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「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉にあるように、甲斐の国内では築城をしなかったのが武田信玄です。中世武士の居館を彷彿とさせるシンプルな躑躅ヶ崎館がその本拠地で、躑躅ヶ崎館の前面には重臣たちの館が躑躅ヶ崎を守るように建ち並んでおり、まさに「人は石垣」といったところでしょうか。その躑躅ヶ崎館の背後にある要害山城は、その名の通り堅固な要塞といった感じで、躑躅ヶ崎館とは異なった戦国山城らしい雰囲気がありました。 虎口跡虎口には石積みも見られ、武田氏滅亡以後に修復された遺構かも知れません。 曲輪跡藪に覆われていますが、広く削平されていました。要害山城の築城は武田信玄の父、武田信虎の時代です。武田信玄・武田勝頼の時代も城郭として機能しており、修復や整備もされていたようです。武田信玄の戦国城郭を見る機会はあまりないため、貴重な遺構かも知れません。実際に要害山城を訪れてみると、「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉とは裏腹に、堅固な縄張りとなっていました。 堀切跡本丸に向かって曲輪が何重にも配され、曲輪の先にまた曲輪があるといった感じです。虎口跡曲輪跡曲輪を抜けた先には、また虎口が現れました。 虎口跡土塁跡やがて本丸直下にたどり着き、本丸の土塁が見えてきました。 本丸土塁本丸虎口本丸要害山城は1520年、武田信虎によって築城されました。今川家の家臣である福島正成(小田原北条家の家臣「地黄八幡」北条綱成の父)が甲斐に攻め込んだ時、武田信虎が籠城したのがこの要害山城でした。その時、信虎夫人は身ごもっており、この要害山城で生まれたのが、武田信玄です。本丸には「武田信玄公誕生之地」の碑が建っていました。 日本城郭協会「続日本100名城」関連の記事躑躅ヶ崎館(武田神社)(2008年12月)→こちら
2019/08/06
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甲斐源氏武田氏の躑躅ヶ崎館があった武田神社の北方、直線にして約3㎞ほどのところに要害山城があります。前回要害山城を訪れたのは10年以上前のことですが、その時は登城口にある積翠寺温泉が営業していました。その温泉施設は閉鎖されており、現在は他の施設となって、登城口には比較的新しい城跡碑が建っていました。 かつての積翠寺温泉城跡碑植生に違和感がありますが、実は昨年12月の話です。 現地にある縄張り図躑躅ヶ崎の館の方は典型的な中世武士の居館であり、周囲に堀をめぐらしただけのシンプルな造りですが、要害山城は防御設備を備えた有事の際の詰め城だったようです。見えづらいかも知れませんが、山腹に曲輪が幾重にも配されていました。要害山城の登城道はハイキングコースとしても利用されているようで、地元の家族連れなどが気軽に登っていました。登城道を登り始めると、物見台や竪堀などの遺構を見ることができました。 物見台跡(?)ハイキングコースにはありがちなスイッチバックですが、物見台の跡にしか見えませんでした。竪堀跡藪に覆われていますが、はっきりと残っていました。登城道を登り始めると、城郭の遺構が見られるようになり、虎口や土塁などが残っていました。虎口跡石積みも見られますが、武田氏の時代以降に築かれたものだと思います。 土塁跡要害山の下の方には「不動曲輪」と名付けられた曲輪がありました。 不動曲輪この不動尊は江戸時代後期に建立されたもので、不動曲輪の名前もこの武田不動尊に因んでいます。本丸への登城道から木々の間に目を凝らすと、雪を戴く南アルプスを望むことができました。 繰り返しですが、昨年12月のことです。
2019/08/05
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NHKのプロジェクトXでも採り上げられた富士山のレーダードームは、現在「道の駅富士吉田」に併設の富士吉田市立富士山レーダードーム館に保存されています。富士吉田市立富士山レーダードーム館レーダーリレーアンテナ富士山レーダーの気象情報は、このリレーアンテナで東京へ送られていたそうです。実はここを訪れたのは正月の三が日のことで、残念ながら休館中のため、中に入ることはできませんでした。それでもテラスの上には登ることができ、富士山を間近に眺めることができました。山梨県側から見ると、神奈川県側とはまた違った山容で、とても素敵だと思います。
2019/05/17
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この日だけで参詣した浅間神社は、ついに8社目となりました。コノハナサクヤヒメにドン引きされそうなヘビーローテーションですが、最後に参詣したのは河口浅間神社です。河口浅間神社参道鳥居鳥居の先の参道には、樹齢800年と言われる杉並木があります。あまりの大きさに、思わず手のひらで触れて、パワーをもらったりしていました。随神門拝殿本殿拝殿の前には「美麗石(ひいらいし)」と呼ばれる石があり、浅間明神を祀った古来祭祀の石閣の残欠だそうです。美麗石河口浅間神社は貞観の大噴火の起こった864年、富士山の噴火を鎮めるために創建されました。当時は富士山そのものをご神体としていたようで、美麗石もその名残かも知れません。境内には樹齢1200年を超える杉の大木があり、反時計回りに1号から7号まで「七本杉」と呼ばれています。七本杉の1つこのような大木が育つ場所をパワースポットというのでしょうか。この日は東口本宮富士浅間神社をスタートして、須山浅間神社、村山浅間神社、山宮浅間神社、富士山本宮浅間大社、白糸の滝、人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)、河口御室浅間神社、そして河口浅間神社と世界遺産をめぐって来ました。河口浅間神社の後は、以前も参詣した北口本宮浅間神社に立ち寄り、忍野八海の前を通って再び東口本宮富士浅間神社と、気が付けば富士の裾野を一周していました。今回の世界遺産めぐりルート→こちら富士山のスケールとパワーのほんの一部に触れただけかも知れませんが、河口浅間神社から改めて富士山を眺めると、ひときわ雄大に見えたのは気のせいでしょうか。そしてその富士山に対する先人たちの厚い信仰心に触れると、まさに世界に誇る日本の文化遺産だと思いました。ユネスコ世界文化遺産「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」
2018/08/29
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富士山の裾野を半周してきて、いよいよ静岡県(富士宮市)から山梨県(富士河口湖町)に入って行きました。今回の世界遺産めぐりルート→こちら人穴富士講遺跡からの道中では、何度も寄り道しそうになったのですが、河口湖畔に鎮座する富士御室浅間神社までやって来ました。大鳥居大鳥居脇にある境内図を見ると、里宮社と本宮本殿があり、それぞれ向きが反対になっているようでした。表参道表参道の先には随神門が建っており、真っすぐ進むとその先に里宮社があります。随神門里宮社拝殿富士御室浅間神社の本宮は、699年に藤原義忠が富士山の二合目に勧進したのが始まりで、富士山の山中では最も古い神社とされています。本宮本殿前には、「斉司藤原朝臣義忠公顕彰碑」と書かれた碑が建っていました。祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)で、本殿に参拝すると富士山の方向を向くようになっていました。本宮本殿(国指定重要文化財)現在の本殿は1611年に領主である鳥居成次が富士山二合目に造営したもので、昭和48年(1973年)に現在の場所に移築復元されたものです。表参道の反対側、里宮の先には北参道があり、河口湖畔へと続いていました。北参道の鳥居北参道の鳥居のすぐ先には、河口湖の湖面が広がっています。富士御室浅間神社は、甲斐武田氏の信仰も厚く、信虎・信玄・勝頼3代の文書なども残っているそうです。境内にある「武田信玄公御祈願所」碑かつては駿河と甲斐で争っていた武将たちも、富士山の信仰は同じだったようです。ユネスコ世界文化遺産「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」
2018/08/28
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龍岡城五稜郭のある長野県佐久市から「佐久甲州街道」(現在の国道141号線)を通って、山梨県に入ってきました。武田信玄が甲斐の国に城を築かなかったためか、近隣都県に比べて山梨県には戦国城郭が少ないように思います。武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎館(甲府市)は中世武士の居館といったところで、とても戦国城郭と呼べるようなものではありません。また、躑躅ヶ崎から本拠地を移して築城した新府城(韮崎市)は、長篠設楽原の戦いでの敗戦後、武田勝頼の時代に築かれた城ですし、同じ甲府市にある甲府城にいたっては、武田氏の滅亡後に造られた近世城郭です。そんな山梨県にあって、信濃との国境近くには戦国城郭がいくつか見られ、北杜市須玉町にある若神子城もその1つです。現在の城跡は「須玉町ふるさと公園」となっており、公園入口のある北側が搦手になるようです。搦手口搦手口の脇には横矢のようなものがありましたが、判然としませんでした。搦手の備え城郭の遺構らしきものは残っていないのでよくわかりませんが、公園の区画が曲輪の跡かも知れません。位置関係からすると本丸跡でしょうか。本丸の先には植木で囲まれた一角があり、発掘された薬研堀の跡だそうです。薬研堀跡深さは1.2mあったようですが、ほとんど埋まってしまっていました。また、畝堀が見られることから、なぜか北条流の築城術です。薬研堀の先は煉瓦敷の広場になっていて、こちらも曲輪の跡かも知れません。煉瓦広場の先には物見櫓のような建物があり、案内板を読むと烽火台とのことでした。武田信玄は信濃方面との連絡や情報収集に烽火を使い、情報は甲府に集められていたそうです。さすが烽火台のある場所は見晴らしもよく、煉瓦敷の広場から眺めると、「ニセ八ヶ岳」の異名を持つ茅ヶ岳が見通せました。眼下にはかつて武田信玄も行き来したと思われる、佐久甲州街道(国道141号線)が通っています。煉瓦敷広場の先は森林になっていて、足を進めてみると、大手口に堀切と思われる跡が残っていました。堀切跡「羹に懲りて膾を吹く」とはこのことですが、誰もいない公園でクマ除けの鈴を鳴らしながら歩いていました。若神子城の山腹には「甲斐源氏発祥の地 須玉町」と書かれた大きな看板が掲げられています。そんな由緒ある史跡なのですが、他に誰も人はおらず、また人が来ている形跡もあまりありませんでした。若神子城は新羅三郎義光が築城したと伝えられ、これが「甲斐源氏発祥」の根拠になっているようです。ふるさと公園のある「古城」を中心に、「北城」・「南城」の三城から成っており、この総称が若神子城です。武田信玄の時代は、信濃侵攻の重要拠点として機能していたようですが、武田氏滅亡後は小田原北条氏の拠点となっていました。1582年には信濃から甲斐へ攻め込んだ北条氏直が本陣を置き、三河から進軍して新府城に本陣を置く徳川家康と対峙しました。この時は旧武田氏の家臣を巧みに利用した徳川家康の勝利となりましたが、後に両者は和睦して同盟を結んでいます。
2018/08/13
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日本には五稜郭が2つあって、1つは有名な函館の五稜郭、そしてもう1つが長野県佐久市にある龍岡城の五稜郭です。五稜郭公園から五稜郭の方へ歩いて行くと、民家や畑の中にいきなり稜堡が現れました。北西側稜堡周囲の水堀は埋められて道路となっているため、稜堡や石垣を間近に見ることができました。石垣は最も進化した切込み接ぎの布積みで、石垣上部に武者返しの「刎ね出し」を備えています。函館の五稜郭のように完全な形で残ってはいませんが、大手口のある北東側を含め、東側の周囲には水堀が残っていました。現地の縄張図(大手口のある北東が地図の下になります)大手口と大手橋大手口付近の水堀龍岡城の本丸跡は田口小学校の敷地となっており、かつての虎口の跡が小学校への出入口に使われています。北西側の黒門跡かつては非常用の出入口として使われていたようです。本丸跡小学校の敷地に建つ和風の建物が御台所櫓で、現存する建築物です。城郭の外側は水堀と石垣で囲まれていますが、内側には土塁が築かれていました。南東側の水堀幾何学的な線形が美しいと思います。南東側の土塁(城内から見たところ)北東側の稜堡(城外から見たところ)函館の五稜郭に比べて規模も小さいため、稜堡を間近に見ることができます。北東側の稜堡(城内から見たところ)画像ではわかりづらいですが、函館の五稜郭を彷彿とさせる造りとなっていました。龍岡城は三河国奥殿藩の藩主、松平乗謨(のりかた)によって築造され、1867年に完成しました。函館五稜郭の竣工が1864年なので、龍岡城の五稜郭の方が新しいことになります。三河の殿様が信濃に築城することには違和感がありますが、三河奥殿藩の松平氏は本拠地の三州奥殿と信州佐久にそれぞれ封地を持っていました。しかも三州奥殿が4,000石に対し、信州佐久は1万2,000石と、石高では信州の方が上回ります。信州佐久には陣屋を置いていましたが、居館を三河から信濃に移すことに決め、幕府からも許可を取り付けました。松平乗謨は、幕府では陸軍奉行や陸軍総裁を務めており、西洋軍学にも通じていたため、居館を西洋式の城郭にして、完成したのが龍岡城五稜郭です。せっかく完成した龍岡城でしたが、完成からわずか5年後の1872年、廃藩置県によって解体され、廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/08/12
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諏訪盆地の東側は、南北に延びる主稜線から東西に支稜線がいくつか延びており、上原城から北へ約3kmの別の支稜線上にあるのが桑原城です。桑原城へのアプローチは2通りあり、北側の普門寺口からだと途中まで林道が続いています。未舗装の砂利道となっており、SUVなら行けるかも知れませんが、私は林道の入口から歩いて登りました。林道が終わると本格的な山道となり、誰もいない山道でクマ除けの鈴を鳴らしながら歩いていると、上から人が下りてきたのでビックリしました。普門寺口の登城道は桑原城の搦手に続いており、稜線上に取りつくと堀切が現れました。看板は「空濠」となっていましたが、稜線上の堀切だと思います。桑原城は上原城の支城としての位置付けですが、搦手の防御が堅固だった上原城に比べ、桑原城の方はさほどでもないように思います。樹林帯を抜けると「東曲輪」と呼ばれる削平地に出ました。東曲輪虎口と思われる場所にいくつか石が埋められていますが、門の礎石とも思えず、意味はよくわかりませんでした。東曲輪には墳丘のような盛り土があり、「首塚」と書かれています。諏訪頼重が武田晴信(信玄)軍を相手に籠城戦を繰り広げた城で、「首塚」の意味するところは想像に難くありません。桑原城の縄張はとてもシンプルで、東曲輪の他には二の丸と本丸が連郭で配されているだけです。本丸本丸から見た二の丸本丸と二の丸の間は大きな空堀で仕切られているものの、防御設備として他に目につくものはありませんでした。二の丸と本丸の間の空堀二の丸から見た本丸二の丸に立つと、木々の間に諏訪湖を望むことができました。諏訪頼重もここから諏訪湖を眺めたかも知れませんが、諏訪氏の最期に何を思ったのでしょうか。松尾芭蕉翁が奥州平泉の衣川館跡で詠んだ句を拝借するならば、「夏草や つはものどもが 夢の跡」桑原城の籠城戦については、「武田信玄の諏訪攻めと桑原城」と題して、現地の解説板に詳しく書かれています。諏訪頼重の最期と諏訪氏の滅亡は、武田信玄の謀殺だったということでしょうか。
2018/08/11
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駐車スペースのある登城口は、現地の案内板で見ると、搦手にあたるようです。本丸の背後の搦手には「はなれ山」と呼ばれる場所があり、現地の縄張図では「はなれ山」から竪堀が幾筋も延びているようでした。搦手の登城口のすぐ脇には、その竪堀が残っていました。はっきりそれとわかるほど、よく残っています。畝状の竪堀が連続しており、何とも念の入ったことです。本丸の背後にある「はなれ山」と本丸の間の空堀を通って、まずは大手口に向かってみました。空堀堀の深さも土塁の傾斜もお見事で、よく残っていたものだと思います。三の丸跡には金毘羅神社が建っていて、鳥居越しには諏訪盆地を一望することができました。諏訪氏代々もここから諏訪盆地を眺めていたことと思います。金毘羅神社殿かつての三の丸、金毘羅神社の背後は一段高くなっており、ここが二の丸になります。二の丸には「物見石」と名付けられた巨岩がありました。物見石果たして本当に物見に使われたのでしょうか、また使われとしても役に立ったのでしょうか。本丸はさらに高い位置にあり、土塁というより山の斜面のような感じで、土塁が崩れて来るので、直登はしないように注意書きがありました。おそらく自然の地形を利用したのでしょうが、それでも本丸は意外と広く削平されていました。本丸金毘羅山の山頂でもあり、標高978m地点です。本丸から見ると、同じくらいの高さに「はなれ山」の曲輪があり、空堀も上から眺めることができました。画像ではわかりづらいですが、空堀の向こうに「はなれ山」があり、削平された曲輪が見えています。久々の戦国山城でしたが、昨年は同じ時期にクマに遭遇したこともあり、今回はクマ除けの鈴を鳴らしながらの登城でした。今年に入って諏訪市や茅野市でのクマの目撃情報はないようですが、蓼科山や霧ケ峰の前衛にあたるため、遭遇してもおかしくはない場所だと思います。上原城の築城年代は明らかになっていませんが、諏訪氏の本拠地であったことは間違いありません。1466年頃より諏訪信重が中腹(板垣平)に居館を構え、以後諏訪頼重の至るまで、五代約70年わたって、諏訪氏の本拠地でありました。(最後の当主、諏訪頼重の娘を母に持つのが、武田勝頼です)1582年に武田晴信(信玄)が諏訪頼重を滅ぼすと、諏訪は武田氏の領地となり、上原城も武田氏の諏訪統治の拠点となりました。この時に諏訪郡代として上原城に入城したのが、武田四天王の1人である板垣信方で、中腹の居館跡の地名「板垣平」の所以ともなっています。武田氏支配の拠点でありながらも、搦手の登城口には「諏訪氏城跡上原城」と書かれた碑があり、地元の方の諏訪氏への思いが伝わってくるようでした。「諏訪氏城跡上原城」の碑その横のポストに「風林火山」と書かれているのは、何としたことでしょうか。
2018/08/10
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諏訪市と茅野市の市境付近から見ると、金毘羅山の山腹に「上原城跡」と大きく書かれた看板がよく見えます。比較的場所が特定しやすいのが上原城ですが、実は上原城を訪れるのは2回目で、前回の訪問はちょうど11年前の2007年8月でした。前回は城跡の特定だけでなく、城跡へのアプローチもさほど苦労した覚えが全くないのですが、集落の中の細い道路を抜けるとさらに道は細くなり、林道のような1車線道路が続くようになりました。「道を間違えたのかな?」と思いきや、樹林帯が切れたところでようやく「上原城跡」の看板前に到着しました。城跡看板のある場所は「板垣平」と呼ばれ、武田信玄が諏訪頼重を滅ぼした後、武田氏の郡代として諏訪を支配した板垣信方の居館があった場所です。それでも板垣平に建つ碑には、「上原城諏訪氏館跡」とあり、このあたりに地元の人たちの諏訪氏への思いが込められているように思います。現地の案内板では、上原城の本丸は金毘羅山の山頂部分にあり、ここからはさらに2kmの道のりがあるようです。ここからは1.5車線(たまに2車線)の道路となり、舗装はされているものの、かなり荒れたワインディングロードを行くこととなりました。前回ここを訪れた時は、確かパジェロミニ(5MT、ターボ付き)だったので、むしろこういう道は得意分野でした。今回はフェアレディZ(Z33)なので、対向車と路肩に常に気を配りつつ、時折クルマから下りて石や木の枝を手でどけながら、マニュアルモードの2速固定で、ノロノロと走っていました。(こんな道でうっかりアクセルを踏み込むと、どこに飛んでいくかわかりません)コンパクトで車高も高く、視界も良好なパジェロミニと違って、同じFRながらすべてが正反対のゼットでここに来たのは、やはり間違いでした。(ゼットの方もお尻を上下左右に振って嫌がっていました)長い長い2kmの道のりでしたが、幸い対向車に遭うこともなく、明後日の方向に飛んでいくこともなく、ようやく登城口までたどり着きました。よく頑張りました💮それにしてもこのクルマ、NG多すぎです。駐車スペースのある所は上原城の搦手にあたります。ご機嫌ナナメのゼットを置いて、私の方はクマ除けの鈴を装着しつつ、そそくさと戦国山城の城跡ハントに出かけて行きました。
2018/08/09
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かつては諏訪湖の南岸に面し、「諏訪の浮城」と呼ばれたのが、長野県諏訪市にある高島城です。駐車場に下りると、細い道を挟んだすぐ先にいきなり石垣と守がありました。石垣の積み方は古い「野面積み」なので現存だと思いますが、天守は後世になって建てられた復興天守です。現在は本丸部分が公園として整備されており、まずは本丸北側の大手虎口の方に回ってみました。大手口には水堀が残っており、「冠木橋」と呼ばれる橋が架かっていました。冠木橋の先には「冠木門」と呼ばれる門が復元されていますが、どう見ても冠木門形式ではなく、櫓門です。冠木門(城内から見たところ)渡櫓を備えていて、やはり櫓門だと思います。現地の解説を読むと、「当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称だけ残されたものであろう」とありました。また、当時の絵図には、楼門か高麗門のような屋根付きの門が建っていたそうです。「冠木門」を通って本丸に入ると、先ほどの天守は本丸の北西隅に復興されていました。天守(城内から見たところ)明治初期に撮影された天守の写真が残っており、史実に基づいて復興された天守です。外観の細部は少し異なっているようですが、入母屋破風や花頭窓を備えた望楼型天守で、関ヶ原の戦い以前の織豊期らしい天守です。冠木門を挟んだ反対側、本丸の北東側の隅には、「角櫓」も復元されていました。角櫓(城内から見たところ)高島城に限ったことではありませんが、天守や櫓は面倒でも城外から見るのが一番だと思います。天守(城外から見たところ)角櫓(城外から見たところ)かつて本丸御殿のあった場所は庭園となり、心字池が造営されていました。昭和45年(1970年)、諏訪高島城復興復興則成会の会長でもあった当時の岩本諏訪市長の設計によるものです。「人」の形をした池に「心」の形をした島が配され、諏訪市が人の心の和によって発展する願いが込められているそうです。本丸の西側に回って、かつて御川渡門のあった場所には、三の丸御殿の裏門が移築現存しており、唯一の現存建造物となっています。三の丸御殿裏門(移築現存)かつて高島城が諏訪湖に面していた頃は、御川渡門から諏訪湖の船に乗ることができたそうです。現在となっては「諏訪の浮城」も想像でしかありませんが、葛飾北斎のの富嶽三十六景「信州諏訪湖」では、諏訪湖に浮かぶ高島城の姿を知ることができます。葛飾北斎富嶽三十六景「信州諏訪湖」→こちら近世の高島城の築城は、豊臣秀吉の家臣である日根野高吉によるもので、1592年に着工し1598年に完成しました。1601年に日根野高吉が移封になると、諏訪頼水が高島城の城主となり、再び諏訪氏の居城となりました。以後は明治維新まで、10代にわたって諏訪氏が高島藩主を務めています。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/08/08
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高遠城の築城時期はよくわかっていませんが、南北朝時代に諏訪氏からわかれた高遠氏の拠点であったとされています。戦国時代には甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻し、伊那谷攻略のために高遠城を奪取しました。武田信玄の四男である諏訪勝頼(のちの武田勝頼)が高遠城主となり、勝頼が甲府に戻って武田氏の当主になると、武田信玄の五男である仁科盛信が城主となりました。江戸時代に入って高遠藩が置かれると、旧武田氏の家臣である保科正光が初代藩主となりました。そして第2代高遠藩主となったのが、保科正光の養子、保科正之です。保科正之は徳川第2代将軍徳川秀忠の隠し子だったのですが、正妻である江姫の嫉妬を恐れたため、保科正之は高遠藩に預けられたというエピソードがあります。保科正之は後に会津藩主となり、猪苗代湖畔の土津神社に墓所がありますが、土津神社を訪れた時、境内に高遠町から送られた桜の木が植えられていたのを覚えています。高遠町歴史博物館には、こんな幟が立っていました。保科氏の後、高遠藩主は鳥居氏、内藤氏と変わっていますが、内藤氏の時代に高遠藩に預けられた人物がもう1人いました。「絵島事件」の絵島がその人で、内藤氏が藩主の時に高遠藩預けとなっています。絵島の幽閉されていた部屋が「絵島囲い屋敷」として、高遠町歴史博物館の中に保存、展示されています。高遠町歴史博物館時間が早すぎて、まだ開園していませんでした。実は10年位前にも高遠城を訪れたことがあって、その時は絵島囲い屋敷を見学したのですが、牢屋のような狭い部屋だったのを覚えています。ところで江戸城の鬼門(北東)にある平川門の横には、「不浄門」と呼ばれる門があります。江戸城内で死者が出た時は、「不浄門」から城外へ出されるのですが、生きてこの門から外へ出されたのは、浅野内匠頭と絵島だけです。江戸城不浄門(2008年10月)画像の左側が城内で右側が城外なのですが、この門だけ内と外の向きが逆になっています。話を高遠城に戻すと、内藤氏第7代藩主内藤頼寧は名君として名高く、藩政改革で産業を発展させたり、軍事の西洋化を進めたりしていました。その子で第8代藩主の内藤頼直は内藤頼寧の意志を受け継ぎ、「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先なるはなし」と、藩校の「進徳館」を創設しました。かつて三の丸のあった場所には、進徳館の建物が一部現存しています。進徳館表門(現存)創設されたのは幕末の1860年です。玄関と前通り東棟と西棟(現存)進徳館では和学・漢学だけでなく、洋学も教えていたそうです。また兵学や武術など、優秀な教員を招聘して、進歩的な教育が行われていました。進徳館からは後に長野県の教育界を担う多くの人材を輩出しており、長野県が「教育県」と呼ばれる一端かも知れません。日本城郭協会「日本100名城」
2018/08/07
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二の丸を出て本丸に向かうと、曲輪と曲輪の間には堀切跡があって、橋が架かっていました。この橋は桜雲(おううん)橋と名付けられており、橋を渡った先の虎口には、門が建っていました。「問屋門」と名付けられており、江戸時代の高遠城下町の問屋役所にあった門です。昭和20年代の取り壊しの際に売却される予定でしたが、町の有志によって買い戻され、本丸虎口に移築されたそうです。問屋門から本丸に入ると、門の先に石垣が続いていましたが、高遠城の遺構かどうかはわかりませんでした。。本丸にも桜の木々が数多く立っていますが、今となっては大きな葉が青々と繁っていました。本丸春は桜並木なのでしょうが、もはやこの季節だと亜熱帯林です。本丸の北西側に足を運ぶと、新城藤原神社が祀られていました。織田信忠の大軍を迎え撃ち、壮絶な籠城戦で最期を遂げた高遠城主仁科盛信(武田信玄の五男)の霊を、1831年に高遠藩第7代藩主内藤頼寧が「新城神」として合祀した神社です。元々は内藤家の祖神である藤原鎌足が祀った「藤原神社」が建っていたため、合祀によって「新城藤原神社」となったそうです。そして本丸の南西側に建っているのが太鼓櫓で、1877年(明治10年頃)に移築された後、1943年(昭和18年)まで、太鼓を打って時を知らせていました。太鼓櫓江戸時代には搦手門のそばにあって、やはり太鼓を打って時を知らせていましたが、廃城の時に別の場所に新設され、1877年にここに移築されたものです。本丸の西側は眺望が開けていて、はるか空の方に目を向けると、所々に残雪を頂く中央アルプスの山並みを眺めることができました。黄色の枠の部分、方角からして木曽駒ケ岳の千畳敷カールと宝剣岳だと思います。あとで山頂部分を拡大してみると、やはり見覚えのある光景でした。高度が100m上がるごとに気温は0.6℃~0.7℃下がるため、標高2,955mの木曽駒では地上と比べて20℃近い気温差があります。2016年の6月に木曽駒ヶ岳に登ったのですが、その時はすっかりアルペン気分でした。千畳敷カールと宝剣岳(2016年6月)木曽駒から見ると、高遠城のある伊那谷がはるか下にあったのを思い出しました。
2018/08/06
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日本100名城の選定では「1都道府県から最大5城以内」の基準があって、1つの県からは最大5城までしか選ばれません。それでも数々の名城がひしめく長野県からは、その最大の5城が選ばれ、高遠城は見事「日本100名城」に当選しました。長野県からは他に松本城・上田城・小諸城・松代城(海津城)の計5城が100名城に選ばれています。そんな名城の激戦区から選ばれた高遠城は、戦国時代は甲斐武田氏の重要な拠点であり、実戦経験もある名城です。現地にある縄張図を見ると、本丸・二の丸・三の丸が悌郭式に配され、さらには勘助曲輪・南曲輪・法幢院曲輪が本丸を囲っています。現地の縄張図かつての高遠城には本丸・二の丸・三の丸と搦手に櫓門が建っていたそうですが、いずれも民間や寺院に払い下げられたそうです。勘助曲輪のあったところ、駐車場の外れの目立たない所には、移築大手門と伝えられる門が建っていました。かつてここに高遠高校があった時、高校の正門として使われていたようですが、この門を見る限りではとても大手の櫓門には見えません。その勘助曲輪と武家屋敷の跡は高遠高校の時代にはグランドとして使われており、現在は駐車場として使われていました。勘助曲輪の跡勘助曲輪の名称は、武田信玄の命によって縄張を行った山本勘助に由来しています。それにしてもこの広大な駐車場に、この時は車が3台しか停まっていませんでした。高遠城はさくらの名所としても有名で、「日本100名城」だけでなく、「さくらの名所100選」にも選ばれています。さくらの名所100選の碑毎年4月に開催される「高遠さくら祭り」では、約20万の人が見物に訪れるとのことです。城内に植えられた1,500本のタカトオコヒガンザクラは「天下第一の桜」と呼ばれ、城址公園が一面桜の色に染まるようです。二の丸に建つ「天下第一の桜」の碑もちろん桜の季節はとっくに終わっているので、大きな桜の葉で一面が緑色に染まっていました。この季節(7月)は、花見もさることながら、戦国城郭にも相応しくない季節です。城郭の遺構が木々草に覆われて、縄張などが非常にわかりづらくなってきます。二の丸の周囲には土塁や堀切などの遺構が確認できたのですが、草木に覆われて判然としませんでした。二の丸の土塁南曲輪と法幢院曲輪の間には白兎橋と呼ばれる橋が架かっていたので、堀切でもあるかと思って、橋から下を見てみました。白兎橋南曲輪と法幢院曲輪の間の堀切画像にすると何だかよくわかりませんが、確かに堀切の跡があります。草木が落葉する晩秋から早春にかけてだと、遺構もはっきりわかると思います。高遠城は平山城ですが、これが戦国期の山城となると、草木に覆われて縄張が判然としない上に、天敵であるオオスズメバチや大の苦手の爬虫類がいるので非常にやっかいです。さらには昨年の夏、会津若松の小田山城を訪れた時は、ついにツキノワグマにも遭遇しています。
2018/08/05
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そもそも諏訪大社に上社と下社があって、上社と下社も2社ずつあるので、諏訪大社が合計4社あるとは思ってもいませんでした。諏訪大社下社秋宮を参拝した後は、諏訪大社上社本宮を訪れました。諏訪大社下社は諏訪湖の北側、下諏訪町にあるのに対し、上社本宮は諏訪湖の南側の諏訪市にあって、その道のりは10km以上離れています。入口御門(国指定重要文化財)文政12年(1829年)の建立だそうです。入口御門の先は廻廊のような造りになっており、「布橋」の名前が付けられていました。布橋では、左側に社殿を見ながら歩くことになります。額堂(国指定重要文化財)額堂の隣に建つのが摂末社遥拝所で、諏訪大社上社の前宮を始め、上・中・下にそれぞれ13社ずつ、計39社の摂末社が祀られています。摂末社遥拝所(国指定重要文化財)諏訪大社上社の境内は不思議な配置になっていて、幣拝殿が表参道に背を向けるように建っていました。鳥居をくぐって布橋を歩いて行くと、幣拝殿の裏側から正面に出る格好となります。幣拝殿の裏手にある御宝殿(国指定重要文化財)幣拝殿の正面側までやって来ると、右手に格式のある社殿が建っていました。勅願殿(国指定重要文化財)名前からすると天皇が祈祷を行う場所になりますが、諏訪大社では個人の私事について祈祷を行う場所だそうです。諏訪大社の御神体である守屋山に向かって建てられているので、幣拝殿よりも格式が高いかも知れません。勅願殿が個人の祈願を行う場所であるのに対し、国家安康や公事の祈願を行う場所が幣拝殿です。幣拝殿(国指定需要文化財)勅願殿が御神体に向かって祈願する場所だとわかると、境内の不思議な配置もわかるような気がしてきました。神楽殿が幣幣殿の後方にあるのも不思議ではなくなってきました。神楽殿(国指定重要文化財)勅願殿を本殿とするならば、神楽殿は本殿の右手前方にあるため、何ら不思議はありません。この日は神楽殿で居合抜きが行われていて、日本刀の真剣がさらに厳粛な空気を漂わせていました。諏訪大社には七不思議があるそうで、その一つに天流水舎の「お天水」があります。天流水舎(国指定重要文化財)天流水舎の後ろに見えるのが、これまで歩いてきた布橋(国指定重要文化財)です。天流水舎では、どんな晴天の日でも必ず屋根の上から雫が三滴落ちると言われ、この水を青竹で持ち帰って雨乞をすると、必ず雨が降るそうです。古くから鎮座する神社に来ると、「ここに神社があるのは何故だろう?」といつも思います。昔の人は「気」のようなものを感じることができ、その「気」の強い場所に神社を建立したのではないかとも思います。(伊勢神宮や出雲大社では、「空気が違った」と聞いたことがよくあります)諏訪大社も古くからの鎮座ですが、昔の人はここにも流れる「気」を感じていたのかも知れません。現在ではこういう場所を「パワースポット」と呼んでいるのでしょうか。
2018/07/23
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全国にある諏訪神社の総本社が諏訪大社です。諏訪大社に参拝しようとして諏訪に来たものの、諏訪大社があちらこちらにあるので、どうもおかしいと思っていました。諏訪大社は一つしかないと勘違いをしていたのが悪いのですが、諏訪大社には上社と下社の2社があるうえ、下社も春宮と秋宮に分かれていたりして、実際には4社あるようです。そもそも4社の位置関係もよくわかっておらず、まずは諏訪湖の北側、下諏訪町にある下社秋宮に参拝しました。諏訪大社下社秋宮の鳥居鳥居をくぐると、すぐ正面には神楽殿がありました。神楽殿(国指定重要文化財)1835年に立川和四郎二代目棟梁の富昌によって建立されました。二代目立川和四郎は、上社本宮の幣拝殿も手掛けたそうです。諏訪大社下社の社殿は、幣殿と拝殿が一体となった幣拝殿と呼ばれるそうで、左右には片拝殿が並んでいます。左右片拝殿(国指定重要文化財)1777年に初代立川和四郎富棟によって造営されました。幣拝殿(国指定重要文化財)祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ)と八坂刀売神 (やさかとめのかみ)で、日本神話のことはよくわからないのですが、初めて聞く名前の神様でした。
2018/07/22
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浅間神社の総社である富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)から見ると、富士山をはさんだ反対側に鎮座しているのが、北口本宮富士浅間神社です。 鳥居 随神門(1736年建立、国指定重要文化財)北口本宮富士浅間神社に限ったことではありませんが、古来より鎮座している神社域に入ると、なぜか空気までもが変わったように思うことがあります。言葉にすると清澄とか厳粛とかになるのでしょうが、ここでも思わず深呼吸をしたくなりました。昔の人は「気の流れ」のようなものを感じることができ、だからここに神社が鎮座しているのではないかと思ったほどです。(ふとそんなことを考えてしまうのも、やはり「気もせい」でしょうか)玉砂利を踏みながら境内に入って見ると、重文指定の建物がずらりと並んでいて、壮観でした。富士講を率いる村上光清によって、江戸時代に再建されたもので、いずれも現存してる建造物ばかりです。 神楽殿(1737年建立、国指定重要文化財)手水舎(1745年建立、国指定重要文化財)手水舎が重文指定されるのも珍しいことですが、社務所も現存しており、国の重要文化財に指定されています。拝殿(1739年建立、国指定重要文化財)もちろん祭神はコノハナサクヤヒメです。拝殿と本殿の裏手には江戸時代に建立された恵毘壽社があり、透塀の彫刻はあの伝説の彫刻師、左甚五郎の作だそうです。(何度も探し回ってみたものの、残念ながら発見することができませんでした)拝殿の左右には西宮本宮と東宮本宮が遷座しており、こちらは本殿よりも古い年代の建立です。 西宮本殿(1594年建立、国指定重要文化財)そして思わずうなってしまったのが、東宮本殿でした。 東宮本殿(1561年建立、国指定重要文化財)造営したのは武田信玄で、川中島合戦の戦勝祈願のために建立したものです。東宮本殿の先には祖霊社が祀られており、ここが富士の吉田口登山道入口です。周囲には富士講の人たちが建てたと思われる碑が、ずらりと並んでいました。古くから信仰の対象として、人々の畏敬と崇拝を集めてきた富士山ですが、その「文化遺産」としての富士山を見たような気がしました。もちろん北口本宮富士浅間神社も構成資産の1つです。パワースポットとはこういう場所を言うのでしょうか、境内には山梨県下最大の高さ33mのヒノキが残っています。このヒノキも富士のパワーで生き延びてきたのでしょうか。ユネスコ世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」
2018/06/19
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近隣他県に比べて山梨県内には戦国城郭が極端に少ないのですが、武田信玄の時代には甲斐の国内に築城する必要がなかったことの表れかも知れません。信濃や駿河などには武田流の築城術が見られますが、甲斐の国内ではなかなかお目にかかることもありませんでした。そんな甲斐の国内にあって、武田氏によって新たに築かれた城が新府城です。夏場は戦国城郭、とりわけ山城についてはシーズンオフにしているのですが、せっかくなので甲府から韮崎へとさらに足を延ばしてみました。韮崎駅から小淵沢寄りに1駅行ったところに新府駅があり、無人駅ながら新府城への最寄駅となります。桃畑から振り返ると八ヶ岳、、、ではなく別名「ニセ八ヶ岳」と呼ばれる茅ヶ岳が見えていました。新府駅を降りて案内の矢印に従いながら行くと、やがて急斜面の階段と藤武稲荷神社の鳥居に辿り着きました。急斜面のずっと上の方まで階段が続いています。階段を登り切ったところに神社の拝殿があり、ここが新府城の本丸のようです。縄張り図を見てみると、登って来た階段のある急斜面は、新府城では搦め手となるようでした。南側の緩斜面に沿って曲輪が配されており、武田流築城術の三日月堀や丸馬出などもあるようです。比高50mの地点にある本丸本丸大手方向にある馬出の跡本丸周囲には帯曲輪が配されていたようで、曲輪と土塁の跡も受けられました。夏場を戦国山城めぐりのシーズンオフとしている理由の1つに、夏は草木に覆われて縄張りや遺構がわかりづらいということがあります。二の丸の曲輪跡周囲に土塁が残っているように見えます。途中で土塁が切れてわずかに枡形になった場所があったのですが、ここは二の丸の虎口跡かも知れません。新府城の各曲輪は周囲を土塁で囲まれていたものの、特に空堀跡などは見当たりませんでした。西三の丸の土塁西三の丸の曲輪縄張り図を見る限りでは、西三の丸の大手口に武田流築城術の三日月堀や丸馬出の跡があると思われます。やはり草に覆われて判然としませんでした。冬場のオンシーズンならば近くに寄って探索出来るのですが、夏をシーズンオフにしているもう1つの理由、大の苦手のヘビやトカゲなどの爬虫類がいるので全く近寄れません。新府城の大手、南大門跡おそらく枡形だと思うのですが、私には遠目に眺めるしか方法がありませんでした。新府城は正式には新府中韮崎城といい、1581年に武田勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から本拠地を移すべく、新たに築かれた城です。織田信長の侵攻に備えて築かれた城で、真田昌幸の縄張り普請によって、わずか8ヶ月で完成しています。それでも織田信長・徳川家康連合軍の攻勢と家臣の離反が激しく、武田勝頼は自ら新府城に火をかけて、新府城も放棄せざるを得ませんでした。家臣小山田信茂の岩殿城へと向かう途中、小山田信茂の離反にも遭い、天目山の山中で自刃の最期を迎えています。新府城から見ると、雲間に南アルプスの気高くも気品のある山容が見えており、そんな戦国絵巻が余計に遠く感じました。一番奥に見えるピークが甲斐駒ヶ岳です。甲斐違い。
2013/07/24
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大菩薩嶺で予定より時間が大幅に早かったので、天目山によってみたものの、さらに時間が余っていました。少し足を延ばして、立ち寄ってみたのが甲府です。思えば甲府に来るのは5年ぶりくらいでしょうか、甲府駅の北側はすっかり変わって歴史公園として整備されていました。甲州夢小路と時の鐘甲府駅北口甲府城の本丸石垣は線路の向こう側の南口、そして遥かなる大菩薩連嶺以前は何だか工事が行われていたのを覚えていますが、すっかり変わってしまった駅前広場にあって、ひときわ目立つ洋風の木造建築がありました。藤村記念館(旧睦沢学校校舎)元々躑躅ヶ崎館 (武田神社)にあったのを、移築したものです。そう言えば躑躅ヶ崎の西曲輪に木造の洋風建築が廃屋みたいに建っていたのを思い出しました。藤村記念館は旧睦沢村の睦沢学校の建物で、明治8年(1875年)に建てられたものです。てっきり「とうそん」記念館だと思っていたのですが、当時の山梨県知事であった藤村紫朗に由来しており、「ふじむら」記念館と読むようです。藤村記念館の先には、甲府城の山手御門の櫓門がありました。こちらは以前からあったのですが、甲府城の遺構の中で唯一駅の北側にあったため、当時は異彩を放っていました。歴史公園として整備されると、何だかこじんまりと収まった感じです。今回は甲府城には行っていませんが、甲府に来ると必ず立ち寄っているところがあります。甲府駅の北側、武田通り沿いにあるのですが、こうも周りが変わってしまっては、見つけるのが大変でした。甲州ほうとう「小作」の甲府北口駅前店再開発前はすぐにわかったのですが、周りに埋もれてしまった感がありました。まずはビールを注文した後、今回は猪肉ほうとうにしてみましたほうとうは武田信玄が野戦食としたのが始まりとされており、吉田うどんと並んで山梨の郷土料理百選にも選ばれています。座布団には武田菱があり、メニューにも「風林火山セット」や「信玄セット」などが並んでいました。甲府では「風林火山」の旗印が売っており、せっかくなので買ってみました。★時代劇小物 ◆ 戦国武将 幟 武田信玄 風林火山 ◆兵は詐をもって立ち、利をもって動き、分合をもって変を為す者なり。故にその疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷の震うが如くして、向かうところを指すに衆を分かち、地を広むるに利を分かち、権を懸けてもって動く。迂直の道を先ず知る者は、これ軍争の法なり。~孫子「軍争編」~当時としては斬新な旗印を使った武田信玄でしたが、武田信玄自身は孫子を読んでいなかったとも言われています。風林火山(2008年10月 恵林寺にて)甲斐の名将武田信玄の旗印レプリカ(卓上タイプ)「風林火山」旗【富士吉田の有名製麺店】丸新製麺の「吉田のうどん・ほうとう 匠セット」価格:2,380円(税込、送料別)
2013/07/23
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大菩薩嶺の周回ルートから再び上日川峠に帰って来た時、予想外に到着が早かったので、もう少し活動してみることにしました。行きで甲斐大和駅から上日川峠までのバスに乗っている時、地名に「天目」とあるのが気になっていました。さらには恵林寺で見たのと同じ、紺地に金文字で書かれた孫子「兵法」の一節、すなわち風林火山の旗印も沿道にあったりしました。「ここが天目山なのか」と、上日川峠の帰りは途中でバスを降り、甲斐大和駅まで歩いて探索してみることにしました。日川渓谷レジャーセンター本当は景徳院の前でバスを降りようと思っていたのですが、間違えて約2kmも手前で降りてしまいました。上日川峠からはかなりの標高差を下っていたものの、それでも標高は1,000m近くあるため、山あいを吹き渡る風が涼快でした。日川渓谷沿いを歩いていると、せせらぎに交じってカジカの鳴き声も聞こえて来たりして、ずっとこのまま歩いていたいと思ったほどです。(ところで、この辺りのカジカの鳴き声は西日本に比べて音程が低いように思ったのですが、気のせいでしょうか)それでもこの日川渓谷が甲斐武田氏の最期の地、道の片隅には当時のことを物語る碑が、ひっそりと建っていました。土屋惣蔵片手切の碑わずかな人数の武田勝頼主従が進退きわまった時、家臣の土屋惣蔵昌恒は崖道に身を隠し、片手で藤蔓につかまったまま、もう片手で敵兵を防いだとされています。(ところでこの土屋昌恒ですが、長篠の戦いで織田信長陣の馬防柵までとりついて討死した土屋昌次の兄弟にあたります)その土屋昌恒の奮戦によって一旦は田野の郷に下った武田勝頼でしたが、最後に力尽きて自刃した場所が景徳院のある場所でした。景徳院総門景徳院の総門から参道を行くと、武田勝頼が自害したとされる自害石や墓所などがありました。武田勝頼・信勝父子と北条夫人の墓所没頭地蔵地元の人たちによって遺体が埋葬されていた場所です北条夫人(小田原北条氏康の娘で、北条氏政の妹)の辞世の句「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」景徳院を建立したのは徳川家康、1583年に武田勝頼がここで自刃したすぐ後に、勝頼と家臣の菩提を弔うために建立されました。景徳院山門武田氏を滅亡に追い込んだのは織田信長・徳川家康の連合軍でしたが、その後の徳川家康は景徳院を建立したのみならず、武田氏の遺臣を積極的に登用したりと、寛大な統治を行っています。徳川家康は軍制も旧武田氏のものを採用し、旧武田軍を井伊直政の配下に置いたことから、武田の赤備えも「井伊の赤備え」として復活しています。景徳院本堂と武田菱長篠の戦いで敗れた後、織田信長・徳川家康の連合軍による侵攻の前に、武田勝頼は甲斐源氏の本拠地であった躑躅ヶ崎の館を放棄し、1581年に新たに築いた新府城へ本拠地を移しました。織田・徳川連合軍の攻勢と家臣の離反が相次ぐ中、1583年に武田勝頼はその新府城も放棄し、目指した先が家臣小山田信茂のいる岩殿城でした。しかしながら小山田信茂にも背かれ、ついにはこの天目山に追い詰められた時、勝頼の主従はわずか40~50人だったと言います。鳥居畑の古戦場碑武田信玄の時代には最強とうたわれ、織田信長も必死に懐柔していた甲斐源氏でしたが、最後は住むところさえも失って、この深い山あいを彷徨うことになるとは、誰も想像できなかったことでしょう。この深い山々の国を、戦国時代最強の国にしたのも武田氏でした。甲斐大和駅前にある武田勝頼像
2013/07/22
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幕末の甲州裏街道(青梅街道)を舞台にした中里介山の大長編小説「大菩薩峠」、青梅街道最大の難所でもあった、その大菩薩峠に行ってみました。今回は上日川峠をスタートして、大菩薩峠から大菩薩嶺をめぐって、再び上日川峠に戻ってくる周回ルートです。スタート地点の上日川峠標高1,600mとありますが、厳密には1,590mです。今回のルート周回ルートなのでクルマにしてもよかったのですが、上日川峠の駐車場が少なそうなのと、下山してからビールが飲めないので、電車で行くことにしました。手元のガイド「関東の山ベスト100」によると、最寄駅は中央本線の塩山駅となっており、塩山駅から上日川峠まではタクシー利用(約5,500円)となっています。さすがにタクシーは気が引けるので、バス便を探していると、塩山駅から裂石までのバス便があり、裂石から上日川峠までは徒歩で約2時間の登りになっていました。さらに探してみると、塩山駅の手前にある甲斐大和駅からタクシー会社の運営するバス便があり、甲斐大和駅から上日川峠まで行けるようでした。(45分、片道1,000円)甲斐大和駅から上日川峠までのバスは、法事で親戚が乗るみたいな小さなバスでしたが、いきなり上日川峠からスタートできたのは大きなアドバンテージです。上日川峠のロッジ長兵衛ところで手元のガイドブックのコース評価では、「技術★☆☆☆ 体力★☆☆☆」の「入門向」となっていました。(入門向・初級・中級・上級の4段階評価です)個人的にはナビゲーションが不得意(すなわち方向音痴)なので、ここで地形図を読む練習をしてみようと思っていました。(国土地理院1/25,000地形図→こちら)地形図上ではロッジ長兵衛からずっと林道を行き、林道の終点から大菩薩峠への登山道となることになっていましたが、いきなり林道から分岐する登山道がありました。後でわかったことですが、この登山道は福ちゃん荘まで林道に並走していました。ロッジ長兵衛から福ちゃん荘までは約1km、標準コースタイムでは30分の道のりでしたが、快調に飛ばして20分で福ちゃん荘に到着しました。福ちゃん荘ほうとうや川魚料理、山菜料理などがあり、値段もお手頃です。福ちゃん荘の先で、大菩薩嶺(唐松尾根経由)と大菩薩嶺(大菩薩峠経由)の分岐になっています。再びここに戻って来るので、どちらから行ってもいいのですが、三角形の一辺を行くか、二辺を通るかの違いがあります。唐松尾根経由は大菩薩嶺(雷岩)への直登ルートとなっており、最初に一気に登りたい場合は唐松尾根経由がよいのですが、今回は大菩薩峠を経由することにしました。福ちゃん荘からは再び林道を行き、林道の終点から大菩薩峠への登山道が始まっていました。大菩薩峠の尾根を越えるのはこの道だけなので、もしかしたらこれが旧青梅街道でしょうか。林道終点からは樹林帯の斜面を登るようになりましたが、樹林帯を抜けて視界が開けてくると、尾根上には「介山荘」の建物が見えてきました。介山荘の先に開けた場所があり、ここが大菩薩峠です。大菩薩峠(標高1,897m)大菩薩嶺にはよく霧が出るそうですが、その先のピークがガスっていたのが気になりました。大菩薩峠から見た介山荘大菩薩峠には中里介山の文学碑もありました。平地では太陽が照りつけていたのですが、山の上は視界が悪く、雲の合間に南アルプスがわずかに見える程度でした。大菩薩峠からはさらに尾根を伝って行き、その先に岩で覆われた親不知ノ頭のピークがありました。親不知ノ頭親不知ノ頭の先は鞍部になっており、「賽の河原」の名前があります。実はここが旧青梅街道の大菩薩峠です。これまで街道の峠越えをいくつか見てきましたが、「賽の河原」の名前も納得できるほど、難所すぎる気がします。賽の河原の鞍部を越えると再び稜線を上がり、今度は大菩薩嶺を目指して行きました。
2013/07/20
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天神山から兜岩を越えて斜面を下ると、今度は岩殿山へと向かう急な登りに変わっていきました。天神山から見た岩殿山岩殿城は岩殿山の山頂に築城された山城ですが、甲州街道に面した南側ではなく、天神山のある西側に大手口があったようです。大手口の空堀大手口の登城道本丸へ向かう登城道との分岐点まできたところで、急に雨が降ってきました。さすがにここまで来て撤退することもできず、本丸へと続く登城道を登って行きました。登城道の途中には、岩盤を削ったと思われる切岸がいくつもありました。房総の里見氏はこういう築城をするのですが、武田氏の築城では意外な感じがします。さらには両側から切岸の岩が迫っている場所がありました。揚城戸跡その名の通り、揚げ下ろしのための門があったところです。さらに先へ進むと、土塁や曲輪がいくつかあり、山頂部はかなり有効に利用されていたような印象があります。番所跡馬屋跡さすがは甲州ですが、どうやって馬を上げたのでしょうか。さらには土塁があり、土塁上の一段高くなった場所に物見台の曲輪が広がっていました。物見台の土塁さすがは物見台で、ここからは眼下に甲州街道を見下ろすことができました。猿橋方面大月方面それにしても、このタイミングで本降りです。物見台のさらに奥には独立したピークがあり、本丸はこちらにあるようです。本丸に向かう途中にもいくつか曲輪の跡が連なっていました。馬場跡やっぱりどうやってここまで馬を連れて来たのか不思議です。蔵屋敷跡本丸は標高634mの岩殿山山頂にあり、奇しくも完成後の東京スカイツリーと同じ高さにあります。本丸には烽火台もあったようですが、現在はテレビや無線の中継として使われていました。岩殿山に行くには、南側の中腹にある丸山公園から登るのが一般的です。丸山公園も何らかの形で城跡の一部を成していたと思うのですが、現在は中世風の「ふれあい館」が建っていました。模擬天守を建てないだけまだマシですが、小山田氏の戦国時代にこのような建物があったかどうかは不明です。武田信玄は甲州に城を築城しなかったため、岩殿城は数少ない山梨県の戦国山城です。それでも岩殿城は北条氏の相模国の国境付近にあり、武田氏にとっては甲州の中でも重要な拠点だったと思われます。猿橋側から見た岩殿城の遠景岩山をそのまま城郭にしたような感じで、むき出しの鏡岩が圧巻です。岩殿城のあった場所は、元々9世紀に円通寺の境内として開かれたと言われています。戦国時代の1530年代に、武田氏の家臣である小山田氏によって築城されました。1582年に武田勝頼が甲州に攻め込むと、武田勝頼は本拠地の新府城から、岩殿城の小山田信茂のもとへと逃れようとしました。しかしながら小山田信茂が織田方へ寝返ったため、武田勝頼は岩殿城に入ることが出来ず、天目山で自刃しています。武田勝頼にしてみれば、甲斐国内で一族を連れて逃れるならば、この要害上にある岩殿城しかなかったことでしょう。小山田信茂にしてみれば、武田勝頼を岩殿城に引き入れてしまうことで、西から織田信長、東から北条氏政の挟撃を一気に受け、さすがに堅固な城郭ももたないとの判断だったかも知れません。関連の記事岩殿山(その1) 稚児落とし~兜岩→こちら
2010/07/05
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小諸市の住宅街に突如として現われる櫓門、これが小諸城の大手門です。大手門(現存)つい何年か前までは料理店だったとのことです。大手門から本丸までの間には小諸駅があって、JR小海線の線路が通っています。大手門の位置からすると、城郭そのものはかなり大きかったようです。現在小諸城址は「懐古園」として整備されており、入口には「三の門」が建っていました。三の門(現存)小諸城は武田信玄によって築城され、山本勘助が縄張りを行ったと言われています。しかしながら現在残っている城郭は、近世の総石垣造りとなっており、中世戦国時代の面影はありませんでした。二の門跡。枡形となっており、ここにも櫓門があったのかも知れません。本丸も石垣で囲まれていたのですが、手前には大きな堀切がありました。本丸堀切本丸内部の石垣。雁木と武者走りが残っています。本丸内に建つ懐古神社本丸の裏手には「馬場」が広がっており、ここは桜の名所として「日本さくら名所100選」にも選ばれています。馬場桜は終わったのか。。。それでも八重枝垂桜が咲いていました。馬場から見た本丸天守台石垣。石垣下の方の「孕み」が気になる。。。搦め手方向に回ってみると、「地獄谷」と呼ばれる天然の堀切がありました。ガイドの方がいたので聞いてみると、浅間山の火山灰が堆積して出来た「田切」と呼ばれる地形だそうです。搦め手は急な崖になっており、千曲川がその下を流れており、戦国山城の面影が残っていました。「小諸なる古城のほとり、雪白く遊子悲しむ…」島崎藤村の「千曲川旅情の歌」です。城内にある島崎藤村像。小諸城の築城年については諸説ありますが、戦国時代に武田信玄によって築城されました。武田氏の滅亡後は、滝川一益や徳川家康の支配下となっています。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、小田原攻めに参加していた仙石秀久が、その功績によって入城しました。(ちなみに箱根の仙石原は、仙石秀久の小田原攻めでの奮闘に由来しています)現在残る近世城郭は、仙石秀久によって造られたもので、第2代仙石忠政が上田城に移るまで、小諸城は仙石氏の本拠地でありました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2009/04/29
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難攻不落の城と言えば、この上田城は上位に入ってくると思います。「一体どんな縄張りの城なんだろう」と期待していたのですが、意外と普通の平城でした。古城図を見ると、あまり堅固な印象はありませんでした。現在は野球場や陸上競技場なのが並ぶ公園施設となっていますが、二の丸の周囲に巡らされた堀の跡が残っていました。空堀かと思っていたのですが、水堀だったようです。しかも昭和42年まで、堀底を電車が走っていました。(何と言うことを…)本丸の虎口には櫓門が復元されており、その両側には続櫓が建っていました。本丸東虎口の櫓門と北櫓(復元)本丸は真田神社の境内となっており、その周囲には水堀が残っています。真田神社水堀。どこにでもありそうな水堀です。しかしながら、南側の「尼ヶ淵」と呼ばれる方に回ってみると、様相がかなり変わってきました。切り立った崖に高石垣が巡らされています。上田城は千曲川の河岸段丘上に築城されており、南側は切岸状になっていました。尼ヶ淵の石垣(復元)と南櫓徳川軍を二度も撃退した上田城ですが、ごく普通の平城に見えました。上田城は1583年に真田昌幸によって築城されました。武田氏が滅亡した後は、信濃の旧領を巡って徳川家康・北条氏直・上杉景勝の間で、信濃の旧領を巡る争いとなりました。そんな中、武田氏の家臣であった真田昌幸は、徳川氏についたり北条氏や上杉氏についたりして、乱世を生き延びていました。一度は北条氏と敵対する徳川家康についていたのですが、徳川・北条の和睦が成立すると、徳川家康は沼田領を北条氏に返還するよう要求してきました。当然ながら真田昌幸はこれに反発し、1585年に徳川軍との間で第一次上田合戦が勃発しました。真田昌幸は巧みな用兵と上田城の堅固な城郭でこれを撃退し、徳川軍の戦死者が1,300人であったのに対し、真田軍は40人だったと言われています。そして1600年の関ヶ原の戦いでは、上田城の真田昌幸と次男信繁(幸村)は石田三成に、沼田城の長男真田信幸は徳川家康方につくという、まさに骨肉の争いとなりました。そして徳川秀忠軍38,000人が上田城を包囲し、第二次上田合戦となりました。ここでも真田昌幸は上田城を守り切り、結局徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わずに、家康の激怒を買っています。(徳川軍は野戦には強いのですが、実は城攻めが苦手なのでは…)二度も徳川の大軍を撃退した上田城でしたが、その後の徳川幕府の時代になると破却され、真田氏時代の城郭はほとんど残っていません。1626年に仙石忠政によって再建が始まり、現在建っている櫓や門は仙石氏時代の遺構を復元したものです。(財)日本城郭協会「日本100名城」関連の記事沼田城→こちら真田本城→こちら名胡桃城→こちら
2009/04/28
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長野県上田市真田町、ここに真田本城があり、その名の通り信濃の雄者真田氏発祥の地でもあります。真田本城の碑城郭は連郭式のシンプルな造りで、本丸から三の丸までが一列に並んでいます。縄張り図突き出した尾根の先端部にある二の丸と三の丸の曲輪南側に広がる腰曲輪いかにも中世初期の山城と言った感じで、真田氏の本城にしては窮屈な印象でした。真田氏の居館は麓にあり、ここは詰城の役目を果たしていたようです。(居館跡は「御屋敷公園」として整備されているのですが、うっかり見逃してしまいました)また真田氏は、真田盆地の周囲の山々に支城のネットワークを構築していました。真田本城から見た真田盆地。ここは標高895mにあり、季節が逆戻りしたような感じです。真田郷を吹き渡る冷たい風に、六文銭の旗印がなびいていました。真田本城は、1532年~1555年の天文年間に、真田幸隆が築城したとされていますが、鎌倉時代からここに山城があったとも言われています。(確かにシンプルな縄張りを見ると、そんな気もします)真田幸隆・信綱・昌幸の3代で山城のネットワークを構築し、上田城に本拠地を移すまでは、ここが真田氏の本拠地でありました。
2009/04/27
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「川中島の戦い」は第1次から第5次まで行われたとされますが、一般に「川中島の戦い」と言えば、その中でも最も激戦となった第4次川中島の戦いのことです。1561年8月、上杉謙信は13,000の本隊を率いて、川中島の南にある妻女山に着陣しました。妻女山の上杉謙信本陣跡。妻女山から見た川中島(八幡原)の全景。一方で海津城(松代城)を守る高坂弾正からの援軍要請を受けた武田信玄は、20,000の大軍で海津城に入城しました。さらに武田信玄は、山本勘助・馬場信春の献策によって、全軍を別働隊12,000と本隊8,000の二手に分けました。別働隊が妻女山の背後から攻め込み、上杉謙信の本隊を妻女山から突き出して、残り8,000の武田信玄本隊が八幡原で迎え撃つ作戦、いわゆる「啄木鳥戦法」です。武田信玄が本陣を置いた場所には八幡神社が建っていることから、八幡原と呼ばれていました。現在八幡神社の境内周辺は、八幡原史跡公園として整備されています。八幡社。第4次川中島の戦いで焼失しましたが、後に高坂弾正によって再建されています。しかしながら上杉謙信は、海津城から上がる炊爨の煙がいつもより多いことに気付き、この啄木鳥戦法を見破りました。妻女山から見た海津城の方向上杉謙信は夜中のうちに妻女山を下り、逆に八幡平で武田信玄の本隊を迎撃する体制をとりました。一方、武田信玄の別働隊は妻女山に攻め込んだものの、すでに上杉謙信本隊の姿はなく、一方の武田信玄本隊は、霧が晴れた瞬間にいるはずのない上杉謙信本隊と遭遇する結果となりました。武田信玄は「鶴翼」の陣形をとっていましたが、上杉謙信の「車懸」の陣形の前に劣勢となり、武田信繁(典厩)や山本勘助を失う結果となりました。川中島合戦図(妻女山)さらにはこの乱戦の最中で武田信玄の本陣が手薄となった時、上杉謙信は旗本数騎だけを引き連れて、武田信玄の本陣を急襲しました。八幡原史跡公園に建つ三太刀七太刀の碑上杉謙信は馬上から武田信玄に斬りかかり、武田信玄も一太刀目は軍配で受け止めたものの、二太刀目で腕に傷を負い、三太刀目で肩に傷を負ったとされています。後に武田信玄が軍配を調べたところ、刀傷が七ヵ所あったことから、「三太刀七太刀の跡」と呼ばれています。上杉謙信と武田信玄の像(八幡原史跡公園)大将が単騎で本陣に突入するなんて、にわかには信じ難い話ですが、自分を毘沙門天の化身だと思い込んでいる人ならば、やりかねないような気もします。本陣に斬り込んで来た上杉謙信に対し、原大隈という人が槍を繰り出しましたが、あと少しで上杉謙信を取り逃がしてしまいました。無念でならない原大隈は、傍らにあった石を槍で突き通したと言われ、その石は「執念石」として今も残っています。執念石(八幡原史跡公園)この戦いで武田軍4,000、上杉軍も3,000の戦死者を出し、戦国時代でも稀にみる大激戦が展開されました。武田軍の高坂弾正は首塚を建て、敵味方の区別なく、戦死者を手厚く葬ったそうです。その首塚の1つが、八幡原の史跡公園に残っていました。これに感銘を受けた上杉謙信は、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、直ちに塩を送ったそうです。これほどの総力戦を展開しながら、この余裕は一体何なのでしょう
2009/04/26
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信州松代城と聞いても「?」って感じでしょうが、武田信玄の海津城の方がまだ有名かも知れません。しかしながら目に入るのは明らかに江戸時代の近世城郭で、戦国時代の面影は残っていませんでした。本丸虎口にある表門(どう見ても武田信玄ではない・・・)本丸の虎口は石垣で復元され、櫓門が建っていました。太鼓門(櫓門形式、復元)さらに本丸の搦め手方向にも門が復元されています。本丸北側の「不明門(あかずのもん)」埋(うずみ)門形式でもあり、名前からしても明らかに搦め手門なのですが、搦め手にしては珍しく櫓門が建っていました。本丸内には櫓台(天守台?)の石垣が残っており、どう見ても江戸時代の近世城郭でした。天守台にしては小さいし、位置もちょっとおかしい…物見櫓が建っていたのでしょうか。それでもよくよく見ていくと、武田流築城術の名残がありました。二の丸の土塁。この丸い形の縄張こそが、武田流築城術です。武田流「三日月堀」の跡でしょうか。戦国城郭の名残を見つけて、ちょっとうれしくなりました。松代城(海津城)は、1560年に武田信玄が、越後の上杉謙信に備える目的で、山本勘助に命じて築城しました。八幡原(川中島)は海津城の目の前にあり、武田・上杉両軍の総力戦となった第4次川中島の戦いの舞台でもあります。(この時上杉謙信が本陣を置いた妻女山と合わせて、川中島の合戦については後日ご紹介します)武田氏が滅亡し、関ヶ原の戦いが終わった後には、森忠政(蘭丸の兄)が入城して、土塁を石垣に築きなおしています。江戸時代に入った1622年には、真田信之(信幸、幸村の兄)が城主となり、明治維新まで真田氏の居城となっていました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2009/04/25
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松本城のすぐ北にある旧開智学校は、明治6年開校の日本で最も古い小学校の1つです。旧開智学校校舎。昭和38年まで実際に校舎として使われていました。旧開智学校は、現在教育博物館として公開されています。内部には明治の小学生の制服や勉強道具、机なども展示されていました。さらには明治から現在に至るまでの教科書も展示されています。戦前の教科書に書かれた「水兵の母」現在ではとても授業に耐えられる題材ではありませんが、話の内容は感動的ないい話で、思わず全部読みふけってしまいました。100年以上の歴史を持つ校舎だけに、数多くの足跡も残っています。明治天皇が訪問した際の休憩室。明治の文明開化の時代に建てられた開智学校ですが、この洋風建築の設計施工を行ったのは意外にも日本人で、松本の大工棟梁であった立石清重という人です。巨額な工事費のうち、約7割が松本住民の寄付で集められたそうです。長野県と言えば教育県として有名ですが、開智学校を見ればそれも納得でした。市
2009/03/16
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信州松本は北アルプス登山やスキーで何度か来たことはあったのですが、松本城を訪れるのは初めてです。松本市内の通りの名前には旧城下町の名残があり、その1つである「大名通り」が松本城へ続いています。大名通り途中にある大手門跡。当時は櫓門と枡形があったようです。松本城は二重の水堀を巡らせただけの、いたってシンプルな縄張りでした。江戸時代の縄張り図外堀。ここだけは石垣ではなく土塁でした。ちょうど北東の隅にあたるのですが、隅櫓が建っていたような跡があります。二の丸の虎口にある「太鼓門」(復元)の表門太鼓門の枡形と櫓門太鼓門は江戸時代の古図が残っていたようで、細部も外観復元されていました。太鼓門枡形内部の土塀。狭間、雁木と武者走りが復元されています。さらには本丸虎口の枡形と櫓門も復元されていました。本丸虎口「黒門」の表門(高麗門形式、復元)「黒門」の櫓門。(ここで入場料を払います)そして本丸には、現存する天守が並んでいます。左に辰巳付櫓と月見櫓、右に乾小天守を従えた天守。天守が現存する城は12城しかなく、松本城はその12城の1つです。その現存12天守の中でも、天守が国宝に指定されているは、姫路・犬山・彦根・松本の4城だけです。国宝4天守のうち、松本城だけは訪れたことがなかったので、これで国宝天守は全て訪れたことになりました。(めでたし、めでたし)天守の外壁は黒い下見板張りになっており、荘厳な重厚感があります。それでも武骨な印象はなく、どことなく優雅な感じがします。ところで、天守や櫓は不思議な建物で、見る角度によっては全く違ったものに見えたりします。お気付きかも知れませんが、当ブログで天守や櫓の写真は、斜めから撮ったものが大半です。天守や櫓を見る角度は、斜めが最も美しいと思っていますので…というわけで松本城の天守も斜めから見ると、こんな感じです。さらに別の角度からいかがでしょうか、正面とはまた違って見えないでしょうか。さらに、これまで数多くの城郭を見てきた経験から言うと、松本城はとても平和な感じがします。天守を一周した後は、いよいよ天守の中へと入って行きました。天守内部も創建当時のままですが、現存天守の階段は梯子のように急なのが困ったところです。(あえてそうしてあるのでしょうが…)外から見ると5層の天守ですが、実は内部は6階建でした。(これもよくあることです)そして最上階の6階からは、北アルプスの山並みが広がっていました。蝶ヶ岳・常念岳・大天井岳と連なる「北アルプス銀座」の尾根。標高2,600~2,800mくらいの尾根が続いており、槍や穂高などの他の北アルプスの山々に比べると、やや低い位置にあります。探検部時代にテント泊でこの尾根を縦走したのですが、日照り続きの水不足のために水がなくなってしまい、途中で大天井岳から降りてきた苦い思い出があります。もう一度あの北アルプスに登ることを胸に誓って、天守を後にして行きました。松本城は、戦国時代の初めに信濃の守護小笠原氏が造った深志城が始まりです。その後は武田信玄が小笠原長時を追い出して、信濃支配の拠点としています。1582年に本能寺の変が起こると、そのどさくさに紛れて小笠原貞慶が深志城を回復し、松本城と改名しました。さらには1590年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、徳川家康の関東移封に従って、小笠原氏も下総へと移っています。そしてその後に松本城に入って来たのが、石川数正です。石川数正・康長の父子は城の改修と城下町の整備を行い、現在の天守を創建しました。石川数正と言えば、徳川家康から出奔して豊臣秀吉に寝返ったことで有名です。もしもずっと徳川家康に従っていたら、間違いなく四天王を凌ぐ存在になっていたことでしょう。山岡荘八の「徳川家康」では、対秀吉の開戦を主張する家臣を諌めるため、石川数正があえて悪役を買って出奔したようになっています。果たして真相はいかがなものでしょうか。豊臣秀吉に寝返った後の石川数正は、大した功績を残していません。それでもこの天守を見る限りでは、平和を愛する人だったのかも知れません。そして松本城と言えば、亡き「山のてっぺんさん」が愛したお城でもあります。私もようやく信州松本城に来ることができました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2009/03/15
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JR甲府駅のすぐ近くにある甲府城(舞鶴城)は、武田氏滅亡後に造られた城郭です。近くの歩道橋から見たところ城郭の向こう側に富士山が見えています。前回訪れた時よりも復元が進んでいました。山手御門の表門と櫓門内松陰門(高麗門形式)さらには土塀も復元されていました。この土塀を見て「あれ?」と思ったのですが、鉄砲狭間と矢狭間の位置が逆?(それとも元々こんな格好だったのでしょうか・・・)甲府城の石垣は、築城当時のものが残っていました。現存する本丸天守台の石垣。積み石は野面(のづら)積みの古い積み方で積まれています。稲荷曲輪には、隅櫓が復元されていました。稲荷曲輪。こちらは矢狭間が上にあって、鉄砲狭間が下についていました。甲府城は武田氏滅亡後の1582年、徳川家康が家臣の平岩親吉に命じて築城を始めました。その後は羽柴秀勝(秀吉の甥)の支配下となりましたが、加藤光泰により築城は続けられ、浅野長政・幸長父子の時代に城郭が完成しています。江戸時代に入ると、甲斐は徳川氏の直轄領となり、徳川氏が再び入城しました。ちなみに江戸城の半蔵門は、服部半蔵に由来しています。そして半蔵門から続く甲州街道沿いには、服部半蔵配下の組屋敷が並んでいました。非常時には、将軍を甲府城へ脱出させるためだったとも言われています。武田信玄の時代から、甲斐の国そのものが要害だったのかも知れません。日本城郭協会「日本100名城」
2008/12/11
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武田通りを北に向った先には躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の跡があり、ここが武田信虎・信玄・勝頼の武田氏の居城でありました。現在は「武田神社」となっており、こちらの方が一般的な呼び方です。武田神社拝殿躑躅ヶ崎館は、周囲に一重の堀を巡らせただけのシンプルな造りで、戦国武将の居城とは思えない簡素さです。躑躅ヶ崎館の古図(北側から見たところ)躑躅ヶ崎館には何度か来たことがあるのですが、前回は雑然としていた木々がすっかり紅葉していました。南側の外堀西曲輪との間の内堀ここまで見事だとは思っていなかったので、「城の遺構がどうのこうの」などと言うのはやめました。躑躅ヶ崎館の北側、武田神社の裏手には「お屋形さまの散歩道」と呼ばれる道が続いています。お屋形様の散歩道躑躅ヶ崎館の北側には、「味噌曲輪」や「御隠居曲輪」などの曲輪があったのですが、現在では畑に変わっていました。味噌曲輪の跡。詰め城である要害山が見えています。御隠居曲輪の跡。いずれも本曲輪同様、周囲に一重の堀を巡らせただけの造りでした。また南側の住宅地の中には、「梅翁曲輪」の外堀も一部が残っています。躑躅ヶ崎館は、1519年に武田信玄の父である武田信虎によって築かれました。以後武田信玄・勝頼と武田氏3代にわたって本拠地となっています。「人は城 人は石垣 人は堀」と言われるように、武田信玄は甲斐の国内に城を築きませんでした。(そもそも信玄時代の甲斐に攻め込もうなんて無謀なことを考える人はいなかったでしょうが・・・)仮に躑躅ヶ崎館に攻め込んだとしても、内藤昌豊・山県昌景・馬場信春などの音に聞こえた勇将たちが、黙って通してはくれなかったことでしょう。勝頼の代になると、設楽原(長篠)の戦いで織田信長に大敗を喫し、家臣の離反を招いていきました。武田勝頼は新府城を新たに築城し、防御の手薄な躑躅ヶ崎から本拠地を移しています。やはり「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」なのでしょうか。
2008/12/04
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山梨県甲府市と言えば、やはりこの人でしょうか。甲府駅前にある武田信玄像。(武田信玄はもっと痩せていたようで、これは武田信玄ではないとも言われています)甲府駅から北に真っ直ぐ約2kmにわたって延びる道が「武田通り」で、その先に武田信玄の本拠地「躑躅ヶ崎館」がありました。躑躅ヶ崎館(武田神社)から見た武田通り。通りの名前も「武田」ならば地名も「武田」、途中には「武田~」がやたらと目につきます。例えばバス停の名前は「武田三丁目(武田歯科医院前)」、とこんな感じです。全国の武田さんは、甲府に来て悪い気はしないことでしょう。当時は武田通りの途中には重臣たちの屋敷が並んでおり、まさにここが当時最強の甲州武田軍の拠点でもありました。今となっては当時の面影はありませんが、屋敷跡の碑がわずかに往時を偲ばせます。武田典厩信繁の屋敷跡。武田信玄の弟で、武将のみならず文人としても優れていました。川中島の戦いで討死しましたが、信玄は信繁の死体を抱いて号泣し、上杉謙信もその死を惜しんだと言われています。馬場美濃守信春の屋敷跡。築城の名手で、山本勘助から武田流築城術を受け継ぎました。設楽原(長篠)の戦いでは、勝頼を逃すために殿(しんがり)を努め、奮戦もむなしく討死を遂げています。板垣駿河守信方の屋敷跡。武田信玄の筆頭家老で、板垣退助の祖先だそうです。武田信玄が諏訪頼重を滅ぼした後は、上原城の城代となり、信濃攻略で主導的地位をしめました。武田信玄が村上義清に敗北した、「上田原の戦い」で討死しています。穴山玄蕃頭信君の屋敷跡。武田信玄の甥に当たり、本能寺の変では徳川家康と共に堺を脱出しますが、途中で討たれたため、武田氏再興の夢を果たすことができませんでした。高坂弾正昌信の屋敷跡「甲陽軍艦」の原本を作ったとされています。美男子であったため、武田信玄の衆道の相手でもあったそうです。その他にも名将たちの屋敷跡が並んでおり、ここが当時最強と言われた甲州軍団の本拠地でした。当時最強と言われた甲州武田軍ですが、「なんでこの人たちはあんなに強かったんだろう」と、未だに疑問です。織田信長が恐れ続け、徳川家康が見習った甲州武田軍、その強さの秘密を知りたいものです。
2008/12/03
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甲斐の国と言えば武田信玄、その墓所が甲州市(旧塩山市)の恵林寺にあります。西沢渓谷を探訪し終わった後、お願いして今回のコースに加えてもらいました。恵林寺は、1330年に夢窓国師(疎石)によって開山された名刹です。開山堂仏舎利塔戦国時代になると快川紹喜が入山し、快川紹喜を崇敬する武田信玄は、ここを武田氏の菩提寺と定めました。武田氏滅亡後に織田信長軍が侵攻し、恵林寺も戦火に巻き込まれています。その炎の中で快川紹喜は、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず。心頭を滅却すれば、火自ら涼し」の有名な言葉を残しました。快川紹喜が「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」を唱えて焼死した山門。門にはその扁額がありました。ちなみにこの快川紹喜の弟子の1人が虎哉宗乙、伊達政宗の師となった人です。伽藍を見た後は、本堂の中に入っていきました。武田信玄が旗印にした、孫子「兵法」の一節武田信玄が生前に対面して作らせたといわれる不動明王像武田信玄の墓所信玄墓所の脇にある武田家家臣団の墓所小さな張り紙があって、それぞれ誰の墓所かが書いてありました。大半が設楽原(長篠)で消えていった武将たちです。さらに奥には、夢窓疎石の作庭による庭園があります。鎌倉時代創立の古刹の中に、新羅三郎義光以来の甲斐源氏の栄枯盛衰を思わずにはいられませんでした。
2008/10/27
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