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「それでどうです、上野へ虎の鳴き声を聞きに行くのは」「虎かい」「ええ。聞きに行きましょう。実は二、三日中にちょっと帰国しなければならない事ができましたから、当分どこへもお供はできませんから、今日はぜひいっしょに散歩をしようと思って来たんです」【上記の感想】上記は、『吾輩は猫である』の一節。『吾輩は猫である』が書かれたのは1905年のことだが、当時、既に上野動物園が開園していたことがわかる。そして、当時は虎に人気があったのかも。また、上野界隈では、動物園内でなくても、虎の鳴き声を聞くことができたようである。今と違って、東京も静かであったのだろう。思い出せば、私の小学生時代には、パンダが初めて日本の上野動物園で飼育されることになり、大変なブームだったのを思い出す。『吾輩は猫である』を読了。高校生時代に途中まで読んで投げ出した本であったが、今回は無理して読んだ。(笑)タイトルは面白く、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」との有名な書き出しから数ページは面白く読める。が、読み進めるうちに、ストーリーの展開が弱さがわかるようになる。そして、ダラダラと長い。というのが、率直な感想。
2009/03/02
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ボケは日本の山野に自生しています。草ボケとかシドミとかナベワリとか言われていました。中国系のボケも古くから日本で育てられていました。日本系は草ボケと言われますように、親木から子木、孫木と地下でつながって竹のように生育する性質があり、親木は古くなると枯れてしまいます。花の咲く時期は中国系から比べれば早咲き、四季咲きのものが多く存在します。(日本系の中でも幹が細く樹高も低い性質のものと、幹の太さも樹高も高くなる品種とで分けられます)江戸時代に小石川養生所にボケが植えられて漢方薬として使われていた事がわかっています。一般町民に植物を楽しむ時代が起き、いろんな植物がブームになりました。ボケもその一つで明治の後半に交配育種され、数多くの品種が大正時代に入ってから埼玉の安行と新津の小合で、印刷物として紹介されています。(ボケ図鑑より)【上記の感想】木瓜という植物があるが、名前を聞いたことはあるが、詳しくは知らない。漱石は木瓜が好きだったようで、自ら木瓜のように生きたいとの俳句を作っている。そんなことがあり、先頃ホームセンターに行った時に、木瓜を少々眺めてみた。木瓜と一口に言っても種類が豊富なようだ。ホームセンターにも10種類位はあったように思う。が、大きく分ければ3種類か。すなわち、祝錦、長寿楽、放春花。祝錦は、花に奥行きがある。長寿楽は、花がこみいっている感じ。放春花は、上品な小さな花に特色がある。と、珍しく、自分なりの木瓜評を書いてみた。
2009/02/19
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彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。(『吾輩は猫である』より)【上記の感想】漱石の『吾輩は猫である』を読み始めた。高校生時代に読もうとしたが、数ページ読んで中止にした記憶がある。さて、上記の一節である。「彼」は漱石と共通点の多い人物なので、漱石も「彼」と同様に、タカジヤスターゼを飲んでいたと想像する。このタカジヤスターゼというのは胃薬だが、かつて、この胃薬を発明した高峰譲吉(1854~1922年)に関する本を読んだことがある。その時の日記は、こちら。もう3年5ヶ月前の日記になる。計算すると、高峰譲吉は漱石よりも13歳年長になる。『吾輩は猫である』が発表されたのは1905年だが、当時は既にタカジヤスターゼが販売されていたようである。
2009/02/17
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広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加わって斃れたため、当時の人から偶像視されて、とうとう軍神とまで崇められた。けれども、四、五年後の今日に至って見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆どいなくなってしまった。英雄の流行廃はこれほど急激なものである。(『それから』ワイド版岩波文庫216頁)【上記の感想】上記は、漱石の『それから』より引用。日露戦争で戦死した広瀬中佐について書かれた箇所である。1909年に『それから』は著わされたが、当時広瀬中佐は既に人々から忘れ去られていたように思われる。その後軍神として復活するわけだが、それはいつのことか。と思い、唱歌『広瀬中佐』が発表された時期を調査してみた。すると、1912年にその唱歌が発表されていた。この頃から復活したのだろうか。深入りはせずに、想像の範囲内に収めておく。なお、こちらで、唱歌『広瀬中佐』を聴くことができます。
2009/02/12
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現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、たちまち切れぎれになって仕舞った。文明は我らをして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。(『それから』より)【上記の感想】上記は、漱石の『それから』より引用。100年前の中流家庭も、現代の家庭と似たようなものだったのか。
2009/02/11
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定職を持たないで遊んでいる者。日露戦争後、国家体制が整備されるにつれて、「立身出世」の野心が実現する余地がなくなったので、高等教育を受けても職業に就かない「煩悶青年」が急増した。明治44年には「高等遊民」問題として社会問題にもなっている。(岩波書店の『それから』より)【上記の感想】漱石の『それから』を読んでいるが、高等遊民について少々書いておきたくなった。上記は、高等遊民の註釈である。高等遊民について書いた過去日記は、こちら。高等遊民の場合は、生活費を稼がなくとも生活できるので、ある意味恵まれていると言える。生活できるから遊んでいると言ってしまえば、身も蓋もない。高等遊民が多数発生し問題化したのにも、理由がある。それが上記である。日露戦争後の不景気や国家体制の整備の進行により、国家の仕事に就くことが困難な時期に、高等遊民が発生したようである。要するに、世の中の変化の時期であったわけだ。
2009/02/09
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日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は、内閣直属の馬政局を設置して馬匹改良に着手した。馬政局は、優れた種馬を選抜育成して質の高い馬を多数生産するとともに、馬の育成・馴致・飼養技術を高めた。さらに、国内における官民の馬産事業を振興するためには、競馬を行って優勝劣敗の原則を馬産に導入すると共に、馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させる必要があるとして、馬券の発売を前提とした競馬の開催を内閣に提言した。賭博行為は違法であったが、競馬は軍馬育成の国策に適うとして、桂太郎内閣は馬券の発売を黙許するとの方針を1905年(明治38年)に通達し、これにより馬券発売を伴う競馬の開催が可能となった。(ウィキペディアより)【上記の感想】上記は、1905年の日本の競馬について書かれた箇所。今、漱石の『三四郎』を読んでいる。その中に馬券を買う場面が出てきたので、調べてみた次第。日本の競馬史は結構複雑である。現在でも中央競馬と地方競馬が並存していることからも、何となく簡単ではないことが想像できよう。漱石の『三四郎』が書かれたのは1908年である。小説に登場するようになったということは、ある程度の経済的時間的余裕がある者は、競馬を楽しんでいたものと思われる。
2009/02/09
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もう20年ほど前の話になりますが、中国を列車で旅行したとき、タバコは勿論ですが、ひまわりの種、紙くずなど全てのゴミを床に捨ててました(ビール瓶だけは窓から捨てる)。当然1時間もすれば床はゴミでいっぱいになります。すると車掌さんが前から箒でゴミを集めてきて、後ろのドアから車外にゴミを捨てていました。勿論走っている列車のドアからですよ。恐るべしポイ捨て天国中国!(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】上記は中国の話である。では、日本の場合はというと・・・漱石の『三四郎』を読んでいる。最初の方に、面白い箇所があった。三四郎が、汽車の窓から「空になった弁当の折」を放り捨てる場面があり。今の日本の常識ではとんでもない行為だが、100年前の日本では普通の行為だったようなのだ。4頁目に出てくるので、興味のある方は、確認されるとよろしいかと。
2009/02/03
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明治に入って、弥富において、突然変異から羽根の白い文鳥が生まれた。これを改良し、固定したのが白文鳥であり、白文鳥と並文鳥を掛け合わせて作り出したのが桜文鳥である。白文鳥は桜文鳥に対して優性とされているが、桜文鳥同士の交配から白文鳥が生まれることもあり、羽色の遺伝についてははっきりしない点が多い。日本産の白文鳥は劣勢の致死遺伝子を持つため、白文鳥同士の交配では卵がうまく育たず、安定的な産出が難しいことが今後の課題となっている。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】漱石の『文鳥』を読了。この作物が書かれたのは、漱石が41歳の時である。その頃文鳥を飼っていたようだが、その文鳥というのが、どうやら白文鳥という種類らしい。よって、その辺のことを調べてみた。時間的・経済的余裕がなければ、ペットを飼うことはあるまい。余には、日本のペット史まで深入りする気はないが、、小鳥を飼うのは、明治時代には珍しかったのかも。『文鳥』は1908年、今から100年ほど前の作物である。
2009/02/02
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佐倉市周辺では、かつて、「佐倉炭」というクヌギを用いた黒炭生産が行われ、大阪府池田市周辺で生産されている「池田炭」とともにお茶用の炭として欠かせないものとされていました。現在ではほとんど生産されなくなり、茨城県鉾田町や栃木県の一部の地域で「佐倉炭」の名で生産されています。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】漱石の『文鳥』を読んでいる。この中に佐倉炭が出てきたので、調べてみた。余は千葉県に住んでいるが、佐倉という地名がある。数年前に市町村の合併が流行ったので、今ではなくなってしまったかもしれないが、変わっていなければ、佐倉市があるはずである。どうやら、佐倉炭というのは、佐倉が炭の出荷地だったため、そういう名前のブランドとして売りに出したようである。炭にも〇〇炭というブランドがあるようだが、炭を使うことはないので、炭の良し悪しはさっぱりわからず。
2009/02/02
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英王室の守護神とされるロンドン塔のワタリガラス6羽が、欧州各地で確認されている鳥インフルエンザ感染を防ぐため、屋内で飼われることになったそうです。ロンドン塔のカラス飼育担当が2月21日、発表しました。ワタリガラスが塔で飼育されるようになったのは、17世紀から。伝説によれば、当時の国王チャールズ2世(在位1660─85)が、ワタリガラスがいなくなれば塔は倒れ、王国も崩壊するとのお告げを受けたという。それ以来、専門の飼育係を設置し、英王室とロンドンの守り神として、大切に飼われているのです。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】漱石の『倫敦塔』を読了。この中に、ロンドン塔にはカラスがいることが書かれている。漱石の『倫敦塔』はおよそ100年前の作物だが、当時のカラスは5羽だったと書かれている。それに対して、上記では6羽。どこかに勘違いがあるのか、それとも飼っている数が増えたのか、それはわからない。
2009/02/02
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イギリス、ロンドンの観光名所「ロンドン塔」。そこに勤める衛兵を「ビーフィーター」と呼びます。「ビーフィーター」とは「ヨーマン・ウォーダー」の通称で、ロンドン塔の儀式的な衛兵として知られています。かつてはロンドン塔に収監された囚人たち(反逆を企てたとされる貴族)の監視や世話、及び国王及び王家の財産を守護することでしたが、現在ではロンドン塔の観光ガイドと儀式参列が主な職務内容になっています。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】漱石の『倫敦塔』を読んでいる。その中に、「ビーフ・イーター」が出てきたので調べてみた。倫敦塔には、次のように書かれているので、興味をもった次第。「ビーフ・イーターというと始終牛でも食っている人のように思われるがそんなものではない。彼は倫敦塔の番人である。絹帽を潰したような帽子を被って美術学校の生徒のような服を纏うている。」漱石はビーフ・イーターと書いたが、現在は、「ビーフィーター」と言っているようだ。
2009/01/31
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1066年にイングランドを征服したウィリアム1世が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、本体は約20年で完成した。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成した。長い歴史の間に国王が居住する宮殿としても使われ、身分の高い政治犯を幽閉、処刑する監獄としても使用された。エリザベス1世は即位前に一時メアリー1世によってここに収監されたことがある。最後にロンドン塔に収監されたのは第二次世界大戦中、イギリスに飛来して逮捕されたナチス・ドイツの高官ルドルフ・ヘスである。また、ロンドン塔に最後に居住した王はジェームズ1世とされる。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『倫敦塔』を読んでいる。上記は、ロンドン塔の沿革である。ロンドン塔を知らないため、調べてみた。知らないと、東京タワーのような鋭角的なタワーをイメージしてしまう。写真を見ると、どう見ても、「塔」という感じではないですな。それから、ロンドン塔は、かつて監獄として使われ、処刑が行われていた時期があったとのこと。今でこそ観光スポットとして、そこそこの人気があるようだが、暗い歴史があったことは知っておいたほうが、良さそうだ。
2009/01/31
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ドイツ人の父を持ちロシアに生まれる。幼いころよりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーに師事し1872年に卒業。1893年(明治26年)から1914年(大正3年)まで21年間東大に在職し、ギリシア哲学などを教えた。美学美術史も、彼が初めて講義したものである。「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛され、夏目漱石も講義を受けている。その他、教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、九鬼周造らがいる。(ウィキペディアより)【上記の感想】夏目漱石の『ケーベル先生』を読了。ウィキペディアのケーベルの項には、次のような書き出しになっている。「ラファエル・フォン・ケーベル(1848年1月15日 ニジニ・ノヴゴロド - 1923年6月14日 横浜市)は、東京大学で哲学を講じたドイツ系ロシア人である。」1848年生まれなので、漱石よりも19歳程年長になるようだ。
2009/01/31
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-----まず、「思い出す事など」より引用です-----(引用開始)ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕(あさゆう)を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃(ころ)は二階の廂(ひさし)から六尺に余るほどの長い葭簀(よしず)を日除(ひよけ)に差し出して、熱(ほて)りの強い縁側(えんがわ)を幾分(いくぶん)か暗くしてあった。その縁側に是公(ぜこう)から貰った楓(かえで)の盆栽(ぼんさい)と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌(しの)ぎ暑さも紛(まぎ)らしていた。向(むこう)に見える高い宿屋の物干(ものほし)に真裸(まっぱだか)の男が二人出て、日盛(ひざかり)を事ともせず、欄干(らんかん)の上を危(あぶ)なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向(あおむけ)に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞(たくま)しい体格になって見たいと羨(うらや)んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥(ふたしか)な点において、夢と同じくはかない過去である。(引用終了)【上記の感想】上記は、漱石の『思い出す事など』の冒頭。『思い出す事など』は、漱石43歳時の作物である。著わす直前の8月下旬に、療養先の修善寺にて危篤状態になった。体力が回復した後、当時を振り返りながら書かれたという。
2009/01/28
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硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実(み)の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来(こ)ない。書斎にいる私の眼界は極(きわ)めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。 その上私は去年の暮から風邪(かぜ)を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐(すわ)っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。(『硝子戸の中』より)【上記の感想】漱石の『硝子戸の中』を読了。上記は、その冒頭である。『硝子戸の中』は1915年の作物である。当時の余暇の過ごし方が、今とはまるで違うのに惹かれた。家庭にはテレビはもちろん音響機器もない。娯楽と言えば、寄席に行くこととか、講談を聞くこととかだったようだ。今のように刺激的な娯楽が多いと、話を聴いて何が面白いのかと思う(^。^ゞ漱石の作物を通して、もう少し100年前の世界に触れてみよう。
2009/01/27
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はがきを「端書」と書くのは言葉の語源から来た表記方法で、文字通り、覚え書き・メモ等を端書きしたためである。端書はまた、葉書とも羽書とも記し、郵便制度の成立後は「葉書」という表記が一般になった。そのため、葉書といえば一般的に「郵便はがき」のことを指すが、「葉書」は当て字であり、「端」の代わりに「葉」を使う理由については、「タラヨウ(多羅葉)」の木から「葉書」の「葉」が来た、など諸説あり、確かなことは分かっていない。日本における郵便はがき(郵便葉書)は、郵便物の形態の一つで、1873年より導入され、1900年になってその私製が認可された。(ウィキペディアより)【上記の感想】夏目漱石の『硝子戸の中』を読んでいる。その中に、端書が出てきたので調べてみた。端書とは、葉書のことである。上記のとおり、はがきは「端書」と書くのが語源的には正しいようだ。また、漱石の時代の端書の料金は、1銭5厘だったようだ。しばらくは漱石の作物を読み続けそうなので、端書の料金を記憶しておこう。
2009/01/26
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『門』(もん)は、夏目漱石の長編小説。1910年に「朝日新聞」に連載。翌年1月に春陽堂より刊行。『三四郎』『それから』に続く、前期三部作最後の作品。親友であった安井を裏切って、その妻である御米と結婚した宗助が、罪悪感から救いを求める様を描く。(ウィキペディアより)【上記の感想】夏目漱石の『門』を読了。次は、『硝子戸の中』を読もうと思う。
2009/01/24
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『門』(もん)は、夏目漱石の長編小説。1910年に「朝日新聞」に連載。翌年1月に春陽堂より刊行。『三四郎』『それから』に続く、前期三部作最後の作品。親友であった安井を裏切って、その妻である御米と結婚した宗助が、罪悪感から救いを求める様を描く。(ウィキペディアより)【上記の感想】夏目漱石の『門』を読了。次は、『硝子戸の中』を読もうと思う。
2009/01/24
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日本では江戸時代に長崎から持ち込まれたインフルエンザウイルスが幾度か全国的に流行し、「お七かぜ」「谷風」「琉球風」「お駒風」など当時の世相を反映した名称で呼ばれた。古くから風邪、風疫とされるとおり、悪い風が吹いて人々を病気にするという認識があった。幕末にはインフルエンザの名称が蘭学者より持ち込まれ、流行性感冒と訳された。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『門』を読んでいる最中である。この中に、インフルエンザが出てきたので調べてみた。なぜかというと、インフルエンザという言葉は新しい言葉で、『門』が書かれた1910年には存在しない言葉だと思っていたから。上記によれば、インフルエンザという言葉が日本に持ち込まれた時期は、幕末とのこと。過去日記でインフルエンザについて書いたのがあったので、メモしておく。2005年11月13日の日記と2007年11月18日の日記。
2009/01/24
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新年の頭をこしらえようという気になって、宗助は久しぶりに髪結床の敷居をまたいだ。暮れのせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏の音がニ、三か所で、同時にちょきちょきなった。(漱石の『門』より)【上記の感想】漱石の『門』を読んでいる。その中に、「髪結床」という言葉が出てきたので、調べてみた。一言でいえば、髪結床は床屋のことであるが、これ位は調べる前から分っていた。何を調べたかったのかというと、床屋の語源である。しかし、調べていると、「放送禁止用語」に興味が移ってしまった。放送禁止用語というのは実に多岐にわたっており、この規制(自主規制?)を遵守する現場は大変だなと思わずにはいられず。放送禁止用語の例を挙げると、「床屋」は駄目で、その理由は、「江戸時代、売春を副業としていた店があったという俗説があるため、以前はほぼ全面的に禁止となっていたが、現在は概ね慎重に扱うべき言葉となっており、内容によってはそのまま放送されることも多い」と、あるサイトには書かれていた。「理容師」や「理髪師」や 「理容業」や 「理髪店」はOK。「いちゃもん」は駄目で、「いいがかり」はOK。「坑夫」は駄目で、「鉱山労働者」や 「鉱員」はOK。などですが、拙ブログでは、けっこう放送禁止用語を使っています(^_^;)この日記とか、こちらの日記に。
2009/01/23
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資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸と歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢を思い浮かべた。 (漱石の『門』角川文庫96頁)【上記の感想】資生堂は歴史のある会社である。ウエブサイトによると、1872年創業とのこと。漱石の『門』が書かれたのは1910年だが、当時の資生堂の石鹸や歯磨は贅沢品だったように思われる。資生堂で歯磨を製造していたとは知らず。同社のウエブサイトを見ると、煉歯磨を日本で最初に発売したのは、資生堂とのこと。以下に、引用しておく。(引用開始)資生堂は明治21(1888)年、日本初の煉歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売した。歯磨石鹸は歯磨を固形石鹸状に煉り固めたもので、石鹸分を多く含んでいて硬いため、湿らせた歯ブラシで表面を擦り取って使った。それまで日本では粉歯磨しかなく、石灰岩の粉末に香料を入れたものだったため、歯を磨くことはかえって歯を傷めることにもなった。それに引換え歯磨石鹸は滑らかで、歯石を科学的に溶解するうえ、使用感も良好だったため評判になった。粉歯磨が1袋2~3銭の時代に、歯磨石鹸は陶器の容器に入って、25銭とたいへん高価な品物だったが、売れ行きは上々であった。(引用終了)
2009/01/21
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伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『門』を読んでいる。その中に伊藤博文暗殺のことが書かれていたので、調べてみた。伊藤博文の暗殺は、1909年10月。門が朝日新聞に連載されたのは、1910年3~6月。なるほど、時代背景として、一致するわけだ。
2009/01/16
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当時の人力は車が木製で外側を鉄で囲んだもので、凸凹の砂利道、坂道(当時は急勾配が多かった)を引いて走るのには相当の体力が必要でした。やがて車も硬質のゴムのものが造られました高価でしたので新旧両方の車を置いていた様です。お客が「今日は遠出するので木ではなく、ゴムの方で行ってくれ」と注文したそうです。タイヤが出来で空気の入ったハイカラな金属製の乗り心地の良い人力車は明治も過ぎたころでした。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】漱石の『門』(角川文庫)の9ページに、「ゴム車」という言葉か出てくる。註釈によると、「当時改良されていた鉄製ゴム輪の人力車。以前は木製鉄輪であった」と。いまの自転車を見ると、車輪はゴムと軽いアルミの合金で作られているものと思う。かつての人力車の時代は、車夫もお客も相当な体力が必要だったようだ。なお、『門』が書かれたのは1910年。およそ100年前である。
2009/01/16
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紙入れ(かみいれ)は、落語の一席。いわゆる『艶笑落語(バレ噺)』であり、原話は安永三年の『豆談義』に収録されている「かみいれ」。江戸落語では艶笑落語らしい間抜け落ちで終わるが、上方ではその後に短いどんでん返しがあり、恐怖の結末となっている。得意にしているのは10代目鈴々舎馬風。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『門』を読んでいる。この本に限らず、漱石の小説には時々「紙入れ」が出てくる。お札を入れる財布と思われるが、これをネットで調べてみた。すると、全く別の落語の一席に「紙入れ」があることを発見。落語は不案内だが、動画サイトでちょっと見てみたところ、なかなか面白いものだなと思った。落語家というのは、当然ながら話し方が上手いし、表情やしぐさが良く練られている。
2009/01/16
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漱石の『坑夫』を読了。『坑夫』は1908年1月1日から4月6日まで「朝日新聞」に連載されたが、ちょっとしたエピソードがあった。それは、当初は島崎藤村の『春』が連載される予定だったが、執筆がはかどらない藤村の希望により、急遽、漱石が穴埋め的に『坑夫』を書くことになったとのこと。藤村の『春』は、その後、1908年4月7日から8月19日まで「東京朝日新聞」に連載された。
2009/01/15
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足尾暴動事件(あしおぼうどうじけん)は、1907年2月4日から2月7日まで、足尾銅山の坑夫らが、鉱山施設などを破壊、放火した事件。足尾銅山暴動事件、あしおどうざんぼうどうじけん、とも。(ウィキペディアより)【上記の感想】一言すれば、足尾暴動事件は上記のとおり。ウィキペディアのよれば、事件の背景には、「当時、足尾銅山は、足尾鉱毒事件で命令された鉱毒防止費用などが負担となり、鉱山労働者の賃金は安く、しかも、労働条件は過酷なもので、労働者の不満は高まっていた」ということがあったそうだ。さて、私が読んでいるのは、漱石の『坑夫』である。この作物を漱石が発表したのは、1908年。すなわち、足尾暴動事件の翌年である。足尾鉱山とは無縁と思われる漱石が、なぜこのような内容の本を書けたのかというと、暴動直後の足尾銅山で短期間帳場の帳付けとして働いた青年から、話を聞いたからとのこと。
2009/01/12
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草枕(くさまくら)は夏目漱石の小説。1906年に「新小説」に発表。熊本小天温泉を舞台にして、著者のいう「非人情」の世界を描いた作品である。山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。ではじまり、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。」の部分が有名である。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『草枕』を読了。漱石39歳時の作物である。読み方が浅く、上記の非人情の世界を描いたというのが、わからぬ。まず読み終えるという結果が最優先に欲しいという感じが強い。もう少し、じっくりと読むべきか。
2009/01/09
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『道草』(みちくさ)は、夏目漱石の長編小説。「朝日新聞」に、1915(大正4)年6月3日から9月14日まで掲載された。「吾輩は猫である」執筆時の生活をもとにした漱石自身の自伝であるとされる。主人公健三は漱石、金をせびりに来る島田は漱石の養父である塩原昌之助であるという。私小説風のため、小宮豊隆らからはあまり勧められないなどと書かれ、不評であった。しかし、これまで漱石のことを余裕派と呼び、その作風・作品に批判的であった、いわゆる自然主義と呼ばれる作家達からは高く評価された。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『道草』を読了。この作物は、漱石48歳時に書かれたもの。
2009/01/06
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其人は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買って呉れた。武者絵、錦絵、二枚つづき三枚つづきの絵も彼の云ふがままに買って呉れた。(道草より)【上記の感想】道草が書かれたのは1915年、すなわち今から94年前になる。金魚が登場したので、調べてみた。ウィキペディアによると、金魚は、「フナの突然変異であるヒブナを観賞用に飼育、交配を重ねていった結果生まれた観賞魚」である。金魚は、鑑賞のために人工的に作られたものである。鑑賞のために生き物に手を加えるというのは、宗教的にはどうなのかという問題があると思うが、深入りするとキリがなくなるので、この点には触れない。周囲を見渡すと、植物の菊やランなども、交配を繰り返して観賞用に多くの種類が作られたものなので、けっこう多くの生物が人間によって作られているようだ。次は、日本での金魚飼育の歴史。ウィキペディアによると、「幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる。」とのこと。ある程度生活に経済的時間的余裕がなければ、金魚を飼うことなどできないわけで、江戸時代以前は庶民階級には金魚を飼うなどという時代ではなかったようだ。そして、漱石の時代には、すでに金魚を飼うというのが、特別なことではなくなっていたようだ。と言っても、現在のように娯楽が発達した時代ではないので、きれいな金魚を眺めること自体が、それなりの娯楽だったのではないかと思われる。
2009/01/03
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神経衰弱は、1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である。症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった。病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『道草』を読んでいる。この本に限ったことではないが、漱石の作物には、この「神経衰弱」という言葉が出てくる。漱石自身が罹患していたように思う。上記によると、1880年に米国の医師が命名した病名とのこと。ちなみに、『道草』が書かれたのは1915年である。当時の世の中の急激な変化につれ、発生したようである。心身のバランスが崩れるという意味で、自律神経失調症と思われるが、私は専門家ではないので良くわからぬ。『道草』(岩波の漱石全集)の注解によると、神経衰弱は、「明治中頃から大正期にかけての流行語の一つ」だと書かれており、文明の病であり、勤勉の結果とのこと。
2009/01/02
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夏目漱石の『彼岸過迄』を読了した。1912年、漱石45歳時の作物である。次は、同じく漱石の『道草』を読む。昨年はゲーテの『ファウスト』を読む予定だったが、途中で挫折した。今年は漱石をまず読んでいきたいと思う。今年も、どうぞよろしくお願いしますm(__)m
2009/01/01
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高等遊民(こうとうゆうみん)は、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて、帝国大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため官吏や会社員などになって労働に従事せず、読書などをして過ごしている人のこと。夏目漱石の造語であり、作中にしばしば用いられた。(ウィキペディアより)【上記の感想】漱石の『彼岸過迄』(新潮文庫)を読んでいるが、150ページに、高等遊民という言葉が出てきたので、調べてみた。たしか、高校時代の授業で聞いたが、あまりに現実離れしていたため、当時は軽く聞き流していた。漱石の時代は、読書が一つの教養というか趣味として確立されつつある時代だったようだ。
2008/12/31
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まず、漱石の『彼岸過迄』(新潮文庫6ページ)から引用する。(引用開始)自分は又自分の作物を新しい新しいと吹聴する事も好まない。今の世に無暗に新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇に於る一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。(引用終了)【上記の感想】上記の「ヤンキー」とは何か。新潮文庫の注解によると、アメリカ人に対する俗称だが、そのなかに軽蔑の気持がこめられている。と、書かれている。今の日本では軽蔑の意味があるのかどうか良くわからず。アメリカのメジャリーグにチーム名にもヤンキースがあることを思うと、ヤンキーという言葉は、当のアメリカでは普通の言葉ではなかろうか。そんなことはともかく、漱石は、あるいは漱石の時代といったほうか適切なのかもしれないが、アメリカ人に対する気持ちというのは、複雑なものがあったと思われる。『彼岸過迄』が書かれたのは、1912年。その8年位前に日露戦争があり、ポーツマス条約(1905年)が締結された。ポーツマス条約というのは、ウィキペディアによると、日本の方でアメリカに仲介を依頼したようである。引用すると、次のとおり。「日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。」こういった歴史的背景の一つからも想像できるように、当時のアメリカは新興国を卒業し、国力を誇示している昇竜の時期だったと思われる。それで、漱石の時代には、アメリカに対する思いに複雑なものがあり、「新しがりやのヤンキー」と書かれたのではあるまいか。なお、かつて読んだ『ポーツマスの旗』の読後感は、こちら。
2008/12/27
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漱石の『虞美人草』を読了。私が読んだのは、角川文庫で平成4年7月発行の改版35版。初版が昭和30年なので、角川文庫も、けっこう歴史があることを知る。次に読むのは、同じく漱石の『彼岸過迄』。『虞美人草』も今回初めて読んだが、『彼岸過迄』も初めてである。
2008/12/23
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夕刻、衣川が来て居る所へ、梅川が院長の命だと云つて熱をとりに来た。客があるからとて追ひ返してやる。八時頃また来た。験温器といふものが、若し自分にも信ずる事が出来るものなら、此夜の自分の体温は三十七度一分であつた。(石川啄木の日誌より)【上記の感想】 「験温器」を調べていたところ、上記を発見。上記は、明治41年の石川啄木の日記から引用。明治41年は1908年、つまり100年前である。最近の経済情勢は100年に1度と形容されるが、100年前に書かれた本を読むと、なかなか興味深いものがある。上記の「験温器」とは今の体温計のこと。石川啄木は験温器の機能を半信半疑だったようだ。さて、験温器を調べた理由は、いま読んでいる『虞美人草』に出てきたからである。『虞美人草』が書かれたのは1907年。ほぼ100年前である。
2008/12/23
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まず、角川文庫の『虞美人草』の256ページから引用する。「先生はランプの灯を見ながら言う。五分心を蒲鉾形に点る火屋のなかは、壺に充つる油を、物言わず吸い上げて、穏やかな炎の舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人侘て淋しき宵を、ただ一点の明きに償う。燈灯は希望の影を招く。」【上記の感想】上記は、詩心がないと何が何だかわからないだろう。私もわからず。せめてランプの知識をつけておこうと思い、こちらを発見した。すると、五分心のランプというのは、けっこう暗いものだとわかった。8ワットの蛍光灯の明るさとほぼ同じだという。この暗い部屋で、先生と小野さん(どちらも男性)が、けっこう真面目な会話をしている場面である。もちろんわざわざ暗くしているとは思えず、普通のことだったと思われる。今の私たちの生活からは、想像がつかず。『虞美人草』が書かれたのは、1907年、つまり100年前である。
2008/12/21
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矢野龍渓の「郵便報知新聞」が小説掲載を決断した1886(明治19)年以来、長きにわたって新聞連載小説は、新聞社にとっては読者獲得の有効な手段であり、作家にとっては重要な作品発表の場であった。「朝日新聞」を例にとれば、連載小説の黄金時代は、二葉亭四迷や夏目漱石が社員作家として筆を執った時代から、三浦綾子『氷点』、有吉佐和子『複合汚染』などが連載された、1960年代、70年代まで続く。 ( みんなの知恵蔵より) 【上記の感想】漱石の『虞美人草』を読んでいる。この本の最後に載っている漱石の年譜を見ると、漱石は40歳の時に朝日新聞社に入社したとのこと。そう言えば、高校生時代の現代国語の授業で、そんなことを聞いたような気が。『虞美人草』が朝日新聞に連載された時期は、1907年6月23日から10月29日。これは、漱石が朝日新聞社に入社した年である。
2008/12/21
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この本は2000年11月に発行されたので、著者が50歳を過ぎてから書かれたものと思います。著者は漱石に取りつかれた時期があったという。79ページを引用する。「私が漱石に取りつかれたのは、高校から大学時代にかけてのころである。当時、漱石の小説は岩波文庫を中心にほとんど読みつくし、作品の細部まで記憶するほどになっていた。そして、大学三年のとき、家庭教師のアルバイト代をため、早稲田の古本屋のショーウィンドーに飾られていた岩波書店の『漱石全集』(全十六巻)を購入したのである。」著者の学生時代は何時頃になるのかというと、1968年頃。
2008/12/20
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貴族の姫君が愛玩した人形を作ってきたのは、京都の職人であり、貴族文化のお膝元で、京都の人形職人の腕は自然と磨かれてきました。江戸時代に入り、国政の中心が江戸に移っても、人形は相変わらず京都を中心に発達していきます。こうした京都の長い歴史と洗練された伝統工芸が、京人形の高い品質を支えてきたのです。(京人形商工業協同組合のサイトより)【上記の感想】漱石の『虞美人草』を読んでいる。その中で、京人形が出てきたので、少々調べてみた。
2008/12/16
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漱石の『こゝろ』を読み返してみた。人生経験を重ねてから名作を読むと、若かった頃に読んだ時とは別の思いを抱く。そんな言い古された言葉が、何となくひっかかったからである。さて、『こゝろ』を最初に読んだのは何時かというと、高校生の時である。当時はそれなりに読書は好きではあったが、漱石の本を読むことに積極的だったかというと、決してそんなことはない。ごく普通のパターンだと思うが、漱石の本は何冊か読んでおくのが高校生の義務であると言わんばかりの雰囲気があったためである。さて、当時から30年ほどになってしまったが、ようやく『こゝろ』を読み返してみた。確かに、10代で読むにと40代で読むのは違う。そもそも『こゝろ』は、1914年、漱石が47歳の時に発表された作品である。読者も、それなりの人生経験を積まないと、読むのが無理というのが本当だろう。何が違うかと具体的に一つだけ挙げれば、死の問題である。10代の頃の死のもつイメージは、極めて抽象的で現実感のないものであった。が、40代になると、身近な人が亡くなるという経験をしてきた。更に言えば、もしあのとき私がこうすれば、あの人は亡くなることはなかったという経験もしてきた。すると、『こゝろ』で、先生がKに対して抱き続けた罪悪感は、現実的なことと感じられるのである。なお、『こゝろ』は、当初は『心 先生の遺書』という題で発表され、その後『こゝろ』と改題されたそうだ。今回の日記のタイトルで『心 先生の遺書』を用いたのは、岩波の全集でそうなっているからである。過去日記では、漱石のことをほとんど書いていない。が、2つだけ見つかった。こちらとこちら。
2008/12/15
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