おしゃれ手紙

2019.03.22
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カテゴリ: お出かけ

津堂城山古墳

この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。
名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。

しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない様子でした。

全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。
いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。
明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であったことを示す小字(こあざ)名が載っています。
「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。
つまり、この場所は、古墳としてではなく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。

1912年(明治45年)、地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下から巨大な石棺が現れて、人々を驚かせました。
この長持形石棺は、それまで知られていた石棺の中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのものでした。

今までの調査・研究から、津堂城山古墳は、二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳であり、出土物などから4世紀の末頃に造られたことが分かってきました。
津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資料などから考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。

かつて農地だった内濠部分は保存のために整備が進められ、ちょっとした古墳公園となっています。

また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。


■2019.3.2
道明寺天満宮
赤面山古墳
大鳥塚古墳・別名質屋山古墳
道明寺盾塚古墳公園

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Last updated  2019.03.22 20:57:13
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