おしゃれ手紙

2016.12.03
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カテゴリ: お出かけ
ennmeiji 延命寺 ■の中を
ボランティアガイド氏が案内してくれた。
延命寺の墓
お寺の隅っこには、古いお墓が寄せられていた。
ここは、いろんな所にあった墓を寄せ集めている所。
明治の初めに、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という思想があった。
廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。

延命寺の隣にあった寺もそのあおりを受け、廃寺となった。
そんなことからだろうか、ここに古い墓石がある。
延命寺の墓2★幕末の墓
明治維新 勤皇志士 上田主殿の墓

上田主殿は、時代は違うが■ 大出世した、浄厳和尚(じょうげんおしょう) ■と同じところで生まれたという。

彼は若くして、尊王攘夷派の活動をした。
彼は、思ったことは口にしないではいられないタイプの人間だったようだ。

天誅組(てんちゅうぐみ)の中に入ったが、
リーダーの吉村虎太郎と考え方が違い
いざ、という時に、皆と同じ行動をとらないと言い出した。
そんな勝手なことをされては、士気に影響するとの理由で天辻峠で斬首されている。
文久3年(1863年)。

しかし、調べてみると、上田主殿の言い分(下)は、もっともなものだ。
天誅組の兵力は膨れ上がったが 烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった。
十津川の人々も半ば脅迫されて急きょかき集められた。
しかも 休息も食事もなく戦闘に参加せられるなど、戦意に乏しかった

あまりの酷さに玉堀為之進や植田主殿ら十津川郷士は指揮官に抗議したが、中山らに憎まれ天辻峠で斬首されている

これを見ると、学生運動の内ゲバのようで、どうもいけない。

ウキぺディアでは「植田主殿」となっているが墓石は「上田主殿」。
明治の墓★明治の墓
この墓は、上田主殿と一緒に天誅組の兵士となった少年。
身内がいなかった彼は、荷役などの労働にいやいや、連れて行かれたという。
上田主殿が斬首された時、彼は、一目散に逃げ帰ったそうだ。

それが1863年(文久3年)のことだ。
その後、村で暮らしていたが、14年後の
1877年(明治10年)に■ 西南戦争 ■勃発。
彼はそこで命尽きた。
30歳になるかならずかの、身寄りのない青年を不憫に思って村の人が建てた墓。

二人の青年の墓が今も残る延命寺。
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Last updated  2016.12.04 01:02:31
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