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私 : 朝日新聞 は、 政治家が記者会見や国会答弁でまともに答えない し、 官僚も木で鼻をくくった答弁を繰り返すという状態 で、 英米流の「アカウンタビリティー(説明責任)」はムラ社会の日本には根付かないのか と疑問をもって3氏に意見を聞いている。
井上達夫教授 は、「 アカウンタビリティー」は「説明責任」と訳される が、 教授 は「 答責性」と言っており、ただ説明すればいいというのではなくて、きちんと説明しないと責任を問われて首が飛ぶという緊張感ある概念 で、 政治家の場合は選挙で落とされ、官僚の場合は解任されたり左遷されたりするというものだ という。
A 氏 : 小田嶋隆 氏は、 日本社会 では、「 アカウンタビリティー」はメディア側では首を要求する言葉 になり、 責められる側では誰の首を差し出せば決着するのかを考える言葉になっているような気がする という。
しかし、 「アカウンタビリティー」を「説明できる状態での業務遂行を推奨する概念」と表現するべきだ と思うと 小田嶋 氏はいう。
仕事に対する姿勢 だね。
少なくとも、自信を持って説明できる状態で自分の職務に取り組む ということで、 米英的な民主的で明快な組織運営の中で、個人が緊張感を持って組織と対抗していくなかで出てくる発想 だと指摘し、 日本人一人ひとりが、個人の権益と権限、あるいは人権と責任を集団に預けず、自分で引き受ける覚悟 だという。
私 : 片山善博教授は、官僚経験 から、 いま、お役所が「説明責任」をないがしろにするようになっていると指摘 し、 かつては「説明責任」に強いこだわりがあり、非常にかたくなだとか、前例踏襲だとの批判も受け、詭弁を弄したこともあった が、それでも「 前例がある」と言えば、かなり「説明責任」を果たしたことになった という。
ところが、 最近の国会審議では、官僚が「資料がありません」「でも、ちゃんとやっています」という意味の答弁をしているが、そんなことを堂々と言うようになったのは初めてだ と官僚や行政経験のある 片山教授 はいう。
片山教授 は、「 私が大臣ならば『待て、そんな話じゃ済まない』と説諭して部下にあんな答弁は絶対させません。しかし、現政権はむしろ「説明責任」を放棄した官僚答弁を歓迎している節があります。表面上は官僚の堕落ですが、この政権の下だからこういう事態が起こっているのではないでしょうか 」という。
A 氏 : 井上教授 は、 政治の場で、最も重要な「アカウンタビリティー」は民主的な熟議の実行、政策形成の時に、なぜこの政策が必要なのかをきちんと説明して決めていくことなのに 、 安倍政権はそこがものすごくいい加減になっていると指摘 し、 そういう一強政権を選んだのは、最終的に選挙民の責任だ と いう。
私 : 片山教授 は、 人事権を内閣が握っている以上、役人だけで今の事態を変えるのは難しく、制度設計を見直す必要がある という。
もともと役人の人事権は大臣にあり、ただ、実力のない大臣が多かったため、 次第に官僚主導、先輩、OB主導の人事になり、これを修正するため、現場をよく知らない官邸の「政治主導」になった。
しかし、 片山教授 は、 大臣として力量がある人材を養成して、その大臣が力を発揮して人事権を行使できるようにするのが本来の「政治主導」だ という。
片山教授 は、「 大臣の任命に当たって国会の同意を得るようにしてもいいと思います。与党が多数だから通るとしても、少なくともオープンな場で人となりを審査する。専門的知見も問われるので任命にあたって慎重にならざるを得ません 」という。
A 氏 : 安倍政権の最近の大臣の失言の多さ に その弊害が事実として出ている ね。
民主主義と基本的人権の価値を共有する国として、「アカウンタビリティー」と「情報公開」は標準装備品で、言葉だけでなく、中身を充実させていかねばならない と 片山教授 はいう。
私 : 官僚が重要な問題の説明 に「 書類がありません」「記憶にありません 」と平気でいうのは、 その官僚が、人権と責任を集団に預けず、自分で引き受ける覚悟で、プライドを持って仕事をしていない のを 自白している ようなものだね。
一人の近代的な人間としての仕事に対する姿勢 の問題でもあるね。