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ホテルで待っていると、やって来たのは銀色の箱バンだった。運転しているのはサンタナの運転手ではない。「あの人はhxyさんのお兄さんの部下です。サンタナは修理に出したそうです」本当に何から何まで完璧に手配してくれるwhさんに感謝しながら、そのバンに乗り込む。外から見ると軽自動車よりちょっと大きいサイズくらいにしか見えないのに、後部座席が3列になっていて9人乗り仕様だった。4人が乗り込むと、すぐに走り始める。今日の予定が「石林」の観光だということはあらかじめ知らされているtetywest夫婦だったが、その「石林」が昆明からどれくらいの距離にあるのかは知らなかった。「石林まではどれくらいかかるの?」「1時間半かかります。でも来年の1月に高速道路ができれば1時間かかりません」箱バンは昆明の市街を抜けて郊外に向かっている。ただ、昆明に着いた初日に見た西山がどんどん近くなってくるのだ。・・・と言うことは北に向かっていることになる。石林は昆明の南にある筈なのに・・・やがて箱バンは西山の麓の住宅街に停まり、運転手は車から降りるとどこかへ行ってしまう。しばらく車の中で待っていると、女性がもう一人乗り込んできた。「彼女は運転手の奥さん?」「そうです。今から朝食を食べに行きます」なるほど、今日はこのメンバーで一緒に行動するのだ。住宅街から少し走って、大通りに出るとすぐに朝食場所に到着する。予想通り「米線」なのだが、その店は「セルフサービス」だった。朝から行列ができるほど客が多い。店の人は丼に「米線」だけを入れてくれる。トッピングは自分の好みで選ぶようになっている。とは言っても、tetywest夫婦は何を選べばいいのかわからないので、whさんにお任せだった。whさんは豚肉とハクサイの唐辛子漬けと香菜を乗せてくれる。どういうわけかスープがほとんどない。昆明の米線トッピングが終わるとお金を支払い(whさんがまとめて払ってくれるのだが・・・)、丼と箸を持って店の外に出る。歩道には低いテーブルと椅子が置いてあり、みんな適当な場所に座って食べるのだ。このパターンは讃岐うどんで経験済みなので、tetywest夫婦にはまったく違和感がない。路上で食べる朝食ただ、tetywestはスープが少ないのが気になったので、他の人の食べている米線をチェックしてみた。すると、スープの多い人も少ない人もいる。なるほどスープもお好み次第というわけだ。whさんがわざとスープを少なくしたのは、「米線」にはいろいろな食べ方があることをtetywest夫婦に紹介したかったのだろう。スープの少ない米線は、見かけはまるで「醤油うどん」なのだが、味はピリッと辛口でとても美味しい。香川県に住んでいるtetywestは、どうしても「米線」と「讃岐うどん」を比べてしまう。今回の旅行で、「米線」は雲南省人にとってなくてはならない食べ物だということを実感することができた。まさにそれは、香川県人が「うどん」なしでは生きていけないのと同じなのだ。
2004年01月29日
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9月8日(月)朝6時40分に起きると、TVも電灯もつかない。whさんの部屋をノックしてそのことを告げると、そちらも同じだそうだ。しかし廊下のライトはついている。whさんが従業員に連絡してくれてすぐに復旧した。7時にロビーに集まる。whさんがフロントに荷物を預かって欲しいと頼むと、それはできないと断られた。しかし、連泊するのなら部屋に置いておくのはOKだそうで、再び元の部屋にスーツケースを置きに戻る。これで2晩続けてダブルベッドが確定したわけだ。tetywestはフロントに掲げてあった宿泊料金掲示板をみてびっくりした。ダブルベッドの部屋が1泊80元なのだ。しかし実際にtetywestが料金を支払ったわけではないので、その時は半信半疑だった。あまりに安いので、もしかしたら「8」の前に何かの数字が抜け落ちているのかもしれないと思ったのだ。ところが帰国後インターネットで調べてみると、やっぱり「1部屋1泊80元」だったのだ。これほど設備の整った新しいホテルが1泊1200円とは(現在は100元に値上がりしているにせよ)・・・それも2人で・・・whさんのホテル選びの基準は、tetywestの想像をはるかに超えていた。しばらくロビーでまっていたのだが、迎えの車はなかなかやって来ない。4人でホテルの周りを散策することになった。ホテル「碧雲楼」は7階建てのシンプルな建物だった。ホテルの前は広場になっている。その広場を横切って、センターの中心部へ向かう。センター内にはいろいろな所に制服を着た警備員がいる。セキュリティはかなりしっかりしているようだ。ホテル碧雲楼whさんによると、このコンベンション・センター「雲安会都」は会議場と展覧会場とホテルが一緒になったもので、2年前に3億元の投資で造られたのだそうだ。宿泊施設だけでも、遊泳館、泌園、清蓮池、清華池、華清池、水晶宮、碧雲楼、雲安温泉と8つもある。センターの中心にまるでUSAの議事堂のように聳えているのが「雲安会堂」と呼ばれる建物だ。雲安会堂広い敷地の中には宿泊施設の名前のついた庭があり、「回味堂」というレストランがあり、温泉まである。清蓮池は名前の通りスイレンの池で、まるでモネの絵をそのまま再現したような雰囲気だ。清蓮池「この施設は外国の投資なの?」「いいえ、中国人です。木材の市場をやっていた人が造りました。とてもお金持ちです」そう言われれば、このセンターの隣には材木市場があり、運送用のトラックが何十台も並んでいる。中国のお金持ちは、tetywestにはとても想像できないくらいの「お金持ち」なのだ。※「雲安会都」には英語版のHPがあります。(http://www.yunanhotel.com/default.asp)
2004年01月27日
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昆明でのホテルはサンタナの運転手の友人の紹介だった。またまたサンタナに6人乗ってかなり西の方へ走り、whさんが先にチェックして決まったホテルは「昆明雲安会都」というコンベンション・センターの中にある「碧雲楼」だった。tetywestはかなり疲れていたので、そうなればいいという希望も含みながらwhさんに「明日は、ゆっくりと9時頃起きればいいでしょう?」と訊いてみた。しかし、返ってきた答えは「明日は、7時に出発します」だった。時計を見ると、もう10時10分を過ぎている。tetywest夫婦の部屋は507号室だった。隣がhxyさんの部屋で、廊下を挟んで前の部屋がwhさん、サンタナの運転手は友人を送って自宅に帰ったようだ。このホテルも部屋はきれいだった。その上、バスルームにバスマットが置いてあったのは雲南省に来てから初めてだった。しかし、疲れていたのですぐには気付かなかったのだが、部屋の様子が何か今までと違っていると思ったらベッドが1つしかなかった。まあ、この際それもあまり問題ではないだろう。「銀婚旅行」なのだから・・・ホテル碧雲楼507号室昆明に来てからの旅程を振り返ってみると、麗江への往復で1200km以上移動したことになる。日本だとだいたい東京から名古屋まで走って1泊、名古屋から京都まで走って2泊目、そしてまた名古屋で3泊目という距離なのだ。それも最後は静岡から地道の箱根越えで東京に帰りついたようなものだ。疲れていて当然だろう。風呂から出てくると、TVでは中秋にちなんだ歌番組をやっていた。字幕に「月是故郷明」という漢字が頻繁に出てくるので、きっと有名な言葉なのだろうと帰国後調べてみたら、杜甫の「月夜憶舍弟」という詩だった。 月夜憶舍弟 月夜に舍弟を憶う戍鼓斷人行 邊秋一雁聲露從今夜白月是故郷明有弟皆分散無家問死生寄書長不達況乃未休兵戍鼓は人行を斷つ邊秋一雁の聲あり露は今夜從り白く月は是れ故郷にも明らかならん弟有れども皆な分散し家の死生を問う無し書を寄するも長く達せず 況んや未だ兵を休めざるをや中国では、中秋には遠く故郷に想いを馳せるものらしい。ところが、その夜tetywestたちがダブルベッドの上で何をやっていたかと言うと・・・長時間サンタナに座り続けたために腰痛になった家内のマッサージだった(涙)。
2004年01月25日
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午後8時10分、サンタナはようやく昆明の繁華街に到着した。大理を出発してから実に6時間半以上走り続けていたのだ。さすがにtetywestはくたくただった。しかし、それより大変だったのは家内なのだ。今朝ホテルを出て以来、まったくトイレに行ってなかったのだから。tetywestたちは最初の渋滞の時に草むらで済ませたし、hxyさんは峠越えの渋滞(その3)の時に近くの農家のトイレを借りたのだが、家内は我慢していた。「なぜ昼食の時に行かなかったの?」「だって、どこにあるかわからなかったし、その時は大丈夫と思ったんだもの」と言ってみたところで何の役にも立たない。最後の1時間は一刻も早く到着することをひたすら祈っていたのだそうだ。車を降りると真っ先にトイレへ駆け込んだのは言うまでもない。昆明の市内は小雨が降ったり止んだりの天気だった。サンタナはレストラン街に路上駐車する。幅5m以上ある歩道と2車線の車道は植え込みで仕切られていて、歩道にはテーブルと椅子が一杯並んでいる。小雨にもかかわらず、4~5人の若者が路上のテーブルを囲んで何やら楽しそうに話し込んでいる。もし雨が降っていなかったら、tetywestもちょっとオシャレに戸外で食事をしてみたいところだ。tetywestたちが店に入ったとき、店内はかなり混雑していた。サンタナの運転手が交渉して2階に席を準備してくれることになり。我々はしばらく待たされる。「あれ!このお店『地球村』じゃないの」と、家内が店の外の看板を指差す。「な、なんと・・・こんな偶然もあるのか」と、tetywestもびっくりした。昆明へ到着した初日、まだ右も左もわからない昆明市内で最初に印象に残った看板が「地球村」だったのだ。(ずいぶん昔に書いた話なので、おそらくすっかり忘れていることでしょう。「雲南銀婚旅行(9)」です・・・笑)レストラン「地球村」2階に上がると、他の客は誰もいなかった。大きなテーブルが4つあり、我々は一番奥の窓際のテーブルに案内される。「地球村」はおそらく若者層をターゲットにした店なのだろう。インテリアがすっきりとしていて、壁には現代的な絵が架かっている。昆明は地元なので勝手がわかっているからか、メニューの注文をしたはサンタナの運転手だった。レストラン「地球村」お茶を飲みながら、お互いに無事昆明に到着したことを喜び合っていると、やがてサンタナの運転手の友人2人が同席した。中国ではよくあるパターンだ。実際のところ、食事は人数が多いほど料理の品数が多くなり、それだけ美味しいのだ。自家用車を持っているくらいなのだから、サンタナの運転手は名士でお金持ちに違いない。地元の昆明では知人に夕食を振舞う機会も多いのだろう。やがて運ばれてきた料理は、レンコンのスープ豆腐と野菜のスープ百合根とセロリと赤ピーマンのあっさり炒めキウリのトウガラシ炒めきのことシシトウ細い豚肉の甘口炒めカニの甘辛煮セロリとピーマンとイノシシの肉青蛙ご飯「地球村」の夕食と、それこそ盛りだくさんだった。しかし、みんなの食欲は凄い。これほどの料理を約1時間で全部たいらげてしまったのだ。大理や麗江の食事もそれぞれに美味しかったのだが、昆明の料理はまたちょっと印象が違う。「地球村」がわざわざそうしているのかもしれないが、味付けが都会的で洗練されているのだ。今回はtetywestも家内もしっかり食べた。「このキノコはとても高いです。500gが100元(約1500円)します。野生でしか育ちません」と、whさんが教えてくれたキノコは、コリコリとした歯ざわりで日本では食べたことがない種類だった。(写真では手前左側で緑色に見える皿です)何というキノコなのか知りたかったのだが、whさんは日本名を知らなかったし、tetywestも疲れていた。「まあ美味しければ何でもいいか・・・」と、手帳に書いてもらわなかったことを今は後悔している。
2004年01月24日
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工事区間は追い越しができなかったが、それが終わると速い車が一斉に追い越しを開始する。まるでイエロー・フラッグからグリーン・フラッグに変わった瞬間のカーレースのようだ。しかし、このスプリントも長くは続かなかった。峠を下って次の集落に入ったところで、またまた渋滞に遭遇する。渋滞の横を水牛がゆっくりと歩いていく。窓越しに水牛と眼が合ってしまった。彼らから見れば、前に進めない我々を可哀想と思っているのかもしれない。ゆっくりと歩きながらも水牛は、いつの間にかはるか前方へと去っていく。その後ろを、農夫が木の枝で水牛を追いながらついて行く。ああ・・・何とのどかな風景だろう。水牛峠越えの渋滞(その2)やがて前方から対向車がゆっくり現れ、我々の側も動き始める。この渋滞の原因も道路改修工事だった。やはり1km以上の区間に砂利を敷き詰めている。ひょっとしたら昆明までずっとこんな工事をやっているかもしれないと不安になってくる。しかし、この不安は見事に適中してしまったのだ。安寧に着くまでに合計7回の渋滞に遭遇し、昆明への到着は予定より大幅に遅れることになってしまった。峠越えの渋滞(その3)峠越えの渋滞(その4)しかし今振り返ってみると、大幅に遅れたとはいえ、その日のうちに昆明に到着できたのは本当に幸運だったと思う。水牛と出合った渋滞の後、ひょっとしたら大変なことになっていたかも知れない出来事が起こったのだ。それは、渓流沿いの峠道を下っている時だった。サンタナは相変わらず常に遅い車を追い越し続けていた。カーブが多いので追い越すタイミングは難しいのだが、サンタナの運転手は追越がとても上手かった。緩やかな左カーブにさしかかった時、200m前方まで対向車はクリアだった。サンタナは2台まとめて追い越しにかかり、ちょうど1台目を抜き終えてさらに加速したとき、突然、ガーンと車が何かにぶつかったのだ。tetywestは天井に頭をぶつけるし、運転席のダッシュボードの下から何かのプラスチックカバーが飛び出して来るほどのショックだった。ぶつかったのは道路にあいた大きな穴だった。中国では国道と言えども、道路の真ん中に大きな穴が開いていることが時たまある。普通の走行中なら穴を避けるか、減速してゆっくりと穴を越えるのだが、ちょうど運悪く追い越しの真っ最中に突然それが現れたのだ。こういう状況の時ダメージを最小限に抑える運転方法は、穴に入る直前までにフル・ブレーキをかけ車体を前方に沈み込ませる。前輪が穴を越えた瞬間にアクセルを目一杯踏み込み今度は車体の前方を浮かせるのだが、サンタナの運転手はずっと休みなく運転し続けているのだ。とっさにその判断を要求するのは酷だろう。とにかく、ぶつかってしまったことは仕方がない。tetywestが心配したのは、今の衝突でオイルパンに穴が開いたかもしれないことだった。もしそうならば、エンジンはすぐに焼きついてしまう。こんな山の中ではレッカー車を手配しようにも、何時になるやらわかったものではない。まだまだ昆明ははるか彼方なのだ。道端に車を停めると、サンタナの運転手はボンネットを開けてダメージをチェックをし始めた。tetywestは大学時代に自動車部だったので、こんな時は少しは役に立てるかもしれない。まず、車の下に潜り込んでオイルパンをチェックする。オイルパンは見事に凹んでいたが、穴は開いていなかった。ああ・・・よかった。次に前輪のブレーキ・パイプをチェックする。これはタイヤがオイルパンより後ろにあるので異常なし。やれやれ・・・車の下から出てもう少し前の方をチェックする、すると道路にオイルが滴っているではないか!や、やばい・・・tetywestの経験では、車からオイルが漏れていて安心なことは一つもないのだ。最悪なのはブレーキ・パイプの破損で、もしそうならばこれより先は1kmも進めないことになる。ドキドキしながらオイル漏れの原因を調べる。オイル漏れは、パワー・ステアリングの油圧ポンプからだった。さっきの衝撃でどこかが壊れたのだろう。しかし漏れている量は多くないので後半日くらいは持ちそうだし、もしオイルが切れてもハンドル操作が重くなるだけだ。走行の安全性には問題がない。そのことをwhさんに通訳してもらって、サンタナの運転手もようやく安心したようだ。ボンネットを閉めて、再び走り始める。ああ・・・これで昆明まで帰れそうだ。本当によかった・・・
2004年01月23日
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たっぷり1時間かけた昼食が済むと、いよいよ大理ともお別れだ。大理市内はさほど大きくないので、走り始めるとすぐに風車のモニュメントの場所に到着する。ここから楚雄までは高速道路を走ることになる。高速道路に入ってまもなくtetywestは眠ってしまい、気がつくと1時間ほど経過していた。サンタナの運転手以外は多かれ少なかれ眠っていたようだ。tetywestが起きたとき助手席のwhさんはヘッドレストに頭をもたせかけて眠っていたが、しばらくすると目を覚ました。「昨日の夜も、12時を過ぎて寝ましたから」と、ちょっと照れくさそうだった。楚雄に到着したのは3時30分、予定通りだ。ここでいったん高速道路を降りて市街地を走り、再び「安楚高速公道」と呼ばれる自動車専用道路に乗ればいい。あと3時間も走れば昆明に到着するはずだった。ところが、高速道路の入り口まで到着したとき、係員から高速道路は封鎖中なのでUターンして地道を走るように指示されたのだ。高速道路の上をダンプカーが何台も走っていたので、おそらく補修工事をやっているのだろう。しかたなくサンタナは川沿いの国道320号線を走り始める。しかし、国道といっても日本の国道を想像するのは大間違いで、道路は2車線ほどの幅しかなく、しかもセンターラインさえないのだ。雲南省は集落と集落の間には必ず山がある。峠越えの道はくねくねとカーブしていて見通しが利かない。そんなスネーク・ロードを、歩行者も自転車も、トラクターを改造した田舎のベンツも、乗用車もトラックも、定期バスも観光バスも走っている。サンタナは速度が速いので、いつも前の車を追い越すことになる。まるでF1のオーバーテイク・シーンを限りなく続けるようなものだ。いや、サーキットなら一方通行だが、ここでは前から対向車もやって来るのだ。これまでの4日間でサンタナの運転手のドライブ・テクニックが上手いのを知っているからある程度安心していられるものの、もしそうでなかったらかなり心臓に悪い道路だった。もう眠気はどこかへ吹っ飛んでいた。追い越し続けながら30分ほど地道を走って峠越えに差し掛かったところで、突然渋滞に遭遇した。ずらっと車の列ができていて全く前へ進まない。ちょうどトイレに行きたかったので、この時とばかり男性陣は草むらで用を足す。峠越えの渋滞しばらく待っていると、ゆっくりと対向車が下りてきはじめた。片側交互通行になっているのだ。やがてこちら側も進み始める。少し走ると渋滞の原因がわかった。道路改修工事をやっていたのだ。道路幅の半分を板で仕切り、15センチくらいの厚さに砂利を敷き詰めている。ダンプカーが道路に砂利を下ろすと、手にレーキを持ちオレンジ色のチョッキを着た作業員が100人以上寄ってたかって人力でそれを拡げていく。拡げた後をロード・ローラーで締めて、筵で覆っている。それも2km以上の区間を一度にやっている。そんなに長い距離を一度に通行止めにすることは日本では到底ありえないことだ。まだまだ交通量が少ないからだろうが、かつて日本でもそうだったように、「お上の仕事に文句を言わせない」的な体制なのだろう。しかし立場を換えれば、工事現場で働いている人たちは付近の農民のようだし、失業問題に公共事業で対応しているとも言える。自動車に乗る立場の利便性ばかりを主張するのは片手落ちかもしれない。
2004年01月22日
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蒼山ロープウェイを降りて、大理市内に帰ってきたのは12時35分だった。昼食はあらかじめ予約してあったらしく、サンタナを駐車する場所を教えるために店の人が外へ出てきた。広い通りに面した「宏緑飯庄」は、軒の低いいわゆる大衆食堂だ。他に客はいなかったが、衝立で仕切られた小部屋へと案内される。午前中にしっかり歩き回ったので、tetywestはかなり空腹だった。whさんがメニューを見ながら料理を注文する。お茶を飲みながら待っていると、突然汚れた服を着た浮浪者風の男が現れた。その男はwhさんたちに向かって何か話しかけている。whさんも何か答えている。whさんが10元札を1枚渡すと、その男は出て行った。「今の人は何だったの?」「働きたくても仕事がないと言いました。でも、きっと悪い人です。本当は働きたくないのでしょう」tetywestは、中国の社会問題の一つが「失業」だということを知識としては知っていた。しかし実際にそのような社会問題に遭遇する機会はおそらくないだろうとも思っていた。中国の人にしてみれば、他国の観光客に自国の恥部を曝したくはないはずだ。tetywestは一度だけ北京で乞食を見かけたことがあるが、その乞食は路上に座っていた。金をねだるために乞食の方から積極的に押しかけるというパターンは初めてだったので、少々びっくりした。やがて、次々と料理が運ばれて来て、テーブルの上が一杯になったところで、tetywestはお決まりの「メニュー撮影」を行う(笑)揚げ豆腐(砂鍋豆腐)焼きビーフン(【虫鳥】蛟上樹)麻婆茄子キウリの炒めものベーコンと野菜の炒めものセロリとカブの漬物豚の炒めものユバのスープご飯大理の昼食他に客がいなかったからか、はたまた4日間も一緒に過ごしてすっかり仲間意識ができたためか、食事をしながらの話が弾んだ。たまたま方言の話題になったとき、whさんは「昨日、古城で新聞を売っていた人の方言は、私は全然わかりません」と説明してくれた。若い男が新聞をかざして、何か大声で叫びながら売り歩いていたのをtetywestも覚えている。おそらく主要記事の見出しを宣伝していたのだろう。whさんの解説のおかげで、全国共通の文字で書かれた新聞を読み上げているのに、よそ者には理解できないくらい訛りが強いことがわかる。もう一つ、このときの食事で忘れられないことがある。今回の旅行はtetywest夫婦にとって初めから終わりまでミステリー・ツアーだったのだが、その中でも最高の「ビックリ」だった。何と!サンタナの運転手とhxyさんは兄妹だったのだ。whさんは、tetywest夫婦は当然知っているものと思い込んでいたそうだ。しかし、中国語の全くわからないtetywest夫婦にとって、彼ら3人の会話は音楽と同じなのだ。それまでのwhさんからの情報では、サンタナの運転手は、whさんの友人で昆明に住んでいるhxyさんは、whさんの故郷に住んでいて職場の部下であるしかわかっていなかったのだ。そう言われてみれば二人はよく似ている。この事実を知ったとき家内が、「年齢もちょうどいいし、素敵なカップルになれそうだと思っていたのに・・・」と残念がっていたのが可笑しかった。
2004年01月21日
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玉帯雲遊路は高いところにある。だからという訳でもないのだが、大理平野と【さんずいに耳】海を見渡しながら遊歩道を歩いている間に、tetywestはガラにもなく高尚なことを考えていた。それは「観光資源と開発(麗江と大理を比較して)」というテーマだった。tetywestには予備知識があったわけもなく、雲南省に来て訪れたのは「大理」と「麗江」だけだ。しかも観光客としてほんの一部を見たに過ぎないのだが、両者には共通する点が多い。麗江と大理は納西族と白族の違いはあるが、どちらも少数民族の自治県だ。自然の観光資源として麗江には「玉龍雪山」と「黒龍澤」があり、大理には「蒼山」と「【さんずいに耳】海」がある。麗江には世界文化遺産に指定された「古城」があり、大理にはかつて雲南省の中心であった「古城」がある。少数民族の文化としては麗江には「西納古典音楽」や「東巴文字」があり、大理には「本主信仰」や「大理石工芸」がある。しかし観光地として麗江と大理を比べると、麗江の方が圧倒的に観光客が多い。また、麗江ではいわゆる「白人」をどこでも見かけるのに対して、大理にはかつて西洋人が好んで住んだ「洋人街」はあるものの、「白人」の観光客を見かけることは稀なのだ。麗江が「派手」な観光地らば大理は「地味」な観光地だと言えるだろう。ところが面白いことに歴史を遡ってみると、かつて大理は「南詔国」や「大理国」の中心地として栄えたのに対して、麗江は辺境の宿場町に過ぎなかった。古城の規模もその中を走る通りの広さも大理の方がはるかに立派なのだ。昔は大理の方が麗江よりも発展していた。その後雲南省の政治・経済の中心が昆明に移り、両者とも観光での発展を目指すことになるのだが、その時優位に立ったのは麗江の方だったわけだ。「観光」という視点からみると、大理にとって中途半端な発展はかえってマイナスに作用したことになる。田舎ならとことん田舎の方が、古いならとことん古い方が「観光資源」としての価値は高いのだ。ただし、麗江が観光地として成功した原因はそれだけではない。一番の要因は、都会からの観光客が、いや世界からの観光客が麗江まで簡単にアクセスできる飛行場が整備されていることだろう。昆明から1泊2日の旅程で観光ができるなら旅行社がツアーに組み込むが、2泊3日となるとかなり厳しいだろう。大理にも飛行場はあるが、まだ大型旅客機は発着できないのだ。大理の観光地の中でも、蒼山のロープウェイに乗る観光客は古城を訪れる観光客よりさらに少ない。ロープウェイに乗っても、玉帯雲遊路を散策する観光客になると、これはもうほとんど皆無なのだ。何もかもが忙しい現代では、観光さえも「スピーディに効率よく」が求められているのだろう。大手旅行社のツアーコースから外れた観光地は惨めにさびれるのを待つだけになる。ロープウェイへ乗り場へ行く途中の土産物街がさながらゴーストタウンのようだったのはそういう事情なのかもしれない。これから大理が観光地として発展するためには、ぜひとも飛行場を整備することが必要だろう。とは言うものの、tetywestは「派手」な観光地よりは「地味」な観光地が好みなのだ。矛盾しているようだが、大理は今のままの素朴な大理でいて欲しいという願いもある。できることなら、大理平野と【さんずいに耳】海を見渡しながら観光客のいない玉帯雲遊路を散策する贅沢をいつまでも残しておいて欲しいものだ。
2004年01月20日
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昨日・一昨日と大阪へ行ってました。大阪でのホテルは「天王寺都ホテル」。JR天王寺駅のすぐ前、近鉄百貨店の横にある17階建ての高級ホテルです。もちろんtetywestはこんな高級なところに泊まったのは初めてでした。ちなみに普段泊まるのは「東映ホテル」です。チェックインも済ませ夕食に繰り出したのは、コマーシャルソング「♪新世界のづぼらやで・・・」でお馴染みの(と、地元の方に教えていただきました)?通天閣の下にあるふぐ料理店「づぼらや」。食べたのはもちろん!名物てっちりセット ●スタンダードコース (1人前税込み 5,500円) ふぐ前菜(二種盛)、てっさ、ふぐ竜田揚げ、てっちり、ぞうすい、香の物、デザート 西日本各地の漁場から直送された活きのいいトラフグ。てっさ(ふぐさし)に、てっちり(ふぐちり)、後のぞうすいもまた格別。手搾りのすだちでつくったづぼらや秘伝の特製ポン酢でお召し上がりください。 です。美味しかったですよ~(うっとり)で、その後二次会に千日前へ繰り出して大阪の繁華街の雰囲気を十分楽しみました。さて、千日前からホテルへ帰るためにタクシーを止めます。乗り込んだのはtetywestも含めて4人でした。「都ホテルまでお願いします」と行き先を告げて、今夜の料理や大阪の街の賑わいの話題で盛り上がっていました。程なく、タクシーはホテルの裏手へ到着しました。ところが、ホテルの中に入ると、どこか変なのです。tetywestはチェックインのときタバコが吸いたくて灰皿のあるテーブルを探したのにどこにも置いてありませんでした。ところが、今度はどのテーブルにも灰皿が並んでいるのです。見覚えのあるカウンターが見つかりません。案内板には、「2階・フロント」と書かれています。「フロントは1階やったで」「いや表からなら1階やけど、我々は裏から入ったきんじゃ」S君がさも自信ありげに言うので、皆彼に従いました。ところが、2階へ上がっても見覚えのあるカウンターがありません。2階をぐるっと回ってもう一度1階へ降りてきました。「これは、違うホテルやで・・・」ちょうど入り口付近に従業員がいたので訊いてみます。「ここは『都ホテル大阪』です。あなた方のお泊りいただいているのは『天王寺都ホテル』でしょう」「ええっ?!『都ホテル』が2つもあるんかい!」そういえばタクシーの料金を支払うとき「760円とは安いな」と思ったのですが、そのときはまさか同じ名前のホテルが2つあるとは思ってもいませんから気付かなかったのです。再度タクシーを拾って、今度は「天王寺都ホテル」と告げます。運転手さんは笑いながら、「よくいらっしゃるんですよ、そういうお客さん」有名ホテルにはめったに泊まらないtetywestですから、「『都ホテル』ならどんなタクシーの運転手でも知っているだろう」と、ホテルカードを持ってこなかったのが大きな間違いでした。皆さん、くれぐれも大阪の「都ホテル」にはご用心下さい。
2004年01月18日
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桃渓に到着したとき、そこには家族4人のグループが民族衣装を着たガイドさんと一緒に先に来ていた。玉帯雲遊路を歩いている間に他の人と出会ったのはこの時だけだった。桃渓には橋が架かっている。澄み切った渓流が勢いよく流れ落ちている。苔むした大きな岩には赤い字で「桃渓」と刻まれていた。桃渓の渓流ここまで来た証拠にその岩を背景にして記念撮影をした後、ガイドさんに教えてもらった細い道をさらに上流へと上がってみる。しかし道は次第に細くなり、最後には岩をよじ登らなくてはならなくなった。しかも渓流は雑木や笹に覆われてあまりよく見えないので、ちょっと期待はずれだった。ただ、そこに行く途中には大きな岩の洞窟があった。その奥には何やら紙が貼ってあり、食べ物が供えられている。whさんが、「家族の誰かが病気になったとき、ここへ来てお祈りします」と教えてくれる。中国にも大きな岩を信仰の対象とする習慣があることを知ったのは初めてだった。ただし、それは少数民族の白族独自の文化なのかも知れないのだが・・・さて桃渓まで到着すれば、後は再び元来た道を引き返すことになる。滑らないようにと石畳を見つめながら黙々と歩いていく。ふとhxyさんの足元を見ると、素足にスニーカーを履いていて踵に靴擦れが出来ている。tetywestは日本でも常にショルダーバッグを携帯しているのだが、今回の旅行にもそれを持って来ていた。バッグの中にはめったに使わないものが入っているもので、都合よくバンドエイドもあった。hxyさんは嬉しそうにそれを受け取ってくれた。いつの間にか霧が晴れて、大理平野が俯瞰できる。難所の断崖の写真も背景に大理平野と【さんずいに耳】海があるほうがずっと印象深い。そしていつも不思議に思うのだが、帰り道は往きよりも短く感じる。右上の岩が削られている所が難所の断崖大理には崇聖寺三塔という名所もある。その三塔もはっきりと見ることができる。-------------------------------------崇聖寺三塔(http://www.unnantour.com/dairi/santou.htm)三塔は9世紀、南詔国末期の仏塔だ。大理の城外約1キロに位置し、大理古文化の象徴として、大理名勝の一つとなっている。とくに、池の水面に投影された揺れ動く三塔は美しい。中央のものは唐時代の893年に建てられ、方形16層、69mの高さを誇り、西安の小雁塔に似ている。南北の2塔は八角形10層、42mで、大理国の時代に建てられたものだ。三塔ともレンガでできているが、1100年余りの間の度重なる地震にも耐えた高度なレベルの建築様式だ。主塔が前(【さんずいに耳】海側)に、残りの二塔が後ろ(蒼山)に建っている。今まで何度となく修理が行われてきたが、その度に多くの文物が発見されている。1978~1981年の修理では、塔頂、塔基などから680余りの各種文物が発見された。特徴的なのは観音像で、三塔から出土した50件あまりの観音像の三分の一は男の観音像であった。-------------------------------------玉帯雲遊路から望む大理三塔そして昨日訪れた大理古城も、その全体が箱庭のように見渡せる。玉帯雲遊路から望む大理古城スカートをはいていたために玉帯雲遊路を歩かなかった家内はこの絶景を見逃したわけだ。そのかわり疲労回復はできたかも知れないのだが・・・
2004年01月16日
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玉帯雲遊路を歩き始めるとすぐに、遊園地の入り口にあるような鉄の柵がある。柵の中をぐるぐる回って向こうへ出れる構造で、真っ直ぐには進めないようになっている。おそらく以前はここに料金所があったのだろうが、今は誰もいない。なぜ、蒼山の奥にそんなものがあるのかは、もう少し先に行ってわかった。遊歩道は崖を削り取って造られていたのだ。頭の上にも大理石の岩が覆いかぶさっている。そして反対側は高さ100メートル以上の絶壁で、遊歩道には柵も何もない。この場所でwhさんに促されて記念撮影をする。写真に写ったtetywestの顔は笑っているが、さすがに壁際から離れたくなかったというのが本音だった。驚いたことにサンタナの運転手は平気そうに崖の下を覗き込んでいる。運転がうまいだけあって運動神経も抜群なのだろう。玉帯雲遊路の難所で記念撮影この難所を抜けた所にもさっきと同じようにぐるぐる回る鉄の柵があった。こちらは崖の上に造られていたので、少なくともその中を歩いている間は安全なのだ。全く同じことをしても、一方では面倒くさいと思い、他方ではありがたいと思う自分が可笑しかった。しばらく歩いて尾の背に出たところで振り返ると、ちょうどさっきの難所が見えた。真っ直ぐな断崖を遊歩道の幅だけ削り取って、トンネルの半分のようになっている。こんな場所で工事をするのはさぞ大変だったことだろう。通行料金を取りたくなるのも無理はない。玉帯雲遊路は山肌に沿っているので尾の背と谷が交互にやってくる。谷には潅木が茂り、細い渓流が流れている。大理石の岩肌には苔が密生している。晴れていれば尾の背に出たときは眼下の展望が楽しめるのだろうが、あいにくの霧で何も見えない。黙々と歩き続けているうちに、前方から渓流の音が聞こえだした。かなりの水量が流れている音だ。何度目かの尾の背を曲がったところで、突然眼下に白い渓流が見えた。100メートル下を真っ直ぐ下流に向かってゴーゴーと勢いよく流れている。白く見えるのは水しぶきが上がっているからで、それほど急流なのだ。上流に目をやると、山と山に挟まれた狭い谷は白い霧で包まれていて、どれほど奥が深いのかよくわからない。谷に沿って流れていく霧を見ていると、その先はまるで仙人の住む世界のように思えてくる。桃渓の渓流さらに先へと進んでいると、急に霧が晴れてあたりが明るくなり始めた。霧の中から現れたのは、V字型の深い渓谷と、その谷底を真っ直ぐに流れ落ちる渓流、そしてその先に広がる大理平野と【さんずいに耳】海だった。tetywestは玉帯雲遊路を歩きはじめたときからこの構図を待ち望んでいたのだ。こんなチャンスを逃しては大変と、急いでカメラを構えて写真に収める。桃渓から望む大理平野山の天気は本当に変化が早い。大理平野は2分後にはもう見えなくなっていた。
2004年01月15日
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中和寺の入り口に大きな蒼山の地図がある。それによると、蒼山は19峰18渓から成り、それぞれの渓谷は【さんずいに耳】海へと流れ落ちている。それらは北から順に、霞移渓、万花渓、陽渓、茫涌渓、錦渓、霊泉渓、白石渓、双鴛渓、隠仙渓、梅渓、桃渓、中渓、緑玉渓、龍渓、清碧渓、莫残渓、【くさかんむりに亭】【さんずいに冥】渓、陽南渓と呼ばれている。そして、それらの渓谷のうち、梅渓、桃渓、中渓、緑玉渓、龍渓を辿ることが出来る遊歩道が山の中腹に設けられている。その遊歩道は「玉帯雲遊路」と呼ばれ、幅2m、延長は18kmに及ぶ。なぜ「玉帯雲」なのかというと、夏の終わりから初秋の早朝に蒼山の中腹に帯状の雲が出現するからなのだ。その理由は湖の暖かい水蒸気が山に沿って上昇する一方、山頂の冷気が下降してちょうど山の中腹辺りで出会うためで、tetywestたちが大理を訪れたのはまさにその「玉帯雲」が現れる絶好の季節だったわけだ。この地方には「玉帯雲」にまつわる伝説がある。「玉帯雲」が現れるのは仙女が留まっているからで、その仙女がこの地方の石を「玉」に変えたのだ。だから「玉帯雲」が現れる地方では大理石が豊富に産出するというのだ。しかし確かに季節は絶好だったのだが、「玉帯雲」が現れるにはもう一つ条件がある。それは高気圧に覆われてよく晴れていることで、あいにくtetywestたちが訪れた日は低気圧が移動していた。したがって、「玉帯雲」どころか「五里霧中」の状態だったのだ。ここで、「玉帯雲遊路」へ行くか行かないかでtetywestと家内の予想が分かれた。家内は、「もし行くんだったらここで待ってるわ。今日はスカートをはいてるし、昨日歩き疲れたから」とおっしゃる。なるほど地図によれば中和寺から一番近い桃渓までが4.2kmあるのだ。風眼洞や龍眼洞のある緑玉渓までは5.6kmだった。さて、whさんたちはどうするのだろうと様子を窺っていると何のためらいもなく「玉帯雲遊路」の方へ上っていくではないか。tetywestは3人の後を追いかけて行き、「家内はここで待っているから」と告げる。「玉帯雲遊路」は中和寺の本堂の上で右と左に分かれている。右へ行けば桃渓、左へ行けば緑玉渓だ。tetywestは距離の短い右へ行って欲しかったのだが口に出すわけにもいかない。黙ってwhさんたちについて行くことにした。whさんたちもしばらく迷っていたようだが、やがて右方向に歩き出した。やれやれホッ・・・それでも往復2時間か・・・山肌を削って造られた遊歩道は石畳が敷き詰められていて、登りや下りの起伏はほとんどない。したがって平地を歩いているように楽なのだが、注意しないと濡れた石畳は滑りやすい。自然と下を向いて歩くことになる。それに、もし晴れていれば眼下には大理平野や【さんずいに耳】海がパノラマのように広がっているのだろうが、あいにく白い霧しか見えない。玉帯雲遊路話し相手もなく、黙々と最後尾を歩いていくtetywestだった。
2004年01月14日
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蒼山索道はスキー場にあるようなリフト形式で二人乗りだった。広東省の団体さんに続いて、最初にtetywest夫婦、次にサンタナの運転手とhxyさん、最後にwhさんが一人で乗り込む。HP(http://www.dl.yn.cninfo.net/info/dlyou/xiuli/cangshan/cs-sd.htm)の説明によると、このロープウェイは1996年5月に中国とUSAの共同出資で建設されたもので、全長が1668m、揚高が478m、毎時500人の客を運べるのだそうだ。蒼山索道ロープウェイは地上からさほど高くないところを通っているので怖くはない。ぐるっと首を廻せば360度の展望もできるし、朝のすがすがしい空気に体が直接触れるのはかえって爽快だった。ロープウェイ乗り場から少し上がったところは段々畑になっている。植わっているのは夏大根のようだが、雑草に覆われていてどこからどこまでが畑なのか畦なのかよくわからない。農家の人が5~6人畦の草を刈ったり、鍬で土起しをしている。日本なら草刈機と耕運機を使うところだが、全部人力だ。髪を後ろで束ねた少女の姿も見える。日曜なので子供たちも手伝っているのかも知れない。ロープウェイは日本では見かけない松や杉の林を切り開いて頂上まで延びている。上るにつれて【さんずいに耳】海とその手前に広がる水田の面積が広くなっていく。山裾には白族の白い家並みが集まっている。水田に挟まれて茶色く見えるのはトウモロコシ畑だ。注意して見ると、少し丘になっていて水利の悪いところにトウモロコシを作っているのがわかる。さすがにこの時間帯では降りてくる客はいない。蒼山索道からの眺め20分ほどで、山の中腹にある終点に到着した。終点ではカメラを構えた人が降りる瞬間を撮影している。きっと「後で買え」とどこかに貼り出すのだろう。ロープウェイを降りて少し歩くと、お寺の境内に出る。そこは展望台になっていて、眼下には大理平野と【さんずいに耳】海が広がっている。その眺めに感激しているちょうどその時、南から凄い速さで雲が流れてきてたちまち視界は真っ白い霧に覆われてしまった。もう何も見えない。展望台から急な石段を登るとお寺があった。この寺は中和寺と呼ばれていて、これもHP(http://www.dl.yn.cninfo.net/info/dlyou/xiuli/cangshan/z-hs.htm)の説明によれば、蒼山の中和峰にあるためにそう名付けられたらしい。最初に建立されたのはこの地が南詔国の中心だった唐代で(西暦738~902年)、何度か再建されている。現在の建物は1900年に修理されたものだ。中和寺は道教の寺で、普通は道教の神を祭るのだが、ここでは道教・仏教・儒教が混合して祭られているという特徴を持っている。雲南省が中原文化から遠く隔たった辺境の地だということが、こんなところからも感じ取れる。中和寺
2004年01月13日
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新しい年になると、何か一つくらいは新しいことをやってみたくなるものです。tetywestの家では以前から食卓のテーブルが大きすぎるのが不便だと感じていました。tetywestは中国へ出かける度にレストランの回転式テーブルで食事をしているので、あれがあれば我が家の食卓も便利になると考えたのです。家内も中国へ行ってその便利さを知ってしまったので、大賛成でした。ただ、中国の回転テーブルは分厚いガラス製が多いのです。tetywestは日本でそのようなガラス加工をしてくれそうな店を知りませんでしたし、ガラスは取り扱いに注意しないと割れてしまいます。何かいい材料はないものだろうか・・・と年末から思案していたのです。そんな時たまたま同級生が新年会に集まりました。そこで鉄工所を経営している友人に訊いてみたのです。「中国式回転テーブルを作りたいんやけど、ステンレスで出来るかな?」「そんなん、簡単に出来るわ」「ほんだら、作ってくれる?」「OK」と、頼んであったテーブルが昨日完成したのです。回転テーブルといっても友人に頼んだのは直径60センチ、厚さ3ミリのステンレスの円盤です。その後電気屋さんに寄って、TV回転台を探しました。大きいのと小さいのがあったので、当然大きい方を買いました。家に帰って食卓にセットしてみます。と言っても、TV回転台の上にステンレスの円盤を載せるだけです。回転したとき中心がずれないように調整して、セット完了。早速、昨日の夕食から使っています。ステンレス製なので鍋でも直接置けますし、自分の欲しいものが遠くにあっても、テーブルを廻せば近寄ってくれるのですから、これは便利。これで、食事が済んだ後で洗う皿の数がぐっと減るわけですし、「テーブルクロスを作っておけば、お客様が来たときにも使えるね」と、家内もご満悦です。皆さんもいかがですか?
2004年01月12日
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9月7日(日)午前8時にホテルのロビーに集合して外に出ると、表通りはとても静かだった。歩道と車道の境にはプラタナスの並木が続いている。その歩道を歩いて朝食を食べに出かける。1ブロックほど歩いて曲がったところの路地には飲食店が軒を連ねている。その一軒に入ると、出てきたメニューは今朝も「米線」だった。歩道に置かれたテーブルに座って「米線」を食べる。何軒も同じような店があるのに、なぜかこの店が一番客が多い。大理の朝食どうやら今回の旅行では毎朝「米線」を食べることになりそうだとわかったのはこの時だった。日本に帰ってからも雲南省で食べたこの味が懐かしくて、時々スーパーでインスタントの「ベトナム・フォー」を買って、中国風に味付けしたりしているtetywest夫婦なのだ。朝食が終わると、いつものようにサンタナに乗り込んで走り始める。例によって、今からどこへ行くのかはtetywest夫婦にはわかっていない。しかし、ある程度の予想は出来た。昆明から大理、大理から麗江へ行き、そして麗江から大理へと戻ってきたのだ。今日は昆明まで帰るのだろう。行くときに6時間かかったのだから、夕方昆明に着くとすれば12時頃に大理を出発すればいい。そうすると午前中は大理の観光だろう。そしてその予測の基に、今朝家内はスカートを選んだのだ。今回の旅行は出来るだけ携行する衣類を少なくしてあった。しかし、もし正式な招待を受けるかもしれないとフォーマルなスーツを一着ずつ持っていた。家内はそれ以外にスラックスとスカートをそれぞれ一着ずつ用意し、tetywestはジーンズ一本だけだった。tetywestは別に気にならなかったのだが、家内にしてみれば中国へきてからずっと毎日同じスラックスでは耐えられなかったのだろう。どこかでスカートをはくとしたら今日がチャンスだと思ったのだ。その選択の結果は、半ば正解で半ば不正解に終わるのだが・・・このときはまだ知る由もない。サンタナは昨日通った道を走っている。東側には【さんずいに耳】海が広がり、西側には水田に混じって所々にトウモロコシ畑がある。その向こうに聳える連山は今朝も頂上が雲に覆われていた。昨日訪れた大理古城の真ん中の道路を抜けて、サンタナは山の上へと登っていく。大理古城を抜けたところは広い道路で、両側にずらっと土産物屋が並んでいる。しかし、まったく人通りはなく、どの店もシャッターを降ろしている。かつては賑わっていたのだろうが今はまるでゴーストタウンのようだ。サンタナの運転手が何度も地元の人に道を訊きながら到着したのは「蒼山索道」乗り場だった。駐車場には、ここでも広東省の団体のバスが停まっていたが、それ以外には2、3台の乗用車があるだけだった。「バカと煙は高いところへ昇る」とよく言われるのだが、実はtetywestは高い所が大好きなのだ。どこへ旅行しても、高いところがあればむしょうに上りたくなる。ニューヨークならエンパイアステートビル、シカゴはシアーズタワー、東京なら東京タワーだし、大阪なら通天閣だ。2月に福建省へ行ったときも、アモイでは日光岩に、泉州では開元寺の石塔に上って感激したものだ。高いところへ上れば上るほど視野が広くなり、全体の様子が見渡せる。高いところは、短時間でその地方の雰囲気を捉えるには誠に好都合なのだ。whさんが数ある大理観光コースの中でロープウェイを選んでくれたことに密かに感謝するtetywestだった。
2004年01月11日
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大理古城を後にして、大理市内へ到着したのは午後6時30分頃だった。大きなホテル「【さんずいに耳】海賓館」の前の道路に駐車して待つこと15分、whさんの大学時代の同級生がバイクに乗って現れた。後部座席には眼鏡をかけた女の子が乗っている。麗江の時もそうだったのだが、父親と子供の関係が日本よりはるかに濃密なのだ。中国は「一人っ子政策」なので自然と親子の関係が強くなるのだろう。その同級生の案内で、目の前の「【さんずいに耳】海賓館」へ車を乗り入れる。4階建てのホテルで、駐車場には観光バスが何台も停まっている。tetywestは当然すぐにチェックインするのだろうと予想していた。ところがwhさんは、「ちょっと待っていてください」と、同級生と一緒にホテルに入って行ったまま戻ってこない。しばらく待っていると、ホテルの従業員と一緒に出てきたので、今度こそチェックインだと思った。しかしまた、「ちょっと待っていてください」と、ホテルの裏手の方へ歩いて行った。ようやく戻ってきたと思ったら、「このホテルは良くないです。他へ行きます」と、サンタナに乗るように促された。同級生のバイクの先導で市内の中心部へ向かう。眼鏡をかけた女の子はバイクの後部座席に後ろ向きに座っている。「なんだか、ドクター・スランプのアラレちゃんみたいだね」「でも、怖くないのかな・・・」などと家内と話しているうちに、メインストリートに面した別のホテルの駐車場に到着した。またwhさんが、「ちょっと待っていてください」と下見に出かけたので、今度はサンタナの中で待つことにした。しばらくするとwhさんは首を振りながら戻ってきた。「ここも良くなかったの?」「そうです」再び同級生の先導で走り始める。今度は、メインストリートから2ブロックほど離れた裏道を通って建物に囲まれた駐車場に入った。駐車場の入り口には鉄の扉がある。今度は下見もしていないのに、「ここで降りてください」と言われたので少し驚いた。「ここで泊まるの?」「そうです」そのホテルの部屋は申し分なく快適だった。おそらく我々夫婦が不快に感じないようにと部屋の清潔さや設備に気を遣ってくれていたのだろうというのが家内と一緒に推測した結論だったのだが、実際のところwhさんが何を基準にしてホテルを決めていたのかは未だに謎のままである。大理のホテル(名前は忘れました)の部屋チェックインを済ませるとすぐに、数軒隣にある「鄧氏飯店」へ夕食に出かける。家内も、次々と料理が運ばれてくる中国の晩餐スタイルにすっかり馴染んでいる。whさんの同級生の娘さんは、麗江の男の子と同じ小学3年生だった。酒が飲めないtetywestが注文したのはアラレちゃんと同じコーラだった。「鄧氏飯店」での夕食ホテルに戻ったのはまだ8時半だったのだが、さすがに二人とも疲れていた。TVでは寧夏で行われている「第7届全国少数民族伝統体育運動会」の開会式を現場直播(生中継)していて、色とりどりの民族衣装を着た選手たちが行進していた。少数民族の一番多い雲南省でこんな番組を観るのも何かの縁なのだろうが、集中力が散漫になっていたようであまりよく覚えていない。後で聞いたのだが、whさんは久しぶりの同級生との再会で二晩続けて午前様だったのだそうだ。
2004年01月10日
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通りを歩いて三層の楼閣に到着すると、楼閣の周りはさらに道幅が広くなっている。ちょうどそのあたりを整備中で、小さな池や噴水を造っている最中だった。大通りのど真ん中にある楼閣は「五華楼」と呼ばれ、石の基礎の上に建っている。石の基礎にはトンネルがあり、観光客は皆そのトンネルを通って行く。もちろんtetywestたちもそうした。トンネルを抜けたところで振り返ってみると、トンネル越しに南城楼が見えた。五華楼の下のトンネルこの辺で引き返して欲しいというtetywestの期待はもろくも裏切られ、みんなはどんどん先へ歩いていく。大理古城は広いのだ。同じように道の両側には土産物屋が並んでいるのだが、南城楼の付近よりこちらの方が建物が立派だった。大理古城の街並み交差点の角に、まるでお城のような白壁に茶色の格子窓の三階建ての建物が聳えている。「これは郵便局です」とwhさんが教えてくれる。はす向かいには金花大酒店という立派なホテルもある。ちょうどそこは大理古城の真ん中あたりだった。三人はようやくこの交差点を曲がって山手の方へ歩き出した。やれやれ、これ以上先へは行かないようだ。その通りは復興路よりも狭かったが、同じように土産物屋が並んでいた。少し違うのは、土産物屋に混じって飲食店があることだった。時々店員さんに「土産はいかがですか?」と中国語で呼び止められる。こんなときに使える単語は、「ぷーよー、ぷーよー(不要、不要)」しか知らない。1ブロック歩いて、復興路と平行に走る博愛路を引き返す。たった1ブロックしか離れていないのに、こちらは路線バスが走っているごく普通の通りだった。土産物屋さんも全くない。tetywestはかなり疲れていたのでwhさんの後をほとんど何も見ず何も考えずに歩いていたのだが、ふと気が付くと家内がいない。サンタナの運転手とhyxさんが立ち止まっているところまで引き返すと、そこは布の民芸品の店だった。薄暗い店内にはいろいろな種類の布が積み上げられている。家内はその店に置いてあった「暖簾」が気に入ったようだ。「whさん、これ幾らだか値段を訊いてくれる?」「180元か・・・日本円だと幾らなの?」今度はtetywestに訊く。「3000円より少し安いくらいだね」「それじゃ、絶対買う。お金あるの?」実は、tetywestは今回の旅行に人民元をあらかじめ持っていた。しかし、それは2月にアモイへ行ったときの残りだったので、たいした額ではなかったのだ。中国へ来てはや4日目ともなれば、手持ちの人民元はほとんど底をついていた。財布の中をチェックすると、かろうじて200元残っていた。家内にお金を渡した後、tetywestは店の外で待っていた。その時、このシチュエーションは以前京都でもあったのを思い出した。清水寺から「ちゃわん坂」を下っているとき、家内がおしゃれな暖簾を飾ってある店に入ったのだ。tetywestは外で待っていたのだが、やがて家内が、「どれも高いわ」と言って出てきたのだ。暖簾はそれ以来ずっと家内の「欲しいものリスト」に掲載され続けていたようだ。ニコニコしながら店から出てくると、「はい、お釣り」と、50元札を2枚渡された。「えっ?」「あのね、お金を払おうとしたらwhさんが『100元でいいです』と言うのよ。びっくりして、『どうやって値切ったの?』と訊いたら、『この人は日本から来た私のとても大切な友人ですから安くしてください』と言ったんだって」と、念願の暖簾をとてつもなく安い値段でゲットして上機嫌だった。確か京都では10倍位の値段だった筈だ。現地の事情に詳しい案内人がいるということは、何とありがたいことなのだろう。
2004年01月09日
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長い間中断していた「雲南銀婚旅行」ですが、ようやく続ける気力が復活しました。しかし、記憶はどんどん薄れています。ホンマに最後まで書きとおせるんやろか・・・(汗)-------------------------------------tetywestたちは南城楼から城内に入った。そこから北に延びる復興路が大理古城のメインストリートだった。歩行者専用路なのだが、道幅は麗江の通りよりずっと広くて石畳が敷き詰められている。そして両側には土産物屋が並んでいる。大理古城の道路は南北方向と東西方向しかなくて、街全体が碁盤の目のようになっている。5時を過ぎているのに、人通りは結構多い。大理古城通りの先に三層の楼閣が見えたので、そこまで歩いて行くのだろうということはすぐに理解できた。しかし、今日は朝からかなりの距離を歩いていたのでtetywestも家内も疲れていた。若い三人がどんどん歩いていくので仕方なくついて行ったものの、足取りは重かったのだ。大理市博物館の前の階段に白族の民族衣装を着たガイド嬢が数人座っている。傍らには、「彼女たちと一緒に記念写真を撮りましょう。1ショット5元」と中国語で書かれた看板がある。大理古城のガイド嬢同じようなシチュエーションを、今朝麗江の黒龍澤で見かけたのを思い出した。こちらは納西族の民族衣装だったのだが、tetywestはその特徴を十分把握していないので区別がつかなかった。そこで、写真を一緒に並べてみることにした。麗江・黒龍澤のガイド嬢こうして比べてみると違いがよくわかる。帰国後調べたところ、どちらの民族も未婚の女性は白を基調にした衣装で、年をとると青を基調にした衣装になるようだ。サンタナの運転手はランに興味があるらしく、ここでもランの苗木を売っている露店の人と長い間話しこんでいた。家内は友人にあげるちょっとした土産はないかと探していたが、気に入ったものは見つからなかった。なにやら派手なディスプレーが目に付いたので近寄ってみると、月餅だった。店頭にいろいろな種類の月餅が並んでいる。店頭にずらりと並んだ月餅中国では「中秋節」の前に日頃お世話になっている人たちに月餅を贈る習慣がある。後でわかったのだが、9月11日がその「中秋の名月」だったのだ。月餅の形が円型なのは一家団らんという人々の願いを表していて、「団圓(だんらん)餅」とも呼ばれている。
2004年01月08日
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本年も宜しくお願い申し上げます
2004年01月01日
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