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【目次】◆ 山田せつ子公演「奇妙な孤独vol.2」 〈要約できない豊かさ〉に触れつづけることへの戦い 森山直人(京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科助教授)◆机上風景「乾かせないもの」 忘れられない芝居 感情にリアリティを求める果敢な演出 西村博子「マガジン」の登録・解除はこちら。http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html
Aug 31, 2006
楽天ブログ★アクセスランキング【目次】◆ 野田地図ロンドン公演『The Bee』 "To bee or not to bee" -戦略に満ちたロンドン進出第2作 今井克佳(東洋学園大学助教授)◆トリプルクラウンプロデュース「彼岸島の不思議な夏」 私たちはどんな言葉を話しているのか……? 高木龍尋(大阪芸術大学大学院嘱託助手)◆零式「返事」 「閉塞感」のない肩すかし 人物設定が凝りすぎか 小畑明日香「マガジン」の登録・解除は次のページから。http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html
Aug 24, 2006
現在形の批評 #40(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・少年王者館 『I KILL』(イキル)8月6日 精華小劇場 ソワレアングラと現代のブレンド城門を思わせる白いゴツゴツとした舞台装置に少年のような格好をした中年男性が現れ、とつとつとなにやら語り出す。すると一瞬の内に照明が落ちて空間が闇になる。しかしそれは本当に一瞬で、するさままた明るくなったならば、いつの間にか男の両脇に明るい色の和服姿の少女のようでいてまた成人女性のような、とにかく女が立っている。ここでの会話は、男が舞台のはるか彼方を指差しながら「空を見たい」と言い、女がここは劇場の中であり、従って空などあるはずもないため見ることは不可能だと返す。すると再び一瞬の闇から一瞬の照明点灯のサイクルが繰り返されると、今度は男と女の位置が入れ替わっている。芝居の冒頭からしばらく、一瞬の内で男の周囲に入れ替わり立ち代り人が取り巻いていく。今回が初見の少年王者館の舞台に接して、この冒頭のシーンのようなめまぐるしく展開する演出力がこの劇団の最大の武器であることが良く分かった。それは照明だけではない。機関車や雨等の具体物や彩色豊かな幾何学模様の映像が舞台全体を覆い、終始童話の世界を想像させるような音響が流れ続けている。これらを含めた雑多な装飾が幾重にも素早く積み重なることで、めまぐるしい劇世界が構築されていくのである。加えて、最も重要な要素であるその劇世界を生きる俳優達も同じく相当な運動を伴いながら膨大な台詞をリレー方式のように俳優から俳優へと橋渡しをしていく。装飾=情報が舞台空間と肉体に憑依しているがため、それらに常に追い立てられているように見えるが、それはあくまでもスタイルであって作品自体を崩壊させることのない微妙な均衡を保っている。そういった点から私は少年王者館の舞台を観ながら、唐十郎率いる唐組と松本雄吉率いる維新派に近しい匂いを感じたのである。そういったことは既に指摘されている所でもあるのだろうが、82年結成のこの劇団がいわゆる小劇場第三世代と呼ばれた時代に活動を始めたという点、つまりアングラと現代を共に内包する極めて重要な位置にいると思われる。かつて唐十郎が主宰した状況劇場の猥雑で土着的な劇世界と俳優の肉体によって瞬く間に観客を異世界へと誘う怪しげなまるごしの貧困さに、第三世代の演劇人も多分に影響を受けているはずだ。その理念をこの世代で受け継いでいる一人が天野天外なのだろう。「猥雑さ」を幾何学的なものから成る舞台世界へと趣向を変えて表現している点がいかにも80年代演劇的であるし、またそこにこそ、先行世代の影響の残滓を感じさせて止まない。加えて、維新派との関連性も強く、既に触れた舞台様相や顔を白く塗った俳優が演じる少年が、幻想の世界を生きるといった根幹部分で、私が言う所の「とびだす絵本」(『act』4号)のような維新派の劇世界を思わせる。唐組の土着性と維新派の無個性性を異なった形で引き受けて、鮮やかで温かみを感じる舞台創りを天野天外は試みているのだ。そしてもう一つ、めまぐるしい劇世界を創成している重要なポイントは豊潤な言葉の連鎖だろう。例えば、ゴシック文字で貼り付けられている「私」という文字を分解して「イル」という文字にすれば、「私はイル」というアイデンティティを確認する言葉へと繋がっていくし、「夢」の文字を分解・再結合させて「生」と「死」という2つの文字を浮き上がらせる所などは、詩的叙情性が一気に発露してくる場面である。そもそもタイトルの『I KILL』は英訳の「私は殺す」と語感の「私は生きる」である。タイトルからして、両義性が存在しているのである。そして、なにより圧巻なのはラスト、登場人物全員が舞台ツラに壇を成して整列して単語を発し続けるシーンだ。その言葉とは手に持ったスケッチブックに書かれている言葉なのだが、何人かのグループ毎に違う言葉がそこには書かれている。それにも関わらずスケッチブックをめくりながら単語を全員が発すれば、同じ発音、つまり同じ言葉を発しているように聞こえてくるとうものだ。以上の例からでも、この舞台で大量に放出される言葉の一つ一つの文字が形象する意味をいちいち考えて追いかけることは陳腐で貧しい舞台との接し方でしかないと言わんばかりに、そういう観客の頭で思考する作業を振り切るかのように疾走し、全体が醸し出す情感の感得を促す。近年、アングラ世代の旗手の一人である唐十郎の再考が試みられ、学生劇団によるの唐作品上演、唐十郎関連の著書が相次ぎ、「唐十郎ルネッサンス」と呼ばれもした。それはもちろん、唐十郎自身が力のある作品をここ数年の間にも生み出し始めたことが直接のきっかけとなったことは間違いないだろうが、ここに来て、アングラ世代が果たしたことを伝説としてではなく、現在形として捉えて自分達の表現に生かすことで演劇的な探求はもとより、我々が生きている世界を照射するヒントがあるのではないか、そういう可能性を見出した若い世代が直感的に唐十郎とその作品に嗅ぎ付けたというのも理由の一つに挙げられる。80年代の現代演劇は、アングラ世代を意識的に忌避してポップでスタイリッシュなものへ傾斜した。しかしそういった中でも、唐組と維新派の舞台を感じさせることで、彼らアングラ世代に影響を受けたと思われる天野天外が、そこに「今生きている」同時代の感覚をブレンドしながら独特な作風に辿り着いた所に、現在まで劇団を率いている力強さが伺える。とすれば、アングラと現代の感性を同時に吸収し続ける天野天外と少年王者館は、共通認識を持つ現在の若手演劇人に与える影響もあるには違いない。とすれば、近い将来の新たな現代演劇のメルクマールの形成に大きな力になるという推測も成り立つだろう。ともあれ、天野天外による言葉のレトリックとそれを発する俳優の姿・声から創成される劇世界を感覚的に受容して想像力豊かに対面することが、少年王者館の正しい観方なのである。
Aug 23, 2006
現在形の批評 #39(舞台)人気blogランキングへ・「TOKYO SCAPE」-bird's-eye view『girl girl boy girl boy』-7月29日 ART COMPLEX 1928 マチネこの夏、東京が京都で7月26日から8月6日までの2週間、「TOKYO SCAPE」と題して東京の6劇団が京都の4劇場で公演した。演劇の東京一極集中化に一石を投じることがこのフェスティバルの根幹だという。もっとも、具体的にその理念を各劇団の当日パンフレットから引用すれば、「(東京の劇団による地方公演が)一過性の公演の連続」に終わるだけでは果たして「本当に交流は進んでいる」と言えるだろうか、また東京一極集中化は「日本の文化を支える背景を脆弱化」させてしまう。「まずは互いの存在を知り、表現の多様性を広めるべき」であることを参加劇団達の共通認識として抱いたという。そして、なぜ京都で公演することになったのかは風琴工房主宰で、今フェスティバルディレクターの詩森ろばが、「京都の演劇の創作環境の素晴らしさとそこから生まれた作品の数々を尊敬しているから」と述べている(「TOKYO SCAPE」チラシより)。確かに、京都は90年代半ばから新たな演劇都市として多数の劇作家や劇団を輩出している地であること、古都京都の文化風土の歴史性に東京の完全なる都市文化を持ち込むことでどんな化学変化が起きるのかを試してみることは双方にとって新たな発見となるであろう。私は3つの劇団(bird's-eye view、restーN、劇団桃唄309)を観ることができたが、中でも特に興味深かったbird's-eye viewについて以下、触れていくことにする。bird's-eye viewの『girl girl boy girl boy』(7月29日 ART COMPLEX 1928)は、かなりポップな空間が形成されていることが開場した劇場内へ足を踏み入れればすぐに了解できる。対面式の客席、演技フィールドとなる舞台真ん中には、4対のマネキン(男女2対ずつ)と、それらを囲むように天井からは格子状に編まれたビニールチューブが伸びている。加えて、グラデーション鮮やかに設定された青や緑といった暖色系の照明が既にある種の世界を形作っている。まずこの視覚的なスタイリッシュさがこの劇団の持ち味にしていることが伺える。作品内容も一言で言い表せばドライな明るさとでも言えるくらい、あくまでもスタイリッシュである。12の断章からなるオムニバス形式のこの舞台作品に貫かれているのは、舞台写真から当初予想していた抽象的なものとは大きく異なる<笑い>であった。しかし、表層的には全てただのショートコントの寄せ集めのように見えるが、そこに含まれている核は意外にも私達、若者が抱える人間の問題に加えて演劇的考察も可能にさせるほどに深いものを感じさせるのだ。テーマは分かり易いほどに明らかで、コミュニケーションの不在と集団創作という2つの問題を探ることができる。前者は人間の問題として、後者は演劇の問題としてである。プロローグは、外国人の「私達の住む世界はあまりにもありきたりすぎる」というナレーションによってこの舞台は始まる。テーマが明らかであるというのは、例えば2つ目の『ゴニョゴニョ』と題されたショートストーリーを例にすると、これは、近くで話す人間の声が全て「ゴニョゴニョ」という雑音にしか聞こえないが、ある程度の距離さえあれば正常に相手の話す言葉が理解できる、という不条理な設定の基、人間同士の会話のズレと困難さを描いた作品である。先述の、ただのコントのように思われるというのは、その会話のすれ違いが全て笑いに収斂して観客を楽しませるためなのだが、近づけば言語不明瞭になるという一点に注視すれば、個々に持っているパーソナルスペーをが侵されることの拒否を意味しているだろうし、そのことは結果として警戒心の強い人間性がうまく反映されている。このようにして、以下ショートストーリーはこういった変奏曲のようなものが続いていくのだが、見落としてはならない重要な3つのストーリーを挙げておかねばならない。すなわち、5つ目の『逆意味』と8つ目の『マイムマイム』、そして9つ目の『自分当て』の3つである。『逆意味』という作品は、好きな女子を体育館裏に呼び出して告白しようとする男子が、思ったことと正反対な言葉しか口にできない人間であっために事がうまく運ばないというもの。しかし話のオチは、その女子が同じく逆の言葉しか話せない別の男子の告白(好きじゃない)には素直に答えるというものである。ここでは、思った意志を声に出して発語するという言葉の意味性は問題ではなく、有効性を持つのは誰がしゃべったのかという点である。すなわちこの話で女子は、結局外見で相手を判断しただけであって、言われた言語を受け止め、さらに自分で反芻し、その結果断るにしても相手を傷つけまいとする誠意や人間関係を円滑に運ぶといった「大人の対応」が徒労でしかないという言語コミュニケーションの無意味製をドライな感覚で描き出している。『マイムマイム』は職員室へとやってきた新任教師がこれまた翻弄される話である。新任の体育教師と他の教師達は、電話を取ったりロッカーに荷物を入れたり、お茶を<普通>に飲めるのだが、社会科担当の新任教師だけはそれができない。なぜならば舞台はマネキンが取り除かれた後の素舞台であって、もちろん実際には職員室のドアも電話もロッカーもないのだから。現実的には素舞台という誰が見ても明らかに舞台には「何もない」ことは了解しているため社会科教師はお茶を飲むことも電話をすることもできない。だが、同じ条件でも他の人物はマイムをすることで演劇的に「本当の」物事に触れ、感じ取ることが出来る。つまり、各々の拠って立つ位相を相容れなく個別に信じ入るが為のすれ違いが生じているのだ。コミュニケーションの困難さと共に、果たして何が「リアル」と呼べるものなのかという先に触れた2つ目の演劇の問題が加味された話として一歩発展させられている。最後の『自分当て』とは、登場人物それぞれがキーワード(名刺)の書かれた帽子を被り、他者との会話から推測して自分のキーワードは何かを当てるゲームである。キーワードは「スイカ」「カブトムシ」「浴衣」といった夏に関連したもので、この作品部のみ本番当日まで「リアル」にテーマもキーワードも知らせていないようで、完全にアドリブで進行してく点は他とは異なった趣向をみせていた。楽しそうに遊ぶ俳優達のまさにナマの個性が遺憾なく発揮される所であり、なるほどこのゲームで主導権を取っていた俳優はその他でもボケ役として話の中心人物として機能している等、俳優としての力量が露呈される。『マイムマイム』は、社会科教師が現実世界を生きているにせよ、劇場にいて、衣装を着て、観客の多数の目に晒されているという作品設定上の非日常性は首肯した上で進んでいく。そういった約束事は虚構世界に生きる他の教師役にも当てはまる。しかし『自分当て』は舞台に立つという非日常性のとば口を前提にしつつも、前提のすれ違いがない所に、演劇の遊戯性が最も現れていた箇所として注目できるし、この劇団が集団創作という手法で作品を創造しており、ここにはその創作過程の一旦を垣間見ることができるという点で重要となっているのである。「私達の住む世界はあまりにもありきたりすぎる」とは彼ら自身の日々感じていることであり、遊びという演劇の根源的特性で以ってそのありきたりな日常に斜めの切り口を入れることで噴出する思わぬ不思議さや奇妙さを追求しているのだ。だから、作品がドライで明るいのである。舞台のラストは登場人物の一人が物質化してしまい、他のマネキンと共に持ち運ばれて終わる。コミュニケーションが成立しなくなった世界に生きる人間はあたかも記号や物と同義であるという意味である。良くも悪くも社会を駆動させるのは、無意識をも含めた原初的な人間の存在や、それがもたらす人間同士の関係性(それを最も濃密化して表現するのが演劇である)であるが、表層的な差異のみが情報として流通し、そこから善悪や区分といった記号のみが判断基準へと転換して久しい今日の気分というものを、この作品のようなドライで明るい作風はうまく反映させている。だだし、補足しておきたいのは、集団創作というやり方は、俳優同士の隠れた個性を発見し、その俳優自身に適応した台詞を見つけることができるという利点があるが、どこまでいっても基点は自分自身でしかない。年月が経てば経つほど、鮮度という名の集団創作の要が薄くなってくるとうことは言っておきたい。人間がこの作品の登場人物のようにロボット化してしまった時、バリエーションはおのずと限界を迎えることになるのだから。最後に演劇の東京一極集中化について。それは何も今に始まった事ではなく、60年代後半の小劇場演劇の勃興期とその隆盛は新宿という闘争の場と連動して胎動したのであり、80年代以降の所謂ポップな同時代的感性を反映した演劇も東京が発信地であった。その頃から劇団と劇場の数が飽和状態になって今に至っているのだが、その根源を求めれば、つかこうへいブームが起きた70年代中盤以降であることは周知の通りである。関西で言えば、遅れること数年、80年代に入ってからオレンジルームを中心にして小劇場ブームが起きた際、やはり影響を与えたのはつかこうへいであった。こうして現代演劇史を俯瞰してみても、いつもムーブメントは東京から地方へと広がってきたのである。大阪に住んでいる私の実感として「エンタメの大阪」、「芸術の京都」という印象が強くなっている。今回「TOKYO SCAPE」で6劇団が京都を選んだのが正解だと思われるのは、劇場の廃館と設立が目覚しい大阪よりも、京都の地が育んだ歴史に寄り添うように落ち着いて熟成されてきた「芸術」を感じ取ったことにあるからだ。まだまだ地方公演するには経済体力のないのが若手劇団の宿命だが、企画に乗って単に地方公演を敢行し、一過性に消費されて終わることだけは避けたいという意志が今回の京都公演には感じられた。パンフレットの文言は信じても良いだろう。
Aug 11, 2006
現在形の批評 #38(舞台)人気blogランキングへ・維新派 『ナツノトビラ』7月14日 梅田芸術劇場 ソワレ以下、劇評は『wonderland』にて掲載。創刊号目次・・・・・・◆ 創刊のことば「はじめの一歩、おわりの一歩」(北嶋孝・本誌編集長)◆ 第1回百万ウォン演劇祭(韓国) 各都市劇団が巡演する壮大な企画 来年からAlice Festivalと交流へ 西村博子(新宿Alice Festivalプロデューサー)◆維新派「ナツノトビラ」 自然への親和力喪う芸術作品に 果てしない世界を覗く無垢な感覚を 藤原央登(「現在形の批評」主宰)◆劇団・神馬「12人の怒れる学校へ行こう!」 ダルダル感いっぱいのファンタジー 不条理と情熱の高校異次元世界 青柳 舞(共立女子大大学院)
Aug 2, 2006
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