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最近ある中国側資料が公表された。事件50周年の昭和62年5月、中国人民大学出版社から発行された『蘆溝橋事変風雲篇』(武月星、林治波、林華、劉友于著)である。その中に事件直前に於ける中国第二十九軍の対日戦争計画について詳細な記述があるが、紙幅の都合上、略記すれば次の如くである。
昭和12年5月、宛平県城には一個中隊と大隊本部があつたが、同月下旬、城外に三個中隊が増駐、6月には蘆溝橋西南の長辛店に二個大隊が増派された。この頃、永定河左岸堤防の十個のトーチカを掘り出して整備した。第二十九軍は軍事訓練強化の他、部隊の抗日救国政治教育を推進した。同年4、5月、第二十九軍は具体的な対日作戦計画を立てた。右計画は張■亭二十九軍参謀長が作成したもので、国民政府の主張に基づき“必要時には北平を撤収して実力を保存し、全国の抗戦を待つ”といふ消極的なものだつた。だが、これに反対したのが 二十九軍副参謀長の張克● であつた。彼は“攻撃を以て守備となす”(以攻為守)積極的な日本軍撃滅計画を別に策定し、推進したのである。(以下省略)
では、張克●とは何者だったのか。彼こそ、中共中央から直接に指令を受ける秘密共産党党員であった。張克●と中国共産党との関係については、昭和61年9月新華書店北京発行所から出版された『北京地区抗戦史料』所収の「劉少奇同志の第二十九軍に対する統一戦線工作に関する史実の検討」なる一文、張克●自身の回顧談を含め、中共の遠大なる秘密工作のほぼ全容を伝へてゐるので、その一部分を紹介しよう。
張克●(本名=張樹棠)は大正12年馮玉祥 の部隊に入隊、昭和4年中国共産党に入党して特別党員となり、中共中央と直接に連絡しつつ、長期に亙つて西北軍中に潜伏を続けて機会を待つた。昭和9年張自忠の三十九師参謀長及び二十九軍副参謀長となつた。その後、中共中央と張克●との連絡は蕭明(戦後、北京市総工会主席、昭和34年病死)が当つた。その頃(昭和11年から13年まで)劉少奇は中共中央代表、北方局書記で、北支での抗日民族統一戦線を推進し、抗日ゲリラ戦展開の工作に従事してゐた。
さて張克●の立てた積極的対日作戦計画とは、二十九軍10万のの兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの3地区に分け、この地区に分散配置してゐる日本軍を撃滅した後、機を見て山海関に出撃、関外の領土即ち満州を奪回しようとするものだった。 張克●はこの作戦計画を蕭明を経て党に報告、まもなく蕭明は「党組織がこの作成計画を承認、同意したのでその通り執行してよい」と書いたメモを張に手渡した。右計画を見て支持を与へ同意した党指導者は北方局主任の劉少奇書記であつたと張克●は認めてゐる。 斯くして張克●は宋哲元と二十九軍将兵の抗日を積極的に推進し、蘆溝橋で奮起させ抗戦8年の序幕を開いたのであると。
引用元:中村粲氏著 「大東亜戦争への道」 (p394)
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