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私
:この本は、朝日新聞の年間企画「 歴史と向き合う
」の 後半部分
をまとめたものだね。 昨年の10月から今年の3月にかけて連載したものを1冊
にした。
本にするにあたって、書き下ろした部分もあるという。
この問題は左派、右派と分かれやすいが、多面的に取材をして、判断は読者にまかせるという姿勢
かね。
図書館から借りたよ。
私
:その本の出始めに 沖縄在住のある歴史家のことば
が載っているね。
「歴史家はこの沖縄では造園業や理髪店のように、日常的に人々から必要とされる職業です。
何故か分かりますか。
それは、歴史が決着せず、過去になりきらないからです」
同時に、本屋で 岩波新書のシリーズ日本近現代史の5巻目 である「 満州事変から日中戦争へ 」を購入したんだが、そのはじめをチラッと読んだら次のようなことが書いてあった。
吉田茂の子息で英仏の文学に精通していた文学者・吉田健一氏
は、 ヨーロッパ人と日本人の戦争観を比較
した。
そして次のように言っているという。
「宣戦布告が行われればいつ敵が自分の門前に現れるか解らない。
また、そのことを当然のこととして覚悟しなければならないということである。
同じく当然のこととして自分の国とその文明が亡びることもその覚悟のうちに含まれることになる」
A氏
: ヨーロッパ人の戦争と日本人の戦争は実体においても記憶においても違ったものではないか
ということだね。
考えてみれば 日中戦争から太平洋戦争の地上戦は、多くの日本人にとっては、あくまで故国から遠く離れた場所で起こる事件と認識されても不思議はない
だろうね。
私:
ところが、 同じ日本でも沖縄では「敵が自分の門前」に来たのだね。
ヨーロッパ人の戦争
のようにね。
日本本土は空爆や原爆であって、「 敵が自分の門前
」ということはなかった。
沖縄では地上戦もあり 島民の三分の一近くが犠牲
になったという。
60年が過ぎても遺族や子孫の歴史は心の中で片付かず、今も不用意に触れれば鮮血がほとばしる傷口として残っている
という。
この本は今年の4月刊行だから、この後、 教科書問題
が起きたのかね。
教科書問題
で傷口から鮮血がほとばしったのかね。
私
: 司馬遼太郎
は22才のとき 群馬の佐野の戦車隊
で戦争末期を迎える。
あるとき、上官に「 敵が九十九里浜に上陸し、これをわが戦車隊が迎え撃とうとして南下すると、非難してくる北上してくる民間人とぶつかる。どうしたらよいか?」
と聞いたら「 ひいていけ
」と言われたという。
本土決戦になっていたら、そういう 自国民との問題
は避けられなかっただろうね。
司馬遼太郎が国民を守る日本軍がなんでそういうことをするのかと疑問に思い、それが彼の小説のモチーフになったというね。
本土決戦となって「 門前に敵が来て
」日本人ははじめてアジア諸国や沖縄の人と戦争体験を共有できたのかね。
A氏
:沖縄は本土と違った歴史があるのと、戦後も アメリカ軍基地の存在
が本土に比較すると異常に多いからね。
「過去を克服した」と言われる
ドイツ
なんかはどうしたのかね。
私
:この本はドイツの例を詳しくあげているね。
日本と基本的に違うのは、最初、ドイツは「加害者」として周辺諸国に対応した
ことだね。
フランスとは「 過去の克服
」はうまくいったが、問題は ポーランドとの関係
だね。
実は、連合国の「 ポッダム協定
」で戦後、ポーランドの東の一部がソ連領になり、それにより トコロテン式に戦前にドイツ領の西の一部がポーランドの領土
になった。
このため、 その地にいたドイツ人が本国に移住する途中で、そのドイツ人への憎悪をむき出しにしたポーランド人やソ連兵による暴行と略奪が横行
した。
死亡したドイツ民間人は200万人と言われる。
ドイツにたどり着いたのは約1200万人で当時の国民の五分の一にあたる。
A氏 :ドイツには「 加害者 」だけでなく、国民の「 被害者 」の部分が大きくあったわけだ。
私
:戦後、60年、 ドイツでは「加害者」だけでなく「被害者」としてのドイツを見直す考えが出てきた。
旧ドイツ領から追放された22人がポーランド政府に対して ポーランド領内にある土地の返還を求めて欧州人権裁判所に提訴
したという。
ドイツでもまだ、「 過去の克服
」は十分でないんだね。
政治的にはドイツはポーランドのEU加盟の支援をするなどしているがね。
まぁ、「 加害者
」と「 被害者
」をセットにするのでなく、別々に対応しないと「 過去の克服
」は難しいようだね。
明日は「 愛国心 」を含めて考えよう。
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