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「憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。」ダニエル書9章9節--------------ダニエル書9章は、ダニエルの懺悔の祈りで埋め尽くされている。「バビロン捕囚の苦しみは、イスラエルが神様に従って歩かなかったからです、イスラエルの罪をおゆるし下さい。」と捕囚の地で祈りをささげている。罪を悔いる激しく強い思い、その思いはまっすぐに神に向かう。読んでいて、心を揺さぶられる。ノアも父祖たちも、ダビデも、ソロモンもヨブも、完璧とは言い難い。しかし、ダニエルは違っていた。ダニエルほど、その心や信仰が無傷に描かれている聖徒は他にない。心のきよい人ほど、神に背く罪に敏感なのだろうか。
2005年09月30日
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「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」キリストの言葉(ヨハネによる福音書16章33節、新共同訳聖書より)-------------------苦難のない世は、ないことを、キリストは知っておられる。毎日の生活が、鏡のような水面だったら、面白くない。嵐の中で、親鳥が羽を広げ、巣の中の雛を守っている。こんな絵を見たことがある。
2005年09月29日
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机上を片づけていたら、JLM(Japan Leprosy Missin)の会報2005年4月号が出てきました。その8頁に「忘れられない6月19日」という題の詩が載せられていました。この日に奥様を天に送られた藤田三四郎というかたの作です。作者には大変失礼なのですが、少し長い詩なので、ボクなりに縮めて詩のエキスを転載させていただきます。どうぞおゆるし下さい。--------------ふるさとの大洗海岸を妻と歩き続けた歓びも悲しみも優しく見守ってくれた海私は妻と腕を組んで歩いていた妻は12歳の時にハンセン病と宣告され療養所に収容されて66年夫唱婦随で58年間歩いて来た私が47年間自治会活動が出来たのも「お前の陰の支え 迷惑をかけて本当に申し訳ない」と詫びた私がベッドサイドで妻の手を堅く握っていると妻は声にならない声で「お父さん本当にあ・・・りが・・・と・・・う」と私は涙が滝のように流れていた心電図モニターの音が遠くに消えていく妻は波音を枕に旅立ちの支度聖歌430番 主よみもとに近づかん を口ずさんでいた
2005年09月28日
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シオン☆けいさんももちんの心の旅さんナオミさんさるすべり123さん☆そういち☆さんShinzyさんchieko53さんらるママさんふかちん2000さんかえでさん山さくらさんガレックさんとおる3119さんえもりんご。さん3児のあなたさん柴チビさんちゅにむはなにむさんボクの誕生日を祝ってくださってありがとうございました。皆さんにも神様の祝福がありますように、お祈りいたします。朝食の時、妻がぽつりと「今日はお父さんの誕生日ね、何かしなきゃ」「しなくていいさ、覚えていてくれただけでいいよ」ゆうがた妻が「どこかに食事行かない?」結局、生協ストアに2人で出かけて刺身を買ってきて、2人で舌鼓を打ちました。わが家は今、2人だけです。
2005年09月28日
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2005・9・27ー1948・9・27=57うわっ、すげ~ 半世紀以上も生きてきたぞ自分をほめられる最大の事もう、これしかない
2005年09月27日
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大人は一人になると子供の顔になる心は大人にならないと思えてならない
2005年09月26日
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今日は妻の番で、「主の祈り」についてのメッセージを聴きました。妻は伝道師をしております。「主の祈り」については、以前、右のフリーページに載せました。「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」(マタイ6:11)立ち止まって考えさせられました。有り余る糧を所有していては、この祈りは祈れないと。神がお与え下さる最低限の糧で、満足するようにと。シンプルな生活を一筋に求めなければならないと自戒でき、感謝しました。
2005年09月25日
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お見舞いのお言葉をありがとうございました。朝・早起きで、信州は八ヶ岳西麓・蓼科高原での集まりに出かけました。久々の電車の旅、車窓からの、川や山の景色を楽しみました。「身延線」は東海道・富士駅と、甲州・甲府駅を南北に結んでいます。広々とした富士川の河川敷の蛇行に沿い、線路は進むよどこまでも。東側は、急峻なそそり立つ崖になっています。ここは土砂崩れに見舞われる路線なんです。こんな所に線路を敷設した昔の人々の心意気が偲ばれます。信州は、もうすっかり秋。コスモスが至る所に群生しています。帰りは友だちの車に乗せていただきました。彼の奥様は野の花が好き。「ああ、あれ摘んでいきたいわ」でも忙しすぎる友人の牧師は、知らん顔をして車を飛ばし、あっという間にボクの乗る駅に着いてしまいました。
2005年09月24日
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今し方、帰ってきました。(泣)本日、1泊の信州の集まりに妻と出かけたのですが中央高速の上で車が不調に。あわてて近くのSAに車を止めるJAFを待つ簡単には直らないと言われ、結局、陸送でわが家に帰還JAFってただじゃなかったのか5キロまではだだですって100キロの陸送で6万円目玉が飛び出た信州の集まりは絶対に行きたい明日朝5時の沼津発電車に乗れば、大丈夫寝坊しないで、きっと行くぞ!ひとりでも行くぞ
2005年09月22日
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せっせと歩いて駅のホームに上がると涼やかな風吹かれながら良いことを考えていると電車がホームに滑りこんでくる
2005年09月22日
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>「主のプロミスに聖霊の恵み> 十字を切って祈り満たして」---------ベテスダ・柏さんのログに見つけた言葉http://plaza.rakuten.co.jp/bethesda/十字を切るのはカトリックと思っていた正教会はいかがか?初代教会には、なかったのでしょう?いつ頃から、胸の前で十字を切る習慣が出来たのだろう。十字は、左からか、右からか。十字を切ったあと、指を口に持っていく動作の意味は?「十字を切る効用」について読んだことがあった気がする。
2005年09月20日
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ホームセンターの駐車場でハーレーダビッドソンに寄り添っている少女を見た
2005年09月19日
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木曜日の夕方、東京のある駅前にいたがビルの谷間から来るヒンヤリした風にしばらく足を止めていた忘れていたものを、思い出したように秋が駆け込んできたよ季節の移り変わりは決してあらがうことが出来ない
2005年09月17日
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罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。(エゼキエル書18章20節)----------------------------------「エゼキエル書」は紀元前6世紀、バビロン捕囚の中で書き留められた預言の書。上に上げた聖句では、責任は個人のものであり、親が子の罪を負うとか、子が親の罪を負うことはないことが強調されている。親子関係、家族関係が濃厚すぎるのも考え物だ。さらり、と、それでいて愛情がこもっている、そんな関係を目指していきたい。
2005年09月16日
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---------------「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」コヘレトの言葉(伝道の書)11章1節---------------無駄に思えるとき効率が悪いなぁと嘆くとき自分がやっていること役に立っていないと思えるときこの聖句を心に留めよう
2005年09月15日
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「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハネによる福音書4章16節-------------------永遠にボクたちと一緒にいて下さる聖霊が、「弁護者」でいらっしゃるとは、信じがたいことだ。どんな失敗をしても、告発者の前で弁護してくださる。証人として出廷したことがある。その時に関わった穏やかな老弁護人の姿、顔、物腰を思い出した。
2005年09月14日
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「あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」使徒行伝18:10-----------------きのう、ボクは用事で車を走らせた。小さな町は、少し走るとすぐに町の外れとなる。区切られたいくつかの町内を過越ながら一人一人の信者さんたちの顔を思い浮かべていた。すると、上に掲げた聖書の言葉が心に浮かんできた。
2005年09月13日
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自民党が勝つとは、解散直後から予想されていたことだが脱帽!小泉さんがモーセのように両手をあげると海が雪崩をうって2つに分けられるそんな連想をしてしまった。それにしても「選挙」はこわい、こわい右も左も翻弄される皆が自分の1票で、翻弄されるんだ小泉さん改めておめでとう!昨晩は何か疲れ切っていたように見えました政治信念の断固遂行とはいえどうぞ身体に気を付けて!
2005年09月12日
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この三永恭平先生の名著を、仲間たちと学んだことがある。近隣の牧師たちが集まって、超教派の「東静牧会カウンセリング研究会」を立ち上げた。スーパーバイザーの元、ホントに楽しかった若き日の思い出。10年は関わったかな。ところで、「こころを聴く」ことは、困難だ。クライエントとの関わりが強すぎると、半ば「バトル化」するのだ。心を聴くどころではない。感情のぶつけ合いになり、あとで、双方が「謝りをいれる」という惨めな結果となる。ボクは、「心」は、あえて聴こうとは思わなくなった。聞こえてくれば、風のように受け入れるだけだ。
2005年09月10日
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----------------------「わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが千人に一人として、良い女は見いださなかった。」 旧約聖書・コヘレトの言葉7:28-----------------------妻と聖書を読み始めて、ここまで来たら停止イイ男は千人に一人イイ女は一人もいない「これは逆ではないの?」 ボクは彼女に訊いた。フェミニストのボクにしては・・・・彼女は考え込んだ。「調べるしかないわ」聖書を読み進むことと、祈り合うことを中断して手短な解説書を2冊手に取って調べ合った。でも明快なものはなかった。そうだ、ソロモンには1000人の妻がいたのだけれどイイ女には、一人も巡り会わなかったんだ。女性を見る目がなかったんだな。
2005年09月09日
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朝の祈りを終え、戸外に出ると真っ青な空半袖、半ズボンの身には涼しく感じる東風がボクの全身を撫でてくれた桜の木に寄ると昨日取り切れなかった毛虫たちが朝の食事をしてやがる!
2005年09月08日
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「桜の木に毛虫がびっしりだよ」言われて、木に寄ると身の毛がよだつ毛虫の数帽子、マスク、長袖、長ズポンこんな出で立ちで出動した菜箸を使って、葉にへばりついている巨大な毛虫を引っ張り取り、薬品の入った容器に入れる台風の余波の南風の風上に脚立を立て日が落ちるまで、取っていた
2005年09月08日
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結婚後、妻に洋服をプレゼントしようと、2人で上野の洋品屋に入った中年の紳士が応対に出て「奥様には、これが似合いますかな?」と、色々と出してくださった。「この飾りはいやだわ」「ここが派手だわ」ついにその紳士はあきれたように「そのくらいの飾りはイイんです」そして言葉を添えた「クリスチャンじゃあるまいし」
2005年09月07日
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ぶどう狩りの季節ですねもう甲州のぶどうは、たわわでしょう。15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 (ヨハネによる福音書)キリスト様はご自分を「ぶどうの木」と、たとえておられます。キリスト様のたとえ話は、きばつでステキなものが多いのですがここはまた、最高に好きなところです。15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」信徒たちを「ぶどうの枝」と呼んでいます。キリストと信徒は不離、一体同じ命、同じ養分でつながっていることをお教えになりたかったと思います。実が結ばれる季節が来ます。ボクの実は大丈夫かな?甘いかな?
2005年09月06日
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3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。3:2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、 植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、3:3 殺すに時があり、いやすに時があり、 こわすに時があり、建てるに時があり、3:4 泣くに時があり、笑うに時があり、 悲しむに時があり、踊るに時があり、3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、 抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、3:6 捜すに時があり、失うに時があり、 保つに時があり、捨てるに時があり、3:7 裂くに時があり、縫うに時があり、 黙るに時があり、語るに時があり、3:8 愛するに時があり、憎むに時があり、 戦うに時があり、和らぐに時がある。 (旧約聖書・伝道の書より)---------------------------------若い時には、どうもピンとこなかった。でも、今はわかる。今の時を知ること過ぎ去った時に気づくこと
2005年09月05日
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高級車のスターターのスイッチを入れると軽やかな駆動が伝わりエンジン、ミッション、車軸へと力が伝えられるようにボクが息むとちょうど良い堅さでちょうど良い勢いで破ることもなく通過して体外に脱出する!
2005年09月03日
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郵便局のあの庶民的なイメージ、ほわっと暖かい雰囲気は、長年にわたり培われたものだろうか。小泉首相の遊説の様子をテレビが写していたが、郵便局員が国家公務員であることは、悪であると決めつけているように聞こえた。そんな言い方は、七色の虹を、一色に染めようとしているようなものと思った。ところで、宅配便のみなさんは、いつも走って来る。ボクは、申し訳ないと思ったけれど、玄関口でちょっと話しかけた「自分の子供には、この仕事はさせたくないですよ」郵政民営化、それが、時代の流れだということはボクにもわかるしかし、競争が厳しすぎる世の中弱い者が生きずらい世の中みんなで考え直していきたいと願う
2005年09月03日
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若い頃、東京都内のある神社を探索したことがある。神社の作りは端正で美しい。ぐるりを歩いて一つの発見をした。それは旧約聖書の神殿の作りに似ているということだ。実際、旧約信仰(つまりユダヤ教)と神社神道のつながりを研究している人がある。伊勢神宮境内にダビデの星がかたどられた石碑があるとか。靖国信仰なども、いわゆる御用宗教、自国中心的教義と認識しているが、それもユダヤ教の「自国主義」「選民意識」と近い。ユダヤ教は強烈な一神教、神社信仰は汎神論のカテゴリーこの点は全く違うのに、それでも似ている。不思議だ。
2005年09月02日
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