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私 : 秀吉の 朝鮮出兵の目的 はよくわかっておらず、 従来は「秀吉の誇大妄想の結果」「家臣に恩賞として与える土地が不足していたため」などと考えられてきた。
これに対し、 宮城学院女子大学の平川新学長(日本近世史)が、4月に刊行した著書「戦国日本と大航海時代」 で、 秀吉は当時、世界の覇者となったスペイン・ポルトガルのアジア支配に対抗するために出兵したとする学説 が発表された。
A 氏: スペイン・ポルトガル 両国 は 1494年、世界を分割支配することで合意した「トルデシリャス条約」を結び、 領土拡大 に向けて動き始める。
ポルトガルはインドのカリカットやゴアに拠点を建設 し、 マレー半島のマラッカを攻撃して勢力下 におき、 一方、スペインは艦隊をフィリピンのセブ島に派遣し、マニラを占領 。
私 : やがてスペイン・ポルトガルの両勢力は日本に目をつける。
1549年にはポルトガル系の宣教組織であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。
80年代にはスペイン系のフランシスコ会士も来日し、カトリックの布教が盛んに行われた 。
しかし、 そんな宣教師の多くが「征服のための先兵」だった とみる研究者は多く、 イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョはフィリピン布教長にあてた85年の手紙 で 「早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船(軍船)を派遣してほしい。キリスト徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである」 と書いた。
平川 氏は「 コエリョは大名を改宗させ、その武力で中国・明を征服しようとしていた 」といい、 「宣教師らは、キリシタン大名は彼らの指示に忠実に従うとみていた。だから日本支配についても楽観していたようです」 という。
A 氏 : この イエズス会の野心 を、 秀吉も警戒 していたようで、 キリスト教徒の 国外退去 を命じた87年のバテレン追放令 は、 宣教師の軍事力や信徒への影響力の排除が目的 と 平川 氏はみる。
この一連の流れの中で始まったのが朝鮮出兵。
92年5月 、 朝鮮・漢城の陥落を肥前名護屋城で聞いた秀吉 は、その後の予定として、 明の征服後はおいの秀次を征服地域の関白 とし、 自らは東シナ海交易の拠点だった寧波に居住 して、 天竺をも切り取ると、手紙で秀次らに書き送っている。
前後して、 琉球と高山国(台湾)にも服属を要求 し、 中でもスペインのフィリピン総督には複数の書簡を送り、「旗を倒して予に服従すべき時なり」「多数の武将がマニラ占領を予に求めている」と恫喝。
平川 氏は 「秀吉の目的は、単なる朝鮮侵略ではなく、その先の唐・天竺・南蛮(東南アジア)を服属させることにあった」と推測 し、 「フィリピン総督への書簡で秀吉は『カトリックの布教は、その国を侵略する策略である』と糾弾した。布教を隠れみのに征服を狙うスペイン・ポルトガル勢力を、逆に服従させようとしていた」 という。
私 :実際、 こうした秀吉の強硬外交や軍事行動 は、脅威に映った ようで、 マニラが秀吉の攻撃目標になったと恐れ、総督の使者が「大きな城壁を備えておくことが重要」と、マニラの監査官に書き送った手紙が残る。
秀吉以前、スペイン・ポルトガルでは日本征服論が盛んだったが、朝鮮出兵以降、そうした意見は鳴りを潜める。
平川 氏は 「他国への侵略行為 を肯定するつもりは毛頭ないが、出兵が結果的にスペイン 外交に方針転換を促した可能性はある」 という。
時代劇では晩年、老いさらばえ、判断ミスなどが頻発したように描かれる秀吉だが、それをはっきり裏付ける一次史料は存在せず、平川説は、当時の世界情勢という視点から、秀吉外交に再考を迫った新説 と言える。
なお、 宣教師が本国とやりとりした史料 には、 徳川家康は「Rey(国王)」ではなく、「Emperador(皇帝)」、日本は「Imperio(帝国)」 と記されていて、 当時、欧州で皇帝を称したのは神聖ローマ帝国の統治者のみ で、 英国もフランス も一格下の王国に過ぎず、一方、家康は神聖ローマ皇帝と同格 で、 各地の大名が国王格(たとえば伊達政宗 は「奥州の王」) だった。
当時の世界の動きの視点から見た新しい日本史
だね。