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私
: 1937年12月2日
、日本軍が 南京
に迫ろうとしているとき、 蒋介石
は日本の和平条件を基礎として 交渉に入る用意
があると トラウトマン大使
に伝えてきた
。
これに対して、陸軍が南京に成功裡に進行しているので 広田
は、 蒋介石に提示した和平条件を厳しくつり上げ出す。
A氏 :南京陥落の前に 世論 はわきあがるね。
私
: 1937年12月13日
、 南京は陥落
する。
東京
では 市民40万人もの行進
がはじまる。
戦勝気分
に酔いしれた国民の多くは、これで蒋介石との戦いは終わったと 錯覚
したろうね。
A氏 :しかし、これは、 日中戦争の泥沼化、太平洋戦争突入 、そして 大量の死者 、 原爆投下 という 敗戦への道とつながる序曲 だったんだね。
私
: 南京陥落
に気を強くして、 広田は蒋介石との交渉条件を厳しくする。
蒋介石の回答
が遅れているうちに、 世論の高揚を背景
に、 1937年12月24日
に、近衛内閣は、南京政府との交渉に期待せず、 華北に傀儡政権を成立
させる方向に転換し出す。
その頃、 南京事件
の情報が 外務省
に入った。
これを何故か、 広田外相は閣議に提起しなかった。
これが後に 東京裁判で問題
なる。
広田の死刑判決の一因
とも言われているね。
A氏 : 蒋介石の回答 が遅れているうちに、ついに、 日本側はトラウトマン工作を打ち切る。
私
:それは 1938年の1月16日
で、同時に、「 今後、国民政府を対手とせず
」という有名な「 近衛声明
」となる。
ここで注意すべきは、「『 相手
』とせず」は「 対手
」となっていることだね。
これはあいまいな 官僚用語
だったが、後で内閣は、「 相手
」もよりも 否定の意味が強いと説明
を付け加える。
A氏 :このような強気は、 南京陥落 のせいかね。
私
:この本ではそういう説明だね。
しかし、「 満州事変から日中戦争へ
」 1
、 2
では、 違った見方
をしているね。
あまり、 トラウトマン工作
に日本がこだわると、 海外から日本は弱腰
だと思われ、 対外為替相場と公債消化率に悪影響
を及ぼすという見方
だね。
戦争継続に欠かせない 海外からの経済的補給の安定が必要
だったという。
養老氏・竹村氏
のいう、 歴史を下部構造から上部構造を見る見方
だね。
スパイ・ ゾルゲ
も 日中戦争
を通じて、 日本には近代的な戦力が強化
されてきたことに気づいていたという。
今の 北朝鮮
のように、国民は苦しんでも 軍備には莫大なカネ
をかけていたんだね。
A氏
: 1938年6月
には 駐日中国大使館員が全て引き揚げ、日中間は断絶
する。
近衛は「 対手とせず
」の脅かしが失敗だったことを知る。
そして戦争も 泥沼化
し出す。
私
: 1938年5月
に近衛に勇退を迫られ、 広田はあっさりと外相を辞任
する。
後任の外相
となる 宇垣一成
は、 広田
を「 無為無策
」と 酷評
する。
後に 政治学者 猪木政道
はその著書で
「 ドイツに条件を示して和平のあっせんを頼みながら、南京占領後、真っ先に条件のつりあげをするなど
、 無定見、無責任
である。
城山三郎
の『 落日燃ゆ
』は広田のよい点が強調されているが、 1936年
のはじめころから、 広田は決断力を失っていたのではないかと思う
」
と述べているという。
これは後の話だが、 1986年 ( 昭和61年 )に 昭和天皇 は「 猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ 」と 宮内庁 を介して 当時の中曽根首相 に伝えていたという。
A氏
: 東京裁判
での 広田に死刑判決
は、 11人の判事で6対5の僅差
だった。
他の死刑判決
は 7対4
であるのと比較すると、すれすれだね。
私 : 南京事件 を知りながら、閣議に出さなかったというのが、特に判事の心証を害したのではないかという。
ところで、話は現時点にもどるが、 麻生首相 が決まったとき、 中曽根 さんが「 首相になることは、後世の歴史にさらされることになることだ 」と言っていたが、 首相広田弘毅 もそうだし、 外相 としても「 後世の歴史にさらされた 」ことになったね。
A氏 : 東京裁判 があったからね。
私
:昨日は、 株価が8千円台に暴落
。
麻生さんも、 アメリカの金融危機
で多事多難のときの首相だが、どうなるかね。
この本を読みながら、 広田弘毅
を連想したね。
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