尾瀬の麓、片品村でのむらづくり記録

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2005年03月03日
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カテゴリ: 東田代村
17ー切支丹禁止令ー

 ベント・フェルナンデス神父の沼田道中や滞在模様は、こうだった。

「関東では、フェルナンデス神父が相模を通って三島の地を訪ひ、江戸に至り、そこに五十日滞在した。

(中略)

 これまでに、宣教師たちの一切入ったことのない上野で、フェルナンデス神父は、天使の如き待遇を受け、城下町の沼田に、十三日間逗留した。

 信者達は雨のために客が滞在してくれればいいと祈ってゐたが、果たして彼の滞在は延期された。

 彼は山賊のために甚だ危険な信濃を通り、道中ずっと危険な越後に行った。」

 こう記したパジェスは、在支佛国仏蘭西公使館官員の経験をもち、一八八六年(明治一九年)に七二歳で死去した人物だ。

 この頃、切支丹禁止令のもと、全国あちこちで切支丹の火あぶりや処刑がなかば公開で行われた。沼田地域でもその情報が届かないはずがないし、当事者たちの内心はさぞかし緊迫していたに違いない。

 現実はどうか。江戸城と沼田城の間には切支丹狩りに関してどうも温度差があったように思えてならない。

 寛永十一年(一六三四年)、河内守信吉の江戸での四〇歳という“若い”死によって、形勢はにわかに変わってきた。甚五左衛門が切支丹より“転んだ”こととこの死が全く関係ないとは言い切れない。

 沼田地域にはにわか切支丹を下支えした人がいなければならない。

 その頭目が東庵だった。

 信頼を寄せていた信吉の死で、急遽立った藩主は幕府の意向を受けて切支丹政策が次第に厳しくなった。

 まさに東庵めがけての高札(掲示板)が大字の各所に立った。「切支丹宗門御制禁礼」で、日本人なら切支丹であることを認めないという通告だった。





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Last updated  2005年03月12日 22時20分56秒
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横坂です@ Re:「東田代村」を議員が視察(07/09) はじめまして。 片品出身の者です。 こち…
乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
もじゃもじゃ君@ 短小ち○こに興奮しすぎ(ワラ 優子ちゃんたら急に人気無い所で車を停め…
まさーしー@ なんぞコレなんぞぉ!! ぬオォォーーー!! w(゜д゜;w(゜д゜)w…

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