PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
文章を書くということは、自分が蛇体であるということを忘れたくて、道端の草花、四季折々に小さな花をつける雑草と戯れることと似ていると思う。たとえば、春の野に芽を出す七草や蓮華草や、数知れず咲き拡がってゆく野草のさまざまを思い浮かべたわむれていると時刻を忘れる。魂が遠ざれきするのである。( 魂の遠ざれき 二〇一六年二月二十三日)
祈るべき 天とおもえど 天の病む東北の震災のあとの句だったと思います。とても有名な句なのですが、やはり、しばらくの間、言葉を失って見つめていました。
一番最後の文章の日付は二〇一八年一月 三十一 日です。彼女の死の十日前ですね。題は 「明け方の夢」 です。
この前、明け方の夢を書き留めるように記した 「虹」 という短い詩にも、やっぱり猫が貌をのぞかせた。同やら、黒白ぶちの面影があるようにも思える。
不知火海の海の上が
むらさき色の夕焼け空になったのは
一色足りない虹の橋がかかったせいではなかろうか
この海をどうにか渡らねばならないが
漕ぎ渡る舟は持たないし
なんとしよう
媛よ
そういうときのためにお前には
神猫の仔をつけておいたのではなかったか
その猫の仔はねずみの仔らと
天空をあそびほうけるばかり
いまは媛の袖の中で
むらさき色の魚の仔と戯れる
夢を見ている真っ最中
かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を船に乗せ、水俣の漁村からやってくる漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。
ところが、昭和三十年代の初めころから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽に登る」と言い慣わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。
さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端に立ち会っていたのだった。 (二〇一八年一月三十一日朝日新聞掲載)註「媛」には「ひめ」とフリガナがついています。
これが、あの 石牟礼道子さん の絶筆です。何も言う必要を感じません。 石牟礼道子さん という人はこういう人だったんです。
追記 2020
・ 03
・ 11
記事は口述だったそうです。昨晩の「夢」を語っていらっしゃる石牟礼さんの姿はそこにあるのですが、魂は、時間も場所も超えて、よざれていらっしゃったのでしょうね。
全く偶然なのですが、この記事を書いている今日は東北の震災の日でした。今日あたり、彼女の魂は、どのあたりによざれていらっしゃるのでしょうか。「天」ではなく「人」が病んでいくこの国の世相をどうご覧になっているのでしょかね。
追記2022・12・26
石牟礼道子
の文業を、文字通り、その始まりから生涯支え続けた 渡辺京二
の訃報をネットで見ました。 命日
は 2022年12月25日
、 死因
は老衰だそうです。 92歳
だったそうです。
無念という言葉が浮かんできました。
自分はこの世に必要ないのではないかという人がいるが、そんなことは誰も言っちゃおらん。花を見てごらん、鳥のさえずりを聞いてごらん。世界はこんなにも美しく、誰しもを歓迎していてくれる。 (2022・12・26読売新聞)
どうにも避けることができないことだというのはわかっているつもりですが、こうして、みんな亡くなってしまうのですね。
週刊読書案内 山里絹子「『米留組』と沖… 2023.09.04
週刊 読書案内 米本浩二「魂の邂逅」(… 2023.03.18
週刊 読書案内 渡辺京二「未踏の野を過… 2023.01.31