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石牟礼道子
が亡くなって二年たちました。 平凡社
から追悼文集が 「残夢童女」
と題されて、 2019
年の夏に出版されました。
それぞれ「傍にて」、「渚の人の面影」、「石牟礼道子論」と題され三章の構成で、 石牟礼道子
のすぐ傍らで生活していた人から、思想的な論者まで、三十数人の追悼文が載せられています。
どなたの文章がどうのというよう主旨の本ではないことは重々承知のうえでいうのですが、御子息の 石牟礼道生氏
と詩人の 伊藤比呂美さん
の文章が心に残りました。
母に連れられて水俣の町を歩いて家に帰ろうとしていた。小学校に上がる前の冬だった。途中の道端で商店街の飾りであったクリスマスツリーから役目を終えて落ちていた飾りのベルを拾った。銀紙で被われて上手に出来ていた。幼いころ、工作が好きだった私は大事に両手で隠すように拾い上げた。ところがその光景を見ていた母がいきなり血相を変えて声を上げた。「すぐに手を離しなさい。捨てなさい」と叱った。もうじき警察署があると脅した。石牟礼道子 などという、「とんでもない」女性の息子として育った 石牟礼道生氏 とぼく自身の生育には何の共通点もありません。しかし、母親がほぼ同世代、おそらく、 石牟礼道生氏 も昭和三十年代に幼少期を過ごしたぼくと同世代の方だと思います。
おもちゃも三輪車も欲しかったが祖父亀太郎が作ってくれた竹馬で我慢していた頃だった。買ってやれないが拾ったものを欲しがるなどとは卑しい精神であると教えたかったのか不憫と思ったのかは今となっては判らない。幼い頃、普段は溺愛されていたのでこのように凄まじく怒られたこのことだけは今でも鮮明に覚えている。意にそぐわぬことには激しい反応を示す母だった。その時の母の迫力に圧倒されて銀色のベルを足もとの側道に丁寧に置いた。 (石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きてまいりました」)
世間や社会に対して凄まじい怒りをあらわにする母の姿に、幼い日の「銀色のベル」の記憶を重ねて「納得」しようとした息子がいたことを、そして、その母の死に際して、もう一度、その「思い」を繰り返している息子の姿にうたれました。
石牟礼道子
の「文学性」や「思想」というようなこととは関係のない、子から見た「母」のほんとうの姿が、息子である 道生氏
の記憶のその場所に在るのではないでしょうか。
もう一つ、思わず膝を打つような思いをしたのが、詩人の 伊藤比呂美さん
の文章でした。
わたしは石牟礼さんの文学に対して、尊敬も思慕も大いに持っているのだが、だからこそ石牟礼文学について語り合う石牟礼大学というものを熊本の仲間とともにやったりしているわけだが、それは既に読んで好きなものを思慕しているだけで、なんだかいつも、なんだか少し、反発する気持ちも持っていることが、いつも少しばかり後ろめたかった。 石牟礼道子 の作品との出会い方や作品の価値というのが人それぞれに違うのは当然です。世の中に絶対化できる作家や作品があるわけではありません。
わたしは東京の裏通りの生まれ育ちで、そこの人々がどんなに他人に酷薄か見てきた。自分の親もふくめて、そうだった。石牟礼さんの文学に出でてくる、弱い者を大切にする善良なコミュニティや、互いに手を合わせ合うような人の情は、居心地が悪かった。石牟礼さんその人だって、そういうコミュニティから蹴りだされた人なんじゃないか。そう口の中でもごもご思っていた。 (伊藤比呂美「詩的代理母のような人」)
でもこの頃、一つ、また一つ、読み始め、読み通して発見する。そして感動する。 伊藤比呂美さん は、ぼくより一つお若い詩人なのですが、彼女の文章を読みながら、65歳を越えた今から、もう一度、 石牟礼道子 の作品を手に取り直し、今度は投げ出さずに読み始め、読み続けることへのる励ましの声が聞こえてくるように、ぼくには思えたのでした。
その鏡を何枚もたてた真ん中で、時間軸と空間軸がずれているような、その石牟礼さんらしさを味わう。そういう作品が少しずつ増えてきた
(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」) 。
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