尾瀬の麓、片品村でのむらづくり記録

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2005年03月04日
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カテゴリ: 東田代村
19ーたんちょの決断ー

 たんちょには、三人の兄弟と二人の姉妹がいた。長男・八郎左衛門、次男・新右衛門、三男・新兵衛。次女・いせ、三女・らんだった。

 その高野甚五左衛門の長女として、嫁ぎ先も名門になるだろうと思っていた。夫・次郎右衛門の大塚家も名門でないわけではないが、よりによって(生まれ育った摺渕村よりもっと)ど田舎に住み着かなければならなくなるとは、家族のだれが予想したか。

 東田代村は、近隣の村人さえ敬遠するという、そんなところだった。

 たんちょは当初、沼田城下など夫の仕事場に近いところに居て、新婚生活を満喫していた。結婚後二年で長男・新五左衛門が誕生した。

 末の妹・らんが慶安四年(一六五一年)、生まれた。夫の仕事と共に、すべてがこのまま順風満帆に進むかに見えた。

 しかし、実母・高野きよがその六年後(明暦三年)の五月二七日、突如この世を去った。六〇歳だった。

 きよの死は、たんちょに大きな衝撃を与えた。そして思った。
「親を大事にしなきゃ」
「大塚家の両親も、いつまでも若くないから」
「人の生命は、長いのか短いのか、所詮分からないものだから」

 そしてすばやく決断した。
「今からでも遅くない、東田代村に行こう!」

 その時のことをあとで振り返り、自分でも驚いた。直ちに夫を説得し、子供をつれて東田代村に移り住んだのだ。

 きよの四十五日法要が済んで間もない移住だった。

 そして、着くやいなや、義母や村人と共に、野良仕事に精を出した。ここは、12軒の小さなコミュニティーであって、できるかぎり共同で農作業その他に当たっていた。

 人生はあまりにも皮肉なものだ。

 二年後には、弟・新右衛門の妻・くらが、その次の年(万治三年)新右衛門が赴任先の大塚村で病死した。弟はわずか二九歳だった。二人は一粒種の半之丞を残しての旅立ちだった。

 一番の衝撃は、同じ万治三年の秋深まる中、開村以来ずっとリーダーだった与惣右衛門が倒れ、帰らぬ人となったことだ。七七歳の旅立ちだ。 

 移住して七年も経たずして、長男・新五左衛門が死亡した。嫌というほど雪の降る二月のことだった。そしてあくる年の寛文九年(一六六九年)、今度は愛娘のまりが急死した。

「親より先に逝くとは親不孝すぎるよ」

 たんちょは、やるせない気持ちで一杯だった。夫もどうやって妻を慰めていいか考えるだけの余裕がなかった。どちらの子も、これからという時に、バタバタと逝っちまった。

 だれも恨む気にはならなかった。東田代に連れて行ったたんちょには尚更だった。

 駄目押しの辛さは、与惣右衛門の死をようやく乗り越えた寛文五年(一六六五年)、その妻・たえが闘病生活の末、帰らぬ人になってしまったことだ。

 気丈なたんちょも、あたりかまわず激しく泣いた。義母への万感の想いがあったからだ。 

(この村には(急患のとき)駆け付けてくれる医者など居ない。隣村にも)
 たんちょは、こうつぶやいた。

 この時ばかり、悔しさを隠さなかった。

 今だったら、難を逃れる病もそのころは、不治の病として、掛かったらなかばお仕舞いだった。たとえば、麻疹(はしか)も馬鹿にできない病気だった。

 前を見つめて生きたいのだが、たんちょと次郎右衛門にとって残った子供は、次男の甚五右衛門だけになった。





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Last updated  2005年03月13日 10時44分27秒
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横坂です@ Re:「東田代村」を議員が視察(07/09) はじめまして。 片品出身の者です。 こち…
乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
もじゃもじゃ君@ 短小ち○こに興奮しすぎ(ワラ 優子ちゃんたら急に人気無い所で車を停め…
まさーしー@ なんぞコレなんぞぉ!! ぬオォォーーー!! w(゜д゜;w(゜д゜)w…

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