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先日のNHK「歴史秘話ヒストリア」で、戦艦大和が採り上げられていました。放映よりも前の1月、私用があって日帰りで広島を訪れ、空港に向かう途中で立ち寄ったのが呉でした。海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」その道を挟んだ向かい側にあるのが、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」です。大和ミュージアム屋外には、瀬戸内海の柱島沖で謎の爆発で沈没した、戦艦「陸奥」から引き揚げられた遺品が展示されていました。戦艦「陸奥」の41センチ砲陸奥のアンカーなど。大和ミュージアムの内部に入ると、1階のフロアは「大和ひろば」となっており、戦艦大和の10分の1模型が展示されています。10分の1とは言え、普通の船舶ほどの大きさがありました。旧海軍の鎮守府や工廠が置かれた呉軍港は、その戦艦大和が生まれた場所でもあります。現在の呉港掃海艇でしょうか、海上自衛隊の艦船が停泊しています。そして大和が建造されたドックもありました。旧呉海軍工廠、現在はジャパンマリンユナイテッドのドックになっています。
2019/01/20
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海上自衛隊の中でも、潜水艦隊が配備されているのは横須賀と呉だけで、その呉の街には本物の潜水艦が展示されています。「海の忍者」と呼ばれ、絶対に姿を現さないのが潜水艦なので、全景を観る機会は滅多にないかと思います。潜水艦「あきしお」の全景道を挟んだ向かい側は、やはり呉にゆかりのある「大和ミュージアム」です。さすがは古くからの軍港といった感じで、SC「ゆめタウン」の真横に普通に潜水艦が置かれていながら、あまり違和感がありませんでした。艦橋と潜舵部分艦首の魚雷発射管潜水艦の魚雷発射管も、実際に下から眺めることはまずないと思います。「あきしお」が展示してある海上自衛隊呉史料館は、海上自衛隊の広報を目的に建てられた史料館で、「てつのくじら館」の愛称が付けられています。館内には海上自衛隊の活動が様々な展示物とともに紹介されており、実物の潜水艦「あきしお」の中に入って、見学することもできます潜水艦の内部に入ると、艦内にはアクティブソナーの探信音が鳴り響き、まるで潜航しているような神秘的な雰囲気がありました。潜水艦の中はとにかく狭いといった印象がありますが、実際に見てみると想像以上でした。寝室トイレとシャワー室士官寝室士官も二段ベッドで寝ていたようです。唯一の個室である艦長室おそらく海上自衛隊の艦長室の中で、最も狭いのが潜水艦でしょうか。士官公室食堂も兼ねていたようですが、「沈黙の艦隊」の中で、「たつなみ」の艦長である深町洋二等海佐がどんぶり飯を食べていたシーンを思い出しました士官公室の隣にあるのが発令所で、艦内各部に命令が発せられる場所です。「潜航せよ。ベント開け」そしてこちらが操舵室です。三次元の航行が出来る乗り物は航空機と潜水艦だけで、潜水艦にも航空機のような操縦桿が付いています。それでも航空機と潜水艦の大きな違いは、潜水艦は外を見ることが出来ないことでしょうか。退役艦ではありますが、潜水艦の最大潜航深度は機密中の機密です。深深度計は目盛が外してあるのか、見ても最大潜航深度はわかりませんでした。あきしおの潜望鏡は今もアクティブで、実際に外の景色を眺めることができました。艦長が潜望鏡を見ながら、「配置につけ、魚雷戦用意」と命令するシーンを見ることがありますが、元乗組員のガイドの方によると、古い戦法だそうです。ドルフィンマークを付けた「サブマリナー」は、海上自衛隊の中でも相当高い能力が求められるといいます。潜水艦勤務は食事などの待遇がいいとも聞きますが、それだけに想像以上に過酷な環境にあることがよくわかりました。ところで潜水艦を題材にした映画では、「Uボート」や「レッドオクトーバーを追え」などの名作が思い浮かびますが、個人的には「眼下の敵」が一番好きです。映画 眼下の敵 DVDアメリカ海軍駆逐艦とドイツ海軍潜水艦の一騎打ちが題材ですが、そこには艦長同士のヒューマニズムがあふれています。沈黙の艦隊 [DVD]
2019/01/19
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碓氷峠鉄道文化むらでは、かつて運行されていた車両が静態保存されています。まずは碓氷峠の代名詞とも言うべき、EF63形電気機関車そのEF63形の1号機も碓氷峠鉄道文化むらに展示されていました。同じEF63でも塗装や外観が違います。そして信越本線の特急あさまに使用されていた、旧国鉄カラーの183系電車も展示されていました。現在は長野新幹線がこの名前を引き継いでいますが、在来線当時は単独で碓氷峠を超えられないため、補助機関車で付いていたのEF63です。鉄道文化むらでは、碓氷峠や信越本線以外で活躍した車両も展示されていました。常磐線で牽引していた交直流両用のEF80こちらは東海道・山陽チーム急行「銀河」を牽引していたEF58と関門トンネル専用のEF30そして九州方面のブルートレインを牽引していたEF65(500番台)もいました。せっかくなので運転台にも入ってみました。運転台にはエアコンなどなく、後ろに扇風機が置いてあります。東京から下関まで、長く過酷な乗務だったことでしょう。
2018/08/19
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碓氷峠と言えば、ニッサン・シルエイティー、峠の釜めし、そしてEF63です。碓氷峠鉄道文化むらでは、そのEF63が動態保存されていると知って、まずは行ってみることにしました。その前に「聖地巡礼」、おぎのやの看板前の駐車場に立ち寄りました。「頭文字D 1st stage」ではおなじみの場所ですが、池谷浩一郎と「碓氷峠のエンジェル」佐藤真子が最初に出会った場所です。そして池谷の勘違いにより、佐藤真子がシルエイティーをスピンターンさせながら去って行った場所でもありました。頭文字Dはともかく、その先にある「碓氷峠鉄道文化むら」に着いたところ、なんと隣接する横川駅にD51型蒸気機関車「デゴイチ」が入線していました。EF63の動態保存どころか、いきなりデゴイチの動態です。横川駅のホームに入るには入場券が必要なので、初めて券売機で入場券を購入しました。炭水車に石炭が積んであって、蒸気も立っていて、リアルなデゴイチです。ボイラー圧を維持するためか、機関助士の人が時々罐に石炭を投げ込んでいました。D51型498号機「昭和15年 鉄道省」のプレートがあり、御年78歳の現役です。機関室にも相当なベテランがいると思いきや、機関士の向こう側、右側にいる機関助士は20代くらいの若い人でした。(この歳で蒸気機関車の運転資格をとれるとは、相当な腕前だと思います)それにしても、横川・軽井沢間の碓氷峠が廃線となり、普通の終着駅となった横川駅では、転車台どころか引き込み線もありません。どうやって戻るつもりなのかわかりませんでしたが、あの力強いドラフト音を聴くことができなかったのは残念です。そうこうしているうちにEF63も鉄道文化むらに入線してきました。空気圧の音と共に、ちょうどパンタグラフを降ろしたところです。D51とEF63、峠の王者のそろい踏みに、これだけでも見に来た甲斐がありました。それでも碓氷峠では、やっぱりこちら頭文字D 1st Stage 第16話 「碓氷峠のエンジェル」
2018/08/18
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かつてのフランス波止場、山下公園には日本郵船の貨客船「氷川丸」が係留されています。氷川丸全景全長163.3m、総トン数11,622トンです。氷川丸の内部は2008年にリニューアルされ、中に入って見学することができます。右舷乗船口乗船口のあるBデッキからエントランスホールに入り、順路にしたがって前方部へ進んでいくと、一等食堂が展示されていました。一等食堂とても船内にいることを忘れてしまいそうな豪華な雰囲気です。最上階のAデッキ上がると、一等の客室や特別室が展示されていました。一等客室一等特別室秩父宮両殿下やチャーリー・チャップリンも利用したそうです。一等サロン一等デッキには屋外デッキがあり、デッキに出てみることにしました。Aデッキ左舷の屋外デッキ屋外デッキから見たみなとみらい21アメリカ西海岸への航海当時は、太平洋の水平線が広がっていたことでしょう。Aデッキを出て前方部に行くと、操舵室のあるNデッキへと続いていました。N1デッキから見たファンネル(煙突)正午になると大音量で汽笛が鳴るので、Nデッキにいる時は要注意です。後部オープンデッキから見たメインマストN3デッキから見た船首部分操舵室船体の割には小さな操舵室だったのが意外でした。氷川丸の船名は武蔵国一之宮の氷川神社(さいたま市)に由来しており、操舵室には氷川神社が分祀されていました。三等客室のあるCデッキと最下部のDデッキには機関室があり、エンジンが展示されていました。デンマークのバーマイスター・アンド・ウエイン社製ディーゼルエンジン(上部)8気筒の4ストロークエンジンが左右に1基ずつ備えられ、1基あたり5500馬力の出力は、当時の最大級でした。下部のDデッキにあるクランクシャフト船尾部分現在は取り外されていますが、かつては2軸のプロペラが付いており、最大速力は18.38 kt(約34km/h)でした。氷川丸の竣工は1930年(昭和5年)のことで、日本郵船の貨客船として、日本とアメリカ西海岸のシアトルとの定期航路に就航しました。当時はシアトルまでは10日間の船旅だったそうです。太平洋戦争では旧帝国海軍に徴用されましたが、戦後は再びシアトル航路に復帰し、1960年(昭和35年)の引退まで、太平洋を254回横断しました。そして2016年(平成28年)8月、氷川丸は国の重要文化財に指定されています。氷川丸が係留されている桟橋は、横浜クルージングの乗り場にもなっており、氷川丸の隣からはマリーンルージュが出航していきました。
2018/02/13
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横浜港の旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)は「日本丸メモリアルパーク」となり、帆船日本丸が係留されています。1930年1月27日が進水式(お誕生日)で、今年で満88歳の米寿を迎えます。日本丸は商船系の学校の練習船で、1984年の引退までに約183万キロを航海したそうです。旧横浜船渠株式会社第一号船渠(国指定重要文化財)に係留された日本丸(日本丸も昨年9月に国の需要文化財に指定されました)みなとみらい21の背景に埋もれてしまった感がありますが、総トン数2,278トンの船体は、当時の海原では堂々たる姿だったと思います。現在の日本丸は当時のままに保存され、昔の遠洋航海の様子を偲ぶことができました。船首のバウスプリットストックアンカー甲板にアンカー(錨)が置かれているのは初めて見ましたが、アンカー自体の重量が約2.4トンで、1.5トンの錨鎖が10節付いていますから、総重量は17トンになります。(船は錨そのものの重量ではなく、錨鎖の重量で沖に停泊しています)船首楼甲板から見た船橋(ブリッジ)ウッドデッキの甲板甲板磨きのヤシの実でしょうか。下のデッキに降りて行くと、そこは居住区になっていました。練習生の寝室日本丸の定員は136名ですが、練習航海では200名近くが乗り組んでいたそうです。実は船乗りになりたいと真剣に考えていた時期があり、「商船学部航海学科」を目指していたことがあります。(商船学部のある大学は2つしかありませんでしたが)夢をあきらめずに船乗りを目指していたら、日本丸のような練習船で実習航海に出ていたかも知れません。船長室四本線の肩章入りの制服が掛かっています。こちらの部屋は三本線の肩章、一等航海士の部屋でしょうか。船舶と航空機では共通していることが多々あり、「キャプテン」と言えば船舶の船長であり、航空機の機長です。(いずれも四本線の肩章)航空会社によって呼び方は違いますが、副操縦士は「ファーストオフィサー」で、船舶の一等航海士を意味します。(三本線の肩章)日本丸は帆船ですが、完全に帆走するのではなく、エンジンを搭載しています。さらに下の第二甲板には、機関室がありました。ダイハツ製のディーゼルエンジン音声ガイダンスを聞いていると、600馬力だそうです。初代日本丸は1984年に引退しましたが、練習航海で日本丸に乗組んだ練習生は1万名を超えていました。そして今は二代目の日本丸が練習航海に旅立っており、日本の海運を担う人たちを育て続けています。
2018/01/29
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伊予松山を舞台にした「坊ちゃん」の中で、夏目漱石が「マッチ箱のような汽車」と表現した伊予鉄道の汽車は、「坊ちゃん列車」として復元されています。現在は2編成が運行されており、松山市内線の道後温泉→大街道→松山市駅間と、道後温泉→大街道→JR松山駅→古町間を往復しています。松山市駅に着いた時、ちょうど道後温泉行が方向転換をしているところでした。伊予鉄の松山市駅はJR松山駅よりも歴史が古く、国鉄が出来るまでは松山駅と言えば伊予鉄の駅だったそうです。(松山の人は単に「市駅」と呼びます)伊予鉄道には路面電車の市内線と3~4両編成の郊外線があります。(元々は坊ちゃん列車も、高浜線の郊外線でした)伊予鉄道に乗る機会があれば、市内線の大手町線(古町⇔西堀端)に乗られることをお勧めします。大手町駅付近で郊外線の高浜線が路面電車の通る道路を横切っており、路面電車の市内線と平面交差になっています。そのため、高浜線が道路を横切るときは踏切の遮断機が降りて、クルマも路面電車も踏切で待つ珍しい光景が見られます。現在の市内電車では、VVVFインバーター制御の低床電車が走っていて、加速も静かで滑らかです。スターバックス塗装のモハ2100形(大街道駅にて)それでも伊予鉄道の市内電車と言えば、やはりこの塗装のこのタイプでしょうか。モハ50形55号(JR松山駅にて)釣掛式のモーターで、聞けばそれとわかる独特の加速音です。【愛媛県のお菓子】【お土産 プレゼントに】(株)うつぼ屋 坊っちゃん団子 16本入〈ギフト〉〈贈り物に〉
2017/08/18
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この夏はボンバルのQ400に乗る機会が多々ありました。松山空港にてこの日は大阪(伊丹)→松山→大阪(伊丹)の往復でした。伊予灘上空来島海峡付近のしまなみ海道鳴門海峡付近さらには短い夏休みで道南と道東を訪れた時、函館→札幌(新千歳)、札幌(新千歳)→根室中標津→札幌(新千歳)と、いずれもボンバル機でした。函館空港にて函館→札幌ブロッケン現象根室中標津空港にて6枚プロペラのターボプロップエンジンのフル加速に加え、機体と地上の距離が近いため、離陸滑走時はかなりのスピード感があります。さらには主翼が機体の上にあるため、ランディングギアが接地する瞬間を見られるのも、この機材ならではでしょうか。機体が軽い上にパワーがあるので、離陸滑走の時は後ろから押され、離陸上昇の時は下から持ち上げられるような感覚があります。
2017/08/12
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何事にも日本一はあるもので、日本一の高低差を持つのが駒ヶ岳ロープウェイです。終点の「千畳敷駅」は標高2,611mあり、こちらも日本一です。地面までの高さも高いところでは120mもあり、滝や渓谷をはるか下に眺める感じです。始発の「しらび平」では生い茂る樹林帯でしたが、千畳敷に近づくにつれ、植生も変わっていきました。森林限界もロープウェーで飛び越えて行きました。残雪のある岩肌が見えてくると、いよいよ千畳敷です。
2016/06/18
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佐和山城から下りて彦根駅の西口に来てみると、なんだか見慣れたような電車が止まっていました。近江鉄道の電車ですが、車両はまぎれもなく西武鉄道のものです。ちなみに西武新宿線沿線に住む人にこの画像を見せて、「ここはどこだと思います?」と聞いてみると、「田無かな?」と返ってきました。ちょっと意地悪なクイズでしたが、ヒントは後ろに写っているショッピングプラザ、滋賀県を本拠地とする平和堂(アルプラザ)でした。鉄道に限らず、近江鉄道彦根駅の周辺では、タクシーやバスなどにライオンズのマークがあふれていたのですが、堤康次郎氏が近江の出身であった縁で、近江鉄道は西武鉄道の傘下にあるようです。近江鉄道彦根駅には「近江鉄道ミュージアム」があるのですが、なぜか閉館だったため、園外から撮影してみました。前後にデッキにある電気機関車鉄分が全く不足しているのでよくわかりませんが、「ED144」とありました。これは西武の車両でしょうか。後ろに見えているのが佐和山城です。
2013/11/01
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最初に瀬戸大橋を渡ったのは開通の翌年のことで、青春18きっぷで快速マリンライナーに乗り、瀬戸内海を陸路で渡ったのを覚えています。その時は陸路で海を渡れるなんて思ってもおらず、岡山駅を出発した後もずっと半信半疑でした。今回は岡山駅から特急「南風」(「しおかぜ」併結)に乗り、本州から四国へと瀬戸大橋を渡りました。鷲羽山トンネル(2011年5月)鷲羽山トンネルから続く下津井瀬戸大橋(2011年5月)それにしても鷲羽山トンネルを抜けた瞬間、いきなり海の上に飛び出る感覚はいまだに不思議です。ところで快速マリンライナーはその後も一度乗ったことがあるのですが、今回は初めてディーゼル気動車で本四備讃線を行きました。マリンライナーも南風も橋梁部に入ると減速してくれたのですが、どうやら粋な計らいではなく、橋梁部では速度制限があるようです。それでも現在の気動車はトルクとパワーが桁違いで、加速もスムーズでした。しばらく海の上を飛んだ後は、いよいよ四国に上陸です。アンパンマン塗装のJR四国N2000系特急南風(丸亀駅にて)ディーゼルターボの加速音もさることながら、丸亀駅の入線メロディーが最高でした。この曲は反則だと思います。この子は日系5世で、日本語はわからないそうです
2013/06/18
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103系が登場したのは1963年だそうで、50周年を記念して1編成限定の緑の山手線が走っています。ほぼ毎日山手線を利用していながら、なかなか出会うことがありませんでした。ようやくゲットしました。さすがに車体まで103系とはいかないようで、車両そのものはE231系です。それでも旧国鉄の字体当時はVVVFインバーターのない時代、乗り心地はどうだったのでしょうか。
2013/03/09
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とある船舶が関門海峡を通過するとのことで、どんなものか見に行くことにしました。関門MARTISの大型船等入航予定によると、関門海峡通過予定時刻は7月22日の午後7時半となっていました。壇ノ浦が一番のビューポイントになるのですが、通過予定時刻に間に合いそうもなく、櫛崎城跡の関見台公園で見物することにしました。排水量3万トンを超えるアメリカ船籍の輸送船ですが、関見台公園に着いた時はすでに午後8時近くになっていました。串崎城の石垣から見た関門海峡関門海峡はいつもより船舶の航行が少ないように思ったのですが、それらしき船影は見当たりませんでした。韓国の釜山を出港して岩国へ向かう船舶なのですが、すでに周防灘に抜けてしまったものとあきらめ、関見台公園を後にしました。後から調べると、実はグリーンリッジが関門海峡を通過したのはこの30分後、午後8時24分とのことです。
2012/07/22
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みもすそ川公園からふと国道9号線の方を見ると、ロンドンのダブルデッカーがやってきました。サンデン交通が運営しており、下関駅と城下町長府の間を結ぶ路線バスとして運行されています。(途中で停まるのは唐戸と御裳川公園のみです)路線バスなので、普通のバスと同じように停留所で料金を支払うのですが、後部に車掌さんが乗車していました。みもすそ川公園から城下町長府の間は関門海峡沿いの国道9号線を走るため、二階からの眺めはさらに良いかと思います。逆に関門海峡を航行する船舶からも、赤いダブルデッカーはよく目立つのではないでしょうか。関連の記事山陽道~赤間関(2011年9月)→こちら
2012/03/26
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ディーゼル気動車に乗るのは20年ぶりくらいかも知れません。新山口から益田までの山口線は、SLやまぐち号も走る単線非電化区間で、特急としてはキハ187系ディーゼル気動車の「スーパーおき」が走っています。キハ187系スーパーおき(新山口駅)指定席1両+自由席1両の2両編成です。停車中もアイドリングの音と振動が伝わってくるのも、ディーゼルならではでしょうか。ディーゼル気動車と言えば、音の割りに加速が遅いイメージがあったのですが、このキハ187系はトルクも大きく、電車並みの加速でした。山口線は瀬戸内側から日本海側へと中国山地を抜けていきますが、上り勾配でもいっぱいいっぱいな感じはありませんでした。徳佐付近「長門富士」の別名を持つ十種ヶ峰(とくさがみね)です。津和野付近正面に津和野城の石垣が見えています。ギアチェンジしながらの加速やエンジンブレーキでの減速など、ディーゼル気動車ならではでしょうか。
2012/02/05
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壇ノ浦付近の関門海峡には電光掲示板があって、アルファベット・数字・矢印が交互に点滅しています。関門MARTISの火ノ山下潮流信号所です。潮の向きが「W」(西向き)・「E」(東向き)で表示された後、潮流の速さが数字(ノット)で表示され、最後に「↑」(速くなる)または「↓」(遅くなる)が表示されます。西日が当たって見えづらいのですが、この時は西向き7ノットで速くなるようでした。天気晴朗なれども波高し関門海峡では玄界灘と周防灘の干満の差による潮流の変化が激しく、源平の壇ノ浦の戦いでもこの潮流の変化が勝敗を分けました。 潮流の速さも最大で10ノット(約時速18.5km)に達し、鳴門海峡・来島海峡などのうず潮級の海峡に次ぐ潮流の速さがあります。また関門橋付近では対岸までの距離が650mしかなく、古来より早鞆ノ瀬戸と呼ばれる海上交通の難所となっています。 下関側の火ノ山から見た早鞆ノ瀬戸関門海峡では全国に7か所ある「海上交通センター(MARTIS)」の1つである「関門海上交通センター(関門MARTIS)」があって、関門海峡の航行管制や情報提供などが行われています。関門海峡の航路図海峡というより運河のような感じですが、ここを1日600隻の船舶が航行しています。火ノ山下潮流信号所も関門MARTISからの潮流信号で、他にも大型船舶が通行する際に「H」や「T」の表示がされる電光掲示板もあります。関門海峡が太平洋・瀬戸内海と日本海を結ぶ最短ルートになるため、通過する船舶の交通量も1日あたり約600隻と、まさに海上交通の要衝となっています。今のご時世、関門海峡を通過するか大隅半島を回るかでは、スエズを通るか喜望峰を回るかくらいの違いがあるかも知れません。関門海峡通行中の注意事項と事故事例について→こちら「係留」は関門海峡特有かも知れません。
2011/11/24
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九州新幹線が今年の3月に開通してからは、山陽新幹線区間にも新しい車両が走るようになりました。一方で東海道新幹線からは姿を消した500系「のぞみ」が山陽新幹線では「こだま」として走っており、懐かしくもありもったいないような気もします。さらには100系までも「こだま」として走っており、まるで新幹線の博物館みたいな感じです。広島駅にて2階建てやシンデレラエキスプレスで一世を風靡した100系ですが、今や6両編成となって岡山⇔博多間を「こだま」として走っています。厚狭駅にて100系が走っているのも驚きですが、厚狭に新幹線の駅が出来ていたのはもっと驚きでした。100系が登場した時、まだ「のぞみ」はなく「ひかり」として東海道を走っていました。座席も「ひかり」の3+2列から「こだま」では2+2列となって、グリーン車のような感じです。100系といえば、終着駅のアナウンスで流れるチャイムがよかったのですが、今は品川駅の横須賀線下りホームの発車チャイムであのメロディーを聞くことができます。(You Tubeにありました→こちらとかこちら。品川駅バージョンはこちら)【送料無料】 CD/電気グルーヴ/VITAMIN/KSC2-66
2011/06/15
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関門人道トンネルの出入口から門司港レトロまでの海岸沿いは、トロッコ列車の「潮風号」も走っています。今回は門司港レトロまで歩いたのですが、関門海峡めかり駅またはノーフォーク広場駅から、門司港駅のすぐ横にある九州鉄道記念館駅まで、海を眺めながらトロッコ列車に乗るのもいいかも知れません。その終点駅である九州鉄道記念館の建物は、旧九州鉄道の本社ビルをリニューアルしたものです。元々は1891年に建築された建物だそうです。屋内には九州にゆかりのある鉄道関連の展示があり、屋外には九州にゆかりのある鉄道車両の実物が展示されていました。9600形蒸気機関車C59形蒸気機関車1号EF10形電気機関車門司-下関間の関門トンネル専用に使われていました。ED72形交流電気機関車交流区間である九州や東北地方を走っていた機関車です。485系電車JNRのロゴと国鉄カラーに時代を感じますが、隣りの門司港駅ホームには787系のつばめが停車しており、余計に時代のギャップを感じました。関西方面と九州の間を走っていた583系寝台電車「月光」の他にも、「明星」・「彗星」・「なは」などの寝台特急もありました。東京と九州間の寝台特急も廃止となり、「さくら」「みずほ」の愛称が九州新幹線で復活する時代となった今、遠い過去のものを見ているような感じでした。
2011/04/04
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台北捷運(MRT)のアナウンスなどでよく耳にしていたのが、猫空纜車(MaoKong Gondola)です。一度乗ってみようと思い、MRT板南線の忠孝復興駅で文胡線に乗り換えました。(ここで「猫空纜車に行く人は、ここで乗り換えて下さい」のアナウンスが流れます)実は「猫空纜車」という駅はなく、猫空纜車に乗るには、文胡線の南の終点である動物園で降り、そこからしばらく歩くことになります。猫空纜車はMRTの台北捷運公司が運営しているようで、悠遊?(Easy Card)を持っていると自動改札を通れるので、切符売り場で並ばずに乗ることができました。猫空纜車8人乗りで4人ずつ向かい合わせに座るようになっています。係の人が「幾位?(何人?)」と聞いていて、グループで乗るときは調整してくれるようです。私は「一個人」と言って相乗りさせてもらったのですが、すごく太った人が乗っていたので、バランスが崩れるのではないかと心配でした。動き出して振り返ると、猫空纜車の駅が見えたのですが、周りの建物が台北っぽくていいです。猫空纜車から見た台北市内普通のロープウェーと同じに考えていて、2,3分もすれば着くだろうと思っていたのですが、相当長い距離がありました。全長は4kmもあるそうで、ロープウェーなのに途中に駅があったりして、人が普通に乗り降りしていました。途中で直角に曲がったりするのも、ロープウェーとしては珍しいと思います。索道系の乗り物としては乗車時間が長く、約20分ほどして終点の猫空駅に到着しました。後から聞くと猫空纜車は台北初のロープウェーなのですが、開業当時からトラブルが相次いでいたそうです。さらには台風で支柱が壊れ、1年半ほど運休していたとのことでした。終点の猫空は標高300mほどのところにあり、ここからは台北市内もよく見渡すことができました。台北101も見下ろす高さです。ところで猫空はお茶の産地として有名だそうで、茶畑が並んでいたりするそうです。不思議なことに、昼食を食べて時間も経ってないのにお腹が空いてきました。(台湾の人と同じサイクルになっていますが、台湾料理にはなにか入っているのではないかと思うほどです)「米其林美食」というフードコートがあったので入ってみると、昼時でもないのに超満員でした。午後3時でこの混雑ぶりです。米其林美食廣場はあきらめて、結局は台湾香腸(ソーセージ)を食べていました。猫空で何をするでもなかったのですが、これまでで一番長いロープウェーに乗ったのは確かです。
2011/03/24
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台北から香港までは、台湾海峡を渡って飛行機で1時間40分ほどの距離です。台北では朝から雨が降っており、台湾海峡も雲で覆われていました。20年ほど前に香港に降りた時はまだ啓徳空港の時代で、パイロット泣かせの「ホンコンアプローチ」でビルをかすめるように旋回しながら降下していたのを覚えています。1998年に啓徳空港から現在の場所に移されたそうです。さすがはアジアのハブ空港だけあって、各国の航空機が集まっていました。駐機中のキャセイパシフィック航空のB747-400今回もトランジットなので、空港から出ることはなく、1時間の滞在で再びCXに乗って出発しました。キャセイパシフィック航空のB777-300香港からさらに南へ向かいました。
2011/01/22
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台北と同じく高雄にもMRTが通っており、南北に走る紅線と東西に走る橙線の2路線が開通しています。(ちなみに台北の悠遊カードは高雄では使えません)その東西に走る橙線の西側の終点が「西子湾」で、旗津半島へ渡るフェリー乗り場の最寄り駅でもあります。旗津半島は半島の名前が付いているものの、高雄港への航路を造るために半島の付け根が切り開かれ、南北に細長い島となっています。そのため旗津半島に行くには、南側の海底トンネルを通るか、北側の「旗津輪渡」のフェリーを利用するしかありません。旗津輪渡のフェリー日本でも見かける前後対照のフェリーですが、1階はバイクと自転車用のデッキになっており、2階が旅客用のデッキになっていました。この手の船は何度も乗ったことがあるのですが、つり革が付いている船は初めて見ました。旗津半島までは片道15元(約42円)で、料金の収受箱にお金を入れて乗る仕組みになっていました。旗津半島までは約10分ほどの距離で、本数も多いために気軽に乗り降りできるようです。フェリーから見た高雄港内旗津半島の岸壁に近づくと、バイクのエンジンがスタートし始め、一斉に岸壁へ向かって降りて行きました。旗津半島側の船着き場近くには、高雄で最も古い廟である「天后宮」があります。天后宮前には、屋台に交じってレンタル自転車やバイクの店が並んでいました。
2011/01/17
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「台湾新幹線」とも呼ばれる台湾高速鐡路(Taiwan H igh Speed Rail、略称「高鐡」)に乗りました。東海道・山陽新幹線700系車両をベースにした「700T」車両。(製造は川重・日本車輌・日立の日本メーカーです)先頭の形は700系と異なっていますが、これはあのアヒルのような形が不評だったことと、トンネルの断面積が日本の新幹線より大きいため、わざわざアヒルにする必要がないことが理由となっています。それでも車両そのものは、まさに700系新幹線でした。おなじみの700系車両を台湾で見るとは、なんとも不思議な感じがします。高鐡は日本の16両編成より短い12両編成で、商務車(グリーン車)1両、對號座(指定席)8両、自由席(こちらは同じ表記)3両で編成されています。座席配置も3列-2列で、車内の構造も座席の形もまさに700系でした。(座席に付いている回転用のグリップに700系を感じます)台湾高速鉄路はちょうど4年前の2007年1月に開業し、台北駅から高雄市の左営駅までの345kmを結んでいます。将来的には北は南港駅(台北市)、南は高雄駅まで延びる予定です。各駅停車の列車と途中駅を通過する列車があるのですが、「のぞみ・ひかり・こだま」のような愛称はなく、全て列車番号で区別されていました。最高速度は時速300kmで、最速列車だと台北・左榮間の所要時間は1時間36分です。台北・左営間はちょうど東京・名古屋間と同じ距離なのですが、東海道新幹線区間では最高時速が270kmまでしか出せないので、高鐡の700系方がのぞみよりも少しだけ短い所要時間です。値段の方は台北・左営間が1,490NT$(約4,200円)で、東京・名古屋間が1万円以上するのに比べると、こちらは断トツで高鐡に軍配が上がります。車内の電光掲示は中国語(繁体字)と英語で書かれており、「◆○○新聞ニュース◆」のようなテロップはないものの、天気予報は案内されていました。ちなみに車内放送は中国語・台湾語・英語の順で放送され、高鐡の駅では駅員の人にも英語が通じるので、中国語がわからなくても安心して乗れるかと思います。台北駅から板橋駅までの間は地下を走っていましたが、地上に出るとほとんどの区間が高架のスラブ軌道で、スラブ軌道独特の「ヒュンヒュン」という風切音が聞こえて来ました。(ちなみに線路の建設は、TGVのフランスやICEのドイツと、高速鉄道を持つヨーロッパ勢が担当しています)また、台湾では鉄道もクルマも右側通行なのに対し、高鐡では日本と同じ左側通行になっていました。日本の新幹線と同じ車窓から外の景色を眺めていると、時々東海道新幹線に乗っているような錯覚を起こしてしまいます。安倍川を渡る…豊橋・三河安城間みたいな感じ。田園風景に変わって亜熱帯や熱帯の植生を目にすると、「ここは台湾だった」と、また現実に戻りました。実は台湾高速鉄路は民間の鉄道会社で、そのためか台鐡(国鉄)との接続がほとんどありません。台鐡の駅との間には無料シャトルバスが走っていたりするのですが、私の降りた台南駅などは、台鐡台南駅までバスで40分と、空港並みの不便さがありました。それでも日本が誇る「Shinkansen」に出会って、うれしさと懐かしさがありました。
2011/01/02
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台北車站に乗り入れている鉄道は3路線あり、台北捷運(MRT)と高鐡(HSR)そして台鐡(TRA)です。台北捷運(MRT)は地下鉄ですが、高鐡(HSR)が高雄までの南北を結ぶ新幹線で、台鐡(TRA)が台湾の在来線と言った位置付けです。台鐡(在来線)の切符売り場基隆に行くために台鐡を利用したのですが、初めて乗る台鐡なので、切符の買い方からして興味津々でした。自動券売機お金を入れて切符を買うのは日本と同じなのですが、お金を入れた後に押すボタンがやや違います。・まずは何枚買うのか・そしてどの電車に乗るか(特急、急行、快速・普通なのか)・片道か往復かを選んだ後、ボタンに書いてある行き先を押して切符を買います。(行き先までの金額で選ぶのではありませんでした)出て来た切符も「台北→○○円区間」のような書き方ではなく、ずばり「台北→基隆」と書いてありました。(台北から基隆まででも、日本円で150円もしないほどの安さです)台北車站のホームは地下にあり、数ある地下ホームの中でも、日本のある駅と「雰囲気がよく似てるな~」と思いました。JR北海道の新千歳空港駅によく似ている気がしたのですが、それでもJR北海道を始めとする日本の鉄道と大きく違っていたのがこちらです。時刻通りに到着する列車の方が少ない。。。そんなに過密ダイヤでもないのですが、私の乗る基隆行きは8分も遅れたため、花蓮行きの特急「自強號」が先に来てしまいました。自強號けたたましい音と共に入線してきたので、最初はディーゼルかと思ったのですが、よくよく見るとパンタグラフがついていました。さらによく見てみると、最前部と最後部が電気機関車となっていて、ここに電源が集中しているようです。(あまりにもやかましいと思ったのはこのためで、一番前と一番後ろに電気機関車が付いていて、間に列車がくっついているイメージです)なんとも国鉄っぽい雰囲気ですが、台鐡の隣りには見慣れた700系車両(日本の新幹線)の高鐡が停車していたりして、国鉄とJRが同居している感じでした。ところで行き先案内にもある「七堵」ですが、この駅は基隆の途中にある大きな駅です。基隆行きの區間車では停車駅のアナウンスだけだったので、「七堵」を「基隆」と聞き間違えて、あやうく降りそうになるところでした。
2010/12/24
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國立台湾博物館前の二二八和平公園には、ガラス張りの建物の中に二台の蒸気機関車が保存されていました。左側が台湾鉄路第一号蒸気機関車の「騰雲」で、右側が第九号蒸気機関車です。(第九号の方は愛称がありませんでした)騰雲號清国時代の1887年に製造され、台北・基隆間の鉄道建設のために輸入された、台湾での第一号の機関車です。1888年から台北・基隆間で運行が開始され、清から日本の台湾総督府に鉄道が移った後も、引き続き運用されていました。元々鉄道建設用に投入されたため、パワー不足で速度も遅かったのですが、1924年に退役するまでの間、台湾各地で活躍していました。第九號蒸汽機車第九号の型番がついていますが、謄雲よりも16年前の1871年にイギリスで製造されたものです。実はこの第九号蒸気機関車は、日本で最初に鉄道が開通した時、東京・横浜間を走っていた10台の機関車のうちの1台です。1872年から1895年の間、東京・横浜間を走り続け、お召し列車を牽引したこともありました。1901年に台湾総督府鉄道部に移された際に「第九号」と改称され、台湾を走る他の8台の蒸気機関車の仲間入りをしました。騰雲號より1年後の1925年に退役し、現在は台北で大切に保存されています。
2010/11/02
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松山空港は日本の愛媛県にもありますが、台北にも松山空港があり、こちらの読み方は「ソンシャン空港」です。この日の台北は朝から天気もよく、気温も30度を超えていたのですが、午後になるとにわかに雲行きが怪しくなってきました。(台北では毎度のことなので、あまり気にならなくなりましたが)「台北国際空港」となっていますが、松山空港は基本的に国内線専用の空港です。(台北にはもう1つ、国際線専用の桃園(タオユエン)空港があります)例えば台北車站(Taipei Main Station)からだと、桃園空港はリムジンバスで約1時間かかるのですが、松山空港はMRTで20分くらいでしょうか新幹線もある台湾で国内線があるのも驚きなのですが、さらに驚くことに松山空港には台湾の航空会社が5社も就航しています。「華航」が中華航空(China Airlines)「長栄」が長栄航空(Eva Airways)「華信」が華信航空(Mandarin Airlines)「復興」が復興航空(Trans Asia Airways)「立栄」が立栄航空(UNI Air)他にも上海航空や四川航空などの、中国本土の航空会社も乗り入れているようです。長栄航空(Eva Airways)と立栄航空(UNI Air)のカウンター復興航空(Trans Asia Airways)のカウンター台北国内で飛行機で行くとすれば、離島以外は高雄くらいかと思うのですが、こんなに航空会社があって大丈夫なのでしょうか。2010年10月31日からは、JALとANAも乗り入れを開始し、羽田⇔松山線も就航予定です。(四国に行くつもりで飛行機に乗ったら、間違えて台湾だったとかいうことも…)松山空港は軍民共用の空港のためか、屋上に展望デッキがありませんでした。それでもMRTからエプロンの方を見てみると、一瞬ですがA321やMD90などのナローボディー機が並んでいるのが見えました。
2010/10/25
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ようやくたどり着いた思いで建物に入って見ると、2階~5階までが博物館になっていて、5階から順番に下に降りて見て行く順路になっていました。なお、入館料は200NT$(約540円)と、やや高めな印象です。まずはエレベーターで5階に向かうと「世界船舶エリア」となっており、古代から19世紀までの船の歴史が紹介されていました。帆船の模型がフロアー一面に展示されていました。聖瑪麗亞號コロンブスのサンタマリア号の模型で、制作者を見ると内山康夫さんという日本人の名前が書かれていました。日本丸もありました。4階は「現代船舶エリア」となっており、フェリー・貨物船・軍艦の模型が並んでいました。フェリーの模型コーナー鐡達尼號タイタニック号です。貨物船の展示では、全ての船が「EVERGREEN」でした。EVERGREENのコンテナ船さらには軍艦の展示もあったのですが、ほとんどがアメリカ・イギリス海軍の艦船でした。それでも旧帝国海軍では、この戦艦が展示されていました。大和號そして旧帝国海軍で台湾に関係する船と言えば巡洋艦「高雄」旧日本の植民地ではアレルギーが強く、シンガポールの戦勝記念館などのようにネガティブに捉えられがちですが、まだここでは「船」として捉えているので中立的な感じがしました。3階は「海洋台湾エリア」、台湾の海洋の歴史が展示されていました。日本と同じように、海洋国家としての歴史が展示されていました。さらに2階では、船舶の仕組みや航行についての展示がありました。パナマ運河の模型コンテナヤードの模型コンテナ船のブリッジ機関室興味深かったのは、地球型をした天気図があり、今の世界各地の天気図がリアルタイムにわかることです。この時は台風が接近中で、北へそれると台湾直撃、南へそれるとフィリピン直撃という状況でした。(どうやらフィリピンの方にそれたようです)船舶に関する博物館としては、日本ではお台場の「船の科学館」がありますが、日本以外から見た船舶というのも、また興味深いものがありました。
2010/10/18
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台北城の跡をめぐっている時、たまたま見つけたのがこちらです。日本でもおなじみの「EVER GREEN」、長栄海運の博物館です。乗り物好きの私としてはとても興味深いので、台北城を見終わったら来ようと思い、まずは台北城を見て回ることにしました。ようやく台北城の西門まで見終わった時、「はて、どこにあったか…」と、場所をすっかり忘れてしまいました。確か東門のあたりだったような・・・。いや、南門だったか。(途中で登山用品店を見つけたり、肉まんを食べたりと、寄り道をしていたこともあって、場所がわからなくなってしまいました)どうせあまり遠くもないので、タクシーで行ってみることにしました。(台湾では初乗りが70NT$=190円ほどです)最初につかまえたタクシーで「"EVERGREEN Museum",please」と言ったところ、「わからない」と言った感じで首を振られてしまいました。(そんなに難しいことを言ったつもりはありませんが…)そこで次のタクシーをつかまえたのですが、やはり通じなかったので、紙に「長栄海運博物館」と書いて見せたところ、「わかった」という風な感じで、乗せてくれました。随分と長い間乗って料金メーターも220元まで行った所で、「ここです」と言う風に指をさされました。「はて、こんな所だっけ?」と思いながらよく見ると、EVERGREENの博物館ではなく、なんとEVERGREENのビルの前でした。(実は私の書いたメモも間違えていたのですが、ビルのショーウィンドウにエヴァー航空の模型とかが展示してあって、それはそれで興味深いものがありました)タクシーを降りたはいいのですが、近くにMRTの駅もなく、どこにいるのか全くわかりませんでした。今度は別のタクシーをつかまえて、とりあえず台北城の東門まで戻って、そこから探してみることにしました。どうせ英語が通じないならと、中国語で「我要去東門(東門に行きたいのですが)」と言ってみると、なんと通じたようでさっき来た道を戻り始めました。見覚えのある場所まで来たところで、「附近有長栄海事博物館?(近くにEVERGREENの博物館はありますか?)」と紙に書いて渡したところ、すぐに一言「メイヨー。。。(「没有」=ありません)」と返ってきました。「またダメか。。。」と思っていると、次の瞬間に運転手さんが指を差し、笑いながら何かを言っています。見ると東門のすぐ横に「長栄海事博物館」の文字がありました。やっぱり東門、しかもすぐそばにあったようで、最初から東門に行けばよかったと後悔するばかりです。それでもようやく見つけて一安心、「太謝謝?了(どうもありがとうございます)」と言ってタクシーを降りたのでした。あの有名なEVERGREENが運営する博物館を、台北のタクシーの運転手さんが知らないというのは驚きでした。タクシーの運転手さんも「謝謝、謝謝」と繰り返していましたが、「とんだ物好きがいたもんだ」って感じでしょうか。
2010/10/17
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台北のオフィスまでは、自宅からMRT(台北捷運)で3駅ほどの距離にあります。自宅最寄駅の「市政府駅」近くに台北101が見えています。大通りに面したところは近代的なのですが、一歩路地裏に入ると昭和の日本といった感じです。MRTの市政府駅ホーム最近ユニクロの1号店が近くにオープンして、初日に1,000人の行列が出来たそうです。MRTに乗るには自動券売機でトークンを買うのですが、チャージ式ICカードの悠遊カードが便利です。悠遊?(Easy Card)私の使う市政府駅~忠孝復興駅までは片道16元(約45円)ほどです。忠孝復興駅目の前に太平洋SOGO忠孝館と復興館があります。
2010/10/12
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いよいよ台北に赴任することとなり、成田空港から台北桃園空港へと向かいました。沖縄便のように太平洋上を飛ぶのかと思っていたら、九州まで日本列島の南側を沿うようなルートでした。離陸後巡航高度に達した時、富士山と関東平野が一望できました。自宅のある江戸川区上空葛西臨海公園とTDLが見えています。羽田空港上空今月から供用開始のD滑走路がよくわかります。日本に帰って来る時は、国際線が飛んでいることでしょう。成田から台北までは約3時間半で、ちょうど沖縄プラス1時間といった感じでした。台北には空港が2つあり、1つが国内線用の松山空港で、もう1つが国際線用の桃園空港です。機内の日本語アナウンスでは「トウエン」と案内されていましたが、中国語では「Tao Yuan」が正しい発音です。桃園空港何となく書いあることはわかるので、とりあえずは一安心です。台北市内にある松山空港に比べるとアクセスは悪く、台北市内まではバスで1時間以上かかる距離にあります。将来的にはMRTの新線開通により、台北市内とは30~40分程度のアクセスとなる予定です。
2010/10/11
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仕事の打ち合わせがあり、伊豆の温泉に行ってきました。(伊豆に行く理由がよくわかりませんが…)伊豆半島は韮山城しか行ったことがなく、本来の目的(温泉)で伊豆に行くのは初めてです。伊豆への足と言えば特急踊り子ですが、乗った電車はスーパービュー踊り子でした。ちょうど昔の踊り子の車両とすれ違いになりました。さすがにスーパービューだけあって、車窓からは東伊豆の海岸線と海を間近に見ることができました。この時は海外からのお客さんもいたので英語も話していたのですが、さすがに疲れて車内では無言になっていました。
2010/08/06
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最近では愛称のついた空港が出てくるようになりましたが、徳島空港もその1つで4月8日から「徳島阿波おどり空港」となるようです。さらには滑走路も2,500mに延長され、ターミナルも新しくなる予定です。実は従来の徳島空港も通称で、海上自衛隊が運営しているため、正式には「徳島飛行場」です。(他には小松空港なども自衛隊が運営しているため、同じように「飛行場」です)JALの羽田便とANAの名古屋(中部国際)便が飛んでいますが、今年10月にはANAの名古屋便が撤退し、変わってANAの羽田便が就航する予定となっています。JALのA300-600R滑走路の延長でB747やB777の離着陸も可能になるのですが・・・
2010/04/06
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久しぶりにJALに乗ったのですが、思えば羽田空港が第1と第2ターミナルに分かれてから、初めての第1ターミナル出発でした。これまでは国内線のANAばかり乗って来たので、乗ったことのない機材も中にはあります。エアバスA300-600R(オープンスポットでした)A300に限ったことではありませんが、翼端のウイングチップにエアバスを感じます。しばらくすると、ウイングチップの向こう側で、長いコントレールを曳く航空機とすれ違いました。JALに乗っても全く恩恵を受けないのですが、それでもJALに乗らなければならない理由がありました。向かった先は…
2010/04/02
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東西線の葛西駅横の高架下にあるのが、地下鉄博物館です。東京メトロと同じ改札機を通って入場します。鉄道博物館の地下鉄版と言った感じで、歴史のコーナーには過去の車両が展示してありました。日本最初の地下鉄1927年に上野~浅草間(現在の銀座線)を走った電車です。当時の車内やホームも復元されていました。今の銀座線の車内が狭いのもわかるような気がします。上野駅のホーム開業時のポスター「東洋唯一の地下鉄道」というフレーズが時代を感じます。日本初(東洋初9の地下鉄は、「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次によって設立された東京地下鉄道によって開業されました。早川徳次像「あの早川徳次なのか…」と思ったのですが、シャープペンシルの発明者でシャープ創業者の早川徳次とは別人で、読み方も「はやかわとくつぐ」でした。開業から7年後の1934年には浅草から新橋まで伸び、上野~浅草間の営業になりました。東京高速鉄道も渋谷~新橋を開通させていたのですが、東京地下鉄道と東京高速鉄道はライバル関係にあり、直通運転はなかなか実現しませんでした。(ちなみに東京高速鉄道の総帥は、東急の創業者五島慶太です)結局東京地下鉄道と東京高速鉄道を統合する形で「帝都高速度交通営団」が設立され、現在の銀座線と同じ上野~渋谷の直通運転ができるようになりました。その複雑な経緯を持つ銀座線の電車の横には、丸の内線の電車が並んでいました。帝都高速度交通営団(営団地下鉄)になって初めて開通したのが、丸の内線でした。池袋~御茶ノ水間が最初に開業したのですが、戦後の1954年(昭和29年)のことです。他にも開業時のポスターがいくつか展示してありました。日比谷線全通。東京オリンピックの1964年でした。東西線「国鉄(中央線)」が時代を感じます。千代田線半蔵門線他にも興味深いポスターが並んでいたのですが、最後が一番新しい新都心線のポスターが展示してありました。すでに営団から東京メトロに変わっています。普段は足としてしか使わない地下鉄ですが、少し見方が変わったような気がしました。
2010/03/19
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振り返ると東海道を行ったり来たりの一週間でした。週の前半は名古屋で、一旦東京に戻って週の後半は大阪に行っていました。思えば大阪は1年ぶりくらいで、エスカレーターも思わず左側に立ってしまったりと・・・梅田で待ち合わせにしたのですが、梅田の待ち合わせ場所と言えば阪急梅田駅のビッグマン今年は阪急電鉄開業100周年だそうで、ビッグマンの前には写真パネルが展示してありました。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が開業したのは1910年3月10日、当時は梅田⇔宝塚(現在の宝塚線)と石橋⇔箕面(現在の箕面線)の2区間でした。その宝塚線の昔の駅舎が写真で展示してありました。阪急の駅舎100年宝塚線の石橋駅大学が石橋にあったので、石橋駅は通学で乗り降りしていました。現在(20年前)とは全然違った雰囲気です。さらには歴代の電車も写真で並んでいました。やはり阪急電車と言えば、こちらでしょうかブルーリボン賞の6300系(カラー写真でもいいと思うのですが)
2010/03/12
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航空博物館には屋内外の展望室があり、成田のA滑走路(34L)を眺めることができます。ガルーダインドネシア航空のB747-400が離陸するところです。34Lと34Rのパラレルアプローチではありましたが、実質A滑走路1本で離着陸を行わないといけないので、滑走路手前に離陸待ちの航空機が数珠繋ぎになっています。滑走路管制をモニターしていたのですが、"Hold short of runway 34L"の指示が出てから、"Cleared for take-off"まで、すごく時間がかかっています。管制官の問題ではなく、空港のキャパシティーの問題なのですが…羽田の国際化や関空の拡張と合わせ、成田についても様々な論議が出てきましたが、国内便・北米便と貨物便だけ残して、後は他空港へ移すのが生き残る道ではないでしょうか。
2009/12/24
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航空科学博物館の館内には、あらゆる飛行機の実物や模型が展示されていますが、中でもB747の実物の展示が多く、それだけでも航空機の歴史がわかるような気がしました。B747のターボファンエンジン(プラット・アンド・ホイットニー社JT9Dエンジン)B747-100などの「747クラシック」に搭載されたエンジンです。同じく「747クラシック」のコックピット3名乗務体制の頃のコックピットで、右側にはフライトエンジニア(航空機関士)の席があり、アナログ計器がずらりと並んでいます。こちらは現在のB747-400、いわゆる「ハイテクジャンボ」のコックピットアナログ計器からCRTのグラスコックピットに変わり、クルーも2名体制になっています。同じ747でも「747クラシック」のコックピットと比べると、隔世の感がありました。747のモックアップ座席は1997年までANAのスーパーシートで使用されていたものです。後方にはギャレーも置かれていました。私と同じく1970年にB747-100がこの世に登場して以来、現在のB747-400に至るまで約1400機が世界中の空を飛んできました。さらにはB747-8も開発中であり、まさに747が航空機の歴史を作っているような気がします。現在のB747-400の模型B747-400のANAスーパーシートプレミアム(2007年6月)もはやこちらも過去のものになってしまいました。
2009/12/23
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成田空港のRWY34L(A滑走路南端)には、航空科学博物館があります。屋外に展示された往年の名機たちの上を、最新鋭のB747-400がRWY34Lに向けて着陸して行きました。それにしてもウイングレットがよく目立ちます。歴史的な航空機が並んでいますが、やはり往年の名機と言えばこちらでしょうか。戦後国産初の旅客機、YS-11の第一号試作機です。「YS-11(所沢航空公園)」の記事→こちらすでに旅客機としては現役を引退していますが、YS-11には一度も搭乗したことがなく、コックピットはもちろんのこと、キャビンの中も見たことがありません。航空科学博物館では、YS-11の機体に入って中を見ることができました。YS-11のコックピットアナログ計器がずらりと並んでおり、まさに歴史的な飛行機といった感じがします。YS-11が日本の民間路線から引退したのは平成18年ですが、コックピットを見ると、「これでよくがんばったものだ」と感心しました。そしてこちらがキャビンです。こちらは現在のナローボディーの航空機とあまり変わらないので、それがかえって驚きでした。
2009/12/22
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高速道路ETC割引の影響と原油高の影響を受け、海運会社は軒並み苦境に陥っているようです。防予汽船も9月1日に民事再生法を申請し、破綻してしまいました。(引続き運航は行われるようです)防予汽船はその名の通り、周防(山口県)の柳井港と伊予(愛媛県)の松山三津浜港を結ぶフェリーです。山口県の萩から山口・柳井・松山・高知の間は、水陸合せて「オレンジライン」と呼ばれ、その海上ラインを結んでいたのが防予汽船でした。(昔は岩国⇔松山の「城下町ライン」の航路もありました)柳井⇔松山間の所要時間は約2時間半で、子供の頃はとても退屈していたのを覚えています。3年ほど前にも防予汽船に乗ったのですが、刻々と変化する瀬戸内海の島々をめぐるクルーズでは、2時間半があっと言う間に過ぎてしまった感じがしました。時間をかけて船で移動することは、一種の贅沢になりつつあるのかも知れませんが、名航路が次々となくなっていくのは寂しい限りです。(防予汽船は引続き運航されますが、同じく民事再生を申請した日本で唯一のホーバークラフト航路「大分ホーバーフェリー」は、航路が廃止となってしまいます)防予汽船フェリー
2009/10/28
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大分空港は国東半島の東端にあるため、大分市内まで別府湾沿いに陸路を行くと、高速道路を使っても1時間以上かかる距離があります。それでも空港から市内まではホーバークラフトが走っており、別府湾の海上をショートカットすることが出来ました。大分ホーバーフェリー「ドリームルビー」水陸両用なので、陸地から乗ることが出来ます。陸地から海に出る瞬間ホーバークラフトには初めて乗ったのですが、浮き上がって走るため快適な乗り心地だと思っていました。海上に出ると少しの波でも揺れるため、お世辞にも快適とは言えませんでした。大分ホーバーフェリーは日本で唯一のホーバークラフト航路でしたが、今年の10月31日で航路が廃止となり、日本からはホーバークラフトがなくなってしまいます。「ドリームルビー」(2007年3月、大分空港乗り場にて)スペック全長 23.1m 全幅 11.0m 全高 6.5m 全備重量 約39.6t 乗客席数 105名 エンジン 520馬力ディーゼル機関4基 最高速力 約90km
2009/10/26
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お台場にある船の科学館、船が好きな人もそうでない人も一度訪れてみるといいかも知れません。建物自体が船の形をしています。船のメカニズムや歴史もさることながら、海運についてのことはここに行けば非常に参考になると思います。普段は目にすることがないことも様々見ることができました。大型船の初期ディーゼルエンジン以前元日本郵船の機関長とお話をしたことがあるのですが、「シリンダーの中に入ることができる」と聞いて、にわかに信じることができませんでした。こうして実物を見ると、全く納得です。さらに普段目にすることがないと言えば潜水艦の発令所です映画でしか目にしたことがありません。実物もさることながら、船の科学館で感服するのは精巧な模型の数々です。しかも今となっては目にすることができない、「あの船」が模型で甦っていました。コロンブスの「サンタマリア」1805年のトラファルガー海戦でイギリス海軍が勝利した時、ネルソン提督が乗っていた「ヴィクトリー」そして「東洋のネルソン」と言えば東郷平八郎元帥が、日露戦争の連合艦隊旗艦として乗っていた「三笠」今は記念艦が横須賀に係留されています。(→こちら)財政不足で実際には建造されなかった、あの「浪速丸」も模型で復元されていました。謎の爆沈を遂げた戦艦「陸奥」勝海舟の「咸臨丸」「よくもここまで」と思うほど精巧で、その数もとても写真で撮り切れるものではありませんでした。もはや見ることができない貴重な船の模型が数々ありましたが、これもそんな船の1つになってしまいました。初期の「さんふらわあ」あの白い船体と舷側の太陽のマークは、遠くからでもそれとわかるものでした。今はすでに引退していますが、カーフェリーと言えばやはりこの船体、「クイーン」の称号はこの船にあげたいと思うほどえです。そして模型でしか知らないと言えば飛鳥です。。。船の科学館はテーマ毎に展示が分かれているのですが、とても興味深いのは「和船のコーナー」でした。(一番地味でしたが・・・)ここでも精巧な模型で復元されていました。戦国時代の主力戦艦「安宅(あたけ)船」この船には「武田菱」の家紋が入っていますが、文禄・慶長の役で加藤清正たちが日本海を渡ったのもこの船でした。江戸時代になると江戸と上方の貨物船「菱垣廻船」利根川水系の海運を担った「高瀬舟」朝鮮との交易で日本海を往復した「朱印船」盛りだくさんの展示品や模型を見た後は、お腹も空いてきたので4階にあるレストラン「海王」に行きました。東京港に入手出港する船と羽田の34Rから離陸する飛行機を眺めながらですが、ランチバイキングで1人1,800円はちと高い・・・せめて「郵船カレー」を一般人でも食べられるのなら話は別ですが・・・海王の上には、ブリッジが復元されています。東京湾の海図が置いてあり、レーダースコープには現在の船影が映っていました。目の前の貨物船が刻々とレーダースコープ上を動いていくので、とても興味深かったです。船の科学館の隣に係留されている南極観測船「宗谷」や青函連絡船「羊蹄丸」もそうですが、元クルー(乗組員)の人が解説してくれるので、これほど生きた面白い博物館はないと思います。関連の記事南極観測船「宗谷」→こちら青函連絡船「羊蹄丸」→こちら
2009/10/07
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お台場の船の科学館横の岸壁には、南極観測船「宗谷」と並んで、青函連絡船「羊蹄丸」が係留されています。宗谷と羊蹄丸羊蹄丸の船内では青森駅や函館駅の様子が再現されていました。「すごく人が多いな」と思っていたのですが、これは全て人形です。駅前の露天の様子なども再現されており、リアルな人形が津軽弁で話しかけてくるので、いちいちビックリしました。さらには、どこから持ち込んだのかはわかりませんが、DE10の実物まで置いてあります。唯一青森県だけは訪れたことがなく、津軽海峡を船で渡ったことはありません。イメージでしかないのですが、津軽の冬は相当寒いのでしょうか。上甲板へ上がって行くと、ブリッジの中も入って見ることが出来ました。宗谷と比べると、まだ近代的な感じがします。四本線の制服を着た方が解説をしていたのですが、なんと青函連絡船の元キャプテン(船長)殿だそうです。青函連絡船と言えば、本州と北海道を結ぶ象徴的な存在で、ピーク時にはすぐに定員となって乗れないことを多々あったようです。その後は航空機の乗客を奪われて利用客が減少し、1988年の青函トンネル開通によって廃止となりました。羊蹄丸全景後部の列車用のハッチとファンネル(煙突)に書かれた「JNR」の文字が、時代を物語っていました。関連の記事函館元町→こちら五稜郭→こちら
2009/10/06
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お台場の「船の科学館」横の岸壁には、初代南極観測船「宗谷」が係留されています。一般公開されていて、船の科学館の入場券を見せると中に入ることができます。宗谷の排水量は3,800tほどで、現在の感覚からするととても小さい感じがしました。(今年就役した最新の二代目「しらせ」は、排水量12,500tと宗谷の3倍です)宗谷の横に係留されている青函連絡船「羊蹄丸」と比べても、「よくこれで南極まで」という印象があります。手前が宗谷で向こう側が羊蹄丸(船の科学館より)北杜夫が昭和33年に水産庁の調査船「昭洋丸」に船医として乗組んだ体験を書いた「どくとるマンボウ航海記」には、宗谷のことが記されています。昭洋丸がどんな大きさなのか実際に見に行った時のことですが、「翌日出港するという宗谷の傍を通ったときは、それが小山のように巨大に見えた」そうです。(ちなみに北杜夫が乗った昭洋丸は、排水量600tほどだそうです…)宗谷も当時としては巨大な船体を誇っていたことでしょう。ヘリコプターを搭載していた後部上甲板。船内に入ると、船室なども当時のまま保存されていましたが、やはり今の時代となっては、お世辞にも快適と思えるものではありませんでした。順路に従ってブリッジへ船の科学館で近代的なブリッジを見た後だけに、何ともレトロな感じがしました。(伝声管があったりします)ブリッジ内には実際に宗谷に乗務していた方がいて、話を聞くことができました。日本から南極まではおよそ2ヶ月の航海とのことです。途中シンガポールに寄港してインド洋を渡り、アフリカ大陸に沿って南下して、ケープタウンから南極を目指したそうです。シンガポールからはずっと赤道上を航海するため、冷房設備のなかった当時はとても大変だったとのことでした。また喜望峰から南極まではずっと暴風雨が続き、船体が最大で32度傾いたそうです。南極に行くまでの間に、想像を超える苦労があったことでしょう。元々宗谷は南極観測船としてではなく、旧ソ連からの発注により貨物船として、昭和11年に建造されました。第二次大戦の状況の中で、結局はソ連に引き渡されることはなく、民間の貨物船「地領丸」として竣工しています。その後は帝国海軍の軍艦「宗谷」と改名され、戦時中は耐氷能力を持つ輸送艦として運航していました。戦争が終わって昭和31年の「地球観測年」になると、南極観測船として選ばれたのが宗谷でした。大幅な改造と船体補強が行われ、昭和32年に第一次南極観測隊を南極へと運んでいます。(樺太犬のタロとジロを運んだのも宗谷です)宗谷は通算6回の南極往復航海を行いましたが、氷の中で動けなくなってソ連やアメリカの砕氷船に救出されることもしばしばあったようです。そして昭和37年に南極観測からは退役して、南極観測船は「ふじ」に譲られました。その後は巡視船としての任務につき、流氷に閉じ込められた漁船を救出するなど、南極観測船の名に恥じない活躍を見せています。宗谷は昭和53年に完全に退役し、現在はお台場の「船の科学館」の横で、最新鋭の貨物船が往来する東京湾を見つめるように係留されています。宗谷全景。後ろが船の科学館です。
2009/10/05
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自転車に乗って向かったのは、千葉市の稲毛海岸です。ここは「民間航空発祥の地」とされており、その記念碑が建っています。さらにその傍らには松の木が植えられており、ライト兄弟が初飛行を行ったキティーホークの松の種を植樹したものだそうです。稲毛海岸は稲毛海浜公園として整備されており、その中に「民間航空記念館」があります。奈良原式4号機「鳳」1911年、奈良原三次が製作した2号機が国産初の有人飛行を行いました。その後は改良された4号機が、稲毛の干潟に造られた飛行場を拠点として、各地で公開飛行を行っており、そのために稲毛が「民間航空発祥の地」とされています。その他にも国産の民間航空機の模型が、館内にいくつか展示してありました。(民間機だけです)やはり国産旅客機と言えば、この飛行機でしょうか。YS-11機体に書かれた「PROP-JET」の文字に歴史を感じます。(YS-11の記事→こちら)(ターボプロップエンジンの記事→こちら)ちなみにYS-11のエンジンはロールスロイス社、イギリス製です。国産ではありませんが旧日本エアシステム塗装のB777「レインボーセブン」デザインは黒澤明監督、やはりB777と言えば旧JASの「レインボーセブン」でしょう。その他にもB787やB747-8などの次世代機の模型も展示されていました。ここにミツビシMRJが展示されるのは、いつの日のことでしょうか。おまけ…飛行船「ツェッペリン号」世界一周飛行で日本の霞ヶ浦飛行場(現在の阿見飛行場)に立ち寄りました。
2009/05/31
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サイクリングの帰り道、新木場の荒川河口にある東京ヘリポートに寄ってみました。ちょうど一機のヘリが離陸準備中でした。ここは「東京TCA」と呼ばれる管制空域にあり、羽田空港で航空管制を行っていると思っていたので、管制塔があるのは意外でした。(離着陸の管制を行っているのでしょうか)航空機と同じく、ヘリコプターも風上に向かって離陸するようです。南側の進行方向には羽田の着陸機の空路(この日はRWY22アプローチ)があり、すぐに進路を変えて飛んで行きました。以前航空自衛隊の入間基地でCH-47のヘリコプターに乗せてもらったことがあるのですが、あのフワフワと浮かび上がっていく感覚はたまりません。荒川の土手に沿ってサイクリングロードが整備されており、河口の対岸には葛西臨海公園と東京ディズニーランドが見えています。いつもは対岸からこちらを見ていたのですが、実際に来てみるとなかなかいい場所です。サイクリングで来るにもいい場所で、お気に入りの場所が増えました。
2009/05/11
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中央本線の新宿⇔松本間を走る特急が「あずさ」ですが、狩人の「あずさ2号」の方で有名でしょうか。(それにしても古い…)もちろん名称の由来は上高地を流れる梓川ですが、松本を走る特急に名前を付けるならば、これ以上のものはないかも知れません。(ちなみに同じ中央本線でも、名古屋⇔松本間を走る特急の名前は、すばり「しなの」です)新宿⇔松本間には、「あずさ」と「スーパーあずさ」が走っていますが、「あずさ」の車両は新宿⇔甲府間を走る「かいじ」と同じE257系、そして「スーパーあずさ」は振り子式のE351系と、全く違う車両が使われています。E351系スーパーあずさ22号。松本駅にて旧国鉄時代特急車両には、上高地の梓川を図案化したヘッドマークがついていたのですが、現在は電光掲示になっていて、何だか味気ない感じがします。しかしながら振り子式車両の乗り心地は、国鉄時代と比べてずいぶんと良くなった気がしました。旧国鉄時代に登場した最初の振り子式電車、381系「くろしお」(紀勢本線)に乗ったことがあるのですが、まるで船に乗っているような揺れがあって、とてもいい乗り心地とは言えませんでした。今回乗った「スーパーあずさ」は、「制御付き自然振り子式」だそうです。何だかわかったようなわからないような呼び方ですが、381系に比べると乗り心地はかなりよくなっていました。
2009/03/18
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路面電車は大通りのど真ん中を堂々と走るため、初めて行った場所などでは、街の様子がよくわかります。市内の移動にはなるべく路面電車を使うのですが、熊本でも路面電車を利用しました。JR熊本駅にてこの運転台は懐かしい感じがします。電車通りから見た熊本城。架線越しに見る城郭も、また風情があります。
2009/03/05
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久里浜に着いた時は、すでに陽は沈みかけていました。これから東京湾フェリーで東京湾を横断し、房総半島の金谷へと向かいます。かなや丸そう言えば以前金谷から久里浜に渡りましたが、その時も「かなや丸」でした。かなや丸に乗船すると、すぐに上部デッキへと上がっていきました。久里浜の空は茜色に染まり、やがてゆっくりと景色が流れ始めました。東京湾フェリーは、神奈川県三浦半島の久里浜港と千葉県房総半島の金谷港を結んでおり、25分で東京湾を横断しています。2船ダイヤと3船ダイヤがあり、この日は2船ダイヤでほぼ1時間に1本の割合で運航されていました。どうせなら一番景色が美しい時間帯の便に乗りたいと思い、久里浜発16:20の便を選んでみました。ちなみに運賃は片道700円です。(前回は600円でした)東京湾内には東京港・横浜港・千葉港があり、これらの港に出入りする船は全て浦賀水道を通過して行きます。浦賀水道の幅は約7kmありますが、「中の瀬」と呼ばれる大きな浅瀬があるため、大型船が通行できる航路は限られています。かなや丸は、その交通量の多い浦賀水道を横切る格好となり、目の前をひっきりなしに船が航行していきました。これらの船はかなや丸と並走しているのではなく、横切って行く船です。向こうからすると、こちらが航路を横切っていることになるのでしょうが、どちらに優先権があるのでしょうか。それでもお互いに減速することもなく、上手く通り抜けて行きました。ブリッジの中をのぞいて見ると、何事もなかったかのように平穏な感じです。キャプテンに一礼してカメラを向けると、はにかみながら柱の陰に隠れてしまいました。(前回3月の時と同じキャプテンでした)ブリッジ内には、トリプルセブン(B777)のコックピットを彷彿とさせる、CRT画面が置いてあります。悪天候で視界が悪くても、これがあれば大丈夫なのでしょう。前方には、先程までタンカーが一隻停泊しており、パイロットボート(水先船)が横付けされていました。ちょうどパイロット(水先案内人)が下船したらしく、パイロットボートがタンカーを離れて久里浜方面に戻って行きました。どこの港もそうですが、入出港時にはパイロット(水先案内人)がブリッジに乗り込んで操船指示を出します。東京湾ではパイロットのいる場所が3ヵ所あり、その1つが久里浜にあるそうです。(以前お台場の「船の科学館」で、ガイドの人に教えてもらいました)パイロットを下船させたタンカーは、速度を上げて東京湾の出口へと向って行きました。この後はマラッカ海峡を通過して、ペルシャ湾に向うのでしょうか。そんなことを思っていると、今度は東京湾に入って来るコンテナ船が、目の前を通過して行きました。甲板には40ftコンテナが積まれていますが、北米から来たのでしょうか。この時期の北米航路は海が荒れて大変だったと思います。浦賀や久里浜からは遠くに見えていた房総半島も、だんだんと近付いて来ました。三浦半島に日が沈んだ後は、房総半島から月が昇っています。そしてサンセットクルーズも終わりに近付き、金谷港の突堤が見えてきました。なじみのある「内房なぎさライン」(国道127号線)が目の前にあり、金谷港に入港・着岸です。遠くに見ていた鋸山の山容が、間近に迫っていました。
2008/11/15
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浦賀港は南北に細長い湾となっており、その長さは約700mもあります。その浦賀港の湾口付近には「浦賀の渡し」と呼ばれる渡船があり、陸路を行ったり来たりしなくても対岸へ行くことができます。浦賀城のある東叶神社の近くに渡船場があり、浦賀城を訪れた後は渡船に乗って対岸に行ってみることにしました。浦賀港東側の渡船場。運賃は片道150円です。渡船は定時に運航しているわけではなく、お客が来たら出航する仕組みのようです。さらに対岸に船がいる時は、渡船場のベルで呼べば迎えに来てもらえるようでした。これが渡船の「愛宕丸」。定員は12名となっていますが、12人も乗ったら沈没するんじゃないかと思いました。浦賀の渡船の歴史は古く、江戸時代の1733年に書かれた文書にも渡船の記述があるようです。現在は「浦賀海道」と名付けられ、正式には「横須賀市道2073号」、海の上の道路となっています。「浦賀海道」から振り返ると、先程訪れた浦賀城の全景が見渡せました。さらに浦賀港の外側には、東京湾越しに房総半島の山並みが続いています。房総半島南部にある富山(とみさん)が見えています。景色をゆっくり楽しみたいところですが、3分程で対岸の浦賀港西側に着いてしまいました。浦賀駅は浦賀港の一番奥にあるため、渡船に乗ったところで距離は変わらないことに気付きました。
2008/11/14
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Bon-Bonさんのブログを拝見していたら、イスラエルの空港の記事がありました。テルアビブの空港名はベングリオン空港、ベングリオン首相の名前が付いた空港だと初めて知りました。(ロッド空港じゃないんですね)記事を読んでいると、偉大なるベングリオンとは裏腹に、大変なことが起こったようです。(Bon-Bonさんのブログ→こちら)ところで、日本にも人名の付いた空港が1つだけあります。高知龍馬空港です。写真は高知龍馬空港で撮った掲示板なのですが、これを見る限りでは人名空港がとても珍しいかのような書き方です。しかも世界的に有名な人ばかりなので、「高知龍馬空港ってすごいな~」と感心していました。実は上の写真に書かれた空港やベングリオン空港以外でも、人名の付いた空港は意外と多くあるようです。(高知龍馬空港の掲示板にだまされた)例えばチンギス・ハーン国際空港(モンゴル、ウランバートル)蒋介石国際空港(台北、台湾)ニノイ・アキノ国際空港(マニラ・フィリピン)フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ、ポーランド)ロナルド・レーガン・ワシントンナショナル空港(アメリカ)エマーム・ホメイニ空港(テヘラン、イラン)などなど人の名前を付けるにあたっては、知名度があって、しかも名前とその国(または土地)がリンクしている必要があるかと思います。名前を聞いて「はて?どこだっけ?」では、かえって混乱したり、行き先を間違えたりするかも知れません。それでも人名が付いていると、馴染みや親しみがあっていい思います。
2008/11/04
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今や2階建電車は当たり前のように見かけるようになりました。在来線のグリーン車には2階建車両が連結されており、東北・上越新幹線の「Max」や以前東海道・山陽新幹線に使われていた「グランドひかり」のように、新幹線にも2階建車両が登場しています。そんな2階建電車のさきがけとなったのが、近鉄特急「ビスタカー」ですが、ビスタカーが登場したのは1958年、実に50年前のことです。高校の通学に近鉄を利用していたため、ビスタカーをよく見かけましたが、当時でも2階建の車両は珍しい存在でした。30000系「ビスタEX」、近鉄京都駅にて今回仕事で奈良に行くことになったのですが、訪問先はJR奈良駅に近いため、京都からJR奈良線を利用するつもりでいました。しかしながらJR奈良線の「みやこじ快速」が運休となったため、急遽近鉄京都線に変更した経緯があります。予定に間に合わないといけないので、近鉄特急利用にしたのですが、JRよりもかなり早く着きました。やはり京都・奈良間は近鉄に軍配があがるようです。
2008/06/21
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