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現在形の批評 #26(書籍)人気blogランキングへ扇田昭彦 『才能の森―現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社)本書は、演劇評論家である著者が朝日新聞学芸部記者だった頃から長年親しくしてきた演劇人24人について、随想風に記したものである。 人物構成は新劇人、海外演劇人、小劇場第一世代、批評家、俳優etcであり、並べられた目次を一瞥するだけでも著者の人脈の広さと、演劇に関わり続けてきた約40年の持続力に感嘆するばかりである。 宮本研や秋元松代といった新劇人はこれまで関心薄であったため、勉強になった。また、プライベートでも親交のあった人物では、それまで知られななかった秘話がいくつも書かれている。深い演劇論・演劇人論ではないが演劇作家入門の書。 他の人物の稿には鈴木忠志の名が折に触れて出てくるのに、肝心の氏について独立した文章が書かれていないのが残念。是非とも加えて欲しかった。
Apr 23, 2006
現在形の批評 #25(舞台)人気blogランキングへ・A級Missing Link『決定的な失策に補償などありはしない』4月17日 ウイングフィールド マチネ劇団紹介・・・A級Missing Linkは作・演出の土橋淳志を中心に、近畿大学の学生で2000年結成。KAVCチャレンジャー'02'03、大阪現代演劇祭ステップシアターなどに参加。若手演出家コンクール2002最優秀賞を受賞。以下劇評は『wonderland』に掲載。
Apr 19, 2006
現在形の批評 #24(舞台)・壁ノ花団『たまごの大きさ』3月18日 精華小劇場 マチネ死者が示すもの死後の世界は誰にも分からない。死人に口無しとはよく言ったものだ。あやうく三途の川を渡りそうになって現実世界へと引き戻されたという、臨死体験が最も近しいものとしてあるものの、それもあくまで主観でしかなく他人は共有できない。ただ、死んだらどうなるかは誰もが具体的に立証不可能が故に、自由な想像力を巡らせることを許容するのも確かだ。古今東西の芸術や宗教の発展も死の問題をテーゼとする点が多分に含まれている。劇団MONO所属の水沼健による演劇ユニット、壁ノ花団公演『たまごの大きさ』は死人が登場する。5人の死人(女性)がやってくるのは山奥。如何にして逢着したのかは分からない。また、その目的が何なのかも分からない。ただ己の記憶を手繰り寄せ、生い立ちを切々と話すのみだ。文字通りの「死人」を、血の通った生身の身体を通して再起させることから生じる幽玄の不思議さがこの舞台を支えている。生ある頃は良くも悪くも我々に張り付く感情が1つの因子となって、「私」と「他」を峻別する個の固有性を形成しており、その機微が様々な個同士のドラマを発生させる。そういった意味での豊穣な感情はこの舞台の死者にはない。代わって、直截相手の懐へと突き刺さる静謐だが強度を持った声が身体と遊離した音色のように存在する。そのような死者達が舞台に俎上に上げられているのだ。程なくして彼女達が死者だと分かると、足を引きずる女、足にコイルを巻いている女、散乱する小石にコイルを巻いてラジオを作り、そこから父親の声の発信を切望している女といった様が納得されてくる。色とりどりの灯篭が光る舞台は件の三途の川を想起させる。外界から遮断された山奥で跋扈しながら記憶を巡らす死者達は無垢であどけない童子、それでいて賽の河原罪で積み石する苦役を強いられた痛ましさすら監督させる同時のように見える。印象に残る場面がある。それは、2人の死者がお互いぶつかって中身が入れ替わる箇所だ。生者は一旦死ねば魂と身体を分かつ概念がすぐさま喪失する。仮に霊魂という存在を認めるならば、それも一種の生き物となるのであろうが、物理的身体から開放された時、それ自体が全体として存在する何者かということになるのではないか。それはつまり死者こそ究極の心身一致を実現した存在であると言えよう。この場面で行われた『転校生』さながら精神の入れ替えを目にした時、我々は否応なしにこれがフィクショナルな演劇性、俳優は死者を演じているに過ぎないことを再認識する。だからこそ、元に戻るために両者が何度もぶつかる様に、映像のようなアテレコ作業を施して今誰として存在しているのかを示すような、明瞭な補助線を引くことが困難な演劇の制度を逆手に取っているように思われるのだ。それ自体がこの舞台の数少ない可笑しみのある場面としても成立している。本来、俳優という未分化な一個人は、舞台を通した自己対象化作業を通して何者かであろうとする存在である。今作のようにそれに加え、彷徨う死者の魂という不可視で、それ故に実態があるのかどうかも計り知れない死者を演技の対象に仮託することは、累乗化する虚構性への迷宮へ足を踏み入れることに等しい。したがって、舞台上での身体は極めて不安的な形象へと傾斜し、限りなく透明さへと漸近することにある。感情がなく、一本調子な声で死者を演じているという表層的な部分は関係がない。むしろ、俳優達が演じる死者達の特徴は、そのまま我々自身の姿に重なってくるのだ。すなわちそれは、世間が「個性」を叫ぶあまり、特別な能力に容易に還元されるそれがなければいけないという焦りを感じ、ではどうすれば獲得できるのか、また本当に潜在能力として個性と呼べる何かを所有しているのかを懸命に模索するも、それが理由で袋小路に陥り、身動きが取れなくなっている私を含めた若者である。例えば外見から変ろうとしてみて姿形・服装に個性を追い求めるも、何が自分に合っているのかが分からず結局、氾濫する情報を基にした流行という名の無個性へ加担することを知ってか知らずか着飾ってしまう。それがモードという禍々しさである。また、鴻上尚史が『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(講談社)で人は普段いかに高低・大小が希薄で表情の無い声を発しているかを指摘する。それも、自身の個性を足元から見据えることに無頓着であるかに気付かされる。そういったことを見逃した上で個性を追求した結果が、他者と区別の付かない画一的な外見の獲得しかできない人間こそ、閉鎖的な死に体の死者のようではないかという事実。そのことを、死者を演じる俳優が示しているように思えた。立派な、「死人に口あり」である。
Apr 1, 2006
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