元帥、山本権兵衛、西郷さんの孫など。琉球最後の王様の娘も一緒だった。彼女は後に井伊家に嫁いだ。 フランス文学者の朝吹登水子も友人だった。●無声映画の弁士、徳川夢声は、葵館で弁士をしていたことからのペンネームだ。 徳川慶喜家の孫は、よほど楽しい子ども時代を過ごしたようだ。慶喜家の孫の世代の女性全員が本を書いた。「菊と葵のものがたり」高松宮妃喜久子著「みみずのたわごと」徳川和子著「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子著「徳川おてんば姫」井出久美子著・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.02
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今年は、辰年ですからと辰=龍にまつわる話を書いている。「竜・龍」のつく一番有名な名前といえば、「坂本龍馬」。かつて土佐では、動物には人間以上の精気があるとおもわれていて、新生児に動物の名をつけることが多かった。★坂本龍馬や★吉村虎太郎もそうだし、★幕末、土佐藩の行政の責任者だった後藤象二郎もそうである。★中江兆民の幼名は竹馬で、★明治期の自由民権思想家の馬場辰猪も、動物の名前である。♪土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんかんざし買うを見た。★この坊さんの相手の娘の名前が「お馬」だ。★「街道をゆく」で取材に高知県に行った司馬遼太郎が飲み屋に行ったが、その店の女将が「亀子」だった。「街道をゆく27・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)のみち、梼原(ゆすはら)街道」司馬遼太郎★私の祖父(父の父・明治9年生まれ)には、兄(明治元年)がいたが、名前を寅太郎といった。 ★その寅太郎の娘は、鶴という名前。鶴は父のいとこにあたるが、この人は私も見たことがある。鶴には沢山の子供がいたが、その中の一人、「よしひろ」と私の従姉、絹江が結婚。そんなわけで、私も鶴を見たことがある。★私の岡山の家の裏には、「くまさん」という名前の植木職人が住んでいた。★父の幼馴染で馬車引きをしていた人の名前が「とらちゃん」といった。父が亡くなって葬式とは別に、故郷でお別れ会をしたが、とらちゃんも来てくれた。 昔は、土佐以外にも動物の名前の人がけっこういたのだ。それにしても、「龍」と「馬」という名前を持つ、坂本龍馬、すごい!! たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■10-2■画竜点睛■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.01
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